ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2009-12-31(Thu) 「天井桟敷の人々」、おさらい

[]Evangeline [Cocteau Twins] Evangeline [Cocteau Twins]を含むブックマーク

 昨日と同じように、いちど起きてネコご飯を用意してからまた寝ていると、黒いネコがやって来てミルクを舐めたりしている。黒いネコ=チビかユウのどちらかなのだけれども、この二匹が大きさから体の色、ぶちの具合までほとんど同じで、メガネなしで寝ているベッドからでは、どちらのネコなのかまったくわからない。ユウならうれしいのだけれども、ユウがミイの付き添いなしで一匹で来たことなどないのだから、やはりチビの方だろうかと思う。顔が見えるところまで近づけばすぐわかる。マジックで落書きしたみたいに変な顔なのがチビ。「どっちだろう」と起き出してみると、その黒いネコもあわててベランダに逃げる。窓から外を見ると、うれしいことにユウの方だったようだ。ついにユウもひとりで来れるようになったか。
 朝食の準備をしているとミイが来る。部屋に入って来てもしきりに振り向いてうしろを気にしているので、きっとユウといっしょなのだろうと、ユウに見られないようにわたしは和室に待避する。やはりあとからユウがついてきてミイといっしょに食事を始めるけれど、ユウはわたしに気がついてしまったようでベランダに逃げて行く。ミイはそんなこと気にしないで食事を続け、ゆっくりベランダから駐車場へ出て行く。駐車場でミイの啼いている声が聴こえて来る。きっとユウがどこへ行ったのかわからなくて呼んでいるのだろう。

 自分の朝食をとってから大掃除を始める。まずガラス窓を全部拭いて、リヴィングを片付けて床の雑巾がけなどやっているとお昼になる。昼食に天ぷらそばを作って食べ、しばらく休憩。スーパーへ行ってみる。おせち料理に押しやられて、賞味期限の近いおでんセットが半額で売られていたので、わが家のお正月料理はおでんにすることにして買って帰る。リヴィングの掃除を終えて和室を片付け始めると、ベッドの下から白いネコが飛び出して来てびっくり。例の飼い猫。買い物に行っているあいだ窓を開けていたので入ってしまったんだ。図々しいにもほどがある。ベランダまで追うけれど、ネコはベランダに座ってこっちをじっと見ている。馴れ馴れしいにもほどがある。どうしてくれよう。
 とにかくまた和室の掃除に取りかかり、途中トイレに行って戻ると、白いネコがまたベッドの下に入り込む後ろ姿が見えた。なんてこった。ちょっと閉じ込めてやろうと和室のふすまを全部閉め、玄関と台所の境の引き戸も閉めておく。ベッドをバタン!と叩くと飛び出して来て、走り回っても行き場がなくてうろうろしている。和室から玄関へのふすまを開けるとそこから和室を飛び出して行くけれど、玄関スペースから外へ出る道はない。開けたふすまをすぐに閉めて、ネコを玄関スペースに閉じ込める。ニャアニャア啼いている。
 しかしこのあとどうしてくれようか。もう二度とこの近くに来なくなるように、キツ〜イお灸をすえてやりたいところだけれども、肉体的に危害を加えたりするわけにもいかないし、考えてしまう。ネコが嫌がることとはどんなことだろう。ヒゲを一本一本毛抜きで抜いてやるとか、鼻の穴にワサビをこすり込むとか、ゴミ袋の中に生ゴミといっしょに2〜3分封じ込めてから解放するとか、その他ここには書けないような残酷なことまであれこれ考えてみるけれども、どれもネコを手でつかまえなくてはならないし、そうとう抵抗されるだろうからやりたくない。とりあえず閉じ込められる恐怖感を与えればいいだろうか。
 ふすまをそおっと開けてみると、ふろ場の前のマットの上に居座ってくつろいでしまっているように見えたりする。もう〜! ホントに腹が立つ。玄関スペースに踏み込んでみると、そのすきにまた和室の方に飛び込まれてしまった。走り回られる。変なところに飛び上がられるとイヤなので、また玄関スペースへ追って、ふすまを閉めてもういちど閉じ込める。バタバタバタと音がして、急に、静かになる。アレ?と思ってふすまを開けてみると、リヴィングにつながる台所との境の引き戸を自分の力で開けて、すでに脱出していた。ベランダから外を見ると、白ネコが逃げて行くところが目に入った。まあいいか。これに懲りて来なくなればイイのだけれども。

f:id:crosstalk:20100101092217j:image:right 掃除の続きをする気が一瞬失せ、CDなどかけたり。しばらくするとミイが一匹でやって来る。ミイならば大歓迎。「どうだ、部屋がきれいになっただろう」と自慢してみせる。
 和室の掃除は後回しにして、台所、洗面所、トイレと掃除して、暗くなっても来るし、今日の大掃除はおしまいということにした。

 夜は、これが大みそかに観る作品にふさわしいかなと、マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」(1945) を観る。初見。ジャン=ルイ・バローがあまりにすばらしい。
 芝居小屋の周辺にたむろする人たちを描いた一種バックステージものなのだけれども、映画で進行して行くもうどうしようもない運命的な悲恋と、映画の中に挿入される無言劇や「ハムレット」などが皮肉にシンクロして行くさまが見事だし、そもそもこの演出がすべて舞台演劇的な大仰さでつらぬかれているから映画全体がとても演劇的だし、作品全体がいにしえの大衆舞台演劇へのオマージュになっている感じ。泣かされる決めセリフも満載。
 これ、日本だったらバチストとガランスは心中したりするんだろうな、などと思ってみたら、江戸を舞台にして、生き生きとしたこの作品のリメイクが出来そうに思えてしまう。もちろん基調は近松でいく。そんな感じで、この作品のシチュエーションを頭の中でそのまま江戸時代に移植するのを空想して時間が過ぎる。モントレー伯爵はどこかの大名で、ガランスはやっぱり花魁にしてその大名の寵愛を受けるのだ。ルメートルは芝居小屋からのし上がって歌舞伎役者になって江戸の人気者になる。バチストは人気は出るけれども所詮は河原の芝居小屋の役者だから、吉原のトップ花魁のガランスとの恋など叶うはずもない。面白そう、っていうか、すでにそういう話はこれまで幾度も書かれているのではないのか。
 とにかく年の終りの〆で観るにふさわしい、楽しくて素晴らしい作品だった。

 今日は昼間聴いていたCDの音源から、Cocteau Twins の「Evangeline」を選びます。今日観た「天井桟敷の人々」の脚本はジャック・プレヴェールだし、フランス大衆演劇の映画を唱ったこの映画をジャン・コクトーにつなげてみるのも悪くはないでしょう。この「Evangeline」はCocteau Twins の1993年のアルバム「Four Calendar Cafe」に収録されていたもので、これがリリースされた頃にはわたしはこの曲ばかりリピートして聴いていたものです。自分では今年一年の最後にふさわしい曲と思えます。

[]二○○九年十二月のおさらい 二○○九年十二月のおさらいを含むブックマーク

 十二月のおさらい。年末年始ということで、つい食費に無駄遣いしてしまっている。来一月はかなり食品のストックもあるので、食費を思い切りセーブしてみたい。観劇、映画鑑賞のペースは、このあたりが続けられれば妥当な所。

  観劇:
●12/ 5(土)黒沢美香ソロ・ダンス『耳』 @駒場 アゴラ劇場
●12/ 7(月)庭劇団ペニノ『太陽と下着の見える町』@にしすがも創造舎
●12/12(土)流山児★事務所『田園に死す』@下北沢 ザ・スズナリ
●12/13(日)中野茂樹+フランケンズ『忠臣蔵(と)のこと』@新百合丘 アルテリオ小劇場
●12/21(月)リミニ・プロトコル『Cargo Tokyo〜Yokohama』(天王洲〜みなとみらい)

 映画:
●『賭博師ボブ』(1955) ジャン=ピエール・メルヴィル:監督
●『海の沈黙』(1947) ジャン=ピエール・メルヴィル:監督
●『湖のほとりで』(2007) アンドレア・モライヨーリ:監督
●『エル・スール』(1983) ヴィクトル・エリセ:監督

 美術展:
●『No Man's Land』@広尾 フランス大使館
●『DOMANI・明日展2009〜未来を担う美術家たち<文化庁芸術家在外研修の成果>』@六本木 国立新美術館
●亀井三千代展『いのちのかたち』 @湯島 羽黒洞

 読書:
●『ドン・キホーテ 前編 下』セルバンテス:著 荻内勝之:訳
●『ドン・キホーテ 後編 上』セルバンテス:著 荻内勝之:訳
●『憂鬱たち』金原ひとみ:著
●『エル・スール』アデライダ・ガルシア=モラレス:著 野谷文昭・熊倉靖子:訳
●『虫と歌』(コミック)市川春子:著

 DVD:
●『女優 須磨子の恋』(1947) 溝口健二:監督
●『カルメン故郷に帰る』(1951) 木下恵介:監督
●『二十四の瞳』(1954) 木下恵介:監督
●『青空娘』(1957) 増村保造:監督
●『巨人と玩具』(1958) 増村保造:監督
●『最高殊勲夫人』(1959) 増村保造:監督
●『氾濫』(1959) 増村保造:監督
●『からっ風野郎』(1960) 増村保造:監督
●『女は二度生まれる』(1961) 川島雄三:監督
●『雁の寺』(1962) 川島雄三:監督
●『しとやかな獣』(1962) 川島雄三:監督
●『田園に死す』(1974) 寺山修司:監督
●『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(1983) 井上和男:監督
●『俺たちに明日はないッス』(2008) タナダユキ:監督
●『天井桟敷の人々』(1945) マルセル・カルネ:監督
●『ハイ・シエラ』(1942) ラオール・ウォルシュ:監督
●『ミニヴァー夫人』(1942) ウィリアム・ワイラー:監督
●『我等の生涯の最良の年』(1946) ウィリアム・ワイラー:監督
●『必死の逃亡者』(1955) ウィリアム・ワイラー:監督
●『ダイヤルMを廻せ!』(1954) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『北北西に進路を取れ』(1959) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『マーニー』(1964) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『引き裂かれたカーテン』(1966) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『トパーズ』(1969) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『エデンより彼方に』(2002) トッド・ヘインズ:監督
●『コニー&カーラ』(2004) マイケル・レンベック:監督
●『ピアノチューナー・オブ・アースクエィク』(2005) クエイ・ブラザーズ:監督

 あと、TVのBS放送を録画したもので1本。

●『Z』(1964) コスタ・ガヴラス:監督

 この他に、「ミュージアムパーク 茨城自然博物館」という所へ行って来ました。

 

[]二○○九年一年間のおさらい 二○○九年一年間のおさらいを含むブックマーク

 というわけで、激動のゼロ年代も終り。わたしにとってもこの二○○九年という年は大変な年になったけれども、こうやって無事に年を越せるのもいろいろな人たちのヘルプのおかげ。感謝しています。こんな生活でもそれなりに本を読んだりDVDを観たり、上京して舞台や映画を観たり友だちに会って飲んだりも出来てしまったわけで、特に後半はこれはこれで充実した部分もあったりして。

 全体で舞台は29作ほど鑑賞して、2/3は演劇関係。これから先、ダンスというものに個人的にどれだけ期待出来るのか疑問も残る年。演劇関係も自分の趣味的な観劇がほとんどで、アクチュアルに現在の演劇がどうとか言えるような観方ではないけれど、三月の飴屋法水演出の「転校生」は観た人のあいだで話題になっていたし、インパクトのある舞台だった印象。自分の好みでは、十二月の天野天街演出の「田園に死す」あたりが、今年のベスト。

 映画は28本ほど映画館で観た計算になるけれども、なんといっても十年に一本の傑作、クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」に尽きる。ジム・ジャームッシュ監督の「リミッツ・オブ・コントロール」もすごかった。あとはスクリーンで観ることの出来たヴィクトル・エリセの二作品、「ミツバチのささやき」と「エル・スール」の素晴らしさ、回顧上映のジャン=ピエール・メルヴィル監督作品の冷徹な映像作品。

 美術はあまり印象的な展覧会も観なかったけれど、六月の池田亮司展と八月の鴻池朋子展あたり。

 DVDなどヴィデオ関係は合計すると309本観たらしい。とにかく溝口健二作品でレンタル出来るものをずっと連続して観続け、圧倒されてしまった。ヒッチコック作品も出来るだけ見直しているのがあと少し。今は増村保造の作品を連続して観ている。

 読書は57冊とかそのくらい読んでいるようで、相変わらず週に一冊のペース。「ユリシーズ」とか「ドン・キホーテ」などの古典を読んだあたりが、いい読書体験だっただろうか。

 二◯一◯年には計画があって、カフカ、ナボコフあたりをまずは集中的にまた読んでみたいし、もうちょっと受け身ではなくって何かやってみたい。去年は少し絵を描いてみたりしてみたけれども、あんな絵はダメだ。

 

 

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■ 2009-12-30(Wed) 「二十四の瞳」

[]Jacob's Ladder [Monochrome Set] Jacob's Ladder [Monochrome Set]を含むブックマーク

 最近あまり早起きしなくなってしまい、毎日六時半にセットしてあるアラームが虚しく鳴る。でもがんばって一瞬でも起き出して、ネコご飯をセットして窓を開けてまたベッドに潜り込む。今朝もそうやって二度寝してから目が覚め、ベッドの中からリヴィングを見ると、ミイとユウがいっしょに来ていて、二匹でトレイに顔を突っ込んで食事の真っ最中だった。ユウが来るのは久しぶりなのでちょっとうれしくなるけれど、ユウはわたしの気配を感じると逃げ出してしまうので、ベッドの中からじっと動かないで様子をみる。
 ミイは先に食事を終えたのかユウに譲るためか先に姿が見えなくなり、残ったユウは一匹でそれからもしばらく食事を続けてから、ゆっくりとベランダに出て行く。ベランダの様子をみようと起き出してみると、ミイは先に外へ行ってしまっていたのではなく、部屋の中の隅っこでユウの食べるのを見守ってあげていたようで、ユウのあとを追うように部屋からベランダに出て行く姿が見えた。母性だなあ。なんか、野生動物のドキュメントを観ているような気分になってしまう。

 レンタルヴィデオの店に行き、またDVDを借りると、CDアルバムを2枚レンタル出来るクーポン券をもらった。最近のメジャーどころのCDアルバムなどまったく聴いていないので、何を借りようか考えてしまう。やっぱり秋にリリースされたBeatles のリマスター盤を借りようか。
 帰りにスーパーに寄り、どうやら年を越せるというメドもついたので、つい余計なものを買ってしまう。お正月ぐらいはと安い紙パックの日本酒やおつまみを買い、年の瀬だからおそばを食べようとかき揚げの天ぷらなども買う。小さな鏡餅まで安かったので買ってしまう。家に帰ってから、「買わなくてもいいものばかり買った」と反省。

 イカの塩辛は、日にちが経ってだいぶ味が出て来たような。スパゲッティにも活用出来るようなので、こんどスパゲッティをつくってみよう。

 夜、木下恵介監督の「二十四の瞳」(1954) のDVDを観る。軽い気持ちで観始めたけれどもこれが二時間半を越す長尺で、「うへぇ」と思ってしまうけれど、あまり時間は気にならないで一気に観ることが出来た。ロングショット、ミドル、そしてアップの使い分けが絶妙で、とりわけロングショットの美しさやミドルでの画面の奥行きに惹かれる。しかしロングは時に絵ハガキ的通俗構図になってしまうし、全編に流れる小学唱歌がうるさすぎる気もする。
 わたしはこの作品をちゃんと観るのは初めてという非国民だったけれども、この映画後半の追憶の原点になる小学生の分校時代というのは、わずか一学期しかないのですね。ここでロングショットの画面の中を疾走する子供たちの姿が最高なのだけれども、このあとはもうさまざまな離別の連続になって行く。それは貧困ゆえだったり、徴兵のためだったり。そんな悲しみを、誰のせいという個人の責任に転嫁せずに、ひたすらに悲しむ先生の姿が心に残る。そして、そんな悲しみを語ることさえ「アカ」と排斥されそうになる時代のかなしさ。ちょっと戦後の描写がわたしにはおセンチになりすぎているように感じられるし、もうちょっと演出を整理した方がいいような印象もあるけれど、決して重くなり過ぎずに、それでも主張を通してこの長尺を乗り切る手腕は素晴らしいと思った。そう、高峰秀子が結婚する旦那さんが、若き日の天本英世だったのにびっくり。

 今日の一曲は理由もなく「ヤコブの梯子」。うん、登ってみたいものです。わたしの大好きなMonochrome Set の「Lost Weekend」収録で、シングルカットもされた、彼らには珍しくゴスペル調のポップ・チューン。ここでメジャーな人気が出そうな雰囲気もあったけれども、この時に彼らはいったん解散してしまう(のちに再結成して来日公演もやってくれますが)。
 この日本では彼らはかくれた人気があって、ずっとあとに本国イギリスでリリースされた彼らのベスト盤のライナーノートには、「彼らがいなければピチカート・ファイヴもカヒミ・カリイも存在しなかっただろう」などと書かれていました。このゼロ年代の終わりに、そんなMonochrome Set の音を聞くのもまた佳し、であります。

 

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■ 2009-12-29(Tue) 「からっ風野郎」

[]Hot N Cold [Katy Perry] Hot N Cold [Katy Perry]を含むブックマーク

 自然博物館に行った時に、スケジュール帖をどこかに忘れるか落とすかしてしまったような。どうせ今年もあと幾日もないし、先のスケジュールをそれほど書いてあるわけでもないし(だって書くページがないから)、大事なIDやパスワード、忘れちゃ困ることなどを書いてもいないから軽くあきらめられる。つまり「今年のことは早く忘れろ」という天の声だろうから、それに従うつもり。でも、どうでもいいことだけど、あまり人に読まれて楽しいことが書いてあったわけでもない。読んだ本からの書き抜きだとか思い付いたことのメモで、「脳天ファーラ」とか、かなり突拍子もないことを書いていたりしている。拾った人が読んだら「変なノート」だと思うだろう。「狂人のノート」などと思うかもしれない。それもまた楽しいか。

 今日、朝のうちは曇っていたけれどまた暖かな日ざしの晴天になったので、布団を干したり洗濯をしたり。もう年の瀬で、わたしにはあまり関係ないことといっても、やはり大掃除だとか新年を迎える準備をしてみたい。ここは今まで住んで来た部屋に比べてきれいな建物なので、やっぱきれいに保たなくてはと思う。しかしやはり腰が重いというか、なかなか大掛かりに掃除をやり始める気力に欠けるというか。それでも、和室の方の机の上に二段に積んであった本棚(本来はCDラック)は地震などで倒れる危険があり、もしもそのまま倒れてしまうと机の上のパソコンを直撃することになるとずっと考えていたのを、上の一段をリヴィングのラックの上に移動させたりした。机の上に残った本棚の向きも変えて、ちょっといままでよりも機能的になった気がする。本棚の本の背表紙がいつも目の前に来るので、前よりは読書に励むようになるかもしれないし。

 スーパーに買い物に出てミイの住処の近くを通ると、ちょうどミイが住処からこちらへ出て来るところだった。あ、ウチに来るつもりかもしれないと思いながらミイを観察していると、やはりわたしの住まいの方角へアパートの通路に入って行く。ときどきわたしの方を振り向いたりしているのは「これからアンタんちに行くんだからね」と念を押しているみたい。スーパーへ行くのを中止して部屋に戻る。窓を開けてベランダに出ると、やはりちょうどミイがベランダに上がって来たところだった。「さあ、どうぞお食べ遊ばせ」と、皿にミルクなど注いであげる。どうも新しいキャットフードにしてからは減りが遅いというか、食べないことはないのだけれどもあまり口にしない印象があり、やっぱ「まずい」のかなあ、などと思ったりする。ミイに「その新しいキャットフード、まずいのか?」とか聞いてみる。ミイは答えないけどね。

 ミイが食事を終えて出て行ったのでスーパー仕切り直し。店内は買い物客であふれていて、みんなもうおせち料理などを買い漁ってる。「今年はタコが安いよ」などと宣伝していて、小さなバケツのようなビニール容器に詰められた酢ダコが980円とかで売っているのが欲しくなってしまう。酢ダコはわたしの大好物なので、いちど飽きるほど酢ダコばかり食べてみたいという欲望がある。でも、カタギでもないのにそんな荒んだ食生活はいけないという、天からの声も聴こえて来る。とりあえず今日は天からの声の勝利。

 DVDは増村保造監督の「からっ風野郎」(1960) を観る。なんと三島由起夫主演で若尾文子と共演、若尾文子は三島由起夫の子を孕むという展開。脚本(菊島隆三)のおかげもあるだろうけれども、乱暴で勢いはいいけれども実は臆病で気のやさしいヤクザという、まさに「からっ風野郎」な役柄を三島がイイ感じで演じている。まあこのあたりはすぐにマッチョ体質丸出しに上半身裸になりたがる三島とか、全体に誇張してコミカルに見せる演出でもあって(三島もシンバル叩きの猿のおもちゃに擬せられてしまうのだから、のちの楯の会代表もかたなしである)、他にも雇われ殺し屋役で登場する神山繁の、薬屋でのショットなど大笑いさせられる。
 当時のヤクザの抗争など大ざっぱだけれどもティピカルにまとめられていて、映画として「仁義なき戦い」前史という感じも受ける。ラストに三島が生まれ来る赤ちゃんのために産着を買ってやろうとして撃たれる展開など、まさに「仁義なき戦い」の中で玩具屋で撃ち殺される松方弘樹。しっかし、このラストの、三島由起夫が上りのエスカレーターを必死に下りようとしながら上がって行く、ちょっと長いショットはあまりのインパクトで、もうほんとうに何かがぶっ壊れているイメージで、みごと。
 それにしても、三島由起夫はこの作品で主演することでどんなことを感じ体験し、どのような思考を導き出したことだろう。

 そんな「からっ風野郎」などを観ていて、なぜかKaty Perry の去年だかのヒット曲「Hot N Cold」を思い出したりしていたので、今日の一曲はその「Hot N Cold」のライヴを。うへえ、Bitch だなあ。(わたし、Katy Perry はかなり好き!)

 

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■ 2009-12-28(Mon) 「ダイヤルMを廻せ!」

[]New York Telephone Conversation [Lou Reed] New York Telephone Conversation [Lou Reed]を含むブックマーク

 日曜に帰宅してベランダに出してあったネコの食事トレイを見ると、空になったお皿がトレイの外に飛び出している。これはミイの仕業ではない。贔屓にするわけではないけれども、ミイはこんなガサツで礼儀知らずなことはしない。おそらくは白の飼いネコがやったことだろうと思う。
 今日はミイの姿が見えない。昼ごろ、その白い飼いネコが来てミルクを舐めようとする。ベランダまで追い出すけれど、ベランダに出てみるとまだそこに居てこちらを見ていたりする。そもそもが他所様の飼いネコだし、もうまったく好きになれない。何とかここに寄り付かなくする方法はないものか。駐車場に出て行ったそのネコを見ていると、向かいのアパートのブロック塀の上にあがって、周りを監視するように座り込んでしまった。なんだかミイやユウが来るのを監視して阻止しようとしているように見え、いやんなっちゃう。
 午後から窓を開けたままスーパーに買い物に行き、戻って来て部屋に入ると二匹のネコが驚いたように出て行った。これがなんと、以前来ていたノラネコの二匹で、チビとノラと勝手に名前を付けていたやつら。チビは黒のブチでちょっと見はユウみたいだけれども、顔の模様が落書きみたいに変。ノラは最近来る飼いネコのような白ネコで、かなり似ている感じ。二匹ともしばらく姿を見なかったけれども、いつの間にか二匹でつるんで行動するようになっているのか。
 しかし、この二匹がまたこのあたりを徘徊することになると、事態はとてもめんどくなる。ミイとユウに加えて例の飼い猫、そしてノラとチビという五匹ものネコたち、三組のネコ派閥がこのベランダを入れ替わり右往左往することになり、それではネコ屋敷寸前になる。ミイとユウ以外のネコたちがこのベランダに来るのを阻止することを、ほんとうに本気で考えなくてはいけないではないか。どうしたらいいんだろう。

 夜、図書館から借りたヴィデオで「ダイヤルMを廻せ!」(1954) を観る。最近旧作でもリマスターされた素材からのDVDばかり観ていると、こういう過去のVHS映像を観るのがつらくなったりする。これにウチのモニターの性能劣化という問題も加わるから、夜や室内の明かりの暗いシーンなんか画面がつぶれて真っ黒になってしまう。「ダイヤルMを廻せ!」はもちろんDVDも出ているのだけれども、なぜかレンタル店に在庫がないのだから仕方がない。
 この作品、過去に観た記憶もあるようなないような曖昧なのだけれども、ストーリーの骨子はまったくわたしの記憶の埒外で、観ていてすっかり騙されてしまった。この作品のポイントはもちろんラストにレイ・ミランドの計画が露見するきっかけになる鍵の存在、存在位置になるんだけれども、映画ではそのラストの決定的瞬間まで観客にもその存在位置を知らせないでいる。だから、観ていてもその瞬間近くまでは刑事が何を問題にしているのかわからなかったりする。この作品、客観描写を装いながらも、かなめの描写を避けることで観客をリードすることで成立しているのだろう。この作品でのレイ・ミランドの計画はとてもち密なものなのだけれども、作品の構成、描写自体がそのレイ・ミランドの計画に沿った構成、描写になっていて、それはたびたび挿入されるレイ・ミランドの手元のクローズアップなどの映像によって、彼が今何を問題にしているのかということを映像で伝えていることにも読み取れる。ある意味、観客はレイ・ミランドの計画に加担しながら画面を観ているわけで、そうすると、かなめの鍵の位置の描写がないということは、レイ・ミランドの意識の中にその鍵の(正しい)位置に関する意識がないということになるだろう。だから終盤の刑事の登場するシークエンスで(ここで完全な客観描写に移行するわけで)、それまでのレイ・ミランドの視点からは何が進行しようとしているのか読めなかったりする。もちろん聡明な観客であればこの映画的トリックに気が付いていたりするだろうけれども、トリックに先に気が付くことでこの作品の面白さが失せてしまうということでもないだろう。
 考えるのだけれども、この犯人の意識にしたがった描写というのは今はあまり流行らないというか、おそらく最近の映画作品であれば最初から完全に客観描写に徹し、犯人が正しい鍵の位置に考えが及んでいないことは、最初の犯罪現場のシーンから観客に提示するのではないだろうか。別にそのことが映画のストーリー展開の面白さをそいでしまうというわけでもないだろうし、ストーリー展開の面白さを問題にするならば、最初から観客に全てを提示してしまうというやり方が十分に成立する。こういう客観を装った主観描写というか、ラストにそれまで描写していなかった地点を提示してどんでん返しに導くというのは、もうちょっとギミックな、カルト映画と呼ばれるようなジャンルの得意とするところになっているような気がする。さもなければ描写は犯人の主観を貫いて、犯人の認識し得なかったポイントの、犯人によるフラッシュバック映像などが挿入されて来そうな気がする。
 だからこのヒッチコックの作品がユニークなのは、犯行が露見する終盤ではその視点が完全な客観描写に移行しているあたりで、そういう、作品の途中での視点の切り替え方を楽しめる作品と言えるかもしれない。
 しかし、この妻の愛人の推理作家、犯人の妻と不倫関係にありながらも、誤認逮捕された獄中の愛人を救うために、夫(実は犯人なのだけれどもここではまだ犯罪計画は露見していないし、基本的にはまだ捜査刑事以外には疑惑も持たれていないと考えられる)に対して「こういう筋立てであんたが陰の犯人ということにして罪をかぶり、獄中の愛人を救いたい」などと、いくらその推理がドンピシャリだったとは言えども、よくもまあいけしゃあしゃあと、そんな図々しい計画を旦那に持ちかけられるものだと。(ここまではレイ・ミランドの視点で物語が進行しているから、よけい彼にシンパシーを感じている観客としては)レイ・ミランドはこの愛人の男の方をこそ殺すべきだったんじゃないかと、強く強く思ったりしてしまった。この図々しい推理作家がレイ・ミランドといっしょに監獄に入れられるような、別の楽しいストーリーを考えてみたくなってしまった。

 今日の一曲はその「ダイヤルMを廻せ!」にちなんで、Lou Reed の名作「Transformer」(1972) から、「New York Telephone Conversation」を選びました。

 

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■ 2009-12-27(Sun) 「コニー&カーラ」

[]Museum [Herman's Hermits] Museum [Herman's Hermits]を含むブックマーク

 「ミュージアムパーク茨城自然博物館」というスポットへ行く。これはこの茨城県の中でも南西の隅っこ、千葉や埼玉の県境に位置しているのだけれども、我が家からは関東鉄道常総線でずっと南下した方角になる。これがクルマ社会の茨城県らしく最寄り駅からはめっぽう離れているし、バスに乗ってもかなりの距離がある。地図で見ると常総線の小絹駅という所から6〜7キロの距離の所で、これは歩いても行けるのではないだろうかという計画を練る。まあ二時間ぐらいの歩行はそれほど苦にはならない自信はあるし、そういうピクニック気分もたまにはいいだろう(いずれ筑波山まで歩いて行ってみたいという計画もあるから、その予行練習も兼ねて)。ただその道筋はずっと幹線国道だから、のんきにピクニック気分で行けるものでもないだろうけれども。
 関東鉄道は土曜日曜祭日には乗り放題のフリーチケットというのを販売していて、これの値引率が半端ではない。ここから終点の取手まで普通にチケットを買うと1450円するのだけれども、フリーチケットはいくら乗っても1500円。つまり、取手に行って帰って来るだけでも、フリーチケットを使えばほぼ片道料金で往復出来る。そんなに安く出来るのなら普段の運賃をもっと安くしろよと思うのだけれども、普段平日に通勤などで利用する常連さんからはたくさんいただいて、レジャーなどで利用する人には安く使ってもらおうという発想なんだろう。どうせ通勤に使う人たちは交通費自己負担でもあるまいということか。ウチからその小絹駅なでの通常運賃も1200円以上かかるので、フリーチケットだとかなりの得になる。
 ピクニック気分で弁当をつくり、朝の九時ごろに家を出る。フリーチケットを買い、一両だけで運行している常総線の小さなディーゼル車に乗車。今日も晴天で日ざしは暖かく感じられる。ほとんど田畑の中ばかり走って行く常総線の車窓風景は、とてもここが都心から一時間ちょっとで来られるような場所とは思えなかったりするし、途中の停車駅周辺もまわりに市街地があるわけでもなく、地方の閑散とした駅の風景に近い。そんな電車に一時間ゆられて小絹駅へ到着。ここから国道3号線だかに出て、その国道沿いに延々と歩く。
f:id:crosstalk:20091229113947j:image:right 途中風景。まるでアメリカのオレゴンとかアイダホ辺りの風景のように何もない。真っ平らな地平線の彼方まで見えるあたりは、ここは北海道ではないかと錯覚してしまいそう。ある意味では雄大な光景。歩いていて「茨城自然博物館まで10キロ」などという看板を見て、「え? 10キロ?」と、あせる。わたしの地図目測では精々7キロと計算したのだけれども、10キロだとちょっとキツい。途中から雑木林の中みたいなところを抜けたりするけれども、目を楽しませてくれるような風景があるわけでもなく、いい加減に飽きて来る。それでも一時間ちょっと歩いたところで博物館への曲り角に差し掛かり、ようやく国道3号線とお別れ。ここからは博物館まで三十分もかからないはず。

f:id:crosstalk:20091229114029j:image:left ようやく博物館へ到着。一時間四十五分歩いた。時速4キロと計算すればやはり行程7キロ。途中で見た看板の「10キロ」表示は相当アバウトな四捨五入の数字だったんだろう。
 入場券を買って博物館の中へ入る。この博物館は「ミュージアムパーク」という呼称にあるように広大な公園を併設していて、そこもまた博物館的な野外展示があちこちに点在しているらしい。公園内に「昆虫の森」だとか、「古代公園」などというスポットの名前がある。ちょうど時間も正午だし、まずは建物から外に出て、その公園で弁当を食べる。明るい日ざしで健康な気分。
 食事を終えて、公園を一周してみる。「古代公園」というのは実際に縄文時代の貝塚のある場所で、かつては利根川の分流が流れていたらしい名残りの池や水門などもあり、起伏のある土地を活用した、自然博物館にふさわしい公園造成になっている印象。
f:id:crosstalk:20091229114107j:image:right おっと、歩いていてネコくんに遭遇。わたしを見ても逃げて行かないけれど、さすがに近づくと警戒して、そばのクマザサの茂み(クマザサの茂みというのも珍しいものだけれども)に逃げ込んでしまう。それでもその茂みの中からじっとこちらを見ているので、写真を撮らせてもらった。笹の茂みの中にいると、ちょっとミニチュアの虎っぽいかな。このネコも博物館の「生きた展示物」なのだろうか。夏ならばいろいろな昆虫も観察出来るのだろうけど、冬の今は草も枯れて、あちこちに置かれた岩石の大きな標本ばかりがやたらに目立つ。それぞれの岩石標本に書かれた説明文を読んだりするけれども、わたしは鉱物関係の知識がまるでないことを改めて思い知る。鉱物と岩石とはイコールではないのだ。

f:id:crosstalk:20091229114137j:image:left 大きな杉の木の根塊の野外展示。ほとんど美術作品。

 公園をとりあえず周り終え、本館内の展示を見る。宇宙から地球、動物から植物、映像(それぞれがあまり長尺でないのが見やすい)や模型(これがなかなかいい)、はく製(触ることが出来る)や標本、そして実際の生物(ミニ水族館のような展示場所もある)と多岐にわたった展示はかなり見ごたえがあり、上野の科学博物館のような大規模なものではないけれども、この種の科学系博物館ではかなり充実している印象だし、外の公園などは都心では実現出来ない形態の博物館といえるんだろう。スロープでつながった通路を進んで行くと自然にすべての展示を回遊してしまう設計もいい感じ。ぐるりとまわってみて、かなり楽しめるスポットだった。

 時間も三時になり、博物館を出る。帰りはもう歩くのは疲れたので関東鉄道の路線バスを利用。博物館にはかなりの来客数があったようだけれども、おそらくその95パーセント以上の人が車での来館だろう。このあたりが公共の施設として、それ以上に自然科学博物館として、CO2排出を助長するようなことになっているのはいかんではないかという感想。送迎バスぐらいは用意するべきではないのか。とにかく、この路線バスの運賃がまた高い。停留所を越えるごとに50円ずつ位料金表示が増えて行く。これだと終点の守屋駅まで行くと千円近い料金になりそうで蒼くなる。バスの中の路線マップを見ると、途中の停留所が来たときの小絹駅に近そうなので、そこで降りることにする。そこまでで400円。降りてみるとすぐに「小絹駅まで600メートル」の表示が見つかり、途中下車計画成功。駅にすぐ着いて常総線に乗る。

 せっかくのフリーパスチケットだからと途中下車を考えるけれども、途中の駅で降りてみてそれほど楽しいところがあるわけでもない。むりやり水海道駅で降りて、駅の近くにあるブックオフに行ってみることにする。店に入ってとりあえず見ていると、偶然にも「ブックオフでならこの本が見つかるといいな」といつもチェックしていた本、上下巻あるのだけれども、その上巻のみ発見。105円。喜んで購入。途中下車のかいがあった。もうこれで下巻の方は普通に定価で買っても構わないや。
 駅に戻る。ここの駅の改札からいちばん近い店鋪は、ブラジル人コミュニティのためのマーケットになっている。かなり大きな店なんだけれども、看板や表記はみなポルトガル語。大きなブラジル国旗の絵が描いてあったりする。埼玉のどこかにも、とても大きなブラジルの人たちのコミュニティがあると聞いていたけれども、ここも相当に大きい。わたしの住んでいる町にもブラジルの人たちも多いけれども、それにとどまらずそれこそ世界中の人たちの姿を見ることが出来る。中国系、東南アジア系、中東系、南米系、インド系、ヨーロッパ系、アフリカ系など、ほぼ地球上のあらゆる人種の人たちが暮らしていると思う。駅のホームや街角などで、そんな外国からの人たちの姿をひんぱんに見かけることが出来たけれども、最近はちょっと裕福そうな外国人の姿があまり見られなくなった気がする。特にインド系、ヨーロッパ系、アフリカ系の人たちの姿が見えなくなった。

 帰宅して、冷蔵庫のイカの塩辛の味見をする。あまり芳しくない。DVDで「コニー&カーラ」(2004) という作品を観る。監督はマイケル・レンベックという人で、主演と脚本は「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」(未見)という作品で評判をとったらしいニア・ヴァルダロスという人。これを観ようと思ったのは、トニ・コレットが出ているからという理由だけで、とにかくわたしはトニ・コレットという女優さんが好きなので。
 観始めると、これは「お熱いのがお好き」のドラッグクイーン版で、殺し屋に追われた二人の売れないディナー・ショー歌手(女性)が、ドラッグクイーンに扮してロスアンゼルスの場末のゲイクラブのショーに出たら大受けしてしまうという話。女装する男性に女性が扮するというあたりがまずは面白いのだけれども、主役のニア・ヴァルダロスという人はあまりそういうドラッグクイーンには見えない。そこはさすがにトニ・コレット(この人、ミュージカルもやっていた)で、まるで金子國義のタブローから出て来たようなメイクで大口をあけて歌いまくるのが、とてつもなく素晴らしい。ニア・ヴァルダロスもかなり騒々しい人で、トニ・コレットと二人で騒いでいるシーンなど、二人なのに五〜六人が同時に騒いでいるみたいにうるさい。あと面白いのは、ノーマルに女性として歌うディナーショーが陳腐で誰にも相手にされないのに、そのままの演出でドラッグクイーンがやると大受けしてしまうというあたり。女性二人でのつまらないジョークも、これがドラッグクイーンでのやり取りとなると最高のジョークになってしまう。かなりの数出て来る往年のミュージカル・ナンバーも素敵で、「エビータ」からの「アルゼンチンよ、泣かないで」なんかの客との一体感などはほんとに素晴らしい!
 ストーリーなどは「お熱いのがお好き」と比較出来るようなものではない(トニ・コレット側のドラマがないし)けれども、偏見を取り払い、あるがままの相手を受け入れようというテーマの演出には説得力があった。なかなか楽しくて、年末を盛り上げるためにもう一度繰り返して観たくなってしまう作品だったかな。

 今日の一曲は「博物館」に行ったので、そのものズバリ「Museum」という曲。ブリティッシュ・ビート・グループのHerman's Hermits による1967年のヒット曲だけれども、この曲の作者がDonovan だったというのは今の今まで知らなかった。そうやって聴き直してみると、たしかにこの曲、Donovan の「Fat Angel」という曲にそっくりだったりする。

 

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■ 2009-12-26(Sat) 「カルメン故郷に帰る」「トパーズ」

[]Beat Crazy [Joe Jackson Band] Beat Crazy [Joe Jackson Band]を含むブックマーク

 ミイが食事に来る。わたしがリヴィングに足を踏み入れると警戒してベランダに逃げてしまうけれども、追ってベランダに出てみるとそれ以上逃げないでそこでくつろいでいる。思いっ切り体全体でノビをしたりあくびをしたり、ここでは全然わたしのことを警戒していない。わたしもベランダの縁に座り、明るい日ざしを浴びてのひなたぼっこなどをミイといっしょに。ミイは時々啼き声を出し、おそらくわたしに何か言ってるんだろう。ベランダの外に顔を向けて、どこかを見つめながらまた啼いている。「なに?」何を言ってるんだかわからないけれど、言っておきたいことがあるのかもしれない。ネコの言葉はまだまだわからない。

 スーパーに行くとまたするめいかを売っていたので、イカの塩辛四杯目。今回のイカも小振りだったので、前回の失敗もあるし一杯百円だし、二杯買ってみる。帰ってからお楽しみの解体をすると、やはり今回もワタが小さくて塩辛を作るのに量が少なすぎる。二杯合わせても、以前の巨大ワタを持っていたイカの半分ぐらいしかない。身の一杯分は焼いて食べることにして冷凍し、残り一杯分だけをを塩辛にしてもうまく行くかどうか不安。どうも最初や二回目がうまく行き過ぎたというか、いつもいつも塩辛に向いたイカに当たるというわけでもないようだ。スーパーに並んでいるイカを見て、その外観で塩辛に向いているかどうか判断出来るようにならなければ。

 今日はDVDを二本観る。最初は木下惠介監督の「カルメン故郷に帰る」(1951) で、「日本初の総天然色映画」というもの。だいたい物心ついてからこの方、木下惠介監督の作品というものをちゃんと観た記憶がないのだけれども、これから何本か(レンタル店に置いてあるだけ)観てみようと思う。
 この「カルメン故郷に帰る」は、浅間山と馬とオルガン。自然の色彩と都会からやって来たカルメンたちの服装のかなりケバい色彩との対比が楽しい画面で、カラー作品としての意図は成功しているだろう。高峰秀子の歌の巧いのにも驚かされるし、彼女の友だち役の小林トシ子という女優さんも良かった。この人はのちに勅使河原宏と結婚したらしい。
 戦後わずか数年で都市部の近代化再興が進み、地方との格差が拡がり始めた時代を背景にしているけれども、出征して失明した教師の描写以外に戦争の傷跡に関するような描写はなく、家族愛や友情を描きながらも、この作品の目線はもっと先を向いているように思える。それが音楽やダンスなどの新しい表現についての描写に思えるあたりに、この作品の新しさがあるのだろうか。浅間山の見える草原で踊る二人のまわりに牛や馬が集まって来るシーンは素敵だし、馬車や鉄道の貨物車に乗るカルメンたちの爽やかさは、カラーの画面の中でまぶしいくらいだけど、特に前半の撮影、編集におかしな所があり、絵がつながらないように感じられるシーンがいくつかあった。
 この作品の後半で描かれる、公演内容に無理解な興行主、その過剰宣伝、搾取なんていう問題は、今だって存続している普遍的な問題だろうけれども、そのあたり、この作品は「やってる方もバカ」みたいな割り切り方になっているわけで、「演るヤツ、演らせるヤツ、観るヤツみんなバカだよね」というくくり方(「みんな、毒のあるものを観たいのね」というようなセリフもあるし、これには映画製作者側の自虐意識もあるのだろう)は、ダンスそれ自体の発散したエネルギーを超えるものではないし、これに対比させるように出て来る、日本の風土に根ざしたらしい御詠歌のような音楽(木下忠司、黛敏郎)も退屈至極で、やはり今観ても生気にあふれているように受け止められるのは、カルメンたちの踊りの力になる(「ストリップ」という触れ込みだけれども、「レヴュー・ショー」だろう)。
 そうすると、ラストのダンス・ショーには、この作品の製作陣の映画表現に賭ける思い入れも投入されているようでもあり、「芸術」だなどという旗を振りかざしての宣伝行為を笑うような描写には、映画作品の宣伝への制作者側の意識が盛り込まれてもいるわけだろう。
 しかしただ、この作品には批評行為というのが不在であって、カルメンたちの踊りをマジメに観ようとするものはただひとりもいない。それでは「演るヤツ、演らせるヤツ、観るヤツみんなバカだよね」という見かたを超える契機は訪れないし、ただ「芸術」という宣伝文句を笑うのは反知性的ではないだろうか。

 もう一本のDVDはヒッチコック監督の「トパーズ」(1969) 。初めて観る作品だけれども、ジェームズ・ボンドなどスパイ映画の世界的ブームの中、荒唐無稽さを避けてリアルなスパイ映画を作ろうという意気込みが感じられる。なぜかフランスの諜報員が主役で、フランス人ばかり出て来るけれども、キューバ危機を背景にしたこの作品で、当事国以外の視点を得る必要があったことは観れば理解出来る。しかし、ヒッチコック作品で音楽がモーリス・ジャール、フィリップ・ノワレやミシェル・ピコリ、ミシェル・シュボール(!)などが顔を揃えて出演しているなんて、我が耳と眼を疑ってしまう。
 DVDの特典のメイキングを観ると、ヒッチコックもこのラストシーンで大いに悩んだようで、三種類のエンディングを観ることが出来るのだけれども、どうも(実際に公開されたヴァージョンを含めて)しっくり来るものがない。いくら何でも最初の案の19世紀的な拳銃による「決闘」というのもないだろうと思うけれども、ヒッチコックとしては、主人公諜報員がアクションによって問題を解決するという、従来のスパイ映画的な解決策にアンチを突き付けたかったのではないかと思う。しかしながらその「アンチ」がちょっと強力過ぎたようで、これではシュルレアリズムである。残る二つは、最初の案が観客に受け入れられないということで、急きょ取って付けられたような展開がありありで、余韻も何もない、とにかく終らせましたという印象になる。
 そういうわけで、舞台をフランスに移してからはとたんに失速してしまう作品なのだけれども、それまでのデンマーク(亡命劇)、アメリカ(キューバ資料の盗撮)、キューバ(地下工作員の連係によるスパイ活動)での展開は、さすがはヒッチコック流のスパイ映画という楽しさにあふれている。特にオープニングのソ連高官亡命劇の演出の冴えは素晴らしいのだけれども、幕開きのちょっとギミックなクレーン撮影で、カメラが一瞬ぐらついてしまうのがもったいない。このあたりが撮影監督が新しくなった影響なのだろうか。

 今日の一曲は何の理由もなく、ただ年末だから騒ぎたくなったので、Joe Jackson の「Beat Crazy」(1980) から、そのタイトル曲のライヴを。この頃のJoe Jackson はバンドを組んでいたわけで、この曲のリードヴォーカルがJoe Jackson ではないのだということに、このライヴ映像で初めて気が付きました。しかしこのギターのコ、Tシャツも含めてギンギンっすね。いいな。
 Joe Jackson は近年またバンドを組んで、Joe Jackson Band として活動しているようです。

 

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■ 2009-12-25(Fri) 「エル・スール」

[]Chinese White [Robyn Hitchcock] Chinese White [Robyn Hitchcock]を含むブックマーク

 行こうか行くまいか迷っていたのだけれども、けっきょくヴィクトル・エリセ監督の「エル・スール」を観に行く。場所は北千住にある東京芸術センターというところで、過去の名作などをいつも上映している。その存在も場所も知っていたけれども、行ってみるのはこれが初めて。快速の湘南新宿ラインで赤羽まで出て、そこから高崎線か宇都宮線に乗り換えて上野へ。時間の心配がなければ最初から宇都宮線を使えば乗り換えしなくても済むのだけれど、宇都宮線は途中で湘南新宿ラインに追い越されてしまう。上野からは北千住まで常磐線を使う。単純に北千住に来るだけならば、関東鉄道〜つくばエクスプレスというコースの方がちょっとだけ運賃が安くなるのだけれども、今日は映画を観たあとほかの予定もあるので、やはりJRで。

 北千住駅で下車し、久々に歩く北千住商店街を南へ抜けて行くと、東京芸術センターの大きな建物がある。ここの二階にあるシネマ・ブルースタジオという場所での上映なのだけれども、ひと気のない一階の広いロビーにある自動発券機でチケットを買って階段を二階に上がると、いかにも「スタジオ」という感じの素っ気ないドアが待ち構えている。中に入るとたいして広くはない事務室のようなロビーがあって、まわりの台の上にいろいろなチラシが平置きされている。その奥が上映スペース。
 これが映画館としてもかなり広いスペースで、ざっと見て三百席ぐらいありそうな感じで(あとで確かめると294席ということ)、椅子こそは会議用のパイプ椅子を並べたような感じだけれども、ちゃんと後方にせり上がる傾斜もついていている。
 で、開映二十分前の時点で観客はわたしひとり。またもやマイシアター体験なるか?という感じで、誰もいないのでお弁当を拡げてぱくつく。拾ったチラシを見ると、フィルムセンターでこの年末から大島渚特集が始まるみたいで、レンタルDVDでの鑑賞が中途半端に途切れてしまったので観に行きたくなる。

 開映。けっきょくあとに観客は誰も来ず、またもやマイシアター達成。いままでずっとそういう体験がなかったのに、この二千九年十二月になって立て続けに二回もそういう体験をしてしまうのいうのはどういうんだろう。「これからは孤独の道を歩みなさい」という天の声なのか。

 その「エル・スール」だけれども、前に観たのはもう二十年ぐらいは前のことだし、ほとんど記憶もおぼろげになってしまっている。ただ、その冷えきった空気を思わせる凛とした映像の魅力や物語の神秘的な雰囲気といったものは強く印象に残る作品だったし、この夏に「ミツバチのささやき」を観、また、この春に刊行されたこの「エル・スール」の原作本も読んだこともあって、ぜひともまたスクリーンで観たいと思うようになっていた作品。
 冒頭、暗闇の中におぼろげに右側の窓からの朝明けの弱く青い光が見え、外で犬が吠えている。母が父の名を呼ぶ声が聞こえる中、徐々に、ほんとうに徐々に室内が明るくなって行き、ベッドに横たわる主人公エストレリャの姿が確認できるようになって来る。もう、このシーンの素晴らしさで完全にノックアウトさせられてしまうのだけれども、あの照明は照明スタッフの手腕によるものなのか、それとも実際の自然光なのかわからなくなってしまう。こういう美しい光と影の描写は室内シーンの随所に観ることが出来て、とりわけ屋根裏部屋でエストレリャが父から振り子の扱い方を教えてもらうシーンなど、まるでフランドル絵画のように美しい。
 原作を読んでしまってからこの映画を観ると、いかにヴィクトル・エリセ監督がその原作を解体して、視覚を優先させる映像作品として再構築しているか、その手腕に見惚れてしまうことしばし。庭の木のブランコや家の外の並木道、屋根の上の風見鶏などが、まさに映像世界を成立させるための象徴的な背景の役割を持って描かれている。
 原作のイメージでは、もっとこのエストレリャには父の精神を継ごうとする「弟子」という側面が感じ取れるわけで、主人公エストレリャ自身の孤立が父の精神的孤立のあとを受けるものとして書かれていたけれども(例えば近所の同世代の少女と同調出来ない描写など)、この作品ではもっと、父の想い出の中から、「父」とはどのような存在だったのかを追求する視点が強く感じられる。その「父」についてエストレリャが知らない部分こそが「南(エル・スール)」であって、この「南」が、当時のフランコ政権下のスペインの地政学的状況と重なって来ることになるのだろう。スペインの「南」というのは、つまりはアンダルシア地方に当たるのだろうけれど、いったいこの「南」は映画の中の「父」にとって、その過去の執着をあらわす地なのか、求めて止まない憧憬の地なのか。挫折の記憶として喪失感とともに思いださせられるものなのか。この「南」が父のかつての交際相手であった女優イレーネ・リオスという存在に象徴されることで、よりくっきりとした輪郭を持たされると同時に、よりあいまいさを含ませたものになっているとも思えて、この作品の映画としての魅力を感じてしまう。ちなみに、原作ではイレーネ・リオスという存在は女優などではないのだけれども、彼女が女優だったという設定にして、父が映画館で彼女の出演する作品を観ることになるという演出が素晴らしい。このシーンは「ミツバチのささやき」でのフランケンシュタイン映画上映会を思いだすものもあるのだけれども、ヴィクトル・エリセにとってはこの二つの作品はある意味で「連作」なのだろうと思わせる共通点はあちこちに見い出せる。
 ちょっと脱線して考えて、この作品で描かれたスペインにおける「南」というのがどのくらいスペインの人々に共有されたものかはわからないけれども、これは日本でいえば逆に「北」ということになっていたかもしれない。日本人にとって「喪失感」をともなって指向される方位とは「北」だったのではないだろうか。もちろん日本にも「南島論」などというものもあるし、この「エル・スール」でエストレリャが収集する絵はがきに写されている「南」に異文化の匂いを嗅ぎ付けるならば、日本人のメンタリティの中にも異文化としての「南」という視点は存在するだろう。いつか日本の文学作品や映画などであらわれてくる「方位」について考えてみよう(などと書いて、考えることはなかったりする)。

 原作ではエストレリャは実際に「南」へひとり出かけ行き、そこでの新しい出会いなどの、大きく局面が変わるようなストーリー展開があるのだけれども、この映画作品はその前の段階で終了する。そのことはちっともこの作品の欠点などではなく、その「南」へ向けた視線をのみひたすら描写した、ある精神を描いた美しい作品だということだろう。「ミツバチのささやき」も素晴らしい作品だったけれども、この「エル・スール」もまた、「ミツバチのささやき」に勝るとも劣らない素晴らしい作品であったことを再確認。
 とりわけ、エストレリャの聖体拝受式で父娘が踊るシーン、そしてエストレリャが最後に父と会話するレストランでのシーンの素晴らしさ。これらのシーンはなんども繰り返して観たくなる。もうひとつ書いておきたいのが、エストレリャの成長をあらわす描写で、時間の経過をあらわす時に、家の前の並木道の両脇の木の、その一定の高さを白い塗料で帯のように塗り分けた演出、これがリアリズムなどとは関係のない、ある種非現実的な演出であることがとても心に残り、映画作品での「描写」と「美術演出」いうことについてのある視点を得ることができた。「ひとり映画館」、素晴らしい体験だった。

f:id:crosstalk:20091228132852j:image:right さて、終映後はメトロに乗って湯島まで行き、近くのギャラリー羽黒洞で開催されている亀井三千代さんの個展、「いのちのかたち」を観に行く。亀井さんはわたしがプロデュースしていたイヴェントに継続して出品して下さっていた作家で、人体解剖スケッチから得た人体器官のフォルムを生かした、ある種抽象的な作品を継続して発表されている。わたしのイヴェントに参加してくれた美術作家の方は今も活躍されている方が多くてうれしいのだけれども、彼女もそのひとりで、今回は日本画の技法を取り入れて作品の完成度も増し、人体のフォルムから発展させられた植物を思わせる描写に到達されている。現在の日本の美術業界は健全に機能していないから、才能があっても埋もれている作家が多すぎるのだけれども、わたしなどは彼女ももっと注目されて然るべき存在だと思っている。そういう彼女の個展。身体の器官から花が咲き乱れるような、身体器官が花になったような、痛みをともなう官能的な世界を堪能させてもらう。日本画の技法が表現された視覚的世界にとてもマッチして、落ち着きを垣間見せる作品群になっていた。
お茶をいただいて、会場にいらっしゃった亀井さんやギャラリーの方などとしばらく会話。この和風のギャラリーの外のパティオには大きなクリスマス・ツリーがあって、その向こう側には湯島天神の建物が見える。奇妙な世界。

 ギャラリーを出て、まだ外は明るいし、下北沢の「G」へ久しぶりに行ってあいさつしておくことにする。しばらく顔をみせていないので、「G」からのDMに、Oさんが「お元気でしょうか」などと書き込まれて下さった。年内に「元気ですよ」と顔見せに行こうと思った次第。湯島からはメトロでそのまままっすぐ乗れば下北沢方向になる。着いた頃にはそろそろ暗くなって来た下北沢の街を歩き、「G」へ着くと、「本日クリスマス・パーティー」との告知が。‥‥そうか、そうだったか。今日がクリスマス・パーティーだったか。しばらくはやっていなかったクリスマス・パーティーが今年は再開されるというのはDMでおぼろげに知っていたけれども、クリスマス当日にやるとは思っていなかった。まだ時間はパーティー前の仕込みで店も開いていなかったけれども、ドアを開けてあいさつぐらいしておこうと。Pさん、QさんRさん、そしてオーナーのSさんなどいらっしゃったので軽く会話して、残念ながらOさんは外出中。まあちょっとココで一杯、という気分でやって来たので、「G」を出たあとに無性にアルコールが飲みたくなり、ひとり居酒屋でもやろうかとも思ったけれどもやはりガマンして帰ることにして、帰宅してから残っていた焼酎をちょっと飲む。そうか、今日はクリスマスだったのだ。

 ということで、クリスマス・ソングの大トリはわたしのひいきのIncredible String Band の曲で、と思ってYouTube で探したのだけれども見つからず、代わりにRobyn Hitchcock がそのIncredible String Band の曲をカヴァーしている珍しい映像にぶつかった。今日はこれにしましょう。Robyn Hitchcock は80年代から活躍しているイギリスのシンガー/ソングライターで、偉大なるマイナー・アーティストのひとりで、一般受けしないようなかなりひねくれた楽曲をやっている印象。80年代中期からはEgyptians というバックバンドを率いてバンド活動していたけれど、今はソロで活動を続け、3〜4年前には来日公演も果たしています。
 今日の映像では画面の右端にちょっとだけ、Joe Boyd の姿が見えていて、Joe Boyd はIncredible String Band のプロデューサーだったわけだから、なんかのステージでそういう話からRobyn Hitchcock がこのIncredible String Band の「Chinese White」を演ることになったんでしょう。ギターの質素なイントロが印象的な曲だけれども、Robyn Hitchcock はそのあたりかなり現曲を忠実に再現しています。ただ、Incredible String Band のオリジナルには、このギターに加えて、Robin Williamson がアフリカの民族楽器Gimbri を弓で弾く(ボウイング)反則技の音が重ねられて、聴く人の耳を驚かせたわけです(Gimbri は本来撥弦楽器で、誰もその楽器をボウイングするなんて思いもしなかったし、またその音が独特の美しさをたとうていたわけです)。

 

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■ 2009-12-24(Thu) 「ミニヴァー夫人」

[]Father Christmas [Kinks] Father Christmas [Kinks]を含むブックマーク

 今日は、ミイの姿もユウの姿も見ることがない。なんだか、新しく買ったキャットフードがぜんぜん美味しくないせいじゃないかと思ったりする。午後からハローワークへ。今日は先日の案件の内容を確かめるだけの用事。二十一人待ち約一時間かかるけれど、さすが年末というか求職以外の用事、手続きで来る人がいなくなったのだろう。ロビーにいる人の数がグンと少なくなる。

 クリスマス・イヴなので、スーパーにはそういうオードブルやローストチキンが山のように並んでいる。これが閉店近くなると売れ残りは値引きされて並ぶことになり、三〜四年前にはそういうものを簡単に買うことが出来た記憶がある。これが去年あたりからどうも、値引きシールが貼られるとすぐに売れてしまうようで、まったく値引きの恩恵商品を手にすることが出来ない。今日も夜七時ごろにまたスーパーに行ってみたけれど、クリスマス関連のものはすべて売り切れていた。この時間はまだスーパーの閉店(このあたりのスーパーはみな十一時とか十二時閉店)に時間があるので、せいぜい20〜30パーセント引きなのだと思うけれども、スーパーの販売数量が適切になったということなのかな。

 今日はウィリアム・ワイラー監督の「ミニヴァー夫人」(1942) を観る。冒頭の高い位置からのロンドン市街をおさめたカメラがそのまま降りて来て、ミニヴァー夫人がバスに乗り込むところまで寄って行くカットからして力を感じる。とにかくいろいろな話の詰め込まれた作品で、家族愛、地域のコミュニティ、家庭内の使用人との関係、イギリス旧家のプライド、それに軽くラヴ・ストーリーなどを絡めながら、大きなテーマとして戦時下のイギリスの苦難が描かれる。
 ミニヴァー夫人が逃走中のドイツ飛行士に襲われる場面などは、ちょっと前に観た「必死の逃亡者」を思いだしたりもするけれども、最初のロンドン市街のシーン以外はすべてそのロンドン近郊の田舎町からの視点に限定し、そんな平和な田舎町にひしひしと戦火の迫って来る様子が、時間を追って展開してくる。ああ、日常生活が壊されて行くというのはこういうことなんだろうなと、観ていても不安が増大して来る。特に遠くの街(ロンドン?)へのドイツ軍機の攻撃/空襲がだんだんに舞台になっている町に近づいて来るさまがこわくて、これは映画の視点をその田舎町からに限定しているからこそのリアル感だろうと思う。これがさらに防空壕に避難した家族を空襲が見舞うシーンでは、カメラは防空壕の外に出ずに外の被害は案客の想像に任せられる。しばらく後にその被害が目に見える形で示されるときに、観ている方も絶句に近い感情を抱く。
 この展開では主人公家族の誰かが戦争の犠牲になってしまうのではないかという不安も拡がり、空軍に従軍する新婚の長男の安否が気遣われたりするのだけれども、悲劇は思わぬところにやって来るわけで、登場人物が階段を駆け上がり、屋敷の二階遺体の安置された部屋へ入りドアを閉める場面、そのドアからの明かりが階段の上に反射しているのが閉ざされる描写がすばらしい。

 ラストの教会での牧師の演説で、この作品は「戦意高揚映画」としての性格を露骨なまでに露にするのだけれども、それでもこの平和な田舎町からの視点で描かれた作品ならば、このラストの牧師の説教を挿げ替えれば、容易に戦争の悲惨さを訴える「反戦映画」になり得るだろうと思う。おっと、もう一箇所、ドイツ軍飛行士の描写があったっけ。あそこの「敵せん滅」を語るドイツ兵士の描写をちょっといじれば、そしてラストを変えれば、同じ内容でかんたんに「反戦映画」になってしまうだろう。それは、銃後の市民の心構えなど演説ひとつでどうとでも左右出来るという、戦時下の施政者の認識の結果なのだろうし、プロパガンダの果たす役割の大きさを痛感させられてしまう。この時の世界大戦において、日本でもアメリカでもそのようなプロパガンダ映画が数多く作られて観客を集めていたんだなと、改めて認識する。
 今この映画を観て、逆にそのように「プロパガンダ」の構造がはっきりと読み取れるということ、簡単に「反戦映画」に転換出来るではないかと思ってしまうということは、基本的にこの作品の中に現実をわい曲した誇張なり虚偽が少ないであろうこと、「戦う」という使命を持つ兵士の視点ではなく、平和な日常を送っていた一市民の視点から、その平和を破壊する戦火の被害を描いているからではないかと思う。それは監督のウィリアム・ワイラーの誠実さゆえ、「戦意高揚映画」を作るという条件を越えてなお普遍的な作品を作り出す監督能力ゆえなのかもしれない。「戦意高揚」とはどういうことなのか、この映画を観て考えられることは大きい。

 さて今日はクリスマス・イヴ。今日の曲にはサンタ・クロースに登場してもらって、Kinks の「Father Christmas」という曲を。Father Christmas というのはつまり、サンタ・クロースのことで、労働者の味方のKinks は、ここで、「サンタさん、カネをくれ!」と歌ってる。これは貧しい労働者の子供たちが、デパートのおもちゃ売り場でサンタの扮装をして宣伝しているサンタおじさんに毒づいているセリフ。
 この曲は1977年にシングルでリリースされたけれども当時はまったくヒットせず、後になってクリスマス・シーズンにはあちこちで聴かれるようになった曲。今日のライヴ映像ではRay Davies が実際にサンタの扮装で登場。Ray Davies はステージでいろんな衣装を着るのが好きな人のようです。

 

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■ 2009-12-23(Wed) 「ドン・キホーテ後編 上巻」「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」

[]Fairytale of New York [Pogues and Kirsty MacColl] Fairytale of New York [Pogues and Kirsty MacColl]を含むブックマーク

 和室でパソコンに向かっていると、リヴィングの方にミイが入って来る。和室からミイが食事をしているのを見ていると、食べ終ってから珍しくリヴィングの奥の台所の方に進み出した。ミイは今まで用心深く食事のトレイが置いてある場所よりも奥へ入って来ることは(わたしの見ていた限りでは)なかったのだけれども、「へえ、珍しい。それだけこの環境に馴染んでくれたかな」などと思いながらも、台所を荒らされちゃうといけないので、そおっと台所の方へ回ってみる。どうやらその気配で逃げちゃったようで、いっしゅん死角になったあいだにいなくなってしまった。

 スーパーの地元農家コーナーからトマトの姿が消えた。最近は朝食でトーストにはさんだりしているので、かなりトマトは消費している。地元コーナーでないと相当割高になるので、もうしばらくは食卓からトマトはお別れになるだろう。
 今は白菜の旬で、この日は小さめの白菜まるごとで30円というのを買う。これで年内は白菜ずくめになるかもだけれど、やっぱり白菜といえば鍋だなあ。

 「ドン・キホーテ」後編の上巻まで読了。メタ構造はさらに激しくなり、作中で「ここで作者はこのように書いている」などという文章が出て来たりするし、さらに「翻訳者はこの部分を省略している」などとも。ということは「ドン・キホーテ」の本文を書いているのは作者とは別の人物であり、さらに翻訳者という存在も別にいる。いったい彼らは誰なのか。というか、この「ドン・キホーテ」を書いているのはいったい誰なのか。「作者」が書いたというその「ドン・キホーテ」のオリジナルは、この出版された「ドン・キホーテ」とは別に存在するのか。
 たいていの登場人物は前に刊行された「ドン・キホーテ」の前編を読んでおり、その「ドン・キホーテ」前編を下敷きにして物語が展開して行くわけだけれども、「ドン・キホーテ」物語の虚構性を知る登場人物たちが、寄って集って作中のドン・キホーテを虚構の中に突き落とそうとする。虚構の物語の裏側にある虚構。キホーテまでが虚構を語りだしたりして、ゆいいつ物語中の虚構の二重性から逃れられているのはサンチョ・パンサだけのようになり、ここでサンチョ・パンサはほとんどこの物語の主役になってしまう。お楽しみはこれからの下巻へ突入。

 図書館から借りたヴィデオ、「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」というのを観る。1983年の、井上和男という監督の作品。これはあきらかに新藤兼人監督の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975) の二番煎じという作りで、どうも上っ面を撫でてみただけという印象を持たされる作品。学生時代に停学処分にされている「手紙」事件についてなども、かつての同級生によってちょっと語られるだけで、「え? なに、それ」という感じ。そもそもが、「ある映画監督の生涯」でのクライマックスであった田中絹代の談話に匹敵するものを持ち出せなかったというのが致命的で、つまり原節子の談話を取れなければ成立しようがない題材だったのではないだろうか。それが無理だったのならば笠智衆をもっとクローズアップすればと思うのだけれども、冒頭にいちど出てちょっと長めの談話を語るので終ってしまう。ある意味クライマックスシーンが冒頭で終ってしまう作品というか。
 どうも観終った印象は「小津安二郎」のフィルムを撮ろうとしながら、「松竹」という映画会社の権威の宣伝になってしまっているような気配も感じてしまうし、小津安二郎の作品を安易に引用してその力にたよっているような部分もあると思う。まあ「ある映画監督の生涯」と比べてしまのが酷なことかもしれないけれども、TVの特集番組でも、もう少し構成を上手にやるのではないかと思ってしまう。「生きてはみたけれど」というタイトルも、いくら小津作品タイトルから取られているとはいえ、なんとも収まりが悪いと思うし。

 今日もまたクリスマス・ソング。今日の曲「Fairytale of New York」は、アイリッシュ・フォーク(ケルト)とパンクのハイブリッド・バンド、Pogues の1987年発表のアルバム「If I Should Fall From Grace With God」に収録されていた曲。ゲスト・ヴォーカルにKirsty MacColl が参加していて、シングルカットされてそれこそ大ヒット、今でもアイルランドやイギリスでは「Number One Best Christmas song of all time」に選ばれている。Kirsty MacColl は、以前に「The First Time Ever I Saw Your Face」の作者として紹介したEwan MacColl の娘さんで、その親譲りのフォークの影響を感じさせる歌唱もあって、かなりの人気のあったシンガーだったけれど、十年ほど前にリゾート先の海で事故死されてしまわれています。
 この曲もやはり、アイリッシュ・フォークのスタイルで演奏され歌われているけれども、泣かせのメロディを歯抜けのShane MacGowan の方が歌うあたりから絶妙の共演。すばらしいライヴ映像で。

 

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■ 2009-12-22(Tue) 「氾濫」

[]Gaudete [Steeleye Span] Gaudete [Steeleye Span]を含むブックマーク

 火曜日は虚脱感をパートナーにしての朝帰り。部屋までついて来たこのパートナーのせいで一日蒼い。ミイがちょっとだけ顔を出してみせ、慰めてくれた。飲み会は非常に楽しかったわけで、会のせいとかいうのではないのだけれども、リバウンドということだろう。

 夜、DVDは増村保造監督の「氾濫」(1959) を観る。原作は伊藤整で、わたしは文庫本で出ていたこの原作をはるか昔に読んだような気がするのだけれども、何ひとつとして記憶していなかったので、多分途中で放り出してしまったのだろう。で、この映画がそういう純文学文芸大作かというとそういう感じではなくて、先日観た川島雄三監督の「しとやかな獣」にかなり相似形な、イロとカネの欲に溺れたグロテスクな人たちの群像劇。そのグロテスクさをかなり誇張して描いているのがもうコメディ寸前で、これがあと三年経てば「しとやかな獣」に熟成するのだろう。まさに第一次バブル期に溺れる人たちの痛烈な悲喜劇。成金社長がドイツのある特許を買い付けに大金を用意して部下を現地に送りつけ、空港でのその部下の送迎の場で「ブロンド女を抱いて来てもいいぞ」と大笑いする(まわりの社員もいっしょに大笑いする)あたりが、まさにそんな50年代後期からのバブルに浮かれる日本人をティピカルに描写していて(日本の男もついに、カネの力で外国人女性まで購入出来るようになったのだ)、観ていて気持ち悪くも楽しい。
 主人公は佐分利伸の演じる実直な技術者で、仕事でも家庭でもあふれ寄せてくるイロとカネから周囲の人々が人間性を失って行く中で、その渦に溺れまいと苦虫を噛み潰した顔で抵抗するのだけれども、彼にしても無謬というわけでもなく、戦中からの愛人との交際が続いているわけで、仕事にも家族にも絶望した男が、ラストにその愛人にすべてを賭けようとした時にその愛人にさえ絶望させられる、というあたりが純文学っぽいということなのか。
 ここでも増村保造監督の演出は主人公の苦悩を純文学的にことさらじっとりと描くわけでもなく、かなりドライにちゃっちゃっと撮り上げている印象で、彼の言う「近代的人間」のネガティヴな側面をあらわしたであろうこの作品でも、情緒というものの描写は徹底的に排除されている(そもそも原作の分量〜分厚さから考えても、アレを100分以内におさめているなんて驚異だ)。おカマっぽい生け花の師匠を怪演する伊藤雄之助が、そんなすべてをあざ笑っているように見えてしまう。面白かった。

 さてそろそろクリスマス。わたしにはまったく関係のない行事だけれども、ヨーロッパ世界の伝統ある行事ということで、伝えられるクリスマスのための音楽もあれこれと存在する。そこでしばらくは、そんないわゆる「クリスマス・ソング」を今日の曲に選びましょう。
 今日はその最初ということで、ほんとうに古い中世のクリスマス・キャロルを。もっとも古い記録では16世紀の北欧の聖歌集に記載されているようで、聖母マリアとキリストの生誕を讃えるラテン語の歌詞がついているもの。今日紹介するのはイギリスのエレクトリック・トラッド(電気増幅された楽器で伝承歌を演奏する)バンドSteeleye Span のもの。このヴァージョンはSteeleye Span の1972年に発表された4枚目のアルバム、「Below The Salt」に収録されていたもので、彼らのアルバムではいつも通例で一曲収められていたアカペラ楽曲にあたる。これがその年のクリスマス・シーズンにシングル発売され、ラテン語の歌詞の楽曲としては例のないヒット、また、Steeleye Span にとっても初めてのヒット曲になるわけです。まあアカペラ・コーラスといっても、リードヴォーカルのMaddy Prior ひとりで支えているようなものですが、どうぞこの清浄な曲で、厳寒の夜、聖なる気分に浸って下さいませ。

 

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■ 2009-12-21(Mon) 「Cargo Tokyo-Yokohama」

[]Drive [Cars] Drive [Cars]を含むブックマーク

 晴天。空が高い。今日はリミニ・プロトコルの「Cargo Tokyo-Yokohama」に参加、というか、トラックに乗せてもらう。ものすごい悪天候の日に体験するのもいいなあと思っていたけれども、絶好のドライヴ日和になる。まだ残っていたあさりご飯で弁当をつくり、ネコのご飯をベランダに出して出発。
 集合場所は天王洲アイル近くの某ヨットクラブ駐車場。品川駅でJRを降り、天王洲まで歩く。途中の川沿い(といってももうほとんど海だけれども)の公園ベンチで弁当を拡げて、ちょっと遅い昼食をとる。おっと、それまでいなかったカモメが、近くに皆どんどん集まって来る。ほかの公園だったらハトとかネコが近寄って来たりするけれど、このあたりではカモメなのか。フェリーに乗ったりすると、そのフェリーの後ろをいつまでもカモメがついて来るのを見たりしたことを思い出したりするけど、カモメには海の幸よりも人の幸の方が美味なのだろうか。単純に取るのに苦労しないで済むということだろうか。
f:id:crosstalk:20091223115908j:image:left 写真に撮ってあとで見たら、きれいに並んだカモメたちがちょうど柵の格子の間それぞれにおさまっていて、意識してディスプレイされたみたいになっている。カモメたちにとって、隣のヤツとの間隔というのはかなり厳密なものなのだろう。

f:id:crosstalk:20091223115939j:image:right ほぼ受け付け開始の時間通りに現地到着し、ヨーロッパから持ち込んだという特製の座席付きトラックに乗り込んで午後三時に出発。もうすっかり暗くなった目的地横浜に着いたのは五時半。
 トラックに乗り込む時に、スタッフのからの「これから荷物の積み込みを始めます」というコメントでトラックに入って行くのだけれども、そういう荷物の視点からの東京〜横浜間走行というふれ込み。しかし、途中一度も外へ下ろしてはくれないとはいえ、映像を交えてあれこれのコメントや説明、ドライヴァーさん二人の話などを聞きながらの道中は、自分が荷物であるなどということは思い出すこともなく、ちょっと物珍しい設計の観光バスに乗っての社会科見学を体験して来たような気分。「荷物」の行程としては、横浜の終着地近くの日本埠頭の倉庫で、フォークリフトの華麗な運転を見せてもらうところで、実際は荷下ろしされたのだという設定なんだろうか。もっともっと荷物的な乱暴な取り扱いを受けてみたいという嗜虐的な気分もあったのだけれども、快適なドライヴだったということに落ち着く。この日は天気が良かったので、途中海が見えて来るところでは対岸の千葉の山々も見えていたし、ベイブリッジ付近ではちょうど日没時の富士山のシルエットを見ることができた。
 さらにそういう「旅」の印象を書けば、途中通過した大井埠頭、このあたりはむかしアルバイトで通っていた場所だったりしたので、運転手さんの話題に出た花屋の存在も知っていたし、当時は野鳥公園のわきの道、コンテナの山積みされた広場の見える道を毎日歩いていたのを思い出す。実際の本職のドライヴァーさんたちの話を聴きながらのドライヴという感覚は、これも昔アルバイトで配送の助手をしていた時に、同乗したドライヴァーのおじさんからドライヴ中にいろんな話を聞いた体験と、ほぼイコール。
 そういう個人的にリンクしてしまうことがあったりしたイヴェントだったけれども、どうしても「社会見学」をやってきたという感覚がまずまっ先に浮かんで来るわけで、そうすると、例えば車中でテロップで流される日本の運輸業界の発展(政治的癒着)の話など、ちょっと薄いという印象も出て来る。それらのテロップや映像で裏事情を示された現在の日本の物流のありさまを、トラックの外の物流倉庫の景色や道路を走るコンテナ車の姿を通じて参加者が読み取ることを期待されているのだろうし、運転席のタコメーターの仕組みなどのドライヴァーによる説明から、管理されたドライヴァーの労働条件の苛酷さの一端もうかがい知ることが出来るのだろう。それでも何だか、街中を移動するコンテナの背後の、労働者の「汗」は見えて来ない。まあそういうのを見るためのイヴェントではないのだろうけれども、「荷物視点」というのがどこまでわたしの眼と重なることが出来たか、そこが問題として残ってしまうイヴェントだったという印象になる。
 さらに、これを「演劇」というカテゴリーとして観るならばどういうことになるのだろう。職業的な俳優を使わずに、実際にその職に従事する人の参加でドキュメント的な舞台空間を産み出す、というのがリミニ・プロトコルというユニットの特色なのだろうけれども、今回は「劇場」という空間も飛び出してのイヴェントで、より「参加型」のドキュメント・タッチのイヴェント。この「Cargo」の場合、どうもそのドキュメント・タッチが(何度も繰り返してしまうけれど)「社会見学」という印象に落ち着いてしまうあたりが、自分としては少し疑問になるわけだけれども(これは自分の受け止め方の問題なのかもしれない)、思い返して、このイヴェントに挿入された「フィクション」の部分がどこかにあるかといえば、トラックを追いかけ、先回りして何度かスタンドマイクの前で歌を唄う人物の存在が、まずは「フィクション」なわけだけれども、ちょっと唐突な感じがして、わたしにはよくわからなかった。海外の歌が聴こえて来るということにグローヴァルな視点をみつけるべきなのか。「劇空間」が外のリアルな風景の中にちん入して来るという提示なのか。
 もうひとつ、途中で並走して来るデコトラの存在が、リアルに偶然並走してしまったのか、それとも仕組まれたものなのかが、最初は一瞬わからないというのが面白かったけれども、あとの駐車スペースでのそのデコトラの紹介が、すこぉし説明的過ぎた感じがしてしまった。ここのテキスト的な「説明」が、それまでの「流通」の説明と同じなってしまったようで、そういう見方のイヴェントではないかもしれないけれど、このあたりで「劇空間」を思い切り設えても良かった気がするかな。
 そう、そもそも、この東京〜横浜間ドライヴは、「新潟〜横浜」という想定になっていて、考えてみればそれがいちばんのフィクションなのだろうけれど、そういうことはほとんど頭に残っていなくて、最終地点で下車して「350キロの行程、お疲れ様でした」といわれたとき、その設定など忘れているから、「なんで東京〜横浜で350キロもあるんだよ」などと考えてしまった。なんでスタート地点が「新潟」だったんだろう。

 まあそんなこと考えながら横浜。こんどはJRで「板橋」に移動して、Eさんと飲み会、というか、もうこの時期は「忘年会」なのか。まだその時間も仕事中のMさんも仕事が終れば合流する予定。駅前でEさんと合流し、わたしには初めての板橋での飲食。なんとなく「ホルモン」食べたくなり、Eさんにわがまま言って駅の近くのホルモン焼き屋へ。うん、ホルモン食べたいというよりも、看板の「ホッピー」に惹かれただけかもしれない。かなり遅くなってMさんも合流し、けっきょく電車がなくなるまで飲んでしまった。楽しい飲み会をありがとうございました。ということで、2009年もあと十日ほどになってしまった。

 今日はドライヴしたので(まあもちろんわたしの運転ではないけれど、これだけ長距離を車で移動したのはほんとうに久しぶり)、曲も「Drive」という曲で。これはCars の1984年のヒット曲で、わたしはこのバンドのRic Ocasek のファンだけれども、この「Drive」はRic のヴォーカルではなくて、ベーシストのBenjamin Orr がリード・ヴォーカル。彼は十年ほど前に亡くなられてしまったけれど、この哀愁を帯びた曲調に彼のヴォーカルがぴったりで、Cars の楽曲はどれも好きだけれども、この「Drive」は、涙をこらえて聴いてしまう、どうしても別格の一曲。

 

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■ 2009-12-20(Sun) 「引き裂かれたカーテン」

[]Raggle Taggle Gypsies / Stars in my Crown [Waterson: Carthy] Raggle Taggle Gypsies / Stars in my Crown   [Waterson: Carthy]を含むブックマーク

 金曜日に十二時間も寝てしまったせいで、土曜日の夜はなかなか眠れない。三時過ぎまでベッドの中で本を読んでいて、おかげで日曜の朝は九時近くまで寝てしまう。それでもミイたちへの食事を出さなくてはと、目覚しが鳴った時点で一度起き、室内に食事のセットをして窓を開けてからまたベッドに潜り込む。ベッドの中からリヴィングが見えるようにふすまを開けて、しばらくベッドの中から見ていると、ミイとユウがいっしょにやって来る。ユウが室内に入って来るのはこのところ見たことがなかったな。ミイは警戒心なんかまるでないのだけれども、ユウはやはりまわりを気にしていて(以前閉じ込められた時の記憶があるのか)、わたしがベッドの中で動いたりすると、ビクッとしてこちらをしばらく見つめていたりする。少しずつこの部屋に慣れて、ミイのようにわたしがいても気にせずに入って来るようになればいいのだけれども。理想はここを彼女たちの棲み家にしていただき、普段はこの部屋に居て、ときどき外へ遊びに行くようなことになるといいのだけれども。

 午後、買い物に行くドラッグストアへの道からミイたちの住処のある方を見ると、そのミイの住処へ入る私道の角のところに知らないネコがいた。茶と白のブチで、道路の端にきちんとした姿勢で、ネコの置き物のように座っている。ミイの友だちなんだろうか。ミイのところに遊びに来て、ミイの出て来るのを待っているみたいな様子に見える。ミイにもそういう交友があるわけなのか。まだまだわたしの知らないノラ猫社会があるということだ。以前近所にいたノラやチビはすっかり姿を見なくなったし、ミイにしても以前のようにここから東の方へ行く姿はまったく見られなくなっている(子育てのためにあまり遠出しなくなっているのか)。このあたり一帯のノラ猫の勢力分布はどのようになっていて、どのように変化しているのだろうか。フィールド調査すると面白そう。

 今日は出かける予定だったけれども、そこへ行く前に確かめておくことが出来たので外出中止、一日家に居る。夕食に一晩たったあさりご飯をレンジで温めると、昨日より美味しく感じられた。明日は出かけるので、まだ残っている分をお弁当にしようと思う。

 夜はヒッチコックの「引き裂かれたカーテン」(1966) をDVDで観る。この作品はわたしがガキだった頃に映画館で観た記憶がある。おそらくひとりで映画館に行くようになった最初の頃の体験だと思うけれども、場面として憶えているところが意外に多かった。それでも後半に登場するポーランドの伯爵夫人の挿話はまったく記憶に残っていなかったりする。
 この作品、当時の批評家には評判は良くなかったらしいけれども、興行的には当たったらしい。まあ、この当時ポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースの共演といえば、それだけでヒットしたのではないか。
 シナリオの展開が面白くて、冒頭からしばらくはジュリー・アンドリュースの視点からポール・ニューマンが眺められて、いったいポールが何を考えて行動しているのか、ジュリーと同じように、観ている側も疑問を持ちながら観ることになる。これが視点がポールに移動すると、彼が何を目指して行動しているのかがわかるようになり、こんどはポールの視点から、ジュリーがどんなつもりで行動しているのかがわからなくなる。このポールの使命の説明がいかにも「説明」になっていて、しかもちょっと長いというあたりが、難点といえば難点だろうか。これが真ん中あたりでようやく二人の意志の疎通が取れて(この明らかにセットとわかる丘の上での二人のシーンが、パースが効いていてとてもいい)、共に行動することになる。ここからはいろいろな人の助けを借りての逃走劇になり、特に偽装バスの中の描写などが、不安が重なって行く感じの中にそこはかとなくユーモアが挟み込まれ、ハラハラしながらもとても楽しい。後ろから迫って来るバスがチラチラと描写されるのがたまらない。何だ、やはり面白いではないですか。
 ひとつの見せ場、監視役の男に秘密が露見してポールが彼を殺害する場面、殺害シーンのカット割りもヒッチコックらしいけれど、そのあとの処理、人を殺したというあとの疲労感だとか、事後処理を考えるあたりの描写がていねいで、このあたりがコーエン兄弟の「ブラッドシンプル」とかにつながって来るのだろうと思った。

 今日の一曲はまた英国伝承歌の世界に戻って、大御所Martin Carthy とその奥さん(この人も大御所)Norma Waterson、そして二人の娘であるEliza Carthy からなる家族バンド、Waterson: Carthy の、素晴らしい教会でのライヴ。こういう空間がやはり英国伝承の世界にぴったりでしょう。ライヴ映像を作ったスタッフも力が入っているようです。二曲収録でちょっと長いですけれども。

 

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■ 2009-12-19(Sat) 「しとやかな獣」「ピアノチューナー・オブ・アースクエイク」

[]Are We Still Married [His Name Is Alive] Are We Still Married [His Name Is Alive]を含むブックマーク

 金曜日の夜はふとんにくるまってDVDを観ながら、そのまま眠ってしまった。一度目が覚めると夜中の十二時で、ベッドに移動してまた眠る。ベッドで夢を見た。

 処刑されることになる夢を見た。わたしは何人かの仲間と海外に来ていて白壁の建物の中にいるのだけれども、そこにいた人物からわたしたち全員がじきに銃殺されると聞かされる。ぜったいに何かの誤解なのだけれども、その誤解を解く方法がない。下の階からブロンドでショートカットの女性を先頭に何人かの人が上がって来て、わたしたちは彼女たちに処刑されるというのがわかる。なぜこんなことになってしまったのか。わたしたちをこの場所に先導した男がいいかげんな情報で行動していたのではないのか。彼が何かこの場所でイヴェントが行われるというので、わたしもついて来たのだった。海外の地で軽い気持ちで知らない場所について来たわたしもいけなかったと考えるけれども、もうこの建物に幽閉された状態で、処刑は免れられないだろう。目覚めても口の中にサビの味が残っているような感触を感じながら、こころを狭い箱の中にむりやり押し込めるような死を覚悟する気分はとてもリアルで、おそらく実際に最後を迎えるときにはそういう心境になるのだろうと、さっきの夢のまだ生々しい記憶をよみがえらせながら考えた。

 ちょうど時間が六時ぐらいなので、ベランダにミイたちの食事を出してまたベッドに入り、何度も夢のことを思い出しているうちにまた眠ってしまう。次に目覚めるともう九時に近く、この夜は十二時間ぐらい眠ってしまったことになるだろう。ベランダの食事は量が減っていて、ミイたちが来ていたのだろうと思う。白い飼い猫が来ると図々しく全部食べて行くので何も残らない。残して行くのはミイたちに違いない。

 台所に行き朝食の準備をしていて、昨夜ボウルに移しておいたあさりを見ると、見事なまでに皆が殻の外に触手(というのか)を伸ばし放題に伸ばしている。いつも海水入りパックので買って来ていたので、こうやって塩を吐かせることをやった記憶もないけれど、すごいものだなあと思ってしまう。じきに虐殺されるというのに。ああ、今朝見た夢は、そんなあさりの運命がわたしに憑依していたのかもしれない。「わたしは貝になりたい」などと思っても、貝になっても理不尽な処刑をされるのだったらおんなじではないか。

 キャットフードがなくなって来たので、ドラッグストアでまた大きな袋を買って来る。いちばん安いのを選んだので、また銘柄が変わってしまった。ミイたちは新しいキャットフードを気に入るだろうか。
 午後になってミイが一匹で食事に来た。「ユウはどうしてる?」などと聞いてみる。ミイが行ってしまうと入れ替わるように白の飼い猫がやって来る。追い払うけれども、スキがあればすぐにもベランダに戻って来ようとしているようで、食事のトレイを部屋に入れて窓を閉める。
 人の家のネコを養うつもりはないので、もう来ないで欲しいな。あまりかわいくないし。

 昨夜観ながら寝てしまったDVD、川島雄三監督の「しとやかな獣」(1962) を観直す。脚本は新藤兼人で、ほぼすべて団地の一戸内と周辺(外の階段とか)のみの視点で撮られていて(例外は抽象的な心象風景のような長くて狭い階段が三度ほど出て来る)、このまますぐに舞台作品に移植出来そうな感じだけれども、カメラ位置を目まぐるしく移動して、あらゆるアングルから写しまくっている(長女の浜田ゆう子を撮るアングルがいやらしい)。
 大映での川島雄三〜若尾文子コンビの三本の作品の最後のものだけれども、まあラストは若尾文子のひとり勝ちという展開ではあれ出番はさほど多くはなく、むしろ舞台となる一家の長、伊藤雄之助あたりが主役。この家族が一家四人グルになってあぶく銭をせしめまくる生活をしているのだけれども、この一家に搾取される芸能プロ社長や作家なんかも、まともというには程遠い。家族の会話の中に日米安保条約の下での軍事状況なんかが語られたりして、いかにも新藤兼人の脚本らしいけれども、60年代の高度経済成長時代、第一次バブル期のウラの「あだ花」を描いた、シニカルなコメディとして楽しい。ラスト近く団地内に空を飛ぶヘリコプターのプロペラ音が聴こえたように思うけれども、「家族ゲーム」?

 これで川島雄三監督作品はもうレンタル店になし(あと「幕末太陽傳」はあるけれども)。ほんとは「州崎パラダイス」とかも観たいのだけれども。そう、これは先日Eさんに教えてもらった、前橋に新しくオープンされた「名画座」で上映されるスケジュールを見ているので、ちょっと行きたい。しかし、前橋はキツイ。

 夜、「あさりご飯」作成。今朝わたしに憑依した夢は正夢になり、あさりの運命は変わらなかった。処刑者はわたしなのだが。
 今回は少し味が薄かったか。今日買った鶏肉の皮の部分を剥いで、火であぶっておかずにする。これがなかなか旨いのです。

 DVDをもう一本、クエイ・ブラザーズ監督(日本ではブラザーズ・クエイと呼ばれているみたい)の「ピアノチューナー・オブ・アースクエイク」(2005) 。わたしはクエイ・ブラザーズの昔からのファンなので、もうこの作品の日本公開がなさそうに思えたので海外版のDVDを買っているし(そのころはちょっと裕福だったのか)、無事に昨年日本で公開されたときも観に行っている。ただ、後日DVDを見直してみると、使われている英語がかなり難しくってわからない。そういうことがありまして、意外にもこのDVDがレンタル店に置いてあったので、英語の確認も兼ねて借りて来たもの。
 こうやって観直してみて、やっぱりわたしとしては、この作品の根底に流れている耽美的な空気など大好きなのだけれども、これは一般的にみて、広く支持を集めるような作品ではないでしょう。おそらくは映画の尺(長さ)の問題もあるのだろうけれども、何らかの図象なりイデアなりが提示されても、映画の上でそのことが深く展開されるわけでもなく終ってしまう。印象的なカメルーンのキノコの胞子とアリの話も、この作品の中でうまく機能しているとは言いがたいだろうし、そもそもこのマッド・サイエンティスト的なドロス博士はヒロインの歌姫を拉致して何がやりたいのか。ヒロインをひとり占めしたいという欲望と、ラストの客を呼んでの大掛かりなオペラ舞台を開催するという欲望が一つになる地点が見えない。どうも一本の作品として評価するのが難しく思えてしまう。
 しかしながら、この作品の中で提示される断片的なイメージは充分に美しく謎に満ちており、そのようなイメージの数々をこころに記憶して、それを時をかけて自らの中で培養して成長させる楽しみ、これこそがクエイ・ブラザーズの作品を観る楽しみではないかと思ってしまう。劇中のセリフにあるように、「ここでは心の病が必要なのだ イマジネーションのために」という世界こそが、この作品なのであって、そういう意味では観客の側に「心の病」が必要とされているのかもしれない。
 同じパペット・アニメーションの系譜にあるシュワンクマイエルの作品などよりももっと秘教的神秘的、淫靡なエロティシズムに溢れた耽美世界を描くクエイ・ブラザーズの作品、やはりわたしは偏愛せざるを得ないでいる。

 今日の一曲も、そのクエイ・ブラザーズの映像によるプロモーション・ヴィデオから、His Name Is Alive というユニットによる「Are We Still Married」(1992) という曲を選びます。His Name Is Alive というバンドはCocteau Twins などの在籍する4ADレーベルに所属していたアメリカのユニットで、実質はたしかひとりの青年による個人ユニットだったはずで、レコードごとに異なるメンバーを集めてレコーディングしていたような記憶が。このHis Name Is Alive 、3〜4年前に密かに来日していて(彼らのネーム・ヴァリューだと「秘かに」も「公に」も同じことだろうけれども)、わたし、彼らの小さなライヴを下北沢の行きつけのカフェで体験したことがある。そのときにもこの「Are We Still Married」を演ってくれたのがうれしかった。
 ここで取り上げるクエイ・ブラザーズの映像、彼らのフィルモグラフィでは「Still Nacht II」と名付けられているけれど、音の方もHis Name Is Alive のアルバム音源とは異なっていて、おそらくはシングル盤音源とかそういうのが使われている模様。これこそわたしの長く偏愛する映像で、ただ足元で屈伸するだけの少女(アリス?)の不思議なエロティシズムと、そのエロティシズムに幻惑されたように少女の周りを乱暴に回転する兎、さらにその兎の周りを飛び回るピンポン球、この三者の関係が絶妙の小宇宙を繰り拡げて行く。ここで人に紹介するのがためらわれるほどに素晴らしい。

 

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■ 2009-12-18(Fri) 「Z」「虫と歌」

[]Geordie [Silly Sisters] Geordie [Silly Sisters]を含むブックマーク

 十一月の使い込みはすぐに影響が出るのではなく、来一月あたりに苦しくなって来ることがわかり、対応をあれこれと考える。この週末にも別の用でまた出かけなければならなくなり、映画「エル・スール」を観に行く計画はとりあえず保留にする。煙草をやめることも考えなければいけない(このことはずっと前から考えているけれども、実行したことはない)。禁煙といえば、先日金井美恵子の「目白雑録3」を本屋で立ち読みしていて、彼女さえもが禁煙したことを読んで驚いた。彼女の愛猫トラーも死去されていた。

 昨日録画したコスタ・ガヴラス監督の「Z」(1969) を観る。ヨーロッパの架空の国が舞台(言語はフランス語を使っているが)という設定でも、ミキス・テオドラキスの音楽などはもろにギリシャ民族音楽を感じさせ、舞台はギリシャなのだと想像はついてしまう(可能性としてはスペインということもあるけれども)。
 密室の協議と街頭での暴力行為描写の繰り返される画面は、ほとんど「仁義なき戦い」なのだけれども、ここで戦われているのは民衆の自由を賭けた政治的戦いなのだから、観ている方にも力が入ってしまう。
 この作品の中では、ジャン・ルイ・トランティニャン演じる予審判事が真相究明に尽力して、立件にまで持ち込む活躍をみせるのだけれども、この予審判事が特に被害者側の野党にシンパシーを持っていたわけではなく、ただひたすら権力に屈せずに真相究明につとめる男なのだという描き方が魅力的。
 たしかにこの時期のギリシャは軍事独裁政権の下、アメリカの庇護のもとに圧政を強めていたわけで、この作品に描かれたような暗殺事件は現実にあったらしい。この時期に活躍したのがアレクサンドロス・パナグリスという人物で、当時「ギリシャ・レジスタンス」組織をつくって反政府闘争を継続、当時の軍政下の首相暗殺計画が失敗して逮捕され、この作品が公開された頃には死刑判決を受けて投獄されているらしい。1974年にギリシャは共和制に移行し民主主義が復活して(このときのニュースはわたしも憶えている)、パナグリスも国会議員になるわけだけれども、1976年、旧軍事政権下の秘密ファイルを暴露公表しようとしていた矢先に、「交通事故」で死亡している。なんということだろう。Wikipedia にも「この事故は不可解な点も多く」と書かれているけれども、映画「Z」から7年が経ってまた再び、「Z」とそっくりなことが起きている。まさにその「Z」のように、のちに「パナグリスは生きている」という映画までつくられている。

 この「Z」をつくったコスタ・ガヴラス監督はアンリ・ヴェルヌイユなどの下で助監督を勤めていたらしいので、フランスのフィルム・ノワールの伝統から、このような政治ノワールともいえるような世界を描く力を身につけたと言えるかもしれない。製作は新聞記者として出演もしているジャック・ぺランで、この人がこのあともずいぶんと渋い作品を手掛けている映画プロデューサーなのだというのはちゃんと認識していなかった。さあ、次は「戒厳令」を観てみよう。って、どのVHSテープに録画していたのか。

f:id:crosstalk:20091219145944j:image:right 昼過ぎから天気も良いので散歩がてら書店まで行き、気になっていた市川春子の「虫と歌」を買ってしまった。帰宅して暗くなるまで一気読み。ほとんどの(2ページの短編を含めて全五話しか収録されていないけれども)作品が植物的な、そして昆虫的な人物の登場するSF的な兄妹ドラマ。コマ割り、各コマの視点やスクリーントーンの使い方には高野文子の影響はあるようだけれども、基本的には別モノ。ときどきデッサンの狂いがあったり、会話が意味するところが読み取れなかったりするけれども、読後感はいい感じを受ける。
 読み終えてリヴィングへ行くと、窓の傍から黒いネコが外へ飛び出して行った。一瞬しか姿が見えなかったけれども、あれはユウだな。一匹でもうちへ来れるようになったのだろうか。ちょうど読み終えた市川春子のマンガにヒトの姿をした昆虫と暮らす話があったのと、わたしのなかで気分的につながってしまった。

 スーパーへ買い物に行き、半額になっていたあさりを買う。これでこの週末は大量にあさりご飯をつくってみよう。帰宅してあさりを塩水に漬けておく。

 今日の一曲はまたYouTube ブリティッシュ・トラッド特集。「あの曲はあるだろうか」と検索を続けています。今日はMaddy Prior とJune Tabor がデュオで「Silly Sisters」という名義で1976年に発表したアルバムから、「Geordie」というバラッドを選びます。この頃Maddy Prior はSteeleye Span の歌姫として絶頂期にあり、一方のJune Tabor は当時ムクムクと頭角を現わして来た新星という感じでした。このチャイルド・バラッド「Geordie」を歌っているのはJune Tabor の方ひとりで、バックの特徴的な硬い音のギター伴奏はMartin Carthy のもの。わたしにはこのアルバムでいちばんのお気に入りの曲がコレでした。

 

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■ 2009-12-17(Thu) 「エデンより彼方に」

[]The Snow It Melts The Soonest [Anne Briggs] The Snow It Melts The Soonest [Anne Briggs]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20091218101906j:image:right 今朝も、窓を開けるとすぐに駐車場からミイがやって来る。ユウも来るかもしれないと食事のトレイをベランダに出してあげる。じっと見ているとユウは来ないだろうと思い、ミイのことは放っておいて自分の朝食の準備をしていたら、外でザアッという音がし始めた。雨が降り始めたかと思って外を見ると、降っているのは水滴ではなく、白い色をしている。雪? 見ているうちに、あたりの地面や家の屋根の上がみるみる白くなって行く。こんなに早く積もる雪なんてないだろう。地面を見ると白くて丸い粒がいっぱい、梱包材料がばらまかれたように拡がっている。これはあられ(霰)だなあ。あられなんか見るのはうんと小さな頃以来。東京で降ったのを見た記憶はない。ミイもあきれたようにベランダに座り込んで、あられが音をたてて空から降って来る方を見ている。
 あられは十分間ぐらい降り続き、あたりをまだらに白く染めてからふいに止んでしまう。ミイもベランダから出て行く。ユウもどこかでこのあられを見ていたのだろうか。びっくりしただろうな。

 三十分もして外を見るとあたりの白いものはほとんど融けていて、普通に雨の降ったあとのような景色になってしまった。昼のニュースで宇都宮で初雪が観測されたと言っている。そうするとこの辺りのあられも初雪ということになるのだろうか。あられというのは雪の中に分類されるのか。
 調べると、あられには氷あられと雪あられとがあって、雪あられというのは雪のまわりに水滴がついたもので白色不透明、氷あられというのは要するにひょう(雹)の小粒のものらしい。どうやら今朝降ったのは雪あられのようで、雪あられは降雪、積雪に分類されるらしいので、やはりこの地域の初雪ということになるようだ。
 昼前に外を歩くと、そんなあられが降ったりしたせいか、まさに空気が漂白されたようにピリッと冷たく、晴れた空を見ると青の深さが感じられるようだ。

 午後から、前から楽しみにしていたBS放送でのコスタ・カブラス監督作品「Z」の放映を観始める。しばらくするとベランダにミイがやって来て、「おやおや、こんな時間に」と思って外を見ると、駐車場にユウもついて来ているのが見える。ユウをここにもっと慣れさせるチャンスだなと思い、ベランダに食事のトレイを出し、カーテンを開けてみて様子を見る。しばらくするとユウもベランダに上がって来るけれども、わたしの姿を見ると警戒する。わたしが動くと見えないところへ逃げてしまうので、キッチンの陰に隠れて様子をうかがう。親子で並んでトレイに顔を突っ込んでいるのがかわいい。録画しているから良かったけれども、もうTVどころではなくなってしまった。
f:id:crosstalk:20091218101954j:image:left ミイとユウはそうやってしばらくベランダでミルクを舐めたりフードを食べたりしていたけれども、そのうちにユウの姿が見えなくなって、ミイはユウを探すように駐車場の方に下りて行く。いちど金網を越えて向かいのアパートの方へ行ってしまうけれども、すぐにまた駐車場に戻って来る。どうやらユウを見失ってしまったようで、あたりをぐるぐる回ってユウの姿を探しているみたい。やあ、車の下にいたね。ユウを見つけたミイは車の下でしばらくユウとゴロゴロしているけれども、すぐにまたユウの姿が見えなくなってしまい、探し回る。なんだかわたしがユウの姿を見失うのとミイが見失うのがほとんど同じタイミングになるのだけれども、ユウはテレポートでも出来るんじゃないかみたいに、ジャンプも出来ないくせにフッといなくなってしまう。

 夕食はまだイカの塩辛で。時間を置いて、少しマシな味になって来た。

 夜のDVDは、トッド・ヘインズ監督の2002年作品「エデンより彼方に」を。ダグラス・サーク監督の「天はすべてを許し給う」へのオマージュ作品らしいのだけれども、わたしは残念ながら評判のダグラス・サーク監督の作品を観る機会を得ていない(去年都内で特集上映があった記憶があるけれども)。
 作品は社会問題を絡めたメロドラマという構成で、1957年という時代での、珍しく偏見を持たない開かれた心を持つブルジョア家庭の主婦が、その偏見のなさゆえに地域から白眼視され、家庭も崩壊してしまうという悲劇。脚本を書く上でおそらくは2002年時点での観客の視線を充分に意識しているようで、観ていてもヒロインの行動に「ああ、そっちの道に行ってしまえばいいのに! でも、あの時代だったらそれも無理なのか!」と思ってしまうわけで、ヒロインの性格が2002年の視点から共感出来るように造型されている印象。
 カメラの動きがヒロインの視点からの主観描写、ヒロインを追う客観描写、ヒロインの知らない現実を観客に知らせる客観描写と分けられているけれども、これともうひとつ、天から降りて来るような、ヒロインの生活を外から見つめようとするようなカメラの動きが何度か見られる。これが神の視点でもあり、現在の観客の視点でもあると思えるあたりが映画の求心力になっているのか。
 当時のテクニカラーを再現したような、原色にあふれた画面づくりの徹底ぶりにちょっとあきれてしまい、月明かりはまさしくブルーだし、夜の室内シーンでは登場人物の衣服、室内のライト、そして月明かりでもって、闇の中に赤、青、緑、黄の原色のまざりあうステンドグラスみたいだわさ。リアリズムで作っているのではないということなのだろうけれども。
 そうそう、劇中でヒロインのスカーフが風で飛ばされて、それがヒロインと庭師が親密になるきっかけにもなるんだけれども、これは田壮壮監督の「春の惑い」でもかなり似たシーンが出て来る。「春の惑い」も大メロドラマというわけで、トッド・ヘインズは田壮壮作品を観ていたか? と思ったけれども、この「エデンより彼方に」と「春の惑い」は同じ2002年度の作品なので、これは地球の裏と表で同時に起きたシンクロニシティーなのでしょう。

 今日は雪が降って一瞬地面が白くなり、それもすぐに融けてなくなってしまったので、またイギリスの伝承歌、「The Snow It Melts The Soonest」を選びます。この曲はPentangle だとかいろいろな現代のアーティストが取り上げている曲だけれども、今回YouTube で検索してみるとSting のものばかり引っ掛かって来る。どうやら最近Sting もこの曲を歌っているらしい。
 今日、ここでは伝説のAnne Briggs の無伴奏歌唱のものを取り上げます。ちょっと唄いまわしが日本の民謡の歌唱をも想起させられるところもあって、日本人には親しみやすいところがあるでしょうか。映像で写ってるアルバムジャケット(これも先日ピーター・バラカンの番組で特集が組まれたTopic Records からリリースされたもの)の写真もいいんですけれど、このアルバム、今では相当高値で中古レコード市場で出ていると思う。わたしも持っていたけれど、こんなに値が上がるのならもうちょっとキープしておけば良かったかな。

 

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■ 2009-12-16(Wed) 「女優 須磨子の恋」

[]Mother & Child Reunion [Ziggy Marley] Mother & Child Reunion [Ziggy Marley]を含むブックマーク

 朝、窓を開けるとミイがやって来て室内で食事する。あまり食べないですぐにベランダに出て行くけれども、そのままベランダに座り込んで駐車場の方を見ている。ひょっとしたらユウも来ているのかもしれないと思って、わたしも駐車場を見てみると、駐車している車の下にユウがいた。久しぶりに見るユウの姿にほっとする。
 ユウは警戒心が強いからわたしの姿があるととても室内に入っては来ないだろう。そう思って食事のトレイをそっくりベランダに出して、わたしは和室の方に隠れて様子を見ることにする。しばらくするとユウがベランダに上がって来てミイといっしょに食事をし始める。親子のネコが並んでうちのベランダで食事してる。うん、なんかね、とりあえずはこういう光景が見たかったのですよ。
f:id:crosstalk:20091217184823j:image:right どうしてもそんな姿を覗いてみたくなってリヴィングに出て行くと、ユウにはレースのカーテン越しにでも人が来たのがわかるようで、ふっと隣のベランダの方に逃げて行ってしまう。それでもミイは構わずに食事を続けて、「恐れることはないのですよ」と示しているんだろう。しばらくするとユウはまた戻って来て、ミイと並んでミルクを舐めたりフードを齧ったりし始める。食べ終ると親子でベランダでじゃれ合っているようで、和室の窓から覗くと二匹でゴロゴロしている。ミイとユウの親子、今朝はそうやって三十分以上うちのベランダに滞在して行った。
 それにしてもミイは確実にわたしの家というかこのベランダにユウを慣れさせようとしているのだとはっきりわかる。「こういう状態がしばらく続いて、ユウの警戒心が解けるようになるといいのだけれども」ということは、わたしにもミイにも共通する思いなのではないかな。昨日ミイに言ったこと、やはりミイには通じていたような気がするし、ちょっと絆は深くなった感じだし、ミイを見ていて尊敬にも似た気持ちを持つようになる。

 ネットを見ていると、市川春子というマンガ家のデビュー作「虫と歌」というのが、高野文子と比較されたりして評判が良いらしいのが気になった。すべての作品がマンガ雑誌「アフタヌーン」に掲載されて来たらしいので、「アフタヌーン」を購読しているLさんにどんな感じの作家か聞いてみる。Lさんによれば全然高野文子などではない、SF系だけれども好きな作家だと。今日は午後からハローワークへ行ったりするので、待ち時間に行くレンタルヴィデオ店のとなりの書店で見てみようと思った。

 ハローワークは27人待ち。書店に行き、「アフタヌーン」一月号に掲載されていた市川春子の「パンドラにて」を立ち読みする。植物的な人間の登場するSF学園ドラマというような話で、なるほど高野文子とは違うのだけれども、描線やスクリーントーンの使い方などに高野文子の影響なのでは?というようなところはある。しばらくマンガをじっくり読んでいないし(あ、「ナウシカ」を読んでいたか)、単行本の「虫と歌」を買ってもいいな、と思ったりする。
 今日のハローワークで取り寄せた案件は製造業ライン作業などではなく、久しぶりに「やりたい」と思ってしまうような職種だった。決定してもしばらく先からの就業になるのだけれども、ちょっとココに念を集中してみようと思う。

 帰宅して、図書館から借りたヴィデオ作品、溝口健二のまだ観ていなかった作品「女優 須磨子の恋」(1947) を観る。戦後の作品だけれどもフィルムの保存状態がすごく悪い。松井須磨子を田中絹代が演り、島村抱月を山村聡(ヤサ男っぷりがイイ)。一種「残菊物語」のようなバックステージものだし、「残菊物語」の設定を男女逆にしたようなところもあって、「時代」と「舞台」の犠牲になってしまった人物をきっちりと描いた佳作。
 しかし、こんな作品をつくるとやっぱり監督は女優に惚れてしまうだろうな。というか惚れているからこの作品をつくったのか。松井須磨子の演技を指導する島村抱月の姿にどうしても溝口健二の姿を重ねて見ないではいられない。映画の中でかなりじっくりと、田中絹代演じる松井須磨子の舞台での「演技」が写されて、これと対比されるような映画の中の現実社会に置かれた松井須磨子の葛藤の演技とが見どころになるわけだし、ここまでひとりの「女優」の存在を前面にフィーチャーした作品というのも珍しい気がする(映画の主題としての「女優」と、現実の田中絹代という女優がオーヴァーラップする)。とりわけ、ラストの「カルメン」の舞台の描写がもう舞台での演技なのか現実の姿なのかわからなくなってしまうわけだけれども、その場面の演出もまた、それが舞台なのだという演出を逸脱していて物語を補強している。その舞台の幕が彼女の人生の幕となるエンディングもいいですね。
 途中で溝口作品では珍しくも新聞紙面を写すことで抱月ら「芸術座」のおかれた状況を示すショットがあって、ちょっとばかりびっくり。それでもそのことが松井須磨子らの一般的な人気を示すことになり、あとの地方巡業シーンでの、名前の書かれた垂れ幕を垂らした人力車に乗って凱旋するように街中を練り回る彼女たちの姿の描写につながることになる。
 そんな、溝口監督らしくないようにみえる演出もあり、それがやはり溝口監督らしいと思わせられたりもして、かなり重厚な意欲作として楽しんで観ることが出来た。

 今日はついに、ミイの親子が並んでわたしのベランダで食事をして行った。それで、「Mother & Child Reunion」(母と子の絆)という曲を選びました。もともとはPaul Simon が1972年にソロとして初めてヒットさせた曲だけれども、わたしはPaul Simon が好きではないので、今日はZiggy Marley のライヴ映像で。そうか、この曲のリズムはレゲエだったのかと、今ごろ気が付きました。

 

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■ 2009-12-15(Tue) 「マーニー」

[]Country Life [Eliza Carthy] Country Life [Eliza Carthy]を含むブックマーク

 今日もユウは姿を見せないけれども、ミイは何度か部屋にやって来る。ユウのことが心配になって、ミイに「子ネコはどうしたんだよ」と聞くけれどももちろん返事はない。それでもわたしの顔をときどき見つめ返すように見えるのは、あんがい話は通じているのかもしれないと思ったりする。

 昨日つくった塩辛はやはりいまいちの味で、つまりはワタの量が少な過ぎ、その味が拡がり切れずにイカ本体の生っぽい味が残っている。最初につくったときにこんな出来上がりだったら、きっと「やっぱ自家製はダメだな」と思っていただろう。
 でも、イカにきのうのイカ本体が小ぶりだったとはいえ、その固体でのからだの大きさとワタの大きさは比例するはずだから、全体の量は少なくなってもワタと本体の比率で同じような塩辛がつくれるはずではないか。そうはイカなかったということは、イカの固体差にかなりのバラつきがあるということ。必ずしも全身をそのまま塩辛にしてしまうことは出来ない。これからは、解体してみてそのワタの大きさを見てから、本体の塩辛作成に割り当てる量を決めるようにしなくてはいけない。

 DVDはヒッチコックの「マーニー」(1964) を。これは今まで観た記憶がなく、どういうストーリーかも知らなかった。
 おそらくこの作品を、「めまい」から連なる精神分析的作品、と言ってしまっていいのではないかと思うのだけれども(他に「サイコ」「鳥」を数えられるか)、もうここまで来てしまうと、あまりにフロイティズム全開しすぎという印象になってしまう。まず前半の展開で、ヒロインのマーニー(ティッピ・ヘドレン)が定住する家を持たないらしい(ホテルを移り住んでいる?)ことが示されて、中盤ではいっしょには暮らしていない母の家と、求婚者マーク(ショーン・コネリー)に招かれる彼の家とのあいだで、彼女が中ぶらりんであるという状態が示される。それでマークは問題を解決するために、マーニーと共に母の家を訪れるということになる。
 どうもわたしの観た感じでは、この作品の主人公は求婚者マークにして、マークの視点から全体を描くべきだったのではないかということで、どう描いたにせよ、「謎」をはらんだ存在であるマーニーの秘密は解明されることになるのだから、その彼女の「謎」をもっと他者の視点から描いた方が、観客を惹き付けることが出来るのではないのか。それに、最初は求婚者として、後半では精神分析医として彼女の問題を解決しようとするマークという男のモティヴェーションが、ちょっと万能のスーパーマン然としていて解りにくい。これまでのヒッチコックの「精神分析的」作品では、基本的に病んでいる人物の描写は客観的なものであったことが、作品を成立させる要因ではなかったかと思えたりするので、ここで「病んだ人物」を主人公として、彼女の視点を中心に作品を構成しようというのは、ヒッチコックにとっては「やってみたいこと」だったのかも知れないけれども、どうもそのことに成功しているとは思いがたい。
(「めまい」は、例外的に主人公の中に精神分析的要因があるのだけれども、この傑作では、主人公のそのような要因を利用した犯罪計画が背後にあるわけで、それを主人公の視点から描くことで、複合的な構成の傑作足り得ているという印象がある。)
 それでも、特に前半で描かれる、60年代アメリカの市民生活の背景描写などが魅力的な作品ではあって、ときどき60年代に開花したポップ・アート作品のあれこれを思い出させられたりした。印象に残ったのは、ホテルを移動するために荷造りしているヒロインの、その拡げられたトランクの中身を画面一杯に写すカメラだとか、母の家での背後の壁に掛けられた小間物やカーテンなど。そういう映画の背景を見つめることもヒッチコック作品の楽しみで、この作品でもそういう期待が裏切られることはなかった。

 イギリス伝承歌(トラッド)へのマイブームが続いていて、今日は先日ピーター・バラカンの番組の最後で紹介されたEliza Carthy の演奏と歌を探してみました。Eliza Carthy は、わたしなどがトラッドを聴きまくっていた頃にスーパーヒーローだったMartin Carthy と、これも有名なWatersons のNorma Waterson とのあいだに産まれた二世アーティストで、まあ大きく育ちました。
 彼女のちょっとノイジーで土の匂いのするフィドル演奏は本当に素晴らしく、こういう、いかにもトラッドという演奏は、過去にもあまり聴くことの出来なかったもの。しかもフィドルを弾きながら唄うというのがすごいなあと(昔は演奏しながら唄う人も稀にいたけれど、ライヴ映像などではほとんどお目にかかれなかった)。今日の映像はちょっと画面が揺れているけれど、ほんとに素晴らしい演奏だと思います。

 

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■ 2009-12-14(Mon) 「雁の寺」

[]Day Trip To Bangor [Fiddler's Dram] Day Trip To Bangor [Fiddler's Dram]を含むブックマーク

 ウェンディーズが年内ですべて閉店されるらしい。ここのタマネギをはさんだハンバーガーの味はかなり好みだったし、何よりも店鋪の喫煙スペースが広いのが気に入っていた(どの店鋪も多少店内が雑然とはしているのだけれども)。それで、「これが最後」と思って、日曜日に六本木のウェンディーズで昼食を取ったことを書き忘れていた。とにかくこのウェンディーズ六本木店は、おそらく今の東京中でいちばん広い面積の喫煙スペースを持つ店鋪なのではないかと思う。いまどき珍しいことに禁煙コーナーの方が隅に追いやられて狭くなっていて、こんな広い室内空間で喫煙出来るということがなんと爽快なことだろうと、かつては当たり前だった心地よい感覚に身を浸すことが出来るスポット。そんなスポットともこれでお別れになるのだろう。

 リミニ・プロトコルの「Cargo」は最終日の21日(月)にトラックに乗る予定なのだけれども、2枚買ってあるチケットの1枚が予定が立たなくなってしまった。つまり、同行者のスケジュールが合わなくなり、1枚余ってしまうことになった。当日のキャンセル待ちの人が居ればそちらにまわせば良いのだろうけれど、誰かチケット取れなくて行きたい人、21日に問題ない人は、メールででも連絡を下されば、チケットを無駄にしてしまう危険が避けられるかな。よろしければ。

 月曜日、ミイ親子の姿を見ることはなかった。少し寂しい一日。
 スーパーでまたイカを買い、イカの塩辛三杯目を作成。ところが今回のイカがいままでになく小ぶりで、特にワタなどは前の半分ほどの大きさしかない。イカの本体の半分ぐらいは最初にやったように別に調理して食べれば良かったのだけれども、全部塩辛に使ってしまう。どう見てもワタの量が不足で、一晩置いてもちゃんと塩辛らしい味になるかどうか心配。

 DVDで川島雄三監督の「雁の寺」(1962) 。原作は水上勉で、かなり市川崑監督の「炎上」を想起させられる内容なのだけれども、つまりは三島由起夫の「金閣寺」に似ているということなのか、水上勉には別に「金閣炎上」という作品があるようで、どちらも水上勉自身の体験が大きく創作に影響しているらしい。水上勉には金閣寺放火事件は他人事ではなかっただろう。
 映画作品として、わたしは「炎上」よりもこの「雁の寺」の方が、ずっと気に入る。まず、「寺」という、大きな日本家屋の奥行きは、「炎上」よりも「雁の寺」にこそしっかりと描写されているのではないだろうか。撮影は村井博で、この人は初期の増村保造作品の撮影も、川島雄三の前作「女は二度生まれる」の撮影も担当している。ここはこの「雁の寺」よりも前に公開されている「炎上」(宮川一夫:撮影)に対抗しようという気概があったのだろうと思う。
 物語は、寺の住職からほとんど虐待と呼べる修業を受け、さらにその住職の妾(若尾文子)を囲う自堕落な生活を見て、信仰心をも揺らいで行く極貧の地出身の見習い僧が主役といえるのだけれども、あくまでもこの映画では妾の視点から全体が眺められていることがとても効果的で、つまり見習い僧の心象は妾の見た彼の姿、妾の聞いた彼の言葉からしかうかがい知ることが出来ない。このことが、終盤の住職の失踪の真相がしばらくは観客にもわからないように仕向けられ、見習い僧の内面を単純に断定する道をふさぐことになる。「炎上」のように、視点を広い社会へ移行させないことも、見習い僧への視線を深めることになるだろう。
 ラストの、カラーになってからのパート、雁のふすま絵を目当てに観光客の押し寄せる寺院の描写は、たしかに川島雄三作品らしい「物語の乖離」を感じさせ、わたしは今まで川島雄三の作品は「幕末太陽傳」と先週の「女は二度生まれる」を観ただけに過ぎないけれども、現在形でスクリーンの外側にも物語を通底させようという、川島雄三の映画作品というものの考え方が充分に伝わって来たように思う。

 先日、ピーター・バラカン氏の番組でイギリスのトラディショナル伝承歌をたくさん聴いたので、YouTube などで思い付くままに検索していると、思いのほかたくさんヒットして来る。それでいつまでも検索して聴いているとあっという間に時間が過ぎてしまう。そんな、かつて聴き親しんだ楽曲から、今日はFiddler's Dram というバンドの、「Day Trip To Bangor (Didn't We Have a Lovely Time)」(1979) というのを選びます。
 Fiddler's Dram のアルバムは、今ではまったくCD化さえされずに忘れ去られているようだけれど、この「Day Trip To Bangor」はイギリスではちょっとはヒットしたのではないのかと思う。Steeleye Span タイプの、泥臭い庶民的な編曲が得意なバンドだったという記憶。彼らはのちにOyster Band と改名してしばらく活動していたし、リードシンガーのCathy Lesurf はAshley Hutchings のAlbion Band に参加して活動しました。Fairport Convention のゲスト・ヴォーカルでレコーディングしていたこともあったはずです。

 

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■ 2009-12-13(Sun) 「DOMANI・明日」「忠臣蔵(と)のこと」

[]Forget Domani [Connie Francis] Forget Domani [Connie Francis]を含むブックマーク

 日曜は東京でスタート。この日は森下スタジオでの羊屋白玉さんの公演か、それとも新百合ヶ丘アルテリオでの中野成樹+フランケンズの公演、そのどちらかに行こうと思っていた。羊屋さんの公演もフランケンズの公演も、将来の本公演に向けての公開リハ的な性格のもので、どちらもチケット料金もかなり安い。けっきょく、先日のアジア舞台芸術祭でのフランケンズが強く印象に残っているし、まだ彼らを生で観たことがないというのもあるので、アルテリオに行くことにした。
 でも、舞台開演の15時までまだ相当の時間があり、その時間をどうやってつぶせばよいのか。ひとつ考えたのは、どうせ行こうと思っていた映画「エル・スール」をこの日に見てしまうこと。もしも11時あたりからの上映があれば非常に具合がいいのだけれども、これはスケジュールを調べると13時からの上映がいちばん早い上映で、終映時間にはもう舞台が始まってしまうのでダメ。それでは木場へ行って現代美術館で「レベッカ・ホルン展」を観ようか、しかしチケットを自宅に置いて来てしまったので、ここでわざわざチケットを買ってまで観るのはもったいない、などと電車の中であれこれと考えている。
 ふっと車内の広告を見ていると、目の前の座席の上にある広告の写真になんだか既視感があって、近寄って見ると、国立新美術館で昨日からやっている「DOMANI・明日展2009〜未来を担う美術家たち<文化庁芸術家在外研修の成果>」という長いタイトルの展覧会のポスター(広告)で、写真に使われていたのは三田村光土里さんの作品だった。それでどこかで見たような気がしたのだけれども、ちょうどいい、これを観に行こうと決定。観覧料1000円というのはちと高いけど、チケットショップへ行けば安く買えるかもしれない。そう思って新宿西口のチケットショップ通りを歩いてみると、いちばん端の店で350円で売っていた。予想以上に安かったので助かった。

 渋谷駅から六本木まで歩き、国立新美術館。この時期は書道展ばかりやっている。しかし、この国立新美術館での公募展に出品した作家たちは、海外に経歴を伝える時に「National Art Center で作品を発表した」と、ウソ偽りなく堂々と言うことが出来るわけだ。わたしもMetropolitan Museum of Tokyo に作品を展示したことが、何度もあるぞ。
f:id:crosstalk:20091215115209j:image:left そんなことはさておいて、美術館二階の展示スペースへ。12人の作家の作品が並ぶ会場をぐるりと観て回り、以前椿会展で観た伊庭靖子、それから写真の安田佐智種、平面の吉仲正直、そしてヴィデオ作品とインスタレーションの光土里さんの作品などが印象に残った。特に、タブローの上にアンリ・ミショーとポロックとセザンヌが同居しているような吉仲正直の作品に心惹かれる。左の写真はポスターにも使われている三田村光土里さんの作品。
 しかし、どうもこの時期に、文化庁主催で海外研修の成果を問うような展覧会が行われるというのは、なんともこそばゆいような感じがして、どうしても先月の文化庁対象の事業仕分けで、このあたりの海外研修制度をどう捉えるかというのが論議されていたらしいことが頭をよぎる。まず、どう考えても、その「海外研修の成果を問う」ような展覧会での、一般客1000円の観覧料設定はベラボウに高い。展示方針も特定のジャンルに絞り込むようなものではなく、かなり工芸的な作品も含んだ展示全体に、ひとつの展覧会としての求心力はない。まさに海外研修作家をただ並べてみました的な部分が強く感じられ、しかもその海外研修制度がどのように展示された作家たちの作品制作に絡んでいるのか、この展示から見えて来るわけでもない。チケットを安く買ってあったから良かったものの(350円でも高いぐらいではないのか)、1000円ちゃんと払っていたら、かなり怒っていたかもしれない。
 時間があまり、美術館一階ロビーの椅子に座って本を読んで時間をつぶす。ひなたぼっこするネコになって行く気分。

 次はやっと新百合ヶ丘へ移動して、「川崎市アートセンター×中野成樹」の「忠臣蔵(と)のこと」。あいだのかっこ付きの「(と)」というのは、この作品の英語題「Something with / about Chushingura」というあたりから理解出来るでしょう。
 この舞台、来年の冬に予定されている本公演へのステップとしてのリハーサル的な舞台とのことで、まずは劇団員らとともに、「忠臣蔵」とはどういうものであるのかということを、映像なども使いながらセミナー的にその場で考えて行くという試みが舞台上で行われる。この日はおもに「松の廊下」のことを考えてみようと。
 何もない舞台の上手のテーブルに中野成樹とドラマトゥルク(よくわからないけどチラシにそう書いてある)の長島確が座り、長島確さんはノートパソコンを使って舞台上に映像を提示して行ったりする。舞台下手にはパイプ椅子が6脚並び、そこにフランケンズ+ジョンなんとかという外国人出演者が座る。中野成樹さんの進行で、まずはフランケンズのメンバーがリレー式に自分の知っている「忠臣蔵」について語って行き、映画になった「忠臣蔵」の松の廊下の場面を観たりする(この映画はおそらく1961年の東映映画「赤穂浪士」(監督松田定次)で、吉良上野介は月形竜之介、浅野内匠頭は若き日の大川橋蔵が演じているもの)。三人ずつで組になってエチュードっぽく「松の廊下」の設定を現代に置き換えて演じてみる。
 興味を持ったのは、「刀」というものを理解するために実際にそれぞれの役者が持ってみたりすることで、刀というものが身体化出来るか否かが試されるのだけど、これが刀ではなく抜き身の包丁だったりすると、とたんに生々しさが生まれるということ。これは客席から観ていてもその感覚は伝わって来る。YouTube からの映像で、むかしの淺沼社会党委員長刺殺事件、オウムの村井委員刺殺の中継映像、豊田商事事件の映像などを流すことで、「討ち入り」という事件がどのように人々に見られていたのか、現代の感覚で捉え直す作業。
 こういうのでは杉浦日向子の作品「吉良供養」で、吉良方の人々がいかになすすべもなく虐殺されて行ったかが克明に描かれているのを読んだことがあり、実際には杉浦日向子の言うように残虐な虐殺であったのだという視点は了解しているし、溝口健二がその「元禄忠臣蔵」で討ち入りシーンを描かなかったのも、その理由をこのあたりに求めてもいいのかもしれないと思っている。これはフィクションの世界だけれども、ケヴィン・スミスが映画「クラークス」の中で、「スター・ウォーズで同盟軍が完成間近のデス・スターを破壊するけれども、あのデス・スターの中にはそれこそ大勢の罪もない工事関係者が突貫工事中で、彼らは同盟軍に殺されるんだよ」と言っていたのを思い出したりする。

 脱線しちゃったけれども、本公演ではないとはいえ、セミナーというかシンポジウム形式での、ちょっと面白い公演だった。本公演は一年後、三時間半ぐらいの大作になるらしい。これは今から予定に入れておかなければ。

 ということで二日間の東京ライフを終えて帰宅。また浪費してしまった。
 それで今日の一曲は「DOMANI・明日」などという展覧会を観てしまったので、Connie Francis の「Forget Domani」ということで。Connie Francis はアメリカ生まれのイタリア系歌手で、50年代後期から60年代全般にかけての非常に長い期間、絶大な人気のあったポップ歌手(今でも現役活動を続けているらしいけれども)。日本でもかなり人気があり、そういえば弘田三枝子のデビュー曲だったかの「VACATION」のオリジナルもConnie Francis。この「Forget Domani」も「明日を忘れて」というタイトルでヒットして、この曲のおかげで、イタリア語で「Domani」というのは「明日」なのだと憶えたわけです。

 

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■ 2009-12-12(Sat) 「田園に死す」

[]The Rose Of Britain's Isle [John Kirkpatrick & Sue Harris] The Rose Of Britain's Isle [John Kirkpatrick & Sue Harris]を含むブックマーク

 朝、目覚しで早くに目覚めるけれどもミイやユウの姿を見かけることはなかった。ユウのことが少し気にかかる。

 天気予報では今日は快晴で、汗ばむほどの陽気になると言っている。今日は外へ出かけるので天候良好大歓迎。
 FMでピーター・バラカンの「ウィークエンド・サンシャイン」を聴く。今日は大島豊さんをゲストに、創立70周年記念のCDボックスセットがリリースされたTopic Records の特集で、狂喜の全編トラッド大会。わたしもトラッドにはまっていた頃には60年代、70年代のTopicレーベルのディープなLPをいろいろ所有していて、のちにそれらのLPが中古市場で高値で取引されるようになって放出、かなりの生活費の足しになったし、レコードを売ったお金だけで引越し費用を全部まかなったこともある。まあ売らないで今も持っていたならなどとも考えるけれども、最初は耳を楽しませてもらい、良いタイミングで懐を潤わせてもらい、Topicレーベルのレコードにはフルに活用させていただいたと言えるだろう。この朝はそんな懐かしい曲のあれこれを聴くことも出来たし、近年の新しいアーティストによる新しい解釈のトラディショナル・ミュージックも楽しませてもらった。しかしやはりわたしは60年代、70年代に録音された音源に愛着がある。最近のものでは、ラストにかけられたEliza Carthy の曲に惹かれたけれども。

 出かけるのにネコの食事をどうしようと考えて、どうも窓を開けて行っても最近はミイもユウも部屋の中に居座るような気配がないし、例の白い飼い猫に入り込まれるのはあんまり歓迎出来ない。けっきょく窓の外に食事を出して、ちゃんと戸締まりをして出かけることにした。

 今日はLさんと下北沢で「流山児★事務所」の「田園に死す」を観る予定。原作はもちろん寺山修司で、演出は天野天街というのが楽しみなところ。Lさんと落ち合い、「最近下北に来るとスズナリばかりだねえ」などと話しながら、これも下北沢での定番になりつつある店で昼食。この店は安いし、とにかく静かで、長時間平気で居座ることが出来るので、時間の調整にもって来いの店。今日は自家製のスープっぽいカレーを食べたけれどこれがなかなか美味しくて、こういうルーを作らないカレーを自分でもやってみたくなった。

 すでに開場していたスズナリにちょっと遅れて入り、それでもだいたい希望していたような席に座ることが出来て開演。いきなり映画版の映像が舞台一面に映し出されて、冒頭の展開も映画版と同じく進行して行く。これが早々とシンジ少年(映画版では寺山修司に合わせて「シュウジ」だったのか、ちょっと憶えてはいないけれども)が二人に分裂するあたりからオリジナルな展開になだれ込んで行く。
 もともと天野天街という人の舞台は寺山の影響を感じさせるようなところも大きく、そもそも少年王者舘の役者の白塗り少年イメージは寺山の「田園に死す」から来ているのではないかと想像してしまうし(この事情は松本雄吉の「維新派」にも共通するだろうけれども)、今回の「田園に死す」演出はきっと相性の良いものになるだろうと想像していた(天野天街氏は寺山修司と同じように劇活動と平行して映像作品も作っているし)。その想像通りに、少年王者舘でおなじみの「反復」のイメージも多用されるし、時間のループなどの演出もこの「田園に死す」にピタリとはめ込まれ違和感もない(そもそも「時間」というテーマは、天野天街の作品でもいつも最重要要素だったわけだ)。映画の本筋をなぞりながらもそんな天野氏的な演出が舞台を膨らませるのだけれども、これがちょっとばかしとりとめもつかない印象になるまで舞台上のイメージが膨れ切ったあたりで、映画版と同じように、そこまでの展開が実は試写室でのラッシュ試写だったという展開。
 ここから、映画と同じように成年のシンジ(寺山修司)が登場するのだけれども、この先の、映画から35年、寺山没後27年という、いま現在からの視点を取り入れたオリジナルな展開が素晴らしい。映画と同じく「自己の記憶からの解放」というテーマに加えて、そもそもの映画「田園に死す」の記憶、寺山修司という人への記憶、さらに劇場の記憶などという視点を加えながらのメタ構造を、実に興味深く、しかも楽しく演出している。なんという楽しさ!
 で、やはり映画版にそった幕開きだったからには、この舞台のラストは、映画版のあの壮大な「(逆)借景」をどうパスティーシュするのか、という興味になるわけだけれども、これはまだまだ舞台は継続中なので、書いてしまうとこれから観ようという方に怒られてしまう。でもこのラスト、映画のラストが新宿(新宿区新宿大字恐山)だったように、「場」をうまく生かした演出がなされていて、わたしはちょっと泣けてしまう。すばらしいエンディングだったと思う次第。

 さて、終演して外に出てまだ時間は四時。このスズナリの並びの、以前しばらく古本屋だったところが居酒屋に変ぼうしていて、どんなだろうと覗いてみてもやはりまだ仕込み中。開店の五時まで前に行ったカフェでお茶して時間をつぶす。これがそのカフェに居た客ほとんど全員がスズナリの帰りのようで、出演していた役者さんの姿も見える。そんな今日の舞台の感想とかを声に出すと、隣の席の客の視線がキッ、とこちらに向けられて怖い。劇場でもらった膨大な量のチラシの束をLさんと二人で仕分けすると、珍しくこんな早い時期から、来年の水族館劇場や唐組のチラシが入っていた。まだ半年も先のことだけれども、これはやはりLさんとまたいっしょに行くことになるだろう。
 五時になり、さっきの居酒屋に出直し。まだ開店して一週間にもならない店で、ほんとうは土日はもっと早く開店したいと思っていたのが、仕込みに時間がかかり過ぎて開店が普通の時間になってしまったのだなどと聴く。ホッピーがあったのでわたしはホッピーを飲む。わたしはイカの塩辛のつくり方やネコたちのこと、SFファンのLさんはSFの話など。ホッピーが空になり、これでもう一本ホッピーにするとちょっと飲み過ぎるような気がして、「どうしようかな」などと口にすると、Lさんが「飲めばいい」などというものだからまたホッピー注文してしまう。やはりあそこでストップしておくべきだったとあとになって反省するが、けっきょくそれ以降の記憶も曖昧に、ただLさんを「S」にまで誘って、さらにワインを飲んでしまう。そのことは憶えている。あまり適切な話題を繰り拡げていた記憶がない(そもそも、どちらにせよ記憶というものがなかったりする)。おそらくLさんの終電の時間まで飲んで散開。これもまた忘年会で、まさに「忘れる」ための痛飲か。今日の舞台も「記憶」についての舞台だった。

 今日の一曲は、そういう「記憶」とか「忘却」についての曲にしようかと思ったけれども、朝にFMで聴いた古いトラッド曲の記憶がよみがえり、YouTubeで検索したらそんな曲が見つかったもので、これをわたしの「田園に死す」にしよう。
 この曲を演奏して歌っているJohn Kirkpatrick & Sue Harris は夫婦デュオで、John Kirkpatrick はAccordion やConcertina の卓越したプレイヤー、Sue Harris はOboe やHammer Dulcimer の奏者。トラディショナル曲にOboe という取り合わせは珍しい(というか、ポピュラー音楽にOboe というのがあまり例がない)けれども、この1974年発表のデュオ・アルバム「The Rose Of Britain's Isle」では、その絶妙のConcertina とOboe 合奏というのを楽しめます。これは当時のわたしの愛聴盤で、CD化されていないこともあって、ここに引っ越して来る時までずっと手放さずに所有していたもの。今日YouTube で聴けるのはそのタイトル曲の「The Rose Of Britain's Isle」。Sue Harris の清楚な歌声がいいし、イギリスのトラディショナルソング特有の、馬車に揺られるようなリズムが楽しい一曲。
 John Kirkpatrick は一時期Steeleye Span のメンバーでもあったし、Richard Thompson のバックをつとめて来日したこともある(わたしもRichard Thompson の来日公演でAccordion を弾きながら踊るJohn Kirkpatrick の姿をよく憶えている)けど、数多くのトラディショナル系のレコーディング・セッションにも数多く参加している、名バイ・プレイヤーでもある、ということです。

 

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■ 2009-12-11(Fri) 「最高殊勲夫人」「我等の生涯の最良の年」

[]Crying In The Rain [Whitesnake] Crying In The Rain [Whitesnake]を含むブックマーク

 目覚しをセットして、これから朝は六時半に起き、まずはミイたちの食事のセッティングをしてあげることにする。その第一日目だけれどもミイもユウも来なかった。外は雨が降っている。
 昼近くになって、外で子ネコのような啼き声が聴こえた。とても近い距離で、うちのベランダで啼いているのかもしれない。ちょうどその時に駐車場の車から家族が下りて来るところで騒々しく、これではネコも逃げてしまうだろう。少し気になってドアを開け、ベランダの反対側のマンション通路側を見てみると、その通路の向かいにある隣家の庭とうちのマンションとの間にミイがいた。啼いていたのはミイで、そこでまた子ネコのような声で啼いている。雨が降っているので寂しげに見える。わたしのことに気が付いて道路の方へ去って行く。どうしたんだろうと思って傘をさして外に出て、ミイの姿を消した方角に少し歩いてみる。
 マンションとの境にある隣家の庭の蔭にミイがいて、そこでじっとしている。一メートルぐらいの距離で向き合って、しばらくお互いの顔を見つめ合うような感じになる。「どうしたんだよ、ユウがいないのか?」と声に出してみると、急に、ほんとうにユウが見当たらないのでミイは必死で探しているのではないかと思ってしまう。子ネコのような啼き声はユウを呼んで探しているのではないのか。
 なおもしばらくミイのことを見つめてしまうけれども、何が出来るわけでもなく、ただ「またおいで」とミイに声をかけて部屋に戻る。
 勝手な想像をしても仕方がないけれども、ミイとユウのことが気になって、しばらくぼうっとしてしまう。雨が寒い。

 昼間、DVDで増村保造監督の「最高殊勲夫人」を。1959年の作品で、前に観た「青空娘」と同じく、源氏鶏太の原作で若尾文子主演。前の「青空娘」はちょっとニュアンスが違ったけれども、源氏鶏太という人は50年代から60年代にかけて「サラリーマン小説」というジャンルで売れに売れた人で、TVドラマ化された作品も多かったので、わたしにもこの作家がもてはやされていた頃の記憶は残っている。「サラリーマン小説」などというコトバ自体が、今では死語になってしまっているけれども、つまりは会社(企業)勤めを当然の絶対的条件のごとくに受け入れ、その会社社会の中で立身出世を目指す人たちの悲喜劇を描く小説という感じだったと。こういう情緒を排した競争社会を描くことが、当時の増村保造監督の「近代的人間」の描写を目指す演出と合致していたということなのか。
 この「最高殊勲夫人」では、主人公をサラリーマン男性に置くのではなく、そういうサラリーマン社会の中で、まあ言ってみれば「婚活」に励む女性が主人公になる。「婚活」といっても、ある程度の年齢になれば女性は結婚するのが当然と思われていた時代で、当時はビジネスガールと呼称されていた女性社員たちは、仕事なんかよりも結婚相手を社内で探すことにチマナコになっているし、家族もその娘なり妹なりがベストの婿殿を見つけだすことを望んだり画策したりする。
この作品で増村保造監督はそのような状況を喜劇的に、ほとんど戯画的に描いているのだけれども、けっきょくのところ、そのような婿探しは肯定しているようだし、会社社会の中での立身出世主義を否定するわけでもない。ただ、宮口精二の演じる若尾文子の父だけは、皆がそのような状況の中で人間性を失って行くことを危惧しているように見受けられ、このお父さんの造型に増村保造監督の視点も感じられる。
先週観た「巨人と玩具」では相当にダークなところまで踏み込んで描いていた増村監督だけれども、この「最高殊勲夫人」ではほとんどカリカチュア化された人物描写で、そのような状況を笑おうとしているように見える。しかしながら登場人物がすべてそのような会社社会の構造の中に入りこんでしまっている展開で、会社社会への批判的要素を描かずに(まあ皆あんまりマジメに仕事やっているようには見えないけれども)、しかもハッピーエンドは用意しなければならないという条件では、「毒」も薄まってしまう印象がある。唯一TV局内でのエピソードで、(監督の映画製作の体験が生かされているのか)TV局員らの仕事そのものから笑い飛ばそうとする演出が感じられ、これと、電車内に並んだ人たちの間を「うわさ」が広まって行くさまを、横移動のカメラでわざと平板に捉えたショットなどに興味を持った。

 夜にもう一本、ウィリアム・ワイラー監督の「我等の生涯の最良の年」(1946) 。第二次世界大戦の終結から、同じ町へ同じ飛行機で帰還した三人の復員兵の三者三様のその後のドラマで、アメリカでの戦後問題が描かれるわけだけれども、この視点は、のちにヴェトナム戦争後のアメリカ映画でもっと拡大されて様々に描かれるであろう主題になる。かなりの長尺なのだけれども一気に見させられる。ラストの、廃棄されスクラップ化される戦闘機の膨大な量と、その連なりに驚かされた。
 観ていてウィリアム・ワイラー監督の特徴的な演出方法が見えて来るのだけれども、どうも彼の演出は画面を右と左、手前と奥というように複数の空間に分けて考えて、それぞれの空間の一方だけを動かす、もしくは双方で異なる運動を行わせるというような演出で、その映画空間を拡げているように見える。これが「手前と奥」であればさらに空間を分けて、前景、中景、後景とし、それぞれで運動を起こして、より立体的な奥行きのある空間を産み出しているのだろうと思う。ワイラー監督はパン・フォーカスを愛好したという記述をどこかで読んだけれども、つまりそのパン・フォーカス技法によって、そういう「手前と奥」でいっしょにドラマを展開させて行くというか、焦点を一つに置かず、手前も奥も同時に見えるようにすることが、演出上必要だったということなのだと思う。

 今日は雨の中でミイが啼いていたのが記憶に残ってしまったので、「Crying In The Rain」という曲を。これは後期Deep Purple のヴォーカリストDavid Coverdale の個人バンドみたいなバンドWhitesnake が1980年代に出した曲だけれど、Whitesnake がまだスケベなバンドとして一般的に認知も低かった時代にレコーディングしていたものを、Geffin Record と契約して突然ワールドワイドな大人気バンドに変身した時に再レコーディングしたりする。のちにメンバー全員クビにしたりハデハデしいことやってくれたりしたけれど、Aynsley Dunbar が参加していたこともあったり。売れてからはハード・ロックとポップスの折衷バンドとして面白みのない音になったという印象だけど(まあもともとわたしの興味のあるわけではないバンドだけれども、前のわたしの奥さんが好きなバンドだった)。

 

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■ 2009-12-10(Thu) 「エル・スール」「田園に死す」

[]Boom! There She Was [Scritti Politti] Boom! There She Was [Scritti Politti]を含むブックマーク

 七時半ごろに目覚める。この時間にはもう駐車場の車も出払い始めて落ち着かなくなり、ミイたちが安全に安心してこのベランダに来ることが難しい時間になる。窓を開けてミイたちの来るのを待つけれどもやはり来ない。もっと早く起きて窓を開けてあげないといけない。もう今ではミイたちの事情がわかっているので、ミイを裏切ってしまったような気分になって落ち込む。
 いつもはミイ単独でやって来たりするのだけれども、この日は一度もここへは来なかった。

 夕方近くになってスーパーへ買い物に行く。ミイを見かけた道を通って、もうこの時間ではミイたちを見かけることもないだろうと思っていたら、わたしの十メートルぐらい先を、ミイがさぁっと進んで住処の方へ消えて行った。

 アデライダ・ガルシア=モラレスの「エル・スール」(野谷文昭・熊倉靖子:訳)読了。アデライダ・ガルシア=モラレスはヴィクトル・エリセに長く付き添った元夫人で、この「エル・スール」は、もちろんヴィクトル・エリセの作品「エル・スール」の原作になる。これがヴィクトル・エリセのDVDボックスセットの発売に合わせるように、今年の二月に翻訳刊行されていた。映画「エル・スール」を観て強い感銘を受けたのはずいぶん昔になる。ちょうど今、都内某所のスクリーンで上映されているのを観に行きたいと思っていて、その予習も兼ねてこの原作本を読んだ。
 冒頭の一節がすごくわたしの心を惹き、取り憑かれてしまう。

 明日夜が明けたら、お父さん、すぐにお墓参りに行きます。人の話だと、墓石は割れ目から雑草が伸び放題で、花が供えられることもないようです。あなたのお墓を訪ねる人などひとりもいません。母さんは故郷(くに)へ帰ってしまったし、あなたには友人がいなかった。噂によると、とても変わった人だったと‥‥。でも、私は決して変わっていたとは思わなかった。あの頃、私はこう思っていました。あなたは魔術師で、魔術師というのはいつも深い孤独をかかえているものだと。

 映画のことはいろいろと忘れてしまっているけれども、「ミツバチのささやき」のように、まずはスペインの田舎町の風景が印象に残る作品だった。この原作では語り手のアドリアナは父を引き継いで「魔術師の弟子(比喩的に)」になり、父親のように友人ももたない孤高の人に成長するけれど、父に残された手紙をたよりに「南(スール)」の市街へ行き、そこで父の過去の一端を知り、人々との出会いから成長して行く、そういう話。
 張り詰めた緊張感をともなった、詩のような文章も美しく(良い翻訳だと思う)、父と娘のそれぞれ孤独な魂が、時間の隔たりを超えて共鳴するさまが簡潔に語られている。
 あとがきによると、映画ではこの南の市街のシーンは描かれなかったらしく(エリセは望んだらしいけれども予算が許さなかったとか)、わたしにもその南の街のシーンの記憶はない。アドリアナの育った荒涼としたさびれた村にアドリアナの魂の「隠れ家」があり、彼女がそこへ引き蘢るさま、そこで死んだ父の魂を求めるさまが映画「エル・スール」の要だったような記憶。
 この小説版では、アドリアナが父の存在を客観視出来るようになるまでの成長を描いていて、作品としてきちんとまとまっているわけだけれども、はたして映画の方はどのようになっていたのだったか。おそらく来週か再来週に映画を観に行く。

 「ドン・キホーテ」の後編も読み始めているけれども、前編に比べてこの後編の方が圧倒的に面白い。まずはキホーテやサンチョ・パンザが、「ドン・キホーテ」の前編が巷の評判になっているという話を聞くあたりから始まり、さあ後編はどうなるか、などということがそのまま作品になっている。作者は後編をどう書くのだろうか?という問いがその後編に出て来るならば、この書かれた後編の作者は誰なのか? なぜか従者のサンチョ・パンザのもの言いが、前編に比べてめちゃ賢そうになっている。

 今日は予習をもうひとつ。今週末に「流山児★事務所」による公演「田園に死す」(天野天街:演出)を観に行くので、むかし録画してあったヴィデオテープを引っ張り出して来て、その寺山修司の監督した、映画版「田園に死す」(1974) を観る。まあこれも公開当時観ているのだけれども、当時観たときにはとにかく、川を五段飾りのひな飾りが流れて来て、そこにJ・A・シーザーの音楽がかぶさってくる場面を観ていて、気が狂うかと思ったし、ラストの母子での食事シーンで家屋の壁がバタンと倒れると、そこが新宿の街のど真ん中だった、なんていう演出にもドギモを抜かれてしまった記憶がある。あのとき抜かれたままになっているキモを返して欲しい。それでこの作品を観る。というのはウソだけど。
 「人は自分の記憶からは逃れられない、自由になれない。人がほんとうに自由になるためには、その「個」の記憶の呪縛から解放されなければならない」と寺山は考え、この作品をつくる。しかし、ほんとうにそれは可能なのだろうか。記憶を修正しようと試みても、心の底で「あれこそが真実だった」という思いを断ち切ることが出来るのか。逆に、自らが無意識にねつ造していた記憶が真実ではなかったと認識することで、人は記憶の呪縛から解放され得るのではないかと思ったりする。わたしは個人の持っているすべての記憶はねつ造なのではないかと思う。わたしという未成熟な自我が目の前の出来事のほんとうの意味を隠ぺいして記憶する。または私の欲望が記憶をゆがめてしまう。「人は自分の記憶から逃れられない」というのなら、「人は自分の記憶の中で嘘をついている」という前提を示したい。
 この「田園に死す」で、寺山修司は前半で描かれる自分の過去を「いや、真実はそうではなかった」と否定する。そういうことなのだろうけれども、そこであぶり出される「真実」はなにゆえに「真実」といえるのか、そこに疑問は残る。一般に「自己のねつ造された記憶」を修正するのは「他者の記憶」だろうというのが常識的な視点なのだろうけれども、詩人である寺山修司は決して「他者の記憶」になぞ注目せず、すべてを自らで解決しようとする。それがこの作品の根本にある制作姿勢だろうと思う。だからこの作品にはとても現実とは考えられないシーンが続出するだろうし、巡業して来るサーカス団がその記憶に彩りを添えたりするだろう。あの「犬神サーカス団」はどこの地から巡業して来たのか。それは決してこの地上からではないのではないか。つまり「現在」の寺山修司の脳内からこそ巡業して来ているのだろう。
 この「田園に死す」でも、映画の中に登場する三上寛が観客に向かって「そんな暗闇に座って何を待っているんだ」とアジるけれど、少なくとも観客が自らの記憶を見つめ直すことは促しているわけだ(それ以上のアジテーションでもあっただろうけれども)。映画作品を「スクリーン上の虚構」と片付けてしまうのではなく、そのイマジネーションを「消化」することこそが観客に求められている。映画とはそういうものだと思う。

 今日は、わたしの歩く道の先をミイが駈けて行くのを見た。このときの感情は「Boom! There She Is!」という感じで、それでこの曲を選ぶ。大ヒットアルバム「Cupid & Psyche 85」に続いてリリースされた、Scritti Politti のアルバム「Provision」(1988) の一曲目に収録された軽快なアップテンポの曲。前の「Cupid & Psyche 85」が売れていた時期には、あの複雑なサウンドをライヴで再現することが出来ずにいたScritti Politti だけど、この「Provision」リリースの頃にはついにライヴをやることが出来るようになり、今日の映像も音声はライヴではないけれども生演奏の様子がわかるわけで、やっぱこのバンド(バンドといってもGreen Gartside の個人ユニットのようなものだけれども)にほんとうにR&Bの影響が顕著だったことがよくわかる。
 このScritti Politti 、当時のバンドとしては珍しく一度も解散することもなく、現在もまだ活動を続けているはず。っつうか、本来個人ユニットなのだから解散しようもないわけか。Wikipedia を見ると、なんだか今年ロンドンのバービカン・センターで、わたしの偏愛するIncredible String Band の音楽を讃えたコンサートが開かれたようで、そのコンサートにRichard Thompson やDr. Strangely Strange などといっしょにGreen Gartside もステージに立った模様。このコンサートがDVD化されて、わたしの手元に舞い込んで来るというような奇蹟が起きますように。

 

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■ 2009-12-09(Wed) 「太陽と下着の見える町」「ハイ・シエラ」

[]Being With You [Smokey Robinson] Being With You [Smokey Robinson]を含むブックマーク

 朝起きて窓を開けると、しばらくしてミイが入って来る。ユウは一緒じゃないのだろうかと和室の窓から駐車場を見ると、いたいた。今日は駐車場に入ってこないで、向かいのアパートとの教会の金網の向こう側にちょこんと座って、じっとこっちを見ている。ユウのからだはほとんど真っ黒で、鼻から口、のど元にかけてと、前足後ろ足の部分だけが白。かなりかわいい。食事を終えたミイはユウのところに戻って、一緒に見えなくなってしまった。
 昨日見つけたミイたちの住処からこの部屋までは、直線距離で百メートル強だろうか。あいだでひとつ道を横切るだけで、あとは向かいのアパートの間の道をたどれば、すぐにこのマンションの駐車場だから、それほど危険な道のりではないだろうし、いつも来る早朝の時間ならさらに安全なのだろう。毎日のようにここへやって来るというのは、ミイたちの住処の庭の主さんは、特にミイたちにエサをあげたりはしていないということなんだろうか。ミイはいずれはユウにもここで食事をさせたいと思って毎朝連れて来るけれど、ユウの警戒心はまだ解けないということか。
 しかし昨日見つけたミイたちの住処はいかにも安全快適なようで、わざわざミイたちをこの部屋の住民にして、完全にわたしのネコにしてしまおうというのは、ちょっと無理があるかもしれない。この部屋周辺で暮らすよりは、ぜったいにあの住処のあたりの方が良い環境で暮らせるように思える。

 午後からハローワーク詣で。ハローワークへ行く前に昨日ミイと出会ったところへまた行ってみようと、公園の方へ行く。なんというタイミング。ちょうど昨日ミイが居たあたりに、ミイとユウが親子で並んで歩いている。少しずつミイたちの方へ近づきながら、きっと、ユウの方はわたしの姿を見たら逃げて行ってしまうだろうと考える。ミイもユウにわたしのことに気がついたようだ。もちろんミイは警戒したりするわけはないのだけれども、やはりユウはわたしを見て硬直してしまう。フリーズ状態。わたしも立ち止まって様子をみるけれども、一歩踏み出すと同時ぐらいに、ユウは昨日確かめた住処がある方角にすっ飛んで逃げて行ってしまう。やっぱりね。
 残されたミイは、ちょっと途方がくれたようにそばの車の下でうずくまっている。わたしは公園に入って行って、そこからしばらくミイのことを観察してしまう。ミイがゆっくりと歩き出して、わたしの家の方角に進んで行く。わたしも少し離れてミイのあとをついて行く。昨日と同じように、ミイはときどき後ろを振り向いてわたしのことを確認しているみたい。ミイが行くアパートのあいだの道についていくわけにはいかないので、迂回して家の前の駐車場に行くと、ミイもフェンスを乗り越えて駐車場へ。このまままたわたしの部屋に行くのかな、と思っていたら、うちのマンションを迂回して裏側の方へ行ってしまった。ついて行くようにわたしもマンションの裏に回ると、ミイがその裏手にもあるもっと大きな駐車場の中を歩いて行く。
 ミイはわたしのことにずっと気付いていて、わたしの方を見ながらミャアミャア啼いている。何を言っているんだろう。今日はわからない。「きのう、どうしてついて来なかったのですか?」とか言っているのかもしれない。ミイは駐車場と隣の家の境のフェンスに飛び上がり、その上でしばらくじっとしてわたしの方を見ている。さようならをしてハローワークへ向かう。

 ハローワークは33人待ち。待っているあいだにレンタルヴィデオ店まで行き、新しいDVDを借りて来る。川島雄三、増村保造、ヒッチコックというのが、最近のレンタルお決まりのラインアップ。
 ハローワークで今日わたしが希望した求人は、実は求人主が希望するのが三十代の人材というお決まりのパターン。

 先日の庭劇団ペニノの「太陽と下着の見える町」のレヴューを書いてアップする。ちょっと否定的な意見になって申し訳ない気持ちもあるのだけれども、わたしには肯定的な気分になれる公演ではなかった。あとでそのレヴュー・サイトを見ると、わたしのあとに今野さんがレヴューしている。会場でお会いしたのでちょっとあいさつしたのだけれど、さすがにレヴューが並んでしまうのは恥ずかしい。そうか、ジョナス・メカスの映像でリヴィング・シアターが観ることが出来るものがあるのか。知らなかった。
 わたしのレヴューはここに掲載するとダブル投稿になるので、アップしません。以下のURLで読めるかも。

http://www.webdice.jp/dice/detail/2155/

 夜はラオール・ウォルシュ監督の1941年の作品、「ハイ・シエラ」を観る。これは、その後のハンフリー・ボガートの人気を決定付けた作品らしい。短い特典映像で、ボガートがこの作品の主役に決定するいきさつが語られる。ボガートが、ほぼ決定していたジョージ・ラフトに、役を降りるように仕向ける工作(というほどのものではないけれど)をしていたというのが面白い。
 この「ハイ・シエラ」は「最後のギャング映画」とも言われる作品だけれども、こうやって今観ると、例えば「俺たちに明日はない」などの、つまりはアメリカン・ニュー・シネマへと連なる前史として了解出来るのではないか。それは当時の同時代の実在のギャング、デリンジャーらのアウトローを大衆が英雄視していたような背景があるわけで、こういうアメリカのアウトロー伝説をたどれば、西部開拓時代のジェシー・ジェームズやビリー・ザ・キッドにまでたどり着く。この系譜から眺められるアメリカ映画の歴史の魅力。そういえば、マイケル・マンはもうすぐ公開される「パブリック・エネミー」で、そのデリンジャーを主役に置き、彼なりにアメリカ映画の系譜を継ごうとしているようだ。観てみたい。
 さて、作品だけれども、ボガートの演じるロイというアウトローが、単なる「ワル」ではなく、かなりのロマンティストとして描かれていて、冒頭からして、出所したロイが公園の緑の中を歩くその表情が印象的。ハンフリー・ボガートがその演技によってこのロイという男に与えた造型はたしかに魅力的で、この後の彼の人気が理解出来るのだけれども、ヒロイズムに裏打ちされ少し感傷的すぎる面も。
 しかしながら簡潔でテンポの速い演出は小気味良く、100分間の映画作品の楽しさを堪能させられた。そうそう、脚本がジョン・ヒューストンで、ちょっとした決めセリフがどれもカッコいい。

 今日はまたミイといっしょに歩いたので、「Being With You」で。Smokey Robinson 、1981年の彼のソロ活動期最大のヒット曲。アダルトでメロウで、思い切り80年代。懐かしい当時のヴィデオ・クリップでお楽しみ下さい。

 

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■ 2009-12-08(Tue) 「女は二度生まれる」「巨人と玩具」

[]Home Is Where The Heart Is [Bobby Womack] Home Is Where The Heart Is [Bobby Womack]を含むブックマーク

 食事を終えたミイがベランダから何か見ている。そのうちにいつもは見せたことのない敏捷さで駐車場に跳び降り、向かいのアパートの方に姿勢を低くしてハンターのように進んで行く。ミイの進んで行く先を見ると、そこに最近よく来る白い飼い猫の姿が見えた。飼い猫の姿はすぐに見えなくなってしまい、ミイも飼い猫のあとを追うように姿を消す。ミイが縄張りを守ろうとしている。ミイは勇敢だ。しばらくネコたちの消えた方向を注視し、争う音など聴こえて来るのではないかと耳をすますけれど、特に変化は起こらなかった。

 昼過ぎにスーパーに買い物に行こうと近くの公園の前にさしかかると、そばの道端にミイがいた。ミイの方に近寄ってみるけれど、ミイは逃げたりはしないでゆっくりと公園の方に歩いて行く。どこへ行くんだろう。ミイの住処に帰るところかもしれない。あとをついて行くことにした。ミイは公園のわきの道に入り、しばらく歩くと立ち止まってわたしの方を振り返る。そのときにミイがわたしに「ついておいで」と言ってるんだとわかった。ミイはわたしが後ろにいることを確認するとまた先に進み始める。道の右手に、民家の庭とその隣の民家の間にはしる細い通路がある。ミイはその角で立ち止まり、またわたしの方を確認すると、その細い通路に入って行った。
 ミイが入って行った通路の右側は、以前玄関にキャットフードを山盛りにして置いていた家の庭になる。棕櫚の木や柿の木が生え、今は枯れてしまっている雑草があたりをおおっている。ミイはその庭へ入って行く手前のところで立ち止まり、わたしを振り返ってじっとしている。「さあ、来なさい、この先にわたしたちの家があります。案内しましょう。」きっと、絶対にそう言っている。「ユウにも会わせてあげましょう。」そうも言ってるかもしれない。
 そうなんだ。ここがミイとユウがふだん過している住処に違いない。この庭の主は玄関にキャットフードを置いておくぐらいだからきっとネコ好きだろうし、周囲を木や雑草に囲まれた庭は大きな危険もなく、快適な生活を送れるだろう。ミイは腰を下ろしてずっとわたしの方を見て、きっとわたしのついてくるのを待っている。でもそこはどう見ても私有地と私道で、とても無断で入れるような所ではない。しばらく佇んでミイやミイの周りの景色を見ていると、頭の上でガラガラッという音がした。見上げると、その私道の左側の家の二階で、おばさんがこちらを見下ろしながら窓を閉めている。おっとこれではすでに不審人物だ。かまわずにミイについて行けば、そこには「不思議の国のアリス」の世界、または「猫町」への入り口が待っているのかもしれないけれど、わたしにはこれ以上ミイについて行くことが出来ない。きっとわたしがまだ小さな子供だったらかまわずに庭に入って行くのだろうけれどもな、などと思いながらミイに小さく手を振って、その場を離れた。

 ミイがわたしに住処の場所を教えてくれた。以前わたしはあるときに、あるネコのわたしに伝えようとした考えが完全に了解できたという不思議な体験をしたことがあるけれども(その時のネコに伝えられたメッセージは、そのネコが驚くべき叡智を持っていることをもわたしに示していたのだけれども)、今日のミイとわたしのあいだにも、たしかに通じ合うものがあった。何よりも、ミイはわたしのことを住処を教えてもいい「仲間」と認めてくれたわけだ。そのことがこの日いちにち、ずっとうれしかった。ミイはすばらしいネコだ。

 DVDで「女は二度生まれる」(1961) を観る。川島雄三監督の作品は「幕末太陽傅」しか観たことがなく、レンタル店にもあと大映で撮った二〜三本しか置いてないのだけれども、この人の作品ももっと観てみたい(愚作の類いも多いらしいけれども)。この人も青森県出身なのだなあ。このサバッとした感覚には鈴木清順監督とも通じるところがあるようにも思えるし、彼の中に同居しているネチッとしたところは太宰とか、つまりは無頼派なんだろうなと思わせられたり。
 この「女は二度生まれる」は、ポーンと放り投げられたような傑作で、めちゃ面白い。繊細さと投げやりさが同居しているというか、何も考えていないような何かを求めて流浪しているような、流されてしまっているようなちゃんとゴールを探そうとしているような奇妙な魅力のあるヒロインを、若尾文子がほんとに見事に軽々と演じている。彼女を取り巻く男性たちの描写がまたそれぞれきっちりと描き分けられていて、まあなんて言うんだろう、それら男たちの総体から、男のやさしさと、それと同時にいいかげんさが匂い立って来る。すべてそういうアンビヴァレンツなものの同居こそがこの作品の魅力なのだろう。ラストだって希望なんだか諦観なんだか曖昧なままで、それがやはり「幕末太陽傅」のラストに通じるような素晴らしさになっている。
 物語の節目になるポイントを直接描写しないという方法も面白く、ヒロインはいつの間にか芸者やめてバーのホステスになってるし、パトロンの山村聡(彼の演技が好き)の死なども電話での知らせになる。おそらくヒロインが思い悩むという描写になるようなシーンは描かないと決めているようで、それがこの作品の洒脱さを産んでいるんだろう。池野成という人の音楽がとても良かった。伊福部昭のお弟子さんらしい。

 今日はDVDはもう一本、増村保造監督の「巨人と玩具」(1958) も観る。原作は開高健で、脚本は白坂依志夫。先週観た「青空娘」とかで、増村保造の描こうとする「近代的人間」は直に危機に直面する時代になるのではないだろうか、そういう事象をどう描いて行くのだろうかとか思っていたのだけれども、この「巨人と玩具」でさっそく、登場人物たちはそのような危機に直面する。この作品では今で言う企業人間だとか、マスメディアの産み出すスターの問題を、かなり戯画的に描いているけれども、スピーディーなアップテンポの演出は相変わらず。「いつも笑っているように見える」と言われた主人公川口浩が、作品のラストで笑顔を忘れ「笑顔、笑顔」と指示されるのは痛烈だし、その笑顔で売り出したスター、野添ひとみも笑顔を失って行く。
 人間性を持ち合わせないマス・メディアの問題は、このあとにデビューする吉田喜重監督の二作目、「血は乾いている」(1960) でもテーマになっていたはずで、ちょっと思い出してしまった。
 「火をつける」ということで何度か画面にオーバーラップされるライターの映像は、今観るとなんというか、観念的すぎるというか陳腐というか微笑ましいけれど、増村監督は、終盤に出て来る野添ひとみの歌い踊る舞台シーンの演出が下手だなあ。

 今日はミイにミイたちの住処を教えてもらったので、ミイのために、「Home Is Where The Heart Is」というタイトルの曲を選びます。歌っているのはギタリストとしても著名なBobby Womack で、この曲は1977年にリリースされたもの。彼はそもそもSam Cooke に見い出され、彼のバックもやっていたというからそのキャリアは長い。Rolling Stones も彼がいなければ存在しなかったかもしれない。いやそんなことはないだろうけれども、Stones の最初の全英ナンバーワン・ヒット「It's All Over Now」はBobby Womack の作品で、彼の兄弟バンド、Valentinos でヒットしたもののカヴァーでした。この「Home Is Where The Heart Is」は、さすがに70年代後期の曲ということで、かなりディスコっぽい音造りになっております。

 

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■ 2009-12-07(Mon) 「湖のほとりで」

[]Undercover Of The Night [Rolling Stones] Undercover Of The Night [Rolling Stones]を含むブックマーク

 目が覚めたら八時を回っていて寝坊。早起きしなければならない理由などないのだけれども、ミイたちへの食事を出すのが遅くなってしまう。最近のミイは七時ごろにやって来て、そのあとはもう来なくなることが多い。特にユウは朝いちばんにミイについて来るだけで、そのあとはまったく姿を見せなくなってしまう。
 案の定、今日はミイたちの姿を見かけることがなかった。

 夜には西巣鴨へ庭劇団ペニノを観に行く予定。七時半開演というのが微妙な時間で、舞台が長引くと終電車に間に合わなくなる。会場のにしすがも創造舎に電話して聞いてみると九時ごろに終演とのことで、かなりぎりぎり。乗り換え案内で西巣鴨からの終電時間を検索してみると、メトロで新板橋駅へ出て、JR板橋駅まで歩いた方が早く帰れることがわかる。新板橋駅から板橋駅までの道がわからないのでマップ検索すると、板橋駅から西巣鴨までの距離もあまりないようだ。楽に歩いて行けそうで、こんなルートがあるのはまったく知らなかった。今までメトロを使って無駄な交通費になっていたわけだ。まず往路で板橋駅で降りてみて、道筋と時間を確認しておこう。九時終演ならたぶん楽に帰って来れそう。

 それで、今日は月曜日なのでターミナル駅にあるシネコンはメンズデー。男性は千円で映画鑑賞できるわけで、ついでにこちらにも行ってみようと考える。どんな作品を上映しているか調べると、「湖のほとりで」という、聞いたこともない作品を上映している。まったく知らない作品なので調べると、これは今年公開されたイタリア映画で、湖のほとりで発見された少女の死体をめぐるドラマといった内容らしく、近年のイタリア映画などマルコ・ベロッキオぐらいしか観たことがないし、ちょっと面白そうなので(DVD化されても近所のレンタル店では在庫しなさそうなマイナーな匂いがするし)、この作品を観ることにする。
 このシネコンはその有力スタッフに映画好きがいるのだろう、おそらくそんなチョイスで、いつも採算を度外視したようなマイナーな作品も上映してくれる。「トウキョウソナタ」だとか「百万円と苦虫女」などもここで観たし、おそらくこの「湖のほとりで」も、そういう映画好きスタッフのお勧め作品なのだろうと映画館のチョイスを信頼する部分もある。知らない作品でも「このシネコンで上映するのならきっと面白いのだろう」と思ったりするわけだ。こういう地方の方が逆に「この映画館での上映方針は信頼出来る」という関係が持てたりするのは面白いと思う。ちょっとしたプチ名画座的な。

 そういうわけで、電車に乗ってシネコンのあるローカル駅へ。シネコンの入っている駅前ビルの一階などは改装中で、こんどは「ドン,キホーテ」が入って来るらしい。駅前にあった昭和の匂いのするパチンコ屋もいつの間にかコンビニに姿を変えている。その向かいにある以前よく通った食堂は(夏の期間は生ビールが安かったのだ)、まだ「改装中」の貼紙のまま店を開けていない。もう半年以上こんな状態で、つまり閉店したんだろうな。このローカル駅の周辺はどんどん風景が変わって来ている。うちのあたりの風景はほんとうに変わらないけれども。

 で、映画。「湖のほとりで」。2007年イタリア映画。監督はアンドレア・モライヨーリという人で、ナンニ・モレッティの助監督をつとめていた人らしい。原作は別にある模様。ここで、ついにわたしは映画館で観客がわたしだけという、マイシアター体験を成し遂げた。以前にもこのシネコンでは「お、今回は観客はわたしだけになるかも」ということが二〜三度あったけれど、いつも開映まぎわに他のお客さんが来てしまい夢の達成がなかなか叶わなかった。その夢を今日達成。って、ひとりだからどうということもないわけだけど。
 で、開映。おそらくは北イタリアなのだろう、アルプスらしい山々が背後に見える風景が美しい。新興住宅地のようにも見える古い村のようにも見える石畳の町、その清浄そうな空気感が伝わって来る。オープニングの石畳の道を歩く少女を追うカメラの移動撮影も心地よく、このパンやズームインを多用した撮影が全編で効果的に使われる。音楽もいかにもヨーロッパ作品という、シンプルながらもヨーロッパ・プログレの系譜をひくような美しいチェンバー・ミュージック。すべていい感じ。主演の警部役の役者もアーミン・ミューラー=スタールをちょっと硬派にしたような感じで、重厚な落ち着いた演技をみせる。この作品はイタリアの何とかいう映画賞で、作品賞/監督賞/男優賞/撮影賞/脚本賞/編集賞など10部門を独占したらしいけれども、たしかに貶しようのない秀作と言えるんだろう。ラストの余韻など最近の映画には得られない充足感を得る。

 深夜、帰宅したあとに、あまりこの作品のデータ的なことを知らなかったのでネットで検索し、ついでに観客のレヴューを読んで、実はちょっとばかり驚いてしまった。ほとんどのレヴューがこの作品のストーリーすら読み切れていないと思われる感想で、「犯人に意外性がなかった」(この感想がとても多い)とか、「唐突なラスト」、「警部の家庭の描写が余計」などというのばかり。結果としてかなり平均評価点も低くなっている。そういう他人の感想にちゃちを入れたりしたくはないのだけれども、あまりにも的外れな感想ばかり続くので、どうなってるのだと、あるサイトのレヴュー、五十件ばかりあるものを全部読んでしまう。おそらくは、ちゃんと内容を把握して書かれているレヴューは大目に見積もっても三割に満たないのではないか(そのあたりのことがわからないレヴューを除外すると、明確に映画を読み取っているとわかるレヴューは、一割ぐらいにまでなってしまう)。読んでいるとやはり、あまりに無理解なレヴューの連続に苛立った書き込みもあり、わたしもほとんどそんな意見に同意してしまう。
 実は先日図書館で「キネマ旬報」という雑誌をぺらぺらと読んでいて、その何かの特集での映画評論家同士(語っている人は誰だか忘れたので、評論家ではないかも知れない)の対談で、日本の映画観客は幼児化しているというようなものを読んでいた。そこで言われていた「観客の幼児化」の典拠は、映画「ダークナイト」の観客動員数(比率)が英米西欧に比べて極端に少なかったということで語っていたのだけれども、わたしは「ダークナイト」なんか大した作品じゃない(むしろ困った作品)と思ってるし、ああいう作品に客が集まってしまう英米西欧の映画事情を肯定的に捉えることも出来ないでいるわけで、「またこういう変な論調が出て来たんだ」などと思っていたわけだけれども、失礼ながら、この「湖のほとりで」のネットに上がったレヴューを読む限りでは、「そもそも映画という表現を理解出来る観客が激減しているのではないか」もしくは「ちゃんとしたレヴューの書かれる比率が落ちている」のではないかと思ってしまう。そういう意味では、たしかに「観客の幼児化」という現象はあるのかもしれない。
 この「湖のほとりで」は特にそういう難解な構造を持った作品というわけでもなく、一面非常にオーソドックスとさえ言える作品だと思うのだけれども、ただ、映画で提示された事象を、観る側で組み立て直して相互の関係を把握する作業は必要な構造にはなっているわけで、この作品の基本のストーリーすら読み取れないということは、観る側での再構築作業が為されていないということになる。そんなことでは作品のテーマ、メッセージなど、端っから読み取ることは不可能だろう。この「湖のほとりで」の場合、その観客レヴューからそのような(幼児化)現象があまりに凄まじく読めるようになっているということで、ひとつのティピカルな例証になるだろう。どうやらそういう観客は自分で推測して考えるということを放棄し、すべてを画面で説明されなければ納得しないということになっているんだろう。
 この作品の中に描かれる幾組かの家族の(共に生きることの困難な)姿はそれぞれ連係していて、それらが総体として、(家族として)共に生きることの意味を追求しているのだとしか思えない造りなのだけれども、ただ表面的に表れる「犯人」さえ解ればいいという見方になっている。少女の死は、その「家族として共に生きる」ということを放棄した人間への告発なわけで、ラストシーンはある人物の「家族として共に生きる」ことの確認になる。そこを読み取れば、先にあげたような感想はとても導き出せるものではないと思う。その上でこそラストシーンの意味が読み取れるだろうに。

 わたしはそういう観客の無理解をのみ「ばかだなあ」とあげつらいたいのではなく、イヤなのは、こういう感想が多数派意見として声を大きくし、おそらくはこういうネットのレヴューをも営業的に参考にしているに違いない映画製作/配給の現場に影響して来るであろうことで、つまりこの「湖のほとりで」のような良質な作品(だと言えると思う)が今後配給されたり製作されたりすることの障害になってしまうのではないかと危惧するのだということ。それが面白くもない映画ばかりが配給され、もっと注目すべき良作が配給されないで未公開のまま終ってしまうような事態に拍車をかけること、映画製作の現場にもまたそのようなチェックが入るであろうことを危惧する。まあそれにしてもこれだけ連続してひどい(失礼)レヴューを読んでしまうと、どんな表現にも無理解は付きまとう(わたしの理解していると思っていることも含めて)ものだとはいえ、この事態はちょっと常識外れなのではないかと思ってしまう。

 とにかくそういう考えを抱かされた作品だったけれども、一見の価値はある美しい作品だったと思う。今日この作品を観ることが出来て良かった。やっぱこのシネコンは信頼していて大丈夫なようだし、今の上映作品選択姿勢を応援するためにも、何か手紙でも書いて投函しようかとまで考えたりする。

 さて、それで、夜の「太陽と下着の見える町」の観劇。道を確かめるために、JR板橋駅から「にしすがも創造舎」まで歩いてみる。板橋駅の真ん前には近藤勇の墓があるのだね。わたし好みの店構えをした昭和な中華料理店が、二〜三百メートル置きぐらいには点在している。入ってみたくなる。ゆっくり歩いても十五分ほどでにしすがも創造舎到着。これから来るときには板橋駅を使おう。

 その肝心の「太陽と下着の見える町」だけれども、ちょっと他のサイトにレヴュー(またレヴューの話題だ)するということで招待されたので、ここに書くことは保留。代わりににRolling Stones の「Undercover Of The Night」(1983) を見ていて下さい。「下着」の代わりのつもりです。見えますか?

 

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■ 2009-12-06(Sun) 「憂鬱たち」「北北西に進路を取れ」

[]I Spy [PULP] I Spy [PULP]を含むブックマーク

 午前中は昨日の雨の名残りか曇り空だったけれども、昼ごろから晴れ。洗濯物がたまっていたのを一気に洗って干す。今日はミイだけが来てユウの姿は見えない。午後に一瞬、例の白の飼い猫が上がり込んで来ようとする。追い払おうとするとこちらの顔を見て逃げて行くのだけれども、逃げる前にちゃんとキャットフードをひとくち口に運んでから退散する。大したものだ。

 金原ひとみの「憂鬱たち」読了。七つの短編にすべて同じ名前の三人が登場し、主人公はいつも「今日こそは精神科の診察を受けるのだ」と家を出るが、必ず道をそれてしまう。自虐的コメディ路線としてかなり面白く読んだけれども、けっきょくいちばん最初の「デリラ」がいちばん面白く(これだけは傑作)、読み手としてはちょっとしょっぱなのインパクトがあり過ぎたため、あとは少々尻すぼみという印象になってしまった。

 夕食はまだまだあるぞイカの塩辛。今月の食材はもうほとんど冷蔵庫の中に収まっているし、あとはたまにイカを買って塩辛をつくるようにすれば、食費をこれ以上ほとんどかけないで過ごせるような気がする。

 夜はヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」(1959) を観る。思い切りサスペンス映画で、ヒッチコックお得意の「間違えられた男」ストーリーの典型で、ケイリー・グラントとエヴァ・マリー・セイントとのからみは、エヴァ・マリー・セイントは他のヒッチコック作品のグレース・ケリーのように女性からアプローチするタイプであるとか、ヒッチコック作品のエッセンスが満載なのだけれども、久しぶりに見直してみると、この作品がのちのスパイ映画ブーム(特に初期のジェームズ・ボンド映画)に与えたであろう影響の源泉を、それこそあちこちに見ることが出来る。
 まずはこの作品でのケイリー・グラントのシニカルなユーモアのセンスは。そのままショーン・コネリーのボンドに引き継がれているだろうし、女性スパイとの絡みをストーリーに組み込んで行くこともボンド映画には踏襲されている。複数の有名な観光地を舞台として作品の中で移動して行くという構成もおなじみなものだし、移動に列車を使うというのなんか、そのまま「ロシアより愛をこめて」みたい。「ロシアより愛をこめて」に関して言えば、たしかショーン・コネリーがヘリコプターに襲撃される、まさにこの「北北西に進路を取れ」のパロディのような場面もあり、おそらくは「ロシアより愛をこめて」の製作の典拠に「北北西に進路を取れ」が与えた影響はかなり大きなものだろう。
 そういうのちのスパイ映画への影響はまだまだあるのだけれども、これは単にスパイ映画への影響というだけでなく興味深かったのは、映画の終盤でラシュモア山近くに出て来る敵スパイの別荘の建物で、これはこの作品を前に観たのがずいぶんと前のことで記憶になかったのだけれども、この建築が思いっ切りフランク・ロイド・ライトで、有名な「落水荘」を彷佛とさせられる。まずはこういう敵組織の本拠地がモダニズム建築の様相を見せるというのはこれ以降のスパイ映画で共通して踏襲される事象で、まずはそういう敵組織の経済的バックボーンの豊かさを効果的に表わすことになるだろうし、おそらくはそういう敵ボスの文化的な趣味の良さをも象徴することになるのではないか。つまり「強敵」という雰囲気になるのか。
f:id:crosstalk:20091207111206j:image:right そういうことは別にしても、この「北北西に進路を取れ」に出て来るこの建築、いくら何でもこの映画のようにラシュモア山の山頂近くにこんな建築があるなどということは考えられないけれども、ではいったいどこにこの建築物はあるのか、「落水荘」のように有名なのではないのか、そう考えてしまうわけで、"Frank Lloyd Wright Hitchcock"とかでググってみたら、この jetsetmodern.com というところに面白いことが書いてあるのを見つけた。まだ見つけたばかりで、なにぶん英語なのでちゃんと読んでいないのだけれども、この「北北西に進路を取れ」の背景にある「Luxury」の描写について、とても面白いことが書いてあるみたいです。つまりこの建築は実在せず、MGMのセットで造られたものというのが、「どこにあるのか」ということの回答になるのだけれども、理想化されたフランク・ロイド・ライトと言えるような、素晴らしいセットだなあと思う。近年の映画作品でここまでやってくれてしまうような作品がすぐには思い出せないけれども、「北北西に進路を取れ」、この建築セットを観るだけでも価値のある作品ではないかと思ってしまう。この映画についてはいくらでも書きたいことがあるけれども、このあたりで。

今日はそういうスパイ映画の原点のような「北北西に進路を取れ」を観たので、スパイについて歌った曲を選びます。ほんとうはSlapp Happy の偉大なる「Casabranca Moon」を選ぼうかと思ったけれども、どうしても映画「カサブランカ」になってしまうので、英国のバンドPULP が1995年に発表したヒット・アルバム「Different Class 」から、「I Spy」という曲を選びます。絶好調時代のPULP 、彼らのライヴは定評があるけれども、ここでもストリングスを配しての渋いライヴを展開しております。

 

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■ 2009-12-05(Sat) 「耳」

[]Sally Can't Dance [Lou Reed] Sally Can't Dance [Lou Reed]を含むブックマーク

 天気予報では関東一帯にかけて午後から雨、雷をともなって強く降り、それでも夜半には降り止むだろうという。朝の空はまだ晴れている。ベランダの窓を開けるとミイが待っていた。その脇からユウがサッとベランダを飛び下りて、向かいに留っている車の下の潜り込んでしまう。食事を済ませたミイが駐車場に下りて、ユウとじゃれ合って遊んでいるのが見える。ああ見えて、まだまだ親子の絆が強いんだな。

 弁当をつくり、カバンに入れて出発。となりの駅まで歩く。道の途中、以前カワセミを見かけた川べりを、大きな鳥が飛んで行くのが目に入った。今までに見たこともない大きな鳥で、羽をゆっくりとはばたかせて、滑らかにすべるように飛んでいる。マックス・クリンガーの版画に描かれた、手袋を盗む鳥の絵を思い出す。全体が灰色をして首が長く、足も相当に長い。そのまま飛び続けてあたりに一本だけ立っている大きな木の枝に留る。いっしゅんその姿が鶴のように思え、「鶴だ、鶴だ!」と心の中で大声を出す。しかしいくら何でもこのあたりに鶴はいないだろう。きっとサギの種類なのだろうけれども、どちらにせよ今までに見たことのない鳥。この近辺、わたしにはバードウオッチングの穴場になりそう。

 今日はこまばアゴラ劇場にて、黒沢美香のソロ・ダンス公演「耳」を観る計画。劇場到着時点でまだ雨は降っていないけれども、今にも降り出して来そうな暗い空。黒沢美香さんの公演では知人に合うことが非常に多い。ここで会う人たちがまた、最近のわたしが頻繁に会う人たちだったりもする。先日「庭劇場」をみせていただいたAさん(新しい月なので、またイニシャルは「Aさん」からにリセット)にあいさつし、某劇団ユニット関係のBさん、それからイヴェント仕掛人のCさんDさん、大学で教えているEさんなどがやって来る。劇団ユニット周辺の人たちではFさんGさんHさんIさんなども(何のことだか)。先日泊めていただいたFさんにお礼。この日は中央線が架線工事で完全にストップすると聞いていたので、さすがにJさんは来ないかと思っていたらそれでも来られるそうで、というかわたしのような田舎者が知っているのに、ほとんどの人が中央線がストップすることを知らないというのはどういうことなのか。

 客入れが始まる頃に雨も降り出し、客席はかなり満員。この日はなんだか好い位置で観れたというか、けっこう緊張が途切れずに最後まで通して観ることが出来、終演でどっと疲れる。
 美香さんのソロを観るのはかなり久しぶりで、おそらくこの同じアゴラ劇場での、彼女がラストに梯子を登ったソロ以来になると思う。今日はいったいわたしの中で何が調子良かったのか、何か見方が変わったのか、いままでの黒沢美香ソロ・ダンスの中でも非常にフィットして観ることが出来た。で、体験として、素晴らしいパフォーマンスを観たという気分になる。いったい何が素晴らしかったのか考える。
 わたしはミニマル・ダンスとカテゴライズされるようなものに全くは明るくはないのだけれども、美香さんのダンスがいわゆる「ダンス」的なものからは相当な距離を置いていることはわかる。例えばデレク・ベイリーが、ギターという楽器の機能を一度解体して、その奏法まで捉え直すようなアプローチでギターを弾くような、そんな身体へのアプローチの仕方なのではないかと思ったりする。自分はそれゆえにいわゆる「ダンス」的な解釈は通用しないと思って観ているのか。うん、デレク・ベイリーのギターと、黒沢美香のダンスとは、近しいところに位置しているかもしれない。そこには旋律の解体された音楽があり、通常のことばの意味を持たない詩があり、中心を持たないオールオーヴァーな抽象絵画作品があるような。
 したがってその身体からはドラマ性も排除され、「どこを観れば良いのかわからない」(これは終演後皆で飲んだときに聴いた多くの感想)という状態になるのだろう。どうもわたしは今回は「そういうものになるだろう」という心構えの上で観ていたのか、舞台で動く黒沢美香の身体につまりはずっと眼がついて行く。そして、これは彼女の舞台では昔から観てきたことでもあるけれども、特にこの日の舞台の終盤で、彼女の表情/たたずまいが、瞬間に「素」に戻ったかのように見える場面が何度かあり、そのたびに観ている視線の何かが壊されるかのようにビクッとしてしまう。それが「ドラマ性」と言えるのか。とりあえず、わたしは「そこには何も見えない」という、倒置した眼の快楽に身を浸していたのかもしれない。わたしはそのことに満足している。この日の公演、おそらくはわたしにとって彼女の舞台では忘れられないもののひとつになると思う。

 終演後、わたしは結局BさんFさんGさんHさんIさんなどと渋谷に飲みに行く。結局中央線ストップにもかかわらず来られていたJさん、先日の庭劇場でも同じ観客だったKさんらのメンバーで、Fさんはすぐにオーチャードホールでの菊地成孔のライヴに行かれる。そう言えばCさんDさんは代官山へ口ロロ(くちろろ)のライヴに行かれたのだった。Eさんは駒場で引き続いて夜のダンサーズの公演を観られるということだったし。まあなんだかんだとこの位の人数で飲むのは楽しいもので(あまり人が多いとわけわからなくなって、結局隣の人と話すだけになったりする)、もう十二月だしこれは一種の忘年会。まだ総括するには早いけれども、死ぬほど波乱に富んだ一年だったことよ。こうやってこの夜のように気の置けない人たちといっしょに飲めるようになったというのは、これはわたしの「強運」と言えば良いのだろうか。転落して行く悲惨な道乗りをなんとか強運で持ちこたえながら生きているという感じもして、もしもわたしがそういう強運の持ち主であるならば、もうちょっとその「強運」に働いてもらいたいというのは無理な相談なのだろうか。こういうギリギリ路線を歩む定めなのか。どうかもう、これ以下に落っこちませんように。
Jさんが中央線ストップまでに帰れるように早めに解散し、わたしも終電に悠々セーフ。渋谷駅の湘南新宿ラインの入るホームに行き、電車を待つ。電車がやって来て乗り込もうとしたら、なんとわたしの隣に偶然にも並んでいたのが、ちょうど駒場で夜の公演を観ての帰りのEさんだった。並んでいるときにはまったく気が付かないでいた。珍しくけっこう余裕で座ることも出来、Eさんの下車駅まで、電車の中で会話を楽しむことが出来た。よくもまあ同じ電車の時間の同じドア口に並んでいたものだという、うれしい偶然だった。これも強運のひとつだったのだろうか。

 今日は黒沢美香のダンスならざるダンスを観たので、Lou Reed が1974年に発表したアルバム、「Sally Can't Dance」から、同名の曲を選びます(ちゃんと言えば「Don't Dance」なのだし、「Can't Dance」なんて大変失礼なことになりますけれども)。まあ傑作アルバム「Berlin」の次のオリジナル・アルバムということが出来るでしょうか(あいだに「Rock 'n' Roll Animal」というライヴ盤はあるけれども)。Lou Reed がニューヨークに帰って来た!そして、ロックに帰って来た!という感じのアルバムだったという印象。かっこいい当時のライヴ映像がありました。

 

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■ 2009-12-04(Fri) 「賭博師ボブ」「海の沈黙」「No Man’s Land」

[]Attends Ou Vat'en [France Gall] Attends Ou Vat'en [France Gall]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20091206112649j:image:right 朝、ミイが食事に来ているときに、駐車場の方から子ネコの啼き声が聞こえて来た。和室の窓から覗くとユウが車の下で啼いている。おかあさん、そっちへ行かないで早く戻って来てよ、ボク(ユウがオスかメスかはわからないんだけれども)はそこへは行きたくないよ。そう言ってるんだろう。それでも見ているとうちのベランダの方へやって来て、ベランダまでは上がって来た。部屋の中からユウの姿を写真に撮った。部屋に入って来て食事をして行くんだろうかと見ていたけれども、食事を終えた母ネコとベランダでじゃれ合って、そのまま駐車場の向こうのアパートの方へ行ってしまった。
 駐車場と向かいのアパートの間には、高さ1メートル強の金網フェンスがある。ミイは軽々とそのフェンスの上に飛び乗ってから向こう側に行ってしまうのだけれども、ユウはまだまだジャンプ力がついていない。フェンスの金網をよじ上っていく。その不格好な様子を見ながら、まだほんとうに子供なんだなと思う。

 今日はまたメルヴィル回顧上映を観に行く。昼から「賭博師ボブ」を観て、夜は「海の沈黙」の無料上映になる。お弁当をつくり、電車に乗って東京は飯田橋駅まで。ちょっと早く着きすぎたので、途中の大学の近くにある公園でお弁当を食べる。ちょうどお昼時で、何人かの人がこの公園でお弁当やサンドイッチなんかを食べている。公園の向かい側で食べている人の近くにノラ猫らしい二匹のネコがやって来て、おこぼれを待っている。食べている人は少しネコに分けてあげている。お互いに顔見知りなんだろうか。
 最初の上映が終ってから夜の上映までの時間をどうしようかと考える。この公園に来る道の途中に「近代科学資料館」というのがあったので、そこへ行ってみたいと思ったけれども、午後の四時には閉館になってしまうようで、それだと見る時間は三十分もないだろう。上映会場の日仏学院で手に入れたチラシに、広尾のフランス大使館で開催されている「No Man's Land」という美術の展示のがあり、これに終映後すぐに出かければ、一時間ぐらいは見てまわる時間が取れそう。内容が面白いようならばまた改めて行ってもいいだろうし、とにかくコレに行くことに決め、会場に戻る。

 「賭博師ボブ」(1955)。この作品のニール・ジョーダン監督によるリメイク、「ギャンブル・プレイ(原題The Good Thief)」はDVDで観ているけれど、もちろんこちらのオリジナルは未見。どうもまた睡魔に襲われてしまい、ポイントを外したまま鑑賞したような。冒頭から続くモンマルトルの早朝の風景(撮影:アンリ・ドカ)が美しく、その道路から、白黒格子の室内デザインな小さな賭博カフェの中へ移るカメラ。これがいかにもまだ街の動き出す前の、というか夜の余韻をまだ濃く残した雰囲気で、朝まで遊んでしまったあとの感じが伝わって来る。
 この作品がメルヴィル監督にとって最初の犯罪モノというか、アメリカの犯罪映画をフランスに移植する最初の試みと言えるのだろうか。脚本もメルヴィルの書いたオリジナルで、ひとつにはここですでに、彼ののちの作品「ギャング」、「仁義」などにあらわれるような、犯罪計画のち密な描写、そして裏切り、挫折というテーマがはっきりと描かれていることに注目するわけだけれども、同時に、アメリカ映画にはない、ちょっとひねった結末を用意するあたりに、メルヴィルのこの作品の狙いはあったのではないかと思う。この結末はシニカルな笑いをも誘うもので、「あきれてしまう」という感想も導き出されてしまう。これは決して作品の欠点なのではなく、メルヴィルの狙いを真に読み取ること、彼の斜めから見る視点を了解することにこの作品を楽しむポイントがあるのではないだろうか。

f:id:crosstalk:20091206112755j:image:left さて、終映後、急いで地下鉄で広尾に移動して、フランス大使館へ。もちろん今までフランス大使館へ足を向けるような用事があったわけもなく、初めてのスポット。このイヴェントは建て替えるフランス大使館の旧建築をすべてギャラリーとして、アーティスト、観客に解放する試みということで、日本とフランスのアーティストを中心に、各作家にひと部屋ずつを基本とした展示になっている。状況もわからずとにかく会場に飛び込んだわたしだけれども、まず入り口の左にある建物に入り、まるでファッション学校の文化祭みたいだなと、かなり失望。するとそこの棟はまさにそういうデザイン学校がプロデュースした空間になっていることがわかり、そんなに観てまわる時間がないのであわてて本展示棟へ移動。なんだかグラフィティ中心のかなり混沌とした雰囲気だけれども、知名度の高い作家の作品もあるし、もうちょっと下調べをしてからじっくり観てまわればいろいろと得る部分はあると思う。出来ればもう一度出直して来ることにして、ざあっと流して巡回。地下の展示を観ていたら、ある部屋でそこにいたフランスの作家に英語で話しかけられてしまい、ついつい応対。実に久しぶりに英語でしゃべる。後で思い出したら赤面モノの、間違った英語を使っていたりする。
 ちゃんと観るなら入り口で百円で売っているタブロイド判のパンフの購入は必須で、帰りにそれを購入。ちゃんと内容を見てまた来たい。写真はフランスの作家、クロード・レヴェックの作品「鼻血」。

 もうすっかり暗くなった道を取って返し、広尾から飯田橋、「海の沈黙」を観る。1947年のメルヴィルの長篇処女作で、原作はヴェルコールのいわゆる「抵抗文学」の代表作。わたしはこの原作本をたしか高校生の頃に読んでいるのだけれども、もうこれっぽっちも記憶に残っていない。それでも、映画が始まると、ドイツの将校の足が悪いのだったという記憶はおぼろげながら思い出されて来た。
 映画のオープニングがものすごカッコよくって、街角に佇む一人の男のそばを通り過ぎる男が、すれ違いざまに持っていたトランクを佇む男の足元に置いて行く。男がそのトランクを持ち上げて開けると、カメラ(この作品の撮影もアンリ・ドカ)もそのトランクの中身を覗き込む。そこには衣服などの下にレジスタンスの機関紙「Combat」やその他の書類などが束めて入れられていて、男はそのさらに下から一冊の薄い小冊子を取り出す。それが「海の沈黙」の本で、アップになったその本のページをくくると、スタッフなどのクレジットがそこに書き込まれている。この映画の原作書物の来歴を簡潔に映像で語る、素晴らしいショット。ここから、書物の語り手のモノローグで物語が始まる。
 物語は第二次世界大戦のヴィシー政権下のフランス郊外の町が舞台。そこに二人で住むこの物語の語り手の老人と、その姪のところに、ひとりのドイツ軍将校が軍の決定で有無を言わせず寄宿することになる。しかしそのドイツ将校は熱心なフランス文化の賛美者で、この大戦によるドイツ文化とフランス文化のオポチュニスティックな融和の夢を、毎晩老人と姪に語り続ける。それに対して老人と姪は、あくまでもかたくなな沈黙を守る。それでもドイツ将校は「いつかは二人の心が開かれるであろう」と期待して毎晩語り続ける。休暇を得てあこがれのパリへ小旅行に出た将校は、そこでこの大戦の真の意味を悟ることになる。老人たちの住む家に帰って来た将校は二人に「今まで話して来た事はすべて忘れて下さい。わたしは間違っていた」と語り、「わたしは前線への転出を決めました。この家からもおいとまいたします。おやすみなさい、さようなら」と、二人の部屋を辞するのだけれども、その時に姪がついにただひとこと、「さようなら」と答える。
 映画のほとんどを占める、老人の部屋での将校のひとり語りのシーンの演出こそが、この作品の要であって、とにかく会話の成立しない中で将校ひとりが語り続けるという描写。複数の人物描写としてはイリーガルなそんなシーンの中に、印象的な姪の横顔がインサートされる。この、既成の映画表現に見られなかったであろうイリーガルさの中に浮かび上がる美しさこそが、映画演出の新しさとしてその後のフランス映画に影響を与え、ヌーヴェルヴァーグ作品誕生の一要素となったであろうことを了解する。その他の印象的な演出を含めて、なんとも素晴らしい作品だと思った。良い作品を観た。
 終映後、作家の矢作俊彦氏らによるトーク・ショーが開催される予定で、そちらもちょっと聴いてみたい誘惑はあったけれども、終電車に間に合わなくなる可能性もあるし、すぐに帰れば10時台には帰宅出来そうなので、聴かずに帰ることにした。

 で、今日は日仏学院というところで二本のフランス映画を観、さらにフランス大使館での美術展示を観てと、フランスにどっぷりの一日になってしまった。それで今日の一曲はフレンチなものを。やっぱここでフランスを代表させるのはフランス・ギャルということにさせていただきます。彼女のベスト・アルバムは今でも我が家のCDラックに常備されている愛聴盤ですが、彼女の曲の中ではいちばん好きな「Attends Ou Vat'en(涙のシャンソン日記)」を選びます。オリジナルのスタジオ録音ヴァージョンの哀切のこもった歌唱とバックの演奏が素晴らしいのですが、今日はライヴ演奏で、後年の動くFrance Gall を堪能いたしましょう。

 

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■ 2009-12-03(Thu) 「必死の逃亡者」

[]December [Norah Jones] December [Norah Jones]を含むブックマーク

 このところ雨の日が多くて、今日も朝から雨で肌寒い。ミイのために窓を開けておくのがちょっとつらい。暑いのよりは寒さの方がしのげる体質ではあると思うけれども、この住処で初めて迎える冬、いったいどのくらいの寒さになるのか想像が付かないのがこわい。
 ミイは午前中に二回来る。「ユウはどうしたんだよお、連れて来なよ」と言っても、知らん顔している。窓のわきに古いバスタオルをたたんで置いて、ミイ用の滞在場所のつもりで置いてあるのだけれども、出て行くときにクンクン匂いをかいでから出て行く。今日の二回目のとき、そのバスタオルの上に座り込んでくれた。そうそう、そこでずっとゴロゴロしてくれればいいんだよ。残念だけれどもミイはすぐに外へ出て行ってしまった。
 入れ替わるように、すぐにあの白い飼い猫がやってくる。おや、今日は首輪を外している。どういうことなんだろう。わたしと顔が合い、しばらくこちらのことを見つめてから、サッと出て行ってしまう。

 昼、BSでジョシュア・ローガン監督の「ピクニック」を放映していた。観ないでヴィデオ録画で済ませてしまう。今どきVHSで録画やっている人などあまりいないだろうけれども、最近録画したVHSテープがたまってきた。またこれがいつまでも観なかったりするのだな。

 夜はDVDでウィリアム・ワイラー監督の「必死の逃亡者」(1955) を観る。原題は「The Desperate Hours」。ハンフリー・ボガート主演で、観ていてこれは昔TVで放映されたのを観たのを思い出す。
 三人の脱獄犯が郊外の家に逃げ込みその家の家族四人(両親と、もう恋人のいる娘、そして小学生の男の子)を拉致し、脱獄犯の愛人からの逃亡資金が届くのをその家で待つ。この三人対四人、さらに脱獄犯三人の中での力関係の変化を追って行くといってもいいような作品で、その変化を説明してみせるのではなく、人物のセリフや行動で推測させて行く構成がすばらしい。特に、視線のあらわすもの、視線と視線の絡み合いを切り取り編集することで、映画独自の時間と空間を構成しているのではないかと思う。それと、拳銃で代表される小道具の使い方。最初に三人の脱獄犯に対して二挺の拳銃があることが提示され、誰に行き渡らないかということが焦点になっている。これがラストの伏線になるあたりが巧み。
 脱獄犯たちは、拉致した家族の父親が予想以上に勇気のある男だと気がついてきたり、逆ストックホルム・シンドロームというか、拉致した家族にシンパシーを持ち始めてしまったりするのだけれども、ダイレクトにそういうことを表に出さないで進行して行くのがとてもいいわけです。
 そして侵入した家の間取り、この二階まで吹き抜けになっている居間での、二階までを視野に入れた撮影が、終盤に素晴らしい効果を産んでいる。
 しかし、まあいくら「リアリズムからの逸脱」にこそ映画の魅力があるとわたしが考えても、逃走資金を父親の勤め先に書留で送らせ、父親を外に出させて回収するというのは、火中の栗を拾うにしてもリスク大き過ぎで、ここはその家にダイレクトに資金を送付出来ない理由をひとつでっち上げれば良かったのにと、生意気な感想を持ってしまう。
 ウィリアム・ワイラー監督の作品は意識して観たことがないのだけれども、こうやって観るとやはり非凡な(非凡すぎる)演出力を持った演出家なのだなあと思う。もう少し観てみたい。

 今日の一曲は、あまり思い付かないのでもう一曲「十二月」の曲を。先日リリースされたばかりのNorah Jones の新作、「The Fall」からの曲がもうYouTube に上がっていたので、その中からずばり「December」という曲を。
 「The Fall」というタイトルは先年のターセム・シンの映画作品と同タイトルだけど、どうやらこのNorah Jones の新作の方は「失恋」というニュアンスらしく、これはNorah Jones の実際の恋愛体験が色濃く反映されているらしい。バック・ミュージシャンも今までとは総入れ替えらしいと、先日のピーター・バラカンのFM番組で聴きました。まあわたしはNorah Jones のファンというわけでもないのですけれど、たまにこういう音楽は聴きたくなる時があります。生ギターの音が美しい。

 

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■ 2009-12-02(Wed) 「俺たちに明日はないッス」

[]December Will Be Magic Again [Kate Bush] December Will Be Magic Again [Kate Bush]を含むブックマーク

 せっかくユウという名前をつけたのに、その後子ネコの姿を見ない。ミイももう子離れしてしまったのか、いっしょに行動することもなくなってしまったのかもしれない。この部屋に閉じ込めてしまった時にあのまま外に出さずに慣れさせて、家ネコにしてしまえば良かったかななどと考えてみる。まだ生後二〜三ヶ月なのだから、慣れるのも早いのではないだろうか。
 午後からレンタルヴィデオ店へ行き、DVDを借りる。帰り道に川沿いの道を歩いていると、対岸の川べりにブチのネコがいて、川面を覗き込むようにしていた。コロコロした体型でかわいいネコだなあと思って、しばらく見つめてしまう。この時期は産卵しに戻ってきた鮭が産卵を終えて、この川べりは鮭の死体だらけになってしまう。そんな鮭の死骸を食べていたのかもしれないな。

 イカの塩辛は、つくって直ぐには味がしみていないので特においしくないのだけれども、少なくとも一晩寝かせると抜群においしくなる。レシピには三晩ぐらい寝かせるようなことが書いてあった記憶があるけれど、一晩で充分に美味になる。今回は大量につくったので、一週間分のご飯のおかずになりそうな。そうするとまたスーパーの安売りデーになってまたスルメイカを買い、また塩辛をつくり置く。めちゃ食費が浮きそうだ。

 公演招待のプレゼントに応募していたのが当選して、来週に庭劇団ペニノの「太陽と下着の見える町」を観に行けることになった。うれしいけれど(庭劇団ペニノを観るのも実に久しぶり)、これで今週末から来週にかけて、また上京ラッシュになってしまう。十一月の末からのことを考えると、三分の一の日は上京する計算になるのではないのか。やはり食事はイカの塩辛で済ませるようにしなくてはならないのだろう。

 「ドン・キホーテ」の前編読了。ドン・キホーテは話の脇役になって、旅の途中で出会う若い男女の恋物語が中心になるケースが多い。その合間にキホーテやサンチョ・パンザがバカをやらかす。そういう入れ子構造と、この書物全体が偶然発見されたアラビア語の原稿からの翻訳なのだという構成が、ラテンアメリカ文学のメタ構造の原点になっているのではないかと想像する。この訳文には、今では死語になっているようなことばや、難しい漢字が多用されている。「羅刹」ということばを憶えた。

 夜はDVDで、タナダユキの去年の作品「俺たちに明日はないッス」を観る。タナダユキの作品はだいたい映画館で観ているのだけれども、この作品は見逃していたもの。
 冒頭から70年代邦画(ATG的な青春もの)テイスト満載で、全編で多用される手持ちカメラが素晴らしい。エンド・クレジットで山崎裕の名前を見て、「やっぱりね」と納得。近年の日本映画では最高の仕事をしているカメラマンだと思う。
 冒頭の海のシーンのあと、「俺たちに明日はないッス」というタイトルの出てくる、道路でトラックとすれ違う場面のストップモーションは、これはぜったいに長谷川和彦監督の「青春の殺人者」へのパスティーシュで、「青春の殺人者」でも、その冒頭に水谷豊がトラックとすれ違う。70年代邦画テイストと書いたけれども特にどの作品と思い出すわけでもないのだけれども、その「青春の殺人者」や、根岸吉太郎監督の「遠雷」、藤田敏八監督作品などを観たときにあったような感覚は呼び戻される。
 現代らしくない古い街並(この場所も「青春の殺人者」と同じく千葉県なのだけれども)の出てくるこの作品の時代設定もおそらくは70年代のようで、南沙織の「17才」が実に印象的に使われる(エンド・クレジットのバックに流れる銀杏BOYSの歌もイイ)。
 ストーリーは異性への感情のぶつけ方のわからない(愛情と欲情をごっちゃにしてしまう)、セックスという事象の良くわからない高校三年生群像(三組の男女)のしょっぱい展開で、メインは好きな女性に「やらせろ」としか言えない比留間クンと、教師と関係を持っている病弱の友野との関係で、比留間が脅し半分で海へ友野を連れて行き、その海岸の掘建て小屋でセックスしようと試みるあたりが、「潮騒」というか「遠雷」のトマトハウスというか、カメラも美しく最高潮。

 (観たことはないが)浮ついた(ものであるだろう)ゼロ年代的な青春恋愛映画の系譜(観なくても想像はつく)を回避し、70年代にまで逆行してもう一度やり直そうとするタナダユキは、やはり現在形の映画作家として、これからもわたしの中で重要な作家として位置付けられることだろう。そうそう、この作品の録音、アフレコはやっていないと思うけれども、実に明瞭に声が聴き取れるということが、単純に素晴らしいことだと思う。こういうオールロケ作品での日本映画の欠点は、とにかく音声が聴き取れない録音技術だったりしたのだから。

f:id:crosstalk:20091203095947j:image:left さて、今日ももう一曲「十二月」の曲を流します。今日はKate Bush が1980年にシングル盤でリリースした「December Will Be Magic Again」を。十二月の曲というよりはこれはクリスマス・ソングなのだけれども、まあいいでしょう。この曲はKate Bush のいかなるアルバムにも収録されていない(のちに発売されたボックスセットの、シングル盤リリース曲を集めたCDにのみ収録されている)ので、Kate Bush のファンの方でも知らないこともあるかもしれない。彼女の曲には珍しいポップな曲調や、いかにもKate Bush らしいシンギングの楽しめる佳曲だと思います。
 この曲のプロモーション・ヴィデオというものも存在しないらしいのですが、YouTube に、彼女がクリスマス番組でこの曲を歌った時の(おそらくはレアな)映像がアップされていましたので、これを紹介します。このパフォーマンスもKate Bush らしくって、楽しいものです。

 

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■ 2009-12-01(Tue) 「青空娘」、十一月のおさらい

[]December [All About Eve] December [All About Eve]を含むブックマーク

 ついに十二月。今日は晴れで、外を歩くと暖かいぐらい。朝、ミイが食事にやって来る。部屋で休んでいかないですぐに出ていってしまう。子ネコのユウはあれから姿を見せない。また昼ごろに首輪をつけた白ネコがやってくる。からだがずいぶんと薄汚れていて、ひょっとしたらもう飼われてはいないのではないかと想像する。飼い猫だっただけにミイなどよりもハンサム、グッドルッキングだけれども、あまりわたしの好みではない。からだもちょっとデカ過ぎる。

 今日は12時からリミニ・プロトコルの「Cargo Tokyo」のチケット予約開始日。予定していた日にちのチケットが取れたので一安心。しかし十一月はあまりにいろんなイヴェントに出かけ過ぎたので、クセにならないように気を付けなければいけない。明日もちょっと顔を出したい催しが複数あるのだけれども、どちらにしようかずっと迷っていた。どちらとも決められないので、ひとつを選択するともう一方は行かれなくなる、その考えを二乗して、どちらにも行かないことにした。この考え方は気に入ったので、これからは応用しよう。十二月はチケットをもう二枚買ってあるけれども、今週はもう一度メルヴィルの回顧上映に行きたいし、レベッカ・ホルン展、鎌倉での内藤礼展にも行きたい。渋谷で「ヌーヴェルヴァーグの50年」という上映特集があるのも気になるし、ヴィクトル・エリセの「エル・スール」が上映されるのも、ブレッソンの「罪の天使たち」も、観に行きたい。これでは十一月と同じになってしまいそうだ。なんとか歯止めをかけなくてはいけない。

 BSの「戒厳令」は録画。今日は火曜日なのでスーパー特売の日。玉ねぎを大量に買う。シチューのルウが97円。海産物コーナーでまたするめいかに眼が行き、先週のよりもデカくて新鮮そうなのが置いてあったので、また買ってしまう。これも97円。とにかく塩辛をつくるという作業が面白く思えるし、出来上がりが美味だし。誘惑に負けて、小さな焼酎のビンも買ってしまう。
 帰宅して夕方から塩辛造り。とにかく、イカを解体していくのが面白くて仕方がない。どうぞ解体して下さいと言っているような構造になっているのだから。今日のイカはほんとうに大きくて新鮮で、ワタを取り出すとその大きさも色つやも先週のものとまるで違う。今回は全身を塩辛にしてしまうことにした(とんびだけ、焼いて食べたけれど)。隠し味に買って来た焼酎を使い、また寝る前に仕込んで、冷蔵庫で寝かして置く。

 夜は、増村保造監督の第二作、「青空娘」(1957) をDVDで。増村保造と若尾文子の最初のコンビ作品。脚本もこの作品からのコンビになる白坂依志夫。とにかく明快で明解。なんというくったくのなさだろう。まさに「青空」。源氏鶏太の原作はシンデレラ物語の翻案のようだけれども、うまく日本の風土の中に移植している印象で、バタ臭い人物は出て来ても、演出からは決してバタ臭い感じを受けない。それでもアメリカの40年代〜50年代のハートウォーミング・ドラマ作品(そういうのをあまり観てはいないのだけれども)を思わせるところがあるように思えてしまう。若尾文子(素晴らしい!)の周囲の軽妙な脇役陣の演技も楽しく、特にストーリーを脇でけん引していく女中役のミヤコ蝶々が素敵だ。
 当時の東京の街の描写も楽しく、東京に着いた若尾文子の前に現われて通り過ぎていく変な人たちの群れ、ずらりと並んだ公衆電話をかける人々など、とても面白い。ちょっと出て来る後楽園遊園地(?)の映像などはデビュー作「くちづけ」での江ノ島を思い出させられ、増村保造監督はこういうアミューズメント・スポットが好きなのではないだろうか。
 で、わたしは増村保造監督のことをあまり知らないので、検索してWikipedia を読むと、この「青空娘」を撮った翌年に「自分の映画の方法論は、近代的人間像を日本映画にうちたてるためのものだ」と主張する評論を書いているらしく、そこで成瀬巳喜男や今井正をつまりは「情緒的」と批判しているらしい。たしかにそういう視点でこの「青空娘」を観ると、つまりは「継子いじめ」なストーリー展開から、増村保造の言うような旧的な映画作品だとヒロインはまずとにかく悩み苦しみ、外の社会と個人との摩擦の中に屈してしまうような作品になるのかもしれない。しかしこの増村保造監督の作品では、ヒロインにはまず行動ありきで、その行動力に周囲を巻き込みながら状況を打破してしまう。これはたしかに増村保造監督の言うように、1950年代から60年代にかけての高度経済成長期に似合う「近代的人間像」ということになるのだろう。先週観た彼のデビュー作「くちづけ」終盤の、その「くちづけ」シーンが、建築工事中のビルの中だったこともやはり、高度経済成長とシンクロする人間像をあらわしたものだったわけだろう。で、この「青空娘」では、そんな経済成長期のブルジョワに顕われてきた欺瞞性に、軽くジャブをかましているあたりも痛快になるわけだ。
 しかし、そんな明るい高度経済成長期はいつまでも続かず、60年代から70年代にかけてはもっと社会の矛盾もあからさまに表面化されて来る時代になると思う。そんな時代に増村保造監督はどのように彼の「近代的人間像」を対応させていくのだろう。それが、これから増村保造監督を観続ける楽しみになるだろうけど。

 そういうことで今日から十二月。タイトルも「十二月」の曲を今日は選びます。イギリスのAll About Eve が1989年に発表したセカンドアルバム「Scarlet and Other Stories」に収録され、シングルでもリリースされた「December」を。爽やかさの中にも翳りを見せ、ドラマティックに展開する彼女たちのサウンドはかなり好きでしたし、なんといってもリード・ヴォーカルのJulianne Regan の美貌っすね。わたしの勝手な感想で、古今東西の数多あるロック系のアーティストでもトップクラスの美しさではないのかと。このAll About Eve は、サードアルバムのあとにギタリストのTim Bricheno が脱退、失速して一度解散してしまうけれど、のちに再結成します。解散していた時期にJulianne Regan はCropredy のライヴでFairport Convention と共演したりもしているけれど、Fairport Convention のヴォーカルにJulianne Regan だなんて、実に素晴らしい取り合わせだと思う。
 余談に、前にも書いたことだけれども、このAll About Eve の国内盤のライナーノートを書いたライターは、「All About Eve 、謎のグループ名だ」などとバカ丸出しなことを書いておられました。ロック系音楽のライターは時にほんとうにモノを知らなくて、調べもしないで平気で無知をさらけ出すのが得意。国内盤CDとかについているライナーはほんとうに邪魔臭いことが多いのだけど、つまり、書くまでもなく、映画「イヴの総て(All About Eve)」は、ジョセフ・マンキウィッツ監督の古典的な名作です。
 なんか、YouTube のクリップ、曲の途中から始まってますけれども。

 

[]二○○九年十一月のおさらい 二○○九年十一月のおさらいを含むブックマーク

 恐怖の十一月決算。少ない貯金を目減りさせてしまったのだけれども、目減り額は予想以上に少なかった(まあそうでなければこうやって平常に十二月を迎えてはいないのだけれども)。食費はかなり少なくなったけれども、これはつまり出かけた回数に応じて、都合上別決算にしている外食費がかなり増えてしまっているのであまり変わらないかもしれない。と思ったら、食費トータルでも先月よりも二千七百円少なく済ましている。よくがんばりました。タバコも風邪をひいたのが影響したか、先月より四箱少ない消費。しかし映画鑑賞費は先月の四倍、舞台チケットも二倍(これは今月鑑賞分はほとんど以前買ってあったり、無料イヴェントだったりしたので、実質は来月の公演チケット代がほとんど)、交通費も四倍かかってしまっている。まああれだけ遊び歩けば当然で、月の三分の一は東京に出かけて何か観たりしていたのだから。とにかくこれからはこの十一月の浪費がクセにならないように、締めてかからなければいけない。消費生活におさらばすべき時期にしよう。 

 観劇:
●11/ 3(火)維新派『ろじ式〜とおくから、呼び声が、きこえる〜』作・演出:松本雄吉 音楽:内橋和久 @にしすがも創造舎
●11/ 7(土)ARICA 第17回公演『TSUKAI』@川崎市アートセンターアルテリオ小劇場
●11/14(土)鉄割アルバトロスケット『鉄割のアルバトロ助・リトルオーライ』@下北沢 ザ・スズナリ
●11/19(木)首くくり栲象『庭劇場』@国立 庭劇場
●11/26(木)アジア舞台芸術祭・世紀當代舞團『Pub (APAF 2009 Version)』@池袋 東京芸術劇場 中ホール
●11/27(金)アジア舞台芸術祭・ソウル市立劇団『エブリマン(万人)』@池袋 東京芸術劇場 中ホール
●11/29(日)アジア舞台芸術祭『<東京舞台>LIVE版 2009』@池袋 東京芸術劇場 中ホール
●11/29(日)アジア舞台芸術祭・アジアンキッチン『台北編』@池袋 東京芸術劇場 小ホール2

 映画:
●『ジャーマン+雨』横浜聡子:監督
●『ウルトラミラクルラブストーリー』横浜聡子:監督
●『パイレーツ・ロック』カーティス・ハンソン:監督
●『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』ケニー・オルテガ:監督
●『行旅死亡人』井土紀州:監督
●『サマーウォーズ』細田守:監督
●『ギャング』ジャン=ピエール・メルヴィル:監督
●『残菊物語』溝口健二:監督
●『カルメル』アモス・ギタイ:監督

 美術展:
●マイク・ケリー『Photographs/Sculptures』@新宿 WAKO WORKS OF ART
●Thomas Riff展@銀座 ギャラリー小柳
●荒井良展 @銀座 ヴァニラ画廊

 読書:
●『小津安二郎の美学?映画のなかの日本』ドナルド・リチー:著 山本喜久男:訳
●『終の住処』磯崎憲一郎:著
●『ドン・キホーテ 前編 上』セルバンテス:著 荻内勝之:訳
●『バルタザールの遍歴』佐藤亜紀:著
●『通話』ロベルト・ボラーニョ:著 松本健二:訳

 DVD:
●『くちづけ』(1957) 増村保造:監督
●『炎上』(1958) 市川崑:監督
●『悦楽』(1965) 大島渚:監督
●『白昼の通り魔』(1966) 大島渚:監督
●『日本春歌考』(1967) 大島渚:監督
●『櫻の園』(1990) 中原俊:監督
●『ロープ』(1948) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『見知らぬ乗客』(1951) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『ハリーの災難』(1955) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『サイコ』(1960) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『鳥』(1963) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『いとこ同志』(1959) クロード・シャブロル:監督
●『続・夕陽のガンマン』(1966) セルジオ・レオーネ:監督
●『ラスト・ショー』(1971) ピーター・ボグダノヴィッチ:監督
●『バニシング・ポイント』(1971) リチャード・C・サラフィアン:監督
●『アデルの恋の物語』(1975) フランソワ・トリュフォー:監督
●『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』(2008) ベン・スティラー:監督
●『オセロー』(1989?) フランクリン・メルトン:演出

 あと、TVのBS放送で1本。

●『パリは燃えているか』(1966) ルネ・クレマン:監督

 

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