ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-10-31(Wed)

[]二○○七年十月のおさらい 二○○七年十月のおさらいを含むブックマーク

 朝日新聞の論説委員が、「アベする(つまり、バッくれることだな、)」ということばが流行っている、みたいなこと書いたら、「そんなん流行ってるわけねぇジャン」との反論がネットを中心に拡がって、それでもその論説委員は「わたしの周りではたしかに言っている人はいる」みたいにまた言い出したというニュースはだいぶ前に聞いていましたけれど、今度は東京新聞のヤツ、いえ、東京新聞のお方が「アベする」を擁護して、流行語大賞に推するなんて言い出したようです。

 「アベする」。言うわけがない。「アベっちゃう」という言い方の方があり得るけれど、言わないでしょう。つまんないもん。ってぇか、ダサい言い方。それでもなお、「いや、わたしの周りでは言っている」というのであれば、彼がいかにバッドなセンスの環境の中で生きているかということを示しているだけで、それが「アサヒ新聞」であれば、そういうものだろうと思います。以前にもここで、岩波文庫からみで奇妙な書店論を展開していた「天声人語」を取り上げたことがありますけれど、アサヒは本当にずれています。今回はそれに加えて東京新聞も仲間入りされたというか、ま、やはり新聞ジャーナリズムというのは、本来的にそういう部分でわたしなんかの感覚とは決定的にずれているのでしょう。

 てなことで10月のおさらいです。そういうわけで健康を害しましたので、それに来年の2月とかはいろんな公演が重なって大変なことになりそうですし、年内は少し控えめに抑えたいと考えています。その成果がさっそく10月にあらわれましたか。

舞台は三つだけ。

●10/6(土)指輪ホテル『EXCHANGE』@飯田橋 theatre iwato
●10/7(日)モダンスイマーズ『楽園』@三鷹市芸術文化センター 星のホール
●10/27(土)カノコト『社会が始まる前に』@お茶の水 Free Space カンバス

映画なんか一本だけ。

●ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』

そのかわり、ギャラリー廻りは珍しく三件。これはつまりお金がかからないから。

●李禹煥展 @谷中 SCAI THE BATHHOUSE
●Giovanni Ferri個展 @広尾 工房“親”
小西真奈展 @新富町 ARATANIURANO

それから、西日暮里のHIGURE17-15 casで、伊藤篤宏さんのオプトロンのパフォーマンスを楽しんで来ました。

DVDについても、これもあまりお金がかからないのでそれなりに。『悪魔とダニエル・ジョンストン』、『善き人のためのソナタ』とかは楽しみましたし、やはり『回路』は傑作でした。『ナルニア国物語』は、『くまのプーさん』に続いてまた、ディズニーに昔の想い出を壊されてしまいました。観なければいいのに、『パンズ・ラビリンス』が面白かったのでつい。

●ポール・ジャストマン『永遠のモータウン』
●マイク・フィギス『レッド・ホワイト&ブルース』
●ジェフ・フォイヤージーグ『悪魔とダニエル・ジョンストン』
●安里麻里『独立少女紅蓮隊』
●黒沢清『回路』
●青山真治『なんくるムービー あじまぁのウタ 上原知子−天上の歌声』
●アンドリュー・アダムソン『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』
●フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『善き人のためのソナタ』

読書は、現在ドゥルーズの『反復と差異』に挑戦中です。通勤の帰りの電車の中でだけ、ゆっくりと読んでいるので、三週間ぐらいかけてもまだ上巻の半分ぐらいです。実際に反復しながら螺旋状に深化して行く文章が刺激的で、とりわけ、この財津理さんの翻訳がすばらしいのです。年内に読み終わるでしょうか? それに反して、キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』の翻訳姿勢のいいかげんさに、ちょっと腹を立てたりしました。

●ガブリエル・ガルシァ=マルケス『コレラの時代の愛』
●松尾スズキ『クワイエットルームへようこそ』
●蓮實重彦/山根貞男『誰が映画を畏れているか』
●フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(上・下巻)

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■ 2007-10-27(Sat)

[] モダンスイマーズ 『楽園』 蓬莢竜太:作・演出 @三鷹市芸術文化センター 星のホール   モダンスイマーズ 『楽園』 蓬莢竜太:作・演出 @三鷹市芸術文化センター 星のホールを含むブックマーク

 少し前に観た舞台ですけれども、ちょっとだけ書いておきます。最近その名前を聞く機会が多くなった「モダンスイマーズ」という劇団、いったいどういうことをやるのでしょうという気持ちで見に行きました。

 その会場に足を踏み入れ、舞台上の美術装置はリアルな廃工場のようなセットで、客入れ段階でのBGMはClashなんかだったりして、ふうんと思っていた気持ちはその実際に舞台が始まると相当に裏切られますが、それはつまり「なんでClash???」てな疑問なのですが、つまりこの舞台空間/時間は今現在から20年前への遡行なのだという理由だったのでしょう。

 今から20年前の小学生の放課後のアドヴェンチュアが、支配〜被支配のめまぐるしい移動を呼び込んで、ひとつの事故に終結する、そんなドラマを、つまりは20年を経た現在の役者さんがその大人の身体で演じるというのがミソなのですが、それは「劇団の役者」である人が、自分の実年齢に等しいキャラクターをかぶりながら、そのキャラクターの20年前のある放課後を演じる、ということになるのですけれども、その演劇的な乖離を、どこかそのすきまで吸収してしまって、それがいま観客の眼の前で演じられるという現在性をどこかで喪失し、それは一種の再現ドラマにしかなっていないのではないかというのが、わたしの印象/感想です。

 それはやはり、「なんでClash???」ということと通じているのではないかと、わたしは思う。もしもその音楽がA-haの「Take on Me」とかだったら、ちゃんと納得してわたしはもう二度とこの劇団は観ないことでしょう。何を言ってるかというと、それは劇作家にとっても、20年前の自分の身体/感覚の記憶はあるはずで、だからこそClashを選択しましたね、というか、役者自身の身体の記憶をそこで避けて通るのならば、どんなひねりを加えても既成の演劇から踏み出すことは出来ないだろうという印象です。それはつまりは先日書いたニック・ホーンビーのつまらなさにも通じるのですが、貶めてはいけません。それは演劇的な思い上がり、一般ピープルへのヒエラルキー意識、そう思います。ま、そのあたりでとどまるのが本分なのであれば、「Take on Me」とかとともに、懐メロの彼方に消えてしまっていいのです。(10月7日観劇)


 

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■ 2007-10-26(Fri)

crosstalk2007-10-26

[] 『コレラの時代の愛』 ガブリエル・ガルシァ=マルケス:著 木村榮一:訳  『コレラの時代の愛』 ガブリエル・ガルシァ=マルケス:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 実はわたしの家のトイレには本棚がありまして、ここはその「お蔵」といいますか、読み終えた本で処分待ちの本とか、マンガとかを中心にストックしてあるのですが、つまり、そんなトイレで用を足す時などにその本棚から適当に本を引っぱり出してチラチラと読んでみたりもするのですけれども、先日、「なんでまだこんな本を置いてあるんだろう?」というような、ニック・ホーンビーの『ハイ・フィデリティ』(映画にもなりましたけど)をちょっとピックして適当なページを開いてみたのですけれども、ちょうど開いたページがこの小説の主人公のガールフレンドのベスト5を選んでいるところで、その5位のところ。それがちょっとおかしかった。つまり、かなりハイグレイドな知性と教養を持っていたチャーリーというガールフレンドへの追想から始まる文章で、面白いので引用しちゃいましょう。

 チャーリーとの失敗から学んだのは、ボクシングと同じく、階級をまちがえてはいけないということだ。チャーリーはぼくの階級ではなかった。あまりにきれいで、あまりに頭がよく、あまりに機知に富んでいて、あまりにあまりだった。では、ぼくの階級はなんなのだろう。平凡。ミドル級。世界チャンピオン級に頭のよい男でもなければ、もちろん、最低のマヌケでもない。『存在の耐えられない軽さ』も、『ラブ・イン・ザ・タイム・オブ・コレラ』も読んだし、理解もしたと思う(つまり、女の子についての本だろう?)。だがあまり好きな本ではなかった。

 この『ハイ・フィデリティ』があちら(イギリス)で発表されたのが1995年のようなのですけど、つまりココで『ラブ・イン・ザ・タイム・オブ・コレラ』として紹介されている本こそが、この『コレラの時代の愛』ですね。この日本ではようやっと去年だか今年だかに翻訳が出た本ですが、1995年ごろにはもう、イギリスあたりではそれなりの評判をとっていたことが、この『ハイ・フィデリティ』の文章から伺えるわけです。で、だからこの日本ではそれがようやっと日本語で読めるようになったのですが、この小説の主人公フロレンティーノ・アリーサが待ちに待った51年と9ヶ月と4日という月日に比べれば、まだまだという感じでしょうか。

 で、そんなニック・ホーンビーの、「読んだし、理解もしたと思う」なんて妙な文章を引用してしまったので書きにくくなってしまったのですが、ま、わたしもこの『ラブ・イン・ザ・タイム・オブ・コレラ』、つまり、『コレラの時代の愛』を読んだわけです。で、別に「理解」なんかしませんよ。というか、ニック・ホーンビーはわざとそういう書き方をしているわけで、それがまずだいいちにわたしがニック・ホーンビーが嫌いだということなんですけれども、ある種の事象をあえて貶めて書いてしまうようなありかたに、とても同意出来ないわけです。

 あえて書けば、この『コレラの時代の愛』は、「女の子についての本」であると共に、いやそれ以上に「男の子についての本」でもあるわけで、ここには、男の子がいずれ「男」になって壮年を迎え、さらには「老い」を感じるようになって行く経緯の中で、「女の子」なるもの、異性とどのように向き合って行くのかという例証の、その事例集のような読み方もできるわけで、この本でのその豊穣さに圧倒されながらも、いったいどの一点で、愛は本質的に可能なのかという設問でもあると思うのです。逆に言えば、その愛の本質はどこに成立するのか、そういう問いかけでもあります。そこにガルシァ=マルケスという小説家のある意味で古風な側面もあるわけで、特に「19世紀小説風」を装いながらも、やはり『百年の孤独』的な魔術的リアリズムの要素を含み持つこの長い小説の、19世紀から20世紀にかけての南米の年代記を背景に繰り広げられる、困ってしまうような「愛」の軌跡、それがそのラストに現実とファンタジーの狭間で地上から消え去ろうとする、一種「愛」の不可能性が「奇蹟」のようにラストを突き抜ける、その一点にこそこの小説の魅力があると思うのであって、それまでのすべての愛の睦言、愛の行為が運び去られて生き延びる地平というか水平線、それは「可能性」なのか、「諦観」なのか。

 もちろんこれはわたしが「男」であるという読み方でもあって、ヒロインのフェルミーナ・ダーサ側の結婚生活の描写の中に、女性の側からの感情移入があれこれと出来ることではありましょう。そういう意味ではまさしく、この書物の中でこそ、読み手の側からの意識としても、「男」と「女」が出会っているのではないでしょうか。

 小説を読むとはそれを理解するのが目的ではなく、つまりは幾重にも重なるテキストの紡ぎ出す世界を享受し、その中で遊ぶこと、その遊び方をあれこれと他に流用することを探ること、そういう可能性の魅力を楽しむこと、そういった享楽を再認識させてくれた作品ではあると思います。もちろん茄子の料理を楽しむことも。


 

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■ 2007-10-21(Sun)

[] 『ブルース・ムービー・プロジェクト』マーティン・スコセッジ:制作総指揮  『ブルース・ムービー・プロジェクト』マーティン・スコセッジ:制作総指揮を含むブックマーク


 9月から10月にかけて、この「ブルース生誕100年記念プロジェクト」のDVD7作と、後にレディオシティ・ミュージックホールで行われたコンサートの記録『ライトニング・イン・ア・ボトル』を合わせて全8作品を連続して観ました。遅ればせながらその感想を短く書いてみます。

『ソウル・オブ・マン』ヴィム・ヴェンダース:監督

 宇宙衛星「ボイジャー」にその音源が搭載されたというブラインド・ウィリー・ジョンソン、とんずらが得意だったスキップ・ジェイムス、ちょっとエキセントリックなJ.B.ルノワ−の三人のミュージシャンにスポットをあて、ボニー・レイットやルー・リード、ロス・ロボス、ジョン・スペンサーなどが彼らの曲をカヴァーする魅力的な作品。さすがはヴィム・ヴェンダースよね、という仕上がりです。

 とにかくわたしはスキップ・ジェイムスの歌声とギターの音に引き込まれました。わたしはビッグ.ビル・ブル−ンジ−とか好きなんですけれど、このスキップ・ジェイムスもそういう感じの音としてわたしの耳に届きました。J.B.ルノワ−というのはまったく知らなかったけど、奇妙な奴だなぁ。

『レッド・ホワイト&ブルース』マイク・フィギス:監督

 これはわたしもさすがに映画館のスクリーンで観ました。60年代イギリスへのブルースの影響を語る1本ですから。とにかくヴァン・モリソンとジェフ・べックの共演とか。ジェフ・べックはあれこれと語る代わりに様々なギターのリフを演奏してみせてくれます。わたしの好みでは、バート・ヤンシュとディヴィ・グラハムがいっしょに出て来てあれこれ語ってくれるあたりに歓喜しました。

 そのスタジオセッションでヴォーカルをとるトム・ジョーンズですが、彼は声はでかいかも知れませんけれど、ブルースを歌うにはあまりに声に表情が欠けるように思います。あと、まったく名前もわからない、へたくそな若い女性シンガーが一曲歌って、つまり、この女性は監督のマイク・フィギスの当時のガールフレンドだったらしくって、もうどっちらけ。バックのミュージシャンが可哀想でした。

『ロード・トゥ・メンフィス』リチャード・ピアース:監督

 作品的にはこの一本がいちばん好き。メンフィスのビール・ストリートという聖地への巡礼の旅、といいますか、そこに周遊するあれこれのミュージシャンの生にべったり貼り付いた映像、ものすごく「ナマ」な感覚で、メンフィスの空気も伝わって来て、まさにブルースです。ロスコー・ゴードンの悲哀と、ボビー・ラッシュのどさ回りのステージのハレンチなアナクロニズム。アイク・ターナーの性格の悪さ。貫禄のB.B.キング(わたしの知人に彼そっくりな人がいます)の最後のセリフ、「イギリスの若者たちが見つけてくれなければ、オレはまだ地獄の縁をさまよっていただろうよ」とかそんな言葉。

『デビルズ・ファイヤ−』チャールズ・バーネット:監督

 ただ一本、劇映画仕立ての展開で、1930年代に夏休みで西海岸からメンフィス近郊の叔父の家に遊びに来た少年が、ブルース狂いの叔父の影響でブルース/ブルースな生き方を体験する一夏。当時のおそらくはティピカルな南部の黒人たちの生活、情景が再現されるさまがいいですね。

『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』マーティン・スコセッシ:監督

 アフリカにまで足を伸ばすルーツ探しの旅、さすがマーティン・スコセッシだわ、というか、古いブルースマンのライヴ映像を絡めながらブルースの起源をアフリカに求める、とっても教育的な作品ですね。サリフ・ケイタとか、アリ・ファルカ・トゥーレとか。

 マリ共和国の街を歩く人たちの映像、音楽を奏でる人たちの音に強く心打たれました。

『ゴッドファーザー&サン』マーク・レヴィン:監督

 マディ・ウォーターズの60年代の問題作「Electric Mud」のレコードを背景に、そのリリース元、ブルースの名門レーベル「Chess」の創立者、後継者の語るその興隆史を縦糸、「Electric Mud」をサンプリングして新しい音楽を創ろうとするヒップホップのアーティストを横糸にした、過去と現在と未来が交差するような、構成のしっかりしたドキュメンタリーでした。

『ピアノ・ブルース』クリント・イーストウッド:監督

 スタジオのピアノの脇に座ったイーストウッドが、いろいろなゲストを迎えて話を聞き出し、ピアノを弾いてもらう、言ってみればクリント・イーストウッド版「徹子の部屋」。日本では他の6作品が劇場のスクリーンで公開されましたが、この『ピアノ・ブルース』だけは監督の意向でスクリーンにのせられませんでした。それはこのDVDを見ればわかりますが、最初からTVモニターで見られることを想定して造られていますから、スクリーン公開に首を縦に振らなかったイーストウッドにとっては当然のセンスでしょう。

 ハイライトはレイ・チャールズでしょうけれど、デイヴ・ブルーべックなどのかなり意外な出演者の選択に、イーストウッドの嗜好が垣間見られるようです。

『ライトニング・イン・ア・ボトル』アントワン・フークア:監督

 やっぱライヴ映像は楽しいですね。このプロジェクトの後に行われた「ブルース生誕100年」を記念するライヴの記録です。名前も知らない若い女性のブルースシンガーとかにも惹かれましたし、こんなところで再会したオデッタとか、ナタリー・コールとかの懐かしい名前も。リハでオデッタが若いバックミュージシャンたちを叱りつけるところとかおかしいし、ナタリー・コールはもう聴ける声ではないな、とか、エアロスミス全然良くないジャンとか、いろいろあるのですが、とにかくこの作品での発見は、ソロモン・バークに尽きます。

 ソロモン・バークというシンガー、わたしの持っているアトランティック時代のコンピレーションCDで、40年近く前のシングルとか聴いてはいたのですけれども、こんなにすごいシンガーだとは知りませんでした。とにかく大音声。しかもその声が、シャウトしてもまったく濁らない朗々とした音。朗々と、これだけのシャウトで唄えるシンガーというのは、今までに他に知りません。ジェイムズ・ブラウンだって、シャウトの時にはやはり喉を締め付けて発声しているように聴こえますし、ウィルソン・ピケットをも軽々と超えてますね。とにかくすげぇ! 認識を新たにいたしました。今度彼のCD買おうっと。


 って、オマケのライヴはおいても、すべての作品で過去のモノクロ映像と現在の映像をクロスさせての製作、「20世紀アメリカ合衆国の生み出した最高の文化的産物は”ブルース”である」という言い方もありますが、そこに、もうひとつの20世紀の文化的産物である「映画」とが結びついて生まれた、希有の記録の集大成こそが、このプロジェクトではないかと思います。その奥にある、アメリカという国が原理的に持っている抑圧体勢、その「影」の部分から生まれたとも言える「ブルース」と「映画」、「映画」はモンスターになってしまったわけですけれども、この21世紀にまだ地球のキーを握る国家であるアメリカ、いったいこれからどうなるのでしょうか。「ブルース」は、克服されなければならないのでしょうか。これらのプロジェクト作品をまとめて観て、ブルースへのシンパシーを抱きながら、漠然とそんなことを考えていました。


 

 

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■ 2007-10-20(Sat)

[] 訂正  訂正を含むブックマーク


 すみません、ここで書くようなことではないのですが、10月27日(土)に前橋での『踊りに行くぜ!』参入、28日(日)にお茶の水カンバスで「カノコト」観劇、という予定をここに以前書いてしまいましたけれど、ま、いろいろ事情がありまして、前橋行きは中止、27日(土)に「カノコト」観に行くことに変更です。みなさん土曜日にお会いいたしましょう。

 昨日書いた「アートとロックのコラボレーション」ですけれど、David Sylvianという人がいるのを忘れていました。最近『When Loud Weather Buffeted Naoshima』というのリリースされましたね。聴いてないけれど。わたしの知人で彼の大ファンもいますし、今度きちんと聴いてみたいと思います。

 あと、ロックではないけれど、昔、一柳慧と横尾忠則のコラボってぇのがありましたな。近年すげえ価格で再発されましたけれど、わたし、一応オリジナルのLP持ってたのですね。ずっと今でも持っていたら相当のプレミア価格になっていただろうに、残念です。

 せっかくこうやって「雑文」書き始めたので、もう少し書きます。えっと、わたしがこうやってこのブログで、いろいろな表現のジャンルを横断しながらつたない感想を書いているのは、つまりはかつて主宰していたイヴェントへの追憶なのかも知れませんが、結局わたしに興味があるのはそのようないろいろなジャンルの表現、その「可能性」にだけ興味があるからだと思っています。わたしにとって、美術は美術の可能性の前に開かれており、音楽は音楽の可能性、舞台芸術は舞台芸術の可能性、文学は文学の可能性としてわたしの前にあります。そういう「可能性」を前にして、今は観客/読者としてのわたしが、いかにそのような「可能性」の中にコミットして行けるか、つまりはそれは、「わたしの可能性」ということに、今でも継続して向かい合っているということなのかも知れません。

 だから、ここでわたしの書いているのは、決して「批評」ではなくて、あくまでも「感想」です。実はわたしには批評という行為がよくわかりません。「批評を下す」という立地点はどこにあるのか、自分には見つけられない。現在のブログとは「馬鹿」のジャングルで、批評家面をした低能諸氏が大声をあげる場でもあるわけですけれど、ちょっと前にも、自称ダンス批評家某氏が、自分のブログで「舞台でやってはいけないこと」のリストをいくつも(もう読みたくないけれど、20ぐらい箇条書きしていたのではないでしょうか)挙げていたのにはほんとうに大笑いしました。ほんとうに。で、その「批評を下す」という言い方の中に含まれる権威、とにかく「下す」のですからね。そういう中にわたしが滑り込んで行きませんように。って、わたしはそこまで馬鹿ではありません。

 「馬鹿」の例はいくらでも挙げることが出来ますけれど、もうひとつだけ書いておくと、3〜4年前にワレーリイ・フォーキンがカフカの『変身』を映画化したのが公開された際に、自称映画批評家「B」が「なぜ今カフカなのか」の答えが見つからないなどと書いて捨て去って、この男はチェーホフを今でも読んでいるのにその自分が「なぜ今チェーホフか」などという設問は決してしないのですね。ま、そんなどうでもいい設問は捨てておいても、この「B」という輩が松本修演出の『変身』を観て、って、この「B」という輩に演劇を観ることをけしかけたのは他ならぬわたしなのであって、わたしもバカなことをしたものですが、彼はその松本修演出の『変身』にふれて、また「なぜ今カフカなのか」と設問するのですが、そこで、「この松本修演出では、グレゴール・ザムザを現代の引きこもりにリンクさせている、そこに現代的視点を感じて納得した」みたいなこと書くのだけれど、それはつまり中学生の読書感想文みたいなもので、本質的なものは何も観ていない。いったいなにゆえにワレーリイ・フォーキンが映画の中で展開した「身体」の問題を見逃すのか、信じられない思いですね。

 こうやって書いていると他の「馬鹿」の事例をいくつでも思い出してしまって、いくつでも書いてしまいたくなるのですけれども、わたし自身がそんな大それたものではありませんので、このあたりで止めておきましょう。


 

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■ 2007-10-19(Fri)

crosstalk2007-10-19

[] The Red Krayola with Art & Language『Sighs Trapped By Liars』 ザ・レッド・クレイオラ with アート&ランゲージ 『サイズ・トラップト・バイ・ライアーズ』(part 1)  The Red Krayola with Art & Language『Sighs Trapped By Liars』 ザ・レッド・クレイオラ with アート&ランゲージ 『サイズ・トラップト・バイ・ライアーズ』(part 1)を含むブックマーク

 その昔(1969年か70年)、「美術手帖」が"Rock"の特集を組んだ時にはほんとうにビックリしたものでしたけれども、つまりその頃は、ロックというものをまじめに批評の対象にしようなどという気運など皆無でしたし、そもそも美術雑誌がジャンルを横断して他の表現形態を取り上げるということ自体がもの珍しい時代でもありました(その「美術手帖」は、このしばらくあとに「劇画」の特集を組んで、またわたしをビックリさせてくれたりしたのですけれども)。

 その後、最先端の美術が最先端のロックに影響を与え、最先端のロックが最先端の美術に影響を与えるような時代になり、たとえば椹木野衣さんの『シュミレーショニズム』などの成果を生み出すのですが、実際のところ、そんなロック音楽と現代美術の協力関係(コラボレーション)とでもいうようなアクチュアルな「現場」は存在するのでしょうか? 例えばCDのジャケットを美術家が担当するというような形式は枚挙にいとまがないでしょうけれど、もっと、こう、ガチンコ勝負(ボキャブラリーがなくてすみません)みたいな共闘関係とか、ないのでしょうか?

 そんな好例(ってぇか、コレしかないんじゃないのかな、他にロックとアートの記録されたコラボレーションがあれば教えて下さい)として、このRed Krayola(というか、Mayo Thompsonですね)とArt & Languageのコラボレーションがあげられるのではないでしょうか。その最初の成果である『Corrected Slogans』(1976)、そして大傑作『Kangaroo?』(1981)、それから『Black Snakes』(1983)と、連続して共同製作アルバムを発表し、そのRed Krayolaはしばらくの沈黙のあと、近年になって、というかユニット結成40年(!)を経た今になってそのバンド活動のピークとでもいえるような絶好調を迎えた現在、24年ぶりのArt & Languageとの共作がリリースされただね。

 で、(ある意味で奇跡的な)この新作を聴いたあれこれを書いてみようと思ったのですが、その和訳ライナーを紛失したこともあって、今回はRed KrayolaとArt & Languageについて、「序章」的に何か書いてみたいと思います。これから先、一曲ごとにあれこれと書いてみる長期連載とかやってみたい気持ちもあるのですが、そういうのたいてい途中で頓挫するのがわたしです。ま、いちおう予告まで。

 しかし、Red Krayolaのことは書かれた文章もそれなりにあるので、ここでは「Art & Language」というユニットの活動を書いてみたいと思います。で、わたしなどが書くよりも、ここにステキなArt Wordsとしての要約がありますので、そちらをリンクさせていただきます。

 アート&ランゲージ Art & Language

 「Art & Language」の美術作品が日本でも展示されたことがあることを憶えている方というのも少ないと思いますが、おそらくは80年代の始めに上野の都美術館で開催された「現代イギリス美術展」というのに、その絵画作品が出品されていたのです。余談ですが、この展覧会は、先日の世界文化賞を受賞したトニー・クラッグの作品が、日本に初めて紹介された展覧会ではなかったかと思います。わたしは彼の作品だけは今でもしっかり憶えていますし。

 この「現代イギリス美術展」に展示されたArt & Languageの作品ですが、Red Krayolaとの共作『Kangaroo?』に含まれていた「ジャクソン・ポロックのスタイルで製作されたレーニンの肖像(Portrait of V. I. Lenin in the Style of Jackson Pullock)」に連なるであろう作品で、これが、口にくわえたオイル・パステルで描かれたレーニンの肖像画(たしか)で、彼らの批評的姿勢が明確に提示された作品だと思ったのですが、それは西欧絵画史での「スタイル=技術(テクニック)」の否定、つまりは西欧絵画史への否定的契機を含む問いかけという視点から、タブローの中に批評的方法を持ち込み得ていた作品だと。

 少し前には「Art & Language」で検索すると彼らのHPにたどり着くことが出来まして(今はこのアルバムのことばかりズラリと出て来てしまうので見つけられませんでした)、3〜4年前から更新がされていないという印象はあったのですが、とりあえず最近までは活動していたのだなぁとは思っていたのですが、ここに来てこのアルバムでそのRed Krayolaとの久しぶりでの「共闘」、こんなにうれしいことはありません。

 先の「現代美術用語」へのリンクにもあるように、通常Art & Languageはコンセプチュアルな「テキスト形式での美術作品」を発表してきたようで、つまりはこのRed Krayolaとの共作、先にあげた『Corrected Slogans』、『Kangaroo?』、『Black Snakes』でも、というか、そこでこそ、そのようなArt & Languageの作成したテキストにMayo Thompsonが曲をつけて演奏する、そういう形での作品提示が行われたと見るべきでしょうし、それをここで簡単に振り返ってみれば、『Corrected Slogans』では20世紀初頭の紋切り型の左翼運動のスローガンのコレクション、『Kangaroo?』はそこから一歩踏み込んで、より鮮明にポストコロニアル的、カルチュラルスタディーズ的視点(つまりポスコロ・カルスタというのか)から、ギリシア悲劇まで視野に入れた壮大な傑作プロジェクトでした。『Black Snakes』では自分の足元を見つめ直したというか、テキストはより批評的もしくは自立的視点を明確にして、(実はひとつのパズルであるような)アルバムのジャケットを説明するテキストを唄ったタイトル曲とか、いや実はわたしこのアルバムあまり聞き込んでいないのでたいていのことは言えないのですけれども、そういう印象はありました。

 ロック音楽で、その歌詞が「詩(Lyric)」を超えてテキストとして自立するような音楽といえば、もう一方でわたしの敬愛するArt BearsとかNews From Babelなどのレコメンディッド系アーティストが思い浮かぶのですが、これはある意味ではブレヒト〜ワイルからの系譜として理解すべきでしょう。実際、Art BearsなどでヴォーカルをとるDagmar Krauseには優れたブレヒト歌曲集のアルバムがありますし。ま、このあたりの解説に関してはたしか佐々木敦さんとかの読みごたえのある批評が存在しているはずです。(先に書いた『Black Snakes』は、そのレコメンディッド系のRecRecというレーベルからリリースされていますし、アルバムジャケットの絵解きが歌われているというという意味でも、テキストの問題でも、Peter Bregvad & Chris Cutlerの『KEW.RHONE』と比較して考えてもいいのではないでしょうか。

 で、このRed Krayola with Art & Languageに関しては、いまだにその精緻な解説がなされていないのが現状で、これはどこかで誰かがキチンとやっていただきたい。そのうち美術手帖とかもRed Krayola の特集でも組んでいただきたいものだと切に感じていますし、せめて『Kangaroo?』ぐらいは国内盤でリリースしていただきたい。というか、Red Krayolaの近年の最大傑作『Hazel』の国内盤をこそ、まともなライナーノートと歌詞をつけてリリースして欲しいのですね。

 この、ついにリリースされた奇蹟の『Sighs Trapped By Liars』について書くのは、またいずれの機会にしたいと思いますが、女性ヴォーカルのキャッチーでかわいいメロディで歌われるテキストは、これまでの路線でいえば『Black Snakes』的なものかと思うのですが、今回はどうやら「批評文」(「批評」ではない「批評」ですね)という問題こそがテキストにされているようで、アルバム・タイトルにある「Liars」とは、(よくわからないですけれども)批評家のことなのかも知れません。

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■ 2007-10-12(Fri)

[] 指輪ホテル『EXCHANGE』 羊屋白玉:作・演出 尹明希(ユン・ミョンフィ)/川口隆夫/羊屋白玉:出演 @飯田橋 theatre iwato  指輪ホテル『EXCHANGE』 羊屋白玉:作・演出 尹明希(ユン・ミョンフィ)/川口隆夫/羊屋白玉:出演 @飯田橋 theatre iwatoを含むブックマーク

 デイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』の予告を観た時に、ごく表層的に、「あ、指輪ホテルみたいだ」って思うのですね。あの「ウサギ人間」とか。で、この『EXCHANGE』(ほんとうは鏡文字になっているタイトルです)を観て、やはり「あ、デイヴィッド・リンチみたいだ」と思ってしまったのですが、実際、どう考えても「指輪ホテル」とデイヴィッド・リンチは結びつかないのです。そういうのがあるとすれば、ひとつにはその日常との乖離とか、その空間意識とかでしょうか。リンチの作品があくまでも「映画」であるように、指輪ホテルの作品はどこまでも「舞台」なのだという印象です。

 いったいどのような意識から、このように、まさに「舞台」でしかない作品を創り出せるのでしょう。しかも毎回異なるコンセプトで。

 今回の『EXCHANGE』は、それこそまさに「コアなパフォーマンス」と呼ぶしかないような、かなりアーティスティックな作品なのですけれども、その舞台空間としての枠組みをカッチリと構築した中で、三人のパフォーマ−がそれぞれその様相を変えながら、ある種暴力じみた混沌を生み出すような舞台です。そのある種の暴力性、実験性からもまた、リンチを思い出させられたのかも知れません。

 そのような実験的な舞台ではありながらも、その音、照明、テキスト、構成、つまりそれらの総体を「演出」と呼ぶのでしょうけれども、それがこじんまりとまとまるのではなく、解体寸前まで暴力的に疾走し、これは縮めていえば暴走するということですが、つまりその、この舞台はとてつもなく成功した暴走の記録と言えるのではないでしょうか。

 ただ、その、これは誉めていいのかどうなのかわかりませんが、あまりに卓越したダンサーである尹明希さんが舞台に上がると、それはもうどうしても、彼女の突出した踊り手としての身体性こそが圧倒的に立ち上がってしまい、ついつい「それ自体」として見てしまう。そこで舞台のパースペクティヴが変質してしまうきらいはあったのではないかと思うのです。それは、あとのお二人の身体性が劣るというのでは決してなくって、実のところ、この演出であれば、川口隆夫さんや羊屋白玉さんの身体の暴れ方の方こそがこの作品にふさわしいように見えてしまうのも確かなことです。特に、いかにも羊屋さんの演出らしく、「指輪ホテル」初の男性出演者である川口隆夫さんの遊ばれ方、弄ばれ方こそは、この作品の突出した部分ではなかったかと思います。その演出を自虐的にみごとに反映させた川口隆夫さん、その身体を楽しんだ舞台だったですね。

 単にガーリーなかわゆい舞台だけなのではなかった「指輪ホテル」、早く次の作品での展開を観たくなりました。(10月6日観劇)


 

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■ 2007-10-10(Wed)

crosstalk2007-10-10

[] 『パンズ・ラビリンス』 ギレルモ・デル・トロ:監督・脚本  『パンズ・ラビリンス』 ギレルモ・デル・トロ:監督・脚本を含むブックマーク

 これはまた、えらいおもろい映画でおまんな。と、スペイン語で言ってみたつもりです。例えば、まさにこの作品の対極に(もしくは平行線上に)ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』があり、次元を異とするもう一極にテリー・ギリアムの『ローズ・イン・タイドランド』。そしてさらにもうひとつ。先日読み終えたばかりのリチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』を。で、そう言ってしまえばセルバンテスの『ドン・キホーテ』などとまで言ってしまうと、それは混乱を招くだけでしょうか。

 この作品自体が、ある意味でファンタジーへのメタ的な構造を含み持っていて、その巧みな複合的な構成の奥からは、観客の「映画」という事象へのまなざしをも逆照射するという意味で、大きくいえば「映画論」でさえあり得る作品ではないかと思います。つまりですね、いったい観客はスクリーンに投影される時間軸をともなう画像の連続から何を期待し、何を読み取るかという、観客側の視点が逆照射されていると言える作品ではないかと思うのです。

 これは以前Aさんに教えていただいたことばですが、フロイトの精神分析上の概念で「ファミリー・ロマンス」というのがあるのですが、つまりこれは、児童期から思春期にかけて多くの子供たちが抱く、「自分は両親の本当の子供ではないのではないか」という空想のことで、たとえば自分は実は高貴な王と女王の子孫なのではないかと夢見るような、そういう概念のことで、この『パンズ・ラビリンス』のヒロインの少女の、まさしくその典型的な症状からこの物語は出発するのですが、この物語の冒頭からすでに、少女は実の父とは死別していて、新しい義父に逢いに行く場面からこそこの作品は始まります。で、その父である大尉こそはファシズムのモンスターであるわけです。

 1944年という、スペイン内乱戦争のまっただなかを舞台にしたこの物語で、そのあまりに苛酷なゲリラ戦と、少女がまさに体験するファンタジー。ゲリラ戦で大尉に仕えながら、スパイとしてゲリラ戦士の弟を助けるメルセデスという女性と、これから生まれてくる弟への思いにとらわれるヒロインの姉〜弟関係がまずはリンクして、ヒロインのファンタジーの中での「鍵」が、現実にも同型の「鍵」として出現するのも興味深いのですが、この内戦での苛酷な現実と少女が没入するファンタジーが、映像として拮抗する関係の面白さこそがこの作品の突出した魅力であることは間違いないでしょう。

 ヒロインがいにしえのプリンセスの生まれ変わりだとして、そのことを証明するための三つの試練とか、あまりにティピカルな設定から逆に説得力のあるリアリティを生み出す演出力にこそ、この作品の魅力のひとつがあるのですが、ボスキャラとして君臨する義父の大尉のキャラ設定、彼もまた別のファンタジーをこそ生きているのだという描写が、この作品を美しくもいとおしい作品にしている一因でもあるのではないでしょうか。最後の大尉のセリフはもう、暴君のそれではないロマンに貫かれているのです。

 いったいヒロインが出会う妖精たち、その物語は幻想なのでしょうか。リアルな別世界への入口なのでしょうか。それはある意味では観客の視点からインタラクティヴに、例えば最初から幻覚、ここからは幻想、その先は妄想などと、どこで区切りを入れても良いような巧みな構成になっているようで、そこがわたしは気に入りました。

 例えばパワーズの『囚人のジレンマ』のように、わたしをとりまく世界は絶望的に死に瀕しています。その中で新しい「生」を育む力とはどのようなものでしょうか。その答えの一端が、まるでそのパワーズの『囚人のジレンマ』と同じようにこの作品に提示されていることにこそ、この作品の同時代性、共時的な問題意識を感じます。最後の試練の中で、わたしは、どのような行動を起こす可能性を持ち得るでしょうか。その決定への勇気を与えてくれるような作品ではなかったか、わたしはそのように受け取りました。この作品は善悪を説く映画ではなく、この現代において、(たとえこの作品のラストで「逆説」が込められていてもなお)「生きる」、「生き延びる」ということへのメッセージの込められた作品だと思いました。また観たい作品です。

 あ、「マンドラゴラ」が、シュヴァンクマイエルの『オテサーネク』みたいに無気味で可愛かったですね。映画的なディテールとしても魅力的な作品でした。


 

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■ 2007-10-09(Tue)

[] 【告知】カノコト最新公演『社会が始まる前に』  【告知】カノコト最新公演『社会が始まる前に』を含むブックマーク

 告知です。カノコトの最新作、『社会が始まる前に』が、いよいよ10月26日(金)から28日(日)まで、お茶の水の「カンバス」にて上演されます。

 『社会が始まる前に』

 出演:戸田 裕大/花 佐和子
 構成・演出:戸田 裕大

 前売・当日:2000円

 日時:10月26日(金)19:30
       27日(土)19:30
       28日(日)18:00
 場所:Free Space カンバス
    (文京区湯島2-4-8 五十嵐ビルB1)


 えっと、実はその、コメントというところに、拙文、いや、わたしのダラダラした面白くも何ともない駄文を掲載させていただきましたので、決して読みに行かないで下さい。カノコトにつきましては、わたしがまたダラダラ書くよりもやはりカノコトのHPを見ていただいた方が良いと思います。

 わたくしごとですが、26日は仕事、27日は前橋に『踊りに行くぜ!』を観に行くので、最後の28日にしか行けません。もうこの日は翌日が仕事なのですが、東京に宿泊して東京から出勤する覚悟でおります。皆さんにお会い出来ましたら幸いです。


 

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■ 2007-10-08(Mon)

crosstalk2007-10-08

[] 『囚人のジレンマ』 リチャード・パワーズ:著 柴田元幸/前山佳朱彦:訳 (Richard Powers "Prisoner's Dilemma")  『囚人のジレンマ』 リチャード・パワーズ:著 柴田元幸/前山佳朱彦:訳 (Richard Powers "Prisoner's Dilemma")を含むブックマーク

「われわれはときに、自分の意志で行動するよう他人にけしかけてもらう必要がある」

 やっと翻訳の出た、パワーズの1988年の小説第二作(だっけ?)です。もうすでに10作近い小説を書いているというのに、日本での翻訳はこれでやっと3冊目っていうのはどうなんでしょう。ま、翻訳は大変そうですけれど(そういうのではピンチョンの「Mason & Dixon」も、翻訳が出来ないまま、彼の次の小説が今年刊行されちゃいました。)

 この『囚人のジレンマ』というのは、なんですか、ゲーム理論とかの世界では相当に有名な命題のようで、Wikipediaなんかにも詳しい説明が出ています。つまり、個にとっての最適な選択が、全体にとっての最適にはならないというジレンマで、その話はこの小説の中で、いつも子供たちに問題を出し続けるお父さんによって出題されるわけです。というか、この「お父さん」という存在こそが、巨大な命題、というか「謎」であるわけですが。

 アメリカのど真ん中の、「有刺鉄線が発明された町」という象徴的な土地を舞台に、そのお父さんとお母さん、4人の子供たちの日常を描いた、ユーモアとウィットにとんだ家庭小説という本筋に並行して、お父さんの過去とか、戦時中の架空のウォルト・ディズニーを主人公とする、映画製作の話が語られて行くのですが、そこに「全体の幸福」の可能性を追求するパワーズの視点が明確に示され、これが1988年に書かれたのだとすると、こんにちの、つまり9.11以降の世界の姿を予見する描写にも驚かされるのですが、例えば戦時中の視点からの文章を引用してしまうと、以下のようなものもあります。

いまから数十年後の私たちの生活は、密室の地獄になる。一人ひとりが受動的で、活気もなく、恐怖のあまり部屋から出られずにいる。生活水準は少しずつ上がりつづけるが、誰もが完全な破産状態だ。生活はとめどなく愉快なのに、とことん入れ込めるものは何もない。信頼は消え去り、誰もがそれを知っている。各人が自分のために生き、集団はあらゆるものを抑えつける。

                   (320p)

 いったいどうすればわたしたちはそんな苛酷な世界から抜けだせるのか、どのように、目先の関心に囚われずに長期的な観点、全体的な視野を得ることができるのか、つまりはそんな問題がこの小説から読み取れるわけですが、ラストのお父さんの行動はそれは未来への可能性なのか、ひとつの諦観なのか、そこから読者が何を読み取るのかは、読者の想像力にゆだねられているように思います。わたしにはこの小説はやはり、希望の書でありつづけるでしょう。

 もうひとつ、ちょっと長い引用をさせていただきます。

 

(‥‥)何かが起きたのだ。蜘蛛の巣だか、見えない森だか、睡眠発作がかが町全体を覆っている。街を歩く人々は、たがいの姿さえ見えずにいる。エディがすれ違う誰もが壊れてしまっている。目はまっすぐ前を向き、感情を捨て、それと引き換えに、一人に放っておかれる自由を得ている。平均的な住民はコンクリートブロックの中に住み、容器に入った水を買っている。果てしない法廷争いに、交換台に一人の人間もいない巨大な組織に対する訴訟に、人々は日々を費やしている。出来事を、生きるという共同の営みへのかかわりを、彼らはすべて放棄している。
 自分の外の世界の利害関係は、今やあまりに難解で考えようもない。人々は感覚(センス)を捨てて興奮(センセーション)に走り、何がなんでも楽しもうと躍起になっている。娯楽はいつの世にも増して豪華である。お洒落でスピーディな、完璧にプロデュースされた音楽が人々の頭に縛りつけられ、自分で歌うことに取って代わっている。あらゆる脅威、偶然、達成、飛躍、自分の人生を他人の運命に結びつけることの恐ろしさ、それらはすべて、エディが胸をときめかせてきた映画とは全然違う、小さな画面のための小さな映画の電子的な物語の中でしか起こらない。それはおとぎばなしというより気休めに思える。大いなる情熱は消え、取っかえ引っかえさまざまな疼きが代わりに現われる。もう誰も、物事を自分でくぐり抜ける必要もないし、苛酷な一分間に一人で行き着く危険を冒す必要もない。

                   (373p)


 

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■ 2007-10-07(Sun)

crosstalk2007-10-07

[] Patti Smith 『twelve』   Patti Smith 『twelve』を含むブックマーク

01.Are You Experienced? (Jimi Hendrix)
02.Everybody Wants To Rule The World (Tears for Fears)
03.Helpless (Neil Young)
04.Gimme Shelter (The Rolling Stones)
05.Within You Without You (The Beatles)
06.White Rabbit (Jefferson Airplane)
07.Changing Of The Guards (Bob Dylan)
08.The Boy In The Bubble (Paul Simon)
09.Soul Kitchen (The Doors)
10.Smells Like Teen Spilit (Nirvana)
11.Midnight Rider (Allman Brothers)
12.Pastime Paradise (Stevie Wonder)

 わたしはもちろんパティ・スミスは好きなのだけれども、そのアルバムを自分で買ったことはなくって、実はこれが初めて買うパティ・スミスのアルバムになります。すでにこの春にはリリースされていたこのアルバムのことを遅れて知ったのは、土曜日の朝のFMのピーター・バラカンさんの番組で、このアルバムからのドアーズの「Soul Kitchen」がオンエアされたことからで、CDショップに行ってこのアルバムを手にして、その収録曲リストをみた瞬間に、もうこれは買わずにはいられなくなりました。

 そういう同じようないきさつ(収録曲リストから)で買ってしまったのが、少し前にここで紹介したスサンナ&マジカル・オーケストラのアルバムでしたけれど、なんだか、そういう60年代から80年代にかけてのロックの名曲から自分の好みに合わせて選曲して演奏するようなコンセプトも似ているのですけれども、ちょっとこちらは超名曲ばかりの選曲で、ずるいよパティ。

 こんな有名な曲ばかりの選曲でも、わたしはちゃんと聴いたことがないのがいくつかあって、それは01.、07、08.、11.とかですね。ジミヘンはリスペクトはするのですけれども、コンピレーション・アルバムとかに収録されるようなヒット曲以外はたいして聴いてないし、78年の「Street Legal」に収録されているという07.も、もうボブ・ディランをあまり聴かなくなってしまった頃ですね。ポール・サイモンはそもそも嫌いな部類のミュージシャンです。で、オールマンって、本当に聴いたことないです。でも、それ以外の曲はほんとうに好きだった曲ばかりですし、「え? パティ・スミス、そんな曲歌うんだ!」という驚きもありました。

 わたしはこれを輸入盤で買ったので、パティ・スミス自身が書いたライナーの英語原文を拙い英語力で拾い読みしていたのですが、彼女自身がが体験したこの選曲の裏の暗合とか、ほとんど幻視のような事象の中から、あ、だからやはりここでも、パティ・スミスという人は巫女として存在し、このアルバムはその彼女の60年代から80年代についての御言葉(みことば)のようなものなのだと思うのです。それはつまりは、直接に未来へではなく、過去への幻視からさかのぼって時代を予見するような、そんなコンセプトがこのアルバムのメッセージなのではないかと思いました*1。特徴的に、このアルバムに取り上げられた曲にラブソングは含まれず、パティ自身もそのライナーで、これは「Political」な選択なのだということを匂わせているようです。

 で、プレーヤーにCDをセットして、こう、まずは全曲通して聴いたのですけれども、そのヴォーカルはまさしくあの粘っこいパティ・スミスの声で、もう彼女の声がスピーカーから響く瞬間にまさしくそこはパティ・スミスの世界なのですけれども、多くの曲で思いのほか原曲のスタイルに忠実に演奏しているようで、それはスサンナ&マジカル・オーケストラの強引なアレンジとはまるで違います。いや、まぁ05.なんかはさすがにシタールとかタブラを持ち出すようなことはやっていませんが、このアルバムの演奏のすばらしさは、そのテクニックに拠るものではなく、多くはそのプロデュースの手腕と、特筆すべき優秀なミキシング技術(Emery Dobynsという人)の結果なのではないかと思うのです。

 また悪い癖で文章が長くなってしまうのですが、なんだかその一曲ずつ、わたしの耳に聴こえてきた音のことを書いてみたい誘惑から逃れられません。

 01. 最初のギターのイントロから、ベースが被さってくる瞬間の、その低音の音圧が圧倒的です。CDの良いところはこういう部分ですね、という見本のような音づくり。中盤からチェロの音がかぶさって、ヘヴィーなロックがシンフォニックな音空間に転移するのが新鮮です。

 02. 原曲よりもちょっとヘヴィ−に聴こえるのは、そのドラムスの音の採らえ方から来ているようでもありますが、パティのヴォーカルの音位置も少し前方に迫り出すようにセッティングしてあるみたいです。間奏のギター・ソロが、なんだかロマンティックです。

 03. 原曲よりもアコースティックな感覚で、ここではパティ・スミス自身もシンギングをあまり引きずらないようにサラリと歌っているように聴こえます。サビのさりげないコーラス、ハーモニカの音が哀愁をただよわせます。

 04. ひゃぁ、ストーンズだよ! このラフな感じのイントロがたまりません。ここでのゲストはTom Verlaineなのね。ツインギターでの、パティのヴォーカルも全開のフルパワーで、このアルバム唯一の大ロック大会です。ライヴで聴きたいですね。わたしはオリジナルのストーンズよりこっちが好きだな。突然、スッコーンと終っちゃいます。

 05. 関係ないけれども、、わたしはビートルズの4人の中ではジョージがいちばん好きだったんですね。これ聴くと、ビートルズではなかったこのジョージの音が、もういちどビートルズの音の中に回収されて行くような感じです。追悼ジョージ・ハリソンです。

 06. ライナーに、パティ自身が「わたしの若い頃にはティナ・ターナーとかシェ−ルとかマーサ・リーヴスとかジョーン.バエズとかジャニスとか、すごい女性シンガーがいっぱいいたけれど、わたしにはグレース・スリックが一番だったのよ」とか書いてあって、それはわかるなぁ。巫女さんつながり。わたしも、まったくリフレインのない、アリスとドラッグを思いっきり重ねたこの曲は大好きでした。

 07. 知らなかった曲だけど、このアコースティック感覚で演奏されるのから聴いて、すばらしい曲ですね。やっぱディランはもうちょっとちゃんと聴かないと。

 08. ポスコロ的には批判されてしかるべき、「Graceland」からの曲らしいです。ここでDulcimerを使うことになった「お告げ」体験がライナーに書かれてます。こんなに暴れまわるDulcimerの演奏というのも珍しいです。そのDulcimerは、Rich Robinsonという人。

 09. ドアーズの、あの浮遊するキーボードの感覚、密やかなギターのピッキングの感触をよくとどめて、真夜中の音楽であり続けているように思いました。ジム・モリソンの感覚とパティ・スミスとは違うものですけれども、やはり初期のドアーズは良かったですね。

 10.ライナーには「porch style」って書いてありますけれど、バンジョーやフィドルをプラスした、ちょっとアコースティックでカントリースタイルなニルヴァーナ。このアレンジは素敵です。

 11. ライナーに、パティは「この曲を選んだのはただこの曲を歌いたかったからです」みたいに書いてますけれど、ちょっと全体の構成の中ではよくわからない選曲と演奏、そういう印象があるんですね。

 12. こういうキーボードの音はどうやって見つけるんでしょう。まるで奇蹟のような、夢見るようなイントロのキーボードの音を聴いて、涙しないことはわたしには不可能ですし、そのパティのヴォーカルからも、ほんとうに夢のようなドリーム.ポップが、きらめくようにすっくと立ち上がるフィナーレです。傑作テイクだと思います。エンディングにまた涙します。


 全56分48秒。これで終了です。



 

 

*1:ラストの曲(Pastime ParadiseはつまりはFuture Paradiseにつながります)こそが、そのことを見事にあらわしているように思います。

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■ 2007-10-06(Sat)

crosstalk2007-10-06

[] 『インランド・エンパイア』 デイヴィッド・リンチ:監督   『インランド・エンパイア』 デイヴィッド・リンチ:監督を含むブックマーク

 2〜3年前に惜しくも他界されたニーナ・シモンのアルバムは1枚も持っていませんけれども、その洗練と泥臭さの絶妙のアマルガムからなる彼女の歌声は、いつも心の底に残っていて、やはり好きなアーティストなのです。

 このデイヴィッド・リンチの新作映画の、エンディング・クレジットのバックに流れる音楽がそのニーナ・シモンの「Sinner Man」という曲だと知ったのは、最初にこの作品を観終ってしばらく経ってからのことで、それはちょっとした驚きでもあったのですけれども、この新作の音楽を担当するのがいままでのアンジェロ・バダラメンティではなく、監督のデイヴィッド・リンチ本人が手掛けた*1ということであれば、それはやはり注目に値する選曲だったようにも思えるのです。

 というか、このエンディングのパートの異様なグルーヴ感にこそ、ほんとうにわたしは打ちのめされた感じなのですが、ローラ・ダーンの住まいの部屋の中で繰り広げられるホーム・パーティのような設定の下、ナスターシャ・キンスキーやローラ・エレナ・ハリングなど、(たぶん)本編に一度も顔を出さなかった人たちばかりの中、このニーナ・シモンの「Sinner Man」をバックに、女性たちが踊るだね。というか、おそらく正確にはカメラが踊る。この場面、よく見るとそんなダンサーたちは特にノリノリで踊り狂っているわけでもなくて、実際のところ実にダラダラしてるんですね。それをここまでの高揚感をもたらすショットに持ち上げているのは、これはまさにそのカメラの功績で、つまりこのDVカムをオペレートしているのは、やはりデイヴィッド・リンチ本人なのでしょうか。これは映画館で買ったちょっとイクスペンシヴなパンフレットを見ても、そういう撮影スタッフとかのクレジットはないのですが、別の場面での撮影風景のスチル写真で、DVカムを手にしているのはやはりデイヴィッド・リンチ本人のようで、これ、やっぱ、デイヴィッド・リンチという人はすごいです。いやもちろんこの作品総体が、やはりデイヴィッド・リンチいいねぇ〜という刺激を与えてくれるのですが、このエンディングこそはいままでのデイヴィッド・リンチになかった世界で、しかも絶品なのです。

 映画そのものに関しては、その重層的なストーリーと編集から、構造を解き明かして「これはこういう風に連鎖しているんだよ」と語りつくしてしまいたい誘惑にあふれた造りになっていて、実際にそういう風に解明してしまっている文章に多く出会いますけれども、そんなことをしてしまうと、この作品の本来含み持っている映画としての魅力が、どこかに失せてしまうようです。そのシークエンスの連なりをそのまま反復して思い出し、渾沌とした迷宮の中の醒めた明晰さ、その魅力こそを堪能したいと思っています。

 ラスト近くに裕木奈江が出て来て、かなり長いセリフをぶちまけるんですけれども、これって、例えば『ツイン・ピークス』の小人みたいな存在というか、とにかく彼女の英語の発音は聴きづらいものですし、それはこの映画の冒頭の訪問者、この女優さんはたしかその『ツイン・ピークス』にも出演していた、グレイス・ザブリスキーという方なのでしょうか、この方のやはり奇怪な発音の英語とリンクしていて、この世界がまさに映画としてしか存在しない「非現実の王国」なのだということを観客に知らせる、そういう標識のような存在だったのではないでしょう。だから冒頭の訪問者が「内なる王国」への入口で、裕木奈江はこれは出口だと。それであのラストはまさに強烈に現実につながってくる、それゆえの強烈さなのでしょうか。あ、いけない、「解釈」してしまった。

 

*1:なんと、デイヴィッド・リンチ自身が歌った楽曲も、映画の中で流れたりします。

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■ 2007-10-04(Thu)

[] MITAKA "Next" Selection 8th.参加作品 サンプル 『カロリーの消費』 松井周:作・演出 @三鷹市芸術文化センター 星のホール   MITAKA "Next" Selection 8th.参加作品 サンプル 『カロリーの消費』 松井周:作・演出 @三鷹市芸術文化センター 星のホールを含むブックマーク

 久しぶりに知らない劇団の作品を観ました。知らないと言っても、つまりは「青年団」に、「スロウライダー」(まだ観たことありません)とか「チェルフィッチュ」とか「ポツドール」とかが加わったようなキャストですよね、そういう感じから、現在型のリアルな舞台空間を期待して見に行きました。

 あ、この、いやったらしい感じは好きですね。「tsumazuki no ishi」のような露悪趣味と、「ポツドール」のようなえげつなさ(すいません、適当な言葉が浮かびません)。そういう舞台が、抽象的な窓と壁だけの空間で繰り広げられる。いやどうも「tsumazuki no ishi」にせよ、「ポツドール」にせよ、最近はその舞台装置の徹底したリアリズム志向、なんだかそういう方向でイイのだろうか、舞台空間の可能性は別の所にあるのではないだろうか、わたしのそういう思いに対するひとつの回答を見せていただいた感じで、うれしい舞台でした。

 これはわたしなりの見方というか、ひとりよがりの感想かも知れませんが、わたしが「うん、コレ!」と思わず膝を打ったのは、この舞台でその醜さを露呈する、一種「自分探し」と呼ばれるような生き方、そういうあり方への攻撃で、例えばわたしは、評判になった『かもめ食堂』という映画が、大ッ嫌い(というか、そういう党派があるならば、反「かもめ食堂」という党派に参加したい。なければ自分で創りたい)なのですけれども、だから、「私とは何か」という問いかけに曖昧なままに、「私が私であれる世界」に没入するあやうさ、そういうのを思いっきり無自覚に表現したのが、その『かもめ食堂』での、プールで泳ぐ小林聡美へのわけのわからない「拍手」なのであって、わたしは本当にあのシーンでゲロ吐きそうになったんですけれども、この舞台はまさしく、そういうヤツらのそういうやりかたにゲロをぶっかけている。だから大好き。

 たとえ美術好きであっても、演劇好きであっても、映画好きであっても、音楽好きであっても、その没入の仕方で人はいくらでもアグリーになることが出来ます。そういう事象は、「バカが大声でしゃべる」こんなブログの世界を検索すれば、無限とも思える数で出会ってしまいます。さて、わたしはいかにすればそんな「バカ」を回避出来るのか。その答えはこの「サンプル」の舞台にはありませんが、いったい何が「バカ」なのか、そういう認識ぐらいはできるでしょう。で、それはそれで希有な体験だというのが、今現在の世界のあらわれ方なのではないでしょうか。

 ちょうど先日、リチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』を読み終わったところですが、この舞台作品で問題にされているのは、その『囚人のジレンマ』と共通する問題なのではないかと思いました。「サンプル」の次回作も観てみたいと思いますし、この舞台の、おそらくは別役実とか安部公房(この二人を平気で並べて書くのもヤバいのですが)の系譜を引き継ぐような、現実にリンクする不条理、そういうものをもう少し考えてみたくはなりました。(9月23日観劇)


 

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■ 2007-10-03(Wed)

[] ミクニヤナイハラ プロジェクトvol.3 『青ノ鳥』 矢内原美邦:劇作・演出・振付 桜井圭介/スカンク:音楽 @吉祥寺シアター   ミクニヤナイハラ プロジェクトvol.3 『青ノ鳥』 矢内原美邦:劇作・演出・振付 桜井圭介/スカンク:音楽 @吉祥寺シアターを含むブックマーク

 矢内原さんが目指しているものは、だから、「野蛮」ではなくって、「洗練」なのだろうとは思うのですけれども、そういう「洗練」を目指すことが、ある種のパワーを失うことになっているのではないかと、この舞台を観て感じてしまいました。

 まず、わたしにどうしてもわからないのは、このテキスト(劇作)に、いったいどこまでの切迫した必然性があるのかということで、で、そのテキストを舞台にのせる出演者たち、彼ら彼女らにはいったい何が求められているのか、わからないのです。この舞台の上で何かを演じている人たち、この人たちがやっているのは、単にヴォリュームの大小の問題なのではないかという疑問があります。チューニングされていない、そう思いながら観ていました。テキスト朗読とダンス的身ぶりの乖離をどうするのか、この演出姿勢ならば、全力で疾走してダンスしながら喉の底からテキストを朗唱しなければならない。そんなことを出来る人間はいるのでしょうか。また、舞台上でそれが求められるのでしょうか。もちろん、舞台空間ではそれまで想像も出来なかった演出がまことに現出したりして、それで観客はどよめき騒ぎ立てたりするのですが、でもなお、もしそれらの、現在分裂している事項が統合されてもなお、それが突出した舞台空間になり得るのかどうか、わたしには疑問です。

 それは例えば「鉄割アルバトロスケット」の、そういう言い方をすれば「野蛮」な舞台空間、ジャ・ジャンクーの、プロ俳優を使わない「野蛮」さ、そういう乱暴な力にこそ、今のわたしは興味があるようです。

 音楽で、桜井さんとスカンクの二種類の音を使っているのですが、明らかにミステイクで、ある場面での桜井さんの音と、別の所でのスカンクの音との差異は観客席からはほとんど聴き別けられませんでした。あ、リズムセクションがないのは(つまり、ギターソロは)きっとスカンクで、フルでやってるのはきっと桜井さんだろうぐらいな。二人のミュージシャンを使う意味がないでしょう。(9月23日観劇)


 

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■ 2007-10-02(Tue)

crosstalk2007-10-02

[] 『長江哀歌』 ジャ・ジャンクー:脚本・監督 ユー・リクウァイ:撮影   『長江哀歌』 ジャ・ジャンクー:脚本・監督 ユー・リクウァイ:撮影を含むブックマーク

 もうすでに次回作の製作に入っているジャ・ジャンクーの最新作なのですが、原題は『三峡好人』、英語タイトルが『Still Life』と、邦題もそれはそれで捨てがたいタイトルの、それぞれがこの作品のモティーフを異なる視点から伝えているように思えます。とりわけわたしは、『Still Life』というタイトルから触発されてか、まるでジョルジュ・モランディのタブローのように、窓際やテーブルの上に無造作に置かれた空き瓶やその他雑多なもの、その切り取られた空間に、静かなギャラリーに足を踏み入れたような、不思議な感覚を味わっていました。連絡の取れない夫の、その妻がハンマーで錠前を叩き壊してあけるロッカーの中に拡がる世界、それはそこではまるでジョセフ・コーネルの箱世界をのぞき見るような体験でもありました。

 ジャ・ジャンクーの作品にはやはりユー・リクウァイのカメラ。たとえば、冒頭のフェリーの中の群集の撮影の見事さを、どのように伝えたらよいのでしょう。

 前作『世界』の中でアニメーションを挿入してみたり、今回もふっと、建物がロケットになって空に飛び立ったり、空飛ぶ円盤が現われたり、アメリカあたりの商業映画の要素を表層的に取り込んだりして、それはやはり彼が現代中国の作家だからこそ可能な、ポストモダン的方法論でもあると思えるのですけれども、つまり、今現在中国であるということは何もかも可能である、という、ちょっと特権的な立脚点をみごとに選択しているとも受け取れるのです。いかにも急速に発展する国家の裏面を照射するようなストーリー展開には、そういう特権が充分に生かされていたように思います。

 とりわけ、今回の作品で特徴的なことは、プロの俳優をチャオ・タオと、友情出演らしいワン・ホンウェイ(この二人はもうジャ・ジャンクーといえばこの人、というくらいお馴染みなのですが)の二人だけにとどめ、あとは俳優としてはアマチュアと言える人ばかりで作られているらしいことで、その前半を引っ張るハン・サンミンという人の素朴なキャラクターを引き出した演出の力には感服しましたし、そういうのでわたしがいっちゃんビックリしたのは、前半の、そのハン・サンミンが船の中に行方不明の妻の兄弟だかをたずねていく場面で、狭い船室でイイ若いモンが3〜4人、うどんみたいなのを下から持って上がって来て食べるんだけれども、その、狭い中で肩を寄せあって麺を食べる姿とか、そのうちにその中の一人が、そんな麺を食べながらハン・サンミンにケリをかけたりするシーンね、この、絶対にプロの俳優では仕込み得ないような野蛮な感覚、この野蛮さにこそ、そんなポストモダンを超えた、ジャ・ジャンクーという監督の未知数の力量があるように思えたのです。


 

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■ 2007-10-01(Mon)

[] コンドルズ 日本縦断大轟音ツアー2007『Summer Time Blues〜沈黙の夏〜』 [東京公演]ロバ−ト・ジョンソン スペシャル 近藤良平:構成/映像/振付 @新宿シアターアプル   コンドルズ 日本縦断大轟音ツアー2007『Summer Time Blues〜沈黙の夏〜』 [東京公演]ロバ−ト・ジョンソン スペシャル 近藤良平:構成/映像/振付 @新宿シアターアプルを含むブックマーク

 というわけで、その「鉄割」と同じ日に、コンドルズを観たのですが、タイトルからだと「またブルース?」と、鉄割とかぶってしまったような印象なのですけれども、その内容はまるでまったくブルースとは関係なく、ただ「沈黙」ということで基本的にコントも無言だった、そういうわけです。

 う〜ん、コンドルズの場合は例えばQueenとかね、そういうコマーシャルなロック・コンサートの熱狂をこそ目指しているというか、ちゃんと観たことないですけれど、「米々クラブ」ですか、そういうののライヴとの類似性とかあるのではないかと思うのですけれども、ま、それは(20年ぐらい前のTVでのライヴぐらいしか米々クラブのライヴ観てないですから)あまりいい加減なことは言えません。

 しかし、そういうことを彼らに要求しても仕方がないのかも知れませんが、つまりここには「悪意」とか、「毒」とか言えるような、それは批評性と言い換えてもいいのかも知れませんが、そういう意識が決定的に欠けているのではないかと思いました。それはエンターテインメントの世界では必要がないものかも知れませんが、でも、TVでのドリフターズなどでも、もう少し毒があったのではないでしょうか。十人ぐらいの仲本工事と一人の高木ブー(ごめんなさい)では、なにかが足りないように思いました。以上。(9月22日観劇)


 

[]二○○七年九月のおさらい 二○○七年九月のおさらいを含むブックマーク

 10月になって、さっきmixiをみてみたら、トップページがひどいことになっていまして、もともとmixiはmacユーザーにやさしくないのですが(macのエクスプローラーでmixiのニュースは見ることが出来ません)、これはもう、見る気が失せてしまいます。で、新しいPHSのブラウザでmixiに行っても、最初のメアド、パスワード入力は出来るけれど、そのあとは真っ白な画面が出てくるだけですね。やんなっちゃう。

 で、9月のおさらいです。

 舞台は以下の通り。

9月 1日(土)黒沢美香+木佐貫邦子『約束の船』 @シアタートラム
9月16日(日)イデビアン・クルー『政治的』 @吉祥寺シアター
9月16日(日)室伏鴻+黒田育世『ミミ』 @赤坂Red Theater
9月22日(土)鉄割アルバトロスケット『たこまわせ』 @下北沢 駅前劇場
9月22日(土)コンドルズ『Summer Time Blues〜沈黙の夏〜』 @新宿シアターアプル
9月23日(日)ミクニヤナイハラプロジェクト『青ノ鳥』 @吉祥寺シアター
9月23日(日)サンプル『カロリーの消費』 @三鷹市芸術文化センター・星のホール

 映画はね、

クレイグ・ブリュワ−:監督『ブラック・スネーク・モーン』
青山真治:監督『サッド ヴァケイション』
ジャ・ジャンクー:監督『長江哀歌』
デイヴィッド・リンチ:監督『インランド・エンパイア』(2回目)

 美術関係は一応、写真美術館で『キュレーターズ・チョイス』というのは観ましたけれど。

 読書は結局、中間報告から先に進みませんでした。

青山真治『サッド ヴァケイション』
森功『黒い看護婦〜福岡四人組保険金連続殺人』
別役実『虫づくし』
川端康成『眠れる美女』
安部公房『方舟さくら丸』
リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』

 えっと、そのうちにまた感想を書きますけれども、『囚人のジレンマ』はほんとうにすばらしい小説でした。皆、図書館で借りて読みましょう! 本屋で買ってもいいと思います。

 DVDソフトを買いまくるような人間にはなりたくない、と思っていたのに、なんだかかなり買い込んでしまって、今月口座から引き落とされる額を見て、がく然としました。観たのは以下の通り。

ヴィム・ヴェンダース:監督『ソウル・オブ・マン』
アントワン・フークア:監督『ライトニング・イン・ア・ボトル』
トム・ティクヴァ:監督『パフューム ある人殺しの物語』
宮崎吾朗:監督『ゲド戦記』
マーク・レヴィン:監督『ゴッドファーザー&サン』
チャールズ・バーネット:監督『デビルス・ファイア−』
山本政志:監督『聴かれた女』

 で、『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』のソフトを、荒戸さんのオーディオコメンタリーを聴きたいがために買ってしまいました。一応、そのコメンタリーで音がかぶっているのは両方ひととおり観ました。『陽炎座』で、荒戸さんが「ここは昔の両国駅」と言っているのは、京成の「博物館動物園前駅」の間違いでした。当事者も当然記憶違いというのがあるわけですね。って、わたし、あんまりちゃんと『陽炎座』を観ていないことが判明しました。もう一度ちゃんと観ます。

 

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