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■ 2006-10-31(Tue)

[] 『吾妻橋ダンスクロッシング』 @アサヒアートスクエア(吾妻橋)  『吾妻橋ダンスクロッシング』 @アサヒアートスクエア(吾妻橋)を含むブックマーク

岩渕貞太
小浜正寛(ボクデス)
シベリア少女鉄道
砂連尾理(砂連尾理+寺田みさこ)
地点
鉄割アルバトロスケット
休もうと雅子
yummydance

 これで6回目とか7回目になるのでしょうか、すっかり年中行事として定着した感のあるイヴェントの、最新号です。またレヴューが遅過ぎで申し訳ありません。

 コンテンポラリー・ダンスなどと呼称される、あるようなないようなジャンルに対して、果敢に越境/逃走/ずらし/脱構築/読み替えを試みるイヴェントとして、以前からかなり注目しているイヴェントなのですけれども、前回あたりからいわゆる「演劇」への越境が目立つラインアップではありまして、ある意味では2年ほど前の「ユリイカ」の小劇場特集、もしくは雑誌「舞台芸術」に取り上げられるようなユニット総ざらえというニュアンスも感じられて、ちょっと鼻白らんだりもするのですが、とりあえず総花的にこのような舞台が実現してしまうことを敢えて否定する理由もないでしょう。

 わたしはこのイヴェントに、「コンテンポラリー・ダンスとは何か?」などという答えを出そうとするような、大上段に構えた姿勢はないと思っているのですけれども、いえ、だからこそ楽しみにして観に来たりもするのですけれども、いちおう、今回の顔ぶれなどを見ると、そのようなかたちで今、コンテンポラリー・ダンスと呼ばれるジャンルで何が問題になっているのかがちょっと見えて来るような気がして、そういう面で特に主宰者の桜井さんのおっしゃっている「コドモ身体」*1などという言い方には関心などほとんどないのですけれども、興味深くは観てしまうわけです。

 今回の出演者の中で、初めて観させていただいたのは岩渕貞太さんのみですけれども、ちょっとヒップホップ風味を加味した、ちょっとせつなくってしょっぱい青春ドラマ風の演出が、キッチリとオリジナルなダンス作品に昇華されていた、という印象で、完成度のあるJ−POPみたいな感じを受けて、こういう人たちが一般に人気が出るといいのにな、そんな感想を持ちました。イヴェントの一番手として、すてきな導入部でした。

 あとは出演順に囚われずに書きますけれど(単に出演順がわからなくなっただけですけれども)、松山からの「yummydance」は、わたしの観た日には実は照明のトラブルがあったりしてやりたいことが出来なかったのかも知れないのですけれども、いよいよもって舞台にしっかりと着地した、安定したダンスを見せてくれるようになって来ました。こういう言い方は語弊があるかも知れませんけれども、自分たちの身体に幻想を持っていない、また、観客に幻想を見せようとしない、そんな地平から、自分たちの創造した「ダンス」を見せてくれるのが、魅力になりました。来年の東京での公演が楽しみになりました。

 休もうと雅子さん(つまりは康本雅子さん)は、いわばこのイヴェントの常連という感じではありますけれども、最近は余分な観念を振りほどいて自由になれたような、手数足数の多いダンスを見せてくれるようになってわたしも好きなんですけれども、今回は疾走するようなダンス2作、そのスピード感はすてきです。

 もう一人の常連、小浜さんの屈折ぶりはあいかわらずで、ダンスという地平を選択しながらもダンスからずり落ちて行く、というか、舞台の上という空間からさえも常に逸脱して行く屈折ぶりを楽しむのですが、今回はちょっとした「話芸」というか、わたし自身が最近ちょっと「寄席」とかにはまっているもので、実はこういう「話芸」にも到達しないような「はなし」というのは、寄席とかの例えば夫婦漫才なんかでもっと強烈なの(もはや「芸」でも何でもない)があったりするもので、その範囲内で、これはこれでひとつの「話芸」として楽しんでしまいました。実は「寄席」という空間は想像以上にアナーキーで、この「ダンスクロッシング」も霞んでしまうような逸脱ぶりを見せてくれる場であったりするのです。

 純粋なダンサー、としては、砂連尾さんの、寺田さん抜きのソロ・ダンスというのに期待もしたのですけれども、その、一つの動作が連鎖を産んで発展して行って、大きな連なりとしてのダンス時間/ダンス空間を産み出したのはすてきだったのですけれども、正直に言うと、ちょっと気取ったダンスになってしまっていたと言うのでしょうか、この「ダンスクロッシング」というイヴェントの中では、ちょっと異質な浮いた作品に見えてしまったのは、残念だった気がします。砂連尾さんのソロ作品は、もうちょっと違ったシチュエイションでじっくりと観たかった気がします。ちょっとミスキャスト気味だったでしょうか。

 あとは演劇組の殴り込みですね。

 シベリア少女鉄道のは、日本ハムのパ・リーグ制覇を予測して書かれた作品という意味で、一種超能力めいた作品ではあるわけですけれども、わたしがある時期からこの劇団の公演から足が遠のいてしまった理由も、この舞台から垣間見えたといいましょうか、基本的にコント集団、というと語弊があるでしょうか、その、脚本のアクロバットこそに真骨頂があって、その演技、というか、舞台上にあがる役者の身体ということにはあまり留意していないのではないのだろうか、そういう印象があったのですけれども、この日の舞台でもそんな印象は変りませんでした。

 そういう意味では、この「吾妻橋ダンスクロッシング」は、いったい何をもってして参加出演者を選定しているのか、いったいそれらを何ゆえに「ダンス」という呼称のもとに総括しようとされるのか、そのあたりが問題になって来るのではないかと思うのです。いや、ここではその「脚本」こそがダンスしていた、という解釈なのでしょうか。

 とは言っても、楽しい(華のある)舞台でしたけれども。

 鉄割アルバトロスケットですね。久しぶりに見せていただきました。ある意味では彼らこそ「コント集団」ではないか、という見方があるでしょうけれども、その「コント」を成立させるための身体、というのをこの人たちがいかに意識して鍛練しているのか、そういうのはこの細切れの短い出演の中でも見えて来るわけです。声の使い分けとか、身体のよたり方、それこそはダンスからの漸進的な横滑りの結果、とも言えるわけでしょう。

 ドラえもんのマクドナルド来店コントなんて、ほ〜んとにおかしくって、これは古屋兎丸がかつて描いた、ゴルゴ13の31アイスクリーム来店マンガと双へき、というか、やはり残された道は「サザエさん、吉野屋へ行く」とか、「鉄腕アトム、メイド喫茶へ行く」みたいなのでしょうか。おっと、「鉄腕アトム、メイド喫茶へ行く」というのは面白そうですね。ウルトラマンでもいいかも知れませんが。

 あとは「地点」の安部聡子さんの「かっぱ」でした。時の首相の国会演説もまた舞台作品になり得るというある意味強烈な小品で、客電状態の観客席が、まるで国会の討議の場に変質してしまいます。ま、これは「至芸」とでもいった、無形文化財的な舞台で、観ることが出来てよかった、そういう作品でした。

 というような舞台だったわけですけれども、そう、別に何を「ダンス」と呼ぼうが、どうだっていいのです。しかし、そう呼ばれてしまったものは「ダンス」という地平に内包されてしまいます。わたしはそれはある意味では「コンテンポラリー・ダンス」という、ぬえのような存在のジャンルにはふさわしい事に思え、このような企画には賛同するわけです。

 ところが、この舞台を観たあとで、本屋である雑誌のバックナンバーを立ち読みして、それは某SV誌の先月号だったのですけれども、そこでこの「吾妻橋ダンスクロッシング」のことを、主宰者の桜井さんがお書きになられていたのですけれども、まずは「吾妻橋ダンスクロッシング」を「サブカル」とジャンル的に定義されて、なおかつその文末では「マルチチュード」宣言のような展開になられているのですけれども、ここで詳しく書くのはまた別の機会に譲りたいのですけれども、「サブカル」という現象、もしくは定義付けの中にこのイヴェントを押し込めるのであれば、わたしにはまず了解出来ない事ばかりだし*2。なによりも「サブカル」という狭義な(そう言ってしまっていいでしょう?)ジャンル分けと、その前提からしてジャンル分けから逸脱すべきであるところの、<帝国>との関係で語るべき「マルチチュード」が、これは両立し得るのでしょうか? つまり、メインストリームの「カルチャー」に対しての「サブカル」というか、もはやカルトな一ジャンルとしての「サブカル」、それと、<帝国>に内包されながらも、<帝国>を変革し得る可能性としての「マルチチュード」。わたしにはまだ「マルチチュード」については不明な部分もあるのですが、「サブカル」と並列させるような言質で、「マルチチュード」を風化させるのは、これは性急すぎると思いました。言葉の「消費」が早すぎます。そう思いました。いえ、でも、わたしはこの「吾妻橋ダンスクロッシング」というイヴェントには、「マルチチュード」の可能性、と呼ぶに足り得る契機は内包されていますよ、とは思うのですが。どうでしょう? 次回の展開を待ちましょうか。(10月14日観劇)


 

*1:今回の出演者で、そのような言説に当てはまるような方などは居なかっただろうし

*2:出演者は「サブカル」と主宰者が定義付けるようなイヴェントに、そのような性格のイヴェントと了解されて出演されているのでしょうか? 例えば「鉄割」はそのあたりにかなり意識的になられるでしょうし、「地点」が「サブカル」だったら非メインストリームは皆サブカル呼ばわりされてしまう。このあたりは、わたしがイヴェントをやった時にすべて「アングラ」呼ばわりされた事に類似していますけれども、気安く「アングラ」呼ばわりするんじゃねぇ!という反撥はありましたし。

桜井桜井 2006/11/02 05:17 どうも。大変丁寧な感想を書いていただき、ありがとうございます。
2点ほど述べさせていただきます。
まず、「某SV誌の先月号」の拙稿ですが、あれは、ちょうど明日(というか今日11/2)に青山円形で公演予定の、ベルリンのカンパニー「コンスタン・マクラス&ドーキー・パーク」のことを書いたものでして、つまり「吾妻橋」について書いているのでもなく、文中で「吾妻橋」をジャンル的に「サブカル」と定義してもいません。といって、僕がそう思っていないかといわれれば、それは話がまた別ですが、とにかく、件の文章では、
ドーキーパークの舞台は<とにかく、ヘナチョコなパフォーマーたちが「ボクたち駄目駄目でーす」ってことをダンス的なテクニックではなくて、剥き出しの身体、なけなしの身体であれこれする、という感じ>で、それは、最近の日本のダンス、ニブロールや身体表現サークルやボクデスなどに似たものがある。と、同時にジョン・ウォータースやV・ギャロ(バッファロー66)を思い出させもする、つまり「サブカル」の臭いがする。対して、いまだに多くの<欧米のダンスは「ハイ・アート」の孤高を死守したがっているかに見える。あくまでも鍛え抜かれたボディと高度な身体技を前提とするエリート(勝ち組)によるそれは、いわば「身体制御=アート」というべきものだが、他者および己の身体の支配こそ、近代的「主体」の存立と「管理」にかかわる重要事項であり、岡崎乾二郎的に言えばブッシュ=アメリカの対テロ戦の論理につながるとも言える。ならば、身体=主体の「ダメ」さを前提とするダンスは<帝国>に抗する「マルチチュード」ってことだ。>というふうに話を展開しています。

で、2点目ですが、上に書いたような理由で、そうした傾向を持った最近の日本のダンス(そこには吾妻橋に登場するダンスも含まれます)が、マルチチュード的(な可能性の一つ)である、ということに関しては、小坂さんも了承されることと思いますが、問題は「サブカル」という言葉ですね。この言葉は死語だという人も多いし、その実体はもうとっくに消滅しているという考えもあります。あるいは、サブカルというと、今日では、アニメやゲームのことだという理解もありましょう。僕の「サブカル」に対するイメージはかなり変なのかもしれませんが、要するに、システム=オーサライズされたものとしての「アート」あるいは「マスカルチャー」「エンタメ」に対峙するものをかなり広く指しています。ですから、「ジャンル」ではなく、表現のアティテュードとしてのそれです。
また、「マルチテュード」という概念にしても、それを可能な限り広く捉えたい、そうでなければ、横断的に異質なものたちが結びつくことを可能ならしめるような概念にはならないと思うのです。だから「サブカル」的表現志向(と僕が考えるもの)をマルチチュードに並列することは、マルチチュードの風化(ファッション化?)でなく、対<帝国>戦線に役に立つと考えています。
あと、「地点」がサブカルか、と言われれば、たしかに、それはさすがにちょっと苦しい(笑)かなとも思うけど、ともすれば「アート」として充足してしまう、というか「アート」として高く評価(消費)されることが、地点を限界づけてしまう、という危惧が僕にはあって、そういう、いわば脆弱さをもう一歩越えて先へ進んで欲しいと思い、出演を依頼したわけですね。つまり、無理矢理に、強いて言えば彼らが「サブカルの土俵でも勝つ」ことを期待して、ということですかね。

crosstalkcrosstalk 2006/11/03 10:45 桜井様おはようございます。さっそくコメントをいただきまして、ありがとうございます。また、直接このように、誰でもが閲覧可能な公開されたブログ上で、桜井さんに対する一種批判めいたことを一方的に書き込みましたことを、遅まきながらお詫び申し上げます。(ただしこのあたりはこのブログ自体が、公に催されたイヴェントへの、その企画運営を含めた部分での、観客としての印象を率直に書くことを目的にもしておりますので、ま、お詫びしておきながらも、これからもこのように継続するのですけれども。)

さて、とにかく、立ち読みですませてしまった雑誌のコラムを元にして、その桜井さんへの意見めいたことを書いてしまったのですが、ちょっと今その雑誌自体が手元にないので、「読み間違い?」というのがわからないのですが、記憶ではそのベルリンのカンパニーへのコラムの掲載された号の、その前の号で、短いコラム記事で、桜井さんの文章で「吾妻橋ダンスクロッシング」を紹介した文章があったように思ったのですけれども。このあたりは再度確認してみますけれども、「団結せよ!」とかってすごい言葉で終ってるの。

とりあえず、そちらには頼らずとも、例えば実の所「TVBros.」の特集とかも読ませていただいておりますし、原典が何かなどとも問わなくとも話を継続することは可能でしょう。で、やはり、桜井さんのコメントに則していえば、「表現のアティテュードを示すのに『サブカル』という呼称は有効か?」ということにもなると思うのですけれども、その「サブカル」の定義付けとしての、桜井さんの解釈(「システム=オーサライズされたものとしての「アート」あるいは「マスカルチャー」「エンタメ」に対峙するものをかなり広く指しています」)というのはやはり、少々誇大解釈になってしまっているのではないでしょうか。いえ、というよりも、ここで「アート」、「マスカルチャー」、「エンタメ」と書かれた三つの事象、これが「あるいは」と並列されて、「に対峙するもの」として「サブカル」が出て来るのが難しいのですね。

わたしもつい今回の「地点」の舞台を、ハイ・アートっぽく持ち上げて感想を書いてしまいましたけれども、アートというものが常に自身から逸脱すべき宿命を負っていることを含め、既成のアート自身に自ら対峙する姿勢は、大げさにいえば表現の使命であるとも考えています。もちろんそういう意味で毎回の「吾妻橋ダンスクロッシング」を楽しみにしていると言ってもいいでしょう。

しかしながら、そういう「アート」に対する「対峙」のありかたと、「マスカルチャー」もしくは「エンタメ」に対峙しようとするありかたは、これはそうとうに異なる立場なのではないかと思うのです(これはくわしく説明しなくても了解していただけると思いますが)。そして、この部分にこそ、ここで書いてしまいますけれども、桜井さんの中での一種あいまいさが表に出て来ていて、その問題が、わたしが問題にした「サブカル」と「マルチチュード」の並列、という問題になってきているのではないか、そのように桜井さんからのコメントを読ませていただいて考えた所存です。

古い例を持ち出して恐縮ですが、例えば一年前のBT(美術手帖)でのダンス特集、そこでの桜井さんの岡崎乾二郎さんとの対談、そしてそのあとに先日の「TVBros.」でのいとうせいこうさんとの対談、この間には一年以上の時の隔たりがあるとも言えますが、また、戦略として理解出来る面もあるのですけれども、ダブルスタンダードではないのか、率直に言ってしまいますが、「アート」に対峙すると言いながらも、(その対談の中で「アート」に対峙されているのだ、とも言えるでしょうけれども)既成の「アート」の枠組での発言、そして、「サブカル」という立脚点から逆に「マスカルチャー」、「エンタメ」にすり寄っているように読み取れる「TVBros.」での対談を並列してしまいますと、それは「対峙」ではなくて「ラブコール」のように読めてしまうのです。で、そのような「ラブコール」の延長に、例えば「マルチチュード」という言葉に反応するような層への戦略的呼び掛け、ちょっとそのような印象があるのですね。

あまりに率直に語ってしまいました(わたしの悪いクセなんですけれども)が、書きましたようにわたしは「吾妻橋ダンスクロッシング」の基本的な姿勢には、ほとんど諸手をあげて賛同しております。「吾妻橋」には、舞台芸術全体を包み込むネットワーク/<共>の可能性/ほう芽がありますし、ネグり=ハートの本なんて、哲学バカのように教条的に読む必要もないと思うのですけれども、「これって、オレたちで出来るよ」ぐらいの意識で「マルチチュード」みたいな意識をネットワーク化出来る可能性が、「吾妻橋」には垣間見えると思うんです。

例えば前にちょっと書きましたけれども、今「コンテンポラリー・ダンス」を牛耳っている(?)「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」なんか、もう4〜5回継続されて、かなりその<帝国>的な性格があらわになってきていて、それでも例えば今年の選考会なんかはその中に「吾妻橋」的、というとおかしいのですけれども、桜井さん的に言えば「ダメ身体」なダンサーがかなりの比率で選ばれていて、その舞台が何人かの審査員を激昂させられたりするわけで、そういう構造こそが、「マルチチュード」なるものが、<帝国>に内包されつつも、オルタナティブなネットワークで<帝国>を変革させる、そういう可能性を垣間見せてくれたりするわけです。

わたしはそういう意味で今の「コンテンポラリー・ダンス」というあり方に、「アート」がずり落ちる可能性とか、現代思想の実践のモデルケースとか、そんな大げさな視点も持ちながら、一観客としてウォッチングさせていただいております。ま、じぶんが今何も産み出す力がないのが悲しい限りですけれども、桜井さんの活動には期待しているがゆえに、このように書かせていただきました。お汲み取り下さいますように。

crosstalkcrosstalk 2006/11/05 19:07 桜井さんこんばんは。すみません、追記ですが、昨日その「吾妻橋」の打ち上げに同席していた友人に会ったのですけれども、えっと、こんな話はさんざんその打ち上げの席で繰り返していたらしいですね。恥をさらすようですけれども、当日はいささか悪酔いしていたようで、どうもその間の記憶がまったくもって吹っ飛んでしまっておりまして・・・(顔を赤くしています)
なんて粘着質な野郎だとお腹立ちのことかと思いますが、これはこれで、このようなコメントとして語り合うのも意義がないわけでもないでしょう(何とか体裁を取り繕おうとしているわたし)。
そういうわけで、何か語り継ぎことがありましたら是非。
どうぞよろしくおねがいいたします。

桜井桜井 2006/11/07 03:55 どうも。「ラブコール」というご批判ですが、
>「マルチチュード」なるものが、<帝国>に内包されつつも、オルタナティブなネットワークで<帝国>を変革させる、
そう。マルチチュードは<帝国>に内包されているいわば「癌」です。ということは、「アート」および「エンタメ」という<帝国>に対する「媚び」ではない、「アート」「エンタメ」内に存在するマルチチュードへの働きかけ、ということなんですが、いかがでしょう?

crosstalkcrosstalk 2006/11/09 01:19 桜井さんどうもです。
>「アート」「エンタメ」内に存在するマルチチュードへの働きかけ
という考えには、基本的に同意いたします。でもまたもやちょっと苦言を述べさせていただきますと、「アート」、「エンタメ」への、何というんでしょう、「戸別訪問」とでも呼ばせていただいて、そこで「アート」には「アート」向けの、「エンタメ」には「エンタメ」向けの発言になってしまうと、その、「マルチチュード」の含み持つ「<共>感覚」というものが、本来的な次元で共有出来なくなってしまうのではないだろうか、という疑念が残るのです。「アート」自体を革新し、「エンタメ」自体を革新するような方法論が欲しいのです。
その、批判するばかりではアレですので、わたしなりのヴィジョンをちょっと述べさせていただいておきます。
ネグリ=ハートは、その『マルチチュード』の中で、ドゥルーズ=ガタリからの影響をはっきりと語っていますが、実際、「マルチチュード」という考えには、たとえば「リゾーム」であるとか、「器官なき身体」などというなじみ深い概念の社会学的応用という側面を読み取りたくなってしまいます。フーコーの『「生」政治』などという概念も重要な側面を持っているらしいのですが、わたしはフーコーってほとんど読んでないので正直わかりません。桜井さんは「マルチチュード」を<帝国>に内包される「癌」と言われますが、わたしには、「マルチチュード」とは、<帝国>と同じネットワークをずらして盗用する(言い方を変えれば「逃走する」)、あくまでも<帝国>のオルタナティヴとして読み取りました。というか、多様性を持続したまま<共>という概念で共存する、ある意味で民主主義の真の実現として藤原正彦を激怒させるような可能性を、「マルチチュード」という可能性に読み取ったのですが。
「吾妻橋ダンスクロッシング」というか、桜井さんの活動と照らし合わせて書いてみましょうか。例えば今年の「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」(以降「トヨタ」と省略)で最終審査に残った8組の、たしかそのうちの3組か4組は、「吾妻橋」にも出演されていた方々だと思います。ま、日本で突然に「コンテンポラリー・ダンス」などというジャンルが急浮上して来て、これは言ってしまってもいいと思うけれども、例えば某「mixi」のコミュなんかでも、そういうコミュがあったりして、「コンポラ」(こう、「コンポラ」などと省略形で呼ぶヤツは、それだけでヤバい気がしますが)の振り付け方とか踊り方とか問い合わせて来るようなやからもいるわけで、そうじゃないだろうと。
ま、ここで「トヨタ」なんかが、その、「コンポラ」というのはこういうものよ、みたいな指針を示すのがあって、それを<帝国>の縮図と、まさしく言い得ると思うのです。で、そういう中に、その「トヨタ」の構図の中にまさしく「吾妻橋」的な(桜井さん風に言えば「コドモ身体」とか、「ダメ身体」と言うことになるのでしょうけれども)モノが侵入して、ま、その、「コンポラ」風景をずらせて行く、そういうのにわたしはとても興味があるのです。だからもうめんどいから「コンポラ」って言っちゃいますけれども、そんな、「コンポラ」全体に対して、「マルチチュード」的にと言うか、オルタナティヴに関わり続けておられるのが桜井さんなんかがディレクションされているムーヴメント、だと了解する部分があるのです。いや、桜井さんの率いるムーヴメントがなければ日本の現在のコンテンポラリーダンスがここまでユニークなものであり得ることは出来ないでしょう。そんなのはただの「コンポラ」ですよ。
ただ、「トヨタ」vs.「吾妻橋」(「エイリアン」vs.「プレデター」を想起しています。新しいところでは「プレスリーvs.ミイラ男」)というのであれば、「吾妻橋」=「癌」ということはないのであって、「マルチチュード」的に言えば、「吾妻橋」(=マルチチュード)は「トヨタ」(=<帝国>)よりも先の地平を見据えることができる、より優れた身体を持っているのです。そういう風に期待しているのですよ。ま、自分に往年の活力(財力)があれば自分でやるんだけれども(わたしへの募金は随時受け付けておりますので宜しくお願いいたします)。
いや、正直言って、「マルチチュード」=「<帝国>に対する癌」などと書いてしまう桜井さんには、やはりそういうあやふやな言説で「マルチチュード」を風化させないでいただきたくって(わたしの読み方ではそう言う風にはならないという思いがあります)、もう一度わたしも『マルチチュード』を読み直しますので、桜井さんももう一度『マルチチュード』を読んでいただきたく存じます。
最近は美術にもあまり興味が持てなくなっています(もちろんこれは最近わたしが作家活動をしていないからいけないのですけれども)。音楽にも、ごく一部のアーティストを除いて、昔聴いたものをまた聴いてみるぐらいのことしかしていません。ただ、「映画」、「舞台」、「文学」、こういうのには刺激を今でも受けています。そのなかでも「コンテンポラリー・ダンス」の中にこそ、わたしは一番の可能性を感じ取っております。
ではまた、どうせ近々お会いすることもあるでしょうから、お互いに武器持参の上正々堂々と殺し合いいたしましょう。長文失礼いたしました。

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■ 2006-10-28(Sat)

[] 第7回フィジカルシターフェスティバル ARICA 『PAYDAY』 藤田康城:演出 安藤朋子:出演 倉石信乃:テキスト 猿山修:音楽 安東陽子:衣装 @江古田・ストアハウス  第7回フィジカルシターフェスティバル ARICA 『PAYDAY』 藤田康城:演出 安藤朋子:出演 倉石信乃:テキスト 猿山修:音楽 安東陽子:衣装 @江古田・ストアハウスを含むブックマーク

 遅いレヴューですみません。もう観てからずいぶん日にちが過ぎてしまいましたが。

 この12月にはもう次の新作『KIOSK』の公演が控えている「ARICA」だけれども、この『PAYDAY』でもその舞台はKIOSKで、おそらくはそんな次回公演へと連なる作品なのでしょう。

 いつものARICAのように、堅く言えば現在のシスティマティックな資本主義体制の下でずれていく「労働」の姿、その提示、という印象の強かった舞台でした。「ずれていく」というのは、例えば商品の生産、流通、販売というような労働のあり方の中で、その生産過程、流通過程、販売過程などの労働、労働そのものが過程を抜きにして目的化されるさま、とでも言うのでしょうか。その生産、流通、販売という各要素が、それ自体としてシステム化した結果、これを「マニエリスム」と呼ぶのは語用が適切ではないでしょうけれども、その本来の目的よりもディテールが重視されて、特化して発達しまったような、そんな労働の姿が毎回提示されるのがARICAの舞台なのではないでしょうか。

 で、今回の『PAYDAY』はその販売部門、キオスクが舞台。設定としてはロープ・ダンサーがキオスクの売り子になる、もしくはキオスクの売り子がいつしか綱渡りを始める、そんな状況ということです。

 開演前に客席の前に立ちはだかっていた白い壁が、中央を残してその左右が奥に折れて引き込まれて行き、中央の上半分が「バタン!」と客席側に倒れ出るとそこはつまりはキオスクの店鋪で、その中央には安藤朋子さんが坐っていて、ふてぶてしく観客席に(ガン)をとばしながら、ガムをくちゃくちゃ噛んでいるわけです。この導入はかなりびっくりして、いやもう最近は自分的には「こわい」舞台作品ばかり観ているような印象があるのですけれども、これも相当にこわかったのです。

 で、舞台奥に積まれた段ボール箱の山を奇妙な遠隔操作で移動させ、投げ縄で引き寄せたりしながら、そのキオスクのカウンター(?)の左右に大きな水タンクを吊り下げ、その下に付いた蛇口をひねって、段ボール箱から取り出したペットボトルの空きボトルに水を入れてゆきます。ここはボトリング工場でもあるのでしょうか。で、売り子さんが他の作業(スタンドに新聞を丸くして立てて行くとか)をしていても、そのボトルに水が満タンになると笛が鳴って、売り子さんは仕事を中断してペットボトルにふたをして、次のボトルのセットしなければなりません。その過程で、左右にせわしなく売り子さんの動きは、車付きの椅子を移動させるロープを手繰るうちにいつしか綱渡りじみて来て・・・。

 そんな、状況提示のような舞台にテキスト(「売っているのは品物だけでなく、彼女の影である」など)がからみますけれども、観た感じはそうですね。一種、「労働」というインスタレーションという感じでしょうか。ちょっと、何年か前に西新宿の空き地に建てられたテントで観た「庭劇団ペニノ」の作品を思い出しました。あの作品もわたしは労働という条件に置かれた身体のインスタレーションと観たのでしたけれども。

 その、なんて言うんでしょうか、労働の中で「合理性」「スピード」を追求した結果(?)としての、非現実的で奇妙にメカニックでシスティマティックなゆがめられた労働の姿、それ自体がこの舞台のテーマとして、生産、流通、販売などといった資本主義システムを逆照射しているのでしょう。それはちょっとゾクゾクするようなアクロバティックな舞台空間に仕上がっていて、やはりARICAの舞台は面白いのです。

 で、キオスクについて思い出したことがあるので、舞台から離れてちょっと書きます。

 何年か前にどこかの美術館(木場の「現代美術館」だったかな)でアジアの現代美術を紹介する展覧会が開かれた時、たしかその時に、そんなアジアのどこかの国(わたしは肝心のその国名とかを忘れてしまっていますけれども)のキオスクが、その販売商品とともにそっくり再現されていて、それが2カ国だったでしょうか、並んで建てられていて、その色彩豊かな店鋪デザインとか見慣れない商品のパッケージの奇異さがとても印象に残ったものでした。それはとくに特定の作家の作品というのではなく、そんなアジアの国の文化状況を提示するためにでしょうか、とにかくそれを見た時に、その店鋪を展示したキュレーターの着眼点に賛意を持ったものでした。

 キオスクは、おそらくは最小サイズの「店鋪」として、一種独特の文化的位置付けがされるように思えるのですけれども、やはりまずは、その限られた敷地の中でどのように多様性を持たせるかという使命、というのでしょうか、ミニサイズに圧縮されたコンビニエンスストアこそが、その目標になるのではないかと思います。そしてその中で、いったい客は何を求めるのか、最小商品在庫でもって、その立地条件でどのようにして最大の売り上げをあげることができるのか、大げさに言うと、これはその店鋪の置かれている場所に対する流通の問題としての文化批評になるわけでしょう。それは大きくは国によって異なる形態を取るでしょうし、地方と都市、商業地域、工業地域とかの差異によっても異なってくるでしょうし。

 で、わたしは何が言いたいんでしょう。えっと、つまりはこのARICAの公演『PAYDAY』で、やはりそのキオスクで取り扱われているのが水のペットボトルと新聞だけ、というのは、ちょっとキオスクになり得ない、どうしてもそんな気持ちをぬぐい去ることが出来なかったということが言いたいんでしょうね。

 で、12月、横浜BankARTでの、それこそ『KIOSK』と題されたARICAの次回作では、先日の「吾妻橋ダンス・クロッシング」で場をさらってしまった「鉄割アルバトロスケット」のメンバーなどの客演を加えて、どうやらそのキオスクにお客さんがやってくるらしいです。これは期待しないわけにはいきませんが、願わくばそのキオスク店鋪がより発展・発達されますことをも期待いたしましょう。(10月8日観劇)



 

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■ 2006-10-21(Sat)

[] 『乱れる』 成瀬巳喜男:監督 松山善三:脚本  『乱れる』 成瀬巳喜男:監督 松山善三:脚本を含むブックマーク

 ついにわたしだって、人並みにDVDライフを開始してしまった。で、カテゴリーに新しく[DVD]とかって作ろうかとも思ったけれども、ま、要するにヴィデオですからね。これからは[Video]のカテゴリーの中で、家で見たDVDのレヴューを書きます。

 さてさて、そんなDVDライフの、しょっぱなに観たのはこんな作品。ちょっと渋いな。って、ヴィデオ時代に観たくっても観られなかったのが成瀬監督の作品群で、去年の監督の生誕百年上映会もまったく行けなかったし、今になっていちばん観たかったのは成瀬巳喜男監督の作品だったりして、で、この『乱れる』をレンタルした。

 しかしおかしいんだけれども、ヴィデオ時代に観ることの出来なかったこの成瀬監督とか吉田喜重監督の作品とか、今ではレンタルDVDでいくらでも観ることができる。ところが逆に、ヴィデオ時代はいくらでも観ることの出来た監督の作品とか、今ではDVD化されてなかったりして観ることが出来なかったり。

 ということはさておいて、虚心に『乱れる』を観ようではないか。で、つまりはわたしは遥か昔に『浮雲』を観ただけ、しかももうほとんど忘れてしまっているという、およそ成瀬巳喜男監督の作品を語るにはふさわしくない人なんだけれども。

 町にスーパーマーケットがやってくる。その宣伝カーのBGMが舟木一夫の「高校三年生」だというのは、なんて素敵な選択だったことだろう。その冒頭で、驚いたことに、カメラがそんな宣伝カーの荷台に乗ってしまっている。ここでわたしはジャ・ジャンクーの作品、例えば『プラットフォーム』とか、『青の稲妻』を思い浮かべてしまう。いや、この作品は、そんな、そちら側からの視点の映画ではないのだけれども、とにかく一度は観客はスーパーの宣伝カーの荷台に乗る。これは日本の文化大革命だったのか。映画は、その革命の、旧世界のひとつの「崩壊」の物語を語るみたいに。戦後18年。そこで、「どうしたらいいかわからない」としか言えなかった人の悲劇、なんだろう。

 この作品の終盤で、高峯秀子が「次の駅で降りましょう」と、義弟の加山雄三を誘って銀山温泉という所で降りる。ここでわたしは、吉田喜重監督の『秋津温泉』を思い浮かべる。そう、この二つの作品を比較して考えるのは面白い。これはやはり「戦後」ということの問題なんだろう。

 この『乱れる』に顕わされるのは、ヒロインの高峯秀子の屈折、そして彼女を密かに慕う義弟の加山雄三の屈折、この二つの「すなおでない〜すなおになれない」思いが、悲劇を産む。高峯秀子の場合、これは「戦後」を精算しきれていないと言うべきなのか、じつのところ自立しきれていないと言うべきなのか、『秋津温泉』のヒロイン、岡田茉莉子の演じる「新子」が、その戦後からの過去をその場その場で精算しながら死に向かうのと対照的に、この『乱れる』での高峯秀子(役名忘れた)は、その18年間、何も捨てることが出来ないで過ごして来たというのが、実際のところではないだろうか。いやしかし、そのことで彼女を責めることは出来ない。少なくとも彼女は銀山温泉での途中下車を決意した時に、しきいを超えようとしている。

 加山雄三は、予想外の好演だった。もちろんそれは、この作品のみごとな演出に助けられてはいるのだけれども、偽悪的と言うのだろうか、正直になれない男の、正直に気持ちを伝えられない見栄の裏の悲しさがあらわれて。あわれで。だって、あとひと押しなのに。なんでそれができないんだよ!

 加山雄三からの最後の電話で、「どうしたらいいかわからなかったんですもの」という言葉を二度繰り返す高峯秀子の哀しさは、本来は男が救ってあげるべき問題だ。18年間ひらかれなかった彼女の股には、加山雄三こそがひらけ押し入るべきだったのに。

 この作品のみごとなのは、その決定的な主人公二人の心の内面、そこにずけずけと入らないままに、「いったいこの人は何を考えていたのだろう」というすき間にあふれていることで、これは脚本の松山善三氏の手柄だろうね。そう、例えば、加山雄三のガールフレンド役で、ちょこっとだけ浜美枝が出演しているのだけれども(なんという東宝的なキャスティング!)、彼女の登場自体が、加山雄三の仕組んだ「お芝居」である可能性が高く見えてしまう。いや、おそらくはそうだろう。そして、電話。決定的な役割を果たすと言ってもいい二度の電話のその二回目。そして、破滅して行く二人に、「あぁ、なんてバカなんだろう!」と、心の奥底でそんな言葉を投げ付けたくなってしまう。だってわたしたち観客は、冒頭のスーパーの宣伝カーに乗っていたんだから。

 そのラストの、そのあまりに魅力的な高峯秀子のおでこにかかる乱れ髪、なんて哀しいんだろう。


 

 

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■ 2006-10-10(Tue)

[] 『LOFT』 黒沢清:脚本・監督  『LOFT』 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 この際誤解を恐れずに正直に言って、近年映画を見て、こんなに楽しい思いをしたこともないのね。もうこれは男と女のすれ違いのコメディーと言ってしまってもいいのではないかと思うし、実際、様々な注目すべき映画的技法を背景にして紡ぎだされるこの物語は、まったくもってストレートに、その物語それ自体をのみ描いているようで、結局は背景をそぎ落とされたストーリーそのものだけが、ダイレクトに観客に語りかけてくるように思えてしまった。

 近年連続して「ホラー」というジャンルを基底として、そんなジャンル意識から軽くはみ出てしまうような作品をつくり続けている黒沢監督の、この新作に登場するのは千年前のミイラであって、そんなミイラにミイラれてしまった(つまらないダジャレだ!)男と、なぜかミイラに感応してしまった女の、これはお互いに理解し合えない、すれ違いのラヴ・ストーリー、とでも言うのか。

 ただ、ちょっとややっこしいのは、「ミイラ」と、殺された女(安達佑実)と、ヒロインの小説家(中谷美紀)という三人の女性たち(?)の立ち位置の違いがあって(ちょっと、「ミイラ」と安達佑実とはつながりが薄い、という気はする、ってえか、ないんだけれども、それはそれでいいのだ)、それと並行して出てくる男たち、大学教授の豊川悦司、出版者の編集の西島秀俊にしてもこれはある意味共通項などないんだけれども(いや、お二人ともおマヌケだ、「思い込み」だけよ、という共通項はあるだろうけれども)、これら登場人物がすべて取り込まれてしまうような、一種「愛」の寓話のような物語と、それぞれの登場人物がかかえる物語とはそっくり重なってしまうようなものではないだろう、ってぇことで、だからヒロインの中谷美紀だけを追っていても、途中で彼女は物語の背後にまわり込んでしまっていたりするもんだから。

 前半の、ヒロインが茨城の片田舎の洋館に移り住み、そこで豊川悦司と出会うまでのミステリアスでサスペンスに溢れた話法と、終盤、ある一点(つまりは穴掘りのシーン)を境とした「思い込み」を巡る寓話的な話法とのギャップもあるのだけれども、終盤の展開になだれ込むような布石は、あれこれとちりばめられてはいるだろう。例えば、大杉漣の一人語りの滑稽さ、みたいな。

 「ミイラ」〜安達佑実〜中谷美紀という系譜(?)のなかで道を見失うのが豊川悦司であって、そういう意味では、この映画の(トータルに連なった)視点は、豊川悦司にとってしか意味を持たない。ヒロインの中谷美紀は「ミイラ」〜安達佑実という連鎖の中に身を置くけれども、西島秀俊という別の「思い込み男」がいたおかげ(?)で、そんな呪縛からは先に解放されている。このあたりはいささか強引ではあるけれども、中谷美紀にとって、〜「泥」を吐く〜「ミイラ」に出会う〜安達佑実の残した原稿を盗作する〜という展開の中で、豊川悦司と結ばれなくてはならない、と思い込む背景はしっかりと焼きつけられるし、それとは別に作家としての自己解放のような過程も経ているわけでしょう。でも、その終盤では、まぁ、ただ「待つ女」。

 ま、そういうダブル・バインドみたいなのが随所にあふれているあたりが、この作品が一筋縄ではいかないというような訳になっているとも思うけれども、構造を単純化してみれば、見たまんまに、ものすごいストレートな語り口だと思う。だから、それにはその視点を豊川悦司においてみて。

 「ミイラ」に呪縛されたという思い込みから始まり、安達佑実を殺したという思い込み(これは実際に手を下しているのだろうけれども、すべて彼の妄想なのかも知れない)、中谷美紀によって呪縛から解放されるだろうという思い込み、これらはすべて「あれは思い込みに過ぎなかった」と、これまた「思い込み」によって克服したいと思っているのが豊川悦司という存在で。でも、中谷美紀においては、新しい愛の生活が始まるためには「思い込み」は白黒をはっきりさせるかたちで、事実を明確にしなければ先に進めない。

 う〜ん、わたしも男だからね(ここでは男女差は問題にはならないんだろうけれども)、つまりは事実を明確にしなくっても「思い込み」で先に進んで行きたいタイプだな。ま、西島秀俊みたいに「きみはそんな女だったのか!」みたいな、勝手なストーカー的な「思い込み」はヤバいだろうけれども。

 ついつい、その物語られるストーリー展開のことばかり書いてしまったけれども、ここは黒沢清監督、やはり映画的魅力に溢れたフレーム造りであって、その面での満足感も大きいよね。特に、カメラ自体が、その背後に何らかの心理状態を秘めているように思わせる演出は、それは素晴らしい映画的な成果だと思う。

 撮影も美術もスタッフが女性だという話で、そういうアンチームな、と言うんだろうか、密やかな美しさを秘めた映像で、とにかく中谷美紀が魅惑的で、例えばその洋館の周囲を歩く姿、印象的な薔薇の花をプリントしたワンピースとともに、例えばその向かいの大学の研究所へと歩いて行く後姿には、なぜか、そのポーズもまるで違うのに、アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」などを思い浮かべてしまうような。その研究室の半透明の窓ガラス越しに室内を覗き込もうとする彼女の姿の、そのおぼろげな美しさ。たとえ四つん這いになって泥を吐こうとも、その美しさに変わりはない。というか、何と魅惑的な、美しい四つん這いの姿なことよ。

 そして、幽霊役を思いっきり楽しんでいるような安達佑実も素晴らしかった。豊川悦司に眼を光らせるように迫って行く、気迫あふれるようなシーンとか、ふわっと浮遊しているような立ち姿とか、泥まみれの姿とか、どれも印象に残るものだった。いや、豊川悦司のミイラ相手の滑稽な一人芝居、ラストのあんまりといえばあんまりな絶叫、笑かしていただきました。笑うというのでは西島秀俊も同罪。ああいう「無理心中」のかたちもアリ、だな。いや、ねえよ。

 ってぇことで、次回作『叫』の公開もそんなに先の事でもないようで、今から楽しみなんだけれども、いやいや、この『LOFT』も、めちゃ楽しかったです。


 

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■ 2006-10-05(Thu)

[] 『紙屋悦子の青春』 黒木和雄:監督 松田正隆:原作  『紙屋悦子の青春』 黒木和雄:監督 松田正隆:原作を含むブックマーク

 この映画を観るよりも先に、黒沢清監督の『LOFT』を観てるんだけれども、『LOFT』についてはちょっともう一度観て確認したいことがあるので、こっちを先に。

●この春に他界された黒木和雄監督の遺作。結局、黒木監督は、その最晩年に『父と暮せば』という大輪の花を咲かせられ、この『紙屋悦子の青春』でそのサイクルを閉じられたわけだけれども、実はわたしはその『父と暮せば』はまだ観ていないから、「大輪の花」なのかどうかは知らないんだけれど。

●パンフレットに掲載された黒木監督の作品リストを見ると、わたしはどうやら彼の作品のうちの3本は劇場で観ているようだ。最初に観たのは高校生の頃だろうか、『日本の悪霊』ということになるけれども、これは、ラストに佐藤慶が二人になって並んで歩いているところしか憶えていない。こういう背伸びした映画観覧はいろいろやったからな。あと、『とべない沈黙』と『泪橋』は、10年ほど前の黒木監督のレトロスペクティヴ上映会で観たのかな。で、いちばん記憶に残っているのは『泪橋』というわけで、このあとにわたしは、この作品でヒロインを演じられた佳村萠さんに実際に出会いまして、えっと、サインなどをいただいたりとミーハーぶりを発揮するわけでして、今でも佳村さんには某所で時々お目にかかります。

●さて、話を戻して、『紙屋悦子の青春』。原作は、どうも近年あれこれとその作品を観てしまう機会の多い、松田正隆さんの1992年の戯曲。これは松田さんとしても初期の作品だろうということで、近年の作品が内包しているような観念性というか、テーマ性というか、そういうめんどい空気は希薄であって、ちょっとホッとするわたし。

●で、この黒木監督の演出というのが、これまた演劇的というか、導入部以降時々挟み込まれる現在形の病院の屋上のシーン以外、印象的な例外を除いてのすべてが、セットでの一軒の家の中、もしくはそのすぐ外の範囲で収められていて、これはいかにも舞台作品の映画化という空気で、それは黒木監督の肉体的な衰えとも関係しているかも知れない、とは思った。

●舞台は昭和二十年三月から四月にかけて。そう、日本にとって昭和二十年といえば、それは大きな、大きすぎる転換点であって、そこに「昭和二十年」というト書きがあれば、あえてもう説明は不要な、そんな歴史上の強烈なターニングポイント。場所は鹿児島県の町外れの一軒屋で、それはヒロインである紙屋悦子が寄寓する兄夫婦の家であって、この紙屋家の両親は三月の東京大空襲で亡くなっている。

●この物語の中心は、つまりはその紙屋悦子(原田知世)への縁談話なのであるけれども、一種圧倒的な会話劇として、メインはほとんどその兄夫婦ののほほんとした会話、つまらない夫婦喧嘩のような空気のあいまに進行する縁談話といった雰囲気で、そこにやはりすっとぼけた婚約者、永瀬正敏が闖入して、つまりはこれはホームドラマ。

●兄夫婦を演じる小林薫本上まなみ、このふたりがとにかく秀逸で、特に本上まなみがさりげなくも夫を尻に敷いて行くさまはそれはそれでスリリング(?)だし、そんな会話の終わりにふっともらす厭戦気分とでもいうのか、「日本が負けてもイイから、早くこの戦争が終ってほしい」というせりふ。それはこのほんわかとしたホームドラマしている世界の中で、突然に「昭和二十年」という時制をあらわにする。戦争さえなければ、この劇の空間は今の世界でどこででも繰り広げられているような、さり気ない世界なんだ。その「さり気なさ」の演出。この作品の楽しさはここに。

●ほとんど五人しか登場しないこのドラマの中で、ひとり抜身の刀のような松岡俊介のピリピリした空気に潜む「死」のにおい。

●「あの山のむこうにはなにがあるんだろうかね」というセリフが病院の屋上で交わされる。昭和二十年、あの山のむこうでは戦争が繰り広げられている。

●もちろん、この作品の主題は、そのような「昭和二十年」の青春、とでもいったドラマ性ではあるのだろうけれども、いや、わたしには、この作品/映画の面白さは、そんな、舞台となるこの町外れの一軒家に、どのようにして「外界」が侵入するか、そのような作品/映画なのではないか、と思ってしまった。

●紙屋悦子には、その縁談話の見合いの席のあった夜に、聴こえるはずのない海の波の音が聴こえる。そして、この場面でだけ、見えるはずのない夜の海の、印象的な、暗い映像がインサートされる。この映画が映画であるのは、この一点においてでしかない。こう書くと否定的に書いているように思われるかも知れないけれども、ここまでも、この作品が「映画」であることを認知させる、それは意識的に素晴らしいこと。つまり「映画」たらんとする意志の凝結。わずか1〜2秒の映像が113分(この映画の上映時間)を支えるのだ。これがなければこの作品は松田正隆の戯曲の従属物に過ぎないのだから。

●だからわたしが思うのは、その、「海」の映像、それはこの映画の主題というか、「昭和二十年」、「戦争」、そんなものとは無関係に、ただ夜の「海」なのであって、だからこそ、この作品は「映画」として記憶に留めることができる。それが「映画」の魅力、なのだろう。


 

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