ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2007-11-30(Fri)

[]二○○七年十一月のおさらい 二○○七年十一月のおさらいを含むブックマーク

 前に書いた、「Big Issure」が300円になっているのに気付かずに200円しか払わなかった件、ちゃんと差額の100円払って来てます。書きっぱなしでその後のこと書いておかないと、「なんだ、忘れてるんだろう」と思われちゃったりするのもね。

 さて、とうとう11月のおさらいになりまして、残すのはあと12月だけになりました。で、11月は仕事もメチャ忙しかったし、とにかく尿管結石治療後とかだったりして、あんまり活発には動いてません。

 舞台関係は二つだけ。こういうのは近年にないことですね。月に2本しか舞台を観なかったなんて。って、12月は2日にして、もう11月の観劇数を超えてしまいました。

●11月 3日(土)維新派 『nostalgia』 @与野本町・彩の国さいたま芸術劇場大ホール
●11月24日(土)岡田利規:作・演出 『ゴーストユース』 @淵野辺・桜美林大学PRUNUS HALL

 映画館で観た映画も1本だけ。

●ニール・ジョーダン:監督 『ブレイブ ワン』

 美術展は二つ。取手アートプロジェクトの抜粋展みたいなのも上野で観たけど、勘定に入れるようなものではありませんでした。

●『沈黙から』 塩田千春 @神奈川県民ホールギャラリー
●『六本木クロッシング2007:未来への脈動』 @森美術館

 って、あれは「未来への躍動」ってなタイトルだったんですね。バカも休み休み、yeah!、ってな感じです。

 あと、25日だかに、手塚夏子さんと桜井圭介さんの『からだカフェ』というのに門前仲町の門仲天井ホールに行って来ました。

 DVDは何を観たんでしょう。あ、鈴木清順監督のだ。

●鈴木清順:監督『殺しの烙印』
●鈴木清順:監督『すべてが狂っている』
●知らない監督『フラガール』
●鈴木清順:監督『野獣の青春』
●TVドラマ『すいか』vol.1

 読書はそれなりに。

●ピエール・ガスカール『けものたち・死者の時』
●イザベル・アジェンデ『神と野獣の都』
●山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』
●ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の上巻
●ジョウ・スミス『ポップ・ヴォイス〜スーパースター163人の証言』
●中平卓馬『なぜ植物図鑑か?』

 ということで、2007年の最後の月に突入いたします。

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■ 2007-11-25(Sun)

[] 『けものたち・死者の時』 ピエール・ガスカール:作 渡辺一夫/佐藤朔/二宮敬:訳   『けものたち・死者の時』 ピエール・ガスカール:作 渡辺一夫/佐藤朔/二宮敬:訳を含むブックマーク

 ピエール・ガスカール、なつかしいですね。わたしは彼の本をそれほど読んでいるわけではありませんけれども、小説に限らず伝記とかエッセイとかドキュメント(?)とか、いろんなジャンルの作品を発表されている方でした。わたしが彼の名前を強烈に記憶するようになったのは、まだ十代の頃に、ただ背伸びするためにいろんな本をわけもわからず乱読していた頃、その頃に読んだ本なんて読むはしからもうどこか忘却の彼方に消えてしまってるのですけれども、その、そんな時代に、このガスカールの『シメール』(篠田浩一郎訳、筑摩書房)を読んだ時、この本は小説ではなくてちょっと哲学的なエッセイという趣だったのですけれども、なんだかふっと、乗り移られてとり憑かれてしまったような、そんな、ハッとするような体験があったのです。

 ただその時のまわりの雰囲気は、ヌーヴォーロマンであり、シュルレアリスムであり、などというような時代でしたから、その後あまり彼の作品に没入するようなこともなく、とにかく課題図書が山積みにされていた時代でしたから、そのままにこうやって時を経て来ました。そんな時に、50年の歳月を経て、このガスカールの日本デビュー作が文庫化されたわけです。

 六編の短編からなる「けものたち」と、作者の捕虜収容所体験からの中編「死者の時」の合本であるこの文庫を貫いている「人の心のダークサイド」というようなテイストは、やはりその空気として「実存主義文学」というようなジャンル分けに納まってしまいそうな気配を濃厚に持っていて、それはこの作品などの少し前の世代の「抵抗文学」、例えばベルコールの『海の沈黙』などとはまったく異なる世界観で、おそらくはこのあとにもうすぐに始まるヌーヴォーロマンへの橋渡しのような役割を担っていたのではないかというように思います。

 最初に収録された『馬』という短編、ここでの嵐の中で荒れ狂う馬たちの描写を読んでいて、って、これってドアーズの「放牧地帯*1」ではないですかと思ってしまうのです。そういう風に思い始めると、そのジム・モリソンとピエール・ガスカールとの親近性とかに思いが及んでしまって、パリのホテルのバスルームで死んだジム・モリソンは、実はピエール・ガスカールの想像した死をこそ選択していたのではないかと、この文庫本を読み終えて思ってしたりします。そのくらい、この二人の詩人には強い親和性があったのだと感じてしまうのです。

 『真朱な生活』という次の短編は、肉屋(ブッチャー、だね)に弟子入りした男の子の視点からの、屠殺という体験の描写で、その屠殺から流れる血を導くための溝を掘る話とか、気色悪いです。

 次の『けものたち』、それから『彼誰時』、最後の『死者の時』はそのガスカールの収容所体験から産み出された作品でしょうけれど、そうではない作品、新種の大きな鼠のまん延におびえる人たちの恐怖感を、まるでカフカの短編のように描いた『ガストン』とか、新婚カップルが新居で出会う猫から新婦の根源的な不安感を浮き彫りにする、『猫』などの作品からこそ、この今の時代にこそ通用するホラー、それを「実存主義的ホラー」などと勝手に呼んでしまうと怒られてしまうのですけれども、例えばそこに現代のミヒャエル.ハネケやブリュノ・デュモンなどの映像作家に通じるような、その源流を読み取れるような気がしました。

 ちょっと、この文庫化再刊に関して意見を言えば、これってつまりは1955年に刊行された本を文庫に版を組み替えただけではないですか、少なくともその55年時点で止まっている解説を補足する形ででも、最低限でもこれ以降のガスカールの著作リストぐらいは、編集の段階で組み込むべきではなかったかと思うのです。ある意味では読者をバカにした(ないがしろにした)再刊でしかありません。このような本が再刊されたことを喜びたいとは思いますが、こういう出版者の手抜き姿勢は、やはり批判されてしかるべきだと思います。


 

*1:原題「Horse Latitudes」だけど、この邦題は明らかにその内容にマッチしていません。ほぼ翻訳不可能なタイトルでしょうけれど、その邦題に含まれる「放」という語句は適切なので、「放馬地域」とかだと少しは内容にマッチするかも知れません。

×デヴュー◯デビュー×デヴュー◯デビュー 2007/11/30 17:11 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%F4%A5%E5%A1%BC

crosstalkcrosstalk 2007/12/01 00:28 これはまたご親切にありがとうございます。「ハンス・ヴェルメール」的なあやまりをおかしてしまいました。
11月23日の記述の該当箇所を修正いたしましたので、ご容赦下さいませ。

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■ 2007-11-23(Fri)

crosstalk2007-11-23

[] 『沈黙から』 塩田千春展 From in silence Chiharu Shiota @神奈川県民ホールギャラリー   『沈黙から』 塩田千春展 From in silence Chiharu Shiota @神奈川県民ホールギャラリーを含むブックマーク

 何年か前の「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」に、ドイツ在住の可世木祐子さんが最終審査まで残られて、日本でのステージを踏まれたことを記憶に残されている方も少なくないと思いますが、わたしの知人が十年以上前にドイツでその可世木さんに会われた時、その場でいっしょに会われたのが、ドイツ到着も間もない頃の塩田千春さんだったそうです。今回のこの展覧会の図録に掲載されている塩田さんの年譜にも、可世木さんの舞台美術を塩田さんが担当された記述もありますし、わたしは見ていないのですが、その「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」に可世木さんが応募された作品、審査員に圧倒的なインパクトを与えたのだけれども、その舞台上で大量の水を使用するためにAWARDでの再演が不可能だったという話は伝え聞いていました。もしかしたらその応募された作品の舞台美術こそ、この塩田千春さんが担当されていたのかも知れません。

 異様なほどにスケールの大きな人です。その彼女の「スケール」とは何なのか。わたしが最初に彼女の作品を観たのは、多くの人と同じように、「ヨコハマトリエンナーレ」の第一回、その展示での、あの巨大な泥にまみれたドレスでした。その稀にみるインパクトの強さ、明確なヴィジョンから伝えられるインパクトは尋常なものでなく、その展示がある意味で日本でのデビュー作品であったことなどつゆ知らず、相当にキャリアのある作家さんなのだろうと思い込んでいたりしました。次に見た彼女の作品は、今年になって国立近代美術館で展示されていた彼女のパフォーマンスの映像作品「Bathroom」で、ひたすらバスタブの中で泥水をかぶり続けるその姿は一種神々しいほどであって、もうわたしにはこの「塩田千春」という作家の名前は忘れることの出来ないものになっていました。

 その塩田千春さんの個展です。彼女のいままでの作品とパフォーマンスの記録写真、膨大な量の窓枠、焼かれたピアノ、焼かれた椅子、そして黒い毛糸で空間を埋めつくすインスタレーションからなる作品群。これはまさしく「刻印された空間」というほかなく、美術の展示でこのような体験をしたというのも、いったいいつ以来なのか。

 この「神奈川県民ホールギャラリー」という空間には、あれこれと問題もあるのですが、とにかく、その中央のパティオのような空間の真ん中に置かれた焼けたピアノと、それを取り囲む椅子。それらのマテリアルから空に向けて張られた黒い毛糸の線。まずその展示空間に足を運び、その壁にまで執拗に張られた黒糸に「よくやるよね」みたいないい加減な感想も持つのですが、そんな脳天気な感想は隣室の展示に移動した時に吹き飛んでしまいます。「よくやるよね」どころではないのです。空間こそが、まさしくその黒糸で消されようとしているのですから。

 例えば二次元の平面、白い紙や白いキャンヴァスに執拗に線を描き込んで塗りつぶす、それはある意味で基本衝動といいますか、そこでポロックのオールオーヴァーな世界を想起しても良いのですけれども、そのような執念を三次元空間に対して試みる恐怖。そう、それは「恐怖」と名付けるしかないような執念で、そのおそらくは直径2〜3mmの黒い毛糸という単純な素材、それを張り巡らせて空間を埋めつくす。いかに空間を埋めつくす作業を徹底したかということを示すためにあるかのように、その空間の奥に縦に置かれた蛍光灯のような照明。つまりその照明の明かりは、もうすでにまさしく「削り取られて」いるわけです。「恐怖」とは「情念」であり、というか、「情念」は、それが表出される時に、その現前に対峙するということに含まれる「畏怖」の感覚はまさに「恐怖」として感じ取られます。いや、恐怖という言い方は適切ではないかも知れません。それよりも「畏れ」。それが人の持つ根源的な感覚だということに触れる機会を、わたしは今までに持ったことがあったでしょうか。

 別室の、彼女のこれまでの作品/パフォーマンスの写真記録を観ると、そこにはある意味でティピカルな、舞踏的身体の拡張が読み取れたりするのですけれども、逆照射として、この塩田さんの展示からこそ、「身体とは何か」、いや言い換えれば「空間とは何か」と、再び問い直さなければならないだろうという思いに囚われ、だからわたしがこの展示を観た日に行われたダンス公演など、観なくってよかったのでしょう。

 会場には、限定された数のヘッドフォンを通じて、ヨン・フォッセの短いテキストのリーディングを体験出来るようになっていたようで、それは多分はある種の誤解を含みながらもなお、この塩田さんの紡ぎ出した空間が「非=日本」であったのだということこそをあぶり出していたのではないか、などと書いてしまうと、この展覧会を矮小化してしまうことにしかならないのですが、最後に、そのヨン・フォッセのテキストから抜粋して引用いたします。

おれもすでに一度ここにいたことがある
おれは常にここにいた
おれがここにいなかった時だって
おれはここにいた
ここはおれの居場所だ
そう言ってもいい

       眠れ 良い子よ 作:ヨン・フォッセ 訳:河合純枝

(11月17日)


 

■ 2007-11-16(Fri)

crosstalk2007-11-16

[] 『ブレイブ ワン』ニール・ジョーダン:監督 ジョディ・フォスター:主演   『ブレイブ ワン』ニール・ジョーダン:監督 ジョディ・フォスター:主演を含むブックマーク

 ニール・ジョーダンは昔から好きな監督さんです。とりわけ『モナリザ』という佳品をわたしに届けて下さった、ほんとうに素敵な人で、そのストーリーテリングの巧さ、人と人とのリレーションシップの切なさを美しく映像化してくれる達人として、ま、こよなく愛しているわけですが、愛すべきマイナー・ポエトといいますか、そのネームヴァリューでお客さんを呼ぶようなタイプではないので、というか、わたしのアンテナがあまり機能していないので、知らないうちに彼の作品が公開されてしまっていたりして、見逃してしまうことが多いのです。

 この『ブレイブ ワン』にしても、「あ、ジョディ・フォスターの映画だ、どんな映画なのかな?」と映画館の前でポスターを見ていて、ようやくニール・ジョーダンの作品だと気が付いた次第です。で、どうやらこの作品でのニール・ジョーダンは、エグゼクティヴ・プロデューサーも兼ねるジョディ・フォスターに呼ばれての監督請け負いのようで、脚本も彼の手によるものではありませんでした。

 ニール・ジョーダンはかつてもハリウッドにトライしたことがあるわけですけれども、あれだな、『インタビュー・ウィズ・バンパイア』とかね。でも、彼の持ち味はどちらかというと反ハリウッド的なものであって、サスペンスなどと言ってもアクションの派手さを追うのではなくて、主人公の内面に深く沈潜するような作風ですから、一般にハリウッド的な娯楽映画とはソリが合わない気がするんですね。でもそのあたりはプロデューサーのジョディ・フォスターのセンスに期待したのですが、やはり、彼の持ち味をうまく引き出した佳作に仕上がっていたと思います。

 この一人称描写から主人公が情況に深入りして行く過程、この語り口の魅力こそニール・ジョーダンですね。いつもの(というかわたしの観て来た)ラヴ・ストーリーではありませんが、感情の推移というのではこの場合同じように受けとめられます。で、その「男と女」の部分を、みごとに刑事(テレンス・ハワード)との関係に置き換えて、行間を読み取れるような、しっとりとした描写に仕上げていると思います。特に、ラスト近くにこの二人がコーヒーショップだかバーだかで交わす会話のシーンで、そのバックにいかにもニール・ジョーダンらしいバラードが密やかに流れるシーンこそ出色の味わいで、『モナリザ』にせよ、『クライング・ゲーム』にせよそうでしたけれど、彼にラヴ・バラードを使わせるともう、誰にも負けないのです。もう、このシーンだけでも大満足の作品でしたね。帰宅してあわててニール・ジョーダンの作品を検索して、まだ観ていない作品をレンタルすることにしました。

 さて、このストーリー、現在の状況下では(9.11以降の情況で)アメリカの対テロリズム報復戦争を肯定するかのように読み取れてしまう、というか、そのアナロジーで読めてしまうのですが、あまりにぴたりとアナロジーになってしまっているその展開は、むしろ露骨に観客の批判を期待しているのだと読み取るべきでしょうか。

 あと、誰もが感じる『タクシードライバー』へのリスペクトですが、あのスコセッジの名作と同じく、ここでも主人公はその服装、外見を少しづつ変化させて行くのを見るのも楽しいですね。ジャケットは段々とヘビメタになり、メイクも気付かないうちに変化して、アイラインが濃くなって行く、このくっきりとした隈取りというかアイラインのメイクで、エレヴェーターの中で次の標的に投げかける「憎しみ」の表情には本当にゾクッとさせられるものがあり、というか、人があらわす表情、その演技としてこれほどの表現に出会ったことはありません。やっぱジョディ・フォスターはすごいや。というか演出陣と共同の、見事な成果でしょう。


 

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■ 2007-11-10(Sat)

[] 『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(上・下) フリードリヒ・キットラー:著 石光泰夫 石光輝子:訳 (ちくま学芸文庫)   『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(上・下) フリードリヒ・キットラー:著 石光泰夫 石光輝子:訳 (ちくま学芸文庫)を含むブックマーク

 以前、『メディア・セックス』というメディア論を読み始めたことがあるのですが、その冒頭からつまりは「サブリミナル効果」の話ばかりで、映画の中にコカ・コーラの画像がはめ込まれているとか、雑誌に掲載された広告写真の中にはメッセージが埋め込まれているとかいう話の連続で、「ホラ、ここをよく見ると十字架のイメージが見えるでしょう?」みたいなことばかり書き連ねていて、それは木の葉の影が死者の顔に見えますよという心霊写真のヴァリエーション程度のもので、メディア戦略がそんな「トンでも」なものであったら興味ないよ、と、ほとんど初体験で、読みさしの本をゴミ箱に放り込んでしまったことがあります。わたしはそんな本を捨てるということが出来ないタチで、『国家の品格』だって、いちおう最後まで読み通しましたからね。

 実はこの 『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という本も、途中で何度かゴミ箱に棄てようかと思ってしまった本です。どうやらわたしは「メディア論」というものが気に入らないのでしょうか。マクルーハンも、だいたいそのメディア論の内容はほかに読んだりしていますので、分厚くて高価な原典に当ろうという気持ちもなかなか。

 マクルーハンが、グーテンベルクによる活版印刷技術の発明をメディア(というか人間の思考そのもの)の根底を変革する革命と見なすように、このキットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という本では、蓄音機、映画、タイプライター(それぞれ19世紀末に発明された)によって、音声(音楽)、視覚的映像、テキストの記録/再生/編集として新しいメディアのあり方が誕生したとするわけです。なるほど、これはポイントとして押さえておきたい着眼点だな。しかしこの原書が書かれたのはもう20年も前の1986年のことで、今現在のインターネットの爆発的な発展/普及という現象をとらえきれていないということこそまことに残念で、そういう意味で現在こうやってキーボードを打ち込んでいるわたしの、この行為を照射するような視点を与えてくれるものでもなかったのです。

 結局この本はそれらのメディア黎明期からの発展の歴史を、ちょっとラカンなどを引用しながら精神分析的に読み解くとでもいった趣向で、インターネット自体もそうなんですけれども、そういう新しいメディアの技術的発展の裏には必ず戦争という国と国との争いが端緒になっていたりする経過も書かれたりします。それでそういう戦争とかの話になるとこの著者の文章は喜々と輝いてくるようで、なんだか戦争が大好きなのかしらと思ってしまう、そういう印象があちこちから感じられて、読んでいて愉快ではなかった。書き出しからして、脳天気といいますか、「グラスファイバー・ケーブルによるネットワーク化が実現すれば、すべてのメディアが統一されて、電磁波による妨害を受けつけなくなる。これはつまり爆弾が効かなくなるということだ」とおっしゃる。従来の銅線によるケーブルは核爆発によって電磁波が混入するからだ、と言うわけです。ま、グラスファイバー・ケーブルによるネットワーク化というのは、光ファイバーとして現実のものになりつつあるわけですが。

 でも、核爆弾が落ちたら、コンピューターが電磁波で汚染されるとかよりも、その前にわたしたち、死んじゃうんですけれどもね。死ななくても私たちのからだや大気はグラスファイバーでありませんから、放射能に汚染されちゃうんですけれど。ってぇか、ケーブル切れたらおしまいじゃん。たしか以前どこかの海底ケーブルが切れて、通信網が途絶えてしまった事件が起きたと思いますけれども。

 あ、この人はきっと、核爆弾が落とされても、自分は絶対核シェルターの中に居るから安全なんだ。だからその核戦争後のこと考えてるんでしょうね。やはりエライ学者さんは違うなぁ。

 ま、そのことはさて置いて、グラモフォンはつまりはハードとしての蓄音機、これはテープレコーダーに発展し、録音された音を編集されるようになったわけですね。で、フィルムは映画撮影の結果として生産されたソフトであって、これはダイレクトに編集することがその歴史の初期から行われてきました。つまり、一巻の撮影フィルムの撮影時間が3分しかないもので30分の映像作品を作ろうと思えば、どうしても切る〜つなぐという編集作業が必要なわけです。で、タイプライターとはつまりはツールなわけですけれども、これが編集作業が出来るようになるには、ワードプロセッサーとして、直接印字から離れなければならなかったわけです。初期のタイプライターが、その紙面への印字さえその場で確認出来ない構造だったというのは面白い話でしたけど。

 つまり、わたしの思うところではこれらの三点セット、グラモフォン/フィルム/タイプライターというのは、それが編集能力を備えることで現在のメディアを形成するようになり、しかもパーソナル化しています。テープレコーダーはかんたんに録音が楽しめる電気製品として、一般にもずいぶんと普及したわけですし、フィルムもこれはホームヴィデオとして容易に入手出来るようになっています(わたしの経済力では入手出来ないのですが)。タイプライターはまさしく今、こうやってわたしが、タイプライター時代から引き継がれた文字配列によるキーボードを使って文字を打ち込んでいる、パーソナルコンピューターになるわけです。

 だからわたしがこれらのメディア・ツールとかで問題にしたいのは「編集」ということ、それから「パーソナル化」ということについてで、それは無理な注文なのですけれども、この本からそれらへの言及をあまり読み取ることが出来ませんでした。あ、フィルムに関してはその「編集」の問題が語られていましたし、タイプライターの普及が秘書をかねたタイピストという職業を生み出したこと、視覚障害の人へ「書く」という行為への道を開いたなどという話はありましたね*1。だからそれから先は自分で考えなさいよ、という本なのでしょう。うん、いろいろと考える発端は与えてくれた本でした。なんだ、イイ本じゃん。でも読んでいる時はつまらなかったなぁ。そういう本でした。

 この本の翻訳姿勢にたいして一言あります。原書がかなり難解らしくて、それを日本語に移植された苦労には敬服いたしますけれども*2、その、時間的制約もあったのでしょうけれども、この「原注」の翻訳姿勢というか、翻訳してねぇじゃん!というのは、何とかならなかったのでしょうか。つまり、この本のこの部分はこれこれしかじかの本から引用したのだよ、という部分ですけれども、場合によってはそれでもってその本が何なのか、ほかにどんなことが書いてあるのか、どんな文脈の中から引用されたのか、興味を持つ場合もあるのですよ。

 例えば、この上巻の中に、サルトルが1966年に匿名の(といっても、つまりは精神病院に入院している患者さんからなのだ)テープを受け取って、その内容を何かの本に発表しているらしくって、それは患者さんが医師とのやりとりを隠し録りしたモノらしいのですが、それが引用されている部分では医師の方がまるで狂っているようで、だからそこを読んで、いったいそりゃあサルトルのどの本に書かれている話なんでえ?という率直なリアクションがあるのですが、そこの「原注」をたどっても、「SARTRE,1972:33」としか書いてないのですね。おそらくは1972年に出版されたサルトルの何かの著作なんでしょうけれど、「33」って何よ?? 文献リストの番号かしらんと、下巻巻末のその「文献リスト」を見るのですが、なんだか、ドイツ語訳されたタイトルが書かれているだけで、そのナンバーの意味もわかりません。サルトルの著作はそのほとんどが邦訳されているはずだと思うのですが、そうでもないのかな? だからつまりはわかんないんですよ。こういうのはカフカの引用とかでも、いったいカフカの何からの引用なのか、原注の翻訳からではたどり着けないのです。

 ま、並行して読んでいた、ドゥルーズの『差異と反復』(財津理:訳)の訳注があまりに微細丁寧すごいので、ついつい比べてしまっただけなのですが、ここではこの本のテーマの一つでもある「暗号」を読み解くような気持ちで読むべきなのでしょう。何でも読者はすべて与えられるべきなのだと甘ったれるのではなくて、自分の頭で考えなさいよ。そういう本なのですね。って、また文章が長くなる癖が出て来たようです。


 

*1:ド近眼のニーチェがタイプライターにトライして、結局タイピストを求めた上であのルー・ザロメと出会ったということは知りませんでした。

*2:この本は2001年に、ドイツの「レッシング翻訳賞」を受賞されたそうです。

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■ 2007-11-06(Tue)

[] 維新派『nostalgia (<彼>と旅をする20世紀三部作#1)』 松本雄吉:作・演出 内橋和久:音楽 @彩の国さいたま芸術劇場 大ホール   維新派『nostalgia (<彼>と旅をする20世紀三部作#1)』 松本雄吉:作・演出 内橋和久:音楽 @彩の国さいたま芸術劇場 大ホールを含むブックマーク

 こうしてナマの維新派を観るのはこれで五回目ですか。最初に観た、奈良の山奥のグラウンドでの『さかしま』がわたし的にはあまりに素晴らしかったので、その余韻でというか、野外劇場という空間にも惹かれてその後ずっと(昨年の大阪公演以外は)足を運んで、記録映像もそれなりに借りて観たりして来たのですが、どうもわたしには『さかしま』の衝撃が強すぎたのか、初物に弱いというのか、その他の公演が今一つピンと来なかったというのが正直なところでした(ただ、中上建次原作の『王国』ですか、それから大量の水を使ったらしい『水街』という、気になるこの二つの作品を観る機会を得ていないのですが)。

 わたしがその今までの維新派の公演で納得が出来なかった部分、そのひとつに身体の問題があって、つまり、あの感情移入を排したラジオ体操のような振付け、その運動、その身体がいったいその舞台のどこに回収されようとしているのかがわからなかったということで、それはその舞台(というかそのまま「運動場」であったのですが)の広大さこそが特筆すべきであった『さかしま』での、運動がまさしくそのまま運動であり、移動距離さえもリアルに思えるようなパースペクティヴのなかで、「実物大」とも言ってしまえるような希有な舞台空間、そういう体験があったからこそ、それ以降の舞台に違和感があったのではないかと思うのです。それは別の言い方をすると、物語が演じられる舞台なのか、身体がそれ自体を語る舞台なのか、わたしの中で判然としない部分があったということでもあります。いや、そんなことは何も判然と了解する必要などないのですが、そう思ってしまう「分裂」をどこかで感じていたということでしょう。

 例えば、何年か前に東京の新国立劇場で上演された『ノクターン』でも、その巨大な舞台装置の複雑な移動は面白くもあったのですが、それは壮大な労力の浪費とも映りましたし、大阪南港での野外舞台『キートン』でも、ある意味でこけおどし的な装置の出現の連続に、その美学のようなものがあることはわかるのですが、一種「ドイツ表現主義」ととらえても了解出来そうな空間構成と、役者さんたちのある意味で素朴な、少年少女たちをあらわす身体とがどこかで噛み合わないような思いを抱いたものです。あと内橋さんの音楽の問題とかもちょっと考えることはあるのですが、それは保留しておきます。

 で、今回の新作『nostalgia』です。余談ですが、維新派は10年ぐらい前に、それこそ『ノスタルジア』というタイトルの公演をいちどおこなっているわけですね。ある意味同じタイトルの別作品を同じ劇団が複数回行うというのもちょっと興味深いのですが。

 これは予想を裏切られる、つまり予想外の面白さでした。それはこれまでの抽象的な思弁を切り捨てて、具象的なエンターテインメントにその構成を切り替えたのではないかと受け取れるのですが、そのせいか、つまりはわたしが疑問に思っていた身体の問題、これが「物語」の中に回収されて見事にその居場所を見つけだした、そのような印象を受けました。って、ディテールとしてやっていることが何か変わったわけではないのです。今までと同じように器械体操のような動き、今までと同じようにトランクを持って舞台を横切る人たち、それらはかつての舞台で何度も観て来た光景なのですが、それが、この『nostalgia』では、背後にすっくと張り渡された「物語」という背骨を得て、その行き場所を得たという感じなのでした。

 当日配付されたコピーによれば、物語は1908年に出航したブラジルへの移民船「笠戸丸」に乗り込んだ日本人男性ノイチと、ブラジルで出会ったポルトガル人女性アンとの、20世紀前半を横断するブラジルからニューヨークへの長い長い流浪の旅の物語であって、いやいやここまで大河ドラマ的な舞台が、その「維新派」によって上演されようとは夢にも思っていませんでしたね。ここで(わたしの観て来た限りで)はじめて、少年少女の世界ではない男と女のドラマが展開され、もちろんそれはやはり「維新派」的に解体され再構成された空間に仕上がっているのですが、つまりその「大河ドラマ」的な構成の中に、いかにも維新派的な身体を生かしきったところにこそ、わたしはこの『nostalgia』の舞台を新しい成果として受け止めるわけです。それはエンターテインメントへの後退ではなく、新しい具象性を生成させた成果ととらえるべきだと思いました。

 特筆すべきはその「映像」の生かし方で、冒頭の映像としての遠景、空に浮かぶ移民船、河の流れ、金鉱を求めて岩山を登る人たちの映像とかなどの映像効果は舞台空間の拡張の試みとして記憶に残るものでした(もちろん、その映像の手前で演技する必要があるので、その照明の関係で映像の明度が落ちてしまうのは残念ではありますけれども)。それ以外にも、様々な装置、アイディアを使った舞台空間の拡張には目を見張るものがあって、ここにもこれまでの維新派の舞台作りの経験が生かされていたと思います(まんま今までの維新派だね、というのもありますけれど)。で、そういう効果を抜かしてみても、例えば「ジャングルジム」にとまる「鳥」としての役者たちが「それはなんですか?」と、設問を繰り返して行く場面は、一面ではわたしが今までに観た舞台でも最も美しい場面のひとつでもあったと、これは記憶から棄てられることはないでしょう。

 この夏の「少年王者舘」の新作舞台が、予想外に抽象的なメソッドで構成されながらも、あくまでも「少年王者舘」であり続ける舞台であったように、この「維新派」の新作舞台が、予想外に具象的なイメージに満たされていながらもなお「維新派」であり続けていたことに喜びを憶え、いままでこうやって「維新派」を観続けて来たことを本当によかったと思い、なお一層早い次回作の公演を期待するものです。


 

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■ 2007-11-04(Sun)

[] カノコト『社会が始まる前に』 戸田裕大:構成・演出 戸田裕大/花佐和子:出演 @お茶の水 Free Space カンバス   カノコト『社会が始まる前に』 戸田裕大:構成・演出 戸田裕大/花佐和子:出演 @お茶の水 Free Space カンバスを含むブックマーク

 ジャーナリスティックな既成テキストの、朗々とした演劇的な発声による出演者交互のモノローグの連続と、そのテキストとは一見無関係なフィジカル・シアター的な身体とが交差する舞台です。

 全き暗闇からスポットが出演者二人を照らして、それは直立した男の前に土下座するように手をついて顔を伏せた女性という取り合わせで、女性が「あなたを傷つけるつもりはなかった‥‥」などというテキストを語りはじめるのですが、このテキストはどこかで聞いたことがあったなぁと思って気にかかっていたのですが、後半にもういちど同じテキストが語られて、気がつけばそれはBob Dylanの「Blond on Blond」の中の「One of Us Must Know (Sooner or Later)」の翻訳なのでした。この曲はわたしも大好きな曲であって、それはここで唄われているのがつまりは単なるラブソングではない、つまり「わたし〜I」と「あなた〜You」との関係が「わたしたち〜Us」へと変わる時に、そこにはたしかにボブ・ディランらしい、社会への意志、言い方はわたしには困難ですけれども、つまりそこに「社会」が始まる一点こそが唄われているということも出来るので、この曲をこそその冒頭に持って来たこの日の舞台はそれだけでわたしには了解出来る部分があるわけです。

 拙い訳文を載せるのは止めますが、その冒頭の歌詞はこんなものです。

I didn't mean to treat you so bad
You shouldn't take it so personal
I didn't mean to make you so sad
You just happened to be there, that's all
When I saw you say goodbye to your friends and smile
I thought that it was well understood
That you'd be comin' back in a little while
I didn't know that you were sayin' goodbye for good.

But sooner or later one of us must know
But you just did what you're supposed to do
Sooner or later one of us must know
That I really did try to get close to you.

 ここで、それこそ、「You shouldn't take it so personal」と唄われたり、その歌のタイトルにある「Sooner or later one of us must know」と唄われるメッセージ、ここからスタートする「社会が始まる」という視点、その選択にわたしは同意するわけです。

 その舞台の終わりの方で、透明なアクリルの容器を複数並べてその中に水を注ぎ、それを均等な量にしようと容器から容器へ水を移し変える行為のシークエンスがあって、その「均等に」という意志はちょっとその舞台のコンセプトにかぶり過ぎていたようにも思うのですが、そこで展開された、身体のみではないパフォーマンスの可能性、そういうのにこそ次回は期待したいと思いました。(10月27日観劇)


 

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