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■ 2010-02-28(Sun) 「地球へ2千万マイル」、二月のおさらい

[]Birthday [Beatles] Birthday [Beatles]を含むブックマーク

 ユウが部屋の中で騒ぐ音で仕方なくベッドから起き出して、ユウを和室から出られないようにしてリヴィングの窓を開け、ミイのための食事のを用意して置く。最近はどうしても、外にいるミイへの食事のことがおろそかになってしまう。
 今朝は窓を開けてすぐにミイがやって来る。和室の方でユウの啼き声がする。ミイはどんな反応をするのか、見ていてもまるで反応がない。食事を終えてさっさと出て行ってしまう。いくら子離れしていても、ここまで無関心というのはVery Coolだ。

 TVをつけると画面の右側に日本地図が出ていて、海岸線が赤とかピンクに塗られて点滅している。気象庁の人間が出ていて、チリで起きた巨大地震で大津波が日本に来ると云っている。津波の高さは1メートル50ぐらいになるだろう。大津波警報発令。昼過ぎから北海道、東北地方太平洋側に到達するだろうと。わたしの小さな頃、チリ地震津波というのがあった。とても大勢の人が大波にさらわれて亡くなり、海岸沿いの家屋も崩壊していた記憶がある。伊勢湾台風の記憶と合わせて、災害というものの最初の記憶。

 津波の到達予測時刻を過ぎても、高い津波の情報は寄せられない。どこからも被害の情報は出て来ない。それでもこの日はいちにち、TVの右側にはいつもこの日本地図がひとときも消えないでいて、その海岸線を点滅させていた。今日はわたしの誕生日なのだから、大変な災害が起こっても不思議ではない。あの「あさま山荘事件」の、最後の銃撃戦の日がわたしの誕生日だったし。今日も、もう津波は来ないだろうと思われるようになってから、突然に巨大な津波が襲って来るのかも知れない。気象庁の人も、ニュースに出ている訥弁の大学教授もそんなことを言っている。避難している人はいつまでも家に帰れない。これで大きな津波が来なければ、気象庁は何か批判的なことを云われるだろうか。でも彼らは最悪の事態を予想して伝えなければならないだろう。東京の下町の堤防を越えるような津波が襲ったら、東京にはどのような被害が出るんだろう。

 夜、DVDでハリーハウゼン特撮シリーズ、「地球へ2千万マイル」という作品を観る。1957年の作品で、監督はネイサン・ジュランという人(この人は、調べるとジョン・フォード監督の「わが谷は緑なりき」の美術監督をやっている)、製作は例によってチャールズ・H・シニア。
 イタリアはシシリー島の漁村沖合いにロケットが墜落する。これはアメリカが秘密裏に金星探索のために打ち上げたもので、探索からの帰還の途中で流星に穴をあけられて墜落してしまったもの。生き残りの乗組員一人が漁民に救出される。これとは別に、金星で捕獲した生物の幼生(胎児?)のサンプルを入れたカプセルが海岸に漂着し、これを拾った子供によって、カプセルの中身が近くに居た動物学者に売却される。四つ足でゴリラ+ワニみたいな容姿の金星生物は幼生から急速に成長し(といっても最初から最後まで容姿は変わらない。ただ縮尺が変わるだけ)、ヒトぐらいの大きさになったところで、動物学者のもとから一度は逃走する。これはアメリカ軍に捕獲されてローマの動物園に送られるけれども、さらに巨大になってゾウと格闘のうえ勝利し、動物園から市街へ逃走、コロシアムの上まで行ったところで、軍隊の攻撃によって落下しておだぶつ。そういう話。
 金星の怪物の造型が適度にグロテスクで、いい感じ。これは明らかに「キングコング」を手本にした映画だと思うけれども、舞台をイタリアにしたというのは、あまりにも「キングコング」と類似してしまうのを避けたかったからだろうか。ちょっと、その見せ場がゾウとの一騎討ち(これが市街のど真ん中でやられるのが素晴らしい!)だけというのが寂しい気がしないでもない。ラストのコロシアムがエンパイア・ステート・ビルに相当しているのだろうけれども、これも少々キングコングに負けるだろう。ローマの遺跡をもっと破壊すればいいのにな(ちょっとだけ、あるけれど)。そう、キングコングの「美女と野獣」のようなドラマがあるわけでもない。それでもやはりここはハリーハウゼンの造形の妙、クリーチャーの動かせ方の妙を楽しむことが出来る。それに、宇宙から飛来するクリーチャーというのは、ちょっとばかし「エイリアン」を予感させるようでもあり、SFプラス怪獣モノという、それまでになかったであろうジャンルの先駆といえるのではないのか。楽しい作品。怪獣の叫び声に反応してか、ユウがいっしょに啼いていた。

 今日はわたしの誕生日だったので、今日の一曲はBeatles の「Birthday」で。わたしの誕生日にふさわしく、くっだらないアニメです。

 


 

[]二○一○年二月のおさらい 二○一○年二月のおさらいを含むブックマーク

 二月のおさらい。食費そのほか光熱費など、従来の月とさほど変わらなかったけれども、タバコの消費量が2/3ほどに減った。というか、減らすことに成功した。中途半端な! 一気に「禁煙」まで行けよ! という地の底からの声が聞こえて来るけれども、ある程度の不健康さは生活の中に残しておかなければいけない。喫煙量が減ったことでインスタントコーヒーの消費が激増。二ヶ月に一瓶の消費だったのが、二月だけで三瓶買ってしまった。タバコとインスタントコーヒー、どちらが人の身体により有害なのだろう。とにかく、おかげで預金通帳の残高は微増。

 大きな出来事として、野良ネコのユウと、ついに共同生活を始めた。ネコの側からすれば監禁されたという認識なのだろう。なかなか懐いてくれないのがかなしい。部屋の壁を傷つけられ、おそらくは床にも目に見えないゴミなどが散乱していることだろう。これからどうなっていくのか。

 それから、指の傷が悪化してまだ病院に通っている。炊事や入浴が大変。朝、顔を洗うのだって、まるでネコみたいに左手だけで洗っている。そんな二月。

 観劇はひとつだけ。これは楽しい観劇だった。

  観劇:
●2/26(金)黒沢美香ソロ・ダンス 『薔薇の人—早起きの人—』 @中野 テルプシコール

 映画は相変わらず古い作品ばかり観ている。こういう映画を上映している映画館に行くと、そういう映画の常連らしいような年輩の方々のお顔を拝見する。正直云って、あの仲間にはならないでいたい。誤解を恐れずに書けば、わたしにはコアな映画ファンはけむったい。

  映画:
●『日本暗殺秘録』(1969) 中島貞夫:監督
●『グラマ島の誘惑』(1959) 川島雄三:監督
●『縞の背広の親分衆』(1961) 川島雄三:監督
●『オルエットの方へ』(1971) ジャック・ロジエ:監督

 レベッカ・ホルン展に再訪し、今回は映像作品を中心に観る。一種のアホらしさに感銘を受けた。

 美術展:
●レベッカ・ホルン展『静かな叛乱 鴉と鯨の対話』@東京都現代美術館(2回目)

 読書はそれなりに捗った。稲垣足穂、ナボコフは連続して読み進めたいところだけど、読み始めた昭和文学全集の「昭和詩歌集」、現在は短歌を読んでいる中で、葛原妙子という歌人の作品に夢中になりつつある。三月は短歌についてもう少し読んでみたい。

 読書:
●『李香蘭 私の半生』山口淑子・藤原作弥:著
●『絶望』ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳
●『弥勒』稲垣足穂:著
●『日日雑録』武田百合子:著
●『めぐらし屋』堀江敏幸:著
●『終の住処』磯崎憲一郎:著
●『TRIP TRAP』金原ひとみ:著

 レンタルして観ているDVDやヴィデオ、いつも通っているレンタル店を変えたので、観る作品が変わってしまった。ヒッチコックで今レンタルで観ることの出来るものは全部観終った。増村保造などはちょっとお休みして、アメリカ50年代のSFなど。

 DVD/ヴィデオ:
●『利休』(1989) 勅使河原宏:監督
●『クライマーズ・ハイ』(2008) 原田眞人:監督
●『陸軍中野学校』(1966) 増村保造:監督
●『オペラ座の怪人』(1925) ルパート・ジュリアン:監督
●『農夫の妻』(1928) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『三十九夜』(1935) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『海外特派員』(1940) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『舞台恐怖症』(1950) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『私は告白する』(1953) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『間違われた男』(1956) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●『宇宙戦争』(1953) バイロン・ハスキン:監督
●『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』(1956) フレッド・F・シアーズ:監督
●『水爆と深海の怪物』(1955) ロバート・ゴードン:監督
●『地球へ2千万マイル』(1957) ネイサン・ジュラン:監督
●『蠅男の恐怖』(1958) カート・ニューマン:監督
●『蠅男の逆襲』(1959) エドワード・L・バーンズ:監督
●『SF巨大生物の島』(1961) サイ・エンドフィールド:監督
●『恋のエチュード』(1971) フランソワ・トリュフォー:監督
●『ハンナとその姉妹』(1986) ウディ・アレン:監督
●『KAFKA 迷宮の悪夢』(1991) スティーヴン・ソダーバーグ:監督
●『イギリスから来た男』(1999) スティーヴン・ソダーバーグ:監督
●『その土曜日、7時58分』(2007) シドニー・ルメット:監督
●『クライマーズ・ハイ(TV版)』(2005) 清水一彦・井上剛:演出

 あと、TVで観たものに、『ピンク・キャデラック』(1989) バディ・バン・ホーン:監督など。ヴァンクーバーオリンピック、カーリングばかり見ていた。日本チーム、結果は残念だったけど、対イギリス戦は名勝負だった。

 

 

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■ 2010-02-27(Sat) 「終の住処」「ハンナとその姉妹」

[]You Must Believe In Spring [Bill Evans] You Must Believe In Spring [Bill Evans]を含むブックマーク

 土曜の朝までの中野滞在は眠くて、昨夜の酒の酔いもあって、かなりきつかった。なんとか朝を迎えて電車の中で眠りながら帰宅する。
 部屋の鍵を開けてもユウの気配はない。またベッドの下で寝ている。和室のパソコンのわきに、CDコンポのスピーカーが上から転がり落ちていた。パソコンに故障があったら大変と電源を入れるけれど、異常はないようなのでホッとする。準備して置いてあったユウの食事などは、ぜ〜んぶ平らげられてしまっていた。

 金曜日の飲み疲れで、昼間はぼんやりと過す。図書館から借りていた磯崎憲一郎の「終の住処」を読む。これはいちど月刊の「文芸春秋」で読んでいるのだけれども、単行本として「ペナント」という短編も併録されていることもあり、再読。「終の住処」。やはり最初に読んだ時のように観覧車にひっかかる。ここで時間軸が変わる。しかし、ひとりの男の30代から50代にかけての結婚生活と会社の生活を描いたこの作品で、男の友人といえる存在はぜんぜん登場しないし、まったく無趣味の男のようでもある。「疲れたような、あきらめたような」生活。空っぽな男の上にも時間は過ぎて行く。併載の「ペナント」が異様な面白さで、やはりこの単行本で読んで良かった。まったく脈絡のないような三つのストーリーの連なり。少年〜男〜少年というそれぞれの登場人物は同一人物なのかということはほとんどどうでも良く思えるけれども、ある部屋の通気口(?)の蛇の抜け殻から始まり、自分のなくしたボタンを探すつげ義春のような物語から、また磯崎憲一郎の作品らしく巨大なヒマラヤ杉のある風景にセザンヌの木があらわれる。ボタンを見つける食堂で老婆に語られる言葉が、「終の住処」にも共通する、この単行本のテーマのように読める。

「驚くには値しません。あなたのような類の人間は、つねに人生最後の一日を生きているのですから。物の方が先回りしてあなたの到着を待っている、そんなことはいままでもあったし、これからもしばしば起こることなのです。(‥‥)そんなことよりあなたは、あなたの人生の時間が食いつぶされないように気をつけなさい。自分が偽者であることにすら気づいていない、絶望的に救いようのない連中が寄って集って、あなたにちょっかいを出して、あなたから時間をもぎ取ろうとするでしょう。なぜなら、偽者たちはあなたのような人間の時間を食べることによってしか、生き延びることができないことをよく知っているからです。なにしろ彼らは自分でも持て余すほどの情報と便利な道具と、多くの友人たちにつねに囲まれていますから。あなたなど思いもよらぬような、いろいろな手管を揃えているのです」

 ここに、「終の住処」の主人公に友人のいないわけが書かれているような。逆に、これは「情報と便利な道具と、多くの友人たち」のない生活のことを書いているのだろうか。時間そのものと向き合うということは、情報も道具も友人もない場所でしか可能ではないのだ、ということかもしれない。仕事と向き合う、妻(もしくは愛人)と向き合うということの中に、時間と直面する(せざるを得ない)契機はあると。

 夜、図書館からのヴィデオで、ウディ・アレン監督の1986年作品「ハンナとその姉妹」を観る。夜のニューヨークの街をタクシーが走るシーンにバッハが聞こえて来るところなどゴダールを思い出してしまうし、全編そういうシャブロルだとかのヌーヴェルヴァーグの影響を感じさせる演出。この時期のウディ・アレンの作品はなんだかスノビッシュで好きになれないのだけれども、やはりこの異様な「軽さ」が気になる。「心臓(ハート)という筋肉の柔軟性」ということ。「どうせいつか死んでしまうのだから悩んでも仕方がない」という結論は、あまりに個人主義に思えて、「終の住処」の対極にある世界、他人の人生の時間を食いつぶしていきる人たちのように見えてしまう。どうなんだろう。

 今日の一曲は特に思い浮かばないのだけれども、まあもう春も間近ということで、そういう「春」に思いを寄せる曲を選んでみた。原曲は映画「ロシュフォールの恋人たち」に使われたミシェル・ルグランの作品で、今日選んだ演奏はBill Evans の死後、1981年にリリースされた同タイトルのアルバムより。録音は1977年に行われていたらしいけれども、結局彼の遺作としてリリースされる形になったもの。遺作としてこのタイトルを聞くと、泣けてしまいます。



 

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■ 2010-02-26(Fri) 「薔薇の人—早起きの人—」

[]Everything's Fine Right Now [Incredible string Band] Everything's Fine Right Now [Incredible string Band]を含むブックマーク

 昨日は春一番だったらしい。急に暖かくなり、夜も楽になった。郵便受けに今月の電気代の検針結果が投げ込まれていたけれど、今月は暖房をそれなりに使ったつもりでも、いつもと大差なかった。もっとガンガン暖房つけてもよかったな、などという感想。

 病院へ行く。指の治療と、昨日の血液検査の結果を聞くため。担当医の方は、単純に「検査の結果にどこも異常はありませんでした」と云えばいいのに、「糖尿病の心配はありません。それで、肝機能も問題ありません。腎機能ですが、これも大丈夫。低血圧の心配もありません」と、ゆっくりとバラバラに云うものだから、次の項目の結果を云われるたびに、「なんだよ、まだあるのか。そっちがヤバいみたいな云い方だな」と、ちょっとハラハラさせられる。一種の嫌がらせではないかと思った。とにかく何の異常もないと云うわけで、まだまだ五十年ぐらいは生き延びてしまう可能性が強い。ここはやはり短歌の鍛練でもして、自分が老いさらばえて行く過程を歌に詠むような、殊勝な心がけを持つべきかもしれない。

 今夜は中野へ行き、テルプシコールでの黒沢美香ソロダンス公演、「薔薇の人—早起きの人—」を観る予定。ユウにはひとりでお留守番をしてもらう。ユウの食事の準備をして自分の夕食分のおにぎりも作り、ユウがリヴィングには入れないようにふすまやドアを閉めて出発。ユウくんは和室で遊んでいて下さいと。雨が降りそうだったのが、出かける頃にはやはり雨が落ちて来た。

 中野へ着き、会場へ向かう道でBさんと遭遇。テルプシコールの前で開場を待つあいだに、Cさん、Dさんなどとお会いしてあいさつ。考えてみれば今年の初顔合わせなのだけれども。
 会場はやはり超満員で、ステージの両サイドにも席が作られている。いちばん前の桟敷席も、ステージ分の領域を侵犯して前へ前へ伸びて行く。楽しみ楽しみの公演が始まる。

 今回の「薔薇の人」、早起きの人というか、炊事洗濯お掃除の人という雰囲気だけど、美香さんの衣装/メイクなどは「こういうお人形をどこかで見たことがあるなあ」という感じの、ちょっと中国風な少女のイメージ。これがまさにそういうイメージ通りのステップで舞台へ飛び出して来て、可愛らしくもちょこまかと洗濯物を干したりお掃除をしたり、という感じ。見せ場は舞台の袖から電熱器セットを引っ張り出しての、ホットケーキを調理してパイン缶のパインをトッピングしてのお食事まで。ホットプレートを使うのではなくて、年代物の電熱器というのがステキだ。「薔薇の人」シリーズはいつも選曲もすばらしいのだけれども、パイン缶を持ち出す際の懐メロ「パイナップル・プリンセス」は最高!(他にもはっぴいえんどだとか、これはわたしは解らなかったけれども頭脳警察、などからの選曲)このあとの、照明との共同作業のようなドローンとした展開もとても好かった印象で、美香さんの舞台を堪能出来た。良かった。今年は秋にも「薔薇の人」、やるそうなので楽しみである。

 終演時点で、もうわたしが家に帰る時間には間に合わないので、外泊決定。どこかファミレスかなにかで夜明かししよう。ユウはだいじょうぶだろうか。まあ飢え死にするわけでもなかろうが、和室の中がとんでもないことになってしまうのではないか。
 先のBさんCさんDさんなど、だいたいいつものメンバー七人ほどで飲む。わたしはBさんと二人で焼酎のボトルを注文して、これは少し飲み過ぎてしまった。蜂窩織炎の話をしたら、Eさんはそれで救急車を呼ばれて入院されたことがあるとか聴いて驚く。「そんなときに飲まない方が‥‥」と、注意されました。先に書いたように、そんな注意はすっかり無視されてしまったけれど。
 もう都心方向への電車のなくなる時間に飲み会終了。けっきょく、まだ雨の降っている中野で夜を明かすことになってしまった。そういう次第。

 今日は「パイナップル・プリンセス」というのもいいけれども、血液検査の結果がまるで異常なかったので、「Everything's Fine Right Now」という曲で行きましょう。Incredible String Band の1966年のデビュー・アルバムの、いちばん最後に収録されていた曲だけれども、今日のYouTube の映像は、のちにドイツのTV番組Beat Club に彼らが出演した時のもので、デビュー・アルバムの時のメンバーではない彼ら最強の顔ぶれの時代。しかし脱力感あふれる、ゆるい演奏ではあります。



 

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■ 2010-02-25(Thu) 「その土曜日、7時58分」

[]Take Me To The Hospital [Prodigy] Take Me To The Hospital [Prodigy]を含むブックマーク

 今日も病院のはしごで、歯医者に行ったあとに外科の病院へ行く。待っているあいだに傷口のバンドエイドを剥がして用意していると、また傷口が痛んで来た。これ以上通院を遅らせないでよかったと思う。
 担当医いわく、「これは傷口が潰瘍になってしまっていますね。う〜ん、どうやって治療しましょうかねえ」。糖尿病の疑いもあるというので、まずは採血して検査に回す。結果はあした判明。今の粗食生活で糖尿病ということもないだろうと思うけれど、とにかくいやな推測である。傷口には白い軟膏を塗ってテーピング。

 帰って部屋の鍵を開けると、それまで和室で遊んでいたらしいユウが、あわててベッドの下に駆け込む姿が見えた。今日のユウはわたしのそばまで来て、ミャアミャア啼いているのだけれども、何を訴えようとして啼いているのかわからない。多分、「遊ぼう」といっているのではないかとは思うのだけど、わたしが身を動かすと逃げて行く。「鬼ごっこ」なのだろうか。

 夜、DVDでシドニー・ルメット監督の遺作だったか、「その土曜日、7時58分」という2007年の作品を観る。変な邦題だけれども、原題は「Before the Devil Knows You're Dead」と、やたらカッコイイ。これをうまく翻訳して邦題にするのは難しかったのだろう。
 フィリップ・シーモア・ホフマンが地獄行きの主人公で、イーサン・ホークがイライラするほどバカなその弟。この兄弟の父親がアルバート・フィニー。フィリップ・シーモア・ホフマンの妻のマリサ・トメイは、イーサン・ホークと浮気している。兄は父に愛されていない、父の愛しているのは「いつまでも子供」な弟の方だと思っていて、会社でしでかした不正経理の埋め合わせに、両親のやっている宝石店への強盗を画策している。これにやはり離婚して金欠の弟を巻き込み、弟を実行犯にしようとする。これは自分を愛さなかった父親への復讐でもあるのだろう。しかし、アホな上にチキンハートな弟は、自分で決行出来ずに変なチンピラに実行を依託してしまう。チンピラは偶然にその朝店に出て開店の準備をしていた兄弟の母を射殺、自分も撃たれて死んでしまう。母の葬儀の時、父は兄に「おまえにどうやって愛情表現したらいいか解らなかった。おまえを愛している」と云い、兄は驚愕、動転する。「なぜ、この今になって‥‥」。
 誰からも愛されず(と思い)、誰をも愛せなかった(愛する機会の失われた)男の悲劇。唯一、愛し愛されていたと思っていた妻も、そんな関係ではなかった。悪魔が「こいつは死んだ」と知ったのは、実際の彼の死よりもずっとずっと前のことだったかも知れないし、彼の実際の死は、その引導を渡した者の意図に反して、実は「慈悲」によるものだったのかも知れない。

 その強盗当日を中心に、時間軸を前後して進行して行く演出は効果的とは思うけれども、時間軸の変更される時のフラッシュバック的映像は、この重厚で暗い人間ドラマにはちょっとそぐわない気がする。しかし兄の孤独を伝える演出は確かで、妻と二人でのドライヴ中の会話での、運転席と助手席とで並んでいる二人が決して一つの画面で並んで映されない切り返しの編集、そのあとの兄の住居での画面、高い位置に固定されたカメラからの、妻の頭のうしろの向こうに兄の姿が眺められるロングショットなど、男の孤独を際立たせるような素晴らしいものがあったと思う。その、ちょっと高級そうな兄のマンションの床に段差があり、出て行こうとする妻が、その段差を越えてキャリーを運び上げようとして苦労するシーン。

 今日は病院へ行ったので、そういう曲を「今日の一曲」に。もちろんわたしは連れてってもらわなくっても自分で行けたけど。この曲は、Prodigy の去年発売された最新作「Invaders Must Die」に収録されていた曲、らしい。
 もう十年以上も前にドイツとかに滞在していた頃、あちらのMTVにはしょっちゅうこのProdigy のクリップが放映されていたっけ。まだ活動していたことも知らなかった。しかし、これだけ元気だと、病院など行く必要はなさそうだ。あ、そういう病院ではないのか。



 

■ 2010-02-24(Wed) 「弥勒」

[]Hurting Inside [Dave Clark Five] Hurting Inside [Dave Clark Five]を含むブックマーク

 右指の傷、昨日よりも痛みが増す。第一関節で指を曲げると強い痛み。ちょうどその関節の上の部分で肉がえぐれたようになっていて、指を曲げるたびにその部分が引き延ばされて、中の方まで痛みが走る。傷口は鉄板が腐食して穴が開いている状態にそっくり。今日は病院は休診なので、明日行く。風呂に入るのに指全体をビニールで包んで、ガムテープでとめて傷口が濡れないようにする。それでも少し濡れてしまった。

 ユウがある程度以上なつかないのでつまらない。わたしの方に近寄って来て、啼いたりするのだけれども、わたしが動くと逃げてしまう。こんなに長い期間なつかないのはちょっとおかしい気がする。やはり身を隠して逃げ込める場所があるのがいけないのかな。

 短歌の葛原妙子が気になって、その「昭和詩歌集」にはほとんど経歴なども書いていないので自分で調べると、彼女の歌を絶賛している人が多いのだ。「現代短歌の頂点」という句にも出会った。読み直してみてもやはり他の歌人とは世界が違う。彼女の歌に顕われる「もの」たちは、そのたたずまいが、例えば現代美術のインスタレーション作品のように思えたりする。いや、思えるのではなくて、「見える」。エヴァ・ヘスの作品とか。ヨゼフ・ボイスではないかと感じられるときもある。
 図書館にこの人の歌集があるようなので、今度借りて来よう。

他界より眺めてあらばしずかなる的となるべきゆふぐれの水

 稲垣足穂の「弥勒」、残っていた「幼きイエズスの春に」「白昼見」「弥勒」読了。「幼きイエズスの春に」は「横寺日記」のような日記体だけれども、ここでこの日記を通底している原理はカトリックの公教要理。この背景のもと、人々が病で死んで行く。
 「白昼見」は、彼の父の死から横寺町までの、足穂の地を這うような魂の遍歴。読んでいて吾妻ひでおの「失踪日記」を思い出してしまう。「地上とは思い出ならずや」の句は、この作品に出て来るもの。
 表題作「弥勒」は、この作品集の前の方に収録されていた「愚かなる母の記」の形式を踏襲した二部形式で、その第一部(真鍮の砲弾)で、自らの生活を理想化したファンタスティックな(足穂の作品に「ファンタスティック」などという形容詞を使うことは大きな間違いだけれども)展開を語る。この部分はおそらく「一千一秒物語」を引き継ぐものとしても、足穂の作品中でも重要な位置を占めているように思える。「赤色彗星倶楽部」のコリントン卿はこの作品で登場する。第二部(墓畔の館)は、ふたたびみたび足穂の横寺町時代の記述。彼の周辺の交友関係も描かれ、ボードレールへの共感なども語られる。最後には弥勒菩薩の現実世界への立返りを考察する。ここで、彼の弥勒と、彼の宇宙論が重ねられる。

それならば、あの耳飾りと宝冠をつけた銅板刷の菩薩も、二十世紀に立返っているのではないだろうか、と彼は考えてみた。ではそれは何処に居る? 細く新月形に光った金星の尖端に、木星の表面をじりじりと冬の蠅のように匍って行く衛星イオの陰影のなかに、メタンの風吹きアセチレンの波立ち騒ぐ海王星の懸崖上に。——ヒューメーソン博士が撮影した星雲のスペクトラムの中に。そうしてまたこう考えている自分の大脳の中にも、おそらく数ミクロンの光束となって納まっている? ここにおいて江美留は悟った。婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと。

 思ってみるとこれは、まるでキューブリックの「2001年宇宙の旅」のラストの思考なのだけれども、足穂は「2001年宇宙の旅」をその後、観たことあるのかしらん。

 今日の一曲、指の傷の痛みが強いんで、まあまだ痛みは外側なんだけれども、「Hurting Inside」という曲を。演っているのは、60年代半ばに、Beatles と並んでアメリカでも人気のあったDave Clark Five。この曲は1966年ぐらいのものかな? アメリカではシングルカットされなかったけれども、日本では「悲しみこらえて」という邦題で発売され、日本でもDave Clark Five はかなり人気があったので、そこそこのヒットになったもの。この間奏のギター・ソロに、わたしも泣かされたものでした。



 

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■ 2010-02-23(Tue) 「クライマーズ・ハイ(TV版)」

[]The Bottom Feeder [Nurse With Wounds] The Bottom Feeder [Nurse With Wounds]を含むブックマーク

 指の傷、蜂窩織炎(ほうかしきえん)がなかなか直りきらない。薬指と小指はもう大丈夫だけれども、中指。バンドエイドをいつもつけていて、だいぶ痛みも収まったように思えてバンドエイドを外すと、また傷み出す。もういちど医者に診てもらった方がいいのかもしれない。しかも、稲垣足穂を読んでいたら、その「白昼見」のなかに、足穂の父は蜂窩織炎から死に至ったというようなことが書いてある。自分でこの傷が悪化するまでは蜂窩織炎などという字も読めないし、その症状も知ることはなかったわけで、不明のままスルーして読み飛ばしていただろう「蜂窩織炎」という活字の四文字が、この時は具体的なイメージと「ほうかしきえん」という読みがなとがいっしょになって頭脳と染みてくる。

 カーリング、どうしても日本チームに肩入れしながら見てしまうのだけれども、今日のゲームはそういう見方ではどうにも楽しめない完敗。おそらく予選突破は無理だろう。しかし、他の国同士のゲームを見てみたいものだけれども。

 昭和詩歌集の短歌、やはり先に読んだ葛原妙子が、いままででは圧倒的に良い。「ホラー短歌」などと呼んでしまうとそれはとっても不謹慎だろうけれども、読んでいてぞっとするような歌が多い。その「怖さ」は、視覚的なものでもあるけれども、それ以上に「ことば」としての怖さを感じる。次の歌の、「しかも」など。そして「ありありと」。

デッキより見えざる手をあげ飛びし人 しかも片手のありありと見ゆ

 先を読み進めて、次に斎藤史という歌人が気に入る。また女流歌人だ。

白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう

 午後からレンタルDVD屋に行く。外は今年いちばんの暖かさだろう。セーターを着ているとちょっと汗ばむ。今日はそのレンタル店周辺も探索してみた。このあたりは「洋服の青山」だとか電気製品の「コジマ」だとかの大きな店鋪がいくつか並んでいて、商業的には駅前周辺よりも栄えている地域。「吉野屋」もあるぞ。
 まず、前から気になっていた模型の「TAMIYA」の大きな看板のある店に入ってみる。予想したとおり、ここは模型などの専門店だったのだけれども、店の規模の大きさはちょっとしたもの。SLゲージのコーナー、ラジコンのコーナー、フィギュア、プラモデルなど、たいていの模型類がずらりと並んでいる。敷地が広いのでゆったりとした店内で、地方ならではの専門店という趣。わたしはプラモデルなど500円ぐらいで買えるものもあるのかと思っていたけれども、そんなに安いものはない。少年期にはわたしもかなりプラモデル作りにはまったことがあるけれども、その頃の住まいの近くにプラモデル製造会社があり、そこに直接買いに行ったりしたものだった。プラモデルコーナーを見ていると、懐かしい、今でも憶えているそのプラモデル会社の商標ロゴの印刷された箱が、いくつも置いてあった。あの会社、まだ営業していたんだなあ、という感じ。
 プラモデルなどをのんびりと、毎日少しずつ組み立て上げていくような余暇があるといいなあ。まあ今は毎日が余暇の連続のようなものだけれども。
 次に、反対側にあるハードの中古などを置いてある店舗へ行く。中古のオーディオ・ヴィジュアル類、パソコン、そして楽器などが置いてある。液晶TVが安い。わたしでも買える値段だ。アナログ放送が終了したら、別にチューナーが必要なディスプレイはさらに安くなるだろうな。その頃にまた考えよう。って、それでは遅いのか。

 ユウは今日は食事をたくさん食べた。昨日と同じ遊びの繰り返し。ユウの動きを見ていると、やっぱりまだ子ネコだなあ、と思う。両足をそろえて、ピョンと障害物を乗り越えたりするしぐさがかわいい。

 夜はDVD、先日観た「クライマーズ・ハイ」の、映画よりも前にNHKドラマとして放映されたもののDVD(前・後編)を通して観る。これは映画版で省略されたり設定を変えられたりした部分の、より原作に忠実なものであるらしいということと、とにかく映画版よりもこちらの方が評判が良いようなので借りて来たもの。まあいちがいに原作に忠実であることを最善と思っているわけでもないけれども、映画版は設定を変えることで、原作の訴える部分が変質しているという意見がある。
 ‥‥観終って、これはどう観ても、圧倒的に今夜観たTV版の方に軍配を上げるしかないでしょう。まずは新聞の紙面造りというプロセスが視覚的に描かれているし、とにかくテーマをしっかりとすくい取っている。それは「クライマーズ・ハイ」とはどういうことであるか、ということでもあるのだけれども、このTV版はそのあたりをきっちりと描いている。映画版はたしかに演出面では「さすが映画」という場面が多いし、編集のち密さなどTV版のかなうところではないかもしれない。しかし、この「クライマーズ・ハイ」という作品の製作で、映画スタッフたちこそ、まさにその「クライマーズ・ハイ」の状態に陥っていたのではないのか。メッセージを打ち出すべき作品で、メッセージを忘れて映画造りに淫してしまっていたのではないのか。その姿はひょっとしたら、このドラマの中に出て来る新聞記者たちが陥りかけた、非人間的な姿そのものだったのではないのか、などと、このTV版を観て、映画版の方を振り返ってみてしまう。複数の主導者の共同作業で造られる映像作品は、道を外れそうになってしまった時に、ブレーキをかけ進路を修正することが出来なかったりする(これはTV版でも条件は同様だけれども)。映画製作の陥りがちなトラップだと思う。

 今日の一曲、指の傷はまだ治療と看護が必要かもしれないので、そこで、Nurse With Wounds という名前の、ノイズ系のユニットを思い出した。わたしは彼らのアルバムを1980年代にちょっと所有していたのだけれども、しばらくして手放してしまった。その後に中古レコード店の壁に飾られていた彼らのアルバムは、2万円という価格がついていた。持ってりゃよかった。
 Nurse With Wounds は膨大な数のレコードを出しているし(もちろん今も活動中)、「この曲」とか云って記憶しているものがあるわけでもない。まあ最初の頃のテープを編集してループさせたようなものが好きではあったけれども、とりあえずYouTube で「Nurse With Wounds」と検索したら、こんな素晴らしい映像のついたクリップが出て来た。この映像はチェコの映像作家、イジー・バルタ(Jiri Barta)によるもの。イジー・バルタ、シュワンクマイエルなどの影に隠れて知名度は今一歩だけれども、彼もまた素晴らしいパペット・アニメーション作家。こういう表現領域での、チェコという国の奥深さを思い知らされる。この作品はクエイ兄弟の作品を思わせる、ダークでちょっとエロチックな仕上がり。すばらしい。



 

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■ 2010-02-22(Mon) 「イギリスから来た男」

[]Cat Scratch Fever [Ted Nugent] Cat Scratch Fever [Ted Nugent]を含むブックマーク

 昼間のほとんどの時間をベッドの下で寝ているかおとなしくしているユウは、夜になるとベッドの下からはい出して来て大騒ぎを始める。以前のように始終ニャウニャウ啼き続けることはないけれども、興に乗って来ると唸るような啼き声を上げるし、おそらくはわたしの気を惹こうとして、わたしの方を見ながらニャンニャン啼いたりする。今夜はリヴィングでTVを見ているわたしのまわりをぐるぐると廻って騒ぎ始める。時々、TVセットの前に来て画面を見ていたりする。ユウの目には、ブラウン管に映っているものはどういうふうに見えるんだろうか。ちょうどそんな、ユウがTVの前にいるときにリモコンでDVDを取り出すと、目の前でいきなりトレイが飛び出して来たのを見て、かなりびっくり。それでも逃げては行かないでじっと見ている。今度はDVDを取り込むとまたびっくり。トレイのあたりにちょっかい出して牽制している。うしろに廻り込んで、DVDプレーヤーに噛み付くようなしぐさも。
 またわたしのまわりを廻り始め、こんどは私のうしろに来たときに、ものすごい断末魔の叫び声のような声を出す。うしろを振り向くと、こそこそ後ずさりして身を隠してから、ぐるぐる廻り出す。これを繰り返す。わたしのうしろで叫んでわたしを振り向かせるのがゲームの積もりなんだろう。それにしてもうるさい。何度か目に、うしろを向いて、ユウの目を見て「うるさい!」とどなりつける。ちょっとびっくりしたように身体を小さくするけれど、逃げて行くわけでもなくわたしを見ている。「おまえね、オレとおまえがケンカやったらどっちが強いかわかってるのか。怖い目にあいたくなかったらもっと静かにしてろ!」と云って聞かせたら、やめた。云ってることがわかるのだろうか。

 カーリング、朝の対ロシア戦は0—6から奇跡的な逆転。昼の対ドイツ戦は主導権を取れないまま敗戦。先行で始まるゲーム(黒のユニフォームの時)は全部落としている。カーリングと云うのは相手のミスに乗じて勝つか、自分たちがミスをしないで勝つか、ということになるけれども、今まで勝ってるのはだいたい相手のミスに乗じてによる。対ドイツ戦のように、相手がミスしないようだと勝てない。対イギリス戦はミスに乗じない勝ち方だった。やはりあのゲームが良かった。

 稲垣足穂読本で、「アンチ・ユマニスムの源流」というチャプターを読む。このチャプターは、昭和中期までの同時代の作家による足穂に関するエッセイを集めたもの。北園克衛「稲垣足穂 ◆西脇順三郎氏に贈る」、宇野浩二「愛読する人間」、佐藤春夫「たそがれの人間」、武田泰淳「宇宙的なるもの」。
 北園克衛のエッセイは、文学活動を「観念の間断なき転換=詩」と「観念の間断なき発展=散文」のふたつに分け、足穂を前者とする。さらに足穂はユマニスムに立脚せず、ニイリズム(ニヒリズム)の側に立つものと分析している。
 宇野浩二という人は、いつも、こんなに、句点を、必要以上に、乱用する、作家なのか、とにかく、こんな、感じで、読みにくい。足穂と江戸川乱歩が、蔵の中にこもって「男色」の研究をしているらしいことを伝えている。
 佐藤春夫の文はおそらく足穂デビュー前の文章で、少年作家からこんな手紙をもらったのだとして、その文のほとんどを足穂からの手紙の引用で埋めている。そこで佐藤春夫は足穂が自分にそっくりだと書く。「まるで僕自身の全生活を二十歳に縮刷して見ているような気がするよ」と書いている。まあ無名の青年作家(この佐藤春夫の文章発表の時、足穂は二十か二十一で、まだ「チョコレット」も「一千一秒物語」も発表していない)稲垣足穂を紹介すると云う役割はあったのだろうけれど、佐藤春夫、あつかましいにもほどがあるぞ、と云う感想。
 武田泰淳のエッセイは少し時代が下って戦後のものだけれども、現代を「原爆」以降の核の恐怖の時代とし、足穂を「文学者に生理学から物理学への転身を要求した最初の一人」とする。この文章は昭和二十五年、足穂が「A感覚とV感覚」も発表していない、ほとんど中央で足穂に注目する人もなかった頃に発表されている。さすが武田泰淳の慧眼という感じ。

 「昭和詩歌集」、短歌集を思い出したように読む。やはりなかなかにピンと来るものに出会わないのだけれども、葛原妙子という人の歌が良かった。どうも女流歌人にばかり惹かれてしまう。次の歌は「リング」の、貞子みたい。っつーか、まんまや。怖いぞ。

 みるみるにテレヴィの枠よりしたたりて腥き血は床に澪れき

 夜のDVD鑑賞は、先週「KAFKA 迷宮の悪夢」を観たもんで、そのスティーヴン・ソダーバーグ監督の1999年の作品、「イギリスから来た男」を観てみる。テレンス・スタンプ主演、共演がピーター・フォンダ、そして「バニシング・ポイント」に出ていたバリー・ニューマン、ウォーホール映画の常連だったジョー・ダレッサンドロなども出ているというのは、これはもう60年代(それも、アンダーグラウンド・カルチャー)への言及をともなう作品であることだろう(「バニシング・ポイント」は1971年の作品だけれども)。実際、映画の中でピーター・フォンダは60年代にロックのプロデューサーとして一代を成した人物として登場し、その愛人に60年代について語ったりする場面もある。
 しかし、そんな60年代のヒーローとしてのテレンス・スタンプとは、どのように記憶されているんだろう? 彼が最初に注目されたのはウィリアム・ワイラ—監督、ジョン・ファウルズ原作の「コレクター」での主人公の演技だっただろうけれど、わたしなどの記憶に残るテレンス・スタンプ像は、やはりフェリーニの「世にも怪奇な物語」での怪演であり、パゾリーニの「テオレマ」での謎の存在感であったと思う。それにプラスして、わたしの場合、ジョセフ・ロージーの怪作「唇からナイフ」(この作品、ぜひもう一度観たい!)でのモニカ・ビッティとの共演も挙げられる。まあこれらの作品から浮かび上がるテレンス・スタンプという俳優の肖像には、どこかミステリアスな雰囲気が漂い、それはスクリーンの上にいつも、ひとつの大きなクエスチョン・マークを描いているように、わたしには感じられる。
 そういうわたしのテレンス・スタンプ感などから、この「イギリスから来た男」を観る。テレンス・スタンプは娘の事故死の真相を探るため、というか、最初っから復讐のためにロスアンジェルスへ乗り込んで来る、刑務所帰りの、暴力のかたまりのようなイギリス人。ものすごヴァイオレントだけれど、娘を愛していた。このあたりは北野武映画の設定みたいで、実際に演出面でも「ソナチネ」とかの影響が強いように見える。というか、真似してるとも云える。いや、そういう、追う男〜追われる男という構図から、アメリカン・ニューシネマあたりへのほのめかしもあるのだろうけれども、最後の銃撃戦あたりは、これはもう西部劇なのではないか。そういう意味でこの映画、ヴァイオレンス映画の系譜をおさらいしているような演出姿勢が感じられるわけになる。しかし、テレンス・スタンプの姿に、その背後にクエスチョン・マークは見えて来ない。彼の人物像は、この作品の中では明解である。このあたりは過去のそういうテレンス・スタンプの作品を呼び起こしはしないし、アメリカン・ニューシネマの根底にあるだろう不条理性からも無縁である。
 考えてみたら、あれこれと映画的テクニックを駆使してスタイリッシュな映像をつくり上げるソダーバーグ監督だけれども、この人、その作品の中に、そういうクエスチョン・マークを描き出すことをしない。出来ないのか。先週観た「KAFKA 迷宮の悪夢」にしても、クエスチョン・マークそのもののような存在のカフカという人物から影を取り払い、まるで秘密諜報員のような活躍をさせるわけで、そこにはカフカ作品に関しての解釈などは皆無なわけだった。この「イギリスから来た男」でも、テレンス・スタンプという生身の俳優から、見事なまでに謎を払拭しているのではないのか。この作品公開時に話題になった、ケン・ローチ監督の「夜空に星のあるように」(1968) のフィルムからの流用は、たしかにこの作品では効果的ではあるけれども、そういう映画的引用の手法がいつも使えるわけでもない。映画から「クエスチョン・マーク(謎)」を取り去るということは、その深みをなくしてしまうことにつながり、それが、後の「ソラリス」のリメイクの空疎さにつながることだろう。どうやらこのあたりに、わたしがソダーバーグの作品にのめり込めない要因があるのだろうと解った。

 さて、今日の一曲。今日は平成22年2月22日ということで、にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあと、究極のネコの日だということらしい。ウチのユウもそういうことを知ってか知らずか、にゃあにゃあと大騒ぎだった。今日はネコの日に合わせてネコな曲を。これは以前Umboy Dukes というバンドで紹介したTed Nugent が、ソロでヘビメタの雄として活動しての、ヘビメタ曲としては相当にヒットした1977年の曲。舞台でも、ネコのように飛び跳ね回っておられます。



 

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■ 2010-02-21(Sun) 「陸軍中野学校」

[]I'm the Urban Spaceman [Bonzo Dog Doo Dah Band] I'm the Urban Spaceman [Bonzo Dog Doo Dah Band]を含むブックマーク

 起きているときはいつも啼いてばかりいたユウは、それでもあまり啼かなくなってきた。カーテンレールの上に上がることもなくなったし、食事も普通に食べる。普段はベッドの下に隠れていて、あとは部屋の中をぐるぐる廻り続けて遊んでいる。わたしの方を見てミャンミャン啼いて近づいて来たりするけれど、わたしが動くと逃げて行く。

 稲垣足穂を読み続けよう。わたしの家には足穂の本があれこれとバラバラに転がっている。筑摩の文庫サイズの日本文学全集の足穂の巻、河出文庫の「弥勒」と「宇宙論入門」、それから大昔刊行された現代思潮社の「稲垣足穂大全」の第三巻だけとか、筑摩書房の「稲垣足穂全集」の十巻など。ほんとにバラバラな蔵書。それと河出の新文芸読本というムックの、稲垣足穂の巻。過去に読んだ本もあるけれども、読んでいない本が多い。筑摩の全集などまるで読んでいないし、いったいなぜこの全集の第十巻めだけを買って持っているのかも思い出せない。今は「弥勒」を読んでいるところだけれども、今日は新文芸読本に掲載されている、足穂についてのエッセイをあれこれ読んだ。高橋康雄「郷愁の原点」、澁澤龍彦「足穂アラベスク」、松岡正剛「幻想幾何学と模型存在学」、巌谷國士「宇宙模型としての書物」、中村宏「蒸気機関車と飛行機の関係」、荒俣宏「ファンタシウム系宇宙文学覚書」、まで。高橋康雄の「郷愁の原点」は足穂の伝記的側面からのエッセイで、「弥勒」に掲載された作品の背景がわかる。「そうだったのか」という感じ。松岡正剛の「幻想幾何学と模型存在学」が、足穂の作品の解説としていちばん納得がいった。ただ、皆が足穂のことば「私の全作品は『一千一秒物語』への注釈である」(これは足穂流のトラップであるようにも思える)というのにとらわれすぎている気もして、それではこぼれ落ちてしまう部分ばかりだろうとも思うけれど、まだこの本全体を読んでいないので、このセクションはそういう切り口からなのだろうと思っておく。

 今日のDVDは、久しぶりに増村保造監督作品。1966年の「陸軍中野学校」を観る。増村監督の作品を、今観れる範囲でできるだけ製作年度順に観ようと思っていたのが、「卍」のあとの「兵隊やくざ」や「清作の妻」などをすっ飛ばしてしまった。ほんとはあくまでも製作順に観て行きたかった。
 のちにシリーズ化されることになるこの作品、増村監督の過去の作品でいえば「巨人と玩具」だとか、「黒の試走車」(これも「黒の」シリーズでシリーズ化された、その最初の作品)に連なる、個人と組織の問題を追った作品群のひとつ、と見ることも出来るだろうし、まあボンド映画のヒットなどからの「国産スパイ映画」を目指した作品でもあるだろう。そういうボンド映画などの派手さから距離をおいて、あえてモノクロで抑えた、トーンの渋い作品になっている。特に前半は、突然に自分の意志に関係なくスパイ候補に選ばれた若者たちが、いかに自らを「選ばれたもの」と認識し、優れたスパイになることを目指すに至るか、二人の落伍者をその過程で描きながら見ごたえがある。いちどだけ描かれる実際のスパイ活動はちょっとサスペンス感に欠ける思いがするし、「学校」での学習過程の描写が、教室内でのお勉強が多くてちょっと浅い気もする。それでも後半の主題の、スパイになっていた元恋人を抹殺するというのは、かなり重たい感じで観る側にのしかかって来た印象。これには、最初から挿入されている、市川雷蔵の重苦しいナレーションの力も大きいだろう。最後の、「私もスパイだった 私の心も死んだ」ということばがいい。
 

この作品はその「中野学校」創設の第一期生の物語で、学校創設者を加東大介が演じている。この加東大介の、スパイと云う非人間的な行為とはアンバランスなヒューマニティのある発言などに市川雷蔵らは惹き付けられてしまう。このあたりの展開がみごとで、そんな加東大介の精神に魅せられた青年たちが、閉鎖的空間の中で信念を固めて行く過程が深い。カルト教団の云われるところの洗脳や、革命グループ地下組織のリンチなどの背景もここには描かれているようにも思える。
 増村監督の演出はスマートで、ここでも、人の背中越しに奥を捉えるようなアングルで、画面に奥行きをもたらすショットを多用している。また、画面の中心をずらせて、画面のセンターから外れたポイントに動きの中心を持って来るようなアングルも目立つ。この時期の増村保造監督、好調なのではないかと思う。

 今日は稲垣足穂の作品の、その宇宙的側面を思っていて、なぜかこんな曲を思い出してしまった。Bonzo Dog Band の、1968年の(おそらく彼ら唯一の)ヒット曲、「I'm the Urban Spaceman」。Bonzo Dog Band (正確にはBonzo Dog Doo Dah Band 、というのかな)はまあ一種のダダイズムを継承したバンドで、冗談音楽に限りなく近いスタンスとは云えるかもしれないけれども、それは「アート」なのだよ、とも云えるわけ。このバンドのメンバーのNeil Innes はのちにモンティ・パイソンの一員として、その音楽面をサポートすることになる。で、このヒット・シングル「I'm the Urban Spaceman」は、実は彼らのファンだったPaul McCartney がプロデュースしたのだった。
 わたしはあまりこのBonzo Dog Band はきちんと聴いていないけれど、バンドのメンバーだったVivilan Stanshall の作品はいくつか聴いていた。この人は火事で焼け死んでしまったけれども。



 

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■ 2010-02-20(Sat) 「めぐらし屋」

[]Dust My Broom [Elmore James] Dust My Broom [Elmore James]を含むブックマーク

 ベランダに、以前ユウといっしょに来たことのあるプリティが来た。わたしの姿を見ても逃げない。ちょうど食べていたサンドイッチのハムをあげようと差し出すと寄って来て、食べていく。やっぱり格別にかわいいネコなのだけれども、首輪はしていないけれどもどうみても飼いネコ。このときに駐車場に二階の部屋の人が居たようなので、たぶんそこで飼われているネコなのだろうと思った。
 ユウはリヴィングから和室と、何度も何度も周回している。たまにカーテンの下からカーテンをよじ上ろうとするけど、最初の頃みたいにカーテンレールの上に上がることはしなくなった。まだわたしへの距離は保っているけれども、その距離は少しずつ短くなっているような。

 カーリングは日本とイギリスとの対戦。ちょうど昼間の放映だったので全部観たけれども、まれに見る白熱した一戦だった。勝負を決めた最後のミラクルショットの驚きもあるけれども、そうでなくても記憶に残る名ゲーム。わたしのこれまで見て来たカーリングの試合でもいちばんだったと思う。とにかく第7エンド、第8エンドの攻防がすごかった。ち密に繊細な攻め方をしているかと思うと突然に大胆な手段での攻撃を繰りだしたり、思いもかけない方向からのアプローチを見せたりするイギリスの攻撃の多彩さは素晴らしかったし、それを凌いで最後の目黒選手にまわす日本チームのコンビネーションも見事。どちらが勝ってもおかしくない対戦だったと思う。
 いや、それでもやっぱりラストの目黒選手の5点ショットは強烈だったな。TV解説の小林さん(この人はソルトレークでわたしがカーリングを見始めたときからの解説)のエキサイティングぶりも楽しかった。今日は何度もこのラスト・ショットの場面をTVで見たけれど、やはり見るたびに興奮した。ちょうど夜のBS放送がカーリングの特集で、全部見てしまったし、録画までしてしまう。

 そういうわけで今日はDVD鑑賞はお休み。それでも図書館から借りている本、堀江敏幸の「めぐらし屋」読了。やはりこの著者らしいスローライフな本だったけど、亡くなった父が残した謎のノートから始まるあたり、諏訪哲史の「アサッテの人」を思い出してしまった。まあ堀江敏幸がそういう実験的なことに足を踏み入れるわけもなく、地方の小さなコミュニティでの生活を堀江敏幸らしく肯定していくような本。プロットが中盤から、それまでの展開をすべてまとめる方向に向かい出すあたりからは、その「まとめ」一点張りになってしまった印象があるし、ここで書かれる、裏ルートで人の希望を叶えるという「めぐらし屋」というコミュニケーションが、例えば裏社会の麻薬密売ルートとどう違うのか、などという根本的な疑問。まあここでは人々の些細な願望を対象としているわけだけれども、「一時的に隠れ家を探したい」などという願望からは、相当に犯罪の匂いがしてしまう。そこをすらっとスルーしてしまうのは、著者の持つ性善説ということ。このほんわかした舞台が都市ではないらしいことを含めて、そういう性善説と、都市に対する地方ということが、ちょっと安易に結び付けられているように思えてしまう。「アララギ派」の土壌の産物だろうか。

 そこへいくと稲垣足穂は違う。問題は「宇宙」なのだから。今日は「弥勒」から、「愚かなる母の記」と「横寺日記」を読む。
 「愚かなる母の記」は、前半で自分の少年期を、美しい「お嬢さん」やあでやかな母親像のフィクションで飾り、後半で実際のあさましい生活を語る。この前に収録された「美しき穉き婦人に始まる」と「地球」とを統合しようとしたような作品なのかも知れないけれども、その前半と後半をつなげるとっかかりが見つからない感じがする。飛行船で来る男と駆け落ちしようとする母の幻影とか、断片の映像で惹きとめられる。
 「横寺日記」は、足穂が東京の横寺町に住んでいた頃の日記だけれども、その記述が専ら夜の天体の観察に限られているなかで、最後に辻潤との交友が唐突に語られる。そういう意味では「愚かなる母の記」で展開したことの、別の展開方法としての日記なのだろう。

 今日の一曲。カーリング競技のあのブラシは、むこうではブルームと言うらしい。そこでElmore James の「Dust My Broom」を思い出した。Elmore James がこの曲を初めて録音したのは1952年。以後彼は何度もこの曲を再レコーディングしているし、ライヴでもこの曲が定番だった。Elmore James と云えば「Dust My Broom」だ。
 Elmore James はシャイな性格だったらしい。リー・ジャクソンと云う人の語る逸話。
”ある晩ひとりの男が俺の出てる店に来て言うんだよ
——自分はエルモア・ジェイムスだ 一曲演らせてくれ——ってね その時は本人かどうかわからなくってね

一セット終った後で
——エルモア・ジェイムスが今ここにいます——と
アナウンスしたんだ
もう大変な騒ぎになってね その男がギターを持って「ダスト・マイ・ブルーム」を演りだしたとたん クラブは破れんばかりの大騒ぎだよ
 俺はテーブルに着いてみんなに言ってやったんだよ 「やつこそエルモア・ジェイムスだ!!」”(伊藤重夫「君がいなくなったら 僕はダスト・マイ・ブルーム」より)

 この逸話が、わたしは好きだ。



 

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■ 2010-02-19(Fri) 「SF巨大生物の島」

[]Distant Shores [Chad & Jeremy] Distant Shores [Chad & Jeremy]を含むブックマーク

 朝、わたしより先にユウが起きていて、どうやらわたしの布団の上に乗っかって来たりしている気配。わたしが起きると入れ替わりにベッドの下に逃げてしまうけれども、そのうちにのっそり出て来て、和室の机の裏側に入りこんで啼いている。ものすごく狭いスペースなのだけれども、そういう窮屈なところが好きなのか、逃げ込んでいるつもりなのか。
 部屋の中でユウが啼いているのを聴いてると、こういう環境に昔いたことがあったのではないかと思ってしまう。むかし杉並にいたときにはとなりの飼いネコがわたしの部屋に居着いて、ほとんどわたしの飼いネコになっていたことがあったけれども、あのネコはほとんど啼いたりしなかった。それでも、このユウの啼き声はむかし聴いていたような記憶がある。わたしが生まれて来る前のことかもしれない。

 今日のカーリングは中国に負け。カーリングというのは、ビリヤードみたいに視力も要求されるのかと思っていたけれども、中国にはメガネをかけたプレーヤーが二人いた。あ、そうか、スローしたあとに、他のプレーヤーのスウィーピングでコントロールするわけか。最初のスロー自体は極端な厳密さは要求されないのかしらん。

 稲垣足穂の「弥勒」の続き、「地球」をやっと読み終える。明石に住む一族の三代に渡る歴史をたどる記述だと思うけれど、凝縮されて書かれたその関係が捉えにくくて、なかなか読み進めなかった。リアルなような非現実のような奇妙なできごとの連鎖から、読んでいてマルケスの「百年の孤独」みたいだな、などと思って読んでいたけれど、ラストになって、まさに「百年の孤独」を思わせる、ともいえる総括が。

われわれには測り知られぬ法則の下に、故人らは依然として発展を持続している。彼らは彼らの道を進んでいる。即ち今も生きている——それは曾て在ったところに比べて、いっそう軽やかな、野山に滲透する広い自由な形式において。彼らが生きているのは、この自分の衷にであるが、同時に、それらの人々でなくては与えられなかった波動を、或る日、或る時に彼らが与え得た他のあらゆる人々の衷において、でもあるだろう。——ところでそれら総ては一体何に依存しているのか? 彼らに似た、しかしいっそう大いなる意識に属しているものに相違ない。その大いなる意識は、より大いなる意識の中に。それはついに地球の意識に融け入ってしまう。或る日水の畔で、両極に白い斑点がついた濃緑色の奇妙な滴虫類を見付け、顕微鏡で覗いてみたら、山岳や森や家々や、羊群や犬が検出されて、その中に蠢く一微粒子が計らずもこの自分であったという‥‥そんな地球の意識に包括される。

 なぜ、「地球」というタイトルなのか? という疑問が、ここに来てやっと納得される。

 今日のDVDはSFシリーズの続きで、ハリーハウゼン絡みの「SF巨大生物の島」。1961年の作品で、監督はサイ・エンドフィールドという人で、音楽がヒッチコック作品でおなじみのバーナード・ハーマン。原作はジュール・ヴェルヌの「神秘の島」だということだけれども、相当な脚色がなされているとのこと(原作には「巨大生物」など出て来ない?)。製作のチャールズ・H・シニアという人、ちょっとB級だけれども、レイ・ハリーハウゼンと手を組んで、ジョージ・パルと競うようなSF作品をずっと手掛けて来た人みたい。
 ‥‥これは楽しい。こういう漂流ものというのはいろいろあるけれど(そんなにたくさん観ているわけではないけれど)、だいたいその漂流先の無人島(と思われる)で共同で自活生活を始め、ちょっとしたユートピアの様相を呈し始める。これがたいていのモノは後半になって悪役じみた他者が闖入して来たり、実は無人島でなかったりして、他者と戦ったりする。仲間の誰かが死んでいったり殺されたりしてしまう。ユートピアなどありえないのだ、ユートピア実現の可能性があっても、人間そのものの存在がそれを壊してしまうのだ、というような展開になる。
 しかし、この「SF巨大生物の島」はちょっと違っている。まずは漂流した五人の男、アメリカ南北戦争の時代を背景にしたこの作品で、北軍南軍の呉越同舟メンバーなのだけれども、彼らのあいだには諍いは起こらない。しかも、二人の女性まで漂流して来るではないか。まるで夢の世界だ。もちろん彼らは、女性の奪い合いなどという低級な争いも起こさない。食べ物はどうするか? この島には巨大なカニだとか、雛鳥だとか、それなりに手強いけれども、やっつけると大量の美味な食料になる生き物が住んでいる(しかし、雛鳥で人間の2〜3倍ありそうなあの鳥の成鳥はどれだけの大きさになるのか!)。巨大なミツバチもいて、蜂蜜もたくさん。南海の楽園とはココのことだ。
 この巨大生物は、ノーチラス号の故障でこの島に釘付けになっている、あのネモ船長が生み出したモノらしいし、いっしゅん襲って来る海賊船も、そのネモ船長の操作でかんたんに沈んでしまう。こんな神のようなネモ船長の庇護があれば、楽園の生活はいつまでも終らないだろう。しかし、島の中央にそびえ立つ火山の噴火によって、島そのものが消滅しようとしている。島からは脱出しなければならない。でも、どうやって?
 とにかく、人間の争いによって楽園が崩壊するわけではないというのが、何よりも後味が良い。それから、ハリーハウゼンによる特撮の楽しさ、この作品では巨大カニ、雛鳥、ミツバチ、海底のオーム貝みたいな巨大生物と出て来るけれど、このそれぞれの画面での活躍がやはり楽しい。雛鳥とその首にしがみついた人間との描き方もいいけれど、ちょっとミツバチには感動してしまった。
 ネモ船長は残念ながら死んでしまうけれど、主要登場人物はみな助かるのがいい。こういう映画を小さい頃に見ていれば、自分を映画の中の登場人物になぞらえて、自分だったら島の生活をいかに満喫するだろうかとあれこれと想像することだろう。それが毎晩の就寝前のお楽しみの時間になったりする。まさに映画というものの楽しさにあふれた、希有な作品だと思った。ちょっと夢中になって観てしまった。

 そんな南海の無人島の美しい海岸の映像を見ていたら、こんな曲を思い出してしまった。Chad & Jeremy の「Distant Shores」。イギリスのデュオ・ユニットであるChad & Jeremy は、本国イギリスよりもアメリカの方でずっと人気があった。基本がフォークなせいか、あまり当時のBritish Invasion といっしょにみなされることもなかったような記憶がある。というか、日本ではほとんど人気は出なかったのか。同じ時期に活躍していたPeter & Gordon とかなりかぶるキャラクターで、その容貌からも育ちの良さがうかがえる感じがしたものだけれども。
 この曲は1966年のヒットで、彼らとしては最後にヒットした曲ということになる。このあとに二人はかなりサイケデリックな感じの、くろうと受けするようなアルバムをリリースするらしいけれど、わたしは聴いたことがない。



 

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■ 2010-02-18(Thu) 「蝿男の逆襲」「宇宙戦争」

[]Don't Eat The Yellow Snow [Frank Zappa] Don't Eat The Yellow Snow [Frank Zappa]を含むブックマーク

 カーリング、対カナダ戦は早朝というか真夜中に行われていて、朝起きて結果を見たら日本は敗れていた。窓の外を見ると、雪がずんずん降っていた。屋根の上、塀の上、車の屋根などにはずいぶん積もってしまっている。積もっている雪はかなり水っぽい、シャーベットのような雪で、道路にはまるで積もっていない。またすぐに融けてしまうんだろうけれど、今回の雪がいちばん量が多い。
 雪は午前中、歯医者の治療を受けて外に出ると止んでいた。そのあとはみるみる融けて、午後になると屋根の上の雪もすっかりなくなっていた。

f:id:crosstalk:20100219104421j:image:left ネコのユウはなかなか心を許さない。部屋の中にユウを解放しているので、わたしが近寄るといくらでも逃げて行けるのがよくないのかもしれない。それでも放置しているとわたしから見えるところに姿を見せて、わたしの方を見ながら気を惹くようにミャアミャア啼く。

 食事のメニューでカレーだとかシチューというのは経済献立だけれども、シチューのルウも自分で作ってしまえばより経済的(カレーのルウを自分で作ろうとするとかえって費用がかかってしまう)。今日はそれにトライ。バターはないのでマーガリン(バター入りと書いてある)と小麦粉を炒め、塩、コショウ、その他香辛料(といってもオールスパイスだけ)を入れ、牛乳で割る。これであとは普通にシチューを作る手順。ちょっと塩の量が多くてしょっぱくなってしまったけれど、これで充分に美味しい。妙にとろみがないので、逆に市販のルウを使うよりもしつこさがなく、他人の口に合うかどうかはともかく、わたし好みの味ともいえる。成功、ということでこれからシチューを作るときはこれでいこう。

 今日はDVD、50年代のSFモノを2つ観る。最初は1959年の「蠅男の逆襲」(エドワード・L・バーンズ:監督)。つまりは先週観た「蠅男の恐怖」の続編だけれども、前作がカラーだったのにこちらはモノクロで、つまりは前作のヒットにあやかろうとして、かなりおざなりに低予算ででっちあげたという感じ。産業スパイみたいな話も出て来るけれど、前作の「科学者の悲劇」みたいな要素はない。なによりもこの演出は相当にむごいもので、与えられた脚本をただ映像にしてみましたみたいなもの。一本調子な会話のテンポだとか、おざなりな編集で、途中で見るのがいやになってしまう。

 もう一本は1953年の「宇宙戦争」。製作が名高いジョージ・パルで、監督はバイロン・ハスキン。今観ると、火星人の地球上のバクテリアへの無知以上に、アメリカ人たちの核〜放射能への無知ぶりの方が気になって仕方がない。これを観ると、地球の人類を滅ぼすのは、やっぱり「核」だろうと思ってしまうなあ。
 それでもこの作品はやはり、この種のSFの古典として今観ても充分に楽しめる。マクロな部分での地球全体の戦争状態を描くのと、それに対比されるような、科学者(「バークにおまかせ!」のジーン・バリーだ!)と、彼に同行する女性との逃走劇がいい対比になっている。二人が誰もいない納屋に逃げ込むあたりは、スピルバーグのリメイク版でも踏襲されていた記憶があるけれども、こちらの「宇宙戦争」のシーンが良く出来てるので、スピルバーグはそれをそっくり真似て、最新技術でクオリティを上げていただけのように思い出される。円盤の形、火星人の造型もステキだし、街を攻撃しながらズンズン進んで来る円盤は迫力があるし、赤と緑の光線が夜の市街の中で美しい。こういうのを観ると、最近の映画の「細部までリアル」という見せ方とは異なる、映画自体の美学による見せ方というものを、より心地よく楽しめる気がする。

 今日の一曲は雪の曲。まだ少し雪が降っているときに外を歩いて、空き地や道路の電柱の陰なんかに雪が白く積もっているのを見た。ほんとうにまるでかき氷のように見えたのだけれども、そこで「黄色い雪を食べてはいけません」という曲を思い出した。この「Don't Eat The Yellow Snow」は、Frank Zappa がリリースした1974年のソロ名義のアルバム、「Apostrophe (')」の一曲目に収録されていた曲で、Frank Zappa の曲としては初めて、ヒット・チャートにランクインしてしまった曲としても有名(調べたら、せいぜいチャートの80位ぐらいにランクされただけだけれども)。このアルバムは当時のMothers の固定メンバーから離れて、多くのゲスト・ミュージシャンをフィーチャーして製作されたモノで、この時期はZappa もストレートなロックにちょっと近づいていた印象。この頃から、わたしはあまりZappa を聴かなくなってしまった。



 

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■ 2010-02-17(Wed) 「オルエットの方へ」

[]恋のバカンス [ザ・ピーナッツ] 恋のバカンス [ザ・ピーナッツ]を含むブックマーク

 ついに冬期オリンピックのカーリング競技が始まった。カーリングについては前々回のソルトレーク大会の中継ではまり、のちにNHKに放送時間の増加リクエストしたグループのひとりになったりして、前回トリノ大会での日本での人気ブレイクに、ほんの多少は貢献しているのだ。つまりトリノ大会よりも前からの好きな競技だったから、堂々と競技を観る。
 わたしはたいていのスポーツの鑑賞ポイントがほとんどわかっていないので、見ていてもちっとも楽しめたりしないし、解説の人の云ってることを聞いて、「ふうん」などとは思うんだけれども、まあ基本的には結果を見てから、応援している側がポイントを上げれば「よかったね」と思う程度の鑑賞者。サッカーなんかも全然わからないし。それでも、カーリングはわかる。やってること、やろうとしていることが読める楽しみがある。こういうストーンの配置になればここを攻めて行けばいいんではないか、などと先を読んで、それが実は外れていたりするけれども。
 まあ今回のオリンピック中継も、日本チーム中心の中継だけなのは仕方がないけれども、ほんとうはもっといろいろなチームの対戦を見てみたい。それでも、今日の日本対アメリカ戦は見ごたえのあるいいゲームだった。最初は日本がボロ負けしそうな気配も感じてしまったけれど、3点取得出来たエンドが二回あったのがよかった。一度は狙えば5点取れそうな局面もあって、あそこはちょっと5点ゲットというのを見たかった。ラストの計測での判定によっての勝利というのもドキドキ。まああそこはアメリカの大失投で、普通だったらアメリカの逆転勝ちになっていたところ。

 そんな朝のカーリング中継を見終えてから、今日も東京へ映画を観に行く。ユウはリヴィングに入り込むと何を仕出かすかわからないので、リヴィングへは立ち入り禁止にして、自分の昼食のおにぎり、ユウの留守番の食事を用意して家を出る。

 今日観る映画は、渋谷のユーロスペースでやっている「ジャック・ロジエのヴァカンス」という特集上映から、「オルエットの方へ」という作品を観る。ジャック・ロジエの「アデュー・フィリピーヌ」は何年か前に観てとても楽しい作品だったし、何よりも、わたしがあれこれと読ませていただいているあちこちのブログで、これを観て来た人たちが皆大絶賛していたというのも、この作品を観ないでは済ませられないという気持ちにさせられてしまった。なんとかそのくらいの出費は大丈夫そうなので、今日行くことにしたわけ。

 電車を乗り継いで渋谷で降り、109の二階にあるチケットぴあの前の喫煙所でおにぎりを食べる。ここではカラスがおこぼれを狙ってやって来る。私のすぐ目の前の手すりに留り、私の食べるさまを見つめて来る。やっぱりカラスは少し怖い動物で、こんなに近くに来られると無気味だし、ワイルドな気分になったりする。しかし、カラスというのはどうしてこう、まっ黒々なのか。瞳から足の先まですべて黒。墨のような黒。あまり間近で見つめられるので、場所を移動して手すりから離れる。食べ残しをこぼさないように、いつも以上に気をつけたりもする。両親が晩年まだ元気だった頃に、巣から落ちたカラスのひなを、大きくなるまで飼っていたことを思い出した。両親が転居したので鳥かごから外に出して逃がしたらしいけれど、そのあとはきっと自立出来なかっただろう。

 食事を終えて映画館へ。平日の昼間だというのに、思ったよりも大勢の観客。開映までには座席の3/4ぐらいは埋まってしまった。

 映画。ジャック・ロジエ監督の「オルエットの方へ」。1969年から71年にかけて製作された、「アデュー・フィリピーヌ」に続く彼の第二作。1926年生まれのロジエはこのとき四十代半ばになるのか。水色のバックに白い文字でタイトルが映し出され、音楽がかぶさって来る。「なにこのアナーキーな音楽は?」って感じの、ゆるい女性コーラスが奇妙にとっちらかった、それでもポップな音楽で、60年代末のフランスにはこういう音楽もあったわけか、などと思っていると、画面にはMusique : Gong, Daevid Allen と出て来て、びっくりする。こんなところでGong とは! たしかに、この時期Gong はフランスでデビューしていた頃か。
 映画。映画の方も、そんなGong の音楽にぴったりな、とっちらかっていて、それでいてポップな映画だった(Gong の音楽はそんなに使われているわけではなく、このタイトル部と、本編の中でもう一箇所ぐらい)。16mmからのブローアップということで、粗い画面でもって、ホームムーヴィーみたいなノリの導入部。9月1日に始まり、9月19日までの、女の子3人とそこにからんで来る男2人を交えた海岸でのヴァカンス。映画として、161分という上映時間はかなり長尺だと思うけれども、このだらだらとしたヴァカンスの19日間を描くには、これはいかにも短かすぎる! それは実際に長期休暇を過しているさいちゅうの、「もっと! もっと! この休暇がいつまでも続くように!」と思ってしまうような、そういう実際の感覚に似ている。なあんて楽しい映画だろう!
 しかしこの3人の女の子たちのよく笑うことといったら。「箸が転がっても笑う」というのはこういうのだろうけれども、まるで、起きているときはいつも啼き続けているうちのユウみたい。おそらく、この作品の撮影は、スタッフ共々共同合宿のようにして、実際に9月1日から19日までかけて撮影したんじゃないだろうか。その冒頭で「ダイエットしている」と言っていた女の子なんか、このヴァカンスの終わりの方では、心なしかぽっちゃりと肥っちゃってるみたいに見えたりする。カメラの動きもだんだんに変化して来るし、映画の進行に連れて撮影プランも念入りになって来るように見える。映画内の時間進行につれてスタッフもヴァカンス時間に染まって行くみたいな空気感で、この映画自体が「ヴァカンス」そのものなんだ、などと思ってしまう。女の子の一人ジュエルを追いかけて来る会社の上司ジルベール、彼が魚の料理を作ろうと奮闘するあたりの撮影、編集あたりが、これがクライマックスかと思える凝り方で、とにかく観る目を楽しませてくれる。
 ヨット乗りのパトリックをほんとはちょっと気に入ってるんだけれども、友だちの手前か、からかって追っ払ってしまい、そのあとで落ち込んでしまうカリーンだとか、皆に気に入ってもらおうと一所懸命料理するけれど、出来た頃にはもうみんな、その日の疲れで食事どころではなくなってしまって、とってもかわいそうなそのジルベールだとか、グループ旅行のちょっと塩辛い部分のディティールがいい。それでも、終ってしまって思い出してみれば「楽しかったよ」と言うしかないヴァカンス。ほんとうに楽しい映画だった。観終ってしまったらまた最初からもういちど観たくなってしまったし、カジノ・オルエットの中が覗いてみたい。この特集上映で上映されている「アデュー・フィリピーヌ」や「メーヌ・オセアン」などの作品もまた観てみたくなってしまった。

 帰宅して、わたしもヴァカンス疲れのように眠くなり、ちょっと早くに寝る。
 ユウはまたわたしが寝ようとすると起きて来て、大騒ぎを始める。なんだか夜中に棚の上から落っことしたようで、ガチャーンと大きな音がして目が覚める。ユウも驚いて部屋の外へふっ飛んで逃げて行くところ。また洗面所のユニットの上に跳び上がって啼いている。わたしに叱られたと思ってるのか、近づくと「シャアー」と威嚇する。知りません。眠いのでそのまま寝る。

 今日は映画の中で久々にGong の音楽を聴いたりしたので、そのGong の音楽を「今日の一曲」に選ぼうかと思ったけれど、あまりにヴァカンス気分の楽しい映画だったので、ヴァカンスと云えばこの曲、ザ・ピーナッツの、「恋のヴァカンス」を選びましょう。作詞は岩谷時子、作曲宮川泰という、1963年にヒットした純粋和製ポップスで、この曲で日本にもヴァカンスと云うことばが定着したとか。ピーナッツの二人のコーラスも、バックのオーケストラのスウィング感あふれる演奏も、とってもいい感じの当時のTV映像。



 

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■ 2010-02-16(Tue) 「クライマーズ・ハイ」

[]Protection [Massive Attack] Protection [Massive Attack]を含むブックマーク

 天気予報ではまた雪になるようなことを云っている。これで二月になって何回雪になったのか。うっすらと屋根が雪で白くなり、それがすぐに融けてしまう。次の日にまた白くなる。

 近くの公園の前でミイをみかけた。公園の中に別のネコがいる。この公園によくいる、首輪をつけた毛並みの良さそうな飼いネコ。ミイはそのネコが気になるようで、少しずつ近づいて行く。私が少し離れたところで見ていると、飼いネコの方もミイに気がついて近づいて、お互いに1メートルぐらいの距離で向かい合って、座り込んでしまった。そのままじっとしている。しばらくして、ミイの方がゆっくりと体を起こして、ほんとにゆっくりと歩いて、飼いネコから離れて行く。なんか、気取った歩き方してる。何を気取ってるんだ、ミイ。前にウチの前ではファニーフェイスなネコを徹底的に無視したりしていたくせに、けっきょくおまえは面食いということか。しかも変にカッコつけて相手の気を惹こうなんて。

 室内のユウは、なかなかわたしにはなじまないけれども、部屋にはなじんできたのか。今日はリヴィングからキッチン、和室と、何度も何度もぐるぐる廻って歩いている。そのあいだ啼きっぱなし。壁をつたってカーテンレールに登れないように、何か防禦策を講じなければならなかったので、とりあえず壁の前に大きなボードを立て掛けておく。これは効果あったようだけれども、何かの拍子にボードを倒されてしまうと、また壁をひっかかれてしまう。
 今日は食事にアジの開きを焼いて、半分は私が食べ、残り半分を出してあげた。これは喜んで食べた。

 夜は図書館から借りたDVD、「クライマーズ・ハイ」を観る。原田眞人監督の2008年の作品。図書館には、少しだけれどもこういう最近の商業映画も置いてある。どういう基準で選んでいるのだろうか。
 原田眞人という監督の作品は、むかし「バウンス ko GALS」というのを見ただけで、どうもこの人の作品には食指が伸びない。「バウンス ko GALS」を見た感じとか、その後のこの人の監督作品の紹介を読んだだけで、なんだか物事の表象だけを捉えて、ジャーナリスティックにおもしろおかしく作品にしているだけなのではないかと思ってしまう。あさま山荘の映画なんか、とっても悪質そうで、どのくらい酷いだろうかという興味で見てみたくなったりはするけれども。
 それで、この「クライマーズ・ハイ」。まさにそのジャーナリズムが一つの事件にどう立ち向かうかというような主題で、原田眞人監督の作品への演出姿勢もまたこの作品の主題になっているのではないかというような。フン。やはりそうなんだよね。事件そのものはどうでもいいんだ。「これが観客が求めているモノ」という幻想でつくっているのだという視点が、よくわかる。この作品では、一人の市民が新聞社に新聞を買いに来ることで、「ここに地元の読者がいる」と、主人公が勝手に目覚めてしまう。まあ勝手にやって下さい。
 演出面で、最初に事故の一報が入って来る時の新聞社内の喧噪の描写、ちょっとカメラを振り回しすぎとも思えるけれども、いろいろな視点からの細かい編集で緊迫感が出ている。何度も出て来る新聞社の前の歩道橋をうまく使った演出とかは面白いけれども、主人公の家が写るときにバックで流れるNat King Cole の「Mona Lisa」は、どうなんだろう。あまりに唐突な選曲でまったくマッチしていない感じだし(主人公の心を安がせる、彼の好きな曲という設定なのだろうけれども)、あの曲の権利を買うだけで相当な金額がかかっているはず。バブルだなあ。‥‥そういうバブルというのでは、まったくドラマに噛み合っていないラストのオーストラリアのロケなんて、どうなんだろう。見ていても、ずいぶん無意味にぜいたくしているなあという感想しか出て来ない。
 こんなネガティヴな感想ばかりの作品、やっぱり見なければ良かった。

 今日は、ユウの攻撃から部屋の壁を守らなければならなかったので、Massive Attack の「Protection」を。これは彼らの1994年のセカンド・アルバムのタイトル曲で、ゲスト・シンガーはEverything But The Girl のTracy Thorn 。たしか、この曲がヒットしたおかげで、それまでちょっと地味な存在だったEverything But The Girl の人気にも火がついてしまったという記憶がある。わたしは今でもこのアルバム「Protection」が大好きで、今でも時々CDプレイヤーに乗せることがある。Massive Attack のその後はあまり聴いていないけれど、「100th Window」はちょっと良かったな。と思っていたら、ちょうど先週、彼らの久しぶりの新作、「Heligoland」がリリースされたばかりらしい。聴いてみたい。
 このライヴ映像、実際の火をかなり大がかりに使ったすばらしいライヴ。Tracy Thorn がめちゃかっこいいけれど、「これから」というところで終ってしまうのが残念。



 

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■ 2010-02-15(Mon) 「海外特派員」

[]Jump (For My Love) [Pointer Sisters] Jump (For My Love)  [Pointer Sisters]を含むブックマーク

 曇り。夕方から少し雨。ユウは昼間わたしが起きているときはずっと、わたしのベッドの下に逃げ込んでいる。時々ベッドの下から小さな啼き声が聞こえて来る。そんな間にリヴィングの方にミイがやって来て、食事をして行ったりする。今はリヴィングの窓も閉め切っているので、前のように勝手に入って来ることは出来ないのだけれども、偶然か、今日は三回、窓の外をミイが通るのを部屋の中から見つけて、窓を開けてあげる。いつも窓の外に注意を払ってなどいられないので、今日三回もミイの姿を見つけられたのは偶然の重なりに思える。これからもこの調子で外のミイを見つけられるといいのだけれども。

 暗くなる頃にユウが起き出して来て、ベッドの下から外へ出て来る。これからが大騒動で、とにかくずっとアウアウと啼き続け。相変わらすカーテンレールの上に上がるのが大好きで、フガフガ云いながら、カーテンや壁を伝って登って行く。リヴィングの方は壁がひどいことになるので登攀禁止。物を置いて上がれなくして置く。それで和室の方のカーテンレールに登るわけだけれど、こっちはまあ黙認。パソコン机のパソコンの裏側から、本棚の側面などを伝って登ってしまう。この壁面にはあれこれとぶら下げてあるので、そんなアイテムが登攀に役立っている。カーテンレールの上に上がるとミャアミャア啼きながらレールの上を二〜三往復し、降りる体勢を取る。これがなかなかうまくいかなくて、足場を踏み外して、ドテッと下に落ちたりしてしまう。たまにうまくジャンプして跳び降りる。そのうまく行く感触がいいんだろうか。
 わたしがリヴィングでTVとか見ていると、気になるのか、啼きながらリヴィングの方を覗きに来たりする。今日はやっと少し水を飲んで、食事もした。遅くなって、もうわたしは寝るよとベッドにもぐり込むと、自分の隠れ家の上を占領されてしまうためか、猛烈に遊び始める。カーテンレールからのジャンプの連続。そのうちに机の上の物とかひっくり返し始めるので、啼き声もうるさいし、玄関の閉鎖空間に追い出して、ちょっとかわいそうだけれども閉め込んでしまう。ユウの隠れ家がわたしのベッドの下、というあたりが問題だな。両方が同時に寝ることが出来ない。

 稲垣足穂の「弥勒」を読み始める(むかし読んでいるけれど)。まずは「美しき穉き婦人に始まる」。足穂三十歳の頃、明石で洋服屋を開業する頃の話で、ここから足穂の転落の極貧生活が始まる。それを美しき穉(いとけな)き婦人に始まる、というわけか。
 ‥‥いったい、この人は何を考えているのかと思ってしまうぐらいに、いいかげんな、人任せな生活ぶりなんだけれども、そんな中でふっと、夜空の天体への興味(いや、興味などというモノではないだろうけれども)が語られたりする。

——こうして私は、オリオン近傍を台にして、天球における方位と角度を憶え、これを手蔓に穹窿に描き出された絵模様を判じてゆく興味を知ったのである。頭上にかぶさる半球内にだいたいの見当がつくまでにはまる一年を要した。この趣味については多くの本が書かれている。然し読者の幾人が能くそれをマスターするか? 特種な状況と若干の地味な努力を要請するものであるからだ。しかも人々は常に天上の花よりも地上の花々に心を奪われがちである。私は、或いは一生涯知らずに済んでしまうかも知れない幽玄な喜びを、あの秋に知ったことを今日感謝している。それも暗い、人げの無いアスファルトの道路と佳き人がなかったならば、此処に記すほどのものではなかったであろう。私達が夜々の途中に交すのは概ね駄洒落であったけれども、私の心の片隅では、宏大無辺の生活が渦巻いていた。自分がこんな夜、めずらしくアルコホル気の無い頭の中で星々のことを考えていることは、すっと以前からの約束事であったかのように覚えられ、ひょっとして自分は古代希臘の町でいまと同一のことを考えたのではないか、それとも此処にこうしていることが既に二十世紀社会を飛びこえた遥かな未来でないのか、そして実は地球ではなく、何処か星の世界の夜を歩いているのではないか知ら‥‥と考えたりした。

 ‥‥稲垣足穂という人は美しい(それでもちょっと歪みを持った)多面体で、その一面だけを見ていても全体の姿は想像も出来ない。ここで見えて来る彼の姿もまた、夜影のシルエットみたいなものだけれども、そのシルエットの奥に異次元の煌めきが光っているように見える。

 DVDは、まだ残っていたヒッチコック作品、1940年の「海外特派員」を。
 この作品はヒッチコック渡米後の「レベッカ」に次ぐ作品で、イギリスからアメリカへ渡ったヒッチコック自身のなかでの、両国への思い、自分の立ち位置への思いが投影されてもいるのだろう。ヒッチコックとは逆にアメリカからイギリスへ渡る主人公が、慣れない帽子をしょっちゅう紛失するあたりとか。
 製作年度から見ても、世界大戦ぼっ発を背景にしたドラマはこの時とてもアクチュアルなテーマに思えるけれども、ヒッチコックの視点は、そういう国際紛争の政治的側面からできるだけ距離を取ろうとしているようにも見える。プロパガンダ作品となるのを嫌ったらしいけれども、この作品で戦争への引き金を引いたと目される男が、最後の飛行機の墜落で見せた自己犠牲ゆえに「でも、いい人だった」と云うのは、ちょっとヤバいと思う。
 階段での暗殺シーンとか、何よりもその飛行機の墜落シーンの迫力とか、見るべき箇所も多いけれども、脚本の乱暴さもいろいろと気になるところ。

 今日の一曲は、夜の部屋の中をジャンプしまくるユウのために、Pointer Sisters の1984年のヒット曲、「Jump (For My Love)」を。


 

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■ 2010-02-14(Sun) 「蠅男の恐怖」「KAFKA 迷宮の悪夢」

[]My Funny Valentine [Chet Baker] My Funny Valentine [Chet Baker]を含むブックマーク

 晴天。昨夜みんなの屋根の上に少し積もった雪が、どんどん融けて行く。
 ユウは何も食べないのが心配。便はちゃんとトイレにした。起きているときはいつも啼いていて、わたしが近寄ると威嚇する。野生ネコのはじめにはこういうこともあるそうで、馴れるまでちょっと時間がかかりそう。ついついかまってしまいたくなってしまうけれども、放置しておくに限るらしい。
 昼間はほとんどベッドの下に身を隠していて、啼き声も聞こえて来ないときは眠っているんだろう。夕方になると起きて来て、またカーテンレールに登って遊ぶ。これが大好きみたいで、啼き声も興奮して変わって来る。カーテンレールの上にあがってしまうと降りるのに苦労するんだけど、その苦労も合わせて野生の本能を刺激するんだろうか。カーテンぼろぼろになりそうと思っていたら、それよりも、ユウが爪をかける窓際の壁がひどいことになっている。ビニール質の厚手の壁紙だからまだ良かったけれども、これはこれ以上やらせておくわけにはいかないね。

 今日はDVDを二本観た。ひとつは1958年の「蠅男の恐怖」で、監督はカート・ニューマンという人。なんか、視覚的に斬新なモンスター・クリーチャーを造型するために、無理矢理書かれたストーリーという感じだけれども、先に事件が起きた後に、その事件の謎を解明していく叙述スタイルは効果的。「なぜプレスを二回操作したのか」というのが思ったよりあっさりした理由だったけれども。
 ラストの「ヘルプミー」の絶叫と、そのあとに警察署長のとる行動がおっそろしい。「ハエが何よ」という態度のお手伝いのおばさんがいちばん良かったりする。

 もう一本は、「KAFKA 迷宮の悪夢」。これは「セックスと嘘とビデオテープ」でいきなりなデビューをしたスティーヴン・ソダーバーグ監督が、1991年にプラハのロケで撮り上げた彼の第二作で、これは以前一度観たことがある。「トラフィック」以降は、わたしのもっとも苦手な監督のひとりになってしまったソダーバーグ監督だけれども、この、カフカがボンドみたいな活躍をしてしまう作品は、かなり好きだった。観直してみても、やはり面白い。ムルナウ博士という人物が登場して来るように、ドイツの表現主義映画へのオマージュにもなっているのだろうけれども、そういう前半の、モノクロの映像が良い。プラハの街、カレル橋なども陰影を含んで美しく撮られている(同じプラハで撮影した「アマデウス」より格段に良いと思う)。
 ジェレミー・アイアンズ扮するカフカを主人公として、そのカフカを巻き込んで行くプラハの謎。街を支配する「城」の存在など、カフカの作品を取り込みながら、カフカの日記なども生かし、およそカフカ的ではないサスペンスの世界が展開して行く。まあ、この、全然カフカの世界とは違うだろうというあたりで観客はそっぽを向いてしまったんだろうけれども、それでも、この作品で描かれた架空の「プラハの街」は魅力的。これがカフカが「城」に潜入し、画面がカラーになってからのアートっぽい展開も楽しい。まあ視覚的には、これぢゃあ「未来世紀ブラジル」ではないか(ストーリーにも似ているところがある)と思ってしまうところもあるけれども、ここで出て来る、天体望遠鏡で人体の一部を拡大してドームに映写しているような装置に、ちょっとインパクトがある。わたしはこの部分、日本でも公開されたことのあるモナ・ハトゥームのインスタレーション作品、「見知らぬ身体」を思い出してしまうのだけれども、ハトゥームの作品がつくられたのはこの映画よりあとなので、ひょっとしたらハトゥームはこの映画からヒントを得たのではないかとも思ってしまう。
 けっきょく、何ごともなかったかのように日常の仕事に戻るカフカの、そのラストの窓越しの一瞬の表情が、有名なカフカの肖像写真に思いきし似せて撮られているようで、ちょっとばかし奇妙なせつなさに捉えられてしまう。

 「昭和詩歌集」の短歌集、ちょっとずつ読み進んでいるけれども、なかなかに「これ」という興味を持てる歌人に巡り会わない。今まででは、生方たつゑという歌人の作品がいちばん良かった。風景の中にふっと時間を紛れ込ませて詠んでいるような歌や、風景を詠んでもパースペクティヴが効いている。それに、今までの歌人たちには恋愛歌というようなものはなかったというのも、正直あまり面白く感じなかった理由かもしれないけれども、この生方たつゑの歌にはちょっと生々しい感情がうたわれていたりもする。

 謀られてゐるわたくしを意識して交はりゆけば夜の埃あり

 今日はヴァレンタイン・デーなのだった。それがどうした、という感じだし、チョコレートとも縁がない。特にヴァレンタイン・デーの歌というわけではないのだけれども、今日はChet Baker の気だるい歌声で「My Funny Valentine」を聴いてみよう。



 

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■ 2010-02-13(Sat) 「日日雑録」「TRIP TRAP」「水爆と深海の怪物」

[]Hallelujah [Leonard Cohen] Hallelujah [Leonard Cohen]を含むブックマーク

 朝から、雨のような雪のような小さな白い粒がふらふらと風に流されていて、窓から外を見ているだけで寒くなる。ユウは一晩中啼き続けていた。ミルクも飲まず、何も食べない。それでも用意したトイレをちゃんと使っていた。かしこいぞ。狭いスペースから解放してやるけれど、けっきょく昼のあいだはベッドの下の空間に入り込んだままだった。静かになってしまう時は、寝ているのだろうか。夜になると、カーテンをよじ昇ってカーテンレールの上に行くのが気に入ったのか、何度か繰り返す。それでもカーテンレールの上は高すぎて下りられないのだろう、いっそう声を大きくして啼き出す。わたしが近づくと、それを恐れてか一気に飛び下りる。これをまた最初から繰り返す。パニックで逃げ場を探す延長が、遊びになってしまっているのかな。今日一日、何も食べないで終ってしまった。この部屋の中で、平気で食事が出来るようになれば一安心なのだけれども。

 武田百合子の「日日雑録」読了。「富士日記」は、もともと人に読まれることなど考えていない文章だったのだろうと思うけれども、こちらは、読者のことを意識しているなあという印象だった。いろんな人が亡くなっていき、ネコのタマも死んでしまった。武田百合子も、この本を出版した一年後に他界する。寂しい。
 いろいろと出て来る「食べ物」の話が、とても楽しかったけど、文庫本の「あとがき」の、I氏のべたべたした文章がイヤだった。このI氏は昔からその文章が好きになれない文筆家だけれども、今回もやはり。

 もう一冊、金原ひとみの「TRIP TRAP」も読了。金原ひとみ自身をモデルにしたらしい主人公の、15歳の頃の同棲体験から、二歳の女児を保育園に預けている現在の話までの、旅を主題にした六つの短編で、ひとりの特異な成長体験をして来たであろう女性作家の姿が浮かび上がる。特にあとの方、彼女の結婚〜出産後を描いた短編が四つ続くことで、まあ彼女の愛の生活だね、そういうものがかっちりと描かれている。その裏側に、最初の二編の短編で描かれた彼女の非行ぶり(?)があるということで、いっそう「現在」のすがたに影のように輪郭をつけて立体的にしている。特に最後の「夏旅」で、みごとに最初の二編の存在が効いて来る。うまいなあと思う。金原ひとみはそのデビューからずっと読んでいて、この人はぜったい大物だと思っていたけれども、これは、近年の彼女の結婚以降の作品を総括するような傑作だと思った。前作「憂鬱たち」の、虚構を組み立てたコミカルな感じも好きだったし、この人はやはり大物。読み続けて来て良かったし、これからも彼女の作品は読み続ける。

 夜はDVD、ハリーハウゼンのシリーズから、「水爆と深海の怪物」。1955年の作品で、監督はロバート・ゴードンという人。どう見ても1954年の日本映画「ゴジラ」の影響下につくられている印象がある。この作品での怪物は「巨大タコ」。まず船が襲われて、それから都市(この場合はサンフランシスコ)に上陸して来るというあたりも、「ゴジラ」を踏襲している。
 ここでもまた、先日の「空飛ぶ円盤」映画と同じように、ストーリーの中にロマンスを持ち込んで、軍人と科学者に挟まれる女性科学者という三角関係が‥‥。タコの来襲で大きな被害が出そうなのに、のんびりいちゃいちゃしてんじゃないよ!って感じ。それでも、この作品はまだまだ「空飛ぶ円盤」よりもあれこれと良く出来ていて、巨大タコの襲撃、そして撃退というメインのストーリーに大きな破たんはないし、タコがサンフランシスコの街を襲うシーンなどもかなり楽しめる。火炎放射器でタコの足を海へ後退させるシーンなど、撃退する人たちがとても勇敢そうで、そうとうに素晴らしい。焼いたタコも美味しそうだし。

 暗くなって外を見ると、もうすっかり雪になっていた。道路にこそ積もってはいないけれども、どこの屋根も真っ白になってしまっている。今日は出かけたりしなくてよかった。

 時間は前後するけれど、昼間、冬期オリンピックの開会式のTV中継をつけっぱなしにしていた。別に熱心に見ているわけでもない。こ〜んな壮大なライヴをやるなんて、こういうオリンピックだとかの祭典でしか実現出来ないだろうな。普段要求出来ないような予算も使い放題だろうから、「こ〜んな、とんでもないこともやっちゃおうかな〜」と、企画者は大張り切りしたんだろう。もっとアヴァンギャルドな、わけわかんないことやって欲しいけれど。
 「ナウシカ」の実演版みたいなのがあったし、フィドルがいっぱい出て来ての、カナダらしいケルトなダンス・チューンなどはちょっと心騒いだ。編曲もハードで良かったし。Joni Mitchell の曲なんか使っていたりして、そうか、Joni Mitchell もカナダの人だものなあ、などと思っていたら、突然にLeonard Cohen の「Hallelujah」のコーラスが聴こえて来た。びっくりしてガバっと覚醒し、画面を見ると、歌っているのは、これは貫禄のついたk. d. lang にちがいない。そう、Leonard Cohen もk. d. lang もカナダ人だった。まさかTVでk. d. lang が歌っている姿を見ることが出来るとは思っていなかったし、しかも、その曲が「Hallelujah」だなんて。とても熱のこもった、いいシンギングだったけれども、ちょっと演出過剰で、ここはLeonard Cohen 本人に出て来てもらって歌って欲しかった。たしか現在75歳になるLeonard Cohen はライヴツアーの最中だったけれど、ケガか何かしてしまって、現在療養中でライヴは延期というニュースを読んだ記憶がある。ひょっとしたら、Leonard Cohen 本人が出て来る予定だったのかも。
 しかし、日本ではまったく知られていないけれど、やはりあちらでは「Hallelujah」は名曲として知られているんだろうか。聴いていてこころの温かくなる名曲だ。TV放映している中継のアナウンサーも、このあたりのデータはわからないのか、言っても仕方がないと思ったのか、k. d. lang やLeonard Cohen の名前も出さないし、「Hallelujah」の曲名の紹介もしなかった。おかげでアナウンスにあまり邪魔されずにk. d. lang の歌唱を楽しめたけれども。
 そういうわけで、今日の一曲は、その「Hallelujah」をLeonard Cohen 自身が歌っている映像で。この映像は2008年のグラストンベリーでのライヴ。素人映像だけれども、グラストンベリーの雰囲気が良く出ている感じ。
 この「Hallelujah」は、1985年にリリースされたLeonard Cohen の7枚目のアルバム「Various Positions」に収録されていた。今調べていてわかったんだけれども、この曲、近年になっていろいろな人にカヴァーされ、特に昨年には、イギリスやアイルランドではトップになる大ヒット曲になっていたらしい。知らんかった。



 

koji0115koji0115 2010/03/01 22:24  お邪魔いたします。コメントなるものをはじめて書きましたが、貴方さまの筆力には圧倒されました。一言でいえば素晴らしい。内容も文章の展開も・・。天賦のご才能なのでしょうね。長文なのでこの後ゆっくりと拝見します。ただし、勝手に投稿しておりますし、いまでコメントなどいただいたことはありません。もっとも加入したばかりですけれど。このようなブログがあるのを知っただけで幸せです。したがってご返信は無用です。「雑録」に惹かれてアクセスしてしまいました。

crosstalkcrosstalk 2010/03/02 00:33 koji0115 さま、コメントありがとうございます。
わたしは自分では文章がとても下手だと思っています。内容もひどいものです。少しはマシなことを書けるようになりたいというのも、こうやってブログを書き続けている理由だったりします。おほめいただきましてもかえって赤面のいたり。それでも、ありがとうございます。
koji0115 さまのブログも読ませていただきます。

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■ 2010-02-12(Fri) 「縞の背広の親分衆」「グラマ島の誘惑」

[]You Are In My System [Robert Palmer] You Are In My System [Robert Palmer]を含むブックマーク

 とうとう、ユウを拉致してしまった。

 今朝も食事に来て、そのままキッチンの方まで入り込んでぶらぶらしているので、ベランダの窓を閉めてしまう。これでもう、ユウと同じ部屋でずっと暮らす生活を始めなければならない。
 出口をふさがれてしまったユウはやはりパニック状態で、ミャアミャア啼き続けて部屋の中をあちこち走り回っている。そのうちにベッドの下に隠れてそこに落ち着くけれど、もうずうっと啼き続けている。今日はまた出かけるので、昼間はユウだけで部屋に閉じ込めておくことになる。玄関からトイレ、風呂までの空間はほとんど何も置いていないし、完全に閉め切ることが出来るので、そこにユウを追いやっておくことにして、食事とトイレの準備をしておく。出かける準備をして、せっかくそれなりに落ち着いているのをかわいそうだけれども、ユウを追い立てて玄関の方へ行ってもらう。またパニックになり、下駄箱の下の狭い空間に逃げ込んでじっとしている。これだと玄関を開けると出て行ってしまうので、もう一度追い立てて、トイレの方に行ってもらう。その隙に外に出て鍵を閉める。
 こうしてやってしまうと、ちゃんと面倒みることが出来るのかとか、あれこれ心配になってしまう。そもそも、閉じ込めてそのあとすぐに自分は出かけてしまうなんて、ひどいことだと思ったりもする。でもまあ、わたしがいない状態の、人の気配におびえることない環境で、しばらく置いてあげるのもいいのではないかと思ったりもする。早く馴れてくれればいいのだけれども。

 今日はまた映画を観に行く。池袋の文芸座で今やっている、森繁久弥追悼特集、今日は川島雄三監督の作品を二本上映する。それを観に行く。映画というのは昼間からやっているし、チケットもそんなに高くはないので、舞台に比べるとふいっと行ってしまえたりするし、最近、古い川島雄三監督の作品を面白く感じていたので。

 ローカル線に乗り、乗り換え駅に向かおうとすると、構内放送で、宇都宮線は架線事故か何かですべてストップしていると言っている。ストップしているのではしょうがない、もう置いて来たユウのことも心配なので、このまま引き返そうかとも思うけれど、とりあえず乗り換え駅まで行く。車内放送は、ストップしている宇都宮線の代替で新幹線を利用出来ると言っている。そりゃあいいや。
 駅に着くと、宇都宮線のホームには誰も乗っていない電車が止まっていて、電光掲示板には、一時間以上前になる電車の出発時刻が、そのまま掲示されている。乗り換えする人たちは皆、新幹線の改札の方へ向かっている。わたしもついて行く。駅員が振り替えの新幹線乗車券を配っていて、それがあれば終点の東京まで乗って行けるようだ。わたしも新幹線に乗ろう。
 乗車券を受け取り、新幹線のホームに上がると、雪がしらしらと降っていた。寒い。
 寒いホームで三十分近く待ち、新幹線到着。乗る。楽勝で座れる。快適。上野まで乗って行こうかとも思ったけれども、大宮で下車する。所要時間二十分弱。ホームでの待ち時間を入れても、従来の宇都宮線に乗っていたよりも早い到着かもしれない。さすが新幹線である。わたしのようなカタギでもないものに、こうやって新幹線に乗る機会が訪れて来ようとは思ってもいなかった。

 埼京線に乗り換えて池袋着。けっきょく予定していたぐらいの時間に映画館に着き、次の開映までの待ち時間に、ロビーでお弁当を食べたりする。

 最初の上映作品は、1961年の「縞の背広の親分衆」という作品で、フランキー堺、桂小金治、淡島千景など共演。有島一郎、ジェリー藤尾、団令子、そして渥美清なども。カラー作品なのだけれども、プリントの退色甚だしく、ほとんど赤茶のモノトーンのような色彩。プリントの抜けも多くて、頻繁にセリフが途中で途切れたりする。なんと、映写中に映像が静止し、画面の中央から絵が歪み出し、ぼつぼつと緑色の斑点があらわれて大きくなり、それが白い穴になって拡がり出した。うわ、フィルムが燃え出した!って感じで、こんな事故、幼い頃からの記憶でも出会ったことはない(単純に映写がストップする事故はいくらでもあるけれども)。貴重な、美しい(?)瞬間に立ち会った思い。こうやって映写フィルムはだんだんに短くなって行くんだな。
 映画の方は、没落しつつある組を救済するためにブラジルから帰国した森繁が、利権がらみの道路工事に絡む土地買収とかで他の新興組織と衝突したりする話。森繁は森の石松の末裔という設定で、「次郎長三国志」での彼の当たり役を引きずった設定が楽しい。しかしこうやって現代モノで「森の石松」的な演技をやると、それこそ元祖フーテンの寅さんみたいな雰囲気が漂う。って思ってると、その渥美清の、寅さん以前の珍しい演技を見ることも出来た。古臭いやくざ組織に現代的な風俗なども影響を与え(登場人物の多くが外国語かぶれ)、そのアマルガムな奇矯な世界が展開される。チンピラやくざの西村晃とフランキー堺とのやりとり、そこに桂小金治が絡んで来るあたりが、とても楽しかった。

 次の作品は、製作時期はこちらの方が古い、「グラマ島の誘惑」(1959)という作品。これが観たかったのだ。原作が飯島穝で、出演は森繁のほかはまたフランキー堺、桂小金治、三橋達也、男性陣はほぼこの四人だけで、これに浪花千栄子、八千草薫、岸田今日子、淡路恵子、轟夕起子、宮城まり子、春川ますみなどの九人の女優陣が絡んで、戦争真っ最中の太平洋の孤島、グラマ島に取り残されて共同生活をする。終戦を知らずに、さらに終戦後六年を島で生活してしまう。森繁とフランキーは皇族の軍人で、桂が一応それに仕える生っ粋の軍人、女性たちはほとんどが吉原から来た軍隊の慰安婦で、そこに岸田と淡路が従軍記者、八千草が帰国途中の戦争未亡人という設定。あ、三橋達也は島にただひとり残る先住民らしいのだが。
 この十三人が共同生活する中で、一種戦後民主主義の戯画のような世界が展開する。皇族の森繁は、のんしゃらんと他人の奉仕を当たり前にした生活を続けようとし、左翼陣営っぽい従軍記者グループによって排除される。森繁は沖縄出身の慰安婦、宮城まり子と二人だけで島を脱出、森繁だけ生き残って、先に日本へ帰還している。桂は三橋と戦っている最中に心臓マヒで死亡、島にやって来た米艦によって、残った連中は日本へ帰るのだけれども、八千草は先住民の三橋と島に残るという選択をする(どうやら三橋は先住民などではなく、脱走した日本兵らしい)。
 わたしには、彼ら彼女らの、後半の帰国後のとっちらかったエピソードがかなり面白くって、あちこちに話が飛ぶし、あれこれのネタを突っ込み過ぎているのでよく記憶しきれていないけれども、飛び出して来る小ネタの数々が興味深かった。沖縄の扱いなど、もろに戦後問題だし、舞台になった「グラマ島」では、のちに水爆実験が行われることになり、ここで「グラマ島」とは「ビキニ島」なのだという、悪い冗談に気がついたりする。
 島からキノコ雲が見えて、後で考えてあれが広島の原爆だったとか、何も解決しないままの、破滅でも何でもないラストの大きなキノコ雲とか、面白い。しかし、皇族ネタでここまでやってしまうということもすごい(後半では当時の皇太子ご成婚ネタが取り上げられ、森繁のいる部屋の、朝鮮半島の国みたいな、テニスをする皇太子夫妻の大きな壁画に笑ってしまった)。

 映画が終って、残して来たユウのことを思って急いで帰宅。
 玄関のドアを開けると、下駄箱の上に居たらしいユウが、ふっとんで奥へ逃げて行った。洗面所の流しに駈け上り、棚のコップやら歯磨きやらブラシやらを床に蹴落として大騒ぎ。けっきょく、下駄箱の下の狭い空間に潜り込んで啼き続ける。食事はあまり食べてはいなかったようで、ほとんど残っている。ミルクを注ぎ足してユウの潜んでいるそばに置いてやるけれども、いつまでも啼き続けてばかりで出て来ようとしない。しかたがない。こういうものだろうとは予測していたので(おそらく、二〜三日は落ち着かないだろう)、この日はこれまでとして、ユウはそのままにして寝る。布団の中にいても、ユウの啼き声が時々聞こえて来た。

 今日はこうして、ユウをついにわたしのシステムの下に置いてしまったので、Robert Palmer の1983年のアルバム、「Pride」からの、「You Are In My System」という曲を。この頃はまだRobert Palmer もさほど人気は高くなかったけれども、けっこう素敵なシンガーだった。しかしこの人はどうしていつも、こんなに自信たっぷりな態度をしていたんだろう。もう彼が亡くなって7年になる。



 

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■ 2010-02-11(Thu) 「日本暗殺秘録」

[]Jersey Thursday [Donovan] Jersey Thursday [Donovan]を含むブックマーク

 昨日の居酒屋「Y」の客は、背広にネクタイの勤め人らしい人ばかりだった。Aさんは、そういうサラリーマン客の多い居酒屋の方が、安心して飲めると云っていた。たしかに自由業風の人たちが飲んでいると、場合によっては得体の知れない感じがあるし、学生たちは静かに飲むことが出来なかったりする。わたしのような男が飲んでいる居酒屋も、イヤなもんだろうと思う。以上。

 駐車場に、昨夜の雨の水たまりが残っている。空は曇天で今にも雨か雪が降り出しそう。今朝はユウとミイが同じ時間にやって来た。ユウはひとしきり食べて飲んだあと、部屋の奥まで上がり込んで来てミャアミャア啼いたりしている。ミイがミルクを飲んでいるけれども、もうユウが舐めてしまったあとで残っていない。継ぎ足してあげようと、ミイのすぐそばでミルクのパックを傾けると、ミイが前足でわたしの手をポンと叩いて来た。もちろん爪など出していないんだけれども、どういう意味? 「ほら、わたしの子があんなに啼いているんだから、あんた、何とかしなさいよ」と云っているのかな?と感じてしまった。理由はともかく、ミイの方からわたしにコンタクトして来たので、かなりうれしくなった。

 今日はまたフィルムセンターに出かけ、「日本暗殺秘録」という作品を観る。今上映している作品は、今までフィルムセンターでやって来た、いろいろな特集上映作品からのアンコール上映集。祭日ということもあって入場者多く、開場後、係りの人が「満席です」とふれて廻っていた。
 この「日本暗殺秘録」は1969年の東映作品で、監督は中島貞夫で脚本は笠松和夫。出演者が当時の東映オールスターという感じなのだけれども、土方巽が出演していることは知っていた。映画が始まってすぐのキャストの字幕で、唐十郎、状況劇場団員と出ていて驚いた。状況劇場団員はひっくるめてそう書いてあったので、誰々が出ているのかはわからない。先に書いておけば、最後まで観ても、土方巽や唐十郎がどこに出ていたのかさっぱりわからなかった。最初の方の「大久保利通暗殺」の場面が、なんだか状況劇場の出番っぽいなと見ていたけれど、不明。あとで調べたらやっぱり、その「大久保利通暗殺」の場面で出ていたらしい。土方巽はまったくわからない。

 とにかくですねえ、桜田門外の変から始まって、二・二六事件まで、日本近代史の中でのさまざまなテロリズムが取り上げられて行く。映画のメインは血盟団事件のドラマで、これだけで充分一本の映画としてのヴォリューム。ここへの導入部として、桜田門外の変、大久保利通暗殺、大隈重信暗殺未遂、星亨暗殺、安田善次郎暗殺の短い映像が続く。血盟団事件の前に、古田大二郎のギロチン社の事件がちょっと長めにドラマして、「あれ、右翼だけじゃないのか」と思わせるのと、ここで義憤にかられてテロリズムに走る主義者の心情を描くことで、血盟団事件のドラマへとうまく橋渡ししている印象。ここでの主役は小沼正で、千葉真一が演じている。正義感の強い男が世の中に絶望し、自死をも選ぼうとするけれどもテロリストへと変ぼうして行くさまを、じっくりと丁寧すぎるほどに描いている。これが二・二六事件の引き金になった永田鉄山の斬殺事件の短い映像につながり、ラストにはその二・二六事件。青年将校たちの銃殺場面から、「テロリズムを越える思想とは?」という字幕に引き継がれて映画は終る。強烈!
 映画の中心になっている血盟団事件のドラマもいいけれども、やはりそのドラマの前後をはさむ、暗殺場面の連続のインパクト、そして、ラストの、白布で目隠しされてひたいを打ち抜かれ、その銃創から真っ赤な鮮血を吹き出させながら、「天皇陛下万歳!」と歯をむき出して絶叫して果てて行く青年将校たちの、顔のアップ映像の連続が凄い。
 暗殺場面も皆凄い。冒頭の「桜田門外の変」では、水戸浪士を演じる若山富三郎が、井伊直弼の首を手にぶら下げて雪の中をふらつきながら、自ら喉をかっ割いて果てる。そのふらついて歩く映像、雪の上を拡がって行く血。大久保利通暗殺の場面では馬車が襲われ、馬も鮮血を流して倒れる。星亨暗殺では、手持ちカメラが暗殺者の目となって、殺される男らの表情を捉えながら揺れ動く。安田善次郎暗殺犯は菅原文太が演じ、永田鉄山を斬り殺す相沢中佐役の高倉健と共に、はっきり言って「かっこいい!」。
 なんだか夜に思い出してうなされてしまいそうな映画で、恐ろしくなってあわてて帰って来た。公開当時、この映画を見て右翼組織に入ったというものもかなりあったらしい。恐ろしい。

 帰路に乗るローカル線が、線路際で火災があったということで少し遅れていた。遅れて来た電車に乗り、どこかの駅の近くで焦げ臭い匂いがした。映画の続きみたいだった。家の辺りではうっすらと雪が積もっていた。これも映画の続き。

 今日は今までの続きで、木曜日の曲。イギリスのフォーク・シンガー、Donovan が1965年に発表したセカンド・アルバム「Fairly Tale」から、「Jersey Thursday」という曲を。
 Shel Talmy がプロデュースして「Sunshine Superman」などのヒット曲を連発するようになる前のDonovan は、ほんとに素朴な感じのギター弾き語りのフォーク・シンガーだった。今聴くと、この時代のDonovan も、聴き応えのあるいいシンガーだったなあと思う。



 

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■ 2010-02-10(Wed) 「レベッカ・ホルン展」

[]Wednesday [Tri Amos] Wednesday [Tri Amos]を含むブックマーク

 朝、ベランダの窓を開けると、ベランダにいたユウがわたしを見つけて、ミイミイ啼きながら、わたしの方に駆け寄って来る。そんなにわたしが好きなら、わたしが近寄って行くと逃げるのはなぜ?

 今日は久々の東京、Aさんと木場の都現代美術館で「レベッカ・ホルン展」、わたしは二回目の鑑賞(毎月人物のイニシャルはAからリセット、だから今月人に会うのはAさんが最初。一月のAさんと二月のAさんが同人物と決まっているわけではないけれど、今回は同人物)。
 きのうはもう春が来たように暖かかったけれども、今日は寒い。おまけにすっかり曇っていて、夜には雨になるという予報も。Aさんとはメトロの清澄白河駅で待ち合わせするけど、Aさんの乗って来る大江戸線の改札口とはつながっていない、半蔵門線だけの改札口で待っていたため、なかなか巡り会えないトラブル。なんとか合流して、深川の商店街を歩いて食事出来る店を探す。このあたりは江戸情緒を売りにしている観光地でもあるので、高くて美味しくもない食事を出す店が多い気がする。「深川丼」を出す店があるけど、やたら高い。そういう店を避けて歩き、飾り気のない中華料理店で定食700円という店を見つける。「ここでどうでしょうか?」「いいと思います」ということで決定。すごいヴォリュームだった。味は普通。

 美術館に着き、ひととおり展示を観て、あとは映像作品中心に観ることにする。それでも作品の半分も観る時間はない。前回来た時と映像を上映している場所がすっかり変わってしまっているけれども、これは前に映写に使っていた展示室でほかの展示が始まっているせいで、前の方がゆったりと広いスペースで観ることが出来た。ただし、「バスターの寝室」と「妖精モルガン」だけは、別の場所の講堂で上映。観たのは「パフォーマンス2」、「過去をつきぬけて」、「バスターの寝室」の三本。
 「パフォーマンス2」、全部は観られなかったけれども、1973年の彼女のパフォーマンスの記録映像集で、はっきり言って、相当ギャグっぽいパフォーマンスの連続。白いオウムを目線で追い詰めるオウムいじめみたいな映像。ヘッドギアのようなマスクに鉛筆を付け、その鉛筆を壁になすりつけてデッサンする(これは展示室でもこの部分だけ上映している)。爆笑しそうになったのは、胸毛の濃い男性が横たわり、その胸毛に扇風機の風を当ててそよがせ、海底で揺らぐ海藻にみたてて、その上に棒で支えたおもちゃっぽい魚を二匹突き出して、海で泳ぐ魚に見せたもの。これは吹き出してしまったけれども、他の客がいなければぜったい爆笑している。ただバカっぽいけれども、アートの批評家はどんな評価をしているんだろう。Aさんはもうオウムの場面から、笑いをこらえるのに必死だったらしい。
 「過去をつきぬけて」は、彼女の大掛かりな回顧展のセッティングの映像から、過去の作品のあれこれが観ることが出来る感じ。「バスターの寝室」に出演していたドナルド・サザーランドとの対話なども。
 その「バスターの寝室」は、サザーランドのほかにジェラルディン・チャップリンなども出ている、100分ほどのちゃんとした(?)劇映画。なんと、撮影監督を、ベルイマン作品などを撮っているスヴェン・ニクヴィストが担当しているんだけれども、この作品、おそらくは映画撮影用の照明はいっさい使っていないと思う。すべて自然光だけで撮影しているんだろう。設定とかわかりやすいし、とくに衒った演出をしているわけではないけれど、とにかく眠くなる。こういう眠気を誘う演出というのはアート系作品の宿命なのか、あとでAさんと話を突き合わせても、わたしはかなりポイントを見逃していたみたい。まあ眠くなったのはAさんにしても同じことだったらしく、「半分は寝ていた」と言っていた。「家で観たりすれば、きっと一所懸命に観てしまうだろうような、面白そうな作品だった」と。YouTube あたりで、彼女の映像作品はだいたい観ることが出来そうな気がする。

 そんな映像作品を観終るともう閉館時間も近く、外は暗くなっている。美術館の外に出ると細かい雨も降っている。
 この木場周辺であまり食べたり飲んだこともないし、そういう店も見当たらない。電車でひと駅移動して、森下で「Y」へ行こうか、ということになる。まだ6時頃なので、いつも外に人があふれて並んでいる「Y」にも、すんなりと入れるかもしれない。ということで森下へ移動。
 前にAさんと「Y」に行ったのは、森下スタジオで指輪ホテルの公演を観た帰りだったから、もう三年も前になる。そのあいだに「Y」は新築改装して、大きなビルの店になってしまっていた。おどろいた。地下も2階も3階もある。おもてに大きな「煮こみ」の赤ちょうちんがなければ、わからないで通り過ぎてしまうところだったけれど、そのビルの階段にはもう、席の空くのを待っている人たちが並んでいる。まだまだ皆飲み始めたばかりだろうという時間では、どのくらい待たされるかわからない。ここは「Y」の別館が近くにあることを思い出して、そちらに移動してみる。これが正解で、すぐに3階に案内され(この別館も3階まである)、座ることが出来た。背広ワイシャツの4人グループと相席。
 もう、この店は酒も旨いし、料理もどれも美味しい。そんなに高価なメニューが並んでいるわけでもなく、わたしなんかが知っている居酒屋では最高の店。外の寒さを忘れてこころも暖まる。
 Aさんと話していて、Aさんが突然、「タバタも面白いらしいよ」と言い出したので、「田端? オレは日暮里に居たから田端にも歩いて行ったりしたけれども、どうかなあ?」などと答える。「タバタ」ではなく、映画の「アバター」のことだった。「東のエデン」をAさんも最近観たらしく、「ちっとも面白くなかった」ということで一致した。
 なぜか、今まで食べたいちばん美味しくなかったモノの話。Aさんは、キャベツをかつお節で炒めたのをつくったのが、「台所のゴミ」のような味で最悪だったという。先日自分でつくった白菜のかつお節炒めが、異様に美味しかったことを思い出す。わたしは、むかし自分でつくった「鯖の味噌煮」が最悪だったな。とにかく今日は美味しい料理を食べて楽しい会話をして、しあわせだった。

 あまり遅くならないうちに今日は散開。森下の駅でAさんと別れ、わたしは両国からJRに乗り換えて帰宅した。

 今日の一曲は水曜日ソング。Tri Amos の七枚目のアルバム「Scarlet's Walk」から、ずばり「Wednesday」という曲で。Tri Amos という人のことはあまり良く知らないけれど、なんだかんだと、フェミニズムと絡んで語られることの多い人という印象。このライヴ映像ではいろいろな鍵楽器に囲まれてやっているけれど、レコーディングでも、さまざまなキーボードを演奏し分けて曲をつくりあげているらしい。


 

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■ 2010-02-09(Tue) 「世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す」

[]Tuesday Afternoon [Moody Blues] Tuesday Afternoon [Moody Blues]を含むブックマーク

 月曜日のことで追加。昼間、スーパーからの帰りに、線路沿いにあるJRの保線区の中の空き地で、ユウがゴロゴロしているのを見つけた。つい、「なんだおまえ、こんな所でたむろしてんのか」と、声を出して言ってしまう。いけないと思ってまわりを見回して、誰もいなかったのでほっとした。
 夜は、ユウが和室に居座ってしまった。先日つくった段ボールハウスの中にもぐり込んで、どうやら眠ったりしているみたい。このままもう飼いネコだな、などと思うけれど、窓は開けっ放しにしてあるし、わたしも寝なければならない。どうせわたしが和室に入って行くとユウは外に逃げてしまう。せっかくこの部屋になじんでいるのを、追い出すようになってしまうのもかわいそうに思い、しばらく放置。リヴィングの方の窓からベランダに出て、外から和室の開け放っている窓を閉めてしまえば、ユウを閉じ込めることが出来る。もうこの際そうやってしまって、飼い猫への一歩を踏み出そうかと思う。それでもユウは多分、気配を感じて外へ逃げ出すだろうけれども。それに、水曜日からは出かけることが多くなるので、どちらにせよユウを部屋の中においておくことは出来ないだろう。「もうわたしも寝るよ」と和室に入って行くと、外へ飛び出して行ってしまった。

 火曜の朝、起きてリヴィングへ行くと、わたしの気配を感じて、ベランダでユウが啼き始める。ネコフードをリヴィングに移して、窓を開けてやる。和室の方から見ていると、ひとしきり食事を終えてから、リヴィングの中を一周して出て行った。
 TVの天気予報をなにげなく見ていると、今日の岡山の気温が18度などと書いてあるのが目に入り、あっちはもうそんなに暖かくなっているのかと思ったら、今日は関東でも四月並みの暖かさになるらしい。暖かいのは今日だけらしいけど、もう、今年の寒さのピークは過ぎたんだろう。
 ミイが食事に来て、ベランダで休んでいるのを追ってわたしもベランダに出て、「今日は暖かくなるらしいよ」などと、話しかけてみる。ミイは、「ミャン」と小さく啼いた。空は曇っていて、まだベランダはそれほど暖かくもない。

 今日は火曜日なので、普段行くスーパーがどちらも特売品を並べる日。午後から両方まわってみる。外に出るとたしかに暖かい。空気の感じが、桜の花が咲いているときの感じと同じ。暖かさがちょっと気持ち悪い。スーパー特売合戦は、北にあるA店は玉ねぎが一個28円。南のB店では38円で、(玉ねぎに関しては)A店の勝ち。四個買う。でも昨日はB店でマーガリンが安くって、わたしは損をしている。B店ではまた、冷凍スルメイカ一杯77円というのを二杯買う。イカの塩辛は冷凍から解凍したものでつくって、充分に美味しいと思う。刺身にするわけではないから。キャベツやレタスは最近めちゃ高い。どこでも200円近くする。早く安くなって欲しい。
 いちど帰宅してから、西にあるレンタルヴィデオ店に行く。じっくりと棚を見てまわる。古い邦画の在庫は貧弱。洋画も古いのはあまりないけれど、ちょこちょこと妙なのが置いてある。先週確認してあった、そういう妙なSF映画中心に借りる。どうやら、どの作品もレイ・ハリーハウゼンが特撮に関わった作品らしい。CDコーナーに行くと、この店はいつも行っていた店よりも洋楽の在庫が充実している。しかも、レンタル料が一枚につき百円も安い! ああ、Beatles はこっちの店で借りれば良かったのに。とにかく、これからここで洋楽CDを借りてみるのもいい。

 夜はそんな借りて来たDVDから、「世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す」というのを観る。ドキュメントみたいな邦題だけど、原題は「Earth vs. The Flying Saucers」と、スケールはいちだんと大きい。フレッド・F・シアーズという人が監督の、1956年の作品。
 ‥‥う〜ん、タイトルのスケールはでかいけど、ものすごくチープな映画であることよ。主人公の博士は宇宙人にも選ばれた地球人の代表みたいで、彼に宇宙人たちはメッセージを伝えるわけだけど、最初メッセージだと気が付かない博士がそれを放置すると、宇宙人は「無視された」と怒り、地球総攻撃だ。その「総攻撃」の前に、太陽の表面を爆破するかなにかして、九日間の異常気象を起こさせ、地球への警告とする。
 ‥‥なんか、ストーリー書いてるとちょっと面白い感じがしてしまうけれど、ここまでで、出て来る人物は5〜6人だけで展開するし、いや、何よりも、地上に着陸した円盤から下りて来る、宇宙服か何かを装着した宇宙人のデザインがなー、ほとんど小学生にでもデザインさせたんじゃないかって感じで、盛り下がる。主人公の博士にしてもこれが新婚ホヤホヤで、地球存亡の危機という時に、博士とその秘書でもある新妻の二人、しょっちゅういちゃいちゃしていて、見てる方はいらいらしちゃう。
 ハリーハウゼンの特撮も、この作品では、クルクル廻る円盤と、崩壊する建築物ぐらいしか見せ場がないんだけれども、建物が崩れ落ちるときのぐしゃぐしゃ、ずるずるって感じがやはりハリーハウゼンで、つまり、モノが動くだけでその個性が発揮されるというのはすごいなあ、と思った。

 今日の一曲は、「曜日シリーズ」に戻って、火曜日ソングを。この曲よりはRolling Stones の「Ruby Tuesday」の方がそりゃ知名度が高いだろうけれど、思い出してみるとこのMoody Blues のシンフォニック・ロックが懐かしいし、これはなかなかの佳曲だと思う。
 もともとはイギリスのR&BバンドのひとつだったMoody Blues は、1967年になって突然、クラシックの「新世界より」みたいなトータルアルバム「Days Of Future Passed」を発売して、「あらら」と、聴衆をびっくりさせる。一日の時間の流れを組曲風に音楽化してアルバムにしたアイディアは、単純だけれども「出るべくして出た」という感じでもあり、完成度も高かったので、アルバムとしてもかなりヒットした記憶がある。ここからシングルカットされた曲では、「Nights in White Satin(サテンの夜)」が、日本を含めて世界中でヒットして有名。いい曲でしたね。でも、アメリカで「Nights in White Satin」がヒットしたのは、アルバム発売から5年も経った1972年のことで、実はアルバム発売された際に、アメリカなどで最初にシングルカットされて多少ヒットしたのは、この「Tuesday Afternoon」の方。副題が「Forever Afternoon」だった。
 アルバムではオーケストラとの共演で録音しているので、オーケストラ抜きでのライヴ活動は不可能だろうと思われていたけれど、シンセサイザーの導入で、グループだけでのライヴが出来るようになったという記憶がある。ロックにシンセが不可欠になって行く、その第一歩を踏み出したのが、このMoody Blues だったのではないか、と思う。



 

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■ 2010-02-08(Mon) 「利休」「恋のエチュード」

[]Layla [Eric Clapton] Layla [Eric Clapton]を含むブックマーク

 スーパーのポイントカードがたまって、500円分使えるようになった。消費者レベルとしては最低クラスの生活をしているので、500円ポイントをためるには相当な期間がかかる。最近はレジ袋不要の方には5ポイントのサーヴィスというのをやっているので、マイバッグを持参してこれを最大限に利用するわけだけれども、もちろん100円買い物してレジ袋いらないからと言って、それで5ポイントついてしまうような出血サーヴィスはしていないわけで、525円以上の買い物をして、それでレジ袋不要の時だけポイントがつく。だから一回の買い物額を、できるだけその金額をちょっと超えるぐらいにコントロールして買い物をする。実はこれもちょっとしたトラップで、その金額を超えさせるために、たいして要りもしないものを買ってしまうことがある。これは最近気をつけるようにしている。
 とにかくそんな努力をしてようやく500円。前回ポイントが500円たまったのは去年の5月の末だったから、八ヶ月かかったわけだ。ちょっとした余禄みたいなものだから、そんな額でも「何に使おうか」と、多少はうれしい気分になったりしてしまう。しかし、ちょうどネコのペットフードがなくなっていて、新しいペットフードを買うのに、ちょうどそのポイント分使ってしまう。なんか、面白くない。
 ほかに、マーガリンなどを買ったのだけれども、午後に別のスーパーに行くと、そっちでは同じマーガリンが特価で50円も安く売っていた。がっくりする。

 昼間ヴィデオを観ていてふと、ミイがやって来るような気がして、ベランダの窓の方を見ると、ちょうどミイが入って来た。テレパシーではないかと思う。またミイの背中を撫でてみる。いやがるけれど、「よしよし」と云うくらいは、撫でてあげることが出来た。ちょっとだけ、ミイを抱えてだっこしてみたいと思う。

 その昼間観たヴィデオは図書館から借りているもので、勅使河原宏監督の1989年作品「利休」。原作は野上彌生子で、脚本に赤瀬川原平の名前がある。劇中に長谷川等伯が登場して絵を描くシーンがあるけれど、その長谷川等伯をやっているのが元永定正だったというのを、観終ってからの配役のテロップで知った。ほかにもそういう美術関係者の名前があれこれ。
 こういうのを観ると、映画というのは、映像美術という分野に属する美術作品なんだなあと思ってしまう。この映画、主人公の千利休が創出し、現代まで脈々と継続される「わび」の文化についての映像作品とも見れるけれど、それでも、ぴかぴかのワダエミの衣装デザインや、俳優たちの仮面のようなメイクアップを見ていると、かなり「フォニー(贋モノっぽい)」という印象を受ける。リアリズムから距離を取ろうとする勅使河原宏監督の演出姿勢なのだろうけれども、「わび」の素朴さ、という先入観からはちょっと懸け離れている。まあ、信長の安土城とか秀吉の聚落第とか、安土桃山は金ピカ文化だったとも云えるわけで、そっちのスタンスからのアプローチ、だったのだろうか。利休にしても金一色の茶室を造ったりしているか。
 演出としては、ファーストシーンの、「利休」というタイトルが出るまでの、秀吉が利休の茶室を訪れるシーン、ここの、意表を突かれるようなカットの連続に驚かされたし、面白かった。

 夜はフランソワ・トリュフォーの1971年の作品「恋のエチュード」をDVDで観る。似たような邦題の「愛のエチュード」という映画は、先日読んだナボコフの「ディフェンス」の映画化作品なのだ。「性のエチュード」という映画は、ない。
 この「恋のエチュード」の原作は、「突然炎のごとく」と同じ、アンリ=ピエール・ロシェという人らしいけれども、このアンリ=ピエール・ロシェはその二冊の小説しか書いておらず、しかも「突然炎のごとく」の原作、「ジュールとジム」を処女作として発表したのは、彼が七十三歳のときだったらしい。「突然炎のごとく」は、もうすっかり忘れてしまったなあ。また観たいのだけれども。でも、「恋のエチュード」と同じように、ナレーションの多用された作品だった記憶がある。むかし、その「突然炎のごとく」を観た時には、そのナレーションにとても違和感を持ったものだけれども、今回「恋のエチュード」を観て、そのあたりのことはそれほど気にならなかった。
 とにかく、恋愛心理を分析したストーリーがめちゃ面白くって、まさに「陽」と「陰」を代表するような姉妹のあいだで、その姉妹に愛されながら歩調を合わせられない男(クロード)の、十年間の物語。これを「悲恋」と呼べばいいのか、いや、時の流れの残酷さこそが主題なのではないのかという印象。「その時にはわからなかったことがある」という連鎖の十年間。メイキングを観ると、トリュフォーはこの作品のことを「ブロンテ姉妹を愛してしまったプルーストの物語」と語っている。なるほど。実にプルースト的な十年間ではないかと思う。推測で、おそらく、クロードは母をいちばん愛していたのではないだろうか。だから母の存命中は「陽」の存在、アンとの疑似恋愛に溺れるしかない。母の死後になってはじめて、「陰」であったミュリエルへの深いほんとうの愛を自覚するけれども、もうミュリエルは「愛のかたち」の記憶を求めるだけの人。
 ミュリエルの、「愛によってお互いに変化したくない」という考えがとても面白く、そのことを少し考えてみたくなる。思い出すのは、Derek & Dominos というかEric Clapton に歌われた「Layla(いとしのレイラ)」の原典になっているという、ペルシャ中世の物語「ライラとマジュヌーン」で、これは東洋文庫で翻訳が出ているのをむかし読んだけれど、つまり、純粋な愛を成就させるためには、思う相手に会ってさえいけないという物語だったわけで、愛というのは、その愛を寄せる相手と接触することで堕落してしまうということを述べている。この映画のミュリエルの考えをそれと同一視することは出来ないけれども、映画でも、最初の段階で二人の愛が本物かどうか確認するために、二人を一年間引き離してしまうという選択がなされることが出て来るわけで、この作品の根底にはそういう考えに近接したものがあるのではないかと思った。でもこの映画で描かれる愛は、決して「禁欲的」なものではない、という点が、「ライラとマジュヌーン」的な、中世ペルシャの恋愛観とは大きく異なるものだろうけれども。

 久しぶりに再会したクロードとミュリエルが抱き合い、ここでクロードが、「愛していた 君のために生きた 喜びも苦しみも知った」というのが、この作品で語られる「愛」の定義を、簡潔に言い表わしているだろうと思った。映像も美しく、特に前半の、クロードと姉妹が遊び戯れるイギリスの田舎の海岸のシーンが、圧倒的に美しい。自転車で石垣の向こうを走る三人、テニスに興じる三人、そしてラスト近くに思い出される、横に並んだ三人の映像。
 最近ずっとヒッチコック映画を観続けていたので、この作品の中でのヒッチコックの影響みたいなものも見て取れる気がする。最初のクロードがぶらんこから落ちるシーン、ミュリエルがテニスをしていて気分が悪くなる場面の編集など。

 今日の一曲は、順番から「月曜日ソング」でもって、昨日のSpanky がいかにMama Cass に似ていたかを示すためにも、Mamas & Papas の「Monday, Monday」にするつもりだったけれど、そういうわけで、話の流れからDerek & Dominos の「Layla」を。あ、Eric Clapton の1999年のライヴから。
 この曲が、Eric Clapton の親友George Harrison の奥さんPattie harrison への思慕からつくられた、というのは有名な話だけれども、Clapton は、この歌の原典「ライラとマジュヌーン」で語られた愛の定義をまったく守らずに、George と別れたPattie と結婚してしまう。これでは「愛」が成就しなかったというのも当然で、のちの破局は当然の成り行き、と思ってしまうのはわたしだけではなかっただろう。
 ちなみに、この「Layla」が最初にリリースされた1971年、レコード会社はこの曲が大ヒットするだろうと思っていたわけだけれども、予想に反して、Billboard誌では51位までしか昇らなかったのも有名な話。翌1972年になって多少ヒットするけれど、それでもチャートの10位どまり。現在はロックのスタンダード・ナンバーとして知名度の高い曲だけれども、実はその程度のヒットしかしなかった。それは、聴衆がそんな禁欲的な愛のかたちを嫌ったからかも知れないという感想も(この曲の歌詞のこと、ちぃっとも知らないけれど)。



 

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■ 2010-02-07(Sun) 「間違われた男」

[]Sunday Will Never Be The Same [Spanky & Our Gang] Sunday Will Never Be The Same [Spanky & Our Gang]を含むブックマーク

 急にコーヒー(もちろんインスタント、だけれども)を飲む量が増えてしまって、今月初めに買った100グラム入りの瓶が、もうほとんど空になっている。寒いので温かい飲み物を飲みたくなってしまうんだろうけれども、特に美味しいと思って飲んでいるわけでもないのがつまらない。熱燗を呑み続けるよりはましだろうけれども、健康に良いとも思えない。

 夜は、いつものようにユウが来る。タオルがお気に入りの遊び道具なので、では手袋なんかどうだろうと、ユウの入って来るあたりにおいていたらさっそく見つけ、夢中になって遊びだした。ひっくり返ったり跳び上がったりくわえついたり、大騒ぎ。ベランダの方に引っ張りだして行ってしまうので、「だめだめ」と、ベランダに取り戻しに行く。手袋をベランダに放り出したまま姿を隠しているので、手袋を拾ってまた部屋の中において、わたしはリヴィングに移動する。するとユウはすぐに和室に入って来て、また手袋で遊んで、またベランダに引きずり出して行く。これを取り戻しに行って和室におき、するとまたユウが遊んでベランダへ。これを五、六回繰り返す。ユウはわたしとのそういうゲームだと思っているのかもしれない。そのうちに手袋に飽きたのか、こんどはカーテンで猛烈に遊びだした。カーテンの下につかまって体ごとゆすってみたり、前足を伸ばしてぶら下がってみたり、外からカーテンの下を潜って飛び込んで来たり、狂乱。子ネコはこういうところが楽しい。
 ユウの滞在時間は最近短くなって、今日も一時間もいないでどこかに行ってしまった。

 武田百合子の「日日雑記」を読み始める。読み初めてすぐに、ああ、武田泰淳はもう死んでしまったんだなあ、などと思う。読み進んで行くと、「富士日記」に出て来たネコのタマが、まだ存命だった。十八歳になったと書いてある。時代は1980年代の後期になっているんだろうけれど、書かれているデパートの催し物の新聞折り込み公告は、今では想像が出来ないような庶民的な内容。まさに「昭和」だったんだなあ、と思う。二十年ぐらいしか経っていないのに。

 夜はヒッチコックDVD、今回借りているラストの「間違われた男」(1956) 。これまたシリアス路線のヒッチコックで、この前年に「ハリーの災難」を撮ってしまった揺り戻しなのだろうか。
 ヘンリー・フォンダとヴェラ・マイルズのつつましい家族の姿など、もろホームドラマの展開で、そのつつましいささやかな幸福がいかにぜい弱で、簡単に壊れてしまうものかというのを描いているような。本筋は「誤認逮捕」という問題ではなく、小さな幸せのぜい弱さをつねに意識して、「こんな生活はいつか壊れてしまうだろう」との不安を抱いていた奥さん=ヴェラ・マイルズの、その不安が現実になってしまう恐怖なのではないか。歯の治療を受けなくてはならなくなるという、ちょっとした非日常からの連鎖で、夫は逮捕されてしまう。この不条理の原因は自分にあるのだという思いの痛さ。
 こんな、幸せなホームドラマの崩壊を描くなんて、ヒッチコックという人は残酷な人だ。最後のテロップで「この妻は2年後に全快した」と読まなければ、どぉーっとまっ暗な気分になってしまう。ほとんど警察国家みたいな非人間的な警察の描写も強烈で、まるでソヴィエトの「粛正」や、中国の文化大革命の非人間性を告発する映画みたいだ。

 今日の一曲はまた曜日シリーズで、考えたら先週もそういう「日曜日ソング」を選んでいたんだけれども、誰に叱られるわけでもないし、まあいいでしょう。今回選んだのは、当時「フラワー・パワー」などと呼ばれていたヒッピー文化の初期に、そういうヒッピー・ファミリー的グループとして人気のあった、Spanky & Our Gang の1967年の彼ら最大のヒット曲「Sunday Will Never Be The Same」。日本でも「思い出の日曜日」というタイトルで、ちょっとヒットしたかな?
 Spanky & Our Gang は、この翌年だかにリード・ギタリストが亡くなられて(ドラッグが原因ではなく、暖房が原因の一酸化中毒死だったらしい)、まだまだという時期に解散してしまった。このライヴ映像を観るとわかるように、シンガーのSpanky ちゃんは、同じ時期に大人気だったMamas & Papas のCass Elliot にかなりそっくりで、実際、このSpanky & Our Gang 解散後、Mamas & Papas のツアーに同行して、そのMama Cass の代わりをつとめていたりしたらしい。
 当時のヒッピー的な音楽というのは、今考えるようなロックでは全然なくて、こういうソフト・ロック的なポップスが主流だったわけ。



 

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■ 2010-02-06(Sat) 「絶望」「私は告白する」

[]Saturday Night Special [Fad Gadget] Saturday Night Special [Fad Gadget]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20100207111050j:image:left 去年の夏に初めてベランダの外でミイの姿を見てから、ちょうど六ヶ月が過ぎた。ミイが少しずつ慣れてくることに並行して、いろんなことがあったものだと思う。ミイがどこかで出産して、その生まれた子のユウを連れてくるようになり、部屋の中にも入って来るようになった。その他にも、歓迎しない別の野良ネコたちもあれこれやって来た。外を歩いていてミイの住処を発見したり、ネコの世界のいろんなドラマを見て来てしまった。
 最近はユウとミイのために窓を開け放しておくことが多い(というか、夜間以外ほとんどの時間開けてある)ので、もうすっかり部屋が冷え込んでしまっている。足がしもやけのような症状になってしまった。いや、きっと、しもやけ。手の指の蜂窩織炎にしても、冷たい空気にさらしていたことも症状悪化の原因になっていたと思う。夜、風呂に入ると、風呂の外が寒いので風呂から出られなくなってしまう。

f:id:crosstalk:20100207111149j:image:right いつも朝来ていたミイが、昼間にしか来なくなった。ほんとはもっともっとミイといっしょにいたい。近くに寄ってもまったく警戒しないのだけれども、背中とか撫でてやろうとすると、いやがって身をかわす。
 ユウは、わたしが朝起きるともうベランダの外にいる。このベランダで夜明かししているわけではないと思うけれど、いったいどのくらいの時間にこのベランダにやって来るんだろう。

 ウラジーミル・ナボコフの「絶望」(大津栄一郎:訳)、読了。もう40年近く前に白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊として刊行され、そのまま絶版になっているもので、地元図書館の閉架に眠っていたのを検索で見つけだした。むかし一度読んでいて、ストーリーなどはちゃんと記憶していたけれども、久しぶりに読み返してみて、ちょっと若書きの(この小説は1934年、ナボコフ35歳の時のもの)、爆発してしまいそうなナボコフというのがとても楽しい読書だった。
 この、自分そっくりな男を殺し、自分が死んだことにして保険金をせしめようとする物語は、いかにもパトリシア・ハイスミスあたりが書きそうな題材で、ほかのハイスミス作品とちょっとごっちゃになっていたところがあったのだけれども、この「絶望」は、彼の作品の中では、のちの「ロリータ」や「青白い炎」に先行する、「狂った文学者〜Mad Novelist」の系譜に分類される作品だろうと思う。この「Mad Novelist」というのは、わたしが勝手にナボコフの作品を解釈して、「Mad Scientist」からの連想で、こう呼ぶのだけれども、犯罪を犯すような、狂人とみなされるような人物の残した、手記だとか書籍のかたちをとっている作品で、その分野での傑作が「青白い炎」だろうと思うし、これはまたナボコフの最高の到達点でもあると思う。これらの作品の主人公はみな、その文学的知識から世界をゆがめて解釈しているフシがあり、その歪んだ世界が文学的な修辞とともに作品として提出されているという印象。「青白い炎」ではナボコフは一人二役をこなして、まずある作家が執筆したという設定の、その作者の遺作となった長詩を提示し、その詩に対しての注釈者というクレイジーな人物が、その長詩にクレイジーな注釈、解説を付けて一冊の本になっている、という構成になっている。その詩と、注釈、解説から、背景にある奇妙な物語が読者に浮かび上がってくる。めちゃ面白いんだ。
 この「絶望」の書き手は小説家というわけではない(「ロリータ」の主人公、ハンバート・ハンバートも小説家というわけではない)けれども、自分の犯した犯罪を、一個の「芸術作品」として記録しようとしてこの「手記」を残している。まあ、手記が芸術作品を目指すのではなく、犯罪そのものが芸術作品だというのだけれども、この「犯罪」の前提には文学史における「分身」モノの系譜が意識されているわけだし、何よりもドストエフスキー作品(たしか、ドストエフスキーの作品にも「分身」というものがあったと思うけれども)にあらわれる「犯罪」に強く影響を受けている。
 まずこの本の面白いのは、主人公が自分を(「罪と罰」の主人公のように)選ばれた特別な存在と信じ、他者に侮蔑の視線を向けてバカにするのだけれども、読んでいれば、主人公こそが何も現実が認識出来ていない大バカで、その周囲の人間の視点こそが正しいのだと読み取れるように書かれているあたりの面白さで、特に、主人公の妻と、そのいとこという画家とは、明らかに不倫関係にあるのだけれども、主人公はどこまでもそのことに気が付いていない(これは、「主人公はわかっているけれど無視してるんだ」という読み方もあるようだけれども、わたしはそうは思わない)。さらに面白いのは、この主人公の自意識の記述、この手記を「芸術作品の記録」として成り立たせようとする修辞的努力の連続で、これらの中から、おのずから、「小説とは何か」という問題が浮かび上がって来ているように思えるし、一種の文学論になっているのではないか、ということ。ひとつ、ここでナボコフのやっていることは、まずはドストエフスキー的自我/自意識、そこから成立する文学の否定なのではないかと思う。「小説によって浄められる魂などない」という意識ともいえる部分もあるだろうし、「小説を著そうと考える作者の、選ばれたものという自意識」を侮蔑する目的もあるのではないのか。言ってみれば、人生訓的な小説、小説の精神論への疑問を提示しているのではないかと思う。わたしには、ナボコフの作品の面白さの一つには、このような側面があると思っている。
 あと、この作品で興味深かったのは、終盤に主人公が自らを「映画俳優」といつわり、ラストでは目の前で起こっていることは映画の撮影シーンだとして切り抜けようとするわけで、「小説」と「虚構」というテーマだけでなく、その「虚構」に、「映画」という表現も加えて考えている視点。一筋縄で行かない。

 ヒッチコック作品のDVD、今夜は1953年の「私は告白する」を観る。これは、緊迫したシリアスなドラマとして、すご〜いですね。登場人物を絞った俳優陣も、皆そろって際立った演技を見せて、緊迫感を増大させている。最初の犯人による懺悔室での告白もいいけれど、続いて来るモンゴメリー・クリフトとカール・マルデン(この俳優は昔から好き)との対面/対決シーンが圧巻。すごい。問題を的確について行く脚本の素晴らしさと二人の俳優の演技、そしてカットのタイミングなどの演出の妙が相成って、ぐいぐいと引き込まれて行く。あと、そういう印象に残るシーンでは、アン・バクスターの供述シーン。これはリアルに考えると、夫も愛人も同席するようなかたちでの供述などあり得ないのだけれども、そのことがめちゃ心理的な圧迫を生んで、おそろしいばかりのシークエンスになっている。しかもそこで回想される過去は甘美な恋愛ドラマ。なんという対比だろう。右へ右へと進んで、回想シーンと現実の部屋の中を畳み掛けるようにつないで行くカメラと編集に、見ていて頭がクラクラしてしまう。「なんだか真犯人の存在が忘れられてるな」と思い始めたところで、アン・バクスターと出合い頭に再登場して来る真犯人、そのタイミングも登場の仕方も絶妙。
 いままでヒッチコックの作品を観て、俳優の演技的な面に惹かれることはあまりなかったのだけれども、この作品は、そういう俳優の力量もまた際立つ作品だと思った。あとはやはり光と影の演出の巧みさとかもあり、冒頭の坂道を歩く男のシルエットとか、(これはちょっと「やりすぎ」ではないかと思うけど)十字架を担ぐキリスト像のシルエットの背後を歩く神父の姿とか、記憶に残るものだった(ラストの建物の黒いシルエットも、一瞬だけど良かった)。

 きのう、金曜日の曲を選んだりしたので、今日もその路線で今日の一曲を選んでみようと思うと、「土曜日」の曲というのは印象的なのが山ほどある。Chicago とかBay City Rollers とかすぐに思い出すけれど、わたしにとっての「土曜日ソング」の筆頭はこの曲。「まさかYouTube にもこの曲はないだろう」と検索したら、初めて観るライヴ映像が見つかってびっくり。しかも素晴らしいライヴだ。「今日の一曲」をむりやり考えたりしていなければ、とてもこの映像にたどり着くこともなかっただろう。うれしい。
 この曲「Saturday Night Special」を演っているのは、Fad Gadget 。Fad Gadget というのはFrank Tovay というアーティストのステージ・ネームで、Mute レーベルから三〜四枚のアルバムをリリースしていた。日本盤が出た記憶はないので、日本での知名度は極めて低いと思うけれど、ポスト・パンク〜インダストリアルの中でも「ネクラ」な音を聴かせてくれたアーティストだったと思う。調べたら、Frank Tovay は2002年に亡くなられてしまったようだ。まだ若かったと思うのに‥‥。
 この「Saturday Night Special」は、彼の1981年のアルバム「Incontinent」に収録されていた、タンゴのリズムの印象的な曲。‥‥わたしの大好きな曲です。



 

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■ 2010-02-05(Fri) 「舞台恐怖症」

[]Friday On My Mind [Easybeats] Friday On My Mind [Easybeats]を含むブックマーク

 最近ミイの来る回数が減り、滞在時間も短かくなって来たような気がする。今日は二回来たけれど、すぐに外へ行ってしまう。ユウにこの場所を譲ろうとしているのではないかと思ってしまう。ほんとうは、ミイの方に身近にいて欲しいんだけれども。わたしはミイの気高さ、優雅さのファンになっているのだから、その姿をいつまでも見ていたい。
 今日はユウの滞在時間もとても短かかった。どうやらチビと遊ぶ時間が多くなって来たようで、このベランダにも、チビとよくいっしょに来る。わたしの姿を見るとチビは逃げて行くけれど、ユウはあまり逃げなくなった。

 読んでいる「昭和文学全集」の月報に、中村真一郎が「昭和の詩」というエッセイを載せていて、その書き出しは下のようになっている。

 昭和の詩の歴史は超現実主義と共にはじまる。そして詩という文学ジャンルは、広い読者を失い、専門的知識のある、自らも作詞を試みる者たちの独占物となった。この状況は一般の文芸誌にほとんど詩を掲載することがなくなり、支配的批評家であった小林秀雄や中村光夫や平野謙らが、同時代の詩に関心を示さなかった、という現象にも明らかである。

 この現象は、今読んでいる昭和短歌の世界では、岡井隆による、島木赤彦による「アララギ」の確立によって「大衆化」が広まったことが、昭和期を貫通する大きな、太く強い文脈になったという認識、現象と合わせて考えられる。ここで岡井隆は、「大衆化」ということを、「すべての芸が、素人の参加によって広まって行く傾向」と説明しているようだけれども、中村真一郎が書くように、同じ時代に詩の世界が逆に先鋭化し、非—大衆化ともいえるような道筋を辿っていたのだとしたら、とても興味深い、昭和における言語の歴史のスタートを考えることができそうだ。重ねて岡井隆によると、「このころ、短歌が、一般文芸界とも、詩壇とも俳壇とも別れて、孤立した一つの領域をつくった」ということになる。大正時代には、北原白秋というような、詩と短歌を横断するような作家がいたし、折口信夫のような存在もあったわけだ。
 そういえば何年か前に、どこかの誰かが、吉増剛造のことを「国民詩人」と書いていたっけ。どういう「国民」だったのか。

 イカの塩辛がそろそろなくなって来たので、冷凍庫にあったスルメイカを解凍して、次の塩辛を作成。今回はワタが小さい。もうイカの塩辛作成の成功/失敗はすべて、このイカワタの大きさ一つにかかっている。まあイカワタが小さければ、なにもそのイカ全体を塩辛にしないで、半分ぐらいは別の調理法で食べてしまえばいいのだけれども。

 昼間は本を読みながら国会中継をつけっぱなしにしている。ちゃんと聴いていないけれども、今日は、なんだかよくわからない書類だかを提出しろ/しないで紛糾していた。「何やってるんだか」という感じ。

 夜はDVD、ヒッチコックのまだ観ていない作品シリーズ、「舞台恐怖症」(1950) を。マレーネ・ディートリッヒ出演で、この脚本はあきらかに彼女のためのあて書きだし、ヒッチコックの演出もカメラも照明も、すべて彼女の魅力を画面にあふれさせるために奉仕している。すばらしい。
 けっこう印象的なカメラの長廻しシーンの目立つ演出で、とにかく何といっても、ディートリッヒの衣装を取りに行く男が、そのディートリッヒの家の玄関ドアから中へ入り、階段を上って二階の部屋のドアを開けるまでを、切れ目なくワンカットで撮り上げたシーン。屋外から屋内へカメラが飛び込み、ぐうんと上昇して行く。アントニオーニの「さすらいの二人」のラストみたいだ!
 「ウソの回想シーン」に観客が騙される作品で、ヒッチコックは「やらなきゃよかった」と後悔したらしいけれど、ヘンリー・ジェイムズの小説にも、冒頭からそういう「ウソ」の独白で読者を騙してしまう作品もあることだし、ヒッチコックは後悔することもないだろうに、と思う。ただ、この探偵をやってしまう女性主人公、ちょっと、自分と何の利害関係もない事件に、そこまで首を突っ込みますか? っていうのが最後まで気になってしまって、女性主人公が行動を起こすたびに「うざい女!」と、思ってしまった。

 今日の一曲だけれども、これといって思い浮かぶのもないので、今日は金曜日ということで、金曜日の歌を選ぶという安易な路線。オーストラリアのビート・グループ、Easybeats による1966年のヒット曲、「Friday On My Mind」を。
 この曲はちょうど、イギリス勢ビート・グループによるBritish Invasion 真っ最中に世界中でヒットした曲で、アメリカなどではそういうBritish Invasion といっしょくたに考えられているのか、のちにRhino レーベルからリリースされたコンピレーション、「British Invasion」のシリーズにも収録されていたし、ガレージパンク集「Nuggets」にもまた収録されていたっけ。こうやって当時の映像を見ると、日本の「グループサウンズ」をも彷佛とさせられる。この曲、オーストラリアでは2001年になって、「Best Australian Songs of all time」に選ばれました。めでたしめでたし。



 

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■ 2010-02-04(Thu) 「李香蘭 私の半生」「三十九夜」

[]Baby, It's Cold Outside [Rod Stewart & Dolly Parton] Baby, It's Cold Outside [Rod Stewart & Dolly Parton]を含むブックマーク

 先日「フラワーズ・オブ・シャンハイ」を観ていたので思うのだけれども、上海の遊廓の世界と日本のそれとをいっしょには考えられないにしても、遊廓の世界と相撲の世界というのは、かなり似ているんだろうと。相撲部屋に弟子入りをしての修行とかは遊廓の「かむろ」みたいだし、力士=遊女、親方=女将、相撲部屋=遊廓そのままに見えたりする。「タニマチ」という存在もあるしね。そういう前近代的な制度、構造が現代の社会構造の中で軋轢を受けたりして、それで近代化を図ろうとしたりして、余計おかしな事象が起きたりする。相撲界の構造とはそもそもがそういう前近代的なものなのだから、そのことで相撲の世界の人間を責めるのは違うんじゃないかな、と思う。角界という前近代的な制度/構造を残しているのは国の意志なのだろう。力士にハングリー精神がなくなったとかいうけれど、いま徒弟制度が成立するような社会とも思えず、力士になるということが例えば貧困から脱出するための手段になるような社会ではなく、外国人力士が多くなるのは当然だと思う。相撲が「国技」というのなら、国としてどのように相撲界を存続させるのか、もっと考えた方がいいような気がする。それは、いま遊廓を復活させるとしたらどうするのか?という思考と似てくるのではないだろうか。

 今日は病院のハシゴ。最初は外科医に行って指の治療の続きで、いちおう通院はこの日でおしまい。わたしの指の症状は(多分)「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」というモノだったと思う。抗生物質の軟膏をもらって帰る。
 外科医の次は歯科医で、前の歯科医通院から考えて、もう足掛け四年ぐらい通院を続けているんじゃないかな(途中一年ほどは放置したけれど)。こちらの治療はまだまだ続く。

 読書、「李香蘭 私の半生」を読了。山口淑子本人と藤原作弥という人の共同執筆で、1987年刊行の本。日中戦争のさ中に「国益映画」と呼ばれることになる作品に出演して人気を博し、つまりは日本と中国とのあいだで自己のアイデンティティーのゆらぎを体験した芸能人の記録。「自分は日本人なのか中国人なのか」という迷いの中で、単純に一枚の戸籍謄本が結論を出す。その結論のあと、彼女の中の「中国人」はどうなってしまったのかが読み取れなかったのは残念。
 満映在籍時の甘粕正彦について書かれていれば読みたいという興味だったけれど、そのあたりの記述はあまりなかった。かわりに川島芳子についてのかなり突っ込んだ記述があり、このあたりは非常に面白く読んだ。李香蘭自身がスパイと疑われても仕方がないな(もちろん当人は否定しているけれども)。それにしても歴史に翻弄された人だった。

 「昭和詩歌集」、短歌編は前田夕暮、北原白秋、土岐善麿、釈迢空までざぁっと読む。口語体に近い前田夕暮の歌のリズムには興味を持つ。北原白秋はピンと来ない。むかしから北原白秋は苦手。土岐善麿は石川啄木を思い出すような主義者の歌。釈迢空まで読んで、そもそも「短歌」とは何なのかわからなくなり、巻末の岡井隆による「昭和短歌史」を読む。「昭和の短歌史は、大正十五年の島木赤彦の死から始まったといっていい」と。つまりは「アララギ」派の存在。わたしがここまで読んだ歌人には「アララギ」に関わった人が多い。

 昭和という時代は、赤彦的なものを疑い、否定する激しい動きと、赤彦的なものを存続させようとして努力する強力な潜勢力との抗争というかたちで始まったように思える。だから、赤彦的なものとはなにか、がわからないと、昭和の短歌の特徴について語れなくなる。先に赤彦の業績の特徴を三つあげた。「自然詠」とは、もともと、反近代の思想であろう。都市文化を中心として近代的な文明がさかんになったのが、明治大正時代の日本である。この社会的文脈は、現代にいたるまで貫かれている。明治末期から大正にかけて、「アララギ」の歌風が鼓吹した思想は、都市景観の美ではなくて、日本の山河の美しさということであった。ひろく自然の肯定ということであった。この対比をもう少し先までのばせば、中央ではなく地方(周縁)の重視ということである。人工ではなく素朴ということだろうし、万葉集以来の伝統の再発見という意味ではナショナリズムにつながって行く。

 ‥‥興味深い。わたしはこうして都市に生活することをやめて、周縁地域で生活することを善しとして生活しているけれども、「アララギ」で詠まれるような、日本の山河の美しさを讃えようという気持ちはない。もちろん周辺の風景の中に安らぎを感じたりはするけれども、そのことは「自然の肯定」というような意識とはちょっと違うと思っている。伝統がすべて良いと思っているわけでもないし。この「アララギ」的な自然詠への違和感というのは、自分の中でもう少し掘り下げてみたい。それは中央と地方との関係を捉えなおすことにもなるのかもしれない。その発端として「短歌」なるものを考えて、またこの「昭和詩歌集」を読んでみたい。

 夜はDVDで、ヒッチコックのイギリス時代の作品「三十九夜」(1935) を観る。「なぜ登場人物はほかの登場人物の言うことを信じるに至ってしまうのか」という裏付けをかなりすっ飛ばしていて、今どきならこういう脚本では映画に出来ないだろうなあと思うけれど(初期のヒッチコック作品にはこういうのが実に多い)、そういうムダな(?)描写に時間を費やすことなく、「信じたのだから信じたんだよ、ほら、信じたとおりだっただろう?」とばかりに前進して行く。のちにアメリカに渡ってからの「逃走迷路」、「見知らぬ乗客」、「知りすぎていた男」、そして「北北西に進路を取れ」などの作品で繰り返されることになるディティール満載で、そういう逃走劇のシチュエーションばかりをダイジェストでつなげて作ったような作品。やってみたいことを一本の作品にむりやり詰め込んでみたんだろうという印象。演出/編集/カメラワークなどで面白いシーンがいろいろとあった。見返せばまた「こんなことやっている」というのが見つかるだろう。

 DVDを観ているときに、また和室にユウが来ている。今日は和室からリヴィングの方まで移動して来て、わたしがTVモニターを観ている前を横切って行ったりする。なんてずうずうしい! だんだんに慣れて来ているけれど、今日はわたしが和室のモノを動かした音に驚いて逃げて行ってしまい、戻って来なかった。

 今日もとても寒い一日だった。ユウに「外は寒いから部屋に入っていなよ」と言ったりする。「Baby, It's Cold Outside」というわけで、窓を開けてユウが出入り出来るようにしておくのもつらいのですよ。
 「Baby, It's Cold Outside」という曲はスタンダード・ナンバーというか、実に多くのミュージシャンが取り上げているわけで、ほんとはわたしはJimmy Smith とWes Montgomery の共演盤がいいんだけれども、YouTube にはなかったので、「ふうん、こういうのもあったんだぁ」という、Dolly Parton とRod Stewart との共演盤。Rod Stewart もこうやってスタンダード・ナンバーなども唄って、コンサバな世界に入り込もうとしていたわけで、「商業主義にロックの魂を売り渡した男」と呼ばれるわけだ。



 

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■ 2010-02-03(Wed) 「オペラ座の怪人」

[]Come On A My House [Rosemary Clooney] Come On A My House [Rosemary Clooney]を含むブックマーク

 ネコのために、段ボールハウスを作る。ただ箱を組み立てて、側面1/4ぐらいを切り抜いて出入り口として開けておき、中には古いバスタオルを敷いておく。これを和室の隅に置いておくだけ。
 夜になってユウがやって来る。今日は少し風があるのでカーテンがなびいている。これが今日の新しい遊び道具になったようで、カーテンを足でさわってみたり、姿勢を低くしてカーテンの動くのを見つめ、さあっとその下をくぐり抜けて外に飛び出して行ったり、また部屋の中に飛び込んで来たりというのを繰り返して遊んでいる。そのうちに段ボールハウスを見つけて、ちゃんと中にもぐり込んで行った。ハウス製作成功!って感じで、チョとうれし。
 最初のうちは、入ってもすぐに出て来たり、外からカーテンの下を潜ってハウスに飛び込んでみたりやっていて、いつの間にかいなくなってしまった。今日はもう住処に帰ってしまったのか。しばらくしてから食事トレイを片付けるつもりで和室に入ってみると、段ボールハウスの中からこっちを覗いていた。おお、気に入ってくれたのか。ではそおっとしておいてあげよう。
 わたしがリヴィングでヴィデオを観ているあいだ中、ずっとその段ボールハウスの中に居たようだ。外は夜もふけて寒いから、今夜はそこに泊まって行けばぁ? もうこれからはずっと、その新築の家で暮らすといいよ。
 それでもユウはそのうちにフラッと外に出て行って、付近にもいなくなってしまった。やっぱり住処に帰ったのだろう。わたしもいいかげん寒いので窓を閉める。

 書くのを忘れていたけれども、きのうレンタルヴィデオ店へ歩いて行くとき、線路の向こう側で、ミイによく似た野良ネコの姿を見かけた。白黒のブチの感じも体つきも歩き方も、ミイととても似ていた。あれはきっと、ミイと血縁関係にある野良ネコではないかと思う。歩いてみると、野良ネコというのはあちらこちらで生きている。

 毎月の収支を決算して、いつももう少し食費を減らせるはずだと思いながら、なかなかこれが減らない。考えたのだけれども、これからは一週間単位で食費を決めて、その範囲でやりくりすることにしよう。今はだいたい、月に一度の米代を除外して、食材に週に二千円強はつかっている計算になるけれども、これをまずは二千円を超えないようにしよう。千五百円ぐらいに押さえることも楽勝に思えるのだけれども、とにかく財布の中に入れておく現金を制御しよう。まあわびしい食卓だなどと思ったこともないので、まだまだ工夫は出来る。
 そんな収支の計算をしたり、本を読んだりしながら、BSで中継している国会の予算審議、参議院での代表質問をちらちらと見ていたり聴いていたり。自民党議員の質問は、まだなお弱肉強食の競争社会を是としているように聞こえるし、しかも、弱者救済の福祉政策を、国民への「上から目線」と云って批判していた。自民党というのは、上から支配する警察国家を理想としていたのではないのか。どうも、福祉政策などというものを考えたこともなかったようだ。野党になって以来、こういう場でどんどん自分たちがバカだったことを露呈しているばかりのようで、とても面白い。

 図書館から借りたヴィデオで、またサイレント映画、「オペラ座の怪人」(1925) を観る。これは昔の邦題は「オペラの怪人」だったはず。監督はルパート・ジュリアンという人で、アメリカ映画。このヴィデオはパートカラー版で、おそらくは手彩色だろうと思うけれども、仮装舞踏会のシーンに赤と青の色があらわれる。モノカラーではなく、これはかなり美しい。怪人エリック役のロン・チャニー(チェイニー?)のメイクで有名な作品だけれども、清水アキラによる研ナオ子のものまねを思い出してしまう。‥‥いや、そんなことはない、みごとなメイクとみごとな演技。
 これは、ムルナウの「ノスフェラトウ」のような妖しさ、表現主義的な奥深さはないけれども、影をうまく使った演出とか、オペラ座地下のセット美術とか、娯楽作品としてとても楽しめる。わたしは冒頭の、オペラ座のダンサーたちが怪人の影を見て、皆で恐れおののくシーン、そのダンスめいた様式的な動作の演出が、楽しくって好き。
 オペラ座の経営者とかをキチンと描くことで、この物語に実は地政的な背景があることをあらわし、その視点から、美術などをふくめて奥行きを持たせているのだろうと思った。

 今日の一曲はネコハウスをつくったので、そういう「家」の歌を。「お家へおいでよ」というわけで、日本では、江利チエミのおハコの持ち歌としてかなりヒットしたと思う。オリジナルはRosemary Clooney で、この人はつまりはジョージ・クルーニーのご母堂様。日本語ヴァージョンでの歌詞の字余りな感じは、オリジナルからそのまま持って来られたものだとわかるけれども、江利チエミのキャラクターに合った、日本オリジナルの歌唱になっていた印象。Rosemary Clooney はこういう洒脱な曲をいくつか歌っていたのを記憶してるけれど、わたしは彼女の「Mambo Itariano」が大好きだった。



 

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■ 2010-02-02(Tue) 「農夫の妻」

[]Cold Days of February [Incredible String Band] Cold Days of February [Incredible String Band]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20100203093304j:image:right 今日も指の治療で病院へ行く。昨夜の雪はとうに止んで空は晴れ。道路にもほとんど雪は積もっていない。屋根の上のわずかな雪が融けて、ときどき音をたてて落ちて来る。空気が冷たい。川に白鷺が群れていた。

 病院で、また傷口を見てもらうのに医師に手を差し出すと、その手を取った医師が「ずいぶん冷たい手ですね」という。
 今日は違う塗り薬をつけ、また点滴を受ける。点滴室で先に点滴を受けている人が、看護婦さんと雪の話をしていた。

 木曜日にまた診察を受けることになる。

 病院の帰りにレンタルヴィデオ店へ寄り、中古で売っていた「シェルタリング・スカイ」のDVDを買ってしまう。好きな映画だし、DVDには特典映像で、この映画の撮影隊を取材したドキュメンタリーがついている。映画本編では見られなかった、サハラ砂漠の別の姿が見えるドキュメンタリー。
 今日はこのレンタル店でレンタルせず、そのまま歩いて三十分ほどの別のレンタル店まで足を伸ばし、そちらの店で、いつもの店に置いていないヒッチコックのまだ見ていない作品を借りる。トリュフォーの「恋のエチュード」などが突然置いてあるのを見つけて、これも借りる。棚を見ていると、この店にはタイトルを聞いたこともないような、おそらくは1950年代あたりに製作されたようなSF映画の在庫がかなりある。しばらくはこの店に通って、そんな映画をまとめて見てみようと思う。

 昼間は本を読んだり、一月の決算をしたりで過ぎる。夕方にスーパーに買い物に行き、白菜の大きいのがかなり安かったので、まだ家に前の白菜が残っているのに買ってしまう。夕食にその古い白菜を調理しようと取り出すと、包んであった新聞紙がぐっしょり湿っている。まあ買ったときから相当にひねた白菜だなあとは思っていたのだけれど、ちょっとこれは異常なので、半分に割ってみると、なんと、芯の部分がぐさぐさに茶色く腐っていた。「うへぇ」と、捨てる。地元農家から売りに出されている野菜には、ときどきこういうのがある。前にはじゃがいもが全部傷んでいたこともある。ちょっと古そうだなというのは買わない方がいい。
 夕食は白菜をしょうゆとかつお節で炒めたお手軽惣菜。これが異様に美味しくて、自分の味覚は安上がりなもんだと感心する。まあ安上がりの味覚というか、わたしの場合、自分でつくった料理がたいてい、いちばんおいしい。使った材料の履歴、料理の手順などが、頭の中に記憶されているせいだと思う。ひとのつくった料理は、どんなことされてるかわからないと思うと、ちょっと口に馴染まない味がしただけで、のどを通らなくなったりしてしまう。
 むかし大勢で集まって鍋料理をやったとき、もうヤミ鍋状態ですごい味になってしまっているのを、同じ鍋をつついていたみんなが「おいしい、おいしい」と食べていたことを、恐怖の感覚で思い出したりする。そんなに味覚音痴ではないと思うし、まあわたしのつくった料理は他人にも好評だった記憶もあるよ。もちろん自分でつくったものでも「今回は失敗だった」というのもあるけれども、とにかく、今日の白菜炒めは美味しかったという話。

 夜はさっそくヒッチコックの見落としていた作品を観るけれど、今夜の「農夫の妻」(1928) は、今日借りたDVDではなく、図書館で借りたヴィデオ。
 製作年代から想像がつくようにサイレント作品で、娘を嫁がせた男やもめの主人公が、四人の女性に求婚するけれども拒絶され、けっきょく、いろいろ相談に乗ってくれた身近の家政婦とゴールインするという、ほのぼのコメディー。
 冒頭の犬(名演技/名演出)とか、馬、ガチョウなどといろいろ出て来る動物たちが、田舎の農家の雰囲気を出していて気持ちいい。いつも口を「へ」の字にしている使用人のアッシュとか、お茶会をひらく家の奇怪なメイド(怪演)などの脇役陣も楽しい。ヒッチコックの演出はサイレントだからといってあまり字幕に頼らず、平気で無音のまま登場人物に会話させ、観るものに勝手に想像させるやり方。それでもやはり人物の表情は誇張して、主人公の男性の表情の変化など、凄まじいものがある。笑ってばかりいる女性、いつもおどおどしているような女性とかの描写も楽しく、そのおどおどした女性が、皿に大きなプリンを持ったまま動揺したときに、皿の上のプリンもいっしょにぷるんぷるん揺れるシーンが最高だった。イギリスの田舎の雰囲気がすてきな作品でもあった。

 ヴィデオを観ているあいだ、ずっと和室の窓を開けておいて、ユウがいつでも来られるようにしておいた。ユウはやって来るんだけれども、わたしが和室に行くと逃げるクセして、ときどきわたしが顔を出しておどしてやらないと、すぐに出て行ってしまう。いなくなったのでわたしがベランダに顔を出すと、どこかでミイミイ啼いてからやって来る。いちどなど、駐車場の反対側からわたしの方に駆け寄って来たこともあった。それでもある距離を置き続けているのは、近くにいたいけれどもまだこわいというのか、わたしの対し方がどこかポイントを逃しているのか。今日もきのう遊んだタオルで夢中で遊んで行った。滞在時間は三十分ぐらい。

 今日はいちにち、残った雪のせいか、空気が冷たかった。昨日も寒かったので、二月ではあるし、Incredible String Band の「Cold Days of February」という曲を。
 この曲は彼らの1974年のラスト・アルバム、「Hard Rope And Silken Twine」収録の、Robin Williamson の作品。わたしはこの曲の内容がよく解っていないでいたのだけれども、今日、こうやってYouTube でこの曲を検索してみると、つまりこの曲の舞台はスコットランド北部のオークニー諸島で、その地に第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて存在した海軍基地をテーマにしているらしい。なるほど、そういう設定ならば、二十世紀に戦争で命をなくした人々への追悼を、オークニーの廃墟に立って唄うという、この曲の立ち位置が見えて来る。この曲、意外なことに痛烈な反戦歌だったというわけか。知らなかった。
 基地の廃棄されたこのオークニー諸島は、現在はダイヴァーたちの集まるスポットになっているらしいけれども、この映像のように今もなお、基地の跡や墓地(墓銘は英語だけではない)が残っているのだろう。このオークニーは厳寒の地のようだけれども、どうしてもこの極東の地からは、同じような歴史(だろう)の、沖縄の基地を思い浮かべてしまう。沖縄から基地は一刻も早く消え去るべきだし、この地上から(いや、空の上からも)軍略基地はすべて消滅するべきだ。



 

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■ 2010-02-01(Mon) 「ピンク・キャデラック」

[]Reflection [Pentangle] Reflection [Pentangle]を含むブックマーク

 朝、窓を開けると、ベランダにミイとユウが両方来ている。ユウはわたしの姿を見て少々あわてるのだけれども、そのあわてぶりを見ていたミイも、いっしゅん驚きをみせる。いつもクールなミイがそういう動きをみせるのはとても珍しいことで、「バカな子」だと、あきれたのかも知れない。ミイはちょっと食べてすぐに出て行ってしまい、ユウに順番を譲っているような。

 右手の状態がいつまでも良くならない。放置していて指切断なんてことになってもイヤだ。もう病院へ行くことにする。病院は以前住んでいたところの近く、肉離れした時に一度行った病院。
 担当医の方が、わたしの指の状態を見て、まるで腐乱した惨殺死体を見ているみたいに、顔をいっぱいにしかめて「ひどいですねー」という。たしかに自分で見ても、ちょっとグロいなって思い始めていたからな。でも、そこまでイヤな顔をすることもないと思うけれど。なんていう症状なのか覚えられなかったけれど、つまりは皮膚と肉のあいだで化膿しているわけだ。中指、薬指、小指に軟膏を塗ってからそれぞれを包帯でぐるぐる巻きにされ、抗生物質の点滴を受ける。たいへんなことになってしまったぞ。明日もう一度通院し、様子を見て治療法を決めるとのこと。当たり前のことだけれど、「濡らしちゃいけませんよ」と云われる。やっぱ、傷がある状態で、毎日米をといだり調理とかしていたのは良くなかったな。

 急に自炊をストップするわけにもいかないので、病院の帰りに百円ショップでゴム手袋を買って帰宅。昼食はインスタント・ラーメンに白菜や人参をぶち込んで、簡単にすませる。ベランダの外を見ると、ユウがいた。チビも来ていた。見ていると、とても楽しそうに遊んでいる。ずいぶん仲がいいんだな。まあ仕方がないや。

 午後から、TVでクリント・イーストウッド主演の「ピンク・キャデラック」(1989) をやっているのを観てしまう。吹き替えはなつかしい山田康雄で、こういうちぃっとコメディ調のイーストウッドにぴったり。保釈中に逃走した女性を捕えて、その護送中にあれこれ、というのは「ガントレット」を彷佛させられてしまう。それでも、吹き替えのせいもあるだろうけれども、気楽な作品に仕上がっていて、けっこう楽しんで観てしまった。イーストウッドの、軽い演技がいい。この作品の舞台はこれはアメリカ南西部なのか、そういうアメリカの田舎の雰囲気とかもいい感じ。

 夕方から雨が降り始め、暗くなる頃には雪に変わって、すぐに屋根などに積もってしまっている。また雨になったり、雪になったりを繰り返す。
 暗くなってから、いつものようにユウがベランダに来ている。わたしはリヴィングで昨日の続き、「フラワーズ・オブ・シャンハイ」のセリフを書き取る作業をやっているので、和室の方にネコフードを用意して窓を開けておいて、ユウの勝手に出来るようにしておく。ときどき和室を覗き込むと、部屋に入って来て、じっとしていたりしている。そのうちにチビまでやって来てしまったので、「キミは招待していないよ」と、和室の方に入って行くと、二匹ともあわてふためいて外へ逃げてしまう。それでもしばらくするとユウだけは戻って来て、わたしがベランダを覗いてみると、またミイミイと啼き始める。「外は寒いから入っておいで」とか言って、またリヴィングに戻っていると、和室に入って来てるみたい。ちょっと覗くと、和室の床に落ちていたタオル地のハンカチを見つけて遊んでいる。ずいぶん気に入っているようで、片足で押さえてみたり、両足でかかえて後ろ足だけで立ち上がってみたり、噛み付いてみたり、ひとりでバタンバタン遊んでる。
 しばらくするとさすがに飽きてしまったようで、また外に出て行ったりするけれど、また戻って来て部屋の隅でじいっとしていたりする。「部屋にネコがいるというのは、こういうことなんだよな」と、このときはもうほとんど、ユウはわたしの飼い猫気分。
 さて、セリフ書き写し作業も終ってしまい、和室に移動したいんだけれども、和室にはユウがいるわけで、わたしが行けば当然逃げてしまう。外は雪が降っていて寒くって、ユウをそんなところに追い出してしまうようになるのはかわいそう。まあとにかくわたしが眠くなるまでは放っておこうと、リヴィングで本を読む。
 十一時頃になって和室を覗くと、いつの間にかユウはいなくなっていた。ベランダに出てみても、もう辺りにはいないみたい。住処に帰ったのだろうか。まだユウはミイと同じ住処に居るんだろうか。とにかく、わたしも窓を閉めて眠ることにする。ユウは考えてみると今夜、この部屋の中に三時間くらいは居たことになる。今までになかったこと。

 今日は天気が雨だったり雪だったりして、Pentangle の「Rain And Snow」という曲を思い出していたのだけれども、YouTube で探しても見つからなかった。で、同じPentangle の、その「Rain And Snow」が収録されていたアルバム「Reflection」から、アルバムタイトルにもなっている「Reflection」のすばらしいライヴ映像を。ジャズとフォークとブルーズの融合された、ワンアンドオンリーな孤高のサウンドを、生演奏で楽しみましょう。

 

 

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