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■ 2007-07-31(Tue)

[]二○○七年七月のおさらい 二○○七年七月のおさらいを含むブックマーク

 7月も終ってしまったので、おさらいを書いておきます。

 舞台関係は後半にたてこみまして。ちょっと疲れました。

●7/14(土) 『エテロトピア』@横浜ZAIM別館2Fホール
●7/15(日) 珍しいキノコ舞踊団『あなたの寝顔をなでてみる』@吉祥寺シアター
●7/20(金) 黒沢美香ソロ・ダンス『清潔で単純になる日』@こまばアゴラ劇場
●7/21(土) 唐ゼミ『鐵仮面』@関内大通り公園青テント
●7/22(日) tsumazuki no ishi『犬目線/握り締めて』@下北沢ザ・スズナリ
●7/28(土) サシャ・ヴァルツ&ゲスツ『ケルパー(身体)』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
●7/29(日) 黒沢美香&ダンサーズ 『ダンス☆ショー”夏の踊り”』@こまばアゴラ劇場

 映画はいいですね。まだ観たい映画がいっぱい待機しています。

●佐藤拓市:監督『キサラギ』
●タナダユキ:監督『赤い文化住宅の初子』
●松岡錠司:監督『東京タワー』
●根岸吉太郎:監督『サイドカーに犬』
●井土紀州:監督『ラザロ』三部作
●ダーレン・アロノフスキー:監督『ファウンテン 永遠につづく愛』
●アキ・カウリスマキ:監督『街のあかり』

 とりわけ、『ラザロ』と『街のあかり』に、打ちのめされました。

 美術展はひとつだけ、しかも二回目の

●ヘンリー・ダーガー展(こまかいタイトルは忘れた)@品川・原美術館

 DVDもあまり観てなくて、

●中田秀夫:監督『仄暗い水の底から』
●?????『リトル・ミス・サンシャイン』
●吉田喜重:監督『さらば夏の光』
●サリー・ポッター:監督『愛をつづる詩(うた)』

 あとは維新派のDVDをぼちぼちと観ましたね。

 読書もあまりはかどらず、

●ジル・ドゥルーズ『記号と事件』
●三遊亭円朝『真景累ケ淵』

●?????『ヴォイニッチ写本の謎』
●ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』(上)だけ。

 ということでいよいよ8月。京都旅行へ行きますからね。ま、2泊3日の小旅行ですけれども。あとは、予定としては小林嵯峨さんの公演、神村恵さんの公演が続いて、そのあとはザ・スズナリで「SHIMOKITA VOICE」、そのあいだに映画で『インランド・エンパイア』と『天然コケッコー』と『怪談』を観て、そのいきおいでその累ケ淵のあたりにふらりと行ってみて、京都から帰ったらまたスズナリで少年王者舘。そんな予定かなぁ。

 

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■ 2007-07-27(Fri)

[] 【告知】SHIMOKITA VOICE 〜下北沢と文化のゆたかさを本気で語るときが来た @下北沢 ザ・スズナリ 8月13日(月)〜15日(水)   【告知】SHIMOKITA VOICE 〜下北沢と文化のゆたかさを本気で語るときが来た @下北沢 ザ・スズナリ 8月13日(月)〜15日(水)を含むブックマーク

特別シンポジウム
「道路予定地のザ・スズナリで語る! 下北沢のDNAはどこへ?」
地元商業者×住民×アート×行政関係者×専門家

荒木経惟・撮り下ろし写真展
「ライカで下北沢〜路地の顔〜」

三夜連続 音楽×映画×演劇
SHIMOKITA ART LIVE

   SHIMOKITA VOICE

 久しぶりに告知などいたします。わたしは直接このイヴェントにかかわっていませんが、何年か前からささやかれていた「下北沢再開発計画」、あまりに荒唐無稽だからありえないさ、などと言う気持ちと、いやいや、意外にも実現してしまったりしてね、なんて気持ちとあったんですけれども、そんなにしているうちに小田急線下北沢駅の改築は始まってしまったようで、南口のTSUTAYAとかのあったビルは取り壊されてしまったりして、下北沢の景観も少し変ってしまいました。

 で、よく知らないうちに、その「道路計画」が急浮上して来てしまったようで、これ昔見たことありますけれど、実現すると今のスズナリの上を新しい道路が走って、その道路は東に延びて行って、わたしのごひいきのギャラリー&カフェ、「現代ハイツ」(上京するとたいていココに逃げ込みます)の上まで行っちゃうんですね。これはもうひとごとではありません。この気の置けない感じの街、この雰囲気は残ってほしい。今ある小劇場の街、演劇(それも非商業演劇)の街という空気はどうなってしまうのでしょう。なんかこちらで出来ることはないでしょうか。

 で、そんな、観客も参加出来るシンポジウムが開催されるというので、ここでも告知させていただきます。内容は上の「SHIMOKITA VOICE」のHPでご覧になって下さい。で、毎日6時までのシンポジウムはすべて入場無料、おそらく先着順の入場なのでしょうけれども、夜7時半からの「SHIMOKITA ART LIVE」、こちらは予約が出来ます。というか、予約だけで満杯になってしまうと思われます。

 わたしはこのうち14日(火)の、青山真治監督の『路地へ 中上健次の残したフィルム』上映&大友良英のライヴ、これに行きますけれどもね。えっと、20日から予約開始しているので、ひょっとしたらもう満杯かな?って思っていたら、昨日の夜電話予約した段階で、整理番号はまだ13番でした。ま、おそらくは当日までにはきっと予約でいっぱいになって、当日行っても入れないような状態になると思います。まだあまり世間に知れていない今のうちがチャンスです。どうぞ皆さんも今のうちに予約して、えっと、14日だったらわたしといっしょに映画見て、大友さんのギターを楽しみましょう(2時からのシンポジウムも聴きたいと思ってます)。1500円は安いよ。

 わたしは『路地へ 中上健次の残したフィルム』は一度観ていますけれども、これは中上健次を求める旅の記録、ロードムーヴィーとしてのドキュメンタリーみたいな作りで、その中上健次を追って行く男を井土紀州が受け持っています。中上健次の撮影した「路地」の8mm映像も使われていて、非常に興味深い意欲作です。

 という、いささか営業的な(わたしはまったく無関係なのですが)告知をおこなってみました。

 ※8月2日追記:

 光栄にも下北沢商業者協議会のクヤマさまからコメントをいただいてしまいました。自分の書いたちょっとミーハーな文面に赤面する思いですが、「シモキタ・ボイス制作日誌」のURLをいただきましたので、こちらから簡単に直リン出来るようにいたしました。どうぞよろしく。

    シモキタ・ボイス制作日誌

 

mugkuyamamugkuyama 2007/08/02 07:08 こんにちは。下北沢商業者協議会のクヤマです。
イベントのこと、記事にしてくださってありがとうございます!
青山さんと大友さんが来られた経緯を書きましたので、よろしければ制作日誌、ご覧下さい。
http://shimovoice.exblog.jp/

crosstalkcrosstalk 2007/08/02 21:12 クヤマさま、はじめまして。コメントありがとうございます。
道路計画の話はずいぶん前から耳にしていたのですけれども、まさかこんなに早く、知らないうちに現実化へのステップを踏んでいたとは知りませんでした。
下北の「路地」、守り通したいですね。こちらでどんなことができるでしょうか。なにかの力の、そのどこかにでも協力できるようだといいのですけれども。

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■ 2007-07-20(Fri)

crosstalk2007-07-20

[] 『ラザロ LAZARUS』 井土紀州:監督   『ラザロ LAZARUS』 井土紀州:監督を含むブックマーク

『マユミ三部作』
・蒼ざめたる馬
・複製の廃虚
・朝日のあたる家

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が最初にこの女に石を投げつけるがいい

『ヨハネの福音書』より

 分厚い充実したパンフレット(全作品のシナリオ付き)をまだ全然読んでいないのですけれども、やはり圧倒的に楽しめた映画でしたし、インディペンデントな映画制作の可能性としても、新しい道を開いているように思えたりもしましたし、やはり井土紀州監督の今後の展開に期待したいと思います。

 製作年度は先に書いた順番の通りで、このうち『蒼ざめたる馬』はわたしは一度観ているのですけれども、今回は、この三作ではいちばん最後につくられた『朝日のあたる家』でもって、連続性を持たされて新しくよみがえったというところでしょうか。その『蒼ざめたる馬』の中にも、ストーリーの連続性に合わせて今回新しく挿入された場面もありました。

 で、この三作でいちばん強固な完成度を持っているのは、その『朝日のあたる家』ではないかと、わたしは感じたのですけれども、つまりこの『マユミ』シリーズ、現在のグローバリゼーション下の資本主義の構造というか、そんな社会に、犯罪という形のテロで立ち向かうマユミという女性を主人公とした連作で、『蒼ざめたる馬』の舞台は京都で、次が東京を舞台にした『複製の廃虚』で、この二作はその犯行の描写と、マユミを助ける「仲間」とか、捜査する側の刑事とかとマユミとの関係に焦点をあてて描いているのですけれども、伊勢で製作された『朝日のあたる家』は、そのマユミがなぜマユミになったのか、マユミ誕生(ではなくて「再生」、だから総合タイトルが『ラザロ』なんですけれども。)を描く作品なんですけれど、これがしっかりとキチンと出来ちゃってるから、もうある意味でこれ以降は多少ユルくっても大丈夫なんです。というか、もうシリーズ化してどんどん(ニセ札のように)量産出来てしまうのです。というか、つくってほしいですね。もっともっと。

 ちょっとその『朝日のあたる家』を中心に書いてみたいんですけれども、編集とか撮影が丁寧で、冒頭の煙突の煙から駅の俯瞰、列車から降りて来るマユミの妹の直子が、マユミに会って、二人で自転車に乗って風景の中を横切って行くシーンへの、その連続のちょっとした心地よいリズムと美しさ、そこからして引き込まれてしまうのですけれども、そのあとに続く、シャッターの閉まった商店が延々と並ぶアーケード街をゆっくりと進むカメラ、この描写がこの作品の背景をきっちりと捉えているでしょうし、その背景というか、さびれた古い商店街と対照的に、SFチックに畑の中に白く輝く、ホームセンターのような郊外型の大型スーパーがあって、これを画家志望であった直子がスケッチするという提示のしかたにも妙があって、つまりこのスケッチが『蒼ざめたる馬』にまた出て来たりするんですが、情況提示がニクいですね。

 『朝日のあたる家』では登場人物もほとんど三人だけで、つまりまぁ、それなりに恋人もいて、田舎での小さな幸福を夢見て、そうしながらも都会へ出てアーティストとしてのし上がろうとしている妹の直子への援助を惜しまないマユミがいて、その恋人の小田という男がいて、そこにアーティストへの夢を捨てた直子が東京から帰って来るところから始まる話です。この作品では、そんなこのシリーズのテーマである資本主義とかグローバリゼーションへの呪詛というのは、妹の直子にこそあらわれていて、家業の洋品店が廃業に追い込まれたのはそんな大型スーパーが町に入り込んで来たためであり、そのスーパーに勤務する男を恋人に持つ姉のマユミをなじり、結局は姉と恋人の関係を破たんさせようと行動するのね。で、この三人の関係の描写がやはりかっちりしていて、それがその町の風景としっかり結びつきながら展開して行くのがやはり井土監督らしいというか。

 で、このエピローグ編的なポジションの『朝日のあたる家』では、マユミはごく普通のOLで、ま、夜になるとナイトクラブみたいなところでホステスのバイトはやってるけど、それもまた地方のある意味の普通さでもあるのでしょうけれども、それよりも妹の直子の方にこそ、その後の『ラザロ』のマユミのようなモンスターじみたところがあって、ま、その呪詛の強さこそを、マユミがよみがえったあとに引き継ぐことになったのでしょう。それこそが時間的にはこの『朝日のあたる家』以降にあたる『蒼ざめたる馬』、『複製の廃虚』を支える大きな柱、それはあまりに虚無的な柱なんですけれど、強いものにはなっていたと思います。

 あと、このマユミ役の、東美伽さんという女優さんがいいですね。チラシの写真にもなっている『蒼ざめたる馬』の冒頭の、バスルームでの表情とか最高で、その写真をネットで探したけれども見つからないので別のにしました。

 『朝日のあたる家』はこの連作の中では最後に制作され、先に書いたように伊勢で制作されたようなんですけれども、それは地元の「伊勢映画人会」と、井土監督の「スピリチュアル・ムービーズ」との共同制作という形になっていて、こういうロケ地の映画人と共同で制作するというか、地方の映画人と共同制作体勢を構築して、その土地で撮影制作するというのがこの連作の特徴でもあって、『複製の廃虚』は東京でもって、日大のシネ研がこれは「制作協力」、で、順番から言うといちばん最初につくられた『蒼ざめたる馬』は、京都国際学生映画祭運営委員会(2003)との共同制作ということになっています。こういうのがおもしろいですね。ある程度実績のある「スピリチュアル・ムービーズ」のような組織が、日本のあちこちのインディペンデントな組織と協力して作品をつくる。これは物質的な面でも、経験値としてでも、単純に土地勘とかいう問題にしても、お互いに支え合うことで、新しい局面を展開出来る可能性をも生み出すのではないでしょうか。

 だからなんか、こう、マユミには日本を縦断してあちこちに転移してテロってもらって、それを各地のインディーな映画人を巻き込んで、わたしなんかのためのウラ娯楽としてずっとこのシリーズを継続してもらいたいですね。次はだから『ラザロ2』をね、期待します。


 

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■ 2007-07-14(Sat)

crosstalk2007-07-14

[] 『GLASTONBURY〜グラストンベリー』 ジュリアン・テンプル:監督   『GLASTONBURY〜グラストンベリー』 ジュリアン・テンプル:監督を含むブックマーク

 やっぱ、夏はロックよ。それも野外フェスティヴァルね! ぐらいの軽いノリで観に行ったドキュメンタリーでしたけれども、思いがけずにこれは社会学としてのロック、といいますか、ライヴ映像なんか見せるのは二の次の問題として、ウッドストック以降のロック・フェスティヴァルとユース・カルチャー(へへ、イヤなカタカナ言葉だな)の関係、ひいてはイギリス現代史をばっさと横断して断面をクローズアップするみたいな作品で、いやぁ、Sex Pistolsのドキュメンタリー『NO FUTURE』あたりでは、まだまだジュリアン・テンプルという人も相変わらず軽薄なご仁だなぁ、なんて思わずにはいられなかったんだけれども、これは力の入った刺激的なドキュメンタリーでした。

 思い出してみれば、かなり以前に公開された『ワイト島フェスティヴァル』のドキュメンタリーでも、アーティストと金の問題、チケットを買わずにタダ見しようとする観客、アーティストと観客の距離の問題とか含めての問題定義を含めた、単にアーティストの演奏にのみスポットをあてただけでない、かなり社会的なドキュメンタリーだったわけですけれども、そういう面では、このドキュメンタリーは、その『ワイト島フェスティヴァル』での問題定義を引き継いだような製作姿勢ではないかと思います。そりゃわたしはもう60年代からロックに親しんだ人間ではありますけれども、さすがにグラストンベリーのフェスティヴァルの歴史とか、どういう経緯で成立したフェスティヴァルなのかとか、そういう基礎知識はまるで持ち合わせないで観に行ったんですけれども。

 とにかくイギリスという国が生み出す音楽文化はユニークで、Beatlesみたいなのがボコンと出て来たり、Sex Pistolsから始まる20世紀後半最高の文化革命運動「Punk」の発祥の地でもあるし、非常に局所的なマイナーな音楽が、そのマイナー性(非商業性)を失うことなくビッグセールスを成し遂げてしまうようなところがあります。それはどうも、音楽を創造する側の意識というよりも、作り手(アーティスト)から受け手(オーディエンス)への中間に介在する人たち、プロデューサーであるとかレコード会社、そしてイヴェント企画者の意識のあり方によるところが大きいのではないかと、わたしなどは考えたりするのですけれども。例えばそれはBeatlesで言えばマネージャーのブライアン・エプスタインの存在とか、Sex Pistolsだったらマルコム・マクローランですよね。その後の展開でも、レーベルFactoryを興したトニー・ウィルソンとか、Rough Tradeのジェフ・トラヴィスとか、とにかくイギリスの音楽を考えると、そういうミュージシャンではない存在が、大きな影響力を持った人として名前が浮かんで来て、そしてこの、30年以上継続してこのグラストンベリー・フェスティヴァルを主宰するマイケル・イーヴィスと言う人ですね。そのあたりがアメリカとかでは対応するような名前があまり浮かんでこないのですね。

 そこで考えたりするのが、政治というか、社会運動としてのロックのありかただったりするのですけれども、アメリカでは反戦運動とかと結びついてヒッピーというあり方がものすごい勢いで拡がって、それが1969年のウッドストック・フェスティヴァルに収束されてしまうような形で、ま、ヴェトナムでのアメリカの敗戦もあったりして、その姿を表面から消してしまうわけですけれども、そのあとは空白の70年代とか、そういう感じになってしまうのがアメリカ。

 イギリスの場合は、60年代にはやはりヒッピー現象、そういったものがあって、このドキュメンタリーを見ると、このグラストンベリー・フェスティヴァルも当初は「イギリスでもウッドストックのような野外フェスティヴァルを」という意識で、映像に出て来る観客もヒッピーっぽいですね。それがここまで継続するフェスティヴァルに育った背景には、80年代のイギリスの反サッチャリズム意識が大きく作用したことも、このドキュメンタリーで語られます。

 グラストンベリー・フェスティヴァルを主宰するマイケル・イーヴィス氏は土地の農場主であり、またキリスト教徒としてのその信仰*1がこのフェスティヴァルを興す原点であるというのも興味深いのですが、やはりその奥にあるのは、言ってみれば社会変革への意志なのではないでしょうか。

 そのあたりのことは、先に書いたパンクの仕掛人マルコム・マクローランが、シチュエーショニスト*2として行動していたこと、そう言ったことも合わせて、イギリスでの文化運動の性格を垣間見るようにも思えるのです。それは同じ時代にレーガンを容認してしまったアメリカあたりとの差異、もちろん中曽根を、というか継続してずっと自民党を容認している日本との差異ではないかと思うのです。

 ようやくこのドキュメンタリー本編のことを書けば、30組を超えるミュージシャンのライヴ映像は、ほとんどが30秒ぐらいのモノで、Billy Braggなんか、0.5秒ぐらいしか見えなかった。ただしその歌詞などが、このドキュメンタリー作品の、その時に語られていることを補完するような役割を果たすように構成されていて、うまく構成されているなって感じ。映像自体も観客の撮影したホーム・ヴィデオのような映像から、撮影クルーにニコラス・ローグなども入っていたらしい71年のドキュメント映像(製作はデヴィッド・パットナムだったらしい!)とか、まるでこの35年のポピュラーミュージックの、映像を含めたコラージュみたい。ポイントポイントで、ミュージシャンによってはかなり長いステージの映像が挿入されていて、印象に残ったのは、そんな71年の映像からのMelanie、ちょっと笑っちゃうMorrissey、そしてあまりよく知らないミュージシャンだけれどもLevellers、あとはBjork、そしてラストになだれ込むRay Davies、PULP、David Bowieの三連発が、この2時間半に近いドキュメンタリーの〆にふさわしいです。PULPのライヴは、このグラストンベリーの長い歴史の中でも屈指のライヴとの評判も高かったライヴで、さすがに「Common People」を、ほぼ全曲収録していました。あ、アチラで出ているDVDでは、監督のジュリアン・テンプルと、このPULPのジャーヴィス・コッカーによるオーディオ・コメンタリーがおまけされているようで、それは是非とも聴いてみたいものです。というか聴き取れっこないから国内盤が出てチャンと字幕が付きますように。

 もちろん映像の大半はそんなステージの外、マイケル・イーヴィス氏へのインタヴューや、観客、そしてフェスティヴァルをとりまくほんとうに様々な事象をこそ映し出していて、それこそがこのドキュメンタリーの視点としての面白さであるわけで、先に書いた『ワイト島フェスティヴァル』のドキュメンタリーのように、金の問題、ドラッグの問題、政治の問題などが提示され、その何十万の観客のマッス、ゴミの山、そして糞便の「海」までしっかりと捉えられています。ちょっと「オエ!」ってなりそうな映像でしたけど、なんかで読んだのでは、誰かが主宰者のマイケル・イーヴィス氏に、「このフェスティヴァルで今まででいちばん悲惨だった出来事は?」と質問して、その答えは「トイレの大きな肥えだめの中に若い男の子が落ちたのを見た時だ」というのだったそうで。

 わたしはよくわからなかったのですが、その観客だか半分主催者のようなグループで、「トラヴェラーズ」と言う集団が出て来るのですけれども、いったい彼らはどのような集団なのか、ちょっとよくわかりませんでした。定住しないで移動し続けるコミューンみたいなのでしょうか?

 日本にも、「FujiRock」とか「SummerSonic」みたいな大きな野外フェスティヴァルが育ってはいますけれども、たとえばこのようなドキュメンタリーが制作されるような土壌まで育っていると言えるでしょうか。それはやはり作り手から受け手への中間に介在する人たちがどのようなかたちで存在しているか、そういう問題になるような気がします。あ、日本のオーディエンスは、わたしは素晴らしいと思っていますよ。ドラッグやらないし、かなりファンタスティックな人たちだと思います。それはなにか他の力にはならないでしょうかね。


 

*1:映画の中で「なんとか派」なのだと語られていたのですが、何派だか忘れちゃいました。

*2:「Situationist」=シチュアショニスト。一般にフランスのギィ・ドゥボールがその思想的支柱とみなされているようですが、わたしは決してそうは受け取りません。シチュアショニスムは運動総体として現在も有効な、現在形の運動であって、ひとりの理論に集約される教条的なものではないと考えます。例えばこの文章にも名前を出したトニー・ウィルソンも自らをシチュエーショニストと明言したいたと思いますし、Red Krayolaのメイヨ・トンプソンも、その初来日の時のシンポジウムの席で「わたしはシチュエーショニストだ」とおっしゃってました。音楽関係ではPere Ubuのデイヴィッド・トーマスもシチュエーショニストですし、美術の方ではRed Krayolaと共同作業をしていたArt & Languageというユニットの立場ももちろんシチュエーショニスト。近いところでは、というか日本では、椹木野衣氏が「殺すな!」をオーガナイズされた時にシチュアショニスムを考えに入れていたという事は、最近の美術手帖での松井みどり氏との対談で語られていたことです。そういう意味で1968年以降でもっとも有効な社会運動を生み出したのはシチュエーショニストなのではないか、そうわたしには思えるのです。だからこそ、松井みどり氏が『マイクロポップ宣言』で、そんなシチュエーショニストの運動から社会的/政治的側面を排除して、つまらない「自分探し」運動みたいに書いてしまうことにも怒りを覚えるのです。

banbibanbi 2007/07/16 09:31 はじめまして。面白く読ませてもらいました。
私もこの映画、昨日観て来ました。

フジロックでも環境やら何やらのアピールはしてますけど、社会に対する価値判断を喚起されるような磁場は感じられないですよね…。

「トラヴェラーズ」という人たちはUK版ヒッピーみたいなもんなんだそうです。映画の中で「トラヴェラーズ」が車を使ってオブジェ作ったりしてましたけど、彼らはフジロックでも毎年似たようなオブジェ作ってます。
http://www2.fujirockexpress.com/05/report/report.php?id=1002

あ、それから、主催者は「メソジスト派」って言ってたような…

crosstalkcrosstalk 2007/07/16 23:36 banbiさん、どうもです。
トラヴェラーズは日本にも遠征して来てるのですか。フーリガンみたいな人たちなのかなぁ。そういう人たちがいるって、勉強になりました。

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■ 2007-07-09(Mon)

[] 『ゾディアック』 デビッド・フィンチャ−:監督   『ゾディアック』 デビッド・フィンチャ−:監督を含むブックマーク

   

Zodiac

Zodiac

 今日は久々に映画の感想を書きます。この映画を観る前にもあれこれと興味深い映画を観たのですけれども、とりあえず『ゾディアック』のことを書いておきましょう。

 簡単に言えば、六十年代末期に実際に起きた連続殺人事件の犯人を追う三人の男と、その周辺の群像劇というのか、マスメディアを巻き込んだ大胆な犯人のメッセージと、そんな犯人の実像に迫ろうとする男の話、そういうのなんですけれども、でもでもこの作品はそういう犯罪解明のサスペンスとかミステリーの謎解きとか、そういうのに力点を置いているわけでもないようで、つまりはそういう事件の起きた土地、時代、風俗、そういうのをある意味再現することに集中しているような印象がありまして、そこがわたしにはとっても面白かったんです。

 というか、この作品で、事件のファクト(事実)からいちばん遠い所に居るのこそが、ここでの主要なる三人の登場人物ではないかと思えるぐらいで、映画で肝心の暗号を解いてしまうのは、朝食をとりながら新聞を見て「解いてみる?」と軽く会話する高校教師の夫婦だったりするし(ちょっとここは脱力失笑)*1、後半で主人公に与えられる大きなヒントは、もううんざりしてしまった(というか家族を危機に巻き込むような旦那に愛想つかしそうな)奥さんが「これで終わりにしましょ!」と投げ付ける書類の束だったりもするわけで、これはある意味で「謎」から疎外された人たちのドラマとも言えると思うんですけれども、ま、そういう視点からの感想は今日はやらないで、わたしの好きな音楽の話をいたしましょう。えっと、マニアックになりますから読まなくて良いですよ。

 ハリウッドの映画は近年ずっと、昔ヒットチャートをにぎわせたような楽曲を使用することで、その音楽とシンクロした時代背景にリアリティを持たせようとするような作品の作り方が多いのですけれども、例えばその大きな成果は(ちょっと古いですけれども)スコセッジ監督の『グッドフェローズ』とかではないかな、とか思うんですけれども、その時代だけでなく、ドラマの進行にも合わせたような楽曲をバックに流しながらのドラマ造りはとっても刺激的だったわけです。これはもう同じ監督の『カジノ』になるとちょっとばかり選曲がランダムになってしまって、「それはちがうな」って思ったりしたんですけれども、『ギャング・オブ・ニューヨーク』になると、その当時唄われていたであろう伝承歌を取り入れることでわたしを狂喜させて下さったわけで、でもこれは今日の話から脱線。でもこれらの作品の音楽アドヴァイザーは、たしかロビー・ロバートソンの仕事でしたね。

 さて、だから『ゾディアック』の音楽の話をしましょう。もちろんオリジナル・スコアの話でなくて、挿入された既成曲の話です。つまりこれらの楽曲がその時代背景にリアリティを持たせ、しかもその事件の異様性までも浮き彫りにするような効果を生み出していた、わたしはそう思うのです。これは、この作品の舞台となった六十年代後期に、まさしくアメリカとかの音楽のヒットチャートに夢中になっていたわたしにとっても同時代の音楽でもありましたから。

 とにかくこの作品の最初の印象的な殺人シーンですけれども、すごいいきなり「バン」で怖かったですね。思いきり一人称なカメラから、警察が来ると俯瞰になったりするのも効果的だったと思いますし、でも、やはりその時の音楽。それはカメラが一人称ですからカー・ラジオから聞こえる音楽と解釈されるのですけれども、つまりそれはDonovanの「Hurdy Gurdy Man」なわけで、いやね、調べようと思って今家中ひっくり返したんだけれども出てこなくって仕方なくちょっとネットで調べたら、この曲は1968年のヒットだから、この最初の殺人はパンフレットによると1968年12月20日だからもちろん整合してるし、みごとにこの導入部での異様な展開のBGMの役割を果たしています。いやむしろ、その異様さをこの楽曲が際立たせているわけで、このシーンにこの曲を選択したというのは素晴らしい効果を生み出していたと思うんですよ。

 あまりこの曲に親しんだ人もいないと思うのでこの感覚を伝えることは難しいのですけれども、この震えるようなヴォーカルとディストーションのかかったギター音、いかにも無気味で、よくもまあこんな曲が当時のトップテンにまでランクされたものだと感心してしまうのです。Hurdy Gurdyというのは当然古楽器の名称ですけれども、この曲にはそんな楽器の音は聴こえません。ちなみにこの曲の録音時の音楽ディレクターはJohn Paul Jones、そしてリード・ギターはJimmy Pageであります。つまりここには結成前のLed Zeppelinの原型が形をとどめているとも言えるわけで、そういう風に聴くと、実際の所Led Zeppelinの音よりも濃密に黒魔術的、オカルト的なサウンドに聴こえてしまうのは、それは、Donovanという、ドラッグ漬けの星の王子さまのようなキャラクターに負うところも大きいと思うのですけれども、この『ゾディアック』と名乗る犯人の最初の犯行のBGMに、いかにもふさわしい楽曲ではあると思います。それはまさしくこの時代のシスコの背景に流れる音のもっとも悪魔的な部分であったということも出来るでしょう。この曲はこの映画のラスト近くにもう一度流されますが、もうわたしはこの曲を選んだというだけでこの映画に惚れ込んでしまうのですね。

 ほかの映画に使われたDonovanの曲を思い出せば、ガス・ヴァン・サンドの奇妙な『誘う女』のちょっとブラックなラストに流される「Seasons Of The Witch」が印象に残っていますけれども、この「Seasons Of The Witch」は、日本の青山真治監督の『レイクサイド・マーダーケース』では冒頭に使われていました。わたしも映画を造る時にはDonovanの曲を使いたいですね。そうしましょう。

 「Hurdy Gurdy Man」のこと書いたから、だからもう実はこれで書きたいことはおしまいなんですけれども、他の曲のことも書きましょう。その印象的な事件の描写のあとにタイトル・クレジットになだれこんで、ここの文字がまた全部タイプ文字で、消えたあとにゆらゆらと暗号っぽいのが浮かび上がってカッコイイんですけれどもね、ここでバックに流れるのがSantanaの「Soul Sacrifice」で、新聞社の中の描写、曲のリズムに合わせた編集が見事ですけれど、ここでこの曲ということは、モロにウッドストック・フェスティヴァルの空気ですね。それまで無名だったSantanaは、このウッドストックに出演することで一躍スーパースターにのし上がるわけですけれども、そのウッドストック・フェスティヴァルは69年の8月中旬。この時期がちょうど、その新聞社に犯人からの暗号が送りつけられて来る時なんですね。ウッドストックからの余韻はもう一曲、Sly & The Family Stoneの「I Want To Take You Higher」ですね。でも、この曲はウッドストック以後、そのライヴの度に暴動一歩手前まで荒れた彼らの人気、新聞の社会面までにぎわせた彼らの人気の反映と読む方が、その時期的には合っているだろうと思います。

 しかし、あとでパンフレットとか見ると(というか、サウンドトラックに収録されている曲を見ると)、映画を観ていて気が付かなかった楽曲がやたらと並んでいまして、そんなのどこでかかっていたんだろう?って思ってしまって、またそれを確かめたくって観に行きたくなってしまいます。六十年代の曲ではほかにEric Burdon & Animalsの「Sky Pilot」とか、Four Topsの曲とか書いてあるんですけれどもね。

 ちょっとだけ気が付いたのは、そのイントロがかすかに聞こえたTommy James & Shondellsの「Crystal Blue Persuation」かな。これまたヴィヴラート系の音が印象的な歌だったんですけれども。ま、どうも、時代を考えれば当然なんですけれども、その六十年代末期のLove & Peace、そしてドラッグ漬けの西海岸、そういう時代をあらわすような音が並べられたような印象なんですけれども、でも実際の映像にはそんな雰囲気がみじんもないというのがちょっと面白いところで、ヒッピーみたいな人物はまったく登場してこないし、逆になんだか皆とってもスクエアな感じで、それは、冒頭のDonovanの曲以外は、そんな時代風潮とこの事件との落差をあらわしているとも思えるのです。あ、第二の犯行の場面のことをちょっと書いておけば、テクニカラーの絵はがきみたいな風景の前に立つ男女の姿とか、その男女のいっそ五十年代的な髪型と服装*2、アップの時のスクリーンプロセス的な処理、そんなんから、ヒッチコックへのパスティーシュなのではないかな?なんて思ってしまうんですけれどもね。

 使用楽曲リストみていると、Steely Danの「Deacon Blues」とかBoz Scaggsの「Lowdown」なんて曲名も見えて、それもまったくわたしの耳には聴こえなかったんですけれども、それはつまりは八十年代、事件が未解決のまま、街にはヤッピーたちがスニーカーにジャケット姿で闊歩する時代を象徴する音楽になるわけですね。

 そんなとこです。あ、役者さんではロバート・ダウニーJr.の崩れて行くさまがよかったですね。あと、なんと真っ当に家庭を守ろうとする主婦の役なんかやってしまうクロエ・セヴィニーのメガネ姿。ま、やっぱ普通の主婦ではなかったんですけれども。全体に、デビッド・フィンチャーの作品ではいちばん好きだったりするかも知れません。今までみたいにグシャってとんでもないことやるんでなくて、嘘のつき方が巧妙になったという印象です。90%ぐらいホントのこと言ってるように思わせて、あとの10%が大嘘みたいな。やはりもう一度観に行きたいですね。

※どうでもいいことを書き忘れましたけれども、ここに出て来る刑事の焦燥感とか、容疑者の「トレイラーハウス」への家宅捜査の雰囲気(リス=サル)など、黒沢清監督の『CURE』を思い起こされました。おそらくは典拠にされていることと思います。


 

 

*1:その暗号を解いて行く「謎解き」もほとんど語られないことも、この作品の製作姿勢を示していることでしょう。

*2:ってか、この男女、ほとんどジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクみたいなんだけれども

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