ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-08-31(Fri)

[]二○○七年八月のおさらい 二○○七年八月のおさらいを含むブックマーク

 八月、終りました。この月は夏休みとかありましたし、花火大会を観たり、バーベキューパーティやったり、京都旅行したり、普段とは違う楽しい一ヶ月でした。少し体調を壊したのがあれこれ残念でしたが、なんとか早く回復したいものです。

 舞台関係は控えめです。

8/ 4(日)富士山アネット『在処/Sugar』 @アサヒアートスクエア
8/12(日)小林嵯峨+NOSURI『コ/ギ/トーーン』 @シアターバビロンの流れのほとりにて
8/13(月)神村恵カンパニー『ビーム』 @シアターバビロンの流れのほとりにて
8/25(土)少年王者舘『シフォン』 @下北沢ザ・スズナリ

 あと、シンポジウムというか、その下北沢問題で

8/14(火)『SHIMOKITA VOICE』 @下北沢ザ・スズナリ

 これはその演劇人によるシンポジウムと、そのあと夜から青山真治監督の『路地へ〜中上健次の残したフィルム』の上演と、大友良英さんのギター・ソロ。

 美術展は、『ヤン&エヴァ・シュヴァンクマイエル展』@原宿ラフォーレ・ミュージアム。

 映画は以下の通り。って、意外と3本だけだったんだな。

中田秀夫:監督『怪談』
デイヴィッド・リンチ:監督『インランド・エンパイア』
山下敦弘:監督『天然コケッコー』

 そうか、DVDをやたらと観た8月だったのでした。

ジャ・ジャンク−:監督『東(Dong)』
ジャ・ジャンク−:監督『三峡好人(Still Life)』(邦題は『長江哀歌』)
吉田喜重:監督『血は乾いてる』
吉田喜重:監督『甘い夜の果て』
鈴木卓爾:監督『コワイ女』(これは他の監督2作を合わせたオムニバス。他の2作はまったく面白くなくて、記憶にも残っていません)
ボン・ジュノ:監督『グエムル-漢江の怪物』
?????:監督『毛皮のエロス ダイアン・アーバス 幻想のポートレート』
ブリュノ・デュモン:監督『Twentynine Palms』
クリント・イ−ストウッド:監督『ピアノ・ブルース』
マーティン・スコセッジ:監督『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』
田壮壮:監督『呉清源』
黒沢清:監督『ドッペルゲンガー

 この他にも、途中まで観て保留してあるのがあれこれあります。とにかく「傑作」あれこれに出会った八月、でした。

 読書は電車の中で寝てばかりいて、あまりはかどりません。

E・T・A・ホフマン『黄金の壺』
田久保英夫『触媒』
岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
カースン・マッカラーズ『黄金の眼に映るもの』

 あと、ドゥルーズの『フーコー』を途中まで読んだのですけれども、これはフーコーの本自体を読んでいないとさっぱりわからないので、挫折しました。岡田利規さんのは刺激的でしたね。マッカラーズのあとに、これは9月分になるんですけれども、青山真治の『サッド・ヴァケイション』を読んだりしまして、だから米国南部と北九州の風土の差とか考えてしまうのですね。

 九月は後半連休も続きますし、あれこれと計画はあるのですが、観たい映画が押せ押せ気味で、ちゃんと見られないような気がします。今観たいのは、『インランド・エンパイア』をもう一度観るのと、それから『サッド・ヴァケイション』でしょ、『ヱヴァンゲリオン』はどうしようかな? あと、『長江哀歌』をスクリーンで観たいし、それから『ブラック・スネイク・モーン』(いや、このタイトルですからね)でしょ、他にもあれこれあったような。

 

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■ 2007-08-28(Tue)

crosstalk2007-08-28

[] 少年王者舘 第31回公演 『シフォン』 作:虎馬鯨 演出:天野天街 @下北沢 ザ・スズナリ   少年王者舘 第31回公演 『シフォン』 作:虎馬鯨 演出:天野天街 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 天野天街さんの率いる少年王者舘も、今年で旗揚げ25周年になるそうで、つまり1982年からというのは、最初の小劇場ブームの頃になるのでしょうか。とにかく、四半世紀にわたって、独特のひとつのスタイルを継続し、また発展されて来たというのは、実のところもっと評価されてしかるべきもののように思うのですが、いつまでも「知る人ぞ知る」的な孤高の地位にとどまり続けているのは、なにかもったいないような気がしてしまいます。

 少し極論じみたことを書けば、例えば現在のコンテンポラリー・ダンスなどの世界で「こども身体」などと呼ばれるような現象、その端緒は、演劇の世界ではこの少年王者舘や、松本雄吉さんの主宰する維新派などにその起源をたどることも出来るのではないでしょうか。つまりそこでは、大正〜昭和初期の日本の少年少女たちの姿に舞台をゆだねることで、当然かもし出される時代的なノスタルジーあふれる情景と共に、西欧演劇からの逃走線としての機能をも果たしていたのではないかと想像するのです。特にこの少年王者舘の場合、意識的な舌足らずな発声、重心を低くしたガニ股歩行、幼稚園児の制服のような衣装がその幼児性を強調し、その独特の演劇世界を特徴付けるものになっていたと思うのです。

 ただ、演劇の世界で、この少年王者舘や維新派は(この二つの劇団を並列して述べるのは正当な事でもないのですが)どこまでも周辺的存在であり続け、以後(現在に至るまで)、ある意味で孤立の道を歩み続けて来たとも言えるのではないかと思います。

 ま、わたしはその初期から見続けているわけではないのですけれども、この少年王者舘の場合、わたしの観た範囲で、10年ほど前の絶好調の時期から少しづつ影が薄くなり、この3〜4年、先行きが心配になるような気配があったのは事実ではないかと思います。しかしながら昨年の公演で新しい劇団員が増え、その新しいメンバーを交えての習作的な舞台から、完成度に不満を持ったのはたしかですが、次のステップへの期待を抱かせてくれる公演ではあったと思います。

 で、その期待していた新作の公演です。今回は名古屋の井上ひさし(つまり遅筆!)、天野さんが演出のみに専念し、作劇を初めて劇団員の虎馬鯨にまかせたあたりからいつもと違うのですけれども、やはり新展開というのでしょうか、いつもの少年王者舘の「ノスタルジー」+「言葉遊び」という展開が、膨大な「きっかけ」と、舞台を写した映像を舞台に投影する手法、演出で独自の舞台空間に立ち上がるような方法から、その演出技法は引き継ぎながらも、一種「ナンセンス*1」に徹したような作劇に終始したあたりがユニークで、しかもそれはかなり成功していたように思えました。

 「途中から始まって、始まらないうちに終ってしまう物語」という基本メソッドは、いかにも少年王者舘らしい、というか、天野天街さんらしいとも言えるのですけれども、実際にはそこに通底する「物語」は不在で(全体を包括する「風車」とかの話はあるのですが、それ以外は、不連続なディテールの積み重ねこそ基本と見えました)、ただ物語の断片のみが、舞台時間のパラドックスやパラレル・ワールドなどをテーマに、おなじみの永遠に続く(かと思われる)ループや、頻発する、暗転ごとに瞬間に舞台空間を入れ替える演出、映像と舞台とのシンクロなどを交えながら展開するのですけれども、ここで特筆すべきはやはり、新しい女性劇団員たちのはじけ方で、そこにこそ、この舞台が観客にあたえるインパクトの源泉があったのではないかと思うのです。つまりそれは、ナンセンスをナンセンスとして舞台空間/時間に成立させる原動力でもあって、それはまさに「こども」の身体の持つパワーではあると、了解出来るのです。

 いえ、しかしここでわたしが「こども」と言っているのは、ダンスの世界でのような「不安定な身体」を意味しているのではなく、後先を考えないで突っ走ってしまう危なっかしさ、そういうニュアンスでの「こども」なのだ、と言っていいのか、疾走する「まことちゃん」ほどの暴走ではありませんが、そう、朝礼とかで「じっとしていなさい!」と言われてもどうしてもひょこひょこ動いてしまうこどもたち、そういう動きが楽しく舞台を駆け巡る爽快感、そんな動きがこそ、この舞台の根底の「ナンセンス」に、確固とした裏付けを与えているように思えました。

 タイトルの「シフォン」は、おそらくは劇中で少女たちが朗読する「資本論」の「しほん」が「シフォン」に化けたものではないかと思うのですが*2、あまり意味なくて、このあたりの朗読とか、まだまだ未整理な部分は散見される舞台であったのはたしかですが、だからこそ余計に、この新しい展開を見せた少年王者舘の、次回の舞台に期待してしまうのです。いや、新しい「アリス」の物語が生まれても不思議ではありません。その可能性に期待したいと思います。(8月25日観劇)


 

*1:9月5日付記:この文において書いた「ナンセンス」ということばは、いわゆるギャグとしての「意味の無い」ナンセンスのことではなく、「non=sense」、つまり、もっと不条理的なノン=センスのことなんですけれども、ま、あえてこうやって書かなくってもわかることでした。

*2:9月5日付記:これは、もうちょっと踏み込んで「グローバル資本主義」の問題もまたテーマであったらしくって、例えば現在の世界の紛争地域の地名の列挙などということもありましたが、でもやはり説得力のある作劇には至っていなかっただろうという印象はあります。

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■ 2007-08-25(Sat)

crosstalk2007-08-25

[] 『触媒』 田久保英夫:著   『触媒』 田久保英夫:著を含むブックマーク

 なんだかこう、タイムリーなことを書けないまま、ずるずると来てしまって、このブログを継続するモティヴェーションも低下する一方なのですけれども、ここでひとつ、いや、しばらくは、ほとんどどなたも共有出来ないような話題でごまかしてみたいと思います。

 そのしょっぱなですけれども、田久保英夫、もうほとんど忘れ去られようとしている作家の、昭和53年発表の小説、『触媒』の感想です。昭和53年というと、29年前になります。翌年、この『触媒』で、作者の田久保英夫氏は「芸術選奨文部大臣賞」を受賞されているのですが、そりゃあ2〜3年前にあの贋作コピー画伯が受賞したのと同じ賞ですね。

 で、この小説の話ですけれども、意欲作というのか何というのか、ものすごく複合的な、重厚な内容を、かなり綱渡り的な危うさで乗り切ろうとした作品といいますか、それが成功しているのかどうかと言うと、やはりそれは危ういのではないか、そういう読後感を持つ長編小説です。

 物語は、主人公である耕介が、ある意味幼なじみの敦子と結納を交わす儀式の描写から始まって、つまりはそれで、その敦子という女性が、いつもの田久保さんの小説のようにどこか平衡を欠いていて(ここでは精神分析的に「転移恋愛」という症状(?)とされるのですが)、それを主人公が治癒しようとして、まずは大森の旅館の離れを借りて半同棲生活のようなことを始めたり、そのあとは、その半同棲生活でさらに病んでしまった敦子のために長野の山奥の家を借りて、雪の中で共同生活(ここではセックスはなし!の生活なので、ま、同棲ではなく共同生活、ね)を始めたりと、いっしょに泥まみれになるお話なんですけれども、そこにこの小説では、敦子の父である克三という、日本経済界の重鎮みたいな存在が婚約する二人に大きな影を投げかけていて、その敦子のお姉さん岐子、ちょっと歳は離れているのですけれども、そのお姉さんと、戦死した環という男との関係が、現在の耕介と敦子との関係のシュミレーションのように配置され、その環の残した手紙や遺構を耕介が読んだりして、その他にも船員として戦争で死亡した耕介の兄の話、耕介の公務員としての仕事の問題とか、あれやこれやてんこ盛りの話があれこれあって、とにかく結婚式を挙げるまでの物語。

 昭和53年に書かれた小説と言っても、その舞台は昭和30年代の前半のことのようなのですけれども、その時代の、つまり60年安保の頃だと思うのですけれども、そういう時代的な政治背景はまったく出て来なくて、それが環の遺構とかに出てくる、戦時下の日本の情況への言及に比して、バランスが取れていないようには思えます。また、やはり主人公の決断する、最初の半同棲生活とか、次の長野の山奥での共同生活が、展開の中で少々突拍子もなく写ると言いますか、この物語を創作するためにわざわざ危ない橋を渡っているようにも読めるのです。

 しかしながら、とにかくは文章力のある人ですから、その重厚さを合わせ持つディテールは、果汁の滴り落ちる熟した果実を味わうような読書の快楽を、読み手であるわたしに与えてくれるのはたしかです。実は今回はその、十何年ぶりの再読なんですけれども、今回久しぶりに読み直してみて思ったのですけれども、この小説の背後には、かなり辛らつな、男と女の関係としての「愛」と呼ばれる事象への問い直しの視点と言いますか、そういうのが通奏低音みたいに流れているようで、つまりは愛という言葉を借りたエゴイズム、そういう関係への疑問は、媒酌人であった長谷夫妻の関係や、戦時中の環と岐子との関係、そしてメインの物語である耕介と敦子の関係の中にも、ヴァリエーションのようにくりかえし語られることではないかと読み取れます。

 人間の男女の現実とは、もっとぎらぎら脂ぎって、血腥いものではないでしょうか。男と女がお互いに愛着で、暮しはじめても、五年、十年、二十年、とたつうちに、お互いの躰と心の醜さや自己本意を曝け出し、憎しみでたたかい、嫌悪にたえながら、顔をつき合わせることになるでしょう。その時間の中に、最初の愛着など埋れてしまうでしょう。
 でも僕は本当は、いまこころの底から、それをやってみたかった、と思うのです。最初の愛着など、どこへ埋れてもいい。男と女がどんな姿でもいい、全身を恥に晒して、五年、十年と生きて、暮してみたい、そう願うのです。その果てに、最初のものはどこかに掘り起されることはないだろうか、と。

 これは、この小説の終わりの方で引用される、戦時中に環が岐子にあてて獄中からしたためた手紙、その一部なのですけれども、結局、時を隔てて、環の意志を継ぐような形で耕介と敦子はその婚礼の式を迎えるわけなのですが。

 この田久保英夫という作家の持つ、愛や情念への考察、そして文章力とかを考えれば、ある意味では古井由吉と並ぶような大家にもなれたのではないかと、わたしは少しは考えたりするのですけれども、結局どこか、「私小説」と呼ばれるような枠組みに回収されてしまうような要素が強く、いや別に「私小説」を貶めるつもりはないのですが、単純な話、例えば海外文学や古典へとリンクする要素が、この田久保英夫の作品の中にもう少し色濃く現われていたならば、その評価は相当に変っていたのではないかと思うところもあります。田久保英夫という人は、そういうインテリジェンスは充分に持っていた人なのですけれども。

 で、やはりわたしには田久保英夫さんの最高傑作は『しらぬひ』かな。再読してみましょうか。


 

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■ 2007-08-11(Sat)

crosstalk2007-08-11

[] 『怪談』 監督:中田秀夫 原作:三遊亭円朝「真景累ケ淵」 脚本:奥寺佐渡子   『怪談』 監督:中田秀夫 原作:三遊亭円朝「真景累ケ淵」 脚本:奥寺佐渡子を含むブックマーク

 例えば先日観た黒沢美香さんのソロ・ダンスとか、サッシャ・ヴァルツの『ケルパー』とかの感想を書いておきたいなぁとか思っているのですけれども、なんだかうまくとっかかりが見つけられないし、どうも最近映画についてばかり書いてしまいますけれども、また映画の感想です。

 先日DVDで観た中田秀夫監督の『仄暗い水の底から』が、どうもあまりしっくりこなかったし、この新作の評判も、ネットとか見ていると「いまいち」という感じで、ま、あまり期待しないで観ましょうと、軽い気持ちで観に行ったのですけれども、思いのほか感心することの多い作品に仕上がっていまして、ちょっとね、こう、映画の面白さを堪能させていただきました。

 ひとつにはやはり、この作品が本格的な時代劇を目指して創られているということの、その、美術ですとか、とりわけ衣裳(特に新吉の衣裳の藍色とか、印象的でした)ですとか、ちょっと意外だった殺陣ですとか、そういうのがかなりきっちりと組み立てられていて、日本映画のなかの、「時代劇」という伝統、と言ってもいいと思うのですけれども、そういうのを継承しようとする気持ちが伝わって来ます。ま、近年はそういうプログラム・ピクチャー的な時代劇、という制作方式もありませんから、「時代劇」という時には皆それぞれにがんばろうとされるのでしょうし、わたしは他の作品をあまり観ていないので、この作品を観ただけでどうこうは言えないのですけれども*1、そういう意志ですね。それは受けとめられました。

 まずわたしが感心してしまうのは、この脚本の持って行き方なんですけれども、原作落語のテーマみたいな、「因縁」という要素を、極めて視覚的な次元(目の上の傷、草刈り鎌など)にとどめて、なんて言うんでしょう、こう、一種「エリザベス朝演劇」みたいな、血みどろの悲劇にうまく仕立て直しているあたりが、いいな、って思っちゃうんです。

 この三遊亭円朝の原作、「代々続く因縁」というモティーフを強調するためでしょうけれども、物語として連続しないいくつかのパートに分断されている印象がありまして、つまりこの作品で「呪い」を発信する豊志賀(つまり黒木瞳の役ですけれども)の、その父が新吉の父深見新左衛門に斬殺される、そもそもの発端があって、このあとに原作では新左衛門の長男新五郎と、豊志賀の妹「お園」との、「因縁の始まり」的な短い悲劇が挿入されていて、そのあとに本編的な新吉の物語があるのですけれども、その新吉の物語も、その後半には全体の三分の一ほどにもなりそうな、本来の「因縁」から離れた長い長い「お隅」の仇討ちの話に費やされたりして、面白いんですけれどもね、ちょっと全体の構成としては冗長な構成になっている原作だ、ということは言えると思います。

 で、奥寺佐渡子さんという人の手になるこの脚本、わたしが感心したのは、その「因縁譚」的な原作の主題を背後に回しこんで、新吉という男の「悲劇」に的を絞った作劇にしていたことがあって、それを中田監督がうまく救い取って、単に「こわい」とかそういうのを超えた、一種神話的なまでの悲しさ、哀れさを画面に定着させることに成功していたのではないかと思うのです。

 つまりこの新吉という造形の悲劇とは、何と言うんでしょう、優柔不断で、シャイで、でもグッド・ルッキング・ボーイであることの悲劇っつうか*2、まわりは彼にどんどん惹き付けられて、夢中になるんだけれども、新吉自身はほとんど空っぽというか、いつもその相手の夢中さに引きずられてしまう、そこから生まれる悲劇というテーマに大きく書き換えた成果が、この作品にはあるのではないかと思います。

 その新吉という造形、尾上菊之助がほんとうに見事です。ほとんどお人形のように、ただ情況の中でただようだけのような、これはやはり歌舞伎の所作のたまものなのでしょうけれども、単なるグッド・ルッキング・ボーイであることが素敵で、とにかくその最初から彼が着ている藍というか紺の着物がすばらしくて、その着こなしもさらに見事で、つまり男が着物を着るとき、その襟とか、前合わせ、特に腹部のあたりとかでどう余裕を持たせて振る舞うか、これはTシャツばかり着ているわたしなどにとても判断できることではありませんが、観ているだけで「ホォ〜」って、感嘆してしまうようなシーンもありました。つまり、ある意味で「ただお人形のような存在」というか、何を考えているのだかわからない、いつも回りに流されてしまうだけのフワッとした人物に、しっかりと実在感を与えています。これはつまり脚本と、演出と、その演技者の生み出した見事な成果だと思うのですけれども、特にその、発端の新吉と豊志賀との出合い、馴初めですが、これは原作の円朝の「真景累ケ淵」では、文庫本のページ数でも2〜3ページ、つまりアッという間に二人はもう同衾し始めるような、そんな「出合い」なんかどうでもいいよ的な描写なんですけれども、これがこの映画では、二人が出会ってからいっしょになるまでに、おそらくは20分ほど、かなり膨大な時間を費やしています。

 これはこの長い原作の映像化ということを考えれば、なかなかの英断といいますか、だから「どこを端折るか」というようなやり方ではなく、この二人の出合いは、原作を超えて思いきりしつこくやる。で、何をしつこくやったかというと、それは新吉という男のシャイネス、優柔不断さを描くための引き延ばしで、この長さがあってこそ、この作品の悲劇性が際立ったのではないかと思います。特に印象に残ったのは、その、江戸に雪が降り始めた時に、どこかの店の軒先で豊志賀と新吉が出会って、立ち話をして、つまり豊志賀が新吉を誘うのですが、新吉がなかなか動かなくて、豊志賀は「(この雪は)積りはしないよ」などと言うのですけれども、で、次にロングショットに切り替わると、もうあたりに雪が積もり始めていたりするシーンで、ちょっと笑っちゃったのですけれども、ここらあたりの描写でも、その豊志賀と新吉との関係が読み取れます。

 だから、この映画では、新吉はちっとも悪くない。原作ではその後半でどんどんと堕落して、特に「お累(麻生久美子だね!)への仕打ちなんか、「これはもう非人間だね」みたいな残虐さで、「こんなヤツ、殺されても仕方がないさ」となってしまうような造形なんですけれども、この映画では、お累にもそんなひどいことしないし、そのお累といっしょになるのも、これは彼の例によった優柔不断さゆえであることが、この作品では強調されます。ちっとも悪くない新吉、なんですね。

 おそらく、この映画作品の中では、新吉がほんとうに自分から積極的に動いて、いっしょになろうとしたのは、「お久(井上真央)」に対してだけだったのではないかな、そう見えるのですけれども。

 そんな「悪くない新吉」だからこそ、終盤の殺陣回りでの、橋の上で「どこまでいけば気が済むんだぁ!」と絶叫するシーンがやはりあわれで、もうここではほとんど「古典」の風格さえただようような作品になっていた気がします。

 その脚本のことを書けば、原作の換骨奪胎ぶりは本当に見事で、省略された部分を他に生かすやりかたとか、うまいなぁって感心してしまいました。例えば「お賎(瀬戸朝香)」っていうのはかなり悪女なんだけれども、その省略された部分から「鎌」をネタにした恐喝をお賎にやらせるのなんか、この部分の省略の仕方としてもスッキリしていたと思いますし、何と言っても、原作ではアッという間にいなくなってしまう豊志賀の妹の「お園(これが木村多江でね、いいんだなぁ)」をまったくオリジナルによみがえらせて、そのラストの印象的なシーンへの橋渡しをさせたのなんか、わたしには「感嘆」でした。

 円朝の原作「真景累ケ淵」での「真景」という言葉は、実は「神経」の言い換えで、それは明治以降の西洋的合理主義の流入で、幽霊などというのは、つまりは神経(神経症)で観ているにすぎないのだ、という解釈から来ている言い方で、つまりは「怪談累ケ淵」を明治的に言い換えたというのが真相のようですけれども、この映画作品でも、最初に豊志賀が死ぬ時に、その亡霊が他の場所に現われるのこそは、それは「幽霊」なのだろうとは思うのですが、それ以降に出てくる怪異現象は、たしかに新吉の神経からのみあらわれたモノであるとも言えると思いますし、それはこの物語を新吉の一人称物語として了解させるものとして、「真景」ではあるのでしょう。

 でも、中田秀夫監督が、この作品をあえて『怪談』というタイトルにした、というのは、これは『ホラー』ではなく、やはり『怪談』なのだ、という主張なのではなかったでしょうか。あ、こわいというのでは、あの「赤ちゃん」、もう原作なんかの比ではなく、視覚的に、とてつもなく怖かったです。

*1:例えば、この作品に出てくる「累ケ淵」という表札ですか、あれの作りはひどいなぁとか思うのはたしかなんですけれども。

*2:こ〜ゆ〜の、わたし、よくわかるの(苦笑/爆笑)

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