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■ 2008-07-31(Thu)

[]二○○八年七月のおさらい 二○○八年七月のおさらいを含むブックマーク

 ふと思い出したのですが、一ヶ月ぐらい前に渋谷に行った時、井の頭線へのガードの下の所、よく「ナントカ震災復興支援カンパ」とかインチキくさい募金のたむろしているあたりですが、そこに段ボール箱を抱えたひょろりとした男の子が立っていて、男の子といっても十代後半ぐらいに見えたのですけれども、「これも何かのインチキ募金なのかな」と思って彼の両手で抱えている段ボール箱を見ると、「親に捨てられました。お金を下さい!」なんて書いてありました。‥‥もう、「何でもあり」の世界だなぁとか思ったのですけれども、ある意味で時代を越えた普遍的な物乞いの理由でもあるのでしょうか。どちらにせよ、面白い事象ではありました。

 七月のおさらいです。舞台は二つ。

●7/5(土)鉄割アルバトロスケット『鉄割のアルバトロスケット』 @下北沢ザ・スズナリ
●7/26(日)三条会『真夏の夜の夢』 @千葉公園特設野外劇場

 美術展は三つ。

●7/6(日)『英国美術の現代史 ターナー賞の歩み』@六本木 森美術館(二回目)
●7/19(土)『魔女たちの九九』@代官山 ヒルサイドフォーラム
●7/19(土)『鎌田幹子 写真インスタレーション展』@神宮前 トキ・アートスペース

 映画館で観た映画は二本だけ、かな?

●デヴィッド・クローネンバーグ:監督『イースタン・プロミス』
●エドガー・ライト:監督『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』

 読んだ本。

●大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』
●宮下奈緒『スコーレNo.4』
●吉田修一『悪人』
●磯崎憲一郎『肝心の子供』
●木村紅美『風化する女』
●岡本綺堂『半七捕物帳(三)』
●宮部みゆき『理由』

 家で観たDVD。

●ミケランジェロ・アントニオーニ:監督『さすらい』
●ミケランジェロ・アントニオーニ:監督『さすらいの二人』
●テリー・ギリアム/テリー・ジョーンズ:監督『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』
●M・ナイト・シャマラン:監督『サイン』
●M・ナイト・シャマラン:監督『ヴィレッジ』
●M・ナイト・シャマラン:監督『レディ・イン・ザ・ウォーター』
●M・ナイト・シャマラン:監督『シックス・センス』
●サム・ペキンパー:監督『ガルシアの首』
●サム・ペキンパー:監督『ワイルドバンチ』
●サム・ペキンパー:監督『ダンディー少佐』
●サム・ペキンパー:監督『ゲッタウエイ』
●コーエン兄弟:監督『レディ・キラーズ』
●コーエン兄弟:監督『ディボース・ショウ』
●ウォシャウスキー兄弟:監督『マトリックス』
●ウォシャウスキー兄弟:監督『マトリックス・リローデッド』
●ポール・グリーングラス:監督『ボーン・アルティメイタム』
●スティーヴン・ソダーバーグ:監督『オーシャンズ11』
●スコット・デリクソン:監督『エミリー・ローズ』
●パウロ・チアゴ:監督『THIS IS BOSSA NOVA ディス・イズ・ボサノヴァ』
●スティーヴン・スピルバーグ:監督『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』
●スティーヴン・スピルバーグ:監督『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』
●スティーヴン・スピルバーグ:監督『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』
●フランシス・フォード・コッポラ:監督『ゴッドファーザー Part II』
●フランシス・フォード・コッポラ:監督『ゴッドファーザー Part III』
●ウッディ・アレン:監督『スリーパー』
●ジョン・ランディス:監督『サボテン・ブラザース』
●ニール・ジョーダン:監督『俺たちは天使じゃない』
●ニール・ジョーダン:監督『狼の血族』
●トニー・ガトリフ:監督『ガスパール 君と過ごした季節(とき)』
●スティーヴン・オカザキ:監督『ヒロシマナガサキ』
●ルイジ・ザンパ:監督『ピンクのルージュ』
●いろんな監督のオムニバス『パリ、ジュテーム』
●庵野秀明:監督『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』
●押井守:監督『アヴァロン』
●押井守:監督『攻殻機動隊』
●押井守:監督『イノセンス』
●鈴木清順:監督『河内カルメン』
●鈴木清順:監督『肉体の門』
●鈴木清順:監督『けんかえれじい』
●清水崇:監督『THE JUON/呪怨』
●森達也:監督『A2』

 なんか、他にも観ている気がするのですけれども、忘れちゃいました。

 

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■ 2008-07-30(Wed)

[] 『さすらいの二人 The Passengers』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 ジャック・ニコルソン:出演  『さすらいの二人 The Passengers』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 ジャック・ニコルソン:出演を含むブックマーク

さすらいの二人 [DVD]

 このDVDがかなりの廉価でリリースされていたことは、まったく知りませんでした。もう在庫はないようで、中古マーケットから購入しました。この作品はずいぶん前にヴィデオで観て以来ですが、わたしにはインパクトの大きな作品でした。今回のDVDの魅力は主演のジャック・ニコルソンによる音声解説がついていることで、わたしは彼のファンというわけではありませんが、とにかくこの3〜40年ほどの映画世界で、意識的に演技の質を変革して来た重要な俳優ではあるだろうとは思っています。例えば『ファイブ・イージー・ピーセス』だとか、『チャイナタウン』、『シャイニング』での演技は心に残るものでした。

 余談ですが、先日DVDショップに立ち寄るとその『シャイニング』の新しいDVDが出ていたので、ひょっとしたらそちらでもジャック・ニコルソンが音声解説やってるのだろうかと思って、ジャケットを眺めてみたのですが、ステディカムの開発者と映画批評家との対談での音声解説のみのようでした。全編ステディカム使って撮影してるわけないので、あまり聴いてみる気にはなれません。もしも『シャイニング』の音声解説をジャック・ニコルソンがやっていたら買ってしまいますね。

 さて、まずはその音声解説について。おそらくはこの3〜4年のうちに録音されたもののようで、ボソボソとした老人のような声でのコメンタリーですが、これがこの作品のカラーに合っています。何分も無言で過ごす場面もありますが、気になりません。冒頭の語り口は以下のように始まります。

録音が始まったようだから
まずはミケランジェロ・アントニオーニの話をしよう
この時代にはいわゆる芸術映画があった
彼は「情事」という作品で注目を浴びるようになった
本作「さすらいの二人」の撮影は
私の俳優人生における最大の冒険だった

 ‥‥静かな、美しいほどの矜持に満ちた語り口です。わたしはこの冒頭の語りだけでも聴きたくてそれだけでプレーヤーにDVDをセットしてしまうことがたびたびあります。

 この作品は、自分であることをやめて、他人になろうとした男の物語です。パトリシア・ハイスミスの作品やナボコフの作品にもそういうテーマのがありそうですけれども、例えばハイスミスの『太陽がいっぱい』のトム・リプリーなどは、この『さすらいの二人』の主人公、デヴィッド・ロックの鏡像のような存在という言い方も出来るかも知れません。ハイスミスの描く登場人物のベクトルは違うのですが、『見知らぬ乗客』でも他の作品でも、自己と他者の境界があいまいになっていくような作品を彼女は多く書いているように思います。ナボコフの場合は『絶望』などという作品がありましたが、他者を目標とする自己が、また他者から自己に円環を描きながら回帰する永久運動のような軌跡を描いているようでもあります。『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』しかり。

 この『さすらいの二人』のデヴィッドの場合、まさしく鉄砲玉のように行きっぱなし、その自分がなろうとした他者がどのような存在かも知らないままに突っ走ります。それはつまりは「自分ではない誰かに」という願望こそが優位だからでしょう。しかし、その背後には、先に書いたハイスミス的な欲望の世界、そしてベルリン亡命時代のナボコフのような「根無し草」的不条理な世界をも含み持つ世界こそが、デヴィッドの中に存在しているのでしょう。

 デヴィッドは報道ジャーナリストというか、北アフリカの紛争地帯(当時のチャド)でドキュメンタリー・フィルムを撮り続ける男なのですが、ジャーナリストとして社会的に評価はされる一方で、現実は彼の目の前からいつもすり抜けて行きます。又はそのように彼は感じています。そのことに彼は絶望に近い感覚を抱いていることでしょう。ここでのデヴィッドのカメラは当然、『欲望』の主人公のカメラマンのカメラと同じでしょう。世界は1970年代も中盤にさしかかり、欧米の反体制運動は鎮静され、ヴェトナム戦争も終結しようとする時代です。

 「自分ではない誰か」というのは「ここではないどこか」というのとある意味で同義で、ある種のロマンティシズムの発露ではあるでしょう。しかしながら決してロマンティストではありえない(といって、リアリストでもないところが彼の魅力なのですが)アントニオーニが、主人公に幸福な結末を用意することはありません。

 室内から窓の外を写しながら徐々にその窓に接近し、ついにはカメラが窓から外に抜け出して周囲を写し、ターンしてそのカメラが出て来た室内を外から撮影するに至る、有名なラストの7分間。どんなにSFXなどが発達してもここでの映画的魔力は失われることはないでしょうし、安易に真似ることも不可能ではあるでしょう。ここに含まれる窓の外の世界の映像、そして聴こえて来るノイズの集体は、映画という形式のみが到達することのできる、ある面で究極のコレスポンダンスな表現ではないでしょうか。

 ジャック・ニコルソンのコメンタリーで、この場面で自動車のエンジン音の陰に銃の発射音が聞こえることを指摘してくれます。明確にここで主人公は射殺されるのです。アントニオーニの作品ではそのストーリーの輪郭はあいまいなのですが、契機となる事象ははっきりと証拠品のように提示されています。『赤い砂漠』においても、モニカ・ヴィッティが海辺の小屋のパーティーで「誰かの叫び声を聞いた」という時、たしかにその前の場面で叫び声が聞こえているのです。

 今回久しぶりに観て思ったのは、もうひとりの登場人物、マリア・シュナイダーはやはり、デヴィッドの手にした(砂漠で死んだロバートソンの)手帳に出て来る「デイジー」という女性であって、もしかしたら実際に「ロバートソン夫人」であったのかも知れないということ。デヴィッドの夫人がデヴィッドの死体を見て警察の質問に「知らない人」と言い、マリア・シュナイダー(映画の中では役名がない)は「知っている」と答えるのがグッと来ます。

 一般には、途中のしまりがあまりない、「アントニオーニとしてはそれほどでも」というあたりの評価の作品かも知れませんが、冒頭のアフリカ、そしてミュンヘンからロンドン、バルセロナそしてスペイン南部へと移動するロード・ムーヴィーとしても、その土地の風土の重さを観客に伝える映像としても、わたしにはお気に入り。特にバルセロナでのガウディのアパート内部、屋上シーンなんかいいよ。わたしは長回しのあとのホテル、最後の夕暮れの情景とそれにかぶさるギターのサウンドトラックが大好き。

 アントニオーニの初期作品『さすらい』は、男がさすらったあげくに元働いていた工場の塔から身を投げたりして、たしかに『さすらいの二人』一人ヴァージョンみたいなニュアンスはあります。又、最近のハリウッド映画、マット・ディモンとかが出てる『ボーン・アイデンティティー』ってヤツは、まさしくこの『さすらいの二人』の真逆のような物語であったりします。


 

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■ 2008-07-25(Fri)

[] 『欲望 BLOW-UP』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督  『欲望 BLOW-UP』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督を含むブックマーク

欲望 [DVD]

 ミケランジェロ・アントニオーニの作品のことを、少し続けて書いてみようと思います。この『欲望』は、おそらくアントニオーニ監督の作品ではいちばん有名なのではないかと思いますけれども、日本で公開されたのは1967年で、この年のキネマ旬報ベストテンでは2位にランクされています。ちなみにこの年の1位はジロ・ポンテコルヴォ監督の『アルジェの戦い』(わたしはいまだにこの作品を観ていないのですが!)で、3位がアラン・レネの『戦争は終った』、5位がゴダールの『気狂いピエロ』でした。わたしはロードショウでは観ていないと思うのですが、二番館とか名画座でこの年のうちに観ているはずです。

 つまらないことをくだくだと書きますが、わたしの記憶では、この『欲望』は北千住の「ミリオン座」という映画館で観たつもりでいたのですが、それは中学生の時にその「ミリオン座」で観たBeatlesの『A Hard Day's Night』(『アイドルを探せ』との二本立てだったような?)の記憶とごっちゃになっているのかも知れません。今でははっきりと思い出せませんが、水道橋にあった「後楽園シネマ」で観たのか、それとも、同じ年ぐらいに公開されていたはずの『傷だらけのアイドル』(原題「Privilege」)という作品との二本立てで上野あたりで観たのではないかと思います。いや多分この上野で観たというのが正解かな。どちらにせよ、高校一年の時でしょう。

 結局おそらくはこの作品こそ、わたしがこれ以降こういったアート志向な映画を連続して観るようになるきっかけになった作品だったというのは間違いないでしょう。『傷だらけのアイドル』を観に行ったというのも、つまりは当時ちょっとマニアックな洋楽ファンだったわたしが、元Manfred Mannのリード・ヴォーカルだったPaul Jonesが主演した映画だというだけで観に行ったわけでして、この作品はつまりはメディアに利用されるポップスターの悲劇を描いた映画というわけでしたけれども、ちょっと楽曲が重苦しくてがっかりした記憶があります。そういうふうに単にマンフレッド・マンなどという、知る人ぞ知るみたいなバンドの、ほとんど日本では知名度ゼロに等しい、ポール・ジョーンズというシンガーを目当てに映画館に足を運んだわたしも相当なものでした。

 ですから、『欲望』を観に行ったというのも、その映画の中にYardbirdsが演奏するシーンがあるという情報を得ていたからこそ観に行ったに違いありません。Yardbirds、好きでしたモン。ドーナツ盤2〜3枚持っていたし、今でもメンバーの名前皆そらんじています。ただこの頃はもちろんまだLed Zeppelinになっていませんし、新しいメンバーだったJImmy Page(この時はベース弾いてます)のことはあまり良く知らなかったですね。ま、そんな興味で観た映画でした。もちろんアントニオーニという監督のことは知りませんでした。

 ‥‥それで、スクリーンに対峙するわけですが、かなりの衝撃でした。Yardbirdsのライヴシーンはだいぶ後半になってからでしたけれども、その前にも、たしかスタジオでのファッション写真の撮影シーンのバックで、Lovin' Spoonfulの「Did You Ever Have To Make Up Your Mind?」などというわたしの大好きだった曲(Lovin' Spoonfulではない別のグループでのカヴァーでしたが)が使われていたことなどもあり、もちろんHerbie Hancockのオリジナル楽曲も良かったのですが、すっかり映像にはまってしまいました。当時は、主人公のデヴィッド・ヘミングスと隣にいるサラ・マイルズとの関係なんてわかりませんでしたけれども、そういう部分はすっとばして観て、とにかくそこに自分の知らないでいた豊かな映画の世界があると思い、生意気にもたいていのことはわかったつもりになってしまって、それでもとにかくゾクゾクするほどに面白くて、夢中になってしまいました。おそらくこのあとに『気狂いピエロ』なども観るわけですが、この『欲望』を観ていなければきっとゴダールなどを観るのはもっともっと先のことになっていたでしょう。もしくは、観ることもなかったかも知れません。アラン・レネの『戦争は終った』もこの頃に観ていますけれど、これはちょっと高校一年生の頭にはついて行けなかったようで、ほとんど映画館で寝てしまいましたけれども。

 そんなこんなで、それからも何度か観る機会があったのですが、最近になってDVDを買ってしまい(廉価版が売られていたのです)、いつでも観ることが出来るようになりました。

 で、最近知ったこと、最近観て気がついたことなどを書いてみます。

●アントニオーニが、YardbirdsではなくてThe Whoの演奏を念頭に置いていたことは良く知られていますけれども、どうやら当初はVelvet Undergroundに出演してもらいたかったらしいのです。これにはSterling Morrisonの証言があるようです。って、この作品の製作されたのは1966年ですから、Velvet Undergroundはまだファースト・アルバムをリリースしたばかり、当然John Caleも在籍していた時代です。アメリカからイギリスへのメンバーの機材を伴った移動費用がネックになって実現しなかったようですが、実現していたらどんなだったでしょう! John CaleがViolaをステージで叩き壊して客席に投げ込んだりして! というか、やはりアントニオーニの音楽嗜好は絶妙だと思いますね。

●冒頭と最後に登場する白塗りのマイム・グループには、当時典拠となるアーティストがいたのだろうかと気になるのですが、調べ切れませんでした。ただ「街頭演劇」というのはローマ時代の演劇からあったようですし、1920〜30年代のベルリンでは市街のあちらこちらでスペクタクル性豊かな演劇活動が行われていたようです。この『欲望』の冒頭での、市街になだれ込むようなパフォーマンスにもっとも近いのは、このあとの日本、寺山修司の『書を捨てよ町に出よう』(1971)で見られるような活動になります。寺山修司の「天井桟敷」の活動は1967年からですから、同時代性によるシンクロニシティと言えるでしょうか。

●そういうわけで、この作品を「演劇」という観点からちょっと見直してみて、そうすると主人公が決定的な写真を撮影する公園でのシーン、あの公園は主人公一人を観客とする劇場なのではないかと思うわけです。そう考えてみていると、主人公がいじわるじいさん店員のいる骨董品屋から外に出て、その公園に入って行くところで、棒に紙屑を突き刺して歩いている掃除のおばさんとすれ違うのです。奇妙な正装をしているのですが、つまりこのおばさんは、劇場のキップもぎりではないですか。棒に突き刺す紙屑はチケットの暗喩でしょう。もう明らかに、この公園は主人公にとって「劇場」として開かれているのです。

●写真を引き伸ばすシーンは、もちろん主人公が観たものを解釈する過程です。ここでの主人公の最初の解釈は、「オレが殺人を防いだ」という、いかにもこの男らしい自分勝手な解釈にとどまります。結局主人公は「現実」というか、「正しい解釈」にたどり着けないままこの作品は終るのですが、とにかくも「死体」を発見する前に、闖入して来る二人の女性との乱交があることは、アントニオーニらしいといいますか、前に書いた『赤い砂漠』でも、モニカ・ヴィッティが一瞬情動的な欲望に囚われる小屋でのみだらな空間が重要な意味を持っていたように、この乱交シーンは、この映画の中でここでだけ、主人公がじかに世界/現実と関係を持つ端緒ではあり得るのです。この他者との乱暴な交流を経てようやく主人公は公園で起こったことの意味の一面(死体の発見)を見い出し得るのです。しかし、死体を発見することと世界/現実を発見することは異なります。

●おそらくこの主人公が世界/現実を捉え損なうのは、写真という「静止画像」でのみ解釈しようとしたためかも知れません。このあとの『さすらいの二人』という作品でも、ジャック・ニコルソンの演じる主人公のジャーナリストもまた世界/現実を捉えられないわけですけれども、『欲望』の主人公が、その後『さすらいの二人』の主人公として描かれるという見方ができるでしょう。次回はその『さすらいの二人』について書いてみたいと思います。

f:id:crosstalk:20080725135123j:image:left●この作品から以降モニカ・ヴィッティの出演する作品はないのですが、こうやって見直してみると、この作品でのヴァネッサ・レッドグレイヴの面影にはどこかモニカ・ヴィッティの面影がかぶさります。『さすらいの二人』でも、ジャック・ニコルソンの妻を演じるジェニー・ラナカーのイメージにモニカ・ヴィッティを思い浮かべることが出来るように。


 

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■ 2008-07-18(Fri)

[] 『赤い砂漠 IL DESERTO ROSSO』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 モニカ・ヴィッティ:主演  『赤い砂漠 IL DESERTO ROSSO』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 モニカ・ヴィッティ:主演を含むブックマーク

赤い砂漠 デジタルリマスター版 [DVD]

 最近観たDVDのことも書いてみます。この作品『赤い砂漠』は学生の頃、名画座かなにかで観た記憶がかすかに残っていますが、ちゃんと観たのは、20年ほど前にレンタルヴィデオで観て以来です。そんな久しぶりの観賞なのですが、あれこれと新しい発見がありました。というか、ほとんど初めて観るような、新鮮な驚きに満ちていました。

 まず、冒頭からの工場周辺、工場内イメージの映像に驚きです。これって、「工場萌え」ではないですか。無機質なプラントの建築に人工的色彩(ペンキの色)に塗られた巨大なメカ、炎や煙を吐き出す煙突、空き地に吹き出す膨大な蒸気。これらの映像を見ながら圧倒される感覚は、まさしく近年「工場萌え」などと呼ばれるような写真集などを見て覚える感覚そのものです。これは、今のそのような流行を経た視点から見るからそのように見えるのではなく、かなり長い蒸気の噴出シーンの挿入からも読み取れるように、明らかに演出で狙われた視点です。そしてこのシーンのサウンドトラックは、まさにインダストリアル・ノイズそのものです。この作品は1964年のものですから、これだけ早い時期に、そのようなノイズが環境音として大々的にフィーチャーされていることには驚いてしまいます。わたしの見てきた範囲では、このようにインダストリアル・ノイズが使用される作品は77年の『イレイザーヘッド』までは皆無のように思っていたのでした。ま、『イレイザーヘッド』でのノイズは作品全体に及んではいるのですが。

 そうするとつまりは、今の「工場萌え」と言われる現象、その解釈はひとすじなわではいかないように思えるのですが、それがどういうものなのか、この映画作品からフィードバックして考えることも可能になって来るように思えます。このことはもう少しこの映画を観ながら考えてみましょう。

 この作品はつまりは「神経症映画」とでも呼べるというか、主人公モニカ・ヴィッティの孤独感、世界への喪失感がテーマになっているわけですが、その感覚を裏付ける描写として、工場のイメージが大きな役割を果たしているようです。

 「萌え」という言葉の中には、その感覚自体を否定するような、自らにその言葉を使用する時に一種自虐的要素を含ませるような、ネガティヴな面をも合わせ持つようなものであるということも事実でしょう。そうすると、現在の「工場萌え」という言葉の中にも一種それが健常な視点ではないことを含み持たせているのではないでしょうか。その「健常な視点ではない」という、その中にある倒錯した視点が、この『赤い砂漠』の中から読み取れるように思うのです。この作品の中でモニカ・ヴィッティが「街も工場も色も人も恐い」と訴える場面がありますが、これはその「工場萌え」の神経症的な側面を語っているのではないのでしょうか。

 「色も恐い」とモニカ・ヴィッティに言わせるように、このミケランジェロ・アントニオーニの初のカラー作品での、その色彩も重要な役割をもっています。その工場内、そしてモニカ・ヴィッティの自宅内の色彩には赤や青の彩度の強い原色が多く使われ、特に工場の撮影では、映画のためにペンキのような塗料で彩色してあるようです。このように映画撮影のために実際の建物やインテリアに塗料を使って彩色するのはアントニオーニの次の作品『欲望』でも、そして特にゴダールの作品にも多くとられる手法です。わたしの家のTVモニターは色彩調整が壊れているので実際はどうだかわかりませんが、この『赤い砂漠』では、外の枯木にも彩色してあるようでしたけれども。

 この、工場、そして主人公の家での原色が彼女を苦しめる(恐怖させる)のと対照的に、彼女が経営しようとしている店のための空っぽの部屋で、彼女自身が壁に塗る色は淡いパステルカラーのようで、夢の中の世界のようにこの周辺にほとんど人影がないことと合わせて、この場所が、主人公にとっての「癒し」の場所であるだろうことがわかります。

 そこでもういちど彼女の住居のことを見直してみて、これはアントニオーニの作品によく出て来る、いわゆるモダニズム建築の典型として設計されています。この『赤い砂漠』では彼女の住居の外観は出て来ないようでしたが、この前の『太陽はひとりぼっち』でも、そういったモダニズム建築が、疎外された心を象徴するように出て来ますし、うろ覚えですが、後の『砂丘』では、そのラストにそのようなモダン建築が主人公によって爆破されるようなシーンが挿入されていたのではなかったでしょうか。

 この作品では、その彼女の住居と、彼女の店のためのからっぽの部屋、そしてもうひとつ、彼女の夫の友人(同僚?)の持つ、海岸にある掘建て小屋のような建物が出て来ます。ここに複数の男女が集まり、ほとんど乱交パーティーの一歩手前のようなふしだらな空気が流れ、この作品の中でも異質の空間と時間が描写されています。ここで主人公の欲望は解放されそうになるのですが、結局その一歩を踏み出さなかったパーティーのメンバー(主にモニカ・ヴィッティに欲情する、リチャード・ハリス演じるコラドという人物)は、家の仕切り板などを壊して暖炉の薪にすることで発散してしまいます。この小屋はみだらな大人のためのおとぎ話に出て来るような、不思議な空間です。

 この小屋のすぐそばに大きな貨物船がやってくることで、この作品は主人公の深層をまたあらわにします。この作品の中に何度も出て来る「船」という存在は、主人公をここではない別の世界に連れて行ってくれる乗り物として、主人公にシンボリックな特別の意味を持ちます。それは、一ケ所への定住を拒む、コラドという人物に主人公が抱くイメージと相似形でもあるかも知れません。

 その映画の終盤で、自分の子供にも裏切られたと感じた主人公はホテルにコラドを訪ねて身を任せるのですが、この場面の描写、モニカ・ヴィッティの演技とか、室内の背景色の変化、そしてカメラの動きなどはほんとうにすばらしいもので、単なるセックス・シーン(逆にそういう描写はほとんどありませんが)から隔たり、ほとんど観念の上での「SF」と呼んでしまえるような、すごいことになっています。で、このあとに独りになった主人公が、ついに停泊した貨物船に乗り込もうとするまでに至るのですが、ここで船上から降りて来た異国の船員とことばが通じません。ある意味で神経症の末期的症状という見方も出来るコミュニケーションの不能ですが、どうもこの作品ではこのコミュニケーションの不能状態においてこそ、主人公が自分の考えを外に発散することで、ある種の救いを得ているように思えます。ここで映画はラストのシーン、工場の外を子供と歩く主人公の姿になりますが、主人公が同じ緑のオーバーを着て登場するこの作品のファーストシーン(そこでは主人公の精神状態はほとんど狂気を思わせるほどの飢餓をあらわしているのですが)に呼応するようなこのラストでは、主人公は心の平安と落ち着きを取り戻しているように見えるのです。ラストの親子のセリフがそのことを示しているようです。

 音楽のことをちょっと書けば、『太陽はひとりぼっち』を引き継ぐような、ルチアノ・ベリオばりの現代音楽の使用と並行して、その海辺の小屋のシーンでラジオを通じて、ポップなインストゥルメンタルが聴こえて来ます。この曲はわたしが中学生の頃、つまりこの映画の公開時期に、ちょっとばかしヒットしたのでした(というか、当時は基本的に映画音楽だけを対象にしたヒットパレードがラジオで放送されていて、この曲もそれなりにチャートを上ったりして、そのせいでこの曲はその時代のわたしの記憶に残っているのでした)。このような形でドラマの中でラジオからその映画のためのオリジナル楽曲が流されるという手法は、前作『太陽はひとりぼっち』でも同じように、アラン・ドロンの部屋でラジオから聴こえて来る、ミーナの歌うカンツォーネという形で使用されていたのでした。

 f:id:crosstalk:20080718214337j:image:right某所から、その『赤い砂漠』のアナログ盤サウンドトラックのジャケット写真を入手いたしました。日本で発売されていたはずのドーナツ盤ジャケット写真を探したのですけれどもね。このジャケットのモニカ・ヴィッティはものすご魅力的ですけれども、『赤い砂漠』からのスティルではありません。

 この作品でのモニカ・ヴィッティの演技は、非常に独特で素晴らしいものです。いわゆる映画的な演技ではないので、演技賞など獲てはいないのですが、リアルな表現ではなくしてこの作品の構成に貢献し、この作品に独特の美しさを与えています。特に彼女の「手」の演技には目を離せないものがあります。まだあれこれ書きたいこともあるのですが、もちろん、ミケランジェロ・アントニオーニにとっても、この作品は特筆すべきすばらしい成果をあげた作品ということが出来るのではないでしょうか。わたしは彼の作品でこれがいちばん、かも知れません。

 8月の末には、待ち焦がれていた『情事』のDVDもついに発売されるようです。知らなかったのですが、『夜』も『さすらい』も、現在でもDVDで入手出来るのですね。


 

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■ 2008-07-14(Mon)

[] 『風化する女』 木村紅美:著  『風化する女』 木村紅美:著を含むブックマーク

風化する女

 しばらく前に読んだ山崎ナオコーラの『浮世でランチ』という作品にずいぶんとかぶるような内容の小説で、普通にオフィス勤めをする女性は、いったい誰といっしょに昼ご飯を食べるのかというところからスタート。この『風化する女』では、そのいつのまにかランチを共にするようになったとなりの課の中年一人暮らしの女性の孤独死にふれ、彼女の残したチケットで、彼女の好きだったらしい北国のバーで弾き語りするシンガーのライヴに行こうとする女性の話。少し世間からずれを感じているような人たちからは共感されるだろうというような内容だけれども、主人公は決して自分の旅を追いかけているわけではなく、いなくなった他者の旅をこそ追いかけて行くのが面白いのです。

 他者の残した北国へのフライト・チケットからそれを残した他者の望みを読み取ることは出来ない、残された一枚の写真の裏にある事情も理解は出来ない、そういうスタンスから踏み出さない主人公は自分の歴史を読み直すのではなく、解り得ない他人の歴史のあとをたどり、ちょっとだけ「喪の仕事」を果たす。この距離感が、つまりは若い女性のいわゆる「自分探し」の旅から距離をとっていて、ある種そのような旅への批評になり得ています。この主人公は結婚したばかりとはいえ、そのような愛と幸せにつつまれた女性にはとても思えないような造形になっているのも、亡くなった女性と主人公の精神との親和性を感じさせ、その「旅」に説得力を持たせています。

 併載された『海行き』では、学生時代の女友達と、北陸の実家(ロック喫茶経営!)へ戻った当時の男友達をたずねていく話。ここでは主人公は思いきりベタに学生時代の追憶に自己没入してしまうのだけれども、それが映画を造ろうとする男友達とか、下北沢でのアパート生活とか、もうどうせ没入するのであればここまで行こうという潔さというか、例えば『ひまわり』であるとか、『悦楽共犯者』、『地下鉄のザジ』などの映画タイトル、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドであるとかシャロン・シャノンとかの(やはりある意味でベタな)ミュージシャン名であるとか、読み手がどこかでそのような固有名詞に引っ掛かれば、作者の仕組んだ追憶に読者もはまり込んでしまえるのでしょう。そういう気分的な作品だとは言えるでしょうけれども。

 それでも、ここでも主人公はその男友達と関係を持っていたわけでもなく、それは例えば山崎ナオコーラの別の作品(って、また山崎ナオコーラかよ。あまり本読んでないのでゴメン)『カツラ美容室別室』でも、登場人物がそういう関係を持って交際することもないわけだったのを思い出したりします。先の表題作『風化する女』でも、主人公は結婚しているとはいえどもそのような「関係性」というか、人を愛するというような表現/描写から隔たっているということも合わせて、それに今思い出す他のあれこれの作品を合わせて考えても(長嶋有の『夕子ちゃんの近道』でもいいし、大道珠貴の小説でもいいし、栗田夕起の小説でもいい)、ま、大げさにいえば、一種、現代の小説での「恋愛の不可能性」とでも言えるような問題を含んでいるようにも思えるのです。とりあえず、この作家はチェックしておきます。


 

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■ 2008-07-12(Sat)

[] 『肝心の子供』 磯崎憲一郎:著  『肝心の子供』 磯崎憲一郎:著を含むブックマーク

肝心の子供

 そもそも肝心の子供はどこにいるのか?
「さっきからそこで寝ている」

 あのブッダから始まり、束縛という意味の名を持つ息子ラーフラ、孫のティッサ・メッテイアへ至る三代の親子を叙述する、短いけれども濃厚な神話的物語。ちょっとばかしクラクラッとしてしまいました。牧歌的な美しい色彩を感じさせる、簡潔な神話のような描写から始まりながら、後半では鼓直の翻訳するガルシア=マルケスの作品のような重厚さをも感じさせます。しかもその物語は親子のつながりではありながらも非=家族と分離して行くような、ブッダの悟りから連なる(というか連ならない)、エントロピーのような非=連鎖の物語とでも言えばいいのでしょうか。

 しかしこの小説では、自分の子供を確認してその後つながりを持たない親のエゴを描いたりするのではなく、そのようなモラルを抜きに、ただ淡々と時間の流れをたどって行くかのようです。親から子へ引き継がれるものはなく、特にブッダはその子の誕生にあたって、父スッドーダナに以下のように語る。

「子供という、その生まれながらにして時間をたずさえた、まるで猫のような魔性の生き物は、有限の時間のなかにいる私、死ぬまでの限られた人生のなかで自分の成すべき仕事を成さねばならない私にとっては、ある日とつぜん嵌められた箍(たが)、束縛となることでしょう」

 それを聞いた父スッドーダナは、その子に束縛という意味のラーフラという名前を与える。「その名を思いついたとき、スッドーダナ父王は、大いに喜んだのだという。」

 この薄情とも言えるような父子の関係は、ラーフラとその子ティッサ・メッテイアの関係にも引き継がれ、この文の冒頭に引用した箇所になるわけです。ここでティッサ・メッテイアの母(つまりラーフラと関係を持った女なのだけれども)から「そこで寝ている」と指摘されても、ラーフラにはそのわが子を「藁の束」としか認識出来なかったのです。

 これら三代の父子の物語に対比されるように、隣国のビンビサーラ王とその息子アジャータシャトルの物語が王によってブッダに語られるのですが、虻に刺された息子を救うため、その息子の体内の膿を毒と承知で吸い出して息子を助けるにも関わらず、のちに成人した息子に石牢に幽閉され、殺害されようとしているのです。ここでもビンビサーラ王は「私の子供とはいえどもけっきょく私とは別人なのだなぁ、というただそれだけだったのです。私が息子ではない、ということでもあります。けれど、私と息子が別の個体であるということは、何か法外な保証のようでもありました。」という認識を語るのです。「いまの私個人の憎しみなどとはまったく関係のないところで、私が毒を飲み込み、息子が病気から回復したあの日々が残っている。そのことこそが私たちすべてを支配し、苦しめているのです。」

 ‥‥このような思考を、何と捉えればよいのでしょうか。それは非=連鎖であるばかりではなく、反=進化とも呼べるような思考ではないでしょうか。この決して長くはない小説のラストで、ブッダの孫であるティッサ・メッテイアは森の中で巨大な虎に襲われて杉の木の上に逃れるのですが、そこで彼は、人類が始まってからというもの足を踏み入れたもののない世界に足を踏み入れる最初の人間になるのです。その文章がすごいので引用しちゃいたいのですが、今回はこの小説の内容にずいぶんと立ち入ったことを書いてしまっているので、このあたりにしておきます。

 しかし、私の読んだ限りでは、ティッサ・メッテイアが足を踏み入れた人類未到の世界は、結局誰にも引き継がれて足を踏み入れられる世界ではないように思えます。卑俗な言い方をすれば「すべては一代限り」という世界でしょうか。言い方を変えれば、小説によって達成された希有なる「非=知」の世界、と言ってしまっても良いのではないかと。

 作者である磯崎憲一郎氏は、この作品がデビュー作のようですが、その第二作は来週発表される芥川賞の候補になっています。また、この『肝心の子供』は、あくまでもブッダをめぐる偽史の体裁を取っていますが、ブッダの生涯などを検索すると、この小説に登場するブッダ周辺の人物は、この小説のままの名前で、同じように出て来るようです。


 

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■ 2008-07-10(Thu)

[] 『悪人』 吉田修一:著  『悪人』 吉田修一:著を含むブックマーク

悪人

 吉田修一という作家は、以前『パーク・ライフ』という作品を読んだきりで、まぁ印象も良くなかったので二度と読まないだろうと思っていたのですが、しばらく前に友人に角田光代の『八日目の蝉』といっしょにこの『悪人』をすすめられていて、『八日目の蝉』の方は図書館でずっと貸し出し中が続いていて、先にこの『悪人』の方がひょっこり図書館の棚に置いてあったので、こちらを借りて読んでみました。

 なんだか初出は朝日新聞だかに連載されていたそうで、連載時には束芋さんの挿絵が付いていたらしいのです。この単行本には束芋さんの挿画はいっさい掲載されていないのが残念ですが、ネットで検索するといくつかその挿画を見つけることも出来ました。

 わたしは宮部みゆきとか桐野夏生とかまったく読んだことがないので、近年のクライム・ノヴェルというのが一般にどのようなものなのかまったく解らないのですが、この『悪人』のことをクライム・ノヴェルと呼んでもいいのでしょうか。ただ、とりあえず読んでいて、わたしの場合はこの小説に阿部和重の『シンセミア』との類似を感じてしまいました。地方(この小説では福岡、佐賀、長崎)が舞台であること、事件の起きる現場に幽霊が出る噂のあること、登場人物それぞれが抱えるある意味卑俗な現代的な問題、親の世代の過去の描写、そしてラブホやエロビデオ、ヘルスなどの性風俗の取り入れ方なんかを数え上げることが出来るんですけれども、まぁとてつもない悪意に満ちた『シンセミア』にはとても及ぶべくもありませんし、やはりこの作家の文章にはときどき、「へ?」と疑問を持ってしまったりします。特に二〜三回インタヴューに答える形の独白で登場するヘルス嬢の部分はものすごくマイナス。

 それでも、一気に読み終わったあとに感心してしまうことがあって、やはり事件に大きく絡む四人の登場人物の造形に納得させられるところがあったということでしょうか(被害者、加害者の親のその後の話もいいのですが)。小人物の典型というか、金持ちのボンボンとして登場する男はかなりステレオタイプではあるけれども、それでも女性を車に乗せてその独りよがりのトークを聞いていて、「こういう女が男に殺されるっちゃろな」と思うあたりはなかなかのものでした。

 『悪人』という意味ありげなタイトルに関しては、わたしの場合、歎異抄の有名なことば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を思い出さずにはいられませんでした(歎異抄はココしか知らないのですが)。この小説での「悪人」とは、犯罪者のことではなく、浄土宗的な意味での「悪人」。主人公祐一の最後の証言は、そのように自らを「悪人」と自覚した、逆説的な救済への道を踏み出した人のことばなのではないでしょうか。

 ただし、登場人物たちが抱え込んでいる「求めても得られない」という孤独感が、地方を舞台にしているがゆえの地方の問題なのか、もっと普遍的なものとして捉えているのか、作者の視点がちょっと気になります。

 

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■ 2008-07-09(Wed)

[] 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』 大江健三郎:著  『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』 大江健三郎:著を含むブックマーク

臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

 もうとにかく、最後にわたしが大江健三郎を読んだのは20年以上前のことになってしまう。最近になって『万延元年のフットボール』を読み直したことはありますけれども。その最後に読んだ彼の作品は『雨の木を聴く女たち』だったのか、『河馬に噛まれる』だったのか、よく憶えていないのだけれども、とにかくこの大江健三郎の、現在のところ最新作である小説をなぜか読んでしまいました。

 この奇怪なタイトルは、ポーの詩「Annabel Lee」の、名訳として知られる日夏耿之介による訳詩からの引用。わたしも昔この日夏耿之介訳の創元選書はめくってみたことがあるけれども、コイツとか齋藤磯雄訳のマラルメ詩集とかはもう、旧字とか読めない漢字とかはカッコイイんだけれども、とにかくわからないのの代表選手でしたよね。

 そういえば近年若島正さんの新訳で文庫化されたナボコフの『ロリータ』の、その解説だかあとがきだかを大江健三郎が書いていて、そこにもこのポーの「アナベル・リー」のことが書いてあったっけ。

 いきなり「コールハース」などという名前が出て来て、おぉ、やっぱ大江さんもレム・コールハースとか読んでるんだなぁと思ったら違う。こっちはクライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』という本の話で、この小説を、大江さんとその学生時代の友人の木守という映画プロデューサー、そして戦後世界的な名声を博した存在、女優のサクラさん(架空の存在)とで、何十年という長い年月を経て映画化しようとしながら、そのサクラさんの自己回復〜再生をみつめていくというか、そういうの。で、ミヒャエル・コールハースっちゅうのもなんだか古くさいなぁと思って読み進めるんだけれども、結局そのコールハース物語を幕末の四国の農民一揆として映画化しようとするのが三十年とか前で、いちど挫折した計画にサクラさん主役でもういちど取り組もうとしながら、そのサクラさんの秘められた過去っちゅうか、「アナベル・リー」としてアメリカ軍の将校(?)の庇護を受ける戦後の時期の隠された秘密があらわにされるみたいな。

 あいかわらず「森」の話だし、またマルカム・ラウリーの話は出て来るし、ほんとうに三十年前から何もかもそのまま引き継いで来たような世界。正直言って、読み終わっても「自分の周りでだけ回転しているエリート世界」でないのかという疑問が振り払えません。その「ミヒャエル・コールハース」にせよ、マルカム・ラウリーにせよ、「なぜ今の時代に?」というのはわからないし、特にその映画制作に関わる部分、主人公(大江さん本人)は脚本でその映画に関わるのだけれども、最初の映画化計画でもプロデューサー、脚本家、女優(サクラさん)の三人だけでかなりつっこんだ話が発展して行き、「で、監督は何をやるのよ?」みたいな疑問をずっと持ちながら読んでいて、結局ラストの方では「監督抜き」で、上記の三人で映画を作ろうとするのはどういうの? プロデューサーの木守という存在はどうせ架空の存在なんだから、彼に監督やらせればいいのにと思ってしまった。

 どうしよう? 次は『懐かしい年への手紙』でも読んでみようかと思っていたけれども、もうあまり彼の作品読みたくなくなってしまった。


 

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■ 2008-07-06(Sun)

[] 『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(再見)  『英国美術の現在史:ターナー賞の歩み HISTORY IN THE MAKING: A RETROSPECTIVE OF THE TURNER PRIZE』 @六本木・森美術館(再見)を含むブックマーク

 ‥‥というわけで、もう一度観に行って来ました。「ターナー賞の歩み」。やはり複数回観るとその作品の見え方が違って来ますし、前には気がつかなかったことに気付いたり、いろいろな発見があります。

 で、今回はとにかく、前回なぜか見落としてしまった2002年の受賞作家、キース・タイソン(Keith Tyson)の作品から。どうやら隣に展示されているグレイソン・ペリーの作品ばかり観ていて、そのまま通り過ぎてしまったようで。

 彼の作品は、同じ大きさのドローイング9点の「アトリエ壁画」シリーズと、黒いモノリスのような「考える人(ロダンに倣って)」。雑多なイメージ(?)を描き列ねた「アトリエ壁画」、かなり好きです。これはイメージの記述というよりも思考回路の図式化でしょう。多くのテキストも書かれていて、読んでいて楽しくなります(よくわかんないのが多いけれど)。「考える人(ロダンに拠って)」は、ほんとうに『2001年宇宙の旅』を思わせる。形はちがうけれど。実際にこの立体の中にはコンピュータが内蔵されているそうで、よりいっそうSF的というか。

 あと、二回目で気が付いたこと。

●アニッシュ・カプーアの作品は、前回観た時よりもずっと、凹型なのか凸型なのかちょっと目には解らない感じがした。照明か何か変えたのかしらん。ほかの観客の方々もすぐ近くまで寄ってみて、出っ張ってるのか引っ込んでるのか確認しようとしている。前回はこのコーナーはたいていの人が素通りに近い状態で閑散としていたのに。

●デミアン・ハーストの作品を、もうちょっとつぶさに観察してみた。前回、その牛のボディの切断面に透明アクリル板が、そのボディの輪郭の形に切り抜かれてあてがわれていたのは気が付いたのだけれども、つまりそれはボディをケースにそって直立させるためというか、要するにケースの中で形が崩れてしまわないための処置でもあって、そのアクリル板の周囲にずらりと直径2〜3mmの穴があけられていて、その穴と牛のボディが、1mmほどのテグスでステッチされているように、つまりはアクリルの輪郭板とボディが縫い合わされているんですね。それでもかなりデリケートそうで、輸送が大変だったでしょう。

●グレイソン・ペリーの陶器(壺)に描かれた絵に、ペニスのついている少女を描いたのがあって、より強くこの作家とヘンリー・ダーガーとの親和性を感じるのでした。グレイソン・ペリーのプラカード(スローガン)、「NO MORE ART」というのに、そのヘンリー・ダーガーからの視点も考えてみたい。って、カタログ読んだら「ダーガーと比較されることが多い」って書いてあった。この人は昨年金沢21世紀美術館で個展やってたんですね。

●マーク・ウォリンジャーの2時間半の映像作品「スリーパー」を、中断を入れながら1時間ほど観ました。観ながらいろいろなことを考えたりして、本当は全編観たかった。作品は、ミース・ファン・デル・ローエの晩年の建築「ベルリン新国立美術館」の一階ロビーで行われた作家のパフォーマンス、クマの着ぐるみを着て夜のあいだ、ただウロウロするようなのの記録。わたしはたしかベルリンに行った時にこの美術館も訪れた記憶があって、そう、一階のまわりはぐるりとガラス張り、展示室は地下にあったと思ったな。

●特にどうってことのない動作、クマの格好をして、寝転んだりたまに走ってみたり、座り込んだりしているだけなのに、どうして自分はこうやって、いつまでもあきないで観続けているのだろう。もちろんこの作品の意図は罠のように何十にも仕掛けられていて、例えばそのパフォーマンスが、美術館というアートの容器(パッケージ)としての空間で演じられているせいもあるだろう(外から覗き込む人〜観客〜の姿も写される)し、時に観客の視線に同化するヴィデオカメラの視線に自分の視線を重ねることもあるのだろう。ヴィデオ作品としての、複数のカメラからの視点を編集した編集の手腕もあるだろう。でも、なんだか見入ってしまう。

●たとえば劇場の舞台で上演されるダンスとかの世界に最近飽きちゃっていて、そういうのよりもこんなヴィデオ作品が面白い。そうやって比べるのも、つまりはわたしは「コンテンポラリー・ダンス」とか呼ばれる領域に、コンテンポラリー・アートなどと通底するような視点を探していたと言えるのだけれども、「コンテンポラリー・ダンス」というジャンルが独り立ちしてくれば来るほど、興味が持てなくなってしまうというか、そういうアートと通底する部分が消えて来ているような気がする。

●劇場から離れた空間を使う、異業種のアーティストとの共同作業を行うという試みが少なくなってしまった「コンテンポラリー・ダンス」。そういうのは、「舞踏」などと呼ばれている人たちの方が活発に行っているのかも知れない。ずっと「舞踏」というジャンルには逆風が吹いているようだし、その理由も解るのだけれども、あと3〜4年したら結局また「舞踏」こそがアートのフィールドの中でよみがえって来るのではないかと思ったりする。

●コンテンポラリー・ダンスもそれなりに観ているわたしの美術関係の友人が、「コンテンポラリー・ダンス」というのは、美術に比べてその発展が相当遅れているのではないか?と、わたしに話してくれたことがある。今、コンテンポラリー・ダンスで重要視されている「振付」=「コレオグラフィー」という概念は大きなネックなのではないのか?

●わたしはもうこの何年もずっと、「今の美術はちぃっとも面白くない」と、たいして観てもいないくせに思い続けていたのだけれども、やっぱり「優れた作品」に触れていなかっただけだった。この展覧会はものすごく刺激的だった。別にこの「ターナー賞の歩み」展の、「ターナー賞」が世界的に権威ある美術賞で、それに選ばれた作品が集まっているからだ、などとはまったく考えたりしないけれど、これだけ刺激的な作品群に触れたのは本当に久しぶりで、やはり美術の世界がイイや。

●でもそれでもつまりはそれは、今の日本の美術シーンがつまらないっちゅうことでもあるけれども、それは表層に上がって来る現在の美術の紹介のされ方が狂っているだけなのでしょう。きっと、あちこちのギャラリーを地道に巡回して観てまわれば、今の日本でも素晴らしい作家はいると思う。今の日本の場合、キュレーター、批評家、美術ジャーナリズムが不毛なのではないだろうか。って、これはずっと言っているけれども。観る方もがんばらなくてはいけないか。っつうか、「自分で作品つくれよ」と呼ぶ声が。


 

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■ 2008-07-02(Wed)

[] 『〜次代を担う振付家の発掘〜TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2008(トヨタ コレオグラフィー アワード) ネクステージ−最終審査会−』 @世田谷パブリックシアター  『〜次代を担う振付家の発掘〜TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2008(トヨタ コレオグラフィー アワード) ネクステージ−最終審査会−』 @世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

 まじめに語ろうとすればするほど、なぜか馬鹿らしくなってしまう、でっかいコンペであります。タイトルも長いのです。とにかく観る方とすれば、ある意味で近年のステージで話題になったもの、先の審査を通過して現在のコンテンポラリー・ダンスを最大公約的にあらわすらしいもの、そういうのを一気に観ることが出来るお得なイヴェントです。勝手な感想を書きます。

「天使の誘惑」山賀ざくろ・泉太郎

 黛ジュンは、けっこう好きです。カラオケでこの曲を唄った記憶もあります。「恋のハレルヤ」もいいです。わたしはこの作品が「特別賞」とか受賞することを、ちょっと期待していました。もちろんもう一工夫欲しいところだったという気持ちもありますが、とりあえず、「コンテンポラリー・ダンス」と呼ばれるジャンルが、これからどのように表現の諸相を横断していくかという問題でみれば、ここでのデジタル/アナログの交差、現前する空間と再生される空間の同居、異ジャンル間の横断はやはり評価されるべきだと思っていました。完成度が問題なのではなく、欲望の問題です。

「Bring Me A PPPeach(もももってきてちょうだい。2)」得井幸

 つまり「Yummydance」ですが、ここでも空間を巻き込んだ「ダンスへの欲望」が圧倒的に際立っていたように思え、わたしにはコレがいちばんでした。そういう欲望を持続させるのがいかに難しいかという問題は感じましたが。

「沈黙とはかりあえるほどに」鈴木ユキオ

 つまり大賞、[次代を担う振付家賞]受賞作です。前回の審査会ではこの作品が圧倒的だったのですが、この世田谷パブリックシアターでのステージではイントロの部分こそ迫力あったものの、そのあとが散漫になってしまいました。作品としてこの作品が「いちばん」と評価されることは納得しますけれども、前にちょっと書きかけましたけれども、このタイトルには納得出来ません。このタイトルはつまりは武満徹のエッセイからの流用ですが、武満徹が書いているのは「沈黙とはかりあえるほど」の「音」のことなのです。いったいなぜ、「ダンス」が「沈黙とはかりあえる」のか。舞台上でBGMをカットして沈黙を挿入することで「はかりあえる」のか。もしも鈴木ユキオさんが「ダンス、沈黙とはかりあえるほどに」というのであれば、「どこが!?」と問いかけるしかありません。「他者の表現をなめるんじゃない」と言いたい気持ちがあります。作品の強度は認めますが、いったいどこが武満徹なのでしょうか。他者の欲望を剽窃してはいけないのではないでしょうか。

「泣くな、東京で待て」KENTARO!!

 特別賞&オーディエンス賞。彼の欲望の向いている方向が、わたしには興味がありませんでした。

「うたげうた」北村成美

 とっても好きなダンスです。しかし講評で石井さんがおっしゃったように、「自分の好きな曲で踊っただけ」という側面は否定され得ないでしょうか。彼女のダンスへの欲望が少し内側を向いていたのかも知れません。

「サカリバ007」きたまり

 オーディエンス賞。ある意味で自分の欲望に忠実な舞台造りなのでしょうか。そういう面が観客の支持を集めたというのも理解出来るような気がします。しかし、では、きたまりさんの抱く舞台上での欲望とは、このような(この程度の)ものなのでしょうか。それを見極めるには次作を待たなければならないでしょう。


 ‥‥「欲望」というキーワードで書いてみましたが、わたしが舞台に抱く欲望と、このようなかたちで表出される欲望とには、少なからず誤差があるようです。この誤差が継承されるようであれば、わたしには「コンテンポラリー・ダンス」というジャンルでの表現には、これ以上の興味もなくなってしまいそうです。


 

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