ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-06-30(Sat)

[] またフリーター、ニートになりたい    またフリーター、ニートになりたいを含むブックマーク

 えっと、これは、昨日(6月29日)のNIKKEI NETに出ていたニュースです。

30歳未満の離職率3割に迫る・青少年白書

 高市早苗内閣府特命担当相は29日の閣議で、2007年版の「青少年の現状と施策」(青少年白書)を報告した。雇用環境が改善する中で定職につかないフリーターや仕事も職業訓練もしないニートなど若者の就業が進まない点を問題視。30歳未満の離職率も3割近くになり、職業訓練や望ましい職業観を身に付ける「キャリア教育」の必要性を強調した。

 白書などによると、06年のフリーターの数は187万人。04年から3年連続して減少したものの、水準は高いままだ。就職しても長続きせず、03年3月の新卒者が3年以内に勤務先などを辞める離職率は、中卒70.4%、高卒49.3%、大卒35.7%を記録している。

 30歳未満の離職率は05年に29.2%と全労働者(17.5%)を10ポイント以上上回っており、白書は「若者に自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力を育てる必要がある」などとしている。

 このニュース、ポイントは最後の一行ですね。

白書は「若者に自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力を育てる必要がある」などとしている。

 これはつまり、最初の方にある『職業訓練や望ましい職業観を身に付ける「キャリア教育」の必要性を強調した』というあたりにつながるのでしょうけれども、え?この日本という国の中にそんな受け皿が用意されていますか???っていうのが、わたしの感想ですね。

 昨日、リリー・フランキーの『東京タワー』を今ごろになって読んだのですけれども、美大を卒業したリリーさん(「さん」って書くのはなんか変ですが)は、しばらくフリーターというかニートというか、そこまでも届かないような自堕落な生活を何年か続けるわけですけれども、その『東京タワー』の中に、とても印象的な彼の唯一の就職活動、その面接の経緯が書かれているのですけれども、彼は「この試験を受けたおかげでハッキリと自分は就職しないという決意を持った。」と書きます。この面接の模様を引用してみたいのですけれども、長くなっちゃうからやりません。

 でも、わたしはこのリリーさんの文章の中に、今のそういう、フリーターですか、ニートですか、そういう人たちの気持ちの代弁を読み取りますね。ひとつには、「自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力」を持てば持つほどに、そんな自分が受け入れられ、その中で主体的に生きていけると思えるような社会は、基本的にこの日本にはないのです。これが本当のことでしょう。

 先日恵比寿の「写真美術館」で、「世界報道写真展」というのを観て来たんですけれども、その中の組写真に、つまりは東京の「サラリーマン」の日常の空疎さを切り取った3〜4枚の写真が展示されていまして、それは海外から観た日本人の日常のステレオタイプのようにも思えるのですけれども、でも、海外の人が見て、「オマエら空しいよなぁ〜」というようなものはあるよ。だから、今現在、フリーターであるとかニートであるということは、そこからの「逃走」ですよ。それは「自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力」があればあるほどに受け入れ難い、日本の現実でしょう。

 わたしのことをちょっと書いてしまえば、見事なまでにフリーターでニートな老人です。今までに就労した職場の数は20を超えますし、これは自分でも「すごいな〜」と思うような数ですけれども、今でもフリーター、ニートでいたいという気持ちです。なかなかキツいですけれども。

 ま、わたしの場合はただのバカだから、放って置いて(のたれ死にさせて)いいンですけれども、例えば、TVなんかで深夜にやっていた「貧乏比べ」みたいな番組で、必ず出てくるのが演劇関係の人たちで、彼らはつまりは自分のやりたいことをやろうとしたら、必然的にフリーターたらざるを得ないわけで、例えば先月わたしが観た『水族館劇場』など、一年に一度の公演に際してはその劇場造り、稽古を含めて三ヶ月ぐらいは、その劇団と寝食を共にするような生活をしなければ公演が成り立たないわけで、それはよっぽどの資産家ならばそういう活動も可能かも知れませんけれども、ははは、資産家演じる社会底辺への共感かよ、って。そりゃフリーターで生活が成り立つ環境がなければ生きていけないでしょ。もちろんこのことは美術の世界でも音楽の世界でも文学の世界でも、つまりは表現に関わるインディペンデントな活動すべてについてまわる問題ですけれども、そのような存在をフリーター、ニートとして排除しようとする日本という国の文化レヴェルの低さ、これはほんとうに情けないのです。

 ま、フリーターとかニートなどという言い方が目立つようになったのはこの数年のことだと思いますけれども、その裏側にはつまりはこのニュースのように、「フリーター、ニートなどというのは自分のこともわからない頭悪いヤツなのだから」という視点がまず存在していて、実はフリーター、ニートというのが抵抗姿勢なのだということを覆い隠そうとするものでしかないのです。わたしのことを考えても、そういったフリーターとかニートというのは昔から存在していたわけで、そんなのをこの今の今になって「あいつらバカ」みたいなキャンペーン貼るのは、この日本という国が、実は「全体主義」に一歩近づこうとしている、その姿なのではないかと思います。

 今の職を辞めること、そして新しい職を探さないこと、そういうことの可能性を考えたあとに出てくるものこそが、ほんとうの自分自身なのではないでしょうか。海外のカメラマンに「日本のサラリーマンは週末に酔っぱらって彷徨するだけ」とか紹介されて満足な日本人などいないと思うんですけれどもね。

[]二○○七年六月のおさらい 二○○七年六月のおさらいを含むブックマーク

 どうでもいいんですけれども、2007年も半分終ってしまったようで、もう7月になってしまいました。というわけで6月のおさらいをしてみましょう。

 舞台は今月もあまり見なくって、

●6月2日(土)寺田みさこ独舞『愛音』@三軒茶屋・シアタートラム
●6月3日(日)小林嵯峨『ダブルアウラ〜半分夢』@王子神谷町・シアターバビロンのほとりにて
●6月9日(土)唐組『行商人ネモ』@井の頭公園内・木もれ日原っぱ

 って、これだけですね。7月は後半にちょっとたてこんであれこれ観る予定はありますけれども、今年は少し減らしましょう。

 その代わりに急に映画をいっぱい観たくなってしまいまして、

●クリストファ−・ノーラン:監督『プレステージ』
●松本人志:監督『大日本人』
●知らない監督さん『ブリッジ』
●油谷勝海:監督『ウミヒコヤマヒコマイヒコ』
●デビッド・フィンチャ−:監督『ゾディアック』
●ジュリアン・テンプル:監督『グラストンベリー』

 といっても6本だけ、ですね。やっぱ『ゾディアック』がよかったわ。

 美術展は3つかな。あ、ちがった、写真展入れて5つでした。

●マルレーネ・デュマス『ブロークン・ホワイト』@木場・現代美術館
●『土屋信子:昔々あるところに魚駐車というプロジェクトがありました』@谷中・SCAI THE BATHHOUSE
●塩崎由美子個展:『視線の彼方に』@浅草橋・マキイマサルファインアーツ
●『世界報道写真展2007』@恵比寿・写真美術館
●『昭和 写真の1945〜1989』第一部 占領下の日本 @恵比寿・写真美術館

 家で観たDVDとか。

●マギー・グリンウォルド:監督『歌追い人』
●清水崇:監督『輪廻』
●知らない監督さん『オープンウォーター』
●吉田喜重:監督『嵐を呼ぶ十八人』
●山下敦弘:監督『リンダリンダリンダ』
●根岸吉太郎:監督『雪に願うこと』

 あと、買ってしまった『シャイニング』とか『薔薇の名前』も観てしまいましたし、それから「維新派」の過去の公演のDVDも、漠然と観ていたりします。『歌追い人』は、DVD買ってもいいな。って、やっぱり高いや。

 読書は難物に挑戦してしまったので数は少ないです。

●金井美恵子『目白雑録』
●ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ、宇野邦一:訳『アンチ・オイディプス』(上下)
●リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

 ‥‥あ、なんだか、全体にすごくバランスが取れてるというか、栄養学的にイイ線行ってる気がします。貧乏人のクセしてバレエとか身分不相応の高い料金の公演観に行ったりしていないし、ただやたらとなんでもかんでも喰いまくっている感じでもありません(という気がします)。この路線がイイですね。もうちょっと読書で数コナしたいけれど、ドゥルーズが面白かったので続けて読みたくなってしまったし、どうせなら『シネマ』読みたいし、2はもう出てるけれど、1もそろそろ出るんでしょ? 両方そろったらすぐに買って読み始めたいですね。そうすると2ヶ月はそれに潰されますか。

 

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■ 2007-06-17(Sun)

[] 『芸術とマルチチュード』 トニ・ネグリ:著 廣瀬純+榊原達哉+立木康介:訳   『芸術とマルチチュード』 トニ・ネグリ:著 廣瀬純+榊原達哉+立木康介:訳を含むブックマーク

 『芸術とマルチチュード』は、これまでに日本語に訳されたネグリの著作すべてのなかで、疑う余地なく、もっとも強力に、もっともダイレクトに、そして、もっとも簡潔に、ぼくたちを革命へと導く著作である。なによりもます、このことを最初にはっきりと言っておきたい。確実に、無媒介的に、そして、迅速に、ネグリの思考から触発を受けたいと考えている日本語読者には、彼のどの著作よりもさきに、本書を、『芸術とマルチチュード』を、手に取るよう強く勧めたい。

f:id:crosstalk:20070510003320j:image:right これが、この本の末尾に掲載されている、この本の翻訳者のひとり、廣瀬純さんによる「訳者あとがき」の冒頭の一節です。この翻訳者がこの本、つまり『芸術とマルチチュード』という本を、読者がどのように読み解いてもらいたいと思っているのかすっかりわからないのですけれども、こんな文章ならばまだ、駅前留学「NOVA」の勧誘文句の方が誠実ではないかと思ってしまうのですけれども。

 ネグリ/ハートの共書『<帝国>〜グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』が出版されたのが2000年ですか? その『<帝国>』において、その中である意味すべての解決を託されたかに読み取れる「マルチチュード」という概念、その定義のあいまいさはずいぶんと指摘され、わたしも一応『<帝国>』、ざぁっと読んだのですけれども、グローバル化した世界の展望としてすばらしい労作なのだろうとは思ったのですが、やはり「マルチチュード」という概念は具体的につかめなかった記憶があります。ま、わたしの場合はあまり読解力ない人間のいうことですからアテになりませんが。それがようやっとその、著作としての『マルチチュード』が2年ほど前に世に出されて、そのあいまいだった「マルチチュード」の概念がようやっとな〜んとなく解って来た感じではあったのですけれども、そんな時のこの『芸術とマルチチュード』ですからね、期待してしまったんですけれども、この本の主幹をなす7編の書簡体の論文(?)が書かれたのは1988年。まだ『<帝国>』すら上梓されていなかったころの、これはつまりは『<帝国>』の草稿? いや、実際のところ、『<帝国>』以前のネグリの、おそらくは当時の彼を支配していたのでしょう、ちょっとした「マルクス主義美学」の覚え書き、そういうものなのではないでしょうか。

 たしかにこの書物には「マルチチュード」という単語はそれなりに頻出して来るのですけれども、そんな「マルチチュード」についての突っ込んだ展開があるわけでもなく、この書物では単にネグリによって理想化された大衆、そのような意味しか付与されていないように読み取れます。『<帝国>』を読んだ時も、「この人たち、思いっきり「左翼」なんだなぁ、とかってつまらない感想持ったんですけれども、なんだかこの『芸術とマルチチュード』での「今ごろルカーチかよぉ」みたいな旧左翼の香りには、正直言って期待をはぐらかされてしまいました。

 いちおう、この『芸術とマルチチュード』には、その1988年に書かれた7編の手紙のほかに、1999年に書かれた「身体について」との副題のついた手紙、2001年に書かれた「生政治について」の手紙、そして2004年に書かれた「1988年に書かれた手紙について」という三編が掲載されていて、ある意味でネグリのこの著作で、今読むに値するのはこの三編だけ、そう言ってしまって良いのではないでしょうか。いや、その三編にしても、語られているのはやはりあいまい模糊としたオプティミズムの繰り返しにすぎない、そうとも思われるのですが。

美とは、想像することではなく、働きかけ(アクション)と化した想像力(イマジネーション)[構想力]のことなのです。芸術は、この意味において、マルチチュードなのです。

    〜「1988年に書かれた手紙について」より〜

2004年の今日では、当時はまだ暗に仄めかされるにとどまっていた条件が、いまや、明白なものになり、そしてまた、マルチチュードのただなかで特異性と<共>とを結びつけるあの生きた労働の内部において(抽象的労働の世界の内部だけでなく、生きた労働の内部においても)、いまや、美が完全にその姿を見せているのですから。

    〜「1988年に書かれた手紙について」より〜

 う〜ん、2004年のヨーロッパではそうなんでしょうか? というか、わたしには、「美」になど何の興味もないのですけれども。特にネグリさんの19世紀的な「美」の定義とか、困っちゃうんですね。そう思っていたら、ネグリさんによる「芸術」の定義がありました。こういう抜き書き的な解釈は良くないんですけど、なにかが根本的に違うと思ってしまうのです。

芸術とは、すでに述べたように、労働であり、生きた労働であり、したがって、特異性[singolarita]の発明であり、さまざまな特異的形象やオブジェを発明することであり、言語表現であり、さまざまなシーニュを発明することなのです。

    〜「1988年に書かれた手紙について」より〜

 ‥‥そんなものであるはずがない。断じて。

 わたしは強くそう思います。「発明」などという行為から「芸術」がいかほどに距離を置いていることか、どのようにして「発明」と呼ばれるような事象から「芸術」が転がり落ちて行くのか、その一点がなければ、「芸術」はネグリが夢見るような「革命」の道具に成り下がってしまうことでしょう。それこそが、この翻訳者の読み解いた事象ではあるのでしょうけれども。「芸術」とは、「発明」というよりも、言ってみれば「予感」の現出であって、それはやはり「革命」からみれば「前衛」ということになるのでしょう。わたしは「大衆前衛」など理解し得ません。

※6月19日付記:

 ちょっと、「発明」という言葉への反撥から情緒的な書き方になってしまいましたが、ここはもう少しきちんとやっておきましょう。「発明」という、いかにも産業的な言語を持ち出すあたりに、ネグリ氏の「芸術」への無理解ぶりが垣間見えるのですが、少なくとも日本での「発明」という言葉の定義は、新規であること、有用であること、そして工業的であること、この三点にあります。それは直に「市場」での「商品」への道をまっしぐら路線でしょうし、自らの論説を裏切るようなそんなことを、ここで「革命家」が言ってしまっていいものでしょうか。

 わたしは飛躍して「予感」の現出とか、つながりのないことを書いてしまいましたが、ここで言い直せば、それはハイデッガー的な意味での「投企」の現実化として、未来へと投げ出された「予感」を含み持つものであって、さらに、「観客(ここに批評家とかが介在してくるのですけれども)」との関係性の中で成立するものではないかと思うのです。ここで、その「観客」との関係性をもって「有用であること」と解釈するのは間違いでしょう。

 ネグリさんが「発明」という言葉にどのような意味を付与させようとしたのか、しかとは解りはしないのですけれども、少なくともその言葉の選択、定義付け、それらから、ネグリさんが自ら説く「マルチチュード」にふさわしい「芸術」観を持ち合わせていないことだけは、この本からしっかりと伝わってくるのです。


 そうそう、トニ・ネグリは、来年来日するようですね。有意義な討議とかが為されればよいのですけれども(という言い方はいかにも生意気ですが)。


 

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■ 2007-06-06(Wed)

crosstalk2007-06-06

[] 『歌追い人』(Songcatcher) 監督・脚本:マギー・グリーンウォルド   『歌追い人』(Songcatcher) 監督・脚本:マギー・グリーンウォルドを含むブックマーク

 この作品のことは、2年ほど前に、このブログへさるお方から貴重なコメントをいただいて知ることになったのですけれども、実のところそのころDVDプレーヤーも持ってなかったし、つまりは今まで忘れていたのです。それを突然に神からの啓示のように思い出してしまいまして、宅配便ヴィデオレンタルに在庫があるのを知って、すぐに注文して観たという次第です。

 昨夜かなり遅くまで全編一気に観てしまい、おかげで今日はずっと仕事中眠かったのですけれども、なんだかこういう自分の好みの映画のこととかを書くのは、それだけでも楽しいことです。いえいえ、たしかにこの映画は良く出来た「佳作」というのにふさわしい作品ではあるでしょうけれども、この作品はわたしの大好きな音楽、イギリスの伝承音楽についての、それらの音楽がアメリカに渡って唄いつがれていたこと、その音楽を採譜しようとした人、その音楽を唄い継いで来た人たちの、つまりアメリカのポピュラー・ミュージックのルーツについての作品なのです。で、わたしが夢中になるのはその伝承音楽、この映画の中であれこれ唄われる「バラッド」の世界にこそ、夢中になるからなのです。だから今日は思いっきりわたしの趣味の世界、わたしの好きなことを勝手に書かせていただきます。だからどうぞ読み飛ばして下さい。では、全国の三千人の英国伝承音楽ファンの皆さん、こんばんは!

 そのアメリカの、アパラチア地方、実はわたしはそれが一体どのあたりに位置するのかはっきりとはわかっていないのですけれども、ま、南部ですよね。そのアパラチアに、スコットランドあたりが起源の伝承音楽が唄い継がれ、演奏し続けられていたことはかなり有名な話ですけれども、この映画は、20世紀初頭にそのアパラチアで伝承音楽の唄われるのを「発見」した、女性の民族音楽研究者のお話でありまして、映画のストーリーも、都会的な生活様式のしみ込んだ考えの持ち主であるヒロインが、アパラチア山中で暮す人たちといっしょに生活するようになって、生きることと歌を唄うことが等価であるような人々の中で「音楽」と「愛」をみつけ出すのだよ、というようなお話、それもとっても素敵なんだけれども、やっぱわたしにはまず「音楽」ね。

 でも、この脚本はとっても良く出来ていて、そんな音楽のルーツ、発展の歴史とかもさりげなくキッチリと書き込まれていて、たとえば楽器としてのギターなどが、若いころにそのアパラチア(まぁ、「山」ですね)から外の世界に出て、キューバでスペインと戦った兵士という過去を持つ男が、キューバから持ち帰って弾くようになった、などということがサラリと語られたりして、無伴奏が基本であった「バラッド」などの歌にギター伴奏がつく背景とか、JigやReelなどと呼ばれるダンス・ミュージックが、その地に住むアフリカ系の人々にも演奏されるようになりながら「ブラック・ミュージック」へと変形していく契機もちゃんと描かれたりします*1。なにかといえばすぐに歌に自分の思いを托す人たち、楽しかったのは、そのアパラチア地方の石炭に目をつけて「地上げ」に精を出す男、彼もこの地の出身なんだけれども、皆が集うダンスの夕べに大げんかして殴られ、それで起き上がって立ち去る時に「オレはもう死んでいくのか」などと、歌を唄い始めることで、それで彼が立ち去った後の歌の続きを、別の男が引き継いで唄い始めるのなんか、こう、見ていてもグッと来てしまいます。

 この作品のラストではそのヒロインが、いっしょになった山の男と、卓越した唄い手である身寄りのない少女と三人で、採譜した歌を出版するのではなく、実際に人前で「山」の唄を唄って紹介していくのだと決意して山を下るまでのお話です。彼女たちの姿はじきに例えばカーター・ファミリー(Carter Family)などに姿を変え、つまりはアメリカでの「カントリー・ミュージック」として発展していくことになります。これが50年代から60年代になると、例えば「ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(New Lost City Rumblers)」など、思いきりそんなアパラチアで育った楽曲のリヴァイヴァルを計るバンドも現れて、それはボブ・ディランとかジェリー・ガルシアとかに引き継がれて今日に至るのです。

 アパラチアと言えば、英国産のダルシマ−(ひざの上に平らに置いて演奏する弦楽器です)とは異なる形態を持つアパラチアン・ダルシマ−(ひょうたんのような独特の曲線のボディを持っています)で有名なのですけれども、そのアパラチアン・ダルシマ−も、もちろんこの映画の中で出て来ます。アパラチアでの舞踊曲はすでに英国の舞踊曲から変質していて、それこそカントリー・ミュージックの萌芽を思わせるものが多いのですけれども、とりわけ「バラッド」に代表される歌曲は、英国やアイルランドなどの本家よりも豊かなレパートリーを保存し、しかも原曲の味わいをほとんど失うことなく唄い継がれていたわけで、このあたり、この映画のヒロインが初めてアパラチアで少女が唄うバラッドを聴いた時の驚き、それはその少女*2の端正なケルト式歌唱法(つまり、シャン・ノースと言われる歌唱法)と合わせて、聴いているわたしも「ズキン!」と、心響かせるのです。

 面白いのは、この映画の中で、かの「フェアポ−ト・コンヴェンション(Fairport Convention)」の唄ったヴァージョンで広く知られているバラッド、「Matty Groves」のアパラチア・ヴァージョンが唄われるのですけれども、この唄はつまりはドナルド卿夫人に教会で誘惑されるマティくんが、そのドナルド卿宅で婦人のいいようにされている時につまりは旦那のドナルド卿が現れて、マティくんは哀れに切り捨てられるというお話唄なのですけれども、フェアポート版では「ドナルド卿は今夜は居ないから」ということで誘惑されるのですが、この映画でのアパラチア版、マティくんが夫人に誘惑されるのはドナルド卿のお葬式の席でのことになっていて、つまり夫人は未亡人、で、つまり現れるドナルド卿は「亡霊」というわけで、マティくんは亡霊に切り殺されたのです、というお話で、ま、この「Matty Groves」という唄は英国でもたくさんのヴァージョンが存在していて、タイトルも「Little Musgrave」とかあれこれあって、大きく「Musgrave Family」と分類されるほど異種の数多く存在する唄ではあるのですけれども、ドナルド卿が「亡霊」だったというのは、新解釈じゃないけれども、興味深いヴァージョンです。

 そして、これもバラッドの「Barbara Allen」、やはり有名な曲ですけれども、これをこの作品の中で三度聴くことが出来ます。それぞれの味わいの違いを楽しめるというわけなのですけれども、最初はこの映画の冒頭、ヒロインが大学の授業で、生徒の前でピアノ弾き語りでこの曲を唄います。「これが英国の伝承音楽、バラッドの一曲です」と紹介します。こういう形でクラシックのようにピアノ伴奏をともなって唄われるイギリスのフォーク・ソング、こういう形式も数多く存在していまして、あのカウンター・テナー唱法の再発見者、アルフレッド・デラーが最初に評判をとったレコーディングも、そうしたピアノ伴奏によるフォーク・ソング集だったと記憶しています。

 二回目に聴かれるのは、アパラチアに引っ越したヒロインが、そこで少女の唄う歌を聴く、その歌こそがこの「Barbara Allen」で、つまりその歌唱法も違いますし、伝承音楽の無伴奏歌曲の美しさとはコレですよ、そういったサンプルのようなシンギングになっています。これがバラッドの魅力です。で、三度目、これはこの映画のラストにかぶさるように聴こえて来ます。そこで唄っているのはエミルー・ハリスです。もちろん現在のアメリカのカントリー・ミュージックを代表するシンガーで、わたしも大好きなシンガーで、ここではもちろん思いっきりカントリー・スタイルで唄われます。つまり、同じ一つの歌が、その文化的/時代的背景の差異で、これだけのヴァリエーションになるというわけです。

 伝承歌曲は、それが英国であろうがアパラチアであろうが、時代とともに変遷します。かつては無伴奏で唄われた歌にもいつかギターの伴奏がつき、そのギターもいつかエレクトリック・ギターになって、リズムをともなって電気増幅されるようにもなります。それこそが伝承音楽の備え持つ力であり魅力であり*3、それはわたしが今読み始めたドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』に合わせて言うならば、生産の余剰、「独身機械」であり、「奇蹟をおこなう機械」なのではないかと、ふと思ってしまったりするのです。あ、また誤読。しかし、こんな大スターも出演していない地味な映画が、その製作から三年とかの月日を経て、よくぞまあ一般公開されたものだと感心いたします。配給会社の関係者の人たちには拍手したいです。どうもありがとうございます。

 さ、今夜も、もういちどこのDVDを観ましょうか。


 

 

*1:ここで出演するミュージシャンはタージ・マハールです

*2:この少女役の子が可愛くって、しかもメチャ唄が達者で、素晴らしいのです。エミィ・ロッサムちゃんですね。

*3:でも、例えば日本でも人気のあるアイリッシュ・バンドの「チーフタンズ(Chieftains」などは、本来単旋律の伝承曲をクラシック的に強引に「ポリフォニー」化しているのであって、そのアイリッシュ・ハープの音色がいかに美しかろうとも、わたしにはどうしても好きになれなかったりするのです。総じて表面的に話題になる「アイリッシュ・ミュージック」にはわたしはいつも違和感を感じます。

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