ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2008-09-30(Tue)

[]二○○八年九月のおさらい 二○○八年九月のおさらいを含むブックマーク

 さて、ついに秋になってしまいました。秋空はもの悲しく、落ち葉が鋪道に墜落するUFOのように舞い降ります。可能なら10月は関西へ行こうと思っていたのですが、今のところ実現しそうもありません。

 9月はちゃんとした舞台はひとつも観ませんでしたね。

●9/13(土)鉄割アルバトロスケット『レッツティーチャー5限』@吉祥寺・オンゴーイング

 美術展は知り合い関係で以下の通り。

●現代アート・38人の作家・ART SALAD展 @川口・masuii R.D.R gallery
●ART SALAD 14人展 @川口市立アートギャラリー・アトリア
●清水真理人形個展 「聖書と木馬」 @銀座・青木画廊 3F Luft

 映画館で観た映画。

●『幸せの1ページ』ジェニファー・フラケット:監督
●『デトロイト・メタル・シティ』李闘士男:監督
●『おろち』鶴岡法男:監督
●『アキレスと亀』北野武:監督

 読んだ本。

●『孤独の要塞』ジョナサン・レセム:著 佐々田雅子:訳
●『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー:著 黒原敏行:訳
●『フラナリー・オコナー 楽園からの追放』ジュヌヴィエーヴ・ブリザック:著 香川由利子:訳
●『宿屋めぐり』町田康:著
●『眼と太陽』磯崎憲一郎:著
●『決壊』(上・下)平野啓一郎:著

 家で観たDVD。

●『ロード・トゥ・パーディション』サム・メンデス:監督
●『オルランド』サリー・ポッター:監督
●『さすらいのカウボーイ』ピーター・フォンダ:監督
●『クローン・オブ・エイダ』リン・ハーシュマン=リーソン:監督
●『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』ポール・トーマス・アンダーソン:監督
●『once ダブリンの街角で』ジョン・カーニー:監督
●『イージーライダー』デニス・ホッパー:監督
●『白昼の幻想』ロジャー・コーマン:監督
●『雨のめぐり逢い』ピーター・ブルック:監督
●『注目すべき人々との出合い』ピーター・ブルック:監督
●『コンスタンティン』フランシス・ローレンス:監督
●『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード:監督
●『ベルヴィル・ランデヴー』シルヴァン・ショメ:監督
●『巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)』アラン・レネ:監督
●『ナイロビの蜂』フェルナンド・メイレレス:監督
●『ジェヴォーダンの獣』クリストフ・ガンズ:監督
●『羊たちの沈黙』ジョナサン・デミ:監督
●『フィクサー』トニー・ギルロイ:監督
●『ラスト、コーション』アン・リー:監督
●『ビリー・ザ・キッド 21才の青春』サム・ペキンパー:監督
●『宇宙人の解剖』ジョニー・キャンベル:監督
●『28週後...』フアン・カルロス・フレスナディージョ:監督
●『ラストタンゴ・イン・パリ』ベルナルド・ベルトルッチ:監督
●『クローバーフィールド/HAKAISHA』マット・リーヴス:監督
●『ミスト』フランク・ダラボン:監督
●『グリーンマイル』フランク・ダラボン:監督
●『黒い罠』オーソン・ウェルズ:監督
●『上海から来た女』オーソン・ウェルズ:監督
●『エイリアン』リドリー・スコット:監督
●『情事』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督
●『女ともだち』ミケランジェロ・アントニオーニ:監督
●『ホテル・ハイビスカス』中江裕司:監督
●『夕凪の街 桜の国』佐々部清:監督
●『サウスバウンド』森田芳光:監督
●『憑神』降旗康男:監督
●『ONE PIECE 春コレクション』矢口史靖/鈴木卓爾:監督
●『ONE PIECE 秋コレクション』矢口史靖/鈴木卓爾:監督
●『モンティ・パイソン ザ・シークレット・ポリスマンズ・ボール / THE SECRET POLICEMAN'S BALL』

 ‥‥えっと、こんなところでしょうか。

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20080930

■ 2008-09-29(Mon)

[] 『眼と太陽』磯崎憲一郎:著  『眼と太陽』磯崎憲一郎:著を含むブックマーク

眼と太陽

日本に帰る前に、どうにかしてアメリカの女と寝ておかなければならない。

 とにかくこの冒頭の書き出しからして、いったいどんな展開になってしまうのか不安がいっぱい。しかしながら、この『眼と太陽』という長くはない小説からは、万華鏡を覗くように世界のさまざまな姿が透かして見えてくるようであり、一見とりとめもないディテールの積み重ねのような文章の奥底からキラキラとかがやく宝石の原石が見つかるのです。

 ストーリーとしてたどれば、主人公がアメリカへ仕事で赴任して、トーリという離婚経験のある女性と知り合い、その娘ミアと三人で新しい家族を築いて日本へ帰る旅客機に乗り込むまでの話なのですけれども、作者はそのストーリー展開などには重きを置かず、脈絡なくはさみ込まれるエピソードの集積としてこの小説を提示しているように読み取れます。主人公が食事をとる日本レストランに紛れ込む小動物の話や、カフェのとなりにいる女性たちの会話の描写、主人公の会社の社長なのだけれども会社に日本人は彼ら二人しかいないのでほとんど同僚として付き合っている遠藤さんと、ニューヨークに行って韓国サロン(売春施設)を訪れる話などに並んで、主人公がトーリとミアといっしょに世界一大きなクリスマス用品専門店に行き、その帰りに交通事故に巻き込まれて弁護士を雇い、結局無罪になるまでの話、そして遠藤さんの語る遠藤さんの若い頃のピアニスト女性との奇妙な恋愛話といった、印象的な話が語られます。

 特に遠藤さんの話というのは主人公のストーリーからはまるで遊離した形で、主人公がトーリと結婚する意志を遠藤さんに語った際に遠藤さんから語られるのですが、これひとつで独立した短編小説のような体裁をとりながら、「入れ子構造」とかいうのではなく、この作品の中に不思議な溶け込み方をしてこの作品を支えているように思えるのです。そういうことが、この小説を要約して伝えることの困難さになると思います。ストーリーを持ったディテールだけでなく、ちょっとした自然描写、会話それぞれが等価に美しく感じられるようでもあります。

 全体に、人がたどり着くことが出来るある種の崇高さと、人が普段生活している卑俗な部分、その混合の中にこそ人は生きているのだと思わせるような力強さこそがこの小説の魅力ではないかと思います。冒頭の書き出しも卑俗といえば卑俗ですし、主人公がトーリと結婚しようと決めるきっかけも、やはり「何それ?」みたいな勝手な思い込みというか、おかしな発想ではあります。

 作者の磯崎憲一郎さんにとって、この作品は『肝心の子供』に続く第二作ですね。その『肝心の子供』に比べてずいぶんと作風が異なるように感じてとまどってしまうのですが、『肝心の子供』のラストに出てくる木の上の話、そのような世界はこの小説でも繰り替えされ、トーリの家の遠くに見える森の中の一本だけ突き出た木について語るトーリのことばや、何よりもこの小説のラストで彼らの搭乗する飛行機が雲を抜けて太陽の輝く世界へいたる短い描写、その中にたしかにこの小説が『肝心の子供』の、豊穣な実りを持った続編なのだと納得するのです。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20080929

■ 2008-09-24(Wed)

[] 『宿屋めぐり』町田康:著  『宿屋めぐり』町田康:著を含むブックマーク

宿屋めぐり

 タイトルから紀行文集なのかと思ってページをくくるとそうではなくって、長大な物語小説。町田康氏の小説は最初の『くっすん大黒』以来ちゃんと読んだ記憶がないのですが、それなりに拾い読みとかしていて、最近は時代物というか、パンク侍みたいなの?そういうのを書いていることは知らないわけではありませんでした。

 しかし、『くっすん大黒』の時にも、フォーク並びをしろとか、冷蔵庫に卵をしまう時は古いのが手前に来るように順番にしまえとか、こう、ルールにこだわるというか、モラリスティックな面が垣間見られた記憶があるのですが、この『宿屋めぐり』になるともう主人公はひとりの求道者で、つまりはかつて自分がどん底にあった時に救ってくれた主のために大権現に太刀を奉納するための長大な旅の物語。しかし小説が始まるとすぐに主人公は池から這い上がってくる奇怪な「にょろにょろ」のような、蛭のような白いぐにゃぐにゃした妖怪(?)に包み込まれて「偽の間違った世界」に入り込んでしまう。その「贋の世界」でさまざまな人に出会い、嘘と罪にまみれながら「本当の正しい世界」に戻ろうとする宗教的な話が、つまりは例のめちゃ饒舌な語り口で語られるわけです。とにかく笑っちゃう描写もひんぱんに出てくるのですが、しかし、まことなる世界を求める求道者の脱線続きの物語として一種の宗教小説?というような読後感はあります。

 主人公はこの「偽の世界」の中で何度も名前を変え、その姿までも変えたりするのですが、主人公だけでなく他のあれこれの登場人物もたいていはまた複数の名前を所有していて、その名前によって別の人格をも表出します。とにかく主人公が窮地に陥り「この人ならば」という人とすがろうとする人は皆偽りの姿のようで、主人公は何もかも奪われたり奴隷のようにこき使われたりしてしまうのですね。

 わたしは詳しくないのですが、仏教の「輪廻」の考えの中に、ほかの個体への転生ではなくて同じ人物の同じ人生を永劫に繰り返すような輪廻の形もあるように聞いた記憶があるのですが、この小説の主人公も嘘の世界の中で転生しながらも、全体としてはそんな永劫輪廻の枠の中に閉じ込められているようです。

 どうもこういう、物語としてはっきりとストーリーがあって、著者の意図も明らかなような小説の形をとっていても、ここまでストレートに宗教説話みたいなモノだと、わたしなどはどう読み取れば良いのか迷ってしまうのですが(いったいなぜこの表紙の人形なのか?とか)、とにかくいきなりの町田康ではありましたので、別の作品、例えば『告白』などを読んでからでもまた考えてみたいと思うのです。

 しかしこの小説の中で主人公が生きるのは基本的に芸人の世界で、この小説の中で語られるほかの芸人とかの姿の中に、はっきりと現実の町田康周囲の業界(彼の場合は音楽ですか)への批判が込められているのではないかと思います。豪勢な生活をしていながらチャリティーに参加してそれで功徳を積んだように思っている芸人や、すべてに「愛」を説きながらも、周辺の人物から「愛」を言い訳に巧妙に搾取して自分の利益を肥やしているだけのように見える役者とか、ロクに舞台をみてないで、はけたあとにおざなりに「よかったよ」と賛辞を送ってくるだけのスタッフとか知人とかの話などは、現実の現代の業界批判ではあるでしょう。けんかしないでね。


トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20080924

■ 2008-09-20(Sat)

[] 『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー:著 黒原敏行:訳  『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー:著 黒原敏行:訳を含むブックマーク

ザ・ロード

 『すべての美しい馬』とか、『ノーカントリー』など、このコーマック・マッカーシーという人の原作による映画作品がちょくちょくと公開されるようになり、特にこの春に観た『ノーカントリー』の映画での語り口が興味深かったこともあって、いつか読んでみようと思っていたのですが、その『ノーカントリー』の原作『血と暴力の国』より先にこの新作『ザ・ロード』を読んでしまいました。

 おそらくは原著がそうなのか、句点のまったくない訳文はひっかかりがあってなかなか読み進めなかったのですが、その地の文章と、登場する親子の対話の平易な文章がひとつの対照になって、一種詩的な感慨を呼び起こされます。それは人間味のない殺伐とした終末世界の灰色の風景の描写と、その中でつまりはヒューマニティを守ろうとしているというか、そのようなことをこそ生きるよすべとして前進するかのような親子の交わすことばとの対比。

 舞台は近未来のアメリカのようで、おそらくは核戦争のために世界はすでに破壊され、わずかに生き残った人々は食物を求めてさまよいあらそい、カニバリズムこそが残された人々の生き残る手段であるような世界です。年ごとに寒冷化するその世界を南へ向けて、海に向けてさまよい続ける父と子が主人公です。というか、この二人以外にはほとんどほかの人は出て来ません。男の子は父との会話の内容などからその世界の破壊後に生まれて来たようです。そこで父は子に「ひと」という存在の持ち合わせる「善」を語り教え、自分たちが「ひと」として生き残る使命を語る(「火を運ぶ人」という、神話的な比喩で語られます)のですが、現実にこのふたりが他の「ひと」に出会う時には、その他者は自分たちを攻撃するものとしてあらわれてくるわけです。そこで父は自分が息子に語ることと現実とのギャップに悩み息子に対してすまないと思い、息子の中でも教えられた「善」がすこしずつその教えてくれた父自身によって裏切られるような現実を目の当たりにして、少しずつ絶望を覚えて行くように思えます。

 小説はその「絶望」の世界をこそ読者と共に彷徨するようで、読んでいてもつらくなります。これはこれからこの小説を読む人には「ネタばれ」になるのかも知れませんが、その中盤で、親子が隠された核シェルターを発見する時には、読んでいる方もまるで自分が宝の山を発見したみたいにうれしくなってしまいます。その核シェルターに居られるだけ居ればいいのにと思うのですが、ほかの人間に見つけられることをさけるため、あくまでも目的は南であるために、その核シェルターも引き払います。

 終末後の世界を描いた作品というのは映画でも小説でもいろいろとあるそうで、わたしはほとんど知らないのですが自分以外の他者は基本的に「敵」というのはゾンビ映画の基本ですし、前に見たダニー・ボイル監督の『28日後‥‥』の世界などは、この小説に似ているとも言えるかも知れません。この小説では出会う他者はすべて敵と決めてかかってヴァイオレンスアクションになだれ込むわけではなく、「ひと」であることの希望にすがりながらも「ひと」に絶望していくような、そういう世界観が示されます。そのなかでなお、父の子へ伝えようとする希望、子が父から受け止めようとする希望には心打たれるものがあり、小説のラストから外へ引き継がれて行きます

 今現在のこの世界はこの小説のように破滅はしていませんし、流通ルートの完備した高度資本主義国家のもとに生活していて、大勢の生き方に順応していれば餓えるということも体験せずにすんでいます。しかしこの小説のような世界の破壊は、アフリカなどの例を持ち出すまでもなくその内部では着々と進行していて、例えば北九州で生活保護を打ち切られて餓死した人の内面では、この小説と同じような風景が繰り広げられていたのではないでしょうか。そのように言うことは極端なこじつけでしょうか。

 あとがきなどを読むと、コーマック・マッカーシーはトマス・ピンチョンやドン・デリーロと並べられて現代アメリカの最重要作家とされていますが、ピンチョンなどの言語実験を含んだ小説というよりも、ユマニスト(変な言い方だな、ヒューマニスト、ですね)の流れの中での作家なのではないかと思います。って、考えてみるとアメリカという国にはこういうヒューマニズムを展開する作家というのはあんまりいなかったような気がします。アンチ・ヒューマニズムっていうのは山ほどいるのですが。

 そう考えていて、またこじつけですが、このコーマック・マッカーシーの中にはどこかジャック・ケルアック的な部分もあるのではないかと思ってしまいました。もちろんこのタイトル『ザ・ロード』からしてケルアックなのですが、ケルアックがあの時代に路上を彷徨いながら切り抜けさせて来たものと、ここでコーマック・マッカーシーが未来の世界の滅亡の前に「火を運ぶ人」として守ろうとしたものは、どこかで同じものとして重なってくるのではないか。そのような読後感を持ちました。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20080920

■ 2008-09-10(Wed)

[] 『孤独の要塞』ジョナサン・レセム:著 佐々田雅子:訳  『孤独の要塞』ジョナサン・レセム:著 佐々田雅子:訳を含むブックマーク

孤独の要塞 (BOOK PLANET)

 タイトルの「孤独の要塞(The Fortress of Solitude)」というのは、スーパーマンの隠れ家のことだそうで、早川書房からの刊行だし、SF小説かなと思ってしまうのですが、基本的には1970年代から80年代にかけての一少年のビルドゥングス・ロマンです。おそらくは1964年ブルックリン生まれという作者の体験を取り入れた自伝的要素を合わせ持つ作品だろうと思います。

 基本的には主人公の白人少年ディランと黒人少年ミンガスの、交差しながら離れていく交友というか友情の経過がメインなのですが、ディランの小学校(と言わないか)から大学(と言わないか)に至る様々な交友関係がリアルな70年代の社会背景をバックに語られます。ディランの父はスタン・ブラッケージばりに一コマずつフィルムに手描きされるアニメーションを毎日(ほぼ永遠に)描き続けるアーティストで、ミンガスの父は、ゴールドレコードも持つ「ディスティンクションズ」というソウル・グループ(もちろん架空のグループ)のリード・シンガーであったという過去を持つのですが、主人公とミンガスの継続する人生に合わせて、この父親たちの人生もこの小説での重要なファクターではあります。

 コミックス、ドラッグ、グラフィティ、70年代から80年代へのポピュラー・ミュージックが主人公二人を取り囲む重要な主題であって、その中でブルックリンという地域で白人であること/黒人であることがディランとミンガスを結びつけ、また離れさせて行くのです。特に下町のグラフィティの世界でブイブイいわせるミンガスを通じて語られる当時のグラフィティ文化の描写とか興味深いものがあリますし、当時の音楽好きにもたまらない記述がいっぱい出て来ます。

 で、「孤独の要塞」というタイトルがどこから来るかというと、まだローティーンだった頃のディランが道ばたで倒れているホームレスの男からひとつの指輪を譲り受けるのですが、この指輪をはめると空を飛べるようになる! それでディランはその時にいちばんの親友だったミンガスに指輪の話をして、わざわざマントとか衣装を作ってブルックリンの夜に小さなスーパーヒーローとして君臨しようとする(?)わけです。ほとんど使われることのなかったこの指輪の魔力は思い出したようにディランによって使われて、この小説のラストで大きな意味を果たすことになります。

 なんだかあらすじばかり書いてしまいますが、このリアルな一少年の成長物語の中に超現実的な「指輪」の力を書き込む筆力は尋常のものではなく、一時期の南米文学の「マジック・リアリズム」をも想起させるのですが、ここでの描写の力はそんな「マジック・リアリズム」とは異質の不思議なリアリティをはらみながら、やはり、あたかもそれが現実にあり得た瞬間があったのではないかという幻覚に囚われそうになります。結局それは作者の、時代と場所を捉える観察眼の力によるものではないかと思えるのですが、そのような「幻想」をこの小説に含み持たせることによって、現実の時代、現実の場所を超えた時代性、言い換えれば「共同幻想」の奥にあるリアリティを定着しているように思えるのです。多少細部にとらわれ過ぎているのではないかというい印象もあるのですが、その「細部」があればこそ「幻想」にリアリティが与えられるという構造は「マジック・リアリズム」文学と同一ではあるでしょう。ただし、その「細部」がマニアック過ぎる現実に支えられているがゆえに、一般性を得られないのではないかという危惧はあります。つまり、先に書いたスタン・ブラッケージからブライアン・イーノ、その他マニアックな固有名詞を、どこまで読者が共有出来るかという問題は付いてまわるという気がします。

 しかし結局、この小説が描いているのは、時代を共に生きる「共時性」のことであって、その同じ時の中を自己は他者と共に何かを共有しながら生きているということ。そして何よりも印象的なのは、この小説が、その「共時性」にともなう一種の「哀しさ」をこそ顕わしていることではないかと思います。変な感想ですが、この長い小説(800ページです)を通読したその読後感は、長いことあこがれていた愛しい人とついにセックスをして、そのセックスのあとに自分のとなりにその愛しい人がシーツにくるまって眠っている姿を眺めるような感覚に似ています。はたして自分は満足したのか、はたして彼女は満足したのか、はたして自分と彼女はこれからどうなっていくのか、そういうことを思うともなく彼女のシーツの下のからだを眺めている感覚がよみがえるのです。ちょっと希有な読書体験でした。


 そんな希有な読書体験に水を注すようなこともあるのは書いておきます。この本の末尾の解説ですか、「文筆家 新元良一」という人が『「正義の味方」が負ける時代』という一文を寄せておられるのですが、「???」の連続文章です。チンプンカンプン。躍動感あふれる60年代と80年代にはさまれた70年代は「停滞」の時代と書いているけれども、この小説はそんなことどこにも書いていないと思うし、「超一流レストランで食事する若い金融マン、ヤッピーたちが闊歩していた」と、この新元氏の書く80年代を、それでもって「躍動感あふれる」時代と言うのであれば、この小説のどこを読んでいるのでしょうかと聞きたくなります。この人の価値観はどこにあるのかと。最後の方に彼が書いている「「正義」に対する社会の認識の変化」だなんて、たしかにこの小説は多くの時代認識を呼び起こすとは言えども、この小説の主題とはそれほど関係があるとは思えないのです。ま、そういうことはどんな読み方をしても勝手、主観の問題でしょと言うのもいいですが、ミンガスという登場人物の名前について、「伝説的なジャズ・ピアニストを想起させる名前」と書くのはお粗末。ま、ミンガスがピアノを弾いたアルバム「Oh Yeah!」が好きなのかも知れませんけれども、「伝説的な」という接頭句は「わたしは知らないけれども」の言い換えというケースもありますので(出版社の誰もチェック出来なかったというのも驚きですが)。どうせなら翻訳した人に書いてもらった方がよっぽどよかったのではないかと、そういう気がしてしまいます。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20080910
   2963045