ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-09-30(Sun)

[] 鉄割アルバトロスケット『たこまわせ』 戊井昭人:戯作 牛嶋美彩緒:演出 @下北沢 駅前劇場   鉄割アルバトロスケット『たこまわせ』 戊井昭人:戯作 牛嶋美彩緒:演出 @下北沢 駅前劇場を含むブックマーク

 ずいぶん昔、以前自分のイヴェントをやっていた頃に、何かの自主映画上映会で一目観てすっかり気に入ってしまって、毎回自分のイヴェントでその作品を上映していただいた映像作家がおったのですけれども、その「バカ映画」の巨匠、なにわ天閣さんの持っていた、逆照射する批評性、そういったものを現在の舞台で現前させているのがこの「鉄割アルバトロスケット」なのではないか、などと思っているのですけれども、ま、そこで共通するのは低予算のチープさと、同時にそのチープさから現出する乱暴狼藉をつくした越境性、そういうものを感じてしまうわけです。

 例えばそのなにわ天閣さんの人形アニメーション『バットマン』という作品では、本編わずか1〜2秒の作品に、附随するメイキング映像は本編の10倍以上の上映時間がかかる(!)などという、それはこちらも乱暴な気分で言ってしまえば、それは映画製作技術へのシステムにとらわれない狼藉(悪意)であったり、「個」から「全体」へのあらんかぎりの復讐(リヴェンジ)なのだ、などと大げさにとらえてしまうのがわたしという人間なのですが、そのような姿勢はまた、「BAKA」という共通するキーワードからも、舞台表現としてこの「鉄割アルバトロスケット」にまた顕著な特徴なのではないかと思います。それはある面では「芸術」などと呼ばれる表現行為への悪意であり、逆に単純な対抗としての「サブカル」などとひっくくられてしまうようなことへの「NON!」でもあるでしょう。

 休憩をはさんで暗転でつないでいく細切れの、40近い数のコントの連続は、あれだよね、Residentsの「Commercial Album」とか思い出してしまったりもしますし、そう、今回この「鉄割」が繰り出す音楽ネタからも、彼らの姿勢が読み取れるようにも思えるのです。

 客入れの段階で流れるNick Drakeの曲はそのまま「あしくみドレイク」の中に引き継がれますし(メンバーの奥村さんは実際にNick Drakeに似てるんですけれども)、開演すぐに飛び出す音楽はFrank Zappaの「Peaches En Regalia」に日本語歌詞をつけたものだし、これまたLou Reedの「Wild Side」の日本ヴァージョン(「ワイルドサイド歩きっぱなし」)、そして今回はブルース特集という感じでの、Robert Johnsonネタ(「悪魔にタマを売りたい男」)とか「Black Snake Moan」ネタ(「黒ヘビのうめき」)。こうしてみると、彼らの舞台構成の向こうには、たとえばFrank Zappaが、バンドメンバーの卓越した技術の裏打ちから完成させた「We're Only In It For The Money」や「Absolutely Free」のような、ごった煮コラージュ、シュミレーションの方法論が垣間見えるように思えるのです。

 だから、「鉄割」の場合にも、実は卓越した舞台上の身体に裏打ちされた、エンターテインメントにもハイ・アートにも吸収されない暴力的な悪意こそが際立って体験されるのです。こう、わたしはもうずっと、そんな「ハイ・アート」とかいわれるような表現にうんざりしておりますからね。最近は、いつぞやは面白かったコンテンポラリー・ダンスとか呼ばれるジャンルも、ちょっと「ハイ・アート」気味になってしまったようで、もう面白くない。そういう時にこの「鉄割」なんかの悪意と毒にあふれた舞台を観てしまうと、わたしなどはホッとしてしまうのですね。あぁ次の「鉄割」は来年ですか。待ち遠しいですね。(9月22日観劇)


 

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■ 2007-09-27(Thu)

crosstalk2007-09-27

[] 『サッド ヴァケイション』青山真治:原作・脚本・監督  『サッド ヴァケイション』青山真治:原作・脚本・監督を含むブックマーク

 青山真治監督の作品タイトルは、基本的になにかの歌のタイトルから取られているのですが、今回の「Sad Vacation」は、Johnny ThundersがSid Viciousへの追悼を込めて書いた曲だそうで、わたしは全然知りませんでした。で、この映画が公開される前に、昨年刊行された原作の小説を読んでいたのですが、映画を観てみると、それはもうほとんど脚本でしょうが、というくらいに小説=映画みたいな出来になっていて、ちょっと面喰らってしまいました。

 『Helpless』と『ユリイカ』をつなげるという、そんな、『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』をつなげるような(全然違うけれど)暴挙は堪忍して欲しいのですけれども、ここ、『サッド ヴァケイション』では、あくまでも『Helpless』の続編、というニュアンスで、しかもなぜか(というか、ついに)中上建次的な展開で突っ走り、せっかく(?)『Helpless』や『ユリイカ』で展開していた「血縁家族からの逃走」〜「新しい関係での疑似家族の可能性」から、ここではまた血縁の問題に立ち返ってしまったような印象があります。また、モラル的な問題への回帰(血縁=モラル、という意味ではありませんが)というのは、例えば小説での『ユリイカ』の展開などでも気になっていた所ではありましたし、う〜ん、卑俗な感想ですが、結婚してしあわせだからこういう映画になりました、って、どうなのかなぁと思う所がないわけではありません。

 あと気になるのは、今後の展開が読めてしまうところで、つまり原作小説ではもう少し自己主張していた後藤という男を、オダギリ ジョーが演じているわけですけれども、それと、『ユリイカ』からの流入組の宮崎あおいが、この作品では積極的なアクトを行っていないこと、ラスト近くのこの二人の身を寄せあう姿などを見ると、あ、これは浅野忠信クンが出所してくる前にこの二人で一本映画が創れますね、という感じですし、もちろん浅野クンは石田えりともう一勝負することになるでしょうし、そのためにこそキャスティングで石田えりを選びましたね、てな風に読んでしまうのですね。

 ちゃんと感想を書けば、そういう「母権」ということを描くのはわかるのですけれども、まるで種馬のような存在にされてしまう中村嘉葎夫という人、ああいう運送店を営む人の内面が、最後の妻へのビンタひとつで言い表せるものなのか、つまり、この「間宮運送店」の中にこそ、今までの青山監督の作品での、先に触れた「新しい関係での疑似家族の可能性」が顕然しているのだと思うのですが、そのことをもう少し、今までの彼の作品の経緯から言えば重みを加えて描いて欲しいという気持ちがありました。

 と言いながらも、この作品の映像の、湿っているような乾いているような、その独特のタッチには惹かれます。やはりわたしは青山真治という監督が好きなのですが、これはパンフレットで甲斐プロデューサーが発言していることですけれども、青山監督の変化として、その音楽の使い方を指摘しているわけで、いやわたしもね、この作品での音楽のはめ込み方には、ちょっとずっこけました。「なに、それ?」ってのは、あちこちで感じました。冒頭の宮崎あおいの「八月の濡れた砂」とか、最後の奇妙な「GHOSTS」は好きですけれども。

 わたしも北九州の生まれですから、例えば光石研さんとか、そして板谷由夏さんのしゃべるネイティヴな北九州言語にはやはり反応してしまいますし、舞台になる「間宮運送店」のそばに見える若戸大橋の赤い橋脚の姿、これには言葉にならないノスタルジックな思いもあります。ま、だから、次は宮崎あおいとオダギリ ジョーでもって、その北九州で次回作を作って下さい。必ず見に行きます。


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■ 2007-09-26(Wed)

[] Experimental Body vol.5 室伏鴻×黒田育世『ミミ MIMI』演出/構成/振付/出演:室伏鴻、黒田育世 @赤坂RED THEATER  Experimental Body vol.5 室伏鴻×黒田育世『ミミ MIMI』演出/構成/振付/出演:室伏鴻、黒田育世 @赤坂RED THEATERを含むブックマーク

 ある程度想像はついていたのですが、思いのほかエンターテインメントな仕上がりで、コアな部分でこの二人の名前から想像出来るようなハードな展開はあまり見受けられないような、そんな舞台ではありました。えっと、基本的にこの趣味は室伏さんのモティーフではあると思うのですけれども、つまり身体ひとつで異形の姿を演じるということ、そこに黒田さんという共演者を得て、その表現に幅を持たせるというか、一種ドラマティックな構成を演出するというのは、それはそれで成功していたのではないかと思います。

 全体をそれぞれの間に暗転をはさみながら7部ぐらいの構成で、そのおのおののラストがひとつ前の冒頭につながる構成、つまり全体がループするような構成は、それぞれのパートをより印象づける効果は生み出していたと思いますが、それはそれで舞台空間のみが浮き上がってしまうような印象もあって、つまり、観客はほんとうはもうちと「ガチンコ勝負」みたいなのを本当は期待していたのだと思いますし、そういう意味ではちょっと趣味的に流れてしまったこの舞台に、観客の不満も出てくるのではないでしょうか。

 ただわたしはそれなりに、そのお二人の繰り出す異形の姿とかを面白がって観ていた部分もありまして、暗い室内のような舞台と、椅子ですね。あの椅子の使い方こそがティピカルだとの批判も聴こえそうですけれども、そういうドラマつくりというのであれば、椅子を契機とした物語空間を展開するというのは納得することも出来ます。

 観ていてあれこれと、そういう異形の姿を思い浮かべていて、それは連想ゲームなんですけれども、ま、そういうので楽しませていただきました。

f:id:crosstalk:20070927183454j:image:right ちょっとわたしが連想した事柄を書いてみると、冒頭の黒田育世さんが四つん這いでずるずる進むシーンは、やっぱ黒田さんは並のパフォーマーではないなって思わせるものがあったのですけれど、ここはイールズ(eels)というバンドの古いアルバム、「Beautiful Freak」のジャケットを思い浮かべていました。これ。


f:id:crosstalk:20070927183633j:image:left あとはやはり室伏さんの異形ぶりは堂に入ったものがあって、ここではドイツ表現主義的な空間、とりわけムルナウの「ノスフェラトゥ」だよね、とか、その通俗版のドラキュラとか、あれこれ思い浮かべたのです。

 「ノスフェラトゥ」は好きなので、1枚おまけで。

      f:id:crosstalk:20070927183755j:image

f:id:crosstalk:20070927183840j:image:right そして室伏さんと黒田さんが舞台上で並ぶと、そこには「フランケンシュタインの花嫁」の世界が現前していましたのですね。

 この舞台での音は松本じろさんで、わたしは彼の音づくりとは古い付き合いなので、あまり苦言は言いたくないのですが、今回の舞台、もう少し音響を大きく取って、ノイズ的な側面を強くすれば、舞台の印象はもう少し違って見えたような気もします。おっと、その舞台の途中で室伏さんがポータブルプレーヤーでかけた音源は、懐かしい「Cabaret Voltaire」だったそうですが、やはり一度室伏さんには自分のお好きな音楽で踊り狂っていただきたいような気がいたします。


 

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■ 2007-09-25(Tue)

crosstalk2007-09-25

[] 『ブラック・スネーク・モーン』 クレイグ・ブリュワ−:監督・脚本  『ブラック・スネーク・モーン』 クレイグ・ブリュワ−:監督・脚本を含むブックマーク

 奇妙なタイトルは、もちろんブルース・シンガーのブラインド・レモン・ジェファーソンの持ち歌からで、わたしの知る限りでももっとも不穏な響きを持つソング・タイトルで、とにかくこの歌のタイトルをそのままいただいた映画であれば、もうそれだけで観ないではいられない。しかも主演の二人はサミュエル・L・ジャクソンとクリスティーナ・リッチなのだから。

 いきなり伝説のブルース・シンガー、サン・ハウスのモノクロの映像が流れて、これは最近自宅でレンタルで見ているマーティン・スコセッシ総プロデュースの「ブルース・プロジェクト」連作のどれかでも使われていたもので、「ブルースとは何か」ということを話している画像。ここでサン・ハウスは、ブルースとは愛し合う男と女のいる所から生まれるものだと語り、その愛がうまく行かない苦しみや悲しみを歌うのだ、とかいう話をするシーンですね。

 だから、この作品はまさにブルースの映画だと言えるわけで、その舞台はメンフィスで、主人公のラザラス(サミュエル・L・ジャクソン)は、かつてブルースのミュージシャンだったのが信仰に目覚めて農作業に精を出して教会に通う生活で、この設定がまず典型的で面白いですね。それが、妻が弟と浮気しやがってめんどい離婚問題を抱えていて、そんな時にレイという女性(クリスティーナ・リッチ)が自分の家の前に棄てられるように転がっているのを見つけて、そのレイという女性の素性を聞いてまわると、これがとんでもないアバズレというか、つまりはセックス依存症(これもいろいろ理由がありましてね)の女性だとわかり、これを鎖でつないで自宅で更生させようという、ま、とんでもないお話ではあります。これがなぜブルースの映画かというと、その主人公二人、厳密にはそのレイの恋人の不安神経症(?)のロニー(ジャスティン・ティンバーレイク)という存在もあるんだけれども、登場人物の内面の不安というかねじれ、その癒し、それこそが主題になっていることだと思うのですけれども。

 ラザラスはレイを自宅に監禁するわけなのだけれども、それは例えばジョン・ファウルスの『コレクター』のような異常愛のかたちを描くのではなく、これが意外にもストレートに救済への道をまっしぐらに描かれるのがこの映画の独特なところで、思いがけずも人の心への信頼が十全に機能する、夢のような美しい物語に収束していきます。それはこの時代の人々の救済への希望のあらわれともとれて、しかも単なる「いい話」として語るのではなく、その救済への希求を非常にアグレッシヴに描いている所が、とっても気に入ってしまいました。

 この作品の魅力は、やはりその映画的な力で、随所に使用されるスローモーションも効果的で、とりわけわたしは、野道の真ん中を歩くレイの後ろに巨大なトレイラーが迫って来てクラクションを鳴らし、それにレイが腕をあげて中指を立ててみせるシーン、ここでのスローモーションにかぶさって画面の上から「BLACK SNAKE MOAN」という、黄色と赤の大きなタイトル文字が降りてくるのが快感で、もう一度このシーンだけでも映画館で観てみたい、このタイトルシーンはほんとうにお気に入りなのです。

 それから、外で雷が鳴り響く嵐の夜に、ラザラスが久しぶりにギターを持ち出してレイにその「Black Snake Moan」を演奏する場面の、おとぎ話のような美しさとか、そのラザラスの久しぶりの酒場でのライヴのカッコよさとかね、いやとにかく楽しい映画なのでした。


 

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■ 2007-09-22(Sat)

[] イデビアン・クルー 『政治的』 振付:井手茂太   イデビアン・クルー 『政治的』 振付:井手茂太を含むブックマーク

 何もない事務室のような空間に蛍光灯による照明。「政治的」というよりは企業内人間関係の戯画化された舞台という印象を受けましたが、その舞台上、左右に分けて設置された白いステージの、上手側はフラット(平ら)なのだけれども、下手側はその奥が高く傾斜しています。その二つのステージにはそれぞれ奥から通じるドアがあって 、でも左右二つの白いステージの間には幅1.5メートルぐらいの何もない空間、ほとんど「深淵」、「谷間」のような空間があって、基本的にはここを横切って左右の舞台を行き来することはしないようです。という、そんな舞台構成にいちばん興味をひかれました。

 ダンス自体は最近のイデビアンらしく、特に今回は人と人との上下関係とか、命令系統を前提とした動きがメインですから、具象的にわかりやすくも独特のグルーヴ感をともなったダンスが展開されます。その冒頭、スーツ姿の男女が踊り始めた時には、一瞬、ローザスのアクターランドの幻影が頭をよぎりますが、そのスーツ姿のダンサーは基本的にその上手の舞台で動き、下手側の舞台で踊るのはもうちょっとラフな、統一されない衣装のダンサーたちで、つまりは上手の舞台は正社員、下手はアルバイトとか派遣社員の場所、なのでしょうか。まさか自民党と民主党ということはないでしょう。

 その上手と下手で同時進行で別の展開が繰り広げられるケースが多く、つまりはどっちかを見ていると反対側で何をやっているのかわからなくなり、ひょっとしたらその、観客の眼、どっちの舞台を見るかという選択こそに、井手さんは「政治的」というタイトルを付加したのかも知れませんね。そこで、二つの舞台の間の深淵が「存在しない空間」のように、二つ並んだステレオ写真の間の空白のように、虚空としてあらわれるさまこそが興味深かったのです。(9月16日観劇)


 

■ 2007-09-20(Thu)

crosstalk2007-09-20

[] 『melody mountain』 susanna and the magical orchestra   『melody mountain』 susanna and the magical orchestraを含むブックマーク

01.hallelujah (Leonard Cohen)
02.it's a long way to the top (AC/DC)
03.these days (Matt Burt)
04.condition of the heart (Prince)
05.love will tear us apart (Joy Division)
06.crazy, crazy nights (KISS)
07.don't think twice, it's all right (Bob Dylan)
08.it's raining today (Scott Walker)
09.enjoy the silence (Depeche Mode)
10.fotheringay (Fairport Convention)

 というわけで、その『スクール・オブ・ロック』のラストに演奏されるのが、AC/DCの「It's a Long Way To The Top」という曲なのですけれども、そんな、AC/DCなどというバンドを、わたしが聴いているわけもありません。ヘッドバンギングも短パンも好きではありません。それでもそのラストでその曲が流れた時、「あ、知ってる」と思い当たったのは、実はその少し前にこのアルバムを買って聴いていたせいです。

 ノルウエーの人だというスサンナ・カロリーナ・ヴァルムルーのヴォーカルをフィーチャーした、このアルバムは彼女の2枚目のアルバムで、全10曲すべてカヴァー曲ばかり。で、「マジカル・オーケストラ」などと名乗っているバックバンドですが、実際にはモッテン・クヴェニルという人ひとりだけが、ピアノとか教会オルガンとか、あれこれのキーボードを音数少なく密やかに弾いているだけで、「オーケストラ」というのは誇大広告っぽいですね。

 その選曲が、さっき書いたAC/DCだとか、プリンスだとかキッスだとか、かなりビートの効いたような選曲に思えるのですが、実際のところ、これはもうギリギリまで音をそぎ落として、もうほとんど無伴奏一歩手前みたいなアレンジで、このスサンナさんのヴォーカルというのがまた、ウィスパー・ヴォイスというのとはちょっと違うのですが、語りかけるような静かなシンギングで、わたしにとってこれは、深まりゆく秋の夜長に、ひとりしっとりと聴くにはぴったりの音楽なのです。

 とにかく、ほとんど聴いたこともないアーティストのこんなアルバムを突然買ってしまったのは、某CDショップの店内で彼女の別のアルバムがかけられていたのを聴いてしまったせいなのですが、その、その時かかっていたアルバムではなくて、こちらのアルバムにしたのは、その1曲目のレナード・コーエンの「Hallelujah」、5曲目のジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」、そして、最後のフェアポート・コンヴェンションの「Fotheringay」という、わたしの大好きな曲が並んでいたせいではあるのです。

 このシンガーの特徴は、その1曲目、レナード・コーエンの「Hallelujah」のアレンジ、歌唱によくあらわれていると思うのですが、ほとんどリズムも認識出来ないほどにゆっくりと演奏されるオルガンの、途切れ途切れの音にかぶさるように、歌うというよりも朗読ででもあるかのように、その歌詞の意味を伝えることに専心するようなシンギング。いや特にメロディーラインを崩すようなことはしていないのですけれども。特にこの「Hallelujah」は、それこそ歌詞が重たいですからね、歌われる意味を理解しながら聴ければ、それこそ涙もこぼれ落ちるかも知れません。

 どうも聴いていると、彼女たちは、その伴奏にせよ、歌唱にせよ、わざとでしょうけれども、一定のリズムをキープしていないようです。こう、ふらふらしている。その一種不安定さが、逆に聴く耳に引っ掛かってしまう。そういう戦略なのでしょう。卓越したキーボードでも歌唱でもなく、さらに卓越したアレンジというわけでもないこのアルバム、ある意味「雰囲気モノ」として、ま、こういうのを無性に聴きたくなってしまうことも、人生の中でそういう夜もありますよと、そういう夜のための一枚でしょうか。もちっと若い頃ならね、女の子が自分の部屋に来たりしたら、こういうアルバムでね、蝋燭かなにか灯して、そういう作戦(どういう作戦???)を練ってもいいのですが。

 あ、そのAC/DCの、「It's a Long Way To The Top」ですけれども、チェンバロと教会オルガンを使ったバックが(この曲に限って)重厚で、教会音楽になってしまったヘビメタも乙なものです。わたしはこの曲が一番好きかな。


 

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■ 2007-09-19(Wed)

crosstalk2007-09-19

[] 『スクール・オブ・ロック』 監督:リチャード・リンクレイタ− 主演:ジャック・ブラック   『スクール・オブ・ロック』 監督:リチャード・リンクレイタ− 主演:ジャック・ブラックを含むブックマーク

 いつも書きはじめると2000字ぐらい書いてしまうので、これからは半分の文字数で書くことを目指します。やはりわたしの場合、文章が長くなるのは文才のなさ故です。

 さて、なんでこんな作品を観てしまったかといいますと、「ユリイカ」の大友良英特集号を斜め読みしていたら、大友さんとカヒミ・カリイの対談で、この作品でのジャック・ブラックの衣装のモデルはジム・オルークなのだっていうことだったものですから、つい、借りて観てしまいました。で、観てみると、そのオーディオ・コメンタリーで、この監督さん(つまり、リチャード・リンクレイタ−という人)がしゃべっていて、この作品の冒頭のタイトルの部分はケネス・アンガーの「スコーピオ・ライジング」へのオマージュなのだ、などと、とんでもないことをしゃべっていました。

 えっと、この作品は、そのジム・オルーク、そして、ケネス・アンガーへの侮蔑ですね。ここでその名前の上がった、その二人のアーティストが持っている「毒」、そのかけらもこの作品には見当たりません。ロックとはきっと、この作品のように教室で黒板に書いて教えられるようなものではないはずですし、映画とは、この作品のように教科書的なショットの繰り返しから一歩も外れることの出来ないような、平板な紙芝居ではないはずです。そう、この作品のラストの室内でのライヴの光景の貧弱さをみると、いかにリンチの『インランド・エンパイア』のラストが卓越していることか。ま、比べること自体無意味ですが。

 しかしまぁ、ガキンチョに教室でロックをご教授しておきながら、その肝腎の本番ライヴではそのガキの真ん中でフロント・アクトを勤めてしまう先公って何者よ!って感じですね。ま、映画の冒頭でダイブして気絶したジャック・ブラックが、気を失っている間に見た夢物語なのでしょうけれどもね。

 いずれジャック・ブラックには彼の「ブルース・ブラザース」を造って欲しいのですけれども、こんな作品に出演してその道を遠回りすることもないでしょうに。

 ということで、こんな作品のことから久しぶりに書き始めるのには、ちょいとわけがないわけでもありません。これをきっかけにして、少し連続してこのブログを書き継いでいこうという魂胆がありますので、ま、いままでよりはもうちっと頻度を高くして更新して行きたいと思っています。


 

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