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■ 2006-11-26(Sun)

crosstalk2006-11-26

[] 『ブラック・ダリア』ブライアン・デ・パルマ:監督 ジェイムズ・エルロイ:原作   『ブラック・ダリア』ブライアン・デ・パルマ:監督 ジェイムズ・エルロイ:原作を含むブックマーク

 ジェイムズ・エルロイの原作は、ずいぶんと以前に読んでいます。というか、彼の<暗黒のLA四部作>ですね。その最初の作品がこの『ブラック・ダリア』で、これはわたしにはジェイムズ・エルロイの若書き、といいましょうか、物語としての破たんを内包しながらも、物語ることへの情熱がこの作品を支えていたように思って、そう記憶していました。作品としては次の『LAコンフィデンシャル』がいちばん完成度が高くって、そのあとの彼の作品はそれこそ自己崩壊して行くような、先へ進む意志だけが先行するような、パッションのみが異様に溢れた作風になって行くようで、それはとても読みづらい小説だった記憶があります。

 ブラック・ダリアの事件のことは、あのケネス・アンガーの奇書『ハリウッド・バビロン』で、ビジュアル(その死体写真)的にも早くから知っていました。ついその本を人に見せてしまって、変態視されたこともあります。ケネス・アンガーも映像作家なのですけれども、彼の映像作品にはこの「ブラック・ダリア事件」の影響を感じさせるものはなかった、と記憶しています。もちろんその映像の背後にある悪魔崇拝的な空気は「ブラック・ダリア事件」にも連鎖するものではあるのでしょうけれども。

 映像作家でこの「ブラック・ダリア事件」に執着している人といえば、ほかならぬデイヴィッド・リンチをおいて語ることは出来ません。『ブルー・ベルベット』の空き地に落ちている「耳」は、それこそブラック・ダリアの遺体の「置き換え」ですし、『ブルー・ベルベット』という作品自体が、エルロイの『ブラック・ダリア』と対をなす、事件の真相を「創作」した物語ではあるでしょうし、リンチのその後の作品『ロスト・ハイウェイ』にせよ、『マルホランド・ドライブ』にせよ、これもまた「ブラック・ダリア事件」を別の側面から描いた作品だと言ってしまってもいいでしょう。いや、特に『マルホランド・ドライブ』などは、この「ブラック・ダリア事件」との関連からの視点が、この複雑な構造の作品の謎を解き明かしてくれるように思えます。

 リンチ監督のことを抜きにしても、この「ブラック・ダリア事件」というのは、当時のハリウッド、映画業界とある意味で密接に関係した事件ではあるわけですから、それはそれで映像作家を刺激する要素の盛り込まれた素材ではあるでしょう。そう、ハリウッドは、ケネス・アンガーの本を持ち出すまでもなくスキャンダラスな事件に溢れた歴史を持っているわけですけれども(例えば、Steely Danが、彼らの曲の中で「Hollywood, I know your middle name」と唄う時には、そういうことに言及しているのでしょう、と。)、1920年代の別の未解決事件〜スキャンダル、「オネイダ号事件」などは、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が、『ブロンドと柩の謎』でサラリとまとめておられますし、おそらくもっとも有名な事件であるでしょうWilliam Desmond Taylor事件もたしか、この映画と同じくスカーレット・ヨハンソンの出演で映画化が進められていたと記憶するのですけれども。

 それで、デ・パルマ監督がこの『ブラック・ダリア』を映画化すると聞いた時には、それはそれでピッタリだろうけれども、何か違うだろう、そういう気持ちを持ちました。

 デ・パルマ監督も、一貫してオブセッションの作家です(実際に彼には「オブセッション」という原題の作品まであります=『愛のメモリー』)。そして、フィルム・ノワールへの執着もある作家として、この『ブラック・ダリア』という作品の映像化にはふさわしい監督とも思えたのも確かです。ファム・ファタールとしての死せるブラック・ダリア、そういうのを描ける人ではあるでしょうとは思ったのですけれども、どうも近年の技巧に走った彼の作品を見ると、このマニエリスムの巨匠になってしまったようなデ・パルマ監督の作品から、映画技術的な面白さ以外のものを求めてしまうのはやめましょう、そういう気持ちになってしまったりするのです。つまり、最近のデ・パルマ監督の作品からは、その背後に潜むオブセッション、それは彼の中にたしかにあるのですけれども、それを読み取るのがつらくなって来ている、そういう印象があるのです。

 つまり、そういう気持ちを抱きながらスクリーンを眺めてしまったのですけれども、う〜ん、やはりキツかったでしょうか。その、1940年代末期の風俗描写とか美術とかは堪能できるわけですけれども、なんだか『アンタッチャブル』の再映画化、みたいな空気も漂います。それで、例えば前半に出て来る、カメラが路上から舞い上がってビルの上まであがり、その向こうの野原を俯瞰してまた路上に戻って来てドラマに引き継ぐなどという、ギミックな、アクロバティックなカメラも楽しめるのですけれども。

 でも、しかし、そういったスタイリッシュな映像の奥から、登場人物の抱えるそれぞれの「業」、つまりはオブセッション、と言ってもいいと思うのですけれども、そういうものが立ち上がって来ないもどかしさがあります。あぁ、それこそが、最近のデ・パルマ監督の作品から消え失せてしまったように思える部分なのでしょうか。

 ひとつには、ストーリーを変えて、メキシコのエピソードをばっさり他のシチュエイションに置き換えてしまったこと。バッキーが仕事を捨ててまでリーの軌跡をたどり、メキシコにまで到るその行程に、メキシコまでの「距離」、メキシコの「風土」こそ、そこにバッキーの狂気とリーの狂気が重なりあって、狂おしい腐臭を放つ。それが原作の一つの魅力だったのではないでしょうか。

 そして、これはファンとしてちょっと残念だったのですけれども、ケイ・レイクを演じるスカーレット・ヨハンソン、まだまだこのような「銀行強盗犯の情婦」のような役どころを演じるには早すぎたでしょうか。底の底まで墜ちて、そこから這い上がって来たような「なま」な部分があらわれ得ないもどかしさを感じました。ここでも、そうですね、女性の中の「腐臭」が、匂って来ないというのでしょうか。

 そういう風に眺めれば、原作の中の警察官親子のグロテスクな腐敗、原作で何度か出て来る尋問での残酷なまでの描写などがすっかり削除され、実にスタイリッシュな、毒のない作品に改変されたしまった、そのように評価してしまうことも出来るでしょう(実際にこの作品は「R−15」ぐらいの制限ではなかったでしょうか)。

 繰り返していえば、本来この原作は、デイヴィッド・リンチ監督の作品のような薄気味悪さ、人の内面の暗黒を覗き込むようなおぞましさに溢れた映像を喚起する要素に溢れていると思うのですけれども、デ・パルマ監督は、「俺はリンチではない!」と言いたかったのでしょうか、あくまでもスタイリッシュな映像造りで終ってしまったような気がするのです。ある程度予想通りだったとはいえ、残念なことでした。

 悪趣味な事を書けば、この原作はロマン・ポランスキー監督によって映像化されたのを観たかったとも思います。いやそれはひどい言い種ですね。

 そうそう、レズ・バーのライヴの場面で、思いがけなくもk.d.ラングのお姿と歌声を楽しむ事が出来ました。ありがとうです。


 

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■ 2006-11-22(Wed)

[] 『10ミニッツ・オールダー イデアの森』   『10ミニッツ・オールダー イデアの森』を含むブックマーク

 えっと、この『10ミニッツ・オールダー』はたしか2種類あるんですけれども、その小難しい方でしょうか。もう一方が「人生のメビウス」とかいうタイトルで、タイトルとして、どっちもイヤですね。でも、その「人生のメビウス」の方が、今となっては面白そうですね。今度観てみましょう。で、こちら「イデアの森」。とてもめんどうくさくって、見通すのに3日ほどかかってしまいました。いえ、途中で目蓋が重くなってしまうんです。「知の森では、この10分が永遠となる」のだそうです。10分づつ、以下の8作品。あぁ、10分とはいかに永遠に長いことでしょう。

監督: ベルナルド・ベルトルッチ 「水の寓話」
   マイク・フィギス 「時代×4」
   イジー・メンツェル 「老優の一瞬」
   イシュトヴァン・サボー 「10分後」
   クレール・ドニ 「ジャン=リュック・ナンシーとの対話」
   フォルカー・シュレンドルフ 「啓示されし者」
   マイケル・ラドフォード 「星に魅せられて」
   ジャン=リュック・ゴダール 「時間の闇の中で」

 いちばん素敵なのは、マイク・フィギスの画面4分割作品でした。マルチスクリーンのゲームみたいで、それぞれの画面の行き来とかゾクゾクして、その全体像は良くわからないんですけれども、「好き勝手やっていいよ」と言われてこういうことをやる人が、わたしにはいちばん信頼できる気がしてしまいます。

 そして、やっぱり「あら、やってくれちゃった」というのがクレール・ドニの作品で、これはもちろんゴダールの『中国女』での、アンヌ・ヴィアゼムスキーとフランシス・ジャンソンとの列車の中での対話の、現在型での再現でして、この才気活発そうな女優さん(アナ・サマルジャ)のことは知りませんけれども、対談相手はジャン=リュック・ナンシーで、名前までゴダール被りですし、この列車の行き先がナンシーという念の入れようです。この小品が単にゴダールの模倣ではなく、映画的な、いえいえ、社会的なバトンタッチ行為であること、だからこれからフランスのシネアストは、列車の中での知識人と娘っ子の対話、という作品をリレーして造り続けてくれると面白いんですけれどもね。意欲的な試みだと思いました。

 その引用元のゴダールもまた、自作の『小さな兵隊』とか『気狂いピエロ』からの拷問シーンの自己引用、パゾリーニの作品からの引用とかで、ある意味クレール・ドニの意志を引き継いでいます(映画の歴史の中での時間という概念の追求、とか言うんでしょうか?)けれども、その徹底ぶりではクレール・ドニに軍配をあげたくなってしまうのです。

 あと、かろうじて興味深く観たのはベルトリッチの作品で、実は今になってヨーロッパにアジア的世界観(時間観?)が侵犯していること、アジア文化の概念がヨーロッパにも浸透し始めていることを説話的な物語としてきっちり描いていて、これはずっとベルトリッチが描こうとしていたアジア的世界観なわけですから、すっきりとわかりやすく描写して下さっていて、これはこれでおみごとだったと思います。

 正直、あとは「ゴミ」です! 語るのも馬鹿らしい。職業的映像作家の地位に甘んじていなさいな!、そういう感じですね(ま、こういうことを書いてしまうとあとで後悔するのですけれども)。

 だいぶ前に観たDVDでした。

 

 

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■ 2006-11-11(Sat)

[] 『キングス&クイーン』 アルノー・デプレシャン:監督   『キングス&クイーン』 アルノー・デプレシャン:監督を含むブックマーク

 とにかく遅筆になってしまいまして、舞台関係はようやく、今までに観たものについては追い付いてここに書き込み終ったのですけれども(1〜2、書くのをやめたのもあります)、映画、そして読書関係の感想はもうすっかり遅れまくりです。音楽なんかもう、他に書く事がないような余裕がないと書けません。

 というわけで、この作品を映画館を観たのはもう2ヶ月ぐらい前のような気がしますけれども、とにかく今でもまた早くもういちど、この映画を観たい! そういう気持ちでいっぱいなんです。とても素晴らしい作品でした。

 アルノー・デプレシャン監督の名前は知っていましたけれども、ま、なんというか、フランス風のエスプリの効いた青春ドラマでも撮っている監督さんなんでしょうかねぇ、ぐらいの認識しかなくて、今までその作品を一本も観た事はありませんでした。で、この夏に、とある映画館のロビーで開演待ちをしている時に、先に終了した他のスクリーン(それがこの『キングス&クイーン』だったのですけれども)から退出して来るお客さんの中に知人のEさんがいらっしゃって、ちょっとこの作品のことを聞いて、「なら観てみようかな」ぐらいの軽い気持ちでいたわけです。

 『キングス&クイーン』は、そのデプレシャン監督の6本目ぐらいの作品でしょうか。91年から作家活動を開始された、ということでは寡作な方でしょう。この作品は、女と男のお話です。ノラは最初の夫に目の前で自殺され、その死後に息子エリアスが誕生。二人めの夫イスマエルと離婚して、今はギャラリーを経営していて、おそらくは近いうちに実業家のジャン=ジャックと結婚するのでしょう。ヴィオラ奏者イスマエルは国税局から逃げ回り、あげくは精神病院に強制入院させられてしまいます。ノラは唐突に病院のイスマエルを訪れ、息子のエリアスを養子として引き取って欲しいと申し出ます。また、作家であるノラの父は病院で死期を迎えようとしています。そんなこんな、このノラ、そしてイスマエル二人を軸にして、ドキュメンタリー・タッチからコメディ風描写まで、いろいろな映画的表現を駆使しながらドラマが進行して行きます。そのドラマの豊穣さには眼を見張るばかりで、また、根源的な問いかけを含みながらその回答を模索しているように読み取れるのです。

 ノラにせよ、イスマエルにせよ、完全無欠な人間ではありません。イスマエルはそれこそ社会生活が出来ない人間として精神病院に送り込まれますし、ノラが介護してその死を看取った父は、その最後に校正した書物の原稿の余白に、「娘はエゴイストになってしまった。わたしが癌で死に、娘が健康なのは不公平だ。娘が癌になればよかったのに。」などという呪詛に近い言葉を書き残します。これはノラの父の視点ですが、映像であらわされる最初の夫の自殺、これはノラがもうちょっと機転が効けば避けられたでしょう。

 しかし、二人とも(特にイスマエルは)実に魅力的な存在でもあり、その視点からすればノラの父の考えは蒙昧の中にあり、イスマエルを音楽スタディオから追い出すディレクターは非人間的です。

 ひとつには、「人と人とはわかりあえることが出来るのでしょうか?」とでもいうような問題が出て来ます。あれこれの訂正される事のない思い違い、思い込みの関係の上でわたしたちはこの世界で他の人とかかわりながら生きていて、それは「わたし」が「わたし」であるかぎり、超越することができないのかも知れません。わたしもやはり、この作品で描かれるように、「あなた」と「わたし」は根本的には了解不可能なのだと思います。そう思ってもいました。ま、わたしが特定の他者を忌み嫌う理由は、この映画に描かれたような理由からではないのですが。

 しかし、この作品のラスト近くに、わたしにとっては永遠に記憶するに値するような、奇蹟のようなイスマエルとエリアスの対話(というか、ほとんどイスマエルの意志表出なんですけれども)が、「人類博物館(みたいなところ)」をめぐりながら繰り広げられます。精神病院のカトリーヌ・ドヌーブの存在もまた、人と人との関係の可能性を暗示しているようです。「もしかしたら人と人とはお互いにわかりあえることはないのかも知れません。でも、わたしたちはお互いに決して孤独ではないのです。」この作品は、そのようにわたしに語りかけてくれているようで、映画館を出る時には相当に明るい気分になっていました。

 様々な音楽もちりばめられていて、中でも久しぶりに聴いたランディ・ニューマンの歌声が、やっぱりよかったですね。

 余談ですけれども、去年の秋、わたし自身が精神的にダウンして、心療内科などに通院したあとに、どこかにフェリーニの映画から「人生は祭りだ、いっしょに楽しもう」と書いたら、その時にわたしがケンカを売っていた(ま、そういうことをやっているわけです)人物から「人生の廃残者みたいなヤツが『人生は祭りだ』なんて笑わせる」というメールをもらったことがあります。すごいでしょ。このメールをくれた方(映画ファンらしいのです)は、おそらくフェリーニを観たことがないんでしょうけれども、ふふ、今でもわたしは祭りを続けています。彼は今でも彼女も見つからずに、「淋しい」と日記に書き続けていて。

 たとえどんな生活をしていても、たとえわたしがホームレスであろうとも、わたしは孤独ではなく、そしてなおかつ人生はお祭りなのです。つまり、そういうことをもう一度教えて下さるような映画でした。


 

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■ 2006-11-09(Thu)

[] 踊りに行くぜ!!vol.7 in 前橋 『前橋ダンスデパートメント』 @前橋・旧麻屋デパート/1・2・3階・屋上  踊りに行くぜ!!vol.7 in 前橋 『前橋ダンスデパートメント』 @前橋・旧麻屋デパート/1・2・3階・屋上を含むブックマーク

 恒例のJCDN主催の『踊りに行くぜ!!』、その東京以外での開催イヴェントに久しぶりに出かけてみました。久しぶりと言っても、前にこのイヴェントで東京以外の場所で観たのは、やはり前橋だったわけですが。

 前回観たのは明治の建築物、旧迎賓館でもあった「臨江閣」という場所での開催で、その後もこの前橋での『踊りに行くぜ!!』は、毎回ユニークな場所で開催を続けられているらしいのですが、今回の会場は昭和9年に建造されたという古いデパートのビル。そのデパートが営業をやめられてから、もう30年使われていないらしいのですが、その1階だけは店が入って営業しているようです。外壁には壁の落脱被害防止のためでしょうか、一面にネットが張られていてあまり情緒はありません。先にビルの中の様子を書いておけば、大きな改修工事があったようで、奥に階段を埋めて平面にしてしまった工事跡が壁面に見て取れます。敷地面積はデパートと呼ぶにはあまりに狭いもので、そうですね、「アサヒアートスクエア」ぐらいのものでしょうか。そのくせ、残された階段は異様に広い面積を占有していて、こういうのがビルの中に二つもあったらそれは効率が悪いでしょう。3階までなので客用のエレヴェーターはありませんが、階段の脇に荷物運搬用らしい小さなエレヴェーターが金網に囲まれていて、ちょっと不思議な景色です。屋上のすみっこには古い大形店鋪らしくかなりしっかりしたお稲荷さまの鳥居が造られていました。夜だったので鳥居の中に入る勇気は持ち合わせていません。屋上なのに木が生い茂り、草ぼうぼうな所もあり、乱暴な比喩ですけれども、「天空の城ラピュタ」みたいです。

 さて、本公演のことを書きます。オープニングは、「ほうほう堂」のお二人による、デパートの前のアーケード内の歩道を使っての短いパフォーマンスからでした。これで外で観ていた観客はそのデパートの中に誘導されて、さあ、始まりです。

●Benny Moss 『紅芋酢二人旅』 振付・出演:垣内友香里 出演:根岸由季 

 「紅芋酢」って何の事だろう、って思っていたら、今パソコンに打ち込んでいてやっと解りました。「ベニイモス」=Benny Moss、だったのですね。振付けをされている垣内さんは8月の大橋可也さんの公演に出演されていたこわい人で、またあんなこわいのを見せられたらどうしようと心配だったのですけれども、やはりちょっとこわかったのです。黒と白のスポーツウエア風の衣装で、その顔も同じ色の布をすっぽりと被られていて、ガクガクブルブルと震え痙攣されたり、ごろごろと転げ回られたり、突然ケラケラと笑い出されたりされます。ちょっとマッチョな、アスリート的な肉体美と、その崩れ落ちて行く様の対比が面白いのですが、まだ何らかの美意識みたいなもの、そういうものの残滓とでもいうようなものが表現のインパクトの邪魔をしていたようにも思えました。もうちょっと吹っ切れたらもっと怖くなってしまうでしょう。怖れながらも期待いたします。あ、ビルの2階を使われていました。

●ほうほう堂×チェルフィッチュ 『ズレスポンス』 振付:新鋪美佳・岡田利規・福留麻里 出演:新鋪美佳・福留麻里

 「ズレスポンス」は、今でも何の事だか解りません。「チェルフィッチュ」の岡田さんが振付けに参加されているので、これはきっと、チェルフィッチュみたいに日常の動作の延長のようなからだクネクネダンスになるのかな? などと思っていたのですけれども、そういうのではなくって「真っ当な」ダンス作品でした。しかも素晴らしい作品に仕上がっていました。今までにみた「ほうほう堂」のダンスではいちばん感銘を受けました。岡田さんの参加は、おそらくはこのダンス作品の中にある種「物語性」のようなものを導入され、そのダンスに奥行きと厚みを加味されていたように感じました。とりわけ蛇のぬいぐるみがいいですね。そして、おふたりの無表情な表情、その目線というか、眼の力に引き付けられました。3階に移動しての舞台でした。

●ポポル・ヴフ 『マチルダ』 構成・振付:徳毛洋子 振付・出演:原和代 音楽:舩橋陽

 こちらも、8月の大橋可也さんの公演で音楽を担当されていた舩橋陽さんの参加されているユニット。一見、普通に決められた振付けに普通に合わせて作られた音楽を重ねているだけのように見えるのだけれども、その大きな取り決めの元で、微細なお互いの反応、交感が重要な役割を果たしていて、それはある意味で即興ダンスと即興演奏のコラボレーションに相当するものだとも思うのですけれども、その、コンクリートの壁や天井に反響する舩橋さんのサックスの朗々とした音と、舞台に円を描きながらループする原さんのダンス、その背後に潜む繊細な美しさまで見ようとするならば、これはありそうでめったにない、ほんとうに豊かな表現の試みのひとつとして記憶にとどめるに値するでしょう、というか、また是非とも観てみたくなってしまうのでした。どうやらクセになるようです。こちらも3階を使われました。

●室伏鴻 『quick silver 変奏』 振付・出演:室伏鴻

 さあ、屋上です。あの銀塗りの室伏さんが夜の街のビルの屋上に佇む姿は、やはり妖怪のようであり、そうですね、明智小五郎に追い詰められた怪人二十面相、はたまた誰も居なくなった夜中に人知れず動きだしたガーゴイル像のようでもあります。なんと、そのバックには回転するサーチライトの明かりが夜空を照らしていて、この夜はそのサーチライトも室伏さんの引き立て役でしかないのです。避雷針の設置された煙突の上にまで登られた室伏さん、今夜は大スペクタクル大会でした。まるでドイツ表現主義のサイレント映画の新作(!)を観ているような気分。こういうエンタテインメントは大好きです。だって室伏さん、カッコいいんですもの。って、いかん、文体を丁寧にしたらオカマっぽくなってしまうではないか。もうこの文体やめましょうかしらね。(10月21日観劇)


 

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