ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2008-01-31(Thu)

crosstalk2008-01-31

[] 『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』ティム・バートン:監督  『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 ティム・バートンさんには、やはりどこか挿絵画家という趣を感じさせられるところがありまして、特に『シザーハンズ』以降は、それこそすてきなダーク・ファンタジーの絵本をひも解くような感覚を楽しませてもらっていて、もちろん大好きな映像作家。彼自身もオリジナルに『オイスターボーイの憂鬱』というダークな絵本を書かれていますし、やはりわたしはアーサー・ラッカム的な『スリーピー・ホロウ』という作品こそが大好きでした。あの、老木の洞から首なし騎士が飛び出してくる瞬間の高揚感といったら!

 そういう意味では、今回の『スウィーニー・トッド』の趣向は、ウィリアム・ホガースの描く19世紀ロンドンの姿とでも言うような趣なのですが、いえいえ、それ以上に、例えば印刷された絵本での色校正に厳密な絵本作家のように、この作品でやはりもっとも重要なのはそのタイトル・バックからあらわれる血の色。その「朱」の色にこそ、この作品のすべての趣向が込められているように思えるのです。

 なんという非現実的な血の色であることでしょう! この、カラーチャートで言えばヴァーミリオンがかったというか、ほとんど「朱」、現実世界で例えれば朱鷺の色、この色彩にこそこの映像のすべてがあるように思いました。もちろんそれを支えるのが、ホガース的な19世紀ロンドンの世界の描写であることを賛美しなくてはならないのですが。

 さて、訪れた客の首をかっ切る床屋*1といえば、やはり唐十郎の『愛の床屋』なのですが、この『スウィーニー・トッド』を観た夜に、「さて、どこかに置いてある唐十郎の『少女仮面』を探してみなくっちゃ」などと思っていたら、翌日、ちょうど読んでいた森達也さんの対談集の中の、小室等さんとの対談のところにまさにその『愛の床屋』が出てきました。こういう符合は人生の宝ですので、ここで著作権問題も何のその、再録いたします。

おれは長いこと床屋をしていた
新宿三丁目の伊勢丹裏で
おれのかかあは客引きだった
何不自由ない暮らしだった
雲ひとつない日曜日が来ると
きれいな身なりを着こなして
二人で招くご婦人方を
楽しく首はねしたものだった
ごらんよ ごらん かみそりが舞う
ごらんよ ごらん 首が飛ぶ
ごらんよ ごらん 愛のトラ刈り
おれは長いこと床屋をしていた
腕は確かな品川仕込み
もとはと言えば屠殺人
品川無宿の荒くれよ
豚の睾丸くりぬくように
罪なきものを罪あるように
罪あるものは断頭台
死人は火鉢の灰にする
ごらんよ ごらん かみそりが舞う
ごらんよ ごらん 首が飛ぶ
ごらんよ ごらん 愛の行きずり

(今日のイラストは、その、『スリーピー・ホロウ』をわたしに思い出させてくれた、アーサー・ラッカムのものです)

 

[]二○○八年一月のおさらい 二○○八年一月のおさらいを含むブックマーク

寒い‥‥。

っつうことで二◯◯八年一月のおさらいです。

舞台は演劇二つとダンス二つ。

●1/12(土)『ダンスが見たい!』新人シリーズのどこかのプログラム @神楽坂die pratze
●1/13(日)芝居流通センター デス電所『残魂エンド摂氏零度』@下北沢ザ・スズナリ
●1/19(土)三条会『メディア モノガタリ』@下北沢ザ・スズナリ
●1/20(日)ニブロール『ロミオORジュリエット』@世田谷パブリックシアター

映画四本、うちグラインドハウス二本は名画座でまとめて。

●『デス・プルーフinグラインドハウス』クエンティン・タランティーノ:監督
●『プラネット・テラーinグラインドハウス』ロバート・ロドリゲス:監督
●『いのちの食べ方』ニコラウス・ゲイハルター:監督
●『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』ティム・バートン:監督

美術はなぜか写真展中心に。

●アピチャッポン・ウィーラセタクン『Replicas』@谷中SCAI THE BATHHOUSE
●『ART@AGNES』@飯田橋 アグネスホテル
●日本の新進作家vol.6『スティル|アライヴ』@恵比寿写真美術館
●『文学の領域』@恵比寿写真美術館
●『写真ゲーム』@川崎市民ミュージアム

知り合いの楽しいライヴが一件。

●2525稼業+高橋裕&鈴木新 『遊びの情景−ながいながい午後のために−』@川崎市民ミュージアム逍遥展示空間

読書。あと少しだった『篦棒な人々』は紛失してしまいました。

●サミュエル・べケット『モロイ』
●綿矢りさ『夢を与える』
●松浦寿輝『川の光』
●田中小実昌『田中小実昌紀行集』
●森達也対談集『豊かで複雑な、僕たちのこの世界』

お正月はDVDばかり観ていて、長尺ものをこなしました。

●ピーター・ジャクソン:監督『ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間』
●ピーター・ジャクソン:監督『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』
●ピーター・ジャクソン:監督『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』
●デイヴィッド・リンチ:監督『デューン/砂の惑星 TV放映長尺版』
●『ツインピークス』vol.1 vol.2
●監督わからない『フェスティバル・エクスプレス』
●クレイグ・ブリュアー:監督『ハッスル&フロウ』
●ブリュノ・デュモン:監督『フランドル』
●監督わからない『ロスト・イン・ラ・マンチャ』
●監督わからない『GOOD TO SEE YOU AGAIN-ALICE COOPER LIVE1973』

 さて、過密スケジュールの二月がやってまいりました。三月もすごいです。先の話ですけれども、十月の、「地点」によるチェーホフ四作品連続公演というのも、今から楽しみではあります。

 

*1:「床屋」とは言わずに「理髪師」と言ってしまう背景には、一種の日本的なポリティカル・コレクトネスがはたらいているのではないかと思えるのですが! いや、これもまた、その森達也さんの対談集で学んだ事柄ではありますが。

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■ 2008-01-28(Mon)

[] ニブロール10周年記念新作公演『ロミオORジュリエット』 @世田谷パブリックシアター  ニブロール10周年記念新作公演『ロミオORジュリエット』 @世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

振付:矢内原美邦
映像:高橋啓祐
衣装:矢内原充志
音楽:スカンク

 カンパニー創立10周年というのが、観客にとって目出度いことなのかどうか、すごいことなのかどうかはよくわかりません。でもまあわたしはこのカンパニーは5年ぐらいしか観ていない。何となく不穏な空気を抱え持った集団でした。それはなんだか、個が社会とぶつかってしまった事故現場のような。

 でもなんだか、いつの頃からか、スタイリッシュでエグゼクティヴなブランド・カンパニーに(ブランド・カンパニーなどという呼び方はないでしょうけれども)ずれ込んでいったような印象で、こういってしまっては実も蓋もないけれども、NHK教育TVに出てくる若者達みたいになってしまった。そういう印象があります。

 今回の10周年記念の新作。まずは音。スカンクの音はこれはもう素晴らしい轟音で、エレクトリック・マイルスみたいなファンキーさも垣間見せて、しかもやはりこの世田谷パブリックシアターは音響設備が整備されているというか、この音だけでも堪能いたしました。

 映像も、序盤の三列にたらされた紗幕へのディジタル風景とか、中盤の床に映されるお菓子〜虫(?)の行列とか、舞台にからむ映像としてインパクトのある部分もありました。そう感じました。

 しかしダンスの部分は、近年このカンパニーに感じている疑問が、これで払拭されるようなものではなかったというのが正直なところです。なんというか、閉塞感。舞台上で踊る人物も、観客であるこちらも、閉ざされた空間の中で出口が見つからない。ぶっつかるべき外壁がどこにも見つからないでいて、それでも閉じ込められている。叫んでみてもそれは神経症的に内攻するだけで、分裂症にも至らない。どこか幼児症的な成熟仕切らない感覚は、やはりあの幼稚園児の制服のような衣装のせいではないのか知らん。あれがもうちょっとデザインが違っていれば全く印象が異なるはずなのに。しかしアレこそがニブロールの狙いなのだろうか。たとえばチラシに書いてある文章の冒頭は「ねぇちょっと、みてみてよ」。ここにもやはり幼児性というか、こんな語り口で良いのだろうか。舞台上で発せられる言葉にも、同じような違和感を持ちます。

 ダンスにはそれなりに、例えばヒップホップ文化などを吸収したような、対抗文化っぽい空気もあるのだけれども、そういった衣装や言葉、いやそう言ってしまえば映像なんかまでも、一種ハイ・カルチャー、ハイ・アートの世界に居残ろうとしているように。

 もっともっと壊せばいいのに。音楽はそれを確実に促していると言うのに。もっと、もっと。10年も継続する必要など、どこにもありはしない。ロミオも、ジュリエットも、どこにも居やしない。

(1月20日観劇)


 

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■ 2008-01-26(Sat)

[] 『Baby, Scratch My Back』 by Slim Harpo  『Baby, Scratch My Back』 by Slim Harpoを含むブックマーク

Best of

 土曜日の夜、東京に出てきた時はいつもたいていそうであるように、下北沢の「G」で飲むのですが、この夜のカウンターのおとなりはFさん。Fさんはほとんどわたしと同い年なのですが、いつもとってもパンクな黒のレザーおじさまです。で、Fさんはたいていその夜に下北沢でゲットされたアナログ盤のLPを持って来られて、それを控えめにこの店でかけてくれるように、そっと店の人にささやくのです。その点わたしは図々しくて、いつも買ったCDを有無を言わさず「これかけて!」と要求してひんしゅくを買っているわけですけれども。

 この夜のFさんが持っていらっしゃったLPがそのSlim Harpoのもので、しかもその中にわたしの大好きな「Baby, Scratch My Back」が入っていたので、ついついこの曲がいかに楽しいか、語ってしまいましたけれど、それがちょっと店で受けまして、「どないやろ」と、ココでも書いてみることにしました。

 Slim Harpoはブルースシンガーでマウスハープ奏者、おそらくは、Rolling StonesまたはKinksが、彼の「I've Got Love If You Want It」をカヴァーしたことで一般に知られていると思うのですけれども、えっと、わたしの大好きなAlex Chiltonも、彼の「Te Ni Nee Ni Nu」をやっておられます。ブルースのシンガーとしては比較的後期といいますか、50年代の後半から60年代にかけてが彼の活躍した時期で、そのイギリスの若いグループなどがそういったブルースの音源をカヴァーした時期と、このSlim Harpoの全盛期が時代的にかぶる人ですね。ま、Slim Harpoの音はブルースというよりはかなりポップで、その60年代のイギリスのバンドがやっていたような音と、あまり差異がないのも特徴ではあるのではないでしょうか。おそらくブルースシンガーとして、現役でヒットを飛ばした最後の人でもあって、この「Baby, Scratch My Back」は、1966年にBillboardのポップチャートで、なんと16位まで上がる大ヒットになるんです。だからわたしもこの曲知ってるんですけれども。

 この曲は「歌」というよりはほとんど語りで、彼のブルース・ハープとブルージーなギターから始まって、これがホントにいいんだけど、で、Slim Harpoの語りで、「ン〜、かゆいぜ!」ってなのが入ってくる。つまりタイトル通り、「なぁ、背中掻いてくれよ」っていうのですけれど。この語りが最高で、わたしはずっとこれを勝手に日本語に置き換えて勝手に楽しんでおりましたけれど、ま、その曲を聴けないで歌詞だけをここで取り上げてもその楽しさはほとんど伝わらないと思うのですけれど、ちょっとその、わたしがやった「意訳」を、ここで書いてみたいのですね。えっと、だいぶ原詩と違うと思いますけれど、許して下さい。

ン〜、かゆいぜ!
手ぇ届かねえよ
おぅ、ちょっと背中掻いてくれよ
おまえ、うまいじゃん
やってくれよ

おぉ、そうそう、そこそこ
きっもちいい〜
おまえ、最高!
う〜ん、いいね!

それよそれ、よう知っとるね
つっついとくれ
あぁ、おまえかっこいい
おれが言った通りだぜ

 ははは、ばかだね。ま、ここで「つっついとくれ」っていう所、英語だとchicken scratchとかなんとかいってんだけど、良く意味わからないんですけれど、ここでギターの音が、そのニワトリがコッコッコとかないてるような音出してて、これがまたイイんですね。

 Slim Harpoさんは、1970年に心臓発作でお亡くなりになってしまいました。享年46歳ですか。おそらくはブルースのシンガーの中でももっともロックのフィーリングに近いものを持っておられた方だと思いますし、少し早すぎる死だと思います。もう少し、その60年代以降のロックの時代に生きて活躍していただきたかったアーティストです。


 

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■ 2008-01-23(Wed)

[] 三条会 『メディア モノガタリ』 エウリピデス:原作 関美能留:構成・演出 @下北沢 ザ・スズナリ  三条会 『メディア モノガタリ』 エウリピデス:原作 関美能留:構成・演出 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 この公演のチラシに、関美能留さんは「ある日、Xが亡くなった。」から始まる文章を書いておられますが、その『メディア モノガタリ』を観た直後に、わたしもまたその関さんの文章に相似形の体験をいたしました。

ある日、Xが亡くなった。多くの人から尊敬を集めていた人物だったが、わがままだったので、同じくらい多くの人から嫌われてもいた。僕は、尊敬していたが、同時に嫌いでもあった。気力・体力ともに、年齢と不似合いなものを持っていたので、なかなか死なないだろうと思っていたのだが、あっさり死んだ。嫌いであった多くの人は、喜ぶと思っっていたのだが、意外と悲しんだ。僕は、やっと死んでくれたかと喜んだ。そうでないと、僕たちが殺されてしまうと思ったからだ。なのに、僕は人間Xになりたいと思っている。

 これはメディアが息子たちを殺す物語。これまでの三条会の舞台にはなく、エウリピデスのテキストをいじり倒すようなことはしていません。これはもうほとんど鈴木忠志の世界に近接し、ここでの看板女優の大川潤子さんには、かぎりなく白石加代子が憑依しています。でも、エウリピデスのテキストを忠実に朗唱する彼女は、その実、舞台上で出会うあらゆる人物に憎悪を向け、相手を手にしたナイフで刺し続けて行きます。

 ただ無造作に照明装置と机を並べただけの舞台の後方には当初「1:00:00」というタイムディスプレイが映写されていて、今回タイムキーパー役も兼ねているもう一人の看板俳優、榊原毅さんの「これより上演が始まります」の声でスイッチが入れられて時計が逆進し始めます。そしてもちろん、舞台はまさしく0:00:00ピタリにクライマックスを迎え、終演するのです。これを無用な鍛練といってしまえば、まさに三条会の舞台とはそのような「無用な鍛練」の連続からこそ成立しているといっても過言ではないでしょう。よくぞそこまで! という感じです。

 そしてお約束の歌謡曲、今回は山口百恵のライヴ、その彼女のMCから「よく人に青春とは?って聞かれるんですけれども‥‥」に始まる、まさに舞台を拡張するような音からその山口百恵ベストヒット集という趣のライヴ、その音をバックに踊りながら朗々とエウリピデスを朗唱する大川潤子さんのすばらしさ。今回の見せ場はラスト10分だったけれども、あいかわらず濃厚な榊原毅さんの汗ッかきシーンもちゃんと挿入されていて、でも今回の舞台では、いつもは脇役的な中村岳人さんのかなりな熱演、そして初めて観る立崎真紀子さんのその大川さんの影武者的な存在など、やはりこの劇団は無視することは出来ないと再確認した次第です。(1月19日観劇)


 

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■ 2008-01-12(Sat)

[] 『いい子は家で』 青木淳悟:著   『いい子は家で』 青木淳悟:著を含むブックマーク

いい子は家で

 生まれた時からそれは親の持ち家ではなく、十回以上(数えたらたぶん十五回)の引っ越しを繰り返して来たわたしには、「家」という感覚がほとんどわかっていないと思います。ただ、付き合っていた女性が自分の持ち家に一人で住んでいて、そこに転がり込んだり、週末ごとに潜り込んだりさせてもらっていた時などに、その家がまさしく彼女の住処であり、その家の隅々にまで彼女のネットワークがはりめぐらされていることは否応もなく意識されて、ある種類の「畏怖」に似た感覚を覚えることがあります。

 この青木淳悟の第二作小説集『いい子は家で』に収録された三編の小説それぞれの主人公は、まさに「家」そのものです。郊外住宅地に建てられたステレオタイプな構成を持つ住宅建築からの視点として、まるでスティーヴン・キングの『シャイニング』のように、家にとり込まれてしまったひとの、「畏怖」を合わせ持ったホラー小説のような無気味さの、奇妙な味わいの小説集と言えるのではないでしょうか。特に、このユニークなテーマと、そのテーマを支える文体とのみごとな融合こそはゾクゾクとするような言語的成果で、その第一作『四十日と四十夜のメルヘン』が、保坂和志さんに「日本のトマス・ピンチョン」と賞賛された以上に、この新作こそが稀な言語的実験としてわたしの記憶に残るのです。

 表題作『いい子は家で』は、どうもいわゆる「ニート」とか「ひきこもり」などと呼ばれるであろうような男性の語る、その家族の話だと言っていいのでしょうが、この物語すべてが「たまに目に見えないものを見てしまう」と自ら語る主人公の幻覚なのだろうとも思えるのです。「この穏やかな家庭に波風を立てたくない」と気をつかうあまり、女ともだちに会いに行くことも隠しだてする主人公の意識は、その家を構成するメタフィジカルな空間を透視してしまい、父も母も兄も、この小説の中では家に執り憑く妖怪のような変ぼう/変身を見せ、主人公自身もその女ともだちのマンションで奇怪な変身を体験します(ここの描写はすばらしい!)。

 思い返せば、あのカフカの『変身』でも、読後感として残るあの詳細を極めた(そんな記憶があるのですが)ザムザ家の間取り、室内描写などを通りこえてみると、あの傑作短編小説でも、「家族」をこえた、メタフィジカルな「家」という概念こそを読み取るべきなのかも知れません。

 次の『ふるさと以外のことは知らない』では、まるでロブ=グリエの『嫉妬』のような、徹底した三人称客観描写から書き始めながらも、それでもなお、その第三者としての、(「神」のような視点をとる小説家の特権的な視点ではない)この文章の書き手が存在することを読み手に意識させる「なぞかけ」が読み取れるのですけれども、それは少なくとも「家」ではないのですが、ここでも家にはり付いたような妖怪のような視点は、その「家」そのものを変貌させるようでもあります。

 最後の短い『市街地の家』でも、前の二作でのほぼ主役(家の主)であった「母」の不在(親戚の葬儀で連続して家から離れる)から、なぜか「おねえことば」をしゃべる奇妙な父親が、その「家」の中で自分の気配を消して行こうとするような、やはりちょっと無気味な小説です。

 「家」をテーマ/主人公としての、この三作を通じた連作の試みとして、やはりこの小説集はわたしには『四十日と四十夜のメルヘン』以上の成果だと思えますし(特にピンチョンだとは思いませんが)、これ以降もこの作家の作品は読み続けてみたいものです。


 

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■ 2008-01-09(Wed)

[] 『ネットカフェ難民 ドキュメント「最底辺生活」』 川崎昌平:著 幻冬舎新書   『ネットカフェ難民 ドキュメント「最底辺生活」』 川崎昌平:著 幻冬舎新書を含むブックマーク

 先日書いた『知識無用の芸術観賞』と同じ著者による、これまた天地逆転するような楽しい本です。

 「僕に職はない。肩書きもない。他人に誇るような学もなければ、技能もない。世間で言う所のニートである。」という書き出しから始まるこの本に、社会学的な見地からの「この現状をどう捉えるか?」などという視点を求めてはいけません。いつでも実家に帰ることが出来る身分、ことあるごとに「こんな道を選んだのは全部自分の責任」と語る姿勢から、現代日本の中の格差社会とか、そういう問題への告発するような姿勢を求めてもココには何もありません*1。しかしこの痛快さ。これはほとんど文学作品と言ってしまえるといいますか、最近ではほとんど絶えて久しい思いのする「日記文学」などというジャンルが思い起こされたりもするのです。

 その、主人公である「僕」が、ふと宿泊した漫画喫茶から朝になってチェックアウト(なんて言わないが、外に出るのね)した時、降りるエレヴェーターに乗り合わせた女性が放つ体臭から、そのエレヴェーターから降りた時に「せめて、あれぐらいのにおいを放てるようになるまでは、がんばってみても、おもしろくないことはないかもしれない」と思ってしまう所から「ネットカフェ難民」への生活が始まり、日記形式での31日間の記録が収められます。時にその日記本文よりもずっと長大な(注)の、時にカタログ的な、店の名前やマンガ本への注釈などを読んでいると、そのベクトルは正反対なのですがあの往年の『なんとなくクリスタル』なんか思い出されたりもして、確かにこの本は2007年という「時」において、極私的存在と社会との遭遇する場の記録として、やはりみごとなまでのドキュメンタリーなのではないかと思います。

 とにかく痛快なまでに面白い本なのですが、特に作者が上野で警官に尋問された時の話ね、なぜか(場所柄なのか)美術に異様に詳しい警官(白髪一雄やリヒターを知っている)にあれこれと聴かれる場面には、本当に久しぶりに、活字本を読んでいて笑いをこらえるのに必死になる(電車の中でしたので)という体験をいたしました。


*1:とは言えどもやはりココには、現代美術などというコースを選んでしまった、フリーターとかニートとか呼ばれざるを得ない生き方を選択した若者の悲哀が語られているという点からも、一種の社会批評といえる視点が、確かに存在しているのでしょう。

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