ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2008-06-30(Mon)

[]二○○八年六月のおさらい 二○○八年六月のおさらいを含むブックマーク

 少しあてにしていた求人がなくなってしまったので、失業期間が長くなりそうな気配です。地方税と国民健康保険税がなければ、失業手当で貯金すら出来そうだったのに、そうもいかないようです。できるだけ外へ遊びに行くのは避けて、簡素な食事を心がけましょう。それでやはり、読まなくなった本や聴かなくなったCDを売ることも考えましょう。

 クレソン&バジルは成長を続けています。少しクレソンの成長が遅いような気がするのですが、どちらにせよ収穫は8月を過ぎてから。

 6月の舞台は三つ。

●6/3  藤木恵子『踊りは踊りのないところから立ち上がってくる』(MSA Collection 2008)@神楽坂die pratze
●6/7  水族館劇場『Noir 永遠の夜の彼方に』@駒込大観音境内特設蜃気楼劇場<黒の牙城>
●6/28 『TOYOTA CHOREOGRAPHIE AWARD 2008”ネクステージ”最終審査会』@世田谷パブリックシアター

 珍しくライヴなどにも出かけて、

●6/12 BUGEL KOAR & QUIKION 『伝統と現代性、都市に流れるトラッド』@飯田橋・日仏学院

 展覧会もひとつ。

●6/8  『英国美術の現代史 ターナー賞の歩み』@六本木・森美術館

 映画館で観た映画は三本。

●三谷幸喜:監督『ザ・マジック・アワー』
●スティーヴン・スピルバーグ:監督『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』
●ぺドロ・コスタ:監督『コロッサル・ユース』

 電車の座席という読書スペースに場所を占める機会が少なくなってしまったので、本をあまり読まなくなりました。『音楽の神童たち』は、いわゆる「天才の病理学」みたいなのを期待していたのですが、はずれでした。

●高山文彦:著『エレクトラ〜中上健次の生涯』
●諏訪哲史:著『りすん』
●クロード・ケネソン:著 渡辺和:訳『音楽の神童たち』上・下

 アホみたいにDVDを借りたりして見続けているのですが、見たものを逐一書いていると大変なことになります。そう、最近もうひとつのブログの更新をさぼっているので、そちらの方に見たDVDの感想とか書いてみるのもイイかも知れません。しかし手当り次第というか。

●ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 『赤い砂漠』
●ロベール・ブレッソン:監督 『スリ』
●ロベール・ブレッソン:監督 『バルタザールどこへ行く』
●ロベール・ブレッソン:監督 『少女ムシェット』
●ロバート・ロドリゲス:監督 『シン・シティ』
●ロバート・ロドリゲス:監督 『プラネット・テラー(USAヴァージョン)』
●クエンティン・タランティーノ:監督 『デス・プルーフ(USAヴァージョン)』
●ポール・バーホーベン:監督 『ブラックブック』
●デイビス・グッゲンハイム:監督 『不都合な真実』
●ニール・ジョーダン:監督 『ギャンブル・プレイ』
●ニール・ジョーダン:監督 『IN DREAMS/殺意の森 』
●ニール・ジョーダン:監督 『マイケル・コリンズ 』
●ニール・ジョーダン:監督 『クライング・ゲーム 』
●ニール・ジョーダン:監督 『モナリザ 』
●ジョン・クローリー:監督 『ダブリン上等!』
●ウォルター・ヒル:監督 『ロング・ライダーズ』
●ダグ・リーマン:監督 『ボーン・アイデンティティー』
●ポール・グリーングラス:監督 『ボーン・スプレマシー』
●マチュー・カソヴィッツ:監督 『ゴシカ』
●デヴィッド・クローネンバーグ:監督 『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』
●エドガー・ライト:監督 『ショーン・オブ・ザ・デッド』
●フレッド・マクロード・ウィルコックス:監督 『禁断の惑星』
●ダグラス・ゴードン/フィリップ・パレーノ:監督 『ジダン 神が愛した男』
●フランソワ・オゾン:監督 『8人の女たち』
●ジャン=リュック・ゴダール:監督 『気狂いピエロ』
●クリストファー・ノーラン:監督 『バットマン ビギンズ』
●ステファン・エリオット:監督 『プリシラ』
●マーティン・スコセッシ:監督 『アビエイター
●レン・ワイズマン:監督 『ダイ・ハード 4.0』
●リドリー・スコット:監督 『ディレクターズカット/ブレードランナー最終版』
●スティーヴン・ソダーバーグ:監督 『セックスと嘘とビデオテープ』
●ターセム・シン:監督 『ザ・セル』
●ゲラ・バブルアニ:監督 『13/ザメッティ』
●スティーヴン・スピルバーグ:監督 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』
●ラリー・チャールズ:監督 『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』
●フランシス・フォード・コッポラ:監督 『ゴッドファーザー』
●エリック・ブレス/J・マッキー・グルーバー:監督 『バタフライ・エフェクト』
●田壮壮:監督 『盗馬賊
●塚本晋也:監督 『悪夢探偵』
●森一生:監督 『ある殺し屋』
●中村義洋:監督 『アヒルと鴨のコインロッカー』
●黒沢清:監督 『DOOR 3』
●土屋豊:監督 『新しい神様』
●宮崎駿:監督 『ハウルの動く城』
●廣木隆一:監督 『M』
●吉田大八:監督 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』
●三浦大輔:監督 『SOUL TRAIN』
●三木聡:監督 『図鑑に載っていない虫』

 ‥‥いやはや。


 

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■ 2008-06-17(Tue)

[] 『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(3)  『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(3)を含むブックマーク

 なんだか90年代の作家/作品群は、好きな作品が多かったので、ついつい「観て楽しかった」みたいな素朴な感想に終止してしまいました。この時代は、ポピュラー音楽面でも英国は抜きん出ていた時代でした。そんな反映を今回の美術作品の中にも見出せるような気もしましたが、どうでしょう。では2000年代です。

2000:ヴォルフガング・ティルマンズ(Wolfgang Tillmans)

 彼も大御所ですけれども、この展示も何年か前のICCでの個展が思い出されます。その作品単体の魅力に加え、それら総体としてのインスタレーション的な展示の背後から、等身大のアーティストの視線が浮かび上がってくるようです。今回は、アチラ版の「The Big Issue」に彼の作品が掲載された号とかも展示されて、より作家の視点が鮮明になります。

2001:マーティン・クリード(Martin Creed)

 この人も、ただ紙をクシャクシャに丸めて転がして、それで作品にしたのとかで有名というか、技法的には「そんなの誰でもすぐに出来るジャン!」というような作品を連続して作っている巨匠。今回はからっぽのギャラリーの照明を5秒おきに点滅させるだけの作品です。
 そこにいる人それぞれに、いろいろな反応を巻き起こしうる作品だと思います。それはやはり、雑誌などで「ギャラリーの照明を5秒おきに点滅させる作品」と紹介されて、「ふぅん、なるほどね」と了解するのとは、まるで違うのです。この「森美術館」の白木の床とか、やたら気になったりしますし、この照明の点滅が10秒間隔だったらこの場にいてどのような違いを感じるだろうとか、そんながらんとした部屋の中で借りた音声ガイドの音声に聴くともなく耳を傾けるのも新しい感覚を立ち上がらせるかも知れません。
 いにしえに読んだハロルド・ローゼンバーグの美術評論『荒野は壺にのみこまれた』という本に、美術作品の「パッケージ」としての美術館/ギャラリーとかの空間存在にふれたエッセイがありましたが、そこで示されたように、「パッケージ」としての展示空間にスポットをあてた作品だということが出来るでしょうか。少しずれますが、デュシャンの『泉』にせよ、あれが展示空間に持ち出されたからこそ、様々な意味を持ち得たわけです。そういう事象を思い出したりしました。

2002:キース・タイソン(Keith Tyson)

 家に帰って図録を見てびっくり! わたし、彼の作品を観ないで通り過ぎてしまったようです。この会場、順路がちょっと迷いやすいと言いますか、ダグラス・ゴードンの作品もわたしはあやうく観ないで通り過ぎるところだったですし。ま、もういちどこの展覧会には行く予定なので、それまでコメントは控えましょう。

2003:グレイソン・ペリー(Grayson Perry)

 なんだかこのあたりから先の展示空間はかなりごちゃごちゃしていて、視界の奥に他の作品が重なったりして、ちょっとイヤです。
 でも、この人、いいです。かなり好きかも。なぜか大きな壺に焼きつけられたイラストはヘンリー・ダーガーの物語絵を想起させるようなストーリーを内包しているようで、作家である彼自身のクイア性と合わせて、マイノリティとしてのアートの力を感じさせます。テート・ギャラリーの前で女装して「NO MORE ART」のプラカードを持つ作家のポートレートが最高で、わたしもこれからの標語は「NO MORE ART」ということで突っ走りたくなってしまいました。かなりお気に入り。

2004:ジェレミー・デラー(Jeremy Deller)

 伝説の『オーグリーヴの戦い』の作者です。ちっちゃいスクリーンでも何ででも、その『オーグリーヴの戦い』を観たかったのですけれども、今回はアメリカで製作された『記憶のバケツ』というヴィデオ作品と、『世界の歴史』という壁のドローイング。
f:id:crosstalk:20080617174732j:image:right いやしかし、この『記憶のバケツ』という作品は、ものすごく面白いです。23分ほどの作品ですので、是非とも全編ご覧になることをお勧めいたします。作品の冒頭に「MEMORY BUCKET」というタイトルが出ますけれども、この文字が「ツイン・ピークス」のタイトルの書体をまねています。これはポイントですね。ほとんど3つに分けられた作品の最初のパートは、1993年にテキサスのWacoという地域で起こったカルト教団への軍隊の攻撃、結果として教団施設の火災などで70人もの人が死亡している事件*1、そんな事があったこともわたしは知らなかったけれども、その土地での当時の生き残りの人や、訪れて来たクェーカー教徒の人たちへのインタヴュー。次はそのWacoからそんなに離れていないレストラン、そこはジョージ・ブッシュがお忍びで食事に訪れることがあるというという場所で、レストランに飾られたブッシュの写真や、レストランの従業員へのインタヴュー。最後のパートは、おそらくはやはりテキサスのそんなに離れてはいない場所なのだろうと思うのですが、「立入禁止」という立札のある自然の洞窟、その穴の中からコウモリ、無数のコウモリが飛び出して来る。これが本当にすごい数で、その空を群れで飛ぶコウモリの姿がしばらく続いて。このコウモリの飛ぶ姿がすばらしいです。裏「ツイン・ピークス」といいますか、ゾクゾクする作品でした。
 あとで図録を見ると、その『オーグリーヴの戦い』という作品は、マイク・フィギスによって映画化されているらしいのですが。とにかく観てみたいですね。

2005:サイモン・スターリング(Simon Starling)

 この人の作品は、もうちょっと説明が欲しいと思いました。というか、もう少し他の作品が観たいというか、展示場所もあまり良くないというか。ごめんなさい、よくわかりませんでした!

2006:トマ・アブツ(Tomma Abts)

 国籍不明な名前を持つ作家ですが、ドイツの女性作家。サイズでいえば8号ぐらいのカンバスへの油彩とかアクリル。まっとうなタブロー作品なのですけれども、図録を読むと、何のイメージも持たないで描きはじめるらしいです。それはだからこそ、計算されて生まれたのではない魅力をたたえているのでしょうか。奇妙な、不思議な美しさを持った作品で、それは本来絵の具が持っている色彩の美しさを引き出した作品、という意味では「伝統的」な作品と言えるのかも知れませんが、あきらかにコンピューター・グラフィックスとか3Dアートなどのあとに出て来た絵画という印象で、実はしばらくお目にかかることのなかった、肉感的な絵画とでも言いますか、そのようなかたちの現在形。違うけれども奈良美智とかの親和性も考えてみたい。

2007:マーク・ウォリンジャー(Mark Wallinger)

 最後の作品は、作者がクマちゃんの着ぐるみに入って、夜中のベルリンの美術館を徘徊する2時間半の作品。これはやはりがんばって全編観てみたいので、見損なったキース・タイソンの作品と合わせて、もういちど森美術館に行ってみたいと思っています。
 この人も、過去に起きた事件なり事象を映像とかインスタレーションとかでもう一度再現するようなことをやっているようで、このあたりがジェレミー・デラーとかと合わせて、新しい潮流なのかなぁ、などと思ったりします。それはダグラス・ゴードンがジダンを撮った商業映画とか、スティーヴ・マックィーンのカンヌ出品の商業映画とか、マイク・フィギスなどといっしょに考えて、それはシンディ・シャーマン(最近どうしちゃったんだろう?)とかジュリアン・シュナーベル(最近は映画の人)とは異なるアート界から映画へのアプローチとして、ちょっとこれから注目しなければ行けない動向かも知れません。


 ‥‥てな感想ですが、この展覧会全体について言えば、もう少し個々の作品へのキャプションとか多くしても良かったのではないかと思います。例えばジェレミー・デラーにせよ、サイモン・スターリングにせよ、トマ・アブツにせよ、ほとんど日本では初めて紹介される作家なのですから、「観れば解るだろ」みたいな展示姿勢はもうありえないのではないでしょうか。なぜか、美術作品の紹介に関しては何のキャプションも不要で、観るものがその「感性」で捉えればそれでいいのだみたいな、つまりは前近代的な風潮がいまだに残っているようなのですが、そうは言いながらも例えばデュシャンの『泉』とかがいきなり展示されていたりするのを観ると、「これはねぇ」とか、その作品が生み出されたコンテキストをシッタカに語ったりするのが、つまらないスノビズムです。例えば今回の展示で言えば、前回も書いたレイチェル・ホワイトリードの作品などはイギリス国内で展示された諸般の事情をすっとばして東京で展示するのですから、それなりの作品成立事情のコンテキスト提示は必要でしょう(もちろんこれは「音声ガイド」でまかなわれてはいたのですが)。そういうコンテキスト抜きで観賞は不可能だというのが、ある意味で現在形の美術作品ではあるのではないでしょうか。

 

 

*1:その時の、炎上する教団施設の写真があったのでアップしておきます。これって、「オウム真理教」より以前の事件だったのです。

nofrillsnofrills 2008/07/14 09:48 はじめまして。この展覧会について検索してたどり着きました。
ジェレミー・デラーは『オーグリーヴの戦い』の人だったのですね。ご存知かもしれませんが、下記URLでPLAYをクリックすると見られます。
http://www.channel4.com/fourdocs/archive/battle_of_orgreave.html

Memory Bucketは最後まで見られませんでした(閉館時間になってしまいました)。
断片的に見ただけなので、またの機会にと思っています。

スティーヴ・マクイーンのHungerのトレイラーは下記で:
http://www.rowthree.com/2008/05/22/steve-mcqueens-hunger-trailer/
背景解説は:
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/film/cannes/article3942076.ece

crosstalkcrosstalk 2008/07/14 11:38 nofrillsさま、情報ありがとうございます。

■ 2008-06-15(Sun)

[] 『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(2)  『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(2)を含むブックマーク

 っつうことで、80年代の受賞作は、わたしにはやはりどことなく時代を感じさせられる作品群ではありましたが、今日は90年代の作品のことを書いてみます。やはりこの時代の作家は知っているだけでなくかなり好きな部類の人たちですし、ここはほんとうに楽しみながら観覧いたしました。おっと、1990年はあれこれいろいろあって、このターナー賞はお休みだったのでした。それでは91年から。

1991:アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)

 アニッシュ・カプーアの作品は、何年か前に谷中の「SCAI THE BATHHOUSE」での個展を観ていたので、その時に観た作品群の記憶が、今回の作品を観る上でとても役立ってくれました。ちょっとこの『ターナー賞の歩み』の一点だけの展示では、ポイントがつかみにくいような気がします。ただ、この作品の展示されている場所が、その長方形の展示区画の部屋に入ったそのいちばん奥であるというのは(たぶん作家なりからの指示もあるのでしょうが)正解といいますか。
 作品自体はその部屋の奥に吊るされた真っ黒な球体(直径1メートルぐらい)を半分にしたようなもので、これ、その展示室に入ってその作品を見ると、ひょっとすると壁に丸い穴が開いていて、その穴の奥が真っ暗に見えるのではないかと思ってしまうわけです。以前観た谷中での彼の個展では、壁に黒い円が描かれている/掛けられているのだと思って近くに寄ると、思いがけずもそれが壁に開けられた穴だったりした作品を観ていたので、観る前に「あ、あのアニッシュ・カプーアだ」と思った時に、その時の作品を思い出していたのでしょう。だからわたしなどは「また壁に穴?」などと思って観てしまったのですが、しかしこの半球はどんな顔料で黒く塗られているのか、近づいてみてもまったく光を反射していません。今回は「穴」と思わせて実は「立体」という作品でしたが、これ一点ではちょっと寂しい気がしました。

1992:グレンヴィル・デイヴィー(Grenville Davey)

 知らない作家でした。一見、80年代の受賞作品に連なるような立体作品なのですが、用途不明の工業製品のような「ドライ・テーブル」という作品は、リチャード・ディーコンの作品から手仕事の痕跡を消し去ってしまったようで、資本主義消費社会の中での作品のあり方によりラディカルな姿勢を示したようでもありますし、もう一点の複数の断片のインスタレーションのような作品「シャープ」は、ドナルド・ジャッドなどのミリマリズムから出発していながら、より空間意識の強い、パースペクティヴの効いた作品になっているようで、わたしは気に入ってしまいました。

1993:レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread)

 この人の東京での個展(ギャラリー小柳)も観た記憶があります。えっと、この作品に関しては是非とも「音声ガイド」のコメントを聞いてご覧になることをお勧めいたします。ってえか、「音声ガイド」なしにこの作品「ハウス」のことを解ったつもりになることは、ほぼ不可能ですから。もしもあなたが、先に何らかの情報でこの作品の製作から撤去に至る経緯をご存知なのであれば「音声ガイド」は不要でしょうけれども。つまり、ここに展示されているのは、その作品が造られ、放置(展示)され、撤去されるまでのドキュメンタリーと、その作品の一部(残骸)の展示なのです。
 イギリスではこの作品をめぐってかなりスキャンダラスなニュースがあれこれ話題になっていたようですが、おそらくこの日本での観客でそのような事情に詳しい人もあまりいないのではないでしょうか。ちがうか。そういう、作品をとりまく醜聞(死語)と共に存在するような作品を享受する場合に、どこまで情報が必要なのでしょうか、などということを考えてしまいます。しかしそのような醜聞(死語)を抜きにしても、やはりこの作品は魅力的だと思うのですが。

1994:アントニー・ゴームリー(Antony Gormley)

 むむ、知らない作家だが、何か見覚えがあるぞ‥‥。
 おぉ、思い出したぞ! これは去年さいたま芸術劇場で上演された、アクラム・カーンとシディ・ラルビ・シェルカウイの『ゼロ度』という作品に、マネキンというか、人体のモデルを提供していた作家ではないですか。
 この作家はいつもそういう、人の「身体」をテーマにした立体作品を製作しているらしいですね。それであればやっぱり、その立体が動いたりする『ゼロ度』での彼の作品が面白かったかも。というのは、この作家のそういう人の「身体」への掘り下げ方は半端じゃないということでしょうか。素晴らしい素材。

1995:デミアン・ハースト(Damien Hirst)

 出ました! この展覧会の目玉商品、牛でも知ってるデミアン・ハースト。今回は「母と子、分断されて」と「アルギニノコハク酸」の2点の展示ですが、「アルギニノコハク酸」の方は、彼の作品としては方法論に溺れてインパクトに欠ける気がします。やはり「母と子、分断されて」。青みがかったホルマリン液の色彩が海を思わせるのもイイですね。分断された左右の身体、「母」の方はその作品の間を通り抜けることが出来ます。わたしが観た時には、その左右の胴体の間でガイジンのお客さんが長いこと立ち止まってしまっていて、美術館の会場管理のきれいなお姉さんに「立ち止まらないで下さい」と、注意されていました。これから観に行く方、長く立ち止まらないようにしましょう。しかし、「牛タン」ってデカいですね。いやもうこの作品の前ではわたしなどは何の言葉もないのです。そのくらい惹き付けられていた作品でした。

1996:ダグラス・ゴードン(Douglas Gordon)

 ここらあたりから、ヴィデオ作品というか、映像作品の数が多くなって来ます。その分野ではこのダグラス・ゴードンはもう今や巨匠ですね。この人には既存の有名な映画作品から想を得た作品が多くて、それはつまりは「映画」という表現がナチュラルに「素材」になるという、ひとつのエポックをあらわすような作品を生み出した作家と言えばいいのでしょうか。ここでの展示は、『ジキル&ハイド』での、ジキルからハイドへの変身シーンのスローモーション。人の原初的なエモーションの記録としての映画技法への言及としての作品の可能性というのでしょうか。やはりインパクトは大きいですね。って、買って来た図録を読むと、『ジダン 神が愛した男』という商業作品の監督もやっているらしい。サッカーのことはまるでわからないのでアレですけれども、今度そのDVDを借りてみることにしました。

1997:ジリアン・ウェアリング(Gillian Wearing)

 この人もわたしの大好きな作家さんで、昔銀座の資生堂ギャラリーでの「イングリッシュ・ローズ」展を観た時から、トレイシー・エミンとかと並んでお気に入り。って、わたしも意外と細かいところチェックしていますねぇ。さすがわたしも自称美術作家です。今回はどちらも映像作品で「60分間の沈黙」と、「サーシャとママ」の二つ。この「60分間の沈黙」がやはり最高にエキサイティングなんですけれども、とにかく作品の長さは60分。で、さすがに「森美術館」ですから、60分の作品だといってもゆっくりと座って観るスペースとか椅子とか絶対に準備はしてありません。とにかくこの作品のかなめはラスト。わたしはうまい具合にちょうどラスト前10分とか15分ぐらいから観ていたので、あまり苦労しないでその圧倒的なラストに遭遇することが出来ました。これはほんとうにちょうどいい間合いといいますか、単にこのラストだけ観てもここに並んでいる警官たちの気持ちは解りませんしね。あ、この作品はですね、まるで「記念写真」のように、30人ぐらいの警官に整列してもらって、「いつまで」という時間制限を告げずにヴィデオカメラの前で静止してもらっているという作品で、それが60分ですからね。もうだんだんに皆そわそわと身動きして来るし、うんざりして来るし、その60分過ぎた時に「はい、終わりです。」と告げられた瞬間の皆のリアクションこそあまりに面白いのですが、その面白さが観る人に伝わるには、観客もまた「いつまでなのか」という疑心暗鬼にとらわれなくてはなりません。この「ラスト」は「マスト」です。

1998:クリス・オフィリ(Chris Ofili)

 久しぶりのタブロー作品で、初のアフリカ系作家の受賞。なんかマイルス・デイヴィスの「オン・ザ・コーナー」のジャケットのイラストみたいなの。わたしはアフリカ文化に明るくないので、語る言葉がありません。

1999:スティーブ・マックィーン(Steve McQueen)

 なんか同姓同名の映画スターがいましたけれども、カリブ系の人らしいです。映像作品で、やはりその典拠はキートンの映画作品かららしいです。正直、ちょっとピンと来なかったのですけれども、この人、今年のカンヌ映画祭で「Hunger」という劇映画を監督して、「カメラドール」を受賞しています。どうやら過去のある事件を元に映像化した作品のようで、これはまた次回に書く2000年代の作家、ジェレミー・デラーとか、マーク・ウォリンジャー、そしてダグラス・ゴードンなどとの作品との関連で、現在型でのアートの、映像との関連でとらえてみたくなる問題です。しかし、カンヌでカメラドールだからといって日本で一般公開されることもないでしょうけれども、ぜひとも観てみたいものです。

 次回はいよいよ2000年代です。


 

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■ 2008-06-10(Tue)

[] 『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(1)  『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(1)を含むブックマーク

 怠け癖がついてしまいまして、いちおう次はチェルフィッチュの『フリータイム』のことを書くとかいっていたような気がしますが、ちょっとこの間観た『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み』(以降『ターナー賞の歩み』と省略)が面白かったので、そちらのことを書いてみたくなってしまいました。とりあえずわたしも美術のフィールドの人間ですしということを言っておかないと自分でも忘れちゃいそう。

 『ターナー賞の歩み』を観る前に「水族館劇場」の公演もありまして、なんだか去年までのわたしのこのブログを読んで(それだけのせいではないと思いますが)「水族館劇場」をご覧になられた方もいらっしゃって、自分のことのように責任を感じたりしちゃうのですが、わたしの眼には今年の「水族館劇場」は相当に不発で、いやね、本当はもっとすごいんですよとか言ってみたくもなりまして、でも考えたら今まででも「今回は不発だなぁ」というのは、一年おきぐらいにはあったのかな。来年に期待いたしましょう。

 で、『ターナー賞の歩み』展ですが、1984年にスタートしてから昨2007年までの(開催されなかった1990年をのぞく)すべての受賞作家の、受賞作品もしくはその頃の作品を展示したもので、わたしなどもなじみの作家、大好きな作家も多いのです。もちろんまったく知らなかった作家もたくさんおられます。そういう作家の作品との出合いも含めて、心待ちにしていた展覧会ではありました。出来ればそれぞれの作品についてもそれを観た感想とか書いてみたいと思っているので、かなり長くなると思います。その初回として。

 実はこの展覧会の受付を通り過ぎて、その入口の手前には「音声ガイド」を貸し出しているコーナーがありました。正直今までそういうのはパスして来ていたのですが、今回は知らない作家もあれこれあるので、一応借りてみることにしました。このことについて少し。以前、川崎昌平という人の『知識無用の芸術観賞』という新書を紹介したことがありましたが(こちら)、結局「凡人」であるわたしなどは、現代美術などというフィールドでは、その作品に背後にある事象をついつい求めてしまいます。特にこの『ターナー賞の歩み』展の場合など、作品が発表されてからある種の批評の洗礼を浴びて評価された結果としての「ターナー賞」なのですから、どのような批評がなされたのか、作者自身は作品のことを語っているのか、一般にどのように評価されたのかとか、やはり知りたいとは思うわけです。それは展示された作品のみを虚心に眺めても、わたしのような観客にはわかりっこない事柄を含んでいるでしょうから。いや、実際、この「音声ガイド」はある種の作品を見るのに大きく役立ってくれました(もちろんそんなガイドをあてにする必要もない作品もあるのですが)。

 ということで、展示はいきなり、ターナー賞のネーミングの元になっているジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)の小品から始まります。そう、イギリスの美術作家で「世界」というフィールドで歴史に名をとどめるような作家って、なかなかいないんですよね。ホルバインとかヴァン・ダイクとか、有名だけれどもイギリス人ではないし、ウィリアム・ブレイクなんかだと「詩人」の比重が大きすぎる。ラファエル前派は退廃的すぎるだろうし、やっぱ、ある程度美術史のなかで新しい視点を切り開いた作家といえばターナーですかね。作者の主観的な眼を通して、イギリス独特の霧にかすんだような風景から抽象画への道を開くような一種もうろうとした絵画を産み出したターナーという作家の名は、このイギリスの現代美術に与えられる賞を象徴するネーミングとして、妥当なところなのでしょう(20世紀前半のイギリス美術もマイナーですからね)。

 そのターナーの作品を過ぎると、会場は大きく年代で三つに区切られ、84年から89年まで、91年から99年まで、00年から07年までと別れています。意外とこの区分は作品の性格分けでも的を獲ているというか、80年代では彫刻的な作品(ニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー)、90年代はクール・ブリタニアとしての若い世代の台頭、00年代はよくわからないけれど、とにかく「多様化」の時代とか。

 で、まずは80年代の作品から順に観ていきます。

1984:マルコム・モーリー(Malcolm Morley)

 第一回の受賞作(あ、受賞作とは限らないのですね)「アメリカ人女性と文明発祥の地」は、思いきりシュナーベルみたいな「新表現主義」の作品。って、ここで「新表現主義」などという言葉を持ち出すのがよくないですね。知らない作家です。
 カラフルな色彩にあふれた海水浴場みたいなところで、手前の方というか画面の下1/3ぐらいは褐色に日焼けした全裸の女性が横たわってるのがグチャグチャって描いてある。全然リアルには描いていないし、それは女性の向こうの砂浜とか、そこにいる人らしき影もみな「グチャグチャ」。ただし色彩は現実の海辺の色彩を思わせるというか、突拍子もないことはやっていないの。上から1/3ぐらいに横に水平線が走っていて、その海から空にかけて、こんどは縦に三つに分割されて真ん中だけ青の色が濃い。で、あっとおどろくその真ん中に巨大な黒い馬が描かれていて、その背中にはローマ時代の戦士の兜みたいなのが黄褐色で浮かんでる。で、左側には女性の足にかぶさるように初期ギリシア美術の彫像(水色で縁取りされ、発掘された破片を継ぎ合わせたように描かれる)。
 なんて、何が描かれているか書いてもしょーがないですね。とにかく、こういう「絵」を見ていると、「絵は絵なんだから」、という作者の声が聴こえて来そうで、タブローとして、現実の似姿をいわゆる「リアル」に定着するのではなく、「絵姿」を重ねていって、現実にしばられない時空を超えた、まさに「絵画」が出現しているのでしょう。それゆえにこそ、描かれた事象への批評的視点をも作家は獲得できるのでしょう。右下、女性の肩の下にちょっと見えるマットだかが赤と青と白で、アメリカの国旗を思わせます。

1985:ハワード・ホジキン(Howard Hodgkin)

 やはり知らない作家さん。こういう作品はとらえにくいです。絵の大きさもあまり大きくなくて、でも幅5センチ以上ありそうな大きな筆でバサッバサッと描いたような。「小さいけれど私のもの」という作品は、額縁こそ黒く塗ってありますが、真ん中のタブロー自体はそんな筆の10ストロークぐらいで描き上げてしまえそうにも見えます。ところがこの作品は製作に1983年から85年までかかってるのです。可視的な風景を単純化して描いたようでもあり、内的な色彩空間を抽象として描いたようでもあります。おそらくはどのような潮流にも合流せずに独自の道を歩まれている作家さんなのでしょうか。松井みどりさんの(字句通り取れば)いわれる「マイクロポップ」と申しますか、やはりわたしにはどうにもとらえきれない作家です。

1986:ギルバート&ジョージ(Gilbert & George)

 猫も知ってるギルバート&ジョージ。おなじみの巨大組み写真パネルの作品。昔池袋のセゾン美術館での展覧会が思い出されます。今回の作品は「Death After Life」という作品で、中央のギルバート&ジョージ自らの像をはさむようにアフリカ系の少年たちの顔のアップ、その背景におそらくイギリスの労働者階級の少年たちの立ち姿。タイトルと合わせても当時のサッチャー政権への批判の込められた作品なのでしょう。

1987:リチャード・ディーコン(Richard Deacon)

 ここからは彫刻というか立体作品がしばらく続きます。リチャード・ディーコンの作品はほとんど工業製品のような外観と仕上がり、かなりの大きさを持っていて、どこかの工場の設備の一部のようでもあり、現代風インテリアのようでもありながら、その有機的な曲線を持つ作品は何の用途もない無用の工業製品。「涙」とか「私を食べて」などと、ちょっと生理的なタイトルが、よりその有機性を際立たせるようです。作品をそばで見ると、その溶接の不揃いな継ぎ目とか、はみ出した接着剤のあとなどがちょっと生々しい感覚が生まれるようです。
 この時代になると、美術作家も工場で造られる製品とクオリティで劣らない作品を産み出せるようになったのだと思うのですけれども、そのような不揃いな部分やはみ出した部分を残すことによって作家の痕跡、作家のアイデンティティーを、資本主義生産システムから救済しているように思えます。

1988:トニー・クラッグ(Tony Cragg)

 去年の「世界文化賞」彫刻の部門で受賞された作家で、ある意味今回並んだ作家中いちばんの巨匠と言えますか。わたしはこの人の作品は、同系色のプラスティック製品とかその破片を壁に貼付けて具象的なシルエットを作るようなのしか知らなかったのですが、巨大なスチール製の天体望遠鏡のようなかたちのメカも作っているのですね。そういうの、初めて観ました(ま、輸送とか大変そうですからね)。そんなメカの足の部分が、ワニとか動物の足になってるの。一昔前の旧式フィギュアみたいな印象も。

1989:リチャード・ロング(Richard Long)

 この人の作品ももうずいぶん観ている気がします。直島にもありました。加工しない石を集めて並べ、大きな円を形作る作品しか観たことがありませんが。いつも思うのは、彼の作品の描く円の、その中心に立ってみたいということ。そしてやはり野外に設置されたものを観てみたいです。


 てなことで、まずは80年代のセクションでした。おっと、蛇足で付け加えておけば、1986年のターナー賞候補には映画のデレク・ジャーマン、そしてメイヨ・トンプソン率いるレッド・クレヨラとの共同作業で知られる「アート&ランゲージ」などの名前もみられます。そう、ここまで、80年代のモノに関しては、「音声ガイド」のお世話になる必要はなかったようでした。

 いくつかの作品のPhotoはここで見ることが出来ます。


 

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■ 2008-06-05(Thu)

[] 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』 岡田利規:著 (2)『わたしの場所の複数』  『わたしたちに許された特別な時間の終わり』 岡田利規:著 (2)『わたしの場所の複数』を含むブックマーク

 久しぶりの更新で、とにかく今まで以上に頭の働きが悪いのですという言い逃れを先にしておいて、書いてみます。

 もうひとつの作品『わたしの場所の複数』の方ですが、こっちはなかなか難しかったのでしたが、その作品としての魅力には惹かれるものがあったのはたしかです。わたしはこの作品のタイトルをいつも間違えて憶えてしまっていて、何度もうっかり『彼女の時間の複数』と書いてしまうのです。つまり、わたしには、この作品は「時間」の話なのだという読み方があったのでしょう。

 まずは、つまりこの作品では主人公の女性がこれからアルバイトを休もうとして、とにかく黴臭い部屋の布団の上でからだを折り曲げて寝っころがっているだけのお話であって、ま、これは基本的には舞台の演出家である岡田さんが、絶対に舞台では出来得ないようなモノをこそ小説にしようとされたのではないかと考えたのですけれども、いや、ちがうわ。これは布団という舞台の上で、パフォーマンスを繰り広げるダンサーの動きなのか。

 とにかくこう、説明するのが難しいのですけれども、その布団の上で横になっている主人公が、メールを受け取ったり、枕元のラップトップの他人(?)のブログを読んでみたり、その時間は夜勤明けで、飯田橋のベッカーズで次のバイトまでのつなぎの時間を仮眠している主人公の夫の姿へと主人公の意識が移行(?)したり、その夫とけんかしたことを思い出したり、そういう小説なのだというか、その主人公である彼女の一人称の視点から語られる独白のような文体は、いつのまにか主人公の読んでいるブログのテキストと同化してしまうし、とにかく読んでいていちばん驚いてしまったのは、主人公の居る場所からは知る由もない夫の仮眠中の姿を主人公の視点から、まるで主人公が夫の眼の前に居るかのような記述がとつぜん始まったりすることで、その他にもそういう飛躍はぼこぼこ出て来るのです。

 そういう意味で、この小説は、エクリチュールのミステリーとでも言ったらいいのでしょうか、その記述の展開の飛翔に驚きながらも読みついでいき、実はここまで書いてまたもういちど小説の最後の方を読んだりしたのですが、やはりこの小説の最後の10ページほどの、交差する濃密な時間と視点の複合、そして何というか蠱惑的で官能的な視線の描写のすばらしさはただごとではなくて、ここでちょっと書いておけば、一般に岡田さんの戯曲はつまりは「現代口語体」によって今のヤング(死語!)の生態を捉えた、みたいな批評のされ方が多いように思うのですが、しかしこの『わたしの場所の複数』を読むと、こと小説においてはやはり(つまらない言い方ですが)エクリチュールの可能性を追い求める小説家としての岡田さんの姿が印象的なのです。

 この小説の最終部では、つまり部屋で寝ころんでいる「わたし」と、朝のベッカーズのカウンター席で次のバイトまでの空き時間に仮眠をとる「夫」と、その「夫」の右隣に座る「(薄いグレーのスーツの)若い女」との、場所も時間も超越したような視点からの文章が続くわけで、例えばその中の「若い女」が仮眠をとる「夫」を眺める、「若い女」からの視点になる文章、

 彼女はそのまま、入り組んだその耳の形を、ここでこのように盛り上がってこのようにカーブを描いて、というような具体的な考えにあまり自分を行かせないようにしたまま、そうではなくて複雑に入り込んでいるというひとつの印象だけでもって、それを見る行為に没入していって、そのうち耳が耳に見えなくなってくるまで、そして誰一人そう思っていないだけで実はとんでもないものがあからさまにされているのだというふうに、少しずつそれが見えてくるようになるところまで、見ていた。さらにそれでもまだ見て、そして、そこにあるくぼんだ箇所と盛り上がっている箇所との陰り方のぐあいが示す意味が、まるきり逆にとらえられてきてしまいそうになる、その寸前まで、彼女はきていた。彼女は肘をカウンターについて、手のひらを、はじめはただ花のように開いて、でも、すぐにそれはやめ、その手を次は顔に近づけて、耳と目尻の間の領域に添えるようにした。それで、しばらくそのままになった。彼女はそうやって、その場所にもう少しだけとどまろうとした。でも、それよりさらに先には、もう行けなかった。

 こういう文章の魅力をどのように書き表わせばよいのか。感傷や倫理から遠く離れて、視線と動作が連動するような、これはやはり美的体験と呼びたくなるような読書体験なのです。とにかくこのあたりのページはすべて、あまりに惹き付けられる文章に満ちているのですが、それらはまったく均質ではなく、センテンスごとに提示されることがらは変化していきます。例えば、次に引用する三行の背後にある時間と空間の乖離とか、ある意味ではこの作品を象徴している言語空間なのかも知れません。

 夫は、しばらく不自然な姿勢で寝ていたので、軋んだ首を反らして伸ばした。
 わたしは、まだ仰向けでいて、今は顎を天井の方に向けていた。
 薄いグレーのスーツの女の子は、ふたたび自分の携帯の画面の上に視線を戻して、もう落ち着いていた。

 ここで、「わたし」は自分のアパートの布団の上で寝ころがっている「わたし」で、「夫」は、「わたし」が今、夫がそうしているであろうという想像の「夫」であるか、もしくは過去のどこかでの「夫」の姿。「女の子」はその「夫」のとなりで夫を凝視していた女性であり、実は「◯◯◯」なのですが、それはやはり、ここで書いてしまってはいけないんでしょうね。って、書いてるじゃん。

 50年とか昔であれば、ヌーボーロマンであるとか、不条理劇であるとか、そういう(言語的な)実験を試みるような小説があれこれとあったのですが、おそらくはべケット以降の演劇の現在形をも探究されておられるであろう岡田さんの、やはりべケットの小説であるとかロブ=グリエの小説の実験を引き継ぐような、新しい小説への試みと捉え、それはわたしの中では、この正月に読んだ青木淳悟さんの『いい子は家で』で書かれた「視点」の問題と並んで、近年の新しい小説の流れとして、以後に希求して止まないような小説世界ではあるのです。早く次回の岡田さんの「小説作品」を読みたいものです。


 

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