ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2009-08-31(Mon)

[]Where Were You When I Needed You [Grass Roots] Where Were You When I Needed You [Grass Roots]を含むブックマーク

 接近している台風のため朝から断続的に雨。時々風も強くなるけれども、雨も風もやんでしまう時も。けっきょく台風は太平洋側にそれ、夜にはすっかり雨もあがってしまう。

 今日も昼食の準備をしているときにミイが来た。ベランダのミイの皿に食事を出してあげる。わたしは部屋のなかでごはんを食べ、ミイはベランダで。「今日は嵐だから、ずっとこのベランダに居ればいいじゃん」。「いいけど、このベランダ、トイレがないんだもの」と言い残してどこかへ行ってしまう。やはりトイレの用意をしてあげようとスーパーへ行き猫砂を買い、準備してあったうつわに移してベランダに置く。ミイがこれを使ってくれるまでにはまだ時間がかかるだろうけれども、食事とトイレの面倒をみてあげられるようになれば、「飼い猫です」と主張できる気がする。

 しかし、こんな雨の日にミイはどこでなにをしているんだろうか。

 TVで選挙開票結果を受けての特別番組などやっている。たてまえとしてM党のめざしているのはヨーロッパ型の福祉国家政策と思えるところもあるので、そのうちにわたしなどの環境にもその影響があらわれるかもしれない。行政の窓口は変わらないのだから期待出来ないけれど、選挙などではなくこちら側から要求を出していけるような環境へはステップする可能性はある。惨敗したJ党は、今回の選挙のようにウヨク政党としての正体をあらわにしてがんばっていくといいと思う。まあ福祉がらみの増税には全力で反対するんでしょう。

 DVDはゴダールの「男性・女性」(1965) 。この作品を高校生のときに劇場で観て、すっかりゴダールのファンになってしまったわけで、以来何度この作品を観たことか。1968年の五月革命を予感させるパリの状況の下での若者たちの群像劇という構成が、おそらくはかなりパリと似たような状況にあった東京で生活していたわたしがビビッドに感応した原因だと思う。というか、この映画が日本で公開されたのはまさしくその1968年の7月で、ニュースとしてカルチェラタンの暴動などが伝えられていた直後の公開で、わたしはそのような状況と重ねてより深くのめりこんで観ていたのではないか。そしてわたしの当時の社会認識のレベルが、この映画の主人公ポールにはなはだ近いところにあったのではないか。ゴダールの「気狂いピエロ」は「男性・女性」よりも前に観ていると思うけれど、わたしにとってゴダールのはじまりはこの「男性・女性」から。しかもこの頃のゴダールは猛烈ないきおいで作品を撮り続け、どんどんと先鋭化していく時期だったわけで、「中国女」、「ウィークエンド」など、新作を見るたびにものすごいショックを受けていた。

 この作品を観ると、まずはその場面ごとにクローズアップされた人物への質問/インタヴューの集積としてつくられている印象で、そういういくつかの長いインタヴュー・シーンが面白い。特にこのドラマとは関係なく出てきてポールのインタヴューを受ける「ミス19」のシークエンスが、この作品でピリリと効いていると思う。

 この作品と同時期にシネマ・ヴェリテなる概念が紹介されたことがあり、それはインタビュー映像の集積を編集、モンタージュして、あたかもインタビューを受けた人たちが映画のなかで討論をやっているようにみえる映画、その制作方法だったと思う。とはいっても、この概念にあてはまる作品は当時公開された「ヒットラーなんか知らないよ」(この作品の監督は後に活躍するベルトラン・ブリエ)という作品だけだったのではないかと思うけど。じっさいにシネマ・ヴェリテと呼ばれるようなムーヴメントが存在したのか映画の宣伝文句なのかよくわからないし、ゴダールがそういう呼称に意識的だったのかわからないけれど、この作品の公開当時は「シネマ・ヴェリテの影響」なんて言われてた。

 いま改めてこの作品を観ると、やはりこのあたりでもう、外の雑音を意識的に効果的に「ノイズ」として使っているなあと。ドアの開閉の音とか。まあ銃声というのがこの作品ではとても重要で、ラストの「Feminin」の文字から銃声でまん中の文字が吹き飛んで「Fin」になるのはものすごくカッコよかったと、当時から思っていた。

 映像的にもいろんな実験/遊びをやっていて、ゴダールという人は即興演出とかいわれるけれど、映画のなかでポールがマドレーヌとエリザベートとデートしてのシーン、ささいなけんかでマドレーヌたちが帰ってしまい、残されたポールが風俗嬢のさそいをうけ、自分の声をレコーディングするサーヴィスをやり、さらにビリヤードをやっている近くでナイフを持っている男におどされる(男は自分の腹をナイフで刺す)という四つの出来事は、全部ワンシーンワンカットの手持ちカメラで撮られていて、ここにはかなり綿密な演出の準備がなされてる。などと思うともう少し先の、コインランドリーでポールがロベールに会うシーンでは、同じ場所なのだけれども細切れにされて編集され、時間がすっとばされたような具合になっていたりする。

 ラストに語られるポールの突然の死はやはり事故死で、決して自殺などではないのだけれども、一種閉息状況に追い込まれての死なのだろうという印象で、ひとつにはこの作品を終わらせるためのテクニックで殺されたということもある。事故に遭遇しないで生き延びるポールは、後の「中国女」でマオイストとして登場してくるであろう。

 今日の曲は、「Where Were You When I Needed You」っつうのにします。ミイのこと。Grass Roots というロスアンゼルスのバンドの、1966年の彼らの最初のヒット曲。このGrass Roots には、ソングライターでソロとしてものちに売れっこになるP.F. Sloan が在籍していました。初期の彼らの曲はちょっとウエットなメロディで日本人受けしそうだと思っていたら、翌年の「Let's Live For Today」というヒット曲が「今日を生きよう」というタイトルで日本のグループサウンズにカヴァーされ、かなりヒットしました。たしかテンプターズがやっていたのではないかと思うのですが、うろおぼえです。Grass Roots はもうアルバム中心のロックの時代になっても、そういういわゆるロック・バンドの道を選ばないで、しばらくのあいだシングル盤のヒット曲を生み出し続けていました。今でもまだやってるんじゃないでしょうか。

 

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■ 2009-08-30(Sun)

[]Don't Vote [Flash and The Pan] Don't Vote  [Flash and The Pan]を含むブックマーク

 台風が近づいてきているせいか、午前中にすこし雨が降ってきたりします。午後には晴れ、夜は雨。台風は明日この近くを通過するような予報が出ています。

 昨夜はさば味噌煮缶詰をあけたけれど、もてあましてしまってミイの来るのを待っている。うまくミイの来たのをみつけて、そばに置いてあげると驚くほどの食欲。それは食べすぎだぞ。そんなに気に入ったのなら、これをさずけてくれたヒトへの感謝を忘れないでいてほしい。そばで食事するミイをずっと見ていて、やはりウチに寄ってくる三匹の猫のなかでは、ミイがいちばんかしこそうでかわいいと思う。いつもミイがわたしのそばに居ればいいのだが。

 昼間DVDを観る。今日はヒッチコックの英国時代の作品「暗殺者の家」(1934) 。‥‥これはどうもすっきりしない。脚本が一般的な常識やモラルからはずれているように思うけれど、当時の観客はどう見たのだろう。誘拐されている娘に会った父親が、娘に「いいガウンを着ているね」というのには笑う、というか失笑してしまった。そのあとに夜になって娘はちゃんとパジャマに着替えているし、誘拐されるなどということは大騒ぎするようなことがらではないような。ほかにもテロリストの巣窟である教会での唐突な椅子投げ乱闘など、とにかく最初のシーンから書き始めるときりがないほどにわからないのがいっぱいある。

 ただ、その教会のテロリストに仕える女性が、のちの「レベッカ」の執事のような雰囲気で恐かった。別の部屋から弾薬を引きずってくるところなどはじつにおぞましくも恐ろしい。

 夜はTVの衆議院選挙の開票速報を見ようと思っていたけれど、投票〆切りの8時になったとたんに全議席の予測が出て、もう面白くもなんともない。むかしの選挙開票速報はじっさいに開票結果が出てくるのを受けて、当選確実とか当選などが確定し、時間の経過にしたがって大勢が判明してきたわけで、そういうリアルタイムなスリルがあったと思う。もうそういう楽しみはなくなってしまった。はさまれるコメントもただ政権交代という単語の連呼だけで、つまりTV局はいかに選挙管理委員会からの開票情報よりも早く当落予想をおこなうかだけに全力を集中している。最初の予測数値さえ見てしまえば、あとはもうなにも見る必要もない。

 ただ、この地域の小選挙区にはかつての絆創膏大臣が立候補していて、これが早々と落選したのは小気味良かった(ひとごとですが)。でも、保守の地盤といわれる茨城県でM党が圧勝したのは、やはりM党もまたもうひとつの保守でしかないことの証でしょう。

 今日の一曲はパンク/ニューウェイヴの時代のオーストラリアのバンド、Flash and The Pan の「Don't Vote」という曲にします。この曲は彼らの1982年のサード・アルバム「Headlines」に収録されていた曲。このアルバムには「Waiting For A Train」という佳曲も収録されていました。

 Flash and The Pan のメンバーには、60年代のガレージパンクの時代のバンド、Easybeats のメンバーも含まれていたはずです。あと、オーストラリアを代表するハードロック・バンドのAC/DC のAngus Young のお兄さんだかもいたと思います。まあこのFlash and The Pan 時代にはメンバーもかなり落ち着いた年代に差しかかっていたということでしょう。彼らの曲もちょっとウエットな、哀愁を含んだメロディに印象が残っています。

 

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■ 2009-08-29(Sat)

[]Here She Comes Now [Velvet Underground] Here She Comes Now [Velvet Underground]を含むブックマーク

 今日は暑い。エアコンを使いましょう。

 これからはBSを積極的に見ようと思ったのだったけれども、スケジュールの見方を間違えて見られなかったりしてしまった。スケジュール表には土曜の夜0:45からと書いてあって、だから土曜日の深夜からだと思っていたら、金曜の未明の0:45からだった。映画の放映のスケジュールには、土曜に書かれていてもカッコして(金曜深夜)とか書いてあるのでうっかりすることもないのだけれども、わかっていてもつい勘違いしてしまった。見たかったのは押井守が演出したという舞台「鉄人28号」。押井守がどういうふうに舞台演出するのか見たかったのだけれども。

 明日は衆議院選挙の投票日で、最高裁判所裁判官の国民審査もいっしょだし、この地域は知事選もいっしょ。現在の議会制度のもとでどんな政党が政権を取ろうが基本は変わらないからどうでもいいんだけれども、わたしが生まれてきてからこれまでずっとほぼつねに政権を掌握し、わたしなどを圧迫してきたJ党が転落するのは、とりあえず物語としては楽しいことだとは思う。まあせっかく政権が変わるのなら、福祉政策を見直してベーシック・インカムなど実施してほしいものだけれども。

 ベランダに猫ご飯を出して置き、チビやノラなら追い払う。イヤなやり方だけれども、ミイもベランダに何もなくてもやってくるほどにはなついていないから。来る時間も一定していなくて、猫の体内時計というのがどうなってるのか、そういうものはないのか。今日は午前中にやってくる。今日のミイを見ていて、ベランダにながく居ようとしないのは、日ざしが強くて暑いからなんだろうと気がつく。日かげをつくってあげればいいのかな。

 図書館本、保坂和志の「明け方の猫」読了。図書館にさいきん保坂和志の小説が入ってこないなと思っていたら、彼は「カンバセーション・ピース」以降、新作を書いていないのでした。「明け方の猫」は表題作と「揺籃」の二作収録で、「揺籃」はデビュー前の旧作。

 保坂和志といえば猫なのだけれども、「明け方の猫」は、夢のなかで猫になってしまった主人公が、猫として彷徨しながら猫とヒトの感覚のちがいを考えている。ヒトは猫の触毛や嗅覚、聴覚を犠牲にしてなにを手に入れたのだろうか。それは記憶かもしれない。視覚にたよりすぎるヒトは、動きの集積としての体験を認識できないんじゃないか、みたいな。ミイという名の老猫が登場した。

 「揺籃」は、まぼろしの「お姉さん」なるものを追い求める、少年の延長としての主人公の彷徨。前半のひそやかな官能性は読んでいてもいい感じだったけれど、だんだんにエロティシズムへの欲望が全開になっていき、加速されるらせん運動のようになっていく。エンディングはもう現実を遠くはなれ、実験的な幻想小説みたいな。ちょっとツーマッチ。

 DVDはウィリアム・フリードキン監督の1971年の「フレンチ・コネクション」。この頃のフリードキン監督は最強で、73年には「エクソシスト」と、その後のハリウッド・シネマに大きな影響を与える作品を連続してつくっている。撮影はオーウェン・ロイズマンという人で、知らなかったけれど、音楽はドン・エリスだった。

 ドン・エリスはなつかしい。マイルスとはまた違うアプローチのエレクトリック・トランペットで、やはりちょっとロックっぽくて、これからという時に早死にされてしまった。この映画のスコアでの、フリーっぽいピアノの音がすごくいい。あ、ナイトクラブに出ていたグループはスリー・ディグリーズなのか。

 映画はつまり「捜査」〜「監視」というのを徹底してドライに描いていて、余計なドラマはほとんど排除しちゃっている。今だったら監視カメラとかになっちゃってイヤだけれど、ここでは監視対象に張り付いて、対象の音声をオフにして監視する側のコメンタリー的な対話が映像にかぶさる。これは今でもやはり刺激的というか、見入ってしまう。

 高架の電車を追いかけるカー・チェイスのシーンは「ブリット」の延長なのだろうけれど(プロデューサーが同じらしい)、車といっしょにカメラも移動する本作は強烈。

 印象的なフェルナンド・レイの悪役は、監督はほんとうはほかの役者を希望していたらしい。ブニュエルの「昼顔」に出ていた男優を使えないだろうかと打診して、スタッフが間違えて「昼顔」には出てはいないブニュエル映画の常連であるフェルナンド・レイにコンタクトしたそうで。フリードキンはとまどったけれど、結果として最高の配役になったわけ。ラストにふっと消えてしまうフェルナンド・レイ、最高です。

 今日は何の曲にしようか、あまり思いつかないけれど、前にVelvet Underground の「There She Goes Again」を取り上げたので、彼らのその逆のタイトルの曲、「Here She Comes Now」を選んでみました。「彼女が来るぜ」というわけです。「今、彼女がやって来るこの場所」という意味ではありません。

 この曲はVelvet Underground のセカンド「White Light/White Heat」(1968) に収録されていました。「White Light/White Heat」には、当時ものすごい衝撃だった「Sister Ray」が入っています。この画期的なノイズ音は、今日わたしが観た「フレンチ・コネクション」の、電車との追跡シーンにもぴたりのように思えます。

 

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■ 2009-08-28(Fri)

[]I Only Want to Be With You [Dusty Springfield] I Only Want to Be With You  [Dusty Springfield]を含むブックマーク

 ある地域では、自治体が「ノラ猫にえさを与えないで下さい」という貼紙をしたところ、愛護団体からクレームがついたらしい。この地域にはまさにそういう貼紙があるわけだけれども。えさをあげなければノラ猫は消滅するのかといえば、そんなことはないわけだし、他の地域に移動してくれることを期待しているのか、それともゴミなどをあさりだすことで問題が市民生活に大きく影響するようになり、おおっぴらに駆除の対象になるという展開を望んでいるのか。

 猫の問題は、彼らが繁殖し過ぎることにあると思う。ノラ猫と呼ばずに「地域猫」という呼び方で、自生する猫に不妊手術をほどこすことを援助する自治体もある。谷中はいつのまにか「猫の町」になってしまったけれど、あそこの猫はほとんど、谷中墓地に住むノラ猫だと思う。まあそれを観光の売りにしてしまうあたりもしたたかだけれども、谷中のノラ猫がみな不妊手術をしているとも思えない。

 しかしまあ、ただえさを与えて「猫、かわいい」などとやっているのは、無責任だとのそしりはまぬがれない。ほんとうは座敷猫にしてしまいたいのだけれども、ある程度成長してしまった猫を、部屋に閉じこもった生活に追い込むのも無理があるでしょう。段階的に部屋に入れるようにして、普通に飼い猫っぽいところに持って行きたいと思っているのだけれども。まずはベランダにえさを出しっぱなしにするのをやめ、ミイが来たときだけえさを出してあげること。悪いがノラとチビは無視だな。

 今日もミイが来ない。どうしたのだろうと心配。でも、ちょっと早めに夕食をはじめると、それに合わせるようにベランダにやって来た。食べるものがないので出て行こうとするのを、ベランダに出て呼び止めると「ニャン」って返事して、戻って来た。えさを出してあげていっしょに夕食。なんか、楽しい。

 ミイが食べ終えて出て行くのをベランダで見送ると、どこからかノラがあらわれてミイについていく。ノラはやはり人間が苦手なんだろう。最近のミイは、ノラとつるんで遊んでるんだろうと思う。それであまり姿を見せない。

 「終りなき世界」読了。柄谷行人の対談相手、岩井克人という人は水村美苗のダンナさんだった。「資本主義」という主義は一般に考えられているようなかたちでは存在しない。商人資本主義、産業資本主義、国家資本主義などがあって、ソ連などはつまりは国家資本主義であった。だから、ソ連の崩壊は共産主義に対する資本主義の勝利ではないのだと。柄谷行人の語るマルクスへのシュティルナーの影響が興味深かった。

 DVDはブライアン・デ・パルマ監督の古い作品「愛のメモリー」(1976)。原題は「Obsession」。むかし映画館で観ているけれど、共同脚本がポール・シュレイダー、撮影はヴィルモス・ジグモンドというのは知らなかった。音楽がヒッチコック作品を多く担当したバーナード・ハーマンということで、デ・パルマのヒッチコックお勉強映画(基本は「めまい」のヴァリアントだけど、パク・チャヌクの「オールド・ボーイ」は、この「愛のメモリー」のヴァリアント?)なのだけれども、彼のいかにもギミックな演出を楽しめました。おまけの製作ドキュメントで、実際には「未来」へ続く脚本まであったということが明かされていて、それを「過去」と「現在」だけにしたということ。それで真相が明かされるのがちょっと唐突な印象を受けるようになったのだろうと思う。そのドキュメントにヴィルモス・ジグモンドが出て来て、この作品であれこれの勉強をさせてもらったのだと語っていた。まあこれだけカメラがいろんなことやってればね。

 今日は、Dusty Springfield の「I Only Want to Be With You」(1964) という曲にします。わたしはミイといっしょにいたいのよ。

 Dusty Springfield はイギリスのシンガーですけれど、卓越したソウル・シンガーとして記憶されているでしょう。この曲は彼女のデビュー・ヒットで、邦題は「二人だけのデート」(ふつうにデートは二人だけでするものですが)。彼女もこの曲とか、最初のうちは普通のポップ・シンガーとして活躍するのですが、そういうのが時代遅れになったあと、アメリカのアトランティック・レコードと契約し、これでもってソウル・シンガーとして決定的な評価を受けるようになります。

 

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■ 2009-08-27(Thu)

[]Girl Don't Come [Sandie Shaw] Girl Don't Come [Sandie Shaw]を含むブックマーク

 今日も暑すぎず晩夏の晴天。夜になってひとごとでないニュースを読んでしまい、やはりミイは家に入れてしまおうかと思う。そういう覚悟でいたからちゃんとトイレの準備もしてあるけれど、完全に家猫にしてしまうのもかわいそうだと思っていた。あつまる猫も増えているのでこれはなんとかしなければいけないという意識はあり、ノラやチビは出来るだけ追い払っていたし。ただ、避妊手術はやってあげられないだろうなあ。自治体の対応が何かあるだろうか。調べてみよう。

 しかし、じつはこの日はミイは姿をあらわさない。せっかく昨夜またホッケをおかずにした残りをあげようと思っていたのに。いちにち姿をあらわさないのは初めてのことなので、心配してしまう。あいつはここに来ていないときはいったいどこに行ってるんだろう。よその家でかわいがってもらっているのか。道を横断していて車にひかれたりしてないかとか、姿を見ないのはたった一日なのにまるで内田百里痢屮離蕕筺彎態。

 きのう来られた福祉課の担当氏は「最近は求人も増えてきたでしょう」などと言っていたけれど、じっさい盆休みが明けてからはひっかかるような求人は皆無になってしまっています。今日もハローワークのHPで検索して時間の無駄。明日はとにかく何も見つからなくてもハローワークに行ってみましょうか。

 今、柄谷行人と経済学者の岩井克人という人との20年前の対談集「終りなき世界」というのを読んでいて、そこでふれられている都市と農村のことを考えてみた。日本文学について、つまりは過去の小説家は地方(農村)から都市へ出てきて小説を書くわけで、そのおもな主題は(乱暴にまとめれば)農村と都市の差異(構造的な落差)の内面化なのだと。小説なぞ書いたりしないけれど、そうか、わたしはその逆コースをやっているわけだと、いまごろになって意識しました。

 もう十歳のときから東京で生活してきているけれど、その十歳までは地方で成長していたわけで、ひとつにはその記憶をたどってこんなところまでやって来ているのはわかっていた。成長してからの記憶はすべて東京を背景にしたものだけれども、その都市の均質さとは異なるものを求めていたわけで、まあここはそこそこに都市と農村の中間地帯ではあるけれど、都市文化圏の外にあることはたしかなことでしょう。無意識のうちにそういう文化圏の差異は考えるようにしていたけれど、ちゃんと照準を定めて考えられるのならそのようにすべきでしょう。いま、わたしは良い場所に立っている。

 夜のDVDはダニー・ボイル監督の「ザ・ビーチ」(2000)。なんだ。裏返しの「地獄の黙示録」じゃないですか。ディカプリオは一所懸命マーティン・シーンをやっている。ではティルダ・スウィントンがマーロン・ブランド???というのが面白いところなのだけれども、せっかく彼女がすばらしい「横臥する仏陀」のポーズをやっていても、それがヴィジュアル的要素のひとつにとどまるところがこの監督の限界でしょう。彼女たちの孤島でのコミュニティに、そのポーズの示す「涅槃」的な要素が描かれていればもっと深みと説得力が出たでしょうに。それにやはり「スラムドッグ$ミリオネア」でも感じたことだけど、舞台になった地域の住民の描き方には、大きな問題があるでしょう。アジアを出汁にして金もうけするな!ということです。

 この日はミイが姿をあらわさなかったので、「Girl Don't Come」という曲にします。もうこのあたりを知っている人はめったにいないでしょうけれど、イギリスの国民的な女性歌手、Sandie Shaw の1964年のヒット曲です。彼女はヨーロッパでは今でも人気があるようですが、アメリカではまったく受け入れられませんでした。この「Girl Don't Come」は多少ヒットしたようですが。

 彼女の最初のヒット曲は、この「Girl Don't Come」の前にリリースされた「(There's) Always Something There to Remind Me」というBurt Bacharach の名曲で、日本でもちょっとヒットしましたが(わたしは大好き)、その時の日本でのタイトルは「恋のウェイト・リフティング」という、わけのわからないものでした。このタイトルのわけは、この曲が日本でリリースされたのが東京オリンピックの時期だったわけで、その大会のウェイトリフティング競技で、日本の三宅選手が金メダルを取ったんですね。それにちなんでのこのタイトル、ということでした。理由を聞いてもやはりわけわかりませんが。

 

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■ 2009-08-26(Wed)

[]Along Comes Mary [Association] Along Comes Mary [Association]を含むブックマーク

 青空の下を大きな雲が流れて行き、すでに空気は秋っぽい。朝ベランダに出ると、ミイが一匹で来ていて、食事を待っていたような顔をして逃げもせずこっちを見ています。こんなことは初めて。

f:id:crosstalk:20090902115919j:image:right キャットフードを皿(といっても灰皿だけれども)に出してあげると、臆することなく寄ってきてカリカリと食べ始めます。食べてるところを背中撫でたりしてやっても、ちょっと嫌がる気配だけれどもまかせている。これだともう完璧に外飼いの飼い猫という感じ。昨日のFさんはミイの写真を見て美人な猫だと言ってたけれど、たしかにすこしかわいく思えてくる。和風美人ですね。

 夕方にはチビっぽい猫もやってきて、こいつはほんとに変な顔してる。鼻と口のまわりがマジックで落書きしたようになってしまっていて、かわいそうなくらい滑稽。しかしこのチビも黒白ブチだし、ミイとは血縁関係にあるのではないか。ミイといっしょに来るでかい白猫にしても、眼の感じがミイに似ている気がする。みな一族なのかも。

 午後、市役所の福祉課の担当者がやってきて、面談調査される。面接に行くのに交通費は出ないのかと聞いてみる。出るわけないけれど、求職活動に積極的なのだというアピールにはなるだろう。ただ、ひとむかし前なら通院にも交通費が支給されていたのだから、面接にも支給されていたかも知れない。例の不正受給の問題がいかんのだが。

 日常の時のすごし方など聞かれ、求職活動〜読書〜通院(歯医者)などと返答。それだけじゃ二十四時間埋まらないけれど、あまり追求されず、指導的言質もいただかなかった。

 夕方からBS(じつはBSを見ることはできる。これからはもう少し見て行こうと思う)で、アクターズ・スタジオのインタヴューというやつにクリント・イーストウッドが出ているのを見る。「ミスティック・リヴァー」公開前のタイミングでのインタヴュー。ユーモアたっぷりの受け答えが楽しいけれど、そんな中にも自分のパブリック・イメージを意識したジョークを折り込むのなどは、彼の作品でもやっていることだな、と思ったり。「荒野の用心棒」の衣装は自分で用意して行ったという発言にびっくり。涙を流したりの、アドレナリンを発散するような感情を爆発させる演技はいらないと言っていたのが、やっぱりね、という感じ。

 夜はDVD。今夜はトリュフォー監督の「映画に愛をこめて アメリカの夜」(1973)。撮影現場にまぎれ混んで右往左往する人物の視点のようにあちらこちら動き回るカメラ・アイが楽しい。映画という虚構と映画製作という現実との関係を巧みに作品化した脚本/演出がいいです。例えば主演女優のジャクリーン・ビセットの造形は虚構の人物なのだけれど、この映画のなかで紹介されるときに「カー・アクション映画に出ていた」などというのは、現実の映画「ブリット」を想起させられるわけだし、映画製作の現場の映画を製作するという入れ子状態が楽しめる。映画のなかでの「現実」で主演女優が監督に語ることばが、「映画のセリフ」として監督によって流用されるときに、この映画の構造がみごとに完成する。

f:id:crosstalk:20090902115955j:image:left 今日はミイが一匹でやってきたので、ミイにはこの際Mary と名乗ってもらい、「Along Comes Mary」という曲を選びました。やっているのは60年代後期につまりはソフト・ロックということで人気を集めたAssociation 。この曲は66年夏の彼らのデビュー・ヒットで、それほどメロメロにソフトというのではない、ミディアムテンポのビートの効いた曲です。

 Association は、何十年も経ってから、日本でソフト・ロックという名称でいろんなそういうグループが再発掘されたときにかなり人気が出たようですが、この「Along Comes Mary」の次にアメリカで大ヒットした「Cherish」という曲は、「この曲のようなサウンドを目指したい」という当時の日本のグループが、そのグループ名にこの曲のタイトルをそのまま使ったのだというのは、あまり知られていないかな?と思います(そんなことないか)。その日本のグループはのちに夫婦デュオになり、国民的人気グループになりました。

 

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■ 2009-08-25(Tue)

[]All I Have to Do Is Dream [Everly Brothers] All I Have to Do Is Dream [Everly Brothers]を含むブックマーク

 火曜、晴れ。また東京へ行きます。今日はFさんと待ち合わせての下北沢観劇。猫の食事をベランダに出し、また電車に乗ります。待ち時間よりも早く着いたので軽く下北沢一周。駅前で一人の青年が自分の書いたという本を売っている。ヒッチハイクで日本一周した体験を書いた本のようだけれど、彼が通行人に食いさがって本をすすめるようすは、たしかにヒッチハイクの達人なのだろうと納得のいく食いさがりかた。しかしこういう都会の雑踏の中では、彼のテクニックも渋谷あたりのキャッチのおにいちゃんと大差なく、誰にも相手にしてもらえない。もっと、大宮のあたりとかでやればいいのに。駅の反対側のスーパーをのぞく。野菜の値段が高い。これなら確かにわたしんちあたりの野菜の価格はバカ安だけど、おそらくはこのスーパー自体が、東京の平均よりもかなり高い値段で売っているだろう。

 Fさんとおちあい、下北沢ではいつもココという昼食スポットに行くと、飲み屋に変身しています。この場所の店はこの3年ほどで3回も変わってる。別の場所を探してぐるりとまわり、前からその存在は知っている店、まだ入ったことはないけれど、ランチ500円というメニューに惹かれて階段を下ります。どうも入り口あたりから寂れた印象。まさにランチタイムだけど、かなり広い店内で客はわたしたちだけ。まあ原価をかけていないなぁとは思いましたが、家庭の味という感じでそれなりに満足。で、劇場へ。

 今日観るのは少年王者舘の2年ぶりの本公演で、「夢十夜」と書いて「ゆめたすよる」と読ませるタイトル。この日はマチネ公演なのだけど、つまりこれが楽日なので超満員。

 2時間ほどの公演だったけれど、これは劇団の本拠地名古屋公演から始まり、京都を経てのこの東京公演で、名古屋での最初の舞台は50分ほどしかなかったそうな。つまり本公演の中で作り込んでいくやりかただけれども、名古屋の観客はちょっとかわいそう。

 少年王者舘はいつも昭和を思わせるノスタルジックな背景のもと、ことば遊び、時間や論理のパラドックス、トートロジーを、映像などをうまく使いながら独特の作劇法で(演出は天野天街氏)舞台化する。今回は小道具/大道具を使った舞台空間の拡張はあまり行わず、すべて駅の待合室らしきセットで展開。冒頭の一瞬の暗転で誰もいなかった舞台に突然全団員があらわれる(降って来る)のにびっくりさせられ、もうほとんど「コーラス」と呼んでしまいたいような、全員でのタイミングを合わせたセリフの朗唱が続き、それがカットアップ的に映像とシンクロして切断されたりする世界はいつものものだけれども、今回はちょっと徹底している。

 いつもは少年を演じる少女が主役という感じだったけれど、今回はおそらくこの劇団でははじめて男性が主役。2年前の公演からのあたらしい女性陣も舞台慣れしてか、堂々とした印象。この劇団で昔から使われて来たあれこれの演出要素も楽しく使われていたけれども、どうも今回の作品はわたしには空間の広がりが希薄に感じられたし、少年少女の世界からもついに離れ、ちょっとこれまでの少年王者舘の舞台とは違う印象を持った。久しぶりの珠水(たまみ)さんの登場で、またもとんでもないバカな扮装で出て来られたのが古いファンとしてうれしかった。いっしょに観たFさんは、今回がいままででいちばん面白かったとのこと。

 舞台がはねて外へ出てもまだ4時。近くのビルの2階のカフェでコーヒーを飲み、時間をみはからって居酒屋「N」へ移動して飲む。ここの料理はヴォリュームがあっていつも美味。またホッケを食べる。9時に散開して帰宅。この日は予算通りの行動を取れました。

 今日は「夢」の舞台を観たので、Everly Brothers の1958年の大ヒット曲、「All I Have to Do Is Dream」を選びます。この曲がヒットした頃の記憶はありませんけれど、彼らはのちのBeatles やあれこれのビート・グループに多大な影響を与えたわけです。コーラス・ワークの魅力ですね。でも、コーラスはぴったりだったこの兄弟、実生活ではものすご仲が悪かったそうで、そのために70年代には一度コンビを解消しています。でも、ポピュラー・ミュージックの世界で、じつに長いキャリアと多くのヒット曲を誇るユニットではあります。

 

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■ 2009-08-24(Mon)

[]蜜蜂 [小島麻由美] 蜜蜂 [小島麻由美]を含むブックマーク

 月曜日は意を決して、朝から新宿に映画を観に行きます。南口の高島屋の中にあったテアトルタイムズスクエアという映画館が今月限りで閉館になり、そのラストランで早朝回に日替わりで過去の名画を上映、そしてこの日はヴィクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」(製作されたのは1973年だけれども、日本で公開されたのは80年代になってからだと思う)をやるのです。この作品、今はDVDもエリセ監督の高価なボックスセットでしか発売されていないし、わたしもスクリーンでは観ていないので、この際にとがんばってみました。

 朝早く起き、猫の食事をベランダに出し、プランターに水をやります。今朝もしのぎやすい、涼しいともいえる気候です。雨の心配もなさそう。家を出て、むかし通勤していたときに使っていた時間の電車に乗ります。このホームで毎朝その姿をお見かけしていた人たちがいます。皆ずっと働いているのだ。

 新宿に着いたのが早すぎて、まだ高島屋がオープンしていない。中に入れないので軽く新宿一周して、ふたたび高島屋へ。かなり早い順番で劇場に入ることができ、まあベストポジションで。この映画館は何度か通った記憶のある映画館ですが、そもそもの昔には3D映画専門の劇場だったせいか、客席の配置の傾斜がきつく、スクリーンまでの距離も近いので、前の方だとうんとスクリーンを見上げるかたちになり、後ろだときっとスクリーンは目線より下になるんだろう。

 あとからあとから観客がやって来て、上映時間にはほぼ満席状態だったのではないかな。

 さて、20年ぶりぐらいに観る「ミツバチのささやき」、やはりスクリーンで観て良かった。なんて密やかに蠱惑的な、そして恐ろしい作品なんだろう。ストーリーも断片的にしか覚えていなかったし、ラストにはぞわっと鳥肌がたつ思いだった。ロベール・ブレッソンの作品もそうだけれど、こういう作品が今はある程度のお金持ちでないと気安く観ることが出来ないというのはどうなんだろう。わたしのことはさておいても、こういう作品がいちばん観られるべきなのは、映画の勉強とかしようとしている若い人たちなのではないかと思う。歳とって収入も安定し、懐古趣味で古い映画作品のDVDを買いあさるような中高年、そんな人たちの独占的所有にしてしまっていいんだろうか。

 映画だけれど、そのまったく説明を排した描写は、「ン? それはなんのこと?」と何度も考えてしまう。意味の捉えきれないことがらも多いけど、映画の舞台が1940年のスペインの片田舎であるからして、スペイン内乱後のフランコ独裁時代の幕開けの頃がその時代背景にあるわけで、そのことがこの作品に出てくる「大人たち」に大きな影響を与えているとして観るべきでしょう。それは、何の説明がなくても「1940年、日本」といえば想像されることがらを思えば納得がいくでしょう。この映画の主人公アナの両親にもその暗い影は及んでいて、母の書く誰に宛てたものかよくわからない手紙の内容は暗鬱だし、ミツバチの生態の研究を続けている父は外の世界から心を閉ざしているように見える。とにかくこの家族には一家団欒という光景がないようです。

 村の公民館で映画の上映会が催され、「フランケンシュタイン」が上映されて、アナはお姉さんのイザベルと映画を見に行く。二人の年齢はよくわからないけれど、アナは小学校低学年、イザベルはもう2歳ぐらい年長でしょうか(帰ってからあれこれ見ていると、アナは当時7歳だったそうです)。

 スクリーンには「フランケンシュタイン」のなかの少女とフランケンシュタインが出会い、池のほとりで二人が花で遊ぶシーンが映されていて、それを子供たちが見ている。次に死んだ少女を父親が抱きかかえて嘆きながら歩くシーン。アナは「なんで女の子は死んだの?」とイザベルに聞きますが、「あとで教えてあげる」と。その夜寝る時になって、並んだベッドの中からアナはまた「なんで女の子は死んだの?」「なんでフランケンシュタインは死んだの?」とイザベルに聞き、イザベルは、あれは死んでいないのだ、映画に出てくるのはみなウソの話だけど、出てくるのはほんとうの精霊で、動き回るために仮の姿をしている。夜の森の中に精霊はいるのだと話します。年長のイザベルは自分の話など信じてはいないのですが、アナはこれを信じてしまう。で、のちに荒野の外れの廃屋でみつける逃亡兵を精霊の姿だと思うわけです。この逃亡兵、オフィシャルな映画会社の「あらすじ」でも「脱走兵」となっていたはずだけれども、時代背景を考えても、その男が兵服を着ていないことからも、逃亡して追い詰められた人民戦線側の男だと考えた方が妥当でしょう。このセリフの少ない寡黙な映画のなかで、人と人の心の交流は姉妹の交流以外にないのですが、ここでその逃亡兵がアナに手品を見せてアナを笑わせる場面にアナの心の動きがあり、映画としての人民戦線側へのシンパシーをもあらわしているでしょう。

 発見され射殺された逃亡兵の消失に直面したアナが、つまりは「精霊のいる夜の世界」に行ってしまうという、美しくも恐ろしい描写でこの作品は終わります。幼いアナにはまだ「死」が理解出来ず、姉のイザベルがもうおとなの世界へと足を踏み込もうとし、おそらくは両親からの愛情も薄く感じられるアナの孤独な世界の行き着いた先は、それでも「死」に近接した世界だというのが、そのラストシーンに戦慄のようなものを感じさせられます。

 スペインの荒涼とした風景を背景に、美しいシーンがあれこれと見い出せる作品ですが、とりわけ、丘の上から遠くの廃屋へ駈け降りて行く姉妹の姿を、同じ位置のカメラから三段階にわけて撮影したショットがすばらしい。逃亡兵の潜む廃屋の中の暗闇が夜の闇につながるシーンもよかった。しかし、姉妹ら家族の住む家の窓にはめられた格子が六角形しているのは、そのままミツバチの巣なのだけれども、つまりはこの家族の生活をミツバチの生活のアナロジーとしているのか。そうするとタイトルの「ミツバチのささやき」とは、ラストのアナのひそやかなささやき、「私はアナ」ということばを指しているのだろう。

 なんだかものすごくゾクゾクしながら観ていて、書きたいことがもっともっとあるし、考えているとあれこれと連想がひろがるのだけれども、帰ってから気がついたのは、同じスペインの同じ時代を背景に撮られたギレルモ・デル・トロの2006年の作品「パンズ・ラビリンス」が、この「ミツバチのささやき」の相似形であること。「パンズ・ラビリンス」のヒロインはもう少し年長だけれども、閉塞した時代の、愛情の失われた世界のなかで、みずから精霊の世界へと足を踏み入れて行く。ある意味で作品の伝えることは同じではないかと思う。「パンズ・ラビリンス」もすばらしい作品だったけれども、やはりこの「ミツバチのささやき」は孤高の傑作。ヴィクトル・エリセの別の作品(この人の長編映画は3本しかないけれど)「エル・スール」も、この12月にスクリーンで観ることが出来る。行ってみたい。

 帰宅してもまだ明るい時間で、ミイが食事にやって来た。彼女が食べ終わった頃をみはからってベランダをのぞくと、先日の白猫がベランダの隅に寝そべっていた。わたしの姿をみたミイは、今までにないくらいあわててベランダの外に逃げ出した。それが白猫に「人間だ!逃げろ!」っていっているみたいで、ずいぶんと世話焼きで面倒見のいいヤツだなぁと、感心してしまった。

 今日は「ミツバチ」の曲を探しましょう。洋楽にも蜂(Bee)がタイトルに含まれる曲はいっぱいありますが、ここは小島麻由美の、そのものずばり「蜜蜂」という曲にいたします。五拍子の曲です。小島麻由美はDave Brubeck の「Take Five」が好きだと何かで言ってましたから、その影響で書かれた曲でしょう。彼女はこのあとも五拍子の曲はあれこれ作っていますが。

 「今日もまた 森のあの木陰まで 甘い蜜を 取りに行くの」という歌詞もなんとなく「ミツバチのささやき」っぽいような気がします。

 

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■ 2009-08-23(Sun)

[]Music to Watch Girls By [Bob Crewe Generation] Music to Watch Girls By  [Bob Crewe Generation]を含むブックマーク

 昨夜降った雨のせいか、暑さもひかえめでここちよい朝。スーパーに行ったらまたホッケを安く売っていたので買ってしまいます。なんだか、自分用というよりも、食べ残しを猫にあげようという発想にはある種の危険性がはらまれていると思いますが。

 今回のホッケは頭まで全部ついているフルボディで、猫も喜ぶだろう。しかし、焼き網にのせて焼いていて裏返すと(ホッケにとってはそちら側が「表」だろうけれど)かなりグロ。天寿を全う出来ず、無念の表情を浮かべたホッケくんであります。

 前に買ったホッケは脂が乗っていて非常においしかったけれど、今回はちょっとパサパサで、それほどでもない味。食べ終えた残りを全部猫皿にのせてベランダに持って行くと、タイミング良くちょうどミイが来ているところでした。ミイはわたしの姿を見てベランダから出て行こうとするのですが、わたしがさかなのにおいプンプンの皿を持っているのに気がついたのでしょうか、立ち止まってこっちを見てる。皿をベランダに置くとすぐに寄って来てカツカツと食べ始めます。魚肉の威力偉大なり。

 食べ終えてベランダから降りて行ったミイを見送ろうとベランダに出ると、駐車場にもう一匹の白い猫が居ります。ミイよりずっと大きくてワイルドな感じ。ミイとは顔なじみのようで、ミイが仲間のノラを連れて来たという感じです。

 「‥‥ともだち、つれてきたんか?」とミイに聞くと、「ニャア」と答える。困るなあ。猫屋敷にしようとは思っていないのだが。

 しかし連れて来られたノラはほんとにノラ猫のようで、人をとても警戒してベランダにも上がって来ません。「人間は苦手だよ」というノラを、「とにかくメシが食えるんだから」と、ミイが無理に引っ張って来たという感じ。実際にそんな会話がネコ語で交わされていたことでしょう。

 しかし、これ以上いろんな猫が来るようだと、見ている分には楽しいのだが何か方策を考えなくては。

 DVDは小津安二郎の「浮草」(1959)。ホームドラマではなく、どさ回りの旅役者の話で、小津監督自身の「浮草物語」(1934)のセルフリメイク。撮影が宮川一夫というのが興味深いところですが、なんだかローアングルがいつもよりさらにローになっているような。最初の方で溝口映画のような俯瞰ショットあり。というか、冒頭のシーンが海辺から写した灯台の絵なんだけれど、その岸辺側の右隅に一升瓶が置いてある。まあ灯台の形と相似形ではあるけれども、ジョルジォ・モランディの変な構図の絵を観た気分。

 結局こどもが親の望まない結婚を選択するという物語の骨子は、やはり小津監督の世界だけれども、家庭に定住して落ち着きたい座長のままならない願望とか、せつな的欲望の発露しか私生活のないような、定住のない団員たちの日常の描写が面白い。うちわとかたばこなどの小道具の使い方、アイスキャンデーやスイカ、ラムネ瓶の季節感、のれんやガラス窓の色彩や模様などが記憶に残ります。

 今日はミイの遊ぶ姿をいっぱい見ることが出来て楽しかった。おまけにもさ〜っとしたワイルドなノラも来たし、もう一匹の黒いのも来ていた。ノラはオスかも知れないけれど、あとはメスでしょう。「Music to Watch Girls By」という曲を選びました。これは1967年にBob Crewe Generation というユニットが放ったインストゥルメンタル曲ですが、Bob Crewe という人は、ソングライターとしてあれこれの有名なヒット曲を作曲されておられます。ヒット曲ではありませんが、映画「バーバレラ」にも曲を提供していたと思います。まああれこれ書き始めると長くなってしまう、アメリカのポピュラー音楽では重要な人物であります。

 この「Music to Watch Girls By」は、詩をつけたヴァージョンをAndy Williams がリリースしたりしていて、そっちが日本ではかなりヒットしました。そのころ日本ではAndy Williams が人気あったんです。これはあまり彼らしくはないアップテンポの軽快な曲だったのですが、その彼らしくない軽快さが日本では受けたのでしょう。この曲の邦題は「恋はリズムにのせて」というものでした。

 

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■ 2009-08-22(Sat)

[]Another Girl [Beatles] Another Girl [Beatles]を含むブックマーク

 曇っているのだけれども暑い。ムシムシする。ミイの姿が見えないのが気になる。ベランダの食事は食べられているけれど、どの猫が食べているのかわかりゃあしないです。

 家の近くの公園の前を通ったら、また見たことのない別の猫がいて、そいつはずいぶんと可愛らしいので近くに寄ってみると首輪をしていた。やっぱり飼い猫は毛並みが違うものです。

 夕食に冷凍してあった食材でレバニラ炒めをつくったけれど、醤油を入れすぎて失敗。外でドーンと花火の音がします。この日は花火大会。前の家だと玄関先からかなり近い距離で真正面に見ることが出来たけれど、ここからは向かいの家の屋根の上に、たまに半分だけ見えます。半円の花火。

 遅くなって外を見ると、いつのまにか雨が降っていました。

 DVDはキース・ゴードンという監督の「歌う大捜査線」(2003)。おちゃらけたタイトルで内容を誤解してしまうでしょうが、原題は「The Singing Detective」。原題もおちゃらけてるか。これはデニス・ポッターという脚本家が書いた脚本で、1980年代にイギリスのBBCでTVドラマ化されて評判になったもの。リメイクというか、デニス・ポッター自身が映画用にリライトした脚本の映画化、らしいです。監督のキース・ゴードンはもともとは俳優。プロデュースはメル・ギブスンらしくって、彼も出ている(メイクで誰だか判らなかった)。

 皮膚病で全身かさぶたに被われた探偵小説家が、入院している病院の中でいろんなポピュラー音楽を思い出してその歌手になったり、自分が小説の主人公になって事件を捜査する妄想にとらわれたり。そこに見舞いに来る奥さんとの微妙な関係が投影されて、幼児体験までさかのぼって思い出して。

 つまりは主人公の精神的危機を分析したサイコ・セラピー映画と言えばいいのか。映画技術的にはしっかりしたもので、とても楽しんで観ました。主人公の妄想のミュージカル的シーン(楽しい)のきらびやかな原色、探偵部分のフィルム・ノワールな暗さと影、病院シーンの蛍光灯の明かりと、照明とかがしっかりとした仕事を見せてくれて、堪能いたしました。

 出演してる俳優陣も豪華なもので(わたしでも6人ぐらい知っている俳優が出ていた)、それぞれの持ち味発揮でしょう。それまでどん底にいたロバート・ダウ二ー・Jrのカムバック作という側面もあるようです。

 今日は思いがけず楽しい映画に出会いました。

 あと、フィリップ・K・ディックの短編集「シビュラの目」を読了。最後の表題作以外は1960年代半ばに書かれたもので、SF政治小説といったおもむき。それほど面白いとは思わなかった。彼の神秘体験以降に書かれたらしい表題作も、スケッチ程度のものであまりピンと来なかった。

 今日は公園で別の猫を見かけたりしましたし、うちのベランダにもやはり別の猫が来ているようなので、Beatles の「Another Girl」にいたします。猫なんて皆ガールなのです。

 この曲は、1965年の彼らの映画出演第二作「HELP!」の中で歌われていた曲でした。この頃のBeatles は、それまでのアイドル・グループから脱皮しようともがいていたというか、ちょっとしたアイデンティティ・クライシスを感じさせるアルバムに聴こえます。この「Another Girl」は、まだ単純なポップ・ソング的な仕上がりでしょう。この次のアルバムが「Rubber Soul」になって、彼らはみごとにアイドル・グループから脱却するわけです。

 

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■ 2009-08-21(Fri)

[]It Happened Today [Curved Air] It Happened Today [Curved Air]を含むブックマーク

 ついに夏がやって来た。そういう感じで暑い。夜、ベランダで音がするのでミイが来たのかと思って、カーテンを開けてみると、知らない猫でした。ミイよりひとまわり小さくてまだ子猫なのでしょう。動作がのろっちくて頭悪そう。二匹飼うつもりはないのだが。

 風呂上がりに、ついにとうとうエアコンをつけました。まあつけなくてもガマン出来るのだけれども、せっかくあるのだし、いちどぐらいは使っておきたいと思って。エアコン、快適。

 気になっているのは、来週の月曜日に東京の映画館で「ミツバチのささやき」が上映されることで、この映画もしばらく観ていないし、ぜひともスクリーンで観てみたいとは思っている。先日面接をスポイルしたので、そのときにかかるはずだった交通費をこれにまわして行ってしまおうか。

 米5キロ1300円購入。ずっと一月に5キロの消費ペースが続いている。今月は食費の支出をだいぶ見直して、チープな食生活も軌道に乗ってきたような。まだ節約はできると思うので、どのくらいまで落とせるか。食費一日200円レベルは可能だと思う。あと、来月にはケータイ(PHS)の機種交換のときの割賦代金の支払が終了するはずなので、その分が多少は楽になるでしょう。

 DVDはアラン・パーカー監督の「エンゼル・ハート」(1987)。まあむかし見ていて、オチも知っているのだけれども。アラン・パーカーというのはスタイリッシュな映像が売りで、わたしはこの監督のこと好きだと思っていたのだけれども、久しぶりに見た彼の作品はなんだか腑に落ちない。表面の表象だけ描き込んだという感じがして、薄っぺらな印象。パースペクティヴが定まっていないというか、素材によりかかるだけなのですね。まあ自分の印象としても彼はリドリー・スコットみたいな監督で、運が良ければリドリー・スコットより売れっ子監督になれたのではないかとか思っていたけれど、これだとリドリー・スコットよりおちるでしょう。でも彼の「コミットメンツ」は大好きだけど。

 今日はついにエアコンをつけたので、イギリスのCurved Air のデビュー・アルバム、「Airconditioning」(1970) というのを思い出しました。でも、アルバムタイトルこそエアコンなのですが、そういう曲は入っていないので、一曲目の「It Happened Today」にします。

f:id:crosstalk:20090902115111g:image:right Curved Air は好きでした。Sonja Kristina というすてきなリード・ヴォーカリスト、そしてDarryl Way というヴァイオリン奏者のハデなプレイが売りでしたが、いかにもイギリス的な幻想的な曲もお得意でした。このアルバムが発売された当初はジャケットなし、いわゆるピクチャー・ディスクってヤツのさきがけで、アルバムの盤面にクレジットとイラストがプリントされていました。

 Curved Air は近年再結成して、なんと今年の初春に来日公演もやってるのですね。YouTubeに、その今年の来日公演でこの「It Happened Today」をやっているのがあったので、貼付けておきます。

 

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■ 2009-08-20(Thu)

[]There She Goes Again [Velvet Underground] There She Goes Again  [Velvet Underground]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20090902114819j:image:right 少し蒸し暑くなりました。ベランダのバジルが白い花をつけ、クレソンも少しずつ成長してるようです。ミイは用心深くなり、ベランダに来ていてもわたしの姿を見ると逃げる。向かいの駐車場の車の下で寝ていることが多い。ベランダのわたしと目があうこともあるけれど、ミイは気にとめないような素振り。

 ハローワークのホームページで検索しても、このあたりで応募出来そうな求人はなし。あれこれネットを見ていて、9月以降で観に行きたい舞台が連続している。特に11月はあれこれバッティングしそうだし、チケット代をどう捻出するか。

 昨日の遠出で疲れたか、だらだらと日を過ごす。

 夜はDVDで岩松了監督の「たみおのしあわせ」(2007)。予告などからまた不条理コメディだろうと思っていたら、軽く期待を裏切られます。近年の日本映画ではもっとも面白く感じられた作品です。

 ローアングルこそやっていないけれど、冒頭からのカット割り、カメラワークが如実に小津安二郎作品で、それがまねとかパロディではなく、きちんとこの映画の中の技術として使いこなしている。誰もいない室内に登場人物が外から入って来るとか、人物が去って誰もいなくなるとか、固定ショットの風景の連続で場面を転換するとか。とにかくそういう小津作品での映画技術/設定がいっぱい詰め込まれている(冒頭から息子はめし食べてるし)。そうやってみると、この作品の設定の「息子の結婚を願う父親」という父子家庭の設定はもろに小津作品の移し替え。

 でもこの作品はそういう単に小津作品へのパスティーシュではなく、「では」という感じで、父親の欲望にも視線を向け、彼の欲望の分身のようなかたちで、「屋根裏の散歩者」のような父の義理の弟などを登場させます。それで、息子の婚約者という存在がまた奇妙に怪しく、まさに「惑い」としてこの父子の前に姿をあらわして。

 で、ラストの結婚式で、父は「この女と息子をいっしょにしちゃいかん!」と気付き、息子は「父をこのまま置いて結婚出来ない!」となって、また過去のアメリカ映画の誰でも知ってるであろうラストシーンのパロディになだれこみ、これまた不思議な、これも昔の映画で見たようなエンディングになるの。

 まあストーリー(というか、ストーリーの背後にある構成)はすぐには判りきれないもどかしさ(それはわたしの理解力に問題があるだろうけれど)もあるし、この作品の面白さの大事な要素に、そういう過去の映画との関係が強すぎるのではないかとの疑問もないわけではないのですが、脚本自体は過去作品から離れたオリジナルなものですし、わたしは楽しんで観ました。

 とにかく、最初に書いたように、その映画技術としてのカット割り、撮影など、小津作品の影響うんぬんという前にこれ自体としてすばらしく魅力的で、息子の家で婚約者(麻生久美子)がゆかたに着替えてのシーンのカメラの動き、父と息子が結婚式の前に焼肉屋で会話するシーンのカット割りとか、とにかく観ていてわくわくしてしまう。他にもいいシーンがいっぱいあって書ききれないけれど、このみごとな撮影をやってのけたのは誰だろうとみたら、山崎裕という人で、彼のフィルモグラフィーを見るとなるほど、あの作品もだったのかあ、などと納得。この人の名前はチェックしておきましょう。あと、岩松了も、映画作家としてこれだけの力量があるんだから、また映画をつくって欲しいですね。

 さて、今日の一曲ですが、ねことおつきあいするようになって、選ぶのが楽になります。ポピュラー・ミュージックの大半を占めるラヴ・ソング、「彼女」を唄った曲をあれこれ選ぶことが出来るようになりましたから。まあ自分のことではそういうことがあっても選べませんし(日記から検閲してそういうこと書いてませんし)、まあ、わたしには今はそういうこともなくなってしまったようだし。

f:id:crosstalk:20090902114900j:image:left 今日は彼女がまた駐車場の車の下に行ってしまったので、Velvet Underground のファーストから「There She Goes Again」(1967) を選びます。もうあれこれ書くまでもない名作アルバムですが、その中ではこの曲はちょっと地味、ですね。

 このあいだ図書館に行ってこのアルバムの国内盤がおいてあるのをみて、初めてそれぞれの曲の邦題があるのを知ったのですが、この「There She Goes Again」の邦題は「もう一度彼女が行くところ」なんてなっていて。‥‥これって、中学生レベルの誤訳でやんすね。おそらく最初に国内盤がリリースされたときのタイトルでしょうけれど、レコード会社は修正する気はないのでしょうか。「Here she comes」は「やって来た」、「There she goes」は「行っちゃった」という常識的な慣用句で、このHere とかThere は特定の場所ではなく、「こっち」とか「あっち」という軽い感覚で添えられるわけでしょう。だからコレは「彼女はまた行っちゃった」てな意味です(時制がちがうけれど)。

 

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■ 2009-08-19(Wed)

[]Journey to The Center of The Mind [Amboy Dukes] Journey to The Center of The Mind  [Amboy Dukes]を含むブックマーク

 昨夜ベランダでカチャーンという音がした。ミイのために出してあるキャットフード用の皿がからっぽなのを、「ないぞー!」と、ミイが音を出して催促したようです。こいつ、意外とすれっ枯らしなのかも知れん。

 今日は東京で展覧会&映画。まずは新宿から初台まで歩き、オペラシティのギャラリーでの「鴻池朋子展・インタートラベラー 神話と遊ぶ人」。平日の昼間とあって、観客数はずいぶん少ないです。まあ鴻池朋子は現代美術の潮流からは少し距離のある人だと思うし、ある意味「ガロ」(漫画誌)的な情念の世界の表出に、そんなにたくさんの観客がいても気味が悪い。でも、彼女のつくったキャラクター「みみお」は、「キモかわいい」とブレイクして日本中に知れわたってしまう可能性もあるけど、それもこのギャラリーのとなりのショップで、その「みみお」の高さ20センチほどのぬいぐるみが12800円もするところから、そう容易くはブレイクもしないでしょう。

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 会場はインスタレーション展示というよりは、もう少し物語世界の探険を感じさせるような、いちめん見世物小屋的な展示になっていて、それがなんだか夏休みという時期に似合っている感じ。とにかくこの展示の中心の「地球の中心」にたどり着いたときには、「おおお!」と驚愕。

 彼女の描く平面は、こうやってみると、かつて流行した「ウイーン幻想派」の作品を思い出させられる。それは作品の背後に存在するであろう過剰な情念を感じさせる物語世界からであって、さらにその世界が「昆虫」「草花」「森」と連なれば、もっと時代をさかのぼって、ドイツ・ロマン派の絵画をも想起してしまう。しかしそれが「みみお」や、六本足のオオカミ、下半身が人間の蜂などの彼女の意匠によるキャラクターが、決して東欧の森ではない、まさに日本の森を背景に描かれるときに、日本的情念の表出として、例えば松井冬子などの作品とも近接して感じられてしまう。そういう意味ではこういう方向性は、今の日本美術でたしかに現在形のひとつの分野になっているのでしょうか。彼女の場合にはこの展覧会のタイトルにもあるように、その背景に、鴻池朋子さんの構築した原初的神話世界というものがあるわけです。その大きな舞台のひとつが「森」なのだと。

 彼女が画材として主に使っているのは「墨」で、この画材の選択が、やはりその作品に「日本的」と感じさせる力をあたえる素因になっているのでしょう。わたしもちょっと、墨を使ってみたくなった。

f:id:crosstalk:20090902114309j:image:right この展覧会、来月の9日には一日だけ入場無料になるそうで、また来てみようかな。写真はロビーにある鴻池朋子さんの作品。コレだけ撮影可(記念写真用なのだ)。

 外に出ると、街頭に掲示されている「現在の気温」というのが29℃になっていた。8月ももう後半だけれども、この時期の昼間に三十度を下回っているというのは、この数年では考えられないことだと思う。

 さて次は恵比寿に移動して、この日がサーヴィスデーで映画を1000円で見ることが出来る。「キャデラック・レコード〜音楽でアメリカを変えた人々の物語〜」って、副題が長い。監督はダーネル・マーティンという女性の方で、脚本もこの方。

 だいたいわたしは音楽を題材とした映画は好きで、まあそれは自分が知っている曲をスクリーン上で誰かが演奏しているのを見る/聴く楽しさからで、ある意味、ヴィジュアル付きのトリビュート・アルバムを聴いている感覚です。だからこの作品にも出ているビヨンセが前に出ていた「ドリームガールズ」なんて作品も映画館で見ました。でも、あの映画は音楽が全部新しいオリジナル曲だったし、ちっとも面白くなかった。あと、ジョニー・キャッシュの伝記映画「アイ・ウォーク・ザ・ライン」などは、主役のホアキン・フェニックスの歌声がジョニー・キャッシュのあまりに魅力的な声に程遠いもので、怒りすら覚えた。こういうのは映画の出来とかそういうのと関係ない次元のことで、まあそういう見方です。レイ・チャールズの伝記映画とかは楽しみましたが。

 この「キャデラック・レコード」、戦後から60年代にかけてブルーズやR&Bをリリースし続け、アメリカでのアフリカ系アーティストの成功の礎をつくったチェス・レコードというレーベルの歴史を、その創出者のレナード・チェス、ミュージシャンのマディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、エタ・ジェームズを中心に描いたもの。楽曲の演奏は現在のミュージシャンですが、楽しめました。当時のレコーディングされた音に合わせてか、あまり音を左右に拡げないモノーラルに近い音にして、中音域の音をせり上げ気味にしてあったようなのも良かった。チャック・ベリーの音が実際との落差を感じたぐらいかな。大フィーチャーされていた一種この作品のハイライト、エタ・ジェームズに扮したビヨンセの歌唱も良かったです。

 映画として見て、この演出にはそんなにほめられるところは残念ながらどこもないように思いましたけれど、脚本はポイントポイントを抽出して、「あのアーティストは出て来ないのか」というのはあったりするけれど、戦後アメリカのポピュラー・ミュージックの歴史の、要点になるところはしっかり押さえてあったのではないかと思いました。とにかく、最初にアラン・ローマックスが南部へ出向いて、その時には労務者だったマディ・ウォーターズの、フィールド・レコーディングをおこなうシーンなどが短くてもちゃんと描かれていたのはうれしかった。「ペイオラ」の件もいちおう匂わせながら、レイス・ミュージック(黒人音楽)から「ロックンロール」という呼称を生み出したDJのアラン・フリードなども、ちょこっと出て来ます。レコード会社による搾取の問題、人種差別問題、さらにジェンダーの問題、ファンとの関係など、決して問題に深入りはしないけれど、戦後から60年代への歴史にそって、要領よく収めてあったという印象はあります。まあそれが、「小さくまとめてしまった」という感じにもなりますが。

 そう、映画の最初の方のセリフ(ウィリー・ディクソンが語る)で、「最初に女の子が下着を投げた音楽がブルーズで、その下着を投げる女の子が白人になった時にロックになった。」というのが面白かった。

 映画館を出て外に出ると、もう暗くなっているけれど涼しい。近隣のビアガーデンにはそれなりに客がいるけれど、もう秋になったようなこの涼しさではビアガーデンでもないだろうという感じ。これが暑ければわたしだって、「映画を見たあとでホットだぜ。ちょっと一杯やって行きたいな!」などと考えるところだろうけれど、全然そんなこと思いつきもしなかった。

 そういうわけで今日は東京で楽しんで来ました。これが昨日の予定でのように「明日は面接でまた交通費がかかる」などと考えていたら、来ることもためらっていたことでしょう。

 鴻池朋子展の英語タイトルは「Journey to The Center of The Earth」というものでした。これはたしかH・G・ウェルズの「地底旅行」の原題です。今日の曲は、この小説のタイトルをもじった「Journey to The Center of The Mind」という曲にします。やっているのはデトロイト出身のAmboy Dukes というバンドで、1968年の彼ら唯一のヒット曲。つまりサイケデリック流行のころ、ドラッグによる幻覚をマクロコスモス=ミクロコスモス、精神世界への旅と認識し始めた時代の曲です。

 そう、このAmboy Dukes には、かのTed Nugent っつう、後にハデハデに大活躍するギタリストが在籍しておられました。たしかに、この曲を今聴いても、ドラッグによる幻覚を誘ったり、幻覚をイメージした曲というよりも、後のTed Nugent の音楽のようなハードロック、という感じではあります。

 

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■ 2009-08-18(Tue)

[]She's Gone [Daryl Hall & John Oats] She's Gone [Daryl Hall & John Oats]を含むブックマーク

 薄曇り。外出して帰宅すると、駐車場の入り口にミイ(ミイ、ということにした)がいます。「よお、どこ行くんだよお?」と声をかけると、一瞬こっちを見て、ふっ飛んで逆の方向へ逃げて行ってしまいます。少し傷ついた。

 木曜日につくばの方で面接、との連絡がありました。ここに就職出来れば交通費の補助はかなり出るのだけれども、それでも給与からの持ち出しになる。その前に、4000円ぐらいかかる面接への交通費がきつい。最寄りの駅から歩いて行ける距離の場所なら勤めることに前向きにもなれますが、バスを使わなければならなくなると給料の手取りはぐんと少なくなります。今免除されている住民税や国保の支払い義務が復活すると、昼食などにかける費用を考えると今よりも苦しい生活になるようです。今月は無駄に水戸への面接にも行っているし、ここもやはり断念しよう。面接に行く交通費の件は役所に問い合わせてみようか。

f:id:crosstalk:20090902113950j:image:left 図書館本、磯崎憲一郎の「世紀の発見」読了。やはりわたしは、この磯崎憲一郎が近年の作家では飛び抜けていると思う。というか、方法論としてのいままでにない新しい試みから、まったく新しいかたちの作品を産み出しておられると思う。それはまず物語として読むものを慰撫するようなものではなく、小説という枠組み、形式をいままでにない方向に逸脱させている面白さがあるような。

 この本には表題作の「世紀の発見」と、「絵画」という短編の二作がおさめられているけれど、まずは「世紀の発見」が面白い。なんて言うんだろう、センテンスがどんどん勝手に移り変わっていくというか、いろんな方向へ展開していくのだけれども、それが展開しっぱなしというか、まるで拡げた文章を片っ端からピンでとめて展翅標本にしてあるような印象がある。骨子となるストーリー/物語はちゃんとあるのだけれども、その展開もまた唐突。主人公「彼」の少年時代の回想から始まりながら、突然に成人した彼は、ナイジェリアで不確実な仕事の開始を待っている。かと思うともう帰国して、結婚して幼い子供もいたりする。

 この小説の出だしは次のようなもの。

 いまではまったく信じがたい話だが、私たちはついこのあいだまで花は花屋で、肉は肉屋で、服は仕立屋で買う世界に住んでいた。

 ‥‥なのだけれども、これ以降の小説の展開と、この専門小売店の主流だった世界の話とは、ほぼ関係がない。ただ主人公の「彼」の両親が仕立屋をやっていたということでつながるにすぎない。こういうのは彼の前作「眼と太陽」(わたし思うに、傑作です)でも、その冒頭はたしか「どうしても海外の女性と寝ておかなければならないと彼は思っていた」みたいな書き出しだったと記憶していて、それだって小説のテーマとはまず関係なかったわけだし、急に主人公の同僚の、彼の過去の恋人との交際の話が始まったり、展開の唐突さは共通していると思う。

 磯崎憲一郎の作品の魅力を書きあらわすのはむずかしいのだけれども、文章というものが、ひとつらなりの作品の中で、視点を変えたり、時間軸、空間軸も移動することが出来る、それは当たり前のことなのだけれども、そういう実験の試みが豊かな成果を産み出しているというしかないでしょうか。それと、これは種明かしじみてしまうけれども、彼の第一作「肝心の子供」、そして前の「眼と太陽」、それからこの「世紀の発見」には共通するものがあって、それはひときわ高くそびえる木の生えた森のある世界ということで、これは彼の三つの作品のラストで、それぞれが重要な意味性をおびて語られるわけです。それぞれの作品でのその「森/木」の意味合いは異なっているけれども、どれもがその作品のキーになっています。

 この作品でいえば、少年時代に「彼」が友だちの「A」を見失う森、ナイジェリアで野生の巨大なヤギが出てくる森、そしてラストの森、ということです。そういうふうにこの作品を読んでいると、それだけでもうなんだかゾクゾクして来てしまうわけです。まあ歴史的時間のこととか、親と子のこととか、いろいろとある作品ですけれども。

 もう一編の「絵画」というのは、そういう、ことばをイメージの媒介として使うのではなく、センテンスの集積とみてイメージを記録する試みではないかと思いました。で、この小品の「視点」はどこから書かれているのか。基本は川に架かる橋を中心に書き進められているのだけれども、それらは最後に突然に、バスの後部座席に座った女子高生の視点に吸い取られ、さらに川の中の一匹のカメの時間で作品が閉じられる。これもとても面白かった。これで次は彼の最新作、芥川賞受賞作でしたっけ、を読むだけです。

 DVDは大林宣彦監督の「時をかける少女」(1983)などを。できるだけカット割りを少なくして、切り返しなどいちばんラストまで使わないのは効果的だけど、ではなんで最後近くの老夫婦を写す時だけ、近接アップで切り返しになるのか、トータルな作品イメージはここでぶち壊しになってしまう。これはその老夫婦を演じたビッグネーム俳優へのおもねりとしか考えられず、こういうところでもわたしはこの作品の監督が好きになれない。でもこの作品は尾道の風景とか夜の照明とかうまく撮ってあるし、人形や柱時計が出てきて「時間」の話となると、まるで天野天街(少年王者舘)みたい。

 あと、フランソワ・トリュフォー監督の「家庭」(1970)。アントワーヌ・ドワネルの冒険シリーズ第4作。こういう皮相な感覚というのはウッディ・アレンみたいだなあなどと思いながら見ました。これもカット割りが少ない作品です。カメラがちょっとわきにそれて、またもどると花の色が変わっていたりとか、もう映画の基本みたいなトリックをやることが、やはりトリュフォーという人の映画への愛を感じさせてくれたりします。

 今日の曲は、猫のミイがわたしを見て逃げて行ったので、Daryl Hall & John Oats の「She's Gone」(1974) にいたします。戻って来るだろうけれども。

 Daryl Hall & John Oats 、80年代にバカ売れしてからは、わたしにはどうでもいい人たちになってしまいましたが、70年代の彼らは好きでした。これは彼らのデビュー曲ではなかったか、ちょっとあまり記憶にありませんが。

 

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■ 2009-08-17(Mon)

[]All By Myself [Eric Carmen] All By Myself [Eric Carmen]を含むブックマーク

 暑くなったとは言え、朝晩は涼しく寝苦しい思いもすることがない。朝起きてバジルに水をやるけれど、やはり最近葉がぐったりしています。あまり湿度のない天候のせいなのか。葉っぱの具合とか見ていると、ベランダの下からねこの鳴き声が。こちらに姿を見せるように出てきて、わたしにうるさく鳴いている。皿のキャットフードがなくなっているので、そうか、「メシくれ〜」と言ってるわけだな。ずいぶんと人慣れしている。どこかよそでも可愛がってもらっているのかも知れません。

 皿にキャットフードを盛ってやるのを見ていて、「ほら」とやると、わたしのことも気にしないでベランダに上がってきて、カリカリと食べ始める。そばにいっても気にしないようなので、背中を撫でてみる。ちょっとたじろぐけれど、逃げたりはしない。しばらくあとでベランダを見ると、またエアコン室外機の下で寝ている。この家に懐いたと考えていいのですかね。

f:id:crosstalk:20090902113714j:image:right いつもバジルのことばかり書いているけれど、じつは、クレソンも復活して成長しています。生き延びた数は少ないけれど、だいぶ大きくなりました。食べてみたいけれど、数が少ないので今は秋まで成長させよう。しかし、やはりクレソンには虫がつく。それだけおいしいんだろうけど、今日も1センチぐらいの芋虫がついていたのを排除。だいぶ葉っぱを食べられてしまってます。

 今日はバジルを取り入れて料理に使おうと、またバジリコ・スパゲッティを。残っていた松の実を少しから煎りして、生のにんにくとみじん切りにしてサラダオイルで混ぜておき、そこにバジルの葉を大量に摘んできて、大きな葉脈を取り除いて刻み、先のソースに混ぜます。ちょっとごま油を入れるのがポイント(ほんとは全部オリーブオイルを使うのだけど)。これを茹でたパスタにあえて完成。われながら美味と感じる。ソースはかなり作ったので、あと3〜4回行けそう。

 松の実がちょっと高価なのが難点だけれども、これはカシューナッツとかくるみとかピスタチオとか、そういうおつまみ系で代用できるのではないかと思う。バタピーでも行けるかも知れない。次回トライしてみましょう。

 午後からハローワーク。盆休みも明けて、今日は34人待ち、1時間強の待ち時間。今日の案件は駅からあまりに遠いので、電車通勤は無理だろうということで却下。

 夜のDVDは小津安二郎監督の「彼岸花」(1958)。里見とんの原作。里見とんというのは今はもう見向きもされない作家というか、わたしも読んだことなどない。どうも小津監督は原作があるとその原作の観念に引きずられてしまうというか、少し余裕がなくなるような気がします。例によって主人公の家庭、会社、そして料亭、銀座のバー、地方の知人宅、そしてどこか観光地というシーンの組み合わせはおなじみのもので、もう何がどの映画だったのか、わからなくなってしまう。

 今回はまたカラーということで、リマスターもきれいに施されているようで美しいです。特に室内にポイントで置かれた赤というか朱色の小物。たいていのシーンに、どこかにそんな朱色の小物が置かれているのね。赤いやかん、魔法瓶、茶筒、ラジオとか、そして洗濯物も。そういう中で片隅に置かれた白い壷に眼が行ってしまうのは、決してそれが「晩春」の壷を思い出させるからというわけではありません。

 まあ娘の結婚を迎えて気持ちの整理出来ない家長を描いたコメディなんだけれど、最後の方で画面いっぱいに浪花千栄子と山本富士子が行儀良く並んで、主人公の佐分利伸をいぢめる(?)シーンは面白かった。この二人の母娘が大阪で、主人公の娘は広島へ行く。そういう日本での東京/地方という視点もあるのだというのは、前の「麦秋」でようやく気が付いたこと。

 今日は昼食が自家製のバジル・ソースのスパゲッティ、夕食が昨日作った野菜サラダに自家製のマヨネーズと、いちにち自家製モードだったので、「All By Myself」という曲にいたします。まあ野菜やパスタまで自分でつくったわけではないですけれど。

 この曲はEric Carmen の1976年のヒット曲。Eric Carmen は、ソロになる前はRaspberries というグループのリードシンガーとして人気がありました。「Go All The Way」なんてヒット曲がありました。貴公子然としたルックスだったEric Carmen は、クラシックの素養もあるとかで、この「All By Myself」でも、間奏にクラシック調のピアノ演奏が披露されておりました。わたしの趣味の曲ではありません。きっと猫の趣味でしょう。

 

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■ 2009-08-16(Sun)

[]Boilin' Pot [J. J. Cale] Boilin' Pot [J. J. Cale]を含むブックマーク

 少し暑い。これから夏本番なのでしょうか。バジルがくったりしてしまって、もうダメかも知れません。最近あまりバジルを料理に使っていなかったので、枯れてしまう前にもう少し食用にしておかないと、コスト・パフォーマンスが悪いです。

 ねこの食事はベランダに出しておくといつの間にかなくなっています。出しておく場所を室内から見える場所に移動しておいたら、ミイミイさまがやって来て、あまりこちらを警戒せずに食べてます。

 今日はほとんど何もせず。午前中TVを見てすごし、昼食は冷し中華にトマトとハムと卵焼きを錦糸卵風に細く切ったのを入れて。キュウリがあれば完璧に近いのだけれども、どうもキュウリというのは、普段あまり食べたいとは思わない食材の一つだし、一人暮らしで買うには量が多すぎます。一本ずつのバラ売りがあればいいが。

 午後はTVを見ていてそのまま眠ってしまい、あらららと目覚めたあとはネットをあれこれ見ていて、ある映画雑誌の、コラムのたくさん載っているサイトなどをずっと読んでいました。過去の日本映画をシナリオから分析していくのなど面白かった。わたしは最近はもう映画のストーリーとかどうでも良くて、なんか技術的にインパクトのあるシーンがあればそれでいいみたいな見方してるので、勉強になった。まあシナリオから見ていくのは普通なんでしょうけれどもね。だからわたしの見方だと溝口健二の作品なんかでは一般の評価は低くても「お遊さま」がいちばんだし、「元禄忠臣蔵」もすごいと思う。どっちも「ダメだ」というところもわかるけれど。

 あたりまえだけれど、最近の映画を見ないで、古い映画ばかり「良かった」などと回顧するのはじじくさい。映画自体のつくり方が変わってしまって、もう今ではほとんどやられないような技術/手法とかでも、見てみれば面白いものだし、そういう技術を革新してきた監督の作品はやはり啓発される。今の映画だって良い作品はいっぱいある。日本なら黒沢清の作品や、海外のなら最近記憶に残るのは「ジェシー・ジェームズの暗殺」とか、「記憶の棘」など。一般の評価は低いけれど、わたしは好きだな。

 夕食は菜食主義で行くことにして、ブロッコリーとジャガイモとニンジンの温サラダをメインに。いっぺんにまとめてゆでちゃえばいいのかも知れないけれど、ゆでるときに味が混ざっちゃう気がするし、それぞれに適した塩加減というのがあると思うので、別々にゆでて、食べるときにいっしょにする。ニンジンはいちばん塩を少なくして、次にブロッコリー。ジャガイモは少し塩味を強くして。

 ほんとうはブロッコリーの葉っぱというのもかなり美味しいらしいのだけれども、スーパーではぜんぶ葉っぱはもぎられちゃいます。ま、葉っぱつけてたらわさわさして店頭に並べられないだろうけれど。で、茎のところがまた美味しいので、スーパーで選ぶときはできるだけ茎の大きくついているのを選びますね。

 大量に出来たので、3〜4食分あるでしょう。これにマヨネーズをあえてメイン・ディッシュ。今回はマヨネーズをたくさん使いそうなので、前にやってみた自家製のマヨネーズにまたトライ。ほんとは市販のマヨネーズの方がやはり、ブレンドの具合とか、調味料の配分とかでおいしいと思うし、自家製は何日も保存出来ないからコスト差もあまりないと思うのだけれども。

 このおかずは、経済的でおいしくてなかなかのお気に入り。ヘルシーだしぃ。

 夜は「エリザベス」(シェカール・カプール監督、1998年)を見ます。皇帝〜王族シリーズですね。いかにも「史劇」という感じで、特に面白くも何ともない。昨日見た「ラストエンペラー」は、やはり卓越していたな。

 ラスト近くのエリザベス女王が髪をすっかりカットする場面、これはファースト・シーンの髪を切られて火あぶり処刑される新教徒の女性と対応してるわけで、エリザベスがイギリスという国に滅私して身も心を捧げる一種サクリファイスの儀式なんだけど、ここでのケイト・ブランシェットの、能面のような、CGでつくられたような無表情がすごかった。ケイト・ブランシェットは、こういう表情をあれこれ作れるのが魅力の俳優さんです。「ロード・オブ・ザ・リング」での、微笑みの表情もすごかったわけで。

 宴会の席で、エリザベス女王が「ヴォルタ!」とか声を上げて、恋人とダンスするシーンが二回ほど出てきて、ヴォルタって何よ?と調べたら、つまりはこれは当時の宮廷ダンス/社交ダンスで、wiki を見ると、エリザベスの時代まではラウンドダンスという、コンタクトのないダンスが主流だったのが、この(wikiの表記では)ラ・ボルタというカップルダンスが登場したと、わざわざエリザベスの名前まで出して紹介してある。むこうではエリザベス=ヴォルタってくらい知られている逸話なのか、映画の中でも説明なくやっていたので、ここでヴォルタを選ぶのがボディ・コンタクトを選ぶということとはわからなかった。映画での演出効果もあいまいだったし。

 今日はね、野菜をゆでたりしたので、ボイル。なぜかそういう曲を探して、鍋でのボイルではないけれど、「Boilin' Pot」という曲を選びます。演っているのは、わたしがずっと大好きなJ. J. Cale。彼の1979年のアルバム「5」からです。

f:id:crosstalk:20090902113404j:image:right J. J. Cale はClapton の"After Midnight" とか"Cocaine" の作者でもありますです。J. J. Cale のオリジナルの方がずっと渋くっていいんですけれどもね。彼のアルバムはいつもタイトルが素っ気なくて、かならずワン・ワード。だったのが、10枚目ぐらいのアルバムのタイトルが「Travel Log」で、うわっ、単語二つだよ!って驚いたものです。彼はほんとはJohn Cale という名前なのだけれど、それでは同じ名前の彼がいるので、この名前にしたらしいです。

 この方はつまり、タルサ・サウンドって呼ばれてる音ですね。ブルーズとか、カントリーとか、それからジャズとかのエッセンスも感じさせられる音です。彼のヴォーカルがぼそぼそしていて、またいいんです。

 この「5」というアルバムは、彼のなかではいちばんのわたしのお気に入り。そう、このアルバムからバックにChristine Lakeland という、ギター/ヴォーカルの女性(美しい!)が加わるのですが、彼女のバック・ヴォーカルがまたいいんです。

 UTube にちょうどこの曲をライヴでやってるのがありました。Christine Lakeland の顔があまり見えないですね。着ているのはハッピでしょうか???

 

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■ 2009-08-15(Sat)

[]Summer Samba [Walter Wanderley] Summer Samba  [Walter Wanderley]を含むブックマーク

 外に出るとやはり日ざしは強いのですが、今日もしのぎやすい快適な天候。ベランダのバジルは昼間は暑さでぐったりしてしまうようですが、成長を続けています。もうすぐ花が咲きそうです。

 ベランダに出て、「あれ?」と思うと、エアコンの室外機の下のすきまで、猫が眠っていました。私の気配も気にせずに熟睡しているようです。まあずいぶんなついてくれたというか。それで、スーパーへ行って、ついにキャットフードを買って来てしまいます。大きな逸脱です。もうこれからは、こいつを「ウチの猫」と呼べることをめざす路線を選択したということです。自分のエサ代にも窮々としているのに、他の固体の面倒をみようとは。

 しかし、結局エアコンは使わないまま、この夏も終わってしまいそうです(先日試運転はやってみましたが)。

 スーパーで酢ダコが半額になっていたので買ってきて、もう一軒のドラッグストアでは日本酒が半額で、夕食はちょっと晩酌気分。

 今夜は盆踊り。二年ほど前にいちど見ていますが、天気もいいので暗くなってから出かけてみました。

f:id:crosstalk:20090902113034j:image:right 美術館の前の広場にやぐらを組んで、その周囲で踊ります。音はナマ演奏ナマ音。太鼓が四〜五人、三味線が四人、そのうちの一人は尺八のような縦笛を兼任されていますが、その笛の音は尺八とは違うようです。それから唄が三人で、それぞれメインの唄と囃子を順繰りに。

f:id:crosstalk:20090902113117j:image:left 始まりから終わりまで全部見たわけではありませんが、ここの盆踊りは二曲しかやらないのだと思います。「下館音頭」というのと、「笠抜け踊り」というのと。で、これをそれぞれ四〜五十分演奏して踊るんです。歌詞なんか何度もくり返しでしょうけれど、とにかく生演奏ですからいくらでも伸ばせるわけです。

 「下館音頭」は、戦時中にこのあたりに疎開していた西条八十が作詞した曲だそうですけど、まあオーソドックスな盆踊り唄です。面白いのは「笠抜け踊り」で、これは唄も男性にバトンタッチして、河内音頭風というか、かなりワイルドな曲です。これに笠を持って踊るのがセットになっているわけだけど、笠をくるくる回したり、そんなすぐに真似できるような簡単なものではないみたい。唄ってる歌詞があまりよく聴き取れないのですが、どうもこれは侠客の唄というか、やくざの出入りか何かを唄ってる? 笠抜けというか足抜けというか、「しもだて、男の町よぉ〜」なんて唄ってます。どのような背後の歴史があるのかわかりませんけれども、「下館音頭」が戦後からでしょうから、そんなに古いものではないでしょう。この土地のそういう侠客の歴史というのもあれこれあるでしょう。実はこの土地、そういう人たちが今に連なって影の勢力を持っておられます(どこにもあるでしょうけれど)。「ココはそういう人の屋敷」というのを教えてもらったことがありますが、豪邸なのですが、このあたりに多い豪農の邸宅とは、確実に造りがちがいます。

 帰宅してTVをつけると、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を放映していました。チャンネルを変えていて、その一瞬のカットを見ただけで「おお」と思える力を持っています。「なんだこれは」と思うと、「硫黄島からの手紙」だったわけです。途中からですが、最後まで見てしまいました。

 こういうドラマ造りって、不思議というか、どうしてこういう風に完成されるのか。特に独特の演出をしているというのでもなく、非常にオーソドックスな造りのようでいて、それでいてここまで力強いのはなぜなんだろう。おそらく一つには俳優の演技に頼っていないことがあるんだろうな。そういう演出だから、ほとんどがことばの通じない日本人ばかりの作品でも演出できる。状況の描写から的確に攻めていくから、人のドラマ自体も状況なのだという視点が導かれるんだろう。

 このところようやく、夏らしい気候が続いています。今年は汗まみれになるようなこともなく、このまま秋へと引き継がれていくのでしょうか。今日は盆踊りも見てきたので、そんなのを探しましたけれどわからない。まあ今日の気候なんかだとボサノバもいいな、と、こんな曲を選びました。Walter Wanderley の「Summer Samba」です。Samba も夏の踊りって感じですし、よろしいでしょう。

 この曲には「So Nice」ってタイトルもあって、じつに多くのアーティストにレコーディングされている、ボサノバの定番中の定番です。Astrud Gilberto のヴォーカル・ヴァージョンも捨てがたいですが、今日はオルガンの音色がこの季節にピッタリな、Walter Wanderley の演奏で行きましょう。このWalter Wanderley のヴァージョンは、1966年にアメリカでもかなりのヒットになりました。この曲と、1964年に大ヒットした、Stan Gets / Astrud Gilberto の「The Girl From Ipanema」が、ボサノバのイメージを世界に広めたわけでしょう。

 

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■ 2009-08-14(Fri)

[]On a Slow Boat to China [Benny Goodman Orchestra] On a Slow Boat to China  [Benny Goodman Orchestra]を含むブックマーク

 今日は一日晴天。気温もそれほど高く感じないし、窓を開けると風が部屋を通り抜け、避暑地の夏のような快適な日でした。こういう日には少しでも東京よりも北にいる恩恵を思ったりしますが、東京でも同じような気候だったのかも知れません。

 ベランダに、猫のミイミイさまがお出ましです。今日はわたしが近づいても逃げない。いちおう、先日間違えて水をかけてしまった件を謝罪しておきますが、まあ判ってはくれないでしょう。で、至近距離から写真を。

f:id:crosstalk:20090902112618j:image:left こいつがミイミイさまです。って、名前それで決定かよ。あまり可愛くないので仕方ないでしょ。マンガのミイミイさまは村の悪代官の巨大な飼い猫で、雀が大好物です。おかげで村から雀がいなくなり、稲に害虫がついて村は凶作になるのです。でもベランダにいるコイツは、先日雀をとる能力ないところを見てしまいました。ま、マンガのミイミイさまも自分ではとらないで、飼い主の悪代官の家来がとって来てやるんですが。

 昨日図書館から「近代天皇制国家と民衆・アジア」(松尾章一:著)などという、恐ろしいタイトルの本を借りてしまっていまして、ちょっと読んでみようとページをくくったら、その序文が「歴史を学ぶということ」というまた恐ろしい文で、読んで恐怖で震えてしまいます。すいません。今日もまたこういうことやってしまいます。その冒頭のところを少し。

 私は毎年のように大学で教養科目の日本史を受講してくれる新入生諸君にたいして、「諸君が学んできた歴史は、『科学=学問としての歴史学』なのだろうか?」と問いかけることにしている。私は講義のなかで、文部省検定済の高校教科書や受験参考書の記述が唯一の正しい歴史だと思いこまされて、もっぱら字句通りに暗記させられてきたこま切れの歴史「知識」を、自分の頭でもういちど考えなおさせ、個々の事実や事件の相互関係を説明できる能力を養わせることを主眼においている。とくに最近の青年・学生諸君は、論理的思考力に欠けていて、歴史を「ドラマ」(ロマン)としてみている傾向が非常に強いからである。

 ‥‥途中の長いセンテンスが、どこに主語があるのか何が何なのか曖昧模糊になっているようですが、そんなことは二の次にして、学校行ってこんなセンセにぶちあたったら、わたしはもう歴史の勉強大嫌いになりますね。「別におかしなこと言っていないではないか」と思われる方もいるでしょうけれど。

 がまんして読んでいると、このあとにこんな文章がありました。

 したがって私は、学生にたいして、つねに「学問としての歴史学」、「社会科学としての歴史学」を学ぶことを強調している。なぜならば、大学とは、学問すなわち科学を学ぶ場であるからである。(‥略‥)科学=学問とは、すべての事象に「法則」が存在することを認識する行為だからである。自然現象に「法則」が存在することを認める立場(自然科学)と同様に、人間の社会にも「法則」があることを承認する立場が、社会科学なのである。

 をいをい、これはいったいいつごろ書かれた本なのだよ? 装丁はごく最近の本のようだけど、戦前とか、昭和三十年とか四十年代に書かれたのではないかと奥付を見て、1997年。ま、書いている松尾章一センセイは1930年生まれとあるから、そのあたりの価値観なのでしょうね。つまりこの先生は、「歴史にも法則がある」と言ってらっしゃるわけで、その法則を探るのが歴史学だと。しかし1997年にはまだこういうのが主流の論理だったのでしょうか、それとも「法則」なんてないと思うわたしの意見がおかしいのか。「法則」というのは「普遍的・必然的関係」ということで、いちどそこに法則があると立証されたら、くつがえしようのないものということ。そしたら歴史学なんて、そういう立証された法則を丸暗記すればいいだけじゃん(非常に乱暴な言い方をしておりますが)。だからこいつらは「◯◯を学習するのなら●●について考察することが必要でしょう」などと、人のやることに指図するわけですね。この人たちは天皇制というと東アジアと、条件反射みたいに言うわけだ。タイトルからも左翼チックな本であることは想像がつくけれど、もうほんと、わたしはこういう既成左翼(勝手に決めてるが)が大っ嫌い。まだ性器に反応する佐野眞一の方がかわゆいではないか。読むのがもういやになっちゃいました。

 気をとりなおして読んでいた本を放り投げ、夜はDVD。今日はベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストエンペラー」(1987)を観ました。当時映画館で観ましたが、もう20年以上前の映画なんですね。もちろんヴィットリオ・ストラーロによる紫禁城内での撮影の、豊かな色彩とスケールの大きさは極上の素晴らしさなのですが、この作品にはどこか官能的な、エロチックな空気がずっと流れている。それが単に時代と運命に翻弄された孤独の皇帝の話を超えて、一人の特異な人生を送った男の体験した感覚として、彼の成長に合わせて描写しているのがいいんです。だからもう、庭園の中で乳母と秘密の関係を持つシーンとか、少年時代に城内の宦官と布をかぶって遊ぶシーンとか、観る方にも官能のときめきが伝わってくる感じです。もちろん、その宦官たちと遊んだ布が、映画のラスト近くで紅衛兵の振りまわす大きな赤い党旗へと姿を変えて、その若い紅衛兵たちの官能性をもまたあらわしているのだと観るのは、あまりに穿った見方なのでしょうけれども。

 音楽にDavid Byrne と中国系の作曲家と三人が関わっていて、中国系の作曲家のは「これ」とわかるけれど、David Byrne の曲はどこで使われているのか確実にはわからない。リズムがついているので、たぶんコレかな?というのはあったけれど。

 今日はまだ怒りおさまらない中、中国を舞台にした「ラストエンペラー」を観ましたので、中国に関した曲を探してみました。すぐに思い出すのはジャズのスタンダード・ナンバー、「On a Slow Boat to China」です。いろいろな人がやっていますけれど、「ラストエンペラー」に出てくる天津の租界地でも流れていそうなのは、Benny Goodman Orchestra のヴァージョンでしょうか。こういう音楽も、聴いていると時代を感じさせて、とても魅力的です。

 

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■ 2009-08-13(Thu)

[]Catch a Falling Star [Perry Como] Catch a Falling Star [Perry Como]を含むブックマーク

 Google のロゴが流星群の絵になっていて、それでペルセウス座流星群のピークなのだと知りました。夜になってベランダから空を見てみますが、このあたりはいちおうこれでも市街地といいますか、前の住まいに比べるとまわりが明るくて、星はあまり見えません。前の住まいの辺りは、晴れた夜にはほんとうに満天の星だったのですけれど。今夜は少しうす曇りだし、やはり見えないだろうかと思っていたら、目の前の空の正面を、スッと光がよぎりました。右から左へ、まさに夜空を横断するというような長い軌跡を残して消え、ちょっと不意をつかれた感じ。でもまあ、流れ星なんか見るのは久しぶりのことです。「流星群」というような複数でなく、たった一つだったけれど。

 昼間はハローワーク詣で。今日は入り口あたりにたむろしている人たちがいないな、などと思って中に入ると、がら空きですね。そりゃそうだ。今日から一般には「お盆」真っ盛り。企業もほとんどお休みでしょうから。で、今日の相談は二人待ち。時間にして15分ぐらい待ったでしょうか。これではせっかく持参した本を読むひまもありません。

 やはり、連絡を取ろうとした会社の一社はお休み中のようで、月曜日に出直すことにします。一社紹介いただき、帰宅して履歴書を書いて郵送します。

 ハローワークの帰りにDVDレンタルの店と図書館とまわり、DVDなど借りて来ます。本を借りるのはしばらくお休みしようと思っていたのですが、磯崎憲一郎の、芥川賞受賞作ではない、新しい小説集があったので借りて来ます。前作「眼と太陽」は、わたしの読んだ小説の中ではほんとに近年の傑作だったと思います。この磯崎憲一郎、そして青木淳悟、ちょっとアレだが金原ひとみあたりが、わたしが近年その新作を楽しみにしている作家たちです。

f:id:crosstalk:20090902112302j:image:right 今日はそこそこ暑くもあり、陽射しも強くて、セミもジージー鳴いているし、いかにも夏らしい午後です。歩いていても、夏休みの昼下がりという感覚が呼び起こされるようです。最近の夏はもっともっと暑苦しい日が続いた記憶がありますが、今年はそういうのでは空振りの夏でしょうか。もう今年の夏もピークを過ぎる頃です。これから暑くなるのかな。

 帰宅して、図書館から借りた「スパイダーマン」を見ます。サム・ライミ監督の2002年の作品で、大ヒットしたシリーズの第一作ですね。サム・ライミ監督、この作品の前の「ギフト」とか「シンプル・プラン」とか、けっこう好きでした。で、さてこの作品は?というと、思い切りお子さま向けに、じつに分かりやすく丁寧に作っています。これは親子でいっしょに映画館で見ることが出来るということで、ヒットするでしょうね。それで、ポイントは、都会の高層ビルの連なりを一種遊園地感覚で遊び回ろうというわけです。途中の街なかで行われる祝賀祭典の原色氾濫ぶりとか、いい感じです。まあすべて中庸の美学といいますか、コテコテの描写は避け、ウィレム・デフォーなどもいつもの変態性をずっと抑えてる感じです。サム・ライミという人も商売人ですね。

 ただ、スパイダーマンがビルの壁をよじ登ったり、ビルの谷間を蜘蛛の糸でターザンするところなんか、カメラがあまりにあちこち移動して上下感覚がなくなるもんだから(もちろん、意図としてはそういう上下感覚をなくすためにやってるんでしょうけれど)、こう、ノーマルな視点からだと、どれだけ奇異なのかというのがちょっと伝わって来ないです。壁を登っていても、カメラが90度傾いて撮影すれば、床を這いつくばっているのと同じに見えますから(実際に撮影はそうやっているんでしょうけれども)、そんなにすごいって思えなかったり。

 今日は流れ星を一つだけ見ることが出来たので、Perry Como の1958年のヒット曲、「Catch a Falling Star」というのを選びます。Perry Como などというのはわたしの親の世代に人気のあった歌手で、「ペリー・コモ・ショー」という番組は日本でもTV放映されていたのではないかと思います。非常に清潔なイメージの人、という記憶はあるのですが、実際にマフィアとの関係を避けるため、カジノでのショーにはいっさい出演しなかったそうです。ジャズのカテゴリーではなく、あくまでもポピュラー・ミュージックの世界で活躍されたというか、50年代アメリカのポピュラー・ミュージックのイメージの、その大きな源泉となる人だったでしょう。

 

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■ 2009-08-12(Wed)

[]Here Comes The Judge [Shorty Long] Here Comes The Judge [Shorty Long]を含むブックマーク

 まだ選挙の告示というのはされていないはずですが、候補者名を連呼しながら走って行く車があります。幸せを実現してくれる政党だそうです。この政党は先日渋谷に行ったときも、駅前で若い人たちが集まって支援してました。いまは比例代表制というのがあるから、こういうのも一人ぐらい当選してしまう可能性もあるのですかね。そのくらいの信者の数はあるのかな。

 読書の方がペースに乗ってきて、だいたい一日の時間の割り振りはできて来てます。つまり昼間読書して、夜はDVDを見るってだけだけど。これでそろそろ創作活動というと大げさですが、そういうのをちゃんと始めてもいいかな。というか、始められるといいです。あと、今の読書は図書館から借りる本ばかりだけど、やはり家にはまだ読んでないで転がっている本がいっぱいあるので、そちらもちゃんと消費したい。

 今日は「大逆事件と知識人」(中村文雄:著)というのを読了。大逆事件というのは、その検挙された主義者たちの謀議をいうのではなく、裁判という名目によって権力側が主義者を虐殺した、その裁判こそが、事件の中心であり本質なのです。

 この本は、当時その裁判に関して知識人(主に文学者)がどのように関わっていたかを、資料から究明したもの。取り上げられた作家(知識人)たちは、石川啄木、平出修、原敬、森鴎外、与謝野鉄幹・晶子、佐藤春夫、木下杢太郎、竹久夢二、小泉三申ら。このうち、原敬、小泉三申は政治家だけれども、平出修は裁判そのものの弁護を担当した歌人/弁護士。この平出修という人の人脈関係から、多くの知識人の大逆事件への反応がみちびき出される。おそらくいちばん大きな影響を受けたのは石川啄木で、平出修との交友関係から特権的に裁判記録を閲覧し、自ら社会主義者としての自覚を得ていきます。あまりに熱を入れすぎ、彼の死期をも早めてしまったようですが。

 通読していちばん興味深かったのは森鴎外への言及で、つまり彼は当時の権力の頂点、大逆事件裁判の首謀者であるだろう山県有朋のブレーンであり、しかも弁護人の平出修との交流もある。平出は弁護を引き受けるにあたって、与謝野鉄幹を介して森鴎外に西欧の社会主義や無政府主義の動向、概念について教わりに行ったりしている。つまり彼はその大逆事件の裁判において、裁く側とも裁かれる側とも深く関係している。ここで著者は主に山県有朋と森鴎外との関係を資料からあぶり出し、事件がそのような保守側の人物としての森鴎外に与えた影響を探るわけですが、わたしにポイントだったのは、それまで同時代を背景とした小説を書いていた森鴎外が、この事件の後いわゆる歴史小説へと方向を転回する、その背後には、日記にも大逆事件についての記述を避けている森鴎外が、事件以降小説家として同時代へ目を向けた作品を書けなくなったのではないかという分析。この背後には書ききれないあれこれの事柄があるのだけれども、このポイントがわたしにはいちばん面白く読めた。あとは小泉三申という人物。幸徳秋水が相次ぐ権力からの迫害で生活に窮したときに、彼の生活費いっさいの面倒みていたパトロンがこの人物だったということ。彼は幸徳の処刑後も幸徳前夫人を援助し続けたらしい。のちには林房雄を援助することになる。

 今夜のDVDは、シドニー・ルメット監督のデビュー作「十二人の怒れる男」(1957)。いやこれは脚本も素晴らしいけれど、ボリス・カウフマンの撮影ですね。このそれほど広くはない室内の、あらゆる所にカメラが移動する。固定ではなく動き回るカメラとか、要所にはさみ込まれる人物へのズームインとか、圧巻です。特に冒頭の、扇風機の裏側の高いところからの室内の俯瞰に始まり、呼びかけられたヘンリー・フォンダへのショットで終わる長い長い長回し。ち密に設計された演出との共同作業がすばらしい。

 演技者で見たら、クールのヘンリー・フォンダと、ホットのリー・J・コッブとの対比、対決がこのドラマの焦点。ラストの、リー・J・コッブのかたくなな姿勢は彼の息子への感情からであったと彼にさとらせるカット割りもいいですが、ここでの彼の渾身の演技は最高です。わたしはこういう演技ってあまり好まないのだけれども、ここは脚本の妙もあって、泣かされました。

 大逆事件も裁判が事件の実体ですし、昨日見た「ぐるりのこと。」にも法廷が出てきました。世の中は裁判員制度とかであれこれ言っておりますし、今日は何か裁判についての曲を。裁判は「Judgement」ですか。Judgement Day のことを歌ったPeter, Paul & Mary の曲に「Very Last Day」というのがありましたが、このJudgement Day というのは最後の審判のことでしょう。それはちょっとオーヴァーすぎるので、こんな曲を選びました。Shorty Long (変な名前)という人の、「Here Comes The Judge」という曲で、1968年のアメリカでのヒット曲。Shorty Long はモータウン・レコード関係のプロデューサーを長く勤めていた人らしいのですが、彼自身マルチ・ミュージシャンということで、この「Here Comes The Judge」は彼のおそらく唯一のヒット曲です。Shorty Long さんは、この翌年、乗っていた船が沈んで亡くなられてしまったそうです。

 たしか、曲のイントロで、法廷の机をハンマーでトン、トンを叩く音なんか挿入されていた記憶があります。裁判官のお出ましです。

 

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■ 2009-08-11(Tue)

[]Look Back in Anger [David Bowie] Look Back in Anger [David Bowie]を含むブックマーク

 早朝に大きな地震があったようですが、このあたりは揺れはなかったのか、あまりに早い時間だったからか、わたしは眠りから覚めることはありませんでした。ニュースで、どこかの女性が自宅の本棚から崩れてきた本の下敷きになって死んだらしい、などと言っていたようで、わたしの家にはそんなに本はないけれど、やはりパソコンのわきの本棚は問題だと改めて心配に。でもそれ以降はこの地震での死者は出なかったという報道で、わたしが聞いた報道は何かの間違いだったのか。本の下敷きになって死んでしまうなんて、尋常ではない本の量を想像するか、亡くなられたという人の健康状態に問題があったとかしか考えられないか。

 ふと、今どんな映画が公開されているのか調べてみたら、ちょうどこの週末から、前からチェックしていた「キャデラック・レコード」が公開され始める。上映する映画館が水曜日なら千円で見られるので、来週の水曜日に見に行こうと思う。ちょっと早くに出て、ついでに初台に行って夕方までに「鴻池朋子展」を観て、それで誰かに会って来るのもいいな。特にあてはないけれど、水曜日の夕方から時間の空いている人はいないものでしょうか。

 猫はときどきベランダに来ているようですが、どうも水まきの一件以来、わたしの姿を見るとサッと逃げて行きます。気持ちはわかります。わたしだって、人にいきなり水をかけられたりしたら、その人を恨んだり憎んだり避けたりしますから。

f:id:crosstalk:20090902111909j:image:right この猫、前に「浮世絵に出てくる猫のようだ」などと思ったりしたのですが、花輪和一のマンガ「舌きり雀」に出てくる妖怪な猫、ミイミイ様に似ているのではないかと。‥‥いや、これではまったく可愛くない。似てないではないか。目のあたりがちょっとだけ似てるかも。

 今日はDVDを二本観ました。ひとつはアルフレッド・ヒッチコック監督の「下宿人」(1927)。サイレント映画でした。この映画に出てくる連続殺人事件のモデルは、たぶん「切り裂きジャック」でしょう。

 冒頭は字幕を使わないで、ニュースのテロップとか、新聞、タイプライターに打ち出される文字で、事件の説明をします。このやり方は今の映画でも、セリフでの説明を避けるためによく使われています。で、この新しい下宿人がはたして犯人なのか?というのは、ずっとひきずって最後の方まで確証を得られないつくりになっています。だから見る方も「ひょっとしたら?」などと思いながら見ていて、ラストの民衆のリンチ的制裁への感情移入が複雑になるのではないかと思います。

 この下宿屋ですか、この室内、特に階段が良いです。下宿人が上の部屋に居るのだと意識されることも、この建物の空間造型として効果的です。

 しかし、これは何といっても、下宿人を演じるアイヴァー・ノヴェロというという役者の、ちょっとビザールな魅力ですね。こういうどこか貴族性を持っているような、一種ドリアン・グレイを思わせるような造型は、イギリスならではの伝統的造型でしょう。眼とか、その光が妖しいです。アイヴァー・ノヴェロという人は、アルトマン監督の「ゴスフォード・パーク」にこの本人という設定で出て来ました。当時はちょっとしたスターだったというのはこの「下宿人」を見ると納得出来ます。「ゴスフォード・パーク」ではずっとピアノ弾いて唄っているばかりでしたが、ミュージカル・スターだったのですね。

 映画で、このアイヴァー・ノヴェロが登場するシーンが素晴らしくて、もうこれは忘れられないですね。下宿屋のお母さんがドアを開けると、マントをはおってマフラーで顔の下を覆った彼が直立しているのですが、このあたりの光の演出とか、これはもうムルナウの「ノスフェラトゥ」の、ノスフェラトゥ登場シーンを彷佛とさせられます。ヒッチコックが登場人物にこういうゴシック的な妖しさを付加するのは、後の「レベッカ」なんかにも出て来ます。もう今の時代では造られることのない、古典的な、妖しい魅力を持った作品でした。

 もう一本は去年公開の日本の映画、橋口亮輔監督の「ぐるりのこと。」。これはわたしがちょっとファンでありますところの木村多江さんの初主演作ということもあって、去年映画館で観たいと思っていた作品です。でも、この橋口亮輔監督というのがわたしは少々苦手といいますか、勝手な印象で、号泣、慟哭、嗚咽で人が結び付いて行くような、そういう鬱陶しい映画を想像してしまうわけです。まあ最近の「1トンの涙」(そんな映画はない)とか、そういう涙の物量作戦映画とは一線を画しておられることは承知しておりますが。

 で、DVDで見終えまして、まあ映画館で見なくて良かったかな、と。もうひとりの主人公リリー・フランキー(自然体でよいです)が法廷画家という設定で、90年代の大きな事件の裁判模様をちょこちょことはさみながらの展開はいい感じで、その裁判シーンにあれこれ出てくるゲストの演技も楽しいし、思い切って大きなポイントを次々に省略して行く演出も面白いのですが、なにかどこかよそよそしさを感じてしまう。

 結局、やはりこの作品のポイントは(予想通り)号泣、嗚咽で主人公ふたりがお互いを再確認するシーンなのでしょうが、この長いシーンで、見ていて、ふたりのあいだにある「隙間」が気になって仕方がなかった。この「隙間」が、つまり視覚的なものなのですが、最後まで埋まらない。あんまり自分のことに引き寄せて書きたくはないですが、こういう修羅場(と言っていいのか)って、体験する人は多いと思うけれど、そういう時って、もっとお互いに密着しないといかんでしょうが。別に拒否されているわけでもないのだし、こういう時って、もっともっとベタ〜っとするものではないかと。そういう意味で、この映画にはいわゆるベッドシーンは皆無なんだけれど(その直前とか直後はあるけれど)、こういう脚本なのであれば、ベッドシーンは不可欠だったのではないかと思ってしまいます。こんな話ならば尚のことセックスのことはとても大事だよ、という印象なわけです。ベッドシーンだからといって、別に無理して裸を露出して見せなきゃなんないというわけでもありませんでしょうし。

 何度か、かなりの長回しのシーンがありますけれど、それも、演出として効果的だったかというと、どうなんだろう?と少し思うところもあります(最初のバナナからの長回しは面白かったけれど)。

 でもまあ、後半、木村多江さんがどんどん美しくなっていくからいいです。絵を描いているところの横顔なんか、ほんとにマーヴェラスでした。あと、安藤玉恵のヤンキーなねえちゃんっぷりが楽しかった。この監督さん、やはり、と言ってはなんですが、ミソジニーは相当に入っていますね(よくこれだけ無気味な女性たちを揃えたものです)。それはそれで楽しいのですが。

 っつうことで、今日の一曲は「下宿人」の方からの連想で。「下宿人」の原題は「Lodger」。これはもうDavid Bowie しかありません。しかも、映画のアイヴァー・ノヴェロの容貌は、どことなくDavid Bowie を彷佛とさせるものがありました。というか、この「Lodger」とはヒッチコックの映画のこと? と思わせるものがあります。このあたりわたしは何も知りませんが。

 今日はその「Lodger」(1979) のアルバムから、「Look Back in Anger」にいたします。このベルリン時代のDavid Bowie 、良いです(あまりDavid Bowie 自体をちゃんと聴いてはいないのですが)。

 

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■ 2009-08-10(Mon)

[]I Say a Little Prayer [Dionne Warwick] I Say a Little Prayer  [Dionne Warwick]を含むブックマーク

 午前中は激しい雨。午後には上がりましたが、西日本では豪雨で大きな被害が出ているようです。今年の夏は雨夏。

 ベーキングパウダーを買って、まだ使っていないけれど、キッチンで眼の前にベーキングパウダーのパッケージがあると、ホットケーキとかよりもドーナツなんか作ってみたくなり、そうすると揚げ物料理とか天ぷらなどにもトライしてみたい。そうするとフライパンで揚げ物は出来ないので、天ぷら鍋とかを買ってみたくなってしまう。

 小さかった頃を思い出して、相当に貧乏だった我が家でも時々天ぷらとかやっていたし、おやつも自家製の揚げ物菓子をよく作っていた。たぶん、かなり経済的なのではないかと思う。野菜など何でも鍋にポンポン放り込めば即天ぷらになるイメージで、簡単そうだし、やってみたい。だから次の夢は、天ぷら鍋を買うこと。これがわたしの小さな願いです。

 午後から歯医者の治療。ほんとうは午前中の予約だったのをすっかり忘れてしまっていて、昼になって思い出して電話したら、午後いちばんで診てくれると。なんか、この歯医者、治療受けてる患者が少ないというか、全然混み合っていません。医師も一人で、助手の方は治療の助手も受け付けも一人でやってます。混んでいないというのは非常に快適ですが、あまりはやっていないようで心配にもなりそうです。でも、ここはデイケアの施設に併設されていて、歯科はほかの医療施設のうちのその一つみたいなもの。ふだんはデイケアの方に来ている方の治療をやっているのでしょう。医師の説明は親切で丁寧だし、前の歯科医ではやらなかった種類の治療法もやってくれています(それがどういうふうに治療効果があるのかなどよくわかりませんが)。今のところまったく不具合もありませんし、環境も快適、家から近いし、この医院にして良かったと思っています。

 夕方から、実はヤボ用で、つくば市に出かけました。これはまあ、しがらみといいますか、福祉課への申請の時にちょっとお世話になってしまった縁で、つまり一種の「あたまかず動員」ですが、この地域からおおぜいで観光バスに乗ってつくばまで行くのです。

 つくばにはいちど、ちゃんと行ってみたいと思っていました。つまり、磯崎新ですね。せっかく近くにいることもあるし、磯崎新設計の、ここのセンタービル周辺は見ないですませられるかという気持ちはあるのです。でも、普通に電車で行くと、つ く ばエ ク ス プ レ スとか使って、東京などに出るよりも運賃がかかってしまいます。まだ余裕があるときに行っておけばよかったのですが、今は苦しいです。

 今回は夜になってから行くわけだし、おそらくあたりを散策する時間などとてもないだろうというのはわかっていましたけれど、とにかく何かは見ることが出来るかも知れません。そういうわけで、ま、そういうしがらみもありまして、行って来ました。

 夕暮れ時の出発で、雨こそ降っていませんが雲が低く垂れ込めていまして、筑波山のすぐそばを通っても、筑波山のその姿はほとんどわかりません。で、一時間ほどでつくば市中心部に到着。目的地に行くのに皆で歩くのですが、それが裏道というか、公園の中の道を通って行くわけで、センタービルの姿はかなり近くに見えるのですが、そういう、周辺の磯崎新設計のパティオとかまったく見られません。集団行動しなくっちゃいけないから仕方がありません。やはり、時間を取って自分ひとりで来ないとそういうのは体験出来ませんね。残念でした。

 ちゃんとつくばセンタービル周辺を見ること、これも今のわたしの小さな願いです。

 帰って来て10時。DVDも見ないでさっさと寝ることにします。

 で、今日の一曲は「わたしの小さな願い」というか、「I Say a Little Prayer」。邦題は「この小さな願い」だったと思います。唄っているのはDionne Warwick で、1967年の彼女最大のヒット曲。作曲はBurt Bacharach。バカラックの曲の中でもこれは名曲だと思います。のちにAretha Franklin もこの曲を歌っています。そっちもとても素晴らしい歌唱ですが、10年ぐらい前の映画「ベスト・フレンズ・ウェディング」の中で、ランチの席か何かで、登場人物が皆でこの曲をヴァースごとに唄い継いで合唱になる楽しいシーンがありました。映画自体のことはすっかり忘れてしまいましたが、このシーンだけは楽しくて、見ていても一緒に唄いたくなってしまったのでした。

 

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■ 2009-08-09(Sun)

[]San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair) [Scott McKenzie] San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair) [Scott McKenzie]を含むブックマーク

 夜、久しぶりにちょっと大きな地震がありました。

 最初小さな揺れがあり、どうもその感じから次に大きいのが来そうな感じがしていたのですが、ゆっさゆっさと来ましたね。横揺れだけのゆったりした揺れでしたけれども、わたしの部屋、和室の机のパソコンの傍には、その机の上にちゃちい本棚を二つ積み重ねてあるので、この本棚が倒れたりするとパソコンが壊れちゃいます。揺れがおさまるまで、本棚を両手で支えていました。‥‥これは、レイアウトを変えるか、本棚が倒れないように補強するか、考えておかなくてはいけません。

 夜遅くまでかかって、「ねじ曲げられた桜 ─ 美意識と軍国主義」という本を読了。足かけ四日間かかりましたが、全部読んで充足感。

 著者の大貫恵美子氏は在米の人類学者だけど、この本は、なぜ桜の花が国家ナショナリズムのシンボルとして兵士の死をたたえる花となり、特に戦争末期に特攻隊のシンボルにまでなってしまったのかを、象徴の「メコネサンス meconnaissance (解釈のずれ、誤認)」というキーワードから読み解こうとする試み。なんて書いても何のことだか判らないが。

 「古事記」から始まる日本文学にあらわれる「桜」から、その神話的、歴史的、文学的な意味性を解明し、さらにその桜が、明治維新以降の日本の「近代」、その軍国主義国家化と、とりわけ近代の天皇制の「再製 refashion」にどのように利用されたかを解読。最終的には、遺された特攻隊員の手記から五人の手記を選び、その中に彼らのパーソナリティーを読み取り、そこにどのように「桜」があらわれ、国家の意図した「桜=天皇制」(この要約した言い方は乱暴すぎるのですが)というイデオロギーがどのように反映したかを読み解こうとする本です。

 「桜の花」の含み持つアンビヴァレントな性格、生の象徴でもあり死のそれでもあり、陽でも陰でもあるシンボル性をすくいとり、靖国神社境内に植樹されていた桜のイメージを転意利用しながら、天皇制ナショナリズムを補強する図象へと取り込んで行く過程の解明はスリリングで面白い。特に、維新後の日本がいかに軍国主義への道をまい進して行くかというのが、わたし的に現在の勉強課題でしたので、その点での的確な総括は勉強になりました。また、戦没兵の手記というのを読むのも今までになかったのですが、東大や京大から特攻隊員になった人びとの内面の記述、彼らの思想、読書傾向などにも一種の感銘を受けました。この本に引かれた五人のうち二人がマルクスを読みその影響を受けていて、欧米の帝国主義への敵愾心と同時に、日本の帝国主義をも解体する意図から特攻隊員となり、すべてが無とされたあとの新しい日本の復興に期待していた、などというのはちょっとした驚きでした。

 「メコネサンス」というのは、桜の象徴の内包する多義性から、国家の要請した「天皇即国家の犠牲として散れ」というイデオロギーと、一方、桜の花の美的価値に自己を投影し、国家の要請とは異なる愛国心で戦場へ赴いた特攻隊員とで、同じ桜という象徴から導きだした価値が異なっていること、これが象徴的コミュニケーションでは「メコネサンス」と呼ばれるとのこと。著者がなぜこの概念を持ち出したかというのは、海外で「神風特攻隊」の実像がほとんど伝えられておらず、「狂信的愛国主義者」というイメージで彼らがくくりとられて解釈されていることから死せる特攻隊員を救済するためだと思う。一種の「名誉/人権回復」です。だから、著者はそれら特攻隊員の手記の解読で、「国家の意図は彼らの内面では達成されていなかった」という結論を導き出すわけです(これは、国家としてはその意図が達成されていなくても、現実に特攻隊員が人間爆弾になって飛んで行ってくれればそれで構わなかったでしょうけれども)。あ、この本は本来海外の読者を意図して書かれ、現実に海外で出版されています。

 あと、この書物の魅力は、社会学的、歴史的な視点、神話学的な視点、政治的視点、そして文学的視点のそれぞれを包括しながらも、読む方にそれらの視点のぶれを感じさせずに統合されているという点でもあるでしょうか(これは読者であるわたしのリテラシーの程度にもよりますが)。特に特攻隊員の手記に関して、彼らは膨大な量の書物を読んでいてその記録を残しているのですが、そこには圧倒的な量の西洋文学が含まれていたのですが、その件について著者は以下のようにかかれておられます。

西洋文学が特攻隊員にとって意義深かったのは、西洋社会における生と死、個人と社会という対立と、自分たち自身の社会の問題が同一であったからではなく、文学に描かれた、個々人の願いが国家の利益と衝突する場合の個人のもがきが、彼ら自身の苦境、死の意味と死後の可能性を思索する方法を与えたからである。

 こういうのは、そこらの文学評論でもお目にかかれない「見識」ではないかと思います。

 ただ、著者はこの本の中で、戦後になって日本人は何の抵抗もなく桜の花を楽しみ出し、重要な象徴として使い始め、毎年恒例の花見を再開したこと、このことに危惧を抱いておられるようですが、わたしの感覚では、象徴として使用される「桜」のシンボル化というのには、ちゃんと今でもアレルギー反応があります。これはある種の団体が党派的結束のためにか、天皇制擁護のためにか、桜の花のデザインを使っているのには一種の恐怖感を抱いています。「お花見」についてはね、「陽」のイメージですからね。明治時代の社会主義者も「お花見」にかこつけた集会をやっていますし、そこまで桜の「負」のイメージを引きずることもないのではないか。そうではなく、「桜」もまた、救済されなくてはならないのではないか、その一端が「お花見」という行事にあらわれているのではないか、というのが、わたしの感想です。

 この、象徴としての「桜」をイメージ戦略として展開した当時の書物に、国文学者の山田孝雄の著した「櫻史」という本があります。昭和十六年に刊行されたこの本こそまさに、その日本軍国主義〜天皇即国家というイデオロギーを補完した書物といえるでしょう。この本は古代から近代(当時の現代)までの様々な文学作品にあらわれた「桜」から、桜と日本人のかかわりの歴史を解いた本です。この本がわたしの家に転がっていまして、これは昔ちょっと、国粋主義にかぶれた(という言い方は失礼ですが)人とちょっと付き合っていて、その影響でわたしも買ってしまった本なのですが(今までちょこちょこと拾い読みしかしてませんが)、引っ張り出して少し読んでみました。って、やはり、いきなり、天皇と桜を結び付ける記述から始まっています。ちょっと通して読んでみたくなりました。あと、ハンナ・アレントの「全体主義の起源」もまた読み直したくなりました。

 今回は良い本を読みました。まだいろいろと感想を書きたくなりますが。

 桜ではありませんが、音楽として「花」がシンボルとしてあらわれたのが今日の曲です。長いタイトルですが、「San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」。サンフランシスコに行くときには、髪に花を飾って行きましょうと。唄っているのはScott McKenzie という人。1967年のヒットで、日本でも「花のサンフランシスコ」という邦題でヒットしました。

 当時のヒッピーはまた、Flower Children などと呼ばれたりしていたわけです。呼ばれたのではなく、自称だったでしょうか。なんか、当時から「馬鹿っぽいな」っつう感想は持ってましたけれど、これ以降の平和運動やエコロジー運動の情緒的部分の始まりです。今日の本を読んだからではありませんが、皆が同じシンボルを掲げるのは、一種「全体主義」へいつでも転化される危険をはらんでいると思います。わたしはそういう集会には行きませんし、腕に何か白いバンドをするなんていうのも、やりたくありませんでした。

 

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■ 2009-08-08(Sat)

[]Paper Lanterns [Green Day] Paper Lanterns  [Green Day]を含むブックマーク

 このあたりはしばらくの間、週末ごとに夏のイヴェントが開かれます。先週が夏祭り本番で、来週は盆踊り。その次の週は(小さな)花火大会。で、今日は「灯ろう流し」です。これをお盆の行事の「送り火」と考えると、翌週に盆踊りなどやる前に「灯ろう流し」というのはちょっと順番が違う気もしますが、この地域でも、今は戦争犠牲者の追悼の意味を持たせてやっているようです。

f:id:crosstalk:20090902111013j:image:left 夕方になって花火の音がして、そうか、今日は灯ろう流しの日だと思い出し、散歩がてら外に出て、川の方に行ってみます。北へ歩いて、国道の橋がかかる辺りに来ると、上流から灯ろうが流れて来るのが見えるようになります。でも、この辺りで川の流れに段差があり、灯ろうはそこを越えるところで流れに巻き込まれ、明かりも消えてこわれてしまいます。こわれた灯ろうの残がいは、その流れの段差のところから先には流れて行かないようで、これなら後始末の掃除も簡単かも知れません。

f:id:crosstalk:20090902111100j:image:right 少し上流に歩くと堤灯がずらりと並んで灯っていて、そこの河原に、灯ろうを流し始める台座がつくられています。雰囲気は戦前の夏の風景のようです。観光化されているわけでもなく、訪れるのは地元の人だけ。わたしは、こういう密やかな空気に引き寄せられるのですね。

f:id:crosstalk:20090902111134j:image:left ちょっと雨が降ってきたので、早々に家路につきます。途中で、まるでつげ義春のマンガにでも出て来そうな焼そば屋を見つけました。入ってみたくなりますが、今は外食厳禁。入ったらビールとか飲まないで済ませられませんから。でも、こういう風景のある所で、決して地元の人とかと仲良くなったりしない生活を、ときどき無性にしてみたいと思うのです。だからこの土地に越して来たんですけどね。ひっそりとした灯ろう流しがあって、ひなびた焼そば屋があって、セミの鳴いている夏の日の夕暮れどき。これがわたしなりのぜいたく。安上がりです。

 帰宅して、昨日つくったシチューをあたためて夕食。そのあとDVDでピーター・イェーツ監督の「ブリット」(1968) を観ます。これは高校生の時に映画館で観ました。われながら驚くほどよく内容を憶えていましたね。この脚本は完全にスティーヴ・マックィーンのためのあて書きですが、単に彼をヒーローにまつりあげるのではなく、彼のイメージをよく活かしていると思います。全体に、この作品は事件を追うのではなくて状況を追っているわけで、それが人物から距離を置いたロングショットとか、何度も出てくるガラス窓越しに写される主人公とかで、よいカメラの距離感を出しています。すごい即物的な描写とか、変な構図とか、当時のヌーヴェルヴァーグの影響もあるように感じました。

 映画の中で、マックィーンの恋人役のジャクリーン・ビセットが、マックィーンに「あなたのいるのは暴力と死の世界。その中で無感覚になっている。わたしとは遠い世界だわ」などと言いますが、このセリフは、80年代以降のハリウッド製アクション映画にそっくり差し上げたい言葉です。でもやっぱり、ラストの空港で、犯人を射殺して銃口を倒れた犯人に向けるマックィーンのショットは、鳥肌が立つほどカッコイイと思ってしまうのですね。

 ピーター・イェーツ監督の作品は他にもあれこれ観ていると思っていたのですが、私の観たのはこの「ブリット」一作だけのようです。マイケル・ウィナーとか、ほかのイギリスの監督と混同していたのでしょう。

 灯ろうは英語でLantern 、今日の灯ろう流しの灯ろうなどは紙製でしょう。そういうわけで、今日の一曲はずばり「Paper Lanterns」です。演っているのはアメリカのGreen Day。彼らのEP「Slappy」(1990) の一曲目です。

 この頃のGreen Day は「パンク」と呼んでいいでしょうね。ま、今でも「パンク」らしいんですが。ここのリーダーのBillie Joe Armstrong は、Clash のJoe Strummer に心酔しているそうで、たしかにこのあたりの曲はClash を彷佛させます。でもまあGreen Day といえば、ライヴでの観客との泥の投げ合いっすね。今でもそういうの、やってるんでしょうか。もう近年は彼らを聴いたりしていないのでわかりませんが。

 

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■ 2009-08-07(Fri)

[]She's Not There [Zombies] She's Not There [Zombies]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20090902110319j:image:right 今日はなんだか暑い。本を読みながらつい昼寝をしてしまったら、汗をぐっしょりかいて目覚めてしまいます。夕方からまた空が暗くなってきて、外を見ると恐ろしいような黒い雲が西から東へ流れて行き、雷鳴が響き始めます。これは雷の真下に来るだろうし、こういう雲の動きだと竜巻の恐れもあると思い、パソコンや周辺器具、TVのコンセントを全部抜いて落雷に備えます。雷鳴に混じって、遠くで救急車のサイレンの音も。

 雷鳴も遠ざかり、もう大丈夫かなとTVの電源を入れてニュースを見ると、東京の方で大雨洪水警報が出ているようです。さっきの空の感じだと、このあたりにも竜巻注意報ぐらい出しておいた方が良いようにも思いましたが。

 今日は小津監督の1951年の作品、「麦秋」を観ました。これはいいですね。前半までをがっちりと隙のない固め方をして、後半でそれを突き崩して行くみたいな。会話の脚本が練られていて、特に原節子と淡島千景の対話なんか、すごく楽しい。キャピキャピした原節子というのもいいです。

 後半、何といっても、父親が「カナリアのえさを買ってくる」(しかし、やはり鳥かごの中のカナリアは、娘の原節子の暗喩なのでしょうか?)と言って外に出ての、踏み切りのショットが素晴らしい。そのあとも、海岸の砂丘での原節子と三宅邦子の二人のシーンでは、小津監督には珍しいクレーンでの縦移動のカメラもあります。で、ラストがまた、新婚の原節子でもなく、残された笠智衆の兄夫婦でもなく、祖父のいる大和へ転居した父母に持って行く。このラストの、大和の田園風景を横移動して行くカメラが、たまらんですなぁ。

 しかし1951年の時点で、すでに大家族が解体して行く話が出て来るのですね。そういうのはあと10年とか20年後に顕然化してくる話だろうと思っていたし、「住むならやっぱり東京の近くがいい」という価値観も出て来ます。これらはやはり朝鮮特需から日本が経済的復興をまい進する、そういう時代背景があるのでしょう(原節子の勤める東京の会社の取引先はアメリカの会社のようです)。この時代の復興は、やはり東京が世界的な近代都市に生まれ変わって成長して行く姿の中に、皆がそれぞれの夢を重ねていたということでしょうか。で、大家族制はすでに旧的なものと見られ、核家族化へと向かって行く。新旧の家族や個人の考え方の対立の話として、この頃は映画は家族で観に行く娯楽という要素もありましたから、観た後で皆あ〜だこ〜だと感想を述べ合ったことでしょう。

 劇中に出て来る900円のケーキなんて、今の値段に換算すると1万円を超える感覚ですね。そりゃぁすごいや。

 今日の一曲は、まったく関係なく、Zombies の「She's Not There」という曲にいたします。‥‥すいません。こういう機会でもないと、この曲が使えないものですから。「彼女はそこにいないよ」って、どこに行っちゃったんでしょうね。たぶん顔を整形して、日本海側の地方都市でホステスをやるんだろうと思います。そのうちにそちらの方では、夜の歓楽街で「‥‥ピー」なんてしゃべり方が流行して来ることでしょう。

 Zombies は、つまりブリティッシュ・インヴェージョンの頃のバンドで、この「She's Not There」はデビュー曲なのかよくわからないけれども、とにかく彼らの最初のヒット曲で、1964年の秋ごろのものでした。わたしはこのバンドの音がお好みで、Rod Argent のキーボードの音と、Colin Blunstone のちょっと切ないヴォーカルの競合ですね。このあとの「Tell Her No」も佳曲でしたし、ヒットした時にはもうバンドは解散してしまっていた「Time Of The Season」は、今でも時々どこかでかかっていますね。

 

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■ 2009-08-06(Thu)

[]Summer Holiday [Cliff Richard] Summer Holiday [Cliff Richard]を含むブックマーク

 今日は曇天で、午後には少し雨も降りました。昨日水をまかれたのを追い出されたと勘違いしているのか、猫は姿を見せません。少し気になります。

 先日のニュースで、東京のデパートがお中元贈答品の売れ残りセットをばらして激安セールをやって、客が押しかけたというのをやっていたけれど、このあたりにも季節を外れた贈答品をセットのまま安売りしている店がある。そうか、お中元の季節が終わったのだな、あの店にも流れて来ているかも知れないと思って、行ってみます。

 まさに、ちょうどそういうセールをやっている最中で、店の中にはそういう贈答品がまさに山のように積まれていて、客の数も相当なものです。店内を見て回りますが、インスタントコーヒーの6瓶入りのセットが1500円とかいうのは相当安いと思ったりするけれど、6瓶もあっても使い切るころにはもう賞味期限切れてるのではないだろうか。あとの品はわたしには不要なぜいたく品とか、欲しくもないものばかり。でも、ポテトチップス5袋入りの199円というのと、チョコレートなどを買ってしまった。

 歴史科学協議会というところの編集した「天皇・天皇制をよむ」という本を読了。それぞれ独立した短い論考が6〜70、総論と、時代別の各論が時代順に並べられていて、順に読めばそれなりに通史への視点も得られる。いまさらながらわたしは元になる基本知識が欠如しているというのをあらためて認識。短い記述でもあれこれと勉強いたしました。しょーもない本を読んでしまった後だったし、充実した読書時間を取れましたか。

 DVDも新しいのを借りて来て、今日はアニメの「時をかける少女」を見ます。今、新作「サマーウォーズ」が公開中の細田守監督の2006年の作品で、かつての原 田 知 世版「時をかける少女」からのちの、時代を現代と設定した新しい物語で、主人公は前作の主人公の姪らしい。夏休み前の学校を舞台にした学園もので、「文化系女子アニメ」という感じ。ちょっと酸っぱい、青いレモンのような作品ですねー。主人公の顔の表情を視点を移動しながらぐるりと見せるところなど、セルの枚数をたくさん使ってスムースに見せています。木陰とか、人の影なんかもていねいに動かしています。でも、人物が皆10頭身ぐらいはありそうですね。個人的にはやっぱアニメは頭が大きいのがいいな。「夏休み」というのは大きなポイントですから、せっかく「夏休み前」という設定なのを、なんとかもうちょっと夏休みにつなげて欲しかった気はします。

 そう、世間は今、夏休み真っ盛りなのですね。来週には社会人の方々もお盆休みになるのでしょう。わたしにはそんな特別な休みはありません。

 今日の曲は「夏休み」の曲、ずばり「Summer Holiday」にします。唄っているのはCliff Richard、1963年のヒット曲で、日本でもかなりヒットしました。たしか日本では坂本九がカヴァーしていたような記憶がありますが。

 Cliff Richard はプレスリーの影響を受け、1958年にイギリスでデビューします。バックバンドがShadows で、これがブリティッシュ・ビートのひとつの始まりになります。デビューが18歳の時と早かったので、キャリアの割りに若いんですね。John Lennon より一週間ほど後の生まれの同い年です。ま、あまりにプレスリーだったからでしょうか、アメリカでは人気は出ませんでしたが、イギリス、ヨーロッパではすごい人気だったのです。長いこと活動されて、イギリスでは「Sir」の称号をもらっておられます。

 わたしは、「クリフ・リチャード」って聞いて、「首振りチャード」だと思ってました。唄うとき首振るのがトレードマークで、チャードが名前なんだろうって。人形みたいでかわいいと思います。

 

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■ 2009-08-05(Wed)

[]Good Day Sunshine [Beatles] Good Day Sunshine [Beatles]を含むブックマーク

 このところ午前中は涼しいのですが、夕方から夜にかけて暑苦しくなります。それが今年の夏の特徴なのか、それともこの住まいの特性なのか、わかっていませんが。

 朝、ベランダにザァッとバケツの水をぶちまけると、ベランダの外のすぐ下からすごい勢いで猫が飛び出して、逃げて行きました。追い払うために水をかけられたと思ったでしょうか。猫はそのあとベランダに来ていたようですが、私の気配を感じると逃げてしまいます。

 肉や野菜の在庫が過剰になっているので、しばらくは買い物をしないで在庫を減らすことにします。シチューのルゥーやカレールゥーの買い置きもあるので、これからしばらくシチューやカレー。この真夏に少々暑苦しいですが。

 DVDを2本観ました。まずはクリント・イーストウッドが監督・主演の「荒野のストレンジャー」(1972)。「恐怖のメロディ」の翌年の、監督第二作です。この前に観た「ペイルライダー」と対になっているような感じで、こうやって過去の作品をDVDで観るのなら、やはり製作順に観た方が良いのだと思います。

 この作品はどう見てもセルジオ・レオーネ作品のタッチを自分でやってみたという感じで、だいたい主人公のルックスからして「荒野の用心棒」なのだけれど、性格のワイルドさはそれまでのアメリカ製本家西部劇には描かれなかったヒーロー像でしょう。脚本は「用心棒」プラス「七人の侍」という感じ。

 しかし、その終盤で、町全体を赤いペンキで塗りたくってしまうのに驚き。いったい何のために? それはもう映画のためなのでしょう。この映画の舞台になる町そのものが、この映画のための虚構なのだと。ほとんどアレックス・コックスみたいな。

 最初の方での床屋のシーン、そこでの大きな鏡の使い方、床屋の空間の、屋内〜屋外のつながっているような設定での演出が面白かった。

 もう一本は日本の映画。熊井啓監督の「海と毒薬」(1986)。モノクロで、光と影の捉え方が美しい撮影。特に冒頭の太陽を中央にとらえたショットが室内の白熱電球になり、そこからカメラが引くと牢獄のような空間になっているところとか、ドキッとした。

 特に、この前半は俳優の演技も舞台演劇のようにかなり誇張されたもので、病院の廊下のシーンなどまるでドイツ表現派の映画を見ているようです。最初の手術シーンの構成、演出、カット割りなど、見事だと思う。

 美術が木村威夫だというのがちょっと驚きだったのですが、木村威夫という人は熊井啓監督作品にはいつも参加しているのですね。いつも非リアリズム映画系統だけやっているのかと思ってました。でも、映画の中で看護婦の根岸季衣の住んでいる部屋が出て来るシーンがあるんだけど、その部分は思い切り木村威夫の世界。布団の布地模様を画面いっぱいに写したりするし、窓枠にふちどられた、外からのぞく部屋の中の世界は、やはり木村威夫の造型。こういうのが好きです。

 誰にでも理解できるようにか、ずいぶん判りやすく造ってあると思うのですが、何度か出てくるナレーションはどうなのか? ナレーションなしでは造れなかったのでしょうか。何もない海のシーンが何度か挿入されて、これがとてもいいのですが、最初の方の、主人公の奥田瑛二が海辺を歩くシーンでもって、その「海」を「場所」として映画の流れの中に取り込んでしまう必要はなかったのではないか? などと思いました。

 今日の一曲、何も考えていません。ま、今日は晴れていたし、映画の中に太陽も出て来たので「太陽」の曲でも選びましょう。Beatles の1966年のアルバム「Revolver」の、LPならB面の1曲目、「Good Day Sunshine」にいたします。この曲はPaul の作品ですね。Paul の、こういうヴォードヴィルやラグタイムのタイプの曲は、わたしも好きです。

 

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■ 2009-08-04(Tue)

[]We Hate You (Little Girls) [Throbbing Gristle] We Hate You (Little Girls)  [Throbbing Gristle]を含むブックマーク

 朝起きてプランターに水をやろうとベランダに出ると、猫がサッとベランダから飛び出て、駐車場からこちらを振り向いてじっとしています。何だ、来てたのか。残念ながら、キミを飼ってあげようなんてこれっぽっちも考えちゃあいないよ。

 そうか、来てたのかぁ、などと思いながら朝食の準備。ふと思い立って、使っていない灰皿に先日のホッケの食べ残しを盛って、ベランダに出したりします。あ、そんなことをやってはいけない。餌付けという重大な一線を越えてしまいます。

 しばらくしてベランダを覗いたら、食べてる食べてる。ホッケは旨いからね。わたしの姿を見ても逃げませんね。こっちをじっと見てる。「やあ、あなたがわたくしめにこうやって食物を与えてくれた神様ですか?」などと思っているんでしょ。つかつかこちらに寄って来て、目の前のバケツから水飲んだりしてます。もう全然わたしのこと恐れていません。コケにしているという言い方も出来るでしょう。でも、そこで駐車場に車がはいって来たもので、ノラくんはサァッとベランダから逃げて行きました。今日はここまで。

 さて、ノラ猫に食物を与えてやるというのは、やはりよろしくない行為でありましょうか。猫を飼うというのは、いったいどんな段階から飼っていると言えるのか。食事を全部与えて、よそで食べ物のトラブルを起こさなくなれば、それで外に迷惑をかけていないということで、ノラ猫ではないと言えるのか。外を彷徨していればそれでノラ猫とされてしまうと言うことはないでしょうが、首輪をつければそれでOKなのか。中途半端な接し方をするとまずいよね。おっと、今もベランダに居るようです。

 先日から読んでいた「甘粕正彦 乱心の曠野」読了。読む前に、この著者(佐野眞一)だと変なところに持って行かれるかも、との危惧はあったのですが、その通りでした。それも、わたしの危惧をはるかに上回るご乱心ぶり。くだらない本のことあれこれ書いてもしょうがないのですが、ちょっと書いてみます。

 この本に、資料としてはそれなりの価値があるということは認めますけれど(膨大な数の人たちへの取材の労は認めます)、その前後にはさまれた著者の常識人ぶった感慨の文章が目障り。それと、取材した人への気兼ねからか、本題から離れた取材元の経歴の余計な記述も多い。で、とにかくそんなことよりも、著者は甘粕正彦という人物像をまったくつかみそこねているし、大正末期から昭和初期にかけての日本の陸軍、憲兵隊の動向、その背後にあるものについてほとんど何も考えていない。同じように満州事変以降の満州国というもの、そこでの関東軍、日本陸軍の活動についても何も考えていないのではないのか。甘粕正彦の表面的な「ああした、こうした」という行動は書いても、それが何なのか、満州国建立の中で甘粕正彦が果たした役割の背後には何が動いていたのか、そういうことが本の終盤になるにつれてどんどん薄れて行く。最終章「八十五年目の真実」など、いったいどんな新事実が見つかったのかと思ったら、戦争末期に甘粕と会食した人間が、甘粕の口から直接「わたしは大杉をやっていない」と聞いたという記録を見つけたというもの。‥‥そんなこと、今さら大発見みたいに言われても困る。それ以前にも彼はやっていないという状況証拠のようなものはたくさんあった(書かれている)し、それまでのこの本全体が「甘粕は大杉栄に直接手を下していない」との前提で書かれているのに。

 それに、甘粕出獄後の渡仏体験がまったく調べられていないではないか。この時期にフリーメーソンに入会したのではないかとか、藤田嗣治と交流があったのではないかという憶測があるのだけれど、この件について肯定も否定も出来ず何も書かれていない。このフランスで、おそらく甘粕のその後を左右する大きな内的体験があったはずで、そこがおさえられていない以上、その後の彼の満州での転身ぶりは、正直理解出来ない。調べがつかなかったのならそう書けばよいのであって、ただギャンブル狂いの鬱屈した日々を送っていただけではないはずなのだから。実際、彼のフランス体験がわからない以上、甘粕正彦という人間の謎はまったく解きようがないのものだと思う。しかし、それならそれで書きようはあるはずだけど、著者は何も触れないで読者をごまかす道を選んでいる。

 こういう「書かないで読者をごまかす」というのは、わたしはもう一点気が付いている。それは1976年になって発見された大杉らの「死因鑑定書」に関しての記述で、実はわたしは個人的に大杉栄のことを調べる過程で、この「死因鑑定書」は読んだことがある。だから、その記憶で、この本の著者が何を書いて何を書かないでいるのかわかる。笑っちゃうのは、著者の佐野眞一氏は、その「死因鑑定書」から、大杉栄の死体の、性器に関しての記述の部分を引用している。これはまるで授業について行けなくてノートに落書きしていた中学生が、急に先生が性器とかの話を始めたので、そこだけ反応してノートを取っているような場面を想像して、微笑ましくもばかばかしい。

 実はその「死因鑑定書」には、引用すべきもっと大事な記述が書かれていたわけで、それは大杉栄の肋骨が(暴行によって)複数本骨折していたということで、いったいなぜその部分を引用しないのか、理解に苦しむ。甘粕正彦は大杉を「絞殺した」と証言している反証に、これ以上の資料もないだろうに。このあとに、著者はその鑑定書から「男女二屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力(蹴ル、踏ミツケル等)ニ依ルモノナルコトハ明白ナル(‥‥)」という部分を引用してはいる。実際この傷が致命傷というのではではないようなのだが、その「前胸部ノ受傷」とはどういうものなのかということは、性器なんかの状態に興味を持つよりも、ずっとずっと重要なことではないだろうか!

 著者は「あとがき」で「この作品に想像は一点も混入させていない。すべて取材で得た事実と、信頼すべき歴史資料をもとに構成したノンフィクションである。」と書いているけれど、取材で得られるものは「事実」とは言わず、これは「情報」というのではないだろうか。それらが事実であったという保証はどこにもない。ここで著者がすでにノンフィクション作家として危うい地点に立脚している、というのがわかるというものでしょう。さらに、彼は「想像は一点も混入させていない」というけれど、ある意味この本全体が著者の解釈した甘粕の人物像をあらわすために書かれているわけで、彼の解釈をすべて想像とも言えるとすれば、この本すべてが著者の想像の産物なのではないか。そのような認識も持てずにこんなあとがきを書いてしまうのは、職業ライターとしていかがなものでしょう。

 普通に読んで、著者の「想像」が外れているのではないかという箇所はいくつもあるのだけれども、この箇所なんかどうだろう。

 これは、日本のポツダム宣言受諾〜敗戦から五日後に甘粕正彦が青酸カリを飲んで自殺、その時に残された「遺書」と、著者によるその解釈の箇所なのだけれども。また部分的な引用で、よろしくありませんが。

 (‥略‥)私の思ふ通りにさせてくれたら最もあとの迷惑をかけずにすんだのに、また醜く死体をさらさなくともよかったのにと思います(‥略‥)

 というのが甘粕正彦が残した何通かの遺書のうちのひとつの、その一部ですが、これが著者の想像ではこうなります。

 (‥略‥)「私の思ふ通りにさせてくれたら」というのは、日本人らしく日本刀での自決を望んでいたことを意味しているのだろうが(‥略‥)

 著者はここで、甘粕正彦を普通に軍人、右翼の類型として「彼は切腹で死にたかっただろう」と想像するわけですが、それまでのこの本にあらわれてくる甘粕正彦はそのような類型から距離があり、ここで急に甘粕をそんな類型に押し込めようとする著者の想像力は、実に貧困ではないか。甘粕が乃木希典を忌み嫌ったという記述もあるわけだし、「醜く死体をさらさなくともよかったのにと思います」というのは、著者の考えでは「切腹」なら醜くないという考えになるけれど、単純な武士道からは距離を置いているような合理主義者の甘粕が「切腹」を望んでいたというのなら、その典拠が必要でしょう。さらに、別の遺書には

 死体はそのまゝ 此のまゝ手をつけずに 湖西会館の防空壕に埋めて貰ひたい 凡てを灰にしたかったのだが その方が迷惑もかゝらなかった

 とあるわけで、ここの「凡てを灰にしたかったのだが その方が迷惑もかゝらなかった」というのは「切腹」ではない、なんかもっと「爆死」みたいなことをやろうとしていたと考える方が自然な気がしますね。それがまた甘粕正彦という人物なのではないのか。また、彼が自殺した満州映画協会の理事長室の黒板には、「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」という辞世の句が書かれていたわけで、こんな「破格」な辞世の句を残す人間が、切腹という方法を選ぶだろうか、ということです。

 だから、このことだけで言うわけではないけれど、この著者はこんな分厚い本を書いても、実のところ甘粕正彦という人間のことなどちっとも判っていない。つまらない本。唐十郎の「少女仮面」でも読んで、そこに出て来る「甘粕大尉」のことを考えている方がよかった。

 長くなってしまったけれど、もう一つだけ、なかなかの文章がありますので、ぜひ紹介させていただきたい。これは橘外男の書いた「甘粕大尉とその子分」という小説について書かれた部分だけど、

 (‥略‥)甘粕の?スタンド・プレイ?だけに目がいくと、甘粕の人間像を誤って伝えることになる。そればかりか、それを書いた人間の卑しさを露呈させる結果になる。

 として、橘外男の作品に権高で横柄、無礼な言動の主としてカリカチュアライズされて書かれた甘粕の描写について、苦言を呈しておるわけです。

 (‥略‥)甘粕について権力を笠に着たイヤなヤツと戯画化するのは簡単である。だが、そう書いた瞬間、甘粕の複雑な内面は見えなくなる。甘粕は会う人間によって、その面貌を変化させているわけではない。厄介なことに、試されているのは甘粕を見る側の教養であり見識なのである。

 ‥‥よくぞ申して下さいました。その言葉(とくに最後の一節)、そっくり佐野眞一という作家に差し上げたくなります。つまり、誰かの肖像を書くときにはその人間の複雑な内面も見なければならない、そうじゃないカリカチュアは卑しい行為だと言っているのでしょうか。甘粕はその鋭い眼光と厳格な姿勢、権力者の地位などから周りの人間に恐怖の念を覚えさせたとは著者も何度も書いているけれど、そういう権力者の権力を笠に着た言動を笑い飛ばすのはいけないのか、そういうのを書くときに、彼の内面も見ろよということか。もう宮武外骨など人間のクズにされちゃいますね。ゴヤあたりも「卑しい」でしょう。わたしもそれなりに愛読していた橘外男のことを、こんなところでこんな程度の低い著者にけなされたくはありませんでしたね。もちろん佐野眞一は、橘外男が若い頃に横領罪で逮捕されたことがあるのを知っていてこういうことを書いているわけだろうけど、卑しいヤツだと思います。いけ好かない。

 今日はまた散々書いてしまいまして、すみません。今日の一曲は、Throbbing Gristle の「We Hate You (Little Girls)」(1979)にいたします。Throbbing Gristle は、インダストリアル・ノイズ・ミュージックの偉大なる始祖といいますか、彼らの登場によって、音楽の表現領域はそれこそとんでもなく拡張されることになったのではないかと思います。まさにTG 以前、TG 以後と時代を分断するような、最重要ユニットだったのではないかと考えています。あ、彼ら(彼女ら?)は、イギリス出身です。もう疲れたのであまり書きませんが、5年ほど前に彼らは再結成したようで、その時にリリースされたアルバムがまたひどかったとかで、そういうこともまた、いかにも彼ららしいのです。ひどい出来、というのもまた、肯定的な価値となるということです。今日取り上げた本も、案外‥‥。

 

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■ 2009-08-03(Mon)

[]Catch Us If You Can [Dave Clark Five] Catch Us If You Can [Dave Clark Five]を含むブックマーク

 昼ごろ、ベランダの外で、やけに雀がチュンチュンとさえずっています(雀の鳴き声はほかと区別できます)。外を見てみると、ほんとうにわたしの部屋の真ん前の地面に二羽の雀が降り立って、せわしくさえずっています。何をやってるのかとあたりを見ると、そのすぐ傍の自転車置き場の、バイクの後部シートの上に三毛猫が一匹。ははぁ、この猫のことで騒いでるんだろうな。しかし、なぜ? よっぽどのへまでもなければ、雀が猫の襲撃をかわすなんて、強盗殺人犯が茨城県警の捜査の手から逃れていくぐらい簡単なはずです。ん? なんかまずいこと言った?

f:id:crosstalk:20090902104758j:image:right なんでわざわざ猫のすぐそばの地面に降りて来て、まるで挑発するようにさえずり廻ってるのですか。‥‥これはやはり、どう見ても雀が猫をからかっているようにしか見えません。深読みすれば、実はその猫の居るところの近くにこの二羽の雀の巣があってそこに雛鳥がいるもんで、猫の注意を引き付けて巣から遠くに連れ出そうと? これは真相はわからんけど、見た感じは「捕まえられるものならやってごらん!」と挑発している。で、猫の方はこれがまぁったく無関心で、バイクのシートの上がよほど気持ちいいのか、視線さえ雀に向けません。そのうち雀はいなくなっちゃいました。挑発失敗、ですか。

 この様子を部屋の中から見ていたら、猫はわたしに気が付いてしまいました。こいつは以前にわたしと顔を合わせたことのあるヤツなのか? 三毛だというのは同じだけど、ちょっとこちらの方が小柄のような。でも、眼が合うと視線をそらさないでじっと人のこと見つめるのは前のヤツと同じ。いつまでもにらめっこしててもしょうがないので、勝ちは彼にゆずって昼ご飯の準備。

f:id:crosstalk:20090902104848j:image:left すると、なんだかその猫がベランダに上がって来た気配。覗いてみると、プランターに水をやるために水を張ってあるバケツから、ぺろぺろ水なめてます。また眼が合っても逃げないっすね。至近距離なのに。って、よく見ると眼がくるっと丸くって、そのまぶたの縁が面相筆でサッと着彩したように細くピンクになっていて。なんだか、江戸時代の浮世絵に描かれた猫にこんなのがいたような。ちょっと可愛いじゃん、などと、一瞬思ってしまいました。わたしがベランダに出ても遠巻きにするだけで逃げないので、飼ってやろうか? なんて、「ノラや」のはじまりのようなことを考えてしまいました。雌ならノラだけど、雄ならヘルメルだな。いけないいけない、そんな考えはよしましょう。

 DVDは、ロベルト・ロッセリーニ監督の「ドイツ零年」(1948)。

 なぜドイツが舞台? という疑問がおきるのですが、彼の「無防備都市」が、ドイツ占領下のイタリアでのレジスタンス運動を描いた作品であったわけで、ヨーロッパを徹底的に荒廃させたナチズム、その影響をとらえる上でドイツ本国の戦後までも描いたという視点は理解できるし、とにかく、この作品はリアルタイムな状況をとらえている。これは近年、単に商売のために「さらば、ベルリン」などという作品を、無神経にドイツを舞台に製作したS・ソダーバーグ監督の姿勢とは、ここで並べて書くのも失礼なほどまるで違うでしょう。

 なぜ、ドイツなのか? それは、この作品の中に出て来る、主人公の少年の教師だったという男の登場で明らかでしょう。ナチズムの顕現としてのヒットラー政権は崩壊したけれども、ナチズムの思想は消滅したわけではなく、戦争が終わったあとでも、こうした悲劇を生む。ナチスの大本営跡の廃墟に蓄音機から流れるヒットラーの演説の音声、その場面の力は、そこがまさに「その場所」だからこその力。冒頭の字幕で提示されるロッセリーニの製作意図は少々ナイーヴすぎる気もしますが、この映画を観て、この映画がつくられてから60年の世界の歴史を思い返せば、やはり一蹴することは出来ない問題ではあるでしょう。

 映像的には、多用される人物のアップの映像が、重たく観るものに迫るようですし、やはり終盤の、ひとりになった主人公の少年が廃墟を彷徨する映像がすばらしい。

 今日は雀が猫を「つかまえてごらん!」とばかりに(?)からかっているのを見ましたので、「Catch Us If You Can」という曲を選びます。スピルバーグに「Catch Me If You Can」というのもありましたが、この曲はイギリスのDave Clark Five が1965年に放ったヒット曲で、当時人気最高潮だった彼らが出演した映画、「五人の週末」の主題歌的なものでした。ほんとうは映画自体のタイトルも「Catch Us If You Can」とかって報道もされていたんですけれど、たしか最終的には「Having a Wild Weekend」になっていたと記憶しています。考えてみればこの映画が公開されてから以降、彼らの人気は下降線をたどり始めるわけですけれど、この映画との因果関係はあるのでしょうか。前にも書きましたが、この「五人の週末」という映画、のちにヒットメイカーになるジョン・ブアマンの監督デビュー作でした。

 余談ですが、当時ヒット曲の長さは約3分間、というのが定説というか、シングル盤の長さが一般的にそのくらいだったのですが、Dave Clark Five の曲は短いのが多くって、1分半ぐらいのがあれこれありました。この曲も1分二十何秒ぐらいではなかったかと。で、これをアルバムに収録すると、当時アメリカでは片面5〜6曲、トータルで10〜12曲ぐらい収録されるのが一般的だったのですが(これが日本では片面7曲、トータル13〜14曲というのが定番でした)、そうするとDave Clark Five のアルバムは片面10分そこそこ、全部聴いても20分超えるか超えないかぐらいなもので、あっという間。CDの時代になると、一枚のCDに楽勝で3枚のアルバムが収録出来ちゃいます。でもレコード会社はそういうことはやらないんですね。まだ3イン1というCDは見たことがありません。

 

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■ 2009-08-02(Sun) このエントリーを含むブックマーク

別のところでやっていた日記をこちらに移転いたします。

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