ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2008-10-31(Fri)

[]二○○八年十月のおさらい 二○○八年十月のおさらいを含むブックマーク

 十月も終ってしまったのでまたおさらいです。金も仕事もないのに秋を満喫したと申しましょうか。いけないことです。

 舞台にも行ってしまいました。

●10/11(土)『吾妻橋ダンスクロッシング』@浅草・アサヒアートスクエア
●10/12(日)ARICA『KIOSK restructured version』@中野・テレプシコール
●10/22(水)地点『桜の園』@吉祥寺シアター
●10/27(日)唐組『ジャガーの眼・2008』@雑司ヶ谷鬼子母神境内・紅テント

 この他に、Perspective Emotionの合宿ワークショップに参加して長瀞に行って来ました。それと真岡鉄道に乗っての茂木へのミニ旅行とか?B気候も良いのでうちのあたりの散歩が活発になりました。

 映画館にも行ってしまいました。

●『トウキョウソナタ』黒沢清:監督
●『アイアンマン』ジョン・ファヴロー:監督
●『百万円と苦虫女』タナダユキ:監督

 本を読むのはお金がかからないのでもっとがんばりたいのですが、今月はあまり読みませんでした。

●『蟋蟀(こおろぎ)』栗田有起:著
●『フューチャーマチック』ウィリアム・ギブスン:著、浅倉久志:訳

 結局今月は美術展には何も行きませんでしたね。DVDは例によっていっぱい見てしまいました。

●『バイオハザ−ドII アポカリプス』アレクサンダ−・ウィット:監督
●『バイオハザードIII』ラッセル・マルケイ:監督
●『ザ・リング』ゴア・ヴァービンスキー:監督
●『ザ・リング2』中田秀夫:監督
●『ダーク・ウォーター』ウォルター・サレス:監督
●『トランスフォーマー』マイケル・ベイ:監督
●『レザボア・ドッグス』クエンティン・タランティーノ:監督
●『カッコーの巣の上で』ミロス・フォアマン:監督
●『俺たちに明日はない/ボニーとクライド』アーサー・ペン:監督
●『アリスのレストラン』アーサー・ペン:監督
●『ナイトム−ブス』アーサー・ペン:監督
●『ミニミニ大作戦』ピーター・コリンソン:監督
●『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』ウェス・アンダ−ソン:監督
●『ライフ・アクアティック』ウェス・アンダ−ソン:監督
●『イカとクジラ』ノア・バームバック:監督
●『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー:監督
●『マンダレイ』ラース・フォン・トリアー:監督
●『ユナイテッド93』ポール・グリーングラス:監督
●『ドミノ』トニー・スコット:監督
●『マイ・ボディガード』トニー・スコット:監督
●『デジャヴ』トニー・スコット:監督
●『ジョニー・イングリッシュ』ピーター・ハウイット:監督
●『日曜日には鼠を殺せ』フレッド・ジンネマン:監督
●『ピンチクリフ・グランプリ』イヴォ・カプリノ:監督
●『ほら男爵の冒険』カレル・ゼマン:監督
●『グリーン・デスティニー』アン・リー:監督
●『特別手術室』田壮壮:監督
●『モンティ・パイソン 人生狂騒曲』テリー・ジョーンズ:監督
●『モンティ・パイソン&ビヨンド・ザ・フリンジ』
●『モンティ・パイソン ザ・シークレット・ポリスマンズ・アザーボール』
●『モンティ・パイソン ザ・シークレット・ポリスマン・サードボール』
●『モンティ・パイソン ザ・シークレット・ポリスマン・ビッゲストボール』
●『モンティ・パイソン アニバーサリー・ビッグ30』
●『モンティ・パイソン リメンバー・ザ・シークレット・ポリスマンズ・ボール』
●『OH! MIKEY 1st』〜『OH! MIKEY 8th』石橋義正:監督
●『茶の味』石井克人:監督
●『めがね』荻上直子:監督
●『害虫』塩田明彦:監督
●『八甲田山』森谷司郎:監督
●『幻の湖』橋本忍:監督
●『飢餓海峡』内田吐夢:監督
●『クワイエットルームにようこそ 』松尾スズキ:監督
●『モル』タナダユキ:監督
●『稀人(まれびと)』清水崇:監督
●『仁義なき戦い』深作欣二:監督
●『仁義なき戦い 広島死闘篇』深作欣二:監督

 ウェス・アンダーソンの作品はどちらも気に入りました。11月は突然にジョン・カーペンター作品をまとめて観たくなり、『仁義なき戦い』もおさらいしたいと思っています。


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■ 2008-10-25(Sat)

crosstalk2008-10-25

[] 『日曜日には鼠を殺せ(Behold a Pale Horse)』(1964年) フレッド・ジンネマン:監督  『日曜日には鼠を殺せ(Behold a Pale Horse)』(1964年) フレッド・ジンネマン:監督を含むブックマーク

 実はフレッド・ジンネマン監督の作品を観た記憶はありません。おそらくは『真昼の決闘』ぐらいは観ているのでしょうが、あまりに幼い頃のことだと思うので記憶に残っていません。ただこの人はハリウッド的な映画製作には批判的だったというような伝聞は聞いていました。

 この『日曜日には鼠を殺せ』の原題は「Behold a Pale Horse」、つまり、「蒼ざめた馬を見よ」です。わたしなどの世代にはどうしてもサヴィンコフ(筆名ロープシン)の『蒼ざめた馬』が思い出されてしまいます。この映画の主人公はスペイン内乱の生き残り亡命者、その内戦後20年後の姿を描いた作品ですから、「蒼ざめた馬」というタイトルからも、テロリストの行動を主題とした政治的テーマを内包した作品ではないかと思ってしまいます。そういう意味ではこの原題にはちょっと肩透かしを喰らわされます。日本タイトル『日曜日には鼠を殺せ』というのは、17世紀のイギリスの詩人Richard Braithwaiteの詩句から採られたらしいのですが、これは「安息日である日曜日に鼠を殺したりする猫のことを清教徒は涜神行為として月曜日には吊るしてしまう、そういうのを見た」という詩句らしいのです。よく調べたらどうやら原作の小説のタイトルが「Killing a Mouse on Sunday」ということらしく、訪題はこちらから採られたようです。配給会社としては正解でしょう。

 この映画の主人公はスペイン内戦終結後も亡命したフランス国境近くの村からスペインにたびたびゲリラ攻撃を仕掛けて来たというマニエルという男で、グレゴリー・ぺックが演じています。年齢による衰えを感じているらしいマヌエルは内戦後20年経った現在ゲリラ活動をやめているのですが、スペイン側にいるマヌエルの母の危篤に付け込んでスペインの警察署長が罠をかけてマヌエルを誘き寄せようとするわけです。この警察署長はアンソニー・クイン。もうひとり重要な役、母に会いに行こうとするマヌエルに警察署長の罠を伝えようとするカトリックの若い神父がオマー・シャリフです。これと、そのスペインの警察に父を殺害された遺児の男の子。彼はマニエルを英雄視し、マニエルに警察署長を殺してほしいと思っています。

 実際のスペイン内戦の実写フィルムから始まる作品ですが、フレッド・ジンネマンの演出はスムーズに流れ、40年以上の時を経てもわたしには古くさく感じることがありません。ハリウッドの映画製作に批判的だったというのに、ここでのジンネマンの演出手法は現在のハリウッド映画の手法にこの時代の他の映画よりも逆に近いように思ってしまいます。マニエルが罠と知りながらもスペイン行きを決意する時、アパートの窓からサッカーボールを放り出します。このあとのピレネー山脈をマニエルがひとり山越えする姿と共に、このボールが石畳の坂道をポンポンとはずんで行くシーンが見事です。

 神父から罠だと知らされ、深夜に神父とマニエルが対話するのですが、神父は神に仕えながら国の法に従うのかという問題を抱えるわけです。かつての内戦ではカトリック教会もまた人民戦線の敵だったわけで、マニエルはそのことで神父を批難するのですが、実は神父自身が内戦で家族を失った被害者であったことが語られます。マニエルを英雄視する少年と同じなわけです。神父は罠なのだからスペインに行ってはならないと言うのですが、マニエルはスペインへ向います。このあたりは日本のヤクザ映画のラストの高倉健みたいです。

 結局、実際のところなぜマニエルは罠とわかっていてその罠の中に向うのか、その映画としての押しがいまひとつ不足していたように思います(スペイン人民戦線メンバーとしてのマニエルのアイデンティティーがよくわからない)し、ラストのマニエルとスペイン警察の攻防の演出があまり盛り上がらないというのもあります。それからね、グレゴリー・ぺックとアンソニー・クインの演技にあまり精彩がないのですね。この映画のグレゴリー・ぺックはちょっとロバート・デ・ニーロを彷佛とさせるルックスですが、どうも渋い面してるだけみたいに見えます。もともとあまり演技派ではありませんし。

 音楽はモーリス・ジャールです。60年代のモーリス・ジャールの映画音楽は美しいメロディとダイナミックな編曲で映画音楽のひとつの理想的な姿を示していますが、この作品の音楽もそのひとつでしょう。この作品のすぐ後のデヴィッド・リーンの手になる傑作『アラビアのロレンス』もまたモーリス.ジャールの音楽ですし、『アラビアのロレンス』にはアンソニー・クインもオマー・シャリフも出演しているというのが面白いところです。

 

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■ 2008-10-23(Thu)

[] 『特別手術室(Unforgettable Life A.K.A. Special Operationg Room)』(1988年) 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン):監督  『特別手術室(Unforgettable Life A.K.A. Special Operationg Room)』(1988年) 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン):監督を含むブックマーク

 田壮壮監督の作品が好きなので、日本未公開作品のDVDをアジア系ソフトのネット通販で買ってみました。1988年の作品で、傑作『盗馬賊』の2年後の作品です。当然日本語字幕は付いていないので、英語字幕での観賞です。わたしにはよくわからないところもありました。田壮壮監督としては珍しく製作当時つまり現代の中国、それも大都会北京を舞台にした作品です。ちょっと購入した通販サイトでのこの作品を紹介する文章(中国語)が、わけわからないなりに妙に面白かったのでコピペしておきます。JIS日本語表示では文字化けしている箇所(□)がありますが。

(田壯壯作品 塵封17年後終獲解禁)

 田壯壯電影作品,榮獲華語電影百年百名導演、最佳導演、最佳影片獎。

 首度披露未婚先孕、父女亂倫、性騷擾、性冷淡等中國社會問題!影片尖□真實,思想前衛大膽,不可不看的大師之作!

 電視臺節目主持人盧雲未婚先孕,婦□科醫生園園為□做了人流手術。這一親身經□,使盧雲深感未婚先孕是個嚴重的社會問題,於是□決定潛入醫院□一個專題報道……

 影片以真實的鏡頭,剖析了在八十年代改革開放的衝□下,中國女青年的性觀念和性□態,大膽地□示了□公室性騷擾、父女強姦亂倫、婚外情、三角戀、性冷淡等現象,特別強調了未婚先孕對女性所造成的傷害。影片直露真實,思想前衛大膽。

 ‥‥なんか漢字にするとものものしい感じです。主人公の女性はTV局のニュースレポーターで、自分自身が未婚で妊娠し、堕胎をした経験から現代中国での同じような未婚の女性の妊娠問題をレポートしようとするわけです。で、病院の婦人科女性医師の助手のような形で医師の仕事を手伝い、患者との問診をテープ録音したりします。とにかくその病院にはいろんな事情を抱えた女性たちがやって来ますし、レポーターの女性も職場の上司と不倫関係にあるのを精算しようとしていて、他に恋人がいたりします。女性医師は結婚していますがその結婚生活には不満もあるようです。そういう中国での女性たちの抱える問題、少児化政策も含めていろんな問題が出て来ます。

 男性も出て来るのですが皆脇役で、しかもロクな男が出て来ません。レポーターの現在の愛人はレポーターが不在の時に彼女の部屋に合鍵で入り、別のガールフレンドとデートしたりしていますし、恋人に暴力をふるう男とかそんなんばっかです。その中で主人公二人の担当した中絶手術に失敗した若い未婚の妊婦がもぐりの堕胎医にかかってまた中絶、そのまま車で帰る途中で失血で意識もうろうとなり、交通事故で死んでしまうという悲劇で映画は終ります。

 いろいろな問題要素をあれこれ盛り込んだ田壮壮監督の演出力はさすがと言いたいのですが、問題もあるように思えました。まず照明の問題があります。『盗馬賊』は一種のドキュメンタリー・タッチでの撮影ですから、照明の不備も問題にならないで観ることができるのですが、こういう現代の都市を舞台としたドラマでは貧相な照明はそのまま映像の貧困に見えてしまうわけです。特に病院の廊下、主人公のアパートの階段とかのシーンはちょっと酷いかも知れません。

 それからこれは文化の違いなのかも知れませんが、わたしなどには観ていてビックリしてしまうような描写もありました。そのために「そんなストーリーで?」という気持ちも消すことが出来ません。これは本来の脚本の欠点なのかもわかりません。その本作のメインの悲劇になっている若い女性の中絶の話ですが、まずは主人公二人が手術に失敗するわけです。これが、手術後に患者も帰った後にトレイか何かの中のモズクのようなものをピンセットでかき回して「さて、胎児は‥‥」などとやるわけです。それで胎児がなくって失敗に気がつくんですけれど、まずはちょっと気持ち悪いシーン(こういう血がモロに見えるシーンは他にもありました)ですし、そこでその患者を「どうせああいう患者は嘘の連絡先しか書かないから」とあわてて探すでもなく、その夜にこの二人、つまり女医とレポーターはディスコに踊りに行っちゃう。むむ、職業倫理に欠けてるのとちやうやろか? ここはディスコ行くのをもうちと早い時期にするか、その患者の来るのをもうちと後にすべきでしょう。

 結局もぐりの堕胎医というのを持ち出すための展開なのでしょうが、このあとは悪いのはすべてそういう堕胎医の責任になってしまって、おいおい、そもそもキミたちがいいかげんな手術で失敗するからいかんのだろうが!と思わずにはいられません。なんだか本来のTVでのレポートという件も少々尻切れとんぼ気味です。

 照明の問題がないせいか、夜の街の描写とかウェットでいい感じですし、全体のトーンは昔の日活青春群像モノ映画のようなテイストがあります。おそらくは中国ではそれまで取り上げられることのなかった問題を主題にしたということで問題にはなったことでしょう。当局の許可を得ずに、ゲリラ的に文化大革命を批判する作品『青い凧』を作った田壮壮監督ならではの作品と言えるかも知れませんが、この『特別手術室』は、『盗馬賊』、『青い凧』、それ以降の作品などと並べてしまうと、ちょっと観るのがつらい作品なのではないでしょうか。まぁおそらくほとんど観た人のいない作品について、勝手に書いてもしょうがないのですが。

 

 

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■ 2008-10-18(Sat)

[] 『アキレスと亀』 北野 武:脚本・監督・編集・絵  『アキレスと亀』 北野 武:脚本・監督・編集・絵を含むブックマーク

 観てからずいぶん時間が経ってしまいましたけれども、ちょっと書いてみます。

 近年の北野武監督の作品からはどうもナルシシズムの香りと、そのアンビヴァレントな関係にある「死」の匂いが漂ってくるようで、ちょっとそういうところが苦手ではあるんですけれども、この『アキレスと亀』という、美術家志望の人物を描いた作品においても、そういう側面は感じてしまうのです。というかそれこそが主題そのものなのでしょうか。

 少年時代にちょっと誉められてしまって「絵描き」の道を歩もうかと思ってしまうのはよくある話でしょうけれども、そのことをもって直「ナルシシズム」と短絡させようとは思いません。しかし、この『アキレスと亀』を芸術家を描いた作品ととらえるならば、ここには登場人物の作品を認知する「観客」が決定的に存在していません。特に青年時代以降主人公の作品を眼にしているのは、主人公の家族とギャラリーのオーナーしかいないようです。しかもこのギャラリストはどうやら主人公の分身的存在であるようで、主人公である画家の自意識の裏返し、ナルシシズムを批評的に補強する存在なのではないかと思われます。その他は主人公を全肯定する妻と、主人公を全否定する娘、これだけの材料で組み立てられたストーリーでしょう。そこから生まれる作品には「芸術と社会」などという視点は当然ありませんし、主人公の徹底的に非社会的な生活を描くだけのように見えます。それが例えば「具体美術協会」など、20世紀後半の前衛美術運動のパロディの形をとって描かれていると。

 主人公がいつまでも美術家として認められないのは主人公御用達のギャラリーに作品を持ち込む以外の行為を行わないことが第一の理由であって、彼に才能があるかないかなど判断しているのは自分と自分の分身であるギャラリストとの脳内対話によってのみでしょう。「それでは作品を人前に並べてみよう」という展開が全くない以上、この作品から何がしのリアリティ、批評意識を汲み取ることは出来ないように思えます。

 わたしも昔はふきだまりにいましたから、ここに出てくる主人公のような存在は何人も知っていますよ。単純に彼らはリスクを冒そうとせず、公募のコンペや公募展に作品を出すぐらいで、公募のコンペをきっかけに作家として認められるケースはあるかも知れませんが、たいていのところは、自分の作品でも入選するレベルの公募展に出品し続けるくらいのものでしょう。別に彼らには個々の観客の存在とか批評の存在など問題ではなく、ただ絵を描き続けることが「絵描き」であることの証明になるような。そういう存在にわたしは全く興味はありません。そういう意味でこの『アキレスと亀』という作品に興味はありません。観客の視線を得られない(絵画)作品、観客を必要としない芸術家の悲喜劇なのでしょうか。

 というか、正直、この作品が北野武という映画監督によって創られたということ、北野武の肥大した自意識というものを前提に考えなければバカバカしくって観ていられない映画という印象があって、それは近年の北野武監督の作品に共通するものでしょうか。それで、この『アキレスと亀』では「北野武の自意識」=「主人公」と了解しきれない部分もありますし、なんだか自分の自意識と距離をとりながらも遊んじゃってるのではないでしょうかね。

 しかし、それで北野武監督は自分の絵画作品のことはいったいどう思ってるんでしょう。「お!」と思うような作品が2〜3点あったようですけれど、あとはどうにもこうにも困ってしまう作品ばかりだったようですけれど、当人はあれで自信があるのでしょうか。映画の中でぶち壊したり焼いてしまうような作品はあきらかに「手抜き」の作品でしたし、あれで「この映画で絵が認められたら」などとひそかに思っているのでしょうか。そうするとそういう事象自体が、映画をはみだして面白いことだと思います。これもまた北野武監督の自意識でしょうか。それにしてもなぜ「平面」にこだわってしまうのでしょうかね。北野氏だって現代美術の動向に無知ではないでしょうに。

 映像の事を書けば、最初の少年期の映像で、父の自殺後に母と少年が田舎道を二人で歩くシーンがあるのですが、その道が画面中央に水平に左右に走っていて、主人公たちが左から右に歩いて行き、一瞬画面の外にフレームアウトするのですが、すぐにその右側から左に斜めに降りて来る道に姿を見せる所とか、さすがに北野武監督というか、ワンカットで空間と時間の拡がりを感じさせるシーンでした。全般にこの少年時代の映像には秀逸な演出が散見されたのですが、それ以降の演出にはあまり感心出来ませんでした。冒頭からの芸者の姿とか、北斎、歌磨呂の作品のパロディのような作品を見せる所とか、相当に海外の観客の眼を意識しているようにも見えますが。

 

 

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■ 2008-10-01(Wed)

[] 『決壊』(上・下)平野啓一郎:著  『決壊』(上・下)平野啓一郎:著を含むブックマーク

決壊 上巻 決壊 下巻

 わたしとしてはこの作品は、前に読んだ吉田修一の『悪人』、さらに角田光代の『八日目の蝉』も含めて、一種の「クライム・ノヴェル」として読んでいて、それは「阿部和重の『シンセミア』以降の小説」と言ってしまえます。それらの中でこの『決壊』という小説の持つリアリティは圧倒的で、その救いのない結末も含めて打ちのめされてしまうのですが、ではこれが小説として優れた作品であるかと言うと「はてな?」と思ってしまうところがあるのは確かです。

 平野啓一郎氏の作品は話題になったデビュー作『日蝕』以来、読んではいません。ああいう擬古文調というのがそもそも興味はありませんでしたし、自分自身があまり小説を読まない時期に重なっていて、その後の平野啓一郎という作家の展開はまったく知りません。ただ当人が最近すてきなモデルさんと結婚されたというニュースは聞いていて、文学者のクセしてなぁ、などと思って気にはなっていました。それでまぁ、評判になっているらしいこの長篇800ページ、1500枚というのを読んでしまったのですが。

 おそらくは現代人の抱え持つ孤独感、閉塞感、それらのネガティヴな要素がどこまでも読者への嫌がらせのようにネガティヴに展開するというか、そういう小説かとは思ったりするのですが、例えばネット世界の孤独と、相手の見えない連帯意識、家族の問題、マスコミの問題、教育、そして知識人の問題と、社会科学書なみにあれこれの社会問題がテーマになっていますし、その記述も時に社会批評めいた対話などがあらわれて来ます。

 ここでまず気になるのが、この小説の時制が2002年となっていることで、この小説が書かれ始めたのはどうやら2006年になってからで、例えば小説の中で触れられるアメリカのイラク侵攻に対する登場人物の分析はつまりは「あと出しジャンケン」というか、その登場人物がいかに現状分析に長けていたかという例証としても書かれているようなのですからいいんですけれども、それはつまりは作品としては「資料の引用」であって、どうもその引用の仕方にひっかかってしまうのですね。

 あくまでも作者はこの作品を現実とリンクしたものとして問題提起のように読者に突き付けるわけですが、そのリアリティに脱帽するのは確かです。例えば週刊誌に書かれた記事という形の創作など、いかにも現実の週刊誌の文体を想起させるでしょうし、警察の対応にも現実味を感じます(わたしはこんな体験はないので何とも言えませんが)。そういう意味で、この小説は一種の「疑似ドキュメンタリー」と言ってしまってもいいのではないでしょうか。それは、この小説がリアリティ(現実らしさ)の影に隠して、「なぜその人物はそのような行動を取ったのか」という肝心の一点をあいまいにしているように思えるからです。

 「なぜその人物はそのような行動を取ったのか」、それを考えるのが読者の勤めではありませんか?という言い方もあるでしょうが、この小説からその根本理由を探るにはあまりに関連項目、規制項目の描写が多すぎる気がします。言い方を変えれば、小説としてのすき間がなさ過ぎるためにかえって奥行きがなくなってしまっている印象があります。つまり、導き出せる答えのキャパシティが狭いのです。

 やはりわたしはここでも『シンセミア』を超えることは出来ていないと思ってしまうのですが、この『決壊』には、『シンセミア』にあった、土地を主人公とした「ダーク・ファンタジー」とでも呼びたくなるような独自の視点、人の運命を超えるような強大な力を背景にした小説の力強さが感じられないように思えるのです。

 一種の社会問題への言及という側面では確固とした文章ではあると思いますし、そのような問題について考えないわけではありませんが、それらを取り除いた時にどれだけの小説の力があるでしょうか。逆にこの作者には「知」のヒエラルキーにこそ依存している側面はないでしょうか。そのような感想を持ちました。


 

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