ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2006-08-31(Thu)

[] TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005受賞者公演 セレノグラフィカ 『それをすると』『終らない段落(新作)』 隅地茉歩:振付・構成・演出 @三軒茶屋・シアタートラム   TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005受賞者公演 セレノグラフィカ 『それをすると』『終らない段落(新作)』 隅地茉歩:振付・構成・演出 @三軒茶屋・シアタートラムを含むブックマーク

 去年の「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」を受賞した関西のユニット、セレノグラフィカの受賞公演。その受賞した時の作品「それをすると」のフル・ヴァージョンと、新作「終わらない段落」との2作品。

 えっと、去年その「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」での舞台を、世田谷パブリックシアターで観ているんだけど、わたしにはちょっと、どう捉えたらいいのかとまどってしまうたぐいの作品であって、実のところなんだか気にかかる存在ではあったのね。

 その、「どう捉えたらいいのかとまどってしまう」ということのひとつには、本来上演されたであろう場所と、そのわたしなどが観た世田谷パブリックシアターとの、「場」の差異の問題っていうのもあったんだろうな。

 京都を拠点に活動されているらしいこのセレノグラフィカだけれども、受賞作「それをすると」は、西陣ファクトリーGardenという場所で初演され、以後つごう3回、この同じ場所で上演されているわけで、これはもう、その古い蔵を改装したスペースだと聞く西陣ファクトリーGardenのために、その場所に合わせて作られ、そして練り上げられた作品ということなんでしょう。だからそんな作品を世田谷パブリックシアターだとかシアタートラムみたいな、西欧場かぶれな場所で観たとしても、了解できないところが出てきてもあたりまえなんじゃないかな。だからたとえばこの作品には、大事な装置としてはしごなんかが使われたりするんだけど、いや、おそらくわからないよ。オリジナルではどう見えるのか。バロックや宮廷音楽、そして伝承民謡など、中世の香りのする楽曲の、リコーダーのひそやかな響きの、生演奏による音楽にしても、それがたとえば蔵の中で聴くのであれはまったくちがって聞こえるにちがいない。そう、この照明の暗さにしても、これは蔵の中の暗さなんだ。

 ‥‥ま、つまりはこの日の舞台は、決してこれは「オリジナル」ではないんだよ、と了解して観るしかないんじゃないかな。うん。

 おっと、その件は観客だけではなく、当の舞台上の当人たちこそがいちばん痛切に受けとめていることだろうし。ま、そういったことに関してはちょっと今日はここまでにして、この日の舞台から受けとめたことを。まずは、「それをすると」から。

 冒頭、舞台に置かれた机の上に横たわる女性と、その女性に近づき、体に触れる男性。そんな意匠からは、たとえばジョセフ・ナジだとか、ひょっとしたらベケットとかを想起するかも知れない。しかし、一見非日常的な導入部は、その後どんどんとパントマイム的な動きの、日常的な所作の中に吸収されていくように見え、しかしながらその、舞台の上に垣間見える「日常」を裏打ちするであろうストーリーは、不明のままなんだな。ま、そういうのも、この舞台を具象的な劇空間と捉えようとするからいけないんだけれども、つまりは、このセレノグラフィカの舞台って、要するに、具象なのか抽象なのかよくわからない感じなんだ。背後にあるストーリーを読み取るべきなのか、それともそうじゃなくって、一種詩的空間として、音楽の演奏と身体のたおやかさ、そして場の空気の中に身をおいてそれを享受すべきなのか。

 ただ、ここで、振付の隅地茉歩さんの構築しようとしている作品、目指すものは、それはつまりは身体の運動をメインにおいた「ダンス」の延長にあるものではなく、もっとトータルな舞台空間としてのダンス作品なのであって、「作品」ということにあくまでも意識的であろうとする意志は、これは観ていて心地よい。この点において、彼女たちの去年の受賞は正当なものであると思えてしまう。とにかく、ひとつひとつの所作の中に、「これが観客の目にどういうふうに映るだろうか?」という思索の裏打ちが感じられる。いや、それが必ずしもうまくいっていないのでは? とも思えるから、先に書いたような「具象?/抽象?」みたいな疑問にもつながるのかも知れない。

 新作の「終らない段落」でも、作品のテイストはまったく異なってはいるけれども、その背後に見える問題は基本は同じだし、「作品」であろうとする意志のみが、作品に先行して歩いている印象はある。

 おそらくこの新作は、例えばこのシアタートラムのような空間でもストレートに上演可能な作品として構想されている気配はある。ただひたすらみっともなくこける三人のダンサーと、甚平姿でカセットデッキを持ってあらわれる「落語な人」。落語とは、坐った姿勢のままでの身体パフォーマンスと捉えられているのか、それと、立って踊ろうとする人との対比だけが舞台で演じられる。しかしながら、はじまってすぐの電車の音など、やはりその背後に何らかのストーリーが影を落としているように見えてしまう。その最後には落語家はワイシャツ姿でパイプ椅子の上で正座し、立ち上がるまであと一歩、そう見える。

 あるような、ないような、そんな中間地点の奇妙な感覚がその「場」と結びつくのが、このセレノグラフィカの持ち味なのかも知れない。

 では次回は、立ち上がった落語家のダンスを期待しようか。(8月26日観劇)

 


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060831

■ 2006-08-25(Fri)

[] 少年王者舘 vol.30 『I KILL <イキル>』 作・演出:天野天街 @下北沢ザ・スズナリ   少年王者舘 vol.30 『I KILL <イキル>』 作・演出:天野天街  @下北沢ザ・スズナリを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060826091741j:image

 最近、公演間隔の空きが気になる「少年王者舘」。その、久々の本公演。ま、「少年王者舘」の活動の合間に、例えば「Kudan Project」であるとか、「夕沈ダンス」であるとかの作品は上演されてはいるのだけれども。

 どうもアレだね。次に来るべき第?次「少年王者舘」に向けての、今はそのエア・ポケットのような時期なんだろうか。この公演、どうもこうも、本公演という空気ではないというか、その「少年王者舘」の肉体、表象の部分をそぎ落として、その、からくり仕掛けの装置だけが表面に出て動いているような印象がある。その、劇構造を排除した仕掛けだけの舞台のような。ああ、劇構造ということであれば、そういうことはまったく期待もせずに観に行ったこの春の「夕沈ダンス」、『アジサイ光線』の方がまだドラマ性を内在させていたのではなかったかな。

 反復が差異をはらみながら螺旋状に進展し、幾多のあそびの要素を交えながら、独特のノスタルジックな空気を顕わしながらも「死」の匂いが漂うような舞台空間は、それはいつもの「少年王者舘」ではあるわけで、その冒頭の、主人公をふたりの巫女さんのような女性がはさんでかけあいをやるような展開や、ヴィデオ映像との組み合わせ、ボードに貼られた切り文字を組み換えて別の言葉にしたてるようなのとか、あまりに既視感に溢れているし、例の「これを10万回繰り返す」こそなかったものの、それこそこの舞台は少年王者舘のエッセンスを凝縮した舞台だったとみることもできるかも知れない。

 でも、でもね。あまりにパフォーマンス的な今回の舞台に足りなかったのは、それはやはり「劇的展開」、というか、反復と差異を方向性を持って起動させるような、推進力というか、重層な舞台空間を成立させるコンセプト、といってもいい。う〜ん、新しい団員が増えて、以降の新生「少年王者舘」への期待はあるけれども、今回の公演、ちょっとそんな新しい団員のためのエクササイズ的に見えてしまった。

 そう、それでも、新しい役者さんたちをみることが出来たことでヨシとしようか。若返り、か。新顔の4人の女性たちも、人買いに買われて来て舞台に立っているような心もとないけなげさの反面で、きゃぴきゃぴと元気があってよろしかったし、男優陣の数が増えてる。アイドルっぽい男の子もいるし、この男優陣の演技は今までになく充実していた。これではほんとうに「少年王者舘」になってしまうのか。復帰した水谷ノブさんの、そのやさぐれぶりも楽しかったし、彼と他の男優たちとのからみも遊びの要素たっぷりに。古顔の女優陣では、やはり山本亜手子さんか。

 てなことで、次回公演に期待するしかないでしょう。来年、やる??? やって欲しい。(8月19日観劇)


 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060825

■ 2006-08-24(Thu)

[] 『南烏山ダンシング・オールナイターズ!!』 @アサヒアートスクエア 2006年8月5日   『南烏山ダンシング・オールナイターズ!!』  @アサヒアートスクエア 2006年8月5日を含むブックマーク

南烏山ダンシング・オールナイターズ=

秋元直子
岡田智代
おださちこ
木村美那子
永瀬鑓雅
橋本正彦
ひろいようこ
深見章代
藤瀬のりこ
星野さゆり
まえだまなみ
吉福敦子

監修:桜井圭介

 このイヴェントは、桜井圭介さん主宰のワークショップ「南烏山ダンス教室」の参加メンバーによる、つまりはその発表会。桜井さんはよく存じ上げているし、なにゆえか参加メンバーの中に知っている人が多いし、しかもそんな人たちの活動にはどれもとっても興味を持っていたし、とっても楽しみにしていたイヴェントで、そして、その期待は裏切られなかった。

 先月の『TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD』の会場ロビーで、その終演後、「この最終審査に、踊らない/踊れない人が何組も選出されているのは、候補者8組を選ぶ審査に問題があるのではないか」という声が聞こえて来たし、その後も、ある人のブログとかで「出演者の悪ふざけにつきあわされるのは耐えられない」とかいった発言も見たりして。いや、だから面白いんじゃないかって。

 この何年か、いうところの日本の「コンテンポラリー・ダンス」なるものは、ちょっと奇怪な発展を見せるような空気が蔓延していて、つまりは常識的な範疇でのダンスとは呼べないような作品が多く見られるようになったと思う、という気がする。えっと、私見では、そういうのの仕掛人(というか、「仕掛け場」)は、例えば横浜のSTスポットであったり、全国的に展開するJCDNの『踊りに行こうぜ!』であったり、桜井圭介さんの『吾妻橋ダンスクロッシング』だったりとか、いや、他にもあれこれあるんだろうけれども、これらの動きが確実にダンスの現場の様相を変えて来ている、と思う。という気がする。

 そんな仕掛人の桜井圭介さんによるワークショップが、実際にどんな雰囲気で行われているのか知らないけれども、例えば彼の大学の授業でジェームズ・ブラウンのヴィデオを見せたりしているという話は、聞いたことがある。ムーンウォークなのかマントショウなのか知らないけれども。で、この発表会。

 まだお会いしたことのないわたしの素敵なお友達、蒼穹さんが、そのコメントで、コンテンポラリー・ダンスのことを「美術の先端だったり、演劇の臨界であったり、思想の盲腸であったりする」と述べられて下さった(2006年4月15日)のが、おそらくは誰も踏み込まなかったコンテンポラリー・ダンスという領域の定義付けとして、あまりに適切な定義という気がしてしまうのだけれども、この日のアサヒアートスクエアの舞台は、そんな、「美術の先端・演劇の臨界・思想の盲腸」と言うにピッタリな舞台だったように思えて、このジャンルというかノンジャンルの世界の面白さにシナプスが打ち震える。

 もちろん、旧的な意味での「ダンス」的な作品もあるのだけれども、前半/後半にわけて20をこえる作品群の一挙上演。まだ作品としての強度を得るに到らない、実験的な試みの作品も多いが、それゆえにこそ興味深くもあるわけで。そこには、そうだな、「いったいどの時点で作品は作品足りえるのか?」とかいう設問とか、「ダンスにおいて、コンテンポラリーであることはいかに可能か?」とかいう問いに溢れた、示唆に富んだ作品が並んで、だから、刺激的で、夜眠れなくなってしまった。

 中で興味深かったのは、例えば、まえだまなみさんの作品ではもう完全にダンス的な動き/身体運動は排除されていて、それはつまりは美術的なパフォーマンスと呼んでいいのか、暗闇の中で棒立ちのままからだの各所を懐中電灯で照らしていく作品とか、レースのカーテンの背後でそのカーテンを揺り動かす作品。この場合は、観客席からは、その照明の効果で、かすかに透けて見えるカーテンのうしろの人物の動きを見ようとするのか、カーテンの表面の動きを見ようとするのか、アンビバレンツな視点の間で宙ぶらりんにされる。または米粒を床にばらまいてその上を歩くだけの作品。落とされた米粒のはじけ方。石鹸水の中で手を洗い、その泡だらけの手のひらを最後に打ちあわせる作品など。ここでは身体の強度も運動能力も問題にならない。

 ひろいようこさんの作品では、男女ふたりが舞台上でオセロ・ゲームを始める。男性はゲームに集中し、盤面から目を上げることもないが、そのあいだ女性は男性の前で大股開き(!)をやったり、スカートを脱いで振り回したり、狼藉(?)の限りを尽す。ここでも問題なのはその身体ではなくって、おおかたは舞台上の男女の距離の問題に還元されるような。

 他にも、岡田智代さんのフォルムを重視するような作品とか、吉福さんや木村さんの「ダンス」、橋本正彦さんの、踊れないということを逆手にとったような、椅子に坐っての足のダンスなど、いや、ここには書かないけれど、たいていの作品にそれなりに面白さが。

 例えば、先に上げた『TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD』などが、すでに業界の権威として<帝国>的に機能するとしたら、それに対抗するネットワークとして、このようなイヴェントが存在することは、それこそ「マルチチュード」のほう芽として興味が尽きない。わたしにとって興味があるのは、結局は呼称として流通する「コンテンポラリー・ダンス」などではなく、「身体はいかにしてコンテンポラリーであることができるか?」とでもいったことなんだと、このイヴェントを見て気がついた次第。またこういうイヴェントがあるといいな。



 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060824

■ 2006-08-19(Sat)

[] 『ローズ・イン・タイドランド』 テリー・ギリアム:監督   『ローズ・イン・タイドランド』  テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060819090817j:image

 観たあとに、つい、監督のテリー・ギリアムのインタヴューを読んでしまって、つまりはこの作品は『不思議の国のアリス』、プラス、「誰でも知ってるあの映画」(この映画のタイトルを書くと興醒めしてしまうので、タイトルは伏せときますね。まだこれから観る人もいると悪いから。)なんだよね、って語っていて、ひゃぁ、そんなこと自分で言ってるの、読まなきゃよかったな。って、スクリーンに映ってるのはまんまそのものやん。監督が言わなくっても気が付くか。普通。

 公開される前の予告とか観てて、その、ちょっと毒を含んでいそうなファンタジックな映像に、公開を楽しみにしていたんだけれども、この作品、よく見るとR−15指定。え、なに、エッチなの? って、観て納得。「ちょっと毒を含んでいそう」どころでないのね。全編毒まみれ。ええもう有害です。アリスは実は魔女だったのです、みたいな。あ、それじゃすまないか。アリスはテロリストかも。実際、わたしが観に行った回では、途中退席する客もいたようだったし。

 原作が別にあるようで、タイトルは『タイドランド』。で、主人公ローズの父親(これをジェフ・ブリッジスがやっていて、いよいよ太ったし、いよいよムサ汚い)はヤク中の過去のロックスター。母親(わたしの大好きなジェニファー・ティリーがやってるの。出番は少ないけど、かなりキてる)がオーヴァードゥ−スでイっちゃって、残された父と娘(これが新人のジョデル・フェルランドで、びっくりしちゃうおマセちゃんです)は、楽天地っちゅうか、父の育った草原の一軒家に行って、それでね、ってお話なんだけれども、なんか、その設定とかで思い出してしまうのはトマス・ピンチョンの『ヴァインランド』であって、タイトルまで似てる。父親のイっちゃてる造型とかも娘の造型も似通ってるし、そういえば『ヴァインランド』の娘の名前は「プレーリー」(草原)っていうんだっけ。う〜ん、このあたりの相関関係はどうなんだろうか。今度原作を読んでみようか。

 この映画に関しては、そのウィアードなファンタジーぶりはもうテリー・ギリアムの独壇場で、その主人公ローズの遊び相手、バービー人形の頭だけのヤツらが素晴らしくって(つまりはコイツらを操ってるのはローズだから、ローズが素晴らしいよね、とも言えるけれど)、これをさまざまなアングルから画面の中に挿入するそのカメラ・アイが楽しいし、登場人物はすぐに死んじゃうお母さんを入れても5人ぐらいしか出て来なくって、ま、お父さんもただの置き物になっちゃうんだけれども、出て来るやつみんな変。ってか、ウィアード。ビザール。楽しみましたよ。途中の知的障害のある男の子とローズとの絡みなんか、ちょっと『シベールの日曜日』を彷佛させてくれたりもするんだけれども、ローズが男の子の前でしゃがんで、ま、目線が男の子の腰のあたりにいって、「あなたのいちばんの秘密を見せてちょうだい」なんていうのはきわどくって、どんな展開になるのよ、って感じ。その通りの展開のファンタジーにはなりますが。

 ただ、ギリアムさん、この音楽はどうしちゃったんですかね。「なにこれ?」ってあきれてしまうような変な音の入れ方。しかもどうでもいい音。ものすご違和感。こんなんなら、いっそ音楽なんかなくってよかったのにな。そんな感想。

 そのラストで、画面が真っ黒にフェイドアウトする中で、ローズのその眼が、星座を住まわせているように光を残しながら消えて行って、このラストが好き。テリー・ギリアムの作品の中でも、コレは相当に好きな方だな。

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060819

■ 2006-08-18(Fri)

[] 『思想としての東京 −近代文学史論ノート』 磯田光一:著 講談社文芸文庫   『思想としての東京 −近代文学史論ノート』 磯田光一:著 講談社文芸文庫を含むブックマーク

 その、先に読んだ『グロテスクな教養』(高田里惠子:著)について書いておこうと思っていたら、それに関連してしまってこんな本を読んでしまった。

 江戸時代から明治/大正にかけての、江戸/東京の地図を一つのとっかかりにして、「東京論」を書こうとするのは、そりゃぁ面白い試みかも知れないね、って思って読み始めたんだけれども、わたしはやっぱ、こういう、戦後の文芸評論みたいな世界が苦手で、って、いったいどこが面白いんですか? って、しょっちゅう思いながら、無理して最後まで読んで、ま、途中でわかってたんだけれども、あぁ、書いた人はこういう視点で書いてるんだよね、そりゃわたしには面白がれないや、っていうのがあって、で、無理して解説まで読んで、これがまた稀に見るであろうような頭の悪そうな解説で、中学校の夏休みの宿題で読書感想文書いて、こんなの出してもイイ点もらえないよ〜、みたいな空疎な解説、としかわたしには読み取れない。

 先に自分の強引な仮説があり、それを裏付けるために資料を駆使する。それは時に「言わずもがな」でもあるようなごく常識的な認識であって、延々とそんな文章を読まされることに退屈する。そして論理として裏付けのない突然に飛躍する認識。これはいくら資料を駆使されても納得することが難しい。いや、それは単にわたしの読解力がないからなんだろうけれども。

 ま、この本では、歌謡曲の歌詞とかまで引用しながら、簡単に言えば下町を追い込む山の手の台頭とか、東京方言とか、中央と地方とか、そういうのを展開するんだけれども、正直言って、こういう問題に関して普通に考えられることがらを超えるような認識は、ぜんぜん与えてもらえなかった。というか、読んでいて、つねに時代に押し流されて間違えた方向へ進む「庶民」、そのようにずれて行く現実の前で苦しむ「文学者/知識人」みたいな構図がすけて見えるようで、だからまた知識人の問題。

 この本には「補論」として、「文学史の鎖国と開国」というのが末尾に収録されていて、その冒頭の一句がすごいんだ。頭がクラクラしてしまったので、記念にここに引用します。

 めったに文壇人の葬式に顔を出さない私が、花田清輝氏の葬儀に行ったときのことである。告別式が終って人々が徐々に帰りはじめたとき、私は中野重治氏と竹内好氏との姿を認めた。私から十数メートル離れたところを、両氏が背中をたたいたり肩を組むような格好をしながら、談笑して車のほうに歩いていく後姿を、私はじっとみつめていた。私は一瞬、感動のこみあげてくるのを覚えながら、ここにまぎれもなく“日本”がある、と感じた。

 ま、ここで書かれてしまった“日本”という語の意味することに関しては、このあとで磯田光一氏はちょっと注釈めいたことも書いていらっしゃるけれども、そんなことはどうでもよろしい。ただ、その“日本”への言及を含めて、この文章は、(高田里惠子さんの本のタイトルを借りれば)あまりにグロテスクであると、私には感じられてしまう。この冒頭から、どのセンテンスもすべて「グロテスク」だと思う。とても読んでられない。つまりはこのあたりに、わたしがこの本から何も得ることができなかった理由があるように思えてしまう。

 このグロテスクさ、不愉快さを、いちいちセンテンスごとに解き明かしてみてもいいんだけれども、おそらくは上記の引用を読んで、ひっかかってしまうのは、きっとわたし一人ではないはずだ。ま、この短い文章には、これだけで磯田光一という人の文芸批評の方法もまた、あらわになっていますのですよ、ですです。ま、文芸批評=ストーカーとまでは言いませんけれどもね。

 高橋英夫という人の書いた「解説」の面白さ(!)についても書いておきたかったけれども、どうでもいいや。ただ忘れましょう。そうしましょう。



 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060818

■ 2006-08-15(Tue)

[] 『初恋』 塙幸成:監督 中原みすず:原作   『初恋』  塙幸成:監督 中原みすず:原作を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060816113322j:image

 もうポスターが宮崎あおいのどアップで、ファンならあのポスター欲しいだろうなって。ま、三億円事件の話なんだよ、ぐらいの予備知識で観てみたんだけれども、思いもかけずにこれは60年代新宿をメインにおいて、そんな60年代の、もうちょっと後には爆発的に開花した文化、その前史的な、新宿周辺でうごめいていたうごめき、そのまま決して芽を出さずに終ってしまったような群れへの鎮魂歌になっていて、ギリギリこのような新宿を体験するのに間に合いそこねたようなわたしにとって、ちょっと涙目になってしまうような作品だった。

 とにかく、当時の新宿の風景の再現がわたしには懐かしくって、特に今はLUMINEとかタワレコのビルなんかになってしまった南口の風景、あの階段が懐かしくって。ああ、あの階段の上には妙な碑が建っていて、タしか「養老の滝」とか、朝からコップ酒を飲ませるような立ち飲みのバラックのような店があったはずだ。そんなことを思い出す。うん、それは観てはいないけれども『三丁目の夕日』とかいう映画でも醸し出されるノスタルジーと差異はないのだろうけれども、やはりこの『初恋』の新宿は、表にあらわれなかった陰の部分ということで思い入れがある。ま、わたしは路地の外れの奥の地下にあるジャズ・バーなどには行ったことはないけれども。

 ランボーの詩集やサルトル全集を片手にジャズを聴くというのは、それはたしかにあの時代のスタイルで、宮崎あおいの最初のセリフ、「大人になんかなりたくない」というようなのは、今の人たちにもあるんだろうか? やっぱり時代の空気だったんだろうか?

 「ぼくは二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい時期だなどとは誰にも言わせない」

 これはもうすっかり暗記してしまっているポール・ニザンの『アデン・アラビア』の冒頭の文章で、おそらくあの時代の精神をいちばんよく伝える言葉だったんじゃないだろうか。あのころは皆、『アデン・アラビア』のこの言葉に惹かれ、この本を小わきに抱えていた。そして、この『初恋』という作品はきっちりと、このポール・ニザンの言葉を、当時の書き割りを前にして、もういちど立ち上げてくれていた。そう、「あの時代が美しい時代だなどとは、誰にも言わせない」という意志。だからこそこの作品はわたしには美しかった。個人的な思い入れだけれども、きっと何年経っても、この作品のことは、ふっと突然に思い出したりするだろう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060815

■ 2006-08-14(Mon)

[] 『ダニエル・マーチン(上・下)』ジョン・ファウルズ:著 沢村灌:訳 サンリオ株式会社 1986年   『ダニエル・マーチン(上・下)』ジョン・ファウルズ:著 沢村灌:訳 サンリオ株式会社 1986年を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060816105407j:image

 今日からはめんどいことを書くつもり。って、いっぺんにたくさんの読書感想文を済ませてしまおうと。で、つまりは最初に、前回の『黒檀の塔』の続きで『ダニエル・マーチン』>を読んでいて、これはジョン・ファウルズのいちばん長い作品で、つまりはオックスフォードを卒業して、今は映画の脚本家で、若い女優と同棲している主人公ダニエル・マーチン、彼は学生時代にやがてカトリックの哲学者になるトニー・マロリーと親交を深めて、それぞれジェーンとネルという学内評判の美人姉妹と結婚するわけで、ダニエルがまだ劇作家であった頃に、ネルとの離婚、そこに介入したトニーの仲介をそのままモデルにして劇を設え、つまりはそのせいでトニーと長く絶交状態にあるんだけれども、そのトニーがガンに侵され死期が近くなり、最後にダニエルと会いたいという申し出があるわけ。ややっこしいのは、ダニエルはネルと結婚する前に、トニーと婚約していたジェーンと、一夜だけの関係を持った体験があって、それがちょっとしたわだかまりになっていると。

 えっと、とにかく長い小説で、いろんな技法とかいろんな挿話が詰め込まれていて、ま、戦後イギリスの知識人の問題とはこんなんよ、困難(いちおうダジャレをやってみました)。とかって、面倒な小説で、ダニエルがトニーと病院で会った直後にトニーは自殺して、最後にジェーンの面倒をみてくれみたいなこと言いやがって、ま、とにかく、基本構造はそんなめろめろのメロドラマなんだけれども、その、最後にエジプトからシリアにダニエルはジェーンと旅行して、そこでふたりはまた新しいふたりの生活を始める決意をするってーか、それはそれでいい話なんだけれども、他の所にもちょっと書いたけれども、つまりは主人公の知識人ぶりってか、インテリぶり、知識人なんだから労働者階級のやつらとは生き方が違うんだよ、ってーな意識がきしょくって、特に下巻の最初の方に、ダニエルの初恋の思い出が語られて、その話自体は独立して、ちょっと青酸っぱくってすてきな読み物になっているんだけれども、そのあとに作者は、中年になったその初恋の相手を登場させて、普通にワーキングクラスの奥さんになってるんだけれども、そこでの作者の眼がいじわるっちゅーか、わざわざ知識人階級との差異をことさらにあげつらっているような書き方で、それは作者であるジョン・ファウルズの視点であるのだろうとしか思えないんで、そのあたりからちょっと読み進む気力が失せ始めて、それがもうちょっと後でのエジプト旅行での他の旅行者への視点とか、シリアでのタクシーの運ちゃんに「後進国の嘆かわしい無知」という言葉を投げかけたり、それは小説の中の登場人物に仮託した、ある種批判されてしかるべきように書かれているのではなく、あくまでもジョン・ファウルズの意見としか思えない気がして、すっごく醒めてしまった。

 この本は刊行時に一度読んだ記憶があって、その時にはそれなりに感銘を受けて、特にラストとか、ファウルズのメロドラマもいいよね、とか思っていたはずなんだけれども、今回はとてもそんな感銘とかではなかった。当時読んだ時には、わたしはそういう知識人とか西欧の優越感みたいなのは読み取らなかったんだろう。ま、世の中変わったからね。

 でも、これは他の所でちょっと話ししたんだけれども、もちろん、例えばイーヴリン・ウォーなんかでは、もっと強烈な差別意識があからさまに書かれていたりするんだけれども、そういうのとは違って、どうもこのジョン・ファウルズの小説では、それ自体いやったらしい何かがある。で、それは、おそらくはこの『ダニエル・マーチン』の中で、知識人であることとか、インテリな生き方とか、そういうのが主人公たちに仮託されているあたりがうざったいんだろうな。いやだから、イーヴリン・ウォーなんかは、ある意味平等にみんな差別してるからね。みんなバカ、って感じで。う〜、だから、「知識人」とか「教養ある」とかって何よ、って感じで、それは考えてみれば、前に読んだ高田里惠子の本『文学部をめぐる病い』とかでも問題になっていた、と言うか、そう、その後に『グロテスクな教養』(高田里惠子:著 ちくま新書)ってぇのを読んでいたんだけれども、今度はそのうちにその本について書きます。


 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060814

■ 2006-08-13(Sun)

[] The Weed Tree :The Espers  The Weed Tree :The Espersを含むブックマーク

   Weed Tree

 ついに来た。こういう音楽シーンが現れるのをどれだけ待っていたことか。要するにフォークなんだけれども、そこにシカゴ音響派やサイケデリックなどの要素が加わり、フリー(ク)・フォーク・ムーヴメントなどと呼称されているらしい。そういう販売促進的なジャンル分けはどうでもいいのだけれども、いちおうこのあたりを代表するらしいユニット、Animal CollectiveやDevendra Banhart、そしてこのEspersなどの音源をまとめて入手してみた。もちろんそれぞれに音のニュアンスは異なるのだけれども、実際にどれも気に入ってしまったわけで、かなりノイジーで実験的な音も聴かせるAnimal Collective、カエターノ・ヴェローゾあたりも彷佛とさせる一人弾き語り、その奥に狂気をかいま見せるようなDevendra Banhart、どちらも聴きごたえがあって、それだけでもはまってしまうのだけれども、やはりここですっかり気に入ってしまったのは、ここで紹介するEspersであって、もうこのアルバムを買ってすぐに、憑かれたように残りの既発売アルバムを全部買い(といっても、まだ3枚のCDしかリリースしていないのだけれども)、時間さえあれば彼らの音を聴いている。その中でやはり一番のお気に入りが、最初に買ったこの「The Weed Tree」。

 2005年にリリースされたこのCD、カタログ上はEP(ミニ・アルバム)扱いになっているけれども、全7曲40分ほどの音世界は、微細な振幅を見せながら、彼/彼女らの魅力がたっぷりと詰め込まれている。

 基本はフォーク。しかも、端正なブリティッシュ・トラディショナル・フォークが基調となる音は、どこまでも端正であろうとする姿勢を、その表面では崩すことがない。デヴュー作では3人組だったこのEspersだけれども、この2枚目の「The Weed Tree」からは、そのメンバーは6人に増えている。アコースティック・ギター、そして、bassではなくてcelloまたはviolaを基調とした演奏は、室内楽を思わせる荘重さと幽玄さにあふれ、そこにこのユニットの魅力の源、とも言える、Meg Bairdの歌がかぶさる時に、このEspersの音の骨子は完成する。とにかく彼女のvocalの、そのまさしくもトラッドなシンギングの魔力、微妙な震えを含んだ、か細いとも言える歌唱は、わたしの今までに聴いて来たブリティッシュ・トラッドのシンガーでは、そうだな、The PentangleのJacqui McSheeの声をもう少し細くしたような、そしてあのAnneBriggsの声が、(変な言い方だけれども)一種の伝承歌唱の匿名性の陰に隠れようとする、その瞬間の陰りのような、はかない美しさを含んだ歌唱だと。ま、絶賛に近いけど。そこに、リコーダー、ダルシマー、オートハープ、グロッケンスピールなどの、古楽器と呼んでもよいようなアコースティックな音が絡むのだけれども、これに曲によってはドラムズが密かにリズムをつけ、さらに電気増幅され、ファズのかかったフリーキーなギターが加わって、静かな狂気を忍ばせながら空気を彩るさまは、これは60〜70年代のブリティッシュ・フォーク全盛の時代でも聴くことのできなかった音世界なので、つまりはわたしを夢中にさせる。

 しかし、このユニット、イギリスではなく、なんとフィラデルフィア出身。いったいフィラデルフィアのどこにこのような音世界の土壌が蓄積されているのだろう。いや、きっと、これは世界中のあらゆる音源が、ある程度の流通機構の整った場所ではかなり自由に入手して聴くことのできるようになった、この30年ほどのある意味では「グローバル」と呼んでもいいようなネットワークの果てに、生まれることが可能になった音楽なんじゃないだろうか。それはつまり、生まれた時からまわりがそのような伝承音世界に包まれているような環境は、例えばそれがイギリスの伝承音楽であっても、なにもイギリス御当地でだけ育まれるような、限定された純正な地域性に限定されるような事象ではなくなってきた、と考えてもいいんじゃないかしらん。

 そして、このような伝承音楽の世界は、時代とともにその演奏形態、楽曲のアレンジも変化するものであって、そのオリジナル性を保存するのとは別に、周囲の音楽環境とともに変化するものであってみれば、こうしてイギリスの伝承音楽から発するような音世界がフィラデルフィアのような土地に飛び火したとしても、レコードやCDでそのような音楽を聴いた人たちがどんな土地でも自由にそのような音楽を発展させる、それは言ってみれば当然、健全なことであり、また、言い方を変えれば、そのような事象を生む新しいネットワークこそが、「マルチチュード」の、その絶好の実践例とも言えるのではないだろうか。

 そう、そのような、時代も土地も超越するような音世界はこの「The Weed Tree」に収録された7曲の構成にもみてとれる。1曲目は、Bert Janschなんかも取り上げている、トラッドの「Rosemary Lane」。これをEspersは実に正統に、端正に、ブリティッシュ・トラッドとして演奏している。そして、2曲目がなんとDurrutti Columnの「Tomorrow」という曲であって、ここで、60〜70年代のブリティッシュ・トラッド、というか、当時のフォーク・リヴァイヴァルの音世界と、80年代のFactoryなどのニューウエイヴの音世界がリンクされる。ギターのきらめきと、MegとGregのデュオ、リコーダーの音がシンプルに美しい。うんうん、こういうことこそ、誰かがやってくれるのを待っていたのだよ、わたしは。うん、自分に音楽を操ることができれば自分でやってたね。

 それで3曲目がまたトラッドの「Black is The Color」で、この原曲にはいろいろなヴァージョンがあるけれども、Charles MingusやDonovanもやってるね。ここでのEspersの、violaをフィーチャーした、しっとりとした演奏と歌唱は、わたしのフェイヴァレット。4曲目がまたサープライズのNicoの「Afraid」。ここでさらに60年代アメリカ実験音楽がリンクされるわけか。ここではcelloとglockenspielをフィーチャーして、リリカルな美しい室内楽風の仕上がり。次はMichael Hurleyという人の「Blue Mountain」という曲で、わたしはこのMichael Hurleyという人は知らないが、現在形で活動するシンガー・ソングライターらしい。ちょっと、The Pentangleがアルバムの中にコンテンポラリーな楽曲を挿入していたような雰囲気。

 6曲目が、ちょっとした野心作というか、なんとBlue Oyster Cultsのカヴァーで、「Flaming Telepaths」。ここでのアコースティック・ギターとエレクトリック・ギターの絡み、MegとGregのデュオなどは、たしかにまたもThe Pentangleを想起させられてしまうのだけれども、間奏での奇妙なシンセのようなオルガンの音、控えめなドラムセットの音、そのすきまからフリーキーなギターの音が、ファズで音を歪ませながら拡がり、一種実験的な電子音のインプロヴィゼーションに移行する時に、このバンドの同時代性というか、ギラギラとした野心が垣間見れると思った。

 最後に、オリジナル曲「Dead King」でもって、トラッドの世界を見事に吸収しながらもプログレッシヴに展開する作曲能力を示して、このEspersの「The Weed Tree」が終る。すばらしー。ちなみに、彼らのファーストも、最近Drug Cityからリリースされたばかりの「Espers II」も、素敵な、というか素晴らしい出来であって、ま、当面はこのバンドについて行きましょう、わたしは。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060813

■ 2006-08-12(Sat)

[] 『インプリント ぼっけえ、きょうてえ』 三池崇史:監督 岩井志麻子:原作   『インプリント ぼっけえ、きょうてえ』  三池崇史:監督 岩井志麻子:原作を含むブックマーク

 よく知らないんだけれども、「マスターズ・オブ・ホラー」とかいうホラー映画イヴェントに参加する作品として、アメリカ映画として製作された映画で、だからもってセリフはすべて英語であって、だからして主演は工藤夕貴。ちょっと前に読んだ原作は、その主人公が客に語る一人語りの体裁で進行し、その客の人格はまったく問題にされないのだけれども、この作品ではその客にビリー・ドラゴを配し、工藤夕貴を尋ねて来るアメリカからの客、という設定の中に、原作から離れた視点/物語を導入している。

 その冒頭のおどろおどろしい感じとか、黒と赤を基調とした薄暗い画面とか、撮影の栗田豊道(=『モダーンズ』)や衣装の北村道子(=『メゾン・ド・ヒミコ』)などのスタッフの力もあって、情念のこもった映像に仕上がっていて。

 しっかしながら、やはりこの三池崇史監督の演出、なのだけれども、その、やはりわたしにはトゥーマッチ過ぎるというか、これでは「エログロ」路線まっしぐら、としか了解出来ないのですね。特にもうひとりの娼婦の小桃(美知枝)に対するせっかんの描写とか、もうそーなってしまうとやぱり、三池さんにわたしの美意識がみじんに壊されてしまう。結局この人の作品を観なくなったのもそのあたりのせいだし、やっぱりこの人は変わらない人だ。

 でもまあ気に入ってしまった部分もあれこれとある作品で、その、このヒロインというか、工藤夕貴の身体にはちょっとしたえぐい秘密があるんだけれども、その描写だけは(これは予算の関係もあるんだろうけれども)ちょっとシュルレアリスムというか、シュワンクマイエルというか、奇想の映像化という感覚で心に残る面白さだったし、これに対するビリー・ドラゴってえ人の演技がこれが徹底したB級というか、そもそもこの人物の造型がラフカディオ・ハーンを思わせる所があるわけだけれども、腐敗する一歩手前みたいなやさぐれ感は映像の雰囲気にマッチしていた。ただし、この造型に合わせるために、そもそもの物語構造はそのラストでみごとに解体散逸してしまうんだけれどもね。

 結局、観終って、こういう日本的情念の世界は最近何かでどこかで目にしたなぁと思い返してみて、ふと思い当たったのは、春に東京現代美術館で観た『MOTアニュアル2006・No Borderー「日本画」から/「日本画」へ』展での、松井冬子さんという日本画家の、「幽霊画」と言ってしまっていいんだろうか、薄暗いギャラリーの中で密かに光を反射する無気味な犬や、川に浮かぶ死体などの作品。

 f:id:crosstalk:20060814110638j:image

 ちょうど先日、本屋で「DUNE」というオルタナ系の美術雑誌を観ていたら、この人の作品の写真が掲載されていて、いや実はその松井さんの作品の前にすこぶる妖艶な美女がモデルのように佇んでいて、どうもその美女が松井冬子さん当人としか思えないレイアウトで、いや実は脱線してしまいますけれども、やはりそれは松井冬子さん当人で、その、驚愕してしまうほどに美しい方だったのです。えっと、上に挙げた作品は'Round Aboutというサイトから勝手にお借りしてしまいました。このサイトにはその松井さんと佐々木豊さん(国画会会員!)との対談が掲載されていてちょっと興味深いです。画像の引用がまずければ削除しますのでよろしくです。

 んなこんなで、映画から日本画へ脱線してみました。


 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060812

■ 2006-08-11(Fri)

crosstalk2006-08-11

[] 『黒檀の塔』 ジョン・ファウルズ:著 北山克彦:訳 株式会社サンリオ 1986年刊   『黒檀の塔』 ジョン・ファウルズ:著 北山克彦:訳 株式会社サンリオ 1986年刊を含むブックマーク

 その、たまに古い本を引っぱり出して来て読んでみたりして、せっかく持ってるんですからね、ちょっとは捨てる準備しなくっちゃ。てなことで、もうかれこれ20年も前に刊行されていた、ジョン・ファウルズの短編集『黒檀の塔』を読んでみた。キティちゃんのサンリオが、その発足時には「山梨シルクセンター」という名前で、天沢退二郎などの現代詩を出版していたことは、今こうやって書くと、「へぇ〜、びっくりした!」という人もいるかも知れないよね。もちろんこのあとに、社名を「サンリオ*1」に変えて、有名なサンリオ文庫を発刊するわけだけれども、このジョン・ファウルズの翻訳は、文庫ではなくてサンリオには珍しい単行本。サンリオはジョン・ファウルズが好きだったようで、このあとに読んでしまった『ダニエル・マーチン』も、映画化されて評判になった『フランス軍中尉の女』もその翻訳を単行本で出しているのね。おかげで今ではちょっとは入手困難になってしまってるんではないだろうかな?

 おっと、また脱線してしまった。その『黒檀の塔』には五つの短編が収録されていて、これは先日他界されたファウルズの唯一の短編集ということになってしまったわけだけれども、ま、読んでみて、「やっぱジョン・ファウルズもイイよなー」というのと、「なにこれ!こまっちゃうよなぁー」というのが混ぜ合わされて、いやそれこそがジョン・ファウルズよ。

 順番に紹介していくと、最初の短編が表題作「黒檀の塔」で、これでもって150ページ以上あるから、ちょっとした中編。これが面白い。実はこの作品、あの『魔術師』のリアルな別ヴァージョンという側面を持っていて、主人公である駆け出しのイギリスの美術評論家が、フランスのド田舎で隠とん生活をしている「伝説」の画家に、単独インタヴューしに行く話。ところがそのド田舎の画家のアトリエには、二人の若くて美しい女性が同居していてね、つまりはファウルズ好みの、ラファエロ前派的なシチュエーションのお膳立て。だから、主人公が惑わされるのよ。その幻惑と、画家とのインタヴューが混沌と一体となって、一種観念的でありながらエロティックな芸術論を繰り広げるのが面白いともいえるけれど、わたしはそんなのがすんなりと理解できるほどには頭よくないからね。

 やっぱここで「これぞファウルズ!」って惚れ込んでしまうのは、こういう展開。つまりその、夜半に取り巻きの美女の一人と遅くまで話をし、彼女の悩みなどを聴き、もうすっかり感情移入して、真っ暗な庭を二人で散歩して、うるわしき口づけまでたどり着くというのに、‥‥まであと一歩の所でミステイク!!! もうほとんど据え膳状態だったというのに‥‥、という展開で、主人公はもう、一度逃したチャンスはもう二度と捉えられることはないのだという事実の前に、夜を徹して煩悶するだね。ふふふ、わたしはファウルズの変な読み手だから、これぞファウルズ、この「おあずけ状態」よ! って喜んでしまう自虐的。

 だいたいこの人の小説は皆、その目の前にいる美女とどうしても遂げられない! という大きなテーマが転がっていて、そんなんではこの「黒檀の塔」がピカ一の展開。いやぁ、いつものファウルズの小説ならば同情して感情移入してしまうんだけれども、ここまで見事な失敗を描いてくれると、「ばーか! あーほ!」って、思いっきり罵声を浴びせてみたくなってしまったりして。あー、でも、つまりはわたしもこういう失敗するからね。だから彼の小説が好きなんか。ふん!

 ‥‥というファウルズ節を堪能しながら、次の作品「エリデュック」。これは実はファウルズの作品ではなく、先の「黒檀の塔」の中の会話に出てくる、12世紀フランスの、マリ・ド・フランスという名の尼僧院長がまとめた『短詩集』にある、ケルトの伝承説話を英語に翻訳したもの。いやいやあなた、わたしはこのあたりは音楽の趣味としてそれなりに極めた世界。スコットランドとかの伝承歌、バラッドなどの長詩、物語歌の中にこのような物語はあれこれと出てくるのだね。この「エリデュック」は確かに壮大で波瀾に飛んだ物語ではあるけれど、敵地で愛した人に、「わたしは必ず戻るから」と約束して別れ、約束通りにまた彼女の下に舞い戻って来るという話は、例えば「Lord Bateman」というバラッドにも唄われていて、この歌での再会のシーンの描写はもう傑作であって、彼を迎える召し使いの取次ぎ、一刻も早くと再会を望むBatemanの焦り、半信半疑の王女とか、もう聴いていても「早く!早く!」と心高鳴るものがあるのです。あ、また脱線。とにかく、そういうのを思い出しました。

 次が「プア・コーコー」という作品で、これは友だちの別荘で執筆しようとしていた文筆家が押し入り強盗に襲われ、縛り上げられるのだけれども、その、「自分も本を書きたい」という左翼チックな強盗との最後の会話で、強盗が気持ちを変えて、その作家の原稿、貴重な資料、それら一切をその作家の目の前で暖炉にくべて焼いてしまうという話。おそらくこれをファウルズに書かせたのは、当時の左翼運動へのシンパシーと、そんな運動への負い目のようなものからではないかと想像するのだけれども、そう考えると、あまりこのような作品には共感出来ないという気持ちになってしまう。ファウルズは、この登場人物に、サッカーについて語らせているのだけれども、サッカーを「知性とは無縁のエネルギー」として、「いったいわたしがインテリの優越感以上に何をこの無意味な娯楽から得ているのか、わたしには確かでない。」と書く時、そこに登場人物への批判を読み取る前に、「そこまで書くか!」という感じで、しゃれにならないというか、ファウルズは本当にそう思ってるんじゃないのか? なんて思ってしまうのだ。

 4番目は「謎」という作品で、もろにミステリー。しかしこの作品の終わりでファウルズは、作者に操られる登場人物、などというメタな要素を乱暴に導入し、いままでやらなかったこと、階級の異なる男女の出会いに未来の希望を与えて、この短編を終らせている。ナボコフ的な、瞬間の女性への惑いが男を破滅へと導くというメインの話もファウルズらしくって。

 最後は「雲」という作品で、なんちゅうか、ヴァージニア・ウルフを真似したような、「意識の流れ」的な作品で、それが決してうまくは行っていないのは、キザったらしくインテリぶってロラン・バルトの本の話とか持ち出すからで、そういうのが血にも肉にもなってないと言う印象を受けてしまうんですね。

 ま、そういう意味で、楽しがったり困ってみたり、そんなジョン・ファウルズの短編集でした。



 

*1:これはあくまで聞いた話だけれども、「サンリオ=山梨の王者=さんりおう」から来ているということだけれども???

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060811

■ 2006-08-10(Thu)

[] tsumazuki no ishi『無防備なスキン』 スエヒロケイスケ:作 寺十吾:演出 @下北沢ザ・スズナリ   tsumazuki no ishi『無防備なスキン』  スエヒロケイスケ:作 寺十吾:演出 @下北沢ザ・スズナリを含むブックマーク

 久しぶりの「tsumazuki no ishi」。昨年の公演がスケジュール的に観ることができなかったのだけれども、その昨年の公演では寺十吾さんが緊急入院とかで、演出も出演も降りられるような事態になったそうで、ま、そりゃ行けなかったことは正解だったか、なんて失礼なことも考えたりして。

 その前のスズナリでの公演が、わたしは楽しめた舞台だったのだけれども、その、ネット上とかの評判が芳しくなくって、劇団の掲示板上で作者のスエヒロケイスケさんがちょっとキレてしまっていたこととか、あ、やはりこういう戯曲を書かれるような素質(?)をもっておられる方なのだなぁ、などと感じたのはもう2年前。その前がウエストエンドでのカフカの「掟の門」の翻案だったかしら。

 とにかく、このところ舞台美術がすっごくリアルにち密になって来ていて、今回も、古い農家のような家の玄関口、その高い天井とか、その梁につくられたツバメの巣とか。で、出演者も増えた。今回はゲストに田中要次、少年王者舘の中村榮美子などを迎えて、数えたら十六人ぐらい。ひとつの場所をめぐる群像劇、という側面が強くなってきている印象。

 2年ぶりとかに観ると、すでに「tsumazuki no ishi」のテイストとか忘れかけているのだけれども、その序盤で、おたがいの不信感、憎悪など、ネガティヴな感情をモロに怒鳴り合いぶつけ合うような展開にちょっと驚いて、あぁそうか、「tsumazuki no ishi」はこういうテイストだったのだって思い出す。

 とってつけたようなタイトルからは、その内容はまったく読み取れないけれども、この舞台は、地方の古い大きな家を舞台にして、そこでなぜか共同生活をしている三組の家族とその周辺の人たち、そして犬(!)。それがどういう共同生活なのか、しばらくは観客にはわからないのだけれども、電話もTVもネット環境も新聞もない生活。それはつまりはそんなメディアで話題になってしまった事件の、その加害者や被害者の家族の、世間からの隠とんの場所であって、彼/彼女たちの弁護士の配慮(?)による、奇妙な共同生活。その中での、「他人にはわたしの苦しみはわかってもらえないだろう」という思いが交差するように、反撥と憎しみ、そしてその反面に、寄り添い合うような感情も生まれる。

 現実に起きた事件ともリンクさせながら展開する、おぞましさも覚えるようなストーリーの中から、メディアの報道姿勢への欺瞞性にも思い当たるだろうし、ネガティヴなベクトルが人々を引きずり回す負のスパイラル、その絶望的な展開の中に、倒立した末の世界、そして人間への信頼を思わせるのは、やはり「tsumazuki no ishi」独自の世界であって、そこにスエヒロケイスケ氏の脚本、寺十吾氏の演出という力強いタッグの成果。いや特に寺十吾さんは、その病み上がりというのがあるのか、以前よりもまた痩せられたようで、役者としてのやさぐれ感、一種おぞましさという面でも格段の役者ぶりと。

 ただし、この「tsumazuki no ishi」の追求する近年のリアリズム路線もいいのだけれども、例えば、かつての『ガソリンホットコーラ』のはちゃめちゃさ、『鼻眼鏡』の不条理さ、そんな独自の世界の裏に潜むデイヴィッド・リンチ的な世界の現前もまた観てみたいという気持ちも、今でもあるのだけれども。(7月29日観劇)


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060810

■ 2006-08-09(Wed)

[] 『ゆれる』 西川美和:原案・脚本・監督   『ゆれる』  西川美和:原案・脚本・監督を含むブックマーク

 「あの吊り橋の上で、実際には何が起こったのか?」を解明する法廷劇を中心として、とってもふくらみのある、深く読み込みのできる作品であって、つまりは、感心してしまった。観終わったあとに、アレはこういうことではないのか、などといろんな方向から思い直してみても、どんな突っ込みにも耐えられるような堅固さと融通を兼ね備えているように思えたし。あぁ、映像がもうちょっと強ければ、エポックメイキングな傑作に成り得たよね。

 今日はちょっと深読み/誤読をしてみようか。はい。えっと、舞台としての(都市に対応する)「地方」、というか山奥という「現場」。そして、「兄弟」、そして、(法廷での)弟(オダギリジョー)の語り出す「ほんとうのことを言おう」というセリフ、って、つまりそれって、大江健三郎の『万延元年のフットボール』じゃん。いや、もちろんこれは誤読です。

 でもこの作品にはやっぱ、近代以降の日本で残存する家父長制という問題と、それに絡んだ都市と地方という問題、そういう問題意識が読み取れて、ここではつまり、そんな家父長制が地方においても危機に瀕しているようなことがら、というか、家父長制を継続しきれないグレーゾーンの悲劇、と言ってもいいのかなぁ? そして、古くからの、長男と次男の問題。つまりひとつには地方でもって「家業を継ぐ」という問題があって、ま、地方であろうが都市であろうが、家業を継ぐという世襲制を遂行するのは、それなりに子の意志を屈服させるような側面もあるわけで、それが先日の奈良の中学生の放火事件の遠因というか原因でもあったわけで。いや、つまりは単に「家族」の解体という物語と読んでいいんだろうけれども。

 この『ゆれる』という作品では、父(伊武雅刀)はガソリンスタンドを経営しているわけで、長男(香川照之)はそのガソリンスタンドで働いている。つまり、父のあとを継いでいる。それ以外はアルバイトを雇ってやっているようだけれども、いちおう新井浩文のようなアルバイト歴10年、というベテランもいる。この、ガソリンスタンドという立ち位置が微妙ですね〜。「農家」の方が問題ははっきりするけれども、微妙に「町」と「郊外」の境目、というか、それはスーパーマーケットでもいいんだけれども、それじゃまた『万延元年のフットボール』。

 で、その弟(オダギリジョー)は東京に出て、写真集も出版するような、すごい売れっ子カメラマンになっている。ま、そんな弟が、母の一周忌の法事で実家に帰って来るというところからこの物語は始まって。

 その法事の席でいきなり父と弟が衝突し、これは懐かしい、父によるちゃぶ台返しの必殺技が画面に登場する。このシーンでもってこの作品の基調がばっさりと提示されるわけだけれども、これに続く、ちゃぶ台の上で転倒したとっくりからこぼれる酒が、そんな場をとりなす兄のズボンの裾を濡らす、なんてシーンが続くように、この作品の欠点は、そのような概念的な描写が多いことかなぁ。

 兄は兄で、都会的なモノに対するあこがれのようなものを抱えているわけで、それは、弟に話すガソリンスタンド改装計画の中に垣間見ることが出来るだろうし。でも兄はこの町を出ることができない。それはおそらくはその兄の中の父の存在ゆえであるだろうし、これで兄なりに結婚して次世代の家族を形成していれば、それはそれで無問題とも言えるけれど、この兄が女性に縁遠い。「見合い」という制度に頼るのにも、ガソリンスタンド経営という一種中途半端な立場があるだろうね。あ、これを読まれている方が、ひょっとして「ガソリンスタンド経営」とかという方だったらゴメンナサイ。いやわたしなんかもっとひどいんです。関東地方のゴミですから。わたしのような存在は。そんなゴミの分際で、「中途半端」だなんて大それた事言ってしまって、すみませんです。

 ‥‥脱線しちゃった。なんだっけ? そうそう、それでもって、ガソリンスタンドにはこの兄弟の幼なじみの女性がバイトしていて、えっと、わたしはどうしてここでこの作品のあら筋なんか書いているのか、つまりは兄はちょっとそのコに気があって、なのに弟は帰郷したその夜に、そのコと寝てしまうんだけれどもね。で、翌日、この兄弟とそのコの3人で山の峡谷に遊びに行く。なんてシチュエイションでしょ。で、つまりはそのコは吊り橋から落ちて死んで、そういう話。その時に吊り橋の上にいっしょにいたのは兄。最初は事故死で済まされそうだったのが、兄が自分から「わたしが突き落とした」と警察に伝え、以後作品のほとんどは法廷シーンになるのね。そう、法廷では被害者のプライヴァシーもさらされるんだね。かわいそう。

 真実? 真実なんかわからない。わたしは、弟の「ほんとうのことを言おう」発言は、それ以上の父の呪縛から兄を解放させる意図と、あえて誤読する。この事件の性格からして7年という刑期はありえないとは思うが、兄が新しい人生を父から離れて出発させるのに、それは決して遅すぎはしないだろう。あわれなのは父という存在か。彼が悪いわけではないのだけれども。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060809

■ 2006-08-04(Fri)

[] 『やわらかい生活』 廣木隆一:監督   『やわらかい生活』  廣木隆一:監督を含むブックマーク

 印象に残る『ヴァイブレーター』を観たのはもう何年前だっけ? あの作品を観て、「あぁ、廣木監督も立派になられて‥‥」と、暗闇のスクリーンの前でひそかに涙を流したものだったけれども、あれ以来の廣木監督作品。このあいだに他の作品をつくられてると思うけれども、チェックしてません。

 いやね、『ヴァイブレーター』が印象に残っている、と言っても、実際いちばん強烈に覚えているのは、その冒頭、真正面から捉えられたトラックのボディの映像のバックにパット・ブーンの「四月の恋」(April Love)が流れ、その画面いっぱいに水色の文字で「ヴァイブレーター」というタイトルが現れた瞬間、これに尽きるのだけれども、うわ! これって、「映画」だよ! ってな、奇妙な感慨を持ってしまった記憶が鮮明。ふうっ、こんなことを書くと「ぢゃ、映画って何よ」みたいな設問も繰り出されてしまったりするんだけれども、うん、あの作品を観た時には、「そりゃ、フレームだよ!」って思ったりしたのかな? はい、映画とは「フレーム」ですね。そう思う。

 そういう意味で、この廣木隆一監督は、ほんとうに真っ当な映画作品をつくられる方として、日本の映像作家ではちょっと突出しておられる気がする。それは、とてもバランス感覚にすぐれた作品をつくられるな、って印象で、まぁそれは正直言うと『ヴァイブレーター』でもって、ようやっと廣木隆一監督が到達された地点だな。つまりそういう褒め言葉は『ヴァイブレーター』にしか当てはまらない、という所なのだけれども、それ以前の作品についても、「おしい!」という作品はあれこれとあったわけで、まぁ要するにわたしは廣木隆一監督の作品は好きなのだ。

 ってな新作。『ヴァイブレーター』に続いての寺島しのぶがヒロイン。35歳、独身。そううつ病。現在無職。ちょっとニートな。原作は絲山秋子の『イッツ・オンリー・トーク』(未読)。

 導入部は、おしゃれ(?)な痴漢、田口トモロヲとの映画館デート。蒲田のビルの屋上の遊園地あたりが印象に残る。まだこんな所が残っていたのか。こないだ『嫌われ松子の一生』でも親子の思い出のスポットとしてちょっと誇張されたその姿が出て来ていたけれど。カメラ・アイが気持ちよく、自在に地上から浮き上がり、また、上昇してくるオレンジ色の観覧車の個室(って、実際アレは何て言うんだろう)を固定点から捉えるショットが美しく。これがきっかけでヒロインは蒲田に引っ越して来るという設定。いいっすね。蒲田に引っ越してもイイかも、と思わせられる。

 JRの線路沿いに歩く寺島しのぶを追いかける、横移動するカメラ。それにかぶさって「やわらかい生活」というオレンジ色の手書き文字のタイトル。OKです。

 それでもって、そんな蒲田という土地を中心にして、都議会選挙に立候補している大学の同級生とか、気の弱いやくざ(ここで出てくる「タイヤ公園」は、京浜東北線の車窓から見えるので「なに、アレ?」って記憶には残ってましたね)とか、故郷の九州から夫婦仲がうまく行かずに逃げてくる幼なじみのいとこ、とかとの、濃いような薄いようなつきあいを、味わいのある演出で見せ切ってくれて、うん、やはり廣木隆一監督の作品はもう安心して観ていられる。

 特に、というか、やっぱり、しばらく彼女の部屋に転がり込むいとこの豊川悦史、やっぱ、この造型が良くってね。実生活ではほぼ結婚とかに失敗したダメ男であるこの男、この、日常生活からちょっと遊離したような、蒲田での彼女との生活ではまるで王子様のようにイイ男であることよ(そう思い出すと、『ヴァイブレーター』でのトラック運転手、大森南朋にしても「トラックに乗った王子様」的なイイ男だったんだけれども)。

 その、東京みたいな大きな都会で独りで生活する不安、それをなぐさめるようないろいろな人との出会い、自分スポットの発見、そんな、同じように東京で危なっかしい思いを抱きながら一人暮らしをしているような人が、それは誰もが感情移入できるような、ちょっと癒し系のストーリー展開で、やっぱり豊川悦史が癒しの王様として。

 でも、転ぶと痛い、だから転んでも痛くないようなクッションを用意する。そんな、人との出会いを、やわらかく自分を守ってくれるようなクッションとして自分のまわりにそろえる。そんなことが出来ればいいよね。ある意味でこの作品は、そんなクッションとしての他者の良い所ばかり描いてしまっている印象はあるよね。都合よくこの作品の中でヒロインは出会う誰とも一線を超えないし、銭湯に行っても脱がない(関係ないか)。でもでも、現実はもっとヤバいよ。そのあたりがこの作品で感じるアレ、かな。ま、一種の都会の生活の中のファンタジーとしてみれば、気持ちよく観ることのできる作品だと思った。真似しないように。わたしにしろ、実生活では「イイ男」にはなりきれませんね。ふっ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060804

■ 2006-08-02(Wed)

[] 『〜次代を担う振付家の発掘〜 TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2006 トヨタ コレオグラフィ− アワ−ド ネクステージ』2日目 @三軒茶屋 世田谷パブリックシアター(7月30日)   『〜次代を担う振付家の発掘〜 TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2006 トヨタ コレオグラフィ− アワ−ド ネクステージ』2日目 @三軒茶屋 世田谷パブリックシアター(7月30日)を含むブックマーク

▼岡本真理子 『スプートニクギルー』

 だからわたしは岡本さんのパフォーマンスのファンなんですけれどもね。装置、というか、オブジェ、というか、インスタレーション的な、展示(と言ってよいと思う)の施された舞台上で、その装置をめぐって密やかな秘儀のような空間/時間の繰り広げられる彼女の作品は、2年前だかに「東京コンペ」で大賞を受賞された『まばたきくぐり』を代表作として、その独自の世界を展開されているわけなんだけれども‥‥。

 この『スプートニクギルー』も、3回目ぐらいの再演になるだろうか。冷蔵庫、SLゲージ、ブーツなどというとりとめもない装置の中で、秘密裏に宇宙との交感を果たそうとするような作品と受け止め、今回も楽しみにしていたのだけれども。

 ‥‥しかし、ここ、この舞台での岡本さんの作品への取り組み方には、今までと微妙な違いが。う〜ん、なんというか、神秘性が消えてしまったというのか、すでにここには儀式は存在しないと受けとめられた。つまりここでは彼女は装置、「もの」に絡みながら、その「もの」を手なずけようとして手なずけられないような、真っ当なダンスとしてこの作品に関わろうとしているように見えた。このような彼女の方向性は、この春の横浜での『ソロデュオ』での受賞者公演(だったと思う)からちょっと気にはなっていたところで、やはりもういちど彼女には舞台上で巫女さんになっていただきたいものだと思っている。


▼山賀ざくろ 『ヘルタースケルター』

 舞台の幕が少し開き、そこから過剰なほどのスモークがあふれだし、そのスモークの間から霞むように踊る山賀さん。白いブラウスとチェックのスカート、金髪のボブのかつらで、AC/DCをバックに踊る。その踊りはやはり無手勝流で方策も何もないのだけれども、リズム感がいいんでしょうね。まったく音から遅れないし外れない。そのあと奇妙な照れ隠しのようなトークがあって、椎名林檎、サザンと踊り倒す。かつらを落とすところなど含め、笠井叡の「花粉革命」をちょっと思い出した。

 女学生になり切ろうとしているのか、かいま覗く中年男の姿をも見せたいのか、ちょっと不明瞭なところがあって、このままではコスプレダンス。「主役の女は男になれなかった」という感じがしたかな。

 しかしながら、踊るということの魅惑、楽しさはこの舞台にあふれていて、それがとにもかくにも「表現」と呼べるものになっていることに乾杯。


▼遠田誠(まことクラブ) 『ニッポニア・ニッポン』

 阿部和重、ではありません。配付されたパンフによると、「外来文化の大規模導入により、絶滅の危機に瀕した我が国固有の慣習、因習、儀礼、道徳観念その他を、振付の名の下に保護・育成する試み」ということだけれども、実際の舞台で行われるのは、ワイシャツにネクタイというサラリーマンスタイルでの、外来文化と日本的因習のせめぎあいから生まれる滑稽な情況の描写、というか、コント的な展開。そこにあるのは批評性、などというものではなくって、一種自虐ネタというか、ま、バカにするならばもっと徹底してバカにするなり、立場は明確にするべきだと思った。

 とは言え、トレーナーで横並びで、奇妙なリズミカルなかけ声をかけながら横移動していくのは、ちょっと頭の中でしばらくぐるぐる回りそうになったけれど、単にリズム・マシーンであるだけの身体は、それは決してダンスではないのではないか? と。


▼常樂泰(身体表現サークル) 『広島回転人間』

 ではこの「身体表現サークル」はダンスなのか? というと、あえてこのような非=ダンスをダンスの舞台に持ち込むという意志によってまずはダンスであって、日本人の身体に対する批評性(???)という意味でもこれはダンス。というか、コンテンポラリー・ダンス。

 バタバタと踏み出され、ドタドタとターンする身体はどこを取ってもいわゆる「西洋的ダンス」ではありえない。そういう非=ダンスが、この舞台上ではアートっぽく機能してね、とか言う前に、とにかく舞台を観ながら笑ってしまうんだけれども。

 そのラストに抱え上げられた常樂さんが、他のメンバーのかかげた黒いパネルに頭突きするラストは、そりゃぁかつての具体美術協会のパフォーマンスに匹敵するよね。これからの展開がものすごく楽しみになってしまったではないか。


▲▲▲

 というわけで、大方の予想通り、ちょっと危ぶまれたところもあったとはいえども、今年度の「次代を担う振付家賞」には、白井剛さんが選出されました。えっと、去年のように審査員間で紛糾するようなこともなく、すんなりと決定したらしい。オーディエンス賞は、29日が康本雅子さん、30日は「まことクラブ」の遠田誠さんに決定。大御所さんはさっさと賞をとって、次のステップに進んでください。

 そんな審査員の選評がそれぞれちょっと聞きたかった気がするけれど、なんだかそんな選評も、まとめて「公式声明」のように発表されたのはちょっと残念だったかな。さ、また来年だ。


 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060802

■ 2006-08-01(Tue)

[] 『〜次代を担う振付家の発掘〜 TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2006 トヨタ コレオグラフィ− アワ−ド ネクステージ』1日目 @三軒茶屋 世田谷パブリックシアター(7月29日)   『〜次代を担う振付家の発掘〜 TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2006 トヨタ コレオグラフィ− アワ−ド ネクステージ』1日目 @三軒茶屋 世田谷パブリックシアター(7月29日)を含むブックマーク

▼白井剛 『質量,slide,&.』

 だから今ごろになって白井さんなどがこのような新人発掘的性格のコンペに出て来られてしまうのが困ってしまうと言うか、『シンセミア』を書いてしまった阿部和重氏が芥川賞の候補になってしまうような情況に似てるよね、というのは前にも書いたけれど、下馬評的には本命中の本命がしょっぱなに。はたしてディープインパクト並みの驚異の馬脚を披露するのか???

 演目はその評判になった『質量,slide,&.』からの抜粋、というか新ヴァージョン。美術として仕込まれた小道具大道具は同じだけれども、この舞台ではマイクロカメラでの映像は使われなかった。で、20分ぐらい過ぎたところで基本的な小道具をはけて、そのあとしばらくソロ・ダンスを繰り広げるあたりが、この過去の本公演との大きな違いかな。

 前半の、その、室内的な空間での秘密トレーニングじみた展開はやはり良くって、その過去の本公演の時よりもちょっと病的な度合いが大きくなったと言うか、腺病質な、そううつ病的なちょっとあぶなっかしさがひとつの魅力として。やはりこのあたりの展開は映画『アメリカン・サイコ』を思い出させる。

 しかし、この後半の、今回の舞台用のソロの部分、これに魅力がない。前半のそんな室内トレーニングみたいなのからまったく何も繋がらないし、ちょっと冗長すぎた気がする。ここがなければもうほぼ100%決まりだったのに。って、これでは他のダンサーに大賞が行ってしまう可能性もあり得る。


▼きたまり 『サカリバ』

 今回の出場者でただ一組の初見組。関西から。このところ、この大賞は2年続いて関西勢が受賞しているので、要注意、というか、どんなことやるんだろ〜、って興味しんしんになってしまう四人組。

 舞台中央に斜めに置かれたソファーベッドの角に四人で深く坐り、そこからゆっくりと動きながら、突然の『蒲田行進曲』でのわい雑なダンスへの展開は、これはけっこう好きだったんだけれども、そのあとにそれぞれが叫び声を上げたり、這い回るような動き、ベッドの上でからだをそらせて跳ねあがるなどの展開(このあたりの展開は、わたしなりに簡略化して言えば『なめくじのエクソシスト』ということになる)であってみれば、それはまごうことなきアングラ志向。ベッドの陰に隠した薔薇の花かなんかの、その花びらを口に含んで「ぶふぁ!」と吹き出すのを延々と繰り返すあたりで、正直飽きてしまった。選曲も意外性がなく、全体に趣味的な世界から超えるのもはなかったという印象。良く言えば(?)全体に下世話な「BATIK」という雰囲気で、そういう路線で「BATIK」フォロワーとして展開していくのも、それはそれでありだと思った。いや、『なめくじのエクソシスト』などと実際に貫徹できれば、それはそれで強烈なのだが。


▼小浜正寛 『親指商事・営業課』

 ‥‥なんでこんなにそつのない展開で進行していってしまったんだろう。ハイスピードで次々にこちらが咀嚼する間もなく展開していくコネタギャグの数々。最近見なれている小浜さんのパフォーマンスは、そんなギャグを演じるという小浜さんが段取りに追われて、むやみやたらとあせりまくりながら不完全燃焼していくさま、そんな奇妙な自虐的展開の中に面白さがあったんだけれども、これでは「ちょっとおもしろいよね」程度で終わってしまい、観る側にこれといった消化不良感、咀嚼の悪さなどといった異物感が残らない。消費しきれない異物感こそが小浜さんの面白さだと思っていただけに、はぐらかされた。

 しかし、何ゆえのビジネススタイルなのか。ビジネススタイルで踊るというのは何なんだろう。ローザス??? あ、これは、踊ってはいないのか。


▼康本雅子 『メクラんラク』

 最近わたしにとってもフィットするようになって来た康本さんのダンス。この『メクラんラク』も、以前観た時にはもっとダンスからはみ出てしまうような意匠をこらしていたと思うのだけれども、今回は真正面からダンス。ま、そういうふうに見ればまだ、衣装替えなどの必要もないとも思うのだけれども、やっぱこう、ソヨソヨと踊ってしまわれるその身体はまさしく「ダンサー」でしかなく。

 こうしてただひたすら踊りに没頭する康本さんは、時に「自動人形」の動きを思わせるところもあり、その引っ掛かりのなさ、スムーズさが、器用貧乏とでもいうのか、ダンス自体としての表現力をそいでしまっているようにも思えるのが、この「ダンス」の世界の面白いところなんだけれども、とりあえず、この日の舞台の、その、スピンを続ける彼女の姿は、何もなくてもダンスマシーンとして、コッペリアのように、わたしの眼を魅了する。

 この地点から、ここからこそもう一度ダンスからはみだして欲しいと思った。彼女のこれからの展開に期待しようと思った。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20060801
   3003217