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■ 2010-06-30(Wed) 二○一○年六月のおさらい

[]Mother And Child [Maddy Prior & Rick Kemp] Mother And Child [Maddy Prior & Rick Kemp]を含むブックマーク

 ワールドカップの日本対パラグアイ戦をけっきょく全部見てしまい、寝不足だし、結果があんなだったので、なんだかガックシしてしまって何もやる気がしない。最近の気候からの夏バテの初期症状というのもあるかもしれない。図書館から借りている東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」も、ページを開いて読み始めるとすぐに眠くなってしまう。面白いのだけれども、あまりに密度が濃いせいだと思う。それで昼寝とかしてしまうと、また頭がどんよりしてしまう。

 今日は夕方から、慶応大学の日吉キャンパスで、笠井叡のダンスと吉増剛造のリーディングとの共演があり、無料ということもあって行きたいと思っていたのだけれども、ひょっとしたら日帰り出来ないことになるかもしれないし、そうするとなんとなくウチのミイたちが心配とも漠然と思ったりもして、やはり出かけようと準備してもSUICAがどこに行ったのかわからなくて探したりして、けっきょく行くのをやめてしまった。そのこともちょっと落ち込む原因になって、夕方からもどんよりと過ごしてしまった。
 ひかりTVでヘンリー・ダーガーのドキュメントを放映しているのを見始めたけれども、これも途中で寝てしまった。これは以前映画館で観ているし、いちおう今回録画もしているので、あまり熱心に観なかったせいだろう。そういえば先日の朝のTVで、「世界でいちばん長い小説」として、ダーガーの「非現実の王国で」が紹介されていた。そのテキストのことはよくわからないけれど、今回観てもやはり、ダーガーの絵は美しい、と思った。その美しさとは何なのか、最近観た、むかしのB級低予算映画でのイマジネーションの具現化にあらわれてくる予想外の楽しさと合わせて、考えてみることがある。想像されたイマジネーションの世界で、ものごとはどの程度にまでクリアに想像されているのか、それを具現化するときの物理的、技術的障害が、そのイマジネーションをどのようにゆがめるのか。知覚されているイメージをそっくりに再現することが、そのまま表現になるわけではない。「ゆがみ」のなかにこそ、表現のリアリティが保証されているのではないのか。

 ミイはやはり、外に出て来て板張りの上にべたりと横になって休んでいることが多い。ただその姿を見ると、具合が悪いんじゃないかと心配になってしまう。それでも、もうすっかりとわが家の飼いネコ然としたふるまいをするようになっていて、わたしがリヴィングの食卓に向かうと、その食卓の下にもぐり込んで来る。わたしが食卓から何か落とすと、さっと飛んで来て、いったい何が落ちて来たのかたしかめたりする。おいおい、それじゃあまるで飼いネコのしぐさだよ。
 近所のドラッグストアに買い物に行ったら、ネコ缶が少し安く売っていたので、ミイの慰労で買ってあげる。「ミイ、いいものをあげよう」と皿に移して出してあげると、ものすごく気に入ったようで、食べ終えてしまっても皿をペロペロなめている。
 子ネコたちはずいぶんと足がしっかりして来たようで、足を使ってはい回るようなしぐさをしているし、後ろ足で下半身をぐいと持ち上げたり出来るようになった。うっすらと目を開いたりしていて、もうおそらくは目も見えるようになっているのだと思う。眠っているのを見ていると、口を半開きにして縦に丸めた舌を突き出していて、母乳を吸っている体制のままだったりする。くしゃっとして、変な顔ばかりだ。

 今日の一曲は、Steeleye Span を解散したMaddy Prior と旦那さんのRick Kemp が1990年にリリースした、この名義では一枚だけのアルバムから。おっと、Steeleye Span は解散したのではなくてずっと継続していて、このアルバムはそのバンドとは別活動の産物、ということかもしれない。


 

 

[]二○一○年六月のおさらい 二○一○年六月のおさらいを含むブックマーク

 六月から「ひかりTV」の視聴料無料キャンペーンに乗っかって、そのヴィデオ配信などばかり観てすごした。おかげでDVDのレンタルはゼロになり、経済的には多少のうるおいになったのではないか。ただ、いちどは減らした喫煙量がまた増えてしまった。ひょっとしたらTVばかり観ているせいなのかもしれない。あと、大きな変化としてはネコのミイたち家族が同居するようになったことで、これはいったいこれからどうなることやら、自分でも予測出来ない。子ネコ五匹をぜんぶ飼うことは出来ないので、今の考えでは動物保護センターの世話になるしかないか、と思っている。「保護センター」といいながら、じっさいには「虐殺センター」にほかならない所に連れていくことには、抵抗ないわけがない。しかし、ここまで彼らに関わってしまっている以上、彼らを野良ネコにしてしまうわけにもいかない。それが、わたしの責任ということになるのだろうか。

 今月の舞台は、ついに本駒込観音境内ではこれがラスト公演になるらしい「水族館劇場」の観劇ひとつだけ。せっかく最前列でがんばって観たけれど、ここで見納めの公演というにはすこし寂しい内容だった。
 舞台;
●6/7(月)水族館劇場公演「NOMAD 恋する虜」作・演出;桃山邑@本駒込・駒込大観音境内特設蜃気楼劇場 水邊の廃園

 スクリーンで観た映画は二本。
 映画:
●『告白』(2010) 中島哲也:監督
●『そして僕は恋をする』(1996) アルノー・デプレシャン:監督

 TVに夢中になりすぎて、読書はまったくはかどらず、かろうじてナボコフ伝の上巻まで読んだだけ。下巻はいつ読み終えることやら。
 読書:
●『ナボコフ伝 ロシア時代(上)』ブライアン・ボイド:著 諫早勇一:訳

 そういう、夢中になり過ぎた「ひかりTV」鑑賞。無料のときに観られるだけ観ようという貧乏人根性にすぎないけれども、60年代ぐらいまでの、いままでタイトルも知らなかった作品をあれこれ観たのは楽しかったし、視覚的イメージの源泉とその発露について、思うところもあれこれあった。
 DVD/ヴィデオ:
●『洲崎パラダイス 赤信号』(1956) 川島雄三:監督
●『日本侠客伝』(1964) マキノ雅弘:監督
●『女囚701号 / さそり』(1972) 伊藤俊也:監督
●『八月はエロスの匂い』(1972) 藤田敏八:監督
●『エロスは甘き香り』(1973) 藤田敏八:監督
●『赤ちょうちん』(1974) 藤田敏八:監督
●『危険な関係』(1978) 藤田敏八:監督
●『もっとしなやかに もっとしたたかに』(1979) 藤田敏八:監督
●『ダブルベッド』(1983) 藤田敏八:監督
●『CURE』(1998) 黒沢清:監督
●『独立少年合唱団』(2000) 緒方明:監督
●『UNloved』(2002) 万田邦敏:監督
●『グーグーだって猫である』(2008) 犬童一心:監督
●『月世界旅行』(1902) ジョルジュ・メリエス:監督
●『巨人ゴーレム』(1920) パウル・ヴェゲナー:監督
●『猟奇島』(1932) アーネスト・B・シュードサック/アーヴィング・ピシェル:監督
●『ホワイト・ゾンビ(恐怖城)』(1932) ヴィクター・ハルペリン:監督
●『ゾンビの反乱』(1936) ヴィクター・ハルペリン:監督
●『来るべき世界』(1936) ウィリアム・キャメロン・メンジース:監督
●『幽霊の館』(1941) ジョセフ・H・ルイス:監督
●『死霊が漂う孤島』(1941) ジーン・ヤーブロー:監督
●『歩く死者』(1943) サム・ニューフィールド:監督
●『夜歩く男』(1948) アルフレッド・ワーカー:監督
●『欲望という名の電車』(1951) エリア・カザン:監督
●『悪魔をやっつけろ』(1953) ジョン・ヒューストン:監督
●『月のキャット・ウーマン』(1953) アーサー・ヒルトン:監督
●『牢獄の罠』(1954) エド・ウッド:監督
●『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959) エド・ウッド:監督
●『不死身の男』(1956) ジャック・ポレクスフェン:監督
●『決断の3時10分』(1957) デルマー・デイヴス:監督
●『巨大ヒルの襲撃』(1958) バーナード・コワルスキー:監督
●『スズメバチ女』(1958) ロジャー・コーマン:監督
●『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(1960) ロジャー・コーマン:監督
●『侵入者』(1962) ロジャー・コーマン:監督
●『古城の亡霊』(1963) ロジャー・コーマン:監督
●『金星ロケット発進す』(1959) クルト・メーツィヒ:監督
●『キラー・シュルー』(1959) レイ・ケロッグ:監督
●『魔の谷』(1959) モンテ・ヘルマン:監督
●『驚異の透明人間』(1959) エドガー・G・ウルマー:監督
●『月へのミサイル』(1959) リチャード・カンナ:監督
●『ファントム・プラネット』(1961) ウィリアム・マーシャル:監督
●『死なない脳』(1962) ジョセフ・グリーン:監督
●『恐怖の足跡』(1962) ハーク・ハーヴェイ:監督
●『エヴァの匂い』(1962) ジョセフ・ロージー:監督
●『ディメンシャ13』(1963) フランシス・コッポラ:監督
●『博士の異常な愛情』(1963) スタンリー・キューブリック:監督
●『アラベスク』(1966) スタンリー・ドーネン:監督
●『薔薇のスタビスキー』(1974) アラン・レネ:監督
●『男たちの挽歌』(1986) ジョン・ウー:監督
●『男たちの挽歌 II』(1987) ジョン・ウー:監督
●『狼/男たちの挽歌・最終章』(1989) ジョン・ウー:監督
●『アゲイン 明日への誓い』(1990) ツイ・ハーク:監督
●『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』(1991) ツイ・ハーク:監督
●『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』(1992) ツイ・ハーク:監督
●『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇』(1993) ツイ・ハーク:監督
●『ノッティングヒルの恋人』(1999) ロジャー・ミッシェル:監督
●『ブロークン・フラワーズ』(2005) ジム・ジャームッシュ:監督

 七月は、また「ひかりTV」の一ヶ月になりそう。


 

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■ 2010-06-29(Tue) 「危険な関係」「エロスは甘き香り」

[]Back In My Arms Again [Supremes] Back In My Arms Again [Supremes]を含むブックマーク

 朝起きてTVを見ていると、ベランダからミイが部屋に入って来た。ベッドの下で子育てしてると思ってたんだけど、外に行っていたわけか。ミイは食事をして、また外へ出て行った。子ネコ、放っておいていいのかね?と、ベッドの下を覗いてみると、驚いたことにすっかりもぬけの殻になっていた。わたしが寝ているあいだに引っ越ししたらしい。昨日まで新しい住処を探すようなしぐさをしていたけれど、家族全体の緊急の要請で住処を換えようとしていたのか。ベッドの下だと夜になると上にわたしが乗っかったりするから落ち着けなかっただろうし、スペースも充分ではなかったのかもしれない。ふうん、いなくなっちゃったのか。これで一週間前と同じに戻ったか、と思ったけれども、一週間前には五匹の子ネコはいなかった。これでは野良ネコ候補一挙に五匹誕生、ということになってしまう。わたしも五匹の子ネコを面倒みれるわけではないから、内心少し重荷がおりたようで安堵の気持ちもあるけれど、ミイたちの将来を考えると気持ちは晴れない。またミイがある程度成長した子ネコをここに連れて来るようになると、つまりはまた野良ネコの餌付けという状態になる。もう少し、何かしてあげられるとよかったのに、などと考える。

 しばらくすると、ベランダからネコの啼き声が聞こえて来た。ミイはめったに啼かないのであれはノラにちがいないと思ってベランダをみると、寝そべって休んでいるミイのそばにノラがいるところだった。わたしの姿を見るとノラは逃げて行き、ミイはそのままベランダに残っている。ミイのそばに寄るとまたわたしにちょっとからだを押し付けて甘えて来る。「そうか、引っ越ししたのか。前のところに戻ったのか?」などと話しかけてみるけど。

 それからまたしばらくして、ふたたびミイがやって来た。こんどは口に子ネコをくわえて。「ええ! また引っ越して来るのかよ!」と驚いて見ていると、キッチンの方に入って行った。いったいどこを住処にするつもりなのか、見ていると、キッチンのガスレンジのわきにあるデッドスペースの部分、わたしはそこにカラーボックスを置いて上に炊飯器などを置いてあるのだけれども、そのカラーボックスは台としてしか使っていないので、中は空っぽになっている。その部分に潜り込んで行った。「そんなところ? そこはわたしが炊事したりするから、前より落ち着かないんじゃないの?」ってアドヴァイスするけどね。しかも、この往来の多い時間帯に引越しなんて。

f:id:crosstalk:20100630104218j:image:left ‥‥とにかく、またミイの家族は引っ越して来た。出戻りである。またあまりに騒々しいので出て行ってしまうかもしれないけれども、とにかくは様子を見る。少し心配なので、リヴィングの窓際にミイたち皆が入れる段ボール箱を置いて、「よかったらこのマンションにも‥‥」と準備しておく。しかし、ミイたちの頭の上で火を使ったりするので、炊事には気を使うことになりそう。でも、ミイはほとんどの時間は新しい住処の中にこもって、子ネコに母乳をあげているようだ。ミイがちょっと外出しているときに住処を覗き込むと、子ネコたちのおなかはパンパンに張っている。写真を撮ってみた。ケータイのカメラの性能が悪いので、暗いところでは画像が荒れる。しっかし、これからどうなるんだろう?

 昨日からBSでダグラス・サーク監督の作品を連続して放映していて、いちおう全部録画しておこうと思っているのだけれども、さっそく昨日の分の録画に失敗してしまった。120分テープに3倍速で録画予約したつもりだったのが、標準速度での録画になってしまい、2時間6分ほどある作品の、最後の3〜4分が録画出来ていない。なんということ。ラストがどうなるのかわからないなんて、観たことにならないのではないのか。特に50年代ぐらいの映画はラストでバッチリ決まって、余韻もなく終了というケースが多いから、たとえ1分でもラストが観られないと、感想を持つことも出来ない。BSは二ヶ月ぐらいあいだを置いて再放送することが多いので、それを期待するしかない。今確認してもまだ予定はわからないけれども、8月にはこんどはアンゲロプロス作品が一挙放映されるようだ。

 今日の「ひかりTV」は、また藤田敏八監督のヴィデオ配信、観ることの出来る残り二作品を観る。まずは1978年製作のラクロ原作「危険な関係」。こんな作品を撮っているのは知らなかったけれど、脚本は新藤兼人で、主演は三浦洋一、宇津宮雅代、片桐夕子など。また、このころの助監督は根岸吉太郎。
 なんか、ストーリー知っているだけにちいっとも面白くないというか、冬の蓼科でのロケがクリシェな感じでスケールを小さくしてる印象もあるし、いったい何を見せたくて演出しているのかよくわからない。それでも、貞淑な片桐夕子をなんとかモノにしたいという執念はちょっとはわかる気がして、映画内の片桐夕子がじっさいに貞淑な人妻に見えて、そんな彼女が堕ちてしまうあたりは見て楽しめた。

 もう一本は1973年の「エロスは甘き香り」。なんと、桃井かおり出演で、高橋長英や伊佐山ひろ子などが共演。脚本は「八月はエロスの匂い」と同じく、大和屋竺と藤田監督の共同執筆で、この時代の助監督には長谷川和彦の名前が。
 おそらくは立川あたりの米軍ハウスで共同生活を始める二組のカップルの話だけれども、主に自称カメラマンの男の抱く、時代への閉そく感(1973年、なのだ!)、自身の運命を自分で決定し得ない無為なニヒリズムあたりが主題になっているのか。「八月はエロスの匂い」みたいに観念性の空転した演出という感じはあるけれど、「八月はエロスの匂い」の方が空転の度合いが激しく、その分わたしには面白かった印象になる。
 これでヴィデオ配信で観ることの出来る藤田敏八監督作品はぜんぶ(たった6本だけど)観たけれど、ぜんたいに70年代初めの作品が、アメリカン・ニューシネマっぽかったりして面白く観ることが出来た。ほかの作品も観てみたいと思っている。

 今日の一曲は、ミイの一家がいちど出て行ってまた戻って来たりしたのでこの曲。1965年のヒットで、この頃のSupremes はリリースするシングルを連続して全米No.1に送り込んでいて、この「Back In My Arms Again」がその連続した5曲目。Beatles でもなし得ていない記録として当時話題になった(Beatles はイギリスでの正規シングルリリースではない曲があれこれシングルカットされてるわけだから、いっしょに比べるのは無理っぽいけど)。でもこの曲あたりは正直印象は薄くって、次の「Nothing But Heartaches」がさらにしょぼい曲で、連続No.1の記録は途絶えてしまう。それでもSupremes はその後また盛りかえして、Diana Ross の脱退まで、60年代後半をトップグループとして乗り切って行くことになる。


 

 

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■ 2010-06-28(Mon) 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇」

[]Baby's In Black [Beatles] Baby's In Black [Beatles]を含むブックマーク

 以前、圓朝の「真景累ヶ淵」を読んだとき、さいごの仇討の展開の部分に、相撲力士が手助けで登場して来た。ちょっとやくざな侠客という感じで、じっさいに力士というのはそういう怪力をあてにされての、用心棒だとかの役を担っていたのだろう。江戸の初期には浪人集団とのつながりがあり、幕末には勤王側の志士となった力士もあったらしい。だいたい大相撲が国技とされるのも、明治天皇が相撲のファンだったということもあるらしいし、もともと神事であった相撲が、国家神道を目指した近代日本のイメージに合致していたこともあるだろう。しかしじっさいのところ、大相撲の興行はプロ・スポーツとしての商業興行で、大相撲の本場所を神事と認識することは難しい。相撲をプロ・スポーツとみればプロレスと同じようなもので、暴力団との関係も濃厚なものだと思う。力士部屋自体が暴力団のようになって新弟子をリンチ殺害したりもするし、今回のように野球賭博とかの問題も出て来る。じっさいのところ、暴力団が絡んだ「八百長」がまかり通っていることはもう「公然の秘密」であって、ここんところをクリア出来ないで、それ以外に噴出して来る不祥事をその都度それ単独として処理して行っても、じっさいにはすべて「八百長」問題につながっているのを隠ぺいするだけになる。もうどうしようもないよね、という感じ。国技として庇護しまくろうとするからおかしくなるのではないか。皆が、ありゃあプロレス並みにダーティーなスポーツだと認識すれば、競技自体も面白く見れるのではないか(プロレスを「ダーティー」といってしまっていいのかよくわからないけれど、イメージとしてね)。まわしのあいだに凶器をはさみ込んで土俵に上がったり、まげの中にも工夫したら何か隠せそう。‥‥まあそれは冗談にしても、庇護しまくるわりには管理が全然出来てないというのは問題だと思う。というか、前近代的な徒弟制度、その管理方法に問題があるんだろう。相撲協会としてのコンプライアンスが不在、という印象。

f:id:crosstalk:20100629100134j:image:right 今日のミイはひんぱんに住処から出て来て、和室から出たところの板張りにゴロリとなって休んでいることが多い。もうあまり付きっきりで子ネコにかまっていなくても良くなったのだろうか。覗いてみると、どうやらもう目も開いているのではないのか、あちこち動き回っている。こんなのが五匹。子育てというのも大変なんだろうな。「ごくろうさん」と、ねぎらってあげよう。わたしも昼間は、グウグウと昼寝してしまった。

 ヴィデオは今日は一本だけ。昨日の続きで、1993年の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇」。監督も主演も同じツイ・ハーク、ジェット・リーなど。今回の舞台は北京で、ようやく西太后もちょっと登場して、清朝と列強とのダイレクトな交渉がテーマに浮上して来る。今回は紫禁城前での獅子舞大会に絡む獅子王争奪の陰謀に、ロシアによる清朝総督暗殺計画を絡めた物語。前回まではイギリス帰りのヒロインが撮る写真機というアイテムがあったけれど、今回はキネマトグラフの登場。図らずもロシアの陰謀を記録してしまう重要な役割を果たしている。
 ここへ来て急にワイヤーアクション全開で、クンフー・アクションというよりは、乱れ飛ぶピーターパンたち、みたいな。しかし、この作品で素晴らしいのは何度か出てくる獅子舞の華麗さ、とりわけ、ラストの紫禁城前での獅子王札争奪戦の美しさで、夜間撮影の赤を基調とした色彩の美しさと、獅子たちの動きのダイナミックスさはほんとうに記憶に残るものだった。このシリーズの美術だとか照明の仕事はほんとうに素晴らしい。
 ここまで三作で、アメリカにロシアは悪党だったり陰謀抱いたりと悪役扱いだけれども、産業革命後のイギリスの技術導入は善しとされるし、前の作品でもイギリス人は新興宗教と政府軍に攻められる被害者的な善玉だった。やっぱ香港映画だから。

 今日の一曲はまた「Baby」ネタで。ウチの黒ネコくんはあまり可愛くありませんが。


 

 

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■ 2010-06-27(Sun) 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明」「ワンス

[]Baby, Now That I've Found You [Foundations] Baby, Now That I've Found You [Foundations]を含むブックマーク

 ミイが住処からはい出して来て、部屋の中をグルグルと観察してまわっている。育児に疲れたのだろうか。凹んだところを見つけると、そこに入れるかどうか試してみている。最近ミイの考えていることがなんとなくわかるようになって、ミイがここに引っ越して来ることも予感していたけれども、この行動、子どもたちが大きくなったときとか、ミイが子離れしたときにとか、新しくそれぞれが棲める場所を探しているんじゃないかと思う。ベッドの下は狭いし、子ネコがもう少しでも大きくなってしまうだけでも窮屈になってしまう。まあ探してもいい場所は見つからないだろうから、わたしが何か考えてあげなくてはならないだろう。
 今日もミイはわたしに甘えて来て、からだをなでてやると目を細めてうれしそうにのどを鳴らす。顔が小さくなって、前よりもいっそうかわいくなったみたい。

 「ひかりTV」の7月分のTV配信の番組表が送られて来た。ああ、フェリーニの「インテルヴィスタ」をやるのは観なくっちゃな、などとずっと見て行くと、7月31日の深夜に、ブレッソンの「ラルジャン」を放映するとある。ええ〜! これ、7月31日の24時を過ぎての放映だから、7月で契約を打ち切ると当然観られなくなるわけだ。そうか、そういう策略で来るわけか。くやしいけれども、策略にはまった形でもう一ヶ月契約を続けようか。8月からは無料サーヴィスでなくて有料になってしまうけれども、どうせ契約解除すればDVDレンタルをまた始めてしまうのだから、少し倹約して、8月もDVDレンタルしないようにすれば乗り切れるか。
 7月放映のであとめぼしいのは、やはりフェリーニがらみの「世にも怪奇な物語」とか、ロジェ・バディムの「血とバラ」、それからゴダールの「小さな兵隊」など。そう、明日からはBSで、怒濤のダクラス・サーク5作品連続放映というのも始まる。

 今日も、配信終了間際のヴィデオをふたつ観る。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明」と、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱」。どちらもツイ・ハーク監督、ジェット・リー主演で、清朝末期に実在した医師/武術家のウォン・フェイフォンをモデルにしたクンフー・アクション。「天地黎明」は1991年公開のシリーズ第一作で、欧米列強に侵略される中国で主人公は自警団を組織し、地元の悪徳組織、奴隷商人みたいなアメリカ商人と戦う。映画製作時はもうワイヤー・アクションまっさかりの時代ではないかと思うけれども、そんなに宙を舞うようなアクションという感じはしない。ただ、クライマックスの倉庫内でのアクションははしごなどを駆使して、もう空中戦というに近いかもしれない。ロザムンド・クワンの演じるヒロインが英国帰りで、ほとんど西洋かぶれみたいなキャラなんだけれども、これは欧米先進技術を中国も取り入れなければいけないというその象徴的存在で、中国から搾取しようとする欧米人とは同一視されないようだ。難しいところ。
 コミカルな要素を前面に押し出した演出はこのシリーズの基調になるけれども、やっぱりクンフー・アクションはすごいな、と思う。19世紀末の街並を再現したセットの美術も素晴らしい。

 次の「天地大乱」は1992年公開。反欧米を前面に出した武装宗教団体と政府軍、そしてウォン・フェイフォンの味方することになる孫文ら革命勢力、宗教団体の被害者であったり陰謀をめぐらす側だったりのイギリス領事館の人々らが、相互の利害関係で敵対したり共闘したりするストーリーがかなり面白い。そして何より、教団のリーダー、政府軍提督それぞれと主人公の、笑っちゃうぐらい強烈なクンフー・アクション。演じる役者たちの武術的な力量も相当のものなのだろうけれども、この演出は素晴らしい。前作でも武術の世界が変わって来たことを告げるような描写があったけれど、この作品でも「銃」に相対する武術、という側面もクローズアップされる。また、アクションを生かすセット美術も、照明も、特筆すべきものがある。なんて楽しいんだろう。

 今日の一曲は子ネコにちなんで「Baby」の曲。しばらくこの路線をやれば、いちいち考えたりしなくてもいくらでも見つけることが出来る。ほら、見つけた! というのが今日の曲。1967年にヒットしたイギリスのグループ、Foundations のデビュー曲で、ちょっとばかしモータウン・サウンド風の一曲。


 

 

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■ 2010-06-26(Sat) 「八月はエロスの匂い」「もっとしなやかに もっとしたたかに」

[]Mother's Little Helper [Rolling Stones] Mother's Little Helper [Rolling Stones]を含むブックマーク

 ベランダのバジルの芽がいくつか出て来た。さいしょに発芽していたひとつは消滅してしまって、あとから種を買って来て捲いたのから、かたまった場所で発芽。あまり密集しすぎているし、ほかの場所からはぜんぜん芽が出ないのが不満。クレソンの方もずいぶん成長して来たのだけれども、去年と同じように青虫が発生し、葉っぱをどんどん食べはじめた。去年はこれでクレソンはほとんど全滅してしまったので、今年は芋虫駆除につとめる。駆除といっても単純なやり方で、クレソンの葉や茎を指ではじいてやると、ついていた芋虫が下に落ちる。これをつまみ出すだけ。小さなプランターなのにものすごい数の芋虫が寄生していて、昨日も今日も十匹以上駆除した。昨日のやり方は甘かったと、今日は徹底して駆除して、プランターも室内に移動した。しかし、あれだけの数で寄生すると、小さなプランターのなかの葉っぱなんかすぐに食べ尽くしてしまい、けっきょく自分たちも飢え死にしてしまうんじゃないのか。まあ地球に寄生している人類みたいなもので、資源を食いつくす前に自分が先に寿命を全うしてしまえば、あとのことは関係ない、ってか。

 ミイはいままでになくわたしに甘えて来るようになった。わたしの近くにねっころがって、「かまって」と催促する。子育てで疲れてしまって、わたくしだって癒されたいのですわ、というところだろう。夕方になって外へ出ていき、帰って来たと思ったらミイのあとにノラがくっついて来て、ずうずうしくも部屋に入って来た。これは堪忍してほしい。ノラからはこっちが養育費を取り上げたいと思っているくらいなんだから、ノラまでここで養っていこうなど思ったこともない。かわいくないし。「こらっ」と追い出す。
 それからしばらくして、こんどはユウがベランダに来た。ユウは啼き声がいちばんうるさく、わたしの方にミーミー啼きつき、それでわたしが近づくとまた「フーッ」と威嚇して来る。ベランダからは退散するけれど、前の駐車場あたりでたむろしている様子。すると、ここでミイが部屋から出て来て駐車場へ降りて行った。すぐに、ミイの消えた物陰からネコ同士の喧嘩するうなり声、叫び声のようなのが聴こえた。ミイがユウを追い出しているわけだ。親子なのに非情な世界。駐車場の車の下にミイの姿が見えたけれども、まったく平然としている。ミイとユウではまるで勝負にならないだろう。こういう感じでノラも追い出してくれるといいんだけれども。
 子ネコたち、覗いてみた感じでは、少し耳とかもピンとして来て、もう自分の足でもぞもぞ這い回っている感じ。薄目が開いて来たように見えたりするけれど、まだ目は見えていないかな。おそらくこの子たちが産まれたのは今週の月曜日から火曜日ぐらいのことだと思うから、まだ生後五日ぐらいのものなんだ。今日良くみると、鼻の下の黒いバカネコマークは、五匹のうち三匹にマーキングされている。前に書いたように、真っ白いのから黒の勝ったものまでほんとうにグラディーションになっていて、固体識別がとても簡単。ただ、二段階めに黒い二匹がちょっと似ていて、ここだけが区別が付きにくい。わたし的には二番めに白いヤツ、ちょっと黒のブチの入っている子が、ミイに似ているし、鼻の下にバカマークも刻印されていないので、情がうつる気がする。

 今日も「ひかりTV」のヴィデオ配信で、また藤田敏八監督の作品をふたつ観る。まずは、1972年の「八月はエロスの匂い」で、よく知らないけれども、これが「日活ロマンポルノ」の第一作、らしい。脚本は藤田敏八と大和屋竺で、今の感覚でこれを「ポルノ」と捉えると、かなりの肩透かしをくってしまう。画面はおそらくはTV用にトリミングされている模様。
 主人公の女性はデパートの貴金属売り場に勤めているけれど、若い男がそのレジから金を奪って行く。誰も目撃者がいないので一時は「狂言」と疑われるし、彼女の学生時代の教師だった恋人の反応もすっきりしない。有休を取って彼と遊園地に遊びに行った彼女は、そこで金を奪った男をみつけ、彼と二人でそのあとを追跡するのだけれども、という作品。
 なんか、こうやってごく乱暴にあらすじ書いて、映画のことを思い出してみると、なんだ、ものすごく面白い映画だったじゃないか、などと思ってみたりする。金を奪った男は、何人かの「フォーク・グループ」の一員のようで、彼らは車でギターをかき鳴らし歌を唄い、海に行って裸で泳いだりする放埒な集団で、反社会的な匂いもする。しかし男はその集団の中でも「シラミ」と呼ばれ、ちょっと蔑まれている印象。この集団のフォークに対応するように、女の彼氏のBGMはジャズになる。「体制」vs.「反体制」、オープン・ロケという雰囲気、演出スタイルなどにAIP映画に共通する空気を感じさせられ、じつは観念的な題材から、モンテ・ヘルマンにも近いんじゃないか、などと思ってしまう。もうちょっと演出がしっかりしていれば、「いい作品」だったのに、と思う。

 もう一本は、1979年の「もっとしなやかに もっとしたたかに」。脚本は小林竜雄。森下愛子、奥田瑛二らの出演で、逃げられた妻を探す男が不思議な雰囲気の少女と出会い、奇妙な疑似家族的な生活を始めるという感じ。これはもう藤田敏八監督はあきらかに、森下愛子に秋吉久美子的なものを仮託している。それはいいんだけれども、どうしてこう、そつなくもすんなりとした演出になってしまうのか。藤田敏八監督、普通に演出上手じゃん、というのではなく、やはり彼の作品はどこかぶきっちょな演出でもって、変な味わいを出してくれなくっては面白くない。作品の完成度はもう「八月はエロスの匂い」など問題にならないのだけれども、作品の魅力(森下愛子の、魅力、ではない)としては、「八月はエロスの匂い」の方にこそ、愛着が残ってしまう気がする。先に書いたことと矛盾してしまうようだけれども、やはり、ウェルメイドな作品を作ればいいというものではない。「八月はエロスの匂い」は、あれはあれでOK、なのだろう。

 今日の一曲は、おかあさんネコのミイさんを、ちょっとばかり癒してあげたりして、お母さんのちょっとした手助けくらいの役にはなったわたしを癒してくれる曲。これは「Paint It Black!」に続く1966年夏のヒット曲で、この頃はまだ生きていたBrian Jones のシタールが聴かれるわけです。



 

 

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■ 2010-06-25(Fri) 「そして僕は恋をする」

[]Sleepy Lagoon [Dinah Shore] Sleepy Lagoon [Dinah Shore]を含むブックマーク

 とにかく眼が冴えてしまって眠れない。TVでも見ていれば眠くなるだろうと、リヴィングで横になってTVをつける。ウィンブルドンの中継をやっていて、ちょうどまさにシャラポアのゲームが始まったところ。しばらくじっくり見てしまう。シャラポア強し。思惑どおりいつの間にか眠ってしまったのだけれども、ふっと目が覚めて、時計を見たら四時半だった。ああ、ワールドカップの日本対デンマーク戦が始まってるなと思って、つけっぱなしだったTVのチャンネルを中継局に合わせる。こちらもちょうど後半の始まるところだった。うわ、2―0で日本リード。しかも、その2得点はどちらもフリーキックからの得点だとアナウンサーはいっている。うそ、だろう???
 ‥‥けっきょく全部見てしまい、そのまま眠らないでずるずると。

 じつは今日は外出して映画を観る予定で、こういうふうに寝不足状態というのは非常にヤバいのだけれども、もうしかたがない。眠っていないので出かけるまでに時間はたっぷりある。弁当をつくり、ミイたちのようすをみて異常ないのを確認し、ミイの食事をトレイに入れておいてあげる。出かけるのに窓を閉めてしまうとミイが外に出られないので、そのことが心配で窓は開けたままにする。以前はミイが外から部屋に来れるように窓を開けて外出していたけれど、今は逆になってしまった。

 今日の外出。現在、フランスの女優/歌手のジャンヌ・バリバールが来日していて、明日はライヴもあるのだけれども、それに合わせて彼女の出演作品をずらりと日仏学院で上映する。彼女は来月から公開されるペドロ・コスタの最新ドキュメンタリー、「何も変えてはならない」で被写体にもなっているわけだけれども、今日観るのはアルノー・デプレシャン監督の1996年の作品、「そして僕は恋をする」。デプレシャン監督作品は「キングス&クイーン」があまりに素晴らしかったので、ずっと、過去の作品を観返してみたいと思っていたもの。この秋には新作「クリスマス・ストーリー」が公開されるのも楽しみなところだけれども、とにかくは「そして僕は恋をする」は観たい作品の筆頭だった。

 またJRの飯田橋の駅で降り、日仏学院の坂道を登る。今年はこの道をずいぶんと歩いているものだ。受付に行きチケットを買おうとすると、今日の上映はフィルムではなくてDVD上映になるので、料金は半額の500円になるという。「申し訳ありません」といわれるけれど、料金が安くなるのならわたしは大歓迎である。しかし、ここで上映時間が三時間に近いことを知り、この寝不足状態でちゃんと覚醒してさいごまで観とおせるか、自信があまりない。

 さて、開映。さすがに受付でいわれただけあって、やはりDVDの映像を大きなスクリーンに拡大して映すと、かなり画像は荒れている。
 映画の主役はソルボンヌの哲学科専任講師の29歳男性で、演じているのがマチュー・アマルリック。べつに教授目指してガツガツしているわけではなく、もう講師も辞めてもいいと思っている。十年越しの恋人エステル(エマニュエル・ドゥヴォス)との仲もどうでもいいって感じで、友人のナタンの恋人と浮気したりしている。テイストはウディ・アレンの男女相関関係ドロドロ映画に非常に似ている感じで、主人公はいかに新しく出会う女性たちと発展していくか、ということに命をかけているようにも見える。それでもって、あれこれと恋愛認識についてのうんちくを語ったり、人生について哲学的な考察を述べたりする。いよいよウディ・アレンで、パーティーのシーンもあれこれ出て来る。しかし、スノッブさを断罪するように見せてさらにスノッブの泥沼で溺れているようなウディ・アレンの作品的な地平はこの作品にはなく、ウディ・アレン作品の語ることが、けっきょくは経験を優位に置くプラグマティズム的なものであるとすれば、この作品でいろいろな登場人物の語ることは、彼ら、彼女らの実際の行動との乖離があり、そのすきまから何か違うものが見えて来るようでもあって、そのあたりがわたしには面白く観ることが出来た。
 ‥‥なのだけど、やはりまぶたが重くなり、もう目を開けているだけでせいいっぱいという状態にも。要所要所は押さえて観ていたつもりだけれども、知らないうちによくわからない展開になっていたりする。観ていてなにか(大事なことを)思っていたのだけれども、上映室を出たら忘れてしまっている。やっぱ、ダメだ。もういちどちゃんと観たい。あ、サルを連れた主人公のライヴァルの教授との話も、もう一度観たい。ちゃんと観ていたつもりだったのに、もう前後関係がわからなくなっているし。

 映画を観る前に食べて満腹になるとよけい眠くなるだろうと、食べないでおいた弁当を近くの公園で食べてから帰宅。ミイくんはちゃんとお留守番できたかな?

 部屋に戻ってみると、用意してあったミイの食事に、口をつけた形跡がなかった。ずっと住処で子ネコのめんどうをみていたんだろうか。わたしがいないので不安だったのだろうかね。部屋でパソコンの前に座ってニュースなど見ていると、いつのまにかミイがはい出して来ていて、わたしのすぐそばにわたしと並んで座っていた。こういう人になつくような、甘えるようなしぐさは初めてなので、やはりわたしがいなくて寂しかったのかと、からだをなでてあげる。ミイはごろごろとのどを鳴らし、からだを横にして寝そべってしまった。大きく張った乳房が見えて、そのあたりをさわってみると、母乳でパンパンになっているみたいだった。子育て、ごくろうさん。わたしも眠いので今日は早く寝た。

 そういうわけで、今日の一曲は「眠い」という曲。おそらくはHarry James楽団の演奏でヒットした戦中のポピュラー・ソングだけど、わたしは今の今まで、「Lagoon」というのはアライグマとかタヌキとか、そういう動物のことで、眠そうなそういう動物の歌だと思っていた。って、それは「Raccoon」だって。だから、この「Sleepy Lagoon」というのは、「静かな入江」とかいう感じの意味ではないか。だから、ぜんぜん「眠い」という曲なんかではない。こういうことも眠いときにはやってしまう、ということで。


 

 

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■ 2010-06-24(Thu) 「ダブルベッド」「赤ちょうちん」

[]Mystic Eyes [Them] Mystic Eyes [Them]を含むブックマーク

 ミイたちとの生活が始まる。ミイはほとんど一日じゅうベッドの下から出て来なくて、子ネコたちに母乳をあげている様子。ときどきベッドの下から、小さなモーターを高速回転させているような、ウィーンというような、キーンというような音との中間みたいな、短い子ネコの啼き声が聴こえて来る。ミイは今日は三度ほど、ベッドの下から抜け出して食事をする。食事のあとは決まって、しばらく外へ出て行く。ひょっとしたらトイレとかに行っているのかもしれない。部屋の中にまたトイレはセットしているんだけれども、ミイは気が付いていないのか、まだいちども使っていない。まだずっと居候気分で、ウチに負担をかけさせまいと考えているようにも感じられる。
 ミイの留守に、そっとベッドの上をめくって子ネコたちを覗き込んでみる。べろんと横たわって、ときどきヒクヒクと引きつるように動いている。まだ眼はしっかり閉じられている。素晴らしいきれながの、ミイの眼のかたちを引き継いでくれていればいいんだけれども。からだのブチ模様の黒色が勝っている子ネコの、鼻の下がユウのように黒くなっているのが二匹。この間抜けなヒゲ模様はこのあたりの野良ネコの特徴で、DNAにしっかり記録されてるんだろうし、つまりは近親相姦率も高いのだろう。

 昼すぎに外に出て行くミイをみていると、駐車場にノラもやって来て、ミイの近くにすりよって来る。ミイは例によってノラの存在など気にかけない様子だけれども、ノラが近くに来ても嫌がる様子でもなく、遠目には仲のいいつがいのネコ、と見えないこともない。やっぱノラが父親と考えていいんだろう。オレに養育費払えよ。
 そのうちミイは駐車場と向かいのアパートとのフェンスを飛び越え、アパートの通路でゴロゴロしている。ノラもついて行くのかと見ていると、フェンスの反対側からミイを見ているだけで、ミイの方へ行こうともしない。なんか、こういうのがノラの見ていてイライラするところで、ウジウジしてばかりいるバカネコという感じで、この頭の悪そうなところがこの辺り一帯の野良ネコほとんどの特性という感じ。ユウもみごとにバカネコだったし、ミイの子ネコたちにこのバカが遺伝していないことを祈らずにはいられない。

 夕方になってまたミイは外に出て行く。ベランダでミイのからだをなでて「おつかれさん」とねぎらってやっていると、フッとからだを起こして、姿勢を低くしてとなりの部屋との境の方へゆっくり進んで行った。また別の野良ネコが来たのかと、となりの方を見てみると、そこにノラがいて、スッとマンションのかげに姿を隠して行った。そうか、やはりミイはノラのことを認めてないというか、自分の住処にまでノラが来ることは許さないのか。一般にネコというものはそういうものなのかどうか、わたしはよく知らないのだけれども、こういうところにもミイの気高さを感じてしまう。「あなたの子供は産んだけど、わたしはあなたと暮していったりしない。わたしの生活に干渉しないで」という感じか。
 そのあとミイはベッドの下に戻り、わたしはリヴィングでTVを観ている。ふいにベランダからネコの啼き声が聴こえてくる。なんだよと思ってベランダを覗くと、作業台の上からノラがふっとんで逃げていった。ふうん、ノラがミイを「出ておいで」と呼んでいたわけか。なんかもう、ものすごっくバカっぽい。人間にも、おまえみたいなのいるけどね。

 夜は「ひかりTV」。また、配信停止が近いヴィデオを観る。今日は藤田敏八監督作品を二本。最初のは、1983年の作品「ダブルベッド」。この原作は当時は作家活動もしていた中山千夏で、脚本は荒井晴彦、出演は大谷直子、柄本明、石田えり、岸部一徳ら。要するに日活ロマンポルノの一本で、濡れ場シーンは多い。演出は粗雑な箇所も多くて、これが藤田敏八作品かと思ったりもするけれど、こういう粗さは彼の作品にはずっと附随していたことで、そこから彼の作品独特の魅力もかもし出されていた、というのも確か。だけれども、この作品にそういう魅力があるのかというと、どうだろう? ということになる。
 大谷直子と岸部一徳の夫婦が、共通する旧友の柄本明と居酒屋で再会する。柄本明には石田えりという関係のあいまいな女性がいるのだけれども、けっきょく大谷直子と柄本明は関係を持ち、岸部一徳の知るところとなる。自分も浮気していて「やり直そう」という岸部一徳を振り切って、大谷直子は柄本明の部屋に転がり込むけれど‥‥。
 ストーリー展開は「ばかみたい」なおはなしで、物語としての面白味などまるでないのだけれども、いかにも荒井晴彦の脚本らしく、それぞれの男女のなかで肥大する性欲をどう描くか、という視点にシフトする。そのディテールに、面白いといえば面白い部分もあるのだろう。見ていて興味を惹かれるのはやはり、四人の俳優の演技とかになってしまい、特に岸部一徳は、やっぱりこの時からすばらしい。妻の浮気を知り、マンションの屋上でひとりでキャッチボールを黙々と続けるシーンでの彼の存在感は、ずっと後の阪本順治監督の「顔」で、やはり屋上で、プランターの植物に水をやっていた姿を思い出させられる。寂しくて滑稽、そういう彼独特のキャラクターの萌芽がここに感じられる。

 もう一本はその十年ほど前、1974年の「赤ちょうちん」で、秋吉久美子との作品だけれども、ここでの脚本には中島丈博の名前が見える。つまりは当時の大ヒット曲の意匠を借りた青春ドラマかな、と思っていたら、最後まで観て、かなり驚かされてしまった。なんて言うのか、都会で暮らす開放感と、同時に息苦しさ、閉そく感のようなものが面白い形で同居して、独特のビターなドラマになっている。そこに演出上の、当時のアメリカのニューシネマの影響などが感じられて、今観てもどこか魚の子骨がのどにひっかかるような、存在感のある作品になっているという印象。先に観た「ダブルベッド」の基調はリアリズム、というか、いかにも実際にありそうなことがらを、いかにも実際のようにリアルに演出していたけれども、ここではそういうリアルさは基本的に、問題にされていない。その非―リアルな感覚をこの作品にみごとに定着させることになったのはやはり、秋吉久美子という女優の存在で、この作品でのミューズと呼ぶにふさわしい存在だと思う。ラストの、鶏モモ肉にむしゃぶりつく姿こそは奇蹟のようなすばらしい映像で、それまでの展開はすべて、この映像のために引っ張って来たのかとも得心するし、その映像から目を離すことも出来ない。藤田敏八監督の、別の秋吉久美子主演作も観たくなった。映画はその秋吉久美子からの視点ではなく、彼女とずっと同居する高岡健二からの視点で描かれる。この男はある種の時代的な奔放さのなかに身を置いているわけで、まじめに生きようとする部分と放埒な無責任さとが同居している。秋吉久美子のことは大事に思っているけれども、自分の抱える精神的な負債をぜんぶ秋吉久美子に預けてしまっていることには無自覚のようで、その負債は彼女の中に蓄積される。同時に、東京という都会での生きにくさ、本来自分が大事にしたいものがすり逃げてしまうような生活も彼女の負債になる。「共同生活のルールを守りなさい」と彼女を攻撃する近所のおばさんに、「私は、共同生活などしているつもりはありません!」とタンカを切る場面が印象に残る。
 ここでも藤田敏八監督の演出は粗いのだけれども、アコースティック・ギターの音楽と映像とのマッチングも良く、感情移入を排した乾質な描写が小気味良い。ラストのつっぱね方もいい感じで、主人公の男は女の発狂をどう受け止めているのかなど、まるで説明などしない。このあたりにもアメリカのニューシネマの影響があるのかもしれないけれども、ちょっと未完成な作品独特の魅力をも振りまく、いい作品だと思った。そうそう、長門裕之が面白い役で出演していて印象に残ったし、横山リエもいい役で出ていた。

 明朝早くにワールドカップの日本戦があるから観よう、という理由でもなく早く寝ようとしていたのだけれども、寝付いてすぐに、固定電話の方に珍しく電話がかかって来た。出てみるとわたしにはいちばん大事な存在からの電話だった。最初声がわからず、音信の途絶えている付き合っていた女性からか、などと思ってしまって、あやうくそっちの名前を出しそうになってしまった。そんなことしなくてよかった。とにかく久しぶりの電話だったし、長電話になってしまったし、電話を切ったあとも目が冴えて、眠れなくなってしまった。
 ベッドの下を覗いてみると、すき間からミイの顔がこちらを向いているのが見えた。やはりこちらを見ているミイの美しい眼が見えて、何か神秘的な空気を部屋に感じてしまった。それで、今日の一曲はそのミイの眼に合わせて、Them の1965年のヒット曲、「Mystic Eyes」を。Them のヒット曲といえば「Gloria」だけど、この曲はアメリカではリリースされず、Shadows of Knights というガレージ・バンドのカヴァーでのヒットになるから、アメリカでのThem のヒット曲はこの前の「Here Comes The Night」と、この「Mystic Eyes」だけになる。時代がもうちょっとあとならば「サイケデリック」とも呼ばれただろう、それこそちょっとミステリアスな曲で、じっさいVan Morrison は唄うのではなく語っているだけで、ギターの印象的なフレーズがだんだんにフィーチャーされて発展していく。当時この曲に惚れて国内でリリースされたシングル盤も買ったけれども、このB面の「If You And I Could Be As Two」というのがまたものすごく良くってThem の大ファンになったのだけど、日本では彼らのレコードもほとんどリリースされないまま、バンドは消滅してしまった。このあとにVan Morrison はソロシンガーとして、「Brown Eyed Girl」というポップな楽曲(またも「Eye」の曲だ)をヒットさせる。その「Brown Eyed Girl」も、好きな曲だったなあ。


 

 

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■ 2010-06-23(Wed) 「アゲイン 明日への誓い」「狼/男たちの挽歌・最終章」

[]Baby Mine (Dumbo) [Betty Noyes] Baby Mine (Dumbo) [Betty Noyes]を含むブックマーク

 予測していなかったわけではないけれども、ミイがほんとうに、子ネコを連れてわたしの部屋に引っ越して来た。
 昼ごろに来て、またベッドの下の空間を確かめるようにしてから出て行ったのだけれども、それからしばらくして、小さなネコを口にくわえてベランダから入って来た。「ほんとうに連れて来たのか!」と驚いてしまうけれど、さっさとベッドの下に潜り込んで、またミイ一匹で出て行く。予想したとおり、しばらくしてまた別の子ネコをくわえて戻って来る。あの公園のわきの住処から、ここまで子供をくわえて来てるのか。直線距離で二百メートルもないだろうからそんなに驚くことでもないけれど、途中で車や人の往来のある道も横切って来るわけだ。出くわして目撃した人は驚いただろう。まいったな、三匹ぐらいはいるんだろうな、と思っていたら、四匹目も連れて来た。しばらくそのままこもったきりなので、これで終わりだろうと思っていたらまたミイは外に出て行き、もう一匹連れて来た。五匹かよ! ミイはそのままベッドの下で子育て体制に突入してしまったようで、もう出て来ない。さいごの一匹を連れて来る前に、ちょっとだけ上から覗いてみたのだけれども、真っ白なのからまだらに斑点のあるの、そしてほとんど全身黒いのまで、みごとなブチのグラディエーションになっていて、十センチにも満たないようなちっちゃいのが、からだを寄せ合ってヒクヒク動いてる。こんなのを五つもおなかの中に宿していたのか。真っ白なのがいるというのは、やはり父親はノラなのか。

 しかし、まいったな。子ネコはかわいいし、ミイがわたしを信頼してここに越して来たのならその信頼を裏切りたくはないけれども、全部ここで飼うことなんか出来っこない。いま刺激してしまうと育つものも育たなくなってしまうから、いまはミイの子育ての力になってあげようと思うけれども、ある程度になったらその種のセンターに連絡しなければいけないだろう。どうせミイだって子離れしたら子ネコのことなんか忘れちゃうんだから、とは思っても、クルーエルな決定も難しい。最低限の数なら飼ってやりたいのもたしかだし(今度は生まれてすぐだから、人にもなれるだろう)。ミイの避妊手術もまずは考えてやらなくっちゃいけないところだけれども、そういう余裕はないし、やっぱり、ではなぜ餌付けしたんですか、ということになる。これ以上無責任なことは出来ない。ノラに養育費を払わせてやる。

 とにかくミイは(これからは「ミイの家族は」といわなければならないのか)ベッドの下でおとなしくしているので、こちらはこちらで日常の生活を続けなくては。普通に夕食を食べ、また普通にヴィデオ配信を観る。今日も「男たちの挽歌」の続編を観る。

 まずは、第三作「アゲイン 明日への誓い」で、1990年の作品。いちおう「男たちの挽歌」の正式な最終章で、第一作よりも過去にさかのぼり、マーク(チョウ・ユンファ)のヴェトナム時代の、悲しくもめちゃくちゃな物語。監督はジョン・ウーではなくて、ずっとこのシリーズの製作だったツイ・ハーク。とにかくヴェトナム戦争も末期の混乱状態を背景にしているので、マシンガンが出て来ようが戦車が出て来ようが何でもござれ状態。時代と国境の中で翻弄される華僑の人たちと、それを食い物にする黒社会。ストーリーはよく分からんし、実に大味な展開になってしまった。前作までの男の友情は、普通に男女の愛情に転嫁されているわけだけれど、感銘はいまいち。火薬料は半端ではない。

 続いて「狼/男たちの挽歌・最終章」。1989年製作で、こちらの方が「アゲイン 明日への誓い」より先に出来ている。内容はまったく「男たちの挽歌」シリーズとは関係なく、殺し屋と刑事の友情がメイン。ストーリーはちょっとメルヴィルの「サムライ」の設定を思い出してしまうもので、引退を考えている一匹狼の殺し屋が、現場で女性歌手を失明させてしまうことから、彼女の眼の治療のためにもういちど仕事を引き受ける。依頼主の裏切りと、刑事の執拗な追求。刑事はだんだんに殺し屋の心情を理解し、ほとんど自分と殺し屋を同一化するようになって行くように見える。殺し屋はいちばんの友を失い、刑事も同僚を失うことでよけいに二人は接近する。ラストは「ハエのように群がる」無数の敵を、ばったばったと撃ち殺して行く。百人ぐらい撃ち殺してるんじゃないのか。ひとり殺るのにせいぜい二〜三発ですませりゃいいのに、だいたい五発以上はいつも弾を消費している。この過剰さが全編を覆っている。めっちゃくちゃ通俗的脚本と演出なのだけれども、そんなことは、このあまりの過剰さの前ではどうでも良くなってしまう。ハトが出て来るのはこの作品から、なんだろうか。

 今もベッドの下でミイはこどもを育てている。ときどき、子ネコのピーピー啼く声が聴こえて来たりする。これからどうなるんだろう。ミイは子ネコをあやして子守唄とか歌うんだろうか。そういう、動物の唄う子守唄で、ゾウのダンボがサーカスの中でおかあさんゾウに唄ってもらう子守唄がこれ。ちょっと好きな曲で、今でも記憶に残っている。わたしはこの曲はPeggy Lee の歌だと思い込んでいたけれども、今日調べてみたらそうじゃなかった。Peggy Lee は「わんわん物語」の方。


 

 

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■ 2010-06-22(Tue) 「男たちの挽歌」「男たちの挽歌 II」

[]Elegy(Gabriel Faule) [Yo-Yo Ma] Elegy(Gabriel Faule) [Yo-Yo Ma]を含むブックマーク

 どうも、外で飲んだ翌日はどんよりとして、何もやらない。昼は残りご飯でお茶漬けですませ、しばらく昼寝してしまった。
 ベッドで寝ていると、ベッドの下でカリカリと音が聴こえてくる。どうやら、ベッドの下にミイが入り込んで来ているらしい。わたしがそのまま寝ているうちに勝手に出て行ったのだろう、起きてベッドの下を見てもいなかった。ミイはしばらくしてまたベランダからやって来て、食事して行く。ベランダでミイをかまって遊んでいると、ミイのお尻のあたりの毛がごっそり抜けて、ピンクの肌が見えているのに気が付いた。どうしたんだろうと見ると、からだが急にほっそりしたようだ。‥‥そうか、また出産したんだな。どうも昨日から朝早い時間には来なくなったのも、そういうことなんだろう。この部屋の様子を探っているのが、母子で暮らせる快適な新しい住処を探してのことだったりして、ふいにちっちゃい子ネコを連れて引っ越して来たりしたらどうしよう。まあ、そのうちにまたユウのときのように、少し大きくなった子ネコを連れて来るかもしれない。でも、ミイの様子を見ていると、なんだか今回は出産がうまく行かなかったのかもしれない、などとも理由もなく思う。

 今日はヴィデオ配信でジョン・ウー監督の「男たちの挽歌」と、「男たちの挽歌 II」を続けて観る。ひかりTVのヴィデオ配信はいつも同じリストで固定されているわけでなく、当然新作が増えて来るのに合わせて、リストから消えて行く作品もある。この「男たちの挽歌」のシリーズなども今月中で見られなくなるので、50年代B級映画を観るのはお休みして、しばらくはこういう、6月いっぱいで配信停止になる作品を観ることにする。

 まずは、1986年の第一作、「男たちの挽歌」。仁義と裏切りの世界である。主演のティ・ロンという俳優、初めて観るけれど、生真面目そうな容貌とその演技が、この主役に相応しい。「仁義なき闘い」タッチのハードボイルドに、サム・ペキンパーのウェットな哀愁が加味されたというか、やはりラストにレスリー・チャンがティ・ロンに銃を渡すところに、グッと来てしまう。ジョン・ウーの演出にハマる気持ちはわかる。

 続いて、翌1987年に製作された「男たちの挽歌 II」。第一作のキャラクターがそのまま踏襲され、死んでしまったチョウ・ユンファは双子の兄弟がいたことにして、第一作からのその後、という演出。もうここでは物語の整合性とか問題ではなくって、ほとんど自爆テロのようなラストになだれ込む。あまりに過剰な世界。ジョン・ウーの演出にハマる気持ちはあまりわからない。

 で、今日の一曲は、その「挽歌」に合わせて、挽歌とはエレジーなのだけれども、この映画とはまるっきしマッチしないフォーレの「エレジー」を、ヨーヨー・マのチェロで。


 

 

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■ 2010-06-21(Mon) 「告白」

[]Midnight Confessions [Grass Roots] Midnight Confessions [Grass Roots]を含むブックマーク

 現在公開されている「告白」を観たBさんから、「映画のなかに黒田育世さんが出ているよ」とメールがあった。黒田さんは重要な役で、映画も面白かったから観るといいよと云われ、月曜日ならターミナル駅のシネコンは「メンズデー」で、わたしのような男性が千円で映画を観ることができるので、行くことにした。ついでに、せっかくターミナル駅まで出て行くのだから、東京まで足を伸ばしてAさんと飲むことにしてAさんに連絡、夕方に待ち合わせる予定を立てた。

 映画は午後いちの上映を観ることにして、シネコンのあるショッピングモールで昼食の予定。外食は避けなければならないぜいたくなので、お弁当を作って持って行く。弁当を作るのも久しぶりである。おかずはレタスのサラダにウィンナーをまぜてマヨネーズを和えたものと少量の昆布の佃煮だけ。ごはんの上にふりかけをかけ、海苔をのせて真ん中に梅干しを置く。原価は7〜80円ぐらいのものだろうか。ショッピングモールの休憩所で食べる手製弁当はけっこうイケる。

 さて映画。中島哲也監督の作品は「下妻物語」以降すべて観ているけれども、CGなどを駆使した、映画の虚構性を強調した「これは映画である」という枠付きの演出は、娯楽映画としていつも面白いと思っていた。今回の「告白」にも、冒頭からギミックな演出は見られるけれども、これまでの虚構性はさほど強調せず、シリアスに題材にぶっつかっている印象。特に冒頭の松たか子の生徒を前にした「告白」シーンなど、教室という密室空間の演出(ここに屋上シーンをうまくはめ込んでいる)、生徒たちがメールを交わすケータイというアイテムの駆使など、映画的な魅力に満ちていたという印象はある。この長い告白がその後の展開を支配する基調になり、平板になりそうな展開をフォローしている。
 さて、黒田さん登場。登場人物のひとりによって夢見られた母親像として、また、その息子の歪みの原因でもある存在としてたしかに非常に重要な役柄で、中島哲也監督の演出は、そんな彼女の美しさと厳しさをしっかりと画面に定着していた。神秘的な美しさを際立たせる場面では、いくつかのヨーロッパのタブロー作品を典拠にしていたのではないかと思う。ある場面はおそらくフェルメールだと、観ていて思った。そうすると、ラストのあまりに美しい爆発シーン、巻き戻しされて炎の中から生まれてくるような彼女の横顔は、これはダリのガラ像から、なのだろうか。あの場面、黒田さんの頬を伝うひとすじの涙が美しく、この映画作品の核として、記憶に焼きつけられた。モンスターを産んだ母親への、そのモンスターが抱く美しい憧憬。既存の俳優からは引き出せないであったろうミステリアスな雰囲気がなんとも魅力的だった。
 作品全体としては、同じ事件の場面がなんども繰り返されるわりには、その事件の見方がそれほど劇的に変わってくるわけでもなく、多少の疑問も残ったりするけれど、彩度を落としたモノクロに近い色彩が近年のイーストウッドの映画みたいで、この作品のいっしゅ重たい空気には似合った美しさがあったと思う。Radiohead を使った音楽も良かった。特に、冒頭の教室での告白シーンで繰り返される単調なメロディが、語り手の怨念、悪意を伝えるようで、心にしみた。

 映画館を出て電車に乗り、新宿でAさんと合流。某居酒屋チェーン店のサービス券を持っているので、その居酒屋で飲んだ。ホッピーを二本空けて、経済的にもわたしの許容量からも、そのくらいが最近の適量である。Aさんとはどうしてもむかしの思い出話が多くなってしまうけれども、いままでふたりで飲む機会はそう多くなかったので、ちょっと踏み込んだ話などもすることができた。居酒屋ではサービス券発行のキャンペーンがまだ続いていて、またサービス券をたくさんもらってしまった。これからも、Aさんとは二人で飲むことが多くなるだろう。
 月曜日ということもあって、帰りの湘南新宿ラインはそれほど混み合っていない。赤羽駅で座ることが出来、ローカル線の終電まで寝てしまった。乗換駅でよく目が覚めたものだ。

 今日は「告白」という映画を観たので、告白、Confession で思い出す曲を今日の一曲に。演っているGrass Roots は60年代中期のアメリカのポップ・グループで、彼らのヒット曲「Let's Live For Today」は、日本ではテンプターズが「今日を生きよう」としてカヴァーして、かなりのヒットになった記憶がある。でも彼らのアメリカでの最大のヒット曲は、1968年にヒットしたこの「Midnight Confessions」の方。このあと時代はロックの時代になだれ込むけれど、彼らはしぶとくも72年頃までシングル・ヒットを出し続けていた。この「Midnight Confessions」、タランティーノの「ジャッキー・ブラウン」の中で使われていた記憶がある。


 

 

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■ 2010-06-20(Sun) 「牢獄の罠」「驚異の透明人間」「幽霊の館」

[]透明人間 [ピンクレディー] 透明人間 [ピンクレディー]を含むブックマーク

 図書館に購入リクエストを出していた東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」がようやく購入対象になり(この本ぐらい、リクエストがなくても買っておいて欲しい)、図書館から受け取りに来いと通知があった。また家にある本を読むのが先送りになってしまう。今は貧乏性丸出しで、「ひかりTV」が無料で見れるうちに出来るだけ多くヴィデオ配信とか見つくしておこうと思っているし、本を読む時間はどんどん縮小されている。図書館に行くとまた新刊で読みたい本とか見つけてしまい、目の毒。

 「ひかりTV」の無料サービスでトラブルは起きていないのか、気になって調べてみたけれども、要するにカスタマー・センターへの電話がまったくつながらないということがトラブルのすべてといえるみたい。あとは、家人が無料サービス案内で安易に申し込んだのを、たとえば旦那さんとかが「冗談じゃない」と、送られて来たチューナーを解包もせずに送り返すケース。カスタマー・センターにつながらないので消費者センターに報告した例もあるようだけれども、無料サービス自体としてのトラブル報告は、ネット上には見られない。要は解約のタイミング、だな。

 今日もヴィデオ配信を三本観る。まずはまたエド・ウッドの監督作品で、「牢獄の罠」という1954年の作品。原題は「Jail Bait」だから、刑務所のメシという意味だけれども、作品の中に刑務所が出てくるわけではない。ノワールものというか、シリアスなクライム・サスペンス(途中までは)で、全編が夜間に展開する。パトカーとのカー・チェイスの場面もあり、父が犯罪者の息子へ注ぐ溺愛、犯罪者間の裏切りをテーマとした本格的なドラマ。音楽もある瞬間には非常に効果的で、ちょっとした感動も生まれる。とても、「プラン9」と同じ監督の作品とは思えない。まあ、俳優の演技とか、「ここでこういうショットがあれば‥‥」とか、全体のテンポとか、難しい問題もありますが。
 拳銃不法所持で勾留されていたドンがその姉に保釈金を持って来てもらい、保釈されるところから作品は始まるけれど、冒頭のタイトル部で走るパトカーを正面から並走して捉え、そのパトカーが警察署の前に横付けにするところからカメラが警察署内に入って行く、導入部のセンスはなかなかのもの。
 チンピラのドンはヴィックという根っからのワルとつるんでいて、整形外科医で警察とも親交のある父はそんな息子を心配しているが、甘やかしてしまう性癖はなかなか直るものでもないようで、見ていても厳しさが足りない。拳銃を隠していたのを保釈されて帰宅したドンに持ち出されてしまう。ドンはそのままヴィックと落ち合い、ヴィックのいうなりに、閉店したあとの劇場の金庫を狙った強盗の相棒にされる。劇場で金はせしめるが、ドンは警備員を射殺してしまい、生き残った女性に二人とも顔を見られてしまう。ヴィックのもとから逃れたドンは父に会って相談する。父は自首をすすめドンも同意するが、外に出たところでドンはまたヴィックにつかまってしまう。けっきょく、自首するつもりのドンをヴィックは射殺してしまうが、彼自身顔を見られているので指名手配されている。一計を案じたヴィックは、ドンの父に連絡し、ドンを無事に返すからオレの顔を整形して別人にしろと迫る。承諾した父はそれでも、手術する前にドンがすでに殺されていることを知る。手術を終えて二週間経ち、包帯が取れるという日にヴィックはドンの父のオフィスを訪れる。そこには警官たちもいるけれども、ヴィックは「オレはヴィックじゃない、見てみろ!」と。はたして、包帯を取られたヴィックの顔とは‥‥。
 このラストのドンデン返しにこそ、エド・ウッド精神全開というか、おそらく彼の中で、映画というものはどんなときにも、とてつもない非日常をスクリーン上に繰り拡げるものだという思いがあるのだろう。そのためにはとてつもない予算がかかってしまうあたりにまずはネックがあるわけだけど(もちろん、これプラス「演出力」という問題があるけれど)、このような題材であればそれほどの予算は必要ない。そのあたりの企画がうまく行った作品という印象。テーマもはっきりしていて楽しめる作品だった。

 次に観たのは、「驚異の透明人間」という作品。監督はエドガー・G・ウルマーという人。ムルナウの美術スタッフをやっていたあたりからそのキャリアをスタートさせている人物で、膨大な数のB級作品を監督しているらしい。この「驚異の透明人間」は1959年の作品で、彼のフィルモグラフィーでは後期の作品ということになる。原題は「The Amazing Transparent Man」で、そうか、Invisible Man ぢゃないんだ、と。関係ないトリビア知識だけど、仮に透明人間が実現しても、その透明人間は網膜も透明になってしまうので、眼が見えなくなるということ。
 わたしが小さい頃、TV放送の黎明期に、アメリカ製の連続TVドラマ「透明人間」というのが放映されていたのが記憶に残っている(90年代の和製TVドラマの「透明人間」ではない)。普段頭を包帯でグルグル巻きにしてサングラスをかけている透明人間がその包帯をスルスルとほどいていくと、包帯の中身が空っぽに見えるシーンとか、実験のネズミが姿を消すシーンとかが記憶に残ってる。姿が見えないのにベッドのシーツが人の形にへこんだり、道にペタペタと足あとだけが残されていく特殊撮影技術が楽しかった。しかしこの映画版の「驚異の透明人間」、そういう特殊撮影技術を見せようとする作品ではなく、姿が見えなくなっていくシーンなどもざっとしたものだし、「姿が見えないけれどもそこにいる」という演出は、例えば人物の目線とその主観映像の動きで示されたり、その透明人間の持つモノを宙吊りでふわふわ移動させる簡単なトリックで示されたり。
 このストーリーにはいわゆるマッド・サイエンティストというのは出て来ず、「透明軍団」を組織して何かやらかそうとするボスが、科学者の娘を拉致監禁して科学者を自分に従わせている。研究はどうやらある程度完成しているらしいけれども、厳重に保管された核物質を入手しないとグレードアップできない。そこで刑務所から金庫破りの名人を脱獄させ、従わせる。ボスからの部下たち、科学者への拘束力はあいまいなもので、ここでも「裏切り」がサブのテーマになってくる。また、核物質の人体への悪影響、管理の難しさも語られる。けっきょくその金庫破り男の裏切りからボスの計画は破綻、逃げ出した科学者親子以外はプチ核爆発で消滅してしまう。
 1959年という製作年度からも、このストーリーの背後には東西の核開発競争という現実も透けて見え、科学の進歩も邪悪な目的に使用されれば破滅につながるというメッセージも読み取れるだろう。手下どもの裏切りというノワールなテーマにこそこの監督の持ち味はあるように感じられたけれども、一時間に届かない長さ、尺が短くて充分に展開し切れなかったような印象。

 最後の一本は「幽霊の館」。DVD発売時には「ベラ・ルゴシの幽霊の館」というタイトルだったらしいけど、原題は「Invisible Ghost」で、こちらは「Invisible」。姿の見えない連続殺人犯とか、消えてしまった館の主の妻のこととかが「Invisible」ということなのだろうけれども、映画の中ではGhost が出現するわけではない。館の主の眼に映る消えたはずの妻の姿が「Ghost」という認識、とも取れる。監督はジョセフ・H・ルイス氏。
 ある屋敷で連続して雇い人などが殺害される事件が起きている。屋敷の主人は若山富三郎そっくりに見えるベラ・ルゴシで、年頃の娘と使用人に囲まれて暮らす、まるで温厚な紳士。しかし彼の妻は数年前に愛人と駆け落ちして、彼のもとを去ってしまっていて、そのことがじつは彼の神経を狂わせている。で、妻は出奔の途中で交通事故に遭い、愛人は死亡して彼女は屋敷の庭師に救われ、じつは屋敷の地下室でやはり精神を病んで生き続けているという、かなりとんでもない設定。妻はときどき屋敷の庭に出て、主の部屋を見上げては「帰りたいけれども帰ったら殺される」などとつぶやく。二階の窓から主がその姿に気がつくと、そのことが彼の神経を瞬時に狂わせ、夢遊病的に殺人を遂行してしまうのだ。あほらしい。って、まあウィルキー・コリンズあたりの初期推理小説の影響はあるのだろうか。とにかく背景描写が弱いので、「レベッカ」のような、屋敷を含めての空間ドラマになり得ていない。屋敷の主がおかしくなるたびに下からの照明でホラーっぽく演出するのが、また一本調子で悲しい。ベラ・ルゴシが普通のおっさんの役というのが珍しく、温和さをにじませて好演しているのが目立つ。

 今日の一曲は、今日観た作品から「透明人間」、ズバリです。


 

 

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■ 2010-06-19(Sat) 「ホワイト・ゾンビ(恐怖城)」「恐怖の足跡」「プラン9・フロム・

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 今日も雨は降らないではないか。今週はずっと雨という予報を少し予定に組み入れて考えていたので、だまされてしまった気がする。
 和室に坐ってパソコンをいじっていると、ミイが食事にやって来る。そのまま見ていると和室のわたしの方に近づいて来て、わたしにすりよって来そうな気配。今までになかったことで、これは新しい段階かと思ったけれど、わたしがそのときタバコを吸っていたせいで、そのタバコの匂いを嫌って引き返して出て行った。あとでベランダに出てみると、ベランダの隅で眠っていた。もうこの段階ではベランダに段ボール箱とか置いてあげれば、自分の住処にするのではないだろうかとか考えるけど、ひょっとしたらミイはまた妊娠しているので、ベランダで出産されてはたまらないとも思う。

 ナボコフ伝の下巻を読みはじめ、その冒頭の部分が、伝記から離れていきなり作家論というか、ナボコフの小説を分析する章で、とても面白い。このいやったらしい高慢チキな男の、その書く小説にもそういう気取りがあふれているとも思える、そんな彼の作品を読んでいったいどうして自分は夢中になってしまうのか、合点がいくように思えた。ひとつには、ナボコフは文学者などの芸術家の立つスタンスを、まったく特権化して考えていない。ナボコフ自身は自分の才能を疑わず、その意識をあらわにすることもままあるけれども、それは小説を書く技術の才能の自覚であって、そういう意味では彼の奢りたかぶる意識は芸術家意識とは結び付いていない。そのことには共感できる。もうひとつ、彼の作品とはつまり、個人の限界への自覚と、それを突き破る可能性についての作品なのだ、と思い当たる。そのことが彼の作品の文体とも、非常に密接に絡んでいる。彼の作品を読むことは、読者が作品中の人物の思考の中に取り込まれることであって、その仮定された人物の思考、世界認識の限界を体験することになる。これをいわゆる「内的独白」などという方法からではなく、多くの場合その登場人物の書いたエクリチュールからこそ、読み手は体験することになる。「ロリータ」、「青白い炎」などがまさにそうだし、その追体験作業そのものを作品にしているのが「セバスチャン・ナイト」、とか考えられる。彼の作品で登場人物は多くの場合(作品内の)社会に抹殺され挫折するのだけれども、作品としてはそれはつねに、主人公の敗北ではない。またそのことは「芸術の勝利」などということではない、もっと異なる種類の「体験」の勝利だと思う。そこにこそわたしは惹かれるのだろう。やはりナボコフは、いい。

 午後からひかりTVのヴィデオ配信をまた三本観る。いま集中して観ている1930年代から50年代の作品はそれほど長くはない作品が多いので、三本ぐらい続けて観ても、時間を取られすぎたり観て疲れたりしない。
 今日はまず、「ホワイト・ゾンビ(恐怖城)」という1932年の作品。世に云われる「最初のゾンビ映画」ということで、監督は昨日観た「ゾンビの反乱」と同じくヴィクター・ハルペリン。「ゾンビの反乱」がひどかったので、どうだろう、と心配したけれど、こちらはきっちりとまとまった佳作だった。ただ、時代的に、サイレント映画的な演出と俳優の演技の名残りが過多(一応この作品はトーキー)で、ラストのクライマックスはほとんどサイレント映画。ゾンビを操る魔術師のような男を、ベラ・ルゴシが演じている。どうやらこの男は禿鷲の化身のような存在らしく、この前年製作の「魔人ドラキュラ」のキャラクターから流用される演出と演技。
 舞台はまさにハイチで、馬車に乗った若い男女が夜道を進んでいる。この男女は船中で知り合ったボーマン(ベラ・ルゴシではない)という男から、結婚式をあげるのなら私の屋敷で挙式すればいいと云われて、わざわざやって来たもの。そんなわけのわからない男の申し出を受け入れて、知らない島のへんぴな屋敷までやって来るということは、それなりにワケありのふたりなのだろうけれど、そういう事情の説明はない。じつはボーマンは新婦のマデリンに横恋慕してしまっているわけで、屋敷滞在中に彼女を自分のものにしてしまおうと企んでいる。いちおうマデリンをことば巧みに口説いてみるけれどもダメなので、島の外れの海岸にある奇怪な城に棲む魔術師(ルゴシ登場)の助けを借りることにする。この魔術師は島で死者をゾンビとしてよみがえらせ、砂糖工場の労働力として供給しているという描写がある。魔術師の提案はやはり彼女をゾンビ化することで、ボーマンは「そんなこと出来ん」というけど、最後の手段用に薬品を譲り受ける。すぐに最後の手段の出番になり、ワインに毒を盛られたマデリンは倒れて、島の墓地に埋葬される。残された夫のニールは、島の良識人ブルーナー博士の協力を得て、謎を解こうとする。マデリンは墓からゾンビとしてよみがえり、ボーマンの虜にされるけど、心のない、人形状態のマデリンに満足できないボーマンは「何とかならんのか」と、魔術師にまた身勝手な要求を。しっかし、魔術師こそがマデリンに恋していて、彼女を手に入れるためにボーマンを利用したにすぎない。ボーマン、あわれ‥‥。
 木の生い茂る島の風景や、魔術師の棲む城の美術がなかなか素晴らしく、城の外観のマットペイント、城の内部のセットなどみごとな仕上がりで、このあたりもまた「魔人ドラキュラ」を彷佛とさせられる。マデリン役の女優さんはいかにもこの時代の女優さんというメイクで、じっさいなかなか可愛らしいと思った。ベラ・ルゴシは、彼らしいもったいぶった怪演。マデリンのゾンビぶりよりも、彼女を失って茫然自失して墓地をさまようニールの方が、ずっとずっとゾンビに見えるところが楽しかった。
 他愛ない話だけれども、きっちりと起承転結をもってストーリーを描いているわけで、これがどうして「ゾンビの反乱」ではまったくそういうことが出来なくなってしまうのか、映画製作というのは難しい世界だ。

 次に観たのは、ある意味これもゾンビ映画の原形、1962年の「恐怖の足跡」という作品。原題は「Carnival Of Souls」で、監督は劇映画作品はこれ一作だけらしいハーク・ハーヴェイという人。ほとんど知られていない作品だけれども、これは面白い!(知られていないのは日本でだけで、海外では「カルト作品」としてかなり有名らしい)
 これは、デイヴィッド・リンチをも彷佛させられる、悪夢のみごとな形象化。悪夢の恐怖を際立たせる演出は、これはほんとうにお見事だと思った。
 女ともだちら三人の乗った乗用車が橋から川に転落し、そのうちのひとりだけが川から自力で岸にはい上がって生還する。回復した彼女は事件を忘れたく、パイプオルガン奏者として見知らぬ町の教会に就職し、近くに下宿も見つけて転居する。あたらしい町へ向かう車の中で、見知らぬ老人の顔が窓に映って彼女を怯えさせる。町の近くには湖に張り出した場所にある遊園地の廃墟があり、彼女はその場所に心惹かれるものを感じる。到着した下宿にも、夜になると前に見た老人の姿があらわれたりする。翌日買い物に出かけた彼女は、離魂状態というか、まわりの音が聴こえなくなり、誰もが自分の存在に気が付かないという状態を体験したりする。さらに、教会でパイプオルガンの練習をしていていっしゅの妄想状態に陥り、教会音楽とは程遠い音楽を演奏してしまい、聴いていた神父に解雇を申し渡される。下宿でも夜に老人の影に怯えて騒ぎ、ここからも追い出されることになる。町から出ようとバスに乗ろうとすると、乗客はあの老人のような無気味な(ゾンビのような)乗客ばかりで、彼女はそこからも逃げ出す。行き先のない彼女は湖の遊園地の廃墟に立ち入るのだけれども、そこのボールルームのようなところは多くの人たちにあふれ、皆がダンスに酔い痴れていた。その踊る人たちの中にあの老人の姿があり、そのダンスのパートナーは‥‥。

 ひとつには、彼女の演奏するパイプオルガンのメロディーが演出にうまく生かされていて、じっさいサウンドトラック音楽はオルガン音で埋め尽くされる。それに、彼女の「勝ち気だけれども、すこし引っ込み思案で人見知りをする。事故のあとは人との交流をおそれる気持ちもあり、しかし老人のイメージからひとりでいるのもまた恐怖する」という描写の肉付けが、単にストーリーを追うだけでない深みをこの作品に与えているし、そのことが、彼女の見る幻覚、悪夢をリアルに見せることにもつながっている。アメリカ郊外の描写にもちょっとした魅力があって、冒頭の自動車事故の現場には、リンチの「ツインピークス」な雰囲気も感じてしまうし、やはり何といっても、「遊園地の廃墟」というイメージの素晴らしさ、だろう。そう、彼女の周囲にあらわれるゾンビのような人々のイメージは、じっさいにこのあとのゾンビ映画でのゾンビのメイクの基本になったらしい(監督が日本の「暗黒舞踏」をこのときに知っていたとは考えにくいので、ゾンビの「白塗り」と「暗黒舞踏」とはどうやら無関係のようだ)。

 もう一本観たのはやはりゾンビつながりで、史上最低映画と名高いエド・ウッド監督の「プラン9・フロム・アウタースペース」(1959) 。ティム・バートンの作品「エド・ウッド」で、この作品製作にまつわる舞台裏はたっぷり描かれていたのは記憶している。ベラ・ルゴシの遺作でもある。
 たしかにひどい脚本とチープな演出、しろうとのような撮影ではあるけれども、演出に関してはそれほどまでにひどいという印象でもなく、エド・ウッド自身がやっている編集などは、それなりに適切な技術を感じさせる。ちゃんとした狙いがあり、その狙いを際立たせる努力はなされている。それさえこの映画で提示できれば、あとは観客の想像力に任せれよいという潔さ、といえばいくら何でもほめ過ぎだけど、じっさい、映画作品の演出としては、昨日観た「ゾンビの反乱」よりは数段優れている印象がある。前に「月のキャット・ウーマン」の感想で書いたように、チープさのバランスがみごとに低い次元で取れている作品という印象。Wikipedia にこの作品の項目があり、そこに「エド・ウッド」でルゴシ役を演じたマーティン・ランドーのことばとして、ベラ・ルゴシの他の出演作品に比べれば、この作品は「風と共に去りぬ」に見える、というのが引用されている。人類の愚かさを告発するという姿勢は、この映画の愚かさを超えてちゃんと読み取れるぞ。

 今日の一曲は、きのうのHolly Golightly の持っていたアルバムで、いちばん印象的だった曲を。じつはこの曲はKinks のRay Davies の作品で、Kinks 自身の演奏もあるけれども正式リリースされていないレア・アイテム。すっごいウェットな泣かせのメロディで、日本のグループサウンズの音を思わせる切なさがある。演歌まであと一歩だぞ、という感じ。
 じつは今朝のピーター・バラカンのFM番組で、Nicky Hopkins 絡みでKinks の曲が三曲ほどオンエアされていた。わたしもNicky Hopkins といえば、Kinks との仕事をまず思い浮かべてしまう。この曲とNicky Hopkins とは関係はないけれども、今日はKinks な日、ということで。


 

 

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■ 2010-06-18(Fri) 「グーグーだって猫である」「ブロークン・フラワーズ」「ゾンビの反

[]There Is An End [Holly Golightly with The Greenhornes] There Is An End [Holly Golightly with The Greenhornes]を含むブックマーク

 今日も、夕方になるまで雨は降らず。食事に来たミイの背中をなでて、外が雨なのを知った。ミイは食事のあとにずけずけと和室の方に入っていった。好きにさせて放置していたら、和室の方からぼこぼこと大きな音が聴こえて来た。何やってるんだろうと覗いたら、段ボール箱にツメをたてているところだった。

 ミイが来ているとき、ちょうどひかりTVで「グーグーだって猫である」を観ていた。ミイだって猫である。正式名は「ミイミイさま」なのだから、「ミイミイさまだって猫である」となる。ミイに「ほら!TVにキミの仲間が出てるよ!」と教えるけれど、ミイはむかしから、TVにはちっとも興味を示さない。CDプレーヤーから聴こえたLou Reed の声には反応して、聴き入っていたことがあるけれども。

 「グーグーだって猫である」は、2008年の大島弓子原作、犬童一心監督の作品。前半は、むかしの「ざわざわ下北沢」のようなテイストの吉祥寺賛美と、ムツゴロウ映画のような「ネコかわいい〜?」映像集で、気分的、趣味的な世界。一昨年に吉祥寺の居酒屋「I」で飲んだとき、店の壁に森 三中のサインが貼ってあったのは、ここでロケしていたからだった。後半には少しドラマも展開するけれど、家具屋で働くアシスタントの話は、長嶋有の小説からでは? と思った。演出はそれなりに手堅いとはいえ、「ジョゼ」でやった方法を流用しているようでもあり、「二人が喋ってる」からも同じことをやっている。けっきょくは散漫な印象。あと思ったのは、いわゆる中央線文化と、ここで描かれた気分的世界との乖離とか。中央線文化を擁護するつもりもないけれども、もっと背景は多彩だと思う。そういう地平まで描けないあたりに、犬童一心監督のキツいところがあるような。

 「グーグー」が終るとそのまま、別チャンネルで「ブロークン・フラワーズ」の放映が始まったので、続けて観てしまう。「ひかりTV」のプログラムには、スカパーと同じようなTV配信と、いつでも観れるヴィデオ配信とがある(この他に「カラオケ」とかもあるけれども)。ヴィデオの方だといつでも見始めることができて、DVDと同じように一時停止も早送りも巻戻しもできる。途中まで観てストップすると、次に同じ作品を観ようとすると前回観た続きから観ることもできる。そういうわけでヴィデオの方が何かと便利なのだけれども、もちろん視聴できる作品には限りがあるし、コピーガードがかかっていて録画はできない。TV配信はその上映時間にしばられてしまうけれども、ヴィデオで視聴リストにない作品(比較的新しい作品とか)を上映したりする。先日も夜中にサミュエル・フラーの作品を連続して放映していたので、これは録画してある(TVは原則録画可能)。前に書いた「プリズナー・No.6」は録画に失敗してしまい、観る気も失せてしまったけれども。

 そういうわけで、「ブロークン・フラワーズ」。ジム・ジャームッシュ監督の2005年の作品で、しばらく本格的な活動のなかったジャームッシュ監督の、大復活を告げる傑作(この次の、去年の「リミッツ・オブ・コントロール」もまた傑作)、だった。わたしは公開当時映画館で観ている。主演のビル・マーレイが素晴らしく、そのまっすぐと坐る姿、無表情な顔だけで、何もしなくっても魅せる。久しぶりに観返してみて、やはり「過去への旅」という文学的主題(ジャームッシュの作品はいつもどれも、文学的主題を取り上げているように思える)を、まさに映像での表現でしか達成できない、みごとな映画作品になっているという印象。ジョンストン(ビル・マーレイ)のいなくなった部屋で朽ちていくピンクの薔薇、ジョンストンが女性たちに持参するピンクの花、ジョンストンが探し求めるピンクのアイテム。すべてがジョンストンの過去からの時間軸の中に配置されている。それを重たいオブセッションにせずに、ここまで軽快に描かれていることに感嘆する。
 隣人のウィンストンはやはり主人公のジョンストンの分身というか、彼が意識的には実行したくないと思っていることを、後押し準備してやらせてしまう。このウィンストンがさいごに「じゃあ全部オレが仕組んだことか?」と云ってしまうあたりにもキーはあって、じつはこの物語、ジャームッシュの「デッドマン」(1995) のような一人称映画から継承されている部分が大きいのだな、などと気が付いたりする。これはさらに「リミッツ・オブ・コントロール」にも引き継がれているポイント。とにかく、いろいろと観ていて考えが発展していく映画で、録画して、また見返せるようにすれば良かったと思う。女優陣ではもちろん、ブルネットでヤンキーに変身したティルダ・スウィントンが最高なのだけれども、クロエ・セヴィニーの、いっしゅんの流し目も見事だった。

 夜はヴィデオ配信で、「ゾンビの反乱」などというのを観る。1936年の作品で、ヴィクター・ハルペリンという監督の作品だけれど、これは正直、ちょっと観あぐねてしまった。大戦で(映画製作年度から、第一次世界大戦のことだろう)仏軍がカンボジアからの兵士を活躍させたことが、冒頭の軍の会議で話題になっている。どうやらその兵士はゾンビ兵団だったらしく、死を厭わずに前進するし、銃に撃たれても平気なんだからドイツ軍は敗走するという描写が、ちょっと出てくる。で、それで刺戟を受けた軍人が「オレたちもゾンビの秘密を探ろう」ということになって、アンコールワットの遺跡調査に乗り出す。映画はそのカンボジアでの話になるけど、軍務の調査のはずの調査隊は実にのんびりしていて、ある博士に同行した娘と若い研究者が恋仲になったりする。で、その男が彼女を別の男にとられた腹いせに人間ゾンビ化の秘密を手に入れる。それは単に魔術のように眼の力で達成できるらしく、相手を見つめるだけでゾンビ化させる、というよりも、魔術をかけた男の云うなりに従わせることができるわけで、周囲の人物みなに魔術をかけまくる。あまり描かれないけれど、ちゃんとゾンビ兵団もつくっているらしい。それが恋する女性から「そんなひどいことをして‥‥」となじられ、「わたしが悪かった。すべての呪いを解こう」となる。で、呪いを解かれた兵士たちの復讐で、男は殺されてしまう。
 ‥‥ストーリーもひどいけれど演出もメチャクチャで、場面が変わるたびに登場人物の心情はがらりと変わっていたり、ありえない心変わりが続いたり、説明もなく状況はガラガラと変わっていく。画面構築も演技指導もいいかげんで、どの画面も思い切りだらけている印象。アジア人差別のテイストもあり、観ていてほんとにイヤになってしまった。こうしてみると、「月のキャット・ウーマン」や「死なない脳」のすばらしさがいったいどこから来るのか、それは単に稚拙な技術や表現に起因するのではないことがよくわかる。ダメなものはどうしてもダメなのだ、B級映画の楽しさにはやはり才能が必要なのだ、と思った。

 このあと通常のTVで、ワールド・カップ、ドイツ対セルビア戦を全部観た。熱のこもったゲームだったけれど、セルビアの選手がまたゴールの前でバンザイして、ハンドをおかしたので驚いた。ガーナ戦のまるで同じリピート。あのゾーンでは全員キーパーになれると、ルールを誤解しているのではないのかと思った。

 今日の一曲は、やはりまた観ても素晴らしかった「ブロークン・フラワーズ」から。エチオピアのジャズのような音楽も良かったけど、冒頭とエンディングで聴こえてくる、Holly Golightly(カポーティの「ティファニーで朝食を」のヒロインと同名)の歌声で。さいしょに映画館でこの映画を観たときもこの曲が気に入って、彼女のアルバムを買った。去年転居するときにコピーをとって売っ払ってしまったけれども、このコピーが見つからない。他にもいい曲があったのに‥‥。


 

 

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■ 2010-06-17(Thu) 「ナボコフ伝 ロシア時代(上)」「死霊が漂う孤島」「不死身の男」

[]Sowing The Seeds Of Love [Tears For Fears] Sowing The Seeds Of Love [Tears For Fears]を含むブックマーク

 今日も雨は降らない。予報では、今週はずっと雨だと言っていたのに。ベランダのバジルはけっきょくひとつしか芽を出さなくて、それではかわいそう。ホームセンターへ行って、新しく種を買って来てプランターに捲いた。今年もいっぱい生い茂るといいのだけれども。クレソンの方、葉は大きく拡がって来ているけれども、あまり上の方に伸びて来ない。クレソンはいちどちょっと食用にしただけであまり食卓の役に立っていない。今年はがんばって欲しい。

 最近はほんとうに本を読まなくなってしまったけれども、今日ようやく、ブライアン・ボイドの「ナボコフ伝 ロシア時代」(諫早勇一:訳)の上巻を読了。ここでちょうど20代までのナボコフの姿をみることになるけれど、印象としては鼻持ちならない、高慢チキでイヤなヤツである。じっさいに友人はほとんどいなかったようで、当然である。彼の小説もつまりは、その気取った姿勢が思い切り詰め込まれていたわけだけれども、長編小説を書きかさねる中で、気取りを文学的な問題にシフトするようになる。そこからは面白いのだけれども、この上巻ではまだそこまでは行かない。著者は少しナボコフをひいき目に見ていると感じられる部分もあるけれども、彼の若書き作品には手厳しい意見も書いている。下巻はいつ読み終わるだろう、って、もう図書館に返却しなくては。

 今日もひかりTVのヴィデオ配信を観続ける。今日は三本。
 まずは、「死霊が漂う孤島」という1941年の作品で、原題は「King Of The Zombies」ということで、初期のゾンビ映画。監督はジーン・ヤーブローという人で、ゾンビ映画というよりも、孤島の魔術師(スパイも兼ねている)をめぐる、コメディタッチの作品。
 むかし、ゾンビ伝説の本は読んだことがあり、もちろんハイチのブードゥー教信仰あたりが伝説の起原なんだけれども、人を呪って毒を盛ったりするわけで、そのときに脳死状態に至らせるような毒(フグの毒素らしい)を使用し、そのためにいちどは死んだと思われた被害者は、思考機能など脳の機能を多く失いながらも生きていて、いわゆるゾンビ状態で彷徨したりするという。また、労働力として利用されたりもするらしい。これがゾンビ伝説の起原と読んだ記憶がある。
 で、この作品も、その「ゾンビ伝説」をかなり忠実になぞることになる。ハバナへと向かう飛行機が嵐に巻き込まれ、不明の島に不時着する。そこはハイチなのか、ハイチのブードゥ―教の影響の強い地域なのだろう。飛行機の乗組員二人とそのアフリカ系の執事は、その島の大きな屋敷の主人宅に助けを求め客人となるが、その屋敷には夜な夜な死者がさまよい歩いているというわけ。この映画の導入部、おととい観た「猟奇島」にきわめて似かよっている。「猟奇島」では船を迷わせるためにブイを移動させたりしているけれども、この「死霊が漂う孤島」はそういう小細工はしないで、あくまでも天候まかせのように見える。劇中で「このあたりで行方不明になる飛行機が多い」という言及があるあたり、バミューダ・トライアングルとの関連を思わさせられたりするけれども、そういう映画ではないようで、つまりはその孤島の屋敷に住む男はスパイで、そんなブードゥー教の秘術をも利用しながら、迷ってくる飛行機の乗組員から軍の情報を得ようとしているらしい。かなり非効率的なスパイという印象。
 これで、執事のいつもいつも眼をギョロギョロむいているアフリカ系の役者が、コミックリリーフとしてフィーチャーされる。どうせならメインの基調ももっとコミカルに引っ張れば良かったのではないかと思うけれど、この執事だけがコメディ調で、あとはシリアス路線になる。尺の短さとコメディ路線への寄り道のおかげで、ストーリーを描く時間が取れていなくて、演出の乱暴さが気になる。さいごに、屋敷の主人はブードゥ―儀式のさいちゅうにゾンビに追い詰められて火の中に落下するけれども、いったいどうしてあれだけ動きののろいゾンビに追い詰められてしまうのか。そうか、この部分もコメディだったのだ。‥‥わたしには、面白味のわからない作品だった。

 次は、「不死身の男」という1956年の作品で、監督はジャック・ポレクスフェンで、原題は「Indestructible Man」。ロン・チェイニー・ジュニアがモンスターのメイキャップなしに、素顔で出演している映画。死刑囚がマッド・サイエンティストの研究でよみがえり、不死身の怪力モンスターになるという設定は「フランケンシュタイン」の亜種だろうけれども、実はこの作品の基調はノワールな復讐モノ、である。
 映画は、事件を担当した刑事の回想のモノローグで始まる。この刑事のモノローグでずっと最後まで引っ張っていくけれど、その刑事と事件に関係した女性(ダンサー)との絡みもあり、おかげで雰囲気はフィリップ・マーロウ主演のハードボイルド・タッチとなる。きっと脚本家はチャンドラーのファンだったんだろうと思う。しかし、映画のメインはあくまでもロン・チェイニー・ジュニアの復讐劇にある。仲間に裏切られてひとり死刑になった男だが、その遺体が変な科学者の蘇生実験の材料にされて生き返ることから、その復讐の旅が始まる。なお、物語に貢献した科学者は、蘇生した男にすぐに殺されてしまうので、お役目ご苦労さん、である。
 さて、この作品、かなり面白く観ることが出来た。映画もこの頃になると演出面でも進歩している。この作品が面白かったのはつまり、男の復讐というテーマ、その復讐の対象が彼を裏切った人間にとどまらず、この映画の舞台になっているロサンゼルスという都市への復讐という視線を感じ取れることにあり、男は仲間に裏切られたというよりも、むしろロサンゼルスという街に裏切られたのだという意識が読み取れる思いがする。
 復活して銃弾も受けつけなくなった不死身の男は、まずはロサンゼルスを目標に街道を進む。映画の中にはいかにもロサンゼルスらしい風景が何度も取り入れられ、その中を復讐心に燃えた男が彷徨する。彼はロスの地下水道をも逃走経路に選び、まるでロスの街のすべてを掌握しようとするかに思える。彼の最期の場もロスの巨大変電所であって、まさに街をコントロール、支配するスポットではないのか。「街への復讐」というテーマはこのモンスターだけのストーリーではなく、スターを夢見て街へやって来て挫折、踊子をやっている女性の背後にも潜んでいるストーリーでもあり得るだろう。ラストまで観てようやく、じつは男の復讐物語はサブストーリーでしかなく、メインは刑事と踊り子のロマンスだということになる。そのための刑事のモノローグだったと。
 けっきょく、この映画の欠点は、復讐する男がモンスターであることが、じつは映画的にはマイナスに作用していると思えてしまうことで、ちゃんと普通のナマ身の人間による、策略による復讐であったならば相当に見ごたえのある作品になっていたように思ってしまう。警官に撃たれても弾をはね返してしまい、仇を屋上から力づくで放り投げて、簡単にその復讐を果たしてしまわれると、サスペンスの妙はそがれてしまう。でももちろんそれではまったく違う映画になってしまうし、そういう、ゴジラが東京を襲うような映画と了解するべきなのだろう。そうするとやはり、刑事の独白によるハードボイルドタッチの演出が、その主題とそぐわないということになる。

 もう一本観たのは「夜歩く男」という作品。1948年のもので、監督はアルフレッド・ワーカーという人で、フェリーニの映画でおなじみのリチャード・ベースハート出演。原題は「He Walked By Night」。これまたロサンゼルスが舞台のクライム・サスペンスで、特に終盤では「不死身の男」と同じくロスの地下水道が舞台になってしまう。「不死身の男」の方がずっとあとの作品だけれども、並べて観てしまうと面白い二本の映画だった。
 さて、こちらも警察側から見た作品で、じっさいに起きたらしい事件からの映画化ということ。警官殺しを追う警察官らの捜査ぶりを捉えた、ちょっとセミ・ドキュメンタリー風の演出の作品で、中途半端に登場人物の内面に踏み込むようなことはせず、あくまでもドライに、外側から見られた犯人像とそれを追う警察の捜査ぶりとを対比していく。で、この作品は撮影が見事なもので、夜を主体とした光と影の映像の美しさを堪能できるし、とにかく、先に書いた終盤の地下水道での逃走劇の演出、撮影がすばらしい。ここで追われる犯人は手持ちのライトをゆらせて走って逃げていくのだけれども、その揺れるライトの光が緊張をまして美しいったら。シーン的にはその逃走劇の前に、自宅で犯人が警官に包囲されているのを知る描写もすばらしい。ブラインドからの縞模様の影にひそむ犯人、外に注意を向ける犯人の飼い犬など、一級品の映像だと思う。
 地下水道での逃走劇といえば、どうしてもキャロル・リードとオーソン・ウェルズの「第三の男」を思い浮かべてしまうけれども、この「夜歩く男」は「第三の男」よりは製作年度が古く、模倣しているわけではないまったくのオリジナルな演出。けっきょくは警察の捜査活動を賛美する作品だけれども、その捜査の網をかいくぐる犯人の造型の、力強い肉付けがあってこそ成り立った作品だろう。印象に残る佳作、だった。

 今日の一曲は、バジルの種を捲いたりしたので、そういう「Seed」の曲を。1989年にリリースされたTears For Fears のアルバム「The Seeds Of Love」に収録された曲で、シングルとしても大ヒットした、ちょっとばかしBeatles のサウンドを思わせる佳曲。わたしには、輝かしかった80年代の終わりを象徴するような曲に思えたりもする。


 

 

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■ 2010-06-16(Wed) 「アラベスク」「薔薇のスタビスキー」「歩く死者」

[]If I Was Your Vampire [Marilyn Manson] If I Was Your Vampire [Marilyn Manson]を含むブックマーク

 朝は雨だったけれども、すぐにやんで昼前からは快晴。洗濯した。夜は少し暑くなった。
 やはり朝窓を開けると、ミイがベランダの作業台の上にいた。今日はミイが来るにまかせてあまりかまってやらなかったら、さっさといなくなってしまう。朝のテレビ、「ゲゲゲの女房」は貧乏まっ最中だけど、じきに少年マガジンの連載が決まって、大団円になるだろう。時代はプラモデルの時代。プラモデルはわたしもいろいろ作ったし、じつはタイトルが「墓場の鬼太郎」時代のものを読んだ記憶もある。でもこの時期に「劣悪な貸本漫画」を糾弾する主婦の集団が貸本屋に押しかけるシーンなどがあり、これは現在開催中の都議会を意識しているのだろうか、などと思ってしまう。

 「ゲゲゲの女房」のあと、ひかりTVで映画「アラベスク」をやっているのを、そのまま観てしまう。1966年のスタンリー・ドーネン監督作品で、グレゴリー・ペックとソフィア・ローレン主演のサスペンス。ちょおっとばかし、監督の前作「シャレード」の二番煎じという感じ。「シャレード」が切手なら、こちらはキャンディの包装紙だとか。下世話でバタくさい演出は、50年代60年代のB級映画群の影響を経て製作されたという雰囲気で、その根底のチープさを、なにかゴージャスな俳優陣とか衣裳とかで覆っている感じ。でもこのことは批難の材料になるのではなく、作品を楽しむ大きなポイントになっている。

 昼からはBSで、アラン・レネの「薔薇のスタビスキー」が放映されたのを観る。日仏学院で観た「ジュテーム、ジュテーム」に次ぐ、1974年の作品で、ジャン=ポール・ベルモンド主演。アラン・レネの作品は、わたしにとってどの作品も問題作だけれども、これは特級の問題作、という印象。
 フランス人にとって、この1930年代初期の「スタビスキー事件」がどのように記憶されているのか知らないけれども、すくなくともわたしは、この事件のことはまったく知らなかった。映画は、フランスに亡命してくるトロツキーを迎える(来仏を確認する)フランスの青年のショットから始まる。スタビスキーもロシア出身だけれども、この作品では、そのことの対比以上の意味があるだろう。ひとつには、アラン・レネとしては初めて、過去の歴史的状況を描いているのだということが、この冒頭のシーンで明確に打ち出される。それはフィクションではない事実なのだけれども、その前のテロップで、この作品は事実に基づいてはいるが自由な創作なのだとの断りが入っている。しかしこの作品はやはり、歴史に残された記録をもとにした、1933年から34年にかけての歴史的状況の再現として観られるべきだろうと思う。そしてやはり、ここでもアラン・レネの作品らしく、映画内の「時制」の扱い方こそが問題になってくるのではないのか。「すべては過去のこと」という視点を明確にしたこの作品で、「ではいったい、どの時点で過去を振り返られた作品なのか」ということ。それはまずは、この映画が製作された1974年からの視点ではない、ということが、途中でだんだんに明らかになってくる。ここへ至る演出が、この作品でのアラン・レネのユニークさ、ということにもなるけれども、それでもつまりはこのラストまで観終えることで、当然ながら観客の視点からの当時の歴史的状況への考察、というところへ観客を導くことになる。
 前作「ジュテーム、ジュテーム」が1968年の製作で、つまりはそれ以後の政治的動乱の時代を経ての、アラン・レネなりの時代の総括こそがこの作品なのではないか、という思いに当然とらわれてしまう。それは例えば同時代にゴダールが「ジガ・ヴェルトフ集団」として政治的アジテーション的な作品製作に没頭していたのと対照的な、アラン・レネ的な、映画と政治の問題への解答だったのではないか、と思う。ちょっと、いちど観ただけでは整理しきれない。また観てみたい(ちゃんと録画した)。

 このあと、ひかりTVのヴィデオ配信で、「歩く死者」という作品を観る。1943年の作品で、サム・ニューフィールドという人の監督作品で、この人は1930年代から50年代にかけて、二百本以上の作品を監督しているらしい。この作品の原題は「Dead Men Walk」。じつはわたしはこの作品をいわゆる「ゾンビ」映画だと思って観始めたのだけれども、違ってた。これは、「吸血鬼ドラキュラ」の自由な翻案による吸血鬼映画、だった。しかも、かなりしっかりした佳作だったという印象。
 映画はいきなり、「吸血鬼の歴史」とかいう本が暖炉の炎の中に放り込まれるショットから。ここに悪魔っぽい、下からライトで照らされた男の顔のアップが重ねられ、ちょっとしたうんちくを語るのだけれども、正直、このショットは不要だと思った。舞台は現代アメリカの田舎町で、ある男の葬儀から始まる。じつはこの棺桶の中の男は悪魔学、吸血鬼について研究していたのだが、医者である双子の弟と争って命を落としたらしい。この男が夜な夜な吸血鬼として復活することになる。この、二役で善と悪のふたつの顔を演じわけるのがジョージ・ザッコという役者だけれども、もうかなりの年輩で、「善」の弟のときには温厚な紳士然としているけれども、「悪」の側のときには悪徳商人とかヤクザの黒幕みたいで、存在感がある。つまりこの作品は「じっさいに吸血鬼が普通の人の姿をして今のアメリカに出現する」という、プラクティカルなケースのドラマ化で、おどろおどろしいメイクのクリーチャーなどは出てこない(ただ、吸血鬼の助手の男だけはせむしで、かなり怪異な容貌をしている)。そういう意味で、ちょっとスティーヴン・キングの「呪われた町」の先駆、というような空気もある。ストーリーはブラム・ストーカーのものをかなり踏襲しているけれど、魔除けは浄められた十字架だけ、吸血鬼を倒すには死体を焼いてしまうにかぎるとかして、ニンニクだとか木の杭を心臓に打ち込むとかの、あまり迷信じみた描写はしていない。演出面はその現実感というのを大切にしているのだけれども、映像的には、ムルナウの「ノスフェラトゥ」をかなり意識しているように見える。30年代から40年代にかけてのアメリカ映画は、人材の流入などからもドイツ表現主義映画の影響を色濃く受けながら発展するのだと思うけれども、ここにもそういう影響をみることができると思う。原作からはなれて面白いのは、町の住民が吸血鬼などと語る医師のことばをたわごととして信ぜず、吸血鬼の犯罪を医師のしわざとしてリンチをたくらんだりするあたり。風評というものの持つ危険性を描いているわけで、ストーリーにこの流れを取り込んだことが、この作品により現実性を与えることになっている、と思った。

 今日はその吸血鬼映画にちなんで、Marilyn Manson の2007年のアルバム「Eat Me, Drink Me」のファースト・チューン、「If I Was Your Vampire」を。


 

 

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■ 2010-06-15(Tue) 「死なない脳」「猟奇島」

[]Jungle Boogie [Kool & The Gang] Jungle Boogie [Kool & The Gang]を含むブックマーク

 朝、ベランダの窓を開けると、ベランダに置いてある作業台の上にミイがいて、わたしの起きるのを待っていた。どんどん「ウチのネコ」に近づいてくる。
 今日はさっそく雨はお休みで、天気予報では午後から降るなどということで洗濯しなかったけれど、けっきょく降らなかった。

 昨夜、ワールドカップの日本の初戦を観ているまま眠ってしまったけれど、日本の得点シーン直後とゲームエンドの瞬間は起きて観ていた。たぶん、TVでも大騒ぎしていたからだろうと思うけれども、TVの音声はいつも、あのブブなんとかというらっぱのブウブウいう音で騒々しい。

 今日も午後から国会中継を見てしまった。J党はやはり、右翼の本領発揮することにしたようで、首相に、靖国神社公式参拝する意志はないか、などと質問するので驚いてしまった。日米問題でも明らかに「まずアメリカありき」という発想で、基地が日本に存在するのは当然という観点が、質問にも露骨に出る。質問している議員もちょっとばかりファナティックな男性で、かなり興奮した口調で質問時間をオーバーする。ムッソリーニの演説を思い出してしまった。質問を終えた議員が席に戻るとき、J党議員がみな拍手していたのにもまた驚いてしまう。これで支持率がアップすると思っているのか。恐ろしい。

 今日もひかりTVで古い映画を観る。まずは、1962年の「死なない脳 ( The Brain That Wouln't Die )」という作品で、日本では別に「美しき生首の禍」というタイトルでもDVD化されているらしい。監督はジョセフ・グリーンという人。フランケンシュタインの変種というテイストの作品で、異常な研究に執念を燃やす外科医の破滅を描く。DVDジャケットのイラストだかもイイ感じなので、ここに載せておきましょう。
f:id:crosstalk:20100616175117j:image:right 映画の冒頭はいきなり、暗黒の画面に「死なせて 死なせて‥‥」という女性の声がかぶさってくるという先制攻撃。主人公ビルはハンサムで優秀な外科医なのだけれども、同じく外科医の父から「医学と狂気は紙一重だ」などと警告されている。彼は医療現場でモラルに反したような治療行為をおこなうばかりでなく、郊外の別荘で助手と共に秘密の研究に没頭しているらしい。婚約者とドライブに出ようとするときに、その別荘から緊急の呼び出しがあり、婚約者と共に別荘へ向かう。気持ちの焦るビルの車は途中で事故を起こし、ビルは車から放り出されるけれども婚約者は燃え上がる車の中に残される。ビルは燃え盛る車からなにかを上着で包んで取り上げ、別荘への道をヨタヨタと急ぐ。
 ビルの研究していたのはまさにフランケンシュタインと同じような人体移植の研究(新しく生命を吹き込むわけではないけれど)で、助手に呼び出されたのは、彼らの失敗した試作品(といっても人間だけれども)の様子がおかしくなったから。その試作人間はほとんど奇形らしいのだけれども、実験室の隅の開かずの部屋に閉じ込められていて、なかなか姿を見せない。
 ビルの婚約者は事故でその首だけがビルに救出されたわけで、その実験室の机の上で、首だけの彼女は蘇生する。ビルは彼女のために失われたボディを移植してやり、完璧な花嫁として再生させようとするわけで、ビルにとってはいろいろと願ったり叶ったりの事故だった、とも云える。ここから、ビルは首だけの婚約者を実験室に残して、このさい趣味と実益を兼ねると云うか、ビルにとって理想のボディを持つ女性を物色しに行くことになる。さいしょは、露出度の高いフロア・ショーをやっているキャバレーみたいな所へ行き(!)、ブロンド美女を指名して別室にシケ込むけれど、店の別のブルネット美女がしゃしゃり出て来て客の奪い合い、つかみ合いの大喧嘩になり、「誰にも悟られずに連れ出す」という計画を遂行出来ないので断念。車を転がしながら道を歩く女性をイヤらしい眼で物色していると、むかしの女かなんかとぶっつかって、「こいつにしようか」と彼女を車に乗せ、実験室へ戻ろうとすると、その女の友だち(ビルも知っている女性で、ビルには過去に知っている女性が大勢いるらしい)の女性と出会ってしまう。彼女たちが「ミス・ナイスバディ・コンテスト」を見に行くというので、「そりゃあいい」と同行する。で、やはり一位になったコがいいな、と思っていると、となりの女が「たしかに彼女はナイスバディだけど、わたしの知ってる中ではナンバー・ツーだわ」などと云いだす。そのナンバー・ワンと目された女性もまたビルの知っていた女性だというのは、あらためて云うまでもない。
 とにかく、こういうどうでもいいようなディティールが妙に楽しくて、つい備忘録的にこまかく書き留めておきたくなる。とにかくナイスバディな「胴体」候補を決定して、実験室に連れていくのだけれども、そのあいだに実験室では、首だけになったけれども使用された薬品で潜在能力の異様に高まった婚約者が、ここまでして自分を生かそうとするビルに復讐しようとする‥‥。

 しかし、なんでこういう低予算映画はここまで楽しいんだろう。本来ナマの映像をリアルタイムに送信することしか出来なかったTVとは対照的に、映画はもともとがいちどフィルムとして記録されたものを、さらにつぎはぎして編集したものであって、時間的にも空間的にも「非現実」の現出という、限定的な性格をもっているわけになる。これは映画技術創出からすぐにメリエスのトリック撮影が出現しているように、映画の本来持っている欲望なのだろうと思う。その映画的欲望は、いわゆるウェルメイドに仕上げる映画的技術の欠除/不足によって、よりフィルム上にあらわになって見えて来るのではないのか。だから一方で、低予算映画というものがポルノグラフィーに近づいていくのは、これは当然のことなのだと思う。もちろんわたしはそういうのを積極的に観たいと思っているわけではないけれど、映画からにじみ出てくる「欲望」なるものを観て楽しんでいるのは、事実に違いない。先日観た「ノッティングヒルの恋人」にしてもそういう「欲望」は全開なのだけれども、手慣れて来てしまっている製作者たちは、その欲望をフィルムの中で手なずけてしまう技術に長けているわけだ。そうではなく、手なずけられない、はみ出した欲望の姿がこれらの古い作品にはあふれている。とりわけ、先日観た「月のキャット・ウーマン」、そしてこの「死なない脳」などは、ほんとうにすばらしいファーラウトな作品だと思う。

 そこでもう一本観たのはもっと古い作品、「猟奇島」というもの。1932年の作品で、原題は「The Most Dangerous Game」で、つまり直訳すれば「最も危険な遊戯」。まったく予備知識はなく観始めたのだけれども、RKOラジオ・ピクチャーの作品で、製作はメリアン・C・クーパー、出演にフェイ・レイの名前があると、これはどうしても「キング・コング」を思い浮かべるしかない。監督はアーネスト・B・シュードサックとアーヴィング・ピシェルという人。出演しているロバート・アームストロングという人も、たしか「キング・コング」のキャストの名前で見た記憶がある。
 観終って調べるとこの作品、「キング・コング」のセットを使って撮影された作品で、やはりスタッフ、キャストも「キング・コング」とダブっているわけだ。あの「キング・コング」の、印象的な谷間の絶壁の上に架かる丸太の橋など、観たことのある風景が出てくる作品だった。
 で、この作品、本格的な面白さにみちた佳作だった。とてもB級などと呼べるようなものではない。前に書いた、「キング・コング」と共有した大掛かりなセットをつかったジャングルの撮影のみごとさ、あれこれの小道具のこだわり、俳優たちの熱演など、一級のエンターテインメント作品に仕上がっていると思う。
 ストーリーはまさに「猟奇」といえば「猟奇」で、孤島を舞台に展開するなど、江戸川乱歩あたりが書いていてもおかしくないような物語。まあ「孤島」といっても「キング・コング」のドクロ島みたいに、地の果ての海図に載っていないような島ではなく、航路にある海峡に隣した無人島、という設定。この島にあるポルトガル人のつくった古い要塞に、ロシア人の伯爵(レスリー・バンクスという役者が演じていて、目をギラギラさせたファナティックな演技がいい!)が召使と棲んでいる。コイツがとんでもない趣味で、海峡にあるブイの位置をずらして、航海する船舶を座礁難破させる。海にはサメもうようよしてるんだけど、船からなんとか生き残った人たちは、自然とこの島に漂着し、その伯爵に救助されて賓客としてもてなされる。しかしこの貴族の趣味はハンティングで、動物狩りでは飽き足らずにつまりは「人間狩り」にまでエスカレートしてしまっているわけ。助けた賓客を最初は歓待するけれども、いずれナイフ一丁を与えてジャングルに放り出し、これを後から追跡してしとめようと。夜明けの午前四時まで逃げ切ればキミは自由にこの島から出て行けるのだよ、と。ここに、また難破船から男がやって来る。要塞にはまだ、前に難破した船からの兄(「キング・コング」では映画監督の役をやっていた人で、この人がロバート・アームストロングだろう。ここでは飲んだくれてばかりいる男の役)と妹(もちろんこの役がフェイ・レイで、この作品では髪がブルネットになっている)の客人が残っている。新しい客人は彼も著名な探検家でハンターである。先に滞在していた兄はさっさと狩られてしまうけれども、残ったその妹と男は‥‥。
 一時間ちょっとの短い作品なんだけれども、終盤のジャングルを舞台にした追いつ追われつの展開がほんとに面白い。フェイ・レイはここでも叫び声をあげさせられ、ジャングルの中を泥だらけで走り回らされる。霧の描写や人物の目になった主観描写、崖を登ったり木登りしたりの、高さを加えた演出などが光っている。それから、前半で伯爵の語る「狩り」の精神のうんちくが面白く、ここから原題タイトルが来ている。伯爵はピアノもたしなむ教養のあるエリートだけど、彼の狩りの哲学は倒錯している。これもあとで知ったのだけれども、ここで伯爵の語ることばは、のちにじっさいに、あの「ゾディアック」連続殺人事件の犯人によって引用されることになるらしい。

 今日の一曲は、その「猟奇島」の、印象的なジャングルから思いついた曲。Kool & The Gang の、1974年の彼らの最初の大ヒット曲。たしか、タランティーノの映画のどれかで使われたことがあったと思う。


 

 

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■ 2010-06-14(Mon) 「ファントム・プラネット」

[]Rainy Day In June [Kinks] Rainy Day In June [Kinks]を含むブックマーク

 昨日までは晴天が続いていて、今年は梅雨入りが遅いなあと思っていたのが朝起きると雨で、もうこれで梅雨入りだろう。部屋にやって来たミイの、その眼の瞳孔がいつになく丸くなっていて、それだけ今日は外が暗いわけだ。ミイの背中を撫でるとぐっしょり濡れていて、タオルで拭いてやろうとしても嫌がって身をかわす。「外はたいへんだろうから、ずっとこの部屋にいればいいのに」といっても、また外に出て行った。
 昼ごろにドラッグストアへ買い物に行く途中、公園の木の下で雨宿りしているミイを見かけた。どこか公園の先の一点を見つめて、ぼんやりしている。公園に入って近づくと、こちらを見てから木の下から出て、距離を置いて逃げて行った。
 夕方リヴィングにいるとまたミイがやって来て、そのまま見ていると、食事を終えてリヴィングからゆっくりと和室の方に入って行く。そっと覗くと、ベッドの下とか、落ち着いて休める場所を探しているようにも見える。どうやらお気に召した場所がなかったらしく(ユウの匂いが残っていたかもしれない)、リヴィングに戻って来て、窓際に座り込んで休憩し始めた。ふっと、窓の外から部屋の中を覗くネコの姿が見えた。これはずいぶん久々のチビの姿だった。もうぜったいチビなどと呼べない巨体になっているけれども、まだこのあたりに居たのか。わたしがいるのに気が付いたのか、すぐにベランダからいなくなったけれど、ここでミイもチビに気が付いたのか、ベランダに出てから、普段は見せない敏しょうさでチビの消えた方に走って行った。追い出しに行ったんだろう。
 でも、ノラのことは追い出そうとはしないで無視しているというのは、あれはあれでノラの存在は認めているということなんだろうか。あそこまでノラがミイにつきまとうのが愛情表現だとして、好きではないけれども愛されて嫌な気はしていない、ということなのか。男を自分のまわりに侍らせてその存在を気にも留めない、女王さま気取りをやっているのかもしれない。ミイにはそういうところがある。しばらくして外を見ると、駐車場の隅にある屋根付きの駐輪場の、バイクの荷台の上に坐っているミイの姿が見えた。そんな所にいるんなら、部屋の中に来ていればいいのにと、「おいで、おいで」と手招きした。こちらには気が付いているようだけれども、来ないでじっとしている。

 昼からBSで、ピーター・ブルックスの「雨のしのび逢い」が放映されるはずなのでチャンネルを合わせると、国会中継に変更になっていた。せっかくだからずっとつけっぱなしで、聴くともなく聴いていた。新しい首相は前の政権の基本線を維持すると云っているだけだから、別に目新しいことが出てくるわけでもないようだった。ああ、新しい首相は議会では首相としてこういう応対をするのだなあ、ということだけ。

 昨夜ワールドカップを観ていて、セルビアとガーナの一戦。セルビアの選手の痛恨のハンドが決勝点に結び付いた。セットプレーだったらぜったいにあんなことやらないだろうけれども、一連の途絶えない流れの中では、ボールを止めようという意識が、手を先に出させてしまうのだろう。本能的なものなのかなあ。オウンゴールよりも痛い感じ。

 今日はTVは一本だけ。B級SF映画の続きで、「ファントム・プラネット」という作品。ウィリアム・マーシャルという監督の1961年の作品で、DVDでは「幻の惑星」というタイトルでリリースされている。ちなみに、ロック・バンドのPhantom Planet というのは、この映画からグループ名をつけたらしい。
 いきなり原爆実験の実写映像から始まって、人類は核開発から科学を発展させ、未知の宇宙にその足を伸ばすようになったと。いったい宇宙には人類のような生命体は他に存在するのか、われわれの科学の行き着く先には何があるのか? などとの大風呂敷なナレーション。背景に銀河系のじっさいの写真が使われ、本格的SFではないかとの印象。この作品の時代背景の1980年にはすでに月に宇宙基地があり、宇宙探索活動まっさかり。しかし、宇宙の同じ地域で続けて、宇宙船が突然あらわれた隕石に衝突する事故が起きる。事件を解明するためにヴェテラン宇宙飛行士(フラッシュ・ゴードンみたいなマッチョな男)が任務にあたる。今まで観て来た50年代〜60年代のSF映画にはすべて、この隕石群との接近が描かれていた。宇宙探険と突然あらわれる隕石群とはセットになって、宇宙の危険を象徴する。この作品ではその隕石群のなかの巨大隕石が軌道を持たない小惑星で、その惑星に存在する住民と宇宙飛行士とのドラマになる。ロケット内操縦室のセット、小惑星のセットや宇宙服など小道具はかなり進化して、その後のSF映画との差はあまりないかもしれない。しかし‥‥。
 隕石の引力に引き寄せられてロケットは隕石上に不時着し、飛行士はその隕石に上陸してみる。そこには人間と同じ形をした小さな小さな宇宙人がいて、飛行士と同じ言葉(英語)をしゃべっている。おお、宇宙版の「ガリヴァー旅行記」かと、それなりに期待するけれども、疲労で気を失う飛行士はなぜか体のサイズが縮んで、星の住民と同じサイズになってしまう。住民に連行された飛行士は、星の平和を乱したとして裁判(!)にかけられ、弁護人もいないし主張も聴き入れられず、有罪になる。ちなみに陪審員はすべて若い女性で、その服装などは、古代ローマあたりを参考にしているのではないかと思う。有罪といっても、その刑罰は「この星の住民となること」というもので、なぜそれが「刑罰」になるのかよくわからない。しかし、彼の前にいる二人の女性のどちらかと結婚しなければならないとされるあたり、その生殖能力に期待されているのかもしれない。だいたいこのあたりのB級SFで、未知の宇宙というテーゼがたやすく、「人と同じ容姿をした魅力的な女性」の姿をとってあらわれるというあたりに、映画という表現の、そのきわめて男性的なイマジネーションの源泉を物語るようで、とっても興味深い気がする。
 しかし、こっけいなことに、その婚約候補者の一方にはちゃんと恋人がいて、その恋人が宇宙飛行士を「ふたまたをかけた」としてまた告発、決闘という事態になる。「ふたまたをかけろ」というのは先の裁判の判決に含まれている要素だし、じっさいに飛行士を誘惑するのはその女性の方で、ふたまたをかけたのは女性側だというのは明白で、宇宙人の論理は不可解である。まあ飛行士は決闘で勝ち、慈悲の心で相手を殺さなかった結果、その友情を得てしまったりする。じっさいに飛行士が心惹かれてしまうのはもうひとりの女性の方で、このブルネットの女性がエリザベス・テイラーのパチもんみたいなルックスでたしかに魅力的。二人のロマンスに、この星に捕えられている凶暴な攻撃的性格の宇宙人(全身着ぐるみでロボットっぽいし、デザインもちょっとインパクトに欠けるけれど、この中に入っていたのがリチャード・キールだったらしい。大男だからね)の逃走劇などがあって、よけいに二人の心の火が燃える。しかし、友情を得たその星の男の協力で、飛行士は月へ帰れることになる。体のサイズの問題は、その星の大気に合わせて変化することになっているらしいので、問題はない。宇宙服の中に入って、地球の酸素を吸入すればいいらしい。で、飛行士は愛する異星人の魅惑的な女性と別れて、月への帰路に着き、無事に救出されるのでした。宇宙船の中で、愛した女性からもらったお守りの石を見つめ、放心状態で感慨にふける主人公。「これを見せても、誰も信じないだろう」と。ナレーションで「未来はどうなっていくのか、これはほんの始まり」と語られ、「The End」の代わりに「The Beginning」の文字が。本編とナレーションはまったく関連はないと思われる。ナレーションのものものしさと、内容の思いもかけぬチープさのミスマッチが素敵。

 今日はこのあとも何か観ようと思っていたけれども、夕食を終えてTVを見ていたらそのまま眠ってしまった。いけないと目覚めて、ワールドカップのゲームを見始めたけれど、また眠ってしまった。

 今日はついに梅雨入り。イギリスに梅雨はないけれど、Kinks は1966年のアルバム「Face To Face」のなかで、まるで日本人のためのように「Rainy Day In June」という曲を歌っているので、今日はこの曲を。


 

 

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■ 2010-06-13(Sun) 「金星ロケット発進す」「月のキャット・ウーマン」「月へのミサイル

[]Fly Me To The Moon [Astrud Gilberto] Fly Me To The Moon [Astrud Gilberto]を含むブックマーク

 リヴィングの網戸をよく見ると、部屋の外からネコがツメをたてたあとが無数についていた。こんなことをやったのはユウにちがいない。うちを出て行ってからあと、食べるもの欲しさにガリガリやったんだろう。
 今日、ミイを抱き上げてひざの上に乗せようとしたらものすごく嫌がられ、膝にツメをたてられ、逃げられた。痛かった。いっしゅんミイの乗っかっていったズボンには、驚くほどのネコの毛がついていた。

 今日の朝ご飯はいつものトーストサンドで、原価40円未満。昼食のざるそばはやはり40円ぐらい。これを普段の焼きそばとかスパゲッティにしても、60円ぐらい。買い置きのそうめんだと30円以内で済む。夕食はレタスとサラダスティックと半値で買ったソーセージとを和えたサラダと、イカの塩辛その他。ご飯と合わせても原価100円くらいだろう。ずっとこんなことやってれば、一ヶ月の食費は六千円くらいで済む計算になるけれども、やはり夕食は普段もうちょっとは豪華になる。

 ひかりTVで今日は、宇宙探険モノばかり観る。まずは、「金星ロケット発進す」という作品。1959年製作の、ドイツとポーランドの共作映画で、このドイツというのは当然当時の東ドイツで、つまりは「東側」が協力して、総力をあげて製作したSF映画、というところだろう。監督はクルト・メーツィヒという人で、テロップには出てこなかったけれども、原作はスタニスワフ・レムらしい。8人の(アメリカ、日本など「西側」諸国を含む)国籍人種の異なるロケット乗組員がメインの出演者だけれども、テロップの最初に名前の出てくるのは、医師の役で出ている日本人俳優の谷洋子。この人のことはまるで知らなかったのだけれども、パリに生まれた日本人でマルセル・カルネに見い出され、日本映画を含めていろいろな国の映画に出演しているのがわかった。谷口千吉、ジョセフ・L・マンキーウィッツ、ニコラス・レイ、ジャック・カーディフなどの監督と仕事をし、原節子、ダーク・ボガード、ピーター・オトゥール、シャーリー・マクレーン、イヴ・モンタンなど、そうそうたる顔ぶれのスターたちと共演している。みた感じ非常に清楚な感じの、つまりは「やまとなでしこ」という言葉を思い出してしまうような俳優さんで、海外でティピカルな日本女性役として重宝されたのだろう。
 で、この「金星ロケット発進す」だけれども、このひかりTVで放映されているヴァージョンは78分なのだけれども、データを調べると、ドイツでの公開ヴァージョンは130分、アメリカヴァージョンでも109分となっている。130分が78分までに短縮されているというのは、いくらなんでも乱暴ではないのか。2/3以下にされているということ。
 この作品のテーマ、つまりは「核」への警告ということなのだけれども、設定は1986年という、映画製作時からは近未来ということで、ひょっとしたらもう東西の冷戦は終結して、世界平和が実現している世界なのかもしれない(ある意味で誤差は4〜5年で東西冷戦は終ってるけれど、世界平和は実現されていないな)。あらすじを書いても読んでいる人には面白くないだろうけれど、備忘録的に書いておかないと、すぐに忘れてしまう。
 じっさいの事件である1906年のシベリアでの隕石衝突が、じつは金星からの宇宙船の事故だと判明し、さらに、ゴビ砂漠で発見された金属がその金星からの磁気録音装置だとわかる(なぜ「金星から」と判ったのか、という部分はおそらくカットされてしまってる。それとも、最初っからない?)。磁気録音の内容は判らないけれども、金星に知的生命が存在するわけで、科学調査団8名(プラス、小型戦車に乗ったHALのような人工知能)からなる金星調査団が、ロケットで発進する。航行中に録音内容が判明。それは、金星人が地球を核攻撃して、人類を滅亡させるという内容だった。カットされた部分に、ではいったいなぜ、1906年から今まで攻撃して来ないでいるのか?という疑問が出されて、とにかく金星には行ってみることになる(たしか、地球との交信が不可能になっている)。それでつまりは、金星は死の星になっていて、開発した核爆弾がエネルギーの変質で次々に自爆したらしい。石に爆死した金星人の影が焼きつけられていたりする。同じスタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」のような、生命を持っているような沼だか泥だかが調査団を襲い、発砲して難を逃れるけれど、その発砲のためにエネルギーのバランスがこわれたらしく、調査団は新たな危機にさらされる。金星人の指令室が残されてまだ機能していて、その機能を止めないとまた核爆発が起きる。勇敢な二人の調査団員(中国人とケニア人)が外に出て、指令室に向かう。残りのメンバーはロケット内に待避しているけれど、スタニスワフ・レムらしくも、なんだか金星の重力が反転してしまうらしい。外のメンバーを救うためにアメリカ人パイロットが探索機で飛び立つが、その直後にロケットは反転した重力のせいで金星の外へ放り出される。三人の犠牲を出し、ロケットはとにかく地球に帰還する。ロケットの中で、中国人スタッフの採取した植物の種子が発芽する。

 映像的には、引いた画面がなかなか出てこないので、セットなり特撮なりのスケール感がちょっと弱い印象だけれども、赤く濁った厚い雲におおわれたような、暗い色彩の金星の廃墟の世界がいい。演出の方はとにかくカットされまくり、らしいので、あまり何ともいえない。金星探査以外のドラマは希薄に感じられるけれども、その日本人の女性医師とアメリカ人パイロットは過去にわけありだったらしく、パイロットが「きみのことが忘れられようか」みたいなことを云うと、女性医師は「この航海には感情は持ち込み禁止よ」と、なかなかニクいキメぜりふをのたまわれる。その「わけあり」をもうちょっと知りたいわけだけれども、ロケットが月にある基地の近くを飛びすぎるとき、女性医師は失神し、パイロットが「彼女の夫は、月で死んだんだ」などと云う。そりゃあ興味津々だけれども、それ以上教えてくれない映画。
 星全体を滅ぼす「核」の恐怖は充分に伝わる作品(金星の姿が地球上の被爆地ヒロシマ・ナガサキの拡大版、という描写がわかりやすい)だと思うけれども、そのラストを、「金星は自らの知識で滅びたけれど、人類の使命はその金星にもふたたび生命を復活させることであり、さらに他の惑星にも、さらに遠くへ」とのことばで閉めるのには時代性を感じてしまうわけになる。ほんとうに、50年代60年代というのは、ただひたすら人類は発展を続けるのだと、皆が思っていた時代だったんだろう。先日観た「来るべき世界」のラストを思い出す。

 さあ、残りのふたつは楽しい作品。まずは、「月のキャット・ウーマン」という1953年の作品で、監督の名前を書いておくことに意味があるかどうかわからないけれども、アーサー・ヒルトンという人。スタッフの名前で目を惹くのが、音楽のエルマー・バーンスタイン。まだ駆出しの頃の作品だろうけれども、ちょっとSFっぽいヒョロヒョロした音(テルミンではない)とか、うまく使って聴かせてくれている感じ。タイトルがおふざけじみているけれども、原題「Cat Women of The Moon」の直訳。
 とにかくまずは、SF映画でこれだけの低予算映画というのもそうそうはないだろう、という感想で、ロジャー・コーマンはSF作品は撮っていないかもしれないけれども、彼でもここまでチープな作品は作り得なかっただろう。冒頭に出てくる月ロケットの内部がすごい。机はおそらく事務机をそのまま使っているし、椅子はなんと!キャスター付きの事務椅子。これでシートベルトがついてるけれど、いったいベルトがどんな役に立つんだろう。普通のロッカーの置いてあるロッカールームもある。ロケットの機械室で火災が発生し、ごく普通の消化器が登場して活躍する。ここで乗員が着るぺらぺらの防火服が、そのまま宇宙服になるんじゃないかとハラハラさせられる。宇宙空間を飛ぶロケットは、黒いバックの上に置かれた小さな模型だとバレバレ、って、もうちょっと細部とか作り込んでほしかったし、バックに星とかも光っていてほしかった。月の風景のペイントもかなり稚拙だけれども、これがこの作品のチープさに合致していて、OKである。
 演出やストーリーも、そういうチープなセットにほんとうにぴったりで、このマッチングはまるで素晴らしい。いちおう人類初の月旅行らしいけれど、男性四人女性一人のロケット搭乗員には緊張感などまるでなく、有給休暇を取得して、二泊三日の月旅行フリープランに参加しているつもりなのだろう(たまに、思い出したように「任務を忘れるな!」などという発言があるけれど、彼らはいったいどんな任務を担っているのだ?)。いちおう地球から出発する時には乗組員はG加速に耐えるのだけれども、加速から脱すると女性はまず鏡を取り出し、髪のセットを直したりする。地球からの無線連絡にも誰もなかなか出ようとしないので、観ているこちらがハラハラ心配してしまう。着陸地点も決まっていない(!)ようで、月が近づいてから女性搭乗員が「月の裏側へ行きたい」とわがままな要求を出すけれど、フリープランなので皆が合意して彼女に従う。じつは彼女の「わがままな要求」は、月の住民(これがキャット・ウーマン)から操られていた結果であって、彼女はその後も月の住民に操られ続けることになる。月には人類と同じような住民の、200万年の歴史を持つ高度文明社会があったのだけれども、空気の減少などの原因で、最近になって男性はすべて死滅。残された数少ないいずれも若い女性たちは、地球からのロケットを「渡りに舟」と了解し、地球へと脱出して地球を征服しようと思っているわけだ。そこにしか空気の残っていない洞窟の奥にある彼女たちのねじろはまるでチベットの密教寺院みたいで、千手観音像みたいなのが置いてあるのが見える。おそらくはスタッフが近所の骨董屋から借りて来たのだろうと思う。ここで搭乗員(特に男性)は、まずは月のキャバレーのような歓待を受けることになる。そうそう、洞窟のなかに巨大蜘蛛がいて(アメリカ人は大きな蜘蛛が好き)、それなりに搭乗員を苦しめるのだけれども、この蜘蛛、顔はダメだけれども、足の動きなどはかなりうまく操られている、と思う。まあ、先日のロジャー・コーマンの「魔の穴」と比較して、という話だけれども、ここはロジャー・コーマンの方がやはりチープさでは勝っていたことになる。キャット・ウーマンたちを演じているのは、テロップによると「HOLLYWOOD COVER GIRLS」と名付けられた集団で、途中で楽しい東洋的な群舞のシーンもある。サーヴィスも満点。
 とにかく最後は色欲や物欲がからんで、さらにキャット・ウーマンの人心操り術、それに逆らうキャット・ウーマンの反乱も入り乱れて、セリフごとに登場人物の立ち場や主張がクルクルと目まぐるしく変わる。これを演出で工夫して描き分けたりしないから、どれが本心でどれが操られてるのか、まったくわからなくなってしまう。一秒先も読めないみごとな展開。
 とにかくこういうB級な作品で感心してしまうのは、ロジャー・コーマンの作品もそうだけれども、チープさのバランスが見事に取れていること。セットのチープさ、脚本のチープさ、演出のチープさ演技のチープさなどがきっちりと調和しているということで、「ああ、あの点のみがチープなのが残念だった」などとは決して思わない。すべてがチープなのだから。もう今ではこんな作品はなかなかつくることは出来ないだろう。ちょっと、先日観たウェス・アンダーソンの処女作「アンソニーのハッピー・モーテル」には、こういうのに近い味わいがあったかもしれない。記憶に残すべき、楽しい作品だった。

 今日観た最後の作品は、「月へのミサイル」という1959年の作品で、じつはこの作品、「月のキャット・ウーマン」のリメイク作品。監督は(書いてもしょうがないけれども)リチャード・カンナという人。このあたりの人たち、こういう作品をリメイクしようとするなんて、B級映画の面白さをちゃんと理解していたんだろう、などと思ったりするけれども、残念なことに、この「月へのミサイル」、「月のキャット・ウーマン」のハチャメチャさを(ひょっとしたら)少しマトモにしようと考えてしまったらしい。月の住民たちの設定は同じだけれども、月へ飛び立つロケットは、民間人が個人の労力で研究製作したもの。これが官に取り上げられることになり、その前にと、個人の力で打ち上げる。ところがこれには刑務所から脱獄して来た男二人が乗っている。これに助手とその婚約者も乗り、構成は「月のキャット・ウーマン」と同じ男四人、女一人になる。これで前作のロケット搭乗員の観光旅行的のんきさはすこしそがれてしまうけれど、じつはこのロケット研究者、月から20年前に地球に降り立った、月の男性だったというわけで、しかも月には婚約者もいる。しかも、月への途中でロケットが流星群に突入した際に、棚から落ちて来たバッテリーがアタマに当たって死んでしまう。ロケットの中で棚にモノを置いてはいけません。で、残されたその助手がなぜか、月の男のふりをしたりする。ああ、やっぱり書いているとコチラの方も相当にハチャメチャだったのだなあ、と思ってしまうけれども、どうもこちらの方が、多少演出がすっきりしている分だけ、印象は不利になる。月の探索も、マット絵を使わずに地球の荒れ地で撮影してしまったのも残念。そう、こちらの月のキャットウーマンたちは、あちこちのミスコンの入賞者たちがやっているらしい。テロップには「INTERNATIONAL BEAUTY CONTEST WINNERS」とあり、ミス・フロリダ、ミス・ユーゴスラヴィア、ミス・ニューハンプシャーとかミス・フランスそしてドイツ、ミネソタと、アメリカの州とヨーロッパの国々がごっちゃになっている。これは好みの問題になるけれど、わたしには、これは新作の方が良かったかも(地球から来た助手の婚約者が、「脱がなくっちゃ勝てないわね」と云ったのが、この作品最高のセリフ)。洞窟の大蜘蛛もやはり登場する。こちらの蜘蛛は眼と口がはっきりしていて、印象としてはガチャピンといっしょにいる、何だっけ、ムックだ。ムックの顔にそっくりな印象。ムックにたくさん足が生え、四つん這い(八つン這い、というべきか)になっている感じ。ただ上から吊るされてビヨンビヨン上下するだけで、チープさは前作をはるかに上回るけれど、全体でのバランスではとびぬけてチープ過ぎちゃった、という感じ。まあどちらも哀れ月の女性たちは滅亡してしまうけれども、人類がほんとうに月に行ってしまうともう、こういう映画も作りにくいだろう。映画自体の製作技術も飛躍的に向上して行くし、CGを使って現実にない世界をスクリーンに定着出来るようになった。しかし、映画のある種の楽しさというのは、こういうチープで稚拙な作品の中で息づいていた部分もあったのではないか。以上。

 今日の一曲、月へ行く映画を観てしまったので、そういう曲の代表格、「Fly Me To The Moon」を。この曲がつくられたのは1950年代らしいけれど、Frank Sinatra がこの曲を唄うことで有名になったもの。その時代がまさに、アポロ計画の時期に重なっていたのだと、Wikipedia に書いてありました。今日は、ボッサ・ノーヴァなAstrud Gilberto のシャバダバダな唄声で。


 

 

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■ 2010-06-12(Sat) 「巨大ヒルの襲撃」「侵入者」「ディメンシャ 13」

[]Intruder [Peter Gabriel] Intruder [Peter Gabriel]を含むブックマーク

 朝起きてリヴィングの窓を開け、和室でパソコンに向かっていると、すぐとなりで「ミャア」と声がした。おっ、と驚いて声の方を見ると、わたしのすぐ近くまでミイが来て、わたしの方を見ていた。あ、いけない、キャットフードの皿が空っぽのままだった。ミイはわたしに催促しに部屋を横切って来たのか。ほんとうにキミはおりこうなネコだね。
 出してあげたキャットフードを食べているミイの背中をなでてやると、のどをゴロゴロ鳴らしている。ネコの毛というのは、なでているだけでずいぶんと抜けてくるのだな、と驚く。ベランダでまたミイをかまって遊んでいると、わたしのわきをすり抜けてまた部屋に戻り、またキャットフードを食べ始める。また背中をなでてあげる。

 昼間ベランダから外を見ていると、ミイが駐車場を横切っていく。そのあとをまたノラがつけている。ミイはノラのことに気が付いているだろうけれども、やっぱりいつものように無視している。ストーカー野郎は相手にするにも値しないと思っているのだろうか。しかし、最近のミイはまたおなかが大きくなっているようにも見える。やっかいなことだけれども、また妊娠しているのではないのか。

 ベランダのプランター、ようやくひとつだけバジルの芽が出て来た。ひとつかよ。もう一週間様子をみて、これ以上芽が出なければ新しく種を買ってこよう。

 今日もロジャー・コーマン関係の映画を続けて観る。まずは「巨大ヒルの襲撃」という、1958年の作品。製作総指揮がロジャー・コーマンで、製作は弟のジーン・コーマン。監督はバーナード・コワルスキーという人。アメリカ南部の沼地が舞台で、そこの沼に、タコの足がもげて平たくなったような(吸盤をもっている)巨大ヒルが出現。沼の底の空洞に人間を連れ込んで血を吸うのである。これを自然保護監視員が町の人の協力を得て退治して、囚われていた生き残りの美女を救出する。例によって巨大ヒル退治物語とは別に、並行するサブ・ストーリーがあるが、今回はなぜか愛せない亭主といっしょになって南部へ来てしまった、場違いなセクシー美女をめぐるストーリー。沼のほとりでの浮気現場を亭主に見つかった男女がその場でヒルに襲われて、亭主は二人を殺して死体を始末したものと疑われて監獄入りするけれど、妻を愛していた亭主は自殺してしまう。このあたりの演出はそんなにひどくないんだけれども、沼周辺の野外ロケになると、とたんにぞんざいな演出になってしまう。おそらく沼周辺の環境がみんなイヤだったんだろう。それとも、ここで使われる水中撮影にだけ全力を集中したのか。たいていのシーンが奥に重なっていくタテの構図になっているのは、単純に横へ拡がる視点のカメラ設置場所を探すのを怠った結果に見える。演技はカットでつながっていかないし、俳優は脚本を読んですらいないんじゃないかとも思える。ただ、それでもなお、アメリカ南部の湖沼地帯(スワンプ、ってヤツだな)の、湿気を含んだ濃厚な土地柄の雰囲気、空気は伝わってくる。ここにサブ・ストーリーのセクシー美女の存在効果は大きい。
 しかし、環境保護の観点からダイナマイトの使用にずっと反対していた監視員が、ラストに巨大ヒルの姿を認めたとたんに、率先してダイナマイトを使うのはいかがなものかと。

 二本目は、「侵入者」という、ロジャー・コーマン自ら監督した1962年の作品。これは驚いたことに、ロジャー・コーマン絡みの作品としては異例、とも思えるシリアスな社会派ドラマで、ロジャー・コーマンの演出にも本気の熱意を感じさせられる。俳優たちからも、出来うる限り最高の演技を引き出そうとしているだろうし、観ていてもコーマン絡みのB級映画だなどとはちっとも意識しなかった。傑作、だと思う。
 アメリカ南部の町に、バスでひとりの若い男がやって来る。アダム・クレイマーと名乗る男は町のホテルにチェックインし、長期滞在の予定だと告げる。職業は社会福祉関係だと語るが、実は過激な人種差別主義者で、町の人々を扇動する使命を抱いている。映画の製作された1962年という時に注目。クレイマーはまずは町の人々(もちろんヨーロッパ系住民)に、現在の人種差別撤廃政策をどう思っているか聞いて行く。住民はみな、「嫌だけれども法律だから」と答える。クレイマーは、「いったい誰の為の法律なのか!」と訴える。町の実力者の面識も得て、夜には広場で集会を開くようになる。集会の聴衆は興奮して、車で通りかかったアフリカ系住民を襲撃する。これらの状況を快く思っていない新聞社の良識派であるトムがその場を収めるが、クレイマーと住民は共学制を取り入れたハイスクールに攻撃目標を定める。集団登校するアフリカ系の生徒をサポートしたトムは、住民の集団リンチの標的にされて片目失明の重傷を負う。住民には「やりすぎた」という反省の空気が拡がりそうになるけれども、クレイマーはある謀略を実行に移し、空気はまた揺り戻され、ひとりのアフリカ系の青年がまさにリンチに遭おうとする‥‥。
 さいごにクレイマーの陰謀は破たんするけれども、それは彼がホテルの隣室の人妻に手を出した結果として、怒ったその亭主が彼の謀略を暴くことによる。その亭主が土地の人間ではなく、旅を続けるセールスマンだったことから、人種差別に懐疑的な考えの持ち主でもあったのだろう。暴かれた謀略にあきれた町の実力者がまずクレイマーに背を向け、町の人々もひとり、ふたりと彼のもとから去って行く。

 この作品は実際に当時のアメリカ南部でロケ撮影されたらしいのだけれども、その内容に反撥した地元民の攻撃を実際に受けたという。また、ロジャー・コーマンの作品としては例外的に、興行収入で赤字を出した作品となってしまったらしい(制作費は8万ドルに抑えられたのに)。原作小説があり、その作者が脚本も担当しているけれど、実際に当時の人種差別主義者がどのように考えて行動していたのか、それほど差別的でもない一般の人々がどのようにそれらに影響されたかなど、(たとえこの作品が「真実」ではないにせよ)リアリティをもって描かれている。この作品でクレイマーは自分を「パトリック・ヘンリー協会」のものだと名乗っているが、もちろんそれは架空の名称だとしても、ひょっとしたら John Birch Society のことなのかもしれないし、KKK団の組織化も行っていたように描かれている。1962年という、まだ公民権運動真っ盛りの時期(ワシントン大行進は1963年)に、おそらくは採算も度外視して、これだけ踏み込んだ作品を製作したロジャー・コーマンという人間の意外性には驚いてしまった。彼は実はシチュアショニスト、だったのではないのか。とにかく、この作品を観ることが出来て、良かった。そうそう、主演しているウィリアム・シャトナーという人は、(わたしは知らないけれども)のちに「スタートレック」の船長役で著名になる俳優、らしいし、ホテルの隣室の亭主役(もうけモノの役)は、レオ・ゴードンという人で、この人は、昨日とか観ていたロジャー・コーマンの作品では脚本を担当していた人。

 さて今日の最後は、やはりロジャー・コーマン製作作品の「ディメンシャ 13」(1963) で、これはフランシス・フォード・コッポラ監督のデビュー監督作品。アイルランドの古城でロケしたサスペンス・ホラーもので、ロジャー・コーマンの古城趣味と合わせて、おそらくはヒッチコックの演出の強い影響を受けている。パトリック・マギー(「時計じかけのオレンジ」出演!)が、事件を解決する医師の役で出演していた。
 10年以上前に7歳で庭の池で水死した娘をめぐり、今なお続けられる追悼の儀式(母は彼女の死を乗り越えられていない)と、相続遺産をめぐるストーリー。その古城で連続して人が殺される。誰もが怪しいのだけれども、池の水を抜くとそこに、娘への悔悟のことばを刻んだ墓石が姿を顕わす。じつはこれで犯人の見当はついてしまうので、一部の人物にインサートされる過去の追想ショットと共に、(ずっとこのあと、いったい誰が犯人なのかと引っ張る演出なので)これは演出の勇み足ではないのか。ただ、基本の客観描写のなかに、すっとそういう主観描写を紛れ込ませて行く演出は監督の力量を感じさせて、わたしは好き。冒頭のシーンは、この旧家の長男が性悪のその妻と夜のボートに乗って遺産の話をするんだけれども、ここでボートに置かれたトランジスタ・ラジオから流れるポップ音楽がとても効果的で、ボート上で長男は心臓発作で急死してしまって、長男に今死なれると遺産相続の可能性が消えてしまう妻は、死体をボートから海に棄て、ラジオも捨ててしまう。沈んで行くラジオからもずっと音楽が聴こえている描写がいい。この性悪妻は、けっきょく彼女の関心事とは関係のない理由で殺されてしまうんだけれども、このあたりは「サイコ」のジャネット・リーの巻き込まれ方を思い出してしまうし、短いショットの積み重ねなどの演出手法もヒッチコックっぽい。全体のゴシック・ロマン趣味はロジャー・コーマンの意向だろうし、コーマン+ヒッチコックという感じではある。これに、旧家内の確執などというのは後年の「ゴッドファーザー」を思わせるテーマでもあるし、やっぱり、のちの大監督のデビュー作というのには、いろいろと面白い要素を見つけることが出来る。

 映画を観たあと、始まったワールドカップの、大韓民国とギリシャの対戦とか観た。ギリシャが良かったのは最初の3分程だけで、あとはもう一方的。ほとんど何も出来なかったんじゃないかな。

 今日の一曲は、「侵入者」という思いがけない傑作と出会ったので、その「侵入者」の原題、「The Intruder」にちなんだ曲を。1980年リリースのPeter Gabriel の傑作サード・アルバムから、その一曲目の「Intruder」。このアルバムのジャケットもホラー(どちらかというとスプラッター・ホラー)っぽくって、じっさいにこの曲は怖い。プロデュースのSteve Lilywhite お得意の重たいドラム音と、キリキリと何かが軋むような音。「侵入者」はホラー映画ではなかったけれども、この「Intruder」という曲はホラー映画のサウンドトラックに向いている、と思っていた。


 

 

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■ 2010-06-11(Fri) 「ノッティングヒルの恋人」「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」

[]THE KNACK [John Barry (original Soundtrack)] THE KNACK [John Barry (original Soundtrack)]を含むブックマーク

 朝食はパン、と何十年も決まっていて、最近はずっと二枚の食パンをトーストして、レタスとハムと目玉焼きをはさんで、コーヒーといっしょに朝食にする。トマトが安い時期には、これにトマトもいっしょにはさむ。トマトがあんまり熟していると、トーストのあいだからドロドロのトマトがこぼれてくるのでめんどい。これは、スーパーとかでくれる生鮮食料品を入れる薄いビニール袋に入れて食べると、かなり具合がいいんだけれども。
 で、食パンの消費量がかなり多いのだけれども、近所のドラッグストアでは賞味期限の迫った食パンを20円引きとか半額で売ることがあるので、これをまとめ買いして冷凍庫で保存している。半額だと一斤50円以下になるのでとってもうれしい。間食もトーストですませることが多い。最近、冷凍庫に詰め込めば8斤いちどに保存できることがわかり、ちょうど今は冷凍庫に食パンがぎっしり詰まっていて、まるでそこだけお店のディスプレイみたいに見える。在庫が少なくなると不安になり、できるだけ定価で買いたくないので、また早く食パンの安売りが出ないものかとドラッグストアに日参する。
 テレビで、冷凍した食パンはトーストする前にかるく霧吹きするとふっくらと柔らかく焼けるとやっていたので、自分でもやってみたけれど、わたしは少しカリッとしているぐらいでかまわないということがわかった。

 昼間ちょっと出かけて帰って来ると、テレビの電源は落としてあったけれど、ひかりTVのチューナーの電源が入りっぱなしだった。テレビをつけると、ちょうど「ノッティングヒルの恋人」という映画が始まったところだったので、たまにはこういうのも観てみようと、全部観てしまった。1999年の米英合作で、監督はロジャー・ミッシェル、脚本がリチャード・カーティスで、この人は知っている。
 イギリスの住宅の中っていうのが面白い。まんなかに廊下のようなスペースがあって、進むと半地下のように下の部屋に降りるか、階段で二階に上がることになる。バストイレは二階にある。こういうのって、何かむかし観た記憶があると考えたら、リチャード・レスター監督の「ナック」(1965) だった。で、男性どうしの同居とか、ほんわかコメディ路線とか、どうもこの作品はその「ナック」を典拠にしている部分もあるとみた。それと、「ローマの休日」の要素もあるだろうけれども、この「ノッティングヒルの恋人」、視点を思いっきり男性側に引き寄せて、男性の夢を実現させるために一所懸命なストーリー。いつも女性の側からアプローチして、それでも逡巡する男性(いちどは求愛をはっきり断っている)を、気変わりするまで待ってくれるような女性がほんとうにいれば、それが世界的な映画スターではなくっても、いいよ。ま、それだけ主人公は相手に愛されたんだろうけれども、一方的すぎてドラマとしてはどうかと。
 観ていて、わたしもむかし夜中の上野動物園の塀を、女の子と二人で越えようとしたことを思い出したりした。もちろん無理だったけど、あのとき夜中の動物園に入れたりしていたら、いろいろと違っていただろう。
 リチャード・カーティス絡みの映画って、いつも既成のポップ・ソングをいっぱいちりばめていた印象があるけれど、どうもこの映画の選曲のセンスは、あんまりピンと来ない感じ。監督をやっているのが別の人だからだろうか。でも、イギリス的なコメディというのは、いい感じを受ける。

 映画を観終って夕食。今日は、先日半額で買ったイカの「かじり天」というやつ、半分は名前のとおりにかじってやった残りを刻んで、もやしと炒めて豆腐を入れて玉子をからめ、チャンプルーにしておかずにした。悪くない。材料費は60円ぐらい。

 夜は、ロジャー・コーマンが監督した「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」(1960) を観る。昨日の「スズメバチ女」のように、ほとんどの場面を花屋のセットですませていて、それに外でのロケ映像をまぜて世界を拡げる手法。シナリオは面白くて、サディスティックな歯医者や、その乱暴な治療を恋いこがれるマゾヒスティックな患者(これをジャック・ニコルソンが演っている)などが出て来たり、主人公の母親が薬物ばかりを料理して食事しているのなど。おそらくこの「食人植物」のハングリーさは、主人公の母親からの抑圧の反動ということだろうし。
 低予算のはずなのにやたらにカットバックがこまかいあたりに、ロジャー・コーマンの映画に賭ける熱意みたいなものをみる思いがする。でも、ここまでこまかくすることもないだろうに。
 そうそう、まだ小さい頃の食人植物から、東京コミックショウの「レッドスネーク、カモーン」を思いだしてしまった。楽しい作品だった。

 今日の一曲は、「ノッティングヒルの恋人」から「ナック」を思い出して、その「ナック」の音楽をまた聴きたくなってしまったので。わたしはこのジョン・アリーの音楽が大好きで、この映画のサウンドトラック・アルバムも所有していた。主題曲の蠱惑的なメロディと女性コーラス、けっこう、どんな曲よりもいちばんこの曲が好きかもしれない。でも、ここへ転居して来るときに売り飛ばしてしまったけれど、そのときにコピーしておくのを忘れてしまって、あとでものすごく後悔した。こうやってYouTube で聴けるならいいや、と思っても、わたしは今ではYouTube ダメなのだった。やはり何とかしなくては。


 

 

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■ 2010-06-10(Thu) 「スズメバチ女」「古城の亡霊」

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f:id:crosstalk:20100611112602j:image:right ミイは食事のあとにベランダでしばらく休んでいく。今日は夕方に一時間ぐらいはベランダでゴロゴロしていた。もう、ここを住処にしてくれてもいいんだけれども。いつも、わたしの顔を見るとミャアと啼いて何かいっている。それが何をいっているのかはわからない。

f:id:crosstalk:20100611112624j:image:left 月曜日以来ちょっと虚脱感で、それはもう、あの本駒込では「水族館劇場」の公演は観ることは出来ないのだ、という想いから来ているのかもしれない。一種の喪失感。

 今日は、ロジャー・コーマンが監督した作品を二本観た。「スズメバチ女」(1958) と、「古城の亡霊」(1963) 。

 「スズメバチ女」というのはごたいそうなタイトルだけれども、原題は「Wasp Woman」そのもの。日本では「蜂女の実験室」だとか、「怪異蜂女」などのタイトルでも公開/放映されていたらしいけれど。
 これは、あきらかに1958年の「蠅男の恐怖」の二番煎じモノなんだけれども、プロットだとか演出には面白さが感じられる。ただ、やっぱ低予算だけにクリーチャー造型があまりに情けない。ここはやはり昨日観た「魔の谷」のように、クリーチャーはあんまり出さないようにしてるんだけれども、最初にこの「蜂女」が登場して来たときには、声をあげて笑ってしまった。
 アラフォーにさしかかったコスメ会社の女社長は、いつもみずからが会社宣伝のオモテに顔を出して来たんだけれども、最近は会社の業績は下降の一途。社員に「(もう若くないのに出たがる)社長に原因が」と指摘され、若さを取り戻したいと思う。そこへ、養蜂場で勝手にスズメバチの酵素を研究してクビになった男から手紙をもらい、その研究に「若返り」への可能性を読み、男を雇ってマンハッタンのビルの自社内に研究室を設ける。ネコへの実験は成功してネコは子ネコになり、いよいよ人体実験。スズメバチの酵素からつくった試液を、女社長みずからが実験台になって注射する。効果てきめん、女社長はすっごく若返り、社員一同驚愕。男性社員は鼻の下を長くする。しっかし、研究室では実験に使った子ネコに異変が‥‥。
 はい、いちおうプロローグの部分で「スズメバチは人を襲って殺してしまうこともある」という前ブリがあったように、女社長はときどき、その姿が蠅男のスズメバチ版に変身してしまい、人を襲ってしまうんですね。
 いかにもムリのあるストーリーだけれども、ほとんどがオフィスの中で進行するドラマで、あれこれと無駄話を繰り拡げている女性社員たちが楽しい。そんな中で「社長はなんだかおかしい」と、裏で事情を調査する男性社員たちや、協力する女性社員たち。面白いです。ただ、あまりにオフィスの中ばかりで進行するのがマズいと思ったのか、冒頭の養蜂場のシーンだとか、男性社員が車で研究者を追跡しようとするシーンなどが冗長な感じで、そのあたりを整理すればもっと楽しめたかな、という印象。

 もう一本の「古城の亡霊」は、コーマンのポー好みから生まれた作品のひとつで、19世紀初頭のフランスの海辺にある古城を舞台にしたゴシック・ロマン調の幽霊譚。なんと、若き日のジャック・ニコルソンと、あのボリス・カーロフが共演しているし、「Location Director」として、モンテ・ヘルマンの名前も見える。そう、フランシス・コッポラも製作補として名前を連ねている、今となっては豪華な作品。
 データを検索すると、この作品はわずか二日で撮り終えた作品らしく、「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」(これも近々観る予定)を三日で撮ってしまったという伝説を超えている。そういう粗さはもう全開で、さいごにちょっと驚くどんでん返しはあるとはいえ、ストーリーのつじつまが合わないというか、正直、考えても「いったいあれはなんだったのか」とか、わからなくなってしまうし、登場人物の行動にも腑に落ちないところが多い。
 城内で展開するドラマと、城の外、風光明媚な海岸で展開するドラマのバランスがよく、ロジャー・コーマンはそういうところに気を配る人なのかな、などと思ったりするけれど、特に、海岸での野外シーンでの、ロングを多用したカメラや、ストーリー以上にドラマティックさを感じさせる演出が秀逸という印象で、このあたりにモンテ・ヘルマンの手腕が発揮されているのではないかと思う。鳥が人を襲う場面、鳥を使った演出がいい(ヒッチコックよりいい)。

 今日の一曲は、「スズメバチ女」からの連想で、蜂を歌った曲を探してみた。そういうのはかなりあるのだけれども、わたしが中学生だったころにシングル盤も持っていた、このSearchers の1965年のヒット曲で。この曲はイギリスではシングルリリースされていないけれど、アメリカではそこそこにヒットしている。調べてみたら、この曲が早々とアメリカでの最後のヒット曲になっている。アメリカではわずか一年しかその人気は続かなかったわけか。まあ、イギリスでも1966年あたりでヒットは途絶えてしまうことになるけれど、彼らのギター・バンドとしてのアコースティック色の強いサウンドは、もっと後になって再評価されることになる。


 

 

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■ 2010-06-09(Wed) 「決断の3時10分」「魔の谷」「キラー・シュルー」「来るべき世界

[]I Love Rock 'N Roll [Joan Jett & The Blackhearts] I Love Rock 'N Roll [Joan Jett & The Blackhearts]を含むブックマーク

 ネコのミイが来て、食事をして出て行くのを追って、ベランダでミイのからだをなでてやったりするとうれしそうにして、また部屋のなかに入って来てもういちどキャットフードを食べて行くようになった。
 だいぶ暖かくなって来たので、昼食はまたざるそば。一人暮らしをしていると、カップ麺ばかり食べているような印象を持たれてしまうようだけれども、じつはカップ麺は割高で不経済。もう一年以上、いちどもカップ麺は食べていない。インスタントラーメンの買い置きはあるけれども、これから暑くなるのでもうほとんど食べないだろう。

 今日はTVばかり観ていた。B〜C級っぽいのとかを選んで、知らない映画ばかり4本。

 まずは、これはB級的ではない、本格的な西部劇ドラマの「決断の3時10分」という作品を。デルマー・ディヴス監督の1957年の作品で、原作がわたしの好きなエルモア・レナードだった。主演はグレン・フォードとヴァン・ヘフリンで、この二人はどちらも善玉も悪役もこなせそうなので、役柄の入れ替えも可能な感じ。そう、この作品は最近「3時10分、決断のとき」というタイトルで(原題はどちらも同じ「3:10 to Yuma」)リメイクされて大ヒットしたらしい。そちらもそのうちに観てみたい。
 逮捕された盗賊団の首領を列車に乗せる護衛を引き受けてしまった牧場主の男の話で、バンバン撃ち合うのではない、じっとりとした重厚なドラマになっている。それぞれの主人公に女性がからんでくるストーリー展開が良くって、強盗団の首領(こっちがグレン・フォード)は、逃走中に立ち寄ったバーにいた女性が、かつてはもっと大きな町の立派なバーで歌っていたのを思い出し、ほだされてバーの奥に二人で消えて、つまりそういうことになって逃げ遅れて捕まってしまう。これを強盗団の仲間が奪還しようとするわけ。牧場主(ヴァン・ヘフリン)は、最近の干ばつを乗り切るためにどうしても賞金の200ドルが欲しい。列車の駅に首領を護送する前に、仲間の目をくらます偽装のために自宅へ首領を連れて行き食事を共にする。このときに牧場主の奥さんが強盗の魅力的な話を聴いてうっとりした表情を浮かべてしまう。これを見て牧場主はおだやかではないが、もちろん奥さんは夫を慕い信頼し、心配して遅れて鉄道の駅まで追って行く。ラストが、「こういうのがエルモア・レナードのタッチだよな」という、爽快さとともに、ちょっとウェットな気分も。どっちかっていうと、つねに強盗団の首領の方に余裕があるわけだけれども、その余裕を、ラストにうまく活かしたって感じ。ホテルから駅まで、強盗団の仲間に狙われながら牧場主が首領を連行するシークエンスは、これはちょっとばかり緊迫感には欠けた印象もないわけではないけれども、ちょっとした人間ドラマとしての面白さにあふれていた。

 残る3本はちょっと安っぽい作品が続くけれど、最初の「魔の谷」というのは、なんとモンテ・ヘルマンのデビュー作。製作はロジャー・コーマンの弟のジーン・コーマンという人で、兄弟で同業やっていたとは知らなかった。やりかたはおそらく兄と同じで、この作品も、ほかの作品(スキー映画らしい)をロケ撮影するついでにもう一本、ということで撮られたらしい。原題は「The Beast From Haunted Cave」で、1959年の作品。この The Beast というのが、廃坑に巣をつくる巨大蜘蛛なわけで、モンスター映画という体裁をとっているけれど、いちおうモンテ・ヘルマンらしくも、モンスターの描写よりも採掘場の金塊を盗み出す強盗団らの人間模様の方に、演出のポイントを置いている。これはH・G・ウェルズの作品からの自由な翻案らしい。
 物語の核は、強盗団の首領格の男(また、強盗団の首領の話だ)の愛人の存在で、いいかげん悪事から足を洗わない男にうんざりしていて朝から酒を飲み、彼らが強盗と知らずに逃走を助けることになるスキーのコーチに色目を使っている。というか、強盗団を離れ彼と逃げようとする。これに強盗団の手下たちふたりがいい味付けをして絡む。ひとりは山小屋のまかないをしている先住民の大きなおばさんをいい感じで好きになる。もうひとりはバーの女の子を誘うけれど、デートに廃坑に二人で行き、その女の子が最初に巨大蜘蛛の犠牲になる。けっきょく、強盗団の男はみな蜘蛛にやられ、そのおかげで女はスキーコーチと逃げることができると。
 低予算映画だけあって蜘蛛の造型がかなり情けなく、できるだけ見せないように見せないようにする演出になっているのが逆に効果的。最初の蜘蛛の登場場面など、ミステリアスで良い。廃坑の撮影などがかなりのスケールで、モンテ・ヘルマンの、のちの「銃撃!」での自然描写とかを思い出す。

 次は「キラー・シュルー」という作品。やはり1959年作品で、レイ・ケロッグという監督。H・G・ウェルズの「ドクター・モローの島」と同じような話で、孤島(といっても陸地からそんなに離れてはいない)で新種動物を産み出す研究をしているマッド・サイエンティストの話。動物のからだを小さくして、しかも寿命を延ばしてこれを人類に適用し、人類の人口の増加に役立てようという研究なんだけど、なぜか研究用ネズミは犬ぐらいの大きさに巨大化、狂暴化して研究所から逃げ出し、外の小生物をぜんぶ食べ尽くして繁殖する。そこへ外から船で男がやって来て、という話。これはおきまりで、マッド・サイエンティストには妙齢の美しい娘がいるわけで、だいたいの結末は想像がつく。3人ほどいる研究所員やほかの船の乗組員は、その「キラー・シュルー」の犠牲になる。動き回る「キラー・シュルー」は犬になにかフェイク・ファーみたいなのをかぶせているみたいで、塀のすき間からのぞいたりするその顔のアップは牙のするどく尖った作りもの。かなり情けないことは「魔の谷」の蜘蛛に劣らない。撮影で、塀の向こう側でこのモンスターの造型をわさわさ動かしただろうスタッフたちは楽しかっただろうな、と思う。どうということもない、平凡な作品。

 もうひとつ観たのは「来るべき世界」という作品で、期せずしてこれははっきりとH・G・ウェルズの原作(彼自身が脚色しているらしい)。そんなつもりはなかったのに、ウェルズ絡みで3本続けて観てしまった。この「来るべき世界」はいちばん古くて、1936年の作品。監督はウィリアム・キャメロン・メンジースという人で、この人は「風と共に去りぬ」では美術監督をやっていて、もともと映画美術の人らしい。
 この作品にとっては近未来になる1940年のクリスマスからこの映画は始まり、Everytown という架空の都市を舞台に、その後の2036年(この映画公開から百年後)までの人類の歩みを想像して追う壮大な物語で、セット撮影、特殊撮影なども見事なもので、見ごたえはある(失礼。この作品をB級とか呼んではいけない)。ただし、特に後半では、登場人物は歴史の流れの中ではひとつのコマに過ぎないという描写になってしまうきらいはある。じっさいにはSF作家というよりも文明批評家であったH・G・ウェルズの文明批評的主張が強く、さいごには人類にとって果てしない科学の発展を期待、追求するのが望ましいのかどうか、という設問がなされる。「全宇宙か、無か、二つに一つだ」などという、かなり無茶にくくられた問いかけでこの作品は終る。まあ1936年というのは科学万能主義の初期ともいえる時代だったろうから、この設問はその後の30年ほどの人類の歩みにはよい教訓と成り得たはず。というか、この映画の予言的な部分は、そんなに的はずれではなかった。
 この映画では1940年に世界は戦争に突入し、その戦争は1970年代になっても継続していることになっている。その戦争末期には独裁者が登場し、世界を軍備で征服しようとしている。毒ガス兵器や伝染病で世界の人口は半数に激減していて、科学技術は伝承されず、「風の谷のナウシカ」のように、過去の飛行機を組み立て直して軍備にあてようとしている。飛行機を飛ばせたものが世界を制覇すると考えられているけれども、突然に未知の国から最先端技術の大型飛行機が飛来し、独裁政権は滅び戦争は終結する。それからの世界は科学の力でひとつとなって、日進月歩の発展を遂げるけど、それでいいの? というわけ。

 やはり、一日に4本も映画を観たりするのは無茶といえば無茶で、あまりこういうことはやらないようにしよう。

 さて、今日の一曲だけど、H・G・ウェルズみたいな映画を3本も観てしまったので、そのあたりで探そうかとも思ったけれども、そういう曲がわからないし、それよりも今日は6月9日でロックの日。それで、昨日のRunaways つながりで、Joan Jett の名曲、「I Love Rock 'N Roll」を今日の一曲に。


 

 

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■ 2010-06-08(Tue) 「博士の異常な愛情」

[]Cherry Bomb [Runaways] Cherry Bomb [Runaways]を含むブックマーク

 深夜は居酒屋が閉店するまで居座って、そのあとは電車が動き出すまでマクドナルドに避難する。かなりヘロヘロになって、始発電車で帰宅した。

 玄関を開けて部屋に戻りリヴィングの窓を開けると、ベランダでミイがわたしの帰りを待っていた。おお、いいコだねえ。ちょっと待ってな、食べるものをあげよう。
 ベランダでミイとしばらく遊んでから、ベッドにもぐって寝る。目が覚めてリヴィングにふらふら入って行くと、わたしを呼ぶネコの啼き声がした。キャットフードの袋のそばにミイがいて、食事の催促しているのだった。ぜったいに勝手に自分で袋をひっくり返して中身を食べたりしない。キミはおりこうさんだね。

 しかし何もやる気がしない。ずっとぼんやりして過ごす。食事はざるそばとかそうめん。やはりまた飲み過ぎてしまったということか。

 パソコンをつけてネットのニュースを読むと、J党の首相経験者たちが、M党の新しい内閣を「左翼内閣」と攻撃している、というのを読んだ。たしかに新しい総理は市民運動出身で、おそらくは初めて、J党とはまったく接点のない経歴から総理になった人だろう。しかし、それを今の時点で「左翼」と呼んで攻撃するという感覚はすごい。逆に自分が右翼だということを表明するだけみたいな。J党の一部の人たちは、今の日本の世論は右にシフトがかかっていると認識してるんだろう。もしくは右にシフトさせようとしていた。政権奪回に向けて、徴兵制を打ち出す討議などもしていたらしいけれども、まあこれからは右翼政党として活動する部分が大きくなるんだろう。
 しかし、今の時代に「左翼」って、どういうことを指してレッテルを貼るのだろう。「リベラル」とどう違うのか。「リベラル内閣」だなどと呼んでもまったく攻撃にならないのが、「左翼内閣」だというと非難することになるのは、やはり背景に右翼的な指向性がなければ成り立たない。これでJ党は今後どのくらい支持されるのか、みてみたい。

 夜、なにかTVでコメディでも観ますかと、ヴィデオのリストを見るけれど、今あまり観たいものも浮かばないので、何度も観ているけれど、キューブリック監督の「博士の異常な愛情」(1963) を観ることにする。正確な邦題は、「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」。
 やはり、オープニングの爆撃機の空中給油の映像が、空の上での飛行機同士の交尾みたいに見えて、すばらしい。リッパー将軍が狂気を加速させたのは、やっぱ薬用アルコールを飲んでいたからだろう、とか。ロシア人がウオッカで狂うのと同じこと。まあなんど観ても楽しい恐ろしい映画で、やっぱピーター・セラーズの「ストレンジラヴ博士」の怪演ぶりには、笑うしかない。「総統、歩けます!」。キューブリックの演出は、わざとこまかいところこまかいところに耽溺しているようで、そのこまかさがストーリー全体のばかばかしさを際立てている反面、観ていて妙なリアルさを感じてしまうのだろう。

 今日の一曲は、その「博士の異常な愛情」のラストに流れる、皮肉にあふれた「また会いましょう」にしょうかな。この「We'll Meet Again」という曲は、イギリスのシンガーVera Lynn によって、1942年に吹き込まれてヒットしたもので、翌1943年には彼女の主演でこのタイトルの映画もつくられている。出征する兵士を戦地に送り出す内容で、兵士の帰還を祈っている。この曲に対になるように、1945年の戦争終結のときには、アメリカのシンガーKitty Kallen がHarry James 楽団をバックに歌った「It's Been A Long, Long Time」という、帰還兵を迎え入れる曲がヒットしている。どちらも素敵な曲。
 あ、でも今日は、「Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb」というタイトルに合わせて、愛すべきBomb 、「Cherry Bomb」という爆弾の曲を選びましょう。演っているのはもちろん、もうすぐ彼女たちの伝記映画も公開されるだろう、The Runaways。おそらく彼女たちは、日本でこそ世界中でいちばん人気の高騰したバンドでしょう。わたしも彼女たちの来日時には、TVで観てました。その映画での配役は、リードヴォーカルのCherie Currie 役にDakota Fanning 、あのJoan Jett 役はKristen Stewart ということで、興味津々、これは観たい映画。


 

 

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■ 2010-06-07(Mon) 水族館劇場「NOMAD 恋する虜」

[]Shower The People [James Taylor] Shower The People [James Taylor]を含むブックマーク

 水族館劇場公演「恋する虜」の最終日に行く。
 朝、出かける準備をしていたらミイが来た。かまってやらずにわたしが和室にいると、珍しく部屋のなかに入って来て、キッチンから玄関の方をまわって、和室にいるわたしを覗き込むようにしてから出て行った。いつものようにかまって、遊んでほしかったんだろう。今日はごめん。

 電車に乗っていると、待ち合わせしているBさんから一時間遅れるとメールがあったので、渋谷に寄って昼食とかすることにする。久々にHMVに寄ると、この八月で閉店するとの掲示が出ていた。店の中の売り場面積もかなり狭くなっている。もう、ネット通販の方が主流ということなのか、閉店の理由はわからない。上海食堂でランチ。坦々麺を注文すると、この店でのいつもの坦々麺とはぜんぜん違う外観の坦々麺が出て来た。味ももちろん違う。注文を忘れられてかなり待たされたし、ちょっとがっかりした。渋谷駅へ戻る途中で誰かに名前を呼ばれ、振り向くとCさんだった。じつは渋谷の駅に降りたとき、平日のこの時間だとCさんに会うかもしれないなどと思っていたのが、現実になってしまった。ちょっとだけ立ち話をして、残念だけれどもわたしは駅に。

 Bさんとは本郷三丁目駅で待ち合わせして、水族館劇場の時間まで東京大学の博物館に行くつもりだった。駅でBさんと落ち合い、大学の前まで行くとその博物館のポスターが張ってあるのだけれども、月曜日は休館、と書いてある。おかしい、ネットで何度もたしかめたつもりだったのに。仕方がないのでキャンパスを歩き回り、学生食堂で何も注文せずに坐って話して時間をつぶした。実に安上がりでよろしい。

f:id:crosstalk:20100608222703j:image:right 受付の時間が近づいたので、本駒込の会場まで歩く。五時にまずは受付をして先着順の整理札を受け取り、七時の開演時間までどこかで時間をつぶすことになる。受付の三十分ほど前に会場に着くけれど、もう二十人ぐらい並んでいた。今回はこの本駒込でのラスト公演だというので、最後ぐらい最前列で観ようとBさんと話し、早く入場してその最前列に坐ろうという計画だけど、整理札の番号は18番と19番だった。最前列、取れるだろうか。

 開演まで千駄木の喫茶店で時間をつぶし、まずはテント劇場の外で始まる野外劇から観る。客はこの外での導入部が終ってから整理番号順に入場するシステムはいつも通り。今回の野外劇には歌がなかった。
 開場。うまい具合に夢の最前列に坐れた。いつものことながら客入れにものすごく時間がかかる。水しぶきを避けるビニールを引き上げてみたりしながら待つ。‥‥ようやく、開演。‥‥う〜ん、今回はちょっと、内容的には薄い。舞台美術の作り込みも正直、いつもよりクオリティが低い印象。日中戦争下の上海で、日本軍、国民党、共産党らの利害関係で暗躍する組織とか、謎の人物とかの背景設定はとっても面白そうで、いったいどうなるのかと期待したのだけれども、そういう背景はただ、第一部でヒロインのひとりを殺すためだけに使われていたのだ。ちょっとばかし表面をたどっただけのような展開でラストのクライマックス。水は前からばかりではなく、頭の上から降ってくる。どちらかというと気温の高い日中だったので、さわやかシャワーという感じ。おしまい。
 でも、水族館劇場の演劇には多くを期待してはいけない。「恋する虜」などといっても、ジャン・ジュネとは関係はない。そういうのとは別の楽しみが、この大きなテントの中にも外にもあふれているのだから。今回はついに最前列で観劇。あまり水しぶきをかぶったわけではなかったけれども、役者さんたちと至近距離で、時には役者に軽くいじられながら観ているのはちょっと気持ちがいい。ほかの劇団とはこういうところはちょっと違う。いろんなディテールもよく見えるし、例えばヒロインのひとりが持っているトランクに貼られているアジア各地のホテルのシールなど、本物っぽくって時代性を感じさせる。隣の知らないお客さんなんかとも、気楽に声をかけてしまったりもするし、やっぱこれは一種のエピファニー空間だと思う。けっきょくわたしは、この本駒込大観音で上演された水族館劇場の公演は、おそらく全部観ている。圧倒的なスペクタクルで記憶に残るものもあったし、大掛かりな美術で憶えているものもある。もうほとんどのストーリーは忘れているけれども、そういうのとは関係なく、やはり続けて観たいと思ったし、これからも、場所を変えても継続していって欲しい。

 終演後、いちど客も全員外に出たあとに、時間のある人たちは残ってまたテントに入り、軽い打ち上げ。ここで最後の公演ということもあってか、ほとんどのお客さんは残っていた感じで、またテントの中は満員になる。場所を提供して来た大観音の住職さんのあいさつなど。ちょっと、劇団員の人たちの素顔も見える思い。

 打ち上げも終り、Bさんを駅までおくって行き、打ち上げで中途半端にお酒飲んだりしたあとを引きずって、まだ飲みたくなり、けっきょくひとりで居酒屋に入り、遅くまで飲んでしまった。あとで少し後悔した。

 今日はそんな水族館劇場の公演で、頭からシャワーのような水の落下を受けたので、そういう曲を「今日の一曲」に。


 

 

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■ 2010-06-06(Sun) 「エヴァの匂い」

[]Loveless Love [Billie Holiday] Loveless Love [Billie Holiday]を含むブックマーク

 今日はいちにち、ぼんやりと過ごしてしまった。
 今年もプランターにバジルのタネを捲いているのだけれども、もう一週間経つのに発芽する様子がない。三年前に買ったタネの残りだから、もうひからびてしまって芽を出す能力がないのかもしれない。それに、去年さんざんバジルが生い茂った土のそのままなので、かりにこれから発芽しても、もう土に新芽が育つだけの養分が残っていないかもしれない。
 もうひとつのプランターでは、クレソンがいちおう無事に年を越している。どうにかこうにか枯れなかったよ、という程度で、繁殖しているというには程遠いけれども、これから暖かくなるので、いっぱい生い茂ってわが家の食卓をにぎわせる力になってほしい。

 日本の首相がまた交代することになる、との報道に驚いた。ずっと思っているのだけれども、普天間基地移設問題について、なんでその内容が詳しく伝えられ、議論されるような空気がないんだろう(あってもわたしが知らないだけ?)。なんで前の首相はとちゅうで「最低でも県外」という考えを捨てたのか。「無知だったからだ」と攻撃するのではなく、ちゃんと分析するような議論は耳にしていない。原則に戻れば、「移設」ではなくって「返還」のはずなのに、いつから日本が替わりの場所を探さなければいけなくなったのだろうか。わたしもよく知らない。ニュースの見出しは「普天間基地返還問題」とするべきように思うけれども。

 先日観た「UNLoved」で云っていた、「わたしがわたしであること」という生き方というのは、世間(by 阿部謹也)の云う、「勝ち組」「負け組」に対抗するものとして出されていたのだろうか、と思う。「負け組」でもいいじゃないか、ということだろうけれども、「UNLoved」公開から8年経って、ある程度の時期までにある程度のステータスを得られない人には、生きていきにくい社会になってしまった。むかし、アルバイトでいっしょだったわたしの友だちはその後、TV局のアルバイトをずっとずっと続け、わたしなどは彼を見ていて、「いつまでもアルバイトやっていても仕方ないじゃないか」という気持ちもあったんだけれども、けっきょく、いつの間にか、彼は番組を製作するディレクターにまでなってしまった。そういうことって、今では起こらないだろうな、と思う。まずは正社員となって、上を目指すような方向性を示さなければ、「いつのまにかディレクター」、なんてことにはなり得ないだろう。
 「ステータスを得るためにがんばる」ということについて、自分の経験からも思うことはある。あまり自分には向いていないことだと思ったわけだけれども、あまりここで書くのはやめておく。

 夜、久々にDVDでジョセフ・ロージー監督の「エヴァの匂い」(1962) を観る。じつはフレッツTVの方は録画中で、途中まで別の用事をやっていたので、そっちは録画にまかせて自分で持っているDVDの方を観た。
 一般に、主演のジャンヌ・モローの「魔性の女」ぶりが語られる作品なんだろう。パッケージにもそういうことを書いてあるけれども、観た印象では、主人公の男のスタンリー・ベイカーのあまりのバカっぷりが強烈。ジャンヌ・モローは「わたしに恋してはいけない」と警告してるし、受け取った金も返しているわけで、いちおう「あんたにわたしの相手は出来ない」と云ってるわけで、もちろん挑発もしているのだけれども、けっきょく、じつは炭坑労働者でしかない主人公が、分不相応なセレブの世界に虚偽をもって入り込み、その虚飾の世界に溺れて自滅する話と云うことだろうと思った。
 ジョセフ・ロージー監督の作品はむかし、「召使」、「できごと」、「恋」など観た記憶はあるけれど、ほとんど忘れてしまった(「唇からナイフ」は面白かったな、また観たいけれど)。どれも破滅していく男を描いていたんじゃなかったかな。「召使」では、鏡が象徴的に使われていた記憶がうっすらとあるけれど、この「エヴァの匂い」でも、ひんぱんに鏡が効果的に使われて、これでは「鏡」はジョセフ・ロージーのトレードマークだといってしまいたくなる。DVDの解説では本来2時間半あった作品を、プロデューサーにずたずたにされてしまい、現在の112分のフィルムしか残っていないらしい。「音楽の流れをブチ壊し、録音バランスを崩し、吹き替えを別の人間に替え、すべてを台無しにしてしまった」ということ。音楽はミシェル・ルグランなのだけれども、ビリー・ホリディの「Willow Weep For Me」が何度も何度もかけられる。これは映画のなかでじっさいにジャンヌ・モローがプレイヤーにLPをのせて聴いている設定。わたしには、ちょっとしつっこい「Willow Weep For Me」のリピートよりも、最大の悲劇(愚行)のバックに流れる、同じビリー・ホリディの「Loveless Love」の方が、ずっと印象に残った。
 これまた印象的な、というか個性的な撮影をしているのは、ジャンニ・ディ・ヴェナンツィオという人で、この人はミケランジェロ・アントニオーニの作品の撮影をやっていた人らしい。かなり長回しのシーンが多く、たしかに室内シーンでは、アントニオーニの作品を思わせるクールさ、のようなものを感じられるし、先に書いた「鏡」をみごとにドラマに取り入れた技術を堪能できる。DVD封入のパンフレットをみると、撮影にはアンリ・ドカエの名前も並んで書いてある。そういわれてみると、ヴェニスの外の風景などにはちょっとアンリ・ドカエを思わせるタッチがあるような気もする。で、そんな撮影を活かしたロージー監督の演出もやはり卓越したもので、特に冒頭の方で印象的な演出が続く。モノクロ映像の黒の「闇」を活かし、画面の暗転から闇につないで、その闇がまったく異なる画面へとひと続きにモンタージュされていくのなんか、その「闇」の力を感じさせられるし、映画内の空間、時間の意識を覚醒させられる。

 今日の一曲は、そういうわけで、Billie Holiday の「Loveless Love」を。これは1940年代のレコーディングだと思うけれども、詳細はわからない。


 

 

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■ 2010-06-05(Sat) 「欲望という名の電車」「独立少年合唱団」

[]Hurricane [Bob Dylan] Hurricane [Bob Dylan]を含むブックマーク

 朝早く、誰かに起こされたような感覚で目が覚めて、横になったままリヴィングの方に目をやると、カーテン越しに外が光った。その光が壁に反射する。しばらくすると雷鳴が響いて来た。部屋の前の駐車場に強い雨がたたきつけられる音も聴こえて、雷鳴がひっきりなしに続いている。まだ眠いのでそのまま布団のなかでまどろんで、ああ、今、このあたりが雷のま下に入っているな、などとぼんやりと思っていた記憶が残った。
 それからどのくらい寝たかわからないけれども、目覚めて起き上がるとやはり、外は激しい雨。でも、朝食を終えたころには明るい日ざしがベランダを照らすようになった。これが午前中にもう一度はげしい雨が降り、それが午後からはすっかり晴れてしまった。

 雨のせいか、午前中はミイは来なかった。午後になってやって来たミイをベランダに追うと、こちらを振り返ってわたしに近寄ってくる。背中をなでて、のどをグリグリやってあげると、姿勢を低くしてのどを鳴らして喜んでいる。例のハスキーな声で啼く。

 午後から、図書館に借りているヴィデオ、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」を観る。エリア・カザン監督の1951年作品で、ヴィヴィアン・リー、マーロン・ブランド主演。
 いきなりヴィヴィアン・リーが、「『欲望』という名前の電車で『墓場』まで乗って」などと云いはじめて、「これは唐十郎の戯曲か?」などと思ってしまうけれども、舞台のニューオーリンズには、実際に「Desire Street」というのは存在したらしい。とにかく、ヴィヴィアン・リーの演技が強烈に芝居がかっていて、「うへ!」と思うのだけれども、このブランチという女性が、彼女のイリュージョンのなかで「美しい自分」を演じているのだから、これはもっともな演技ということになる。エリア・カザンの演出も「舞台」ということをかなり意識しているようで、演劇的な空間設定をしていると思う。その舞台的な空間のなかで、虚構の自分を演じる女性という役を俳優が演技しているという、ちょっとメタ演劇的な要素も読み取れる。ヴィヴィアン・リーという人は、そのあたりをファナティックに、うまく演じていた印象。この虚構を暴力的に突き崩すのがマーロン・ブランドで、そのあまりに粗野な感じが生々しく、崩壊するヴィヴィアン・リーとの対峙など、かなり強烈。いちどはヴィヴィアン・リーの虚構の世界に溺れようとするカール・マルデンが、そんなマーロン・ブランドとの対比で繊細さも感じさせ、これまたいい演技だなあと。
 この時代のモノクロ映画は、その「影」の設定で、印象的な画面をつくりだせるところが強い。この作品での「影」の効果はやはり舞台的でもあり、うまく作品の空間を支えていると思う(ただ、ヴィヴィアン・リーの持っている衣裳などは、カラーで見たかったかな?)。
 しかしこの作品、あまりにセリフでの説明が多すぎる感じもして、なにもかもすべて「言葉」で解明してしまう。まあブランチという女性の「虚構」を崩壊させるサディズムと、そのサディズムへの批難がこの作品の基調なのだから、仕方がない部分もあるだろうけれども、演劇作品としては厚みに欠ける印象がある。前に観た「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」の方が、ことばの奥に残されている部分が大きいと思った、かな?

 夜は日本映画、「独立少年合唱団」を観る。緒方明監督の2000年の作品で、まだDVD化されていない。内容などまったく知らなかったけれど、一部での評判が大きいのを聞いて、観ることにした。
 映画の時代設定は1972年。主人公のミチオの父が、長い昏睡状態からとつぜんに起き上がり、「あれ、なんだっけ?」ということばを遺して死ぬ。ミチオは山の中のキリスト教系の全寮制中学校に転校するが、はげしい吃音でいじめに合い、ひとり学校を脱出しようとするけれども、同じクラスの合唱部所属のヤスオに「逃げても捕まる。合唱部に入ろう」と誘われる。ヤスオはウィーン少年合唱団にあこがれるボーイソプラノ。合唱部の顧問の教師は学生運動で挫折、転向してきた男。唄うときにはミチオの吃音はでてこない。
 どうも序盤からずっと、おんなじようなカメラ移動が繰り返されて、カメラワークとして認めがたいところもあって少々観あぐねてしまっていた。この作品の撮影は猪本雅三という人で、撮影の応援に山崎裕の名前も見える。猪本雅三という人のからんだ作品を観たことはないけれども、実績もある人のように思えるから、ここで自分が観ていて画面に同化できないのは、もっと演出の責任ではないかと思う。
 しかし、この作品、後半になってがぜん面白くなってしまう。まず、ミチオの学校は男子校なのだけれども、これが全国合唱コンクールに出るために、女子校と合同のトレーニングをやる。このトレーニング、男子があおむけに寝てそこで女子が男子の腹を突いて発声トレーニングをやるシーン、これがあからさまなまでにセックス行為の隠喩になっている。男にかぶさる女の汗が男の顔にしたたり落ちる。さらに、ボーイソプラノのヤスオが夏休みのあいだに声変わりしてしまう。そのヤスオの声を、すっかり吃音の出なくなったミチオが肩代わりする。そもそもがヤスオとミチオの関係には同性愛的な空気が漂っていたわけだけれども、ここに、時代背景としての革命運動(学生運動)のはなしがかぶさってくる。爆弾事件などを起こし、元活動家の合唱部顧問の教師をたよって逃走して来た女性活動家は、官憲に追い詰められてヤスオやミチオの目の前で爆死する。彼女からウィーン少年合唱団のLPを譲られたりしていたヤスオは、声変わりと同時に彼女の意志をも受け継ぐ。前半で授業のシーンで、毛沢東思想を賛美する教師の姿が写されるけれど、ここで合唱団は、のどの保護のため首に赤いネッカチーフを巻いて、プチ紅衛兵の姿になる。合唱団のレパートリーはもともとロシア民謡などが多いわけで、まさに小さな革命戦士の姿があらわれる。
 この、1972年という学生運動の沈静化の時期を選んで、次世代への革命運動のバトンタッチということがこの作品のもうひとつの主題だとすると、この脚本はわたしにはかなり見事なものだと感じられる。わたしはこの作品の少年たちよりも少し年長だけれども、その政治的な意識の高揚と、男性としての自我の成長、もっと重要な性的な成長、それと深く関連する死へのシンパシー、これらがシンクロナイズしていくストーリーはインパクトがあり、その時代性(政治の季節の終焉)をもからめたプロットには、非常に共感できるものがあった。この作品がベルリン映画祭で新人監督賞を受賞したということも、ドイツならばこの映画の背景も理解されるだろうな、という感想を持つ。先に書いたように絵づくりでは多少の疑問もあるけれども、真摯な姿勢の作品と理解し、例えば、若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」と合わせて評価されるべき作品だと思う。いまもってDVD化されないのは、「どもり」ということばが濫用されているせいかもしれない。演出の弱点もあると思うけれども、今一般にこの作品を観られないのは残念なことだと思う。

 今日の一曲は、「欲望という名の電車」の方から、「Desire」ということばに反応してしまって、Bob Dylan の1976年の大傑作アルバム「Desire」から、その一曲目、「Hurricane」を。


 

 

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■ 2010-06-04(Fri) 「悪魔をやっつけろ」「アンソニーのハッピー・モーテル」

[]Devil With A Blue Dress On / Good Golly Miss Molly [Mitch Ryder & The Detroit Wheels] Devil With A Blue Dress On / Good Golly Miss Molly [Mitch Ryder & The Detroit Wheels]を含むブックマーク

 おだやかな天気が続いて、リヴィングの窓を開け放っていると気持のいい風が吹き込んでくる。秋にもういちど来るけれども、一年でいちばん快適な季節が今。あまりTVばかり見てもいかんので、今日は少し本を読もう。それでもTVをつけておくと、森繁久弥の映画をやっている。駅前シリーズの何かだろう、淡島千景が奥さん役で、フランキー堺も出てくる。ちゃんと観ていないけれども、面白そうだった。この頃の日本映画は手堅い作りだな、などと思っていると、次にやはり邦画の「惑星大戦争」などというのが始まった。70年代のものらしいけれども、わずか十年ぐらいのあいだに、メジャーな日本映画の製作体制は崩壊しちゃってるよ、という感じ。

 ミイが来て、最近のいつものようにかまって、ミイをうしろから抱き上げてゆらゆら揺らしたら、ものすごく嫌がって逃げていった。たいていのネコはこれが嫌いだ。わたしは好きなのに。

 けっきょくあまり本を読めずにまたTVを観る。午後はジョン・ヒューストン監督の1953年の作品、「悪魔をやっつけろ」を観る。前から観たかった作品で、ジョン・ヒューストンとハンフリー・ボガートとが共同出資して、好きなようにつくった作品だったと、なにかで読んだ記憶がある。
 脚本がトルーマン・カポーティとヒューストンとの共同になっているけれども、実質トルーマン・カポーティがリードしていたらしい。このあたりの事情を、ウチにあるジョージ・プリンプトンによるオーラル・バイオグラフィー(人々の証言/インタヴューで構成した、とっても面白い形式の伝記)、「トルーマン・カポーティ」を開いてみると、あれこれと面白いことが書いてある。そもそもこの脚本は、なぜかカーソン・マッカラーズが引き受けていたのが(もう撮影が始まるのに)彼女が書けず、ヒューストンがちょうどローマに来ていたカポーティに頼んだらどうだろう、と思いついたらしい。それからは、前の晩にカポーティの書いた脚本でその日の撮影を行うという綱渡り的進行。間に合わないこともずいぶんあったらしいし、カポーティはボギーやヒューストンらとポーカーに熱中し、ポーカーのスリーカードがツーペアよりも強いということも知らなかったカポーティは、ここでボロ負けしたらしい。
 で、とにかくこの映画。ほとんどジャンル分け不能な奇ッ怪な作品で、シュールレアルな展開はほんとうにブニュエル映画みたい。のんしゃらん(死語)としたボガードに、虚言癖があるようなジェニファー・ジョーンズがからみ、ロバート・モーレィだとかピーター・ローレなどの脇役が、その「くせもの」ぶりを画面いっぱいにみせつける。なんというのか、映画づくりのヴェテランたち(カポーティはちがうけれども)が、ただ映画をつくるということを楽しんでいるような風情の作品で、観る方もいっしょにそんな映画世界を楽しめば、こんなに楽しい作品もないだろう。これはめったに出会うことの出来ない豪華なジョークで、それはストーリーがジョークなのでなく、映画そのもののコンセプトからがジョークなんだと受けとめて、その全編すべてを楽しめば世の中は幸福。また何度も観たい作品。

 夜はまたコメディで、ウェス・アンダーソンのメジャーデビュー作、1996年の「アンソニーのハッピー・モーテル」を観る。原題は「Bottle Rocket」で、これは「打ち上げ花火」のことらしい。いつものオーウェン・ウィルソンが、いつもにまして「超バカ」で出てくる。脚本も、彼とウェス・アンダーソン。主演のアンソニー役はその実の兄弟のルーク・ウィルソンという人だけど、この作品にはこの兄弟からはもうひとり出演している。あとは、なぜかジェームズ・カーンなど。
 で、観るとこの作品、ウェス・アンダーソンの作品のなかでもやはり、デビュー作らしいみずみずしさにあふれていて、そういう爽やかさではいちばん気に入ってしまう作品。軽いノリの音楽がイイ感じだし、物語を見ている視点、目線のデリケートさが、アメリカ映画とは思えないところがある。おバカ映画のフリをしているけれども、これは知性的な映画だと思う。夕暮れの打ち上げ花火に、ふっと自分の高校生時代とかを思い出してしまって、自分をこっぱずかしく思ってしまったり。

 今日は、「悪魔をやっつけろ」という映画を観たので、その「悪魔」を歌った曲を。そういう悪魔の曲は山ほどあるんだけれども、そのなかから自分で思い入れの強い、「悪魔とモリー」という邦題のついた曲を。じっさいはこの曲、1964年にShorty Long がリリースした「Devil With A Blue Dress On」という曲と、Little Richard の有名な「Good Golly Miss Molly」をドッキングさせた曲。Mitch Ryder という歌手はとってもいい歌手だと思うけれども、あんまり評価されていないような気がする。YouTube のリストにあがってくるこの曲の映像だと、今でも現役で活動しているみたい。


 

 

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■ 2010-06-03(Thu) 「洲崎パラダイス 赤信号」「UNloved」

[]Fool's Paradise [Buddy Holly] Fool's Paradise [Buddy Holly]を含むブックマーク

 Aさんから電話。東京とか出てくるときにはいつでも連絡してくれ、いっしょに飲もう、という内容。先日ふたりで飲んだとき、Aさんはわたしと別れたあと、いったいどうやって家まで帰ったのか、まったく記憶に残っていないという。Aさんはそんなに酔っている感じではなかった記憶だけれど、わたしもそうとうに酔っていたので、自分のことすら確かではなかったわけだ。

 食事に来たミイが食事してベランダに出ていくのを追うと、ミイはわたしの方に戻って来て、わたしに甘えてからだをすり寄せてくる。小さな声で啼いたりしているけれども、ミイの声はずいぶんとハスキーで、これも彼女の武器のひとつなのかと思う。

 今日は朝からフレッツTVで、川島雄三監督の1956年の作品「洲崎パラダイス 赤信号」を観る。放映の前に、現在の洲崎の風景の紹介などがあって、洲崎というのが東京の下町の地名だったということを初めて知った。今の東陽町のあたりらしく、実際に「洲崎パラダイス」というネオンのゲート(映画に何度も出てくる)もあった、赤線地帯だったとのこと。わたしはてっきり、大阪あたりの地名だと思っていた。
 映画は、橋の欄干から川面をみつめる男女(三橋達也と新珠三千代)を捉えることから始まり、いわば世間から逃げて来てどんづまりの二人は、「洲崎パラダイス」への入り口の、橋のたもとにある小さな飲み屋へ行く。ここのおかみさんが轟夕起子(とってもいいおばさん!)なんだけれども、C調(死語)な新珠三千代はさっさとこの飲み屋で使ってもらうことに決め、ネクラ(死語)な三橋達也はしょうがなく、轟夕起子の紹介でそば屋の出前持ちの職を得る。新珠三千代は客で景気の良さそうなラジオ屋の店主と親密になり、アパートを世話してもらったりして、三橋達也から離れていく。三橋達也は嫉妬して、仕事も放り出して新珠三千代を探そうとする。
 なんだか、この二人の「どんづまり」な感じが、50年代のイタリア映画っぽいというか、わたしはアントニオーニの「さすらい」とかを思い浮かべてしまったけれども、そこは川島雄三監督のこと、もっと風俗映画的に軽く洒脱に押さえながら、物語を展開させる。それでも、橋の「向こう側」(赤線地帯)と「こちら側」のまさに境界の川っぷちの地点を物語のかなめに置くような構図から、もっと観念的な描写にまで踏み込んでいるように思え、印象は強烈。って、それもまたアントニオーニっぽい。三橋達也の勤めるそば屋の女店員(芦川いずみ)が、この物語ではけっきょく、振り返られることのない「天使」とでもいう役柄で、観ている観客は、芦川いずみに振り返らずまたまた新珠三千代と出奔してふりだしに戻ってしまう三橋達也をみて、「ばっかだねえ〜」とは思うけれども、ここでほかの登場人物とはまるで存在の次元がちがう雰囲気(だから「天使」)な芦川いずみを振り返るという選択肢は、それは常人にはなし得ない行為だろう、というあたりまで思わせる演出がにくい。「さすらい」のようにまさに墜落するのではなく、何度も何度もふりだしに戻ってしまうだろう無限地獄がより恐ろしいのだけれども、「そんなもんだよ」と軽く流してしまうような、それでも奥深い、川島雄三監督はやはり唯一無二のすばらしい監督だと思った。

 夜、こんどはちょっと新しいところで、万田邦敏監督の2002年の作品「UNloved」を観る。登場人物はほぼ三人(森口瑶子、仲村トオル、松岡俊介)だけで、「自分というもの」をめぐる対話が、森口瑶子を中心に繰り拡げられていく。「自分が自分であること」を守ろうとする彼女は、仲村トオルと恋愛関係になるけれども、自分の価値観、生き方を上から自信たっぷりに押し付けようとする男に反撥して別れる。次に同じアパートの階下の住人、契約社員というかフリーターで、うだつの上がらない男である松岡俊介を好きになる。しかし男は他人の人生をうらやみ、自分を捨てようとしていると女には感じられ、長い対話が続く。
 撮影は、最近では黒沢清監督作品をずっと撮っている芦澤明子。固定視点からの印象的な絵で、それぞれの部屋のなか、レストランや喫茶店の店内などの、室内の空気を照明と合わせて描き分けている。主人公の住んでいるアパートの外観が心に残る。何度も出てくる主人公の手のクローズアップも印象的で、繰り返される雨を受けとめる手に、主人公の世界の受け入れ方が示されているような。男の部屋の冷蔵庫を開けようとする手を、その男の手がとどめるシーンとか、男が自分の内面を見せたくないという意識を示していただろう。対話シーンでも、対話する二人は向き合わない。特に終盤の女と男の長い対話。女は男の背なかに語りかけ、男が振り向くと女が背を向ける。
 人と人とが向き合ってつながる姿勢を求める脚本(万田邦敏監督と、監督の奥さんとの共同)は、わからないでもないけれども、「自分が自分であること」に恒久的に安堵していくのは、気持ち悪くないだろうか。埴谷雄高なら「自同律の不快」というところか。それに、政治的、経済的な状況を考えれば、「自分はこのままの自分でいいのだ」という選択は、恒久的不況下の現在では貫き通すのは難しい。わたしのようになってしまうぞ。主人公のように、上司から「資格試験を受ければ」ということばを断り、昇進などに興味を示さなければ、まずリストラの対象にされるだろう。なんか、「自分が自分でいられる世の中をつくろう」という政治運動を起こさなくちゃいけないな。

 今日の一曲は、「洲崎パラダイス 赤信号」を観たのにちなんで、パラダイスの曲を。Buddy Holly の1958年リリースのシングル、「Fool's Paradise」を。


 

 

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■ 2010-06-02(Wed) 「日本侠客伝」「CURE」

[]The Man I Love [Billie Holiday] The Man I Love [Billie Holiday]を含むブックマーク

 フレッツTVで、どうしてもテレビが見られるようにならないので、サポートセンターに電話して問い合わせる。オペレーターにつながるまでに膨大な時間がかかる。けっきょく、(少々予測していたけれども)接続のあいだに無線LANをかませていると帯域が不足になり、視聴できなくなるらしい。ヴィデオだけ観ることができるのは、配信方法が異なっているから。玄関の方に置いてあるLANルーターまでケーブルをひっぱり、ちょくせつチューナーと接続すると、とたんにテレビ放映も観ることができるようになってしまった。テレビ放映は時間がしばられたりするし、そんなに「観たい」というプログラムにあふれているわけでもないから、あまり観ないとは思う。ただ、明日は川島雄三監督の「洲崎パラダイス 赤信号」が放映される。これは以前からみたいみたいと思っていた作品だし、これを観るだけでも契約した価値があるというもの。もしもテレビ放映が観られないままだったら、どんなにガックリ来てしまったことだろう。あと、ちょうどわたしの契約と合わせたように、「プリズナーNo.6」の毎週の放映が、ちょうど第一回から始まるところ。やっぱコレは、また観ておきましょうか。

 今日はネコたちが大騒ぎ。午前中はいつものようにミイが来るのだけれども、午後、皿にキャットフードが空になっているのをそのままにしていたのを、やって来たミイに催促の啼き声を出されて気が付いた。またベランダでミイをなでたりしてかまう。そのあとにまたしばらくしてミイが来るけれども、そのあとを追うように白いネコの姿がベランダに見えた。ノラだった。ミイはノラと付き合うようになったのだろうか。ただノラがミイのあとをついて来ているだけなのか。ミイがリヴィングに入って来て食事しているあいだ、ノラはベランダで待っている。そのうち、ミイを呼ぶようにミャンミャン啼き出した。ミイはそんなのおかまいなしにゆっくりとお食事。やっぱり、ノラが勝手にミイについて来ているだけなんだろう。ノラの実らない求愛は続いている。ミイがベランダから消えていったあとしばらくして、ベランダでまたネコの啼き声がする。ベランダを見やると、おやおや、ユウがそこにいた。わたしを見てニャンニャン啼いている。どうやら「食べるもんくれ〜」と、いっているらしい。ノラとつるんでいたのではなかったのか。それで、ミイに親子の縁を切られたんじゃなかったのか。ノラとは別れたのか。またこの部屋で暮らしたいのか。キミもフクザツな事情があるよね。いろいろ聴いてみたいことがあるのだけれども、ユウのいってることはあまりわからないし、とにかく「メシくれ〜」とうるさいので、ミイがすっかり食べていったキャットフードの皿に、フードを盛ってやった。ユウはリヴィングに用心しいしい入って来て、ガツガツと食べてそそくさとどこかへ出ていった。

 フレッツTVでふたつの邦画ヴィデオを観る。まずは、マキノ雅弘監督の1964年作品「日本侠客伝」。以後シリーズ化される第一作で、脚本に笠松和夫の名前も見える。時代設定は人力車の時代だから、明治末期から大正期にかけてなのだろうけれども、絵づくりの基本は江戸の町を舞台にした時代劇のかたちを踏襲しているのだろう。いわゆるヤクザ映画というものが時代劇の発展系なのだとわかる。というか、価値観において旧的な(ある意味、江戸的な)ものにこそ理があり、会社組織など、近代の合理的な(つまり、西欧的な)概念によるものは悪の側とされていて、これもまたこれ以降、ヤクザ映画の基本理念になっていくのではないかと思う。日本刀を振り回す武士的な殺陣ではなく、ドスを使った、相手に突き立てるような立ち回りや、拳銃などが出てくることになる。
 ヤクザ映画出演の高倉健というのを、おそらく初めて意識的に観るのだけれども、平静な落ち着いたセリフ回しからそのまま、ドスの利いた恫喝にすっと移行していくのとかにも、そのスター性があらわれているんだろう。単純に観ていて「カッコイイ!」という感じではある。

 もう一本、黒沢清監督のエポックメイキングな傑作「CURE」(1998) を、久しぶりに観る。音声はヘッドフォンで聴いて、音的にもいろいろと興味深い試みがされていることを確認(ズ〜ンと響いてくる通奏低音とか)。デヴィッド・フィンチャー監督の「ゾディアック」を観たときに、この「CURE」の影響があるのではないかと思ったけれども、そのときには「CURE」の細部を忘れていたので確認出来なかった。今回「CURE」を観て、やはり「ゾディアック」は「CURE」だ、と思ったけれども、こんどは「ゾディアック」を忘れてしまっている。しかし、デヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィ―をみていると、黒沢清監督との奇妙な類似性を感じてしまう。
 冒頭で、間宮は千葉県の砂浜にこつ然と姿を顕わすような描写で、これは「降臨」なのだな、と確認。ちゃんと「伝道者」というセリフは出てくるけれども、やはり間宮は、人をネガティヴな闇の世界へ導く使者なのだということと解釈できる。サイキックな内容とサスペンスの混合、そして脳内世界へ踏み込むようなアンリアルな世界とが、ひとつの映画のなかにすばらしい統合をみせている。今観ると、その後のミヒャエル・ハネケ監督の描いた世界(特に「隠された記憶」)を先取りしているとも感じられる。ラストのクレジットの画面の背景の風景が、なにもない、ただの風景として、この映画でいちばん怖いのかもしれない。書きたいことはいくらでも出てくる、何度観てもすばらしい傑作だと思った。

 Billie Holiday のボックスセットを少しずつ聴いていて、ようやく10枚すべて聴き通した。おそらく録音年代順におさめられているこのボックスセット、やはり後半の1940年代ごろの録音が、どれもすばらしい。佳曲ぞろいだけれども、Billie Holiday で「この一曲」を選ぶなら、わたしなら「The Man I Love」にする。この曲はGeorge Gershwin の作品で、Billie Holiday がこの曲をレコーディングしたのは、1939年の暮のことらしい。この曲の歌詞は「私の愛する男はきっとやって来る。私は彼に会うだろう、それは月曜かも、火曜かもしれない」などというのだけれども、Billie の歌を聴いていると、この女性は決してそんな男と巡り会うことはないだろうと、確信を持っていうことができる気になってしまう。


 

 

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■ 2010-06-01(Tue) 「月世界旅行」「巨人ゴーレム」「女囚701号/さそり」

[]Hammer Horror [Kate Bush] Hammer Horror [Kate Bush]を含むブックマーク

 五月の連休明けぐらいの時期にいわゆる「勧誘」の電話があって、それは「フレッツ光」に契約している人を対象にした勧誘らしく、「今なら二ヶ月間、フレッツTVが無料で見られる」という内容で、悪いはなしではなかった。その二ヶ月だけで契約をやめてもいいらしいし、とにかくその勧誘電話をかけてきているのが電話会社からで、余計な情報も聞かれなかったし、「いいですよ」と答えておいた。あとでネットで調べても、じっさいに二ヶ月間フレッツTV無料キャンペーンはやっているし、とにかく無料より安いものはないのだ(イヤそれ以上に、何かを申し込むとお金をくれるというのもあるかもしれないけれども、そういうのは危ない)。
 そのフレッツTVの放映内容とは、つまりはケーブルTVに等しく、むかし知人がそんなケーブルTVを契約していたのをいっしょに見ていたのとだいたい同じチャンネルが見られるらしい(友だちが見ていたのは「時代劇チャンネル」が多かったけれども)。さらにそれプラス、好きなときに見られるヴィデオ作品が、何千本だかラインナップされている。
 先週、そのフレッツTV用のチューナー、六月の番組表、視聴可能ヴィデオのリストなどが送られて来ていて、この契約は月ごとになるらしい(五月中に接続してしまうと、たとえ一日だけでも一ヶ月とカウントされてしまうらしい)ので、六月になるのを待っていた。で、今日から六月。いよいよ契約。チューナーを箱から取り出し、説明書通りに接続する。いちおうTVにメニュー画面が映し出され、これをリモコンで操作する。またリモコンが増えてしまった。しかし、なんだか、テレビ番組を見ることが出来ないみたい。それでもメニューで選べばヴィデオは見ることができる。つまり接続はうまくいっているのだろう。メニューにも、最初に接続してしばらくのあいだはテレビは見られないと書いてあるので、まあいいや。ヴィデオを観よう。

 ということで、フレッツTV開通初日、ヴィデオ三昧。これがあるので、六月〜七月は、DVDをもう借りてこない予定。しかし、この視聴可能ヴィデオのリストは、そんなに豊穣なものでもない。新作や特別な作品を観るには、百円から五百円の料金を払う有料システムになるから、もちろんそれは基本的にパス。それ以外のリストも主にハリウッド映画中心なので、それほど観たいという作品にあふれているわけでもない。まあ、この際、レンタル店では借りてみないような作品をあれこれ観てみよう。
 しかし、リストをみていると、かなり珍しい作品も観ることができるようで、例えばDVD化されていない「独立少年合唱団」とか「UNLOVED」などという作品のタイトルも見えるし、あとは映画黎明期のサイレント映画のリストがかなり豊富。グリフィスの「イントレランス」も「国民の創生」のあるのがうれしい(このあたりはパブリック・ドメインだから、そんなに珍しいモノというわけでもないけれども)。今日はそんなのから、まずはジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」(1902) と、それから1920年のドイツの作品、「巨人ゴーレム」(監督:パウル・ヴェゲナー、撮影:カール・フロイント)を観る。

 「月世界旅行」、あたりまえだけれどもすべて実写、というか、舞台公演の記録映像のように見える。まるで学芸会、などというと、この作品を貶めているようにとられるだろうけれども、その(ある意味で)きらびやかな舞台装置、すべてをそれほど広くはないセット内で収録し、なによりもその舞台にこそ眼がいってしまうという意味で、手作りの楽しさ満載、とってもよく出来た、すばらしい学芸会という印象になる。虚構をつくりだし、それを記録するという喜びみたいなもの。屋根の上から眺める街の景色、煙突からの煙の奥に、二十世紀の始まりが見える。

 「巨人ゴーレム」は、元の話自体がわたしには興味深いもので、むかしから知っていたけれども、そのゴーレム伝説をよく脚本にまとめて映像化していると思う。きっと監督(ゴーレムの役もやっているらしい)は、ユダヤ人なのだろう。
 「ゴーレム伝説」というのは、プラーグ(プラハ)のユダヤ人の間に拡まっていた伝説なのだけれども、じっさいにプラーグでユダヤ人ゲットーが衛生上の理由で取り壊されそうになったときの、ユダヤ人たちの抵抗の縁にもなっていた伝説であり、カフカもそのような伝説のなかで育っているし、現在ではグスタフ・マイリングの小説でその名を知られている。
 この映画はそのマイリングの小説からではなく、もとの伝説からのオリジナルな脚本みたい。もとの伝説では、ユダヤのラビがユダヤ人の解放のために巨人像にいのちを吹き込むのだけれども、ここではその「解放」という要素は、多少矮小化されて描かれている。これは「巨人」を普通の人間のサイズでしかあらわせなかったから、しかたない。ただ、ユダヤ人を排斥しようとする王に、ラビが魔術で(まるで映画のように)ユダヤびとの流浪の歴史を知らしめようとする場面はあるし、ラビの研究室にあふれるヘブライ文字の立法書など、さまざまな文書と図象のかもし出す神秘的な雰囲気は今でもとても魅力的。そして、舞台になるユダヤ人ゲットーの街並、住居内のセットなども見事なものだと思う。何階にも重なった不定形の建物、坂道、階段などが、観客の視線を「高さ」へと導いているようで、それがゴーレム像を通じての空の神への祈りに通じるようでもあり、ラビの天文学的知識とも結び付いている。そういう背景の描写も楽しめる作品だった。

 今日は調子に乗って、もう一本ヴィデオを観てしまった。こんどは日本映画で、1972年の映画「女囚701号/さそり」。監督は伊藤俊也で、主演はもっちろん、梶芽衣子。もうこの作品はひたすら、その梶芽衣子のニヒルな表情を活かすためだけのための映画、という感じでもあって、特に、下からあおって撮られる梶芽衣子の、見下ろすような目線とその表情は相当にインパクトある。で、そういうのを活かすために、画面を九十度回転させて横向きにしてみたり、床をガラスにして下から撮ってみたり、照明もいろいろな試みをしまくって、まるで実験映画みたい。まあ映画のほとんどを占める刑務所内の展開は、あまりにキワモノの「女囚モノ」という感じもあるけれども、さいごの10分間の、あの、黒いマントを羽織って帽子姿のさそりが次々に復讐を果たしていく展開には、やっぱり「すごい」と、惹かれてしまう。
 あと、わたしはちょっとばかり横山リエという女優さんに思い入れがあるんだけれども、この作品に出ているのは知らなかったし、おそらく、彼女の出演作品では、「新宿泥棒日記」はもちろん別格とすると、この映画がいちばんインパクトがあったと思う。このほかには、扇ひろ子などという思いがけないキャスティングもあった。

 さて今日の一曲は、ほんとは昨日選びたかったKate Bush の、彼女のセカンド・アルバム「Lionheart」(1978) 収録曲の「Hammer Horror」を。この曲は、彼女の三枚目のシングルでもあったらしい。


 

 

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