ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2008-11-30(Sun)

[]二○○八年十一月のおさらい 二○○八年十一月のおさらいを含むブックマーク

 11月も終ってしまったので、またおさらいです。改めて書いておきますけれども、この「おさらい」は、「どうだ、これだけ見たんだぞ、すごいだろ?」などという意識で書いているのではありません。ほんとうは自分だけのための覚え書きなので、誰にでも見ることができるようにしてあるのは選択ミスかも知れません。でも、自分の知人とか友人とかに会った時に、こういうのから話が拡がるのも面白いかも知れません。

 11月の舞台。

11月 1日(土):珍しいキノコ舞踊団『PICNICKINOKO』(多摩川アートラインプロジェクト)@田園調布せせらぎ公園
11月 2日(日):花上直人『じゃらじゃらまねせ』@新小岩ざざ
11月 3日(月):踊りに行くぜ! 前橋公演 @前橋プラザ元気
11月23日(日):岡田利規演出・『友達』 @三軒茶屋・シアタートラム

 映画。

『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』クエイ・ブラザース:監督
『ハッピーフライト』矢口史靖:監督
『トウキョウソナタ』黒沢清:監督
『レッドクリフ part 1』ジョン・ウー:監督
『狩り場の掟』田壮壮:監督

 美術展。

『日本の新進作家展 On Your Body』@恵比寿・写真美術館

 読書。

オーパーツ大全』クラウス・ドナ/ラインハルト ハベック:著 プシナ岩島 史枝:訳
『ディファレンス・エンジン』(上・下)ウィリアム・ギブスン/ブルース・スターリング:著 黒丸尚:訳

 DVD。

『ダーク・スター』ジョン・カーペンター:監督
『ゴースト・オブ・マーズ』ジョン・カーペンター:監督
『遊星からの物体X』ジョン・カーペンター:監督
『ニューヨーク1997』ジョン・カーペンター:監督
パラダイム』ジョン・カーペンター:監督
『ゼイリブ』ジョン・カーペンター:監督
『エスケープ・フロム・L.A. 』ジョン・カーペンター:監督
『ハロウィン』ジョン・カーペンター:監督
『光る眼』ジョン・カーペンター:監督
『ミニミニ大作戦』F・ゲイリー・グレイ:監督
『エネミー・オブ.アメリカ』トニー・スコット:監督
『タクシードライバー』マーティン・スコセッシ:監督
『シン・レッド・ライン』テレンス・マリック:監督
『ニュー・ワールド』テレンス・マリック:監督
『地獄の逃避行』テレンス・マリック:監督
『めぐりあう時間たち』スティーヴン・ダルドリー:監督
『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』ジェームズ・マンゴールド:監督
『グラストンベリー』ジュリアン・テンプル:監督
『アンソニーのハッピー・モーテル』ウェス・アンダーソン:監督
『天才マックスの世界』ウェス・アンダーソン:監督
『アイ・アム・レジェンド』フランシス・ローレンス:監督
『パーフェクト・ストレンジャー』ジェームズ・フォーリー:監督
『さらば、ベルリン』スティーヴン・ソダーバーグ:監督
『地球で最後の男』ダグラス・シュルツ:監督
『セブン』デヴィッド・フィンチャー:監督
『地上より永遠に』フレッド・ジンネマン:監督
『駅馬車』ジョン・フォード:監督
『荒野の決闘』ジョン・フォード:監督
『疑惑の影』アルフレッド・ヒッチコック:監督
『深夜の告白』ビリー・ワイルダー:監督
『サンセット大通り』ビリー・ワイルダー:監督
『リミュエールと仲間たち』????:監督
『グラディーヴァ マラケシュの裸婦』アラン・ロブ=グリエ:監督
『トランスポーター』ルイ・レテリエ/コーリー・ユン:監督
『オールド・ボーイ』パク・チャヌク:監督
『珈琲時光』ホウ・シャオシェン:監督
『百年恋歌』ホウ・シャオシェン:監督
『見知らぬ女からの手紙』シュー・ジンレイ:監督
『醜聞(スキャンダル)』黒澤明:監督
『どですかでん』黒澤明:監督
『予言』鶴田法男:監督
『半落ち』佐々部清:監督
『運命じゃない人』内田しんじ:監督
『亀は意外と速く泳ぐ』三木聡:監督
『仁義なき戦い 代理戦争』深作欣二:監督
『仁義なき戦い 頂上作戦』深作欣二:監督
『仁義なき戦い 完結編』深作欣二:監督
『新仁義なき戦い』深作欣二:監督
『新仁義なき戦い 組長の首』深作欣二:監督
『県警対組織暴力』深作欣二:監督

 ‥‥てな感じです。てんで面白くない作品もありました。こんな感じの11月でした。

 

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■ 2008-11-26(Wed)

crosstalk2008-11-26

[] 『トウキョウソナタ』 黒沢清:監督  『トウキョウソナタ』 黒沢清:監督を含むブックマーク

 たとえ家でDVDを通じてでも、あれこれと連続して映画作品を見続けていると、そのストーリーとかよりも、映像としての技術的な面に眼が行ってしまうようになります。まぁ、「すごい技術だなぁ」というのより「何も考えてないなぁ」という方が眼に付きやすいのですが、不思議な撮り方をしているとそれだけで気になってしまいます。そういう意味で最近いちばん気になってしまったのが、この黒沢清監督の新作『トウキョウソナタ』です。以前からその映画を創りあげるという技術的な蓄積で観る側をうならせてくれ続けている黒沢清監督ですが、今回はまた飛び抜けたことをやって下さったのではないか、そういう印象です。

 まずその『トウキョウソナタ』の冒頭ですが、ここからして印象的なシーンで始まるわけです。誰もいないリヴィングの中を風が通り抜け、新聞がふわりと舞い上がります。その新聞紙が風になびかされながら床に着地して、カメラが右へ移動して行くと、庭に面した窓が開け放たれているのが写されます。外からは風に吹かれた雨が室内に吹き込んでいて、その逆光の中にその家の主婦である小泉今日子が右からあらわれ、窓を閉めて、濡れた床を拭き始めます。しかし彼女はその床を拭く手を休め、また窓を開けて外の様子を伺うわけです。この作品の内容に即してこじつけて言えば、その「家」を守る主婦が、外から吹き荒れてくる嵐をみつめている姿です。そういうことを考えなくても、とても印象的な、美しいオープニングではないかとわたしは思います。

 その嵐は、家の主人である香川照之の職場をも襲い、ここでもブラインドをおろしたオフィスの窓の外で垂れ幕のようなものをゆらします。その嵐は中国からやって来たのでしょうか。つまり主人は職場からリストラされてしまうわけです。

 いちいちストーリーを追うようなことは書きませんが、この「家」のなかでの照明、ライティングが面白いのです。リヴィングの壁に登場人物の影がモロ映り込み、リアルな設定ではない照明がこの映画作品のために用意されていることを意識させられます。そして、その家のすぐそばを走ってるらしい電車が通過するたびに、室内にストロボのようにその電車からの反射光もしくは電車内の明かりが光ります。これらはまったくリアリズムというのから離れ、意識的な操作だと、観る方に感じさせられるわけです。

 こういう意識的な照明の操作は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『珈琲時光』という作品の室内シーンにも見られたものです。ちょっと共通項を感じてしまうのですが、今のわたしはこの二つの作品を並列して何か語るような才覚は持ち合わせていません。ただそう思っただけです。

 この「家」、室内の撮影、カメラアイもまたあれこれと考えてみたいほどに意識的な試みがなされているようなのですが、とにかく今は、この作品のすばらしいラストシーンについてだけ書いておきましょう。つまり、この一家の次男のピアノ演奏実技による音楽校への入学試験の場面です。広い体育館のような試験会場の空間の中にグランドピアノが置かれ、その演奏シーンはすこし俯瞰するような位置から撮影されています。審査する試験官たちの席が右手にあるようで、父兄などは左手のパイプ椅子に座っているようです。ここでのスポットライトと言うのでしょうか、上からのライトが照らしているのは、グランドピアノの少し手前の床に当てられています。決して、グランドピアノもしくはそこで演奏する次男に当てられてはいません。これもまた尋常の試みではないと思えるのですが、この、画面の手前の床がライトで照らされることで、この試験会場の空気がまるで特別な空間に見えてしまいます。いや少なくともわたしにはそう見えました。そこにあるのは「空間そのもの」というのでしょうか、他の空間との選別された差異をこそ確認してしまうのですが、それもこれもそれまでの主人公たちの「家」の中の特別な照明設計があったからこそなのではないか、そう思えてくるのです。

 しかもこの試験会場、その壁の上の方には窓があって薄いピンク(ベージュ)のカーテンが掛けられているのですが、このカーテンはその次男が「月の光」を演奏しているあいだ中、いや、演奏しているあいだだけ、そよかぜに揺られるように、密かに緩やかに揺れ続けているのです。ここでもまた「空間そのもの」を意識させられると共に、この作品のオープニングの嵐のような「風」との対比をこそもういちど思い起こさせられてしまいます。だんだんとそのピアノのまわりに集まって増えてくる人たち、この音楽。なんという奇蹟をこそ思わせるラストであることでしょう。つまりこの作品は「奇蹟」についての作品であるのかも知れません。

 ストーリーとかのことをまったく書きませんでした。ある意味ではこれは映画の感想でも何でもないかも知れません。語られるストーリーと無関係にでこんな映画技術的なことを書いても意味がないかも知れません。もちろんわたしの中で、この作品で描かれる物語との関係で見た上でこのような技術的なことに気が付いたのかも知れません。しかし、今わたしにはこのくらいのことしか書く能力はないのでしょう。


 

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■ 2008-11-19(Wed)

crosstalk2008-11-19

[] 『百万円と苦虫女』 タナダユキ:監督  『百万円と苦虫女』 タナダユキ:監督を含むブックマーク

 なんだか最近書こうとするとちゃんとまとめなくっちゃ、などという出来もしないことを考えてしまってなかなか更新が出来ません。そういいながらかなり中途半端なことを書いてしまったり、どうせ大したことは書けないのですからもうすこし断片的でも、とにかくその時に感じたことをカッコつけないであれこれ書いてみた方がいいように思います。そういうわけでもう少し更新をひんぱんにしてみたいという野望宣言です。ちょっと前に見た作品から書き始めます。『百万円と苦虫女』。

 タナダユキさんの作品はどれも好きです。この人の作品の中にはアウトサイダー、はぐれものが活写されています。最初に観た彼女の作品は、フォークシンガー高田渡のドキュメンタリー『タカダワタル的』でしたけど、まぁ高田渡という人自体が思いきりのはみ出し人間ですからね。そのはみ出し方の捉え方の巧みさが作品のヒットにつながったのでしょう。その後、『さくらん』の脚本担当を経て『赤い文化住宅の初子』になりますけれど、この作品がまた絵に描いたような貧困、薄幸の少女を描いていて、「カネ、カネ、カネ」とつぶやきながら夜道を歩く姿とか、インパクトのある作品でした。どうやら観た時にわたしの頭はぼんやりしていたようで、この作品のことがあまり記憶に残っていないので、また見直してみたいと思っています。

 話変わって、わたしの嫌いな監督のことです。萩上直子さんという監督の作品がイヤですね。この人の作品には何というか経済原理が無視されているというか、カネで全て解決するような問題を、カネについて語らないで(無視して)ステキな物語にしてしまっているようなのばかりという印象です。評判になったらしい『かもめ食堂』という作品は、ただフィンランドで日本食レストランを成功させるヒロインとその取り巻きの話のようで、まぁヒロインは自然体で特にこれといった悩みも苦労もなく成功して、それを皆が賞賛するラストのプールのシーンを見て、これをカウリスマキの『浮き雲』と比較してもしなくってもがく然としてしまうわけです。次の『めがね』なんか一種のカルト教団勧誘映画みたいなもので、観客を騙すことに腐心しているとしか思えない作りです。

 なぜ萩上直子監督の話を突然持ち出すかというと、タナダユキ監督の作品、特にこの『百万円と苦虫女』などはまさに萩上直子監督的なインチキ癒し、自分探しへのアンチテーゼ的な作品になっていると思えるからです。カネを稼ぐという基本的な生活の重要案件、その視点を見据えながら社会のコースから外れてしまった主人公の物語を語るというのが、タナダユキ監督の基本にあるのではないかと思うのです。

 『百万円と苦虫女』では、ヒロインはなんと若くして前科持ちになってしまい、いろいろあって家を出て自活しようと。それであちこちの土地で働いて百万円たまると次の土地に移って行く。こういう定住を拒むような生活は当然、今の社会の推賞する生活から逸脱しているわけですけれども、そこで萩上直子監督的な世界には絶対に行かない、むしろ正反対のベクトルを選ぶわけです。痛烈なのは彼女が桃の収穫を手伝うエピソードで、あやうく「桃娘」とされて村起こしのキャンペーンガールに選ばれそうになるヒロインがつまりは前科者ゆえに固辞するのですが、そこで村びとが「都会の娘は自分探しだとかなんだとか言って田舎に来たりしても、結局は都会に帰ってしまうだけだ」と罵倒するわけです。もちろんヒロインはそのような存在ではなく「自分探し」への違和感も語りながら地方から地方へ移動続けるわけです。だからある意味では村びとの言葉はヒロインの行動をバックアップしてこの作品の姿勢を明確にしているとも言えるでしょう。

 個人的な事を書けば、わたしもちょっとばかり都市中心の生活に飽いて、別の視点を求めて郊外に引っ越して来た経緯もありますので(情けなくも、まだまだ都市部へ行こうと思えばかんたんに行ける距離ですが)、この作品のそのような主張にはシンパシーを感じます。この国のマジョリティから距離を置いた作品をまた彼女には創って欲しいですね。

 あと、つまらない話ですが、映画の中でヒロインがバイトで知り合った男に告られる場面で、その人物が座り込んだ道路の後ろの商店のウインドウに、なんだか奇怪なイメージのポスターが貼ってあって、見ている間じゅう、あのポスターはいったい何のポスターなのか気になってしかたがありませんでした。困ったものです。


 

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■ 2008-11-10(Mon)

crosstalk2008-11-10

[] 『青い凧(藍風箏)』(1993年) 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン、Tian Zhuang-Zhuang) :監督  『青い凧(藍風箏)』(1993年) 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン、Tian Zhuang-Zhuang) :監督を含むブックマーク

 レンタル落ち中古ヴィデオで観ました。実に久しぶりに観るのですが、現在日本では(もちろん中国でも)DVD化はされていないようです。先に同じ田壮壮監督の『特別手術室』という作品を観ているのですが、その時からくらべると、田壮壮監督の映像作家としての成長に眼を見張るものがあります。

 この作品は、一部では「文化大革命」批判映画として中国でオミットされていると思われているようですが(わたしもちょっとそう思っていました)、実際のところは中華人民共和国建国時から継続していた「整風運動」、そして1950年代の「反右派闘争」で犠牲になる人々を描いているためというのが真相のようです。映画の終盤には「文化大革命」の時代も描かれていますが、この作品の製作された時代、1990年代になると中国共産党も正式に当時の非を認めているわけで、同時期に製作された陳凱歌(チェン・カイコー)の『さらば、わが愛/覇王別姫』などでも堂々と文化大革命の非が描かれているわけです。

 ちょっと脱線しますと、この『さらば、わが愛/覇王別姫』では、文化大革命の非はすべて「四人組」にあるようなセリフがあったと思うのですが、当時まだ故毛沢東への批判の許されない時期にあって、この作品での文化大革命へのおとしまえの付け方は、わたしにはどうも当時の解放政策に附随する「国策」の匂いがするわけです。極端にいえばこの『さらば、わが愛/覇王別姫』は、中国共産党の意向(文化大革命の咎を「四人組」に負わせる)にそった「プロパガンダ映画」ではないかと、わたしは思っているわけです。まぁ一度映画館で見ただけですけれども。

 そういう面で、この『青い凧』では、終止生活者の視点から作品が組み立てられます。映画の中で何度も夜の明かりの灯った民家の窓だけが映されます。暗い夜の中に、黄色く外に光を投げかける窓の明かり、きっとその中には父がいて母がいてその子供たちがいて、苛酷な生活を生きているのであろうことが想像出来ます。クレーンを使った集落を行き来する人々の描写、晩秋から冬にかけての枯木の重なる風景、夜になって主人公の子供の点火する花火の美しさ。田壮壮監督の成長ぶりがうかがえます。

 主人公の母の三度の結婚(それぞれが悲劇に終る)に合わせた三部構成の物語は決してセンチメンタルな「お涙ちょうだい」物語に堕することなく、歴史の流れに翻弄される母子とその周辺の人々の生活を淡々と描きます。そのある意味淡白さが、逆に背後の歴史の残虐さを明確に告発しているように思えます。これは中華人民共和国が建国当初から継続して抱え持っていた問題でしょうし、中国共産党当局がこの作品を容認し得ないというのも、そのような根源的な問題を含んでいるからゆえでしょうか。

 しかし、「青い凧」というのは何かの象徴なのでしょうか。この1960年代から70年代にかけての暗黒の時代の描写を越えて、田壮壮監督の次の世代になるであろう賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督は2000年の傑作『プラットホーム』において文革以降の世代を描きながら、赤いドレスを着た登場人物に毛沢東主席の肖像画の前でフラメンコを踊らせるわけです。ここでは鮮やかに中国での「赤」という色彩の持つ歴史の変遷、価値観の移動をより自由な視点から描いていたわけです。『青い凧』では、「赤」という色に希望を託すわけにはいかない人々の、もう一つ別の選択、希望の象徴としての「青」だったのでしょうか。もういちど、ちゃんと見直されるべき作品ではないかと思います。

 

 

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