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■ 2008-08-31(Sun)

[]二○○八年八月のおさらい 二○○八年八月のおさらいを含むブックマーク

 前半酷暑、後半雷雨の八月でした。何とか乗り切りました。

 八月はひょっとしたら舞台とか何も観ないで過ぎてしまうかなと思っていたのですが、それなりに観てしまいました。

●8/14(木)ピチェ・クランチェン @山梨・ダンス白州フェスティバル
●8/24(日)イデビアン・クルー『排気口』 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター
●8/29(金)『エディ/レ アヴィヨン デ パピエ(紙ひこうき)』ファビアン・プリオヴィユ&バレエ ノア @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター
●8/30(土)『人體各部性能論』花上直人 @新小岩劇場

 これは音楽ライヴですが、白州フェスティバルの同じ日の別プログラムです。

●8/14(水) アンドレイ・モングーシュ @山梨・ダンス白州フェスティバル

 美術展はふたつ。

●「ワークショップコレクション 光のらくがき」 @川口市立アートギャラリーアトリア
●塩保朋子「Cutting Insights」 @谷中・SCAI THE BATHHOUSE

 あと、科学博物館の「黄金の国ジパングとエル・ドラード展」というのも観ましたね。

 映画館は冷房が効いていて快適なので通ってしまいました。

●ホウ・シャオシェン:監督『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』
●宮崎駿:監督『崖の上のポニョ』
●押井守:監督『スカイ・クロラ』
●M・ナイト・シャマラン:監督『ハプニング』
●クリストファー・ノーラン:監督『ダークナイト』
●ミシェル・ゴンドリー/レオス・カラックス/ボン・ジュノ:監督『TOKYO!』

 読書。やっぱなかなかはかどりません。ま、皆それなりのページ数のある本だから、こんなものでしょうか。

●桐野夏生:著『OUT』
●岡本綺堂:著『半七捕物帳(四)』
●角田光代:著『八日目の蝉』
●リチャード・パワーズ:著 高吉一郎:訳『われらが歌う時』(上・下)

 さて、自分でもあきれてしまう最近のDVD観賞ですが、少し落ち着いたでしょうか。

●テリー・ジョーンズ:監督『モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン』
●ウォシャウスキー兄弟:監督『マトリックス・レボリューション』
●いろんな監督『アニマトリックス』
●マーティン・スコセッジ:監督『ラスト・ワルツ』
●チャン・イーモウ:監督『英雄』
●ウッディ・アレン:監督『タロット・カード殺人事件』
●サム・ペキンパー:監督『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』
●モンテ・ヘルマン:監督『銃撃』
●モンテ・ヘルマン:監督『断絶』
●モンテ・ヘルマン:監督『コックファイター』
●モンテ・ヘルマン:監督『旋風の中に馬を進めろ』
●ロジャー・コーマン:監督『ワイルドエンジェル』
●スティーヴ・カーヴァー:監督『ビッグ バッド ママ』
● テッド・デミ/リチャード・ラグラヴェネーズ:監督『アメリカン・ニューシネマ 反逆と再生のハリウッド史』
●ミケランジェロ・アントニオーニ:監督『愛のめぐりあい』
●ウォン・カーウァイ/スティーブン・ソダーバーグ/ミケランジェロ・アントニオーニ:監督『愛の神。エロス』
●ジャン=リュック・ゴダール:監督『パッション』
●ベルナルド・ベルトリッチ:監督『ドリーマーズ』
●M・ナイト・シャマラン:監督『アンブレイカブル』
●ダニー・ボイル:監督『28日後』
●マーティン・キャンベル:監督『007/カジノ・ロワイヤル』
●アラステア・フォザーギル:監督『アース』
●トニー・ガトリフ:監督『トランシルヴァニア』
●アンドリュー・ドミニク:監督『ジェシー・ジェームズの暗殺』
●瀬々敬久:監督『刺青』
●平山秀幸:監督『OUT』
●曽利文彦:監督『ベクシル 2077日本鎖国』
●想田和弘:監督『選挙』
●北野武:監督『監督・ばんざい!』
●堤幸彦:監督『自虐の詩』
●萩生田宏治:監督『神童』

 ‥‥こんなモノですが、やはり収穫はモンテ・ヘルマンでしょうか。古いヴィデオをがさごそやっていて、グラウベル・ローシャの『アントニオ・ダス・モルテス』とか、昔BSで放映された少年王者舘の舞台公演『パウダア』のヴィデオなどが出て来て、さっそくDVDにしちゃいました。

 

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■ 2008-08-28(Thu)

[] 『われらが歌う時』(上・下)リチャード・パワーズ:著 高吉一郎:訳  『われらが歌う時』(上・下)リチャード・パワーズ:著 高吉一郎:訳を含むブックマーク

われらが歌う時 上 われらが歌う時 下

 この本の表紙には登場人物家族の人形が使われていて、読んでしまうと、あぁ、コレはまさにきっと登場人物たちはこういう容姿なのだろうなと思わせるもので、見た時に予想したように石塚公昭さんの作品でした。また「知ってる有名人」モードになりますが、日暮里のわたしのイヴェントではわたしの無理矢理のアタックで寺山修司の人形で参加していただきました。その節はどうもありがとうございました。

 しかし、近年の傾向は挿画や表紙などで作品の具体的なイメージを限定するようなものは避けられて来ていたと思っていたのですが、既発文庫本の古典作品を含めて、こういう踏み込んだ表紙というのも多くなって来たようです。またそういう挿画の時代とかが来ると面白いかも知れません。

 話は変わりますが、2〜3ヶ月前に、『音楽の神童たち』という本を読んでいまして、実は「天才の病理学」というか、神童の挫折例を知りたいという気持ちで読んだのですが、そういうのは出て来なくて、成人後も音楽家として大成した人の幼少期の教育環境とかをクローズアップした本で、「わたしの子供も『神童』に」などと考えるようなお父さんお母さんのためのような本という印象なのでした。こりゃあつまらない本を読んでしまったものだなぁとか思っていたのですが、ここに来てこのパワーズの新作 『われらが歌う時』を読んで、一面でこの小説を補完するような内容ではあったと。人生には無駄な行為というのはないのでしょう。というか、この小説の主題に合わせていえば、「こうでなくてはならないという過去を未来から決定する」ということの例証だったのかも知れませんね。

 この前に日本で翻訳刊行された『囚人のジレンマ』は、ねつ造された歴史と「謎」のような父親の存在とか、そんな複合した物語の中から人間の自由を問い直すような、わたしのとってほんとうに刺激的な本だったわけですが、この『われらが歌う時』はなんだかアレですね、フェイクを抜きにした本格小説というか。

 第二次世界大戦の直前に単身アメリカに渡ったユダヤ人の量子物理学者と、声楽家を夢見る黒人女性が1939年の復活祭にワシントンの議事堂前公園で開催されたマリオン・アンダーソンの公演で知り合って結婚し、二男一女が生まれる。音楽の才に恵まれた兄妹のその後とその家族の物語が、物理学者の父が研究する時間の問題そのままのように時間を折り畳んで語られます。その主な主題は20世紀後半からのアメリカの黒人差別の実態であって、子供たちに「黒人」であることを意識させずに自分で人生を選ばせようとする両親と母方の家族との確執、クラシック音楽への道を選ぶ兄とブラック・パンサーに飛び込む妹間の離反、核爆弾の開発に協力した父と義理の祖父との衝突などが描かれます(この、広島、長崎への原爆投下は、この小説の時間のもうひとつの折り返し点でもあります)。

 とりわけ、ワシントン大行進を含む公民権運動の歴史やワッツの暴動、近年のロドニー・キング事件などは知らないわけではなかったのですが、こうして小説とは言え当事者の眼で描かれた歴史には揺り動かされます。特に、まったく知らなかった黒人少年エメット・ティルへのリンチ殺害事件とか、10歳になる前にすでに数々の作品を作曲し、神童と呼ばれながらもおそらくは肌の色ゆえに挫折して、ジャーナリストとしてハノイで死亡する黒人音楽家フィリッパ・スカイラーなどの話など、まったく知らなかったので驚きました。特にフィリッパ・スカイラーは、先にあげた『音楽の神童たち』が本来のその姿勢であれば取り上げるべき人物で、成功者しか描かない『音楽の神童たち』という本を補完するものとして心に留めました。

 白人と黒人の混血には少なくとも四種類の可能性(つまりAA、AB、BA、BB)があると考える兄妹の両親と、基本的に「一滴でも黒人の血が混じれば黒人」と考える二元論の世界との衝突は残酷です。

 登場人物がクラシック音楽を演奏、歌唱する場面の描写はさすがというか、視覚的なものにも行き過ぎた観念描写にも頼らずに読ませる力はすごいのですが、やはり「この時代にクラシック音楽?」という感じを持ってしまうのは否めません。ただ、終盤に出てくる「バッハ以前の古典音楽」というのはたしかに80年代以降にちょっとしたブームになっていて、わたしも少しハマった経験はあります。小説に書かれているヒリヤード・アンサンブルなんかといっしょにしないでくれ!という気持ちはありますが。

 書き手である弟、「私」からの視点で描かれる声楽の神童である兄ジョナの軌跡と対比して描かれる「私」の軌跡、「私」はまぁこう言ってしまえば並のミュージシャンで、人間としても読んだ限りでどう援護すべきかまようようなフラフラした存在で(言ってみればわたしに似てるんだけれども)、最後に彼がたどり着く私設の学校とかいうのもなんだか「イイ話」っぽくって、なんだかな〜、って感じもするし、そのラスト近くの学校での即興ジャムセッションというか音楽の授業に、即興ではなくて既成の古楽で参入するジョナは、セッションの性格から言えば反則技だろうがと思ったりします。パワーズ、意外とコンサバな、というか。

 それよりは、わたしはやはり60年代後半のロックとかジャズのスタンダードが出てくる場面に惹かれてしまって、「あ、この曲はBuffalo Springfieldの"For What It Worth"だ」とか喜んでしまいますし、特に語り手の弟ジョジョがアトランティック・シティでピアノ弾きやってる時に知り合うテレサとのラヴ・シーンでBillie Holidayの"The Man I Love"をデュエットするのとかは、ほんとうにステキではありました。テレサちゃんは魅力的な女性で好きになりました。別れがかわいそうで泣きましたよ。あ、本文中の脚注(訳注)が一ケ所間違えていて、Betty Everettの"Shoop Shoop Song"とMamas & Papasの"Monday,Monday"の註が逆になっています。Mamas & Papasは"Shoop Shoop Song"を歌っていませんし、Betty Everettが"Monday,Monday"を歌うこともありません(下巻225ページ)。

 ということで、前の『囚人のジレンマ』に比べると直球勝負というか、その豪速球の力はたしかにあるのでしょうが、小説技巧、小説の含み持つ内宇宙という点では『囚人のジレンマ』を読んでいる時の方が楽しかった気がします。もちろんこの作品でも兄妹の父親の語る「時間論」が大きなファクターを持っていますし、そのラストにはようやっとサプライズな飛躍が待っているのですが。

 ま、パワーズで次に訳されるのは『黄金虫変奏曲』でしょうか。楽しみに待っていましょう。


 

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■ 2008-08-26(Tue)

[] イデビアン・クルー『排気口』 井手茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター  イデビアン・クルー『排気口』 井手茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

 コンテンポラリー・ダンスとか呼ばれる事象をめぐる話から書き進めます。先に美術の話とか書くので、面倒臭いです。

 もう記憶力が退化しているのでしっかりとは憶えていないのですが、19世紀のフランスの話です。もちろんわたしがそこに居たわけではありません。つまり、当時、「アングルとドラクロワはどっちがデッサンがうまいか?」というような論争があって、旧的な観点から言えばそりゃアングルの方が上手だと。そこにボードレールがしゃしゃり出て来て、「そんな比較はナンセンスだ! おたがいに自分の作品に必要なデッサン力を持っていたということであって、それは優劣を競う問題ではない!」とか言ったのではなかったかなぁ。

 現在に話を持って来て、今でも美術大学の入学試験では石膏デッサンの実技試験が行われていて、たとえ現代美術といえどもデッサン力は必要なのだと言う人が大勢居ます。こういう人がよく典拠に出すのが、あのピカソが12〜3歳の頃に描いた石膏デッサンの完成度で、あんな絵を描いたピカソにも、これだけのデッサン力の裏付けがあった、みたいな話を必ずするわけです。さてそれではピカソの「泣く女」でも「ゲルニカ」でもの作品の写真を見る時に、その作品を是認するというか、いいなと思う時、率直に「やはりピカソは(旧的な意味の)デッサン力があるな」という感想を持つ人がいたら、正直わたしはその人はちょっとおかしいんじゃないかと思います。デッサンを解体する能力というのなら了解もして、逆算して「この人、デッサンで苦しめられたことありそうだ」みたいな感想はあるとしても。

 そういうのでは例えばゴッホなんか正統的なデッサン力とは無縁でしょうし、そもそもポロックの抽象画を観てその背後に旧的なデッサン力の有無を探るなんてまったくナンセンスでしょう。現在の日本の現代美術はいくらか旧的なデッサン力を基礎にした作品が注目を集める傾向にあるようで、会田誠にせよ松井冬子にせよそういう視点を受け入れてしまうような作品ではあるかも知れません。しかし単純にそういうデッサン力だけで観るのであれば、会田誠氏なんかよりずっと高塚省吾画伯の方が上手いのではないかという風に比較することは出来ます。それでも現代美術というフィールドでは、高塚省吾氏は会田誠氏よりデッサンがうまいからと評価を上にするような批評基準はあり得ません。もっとわかりやすく言えば、会田誠氏と奈良美智氏の絵画作品を比較して「どちらがデッサン力があるか」などと問いかけることはナンセンスです。

 現代美術には「描かない」というスタンスもあるわけで、わざわざそんなこと書くのもばかばかしい、そんな例はいくらでも無数にあげることが出来ますが、ひとつあげれば先日の『ターナー賞展』にも紹介されていたマーティン・クリードの紙をくしゃくしゃに丸めただけの作品(この作品は展示されていませんでしたけれども)などいったいどうやってデッサン力と関係するのか。デッサンするのがいやで紙を丸めて捨てたんでしょ?みたいな作品なんですけれどもね。

 なんでこんなことを長々と書いたかというと、最近、コンテンポラリー・ダンスと呼ばれるジャンルで、「踊らないダンス」、「踊れないダンス」などということばが、その作品への否定的な言質として使用されるケースをよく聞くようになったからです。いったいぜんたいこの2008年に及んで、何を持ってして「コンテンポラリー・ダンス」と呼称しているのか、何を基準にして「踊らない」とか「踊れない」とか言うのか、暗うつたる気持ちに囚われてしまうのです。そういう「踊るダンス」を観たいのだったら「モダンバレエ」や「モダンダンス」の方に行けば満足出来るだろうに、コンテンポラリー・アートの画廊に来て「会田誠と奈良美智はどっちがデッサンが上手いか?」みたいな、くっだらない発言はやめて下さいということです。なのですが、ど〜やら最近はそういう声が大きく響くようになって来ているようですし、アーティスト側にも、そんなつまらない批評を迎合しようとする空気があるのではないか、わかんないけどそういう気がするんですね。前にも書いたようにこのジャンルがわたしには少しつまらなく思えて来ています。

 つうことで、独特のダンスの世界を展開する井手茂太さんのイデビアン・クルー、『排出口』の公演です。今回は客演にフォーサイス・カンパニーで活躍されている安藤洋子さんを招いての公演。

 幕開きは「シャバドゥビダ〜」みたいなおフランスなスキャットをバックに、黒づくめの男女二人のコント風なやりとりから。これが舞台半分を暗幕で覆った上手側だけで演じられるのとか、なんとなしにおしゃれなフランス映画みたいな。で、その幕が開くと、下手側に柱で区切られた畳敷きの15〜6畳ぐらいのスペースがあって、舞台の奥の方までそういう柱はあちこちに建っていて、つまりは遊廓ではないな、旅館の内部をスケルトンに見渡すような舞台。今回はそれぞれのダンサーに役名、キャラも決められているようで、いわばイデビアン版『喜劇・駅前旅館』の一幕で、演出はちょっと市川崑入ってるというか。そういう楽しい作品でした。

 音楽も独自のブツ切りのブレイク・ビートといいますか、全体にやはりイデビアンならではの唯一無比の舞台ではあります。特に久しぶりに見る井手茂太さん(旅館の主人〜フランキー堺的な)自身の軽妙な笑いを誘うダンスを観ることが出来たのがうれしかったのですね。おかみさんらしい(三味線をストラップで抱えた)安藤さんもいいのだけれども、イデビアン的な群舞の中ではそれほど特出しているわけでもなく、こういうシーンではやはり最強のメンバー、斉藤美音子さんの腰の入れ方とか肩のいからせ方とか、そういうのこそイデビアンのダンスだなと思ってしまいます。

 先に書いたことと無理につなげれば、イデビアンはイデビアン。ある意味娯楽路線ですから、ここにコンテンポラリー・ダンスの未来とかを賭けてみるとかいうのではないのですが、バレエやモダンダンスとは異なる。否定するにせよ肯定するにせよ、やっぱコンテンポラリー・ダンスのひとつの形を見ないわけにはいきません。彼ら彼女たちはnoismではありませんから、noismのような踊りを見せてくれないからと言ってイデビアンを否定する人はいないでしょう。当たり前のことなのですが。

 イデビアンとは関係ありませんが、ダンスの世界には今後、そういうデッサンするのがイヤで紙を丸めて捨てたみたいな作品を、個人的には希求しています。

 

 

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■ 2008-08-23(Sat)

crosstalk2008-08-23

[] 『ダークナイト』 クリストファー・ノーラン:監督  『ダークナイト』 クリストファー・ノーラン:監督を含むブックマーク

 『ダークナイト』を観る前の夜、DVDでM・ナイト・シャマラン監督の『アンブレイカブル』を初めて観ていました。アメリカン・コミックブックの歴史を内包したようなドラマは、結局「バットマン」のストーリーさえも内包しているように見えるわけですが、つまり結論から書けば(大げさにいえば)、わたしは『ダークナイト』なんか、『アンブレイカブル』の井の中の蛙みたいなもの(比喩の使い方が間違っているでしょうか)だと思っています。もちろん作品製作の予算、規模の隔たりは大きなものがあり、単純にスケールの大きさで比べればどちらが優位かなど観る前から知れていますし、これだけ大規模な商業映画のくせに暗鬱なムードの漂うクリストファー・ノーランの演出にはたしかに引き付けるものがありますが。

 しかし、『ダークナイト』はスーパーヒーローの成立する条件を模索するわけですが、そこであらわされる論理はあまり感心出来るものではありません。まず、一般の人々(という言い方で良いのかな?)にスーパーヒーローが必要な理由付けが、爆弾の仕掛けられた2隻のフェリーの、たがいの乗客にゆだねられたもう1隻の船の爆破スイッチであらわされるのですが、これは「囚人のジレンマ」のヴァリエーションですね。生き残るためにはさっさとスイッチを押してしまうのが最適な回答なのですが、双方が最適を求めれば双方が破滅します。行動を起こさなければ一定の時間ののちに双方とも時限装置で爆破されるのですが、一般の個人は自分が助かるために他人を抹殺するような行為は(基本的に)出来ません。そこでそのジレンマの外にいる(中に居てもいいのですが、スーパーヒーローには境界を形作る壁は意味がないです)スーパーヒーローに頼りたい、という願望がみちびき出されるわけです。ここでの個人で可能な行為は、たとえ双方が滅んでも「決定をしないこと」以外にはないわけです。ジレンマを超越する存在としての、一般人を超えたスーパーヒーローが待望される単純な論理です(映画の中で「決定をしない」という重大な決定を確定させるのが、船で護送される途中の囚人であったというのも意味深いですね)。

 そして、そのような正義のスーパーヒーローが登場するには、それに匹敵する大きな「悪」こそが必要なわけです。街角で恐喝とかやってるチンピラばかりを懲らしめるだけではスーパーヒーローとしての威厳が保てません。それをこの『ダークナイト』では悪役のジョーカーに語らせるわけです。正義と悪とは表裏一体、悪があってこその正義、みたいな。

 「勧善懲悪」というのは、西部劇の昔からヒーローの登場する映画の本質をあらわすものでした。もちろんこの背後にはキリスト教的な二元論が存在するわけですが、一方でフランスのシネ・ノワールであるとか、昔からあるピカレスク・ロマンの影響などから懲罰のない犯罪モノという作品群も登場し、特に1970年代からのアメリカン・ニューシネマと呼ばれるようなムーヴメントではアンチ・ヒーローと呼ばれるような主人公が登場し、善悪二元論から逸脱した作品群が多く産み出されたのだと思います。

 その後結局その揺り戻しとしてか、ハリウッドでは大規模な予算を使って大型化した勧善懲悪のヒーロー映画が多く作られるようになり、コンピューター技術の発展と共にハリウッド映画の主流になって来たのではないかと思います。そのような情況が現在も続いているとして、しかしながら単純な勧善懲悪から逃れようとする工夫はあちこちに見られるようです。実はまだ観てないんですけれども、『スパイダーマン』なんか主人公はあれこれと悩むんでしょ? それからマット・ディモンの『ボーン・なんとか』シリーズも記憶喪失の主人公が自我を取り戻す話だし、『マトリックス』シリーズも、マシーン対人間という二項対立を最後に抜け出そうとしたように見えます。今すぐには思い出せないけれどもそういうのは他にもあれこれとあることでしょう。ま、そういう中でこの『ダークナイト』で悪役が「悪あっての正義」みたいに語るのも、メタな展開というか、善悪二元論の構造を明かしているわけでしょう。

 この点については、最初に触れた『アンブレイカブル』の構造の方がわたしには興味深いのですが、『アンブレイカブル』では、実際に悪が自らのために正義を造り出す(探し出す)みたいな話で、そこで描かれる善と悪の表裏一体性というものがよりあらわに展開されていると思いますし、また、『アンブレイカブル』の物語はまさにアメリカン・コミックの読みすぎから産まれたという側面もあります。ここで『ダークナイト』はすでに『アンブレイカブル』に内包されていると言えるように思うのです。

 『ダークナイト』も一面でそのような二元論を越えようと努力したのでしょうが、物語展開に附随してその論理を提示するにとどまり、論理からストーリーが展開しているとは思えないところがいちばんの弱みではないかと思います。結局その善悪二元論を超えるために持ち出したのが中国の陰陽論(ダークナイト=闇の騎士というタイトルはここから来ているのでしょう)ということなのでしょうが、それもまた新たな二元論の導入ではないでしょうか。というか、その具体的展開が見られなかった印象があります。いや、もしもこの閉塞した二元論を超えるのであれば、それは執事のアルフレッド(マイケル・ケイン)の視点の中にこそ存在するようにも思えたのですが。とにかくこれでは『マトリックス』シリーズの終幕で唐突に「デウス・エクス・マキーナ」を登場させて(唐突に登場するから「デウス・エクス・マキーナ」なのですけれども)解決するのと大きな差もないように思えるのですが。

 随所にセキュリティがいかに破られていくかという描写があり、2001年のテロ以降の作品であるという印象もありますが、そうするとバットマンの香港への出張は、アメリカのイラク侵攻・フセイン逮捕の暗喩なのでしょうか。それではアメリカを世界のスーパーヒーローと捉える一部旧言説の蒸し返し。ジレンマの超越としてのスーパーヒーロー待望と共に、納得することの出来ない姿勢です。もちろんこの映画を観て楽しんだ人を非難するのではなく、これはわたしの勝手な独り言ではありますし、『アンブレイカブル』という作品について語り足りない気もいたしますが、このあたりで。

 Sex PistolsのJohnny Rotten(John Lydon)のアクションを研究したというヒース・レジャーの演じるジョーカーは、やはり邪悪さを漂わせて秀逸でした。合掌。


 

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■ 2008-08-22(Fri)

crosstalk2008-08-22

[] 『ジェシー・ジェームズの暗殺』 アンドリュー・ドミニク:監督  『ジェシー・ジェームズの暗殺』 アンドリュー・ドミニク:監督を含むブックマーク

 この頃またなまけていますので、最近観たDVDの中で面白かった作品について書いてみることにしました。

 この作品の監督、アンドリュー・ドミニク(Andrew Dominik)という人についてはまったく知りませんでしたけれど、ニュージーランドの出身で、2001年に『チョッパー・リード』という作品を作っているようです。宣伝文句では「オーストラリア犯罪史上最悪の男の書いた自伝をもとにした実録モノ」とかいうもので、この『ジェシー・ジェームズの暗殺』とかぶる内容の作品のようです。それと気になるのが、テレンス・マリック監督が『ニュー・ワールド』の中で、「Thanks」としてこのアンドリュー・ドミニクの名前をあげているらしいのですね。これだけではテレンス・マリックとアンドリュー・ドミニクの関係は不明ですが、こうやって『ジェシー・ジェームズの暗殺』を観たあとでは、その美しくも厳しそうな自然のとらえ方なんか、共通点があるようにも思えます。この『ジェシー・ジェームズの暗殺』の撮影監督はロジャー・ディーキンズ。最近のコーエン兄弟作品の撮影を一貫して担当している人です。

 映画のことを書く前に、ジェシー・ジェームズのことを書いてみます。まだわたしなどの世代は西部劇全盛期のなごりを体験した世代だと思うので、ジェシー・ジェームズの名前、彼が銀行強盗や列車強盗を繰り返し、最後は仲間に暗殺されたというような知識はありました。ただし、同じ時代の実在の無法者、ビリー・ザ・キッドとごっちゃになってしまうので、困っちゃうのですね。調べると、ビリー・ザ・キッドが保安官パット・ギャレットに射殺されたのは1881年7月で、ジェシー・ジェームズが「卑怯者」ボブ・フォードに背後から撃たれて死ぬのが1882年4月ですから、本当に同じ時代です。ただし、ビリー・ザ・キッドが民衆にもあくまでも「無法者」、「ならず者」として有名であったのに反して、ジェシー・ジェームズの場合生前から儀賊のような扱いを受け、この映画で描かれるように彼を主人公とした読み物も出版され、ほとんど伝説の英雄のような存在だったわけです。

 このように紛れもない犯罪者である男が英雄視されたというのは、わたしもアメリカ人ではないのでよくわかりませんが、ジェシー・ジェームズの場合、若い頃に南北戦争で南軍側のゲリラとして闘った経歴があり、犯罪と言っても庶民の生活からは距離のありそうな銀行や列車の強盗を専門としていたことも関係があるのでしょう。写真で見ても美男子だし。特に南北戦争後の南部人の同胞意識というか、南部魂というものの強烈さは現在でもアメリカ保守層の源流として読み取れるような気がします。ジェシーと強盗団を組織したジェシーの兄フランクはジェシーの死後自首するのですが、驚くことにフランクは裁判で無罪になってしまったりします。先に逮捕されていた強盗団の他のメンバー、コール・ヤンガーは終身刑で服役していましたが20世紀になって保釈され出所、自伝を書いたり、フランク・ジェームズと共に『Wild West Show』とかいうのに出演して各地を巡業したりします。

 関係ないのですが、今読んでいる本、リチャード・パワーズの『われらが歌う時』の中に、1955年にミシシッピー州タラハシーで起きたエメット・ティル殺人事件のことが詳しく書かれていましたけれど、14歳の黒人少年をリンチのように殺害した白人の商店主ら二人の被告は、裁判で無罪になるわけです。この構造はジェシー・ジェームズの時代から引き継がれているものかも知れません。

 ジェシー・ジェームズのことを扱った映画作品は数多くあります。Wikipediaをみるとこの『ジェシー・ジェームズの暗殺』を含めて23本の映画がリストされていますが、そのリストの最初の二本、1921年に製作された作品にはジェシー・ジェームズのふたりの遺児、長男と長女が共に出演しているようです。あと、ヘンリー・キングの監督した、タイロン・パワーとヘンリー・フォンダがジェームズ兄弟を演じた作品だとか、サミュエル・フラー監督のやニコラス・レイ監督のなどもあるようです。このリストのなかでわたしが見たことがある作品は、ウォルター・ヒル監督の『ロング・ライダーズ(1980)』だけです。この作品は好きですね。最近もDVDで見直したばかりですが、音楽がライ・クーダー。登場する四組の実在の兄弟を実際の兄弟の役者たちで演じているのも特徴でした。ジェームズ兄弟を演じたのは兄フランクをステイシー・キーチで、ジェシー・ジェームズはジェームズ・キーチが演じています。ステイシー・キーチはわたしもちょっと好きだったイイ顔した役者でしたが、弟のジェームズ・キーチは実際のところ印章が薄いです。あと、ヤンガー兄弟をキャラダイン兄弟が演じていて、先に書いたコール・ヤンガーはデヴィッド・キャラダインです。他にデニスとランディのクェイド兄弟もちょっと出ていました。ジェシーを暗殺したボブとチャーリーのフォード兄弟(これもまた兄弟なのです)はゲスツ兄弟という知らない役者さんが演じていました。ボブ役のニコラス・ゲスツという人は『風の谷のナウシカ』アメリカ版の吹き替えを担当していたそうですが、どの役なのかはわかりません。

 この『ロング・ライダーズ』を観ると、少し彼らの大衆からの支持というのがわかるような気もします。居酒屋などで北部の歌を歌うヤツがいると、皆で南部の歌を合唱してだまらせようとします。こういう描写はサム・ペキンパーの『ダンディー少佐』の中でも見られましたが。それから、警察が強盗団の一員を彼の自宅で逮捕しようとした時、過って犯人の祖母を射殺してしまって、大きく世間の批難を浴びたりしたようです(この誤射事件は事実だったようです)。普段の生活はあくまでも善良な(普通の)市民として共同体にとけ込んでいて、普通に恋愛をして普通に結婚し、子供をつくるのです。こういうのはこの『ジェシー・ジェームズの暗殺』でも推測出来る描写はありました。そしてやはり『ロング・ライダーズ』が印象的なのは、この作品が一種西部劇への挽歌のような切なさにあふれていることで、しょっぱなのタイマー装置付きで開けられない銀行の金庫から、ペキンパーばりにスローで映し出される、商店の大きなガラス窓を割っての逃走。あとは逃げて、逃げてという描写が続くわけです。

 ペキンパーの名前を出したのでついでに書けば、彼の代表作『ワイルドバンチ』のタイトルを持つ強盗団は実在していました(映画の設定自体はこの強盗団に関係はありませんが)。どうやら初代と後発のふたつの「ワイルドバンチ」と呼ばれた強盗団があったようですが、後者こそは『明日に向かって撃て!』のモデルになった実在の強盗団でした。ジェシー・ジェームズの死後20年近く経った頃の話ですが、ヤンガー/ジェームズ強盗団も、ブッチ・キャシディのワイルドバンチも共に、ピンカートン探偵社にしつこく追い回されます。このあたりは『ジェシー・ジェームズの暗殺』にはあまり描かれていませんが、『ロング・ライダーズ』と『明日に向かって撃て!』は共に、似たような情況下でのピンカートン探偵社の追っ手から逃亡する描写が、かなり長い尺数で続きます。同じ時代にピンカートン探偵社は企業に雇われて「スト破り」のエスコートをしたり、労働者との衝突事件もかなり起こしていたようで、このあたりでも多くの人に反発を買っていたのではないかと想像出来ます。ピンカートン探偵社が追い詰めようとする強盗団に多くの人がシンパシーを持つ背景には、このような理由もあったのかも知れません。

 さて、ようやく『ジェシー・ジェームズの暗殺』という映画のことを書きます。この作品はヤンガー/ジェームズ強盗団が銀行強盗に失敗してヤンガー兄弟が全員逮捕されたあと、信頼出来る仲間がいなくなってしまったジェームズ兄弟が、寄せ集めのメンバーで列車強盗を実行するあたりから描かれます。少年の頃からジェシー・ジェームズを崇拝していたボブ・フォードが、兄となんとか仲間に入れてもらおうとしますが、この頃は実際にジェシー・ジェームズにあこがれて仲間に入ろうとしたと同時に、ジェームズ兄弟の拒絶的態度に畏れも抱いたのでしょう。「自分でも大きいことができる」ということを証明したいという気持ちとともに。

 映画は先に書いたような美しい自然(雪景色が多く出て来ます)を背景に、そんなボブ・フォードとジェシー・ジェームズの心理的葛藤を中心に、ヒリヒリするような緊迫した会話の連続になります。ある時は挑発するようにふるまい、疑心暗鬼に囚われているのかのようにもふるまい、最後の瞬間にはすべてを見すかしているかのようなジェシーと、途中から裏切りを決意してその決意が露見しないかと気をもむボブとの対決のようなシーンは恐いぐらいです。ボブ・フォードを演じているのはケイシー・アフレック。ジェシーを暗殺するまでのあこがれ、野心と背信と緊張と嘘(ばればれなのだけれども)、暗殺後の落胆と絶望の演技が素晴らしいです。特にジェシーに自分がいかにジェシーにあこがれていたか、自分とジェシーを重ねていたかを語るシーンでの表情の変化、そして映画ラストの振り向いた表情にはゾクッとさせられました。ジェシー・ジェームズはブラッド・ピットが演じていますが、シニシズムニヒリズムに浸されたような、何を考えているのかつかめない人格を魅力的に演じています。このふたりの演技対決というか、壮絶だとさえ言えます。ことばを読み取る、その裏を探る。一方では読み取られまいとする。どう受け取られたのか疑心暗鬼になる。"Coward"になるのは当然かも知れません。そのように追い込まれているわけです。

 他の役者さんたちも皆いいのですが、ジェシーの兄のフランク役にサム・シェパードが出演しているのがうれしいところです。冒頭のボブとの対話ぐらいしかちゃんとした出番がないのが残念で、『ロング・ライダーズ』では、ラストにフランクがジェシーの遺骸を列車で運ぶ付き添いに出てくるのですが、そういう描写はありませんでした。あれは『ロング・ライダーズ』の創作の部分なのでしょう。背後から撃つ暗殺のシーンは似たようなものでしたから(違うといえば違うのですが)、ボブの証言などを元にしているのでしょう。

 映画としての主観描写はまったくないのですが、ひとつの事件を取り上げたのではなく、死から逃れようとして死に見入られてしまったようなジェシー・ジェームズという男の孤独、そしてある神話的な人物に魅せられてしまった、ロバート(ボブ)・フォードという男の精神の彷徨の軌跡を描いた作品として、その内面的な描写に成功した作品と言えるでしょう。どうも最近のアメリカの映画はカメラがぐるぐる回ったり、スローな動きで撮影したのを早回しで編集して超人的な動きに見せかけたり、DVDで一コマずつ見ていって楽しめるような、アニメをそのまま実写に移植したような作品が多くなってしまって、それはそれで別の楽しさもありますが、こうやってじっくりと構えて撮った作品を鑑賞する喜びには、やはり格別のものがあります。少ない楽器を組み合わせて奏でられるミニマムな音楽も美しいのです。音楽担当にはニック・ケイヴの名前もあるのですが、彼は終盤の酒場のシーンで流しで唄う男として登場しているので、そこで唄う歌の作者としての音楽担当ではないかと思います。もうひとりクレジットされている音楽担当は、ウォーレン・エリスという人でした。

 ジェシーの墓石には、次のようなジェシーの母による墓碑銘が刻まれているそうです。

In Loving Memory of my Beloved Son, Murdered by a Traitor and Coward Whose Name is not Worthy to Appear Here.

 この映画の原題は「The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford」。そう、ここではもう書けませんでしたけれども、ジェシー・ジェームズを唄った歌というのも本当に数え切れないほどにあるのですが。ボブ・ディランの「Outlaw Blues」にも、" I might look like Robert Ford, But I feel just like Jesse James"という一節があります。

 映画以外のことばかり一所懸命に書いてしまいましたが、データ的なことを書いてみるのも面白いものでした。あ、一般にはこの作品の評価は「あまりに冗長」(160分ですからね)ということになっていますので、間違えて「きっと傑作に違いない」などと思い込んで、期待してご覧にならないで下さい。わたしにとっての傑作ではあるかも知れませんが。


 

 

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■ 2008-08-06(Wed)

crosstalk2008-08-06

[] 『崖の上のポニョ』宮崎駿:監督  『崖の上のポニョ』宮崎駿:監督を含むブックマーク

 あまりに情報量が多く盛り込まれた作品という印象で、「なぜ?なぜ?」と思っても作品の中では最後まで答えらしきものは提示されません。いろいろな面で『となりのトトロ』のヴァリアント的な性格が強い作品だとは思いますが、「トトロ」のシンプルさはありません。読んだ情報では、宮崎監督はテート・ブリテンでジョン・エヴァレット・ミレーの「オフェーリア」を観て、インスパイアを受けてのこの作品だとか。それは何でしょう? 水の描写だとか細部への固執、手描きへの偏愛だとかなのかも知れません。しかし、一方の主人公である宗助くんのネーミングが夏目漱石の『門』からである(らしい)と読んでしまうと、さらに混乱してしまいます。メッセージが多すぎます。そこに興味を持ちます。

 海、特に荒れた海の波の描写こそあまりに強烈で、おそらくはここにこそ、この作品のアイデンティティーが存在するかのようです。荒れた波といえば葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を思い浮かべますが、ここでは風とともに荒れて動く波としての描写の中に、一瞬北斎も想起するのですが、ここでの空気の動きと水の動きとの合わさったシーンの激しさは特筆すべきものでしょう。ある意味で、この作品はここさえ押さえれば良いのではないかとさえ、観終ったあとに思ってしまいます。波が陸に襲いかかりながら、マグロやカツオのような回遊魚の姿へメタモルフォースを繰り返すさまは悪夢のようでもあり、つまらないことを書けば、スーパーにおいてある「かつおぶし」のパッケージのイラストを思い出してしまったりもします。

 作品冒頭の、海の中の圧倒的な生命の博物誌的な描写も印象的ですが、そういう面では、この作品はミレーの「オフェーリア」というよりも、ギュスターブ・モローの「ガラテア」の方をこそ思い浮かべてしまいます。コマ送りで見直してその情報量を確認出来るという、非宮崎的な日本アニメーションのあり方に宮崎駿監督が迎合しているようにも見えますが、そこにあらわれる情報の質/意味がやはり異なります。

 物語についてですが、「異なるモノ」との出合い、父の(家での)不在、母を追い探しての冒険という構図など、先に書いたように「トトロ」を踏襲する部分が目立つのですが(ポニョがおもちゃの蒸気船を大きくするところなども「トトロ」のシーンを思い浮かべさせられます)、『となりのトトロ』において、トトロはあくまでも物語世界の外にとどまり、物語がサツキとメイの成長をこそ描いていたのに比べて、この『崖の上のポニョ』では、宗助の試練にプラスして、ポニョという存在にとってもまた、宗助とともにあること(あろうとすること)が試練なのだということが重層化して、この物語をわかりにくくしています。というか、ひょっとしたら宗助には試練など存在しないのではないのかという展開にも見えます。

 ポニョのことを、ある人は「人面魚」といい、他のシーンでは「半魚人」と語られたりしますが、実際のところポニョがあのような愛くるしい(?)姿(わたしの知っていた女性に「ポニョ」にそっくりな人がいるけれど)に見えるのは宗助にだけなのではないかとも思えます。そうすると、じつはこの『崖の上のポニョ』という作品は、ポニョにとっての「人魚姫」ストーリーというよりも、宗助にとっての「かえるの王さま(鉄のハインリヒ)」ストーリーなのではないかと思えて来るのです。そう考えることでやっと、なぜ彼は漱石の『門』からとって「宗助」とネーミングされていることも了解できるのです。宗助こそが、ポニョが人間になることを求めたのです。この作品では、ポニョといっしょになりたい(?)という宗助の前に存在する障害が読み取りにくいので、つい見落としてしまいます。

 『門』の冒頭で、宗助は御米といっしょに「崖の下」にひっそりと生きているのですが、そこからもこの作品のタイトルへの反映も見ることができるのではないでしょうか。ひょっとしたらその後の宗助とポニョの生活はそれほど幸福なものではないのかも知れません。だからこそ『崖の上のポニョ』では、ポニョが人になった後の宗助とポニョの姿をいっさい描かなかったのかも知れません。しかし、五歳児に漱石の『門』を読めというのも無茶な話であるように、奥の部分ではあまり子供向けの作品ではないように思えてしまうのですけれどもね。

 フジモトとかグランマンマーレとか目くらましのようにいろんなモノが出て来ますけれど、とりあえずそういうのはあんまり考えないで(誤解して)読み解いてみました。


 

■ 2008-08-05(Tue)

crosstalk2008-08-05

[] 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』押井守:監督  『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』押井守:監督を含むブックマーク

 原作のことは知りません。ただ、「ショーとして企業が請け負うようになった戦争でパイロットとして闘う"キルドレ"と呼ばれる子どもたち(?)の話なのだというくらいの予備知識。声優が加瀬亮だったり菊地凛子だったり栗山千明だったりして、監督は押井守なのだと。

 最近DVDで押井守監督の劇場公開作品をずっと見直して来たので、この『スカイ・クロラ』は、『アヴァロン』に連なる作品ではないのかと思われます。色数を少なくして彩度も下げた、ちょっとソフト・フォーカス気味の画面で、蒼い空の色彩が最初から印象的です。作品は『アヴァロン』の地上戦に対応するように、飛行機による空中戦から始まるのです。この戦闘機がプロペラ機なわけで、舞台を未来に設定されたSFのようでいて、どこかレトロ感を感じます。これも押井監督の意図した重要な戦略でしょう。

 切り絵のように平面的な登場するキャラクター(人物)の作画が、これまでの(わたしが見た範囲での)押井作品のキャラ作画と隔たりがあるようです。正直言ってわたしはこれまでの(影の面で表情を作るような)押井作品のキャラ作画があまり好みではなかったのですが、今回は時に大正〜昭和初期の挿絵(蕗谷虹児、中原淳一etc.)を思わせるような輪郭を生み、この画像がドラマに奥行きを与えていたように思います。

 そのドラマですが、わたしの感想ではこれは例えば『ブレードランナー』のヴァリアントというか「その後」というか、デッカードとレイチェルのその後というか、原作を読んでいないので勝手なこと書きますけれど、この作品での「キルドレ」という存在はどうも「永遠の生命を持つレプリカント」みたいな感じで、ある種の記憶は外からインプットされたものらしいです。で、「永遠の生命を持つ」とはいってもその存在は「戦士」と規定されていますから、常に戦場で死と隣り合わせの精神状態で生きていかなくてはならない。「Death is my eternal friend」状態を常にキープしている。ここからドラマが生まれます。『ブレードランナー』のレプリカントは不死ではなく、あまりに早い寿命の終りがいつ訪れるのかが彼らの根源的な虞れなのですが、この作品のキルドレたちは「永遠の生命を持つ」とは言いながら常に「死」のそばで生きている点でレプリカントと変わりはなく、しかもキルドレたちの場合は「いつまでも子供のままにとどまる」という別の虞れのもとに生きています。

 戦闘機のコックピットの中で「死」と隣り合わせの体験をしている(冒頭の空中戦のシーンが導入部としてすばらしいわけですし、「死」そのものの象徴としての敵、「ティーチャー」という造形も引き立ちます)キルドレたちは、その生命体としての行動原理は生身の人間と何も変わらないようで、セックスや、刹那的な享楽に身を任せます。少し観念的なことを書きますが、ここで、生に隣接する死、そして性という主題が明確になります。主人公のカンナミが同室のトキノに着任早々に連れていかれるのは娼婦館です。

 この作品はあれこれと先の読めない謎を提示しながら、その謎を少しずつ明らかにしていくような、ある意味で古典的な展開をみせます。その意味で、きわめてわかりやすい作品だと言うことができるでしょう。映画は指揮官であるクサナギの過去の謎を、カンナミとの関係の中でだんだんと解き明かしていくのですが、なんがかだんだんと石井隆の作品というか、かつての日活ロマンポルノというか、個体を超越した男と女の腐れ縁のような話に移行していき、クサナギとカンナミは、その「生」と「死」の隣接した世界から「死」に囚われ、永遠と続く心中への誘惑と未遂の円環の中に閉じ込められていくようです。ちょっとびっくり!

 この決定的な展開をみせる場所はどうやら赴任先のポーランドを舞台として展開されるようですが、このポーランドの夜の街並の描写が、わたしは好きですね。先日、ジャック・ニコルソンが「かつて芸術映画というものが存在した」みたいな発言をしたことを繰り返し書きましたが、ここで押井守監督は、そのような過去の「芸術映画」の幻影を呼び戻そうとしているように思えます。『アヴァロン』の製作にもそういう意識はあったようですが、今回は物語が進行するにしたがって画面はますます暗く陰鬱になり、過去のヨーロッパの映画群のただなかに祖先帰りするようでもあります。

 『アヴァロン』ではそのクライマックスで突然に色彩が回復されて、原色の洪水にフィルムが浸されるのですが、この『スカイ・クロラ』では、終盤の二人のクライマックスでは完全に色彩が失せ、白い光源を覆う暗い影のみで世界が描かれてしまいます。「子供」というよりは「青年期」から、「大人」への一歩を踏み出し切れない、「死」と「生〜性」のはざまで行きつ戻りつする登場人物たちの苦悩が痛々しい作品というか。

 しかし、すべてを了解した上で淡々と整備を遂行する、整備士のササクラという存在がいいですね。とにかく楽しめました。

 ま、そんな感じですが、他に二三。

●アニメだというのに喫煙シーンばっか。いまどきここまで皆がタバコ吸いまくる作品も珍しいです。カンナミなんか、「タバコを吸わない上司は信頼出来ない気がする」なんて名セリフを吐露しますし。これも子供から先へ進めないキルドレの内面をあらわしているのでしょうか。

●そのクサナギが映画の中で吸っているタバコは「天狼星」という銘柄です。どうでもいいことですが。

●そーいえば、そのポーランドの夜、クサナギとカンナミとトキノがボウリングするシーンがあって、そこでのクサナギのポーズが大爆笑モノで、でも映画館では誰も笑わないのでわたしひとりでのけぞって声を出さずに笑っていたのですが、他の映画館ではどんな反応だったのでしょう?

●声優としての加瀬亮、菊地凛子は良かったと思います。特に菊地凛子には時々驚かされました。

●音楽はいつもの押井作品のパートナー、川井憲次ですけれど、いつもの仰々しい音造りではなく、チーフタンズのアイリッシュ・ハープのような清楚な音を響かせています。そんなところで。


 

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■ 2008-08-03(Sun)

ホウ.シャオシェンのレッド・バルーン

[] 『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』ホウ・シャオシェン:監督  『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』ホウ・シャオシェン:監督を含むブックマーク

 上映されている銀座の映画館ではその幕間の休憩時間に、同時公開されている『赤い風船』の音楽が流されているのですが、その『赤い風船』の音楽、30秒ぐらいの長さしかないのが永遠とリピートされて流されていて、開演を待って座席に座っている間に、頭がすっかりフワフワとパリの空の上まで飛んで行ってしまいそうです。

 さて、待望のホウ・シャオシェン監督の新作、しかもアルベール・ラモリスの『赤い風船』へのオマージュ作品と来るのですから、見逃すことは出来ません。

 先日、ジャック・ニコルソンのオーディオ・コメンタリーでアントニオーニの『さすらいの二人』を観た時、そのジャック・ニコルソンが「この時代にはいわゆる芸術映画があった」などという発言をしていることを書いたばかりですが、別に「芸術」なんて高尚なこと言わなくてもいいんですけれども、そんなアントニオーニの製作態度を思わせるような作品を今でも作り続けている監督の一人が、ホウ・シャオシェン監督ではないかと、わたしはひそかに思っています。いや、「監督の一人」などと書きましたけれども、もしかしたら、わたしにとって、現在形でこのような作品を作る監督はホウ・シャオシェンただ一人かも知れません。

 もちろん、ジャック・ニコルソンがどのような意味で「芸術映画」などという言い方をしたのかは、その『さすらいの二人』での発言からだけでは読み取ることは出来ませんが、1950年代から70年代にかけて、映像をストーリーに奉仕させず、映画の中に映像と音、そして時間から成立する映像表現独自の美学を打ち立てようとした監督があれこれと存在していたことは確かだと思います。それは例えば先に書いたアントニオーニであったり、ロベール・ブレッソンであったり、アンドレイ・タルコフスキーだったりすると思うのですが(このあたりのことはアバウトに書きますが)、90年代以降、そういう系譜はほんとうに断ち切られてしまったかのように、映画館のスクリーンから消えてしまったように思えます(ヴィクトル・エリセ監督の名前などを入れてもいいのですが、作らないですからね)。

 そんな中で、ホウ・シャオシェン監督の『戯夢人生(1993)』以降の純化された作品群に接する時、それがあまりに昨今の他の映画作品から隔たるところが大きいのを感じてしまい、ホウ・シャオシェンの映画だというとちょっと観る方の姿勢が変わってしまいます。『戯夢人生』以降というと、つまり撮影がリー・ピンビンの担当になって以降ということにもなりますが、このホウ・シャオシェン/リー・ピンビンのコンビによる作品の、時の流れを超越したような映像の体験は、もう他では得られないものになってしまったようです。

 ただ、わたしにとっての大傑作ふたつ『フラワーズ・オブ・シャンハイ(1998)』(この作品の一般の評価の低さにはびっくりしてしまうので、きっとわたしが狂っているのではないかと思ってしまいます)、『ミレニアム・マンボ(2001)』以降の彼の作品、日本で撮影された『珈琲時光(2003)』は映像として何を目指していたのかわたしは見損なってしまって印象が悪い(今度見直してみます)のと、『百年恋歌(2005)』がそれまでのホウ・シャオシェンの個人的おさらい作業のように思ってしまったりした(これも今度見直してみます)のとで、しばらくわたしにとってのホウ・シャオシェン監督らしい作品に出会ってなかったような気がします。そんなところでのこの新作です。

 作品は、場所も撮影アングルもまるで違うのですが、『赤い風船』の冒頭の、少年が風船に出会う場面を踏襲しています。しかし、少年は風船を手にすることなく電車(メトロ)に乗ってしまい、カメラは少年と別れて風船にたどり着き、その風船のあとを追います。まず、このカメラがいいんです。街灯を垂直に上がって赤い風船をとらえるカメラが、並木の木立の間を浮遊する風船を追ってだんだんに上を向いてきて、その木々の葉の間から、カメラの真上にいる風船をとらえて、しばらく追いかけます。日の光を透かした緑の葉の上を移動して行く赤い風船。

 主な登場人物は、シモンというその少年と、その母であり、人形劇(『戯夢人生』を思い出させます)の声優をやっているスザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)、そして少年のベビーシッター役を受け持つ映画の勉強をしている中国からの留学生ソン、基本的にはこの三人で展開して行きます。まずソンが劇のリハをしている劇場を訪れるシーンで、その劇場の赤いドア(風船の赤を思わせますが、この作品の中には様々なところにその「赤」が出て来ます)、そこに聞こえて来るさまざまな街のノイズが豊かな空間と時間を感じさせ、この作品の各カットが綿密な計算の上に構築されていることを理解させてくれます。

 基本的に、ソンとシモンがパリの街なかを歩くシーンでは静かなピアノ曲がバックに流れ、「赤い風船」へのフィードバックが感じられます。それと対照的に、スザンヌ(とシモン)の家は奇妙に狭苦しく雑然としていて、その中をカメラが計算された動きを見せてくれます。基本的に室内シーンでは音楽は流れませんが、ピアノの調律をするシーンでの調律する音がここでのBGMでしょう。離婚した夫とのトラブル、階下の住人とのトラブルなんかを抱えてスザンヌの神経は少々荒んでいるようですが、ここでのジュリエット・ビノシュの演技がね、ほんとうに見事です(脚本は存在していたけれど、セリフはまったく決められていなかったそうです)。

 街なかを歩くソンとシモンのシーンで、いかにもパリらしいオープンテラスのカフェの中にシモンが入って行くのをカメラが外からとらえ、そのカメラがスッと右に移動すると、そのカフェの中でシモンがピンボールのゲームをやっているのが写ります。その時、カフェのガラス窓に反射する外の風景とカフェの中でピンボールをするシモンの映像がダブル・イメージになるわけですけれども、この作品では、そのようなガラスに反射したダブル・イメージのシーンこそ、まるでそれがこの映画の主題であるかのように頻繁に出て来ます。列車の中のシーンで、窓ガラス越しに映る外の景色と、反対側からガラスに反射する雲のあいだの日の光のイメージがダブるところなんか、もうその映像を撮るためだけに列車に乗ってしまったみたいだし、最後の方でのスザンヌの車のフロントガラスに写る車外の景色と車内のダブル・イメージはほんとうに美しい。

 このように、ストーリーと映像が等価に流れて行くような美しい作品にはほんとうに久しぶりに出会いました。やはりホウ・シャオシェンです。そう、音も街頭のノイズを含めてこの作品の大事な要素です。カフェに行くソンとシモンがそこにあるジュークボックスで、シャルル・アズナブールの曲をかけるのなんか最高ですよね。

 最後に、カメラはオルセー美術館の「赤いボールを追いかける少女」みたいな絵の前にシモンと共に到着して、そのオルセー美術館の明かり取りの天井窓にカメラがパンすると、もちろんそこには赤い風船がいるわけです。そのままカメラはパリの空を流れて行く赤い風船をロングショットでとらえ、エンディングの歌(ちとイイ歌ですね)が流れて終ります。わたしは通路にそった席で観ていましたので、その通路の床に反射して写っているスクリーンの青い空、その中の赤い風船を、目線を下にして観たりしていました。

 この作品での「赤い風船」はあまりドラマにコミットせず、外から登場人物たちを見守っているような存在(それだけでなくあれこれあるのですけれども、ちょっと書き切れない)でしたけれども、そのラスト、風船だけでパリの空を漂っていくシーンは、『赤い風船』への、きれいな、おもいっきりなオマージュなのだと感じられました。

 まるでガラスに反射する映像とガラスの向こうの透過する映像の複合のように、重層化された幾層ものストーリーが映像と共に複合された映像作品として、近年稀に見るすばらしい作品ではあったと、このわたしは思っております。


 

 

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