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■ 2010-03-31(Wed) 「誰も、何も、どんなに巧みな物語も」・二○一○年三月のおさらい

[]Martha's Harbour [All About Eve] Martha's Harbour [All About Eve]を含むブックマーク

 三月もこの日でおしまい。今日は今月二度目の横浜で、BankART Studio NYK での「地点」の公演、「誰も、何も、どんなに巧みな物語も」を観に行く。今日も、終演時にはもう、こちらへ帰ってくることの出来ない時間になるのはわかっているので、その覚悟で出かける。ユウくんはまたお留守番。特別に、めざしをあげようね。

 少しゆっくりと家を出て、延々と乗り継いでみなとみらい線の馬車道駅で下車、目的地を目指すけど、BankART Studio NYK というところに行くのが久しぶりなので、道を間違えてまっすぐに、赤レンガ倉庫の方に行ってしまいそうになる。間違いに気が付いて正しい道に引き返すと、すぐにLさんとMさん(Lさんに会うのも久しぶりだけれども、Mさんはこの時が初対面)に遭遇。彼らも少し道を間違えたみたいで、いっしょに目的地へ。到着したBankART Studio NYK では、先月の黒沢美香公演でもお会いしたNさんOさん、そして観劇の場でお会いするのは久しぶりになるPさんなどにも会う。開演。

 この日の公演についての情報は、以下の通り。

テクスト/ジャン・ジュネ
構成・翻訳/宇野 邦一
演 出/三浦 基
出演/安部 聡子  山田 せつ子

 ということで、ジュネのテクストは美術論の「ジャコメッティのアトリエ」、演劇論の「‥‥という奇妙な単語」、パレスチナ・レポートの「シャティーラの4時間」という三つのエッセイから構成されたもの。
 「地点」は、昨年も太田省吾氏のテクストから構成した「あたしちゃん、行き先を言って」というのをやっていたけれど、これはどうも、わたしには何とも理解不能な舞台だったという印象で、実はほとんど記憶にも残っていない。で、今回の公演だけれども、太田省吾氏の仕事もほとんど知らずに観た前回公演に比べ、まあとにかくジャン・ジュネ。その演劇論については知らないけれども、「ジャコメッティのアトリエ」は大むかしに読んだ記憶はあるし、とにかく今回の公演で選択されたテクストは、「いかにも」という感じで、少々あざといのではないかという印象。「美とは傷である」とか、「デッサンにおいて、描かれた線を見るのではなく、その余白の空間を見なければいけない」などというのは「ジャコメッティのアトリエ」からだろうし、墓地や累々たる死体のありさまを語る部分はパレスチナからのものだろう。そういう選択が実にティピカルな印象を受けるわけだけれども、そこから余計に「では、なぜジャン・ジュネ?」という疑問が頭をもたげて来る。あまりにジャン・ジュネしすぎるテクストの選択。
 それでもわたしは、安部聡子という才能を持った役者さんのことはいつも気にかかっていて、この公演でもいままでの彼女には見られなかったアプローチを見て取れたような気がするし、こうして彼女の舞台を観ることが出来て満足している部分もあるし、それでも少し、不満足に感じている部分もある。これはまだ今回の公演がワーク・イン・プログレスということから来るのかもしれないけれども、ちょっと素のリーディングに終っている部分が多かったように思ったのか? ダンスに関しては、なぜこれがジュネのテクストと共に、同じ場で演じられなければならなかったのか、わたしにはわからなかった。ある人の文章をあれこれコラージュして舞台に乗せるのでは、「地点」にはかつて「じゃぐちをひねればみずはでる」という素晴らしい舞台があっただけに、なにか残念。そういう印象。

 終演後、けっきょく、わたしを含めてLさんからPさんまでの六人で飲む。このメンバーでは、お互いにちゃんと感想を述べ合わなければいけない(どんなメンバーでもそうか)。同じ舞台を観たときの、人の意見を聴くのはまた、観劇自体のように刺激を受けることになる。ほぼ終電まで飲んでしまい、この夜はLさんの部屋に泊めていただく。電車の中で日付けが変わり、エイプリル・フールの日になったので、今日はここまで。

 今日の一曲は、みなとヨコハマに行ったことにちなんで(BankART Studio NYK のテラスからは海が見える)、そういう「港」の曲を。「Martha's Harbour」はイギリスのフォーク・ロック・バンド、All About Eve の代表曲で、1988年のヒット。美しいJulianne Reagan のシンギングでどうぞ。



 

[]二○一○年三月のおさらい 二○一○年三月のおさらいを含むブックマーク

 三月のおさらい。雪の多い、寒い三月だった。下旬に入るまでは順調だったけれども、動物が冬眠から醒めるように、それから急に映画を観始めてしまい、かなりの支出になってしまった。アラン・レネが悪い。それでも計算すると食費はついに八千円を切り、過去でいちばん低い記録になっている。でもこの月は外食が多くなり、これは食費支出が減った反作用というわけでもないのだけれども、トータルするといつもの月と変わらない。これは費用はあとで戻って来るけれども、PHSの水没事故というのもあったし、余計な支出のかさんだ月だった。タバコの消費は前月に続いて減った。

 観劇はふたつ。どちらも、わたしには納得出来ない部分はある。

  観劇:
●3/10(水)チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』作・演出:岡田利規 @横浜美術館レクチャーホール
●3/31(水)地点上演実験Vol.3 『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』演出:三浦基 @BankART Studio NYK

 映画はまだ今年に入ってから、ロードショー公開作品というのをまったく観ていない。しかし、アラン・レネ! これはほとんど「事件」と言いたくなる出会いだった。

  映画:
●『ハデウェイヒ(原題)』(2009) ブリュノ・デュモン:監督
●『イングロリアス・バスターズ』(2009) クエンティン・タランティーノ:監督
●『スペル』(2009?) サム・ライミ:監督
●『ミュリエル』(1963) アラン・レネ:監督
●『六つの心』(2006) アラン・レネ:監督
●『風にそよぐ草』(2008) アラン・レネ:監督

 今月は珍しく、音楽のライヴに出かけた。ちょっと良い刺激になったと思う。

  音楽:
●3/20(土)KLAUS SCHULZE Live in Japan 2010 クラウス・シュルツェ日本公演 @東京国際フォーラムホールC

 読書はあまり捗らず。しかし、「綺想礼讃」は、面白かった。

 読書:
●『歌のありか』菱川善夫:著
●『綺想礼讃』松山俊太郎:著

 DVD鑑賞はヒッチコック鑑賞も終り、少し雑多になって来たけれども、古い作品を中心に観ていることに変りはない。初めて観たワーグナーの「ヴァルキューレ」には心動き、増村保造の1960年代中期は絶好調だなあ、などと思う。

 DVD/ヴィデオ:
●『楢山節考』(1958) 木下惠介:監督
●『黒の超特急』(1964) 増村保造:監督
●『兵隊やくざ』(1965) 増村保造:監督
●『清作の妻』(1965) 増村保造:監督
●『楢山節考』(1983) 今村昌平:監督
●『美しい夏 キリシマ』(2002) 黒木和雄:監督
●『フランケンシュタイン』(1931) ジェームズ・ホエール:監督
●『ミイラ再生』(1932) カール・フロイント:監督
●『魔人ドラキュラ』(1931) トッド・ブラウニング:監督
●『民衆の敵』(1931) ウィリアム・A・ウェルマン:監督
●『汚れた顔の天使』(1938) マイケル・カーティス:監督
●『哀愁』(1940) マーヴィン・ルロイ:監督
●『オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー』(1946) オーソン・ウェルズ:監督
●『オール・ザ・キングスメン』(1949) ロバート・ロッセン:監督
●『ハスラー』(1961) ロバート・ロッセン:監督
●『何がジェーンに起こったか?』(1962) ロバート・アルドリッチ:監督
●『ローズマリーの赤ちゃん』(1968) ロマン・ポランスキー:監督
●『地球爆破作戦』(1970) ジョセフ・サージェント:監督
●『追憶』(1973) シドニー・ポラック:監督
●『エレファント・マン』(1980) デイヴィッド・リンチ:監督
●『ラジオ・デイズ』(1987) ウディ・アレン:監督
●『ウディ・アレンの重罪と軽罪』(1990) ウディ・アレン:監督
●『PLASTIC CITY プラスティック・シティ』(2009?) ユー・リクウァイ:監督
●ワーグナー『楽劇<ラインの黄金>』(1990) ジェイムズ・レヴァイン:指揮 オットー・シェンク:演出
●ワーグナー『楽劇<ヴァルキューレ>』(1990) ジェイムズ・レヴァイン:指揮 オットー・シェンク:演出

 あと、TVで観たものに、『デルス・ウザーラ』(1975) 黒澤明:監督など。

 四月もまた、アラン・レネ作品の上映に何度か通うことになるだろうけれど、ここで徒食をしないことが課題、だな。


 

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■ 2010-03-30(Tue) 「清作の妻」「ヴァルキューレ」

[]The Ride of The Valkyries (Richard Wagner) [Pierre Boulez] The Ride of The Valkyries (Richard Wagner) [Pierre Boulez]を含むブックマーク

 書くのを忘れていたけれども、先日観たタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」、映画の最初のタイトルバックに流れていた音楽は、「遥かなるアラモ」という曲。これはジョン・ウェインが監督・主演した1960年の映画「アラモ」の主題曲で、日本でもBrothers Four の歌でかなりヒットしたもの。タランティーノは、アラモ砦の攻防を、この「イングロリアス・バスターズ」になにか重ねようとしていたのだろうか。
 それともうひとつ。映画冒頭のフランス郊外のユダヤ狩りのシークエンス、ここはモンテ・ヘルマンの1965年の作品「旋風の中に馬を進めろ」へのあきらかなパスティーシュで、かなり意識的に「旋風の中に馬を進めろ」と同じ進行にしていた、と思う。

 今日はまた増村保造監督のDVDを観る。今日観たのは、1965年の「清作の妻」。原作は吉田絃二郎という知らない作家で、脚本は新藤兼人。映画は日露戦争前夜の片田舎の寒村が舞台。主人公のおかね(若尾文子)は貧困ゆえに庄屋のご隠居(殿山泰司—良い!)の妾になっているが、ご隠居の急死で、厄介払いで幾許かの金を与えられ、実家へ戻される。老母と二人暮しの生活はほとんど村八分状態。やはて母は死に、隣村から遠縁の白痴の男を引き取り、養っている。村に愛国模範生の清作(田村高廣)が兵役を終えて帰って来る。村の生活に規律を与え、村の若者のリーダー的存在になるが、おかねに惹かれ、周囲の反対を押し切っておかねの家で同居するようになる。日露戦争が始まり、清作はふたたび兵役につき、村人総出の大掛かりな見送りで旅順に出兵する。しばらくして清作は負傷して村へ戻って来る。傷を癒し、「次にはみごとお国のために戦死してみせる」と誓う。村人も彼の英雄的戦死を望み、「国のために死んでこい」という。清作を愛するおかねは、清作のふたたびの出兵の日に、手にした五寸釘で清作の眼をつぶす。夫婦共謀の兵役忌避ではないかと疑われ、清作も軍法会議にかけられるが無罪、おかねは懲役二年となり刑務所へ行く。当初はおかねの行為を激しく憎んでいた清作だが、やがておかねの意志を理解し、出所したおかねをあたたかく迎え、どのように周囲から迫害されようとも村で二人で生きようと決意する。

 これは、いままで観て来た増村監督の作品でも、飛び抜けて良かった。この時期の増村監督の作品をすべて観ているわけではないけれども、この「清作の妻」に前後する「黒の超特急」、「兵隊やくざ」、「陸軍中野学校」とモノクロ作品が続き、そのモノクロ画面の厳しさが、それぞれの作品の強度を高めるような佳作が続いている印象。この時期の増村監督、絶好調なのではないのか。
 この「清作の妻」で描かれているのは、ひとつ増村監督のテーマであった「個と組織」の問題の追及、という側面もあるのではないかと思うけれども、時代を日露戦争開戦時の好戦ムード、軍国主義のスタートともいえる時期に置き、全体主義に反抗する個の力を讃えていると読み取れる。そこに、ひとりの薄幸の孤独な女性を主人公に置くことで、イデオロギーではないちからで、いのちの大切さを訴え、「個」を越えた、愛に結び付いた「共生」への道を示す。実は、同時期の「兵隊やくざ」と表裏関係にある作品なのだ、と思う。そう、ちょっとだけ出て来る心やさしい白痴の男、浩三の存在がとても良い。

 今日はもうひとつ、図書館から借りているヴィデオで、ワーグナーの「ヴァルキューレ」全曲の舞台を観る。先週観た「ラインの黄金」と同じく、メトロポリタン歌劇場管弦楽団による演奏。指揮はジェイムズ・レヴァインで、演出はオットー・シェンクという人。
 ‥‥これは、強烈。「ラインの黄金」でのちょっと静的なイメージから、突然にエキセントリックで闘争的、情念的な舞台に転換する。ジークリンデとジークムントのドラマティックな愛情の交換も見せ場、聴かせどころだろうし、やはり第三幕の序、「ヴァルキューレの騎行」は<すごい>。そして、ヴォータンとブリュンヒルデによる、運命に従わなければならない、悲しさに満ちた終幕まで、実にもって面白い。
 この「ニーベルングの指輪」の物語など、このヴィデオを観るまではまるで知らなかったのだけれども、つまり「ヴァルキューレ」とは、戦死者たちの中から勇敢な戦士を選びだして、戦いの神ヴォーダンのもとへ連れて行く九人の女性の半神、なのだと。起原は北欧神話にあるらしく、このヴィデオでは馬に乗ってなどいないけれども、本来は武装して天馬に乗った姿であらわされるらしい。このブリュンヒルデという存在は、のちにこの「指輪」のキー・パーソンになるわけだけれども、宮崎駿の「崖の上のポニョ」で、ポニョの本来の名は、この「ブリュンヒルデ」というものだったわけ。すると、宗介は、「ジークフリート」というわけだったのかよ。このヴィデオでは、美術こそかなり大掛かりな岩山をイメージした舞台になっているけれども、第三幕のヴァルキューレのシーンは、特に意匠を凝らしたような演出はしていない。ここは、演出家によってさまざまな演出がなされて来た、一種の「見せどころ」らしいということ。
 一般に、「ニーベルングの指輪」のなかでも、この「ヴァルキューレ」がいちばん人気が高く、上演回数も多いらしいのだけれども、たしかにそういう事情もうなずける、面白いヴィデオだった。しかし、昔の人は、こういう舞台映像は観ないで、ただレコード音源だけでこういうオペラを楽しんでいたのだと思うと、そうやって聴いていた人たちの、それぞれの頭の中で想像されていたであろう舞台の「映像」はどんなであったのか。いちど映像を観てしまうと、もう、そういう空想の上で音楽を聴くことは出来ない。

 今日の一曲は、その「ヴァルキューレの騎行」の場面を、ブーレーズが指揮した舞台の映像から引っ張って来ました。しかし、YouTube がヴァージョンアップしたようで、わたしのシステムでは昨日までは観ること出来たはずなのに、再生出来なくなってしまった映像が、一気にたくさん出現してしまった。そういうわけで、今日アップした映像も、実は自分では観ることが出来ていないのです。


 

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■ 2010-03-29(Mon) 「黒の超特急」「オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー」

[]TV Screen [Iggy Pop] TV Screen [Iggy Pop]を含むブックマーク

 今日はその筋の工事の方が、地デジ用のチューナー設置に来て下さった。ユウには和室に移動してもらって閉め切り、リヴィングを掃除したら、広々として快適な部屋の姿になった。たまに人が来るというのも、気分転換に良い。チューナーの方は、ここがつまりはマンションで、部屋への引き込みアンテナ設備がまだ旧アナログ対応のままなので、そこが変更されないとチューナーは設置出来ない。まあその変更工事もやってもらえるようなのだけれども、まずは家主さんの許可が必要になるというわけで、それまでおあずけ。
 しかし、今の時点で地デジ対応にしてしまうと、それ以降、いままでのアナログ放送は受信出来なくなってしまうのだろうか? どうも今の地デジ放送の内容がよくわからないので、少し不安(あまりTV番組は見ないのだけれども)。

 DVDを二本観た。

 一本は、増村保造監督1964年の作品「黒の超特急」。この増村保造監督の「黒の試走車」から始まった大映「黒」シリーズの、11作目で最終作。すごいのはその第一作からここまで、わずか足掛け三年で11作もこのシリーズが製作されていることで、しかも1962年は「黒の試走車」1本だけで、1963年と64年には5本ずつ製作公開されているし、その第6作以降はすべて田宮二郎主演。当時のプログラム・ピクチャーの製作状況の一端が想像出来るというもの(このうち、増村監督のものは「黒の試走車」、「黒の報告書」と、この「黒の超特急」の三本)。
 しかし、この「黒の超特急」は面白い。まず、やさぐれた不動産屋という主人公の造型がいいし(彼が東京に宿泊するうらぶれた旅館がまた良い)、背後の黒幕の存在、裏切り、寝返りという、ノワールものの構造がぴしりと押さえられ、モノクロ画面に鋭い構図と奥行きで定着されている。ヒロイン役の藤由紀子という女優さんの、物憂げな暗い感じも、その鬱陶しい前髪とともに役にピッタリ。最後に事件は解決するけれども、それで主人公が得たものより失ったものの方が大きいという結末も、ハードボイルドしている。
 観終ってもやはり、億単位の金を動かす政界を巻き込んだ犯罪の影で、その犯罪に利用される薄幸の女性の存在、主人公の彼女へのシンパシーが心に残り、そんな彼女を救えなかったという無念さが伝わってくる。組織対個人の問題を捉えるというのが増村監督作品のひとつの系譜とするなら、この作品では、その問題のひとつの残酷なかたちがしっかりと提示されていた感じで、力強い作品に仕上がっている印象。「兵隊やくざ」、「卍」と、この時期の増村監督の作品を最近観たけれど、この時期の増村監督、好調なのではないかと思う。「兵隊やくざ」で見せた猛烈な乱闘シーンの演出が、ここでも田宮二郎がチンピラに襲われるシーンに生きているし、「卍」のエロティシズムも生かされている。

 もう一本観たのは、オーソン・ウェルズの1946年の作品「ストレンジャー」。DVDのタイトルは、正確には「オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー」というもの。戦後アメリカに逃亡し学校教師として田舎町に潜伏している元ナチスの戦犯を追い詰める話で、ジョン・ヒューストンらと並んでオーソン・ウェルズも脚本に参加、自らそのナチスの逃亡者を演じている。「第三の男」ばりの「影」の描写の多用された作品で、ちょっとばかし面白い演出もあるのだけれども、追うもの(エドワード・G・ロビンソン)、追われるもの駆け引き、というサスペンス要素が、圧倒的に欠けている印象。ここにオーソン・ウェルズの新婚の妻(ロレッタ・ヤング)が、夫を信じるかどうか、という問題が加わったのが、どちらのサスペンスも中途半端に浅くしてしまった原因かも知れない、と思った。「ストレンジャー」とはつまり、その田舎町での新参、オーソン・ウェルズのことでもあり、彼を追って来たエドワード・G・ロビンソンのことでもあるわけだけれども、そういう存在を「ストレンジャー」と認識するのは、その町の住民の眼、だろう。そういう住民の視点も弱いような。
 オーソン・ウェルズが、劇中でナチスの思想を語る場面がある。そこでは「ニーベルンゲンの歌」から説いてドイツ人の根本にある精神が語られ、ナチスの思想と結び付けられる。オーソン・ウェルズはこれ(ドイツ人の精神)を非難するように語りながら、実は擁護している、というわけなのだけれども、ここは脚本の中でも妙に力が入っている(重たい)ように聞こえた。オーソン・ウェルズが書いたのだろうか? そして、こういう意見を聞いてドイツの人はどのように感じるのだろうか? 日本人が、「万葉集」の頃からすでに「神国意識」を持っていたのだと外国の人に説かれたら、どういう感想を持つだろうか?

 今日の一曲は、まあ昨日の「六つの心」のラストシーンからの連想でもあるし、ダイレクトには今日、TVチューナーの取り付けがあるはずだったなどということ、DVDを二本も観てTVのスクリーンに釘付けだったことなどから、この「TV Screen」という曲を。
 この曲は、1994年のエミール・クストリッツァ監督作品「アリゾナ・ドリーム」に使われていた曲で、この頃はずっとクストリッツァ監督作品の音楽を担当していたゴラン・ブレゴヴィッチの作品。ゴラン・ブレゴヴィッチの、東欧の香りのする魅惑的な音楽は大好きで、この「アリゾナ・ドリーム」のサントラ盤も持っていたし、今でも、ゴラン・ブレゴヴィッチの映画音楽を集めたコンピレーション盤は愛聴盤。そういえば、昔イヴェント関係で五〜六人集まって飲んだとき、ひょんなことから、その中の三人までが「アリゾナ・ドリーム」のサントラ盤を持っていたことがわかったりした。この曲を歌っているのはIggy Pop。


 

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■ 2010-03-28(Sun) 「六つの心」

[]Cherry Cherry [Neil Diamond] Cherry Cherry [Neil Diamond]を含むブックマーク

 いやな浪費がまた始まってしまって、やたらと映画を観たくなっている状態。とにかくアラン・レネの新作「風にそよぐ草」があまりに面白かったので、出来るかぎり開催中の「アラン・レネ全作上映」に行ってみたいし、今までほとんど観ていないテオ・アンゲロプロスの、その特集上映にも行きたい。

 そういうわけで、日曜日もアラン・レネ。今日はやはり日本未公開だった2006年の作品、「六つの心」を観る。

 近年のアラン・レネ作品、もう出演者がほとんど固定しているようで、まるで「アラン・レネ劇団」とでもいいたくなる雰囲気。ヒロインはずっとサビーヌ・アゼマという女優さんで、この人はどことなく雰囲気が往年の秋川リサを思い出させるものがあって、「11PM」なんか思い出して、なつかしい。これにアンドレ・デュソリエだとか、ピエール・アルディティ、ランベール・ウィルソンなどという男優がからんでくる。登場人物も多くはなく、先日観た「風にそよぐ草」もこの「六つの心」も、基本的に五人しか出て来ない。その前に観た「巴里の恋愛協奏曲」(これがめちゃ楽しい映画だったので、今回の上映会も心に引っかかることになったのだけれども)も、コーラスガールをのぞけばやはり五〜六人の出演だったし、いよいよ「劇団」めいてくる。

 で、この「六つの心」。おそらくはパリの街を舞台にした六人の男女の物語で、この表面的なフォルムは、ハリウッド製のハートウォーミングなラブコメ映画に、実に近似している。例えばわたしの観た作品でいえば、「ラブ・アクチュアリー」などという作品を思い出してしまう。おそらくこの「六つの心」、公開されても、そういうハリウッド映画に馴れ親しんだ観客にも受け入れられるものだろうと思う。しかしそれでも、やはりここにあるのは単純に「ハートウォーミング」などと云っていられない、まさに映画的世界が繰り拡げられていて、観るものに深い楽しみを与えてくれる。別にハリウッド作品を蔑視してこのように書くのではなく、ハリウッドでも、このくらい深化した作品を造り得る契機はいくらでも持っているはず、ということ。

 この映画に登場する六人(ひとりはその声と足でしか映画には登場しない)の相関関係、まずは不動産屋の男(ライオネル)がいて、妹(歳が離れていて、どうみても親子にしか見えないけれども、字幕によると兄妹)と二人暮しをしている。ライオネルの同僚の女性(シャルロット)は信心深く、TVの宗教番組の録画ヴィデオをライオネルに貸してあげたりする。仕事のあとには老人介護もやっていて、彼女に父親の介護を頼むのがバーテンダーの男。彼は父親との関係、それまでの過去を悔やんでいる。そのバーテンダーの店(ホテルのバー)の常連が、たしかダンという男で、無職で酒びたりということもあって、同棲している彼女とうまくいっていない。ダンの彼女はライオネルの不動産屋で快適なアパルトメントを探していて、そうすればダンともうまくやって行けるのではないかと思っている。
 けっきょく、ダンと彼女はしばらく別居することにして、ダンは新しい彼女を「出会い系サイト」みたいな雑誌の広告で探す。ライオネルの妹がダンと会うことになるけれども、ライオネルの妹は、実はそういう「出会い系」でのコンタクトをずっと続けている。
 ライオネルはシャルロットから借りたヴィデオをいやいや見るけれども、その宗教番組の録画が終ったあとのテープには、彼女のヒミツの趣味の様子が録画されているのを見る。ライオネルはそちらが彼女からのメッセージなのだと思う。シャルロットは介護先でも、老人の前でそのヒミツの趣味を披露して、老人は昇天(?)。ダンが前の彼女と会って善後策を協議しているところをライオネルの妹が目撃し、また絶望して家に帰る。そして、シャルロットはバーテンダーにも録画ヴィデオを貸してあげるのだ。

 あらすじを書くとこんな感じだけれども、この作品、この六人のほかに、とても大事なものが常に画面にあらわれてくる。それが「雪」で、この映画の冒頭から、雪もようの街の空の上からカメラが雪の中を降下して来て映画が始まる。シーンの変わるときには必ず降る雪の描写があり、登場人物の着ている服の肩にはいつもたいてい、白く雪がかぶっている。冒頭のカメラの降下以外のすべてのシーンが室内なのだけれども、窓の外にはいつもいつも雪が降っている景色が見える。おそらくは三〜四日にわたるこの映画の中の経過時間で、そんなに長く降り続ける雪など考えられない。まったく、リアルな描写ではあり得ない。終盤、シャルロットがバーテンダーの部屋で彼の悩みを聴くシーンで、いっしゅんアップになるその室内のテーブルの上、二人の手が重ねられる場面で、そのテーブルの上にはうっすらと雪が積もっている。この非現実的シーンを導き出すための、それまでの雪の描写、柔らかい光に包まれたようなソフトな画面、そして演出の力。シャルロットは「克服すべき地獄はわたしたちの内部にある」と語る。決して「ハートウォーミング」などとは云っていられないテーマであって、実はこの作品、その人の内部の「地獄」を、実にやわらかく描いている。人の内部の地獄を「冷徹」に描くなんて、ある意味では誰もがこころみるイージーなこと。そうではなく、この「やわらかさ」、「雪」のようにふんわりと描くことの中にこそ、このアラン・レネの映画の真骨頂があるのだと思った。ラストに、ライオネルと妹とが、シャルロットからもらったヴィデオの再生画面を見つめているシーンがある。そこには何も録画されていないだろう。いつまでも黒い画面がモニターに流れ、そのTVモニターに「Fin」の文字が浮かぶ。

 「風にそよぐ草」でもそうだったけれども、この、映画的な「Fin」への意味の込め方、単純にこの映画が終るしるしとしての「Fin」ではなく、物語の中に深く関わった「Fin」。映画が終ったあとになっても、そのモニターの中の黒い画面に浮く「Fin」の文字が、まだ宙に浮いている。

 やはり、アラン・レネ、素晴らしい!

 上映会場の外、駅までの道にそってお堀があり、そこには桜並木が続いている。今年は桜の花が咲くようになってからまた寒くなったので、桜の木はつぼみのまま、その花を咲かせるのを待機しているように見える。木によって、その花の咲かせ方に差があるみたい。まったく花の開いていない木もあり、もう五分近く咲いている木もある。力のある木はもう我慢出来ずに花を咲かせるけれども、慎重な木はまだまだ花を咲かせるのを待っているのか。
 今日の一曲は、そんな「桜」の歌を探して。
 その後ビッグ・スターになってしまったNeil Diamond の、これは、わたしの知る限りでは彼のデビュー・ヒット曲。1966年にトップ・テン・ヒットになっていて、この頃にはわたしも「カッコいい歌手が出て来たなあ」などと、うかつにも思ってしまった。そんな、これはまだ普通にロックしてる曲だったのだけれども、だんだんに聴いてもつまらない曲ばかりリリースするようになり、それなのに皆大ヒットして、こういうアダルトな世界と自分との乖離を感じたものであります。


 

■ 2010-03-27(Sat) 「綺想礼讃」「ミュリエル」

[]Goodbye [Mary Hopkin] Goodbye [Mary Hopkin]を含むブックマーク

 金曜日の深夜というか土曜日の早朝は、だから「G」の閉店までねばり、そのあとは下北沢の駅の方へ行って、ファミレスのようなところで電車が動き出すまで。松山俊太郎の「綺想礼讃」を、この店で読み終わる。澁澤龍彦の小説の解題のところはただの先行作品名とかの羅列とかが多く、かなり読みとばしたけれども、この長い批評集の最後に収録されている、唐十郎への批評文が面白かった。「単独者のポエジー、あるいは、わからなさの魅力」。松山氏は唐十郎について書くのに、彼の「わからなさ」について書くしかないと思う。そこでこう考える。

 どうも、唐十郎の人と作品の「わからなさ」にひっかかるのは、実際まったくわからない点も無数にあるが、むしろ「同意」という情緒的な形で「納得」されたことが、論理的にはいつまでたっても「了解」されないという、心理的葛藤を起させるためではないだろうか。

 ‥‥なるほど、と思う。近年の唐組のテント芝居を観ていても、この「わからなさ」の問題は、わたしのまわりでやはり頭をもたげて来ている。ある人は唐十郎のコアなファンである男性から、「女の人には唐の芝居はわからないんじゃないのか」と云われたことを、めっちゃ憤慨していた。わたしはむしろ、男性よりも女性の方が、唐十郎は「わかる」のではないかと、漠然と思っていたこともある。わたしといっしょに唐組の芝居を観た友人は、「となりに高校生ぐらいの客がいたけれど、彼らにはアレがわかるのだろうか」と云ったこともある。今は他人の古い知人は唐十郎の演劇が解らず、レッテルを貼らないと気がすまないのだろう、別役実といっしょくたに「不条理演劇」にしてしまっていた(解らないものはすべて「不条理演劇」と処理するのは便利だと思ったらしい)。わたしにしても、唐十郎の演劇の一種独特の陶酔感に、あの紅テントの中に身を浸して体感することの喜びはたしかにあるのだけれども、すべてわかって観ているのかと問われれば、答えることに窮してしまうだろう。しかし、このように分析されると、「なるほど、たしかにそういうことなのだ」と、合点がいってしまう気がする。松山氏の分析は続く。

 唐の作品は、意識的に構成された作品であることは言うまでもないとして、「万人共有の郷愁と欲求に対する、最大公約数的な心理的解決」という、集団無意識のための「夢」としての機能を持っているが、同時に、「意味不明な『状況』に対する、奇想天外な意義づけ」という、癲癇の発作にも似た「打上花火」でもある。この三者は、覚醒時の理性的思考、睡眠時の夢、入眠時の幻覚と過剰連想に、それぞれ対応する。

 つまり、「意識的に構成された作品」=「覚醒時の理性的思考」、「万人共有の郷愁と欲求に対する、最大公約数的な心理的解決」=「夢」、「意味不明な『状況』に対する、奇想天外な意義づけ」=「入眠時の幻覚と過剰連想」ということ。さらに松山氏は唐十郎の魅力について、

 しかし、唐の演劇では、この幻覚的・詩的・一回的でビザールな要素が、解けない謎のまま、夢的・メールヘン的・反復的でノスタルジックな要素と化学反応を起すことが、人物のドラマティックな対立の欠除という欠点を填(うず)めているのであるから、「わからない」で素直に驚いている方が正しい鑑賞態度ではないだろうか。唐の作品は「わからない」ところも、魅力的なのである。

 こう分析されると溜飲が下がるというか、妙にすっきりとしてしまい、まさに「解題者」松山俊太郎ならではの分析だと思った(「人物のドラマティックな対立の欠除という欠点」というのはよくわからないが)。さっそくにまた、紅テントに潜り込みたくなってしまう。もう少し待てば、五月には新作「百人町」の公演が待っている。

 電車も動きだしたので店を出て、ホームレス気分で山手線の中で寝る。山手線は一周してほとんど一時間に等しく、これを二周ちょっとやって、上野駅構内のカフェで、コーヒーを飲んでタバコを喫う。また山手線に乗り、ぐるぐる廻って時間をつぶす。ようやく今日観る映画の時間が近づき、上映場所の日仏学院へ行く。コンビニでパンを買い近くの公園で軽い昼食。桜の花がだいぶ咲いて来ているけれども、まだお花見気分になれるほどの開花状態ではないと思う。たぶん、来週末が絶好調になるのではないか。

 まだ時間があるので、近くにあった「近代科学資料館」というところに行く。これはこの場所にある大学に附随した資料館で、無料見学が出来る。「計算機の歴史コーナー」、「エジソン・コーナー」「体験コーナー」などがある。あまり時間がなくてゆっくり見ることは出来なかったけれども、まったくアナログな機械式微分解析器、十九世紀末に開発されたパンチカード・システム、1960年につくられた国産初の電子計算機の巨大さ、その内部構造などに、心動かされた。次はもっとゆっくりと観に来たい。

 さて、映画の上映時間。今日観るのは、アラン・レネの1963年の作品「ミュリエル」。「去年マリエンバートで」の次の作品で、やはりデルフィーヌ・セイリグ主演。ずいぶん昔にいちど、観ることは観ていて、多少は憶えている。しかし今日は極端な寝不足、それでこの「ミュリエル」。ひょっとしたら爆睡してしまうのではないかと恐れていたけれども、たしかに時々意識は遠のいてしまったとはいえ、かなりきちんと鑑賞出来たのではないのか。ちょっと展開でわからないところもあったけれども、それがわたしが眠さでポイントを見損なっていたためなのか、もともとそういう作品なのか、わからないのだ。
 北フランスの田舎町で、過去に囚われて生きる人々。このあたりは第二次世界大戦での被害も甚大で、ようやくその傷あとも消え去ろうとしている。主人公エレーヌは町で古い家具とか骨とう品を商いしているけれども、その家具をまだ実際に実用に使っていたりする。このあたりにこの作品の「過去」への視点があわられる。映画の冒頭にその店を訪れる客へのエレーヌの視線(エレーヌの眼に映ったもの)の、意識的な映像編集。短いカットの積み重ね。エレーヌは過去の恋人を呼び寄せるけれども、男はもう「まがいもの」になっている。いや、「まがいもの」なのは、エレーヌの側にあるものなのかもしれない。ラストに男を追って駅に行くと、その駅はもう列車が停まらなくなっている。エレーヌの息子ベルナールもまた過去に囚われていて、彼はアルジェリアでの従軍体験の悪夢から抜けられない。それが、「ミリュエル」という女性のことで、ベルナールはミュリエルと婚約していると言い、エレーヌにはしばしば「ミュリエルに会いに行く」といって出かけたりする。そのミュリエルが誰なのか、どんな存在だったのかは、ここに書いてしまってはいけないかもしれない。
 不安を募らせる、シェーンベルグの歌曲のような歌が何度も流れ、その歌詞(ダイレクトな歌詞がちょっと映画にぴったり過ぎるかも)やメロディがやるせない。こういう、ある面で人と人とが根本のところでディスコミュニケーションであるような設定(エレーヌとほかの登場人物との関係など)は、アラン・レネのさまざまな作品に出てくる問題で、「ヒロシマモナムール」のダイアローグの根底にも潜んでいただろうし、昨日観た最新作、「風にそよぐ草」にしても、やはりこの問題は影を落としていたのではないかと思った。

 映画終了。まだ外は明るい。昨日「G」に行ったとき、店のIさんが今月いっぱいで辞めてしまうと聞いていたので、Iさんとの最後のお別れに、また「G」へ行く。店へ着いて、カウンターの中はIさんひとりだった。カウンターには店のオーナーのJさん。Iさんは喜んでくれて、「もうコサカさんには会えないかと思ってた」などと言われる。まるでメロドラマの再会だ。しばらくして客でギタリストのKさんも来る。Kさんと会うのもとても久しぶり。元気そうで、いま買って来たという「猫背矯正用ベルト」というのを見せてもらった。じっさいに身にまとってみせてくれて、ちょっと「大リーグボール養成ギプス」みたいだと言ったら、「まるでちがう」と否定された。「大リーグボール養成ギプス」をつけたら、ギターのピッキングの力がつくのではないかなどと話したら、じっさいにそういうピッキング力を増すためのグッズは存在するそうだ。
 あまり飲み過ぎるといろいろと経済状況など大変なことになるので、早めに退散。帰り際にIさんにあいさつして、握手してもらったら、柔らかくてあたたかかったので、ドギマギしてしまった。見ていたGさんにからかわれる。

 東京から帰宅。ユウはもちろん食べるものを全部食べてしまって、おとなしくしていた。「待たせたね」と、食事を準備して出してやり、わたしが姿を隠すとすぐに、ぼりぼりと食べる音が聞こえて来た。

 今日の一曲は、Iさんとお別れしたので、そういう「Goodbye」を。これは唄っているMary Hopkin の、大ヒット曲「Those Were The Days」に次ぐ1969年のヒット曲。この曲も良いです。「Those Were The Days」は「悲しき天使」というタイトルで日本でもヒットして、たしか唐十郎がこの「悲しき天使」について書いた文章を、むかし読んだ記憶がある。今日観た映画「ミュリエル」にも似合いの曲かもしれないし、今日はMary Hopkin の日、ということにいたしましょう。


 

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■ 2010-03-26(Fri) 「イングロリアス・バスターズ」「スペル」「風にそよぐ草」

[]Till The End of The Day [Alex Chilton / Yo La Tengo] Till The End of The Day [Alex Chilton / Yo La Tengo]を含むブックマーク

 散々思い悩んで、けっきょくアラン・レネの新作を観に行くことにする。しかも、その前に、名画座でタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」、サム・ライミの「スペル」の二本立てを観るという、異常な計画をたてる。さらに、どうせ明日も東京に居ることになるのだから、明日の昼、ついでにもう一本アラン・レネの作品、「ミュリエル」まで観てから帰ろうと、ある意味暴走ともいえる計画。あれこれとスケジュールを考え、しばらく部屋を空けるのでユウの食事を多めによそおってあげ、水もたっぷりと置いて、じゃあね〜とあいさつして家を出る。

 まず、アラン・レネの方が満員になると入れなくなる可能性もあるので、先に渋谷に出て、映画館で当日チケットを入手。整理番号は8番。前売りを買っている人が百人ぐらいいるらしいので、その人たちが先に入場してからだけれども、余裕で席を選べそう。
 今日もおにぎりをつくって持って来ているけれども、これは夕食用にして、昼は渋谷の安いランチの店で済ませる。まあ500円とかで済んで安いのだけれども、ぜんぜん美味しいものではなかった。牛丼で済ませるとか、あと百円プラスして、いつもの上海食堂にすればよかったかもしれない。でも、ゆったりと座れて食事出来たということをプラスに考えよう。食事終了。取って返して高田馬場へ移動し、早稲田松竹で二本立てを観る。

 まずは、クエンティン・タランティーノ監督の去年の作品、「イングロリアス・バスターズ」。どうせ映画はフィクションなのだからと、これまでどんな映画も動かさなかった根本の歴史的事実もくつがえす「偽史」映画。なるほどなあ。ちょっと「ええ!?」と思うけれども、爽快感はまた格別というのか、観客の気持ちとしては、「喝采」だろう。ユダヤ系の人たちの復讐心と、ネイティヴ・アメリカンの復讐心を重ねる演出が効いているわけだ。導入部のフランス郊外の農家シーン(カメラが下降して床下を映すショット)、中盤の地下居酒屋のシーン(地下の密室性をうまく描写した演出)の緊迫感にみとれ、クライマックスの、映画館爆破シーンの構成の面白さにみとれてしまう(立ち上がる煙に映される、巨大な女性の笑い顔)。死者が大勢出るけれども、二人の女性を除いて、すべての死体はドイツ軍であるかドイツ軍服を着用した人物だというのも爽快さにつながり、二人の女性へのシンパシーが高まるんだろう。しかし、冒頭からフランス語、英語が入り乱れ、ドイツ語になって、最後にはイタリア語まで乱入。こんなに最初っから字幕だらけの映画は初めて観た。字幕嫌いのアメリカ人とかが、よく支持したものだと思う。フランス語〜ドイツ語から、英語への切り替えにいたる脚本が面白い。

 二本目はサム・ライミ監督の、やはり去年の作品「スペル」。ものすごくステレオタイプな、どうってことない脚本で突っ走るんだけれども、そのデコレーションぶりが奇矯というか、「やり過ぎ」のアホらしさを十二分に意識した演出が面白い。徹底してやり過ぎのディティール。音が非常にうるさく、こういう大音響で盛り上げる作品は大好きなので、映画館で観てよかったと思う。ヒロインが墓を掘り返すシーンの「(報われない)がんばり」が、感動的。いちばんラスト、地獄に引きずり込まれるヒロインの姿のあとに「Drag Me To Hell」という原題が、大きくバァァ〜ンと出てくる。笑った。

 それで最後は本日のメーンイベント、渋谷に移動してのアラン・レネ監督の新作鑑賞。まずはまた109の2階、チケットぴあの前のスペースでおにぎりを食べ、腹ごしらえを済ませてから、会場のユーロスペースへ。驚くほど大勢の人が劇場のロビーにあふれている。同じフロアの、もうひとつの映写室でのレイトショーの時間とバッティングしていたようだけれども、そちらの方の客が皆映写室に入ってしまったあともまだ、ロビーは人にあふれている。
 入場が始まって、楽勝で好みの席に座ることが出来た。前売り入場者が70人ぐらい、当日券入場者が100人を超えている。この映写室の席数は145席だから、30人ぐらいは立ち見。立ち見といっても、ほんとうに立って見られるとほかの座って見ている人の邪魔になるから、通路に座って見ることになる。そうすると座席よりずっと低い視点になって、見にくいことはなはだしいだろうと想像する。早くチケットを買っておいて良かった。

 さて、その「風にそよぐ草 (Les herbes folles)」(2008)。1922年生まれのアラン・レネ、86歳の作品。もうここまで来ると、経験からの映画文法への自在なアプローチというか、いまだ衰えない実験精神の成果というか、噂に聞いていたとおりのぶっ飛んだ作品で、わたしなどの「映画を観る」という楽しみを満喫させてくれる、驚きに満ちた104分だった。無理をしても観に来て、本当によかった。

 まずは街を歩く女性(サビーヌ・アゼマ)の足を追うカメラから始まり、そこに「彼女の足は特別だった。だから普通のところへは行かない」などというナレーションが、かぶさってくる。彼女は新しい靴を買いに行くのだ。その靴を買う様子、店の中の様子が映され、彼女は一足の靴を買って外へ出る。歩いていて、後ろから走って来た若い男にバッグを奪われてしまう。宙になびくバッグのスロー映像。どうしようか考える彼女。靴を返品して現金を得て帰宅、風呂の中で「どうしようか」考える。ここまで、彼女の赤い髪(帽子?)の拡がる、その後ろ姿は映るけれど、どうしても彼女の顔は映されない。この風呂のシーンで初めて彼女の顔が画面に登場するのだけれども、それがバスタブの中で泡にあふれた湯に浸かり、顔だけをぽっかりと浮かべた姿。「なんやいな、この映画。」って感じ。
 その彼女の盗まれたバッグの中の財布が、ショッピングセンター地下の駐車場でおっさん(アンドレ・デュソリエ)に拾われるのだけれども、まずはちょっとばかしこのおっさんが変なもので、警察署の警官、おっさんの妻、財布の持ち主(実は歯科医)の同僚の友だちまで巻き込んで、実に奇怪な展開になだれ込む。奇怪な展開というのはストーリー展開だけでなく、演出自体が奇ッ怪、といってしまっていいんだろう。カメラは自在に妙な動きをエスカレートさせ、登場人物のイメージした映像が画面の中に丸くはめ込まれるという、今ではほとんどお目にかかることの出来ないような、ある意味チープな演出方法にお目にかかったりする。街の映画館でおっさんの観る、朝鮮戦争を扱った古いアメリカ映画「トコリの橋」が重要な役割を果たし、実はパイロット免許を持っているヒロインにもつながって行く。郊外の飛行場に展開が移行し、その格納庫の中に第二次世界大戦時のイギリスの名戦闘機「スピットファイア」の姿が突然に登場する場面の、不思議な感銘。終盤、まだ映画が終る前にいちど「Fin」の文字が画面にあらわれ、20世紀フォックス映画の有名なファンファーレが流される。強烈にずっこける。映画はさらにずっこける展開でもう少し続き、カメラが野を越え山を越え、まるで時間も越えてしまうように、おっさんの妻の過去のある情景を捉えて終る。これらの展開が決して「とりとめもない」とか「ドタバタ」とかいう印象ではなく、非常に重層的に「映画」なるものの魅力の伝わってくる印象。たとえば「電話」とか「手紙」とかの使い方。脚本のストーリー展開にたよるのではない、映像的な展開でみせて行くところ。「こんな映画観たことない」ということで、これはめっちゃくちゃに面白かった。素晴らしい。もういちど(何度でも)観たい。アラン・レネ、素晴らしい!

 映画が終ってだいたい十一時。ここから井の頭線で池の上まで行き、久々にまた「G」へ行く。店にはGさんとHさん。この二人もかなりの映画好きなので、けっきょく閉店(二時)まで映画の話をする。明日からユーロスペースではアンゲロプロス監督の特集が組まれていることを知らせると、「知らなかった」と驚いていた。二人で、自分はどれとどれを観に行こうかと話し合っている。そう、前回ユーロスペースへ行ったときにはチラシ類もなく、そんな予定があることなど全然気が付かなかった。わたしもアンゲロプロスは複数本観たい。これではまた経済状態がひどいことになってしまう。

 今日はいちにち映画三昧の日だった。一日の終るまで映画、だったので、今日の一曲は「Till The End of The Day」という曲で。またまた追悼Alex Chilton だけど、オリジナルはKinks の1965年のシングル。この曲をつくったRay Davies は出来映えに大満足で、大ヒットすると思っていたらしい。しかし、ヒットチャートでイギリスでは8位、アメリカでは50位までしか上がらなかったのでRay Davies はがっくり。いい曲だと思うし、わたしは好きだけれども、当時のKinks のイメージの、ちょっとひねくれた感覚からは離れた曲だったかもしれない。


 

■ 2010-03-25(Thu) 「何がジェーンに起こったか?」

[]Kangaroo [This Mortal Coil] Kangaroo [This Mortal Coil]を含むブックマーク

 ネコのユウくん、まずわたしが朝起きて動き始めると、ひとしきり騒ぎ出す。食事を出してあげると、これはすぐに全部食べてしまう。そんなにおなかが空いているのかと、おかわりを出すとそれには手を付けない。昼間はまるでおとなしくしている。たまに覗いてみると、こちらを見てミャアと啼く。夜になって、わたしがもう寝ようとする頃に、また騒ぎ出す。これはかなりの大騒ぎで、近所から苦情が来るのではないかと心配になるほど。食事はその後もほとんど食べていない。

 冷たい雨の一日。今日は西にあるスーパーに買い出しに行く。このスーパーの価格がいちばん安いものが多いのと、木曜日には、買い物合計から10パーセント割り引きになるということが分かったので。インスタントコーヒー、バナナ、焼そばなどを買う。このあと、線路の向こうのスーパーで玉子と牛乳の特売日。玉子十個88円、牛乳一パック148円。牛乳はずっとむかしは(東京にいた頃)もっと安く売っていた記憶があるけれど、最近、このあたりではこれ以上安い価格にはならない。さらに近くのドラッグストアへ行き、賞味期限の迫った半額の食パン、最近はこの店がいちばん安値のキャベツ、ハムなどを買う。食パンはいつもこのドラッグストアで半額のを買い、冷凍庫で保存している。わが家の冷凍庫の真ん中の段には、食パンのパッケージがいつもずらりと並んでいる。
 今月はあまりムダな買い物をしなかったので、おそらく食費はいままでの最低ラインの記録になると思う。おそらくは八千円弱でおさまりそう。これ以下にもって行くのは、ちょっとキツイかな。

 夜はロバート・アルドリッチ監督の1962年の作品、「何がジェーンに起こったか?」を観る。ベティ・デイヴィス&ジョーン・クロフォードのぶっつかり合い。いろいろなところで賛辞を聞くロバート・アルドリッチ監督の作品、もっと観てみたいのだけれども、レンタル店にあまり置いていない。
 こういうサスペンスものは監督の手腕が発揮される分野だけれども、ロバート・アルドリッチ、がっしりしてうまいものですね。細部をおろそかにしないで、時系列などもあまり省略しない。ひとつのシーンが、もうちょっと刈り込んでもいいのでは? と思えるぐらいに執拗に描いている印象だけれども、そういう描写もけっきょく、全体の中で無駄というわけではなく、この二人の姉妹の周囲を、しっかりと攻めで描写することにつながっている。撮影(アーネスト・ホーラー)がやはりすばらしく、わたしは、足の悪いジョーン・クロフォードが、階段を下りて電話器に向かうシーンのカメラ、編集がすごいと思った。階段の途中から、ジョーン・クロフォードの見る階段下の電話器のイメージが何度か挿入されるのだけれども、最初の方ではジョーンの視点に合わせて、上から見下ろした電話器のイメージなのだけれども、「もう少し」というところで、急に、床から電話器を見上げるイメージになる。視線が合わないのだけれども、このあとにジョーンは階段から降りて、床に転がって電話器ににじり寄ることになる。この、時間的には少し先のことになるイメージを先読みで挿入し、観客の不安感をリードするというか、映画という表現での「時間」の問題で面白い演出だと思った。あと、この姉妹の物語を浮き上がらせるために、例えば隣家の親子であるとか、マザコンの奇怪なピアニストであるとかの、周囲の人物の描写がすっばらしい!
 ストーリーとしては、楳図かずおの「おろち」の、映画にもなった「姉妹」に、かなり影響を与えているのではないだろうか。ワイルダーの「サンセット大通り」からは、こちらが影響を受けているか。ほかにも、禁断の屋敷モノであるとか、監禁モノであるとか、サスペンスの王道を行くようなテーマが並んでいるわけだ。
 とにかく、とても面白かった。ロバート・アルドリッチの作品はやはり、もっと観てみたい。

 今日の一曲は、いちおう自分の中でAlex chilton の喪に服する期間は終ったのだけれども、もう一曲、彼の作品をほかのアーティストが取り上げたものを。
 これは、イギリスの4ADレーベルのアーティストが結集してつくられた企画グループ、This Mortal Coil のファーストアルバム、「It'll End in Tears」(1984) の一曲目に収録されていた「Kangaroo」。このアルバムには3曲目にもAlex Chilton の「Holocaust」が収録されているわけで、どちらの曲もAlex のオリジナルをここで紹介しているけれども、とにかくこのアルバムによって、Alex chilton の再評価のきっかけが生まれたりもする。しかもこのアルバム、そのAlex chilton の2曲に挟まれて、Tim Buckley の「Song to the Siren」のカヴァーが収録されていて、これは大ヒットになって、やはりTim Buckley の再評価につながることになる。とにかく、わたしには怒濤の導入部を持つアルバムということである。


 

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■ 2010-03-24(Wed) 「追憶」

[]Alex Chilton [Paul Westerberg] Alex Chilton [Paul Westerberg]を含むブックマーク

 ユウくんが、夜中にうるさいんですけれども。トイレや風呂に入るために、ユウくんのスペースにも立ち入らなくてはならないけれども、そういうとき、いや、基本的にわたしが起きている時間はユウは寝ているのかどうか、段ボール箱の中でとてもおとなしくしている。これが夜中になって、明かりを消してわたしがベッドにもぐり込むと、その気配を察するのか、そこからまずは狂騒が始まる。ユウのうなり声と、飛び跳ねるような音、バリバリと爪を引っ掻く音などが聞こえてくる。
 爪を引っ掻くものが何か必要だろうと、使っていない偽コルクのクリップボードがあったのを、壁に立て掛けておいた。トイレに行くときに見たら、みごとに引っ掻いたあとが残っている。これは成功。

 朝、目が覚めて、トイレに行こうとふすまを開けると、段ボール箱の外で遊んでいるところだった。ユウはそこでフリーズして、わたしと目が合って、そのままにらみ合いみたいになる。ユウが気が立っているときには、その眼が三角とか四角になって見えるんだけれど、このときには丸い眼をしていた。かわいい眼である。いままでだったら、こういうケースではとにかく逃げ出していたのだから、ひょっとしたら事態の進展、なのかもしれない。そのままトイレに行こうとユウのスペースに踏み込んでしまうとまた怯えてしまうかもしれないので、いちどふすまを閉めて、ユウの待避するのを待ってからトイレに行く。
 今日は、きのう焼いて食べた、ほっけの開きの食べ残しをユウにあげる。夜までに、キレイにすべて全部食べてくれた。新しいキャットフードも買った。

 夜、ちょっと「バカ殿様」を見るけれど、季節が秋になっている。この内容は憶えていないけれど、以前放映したものの再放送なのだろう。DVDに切り替える。

 今日は1973年の「追憶」。シドニー・ポラックが監督で、バーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォード共演。学生時代のバーブラ・ストライサンドの仲間で、うらなりなジェームズ・ウッズが出演している。音楽というか主題歌は超有名。
 ‥‥う〜ん、わたしはこういうの、わからないなあ。ただ自分のことをいたわるためにつくっている映画みたいで。だいたい、シドニー・ポラックという監督さんは、どちらかというと画面に無頓着というか、ストーリーを追うということを最優先させる演出で、画面それ自体の力で何かがあらわれてくるというような演出はしないと思う。それで、こういうけっこうセンチメンタルなだけみたいな脚本だと、観るものが何もなくなってしまう。映画の中で、大学の同級生たちがパーティーで彼らの在学時の8ミリか何かのフィルムを見ているシーンがあるけれども、この映画自体、そういう、昔を懐かしむための映像みたいに思える。それ以外にみえるもの、みえるはずのものは、わたしにはわからない。

 Alex Chilton の喪に服すのも七日になるので、追悼の選曲は今日まで。でもわたしの心は、いつまでもAlex Chilton を追悼し続けることでしょう。
 今日の選曲は、ズバリ「Alex Chilton」というタイトルの曲。1987年のReplacements のアルバム、「Pleased to Meet Me」に収録された曲。80年代から90年代にかけて、英米で多くのバンドがAlex Chilton の曲を取り上げたり、彼へのリスペクトを語ったりするわけで、Posies などはついにAlex Chilton と合流し、Big Star の再編ということにまでなってしまう。ちなみに、先週の土曜日、3月20日には、そのBig Star のライヴがテキサス州オースティンで行われる予定だったわけで、その日は急きょAlex Chilton 追悼コンサートになったらしい。
 今日の映像は、そのReplacements のPaul Westerberg の2002年のソロ・ライヴから。この曲の歌詞には

If he was from Venus, would he meet us on the moon?
If he died in Memphis, then that'd be cool, babe.

とあるけれど、うん、彼はニューオリンズで亡くなったわけです。人に「あんたはクールだね」などと言われることはやらない。それがAlex Chilton でした。


 

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■ 2010-03-23(Tue) 「ラインの黄金」「ミイラ再生」

[]Let Me Get Close To You [Alex Chilton / Yo La Tengo] Let Me Get Close To You [Alex Chilton / Yo La Tengo]を含むブックマーク

 結果がどう出るかわからないけれども、しばらくユウくんには玄関〜洗面所の閉鎖スペースに居てもらうことにした。トイレや食事のトレイといっしょに、大きな段ボール箱を置いて中にバスタオルを敷き、避難場所にしてもらう。ユウを追い込んで閉め切り、しばらくして覗いたら、段ボール箱の中でじっとしていた。わたしをみて、力ない声でミャアと啼く。こんなことしていいのかな? と、自分のやっていることに、自信をなくしそうになる。水はいつでも飲めるようにいつも皿に満たしておくけれども、食べ物は一日の決められた時間にだけ出すようにする。そのときには、わたしが食事をセットしているのがユウから見えるようにして、「いつも食事を下さっているのはこのお方なのだ」と、恩に着せる。そういう作戦である。

 図書館が長期休館中なので、ちょっとつまらない。たくさん借りてしまった本、カフカの日記は放置状態だけれども、ほかのものは何とか読み終えたいところ。なんか、ベルグソンのページを開くと、すぐにほかのことをやりたくなってしまう。

 昼間、図書館から借りているヴィデオで、ワーグナーの「ラインの黄金」を観る。メトロポリタン歌劇場、1990年の録画。これはひょっとしたらヴィデオ撮影用の特別舞台なのではないのか、複数のカメラが自在に舞台の中へ入っていってる印象。1990年ならばもう、舞台の外からもこのくらいの撮影は可能なのか。舞台美術が強烈。出演者のほとんどが「異形」のメークアップで、まるで「ロード・オブ・ザ・リング」だなあ、などと、転倒したことを思ったりする。開幕するところでの、長い波動のような音がいちばんよかった。あとは、第4場の「呪い」の展開、あたりとか。
 さあ、次は「ヴァルキューレ」だ。

 DVDはこれも「異形」モノ、戦前のユニヴァーサル、ホラーシリーズの「ミイラ再生」(1932) を観る。監督は「魔人ドラキュラ」の撮影を担当した、というよりも、「ノスフェラトゥ」、「メトロポリス」の撮影監督だったカール・フロイント。ミイラの再生した怪人イムホテップを演じるのが、「フランケンシュタイン」のボリス・カーロフ。
 けっきょく、この作品のみどころは、ボリス・カーロフの再生したミイラのメイク、その演技、それを際立てるカール・フロイントの演出ということになる(あと、ヒロイン役のジタ・ヨハンという女優の、奇妙な魅力も、かな)。ひとつこの作品で記憶するべきは、眼光鋭いボリス・カーロフの顔のアップの映像。まあこれは無理に記憶しようと努力しないでも、自然に記憶に焼きつけられてしまうのだけれども、あまりにアイコン的な「フランケンシュタイン」のモンスターとしてのボリスの印象よりも、この作品ではより役者としての力量を感じさせ、他に類のないミステリアスな雰囲気を漂わせている。
 ただし、この作品の脚本、そしてストーリーテリングとしての演出にはあまり納得出来ないというか、ただ説明のための場面、そして説明もなく飛躍してしまう展開とのあいだで、観ているわたしはしばし混乱してしまう。そもそも、いちど蘇生したイムホテップが、こちらはヘレンとして転生している元・エジプト王女を、いったいなぜもういちどミイラにしなければならないのか、そのあたりがわからない。イムホテップは王女の再生を望んで、「トトの書」という再生の奥義を記した巻き物を盗もうとして、生きながらミイラにされるという刑罰を受けたのだから、王女が転生してヘレンになってるなら、イムホテップも蘇生して、王女も転生、それでいっしょになってるんだからそれでいいんじゃないの? 説明が多いわりには肝心の部分の説明も描写も欠けている印象。こういう面は、たしかに1999年のリメイク「ハムナプトラ」の脚本はさすがに練られている。

 今日のAlex Chilton 追悼曲は、2007年のYo La Tengo との共演ライヴより、Alex が1987年のソロ・アルバム「High Priest」に収録されていた「Let Me Get Close To You」のライヴを。
 このアルバム「High Priest」は、Alex Chilton のソロ活動のなかでも、彼の南部指向の音造りや、カヴァー曲へのこだわり、インデペンデント性のはっきり打ち出された傑作で、この時代のEP作品「Feudalist Tarts」、「Black List」と合わせて、いちばん彼らしい音の聴ける時代だったと。この「Let Me Get Close To You」は、「The End Of The World」の大ヒットで知られるSkeeter Davis によって、1964年に小ヒットした曲で、作詞作曲はCarole King とGerry Goffin のコンビ。こういう、あまり知られていない過去のヒット曲を、ちょっとチープな味わいでさらりと歌ってしまうのも、Alex Chilton の大きな魅力のひとつだった。


 

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■ 2010-03-22(Mon) 「哀愁」

[]When My Baby's Beside Me [Alex Chilton] When My Baby's Beside Me [Alex Chilton]を含むブックマーク

 ユウはまた、わたしのことを怯えて警戒するようになったみたい。なかなか懐かないネコというのはいるようで、いろいろとネット上に書かれた体験談を読んだりするけれど、どうも適切な方法というのはわからない。ただ、あまり隠れる場所がないというのもいけないようで、それだと始終怯えてばかりいなくてはならない。隠れ場所がベッドの下というのもやはり困るので、ケージとか用意した方がいいのではないか。これはちょっと前から漠然と考えていたのだけれども、実行に移そうかと思う。

 松山俊太郎の「綺想礼讃」が、ずいぶん進んだ。松山俊太郎は小栗虫太郎のスペシャリストだった。この本でも、小栗虫太郎についてのページ数がもっとも多い。わたしも、松山俊太郎の編纂した現代教養文庫版の「黒死館殺人事件」は持っている。この文庫本の、松山氏による校訂方針はちょっとユニークというか、おそらくは小栗虫太郎自身の過誤と思われる部分、読み間違いなどを本文の中で正しく修正し、巻末に校異一覧を載せているもの。これは普通やらない方法で、あくまでも原著作の記述を<正>とし、脚注ででもそのあたりの誤りを訂正するというのが、一般的なやり方だろう。この「綺想礼讃」に、そのようなことをやった理由が書いてあった。それがおかしい。刊行するのが「現代<教養>文庫」の一冊なのだから、高校生などが読んで間違った知識を身に付け、受験などでしくじったりしたら大変だと、<教養>文庫の名に相応しい校訂方針を立てたと。彼自身これをあとで悔やんでいて、アレは間違いだった、本来の文章を添削したりしてはいけなかったと、深く反省していらっしゃる。
 稲垣足穂に関してもかなりのページ数が割かれているし、何よりも足穂氏と松山氏との対談が掲載されているのがうれしい。しかし、ここでの足穂氏はもういったい何を云ってるんだか、わたしにはわかんない。松山氏によれば、稲垣足穂という人は以下のようになる。

(‥‥)それで足穂の場合、あることを一度で十分に言い切れていないために同じことがいろんな作品に何度も出てくるということになるわけですが、見かけは独立した作品もね、それだけで完結してるのではなく、どこかで別の作品とつながっている。足穂の全作品が、ある作品から別の作品へ抜けられる一つの中がスカスカ空いている網状の玉になっているみたいな印象がありますね。だから本当に足穂を分かるためには、全体を分からなくちゃ駄目なんだろうと思うけど、部分部分の関心だけ持ったって、ゆうに十年やそこら研究することになっちゃう人だろうと思うんでね。私も<弥勒>をはじめ仏教に関した部分の検討はなんとかやりとげようと思ってますけど、「A感覚とV感覚」関係のものは読んだこともないくらいで。いずれ読もうと思ってますが、なんとなく眉唾だなという気がしてね。それは自分ではそうは考えないけど足穂がそう考えたのはもっともだ、と納得出来るほど理解するには物凄く時間がかかる気がする。

 うん、わたしも漠然と、そう感じていた。いい加減に読んだって、足穂の全貌というか、あっちに出っ張りこっちに出っ張りしているその形を了解するだけでも、2〜3年かかるだろうって。そこまでやって、その果てに何が得られるだろうかと考えると、なんか、読む気が失せてくるのもたしか。

 DVD、マーヴィン・ルロイ監督の大メロドラマ、「哀愁」(1940) を観る。原題は「Waterloo Bridge」なのだ。ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーによる悲恋。こういう、恋人や夫が戦死したと思い込み、女性が身を持ち崩してしまう悲劇は、この日本でもいっぱいいっぱいあったらしい。この「哀愁」の、日本での翻案もの「君の名は」が、ここまでのド悲劇にしなかったのは、日本だとあまりにリアルになり過ぎてしまうからだったんではないか。
 この「哀愁」では、登場する男性陣はみな大甘で、ヒロインのことにあまりに寛容。これと対象的に、女性の眼は厳しい。まずはバレエ団を取り仕切る教師だかの存在。恋愛にうつつをぬかし規則を守らないヒロインをバレエ団から放逐する。これは考えれば当然ではないかという面もある。相手の男も、彼女のことをもっと思いやるべきだ。次に、その男の母親の厳しい眼の前に、ヒロインは何も隠せないことを悟る。母親は彼女をとがめ立てたりはしていないのだけれども、ヒロインに、その過去を決して捨て去ることは出来ないと認識させる「現実性」を持っている。この母親の視点は、おそらくはこの映画を観ている、観客の視線ではないのか。観客も彼女の幸福を願うけれども、過去の過誤は彼女をこれからもずっと責め苛むのではないのか、男もいつか彼女の過去を知ってしまうのではないのか、そう思いながら画面を見ているだろう。ヒロインは、そういう視線にさらされることで、忌わしい過去をごまかして生きていくことは出来ないと悟るのではないだろうか。その観客の眼の中にこそ、メロドラマを構成するひとつのポイントが、厳として光っている。そんな観客の加担ゆえに、このメロドラマはいっそうその悲劇性を観客に際立たせる。

 今日の一曲はAlex Chilton の追悼-still。この曲はまたBig Star の第一作、「# 1 Record」(1972) に収録され、シングルにもカットされたもの。ここでは、2008年のChilton のソロ・パフォーマンスからの映像で(途中でぶった切れてるけれど)。ああ、これが、これこそAlex Chilton のライヴ。ちょっと泣けてくる。


 

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■ 2010-03-21(Sun) 「Hadewijch(ハデウェイヒ)」

[]September Gurls [Big Star] September Gurls [Big Star]を含むブックマーク

 日曜日も東京。今日は、六本木で開催されているフランス映画祭というイヴェントで、ブリュノ・デュモン監督の新作「Hadewijch」が上映されるのを観に行く。これはおそらくロードショー公開されないだろうということで、見逃すともう観ることが出来ないかも知れない。同時に今開催されているアラン・レネ全作上映でも、彼の新作「風にそよぐ草」が上映されるのだけれども、こちらも一般公開はこのチャンス以外にないかも知れないので、観に行こうかどうしようか迷っている。この「風にそよぐ草」は、実は昨日も上映されていたのだけれども、クラウス・シュルツェと重なってしまったので断念。次は26日の21時からもういちど上映されるけれど、これを観ると帰って来られない。ちょっと迷っている。ものすごくユニークな、面白い作品らしいのだけれども。
 どうやら現在日本で一般公開される映画は、ハリウッドの商業映画とか、ヨーロッパの映画祭でグランプリを受賞することの出来たような作品、有名スターの出演している映画中心のようで、こうして、ヨーロッパの地味な作品が日本で公開されるチャンスは、とても小さなものになっている。四月の末にはこれに似た企画でイタリア映画祭が開催されるようだけれども、マルコ・ベロッキオの作品などは、こういう映画祭のような場でしか観ることは出来ない。しかし、アラン・レネの新作がロードショー公開されないとしたら、悲しいことだと思う。

 とにかく今日はブリュノ・デュモン。彼の第二作「ユマニテ」はほんとに衝撃で、ミステリー/犯罪ドラマの形式をとりながら、暴力というものが加害者/被害者を超えて、目撃者にも深刻な影響を与えることを描き、映画の観客もまた目撃者であることから、観るものにも強烈なゆさぶりをもたらす作品だった。それで彼の未公開作品、「Twentynine Palms」という作品まで、海外のDVDを買って観てしまい、これが、やはり暴力の問題を取り上げた、言語道断の驚き映画だったこともあって、もう彼の作品を見逃すことは出来はしない。

 強風の中、渋谷駅から六本木へ歩く。今日は弁当をこさえなかったので、途中で珍しく外食。むかし時々立ち寄ったことのある中華料理店だったけれども、前はごはんの「おかわり自由」だった記憶が、そうではなくなっていた。ちょっと残念。

 さて、実は六本木の映画館などへ足を踏み入れるのは、これが初めての体験。なのだけれども、最近の映画館(シネコン)は、だいたいどこも同じような造りになっているわけで、中に入ってしまうと、ウチの近くのターミナル駅にあるシネコンなどと大差ない、ということになる。逆に敷地面積などは地方の方がゆったりと造っているから、じっさい、地方のシネコンの方が、環境は快適だったりしてしまう。

 パンフレットによる、「Hadewijch(ハデウェイヒ)」の紹介は、以下のとお

り。

13世紀の聖女ハデウェイヒに取り憑かれたひとりのヒロイン。鬼才ブリュノ・デュモンが描く、狂おしいほど純粋な魂。

修道院で生活するセリーヌは、13世紀のフランドル地方の神秘主義的詩人ハデウェイヒの盲目の信仰心の啓示を受け、激しく感化されるあまり修道院を追われる。パリの大邸宅に戻り、やり場のない気持ちをもてあました彼女は、そこでイスラム系のふたりの男性ヤシーヌとナシールと出会う。やがてセリーヌは神への情熱的な愛に駆られ、恩寵と狂気のはざまで、危険な道へと導かれてゆく。

 印象としては、信仰心をテーマとした独特の青春映画とでもいう感じで、主人公の魂の彷徨は、その根本のテーマはまるで違うけれど、塩田明彦監督の「害虫」を思わせられるところがある、と思った。
 タイトルの「ハデウェイヒ」という人名、この作品では主人公のセリーヌの修道院での修道名として出てくるだけだけれども、ハデウェイヒという人物は、その「幻視」によって知られる。彼女は幾度も「神の顔」を幻視したらしいけれど、その神の顔は、顕われるたびに毎回違う形をしていたらしい(これはあとでネットで調べたことで、映画の中ではハデウェイヒの幻視についての言及はない)。映画の主人公セリーヌが求めるのは、信仰の対象の実在性で、このあたりが、彼女の中で世俗の恋愛感情とどう区別されているのか、ということが問題になる。パリのカフェでヤシーヌ(映画の字幕ではヤシン)らと知り合い、ヤシーヌと接近するけれども、彼女は信仰ゆえに一生処女でいたいとヤシーヌに告げる。ナシール(ナシル)はヤシーヌの兄で、イスラム教典の学習会を開いている。そこにセリーヌも参加し、中東の惨状なども目にして、イスラム教、というよりもナシールに急接近する。
 この本筋とは別に、セリーヌのいた修道院の近くの工事現場で働いている、前科者の若者のストーリーが短く描写される。すべてに絶望した(この前に、パリ市内でのテロの映像があり、セリーヌの関与が想像されるが、彼女は死んでいない。おそらくはナシールの自爆テロ、だったのではないのか)セリーヌが入水自殺しようとするときに、この若者がセリーヌの命を救うことになる。愛の誕生を予感させて(この予感のさせ方、というか、ラストの青年の表情のインパクトが強烈!)映画は終る。

 まあストーリーの要約など書いても何も伝わらないのだけれども、やはりブリュノ・デュモン監督らしい、インパクトの強烈な作品だった。
 例えば冒頭の、主人公が修道院の裏の雑木林をさまようシーン、この彷徨がひとつ、この映画のテーマを明確に映像化していると感ぜられる。この「彷徨」は「ユマニテ」のなかでの主人公の荒れ地を彷徨する姿と重ねられ、デュモン監督の描く世界の一つの大きなテーマなのではないかと思う。これはちょっと、パゾリーニの「テオレマ」での登場人物の彷徨シーンまで、さかのぼって思い出させられるのだけれども。
 上映後にブリュノ・デュモン監督が登場し、トークショー。ここで、主人公の存在は、現代のフランスでリアリティはあるのか? という質問に、「まったくない」と、きっぱり言い切っていた。たしかに、現職大臣の娘で豪華マンションに住み、修道院へ入所もし、それでいて郊外地区のイスラム系の青年と交流を持つような存在は、どんな現実の変節があっても、存在することを想像するのは難しい。デュモン監督は「逆にいえば、リアルなものよりリアルといえるかもしれない」と言っていたけれども、この作品の演出の一つの特徴は、そういうリアリズムを超えたリアルさ、ではないかと思う。例えば主人公はナシールといっしょに車に乗り、その車中から、中東の戦火の惨状を目撃したりする。パリから中東へ、そのように車で移動出来るわけなどないのだが、映画の中では、その中東の戦火は、まるでパリ郊外の戦火のようにみえる。現在の多くの映画作品がリアリティを極端に追い求め、疑似ドキュメンタリーのような作品をつくろうとしている(であろう)中で、その逆をついたような、フィジカルな要素を無視したユニークな演出。リアリティなんて、あるポイントでは意味をなさない。そういうポイントが存在するということ。
 こころに焼きつけられる作品だった。

 映画が終り、六本木ヒルズの喫煙スペースから下を見ると、そこに見える公園の桜の木、その枝がピンクに縁取られている。桜の花が咲き始めた。今日はあまり遅くならないうちに帰宅した。

 今日の一曲、まだalex chilton の喪に服しております。どうしてもYouTube にあがっている映像はBig Star 中心になってしまうけれど、わたしの好きだったのは、ほんとうはそのBig Star 解散後の、ソロ・キャリアの作品群なんだけれども。
 今日紹介する「September Gurls」は、1974年リリースのBig Star セカンド・アルバム、「Radio City」収録の、彼らの代表曲ともいえる曲。



 

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■ 2010-03-20(Sat) クラウス・シュルツェ日本公演

[]Neon Rainbow [Box Tops] Neon Rainbow [Box Tops]を含むブックマーク

 土曜日。今日は有楽町の国際フォーラムでのクラウス・シュルツェ(わたしなどは、どうしても「クラウス・シュルツ」になってしまうのだけれども)のコンサートへ行く。コンサートは三時からで、二時にDさんと待ち合わせしているのだけれども、少し早く出かけて、京橋辺りのギャラリー廻りをやってみようと計画した。というのも、ちょうどこの日まで、京橋のギャラリーで合田佐和子展をやっているのを知ったからで、では京橋辺りのギャラリーで他にどんなのが? と探したら、ちょっと気にかかりそうな展覧会がいくつか引っ掛かって来た。それで探索計画を立てた。

 自分の昼食用のおにぎりをつくり、ユウの食事をセットしてあげて出発。東京駅着十二時。駅の近く、ビルの前の広場(喫煙出来る)で昼食を取る。その後、四つほどのギャラリーを廻ってみたのだけれども、最初に観た2つの展覧会がこころに残った。この感想をここに書いていいものかちょっと迷うのだけれども、貶すわけでもないので書いてしまう。

 ひとつはGallery b. Tokyo での澤井津波展。ドローイングというかモノクロのペン画、といっていい作品で、7〜8センチ角ぐらいの小品から、キャンバスでいえば100号近い大きな作品まで。特にあまり大きくない作品は、これは細密描写といえるけれど、よく観れば岩肌、樹木、苔のような植物を思わせる形状が描き込まれているように見えるけれども、作品全体の印象は一種有機的な抽象を思わせる感じ。こういう具象とも抽象ともつかないような作品が、最近の一種の潮流としてあるのかどうか知らないけれども、(最近あまり美術展を観ていないわたしでも)なんだかよく見かける気がする。作品の中に明確な中心はなく、カオスのようなどろどろした感覚を受けるあたりが日本的、などと思ってしまう。作者の固定された視点からのパースペクティヴを持つ作品ではなく、作者の視線は、作品表面のすぐ近くを、その作品の上をなめるように移動しつつ描かれているという感じ。ふっと、その線描の中に、人の身体のような形状、人の顔のような形状が埋め込まれているのに気が付く。「隠し絵」というのだっけ? 人だけでなく、いろいろな動物の姿も隠されているようだけれども、「ここにも何かの陰が」と思ってよく観ても、それは単に曲線の集積で、自分の思い過ごしだったりする。あまり露骨に人の姿を模しているようなのは面白くないけれども、その作品の上を眼を移動させて行くのは楽しい体験だった。

 もうひとつ印象に残ったのは、art space kimura ASK? という所での八重樫理彦展。この人の作品も、ちょっと印象が先に観た澤井津波氏の作品に似ている。具象作品のようでもあり、抽象のようでもある。「不連続面の研究」というタイトルの作品が並び、素材は小品はオイルスティックで、大作(200号ぐらいの作品もある)は、水可溶性油絵具という、聞いたことのない画材で描かれているらしい。色彩は普通に自然の中で見出せるような色彩配列で、木の葉のような緑、岩肌のような茶系色、空を思わせる青い色などの色面が複雑に交差して、抽象的な画面を構成しているのだけれども、これは例えば森の中などで見られた岩肌などを克明に描写した作品とも見える。それとも、「不連続面」とタイトルにあるような、ある種の平面への考察、アプローチから産み出された抽象作品なのか、迷うところ。しかし観ているとどうしても、上からの光らしきものが描かれているとしか見えないような作品もあるわけで、やはりこれは森の中の風景なのだろうか。
 ちょうど会場に作家の方が居られ、話をしてしまったのだけれども、正解はやはり山の中に露出している岩肌を描いたものだそうで。それに「不連続面」ということば、これはつまり「コア-マントル境界」のことで、つまりその、地殻とマントルとの境界で造岩された岩石についての言及なのでした。まあここでも作品の中で自然から抽出した形状なのか抽象として描かれているのかあいまいな世界を観れたわけで、このあたりの作品、ちょっと気になる。

 目当てだったギャラリー椿での合田佐和子展、近年の彼女の作品のように、映画から採られたポートレートなどの新作が並んでいたけれども、少々筆の力の衰弱が感じられるような。それでも、一点あげれば大きなバラのつぼみのタブローがとても良かったし、いっしょに並べられていた旧作の持つ、その蠱惑的な表象に惹かれた。しかしわたしは、いつも合田佐和子の展覧会を逃さずに見ている。これはほんとに偶然なんだけれども。きれいな案内状のポストカードをもらって帰る。

 さて、待ち合わせ時間が近づいたので国際フォーラムへ。Dさんと無事遭遇し、かなりの喫煙家のDさんと喫煙出来る場所を探し歩いたりしているうちに開演。

 ステージ上にはなんだかわからないかなり大きな装置、これはPAとかそういうのではないのがぼこぼこと並び、その前にテーブルが半円形に置かれ、上にいろんな機材がのせられているような(遠いからあまりよくわからないけど、iBook とかあったみたい)。その機材のバック、ステージのホライゾンにはコスミックなイメージの映像が映されて、照明もいろんな形状のライティングが、客席まで照らして動き回っている。基本はシークェンサーで再生される音を積み重ねて行くのだけれども、その積み重ね方がかなり明確に聴き取れる感じ。さすがに国際フォーラムのホール。40分以上の曲を2曲と、アンコールで10分ほどのもの。2曲目が、ある面では素朴だけれども、いろいろと手を替え品を替えという感じで面白い演奏だったかな。音の中にふっと新しい要素を加えるときに、空気が動く。教会音楽のような重厚さがヴァリエーションを産み出して行くところは好きだったし、音を重ねて行くさまが、頭の中で絵画的にイメージされるように聴こえるのが、自分としては良い体験だったし、記憶しておきたいことでもあった。

 終演後、近くの居酒屋でDさんと飲む。Dさんはめちゃめちゃ古いバイト仲間で、彼とわたし、それにEさんFさんを加えた四人で、むかしはよく浅川マキのライヴや紅テントの公演などに行ったものだった。その頃になるとTV局でバイトしていたDさんは、けっきょくTVディレクターにまで大成(?)して、よくTVである番組の合間の3分ほどの番組(「食いしん坊万歳」みたいなの)を製作するようになり、そこに唐十郎とか呼んで出演してもらったりしていた。先々週だかの、新宿のピットインでの浅川マキの追悼式にも行ったらしい(浅川マキはそういう番組に出たりするわけないけれども)。そんな浅川マキなどの思い出話などで盛り上がる。
 けれども、Dさん、今年に入って、TV局から戦力外通知を受けたということ。つまり失職されたわけだ。あんなに活躍してても虚しい世界だな。毎日時間を持て余しているということ。えー、オレなんか、その分野では先輩だけれども、時間なんか毎日毎日足りないと感じているよ。やることはヤマほどある。
 飲み始めた時間は早かったけれども、けっこううちへ帰れるギリギリの時間まで飲んでしまった。Dさんが飲め飲めと云うもんだから、少々飲み過ぎた。真夜中に帰宅。

 今日の一曲は、せっかくクラウス・シュルツェの公演に行ったんだから、彼の曲にすれば良いのだけれども、今のわたしはAlex Chilton の喪に服しているので、今日もAlex Chilton。これは去年の彼の映像で、再結成して活動していたBox Tops による「Neon Rainbow」。この曲は1967年の大ヒット曲「The Letter」の次に出されたシングルで、そこそこのヒットになった曲。こうやってMCでしゃべっているAlex Chilton をみると、なんだかKinks のRay Davies にそっくりなんじゃないかな、などと思ってしまう。Alex Chilton は実際にKinks のカヴァーもやっているし、Kinks の曲調にそっくりの曲をBig Star 時代に書いたりもしているし。
 でも、彼がそのBig Star で来日した時には、こんなにしゃべらなかった気がする。彼のしゃべっている顔の記憶がないから。英語圏じゃない国で英語のMCやってもしょうがない、と思っていたかしらん。



 

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■ 2010-03-19(Fri) 「ハスラー」

[]Holocaust [Big Star] Holocaust [Big Star]を含むブックマーク

 さて、ユウくんとの親交の深化を、もっと積極的に図ってみよう。だいたいユウと暮らすようになって一ヶ月以上過ぎても、まだユウをだっこしたりとかもしてないし、いまだに、ユウが男の子なのか女の子なのかも不明のまま。
 まずはスキンシップだなあと、ユウに接近する。ユウ、逃げる。わたし、追う。ユウ、逃げる。‥‥疲れた。また壁に爪痕を残されたし、これでまた、ユウを怯えさせることになってしまったような。わたしは疲れたし、ユウを追っていて、感覚的に「これは違うんじゃないか」と思ってしまう。これだとハンティングになってしまうような。今日の試みは失敗、ということで。

 図書館が長期休暇中なので、少々つまらない。阿部和重の新作、神町サーガの「シンセミア」の続き、「ピストルズ」がもうすぐ刊行される。図書館が買ってくれるといいのだけれども、「シンセミア」を置いていない図書館だからなあ、などと考えるし、やはり自分で買って手元に置いておきたい気もする。しかし、小説はだいたい一度読むと読み返すこともないからなあ。図書館にあればいいや、とも思うのだが。
 松山俊太郎の「綺想礼讃」を読み始める。「書評」などというものではなく、まさに「解題」というにふさわしい記述が続く。ここまでの、ち密な読み込みという作業に、ある種の畏怖の念を抱く。「ハス〜スイレン」の研究者らしく、宮沢賢治や南方熊楠の著作に書かれたハス〜スイレンについての記述の誤りをただす。熊楠の仕事をまずは「驚異」として賞賛しながらも、熊楠の書く「河に咲く蓮」の記述から、「その勉強不足は異常と言うほかはない」と断じ、「こうして。熊楠の<論理的思考力の薄弱さ>、<思い込みの激しさ>、<基礎的知識の不足>が歴然としてくると、熊楠の偉大な業績を可能ならしめたその才能と学養には、とんでもない凸凹があるのであろうと、茫然とせざるをえない。」となる。ここに三つ挙げられた<欠点>は、まさにわたしがすべての領域に基本的にもっている<欠点>であるから、読んでいるわたしが茫然とする。

 夜はDVDで、1961年の作品「ハスラー」を観る。監督は「オール・ザ・キングスメン」のロバート・ロッセン。人物関係の突き詰め方が秀逸なドラマで、主人公のポール・ニューマン、その恋人になるパイパー・ローリー、ポールのマネージャー的な位置に割り込んで来るジョージ・C・スコット、この三人の関係の描写がみどころ。ビリヤードという勝負の世界を描きながら、重厚な文芸ドラマという印象を受ける。主役のポール・ニューマンには、たしかにまだマーロン・ブランド的な部分が濃厚だと思うけど、これはその両サイドにパイパー・ローリーとジョージ・C・スコットの造型を配したことで、深い奥行きを持たせることに成功していると思う。わたしは特に、「ロスト・ジェネレーション」の成れの果てを思わせるような、パイパー・ローリーの役に興味を持ってしまった。
 この時代はもう「ロスト・ジェネレーション」の時代などではなく、もちろん、「ビート・ジェネレーション」の時代なのだけれども、「ロスト=失う」、「ビート=打たれる」と捉えれば、ここでのパイパー・ローリーはまさに「喪失」の代表格のように描かれているだろうし、打たれて「勝つ」ことをおぼえるポール・ニューマンは、もしかしたら「ビート・ジェネレーション」を象徴するのかもしれない。この二人から剥奪、蹂躙をするのがジョージ・C・スコットというわけで、これはアメリカの体制そのものを具現する存在なのだろうか。
 背景に流れるクールなジャズのサウンドと合わせて、これは「ロスト」から「ビート」への、世代交代を告げる作品なのか、と思った。しかし、この時代の文芸ドラマ作品での女性の造型は、単純に主人公の愛情の対象などではとどまらない、陰を持つ造型が多いように思える。もうちょっと、この時代のそういうドラマを観てみたい。

 今日の一曲はやはりAlex Chilton。昨日紹介のBig Star のサードアルバム「3rd (Sister Lovers)」からもう一曲、これも名曲の「Holocaust」を。



 

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■ 2010-03-18(Thu) 「地球爆破計画」

[]Kangaroo [Big Star] Kangaroo [Big Star]を含むブックマーク

 Alex Chilton が亡くなったというニュース。前から何度も書いているけれども、わたしのいちばん好きなミュージシャンだった。どこかミュージシャンという枠をはみ出して、何というか、ひとつの「やさぐれ」とでもいえるような生を見せてくれていたと思う(もちろん、彼は自分のことを「やさぐれ」と呼ぶような下品なことはしなかっただろう)。
 この地上のどこかでAlex Chilton が存在しているということが、何かの慰めだとか恩寵のようなものではないかと思っていた。これからは、Alex Chilton のいない世界を生きなくてはならない。

 それでもCDをかければ、昨日までと同じように彼の歌を聴くことができて、この世界にもうAlex Chilton がいないのだなんて、とても信じられない。もう彼の新譜を聴くことが出来ないのだろうか。いちばん最近のアルバム「Live in Anvers」のリリースが2004年だったから、もう5年以上も新譜が出ていない。このあいだに、ライヴなりスタジオ録音なりの新録音はなかったとは考えにくい。そのうちにふっと、彼の新しいアルバムがひっそりと、CDショップの店頭に並ぶだろう。そこには、生きている彼が、まだいるんだろうと思える。

   f:id:crosstalk:20100319123202j:image

   Alex Chilton (December 28, 1950 – March 17, 2010)

 新しく買った携帯端末が、色も形も大きさもDVDプレーヤーのリモコンに似ている。そのうちに間違えるだろうなと思っていたけれど、やはり今日になって、DVDのリモコンが見当たらなくて探す。ジャケットのポケットに携帯のつもりで入れていた。こんなことを、東京とかに行くときにやらなければいいのだけれども。

 コンサートの招待チケットは何とか行き先が決まった。最近になくいろいろとメールのやり取りをしたり電話したり、忙しかった。

 DVDは1970年の作品、「地球爆破作戦」というSFを観る。監督はジョセフ・サージェント。邦題はいささか誤爆ぎみで、ちょっとちがうかな、と。原題は「Colossus : The Forbin Project」というもので、フォービン博士の開発した防衛用スーパーコンピューター、「Colossus」というのがAI化して、権力を得る話。「2001年宇宙の旅」のコンピューター「HAL」の暴走に連なる「コンピューターの叛乱」ものだろうけれども、この「Colossus」が暴走しているのかというと、決してそういうわけでもない。ソ連〜アメリカの冷戦構造の時代を背景にして、国防ミサイルシステムの制御目的でつくられた「Colossus」は、ちゃんと「世界平和」という理念を果たそうとする。これが、起動されると同時に、「ソヴィエトにも(このColossusと)同じシステムがある」とのメッセージを発して、米ソのホットラインで確認される。どうやら、この最初の時点から「Colossus」には、予期しなかった意識や思考力があるみたい。ソ連のは「Guardian」というネーミングで(なんで英語やねん)、ソヴィエトに同じスーパー・コンピューターが同時に構築されていたというのは、背後にスパイの活動があったことを暗示しているみたい。「Colossus」はその「Guardian」とリンクさせろと言い出して、この2体がリンクされて、コンピューター独自にデータのやり取りを始める。インターネットの始まり。機密事項までやりとりされちゃかなわんと、人間たちは回線を切断するけれど、コンピューターはミサイルを発射して人間をおどすことで再び(恒久的な)リンクを回復、超スーパーコンピューターになり、人間を支配することになるのだ。それは世界平和を実現するためには人間にまかしちゃいられないということで、きわめて正論だろう。その代わりに人間の「自由」はなくなり、コンピューターによる監視社会が始まる。特にコンピューターの開発者フォービン博士は、徹底的な監視の対象になる。このあたりの展開は、きわめて現代的なテーマに思えて面白い。
 フォービン博士は監視の始まる前の最後のミーティングで、コンピューターに対してプライヴェートな時間を主張し、愛人との時間を監視の対象から外させることにする。その「愛人=女性科学者」をメッセンジャーとして、外部とあれこれの対コンピューター対策を画策しようと。その要求をコンピューターに認めさせるところがおかしい。「人間にはプライヴァシーが必要だ」「例えば?」「セックス・ライフだ」「愛人がいるのか?」「イエス」「セックスは週に何回必要か?」「毎日」「‥‥願望ではなく、実際のところを言え」「‥‥4回」。ちょっと笑えた。
 ラストは、コンピューターが自ら設計図とか描き始め、恒久平和のためにある島全体を造り変えるという要求を出し、島民すべてを島から外へ出せという。人たちが最初に「ノー」というと、ミサイルが発射されて小さな町ひとつ全滅する。人類はコンピューターに従うことになるだろうというもの。

 ‥‥世界平和とは、人命を最優先に考えるところから導き出されるものだ、というプログラムを入れてなかったのだな。AI化したコンピューターをロボットの延長として考えれば、「ロボットの三原則」の、人間を殺してはいけない!というのに抵触してしまうのだろうけれども、どうも、コンピューターの場合にはこの原則は適用されない、というのはすでに「2001年宇宙の旅」のコンピューター「HAL」で実施され、以降のSF映画はこの路線を踏襲しているように見える。つまり、思考力を持つコンピューターは、「ロボット」ではないのだ。これはSF〜映画表現の歴史の中で考えるとちょっとおもしろいことで、視覚イメージの問題が大きく作用した結果なのではないだろうか。ボックスでしかないコンピューターと、人間の形をしたロボットとの差。ロボットだって、つまりはヒトガタになったスーパーコンピューターなのに。これで、「ロボットの三原則」とは、視覚イメージによるモラルから発生したものだとわかる。

 今日の一曲はまたあたまに戻って、Alex Chilton 追悼。これはしばらく続けます。まず今日は、彼の最高傑作曲という意見の多かろう曲。
 1974年にミックスダウンも終了し、発売されるばかりとなっていたBig Star のサード・アルバムは、けっきょく店頭に並ぶことになるのは1978年。この時にはもうメンバーのChris Bell も事故死したあとだったし、Big Star というバンドは存在していない。そもそも、このレコーディング自体がAlex Chilton のソロ・プロジェクトとしての色彩が強い。その中に収録された二曲、この「Kangaroo」と「Holocaust」は、イギリスで1984年になってThis Mortal Coil の「It'll End in Tears」の中に取り上げられることになる。これがAlex Chilton の再発見のきっかけになる。
 この美しい曲は、Alex Chilton のリリシズムと破壊衝動が、奇跡的な美しさで同居しているという印象。すばらしい音です。



 

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■ 2010-03-17(Wed) 「歌のありか」「楢山節考」

[]The Letter [Box Tops] The Letter [Box Tops]を含むブックマーク

 ようやく指の傷のバンドエイドを外した。最初に病院へ行ったのが二月一日のことだったから、一ヶ月半経っている。まださわると少し痛みがあるけれども、もう濡らしたりしても痛まない。ということで、ようやく、手にビニールを巻かないで入浴した。頭もごしごし洗う。こういう入浴の出来ることを幸せというのかと思った。顔のヒゲそりの傷も大したことなく、その後痛んだりしない。よかった。

 この土曜日に東京でのライヴに行くのだけれども、(これはあまり大きな声では云えないのだけれども)招待券が余っている。メールでいろんな人に打診して、もう十人ぐらいに声かけたけど、問い合わせたほぼすべての人が、他に予定があったりしてダメ。「行きたいんだけど」と云ってくれるし、わたしも普段外であまり会わない人も多くて、これを機会にお会いしたい人ばかりなのに残念。
 でも、普段連絡をとっていない人に久々にメールしたりして、その近況をお聞きできたりしたのがうれしかった。ミュージシャンのCさんは、来週からヨーロッパへ行くのだった。連絡取るのなんて数年ぶりだけど、懐かしがってくれて「ぜひお会いしましょう」と。結果として、いろんな人に連絡出来たりしたから良かった。それでもチケットが一枚余ってる。もう日にちがないから、ムダにするしかないか。

 久々に本を読了。菱川善夫という人の「歌のありか」という本で、副題が「現代短歌・歴史と構造」となっている。戦後から1970年ごろの「前衛短歌」の終焉までの概説で、「戦後派の短歌」、「前衛短歌」との二章から成る。
 こういう現代の短歌の歴史を書いた本でわたしが知りたかったことは、つまり、1950年代からの「前衛短歌」とは、なぜ「前衛短歌」と呼ばれ、それはいったいどのようなものと捉えられていたのか/いるのかということだったのだけれども、けっきょくこの本ではそのあたりのことはわからなかった。「前衛短歌」といういい方は、いつの時代にもその時代のあり方で存在出来るであろう、時代を超えた呼称と思えるのだけれども、短歌の世界ではこれは1950年代から60年代にかけての一潮流を指すことになってしまっている。変だと思う。短歌の世界ってそういうものかと思った。以上。

 夜、DVDで今村昌平監督版の「楢山節考」(1983) を観る。脚本の多くは前に観た木下恵介版と同じで、ここに今村昌平監督版として付け加えられたのは、性に関しての言及。ほとんど興味を持つことが出来ず、なんだか編集がぎごちないな、などと思いながら見ていた。ラストの道行を時間を割いて長くリアルに撮っていたのが印象に残る。村の男が爺さまを縄でグルグル巻きにして谷底へ突き落とす。ごろんごろんと爺さまが谷底へ転がり落ちて行く。このシーンは最高!!!だった。わたしは「人でなし」かも知れない。

 今日の一曲は、チケットを巡って奔走した一日だったので、そういうチケットの歌を。Beatles の「Ticket To Ride」でもいいんだけれども、やっぱりAlex Chilton のいたBox Tops の曲をたまには選びたい。タイトルにチケットのことは入っていないけれど、この曲の歌い出しが「Give me a ticket for an airplane.」だから。この曲はAlex Chilton だとかBox Tops だとか超えて、60年代のスタンダード・ナンバーになっている1967年の大ヒット曲で、この時Alex Chilton わずか16歳。「あの頃のオレはあやつり人形みたいな存在だった」と、後年この時代を振り返って語っておられました。

(追記:このブログを書いたあとに、Alex Chilton 、この日記の日付けの3月17日にHeart Attack で亡くなられたことを知りました。その日にここで彼のデビュー曲を取り上げていたのも、何かが知らせてくれていた結果でしょう。これから今夜は彼のCDを聴きまくります。)



 

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■ 2010-03-16(Tue) 「PLASTIC CITY プラスティック・シティ」

[]Roads [Portishead] Roads [Portishead]を含むブックマーク

 家に居るときは、食事と云うのは100パーセント自炊で、出来合いの弁当や惣菜で済ませることはない。だから食材や調味料類を使い切れないで捨ててしまうなどと云うこともない。先日は1リットル入りの醤油を賞味期限内に全部使い切った。むかしならもっと小さな醤油パックでも、古くなって使えなくなったりしたのだけれども。
 キャベツなんかも、捨てるのは芯だけ。すごい人は芯まですべて調理してしまい、捨てる部分はどこもないそうだけれども、そこまでの道は険しいと思う。ただ、生姜とかは使い切るのに苦労する。生姜を使うのは基本的には肉料理なので、そういう肉料理というようなぜいたくなメニューはやらないのだ。それでも生姜の存在が欠かせない献立というものがあり、そんなに高い食材でもないので、つい買ってしまう。チューブ入りの生しょうが、とかいうのではダメなのである。それで一回の調理でそんなに使うわけではないので、残りを保存しておく。これを次に使おうとするともう危うい状態になっている。今冷蔵庫の中に、そういう生姜が残っている。まあまだ使えるさ。
 ずいぶん以前に買っていたさつまいもが、シンクの下の収納で完全に昇天していた。安い、などと思って買ってしまうとこういうことになり、けっきょく大きなロスになる。さつまいのも炊き込みご飯をやろうと思っていたのだけれども、のばしのばして、いつまでも作らないものだから。

 今日は電力会社の人が室内のブレーカーのチェックに来るというので、しばらく片付いていなかった室内をきれいにした。外も暖かくて、部屋をきれいにすると春になったような気分になる。リヴィングで本を読んでいると、ベランダの外をミイが通る影が見えたので、窓を開けて食事を出してあげる。しばらくぶり。ミイはなんか素っ気ない。ユウは昼間はベッドの下の段ボール箱の中で寝ている。たまに起き出して来ると、部屋の中を移動しながら、わたしの方を見てにゃあにゃあ啼いたりする。それでもわたしが近づくと逃げまわる。わたしに啼いてくるのは、「あんたのこと嫌いだよ」と云ってるんだろうか。

 ブレーカーのチェック終了。「次のチェックは四年後になります」と言い残して担当の人は帰って行く。はたして、四年経ったとき、この部屋に居るのは、わたしなんだろうか。

 DVDはかなり新しい作品、去年公開された、ユー・リクウァイの監督した「PLASTIC CITY プラスティック・シティ」を観る。ユー・リクウァイはジャ・ジャンクー作品すべての撮影監督であり、監督としても作品はこれが三作目になるのか。前の「夜迷宮」という作品は、石井聰亙、ポン・ジュノの作品と共に、「三人三色」というオムニバスとして公開されている。その「夜迷宮」を観て(今ではほとんど忘れているけれども)、この人の中には、ジャ・ジャンクーとはまるで異なるコスモポリタン的なもの、そしてファンタジックともいえるような物語への希求があるように思え、そのスタイリッシュな映像美も含めて、気になっている人。
 映画の舞台はブラジルのサンパウロ。そこでのアンダーグラウンド中国人社会。偽ブランド品を大量生産し売りまくる。「この安い価格の裏には、20億のアジア人の奴隷のような労働がある」と云う。そういう商品を売り捌いている人間もまた、その構造の中にいて、解放を望んでいる。わたしなど知りもしなかった、アジア〜ブラジルを結ぶ貧困と犯罪のラインがあるわけだ。おそらくこの作品は、映画的にもアジア〜ブラジルのラインを再確認し、そこから新たな力を掘り出そうとしているのではないかと思う。実際、この作品の中には数多のアジア映画へのパスティーシュがあるように見受けられるし(このことはもうちょっと後で書く)、ブラジル映画と云えば、近年ではフェルナンド・メイレレス監督の「シティ・オブ・ゴッド」がある。その「シティ・オブ・ゴッド」への目配せも当然感じられるのだけれども、この映画の中で、一方の主人公「キリン」が、バーの中でジュークボックスをかけ、女性(この女性はキリンの父親代わりとも云えるもうひとりの主人公、ユダの情婦なのだが)と踊るシーンで聴こえてくる音楽で、ハッと驚いてしまった。この音楽、偉大なるブラジル映画、シネマ・ノーヴォの雄グラウベル・ローシャ監督の「アントニオ・ダス・モルテス」で使われていた曲なのだから。ユー・リクウァイ監督がそのことを意識していないわけがない。そこまでさかのぼる視点を含む作品というわけ。たしかに、ユー・リクウァイ監督の演出には、その「アントニオ・ダス・モルテス」を想起させられる部分もあるだろう。登場人物がビリヤードをやっていた場面にも目配せはあるのか。まだまだ、わたしが観てなどいない映画からの影響があれこれとちりばめられているのだろう。
 しかし、この「プラスティック・シティ」には、「シティ・オブ・ゴッド」や「アントニオ・ダス・モルテス」にはあったであろう、ストーリー上の明解さに欠けるように思える。いや、そういう、ストーリーの明快さを避け、アジア〜ブラジルを結ぶ現在形の苦悩の中で、監督自身がそのラインの表現を模索していると取れる。映画の冒頭とラストにアマゾンの密林が描かれ、そこには南米に棲息するわけもない虎が登場する。この虎の中に、ユー・リクウァイ監督は、アジアとブラジルを結ぶラインを見ているのだろう。この虎の中に、タイの映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンの作品(タイトルを忘れた)への言及もあるように、わたしには思えてしまう。ここでアマゾンの密林がアジアのジャングルと通底し、その密林〜ジャングルからの再生を訴えるようなラスト。
 映像が、さすが撮影の専門家による演出ということで見ごたえがある。きわめてゆっくりと移動するカメラ、赤と緑を主体とする色彩の美しさ、トリップ・ポップを思い出すようなけだるい密室の空気の描写と、映像を観ているだけで楽しめる映画でもあった。
 しかし、一般にはグラウベル・ローシャの作品もアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品も観ることが出来ないようななかで、とつぜんにこういう作品が公開されてもねえ、という感じはする(非常に人気のある俳優が出演しているおかげ、なのだろうけれども、その俳優の名前をここに書くと、また検索で普段以上の人が読みに来る。そういう方に有益なことなど何も書いていないので、その俳優さんの名前は書かない)。

 書いたように、この作品を観ていて、しばしば、かつてのトリップ・ポップの曲を思い浮かべていた。Massive Attack やTricky 、Portishead などを。そういうわけで、今日の一曲はそんな中から、Portishead のけだるい「Roads」という曲で。これは1994年発表の彼らのデビュー作「Dummy」に収録されていたもの。いやあこのアルバムは聴きまくりました。こういうのばかり聴いていたから、わたしも没落したんかな。



 

makisukemakisuke 2010/03/17 21:44 はじめまして。crosstalk様とユウとミイ。ミイとユウとcrosstalk様の、日々の様子をずっと楽しみに拝見しております。ぎょんすけという、今わたしの隣で眠っているねこも、最初はベッドの下に隠れて、ぎょーぎょーと泣いてばかりだったことを思い出しました。

あまり懐かなかった彼女に対して、思い切って柔らかいお腹にぐいっと手を入れてぐるぐると撫で回してみました(お腹を許すということは、服従だと聞いたもので、とりあえず、試しにと)。抵抗があるものと予想していましたが、意外に途中からぐるうぐるうと喉を鳴らして。

それからは、ぐっと距離が縮まったように記憶しています。ユウとcrosstalk様の距離が近づけばなあと思い、書かせていただきました。

もし、お試しの際は、爪の被害にあわないよう、くれぐれも、ご注意を。それでは、長くなってしまいましたが、ユウとの日々、これからも覗かせていただきます。

crosstalkcrosstalk 2010/03/18 13:28 makisuke様、ご愛読ありがとうございます。また、有益なコメントいただきまして、感謝しています。

昨日、ちょうどそれに似たところまではやっていたんですけれども。お腹ではなくて、胸のあたりだとか頭とか。まあその時にはあまり抵抗されなかったんですが、どうも懐かんようです。
そうか、お腹ですか。もういちどトライですね。

tamatama 2010/03/21 10:42 はじめまして。
kd.langの検索の末、漂着しました。
猫のこと自炊生活、不思議な雰囲気に魅かれます。

お料理のことですが学生さんの自炊生活みたいで、思わず「クスッ…」と。キャベツの芯は食物繊維が豊富であまいんですよ〜斜めに薄くスライスして塩を振りシンナリさせ軽く絞りドレッシングで食してみてください。
生姜は南国の野菜ですので冷蔵庫には入れません。濡らした新聞紙に包みポリ袋に入れ口開けたままで保存します。

crosstalkcrosstalk 2010/03/22 09:04 tamaさま
どうも恐れ入ります。
キャベツの芯、こんどやってみます。
生姜の保存法のご教授も、感謝であります。お世話さまでした。

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■ 2010-03-15(Mon) 「美しい夏キリシマ」

[]Solitude (Henry Purcell) [Alfred Deller] Solitude (Henry Purcell) [Alfred Deller]を含むブックマーク

 この部屋に引っ越して来てから十ヶ月、そのあいだずいぶんと規則正しい生活を続けて来たものだと、自分でも感心する。東京などへ出かけたときは別だけれども、多少は朝起きる時間がバラバラだとはいえ、必ず朝食をとる。これは基本的に、トースト二枚にハム、レタスなどをはさんだものにコーヒーと決まっている。ここのところずっと目玉焼きも焼いて、トーストにいっしょにはさんで食べている。これ以外の朝食メニューというのは、自分では考えられない。昼食はぜったいに十二時から一時のあいだ。昼食時間がこれから外れた記憶は、これはいちどもない。勤め人と同じです。昼食のメニューはたいてい、ご飯以外の麺類とか中心。ラーメン、スパゲッティ、焼そばなど。たまに前の日の残りのご飯ですませたり、それを炒めてオムライスとか作る。カップ麺とかいうのはいっさい食べないけれど、これは主義主張でそうなのではなくて、単純に経済的な理由によるもの(まあ多少は、野菜とか摂らなくてはという考えはあるけれども)。カップ麺は高い。鍋で調理するインスタントラーメンなら、野菜、玉子など入れても、6〜70円ぐらいのものだろう。今は焼そばばかりやっているけれど、これだと50円ぐらいなんじゃないかな? 夕食は六時から、遅くとも七時半までには終える。これはご飯を炊く。たまにお好み焼き(経費5〜60円)とかやる。おかずは、まとめて作ると二〜三日同じおかずになる。カレーやシチューだと、一週間近く同じメニューになる。食後にDVDを観て、風呂に入り、十二時前には寝る。この生活時間はずっと変わらないけど、最近は少し朝寝するようになった。「春眠暁を覚えず」というヤツであろう。

 朝起きるとまずパソコンの電源を入れ、TVを見ながらゲームなどやっている。調子が出て来たらそこで朝食を摂り、それから日記など書いたりしていた。そうしていると昼になる。これが最近、ゲームがなかなか終らない。まあ単純なカード遊び、ソリティアとかなんだけれども、「さあ、このあたりでやめて、日記でも書こう」なんてふうに移行しない。ゲームに熱中しているという雰囲気でもないようなんだけれども、日記書くのがめんどくさいらしい。でも、もう通算すると一年以上、毎日の分は欠かさずに書き継いできているので、ここで理由なく書かなくなると、「さては死んだか」と思われてしまうかもしれない。そういう空喜びを人に与えてもいけないので書く。

 今日はDVDで黒木和雄監督の2002年作品、「美しい夏キリシマ」を観る。景色だけは美しいが、人は美しくも何ともない、すっからかんの1945年の夏の話。米軍上陸に備えて陸軍がこの宮崎南部の霧島高原にも駐屯し、住民たちも竹やりの演習をする。脚本に松田正隆が協力しているので、またキリストの問題が出て来る。黒木和雄監督の実際の体験に、松田正隆がフィクションを加えていくやり方だったらしい。
 主人公、十五歳。わたしはこの年代くらいの男の子を描いた映画にはじんましんが出るはずだったのに、これは平気だった。この「美しい夏キリシマ」や「どこまでもいこう。」はOKで、「お早よう」(これはわたしには生涯のワーストで、総じて、小津映画に出て来る少年はみなNG)、「野菊の如き君なりき」、ダメ。この差は何なんだろう。
 本土で米軍上陸に備えてたこつぼを掘る。ああ、わたしの父も、それをやっていたのだった。それで母と知り合ったのだから、この映画の香川照之みたいなもんだ(夜這いぢゃなかっただろうけど)。とにかく、わたしの父母の背景にも、こういうものがあったわけだろう。観ていてちょっと、岡本喜八監督の「肉弾」を思い出した。黒木和雄監督という人はクソまじめそうで、苦手な部分(この作品では、沖縄に関する部分とか)はあるけれども、安直なヒューマニズムなんか描かないのがいい。さらにこの作品では自虐的な部分もあるわけで、1945年の夏というものが、兵士の視点からの構図だけで描かれないあたりが面白かった。戦中の人々の生きたその夏の、気分的なものが伝わってくる気がする。気分が伝わるというのは、大事なことだと思った。
 こういう映画がつくられるようになるまでに、五十年以上かかったということか。もう、当時の実体験した人でつくられる映画作品は、これでおしまいになるんだろうな。その、五十年以上という年月は、どんなものだったのだろうか。

 今日の一曲は、パソコンゲームの「ソリティア」から、というわけでもないけれども、急にHenry Purcell を聴きたくなったので、この曲あたりで。
 歌っているのはAlfred Deller で、たしか、この人によって、カウンターテナーの歌唱技法が確立したのではなかったか知らん。もう、途中の高音部のやわらかさが何とも云えない歌唱。
 ※(Gay Fish で検索してココへ来る人があとを絶たないようですが、このブログにはGay Fish に関しての有益な情報は何もないはずです。閲覧されても得るものはありませんので、よろしく!)



 

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■ 2010-03-14(Sun) 「フランケンシュタイン」

[]Frankenstein [Edger Winter Group] Frankenstein [Edger Winter Group]を含むブックマーク

 ユウが部屋にいるものだから、このところすっかり、ミイのことをかまわなくなってしまった。薄情だと思う。このあいだ外を歩いていたらミイの姿をみた。あとをつけて行ったらミイがこちらを振り返り、わたしの顔をみるとふっ飛んで逃げて行ってしまった。自分がミイに悪いことをした結果のように感じた。

 新しい携帯に慣れなくて、着信音に気が付かなかったりした。ふっとディスプレイをみると、「不在着信」とか出ている。アドレス帳は空っぽなので、いったい誰からかかってきたのかわからないで、ちょっとおそるおそる返信でかけてみたりする。このブログを読んでくれて、データが消えたのならと、Bさんがかけて来てくれたのだった。これで、何人分かのデータを蓄積出来た。
f:id:crosstalk:20100315120926j:image:right この新しい機種にもデジカメ機能はついていて、これは前の機種のカメラよりも性能は良さそう。前のは露出のキャパが狭かったし、色がどうも原色がちになってしまった。テストで、駅付近を散歩しながら撮ってみた。あ、横長なんだ。半パノラマ。

 なんだかこの三、四日、少々の虚脱状態。読書もはかどらないし、明るい時間帯をずっとぼんやりと過してしまう。ああ、もう夕方だ、夕食の準備をしなくては、という風にしていると、すぐに夜になってしまう。何かヴィデオを観よう。観終ると、もう寝る時間になる。どうしてこうなってしまっているのか。「虚を衝かれる」ということばがあるけれども、例えばカフカの日記、それ以上に、葛原妙子の短歌を、読んでの影響というのがあるという気がしている。彼女の歌、小説を読むようなイメージの展開ではないし、絵を観るような感覚により近いのだけれども、それが視覚的なイメージというだけでなく、「時間」への意識、また、「ことば」への意識を呼び起こされている感覚。ひとつ心に残る歌を読むと、そこで自分の中の何かが宙ぶらりんになってしまう。こういうタイプの読書体験というのをいままで持たなかったので、おそらくわたしの中の何かがびっくりしているんだと思う。葛原妙子についてはもっと考えてみたい。いったい、わたしの中で何が、どのように宙ぶらりんになっているのか。

 DVDは古典ホラーのおさらいで、1931年の「フランケンシュタイン」を観る。監督はジェームズ・ホエールという人だけれども、何と云ってもこの作品は、ボリス・カーロフによる、偉大なるフランケンシュタインの怪物の造型によって不滅の作品。「ミツバチのささやき」で引用され、合田佐和子の印象的なタブローにも登場するこのモンスターのイメージ、まさに、映画的イメージの始源なのではないか。「ミツバチのささやき」では、主人公のアナを惹き付ける「精霊」というものの図象化として、このボリス・カーロフのモンスターのイメージが出て来るけれども、そのイメージの背後には、映画そのものの中に潜む精霊性とでもいうようなものがあるように思える。「ミツバチのささやき」はひとつの映画論として観ることも出来、映画なるものの代表として、この「フランケンシュタイン」が選ばれている。合田佐和子のタブローでも事情は同じで、合田佐和子はここで、「ミツバチのささやき」のアナとして、モンスターを描いていると想像出来る。だから描かれたモンスターのタブローは、「映画」というものを描いた作品でもあるのだろう。まあ、合田佐和子の作品の多くを「映画」というものを描いた作品と云うことも出来るけれども。
 この映画、ゴシック的なホラーの中に、マッド・サイエンティストの異様な研究というSF的な要素を組み入れたという意味でも画期的で、このSFプラスゴシック・ホラーというジャンルは、映画という表現独自のオリジナル性を持って発展して来たのではないか。こうしてこの「フランケンシュタイン」を観ると、フランケンシュタイン博士の造型はまさに錬金術師的なイメージでもあるし、その研究所は半廃墟化した古城という、ゴシック・ロマンの伝統をきちんと引き継いでいて、「エイリアン」などにも、結局はこのような影響が見られるのではないか。しかし、例えば「蠅男の恐怖」(これは、マッド・サイエンティストとモンスターの同一化された作品で、「フランケンシュタイン」の影響は強いと思われる)などのマッド・サイエンティストの背景には、ゴシック的な要素は払拭されているように思える。
 メアリ・シェリーの原作はむかし読んだけれども、それほど面白いものでもない、というか、この1931年の映画版とはまったく別モノ、という印象も受けてしまう。原作を素材として、ここまで来てしまった製作者・出演者たちの仕事は、やはりいくらでも賞賛されるべきだろう。後年ケネス・ブラナーが、この映画から離れて原作に忠実につくった「フランケンシュタイン」は、まるで面白くなかった記憶があるし、この映画の背景をそのまま取り込んだメル・ブルックスの「ヤング・フランケンシュタイン」の笑えたこと!

 1931年の映画「フランケンシュタイン」は、映画的イメージの源泉だと思う。

 そういうことで、今日の一曲も「フランケンシュタイン」。Edger Winter はブルーズ・ギタリストのJohnny Winter の弟で、これは遺伝なのか、兄弟ともにアルビノ。Edger Winter の方は、兄と違ってブルーズ一辺倒というわけではなく、この「Frankenstein」でわかるように、もっとジャズ的な要素など、いろいろな側面を持っている音を出していた。というか、ここで見られるようにマルチ・プレイヤーとして活躍。この映像を見ていると、ほとんどワーカホリックなミュージシャン。この曲は、1973年になぜか、全米トップになる大ヒット曲となってしまった。いったいどうして?(この曲が駄作だ、なとと云ってるんじゃない)?



 

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■ 2010-03-13(Sat) 「汚れた顔の天使」

[]Angel Of The Morning [Chrissie Hynde] Angel Of The Morning [Chrissie Hynde]を含むブックマーク

 昨日髭剃りで傷付けたところが痛んで、稲垣足穂の作品の中で足穂の父が、髭剃りの傷から蜂窩織炎になり、それが悪化して死んだように書いてあったのを思い出してしまう。イヤだなあそんな死に方は。でも、考えてみると、そんなにイヤなものでもなさそうにも思えたりする。とりあえず、顔面が痛む。

 ぼんやりしていたら、昨夜TVでソチエタス・ラファエロ・サンツィオの「神曲」の舞台録画を放映していたらしいのを、しっかりと見逃してしまった。TV番組のチェックは苦手で、前にわかっていても、すぐに忘れてしまう。だいたい、TV受像機というのはDVDのモニター用だと思っているわけだから。

 ユウは隠れて出て来ない。それでも、近寄っても前のようにわたしのことを威嚇するようなことはしなくなった。最近食事量が増え、いちどにたくさん食べるようにもなった。ミルクはネコには良くないというのを読んだりして、その真偽は不明だけれども、ミルクをやめてただの水に切り替える。いつでも飲めるように器に入れて出しっぱなしにしてあるのだけれども、これもすぐになくなる。いったいいつ水を飲んでいるのか、気が付かないうちになくなっていたりする。

 今日もレンタルヴィデオ店の近く、西側にあるスーパーまで買い物に行く。この店が、ものによってはいちばんの安値で売っていることがわかったので。焼豚のブロックを200円ほどで売っていたのを買う。焼豚というのはタレをつけて売っていない。「焼豚のタレ」という商品もない。しかし、焼豚にマッチしたタレを合わせると抜群に美味しくなる。帰宅して、ネットで焼豚のタレのつくり方を検索し、ブロックを食べ切るぶんぐらい製作。残っていた生姜を、いい機会とたくさんぶち込んだので、ちょっとばかし生姜風味が強すぎた。夕飯はキャベツサラダと焼豚、それとイカの塩辛。このメニューで一週間ぐらいは行けそう。

 夜、DVDはマイケル・カーティス監督の「汚れた顔の天使」(1938)を観る。先週の「民衆の敵」に続いてのジェームズ・キャグニー主演で、今回はまだ売り出し中のハンフリー・ボガートも脇役で出演。
 この時代はどうやら検閲の厳しくなった時代のようで、ギャングを英雄視するような映画を製作することへのチェックから、ひじょうに何というか、玉虫色のストーリー/演出になっているという印象。けっきょく、ジェームズ・キャグニーの演じるギャングは、悪い奴だけれどもカッコいいのだ。暴力描写にもチェックが入るから、キャグニーのワルぶりが徹底しては描けない。そうすると、なんだ、そんなに悪い奴でもないじゃないか、となる。
 キャグニーの若き日と同じようなことをやっているストリート・キッズたちは、キャグニーを崇拝しているけれども、それはお金をくれたり、バスケットボールのコーチをしてくれたりするから。悪事で稼いだ金を少年たちにばらまくのは、そりゃあよろしくないけれども、バスケのコーチをやるのは素晴らしい善行だろう。そうすると、観客の目から見ても、悪人でもそんないいことをするなんて、カッコいいではないか、ということになってしまう。やっぱりキャグニーはヒーローになってしまうだろう。
 映画のラストで、逮捕され死刑執行される(死刑判決が妥当なものとするために、逮捕されるときにキャグニーが警官を射殺するシーンがある)とき、幼なじみの牧師との約束で、死を恐れて、憶病者としてふるまって死んで欲しいと頼まれるのを実行する。これはひょっとしたら、実際に臆病風を吹かせたのかも知れない。新聞に「アイツは臆病者だった」と載り、少年たちはしたがうように牧師のあとをついて行く。
 しかし、それでは、最後の牧師との取り引きもみな画面で見ている観客は、いったいどう感じるんだろう?ということ。やっぱりキャグニーのギャングはカッコいい、ということではないのか。検閲をたくみにパスしながらも、主演の悪役のカッコよさを最大限にアピールした映画を作っちゃいましたよ、という意味で、クレヴァーな作品だということになるだろう。そういう、観客の目を意識した演出がはたらいた作品。
 冒頭に、クレーンを使った上下左右に移動するカメラで、1920年代の街並(これは大きなセットなのだろう)を一気にみせる撮影が印象に残った。みんな窓から布団(ではない、マットレスか)を干したり、はたいたり、イタリアだとかみたいな風景だった。

 そういうことで、今日の一曲は「天使」を歌った曲を探そう。これはもう無尽蔵にある。そういうYouTube から選ぶ前に、今読んでいる葛原妙子の短歌からも、「天使」を詠ったものをひとつ紹介しておきましょう。

天使まざと鳥の羽搏きするなればふと腋臭のごときは漂ふ

 ‥‥むむ、腋臭の匂う天使。妙にリアルに思えてしまう。

 で、今日の一曲の方は、「Angel Of The Morning」という曲で、この曲は1967年にMerrilee Rush という人によって取り上げられてかなりヒットして以来、実に多くのアーティストが取り上げている曲。わたしはMerrilee Rush のヴァージョンを最初に聴いていたけれども、その後、1981年のJuice Newton のヴァージョンが大ヒットして、新たにこの曲の知名度が上昇する。今日はこのJuice Newton のやつを探そうと思っていたら、思いがけずにPretenders が演っているものが見つかった。これは1995年に彼女たちがシングル盤でリリースしたもののようで、これもいいなあと思って見ていたら、Chrissie Hynde がひとり、ソロでやっているアコースティック・ヴァージョンが見つかった。これが実にすばらしいので、今日はこのChrissie Hynde のヴァージョンの「Angel Of The Morning」で。こういう、しっとりしたメロディの美しい曲は、歌唱力で聴かせるようなものよりも、もっと素朴なシンギングの方が、聴くものの心をつかむように思えます。



 

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■ 2010-03-12(Fri)

[]A Fool Such As I [Elvis Presley] A Fool Such As I [Elvis Presley]を含むブックマーク

 朝から暖かくて良い天気。さて、たまっていた洗濯物を一気に洗濯してしまおう。洗い物を入れておくバケットの中身を何もかも洗濯機に投げ込み、スイッチを入れる。おっと、電話する用事があるのだったと思い出し、携帯をさがして見つからない。昨日の夜にはたしかに部屋の中で見かけたのだから、この家の中にあるのは間違いないのだけれども。固定電話から電話して、呼び出し音でさがそうとしてみると、留守番電話になっていた。ちょっとイヤな予感がして、ほとんど脱水の段階まで来ていた洗濯機を止めて、中を探ってみる。うわ、細かい薄茶色の紙片がぐちゃぐちゃに洗濯物にまとわりついている。その底の方に、携帯の端末が転がっていた。溺死状態。真っ暗になったディスプレイの中に水がたまっていて、小さな水槽のように見える。このすき間にミジンコの卵とか入れると、ミジンコの飼育が出来て、成長の様子を観察出来そうに思う。
 細かい紙片は、読みさしでジャケットのポケットに入れておいた文庫本、稲垣足穂の「宇宙論入門」を、ジャケットといっしょに洗ってしまった結果の、その成れの果て。洗濯機のなかでぐるぐると回転し、ばらばらの破片に分解した「宇宙論入門」とは、この本に実にふさわしい気がしてしまう。
 いや、そんな余裕カマしている場合ではない。なんてバカなんだろう。昨夜着ていたジャケットを、その洗濯物バケットの上に脱ぎ置いて、今朝になってそのジャケットもそろそろ洗濯してもいいな、などと思って、ポケットの中身も確かめずに洗ってしまったのだ。ちょうど去年の今ごろに財布紛失事件も起こしているし、春先はわたしの頭がボケる時期なのだろう。とにかく、この携帯のことをどう始末するか考えなくてはいけない。洗濯物も宇宙の破片にまみれてすごいことになっているので、まずは、これをすすぎし直す。そのあいだにどうするか考える。

 考えるまでもない。水没した携帯が修理可能なわけないので、代わりの携帯を入手するしかない。この際、ノーフューチャーなPHSにおさらばして、普通の携帯にチェンジしようかとも考えるけれども、新しい携帯をゲットするために余計な支出をしているような余裕は、さらさらない。PHS会社のHPを見てみると、どうやらこれまでたまっていたポイントなどを使うと、ほとんど余計な支出もなく新しい機種を入手出来るようだ。すすぎ終えた洗濯物を干して、新宿の店鋪へ出かける準備をする。ついでに東京でやっておきたい用事がいくつかあるので、やってしまおう。ヒゲをそっていたら、なぜか何箇所も切ってしまい、顔中血だらけになる。なぜこんなひどいことがあれこれ同時に起こるのだろう。出血がとまるまでタオルで押さえたり、バンドエイドを貼ってみたりして、けっきょく、マスクをして出かける。
 PHSの店舗へ行き、とにかく予算のかからないで済む種類の機種変更を申し込み、水没したものと機能的にそう変わらず、機種変更手数料と頭金以外はまるでかからない、という機種にする。その手数料も頭金もけっきょく、これまで貯めたポイントでほとんど充填出来るので、今回の機種変更で実際にわたしが払うのは数百円で済むことになるだろう。それプラス今日の交通費か。しかし、失せてしまったデータ類は戻って来ない。たいていの人のメールアドレスはPCに記録し直しているけれども、携帯番号は水没した携帯以外には記録していない人がほとんど。まあわたしの携帯番号が変わったわけではないから、なんとかなるだろう。やはりここで他社の携帯にチェンジしていたら、新しい番号など、そのことの連絡で頭を痛める結果になっていたわけだ。

 他の用件を済ませて、ポケットに新しい携帯をしのばせて帰りの電車に乗ると、Aさんから新しい携帯にメールが届いた。先日葛原妙子のことを話したのを興味を持ち、彼女の本をさがして買ったということ。彼女の歌はSFやゴスの人たちでも興味を持つのではないかと。なるほど。葛原妙子にはゴシックなところはあるだろう。返信メールを打とうとするが、まったく前と勝手が違うので困惑する。

 帰宅して遅い夕食。白菜と、冷凍してあった鶏のレバーを、かつおぶしとしょうゆで炒める。この味は好き。今朝の自分の愚行を思い出しながらも、「うまいなあ」とか言いながら食べる。けっきょく、今日も読書ははかどらず。電車の中でカフカの日記を読んだのも、あまり進まなかった。

 今日の一曲は、だから、「A Fool Such As I」。Elvis Presley の1959年のヒット曲で、わたしの手元のデータブックでは、正式なタイトルは「(Now And Then There's) A Fool Such As I」とあり、B面は「I Need Your Love Tonight」で、両面ヒットになっている。古いデータブックだけど、この資料でみると彼の曲でヒットチャート(40位以上)に上がった曲は、彼の生涯で105曲もある。おそらくは今でも、この数を上回るような歌手は出て来ていないだろうと思う。



 

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■ 2010-03-11(Thu) 「ローズマリーの赤ちゃん」

[]Happiness Is A Warm Gun [Beatles] Happiness Is A Warm Gun [Beatles]を含むブックマーク

 「幸せ」ということが、わからなくて考える。わたしが望むのは、もっともっと無限に近いぐらいの時間だけで、そのあいだ、今のようにずっと暮らせていければいいと思う(これはぜいたくで不謹慎な望みかもしれない)。それが「幸せ」ということとはどうしても結び付かない。いつか(明日にでも)ふっと死んでしまっても仕方ないと思ってる。死ぬときにものすごく苦しむこともあるだろうけれど、どんなことも受け入れられる気がしている。それは、幸せとか不幸せということとはまるで関係がない。たぶん、他人のことなんか、どうでもいいと思っている。

 この部屋の中でいつか孤独死して、その死骸をユウが食べるといい。

 ユウはこのごろ食欲旺盛で、皿に出してやるフードを、いちどにきれいに食べてしまう。前は何回かに分けで食べていたのに、どうしたのだろう。それだけこの環境に慣れて来たのだろう。

 夜は先日観ようとして寝てしまった、ロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」を観る。1968年の作品で、公開当時に映画館で観た記憶がある。だから、映画で隣の部屋のあつかましいおばさんが出て来たとき、「この人はたしか、ルース・ゴードンという女優さんだ」と、思い出したりする。ほんとうにどうでもいいことを記憶しているものだな。
 固定しないカメラがいつも登場人物を追いかけて動き、カメラがその場にいる見えない第三者のようにふるまう。ほとんどがアパートの部屋の中で進行するので、観ている方も、閉そく感に陥るような気がする。この舞台になっているアパートメントは、あの「ダコタ・ハウス」だった。ちょっと古めかしいエレヴェーターとか、部屋の前の廊下だとかが、悪魔の住処にふさわしい感じ。ポランスキーの演出がまた、おそらくは原作(アイラ・レヴィン)以上におぞましさ、不快感を増長してんだろう、観ていていやになり、むかし観た「反撥」とかを思い出す。もうこの先は観たくないと思わされるけれど、つまり、それだけ演出が徹底しているということ。
 この、描かれる建物を含めて、その環境から、ひとつの「恐怖」の状態を描くというのは、このあとの時代の「エクソシスト」とかに引き継がれて、「シャイニング」で爆発する、って感じだろうか。「シャイニング」は、かなりこの「ローズマリーの赤ちゃん」に似ている気がする。

 今日もほとんど読書せず。葛原妙子を少し読む。

つめたき柿の實を兩斷したりすなはち固き種子もろとも


 「幸せ」についての曲を思い、Beatles の「Happiness Is A Warm Gun」を選んでみる。この曲をBeatles の最高傑作曲という人も多い。これも「ローズマリーの赤ちゃん」と同じく1968年の作品だし、「ローズマリーの赤ちゃん」に主演していたミア・ファローは、このちょっと前に、Beatles のメンバーといっしょに、インドでマハリシのもとで瞑想修行をした仲間。このアルバム「The Beatles (White Album)」には、そのインド修行に同行したミアの姉妹を歌った「Dear Prudence」という曲もある。
 そういえば、John Lennon は、「ローズマリーの赤ちゃん」の舞台になったダコタ・ハウスの住民で、彼が撃たれたのはそのダコタ・ハウスの前でだった。彼が撃たれたことをこの曲「Happiness Is A Warm Gun」に繋げてもいいし、「ローズマリーの赤ちゃん」撮影後にポランスキーを襲った悪夢のように、この映画の呪いなのだなどという、オカルティズムも面白い。



 

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■ 2010-03-10(Wed) 「わたしたちは無傷な別人であるのか?」

[]Dog Breath / Mother People [Frank Zappa & The Mothers] Dog Breath / Mother People [Frank Zappa & The Mothers]を含むブックマーク

 窓の外の向かいの屋根が、また雪で白くなっている。これで今年何度目になるのだろう。雪はまた、あっという間にとけてしまう。
f:id:crosstalk:20100311175410j:image:right 今日は横浜へ行く。隣駅まで歩いている途中の景色。畑に雪が白く積もっていて、遠くの筑波山に雲がかかっている。見ていて寒くなる。
 駅に着くと、風の影響でJRが遅れていると云う情報。ほんとうは横浜へ行く前に、渋谷で二、三済ませたい用事があったのだけれども、ちょっと無理になりそう。それでも、その用事をこなすつもりで、Aさんとの待ち合わせ時間に合わせるよりも早くに家を出ていたので、その点はラッキーだった。
 それでも、予想ほど遅い電車に乗らなかったので、渋谷で下車してから、とりあえずひとつは用事を済ませる。東横線で横浜へ出て、再度JRで桜木町駅。Aさんとほぼ時間通り合流する。

 Aさんとは何年か前にもこの桜木町で会って、そのときは野毛山動物園まで行ってみたりもした。今日は夕方から、横浜美術館でのチェルフィッチュの公演が目当て。それまでの時間どうするか。
 桜木町の駅は、その北側と南側で、見えて来る様相ががらりと変わる。つまり、南側は「みなとみらい」地区で、おしゃれでハイセンス、モダ〜〜ンなエリアと云うわけだけれども、北側は、これは昭和のまま止まっている。駅の前の、なんとかシティというビルの地下にある飲食街などを歩くと、タイムスリップしてしまったような感覚に陥る。このビルの上の階にも20年近く前に来たことがあるけれど、多分今でも、その時とあまり変わっちゃいないんだろう。
 その飲食街で昭和的な昼食を取り、南側へは行かずに北側を散策する。本の重みで棚がすっかりたわんで、いつか本が客をめがけて崩れ落ちて来そうな古本屋をのぞいてみる。ちょっとしか居なかったのに、なんだか体にすっかり古本の匂いが染み付いてしまったようだ。外を歩いていても匂いが飛んで行かない。コーヒーを飲んで話し込んでいると、もうすぐに公演の始まる時間が近づいてしまう。駅の南側に移動。

 チェルフィッチュの新作は、「わたしたちは無傷な別人であるのか?」というタイトル。観ている観客のことを言っているのかもしれないタイトルで、心に鎧をまとってから座席に着く。この日が千秋楽で、座席は満員。
 二○◯九年八月二十九日の土曜日という特定の一日が設定され、そういう特定の日を選ぶことで、評判になった作品「三月の5日間」を思い出してしまう。二○◯九年八月二十九日とはどういう日だったんだろう? そう、これは去年の衆議院選挙投票日の前日ということ。その日に、奥さんが会社の同僚を自宅マンションに招いた、ある若い夫婦を中心にした舞台。つまり、この夫婦の二人が「わたしたち」ということなのだけれども、これはもちろん、観客を含めた「わたしたち」に容易に転移する。「無傷な別人」とは? 登場する夫婦の奥さんは、自分のことは幸せだと感じている。来年になれば新しいマンションの29階に転居するし。でもそこに、「わたしは幸せではない人間だ」と云う男(の影?)がやって来て、「あなたも、いつでも幸せでない人間になるのだ」と云う。
 今の日本に住んで、かりそめの幸福感に包まれていても、それがいつ、逆転して不幸をかみしめる生活になってしまうことか。そういう不安感を共有し合おうという舞台のように思える。妻や夫とすれ違う、「他者」としての赤いジャージの男。この男こそが、それぞれの「不安感」の形象化のように思える。わたしでも、このジャージの男への登場人物の抱く感覚は、共有出来た気がする。
 「わたしでも」と書いたのは、わたしはけっきょく、今のわたしが「幸せ」などと考えてもいないから。そういう風に考えることもあるけれども、その思考経路はとても屈折していて、ここにすぐに書き表わせられるものでもない。「わたしは幸せではない人間だが、あなたも幸せではない人間になる」と、他者に語ろうなどと思いもしない。わたしはもう、この日の舞台で描かれるような世界のことは、わからなくなってしまっているのかも知れない。それは不幸なことだろうけれども、だからわたしはそう思っていたわけだ。考えがループする。わたしは、彼らのことなどどうでもいい。
 Aさんは、観終ったあとで、「もっと分かりやすくしていいのに」と云っていた。それは、チェルフィッチュのスタイルであのように演じなくても、ごく通常の演劇スタイルで充分に理解され、逆にそのようにごく通常の演劇スタイルの方がインパクトがあったのではないか、ということだろう。わたしも、同意する部分がある。
 わたしには、今日の舞台の演出スタイルは、チェルフィッチュ・モードというよりは、表現主義演劇のように思えてしまった。特に「表現主義演劇」というものに詳しいわけではないけれども、けっきょく、リアリズムを超えて/捨てて顕われて来る、誇張された身ぶりは、今までのチェルフィッチュの「現代若者のことば/身ぶり」というスタイルから離れ、一種の「心的状態」をあらわにするような身ぶりと、わたしには見えてしまったということ。それは例えば、画家が人物像を描くときに、そのポーズをちょっと自然なポーズから離れさせ誇張し、描かれた人物の内面をも表に出そうとするような(わたしはこう書いていて、エゴン・シーレの作品のことを思い浮かべているのだけれども)。それは、今までに観て来たチェルフィッチュの舞台とは、明らかに異なる印象を残すものだった、と思う。

 舞台終了。今日は家へ帰りたいけれども、終電にはまだ時間がある(それでも、8時半ぐらいには出ないと帰れなくなる)。Aさんと飲むことにして(というか、舞台のあとで飲むというのは最初から決まっていたことだけど)、「みなとみらい」地区の飲食店はツー・イクスペンスィヴに思えるし、不幸なわたしにはやはり野毛山地区がふさわしい。また線路を越えて反対側へ移動。駅から近い場所にあった居酒屋が、その店鋪の造りも古めかしい感じで、今夜はこの場所に決めた。料理もシンプルで、この店に似合っている。串焼きの焼き加減、焼き方が気に入った。
 このあいだわたしが観たドキュメンタリー、「血塗られたアフリカのバラ」の話など。あのような社会問題を扱ったドキュメンタリーを観て、人はよく「わたしたちに出来ることを考えさせられた」などと云う。「出来ること」などはない。出来ることをやろうとすれば、その人の生活は根本から大きく変わらなければならない。今日の舞台のようなものだ。出来ることを考えたふりをして、忘れてしまう人たちは幸福なのだろう。映画でもそうだろう。映画作品それぞれには、メッセージの込められているものが多い。いや、すべての映画がそうなのか。そういう映画を観て、「考えさせられた」と云う人は多い。では何を考えたのか。考えたふりをしているだけ。そうやって、映画ファンは何本も何本も映画を消費して行く。映画の中に求めるものも定かでないままに、次々に公開される新作映画を消費する幸福な人たち。「アカデミー賞」、などと云うようなものがあるからいけないのか。いや、これ以上他人の批判をするのはよしましょう。

 カフカの「日記」は、まったく連続していない。続けて読んでいても、常に意識が断絶させられてしまう。一つのセンテンスを読み終えて、その一筋縄では行かないカフカの思考を捉え切れないうちに、もう次のセンテンスに移行するわたしの目。そう、カフカは自分のことを「幸せではない人」と思っている。これだけは確かなこと。彼自身も云っている。

一つの色を見分けるのに、なぜかなり長い時間が掛かるのだろうか。


 「わたしたちは無傷な別人であるのか?」、Frank Zappa は、「We are the other people」と歌う。そして、「You're the other people too. Find a way to get to you.」となる。1968年発表の、The Mothers of Invention 名義の第三作、「We're Only In It For The Money」の中でも際立ってストレートなロックを感じさせられたのが、この「Mother People」という曲。今日YouTube で見つけたのは、1970年のライヴ音源からのもので、「Dog Breath」とのメドレーになっているもの。歌っているのは、この時代だからFlo & Eddieに決まっている。



 

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■ 2010-03-09(Tue)

[]Nothing Rhymed [Gilbert O'Sullivan] Nothing Rhymed [Gilbert O'Sullivan]を含むブックマーク

 DVDを今日返却するので、午前中にもういちど「エレファント・マン」を観る。
 メリックの収容された病院の院長(ジョン・ギールグッド)が、初めてメリックに会ったとき、最初は彼に知性を認められないと考え、病院に置いていくわけにはいかないという考えを示す。でもそのときにドアの向こうで、メリックは聖書の詩編第23編を暗唱し続ける。「なぜその詩編を知っている」という問いに、メリックは「この部分は美しいので何度も繰り返し読んだ」と答える。知性があるかどうかというレベルではない。院長はツリーヴズに云う。「彼の人生がどんなだったか、想像出来るだろうか? いや、想像など出来ない」と。「想像出来ない」ということは重要。どんな人生でも、実は他人が想像など出来ない。わかったような顔をしてもしかたがないけれども、それでも、人の生を理解したいと試みること。詩編の第23編は次のように終る。

わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 今日は冷たい雨が降っている。午後からDVDを返却に行き、新しく「フランケンシュタイン」など借りて来る。図書館へも行き、ワーグナーのオペラのヴィデオを借りる。

 ユウがいつまでも、わたしから逃げてばかりいてなつかない。きっとユウの隠れ場所があることがいけないのだろうと、ふだんユウの隠れているベッドの下を整理して、奥には入れないようにし、片側を大きく空けて、外から丸見えになるようにした。これだとあまりにむき出しで落ち着かないだろうと、その奥に空き段ボール箱を寝かせて置く。ユウはしばらく行き場がなくて、あちこち部屋中を行き来する。けっきょく、やはりその段ボール箱の中に入って、眠ってしまったようだ。これでどう変化して来るのか。

 夕方のニュースで、都心では雪が降り始めたと云っている。新宿の駅前にずんずん大きな雪が降っていた。カーテンを開けて外を見るけれども、このあたりはまだ雨。それでも部屋の中は芯から寒く、リヴィングに布団を持ち込んで、その布団をかぶってTVを観る。

 夜、借りて来たDVDの「ローズマリーの赤ちゃん」を観初めようとして、本編が始まったとたんに眠り込んでしまった。次に目が覚めると、もう午前一時を過ぎていた。

 今日もほとんど読書出来ず、ふっと読書の習慣が途絶えるいつものパターンがやって来たのかと思う。今日は「無」だった。

 「無」の曲もいろいろあるだろう。今日はGilbert O'Sullivan の、実は彼の最初のヒット曲、「Nothing Rhymed」を。1970年に発売され、イギリスではトップテンに、オランダでは1位に上がることになる。彼の代表的な曲は、1972年の「Alone Again (Naturally)」ということになるけれども、この曲のイメージが強すぎて、このGilbert O'Sullivan という人は損してると思う。わたしは、この「Nothing Rhymed」の方が、「Alone Again (Naturally)」よりも好ましく感じることも多い。



 

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■ 2010-03-08(Mon) 「ラジオ・デイズ」 「ウディ・アレンの重罪と軽罪」

[]Mairzy Doats [Spike Jones] Mairzy Doats [Spike Jones]を含むブックマーク

 指の治療はとりあえず今日が最後。明日から通う病院の医師が学会に出席というので、病院は長期休暇になるため。もしも病院の休暇が明けてもまだ指が良くならなければ、また行くことになるけれども、そんなことになったらもう重病。今の状態だって、そもそも最初の原因になったケガをしてからもう二ヶ月ぐらい経っているから、全治二カ月の傷ということになる。まだ全治してないし、とにかくすでに重傷である。
 病院の待合室で順番を待っていて、昨夜観た「エレファント・マン」のことを思い出してしまったら、また涙があふれて来てしまった。病院の待合で目に涙をためたオヤジ。不審である。治療受けたときの先生やナースさんは気が付いていたかもしれない。先生にもナースさんにも、「ずいぶん冷たい手ですね」と言われた。「血行障害かも知れませんね」と。これは当たっているかも知れない。自分でも、むかしから冬になると手や足が異常に冷たくなるのがわかっている。これは心が暖かい証拠などではなく、じぶんでは一種の「冷え性」みたいなものだと思っていたし、男で「冷え性」というのは、何か別の病気の可能性があるということも聞いていた。血のめぐりが悪いということは自覚しているので、やはり血行障害かもしれない。

 病院の帰りにスーパーに寄り、レジに並んでいるあいだにまた「エレファント・マン」のことを思い出し、また泣けて来てしまった。これから涙が必要なケースになったら、「エレファント・マン」のことを考えれば良いのだ、ということを学習した。

 はかどらない読書をほったらかして、図書館から借りているヴィデオを2本続けて観た。どちらもウディ・アレン監督の作品で、1987年の「ラジオ・デイズ」と、1990年の「ウディ・アレンの重罪と軽罪」と。

 「ラジオ・デイズ」は、実は冒頭の泥棒とラジオのクイズ番組の挿話がわたしにはいちばんおかしくって、爆笑してしまったけれども、それ以降はそういう爆笑挿話はなかった。これから、笑みが必要なケースになったら、この「ラジオ・デイズ」の挿話を思い出すことにした。ラジオを聴きながらすごす、アメリカの1940年代のニューヨーク下町の人たち。ラジオ番組製作に関わる人たち。ウディ・アレン作品らしく、アメリカのユダヤ人コミュニティの様子も活写される。1944年のにぎやかな新年パーティーで映画は終るけれども、結婚願望あふれる女性が新年を迎えて、「早く戦争が終って欲しい! 町に男たちがいないんだもん!」と云う。このときに日本でこんな新年パーティーはなかっただろうな、こんなことを云う人もいなかっただろうな、などと想像する。パーティーはやっぱり、会場を抜け出して屋上へ逃げるのが楽しい。

 「ウディ・アレンの重罪と軽罪」でも、ユダヤ人の家庭やユダヤ人の信仰の問題は取り上げられる。ずっと以前にチェコに旅行したとき、あちらの書店には「ユダヤ人」コーナーがあり、そこにはウディ・アレンの本が何種類も山積みにされていたことを思い出した。
 ウディ・アレンは、この作品では、「神はすべてを見ておられるというけれども、実際の世の中は実に不公平ではないか」ということを言いたいらしい。この考えを伝達するためのストーリーであり、演出である。そのことは、作品の奥行きをなくしてしまっているのではないのか。例えば、軽薄なTVディレクターと、ウディ・アレン演じる売れない映画監督とのミア・ファローをめぐる恋愛競争。ウディ・アレンの演出は、あくまでもTVディレクターを軽薄でバカみたいな存在として、ぜったいに売れない映画監督の方が深みがあり、誠実なのだ、というような視点(これはうえない映画監督の視点である)から描く。しかし結果としてミア・ファローはTVディレクターの方を選ぶ。これはおかしいではないか、そう言いたいらしいけれども、このあたりのディレクター/映画監督の対比の仕方が、それこそ「軽薄」ではないのか、と思ってしまう。陰でコソコソとディレクターの悪口を云う映画監督は、ディレクター以上にアホな男に思えるし、腕を振り上げてスタッフを叱咤するディレクターの映像に、ムッソリーニの演説をモンタージュするのなんか、それこそ「軽薄」ではないのか。それに、高邁な思想を持つ(らしい)教授を取材しているということが、その取材をしている映画監督もまた高邁である、などということが云えるはずもない。その、取材された教授が監督の取材ヴィデオで語る言葉はバズ・ワードにあふれていて、「どうやら高邁らしい」という、見せかけでしかないように見えてしまう。ミア・ファローがTVディレクターを選ぶのも当然ではないのか。そう感じてしまう。
 いやしかし、ウディ・アレンは、逆にそういう映画監督の軽薄な滑稽さをこそ描いて、笑っているのかも知れない。しかしそうだとすると、もうひとつからんで来る、浮気相手の女性を殺害して、生活の危機から逃れてしまう医師のストーリーと、釣り合いが取れなくなるように思える。わからない。
 けっきょく、いったいこの作品は、「神は不公平だ」と述べる映画なのか、「神は不公平だ」と思っている人物の滑稽さを描いた映画なのか。そのあたりの演出の距離が見えて来ない、ということになる。
 しかし、ウディ・アレンはパーティー大好き人間のようだ。最近観た三本の映画にどれも、パーティーの場面が重要な要素で出て来る。パーティーの場で見えて来る人間模様から映画を組み立てる。わたしには、そういう方法論はとても安易な取り組み方に思えてしまう。ウディ・アレン、苦手。あ、この作品の撮影監督は、先日観たレベッカ・ホルンの「バスターの寝室」の撮影もやっていた、スヴェン・ニクヴィスト。

 その「ラジオ・デイズ」を観ていると、いくつも聴いたことのある曲、知っている曲が、映画の中のラジオから流れて来るのだけれども、そんな曲の中から、「Mairzy Doats」という曲を、今日の一曲に。
 この曲は1944年にアメリカで大ヒットしているらしいけれども(この時にこの曲を歌っていたのは誰だか知らないけれど、ここで選んだSpike Jones ではない)、その後もいろいろな人に歌われてヒットしている。わたしはこの曲は、1967年にInnocence という、(今で云う)ソフト・ロックのグループが取り上げていたのを聴いて知っていた。まあ一種のナンセンス・ソングのようだけれども、その後もこの曲が、あれこれの映画(といっても二つだけ)の中で歌われるのを聴いている。いちばん印象的だったのは、TV版の「ツイン・ピークス」の中で、そのとき突然に狂ってしまったローラ・パーマーのお父さんが、この曲を歌いながら登場する場面。ああ、リンチっぽいな、などと思って観ていた。もうひとつは「ザ・セル」の中で、狂気の犯人を演じるヴィンセント・ドノフリオが、バスタブの中でこの曲のさわりを歌っていたもの。
 そうすると、この曲はいつも、ある種の狂気と密接に関連付けられて使われているわけだ。この「ラジオ・デイズ」でも、この曲で突然に下着姿で街なかを駆け回り始めた男のことを語っている。ナンセンスと狂気。今日選んだSpike Jones の演奏にも、そのナンセンスぶりと狂気ぶりを楽しめるかも知れない。



 

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■ 2010-03-07(Sun) 「エレファント・マン」

[]Seven Nation Army [White Stripes] Seven Nation Army [White Stripes]を含むブックマーク

 昼食はしばらく焼そば。以前は仕上げにオイスター・ソースを入れて、これでなかなか乙な味、などと思っていたのが、オイスター・ソースがなくなってしまったので、冷蔵庫の隅で、使われることもなく忘れ去られようとしていたトウバンジャンを、最後に入れてみた。これがオイスター・ソースを入れたのよりもずっとおいしくって、フン、料理なんてこんなもんだよと、理由もなく、誰に対してでもなく、なめてかかることにした。なめた姿勢のまま夜は自家製シチューを作り、フン、市販のシチュールウなんか、鍋の中をドロドロさせてるだけだよと、なお増長する。

 昨夜トッド・ブラウニングを観たからというのではないけれども、「フリークス」つながりみたいなもので、デイヴィッド・リンチ監督の「エレファント・マン」(1980) を観る。デイヴィッド・リンチは、わたしが大ファンであるところの映画監督なのだけれども、この「エレファント・マン」は、いちどもちゃんと観ていなかった。まだリンチ監督のことをほとんど知らない頃に、TVか何かで観た記憶はあるから、だいたいのストーリーは知っているのだけれども、「観た」と、胸を張って言えるようなものではない。
 ‥‥もう、途中で泣いた。ほとんど号泣。それで、観ていて、これがどうしても、何だかティム・バートンの作品に思えて仕方がなくなって、終ったあとに考えて、自分の中でこれを「シザーハンズ」と近しいものと捉えていたんだろうと思い当たった。いやしかし、この「エレファント・マン」の方がもっと苛酷であって、もっと残酷な現実の中で物語が展開する。そもそもがファンタジーとして構築されていた「シザーハンズ」とは、その製作姿勢からしてまるで異なっている。何と云っても、エレファント・マンのジョン・メリックは、実在したのだから。
 しかしそれでも、この「エレファント・マン」で、主人公のジョン・メリックが構築しようとする世界もやはり、ファンタジーの世界だったように思える。ここでわたしは観ながらティム・バートンのことを思い出していたのだろう。
 マイノリティの最たる「畸形」として生き、他の人と同様な世界内での活動が出来ないということ。19世紀末という時代の中で、見世物となって生きるしかなかった男。ツリーヴスという医師に拾われ、自分のことを「人間」として認めてくれ、「My friend」と呼んでくれる他者と巡り会う。
 重要なのは、メリックが彼のことを「人間」と、「友」と認めてくれる人がいると受け止めることで、はたしてツリーヴス医師が根底で彼にどのような意識を持っていたか(彼のやっていることはもうひとつの「見世物」だという批判もなされる)、女優のケンドール夫人が、慈善行為以上に実際にはどう考えていたのかはここでは問題ではない。ここから、ジョン・メリックは「人間として生きる」というファンタジーを生きはじめるのだから。このことは、彼はけっきょく人間ではない、なかった、などという視点とは無縁であって、人間の生をファンタジーとして生きるという視点、そこから生まれる世界の美しさを想像することを求められる作品なのだと思った。部屋の窓から見える聖堂の模型を作り続けるジョンは、見える現実の聖堂をファンタジーの世界に置きなおしているのだということは、たいてい了解出来るだろう。

 作品の最後で、ジョンはケンドール夫人に招かれて劇場での観劇を体験し、その夜に「すべて終った」と、自ら命を絶つことになる行為をする(この行為もまた「人間として生きる」というファンタジーへの没入、とも云えるだろうけれども)。ここで、この舞台シーンの演出が、それこそファンタジーとしての舞台を描いていて見事なのだけれども、まさにここに、舞台芸術というものこそが、「人間」というファンタジーを造りあげたもの、人の見聞きした体験を再構築して、ファンタジー化したもの、と云うことも出来るのであって、これこそがジョン・メリックの求めた究極の世界解釈、舞台体験のあとに彼が「すべて終った」と思うのも理解出来る。これ以降はその究極表現のヴァリエーションであり、そのくり返しになるのだから。
 この、ラストの舞台表現へのオマージュとも云える部分は、そのままデイヴィッド・リンチ監督の映画表現の擁護とも受け取れるように感じられ、彼の作品をこれすべて、「人間として生きる」ことへのファンタジーと捉える、現実世界を(たとえそれがダークであろうとも)ファンタジー化するもの、などという、極めて乱暴なことも言ってみたくなってしまう。ちゃあんと「イレイザーヘッド」から、連続して繋がっているではないか、そういう印象。ホントにすばらしい作品だった。

 今日はそういうわけで、「Elephant」な曲を探して「今日の一曲」に。今日の曲は、この曲名はElephant と関係ないけれども、演っているWhite Stripes の2003年の4枚目のアルバム、「Elephant」の一曲目、ということで。
 わたしはWhite Stripes 大好きですからね。この2003年の来日ライヴも行きました。外タレの単独ライヴというのもそれ以来ご無沙汰しているけれども、もうじき、久しぶりの外タレのライヴに行こうとしているわたしです。



 

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■ 2010-03-06(Sat) 「魔人ドラキュラ」

[]三月のうた [本田武久] 三月のうた [本田武久]を含むブックマーク

 今使っているレンタルDVD店の近くのスーパーも、利用することにした。どうもこの店は金曜とか土曜に特売しているようで、ものによっては驚くほど安くなる。今日は焼そば三食パックで68円など。

 菱川善夫の「歌のありか」、少し読み始める。これは、戦後派短歌から前衛短歌の歴史をたどったもの。戦後まもなく、文壇では短歌否定論がまき起こったことを知る。主に、戦時中の短歌の戦争協力への反省から。たしかに「昭和詩歌集」を読んでいても、戦時下の社会や従軍体験を詠んだ歌が多く、おそらく収録されている歌以外に、多くの戦争礼讃のような歌があっただろうことは想像がついていた。短歌がひとつの情感をストレートに伝えるものだとしたら、戦時下の翼賛体制維持に利用されやすかったことだろう。
 読んでいて、以前人と話したネクタイの話を思い出した。ネクタイの幅(太さ)の話。今では普通の人は、太いところでも幅5〜6センチぐらいのネクタイを締めるのが一般的だろうけれども、1970年代とかは、ものすごく太いネクタイが流行っていた。というか、太いネクタイが一般的で、今のような細いネクタイをしているのはカタギの人ではなく、そういう細いネクタイの人の姿を見ると、よけるように歩いたものだ。当時有名なTV司会者の、あまりに太いネクタイの幅が話題になったりした。今ではまるで逆で、そっちの方の人はとっても太いネクタイをしている。今では太いネクタイの人は怖い。そういう話をしていたら、聴いていた若い人が「オレなら昔でもぜったいにそんな太いネクタイは締めないな」と云った。彼に、そんなことはムリだ、ありえないと話す。今の視点から、太いネクタイなんかイヤだぜと思っても、当時の世間の中では細いネクタイを締めているとカタギとは思われないのだ。太いネクタイが一般人のしるしだった。当時の感覚で云えば、オレは細いネクタイなんかぜったいに締めないと思う方がノーマルだった。
 これは単に流行りすたりの話だけれども、今なら誰でも「オレはぜったいに戦争には反対する」と云い、「たとえ戦時中でも戦争に協力などしない」と云えても、戦時下でほんとうにそのように云い、そのように行動出来るのかと考えることの、ちょっとした手助けになる気がする。
 今は野党のJ党が、与党への対抗政策として、徴兵制ということを考慮してみたいらしい。そういうニュースを昨日読んだ。

 DVD、1931年度製作のトッド・ブラウニング監督、ベラ・ルゴシ主演の「魔人ドラキュラ」を観る。
 これが、先日観た「民衆の敵」と同じ年に製作されたとは信じられない古めかしさ。というか、それだけ「民衆の敵」が革新的だったんだろう。この「魔人ドラキュラ」では、演出もまだまだサイレント時代の演出方法が踏襲されているようだし、間延びしているようにも感じられる。カメラはフリッツ・ラングの「メトロポリス」も手掛けたカール・フロイントで、冒頭のドラキュラの棺桶へ迫って行くカメラ、それからサナトリウムの門から中へ移動して行くカメラなどは素晴らしい。それでも、この映画はどちらかと云うとやはり、写真的なインパクトのある構図の画面の積み重ねという性格を感じさせる。ドラキュラの城内など、ゴシック的な美しい画面には惹かれるものがあるし、ベラ・ルゴシの不思議に優雅な吸血鬼の姿、その配下の女性吸血鬼たちの並んだ姿もまた、世紀末美術からの影響を感じさせられる。トッド・ブラウニングという監督、むかし「フリークス」は観たことがあるけれども、映画監督としては、サイレント時代の演出方法を引きずる人なのだろうと云う印象。エキセントリックな画面をみせる人、という感じ?
 わたしは、ムルナウの「ノスフェラトウ」の異様な迫力が好きだなあ。こんどはクリストファー・リーの演じた「ドラキュラ」を観てみたい。

 そう、このDVDには特典で、フィリップ・グラスのつけたサウンドトラック(演奏:クロノス・クァルテット)で映画を楽しむことも出来る。こちらでこの映画を観ると、ちょっと耽美的でアーティスティックな「ドラキュラ」を楽しむことが出来る。むかし、「ノスフェラトウ」や「メトロポリス」などのサイレント映画に、フランスのチェンバー・ロック・グループ、Art Zoyd が音をつけたものを観たりしたこともあるけれど、こういう古い映画作品を素材としての新しい試みというのも、これからのDVDで行われてもいいのではないかと思う。

 今日の一曲は、三月というのを歌った曲が他にないものかと調べたらひっかかって来たもの。作詞:谷川俊太郎、作曲:武満徹ということで、なにかの映画で使われたらしい。歌っている本田武久という方のことは知らないが、難病を抱えながら活動を続けている方ということ。知らないことはただ紹介するにとどめましょう。



 

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■ 2010-03-05(Fri) 「兵隊やくざ」

[]It Might As Well Be Spring [Astrud Gilberto] It Might As Well Be Spring [Astrud Gilberto]を含むブックマーク

 昨日書かなかったのだけれども、昨夜BSで放映されたドキュメンタリー、「血塗られたアフリカのバラ」というのを見た。これは実は前編後編に分かれて放映されていて、前の夜の前編は「デルス・ウザーラ」のウラ番組だったので見ることが出来ず、この夜の後編だけ見た。BBS、Channel 4、NHK などの共同製作ドキュメンタリーで、ケニアで2006年に起きた、白人女性環境保護活動家(長ったらしい肩書きだけれども、「白人」であったこと、「女性」であったこと、「環境保護活動家」であったことが、それぞれに重要なファクターとなるわけだ)殺人事件の背景を探るもの。
 タイトルに「アフリカのバラ」とあるのは、この事件の起きた土地、ナイバシャ湖のほとりに近年大規模なバラ農園がつくられていることからで、このバラ農園の存在も事件の背景にあるだろうということで、前編で、そのバラ農園についての言及があったらしい。この後編ではほとんど語られなかったけれども、バラ栽培は現在のケニア経済を支える大きな産業になっており、このバラ農園による湖の水位の低下、水質汚染などの環境汚染は問題になっているらしい。これと湖周辺での密猟問題というのがあり、殺害された環境保護活動家は個人で警備員を雇い、主に密猟を監視していたという経緯がある。後編では描かれなかったけれども、彼女によるバラ農園への糾弾も行われていたのかも知れない。まさに映画「ナイロビの蜂」を彷佛とさせられる事件だけれども、実際に起きたこの事件はもっと謎にみちており、もっと複雑に思われる。ここに、殺害された活動家の隣家の、やはり白人女性との土地をめぐる不仲の問題もあり、殺された活動家の雇っていた私設警備員、密猟で追い払われた住民(警備員の暴行で死に至らしめられた住民もあったらしい)、隣人と、はたして犯人は誰なのか? みたいなドキュメンタリーの進行。住民の魔術信仰も絡んできて、まさにミステリーだ。最初に、活動家の持っている金を目当ての、警備員による犯行なのかと疑われて、警備員は逮捕される。しかし、地元警察のあまりにずさんな調書もあり、裁判では無罪になる。この警察の取り調べの背後には、白人社会からの圧力があったという暗示がされる。なぜ? まあ、このドキュメンタリーは、「おそらく犯人はこの人物だろう」と暗示しているのだけれども、このドキュメンタリーのポイントは、最後に地元の環境保護活動家(白人ではない)の語る、殺害された活動家を批判する言葉。単に裕福な西欧の視点から貧しいケニアの問題に立ち入って来て、生活のために密猟をする貧しい人々を追い払うようなやりかたは間違っていると訴える。先に書いたように、バラ農園の問題はこの後編ではほとんど取り上げられないのだけれども、そのバラ農園を環境汚染の元凶として攻撃する視点もまた、裕福なものの視点という部分もあるだろう。
 たとえ現在のわたしが貧困のまっただ中にいるといっても、実は、実際のところ、裕福な地勢のなかに生きている。

 春になって来ると動き出したくなるのは、わたしの中の動物、昆虫的な部分。三月には、アラン・レネの未公開作品を含む全作品の上映がある。これは複数回行きたい。考えてみると、今年に入ってから新作映画というのをまったく観ていない。先日はブレッソンのデビュー作、「罪の天使たち」が上映されていたのだけれども、レイトショーなのであきらめた。舞台の方では、来週にはチェルフィッチュの公演を観に、横浜へ行く。そのあとにちょっと、招待券をもらってしまったコンサートへ行く予定もある。まあそんなこんなで。

 ネコは、自由にいつでもエサが食べられる環境で、隠れる場所を持っていると、いつまでもなつかないのかも知れない。飼い主がエサをあげていることを認識させるのが大事。ちょっとネコの食事を出しっぱなしにしておくのを考えよう。それにしても、きっと、今の部屋の中の非衛生ぶりは、ひどいことになっているんだろうなあ。匂いなども自分ではわからないけれども、もうわたしの体にもまとわりついているのだろう。

 葛原妙子歌集。昨日読んだ彼女のエッセイの冒頭に、あるとき、折口信夫が女流歌人たち(この席に葛原妙子はいない)に囲まれて言い伝えたという言葉が書かれている。

「鑑賞の中心を醜さの中に据ゑて、ここがいいのだと押し切る強さをもて」
「老のつきまとふ歌を作るな」
「あなた方の中、誰が犠牲となつて流行の血祭にあがるか、或ひはその中に埋没する程一途な歩み方をするかは解らないが、てんでに覚悟のあることでせう」

 「老のつきまとふ歌を作るな」というのはほんと感じるところで、「昭和詩歌集」を読んでいても、もうたいていの歌人が、その晩年には自分の老境を詠んでばかしいて、足元がおぼつかないとか、みんな死んじゃったとか、そんなのばっかである。いちがいに歌人というのが妙に平均寿命が長いというのも不思議な気もするけれども、泣き言云ってると長生き出来るのかも知れない、などと思ってしまうくらい。
 他の読書はあまりはかどらず。「物質と記憶」は、少し先に進んだ。「物質」があって、「イマージュ」があって、そこから、「表象」が派生して来る。

 DVD、今夜は増村保造監督のヒット作、「兵隊やくざ」(1965) を観る。この作品は、先週観た「陸軍中野学校」よりも先に作られている。いわゆる「情緒」を嫌った増村監督の、「巨人と玩具」、「黒の試走車」などで取り組んで来た、組織と個人の問題の、ひとつの突き抜けた回答と云えるのか。痛快で爽快。多くの観衆の支持を集めたのも納得出来る。とにかく、勝新太郎と田村高廣の、腕力と知性のコンビの活躍が楽しい。かなり戯画化されたドラマで、リアリティなぞありはしないけれども、組織の包み込む状況としての暴力には圧倒的な個の力で対すべし、そこに突破口はおのずから見つかるだろうということなのか。極めて大杉栄っぽい感じだけれども、これをそれぞれの分野に秀でた複数の協力で対処する(大杉栄があかんかったのは、彼が孤立してたからということ)。勝新太郎+田村高廣+淡路恵子、これは疑似家族構造でもなく、ピラミッド構造でもない、同性愛を含む恋愛関係も吹き飛ばす「3P」の構造なのだというのが、格別にすっばらしいところ。
 増村保造監督が、これだけのアクション・シーンの演出をやりこましていたことも驚いてしまうけれど、何よりも、最初のタイトル、「兵隊やくざ」の文字が出るバックが、白骨化した兵隊の死体のアップ、ということのメッセージが面白い。この作品には、戦争としての敵軍との戦いのシーンは皆無なのだから。では、その白骨の意味するのは?

 今日もまた「春」の曲を。今日のは、売れに売れた「Getz/Gilberto」の続編として、1964年にリリースされたライヴ盤「Getz/Gilberto #2」の、CD化の際にボーナス・トラックとして収録された曲から、Astrud Gilberto の歌うスタンダード・ナンバー、「It Might As Well Be Spring」。この季節、こういうサウンド、Astrud Gilberto の歌声というのもいいものです。バックに聴こえる印象的なヴァイブの音は、この頃Stan Getz のバンドにいたGary Burton のもの。



 

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■ 2010-03-04(Thu) 「民衆の敵」

[]Spring is Nearly Here [Shadows] Spring is Nearly Here [Shadows]を含むブックマーク

 今日も雨が降りそうな天気で、とても寒い。天気予報では明日だけ異様に暖かくなり、そのあとはまた寒くなると云っている。まだ、春らしい天気が続くのは、もう少し先になる。
 今日はまず歯医者。「もう少しでおしまいですよ」と云われて、あ、そうなのか、と。医者は変わっても、もう足掛け四年も治療を続けて来てしまっているから、このままいつまでも続くような錯覚を持っていた。
 歯医者の次は指の治療。ただ毎日軟膏を塗り替えるだけの治療で、三十秒ぐらいで終ってしまうのだけれども、「しばらく通院して下さいね」と云われる。まだ痛みもあるし、なかなか良くならない。それで、炊事には100円ショップで買った、薄いビニールの手袋を着用してやっている。便利だけれども、これは入浴には使えない。入浴には指の部分をビニールで覆い、テープでとめて準備する。頭を洗うにはブラシなど道具を使う。めんどいのは朝の洗面で、左手だけで顔を洗う。この時だけは、丹下左膳の気持ちがちょっと分かる。

 今日は読書があまりはかどらなかった。現代歌人文庫の「葛原妙子歌集」、彼女の書いたエッセイとして、昭和三十年に「短歌」誌に掲載された「再び女人の歌を閉塞するもの」というのが載っているのを読む。
 これは、当時の歌壇に巻き起こっていたらしい、女性の詠う短歌への疑問、そういう動きへの反ばくとして書かれたものだろう。「女歌」という言葉が、暗黙のうちにある種の女流歌人の作品を指すようになり、それらを一括して「不誠実な作品」という折り紙がつけられようとしていた(このあたりは葛原妙子の文章から)。その女流歌人のひとりと目された葛原妙子が、「だったら言わせていただきますけれども」と、反論する。ここには戦後十年という時代的な背景もあるのだけれども、(これは今でもよく言われるようだけれども)女性の感覚的、情緒的側面への攻撃も多かったようだ。彼女のまとめた「女歌への疑問」(これはある批評家の文章の要約なのだけれども)とは、それらが思想性に乏しく、したがって社会人としての自覚や連帯感を欠いているということ。そのような作品は個人的なものであり、そうなる原因を彼女たちの「いのちの過信」というものに置き、もっと知性的な情緒を要求している、と。まあこういう女性アーティストへの批判は、今になっても(例えば女性の比率の高いダンスのような世界で)繰り返し提示され、つまりはその根底に女性蔑視が隠されていることは明白。まあいつの世もつまらない批評ははびこるものだと思うが、葛原妙子は自分自身がそうやって批評されてるわけだから、黙っていられなかったのだろう。至極まっとうに反論している。
 この文章で面白かったのは、葛原が「すべての芸術作品の意味は、現象を通じてその中の「真実なるもの」を取り出すことにあるのであり、それが真のリアリズムの精神であると云へよう」として書き進めている「客観的描写=写実主義」と「主観的描写=反写実主義」の問題で、「写実=真実、素朴、明快 反写実=不誠実、化粧、独善」と考えられがちではなかったかと訴え、特にこの中で「化粧」という要素を擁護する。

(‥‥)更に云ひたいのは、化粧、すなわち「演ずる要素」は、あながち歌壇で云はれてゐる一部の女流歌人の特性ではないといふことである。なぜならば、それは単に女性の場合のやうに、激しい表情であらはれるばかりではないからである。憂愁、沈欝、寂寥、これらの深い表情をも含むと云へないであろうか。そしてそれらは、作家の多くが多かれ少なかれ持つ要素ではないだろうか。しかし作家にとつて、それが自らの誠実をあらはす方法であれば、何ら咎むべきではない。

 意見としては特筆するものでもない、まっとうな意見だとは思うけれども、ここで引き出される「化粧」という概念が、わたしには妙に新鮮に思えたので、ちょっとこうやって記録しておく。

 カフカの日記より。

 ぼくはこの日記をもはや放棄しないだろう。ぼくは日記にしがみついていなければならない。なぜなら、ここでしかぼくは自分を保持することができないから。ちょうど今そうであるようにぼくがときどき感じる幸福感を説明してみたい。それは実際何か泡立つような感じで、軽い快い痙攣でぼくを隈なく満たし、ぼくを説得して自分の能力を信じこませるが、自分にそういう能力のないことは、ぼくはいつでも、この今でも完全な確信をもって納得できるのだ。

 幸福感の中にも絶望の忍び込むような、こわい文章だけれども、これはマスターヴェーション癖をほのめかしているのではないのか?

 DVDでジェームズ・キャグニーの主演する「民衆の敵」(1931) という作品を観る。監督はウィリアム・A・ウェルマンという人。トーキー初期、と言ってしまいたくなるような古い作品だけれども、脚本の上でも演出の上でも、そういう古さは感じない。この時代の作品というのはあまり観たこともないわけだけれども、ヒッチコックのこの時代の作品の方が古さを感じる。場面の切り取り方、つなげ方などスマートだし、何よりも「殺し」の場面をダイレクトに写さない、まるで北野武の映画のような演出が効いている。単純に残酷さを避けているわけでもなく、ラストのジェームズ・キャグニーの屍の描写などは、今みても「うへっ」って驚いてしまうだろう(このあたりもタケシの映画を思い起こさせられるけれど)。
 ただ、初めて意識してちゃんと観る、ジェームズ・キャグニーという人の演技は、これは少々やり過ぎなのではないかという感想もある。この彼のスクリーンの中での「動き」の中にこそ、映画というものの中の「スター性」というものが輝いて来ることになるのだろう。映画スターというものの、ひとつの規範に見える。
 この作品にはもうひとりの、そういう「スター」の規範の映像が見えるのが面白い。それがジーン・ハーロウで、特に演技をするわけでもなく、その場に佇むだけで何がしかのオーラを発散するという、キャグニーとはまるで異なるスター性。この、二種類の典型的なスター性によってハリウッドの映画というのが支えられて来たわけだろう。「悪は滅びる」という倫理性、職人的な演出と合わせて、あまりにもティピカルに、ハリウッド的な作品だと云えるのかも知れない。

 今日の一曲は、今日が春らしい日だったというわけではないけれども、「春」シリーズ、ということで、これはココに移動して来る前の日記でもいちど、春の曲で取り上げたことがあるけれども、Shadows の「春がいっぱい(Spring is Nearly Here)」という曲を。この曲は、おそらくは世界中で日本でだけ独自にヒットした曲で、本来はShadows の1962年のセカンド・アルバム、「Out of The Shadows」に収録されていたもの。これを誰か日本のレコード会社の人間が、1967年になってから、「春がいっぱい」という邦題をつけてシングル化したもの。わたしは、この曲をシングルでリリースすることを決めた人は、賛美されていいと思う。かなりヒットして、この世代の洋楽ファンだった人には忘れられない曲になった。Shadows のリード・ギタリストHank Marvin は、イギリスのギタリスト皆からリスペクトされる、エレキ・ギターの先駆者と云えるでしょう。



 

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■ 2010-03-03(Wed) 「デルス・ウザーラ」

[]Springtime Promises [Pentangle] Springtime Promises [Pentangle]を含むブックマーク

 キャベツが残り少なくなり、スーパーで買おうとしたらひと玉250円以上する。近くの二軒のスーパーどちらも同じ値段で、こんなにキャベツの価格が高騰するのは初めてじゃないだろうか。たしかつい先日は、特売で77円で売っていたりしたのに。とにかくこの季節は野菜の値段が高くなって、フッと安くなる特売日を逃さず利用したり、ちょっと古くなった特売品の安いのを買わないとやっていけない(まあこれは、いつものことだけれども)。それでも、今回のキャベツについては、ほとんど野菜類を置いていないドラッグストアの方では、そのドラッグストアでの定価なのだろう100円で今日も売っている。そうするとこのドラッグストアが現在最安値、今日の感覚でいうと激安ということになる。おそらく、ドラッグストアでは、その日その日の仕入れ価格を反映させる値付けをしていないんだろう。ちょっと小さめのキャベツだけれども、今日はこれを買った。

 部屋の中を徘徊し続けるユウは、ときどき異様にうるさくなる。カーテンレールに上がるようなことはしなくなったけれども、なにかストレスがたまって来ているんだろう。今日もわたしのそばであまりにうるさく啼く。わたしが近づくと逃げて行く。これを何度もやるのでうるさくなって、近寄ったユウの目を見て叱りつける。これは逃げないで聴いているからおかしいけれど、ユウがシュンとなって目をわたしから反らすまでやってみる。それからは静かになった。それにしても、ストレスを発散させるようなことを考えてあげなくてはいけないだろう。

 ベルグソンの「物質と記憶」を、少し読み始める。言っている「イマージュ」という語の概念がつかみにくい。表象のようなものかと思っていると、表象という概念は別に出て来た。宇宙一般を構成するのもイマージュ、なのである。足穂みたいだ。

私はイマージュの総体を物質と呼び、その同じイマージュが特定のイマージュすなわち私の身体の可能な行動に関係づけられた場合には、これを物質の知覚とよぶのである。


 カフカの「日記」。創作ノートという側面の方が強いようだけれども、そこに、書き手の意識がふっと忍び込む。「ぼく」の体と、書いている「ぼく」とを、統合させるために書いているのだろうか。ここにベルグソンの云うイマージュの問題があるのか。

 ぼくの耳の手触りは、新鮮で、ざらざらしていて、冷たく、水気を含んでいて、木の葉のような感じだった。

 ぼくがこういうことを書くのは、まったくの話、ぼくの体とこの体がもたらす将来とに対する絶望からだ。


 夜、BS放送で放映された黒澤明監督の「デルス・ウザーラ」(1975) を観る。この作品だけは近郊のレンタル店に在庫していないので、やっと観ることが出来た、という感じ。これでとりあえず、黒澤明監督作品はすべて観たことになる。
 おそらく黒澤監督が日本国内に留まっていたならば、このような企画で作品を作ることはなかっただろう。黒澤監督の作品の中では異質な感じもするけれども、これは素晴らしい! 「羅生門」、「七人の侍」、そして「蜘蛛巣城」と、黒澤作品の中に「森」という存在が印象的に描かれた作品系列はあるけれども、それらの作品での森はあくまでも背景であって、その自然としての「森」と、正面から取り組んで成果を生んだ作品というのは、この「デルス・ウザーラ」ということになるだろう。特に前半の第一部の、苛酷な自然描写の素晴らしさといったら。‥‥この、カメラの微妙な露出の決定などから、これ以降の黒澤作品の造り物めいた自然(それはそれでそれらの作品の中で生かされているのだけれども)ではない、リアルな自然の厳しさ、美しさが、みごとにスクリーンに定着されていると思った。この部分の撮影は誰なんだろう。中井朝一だろうか。ソヴィエト側にも有能なスタッフが居そうだし、資料がないと断定は出来ないけれど。そしてそのような自然描写のなかに、黒澤監督らしい原色の赤が配置されたりする。第一部の終り近くの、ほとんど黒くつぶれた画面の中で、真っ赤な夕陽と、その夕陽に逆三角形に照らされた地表、その前を、夕陽の方向に進む男たちのシルエット。この画面の美しさ。ああ、これはスクリーンで観たかった。
 この作品のストーリーの骨子は、つまりは男と男の友情であり、そこから、文化、生態系の異なる人と人との共生という問題も浮かび上がる気がする。ここでその、森で生きるデルス・ウザーラという「森の精」のような人物の、例えばこうやってこの「デルス・ウザーラ」という作品を映画として観ているような人々とは異なる思考、行動を取る人物の、その造型をかっちりと描いているのがすばらしい結果を生んでいると思う。一種のヒューマニズムの視点もあるだろうが、そういう、現代文明を持つ人々の持つヒューマニズムが、ここでは通用しないということが描かれる。おそらく、デルス・ウザーラのような生き方をする人は、猟が出来なくなればそれ以上生きてはいけないのだろう。それは摂理のようなものであって、救いたくても救えるものでもない。
 ひとつ、物欲という問題が浮かび上がる。最初にデルスが主人公たちの案内役を果たしたとき、主人公はデルスに何か与えようとする。デルスは金などいらないというけれども、「わたしは悪い人だ」と、ぽつりと言う。それは猟銃のための銃弾を欲しいと思ってしまったことを言っているわけで、わけを聞いた主人公たちは笑う。しかし、ラストにデルスが死を迎えることになるのは、主人公がデルスに与えた最新式の猟銃ゆえであっただろう。彼は物欲ゆえに殺される。それは「あれが欲しい」という心の中に潜んでいる。さいしょに銃弾が欲しいと思い、そういう自分を「悪い人だ」と思ったデルスは、正しかったのだ。彼はその悪い人の心に殺される。これは銃を与えた主人公のとがだろうか。その主人公の、デルスの墓の前での悔恨で、この作品は終わる。
 おそらくこの時期、「どですかでん」、そしてこの「デルス・ウザーラ」、このあとの「影武者」と、黒澤明監督の、その最後の輝きの時期だったのではないのかと思う。なんというまぶしい輝きだったことだろう。この時期に黒澤監督が作品製作に困難を抱えていたというのは、やはり残念なことだったと思う。

 さて、今日の一曲。今日もあまり暖かくはなかったけれども、とにかく三月で暦の上では春。そういう「春」の曲を。
 Pentangle の1969年発表のサード・アルバム、「Basket of Light」に収録されたこの「Springtime Promises」は、Pentangle のメンバー5人による共作曲で、イギリスの田舎での四季の移り変わりを歌った、ちょっと伝承歌っぽい曲。このYouTube のヴァージョンは、BBCセッションからの音源。最後の歌詞が、ちょっと良いです。

Someday all will turn to green again
Flowers will burst of seeds to bloom again
The warm days of springtime tell us all is past
Can you feel your promises will be true
It's springtime now, be happy again

 

 

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■ 2010-03-02(Tue) 「オール・ザ・キングスメン」

[]Book Of Love [Monotones] Book Of Love [Monotones]を含むブックマーク

 寒いじゃないですか。まだまだ春の訪れは先になりそうな。

 地元の図書館の管理システムが大幅に変わるらしく、この月の中頃から半月間休館される。システムの変更自体は、わたしなどにはあまり関係のない事項ばかりなのだけれども、この時期は図書の貸し出し期間に休館期間も含まれて、いつもよりずっと長く借りられる。そうすると、なんとなく、従来の貸し出し期間の二週間では読みきれないと思っていた本も、借りてしまいたくなる。そこで、何を借りようかと考えたりする。ここの図書館は、都会の図書館のように在庫図書の豊富さを誇るような図書館ではないので、とにかく気になって読みたい本が何でも読めるというわけでもない。稲垣足穂の全集などもないし。とりあえず読みたい本があればこの図書館のHPから検索して、その在庫は確かめることは出来る。あとは、やはり図書館の本棚に並んでいる本を見て、「こんな本もあるのか」と読んでみたくなるものもある。
 図書館の新刊コーナーに、松山俊太郎の「綺想礼讃」という、かなり分厚い本が置いてあった。そんな本が出ていることも知らなかったけれども、よくもまあ、こんなマニアックな本を購入したものだと感心してしまう。とにかく財政状態の逼迫したこの市の公立図書館も、新刊書などの購入もままならぬ状態だろうことは想像がつく。去年には雑誌「美術手帖」の定期購入もやめてしまっているぐらいなんだから。それが、松山俊太郎かよ! という驚き。
 むかし、神田の古本屋で、松山俊太郎本人のお姿を見かけたことがある。和服の着流しで、その古本屋の店主の「お元気ですか」という問いかけに、「父親が死んでね、死後勘当だよ」とおっしゃっていたのを、よく憶えている。その姿を見てすぐに「ああ、松山俊太郎さんだ」と気がついたのだけれども、どうしても彼の手の指に目が行って、「やはり、ジェリー・ガルシアと同じなんだ」と確認、本人だと納得したものだった。
 松山俊太郎は印度仏教とか印度哲学が専門の人だけれども、いつもわき道わき道へと逸れていく。そのわき道がどれも面白い。小栗虫太郎の専門家でもある。この新刊「綺想礼讃」は書き下ろしではなく、古くは1974年から、現在までに書かれた書評、解説のたぐいを集めたもの。谷崎潤一郎から唐十郎まで、十八人の作家を論じている文章を集めている。分量的にはやはり、さすがに小栗虫太郎に関しての文章が多いけれども、それに次いで澁澤龍彦、そして稲垣足穂に関しての文も多い。今回はほかにも借りたい本が多いので、読み終えられるかどうかわからないけれども、迷わず借りることにする(わたしが借りなければ、いったいほかに誰がこの本を読もうとしたりするのか?)。

 ほかに、今わたしの中で突然のマイブームな、歌人の葛原妙子関係で、「現代歌人文庫」の葛原妙子集、むかし三一書房から出ていた「現代短歌大系」の、塚本邦雄、岡井隆、葛原妙子の巻、それから少し現代短歌の歴史を知りたくて、菱川善夫という人の「歌のありか」を借りる。
 今年はこれから稲垣足穂、ナボコフ、そしてカフカを読みたいと思っていたのだけれども、まだカフカを読み始めていないので、彼の全集から「日記」の巻を借りる。これがちょっとページ数が多い。この図書館にはちょっと前に出た「ナボコフ伝」も置いてあって、これもいつかは読みたいのだけれども、上下巻の大書だし、今回はパス。もう一冊、なぜかベルグソンの「物質と記憶」を借りる。最近思想書を読んでいないし、この本は、まだ読んでいないドゥルーズの「シネマ」を読み始めるための、ステップ用。ちゃんと読めますように。

 そんなこんなで、かなりの本を抱えて借りて来て、それだけで何だかうれしくなってしまって、部屋であっちの本を開いてみたり、こっちの本をひっくり返したり、読んでもいないのに楽しい気分。安上がりなものだ。本をネコのユウに汚されないように気を付けなければ。

 ユウは相変わらずマイペース。あまりわたしと親しくなったとも感じられないけれども、機嫌がいいときには目がまんまるになっている。怒ったりしているときは、四角い目になるというのがわかった。

 今日はもうひとつ用件。先日行った中古ハード販売店に、パソコンのプリンターのジャンク品が525円で売っていたのを、ダメ元で買ってみたくなったのだ。たしか「印字がかすれる」と書いてあったので、プリント自体は出来るということなのだろう。Mac でも使える機種だったし、インストールCDもちゃんとついていた。
 もう近年、まったくにプリントアウトなど不要になってしまっているので、前持っていたプリンターはインクが切れた時点でしまい込まれ、去年引っ越しするときに廃棄してしまった。それが、ここのところ、ちょっとだけプリントアウトの必要性に迫られている。Kinko's とかに行ってパソコンを借りてプリントすることを考えているけれども、525円のプリンターが、多少でも動いてくれるのであれば、そんなに便利なことはない。もう、すっかり買うつもりで出かける。

 まずはレンタルDVDの店で、新しくDVDを借りる。50年代SFは観尽くしたので、今度は「ドラキュラ」とかの古典怪奇映画を観てみる。そろそろこの店はおしまいにして、以前のレンタル店に戻る頃合い。
 で、近くの中古販売店へ行く。‥‥おっと。その525円のプリンターは、なくなっている。前に来たときにそのプリンターが置いてあった場所には、ジュラルミンのアタッシュケースが置いてあるだけ。う〜ん、考えてみたら、525円のプリンターだったら、誰だって欲しがるだろう。売れないで残っていると考える方が甘かった。やはりこういうものは、見た時に迷わず即断して買わなければいけない。かなり悔しい思いで店内を見て廻る。他にもプリンターはあるけれど、「インクが出ない」と書いてある。インクが出ないプリンターは、プリンターとは言わないだろう。誰が買うだろう。それでも、店の中を見ていたら、隅っこに、ノートパソコン用のだろうショルダーバッグが置いてあった。手に取って見てみると、かなりしっかりと出来ている代物で、これは雑貨店などで千円ぐらいで売っているモノとはクラスが違う。まあ特上クラスではないけれど、普段使うショルダーバッグは、ちょうど欲しいと思っていたところ。これが値段を見るとまた525円なので、プリンターの代わりにコレを買うことにする。まあいいさ。それでも耐久消費財を買うのは久しぶりなので、ちょっとウキウキ。

 今日借りて来たDVDで、ロバート・ロッセン監督の1949年の「オール・ザ・キングスメン」を観る。わたしはこのロバート・ロッセンという人と、ロベール・オッセン、そして、ロベルト・ロッセリーニとがどうもごっちゃになってしまう。ロベール・オッセンなんか、ぜったいにロバート・ロッセンと同一人物だと思っていたこともあった。まったく違いますね。
 さて、映画は珍しくも政治そのものを主題としたような作品で、高邁な理想を持っていた男が、「選挙の勝ち方」を知ることで、その理想を忘れ、州知事になり自ら権力維持装置になって行くさまを描く。「善は悪から生まれるのだ」とうそぶくようになる主人公は、たしかに州のインフラを整備して、一種の善政を敷くのだろうけれども、その権力を維持するための、自分の派閥拡大には倫理を忘れる。州の軍隊をも掌握するあたりが恐ろしい。このドラマを、元新聞記者で主人公の側近になる男の視点から描くのがいい。群像劇として、重なり合って画面に入って来る人々の、それぞれの目の位置にすら、そのテーマの政治性を持ち込んでいるようにも見える。とても立体的な画面。これを主人公の生い立ちから描けば、ストーリーの骨格として「市民ケーン」に酷似して来るだろう。
 この作品のレヴューを検索して読んでいると、この作品で問題にされているのは、共産主義による全体政治でもあるのではないかという意見もあった。たしかに今の時代、全体主義というのは共産主義政権の専売特許のように思われているわけだ。これは以前「Z」のレヴューを読んでいたときにも、全体主義というのは共産主義だけのものだと思っていた、などという感想を読んだこともある。軍事国家だとかファシズムなどというのは忘れ去られつつあるのか。逆にファシズムに抵抗したのが共産主義だった、ということもあるのだが。この監督のロバート・ロッセンはアメリカ共産党員だったこともあり、この作品公開後のマッカーシズムに巻き込まれ、けっきょくハリウッドを追放されたも同然に去って行く。この作品がアカデミー監督賞を取れなかったのも、そのあたりに理由があるという話もある。わたしは共産主義を信奉してなどいないけれども、共産主義が迫害される社会を是としたくなどない。

 で、今日の一曲は、図書館からあれこれ楽しみな本を借りて来てしまって、それだけでちょっとうれしくなっているので、そういう「本」のことを歌った歌を。これはもうドゥー・ワップを代表する名曲、1958年にヒットした、Monotones の「Book Of Love」で。この曲のタイトルはひょっとしたら「Who Wrote The Book Of Love」というのかも知れないけど、わたしの持っているデータ・ブックには「Book Of Love」と出ている。Monotones はニュージャージー出身の6人組で、ヒット曲はこの一曲だけみたい。どうも、ドゥー・ワップの世界は、「The Boy From New York City」のAd Libs にしてもそうだけど、ワン・ヒット・ワンダーな人たちが多い気がする。

 


 

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■ 2010-03-01(Mon) 「楢山節考」(1958)

[]Aguas de Marco (Waters of March) [Antonio Carlos Jobim & Elis Regina] Aguas de Marco (Waters of March) [Antonio Carlos Jobim & Elis Regina]を含むブックマーク

 磯崎憲一郎が「ペナント」と「終の住処」で書いていたことを、漠然と思う。自分が偽者であることにすら気づいていない、絶望的に救いようのない連中。そんな偽者たちは、あなたのような人間の時間を食べることによってしか、生き延びることができないことをよく知っていると云う。彼らは自分でも持て余すほどの情報と便利な道具と、多くの友人たちにつねに囲まれていると。「情報、道具、友人」とは、わたしなどには、生きて行く上で欠かすことの出来ないものに思える。「終の住処」ではたしかに、主人公が情報や道具を操り、友人と親しくするような描写は出て来ない。わずかに、仕事上での上司からの手紙が届くことが「情報」と云えるのかも知れない。妻や愛人は、友人とは違う。ゴダールの作品に「恋人のいる時間」というのがあるように、「愛人との時間」、「妻との時間」というものを想像し、そのことについて思考することは出来るだろうけれども、「友人との時間」というのは、時間が過ぎるのも忘れる、などと言い表わせるような時間の持ち方になるのだろう。それは時間と対峙するような思考を生み出しはしない。磯崎憲一郎の書く「人生の時間」とは、どのようなものだろうか。
 磯崎憲一郎を読んだのと同じ日に観たヴィデオ、ウディ・アレンの「ハンナとその姉妹」は、続けて考えれば、そんな磯崎憲一郎の云う、他者の時間を食べることによって生き延びている人たちばかりが出て来ているように見えてしまう。なぜだろう。そこに、時間と対峙するという問題意識が見い出せないからだろうか。映画とは「時間芸術」だ、などと言われたりもするけれども、わたしが思うような優れた映画作品とは、つまりは「時間」と対峙するような作品だったのではないのか、などと思ったりする。しかし、そのような映画作品を観て、そこで時間について考えていたりするわけでもない。

 小説もまた「時間芸術」と言えるのかもしれないけれども、磯崎憲一郎の「終の住処」などを読んでも、時間についてそのこと自体に考えを巡らしているわけでもない、わたしという読者がいる。わたしは単に、小説に書かれている時間の問題を読み、そのような場に身を置いている小説の登場人物を、その小説の枠組みの中で想像しているだけに過ぎない。「時間」について思考を巡らすということは、自らが「時間」そのものと、孤独に対峙しなければならないのだろう。小説や映画は、その行為へのきっかけにはなり得るだろう。

 今日も病院へ行く。まだ指の関節の部分には大きなクレーター(直径3ミリぐらい?)が出来ているように見え、そのクレーターの底には、赤いマグマではなく白い肉が見えている。「しばらく通院して下さい」と云われる。ぼんやりとして一日ほとんど何もしない。ユウも静かにしている(夜になると起き出して部屋中を徘徊し始める)。

 夜、木下惠介監督の1958年作品、「楢山節考」を観る。もちろん原作は深沢七郎だけれども、わたしは原作は読んだことがない。それでも、この映画は何かいろいろと違っていると思う。
 まず、スクリーンいっぱいに歌舞伎の定式幕が拡がっていて、そこに黒子があらわれて「とざい東西、これより演じまするは楢山節考〜」などと口上を読み上げ、すべて書き割りの舞台を模して映画が始まるのだけれども、「楢山節」についての「考察」を意味する原作小説のタイトルが、そのまま演目タイトルというのは、それはおかしいんじゃないだろうか。これはつまりは舞台作品のタイトルが「寒村伝承歌についての考察」なのだ、というようなことで、どうもすっきりとしない。で、じっさい、この映画の中でそのように歌われる歌についての考察が行われているわけではないのだから。この映画は、単に、深沢七郎が創作した「楢山節」をそのまま映像にしただけのように見えるのだから、口上で演目タイトルを「〜〜考」とするのはおかしいだろう。こういうところには無神経さを感じてしまう。
 それで、作品全体を書き割りの舞台セットを模して撮影し、照明などの色彩も人為的に行っているわけだけれども、この点は(おそらくはリアルに描いた際の生々しい残酷さを回避するだろう意味でも)効果として生きていると思ったし、カメラの長いドリー移動などは、(特にラストの道行きの長さの強調など)すばらしい演出効果を出せていると感心する。しかし、この演出の背後に匂い立って来る「リアリズム指向」、そして「ヒューマニズム臭さ」は、これは違うのではないかと思う。深沢七郎はそんな視点では書いていないだろうと、原作を読んでもいないのに勝手に想像する。もっともっと、カランと乾いた、アラアラとあきれてしまうような語り口こそがこの作品にふさわしい語り口ではなかったのか。また、これだけ人為的に舞台美術を模すのであれば、その演出面でもある種の人為性が必要なのではないだろうか。妙なリアリズムでは「劇団民芸」になってしまうだろう。
 それでもただ、村の長老らが姥捨ての作法を語り伝えるシーンは、すばらしい演出だったと思う。浄瑠璃の謡も三味線も聞き惚れてしまうほどにすばらしい。

 とにかく、これは深沢七郎の原作を読んでいなければ断定的に言えることでもない。それに、やはり今村昌平監督による「楢山節考」を観てみたい。

 今日の一曲だけれども、今日から三月。そういうことで、「三月」を歌った曲を。もう三月の曲と云えばこの曲しか思い浮かばない、ボサ・ノヴァの名曲、「三月の水」を。YouTube でも、この曲のクレジットにはTom Jobim とあったけれども、わたしはごく最近まで、Tom Jobim とAntonio Carlos Jobim というのは別人なのだと思い込んでしまっていた。この映像は1974年のものらしく、Jobim もElis Regina も若い。浮き浮きするようなライヴ。

 


 

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