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■ 2010-04-30(Fri) 「掏摸」「しびれくらげ」、二○一○年四月のおさらい

[]Acute Schizophrenia Paranoia Blues [Kinks] Acute Schizophrenia Paranoia Blues [Kinks]を含むブックマーク

 ようやく天候が安定してきて、TVでもこのゴールデン・ウィークは行楽日和が続くだろうといっている。わたしはゴールデン・ウィークとか関係なく毎日仕事なのだけれども、せっかく春らしい好天が続くのなら、こういう機会にピクニック気分で、歩けるだけ歩いてみようかなどと思ったりする。やはり前から筑波山まで行ってみたいと思っているのを、この際ついに実行するかね、などと漠然と考えてはいるけれども、今はここから筑波山口までのバスもなくなってしまったので、全行程歩きかよ、そうすると片道三時間以上かけて歩き、さらに山登りかよ、ということになり、そんなタフネスの持ち合わせがあるのかよと、まずは自分に問うてみなければならない。

 午後になって窓の外をふと見ると、ここの不動産屋のおねえさんが、外国人の青年を連れてこのマンションに来たところだった。入居して来るのだろうか。あまり入居者が増えるようだと、お情けで住わせてもらっているわたしなど、「すいませんが出て行って下さい」といわれてしまうのではないかと、ドキドキする。現在九部屋のうち空き部屋は三部屋ある。ちょっと変な住人の居る部屋もある。あ、わたしか。

 昨日保坂和志の書いていることに変な反応してしまったけれど、考えてみると、そもそも「小説」と「現実」を比べっこするなんてとってもナンセンスなことで、つられて妙なことを書いてしまった。例えばヴェニスの風景を見て(ヴェニスでなくてもどこでもいいけれども)、「この実際の光景にはどんな絵画作品もかなわないさ」というようなものだ。同じことだけれども、セザンヌ(セザンヌでなくとも誰でもいいけど)の絵画を見て「現実の風景を越えている」などといっても、何をいったことにもならない。
 そういうことを考えていて、ふと柄谷行人の書いていたことを思い出したりした。それは彼の「反文学論」のなかの部分で、この本は柄谷行人が「文芸時評」をやっていたときの、その文芸時評集なのだけれども、そこで中野孝次の作品にふれて書いている部分。

 たとえば、「位牌の話」(「すばる」)というエッセーで、中野氏はこういっている。《近代知識人たる私はむろんそういう母の古風な先祖信仰をばかにしていたが、四十を過ぎてからは口に出してそれを言わなくなっていた。柳田国男の「先祖の話」なども読み、それなりにこういう土俗的信仰の必然性を尊重するようになっていたのである》。また、位牌を書架の戸棚にいれることを思いついて、つぎのようにいう。《ここならば私の近代的自我も容認できそうであった。今後礼拝するかしないかは別の問題としても》
 かりに冗談だとしても、こんなことを書く神経が私には理解できない。不思議な人物がいるものだと思うばかりである。柳田国男は正真正銘の「近代的知識人」であるが、こんな発言をきいたら驚くだろう。ある男の頭を割ったら、「近代的自我」がとび出てきたという笑い話があったのは、むかしのことである。

 ‥‥保坂和志氏が、自分のことを「近代知識人」と書いているわけではないけれども(もうちょっとあとで書くけれども、これに類したあやしいことは書いている)、どうも「小説の誕生」には、その「位牌の話」に似たような、「こんなことを書く神経が私には理解できない」というようなものが、得体のしれない、動物の腐りかけた肉のかたまりのようなものが横たわっているように思えてならない。例えば昨日書いた「先祖の銅像」の件などは、ここに引用されている中野孝次の文に、きわめて近いものを感じとれる気がする。あまり柄谷行人氏の文を元にして人をくさすのは、わたしも正当な態度ではないけれども。

 しかし、保坂和志氏はなぜそんなに「小説」を信奉、擁護するのだろう。おそらくその背後には、高田里惠子の「グロテスクな教養」に書かれていたような、旧的な教養主義が横たわっているのではないのかと思う。そう思ってみると、「小説の誕生」という本全体が、そのような「グロテスクな教養」に満たされている本だと思えてしまう。で、わたしのなかにもまだ、どうもそういう「教養」に引き寄せられてしまうつまらない部分が、いっぱいあるようだ。

 保坂和志氏は、「小説の誕生」のなかで次のように書いている。

 現代人であるところの私たちは科学の思考様式が染みついているから、何かを考えるときの基本的なスタイルとして、部分を積み上げていって全体としての結論に達しようとする。全体をぼんやりと大掴みに把えるやり方は、科学的とも論理的とも感じられなくて、「なんだかなあ‥‥」と思う。特に、気功師とかニューエイジがかったカウンセラーなんかにそういうやり方をされると、怪しさばかりが先に立つ。

 「気功師とかニューエイジがかったカウンセラー」をわざわざ持ち出すあたりが意図的な気もするけれども、よくわからない文章で、どうもこの文は、先の「位牌の話」と同じなのではないかと思ってしまう。つまり「近代知識人」が「現代人」といい替わっているだけ、なのではないかと。冒頭などまるで同じである。保坂和志氏はここでは、自分のことではなくて「私たち」にしちゃっているので、「私たち」って誰だよ、ってことになる。「部分を積み上げていって全体としての結論に達しようとする」っていうのも、わかるようでわからない。わたしの頭が悪いんだろう。あまり書くと保坂和志氏ファンの反感も招くだろうし、もう保坂和志氏のことは忘れよう。

 それで今日は別の小説、中村文則の「掏摸(スリ)」というのを読み終えた。じつはわたしは、この中村文則という人のことを、芥川賞も受賞していたことなど含めてまったく知らなくって、この小説で初めて読んだ。正直いうと、この作品が今年の「大江健三郎賞」を受賞しているのを知って読んだのだけれども、そういうのはちょっと恥ずかしい読み方だとは思う。ただ、新しい作家を読むためには何らかのとっかかりはどうしても必要になるので、何かの賞を受賞した作品はどうしても気にはなってしまう。
 で、この「掏摸」、やったらと面白かった。この作品をわたしは、非常によく書けたハードボイルドタッチのクライム・ミステリーという感覚で読んでいて、そこにミステリーというジャンル(特にミステリーをたくさん読んでいるわけではないので、口はばったいことはいえないけれども)をはみ出した面白さがあるという印象。「こういうの、読んだことある」と思い出したのは、矢作俊彦の「ららら科學の子」だったりするけれども、あっちも面白かったなあ。
 この「掏摸」が面白いというのはいろんな要素があって、ブレッソンの「スリ」も参考にしたらしい、ち密なスリの技術や犯罪組織の描写、それと主人公だけでなくすべての登場人物の持つ善悪感や運命への意識、主人公のオブセッションである「高い塔」の幻視などが一体となって、なんとも「古典的」ともいっていいような、かっちりした作品に仕上がっている印象。小説は主人公の一人称で通して書かれているけれども、あふれるような視覚的イメージで貫かれている文章から喚起される暗い世界に、ついつい惹き込まれる。この暗い世界の根底にあるのは、「世界にたった一人でも飢えた子供がいたとしたら、全ての所有は悪だ」という倫理観であって、その倫理観が「でもそれは、そういうものだからだ」という運命論と重ねられていく。なんかドストイエフスキーみたいだけれども、妙に外に開かないで、きっちりと小説世界(こんな言葉を使うとまた保坂和志に逆戻りしそうだ)の中にとどまっているあたりが、好き。ラストの「運命の誤差」を目指して投げられる硬貨にはシビれるけれど、これは、ウディ・アレンの「マッチポイント」の指輪だな。中村文則の方がちょっとすばらしい、と思う。とにかく、夢中になって読んだ。

 夜になって雨が降り出して、しばらく遠くで雷が鳴っていた。いちどだけ、窓の外が稲妻の光で真っ白に失明し、すぐあとに地響きといっしょに長い雷鳴が続いた。ほんとうに部屋がこまかく揺れた。激しい雷はこれいちどだけで終ってしまった。「真打ち登場」だったんだな、などと、雷が過ぎてしまったあとで思ったりした。

 DVDで、増村保造監督の1970年の作品、「しびれくらげ」を観る。先週観た「でんきくらげ」にひきつづき、渥美マリや川津祐介、玉川良一が出演している。渥美マリは前にも増して一本調子の演技になり、川津祐介もその一本調子に合わせて同じようなことをやる。これが奇妙なアンサンブルというか、この映画のちょっとした個性になっているように見える。だからやはり前作のようにストーリーに膨らみを持たせるようなことはやっていない、直線的な演出なのだけれども、それが悪いというわけでもない。こちらでは、玉川良一のかなり強烈な個性の「ダメおやじ」が、準主役級の活躍で、彼が登場人物すべての運命をひっかき廻し、当人は平然としてまたとんでもないことをやらかしていく。素晴らしい。
 ヒロインの渥美マリのまわりに集まる男たちは、皆彼女を利用してそれを金銭に換算しようとする。彼女はダメダメな父も愛したいし、心から愛せる男を求めてもいる。それでも物語の終りに父は金欲を絶って更生できるかどうかはわからないし、ヤクザから足を洗って欲しいと願う男もやはりどうなるかわからない。ラストにビル街を無表情に歩き抜けていくヒロインに希望があるのか、絶望しているのか、その表情からは読み取れない。彼女もまた「運命の誤差」を求めて、硬貨ならぬ小切手を投げているのかも知れない。
 もうここまで来ると「しびれくらげ」などというタイトルは内容と何の関係もないけれども、映画内に出て来る週刊誌のグラビアに掲載された渥美マリの写真、その写真の彼女の肢体に対して注がれる男たちの欲望のまなざしをこそ作品化した、ちょっとしたメタ構造作品とは読み取れるだろう。「しびれくらげ」というタイトルも、そういうメタ構造の中にあるものだろう。

 最近の「今日の一曲」はもう、実際にその日に聴いていた曲にしてるから、あれこれ考えることがなくてとても楽。今日はSearchers のベスト・アルバムとか、Kinks の「Muswell Hillbillies」とかを聴いていた。Searchers の初期はやっぱり、まるでEverly Brothers だなあって感じがする。これを大編成バンドといっしょでなくって、このバンドのメンバー四人だけでどこででも演奏できるっていうのが、初期のビート・グループ隆盛の大きな理由だろうと、あらためて思う。やっぱりJackie DeShannon の「When You Walk In The Room」が、格別に良い。
 Kinks の「Muswell Hillbillies」は、彼らの歴史から今振り返ると「突然」という音で、なんでここで急に、こういうユルい抜けた音を大編成でやろうとしたのかな。アメリカのサウンドどうこうというより、とにかく、スタジオワーク的にち密に音重ねするのではなく、合っていない、バラバラな音の重なりの中にもグルーヴ感は生まれ出てくるのだ、そこを追求したという印象。たいていのとき、Kinks ではこのアルバムが最高だと思って聴いている。一曲目の「20th Century Man」を今日の一曲にしようかなとYouTube で探したけれど、二曲目の「Acute Schizophrenia Paranoia Blues」の、TVでのライヴらしいのがあったので、そっちで(どうせわたしには観られない)。


 

 

[]二○一○年四月のおさらい 二○一○年四月のおさらいを含むブックマーク

 四月のおさらい。なかなか暖かくならず、中旬になって積雪があったりした。おかげでほとんど四月のあいだずっと、桜の花の咲いているのを見ることが出来たような気がする。
 食費、先月八千円以内に抑えて「やった!」と思っていたのに、今月は一万一千円を超えてしまった。今月もけっこう抑えたつもりだったのに、どこにこの浪費の原因があるのか。野菜の価格高騰はわたしには関係ない。

 四月は久々に観劇ゼロ。そのかわりに映画をずいぶんと外で観た。引き続いてアラン・レネ大会だったけれども、これはほんとうに貴重な体験になったと思う。もっともっと観たかった。

  映画:
●『暁の脱走』(1950) 谷口千吉:監督●『花影』(1961) 川島雄三:監督
●『私が棄てた女』(1969) 浦山桐郎:監督
●『死の棘』(1990) 小栗康平:監督
●『青春群像』(1953) フェデリコ・フェリーニ:監督
●『去年マリエンバートで』(1960) アラン・レネ:監督
●『ジュ・テーム、ジュ・テーム』(1968) アラン・レネ:監督
●『死に至る愛』(1984) アラン・レネ:監督
●『スモーキング』(1993) アラン・レネ:監督
●『ノー・スモーキング』(1993) アラン・レネ:監督
●『アリス・イン・ワンダーランド』(2010) ティム・バートン:監督

 美術展をひとつ。これも映像だけれども、印象に残っている。

  美術:
●アピチャッポン・ウィーラセタクン展 @谷中・SCAI THE BATHHOUSE

 読書はかなりがんばったかな。これからはもう少し読書量を増やしたい。保坂和志は、きっともう読まない。村上春樹に続いての、わがブラックリスト入り。

 読書:
●『ピストルズ』阿部和重:著
●『プラスティック・ソウル』阿部和重:著
●『瀧口修造 沈黙する球体』岩崎美弥子:著
●『映画を見る眼』小栗康平:著
●『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』平野共余子:著
●『コトリトマラズ』栗田有起:著
●『小説の誕生』保坂和志:著
●『掏摸(スリ)』中村文則:著
●『さいごの恋』クリスチャン・ガイイ:著 野崎歓:訳

 DVD鑑賞。増村保造もそろそろ終わりで、これからのDVD選択をちょっと減らして、これから何を観るか考えてみたいところ。

 DVD/ヴィデオ:
●『五番町夕霧楼』(1963) 田坂具隆:監督
●『刺青』(1966) 増村保造:監督
●『赤い天使』(1966) 増村保造:監督
●『痴人の愛』(1967) 増村保造:監督
●『セックス・チェック 第二の性』(1968) 増村保造:監督
●『華岡青洲の妻』(1967) 増村保造:監督
●『盲獣』(1969) 増村保造:監督
●『でんきくらげ』(1970) 増村保造:監督
●『しびれくらげ』(1970) 増村保造:監督
●『上意討ち 拝領妻始末』(1967) 小林正樹:監督
●『父と暮せば』(2004) 黒木和雄:監督
●『くりいむレモン』(2004) 山下敦弘:監督
●『イヴの総て』(1950) ジョセフ・L・マンキウィッツ:監督
●『雨に唄えば』(1952) ジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン:監督
●『乱暴者(あばれもの)』(1953) ラズロ・ベネディク:監督
●『ミクロの決死圏』(1966) リチャード・フライシャー:監督
●『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966) マイク・ニコルズ:監督
●『華氏451』(1966) フランソワ・トリュフォー:監督
●『ハスラー2』(1986) マーティン・スコセッシ:監督
●『散歩する惑星』(2000) ロイ・アンダーソン:監督
●『台北晩9朝5』(2002) レオン・ダイ:監督
●『グッバイ、レーニン!』(2003) ヴォルフガング・ベッカー:監督
●『ブラインドネス』(2008) フェルナンド・メイレレス:監督
●ワーグナー『楽劇<ジークフリート>』(1990) ジェイムズ・レヴァイン:指揮 オットー・シェンク:演出
●ワーグナー『楽劇<神々の黄昏>』(1990) ジェイムズ・レヴァイン:指揮 オットー・シェンク:演出
●ワーグナー『歌劇<ローエングリン>』(1982) ウォルデマール・ネルソン:指揮 バイロイト祝祭管弦楽団 ゲッツ・フリードリヒ:演出

 五月は特に予定もないので、できれば家で読書にはげみたいという希望。


 

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■ 2010-04-29(Thu) 「小説の誕生」「花影」

[]Love/Sex [Pearls Before Swine] Love/Sex [Pearls Before Swine]を含むブックマーク

 昨夜のユウはまたわたしのうしろに回り込んできて、そこでおとなしく香をつくって坐っていた。振り向いてユウをみると目がとろ〜んとしていて、とっても眠そう。そのうちに大きなあくびをして、玄関スペースへ入っていく。そこの見えるところまで引きずって来てあるバスマットの上に寝転がり、ごろごろしたり身繕いし始めたりした。わたしの見ているところでそういう振舞いをするのは初めて。とてもかわいいぞ。何か少しずつ変わって来ている気がする。

 保坂和志の「小説の誕生」読了。後半はクロソフスキーやニーチェについて書いたりしているけれども、前半のようには面白く読めない。これはわたしの読解力に問題があるのかとも思うけれど、どう読んでも、後半は書いていることがぶれまくっている。ここでも引っかかる記述にぶっつかったりする。こことか。

(‥‥)最近はテレビのニュースでも殺人事件が起こると、「警察は×××が×××したことが原因と見て、動機の裏づけの最中」という風に、動機=因果関係が証明されれば事件が説明されるような報道をしているが、動機を抱えている人間はいくらでもいるが現実の行動をしてしまう人間はほとんどいないわけで、その行為の説明しがたさは小説が小説として生成する瞬間の説明しがたさとひじょうに似ている(が、小説は現実の行為のように単純ではない)。

 わたしはこんなつまらないことを書く人の小説を、今まで熱心に読んだりしていたのかと、ちょっと唖然としてしまう。この人はどこまでも、芸術は現実世界に対して優位で高尚でなければ気が済まないらしい。報道にどのような姿勢を求めているのかはともかくとして(小説に拮抗するような姿勢の報道ニュースを求めているのか)、いったい何を持ってして現実の行為を「単純」と書けるのか、わたしにはまったくわからない。極端な分かりやすい例をあげれば、有名な「津山三十人殺し」事件を、その事件を題材にして書かれた松本清張の「闇に駆ける銃声」で読んでも、犯人の行為のことなどまるでわかりはしないという思いにとらわれるのは、わたしだけではないと思う。これは松本清張の小説の完成度によるかもしれないけれども、傑作といわれるトルーマン・カポーティの「冷血」を読んで面白いと感じるのは、読んでいて、カポーティが現実を複雑で捉えきれないものと認識している視点を感じ、それを記述するという不可能性へ立ち向かう姿勢に感動するからだろう。小説では現実の行為のわけのわからなさ、複雑さを一面では単純化することでやっと、小説という作品に抽出出来るのではないのかと思う。人はただ歩いているだけでも、それは実に複雑な背景を持っているわけで、そのことをプルーストは「心情の間歇」で、主人公がある屋敷の門を抜けて玄関にたどりつくまでに何十ページも費やしたりしていて、いや、実際にはそれでも現実をすべて描き切っているなどと、いえるわけもないのだと思う。でも、保坂和志がいっている「単純」というのは、もっと別のことなのだろうか。わたしにはよくわからないけれど、とにかく、どんな行為でも、わたしは現実の行為を「単純」と割り切るような視点は取れないだろう。「単純」と言ってしまうのは、「単純」に割り切る視点が必要とされるからだろう。それが一面でニュース報道の使命で、そうじゃなければニュース報道など複雑になり過ぎて、そもそも成立しない。

 さて、今日はまた京橋のフィルムセンターへ行く。お留守番のユウくんには、アジの開きをまるごとあげましょう。だからしっかりお留守番するのですよ。これ以上壁を引っ掻いてはいけません。
 家を出てポケットを探ると、失敗その一。タバコとライターを忘れた。これはずっと喫煙量も減らしていることだし、我慢しようと思ったけれども、となり駅まで歩いていてやはり喫煙したくなり、途中のコンビニでタバコもライターも買ってしまった。相変わらず意志は弱い。失敗その二。ついにやった。ケータイと間違えて、DVDプレーヤーのリモコンをポケットに入れている。しかしこれはポケットを探るとケータイの方もちゃんと持って来ていたので、そのまま持って行く。間違えてポケットの中で電源スイッチを押してしまうと、部屋の中でプレーヤーが勝手に動き出すかもしれないぞ。
 となり駅に着き、時間があるので古本チェーン店を覗くと、例の「昭和文学全集」の、残っていた巻も全部売れてしまっていた。誰でも105円なら買ってもいいと思うよな。

 電車に乗り、東京駅到着。今日観るのは、大岡昇平原作、川島雄三監督の1961年作品、「花影(かえい)」。大岡昇平という作家の作品も、昔の「事件」以外読んだ記憶がないけれども、その「昭和文学全集」で買ってある。この「花影」も収録されている。いつ読むかわからないけれども。
 そういうわけで、まだ読んでいない原作と比べることは出来ないけれども、要するに銀座のバーのホステスの男性遍歴ドラマで、このドラマには実在のモデルがいたらしく、そのモデルの女性は菊池寛、小林秀雄、中原中也、その他その他との「おつきあい」があったらしく、大岡昇平自身も彼女の「さいごの」おとこ、だったらしい。いわゆる文芸映画なのだろうけれども、そういうのが得意な松竹とかの製作ではなく、これは東宝の作品なので、川島雄三監督ということもあって、例えば同じ風俗の世界を描いた成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の「女が階段を上る時」などとはどこかテイストが違う、一種の華やかさはある。ここでの主演は池内淳子で、わたしは彼女の主演する作品を観るのはこれが初めてになる。で、おどろいた。この池内淳子という人には不思議な魅力がある。山本富士子のような整った美人のようでもあり、ちょっと崩れているようなところもある。純真のようでもあり、悪女のようでもある。陰鬱そうな翳りもある。とにかく、最初の彼女の登場する場面、バーで他の若いホステスが客を囲んできゃぴきゃぴやっている中に、彼女が登場してきて客に「あら。」と言うだけで、空気がほんとうにガラリと変わってしまう。ひんやりとした空気が流れるというか、ちょっと、観ていて息を呑んでしまった。ここは川島監督の演出も効果を出しているのだろう。しばらく観ていてまたおどろく。彼女がそれまで同衾していた大学教授の池部良と別れる場面。自分の部屋にいた彼に出ていってもらい、鍵を返してもらう。その鍵を指にからめてうつむき加減の頭の方へ持っていき、指をそらせて鍵をぶらぶらさせる。この頭の角度、指の動きが、ちょっとばかし演技過剰なばかりに、くっ、くっ、となるのだけれども、やはり観ていて、「うっ」、って感じである。これをまたカメラが絶妙の角度、フレームで捉えていて、よけい観ていてどきどきしてしまった。ただ人のからだがフレームの中で動くのを観て、こんなにこころを動かされるのは稀なこと。
 「花影」の花とは桜の花のことらしく、その花の短く美しく咲くさまを、主人公の葉子に重ねている。ラスト近くに彼女は男と夜桜見物に行くけれど、このシーンの演出もちょっとあざといぐらいで、川島雄三監督のこういう過剰さは好きだ。でもこの映画、原作からの抽出がどこか失敗しているような展開で、例えば出てくる子供たちのこと、池部良の小児まひの子供、有島一郎の男手で育てた亡き妻の連れ子の存在で、何がいいたかったのか、主人公はその子たちに何を思っているのか、あの脚本ではわからないではないか、という印象はある。でも、男たちのいいかげんさ(身につまされる点あり)、それを許して付け込まれる女性の弱さ、とかはわかった(なぜ男のいいかげんさを許すのかがよくわからないのは、わたしもまたいいかげんだからだろう)。
 しかし、当時のバーのホステスとかは、ほんとうにこの映画みたいに、自宅アパートとかにしょっちゅう店の客がやって来て、自宅もまたもうひとつの店、みたいにしていたんだろうか。それでお泊まり保育の保母さん役までやって‥‥。

 映画を観終って、東京駅までの道をすこしだけ遠回りして、むかしわたしが個展をやったギャラリーが今はどうなっているのか、ちょっとそのあたりを歩いてみた。ひとつ離れたブロックの角が「宝くじチャンスセンター」というのになっていて、その一階の広いフロアでちょうど偶然に宝くじの当たり番号の抽選をやっていて、大勢の人がフロアの中で抽選の様子を見ているのが、外から見えた。あれって、その宝くじを持って抽選を見ていて、もしも一等に当たったりしたら大変だな。「当たった!」と、そこで大声あげるだろうか。人に気取られないように喜びを押し隠して気もそぞろに街を歩いて、車に轢かれて死んだりして。
 そのとなりのブロックの角になつかしいギャラリーがあったのだけれども、今でもむかしと同じような壁面でギャラリーをやっていた。もちろんオーナーは代っている。一時はジュエリー/アクセサリー店になっていたと思ったけれど、どういうわけかまたギャラリーだ。わたしにはこのビルの屋上のギャラリーの方が懐かしいのだけれども(一階のギャラリーでも、屋上のギャラリーでも個展をやったことがある。どちらも同じオーナーだった)、そちらはさすがに、もうギャラリーではなくなっているようだった。屋上へ行く、手で閉めるドアのエレヴェーターにまた乗ってみたかったのだけれども。
 東京駅の方へ歩いていると、大きな太ったネコに出会った。黒白のブチで、ちょっと黒が勝っているけれども、うちのユウと同じブチ模様だな、などと思ってそのネコの顔が見えて、ちょっとびっくりしてしまう。顔のブチの黒白配置が、ほんとうにユウと同じなのだから。ユウはその鼻の下もまるでチャップリンのヒゲのように黒くなっていて、それがちょっとだけ左にずれているんだけれども、その鼻のヒゲ模様、大きさ、左へのずれ方まで、まるでユウと同じ。こいつ、ユウの遠縁なのか。そんなわけはない。ネコのブチの模様で、こういう鼻の下のヒゲ模様って、けっこう一般的なブチなのだろうか。とても不思議な感じにとらわれて、しばらくそのデブネコ(体型はユウとまるで違う)のあとをついて行く。そばに寄るとネコは足を早めて距離を取ろうとするけれど、その早足の動作がどうにものろっちいというか、敏捷さに欠けているな。東京のネコは野性じゃないから。
 このネコに出会ったのはどこかからの何かのメッセージなのだろうか、などとちょっと考えて忘れ、ネコと「バイバイ」して東京駅へ着き、家への電車に乗った。

 昨日書くのを忘れていたけれども、昨日はPearls Before Swine のベスト・アルバムも聴いていた。Pearls Before Swine は、日本での知名度はぐっと落ちるだろうけれども、1960年代末から70年代初頭にかけてアメリカで活動していたサイケ・フォークのバンド。リーダーのTom Rapp は、すぐれた詩人であり、すぐれたメロディ・メーカーだったと思う。実験的な奇怪なサウンドを聴かせることもあれば、リリカルな美しいメロディを聴かせることもある。ボブ・ディラン・スタイルのフォークだな、と思わせることもある。ある種の曲は今なら「アシッド・フォーク」として楽しめるだろうけれども、YouTube にはそういう曲はアップされていなかったので、今日は彼らのボブ・ディラン・スタイルの曲を。


 

 

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■ 2010-04-28(Wed) 「華氏451」

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 ユウとわたしとは、いってみれば家庭内別居とか家庭内離婚みたいな状態なわけで、ユウはわたしの顔をみると隠れようとするし、わたしはわたしで、部屋の中の妙なところに入りこんでしまわれても困るので、ユウを玄関スペースにだけ居てもらっている(言い方を変えると、「閉じ込めている」、「幽閉している」とも言える)。玄関スペースだけではかわいそうなので、わたしがリヴィングに居てTV観たり本読んだりしているときにはドアを開け、ユウもキッチンとかリヴィングには入って来られるようにしている。最近ちょっとユウに変化があって、そうやって玄関からのドアを開けてわたしがリヴィングにいると、わたしのうしろに出て来てミャアミャア啼いたりして、つまりはきっと、わたしの気を引こうとしているのだろう。振り向いて「なんですか?」と声をかけても、逃げないでうしろに座ったままで居たりする。それでも自分の居場所はその玄関スペースと心得ているようで、わたしが動いたりするとすぐに玄関スペースへ逃げ込んでしまう。放っておいてもリヴィングの変なところに入り込んだりする様子もないので、もう玄関からリヴィングへのドアは、いつも開けておいていいのだと思う。まだ和室の方は要注意。

 保坂和志の「小説の誕生」、だいぶ読み進んで、読みながらあれこれと思ったり考えたりする。そういう意味では楽しい読書で、彼の精緻なテクストの読解を感心したりするのだけれども、途中でどうも納得できないような記述にぶつかるようになる。それは荒川修作の「建築する身体」に関しての記述で、<荒川修作はどうやら本気で「死なない方法」をこの世界の中に作り出そうとしているらしい>として、彼のテクストから思索を拡げていくわけだけれども、この部分で、この「小説の誕生」という本は大きくぶれてしまっているように、わたしは読み取ってしまう。そしてそのことが、実はわたしの方がやはり<おかしい>のではないのか、などと思ってしまったりする。
 どうも保坂和志氏にとって、小説なり絵画なりの芸術作品を製作するということの理由のひとつに、「肉体の死を超越する」という意志があるということらしい。それは平たくいってみれば「歴史に名を残す」ということなのかと問い返したいけれども、そうあからさまに書いているわけではないので、わたしの誤読なのかもしれない。しかし彼は、自分の作品の中の登場人物のモデルにした人物が、そのことを同定したそのモデル人物の友人から、「あなたの肉体はいずれ滅びるけれど、文学の中で永遠に生き続けるんだね」といわれたことを書いている。まあ遠回しな自慢話でもあるだろうけれども、つまりは自分の作品が「文学」という「何か」のなかで永遠になった、と思っているわけだろう。で、それが、「死なない」ということにつながるらしい。一方では、「笑っちゃう話だが」という前置きで、「日本の地方の名家に行くと、歴代の当主の銅像が庭に飾られていたりするらしい」と書いている。そのようなこと、わたしは「笑っちゃう話」でも何でもない、と思う。もしもそういうものをパブリックな場所に持ち出そうとすれば、たしかにそれは「笑っちゃう話」にはなるだろうけれども(実際にそういうニュースを以前見て、笑っちゃったことはある)、自宅の庭に置いてあるものを、それを実際に見たわけでもないらしい小説家分際が笑いものにするなんて、とんでもない話だと思う。どうやら保坂和志氏は、文学だとか芸術は高尚なものだと思っているようで、それがこういう文章となって、「高尚」と「卑俗」を差別化しているわけだろう。わたしの読みでは、先の彼の小説のモデル人物の話も充分に「笑っちゃう話」になる。
 ちょっと本題から外れたようだけれども、そう、わたしの漠然とした考えでは、荒川修作という人にも、そういう「笑っちゃう」ところがある。それが彼の「死なない方法」ということとどのくらい密接なことなのか、そもそも近年の荒川修作氏の作品なりをよく知っているわけでも、ちゃんと考えているわけではないけれども、その、わたしからしてみれば、そんな「笑っちゃう」ことで、保坂和志と荒川修作がドッキングしているのではないのか、そういう気がする。

 しかし、人はみな、そうやって「死なない方法」を考えたり、「歴史に名を残したい」と考えたり、「死なない方法」イコール「歴史に名を残す」と考えたりしているんだろうか。わたしの思いでは、世界なんて、わたしが死んでしまうその瞬間に同時に閉じてしまうのだから、そのあとのことなどどうでもいいし、「死なない方法」という発想がわからない。わたしは、死ぬことなどよりも、身体が自分の意志で動かなくなってしまいながら他人の世話になったりして、いつまでも生かされる方がこわいし、まあ、こんなことを書くのはアレだけれども、いつ死んでもいいと思っている。「あのとき死んでいればよかったのになあ」と思うこともあるけれども、別に今の生に絶望しているわけでもなく、まだまだやりたいことはいくらでもある。それでもどうせ、やりたいことはいつか訪れる「死」で突然中断されることになるんだから、未完成で終ることははっきりしている。わたしはわたしなりに完成させた、成し遂げたと思っていることはないわけではないし、もうわたしはわたしから逃れられないから、何人分もの生を生きたいとも思わない。いってみれば、あとは反復でしかないと思う。それでもやりたいことはあるし、それがいつか突然中断されることは知っている。「歴史に名を残したい」なんて、自分の中ではいかにもつまらないことのひとつに思える。そのことを目指す人のことはわかるけれども、この本のようにそのことに理由付けするようなことでもないと思う。わたしの考えが変で妙なのだろうか。カフカは死ぬ前に、マックス・ブロートにすべての原稿を消却してくれと頼んだではないか。

 先月「エレファント・マン」を観たけれど、その中で主人公ジョン・メリックは、その最後の夜に初めての観劇を体験し、「すべて終った」と(映画のなかで)言い残して、死を選ぶ。あれは、その最初で最後の観劇体験を彼自身が彼のクライマックス、究極の体験と位置付け、このあとはその究極体験のヴァリエーションであり、その繰り返しになるから、「すべて終った」としたのだろうと、観ていて思ったのだけれども、このことは先日観たアラン・レネの「死に至る愛」のなかで、同じことがよりはっきりと語られていた。ヒロインは先に死んだ夫とのさいごの時のなかで、彼女にとって究極の愛を体験したと考え、「このあとはその反復でしかない」と語って、死を選ぶ。「死なない方法」ということでいえば、これらの人物は、死を選ぶことで、何かを死なせないという行動をしている。(比べても仕方がないけれども)それはもちろん「名を残す」などということであるはずもなく、「死なない方法」などを一所懸命考えている芸術家どもは、家の庭に自分の銅像をこさえようとしているだけだろう。残った作品がそのあとも何らかのものであるとしても、それは「死なない方法」とはまったく、なんにも関係はないのではないのか。これらのことをしっつこく考えていた。

 夜、DVDでフランソワ・トリュフォー監督の「華氏451」(1966) を観る。レンタル店に「新入荷」として新しく在庫していた。保坂和志の「小説の誕生」の続きではないけれども、「書物を殺してはいけない」という話なのだ。原作はレイ・ブラッドベリだけど、SFというのではなく、ヒッチコックのサスペンス(特に「引き裂かれたカーテン」あたり)を彷佛とさせる演出。そのせいか、音楽はバーナード・ハーマンに頼んでいるのだけれども、これがいい! トリュフォー初のカラー作品らしいのだけれども、本の燃え上がる炎を含めた赤の色彩が、消防士の黒い制服との対比で鮮やかに眼に映る。トリュフォーという人はSFが大っ嫌いだったらしいのだけれども、そういう監督の好悪感を反映してか、「反SF」というか、「反未来」というような指向性を感じる。TV放送で思想統制されている人たちは不燃性のモダンな住宅に住み、本を隠し持っている人たちの住居はみな、ヴィクトリア朝以前の建築になる古住宅に見えるし(この作品はイギリス映画)、主人公は妻に「最新流行のデザイン」という、ヒゲ剃り用の二つ折りの剃刀をプレゼントされ、かわりに、電気剃刀が古くなったからと捨てられたりする。
 書物だけでなく、文字も禁止された世界らしく、数字表記だけが許されているらしい。学校で学ぶのも算数だけみたいで、消防署には「451」という表記は残っている。だったら、すべての書物を数字の暗号にして保存したらどうなんだろう。検閲のしようがないんじゃないだろうか?
 ラストに、雪の降るブック・ピープル(これはフランス語だと「homme livre」になり、「homme libre」=「自由な人々」を連想させるらしい。この映画は英語を使っているので、「book people」=「good people」としていた。トリュフォーは不満だったらしいけれど、日本語字幕ではもうどうしようもない)のコミューンのシーンで、行き交う人々がみなそれぞれの「本」を暗唱しているシーンは、音楽を含めて美しいけれども、トリュフォーの作品としては、彼が遊んでいる部分で楽しめる作品という印象。

 今日は読書中にFrance Gall のベスト盤だとか、Miles Davis の「Miles in Berlin」などを聴いていた。やっぱり、この「Miles in Berlin」はいい。Miles のトランペットの速度というか、微妙なトーンというか、ラップを歌うようなブロウも素晴らしいし、Tony Williams のドラムもすごい。特に幕開けの「Milestones」は、ぜったいにこの録音がいちばん。Herbie Hancock のピアノの、これは反響なのか、宗教音楽のオルガンを叩いているような、ほかに聴いたことのないピアノの音に聴こえる。YouTube からこの曲を探したけれども、「Miles in Berlin」のものではないみたい。

 

 

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■ 2010-04-27(Tue) 「くりいむレモン」「父と暮せば」

[]What I Do [Donald Fagen] What I Do [Donald Fagen]を含むブックマーク

 じつに久しぶりにハローワーク詣でをする。今年になって初めてになると思う。しばらくぶりだけれども相変わらず混み合っていて、ハローワークの駐車場以外に、近くにある労働基準監察局だったかの駐車場にも「ハローワーク第二駐車場」という看板が貼り出されている。この日は30人待ち。読書時間にあてる。今日は求職票の更新をしただけで帰宅。
 今読んでいる本は、保坂和志の「小説の誕生」。タイトルと結び付きにくい内容だけれども、(いろいろな意味で)小説に対してリスペクトを持つ人を対象に、小説の成り立つ「場」のようなものを、さまざまな文学作品の長い引用を織り込みながら語っていく。小説論というよりは、もう少し気ままなエッセイの風味があると思う。
 いきなりミシェル・レリスの日記からの引用で始まったりするので、びっくりしたりするけれども、「読み解く」という行為が精緻に文章化されている。わたしならさっさと読み飛ばしてしまうような、その日記の記述のなかに、第二次世界大戦後の世界に生きる作家なり芸術家の存在意義への言及が保坂和志によって読み取られ、その読解が書かれる。保坂和志は「小説を読むことと、読んだ小説のことを書くのとはまるで違う」と言う。言語化できないのが絵画であり音楽であり小説なのだと。言語から成り立っている小説を読むことから得る体験は、じつは言語化できない。そのことを読者に納得してもらうための引用量の多さ、なのだろう。あとに出て来るレーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」の紹介など、原典の一挿話のまる写しほどの量が引用され、「ロクス・ソルス」をある程度は読んじゃったぜ、ぐらいの感想が出てきてしまう。たしかにそこには奇妙な面白さがある。
 引用される作家がわたしにも興味のある作家が多いので、読んでいても次々に興味をひっぱられていくのが楽しい。日本の作家では、近々読んでみたいと思っていた小島信夫についての言及があった。

 DVDを二本。ひとつは山下敦弘監督の2004年の作品、「くりいむレモン」。もともとはかなりアダルトなアニメ作品らしいけれども、そこからちょっとばかしテレンス・マリックの「地獄の逃避行」みたいな世界を導きだした作品。じつはストーリーのことなんかどうでもいいんだ、とでもいうような演出が清々しく、美しくもインパクトのあるシーンがちりばめられている。保坂和志の書くように、映画を観ることとその観た映画について書くこととはまったく別の行為になるわけで、この作品トータルの魅力などわたしに書き留めることは出来得ない、などとも考える。でも、例えば女優を美しく見せるための照明の努力、言葉にしてみても意味のないこの作品の展開を支えるカメラの力、それらを統合する演出のみごとさは記憶に残るもので、もともとがわたしの好きな山下敦弘監督の作品群のなかでも、ひときわ印象に残る好きな作品。コンビニ袋を下げて坂道を降りていく二人のショット、車の通らない車道を歩く二人のショットなどが、美しいと思った。

 もう一本は、やはり2004年の黒木和雄監督の作品、「父と暮せば」。ほぼ宮沢りえと原田芳雄二人だけ、ここにわずかに浅野忠信が出てくるだけの作品で、ほとんどがその宮沢りえがひとりで(?)住む、旧旅館の建物の中での展開。この建物がみごとに美術の木村威夫(合掌!)の彼らしい造型で、そこで繰り拡げられる芝居を観ているだけで、うれしい気分を持続することが出来る。撮影は「田園に死す」なども撮っている鈴木達夫。全体の演出は非常に演劇的なアプローチで、主演二人の演技の魅力を最大限に引き出そうとするものだろう。主演二人のシーンばかり、という点で、(まるで違う作品だけれども)先に観た「くりいむレモン」を想起させられること多し。そういう室内でのカメラの移動など、似ている演出のシーンもあるわけだ。わたしは最初のシーン、雷の鳴る中、部屋の押し入れの中の、上下に納まっている二人の姿を捉えたショットが、重ねられた箱の中のふたりを外から覗いているようで面白かった。主題ははっきりしているのだけれども、あまりにはっきりし過ぎているあたりの、その演出の直線性に、先日観た増村保造の「でんきくらげ」を思い出してしまったりもする。文部科学省推薦になるだろう(実際になっていた)美しい人々の美しくも哀しい物語、というあたりは、被爆体験の悲惨さは(わたしに可能な範囲で)了解した上で、正直、わたしの趣味ではない。実際には清廉潔白でもない人、いやな人も空襲や被爆で亡くなって行っただろうけれど、いくら銃後の市民とはいえ、戦争被害者、被爆者というだけですべて浄化されてしまうのには、 (つまらない考えだけれども)いつも違和感を持つ。*後記:説明不足だ。不快な人物でも被害者になることで美しく描かれるような、そんな作品に出会いたい、ということを言いたいのかもしれない。いやむしろ、不快な人物はどんなことがあっても不快なままなのだ、というような作品を。

 今日も読書中にCDをかけて聴いていたけれども、昨日いちばんフィットしたDonald Fagen の「Morph The Cat」ばかり聴いていた。今日の一曲はその中で静かに燃える曲、「What I Do」を。


 

 

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■ 2010-04-26(Mon) 「コトリトマラズ」「ローエングリン」

[]Pandas in Tandem [Harold Budd & Hector Zazou] Pandas in Tandem [Harold Budd & Hector Zazou]を含むブックマーク

 昨日探して見つからなかった、オールビーの「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」翻訳本発見。こういう紛失物はたいてい、ポオの「盗まれた手紙」なのだ。ネットのこの作品の映画評を見ていると、タイトルの意味がわからないという感想があった。そのひとをあげつらうつもりは毛頭なくって、ほかのネット上の映画評にも云えることだけれども、そもそも、エドワード・オールビーの名前ぐらい知っていてほしいという、つまらない感想は持ってしまう。無理してヴァージニア・ウルフの作品の内容に結び付けて感想を書いている人もいたけれども、このあたり、ものすごい映画通の人物でも文学的な知識は皆無、という人が多すぎる。
 しかし、DVDを観たあとにこの翻訳戯曲を読むと、やたらと面白い。それはきっとDVDでの字幕翻訳の問題があるのだろうと思う。

 でも今日はそんな「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」を読むのではないけれども、ちょっとばかし読書に集中。栗田有起の新作「コトリトマラズ」を読了した。
 栗田有起の作品はだいたい全部読んでいて、云ってみればファンなのだけれども、近年の作品は初期の奇妙にマンガチックな作風から離れて「純文学」している印象で、どうなのか? という疑問はあった。この「コトリトマラズ」にしても、実にマジメな小説だという印象がある。しかも、主人公の一人称現在形で書き進められる文章は、ひょっとしたら、今よく云われている「ラノヴェ」って、こういうんじゃないの? というような、おそらくは読み手になるであろう主人公の同世代の女性に「そうそう、そうなのよ」という共感を呼びそうな文章、にも思える。しかし、でも、たしかにキマジメで同世代の共感を呼びそうな小説ではあるけれども、これは読んでいてイヤではない。というか、かなり本格的な「小説作品」という格調がただよっているのではないのか。
 表面的にはつまりは「不倫」を題材とした、勤め先の社長と関係を持つ女性の、その葛藤を主題にしている、ありがちな話(ありがち、といっても、ほかにどんなのがあるかなどしらないけれども)なのだけれども、筆力が違う。主人公の母の過去の物語へつなげるあたりみごとだし、それぞれの造型がくっきりと浮かび上がる。何よりも、勤め先に専務として勤めている社長の奥さんの行動が面白いし、登場人物からすべての男性をすっぽりと「空っぽ」にしているあたりの、役割分担がいい。ちょっと主人公の友人が書き割り的で弱いかな、結末が当たり前すぎるかな、などとは思うけれど、全体に非常に楽しめる小説だった。特に、和菓子、そして小鳥の描かれた小皿、そのほかあれこれと出て来る小道具がうまく活かされているのが、おそらくは「ラノヴェ」などという分野とは一線を画するところなのではないか、などと思う。タイトルの「コトリトマラズ」という言葉がいいな、などと思っていたら、こういう名前の樹木があるのだそうな。やっぱり、栗田有起は良い。

 読書中はずっとCDをかけて、久々にいろいろな音楽を聴いた気がする。今日聴いていたCDは以下の通り。

●Gabriel Faure [Melodies] :Camille Maurene(baryton)
 フランスの名バリトン歌手、カミーユ・モラーヌによるフォーレの歌曲集。カミーユ・モラーヌは、今年になってから98歳の長寿を全うされてお亡くなりになったらしいけれど、「これもバリトン?」というソフトな歌声で、まるでシャンソンのようにフォーレの歌曲を聴かせてくれる。そもそもわたしがフォーレにはまったきっかけが、映画「エリザとエリック」で、ヒロインがフォーレの歌曲をしろうとっぽく歌うところからで、「フォーレって、普通のクラシックの発声で歌わなければいい曲ばかりみたいだな」と考えたわけで、その理想的な歌手がこのカミーユ・モラーヌではないか、そう思っている。晴れたけだるい午後に似合う愛聴盤。

●FOLK OFF(New Folk and Psychedelia from The British Isles and North America)
 いわゆる、近年の「フリー・フォーク」な連中の2枚組オムニバスで、Vashti Bunyan 、Espers 、Animal Collective 以外はあま〜り面白くはないが、This Is The Kit 、Baby Dee というあたりが気にかかる。

●Cliches :Alex Chilton
 もちろんの愛聴盤。

●Morph The Cat :Donald Fagen
 今日聴いたのではいちばんしっくり来たかな。楽曲のバランスではDonald Fagen のソロでいちばんいいかも。わたしのゼロ年代ベスト・ワン。

●Glyph :Harold Budd & Hector Zazou
 これは、一曲目の「Pandas in Tandem」がめっちゃくちゃいいので、もう最後まで聴き通す前にまた一曲目にリピートしてしまう。曲ひとつのインパクトでいえば、わたしの永遠のフェイヴァリット・ソング。Hector Zazou も近年他界された。

 あと、図書館から借りたヴィデオで、ワーグナーの「ローエングリン」を観る。ウォルデマール・ネルソン指揮のバイロイト祝祭管弦楽団によるもので、舞台演出はゲッツ・フリードリヒ。1982年のもの。先に「指輪」を通して観てしまうと、やはりちょっと旧的な「歌劇」という印象もあるし、ストーリーにも「?」はある。それでもドラマチックな展開は魅力的で、特にオルトルートを演じるエリザベス・コネルという人に迫力がある。ローエングリン役のペーター・ホフマンも、王子様っぽくて、花を添えている感じ。抽象的な舞台美術が面白い。

 今日の一曲は、そういう今日聴いていたCDの中から、Harold Budd & Hector Zazou の「Pandas in Tandem」がYouTube にあがっていたので、これで。


 

 

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■ 2010-04-25(Sun) 「天皇と接吻」「バージニア・ウルフなんかこわくない」「でんきくら

[]The King is Half Undressed [Jellyfish] The King is Half Undressed [Jellyfish]を含むブックマーク

 今日で、この部屋に転居して来て一周年になる。同時に、茨城に転居して来て五周年。茨城に来てからもいろいろなことがあったし、去年ここへ転居してくる前後の時期はほんとうに大変だった。崖っぷちだということは変わらないけれども今の生活にも慣れてしまって、なんだか怠惰な日日をおくっている。もう少し、「いまできること」を突き詰めて考えて、それを実行してもいい頃だろうと思う(というのはずっと思っていたりするのだけれども)。

 「天皇と接吻」読了。知らなかったが、亀井文雄という監督は、戦時中につくった「戦ふ兵隊」というドキュメンタリー作品が反戦思想とみなされ、映画は上映禁止され当人は逮捕される。同じ人物が、体制の変わった戦後占領軍統制下に「日本の悲劇」という作品をつくるが、占領軍の検閲機関によって、これまた上映禁止処置を受ける。「検閲」という行為の反動性。黒澤明監督の「わが青春に悔なし」にあらわれた、当時の「民主主義映画」の特質と、その隠ぺいしたもの。東宝争議の概略にあらわれるGHQの反共姿勢。なお行われていた輸入映画への検閲の実体、など。
 日本の国民は、実は信奉してはいないことを、権力の前では肯定、賛同してみせるという行為を、1930年代から占領政策の終了まで、二十年以上続けて来たのではないのか。それは今でも、会社員が自分の属する会社組織に示す態度、そういうものの中に生き残っているようにも思える。

 DVDで、エドワード・オールビーの戯曲をマイク・ニコルズの演出で映画化した「バージニア・ウルフなんかこわくない」(1966) を観る。この原作戯曲の翻訳がどこか家の中に転がっているはずなのだけれども、探しても見つからない。隠れてしまうような場所など、もうないはずなのに。まあ仕方がない。
 映画はエリザベス・テイラー、リチャード・バートンの夫妻(現実にも夫妻であり、現実にもこの作品のような修羅場を繰り拡げていた?)の家にジョージ・シーガル、サンディー・デニスの若い夫妻がかなりの深夜に訪れて、という話。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンの主人公夫妻は、まるでゲームのようにたがいをののしり傷つけ合い、そのなかに奇妙な共生感(愛情?なのだろうか)を見い出しているように見える(冒頭の二人だけのシーン)。ここに無防備な若い夫婦が加わることで、若い夫婦は主人公夫婦のゲームのいけにえにされていく。しかし、他者の加わった主人公夫婦のゲームはいつしかゲームの範疇を逸脱していき、どうやら踏み込んではいけない、ゲームが破たんするような領域をあらわにしてしまう。これは彼らの関係の破たんをも暗示しているようにも見えるけれども、そうではなく、常にそのゲーム自体が破たんしてしまう地点までゲームを追い込むことこそが、このゲーム(いや、二人の関係)のきわどいルールなのではないか、と思わせられる。常に関係が壊れる淵を覗き込まないと関係を維持できないというのは理解できるが、こうやって作品で見せられるのはやはりこわい。
 マイク・ニコルズはこの作品の前までは舞台演出をやっていて、これが初めての映画作品らしい。おそらく彼がここで試みているのは、舞台を観客席から観るのではなくて、観客にも舞台に上がってもらって、もっと間近に観てもらおう、そういう演出姿勢なのではないかと思う。だからクローズアップ、俳優の顔の大きなアップが多くなっている。部屋の中を動き回るカメラは、そのまま観客が部屋の中を動いて、起こっていることを見ているような臨場感につながっているだろう。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンのセリフの多い演技は、スクリューボール・コメディを彷佛とさせるものであって、その線で云えば「スクリューボール・トラジティ」と呼べるような雰囲気。リチャード・バートンという人は、やはりすごい役者なんだなあ、などと思った。

 今日はもう一本DVD。大映時代の増村保造監督作品もあとわずか。1970年の作品「でんきくらげ」を。タイトルからは何だかものすごイヤらしい連想をしてしまったけれども、そんなベッドシーンばかりの映画というわけではなかった。まあ、自分の肉体を武器にして、母の代から自分たちを利用してきた男性たちに復讐し、成り上がって行く女性の話で、主演は渥美マリという女優。物語をふくらませていくような演技の期待できる女優というわけではないようで、感情を含まないセリフ回しで乗り切っていく。そんな演技を逆手にとって、この作品を硬質な印象のドラマに仕上げた増村監督の演出はいい感じだけれども、その、物語にふくらみがないというのは、これはもういたしかたがないか。最初の方の、母子で暮らすアパートの狭さ、汚さ、とっ散らかり方がとてもリアルで印象に残るけれども、全体に、テクニカラーのような原色の強さが気になってしまう。

 今日はそんな「でんきくらげ」という作品を観たので、「くらげ」という名前のバンドの曲を、今日の一曲にする。Jellyfish の1990年のデビュー・アルバム、「Bellybutton」に収録されていた「The King is Half Undressed」を。


 

 

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■ 2010-04-24(Sat) 「五番町夕霧楼」

[]Microchips And Fish [Red Krayola] Microchips And Fish [Red Krayola]を含むブックマーク

 どうも先日はロクな酔い方をしていなかったらしい。ふだん自宅で飲んだりしていないので、アルコールに弱くなっているみたい。外で人と飲むときのことは注意しなければいけない。

 今、「天皇と接吻」という本を読んでいる。著者は平野共余子という人で、副題は「アメリカ占領下の日本映画検閲」。これは十年ほど前に坂手洋二が戯曲化し、燐光群の舞台作品になったものの原作、というか元ネタでもある本。最初は同じ著者による英語版がアメリカで出版され、時をおいて日本版として加筆修正して出版されたもの。先日観た「暁の脱走」に対する占領軍(「占領軍」と書くとアバウトすぎるのだけれども)による度重なった検閲の話なども出て来る、非常に面白い本。「天皇と接吻」というタイトル、どちらも検閲で映画での表現が制限されたのかというとそういうわけではなく、接吻は民主主義の象徴として描写を推賞されていたとのこと。初期はそういう次第で、かなりムリヤリにキスシーンを挿入した映画が多かったらしい。天皇にしても、これが軍国主義の象徴だから検閲したというのではなく、アメリカが天皇制の存続を決定した以上、その天皇像を傷つけるような描写を禁止していたと、わたしなどの想像していたのとはずいぶん異なる理由によったものらしい。
 日本映画界は、戦時中は軍国主義政府によって検閲を受けそれに従う作品をつくり、敗戦後はすぐに占領軍によって検閲を受けるようになる。しかもその検閲方針は百八十度方向が違う。それでも戦中から映画をつくっていた人々は、ほとんど断絶を感じさせずに映画製作を継続する。一面ではとても異様なことだけれども、「映画」という表現は、例えば文学作品などよりもそういう方向転換に容易に対応できるところがある、そういう気がする。読書中。

 夜は1963年の日本映画、「五番町夕霧楼」を観る。原作は水上勉で、監督は田坂具隆、主演は佐久間良子。同じ水上勉の原作の「雁の寺」と同じように、メインに金閣寺放火事件が置かれているけれども、この作品はそんな事件に結び付く悲恋を描くというものではなく、1950年代の京都の遊廓街周辺の、風俗・文化の描写に力点を置いているように見える(くるわの女性の読む新聞の見出しが映され、それが「サンフランシクコ講和条約」だったり「チャタレイ裁判」だったりする)。ヒロインの佐久間良子の視点からストーリーを描かず、遊廓のおかみや同僚の会話や描写などからストーリーを浮き上がらせている印象で、正直、佐久間良子がいったい何を考えているのかは観ていてもさっぱりわからない。彼女の恋人の見習い僧侶の内面についても、これまたまったくわからないので、彼による寺への放火への心理が不明のまま。吃音のための厭世気分と、そのことへの佐久間良子の同情を越えた気持ちは語られるけれども、彼女が肺病を患ったことを聞いたその僧侶が泣いて寺の境内を走り抜け、あとに寺に放火してしまうというのはいかにもわからない。そのあとの、くるわの女性たちの僧侶へのシンパシーもわからない。そもそもが、ヒロインが遊女になること(これも悲しいことだけれども)と僧侶との悲恋、そしてヒロインが肺病にかかることに、関連が見い出せない。それなのに、あたかもすべてが関連し合っているような演出姿勢がいちばんわからない。もちろんこれらのことがらが結び付く視点はあるのだけれども、そういう演出になっているとは思えない。水上勉の作家性を考えると、これは演出のミスリードだろう。
 ちょっと上からの俯瞰画面が多い気はするけれども、カメラも編集も的確に対象をとらえていると思う。夜の屋外の照明など美しい。しかし、ヒロインが山陰の寒村から京都に出て来るまでの描写は、あまりにも丁寧過ぎて冗長に思える。

 今日はネコのユウにアジの開きをあげた。よく食べてくれた。それで、今日は唐突にさかなの曲を。Red Krayola がRough Trade 時代の1979年にリリースした、傑作マキシ・シングルです。


 

 

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■ 2010-04-23(Fri) 「ミクロの決死圏」「映画を見る眼」

[]Fantasy [Earth, Wind & Fire] Fantasy [Earth, Wind & Fire]を含むブックマーク

 隣駅の近くにある古本チェーン店にはときどき立ち寄っているのだけれども、この店の一角にもうずっと、「昭和文学全集」というのが並んでいる。ここから「昭和詩歌集」の巻などを買ったことはずいぶん前に書いたけれども、その後、この大部の書物はまったく売れることがなく、店の棚を占領し続けていた。いちおう売り値は一巻500円になっているのだけれども、これはそのうちに最低価格の105円に値下げされる予感がしていて、店に行くたびにこの全集の置いてある棚をチェックしていた。これがついに、予想通りに105円の値札になっていた。おお、ついに!と喜んだのだけれども、わたしよりも先にそのチャンスを逃さなかった人がいたようで、「105円なら買うぞ」と思っていた巻など、すでに棚からなくなってしまっていた。ちょっと残念だけれども、それでもかなりの巻を買って、重たい袋をぶら下げて持って帰る。部屋には今、この全集の端本が十冊以上置かれている。
 本文三段組みで一巻あたり約千ページ、普通の単行本十冊以上の分量の作品が一冊に詰め込まれていて、集中して読んでも、一冊消化するには一ヶ月はかかりそう。前に読み始めた「昭和詩歌集」も途中で放り出してあるし、またムダな「積ん読本」が増えただけ、かもしれない。転売して値段が付くようなものではないし、ただの粗大ゴミとして何の役にもたたずに部屋に転がったままになるかも。
 とにかく読書というのがもうほとんどすべて、図書館から借りて来た本ばかりを対象にしてしまっている。このあたりで気分を改めて、家の本棚にある本を集中して読むことを考えたいと思っている。DVDばかり観ている生活習慣も改めた方がいいのかも。

 そのDVD、今日はリチャード・フライシャー監督の1966年の作品、「ミクロの決死圏」などというのを観る。邦題はいかにもSF冒険モノを思わせるけれども、原題は「Fantastic Voyage」というもので、これは同じ監督のディズニー作品、「海底二万哩」の系譜で考えるべきものではないかと思う。その「海底二万哩」での海洋冒険物語という設定を人体内の冒険に置き換え、「ノーチラス号」=「プロテウス号」として映像化している雰囲気。ストーリーもさほどは重要ではないようで、潜水艇が深海の神秘をカメラに収めるように、人体内の神秘的な映像を観客に見せることこそ、この作品の目的だったように思える。だから、リアルに考えれば血管内からは一歩も出ることがないはずのプロテウス号の船窓からは、実にさまざまな組織の形態が覗きみられることになる。血管内を流れるアメーバ状の血漿の映像など、もうちょっとあとの時代の、サイケデリックなドラッグ幻想映像の先駆と云えるのではないか。心臓弁の動きや、肺の中の映像などにはインパクトもあるし、特に内耳内の映像はかなり美しいものだった。美術スタッフの奮闘ぶりがしのばれる。
 演出は、映画内時間を実際の時間の経過に合わせようとしているのではないかと想像出来(ミクロ状態の制限時間一時間が、そのまま映画上映時間と一致する?)ミクロ化の手順なども、実に丁寧にあきるほど見せてくれる。先に書いたようにストーリーは付け足しで、冒頭の襲撃シーンなどからも、当時の東西冷戦、スパイ合戦などがストーリーの背景があるのではないかと想像させるけれども(実際にスパイは入り込んでいるけれども、そのあたりのサスペンス要素も極力抑えている)、そのあたりの説明は最小限に抑えられ、とにかくメインのストーリーは、小さくなって人体内に侵入し、任務を終えて人体から脱出するだけ。この潔さがいい。

 DVDを観終えて、もう寝るつもりでベッドの中で本を読んでいると、珍しくケータイの呼び出し音。めったにないことなので気が付かず、電話に出る前に切れてしまう。着信履歴を見るとDさんからで、いちどこちらからかけ直すと、配慮してくれてまたあちらからかけ直して来てくれた。感謝。岡山在住のEさん宅からということで、Eさんと電話を代って、実に久しぶりに話をした。いろいろと、うれしい会話だった。くわしくは書かないけれども、つまりは次につながって行く話。後ろ向きにならず、前を向けていれば進む道は前に見えて来るだろう。

 眼が冴えてしまい、ベッドの中で小栗康平の「映画を見る眼」読了。彼が言う、映画の文体の中での「私とは誰か」ともいうような問題は、例えばおととい観たティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」のような作品を経て、どのように考えられるのだろう。ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」に、ルイス・キャロルの書いた二冊のアリスの本の解釈を読み取るとすれば、それは実に貧弱な解釈に思える。そこには、先行する典拠となる作品をすべて物語の流れに解体し、原作の「文体」を無視した上でつくられた作品と思えてしまう。それは「ジャバーウォッキー」の詩の読み方に、端的にあらわれていると思う。ティム・バートンが映像的「文体」を持たない作家だとは思わないけれども、ちょっとばかし、この原典の「文体」へのアプローチなど、ひとつの問題として思うところは多い。「映画を見る眼」は、少し飛ばして読み過ぎたかもしれない。

 今日の一曲は、「Fantastic Voyage」という作品を観たので、単純にファンタジーの曲で。これはEarth, Wind & Fire の1978年のヒット曲。


 

 

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■ 2010-04-22(Thu) 「死の棘」

[]Needle Of Death [Bert Jansch] Needle Of Death [Bert Jansch]を含むブックマーク

 どこか知らないところのファミレスで夜を明かす。ここもワンダーランドなのだろうか。外には雨が降り始めた。電車が動き始める時間になって、見知らぬ駅の改札をくぐる。

 実はこの日もまた、フィルムセンターで映画を観ようという考えはあったので、これを実行する。「映画の中の日本文学」企画の二回目で、今日は増村保造監督の作品「偽大学生」を観て、そのあと体調が許せば、続いて小栗康平監督の「死の棘」まで観ようかと。

 「偽大学生」は1960年の作品で、大江健三郎の原作というのはちょっと珍しい。原作は「偽証の時」のタイトルの短編で、1957年、大江健三郎がまだ学生のときの作品、らしい。ジェリー藤尾主演、藤巻潤、若尾文子などが出ている。
 ‥‥しかし、さすがに睡眠不足がたたり、おそらくは上映時間の八割から九割は眠っていた。これではまったく観たことにはならないのだけれども、その、ところどころ目が覚めて見ていた部分をつなぎ合わせると、だいたいどんなストーリーだったのか、最低限わかった気がする。それでもまあ、さすがにこの映画を「観た映画」にカウントするのはやめておこう。

 まあそれで睡眠を取れたということもあって、ここは続けて「死の棘」を、しっかり観ておこうという気になる。小栗康平作品を観るのは、これが初めて。実は、彼の著作、「映画を見る眼」という本を、今図書館から借りていて、かなり読み進んでいる。
 昨日「アリス・イン・ワンダーランド」などという作品を観て、翌日にはこのような作品を観ようとするのは、かなりデタラメなことだと思う。本を読んだり音楽を聴いたりしていても、そういうデタラメは意識してしまうことはあるけれども、本を読めば、脳内に仕分けされたマップにしたがってその読書体験は収納される場所が決められ、過去の読書体験との差異などの比較を、無意識裏にやっている気配はある。音楽はどの音楽も、脳内収納場所を拡張して行くようなところがあるし、もともと自分が、一般に音楽のジャンルと呼ばれる部分をいつも越境しようと聴いているところがあるので、逆にそんなデタラメぶりを加速させようとしていたりする。でも、映画表現という世界では、ある種の作品間には、差異の比較など問題にならないような、まったく相容れないような表現の乖離があるのではないかと思う。
 たとえば文学でいえば、純文学などといわれるような作品を読むときと、ミステリー小説などを読むときとでは、頭の使い方がまるで異なっているだろう。ある面では、その文体に合わせた読み方を自然と採っているわけだろうけれども、映画作品の場合、その「文体」に当たる部分を微妙に受け止めてしまう自分がいる。そこで「映画を見る眼」という問題が出て来ることになる。映画表現の、その「文体」にあたるものとはどのようなものだろう、と。
 いままでその「映画を見る眼」を途中まで読んで、この本の著者でもあり、実際に映画監督でもある小栗康平という人が、そういう映画の「文体」といえる部分からの、映画へのアプローチにとても意識的な人だという印象もあり、そんな彼の作品も観てみたくなったというわけ。

 「死の棘」の原作は島尾敏雄の1960年の作品で、発表時に島尾敏雄は四十三歳。わたしは島尾敏雄の作品はごく一部しか読んでいなくて、この「死の棘」も読んでいない(その内容はかなり有名なので知ってはいるけれども)。この映画の方は1990年の作品で、岸部一徳と松坂慶子の主演(というか、ほとんどがこの二人だけのドラマ)。
 映画が始まると、いきなり、夫が妻にあやまっている。夫の正面からの半身ショットがあり、妻のやはり半身ショットにカットバックされる。二人の全身ショットになると、二人は向き合って会話しているのではなく、お互い同じ方(カメラの方)を向いて会話していることがわかる。現実性ということではそのような対話はありえないだろう、ちょっと不自然できわめて映画的、作為的な演出とも取れるけれども、この場合のこの夫婦の関係性から考えると、互いに向き合わない姿勢というのはリアルなことになる。そこに、お互いがカメラ方向を向いての対峙というリアルさから外れた映画的な演出が、奇妙な現実性を帯びて見る眼に飛び込んで来る。
 この、通常ではない夫婦関係を活かしているのが、セットで造られた夫婦の住う家の周辺の情景で、このあたりのことは読んだ「映画を見る眼」にも書かれていたけれども、現実の光からは少し異なる光の下に住む夫婦の姿が、くっきりと描かれている印象。現実的な視点、現実的な演出からの距離が、この作品を支えている。同じように、夜のシーンしか出て来ないむかしの小岩駅周辺の姿もまた、この作品の中では印象に残るものだった。
 ただ棒立ちしているだけで悲しみを身体からにじみ出しているような岸部一徳が印象的で、妻に追い詰められ、ついには突拍子もない行動に出たり大声で叫び出すときに、その逃げ道のなさに、観ているこちらまで胸が締め付けられる。これに対して「攻め」、「責め」ともいえる演技で向かう松坂慶子もおそろしく、このふたりがはまり込む地獄のような状況のおぞましさが、かえってコミカルに見えるほどに突き詰めて描写される。
 終盤に、枯れ草の伸びた河原か海岸のようなところで、小さな舟に乗った妻と子供二人、その舟のわきに立つ夫の姿が映される、印象的なシーンがある。この家族のその後を想像させるシーンでもあるけれども、このシーンは、現実的という視点では、まずあり得ない、起こり得ない場面だろう。このシーンだけ少しばかり観念性が強すぎるのではないかと思ったけれども、そもそもこの作品の表現にはそのような観念性が優先しているわけでもあり、ストーリーとして、「このようなことが起こったのだろう」という再現ドラマなどではない、映画としての主張の込められた場面なのだと解すべきだろう。こういう映画作品をもっと観たい、と思った。
 映画の最初の方に太田省吾さんが出演されていたのはわかったけれども、エンド・クレジットを見ると、安藤朋子さんも出演されていたようだ。わたしにはどこに出演されていたのかはわからなかったけれども。

 ほんとうは昨夜いちど帰宅しているはずだったので、ユウはものすごくおなかを空かせていたことだろう。帰って食事を出してあげると、かなり猛烈な勢いで食べていた。いやあごめんごめん。

 今日の一曲は、そんな印象的な映画「死の棘」を観たので、ちょっと違うけれども「Needle Of Death」という曲を。この曲はBert Jansch の1965年のデビュー・アルバム「Bert Jansch」に収録されていた、おそらくは彼の曲のなかでももっとも知られた曲のひとつで、その後の彼の活動がもしもなかったとしても、この曲の存在だけでもって彼の名は記憶されることになっただろうという名曲(のちに彼自身、1974年の「L.A. Turnaround」のなかでこの曲を再演している)。わたしは音楽的なことはよくわからないけれども、今は彼の項目も日本版Wikipedia に掲載されていて、そこにこの曲のコード進行についてなど書いてある。わからなくて聴いていても美しいギター伴奏だけど、この曲はその美しさと裏腹に、ドラッグの恐ろしさを歌った曲であります。


 

 

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■ 2010-04-21(Wed) 「アリス・イン・ワンダーランド」

[]White Rabbit [Jefferson Airplane] White Rabbit [Jefferson Airplane]を含むブックマーク

 今日は晴天で暖かい。というか、暖かすぎる。これも最近の極端な気候の変化の顕われで、どうせまた寒くなるに決まっている。それでも今日は東京に出てCさんと映画を観るので、暖かい気候は歓迎する。ユウくんにはまたお留守番してもらうので、メザシもあげましょう。
 今日観るのはティム・バートン監督の最新作「アリス・イン・ワンダーランド」なのだけれども、新作ロードショー作品を観るのは今年はこれが最初になる。しかも、3Dヴァージョン初体験ということ。有楽町駅でCさんと待ち合わせ、この日はレディース・デー割引で劇場も混むはずだからと、先に劇場に行って指定席を決めてから昼食。たしかに劇場窓口にはすでに客が行列をつくっている。その九割以上は女性客。まあそういう日なのだし、そういう映画なのだろうから当然のことだろう。昼食は、銀座の居酒屋が昼間は定食を出しているような店で済ませる。こういう店は増えた。たしかに夜だけオープンして人の大勢いる昼の客を逃す手はないだろう。こういう店の方が、座席がゆったりしていて快適。ゆっくり食事をして、映画館へ戻る。

 さて、3D映像だけれども、映写室入り口で3D用のメガネを配付している。「返却しなくていい」ということだけれども、持って帰ってグラビア雑誌を見たら飛び出して見える、などというのなら楽しいかもしれないが、もらっても特にうれしくも何ともない。ゴミでしかない。次にそういう3D用のメガネを持参すれば入場料が割引になるのなら話は別。そういうサーヴィスはやらないのか。ビニールの包装に「このメガネはサングラスにはなりません」という英語の注意書きがあり、どうやら輸入品らしい。
 予告の一部も3Dになっていたけれども、全部CG作品なので、あまりピンと来ない。感動が薄い。でも、テロップ文字が空中に浮かんで見える感じが楽しい、かな。

 で、本編の「アリス」。先に評判になった3D映画「アバター」はちゃあんと3D用のカメラで撮影された純正の3D映画なのだけれども、こちらの作品は通常のカメラで撮影された二次元映像を後処理で3Dにしたもの。これはむかしの「疑似ステレオ盤」というヤツを思い出してしまう。まあ実写以外にCGを多用した作品だから、そういうCGの部分は3Dとして描画しているのだろう、たしかに立体的に見えるけれども、人間の実写の部分は、その人物の部分を切り抜いて並べて前後差をつけている感じ。だから人物が奥行きを持って並ぶと前後関係の距離は出ているけれども、その人物の中は平板で、写真を切り抜いて並べたものが動いているという感じ。まあしばらくすると3D映画初期の時代のちょっと情けない映像、などと云われるようになってしまうだろう。

 映画作品自体だけれども、これはかなりガッカリする出来だった。要するに「鏡の国」から13年後のアリスが登場し、社交界のパーティーの席で婚約を申し込まれるときに見かけた白うさぎについて行き、ふたたび「不思議の国」「鏡の国」の場所へ迷い込む。ルイス・キャロルの原作と同じ物語が展開する場面もあるけれども、要はマッドハッターなどと協力して、暴君である赤の女王の独裁からワンダーランドを解放するという、まるで「ナルニア国物語」みたいなものになってしまっている。ここで「鏡の国」で出てくる問題の詩「ジャバーウォッキー」が物語に取り込まれ、アリスが戦うラスボスがそのジャバーウォッキー(このCG造型がかなり情けない)、だと。
 いわゆる、「アリス」物語の原作の面白い部分はぜ〜んぶ消去して、通俗的なよいこのための勧善懲悪ファンタジーみたいにしてしまった。ほかならぬティム・バートンが、このような作品をつくってしまったということには失望した。ただ、ストーリーの流れの中で意味不明の断絶があったりして、意図通りに製作出来なかったということも想像させられる。ラストのクレジットの傍らでどんどん大きくなるキノコ、芋虫の吐くタバコ(???)のけむり、そして物語の最後にほのめかされる中国(この原作の時代にはアヘン漬けの国だった)への旅など、ドラッグのほのめかしは数多くあるけれども(ここで阿部和重の「ピストルズ」を思い出そうか)、ストーリーはそのような寄り道をしないで一直線。マッドハッターまでがまったくの正気で、アリスの加勢をするのだからつまらない。そんな「アリス」は観たくなかった。などと、子供向け映画に向かって愚痴をこぼしても仕方がないか。マッドハッターがマイケル・ジャクソンを思わせるなどと気が付いても、そんなことはどうでもいいこと。

 映画が終り、まだ五時前。ここで有楽町から森下へCさんと移動して、前にも行った居酒屋の「Y」へ。ちょうど開店時間で、待たずに入ることが出来る。‥‥わたしはひとりで焼酎のボトルを注文してしまったのだけれども、これが五合入りの大きなボトルで、そんなの飲み切れるわけがない。飲み残しは持って帰って家で飲もうと思っていたのに、目の前にボトルがあるとついつい、どんどんと飲んでしまう。実は、途中から記憶が残ってない。ああ、映画の中で全開されていなかったドラッグの幻覚が、ここに来てアルコールによって疑似体験されていたのか。
 ある程度飲んだあとで憶えているのは、もう帰る電車がないことに気付いた場面と、店を出たときに、思いっきり転んだ場面のみ。次に気が付くと知らない駅のホームに着いた電車の中で、駅員さんに「終点です」と起されていた。何かにぶっつけたのか、おでこが痛い。はたして店の勘定はどうしたのか、どうやって電車に乗ったのか、どのようにCさんと別れたのか、まったく思い出せない。財布を見ると居酒屋のレシートが入っていて、然るべき分の金額が目減りしている。なかなかしっかりしているではないか。

 きっと白いうさぎにでも惑わされたのだろう。そういうわけで今日は「アリス」の映画を観たので、今日の一曲もそんな「アリス」から幻覚の世界へのトリップを歌った、Jefferson Airplane の「White Rabbit」で。これは1967年に実際かなりのヒットになった曲だけれども、よくまあこんな内容の曲がヒットしたものだと、今となってはちょっとした驚きを感じる。


 

 

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■ 2010-04-20(Tue) 「散歩する惑星」

[]Bad Weather [Supremes] Bad Weather [Supremes]を含むブックマーク

 この日も雨が降って肌寒い。同じ気候が三日と続かずに、暖かくなったり寒くなったりの繰り返し。桜の花がいつまでも散り切らないで残っているのを毎日みているのは、季節が先へ進まないような奇妙な感じがする。
 そういう気候のせいで、キャベツなど野菜類の価格が高騰していることをTVのニュースでもやっている。画面を見ていると、店頭に並んだキャベツに300円以上の価格が付けられていたりする。すごいなあ。家の近くのドラッグストアは、今でもひとたま105円での販売を続けている。この店は本来生鮮食料品はあまり扱っていないので、仕入れ値を売り値に反映させるのを怠っているんじゃないかと思っていたけれども、昨日今日といつもよりたくさん仕入れて、特別にコーナーを作ってキャベツやレタスを売っている。どちらも105円。どこからどうやって仕入れているのか。店に来ている奥さん方の中には、ひとりで4個ぐらいキャベツを買って行く人もいる。それでもまだ知らなくてこの店でキャベツなどを買う人は少ないようで、即座に売り切れてしまうという気配でもなく山積みになっている。スーパーに行くと300円近いキャベツをカゴに入れていく人がいて、「すぐそばのあっちの店に行けば安いんですよ」と教えてあげたくなったりする。余計なお世話だ。

 今日はDVDで「散歩する惑星」というのを観る。2000年のスウェーデンとフランスの共作で、これはかなり面白かった。監督のロイ・アンダーソンという人は、コマーシャル・フィルムの世界では著名な人らしく、いくつもの賞を受賞しているらしい。この映画もワンシーン・ワンカット映像の積み重ねでつくられていて、ほとんど説明的な描写はない。企業のオーナーが大量の従業員の解雇を決定し、関係があるのかどうか、街路にはゾンビのようなデモ行進をする人々にあふれている。道路は渋滞して、車はまったく進んで行かない。こういう状況の中で、映画は次第に、金策に苦しみ自分の店舗に火をつけたという家具店のオーナーとその家族の姿を追って行く。そのオーナーの長男はかつては詩人だったけれども、精神を病んで入院し、ひとことも言葉を発しなくなってしまっている。どうやら「詩の失われた世界」ということらしい。家具店のオーナーは、かつてナチスに虐殺された人々の霊にもつきまとわれることになる。そういう描写から、どこかに現代ヨーロッパの姿へのアナロジーもあるのだろう。新しい「千年紀」を迎えることで、キリストの磔像を売って儲けようとする人たちもいる。信仰心はまるでないようで、磔にされたキリスト像の片手を打ち付けた釘が外れ、もう片手の釘だけでいつまでもぶらぶらと左右に揺れるキリスト像がそのまま誰にも止められず、ずっと背景に揺れ続けて映っているシーンにインパクト。
 どの画面もちょっとオーバーなくらい広角で撮られていて、街の建物のパースペクティヴも極端に強調されている。これはそういう広角レンズで撮られているのかと思ったけれど、ここまで広角だと写されたものに歪みが出てくるはずなのがそうなっていない。ちょっとだけ収録されていた特典映像のメイキングを観ると、街の建物はすべて、そのパースを強調した姿で、つまり、奥に行くほど小さく造られているわけだった。室内が広角になっているのも、角を九十度にせずに、奥に行くと狭まる台形の部屋を造って撮影しているのだろう。かなりの撮影期間をかけて撮り上げたらしいけれども、ひとつのシーンがそれでひとつの作品になるくらいの気持ちで取り組んでいる、その結果だろうと思う。結果として、ひとつのシーンのなかの時間は映画的に編集されることはなく、それが積み重ねられてリアルな時間の集積としての映画作品になっているわけで、そのあたりがわたしにはとてもすっきりと観ることが出来たのだと思う。俳優たちもプロの役者ではないらしく、そのあたりのドラマ〜演劇的な演技で成立する作品でない演出。そのように全体に統一された演出姿勢が、この作品独特の浮遊感のようなものに結び付いている感じ。変な邦題は狙い過ぎ、と思った(スウェーデン語はわからないけれども、英語のタイトルは「SONGS FROM THE SECOND FLOOR」)。
 この監督は、次回はセリーヌの「夜の果ての旅」を撮りたいらしい。この作品のテイストならば期待できる気もするので、(わたしの生きているうちに)ぜひ実現してほしい。

 今日の一曲は、最近の奇妙な気象状況に合わせて、「Bad Weather」という曲を。これはDiana Ross の抜けたSupremes が、Jean Terrell をその後釜に加入させていた時代の曲で、作者はStevie Wonder だったのだけれどもまるでヒットせず、けっきょく、この曲を最後にJean Terrell はお払い箱になってしまいましたとさ。残ったオリジナル・メンバーのMary Wilson はもうちょっとSupremes を持続させ、ディスコ・サウンドにまで手を染めることになるけれど、けっきょく1977年にはSupremes 解散。そういうことになってます。


 

 

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■ 2010-04-19(Mon) 「華岡青洲の妻」「盲獣」

[]Blinded By The Light [Manfred Mann's Earth Band] Blinded By The Light [Manfred Mann's Earth Band]を含むブックマーク

 昨日でアラン・レネ月間は終了。とっても寂しい思いがする。全24上映プログラムのうち、八本観たのだから「よくがんばりました」なのだろうけれども、終った今となっては、もっともっと観ておけばよかったなどと思ってしまう。でもそれではわたしの場合はバカな消費者に一歩近づくだけ。
 そんな、いろいろとアラン・レネの作品について考えたりしていて、観ることの出来たすべての作品の根底に、映画表現から「時間」への大胆なアプローチが様々なヴァリエーションで試みられているように思え、「映画」と「時間」であれば、ドゥルーズの「シネマ2*時間イメージ」という本があるではないかと、まだ全然読んでいないその本を取り出してみる。
 ‥‥って、まさに。巻末の索引をみても(「みても」というか、ほぼ索引しかみていないのだけれども)おそらく、この書物の中でもっとも集中的に語られている映画作家は、まさにアラン・レネなのではないのか。「シネマ」の方はそっと置いておいて、「記号と事件」を開いてみても、戦後、映像がモンタージュの技法を越えて、新しい基盤から新しい技法に頼ることになったとすれば、「もっとも重要で、もっとも暗示的なのはアラン・レネの作品だということになるでしょう」ということ。どうやらドゥルーズの本の中では、「去年マリエンバートで」と、それに並んで「ジュ・テーム、ジュ・テーム」が、大きな考察の対象になっているみたい。
 ドゥルーズの「シネマ」を開いて読もうとして、はたと困ってしまうのは、あまりにも多くの「観たことのない」作品への言及が続くことで、そもそもがストレートに読み進みにくい文章で、その語られている作品についての知識がまるでないわたしなどには、もう読み進むのにひじょ〜な困難を感じてしまう。そういう訳だけでもないけれども、とにかく現在までわが家の「積ん読」書の代表格になっているのがこの「シネマ」。まあこの書物に挟み込まれている広告に、蓮實重彦氏による「ドゥルーズが触れている映画は見るべきであり、触れていない映画は見るにおよばずと思ってしまっている人がいるのです。」という文章が載っているのだけれども、なんかね、見るべきとか、見るにおよばずとかは思わなくっても、読解して行くためには見ておかなければならない作品がある、と感じてしまうのはこれは止められない。とにかくわたしの場合には、あまりにも古典作品と位置付けられる映画作品の数々を観ていないのだから。そういう意味では、今回アラン・レネの作品を連続して観たことで、そういう「シネマ2*時間イメージ」の記述に関して、わたしの場合、それこそイメージとして理解できる部分が拡がった、ということになる。
 でも、今回の「ジュ・テーム、ジュ・テーム」の上映に、それほど観客が集中していたわけでもないので(英語字幕だったせいもあるだろうけれども)、「ドゥルーズが触れている映画は見るべき」と考えている人は、実はそれほど多くはないのだ、ということになるのだろう(「死に至る愛」の上映は混んでいた。たしか立ち見が出ていたと思う)。

 もういちど今回観たアラン・レネ作品を振り返ってみて、1980年代までの作品を三本、90年代以降の、最新作「風にそよぐ草」までを五本観たことになるけれども、この80年代まで、それと90年代以降で、彼の作品には大きな変化があるようでもあり、また、継続して探究されている部分もあるだろうという感想を持つ。
 80年代までの作品で観た「去年マリエンバートで」、「ジュ・テーム、ジュ・テーム」、そして「死に至る愛」の三本は、ドゥルーズを典拠にするわけではない(まだ読んでないのだから)けれども、まさに「時間」の問題を映画的にどう処理するか、という問題と正面から取り組んでいるように思える。それは「映画」としてリアルタイムに進行している時間と、映画内の「仮構」の時間とを一致させる試みと取れる。それは映画をある種の「記憶装置」と捉える、という視点を含んでいるようで、この問題は「死に至る愛」において、登場人物自体を「記憶装置」のように扱うことで処理されているのか、とも思えてしまう。とにかく、ここで、レネにとっての映画での「時間」の問題、「記憶」の問題は次の段階へ移り、90年代以降はここに「俳優の身体」の問題が加わるように思え、舞台の構造を映像化したような「スモーキング/ノー・スモーキング」(ここでは「時間」の問題はまだ、色濃くその主題となっている)、「恋するシャンソン」(実は未見)、「巴里の恋愛協奏曲」(そっくりそのまま舞台の再現、だけど「映画」だ、という形式)を経て、さらに自在な映画技術とナラティヴな実験の成果ともいえる「六つの心」、「風にそよぐ草」という傑作に至る。そのような道筋を思い浮かべてみる。

 さて、そうしているあいだにも、書かなかったけれどもDVDを増村保造監督作品で二本鑑賞している。
 まずは「華岡青洲の妻」(1967)で、これは先週観た「セックス・チェック 第二の性」よりも前の作品で、ちょっと観る順番が違ってしまった。増村保造作品には初めての高峰秀子の登場で、芸術祭参加作品という気負いがものすご〜く感じられる、日本放送協会の大河ドラマのような重々しい演出、というか、先週もアラン・レネの作品を観たあとに増村作品を観て感じたように、やはりどこか演出に違和感を感じる。特にこの重々しさは今までの増村作品にもなかったもので、「芸術祭」に参加すると、こんなにもなってしまうものか。新藤兼人の脚本も、「この人のこういうところがイヤ」という見本のような脚本だとわたしには思えてしまう(たいして違いはないのだけれども、「清作の妻」は良かったと思えた。この「差」は何だろう?)。ここでの伊藤雄之助も、いつもの怪演に至らず、何かに取り込まれてしまったような印象を受ける。ただ、市川雷蔵の華岡青洲は、ある種の冷酷さと無関心さのにじみ出てくるような造型で、嫁と姑との神経戦を承知の上で、自らの医学研究に利用している感じが出ていてすばらしい。彼の前では高峰秀子の母も若尾文子の妻も、実験台のネコたちと同じ存在なのか。あ、この作品でいっちばん素晴らしい演技を見せてくれるのはネコたちで、ネコ好きには正視できない演技を見せてくれる。って、あれは「演技」ではないのか?

 もう一本の増村保造監督作品は、ついに来た、1969年の「盲獣」。もちろん原作は江戸川乱歩で、ここでの脚本は白坂依志夫。出演は緑魔子、船越英二、そして千石規子の三人だけ。いわゆる「監禁モノ」というのが、映画表現の歴史のなかで、どのあたりから始まっているのかよく知らないけれども、まあ先週観た「痴人の愛」、あれも一種の監禁モノではあっただろうけれども、例えば先日観た「何がジェーンに起こったか?」など、一種の監禁モノだと云えるんだろう。でもあれは男女の絡みではないから、そういう愛欲と関係した監禁モノと云うのは、ジョン・ファウルズの原作をウィリアム・ワイラーが映画化した1965年の「コレクター」あたりからではないのか?というのがわたしの認識で、当然この「盲獣」の典拠になっているだろう。これと、こわれて行く自我というのが結び付いたのでは、これは自分で監禁状態になっているのだけれども、1964年のポランスキーの「反撥」がある。いや、この「盲獣」、女体のパーツでつくられた倉庫内のセットからして、「反撥」のカトリーヌ・ドヌーヴの幻視を思い浮かべさせられるし、この「コレクター」プラス「反撥」、というのは、この作品の製作に先行する大きな二つの支柱、なのではないかと想像する。
 しかし、この演出、やっぱりこれもアラン・レネのあとのせいなのか、「もっといろいろ出来るはずなのに」とついつい思ってしまう。というか、「それはやらない方がよかったのに」ということか。まず、ヒロインのナレーションが、この作品に適切だったのかどうか?という問題。いったい時制的にどの時点に立って、このヒロインはナレーションを語っているのかわからない。というのも、ラストでヒロインは命を落とす(棄てる)はずなのだから、ラストの場面にかぶるナレーションは、映画内の時間と同時進行しているのか、というわけだけれども、それは考えられない。そうするとこのナレーション、死者の語っている生前の記憶ということになり、この作品の視点もまた、死者のそれであるのかもしれない。でもこの作品の視点は普通の客観描写の連続でしかない。そういう死者というような存在からの視点は見い出せない。せっかくの面白い題材なのに、せっかくがんばった美術なのに、この平凡な「視点」のために、どこか平板になってしまったように思えてならない。それに、脚本として、あまりに登場人物みなが、説明的な事柄をいろいろと語り過ぎるのではないのか。もうそこまで話していただければ、この作品の背後でわからないことはありませんとばかりに、あらゆることをセリフで語り説明する。もっともっと「沈黙」が多ければ、もっともっと、恐ろしい作品になっていただろうに。けっこう好きな作品だけに、どうしてもそう思ってしまう。

 しかし、「華岡青洲の妻」にせよ、この「盲獣」にせよ、振り返れば傑作「清作の妻」までも、登場人物が盲目になる物語。この増村保造のオブセッションは、いったい何なんだろう? 谷崎潤一郎作品の映画化が続いて、そんな谷崎作品に感化されたのだろうか。まあ谷崎作品と「盲目」の関係など、「春琴抄」しか知らないけれども。

 そういうわけで、今日の一曲はそういう、「盲目」になってしまうという曲を。グループ名をManfred Mann からManfred Mann's Earth Band に変え、新規メンバーでしばらく地道な活動をしていた彼らが突然、1976年に放った大ヒット曲で、これはちょうどこの頃にブレイクして来た、Bruce Springsteen の作品を取り上げたもの。Manfred Mann にとってはこの曲が、12年前の「Do Wah Diddy Diddy」以来のNO.1ヒットになったというわけ。


 

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■ 2010-04-18(Sun) 「さいごの恋」「スモーキング」「ノー・スモーキング」

[]Bye Bye Blackbird [Peggy Lee] Bye Bye Blackbird [Peggy Lee]を含むブックマーク

 昨日のアラン・レネが重たく心にのしかかる夜だった。ユウが玄関で啼いているのももちろん何かのメッセージで、ユウの心に入ろうと思ったけれども、そんなことができるわけもない。今日はアラン・レネ上映の最終日、また出かける。

 電車の中でクリスチャン・ガイイの「さいごの恋」(野崎歓:訳)、読了。ガイイはレネの「草にそよぐ風」の原作者でもあり、この「さいごの恋」も、たしかに「草にそよぐ風」を思い出させるタッチにあふれていて、いくぶんのビザールさ、ちょっとした残酷さが描写され、奇妙なユーモア感覚の奥から、一種爽やかな感銘を与えてくれる。主人公がもう若くはない音楽家という設定で、どうしてもこれにアラン・レネ作品の常連俳優、アンドレ・デュソリエをあてはめたくなってしまうし、多くはない登場人物のそれぞれにサビーヌ・アゼマやピエール・アルディティなどの顔ぶれを揃えて、自分の頭のなかで勝手に映像化してしまう。
 クリスチャン・ガイイの文章自体が、視覚的イメージを喚起させるような文体になっていて、訳文はそのあたりをうまく翻訳していると思う。主人公の視点からの、内的独白を交えての主語のない一人称描写、体言どめの多用される短いセンテンスの積み重ねが、読む心をずんずんと先に進ませる。おそらくは南フランスなのだろう海辺の別荘地の青い空、シンボリックなグレーの色の配置の妙、そしてあちこちで聴こえてくる音楽(著者のクリスチャン・ガイイは若い頃にジャズ・ミュージシャンだったらしい)。駅から別荘への同じタクシー内で、時間を隔てて主人公とその妻とが、運転手の若いあんちゃんと同じように繰り返す会話がとても楽しかった。映画でやっても楽しいだろうな、などと思いながら。
 小説のラストはここだけ時制をずらせて、主人公の妻の視点が入って来て、ひとつの聴こえてくる音楽で、そこに夫を見い出すことになる。

f:id:crosstalk:20100420134538j:image:left また飯田橋駅到着。このところ毎週末には飯田橋に来ている。まだお堀沿いの桜並木は花が散り切らずにたくさん咲いている。道を歩いている人が桜の花をデジタルカメラで撮影している。あっちでもこっちでも。これが今年の桜の見納めになるだろうな。

 今日のアラン・レネ作品は1993年の「スモーキング」と「ノー・スモーキング」の二作を観る。英語字幕。これは本来、合わせてひとつの作品と言ってもいい作品で、ネット上の映画データのサイト、IMDb などは「Smoking / No Smoking」として、一本の作品扱いになっている。しかしどちらも140分を越える長尺の作品を続けて観ると、五時間近くになってしまう。わたしはこれを両作品最後まで観ると、どうも終電車にギリギリ間に合いそうもないので、あとの「ノー・スモーキング」は途中で抜け出さなくてはいけない。残念だけれどもそういう覚悟での鑑賞。
 実はこの作品、全編サビール・アゼマとピエール・アルディティの二人だけしか出て来ない。この二人のそれぞれが「一人五役」ぐらいをこなし、衣裳、メイクを変えて二人芝居の連鎖を繰り返して行くことになる。そういうわけだから当然、画面に一度に二人以上の人物が登場することはない。原作は「六つの心」と同じくアラン・アイクボーンの戯曲で、撮影はこのあとに「恋するシャンソン」、「巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)」でも撮影を担当するレナート・ベルタ(「六つの心」と「風にそよぐ草」の撮影は、エリック・ゴーティエという人)。
 アラン・アイクボーンはイギリスの売れっ子劇作家なのだけれども、この「Smoking / No Smoking」の舞台での上演記録は見当たらない。しかしこれとちょっと似たコンセプトの作品で、「House / Garden」というのが2000年に上演されている。これは「House」と「Garden」という二つの戯曲を、近接した劇場で同時刻に上演するものらしく、つまり一方の舞台が家の中、もう一方ではその庭が舞台という設定で、役者たちはこの二つの劇場を行ったり来たりして演じたらしい。おそらくは人々のプライヴェートな顔(「House」)とパブリックな顔(「Garden」)との使い分けを舞台の上にのせているのではないかと想像できるけれども、まあちょっと面白そう(この舞台には、かつてのPaul MacCartney の婚約者、Jane Asher も出演していたらしい。もともと舞台女優だということは知っていたけれども、まだまだ継続して、しっかりした地位を確率しているみたいだ)。
 今回の「アラン・レネ全作上映」のパンフレットの「六つの心」紹介ページに、アラン・レネの文章が掲載されている。
 「私はアラン・アイクボーンの舞台がとても好きだ。滑稽で、風変わりで、時には残忍な側面があり、もう一方では人間の弱さへの同情、愛情がある」と。これはそのまま、さっき読んだクリスチャン・ガイイの小説にも当てはまるように思えてしまい、アラン・レネの嗜好(と言っていいのか)が想像できる気がする。

 ということで「スモーキング/ノー・スモーキング」。同じシチュエイションで同じ役者、同じ演出スタイルなのだから、これはやはり二本いっしょにして書く。イギリス郊外の、とある学校の校長先生宅。校長先生の奥さんが庭で片付けものをしている。ここでテーブルの上のタバコに手を延ばし、一服してから始まるのが「スモーキング」。同じ場面で、タバコの方に手を延ばしながらも、他のものを手に取って始まるのが「ノー・スモーキング」、というわけ。律儀なのか意図があるのか、場面はすべてセット撮影で、しかも屋内の場面はいっさい出て来ない。遠くに見える舞台になるイギリスの田舎ののどかな光景が、いかにも「描かれたもの」と見え、その雰囲気はきわめてファンタジック。イギリス設定でフランス語での進行といい、日本でいえば「赤毛もの」舞台を、そのままに映画にしたという雰囲気。ひとつのシークエンスが終ると必ず、まるで絵本の一ページのような絵と共に「その五日後」「その五週間後」「その五年後」のクレジットが挿入されて劇は進行して行く。さらに、ひとつの五年後のストーリーを描いたあと、黒地に「au bien」の文字が映し出され、過去のいずれかの時点から、冒頭の「タバコを吸う/吸わない」のように物語が分岐し、また別のストーリーが展開する。それぞれに三つか四つの結末が用意されている。
 基本的には、すべての役を演じる二人の役者、サビーヌ・アゼマとピエール・アルディティの演技のヴァリエーションを楽しむ(おのおのの役でのメイク、衣裳、演技など、実に楽しく観ることができる)ことになるけれども、これをみごとなカメラの動きと編集で一気にみせる。セット撮影の美しさ。観ていて映画の尺の長さが気になることはなかった。この作品でのキーはやはり、その行きつ戻りつする「時間」そのものを、どのように考えて映画の中に定着するかということにもあるのではないのか、と思う。「五日後」「五週間後」「五年後」、そして「au bien」のクレジットは、この映画内での映画的な時間を定義するクレジットなのは当然だけれども、アラン・レネの演出は、この映画内での時間を描くことに、きわめて意識的なのだと思う。これは一種の形式主義と云えるのかも知れないけれども、映画の形式、文法にこだわること、そのなかでどのような可能性を生み出すことができるのか問うことが、「映画」という表現に対してアラン・レネの取り組んだ、大きな問題なのではないかと思う。まあ「ノー・スモーキング」の方のラストは観られなかったけれども、ここまで観たところで、また「風にそよぐ草」に戻って、もういちど鑑賞してみたい。「風にそよぐ草」は、やはり一般公開はされないまま終ってしまうのだろうか。そうだとすると、とても残念なことだと思う。まだいろいろと映画を観て思うところはあるのだけれども、このあたりで。

 今日の一曲は、ようやく「ピストルズ」からは離れて、今日読み終えたクリスチャン・ガイイの「さいごの恋」で重要な役を果たす曲、「Bye Bye Blackbird」を。古いスタンダード・ナンバーで、この小説の中ではFrank Sinatra の歌唱のことが書かれているけれども、YouTube にはFrank Sinatra ヴァージョンは見つからなかったので、Peggy Lee のもので。小説のラストではジャズ・ヴォーカルもやっていた女性によって歌われる曲なので、女性ヴォーカルで聴きましょう。


 

 

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■ 2010-04-17(Sat) アピチャッポン・ウィーラセタクン展、「死に至る愛」

[]Snowbound [Donald Fagen] Snowbound [Donald Fagen]を含むブックマーク

 さて、土曜日も東京。今日はまたアラン・レネ作品上映で、家をちょっと早く出て、午前中から始まる「恋するシャンソン」をまず見ようと思っていた。昨夜久々にあさりご飯をたくさんつくってあるので、これをお弁当にして持って行く。こういう炊き込み系だとおかずにこる必要がないのでかんたん。サラダとウィンナ、昆布の佃煮にゆで卵をつけあわせるだけ。ついでにデザート用のバナナをカバンにつめて、ペットボトルに麦茶を入れて準備OK。ユウくんの留守番用の食事を用意して、玄関ドアを開けておどろいた。雪が積もっている。えええ!? もうゴールデンウイークも近いというのに雪。四月の上旬に雪になったという記憶はあるけれども、もう四月も半ばを過ぎてから雪が積もったという記憶は過去にない。もう雪は雨に変わっているけれども、冷たい空気に残っていた眠気もふっ飛んでしまう。

f:id:crosstalk:20100419150157j:image:right とりあえず傘をさして駅に行くと、電車が動いていない。これしきの雪でなぜ電車がストップするのかわけがわからないけれども、とにかく動いていない。駅員に聞くと、ポイントの動作がダメで、とか云っている。みっつぐらい先の駅まで電車は来ているけれども、そこでずっと待機しているままだって。これはもう午前中の上映には間に合わないので、ホームで待っていても仕方がない。今日は夕方からの上映、「死に至る愛」というのも観るつもりだったので、そちらに間に合えばいい。いちど家に帰ることにする。

 帰宅してパソコンなどいじっていると、谷中のギャラリーでちょうど今日まで、タイの映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンの個展をやっているのがわかった。いいタイミング。先にこれをみてから飯田橋に移動しようと、スケジュールを考える。外を見ると雨もやんで、うっすらと陽もさして来た。そろそろ出かけよう。
 駅に行き、駅員に「もう動いてますか?」と聞くと、ちょうどもうすぐ電車が来ると云う。ほとんど待たずに電車に乗れた。
 しかし、終点のターミナル駅に着くまでに、反対方向の下り電車の通過を待つために三回も待機させられ(このローカル線は「単線」なので、電車がすれ違うには駅を使わなくてはいけない)、いつもの倍の時間がかかってしまった。一時間に一〜二本しかないローカル線で、途中三度も電車とすれ違うなんてあり得ないことだった。

 ターミナル駅から東京へ向かう線は平常通り運行している。おそらくニュースなんかでも「東京周辺のJR、私鉄各線は平常通り運行しています」ということになっているんだろう。今まででいちばん、田舎に住んでいることを実感した。というか、住んでいるところが田舎なのだと思った。
 今日は上野まで出て、上野公園を歩いてギャラリーへ行く。昼どきに到着すると空はすっかり晴れている。公園にはまだ桜の花は残っていたりするけれども、さすがにもう、地べたに座り込んでお花見をしている人たちなどいない。公園を横断して桜木町へ。

 SCAI THE BATHHOUSE に来るのも久しぶり。アピチャッポン・ウィーラセタクンは、以前にもこのギャラリーで個展をやっていた。その時も観に来た。今回の展覧会は「プリミティブ」という彼の新しいプロジェクトから、写真作品2点、そんなに長くはない映像作品2つ、それと書籍のかたちをとるレポート(?)一冊からなる展示。メインはギャラリーいっぱいのスクリーンに映される「Phantoms of Nabua」という10分ぐらいの映像作品。

 何もない草原に街灯がひとつだけ灯って立っている。映像のスタート時点では、まだ空に少し明るみが残っている。その草原に鉄パイプを組んで、高さ2.5メートル、幅4メートルぐらいの白いスクリーンが貼ってある。スクリーンにプロジェクターから映像が映される。モノクロ映像で、これは雷の放電実験(?)の映像なのか、地面にいくつも垂直に棒が立てられているのだけれども、その棒に、雷鳴を轟かせて稲妻が走る。あちらでもこちらでも垂直の稲妻が走る。野原の中でそんな荒々しい自然現象の映像が流されることで、その野原も嵐に包まれるような無気味な空気が拡がる。すでに真っ暗になった野原に青年たちが集まって来た。彼らはサッカーボールよりひとまわりは小さいボールに火をつけ、火の玉になったそのボールを、サッカーのパスのように蹴り廻す。暗闇の中を火の玉が飛ぶ。そのうち地面の枯れ草にその火があちこちで燃え移ったりする。火のボールが雷を映していたスクリーンの下に転がり、スクリーンが燃え上がる。燃えるスクリーンを見つめる青年たちの黒いシルエット。燃え落ちたスクリーンの向こう側の、まっすぐにカメラに向いているプロジェクターの光源がまぶしく光る。その光源からの光の中に、まだ雷の映像が続いているのではないだろうか。青年たちの集団に不穏な空気が匂うようでもあり、超自然的な不穏さも見ている眼に伝わって来る。様々な視点から編集された映像が、その「場」の空気感を濃厚に伝えて来る。蠱惑的な映像。
 もう一本の映像は小さなモニターでの上映だけれども、「VAMPIRE」という15分ほどの作品。タイ北部の山中に居るという幻の鳥、ヴァンパイア鳥を求めて夜の密林に入って行く、「川口探検隊」のような作品。探険の前にタイ北部の政治/経済情勢が語られる。農産物の収穫は少なく、ミャンマー兵がひんぱんに収穫を横取りして行く地域。この探険はLOUIS VUITTON から持ち込まれた企画、と語るあたりにアイロニーを感じる。血に浸した白布を用意したり、男が上半身裸になり、その背中に血を塗ったり、呪術的な空気。探険の最後に、暗闇の中に一羽の鳥を発見するけれども、それはヴァンパイア鳥などではない。「やはりヴァンパイア鳥は幻の鳥だったのだろうか」という、このタイプの冒険映像のお決まりのナレーションで終了。そんな鳥の伝説が実際にあるのかどうかさえ、この東京でギャラリーに流される映像を観ているわたしには知る由もない。

 ギャラリーを出てまた上野公園へ行き、ベンチに座ってお弁当を食べる。公園の中ではホームレスの人たちのらしい集会も開かれている。やはり終ると炊き出しが配られて、皆それを目当てに集会に参加しているのだろうか。わたしがあの人たちの一人になっていてもおかしくはなかったし、これからだって、いつそのような境遇に陥るかわかったものではない。いや本当はわたしと彼らとは同じようなものであって、わたしはちょっとだけ運に恵まれているだけ。この公園にいる彼らは皆、本来わたしと同じような生活が過せるはずなのだけど。

 電車に乗って飯田橋へ行き、16時からアラン・レネ作品の上映。1984年の「死に至る愛」。出演はこれ以降のアラン・レネ作品の常連になるサビーヌ・アゼマ、ピエール・アルディティ、アンドレ・デュソリエに加えて、ファニー・アルダンも出ている。脚本はトリュフォー作品の多くを手掛けているジャン・グリュオーで、撮影は「去年マリエンバートで」ほか、アラン・レネの作品も多く手掛ける巨匠サッシャ・ヴィエルニ。
 「死に至る愛」とはまた大仰なタイトルなのだけれども、その内容がなんというのかタイトル通り、プラクティカルと言っていいようなストーリーになっている。ストーリーには何の疑念もわかない。誰が観ても同じストーリーを読み取る。夫を突然に亡くした妻が、夫との誓いを守り死を決意している。この夫婦の友人夫妻が彼女の決意を翻させようとするけれども、最後にはその友人の妻も彼女に同意する。
 先に死ぬ夫は考古学の現地発掘調査をしていて、その妻は野菜の品種改良の研究。友人夫妻の夫は神父である。夫は映画の冒頭でいちど倒れ、死亡宣告されるけれども、そのときは「奇蹟的に」回復する。診察していた医者は「たしかに死んでいた」と語る。生き返った夫と妻の会話。「わたしはあなたを前よりももっと愛すると誓うわ」「前より、って?」「死ぬ前より」。
 それでも夫はやはりまた倒れて死ぬ。神父夫妻との神学的な「愛」についての会話。「愛=アムール」という言葉にはキリスト教での「愛」の概念(=アガペー)も、ギリシア的な、欲望充足を目指す「愛」の概念(=エロス)も両方の意味が分けられずに混じり込んでいるという話。キリスト教は自殺を認めていないけれども、自分が死ぬことを知っていたキリストの死はどう解釈されるのか。

 ひとつのシークエンスごとに真っ黒な画面、そして暗黒の中を雪(雪、のように見えるけれども、なにかふわふわした微粒子のようにも見える)が降る画面がかなりの時間を割いて挿入されて行く。ここはどうしても「六つの心」での「雪」と比較したくなってしまう。赤い服と黒い服が何かを象徴している。ラストの妻と友人夫婦との会話のスタティックな演出が印象的(強烈)で、まるでギリシア悲劇の一場面を観ているよう。ここの途中で、神父(アンドレ・デュソリエ)と対峙する妻(サビーヌ・アゼマ)に、神父の妻(ファニー・アルダン)が味方することになる。サビーヌ・アゼマの肩に静かに両腕をまわすファニー・アルダン。そのファニー・アルダンの両腕に自分の手を重ねるサビーヌ・アゼマ。静かで、例えようもなく美しい。このあとにサビーヌ・アゼマは家の前の漆黒の闇の中に消えて行き、それを見送る神父夫妻の映像。夫に抱きかかえられて泣いているファニー・アルダンは、「きっと復活するわ」と(たしか二度)云う。

 この作品でも、この頃までのレネの他の作品のように「記憶」の問題が前面に浮かび上がる。いちど死んだ夫はもう、「記憶」の夫でしかないのではないのか。記憶の世界の中の人物を、「より強く」愛するということ。その妻が死を選ぶというのは、「記憶」以外の情報をシャットアウトしようということなのだろうか。そして、ファニー・アルダンの決断(彼女の行為に同意する)、彼女の口にする「復活」とは、どのようなことなのだろう?

 作品は夫(ピエール・アルディティ)の唐突な叫び声で始まり、その妻のサビーヌ・アゼマが、叫びながら家の玄関のドアを庭に飛び出して来る。庭を走って行く彼女にかぶさって、ジェット機の飛ぶごう音が大きく聴こえる。ちょっとあっけにとられるオープニングで、レネのこういう演出が、のちの「六つの心」や「風にそよぐ草」にも、もっと大きく息づいている。

 なんだか今日はギャラリーでの映像もアラン・レネの作品も、どちらも重たいディナーのようで満腹になってしまった。

 今日の一曲。こんな時期に雪の積もってるのをみてしまったので、そういうのを記念して、Donald Fagen の1993年のアルバム「Kamakiriad」から、「Snowbound」を。ちょっとこの「Kamakiriad」というアルバムは、彼のソロ名義のほかの二作に比べると弱い気がするけれども、この「Snowbound」はいい。このアルバムではこの曲ばかり聴いてしまう。
 YouTube ではこの曲は著作権か何かで聴けないようなので(どちらにせよわたしには聴けないが)、別のサイトのもので。いや、これもまたわたしのシステムでは再生不能なのだけれども。


Listen to Free Music Online -Snowbound-

 

 

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■ 2010-04-16(Fri) 「私が棄てた女」

[]I'm So Proud / Ooo Baby Baby / La La Means I Love You / Cool Jerk [Todd Rundgren] I'm So Proud / Ooo Baby Baby / La La Means I Love You / Cool Jerk [Todd Rundgren]を含むブックマーク

 今日はまたフィルムセンターへ行き、「映画の中の日本文学」二回目。この日は遠藤周作原作、浦山桐郎監督の1969年作品、「私が棄てた女」。当時評価の高かった作品だけれども、現在DVDとかにはなっていない。あまり見られない作品だというせいか、平日の昼間だけれども客の数は多い。まあフィルムセンターのお客さんのほとんどは、もう現役労働を引退された方だから、ふだんからこのくらいの客は来ているのかもしれない。
 原作のちゃんとしたタイトルは「わたしが・棄てた・女」だけれども、もちろんわたしは原作を読んでなどいない。でも、ネット検索して知ることのできる原作のあらすじとこの映画のストーリーは、かなり違うものになっている。原作での「棄てられた女」森田ミツは、ハンセン氏病という診断を下されるらしいのだけれども(じつはそれは「誤診」なのだけれども)、映画版にはハンセン氏病はまったく出て来ない。映画の「砂の器」でそのハンセン氏病がクローズアップされるのは1974年になるから、「砂の器」製作〜公開の際のトラブルの二の舞を避けて、というわけでもないようで、映画製作側の自主的な判断によるものだろう。たしかに、原作のあらすじだけを読んだ感じでは、ハンセン氏病への予断を生みそうなストーリー展開に思えたりする。

 1960年代、その安保闘争の敗北感と、当時の高度経済成長政策がこの作品の背景になっていて、社長の姪との結婚などで伸し上がって行こうとする主人公(河原崎長一郎)の影で棄てられる過去、それが森田ミツという女性に象徴される。このあたりのシンボライズした描き方があまりに露骨で、なにもそこまであからさまに描き分けしなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。ただ、ふっと挟み込まれる加藤武の家庭(母子)の描写は、主人公の成り上がり人生との対比でも、単なるシンボライズを越えて生きているし、このあたりの描き方が、この作品でいちばん気に入ったりする。ぼんやり見ていたせいか、主人公と結婚した社長の姪(浅丘ルリ子)の独白で終ってしまうエンディングが、よくわからなかった。主人公が「海の家」のようなところから、その、女を棄てるシーンが印象に残る。

 今日の一曲はまたまた「ピストルズ」から。第一部のタイトル、「魔法使いは真実のスター」の原典、Todd Rundgren の1973年のアルバム「A Wizard, a True Star」より、B面に収められていたカヴァー曲のメドレーを。
 最初の「I'm So Proud」は、Curtis Mayfield の在籍したImpressions の、1964年のヒット曲。二曲目、「Ooo Baby, Baby」は、以前ここで「今日の一曲」に選んだこともある、Smokey Robinson & Miracles の1965年の素晴らしいバラード。次の「La La Means I Love You」は、これも素晴らしい、Delfonics の1968年にヒットした美しいバラード。最後の「Cool jerk」は、これまたわたしの大好きな曲。もうどうしようもない完成度の名曲で、おそらくはこの中に、のちの「ファンク」への源流になるものがあるんじゃないだろうか。Captols の1966年のヒット曲。全部、R&Bの佳曲ばかりで、しかもわたしのお気に入りばかり。例によってYouTube が観られないので、自分で確認も出来ていないのに貼り付けています。ちゃんと四曲とも含まれているのか?


 

 

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■ 2010-04-15(Thu) 「瀧口修造 沈黙する球体」「波止場」

[]Ride My See-Saw [Moody Blues] Ride My See-Saw [Moody Blues]を含むブックマーク

 また雨が降り、肌寒い一日。歯医者の治療がとりあえず、すべて終った。足掛け四年かけ、途中で歯科医も交替した大工事だったけれども、ついに無事竣工。

 桜の花がずいぶんと散り、桜の木は花の額の赤っぽい部分と新芽の緑、それとまだ残っているピンクの花びらとがまじりあって、色盲検査表のような色彩になっている。そんな木の姿を眺めて、そこに何か文字が浮かび上がって見えたりしたら、かえって異常だろう。

 夜、ユウが啼き声もあげずに、バタンバタンと何か遊んでいる様子。朝になって見てみると、あのバスマットがとんでもない場所まで移動していた。この何日かは、ふいにわたしと出っくわしても、あたふたと姿を隠そうとはしなくなったように思える。とにかく、少しようすは変わってきたと思う。

 図書館から借りている本で、岩崎美弥子という人の書いた「瀧口修造 沈黙する球体」という本を読了。著者は彼女もまた詩人らしいけれども、瀧口修造のテクストのみを仔細に分析して、詩人の創造の根底にあるものを探る作業、という本。詩人的な直感に頼るような論旨ではなく、また、ブルトンらのシュルレアリズム文献、ほかの詩人の作品を引き合いにだしての比較検討というのでもなく、あくまでも瀧口修造のテクストのみを材料に分析する切り口がとても新鮮。瀧口修造=シュルレアリスムという固定観念からはなれ、瀧口の詩人としての立脚点を探る。
 特に彼の詩「絶対への接吻」のち密な分析(「赤い球体」への執着の分析は、阿部和重の作品を思い出してしまった)は読んでいてもスリリングだったし、「卵のエチュード」という、あまり知られていない「シネポエム」というジャンルの作品についてなど、そして、戦後の現代美術とのかかわりの根底にあるもの、とりわけ、ミロの作品との親和性の分析も面白かった。ただ、各章が独立した考察になっているのを、どこかで総括してまとめるような視点があれば、もっともっと魅力的な本になっていただろうと思う。最終章の「<稲妻捕り>とともに」のテクストの分析は、ちょっと瀧口自身の衰弱をも思わせるところもあり、たいして意味のないメモ書きを無理に意味付けしているような空気もある。こういう分析は、ともすればウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」に出てきた話、ただの昔の洗濯屋の配達メモを秘密文書として、過剰にその裏を解釈するような事態におちいってしまうような恐れもある。ちょっとそう思ったりした。

 夜はDVDでエリア・カザンの1954年作品、「波止場」を観る。先週観た、同じマーロン・ブランドの主演した「乱暴者」の翌年の作品だけれども、映画作品としての完成度の差は歴然としている。これだけ表現の力に差のある作品が、同じ時代に同じ「映画作品」として共存していたことが、とても奇妙に思えるほど。この「波止場」の撮影はボリス・カウフマンで、労働者たちの群像を捉えたドキュメンタリー・タッチもいいけれども、人物を縦に重ね、奥行きのある画面をつくっていて素晴らしい。アパートの階段、鳩舎のある屋上、車のライトに照らされる夜の路上の映像など、印象に残る。これが、マーロン・ブランドとその兄の役のロッド・スタイガーがタクシーに乗って会話するシーンになると、なぜか画面が平板になる。どうしたんだろうと思ったのだけれども、このDVDには音声解説やメイキング(解説)映像が特典でついていて、ひととおり観終ったあとでそちらで観ると、その兄弟のタクシー内の会話シーンは、プロデューサーがスタジオだかを押さえていなくて、満足の行く撮影用のタクシーのセットが用意出来なかったらしい。ただ、ここでの兄弟のやり取りは、「映画史に残る名シーン」と言われているらしい。二人の名演技、というわけ。
 あと、マーロン・ブランドとエヴァ・マリー・セイントが公園を二人で歩くシーン。ここでエヴァが落とした白い手袋をマーロン・ブランドが拾って、くちゃくちゃいじりまわしたりして、彼の彼女への思いが画面から伝わるのだけれども、この手袋は後になって、エヴァが、何だかのシーンで顔を覆うシーンがあって、そこでやはりその手袋をしているのがわかる。このシーンと合わせて、彼女と彼の結びつきのようなものが伝わって来ると思った。ドラマとして、映像作品として、ほんとうによく出来ている作品だという印象。ドラマと映像とのからみ方がいいんだと思う。

 今日の一曲は、しつこくまだ「ピストルズ」から。
 第五部「失われたコードを求めて」の引用元となっているMoody Blues の1968年のアルバム、「In Search Of The Lost Chord」から、シングルカットされていた「Ride My See-Saw」を。このアルバムは前年の大ヒットした「Days Of Future Passed」を受けてのシンフォニック・ロック路線だと言っていいと思うけれど、前作が交響楽団との共演だったのを、ここではすべての楽器をバンドのメンバーだけでやっている。まあライヴでの演奏のことも考えたのだろうけれども、「Days Of Future Passed」の曲もライヴではやっている。このアルバムではメロトロン大活躍でシンフォニックな感じを出していたのではなかったか?と記憶している。この「Ride My See-Saw」は当時ラジオなどで聴いた記憶はあるけれど、あまりヒットしなかった。それでもコンセプト・アルバムの体裁だったアルバムはかなりヒットして、その後Moody Blues はこの路線で、息の長い活動を続けることになる。



 

 

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■ 2010-04-14(Wed) 「神々の黄昏」

[]It's Hard To Say Goodbye [Claudine Longet] It's Hard To Say Goodbye [Claudine Longet]を含むブックマーク

 先日東京に行ったとき、飯田橋から総武線に乗って本を読んでいたら、ついつい乗り過ごしてしまい、両国まで行ってしまった。駅のホームに降りたら、北側のビルのすき間から建築中のスカイツリーの姿が見えた。そうか、この方角にあるのか。ちょうど今は東京タワーと同じぐらいの高さだと聴いた記憶があるけれども、その建築中の建物を見た最初の印象は、バベルの塔をぐっと幅狭にしたみたいだなあ、というものだった。バベルの塔というのは、ブリューゲルの描いたヤツの姿のこと。

 ‥‥ちょっと、こんな感じ。

   f:id:crosstalk:20100415114434j:image

            ↓

   f:id:crosstalk:20100415114535j:image

            =

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 ユウはバスルームの前に置いてあるバスマットがお気に入りのようで、毎朝みるとバスマットが床の隅でくしゃくしゃにされている。ユウもまだまだ子供で遊びたい盛りだと思うけれども、あんまり遊ぶ道具とか用意してやれなくて、すまんこってす。

 今日はワーグナーの「ニーベルングの指輪」の最終夜、「神々の黄昏」を観た。VHSで2巻、四時間半の長丁場になる。
 すっごいね〜〜。ドラマチック、というのではこの「神々の黄昏」が一番、ではないのか。この舞台の舞台装置はかなりリアリズム指向で、基本的にごつごつした岩場を舞台に再現して演じられているのだけれども、その効果もここに来て最大限に発揮されているようにも思える。で、このヴィデオ版の撮影、編集がやはり非常に熱が入っているというか、特にこの第一幕の、兄弟の誓いの盃をかわすシーン(この場面の三重唱がいい!)の演出はすごいことになっているというか、いったいなぜここにそれだけ力を入れたのかよくわかんないけれども(きっと、演出しやすかったんだろう)、まるで映画のようなヴィデオ上での演出になっている。ほとんど切り返しのようにバストショットを頻繁につなぎ、舞台の映像としてはめずらしいくらいにアップの映像が続く。カメラは何台使っているのかわからないけれども、ここで観た感じでは五台は使ってるだろう。その複数の映像をきわめて映画的に、多くのカットを駆使して編集している。この場面の最後、ハーゲンの独白の場面では、舞台全体が写るぐらいの引いた画面からきわめてゆっくりとズームして行き、ついにはハーゲンの顔のどアップまで拡大される。
 このヴィデオ映像の演出は、ハーゲンという登場人物が大好きなようで、彼が歌ったりしていないときでも頻繁に彼のショットを挿入する。クローズアップも多い。たしかに、「指輪」全体を通して観ても、このハーゲンという造型はもっとも狡猾な、わる賢い悪役という感じで、この舞台を演じているマッティ・サルミネンという人の魅力と合わせて、非常に「絵になる」という感じがする。比較すると、ここでのジークフリートは「騙されているおバカさん」という役どころなので、やはりどうしてもハーゲンにスポットを当てる必要はあるんだろう。

 ストーリーで面白いのは、ここでのブリュンヒルデのジークフリートへの愛は、その愛をつらぬき通すためには世界が滅んでもいいという強い愛だということで、ラインの乙女の「(世の中のために)指輪を返してほしい」という願いをつっぱねる。「愛が世界を救う」のではなくて、「愛が世界を滅ぼす」という思想。
 わたしは「愛こそがすべて」などというなまっちょろい精神には、いつも疑問を持っているのだけれども、こういうかたちの「愛」が出て来ると、ほら、あなた方の言う「愛」と、このブリュンヒルデの「愛」とは違うのかい、こういう「愛」もいっしょにあなた方は肯定できるのかい?と、聴いてみたくなる。こういうかたちの「愛」もなお受け入れるのならば、わたしも同意するかもしれない。
 「ヴァルキューレ」から、ただひとりすべてに主演しているブリュンヒルデこそ、この「指輪」全編の主役と言える存在(ブリュンヒルデは序夜の「ラインの黄金」にだけは出て来ない。また、これまで「ラインの黄金」を含むすべてに出ていた戦の神ヴォータンは、この「神々の黄昏」には出て来ない)で、この役をやる人は大変だなとか思い、この舞台でそのブリュンヒルデを演じている、ヒルデガルト・ベーレンスという人を検索してみたら、この人は昨年の夏に日本での音楽祭に参加するため来日し、そこで体調を崩して、この日本でお亡くなりになっていたことがわかった。ちょっとおどろいた。

 全体を通して観て、やはりその圧倒的な迫力にうたれてしまうし、その舞台の規模の大きさ、強烈な音楽に打ちのめされる。こういう舞台表現があり得るのだということを観ることが出来てよかった。
 全体のストーリーはどうしても、この「指輪」を典拠にもして書かれた「指輪物語」(わたしは映画の方でしか知らないけれど)を思い浮かべてしまう展開、場面がたくさんあるのだけれども、書いたように、「指輪物語」にはなかったブリュンヒルデの物語に、強い感銘を受けた。

 さて今日も、「ピストルズ」関係で「今日の一曲」を。じつは、ついに今日から、わたしの今のシステムでは、YouTube のすべての画像、音声が視聴出来なくなってしまった。検索などは出来るのだけれども、その映像ファイルを選択するとすぐに、「Go Upgrade!」という文字がデカデカと出て来て、それ以上進まない。この「今日の一曲」で活用するのなんかどうでもいいんだけれども、じっさいのところ、YouTube が見られないというのはいろいろとつまらない。つまらなさすぎる。やっぱりなんとかして、このMac のOSを10.3以上にする処置をとらないといけない。しばらくは、この「今日の一曲」の選曲も虚しいな。
 で、気を取り直して今日の曲。じつは「ピストルズ」の中にはもう一曲、わたしによくタイトルのわからない曲が流されている。それは「第一部」の終わりの部分での、「(‥‥)彼女の部屋でながれている音楽がわたしの耳に届いてきた。それはわたしも知っている、なつかしい楽曲だった—六〇年代末にリリースされたポップソングだ。クロディーヌ・ロンジェが、こちらに向かって何度もくりかえし、"Goodbye" とささやきかけてきた。」、ここに流れている曲が、わたしの知らない曲だ。
 わたしももちろんクロディーヌ・ロンジェの名前は知っているけれど、じつは彼女のようなケバいタイプの向こうの人、わたしはものすごく苦手で、もう出来るだけ目にふれないように、耳に聴こえないようにしてきたわけで、彼女のことはもう、全くといっていいくらいに知らない。今調べて、そうそう、Andy Williams の奥さんだったのだ、そのくらいのことは当時も知っていて、Andy Williams ってやっぱり趣味が悪いな、などと考えていたことを思い出す。
 えっと、たぶん、「ピストルズ」でかかっている曲は、この曲だと思う。


 

 

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■ 2010-04-13(Tue) 「グッバイ、レーニン!」

[]The Hangman and The Papist [Strawbs] The Hangman and The Papist [Strawbs]を含むブックマーク

 昨日は冷たい雨の一日だったけれども、今日はおだやかな天候。まだまだ桜はしぶとく残っている。こんなに長い期間にわたって桜の花が咲いているのを見るというのは、ちょっと珍しいのではないかと思う。東京で咲き始めたのを見たのが、飯田橋に「ミュリエル」を観に行ったとき、先月の二十七日。それからだから、もうこれで二十日近くになる。桜の花が散ってしまうと、あとはどんどん暖かくなるばかりだから、つまり今年はいつまでも寒いんだということ、なのだろうか。

 来週、ティム・バートンの「アリス」を観に行く予定なので、ネット上のプロジェクト杉田玄白というところにある、翻訳された「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を、続けて読んだ。山形浩生訳。いちおうその「あとがき」みたいなところで、「(アリスの翻訳として)かなり上手なほう」だろうと、自画自賛している。たしかによけいな衒いもなく、読みやすかった。わたしは「アリス」のなかでは「セイウチと大工」のはなしがいちばん好きで、しっかり記憶していたけれども、これは「不思議の国」ではなく、「鏡の国」のなかの挿話だとは思っていなかった。「アリス」の様々な挿話は前後の脈絡なく唐突に出てくるので、ストーリーの流れ(そういうものがあるとしたら)にそって記憶しているわけではない。バラバラに記憶して、勝手に組み立て直す。そういうことが出来る本なんだなあと、実に久しぶりに再読して思った。ところでわたしは、ティム・バートンの「アリス」、予告を観た限りではほとんど期待なんかしちゃいない。それでも、あの「オイスター・ボーイの憂鬱」(これはその「セイウチと大工」が原典になっていると思う)を書いたティム・バートンだから、いっしゅんぐらいはびっくり驚かせてくれて、面白がらせてくれるのではないかと期待している。しかし同じ「アリス」関係の映画化なら、マリリン・マンソンが現在つくっている(つくり終えた?)映画、「Phantasmagoria: The Visions of Lewis Carroll」がとても面白そう。この作品、もうしばらく前からむこうでは「公開間近」となっているけれども、いつまでも公開されたという話は聞かない。お蔵入りしてしまう可能性もありそうで、心配している。

 このあいだ買った阿部和重の「プラスティック・ソウル」読了。すでに読んでいる本かと思っていたけれども、まったく読んでいないものだった。けっこう、「ピストルズ」と関連させてあれこれと読み取れるところのある本だったという印象。タイトルの「プラスティック・ソウル」というのは、Beatles が彼らの六枚目のアルバムのタイトルを決めるとき、あるアフリカ系ミュージシャンがMick Jagger のシンギングを「Plastic Soul」と揶揄したというのを受けて、Paul MacCartney が「Rubber Soul」というタイトルを案出したという逸話、そこからの出典だろう。
 まず、この中編小説にも「MKウルトラ作戦」の話が出てくるわけで、こういう謀略論はいつも阿部和重の作品には出てくるのだけれども、ここではドラッグによる幻覚と共に、まずはダイレクトに「ピストルズ」に結びつくような印象を受ける。そして、この「文体」というか、「語り手」の問題があるけれども、読んでいて「あれれ」と思うのは、この「プラスティック・ソウル」という作品のなかで、文章の主体がコロコロと変化し続けること。三人称で登場人物の名前が主体になる部分、そして「わたし」の語る部分、もうひとつ、「私」の語る部分というのもある。読んでいると「わたし」=「アシダ」、「私」=「ヤマモトフジコ」なのだというのは了解されてくるわけで、この作品がひとりで書かれているわけではない、という意識になる。そして実際に、この小説の主題は、それまで顔を合わせたこともない四人が、共同で(ここに「アシダ」は含まれるけれども、「ヤマモトフジコ」はそのメンバーではない)ひとつの作品を書くことを依頼される、というものでもある。このあたりも、「ピストルズ」の複数の主体での構成(「ピストルズ」には書店主の石川、菖蒲あおば、そして「補遺」にちょっと出て来る「われわれ」という主体、少なくともこの三つの主体が作品を構成している)に、その反映を見ることも出来るかもしれない。まあこの「プラスティック・ソウル」という作品に限っていえば、「複数の主体による作品の共作を依頼される」ということを、(その依頼の意図しない)複数の主体で書いた作品、そういうメタ構造を含み持った作品として楽しめる、ということになる。「プラスティック・ソウル」というタイトルに関しては、これはRolling Stones やBeatles の、彼らの曲をつくる際の「共作」という関係を、この作品の主題と結び付けているのではないか、などと思う。

 今日のDVDは2003年公開のドイツ映画、「グッバイ、レーニン!」というのを観る。監督はヴォルフガング・ベッカーという人。
 ‥‥これって、マカヴェイエフの「ゴリラは真昼、入浴す」じゃん!
 調べたら、「ゴリラは真昼、入浴す」は、1993年の作品だった。あの映画ではドゥシャン・マカヴェイエフ自身も渦中に巻き込まれて迷っているようで、彼の作品としては元気がなかった印象もあるし、それ以降マカヴェイエフの作品は入って来ないこともあって、ああ、マカヴェイエフもゴリラといっしょに沈没してしまったなあ、などと思っていたわけだけれども、それから十年経って、ドイツの人はこういうふうに共産圏崩壊を語れるようになったわけだなあと、ちょっと感慨深く観てしまった。当然だけれども、単純に「自由主義陣営に入れてよかった!」などと言っているわけじゃない。主人公が映画監督志望の友だちとつくる、架空の東ドイツのその後のニュースフィルムに込められている意識。ソヴィエトと協力して宇宙へ飛び立った東ドイツの宇宙飛行士、TVで放映されていた東ドイツ製パペット・アニメーション番組。旧東ドイツの観客は、劇場でこれらのシーンをどのような気持ちで観ていたんだろう。そういう気持ちをうまく掬い取っているのであろう脚本が、みごとだと思う。こちらでも「ゴリラは真昼、入浴す」と同じく、解体されて片付けられるレーニン像が出て来る。これは「ゴリラ」の方が切なかったし、フェリーニの「甘い生活」を意識し過ぎたような、ここでの演出はあんまりなあ、という感じ。全体にちょっとスタイリッシュな演出はわたしは好きではないけれども、このような演出によって多くの観客の支持を受けたんだろう、とは思う。むかしいくつかの作品で観て印象に残っている女優、チュルパン・ハマートヴァの姿を久しぶりに観た。やはりよかった。

 今日の一曲はまだまだ「ピストルズ」関係。実は昨日、Strawbs の音楽は「ピストルズ」の小説世界にあまり馴染まないのではないのか、などと書いてしまったんだけれども、YouTube でその時代の映像を検索していたら、そうそう、この「From The Witchwood」というアルバムには、Rick Wakeman が参加していたんだったと思い出した。このYouTube 映像はウチでも観ることが出来たけれども、そのRick Wakeman のキーボードがなんだか禍々しくて、そのあとのトラッド風な演奏とシンギングも、この「ピストルズ」にはなかなかと似合っているのではないかと、考えを改めた(もうちょっと地味な音のバンドだと思っていた)。そういえば「ピストルズ」には、菖蒲家のコミューンの中で、音楽家たちが英国トラッドを演奏しているような記述もあったっけ。


 

 

アリスアリス 2010/04/20 16:41 アリスかわいいですよね\(^o^)/アタシも好きです^^

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■ 2010-04-12(Mon) 「セックス・チェック 第二の性」「雨に唄えば」

[]Wear Your Love Like Heaven [Donovan] Wear Your Love Like Heaven [Donovan]を含むブックマーク

 しばらくベランダにキャットフードを出してあるのだけれども、いつも夕方には皿は空になっている。ミイが来ているのかどうかはわからない。リヴィングでTVを見ていると、窓ごしにベランダで黒い影が動いているのが見えた。窓をさっと開けると、おやおや、久しぶりのノラとチビの姿が。わたしの姿を見て、すっ飛んで逃げて行ったけれども、あの二匹はまだずっとつるんでいるわけか。あまり来てほしくない悪ガキたちで、あいつらにエサをあげて養ってやるつもりはない。ミイはやはりもう、このあたりには来ていないのだろうか。
 夜になるとユウがうるさい。非常にうるさいと言っていい。これが、わたしが寝るつもりで電気を消して、ベッドにもぐり込んだとたんに騒ぎ始める。電気が消えるのが合図になってるというわけでもなく、きっとわたしがベッドに入る気配を感じているんだろう。のどの奥から絞り出すような、うなり声ともわめき声ともつかない奇声をあげ続ける。そういうのは昼間やってくれて、夜はわたしと同じように眠ってほしいものだと思う。

 阿部和重の「ピストルズ」を読み終えて、昨日まで作品中に名前の出て来た音楽のことを書いていたけれども、この小説の中にはもっともっと、そういう60年代〜70年代の音楽へのリンクがある。今日は、そういうのをまとめて書いておこうと思う。
 この「ピストルズ」は「第一部」から「第七部」、「最終部」と、全体が八つの章から成り立っていて(最後に短い「補遺」はあるけれども)、それぞれに表題がついている。実はその表題はすべて、当時リリースされていたアルバムの、その邦題があてられている。以下の通りになる。

 第一部 魔法使いは真実のスター
     (=「A Wizard, A True Star」Todd Rundgren, 1973)
 第二部 夢の花園より
     (=「A Gift From A Flower To A Garden」Donovan,1967)
 第三部 局部麻酔
     (=「Local Anaesthetic」Nirvana[UK],1972)
 第四部 抱擁の歌
     (=「Swaddling Songs」Mellow Candle,1972)
 第五部 失われたコードを求めて
     (=「In Search Of The Lost Chord」Moody Blues,1968)
 第六部 オーロラの救世主
     (=「A New World Record」Electric Light Orchestra,1976)
 第七部 神の鞭
     (=「Phallus Dei」Amon Duul 2,1969)
 最終部 魔女の森から
     (=「From The Witchwood」Strawbs,1971)

 ‥‥ということになる。第二部の「夢の花園より」の正確な邦題は、「ドノヴァンの贈り物/夢の花園より」。アメリカのTodd Rundgren 、ドイツのAmon Duul 2 以外はすべてイギリスのアーティストで、小説のなかで取り上げられた曲も含めて、イギリス系のアーティストの比率が高い。このあたりは、実際の1960年代からのヒッピーやフラワー・チルドレンの隆盛、サイケデリック音楽の蔓延の中心はアメリカだったことを考えると、少々ずれているようにも思える。その上、この八枚のアルバムで、一般にドラッグと結び付いたりサイケデリック的な捉え方が出来ると考えられるのは、Todd Rundgren 、Donovan 、Nirvana ぐらいのものだろう。どうも、この第三部あたりまでは、その選ばれたアルバムのサウンドと小説の内容とをリンクさせている気配はある。でも、これを「アルバム・タイトル」の意味と小説との符合で考えるとすると、「魔法使いは真実のスター」、「夢の花園より」はいいのだけれども、第三部の「局部麻酔」というあたりのはどうも、小説の内容とのリンクがわたしにはよくわからない。しかしこれ以降はそういうサイケ的なものから離れて、時代性を守りながら(あくまでも60年代〜70年代の音楽から)その「タイトル(邦題)」の意味するところとの符合によって選ばれたのではないかと推測する。例えば第五部の、「失われたコードを求めて」などは、タイトルとしてこの小説内容とのリンクはぴったりだろうけれども、サウンド的にはこの小説とリンクしているかというと、微妙なところがある。さらに、70年代ブリティッシュ・フォーク界のバンドだったStrawbs のサウンドが、「魔女の森から」という(ぴったりの)タイトルはともかくとして、この小説の「最終部」に、サウンド的に似合いの音楽とはあまり思えない(ELO なども、ちゃんと聴いたことはないけれども、イメージとして、この小説世界のなかでは異質な感じはする)。ただ、トータルに見ると(いや、聴くと)、当時の音楽のなかでの「パワー・ポップ」的なもの以外での、フォーク的、シンフォニック的な音の傾向はあらわれているようには思える。わたしは、第四部にMellow Candle の「抱擁の歌」を持って来ているあたりがお気に入りで、女性が主役であるこの小説の展開のなかで、ツイン女性ヴォーカルのこのMellow Candle のサウンド、実にしっくりと合うようには思える(サイケ、とは云えないだろうけれども)。邦題もいい。まあサウンド的にはもっと、この小説の空気に似合うサウンドはいろいろあるだろうけれども、そのなかでやはり「邦題」にこだわって、これだけ選ぶのは大変だっただろうなあ、とは思う(そもそも、これらが洋楽アルバムの邦題なのだということも気取らせまい、という意識もあるようだし)。
 ‥‥などと、いつまでもその「ピストルズ」の内容とは関係のないことをいつまでも考えている。

 今日はDVDふたつ観る。ひとつは、増村保造監督1968年の作品、「セックス・チェック 第二の性」。緒形拳と安田道代主演の、奇っ怪なスポコンもの。どうもこの頃の増村保造監督は、谷崎作品を続けて映画化したせいなのか、一種ノーマルではない愛のかたちの描写にのめりこんでいく印象がある。まずその前に、昨日アラン・レネの「ジュ・テーム、ジュ・テーム」などという作品を観たあとのせいで、「こういう映画のつくり方って、変じゃない?」って思ってしまう。変なのはアラン・レネの方だ。それでもやはり、トマス・ピンチョンの小説を読んだあとに続けて、例えば久生十蘭の小説を読むような感触。もちろんこれは久生十蘭がダメということではないわけで、同じように増村保造の作品だっていけないわけがない。それでも、レネの後では、一般の映画のつくり方、一般の編集のやり方などが素直に受け入れられなくなる気がする。
 まあそういうことは置いておいて、この作品「セックス・チェック 第二の性」でいえば、主人公の緒形拳が将来を期待されたスプリンターでありながら、戦争のために夢を砕かれた(と考えている)存在、というのが興味深いところで、そんな男が自分のそのような挫折感を克服し、新しい愛の世界に生きる決意をするというまことにロマンチックなストーリーは、一種「戦後」の克服という側面も持っている。そのことが「スポコン」の否定となるラストは、やはり当時の日本の空気から何十年かは先んじているように思える。良い作品だと思った。

 もう一本は、ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンの1952年のミュージカル、「雨に唄えば」。これが、アラン・レネの後ではすっきりと観ることが出来るのが、自分には面白い。もともとが、非常に映画的な「虚構」としてつくられているということがあるだろう。そう考えると、近年のアラン・レネの作品に、そういうミュージカル「恋するシャンソン」やオペレッタ「巴里の恋愛協奏曲」があることが、その方向からすんなり理解出来るように思える。
 この作品、特に前半に役者(ジーン・ケリー)があきらかに撮影カメラを意識していて、カメラ目線で演技をする箇所もあり、そういう箇所が妙に新鮮に目に映る。スタジオ撮影であることをおもてに出してのメタ的な演出なども、そういう今の視点から見て、「映画」であることを主題とした映画として、とっても面白い。アラン・レネ的だ。

 今日の一曲はまたしっつこく「ピストルズ」からで(これをしばらく続けようか)、その第二部のタイトルにされたDonovan の1967年の作品、「A Gift From A Flower To A Garden(ドノヴァンの贈り物/夢の花園より)」の一曲目のヒット曲、「Wear Your Love Like Heaven」を。この曲の中にはいろいろな色の名前が歌い込まれていたりして、わたしには、空気としては「ピストルズ」に非常にお似合いの曲だと思う。好きな曲だし。
 この曲はアメリカでだけシングル化され、そこそこのヒットになったけれども、その後にずいぶん経ってから寝具か何かのコマーシャルに使用され、Donovan の曲ではアチラではもっとも知られた曲になっているらしい。うん、寝具のコマーシャルにはぴったりでせう。



 

 

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■ 2010-04-11(Sun) 「ジュ・テーム、ジュ・テーム」「ピストルズ」

[]The Sky Children [Kaleidoscope] The Sky Children [Kaleidoscope]を含むブックマーク

 そういうわけで今日はまた飯田橋に出かけて、アラン・レネ上映会の五回目。今日の出発はちょっと早い時間で、十一時前には目的地に着くことになる。飯田橋の駅を降りて会場方向に歩くと、お堀沿いにあるカフェの開店を待つ人の行列が、長く続いている。まだまだ桜はあふれるほどに咲いているし、たしかにこのカフェはいま、このときにこそ行ってみたいスポットだろうと思う。

 今日観るのはレネの1968年の作品、「ジュ・テーム、ジュ・テーム」という、おそらくは日本未公開作品。「ヒロシマモナムール」(1959) 「去年マリエンバートで」(1960) 「ミュリエル」(1963) 「戦争は終わった」(1965) 、そして「ベトナムから遠く離れて」(1967) と来てのこの「ジュ・テーム、ジュ・テーム」で、レネはこのあと、1974年の「薔薇のスタビスキー」まで作品をつくっていない。

 懸念の「英語字幕」の件だけれども、「すべてわかった」ということではないけれども、あまり問題ではなかったかと思う。それでもあまりに字幕の消えるのが早くて読めなかったり、白文字の字幕のバックが白くなると判読しにくくなってしまう、ということは頻繁に起きる。

 この作品、表面的には、タイムマシーンを扱った、アラン・レネには似つかわしくないSFモノということになるのか。ネズミを一分間だけ過去に(ジャスト一年前に一分間だけ)行かせることに成功した科学者たちは、ついに人間で実験することを企てる。そのときに、まあ自分が消滅してしまってもいいと考える人物、自殺に失敗して病院から退院したばかりの男が選ばれ、男も実験の被験者にされることを承諾する。さて、結果は? という作品。
 これまでの作品でつねに、「過去」に囚われた人物を描いてきたレネは、ここでまさに、ダイレクトに「過去」をこそ主題にした作品をつくったということになる、と言えるのだろうか。まるで巨大なジャガイモかニンニクのような、有機的な形状をしたカプセルの中にネズミと共に入れられた男は、まずはまさに一年前の彼、ヴァカンスで恋人と海に来て、海に潜っているところに送り返される。しかしマシーンは彼の意識下の思考に影響されるのか、男の過去の様々な場に、彼を転送し続けることになる。余談だけれども、この、マシーンのなかから戻って来れずに様々な過去に転送し続けられるというのは、むか〜しTVで放映していた海外ドラマ、「タイムトンネル」を思い出させられてしまう。しかしこの作品では、男は彼の人生のなかをさまよい続けて彼の生を再体験することになる。観ている時には気が付かなかったけれども、すべての場面は一分以内の細切れになっていたかもしれない。そのなかで浮かび上がってくるのは、彼女と知り合い、愛し合うようになり、彼女の突然の死から絶望し、自らの死を選ぶまでの彼の生の「再生」、ということになる。ここで映画的に、観客は彼を主人公とするドラマを、自分のなかで構成することはできる。つまり、現在の時点からの、男の過去のフラッシュバック映像を観ているのだと解釈することはできる。しかし、この作品では、実際に男がマシーンによって過去の様々な場面に転送され続けるさまを、そのままリアルに画面に伝えているということになる。つまり、この映像は「フラッシュバック」ではない、ということになる。さらにいえば、「モンタージュ」でもない。編集されて提示された映画的な「過去」ではなく、これは男がリアルタイムに体験することそのままの作品ということになる。実際、映画の終盤で科学者たちは「一時間以上経った」と語るけれども、それは実験が開始されてからの、映画上の経過時間と一致しているだろう。この映画のラストで男は、自分の過去と現在の一致点を見い出すことになる。それは「映画」が「現在」と一致することでもある。
 先日観た「去年マリエンバートで」にしても、その映像の背後に登場人物たちのドラマが存在した上で、そのドラマを解体、再構築されての映画作品として成立しているわけで、決して背後のドラマを読み取るための「フラッシュバック」の連続としての映画作品ではない。スクリーンに映写されている「映像」の、その映画的時系列に従った一瞬一瞬の連続こそが、「去年マリエンバートで」という作品ということになる。この事情はこの「ジュ・テーム、ジュ・テーム」でも同様のようでもあって、ここでも映画的時系列は「物語」を語るためのテクニックではなく、動かしようがない「現在」の連続なのだと考えられるように思われる。もちろん、その背後には、「去年マリエンバートで」の男女のドラマと同様に、主人公の男の過去のドラマがきっかりと存在している、ということになる。「去年マリエンバートで」とはかなりテイストの異なる作品とは言え、「去年マリエンバートで」との対として考えられる要素の強い作品、だと思った。

 ほんとうはこの日は、連続して上映される「スモーキング」や「ノー・スモーキング」も観てしまおうか、と思って出て来たのだけれども、ちょっと「ジュ・テーム、ジュ・テーム」一本で自分のキャパシティいっぱいになってしまった感じで、財政的なキャパシティも重要な要素として、残りを観るのは断念して帰ることにした。上映会場を出て駅の方へ向かい、まだ来るときのカフェの前には大勢の行列が並んでいるのを見ながら、駅の近くにある古本チェーン店に行ってみた。ちょうど読んでいる「ピストルズ」の阿部和重の旧作「プラスティック・ソウル」があったので、ぱらぱらとめくっていると、「ピストルズ」とつながるような文章にぶっつかったので、買ってしまう。あと、文庫本で、カルヴィン・トムキンズという人の書いた「優雅な生活が最高の復讐である」を見つけて買う。この本のことは前から多少は知っているけれども(この本に書かれているジェラルド・マーフィーは、ポップ・アートの先駆とみなされる作品の作者である)、なぜこんな地味な本が文庫になったりしたのだろう。フィッツジェラルド関係で、売れっ子小説家Mの影響なのだろうか? なんか、この本のタイトルのせいじゃないのか? などと考えてしまう。素晴らしいタイトルだから。

 その「ピストルズ」は、読み終わった。ラストにはちょっとした仕掛けがあって、まずは、この作品はすでにネット上に流出していて、ある種の批評は受けていることになっている。実際にあれこれのブログなどにこの「ピストルズ」の書評があらわれるだろうこと(ここもそのひとつになるわけだ)を見越しての、「先制ジャブ」ということ。そこでは「さまざまな既存作品の引用や模倣で構成された安手のフィクション」だと書かれているけれども、まあわたしなどはその「さまざまな既存作品」というのが、まるで読み取れなかったわけになる。最後は、次作では「ミステリアスセッティング」もまた、この神町サーガに組み込まれてしまうことが暗示されているような。
 「ピストルズ」の最後の方になって、またポンポンとふたつの60年代の曲のタイトルが書かれている。ひとつはKaleodoscope の「The Sky Children」という曲で、このKaleodoscope というグループは、わたしの知っていたアメリカのバンド(David Lindley が在籍していたことで有名)ではなく、60年代後期にイギリスに存在したサイケデリック・サウンドのバンドの方らしい(Kaleodoscope というバンドは、この日本にも90年代にあったらしい。英米日すべてに同じ名前のバンドが存在するというのは、きっとこれだけだろうけど、後続の日本のバンドに「Japan」を呼称に付け加えろなどというクレームが付かなかったのは、その日本のバンドが、某「X」ほどにはメジャーではなかったためだろう)。
 もうひとつ書かれていたのは、ほんとうにラスト近くにKaleodoscope に続いてFMラジオから聴こえて来る、Small Faces の「Afterglow Of Your Love」という曲。これは1969年に解散するSmall Faces のラスト・シングルらしいのだけれども、Small Faces は、この曲のリリースは正式なものではない(レコード会社が勝手にリリースした)としていたらしい。しかしこの曲は、1968年リリースの名作「Ogdens' Nut Gone Flake」に収録されているわけだ。わたしの手元にあるSmall Faces のベスト盤には、1967年までの曲しか収録されていないので、この曲は当然収録されていない。
 今日は、前にあげたKaleodoscope の「The Sky Children」の方を、今日の一曲に。これは彼らの1967年にリリースされたファーストアルバム、「Tangerine Dream」に収録されているみたい。しかし、グループ名がKaleodoscope であのKaleodoscope ではなく、アルバムタイトルがTangerine Dream であのTangerine Dream ではないというのは、なんともややこしいというか、マイナー・バンドの真骨頂というところに思えてしまう。


 

 

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■ 2010-04-10(Sat) 「台北晩9朝5」

[]What The World Needs Now Is Love [Jackie DeShannon] What The World Needs Now Is Love [Jackie DeShannon]を含むブックマーク

 ユウに食事を出してあげると、時間を置かずに食べに出てくるようになった。そんなことだけでも、かわいく思える。でも、ユウのいるスペースをよくみると、やっぱり壁に爪をたてていて、壁紙がひどいことになっている。爪研ぎ用のボードは用意して置いてあって、最初のうちは爪をたてていたようなのに、もう使っていないのだ。これはちょっと悲しい。

 ヴィデオを返すのに図書館へ行く。棚を見ていると、雑誌コーナーから「ユリイカ」が消えていた。購入停止なんだろう。ちょっとショックだけれども、最近のユリイカの特集はよくわからないのが多いからなあ。でも、去年だかには「美術手帖」も置かなくなったし、文芸誌では「新潮」もなくなってしまった。分担制ということで、市内の別の図書館にはあるから、リクエストを出してくれということなのだろう。それはそれで、ひとつのやり方として了解するけれど。
 図書館の帰り道、図書館の前の南に向かう道を散歩する。JRの線路をくぐるとすぐに、ここも桜並木。桜は今日あたりが満開だろう。この通りの桜が、枝も下の方まで広がっていて、いちばんきれいに咲いて見える。歩いていると桜のトンネル。

 今日は、以前から部屋の中に転がっているDVDを観る。これは何年か前にアジア系の通販サイトでジャ・ジャンクーとかティエン・チュアンチュアンのDVDをあれこれ買ったとき、おまけでもらったDVDの一枚。台湾の映画で、「台北晩9朝5」というタイトル。英語で「Twenty Something Taipei」と。監督はLeon Dai という人で、2002年の作品。これを今日観たのは、明日アラン・レネの作品上映にまた行くつもりなのだけど、それが英語字幕上映らしいので、ちょっとここで英語字幕に慣れておこうと思ったまで。まあウチにはそういう英語字幕DVDはいろいろあるのだけれども、これはまだ全然観ていなかったし内容もまったく知らないので、初見で英語字幕でどのくらい内容がわかるだろうかと選んだわけ。
 この作品、ジャケットには「1974年以前 1984年之後出生的人 不要走近!」と書いてある。いったい、不要走近とはどういう意味なのか。「近くを走るな」? ‥‥まあいいや、観てみましょう。うん、こりゃたしかに青春映画というか、台北の夜のクラブにたむろする男女のグループの、つまりはさまざまな青春群像のお話でした。しかし、ほとんど英語の勉強にはならなかった。たいていのセリフは「I love you」か「Let's make love tonight」に集約されてしまうから。
 昼間は保育園の保母さんで、夜になるとクラブで男をさがす女性、ドラッグの売人だけど、父親が危篤で入院している男。女優になりたくてすぐに騙されてしまう女、「オレのカットはアートなんだから」とうそぶくセックス狂の美容師、同僚と同性愛関係になる女性のDJだとかが、わんさと深夜のクラブに集まって来る。そんななか、アメリカ帰りの美形な女性と、ミュージシャン志望のイケメン男子の純愛話をメインにして話が進行する。いちおうセックス描写とかはかなりあるし、きっと台北などの都会の夜のヤング諸君の暴走ぶりを伝えたいのだろうけれども、どうもメインの純愛話のせいか、ものすごく健全な雰囲気。このメインの話がすごくって、この二人は台北市内にものすごゴージャスなマンション借りて、同居し始めるのだけれども、さいごの一線はついに越えない(イイとこまで行くんだけれども)。ヒロインはつまりヴァージンで、セックスよりも、二人のRelationship を深めるのが大切、といっている。かんたんに与えると捨てられるかもとも思ってる。ちょっと、そういうの久しぶりに聴いたのでおどろいた。それで「そうかよ」と部屋を飛び出した男は、前の彼女のとこへ行って寝てしまうのだけれども、その時にジーンズのポケットのケータイのキーが押されてしまい、ヒロインのケータイに電話がかかってしまう。彼女が電話に出ると、二人の喘ぎ声が聴こえて来る。ここだけ、ちょっと面白かった。
 なんかとても教育的な作品というか、わたしなどの感覚では、これは18歳以下の少年少女の情操教育用の映画みたいにみえる。セックスはステキだけれど、やっぱ愛情を大事にしましょうね!という感じ。あとはやっぱ、台北という街をスタイリッシュなカッコいい街に見せるおしゃれな映像なんだけれども、あまりにきれい過ぎて、ウソっぽいことはなはだしい。これはホウ・シャオシェンの「百年恋歌」(こちらも台北のクラブ・シーンが出て来る)での現代の台北の描写を知っているだけに、苦しいところ。日本でいうと、むかしのTVのトレンディ・ドラマに出て来ていたような、オサレなトーキョーと相似形、ということになる。ああ、これは台湾のトレンディ・ドラマなんだなと、今ごろ気がついた。

 全然トレンディーではない阿部和重の「ピストルズ」は、あとホンの少し。正直言って、これ以上面白くはならないだろう。60年代のヒッピー・ムーブメントの不発弾が、ゼロ年代になって爆発しちゃいましたという作品なのか。それ以前の、菖蒲家千二百年の歴史とか、四人姉妹のそれぞれの母たちの話はもうおしまいなのか。まああと60ページほどで、とんでもないことになるのかもしれない。
 今日もその「ピストルズ」に紹介された曲で、おそらくはこの曲がこの小説のなかでいちばん大きな意味を持っている曲。Beatles の「All You Need Is Love」に匹敵するメッセージ・ソングだけれども、曲としてはこちらの方が古い1965年のヒット曲。歌っているJackie DeShannon は彼女自身ソングライターで、Searchers の「Needles and Pins」や「Walk In The Room」の作者として有名だけれども、この「What The World Needs Now Is Love」は彼女の作品ではなく、Hal David とBurt Bacharach の名コンビによる作品。
 そういえば、Beatles のアニメ作品「イエロー・サブマリン」では、「All You Need Is Love」の曲の力でもって悪を滅ぼしたわけだけれども、この「ピストルズ」、この「What The World Needs Now Is Love」の曲を使って、同じことをやろうとしているわけなのだろう。フラワー・パワーだなあ。


 

 

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■ 2010-04-09(Fri) 「痴人の愛」

[]Bend It! [Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich] Bend It! [Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich]を含むブックマーク

 今日に来て、ネコのユウの様子に多少の変化が見られるようになった。ここのところのようにわたしの姿を見るとすっ飛んで逃げて身を隠すようなことがなく、こちらを見ても逃げずにニャンニャン啼いている。わたしを威嚇して、フゥ〜!っとうなるようなこともあまりしなくなった(まだいちど、やられたけれども)。食事を出しっぱなしにしないで、皿にキャットフードとかを盛り付けるのを、ユウが見ている前でやっているのが効果があったのか、出してあげるとすぐに食事を取るようになったし。
 ただ、今日の夕方はやたらに啼きわめいてうるさかった。玄関のドアのところへ行って、外に向かって啼いているようで、どうしたんだろうと思っていたら、外からもネコの啼き声が聞こえて来た。そうか、外にネコの気配を感じて啼いていたわけか。これからは、そういう種類の啼き声に悩まされることが多くなるかもしれない。わたしはいいけれども、近所から苦情とかが来なければいいのだが。

 ネット上のいろいろなサイトをみていて、食材でもっともコスト・パフォーマンスの高いものは何かというのを調べているものをみた。そこではその価格と重量の比率で、コスト・パフォーマンス(この場合、100円あたりの重量)を算出しているのだけれども、これは一般には「もやし」だろう、ということになっているらしいのだけれども、この調査の時点では、実は「キャベツ」の方が高得点になる(この時のキャベツの値段は、ひとたま97円だったらしい)。くだものではバナナがもやしとほとんど同得点。肉ではやはり鶏のムネ肉ということ。調査している中でいちばんコスト・パフォーマンスの悪いのは、海苔。まあ重量を基準とすればこれは当然だわな。そこで思ったのはやはり、もやしとキャベツを使った「野菜炒め」というのは、もっともコスト・パフォーマンスの優れた献立ということになり、これは一般の通念と合致するだろう。これに動物性たんぱく質が欲しければ鶏ムネ肉を使って「肉野菜炒め」にし、おやつやデザートにはバナナ。これが最強の食生活ではないのか、と思った。でも、今はちょっとばかしキャベツが高い。

 今日あたり渋谷に出て、アンゲロプロス作品上映特集でも観たいと思っていたけれども、まだアラン・レネの作品上映で観たいものもあるし、アンゲロプロス作品は工夫すればヴィデオなどで観ることが出来そうなので、今回は断念。家でおとなしく、本を読んだり借りて来たDVDを観ていることにした。

 今日観たDVDはまた増村保造監督作品。1967年の「痴人の愛」で、原作はまたしても谷崎潤一郎だけれども、脚本は「卍」、「刺青」での新藤兼人ではなく、池田一郎という人で、主演は小沢昭一と安田道代。
 増村保造のフィルモグラフィーでいえば、先日観た「赤い天使」のあとに、若尾文子と岡田茉莉子が共演した、「妻二人」というミステリーがあるのだけれども、これはDVD化されていないので観られない。残念。
 で、この「痴人の愛」、かなり「刺青」のお艶と新助の関係を彷佛とさせられる気がするけれども、これは谷崎の原作の中にそういう要素があるのだろう(わたしは「痴人の愛」未読)。そうすると逆に、原作からかなりふくらませた内容になっていた新藤兼人脚本の「刺青」こそ、谷崎潤一郎的なエッセンスを取り込んで創作している作品と見える。その「刺青」では、新助は「悪女」お艶に振り回されるばかりの脇役的扱いだったけれども、「痴人の愛」では、その新助にあたる譲治を主役に、彼の視点から二人の関係が描かれることになる。まあ一種、マゾヒズム的な恋愛心理の分析みたいな内容で、これは谷崎潤一郎の作品によく見られるものだろうと思う。ここでナオミという女性が「悪女」的に譲治とからむために、譲治のマゾヒズム的性格があらわになって来る。つまりそれは同時に、ナオミの行動がサディズム的に解釈されるということで、ナオミにとっても、譲治の存在はかけがいのないものとなって来る。それが結局ベストカップルであるという、皮肉なハッピー・エンド物語。
 譲治の職場が出てくるたびにかならず、その大規模な工場の映像が何カットか写されるけれど、これは増村保造監督の作品では「氾濫」を思い出させられたりもする。おそらく、その非人間的な環境を示すことで、譲治という男のプライヴェート・ライフとの対比の効果をねらっているだろう。この作品、いままでの増村保造監督作品になく露出度が高かったりするのだけれども、それは時代的に規制がゆるくなって来ただろう事情、観客を求める映画会社の事情などもあるのだろう(また、若尾文子主演ではかなわないことでもあっただろう) 。露出度は高いといっても、写真を多数使った非常にスマートな演出になっている。これがナオミが出て行ったあとの描写でもとてもうまく活かされるし、今観てもヴィヴィッドな感銘を受ける。「赤い天使」などの作品のような、ある意味とんでもない傑作とは言えないのかも知れないけれども、増村保造監督は谷崎潤一郎の作品を連続して映像化することで、その人物描写で学ぶところが大きかったのではないかと思う。その成果が「赤い天使」などにあらわれているとみたいところだけれども、それではこの「痴人の愛」に関しては、製作順が合わないな。

 「ピストルズ」は、3/4を過ぎてようやく話が動きだした印象で、正直、ここまでの長い長い菖蒲家の歴史の記述には、面白さは感じ取れなかった。これからいったいどうなるのかとは思うけれども、ひとつの作品として、これまでのところはどう考えたらいいんだろう。
 作品の中に、久々に音楽についての記述が出てくる。みずきが若木山の上で、父がよく聴いていた曲として「Rain On The Roof」、「Don't Do Out Into The Rain (You're Going To Melt) 」などの曲を口笛で奏でるという描写がある。「Rain On The Roof」はLovin' Spoonful の1966年のヒット曲で、「Don't Do Out Into The Rain (You're Going To Melt) 」はHerman's Hermits の1967年。この二曲はたしか、わたしの古い日記でどちらも「今日の一曲」に選んだ記憶がある。どうやらこのお父さん、わたしと近い趣味の持ち主のようだ(年齢も近い)。小説のそのずっとあとの方で、この作品全体で大きな意味を持つような音楽が出てくるのだけれども、その曲を選ぶのはこの作品を全部読み終えてからにして、今日は、その曲が出てくるちょっと前の、神町の裏カジノで聴こえて来るという設定の曲のことが気になる。そこで流れているのはデイブ・ディー・グループの「The Tide Is Turning」という曲だというのだけれども、そんな曲のことは知らない。それで、また調べてみた。
 ここでデイブ・ディー・グループと書かれているのは、Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich という、60年代後期に活躍したイギリスのビート・グループのこと。ただグループのメンバーの名前を連ねただけのグループ名は日本では浸透しにくいので、デイブ・ディー・グループという表記が日本だけで流通し(海外では、「DDDBMT」と略されるわけになる)、「キサナドゥーの伝説」という曲などは、日本でもかなりのヒットになった(この曲は、グループサウンズの「ジャガーズ」がカヴァーしていたと思う)。
 この長いグループ名は、タランティーノの映画「デス・プルーフ」の中でも、女の子たちの会話のくだらないネタになっていて、誰かが「もしも、Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich にPete Townshend が入ったら、Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick, Tich & Pete になるわけよ!」なんてセリフがあった。これはこのDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich と、Pete Townshend との音楽性がまるっきし違うから、よけいにアホらしさの際立つセリフだったんだけれども、まあ一般には通じなかっただろうと思う。
 さて、そういうわけで当時わたしはかなり(一般の日本人としては)、このDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich のことにも精通していたのだけれども、「The Tide Is Turning」などという彼らの曲は知らない。Wikipedia にリストされている彼らのシングル曲名にもこの曲はない。彼らのディスコグラフィーを調べると(ヒマだな)、意外に彼らはアルバムをたくさん出しているのだけれども、その1968年のアルバム「If No One Sang...」の中に、この「The Tide Is Turning」という曲が収録されているのがわかった。このアルバムは、CDのリイシュー・ブームに乗っかって、2003年ぐらいにCD化されているらしい。
 しかし、どうでもいいことだけれども、そのCD化以前に、このDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich のアルバムが日本で発売されていたことはちょっと考えられないことで(ベスト盤などはリリースされていたらしい)、この小説のこの時点の時制が2001年だということなら、その裏カジノでデイブ・ディー・グループの「The Tide Is Turning」が聴こえていたということは、リアリズムの問題では、まずありえないことになる。またどうでもいいことをしつこく考えてしまった。
 当然、YouTube にも、この「The Tide Is Turning」という曲などアップされてはいないので、今日はそのDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich の1966年のヒット曲から、「Bend It!」というのを選ぶことに。この曲はイギリスでは2位まで上昇するけれども、アメリカではまるでヒットしない。そう、British Invasion の時代に、なぜかアメリカでヒットしなかったグループのひとつが、このDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich になるかな。例えばThe Move だとか、Status Quo 、そしてSmall Faces などはアメリカでは受けなかった。初期のDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich は、単純だけれどもちょっと奇妙なリズムの曲が多くて、「Hold Tight」のズンドコ・リズムや、この「Bend It!」の変速リズムなんか印象的だった。そういうことで。今日のYouTube は、わがシステムでも視聴可能だった。

 


 

 

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■ 2010-04-08(Thu) 「ジークフリート」

[]Utterly Simple [Traffic] Utterly Simple [Traffic]を含むブックマーク

 朝にベランダに出してあったキャットフードは、夕方見ると全部なくなっている。空っぽになってしまうと、いったいどのネコが食べて行ったのかということはまるでわからない。
 今日は久しぶりにとても良い天気で、昼間の気温も暖かすぎもせず、部屋の中にいても快適だった。たまっていた洗濯物を片付け、午後からはこのあたりでも散歩してみようとも思っていたけれども、なんだか日記を書くのに時間がかかってしまい、スーパーに買い物に行くだけにした。最近わかったのだけれども、西側にあるスーパー、毎週木曜日には全商品10パーセント引きというセールをやっている。これは考えるとかなり大きいので、基本的な買い物は木曜日にこのスーパーで済ませようかと思う。これと、火曜日の各スーパーの特売、やはり木曜日の線路向こうのスーパーでの玉子、牛乳の特売日と合わせていけばいいのではないのか。

 今日は図書館ヴィデオで、ワーグナーの<指輪>第二夜、「ジークフリート」を通して鑑賞する。全四時間を越える。やはりメトロポリタン歌劇場のライヴ収録で、1990年のもの。
 さすがにここには「ヴァルキューレ」の強烈なエキセントリックさはないけれども、やはり惹き付けられるところはあれこれある。わたしがいちばん好きなのは第三幕の最初の、神であるヴォータンがブリュンヒルデの母、やはり神であるエルダを眠りから起して、先の予言を聴こうとする場面かな。ここは、この舞台での演出もよかったのかも知れない。
 この場面でも語られているように、この「ジークフリート」、ジークフリートが指輪を手に入れて、ブリュンヒルデを眠りから覚醒させて結ばれるという、表面のハッピーエンドな英雄譚の背後に、神々の時代の終焉をも同時に語られるというあたりがとても興味深い展開になる物語。そのすべては神であるヴォータンの意志から出ているわけでもあり、ヴォータンはジークフリートの成長を喜ぶと同時に、彼によって神々の時代が終ることを畏れもする。この二律背反は覚醒したブリュンヒルデにこそとりつき、最後のジークフリートとの二重唱では、運命を知らないジークフリートは「輝ける愛」を唄うけれども、ブリュンヒルデは「ほほえむ死」を唄う。二人で唄う歌詞が同じではないというあたりが面白い。
 この「ジークフリート」で、あと有名な曲/場面といえば、ジークフリートが聖刀ノートゥングを鍛える場面での「鍛治の歌」っつうのがあるみたいだけれども、この曲はかなりロックっぽい、というか、簡単にロックにアレンジ出来そうに聴こえる。誰か「ロックオペラ・ジークフリート」(というか、「指輪」全体のロック・アレンジ)とかやらないだろうか、って、今はそういう時代ではないのだな。
 このライヴの舞台演出はかなり原典の雰囲気を重視したような一種リアリズム演出で、この刀を鍛える場面でも、実際に金属を赤くなるまで熱して叩き、蒸気しゅうしゅうとたちこめる舞台になっていたりする。その演出は、大蛇になった巨人族のファフナーを、そのノートゥングでジークフリートが退治する場面でも生かされているのだけれども、まあ「大蛇」というよりは「大蜘蛛」(?)という造型ではあるけれども、舞台という制約を感じさせない迫力のあるシーンになっていると思った。
 さて、ついに来週は、「神々の黄昏」だ。

 今日の一曲はまた阿部和重の「ピストルズ」に紹介されていた楽曲から、Traffic の「Utterly Simple」を。この曲はTraffic の1967年のデビュー・アルバム、「Mr. Fantasy」収録曲で、メンバーのDave Mason の作品。この時期のTraffic はシタールなどを多用して、デビュー・ヒットの「Paper Sun」のように、ラーガ・ロックと呼ばれるような範疇に属する曲が多かった。「ピストルズ」の中でも、「トラフィックの"Utterly Simple"のようなラーガ・ロック風の音楽が響いていた」と書かれているので、きっとそういう曲なのだろう。って、わたしはこの曲知らないし、YouTube でも、わたしのシステムでは今この曲を聴くことが出来ない。ま、いいか。


 

 

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■ 2010-04-07(Wed) 「乱暴者」「上意討ち 拝領妻始末」

[]Hallucinations [Baker Knight & The Nightmares] Hallucinations [Baker Knight & The Nightmares]を含むブックマーク

 今日のベランダのキャットフードの食べ残し方は、ミイのものではない。ミイはお皿の外にはね飛ばして食べるような、お行儀の悪いネコではない。またいろいろなネコがベランダに集まってしまうのだろうか。そして、ミイは続けて来ているのか。部屋の中に居るユウは、相変わらず昼間は身をひそめている。居場所をつくってやるとそこに安住し引きこもり、警戒心ばかり尖化させていくように思える。

 桜の花が満開に近くなった。わたしんちのある駅の南口から南への道、そして最初の交差点で交わる東西に走る道は、ずっと桜並木になっている。これが華やかにピンクに染まって、実は夜になるとライトアップまでされているのだけれども、だから観光スポットとして著名なのかというと、全くそういう気配はない。まあ花見の宴会ができるわけもないし、車で通り過ぎる人たちがいっしゅん、「おお!」と思うぐらいのものだろう。そういうのがいいのだという気もする。

 DVDでマーロン・ブランド主演の「乱暴者(あばれもの)」というのを観る。ラズロ・ベネディクという監督の1953年作品。これは日本でいえば暴走族、あちらでもヘルズ・エンジェルズの結成につながることになったという実際のライダーたちの集会、その報道記事から想を得てつくられた作品らしく、そういう種類のアウトローを主人公とする映画としては、ほぼ最初の作品らしい。それでまあ、どういう視点でそういうアウトローを描けばいいのか、脚本にしても演出にしても指針はなかったんだろう。ただ主演のマーロン・ブランドの、その不良的な魅力を前面に押し出そうとはしたのだろうけれども、脚本には彼を浮き上がらせる際立つ視点はなく、演出も、ただ報道されていただろうライダーたちの実際の騒乱を、後追いで画面上に収めただけのように見える。ていうか、頭の悪い中学生たち(もう中年オヤジにしか見えないようなライダーもいっぱい写ってるが)が大騒ぎしているふうにしか見えない。登場人物の行動も唐突でわけがわからず、作品を組み立てる演出も凡庸で、観ていて途中で飽きてしまう。「ハスラー」のように、背後にビート・ジェネレーションの影でも見えないかと思ってみても、そういうものは見つかりはしない。「ハスラー」は1961年、「エデンの東」でも1955年の作品。この頃の製作年度は、その内容に大きく関わっているように思える。どんどんと新しい表現が試みられていた時代ということなのだろう。この映画だって、バイクのライダーを主人公に持って来ただけでも画期的だったのだ。面白い映画ではないけれど。

 なんだかクソ面白くもないDVDを観てしまったので、精神安定のためにもう一本DVDを観ることにする。小林正樹監督の「上意討ち 拝領妻始末」。またも三船敏郎と仲代達矢の決闘というオマケのついた、1967年の作品。脚本・橋本忍、音楽・武満徹と、1962年の「切腹」のメンバーがふたたび結集した時代劇で、やはり一種の「武士道」モノとして、「切腹」の姉妹編というような位置付けも出来そう。どちらも、弱者が「武士」として、上から押し付けられる理不尽さに抵抗するのだ。ここでも、「切腹」と同様に、主人公に勝ち目はないと思って観ていても、一種爽快な切り口を堪能させられる。物語は圧倒的な悲劇なのだけれども、そんなことは忘れさせられてしまう、実に楽しい作品といえると思う。
 演出スタイルも「切腹」の方法を踏襲していて、基本的に室内のモノクロ画面の美しさが際立ち、室内全体を捉える固定カメラ、人物にグッと近づいて行くズームの迫力、手元など細部のクローズアップなどのコンビネーションが印象に残る。黒澤映画のように演出が熱くならず、あくまでもクールに演出の形式を守ろうとする姿勢は大好きだ。
 この「上意討ち 拝領妻始末」では、「切腹」では物語には出て来なかった「女性」の存在が物語の中心をなし、「愛情による結びつき、強い信頼関係」というのがテーマになる。そのような愛情に恵まれない生をおくってきた主人公(三船敏郎)が、自分の息子(加藤剛)と妻(司葉子)との愛情に心打たれ、その二人の気持ちを守ることに生き甲斐を見い出す。面白いのは、主人公にとって大事なのは二人の遺した「気持ち」なのだから、その二人が先に死んでしまっても、主人公は絶望してしまうことはない。むしろ二人の死に方を尊ぶようにも見えるのは、やはりそこに「武士道」的な精神があるからだろう。人の生死以上に大切なものがあるのだ、というのを描いているようにわたしには思え(この視点は「切腹」のなかにも見えているだろうけれども)、そのことがとても気に入った。救われるべきは、「いのち」以上に「たましい」であるのだ、と。

 さて、「ピストルズ」は読み続けているけれど、半分近くになってもまだ、まったく物語が動きださない。ずっと四人姉妹の誕生までの説明的な話がここまで続き、いささか読み倦ねている。それで、今日の一曲もまた、この小説の中に取り上げられている楽曲にするけれど、実はこの曲、ちょっとばかり謎である。

—そして働く意欲も枯渇させてしまった寄宿人のみなさんは、ベイカー・ナイト・アンド・ザ・ナイトメアーズの"Hallucinations"かなにかを聴きつつ月夜のドライブに出かけたふりでもして、スペインの城の魔法や白いウサギや二〇〇〇光年のかなたにかかった虹などに、何時間も眺めいっていたのかもしれません。

 というところに出て来る「Hallucinations」という曲も、ましてやベイカー・ナイト・アンド・ザ・ナイトメアーズなどというグループのことも、わたしはまったく聴いたことはない。グループ名はおそらくは「Baker Knight & The Nightmares」なのだろうと検索をかけてみると、まさにこの曲がヒットして来て聴くことができる。この「Psychedelic Jukebox」というサイトの記述を読むと、どうやら1967年の曲らしいけれども、投稿者らしい人が「このバンドについての詳しいことはわからない」と書いている。そこでさらに調べると、このBaker Knight という人物、Elvis Presley の「The Wonder Of You」の作者としての記述にぶつかったりする。ここでたしかに「Baker Knight & The Nightmares」というバンドを組んでいたとは書いているけれども、それはカントリー・バンドで、時代も1950年代。しかもどうやら50年代末までにはそのバンドは解散している様子。そうすると、1967年の「Hallucinations」という曲は? ということになる。Wikipedia で「Baker Knight」を調べると、面白いことが書いてあった。60年代中期になって、彼の曲をDean Martin やFrank Sinatra が取り上げる一方で、この時代の彼はサイケ音楽のライターとして、West Coast Pop Art Experimental Band のために、いくつもの曲を提供していたと。West Coast Pop Art Experimental Band というのはわたしもちゃんと聴いたことはないけれども、名前ぐらいは聴いたことはある。当時のサイケなガレージ・バンドのひとつで、Rhino の編集盤「Nuggets」のシリーズにも、一曲ぐらい収録されていたかもしれない。活動期間は1966年から1970年まで。
 長くなるのではしょって結論を書くと、つまりこの曲「Hallucinations」は、Baker Knight が、そのWest Coast Pop Art Experimental Band 用に書いた曲のひとつではないのか。それを自分でレコーディングしたのだと考えたい。West Coast Pop Art Experimental Band の全ディスコグラフィーはわからないけれど、調べた限りでは、「Hallucinations」という曲は演っていない。West Coast Pop Art Experimental Band はこの曲を演らず、Baker Knight はこの頃に、サイケデリック・バンドとしてのBaker Knight & The Nightmares を再結成して、この曲をレコーディングしたのか、それとも、このレコーディング自体、実はWest Coast Pop Art Experimental Band によるものとも考えられる。なんだかどうでもいいことをあれこれと考えてしまったものだけれども、そういうわけで、今日はついにYouTube から離れて、その「Psychedelic Jukebox」というサイトで聴ける「Hallucinations」を、「今日の一曲」にいたします。


Psychedelic Jukebox「Hallucinations」

 

 

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■ 2010-04-06(Tue) 「暁の脱走」

[]A Rose For Emily [Zombies] A Rose For Emily [Zombies]を含むブックマーク

 ベランダに、もしかしたらミイが来るかもしれないと思って、キャットフードを出している。昼ごろに見てみると、ネコが来て食べて行った形跡があって、その食べ残し方をみて、これはミイなのではないかと思った。

 今日もまた東京で、京橋のフィルムセンターでの「映画の中の日本文学」という特集の初日。この「映画の中の日本文学」という特集は、これがpart 3 だということ。観るのは1950年の作品「暁の脱走」で、原作は田村泰次郎の「春婦伝」というもの。監督・脚本は谷口千吉、脚本には黒澤明も加わっている。この原作は、のちに鈴木清順が野川由美子を使って、原作のタイトルのまま再映画化しているけれど、わたしは観ていない。この作品を観てみようなどと思ったのは、少し前に読んだ、山口淑子つまり李香蘭の自伝に、ちょっとだけ彼女の主演したこの作品のことが書かれていたから。ちなみに戦時中に田村泰次郎は李香蘭と知り合いで、この原作はもともと李香蘭主演のイメージで書いたものだと田村泰次郎に云われたようなことが、彼女の自伝には書かれていた。戦後日本に帰国して山口淑子となってからの彼女は、正直ロクな映画作品に出てはいない印象だけれども、吉村公三郎監督の「我が生涯の輝ける日」、この「暁の脱走」、それから黒澤明の監督で、三船敏郎と共演した「醜聞(スキャンダル)」あたりが、評価の高かった作品ということになるみたい。
 で、この「暁の脱走」。これはいったいどこでロケしたのか。実際に中国でロケしたように見えるけれども、そういうことが可能だったのだろうか。風景は広大で、建物には異国情緒が漂う。しかしストーリーとかは、この時代の反戦映画らしく、日本軍の非人間性をことさらに槍玉にあげる。これをかなりとんでもない上官ひとりに代表させ、実はそれ以外の兵卒は、いやいやながらその命令に従っていたみたいなことになっている。これは当時の観客が当然、従軍経験者が多いであろうところからの、一種のガス抜き映画というか、「そうだそうだ、あのときオレはいやいや従ったんだ」との唱和が、当時の映画館から聞こえて来そうな気がする。山口淑子の役は、どうやら当初は従軍慰安婦(しかも朝鮮の)という設定だったらしいけれども(だから、朝鮮人の従軍慰安婦がいたというのは、この時代では公然の事実とみなされていたことになるのだろう)、慰問団歌手ということになっている。まあこのおかげで一種のなまなましさは排除されているわけで、それはこの映画にとってはプラスだったと思うけど、やっぱりディートリッヒとゲイリー・クーパーの「モロッコ」を意識したのだろうか。そもそもの設定はまるで違うけれども、ラストがやはり熱砂の中であるとか、どうしても比べてしまう。「モロッコ」の最後のサンダルは、ここでは山口淑子が池部良に自分の存在を知らせるために使われているみたい。いちおう山口淑子は中国語が堪能という設定になっているけれども、そのことがストーリーの中で生かされているとは思えない。最後の逃走シーンとかにちょっとでも利用すれば良かったのに、と思う。
 谷口千吉という人の演出はダイナミックで、かなり黒澤監督の演出を彷佛とさせられたりする。特に、兵士の酒場になっているホテルの広いフロアでの、兵士たち(50人ぐらい居たか)の騒乱ぶりのシーン、これをクレーンを使ってグウンとなめまわすショットなどは強力。二階の使い方なども良かったけれども、これは黒澤監督作品と同じように、どうも女性がちっとも描かれていない印象で、ヒロインにしても、生硬なセリフでもって実に唐突な行動をしているように見える。とりあえず、山口淑子という人が非常に魅力的だったということは、わたしの目には確かなことのようだ。

 電車の中で阿部和重の「ピストルズ」、続きを読書中。「ピストルズ」とは拳銃のことではなく、綴りは「Pistils」で、植物のめしべのことらしいのだった。あまり前情報を仕入れていないと、とんでもない間違いをおこす。
 この魔術師一家は、1970年代とかには、ヒッピー然とした人たちによる、コミューンのようなものを運営していたらしい。そこでいろいろな植物が、その香料としての役割と、幻覚剤としての役割を果たすことになる。そういう植物を象徴しての「ピストルズ」というタイトルなのか。なんか、これだったら星野智幸の「アルカロイド・ラヴァーズ」を思い出してしまうし、いままでのところで乱暴に比較すると「アルカロイド・ラヴァーズ」の方が格段に面白かった。

 今日の一曲はまた、その「ピストルズ」の中で紹介されていた曲。これはZombies のラスト・アルバム「Odessey & Oracle」(1968) 収録曲で、このアルバムからは「Time Of The Season」という大ヒット曲が生まれているけれども(というか、このアルバム自体が今ではサイケデリック・ポップの名作として知られている)、実はその曲がラジオなどでかかりまくるようになっていたころ、すでにZombies は解散していたというわけ。わたしは初期の(といっても活動期間は短かったけれども)Zombies は好きだった。今日のYouTube 映像も自分では見られないので、いい加減にストレスがたまる。なんとかしなければ。


 

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■ 2010-04-05(Mon) 「ブラインドネス」「刺青」「赤い天使」

[]Dear Eloise [Hollies] Dear Eloise [Hollies]を含むブックマーク

 日曜日に図書館から、リクエストを出していた阿部和重の「ピストルズ」の用意が出来たので、受け取りに来て欲しいと電話があった。明日は月曜日で休館だから、できるだけ今日中に来いと。まあ新刊書だから可能な限り廻したいのだろうけれども、あまりそういうことは言われたくないとは感じる。言われなくともすぐに取りに行くつもりでいるし。
 それで、さっそく受け取りに行き、日曜から読み始めている。内容についてまったく前知識はなかったのだけれども、「シンセミア」、「グランド・フィナーレ」に続いての神町サーガということで、楽しみにしていたもの。わたしの予想では、この「ピストルズ」というタイトルからも、「シンセミア」のラストで行方不明になっている拳銃が出てくるんじゃないのかと思っているんだけれども。
 巻頭の「主な登場人物」の関係図を見ていると、「シンセミア」に登場したホシカゲさん、タヌキセンセイ、書店主などと、「グランド・フィナーレ」の登場人物などの名前が見える。第一部のタイトルは「魔法使いは真実のスター」。「シンセミア」にも登場した書店主が、神町に住む謎の「魔法使い一家」と知り合う。なんやねん。第二部、「夢の花園より」。ここからは、その魔法使い一家の次女の語る一家の歴史。彼女は少女向け小説の作家でもあるので、ここからはそういう文体になる。一種耽美的装飾をほどこした、少女向け綺譚小説とでもいう感じ(そういうのを読んだわけでもないけれども、これは例えば森茉莉の小説などの文体模倣なのではないのか)。時に、Traffic の「Utterly Simple」、Hollies の「Dear Eloise」、「Have You Ever Loved Somebody」、Zombies の「A Rose For Emily」などの、かなりマニアックな曲のタイトルが挿入される。いままでのところは、ちょっと冗長な印象。これからどうなるのか。

 明日がレンタルの返却日だし、出かける予定までつくってしまったせいで、今日はDVDを三本も観てしまう。

 まず、最近の作品。フェルナンド・メイレレス監督の2008年の作品「ブラインドネス」。おそらく舞台はニューヨークのように思えるのだけれども、ここである日本人男性が突然失明し、彼に接触した人たちは次々に感染して失明して行く。しかし、最初に彼を診察した眼科医の、その妻だけは感染しない。最初の感染グループは廃墟のような精神病棟に隔離される。眼科医の妻は夫と離れないために、失明していると偽って夫と共に隔離される。しかし、おそらくはその外の世界でも急速に感染が広がるためか、病棟はほとんど放置されて無政府状態になり、幾人かのグループが病棟を支配して暴虐の限りをつくす。眼の見える妻のちからでこの悪夢のような状況を乗り切り、病棟に閉じ込められていた人たちが外の世界へ出てみると、そこには盲目の人たちの右往左往する、地獄絵図のような世界が繰り拡げられていた。
 とにかく、まずは隔離病棟内での悪夢のような情景に圧倒され、観ていてもう、早送りで先にとばしてしまいたかった。それだけに、病棟から外に出たときの開放感は、観ている方にも大きなものがある。しかし、外の世界もとんでもないことになっているのだけれども、う〜ん、映画としては、この外の世界の混乱ぶり、地獄絵図が、病棟内での閉そく感を伴った描写と比べて、弱いように思えてしまう。これは、閉鎖されていた病棟内よりも、外の世界の方がもっと地獄だったというストーリーなのだと思うけれども、そのあたりが伝わってこない気がする。映画というのは、広さという考えでいうと、やはり閉息状況の描写の方が得意になってしまうのではないかとも思ったし、こういう閉息状態での悪夢のような展開というのは、近年の先行する映画作品でいろいろあって、どうもそういう作品の類型とも受け止められてしまう気もする。ひとつのポイントは、外の世界で、教会のキリストやマリアの絵や彫刻に目隠しがされていた、というあたりの描写で、ここで一気に宗教的な空気が画面に拡がり、おそらくそのことが、主人公(眼科医の妻)の最後のセリフにもつながってくるのだろうけれども、どうもふだん宗教心などというものを持ち合わせていないわたしなどには、よくわからない(この最後のセリフはたしか「I'll be blind」だったかな、と思うけれど、字幕の「わたしの番だ」というのは、ちょっと難しすぎるし、ちょっと違うと思った)。
 たとえば、以前読んだコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」にも、これに似た状況が描かれていたと思うけれども、そういう意味では、この映画、「外の世界」でのサヴァイヴァルの描写が短すぎたのではないかという印象になる。ということは、病棟の描写をもっと短くした方がいいということになる。「ザ・ロード」も映画化されていて、いずれ日本でも公開されるだろうから、そっちを観てみたい。

 DVDのあとの二本は、どちらも増村保造監督の作品。まずは谷崎潤一郎原作の「刺青」(1966)。脚本は新藤兼人だけれども、谷崎の原作をふくらませ、じゃあお艶という女はどのような女なのだろうか、刺青を施したあと、どんな生き方を送ったのか、ということに想像力をふくらませて行く。これがもう徹底的な悪女で、お艶を演じた若尾文子の強烈な演技も合わせて、あっけにとられるような世界になっている。撮影が宮川一夫で、典型的な江戸の世界を舞台のように美しく撮っている。増村保造監督としても「卍」(これも谷崎の原作だ)以来のカラー作品で、一面毒々しいほどの色彩にあふれた、虚構性の強い作品に仕上げている印象。ただ、原作のある意味主題である、彫り師新吉の美意識などはもうねじ伏せてしまった印象で、これを谷崎潤一郎の小説からの作品とすると、あれこれと不満は噴出してしまう。まあ増村保造監督も、この演出を楽しんでいるみたいだからいいか。傘をうまく使った、雨の中の殺人のシーンが素晴らしかった。

 もう一本は「赤い天使」(1966) で、やはり若尾文子が、従軍看護婦を演じる。この時期の増村保造監督は、前後する作品でバランスを取っているというか、作品相互間に連続が見られると思う。ちょうどこの時期の彼の作品は、1964年の「卍」から、「黒の超特急」「兵隊やくざ」「清作の妻」「刺青」「陸軍中野学校」、そしてこの「赤い天使」と、続けて観ることが出来たけれども、例えば「黒の超特急」は「陸軍中野学校」につながるところがあるだろうし、その「陸軍中野学校」は「兵隊やくざ」にも「赤い天使」にもつながる。「卍」はもちろん「刺青」と同じ谷崎潤一郎の原作だけれども、これは「清作の妻」にも「赤い天使」にも、その影を落としている。「清作の妻」、「兵隊やくざ」、「陸軍中野学校」、そしてこの「赤い天使」は、直接間接に戦争を描いた映画。この時期絶好調に思える増村保造監督、こうした連続した作品の演出をするのは、とても楽しかったのではないかと想像してしまう。
 この「赤い天使」は、「陸軍中野学校」の市川雷蔵のナレーションのように、若尾文子のナレーションで話が進んで行く。どちらもひじょうに虚無的なしゃべり口なのだけれども、これは、どちらもすでに「人の生」を捨てた時点でナレーションしているといえるのか。
 「清作の妻」にせよ、この「赤い天使」にせよ、「男性原理」と解釈されるような「戦争」という現象の中に、「女性原理」を介入させてある種の勝利を得るというような、ひじょうに爽快ともいえる作品なのだけれども、「赤い天使」がおもしろいのは、主人公の「西さくら」という従軍看護婦に、「戦う」という意識がとても鮮明だということ。ここに「西が勝ちました」という、最高の名セリフが生まれることになるけれど、もちろんそれは「戦争」という大きな死の影の前では、彼女の勝利は限定的なものでしかないようにも思える。それとも、桜の花のように、パッと咲いてパッと散りたいと考える、彼女の思考の中に忍び込んだ「男性原理」の敗北なのか。
 とにかく、この時期の増村保造監督の作品、あまりに面白いし、あれこれの思索の糧にはなっていって限りがないのだけれども、今日はもうこのあたりで。

 さて、今日の一曲は、これは今のわたしのシステムでも観ることのできるHollies の昔のプロモ・ヴィデオから、その阿部和重の「ピストルズ」にも書かれていた「Dear Eloise」という曲を。これは彼らの1967年の傑作(といっていいのかな?)アルバム「Butterfly」の一曲目で、あちらではシングル・リリースされてそこそこヒットした曲。なぜか日本ではシングルカットされなかったという記憶があるけれども、彼らの曲としては非常に躍動感あふれる曲で、その前後をちょっとサイケデリックなメロディでサンドイッチしてるところが、この時期の彼ららしい。このアルバムはGraham Nash が在籍してレコーディングした最後のアルバムで、このプロモにも彼の姿が写っている。この時代らしい、ちょっとバカっぽいプロモ映像です。


 

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■ 2010-04-04(Sun) 「去年マリエンバートで」

[]Tonight is a Wonderful Time to Fall in Love [April Wine] Tonight is a Wonderful Time to Fall in Love [April Wine]を含むブックマーク

 PHSを新しい機種にして、慣れないこともいろいろあるけれども、こんどのはボディが折畳み式ではないので、キーボタンがむき出しになっている。そこで、意図せずにそんなボタンを押してしまっていることがよくある。単純に数字キーとかを押してしまうのはさほど問題にならないけれども、妙な機能キーを連続して押していると、思いもかけない結果を生んでしまったりする。先日、出かけようとしてPHSを忘れそうになり、取りに戻って片手にPHSを持ちながら靴を履いていると、下駄箱の上の固定電話が鳴り始めた。「出かけようとしている時にいったい誰?」と受話器を取り、「もしもし? もしもし?」と。受話器の向こうからは何も聴こえて来ないので、また間違い電話だったのかと、受話器を置く。PHSをポケットにしまおうとしてふとディスプレイをみると、そこにはわたしの名前が出ていて、「通話中」と。どういうわけか、自分のPHSで自分の固定電話に電話して、それに自分で出て「もしもし」なんてやっていたようだ。そうとうバカっぽい。しかし、見もしないでどういうキーを押すとこういうことになるのか、やってみたけれども、位置の違うキーを複数回押さないと、こういう結果にはならない。まあまだ自分あてだったから良かったけど、これからどんなことを仕出かしてしまうか予想がつかない。普段はロック機能をONにしておいた方が良さそう。

 ドラッグストアへ買い物に行く途中、公園のところでじっとしているミイに出会った。「ミイ、最近は全然ごはんを出してあげなくてゴメン」と、近づいてみる。ミイは何もいわないでしばらくわたしを見上げていて、ふっとわきへ歩き出し、ミャアと啼いた。ミイの姿を見ると、げっそりと痩せて見えた。ああ、わたしは悪いことしているな。勝手に餌付けして、勝手にエサを出さなくなったりすれば、こまるのは動物だ。なんて自分勝手なことをやっているんだろうと反省した。もうミイは、うちのベランダには寄ってみたりしていないかもしれないけれども、明日からまたちゃんと、前のように食事を出そうと思った。ミイ、また来てくれるといいのだけれども。

 今日はまたお出かけ。アラン・レネ上映会四回目で、今日は追加上映になった「去年マリエンバートで」(1960)。もう夕方近くなってから家を出て、上映会場のある飯田橋駅に着いたころには、すっかり暗くなっている。少し雨が降って来た。
 ほんとうは、この前に上映している「プロビデンス」も観たかったのだけれども、財政的に断念。とにかく今は「去年マリエンバートで」が観たかった。

 実は去年古本屋で、この「去年マリエンバートで」の原作というか、ロブ=グリエによる同タイトルのテキストの翻訳本を、見つけて買っている。もちろん読まないで積んであるわけだけれども、この機会に映画とテキストを比べてみたいという希望的観測で、この日の観覧を決めた。まずは映画から。
 この作品、ある意味必見の映画でもあるので、大むかしに観たことはある。「面白い」と感じたのかどうか、記憶もまったく残っていないくらいむかしのことになる。

 さて、上映開始。これはやはりめちゃ面白い。冒頭の、古めかしいホテルのバロック的な装飾を延々と映して行くシーンなどを観て、そうだ、アラン・レネの最初の作品は、ヴァン・ゴッホの絵画のショットだけで成り立っていたような短編をつくっていたのだ、などということを思い出す。カメラがどんどんとホテルの中を進んで行き、静止した人物のあいだをカメラが移動して行くような魅力的なシーンに続く。ここでホテルの中の演劇室(?)で上演されている男女の二人芝居、そしてそれを見ているホテルの宿泊客の映像。この演劇の内容がその後の映画のストーリーともからんで来て、実に重層的な展開になって行く。このホテルの宿泊客たちは、実は実体のない、亡霊のような存在のように思えたりもする。そんなことを思ってみると、キューブリックの「シャイニング」にも、この作品の反映がみられるようにも思えて来る。ホテルと、そのホテルの庭園との関係。
 ドラマは、これは一度ではわかりはしないけれども、ちゃんとした一貫したストーリーを解体して時系列を変えて再構成しているようで、繰り返して観ればそれだけ理解は深まるだろうと思う。そういうことを無視してあたまから観ていても、物語の構成要素から、その背景が読み取れるようなキーはいくつもあらわれる。しかし、そのキーが直後に否定されるようにみえたりもする。一種渦巻状にループする物語。オルガンによる不安感を増す音楽が、この作品をサイレント映画のようにも見せている。じっさい、そういうサイレント映画っぽい演出は為されていると思う。画面上に二人のヴァイオリニストが出て来て演奏している場面でも、音はやはりオルガンの音楽。これが映画も2/3を過ぎたあたりで突然に、複数の弦楽器によるオーケストラ的な音楽になる瞬間がある。
 アラン・レネの作品には、過去の記憶へと回帰する人々の出て来る作品が多いように思うけれども、この「去年マリエンバートで」もまさに、その「過去の記憶」が主題になっている。そして、その過去の記憶を呼び戻す作業自体もまた、「過去の記憶」になっているという、重層した内容なのではないかと思う。そのことを、映画的技法の追求で作品化している。やはり、映画という表現の歴史の中でも卓越した、すばらしい作品だと思った。近いうちに、ロブ=グリエのテキストを読んで比較してみたい。そういうことで。

 今日の一曲もまた「四月」だけれども、今日は曲名ではなく、グループ名に「四月」の折り込まれたもの。これは、1975年のApril Wine のヒット曲。わたしの趣味ではありません。



 

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■ 2010-04-03(Sat) 「イヴの総て」

[]April in Paris [Thelonious Monk] April in Paris [Thelonious Monk]を含むブックマーク

 先月の末に東京に出かける前には、まだこのあたりでは桜はほとんど咲いていなかった。それが昨日駅前の通りを歩くと、もう三分から四分咲きになっている感じ。今年は桜が遅かったなあと思い、去年はいつごろ桜が咲いたのか自分の古い日記をみてみた。まあ去年は大変な時期だったのであまり桜のことは書いていないけれども、どうも今年とあまり変わらなかったような様子。去年ももう少し早い時期に強風が吹き荒れたりしていて、「春の嵐」という季節行事は、やはりあるのだ。

 システム更改のため長く休んでいた図書館がようやくオープンして、返却もあるので行ってみる。館内の様子が変わったわけではないけれども、蔵書検索システムが一新されて、市内のほかの図書館の蔵書も出てくるようになり、リクエストして取り寄せられることになった。この市はわたしが転入して来たころに、「平成の大合併」というやつで近隣の町と合併している。その近隣の町の方にも従来からの図書館が存在していたのを、今回ようやくリンクされるようになったわけ。とりあえず、先日刊行された阿部和重の新刊、「ピストルズ」を読みたいので探す。書棚には見当たらず、その新しい検索システムで探すと、市内の別の図書館にあることがわかったのでリクエストする。新システムをさっそく活用出来たわけだ。
 ぶらぶらと書棚を見ていると、フランス文学の棚に「クリスチャン・ガイイ」の名前を見つけ、「この人って、先日のアラン・レネ作品の原作を書いている人ではなかったか」と思い出し、その「さいごの恋」という本を借りる。それからワーグナーの<指輪>の続き、「ジークフリート」などを借りる。クリスチャン・ガイイという人を帰宅して調べたら、やはり、「風にそよぐ草」の原作を書いている人。まああの怪作が原作ゆえに成立している、というわけでもないだろうけれども、この「さいごの恋」のエピグラフには、べケットからの引用がある。わたしはべケットの良い読者などではないけれども、「風にそよぐ草」にも、べケットの影はあったのではないか、などと思うこともある。

 夜はジョセフ・L・マンキウィッツ監督の1950年の作品、「イヴの総て」を観る。演劇の世界。ベテラン女優、劇作家夫妻、演出家、そして演劇批評家の世界のなかへ「悪魔のように繊細に、天使のように大胆に」踏み込んで行く女優志望の女性。人物の「目線」の演出が抜きん出ていて、交されることのない視線、何かを暗示する視線、正面から見つめあう視線にこそ、ドラマが潜んでいる。そんな中で、前半の大女優役ベティ・デイヴィスと、その付き人のセルマ・リッターの、余裕を感じさせる競演ぶりが実に楽しい。ラストの「合わせ鏡」のシーン、完全にリアリズムから逸脱して、ありえない画像を見せるあたりに、この作品が「古典」として残り得る力量を見る。

 今日の一曲はまた四月の曲から。しかし、YouTube がわたしにはみられない画像ばかりになってしまって、非常に悲しい。OSを入れ替えて、上位のFlash Player だかをセット出来ればいいのかも知れないけれども、OSを入れ替えたりすると、またあれこれとトラブルが起きるのは目に見えているので、やりたくない。
 今日もジャズ・ピアノで、Theronious Monk の「April in Paris」を。



 

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■ 2010-04-02(Fri) 「ハスラー2」

[]I'll Remember April [Erroll Garner] I'll Remember April [Erroll Garner]を含むブックマーク

 一昨日の舞台の話に戻るけれど、しかしなんで今ジャン・ジュネなのか、というと、今年はジュネ生誕100年にあたるのだと、昨日お会いしたBさんが言っていた。そういえば彼の遺作の「恋する虜」は今買えるのかな? などと思ってAmazon で検索したらもちろん品切れ中(絶版だろう)で、コレクター商品(中古)に、79800円という値段が付いていた。ちょっと驚いた。買う人間がいるのだろうか?

 ネコのユウはすっかり夜行性になってしまった。わたしが起きているときはおとなしくしていて、電気を消してベッドに入るととたんに騒ぎ始める。閉めてあるふすまとか開けると、そこらをうろちょろしているユウとばったり顔を合わせたりするのだけれども、そういうときに以前のように逃げて行かないで、じっとわたしの顔を見ているのは、どういうことなんだろうか。

 夜、マーティン・スコセッシ監督の「ハスラー2」(1986) を観る。トム・クルーズに、のちにディカプリオにやらせるような演技付けをやっているなあ。極力ウエットさを排したドライな演出で、そこにギミックなビリヤード競技の映像が重なる。けっきょく、先の「ハスラー」のようには傷付いてしまう人物は出て来ないというのが、アメリカの80年代なのだろうか。ポール・ニューマンの造型の中には、たしかに60年代のニュー・シネマなどを経たあとの、タフな人物像が示されているのかも知れないが、それはけっきょくヤッピー的ライフスタイル、エスタブリッシュメントの賛美に見えてしまう。なぜこのような作品をつくったのか、わたしにはよくわからない。

 今日も四月の曲。ジャズのスタンダード・ナンバーから、「I'll Remember April」を。知らなかったけれども、この曲はアボット&コステロの1942年の映画、「凸凹カウボーイの巻(Ride 'Em Cowboy) 」で使われた曲らしいのだけれども、この映画にはElla Fitzgerald も出演していて、わたしの好きな彼女の曲、「A-Tisket, A-Tasket」を唄っているらしい。なんだかこの映画、観たい。
 今日は、Erroll Garner の演奏で。たまには、Eroll Garner もいいものです。



 

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■ 2010-04-01(Thu) 「青春群像」

[]April Love [Pat Boone] April Love [Pat Boone]を含むブックマーク

 ということで、電車の中で四月一日、新年度の始まり。阿佐ヶ谷のAさん(月が変わったので、イニシャルのアルファベットもリセット)宅にお世話になる。その前に阿佐ヶ谷駅近くの、中央線文化のプンプン匂ってくるカフェというか喫茶店に案内してもらい、ちょっとひと休み。などとやっていると、窓の外をBさんが通りかかり、わたしたちに気が付いて合流するという、これもなんとも中央線的な展開になる。中央線沿線の終電の時間前後には、あちこちでこうやって、自然と二次会・三次会へと突入して行くのだろうと思う。
 ちょっとのあいだ雑談してBさんと別れ、Aさん宅へ。わたしの最近の話題はやはりアラン・レネの話になるので、そういう話をしばらくする。で、近年のアラン・レネの作品にはたいてい同じ俳優が出ていて、などと話していて、女優ならサビーヌ・アゼマとかという名前を出すと、Aさんが猛烈に反応して、サビーヌ・アゼマは「ゴダールの映画史」の中で、Aさんのもっとも愛するシーンに出演しているのだという。そのDVDを持っているAさんに、該当シーンを見せてもらう。ひとつのシークエンス全体が、そのサビーネ・アゼマのバスト・ショットだけで成り立っていて、黒のセーターを着た、アラン・レネの映画で観たよりも当然若い姿の彼女が、タバコをふかしながら、ヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」の一節を読み上げる。読むというよりも、そのブロッホのテクストを、あたかも自分の意見を述べるように、ごく自然に、画面からは見えない(おそらくはカメラの右側にいるのであろう)存在に対して、語りかけているようにみえる。Aさんの云うようにこれはほんとうに素晴らしいショットで、そのことは、サビーネ・アゼマという女優さんの、その力量によって成立している。そのことを際立たせるように、このシークエンスに関しては他のシークエンスのように画面に別のイメージ(例えば映画の断片など)をモンタージュするようなことはせず、ただ彼女の姿だけを捉えている。その目線の力、そしてたとえば彼女がタバコをふかすタイミング、フッと目線をそらすタイミングなどもすばらしい緊張感を産み、いわゆる「朗読」というものではなく、それが「シナリオ」のように、ブロッホのテクストを演じているというように見えてしまう。ちょうど昨日観た「地点」の舞台でのテクストの処理などと、どうしても比べたくなってしまうような映像(もちろん、根本のアプローチが異なるのだから、単純に比較など出来はしないのだけれども)。ちょっとびっくりした。いちど観て、「もういちど観たい」とリクエストして、二度みせてもらった。素晴らしかった。

 夜明かしするつもりなわけでもないので(Aさんは仕事があるのだ)、もういい加減寝ることにして、ふとんを貸していただく。感謝。眠る。

 ‥‥起きると、もう昼の十二時を過ぎている。なんだか相当にAさんに迷惑をかけているのではないかと思う。
 外は風が強い。仕事に出るAさんといっしょに駅に向かい、途中の中華料理店で、ヴォリュームたっぷりのうまいランチを平らげる。さあ、わたしは今日はどうしようか。東京は桜の見頃になっているので、上野にでも桜を見に行こうかとAさんと別れるけれども、電車に乗っていて、今日は一日ということで、「映画の日」なのだというのを思い出す。それだったら何か映画でも観て帰ろうと、上映中の作品を調べたりする。なんだかあえて今日観たい、という作品もなかなかない(渋谷のアンゲロプロス上映で間に合うのはあまり観たい作品ではない)のだけれども、新宿でフェリーニの作品をいくつか連続して上映しているのを見つけ、ちょうどその時間だと「青春群像」(まだ観たことがない)の上映に間に合うので、これに決める。

 フェリーニ監督の「青春群像」は1953年の作品で、「道」の一年前に造られていることになる。イタリアの田舎町でくすぶる若者たちの描写。昨日遅くまで起きていたので、映画がつまらなかったわけではないけれども、ずいぶんと寝た。一シークエンスそっくり寝てしまった箇所もあるみたい。ああ、これからカーニヴァル、というところで、次に観たところではもうカーニヴァルは終っている。そのあいだ眠っていたわけだろう。それでもだいたいのところは掴めたというか、過去のかけがえのない土地、かけがえのない時への郷愁と、過去にすれ違った人々への愛情。そして過去の自分への、愛情を込めたご挨拶、というあたりだろうか。
 盗んだ天使像を荷車に乗せて売り払いに行くところが、「サテリコン」でアンドロギュノスをさらって運ぶシーンと同じに見えた。現代のイタリアの田舎町での、卑小な泥棒行為にも、神話的事象はひそんでいる。それをフェリーニは見ている。

 映画を観終えて電車で帰宅。すっかり暗くなっている。家のドアを開けようとしたら、部屋の中でユウがニャンニャンと騒いでいる啼き声が、外にも聞こえて来た。わたしがドアを開けるとサッと身を隠す。キャットフードを皿に盛ってユウの居間に置き、ドアを閉めるとすぐに、ガリガリとキャットフードを食べている音が聞こえて来た。

 さて、今日の一曲は、四月になったので、そういう四月の曲を。まっ先に思い出したのがこのPat Boone の「April Love(四月の恋)」で、じつはわたしは、Pat Boone の甘い声がとても好きだったりする。この「April Love」と、「Love Letters In The Sand」はいいなあ。データ的には1957年の大ヒット曲だけれども、今思い出すのは、廣木隆一監督の2003年の佳作「ヴァイブレータ」で、そのオープニング、駐車しているトラックの画面に空色の「ヴァイブレータ」のタイトル文字があらわれる、そのバックにこの「April Love」が流れるという、わたし的には恍惚感に囚われてしまったシーンを思い出してしまう。
 今日のYouTube 映像も自分では見られないけれども、桜の花が出ているみたいなので、この曲の映像は他にもあったけれども、コレがいいかな?と選んだもの。



 

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