ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-02-28(Wed)

[]二○○七年二月のおさらい 二○○七年二月のおさらいを含むブックマーク

 さて恒例の2月のおさらいです。

 舞台観賞は以下の通り。ま、ダンスが5件と演劇1件ですね。これは1月と同じ数でした。

2月 3日(土)ジョセフ・ナジ『遊*ASOBU』@世田谷パブリックシアター
        神村恵カンパニー『山脈』@こまばアゴラ劇場
2月12日(日)上村なおかソロ公演『ニューホライゾン』(タイトル違う?)@ベニサンピット
2月13日(月)黒沢美香『薔薇の人〜登校』@中野テルプシコール
2月17日(土)Time & Locus『迷宮クリイム』@アサヒアートスクエア
2月25日(日)ク・ナウカ『奥州安達原』@文化学園体育館特設舞台

 1月に引き続き、音楽のイヴェントにも行きました。これで音楽関係の体験は、去年の数に並んでしまいましたね。

2月18日(日)『DARK WAS THE NIGHT』@Uplink Factory

 美術は、『文化庁メディア芸術祭』というのも、会場を通り過ぎましたけれど、これを観たつもりはありません。ま、この新国立美術館のも「困ったな」って感じではあるのですけれども、シュヴィッターズの作品とか、モランディのアトリエの写真とかありましたからね。

2月25日(日)『20世紀美術探検』@新国立美術館

 映画はかなり観ました。4日には一日に4本も観てしまいましたし。観るきっかけが音楽絡みが多いとはいえ、しかしやはり変ちょこな選択です。海外からの作品の、その監督名が全部わかっていないのは怠慢ですね。いや、わかったからといってどうと言うこともないのですけれども。

2月 4日(日)監督名記憶なし『12タンゴ ブエノスアイレスへの往復切符』
        監督名記憶なし『愛しきベイルート』
        足立正生:監督『幽閉者(テロリスト)』
        岩名雅記:監督『朱霊たち』
2月12日(日)塩田明彦:監督『どろろ』
2月13日(月)安藤尋:監督『僕は妹に恋をする』
2月18日(日)監督名記憶なし『ドリームガールズ』
2月24日(土)黒沢清:監督『叫(さけび)』

 本は今月はそれほどには読んでいません。『シンセミア』が長かったですからね。続いて読んだ『無情の世界』も、『シンセミア』前夜、みたいな感じで、かなり面白かったです。

ポール・オースター『幽霊たち』
糸圭(すが)秀実『1968年』
中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』
阿部和重『シンセミア』
阿部和重『無情の世界』

 DVDにいたっては、本当にちょっとしか観ることが出来ませんでした

アルノー・デプレシャン:監督『エスター・カーン めざめの時』
いろんな監督のオムニバス『be found dead』
ジョン・メイブリー:監督『愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』

 こんな所でしょうか。あ、あとは、真壁町に日帰りで短い旅行をしました。ああいうのは旅行とは言わないのでしょうけれども、先月の日光日帰りに続いての、わたしにとっての「旅行」です。今年は本格的な旅行をしてみたいですね。うん、二人で、とかね。

 3月もまた多忙な終末になりそうです。でもね、4月からは予定があまり入っていません。

 

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■ 2007-02-24(Sat)

[] yummydance『もももってきてちょうだい。』 @こまばアゴラ劇場  yummydance『もももってきてちょうだい。』 @こまばアゴラ劇場を含むブックマーク

 yummydance(ヤミーダンス)は、四国の松山を拠点に活動を続けるカンパニー(現在は女性ダンサー5人のユニット)で、もうその活動歴もそうとうなものになって来ていると思うのですけれども、わたしは、彼女たちが最初に東京で公演をおこなったころから観ているんではないかな。うん、いろいろと背伸びしてみたり、あれこれの試みを経て、ついにこの単独公演(初演は2005年の12月の松山公演)にいたるヤミーたちのダンスですけれども、ある意味で今コンテンポラリー・ダンスとひとくくりに呼称されているシーンの中で、その、ティピカルで(典型的な、とでもいう意味で)最上の部分を受け持つような、すばらしい存在にまでたどり着かれたと思うのです。特に、グループでの創作という面、「群舞」というのですか、そういう複数の(デュオを超える人数での)ダンサーでの作品造りという面で、今回は一種規範ともいえるような舞台を創出して下さいました。

 わたしは今になってもこのヤミ−たちの5人、それぞれのパーソナリティとその名前を一致させることが出来ないでいるのですけれども、そんなことが、長く彼女たちの舞台を観続けて来ていてもまったく気にならないほどに、彼女たちの舞台のひとつの特徴が、突出したソリストというか、リーダーといえるようなダンサーの存在がないこと、そのようなことが全然気にならないような、まさにユニットとして一体化した彼女たちの個性をこそ、わたしはその舞台から満喫するのですから。そう、彼女たちの舞台には「中心」はありません。それこそが、その一点こそが彼女たちの舞台を特徴付けていると言ってしまっていいのですけれども、そこから、その一点からこそ、現在のダンス・シーンを見渡す地平が見えてくると、そう言ってしまっても過言ではないでしょう。

 この『もももってきてちょうだい。』という公演で彼女たちが到達した地平は、それは、ある意味で、「ダンス」、というか、「舞台」の上に、5人のメンバーそれぞれが自己のパーソナリティを投影しながらも、分裂することもなく、また、一点に収束することもなく、誰か一人が突出することもなく、それでも観終った後に、ひとつの作品が目の前にあったというのではなくて、そこに5人のダンサーがいたのだと、それは何と言えばいいのか、この作品がひとつの緻密に構築された作品であることもまた確かなのですけれども、その背後から、そんなひとつの作品に収束され得ないそれぞれのダンサーのパーソナリティが、まさしくみごとなまでに立ち上がっていること、そう言ってしまえるのではないでしょうか。

 実は今回の東京公演では、最終日に、「即興セッション」とでも言うのでしょうか、そういう時間の短い即興の舞台も用意されていて、結局時間に余裕の出来たわたしはその両方を観ることが出来たのですけれども、おかしなことに、その「即興セッション」こそが構築された作品であって、前の日に観た本公演こそが「即興」であったのではないのか、みたいな感想を持ってしまったのです。それはつまりは、彼女たちの作品が、それぞれのメンバーのパーソナリティを尊重しながら、というか、そんなのを損なうことなく作品として構築されていることの、ひとつのあらわれでもあるのではないかと思うのです。

 『もももってきてちょうだい。』の舞台は、ある意味でドラマティックでもあります。それはちょっと、映画「ウエストサイドストーリー」みたいなモノを想起させるような感覚もあったのですけれども、つまりそこには、今この日本に生きている、生活しているひと、ここでは松山でふだん暮しているヤミーの連中の日常生活ですけれども、そのような延長にこの舞台が存在するような感じで、それが観客席で観ている観客であるわたし、その生活感覚をここで思い起こさせられるような体験であって、それは何と呼べばいいのでしょう、「生活のドキュメントとしてのダンス」とでもいえるような側面を内包しているのであって、それはたとえば関西の砂連尾さんと寺田さんのデュオ作品から感じる「生成感」とでも呼べるようなもの、そういうのに近いものがあって、それは結局のところ、すっかりわたしを魅了してしまうのです。それはつまりは、いまこの舞台の上で繰り広げられているのは「Live」なのだという、そういう感覚なのでしょうか。

 ちょっと書く時間がなくなってしまったのでこのあたりにしておきますが、そのヤミ−たちの舞台制作の根本姿勢は、やはり、今のダンスの世界の中で聴こえる「オレが、わたしが、」という、選挙活動のような個の連呼のなかで、そういうことから距離をおいて、わたしが根底から共感できるものであったことを確認しておいて終ります。ヤミ−たちには、また新しい作品をひっさげて東京に来襲して頂きたいものだと、切に願います。(1月27日、28日観劇)



 

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■ 2007-02-23(Fri)

[] 三条会『ひかりごけ』 武田泰淳:原作 関美能留:演出 @下北沢 ザ・スズナリ  三条会『ひかりごけ』 武田泰淳:原作 関美能留:演出 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 この「三条会」の代表作です。この作品、わたしも2004年の「BeSeTo演劇祭」での屋外での公演に続いての二度目の観劇です。チラシの「上演記録」をみると、2001年の利賀村での初演からこの「ザ・スズナリ」の公演まで、これで9回の再演を行っていらっしゃるようです。ここまで徹底的にひとつの作品を再演しまくるというケースもあまり聞いたことがありませんが、そんな、あれこれと上演場所を変えながら、その公演場所との新しい組み合わせをも作品の要素として考えているのでしょう。

 原作は武田泰淳の代表作のひとつで、遭難した漁船の乗り組み員が死んで行った仲間の人肉を食して生き延びたという事件を法廷で裁くという物語、って、わたしは読んだことないのですけれども、その構成も戯曲になったり小説になったりとしているらしいのですけれども。

 たしか前回の公演の時のパンフに、「この作品の提起する問題を、いま舞台にのせるには、そのままのかたちではアクチュアリティを持たせにくい」という判断からの、このユニークな「読み替え」が生まれたというようなことが書かれていた記憶がありますが、舞台は高校の教室なんでしょうね。その教室での、国語の時間のリーディング、その素材が「ひかりごけ」というわけで、生徒らしい男たちが交代にテキストを読み上げて行くのですが、食欲と性欲(?)にまみれた男子生徒たちの脱線ぶり(なんだかよくわからないコスチュームの「女子学生」も登場するのです)を背景に、突然シリアスな演劇調になってみたり、歌謡曲をバックにダンスが始まったり、教室がそのまま裁判所になってしまったり(教師が裁判長になります)、とにかく転調の連続ではあります。

 そして、その舞台を支えるのはつまりは鈴木忠志スタイルの「スズキメソッド」なのであることは、以前この三条会の舞台をレポートした時に書いた通りで、その異様なまでの俳優たちの身体の「過剰さ」こそが、この舞台を突出したものにしていたのだと思うのです。そうですね、例えばそれは60年代のフランク・ザッパが*1、卓越した音楽知識と作曲能力を背後に、優れたミュージシャンを使って、表面的にはわい雑で滑稽なポップミュージックを演奏していた時代、えげつなくも耳に心地よい曲に聴こえながらもストラヴィンスキーの引用とか絶えまなく変化する変拍子とかが折り込まれ、しかも強烈な反体制意識をも歌い込んでいた時代の音楽を思い浮かべたりもします。

 ま、「三条会」とフランク・ザッパを並列して語るのが適切かどうかはわかりませんが(たしかにこの「三条会」にも、60年代風の「アングラ」ににおいがすることもまた、事実だとは思いますが)、当時のザッパの音楽がそれ自体ロックへの批評でもあったように、この「三条会」の舞台もまた、それ自体として演劇への批評を内包しているのだ、ということも書いておかなくてはなりません。「スズキメソッド」を駆使しての舞台であるとは言え、その舞台自体が「スズキメソッド」への批評でもありますし、先に書いた俳優たちの身体の過剰さのみでなく、この舞台、その演出の持つ根源的な過剰さそのものが、「演劇」という世界への問いかけでもあって、その「問いかけ」が、やはり「わい雑」とも言いえるこの舞台作品に、時代を照射する奥行きを与えているのではないかと、二回目の観劇でもそのように思うのでした。(1月20日観劇)


 

*1:ここでは、例えばMothers of Inventionのセカンド・アルバム「Absolutely Free」あたりを想起しています

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■ 2007-02-17(Sat)

[] アクラム・カーン+シディ・ラルビ・シェルカウイ『ゼロ度』 @彩の国さいたま芸術劇場 大ホール  アクラム・カーン+シディ・ラルビ・シェルカウイ『ゼロ度』 @彩の国さいたま芸術劇場 大ホールを含むブックマーク

 わたしは、ダンスというジャンルの、その世界的な潮流にまったく明るくないので(これは正確に言うと、演劇だろうと映画だろうと音楽だろうと文学だろうと、とにかく何でも同様なんですけれども)、この二人のダンサーのことはほんとうに知りませんでした。うん、そういうことが、例えばこのブログのわたしなりの限界という面もあるような気もしますし、ダンスのことに関して、あれこれ知っているような顔をしてあれこれ書き捨ててしまうのが実に恥ずかしいことではないかと、こういう時に痛切に考えてしまうのです。

 ほんとうは、こうやって、ブログに批評めいたことを偉そうに書くことに対する「恥」の感覚は、それなりに(最近は)持っているつもりでいます。だから言い訳めいたことを書けば、わたしは「批評」を書いているつもりはないし、あくまでもこれは「感想」ですし、その、敢えて自分から人に「こんなブログ書いてます」などという宣伝行為は、恥ずかしくって出来るものではありません。それでも、そういう了解のもとで、こうやってブログに書くということの意味は自分なりに突き詰めて考えて、それで、その上でこうやって継続してブログを(これは「日記」*1ではないという認識の上で)書き続けています。

 こんなことを今になって敢えて書くのは、どうもこうやって「ブログ」という形態が一般化して、それでもって、例えばわたしの知っている人が書いたブログを目にするケースが多くなって、で、正直に書いて、「あの人はこんなにも無自覚な人だったのか」とか、あらためて思い知らされるケースが多々あってしまうということもあるのです。親しかった知人がブログを書いているのを読んだりして、そのせいでその知人と「もうこれ以上あの人と親密にするのはよそう」というケースが、実は、かなりあったりします。そういうことは、わたしがほかの人のブログを読んで感じるのと同じようなことを、わたしのブログから読み取って感じる人が少なからずいるのだろうという予感として、ここに書こうとする行為を、制御しています。

 って、本題と外れたことを長々と書いてしまいました。『ゼロ度』について書きましょう。

 当日配付されたパンフレットによると、アクラム・カーンはバングラデシュ系のイギリス人(ロンドン生まれ)、シディ・ラルビ・シェルカウイはモロッコ系ベルギー人(アントワープ生まれ)。二人ともヨーロッパの中のイスラム系家庭で育った人なのだそうです。この二人のダンサーによるデュオ、そしてイギリス人彫刻家アントニー・ゴームリーという人、やはりイギリス人作曲家ニティン・ソーニ−という人とのコラボレーションとしての『ゼロ度』。生演奏で関わる4人のミュージシャンも、オーストラリア、ドイツ、パキスタンと、世界の広い地域にわたるところから集まって来たメンバーで、おそらくそれは現在のイギリスの状況の反映というか、イギリスにとどまらずヨーロッパ、アメリカ、そして日本を含めた、資本主義世界をリードするような国々に共通するような状況なのでしょう。

 この『ゼロ度』という作品自体も、抽象的なダンス作品というにとどまらずに、ある種演劇的な具象性を持っていて、それはまた現在のポスト・コロニアルな世界情勢を反映したような痛烈な舞台でもあって、そこにこれらのメンバーが集結しての作品、その意味が、重たさを持って観客にのしかかってくるようでもあります。

 舞台は、アクラム・カーンがバングラデシュ〜インドを訪れた際の不条理な体験を、シディ・ラルビ・シェルカウイとユニゾンで具体的に語ることからスタートして、そのセリフには日本語字幕がついて観客に伝えられるという意味でも、演劇的な要素の大きな作品なのですが、そのセリフに合わせて、二人のダンサー自体もユニゾンで動いたり、互いの鏡像になったり、手話のような動きを見せたり、デュオのダンスとしても二人の卓越した身体を合わせて、舞台上の二つの身体の関係性としてすばらしい成果をあらわしています。ここに重厚なチェンバー・ミュージックが加わり、さらに二体の白いマネキン人形、二人のダンサーの身体にかたどられて造られたそうなのですが、その関節が動かせることとかで、この舞台に、単にダンサー二人のデュオ作品にとどまらない深さと奥行きを与えていたように思います。

 その終盤で、舞台上でシディ・ラルビ・シェルカウイが座り込んだままで子守唄のような叙情的な歌を唄うシーンがあるのですけれども、この、シディ・ラルビ・シェルカウイの歌唱がすばらしいといいますか、いや、歌えるダンサーというのも魅力だよなぁといいますか、その、どうやらユダヤ民族の伝承曲らしいのですけれども、そのトラディショナルな味わいにも酔いしれてしまうような、哀愁をともなった美しい歌唱で、実はわたしはこの歌曲のシーンがいちばん印象に残りました。次はぜひシディ・ラルビ・シェルカウイの唄うユダヤ歌曲集などというCDを出してほしいものです。

 結局、ある種の重たさをあらわしながらも、その舞台の後になんというか一種の開放感のようなもの、そういうポジティヴな感覚を自分のなかに発見するのですけれども、それはつまりは、このデュオ作品にとどまらないコラボレーションにおいて、人と人との原初的な関係性、結びつきが示されているというか、不条理な現実を前にしても、それを昇華して、普遍性を持った語り口で作品化して、それを提示できるという、どんな武器をもってしても破壊し得ないであろう根源的な力(パワー)を、その作品の中に合わせ持っていたからに他ならないのではないか、そんな感想を持ちながら、わたしはひとりで駅への道を歩いていたのでした。(1月14日観劇)


 

 

 

*1:日記は、別のところで別に書いています。

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■ 2007-02-09(Fri)

[] 『硫黄島からの手紙』 クリント・イーストウッド:監督  『硫黄島からの手紙』 クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 『父親たちの星条旗』に続いて、結局こちらも観てしまいました。わたしが、クリント・イーストウッドという人が、ハリウッドという独特の世界(というか、今現在のグローバルな映画表現のスタンダードは「ハリウッド」にあるのでしょうけれども)での映画監督として、いかに卓越した存在であるのか、そんなことを本当に意識したのは、『ブラッドワーク』という作品からでしょうか。もちろんそのあとに『ミリオンダラ−・べイビーズ』というすばらしい作品との出合いがあるのですけれども、それでも、たとえば『ミスティック・リバー』のような作品の中の、スター主義みたいな路線にはそんなに心動かされたりはしないのです。ま、それはイーストウッド監督の営業戦略的な面もあるのでしょうから、勝手に批判することもできるわけでもないのです。それともこの近年のイーストウッドの充実ぶりは、今回の制作を仕切るポール・ハギスとのコラボレーションの成果と捉えるべきなのかも知れません。

 その『父親たちの星条旗』では「戦場にヒーローはいらない」という主題と「映画にスターはいらない」というコンセプトが奇妙に融合したような印象もあって、その路線の延長線でのこの『硫黄島からの手紙』。この作品でイーストウッド監督は、「スターをスターらしく撮らなくては」というハリウッド的な至上命題から、かなり自由に振る舞えているようです。それがこの作品のまずは第一の魅力でしょうか。それでも渡辺謙というやっかいなお荷物は抱え込んでしまわなければならないのですけれども、とりあえず映画に登場する「えらい人」という範疇に放り込んでしまえば、めんどうはありません。あとはもうただ(ハリウッド的視点からすれば無名の)役者自体をあれこれと動かして映画作品に仕上げる、そんな成果がみごとに実を結んだ作品ではないでしょうか。

 それは結局は、この「硫黄島」という戦場で、兵士たちが、いったい何と戦わざるを得なかったのか、実はそれは敵兵士の影などではなく、「死」そのものと対峙することではなかったのか、そのような視点を明確に映像化しているのではないかと思うのです。この映画を観たあとに、菊村到の短編『硫黄島』を読んだりもしたのですけれども、その読後感とこの映画作品から伝えられた視点は、かなりみごとにかさなります。

 まさしく敵兵の姿の見えない戦い、その戦いを、戦う双方からの視点として二本の映画作品として仕上げ、そのどちらの戦いをも正当化しない視点は、一方で、戦場の中で兵士のあらわす残虐さをも提示するのですが(『父親たちの星条旗』での、日本軍兵士たちが一アメリカ兵士に加えた残酷行為は描写としてはオミットされていますが)、それはこの二つの作品で、たがいに「相手軍こそ残虐だった」という描写になっていたのも興味深いことで、まさにここでも「敵の不在性」こそを、二つの作品を対にしてあらわしていたようにも思えたのです。

 映像作品として新しい表現が試みられているわけでもなく、そういう意味では「斬新な」作品というよりも、とにかく欠点の見つけられない作品としてこそ心に残る面もあるのですけれども、極限状態の戦場の、その非人間性を、登場する人物が硫黄島という戦場に到る前の、ヒューマニスティックな挿話をさらりと挿入することの適格な効果など、ドラマとしてみごとな作品だったと思うのです。そして、パンフレットに収録された、白石光という人の書いた「日本軍と硫黄島」という一文の末尾で、「アメリカ軍に多大な出血を強いた硫黄島守備隊の勇戦ぶりは、まさに天晴の一言に尽きる。」などと書いてしまうようなことを呼び込むような視点は、この作品にはありえないのだ、ということは確かなことだとして確認しておきましょう。


 

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■ 2007-02-05(Mon)

[] 大橋可也&ダンサーズ『CLOSURES』 大橋可也:振付  大橋可也&ダンサーズ『CLOSURES』 大橋可也:振付を含むブックマーク

 大橋可也さんが「ダンサーズ」を立ち上げて、その復活を観客に印象づけた、3〜4年前の「枇杷系スタジオ」での公演を彷佛とさせるような新作公演でした。それはある意味で諧謔趣味というのでしょうか、『CLOSURES』というタイトルに則して言えば、閉じてしまっている世界を外から見た時の、当人たちは大まじめでも滑稽に見えてしまうようなモノ、なのでしょうか。

 ある意味では解りやすいぐらいの舞台展開で、精神を病んでいるかのような、それぞれ接点のないまったくバラバラの行動をする5人の男女がたむろする舞台に、神だか救世主のような男が降りてきて、その男のほかは誰もいなくなって、結局その男は全裸になって踊り続ける、というか。踊りとは言っても何と言うか「美麗ポーズ集」みたいなものと言いましょうか、「ハードコアダンス」を標榜するカンパニーの、この公演を、ハードなダンスとなど了解することはとてもできません。そしてもちろん制作者もそのことをすべて了解してこの作品を製作しているでしょう。

 センセーショナルだった『あなたがここにいてほしい』にせよ、前回の『明晰さは目の前の一点に過ぎない。』にせよ、その舞台の大きな魅力のひとつには、舞台上に充電されたエネルギー(それがたとえ「負」のエネルギーだったとしても)、みたいなちからが、その舞台の外に突進してしまうような、舞台空間と現実世界とを通底させるようなパワーにあふれた、「正」と「負」が逆転したような舞台だったと思うのですが、この『CLOSURES』では、そんな「負」のエネルギーが、舞台という閉じられた世界の中でいかに空転してしまうのか、そういうありさまを伝えるような舞台だったのではないかと思うのです。

 大橋さんの振付/演出は、あくまでも視覚的に「どのように観客の眼に映るのか」ということに主眼を置いたような振付/演出で、それはつまり、まずはヴィジュアル的に「カッコいい」とでもいいますか、そういう要素をまず前面に配置しながらも、結局はそのヴィジュアル的に「カッコいい」ということの空疎さをこそ、観客側に見せつけるようなモノだと思いました。

 だからこの舞台なんですけれども、そんな、「空疎さ」をこそ観客に伝えたかったのでしょうか。たしかに「負」のエネルギーに満ちたような、カッコよさの裏返しの空疎をこそ、わたしは楽しんだのではあるのですけれども(それはそれで、そんなのを観るのは楽しかったりするのです。ある意味では「Sex Pistols」とかでマルコム・マクローリンが選択した戦略でもあると思うのですけれども)、結局、いちどは『あなたがここにいてほしい』みたいな傑作を観てしまっているので、やはり観る方としては、その、外の世界との関わり、衝突、事故、そんな展開をこそ期待したいのです。衝突、事故、そういう事態を、わたしなどは実際の自分の生活の中でつくりだせない、だからこそこうやって劇場に足を運び、そこで現実に起きる衝突や事故に身をさらしたいと思っているのです。

 でもでも、そんな「衝突」や「事故」、その前にいったいどんな段階があってそんな「衝突」や「事故」になってしまうのか、そういう事態の再確認にはなったようには思います。次の舞台では観客としては勝手に無責任に、そんな「衝突」や「事故」を期待してしまいます。やらなきゃわたしが自分で「衝突」や「事故」を起こしてしまいますよ!(1月13日観劇)


 

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