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■ 2010-05-31(Mon) 「さらば夏の光」「吸血鬼ドラキュラ」、二○一○年五月のおさらい

[]Everybody Needs Somebody To Love [Solomon Burke] Everybody Needs Somebody To Love [Solomon Burke]を含むブックマーク

 ベランダでミイがごろごろしているので背中をなでてやると、のどをゴロゴロならせて喜んでいる。だっこして抱え上げてみようとしたら、「フギャ!」とか変な声を出して、いやがって逃げた。

 ずっと使っていた雪平鍋がもう限界。実は以前、かなり長時間空焚きしてしまい(火事にならなくてよかったよ、って思ったぐらい)、把手の部分が焼けこげてしまっていたのを、短くしてネジ止めしたりガムテープを巻いたりして、だましだまし使っていたけれども、もう把手が本体を支えきれなくなり、ついにもげてしまった。調理用の鍋とは別にこの雪平鍋というのはあれこれと便利なものなので、やはりなくなると不便。新しいのを買おうと思う。しかし、なぜ「雪平鍋」などという名称なんだろうか。憶えていないけれども、なんだか在原業平に関係していたんじゃなかっただろうか。しかしそれじゃ「業平鍋」か。「業平鍋」、美味しい料理が作れそうなネーミングだとは思う。
 いちおう、近所のスーパーとかホームセンターとかまわってみて、どこがいちばん安いか比べてみた。それこそ二千円ぐらいするものもあるのだけれども、いちばん安いもので、スーパーは398円。ホームセンターは348円。まさか百円ショップにはないだろうと思ってのぞいてみると、あった。外観も大きさもまったく同じで105円。もちろんこれにした。百円ショップで買った小さなフライパンも、まいあさ目玉焼きをつくるのにとっても役に立ってくれているし、こういうものはなかなか侮れないと思う。

 ナボコフ伝を読み進める。著者のブライアン・ボイドという人はナボコフ関係の書物でよく名前の出てくるナボコフ研究家で、この伝記の文章も、パスティーシュとしてナボコフ的なレトリックを使ってあったりして、楽しい。まずは「序」の短い記述が的確なナボコフ論になっていて、ちょっと感心した。そう、ナボコフは音楽嫌いで知られていたんだった。先日書いたような、ビリー・ホリディを聴いていたかも、などという発想は無意味だった。

 これは昨日だけれども、吉田喜重監督の「さらば夏の光」(1968) を観た。吉田監督の作品では、これと、あと「人間の約束」を観ていなかった。ヨーロッパを舞台にしたあかぬけた描写、というか、それまでの「女の情念」みたいな作風から距離もあるし、とにかくファースト・シーンが、真っ暗な倉庫のような空間の、そのドアを開けて外光が差し込んで来るところから始まるので、「ああ、これは、『エロス+虐殺』のラストからつながっているんだ」と思い込んでしまい、当然これは「エロス+虐殺」のあと、「煉獄エロイカ」も「戒厳令」も撮り終えたあとぐらいの作品だろうと思っていたら、「エロス+虐殺」の前につくられた作品だった。この作品には背景だかなんだかがスコーンと抜けているようなところがあって、魅力があるようなないような、つい失敗してしまったような、妙に心にひっかかる作品だと思う。だいたい、ヨーロッパのフォトジェニックな風景に二人の男女を置いていって、ちょっと観念的なセリフを吐かせたりするこの作品、カラーの美しさもあって、あまり時代性を感じさせない。男が女に「あなたとは以前お会いしたことがある気がする」などといい、女が噛み合ないことばで答えるのなど、どうも「去年マリエンバートで」を思い出してしまっていけない。そうやって観てしまうと、この名前も知らない男優は岡田英次に似ているような気もしてしまい、そうするとこんどは「ヒロシマモナムール(二十四時間の情事)」を思い浮かべることになる。って、この作品はモロにナガサキにつながって来たりする。うん、吉田喜重監督にはどこか、アラン・レネを思わせる作風があると思う。それは、フォルムを最優先するようなところ、だろうか。
 先に書いたように、わたしはこの作品を「エロス+虐殺」に続く作品、と思って観てしまったので、これは「エロス+虐殺」のラストで、「日本」という閉ざされた精神性をじっとりと含む空間に閉じ込められた映像を、もういちど明るい外光のもとに引き出し、日本から外に飛び出して「何か」を起こさせようとした作品だと、勝手に思ってしまった。そうではなくて、たとえコスモポリタン的に日本から離れても、どうしても日本に帰ってこなくてはならないというような映画、なのだろうか。この先に、例えばこの「さらば夏の光」の主人公がラストに飛行機で行き着く先に、新幹線で東京駅にたどり着いた伊藤野枝がいて、それは魔子でもあって、「さらば夏の光」の終ったところから「エロス+虐殺」が始まるのだということ。

 もう一本観たDVDは「吸血鬼ドラキュラ」で、これは先週観た「フランケンシュタインの逆襲」に続くイギリスのハマー・プロ作品で、「フランケンシュタインの逆襲」と同じくテレンス・フィッシャー監督、ピーター・カッシングとクリストファー・リーの共演になる1958年の作品。「フランケンシュタイン」のリメイクが当たったので、「もう一丁!」というつもりだったのか、「フランケンシュタイン」も「ドラキュラ」も原作はイギリス人によるもの(「ドラキュラ」のブラム・ストーカーはアイルランド人だった)だから、イギリスに取り戻そうとしたのか、とにかく、「フランケンシュタインの逆襲」に続いて、いかにもイギリスらしい、古典的な恐怖映画として仕上がった作品だと思う。
 この作品の基調は、一種の科学的合理主義でもって、わけのわからない不合理を征服するという、いかにも二十世紀的な骨組にあると思う。それでも、その「わけのわからない不合理」を、どこまで蠱惑的に描くか、ということに心血を注いでいるのがわかる。ここでも、原作はかなり改ざんされていて、登場人物は原作と同じでも役割分担とか設定はちょっと原作から離れている。そんななかで、ルーシーという女性がドラキュラ伯爵に狙われるのは原作でも同じだったと思うけれど、そのルーシーが、ドラキュラを部屋に迎え入れるために、バルコニーへの窓を開けさせる。その開けられた窓の前に外光を浴びて立つ、水色のネグリジェを着たルーシーの後ろ姿を捉えた光景が、まるでラファエロ前派のタブロー作品のように美しかったのを憶えている。また、前作「フランケンシュタインの逆襲」ではセリフもない、ただ気色悪いだけだったクリストファー・リーが、ここではなんと魅力的なことだろう。もちろん、ベラ・ルゴシのドラキュラも(ついでに書けば「吸血鬼ノスフェラトゥ」のマックス・シュレックも、さらについでに書けばそのリメイクの「ノスフェラトゥ」のクラウス・キンスキーも皆)素晴らしいのだけれども、目を充血させ、黒いマントをひるがえらせてテーブルの上を飛び上がって来るクリストファー・リーの素晴らしさ、美しさ、優雅さ。もちろん、原作にあったウィアードな部分などは、ある意味すっ飛ばして無視しているわけだけれども、それがこの「吸血鬼ドラキュラ」をおとしめる理由にはなり得ないことはいうまでもない。

 今日の一曲は、ハマー・プロダクションを代表するようないい作品を観たので、ここはそれに合わせてKate Bush の「Hammer Horror」にしたかったけれども、昨日来日ライヴを行ったはずのSolomon Burke の曲を、どうしても選びたくなってしまったので、「Hammer Horror」は明日ということにして、ちょっと一日ずつずらすことにします。


 

 

[]二○一○年五月のおさらい 二○一○年五月のおさらいを含むブックマーク

 ようやく春らしい気候になり、この部屋に越して来て一年が過ぎた。今月はインターネットのプロヴァイダーへの契約料一年分を払い込んだのが負担になった。来年の五月にはもっとたくさん、まとめて払わなければならないものが出てくるので、今からちゃんと対策を考えなければいけない。

 今月は舞台観劇がいくつか。どれも楽しめた。
 舞台;
●5/14(金)唐組・第45回公演「百人町」作・演出;唐十郎@水戸芸術館広場・特設紅テント
●5/15(土)大橋可也&ダンサーズ新作公演「春の祭典」@三軒茶屋・シアタートラム
●5/16(日)「吉祥寺シアターへ行こう。」ほうほう堂、KENTARO!!@吉祥寺シアター
●5/23(日)大倉摩矢子舞踏公演「明るさの淵」中野・テルプシコール

 映画は一本だけ。
 映画:
●『広島・長崎における原子爆弾の影響』(1946) 伊藤壽恵男・小畑長蔵・奥山大六郎:監督

 読書は、徳田秋聲とナボコフなどという、まったく相容れないような二人の作家の作品を読み始める。徳田秋聲はちょっと中断して、これからはナボコフ。
 読書:
●「新世帯」徳田秋聲:著
●「足迹」徳田秋聲:著
●「黴」徳田秋聲:著
●「爛」徳田秋聲:著
●『Century Books 人と作品 徳田秋声』福田清人:編 佐々木冬流:著
●『「世間」とは何か』阿部謹也:著
●『ナボコフ短編全集(1)』ウラジーミル・ナボコフ:著
●『ナボコフ短編全集(2)』ウラジーミル・ナボコフ:著

 DVD/ヴィデオ鑑賞。DVDのレンタルも、今月でとりあえずしばらくお休み。といっても、そういうのを観なくなるわけではないけれど。
 DVD/ヴィデオ:
●『喜びも悲しみも幾年月』(1957) 木下惠介:監督
●『さらば夏の光』(1968) 吉田喜重:監督
●『吉田喜重・短編ドキュメンタリー集(1)』(1987,1992,1993) 吉田喜重:監督
●『吉田喜重・短編ドキュメンタリー集(2)』(194,1995) 吉田喜重:監督
●『遊び』(1971) 増村保造:監督
●『セーラー服と機関銃』(1982) 相米慎二:監督
●『魚影の群れ』(1983) 相米慎二:監督
●『ションベン・ライダー』(1983) 相米慎二:監督
●『TOMORROW 明日』(1988) 黒木和雄:監督
●『眠る男』(1996) 小栗康平:監督
●『埋もれ木』(2005) 小栗康平:監督
●『愛のむきだし』(2009) 園子温:監督
●『遊星よりの物体X』(1951) クリスティアン・ナイビー:監督
●『イタリア旅行』(1954) ロベルト・ロッセリーニ:監督
●『フランケンシュタインの逆襲』(1957) テレンス・フィッシャー:監督
●『吸血鬼ドラキュラ』(1958) テレンス・フィッシャー:監督
●『荒野の用心棒』(1964) セルジオ・レオーニ:監督
●『北国の帝王』(1973) ロバート・アルドリッチ:監督
●『ロンゲスト・ヤード』(1974) ロバート・アルドリッチ:監督
●『マンハッタン』(1979) ウディ・アレン:監督
●『天国の門』(1980) マイケル・チミノ:監督
●『ポゼッション』(1981) アンジェイ・ズラウスキー:監督
●『トゥルー・クライム』(1999) クリント・イーストウッド:監督
●『恋するシャンソン』(1997) アラン・レネ:監督
●『巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)』(2003) アラン・レネ:監督
『リード・マイ・リップス』(2001) ジャック・オディアール:監督
●『ブレイキング・ニュース』(2004) ジョニー・トー:監督
●『スリ』(2008) ジョニー・トー:監督

 さて、六月はさいごの水族館劇場、そして、しばらくは「ひかりTV」のお世話に。


 

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■ 2010-05-30(Sun) 「恋するシャンソン」

[]Quoi [Jane Birkin] Quoi [Jane Birkin]を含むブックマーク

 昨日のピーター・バラカンのFMで知ったのだけれども、今、Solomon Burke が来日しているとか。まさに今日とか日比谷の野音でライヴやるらしい。わたしはスコセッシのドキュメンタリーを観て以来、このSolomon Burke というシンガーのとてつもなさを(今さらながら)認識したので、ほんとだったらどんなことがあっても、ナマで彼のシャウトを聴きたい。行って彼の声が聴ける人たちがうらやましい。彼のシャウトをナマで聴けたとしたら、きっと何かが変わる気がするな。でも、変わらないのがわたしの境遇。

 図書館で本を借りるのはしばらくやめようと思っているのに、今日も図書館へ行ってナボコフの伝記を借りて来てしまった。上・下巻あるのをまずは上巻を借りて帰って読み始めたら、文章のわきに符ってある脚注番号の行き先が、その巻末にもどこにもなくて、どうやら一括して下巻に収録されているらしい。まさに「発見されることのない脚注へと続くアステリスク」で、やはりいっしょに脚注にも目を通さないと気持ち悪いので、もういちど図書館へ行って下巻も借りてくる。上下巻別々に持ち運んで読めないということか。こんなんなら合本して一冊本にしてしまえばいいのに。とにかくこの伝記を読み終えたら、ナボコフのウチにある本、「記憶よ、語れ」から「賜物」(古い福武文庫のもの)、「断頭台への招待」、「キング、クイーンそしてジャック」、それから「闇の中の笑い」、「セバスチャン・ナイト」、また「ロリータ」、そして「青白い炎」、「アーダ」、「道化師をごらん!」と読み進める計画。これで秋まではかかるだろう。下手すると年内埋まってしまう。「あらくれ」でストップしている徳田秋聲も読み続けたいし、ミイと遊んだりもしたいし、ほんとに時間が足りないではないか。

 先日のBS放送で録画しておいた、アラン・レネの「恋するシャンソン」(1997) を観る。いまのわたしのアラン・レネへの熱中状態にピタリの、タイムリーな放映だった(六月には「薔薇のスタビスキー」も放映される)。

 このあいだ何かで読んだのだけれども、フランス人というのは想像以上にコメディ好きな人たちで、フランス国内での映画の歴代興行収入ベストテンの、九位までがすべてコメディ(十位になんとか「レ・ミゼラブル」が入ってる)。こういう事情に乗っ取ってなのかどうか知らないけれども、アラン・レネの作品も、1990年代以降の作品すべてが「コメディ」と、ジャンル分けすることは可能。おそらくその中でもっとも興行的にも成功したのがこの「恋するシャンソン」らしいけれども、この年のセザール賞でも、この作品は七部門で受賞している。日本でも一般公開されたのは、これはきっとジェーン・バーキンが出演していたからではないかと思う(この次の「巴里の恋愛協奏曲」が公開されたのも、オドレ・トトゥが出演していたからだろうし)。
 で、この作品、その「巴里の恋愛協奏曲」に先行するミュージカル的試みというか、俳優のセリフをポイントポイントで、往年のシャンソンやフレンチ・ポップスで音声を置き換えて挿入するという試み。つまりその部分は俳優は口パクで、音楽の歌詞がそのセリフを代行する。コントなどではよくみられる手法だし、例えば(かなり違うけれども)ティム・バートンの「ビートルジュース」の、「バナナボート」のシーン、みたいな。それをこの作品では全編(当たり前だけれども、全セリフではない)にわたってこのやり方を押し通す。この作品で使われているのは、おそらくはほとんどのフランス人が知っている有名な曲ばかりのようだけれども、わたしなどは3〜4曲ぐらいしか知らない(それでも、ピアフだな、とか、アズナブールだな、とかいうのは漠然とわかるけれど)。しかし、そのわずかな知っている曲が流れる場面では、「ここでこの曲を使うか!」と、かなりの爆笑モノだったから、おそらくはフランスの映画館では、スクリーンの前で爆笑の連続だったのではないかと思う。例えば、始まってしばらくして、アラン・ドロンとダリダの曲で日本でもヒットした「愛の囁き」が使われるのだけれども、もう、腹の皮がよじれるほど笑った。そんななかでも傑作は、ジェーン・バーキンが登場して自分のヒット曲(日本でもヒットした)「コワ」を歌うシーンで、おそらくはジェーン・バーキンは、この歌をオリジナルの歌手自身で歌う、という効果のためだけに出演している。その曲が登場する前にちゃんと前フリもあるし、もう、負けた!という感じ。まあ曲のことはわからなくても、その俳優のキャラと流される曲の声とのギャップだけでもそうとうにおかしいのも確か。
 しかしこの作品、もちろんそういうまったくのギャグ映画というのではないわけで、まるでのちの彼の作品「六つの心」を思わせる群像劇が繰り拡げられる。主人公が不動産業者であること(しかも、演じているのが同じアンドレ・デュソリエ)や、複数の人間の、運命のいたずらのような相関関係、勘違い、ボタンのかけ違いなど、ほんとうに「六つの心」と共通する要素は多いのだけれども、この「恋するシャンソン」では、「六つの心」以上に、パリという都市へのパリ市民からの視点をクローズアップしていると思う。
 映画は、観光ガイドによる、ナチスからのパリ解放時のコルティッツ将軍の逸話の紹介から始まる。いきなりのナチスの鍵十字の映像、そしてコルティッツ将軍がこの映画のコンセプトである口パクで、「パリは美しい街」と唄う(このシーンの音源は、ジョセフィン・ベイカーらしい)。ヒットラーの命令に背いてパリ破壊を思いとどまるわけで、アラン・レネには珍しい過去の時系列映像のインサート。現在に戻って、登場人物のひとりはパリへ転入して来ようとしているし、別の夫婦はパリ市内で転居して、より見晴しの良い部屋に移ろうとしている。しかしその「見晴し」は、もうひとりの不動産屋(ランベール・ウィルソン)の隠していた新しいビル建設計画によって、将来の景観を保証されない。登場人物のひとりは先に書いたパリ市内の観光ガイドだし、物語はそのように、パリという市街と密接に関わりながら展開していく。
 ここで、いかにもアラン・レネらしい演出は、さいごの(といっても、かなりの時間が割かれる)夫婦の転居記念パーティーで、ここにすべての主要登場人物が招かれるけれども、ここで実に唐突に、しかも頻繁に、クラゲの泳ぐ映像がインサートされる。どうしても「死に至る愛」での雪(もしくは雪が降るように見える微生物の群れ)の映像のインサートを思い出してしまうけれども、いったいこの「クラゲ」は何をあらわしているのか。登場人物をクラゲになぞらえているのだろうし、それまで一匹ずつだったクラゲが、そのさいごの方では大量に群れて映される。「魚影の群れ」ではない、「クラゲの群れ」。その、海だか水槽のなかでただようクラゲの姿は、やはりパリという都市のなかをただよう人々をあらわしているように思える。海ではなくて、「パリ」という水槽か(これが東京が舞台だったら、クラゲなんてのんきに漂う生き物では東京の人々には似つかわしくないだろう。もっと直線的に高速で泳ぎ回る「魚類」でないと)。
 しかし、複数の、同時進行していくストーリーの束ね方は絶妙で、そのあたりは「六つの心」よりも卓越している印象もある(多少、とっ散らかったままという感じもあって、みごとにピタリと終らせた「六つの心」と単純に比べることも出来ないけれども)。

 それで、なんと、わたしはアラン・レネの90年代以降の作品五本(「スモーキング/ノー・スモーキング」を二本と数えれば合計六本)をぜんぶ観たことになる。先に書いたようにある種のコメディ・タッチの作品の連続ではあるけれども、それぞれに実験精神を失わずに異なる試みで演出し、近年の「六つの心」、「風にそよぐ草」ではそれが驚くべき、みたこともないような作品という成果を産んでいるように思える。そこに至る「スモーキング/ノー・スモーキング」、この「恋するシャンソン」、そして「巴里の恋愛協奏曲」らの作品のとびっきりの楽しさもまた、アラン・レネ作品を観ることの、大きな喜びだと思う。

 今日はほかにもDVDを観たけれども、そのことを書くのは別の日にまわし、今日の一曲も、その「恋するシャンソン」で使われていた、Jane Birkin の「Quoi」、ということで。


 

 

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■ 2010-05-29(Sat) ナボコフ短編全集(2)、「スリ」

[]What A Little Moonlight Can Do [Billie Holiday] What A Little Moonlight Can Do [Billie Holiday]を含むブックマーク

 先日DVDで観た「リード・マイ・リップス」の中で、Billie Holiday の曲が使われていたのが心に残って、そういえば、ウチにはBillie Holiday のボックス・セットがあったはずなのに、と思い出して、季節のちょっとした衣替えといっしょに探し、すぐにみつけた。ボックス・セットといっても、10枚組のくせに、普通のCD一枚の値段より安かった代物。それでも、後期のVerve やCBS 録音以外の音源はだいたい網羅されている。Commodore のセッションもちゃんと収録されているけれども、そこだけ嫌がらせのように、一曲「Strange Fruit」だけが収録されていなかったりする。それでもこれはコストパフォーマンスの異様に高いお買い物だった。音質も悪いとは思わない、というか、そもそもオリジナルの音質に多くを求められないだろうし。今日はこれを、一枚目から順に聴いて過ごした。部屋の中に彼女の歌声が流れると、あきらかに空気が変わる。貼ってある今年のカレンダーが意味をなさなくなり、目にセピア色のフィルターがかぶさって。こういう体験をさせられる音というのも、ほかにしらない。

 今日はナボコフの短編全集(2)を読み終えた。ナボコフも、おそらくはビリー・ホリディを聴いたことがあったに違いない。今日読んだのは七編。

●「時間と引潮」 とても印象的な小編で、時間というものの捉え方に惹き込まれてしまう。読んでいて、「SF的回想」などという感想を持ってしまった。さいごの一節は、わたしにとって個人的に懐かしい一節。わけを書くと長くなる。

――そして空に残ったのは星一つ、まるで発見されることのない脚注へと続くアステリスクのようだった。

●「団欒図、一九四五年」 アメリカを舞台としての作品で、同姓同名の見知らぬ人物の存在のせいで、ドイツを愛するパトリオットたちのパーティーに紛れ込んでしまう主人公。ここでドイツについて語られていることとそっくり同じことを、「ドイツ」を「日本」に置き換えて語る人が、いまでもこの国に多いことは知っている。
●「暗号と象徴」 原題の「Signs And Symbols」の方がわかりやすい気がする。精神錯乱で入院している過敏な息子を想う両親のつらい気持ち。ここで語られる息子の妄想の症状、世界は自分を陥れるサインとシンボルにみちているという妄想は、以前読んだビーチ・ボーイズの伝記に出てくる、ある時期のブライアン・ウィルソンの症状と同じだったと思う。
●「初恋」 ナボコフの「自伝」にも、その一部としてそっくり収録されていたはず。第一巻収録の「再会」のように、ここでも、犬の名前を思い出せないことがちょっとしたキーになっている。たしか、「ロリータ」にもこの変奏曲のようなストーリーが語られていたと思う。
●「怪物双生児の生涯の数場面」 見せ物にされていたシャム双生児のひとりの回想。ナボコフの短編には「回想記」という設定のものが多いけれども、そのどれもが単純な「回想」ではないことは言うまでもない。ここでは、「ふたり一組」といつもみなされている人格の、その一方からだけの回想ということが、はたして正当な回想と読めるのかという問題だろうか。
●「ヴェイン姉妹」 早くに死んでしまった妹と、心霊術に深入りしていた姉との双方を知っていた男性の視点からの、姉妹の回想。ナボコフは自身による「注釈」で、この最終段落について「このトリックは小説史上、千年に一度しか使えないものである。それがうまくいったかどうかはまた別問題だ。」と、いかにも彼らしいことを書いている。作品の中にちょっと語られる小説のことと心霊術が結び付いた、パズル的なエンディング。至難の業をやりとげた若島正氏の翻訳に拍手、だけれども、「メーター」というのが何のことだか、この翻訳ではわからないのが「玉にきず」だと思う。
●「ランス」 「私はいわゆる科学小説というものを徹底的に軽蔑し拒絶する」と書くナボコフによる、ナボコフ流のSF。主人公の冒険は聖杯伝説のランスロットの冒険と二重写しになり、宇宙探索は登山に擬せられる。壮大な「未来からの回想」なのだろうか。

 総じて、この二巻目の短編には、その主題に「小説」という形式(または理念)を織り込んだような、メタ構造といえるような作品が増える。それは小説という概念についてのテクストであったり、構造についてのテクスト、さらには文学批評に関してのテクストであったりする。それでも、やはり彼の短編にはどこか「コント」めいたところがあり、自らがこさえた枠の中に閉じこもってしまっている印象から、読書の楽しみは少し薄かった。長篇作品として構想されていた「北の果ての国」や「孤独な王」がわたしには面白く読めたあたりから、ナボコフの創作意識で短編と長篇でどのように差があるのか、思うところもある。まああとは、ナボコフおなじみのいろいろな主題が長篇作品に先行して、これらの短編のなかにかいま見ることのできる楽しさ、というのはあった。

 夜はDVDで、ジョニー・トー監督の「スリ」(2008) を観る。原題は「文雀」で、英語題は「Sparrow」だけれども、これは文鳥のことらしく、同時に「スリ」を意味する隠語でもあるらしい。四人のグループでのスリ活動を描くクライム・サスペンスかな? などと思いながら観はじめると、ファンタジーのようでもあり、コメディっぽい展開にもなる。ひとりの女性が登場して、犯罪者グループの抗争劇かと思うと、また別の展開になったり。シークエンスが変わるたびにそれまでの物語が裏切られて、新しい展開に移行していくような感じ。「いったいどうなるのよ?」と、あちこちに持って行かれる感覚も楽しいし、やたらとスタイリッシュな構図や美しい光の下、ゆっくり移動して行き続けたりするカメラがかっこいい。クライマックスでは夜の雨のもと、傘をさした男たちによる群舞のような対決がスローモーションでながながと捉えられている。その傘をさした男たちの動きに、ハッとする美しさを感じるけれども、いくらなんでもこのスローモーションだけの連続は、ちょっと長い感じがした。「ワイルドバンチ」かよ、って。
 特典に収録されている監督のインタヴューをみると、失われていく香港の懐かしい風景をフィルムに納めておくことが第一義にあったようなことを言っていた。傘のシーンはやっぱり、「シェルブールの雨傘」なのだと言っていた。

 今日の一曲は、聴いていたBillie Holiday の曲のなかから、彼女の名を一躍有名にしたらしい彼女のブレイク曲、「What A Little Moonlight Can Do」を。たしかこの曲が、彼女とTeddy Wilson との最初の出会いではなかったか。邦題の「月光のいたずら」っていうのもなかなか。


 

 

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■ 2010-05-28(Fri) ナボコフ、「運動靴と赤い金魚」

[]The National Anthem [Radiohead] The National Anthem [Radiohead]を含むブックマーク

 ベランダでミイと遊ぶ。いつまでもわたしの近くでうろうろしているので、なでてやると別に逃げることもなく、じゃれついてきたのでこちらも調子に乗って遊ぶ。ミイはわたしにすり寄りながらわたしのまわりをぐるぐるまわったので、はいていたズボンがネコの毛だらけになってしまった。でも、どこかでわたしはミイのカンにさわることをやってしまったのか、ふいに逃げて行ってしまった。

 ナボコフ短編集もそろそろ返却期限なので、がんばって読まなくては。でも今日は三編。
●「アシスタント・プロデューサー」 ここから作品の初出発表年度の表記が見あたらなくなるけれども、おそらくは1940年以降の作品で、この短編から(長篇では1939年の「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」から)最初っから英語で執筆されるようになる。で、がぜん面白くなる。ナボコフは1937年から暮していたパリから、1940年についにアメリカに移住していて、きっとアメリカに落ち着いてからの作品だろう。ナボコフ自身の解説では、この短編は「事実に基づいている」と書いている。いったいなぜタイトルが「アシスタント・プロデューサー」なのか、よくわからないけれども、当時の映画、冒頭のキャスト/スタッフ表示テロップの最後がアシスタント・プロデューサーだったのだろう。そういうわけで、映画の内容を紹介するような筆致で進められる、ソヴィエトとナチスのあいだで二重スパイとして暗躍した亡命ロシア人組織の男と、歌手であったその妻の物語。ナボコフは政治活動をするようなタイプの作家ではないし、第二次世界大戦のるつぼになりつつあるヨーロッパから逃れ、ある意味「対岸の火事」的な視点から、楽しんで作品に取り組めるようになったということなのか。状況に悩まされずに作品の構成に心血を注いでいるような楽しさがある。ヨーロッパ時代に悩まされた、ソヴィエトとナチスへの文学的しっぺ返し、と読むべきか。
●「『かつてアレッポで‥‥』」 タイトルは「オセロ」より、らしい。ヨーロッパからの逃走を素材に書かれた作品で、ナボコフの体験も織り込まれているのだろう。ナボコフはパリ時代にカンヌやマリエンバートにも行っているらしいけれども、マリエンバートに滞在するナボコフなんて、魅力的だと思う。
 妻と渡米を画策する亡命ロシア人が、その妻とはぐれてしまうけれども、再会した妻には男がいた。さいごに渡米する船の乗車券を入手して船に乗ろうとするときに、また妻は姿を消す。どう読んでも、「ロリータ」でのハンバート・ハンバートとロリータの逃避行に、影のようにつきまとうクィルティのこと、そしてロリータの行動を思い浮かべてしまう。求める女性の不実、消失というのも、ナボコフの作品に頻繁にあらわれるテーマ。
●「忘れられた詩人」 夭折したと思われていた天才詩人が、五十年の時を経て「オレは生きているぞ」と、姿をあらわす。時代の思潮に揺り動かされる文学批評というものをあざ笑っているのだろう。ランボーではないけれども、じっさいにこういう詩人が存在していたような。

 夜は図書館からのヴィデオで、イラン映画「運動靴と赤い金魚」を観る。監督はマジッド・マジディという人で、1997年の作品。妹の靴をなくし、親にいえなくて妹と靴を交代で履く、幼いおにいちゃんのおはなし。マラソン大会の三位の賞品が運動靴なので、それを穫ろうと大会に参加する。主人公の家族は裕福ではないけれども、ことさらに貧困を強調するわけではなく、こどもたちが家事を手伝う様子や、街中のいろいろな職業の人々の姿から、生活感は濃厚に匂い立ってくる。この兄妹の駆け回る町の路地もまたすっばらしい。キアロスタミの「友だちのうちはどこ?」を思い出す。そんな中で、お父さんが庭師の仕事を探しに行く都市部の高級住宅地とか、先生にテストで100点穫ったごほうびにもらう金色のボールペンとか、子供の視点からの「まばゆいもの」へのまなざしが際立つ。自分の小さかった頃の「目」を思い出してしまう。目にまばゆいもの、いろいろあったなあ。妹にとっては、ほかの女の子の履いている靴も、みんなまばゆい。
 ラストに、それまでずっと子供たちに付き添っていたカメラが宙に上がり、金魚のいる丸い池のま上からその池に足を浸すおにいちゃんの姿を写し、さらにカメラは池の中に潜っておにいちゃんの足と金魚たちを写すとき、この作品はみごとにすてきなファンタジーにずれ込んで行く。ちょっとやられてしまったなあ、という感じ。
 おにいちゃんの半泣きの顔、妹の微笑んだ顔がすばらしくって、この顔で配役したんだろうに決まっている。

 今日のBGMは、Radiohead の「KID A」など、だった。それで、いままでRadiohead を選んだことはなかったので、今日の一曲はその「KID A」から「The National Anthem」を。


 

 

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■ 2010-05-27(Thu) ナボコフ、「魚影の群れ」

[]Magician [Lou Reed] Magician [Lou Reed]を含むブックマーク

 Lou Reed を聴いていたらミイが来た。食事をして、普段は部屋の中に踏み込んでは来ないのに、今日はずんずんと和室の近くまで入って来て、どうしたんだろうと思ったら、CDプレイヤーをしばらく、じっと見上げてから出て行った。そうか、ミイはLou Reed が好きなのか。やはり、わたしと気が合うネコなのだ。

 今日はスーパーが10パーセント引きの日なので、あれこれ買いまくってしまった。ブロッコリーが安かったので買ってしまったけれども、前に買った大きなブロッコリーが、まだ冷蔵庫の中に眠っているのだった。それで今日は、古いブロッコリーでシチューをつくることにした。冷蔵庫からそのブロッコリーを出してみると、表面がいちめん黄色く花咲いてしまっていた。ヤバいけれどもまだ大丈夫。ぶつ切りにしてザルに取り、花の部分を洗い流して使えばいいだろう。じゃがいもも芽が伸びてしまって、ヤバいことになっている。今日はこの際大量につくろうと、普段使っていないデカい鍋(むかしお花見でおでんをつくるのに使った、3リットル入るヤツ)を出して来て、痛みかけた材料をあれこれぶち込んで完成。これで当分はシチュー攻めになるだろう。前にも書いたけれども、シチューは自分でホワイトソースからつくれば、めちゃ安上がりのメニューになるし、市販のルウなんか使うよりもおいしい、と思う。

 夜、DVDで相米慎二監督の「魚影の群れ」(1983) を観る。また脚本は田中陽造だけれども、相米監督もこのあたりで、ただの「ガキ映画」の監督ではないことをみせたかったんじゃないか、などと思う。力のこもった文芸大作、といえるのかもしれないけれども、相米監督のほかの作品にある、わけのわからない異様な高揚感は感じられない。背景音の入ってきかたが、この作品では作為的に感じられるシーンが多い。徹底したワンシーン・ワンカットだけれども、それが効果的なシーンもあり、そうでもなく感じられるシーンもある。主人公の緒形拳が北海道へ行くシークエンスが、いかにも田中陽造の脚本らしくていいけれど、それでもリアリズムが基調のこの作品の中では異質な感じ。

 今日読んだナボコフの短編ふたつは面白かった。
●「北の果ての国」(1940) 未完の長篇の一章として書かれたらしく、面白く読めたのは「長篇」として想定されて書かれているせいではないのか、などと思う。ここまで読んだ感じで、ナボコフの短編は機知が先走ったコントという感じで、だんだん面白くなくなって来ている。ここでは最愛の妻を亡くした男が、「真理」をつかんだ、と思われている男と、その「真理」、そして「永遠」などについての問答が中心になっている。その対話がひじょうに面白い。ナボコフの機知も、このようにはたらけばやはり素晴らしいものだ。
●「孤独な王」(1940) こちらも、「北の果ての国」と同じ未完の長篇の一部だったらしいけれども、「北の果ての国」とストーリーや登場人物がつながっているわけではない。ちょっとコントじみてはいるけれども、ひとりの内省的な男(王)の肖像がくっきりと浮かび上がる。

 今日の一曲は、ミイもお気に入りのLou Reed の「Magic And Loss」から、しっとりとした「Magician」をライヴで。


 

 

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■ 2010-05-26(Wed) ナボコフ、「北国の帝王」

[]Mingus Eyes [Richard Thompson] Mingus Eyes [Richard Thompson]を含むブックマーク

 ミイが攻撃を仕掛けて以来、ノラもユウも姿を見せていない。ユウがミイ(&わたし)のいるところに行きたくないといって、ノラが「しょーがねえな」と同調しているという図を想像する。それでここのベランダはいまはミイの天国。ミイが部屋に入って来て食事して、ベランダに出て行くとわたしもベランダに行き、しばらくミイとコミュニケーション。ミイはときどき、わたしにミャアと啼く。

 夜はまた、イカの塩辛をつくる。つくりはじめてからずっと、冷蔵庫からイカの塩辛の在庫を切らしたことはない。前の塩辛が残り少なくなると次をつくる。最近はイカの解体もコツがわかって、ワタの部分を包丁を使わずに手だけでそっくり分離できる。いっしゅ、ルーチンワークという感じ。それでも、イカの足の吸盤のわっかを取るのが最近はおろそかになったりして、これは塩辛になってもかたいわっかのまま残ってしまって、味覚を損ねてしまう。今日は、ていねいに取ったつもり。

 DVDで、ロバート・アルドリッチ監督の「北国の帝王」(1973) を観る。これはプロレス映画だと思った。それで、この種の「男の闘い」を描くアルドリッチの作品を、わたしはちっとも楽しめないのだということもわかった。先週観た「ロンゲスト・ヤード」にしても、何が面白いのかわからないままだったし、この「北国の帝王」などは、何度か途中で観るのをやめようかとも思った。「何がジェーンに起ったか?」は面白かったんだけれども、わたしは「男嫌い」なのかもしれん。

 ナボコフをいくつか読んだ。
●「リーク」(1939) 前の「レオナルド」みたいに、ゴロツキな男が善良そうな男を暴力的にいたぶり、破滅に追い込む。いたぶられる主人公が舞台俳優ということでディティールをふくらませている。
●「マドモワゼル・O」(1939) 最初はフランス語で書かれたらしい。革命前のロシアで、ついに周囲の環境に馴染めなかった家庭教師の話を、コテコテの文体で描く。
●「ヴァシーリイ・シシコフ」(1939) ナボコフ自身の解説によると、当時ナボコフの作品を評価しなかった批評家をだまくらかすために、まず筆名を変えてその批評家が評価するだろうような詩を発表し、この短編でいっしゅの種明かしをしたと。はいはい。

 今日はBGMに、先日買ったRichard Tompson の「Mirror Blue」を聴いていた。このアルバムは発売当時も買って聴いていたのだけれども、あまり聴いていないし、印象に残っていたものでもない。それが、その後のThompson のライヴ音源などあれこれ聴いたり観たりしたあとに、こうやってこの「Mirror Blue」をあらためて聴いてみると、これ以降のライヴでよくプレイされている曲が多く収録されているし、それで耳になじんでいたのか、いい感じのアルバム。トラッドをへヴィーにしたようなアレンジの「MGB-GT」が今のお気に入り。YouTube にはこの曲がなかったので、Danny Thompson と共演している「Mingus Eyes」の方を。この曲はどうやら、1950年代へのノスタルジーを歌っているような。


 

 

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■ 2010-05-25(Tue) 「広島・長崎における原子爆弾の影響」

[]Rock Lobster [B-52's] Rock Lobster [B-52's]を含むブックマーク

 今日は久々のフィルムセンター詣でで、今やっているのは「発掘された映画たち2010」という、タイトルのわりには内容の地味な特集なのだけれども、この日は「広島・長崎における原子爆弾の影響」という、ある意味問題作の上映。
 この映画については、先日読んだ「天皇と接吻—アメリカ占領下の日本映画検閲」(平野共余子:著)の中に、「原爆についての表現」としてかなりのページもさいて書かれていたわけで、あれこれといわくつきの映画。フィルムセンターのチラシには以下のように紹介されている。

日本映画社のスタッフが学術調査団に同行して被爆直後の広島、長崎の惨状を記録したフィルム。その後占領軍の管理下で完成、GHQによるフィルムの接収、21年後に16mmフィルムの返還という数奇な運命をたどった。今回上映するのは広島市映像文化ライブラリーと日映映像、フィルムセンターが共同で、米国立公文書館(NARA)所蔵のマスター・ポジからデュープ・ネガを起こして35mmプリントを作成、新たな日本語字幕を付したものである。

 ここには書かれていないけれども、日本映画社ではGHQのフィルム(未使用分、資料文書を含む)接収の際に、ネガ発注伝票を二重に出すとか細工して、フィルムを一部提出せずに隠していたわけで、これは昭和27年の日米講和条約の発効後、その隠されていたフィルムからのスチール写真が、日本国内で雑誌に掲載されている。そもそもがこの映画、GHQには知られずに撮影していたのが、長崎でカメラマンが占領軍に拘束されてGHQの知るところとなり、即座にフィルムの提出を求められていたものを「作品として完成させてから」と、日本映画社内で最初から英語版で製作されたらしい。最後まで自分たちの手で編集など作品完成までの執念を見せたのは映画人の意地だったろう。撮影は1945年9月下旬から、まずは広島で撮影されている。

 映画は広島のパートと長崎のパートのふたつに別れていて、それぞれが「物理的影響」「人体への影響」から成る。「物理的影響」は、残された樹木や残骸から爆風および熱線の影響を調査する。熱線は知られているように建築物の石材などに影を焼きつけており、その影の境界線の方向を複数地点で計測し、爆心地(爆弾の破裂した地点)を想定する。また、木の倒れた方向などからも爆心方向を想定する。ドキュメンタリーというよりは科学映画としての製作姿勢で、感情的な見かたはすっかり排除されている。広島の場合わたしは、今では「原爆ドーム」と呼ばれる産業奨励館の、ま上あたりが爆心だと思っていたのだけれども、実際にはそのドームから南東に160メートルぐらい離れた地点だった。その爆心のま下には神社の鳥居があったのだけれども、爆風がま上からだったので崩壊せず、そのまま残っていた。この「爆心ま下だったので崩壊しなかった鳥居」というのは、長崎にも同じように存在していた。熱線のために屋根瓦の表面が溶け出し、爆風で石灯籠が土台からずれてしまっている。
 長崎は広島と違って市街地から少しずれた地点に原爆が投下されていたため、広島のように建築物の火災によって一面に焦土となるようなことがなかったため、土壌や植物への原爆の影響を観察できたらしい。植物の葉が変色している映像が出てくるけれども、カラーではないのでよくわからない。葉の表面がまだらに白く色抜けしているように見える。被爆後に捲いた植物(そば)は普通に成長しているというレポート。淡々とした映像とナレーションで、わたしは少し寝てしまった。「黒い雨」についてのレポートがあったと思う。

 「人体への影響」のパートだけれども、ここでも、ただ症状を記録するだけという姿勢から、製作者の感情を推しはかることは出来ない。ただ、被爆からひと月ほど経っていたこともあり、被爆直後には顕然化していなかった「原爆症」と呼ばれる症状の記録が可能になっている。下痢、嘔吐が続き、当初は伝染病と誤診され、患者は隔離されたらしい。患者の使用していた寝具類が「使用禁止」とまとめられている。患者の毛髪がすでにかなり抜け落ちていて、まだらな髪になった幼い子供たちの映像が、悲しい。そのほかの直接の被爆の影響下の患者たちの映像は、じつはすでに幾多のTV番組などの映像で目にしたものがほとんどだった。アラン・レネの「ヒロシマモナムール」のなかで使われた映像も、ここからのものだった。各患者の映像にかぶさり、その患者の白血球数値データがテロップで出てくるあたりに、この時点で学術調査団には人体への放射能の影響に関しての知識があったということが推測されると思う(じっさいには白血病の発症はもっと遅い時点、1950年代の初めにピークになる)。

 映画のさいごで、はじめて、この映画製作者の心情が語られる。しかしそれは、以後の原子力の平和利用への期待を語るものでしかない。そこには被爆者への追悼のことばもなかったと思う。わたしはこの部分に、この作品が完成すればGHQに接収されることを知りながら最終作業を続けた映画製作者による、自己規制、自己検閲があったのではなかったかと想像する。一面でその姿勢は、あくまでもこの作品を感情を排した「科学映画」として限定しようとする姿勢となるだろうけれども、被爆から二ヶ月ほどしか経っていない被災地を自らの足で訪れ、自らの眼で被爆のありさまを見たものが、この映画で語られること以上に語ることばを持たなかった、これ以上の何も感じなかった、などとは信じることが出来ない。
 でも、この映画製作者たちを、「自分のことば」を語らなかった、と非難することは出来ないだろう。そこにこそ、占領下の日本の抱える表現の問題があったわけだから。
 それにしても、「爆心地点の特定」にせよ、「原爆の人体への影響」にせよ、当時のアメリカにはずいぶんと役に立ったフィルムではあったことだろう。

 ということで、わたしはさっさと現代の日本に逃げ戻って来たのだけれども、家で聴いていた音楽は、そのバンド名が原爆投下したB-29 の後継機、B-52 を名乗るバンドの音楽を聴いていたのだから、「へ?」という感じである。そういうわけで今日の一曲は、B-52's の「Rock Lobster」ということで。



 

 

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■ 2010-05-24(Mon) ナボコフ、「荒野の用心棒」「リード・マイ・リップス」

[]God Bless The Child [Billie Holiday] God Bless The Child [Billie Holiday]を含むブックマーク

 目が覚めてなにか奇妙な感覚で、からだを起こしてベッドから足を踏み出した瞬間に、夢を見ていたことに思いあたった。フラッシュバックのように夢の断片が頭をかすめ、現像液の中で印画紙に画像が浮かび上がるように、少しずつ鮮明になっていく。断片的なストーリーが反復されて、登場人物や会話内容がはっきりしてくる。それでも、欠落している部分がたくさんある。ストーリーとしてひと繋がりに了解できた部分以外は、すぐに記憶から消えてしまう。消え残った記憶の匂いが、部屋にひろがっている。だから窓を開けて外の空気を入れた。雨が降っていた。

 ミイはいわしがお好きではないようで、今日も皿に置いたイワシを避けて、キャットフードだけ食べている。ちょっとだけいわしもかじるけれども、すぐにやめてしまった。いったいどういうところがほかの魚とちがっているのか、聞いてみたいんだけどね。
 昨日買ったB-52's のベスト・アルバムとか聴く。「おまえの頭の上の、いったい何だよ?!」「カツラよ、カツラ、カツラ!」「サリーもカツラ、リッキーもカツラ、ボブもカツラ、ケイトもカツラよ!」‥‥つい、笑ってしまった。

 午後から、BSで「荒野の用心棒」をやっているのを観てしまった。1964年のセルジオ・レオーネ監督の出世作、というか、時代をつくった作品。久々に観返してみると、「用心棒」だけでなく、「七人の侍」の、野盗に妻を奪われる村人の話も翻案されて活かされているわけだった。一般の町の住民はこの妻を奪われた家族以外、まったく出てこなくって、あとはユーモラスな葬儀屋と、用心棒に味方するバーの主人だけ。これ以外は全員が対立するふたつのグループのどちらかに属したならず者。町はまるでゴーストタウンという雰囲気で、これが撮影地のスペインの風景と合わさって、それまでの本家アメリカの西部劇にないシュールな雰囲気。これはこれ以降のイタリア製西部劇の大事なファクターになるし、今日あらためて観て、グラウベル・ローシャの「アントニオ・ダス・モルテス」にも大きな影響を与えていたわけだな、などと思った。イーストウッド自身も、アメリカに戻ってからこのようなコンセプトで西部劇をつくってるし、この主人公のニヒルな雰囲気とシニカルなユーモアは、以後のイーストウッドの作品で決定的なイーストウッドのキャラクターになるわけだ。「グラン・トリノ」だって、この「荒野の用心棒」の延長にある。

 ナボコフの短編全集が、なかなか進まない(あまり面白くない)。今日はなんとか三つ。
●「フィアルタの春」(1936) この時代の芸術家サークルの中での、奔放な人妻との長い交際の思い出。物語を語るのではなく、追想としてのディティールの積み重ねが作品になる。読みにくいのは翻訳が悪いのでは?という気がしてきた。
●「雲、城、湖」(1937) まったく行動の自由の制限された、いやなパッケージ・ツアーのおはなし。このツアーは、当時のナボコフを囲む政治的状況とか、もしくは普遍的な人生の比喩なんだろうな。行きたくもないところに連れまわされ、やりたくもないことをほかの人間とやらされる(主人公以外は楽しんでやっている)。「ここに住みたい」という理想の地をみつけても、ひとりとどまることは許されないのだ。
●「独裁者殺し」(1938) 若い時代のナボコフを流浪の亡命者に追い込んだ、レーニン、スターリン、そしてヒトラーら全体主義国家の独裁者への呪詛。恨みつらみを書いているだけでは作品にならないだろうと思うけれども、その独裁者と作者の兄弟が同級生だったという設定から、フィクションの世界に逃避すると同時に、のちの長篇「ベンドシニスター」への下書き的な意味は見い出せる作品、だと思う。

 夜は、DVDで「リード・マイ・リップス」を観る。これは、ヒロインとして、アラン・レネの「風にそよぐ草」やアルノー・デプレシャンの「キングス&クイーン」に出ていたエマニュエル・ドゥヴォスが出ている。監督はジャック・オディアールという人で、この監督の「天使が隣で眠る夜」はずいぶん以前に観た記憶がある。この「リード・マイ・リップス」は、2001年の作品。
 フィルム・ノワールの系譜を守る監督なのだろうけれども、ヒロインが難聴という設定からの、画面から音を遮断したり、ヒロインの視線自体をクローズアップしていくような演出が、サスペンスを活かしている印象。むかし、冴えない男が犯罪に巻き込まれて、頭脳を使って漁夫の利を得てしまうような映画があったような気がするけれども(タイトルなど忘れた)、これはそういうのの女性版というか、冴えない女性というより、もう疎外されて、都会の底辺で孤独と満たされない欲望にさいなまれるような女性が主人公。これが仕事(不動産関係の社長秘書)の助手に、ムショから仮釈放中の若いチンピラ(ヴァンサン・カッセル)を雇うことで、人生がズレていく。ストーリーにあれこれと伏線が張られているのが、ゴロゴロとあとで活かされてくるのが楽しい脚本で、発展家の友人の奥さんに聞かされるおのろけ話まで、ちゃんと役に立ってくれる。爽快なラストは、チンピラもアタマよく働かせたし、ヒロインもそれに応えてよくがんばったねえ、という感じ。
 ただ、ちょっとばかし対象に寄り過ぎている感じのカメラ、それが作品を活かす一つのスタイルになっているかどうかというと、ちょっと難しいかな、という印象は残った。

 わたしは単純に、映画の中でBillie Holiday の曲が流れてくると、それだけでもうすべて許してしまうようなところがあって、例えばニコラス・ローグの「ジェラシー」だとか、ジョセフ・ロージーの「エヴァの匂い」など、Billie Holiday の声こそがその映画の印象になっているようなところがある。この「リード・マイ・リップス」でも、終盤のクラブ・バーのなかで、Billie Holiday の「God Bless The Child」が流れてくるシーンがある。テクノ風なアレンジが施されていたけれども、彼女の声の部分は正しくもいじったりしていないアレンジで、やっぱり記憶に残ってしまうシーンだった。それで、今日の一曲も、そのBillie Holiday の「God Bless The Child」を。


 

 

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■ 2010-05-23(Sun) 「フランケンシュタインの逆襲」、大倉摩矢子舞踏公演「明るさの淵」

[]1968 [Bill Frisell] 1968 [Bill Frisell]を含むブックマーク

 ミイにあげようと、いわしの丸干しをキャットフードといっしょにリヴィングに置き、窓を開けておく。ミイがやって来て、いわしは食べないでキャットフードだけ食べて出ていった。「は? さかな、好きなんじゃないの?」という感じである。

 レンタル中のDVDが未消化で残っているし、今日は午後から出かけるので、午前中からDVDを観る。イギリスのハマー・プロ製作の「フランケンシュタインの逆襲」(1957)。原題は「The Curse of Frankenstein」、内容も「逆襲」でも何でもないし、先行するボリス・カーロフのアメリカ版「フランケンシュタイン」とも別モノ(リメイク)、おまけにアメリカ版にはまさに「フランケンシュタインの逆襲」というのもあるし、めちゃ紛らわしい。普通に「フランケンシュタインの呪い」でいいじゃん、と思うけれども、この頃(?)の日本の映画配給会社は、逆襲とか復讐とか付けるのがお好きだったみたい。「キングコング」の続編も、島に残っていたコングの息子の話で、原題も「Son of Kong」なのに、「コングの復讐」という邦題になっている。
 ということはさておいて、この「フランケンシュタインの逆襲」、ハマー・プロの二大名優のピーター・カッシングとクリストファー・リーの出演で、監督はテレンス・フィッシャー。先行するアメリカ版よりも、モンスターを造り出すフランケンシュタインその人にスポットをあてているけれども、やはりメアリー・シェリーの原作からの乖離は大きく、原作からは自由な翻案になっている。舞台はスイスになっているけれども、登場人物の服装など十九世紀のイギリスの紳士然としたいでたちで、ハマー・プロ作品に特徴的なクラシカルな格調の高さを感じる。
 作品はみずからの野心的な実験のために犯罪行為にも手を染め、婚約者にも研究を秘密にするフランケンシュタイン男爵に対して、彼の研究目的を批判するようになる協力者(元家庭教師)の良識人、ポールという人物を配することで、善悪の意識を明確に打ち出している。映画は牢獄で斬首刑を待つ男爵が、神父に自分の行為を「信じてはもらえないだろうが」と懺悔、告白することで、過去を振り返るかたちで描かれる。すべてを語り終えたときにポールがあらわれ、男爵はポールに「ぜんぶ本当だったといってくれ」と哀願するけれども、ポールは何も答えない。「そんなことは起こらなかったこと」と、彼の常軌を逸した研究をすべて闇に葬ろうとするポールの意志のようでもあり、また、すべてが狂気の中にあるフランケンシュタイン男爵の脳内妄想なのだ、という解釈も出来ないことはないあたりが面白い。愛人の家政婦や婚約者が彼の実験室の禁断のドアを開け、秘密を知ってしまう場面のテイストは「青髭」。優秀な頭脳(脳髄)欲しさに、招いた老博士を二階から階下へ突き落とす場面、ほんとうに人間が頭から床に激突しているように見える。クリストファー・リーのモンスターは白塗りでかなりグロくって、暗黒舞踏しているような。ボリス・カーロフ版の「フランケンシュタイン」とはテイストも違うし、原作とも別モノだけれども、これはこれで古典的な格調高いホラーとして面白かった。

 DVDを観終って、お出かけ。今日は中野のテルプシコールで、大倉摩矢子さんのソロ公演を観る。ちょっと早く雨の中野へ到着し、時間があるのでブロードウエイへ行ってみる。以前よりもさらにサブカル度が加速した印象もあるけれども、サブカルというよりも、「キッチュ」というべきテイストも強くなっているのか。CD店の店頭のエサ箱を漁っていたら、もう入手できないRichard Thompson の「Mirror Blue」などが転がしてあったのを欲しくなり、ここのエサ箱は5枚1000円でしか売らないのであと4枚、なにか引っかかるものを探す。けっきょく、じつに久々にCD購入。以下の5点。
・Richard Thompson「Mirror Blue」
・Bill Frisell「SPEAKABLE」
・The B-52's「the best of the B-52's 〜dance this mess around」
・Lou Reed「Magic And Loss」
・Tim Oxley「it's all about love」
 Bill Frisellのアルバムは2004年の、Hal Willner のプロデュース盤で、これがあったので、Richard Thompson と合わせて、今日はCD買うぞ、というモードになった。B-52's は、この楽しい脳天気さを久々に聴いてみたくなった。Lou Reed のこのアルバムはちゃんと聴いたことがない。Tim Oxley という人はオーストラリアの人らしい。ぜんぜん知らない。はずかしいけれどもジャケ買い。

 買い物をすませてテルプシコールへ行き、舞台を観る。大倉摩矢子舞踏公演「明るさの淵」。とても美しいチラシを送っていただいたときから、楽しみにしていた公演。

 最近どうも、ダンスという世界がわたしには面白く見えない。なぜだろう、とか考えるわけだけれども、最近のダンスはなにか、イマジナリーなものへの寄り掛かり方が変わってきているような気もしている。それがじっさいに舞台の上で変わってきているのか、わたしの観かたが変わってきてしまったのかはよくわからない。でも、そんな中で、けっきょく、舞踏的な時間との関わり方の中にこそ、そういうイマジナリーなものを越えるポイントがいまなお、存続しているのではないかという気がしている。そういう意味でも、今回の大倉さんのソロ公演は楽しみにしていた。

 非常にシンプルな舞台は途中の暗転をはさんで、ちょうどチラシの表と裏の美しい映像に対応するような二部構成。大きな違いはないのだけれども、わたしには後半が圧倒的に良かった。前半ではバックの音も複数使い、途中でモードも入れ替わる印象もあって、一種の編集作業を経た結果のような仕上がり。ロマの音楽と共に「まっすぐな身体」からずれていくような構成もいいけれども、とにかく後半の、音数も少なく(始まって長いあいだ、無音状態が続く)、一つの時間を途切れさせずに示された舞台は圧倒的、だった。そこにはたしかに「自己表現」などということとは無縁と思えるナマの身体が、眼の前に現存しているということなのか。それは、イマジナリーなものとは無縁な地点に彼女が立っている、ということだったのかもしれない。
 その、ラスト近く、舞台の袖に消えようとする彼女が、わずかに(うなずくように)首を前後にふるような動きを見せたとき、そこに彼女がこの眼の前の「あるがままの世界」をすべて肯定し、受け入れることを示しているようにわたしが深読みしてしまったのか、わけもわからずに深い感動を味わってしまった。いったい、この舞台を観ているわたしとは何なのか。何を受け止めているのか。整理出来ないままに会場をあとにして帰宅した。

 家で、今日買ったCDから、まずはB-52's を聴いた。めちゃ楽しい。B級SF映画の出演者がロックやっている。次にBill Frisell のCDをプレイヤーに放り込んで、そのままふとんに潜り込んだ。聴こえてくるBill Frisell の音の中で、今日観た大倉摩矢子さんの舞台の様子が頭をめぐっていた。もう、あの舞台はあまりに完成されているな、などと考えていた。Bill Frisell のCDをかけっぱなしで眠り、久しぶりに妙な夢をあれこれと見ていた。
 夜中に起き出し、何か夢を見ていた記憶だけは残っていた。脳の表面で繊毛の上にかろうじて乗っかっていたようなその夢の記憶が、風が凪ぐようにさぁっと消えていくのがわかった。

 今日は、その消えてしまった夢のために、今日買ったBill Frisell のアルバム、一曲目の「1968」を「今日の一曲」にしましょう。


 

 

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■ 2010-05-22(Sat) 「吉田喜重 短編ドキュメンタリー集(2)」「トゥルー・クライム」

[]Wrinkles [Wynton Kelly Trio] Wrinkles [Wynton Kelly Trio]を含むブックマーク

 朝起きてベランダの窓を開けると、白いネコがベランダから跳び下りていった。ノラだった。ノラの逃げていった方を見ようとすると、洗濯機のかげにミイもいた。ミイは食事しに部屋に入って来そうなそぶりだけど、そのときにベランダの前の駐車場に注意をひかれたみたいで、からだ全体がしゅんかん「ピッ」と緊張する。駐車場の方をみると、そこにはユウがいた。ひさしぶり、また戻って来たのか、というか、まだこの辺りにたむろしていたわけか。やはり先日ノラといっしょにいたのは、ユウだったのかもしれない。ユウとつるんでいるのか。ユウはこちらを見て啼き声をあげ、駐車場を横断していった。「もうそこには行かないよ」といっているのか、「またエサを漁りに来たよ」といっているのか。
 で、これを見ていたミイはしっぽを低くして警戒態勢をとり、ベランダから駐車場へ降りていく。姿勢を低くして、ユウの過ぎていったあとを追っていくように視界から消えた。うちの玄関の方にまわっていったので、どうするのだろうと思って玄関から出て、外の様子をうかがってみる。急に、見えないところからネコの叫び声が聞こえた。おぉ!と思って、靴を履いて様子を見にいく。もう、ネコの姿はぜんぜん見えなかった。でも、あの様子では、ミイが自分の縄張りを守ろうとして、ユウを追い払ったのだろうと思う。そうとしか思えない。親子なのに、なんて非情な世界なんだろう。

 昼ごろになってミイが来た。やはりミイが縄張りを守ったのだろうか。フードをぽりぽりと食べているミイの背中に、草の実のようなものがあちこちに付いている。近くに寄って取ってやろうとすると、少し嫌がってからだをかわすけれども、逃げることはない。ぽち、ぽちと、背中の草の実を取ってあげる。やはりミイは以前より痩せたのか、それで顔の肉が落ちたのか、前よりも眼が大きく見える。ミイは、日本ネコの特徴的な切れ長の美しい眼をしている。その眼のふちがピンクに隈取りされていて、これが魅力。江戸の浮世絵版画に描かれたネコのよう。眼の美しさでいったら、わたしの見てきたネコの中でもトップクラスだと思う。子供のユウの眼は、ビー玉のようにまん丸だった。

 夕方から、DVDで先週観た吉田喜重のドキュメンタリーの続き、「吉田喜重 短編ドキュメンタリー集(2)」を観る。今回は映画をめぐる二本の作品で、ふたつ続けて観ることで、吉田喜重の考える「映画とは何か」ということの一端を読み取ることができる。どちらも素晴らしい。
●「吉田喜重が語る 小津さんの映画」
 すばらしい小津安二郎論。前にドナルド・リチーの書いた「小津安二郎の美学 映画のなかの日本」を読んでいるけれど、海外の観客に日本の独自の文化から小津作品を解説する内容には、ちょっともの足りない部分もあった。今回はまさに「映画論」である。
 冒頭、「東京物語」の最初の方のシーン、空気枕が見つからないという会話の部分が紹介され、この老夫婦の目に空気枕が見つからなくても、空気枕はいつも存在していて、そのまなざしを持っているという。「まなざし」というキーワードがいかにも吉田喜重らしいけれど、この「モノのまなざし」は、夫婦の上京後に「東京のまなざし」として発展させられると。観光バスからのステレオタイプな東京の街並は映画に写り込むけれども、老夫婦の視線からの東京は、決して画面に写されることはない。東京とは、「見えない都市」なのだ、と。多くの小津映画の引用と小津作品らしい風景のショットに、吉田喜重自身のナレーションがかぶさり、吉田喜重の読み解く小津作品の創造の原理が語られる。小津さんにとって現実の無秩序さは苛酷であり、物語として語れるものではない。彼の映画はそのような現実の無秩序さ、無情さに対抗するという意図があり、それは「反復とずれ」、そして先に書いた「モノのまなざし」によってあらわされていく。この要約ではまるで足りない。もういちど、いや、何度も観返してみたい作品。
●「夢のシネマ 東京の夢 〜明治の日本を映像に記録したエトランジェ ガブリエル・ヴェール」
 リュミエールの時代、世界中に派遣されてフィルムの記録を残した映画人のひとりが、1900年頃に日本に滞在したガブリエル・ヴェール。彼の残したフィルムと、彼の生涯を通じて、黎明期から今に連なる「映画」そのものの問題を浮き彫りにする。じつは観た印象では、日本のパートはこの作品の中でそれほど重要ではない。彼は、当時の日本の急速な西欧化に批判的な考えだったらしいいのだけれども、のちに日本のことを「あいまいな天国」と云っている。
 フランスで、薬剤師からリュミエールに雇われてフィルムを撮るようになり(現像作業も撮影者がやらなくてはならなかったため、薬剤師からの転身が多かったらしい)、中南米からアジアへ派遣されるヴェールは、訪日時で二十九歳か。まず、ポイントは訪日以前の中南米での体験で、現地の人々を撮影する際に、決してカメラに視線を向けようとしない現地人を、スタッフが無理矢理に顔を引き上げてカメラに向かせる瞬間が、彼の残したフィルムに記録されている。フィルムはその瞬間で終っているけれども、吉田喜重は、そのときガブリエル・ヴェールはもうそれ以上撮影することは出来なかったのだろうと推測する。映画撮影ということに潜む暴力性(写されることを暴力的に強いる)を、彼はその時に自覚したのだろうと。ここにはその背後に帝国主義、植民地という問題が読み取れるだろうけれども、吉田喜重はこれらをあくまでも「映画」の問題として捉えていく。そこから先は観るものが考えることだろう。メキシコ滞在中に彼は、実際の銃殺刑の映像、演出された決闘の映像を撮影したらしい。このドキュメンタリーの最後にその「決闘」のフィルムは紹介されるけれども、「銃殺刑」のフィルムは現存しないらしい。これも吉田喜重は、ヴェール自身が破棄したものと推測する。ヒューマニズムの人、という印象が立ち上がる。日本での撮影でも、無理強いするような撮影は嫌った痕跡が残っている。ドキュメンタリーのカメラに潜む暴力性(ドキュメンタリーでなくっても)、という問題は、今でもなお重要な問題であるだろうし、マイケル・ムーアなども、そのことを逆手にとって作品をつくっているのではないかとも思える。
 アジアからフランスに帰ったガブリエル・ヴェールは映画を棄て、なんとモロッコへ移住して、宮廷の写真家として生涯をおくる。生涯をエトランジェとして生きた人だ。モロッコではモロッコ文化へのフランス文化の浸透を批判する書物も残している。

 すでに日本を訪れる以前に、ヴェールは映画の喜ばしき誕生と共に、その行き着く果ての死をも見てしまっていたのである。
 映画は現実と虚構とを弄び、観客を自由に操れる危険な表現である。それは映画の「死に至る病」であった。二十世紀の映画は、この「死に至る病」によって発展し、巨大なメディアとなっていった。そしてそのことが、ヴェールに映画を断念させ、モロッコへと旅立たせた理由でもあったのだろう。

 しかし、その生涯の終るとき、ヴェールはいまいちどだけ、映画を撮影する。「映画による、彼自身の遺言」。モロッコのありのままの映像。踊る少女たち。カラーで撮影された映像は「限りなく美しい」(吉田喜重)。

ガブリエル・ヴェールの遺言に相応しい映画である。写されている踊る少女たち、それを写す側との、限りない平等。それが映画の夢、夢の映画であった。

 夜に、先日のBS放送を録画しておいたクリント・イーストウッドの監督作、「トゥルー・クライム」(1999) を観る。「映画の暴力性」の顕示? でも、イーストウッドはことさらに虚構性を強調することで、「観客を自由に操る」ことを避けているように見えたりする。主題は社会的な主張(死刑制度への疑問)の含まれたリアルなものだろうけれども、ストーリー構成はすべて映画的に誇張されている。シチュエーションの酷似からも無理矢理な展開からも「いとこのビニー」を思い出すけれども、これはいちおうコメディーではない。それでも、展開の中にイーストウッド自身のパブリック・イメージを織り込んだ演出は、近年のイーストウッド作品になじみのもので、つい頬の筋肉がゆるんでしまったりする。こういう娯楽性に富んだイーストウッド作品も、やはり大好き。

 今日の一曲は、なぜかWynton Kelly の1959年のアルバム、「Kelly Great」を聴いていたので、その一曲目の「Wrinkles」を。Wynton Kelly はほんとうにリラックスして聴けるピアニストで、そのサウンドをひたすら楽しむには最高のアーティスト。この「Kelly Great」は、彼のリーダー・アルバムでもわたしのいちばんの愛聴盤。この一曲目のピアノの音が聴こえてくれば、どんな時でも、たましいが安らぐのが感じられる気がする。


 

 

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■ 2010-05-21(Fri) ナボコフ

[]My Girl [Temptations] My Girl [Temptations]を含むブックマーク

 ヤボ用で東京へ行くついでに、水族館劇場の前売りチケットを買うことにする。早くに出てミイに会えないので、ベランダにキャットフードはだしておいて出かける。どうかほかのネコが来ませんように。

f:id:crosstalk:20100522171801j:image:right ヤボ用をすませて、上野駅から千駄木の方まで歩く。晴天の初夏の陽気で、歩いていると汗ばむほど。むかしは住んでいたこの辺りも、けっきょく来るのはほとんど水族館劇場の公演の時だけになってしまった。一年ぶり。少しずつ、街のようすは変わって来ている。おされな店がだんだんに増えて来る。ついに、千駄木の駅の前にあった古めかしいゲームセンターが消滅していた。それでもその前にある電話ボックスはまだ残っている。この不忍通り沿いの古書店まで行き、前売りチケットを買う。ついでに、団子坂を登って本駒込の公演本拠地まで足を伸ばして、今回の公演の建築を見てくる。野外テント公演なのだけれども、水族館劇場のテントはイントレを組み上げて造られ、もはやテントとは呼べはしない。むかしは外装もしっかり手を抜かずに造られていたけれども、このところは外観はちょっとみすぼらしく感じてしまう。

f:id:crosstalk:20100522171845j:image:left 知らなかったけれども、今日が公演初日なのだった。整理券を受け取る観客が並んでいる。まだ造りかけかな、と思って見ていたテントも、今回はこれで完成品なのか。中の観客席まで外から見える。今年は観客席の向きが例年と違うぞ。ラストの借景にいつもと違う工夫があるのだろうか。とにかくこの場所での公演も今年限りのようだし、そうすると来年以降の公演もすぐに開催できるかどうかあやしいものだ。たしか、この場所でやるようになる前は雑司ヶ谷の鬼子母神の境内でやっていたけれど、あそこでも公演を出来なくなって移動して来ているはず。これだけのことをやらせる度量のあるオーナーもあまりいないだろうし、来年からの展望は厳しいだろう。いってみれば、劇団存続の危機、というヤツだろう。とにかく今年は思いっきりやってほしい。

 まだ時間も遅くないので、白山から東大の方まで歩いてしまう。東大前のギャラリーのようになった古本屋を覗いて棚の本を見ていたら、ジャスミン茶をごちそうになってしまった。棚にあった金井美恵子の古い本(「アカシア騎士団」)に値段が付いていなかったので、安ければ買おうと思って聞いたら高かったのでやめた。
 ちょっと歩きすぎたので疲れた。もう地下鉄に乗って帰ろうかと思ったけれども、乗り換えがめんどい(&余計な運賃がかかる)ので、また上野駅まで歩いてしまった。疲れて帰って、すぐに寝た。

 今日は電車の中で、ナボコフの短編をちょっと読んだ
●「ロシア美人」(1934) これはむかし、このタイトルの短編集単行本で読んで記憶に残っていた。「粋な」という形容詞がぴったりするような、ナボコフのダンディズムのようなものが感じられた記憶があったのに、この全集で読んでもピンと来なかった。翻訳が違うせいだろう、と思った。
●「報せ」(1934) この時期には、登場人物とかその身内が死んでしまう作品が多い気がする。ある婦人がパーティーを開くけれども、そのときに別の地で彼女の息子が事故死する。その知らせをパーティーに招かれた客たちは先に知るけれども、当の母親はまだ知らない。しかも彼女は補聴器を使う難聴障害者ときている。ほとんどブラックジョークだろうが。
●「動かぬ煙」(1935) 「神々」、「雷雨」のような、散文詩的な作者の幸福感の描写。レトリックがたっしゃになった分だけ、印象が薄くなっている気がする。
●「スカウト」(1935) ふと隣り合わせた老人の印象から、キャラクターを創りあげる話。創作行為自体を作品にしているわけだけれども、それで面白いわけでもない。
●「人生の一断面」(1935) 女性の語り手による、一人称内的独白。面白いわけでもない。

 今日はここまでだけれども、どうしたんだろう。まるで面白くもない短編が続く。

 今日の一曲は何にしよう。まったく音楽は聴かなかったし、いまさらだけれども、五月の歌でごまかしましょう。‥‥で、いったいなぜ、このTemptations の「My Girl」が「五月の歌」か、というと、この歌詞の中に「五月」が出てきて、歌の主人公はまさに五月にこの歌を歌っているわけだろう、ということから。1965年の、押しも押されぬ大ヒット曲です。


 

 

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■ 2010-05-20(Thu) ナボコフ、「セーラー服と機関銃」

[]セーラー服と機関銃 [薬師丸ひろ子] セーラー服と機関銃 [薬師丸ひろ子]を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20100522085637j:image:left 今日はミイが四回も来た。二回目に来たときに、「ちょっと待ってな」といって、アジの開きを丸ごとあげた。ずいぶん前に安値で買って冷凍してあったものだけれども、あんまり美味しくなくてずっと放置してあったもの。今朝ミイが来たときに、「これをあげよう」と冷凍庫から出して放置して解凍していたのが、二回目に解凍間に合った。やはりネコはキャットフードなんかよりサカナが好き。キャットフードを放ったらかして夢中で食べている。食べきれなくて、半分残して出ていく。昼ごろにまたやって来て、ほとんど全部食べた。午後にもういちどやって来たミイは、窓沿いに部屋の中を移動して、たたんで置いてあった洗濯物の上にのっかって、座り込んでしまった。あららら。そこでじっとして、ちょっと眠りこんだりしている。このまま、この部屋で暮らし始めるのだろうか。それならそれでいい。でも、三十分ぐらいまどろんで、急に忘れていた用事を思い出したように外へ出ていった。
 夕方にまたベランダで気配がしたので、のぞいてみると白ネコのノラがベランダに上がって来ていた。わたしの姿を見てさっと逃げていくけれども、そのあとをついて黒白のブチのネコが走っていった。むかしノラとつるんでいたチビだろうと思うけれども、体つきがユウに似ていたような気がする。チビとユウは、もともと似ているからよくわからない。

 ナボコフの短編全集(2)をだいぶ読んだ。徳田秋聲はすこしお休み。今日読んだのは以下の通り。
●「アカザ」(1932) ナボコフの少年時代の記憶からのものだろう。学校生活のひとコマに、「父が決闘をする」と聞いた心の動揺が重なる。どうもあまりピンと来ない。
●「音楽」(1932) 文章では音楽は伝えられない、ということを逆手にとったような小品で、あまり音楽に興味のない男がサロンのピアノ演奏会に行く。演奏するピアニストの身ぶりなどは描写され、この短編のなかではすっと継続してピアノの音が流れている。それでもいったいそれがどんな音楽かは読んでもわからない。ひとつには主人公が音楽がわからないから。もうひとつには主人公がそのサロンの客の中に別れた妻の姿をみとめて動揺するから。演奏の終ったさいごに、主人公が知人に「そもそも、あれは何という曲だったんですか?」と聞く。男は、「『乙女の祈り』だって、『クロイツェル・ソナタ』だって、なんだっていいんですよ」という。書かれた文章ならではの作品ということで、ナボコフらしい。
●「完璧」(1932) 主人公は亡命した青年で、家庭教師をやっている。夏に、その教え子と母と三人で海辺に滞在する。無為の日々の中で過去を追想する青年。ラストの「ひっかけ」が、ちょっと彼の長篇「絶望」みたいな感じで、つまり読み手は騙されている。やはりナボコフという感じ。
●「海軍省の尖塔」(1933) 書翰による作品で、書き手が「海軍省の尖塔」という作品の著者に宛てた手紙。その小説の中に書かれた恋愛の細部が書き手の体験に酷似していることから、書き手はその小説の作者(男性名)はその、かつての自分の恋人なのだろうと推測している。恋愛事情なんてどんな人物にも共通するような部分もあるだろうし、書き手は勝手に誤読しているのではないか、という読み手の疑問こそが主題なのではないか、と思ったりする。のちの大作「青白い炎」の、作品中の注釈者の誤読ぶりを思い出す。
●「レオナルド」(1933) 乱暴者兄弟の理不尽な暴力の犠牲になる青年。しかし、彼もまたまっとうな人物ではなかったらしい。まったくモラルを欠いた兄弟の、むちゃくちゃな行動が面白い。
●「シガーエフを追悼して」(1934) 憂鬱に囚われた亡命ロシア人青年の心象。シガーエフとは、主人公が最悪の状態のときに救いの手を差し伸べてくれた年長の男だけど、この作品で書かれているのは書き手のことばかり。彼は憂鬱のさ中に悪魔の姿を幻視する。ちょっとばかしホフマン的、というべきなのか。
●「環」(1934) ベルリン時代さいごの作品らしい。プルーストではないけれども、作品のエンディングがまた冒頭につながり、永久の円環を描き続ける作品。ロシア時代にとなりに住んでいた伯爵家の家族への追想。書き手はパリで偶然に、その母親と(かつての)美しい娘に再会する。
 このころのナボコフの短編の文章は、すぐにディティールに耽溺したり、凝った言い回しを使ってみたりで、ひじょうに読み進めにくい。テクニックに溺れている、といういい方も出来るかもしれないけれども、この短編全集(1)のさいごの方の作品の持っていた、作品自体の面白さが希薄になっている印象がある。ここまでで、記憶に残しておきたいと思うような作品との出会いはない。

 夜はDVD鑑賞。昨日ジョニー・とーの長回しを耽溺したから、というわけでもないけれども、先日観た「ションベン・ライダー」が面白かったので借りてあった、相米慎二監督の1982年の作品「セーラー服と機関銃」を観る。なんと、脚本は田中陽造だった。
 この作品でいちばん強烈なシーンはやはり、どこかの寺の境内で仏像のひざに乗った薬師丸ひろ子のシーンからの、そのまま歩き始めてバイクの後ろに乗り、暴走族らと街中を走り回って、最後は薬師丸らのバイクだけになるまでの驚異の長回し、だろうと思う。このシーン、TVででも観たのか、なぜかうっすらと記憶に残っていた。そう、これと、ラストの超ロングの俯瞰でとられた、セーラー服に赤いハイヒール姿の薬師丸の姿の映像。ここにこの作品のテーマ(つまりは、アンチ・アイドル映画?)が凝縮されているような、すばらしいショット。
 アイドルがヤクザの組長になり、ボンド映画のような展開からさいごには機関銃を乱射するというトンデモナイ展開は、おそらく今の時代の映画の観られ方の中ではきっと観客はついてこないだろうな、などと思って、ネットの映画評を見てみると、やはり案の定、だった。映画というものが映画内で独自のリアリティを獲得するような作品は認められない風潮。この映画公開当時は、薬師丸ひろ子の人気もあっただろうけれども、大ヒットした映画だったわけなのに。しかし、ラストシーンを含め、ひとりのアイドルが成長して、女性へと変身していく過程をも描いたこの作品、みごとだと思った。

 今日の一曲は、もう何も考えないでこの曲を。


 

 

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■ 2010-05-19(Wed) 「ブレイキング・ニュース」

[]The Succubus [Annette Peacock] The Succubus [Annette Peacock]を含むブックマーク

 今月の財政状況が厳しい。先日、連続して東京で飲んだりしたせいかと考えていたけれども、そもそも今月は、インターネットの接続料金を一年分まとめて支払ったりしていたせいに違いない。それ以外に理由はない。今年は何とか乗り切っても、来年の同じ時期にはまた支払わなければならないし、さらに二年契約の住宅保険料金の次期支払いも重なる。これから何とかセーブしていかなくっては。

 しかし、この時期は恒例の水族館劇場の公演の季節。毎年いっしょに行っているMさんから「いつにしましょうか」とメールの問い合わせもあり、またチケットを買わなければならないぞ。水族館劇場ばかりは、これは仕方がない支出として計上しなければならない。
 その水族館劇場から来ているDMでは、いつもの駒込大観音での公演も、今年限りになるようなことが書いてある。これは、今年報道された駒込大観音がらみの事件の影響なのだろうか。境内での得体の知れないテント芝居興行への、檀家からの突き上げもあるかもしれないし、もっと別の理由かもしれない。とにかくもう来年からは、あの強烈な舞台は見られないことになりそうなのだから、どんなことがあっても今年は観に行かなければならない。DMに書かれている今回公演の「あらすじ」など読んでも、気合いが入っているなあという印象がある。今回はそのさいごのさいご、公演最終日に行こうかと思っている。Mさんも、「これが最後なら、いちばん前の席を体験してみましょうか」などといっているし。

 今日のミイは、午前中にやって来た。キャットフードを食べてから、少しリヴィングの中の様子をうかがっている。TVの横のスペースにちょっとだけ座り込んで、それから外へ出て行った。

 相変わらず、読書ということが落ち着いた気分で出来ない。

 昼食はもやしとキャベツのスパゲッティー。わたしの場合、キャベツというのは外側からだんだんに剥いていって、ある程度小さくなってきたら縦割りとかして、スライスなりぶつ切りなりするんだけれども、先日この時期に珍しく安く売っていたのを買ったキャベツ、外から剥いていくとなんだか内側がデコボコのブロックに分かれている。なに、これ、と思って二つに割ってみると、内側から黄色いこまかいのがぼろぼろとこぼれて来た。うわあ、虫が喰っているのかと驚いてよくみると、これはどうやら、内側で花が咲いてしまっているらしい。びっくりした。買ったときから、ひねているなあとは思ったけれども、ひねるのも度を越すと、外は成長しないままむりやり開花してしまうということ。ぼうぜんと、奇形植物をみるように眺めてしまった。ひじょうに無気味である。料理には外側の方だけ使って、あとは捨てた。
 夕食には買ってあったさつまいもを使って、さつまいもの炊き込みご飯をつくった。めちゃ簡単でなかなかおいしいのだけれども、さつまいもを入れすぎてしまった。ご飯が主体なのか、ふかした大量のさつまいものあいだにご飯がまぎれているのか、わからないぐらい。もっともっと、さつまいもの分量は少なくていいのだ。パラパラとごま塩をかけて、おかずは自家製イカの塩辛だけで済む。ものすごく経済的だと思う。またやってみよう。

 夜はジョニー・トー監督の「ブレイキング・ニュース」(2004) を観る。これが、めっさ面白かった。とにかくまずは冒頭の、オーソン・ウェルズもロバート・アルトマンもまっ青の長回し。いったいどういう風にカメラをあやつっているのか、単にトリッキーというのでなく、ものすご力を感じる。
 全体に、リアリズムなんて屁とも思っていないような独自の映画世界が繰り拡げられるのだけれども、そこを絶妙にリアルな描写が支える。まさに映画ならではの面白さを満喫出来た。追われる複数の男たち、逮捕劇全体をマスコミにショーアップして報道させ、警察の威信を回復させようとするデスクの女性警察官、それを無視して執念で犯罪者を追う捜査課の男、人質の家族などが入り乱れて、おそらくはコンピューター処理などいっさいしていないだろう実写の迫力も生々しく、説明的描写を排してスピーディーに展開していく。感情を排して無表情に指令を出していく女性警察官、熱く燃える現場の警官、それらに情と頭脳で対抗する犯罪者たちの対比がいい。インターネット中継を通じて犯人と女性捜査官が対話するときにだけ、その女性捜査官の表情が生き生きとするし、犯人の二人が短い会話を交わしながら台所で調理する場面がいい。全体にクールなタッチで貫かれる中で、こういうちょっとしたウェットな部分が、とてもうまく活かされている。
 冒頭のシーンもそうだけれども、撮影がとにかく秀逸で、鳥瞰撮影などうまくまじえた香港市街の道路の描写もいいけれども、多くの場面を占める、犯人の立てこもるマンションの、狭い通路の撮影がすばらしかった。

f:id:crosstalk:20100521093606j:image:right 今日はBGMにAnnette Peacock の「The Perfect Release」を聴いていたので、そこから一曲。オープニング・チューンの「Love's Out To Lunch」が好きなのだけれども、なかったので「The Succubus」を。Succubus というのは魔女のこと、らしいけれども、たしかに、Annette Peacock という人には魔女っぽいところがあった(「あった」って、まだ活動を続けておられるはずだけれども)。
 この1979年リリースのアルバムはかなりロックっぽいけれども、そういう一ジャンルに絞り込めるような活動をして来た人ではない。そのPeacock という名前で連想するのが、ジャズ・ベーシストのGary Peacock なのだけれども、じつは彼女は60年代のはじめに、そのGary Peacock と結婚していたことでこの名前を今でも使っている。Gary Peacock と早くに別れたあとに、こんどはピアニストのPaul Bley といっしょになり、ふたりで即興デュオのライヴ活動を続けたりしていた。Paul Bley のその前の奥さんはCarla Bley だし、Paul Bley はGary Peacock と共演もしている。このあたりの人物相関図はまさに壮観。70年代はこの「The Perfect Release」のようなロック的なアプローチの作品をいくつかリリースするけれども、80年代になるとイギリスで自身のレーベル「ironic records」を立ち上げ、主にピアノの弾き語りとはいえ、分類不能な独自の音世界を極めていた。しばらくの沈黙ののち、2000年にはECM レーベルから久々の新作「An Acrobat's Heart」をリリースして、わたしなんかはびっくりしてしまった。とにかくどんな時代になっても、まさに「ユニーク」と呼ぶにふさわしい人物こそ、彼女でありましょう。


 

 

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■ 2010-05-18(Tue) 「埋もれ木」「喜びも悲しみも幾歳月」

[]Ambient 1 / Music For Airports [Brian Eno] Ambient 1 / Music For Airports [Brian Eno]を含むブックマーク

 だいぶ元気。朝の「ゲゲゲの女房」も面白い展開になって来たし。それでも、なんだか読書がぷっつりとはかどらなくなってしまったような。こういう波は以前からあって、ガンガン読める時期と、まったく活字を受けつけない時期が交互にやって来る。

 昼食は焼そば。つくってリヴィングで食べようとすると、また外からミイがやって来た。わたしのつくった焼そばの、美味そうな香りが外までただよっていったせいなのか、昼時間がわかるのか、きみはおりこうさんだねえと、いっしょに食事をする。

 たまっているDVDの残り、小栗康平監督の「埋もれ木」(2005) というのを観る。つくり込まれたイメージ/映像は、時にハッとするほど美しく、やはりパラジャーノフだとかの映像を連想するし、今回はクジラも登場するもので、タル・ベーラをやろうとしているのか、などと思ってしまう。しかしながら、このナイーヴな脚本は何とかならなかったのだろうか。これは前に「眠る男」でも感じたことだったけれども、今回はそれにも増して気恥ずかしく、稚拙ではないかという印象も出て来る。これだと、ちょっとエコロジックなスピリチュアリズム勧誘映画ぐらいの印象しか残らない。せっかくせっかく、他に類のない美しい映像を捉える技術を持っている作家なのに、ほんとうに残念なことだと思う。こういう場合、プロデューサーがもっと口を出さないといけないんじゃないのか、などと考える。でもハリウッドなどではプロデューサーが口出しして、作品が空中分解してしまったような例もあるから、むつかしいのか。一般の批評がどのようにこの監督の作品を評価しているのかよく知らないけれども、海外での評価が高いということで、すべて監督の好きなように出来る体制がつくられているのかもしれない。「死の棘」が良かったという印象だっただけに、それ以降のオリジナル脚本作品のことが残念に思う。

 夜は図書館から借りているヴィデオで、木下惠介監督の「喜びも悲しみも幾歳月」(1957) を観る。この映画はわたしがまだほんのガキだった頃に、両親に連れられて映画館で見ているのではないかという記憶があるけれど、内容は当然まったく憶えていない。ただ、当時ヒットしたこの映画の主題歌はよく憶えていた。「おいら岬の灯台守りよ」という唄い出しなのだけれども、わたしはこの歌詞をずっと、「おいら岬」という地名の場所があるのだと思っていて、「おいら岬」の灯台の歌だということにしていた。「おいら岬」はきっと、北海道の人里離れた北の果てにあって、吹雪と荒波の吹きよせる苛酷な土地なのだ。そこで暮らす灯台守りはたいへんだよ、と。もちろんそういう間違った認識はのちに修正するわけだけれども、まあこの映画を観るのは初めて、という感じ。
 いままでに観た木下惠介監督の作品はどれも、ちょっと甘ったるい感覚であまり好きな世界ではない。絵はがきのような風景ばかりだなあ、などと思っていた。それでこの「喜びも悲しみも幾歳月」。じつは、かなり面白く観た。灯台守り夫婦(佐田啓二&高峰秀子)の、二十五年にわたる灯台での生活を描いた作品なのだけれども、その描写が何というか、非常にフラットな感じで、大きなヤマ場(まあ、息子が死んだりするけれども)もなく、淡々と進んで行く印象。そのフラットさが、先日まで読んでいた徳田秋聲の小説を読む感覚に似ていると思った。主人公夫婦はただ黙々と灯台守という仕事を遂行して行くだけで、大きな生活の理想だとか夢だとかを思い描いているようには見えない。ただただ、ひんぱんに転勤して行く新しい灯台の環境に適応して行くばかりみたいな。それはなにか特別なところもない、ごく平凡な夫婦の日常の描写の連続になる。これはまるで徳田秋聲の小説のように、「無理想」「無解決」の世界を描いているようにみえる。ただ夫は年を経て「台長」に出世し、娘を嫁がせるというラストは用意されている。ある意味保守の大道のような作品だけれども、その、日常の描き方に、ちょっとばかし入れ込んで観てしまった。
 ひとつには、このロケ撮影の風景が、今まで観て来た木下惠介監督作品のような「絵はがき的」な類型にはまらない厳しさを活写していること、その風景がドラマの中にみごとに活かされていることで、この美しい画面を観ているだけで充足してしまうところがある。いや、それだと、昼間観た「埋もれ木」と同じになってしまうけれども、「埋もれ木」の場合は、ドラマと映像がどこかで分離してしまっている印象がある。それがこの「喜びも悲しみも幾歳月」では、その映像が灯台守という職業の苛酷さを支えもし、その反対側にある日常生活の穏やかさもまた支えている印象がある。最初の赴任地の御前崎灯台の、青い空と白い壁、その向こうの青い海など、まるでスペインの風景のようだし、これが次の石狩灯台になると「デルス・ウザーラ」のようなシベリアの地にも似た苛酷な自然の描写になる(馬ゾリがすばらしい)。いくつかの画面のフレームは例えようもなく美しく、名画の風格が漂ってくるように感じられたりする。ラストシーンなど、その画面の美しさだけで涙してしまう。
 しかし、こういう淡々としたフラットな描写というもの、なにか、日本人のドラマ受容の根っこにこういうものがあるのではないかなどと、徳田秋聲の小説などと合わせて、ふっと考えてしまった。とにかく、今までに観た木下惠介監督の作品では、これがいちばん。

 今日の一曲は、ほんとうは「喜びも悲しみも幾歳月」にちなんで、Incredible String Band の「My Father Was a Lighthouse Keeper」という曲にしようと思ったのだけれども、残念ながら見つからない。かわりに、どこに行ったかわからなくなっていたBrian Eno の「Music For Airports」が出て来たので、まあ今日はこの曲ということにいたしましょう。


 

 

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■ 2010-05-17(Mon) 「ロンゲスト・ヤード」「ポゼッション」

[]I Don't Like Mondays [Boomtown Rats] I Don't Like Mondays [Boomtown Rats]を含むブックマーク

 どうして最近は飲み過ぎてしまうのか? いや、飲み過ぎるというのではなく、以前だったら楽勝だったアルコール量で、早々と出来上がってしまうということだろうと思う。ふだん家で多少は晩酌的に飲んでいた習慣が、昨年来ぷっつり途絶えているのも、アルコールに弱くなった原因だと思う。とにかく気を付けよう。

 思い切り朝帰りの月曜日で、何もする気がしない。昼までベッドに潜り込んで、起き出してそうめんをつくって食べる。食べているとミイがやって来て、いっしょの昼食になる。ミイはやはり少しほっそりしたのか、顔が小さくなってかわいくなったような気がする。食べ終ったミイが出て行くのをベランダから見届けると、この建物をぐるりとまわって、ウチの玄関の方へ行ったみたいなので、ちょっと玄関から外を見てみる。ちょうどわたり廊下の部分の下を、ミイがこちらにやってくるところ。わたしを見て小さな声で啼いていた。

 週末から三夜連続で出かけてしまって、借りているDVDの未消化分がたまっている。昼から、ロバート・アルドリッチ監督の「ロンゲスト・ヤード」(1974) を観た。わたしの頭のはたらきが悪くて、ぼんやりと画面を眺めているだけみたいな。きっと、囚人たちのチームのメンバー集めのあたりは面白いんだろうな。わからない。メインの試合の始まる場面でのスプリット・スクリーンが良かったかな。

 夕食はレバー肉ともやしと豆腐を炒め、玉子を入れてさらに炒めて、かんたんなチャンプルーをつくる。ちょっと大量につくり過ぎて満腹になったけれども、おかげで頭はしゃんとしたかも知れない。

 食後にアンジェイ・ズラウスキー監督の1981年の作品、「ポゼッション」を観る。最悪の体調にも関わらず(もしくは、だからこそ)、これは予想外に驚いてしまう面白さだった。物語は最後までぶれずに、しかもラストには新しい驚愕を与えてくれる。一本の芯がしっかりと直立している感じで、デイヴィッド・リンチ的とは思いながらも、もっとリンチ作品とは別の種類の明晰さを感じる。それは、ここであらわれる「狂気」の描写の明晰さであって、中世ヨーロッパの「悪魔憑き」という事象を現代(1981年)のベルリンという、まことに地政的なポイントにもって来て描いているあたりに、この作品のめざす強い意志を感じる。じっさいにこの作品での夫(サム・ニールが良い)は、世界を陰で操るようなスパイ的な組織で働いているわけで、じつはこの夫妻の陥る狂気は単に個人的な疾病ではなく、政治的情勢をも巻き込んだ狂気だと暗示される。
 イザベル・アジャーニの「狂気」の演技はやはりおぞましくもびっくりで、この種の疑似狂気の類型的な身体を、はるかに凌駕している。例えば地下鉄のコンコースでのシーン、アジャーニの身体はスピードを持って一種の回転運動に巻き込まれていくようにみえる。それが自分で振り回している結果なのか、外からの力で振り回されているのか、みても判然としない。このあたりにも「悪魔憑き」らしさが漂って、ティピカルな名演技だと思う。つねにグングンと移動し続けるブリュノ・ニュイッテンのカメラも印象に残った。

 今日は月曜日。気分も良くはないし、今日の一曲は「月曜日は嫌い」という曲を。


 

 

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■ 2010-05-16(Sun) 「吉祥寺シアターへ行こう。」ほうほう堂、KENTARO!!

[]Do It Again [Steely Dan] Do It Again [Steely Dan]を含むブックマーク

 日曜日。昨夜少し飲み過ぎて、絶好調とはいいがたい体調だけれども、今日も出かける。今日は吉祥寺シアターの五周年記念行事で、ほうほう堂とKENTARO!! のダンスを無料で観ることが出来る。無料と聞くと交通費がかかることも忘れて行きたくなる貧乏性は、さらに貧乏へと自らを引きずり込むのだけれども。

 留守にミイが食事に来るだろうから、ベランダに食事を出しておく。最近はミイ以外のネコの姿をほとんど見かけないので、また変なネコが周辺をうろつくようになったりもしないだろうと思う。自分の弁当もつくって持って行く。
 電車の中で本を読むけれども、頭がぼうっとして何を読んでいるのかわからない始末。吉祥寺に着いても、シアターへ行く道を間違えて通り過ぎたりしてしまう。
 とりあえず一時過ぎにシアター到着。劇場の前のベンチで弁当を食べて劇場へ。今日のイヴェントは「吉祥寺シアターへ行こう。〜遊び心、踊るココロ、見つける。」というもので、ダンスの舞台以外にも、劇場の舞台裏を見せてくれるという「劇場ツアー」とかいうプログラムもあり、客席にも親子連れの姿が目立つ。ダンスのプログラムも、一時から五時にかけて、それぞれ二回ずつのステージがある。わたしは全部観るかもしれない。

 二時からはまずほうほう堂のステージ。子供たちの反応がヴィヴィッドで楽しい。20分ほどのステージが終って出ようとすると、思いがけなくもGさんの姿をお見かけし、じつは昨日のシアター・トラムでもちょっとお姿を見かけたHさんなどと、いっしょにしばらくお話をする。Gさんにはちょっとしたイヴェントの企画があり、それはわたしにも関係のあることがらになる予定。どんなことになるのか。Hさんはいろいろな場所でやっている彼女らのダンスの企画の、次の予定がある。しばらく行っていないので、次は行けるといいのだけれども。

 KENTARO!! の最初のステージが終ったところでGさんもHさんも帰られて、入れ替わりに昨日お会いしたAさんがやって来る。このイヴェントを知らなかったAさんに、昨日わたしが教えていたのだ。Aさんが声をかけたというIさん、Jさんもやって来る(Jさんとは初対面)。これで、わたしはまたほうほう堂、KENTARO!! の舞台を両方観て、今日の四回のステージを全部観てしまうことになった。どちらも二回目の方が良かったかな。

 ほうほう堂の舞台。正面に大きなスクリーンを設け、会場内に持ち込んだカメラからの映像をスクリーンに写す。じつは、同じことを以前大橋可也もここでやっていたけれども。それと、天井から吊るされた二本のロープ(というか、ひも)。普通にステージに登場したほうほう堂のふたりは客席の階段を上り、外へ出て行く。カメラが彼女たちを追って行き、客席からはスクリーンの映像を観る。劇場内の、ロビー、楽屋、舞台の下のスペースなどあちらこちらを踊りながら移動し、これもまたひとつの「劇場ツアー」という感じ。劇場の外に出たふたりは、舞台の奥の搬出口が大きく開けられたところからまた舞台に戻って来て(これら皆、おなじようなことを大橋さんもやっていたけれども)、ロープにぶら下がって、遊ぶ(?)。「遊ぶ」と書いたけれども、彼女たちのダンスはやはり「遊び」という要素が非常に強いと思う。それは真剣身に欠けるなどということではなくて、そこにこそ彼女たちの大きな長所があるだろうと思っている。「ダンスの中に自分の魂を預ける」などということとは無縁の軽やかさ、いかにお互いからだひとつだけでふたりがぶっつかって遊べるか、というようなことを目いっぱい楽しんでいるようで、観ていても楽しい。今日の舞台はそういう、劇場内のあらゆる場所を巡りながら、サイトスペシフィックな楽しみと共にみせてくれる舞台だった。彼女たちのステージは、何年か前の前橋でのステージが印象に残っていたけれども、今日のステージこそ彼女たちらしい楽しいステージだった、と思う。二時からの一回目ではちょっとカメラを振り回し過ぎで、観ていて目が疲れたところもあったけれども、二回目にはそういう面もさっそく改善されていたし、彼女たちのダンスにも二回目の方により精彩を感じられた気がする。ただ、カメラが外に出たりするときに写ってしまう通行人だとか、開かれた搬入口の向こうを歩く人などは、最初の一回目の方に楽しいことが豊富だったと思う。こういうことは演出ではどうすることも出来ない。

 KENTARO!! の舞台のことは、正直よくわからない。まったくの脱力状態から、身体を激しくぶれさせるようにダンスして、そのからだ中の「ぶれ」みたいなものを、例えば指先だとか、例えばあたま、こめかみの部分とかに収縮させて行くのだろうか。その一種の振幅は、やっている方も楽しいだろうな、などと思う。いくら激しい動きをみせても、同じ動きの反復にならない引き出しの多さはすごいのだろうけれども、わたしには、技術的な面からダンスの領域を拡張するようなことはあまりわからないので。

 すべて終演して、Aさんが「ハモニカ横町で立ち飲みでも」などというので、だったらハモニカ横町の「M」に行きましょうと案内する。Aさん、IさんJさんとわたしの四人。ちょうど二年ぶりぐらいに来る「M」は、座敷の畳など少しきれいになっていたけれども、その空気感は変わらない。「カンガルーの唐揚げ」などというメニューもまだある。これだけちょっと高いので、まだ注文したことはないけれど、あれはやはりオーストラリアから肉を輸入しているのだろうか。ホッピーを飲むが、またいろいろと話をしていて飲み過ぎてしまい、帰りの電車の時間に間に合わなくなってしまった。いけない。

 皆と別れて、わたしは下北沢へまた移動して、また「G」へ行ったりする。この夜はBさんと、やはり新しいスタッフのKさんと。カウンターで飲んでいるお客さんの中に、久しぶりのLさんの姿があり、やあ、今夜はLさんに会えたぞ、と喜ぶ。どんな店も、カウンターでひとりで飲んでいる美女というのは必需品である。だからといって、そういう女性に何かを期待したりするのは野暮の骨頂で、正しい飲み方ではない。楽しく飲みましょう。どうせ今夜は帰れないけれど、楽しい夜にすることが出来た、かな。

 今日の一曲は何にしよう。ステージを二回ずつ観たし、昨夜に続いて「G」に行ったりしたので、Steely Dan の「Do It Again」、ということで。


 

 

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■ 2010-05-15(Sat) 大橋可也&ダンサーズ「春の祭典」

[]Don't Forget To Dance [Kinks] Don't Forget To Dance [Kinks]を含むブックマーク

 午前中リヴィングの窓を開けていると、ミイが食事にやって来た。やあ、ミイ、来たね。近くにわたしが寄ってもミイは逃げたりしない。わたしを見て、小さな声で二回ミャアと啼く。ミイが何をいいたいのかはわからないけれども、ミイの気持ちは伝染して来る気がする。人間のコトバにはできない、複雑な気持ちを伝えようとしているわけだろう。

 今日もまたお出かけ。今日は三軒茶屋のシアター・トラムでの大橋可也&ダンサーズの公演、「春の祭典」を観る。まず早めに隣の駅まで歩き、電車の来るまで古本チェーン店をのぞいてみる。DVDの棚をみると、そこに「巴里の恋愛協奏曲」のパッケージが置いてあった。値段をみると500円。先日これをレンタルして、やはりこの作品は自分でDVDを持っていたい、何度も観てみたいと思っていたばかりで、あまりにグッドタイミング。これはきっと誰かが仕組んで、わたしにプレゼントしてくれているのだ。しかし500円は安い、というか捨て値だなあ。つまりは一般的にはオドレイ・トトゥ人気だけで公開された作品だっただろうから、彼女の人気がそれほどでもなくなった今、普通には誰も観ようとしないということだろう。わたしにはうれしいオドレイ・トトゥ人気の降下、であった。

 買ったDVDをバッグにしまい、電車で東京へ。ちょうど開場する時間に劇場に到着。席を決め、外にタバコを吸いに行こうとしたら、ロビーで背中から呼び止められた。振り向くとAさんがチケットを買っているところ。「あれ、Aさん、大橋可也は嫌いなんだと思ってた」などと話しかけると、昨日観たBさんからの電話で、「良かったから観た方がいい」と聴いたらしい。わたしの知人は皆、あまり大橋さんを観たりしないので、今日もきっと誰にも逢わないだろうと思っていたのだけれど。Aさんと話していて、チケット代、当日券が5500円だというのに憤慨されていた。わたしはチラシをよく見ていなかったのだけれども、いかにも大橋さんらしく、世代間格差に対応して年齢ごとの料金設定を設けたらしい。つまり十代は1000円、二十代は2000円ときて、五十代は5000円、これに当日券だと500円プラス。うわ、それじゃ普通だったらわたしはきっと観れないな。世代間格差というのはたしかにあるだろうけれども、中高年の低収入層の増加というのも深刻な問題で、その良い例のひとりが、こうしてここで日記を書いているわけだ。現在の貧富の格差は、いちがいに世代間格差として認識されるものではないとは思うのだけれども。(ただもちろん、この公演を若い人に観てもらいたいという意志は、ここから充分に感じ取れる。)

 さて、公演の方だけれども、最近舞台であまり刺戟的な体験もなかったわたしにとって、久しぶりにヴィヴィッドな舞台観劇になったと思う。
 フラットな舞台はいつもの大橋可也公演の例にならって、装置もなく、奥に畳まれたパイプ椅子がいくつか放置されている。客電のままの舞台をスーツ姿の大橋さんが進み出て来て、大きな三角帽子をかぶる。ここにもうひとり、やはりスーツ姿で白手袋の男がからんでの導入部になるのだけれども、わたしはこの部分のネタはわかった。こういうことはすぐに云いたくなってしまうつまらないわたしだけれども、これはディズニーの「ファンタジア」の中の、「魔法使いの弟子」の部分をやっている。大橋さんが魔法使いであり、白手袋のミッキーはその弟子なのだけれども、魔法使いが居ないあいだに魔法使いの帽子をかぶり、勝手に魔法を使ってしまうという一節。こういうのは、むかし子育てやっていた頃に子供にヴィデオ見せながら自分も見ていたおかげ。でも、そういうディズニーのヴィデオを見て育った若い観客の人たちにも、この部分はきっとわかりやすいものだっただろう。ディズニーでは、たしかミッキーはほうきだとかバケツだかに魔法をかけて掃除をして水を汲むけれど、魔法の制御が出来なくなってしまう。どうやらここでは魔法使いとは振付け師のことなのか、魔法の奥義を盗んだ弟子は、ダンサーたちをあやつって踊らせるのか、それとも、ただ人々をあやつっているのか、大橋可也&ダンサーズのダンスはもともと非ダンス的(日常的所為の延長)なものだから、ちょっとわからない。
 この導入部が終り、パイプ椅子が四つか五つのブロックに並べられ、二人から四人ずつのグループになったダンサーたちが椅子に坐る。おそらくそれぞれは家族を構成しているのだろう。小さな机に置かれたラジカセから、スクラッチ音のようなノイズだらけのストラヴィンスキーの「春の祭典」が流れる。ほとんど無言劇のような緩慢な動きが舞台を占め、徐々に暴力的な気分がまん延して来る。途中音楽はいちど途絶え、ながいこと「プツッ、プツッ」というスクラッチ音だけが聴こえ、また音楽になる。人物は椅子から離れて動き回ることが多くなり、うろついたり痙攣的に転げ回ったりする。椅子が取り払われ、たたずむ人たちにひとりの男が次々にぶっつかって行く場面は、何年か前に起きた秋葉原の無差別殺傷事件のイメージが浮かぶ。大勢の人たちが舞台左右に並んで登場し、音楽に合わせて非常にかったるい振付けでダンスまがいの動作を繰り返す。この群舞の雰囲気は、ピナ・バウシュの群舞の記憶を呼び覚ます。一方で、舞台中央では大橋可也の魔法使いがミッキーの弟子などにボコボコにのされたりしている。

 先に書いたように、日常の延長のような所作の群舞や並んだ人々のダンスはピナ・バウシュの舞台形式を思わせる部分もあるけれども、ここにはピナの(特に後期の)舞台にあった、肯定的な人間讃歌はない。むしろ舞台に拡がるのはピナとは真逆の世界で、暴力による人間関係の崩壊であって、振付け師であるだろう大橋可也も暴力の犠牲になる。これはやはり、ダンスのコレオグラフィーという行為の否定なのだろうか。わたしには、「もうピナ・バウシュ的な人間肯定のダンスはいらない」という態度表明のように感じられたのだけれども。

 実は観ていて、特に終盤の展開など、「魔法使い」の登場ということもあって、先日読んだ阿部和重の「ピストルズ」のことを思い浮かべていた。魔法使いが若者たちの暴力の標的になってしまうという展開も(おそらく偶然)同じだし、先行する「シンセミア」の暴力的な世界をも、この舞台から思い出してしまう。そこに秋葉原殺傷事件の記憶も取り込んだこの舞台、現在の世界を取り囲む暴力を日常生活の延長で捉えた、「非常に刺戟的な」と云うにとどまらず、時代の空気を舞台空間に侵食させるような、また逆に、舞台空間を日常世界に拡張してしまうような、みごとな舞台だったと思う。阿部和重が小説の世界で繰り拡げている試みに、舞台から呼応連係しているような印象もある。「アクチュアル」というのは、こういう舞台のことをいうのだろうと思った。

 舞台がはねて、Aさん(やはり面白い舞台だったと)は帰らなくてはならないのでお別れし、わたしはバスで下北沢へ移動し、「G」へ行ってみた。店のCさんもDさんも元気そうで、新しくEさんというスタッフも。しばらくカウンターで飲んでいると、わたしの名前を呼ぶ人がいるので振り向く。すぐには思い出せる人ではなかったけれども、もう十年以上前にわたしがイヴェントをやっていた時期、そのイヴェントの周辺で何度もお会いした方だった。じつはこの日、いまこの店で個展をやっているFさんがパーティーをやるという。そこまでうかつにも気が付かなかったのだけれども、たしかにギャラリーに並んでいた作品はFさんのもので、もうお顔も忘れてしまっていたFさんもいらっしゃるのだった。じつに久しぶりの再会。案内はしばらくいただいていたのだけれども、クラブ・イヴェントの多いFさんの活動にもすっかりご無沙汰してしまっていた。その、これから始まるというパーティーの席に、ちょっとだけお邪魔させていただき、Fさんと会話。相変わらず活発に活動を続けられているFさんのエネルギーに刺戟を受け、それがこの日はアルコールを摂取する方向に向いてしまったわたしである。また少し飲み過ぎて、それでもまだ早い時間においとまして帰宅する自制心は保っていた。

 今日は「ダンス」というふれ込みの舞台を観て、あれこれと刺戟を受けた(「G」でのFさんからも刺戟を受けた)ので、ダンスの曲を「今日の一曲」に。後期のKinks のバラードではピカイチの美しい曲。1983年の「State of Confusion」に収録されていたもので、同じアルバム収録の「Come Dancing」の(彼らにとって久々の)大ヒットのあとを受けて、ちょっとだけヒット・チャートを昇ったこともある曲。ダンスを忘れないように。

(長くて重たいので、今日からこのブログの1ページの表示を3日分に修正しました)


 

 

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■ 2010-05-14(Fri) 唐組「百人町」

[]When I Was On Horseback [Steeleye Span] When I Was On Horseback [Steeleye Span]を含むブックマーク

 今年も唐組と水族館劇場の季節になり、唐組の公演はもう始まっている。財政的事情(これは恒久的な問題なのだけれども)とかいろいろあって、唐組の公演は行こうかどうしようか迷っていた。今日から水戸の方でやるのは知っていたけれども、たしかに水戸の方がここからは近いし、仮に公演時間が長くなっても、東京だと帰って来られなくなるけれども、水戸ならばその心配はないので、今回は水戸で観てみようかという気持ちもあった。それで上演場所の水戸芸術館のサイトで確認してみると、チケットが東京公演よりも安いこともわかった。これが決定打となって「行こう」と決め、きのうの残りのご飯でかんたんなお弁当をつくり、夕方近くになって出発する。

 先週に続いての、ローカル線下り方向乗車。ちょうど高校の下校時刻のようで、制服姿の男の子たちや女の子たちがかなり乗っている。わたしのまわりの男子全員、熱心にケータイを覗き込んで、さかんに指を動かしている。ゲーム、やってるわけだな。メール打ってるわけではないだろう。でも中にはゲームやってるふりして、ひそかにカノジョとかにメール打ってるヤツもいるのかもしれない。それが隣のヤツとかにばれて、「お、おめぇ、何メールとかしよっとね、誰にやるんか、見せろ」(もう何年も茨城に住んでいるのに、いまだに茨城弁がどういうのか分かっていない)とかいわれ、まわりからからかわれたり。でもそれは、少なくとも、わたしの隣でケータイをいじっている、小太りでメガネの少年ではないだろう。

f:id:crosstalk:20100515092719j:image:left 水戸までちょうど一時間。駅を出て六時少し前に水戸芸術館に到着。やあ、中庭に紅テントがたっている。なかなかと、紅テントにはちょうどいい広さのスペースではないか。芸術館内部のチケット売り場でチケットを買う。整理番号とかはついていなくて、ここではすべて、前売りを買っていようが何だろうが、来たもの順の入場だということ。へえ。
 その中庭の、テントの裏側で坐ってお弁当をかきこみ、タバコを一服して(ここは、今では信じられないほどあちこちに灰皿が置いてある、喫煙者天国だったのだ)、ギャラリー・ショップなどを覗いてみる。見ているとあれこれと欲しくなってしまうので、適当に切り上げて外に出ると、もうテントのそばでお客さんが並び始めていた。わたしも並ぶ。二〜三十番目、かな。だいぶ前の方で観ることが出来そう。アテンダントのような制服を着た女性の方が、観客にチラシなどを配ってくれる。日の暮れかけて薄暗くなってきた緑の芝生の上、同じ制服を着た女性たちが並んで立っているのを見ると、それがまるでフェルナン・クノップフのタブローの世界のように思えたりした。

f:id:crosstalk:20100515092750j:image:right 六時半開場。わたしは前から三〜四番目、中央通路のわきのかなり良好な席を確保できた。芝生の上のテントなので、通路の地面はずっと芝生がむき出しになっていて、これがなんだかとても新鮮に目にうつった。客はあとからあとから入場して来て、七時に開演する頃にはテントの中はほぼ満員になっていた。さて開演。

 今回は「百人町」という新作で、いつもどおり唐十郎の書き下ろしで、なじみの出演者たち(いや、ちょっと顔ぶれは変わって来ている印象か)。百人町にあるラーメン屋<味龍>は、近隣の病院に買い上げられ、近々店を閉める危機に瀕している。ラーメン屋の店員たちと病院長の抗争劇のなかから、出前持ちのチョウと近所の家具屋のタケとの運命的な出合いが立ち上がる。競馬馬をも巻き込んだ物語は、なぜかホメーロスの「イーリアス」をダブらせて行く‥‥。最初に水槽に沈んでいるビー玉から始まるように、バックには海洋冒険物語というテイストも潜んでいる。チョウは海に漂う難破船への出前持ちを妄想するし、ブリキのポンポン蒸気船は、タケの腹の海(!)で揺れる。想像力を具現化する方法なんかいくらでもあるんだよ、といっているみたいで、いつもの唐組公演のように刺戟を受けまくる。演出面で、いつものめくるめく展開という妙は薄いかな、などと少し感じたし、御大唐十郎の登場方法も、今回は実にあっさりしたものだった。それでもやはり、卑近な東京下町的な雰囲気でのドラマから、スケールの大きなファンタスティックな物語を二重写しにしながら大団円にまとめあげる作劇はいつものように楽しむことが出来た。ラストのおなじみの借景も、この水戸芸術館の中庭だとその背後に大きな彫刻作品が通して見られたりするわけでもあり、劇場空間の延長という意味では面白く見ることが出来、ラストシーンとしてはわたしは気に入っている。

f:id:crosstalk:20100515092817j:image:left あいだに休憩をはさんでも終演は八時半ごろ。最近の唐組公演はあまり長くない。余裕であまり遅くならないうちに帰宅することが出来た。しかし、これで関東での唐組公演四ヶ所をすべて体験したことになるけれども、ロケーションの面白さ、チケットの安さ、とにかくその日に来たもの順に入場できるというわかりやすさなどから、これからは水戸公演をずっと観ることにしようか、などと考えるのであった。

 今日の一曲は、その今日観た唐組公演からの連想なので、観ていない人には通じないだろうけれども、そのラストシーンからこの曲を思い出した。またSteeleye Span になってしまったけれども、先日の「Please To See The King」に次いで、1972年にリリースされた彼らのサード・アルバム「Ten Man Mop, or Mr. Reservoir Butler Rides Again」からの「When I Was On Horseback」を。もちろん伝承歌だけれども、このアルバムでの彼らのアプローチは、前作よりさらに土の匂いがしてすばらしいものがある。それだけに一般受けしなかったみたいだけれども。


 

 

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■ 2010-05-13(Thu) 「Century Books 人と作品 徳田秋声」「TOMORROW 明日」

[]Nefertiti [Miles Davis] Nefertiti [Miles Davis]を含むブックマーク

 今日はミイが来ない。昨日ベランダでユウのトイレの始末をして、ユウの匂いが残ってしまったせいかもしれない、などと考える。ネコの縄張り意識は強いから。

 図書館から「Century Books 人と作品」シリーズの、徳田秋声の巻(福田清人:編 佐々木冬流:著)を借りて読む。もう図書館からはあまり借りないようにしようと思っていたけれど、やはり読みたい本が出て来てしまう。読んでいる中央公論社版の「日本の文学」の解説を書いているのは川端康成で、ちょっと入門者向けではないし、収録されている年譜も作品名の羅列ばかりで、どうもわたしなどの興味を惹いたり役に立ったりするようなものではない。それで副読本的に読んでみた。
 徳田秋声の長篇作品、その数は多いけれども、たいていはいわゆる「通俗小説」といえるもので、実際に評価の高い長篇作品はほぼすべて、わたしの持っている二冊の本に収録されているみたい。しかし、通俗小説とはどのようなもので、どういうふうに彼の作品の中では価値が低いと思われることになるのか、じっさいにちょっと読んでみたくなる。あとは徳田秋声という人、じつは短編の名手という評価もあるらしい。手元の本には後期の短編が五〜六編収録されているだけなので、このあたりは、図書館の全集ででも読んでみたい気もする。けっきょく、徳田秋声作品というのは、この本によると、「無理想・無解決」ということになり、夏目漱石などは「フィロソフィーの欠除」と評したらしい。この件に関しては、いま読み始めた彼の「あらくれ」と合わせて、考えてみたいことが出来ている。わたしはここでも、プロットではなくディティール、どこから何をどう見て、どのように書いているのか、みたいな問題が重要なのではないかと思っている。そのことと、「無理想・無解決」ということが絡んで来るのではないのかな。

 夜、やはり図書館から借りているヴィデオで、黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」を観る。1988年の作品で、1945年8月8日、原爆投下前日から運命の時までの長崎を舞台に、その町に生きた人たちの群像劇。前に「父と暮せば」を観て、「善人ばっかし」などと感想を持ったのだけれども、ここでは迫害される朝鮮から徴用された人たちや、苛酷な状況に置かれる捕虜収容所などの描写も、少し出て来る。それでもやっぱりクローズアップされるのはつまりは善良な市民たちで、そんな登場人物たちは、物語のために利用されているのではないかと思う(そう思うと、「父と暮せば」という作品、そんな「物語」から俳優たちを救済する演出を試みていたのではなかったか、と思った)。はなしの中で、前日に駆け落ちした男女の話が出て来るけれども、おそらくその二人は、駆け落ちしたおかげで被爆せずに済んだのかもしれない。もちろん、わざわざほかの土地から長崎に偶然来ていた人もいただろう(広島と長崎の両方で被爆したという人も現実にいたらしい)。とにかく、「ここもまた戦場だ」などと夢にも思っていなかった人々が、いっしゅんにして命を奪われる。人間の歴史で最悪のテロリズムは、いくらそれが戦時下であったとはいえ、どこまでも糾弾されるべきだろう。しかしそれだけに、その糾弾を「物語」を通して描くことは、反戦運動の一環としても、ドラマとしても、困難なことだと思う。もうちょっとフィクション化してもよかった気がする(そうすると、「父と暮せば」になるわけか)。
 わたしは、ラスト近くに出て来る伊佐山ひろ子の娼婦の「やさしさ」には、つい惚れてしまったけれども。

 今日はBGMに、Miles Davis の1968年の作品「Nefertiti」などを聴いていた。いい。それなのにわたしは、このあとの「Miles In The Sky」も「Filles de Kilimanjaro」も聴いた記憶がない。いきなり「In a Silent Way」に飛んでしまう。もういちどこのあたりはちゃんと聴いてみたいのだけれども。
 そういうわけで、「今日の一曲」は、その「Nefertiti」一曲目のタイトル曲を。


 

 

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■ 2010-05-12(Wed) 「ナボコフ短編全集1」「吉田喜重・短編ドキュメンタリー集1」

[]Lark In The Morning [Steeleye Span] Lark In The Morning [Steeleye Span]を含むブックマーク

 朝、ベランダでユウのネコトイレを始末していると、洗濯機のかげからミイがやってきた。ミイはわたしの手もとを見てちょっとたじろいで、「おっさん、なにやっとんねん」と聞いてくる。「これはな、おまえの子供のトイレだったんだぞ。家出しちゃったけれどな。」と返す。「うち、そんなネコ知らんわ。うちのメシ、早ようだしてくれえ。」とミイ。食事をして、となりの空き部屋のベランダの方へ去っていった。

 ずっと曇り空だったのが、午後の三時ごろに外でバラバラッという大きな音が拡がって、窓から見ると雨が降り始めたところ。これが雨粒の大きさがものすごくばらばらで、映画の撮影で、ホースで雨を降らせているのがうまくいっていないような降り方。監督がスタッフに「もっと平均して降らせろ!」と怒鳴る声が聴こえる。普通の雨にまじって、巨大な雨粒が「ボチャッ」と音をたてて落ちて来る。地面にぶっつかって、雨粒が破裂しているのが見えるみたいだ。ひょっとしたら、雹(ひょう)が混じっているのかもしれない。急に風も吹きだして、小さな木の葉があちこち飛ばされている。地面に落ちた木の葉が大きな雨粒の空襲攻撃を受けて、また吹っ飛ばされている。遠くで雷も鳴りだして、まったく外は大騒ぎ。

 今日は、観ていなくても「巴里の恋愛協奏曲」のDVDを再生しっぱなしにしていた。音楽が聴こえてくるだけで楽しい気分。

 残っていた三つの短編を読み、「ナボコフ短編全集1」読了。
●「未踏の地」(1931) 原題は「Terra Incognita」。人跡未踏の野生林の中で迷う三人の探険者。語り手は罹病し、見えるものに文明地の快適な室内の様子が混合して来る。しかし、その室内が幻覚なのか、いま迷っているジャングルが幻覚なのか。
 語り手自体が正常に現実を認識していないというのも、以降ナボコフの作品ではおなじみになる手法(狂った一人称の独白)だけれども、それが異常な言語感覚であったり、視覚的に現実をゆがめて見ていたりする。読者もそのなかで迷わされてしまう。
●「再会」(1931) 「偶然」や「呼び鈴」のように、亡命によって生き別れになってしまった家族の話なのだけれども、これまでのように単純な「悲劇」では終らせていない。
 語り手はベルリンに住む亡命者だけれども、兄はロシアに残り、党の要人になっているらしい。その兄がベルリンを訪れて、ソヴィエトに帰る前に語り手にちょっとだけでも逢いたいと連絡して来る。語り手と兄とのあいだに共通するものも今は何もないように思われ、重い気持ちで語り手の貧しい部屋で再会する。長い気まずい時間が流れるけれども、語り手は兄に雑誌に出ていた「磁力線」と「電力線」のことを質問する。この話題にふたりは熱中して討議する。兄の出発する時間になり、語り手は地下鉄の駅まで兄を送って行き、会話しながら、むかし近所の女の子の飼っていた犬の名前がふたりとも思い出せない。もう、のどのここまで出て来ているのに‥‥。兄と別れたあとに語り手はその犬の名前を思い出す。
 わたしはこの短編が大好き。ストーリーに奉仕するための文章ではなく、説明的にもならないでいる。この兄弟の距離がぐっと縮まる瞬間の、なにげない文章には涙が流れてしまった。そう、ナボコフにはこういう「泣かせる」側面もあったことを思い出したりした。人は表面的な「悲劇」でだけ涙するものではない。
●「重ねた唇」(1931?) 作家志望の男が「文芸誌に作品を掲載してやるから」と騙される、よくありそうな話で、実際にモデルがあったらしい。主人公の書く小説と主人公の内面が混合している冒頭あたりが面白いかな。いじわるなナボコフ全開。

 この巻を読み終えて、あらためて巻末の解説を読むけれども、やはり釈然としない。前にもちょっと書いたけれども、ナボコフの読み方として、これでいいのかという気持ちになる。例えば、

 ここに訳出されたナボコフの短編小説に接するとき、読者は十九世紀のロシア文学とはかけ離れた背景、すなわち、灰色にくすんだベルリン、そこに暮らす孤独な青年、といった世界に戸惑われるかもしれない。

 今どき、いったい誰が十九世紀ロシア文学の延長としてナボコフを読んだりするだろう。しかも、ここで書かれている「灰色にくすんだベルリン、そこに暮らす孤独な青年」などという文句も、じゅうぶんに十九世紀ロシア文学の延長的な捉え方ではないのかと思う。解説者こそが、ナボコフを十九世紀ロシア文学の延長として読んでいる。もちろん、ナボコフにもロシア文学とつながる部分はあるに決まっているけれども、それはナボコフ解釈の「前提」ではないと思う。
 したがって、解説者はこの短編全集の作品を、(まさに十九世紀ロシア文学的に)その主題でもって分類して解説する。彼は作品の完成度の点から、この第一巻の中では「オーレリアン」「博物館への訪問」「未踏の地」を重要と考える。いや、そういうことではなくて、この短編全集第一巻の面白さは、「どのようにナボコフはナボコフになっていくのか」ということを読み解いていくスリルにあるのだと思う。それは、いってみれば、語り口、文体の問題であって、そこからこそ、ナボコフの作品のディティールに耽溺する楽しさが生まれてくるのだと思う。例えば、「神々」での若い若いナボコフの声、「ロシアに届かなかった手紙」の文体と主題、「じゃがいもエルフ」の、ナボコフらしい物語性、「さっそうたる男」の語り口、そして「忙しい男」の謎、などがわたしには興味深かった、ということになる。好きなのは「再会」だけれども、とにかく、読んでいると、「ああ、ナボコフはここからこういうことに自覚的になってくるのだなあ」というのが読み取れるようで、そこにこそ、この短編全集の面白さがあると思った。

 夜はDVD。今夜は「吉田喜重・短編ドキュメンタリー集1」を観る。収録されているのは「幕末に生きる・中岡慎太郎」と、「愛知の民俗芸能 / 聖なる祭り 芸能する心」、「愛知の民俗芸能 / 都市の祭り 芸能する歓び」の三本。じつは観るまでたいして期待していたわけではなかったのだけれども(この次の「吉田喜重・短編ドキュメンタリー集2」の方が、内容的に面白そうだと思っていた)、ちょっと驚いてしまった。
●「幕末に生きる・中岡慎太郎」(1987)
 「中岡慎太郎を表舞台に出す会」という、なんやねん、得体の知れない団体の製作。中岡慎太郎というのは、坂本龍馬といっしょに近江屋で暗殺された人物、ぐらいのことしか知らないでいた。そもそもわたしは、坂本龍馬という人物にもあまり興味がない。このドキュメンタリーで語られる中岡慎太郎像というのは、フィクサーというか、表舞台にあらわれずに隠密的な行動をした人物のよう。ドキュメンタリーは遺された中岡慎太郎の写真を行灯のわきに映し、まずは近江屋事件を障子越しのシルエットで描いてから彼の生涯をたどる。まずは彼の生地から。ひんぱんにその地の風景や中岡慎太郎縁りの建物の映像が写されて、これは小津映画の捨てショットを思わせるものがある。ときどき実際に人物が登場してのイメージ画像になる。あとは彼の書翰や当時の資料を使った説明。やはりこの作品で特徴的なのは、その「捨てショット」的な風景映像の使用、だろうと思う。その1987年の映像の中から、幕末の中岡慎太郎の生きた空気が立ち上がって来るだろう。
●「愛知の民俗芸能 / 聖なる祭り 芸能する心」(1992)
 これに驚いてしまった。基本的には愛知県の各地の祭礼行事の記録なのだけれども、このようなかたちでの記録映像というのは、観た記憶がない。特に、足助町(名古屋からずっと東の山の中)で行われている「夜念仏」、そして新城(しんしろ)市の「放下踊り」、豊根村(長野県境に近い山地)の「花祭り」などの映像には驚いた。ここまで綿密に組み立てられたドキュメンタリーというのは、それこそ驚異だと思う。おそらくは事前の周到な調査とコンテから、複数のカメラからの映像で構築された美しい記録は、「ドキュメンタリー」というよりはやはり「ドラマ」というにふさわしい気がする。しかも、その映像はそれでもドキュメンタリーの生々しさをも保持している。最初は少し観流していた画面を、途中からはくいいるように見つめ、もういちど最初から観直した。「夜念仏」のはじまりの、神秘的な夜の闇の中を歩く人々、「放下踊り」での踊る人々の身体を捉える、複数の視点からのカメラの切り替え、「花祭り」に写る観客の視線と、この祭礼のドラマ性。驚愕、である。
 この作品で捉えられているのは、自然に囲まれた地方の風景であり、その風景を舞台とした祭礼儀式の中から、人々の身体が儀式と芸能とのはざまで動く瞬間瞬間の記録。それは言い換えれば、伝統と個人の身体とが出会い、身体が異化していく記録でもあると思う。それが野外劇場のような自然の中で繰り拡げられたり、特別に聖化された民家の中で演じられたりする。すばらしい。もしかしたら吉田喜重という人の作品の中でも、これがいちばんかもしれない、と思った。
●「愛知の民俗芸能 / 都市の祭り 芸能する歓び」(1993)
 前作と同じようなコンセプトだけれども、これは「自然空間」のなかではなく、市街地やある程度の規模を持った集落のなかでの祭礼の記録になる。カメラ位置などの制約もあっただろうけれども、前作の生々しさはちょっと希薄になる。ラストの有松の「山車からくり」が面白かった。愛知県の民俗芸能は、このような記録を残してもらえて幸せなことだと思う。日本には、まだ限りなくこのような「場」が存在するはずだけれども。

 今日はあまり音楽は聴かなかった。なぜかトルコの軍隊音楽など。そう、先日雨引観音に行ったとき、田植えの終えた田んぼの上の空を、ヒバリが鳴きながら飛んでいたのを思い出した。ヒバリはなぜあんなにも一所懸命に鳴くのだろう、不思議な鳥だな、などと考えてしまう。だからヒバリが鳴きながら飛ぶのをみるのは、なにか自分の中では特別な体験になるような気がした。海外の人もそのように感じるのか、ヒバリを唄った歌は多い。今日はそんなイギリスの伝承歌から、Steeleye Span が1971年に発表した傑作アルバム、「Please To See The King」に収録されていた「The Lark In The Morning」という曲を。この曲は、女の子が農夫の少年と一夜を過して、朝になって少年との別れを惜しむような曲だったと思う。「空にはヒバリが飛んでいるわよ」、と。


 

 

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■ 2010-05-11(Tue) ナボコフ、「巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)」

[]Pas Sur La Bouche (from Alain Resnais's Film) [Lambert Wilson & The Girls] Pas Sur La Bouche (from Alain Resnais's Film) [Lambert Wilson & The Girls]を含むブックマーク

 ユウは、戻って来ない。けっきょく、まったくなつかないままで出ていった。ネコはふつう人間をそんなにおそれるものでもないだろうけれども、人間にひどい目にあわされたことなどが記憶に残っていると、いつまでも人間をおそれたりするらしい。動物のPTSD。ユウの場合もそういう体験があったのだろうか。わたしはいじめていないが。

 やっぱり、ユウがいなくなると多少の虚脱感みたいなものはあるけれども、まるで交代のように、ミイが時に食事にやって来る。ユウが来る前と同じ状況に戻ったわけになる。ベランダの窓を開け、リヴィングの窓際に食事のトレイを出しておく。今日はわたしが気がつかないうちに、皿の中のキャットフードが目減りしていた。ネコは静かにやってくるので、なかなかこちらが音で気がつくことがない。

 今日もハローワークへ行く。帰りにレンタルヴィデオ屋。増村保造監督作品も、あるだけは観てしまったので、これからどうしよう。あとこの店にかなり揃っているのは、新藤兼人監督作品だとか。あまり食指が伸びない気分もあるけれども、「裸の島」とかは観てみたい。その棚をみていると、徳田秋聲原作の「縮図」があった。こういう映画があるのは知らなかったし、観たいと思ったけれども、これはまず原作を読んでからにしようと、おあずけ。今日はまだ観ていない吉田喜重監督の短編ドキュメンタリー集(1)を借りる。吉田喜重監督の作品を、また最初から観なおしてみるのもいいかも。ほかに、小栗康平監督の「埋もれ木」、アルドリッチ監督の「ロンゲスト・ヤード」、ズラウスキー監督の「ポゼッション」を借りる。ぶらぶらと棚を見ていると、アラン・レネの「巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)」があるのを見つけて、また観たくなってしまい、これも借りた。
 ちょっと図書館に寄ってなかをぐるりと周り、徳田秋聲の全集とか、ぱらぱらと開いてみた。全四十二巻。ほかにすることが何もなければ、いつまでもだらだらと徳田秋聲の全集を読み続けていくというのもいいなあと思う。日記をちょっと読むと、成瀬巳喜男監督の映画を観たなどと書いてあった。

 ナボコフの短編全集、その一もあと少し。

●「さっそうたる男」(1930?) 列車のコンパートメントで知り合った女性を騙そうとする色事師(死語)の独白。主人公の内的独白のような一人称記述で物語が同時進行していく。不思議なのは、主人公が自分のことを語るときに「ぼくら」という複数形を使っていることで、最初は主人公のグループが何人かいるのかと思って読み始めるけれども、実はひとりなのだ。これは主人公の自我の分裂を主人公自身が認識しているということなのか。そのわりに、そういう自我の分裂はストーリーで重要なファクターというわけでもない。ただ、このあたりの、饒舌で飛躍するちょい悪主人公の独白文体から、「ロリータ」の、ハンバート・ハンバートの独白文体への距離は近いと思う。初期の「面白いストーリーを書いてみました」というようなコント作品から、この時期になると、彼の短編の質はまったく違うものになって来ている印象。

●「悪い日」(1931) ロシアでの少年時代の記憶から書かれたような作品だけれども、やはり、記憶を辿りたぐりよせるような、主人公を取り巻く環境の描写のなかに、イヤな思い出の反面にある強いノスタルジーを読み取れると思う。その、思い出すのもイヤだけれどもやはり懐かしいという意識が、この短編を美しいものにしているのだろう。こういう気持ちには、わたしにもこころあたりがある。

●「博物館への訪問」(1939) ナボコフの書いた注釈だと、この作品の発表されたのは1939年になっているけれども、執筆順に収録されているこの短編集の順番で考えると、1939年頃に書かれたのではないということなのだろう。おそらくナボコフの短編ではもっとも有名な短編で、フランス郊外の博物館を訪れた男が中で迷い、通路を抜けるたびに非現実的な展示室に入ってしまう。やっと博物館から外に出ると、そこは雪の降る現在のソヴィエトの中だった、というもの。一種の混乱の中に主人公が置かれ、彼を取り巻く世界が向こうからぐるぐると変化していく、というのも、ナボコフの作品ではおなじみになる世界。わたしは「ロリータ」ではなく、最初にこういう世界からナボコフにのめり込んだわけだけれども、この作品では、それがナボコフには珍しい、カフカ的な迷宮の世界のかたちであらわれている印象。

●「忙しい男」(1931) これはちょっと難物で、主題は「時間」であり、また「記憶」のことなのだろう。幼い頃に見た夢での「予言」、三十三歳の誕生日に自分は死ぬという脅迫観念に取り憑かれた男が、その「死」を逃れようとする。というか、「己の自我」を究明するのに忙しい。とりとめもないようなこの短編の文章の示すものを探り当てるのは難しいけれども、しかし最後に書かれたこの「光明(?)」は何なんだろう。

すべてがどういうわけか柔らかく、光にあふれて、謎めいていた——まるで彼には理解できず、最後まで考え抜くことができなかった何かがそこにあるみたいで、もう今となっては時すでに遅く、別の人生が始まり、過去は息を引き取り、死が無意味な記憶をすっかり、すっかり消し去っていたのだ、つつましい一生をひっそり終えようとしていた人里離れた養老院から、偶然の機会によって呼び戻されたあの記憶を。

 ここで書かれた養老院からの記憶のセンテンスは、そっくり同じにこの短編の冒頭にもあらわれている。ある何かの永劫回帰のことを書いているのだろうか。それでこの短編も永劫回帰すると。

 DVDは、今日見つけたアラン・レネの「巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)」(2003) を、さっそく観る。これは二〜三年前にいちどDVDで観ている。そのときは「おや、アラン・レネだ。こんなタイトルで、いまはどんな作品を撮っているんだろう」ぐらいの興味で借りて観たのだけれども、これがあまりにも楽しい作品で、その楽しさの勢い余って、三回ぐらい続けて繰り返し観たりして、このときの体験がなければおそらくは、先日の「アラン・レネ全作品上映」もスルーしていたかもしれない。前回観たときにはサビーヌ・アゼマやピエール・アルディティらのアラン・レネ作品常連組俳優のことも知らなかったし、先日アラン・レネ作品をたっぷりと観たあとで、やっぱりこの「巴里の恋愛協奏曲」、もういちど観てみたくなったわけ(ちなみに、再来週にはBSで「恋するシャンソン」が放映される!)。

 で、その作品。もとは1925年のオペレッタ「Pas Sur La Bouche」(「唇はダメ」という意味だろう)で、このオペレッタは二年間のロングラン公演というヒット作だったらしい。これをアラン・レネらしく、映画的に舞台の再現を目論んだ作品といえると思う。「スモーキング/ノー・スモーキング」のように、ち密で美しい舞台が再現され、1920年代の衣裳(つまり、ベル・エポックですな)の俳優たちが唄う。
 おもな登場人物は三人の女性と四人の男性、これとアパルトマンを管理するやり手婆さんみたいなおばあちゃんを男優が演じていて(じつはこれが志村けんそっくりだと思えるけれど、フランスでは有名な俳優らしい)、あと四人の若い女性のコーラスがときどき加わる。
 妻にとって自分が最初の男であることが重要だと考えている富豪がいて、そのことで貞操は守られると信じている。じつはその妻は夫と結婚する前にアメリカ人と結婚した過去があり、そのことはもちろん秘密にしているし、愛人をつくって発展したいと思っている。彼女の愛人の座を求めて二人の男性がまわりをうろついて求愛しているけれど、一方は若過ぎ、一方は醜男で彼女は相手にしない。その若い方の男に秘めた恋心を抱いている若い女性がいて、妻にはオールドミスになってしまった妹がいる。そこに夫の商売相手というアメリカ人が突然招かれるのだけれども、そのアメリカ人が妻の前夫だったと。妻は自分の過去が漏れるのを防ごうとするし、アメリカ人は彼女とよりを戻したいと思い、様子をうかがい始める。これが最後には三組のカップルにおさまってめでたしめでたし(ひとりあぶれるけれども)。

 なんだか徳田秋聲の小説だとか昨日観たウディ・アレンの「マンハッタン」みたいな愛欲絵図(死語)で、あたりまえだけれども、同じような状況を描きながらそれぞれのテイストはまるで違うということに、じつはちょっと感動してしまった。とにかく、ここでは軽い喜劇の体裁のオペレッタ。オペレッタというのは、地のセリフの部分も多いので、ミュージカルと同じような形式だと思う。この作品では舞台は三度転換し、つまりは「三幕」の出しものというかたち。

 映画は、お茶会のテーブルの上のカップ類を真上からとらえるショットから始まり、カメラがさらに上昇して(引いて)、テーブルのまわりの女性コーラスの面々が上のカメラを向いて唄い出す。このカメラがつまりは観客の眼で、俳優たちはひんぱんにカメラに向かってカメラ目線で内緒ごとを語ったりする。広い舞台の中をカメラは自在に動き回り、その演出とともに名人芸を感じさせる。カメラはレナード・ベルタ。圧巻は第二幕の夜会の場で、タイトルになっている「唇はダメ」という曲から、続けざまに四曲ほど連続するのだけれども、曲自体もどれも楽しいのだけれども、この畳み掛けるような、柱や鏡、階段、そして照明をものすごく効果的に使った演出から受け取る高揚感はただものではなくって、わたしは今回観ても、この場面があまりに楽し過ぎて、ずっと涙を流していた。フィナーレも最高で、やっぱりこの作品はめちゃ楽しい。それがただのストーリーの楽しさ、歌曲の楽しさを越えて、映画的な楽しさ、つまりはアラン・レネの演出やレナード・ベルタのカメラを思い切り楽しめる作品になっているところが、わたしのお気に入り。自分でこのDVDを持って、繰り返し観たいと思える数少ない作品の一つ。また借りているあいだに何度も観るかもしれない。今でもわたしの頭の中には、「マラケ河岸の23番地」がぐるぐるとまわっている。
 そう、レネ映画の常連、サビーヌ・アゼマはやはり素晴らしいのだけれども、もうひとりの常連のアンドレ・デュソリエがこの作品には出ていない。歌が苦手だったのか。でも、特典に収録されている、フランスでのこの作品の「特報」に、アンドレ・デュソリエもたっぷりと出演していた。やはりもう、今となっては、アラン・レネといえば、サビーヌ・アゼマとアンドレ・デュソリエの二人の顔が浮かんでしまうのを止められない。

 今日の一曲は、もうやはりこの映画の中から、その楽しい「唇はダメ」の歌の部分を(選んだつもり)。歌っているのは、レネの「六つの心」にも出演していたランベール・ウィルソン。


 

 

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■ 2010-05-10(Mon) ナボコフ、「爛」「マンハッタン」

[]For Shame Of Doing Wrong [Richard & Linda Thompson] For Shame Of Doing Wrong [Richard & Linda Thompson]を含むブックマーク

 ユウが、逃げてしまった。
 良い気候になって来たので、和室も窓を開けて網戸だけにしていたのだけれども、おそらくはそこからの風を感じたのだろう、わたしが和室から出て、また入ったときに、網戸めがけて突進して、網戸をやぶいて飛び出して行ってしまった。網戸の下の方は前から縦に少し破れていたのだけれども、まさかネコがぶっつかって抜けられるとは思っていなかったし、まさにその場所を狙ってぶっつかっていくなんて、思いもよらなかった。
 最近またミイが来るようになって、わたしの気持ちもぐらついていたのだろうか。まるで無意識のうちに脱出口を用意してやって、わざと逃がしたのではないのかと、自分自身を疑いたくなってしまう。この部屋に愛着があったり、ここでしか食事が出来ないと思えば、またやって来るかもしれないけれども、これからユウはどうするんだろう。

 けっきょく、壁にめいっぱい傷をつけられて、カーテンも引っ掻き回され、さいごには網戸を破かれたという、部屋の記憶だけが残った。ちょっとばかし茫然としてしまった。わたしも、飼い主としてはきっと失格だったのだろう。
 しばらくすると、リヴィングの方にミイがやって来た。ミイがまた来るようになって、交代にユウは出ていったわけか。そういうものなのか、と思う。ちょうどユウにあげようと、冷凍のメザシを解凍させていたところだったので、「ミイ、ちょっと待ってな」といって、ミイにメザシをあげた。ガツガツとさかなに噛み付いているミイを見て、「ミイを飼えるだろうか」と、以前何度も考えたりしたことをまた考えたりする。野良ネコという生き方から脱却させたいけれども、ユウで試みたような部屋飼いが、ミイに可能だろうか。ユウでもつまりは失敗しているのに。

 ユウがいないならいないで仕方がない。嘆いても何にもならない。さっと気分を切り替えて、いつもの生活に戻る。

 読書。徳田秋聲の「爛(ただれ)」、読了。
 客商売から浅井というリッチな男の妾になった、お増という女性が主人公で、浅井がお増への嫉妬に狂ってしまった妻と別れ(この前妻はその後田舎で狂死する)、その正式な妻の座を得るけれども、浅井はつまりはまた別の女性とうつつを抜かすようになる。しかもその相手のお今という女性は、浅井が彼女の若い頃から身柄を預かって面倒をみて、お増も同居している女性なのだ。生々流転といいますか、過去の浅井の妻の立ち場をそっくり引き継いでしまうようなもので、お増もおかしくなりかけるけれども、お今を嫁にやって、とりあえずは、めでたしめでたしで終る。
 いままで読んだ「新世帯」「足迹」「黴」などの、ストーリーがあるようなないようなフラット感よりは、構成がしっかり組み立てられているという印象で、作品の完成度で考えれば、これまでの三作品からは群を抜いていると読めるだろう。しかし、徳田秋聲の作品の面白さは、そういうプロットを楽しむだけのものではないので、読書の楽しさはこれまでの作品でも同じだと思うし、「フラット感」こそが秋聲作品の面白さだと思うとすれば、物語展開の明確なこの作品は、そのまさに物語性が欠点という読み方にもなりそう。
 けっきょく、登場する女性たちはたいてい、いかにして浅井という男の寵愛を得て、それを持続することができるかと腐心するだけ、ともいえるわけで、この作品に浅井のいいかげんさを糾弾する姿勢はみじんもないから、フェミニストが読めば激怒するだろうな。ここにときたま、お増の妾になる前の友人のお雪というのがお増のところへ遊びに来て、その近況を語っていったりするのだけれども、お雪もまた役者上がりのやさぐれた男にくっついていて、まったくかたぎの生活から離れてしまっているわけで、お増はお雪がいつかのたれ死にみたいになってしまうのではないかと心配したりしている。この話がいいバックボーンになっていて、物語にふくらみを持たせている印象。
 つまり、「あの男が好きだ、いつまでもあの男といっしょにいたい」という女性たちの奏でる不協和音というか、それこそ爛れた世界の描写なのだけれども、書かれているのはもっともっと表層にとどまっていて、街なかを歩いたり、買い物をしたり、煙草を吸ったりしながら、どうということもない日常会話を繰り返しているだけ、ともいえる。内面描写も薄い。それが生活感を漂わせながら、その裏側から感情が静かに爆発していくさまを捉えていく文章が面白い。薄くてフラットだといっても、作品として貧しいなどとは決していえないだろうところが、徳田秋聲の小説の面白さだろうと思う。ここまで読んで、かなりハマってしまった。次は「あらくれ」だ。
 ちなみに、この「爛」は、60年代に増村保造監督が新藤兼人の脚本で映画化していて、お増はもちろん若尾文子、浅井を田宮二郎という魅力的な配役になっている。観たいのだけれども、DVDになっていない。調べたら、ちょうど先週のゴールデン・ウィーク中に、東京の名画座で公開されていたらしい。おしい、ちょっと遅れてしまった。

 ナボコフの短編はふたつだけ。

●「じゃがいもエルフ」(1929) サーカスで暮していたこびとを、人の悪い手品師が自分の妻を利用して、たちの悪い騙し方をする話。まさに残酷でアンモラルな物語なのだけれども、登場人物がそれぞれ皆ちょっとしたゆがんだ魅力を持っているようで、いままでのナボコフの短編では、これがいちばん好き。いままでのようなストーリーに奉仕するだけの人物ばかり登場するのではなく、コントを越えて、ようやく小説としての魅力に富んだ作品になっているという印象。サーカスのなかのスクラップスティックな世界の描写がすばらしい! ここに、わたしの好きなナボコフがある。

●「オーレリアン」(1930) 短編集「ナボコフの一ダース」に収録されていた作品で、この作品はそれこそ「蝶」がいっぱい出てくる作品として、これだけはしっかりと記憶していた。「ナボコフの一ダース」では、たしか「夢を追う人」とかいうタイトルだったと思う。田舎町で、親から引き継いだ展翅類の標本を売る店を経営している主人公。展翅類についてのことは本で読んで誰よりも詳しいけれども、生涯いままで、いちども住んでいる町から遠くへ出たことがなく、彼の夢である展翅類の採集旅行をいつまでも果たせずにいる。標本も売れないので文房具も扱っている彼の店にある日コレクターが訪れてごっそりと標本を買っていく。思いもかけない大金を手にした主人公は、妻にも内緒でついに採集旅行にひとりで出かけようとするのだが‥‥。
 冒頭、路面電車の走る大通りから、歩いている旅行者の目のように、ドリー移動するカメラのように町を描写していく最初の文章がいい。やがてその旅行者(もしくはカメラ)が曲がり角のバーの中へ入っていき、そこにいる人々を描写していく。そのなかに主人公がいて、彼の外見の描写から物語が始まっていく。
 しかし巻末の解説に、あっさりとこの作品の結末を書いてしまっているのは、これはいかがなものかと思う。

 夜、DVDでウディ・アレンの「マンハッタン」(1979) を観る。複数の男女の色キチガイ的愛欲模様ということで、昼間読んだ徳田秋聲の「爛」とも通底するものなのだけれども、わたしにはこの映画、なにが面白いのかわからない。そもそも、このタイプのウディ・アレンの作品が苦手。前に観た「ハンナとその姉妹」とか「ウディ・アレンの重罪と軽罪」とか、いつも同じことをやっている。「アニー・ホール」にしたってそうだっただろう。ちょっと知的なキーワードをちりばめてインテリジェンスを醸し出し、それでも気取ったバカをあざ笑う。そのあざ笑うのはウディ・アレンの視点と決まっている。でも彼の映画の中の彼自身も滑稽な存在なのだけれども、その滑稽さをどこまでウディ・アレンが意識しているのかがわからない。オレも滑稽だけれども、オレは許されるのだ、と思っているようにみえる。この作品のラストでも、勝手に捨てた元愛人に「よりを戻してほしい」とこれまた勝手に求愛するわけで、どうみてもこの作品の中でもいちばん滑稽な人物になるわけだけれども、なぜか映画の中で、彼には救済のチャンスが与えられる。その救済のチャンスが、わたしにはどうしてもウディ・アレンの自己愛によるものと見えてしまう(もしくは作者としての特権意識、だろうか)。そうすると、彼は映画の中であざ笑うために登場させる人物たちと、自分とは違うのだと言っているのだろうと思えてしまう。ヴァン・ゴッホをヴァン・ゴーグと発音する気取ったエセインテリ人物を陰で笑いながらも、自分は「カフカ以下の自尊心にされた」などと気取ったことを言い、そのことは許されるらしい。だいたい、なぜ彼はいつも人のことを「陰で」あれこれ悪口をいうのか。好きになれない。やはりわたしには徳田秋聲がいい(もうちょっと、「爛」のことはこの「マンハッタン」とも比較して書きたいけれども、疲れた)。

 今日のBGMは、Richard & Linda Thompson をいくつか聴いていた。「Hokey Pokey」とか、「Pour Down Like Silver」など。「Hokey Pokey」のボーナストラックの、タイトル曲のライヴ・ヴァージョンが素晴らしかった。「Pour Down Like Silver」は好きなアルバムだけれども、やはりとても暗い。「Night Comes In」などはどうしても、つげ義春の「夜が掴む」を思い出すような暗黒。今日はユウに逃げられてしまったこともあって、なぜか「For Shame Of Doing Wrong」がこころにしみる。「バカをやったことを恥じる」というのはいつものことだけれども。今日の一曲は、この曲の1980年ドイツでのライヴ、らしい。見たい。
 そう、昨日、Aksak Maboul のアルバム・ジャケットをいっしょにアップしたけれども、わたしの持っていたCDでは、このジャケットのイラストはカラーだった記憶がある。むかし、左側に立つ男の、その「元気の良さ」が問題になっていたらしいけれども、そのことと関係があるのかな?


 

 

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■ 2010-05-09(Sun) ナボコフ、「遊び」

[]A Modern Lesson [Aksak Maboul] A Modern Lesson [Aksak Maboul]を含むブックマーク

 目が覚めると、口の中に妙なしびれるような感覚、味覚が拡がっている。昨日のタケノコだと思う。牛乳を飲んでも消えない。午前中いっぱいは、この口の中の感覚が気になった。失敗だったなあ。

 窓からベランダの外を見ると、向かいの家の庭に、ミイらしいネコのいるのが見えた。ミイに違いない。こちらに背中を見せて座りこんでいる。なんとか呼び寄せようと思って、窓を開けて、キャットフードの袋を手に持って、ガサガサ振ってみた。ミイはその音に気がついてこちらを振り向き、なんと、サッとこちらに向かって走り出し、フェンスを乗り越えて駐車場を横切り、すぐにベランダの下まで来て、わたしを見上げている。素晴らしい! 「やあ、来たね!」と、皿にキャットフードを盛ってベランダに置く。ミイはベランダに上がって来て、黙々と食べはじめた。やっぱ、ミイがいいなあ。なかなかなつかないユウよりも、ミイをこそずっと面倒をみたくなってしまう。人間は勝手だ。
 気候もいいし、ずっとベランダに面した窓を開け、部屋の中にキャットフードを置いていると、昼ごろにまたミイが来て、食事をして行った。ミイとわたしの、美しい関係の復活だろうか。とにかく、何かうれしい。

 DVDで、増村保造監督の「遊び」(1971) を観る。製作会社の大映がこのあと倒産するので、これが増村保造監督さいごの大映での作品になり、DVDもこの作品までしかレンタル店には置いていない。連続して観て来た増村保造作品も、とりあえずこれでおしまい。
 当時人気の出て来た関根恵子主演で、原作は野坂昭如。ヤクザのチンピラがウブな女の子を騙して、ヤクザ組織に上納しようとするけれども、騙しきれずに二人で逃げる。そういう女性を欲望のターゲットとする視点は、この前の「でんきくらげ」「しびれくらげ」とも共通しているだろうけれども、演技付けでも前作を踏襲しているようで、特に男優の、一本調子の、短いセンテンスをたたきつけるようなセリフまわしが気になる。女性を騙そうとするときも、ホンネでぶつかるときもまったく同じ。途中でちょっとイヤになった。関根恵子も同じような演出で演技しているけれども、その中での感情のニュアンスはまだ聴き取れる。しかしこれでは、物語をふくらませていくようなディティールはつくり込めないだろう。観終っても、なんだかあらすじだけをざぁっと説明されたような感じになる。
 ただ、映像作品として、フレームを組み立てていく演出はさすがに増村保造監督で、ひとつのシークエンスでも、切り返しではなくカメラ位置で視点をどんどん変えて行く。このあたりの切り替えのタイミングとか見事なもので、これはもう、俳優の演技ではなくて映画を成り立たせるものを求めた、その結果なのではないのか、などと思う。

 ここまで増村保造監督の作品を観て来て、やはり良かったのは1961年の「妻は告白する」から、1967年の「華岡青洲の妻」あたりまで、という感じがする。つまり、やっぱり若尾文子とのコンビの頃。「華岡青洲の妻」以降もユニークな作品はつくっておられるけれども、なんだか作劇がめちゃストレートになってしまっているように思える。映画内に、根底のストーリーから離れる「逃げ」がなくなったというか。

 ナボコフの短編を引き続き読む。今日は四編。

●「乗客」(1927) 小説家と批評家との会話で、夜行列車の中で作家が目撃したあるできごと(単純にいえば、ただ男が泣いていたということなのだけれども、これに男が乗って来た駅の近郊で、夫が妻を殺害して逃亡している事件を捜査する警察が列車に乗り込んで来て、作家はその泣く男が犯人なのではないかと思う)を語り、作品と実人生との関係をめぐっての対話になる。まさに、先日保坂和志の著作で読んだ「小説は現実の行為のように単純でない」への反論になるのが、わたしにとってはタイムリーで面白い。作家は列車の中で泣いていた男の、その泣いていた理由はわからないし、これからもずっとわからないだろうという。批評家はこれに対して、「ぼくは言葉の力を擁護しよう」と語り、「君たち小説家は、少なくとも何かすばらしい解決策を考え出せるはずだ」という。おそらく作家は、現実のわけのわからなさと、言葉の力とのあいだで、宙吊りにならざるを得ないのかもしれない。作家は、現実の行為の理由などわかりっこないのだ、といっているのかもしれない。

●「呼び鈴」(1927 ?) 息子が母親と革命で別離し、何年も経って亡命先で再会する。母親は老け込み、しかも若作りをして、息子よりも若い愛人と逢おうとしているところだった(たぶん、母親は娼婦になっているのだろう)という悲劇。バッド・タイミングである。映画「哀愁」や、日本の戦争未亡人の悲劇に共通するものといえるだろうけれども、ここでは母子の問題になっている。父親の不在は、実際にこの時期に父の暗殺されたナボコフの心情の投影なのだろう。自分が陥った悲劇だったかも、という思いもあっただろう。

●「名誉の問題」(1927) 根底は「決闘」をめぐるコントなのだけれども、ディティールがしっかり書き込まれて、ストーリーテラーとして急に成長したナボコフという感じがする。ぜったいに「落ち」があるはずだと思いながら読み、ある意味で、「え?」とかわされる。ナボコフの、読者への不躾さと残酷さを感じる気がする。
 読んでいて、意味のよく解らない文章に出っくわし、「どういうこと?」と思っていたんだけれども、わたしはこの短編、別の訳者のもので持っていたことに気が付いて、そちらでその解らない部分を読んで、ちゃんと了解出来た。そういう意味で、この短編全集での翻訳は「あかんやないか」と思う。翻訳者は巻末の「解説」も書いている諫早勇一という人で、自分で所有していたのは、小笠原豊樹訳の「四重奏/目」に収録されていたもの。さすがに小笠原豊樹である。あとでこの二つの訳文を読み比べてみたく思った。

●「クリスマス物語」(1928) よくわからないけれども、革命後のロシアに残った作家たちが、新しいソヴィエトの方針に乗っ取って、どのように作家活動を継続していこうかと話し合っているのを、亡命してベルリンにいるナボコフが想像して書いているのだろう。ソヴィエトではクリスマス(当然、革命精神に反する宗教的行事という認識だろう)をどうしているのか、可哀想なソヴィエトの作家たちよ! と。こういう作品はちょっと、解説ででも背景を説明していただきたいものだ、などと思う。

f:id:crosstalk:20100510100607j:image:right 今日の読書のBGMは、Kinks の「To The Bone」、All About Eve のベスト盤、そしてAksak Maboul の「Un Peu de l'Ame des Bandits」などを聴く。BGMにいいと思っていたBrian Eno のCDが、また聴こうとしたらどこへ行ったのかわからなくなってしまっていた。久しぶりに聴くAksak Maboul がやはり良かった、というか、何度も聴いてしまって、読書のじゃまになってしまった。
 このCDはもうとっくに売却したもののコピーなんだけれども、ジャケットなどのコピーがなくなってしまって、参加ミュージシャンとかバックグラウンドとか、わからなくなってしまった。とにかくFred Frith とかChris Cutler が参加していたはず。むかしは国内盤タイトルは「ならずもの」だと思ったけれども、今は「無頼の徒」らしい。グループ名の中には、わたしの名字も隠れているのだ(Aksak というのはトルコ語で、「足を引きずって歩くもの」という意味らしいけれども)。
 今日はその強烈な一曲目、「A Modern Lesson」を。副題に「Bo Diddley」とついているけれど、この痙攣的な音がBo Diddley に結び付くのだろうか。Frank Zappa の「Uncle Meat」を思い出す、というか、見事なまでの後継者、という感じだけれども、Aksak Maboul は、この1980年のアルバムで終ってしまったのだろう。


 

 

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■ 2010-05-08(Sat) 雨引観音

[]Over The Hills and Far Away [Gary Moore & Chieftains] Over The Hills and Far Away [Gary Moore & Chieftains]を含むブックマーク

 朝起きたら窓から見える空がまっさおで、外から差し込んで来る日の光が室内を照らすのを見ていても、どこかへ出かけてみたくなった。ここのところは「筑波山へ行きたい」願望なのだけれども、ここから車を使わずに筑波山に行くには、いちどTXで「つくば」まで、筑波山のわきを通り過ぎて行かなくてはいけない。そこからバスに乗る。これは軽い気持ちでは出かけられない、ちょっとした旅行ぐらいの経費がかかってしまう。今日思いついて出かけるには躊躇してしまう。ちょっと前にその筑波山への道を調べていたときに、筑波山の北側にも連なっている山々の、その北の端の方は、この近くのJRの駅から軽く歩いて行けそうなのを見つけていた。山の中に「雨引観音」とかいうのもある。おそらく駅から徒歩2時間かからないだろう。ということで、今日は午後から、その「雨引観音」を目指して歩いてみることにした。

 ちょっとつまらないことを書いてみるけれども、関東平野という広大な平地の中には、霞ヶ浦という大きな湖がある。これは、関東平野を女体とみれば、そのお ま ん こにあたる。そして、その霞ヶ浦の北に隆起している筑波山とは、これはク リ ト リ スに相当するだろう。阿部和重はこのようなことを東京に限定して、皇居のお堀と東京タワーをなぞらえたようなことを書いていた記憶がある(マンガの「デトロイト・メタル・シティ」にも東京タワーに関しては似たような比喩が出て来る)けれども、関東平野全体からみれば、ちいせえのである(皇居というポイントをおさえている点は認めるけれども)。東京などは、その関東平野女体の肛門、それもイボ痔みたいなものであろう。悪化してしまって、大きく赤く爛れて腫れ上がってしまっている。もうぐちゃぐちゃで、治療不能だろう。東京なんてそんなもの。
 だからつまり、関東平野を制覇しようと欲すれば、まずは筑波山を攻略しなければならない。そして霞ヶ浦。これがわたしが筑波山に注目する理由なのだけれども(うそ)、今日はそこには行けずに、その筑波山の北側に隆起する山々を攻める。ここはつまりは、関東平野の恥 丘ということになる。こんもり生い茂った恥 毛に囲まれた、ここもまた聖地である。(アップしたあと、さっそく「Four Letter Words」で検索してたどり着いてくるものがあったので、検索避け処置をした。)

f:id:crosstalk:20100509103726j:image:right 昼食を終えて、ローカル線の駅に出て水戸方面への電車に乗り、三つほど先のI駅で降りる。所要時間十五分ほど。駅前のロータリーはきれいに整備されているけれども、あたりに商店など一軒も見当たらない。もうこの周辺はそんなに高くはない山々に囲まれている。歩いて駅の反対側、その目的地の雨引観音方向へ行くと、赤茶色に鋪装されたサイクリング・ロードにぶつかった。そうか、わたしが見た地図には出ていなかったけれども、これは旧筑波鉄道の廃業後、線路跡地をずっとサイクリング・ロード(「りんりんロード」というネーミング)にしてしまったもの。土浦まで続くこの道を歩いて行けば、その雨引観音の近くまで行けることになる。交通量の激しい茨城県の幹線道路を歩くより、よほど快適な行程になるだろう。このサイクリング・ロードを歩くことにする。サイクリング・ロードとは書いてあるけれども、散歩道としてウォーキングも奨励されている。この道をずっと歩いて行けば、筑波山の入り口にもたどり着いたりするのだけれども、行程は20キロにもなる。道を進んでいると、正面にその筑波山の姿も見えて来る。とにかく車のことを気にしないで歩けるのは快適。まわりの水田は、このゴールデン・ウィークに田植えを終えたばかりで、初夏という空気感。歩いているとちょっと汗ばむ。単調な道を約一時間歩く。

f:id:crosstalk:20100509103821j:image:left 「雨引観音入り口」という表示に出っくわし、その表示に従って道を左に進む。少しずつ山道っぽくなって来て、突然に、「関東ふれあいの道」という遊歩道の入り口に出る。この道が雨引観音への近道になりそうなので、こちらを歩く。
 遊歩道と書いてあったけれどもつまりはハイキング・コースで、傾斜の強い石段などもあって、「遊歩」という気楽な道ではない。ちょっと息が切れた。ただ、「山道」という空気は濃厚で、樹木につつまれた、鋪装されてもいない細い道を歩いて行くのは、爽快な気分にはなる。

f:id:crosstalk:20100509103915j:image:right 雨引観音到着。山号寺名は雨引山楽法寺で、真言宗の寺である。本尊が観音像で、これは国の重要文化財になっているらしい。ちょっとした山の頂上に社があり、ここまで車で来た観光客の姿が大勢見受けられる。ここに掲示された「寺史」を読むと、開かれたのは587年にさかのぼるという。ひゃっ、そんな古い寺ってあるのか。法隆寺よりも古いではないか。推古天皇が病気になり、ここに祈願して回復したとかいう伝説もあるらしいので、たしかに相当古い起原があるのだろう。まあもちろん当時の建造物が残っているわけでもないだろうけれども、このあたりは日本史の中でも相当古い時期から要所だったことは知っているから、納得はいく。
 孔雀の放し飼いにされた境内をぐるりと廻ってから下山。途中に大きな椎の木があった。わたしは大きな木が好きなので、かなり興奮するけれども、その木のまわりに引きがないので、木の全貌が見渡せないのが無念。

f:id:crosstalk:20100509104002j:image:left 帰り道は、さっきの「関東ふれあいの道」をそのまま辿って行くと、起点にしたI駅に着くようなことを書いてあったので、その道を進む。少し行くと表示があったのでたしかめると、なんと、わたしは道を逆に辿ろうとしていたようだ。その道を進むと、まさに筑波山の方に行ってしまう。そこにある地図を見ても、途中で分岐しているらしいI駅方面への道がわかりにくく、分岐点が見つからない。あきらめて、来た時の道を逆もどりしてI駅を目指すことにする。テクテクと歩く。帰り道の方が時間が早く感じる。途中に1キロごとに標識があるので、自分の足で普通に歩いてどのくらいかかるのか、計ってみた。どうやら、わたしの足で普通に1キロ歩くのに、12分ぐらいかかる。まあ思っていた通り。
 I駅に着いて、電車到着まで少し時間があるので、駅の周りをぶらついてみる。この地域の商業地域は駅から少し離れたところにあって、古い洋品店や八百屋などが並んでいる。なぜか中華料理店が多い。大きな店が二つ、普通のラーメンののれんを出しているような店が二つ、近い場所に並んでいる。ちょっと歩き疲れたので、そばとか食べて、クーッと、ビールとか飲みたい。残念ながら、見つけたそば屋は店を開けていなかった。
 北の方に進むと、わたしの住む町の北を東西にはしっている国道が、ここまで延びて来ていた。その国道に沿って、川が東西に流れている。川幅は狭く、岸辺に雑草が密生していて、入水自殺とかに似合いそうな川。あの岸辺の雑草のあいだに流れ着いて引っかかるような溺死体は、きっと美しいだろうと思った。

 駅に戻り、ちょうどやって来た電車に間に合うように、ホームの階段を駆け上がり駆け降りて、開いていたドアから跳び乗った。電車の中で、帰りにスーパーに寄って、ビールと、そして何か刺身とかを買おうと考える。
 駅に着き、スーパーに行くと、朝堀りのタケノコの小さいのが百円で売っていたのを、ひょっとしたらまだ生で食べられるかもと、買ってみる。ほかにビールと豆のおつまみ、かつおのたたきのパックなどを買う。ほとんど金のかからない小旅行ハイキングだったので、この位の浪費は許す。

 帰宅。四時間半の短い行程だった。風呂をたてて湯に浸かり、持ち込んだ徳田秋聲の「爛」を少し読む。風呂で読む徳田秋聲は似合いすぎる感じで、湯の中の身体の感覚と読書で得られる感覚とが共鳴するような気持ち良さがある。
 風呂を上がり、ビールを飲みながら剥いたタケノコをわさび醤油で食べてみる。うん、美味しい部分もある。しかしたいていの部分にはもう苦味のようなものが出ていて、これはもう手遅れ。しかも、口の中に変なアクのような味がいつまでも残ってしまい、手遅れというよりも失敗だった。
 かつおのたたきでビールを飲み、ご飯も食べて早めにベッドに潜り込み、徳田秋聲を読みながら早い時間に寝てしまった。今日はDVDも観なかったし、ナボコフも読まなかった。

 今日は自宅で音楽も聴かなかったので、今日の小旅行からの連想で、「丘を越えて遠くまで」という曲を「今日の一曲」に。「Over The Hills and Far Away」という曲はLed Zeppelin にもあるけれども、もともとはイギリス伝承歌の世界で唄われていた曲にこのタイトルのものがあり、この「Over The Hills and Far Away」というのにはいくつかのヴァージョンが存在していると思う。Led Zeppelin にもトラッドへの指向性はあるので、このあたりを意識してのレパートリーだったと思う。今日のは、アイルランド出身で、やはりトラッドへの指向性を濃く持っているギタリスト、Gary Moore が1986年に放ったヒット曲で、彼のオリジナルだけれどもやはりトラッドへの意識はあるだろう。そういうわけで、このYouTube 映像のように、Cheiftains との共演というものも出て来る。


 

 

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■ 2010-05-07(Fri) ナボコフ、「黴」「天国の門」

[]Struggle For Pleasure [Wim Mertens] Struggle For Pleasure [Wim Mertens]を含むブックマーク

 朝から黒い雲が拡がり、今にも雨になりそうだったのが午後に降り出した。家の中、ユウのトイレの猫砂が床の上にあちこちちらばっていて、これはとても非衛生的だと思う。猫砂の種類を換えなければいけない。

 徳田秋聲の「黴(かび)」読了。前の「足迹」が途中でふいに終ってしまったあとを継いで、これは秋聲と「足迹」のモデルになった妻のはまとのいきさつで、ちょうど「足迹」の終ったところから始まるという感じ。ここでは秋聲は笹村、はまはお銀という名になっている。視点は笹村とお銀のあいだで任意に入れ替わるけれども、内面の描写は淡白で、文章は映画シナリオのト書きのように、視覚的要素に重点をおいて捉えていく。このふたりはしょっちゅう「別れるか、別れないか」とやっているわけだけれども、その原因は夫が妻の結婚前の男関係が継続していると疑うようなもので、あまり根深いものとも思えない。徳田秋聲への批評などを調べると、「無思想」などというキーワードにぶっつかるけれども、描写が表層にとどまる印象があるゆえに、前に書いたように「フラット」な印象が残る。原理がないのだから、登場人物が突然に心変わりしたり、ふいに新しい事態が起こっても、それがこの小説を新しい展開に導くようなものでもない。ふたりの主人公の行動を追って、それをふたりを包む環境のすばらしい描写と共に楽しむような小説だろう。

 妻のお銀は、おっとりしているようでも勝ち気な性格のようで、ふと夫に対して強気に出るところなど楽しい。知り合った当初(お銀は母と共に笹村の手伝いに雇われている)、笹村が「出て行け」とひざでお銀を小突いたとき、お銀が「あなたわたしを足蹴にしましたね」と歯向かうところなど、笑ってしまった(ここは徳田秋聲の師匠、尾崎紅葉のパロディかしらん)。笹村は時に自分の内面も覗き込むのだけれども、そういう場合でもかなり客観的に自己を捉えているように読める。次の引用は珍しく笹村が自己分析している。

 笹村の興奮した神経は、どこまで狂って行くのか解らなかった。どうすることも出来ないほど血の荒立って行く自分を、別にまた静かに見つめている「自分」が頭の底にあったが、それはただ見つめて恐れ戦(おのの)いているばかりであった。口からは毒々しい語(ことば)がしきりに放たれ、弛(ゆる)みを見せまいとしている女のちょっとした冷語にも、体中の肉が跳(と)びあがるほど慄(ふる)えるのが、自分ながらも恐ろしくも浅ましくもあった。そんな荒い血が、自分にも流れているのが、不思議なくらいであった。

 このような分析ができるというのは、温和な人である。同じ時代の、田山花袋や岩野泡鳴の欲望丸出しの「自然主義」とはまるで違う。おそらくはこんな自己分析を出来るあたりに、徳田秋聲の真骨頂があるのではないか、などと思った。次は「爛(ただれ)」を読むぞ。

 ナボコフの短編も読み進める。今読んでいるベルリン時代の作品創作の背景は、ブライアン・ボイドの「ナボコフ伝 ロシア時代」にいろいろ書かれているようなので、そちらを読んでみたくなった。今日読んだのは四編。

●「ベルリン案内」(1925) ナボコフは自ら解説で「私のもっとも手の込んだ作品の一つである」と書いている。作品はパブで友人に語ったことという体裁で、「下水管」「路面電車」「労働」「楽園(エデン)」、そして「パブ」の、短い五つの章から成っている。前の「神々」のような、ベルリンのスケッチと読めるけれども、この五つの章は、それぞれがナボコフの見ている写真に写っているものなのではないか、と思ってみる。そこで、この写真を見ているのは1925年のナボコフを越えて、未来の視点をも想定しているのだろう。「未来の回想をちらっと覗き見していた」という文がラストにある。ナボコフの作品には、「写真」がいろいろとあらわれてきていたのではなかったか。ナボコフの「手の込んだ」工夫はわからなかった。

●「おとぎ話」(1926) 「すべての女性たちを自分の思い通りになびかせることが出来たなら‥‥」という、世の男性諸君の夢想をコントにしたもの。ナボコフは解説で「今回この翻訳作業にとりかかりながら、ほぼ半世紀前に書いた短編の中で、いささか老いぼれてはいるが、紛れもないハンバートが彼のニンフェットに付き添っているのを見て、私はぞっとするほどの驚きを感じてしまった」と書いている。たしかにこのコントには、「ロリータ」など、のちの彼の作品にあらわれる男性の欲望の具現化、というテーマへの意志があるだろう。

●「恐怖」(1926) ナボコフは「サルトルの『嘔吐』に、これは少なくとも十二年先んじていた」と書いている。主人公の眼に、世界はその役割や機能を捨てて、「あるがままの」姿で見えるようになる。「私の目の前にはたんなる何ものか、傍を動いていく何ものかがあるだけだった」。
 しかしナボコフがここで書いているのはイメージ、表象の世界のことであり、そのディティールの問題なのだから、存在論的なものとは無縁であるだろうと、言ってしまえる。ヒントではあるだろう。

●「剃刀」(1926) 前の「ロシア語、話せます」と同趣向の、人格化されたソヴィエトへの復讐心のコントなのだけれども、ここには、その復讐心を「小説」という形式の中で昇華させようとする意志があると思う。

 DVDはマイケル・チミノ監督の「天国の門」(1980) を観る。3時間39分。とにかくまずは、ヴィルモス・スィグモンドの撮影がすばらしい。最初の卒業式でのダンスの場面、人物にピタリと照準を当ててびゅんびゅんと廻っていくカメラ。逆光線の中に立体的に群集を捉えるカメラ。赤い砂塵の舞う荒れ地での残虐な戦いを記録するカメラ。これを観ているだけで作品の長尺は乗り切ることが出来る。ヴィルモス・スィグモンドでも、この作品が最高ではないだろうか。
 物語は、国家が移民を抹殺しようとした過去のアメリカの大きな恥、そこでの無力な知識人の問題を主題としている。この作品で描かれたことが史実とはずいぶんと異なるらしいというのも、この作品への嫌忌気分の原因になっているらしい。わたしには、この作品で描かれる主人公のジム(クリス・クリストファーソンが演じる)の行動がどうもよくわからなくて、何をどうしようとしていたのか、まあそこにこそ知識人の無為を読み取れるように思うけれども、どうもいまいち納得が行かない。ラストにポーツマスだかで船に乗っているジムは、そこが移民たちのアメリカ上陸への窓口だったということを想っているのだろうか。そこに彼の過去の行動への悔恨があるのか。死んだ女性を思っているだけなのか。船室で傍らに坐る妻らしい女性へタバコの火をつけてやるときの彼のぎごちなさが、意図的な演出なのか、マイケル・チミノ監督の演出力やクリス・クリストファーソンの演技力に由来するものなのかもわからないから困る。
 やはりわたしの印象に残ったのは、ネートという男で、これはクリストファー・ウォーケンが演じているのだけれども、観ていてこのルックスは誰かを思い出させると思っていたら、近年のジョニー・デップを思わせるのだった。とにかく、移民としてアメリカという国に同化しようと努力する姿が痛々しい。ホーソーンの小説を読んで英語の書き取りを勉強し、住まいの壁には壁紙として英語の新聞をいちめんに貼る。ジムと娼婦の女性(イザベル・ユペール)をめぐって争うけれども、ジムへは友情を感じていて、ここに彼の人間味が読み取れる(この作品には人間味を読み取れるような人物が少ない。このネートと、娼婦のエラぐらいか)。殺し屋まで引き受けてアメリカ人になろうとするけれども、さいごには国家の不条理に抵抗して死を迎える。住まいの壁の新聞紙が、燃え上がって剥がれていくシーンが悲しく、美しい。

 今日はBGMにWim Mertens を何枚か、そしてBrian Eno の「Ambient 1 / Music For Airports」などを聴く。「い〜の、い〜の、ぶらいあん・い〜の」と、麻生久美子は「時効警察」の中で言っていたけれども、Brian Eno は、読書のBGMにやはり、とってもい〜の、であった。これからも読書のBGMにこれを使おうと思う。
 それでも、「今日の一曲」はWim Mertens の方で。


 

 

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■ 2010-05-06(Thu) ナボコフ、「ションベン・ライダー」

[]昭和枯れすすき [さくらと一郎] 昭和枯れすすき [さくらと一郎]を含むブックマーク

 ミイの姿をみかけた。なあんだ、ちゃんと生存しているではないか。心配してしまった。ベランダから外を見ていて、道路を隔てた左側にある駐車場を歩いていた。そのすぐあとを白いノラがついて歩いている。ノラがミイに近づいてタッチしようとすると、ミイは嫌がってサッと逃げる。こんな光景はむかしも見た。まだ同じようなことをやっている。ミイはあいかわらずのタカビーぶりである。でも、またミイをこのベランダに招き寄せるのは難しいだろう。
 部屋の中のユウは少しずつ、慣れて来ているのかもしれない。わたしの前に姿を見せて、ミャアミャア啼いていたりする。わたしが和室でパソコンに向かっているときも、わたしのすぐ後ろの段ボール箱の中でおとなしくしている。覗き込んでみると、ぐっすり寝ていたりする。前肢を丸くして、胸を抱え込むような姿勢で横になっている。ネコだなあ、などと思う。しかし、夜になってわたしがベッドに入ると起き出して来て、和室の中でウロウロし始める。玄関スペースから和室に忍び込み、机の裏側に回り込んでミャアと啼き、こんどは机の裏からいきおいよく飛び出して、玄関スペースに戻る。これを何回も何回も繰り返している。何かのゲームのつもりなんだろうか。

 佐藤慶氏がお亡くなりになったというニュースを知った。わたしが若い頃、どこかの公会堂みたいなところへゴダールの映画を観に行ったときに、会場に並べられたパイプ椅子のひとつに佐藤慶氏が坐っておられた。空き席を探していたわたしと目が合ってしまい、わたしは彼の「眼光」というか、その眼の鋭さに圧倒された記憶がある。射すくめられたように瞬間その場に釘付けにされ、わたしも彼の眼を見つめ返したけれども当然かなわずに、わたしの方から先に目線をそらせた。あのときの佐藤慶氏の眼の光は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 ナボコフの短編、今日はあまり読み進まなかった。

●「けんか」(1925) ベルリン時代、郊外の湖、居酒屋での思い出のスケッチ。おそらくはナボコフの実体験なのだろう。末尾にナボコフのことば。

が、ひょっとすると、大切なのは、人間の苦しみや歓びなどではまったくなくて、むしろ、生きた肉体の上での光と影の戯れや、この特別な日の特別な瞬間、またとない独特な方法で集められた些細なことがらの調和のほうなのかもしれない。

 ‥‥一種、印象派宣言のような文章で、たしかに初期のナボコフの短編にはこのような作品もあるようだけれども、のちのナボコフはこの路線から逸脱して、プロットと言葉遊びの世界を発展させるように思える。しかし、ここで「人間の苦しみや歓び」など大切ではないという視点、それはナボコフの残酷さの根底にあるものでもあるだろうけれども、ナボコフという作家を考えるときに、ちょっと重要な声明のように思える。
 ナボコフの「残酷さ」に関しては、息子ドミトリイがこの本の序文で、以下のように書いている。

しかしおそらく最も奥深く、最も重要なテーマは、それが主題となっていようが底流となっていようが、残酷さ(人間の残酷さ、運命の残酷さ)に対するナボコフの侮蔑であり、その実例は多すぎて挙げることができない。

 うーん、「侮蔑」と言い切るのには、わたしは抵抗を感じてしまう。次の作品など。

●「チョールブの帰還」(1925) 新婚の妻を事故で失った男が、妻の実家を訪れる。亡き妻の両親は、まだ娘の死を知らない。登場人物らを無言の沈黙で包むラストには、一種の同情を禁じ得ないけれども、作者はあえて登場人物を悲しみの淵に落とし込み、そのまま放置しているように読める。
 彼の初期の作品は、そのような「残酷さ」に包まれた世界のヴァリエーションを描いていくことに費やされているように思えるけれども、前に書いたように、のちにナボコフはそれら残酷な世界を書物の中に閉じ込め、作家という立ち場から、文学的な救済、慈悲の手をのべるように発展していく。たしかにそのことは「残酷さ」に対する侮蔑、という姿勢から生まれるものかもしれないけれども、「大切なのは、人間の苦しみや歓びなどではまったくなくて」という彼の視点は、ずっと失われることはなかったのではないかと思う。

 夜はDVDで、相米慎二監督の1983年作品、「ションベン・ライダー」を観る。脚本(原案?)はレナード・シュレーダーで、撮影に田村正毅の名前が見える。
 いきなりの超長回しで始まり、カメラはぐんぐんと移動して行き、ドラマは場所を変えて拡がって行く。観ていてこれは壮大な野外劇(の記録)なのだろう、という印象を持ち、ストーリーの飛躍、登場人物のシンボル性などから、唐十郎のテント芝居を思い出す。特にこの作品では、「川」というものを、場として非常にうまく活かしている印象で、逃走シーンの多くで、川の存在が場面をつくっている。少年少女たちが歌をうたって高揚感を盛り上げて行くのは、「台風クラブ」にも活かされていたけれども、ラストの「あさま山荘」的な場面での展開(この家屋の構造は実に演劇的)は、観ていてワクワクした。観終ってもやはり、唐十郎の演劇などとの親和性を考えてしまったが、「観たことのない映画」という感覚で、興奮した。

 今日はBGMにLambert, Hendrix & Ross だとか、Alan Price Set、Young Marble Giants などを聴いていた。めちゃくちゃである。Alan Price Set を聴いていて驚いたのは、彼らの最大のヒット「Don't Stop The Carnival」のシングルのB面が、Anne Briggs の「The Time Has Come」だったということで、このAlan Price とAnne Briggs をつなぐ線というのが、想像も出来ない感じがする。Alan Price がブルーズへの趣味からBert Jansch を愛聴し、そのルートからAnne Briggs へとつながったのだろう。
 今日はそんな中から「今日の一曲」を選ぼうと思っていたけれども、昨日『「世間」とは何か』という本を読んで、あれこれと「世間」というものを思ったりしていたので、「世間」に負けた、とうたう歌、「昭和枯れすすき」を選ぶことにした。この曲のことも、あれこれと考える材料になりそう。


 

 

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■ 2010-05-05(Wed) ナボコフ、「「世間」とは何か」「遊星よりの物体X」

[]The Drum [Slapp Happy] The Drum [Slapp Happy]を含むブックマーク

 某小説家の本を読んで、不快になって思い出していたこと。大むかし、某ミュージックマガジン雑誌に掲載されていた記事。それは某カメラマンがウッドストック・フェスティヴァル10周年にアメリカをまわったレポートだったから、1979年の記事だと思う。レポートのなかでそのカメラマンは、当時の観客だった女性の家を訪問したか何かして、彼女が思い出に大事に保管しているという、フェスティヴァルのときに着ていた服を見せてもらったという。今でもはっきり憶えているけれども、カメラマンはレポートで、そのことを「醜悪」と書いていた。昔の思い出をいつまでも大事にしている行為をさしてである。読んだわたしは、ライヴのステージを傍から撮影して金銭化しているそのカメラマンの方が、何兆倍も「醜悪」だろうが、と思った。自分のことを表現者だと思っているのか何かしらないけれども、そういう立ち場から、ごく一般の人々のやっている行為をバカ扱いする人間はいつもいる。その「醜悪」なカメラマンはその後も活動を続けて、去年にも東京で展示をやっていた。このはなしに限らず、わたしは、ただシャッターを押したら写ってしまうものを「自分の作品」と主張するたぐいのカメラマンというものが、むかしから信頼できないでいる。

 徳田秋聲の作品を読んでいて、ふと、彼は「世間」というものを書かずに人々の市井の生活を書いているんだなあ、などと漠然と思い、「世間」というのが何なのか、あらためて気になってしまった。家に阿部謹也の書いた新書『「世間」とは何か』というのがあったので、今日はこの本を読んだ。
 阿部謹也氏によれば、明治維新以降の近代化で「Society」に「社会」という訳語をあてて以来、日本人のなかで、それまでの「世間」と「社会」との分裂があるという。同じ明治維新以後に、「Individual」の訳語として「個人」という概念が出て来るけれども、この概念は日本人にはなじみの薄い概念であった(ちなみにどちらも、西周の案出した訳語である)。欧米では「社会」の前提は「個人」であり、個人が社会を形成する。日本の場合、個人とは世間との関係のなかで生まれている。「世間」とは何か。阿部謹也氏は以下のように書く。

 日本人は一般的にいって、個人として自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、他の人間との関係の中に基準をおいている。それが世間である。

 阿部氏によれば、日本での「世間」の存在は、個人の発達をさまたげるものとして、今でも機能していると考えられる。しかし面白いことに、一方では日本人は鎌倉時代の呪術的な世界観をいまだに生活レベルで保持していながらも、「中途半端な西欧化と近代化の結果」重要な視点を失い、そうした考え方を理解できなくもなっているともいう。ここに、「世間」というものの正体の掴めなさも潜んでいるのだろう。

 本は「万葉集」から「徒然草」、井原西鶴、夏目漱石、永井荷風、金子光晴らの作品にふれ、そのような文学の中で「世間」がどのように捉えられ、作者は「世間」にどう対処しようとしたかという分析がほとんどで、どちらかというと「世間」をめぐる日本文学に関してのエッセイ、という比重が強い。読んでいて吉田兼好などには共感するし、ひょっとしたらわたしも、「世間」から逃れてこの地へ隠とんして来たのではないかしら、などという気になってしまう。そしたらこの住まいも「〜〜庵」とかネーミングすればいいんだな、などと。
 まあずっとわたしは、そんな「世間」からみればとんでもない生き方を、知らずに通して来てしまっている部分もあるだろうし、今は思いがけずも、そんな世間から思い切り距離を取れているのかもしれない。

 で、徳田秋聲の作品への「世間」の関与については、いずれまた考えたいけれども、意外と、徳田秋聲の作品には個人主義の発露のようなものが、夏目漱石などのような軋轢もなく、自然に生まれて来ているようにも読める気がする。彼の作品の中身はまさにその「世間」のまっただ中だろうに、逆にあまりに「世間」のまっただ中だから、個人の発露が旺盛になるのだろうか。「世間」とは、実はコップの中の世界を外からみるようなもので、その容器のコップごと抱え込んでしまうことで「世間」になるのかもしれない。その中に入ってしまうと、「世間」はみえないということがあるのかもしれない。

 で、「世間」などその語彙にまったく持っていないナボコフを、引き続き読む。

●「バッハマン」(1924) 天衣無縫(というか白痴のアル中)なピアニストと、そのファンの女性との話だけれども、主人公をロック・ミュージシャンに置き換えると、今ならば実際に起きたとしても不思議でもない話。書き手は、そのピアニストのマネージャーから聴いた話として書いている。

●「ドラゴン」(1924) 長寿のドラゴンは騎士物語の終焉した後まで生き残ってしまい、コマーシャリズムに利用されることになる。現代の商業主義蔓延への批判コント。ドラゴンを待ち受けていた運命は残酷だ。

●「クリスマス」(1925) 蝶ではないけれども、展翅類がさいごに重要な役割を果たす。すべて空を飛ぶ虫には人の魂が宿っている、という話を思い出す。ここで語り手は、物語の残酷さをラストの美的プレゼントで昇華しようとする。

●「ロシアに届かなかった手紙」(1925) 「響き」、「神々」らの先行作品に連なる散文詩的作品。ベルリンからロシアへの、宛名のない手紙。

 夜、DVDで「遊星よりの物体X」(1951) を観る。ハワード・ホークスが自ら製作した作品で、監督はクリスティアン・ナイビーという人(ホークス映画の編集担当だった)になっているけれども、実質ハワード・ホークスの監督作品だろう。会話部分の演出の非常にテキパキした感じなど、「ヒズ・ガール・フライデー」だわさ。モンスターの姿を見せないで緊迫感を演出することを楽しんでいる作品。ガイガー・カウンターの数値が上がるのを読み上げる声や、それまで談笑していた人々の表情の変化、立ち姿など。楽しめる作品だった。

 今日は読書のBGMにBert Jansch の「Avocet」、Alex Chilton の「Like Flies On Sherbert」、Slapp Happy の「Acnalbasac Noom」など、わたしのお気に入り音楽ばかり聴いた。いままでSlapp Happy を今日の一曲に選んだ記憶がなかったので、今日は超名曲「Casablanca Moon」ではなく、「The Drum」を。この曲もとってもいい。


 

 

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■ 2010-05-04(Tue) ナボコフ、「足迹」「眠る男」

[]Everywhere [Cranes] Everywhere [Cranes]を含むブックマーク

 ドラッグストアやスーパーに行くときに、ミイはいないだろうかといつも見回しながら歩くけれども、もうまったく、ミイの姿を見かけなくなってしまった。悲しいけれども、もうこの世にいないんじゃないかと思う。野良ネコの寿命が三年ぐらいだとすると、そのくらい生きていたんじゃないか。でも、もう死んでいればやはり早死にだろう。いくばくかの、その早死にの責任がわたしにはある。
 ミイはわたしの知っていたもっとも賢いネコで、感嘆したことも何度もある。ほんとうはミイを飼いたかったけれども、もうあれだけ野良で生きたミイには、飼いネコになるのは無理だっただろう(これはわたしの勝手な解釈だけれども)。ミイもそう思っていたかもしれない。それでもミイは自分のこどもをここへ連れて来て、わたしに引き合わせようと努力していた。自分のように野良で生きる道ではないネコの生き方を、自分のこどもにさせてあげたいと思っていたのだろう。そのミイの意志をわたしは引き継いだわけだから、ミイは喜んだだろう。これは人間の自分勝手な解釈だろうけれども。
 でも、ミイはまたふっとわたしの前を横切って行って、「なんだ、生きていたのか」ということになるかもしれない。

 徳田秋聲の「足迹」読了。明治四十三年に書かれたものだけれども、現代日本語文とまったく変りはない文章で、読んでいていつの時代の話だかわからなくなる。この作品の主人公のモデルは秋聲の夫人らしい。
 十一か十二歳で家族と共に上京して来た主人公のお庄の、その後約十年間にわたる遍歴。父は浪費家のなまけもので、上京しても何をするというあてもない。湯島の親族を頼って近くに住まいを決めるけど、父は仕事も見付けずにいつまでもぶらぶらしている。お庄は浅草の小さな化粧品店の住み込み手伝いに出され、家族は横浜に小さな洋服店をかまえるけれども、お庄は店をやめ、家族の店も長くは続かない。お庄の兄弟姉妹は親族に引き取られ、父は家族をほうって田舎へ戻ってしまう。一家離散である。お庄と母は親戚の叔父の家にしばらく住むけれども、そこの叔母は死産をしたすぐあとに亡くなり、のこされた叔父も事業に失敗し、胸も病んで世捨て人のようになる。お庄はいろいろな家の手伝いに出されるけれども、どこもあれこれの問題のある家ばかり。母と素人下宿屋を営むようになり、その下宿生と仲良くなったりする。男をめぐってほかの女と修羅場を演じたりもする。見合いをしてその家へ行くけれども(籍は入れていなかったらしい)、その家庭にもいろいろな問題があり、ぐれた婿に刀を振るわれて逃げ出してしまう。そんなこんなである。

 ‥‥そんなこんなである、というのはまさに、そんなこんなである、という小説で、もうほとんどディティールだけで書かれているような小説で、普通のストーリー展開なら「ここが重要」だろうというようなポイントも、さっさとスルーされて「こういうことになった」みたいにすっ飛ばされてしまう。例えば、母子が素人下宿を始めるのなんか、ものすご重大な事件だと思うのだけれども、章がかわると突然、もう母子で下宿をやっている。だから、特にこの主人公の成長を編年体で追って行く、というものではない。何というか、ときどき覗いてみたらこんなことやっていた、その連続という趣がある。新聞小説という形式がこのような叙述に結び付くのか、おそらく一回分が原稿用紙四枚ほど。そのなかで毎回、ある程度の作品らしさみたいなものを醸し出さねばならないという要請によるのだろうか。
 で、主人公の内面に深く踏み込んで、その心理を描写していくというような小説でもない。読んでいても、主人公のお庄はいったい何を感じているのかよくわからない。最初のうちは、つらい目に逢っても、たいていはにやにや笑っているだけのように書かれていて、「このコはちょっと足りないのだろうか」などと思ってしまうけれども、そのうち、そうやって笑いながらも目には涙を浮かべているのだと書かれたりして、ふいをつかれたような気分になったりする。こういうふうな人物の捉え方は今読むととっても新鮮に思えたりするし、物語のポイントをすっ飛ばすという荒技も、やはり面白いと思う。
 結果として、全体の印象は、どことなくフラットな恒常的な悲劇のような雰囲気。ちょっとした修羅場は出て来るけれども、あまり長くは引きずらないから(これも新聞連載ゆえ、だろう)、やはり全体の印象はフラットになる。そんななかで、ふと、主人公がいつのまにか成長してしまっているのに、読んでいて、そうか、お庄ももうそういう歳になるんだよな、などと思ってしまう。なんだか不思議な読書体験だと思う。新聞小説というのは、以前、田山花袋の「百夜」というのを読み始めたことがあったけれども、あまりにだらだらとしていてわけがわからないので、途中で投げ出したことがある。妙な形式だなあと思う。

 この小説、ほかにやはり、当時の風俗であるとか庶民の暮らしというのが興味深く読める。日本は東京中心になっているけれども、その地方から東京に集合して来ている人たちの、ちょっと底辺に近い生活ぶり。冒頭の家族が上京してくる場面など、なんだか東南アジア辺りの雰囲気がただよう。主人公はずっと東京で思春期をおくり、「もう地方では暮せない」などと思っている。当時の商店の内状だとか、下宿屋というものなど、体感できるような読書。とにかく面白かった。
 次は「黴」を読む。

 ナボコフの短編は、四つ読んだ。

●「恩恵」(1924) 恋人と共にある幸福感と、恋人に裏切られる絶望感とを合わせたような短編が続く。ナボコフはこの時期に結婚しているけれど、その幸福感が失せてしまうのを恐怖して、このような短編を書いていたのだろうか。ここでは絶望というよりも、主人公は一種の諦観に襲われているみたい。

●「ある日没の細部」(1924) やはり幸福感に包まれていた主人公が恋人に裏切られるのだけれども、ここでは主人公は「裏切り」を知る前に、幸福な思いのままに交通事故に遭う。これこそが、小説中の人物の見舞われる残酷な運命への、ナボコフによる「慈悲」の、最初の例なのではないか、と思う。

●「雷雨」(1924) 雷と共にあらわれた二輪馬車に乗る預言者が、語り手の目の前で卑俗な老人の姿になって二輪車から転がり落ちて来る。こわれた二輪車の部品を拾って、雲のあいだを空にまた昇っていく預言者の姿を見て、語り手はこの事件をこれから会う恋人に話して聞かせるだろうと思う。幸福感だけで出来た作品。

●「ラ・ヴェネツィアーナ」(1924) しかしこの1924年にはずいぶんたくさん書いているなあ。この作品がいちばん長いけれども、わたしにはあまり面白くもないコント。ここでも妻の裏切りに気が付かない男が出て来て、このテーマは「マルゴ」につながるだろう。モラル感の欠除もまた、ナボコフの作品の特徴だけれども、そのあたりの確信犯的な認識が、まだまだ生まれていないのではないのかという印象。当時ナボコフ自身がこの作品を発表しなかったのも、わかる気がする。

 図書館から借りたヴィデオで、小栗康平監督の「眠る男」(1996) を観る。群馬県の全額出資製作映画。小津映画のような風景の捨てカットが多く、群馬の絶景シーン集でもある。意識的な美しいシーンと、寓話のような物語からは、見た目は全然違うけれども、パラジャーノフの「ざくろの色」とかを思い出してしまう(水車の中の老人とか)。これは、いってみれば群馬県コスモロジーなのだろう。萩原朔太郎も出て来る。しっかし、この、聞いていて背中がむずがゆくなって来るような、高校の文芸部員の書いたようなシナリオは、なんとかならなかったのだろうか。「眠る男」の象徴するものも、あまりに露にすぎる印象がある。美しい映像がもったいない気がした。

 今日はBGMに、先日のMazzy Star のヴォーカル、Hope Sandoval の別プロジェクト、Hope Sandoval & Warm Inventions の「Bavarian Fruit Bread」から聴く。Bert Jansch が2曲で参加している。彼女のウィスパー・ヴォイスはいいけれど、さほど面白くはない。そういう女声ヴォーカルつながりで、次にイギリス90年代のバンド、Cranes を久々に聴く。1993年の「Forever」。もうこうなるとワン・アンド・オンリーの世界で、これはヴォーカルのAlison Shaw の声の力(というか力のなさ)だけで聴かせる印象もあるけれども、やはりバンドのざっくりとした音はこのヴォーカルに不可欠だろう。むかし知り合いだった美術家/パフォーマーのミケが、自分のフェイヴァリット・バンドにこのCranes をあげていたのを何かで読んだ記憶がある。一種インダストリアルな雰囲気もあるCranes の音は、彼女に似合っていた気がするけれども、そのことを彼女と話したことはない。
 その「Forever」から、一曲目の「Everywhere」を、今日の一曲に。


 

 

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■ 2010-05-03(Mon) ナボコフ

[]Tauben von Gurre! (from Schoenberg's "Gurrelieder") [Ann Murray] Tauben von Gurre! (from Schoenberg's "Gurrelieder") [Ann Murray]を含むブックマーク

 いま東京で「イタリア映画祭」というのをやっていて、そこで上映されるマルコ・ベロッキオの作品を観たいな、などと思っていたのだけれども、気がついたらもう上映は終っていた。この連休はもう、どこにも出かけないで終ってしまいそう。筑波山まで歩いて行くという漠然とした計画も、調べるとこれはまず不可能で、途中で行き倒れになってしまうだろうことがわかった。そういうわけで、今日も良い天気だけれども外に出ない。読書ばかり。

 徳田秋聲の次、「足迹(あしあと)」を読み始める。面白い。このころの彼の作品は皆「新聞小説」というか、新聞に連載されていたものばかり。短い章が続き、それに合わせた書き方、展開になっているのだなあと思う。一気に書けば、決してこういう小説にはならない。明日には読み終わるだろうから、感想などは明日。

 ナボコフの短編を読み進める。昨日の「神々」も読み直した。

●「神々」(1923) 舞台はおそらくはベルリンで、空想の中でロシアの女性と市街を自由に飛び回る。バスが走り、木や建物が自由に動き回っている。都会の真ん中に飛ぶ蝶を発見する。ナボコフの作品に初めて登場する蝶。地下に潜ると地下鉄が走っていて、空を見上げると飛行機が飛んでいる。飛行機への夢想は、ナボコフを百五十年前のフランスでの気球飛行実験の再現へと招く。
 ナボコフのなかにも、未来派的な、最先端テクノロジーをイマジネーションの糧にするような時代があったということだろうか。ちょっと、ワルター・ルットマンの映像詩「伯林−大都会交響曲」を思い出させられる。次の一節のような、若い若いナボコフの声を聞くことが出来る。

 ぼくは探険しつくすことのできないいくつもの宇宙が、自分の血液の中で回転しているのを感じる‥‥。
 聞いてほしい、ぼくは一生走り続けていたいんだ。声を限りに絶叫しながら。人生のすべてを、何ものにも縛られない一つの吠え声に—拳闘士を歓迎する群集の声のように—してしまうのだ。

●「偶然」(1924) ナボコフ自身がのちの自選短編集に収録したもっとも古い作品。ロシア革命から別々に逃れた夫婦のすれちがいの悲劇。ナボコフの残虐趣味全開で、登場人物に慈悲や救いはない。読後感悪し。でも、この悲劇は、革命の産んだものだということだろう。フレドリック・ブラウンの意地の悪いショート・ショートを思い出したりするけれども、きっちりとしたコントで、ナボコフがこの作品を短編集に選んだのもわかる。ナボコフにとっては、振り返って、ここにスタートがあると感じられたのかもしれない。

●「港」(1924) ナボコフの実体験が盛り込まれているらしい。ヨーロッパの港町で、仕事とロシアへの郷愁を求めてさすらう主人公が、酒場で知り合ったロシア人船乗りに、インドシナ航路を行く船で働かないかと誘われる。酒場を出てひとり歩く主人公は街娼に出会い、彼女がロシア時代の知り合いだったと思い、声をかけるけれども否定される。埠頭の端に腰かけた主人公の頭の上を流れ星が流れて行く。
 ロシアへの郷愁とインドシナへの夢想がいっしょになったような、珍しく感傷的な作品。こういうのは時間が経つと恥ずかしくて、自分では選ばないだろうな。

●「復讐」(1924) 生物学の教授が自分の若い妻の浮気を疑い、生物学者らしい復讐案を練って実行に移す。若い妻はじっさいには現実と空想を混同する、夫を愛するロマンチストにすぎない。これも残酷なコントで、なんだか原稿料欲しさで書いたような。読後感最悪。

 今日のBGMは、シェーンベルクばかり聴いてみた。「室内楽曲 op.29」、「浄められた夜 op.4」、そして「グレの歌」など。室内楽曲はもうほとんどチェンバー・ロックだし、「浄められた夜」の卒倒しそうなロマンティシズムは、初期のナボコフ作品に似合っていた。しかしやはり「グレの歌」はすごい。やはり第一部のラスト、「山鳩の歌」にも卒倒させられる。YouTube から、その「山鳩の歌」の部分を選んだつもりだけれども、たしかめてはいない。


 

 

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■ 2010-05-02(Sun) ナボコフ、「愛のむきだし」

[]Wasted [Mazzy Star] Wasted [Mazzy Star]を含むブックマーク

 最近は以前に比べてよくTVを見る。実は「朝のTV小説」というのをかなり見ている。今やっているのは「ゲゲゲの女房」で、水木しげるの奥さんの著作が元になっているらしい。見ているといってもぜったい毎日見ようとしているわけでもなく、見逃すことも多い。多少話が飛んでも気にしないで見ているのだけれども、楽しんで見ている。おそらく、自分の小さい頃の世間の情景とかちょっと思い出したりするせいもあるんだろうけれども、そういうのは老人っぽい見かただな、とは思う。
 昨日だけれども、昼間TVのチャンネルを替えたら、思いがけなく「ゲゲゲの女房」のその日の再放送をやっていた。あ、そうか、「朝のTV小説」は土曜日もやっているのか。いまどき週休二日制が導入されていないのは、この番組ぐらいのものではないだろうか。この日は、主人公夫婦の調布深大寺でのデート。ホンワカして、よろし。これが終ると「大河ドラマ」というやつの再放送。ちょっと見て、タイトルバックのCGとか、スタイリッシュに思わせようとする手持ちカメラ、俳優の大仰な演技にげんなりして、見るのをやめる。

 実は、ネコのユウを部屋中自由に動けるようにした。金曜日にユウがミャアミャア啼くので、ちょっとかまってやろうと近寄ったら、するりとわたしの傍らを抜けて、開けてあったふすまから和室に入りこんでしまった。あらららと思ったら、和室の片隅に置いてあった段ボール箱の中に入りこんでおとなしくしていた。その段ボール箱は以前ちょっとだけユウのケージのつもりで細工して使っていたもので、ユウもしばらくそこの中に居たこともあった。居心地がいいのか、そのそばにわたしが居ても逃げないので、もうこれを機会にどこでも動き回れるようにした。それでも、やはり普段は玄関スペースの小さな段ボール箱の中に居ることが多い。昼間は玄関スペースにいて、夜になると和室の段ボール箱の中に移動する。和室にはたいていわたしがすぐそばにいるんだけれども、気にしないようだ。これでかなり、普通に飼いネコっぽい感じになったのではないか。ときどき、ユウにあれこれと話しかけてみたりする。

 ナボコフの短編、今日は三編読んだ。
●「響き」(1923) ずっと未発表だったものらしい。人妻だったある女性への思慕を書いたもので、その女性といっしょに友人の男の部屋に遊びに行ったりする。友人もその女性を思っているのを主人公は知っていて、少々嗜虐的にからかっている。主人公と女性との関係がその夫に知れたのか、女性は去って行く。主人公は釣りをしている友人を見かけて声をかける。
 この舞台はロシアなのだろうか。色彩と音、そして匂いまでもが混沌と取り込まれ、ひとつのコレスポンダンスの試みだととれる。情景描写にかなり比重がかかっている分、その女性との関係が読み取れないと思った。

●「翼の一撃」(1924) ちょっと長い。スキー場のホテルに滞在する厭世家っぽいイギリス人(最後に自殺を決意したようだ)の話で、隣の部屋の女性の存在に惑わされる。「女性に惑わされる」というのはナボコフの作品の大きなテーマになって行くけれども、そういう萌芽は、たしかにこの小説にあると思う。序盤にへんてこな比喩をあれこれ使っているけれども、読んでいて「へたくそ」だなあ、などと生意気なことを思う。この時代、青年ナボコフは、ちょっとばかし残酷な若者だなあと思う。ナボコフは実は生涯ずっと小説の中で残酷だったけれども、その残酷さを逆手にとって小説内に閉じ込め、小説の作者として外から慈悲を与えるようになる。そこが好きだった。ここにも、その慈悲のきっかけはあるように思える。初期作品の中では重要だと思う。

●「神々」(1923) 未発表だった作品。これは散文詩。永遠なるものを求める気持ちを、芸術の中に定着させようとしたのだろう。ちょっととりとめもないという第一印象だけれども、ひっかかる部分はあり、また読み直すべきかもしれない。

 DVDで、園子温監督の去年話題になった「愛のむきだし」を観る。DVD2巻、全四時間の作品。音楽にゆらゆら帝国、ゲスト俳優多し。
 この作品の語り口には、阿部和重の小説を思わせるものがある。崇高な事柄と思われることを、思い切り卑俗な手法で描く。タイトルの「愛のむきだし」という文字が出るまでに一時間かかる(!)けれども、そこまでの展開はめちゃ面白い。主人公の少年は神父の父に毎日「ざんげ」を要求され、「ざんげ」のために「罪」をつくるようになる。リアリズムがどんどん横滑りして行き、盗撮テクニックを教える集団の姿が異様な秘教団体とか、江戸川乱歩の犯罪組織のような姿で出て来る。そこで学ぶ盗撮テクニックはアクロバティックなカンフーである。主人公にマリアと出会う「運命」の日が近づき、音楽はラヴェルの「ボレロ」がしつこくリピートされ、演出のテンションが異様に高揚して行く。「女囚さそり」が引用され、B級アクション映画的展開で、最初のクライマックスに到達する。
 はっきりいって、それ以降はちょっとばかし失速してしまう印象はあるけれども、それでも奇怪なテンションの高さはどこかで持続し、海岸でヒロインが、聖書から「コリント人の手紙」第十三章を全文ぶちまける場面もまた、クライマックスとして記憶されるだろう。そう、この物語の背景には「信仰と愛」という問題が大きく書かれている。ここでも宗教上の愛「アガペー」と、欲望の愛「エロス」がいっしょにされることで物語は混乱する。ラストで、このふたつは統合されたのだろうか? 統合されるようなものなのだろうか?
 園子温監督の作品はそれほど観ていないけれども、いつも長距離を全力疾走して駆け抜けるような「勢い」と汗臭さ、そして観終ったときの疲労感が共通している印象。この「愛のむきだし」は、監督にとってのマラソン、というか、これは「トライアスロン」なのだろうか。観る方もそれなりにいっしょに疾走する心構えは要るだろう。全力疾走すればいいというものでもないけれども、とにかく、園子温は全力疾走する。

 今日の一曲は、昨日取り上げたMazzy Star の「So Tonight I Might Be」からもう一曲、これも素晴らしい「Wasted」を。


 

 

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■ 2010-05-01(Sat) ナボコフ、「新世帯」「イタリア旅行」

[]So Tonight That I Might See [Mazzy Star] So Tonight That I Might See [Mazzy Star]を含むブックマーク

 晴天。午後から図書館へ行く。もうこれからはあまり図書館本ばかり読まないようにして、自宅の積ん読本をなんとかしようと考えているので、あまり借りない。これを読み終えたらほんとうに自宅の本だけを読もうと考えて、ナボコフの短編全集を借りる。ついでに窓口で、二月に出してあるリクエスト本はその後いったいどうなってしまったのか聴いてみると、「ちょっとこちらへ」と招かれ、なぜかロビーの方に連れ出された。いったい何が始まるのかと、内心ちょっと驚いていたら、そこに利用客から出されたリクエストの、購入/見送りの結果がプリントされて貼り出されているのだった。見送りになった場合は個別の連絡はしないので、ここを見るようにしてくれと。貼り出されているリストの、「見送り」の方のいちばん下に、DVDの「ルル」というのが出ていた。「ルル」という映画はないはずなので、これはベルクのオペラ「ルル」のことだろう。こういうのをリクエストする人も、この辺りにいるのだな。いやとにかく、わたしの出したリクエストは「新規購入リクエスト」ではなく、ほかの図書館との相互貸借で取り寄せてほしかったものなので、そのように担当の人に告げると、いま現在、市内の図書館のシステム統合作業の関係で、相互貸借は一時的に見合わせているのだという。そういうことはリクエスト出したときにはわかっていなかったのか、なんの説明もなかったけど、とにかくわたしのリクエストはいつの間にか闇から闇へ葬られていたのだ。

 そういうわけで、これからはまずはナボコフの短編全集を片付けて、それから自宅のナボコフ本(たいていはいちど読んでいるけれど)を読んでいこうと思っている。ナボコフ短編全集は2巻あり、今日借りてきた「1」の方には、三十五の短編が収録されている。本の貸し出し期間は二週間だから、一日に三作読んでいけば読み終わるだろう、と考えて読み始める。今日は二作しか読めなかった。
 まず、この短編全集の「序」は、ナボコフの息子のドミトリイ・ナボコフが書いているのだけれども、その文章のタッチ、ちょっとした皮肉っぽい言い回しやユーモアのタッチが、お父さんの文章にとても似て来ている感じがする。彼は父親のロシア語時代の作品の英訳を、その父親自身との共同作業でずっとやってきた人だ。巻末の、諫早勇一という人の書いた「解説」を先に読むけれども、珍しいぐらいにつまらない解説だった。まるでナボコフのことを19世紀ロシアの作家だと思っているようだ(執筆者は、「19世紀ロシア文学とはかけ離れた背景」などと書いているが、作品分析の方法を、19世紀ロシア文学を読むような方法でやっているだろう)。書いた人はこの短編全集の六人の翻訳者のなかでいちばん年長のようなので、年功序列で解説を担当したのだろう。
 今日読んだのは以下の二編。

●森の精(1921) 活字になった最初のナボコフの作品で、ベルリンの亡命ロシア人新聞に掲載された。このとき彼は21歳だろう。「ぼく」が部屋に居るとドアをノックする音がして、「森の精」と名乗る妖怪が部屋にやってくる。彼はロシアから「ぼく」を追ってきた。「あのころはよかったではないか。でももうロシアに森はない。おれたちは測量技師に追い出された。」そういって消えていく。彼の消えた部屋の中には白樺と苔のまじった匂いだけが残っていた。‥‥「森を守ろう」みたいなエコロジー運動と反共のプロパガンダに利用されそうな作品だけれども、小説の冒頭が、「ぼく」の見ているインクびんの丸い影から始まるので、この森の精が、作品を書こうとする作家の想像力が産み出したものだということになる。そのデビューのときからナボコフはすでに亡命者になっていたのだ、ということは彼のその後の作品に大きな影を落とす。というか、そういう「亡命者作家」というアイデンティティーのなかに潜り込もうとしているような。のちの言語遊戯、小説構築の名人も、はたちぐらいのときには凡人に見える。

●ロシア語、話します(1923) ページ数は「森の精」の何倍もあるけれども、最後の落ちでキマるコント。ベルリンの亡命ロシア人の営むタバコ屋に、知らずにソヴィエトの秘密警察の人間が立ち寄る。過去にまさにその男にひどいことをいわれた記憶もあるタバコ店主とその息子は彼を殴り気絶させ、自宅の浴室に私設の「独房」をこさえ、彼を永久に監禁することにする。でもその「独房」は、めちゃ居心地の良さそうな立派な住まいだった、というもの。あ、落ちを書いてしまった。ナボコフの作品にはその後もたいていちょっとした「落ち」があって、それが小説という形式に結び付いた「落ち」になっていて、作品のメタ的な性格を強めていくことになるけれども、ここでは単なる「落ち」。そこに至るまでのディティールに小説家としての成長は読み取れる、などというのは生意気な読み方になる。

 今日はもうひとつ、自宅本で、徳田秋聲などを読み始める。これはずいぶん前に、古本屋で捨て値で出ていた中央公論社の「日本の文学」の端本を買ったもの。(一)、(二)の二巻ある。今は徳田秋聲などほとんど読む人もいないだろうけれども、この「日本の文学」に二巻分も収録されているように、わたしの小さな頃には夏目漱石に次ぐぐらいの知名度の、ちょっとした国民文学とみなされていた時代があったという記憶がある。新潮文庫などでも彼の作品はかなり出ていたと思うし、映画化された作品もいろいろあった(代表例:成瀬巳喜男監督の「あらくれ」など)。
 一般に徳田秋聲は自然主義の作家とみなされているらしいけれども、まあわたしにはそういうことはどうでもよろしい。ある時期に日本人があらそって読んだような作品に興味があるのと、一種のノスタルジー感覚に引き寄せられて読むだけ。今日はそのうちの「新世帯(あらじょたい)」という、彼の出世作を読む。徳田秋聲の作品にはだいたいすべてモデルがあって、この「新世帯」は、近所の酒屋夫婦のことを書いたらしい。‥‥書き出しがすばらしい。

 新吉がお作を迎えたのは、新吉が二十五、お作が二十の時、今からちょうど四年前の冬であった。
 十四の時豪商の立志伝や何かで、少年の過敏な頭脳(あたま)を刺戟され、東京へ飛び出してから十一年間、新川の酒問屋で、傍目もふらず滅茶苦茶に働いた。表町で小さい家を借りて、酒に醤油、薪に炭、塩などの新店を出した時も、飯喰う隙が惜しいくらい、クルクルと働き詰めでいた。始終襷がけの足袋跣のままで、店頭(みせさき)に腰かけて、モクモクと気忙(きぜわ)しそうに飯を掻ッ込んでいた。
 新吉はちょっといい縹致(きりょう)である。面長の色白で、鼻筋の通った、口元の優しい男である。ビジネスカットとかいうのに刈り込んで、襟の深い毛糸のシャツを着て、前垂がけで立ち働いている姿にすら、どことなく品があった。雪の深い水の清い山国育ちということが、皮膚の色沢(いろつや)の優れて美しいのでも解る。

 なんというのか、樋口一葉の「たけくらべ」のようにリズムがいいのか、これだけの叙述で、くっきりと新吉という男の履歴書を書き上げているところに説得力があるのか、とにかく、各センテンスの終わりの「た。」と、「る。」の使い分けとか、うまいなあ、って思ってしまう。読んでいて気持ちがいい。
 それでこの作品、感じが滝田ゆうのマンガのどれかを彷佛とさせられるというか、コミカルというのではない、そこはかとないユーモアを感じさせながらも、登場人物みなにちょっとした愛おしさを感じてしまう。
 新吉と結婚したお作は、結婚前に奉公していたお屋敷では重宝がられていたのだけれども、店の切り盛りとか全然出来なくて、ちょっと愚鈍そうで、新吉はつらく当たる。お作は妊娠してしばらく実家に帰ることになる。そのあいだに、新吉の友人の小野というのが告訴されて拘束され、その女房のお国という、出自のよくわからない女性が、「行くところがない」とかいって新吉の店に入り浸るようになる。彼女はてきぱきと如才なく新吉の店の手伝いをこなすけれども、どこかだらしないところがあって、新吉は気持ち悪く思う。店の小僧連中もお国をけむったく思ってる。それでも、ばしっといえない新吉は、ずるずるとお国を店に居させている。お作は流産してしまい、新吉のもとに帰って来るけれども、その前に結婚前に奉公していた屋敷が懐かしくて遊びに行ったりする。で、家に帰ってみると、(お作はそのことは知っていたけれども)まだお国が店にいる。普通なら対決、修羅場になりそうだけれども、全員なんだかおっとりした性格(まあお国はちょっとずるそうだけれども)だから、全然そういう展開ではない。
 これを、一方で新吉の心の動き、一方でお作の心を追いながら、奇妙にリアルな感覚のはなしが続いて行く(まあモデルがあるんだからリアルなのだろうか)。面白いね。
 この作品で、作者の徳田秋聲は何かを掴んだというか、吹っ切れたというか、その後売れっこ作家になっていくらしいけれども、何を掴んだんだろう。一般に徳田秋聲は女性心理の描写に定評があって、女性を書かせたらこの人の右に出る人はないといわれたらしい。この「新世帯」では、新吉という男にあまり出しゃばらせない構成がうまくいっていると感じる。激烈な感情の爆発もなく、淡々とした記述が続く。このあたりの淡白さは、ひょっとしたら小津安二郎の映画作品にも共通するものかもしれない。まだひとつ読んだだけなので、何ともいえないけれども。

 夜はDVDを観る。これからはDVDとかを観るのも少し減らして、読書時間を増やそうかとも思っているけれども。とにかくまだしばらくはあれこれ観るだろう。今日観たのはロベルト・ロッセリーニ監督の1954年の作品、「イタリア旅行」。イングリット・バーグマン主演で、夫役で「イヴの総て」で狡猾な批評家役をやっていたジョージ・サンダースが共演。コレットが原作で、イタリアとフランスの共同製作になっている。
 序盤の粗いつくりが気になって、こんなことでどういう仕上がりになるんだろうと思っていたら、妻と夫が別行動を取って、妻があちこちのイタリアの遺跡や博物館を見てまわるようになる展開で、がぜん面白くなる。ここで、どこの遺跡でも博物館でも、ガイドを職業とする人物と妻が行動を共にするのだけれども、たいていは初老の男性であるそのガイドと妻との描写が、とにかく面白い。そして、まさに「イタリア旅行」というぴったりの、そういう遺跡や博物館の映像、これが物語にひそやかに絡んで行くあたりの展開がとってもいい。映画ならではの表現でのストーリーテリングを堪能できる。小さなベスビオ火山の噴火の再現、カタコンベ、ポンペイの新たな発掘(ここはちょっと「フェリーニのローマ」を思い出した)、そして市街の中での祭礼のクライマックス。素敵な映画だと思う。

f:id:crosstalk:20100502113631j:image:right 書くことがいっぱいあって、しんどい日記になってきた。今日読書しながら聴いていたCDはMazzy Star 。わたしはこのユニットのことあまり良く知らなかったけれども、このユニットの女性ヴォーカルのHope Sandoval という人が、のちにBert Jansch の参加したアルバムを製作していることなどで気になっていたもの。買ったままほとんど聴かないままになっていたCDを引っ張り出して聴いた。最初の「She Hangs Brightly」(1990) というアルバムは聴き流したけれども、次の「So Tonight I Might See」(1991) を聴いていて、ある瞬間に覚醒した。最後のトラック、アルバムタイトルと同じ「So Tonight I Might See」という曲だった。CDのブックレットには曲名以外何のクレジットもないけれども、この、暗黒のトラッドのようなどんどんと響くリズムと、ちょっとフリーキーなフィドル(?)の音、密やかに囁き続ける女性の声。Velvet Underground のようでもあり、「A Sailor's Life」を演るFairport Convention みたいでもある。向井千恵さんのChe-SHIZU も、こんな音を出していたなあ。こんなCDが家の中に転がっていたなんて驚いた。この夜はこのアルバムを何度も聴いた。8曲目の「Wasted」もいいなあ。
 今日はそういうわけで、YouTube にもその「So Tonight I Might See」が上がっていたので、これを「今日の一曲」に。


 

 

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