ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-04-30(Mon)

[]二○○七年四月のおさらい 二○○七年四月のおさらいを含むブックマーク

 4月のおさらいを書いておきます。すごいのは、4月は映画館で一度も映画というものを観なかったことです。これはもう自慢してもいいことですね。で、ダンスのシーズンも終って、舞台観劇も急に減りました。

4月 7日(土):ヤン・ロワーズ&ニードカンパニー『イザベラの部屋』@さいたま芸術劇場
4月 8日(日):ヤン・ロワーズ&ニードカンパニー『イザベラの部屋』@さいたま芸術劇場
4月14日(土):鉄割アルバトロスケット『馬とマウスの阿房トラベル』@下北沢ザ・スズナリ
4月21日(土):「ぼろけょゐ」公演@江戸川土手
4月30日(月):おやつテーブルvol.1@世田谷区桜ヶ丘区民センター 料理室

これだけ。って、同じのニ回観ちゃいましたね。『イザベラの部屋』は、ほんとうにチャーミングな舞台でした。

美術展は三つ。

Brian Alfred:「Global Warning」@谷中SCAI THE BATHHOUSE
「ART LAN@ASIA(アジアの新☆現代美術)」@横浜ZAIM
「澁澤龍彦−幻想美術館」@埼玉県立近代美術館

すべてに納得したわけではありませんが、横浜での高嶺格さんの作品は記憶に留めました。あとは澁澤展のスワーンベリとか。

音楽ライヴはこれだけ。

4月28日(土):Che-SHIZU@国立 地球屋

30日の新宿JAMでの金子寿徳さん追悼コンサートも行きたかったんですけれどもね。

家で観たDVD。今月からは吉田喜重監督に。どれもわたしには素晴らしい作品です。

吉田喜重監督:『日本脱出』
吉田喜重監督:『樹氷のよろめき』
吉田喜重監督:『ろくでなし』
吉田喜重監督:『水で書かれた物語』

本はあいかわらず雑多に読んでいます。

フォークナー『響きと怒り』(講談社学芸文庫のヤツ)
阿部和重『プラスティック・ソウル』
長嶋有『猛スピードで母は』
澁澤龍彦『夢の宇宙誌』
前川祐一『イギリスのデカダンス〜綱渡りの詩人たち』
関川夏央『ソウルの練習問題』
あれこれの人たちの討議『皆殺し文芸批評』
阿部和重『グランド・フィナーレ』

あと、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』をちょっとづつ読んでますけどね、これはめんどくって途中で投げ出すかも知れません。今まだ上巻の190ページあたりまで。それと、黒田硫黄の『茄子』1、2巻。コレが面白かったです。マンガ。で、その黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』全4巻も買っちゃいました。マンガはあと若杉公徳の『デトロイト・メタル・シティ』の3巻目と、のりつけ雅春の『中退アフロ田中』の9巻。田中クンはついに童貞を捨てました。

CDのことも今月は書いておけば、Fairport Conventionの4枚組、「Live at THe BBC」と、Pentangleの同じく4枚組、「The Time Has Come 1967〜1973」、4月に買って両方お気に入り。特にPentangleのライヴの演奏とか、毎晩のように聴いていました。

ま、そんな4月ではありました。5月はきっと唐十郎とか水族館劇場とか、とにかくアングラな世界に潜入するだろうと思います。あとは今やってる「イメージフォーラム・フィルムフェスティバル」に、この連休中に2回ほど行くでしょうね。では、そういうことで、また大勢の人たちにお会いしたいものです。

 

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■ 2007-04-19(Thu)

crosstalk2007-04-19

[] 『朱霊たち』 岩名雅記:監督・脚本  『朱霊たち』 岩名雅記:監督・脚本を含むブックマーク

 もうずいぶん以前に観て、そのままにしてあった映画作品なのですけれども、ずっと今になっても気になっていて、なんだか、何日か前に食べた魚、その魚の小骨がのどの奥にひっかかっているのがいつまでも飲下せないような、そんな感覚なのです。それはつまるところ、この作品の監督の岩名さんの本業は舞踏家なのですけれども、その岩名さんの舞台を観た体験に似ているようでもあって、この映画作品を観ることはやはり「体験」であったのだと、そう、今になっても思うのです。

 で、今になってこの作品について何か書いて、とりあえずは整理してしまい込んでしまおうと思うんですけれども、なんだか、何を書いても大事なことをとりこぼして書くことしかできないように思えて、それは自分の文章力の問題ももちろん大きいのですけれども、つまりはこの作品の魅力、意義、すばらしさを、わたしは決してちゃんと書ききれないのです。そんな思いが、その魚の小骨のように、わたしの器官につっかえています。

 しかし、デジタル機器の発達した現在に、容易に使いこなせるであろうデジタルヴィデオなどの安価なメディアにたよらず、16mmモノクロ・スタンダードという、ある意味でアナクロな方式にこだわって、そのデヴュー映画作品を造ってしまった岩名さんのこだわりは相当なもので、そのことが、この作品のひとつの主題/メッセージであるところの「呪い・祈り」と重なって、異様な美しさをあらわしてしまっているのです。

 明確なストーリーをはらんでいるにもかかわらず、その映像はつねにそんなストーリーを裏切ろうとしているようでもあり、そのことはつまり岩名監督の、「映画」であろう、「映画」たらんとする、強烈な意志のあらわれとして了解されます。この作品は何らかの物語を語るためにつくられたのではなく、また、何らかのパフォーマンスを記録するためにつくられたのでもなく、まさしく来たるべき「映画作品」をめざしてつくられた作品なのだと思います。それこそ、その一点こそが、この作品の「美しさ」なのでしょう。それは、大げさに言えば、「映画によって世界を救済する」試み、などと大言壮語をひろげてみてもいいのですけれども、わたしはこの作品でその意図、わたしが勝手に解釈した意図ですけれども、それはある達成を果たしていたと思うのです。それはもちろん、最近の映画が陥ることの多い、あいまいな「疑似ドキュメンタリー」的手法から大きく距離を取る、本来の「映画」であることへのこだわりの成果でもあって、そのフレーミングへの意志、時間軸と空間軸を交差する演出の意志のたまものでもあるでしょう。

 偶然にも、この作品を観た同じ日に、足立正生監督の『幽閉者(テロリスト)』をも観たのですけれども、それはこの『朱霊たち』とあれこれと比較して考えるにはもってこいの作品でもあったのですけれども、正直言って、「夢見ているだけ」(それが「悪夢」であるにせよ、革命への「甘美な夢」であるにせよ)という印象のみしか抱けなかった『幽閉者』に比べても、この『朱霊たち』の方がはるかに、ある意味で革命的でもあるのです。そうですね、例えばこの二つの作品にはどちらにも「リンゴの木」が出て来るのですけれども、『幽閉者』での、オプティミスティックなロマンティシズムへの契機として出て来るリンゴの花に比べても、『朱霊たち』での、まるで舞台に突っ立っている岩名さんその人の姿でもあるようなリンゴの木は、極北の地で(あ、リンゴは極北の地には育たないのか)たどり着くべき指標であるかのようにあらわれているのです。

 何だかこうやって抽象的なことしか書くことができないのですけれども、とにかく、岩名さんはこの夏からも新しい映画作品をつくりはじめるとの話も伝え聞いています。期待しています。


 

■ 2007-04-16(Mon)

[] ク・ナウカ『奥州安達原』 作=近松半二、竹田和泉、北窓後一、竹本三郎兵衛 台本・演出=宮城聰 @新宿・文化学園体育館 特設舞台  ク・ナウカ『奥州安達原』 作=近松半二、竹田和泉、北窓後一、竹本三郎兵衛 台本・演出=宮城聰 @新宿・文化学園体育館 特設舞台を含むブックマーク

 ということで、現在型の「ク・ナウカ」の最終公演だったのですが、ク・ナウカもNPO法人なわけですから、そんな特権的な地位を簡単に放棄するわけもありませんので、何らかの形で継続/復帰することではありましょう。で、そのラストがついに浄瑠璃の台本をモロに使うという、ある意味でク・ナウカの原点を確認するような舞台になったということは注目すべきことなのではあるのでしょうけれども、そのあたりはやはり一筋縄では行かないこの人たちなのです。

 とにかく、この舞台をナマで観たのはもう一ヶ月以上前なのですけれども、その感想を書こう書こうと思っているうちに、某日本放送協会の教育枠でその録画が放映されてしまいました。その放映をちゃんと観たわけではないのですけれども、気になったことがあったりもして、合わせてココで書いてみようと思います。

 まずは、その、実際にナマでその舞台を観た時の感想が先にあって、それを書いておきたいのですけれども、とにかくそのスピーカー(というのは、通常の「ク・ナウカ」の公演において、つまりは演じる「ムーヴァー」と、セリフを発声する「スピーカー」とを分離するという、浄瑠璃形式を採択しているということを言っておかなくてはならないのですけれども)の発する「日本語」がわからないよ!という現象がまずあるのでしたけれども、そのことに関して注釈を入れます。

 わたしは今は茨城県に住んでいて、電車とかに乗ると、ま、茨城県とか栃木県とかの人たちの肉声と言うか、つまりはモロに方言を耳にする機会とかがそれなりにあったりするのですけれども、時に、わたしの耳には「一体コレは何をしゃべっているのかまったく了解出来ないのです」というような会話に出くわしてしまうことが、2〜3回ありましたのです。その、語尾の「〜だっぺ?」とかいうのは聴き取れるので、あ、これはこのあたりの方言でしゃべってるんでしょうね、ということは了解できるんですけれども、正直、それ以外の部分はこれっぽっちも聴き取れないというか、それが「日本語」であるということも了解出来ないのです。だから、そういう時に、自分が勝手に思い込んでいる「日本語」という概念が崩れてしまうといいますか、皆さんはどうなんでしょう。そういう体験ってないですか?

 発展させますけれども、わたしたちは日本って国は単一民族の単一国家だって、一般に思い込んでるではないですか。それが、単純に、わけのわからない言葉を発する人がすぐそばに居るということだけで、大げさにいえば、「多民族国家」なのかもしれないって、思えるのですよ。これ、東京とかに住んでいて、「標準語」という「東京方言」こそが日本の共通語だと思い込んでいると、もうこういう聴き取れない言葉を耳にする体験が強烈というか、だったら方言排斥しますか?みたいな話になるんですけれども。

 だから、この、今回の「ク・ナウカ」の、というか、この場合は宮城聰さんの演出なんですけれども、それはおそらくは奥州のことばというか、普通に聴いてまずは了解出来ないだろうという言語で脚本書いていて、つまりは普通に客席で聴いていても何を語っているのか全然わからないわけですよ。一所懸命聴いていると、単語とかで了解できるようなのがまぎれて来ることは来るんですけれども、基本的にはわからないんですね。じゃぁどうするか、どうしますか。それはしょうがないではないですか。解らないなら解らないなりに、とにかくは音としてしか聞こえない言葉と、人の動きで了解して行くしかないだろう、そういうのがこの『奥州安達原』の、特に前半の進行です。これが相当に意識的な事だというのは、「語り手」としての野原有未さんが、不必要なまでに懇切丁寧な解説を語ってくれることからも想像できるわけで、例えばちょっと小耳にはさめば誰でも知っている「傾城」などという言葉についても、ちゃんと解説としてその意味を説明して下さる。でも、劇で語られる言葉はわからないのよ、そういう所でこの作品の意図は了解できるわけです。

 だから、そう思って観ていました。それは、単純に言えば、人形浄瑠璃、つまりは「文楽」とかを観ていても、その「浄瑠璃」で語られていることは基本的には聴いていても解らないのね、わたしなんか。今は文楽公演には字幕がついているし、それ以前はわたしなんか「床本」めくりながら観ていましたからね。「文楽」。あ、今回は「床本」ないや、ま、それなりに観ていれば解るだろうって、そういう公演としてのこの『奥州安達原』だろうと。で、そういう見方で、それはそれで、巧みな演出と合わせて、とても興味深くも楽しい舞台だったという感想はありました。

 特に、これはひとつのクライマックスですね、その安達原の鬼婆、「岩手」が「恋絹」を殺める、紗幕ごしのあまりに美しいシーンとか、これは一種の「フレーミング」と言っていいと思うのですけれども、それは先に書いた懇切丁寧な解説があって、そのあとに了解不可能な言語というか、何を言っているのかわからない舞台空間があってこその成果、と言えると思うのですけれども、重層化した、つまりは多層化した舞台空間を創出するのに成功していたと思えたのです。それは一種異様なスペクタクル空間の現出で、これこそが「ク・ナウカ」がこの20年近くの間追い求めてきたであろう舞台空間、そのひとつの到達点ではあったのではないかと思えたのです。

 もうこのあとは、言葉の問題など何処吹く風の祝祭空間、この、アース・ウィンド&ファイアーのライヴみたいな祝祭空間こそは「ク・ナウカ」のラストに相応しくもあり、身を投げた「岩手」を演じる美加里さんが消えた後に、それこそ「ク・ナウカ」の残りのメンバーが、「美加里は消えた!皆で祝おう!」とでも言っているかのような舞台のセレブレーション、ですよね。その「ク・ナウカ」の、まぁ、第一期なのでしょうか、その幕引きに相応しい空間を創出されていて、わたしも喝采するにやぶさかではなかったわけです。わたしの贔屓の寺内亜矢子さんが、その「恋絹」役で、とっても良かったし。


 で、このあいだの日本放送協会を介した録画中継の放映、つまり、これでちょっとね、解せないことがありまして、その、わからなくて当然のはずの「奥州弁」にちゃんと「字幕」がついていたことこそが不可解で、それって、だったら当日その舞台を見に来ていた観客と、この日放映された字幕付き舞台を観てしまう観客とに生じる「差異」、それって何なのよ?って事ですけれども、だからメディア(特に「日本放送協会」という、太文字アンダーライン付きのメディアでね)を介してしまうと、表現のポピュリズムと言いますか、そういう簡単に了解可能なフレーミングにシフトしてしまっていいんですか?そりゃ違うでしょうが。それは「ク・ナウカ」の節操の問題ではないですか、と、小一時間ほど問いつめたいという気分にはなってしまったのであります。つまりはTV放映でも、字幕なぞ付けないで「了解不能言語」としてやらなければ、それはやはり「日本=単一民族国家」であると補強することにしかならないのではないか、自分でやらかしたことを自分で隠ぺいしてどうするだに、宮城さん。いろいろとあれこれと問題を感じてしまう中でも、まず第一にそう思ってしまうのです。


 

いなだいなだ 2007/04/21 23:00 僕には、宮城さんたちは、「劇場に来い!」と言っているように思いました。

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