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■ 2007-12-31(Mon)

[]二○○七年十二月のおさらい 二○○七年十二月のおさらいを含むブックマーク

 もう2007年全体のおさらいをやりたいのですが、その前に2007年12月のおさらいを。

 舞台は以下の通り。

●12/1 :猫田家プロジェクト『ミーコのSFハチャメチャ大作戦〜ベルンガ星人をやっつけろ!〜』@アトリエヘリコプター(五反田)
●12/1 :花上直人『うくひと』@新小岩劇場(新小岩)
●12/2 :『クロッシングビジョン〜則天去私−サラウドサウンドの饗宴』@イタリア文化会館(九段下)
●12/22:『HARAJUKU PERFORMANCE +』@ラフォーレミュージアム原宿
●12/23:中村公美+鎌田幹子ダンスパフォーマンス公演『月が空く』@横浜ZAIM

 それから、舞台ではないプロジェクトにも参加して、

●12/8 :Port B ツアー・パフォーマンス『東京/オリンピック』

 東京芸術大学の『これ、ゼンブみてほしい。』というのも、12月16日に行って来ました。これは『文化生産者は「格差社会論」をどう考えるか〜「芸術」と「社会」の狭間で〜』というシンポジウム目当てでした。

 久しぶりの音楽ライヴ。

●12/30:『FLAG OF NOTHINGNESS 10』@新宿URGA

 美術展ひとつ。

●『ピピロッティ・リスト:からから』@原美術館

 映画は相変わらずあまり観ていません。

●ロバート・ゼメキス:監督 『ベオウルフ』
●田壮壮:監督 『呉清源〜極みの棋譜〜』
●メアリー・ハロン:監督 『ベティ・ペイジ』

 DVDはとりあえず、鈴木清順監督作品はここでひとまずお休みです。

●鈴木清順:監督 『関東無宿』
●TVドラマ『すいか』Vol.2、vol3、vol4
●井筒和幸:監督 『パッチギ!』
●矢口史靖/鈴木卓爾:監督 『パルコ フィクション』

 読書は、とにもかくにもドゥルーズの『差異と反復』を読了いたしました。えっと、すこし解りました。

●ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(下)
●ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』
●前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』
●川崎昌平『知識無用の芸術観賞』
●川崎昌平『ネットカフェ難民〜ドキュメント「最底辺生活」』
●金原ひとみ『星に落ちる』
●青木淳悟『いい子は家で』

 川崎昌平さんの『ネットカフェ難民』も、金原ひとみちゃんの『星に落ちる』も、青木淳悟さんの『いい子は家で』も、それぞれものすごく刺激的な読書体験でしたけれど、さぼってしまって感想文書いてません。ま、いずれ。

[]二○○七年全体のおさらい 二○○七年全体のおさらいを含むブックマーク

 2007年を振り返ってみて、どのジャンルにせよ、そのすみっこをちょっとだけかじっただけですから、とても各ジャンルでの2007年の動向など語れるようなものではありません。

 しかし、それにもかかわらず何か言えば、わたしがずっと観て来たダンスの動向に対しては、確実に不安を抱いています。これが2007年だけに限ったエアポケットであればいいのですが。美術は、「反動」の嵐の中で、ムーヴメントの勢いを見失っているような印象はあります。個々の作家はそれぞれに興味深い追求をされているはずなのですが。映画の世界は「日本映画バブル」という現象なのだそうですが、今までスポンサーの付かなかったような、アーティスティックな試みが実現されるような展開になれば結構なことだと思います。

 入ってくる情報面からみて、音楽の世界はもっとも元気な分野のようにも思えるのですが、そのイヴェントのほとんどが平日開催なので、全くと言って良いほど体験出来ませんでした。でもそのジャンルを支えるミュージシャンの方々の、フリーター、ニート的な経済生活がいかに大変なものであるか、少しだけそういう話を聞く機会がありました。この問題はどのジャンルにもついてまわる事象でしょうし、わたしにとっても切実なものです。

 そんな2007年の、印象に残ったことがらを書いておきます。

 その「コンテンポラリー・ダンス」ですが、印象に残ったものを三つ挙げます。

●田中偉一郎『こけし いきいき』(ヴィデオ作品)
●群馬での「透視的情動」ワークショップで拝見した、名前を知らない人による「布」を使ったパフォーマンス
●花上直人『うくひと』

 あとは、「神村恵カンパニー」とか、今後に期待したいっす。それから「yummydance」とかね。

 そのほか舞台では

●維新派『nostalgia』
●ニードカンパニー『イザベラの部屋』
●岡田利規『ゴーストユース』
●水族館劇場『花綵(はなづる)の島嶼(しまじま)へ〜FROWERS OF ROMANCE』
●指輪ホテルの春秋の二つの公演

 ‥‥とかが記憶に残ります。「少年王者舘」とか「唐組」、「鉄割アルバトロスケット」なども印象に残ってます。2008年は、その維新派の三部作の次とか、復活水族館劇場の次とか、チェルフィッチュの新作とか期待したいものがあれこれあります。

 映画はやっぱり、2007年は、井土紀州監督の『ラザロ』でしょうか。それから山下敦弘監督の二つの作品。とりわけ『松ケ根乱射事件』の成果。海外の作家では、待たされたけれど本当に素晴らしかった田壮壮、そして意外にもグルーヴィーなノリを持っていたデイヴィッド・リンチ。カウリスマキの新作も強烈でしたし、ジャ・ジャンクーもやっぱりすごかったです。

 で、古い作品をDVDとかで観て、成瀬巳喜男監督のすばらしさに今ごろ驚きました。

 美術は、あまり観たくないものを観てしまった一年だったような記憶もありますが、作家としてはやはり塩田千春さん! そして、あのヘンリー・ダーガーの「暗黒」にこそ、深いインパクト、畏れに似た感覚を受けました。

 今年読んだ本では、リチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』かなぁ。やっぱり。ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』も、楽しい読書体験でした。で、解ったのか解らなかったのか、ドゥルーズの『差異と反復』をとにかく通読したのね。細かく突っ込まれるとヤバいけど、ドゥルーズが何をやりたかったのかは読み取りました。あとは美術のジャンルからの、川崎昌平さんの二冊の新書が、実はこの2007年の大きな収穫で、そして「日本のトマス・ピンチョン」などと言われてしまった青木淳悟の『いい子は家で』も、年末に読んでスゴかったのだけれども、むしろ「日本のトマス・ピンチョン」などと言うのであれば、今年芥川賞を受賞した諏訪哲史さんの『アサッテの人』の方がそれっぽい気がするし、それよりも結局単行本にもならなかった、同じ「群像新人賞」受賞作の、広小路尚祈さんの『だだだな町、ぐぐぐなおれ』こそがわたしのお気に入りだったのですけれども、つまりはこの作家はこれ以降はきっと書けないでしょうから、これがおそらく最初で最後。岡田利規さんの小説『わたしたちに許された特別な時間の終わり』についても書きたかったんですけれども、書けませんでした。これはとっても素晴らしかった。
 それから、アーシュラ・K・ル・グインの『闇の左手』には、今ごろになって、心打たれました。

 2008年はもう少し、「古典」とか言われる作品を読み直したいと思っています。

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■ 2007-12-22(Sat)

[] 『知識無用の芸術観賞』 川崎昌平:著 幻冬舎新書   『知識無用の芸術観賞』 川崎昌平:著 幻冬舎新書を含むブックマーク

 もうかれこれ10年ほど前に、水戸芸術館で開催された、ニューヨークの美術館の学芸員アメリア・アレナスさんに企画になる『なぜ、これがアートなの?』という展覧会を記憶にとどめておられる方も多いと思うのですが(同タイトルの書籍にもなっていました)、えっと、わたしはちょうどその頃「なぜ、わたしのサイフはエンプティなの?」又は「なぜ、わたしにはお金がないの?」という状態でしたので、その展覧会は観ていないのですが、つまりは一般にわけのわからないとされる現代美術とか、そういうのを専門知識や専門用語にたよらずに解説する、そういうのではなかったかと思うんですけれど(違っていたらごめんなさい)。

 つまりはこの『知識無用の芸術観賞』という本もまた、「難しい用語や知っている人しか知らないような知識」を使わずに、「芸術がわからない」と思っている人のために書かれた「芸術の入門書」のようなものだそうです(本書「はじめに」より)。それはつまりは、著者の川崎昌平さんの考えでは「芸術とは思考のための素材である」のであって、この約二百頁弱の新書の中に、58点の美術作品、映像作品*1、音楽*2絵本などを通して著者自身のその思考の道筋を、「あくまでも一個人の思考の産物」として書き留めた本だと言うことができるでしょう。

 この本がとってもユニークなのは、とにかく美術観賞入門の本なのに図版が一点も掲載されていないということで、それはもう「前代未聞」、「空前絶後」と言ってしまってもいいでしょう。それは物理的な制約などのためではなく、むしろ積極的、意図的に図版を排除していること、その理由が序文「はじめに」に書かれていますが、つまりは、実物を観ていないでつい「見たような気」になってしまうことから逃れるため、「知識がもたらす思考」と「経験が生む思考」を別のものとして捉え、著者はその後者「経験が生む思考」をこそ選ぶゆえ、「知識」としての図版をこそ排除しているのです。この視点は、本の中でウオーホールの「マリリン」を論ずるページでも、この作品の主題として述べられています。

 さて、その本文ですけれども、先にちょっと書いたように、「あくまでも一個人の思考の産物」としての記述なのではありますけれども、この著者は、何という豊富なボキャブラリーを持っていることでしょう! とにかく読んでいて、そこに妥当性があるかどうかはともかく、「そういう視点があるのか」という驚きと面白さに満ちています。それは決して「この作品の観賞のポイントはここにある」という回答を導き出すのではなくて、例えばモネの「睡蓮」では、物質としての絵画作品の「長方形」を論じ、ドナルド・ジャッドの「無題」では、そのタイトルの「無題」にこそ注目します。村上隆のフィギュア作品では、そこに覗ける「白いパンツ」から、二次元三次元の考察を導き出します! で、それぞれを論ずるにあたって、たしかに「アートの知識」からはまったくに解放されている記述になっているわけで、そこでこそ、この薄い書物の類のない面白さにはなっているのだと思います。それを最初わたしは豊かな「リテラシー」だと思ったのですけれど、「リテラシー」とは知識であり情報の収集能力であり研究であるのだとしてみれば、この書物の立場はそうではなく、逆に「反リテラシー」とも呼べる地平からの問いかけではないかと思います。

 ちょうど今、ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいることは、前にもちょっと書きましたけれど、その『差異と反復』の中に、「問い−問題」について書かれている部分が何度も(それこそ反復して)出てくるのですが、そこで、「まだ解が与えられていない問題を正しく立てる」ということの重要性が語られていて、そこにこそ、ドゥルーズが現代芸術に期待する一点があるとも言えるのですが、この、自身がアーティストでもある著者によって書かれた『知識無用の芸術観賞』という本は、その「問題」の立て方の多様性を探る試みとして、まさしく読み手に問いかける本だと言うことができるでしょう。わたしは非常に楽しく読むことが出来ました。

 ただしこの本は批評の試みではないので、ある意味「芸術」の全肯定であって、ここではどんな試みでも意味を見つけられれば認定されてしまうということは言えるので、そこに「批評」という契機を導入するには、やはりある種のリテラシーが必要とされるでしょうか。

 わたしのこの本でのお気に入りは、ディック・ブルーナの絵本「ミッフィーのたのしいびじゅつかん」を論じた文章で、そこで著者はいとも軽やかに、するりと絵本の中の世界に入り込み、その二次元の世界の中でミッフィーの目線から絵本の中の世界を眺め、その絵本の中の「びじゅつかん」に展示されている作品から「作家の創造の方程式」にこころを巡らせ、その結果としてその「展示された作品」の作者を同定するわけなんですけれども、とにもかくにもこの文章は「お見事」な傑作で、その「作家の創造の方程式」に多少の疑問を抱いたとしても、現物のその絵本をどうしても見たくなってしまって、本屋でその「ミッフィーのたのしいびじゅつかん」を探してしまいました。その本はすぐに見つかって、ま、それを見てしまえば、著者による「展示された作品」の作者の同定なんかどうでもよくなってしまうのですけれども、やはりその現物の絵本にまで読み手を向かわせた文章の魅力は失せることはありません。ぜひとも一読をおすすめいたします。


                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

*1:映画として、ルルーシュの『白い恋人たち』とキューブリックの『フルメタル・ジャケット』の二作が論じられています。特に『白い恋人たち』の項は手際よい映像論になっていて、阿部和重の「疑似ドキュメンタリー批判」に通じるような明解な視点は、短いながら読みごたえがあります。

*2:書き忘れていましたけれども、この書物の中でただ一点、音楽作品としてジョン・ケージの『4分33秒』が取り上げられているのですが、その記述の中で「オーケストラがずらり並んで4分33秒の間何もしない光景を想像してみてくださう」と書いてあるのを読んで、「はて、あの曲はピアニストがピアノの前で何もしない曲だったんじゃなかったかな?」って思った瞬間に、あの曲(?)はまぎれもなく「ピアノ曲」だったのだということに思い当たりました。これもこの本のおかげで気が付いたことではあります。だからオーケストラ編曲版とか、ギター編曲版というのもアレンジ出来るわけですね。いやちょっと思い付いただけです。

■ 2007-12-19(Wed)

crosstalk2007-12-19

[] 『ベオウルフ』 ロバート・ゼメキス:監督   『ベオウルフ』 ロバート・ゼメキス:監督を含むブックマーク

 ロバート・ゼメキスがすごいのは「すごい」ということで、いきなりバカ丸出しの書き出しですけれども、ま、わたしも例えば彼の『フォレスト・ガンプ』などという映画は、たぶんよほどのことがなければこれから死ぬまで観ることがないと思いますし、とりあえずアカデミー賞とか取っておきましょうかみたいな作品はどうでもいいんです。でも、このロバート・ゼメキスという人には、どこか、「映画表現はどこまで拡張できるだろうか」みたいな問いかけがあるようで、そこでこの人はその点でややもすれば暴走する人なのだと、最近認識を新たにいたしました次第なのです。

 これは例えばあのスティーヴン・スピルバーグなどだと、「映画表現はどこまで現実には観ることの出来ない世界をスクリーンに映し出すことができるだろうか」というモティヴェーションではないのか、その地点から、ジュラ紀の恐竜が実際に暴れ回る映像とか、宇宙人登場! とか、第二次世界大戦の血腥い臨場感溢れる映像とかにこだわっていらっしゃるのではないか。つまりそれは「実際にはわたしたちが決して目の当たりにすることが出来ない世界」を映像として捉えてスクリーンに投射するの。それが大雑把に言って、スピルバーグさんとかのやりたい事でしょうと。でもスピルバーグ監督の面白いのは、そのわたしなどが身近に体験したり見聞きしているような世界と、そういう言ってみれば非現実な世界とをスクリーンの上で交差させる、その時にこそスピルバーグ流のアーティスティックなこだわりがあらわれる点であったりもするのですが、でもでも、スピルバーグの中には一種作家主義芸術映画コンプレックスのようなものがあるようで、「だってオレだって作家なんだぜ」みたいな自意識がその画面にこぼれ出てしまう、といいますか、こぼれ出てしまうような作り方をされるわけです。

 その点、このゼメキスさんの頭の中には「作家主義芸術映画」なんて意識は、それこそミジンもないように見えます。でも、この人の中には、映画というものの表現してきた、表現できた世界への意識は強烈に存在するようで、つまりそういう映画表現の伝統の中で、その表現領域は新しい技術を駆使しながらもどこまで拡張できるでしょうか、そういう、一種職人的なこだわりは、強く持っていらっしゃるのでしょう。えっと、わたしがとにかくこの人「すごい」と思ったのは、『ホワット・ライズ・ビニース』という作品でのヒッチコックぶりで、それはアーティスティックに(たとえばデ・パルマみたいに)ヒッチコックの理念を学習して新しい作品に昇華するというようなものではなく、おもに技術的な観点から職人的にヒッチコック的世界に肉迫して、「だって今の技術だったらココまで出来るぜ」みたいなコトやってしまうことに、すっかり感心してしまって、それは映画という娯楽は娯楽として最新型のジェットコースターみたいに、どこまでも極限のスピードとスリルを産み出せるのではないか、そういう意識が多分このロバート・ゼメキスという人の中にはあるのね。

 で、別に特に「観なくっちゃ」みたいな使命感に燃えてこの『ベオウルフ』を観たわけではありませんが、つまりはこれは『ベーオウルフ』でしょ? それがどういうものか多少は知ってますし、その、映画というのは昔は例えば『アルゴ船の冒険』とか、『シンドバッド7回目の航海』とか、そういうものすご〜古(いにしえ)の古典を映像化していたのよね。そういうのは今でもものすごくワクワクさせてくれる映画だし、そこで原作(オリジナル)との関係とかとやかく言わせない娯楽の王道のような世界があって、もうそういう世界はほとんどこの半世紀ほど映画表現として途絶えてしまっていて、だからフェリーニの『サテリコン』みたいな作家主義の傑作だって30年以上前だし、あれは『フェリーニのサテリコン(というか「サチュリコン」)』だし、しばらくそういう映像作品は途絶えていて。

 これは不勉強でまだ観ていないピーター・ジャクソンの『ロード・オブ・ザ・リング』あたりからまたそういう娯楽映画の新しい局面が開けてきたのでしょうけれども、例えばわたしの好きでないディズニーなどというプロダクションが『ヘラクレス』などというのをアニメ化して、それをギリシャの人たちが「ギリシャ神話の冒涜だ」と言ったりして、ま、ディズニーはひどいですからね、あの『ナルニア国物語』ですらあ〜んな酷い映像にしてしまって、お願いですから古典とか原作の流通しているものには手を出さないでほしいんですけれどもね。

 で、『ベオウルフ』というか、『ベーオウルフ』ですが、この作品を観てイギリスの人たちが「オリジナルの冒涜だ!」と言うかといえば、きっと言わないでしょう。だって全然違うモン。コレはコレ、アレはアレという立場を、潔く貫き通しています。ま、同じアングロサクソン文化圏ではあるわけで、これが『ニーベルンゲンの歌』とかを、「著作権切れてますから」とか言って(そりゃそうだけれども)、勝手にアメリカ資本が映像化したら、ドイツ人は怒るでしょうね〜。そういう微妙な問題はありますけれども。

 3Dアニメーションでした。でも、その登場人物の「顔」とかは、思いっきりハリウッド・スターといいますか、ま、たぶん実際に演技した映像を撮って、それを元にデジタルアニメ化したのでしょうね。だから、映画っていずれはこういう所まで来てしまうんだろうなぁという予感はありましたけれど、例えば先行するゲーム・ソフトとかでの映像とかを観た感じでは、やっぱ顔とかに現われる細かい感情の起伏は3Dアニメにはまだまだ限界があるな、ってな感想で、そういう部分を実際の俳優さんでクリアしてるわけですね。それ以外の部分、その身体とか、その衣装、その彼がどのような所に今居るのか、それをどのような視点から画面におさめるのか、そういうことはもう現実に引きずられる必要もなく、とにかくわがまま放題し放題。

 例えば「ココではこういう衣装を身に付けて、その舞台環境はこのような場所で、照明はこんな感じで撮影はこうやって」、なんていう、ある意味では現実にそのような環境を整える立場からすれば悶絶死してしまいそうなめんどいことがらが、それはそれでめんどいでしょうけれどもとにかく(簡略化して言えば)机の上でカーソル動かすだけで解決してしまう。演出の思うがままに動いてみせる馬とか、現実には存在しないような絶景の中での撮影。それもすべて机の上で解決するのであれば、映画表現の可能性はグンと拡がるのはたしかでしょう。

 その、3Dアニメに向いている顔だちの俳優さんというのはあるみたいで、この王妃役の、ロビン・ライト・ペンなんていう人はそののっぺりした具合がピッタリで、ハマり役みたいには思えるのですが、後半に登場するもう一人の女性、そのベオウルフの若い愛人役の人とかはアニメには向いていないというか、どうも取込みに失敗しているような印象はあります。この主人公はなんという名前の役者さんなのか失念したんですけどイイ感じですし、ジョン・マルコヴィッチなんかあの気色悪さ全面展開で現物以上にマルコヴィッチしてましたよね。

 いえ、そういう解説をしたくて書いているのではなくて、言いたいのはこのロバート・ゼメキスの演出のハチャメチャさというか、その逸脱脱線といいますか、実際に存在する必要のないカメラ・アイを勘定に入れなければ、ここまで映像は勝手放題出来ますよという、美学〜美意識抜きの放埒ぶり。特にその後半で勝手気ままに飛翔するこのアナーキーさを、どのように賛美すればよいでしょうか。ここでの、その映像表現の拡張と、それに見合った演出の過激さの衝撃は、結局ひとはより過激なセンセーショナルにすがりつきたがるものだという範疇を、現時点ですでに逸脱してしまっているのではないでしょうか。それゆえに、映画というジャンルに単にストーリー展開と、そこに姿を現わすスター俳優の幻影のみを求めるつまらない映画ファンには圧倒的に不評であるらしいこの作品。わたしは、映画という表現が、一方ではこの作品のような方向に横滑りして行くさまに、実は深く共感しているのです。だから次はこの路線で『イーリアス』とかを。って、それではまたギリシャの人たちが怒るのか。いいよ、だったらアメリカ人は、『白鯨』か、エドガー・アラン・ポーを映画にして下さい。っつうか、『V.』とか、『重力の虹』を、このロバート・ゼメキスに映像化してほしいですね。スピルバーグはダメよ。あんな『太陽の帝国』みたいなのは、やっぱいけません。



 

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■ 2007-12-14(Fri)

crosstalk2007-12-14

[] 『呉清源〜極みの棋譜〜』 田壮壮:監督   『呉清源〜極みの棋譜〜』 田壮壮:監督を含むブックマーク

 その、「極みの棋譜」という、観客を限定してしまうような極みの副題が付けられたせいでしょうか、映画館の観客席は囲碁ファンであるにちがいないであろう人たちの姿が目立ちます。そうでなければ、わたしのように田壮壮監督のファンであるような人。どうもそれ以外の観客を呼び込むことには失敗しているでしょう。そんな囲碁ファンの方々がこの作品から何かを得られていらっしゃればよいのですけれども、そのあたりのことは、囲碁というゲームを解さないわたしにはわかりません。ただ、この作品を映画館で観る前の日に、囲碁や将棋をたしなまれる方々とちょっとお話をする機会を持つことが出来て、その席で、囲碁というのは多少のミステイクもあとでばん回できること、指し手としては若い頃に思い切りのし上がり、あとは段々に衰退して行く(らしい)将棋と違って、囲碁というのはいつまでも登り詰めて行くことのできる可能性があるのですよ、などという話をうかがったりしまして、そこに一種激情型の将棋の世界とは異なる、囲碁の沈考型性格、そういうのが(この映画と合わせて)理解できるような気がしました。

 その『青い凧』においても、『春の惑い』においても、凛とした表現でわたしを惹き付けた田壮壮監督ではありますが、この『呉清源』という新作において、さらに先へと深化/進化し、(こういう言葉遣いはよろしくないのですが)極北へと向かう表現意志の具現化として、もはや商業映画と呼び得ない地点からの作品製作、こんな地平まで来てしまうということは、じつは予想してもいなかったのです。

 もう十年以上も前に、アンドレ・デルヴォーという監督による映画『黒の過程』(もちろん、原作はマルグリット・ユルスナールのあの小説です)を観た記憶こそが、わたしがこの『呉清源』を映画館で観ながら思い出していたことです。その当時、あまりにもひっそりと公開されてそのまま忘れ去られたような、その映画版『黒の過程』をご覧になられた記憶のある方がどれだけいらっしゃるか、おそらくはほとんど皆無なのではないかと思いますが、あの映画の、禁欲的な清くも冷たい、感情移入を排した描写の記憶こそがここでわたしを捉えたのです。

 もちろんその原作である小説の『黒の過程』に描かれた求道、信仰の道を追い求める姿勢を、この『呉清源』という作品に重ね合わせてもそれは理解出来ることではあるのですけれども、アンドレ・デルヴォー監督によるその映像化、その原作の文体そのままのような禁欲的なイメージ、そんな映像製作姿勢こそがこの田壮壮監督の新作にも圧倒的にあふれ、まさしく映像的な文体と呼べるような、それは比較するならばストローブ/ユイレの作品群にも匹敵するような、(ドゥルーズ的に言えば、「表象=再現前化」を超えた)独自の、問いかけとしての映像文体に到達しているのです。

 先に書いたように、この『呉清源』を観て『黒の過程』をこそ思い浮かべたというのは、その主題としての主人公の「真理」を求める求道者としての姿勢のみならず、その時代背景の中に共通する世界の混乱と主人公の道程、『黒の過程』での中世のペストの流行と「異端」排斥、そして「錬金術師」という立場、一方にこの『呉清源』での日中戦争の混乱と新興宗教、そして「棋士」という立場があるのですけれども、それはまるでユルスナールの『黒の過程』を、時代も場所も移し替えて再映画化したと言ってしまえるほどに、『呉清源』という作品の背後にはユルスナールがいて、そして忘れられたアンドレ・デルヴォーがいて、しかも田壮壮監督はあくまでも田壮壮監督であり、しかしここまでの地平に達してしまった(そんなアンドレ・デルヴォーの映像も、ここではやはり過去の幻影なのです。)田壮壮は、もはやストローブ/ユイレの後継者であるしかないのではないでしょうか(もちろんストローブ/ユイレの作品での「原典解釈」という問題は田壮壮の語法と共通するわけもないのですが)。ここではもはや、田壮壮監督の作品の圧倒的な映像的美しさなど語ってしまっても、そんなことではこの作品の魅力を伝える微力にもなり得ません。

 ほとんど微動さえせずに碁盤に向かう呉清源の姿と、前のめりに先へ先へと移動する呉清源の姿、その身体の背後に戦中戦後の日本や中国の風景/情景が交差する、このように、いや、ここまでに身体と時間が交錯するような映像作品がこれまでに存在していたでしょうか。いや、この作品の日本での副題は、「極みの棋譜」などではなく、「極みの映像」とするべきだったのです。「表象=再現前化」を超えるという意味では、映像表現の極みの大傑作ではあるでしょう。

 

 

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■ 2007-12-12(Wed)

[] 『うくひと 歴史III』 花上直人 @新小岩劇場   『うくひと 歴史III』 花上直人 @新小岩劇場を含むブックマーク

ひとの体(すべての生物)は重心と浮心という中心があり、その心は少しずれています。

うくひと 歴史III

ひとが水に浮く時、肺に空気が入っていて、それが浮力になる、で
ひとが浮きながらしゃべる事は、沈む事を覚悟しなければならない

語るより歌え、歌をたぎらせ溢れさせよ。時空を飛んで 私の遠近法
ダンスパフォーマンス 暗黒ナイズド スイミングによる、ヒストリーとストーリー。
 花上直人

 今年になって急速に、いわゆる「コンテンポラリー・ダンス」というものの魅力が失せてしまいました。もちろんそれは「わたしにとって」という、カッコ付きの事象ではあるのでしょうけれども、つまりは面白くも何ともない。それはどういうことかと言うと、急速にそのジャンル、つまり「コンテンポラリー・ダンス」が制度化されようとしていることであって、それはこれまで「コンテンポラリー・ダンス」のアナーキーな加速度的発展に尽力されていたクリティカルな批評家の方々が、リアルタイムな発言をされなくなったことにも起因するでしょうし、そのダンスの世界を制度化しようとする動きが、あまりにも活発に動いた結果であるとも言えるでしょう。「これならコンテンポラリー・ダンスだ」、「これではコンテンポラリー・ダンスではない」、「舞台でこんなことをやってはいけない」「あんなダンサーは消えてしまえ」などというくだらない言説が力を得てしまった2007年。結局日本における「コンテンポラリー・ダンス」は、日本における「現代美術」のように沈没して行く。そんな情況を誰が観たいと思うでしょう。でも今日の情況は、しっかりとそのような負の影響を受けているように見えます。

 現代思想の大きなクエスチョンマークであり、現代美術の癒されない盲腸炎、舞台芸術のカーテンコールのあとの忘却された舞台、そのような契機を持っていたはずの新しいダンスの動きは、すでに終ろうとしています。観客なき舞台としての契機からすべての観客が立ち去り、アイロニカルに、観客なきはずの舞台に観客が殺到する。そのようにして始まる前に終ろうとする舞台の記憶は、どこに残るのでしょう。

 その、観客なき舞台は、まさに少数の観客の前に姿を顕わします。墓に葬られようとする「コンテンポラリー・ダンス」の骸に捧げられようとする献花は、実はそんな「コンテンポラリー・ダンス」などがその呼称のもとに姿を顕わす前から存在していただけのことです。

 越境する、横断する、そのような圧倒的な運動を浮遊感覚とともに実践する花上直人さんの公演、『うくひと』において、身体はまたひとつ異なるパースペクティヴから、わたしたちの(もしくはわたしの)歴史を照射するのです。

 劇場に設えられた決して大きくはないプールをめぐって、浮かぶ身体が「借景」を横断しながら古くも新しい舞台空間を現前させる、そんな空間と時間の魅力と刺激を、どのように伝えたらよいでしょうか。

 ここでは「ことば」として、その冒頭で花上さんの、言葉にならない言葉が「アラカワ!」と発語され了解され、それは「荒川のススキ!」と引き継がれ、「昭和枯れすすき」をバックにした入水シーンから。そして俳句の世界へ。というか、この「俳句」という言葉の世界の具現化、具象化のおもしろさというのがまずあって、わたしは俳句という世界に暗くてほとんど知らなかったのを後から学習したのですけれども、

夢の世に葱を作りて寂しさよ(永田耕衣)

という句を読みながら、口に長葱をくわえて遊泳される花上さん、そして、

暗黒や関東平野に火事ひとつ(金子兜太)

のバックで、暗闇の中で蝋燭の炎が点されるとその瞬間に、この狭い劇場スペースが一気に関東平野に変貌する魔力。というか、これこそが舞台空間の力なのではないでしょうか。想像力の魔力なのでしょうか。

 

水枕ガバリと寒い海がある(西東三鬼)

この句だけはわたしの知っていた有名な句ですけれど、ま、プールの中ではそれこそ、この十二月に「ガバリと寒い海」が現出するのです。


 だから、この舞台ではその身体、そしてことば、それから舞台空間を通じて、かつて体験/表現された世界が、花上さんというフィルターを通して、具現化されていた、それはまさしく舞台空間/時間の俳句化、などといってしまうと何を言っているのかわからなくなってしまいますけれども。

 越境し、横断する花上直人さんの身体はだからこそどこまでも制度化されることを拒み、だからこそ、可能性として明日を生きる身体であり続ける。ここにこそ自分を仮託できる表現がある、そういう思いと共に明日がまたやってくるということです。(12月1日観劇)


 

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■ 2007-12-08(Sat)

crosstalk2007-12-08

[] 『なぜ、植物図鑑か〜中平卓馬映像論集〜』 中平 卓馬:著   『なぜ、植物図鑑か〜中平卓馬映像論集〜』 中平 卓馬:著を含むブックマーク

 最初にこの本が刊行されたのは1973年だそうで、それぞれのエッセイの初出がまったく書かれていないのでわからないのですが、1967年から72年にかけて「美術手帖」や「デザイン」などの雑誌に発表された文章を集めたものなのでしょう。ちょうどこの時期はわたし自身が十代後半の生意気盛りで、そんな「美術手帖」とか毎月購読していた時期なので、きっとリアルタイムで中平さんの文章を読んでいたはずです。しかしながらこれがまったくもって記憶に残っていないというのは、それはやはりつまりはわたしのいい加減さのあらわれで、背伸びしても届かなかった彼方のテキストに、こうやって30年以上の月日を経てもういちど向き合うことになったということです。

 個人的なことをも書いてしまいますが、わたしが80年代になって美術作品を発表し始めた時、その時に考えていた事こそ、この『なぜ、植物図鑑か』の冒頭の同タイトルのエッセイに書かれていたような、「個」の表現の止揚、イメージの否定から作品を産み出すということで、そういう考えは今でも持続していて、そんなエスキースはこのブログのどこかに書いていたかも知れません。ですから、その中平さんの文章を読みながら他人ごととも思えず、結局わたしは中平さんの文章の記憶は残っていないのだけれども、当時その「美術手帖」とかを読んだ記憶から、どこかでそんな思索を引き継いでいたのかも知れませんし、そういう「個」のイメージの否定というのは、当時の一般的な空気だったということでしょうか。

 わたしの場合はジャクソン・ポロックを体験することから、その「個」の否定に至ったので、それは(カッコつけていえば)絵画材料と自分の身体との格闘という、きわめてフィジカルな側面に自分を追い込むことが出来たわけで、そこはあくまで写真家である中平さんとはものすごく位相が違うというか、わたしは実は写真〜写真家というもの、存在に一種の偏見を持っていて、とにかく情況を設定/選択した中で、シャッターをたくさん押す、そうして定着された無数の映像から「これがわたしだ」という印画紙を選択する、それが写真作家というものだと今でも思っています。だから、中平さんのような選択、「個」の否定として自分の生活の場の中であらゆる場面でシャッターを押す、そういう行為では先に進めないではないですか、同じことでしょうと思ってしまうのですし、それはつまりは、写真家が起きている時すべての時間を記録してしまうことにしか帰着しないではないですか。人が一日16時間とか覚醒しているとして、1秒に1回シャッターを切るとして、16(時間)×60(分)×60(秒)で、一日に57600枚の写真を撮る、そういう行為になる。それは不毛ではないですか。というか、もういちど「個」に回帰してしまうのではないですか。そう思う。

 あとがきを読むと、中平さん自身もそういう論理の破たんは充分に承知されていたようですけれども、こう、何ていうのでしょうね、いかにも60年代後半から70年代前半にかけての左翼原理主義的イデオローグとしての発言、たとえば土本典昭の『パルチザン前史』で火炎瓶を造る学生の姿を「美しい」と書いてしまうような姿勢、それはおそらくは当時のわたし自身の姿でもあったのでしょうが、アントニオーニの『欲望』評から始まる映画評、演劇評、美術評、そして当時の国鉄の「ディスカヴァー・ジャパン」キャンペーンへの批判など、どこかステレオタイプで、実の所この2007年で有効性を持ち得るような力はないように読み取られます。それにもかかわらず、この34年ぶりに復刊された書物が何かの力を持っているとすれば、そのファナティックな文体と、それを支える作家であるが故のパッション、なのでしょうか。

 その、60年代後半〜70年代前半をリアルタイムに体験していない人がこの書物を読んでどのような感想を持たれるのでしょうか、むしろそのことに非常に興味を持ってしまいます。

 

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■ 2007-12-06(Thu)

[] OPAP vol.27『ゴーストユース』 岡田利規:作・演出 @桜美林大学PRUNUS HALL(その2)   OPAP vol.27『ゴーストユース』 岡田利規:作・演出 @桜美林大学PRUNUS HALL(その2)を含むブックマーク

 こうして文章が長くなってしまうのは、つまりはわたしの根本的な文章能力の欠如が原因です。読んで下さっている皆様には申し訳ないという気持ちばかりですが、自分の備忘録としてはこうなってしまうのです。出来るだけ簡潔にまとめたいと思います。

 その『ゴーストユース』の舞台で、当日観客に配付されたパンフレットに掲載された岡田利規さんの文章に、「使用しているテキストの一部は、学生に書いてもらっています。」とあるのですが、例えば先にふれたケータイの文章を舞台のスクリーンに大写しにする、そのテキストにはおそらくはそんな出演されていた学生さんの心情吐露のようなテキストも含まれていたのではないかと思います。例えば男性のケータイから大写しにされたテキストには、「知らないうちに勝ち組、負け組を決める場にのせられている、そうやってもう社会に組み込まれている‥‥」みたいなテキストもあって、その文末が「!(クォーテーション・マーク)」で埋め尽されるような生々しさがちょっと印象的で、それは岡田さんのテキストっぽくはないように思えたし、ああいう、ケータイからの文章はそれこそ演じていた学生さんたちの生の声だったのではないかと思います。そういう、演出者と出演者とのインタラクティヴな舞台ではあったでしょう。

 それで、ちょうどこの時期に、わたしはドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる途中なのですが*1、ちょうどこの舞台作品を観たすぐあとで、ドゥルーズが演劇について言及しているページに出会い、それがこの『ゴーストユース』の公演にピッタリだったので、その部分の記述を引用したいという誘惑を押さえることが出来ません。

 構造主義が、それを推進する著者たちにおいて、かくも頻繁に、<新しい演劇>、あるいは演劇についての<非アリストテレス的な>新しい解釈へのアピールを伴っているということは、驚くにはあたるまい。そうした演劇は、多様体の演劇であり、それは、どの点から見ても上演=再現前化(ルプレザンタシオン)の演劇と対立しており、上演=再現前化された事物の、作者の、観客の、舞台上の人物の同一性をもはや存続させないのである。芝居のやま場を通して、最終的な再認もしくは知の省察の対象をつくることができる上演=再現前化(ルプレザンタシオン)を、そうした演劇はまったく存続させないのだ。おのれの究極的な諸要素が問題そのものであるまさにその無意識における学習の実在的な運動のなかに、観客、場面、そして登場人物までをも引きずり込むような、問題の、そしてけっして終結することのない問いの演劇、それが多様体の演劇なのである。

     ジル・ドゥルーズ(財津理:訳)『差異と反復』(下)p70

 ここでドゥルーズの言っている「多様体」という概念を説明するのはややっこしいのでやりませんが、他のところでは「表象=再現前化」と訳されて、幾重にも否定されている「ルプレザンタシオン」という言葉が、ここではまさに適切に「上演=再現前化」と翻訳されていて、こういう風に書かれると、あ、なるほどな、例えば先に書いた「モダンスイマーズ」の舞台などは、つまりは「上演=再現前化」による舞台であって、それは何も「モダンスイマーズ」の舞台だけがそういう「上演=再現前化」にとらわれてしまった舞台だという訳ではなくって、一般に上演されている舞台のほとんどはそういう「上演=再現前化」にとらわれている。ま、これは映画などでもこういうことは言えるのですけれども、だからつまりはここでドゥルーズの言う「多様体の演劇」、あるいはその端緒こそ、この『ゴーストユース』の舞台であったのではないかと思うのです。

 ですから、この舞台は、この舞台こそは、そういう演劇のもたらすウェル=メイドなカタルシスを超えて、現実世界と通底する構造を合わせ持った、きわめて希有なインタラクティヴな構造を持った舞台空間/時間の提示としてわたしの記憶に残るものとなったのです。


 

*1:こういう、一般に難解だとされる哲学書とか社会学書を読んでいると言うと、必ず「理解しているのかよ?」という声が聞こえるのですけれども(そんな声は自分の中にもあったりするのですけれども)、でも、例え10%も理解してなくても、「読んでいる」ということを隠すことはないと思います。というか、どんな本であれ、それを読んでいる時に、「理解しているのかよ?」という設問は、どこかで読む人の耳に鳴り響いていいるのです。それがたとえ久生十蘭の小説であっても、つげ義春のマンガであっても。

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■ 2007-12-01(Sat)

[] OPAP vol.27『ゴーストユース』 岡田利規:作・演出 @桜美林大学PRUNUS HALL   OPAP vol.27『ゴーストユース』 岡田利規:作・演出 @桜美林大学PRUNUS HALLを含むブックマーク

 桜美林大学が継続している「桜美林大学パフォーミングアーツプログラム(OPAP)」というのに、初めて行って来ました。つまり今回の作品は、「チェルフィッチュ」の岡田利規さんの書き下ろし新作の上演。もちろん演出も岡田さんですから、そのチェルフィッチュ的な世界の展開を楽しみにはするわけです。何と出演者は19人。いったいどんな群像劇が繰り広げられるのでしょうと。

 さて、ちょうど一ヶ月ほど前に、三鷹の芸術文化センターで「モダンスイマーズ」の『楽園』という作品を観ていて、そのちょっとした感想もここに書いたのですけれども、その舞台では、おそらくは実年齢は三十代前半ぐらいだろうと思われる役者さんたちが、その実年齢に近いであろう例えばコンビニの店員だとか警察官などの服装をしていて、つまりはそういう役どころなのでしょうけれども、そのかっこうで演ずるパーソナリティの二十年前の、小学生時代のある放課後の出来事を演じるわけです。ま、結局小学校の時にこんなヤツだったこいつは、二十年経つとこんなヤツになるのだよ、そういうのだけれども、その三十代の男女が小学生を演じるのに特に小学生らしさを演じようとするわけではなく、逆に三十代の身体として演じているというか、例えば劇中で足の不自由な動きをする女性が、そのセリフではかけっこが早くって選手に選ばれたりしているらしくって、そのギャップは何よ? などというのが、その舞台というか戯曲の要であったりしたのですけれども。

 で、その時に感じたのが、役者さんたちはそれぞれの実年齢、身体に合わせた役を演じていて、さらにその身体で小学生の時のその役柄を演じるという構造、それではその役者さんたちはどこへ行ってしまうのか、ってことで、つまり演劇というのは本来的に、自分の身体を戯曲の中の登場人物という「他者」に仮託するものだ、ちゅうことで考えれば、役者さんの現実の身体とかパーソナリティとかが舞台に現出する必要はないというか、逆にそんなものは劇本来の構成には関係がないとも考えられるわけですけれども、では演劇というものは現実の世界とどのようにかかわりを持つものなのか。持たないものなのか。

 それは例えば、その劇中で登場人物がコンビニの店員になっている、つまり三十代になってコンビニの店員でいるというのは、それは現在の社会で「フリーター」とか呼ばれる人たちを想定しているのだろうと思えるのですが、ではこの舞台作品ではそんな「フリーター」などと呼ばれる人たちの存在をどう考えているのか読み取れないということでもあるのですが、とにかくそのような「演じる」ということの入れ子的構造の舞台であれば、三十代の人物がその姿で十代の人物を演じるのであれば、どうもわたしには必然的に、三十代の役者さんが舞台の上で自分と同世代の登場人物を演じるということも、その作品の上で問われなければならないように思えるのです。で、わたしとしては、そのような問題が「自明の理」のようにすっとばされてしまっているような演出に違和感を持ったわけです。って、すっごく長くなっちゃった。

 それでようやく『ゴーストユース』の話です。

 出演している役者さんたちはみな桜美林大学の学生さんたちです。で、劇は、35才の専業主婦ユミさん(3才か4才の男の子あり)が午前11時45分に友だちカナさんから電話をもらう、基本的にこれだけのことを、そのユミさん、カナさん役をどんどんとっかえひっかえ複数の役者さんが演じて反復して行く、それに旦那さんとの会話、子供の誕生日に何を買ってあげるかという話も反復され、そこに自動車教習所の話とかドラえもんののび太くんの話とかちょっと出てくる。それだけと言ってしまえばそれだけの舞台。

 で、その冒頭に、役者さんというかユミが、お客さんに向かってお願いするのですが、それは自分はどうみても大学生ぐらいにしか見えないけれども、35才の専業主婦なのだと想像して欲しいということ、自分は今結婚指輪はしていないけれどそれをしているんだと想像して欲しい、後ろにある掛時計は現実の今の時間6時何分とかを指し示しているけれども、これは今11時45分を指しているのだと想像して欲しい、などということで、そこからこの舞台が始まります。

 つまりこの舞台では、服装とかもまるで普段着の学生のような20〜21才の男女が、ユミとカナと旦那さんという三人だけの35才の登場人物を演じて行くのですけれども、劇の中では「わたしたちは35才なのに20〜21才の大学生みたいに見えてしまう」と執拗に語られたりするのです。それが「若さの亡霊」であってタイトルの『ゴーストユース』になるわけです。

 舞台の上にはヴィデオカメラが置かれていて、そこからの映像が舞台の後ろに大写しになるのですが、そこにその役者さんたちが自分のケータイを持って行って、そこに打ち込まれるメールの文章を舞台の上に映してみせて、そこには「わたしは35才の専業主婦に見えますか?」とか(劇中のセリフに合わせて)「わたしは晩婚になるだろうと思っていると思いますか?」などの文章。

 だから、この『ゴーストユース』の舞台では、ある意味でその「演じる」ということが問題になっているわけで、先に書いたモダンスイマーズの舞台を観てわたしが感じた疑問、そのグッドタイミングなひとつの回答として非常に興味深く、また面白く観ることの出来た舞台でした。

 普通に見れば、これは若い子が中年にさしかかろうとするような世代の人物を演じている、小津映画の笠智衆みたいなものとして納得してしまっていいというか、そこでその舞台設定の問題として、「わたしたちは現実には見ての通りに20才の学生なんですけれども、この舞台の上でそうは見えなくても35才の専業主婦を演じています」ということから「演じる」という問題、舞台時間/空間と現実との関係などに切り込んで行けたりすると思うのですが、そうではなく、あくまでも最初の「想像して下さい」というお約束を破ることなく、「35才の専業主婦が20才の学生に見えてしまう」ということからこそこの舞台は始まり、ひとつにはその舞台上の世界からこそ観客席側の現実の世界を逆照射するように思えるのです。それはつまり例えば、わたしなどが普段どのような視点から舞台作品を見ているのかという問題への逆照射でもあるでしょう。

 また、この作品は出演している学生さんたちにとっても、ひとつの作品のひとつの役を演じるということから、きわめて短いセンテンスをとっかかりに、これは岡田さんの文章を引用すれば「どれだけのレベルの生々しさにまで役者というものは到達しうるものなのか」ということに真摯に向き合うことになったのでしょうし、その生々しい世界を舞台に現出せしめた岡田利規さんの演出手腕もまた賞賛すべきでしょう。

 その「チェルフィッチュ」の舞台では、特徴的に有名な、クネクネする身体とかあるわけですけれども、以前わたしはそのチェルフィッチュの公開稽古を見たことがありまして、あのクネクネした動きというのは「振付け」られたものというよりも、役者さんがその役を、そのセリフをどこまで内面化できるか、それはつまり「どれだけのレベルの生々しさに到達しえたか」ということでしょうけれども、その結果として演じる人の身体から自発的に発生するものを岡田さんはじっと待っている、そういう印象がありました。そうやすやすと出来るものではないんだなと。

 だから、その「チェルフィッチュ」ではない今回の舞台では*1、そのような特徴的な身体の動きはあまり出て来ないのですが、何て言うんでしょう、ここでは「だらだらした身体」とでも言うのでしょうか、その、舞台中央とかで演じているその時のユミとかカナとか旦那さん役の役者さん、それ以外の人たちも基本的に舞台上のどこかにゴロゴロしているわけなんですけれども、そのだらだらとごろごろとしている様、寝そべったり、ヨガのポーズみたいなのをやってみたり、椅子の上で膝を立てて変な座り方してみたりとか、それがいかにも学生っぽくって、それは以前映画で山下敦弘監督の『リンダリンダリンダ』という作品を観た時の、そこに出てくる女子高校生たちの、いかにもそれらしい実にだらだらとした歩き方とか動作にちょっと感銘を受けた記憶があるのですが、その記憶がもどってくるような感じでした。


 すっごく長くなりそうなので、というか、まだ少し書いてみたいことがあるけれど時間がないので、ここらで一度アップします。続きは来週。

*1:それほど長期間の稽古を経て完成されたものではないと聞いたように思います。それが良くないことだなどと言うのではありませんが

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