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■ 2009-02-28(Sat)

[]二○○九年二月のおさらい 二○○九年二月のおさらいを含むブックマーク

 2月のおさらいです。舞台はふたつ観劇しました。

2月 8日 カンパニー マリー・シュイナール『オルフェウス&エウリディケ』@北千住:シアター1010
2月28日 リミニ・プロトコル『カール・マルクス:資本論、第一巻』@西巣鴨:にしすがも創造舎

 どちらも西欧最先端のイデオローグの形象化とも言える感じで、楽しみながらあれこれと考えさせられました。ユニークなアプローチなのですが、まだ異なるアプローチを期待させるような内容だったとも言えます。

 映画も二本。

『チェンジリング』クリント・イーストウッド:監督
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』デヴィッド・フィンチャ−:監督

 『チェンジリング』は、観てから日をおうごとにその存在が大きくなり、また観たくなってしまいました。『ベンジャミン・バトン』は、こういうのが出来るなら『百年の孤独』も映画化出来るな、などと。

 読書は以下の通り。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック:著 浅倉久志:訳
『さよなら渓谷』吉田修一:著
『ジプシー・ミュージックの真実』関口義人:著
『「文化大革命」簡史』席宣、金春明:著 岸田五郎他:訳
『ゲド戦記 I 影との戦い』アーシュラ・K・ル=グウィン:著 清水真砂子:訳
『ゲド戦記 II こわれた腕環』アーシュラ・K・ル=グウィン:著 清水真砂子:訳
『血液と石鹸』リン・ディン:著 柴田元幸:訳

 ‥‥まぁ、乱読です。

 DVDも乱視状態ですが、もっと他にも見ているはずです。メモをとっていなかったので、思い出したら追加いたします。

『オズの魔法使い』ヴィクター・フレミング:監督
シャレード』スタンリー・ドーネン:監督
『小さな兵隊』ジャン=リュック・ゴダール:監督
『惑星ソラリス』アンドレイ・タルコフスキー:監督
『ギャンブラー』ロバート・アルトマン:監督
『ザ・プレイヤー』ロバート・アルトマン:監督
『Dr.Tと女たち』ロバート・アルトマン:監督
『スペースボール』メル・ブルックス:監督
『メル・ブルックス/珍説世界史PART I』メル・ブルックス:監督
『未知との遭遇』スティーヴン・スピルバーグ:監督
『マイノリティ・リポート』スティーヴン・スピルバーグ:監督
ソードフィッシュ』ドミニク・セナ:監督
『ザ・インタープリター』シドニー・ポラック:監督
『スキャナー・ダークリー』リチャード・リンクレーター:監督
『世界で一番パパが好き!』ケヴィン・スミス:監督
『スイミング・プール』フランソワ・オゾン:監督
『シティ・オブ・ゴッド』フェルナンド・メイレレス:監督
『元禄忠臣蔵』溝口健二:監督
『浪華悲歌』溝口健二:監督
『祇園の姉妹』溝口健二:監督
『残菊物語』溝口健二:監督
『名刀美女丸』溝口健二:監督
『用心棒』黒澤明:監督
『椿三十郎』黒澤明:監督
『影武者』黒澤明:監督
『乱』黒澤明:監督
『柳生一族の陰謀』深作欣二:監督
『四十七人の刺客』市川崑:監督
『female フィーメイル』廣木隆一 松尾スズキ他:監督
『老人Z』北久保弘之:監督
『BLOOD THE LAST VAMPIRE』北久保弘之:監督
『MEMORIES』大友克洋:総監督

 やっぱ、突然の溝口健二発見であります。しばらくは頭の中に溝口健二作品の映像がリピートされそうです。

 三月は金もないのにまた、例年の三月のごとく観劇があれこれと混み合いそうです。すでに5件予約を入れてしまっていますし。いいのかよ!という感じです。


 

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■ 2009-02-27(Fri)

[] 『血液と石鹸』リン・ディン:著 柴田元幸:訳  『血液と石鹸』リン・ディン:著 柴田元幸:訳を含むブックマーク

血液と石鹸 (ハヤカワepiブック・プラネット)

 早川書房といえばどうしても「SF」というイメージがあるのですが、このところ、SFというジャンルからははみだすような作品の翻訳刊行が活発になっているようです。前に読んで面白かったジョナサン・レセムの『孤独の要塞』や、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』などはまだSF的とも言える要素もありますが、このヴェトナムからアメリカに渡ったリン・ディンという作家の短編(というよりもショート・ショート?)集などはもう「SF」とは呼べないでしょう。ちょっとばかし、翻訳文化の勢力地図が変わって来た感じがします。

 さて、この短編集には約230ページのなかに、10行にも満たないような短文から十数ページの短編まで、37編の作品が収められています。これらの作品を読み終わり、そうですね、特徴的なのは、やはりある種のコミュニケーション不全状態、理念と現実との乖離と言えばいいのでしょうか。主にその問題が言語としてあらわれるあたりに、ヴェトナム解放間際にアメリカに移り住んだという、このリン・ディンという作家のアイデンティティーがあるのではないでしょうか。

 例えば冒頭の短編『囚人と辞書』では、独房に閉じ込められた囚人が、そこにあった一冊の知らない言語の辞書だけを頼りに、その知らない言語を勝手に構築する話ですし、『!』という作品では、ヴェトコン兵であった主人公がその時捕虜にしたアメリカ兵の語るひとりごとをすべて書き付け、そこから言語としての英語のすべてを推測して、後にヴェトナムで英語学校の教師になる話だったりします。ある女性は、食べたことのない料理のレシピの書かれた料理本だけを偏愛することで素晴らしい味覚を満喫しますし、家から一歩も出ないで生涯旅行書を読みふける男もいるわけです。つまりこれらはすべて書かれた言葉と書かれた対象との乖離と言えばいいのでしょうか、それは想像されることは現実とはまったく無関係であり得る(ま、あたりまえのことですが)ということの豊かな文学的な例証であり、『非常階段』という作品では、主人公は階下に住む女性への勝手な妄想を膨らませ、アブノーマルな行動に導かれたりします。

 その他にも幽霊の話、架空のヴェトナムのロックスターの話、存在しない映画についての紹介と採点リスト(この存在しない映画作品の中に表題の『血液と石鹸』という作品があげられているのですが)などの作品がちりばめられているわけですが、その根底には、どこか、孤独の闇の中で、勝手に想定されたコミュニケーションに耽溺する人々の姿があるように思いながら読んでいました。
 この孤独はマジョリティに対するマイノリティの問題かも知れませんし、文字その他メディアに向き合う時に人の根源的に持つ孤独、他者と共有出来得ない過程の戯画化とも読み取れるように思いました。なかなかに面白い本でした、などというとわたしもこの本の中に取り込まれてしまうかも知れません。

 

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■ 2009-02-23(Mon)

crosstalk2009-02-23

[] 『チェンジリング』クリント・イ−ストウッド:監督  『チェンジリング』クリント・イ−ストウッド:監督を含むブックマーク

 『チェンジリング』というタイトルでは、昔、ジョージ・C・スコットの主演する、ものすご恐い映画があったのですが、その旧『チェンジリング』をもういちど観たいと思っているうちに、新しい『チェンジリング』が作られてしまいました。

 クリント・イ−ストウッドの作品は好きです。どういうふうに好きなのか説明するのは難しいのですが、映画館でこの『チェンジリング』を観たのと前後して、DVDでスピルバーグ監督の『マイノリティ・リポート』(2002)とシドニー・ポラック監督の『ザ・インタープリター』(2005)などを観ましたので、それらの作品との差異の中からイーストウッド監督の作品の特性が考えられるのではないかと思いました。

 『マイノリティ・リポート』にせよ『ザ・インタープリター』にせよ、それほど突出した作品というわけでもないので、ここに比較するように持ち出すのもアレなのですが、少なくともスピルバーグの方法、ポラックの方法というのはかなり見えて来ると思いました。

 で、まず、スピルバーグという監督は、一面で、映画というものに、映像的にどれだけ新しい可能性がみえるのか? 映像的語彙を拡張しよう。そういう情報を詰め込もうとしているように思えて、だからこそジャンルとしてSFに行きがちなのではないかと思うのですが、そこからトータルに「映画」として新しい地平を開くことが出来ているのかというと、人物描写とかドラマトゥルギーにおいて、いつもどこか未熟なのではないかという思いにとらわれてしまいます。別の言い方をすれば、映画としての回収地点が定まっていない印象があります。

 シドニー・ポラックという人は、演劇的ですね。演劇と言っても保守的な演劇概念で、演劇的語彙を助けるために/演劇的情報を盛り込むために映像を使用していると思えます。それがいちがいに俳優の名演技を期待しているだけと言うわけでもないようですが、そのような演劇的世界を映画的にまとめあげる技術は持たれているようです。しかしそれが何か新しい映画の可能性を垣間見せてくれるような突出したものはないと思います。同じように俳優の演技に頼りながらも、その素材を映画的に編集仕上げる卓越した手腕を持っていたロバート・アルトマン監督との差異は重要です。
 余談ながら、この『ザ・インタープリター』という作品での、内戦で揺れるアフリカの情況を、架空の国家をでっちあげて「対岸の火事」として描くような脳天気な製作姿勢には大きな疑問があります。「社会派」などと言われながらも、この作品はアメリカの「うぬぼれ鏡」でしかないでしょう。

 ではクリント・イ−ストウッドの作品はどうなのかというと、それこそ「映画」そのものなのだ、などと書くとほめすぎになるでしょうか。でも、言い換えてみれば、イーストウッド監督は映像の力(この「映像」は、スピルバーグとか近年のハリウッド作品にみられるような「映像」として)にも演劇的な俳優の力にも信頼を置いていないのではないかとも思えます。これだとけなしてるみたいですね。でも、映像にも演技にも頼らないで映画作品を作るというのは、ある意味で、原理的な映画の力に頼るという言い方もできるでしょう。そう、彼の作品からわたしが享受する圧倒的なパワーとは、つまりはそういう原初的な映画というものの楽しさを体験させてもらえる、そういうことでしょうか。

 クリント・イ−ストウッドの作品の撮影、編集は、非常にオーソドックスなものです。そのオーセンティックな方法論の素晴らしさ、美しさはあるとしても(いや、もちろん過剰なまでにあるのですが)、旧的な商業主義映画から超え出るようには見えません。それはつまり「作家主義」と呼ばれる作家たちの作品のようなかたちで自己主張しているようには見えないわけです。そのオーセンティックな方法は、あくまでも映画として、基底にある物語を際立たせるために役立たせられているように思えます。いや、わたしにはそこにこそ、彼の作品の素晴らしさがあるのではないかと思うのです。
 それは一方でスピルバーグ監督の作品のように表象的な技術を駆使しながら映像表現の語彙を豊かにしようとするような表現(まぁこういうのが現在のアメリカ映画の主流なのでしょうが)、一方でシドニー・ポラック監督のように役者の演技に過剰に期待しながら物語世界の深化を求めるような表現(こういう作品がアカデミー賞で賞を取るようですけれども)、その双方から距離があると思います。それでは彼の作品表現は古くさいだけではないかと言うことになりますが、映画作品が映像表現なのだということでは、表象的な技術に流されることもなく、俳優の演技への過多な思い入れも廃して、今の時代では数少ない「映画自体」の美しさにあふれているのではないか。それが彼の作品へのわたしの感想です。わたしが彼の作品のそういう特徴に気がついたのは、2002年の『ブラッド・ワーク』からですね。やっとわたしの観賞眼が彼の表現に追い付いたわけでしょうけれども、それ以降の彼の作品の豊穣さは、わたしにとって素晴らしいものでした

 さて、ようやっと、今回の彼の新作『チェンジリング』について。1928年にロスアンジェルスで実際に起きた事件をかなり忠実に映画化したらしいこの物語には、その核が少なくとも三つほどあるようです。母子家庭で子供が行方不明になり、その子を探し求める母親(もちろんこの話がメインです)、ロス市警の腐敗、そして猟奇的連続殺人事件。まずは、これらの主題が交互にクローズアップされ語られていく語り口の面白さがあります。そして1928年からの当時の映像的な再現ということもあります。ある意味ではそんな過去の忠実な映像的再現というのは、一面スピルバーグ的映像的語彙の拡張の結果ともとれるのですが、ここではやはり客観的リアリティの補強という側面をこそ見るべきでしょう。

 イーストウッド監督の作品から受ける感銘のひとつは、先に書いたポラック的な俳優の演技への過多な思い入れのない所です。たとえ主人公が涙を流しても、それは観客に過多に感情移入して同情してもらうためではなく、涙もひとつの映画の中での記号として扱っているように思えます。この演技への距離感もまた、彼の作品を「映画」的表現として了解しうる大きな要素なのではないかと思います。観客を泣かせるために作っていないと。この要素もまた、この『チェンジリング』という作品を映画的に美しい作品にしている大きな要素ではないでしょうか。この作品でのアンジェリーナ・ジョリーは、その演技的な素晴らしさとしてではなく(演技がダメだといっているのではないのは言うまでもありませんが)、その1920年代らしい濃いルージュの口紅とグリーンのドレスとして、スクリーンの中で輝いているのです。つまりそう言ってしまえば、彼女もまた「記号」なのでしょう。俳優は記号なのです。

 で、『ブラッド・ワーク』でもわたしが感心したのは、そういう作品の中で人と人が出会う、それはシンパシーからであったり暴力的であったり、人の出合いは様々なのですが、そういう出合いを実にていねいに追い求めていることです。もちろんこの『チェンジリング』でも、主人公、ロス市警の警官たち、市警の腐敗を告発する神父、猟奇殺人の犯人、その犯人に使われていた少年、殺人者の手から逃れた少年、主人公が収容される精神病院の収容者、医師、看護婦、そして主人公の息子だと名乗る男の子、主人公の実際の息子などさまざまな登場人物が、まるでこの作品の中でお互いが出会えたことを愛おしむように見えてしまう。これこそがイーストウッドの作品の美しさであって、この『チェンジリング』という作品の美しさなのではないかと思うのです。つまり、これらの描写は俳優の演技によってかもし出されたものではなく、先端的映像技術から生まれたものでもなく、あくまでもスクリーンに映し出される映像作品の基本的な製作から生み出されたものであること、このことこそが同時代の他の監督とイーストウッド監督との差異ではないかと思うわけです。

 話がそれますが、「腐敗した警察」、「連続猟奇殺人事件」というと、もう20年も30年も前にちょっと話題になったスチュワート・ウッズの小説『警察署長』を、ちょっとだけ思い出してしまいますね。TVのミニ・シリーズになったのが日本でもヴィデオでリリースされていたことがありました。とても面白い作品でした。ちょっと思い出したので。


 

 

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■ 2009-02-12(Thu)

crosstalk2009-02-12

[] カンパニー マリー・シュイナール『オルフェウス&エウリディケ』@北千住:シアター1010  カンパニー マリー・シュイナール『オルフェウス&エウリディケ』@北千住:シアター1010を含むブックマーク

 とにかく前回の来日、パークタワーホールでの『牧神の午後』、『春の祭典』公演はトラウマになるほど強烈だったので、金もないのに見に行きました。当日券なので二階席。これが良かったのか悪かったのか、ステージとの距離はあるのですが全体像は見やすかったと言うか、ちょっと醒めた眼で見てしまったかも知れません。

 観ていてちょっと思い出していたのが、フェリーニの1969年の作品『サテリコン』なのですが、そちらのことを先に書きます。この映画は皇帝ネロの時代のペトロニウスの著作『サチュリコン』からの自由なアダプテーションによる作品で、ペトロニウスの作品にある爛熟期のローマ帝国の退廃と、登場人物エンコルピオらの放縦、背徳、悦楽的な行動を、映画製作当時の世間の退廃とヒッピー・ムーヴメントへのシンパシーとからめて作られた作品と言ってしまって良いでしょう。わたしはこの映画が大好きだったのですが、この映画作品のテーマは、ある意味で地政学的な当時のローマの情況のポストモダン的表現だったのではないかと思います(今思い返すと、この作品が最初のポストモダン的映像表現だったのではないかと思ったりします)。

 その映画の中でのほとんど「フリーク・ショウ」的な畸形、異形の衆の見世物的な描写の底から浮かび上がるのは、西欧文化から逸脱した、言葉を変えて言えば「オルタナティヴ」な世界観で、それは葬儀の場面での般若心経の読経であったり、ケチャやアフリカン・ミュージックの歴史/地理を無視した引用であったりするわけです。映画の中でもラストにエンコルピオがたどり着くのはアフリカの地であるようですし、そこにこそフェリーニは希望を託していたようにも読み取れる、そういう映画だったわけです。

 さて、それで、この『オルフェウス&エウリディケ』ですが、この舞台が「フリーク・ショウ」だったとは言いませんが、まぁ放縦、背徳、悦楽的な行為/ダンスと捉えることは出来るとして、とにかくも西欧文化的な身体から逃れるということがひとつのテーマではあったのではないかと思います。題材として選ばれたのはギリシアの神話時代の詩人の物語で、当日配付された印刷物ではアガンベンの著作からの引用が舞台上で語られていたようです。

 つまり、わたしはこの舞台からもそんな西欧中心世界(言い換えれば<帝国>でも良いのですが)からの逃走線を探る試みを読み取ってしまうわけです。ただし、わたしの拙い観賞眼から見たその祝祭的舞台のの方法論はバタイユ的で、また、レヴィ=ストロースの「野性の思考」、サイードの「オリエンタリズム」などから補強された表現と見え、それはつまりアガンベンなどの引用という方策にもつながるのですが、観念優先の表現に陥っていたのではないかと思う所もありました。それは一面「オルタナティヴ」の21世紀的発展かも知れませんし、また、観るわたしの方こそ観念優先で観ていたせいなのかも知れません。まだ結論付けられませんが、わたしの眼には、3年前のパークタワーの公演での、ある意味パンキッシュな「身体改造」的な側面の方がより刺激的にうつった印象があります。

 この舞台でやはり面白かったのはその音楽で、ここでも『サテリコン』を想起させられてしまうのですが、中東音楽、やはり東からのロマ/ジプシーのブラス・ミュージックらしい音楽、モロッコのジャジューカのような音(もしくはそれらからインスパイアされた音楽)が使用され、それはギリシアを地理的に囲む非西欧文化圏からの音源として、ダンサーのいわゆる西欧的な基準からの非ダンス的な身体と合わせて、先に書いたような西欧文化からの逃走線というテーマをより印象づけられた思いがします。この音楽はありモノを使ったのではなく、ちゃんと作曲者がいたようですが。


 

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■ 2009-02-10(Tue)

crosstalk2009-02-10

[] 『ザ・ロ−リング・スト−ンズ シャイン・ア・ライト』マ−ティン・スコセッシ:監督  『ザ・ロ−リング・スト−ンズ シャイン・ア・ライト』マ−ティン・スコセッシ:監督を含むブックマーク

 わたしはそ〜んなにストーンズ夢中!というわけでもない人間なのですが、新年の幕開けの景気づけにこの作品を選びました。スコセッシ監督の作品はだいたい観ていますけれど、最近どうも妙なバランスの作品が続いているようで、どうよ?という感じではあります。「オレは現在トップクラスの偉大な映画監督だ」という自負が出て来たのでしょうか。しかしわたしなどにとって、スコセッシ監督の作品はロック音楽の大きなうねりを時代とともに形象化しているヴィヴィッドな作品群という印象も、一時期ありました。『グッドフェローズ』での時代背景を鮮やかに浮き彫りにする当時の音楽の使用法は、例えば少し前のデヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』に顕著なように、以後の多くの映画音楽に受け継がれているように思います。いやぁ、『グッドフェローズ』と言えば、Derek & the Dominosの「Layla」のインストゥルメンタル・パートの挿入が印象的でした。同じスコセッシでも、『グッドフェローズ』と同じ路線でロビー・ロバートソンが選曲した『カジノ』は、「手当りしだい」という感じであまり感心しませんでした。ま、そんなロビー・ロバートソンも、『ギャング・オブ・ニューヨーク』では素敵な英国のトラッドの絶妙な選曲で良い仕事をして下さいましたが。

 ロビー・ロバートソンとマーティン・スコセッシといえば、The Bandの解散ライヴの映像『ラスト・ワルツ』があるわけですが、スコセッシ監督としてはそれ以来になるロックのライヴ映像作品になります。しかしこの人は『ウッドストック』でも助監督だか編集だかやっているわけですから、やはりロックの時代の映画監督ということが出来ると思います。そのスコセッシ監督がロックの恐竜(ダイナソー)、ストーンズのライヴ映像を撮るのですから、いったいどうなるのか楽しみではありました。

 さて、作品は、そのスコセッシ側がストーンズのメンバーとライヴのコンセプトを煮詰めて行く過程から始まります。ストーンズの公演としては決して大きくはないニューヨークのビーコン・シアターでのライヴを想定し、舞台美術の模型をストーンズのメンバーに提示すると「まるでドール・ハウスだ」とからかわれます。ま、スコセッシ側もこの模型はちょっとからかわれることを狙っているところもあるようですが、美術自体としてはあの舞台中央のシャンデリアが印象的な『ラスト・ワルツ』の延長線上にあるようです。さらに、スコセッシ側は想定したセットリストを元に、綿密なカメラワークを指示する書類も用意しているのですが、このあたりも冷徹な計算で撮影された『ラスト・ワルツ』の延長ですね。しかしながらストーンズ側はライヴぎりぎりまでセットリストを提示せず、スコセッシをいらいらさせるわけです。このあたりの内幕の描写はもちろんスコセッシのそれこそ「演出」で、もともと『ラスト・ワルツ』のストーンズ版を撮る意味などないという認識の上でのことでしょう。ダイナソーとのがっぷり四つの交渉なのだと。このあたりははるか昔のロック・ドキュメンタリー、『フィルモア/最后のコンサート』の中で(わたしは映画館で観ました)、なんとかSantanaに出演してもらおうとBill Grahamが電話をかけて交渉するシーンを思い出させられます。スコセッシにはおそらく、このBill Grahamの電話のことが意識の中にあったことでしょう。ちなみにこの『フィルモア/最后のコンサート』の映像は、長い間ヴィデオ化されないままに来たのですが、最近ようやっとアメリカのRhinoからDVDでリリースされたようです。

 その冒頭の協議のなかで、スコセッシがスタッフとミーティングをやっていて、スタッフが「ミックに18秒以上照明を当て続けるとミックは燃えちゃうから」なんて言います。スコセッシが「燃えちゃうって、どういう意味?」と問い返すと「文字通りに、さ!」という返答が帰って来るのがおかしいです。というか、ライヴの映像が始まるとわかるのですが、このライヴの照明は尋常ではありません。おそらくはハロゲンと思われる強烈な白色光がステージを覆いつくし、照明の当たるミックの頭なんか映像でも白くふっとんでしまっていますから。タイトルの『シャイン・ア・ライト』というのもこのあたりから来ているのでしょうけれど、チャーリー・ワッツが「映画っていうのはこんなに照明を使うのかい? やっぱり映画というのは出るよりも見てる方が楽しいな」なんて、ぼそっと言ったりもします。いいですね、チャーリー。

 ライヴは「Jumpin' Jack Flash」から始まりますが、始まってみるとびっくり! いったい何台のカメラを使ってるんだよ? いったいどんな編集やってるんだよ? という感じで、しかもその各々のカメラがどれも決して静止することなく、いつも動き回っています。それで『ラスト・ワルツ』などではステージ上にカメラマンの姿なども映ってしまっていたのですが、この『シャイン・ア・ライト』ではそんなステージ上にカメラマンの姿が見えることもありません。

 ライヴなどに行くと、その途中で「あらら、ヴォーカルのマイクはあっち側だよ、場所の選択失敗したな」なんて思ったりしながら見ていたりするのですが、なんて言うんでしょう、この『シャイン・ア・ライト』では、そういうライヴ会場での一観客の不満を解消するような演出がなされているわけです。あらゆる視点からの総合的なライヴ映像という点では画期的な映像でしょう。ライヴの後半にステージから客席を写した映像が何度か出て来ますが、そこにカメラが写っています。複数のカメラがそれぞれドリーでの移動がたっぷり出来るだけの余裕をとっているようですし、なんと、一瞬、観客の上を移動するクレーンの姿も見ることが出来ます。こういうコンサートホールの中にこんな巨大なクレーンを持ち込むなんて、ちょっとクレージーですね。しかしこの映像にはその成果が確かにあらわれています。エンディングのクレジットを見るとカメラ・オペレーターの名前はたしか13人ぐらい並んでいたようです。2時間弱のライヴの様子を様々な視点から13台のカメラが追いかける、おそらくはもうこれ以上はありえないぐらいに究極のライヴ映画と言うことが出来るかも知れません。

 ライヴそのものですが、どちらかというとカントリーっぽいレパートリーの選曲が多かったように思うのですが、やはりその中でゲストにBuddy Guyが登場する場面は、ストーンズの昔のライヴアルバム「Love You Live」のエル・モガンボ・セッションを彷佛とさせるブルース大会で、やっぱりわたしはストーンズはブルースが好きですね。

 さて、あと興味深いのはやはりラストのシークエンスで、楽屋口から手持ちカメラがさながら自分がストーンズのメンバーのように外に出て行くのですが、カメラがライヴ会場の外に出ると、カメラを取巻く賞賛を贈る観衆の中にスコセッシ本人がいて、「あっちを撮れ!」とカメラに指示を出すのね。で、カメラがそのままぐるりと後ろに回転してビーコン・シアターの外観を写すと、カメラは継ぎ目なしにそのまま空に昇って行き、ニューヨークの夜景の鳥瞰になる。大きな月がふとストーンズのあの「べろマーク」に変わってしまってクレジット。こういうことをやるスコセッシの意識こそがこの作品でいちばん面白かったかも知れない。そういう感想でした。


 

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