ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2010-07-31(Sat)

 朝起きて、ベッドから床に足をおろすと、ベッドの下の奥のスペースで寝ていたらしいニェネントが這い出して来る。キッチンに行くとキッチンまでついて来る。和室に戻るとわたしの足にアタックをかけて来る。パソコンの前に坐っても、足への攻撃が止むことがない。爪をかけたり噛みついて来たりするのでたまらない。持っている大きな布を腰から下にかけ、インド人のようになって防禦する。まだ攻撃して来るニェネントの顔を押さえ込んで、じっと見つめてみる。まん丸な目がだんだんにあたま悪そうな本性をあらわして来ているように見える。

 午前中、またそわそわし始めたニェネントを陰から見ていると、自分でトイレに上がってうんちをした。これでもうトイレはだいじょうぶかな、と思っていたら、午後になってまたトイレの外におしっこをしてしまった。まだまだ、なようでがっかりする。やはりあたまが悪いんだろうか。

 板の間でニェネントが一匹で夢中になって遊んでいる。今日の目的物はテディベア。離れたところから狙いを定めて飛びかかったり、両足に抱えて振り回したり、噛みついたり。いつまでもやっている。じっと見ているとやはり可愛いし、ほんとうはきょうだいと遊んでいられたのに、などと思うと、ニェネントのことがあれこれと不憫に思えてしまったりする。

 ニェネントへの晩ご飯に、今日はニンジンをゆがいたのをししゃもといっしょに出してみた。塩味は控えめにしてあるので、ネコでもだいじょうぶだろうと思う。‥‥全部食べた。こんどはブロッコリーでもあげてみよう。

 今日あたりがこのあたりの祭りの最高潮で、部屋の前の道を神輿が通ったりするけれど、祭りの中心は駅の北側の方で、この南側の方はまったく静かなもの。天気にも恵まれているので、今夜あたりは沿線からも電車に乗って大勢の人が詰め掛けるだろう。もちろん車で来る人がほとんどだろうけれど、学生や子どもたちはたいてい電車でやって来る。このローカル線が一年間でもっとも混み合う日のひとつで、この駅に限ればまちがいなく一年でいちばん乗降客の多い日になるだろう。駅の北側に行って、ちょっと屋台などのぞいて来ようかなどと思ったりしたけれども、けっきょく出かけたりすることもしない。ニェネントがいるようになって、ちょっとした外出でも渋るようになってしまった気がする。

 今日も配信ヴィデオを二本観た。

[] 「カラーパープル」(1985) スティーヴン・スピルバーグ:監督  「カラーパープル」(1985)  スティーヴン・スピルバーグ:監督を含むブックマーク

 この作品は、当時娯楽大作ですでに超有名になっていたスピルバーグ監督が、露骨に賞狙いでつくった作品といわれていた記憶がある。たしかに文芸モノなのだろうけれども、タッチがどこか軽く、アフリカ系アメリカ人の20世紀初頭の生活を描いたにしては「イイ気なものだなあ」という雰囲気。何十年も生き別れになっていた姉妹の再会がひとつの軸だけれども、そのストーリーはこの作品のいちパートに過ぎないわけだし、再会の感動を呼ぶのはこのプロットなら容易い演出でも済んでしまい、じっさいにこの部分の演出は凡庸だと思う。で、ではそうではない部分の、二時間半を引っぱるドラマのどこを見据えて演出しているのかというと、これがどうも見えて来ない(水準以上の面白さはあると思うのだけれども)。すると余計に、この監督は自分がアフリカ系でもないのに彼らのドラマをわかったような顔をして撮っている、という印象につながってしまう。ラストの、教会のゴスペルと酒場のジャズ/ブルーズを結び付ける演出なんて、この映画の音楽がクインシー・ジョーンズだからかもしれないけれども、勝手なことやってる、という感想しか浮かばない。

 

[] 「パニック・ルーム」(2002) デヴィッド・フィンチャー:監督  「パニック・ルーム」(2002)  デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 これは公開当時映画館で観たんだけれどもまるで忘れてしまっていて、最初のクレジットの文字がぜんぶ立体になって、ニューヨークの市街の中に浮かんでいたのがカッコイイなと思ったことぐらいしか憶えていない。デヴィッド・フィンチャ―の作品としては肩透かしを喰らったというか、期待外れだったという記憶しかない。
 今回観直して、カメラの動きが何というかエキセントリックでゾクゾクするのと、意外と真っ当な編集と演出とのギャップがあるように思えたのがひとつ。それと、サスペンスとして満足出来ないのが、問題のパニック・ルームの中にいたジョディ・フォスターと、外の盗賊たちの位置が入れ替わるあたりで、パニック・ルームを死守するはずのジョディ・フォスターがルームを明け渡しての、立ち場の逆転というのがあまりはっきりしないままにラストになだれ込んでしまった印象。これはその前の盗賊三人の仲間割れあたりから、観ている方ではちょっとスリリングな感覚が醒めてしまうことから来るのかもしれない。むかし、オードリー・ヘップバーン主演の「暗くなるまで待って」という、こういう押し込み強盗サスペンスがあったけれども、もういちど観てみたくなった。
 さいしょこの主役にはニコール・キッドマンが予定されていたらしいけれど、たしかにこの役にはニコール・キッドマンの方が似合っていただろうと想像する。そっちで観たらこの作品自体が違う印象になっていたかもしれない。ジョディ・フォスターがダメ、というのではなく、ジョディ・フォスターならば押し込み強盗を撃退してもそんなに不思議ではないと思えてしまう。そう、最初観たときにはもちろん知らなかったけれども、娘役を演じているのはクリステン・スチュワートなのだった。




 

[]二○一○年七月のおさらい 二○一○年七月のおさらいを含むブックマーク

舞台;
●7/7(水)Whenever Wherever Festival 2010 シェアプログラム【美香子@LOVE】@浅草・アサヒ・アートスクエア
●7/9(金)Whenever Wherever Festival 2010 「くじ引きラボ」@浅草・アサヒ・アートスクエア
●7/9(水)鉄割アルバトロスケット「鉄割ベガズバンケット」@下北沢 ザ・スズナリ

映画:
●「恋ごころ」(2001) ジャック・リヴェット:監督

美術展:
●「ウィリアム・エグルストン:21st Century」「長島有里枝:SWISS+」@SCAI THE BATHHOUSE

読書:
●「クォンタム・ファミリーズ」東浩紀:著
●「ナボコフ伝 ロシア時代(下)」ブライアン・ボイド:著 諫早勇一:訳

DVD/ヴィデオ:
●「野良犬」(1949) 黒澤明:監督
●「北陸代理戦争」(1977) 深作欣二:監督
●「マリッジリング」(2007) 七里圭:監督
●「泪壷」(2008) 瀬々敬久:監督
●「國民の創生」(1915) D・W・グリフィス:監督
●「イントレランス」(1916) D・W・グリフィス:監督
●「海底二万哩」(1916) スチュアート・ペイトン:監督
●「狂へる悪魔」(1920) ジョン・S・ロバートソン:監督
●「結婚哲学」(1924) エルンスト・ルビッチ:監督
●「リング」(1927) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「伯林−大都会交響曲」(1927) ヴァルター・ルットマン:監督
●「アッシャー家の末裔」(1928) ジャン・エプスタン:監督
●「悪魔スヴェンガリ」(1931) アーチー・L・メイヨ:監督
●「ミステリー・ライナー」(1934) ウィリアム・ナイ:監督
●「岩窟の野獣」(1939) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「ロンドンの暗い眼」(1939) ウォルター・サマーズ:監督
●「悪魔の蝙蝠」(1940) ジーン・ヤーブロー:監督
●「英国の頭脳」(1940) テリー・モーセ:監督
●「淑女超特急」(1941) エルンスト・ルビッチ:監督
●「消える死体」(1942) ウォーレス・フォックス:監督
●「モンスター・メイカー」(1944) サム・ニューフィールド:監督
●「死の恐怖」(1947) クリスティ・カバン:監督
●「ベラ・ルゴシのジャングル騒動」(1952) ウィリアム・ボーディン:監督
●「怪物の花嫁」(1955) エドワード・D・ウッド・Jr.:監督
●「太陽の怪物」(1959) ロバート・クラーク:監督
●「ザ・バット」(1959) クレーン・ウィルバー:監督
●「ナバロンの要塞」(1961) J・リー・トンプソン:監督
●「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) ドン・チャフィ:監督
●「バルジ大作戦」(1965) ケン・アナキン:監督
●「世にも怪奇な物語」(1967) ロジェ・ヴァディム/ルイ・マル/フェデリコ・フェリーニ:監督
●「シンドバッド 黄金の航海」(1973) ゴードン・ハッセル:監督
●「シンドバッド 虎の眼大冒険」(1977) サム・ワナメイカー:監督
●「シャイニング」(1980) スタンリー・キューブリック:監督
●「時の支配者」(1982) ルネ・ラルー:監督
●「2010年」(1984) ピーター・ハイアムズ:監督
●「カラーパープル」(1985) スティーヴン・スピルバーグ:監督
●「インテルビスタ」(1987) フェデリコ・フェリーニ:監督
●「いますぐ抱きしめたい」(1988) ウォン・カーウァイ:監督
●「バロン」(1988) テリー・ギリアム:監督
●「バットマン」(1989) ティム・バートン:監督
●「フィッシャー・キング」(1991) テリー・ギリアム:監督
●「バットマン リターンズ」(1992) ティム・バートン:監督
●「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー」(1993) ユエン・ウーピン:監督
●「バットマン・フォーエヴァー」(1995) ジョエル・シューマッカー:監督
●「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」(1997) ジョエル・シューマッカー:監督
●「黒猫・白猫」(1998) エミール・クストリッツァ:監督
●「スペース・カウボーイ」(2000) クリント・イーストウッド:監督
●「パニック・ルーム」(2002) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「クローサー」(2004) マイク・ニコルズ:監督
●「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006) ジュリー・ガヴラス:監督



 

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■ 2010-07-30(Fri)

 母ネコの遺伝なのかもしれないけれど、ニェネントの啼き声はしわがれてハスキーで、めったなことでは啼かない。遊んでかまってやって高く抱き上げたり、無理な姿勢で押さえ付けたりされると、あたりまえだけど、嫌がって啼く。朝わたしが起きると、長い時間かまってもらえなかったせいだろうか、まとわりついて来て啼くこともある。

 今朝もニェネントがトイレに失敗。どうもモゾモゾしているなと思って気をつけて見ていると、設置したトイレのそばに行くのだけれども、トイレに入らずにそのわきで用を足してしまった。ここで「ダメ」というのをはっきりさせておかなくてはいけないんだなと、ニェネントを抱き上げて目をじっと見て、「ダメ!」と、まじめに怒る。床に下ろすと、怒られたことははっきりわかるらしく、隅の方へ走って行ってしまった。玄関の電話台の下のすき間に入りこんで、おとなしくしている。怒られたとあまりいじけさせてもいけないんだけれども、怒られることもあるんだと憶えてもらわなくては。

 夕方になって、ニェネントがわたしのうしろに来て、不自然に啼きはじめた。理由がなくって啼くことはないので、どうしたんだろうとニェネントを見ると、どうもそわそわして隅っこでバタバタしている。あ、またトイレなのかと、急いでトイレに連れて行く。間に合った。はじめてちゃんとトイレでおしっこをしたんじゃないのか。まあ自分でトイレに行ってというのではないけれど、これで憶えてくれればいい。「よかったねえ〜。おりこうさんだったねえ」とからだをなでてあげると、ほめられたのがわかるんだろう、ぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃぎ出したので、しばらく遊びに付き合ってあげる。とにかくほっとしたけれども、朝にわたしに怒られてしまったので、用を足すこと自体がいけないことと思ってしまったのかもしれない。それが用を足したくなって、啼いてうろたえていたんだろう。トイレを憶えるということとは結び付かないかもしれない。とにかく、挙動不審になったときには注意していなくっては。

 今日は配信ヴィデオを二本。

[] 「クローサー」(2004) マイク・ニコルズ:監督  「クローサー」(2004)  マイク・ニコルズ:監督を含むブックマーク

 ほとんど主要人物四人だけの、まさに舞台劇っぽい作品。四人の男女それぞれの男女関係に抱くモティヴェーションのずれから、奇妙な相関関係が生まれる。こういうのはアメリカやヨーロッパの人が好きな題材なのではないかと思う。
 男女関係をいっしゅのゲーム、心理的駆け引きと考えているらしいジュード・ロウのひとり相撲みたいな展開で、さいしょのうちは彼の思惑通りにことが進むような展開で、ほとんど彼のひとり勝ちなのだけれども、男女関係などすべて下半身の問題と考えるクライヴ・オーウェンのプラクティカルな(頭の悪い)対抗策に、先の手を読み過ぎて自滅してしまう。つまり、チェスだとか将棋のゲームで、相手の凡庸な手を深読みして、「ということは、オレがこう出たら次はこう来るに違いない、そうするとオレの方が不利になってしまう」なんて考えて、逆に相手に有利になるヒントを与えてしまうようなものだろう。ここで自信満々に復活するクライヴ・オーウェンが面白い。ジュード・ロウはそのあとも、自分が不利にならないようにと不要な手を指してしまい、ナタリー・ポートマンを失ってしまう。そのようなゲームと捉えるならば、ジュード・ロウは最初っからナタリー・ポートマンに負けていたんだというラスト。ジュリア・ロバーツの存在がちょっと書き込み不足というかよくわからなくて、恋愛にロマンを持っているから相手次第でどうにでもなってしまう、ということなのだろうか。
 序盤の、カメラマンであるジュリア・ロバーツのスタジオでのあらゆるポジションからの撮影、編集が、ちょっと心に残った。

[] 「スペース・カウボーイ」(2000) クリント・イーストウッド:監督  「スペース・カウボーイ」(2000)  クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 「2010年」のすでに風化してしまった政治指向に比べると、やはりソ連崩壊後につくられた作品は強い。それでももっのすごい「ありえない」話なわけだけれども、その「ありえなさ」を見せてしまう演出の力は強烈で、B級映画のテイストを取り入れながらも、「B級」という感想をまったく観る側に持たせないのがイーストウッドの作品、ということになる。いったいどうしてそういう映画をつくることが出来るのか。
 「許されざる者」に次いで、アメリカ映画史を引きずりながら過去(「映画」の過去)に落としまえをつけるような作品で、これは「グラン・トリノ」にも引き継がれることになるのだろう。ラストのシナトラの歌う「Fly Me To The Moon」を伴う月面シーンのファンタジーで、じつはこの作品こそ、「2001年宇宙の旅」の正統な続編なのではないのかと思わせられてしまう。



 

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■ 2010-07-29(Thu)

 ニェネント、今日は、パソコンのキーボードのケーブルが机から垂れ下がっているのに猛烈に反応する。机の足に蹴りを入れながら、ケーブルにむしゃぶりついて転がり回る。まだトイレを憶えなくて、こんなに時間がかかるとは思ってもいなかったけれども、早くにしつけられなかったので、もう今のイレギュラーな状態が正常なのだと思ってしまっているのかもしれない。粗相をしてしまったすぐあとに見つけ、用意していたトイレにニェネントを運んで「ここでやるんだよ」と教えたつもりでも、ニェネントにそれが伝わっていない。和室の畳の上ではやらないのが救いとはいえるけれども、板の間がかなり臭うようになってしまった。スプレー式の消臭剤を買って来てぶちまける。
 子ネコにあまり噛みつき癖をつけてしまうのは良くないというのを読んだ。ついつい手であやすようにあしらってしまうのだけれども、それで上長させてしまうことになる。トイレのしつけも出来ないし、噛みつき癖までつけてしまうのでは飼い主失格になる。頭が良さそうだったジュロームがいっしょに居ればなあ、などと考えてしまう。

 母ネコのミイはベランダに来て啼いたりしなくなった。それでも、時にベランダの外を歩いているのがリヴィングから見えたりする。おそらく、このマンションの左側の、道路を隔てた一軒家に住処をつくっているのではないかと思う。前からその家の庭に出入りしていたようだし、家の住人もネコを嫌っているようでもない。連れ出した四匹の子ネコの、どれだけが今でも順調に育っているのだろう。

 そろそろ七月もおしまいで、ひかりTVのヴィデオ配信が今月で終了してしまうものを、駆け込みでいくつか観る。

[] 「ナバロンの要塞」(1961) J・リー・トンプソン:監督  「ナバロンの要塞」(1961)  J・リー・トンプソン:監督を含むブックマーク

 戦争映画とはいっても、少数のコマンド部隊による攻略もので、まったくのフィクションだということ。わたしはついつい、史実で実際にこういう出来事があったのかと思ってしまった。ドイツ軍がギリシアの島に建設した要塞があり、その要塞から海峡を行く船舶に巨大な砲台から攻撃が出来る。ドイツ軍の攻撃で孤立した二千人のイギリス兵を脱出させるには、この要塞をせん滅しなければならない。まずは島に侵入するためには警備の手薄な海岸からの絶壁を登り、島の中で現地のゲリラと合流して要塞を爆破する。この作戦のために六人の精鋭が選ばれるけれど、上層部もじつはこの作戦が成功するなどと思っていなくて、「ダメもと」というわけ。
 まずはドイツ軍の要塞がスペクターの秘密基地みたいな感じで、ちょっとばかりジェームズ・ボンドみたいな、スパイ・アクション映画の先取りという空気がある(ジェームズ・ボンドの第一作「ドクター・ノオ」は、翌1962年公開)。それから、途中で負傷したメンバーの処置をどうするか(連れて行くか放置するか、あるいは殺してしまうか)という問題、そのけっきょくは残して行く同志に嘘の情報を教えていくことへのモラル、さらに発覚した内部スパイをどうするか、というようなモラル的な問題が続出するあたりが、この作品に単なるアクション映画を超えた魅力を与えている感じ。演出上(特にラストなど)は軽く流した描写にはなっているけれども、例えば「フルメタル・ジャケット」で描かれた「タフ」ということへの言及を思い出させるものもある。基本は娯楽作品だけれども、どこかシリアスさをただよわせたというのはこの時代の映画作品の特徴なのではないかと思う。

[] 「バロン」(1988) テリー・ギリアム:監督  「バロン」(1988)  テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 壮大なモンティ・パイソン映画なのかというとそうでもなく、テリー・ギリアムという監督の生真面目さがマイナスに作用してしまった印象。映画の視点が主人公の語り口によって主観から客観へ移行するけれども、その客観もつまりは主観の延長なのだというのがこの作品の根底のコンセプトなのだろう。ほら吹き男爵の語る「ほら」を映像にしていくと、その「ほら」が映像の上で「真実」になるだろう。そこに映画の立脚点があるだろうというのは、つまりは「まじめ」なんだと思う。モンティ・パイソンの魅力はそういうものではなかったはずだけど、ではそれはいったい何だったのか、というとよくわからない。「悪ふざけ」について、要チェック。
 まだ十歳にもならないサラ・ポーリーが出ていて、この時から印象的。バロン役の人は、ギュスターヴ・ドレの絵に描かれたほら吹き男爵にとてもそっくり、だった。エリック・アイドルも出ていたのだけれども。
 カレル・ゼマンにもたしか「ほら男爵の冒険」という作品があったけれど、どんなのだったのか忘れてしまった。

[] 「フィッシャー・キング」(1991) テリー・ギリアム:監督  「フィッシャー・キング」(1991)  テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 マジメなテリー・ギリアムらしいマジメな作品で、気味の悪い奇妙なリアリティのシリアスドラマと、テリー・ギリアムらしいファンタジーとが、微妙なところでうまく合体してしまった佳作、という感じ。いちおう先の「バロン」からの継承なのか、視点の変化ということが作品を支える大きなコンセプトになっていると思う。まずはジェフ・ブリッジスの視点から映画は始まり、それがロビン・ウィリアムズに出会うことで、視点がロビン・ウィリアムズに移行する。このロビン・ウィリアムズの視点は彼の幻覚/幻視で満たされていて、このあたりに「バロン」からの継続が感じられるけど、完成度としては、この「フィッシャー・キング」の方がずっとうまく行っていると思う。ジェフ・ブリッジスが「聖杯」の盗みを行うシーンは、ロビン・ウィリアムズの幻視の影響なのだけれども、このシーンを「幻視」で描かずに通したのが、いい結果を生んだと思う。駅のコンコースで人々がダンスを始めるシーンの美しさはピカいちだと思うけれど、ストーリー自体の臭さはちょっと気になってしまう。


 

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■ 2010-07-28(Wed)

 何かの景品でもらっていた小さなテディベアがあったので、ニェネントのそばに置いてあげる。もう、夢中でテディベアと遊んでいる。というか、テディベアに対して暴虐の限りを尽くしている。両足で抱えて振り回し、口にくわえて放り投げる。テディベアは少なくとも50回はご臨終している。

f:id:crosstalk:20100729165332j:image:left ニェネントのしっぽ、体よりも濃い茶色なのだけれども、長さ10センチ弱の、その中央あたりでほぼ90度に折れ曲がっている。その折れ曲がり方がアンテナっぽくて、じつはなにか得体の知れない電波を受信しているのではないかと想像してもいい。

 壁にかけた時計が遅れはじめ、電池切れだろうと壁から外したら、壁に時計の形が白く残っている。ヤニである。最初のうちこそ室内であまり喫煙しないようにしていたけれど、もう最近はまったく気にしていなかったし、一年経てばやはりこんなモノだろう。どうせ壁にはネコたちの爪あともあちこち残っているし、もう今さらあがいてもどうしようもない。

[] 「バルジ大作戦」(1965) ケン・アナキン:監督  「バルジ大作戦」(1965)  ケン・アナキン:監督を含むブックマーク

 なんだか、バットマンのまったく面白くもない作品を二本も続けて観たあとだけに、とにかく画面に何か写っているだけで楽しく観れたみたいな気がする。ただ、最初に「CINERAMA」の表示が出たのに、画面はフルのTVサイズで放映されていたので、TV用にはそうとうトリミングしていると思う。このドイツ軍最後の攻勢に出た戦闘で、最初はバラバラに描かれていた連合国側の登場人物がさいごにひとつになり、ドイツ軍の希望を打ち砕く展開は楽しいものがある。演出など、いかにも「フィクションでございます」というたたずまいだけれども、昨今のリアリズム志向の戦争映画に対して、活劇本来の面白さを伝えてくれているだろう。ただやはり「戦争映画」なので、連合軍側の人物の烏合の衆的な描写に対して、生っ粋の軍人であるところのドイツ軍将校を演じたロバート・ショーが、いちだんと引き立って見えてしまう。ちらりと織り込まれるそのような軍人魂への批判が効いてはいるけれど、やはり主役はロバート・ショーだろう。ちょっとだけ、ピア・アンジェリが出ていた。

[] 「2010年」(1984) ピーター・ハイアムズ:監督  「2010年」(1984)  ピーター・ハイアムズ:監督を含むブックマーク

 そのロバート・ショーが「ジョーズ」で共演していたロイ・シャイダーが主演した、キューブリックの「2001年宇宙の旅」の続編。新しい展開というよりも、ただ「2001年」の謎を平易に解いて行くようなもの。「アンダルシアの犬」の謎を解説する続編とか、「去年マリエンバートで」の人物関係を整理してちゃんと物語にした「一昨年マリエンバートで」(そんな映画はない)みたいなもので、モノリスはじつはジョン・レノンの「イマジン」プロモーションのための陰謀だったというもの。監督したのが「アポロ計画はじっさいは行われなかった」という「カプリコン・1」を監督したピーター・ハイアムズだから、「さもありなん」というような政治性を加味した作品になっているけれど、面白くも何ともない作品、という印象しか残らない。

[] 「野良犬」(1949) 黒澤明:監督  「野良犬」(1949)  黒澤明:監督を含むブックマーク

 これはヴィデオ配信ではなく、黒澤監督生誕百年に合わせて、TV放映でやっていたもの。前にも観ていたけれど、わたしはこの作品こそが、黒澤監督のキャリアでのさいしょの傑作だと思っているし、いちばん好きな作品に思えることもある。観返してみて、この1949年という製作年度であれば、ロッセリーニらのネオリアリズモなどの影響もここにはあるのではないか、と思う。敗戦から四年経っているとはいえ、東京にはまだ復員兵のかっこうをした男が歩き、闇市以後の、どこか犯罪の匂いのする一角に、あぶれもののような犯罪者がウロウロしている。そういう東京の姿が、夏の炎天下を歩き回る三船敏郎の眼で描かれる前半の演出。そして、犯人像がくっきりとして来るにしたがって、犯人と三船敏郎の刑事との、おもてうらの対比が露になって来る。これから後のこういったサスペンスで、犯人を追う捜査員がその犯人像に自分の似姿を見てしまうような作品があれこれあらわれるけれど(「バットマン」にだって遠い反映はある)、その先駆的な作品でもあるだろう。三船といっしょに捜査することになる志村喬との二人のコンビをみていると、どうも「セブン」でのモーガン・フリーマンとブラッド・ピットのコンビが思い出されてしまうけれども、ここでも先駆になっているわけだろう。犯人へ至る重要な鍵を握るダンサー役が淡路恵子だったことをいつも忘れてしまうけれど、画面が彼女の楽屋を訪ねる捜査員へと移行するショットで、ずいぶんと高いところからカメラが垂直に降りて来て、階段の下にいる淡路恵子らへ固定されるショット、まるで奈落の底へ降りて来たようで、印象的なカメラワークだった。
 ところどころ、ツーマッチに思える演出もあるのだけれども、そのしつっこさもまたきっと、この作品の魅力の一部なのだろうと思う。 


 

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■ 2010-07-27(Tue)

 和室でパソコンに向かって坐っているとニェネントがまとわりついて来て、足の指に噛みついてくる。あまり不潔なものを口にする習慣を持ってほしくないのだけれども、その前に痛い。まあ「くすぐったい」と「痛い」の中間ぐらいなのだけれども、いつまでもやめないのでいいかげん鬱陶しくなる。背中をなでたりしてやると、のどをゴロゴロいわせている。声は母親に似たのかちょっとハスキー気味で、あまり大きな啼き声は出さない。動作は日ごとに機敏になって来て、和室の中を走り回る。わたしがキッチンに立つと途中まではついて来るけれども、なんでか決してキッチンには入って来ない。リヴィングも好きじゃないらしく、わたしについて来てもTVの裏側とか隅っこの方を右往左往するだけ。すぐに和室に戻ってしまう。わたしがリヴィングにいるあいだは、ひとり遊びしているか、べたっとした格好で寝ているか。
 食事はゼリータイプのネコ缶に狂喜するけれど、こればかりだとニェネントの食費とわたしの食費があまり変わらなくなってしまう。今日からは、そのネコ缶にドライタイプのキャットフードをお湯で柔らかくしたものをまぜてみる。やはりいかにもおいしそうに、夢中になって全部食べる。あとはししゃもも大好きなのだけど、いわしは内蔵が苦いのか、ぜんぜん手を付けようとしない。困ったのはトイレを覚えないことで、リヴィングの入り口の、ほとんど使うことのないドアの陰で用を足す。そこにネコトイレを置いたのだけど、やはりそのわきで用足ししてしまう。ネコトイレは前に母ネコが使ったことがあるので、その匂いか何かが残っていて使わないのかもしれないけれど、困る。顔もだんだんに頭の悪そうな雰囲気がただよいはじめ、これはきっと父親ネコの方に似たのだろうと思う。母ネコのミイは賢いネコだっただけに、そちらに似なかったのが残念と思うようになるだろう。ジュロームは、おそらくは母親似だったと思うけれど。

 もうすぐ七月も終わりで、この地域では大きな夏祭りも始まる。「ひかりTV」のヴィデオ配信が七月いっぱいで配信終了という作品が多く、ちょっと駆け込みでチェックしておきたい。

[] 「バットマン・フォーエヴァー」(1995) ジョエル・シュマッカー:監督  「バットマン・フォーエヴァー」(1995)  ジョエル・シュマッカー:監督を含むブックマーク

 ‥‥いったい何が面白いんだか、ぜんぜんわからない。途中で何度も、これ以上見るのをやめようと思ったのだけど。演出に遊び心を持たせるというのと、遊んで映画をつくるというのは違うんじゃないかと思う。ちょっとカメラを傾がせて、斜めに撮ってみるのが粋じゃないの?とばかりにそんな斜め構図を多用するのも、つまりはダサい。バットマンのバットスーツ姿の、おしりをアップしたショットなどがあって、この監督はゲイなんじゃないかと思った。それがいけないというのではないけれども。

[] 「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲 」(1997) ジョエル・シュマッカー:監督  「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲 」(1997)  ジョエル・シュマッカー:監督を含むブックマーク

 さらに面白さのわからない続編。ポイズン・アイヴィーのフェロモン攻撃、おそらく100回ぐらいは繰り返して見せられた気がする。ただ、前作のトミー・リー・ジョーンズ&ジム・キャリーの悪ふざけ演技よりは、こっちのシュワルツェネガー&ウマ・サーマンの演技の方が見ていてイヤではなかった。それでも、前作に引き続いて、こういう作品に客が入るのかあ、という驚き。40年代50年代のいわゆるB級作品のたいていのどんな作品でも、このふたつの作品より面白く観ることが出来た気がする。


 

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■ 2010-07-26(Mon)

 ちょっと気取って、子ネコに「ニェネント」などという名前を付けてしまったので、呼びにくいったらありゃしない。ついつい、母ネコのミイと遊んでいた期間も長かったので、「ミイ」と呼んでしまったり。でも、「ニェネント」で通すつもり。
f:id:crosstalk:20100727175459j:image:right そのニェネントは、机のわきに置いてある広辞苑によじ登るのが好き。これも遊園地のアトラクションに加えてあげようと、その上に国語辞典を重ねて和室の真ん中に置く。何度も登っては降りるのを繰り返している。そんなに高いところが好きならと、ゴミ箱の上に本を置いてその上にのっけてあげると、これは高すぎて怖がってしまう。さいしょ自分で思い切って飛び下りたら、いきおい余って逆立ちみたいな着地になってしまい、それからはもう飛び下りようとしない。
 わたしの手や足にじゃれついて遊ぶようになり、そりゃあファッキン・キューティではあるけれども、指先などを噛まれる。爪を立てられる。いたい。ただ、噛むといっても加減はしてくれていて、これは短いあいだでもきょうだいとじゃれあって遊んでいたおかげだろう。一匹で育ってしまうと、その加減がわからずに出血するぐらいの勢いで噛みついてくるらしい。爪はまさに武器になるぐらい伸びて来たので、爪切りで切ってやった。スーパーのペットコーナーにはネコ用の爪切りなど売っていたけれども、やはり人間用の爪切りが使いやすい。妙な買い物をしなくて良かった。

 今日もまた、ベランダの外でミイの呼ぶ声がする。わたしとしてはジュロームを連れて行かれたことがやはり今でも許しがたい。いやがらせをしてやろうと、ニェネントを抱いて窓の近くへ行き、ミイから見えるようにしてやった。ミイはあきらめて駐車場を横切って行こうとしていたところだったけど、わたしの胸でニェネントが啼き、その啼き声を聴いて、ふっ飛んでベランダの下まで駆けて来た。わたしがニェネントを抱いているのがはっきり見えただろう。わたしに怒って、フゥー!っと威嚇する。ハイ、残念でした。ニェネントはわたしが育てるよ、っと。なんてイヤな人間だろう。

 今日もまた、夕方に少し雨が降って雷が鳴ったけれども、きのうやおとといみたいには荒れなかった。ただ、あとのニュースで、茨城のほかの地域では、雹が降ったり竜巻が発生したりして大騒ぎだったらしいことを知った。
 雨のおかげで少しは涼しくなったけれども、やはり暑い。ついつい扇風機を廻しっぱなしにしてしまうのだけれども、今日は試しにエアコンをつけてみた。このエアコン、冬の暖房にはからっきし効果がなくて使わなかったので、冷房の方も期待していなかったのだけれども、これが予想以上に涼しくて、驚くほどの効果だった。去年の夏にエアコンを使わないでしまっていたというのは、今年ほどの猛暑ではなかったということだろう。なんだかこれからエアコンに頼ってしまいそう。
 夜は、「バットマン」関係を二本観た。

[] 「バットマン」(1989) ティム・バートン:監督  「バットマン」(1989) ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 単にカッコいいヒーローものではない、悩める主人公像というのは、公開当時は新鮮だったはず。そういう「悩み」を、あまり深刻にならずにあくまでも娯楽作品の範疇でサラッと見せているのは、演出のティム・バートンとバットマン/ブルース・ウェイン役のマイケル・キートンの力によるものだろう。それと、何よりも仇のジョーカー役のジャック・ニコルソンの怪演が楽しく、この彼の過剰な悪役イメージは、近年の「ディパーテッド」にも引き継がれている気がする。ただ、キム・ベイシンガーとの関係はいまひとつ踏み込みが足りないだろうし(キム・ベイシンガーがもう少しマイケル・キートンこそバットマンでは?と疑う要素がもうちょっとあれば良かったと思う)、ラストのアクション・シーンの演出はあまりお上手ではない。

[] 「バットマン・リターンズ」(1992) ティム・バートン:監督  「バットマン・リターンズ」(1992)  ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 これはもう二作目になるので、前作のダークな世界観をいっそう徹底し、娯楽性とみごとに調和させている。もうここではダニー・デヴィートのペンギン、ミシェル・ファイファーのキャットウーマンという、主役を食ってしまう強烈なキャラが楽しい。この双方とも表と裏の二面性を具現していて、バットマンの二面性と相克し合うことになる。ここに、なんとマックス・シュレック(ムルナウの「ノスフェラトゥ」の伝説の主演役者名)という名前のもうひとりの悪党、クリストファー・ウォーケンまで絡んで来るのだけれども、さすがに四つどもえの展開というのも難しかっただろう、このクリストファー・ウォーケンはちょっと影の薄い印象になる。わたしは近年のクリストファー・ノーランの演出した新バットマンのシリーズより、やはりこのティム・バートンの二作の方が、ずっと好みに合う。


 

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■ 2010-07-25(Sun)

 今日の雷は、強烈だった。もうすっかり暗くなった七時ごろから空が光りはじめ、すぐに地響きをともなった雷鳴に包まれるようになる。部屋のまわりのあらゆる方向から、直近距離で落雷を思わせる大音響が響いてくる。まさに5.1チャンネルサラウンドで、特にウーファー・スピーカーが効いている。昨夜はいちどだけ停電したけれど、今夜は三度停電した。長い時でも二〜三分だったからそれほど困ることもなかったけれど、停電していなくてもTVがいっしゅん砂嵐に包まれて何も見えなくなったり、「ひかりTV」のヴィデオ配信も、画像がフリーズしてしまったりした。TVが見えなくなったのは、この住まいのTVアンテナを引いている、駅前ビルの屋上のアンテナあたりに落雷したせいかもしれない。雷に比べると雨は大したことはなかったけれども、雷は三十分以上続いた。ふつう、雷の中心はだんだんに移動して行くものだと思っていたけれども、いつまでも周囲から雷鳴が響いてくる。これだけの雷の真下にいたのは初体験かもしれない。


 ニェネントはどうしていたかというと、やはり音に怯えたんだろう。ふだん入りこんだりしない机の裏側の狭いスペースに入りこんで、じっとしていた。トイレの近くでおしっこを漏らしていたけれど、これは雷の音にびっくりしたせいか、単にしつけが出来てないせいなのか、わからない。

 昼間はこのところの猛暑の継続で、強烈に暑かった。借りていたナボコフ伝の下巻をようやく読み終えたので、図書館へ返しに行く。図書館は涼しくて本がいっぱいあって、最高だ。購入リクエストを出していたピンチョンの「メイスン&ディクスン」が、購入対象に認められたという掲示が出ていた。良かった。って、コレを購入しなければ図書館の恥だったところだ。購入してくれるということは、いずれ近いうちに「リクエストされていた書籍の準備が出来ましたので、受け取りに来て下さい」と電話連絡があるだろう。で、おそらくは上・下巻同時にだ。いまのわたしは普通の本を読むのだって難儀しているのに、ピンチョンなんか二ヶ月かけても読み終えられるかどうか。まあほかにこの本を借りる酔狂な人もあまりいないだろうから、ひとりで独占して借りたり返したりを繰り返しましょうか。

 母ネコのミイが、やはりベランダの外で啼いている。ニェネントを呼んでいるのだけど、ニェネントは母ネコの啼き声が聴こえても反応しない。それでも母ネコは子ネコに呼びかけることしか出来ない。わたしが窓から姿をみせるとミイは逃げて行く。こういう関係になってしまったか。

[] 「ナボコフ伝 ロシア時代(下)」ブライアン・ボイド:著 諫早勇一:訳  「ナボコフ伝 ロシア時代(下)」ブライアン・ボイド:著 諫早勇一:訳を含むブックマーク

 著者のブライアン・ボイドは、ナボコフの最初の評価すべき小説は「ディフェンス」とする。「セバスチャン・ナイト」よりも評価しているようだ。この点には疑問がないわけではないけれど、彼のナボコフの読解はたしかに、わたしなどが感じるナボコフ作品の面白さに重なるものだ。単純に作家の生涯の伝記にとどまらず、すぐれた作家論にもなっているあたりがこの著作の魅力で、続く「アメリカ時代」も是非とも翻訳してもらいたいものだけど、もう何年も経つけれどもそういう話を聴かない。
 ベルリンを脱出してからのフランスでの貧困時代は、まるで「ゲゲゲの女房」みたいな雰囲気だった。ナボコフも苦労したのだ。

[] 「北陸代理戦争」(1977) 深作欣二:監督  「北陸代理戦争」(1977)  深作欣二:監督を含むブックマーク

 深作欣二監督によるヤクザ実録路線最終作。もうこのあたりになると手慣れたもので、当時の流行歌(この作品では「星影のワルツ」)をうまくドラマに取り入れる方法など、見慣れて(聴き慣れて)しまった感もあるし、「代理戦争」という構成はまさに「仁義なき戦い 代理戦争」と同じ構造になる。西村晃の組長の卑劣さ、C調さも、「仁義なき戦い」の金子信雄と相似形ではないか。「実録」というコンセプトを捨てないので、大阪の大物組長役の千葉真一など、顔見せ以上の出番はないというあたりが、ちょっと残念。
 主人公の松方弘樹のアナーキーさは、これまでの実録モノで類を見ない種類の造型で(すぐに殺されてしまう下っ端に似たようなのがいた?)、自分でも「飢えた狼」と自称するような、破天荒な暴走ぶりは強烈。それとこの作品では、その松方弘樹に関わってくる姉妹、野川由美子と高橋洋子という二人の女性の存在がクローズアップされているあたりが異色で、彼女たちが、舞台となっている北陸の風土とうまく絡んでいる印象。




 

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■ 2010-07-24(Sat)

 朝起きて、まずはFMラジオのスイッチを入れると、ニェネントがそのノイズ音に驚いてしまい、和室から玄関の方へ飛び出すように逃げて行った。下駄箱のとなりの棚の、空いているスペースに隠れ込んでしまった。そんなにびっくりしたのか。
 今日からはニェネントとの生活が始まる。いままでは子ネコがいるといっても、その食事などの面倒は通ってくる母ネコのミイにまかせ、子ネコのきょうだいでいっしょに遊んでいたので、わたし的には放置しているも同然だった。子ネコのジュロームはいなくなり、もうミイのヘルプに期待することも出来はしない。
 まず心配なのがニェネントの食事。買って来た離乳食もあまり食べないし、いつまでもミルクばかりというわけにもいかない。だいたいがネコ用のミルクは高いのだ。考えて、先日「これならミイも食べられるだろう」と、母ネコ用に買ってあったししゃも、これをちょっとあぶってニェネントの前に出してみる。‥‥食べますねえ。というか、ものすごい勢いで全部食べてしまった。子ネコには一匹丸ごとというのは量が多すぎたのではないかと、ちょっと心配になる。しかし、まあこれで離乳食の心配はなんとかクリアできただろうか。あとはキャットフードを食べるようになってくれれば楽なのだけれども、とりあえずはネコ用のミルクを皿に注ぎ、いつでも飲めるようにしておく。‥‥そうそう、そういえば、まだニェネントはお皿からミルクを飲んだことがなかったんだった。まずはお皿に入っているものが飲めるミルクだということを教えてあげなくては。最初は少々乱暴。ニェネントの顔の下にミルク皿を持って行き、ちょっと頭を押して、口をミルクに付けさせる。少しばかし嫌がるけれど、どうやらお皿の中身がミルクだということはわかったような。で、自分からミルク皿の中に口を突っ込むのだけれども、その加減がわからないんだろう、鼻先までいっしょにミルクの中につけて、鼻からもミルクを吸ってしまったようだ。まるでプールで初めて水の中に顔をつける練習をしている子どもみたいに、すぐに顔を上にあげて「プフッ!」と音をたてている。ミルクの鼻ちょうちんまでこさえながら何度かやってみて、ようやく舌だけを使ってミルクを舐めとるやりかたがわかったみたい。なんか見ていてもほっとする。
 で、次の心配は、いなくなったジュロームの替わりの遊び相手。なんだかこれがいちばん不憫というか、一匹でうずくまっているニェネントの姿を見るにつけ、ちょっとかわいそうになってしまう。わたしも出来るだけかまったりして相手になってやるけれど、わたしはネコに比べてあまりに大きすぎるし、子ネコの気もちはわからない。で、とにかく和室の真ん中に、遊べそうな道具を集めてネコちゃん遊園地をつくった。100円ショップで買ってあった「クロスワイアーネット」というワイアーの格子を丸く折り曲げて立て、その格子にふかふかのダストクリーナーを差し込んだり、ベランダの外に生えているねこじゃらしを摘んで、やはり格子に固定して中ぶらりんにしておく。これがなかなか気に入ってくれたようで、その丸くなった格子の中に入ってみたり、おもわく通りにねこじゃらしとさかんに遊んだり、ダストクリーナーのふさふさ部分にちょっかい出したり、ひとりで騒いでいる。和室でわたしがパソコンに向かっているときは、そのようにしてわたしの後ろで遊んでいる。わたしがキッチンとかに立つと、気になるのか途中までわたしを追って来る。で、わたしが和室に戻るときはふすまのかげに隠れて待っている。不意に飛び出してきて、わたしを驚かせてくれたりもする。ゲームのつもりなんだろう。静かになったなあと後ろを振り向くと、変な姿勢のままで眠っていたりする。

 今日もまためちゃくちゃ暑い一日だったけれども、夕方になって空に黒い雲が拡がり、風が強くなって来た。吹き込んでくる風は涼しくて歓迎するけれど、これは雨が来るなと思っていると、雨よりも先に雷が来て、まわりでピカピカゴロゴロと始まった。そのうちに激しい雨も降って来た。これで暑い夏の日々もおしまいだろうか、と思っていると、突然に停電してしまった。落雷で停電するのは、この茨城に来てからはじめてじゃないだろうか。すぐに復旧したけれども、ちょっとばかし驚いてしまった。そうそう、パソコンのキーボードは、前に使っていたタイピスト用のキーボード(とても安かったのだ)を引っ張り出して使っている。キー数を最小限に切り詰めていて、右側のテンキーとか、言語の切り替え、CD/DVDプレーヤーの開閉などのキーはついていない。ただ、そういう文字打ち専用のキーボードだけあって、キーの打ち具合はひじょうに快適である。なんか、いちどコイツをセッティングしてしまうと、前のキーボードに戻すのがめんどくなってしまった。

 今日も、ヴィデオを二本観た。

[] 「ミステリー・ライナー」(1934) ウィリアム・ナイ:監督  「ミステリー・ライナー」(1934)  ウィリアム・ナイ:監督を含むブックマーク

 古い作品で、それこそ犯人推理のミステリーもののはしりという感じ。船舶間の無線連絡をこえた船舶操縦の外からの無線制御装置が完成し、その実験のための船が関係者を乗せて出航する。しかし、船には敵国のスパイが紛れ込んでいる。はたしてそのスパイは誰か? という興味だけで引っ張っている作品で、外からの出入りが不可能になった船の中にスパイ(犯人)がいる、ということで、例えばアガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」みたいなもの。そんな軍事機密の実験を行なう船のくせに、客船として一般乗客を乗せているあたりがすごい。狂言廻し的に、酒と男が好きな妙なおばあさんがドラマをかき回す。演出的には「絶対にコイツがあやしい!」と思わせる描写をしておきながら、じつは彼はスパイを追う捜査官で、実際のスパイはいちばんスパイらしからぬ描写をされていた男、というのがいかにもずるい。先週観た「ザ・バット」もそういう反則技作品だったけれども、そういうのが大衆の好み(騙されてみたい)ということでもあったんだろうか。舞台演出みたいな映画だなあと思ったら、やはり元は舞台作品だったらしい。

[] 「シャイニング」(1980) スタンリー・キューブリック:監督  「シャイニング」(1980)  スタンリー・キューブリック:監督を含むブックマーク

 まあ何回観たかわからないけれど、久しぶりの鑑賞。観るたびに、ジャック・ニコルソンの狂気の演技よりも、シェリー・デュヴァルの恐怖の演技の方が、だんだんに怖く感じられるようになって来た。とにかく、ニコルソンに階段を上へ上へ追い詰められるあたりからの、首のすわりの悪さというか、首を支える支柱が外されてしまったようなくねくねした感じが異様で、そのまま首が伸びてきてろくろっ首になってしまうんじゃないかと思ってしまうし、バスルームに追い詰められ、ドアを破られるときの絶叫顔なんか、尋常の出来事ではないと思う。
 やっぱり、ラストの音楽に囚われてしまう。何度観てもすばらしい。



 

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■ 2010-07-23(Fri)

 今日はまた東京で、瀬々敬久監督の新作のプレミア上映会に行くつもりでいて、前売チケットも買ってあったのだけれども、今の状態は軽い夏バテだし、子ネコたちのことが気にもかかるし、そして何よりも映画の上映時間が六時間近くあるということは問題で、やはりもう外出はやめておこうということにした。チケット代は安くはなかったけれども、無理して行ってもまた交通費などもかかってしまう。最高に映画を楽しめるだろう状態ではない以上、今回はあきらめよう。

 ジュロームの目の周りがずっとかさぶたに覆われていて、少し悪化してきたようでもあって、動物病院に連れて行こうかと考える。ネットで調べると、ここのすぐ近くに動物病院が営業しているように表示される。どの辺りだか確かめるつもりで近所を歩いてみるけれども、それらしい看板はどこにも出ていなかった。もう廃業してしまったのかもしれない。まあその病院でなくても、少し歩けば別の動物病院はあるので、明日にでも連れて行こうか、などと考える。
 ジュロームもニェネントも歯が生えはじめたところで、段ボール箱の縁などにやたら噛みつきまわっている。噛んだあとにポコポコと小さな穴があく。いよいよ動作は活発になり、速いスピードで長い距離を走り抜けたり出来るようになった。けれども、離乳食はやはり食べようとしない。夕方に外に出て行ったミイが、今夜は二回もコウモリを捕って来た。やはりコウモリが離乳食なのか。

 そして夜、事件が二つ起きた。

 ひとつは、パソコンのキーボードにコーヒーをこぼしてしまったこと。しかも、そういうときに限って、ミルクとか砂糖を入れていたりする。ただの水や、砂糖などの入っていないコーヒーなどならば、そのまま乾いてしまえばどうということないと思うのだけれども、砂糖などは悪さをする。すぐにキーボードを解体して、濡れてしまったあたりを水につけて砂糖を流そうと。このアップルのキーボードは基板や筐体をぎっしりと積層して、分解出来ないように一体化してしまっているもので、そのへりから水分が浸透して内側にまわってしまう。一体化してしまっているのなら周囲にちょっとテープなどまわして、簡単な防水処理しておけばいいものを、おかげでちょっと濡れただけでオシャカになってしまう。洗ったキーボードを日光にあてて乾かし、水分がすべて飛んでしまって何も残らなければ、また使えると思うのだけれども、どうなるだろうか。

 もうひとつの大事件。ジュロームを、ミイに連れ去られてしまった。
 今日も何度か、子ネコをくわえて外に出ようとしていたミイだけど、子ネコをくわえているとそんなに速く走れないようだし、もうくわえたまま2〜3メートルでも移動するのが困難そうだったので、つい油断していた。わたしよりもミイの方が開いていた窓に近い位置にいて、そこにジュロームがとことこ近づいて行って、位置的によくないなと思って窓を閉めに行こうとしたら、とつぜんにミイがすばやくジュロームをくわえて、そのまま猛ダッシュして、ベランダから外へ飛び出して行った。ジュロームがピィピィ啼いている声が聴こえて、それがだんだんに遠ざかって行ってしまった。
 ‥‥ショック、である。ミイは子育て本能のまま行動しているわけだけれども、そうやって外でしばらくは自分の思うように育てても、いずれ子離れして自分の縄張りからも追い出してしまうことになる。ミイは子ネコに自分の力で生きる方法を教えるのだろうけど、それはただ「野良ネコになる方法」なわけで、谷中のような地域ネコとして生きられるような環境でもなし、この地ではそれは人間と共存する方法ではない。残念無念とはこのことで、もうジュロームをとりもどすことは出来はしない。仮にこれから、前のユウのように、ミイがここにジュロームを連れて来ることがあったとしても、もうジュロームは野良ネコになってしまってるだろう。それにもう、ミイにここへ来ることを続けさせることも出来ないだろう。
 しばらくして、窓の外でミイの啼く声が聴こえて来た。もうこうなるとミイは残るニェネントを連れ去ろうとするだけだろう。ニェネントのことはもう母ネコに頼らずに、わたしの手で家のネコに育てなければならない。ミイが外でいつまでもうるさいのでほかの家にも迷惑になる。ベランダに水を捲いて追い払った。ミイの行動は一貫していたわけで、ちっとも悪くない。今になって手のひらを返すようにミイを追い払うのは、わたしの身勝手にすぎない。イヤな役だなあと思うけれど、野良ネコに育つことは決して幸福なことではないのだと、ミイにわかってもらいたいと、強く思う。ほんとうに残念だ。

 そんな「事件」の起きる前、ヴィデオを二本観ていた。

[] 「太陽の怪物」(1959) ロバート・クラーク:監督  「太陽の怪物」(1959)  ロバート・クラーク:監督を含むブックマーク

 原題は「The Hideous Sun Demon」で、監督のロバート・クラークは脚本、製作、主演と自分でこなしてしまっている。これは「狼男」の逆パターンで、放射能に冒されたため、以後太陽光線を浴びると進化の逆転現象をおこし、爬虫類へと退化してしまうようになった科学者の話。このモンスターの容貌には「ゴジラ」の影響のようなものも感じられる。主人公は自分の病状は理性では充分に理解していて、田舎へ引っ込んで昼間は外出しないようにしているのだけれども、夜になると帰来の酒好き、女好きのムシを治めることが出来ず、バーへ飲みに行ってしまい、そのバーで歌っている女性とドライブして海岸へ行ったりしてしまう。海岸でその女性と眠り込んでしまった主人公が目覚めると、もう日が昇ってしまっている。あわてて女性を置き去りにして、車を飛ばして家に帰る。そこでやめておけばいいのに、この主人公はまたそのバーに行って彼女に会ったりする。こんどは彼女の部屋に泊まったりと発展家ぶりを発揮するけれど、彼女の男が部屋に押しかけ、主人公を外に連れ出す。もう昼間になっていたもので主人公はモンスターに変身、男をのしてしまい、彼女の通報で警察に追われることになる。
 たんじゅんにモンスターものというよりも、このモンスターへの変身がおそらくは男性心理のメタファーと感じられるようでもあり、転落して行く主人公の、その精神の彷徨を描くようなタッチ、というのが面白いところ。男の破滅は放射能を浴びたせいではなく、酒に浸り女を追うところから来ているのだろう。酒を飲んだりセックスしたりするとモンスターに変身する男はいる。そのままでは当たり前で映画にならないので、放射能によるモンスターものにしました、という感じはあるけれど、古典的なモンスター映画にSF的風味を加え、50年代テイストを盛り込んだテイストはなかなかのもの。バーのシーンなど、とてもモンスター映画とは思えないノワールものという雰囲気もあるし、逃亡中に物置きに隠れている男と近所の女の子とのちょっとした交流には、「フランケンシュタイン」もチラリと。

[] 「モンスター・メイカー」(1944) サム・ニューフィールド:監督  「モンスター・メイカー」(1944)  サム・ニューフィールド:監督を含むブックマーク

 J・キャロル・ネイシュという、30年代から50年代にかけてなかなかに活躍した性格俳優の悪役ぶりが楽しめる作品で、これだけ卑劣な悪役というのも、めったにお眼にかかれるものではない。
 主人公は末端肥大症の研究をする医師なのだけれども(その医師の資格も卑劣な手段で入手した、つまりはニセ医者らしいのだが)、あるところで自分の亡くなった妻に生き写しの女性を見かける。それからはストーカーまがいの猛アタックで、毎日花束を送って彼女をなびかせようとする。彼女の父がそんな行為をやめさせようと男の病院のオフィスを訪れるが、男は父を後ろから殴って気絶させ、そのあいだに血清を注射して父を末端肥大症にしてしまう。「わたしがあなたに暴行したと訴えても無駄です。あなたが先に殴りかかって来た正当防衛だといいますから」などという論理が通用するとは思えないけれども、そこは映画ですから。で、この症状の権威はやはり男しかいないので、発症した父は仕方なくまた男の病院へ行く。ここで男は「娘さんをくだされば、治して差し上げましょう」と持ちかけ、父をベッドに縛り付ける。「父の容態が」と娘を呼び出し、「父の望みだ」と結婚を迫る。まあそのほかにも男の行動に批判的な助手の女性を飼っているゴリラで殺そうとしたり、見ていてほんとうに不愉快になる、イヤで最低の男ぶり。
 映画の歴史も100年を超えるけれど、なかなか、ここまで卑劣でいやったらしい悪役というのも、映画の中でそうやすやすとお目にかかれるものでもない。人からイヤな目に合わされたりして、人のことが嫌いになりそうになったりしたとき、こんな映画を見ればもっと酷いヤツもいるんだと、そんな人も許せてしまえる気分になるかもしれない。しかし、末端肥大症患者を堂々と「モンスター」呼ばわりするあたり、この映画製作者にも相当に鬼畜系が入っている。

 

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■ 2010-07-22(Thu)

 こんなに暑いのに、外泊している。しかし、家に居るよりも、こんなカプセル・ホテルの狭いスペースの方が涼しくて快適なのは確か。はたしてミイはニェネントとジュロームの面倒をちゃんとみてくれただろうか、心配な気持ちで始発電車で帰宅。

 鍵を開けて部屋に入ると、ミイがわたしを見て姿勢を低くして、「シャーッ!」と威嚇する。「朝帰りなんかして、ダメじゃないの!」と、叱られてしまった。窓を開けると、外へふっとんで出て行った。妻に愛想をつかされて出て行かれた気分になる。しかも子どもを置いて出て行ったわけだ。
 ニェネントとジュロームは、元気で遊んでいる。ホッとした。また少し成長して、動きが活発になっている。前足を上げて揃えた後ろ足でジャンプしたり、思いもかけないスピードで走り抜けたり。やはりニェネントの方が優勢で、ときどきジュロームがギブアップの鳴き声をあげる。離乳食をあげてみるけれども、前のように食べてはくれなかった。

 リヴィングの方がどうもネコ臭い。用意しておいたトイレをミイは使わなかったようで、どこかわからないところで用を足してしまったんだろう。すっごく臭い一角があるのだけれども、その元がどこなのかわからない。
 夕方近くになってミイが戻って来て、子ネコにおっぱいをあげたり。また外からコウモリを捕って来て、子ネコのところへくわえて行く。食べているところを見ていないけれど、あのコウモリが子ネコへの離乳食のつもりなのかもしれない。夜になって、また何度か子ネコを外に連れ出そうとしていた。

 今日はまた、ハリーハウゼン絡みのヴィデオを二本観た。

[] 「シンドバッド 黄金の航海」(1973) ゴードン・ハッセル:監督  「シンドバッド 黄金の航海」(1973)  ゴードン・ハッセル:監督を含むブックマーク

 この作品の前にもう一本、ハリーハウゼンのシンドバッドものがあったはずだけれども、「ひかりTV」のリストには載っていない。このシンドバッド役はジョン・フィリップ・ローで、音楽がミクロス・ローザというあたりに、メジャー大作っぽい香りが。
 シンドバッドものがいいのは、「これはシンドバッドものだ」といってしまえば、それだけで余計な説明が不要になってしまうということで、ダイレクトに物語を始めることが出来るよね、というあたり。「この人は冒険を求めて航海を続けているのだよ。さあ、次の冒険は何だろう?」と。
 この作品の見せ場は、六本腕のカーリ像が魔術で動き出し、それぞれの腕に剣を持ってシンドバッドたちと戦うあたり、だろうか。楽しい。女性をケンタウロスのいけにえに捧げるシーンなどはもろに「キングコング」へのパスティーシュで、そのケンタウロスとグリフォンの闘いなども楽しいのだけれども、人間のドラマ部分の演出が、ちょっとぎくしゃくしているのが残念。

[] 「シンドバッド 虎の目大冒険」(1977) サム・ワナメイカー:監督  「シンドバッド 虎の目大冒険」(1977)  サム・ワナメイカー:監督を含むブックマーク


 こっちの主演はパトリック・ウェインで、彼はジョン・ウェインの息子で、共演するタリン・パワーもタイロン・パワーの娘ということが公開時に話題になっていたのを憶えている。ふたりともこのあと鳴かず飛ばずで消えて行ったけれども、画面を観ると単に二世タレントという以上の魅力もあるように見えるのだけれども‥‥。たしか、タリン・パワーにはロミナ・パワーとかいうお姉さんがいて、サドの「美徳の不幸」か何かが映画化されたときにヒロインを演じ、バンバンと脱いでいたのを、高校生だった頃に映画館で観た。そのお姉さんも消えてしまったけれど、この作品でのタリン・パワーも、ちょっと露出度が高めなところはお姉さんを継承している。あと、ボンド・ガールだったジェーン・セイモアも、ちょっと出ている。
 この作品の特撮はちょっと地味というか、ヒヒだとかセイウチだとか、実在の動物がモデルのぶん、観る方のイマジネーションの飛躍が楽しめないとは言えるかもしれない。ただ、その分ドラマの演出は丁寧で、悪役のゼノビアの憎たらしい存在感も光っている。あれこれのディテールが精緻に作り込まれているのも魅力で、人工のミノトールに埋め込まれる機械仕掛けの心臓など、いっしゅんしか写らないけれども観ていて心踊った。
 この作品は、どうやらわたしもTVで観ていたようで、シンドバッドたちを助けた大きな穴居人がサーベルタイガーにやられてしまうところで、「かわいそうに」と思ったものだった。そう、このチャールズ・H・シュニア/レイ・ハリーハウゼンのコンビの作品、通してそんなに人は死なないし、死んでしまった仲間への哀悼の気持ちなどもきちんと描かれていて、そういう部分に共感してしまう。

 

 

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■ 2010-07-21(Wed)

 こんなに暑いのに今日は出かける。しかも、帰って来られない予定なので、ニェネントとジュロームの世話を、お母さんネコのミイに頼むことにした。窓を開け放って出かけると、きっとミイは子ネコを連れ出してしまうから、悪いけれどもミイには部屋のなかで外に出ないでお留守番をしてもらう。ミイは長い時間部屋に閉じ込められたことがないので心配である。例えばトイレなども、いつも外でしているわけなので、新しい室内用トイレを準備し、食事もてんこ盛りにしてから出かける。

 今日はDさんと、まずは谷中で展覧会を観て、それから下北沢で鉄割アルバトロスケットの舞台を観るという予定。上野駅で下車して、待ち合わせ場所の根津駅まで歩く。暑い。考えてみれば、Dさんにしても上野駅待ち合わせで全然かまわなかったのだし、距離的にも目的地のギャラリーまでは上野駅からも根津駅からもほとんど変わりがなかった。とりあえず根津駅でDさんと落ち合い、言問通りを登る。登り切ったあたりのDenny's で昼食。そのあと、目的地のSCAI THE BATHHOUSE へ。

[] 「ウィリアム・エグルストン:21st Century」「長島有里枝:SWISS+」@SCAI THE BATHHOUSE  「ウィリアム・エグルストン:21st Century」「長島有里枝:SWISS+」@SCAI THE BATHHOUSE を含むブックマーク

 ウィリアム・エグルストンという写真家のことは知らなかったけれども、カラー写真をアートとして初めて認知させた、とかいうらしい。ギャラリーのスペースに20点ほどの作品が並んでいるけれど、特に何でもないようなありふれた光景へのまなざしが新鮮で、そんな中に人工的で鮮やかな色彩が混じり込む。というか、そういう既成の人工的な色彩をこそ主題にして作品にしているように見える。そんな中で、都市で生活している人物のまなざしが生き生きと示され、都市の中での色彩的快楽を受け止める、という視点に共感することになる。それは都市生活の肯定でも否定でもない、極めてニュートラルな視点だと思うけれど、ちょっとばかし、エドワード・ホッパー的なセンチメンタリズムが匂って来るあたりがアメリカ的、なのかもしれない。
f:id:crosstalk:20100724082722j:image:left それで、受付に置いてあるウィリアム・エグルストンの写真集の表紙を見て、ちょっと驚いてしまった。その写真は、Alex Chilton のアルバム「Like Flies on Sherbert」のジャケットに使われていた写真だったから。それで、これはあとで帰宅して調べてわかったのだけれども、ウィリアム・エグルストンもテネシー州メンフィスの出身で、Alex Chilton とは早くから知り合いだったらしく、なんと、Alex Chilton の組んでいたバンドBig Star のアルバム、「Radio City」のジャケット写真も、彼のものだということ。
f:id:crosstalk:20100724082853j:image:right このアルバムがリリースされるのは、ウィリアム・エグルストンがMOMA の展覧会で認知、評価される前のことだから、Alex Chilton は、ある意味いちばん最初にウィリアム・エグルストンを見い出していた人物だったかもしれない。とにかく、まったく予備知識のなかったアーティストが、じつはかなり見慣れ親しんでいた写真の作家だったことがわかり、かなりうれしい気分になれた。

 さて、このSCAI THE BATHHOUSE に二階展示スペースがあるのは知らなかったけれども、一階スペース奥からの階段を上がると、そこで長島有里枝の小さな個展も開催されている。こちらも、インティメイトでパーソナルな雰囲気の写真が並ぶ。この古典のコンセプトも知らずに観てしまったけれど、じっさいに作家の家族の遺した写真からインスパイアされた、個人的な趣向の作品だったらしい。ただありふれた花、野の花の写真の奥に、ついつい詩的な感慨を覚えながら作品を観る。いったい、写真作品とはどのように成立するのか? いつも考えてもわからないそんな問いの答えへのヒント、のようなものを、一階のウィリアム・エグルストンの展示と共に、得られたような気になってしまった。
 この二階の一角には、30センチ四方ぐらいの小さな窓があって、そこから眺められる切り取られた外の風景が、その長島有里枝の作品に似合っていた。

 ギャラリーを出て、三崎通りの方まで足を伸ばし、久しぶりに「R」でティー・タイム。ここにいるネコは大きく、立派な顔をしている。やはり野良ネコとは違う。ネコついでに谷中銀座の方まで行って、あたりの地域ネコの行状を見物して来た。地域の商業活動振興の手伝いをしている、勤勉なネコが多い。
 メトロの千代田線に乗り、まっすぐに下北沢に出て、夜はザ・スズナリでの鉄割アルバトロスケット

[] 鉄割アルバトロスケット「鉄割ベガズバンケット」@下北沢 ザ・スズナリ  鉄割アルバトロスケット「鉄割ベガズバンケット」@下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 いつも通りの鉄割、なのだけれども、多少パロディ的な演目が増えているかもしれない。灰野敬二のパロディーにはわらかせてもらったけれど、馬鹿舞伎の新趣向の演出などにはちょっと疑問も。「JAZZ JAZZ JAM」が、古新聞紙だけで別世界へ連れて行かれて、痛快だった。

 というわけで、終演時にはもう帰れる電車は行ってしまったあと。予想していたとはいえ、外泊決定。Dさんとちょっとだけ飲んで食べてお別れし、とにかく出来るだけ自宅に近いところまでは移動しようとしたけれど、大宮まで出るのがせいいっぱい、だった。はたして、ネコたちは無事に夜を明かすことが出来るのだろうか?


 

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■ 2010-07-20(Tue)

 朝起きて、窓を開けて外を見てもミイはいなかったけど、しばらくして部屋に入って来た。そしてまた、子ネコの首をくわえて外へ連れ出そうとする。わたしは窓を閉める。なんだかひどいことをやっている気分になるけれども、子ネコのことを考えればここで育っていく方がいいに決まっているし、そういう暮らしをわたしが用意してあげなければならない。でも、そういう事情がミイにわかるわけもなく、ミイにとってはつらい仕打ちをしていることになる。勝手な憶測だけれども、ミイのなかでも、この部屋にこのまま子ネコを置いておくとわたしに子ネコを取られてしまう、という意識があるのではないだろうか。また子ネコがぶら下げられてピーピー啼いている。けっきょくまたミイもあきらめて、押し入れのなかに子ネコたちと入り込んでしまう。

 朝、スーパーに出かけ、子ネコ用の離乳食と猫ミルクを買ってくる。ミルクは人間用の何倍も高い。買って来てから、豆乳でも良かったんじゃないのかと思って調べてみた。でもやっぱり豆乳は牛乳と同じで、子ネコには良くないらしかった。考えてみればミイがいるのだから、無理して猫ミルクを飼うこともなかったんだ。
 ネコ離乳食の封を切り、スプーンにちょっとだけ盛って子ネコの口元に運んでみる。‥‥食べた。スプーンまでガリガリかじりつくような食べ方で、これが最初だからひと口だけで止めておくけれど、まずは離乳への移行はスムースに行きそう。

 今日もニェネントとジュロームはレスリングをいつまでもやっている。なんだか、こころなしか昨日よりもしっかりして来た感じで、ときどきジャンプしてみせたりするような動きも。わたしの持っているケータイのカメラ機能はまったく満足のいくものではなく、シャッタースピードも遅くて、ちょっと動き回っているとブレてしまってよく写らない。まあちゃんとしたカメラを持っていたりしたら、おそらくいちにちにいちまん枚ぐらい写真撮ってしまうだろうから、こんなもんでいいのかもしれない。
 午後からは用事でしばらく出かけるので、ミイのいるときを見計らって、部屋の鍵をかけてミイといっしょに残したまま出かける。これは明日は東京に行っておそらく帰って来られないので、その予行演習もかねて。それでも明日のことは心配。
 まあ、今日留守にしたのは三時間ぐらいだったから、別にどうということもなく、帰ってみてもなんの異常もなかった。

 ミイはやたらと啼くようになった。外に出ていて部屋に入って来るときにはカーテンの外でミイミイ啼いてから入って来る。これはどうやら子ネコたちに「お母さん、帰って来たよ」と知らせているようで、子ネコたちはその啼き声を聞いて押し入れから這い出してくる。夕方、またミイミイ啼きながら部屋に入って来たけれど、また口にコウモリをくわえていた。コウモリ狩りの名人だなあ。しかし、口に何かくわえていても、啼き声を出すことは出来るものなのだ。夕方も子ネコたちを外へ連れ出そうとするけれど、もう子ネコの方が首すじをくわえられてリフトされることがイヤなようで、足でミイを蹴ったりして抵抗する。そもそもがもうからだがデカくなっていて、ミイがリフトするのもひと苦労しているし、ミイもほとんどリフトをあきらめてしまった。そのかわり、自分で窓の方へ歩きながらミャアミャアと啼き声をあげ、子ネコたちに「ついておいで」とやっている。いちおう、ニェネントもジュロームも少しはミイの方に近づいていくのだけれども、まだ足元もおぼつかないし、ミイもそれを見て「この状態で引越し先まで歩いて付いて来させるのは無理ね」とでも判断しているようで、途中でやめてしまう。ジュロームの方が母親への依存が強く、ミイの声がするといつもそちらに行こうとするし、ミイのおっぱいに先に食らいつくのはいつもジュロームの方。

 寝るとき、今夜はミイが外に出ているときに窓を閉めて寝た。それがいい判断なのかどうかはまだわからないけど、とにかく窓を開けたままでわたしが寝てしまうと、きっとミイはそのあいだに子ネコたちを外に連れていってしまうだろう。

 今日はヴィデオを一本観た。

[] 「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) ドン・チャフィ:監督  「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) ドン・チャフィ:監督を含むブックマーク

 レイ・ハリーハウゼンの特撮の代表作ということで、音楽はバーナード・ハーマン、女神ヘラの役でのちのボンド・ガール、オナー・ブラックマンが出演している。この映画でわたしがいちばん好きなのは、オープニングのタイトル部の創作壁画、かな。青銅像タロスの登場、ヒュドラとの闘い、骸骨戦士との闘いだとか、印象に残る楽しいシーンもいっぱい。特にヒュドラの造型は、ギュスターヴ・モローの絵画作品に拮抗するような見事さではないかと思う。
 ただやっぱ、アメリカ映画(この映画はアメリカとイギリスの共作だけれども)でギリシア神話をやるっていうのはどうも違和感があって、イアソンがジェイソンって名前で呼ばれるだけで、なんやねん、という感じにはなってしまう。テクニカラーのちょっとばかしケバい色彩が気になってしまう場面もあるけれども、まあ、このケバさはこの映画に似合っているとは思う(女性のメイクがみなケバい!)。もうちょっと引きの画面を多くして、スタティックな画面に仕上げていたら、格調の高い素敵な作品という印象になっていた気もする。でもでも、ハリーハウゼンのダイナミックな特撮の楽しめる、いい作品だと思う。



  

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■ 2010-07-19(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 夜なかに、なんどかミイが外に出たくて啼いているらしい声が聴こえた。部屋のなかをあちこちとウロウロしているみたい。ミイはあまり啼かないネコだと思っていたけれども、やはり少しパニックになっているんだろう。外にいるはずのほかの三匹の子ネコのことを考えると当然のことだと思う。引越しを中断させて、家族を分断したのはわたしの仕業だけれども、それが間違った選択だったかどうか、まだよくわからない。

 朝、窓を開けると、その音を聞きつけたのか、ミイが押し入れから出て来てベランダから出て行った。押し入れを覗いてみると、住処を変えたらしく、ふすまの入り口からすぐのもっと広い場所に、二匹の子ネコがまるまって寝ていた。もう四週間になるし、ずいぶんと大きくなっている。そろそろ広いところで運動させる必要もあっての引越し計画だったんだろう。
 しばらくして、外からミイが戻ってくる。どうするんだろうと窓を開けたままにしておくと押し入れのなかに入っていき、また子ネコの首ねっこをくわえて外へ連れて行こうとする。もうこのときには、この残された二匹は室内ネコにしてずっと飼うつもりに決めていたので、「ダメダメ」と、窓を閉めて出られないようにする。かわいそうなことをする人間である。ミイは子ネコをくわえたまま出口を探して、高いところに飛び乗って行ったりする。それで子ネコが苦しがったり痛がったりしてぴゃーぴゃー啼く。親ネコも、子ネコも、どっちもかわいそうではないか。もう子ネコはずいぶん大きくなっているので、ミイも子ネコをくわえてリフトするのに苦労している。もうちょっと大きくなったら、ミイが子ネコをくわえて運ぶのは無理になるだろう。
 しばらくそんなことをしていたけれど、けっきょくそのあいだに二匹の子ネコとも押し入れから出して来て、くわえていない一匹は和室で自由に動くがままにさせている。ミイもあきらめたのか、くわえた子ネコを和室に戻し、おっぱいを飲んだりするにまかせている。二匹の子ネコをそのままにして、またリヴィングの窓をたしかめに行ったりしている。

f:id:crosstalk:20100720205304j:image:right わたしにとっては、これがはっきりと子ネコを見る最初のチャンス。まだよたよたしているけれど、しっかりと自分の足で動き回っている。ときどき思わぬところでずっこける。二匹で、ほとんどレスリングのような取っ組み合いをしている時間が多い。ハグして噛みついたり、蹴り返したり、相手を裏返してフォールに持ち込んだり。いつもカウント・スリーに届かず、いつまでもゲームは終らない。‥‥しかし、ここまで実際に見る子ネコというものがかわいいものだとは思わなかった。以前に一匹だけのは見たことがあるけれど、きょうだいがいると、ここまでじゃれ合って遊ぶものなのか。もういつまで見ていても見飽きないではないか。

f:id:crosstalk:20100720205409j:image:left 子ネコの名前だけれども、考えてある。前にいた三匹とあわせて、色の黒い順に1、2、3、4、5という数を振り当て、なにか知らない外国語の数の呼び方にあわせた名前にしようと調べ、語感が名前に合っていそうな、アフリカのウオロフ語(どのあたりの言語なのか知らないけれど)というのの数の数え方に決めた。1はベンナ、2はニャール(ちょっとネコに似合い過ぎる)、3はニェッタで、ここまでに相当する、黒の勝ったネコたちはいなくなってしまった。で、いまいる二匹は4と5なのだけれども、4はニェネント、5はジュロームとなる。それで、黒い順ということならば、母親似の黒白のブチネコがニェネントで、薄茶と白のブチ(このネコはさいしょほとんど真っ白だったけれど、成長して薄茶の部分が濃くなった。特に耳のへりのところはひときわ濃い茶色で、すてきなアクセントになっている)がジュロームになる。しかし、黒白のブチは男の子で白と茶は女の子だから、男の子はやはり男っぽいジュロームくん(ジェロームではない)、女の子はニェネントちゃんにする。なかなか似合っている名前だと思うが。

f:id:crosstalk:20100720205515j:image:right これがニェネントで、いまのところ、ジュロームよりちょっと大きいので、レスリングでも彼女の方が優勢になることが多い。ものおじしない性格なのか、和室の真ん中を堂々と横断したりする。好奇心でもちょっと勝るかもしれない。

f:id:crosstalk:20100720205630j:image:left こっちがジュローム。まだおっとりした感じでちょっとニェネントに負けそうだけれども、背後からニェネントを羽交い締めにしてキックする荒技を持っている。少し気が小さいのか、部屋の隅っこに行きたがる。ふすまのかげに隠れて飛び出し、ニェネントを驚かせようという賢さも見せる。

f:id:crosstalk:20100720205712j:image:right ミイも疲れたのか、子ネコ二匹を連れて押し入れに入って寝てしまったみたいで静かになる。このときは窓を開けて風を呼び込むことが出来る。
 ミイが起きて来て、リヴィングの窓が開いているのを知り、なんどか啼いてから外へ出て行った。押し入れのなかではニェネントとジュロームが重なって眠っている。そうか、これがネコのいる生活なのかと思う。

 ミイはそのまましばらく帰って来ない。窓を開けておいたらそのうちに、外でにゃあにゃあとミイの啼き声が聞こえ、ミイが戻って来た。悪いけれどそこで窓は閉める。ミイの声を聴いてか、押し入れから二匹の子ネコが這い出して来て、母ネコのおっぱいにしゃぶりつく。ミイは子ネコのからだをなめてあげたり、忙しい。ときどき板の間の方へ行って、またベタンと横になって休息している。「お疲れさん」とミイのからだをなでてやると、目を細くしてゴロゴロとのどを鳴らす。そのあいだ、和室ではレスリング・ゲームが続いている。ちょっと、それぞれを手に取って持ち上げてみる。驚くほど軽くて、ふわふわしている。口をのぞくと、ニェネントもジュロームも、ちょうど同じぐらいに上下の歯が生えはじめていた。そうだ、離乳食を考えてあげなくてはいけないな。もうこれからは、極端にいえばミイがいなくても育てて行かなくてはいけない。二匹の子ネコを床に戻し、しばらくみとれていた。ふっと、子ネコの上にからだがかぶさるようになったとき、わきで見ていたミイが、「フーッ」とわたしを威嚇して来た。手に取っても怒らなかったのに、上にかぶさるような動きはダメなのか。

f:id:crosstalk:20100720205802j:image:left 今日はそんなで、TVもほとんど見ないでずっとネコのことばかりかまっていた。夜はまた実験で、ミイがそばにいるときにリヴィングの窓を開けてみる。ミイはわたしの顔を見上げて、「ミャア」とか啼いて、外にからだを乗り出す。そのままどこかへ出て行ったので、窓を閉め切ってしまい、それで寝ることにした。せいぜい六時間、母親のいない夜でもきっと大丈夫だろう。しかし、ミイがさきに連れ出した三匹、どうなったんだろう。


 

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■ 2010-07-18(Sun)

 梅雨明けするとさっそくに暑い。こんな暑いのに夕食にお好み焼きをつくって食べていると、ミイがちゃぶ台のそばに来て、興味ありげにちゃぶ台の上に首を伸ばしてくる。そうか、削り節をいっぱいトッピングしてあるからか。ミイはお行儀がいいはずなので、まさかちゃぶ台の上に上がって来たりしないだろうと思ったら、突然にマナーを忘れたミイがちゃぶ台の上にはい上がって来て、お好み焼きの皿に足をかけようとする。野獣と化したネコから人間の食事を守るため皿を持って立ち上がるけれど、そんなにまでに削り節が好物なのか、それとも、今やほとんどわたしの飼いネコになったもので、遠慮や慎みを捨て去って図々しくなったのか。とにかく、そんなに欲しいのならと、少しだけ切り分けてネコ皿に移してあげた。あとで見たら案の定、削り節だけきれいに舐め取ってあり、あとはみんな残していた。

 夜、ミイは外へ遊びに行ってなかなか戻って来ない。窓を開けたままでTVを観ていて、そのままうつらうつらしてしまった。何か気配がして目を覚ますと、ミイが子ネコを口にくわえて、外へ運び出そうとしているところだった。突然でこちらのこころの準備もしてなかったので、とっても驚いた。とにかく、今出て行かれると、これ以降は野良ネコへの餌付け状態になってしまう。しかも六匹の野良ネコの。それはもう出来ない相談。とりあえず窓を閉めて、ミイの一家が引越し出来ないようにした。
 出口をふさがれてしまったミイは、しばらく子ネコをくわえたまま、窓のあたりを行ったり来たりする。子ネコをおろし、和室の机の上に上がったりして、とにかく出口を探している。啼きながらカーテンをよじ上り、カーテンレールの上から見渡したり、跳び下りて窓のサッシによじ上ろうとしたり。
 ちょっとかわいそうだけど、やはりここでよそに出て行かれたりしたら、それ以降ミイたちの面倒はみちゃいけないんじゃないかと思う。野良ネコの繁殖の手助けをしてはいけないだろう。
 ミイが出口を探しているあいだに、押し入れの中を覗いてみた。驚いたことに、そこにはもう一匹しか残っていなかった。一匹はミイのそばにいるとして、もう三匹は外へ連れ出してしまっていた。‥‥こまった。それだけ引越しが進んでいるのなら、もう残りの子ネコもみな外へ出してやった方がいいかもしれない。しかし、ここで残っていた二匹が偶然、わたしが身びいきに飼いたいと思っていた二匹でもあっただけに、この二匹だけは家に残して、飼いネコとして育てればいいのじゃないかという考えにもなる。もう誕生から四週間を過ぎているし、これからは母ネコがいなくても離乳食などで育てられる段階にもなっている。
 とにかく、しばらくミイの様子をみていると、あきらめたのか落ち着いたのか、外に連れ出した一匹をまた押し入れに戻し、自分も押し入れの中に入っておとなしくなってしまった。

 もう夜もふけてしまった。わたしが寝るときに窓を開けたままなら、きっとわたしが寝ているあいだに引越してしまうだろう。昨日までのように窓を閉めてしまえばいいけれど、そうすると外に出された三匹が気にかかる。どうしたらいいのかよくわかっていないまま、窓を閉めた状態で、ミイと残された二匹の子ネコとの夜になった。

 今日はそんな騒動になる前に、ヴィデオ配信で二本のヴィデオを観ていた。

[] 「死の恐怖」(1947) クリスティ・カバン:監督  「死の恐怖」(1947) クリスティ・カバン:監督を含むブックマーク

 これで、「ひかりTV」配信ヴィデオでのベラ・ルゴシ出演作はすべて観た。九作品観たことになる。どれも「傑作」というようなものでもなく、なかには「これはいくらなんでも‥‥」というようなひどい作品もあったけれども、それでも、映画というものの本来持つ楽しさを味わせてくれる作品が多かったと思う。もともとが舞台のシェイクスピア役者であったベラ・ルゴシの誠実な熱演のおかげ、という面もあるだろう(「どんな役であろうと、いつも本気で演じる。そしていつもゆっくり話して、自分の写る時間を一秒でも長引かせる」 という彼のことばが残っている)けれど、彼に出演を依頼するような映画の、そのコンセプトのなかに、映画本来が持っている「うさん臭さ」とか、「まがいもの」というような要素が透けて見えることにこれらの作品の面白さがある、と思う。そのことを人は「B級映画」などと呼ぶのかもしれないけれど。
 で、この作品にも、欠点はいくらでも見つけられるけれど、やはり楽しい作品。死体置場に置かれた女性の死体を前にして、解剖医が「死ぬ瞬間に彼女が何を思っていたのかを知りたい」と語り、それに呼応するように、各シークエンスは彼女の死に顔にかぶさって、死せる彼女の語る「なぜ自分はこの死体安置室に来たか」を語るモノローグで始まる。原題「Scared To Death」が示すように、彼女は死の恐怖に怯えていて、それは彼女の結婚前の過去にさかのぼる原因があるらしい。夫もその父も、彼女の過去に別の男の影が見えると考え、すでに精神的なつながりは消えている。そこへ謎の来客があるわけで、それがベラ・ルゴシなのだけれども、どうやらヒロインの過去に関係する人物らしいし、ヒロイン一家の住む屋敷の、秘密の構造にも詳しい。ここに、まったく無能なボディガードのような元警官の男がいて、ここで手柄をあげて復職したいらしいのだけれども、この家のメイドに夢中になっているだけである。事件の匂いを嗅ぎ付けて新聞記者が駆け付けてくるけれども、いちおうこの作品でまともなただひとりの人間らしいこの新聞記者にも、まるでパープリンな婚約者がくっついて来ている。
 ‥‥どうも、なんというか、けっきょくどういう因果関係でこの事件になってしまったのか、ベラ・ルゴシは何者だったのか、とか、正直よくわからないし、頻繁に出てくる緑の顔のお面が何だったのかもよくわからない。でも、この「わからなさ」加減と、お間抜けな登場人物の発散するきわめてバカな空気とがミックスされ、これがまるで「ツインピークス」のような雰囲気になってしまっているわけで、観ていて、「ちょっとこのあたりをいじると、ツインピークスになれたのに‥‥」などと思ってしまう。と共に、「ツインピークス」の根っこの部分に、こういう40〜50年代のB級映画のテイストがかなり意識的に組み込まれていたということがわかる気がする。なお、この作品はベラ・ルゴシ出演作で唯一のカラー作品。

[] 「ザ・バット」(1959) クレーン・ウィルバー:監督  「ザ・バット」(1959) クレーン・ウィルバー:監督を含むブックマーク

 こちらはまたもコウモリもので、主演はアグネス・ムーアヘッド。出演者のなかにヴィンセント・プライスがいて、「彼が犯人だろう」と観客に思わせる仕掛けだったのだろうと思う。どっちかというと怪奇の屋敷モノという感じで、全身黒ずくめで「ザ・バット」と呼ばれる連続殺人犯の正体を推理する。銀行から100万ドル横領着服した男が死に、隠した有価証券類はその古い屋敷のどこかに隠されているらしい。で、そのときに屋敷に住んでいるのが、売れっ子のミステリー作家のアグネス・ムーアヘッドで、屋敷が薄気味悪いと付き人はみな辞めてしまい、古くからの友人のようなメイドと、過去になにかありそうな運転手上がりの執事との三人だけ。ここに横領事件のあといろいろな男性が出入りして、誰もが犯人っぽく思えるつくりになっている。
 せっかく女流ミステリー作家が出て来るのだから、彼女にうんと犯人の推理とかさせればいいのに、そういうあたりの展開に乏しく、ただ観客に勝手に犯人の想像をさせ、その推理が(おそらくは)外れるだろうことを期待してつくられた映画、という印象。というか、この犯人像はちょっと反則技ではないのか、と書くと犯人がわかってしまうけれども、ではなぜその男は犯罪に手を染めたのか、という説明がないまますぐに映画は終ってしまうので、観終えてもちょっと寂しい思いがする。屋敷の雰囲気も、少しすっきりし過ぎていて怖さがまるでないあたりが致命的。隠し扉から秘密の部屋あたりも広々としていてすきま風が寒いし、もうちょっと小道具をあれこれ使わないと、ミステリーとしての魅力を感じることは出来ないと思った。



  

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■ 2010-07-17(Sat)

 今日で梅雨明けしたという報道。昨日あたりから真っ青な空が拡がって日ざしが強い。暑いけれど、吹き込んで来る風はいくらか涼しい感じで、梅雨の間に吹いていた湿気でどんよりとした風とは違う。

 ベランダのプランター、最初に出たふたつほどの芽以外、バジルがまったく芽を出さないので、花屋で売っている苗をひと苗買って来てプランターに移した。バジルはいちど大きくなれば生命力が強いので、この苗から大きく増やせる可能性もある。クレソンは、ことしも先日の青虫のせいでほとんど全滅状態。小さな芽はいくつか残っていて、葉も少し大きくなって来たけれども、ことしも食卓に乗ることのないままに年越ししそう。

 夕方、外に出ていたミイのにゃあにゃあと啼く声がベランダから聴こえてくる。ミイが啼くときはノラといっしょのときが多いので、また来てるのかとベランダに出てみるとミイ一匹だけで、ベランダにぴょんと飛び乗り、部屋に入って来た。その口から、何か黒い、棒のようなものがはみ出しているのが見えた。ああ、これはコウモリに違いない。夕方になると、部屋の前の駐車場の上をたくさんのコウモリが飛び交っているわけで、そんな一匹を捕まえたんだろう。以前読んだマンガの「中退アフロ田中。」にも、主人公が飼いはじめたネコが外からコウモリを捕まえて来て、飼い主に狩りの成果を見せるシーンがあったから、ネコがコウモリを捕らえるのは普通によくあることなんだろう。しかし、あんな空をぴゅうぴゅう飛び回っている、しかも精巧なレーダー装置を搭載しているらしい動物を、よく捕まえられるもんだと感心する。
 で、わたしにもそんな狩りの手柄を見せてくれるのかと思っていたら、そのまま押し入れの中へ入って行った。子ネコたちに見せて、「どう? おかあさん、スゴいでしょ」とか自慢しているのか。

 今日のヴィデオは、山のようにあるベラ・ルゴシ主演映画から二本続けて観た。

[] 「悪魔の蝙蝠」(1940) ジーン・ヤーブロー:監督  「悪魔の蝙蝠」(1940) ジーン・ヤーブロー:監督を含むブックマーク

 図らずも、ミイがコウモリを捕えて来たときにコウモリの映画を観ていた。「ドラキュラ」以外のベラ・ルゴシは、ほとんどがマッド・サイエンティスト役ばかりなのだけれども、これもそういう一本。
 主人公は急成長したローション会社で新製品を開発する博士として、表面では市民の尊敬を集める温厚な紳士なのだけれども、会社の成長は自分の手柄であり、それに見合った報酬を受けていないと考え、会社役員への復讐を密かに計画している。研究室の秘密の通路で二階に上がったところにコウモリの飼育室があり、コウモリに電流をあてて巨大化(といっても、羽根を拡げて6〜70センチ)させることに成功する。そのコウモリに新開発のヒゲそりローションの匂いを覚えさせ、そのローションをつけている人物の、まさにローションを塗ったのど元を襲わせる、というもの。最初に社長の息子でうまく成功するけど、コウモリを見たという目撃者の証言で、新聞記者とカメラマンがスクープを狙って動き出す。
 けっこう、あいだに挟まれる会話などの脚本がよく書けている印象で、演出も手際よく進行。特にカメラマンのコミックリリーフ的存在が効いている。この作品の監督ジーン・ヤーブローは以前観た「死霊の漂う島」というゾンビ映画を手がけていた人で、そういうサスペンスのなかにコミカルな味わいを持たせるのが好きなのだろうと思う。ちょっと江戸川乱歩あたりが書きそうなプロットで、博士=二十面相、新聞記者=明智小五郎というテイストだけど、新聞記者はあまりに早く唐突にローションの匂いの謎に気がついてしまう。このあたりをもうちょっと引っ張れば、サスペンス味も増して、もっと見ごたえのある作品になっただろうと思う。

[] 「消える死体」(1942) ウォーレス・フォックス:監督  「消える死体」(1942) ウォーレス・フォックス:監督を含むブックマーク

 続いて観たのはコレ。おそらくはさっき観た「悪魔の蝙蝠」に近いプロダクションで製作されたもので、全体の構成など、似通った部分が感じられる。
 結婚式場で花嫁が急に倒れ、死亡したものとして死体が運ばれる途中に、その死体が盗まれるという事件が連続して発生する。式場で花嫁に贈られた、贈り主不明の珍らしいランの花に手がかりがあると推理した女性記者が、まずはそのランの研究家宅を訪問する。これがベラ・ルゴシで、つまりは犯人である。「悪魔の蝙蝠」では、表面的にはまわりから慕われた善人だったけれど、こちらではタクシーも彼の屋敷には行ってくれない怪しい人物。彼がいったいなぜ若い女性を集めるなどという猟奇的なことをやっているかというと、彼の妻だか母だかの望みに従ってというか、老いて醜くなった彼女に、若くて美しい女性から採取した体液というかエキスを与え、若返りと美貌とを与えるというもの。どうやらその持続時間があまり長くないようで、効果が薄れると次の犯罪を繰り返す。ルゴシには召使家族がいて、母親と小人の息子、もうひとり、知能の低い容貌怪異なモンスターの息子とがいる。ルゴシはモンスターの召使が言うことがわからないと鞭を打ってせっかんする。このあたりはエド・ウッドの「怪物の花嫁」と同じ演出で、この「消える死体」から「怪物の花嫁」に転用されたディテールはあれこれと見えかくれする。
 こちらの作品にも江戸川乱歩的なテイストはあるけれども、こちらの方がより猟奇的でビザールである。こちらの秘密の研究室は屋敷の地下にあり、そこへ下りて行く階段、研究室などの雰囲気はなかなかのもの。ただ残念なことに演出があまり流暢ではなく、そのあたりは「悪魔の蝙蝠」の方に一日の長がある、という感じになる。脚本や、映画全体の雰囲気はこっちの方がずっと面白いのに、残念。



  

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■ 2010-07-16(Fri)

 子ネコの目はしっかりと開いているけれども、青い色の膜がかぶさっている感じで、これが子ネコ時代の特徴だということ。狭いところだからよくわからないけれど、どうやらもう自分の足で立ち上がっていて、歩くことも出来ているみたい。黒が勝った三匹は、目も母ネコに似ないでまん丸だし、やはり決定的に鼻の下の黒いブチがバカっぽい。
 夜寝るとき、窓を全部閉めてみた。これでミイがパニクったりしたら、やはり開けてあげなければならないだろう。様子をみていると、机の上によじ上ったりして出られる場所を探している気配はあったけれど、出られないとわかると、騒ぎもせずおとなしく押し入れに戻って行った。これで、夜によその野良ネコが勝手に入って来るのを避けられる。

 今日はヴィデオ配信を一本と、TV番組のを一本観る。

[] 「イントレランス」(1916) D・W・グリフィス:監督  「イントレランス」(1916) D・W・グリフィス:監督を含むブックマーク

 「國民の創生」に続くグリフィスの大作。これも「ひかりTV」のヴィデオ配信で観たけれど、相変わらず日本語字幕がひどい。まだ「國民の創生」は叙事的な構成だったからなんとか意味を汲み取れたけれど、この「イントレランス」は登場人物の心理面にまで踏み込んだ構成でもあるし、まったく意味のつながりがわからない字幕がずいぶんあった。今回は英語原文の映像も部分的に写されていたので多少比較できたけれども、これは中学生程度の英語力で、しかも小学生程度の国語力の人が翻訳を担当したように受けとめられる。誤植もあったので、校正作業もなされていないのかもしれないし、メディチ家のカトリーヌが「キャサリン」だとか、「チャールズ9世」とかの表記も、堪忍してほしかった。とにかく金を取ってやる仕事とは思えない。
 映画の方は「現代」、「バビロンの滅亡」、「聖バルソロミューの虐殺」、「キリストの受難」の四部構成で、これを揺かごをゆらすリリアン・ギッシュのショットをはさみながら、並行してそれぞれの物語を進行させて行くもの。たしかに壮大なバビロンのセット、現代のドラマの演出のみごとさ、などの見どころにあふれているのだけれども、問題のひとつはこの作品が前作「國民の創生」への批難、抗議をそれこそ「イントレランス(不寛容)」ととらえてつくらえたらしいということ。で、その意志はやはり「現代」篇に強くあらわれており、ここでの悲劇の元凶は工場経営者による従業員賃金の10パーセントカット、首切りに端を発しているようにも描かれており、さらに、その賃金カットは、工場経営者が「人権高揚(画面の英文では「Uplift of Humanity」)」組織への援助、寄付金を捻出するために行なったものとされる。さらに、その「人権高揚運動(?)」の女性が、主人公夫婦の赤ん坊をヒロインの手から取り上げ、施設に入れようとしたりする。「イントレランス」の根源は「人権高揚運動」にある、というところだろう。おそらくはアフリカ系住民などへの人権回復運動を遠回しに否定したかったのだろう。まあ懲りもせずによくやってくれるよ、と思うのだけれども、ここで、映画というのは火のないところからも煙をたてることが自由に出来るのだなあと、あらためて感心してしまう。
 それで次に、この映画のテーマといえる不寛容(イントレランス)への攻撃だけれども、ここで「愛」に対立することばとしてひんぱんに使用される「イントレランス」ということば、「愛」ということばが多くのケースであいまいなバズワードとして使用されるように、ほとんど明確な意味を持たない、あいまいさのまま使用されている。正しい判決をなし得なかった裁判所も「イントレランス」なら、刑務所施設も愛のない「イントレランス」の場、ということになる。この調子では作者の意に染まないものはなんでもかんでも「イントレランス」として告発することはあまりに簡単で、いっくらでもヴァリエーションをつくれるだろう。このタイトルはそのまんま、作者のグリフィスさんにお返しすべきだろうと思った。
 もうひとつ気になってしまうのが、実はこの作品の根源にある二元論で、すべては善と悪、愛と不寛容の対立ということになり、まあこのあたりは多くのアチラの人たちの思考の根底にあるものなのだろうけれども、こうやって三時間近くも連続して見せられると、さすがにげんなりしてしまう。

[] 「時の支配者」(1982) ルネ・ラルー:監督  「時の支配者」(1982) ルネ・ラルー:監督を含むブックマーク

 「親子シネマ」というプログラムの一環で放映されていたものだけれども、こんなのを子どもといっしょに観てしまったら、終わってから「ねぇ、どーしてなの、どーいうことなの」との質問攻撃に遭って、うんざりしてしまうだろう。素晴らしい作品だったルネ・ラルー監督の「ファンタスティック・プラネット」と同じくステファン・ウルという人の原作で、ここでは作画、監督との共同脚本をバンド・デシネの代表的作家メビウス(ジャン・ジロー)が行っている。メビウスはこの作品製作時に「ブレードランナー」のスタッフとしての誘いも受けていたらしく、「ブレードランナー」の未来イメージにメビウスの作品は大きな影響を与えていたそうな。ただ、この作品では原作のイメージに引きずられたのだろう、「ファンタスティック・プラネット」に近いイメージの異星空間が描かれている。宇宙船のドアがものすごく古びているとかのディテール、そして色彩感覚に「ブレードランナー」に近接したイメージを読み取れるのかもしれないけれど、わたしはメビウスの作品をほかに知らないので、何ともいえない。ただ、人物のデッサン、そのほかについても、わたしはやはりローラン・トポールの大ファンであったりするので、「ファンタスティック・プラネット」となど、比較するまでもない気がしてしまうのはたしか。冒頭に出てくるペルディドという惑星の環境や、途中に立ち寄る惑星であらわれ、重要なキャラクターになる蓮の花の妖精など、宮崎駿っぽい世界を感じさせる部分もある。
 この作品の面白いのはやはり、ラストで急展開して思いもかけないパラドキシカルな結末へとつながるプロットの面白さで、ハッピーエンドというのでもなく、それでもしっかりと作品の円環を閉じるアイロニカルな感覚が独特のもので、「ふうん」と心にひっかかり、残ることになる。
 途中に出てくる、統一されたイデオロギー(=全体主義?)との闘争のロジックが、いかにもフランスっぽくって興味深かったけれど、つまりそこで、集団のなかの個人が「自己否定」を徹底すれば、そのことが集団=全体の崩壊につながるというロジックが展開され、その方法で(ひとりの登場人物の自己犠牲により)「顔のない操り人形」にされることから逃れ得たりする。あくまでも「個」として、その「個」であることを徹底して否定することが「全体」への勝利になるという、ここにもこのストーリーの主題のパラドキシカルでアイロニックな精神がよく表われているように思った。グリフィスの二元論と違って、フランスの人は面白い。



  

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■ 2010-07-15(Thu)

 夜中に、キャットフードをカリカリとかじる音で目が覚めて、キャットフードを置いてあるあたりに目をやると、暗がりの中でも白いネコとわかる、そのネコの目が光っていた。ノラが、部屋に上がり込んで来ている。わたしがベッドから起き上がるとすごいスピードで逃げて行ったけれど、やはりいつも窓を開け放っておくのはまずい。わたしが寝ているあいだとか外出しているあいだは、普通に戸締まりすることをやっぱり考えなくっちゃいけない。ミイがそれにどう反応するか、ということになるけれども。

 世間はお中元の季節も終りに近づき、図書館の近くの酒類のディスカウント・ショップに、大量のお中元商品が山積みされるようになった。このセールでインスタントコーヒーのセットを買っておくのが最近の習慣になっている。今回も買って来たので、これで当分は大丈夫。しかし、以前はあまりインスタントコーヒーなど飲まず、このセットを買っておくと次のお歳暮のシーズンまで持ったのだけど、最近は喫煙量を減らそうとしてコーヒーを飲む量が増えてしまっている。かなり早い段階で全部なくなってしまうだろう。それに、半額程度の価格になっているとはいえ、やはりそれなりの値段になっているわけで、けっきょくは安い買い物になるのだけれども、一時に支出がどっと増える感じ。‥‥などと書くと、どんな大きなセットを買ったのかと思われてしまうかもしれないけれど、じつは千五百円ほどのモノにすぎない。ただわたしの経済状況では、貨幣価値は普通の人の十倍ぐらいの重みがある感覚で、スーパーなどでも百円以上のモノを買うだけでもちょっとした決断を迫られる。千円のモノを買うというのは、普通の一万円の買い物をする感覚に近いと思う。だから東京に舞台など観に行くのは、じっさい、飛行機に乗って海外のプレミア・チケットの公演を観に行くような覚悟でやっているんだけど。
 そういうわけで、普段の支出ではない臨時の千円以上の支出は痛手で、今月は予定外の飲み会もあったし、来週はまた出かけなくてはならない予定を組んであるので、今週映画を観に行こうという計画は、とりやめにした。

 今日はヴィデオ配信ではなく、TV放映の番組で二本の映画を観た。どちらもフェリーニ絡み。

[] 「インテルビスタ」(1987) フェデリコ・フェリーニ:監督  「インテルビスタ」(1987) フェデリコ・フェリーニ:監督を含むブックマーク

 フェリーニの作品は、若い頃にはずっと、たいていの作品は観ていたのだけれども、「アマルコルド」のあとの作品はなぜかまったく観ていなくって、ヴィデオとかの時代になっても借りて観ることもなかった。なぜフェリーニを観なくなったのか、今でもよく理由はわからない。この「インテルビスタ」も初めて観る作品。
 チネチッタ撮影所の創立五十周年を記念した企画でもあるらしく、この作品の主人公はそんな「チネチッタ撮影所」。ここで現在カフカの「アメリカ」から想を得た新作を撮ろうとしているフェリーニと、そんなフェリーニを取材しに来ている日本人クルーたち。そして、記者としてチネチッタを初めて訪れ、女優を取材したという若き日のフェリーニの思い出、マストロヤンニが登場しての、アニタ・エクバーグを訪問して「甘い生活」を懐かしむ場面など。
 とにかく、チネチッタの裏方職人たちへの視線が楽しく、それがバックステージのドキュメントという設定で撮っているのかと思って観ていると、そんなシーンもいま撮られている映画の中のシーンだった、などという入れ子状態のあいまいさ、虚と実のはざまの絶妙な演出が楽しい。若き日のフェリーニを演じる役者が、ファシスト党員と車に乗り合わせてチネチッタへ向かい、その過程もあれあれと現代と過去、現実と映画的虚構がごっちゃになってしまう。丘の上にアメリカ先住民(インディアン)たちの姿が見え、ファシスト党員が彼らを見て「彼らは映画用に少しだけ残して、残りは皆殺しにしてしまうべきだ」などというのには笑ってしまった。ここでの、その女優とのインタヴューのシーンなども、いかにもフェリーニらしく、そんな虚飾に包まれた女優という存在へのあこがれとかせん望とかが若々しく描かれていて、やっぱりフェリーニはいいなあと思ってしまう。ただ、全体のテイストとしては、彼の過去の作品でいちどは試された演出(「81/2」や「ローマ」、「アマルコルド」などを思い出す)をあれこれと再現しているような印象もあるし、何よりも、このときにはもう音楽面で彼をサポートしたニーノ・ロータはこの世の人ではなく、この作品に合わせた音づくりが不在だというのが、やはり気になってしまった。過去のニーノ・ロータの音楽やスタンダード・ナンバーを何とか組み合わせ、過去の熱狂を取り戻そうとしているようだけれども、どうも何かが寂しい。それとわたしは、マストロヤンニとアニタ・エクバーグが「甘い生活」を懐かしむような感傷的なシーンなどは、あまり好みではなかった。
 「81/2」を思わせるチネチッタの野外でのラストシーンを観ていて、これって、「ウッドストック」じゃないの? などと思ってしまって、ああ、フェリーニは「ウッドストック」を観て、ココで使っているのかな、などと思っていたら、ついに雨まで降って来て、いよいよ「ウッドストック」だった。


 

[] 「世にも怪奇な物語」(1967) ロジェ・ヴァディム/ルイ・マル/フェデリコ・フェリーニ:監督  「世にも怪奇な物語」(1967) ロジェ・ヴァディム/ルイ・マル/フェデリコ・フェリーニ:監督を含むブックマーク

 これは、高校生の頃に映画館で観た。それ以降もTV放映とかで観た記憶もあって、たいていのところは記憶に残っている。この、三人三様のエドガー・アラン・ポー原作作品を組み合わせることで、エドガー・アラン・ポーという作家の受容の、この時代の全体像が見渡せるようでもあって、いま観るとちょっと興味深い。

「第一話:黒馬の哭く館」。原作は「メッツェンガーシュタイン」として翻訳されているもので、ここでのロジェ・ヴァディムの演出は、同じようにポー的な趣味を持っていたロジャー・コーマンに近い趣味なのではないか、という印象。コーマンはもう少し怪奇趣味を前面に出すだろうけれど、ヴァディムはちょっと耽美趣味、ということになり、これはアダルトでおされな少女マンガみたいである。ポーのゴシック的側面、という感じ。

「第ニ話:影を殺した男」。これは「ウィリアム・ウィルソン」で、この映画の邦題だと、ネタばれになってしまいそう。つまりはドッペルゲンガーもの、なのだけれども、ルイ・マルは原作の一人称文体を生かすために、牧師への懺悔という形式で物語を語る方法を選んでいる。それがよかったのかどうか、というあたりが微妙なのだけれども、へたをしたら次のフェリーニとバッティングしてしまう演出になってしまうだろうから、これはこれでいいんだろう。でもやはり、あまりに真っ当なアプローチという感じもして、わたしはどうもルイ・マルは苦手。

「第三話:悪魔の首飾り」。原作は「悪魔に首を賭けるな」だけれども、フェリーニは原作のモティーフと主人公の名前だけをいただいて、かなり自由な展開にしている。この作品もまた映画製作のバックステージものという設定にして、主人公をアルコールに身を持ち崩した破滅志向型のシェイクスピア役者/映画スターにする。これでテレンス・スタンプは一世一代の狂気の演技を見せ、「コレクター」、「テオレマ」などと合わせて、彼の役者としての異様なイメージが定着する。そのイメージが強すぎたのだろうけど、この作品以降はアラビア時代の詩人ランボーを演じた映画以外、ほとんど印象に残っていなくって(そのランボーの映画もまるで憶えていない)、それが何年かして「スーパーマン」なんかにとつぜん姿を見せてびっくりさせられるわけだけど、いまでも独特のイメージで活躍されている。ちなみに、このフェリーニの作品では「イタリアに招かれて、初のカトリック・ウェスタンに主演する」という設定だけど、じっさいにテレンス・スタンプは1968年にイタリア人監督のもと、「血と怒りの河(原題:Blue)」というウェスタン映画に主演している(このあたりの、日本版Wikipedia での「テレンス・スタンプ」の項での主演作リストはじつにアバウトで、ジュリー・クリスティと共演した「遥か群集を離れて」、のちのピーター・ブルック演出の「注目すべき人々との出会い」などを含め、ものすごくたくさんの重要な作品がリストからもれている)。
 で、まずはそのテレンス・スタンプの狂気の演技を際立たせる装置を、あれこれとフェリーニが準備しているわけで、SF映画のような空港のシーン、そしてやはり非現実的な、夢の中のような映画祭授賞式と続き、フェラーリでのドライブへとなだれ込む。どのシーンも強烈なんだけれども、今回観直してみて、やはりさいごのドライブシーンの演出、疾走する部分と主人公の狂気を見せる部分、そしてこの世の地とは思えなくなってくる道路のまわりの状況を描く時間配分、演出など、ほんとうに恐れ入ってしまった。
 そうして、そのテレンス・スタンプの狂気と張り合うのが、空港のエスカレーターの場面から出てくる、毬で遊ぶ少女のイメージ、ということになる。べつに奇怪なメイクなどしているわけでもないのに、その少女の笑顔が画面に大写しにされると、とにかく背筋がゾッと寒くなる。おそらくは、その無垢な表情の裏にとてつもない残酷さを感じさせることから来るのだろうけれども、そのようなショットを選び、映像に残すセンスはやはり、只モノではない(以後、この少女のイメージを模倣する映像にはいくつかお目にかかることになるけれど、この作品のショットを超えるものなど、あるわけもない)。そしてラストの、張り渡されたワイヤーのショットと、この世のものとも思えない、崩れ落ちた橋の映像で、ノックアウトされることになる。‥‥今回も、みごとにノックアウト、されました。



  

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■ 2010-07-14(Wed)

 今日の昼食はまた、もやしスパゲッティに削り節をトッピングしたもの。TVを見ながら食べていると、外に出ていたミイがベランダから戻って来た。わたしの近くで立ちどまり、じっとわたしの食べているのを見ている。いつもはわたしが何か食べていてもまるで興味を示したりしないのだけれども、珍しくちょっと欲しそうな顔してじっと見ている。あ、そうか。削り節の匂いとかに反応しているのに違いない。せっかくそんな欲しそうな顔をしているのだからちょっと削り節をわけてあげようとキッチンに立つと、ノコノコとついてくる。小さな皿に削り節を少し盛って、ミイの前に出してやるとガツガツと食べる。

 夜、TVを観ていると、サイレント映画で静かだったので誰もいないと思ったのか、ノラがベランダから部屋の中を覗き込んで来た。わたしがいるのを見て、あわてて顔を引っ込めてどこかへ飛んで行ってしまった。おそらく、わたしがいないときとかには、部屋に上がり込んだりしているのではないかと想像する。イヤだけれども、今は窓を閉め切ってしまうことは出来ないだろうと思う。でも、もしも窓を閉めてしまってミイが外に出られないようにしたら、ミイはどんな反応をするだろう。

 昨日観た野球中継、阪神対巨人の観戦、とても楽しかったので今日も観ようかな、とTVの番組表をみたら、どこも中継していなかった。それではと「ひかりTV」の番組表をみると、ちゃんと中継をやっている。よし、今日も観ようとチャンネルを合わせると、今日は雨で試合が中止だった。それでけっきょく、「ひかりTV」配信のヴィデオ、サイレント映画ばかり三本も観てしまったけれど、どれも面白かった。

[] 「狂へる悪魔」(1920) ジョン・S・ロバートソン:監督  「狂へる悪魔」(1920) ジョン・S・ロバートソン:監督を含むブックマーク

 これはつまりスティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」の最初の映画化で、昨日「悪魔スヴェンガリ」で観たジョン・バリモアの主演。これで観ると、善の側の人格であったジキル博士は、慈善家として救貧施設も経営しており、これは先日観たベラ・ルゴシ主演の「ロンドンの暗い影」でベラ・ルゴシが視覚障害者救済院を経営していたのと対応していて、今さらながら、「ロンドンの暗い影」が「ジキル博士とハイド」から多くのプロットを拝借していたことがわかる。「悪魔スヴェンガリ」ではジョン・バリモアがベラ・ルゴシの「魔人ドラキュラ」と相似形の演技を見せているし(この二本の作品はどちらも1931年製作ということで、どちらが先かというのはよくわからないけれども)、このジョン・バリモアとベラ・ルゴシという、初期の怪奇映画で活躍したふたりの俳優のそれぞれの出演作、その人生を比較して考えると興味深いものがある。ふたりは共に1882年生まれだし、その晩年にはアルコールやドラッグに依存して身を持ち崩し、俳優としての仕事にも恵まれなかったらしい。
 これは、Wikipedia のジョン・バリモアの項目から。

(‥‥)晩年にはB級映画で自らをカリカチュアしたような役を演じるまでに落ちぶれていた。4度の結婚にもすべて失敗し、失意と貧困のうちに60歳で亡くなった。

 そしてこちらは、同じくWikipedia のベラ・ルゴシの記述から。

私生活では4度の離婚を経験、戦争の古傷を癒すために始めた薬物の依存症に陥り、転落して悲惨な末路を辿った映画スターの典型として伝説的存在となった。この点は誇張して伝えられた面もあり、5番目の妻と共に比較的穏やかな晩年を過ごしたともいわれる。

f:id:crosstalk:20100715165926j:image:right この「狂へる悪魔」のジョン・バリモアの演技も印象に残るもので、ジキル博士からハイド氏へ変身するときの、身悶えして飛び跳ねて苦しむさまの迫真の演技、そしてハイド氏となってのファナティックな狂気を思わせる演技にも、鬼気迫るものがある。それでわたしなどは、ハイド氏として夜の街をうろつくシーンを観ていると、どうしてもJethro Tull のアルバム「Aqualung」のジャケットのイラストを思い出してしまう。このジャケットのイラストは、「街をさまよう乞食」的なイメージなのだろうけれども、見ていて何とも知れない恐怖感も抱かされるわけで、その恐怖感のイメージの源泉には、「狂へる悪魔」のジョン・バリモアのイメージが記憶されているわけだと思う。

[] 「結婚哲学」(1924) エルンスト・ルビッチ:監督  「結婚哲学」(1924) エルンスト・ルビッチ:監督を含むブックマーク

 続いて観たのがこれで、原題は「The Marriage Circle」。先日観たルビッチの「淑女超特急」もわたしには肌が合わなくて、ほんとうにルビッチは苦手だと思っていたのだけれども、このサイレント作品、なんというか、すこぶる面白かった。というか、サイレント映画の演出の醍醐味を楽しませていただいた、という感じで、観ていて何度も楽しい笑いにとらわれてしまった。
 この作品も、今まで観た(というほど観た作品はないのだけれども)ルビッチ作品と同じく、生活の苦労もないブルジョワとかプチブル階級の男女ののんきなお話で、そんなシビアな作品なわけないのだけれども、とにかく、「音がない」ということを逆手にとったような楽しい演出の連続で、小道具のみごとな使い方と合わせて堪能させてもらった。この映画に「音」が入っていて、俳優の声や周囲の物音が画面から聴こえて来たりしたら、それはいかにも不粋なことに思えてしまうだろう。サイレント映画とは「音が出ない」というマイナス要因で見られるものではなく、「音を排除した」という意識をこそ楽しめる作品があるのだということ。
 先に書いたように、さまざまな小道具、花だとか手紙、スカーフや拳銃などがほんとうにスクリーンの中で巧みに使い回されているのだけれども、そのなかでわたしが気に入ったのは、夫婦の朝食のテーブルの上に並んだコーヒーカップとゆで卵。卵はヨーロッパだから(この作品の舞台はウィーン)小さなスタンドのような陶器の上にのっているんだけれども、これが「夫婦」の象徴のように並んでアップになる。フロイト的にはあまりにあからさまなシンボルと読み取れるだろうけれど、こういうものをスッと、テーブルの上に並べられてしまうと、観ている方はグッときてしまうわけだ。
 そうか、ルビッチ監督はサイレント時代にこそその良さが発揮される作品をつくっていたのかもしれない。彼のそんな作品を探して、もっと観てみたくなってしまった。

 

[] 「國民の創生」(1915) D・W・グリフィス:監督  「國民の創生」(1915) D・W・グリフィス:監督を含むブックマーク

 ‥‥「本作品は放送時の時代背景により、現代では一部不適切と思われる表現が含まれておりますが、製作者の意図を考慮し、原作に忠実におおくりしておりますことを予め御了承ください。」というテロップが必要だろうという、ちょっとすごい作品。しかも長い。ここでは178分ということだけれども、これはあとで調べると通常は165分、アメリカのDVDのヴァージョンで190分で、どれとも合致しない。そもそもがこの「ひかりTV」での配信ヴィデオでは、字幕の部分がすべて黒地に白の日本語字幕のみに差し換えられてしまっている。これは厳密にいえば改変で、あまり好ましい処置とはいいがたいだろうと思うし、その句読点のない日本語の文章に意味を捉えにくい部分が(ひんぱんに)あって、だから、普通に原版に字幕テロップを挿入してくれれば原文を読んで判断したりも出来るのに、などと思う。ただ、この「ひかりTV」配信のサイレント映画は、よけいなBGMが付加されていないので完全に無音。これはとっても具合がいいのだけれども、この「國民の創生」にはオリジナルのスコアがついているという情報もあり、そういうのをカットしてしまったのなら、それは残念だと思う。
 で、作品は、アメリカの北部と南部に住まうふた組の家族の交友関係に、南北戦争以降のアメリカの歴史がからむというもの。冒頭に、「もしこの作品で描かれた戦争の酷さにより戦争が嫌いになれば努力は無駄にならないだろう」という文字が並ぶ。主語が示されないでわけのわからない日本語だけれども、戦争が嫌いになるのは観客、努力したのはこの映画の製作者のことだろう。いちおう、南北戦争からリンカーンの暗殺までが第一部という感じで、このあたりは史実に忠実に描くことを目指しているようで、南北戦争の描写、たとえばアトランタ市街の炎上シーン、食糧部隊奪還をめぐる南北両軍の攻防など、今観てもそうとうに迫力を感じるし、劇場でのリンカーン暗殺場面もリアルに再現しようと努力したらしい。そうそう、リンカーン殺人犯を演じているのが、まだ両眼の開いているラオール・ウォルシュだったりする。
f:id:crosstalk:20100715170039j:image:left おかしくなってくるのはこのあとの第二部に相当する部分、アフリカ系アメリカ人が自由を回復し、選挙権を得て議会にも議員を送り出すようになるあたりからの描写で、ほとんどホラーSFの世界と見え、わたしは「猿の惑星」を思い出してしまった。そう、いっぱんに「猿の惑星」は著者のピエール・ブールの捕虜体験から書かれたもので、あの世界を支配する猿は日本人のこと、ということらしいけれど、こういう作品を観ると、「自分にとっては猿に等しい人種が世界を征服、支配する恐怖」というのは、ヨーロッパ系のアメリカ人にとっては、まさにアフリカ系の人々への「恐怖」に裏打ちされたものではないのかと思う。そこに「猿の惑星」がアメリカでヒットした要因もある、とみた。第二部の主題はそういうアフリカ系市民の増長に耐えられなくなったヨーロッパ系の人々が、「自警団」的にKKK団を組織し、アフリカ系市民の横暴を断ち切って行く、というもので、タイトルの「國民の創生」の「國民」というのは、つまりはKKK団員のことをいっているらしい(原題は「The Birth of a Nation」)。アフリカ系市民がリンチに遭う、という描写もあるけれど、被害者は「奴隷」の立ち場を守ろうとしたアフリカ系市民で、加害者は自由と権力を得た同じアフリカ系の人々ということにされている。そんな暴力を裁くためにKKK団員はアフリカ系市民を捕え、「正当な裁きである」として殺害する。まあとにかくすごいことだらけなのだけれども、映画技術的にみれば、いまでも観客を熱狂させるようなスペクタクルあふれる演出を創出した作品としても名高い、ということになる。特にラストの、アフリカ系の人々に追い詰められるヨーロッパ系市民、追い詰めるアフリカ系の人々、救うために騎馬隊として疾走してくるKKK団員の映像のカットバックなど、やっぱ手に汗を握って観てしまうことになるだろう。
 南北戦争後、1975年にケンタッキー州で生まれたグリフィス監督にとって、この作品で描いた南北戦争後のアメリカの姿は特に政治的に誇張しわい曲したものでもなく、自分が幼い頃にじっさいにまわりの環境から学び、受け継いだ意識だったわけだろう。グリフィス監督はこの映画に政治的意図を持ち込んだつもりもなく、まっとうな常識をここで描いたつもり、だったらしい。彼がいう「戦争の酷さ」というのは、自由など認められるべくもない人種の人々が、自由や人権を得るために戦ったりすることをいっているのだろう。しかしこの映画、舞台を1930年代からの東ヨーロッパにして、アフリカ系アメリカ人をユダヤ人と置き換え、KKK団をナチスとすれば、ほぼ同じコンセプトの映画になってしまう。もしもドイツ人がそのような映画をつくっていれば、今ならばとうぜんに一般には上映禁止されるだろう。リーフェンシュタールの「意志の勝利」でさえ、さんざん誹謗中傷を受けることになるけれど、この「國民の創生」の上映を阻むものはどれだけあるのだろう。ちなみに、この映画でのほとんどのアフリカ系アメリカ人の役は、顔を黒く塗ったヨーロッパ系の役者が演じており、そのこともまた、非難されることとなる。
 まあ、この作品のあとに「猿の惑星」を観ると、何か違って見えるかもしれない。特に、ティム・バートン版の方が過激そうだけど。




  

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■ 2010-07-13(Tue)

 スーパーへの買い物の帰り、公園にミイがいるのが見えた。外でいったいどんなことをやっているのだろうと見ていると、公園の木の幹に前足をかけて、ガリガリと爪をといでいた。‥‥ミイは、えらい! わたしの部屋のなかで壁だとかで爪とぎしないで、外でやってくれているわけだ。まあ、部屋のなかにはミイにとって心地よい爪とぎスポットがない、野良時代の習性が抜けないだけ、ということだろうけれど、「おまえはいいネコだねえ」と、ほめてやりたくなる。

 ワールドカップも終了してしまった。先日観た決勝戦の興奮の余熱で、なにかスポーツ中継を観たくなってしまい、BSで放映していた阪神対巨人のプロ野球中継を観る。今年の阪神は特に好調で、先週見たスポーツ新聞の見出しには、首位巨人に1.5ゲーム差まで迫っていると出ていた。で、中継を観始めると、じつはもう0.5ゲーム差までつまっていて、このゲームに勝てば阪神が首位になるのだった。ちょっと観る視線にも熱がこもる。で、今年の阪神、野手の助っ人が久々に強力だということは聞いてはいたけれど、ちゃんと観るのはもちろんこの夜が初めて。シュアなバッティングのマートンと、でかい一発を量産するブラゼルというコンビは、往年のラインバック、ブリーデンというコンビを彷佛とさせられる。いや、わたしはあのラインバック〜ブリーデン時代の阪神の大ファンだったので、なんだかちょっと、昔の映像のプレイバックのような感覚で観てしまった。その二人の活躍もあって(中軸の素晴らしい集中打!)、四回にはいちどは逆転するのだけれども、そのあとに一塁手ブラゼルへのきびしい打球(記録はエラー)で、同点にされてしまった。藤川も久保田も導入しての、延長にもつれこむ大熱戦になってしまうけれど、藤川、久保田とも、不運もあってランナーを背負っての苦しい展開。ついに12回、そのあとのピッチャーが、なんと3ランを浴びてしまった。意外とこんなあとに再度逆転したりするのが阪神の魅力と、さらに熱を込めて観戦。鳥谷の2ランが飛び出して、ほら、やはり面白い。だけどやはりそこまでで敗戦。まあいいや、あまり早いうちに首位になってしまうとまた落っこちてしまう。今はこの位置でOKだよと。
 久しぶりに観た野球、面白かった。だけど、九時半ぐらいまでには試合も終了して、そのあとにヴィデオでも観られるだろうと思っていたのが、終ったのが十時半になってしまった。今日観たヴィデオは一本だけ。

[] 「悪魔スヴェンガリ」(1931) アーチー・L・メイヨ:監督  「悪魔スヴェンガリ」(1931) アーチー・L・メイヨ:監督を含むブックマーク

 夕方観たヴィデオ配信で、ジョン・バリモアが主演でベラ・ルゴシばりの眼力を披露するサイレント作品。原作は、「レベッカ」などのダフネ・デュ・モーリアの祖父、ジョルジュ・デュ・モーリアとのこと。
 催眠術っぽい魔術を操るらしい音楽家スヴェンガリが、トリルビーというモデルをやっている少女と出会い彼女に惚れ込み、その行動を支配して歌手に仕上げ、彼女とのコンビで時の人となる。しかし彼女のほんとうの心を得ることは出来ず、スヴェンガリを苦しめる。そのことが彼の心身も蝕んで行くようで、彼女の独占欲からもリサイタルをキャンセルするようになり、エジプトの場末の酒場での舞台に甘んじるようになる。トリルビーと将来を誓い合っていた男がそのエジプトまで彼女を追って来ているが、その男の前でスヴェンガリは倒れる。トリルビーへの呪縛が解けないことを確認してスヴェンガリは息絶える。
 冒頭、貧困時代のスヴェンガリと彼の周辺の画家などの、パリに巣食うボヘミアン連中の描写がちょっと変で面白いけど、そんな中で、スヴェンガリの残忍性や情熱、そして悲しみもふっと描かれているあたりがいい感じ。この彼の魔力ともいうものが、つまりは音楽そのものの持っている蠱惑的な性格と結び付いているだろうという描写も、この非現実的(ちょっとホフマン的)なロマンに現実性を与えていた印象。ラストがエジプトの酒場、というのもいいけれど、あまり演出面での工夫がなかったのは残念な気もする。ただ、スヴェンガリが夜なかに自分の部屋から魔力でトリルビーを呼び出す場面、スヴェンガリの(「魔人ドラキュラ」風な)眼のアップ映像から一気にカメラが引き、そのまま彼の全身像、さらに窓から外へ抜け出してパリの夜の街へ飛んで行くミラクルショットには、アントニオーニの「さすらいの二人」のラストもぶっ飛んでしまうのではないかと驚いてしまった。


  

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■ 2010-07-12(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 というわけで、11日の夜から12日の朝まで、ずっとTVに向き合ってすごしてしまった。参議院選挙の開票結果は、開票の始まった午後八時をすぎると瞬殺で全議席数の開票予測が出てしまい、それが結果として正確な数字なわけだから、ほとんどその先を見る気が失せてしまう。こういうんだったらもう、わざわざ手間をかけて開票作業を夜遅くまでやる意味がないみたいな。だから投票時間が終了したら「おつかれさま」ということで、すべての投票用紙を焼却炉へ運び込むのが合理的。そうなると投票行為じたいをやる必要がなくなるから、「あの候補者、あの政党に投票しようと思う」と考えるだけですんでしまうようにする。
 こんかい、M党の敗北は誰もが予想したとおりだけど、その見返りはJ党議員の増加、M党J党と大差ない新自由主義的選択の政党の勝利ということ。やはり皆が望んでいるのは、新自由主義国家としての日本の発展なのか。

 夜中、BS舞台中継で歌舞伎を見ていたら眠くなってしまい、ちょっと睡眠。目を覚ましたらもう、ワールドカップの決勝、オランダ対スペインの時間だった。これも、始まる前からパウルくんのご占断でどっちが勝つかわかっているのだけれども、やはりライヴ中継は興奮するわけで、しかも延長にもつれ込む、決勝にふさわしい格闘技みたいな熱戦だった。まあ攻撃的な争いというよりは、どちらのチームも防ぎょに力を注いだタイプの闘いという印象だったけれど、それだけに決勝のゴールには興奮してしまった。
 これでワールド・カップもおしまい。昨日の三位決定戦を見られなかったのがちょっと残念なところ。外をみるともうとっくに明るくなっていて、ほとんど六時に近い時間だった。これからでももう寝ようと思ってベッドの上で寝転がったけれど、これがぜんぜん眠れず、それでもなんだか頭はぼんやりしている。眠りたい、眠れない。こんな感覚で今日いちにちずっと過ごしてしまった。ヴィデオ配信も見ないで、ひかりTVの番組で放映されている映画をいくつか録画した。これは、「ひかりTV」を解約したあとに、まとめて観るつもり。ただ気にかかった映画をどんどんテープに録画して行き、記録も何も取っていないので、どのテープのなかにどんな映画を録画してあるのか、まるでわからなくなっている。再生してみてのお楽しみというところさ、と、自分の怠惰さを棚にあげて勝手なことを考える。

 押し入れのミイは夜中のあいだ、いち時間にいちどぐらいの頻度で外へ出かけて行き、十分ぐらいして戻って来るというのを繰り返している。夜遊びが好きなのはまえから知っていたけれども、ほんとうに夜行性。いまでも、わたしがパソコンの前に坐っていてふっと横をみると、ミイがわたしに並ぶように横になっていたりする。そういうときはたいてい、かまって欲しいというときなので、からだをなでたり声をかけたりしてやる。目を細めてカーペットをバリバリむしり、のどをゴロゴロ鳴らせて喜ぶ。そういうミイの姿を眺めているのが、わたしの日常になりつつある。


 

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■ 2010-07-11(Sun)

 今日から明日にかけてはいそがしい。というか、寝ていられない。つまりはただワールドカップの決勝を見たいだけなのだけれども、早く寝て、試合が始まる前に起きようとするのはぜったいうまくいかないだろうから、選挙の開票結果を見たりしながらずっと起きていようと。夜中にはBSで歌舞伎座での最終公演から「助六由縁江戸桜」の放映もあって、それが終るころにちょうど決勝戦が始まる。これでスケジュール完成。

 昼間はだらだらとすごし、暗くなってから「ひかりTV」のヴィデオ配信を二本観た。

[] 「怪物の花嫁」(1955) エドワード・D・ウッド・Jr.:監督  「怪物の花嫁」(1955) エドワード・D・ウッド・Jr.:監督を含むブックマーク

 まだ配信ヴィデオのリストに、観ていないエド・ウッド監督の作品が残っていた。原題は「Bride of the Monster」で、ベラ・ルゴシ主演。彼はなんでもこのとき重症のドラッグ中毒で、妻にも逃げられて自殺願望の強かったベラを救うために、エド・ウッドが企画した作品だったとか。美談だけれども、このときエドにも製作資金はなくて、出資者を出演させたり既存の他作品のフィルムを流用したり、でかいタコの模型をよその撮影所から盗んだり、そうとうに苦労したらしい(このあたりの事情はティム・バートンの「エド・ウッド」でも描かれていたはずだけど、わたしはあまり憶えていない)。
 映画は要するにマッド・サイエンティストものだけれども、演出は前に観た「プラン9・フロム・アウタースペース」に匹敵する粗雑さであることに変わりはない。それでも、例えば出演者が沼地の薄気味悪さを話しているとき、画面はその沼地を横移動で捉えている場面だとか、女性記者が車で事故を起こすところ(普通なら道から外れて下に落ちるところを、斜面を上に登って木に激突している)など、いいセンスしているではないか、と思ってしまう場面もある。いちばんグッとくるのは、ベラが故国で認められず流浪の身の上であることを嘆き、世間への復讐を語るあたりで、監督もそこに自分の境遇を重ねて演出していたのかもしれない。とにかく、映画作品であらわしたいこと、その映画への情熱だけは作品からはっきりと感じ取ることが出来るということ、そのことこそがこの監督が「最低の監督」と呼ばれながらも、いっしゅ敬愛の念をいつまでも持たれ続けているだろう大きな理由だと思う。

[] 「ベラ・ルゴシのジャングル騒動」(1952) ウィリアム・ボーディン:監督  「ベラ・ルゴシのジャングル騒動」(1952) ウィリアム・ボーディン:監督を含むブックマーク

 もう一本、晩年のベラ・ルゴシの出演作を。これは「ひかりTV」では「ベラ・ルゴシ対ブルックリン・ゴリラ」というタイトルになっているけれども、一般に知られているタイトルは「ベラ・ルゴシのジャングル騒動」。原題は「Bela Lugosi Meets a Brooklyn Gorilla」と、原題からしてキワものっぽい。じつは、この作品こそ、映画「エド・ウッド」でベラ・ルゴシ役を演じたマーティン・ランドーが、この映画に比べれば「プラン9‥‥」は「風と共に去りぬ」のように見える、と語った映画。
 ‥‥う〜ん、ひどい。このひどさは尋常のものではない。そして、それはエド・ウッド映画のように演出が滅茶苦茶だとか、ストーリーのつじつまが合わないとかいうものではない(まあ、ポリネシアあたりが舞台のはずなのに、ライオンやキリンなどアフリカ・サバンナの動物が出て来るけれどもネ)。そういう意味ではこの映画、一本の映画を仕上げるためのテクニックはまっとうであって、プロの仕事を思わせるものがある。そういうのではなくて、この映画がひどいのは、その「こころざし」の低さというか、映画館の観客席をじゃがいもの転がる倉庫かなにかのように思っているんじゃないかとか、観客の財布から金さえまき上げればそれでOK、みたいな意識から感じられる「ひどさ」じゃないかな、と思う。端的にいえば、この映画の基本はジェリー・ルイスとディーン・マーティンのコンビの「底抜け」シリーズの剽窃で、わたしだって「底抜け」シリーズを見た記憶は残っているけれど、ここまで同じことをやるのは、「パロディ」だとか「オマージュ」などといえるものではなく、ただ見ていて不愉快になってしまうたぐいの「マネ」でしかないと(じっさい、ジェリー・ルイスはこの映画をみて怒り、出演者を糾弾して訴訟を起こしたらしい)。
 ベラ・ルゴシに対しては、いちおうのリスペクトをはらって演出しているようだけれども、基本的には「映画のドラキュラにそっくりなマッド・サイエンティスト」という役振りで、むかしはそれなりに知られていたけれども、今は落ちぶれてしまった俳優にしか振られない役だろう。ベラも落ちぶれていなければ決してこのような映画に出演を承諾するわけもない。見ていてほんとうにかわいそうに思ってしまった。しかも結末がいいかげんな「夢オチ」という、観客をバカにしたような演出で(「夢オチ」だからダメ、ということはないけれども)、まあひとことでいえば「くだらない作品」だということで、おしまい。うがった見方をすれば、ハリウッド・スタジオから眺められた、ハリウッド的な価値観、世界観(ポリネシア住民の描写など含めて)がすなおに表出した映画、ということも出来るのかもしれない。勉強になりました。


  

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■ 2010-07-10(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 ミイがTVの映像に反応して、面白かった。
 いままでTVの画面になどまったく興味を示さなかったミイだけれども、いつものように和室でわたしのとなりにすわっていたのが、とつぜんに起き上がって、リヴィングから和室に向けてあるTVの方に近づいて行った。どうしたんだろうと思ったら、ちょうどTVでは自然のドキュメンタリー番組をやっていて、野鳥の生態を見せているのだった。その鳥の姿に反応してしまったミイ、ブラウン管の前にまさに適正の距離ですわって、食い入るように画面を見つめている。木の枝にとまる鳥のアップ画像になったとき、ついにミイはブラウン管に近づいてTVの台に足をかけ、ブラウン管の鳥の姿に「ちょん、ちょん」と前足を差し出した。その体勢でしばらくブラウン管にしがみついていたけれど、「取れないじゃん」とあきらめたのか、またもとの位置に戻って一所懸命見ている。それが、画面が草原の中の地面につくられた鳥の巣をとらえ、カメラがその鳥の巣へズームして行くと、それを見ていたミイは、ほんとうにびっくりしたように後ずさりする。なるほど。自分の視点が変わらないで自分は動かないでいるのに、見えているものが急に近づいて来たのだから驚いたわけだ。正面から向かって来る汽車のフィルムに驚いて逃げたという、初期の映画の観客とおんなじ種類の反応だろう。理にかなってる。
 それでもうTVがイヤになっちゃったのか、ミイはすぐに押し入れの中に戻って行ってしまった。

 今日は梅雨のあいまの快晴。夜は新宿でBさんCさんと飲む予定なので午後から出かける。昨日も同じ時間の電車に乗っていて、昨日はこの線に残っている四人がけのボックス席にすわり、最後までその四人分をひとりで独占してしまったけれど、今日は比較にならないぐらい混んでいる。新宿駅周辺にも人があふれていて、やはり人は天気がいいと虫のように外に出てくるのだな、と思ったり。二人と合流して、わたしの手元には居酒屋チェーン店の割引券がかなりあるので、そのチェーン店へ行く。しかし、予約客が多いので時間制限させてくれ、などといわれてしまう。あまりに時間が短いので、「じゃ、いいです」と店を出て、同じチェーン店の別の店に行ってみる。こちらも時間制限をいわれたけれど、少し長くいられるようなので、この夜はここで飲むことにした。
 先週、Cさんは練馬から高幡不動へ転居したそうなので、今日はその転居祝い。って、じつは、その高幡不動に住むカノジョをたよって、カノジョ宅の近く(自転車で五分の距離、ということ)へ転居したらしい。よーやるよ、って感じだけど、Bさんは「じゃあこれで、看取ってくれる人ができたわけだ」と。たしかに、そういうことは切実な問題と感じられる年代だよね、と。いっしょに生活をするのではない、そういう関係というのはちょっと理想的かもしれない。わたしも、性格的に人といっしょに生活することなどぜったいに出来そうもないし(ネコとなら可能)。
 そういうわけで、店の時間制限もあるのでこの夜は八時頃でおひらき。あまり遅くならないうちに帰宅することが出来た。


  

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■ 2010-07-09(Fri)

 季節はもうすっかり夏で、特に今年はムシムシと暑い不快指数の高い日が多い。ずっと昼食は焼きそばに少し豆板醤をまぜて、「これがいちばん」とリピートしていたけれど、さすがに今の季節には暑苦しくなった。そこで、そうめんとかざるそばとかいうメニューが出て来るけれども、こいつは何というか食後に力が出て来ないというか、スタミナ源になると認定することがむつかしく、いや、もうちょっと‥‥、などと考えることになる。それでさいきん凝っているのが「もやしスパゲッティ」。めちゃ簡単で、もやしとウィンナーなどをちゃっちゃっと炒めて茹でたパスタとからめ、醤油で味付けして削り節をトッピングするだけ。さっぱりしていてそれなりにヴォリュームもあり、なかなかよろしい。もう三日ぐらいこのメニューが続いている。

f:id:crosstalk:20100710111332j:image:right それで、ミイの方も夏バテなのか、キャットフードをあまり食べない。なでてやるとかなりガリガリに痩せているのがわかる。やはり安いキャットフードではなく、ミイの気に入るようなものに変えてあげなくてはいけないだろうと思う。子ネコたちは順調に生育しつづけているようで、今日覗いてみると、もう以前のようにヒクヒクひくついて動くのではなく、しっかりと自分の足で、もぞもぞと動いている。目も見開いて、ライトで照らすとまぶしそうに顔をそむけたりする。黒ブチのいちばん少ない一匹がミイの目を引き継いで、切れ長のすてきな目をしている。このコはぜひ飼い続けたいと思う。

 今日もまた浅草へ「Whenever Wherever Festival」というのに出かける。電車に乗ろうとして、ふとケータイを取り出すと「不在着信」の文字が出ていた。どうもこの新しいケータイは使い勝手が良くないというか、慣れないというか、ついマナーモードにしっぱなしで放置していたり、着信音が鳴っても気が付かなかったりしてしまう。電話はBさんからだった。Bさんに電話すると、こんどはアチラが出ない。ターミナル駅に着いてケータイを出すと、また「不在着信」と出ている。なんで気が付かなかったんだろう。とにかくまたBさんに電話してやっと通じるけれど、Bさんが電車の中なのでまたあとで、ということ。これからわたしも電車に乗るのでややっこしい。しかもケータイのバッテリーが切れそうで、「充電して下さい」とかのメッセージが出ている。このメッセージが出るとあっという間にバッテリーがあがってしまうし、特に電車で移動するときには電力消費が高くなるので、電源を切って電車に乗る。
 上野駅に着いて、ケータイからだとすぐに通話不能になるおそれもあるので、じつに久しぶりに、公衆電話を使おうと考えた。その公衆電話の前で小銭を探していると、タイミングよくBさんからのコール。ざんねんながら、公衆電話を使う貴重なチャンスを逸してしまった。話の内容は、Cさんから「明日会おう」と連絡があったので、明日飲もうというお誘いだった。ちょうど自分でも「またそろそろBさんと飲もうか」と考えていたところだったのでグッドタイミング。先週の時点ではまったく予定していなかったのに、今週は三回も上京することになってしまった。おそらく来週もさ来週もまた上京する予定があるので、ピンチ。

 浅草に着いて少し小雨模様。開演に時間もあるので、浅草寺の方へ行ってみる。思いもかけないおおぜいの人で、今日は「ほおずき市」だったのだ。この日参拝すると四万六千日参拝したことになる。わたしは四〜五年まえにもこの「ほおずき市」に来て参拝しているので、今日参拝すればあわせて九万二千日参拝することになるではないか。これは計算すると二百五十年分に相当するので、寿命を超えたムダな参拝になるのではないのか、などと考えてしまうが、どうせマトモに信じているわけもないので、来世分も合わせての参拝、ということにしてさい銭を投げ込んで手を合わせる。ほおずき市をぐるりと見てまわり、すみっこの適当な場所で弁当を拡げて、ちょっと早い夕食にする。面白いことに、食べ終えたとたんに雨が激しくなって、傘なしでは歩けないほどになってしまった。わたしが弁当食べ終るまで待っていてくれたとは、これはさっそくのご利益にちがいないと思うことにした。それで、会場へ。

[] Whenever Wherever Festival 2010 「くじ引きラボ」@浅草・アサヒ・アートスクエア  Whenever Wherever Festival 2010 「くじ引きラボ」@浅草・アサヒ・アートスクエアを含むブックマーク

 ざあっとした会場で、好きなところに座ってビールを飲みながら観る感覚は、この季節に心地よい。このプログラムもよく内容がわかっていなかったのだけれども、ずっと前に出演者たちでくじ引きをしてグループ分けされていて、今日はそのグループでの共同作業の結果のお披露目、ということらしい。まあ以前わたしが関わっていたイヴェントでも、くじ引きで出演者の組み合わせをその場で決め、即興で共同作業をやるというような内容だったりしたわけだけれども、今回はくじ引きで組み合わせを決めてから本番までにひにちがある。それでどんなのになるのか、というあたりに興味を持つことにした。三組の舞台。
 さいしょの組は、美術の井出実さんによるライヴ・インスタレーションという雰囲気。とっちらかった空間がもぞもぞとうごめいている感覚で、美術のライヴというとよくライヴ・ペインティングとかになりがちだけれども、なるほど、インスタレーションのライヴの方がずっと面白いな、などという感想。
 二組目は、チェルフィッチュなどの舞台で活躍の変人、山縣太一氏をメインにした演劇的試みという感じ。「ぼくはこういう人なんです」というトークで人をくったシチュエイションをつくり出す、山縣太一氏のこのパターンのパフォーマンスは、前にも観た気がする。今日は醤油味。
 三組目はわたしの知人の多い組み合わせで、照明の吉岡氏、音の舩橋氏、スカンク氏など。けっきょくはスカンク氏の連れて来たゲストのドラマーを入れて、舩橋氏とのトリオの演奏がメインになる。舩橋氏、スカンク氏は共に、大橋可也氏の舞台で音楽をつとめる二人だけれども、音楽の方向性は同じというわけでもなく、大橋氏の公演でも二人の共演はない。あとで聞いてみたらこの日が初顔合わせ、初セッション(リハ無し)だったらしい。ちなみに、聞いていたのではスカンク氏と吉岡氏は以前、同じ舞台の仕事で共演(?)したことはあったとのこと。まあ、生演奏を聴くというのもじつに久しぶりだったし、メロディを聴かせるのではない、持続音をキープするいっしゅ音響的な試みはいまのわたしにフィットしたし、それなりの力も感じた良質の演奏だった。大橋氏の舞台で二人が共演してもいいんじゃないか、と。

 そういうわけで、じつはいろいろと楽しめるこの日のイヴェントだったけれども、けっきょくわたしはダンスなど観ていなかった。やっている人もいたみたいだけれど、いっしょの共同作業になっているとも思えないと感じ、ほとんど視線を向けることもしなかった。失礼いたしました。


  

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■ 2010-07-08(Thu)

 子ネコをどうするか、いつごろ施設へ連れていけばいいのか考える。時期的なことに関しては、どんな選択をしても残酷な選択であることに変わりはないのだけれども、例えば、乳離れしていないうちにその姿が消えてしまうと、母ネコにはショックが大きいのではないのか、少なくとも乳離れして、母ネコが子離れの段階に入ってからなら、子ネコが急にいなくなっても多少は自然に受け入れるのではないかとか考える。反面、成長してかわいくなってしまうだろう子ネコには、わたしの側で情がうつってしまうということもある。施設の側の事情というのもあり、生後三ヶ月までの子ネコ、それ以上成長したネコのあいだでは施設での引き取り料金が何倍も変わって来る。わたし自身も、このままこの部屋で子ネコが育っても、夏のうちにはなんとかしなくてはいけないと思っている。それが来週に急に、というようなことになるかもしれない。

 ミイは新しく買った猫缶が嫌いらしく、まったく口をつけようとしない。だいたい好き嫌いが激しいのか、めざしなんか出してあげても頭の部分だけそっくり残してしまう。グルメなのだろうか。それで、部屋の中で皿についである水もほとんど飲まないで、いちいち外に出て、ベランダにプランター用に置いてあるバケツの中の水を飲む。または雨のあと、アスファルトの上の水たまりの水を飲む。何か水に関してもグルメなこだわりがあるのかもしれない。猫缶はまだ三缶も残っているので、困った。

 きのう浅草へ行くのに上野駅で降りたとき、いまは選挙戦の盛りなわけで、ウチワ代わりに使えるJ党のチラシを受け取ってしまった。カバンに入っていたそのチラシを読むと三つの公約めいたことが書いてある。まずその一、デフレからの脱却、その二、公共投資を増大させる、その三、外国人参政権、人権侵害救済法などに断固反対する、ということ。読んで、すごいなーと感嘆。どれをとっても弱者救済とはほど遠く、格差を増大させることになりそうなものばかり(デフレ脱却についても、「給与水準を引き上げるためにも」と書いてあるあたりに、まずは企業の利益をという意志が見えている)。去年見ていた国会中継でも、そのとき野党になったばかりのJ党議員が、「上から目線」の弱者救済政策ばかりだと新しい政権の政策を批判していた。このときも「すごいこというなー」と驚いたものだった。福祉や社会保障ということについて、考えたこともないんだろう。しかし、政権を取ったM党にしても、その後の展開でやはり、新自由主義的国家を目指していることはずっと明白になった。どっちもどっち、というところだけれども、やはりJ党にはこれからもウルトラ右翼的政策を打ち出していただいて、わたしを驚かせてほしい。

[] 「海底二万哩」(1916) スチュアート・ペイトン:監督  「海底二万哩」(1916) スチュアート・ペイトン:監督を含むブックマーク

 今日もいくつか「ひかりTV」のヴィデオ配信を観た。まずは、サイレント時代の作品でジュール・ヴェルヌもの。最初公開されたときには、ちゃんとマイル換算して「海底六万哩」という邦題だったらしい。公開当時は「初の本格的水中撮影」を売りにしていたらしく、海中を泳ぐサメの映像などに観客はエキサイトしただろう。作りモノの巨大タコにダイヴァーが襲われるシーンなどもあり、今観ると素朴なものだけれども、当時の撮影スタッフの苦労を想像すると楽しい。
 映画作品としてはストーリー展開を絵で伝えていく紙芝居映画で、ほとんど観るべきものはない。ヴェルヌ原作の「神秘の島」まで取り込んだ脚本なのだけれども、それぞれのエピソードがバラバラなままで、よくわからないまま終ってしまった。さらに、ネモ船長とは復讐に燃える元インドの王子だったのだ、という新解釈ストーリーをも盛り込んでいるのだけれども、そのネモ船長、アフリカのサンタクロースがレゲエのおやじになったような珍妙な衣裳とメイクで、当時の異文化へのイマジネーションというものを考えても、ここまで珍妙奇怪な想像力にはちょっと驚かされてしまう。

[] 「マリッジリング」(2007) 七里圭:監督  「マリッジリング」(2007) 七里圭:監督を含むブックマーク

 あと二本、どちらも渡辺淳一原作のものを観る。ここで、前から観たいと思っていた七里圭監督の作品を、ようやく観ることが出来た。‥‥なるほど、とても上手い監督だなあ、という印象。ストーリーはティピカルな「不倫モノ」で、その女性からの視点で描かれた、上司の課長に惹かれはじめてから冷めるまでのドラマ。
 だいたい、渡辺淳一の小説など、読んだことはおろか、本を手にしたこともない(手が汚れる)のだけれども、彼の原作のTVドラマや映画(「失楽園」、だったなあ〜)などを見ていて、想像はついている。つまり、男にとってじつに都合のいい女性があらわれて、都合のいい展開になるけれども、アリバイ工作的に男の愚かさをあてがって、なんとなく作品として都合よくオチがつく、そういうものだと思っている。まさにこの「マリッジリング」も、そのとおりの展開なのだけれども、作品として、まずは映画技術的に救われているということと、この脚本に女性が加わっているということから(西田直子という人と七里圭監督との共同脚本)微妙な女性心理の揺れ(こういうのはわたしはよくわかるわけではないけれども)を引き出し、繊細な演出でちょっと美しい作品にしているな、という印象。
 ファーストシーンの、電車の中のヒロインの姿、夜の街を走る電車のショット、駅のホームのショットなど、細かいショットの積み重ねが情感を出していていいなあ、と思って観始める。あちこちに短い「捨てショット」がはさみこまれているのもいい効果を出していて、監督の力量を感じさせる。後半、ヒロインが男に電話するシーンに使われる満月のショットとか、心に残るものがある。
 お膳立てはちょっとTVのトレンディ・ドラマ的で、見栄えの良い景色、おしゃれな夜のバー、一人暮らしにしては豪華で広いヒロインのアパートとか、ありがちな選択にも思えるのだけれども、それがちゃんとヒロインの心象風景として昇華されている印象はある。特に、ヒロインがその男(会社の上司)と、バーへの階段を下りるショット、その奥に大きく水面の揺らぎが反射しているのなど、「これから水中へ潜るのだ」とでもいうようなヒロインの心理と結び付いているだろう。男と遭うときのこの水のイメージは繰り返して何度か出て来て、さいごのバーの場面では、二人の席のまわりを水槽がぐるりと取り囲むまでになる。とても、いい作品だなあ、と思ったし、前からこの監督の作品「眠り姫」を観たいと思っていた(なかに、わたしの知り合いの人形作家の作品が使われているらしい)のだけれども、いつもレイトショーというネックで観ることが出来ないでいる、その「眠り姫」を、やはりどうしても観たくなってしまった。こんどは、レイトショーでも行くことにしよう。

[] 「泪壷」(2008) 瀬々敬久:監督  「泪壷」(2008) 瀬々敬久:監督を含むブックマーク

 その、渡辺淳一原作のもう一本。どうも同じ短編集に収録された作品の映画化で、製作会社が同じところからも、そういう企画だったのだろう。そして、こちらは、瀬々敬久監督である。瀬々敬久監督はかつて、井土紀州の脚本とのコンビでほんとうに素晴らしい作品を作り続けていた。なかでも「雷魚」などは、今思い出してもこれはスゴい傑作だったと思っている。以来、それなりに彼の監督作品はチェックして来ているつもりだけれども、ときどき、企画もので「これ、どうよ?」というような作品と出くわすときもあり、またむかしのような力強い作品を観てみたいと思っている。その瀬々監督、去年は「頭脳警察」を被写体にしたかなり長尺のドキュメンタリーを発表し話題になってもいたけれど、体力的に自信のないわたしはけっきょく観に行かなかった。それがまた、今年は「ヘヴンズストーリー」という、これまた5時間以上のドラマを製作したらしい。これはね、今月観に行くつもりでチケットも買ってあるので、楽しみにしているところ。そんな瀬々敬久作品である。
 しかししかし、いったい、どういう興味でこの渡辺淳一原作の映画化に取り組んだのか、そのあたりのことはまるでわからない。瀬々監督と渡辺淳一、まるで水と油のように感じていたわけだし、予想される結び付くポイントとしてはポルノ的展開、ぐらいのもの。むかしの井土紀州とのコンビでのような、地勢学的な地点から眺められた犯罪ドラマなどという地平からは程遠いだろうという予感。
 ‥‥観終ったあとにちょっと調べたところでは、原作からは大幅な改編をおこなっているらしいのだけれども、それがどういうものだったのかなどわかるわけでもない。ただ、こちらでも女性脚本家(佐藤有記〜この人も、井土紀州のように自分で監督もやっている)による作品になっているわけで、そのあたり、渡辺淳一の小説は女性の脚本家の手を通すように、という暗黙の了解があるのかもしれない。しかしそれでもやはり、いったいなぜ、瀬々敬久監督がこんな作品を‥‥、という疑問は拭いきれない。ただ物語をスペースシャトルだとか宇宙探険にからめたあたりに、例えば彼の(ほとんど憶えていない)「DOG STAR」とかを無理矢理思い出して、じつは瀬々敬久監督は宇宙が好きなんだ、などと考えることは出来るかもしれない。それに、印象に残るいいシーンもあるわけで、始まってすぐの、地方のバス停留所に広角レンズで画面いっぱいにバスが入って来るところなんか、ああ、瀬々敬久監督のタッチだなあとか思うわけだし、終盤の、林の奥の池にボートで浮かぶ二人の女性の、(ほんとうに)驚くほど美しい映像など、こんなセンスも瀬々敬久監督にはあったのか(「ヴァージン・スーサイズ」のパクリか?)などと、妙な感慨を持ってしまうのもたしか。とにかく、このような散漫な印象しか残らない映画だった、ということはいえるだろう。そう、佐々木ユメカが出ていたのがうれしかった、けど。


  

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■ 2010-07-07(Wed)

 古い話題だけど、韓国の哨戒艦が沈没したという事件、アメリカや韓国その他の国の調査で、北朝鮮による魚雷攻撃によるものとされている。でもそんな報道、鵜呑みにしていいものかどうか、ずっと怪しく思ってる。北朝鮮が独裁国家でそのくらいのことやりかねないということらしいけど、アメリカだって韓国だって、そのくらいのねつ造はやりかねない国家であることに変りはない。日本の報道の大勢も北朝鮮犯行説を支持してるようだけど、これは近年ずっと続いている日本の仮想敵国を北朝鮮とするプロパガンダの一環として、十分理解できる。しかもこの沈没事件、普天間基地移設問題のまっ最中に起きているあたりにも謀略っぽい匂いがする、などと考えるのはあまりにうがった考えだろうか。ニュースを読んだ限りでは、引き上げられたとされる魚雷の破片が、北朝鮮の印刷物にある当国製魚雷に「酷似」している、という理由から推測されたものだったと思うけど、こんな理由で決めつけられるのだったら、世界は謀略ばかりがまかり通ることになる。って、じっさいそういう世界なのだろう。この事件が謀略かどうかはさておいても、いったいなぜ、いまの日本はそういう「仮想敵国」をつくりだし敵視することにやっきにならなければいけないのか。まあこんな日本だったら、国内から米軍基地が全面撤去するような日は、永久にやって来ないだろうと思う。

 今日は日帰りでお出かけするので、ミイをねぎらってまた猫缶を買って来た。朝ミイに出してあげたけれども、前のほどは気に入っていないようで、皿をなめるまでにがっついたりしない。やっぱり安かったからなあ、などと思ったりする。

[] Whenever Wherever Festival 2010 シェアプログラム【美香子@LOVE】@浅草・アサヒ・アートスクエア  Whenever Wherever Festival 2010 シェアプログラム【美香子@LOVE】@浅草・アサヒ・アートスクエアを含むブックマーク

 今日出かけたのはこれ。この「Whenever Wherever Festival」というのはずっと前にチラシを見ていたけれども、まったくわけのわからないイヴェント、という印象だったのでうっちゃっておいた。それが二〜三日前になって、今日のプログラムのキュレーターの黒沢美香さんからメールいただいて内容を知り、旧知のサエグサさんも出演するようだし、チケット料金も安いし(700円)、マチネなら楽に日帰り出来るので行くことにしたもの。
 雨の降りそうな天候を電車を乗り継いで、久しぶりの浅草詣で。ふうん、吾妻橋の上からはスカイツリーがアサヒビールのビルのあいだに見えることになるわけか、などと、知らない浅草の風景。ちょっと早く着き過ぎて、まだ開場していないアートスクエアの近所を歩いていると、この日の夕方から改装工事に入るというコンビニが在庫一掃セールをやっていて、あれこれと30パーセント引きとか半額とかで売っていた。ついつい、福神漬とか買ってしまう。

 会場でAさんとお会いしてあれこれと話を聞き、Aさんもこのイヴェントの明後日のプログラムのキュレーターなので、少しばかしこのイヴェントのことがわかったような、わからないような。その明後日の夕刻からのAさんが仕掛けるプログラムにも、知人があれこれと出ているようだし、それだけ観れば500円で済むらしいし、また来てみようかな、などと思う。
 けっきょく、この日のプログラムのことは、始まってみても様子がつかめないで観ていたけど、三人の出演者(振付家)の作品が並ぶ、そのふたつ目になってようやく、ちょっとわかって来た。プログラムにも書いてあったけれど、つまりは三人の振付家が創作プロセスを全員でシェアして、ミーティング、フィードバックをくり返して作られた作品をそれぞれが演じる、というものだったらしい。出演者(振付家)は、出演順に西脇さとみ、サエグサユキオ、堀江進司。三つを観終って、ああ、あの人の作品のあの「ゆがみ」はあちらの人の影響だったわけね、などと了解できる部分多し。だいたいがサエグサさんはダンスなどではない、もっと即物的なパフォーマンス系の作品をつくる人だから、あとの二人にそういう即物的な影響を与えていたのではないかと思う。おそらく堀江さんの持ち味は「変態性」とでもいえるようなもので、これでもって、たぶんいちばん真っ当なダンサーに近かったのではないかと想像される西脇さん(初見なのでわからないけど)の作品が、ちょっとばかしマリー・シュイナールめいたものに変質してしまったのだろうか。それぞれが影響を受け影響を与える関係性は、観終って思い出してみると面白いものでもあったし、ダンスといいながらもダンスからははみ出してしまっている、というのが全体の印象で、例えば夏場の冷たいおでんも美味しいものだ、とか、アイスの鯛焼きもいけるね、というような感覚の楽しさ。考えてみればもう最近のダンスというのにあまり興味持てないでいるのが正直なところなのだけれども、十五年ほど前ぐらいから、いわゆるコンテンポラリー・ダンス」というものが非常に雑種性を強めて、暴力的なまでに乱暴な生育をしていた時代の面白さというのは、こういうハイブリッドな試みをする人たちによって推進されていたのではなかったかと、遠い目をして考えてしまった。そういう面で、さすが黒沢美香さんのキュレーションと拍手したい気持ちもあるし、出来ればこのような試みを、顔ぶれを変えながらも継続してみたら面白い現象が出て来るのではないか、などと期待してみたくもなってしまう。ただ、チケット料金が安いのはうれしいけれど、このわけのわからない「Whenever Wherever Festival」といううつわは不要、だと思う。

 家に帰ったら、せっかく皿に出してやっていたキャットフードや猫缶、またミイはまったく口をつけていない。わたしがいないと食べちゃいけないとでも思っているのだろうか。今でも部屋のなかのトイレは使わないし(外へ出かけるのはトイレに行く意味合いもあるみたい)、奇妙なまでに律儀なところがあるのだ。もちろん、そういうミイのことはいっそう好きだけれども。

 

  

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■ 2010-07-06(Tue)

 朝からミイが押し入れから出て来ない。押し入れの中にいるのは確かだと思うのだけれども、五時間以上になると今までになかったことで心配してしまう。育児に疲れ、押し入れの中でくたばってしまっているんじゃないかとか気になって、つい押し入れを開けて覗いてしまう。子ネコたちに乳を含ませたミイと目があってしまった。なんか、見ちゃいけないところを見てしまったというようなバツの悪さを感じて、「あ、ごめん」と、ふすまを閉めた。しばらくしてようやく押し入れから出て来たミイは、まるでなにごともなかったようにわたしに甘えて来た。

 日暮れ時、ベランダから外を見るとちょうど、外に出ていたミイが向かいのアパートの方から戻って来ようとしているところ。そこへ上の階に住われている家族が車で戻って来られ、その家の小さい子ふたりが、ミイのことに気がついてしまった。ミイの居た方へ寄っていって、下を覗き込んだりしている。ミイを探すのをなかなかあきらめないようで、いつまでも駐車場にふたりでたむろしている。ミイもこれでは帰って来られないだろう。ようやく子どもたちがいなくなって、すっかり暗くなってからやっと部屋に戻って来た。

[]「黒猫・白猫」(1998) エミール・クストリッツァ:監督 「黒猫・白猫」(1998) エミール・クストリッツァ:監督を含むブックマーク

 これはヴィデオ配信ではなく、TV番組として放映されたもの。うちのミイは一匹で黒と白が混在しているけど、この映画ははっきりと黒と白の二匹の猫が登場。そのほかにも、アヒルだかガチョウだか、ブタなどなども登場。
 むかし、新宿梁山泊の人たちが広大なオープン・セットでバラックのような集落を作りあげ、そこを舞台にして、梁石日原作の「夜を賭けて」というエネルギッシュな映画を製作していたことがあったけれども、観ていてついつい、その「夜を賭けて」を思い出してしまっていた。川べりの土地に半水上生活的な集落を建て、そこにまさにハイテンションでカオスに満ちた世界を創出する。クストリッツァ監督としては「アンダーグラウンド」のときの政治論争に嫌気がさして、続くこの「黒猫・白猫」ではメッセージ性を排した作品にしたということだけれども、冒頭から石油列車強奪の計画など出て来るし、ふたつの家族間での当人たちの意に染まない結婚話、そもそもの黒猫、白猫の象徴性などなど、東ヨーロッパの政治状況へのあてこすり的な設定はてんこもりという印象。まあ「アンダーグラウンド」のときはその政治性よりも、フェリーニのパクリだろうというような批判も多かった記憶があるけれども、ここまで来ると、たしかに出自はフェリーニの影響から出ているとは感じられても、もうクストリッツァ独自の映像世界といっていんだろうと思う。フェリーニの場合、ニーノ・ロータの音楽との相互作用で映像にあらぬエネルギーが出現する印象もあるけれど、クストリッツァは「アンダーグラウンド」までのゴラン・ブレゴヴィッチとのコンビを終らせても、音楽のエネルギー、映像との親和性はまったく失せることはない。観ていても、これ、音楽がなければかなりタルい映像だよな、などと思っても、その音楽のパワーで一気に見せてしまう印象。とにもかくにも、元気の出る映画だと思う。

[]「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006) ジュリー・ガヴラス:監督 「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006) ジュリー・ガヴラス:監督を含むブックマーク

 もう一本、近年の映画をやはりひかりTVの番組で観る。この作品の監督ジュリー・ガヴラスは、あのコスタ・ガヴラス監督の娘さんということで、1970年代のチリの状況なども語られるこの作品は、ジュリー・ガヴラス監督自身の体験も反映されているのかと思ったら、監督はそのことを否定しているらしい。70年代のフランスのある家族の物語を、おそらくは十歳ぐらいの長女の視点から描いたもの。父親はスペイン生まれの弁護士で、母親はマリ=クレールにも執筆しているらしい文筆業。庭付きの広い家に住み、長女はミッション・スクールに通っていた。親戚をたずねてチリへ行った両親は、すっかり共産主義者になって戻って来る。一家は庭のない狭い家に転居し、キューバから亡命して来ていた家政婦のおばさんはどうやら解雇したらしい。タイトルの「ぜんぶ、フィデルのせい」というのはこの家政婦のおばさんの言葉で、共産主義に自分の人生はめちゃめちゃにされた、ぜんぶフィデル(・カストロ)のせいだ」というわけで、「キョーサンシュギシャって?」という娘の問いには「赤いヒゲを生やして、団結している連中よ」と答える。チリから帰って来た父親は、まさにヒゲぼうぼう。それ以来、家族はとても貧乏になったと娘は感じる。狭い家の中は、そんなヒゲの男たちであふれるようにもなる。
 この映画が楽しいのは、その娘の一人称視点が徹底していることで、観客もまた、娘が知り得る範囲でしかまわりの状況はわからない。そんな中でふくれっツラをしながらも、すこしずつ世の中のこと、父と母が直面している問題を理解していく様子がじつに小気味良く描かれていく。そのさまがほんとうにいい感じで描かれる。で、この作品、決してタイトルが暗示するような「反共」映画ではないけれども、例えば催涙ガスの打ち込まれるようなデモ行進に子どもを連れていく両親をムチャだと思うか、それとも子どもも参加しているようなデモ行進に催涙ガスを打ち込む官憲をムチャだと思うかは、観客のリテラシー次第ということになる。ほとんどこの作品のテーマともいえる事象は、じつは母親がのめり込む中絶合法化運動について、なのかもしれない。ちょうど年代的に「子どもはどうやって生まれるか」というようなことに興味を持ち始める娘に、母の語る「チューゼツ」ということばは気にかかって仕方がない。まだ共産主義者内でもフェミニズム運動は理解されない時代で、父親は母親のそういった運動に批判的な意見を述べたりしている。この言葉をおぼろげながら理解することは、娘にとっても、自分が女性であることのしかとした認識につながるだろう。「団結」という言葉の意味もなかなか捉えられなかった娘も、ひとりひとりが自分の生き方を大切にすることが「団結」の根本にあると学び、父親の手を取って歩くようになる。自分の意志でミッション・スクールを辞め、普通校の玄関に立つ娘のまわりを多くの子どもたちが行き交い、やがてその輪の中に入って手を繋ぎ、いっしょにグルグルと廻り出すさまをほぼ真上から捉えたラストシーンには、ほんとうにジーンと来る。
 しかし、これが90年代の東側崩壊の時代だったらどんな作品になるのか、などと考えると、そりゃあ「グッバイ、レーニン!」なのかもしれない。わたしはコミュニズムは信奉していないし、ある面では対立するだろう問題も感じているけれども、あたりまえだけれども、右派勢力による反共攻撃にはぜったいに賛同出来ない。そういう意味で、このような視点から70年代を振り返るような作品を作りえて、このような作品がヒットするようなヨーロッパの状況は、とにかくも健全ではないのか、と思ったりする。

[]「アッシャー家の末裔」(1928) ジャン・エプスタン:監督 「アッシャー家の末裔」(1928) ジャン・エプスタン:監督を含むブックマーク

 もう一本、これはヴィデオ配信で観た作品で、サイレント期の名作。助監督にブニュエルも参加していたらしい、シュルレアリスム映画とも紹介される作品。もちろん初めて眼にするわけだけれども、なるほど、おっそろしい作品だなあ、などとは思ったりする。
 画像はほとんどストーリーの説明から独立しているようで、凝った構図は主題であるだろうモノを画面のセンターから大きくはずしてとらえているし、カメラに向かって差し出される手、カメラの下から伸びる手などがカメラの主体性を明らかにしているようにみえる。登場人物相互の連関もあいまいで、アッシャー家の主人は「妻の容態が悪いから来てくれ」と呼んだ友人を「ひとりになりたいから」と、外へ出ていてくれと追い出したりするし、その友人も、虫眼鏡でなんでも覗きたがるだけみたいな男。医師の忠告も無視されるし、それら登場人物はその妻の棺をかつぐためだけに存在していたのではないか、と思える瞬間もある。じっさい、この映画の主人公はこのアッシャー家の建物そのものではないのかと思え、誰もいない室内でゆっくりと揺れるカーテンをスローモーションでとらえた映像などは、なぜかキューブリックのホテル内の映像、エレヴェーターから血があふれだす映像をも思い出してしまうけど、このカーテンの方がインパクトがあるかもしれない。また、信じられないほど広い居間の中で超ロングで捉えられる人物などの映像も、まったく現実離れしている。そのほかにもじっさい、いったい何なのかよくわからない映像(夜の建物の遠景?)も出て来るし、観ていて不思議な感覚にとらわれてしまう。
 映画というものが、「非現実」を現前化させるための手段として使われ、一方で予算をかけた大きなセットや特殊撮影で、「空間的」に非現実を現出させようとする試みがうまれて、現在のコンピュータ・グラフィックを駆使した商業娯楽映画へと連なる系譜になるけれども、一方で映画という形式自体の中から、「何を撮るか」というのではなく、映画そのものの「非現実」を追求する動きも出て来るわけだ。ここでそういう例で思いつくままに例えばマヤ・デレンの作品、例えばスタン・ブラッケージの作品などを想起するならば、このジャン・エプスタンの作品のなかにその萌芽を読み取ることから、映画のひとつの可能性の歴史に思いをめぐらせることが出来る、だろう。

  

  

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■ 2010-07-05(Mon)

 朝起きて自分の食事の準備をしていると、外からミイが入ってきた。「こんなに早くからおでかけですか?」とあいさつすると、食事してまた外へ出ていった。あれ? またどこか外へ引越したのでは? と思ってベッドの下を見ると、誰もいなかった。うわあ、外へ行ってしまったのか。これでミイたちも野良ネコに逆戻りか、これからの対応が難しくなるな、などと考え込んでしまう。しばらくするとまたミイがやって来たので、「おいおい、今度はどのあたりに引越したんだよ?」と聴いてみたりする。それがそのあとミイのヤツ、外に出た気配もないのにどこへ行ったのかわからなくなってしまった。「まさか」と思って押し入れを開けて中を覗くと、奥の衣裳ケースの上でミイの目が光っていた。こちらをみて、「シューッ」と威嚇する。うわ、ミイにはじめて怒られてしまった。そうか、気が付かなかったけれども、わたしの思惑どおりに押し入れの中に引越していたわけか。そこなら安心安全。しかし、これでもうすっかり、わたしがミイたちの面倒をみる体制が決定してしまった感じ。それとも、これからまた引越したりするのだろうか?

 ミイはときどき押し入れから出て来て、わたしのそばに寄ってきてかまって欲しそうにする。「はいはい」と背中をなでてやると、ぐうんとからだを伸ばして、前足の指のあいだをモワっと開いてむぎゅむぎゅやっている。ついでにカーペットに爪をたててバリバリやる。よっぽど気持ちいいんだろう。しかし、ミイがこんなに甘えたがりのネコだったとは思ってもみなかったし、ネコといっしょの生活はこれがはじめてではないけれども、こんなに楽しいとは思っていなかった。まあ、ミイの気心はよくわかる気がするし、つまりは話が通じる感じ。

[]「いますぐ抱きしめたい」(1988) ウォン・カーウァイ:監督 「いますぐ抱きしめたい」(1988) ウォン・カーウァイ:監督を含むブックマーク

 今日のヴィデオはこの作品から。ウォン・カーウァイの作品は「ブエノスアイレス」とか、何本か観ていない作品があるけれども、このデビュー作も観るのははじめて。英語題は「As Tears Go By」とストーンズなのに、邦題は微妙にビートルズなところに配給会社の指向性を読むべきなのか? 出演はアンディ・ラウとマギー・チャンで、ジャッキー・チュンがアンディ・ラウの子分のどうしようもないチンピラ役で印象に残る。生活感のない室内セットとか、その色彩、夜の繁華街のネオンなどの描写に、のちのウォン・カーウァイらしさが垣間見られる印象。この作品ではランタオ島(いちおう香港行政区の中の島で、いまでは香港ディズニーランドがある)が登場し、のちに彼の作品でいつもフィーチャーされることになる「香港の外〜ここではない場所」としての地位を、軽く占めることになる。次の「欲望の翼」の冒頭シーンで印象的なジャングルのショット、それと同じようなショットが、そのランタオ島として二回ほどインサートされるのに、ちょっとばかしドキッとした。ストーリーは他愛もないという感じでもあり、むかしの浜田光夫&吉永小百合の出ていた日活純情不良少年モノ、みたいな。しかしウォン・カーウァイ監督、使用楽曲センスにかなりベタなところがその後の作品にも散見させられるけれど、もうここではベタもベタ、まるでカラオケのバックで流れる映像みたいで、見ていても照れくさくなってしまう。若いって、恥ずかしい。あ、この映画ではBerlin の「Take My Breath Away」のカヴァーを何度も使用。

[]「ロンドンの暗い眼」(1939) ウォルター・サマーズ:監督 「ロンドンの暗い眼」(1939) ウォルター・サマーズ:監督を含むブックマーク

 またベラ・ルゴシ主演映画。この「ひかりTV」のヴィデオ配信にはやたらとベラ・ルゴシの主演作が並んでいて、どうせ大した作品もないだろうと思いながらも、ひょっとしたらすごいセンスのものもあるかもしれないと、つい観てしまう。
 この作品は、ロンドンで連続して発生する溺死事件を追うスコットランド・ヤードの刑事と、派遣されて来て協力しているシカゴ警察の刑事、そしてやっぱり犯人であるベラ・ルゴシとの悪漢探偵モノ。最初に警察の捜査ぶりに焦点をあてるような雰囲気もあるのだけれども、けっきょくはジキルとハイドみたいなベラ・ルゴシの二役ぶりがメインになってしまう。つまりは保険金詐欺に絡んだ連続殺人なので、捜査も何も、その保険契約を取りつけている保険会社の線からかんたんに犯人にはたどりつけそうで、推理的な興味はハナから消し飛んでしまう。その保険会社の経営者が影で盲人救護施設も経営していて、ここの容貌怪偉な巨人の盲人が殺しの役を引き受けているらしい。盲人なのにどこへでも行ってターゲットを始末してしまうのだからすごい、などと書くと盲人差別になってしまうのだろうか。ベラ・ルゴシは意味もなく(ただ映画のためだけみたいに)盲人救護施設にいるときにはメイクを変え、マッド・サイエンティスト的な空気をちょっとばかしかもしだすけれど、ものすごでっかい起電装置みたいな箱で単に人に電気ショックを与えたりとか、「これは何に使うのだろう」と期待を持たせる大きな水槽に水を張って、そこでただ人を溺死させたりとか、装置の見かけのデカさのわりに、機能はシンプルである。英米コンビの刑事ふたりのさわやかさが救いの作品、だった。

[]「伯林 - 大都会交響楽」(1927) ヴァルター・ルットマン:監督 「伯林 - 大都会交響楽」(1927) ヴァルター・ルットマン:監督を含むブックマーク

 今日はもう一本、サイレント時代のドキュメンタリーの傑作を。この作品は以前、たしか六本木の森美術館のオープニングの展覧会の中で上映されていたはずで、そこで断片的に一部分だけ観た記憶がある。「メトロポリス」の撮影などで知られるカール・フロイントが脚色を担当していることを、今回知った。そして、この作品はたしかに観る価値のある美しさにあふれている。
 ベルリンへ入って来る列車、その車窓からの映像の細かい編集で始まる導入部がまずは秀逸で、20世紀初頭はスピードへのあこがれの時代でもあったことだろう(飛行機も船も、あとで登場するけれども)。細かい編集のおかげか、いま観ても充分にスピーディに感じる。列車が「BERLIN」の表示のある駅に到着して、作品はこの1927年のベルリンの一日を見せてくれることになる。朝の徒歩で通勤する人々、シャッターがあがって開店する店舗。機械が始動しだして一日の仕事が始まる。この時代、「モダンタイムズ」の時代でもあって、オートメーションでモノを生産し続けるマシーンのアップが続く。昼休みになってマシーンがストップし、昼食の時間。こんどは厨房でいそがしく働く人々。仕事が終わって夜。ネオンがともり、道路にはそれまでほとんど写らなかった自動車であふれる。この、ネオンのあかりを反射して走る自動車や路面電車の映像が美しく、それまで見せなかったベルリンの街の享楽的な面がクローズアップされる。
 観ていて、この1927年のベルリンにはウラジーミル・ナボコフも住んでいたわけだなあ、などと考えてしまう。じつは前にナボコフのベルリン時代の短編を読んでいたとき、この「伯林 - 大都会交響楽」をふっと思い出したりもしていたのだけれども、わたしはそんなナボコフのベルリンを描いた作品に、どうしてもこの「伯林 - 大都会交響楽」の影響を感じ取ってしまう。ナボコフならきっとこの映画も観ていたに違いないだろうし、この映画の演出手法から文体として影響を受けていたのではないかと、いまこの作品を観てもそう思う。

 

  

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■ 2010-07-04(Sun)

 夕方、わたしのそばにミイがいて、わたしはパソコンに向かっていると、郵便受けに何かが投げ込まれる「ガタッ」という音がした。振り返ると、ミイも驚いて郵便受けの方に顔を向けている。ミイがわたしの方を向いて、「何だろうね」というような顔をするので、「見てこようか」といって立ち上がり、郵便受けの方へ行くと、ミイもあとからついて来た。開けてみると選挙のアジビラだった。「こんなんだったよ」とミイに見せると、つまらなさそうな顔をする。またパソコンの前に戻るとミイもまたいっしょに並んで座る。そんなミイが好きだ。

[]「クォンタム・ファミリーズ」(2009) 東浩紀:著 「クォンタム・ファミリーズ」(2009) 東浩紀:著を含むブックマーク

 図書館から借りていた「クォンタム・ファミリーズ」を、ようやく読み終えた。冒頭の量子回路についての知識などまるでなかったので、いまじっさいにそのような研究開発が行われているということに素直に驚いたけれど、この小説での量子回路の説明は、なにか違うんじゃないかと思う。この説明だと高度なアナログコンピュータみたいなのを想像してしまう。その先の、無限大に近いネット上の記述から並行世界の存在へと至るプロットは、とにもかくにもSF的な説得力がある。作品中にフィリップ・K・ディックや村上春樹の作品への言及があるけれども、わたしは村上春樹は読まないし、ディックもそれほど読んでいるわけでもないので、そのあたりの係累はよくわからない。しかし、過去の歴史の書き換えなどというテーマは、ディックで読んだ数少ない作品のひとつ、「ユービック」などでもおなじみのものだったので、多少は「ディックっぽいな」などと思うことになる。小説中に登場する並行世界の形態などに、社会学者としての著者の考えが反映されているのかもしれない。しかし、そのことがこのSF的な作品のテーマではないようだ。
 読み進むにつれて並行世界ものというかタイムワープもののような色彩が強くなり、特に新しい意匠の作品を読んでいるという気分は失せてしまうし、けっきょく、回路のなかの「こども」がキーになるというあたりにもやはり既読感を持ってしまう。いちばんわからないのがここでテーマになっている「家族」という問題で、主人公がこの小説の形態のなかでいったいなぜ、どのような家族を救済しようとしたのか、おそらくはこの作品の根本のところを、わたしは読み取ることが出来なかった。主人公の名前が「葦船往人」というあたりから旧約聖書をどうしても思い浮かべ、つまりはこの主人公の家族は、大洪水を乗り越えてあたらしいヒトの時代を始める、ということなのだろうけれど、ラストはなんだか「罪と罰」だった。わからない。

[]「淑女超特急」(1941) エルンスト・ルビッチ:監督 「淑女超特急」(1941) エルンスト・ルビッチ:監督を含むブックマーク

 今日観たヴィデオ配信はこれ。原題は「That Uncertain Feeling」で、舞台作品がもとになっているらしく、オール室内撮影。主演はマール・オベロン、メルヴィン・ダグラス、バージェス・メレディスなど。
 とにかくわたしはルビッチという人の作品は苦手なのだけれども、この作品もやはり、楽しく観ることは出来なかった。結婚六年目のマール・オベロンとメルヴィン・ダグラス夫妻はつまりは一種のけん怠期で、奥さんは「That Uncertain Feeling」でモヤモヤしている。そこに、傍若無人でアヴァンギャルドなピアニストのバージェス・メレディスがあらわれて、奥さんはそっちとくっついてしまう。旦那さんはいちど離婚しちゃってあのふたりをくっつければ、彼女はすぐにあきてしまって戻って来るだろうと案を練り、じっさいにそのとおりにことは運んでしまうというもの。
 なんか、バージェス・メレディスの演じているアーティストが、わざと非常識なことばかりやっているみたいだし、白痴的でまるで魅力が感じられない。このあたり、一般にポピュラー・カルチャーで描かれる戯画化された芸術家とは、芸術家当人の衒い、気取り、奇行に合わせて、そんな芸術家を賛美する人々のスノビズムと対になってこそカリカチュアとして成立すると思えるんだけれども、この作品ではほんらいその芸術家を賛美すべきマール・オベロンを、きっとあまりバカっぽく描きたくなかったのだろう、そういうスノビッシュなところを出さないですませている印象。おかげで、当の芸術家はひとり相撲でひとり愚行をおこなうように見えてしまう。
 あともうひとつ、これはヘイズ・コードの影響というか、性的なことは描かないということがプロットに影響し、夫婦間でも性的な関係はないのだというような展開が、この映画を不自然なものにしている印象がある。まあとにかく、この監督さんの作品のことはよくわからない。

 

  

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■ 2010-07-03(Sat)

 ミイはまたいずれ引越してしまうかもしれない。それなら、こちらから引越し先を先に用意してあげたらどうだろうと、和室の押し入れの下の段を片付けて、ミイが子育てを出来るだろうスペースを作った。ミイが気が付いてくれればと、ふすまを少し開けっぱなしにして放置する。思惑どおりにミイが押し入れの中に入っていった。中でちょっとゴソゴソと音がして、しばらくして外に出て来た。今日は引越しなどしなかったけれど、これからどうするだろうか。

 昨日外へ出かけて、少しは気分的にしゃんとした感じだったけれども、また今日はどんよりとしてしまう。ミイも相変わらず、板の間でゴロンと寝転がって休んでばかりいる。やはり屋外にはこういう板の間みたいなスペースはありえないだろうし、横になるとひんやりして気持ちがいいのだろう。パソコンに向かっていてふっと後ろを振り向くと、そこにミイが寝そべっている。ミイがわたしの見ているのに気が付いて目が合うと、起き上がってわたしのそばに来て、かまって欲しそうにそこに座り込む。背中やおなかをなでてやると、目を細めて気持ち良さそうにしている。

 室内に移しているクレソンのプランターだけど、もう青虫はすっかり駆除したと思っていたのだけど一匹おおきいのが残っていて、さらに葉っぱを食べられてしまった。もうほとんど葉っぱは残っていない。また今年もダメかもしれない。ベランダのバジルは、新しい芽も少し出はじめた。でも、先日スーパーに行ったとき、もうずいぶんと大きく育っているバジルの苗を安く売っているのを見た。もっと早く種を捲いていれば、今ごろはもう収穫があったかもしれない。来年はもっと早く種まきしよう。

[]「リング」(1927) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「リング」(1927) アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 今日は配信ヴィデオでヒッチコックの初期作品を二本観る。まずは1927年の「リング」。原題も「The Ring」で、プロボクサーである主人公のあがるリングと、新婚の妻と交す結婚指輪、別の男から妻がもらう腕輪とをかけているタイトル。この1927年はヒッチコックが「下宿人」をつくった年で、彼はまだ28歳、サイレント時代の作品。「下宿人」は表現主義的なクライム・サスペンスだったけれども、この「リング」は、主人公がチャンピオンの地位を得て妻の愛を取り戻す人間ドラマ。
 映画は移動遊園地の光景から始まり、そのなかの見世物小屋的なボクシング興行のテントへと移動していく。ここでの、客観描写と主観描写を交互させながら観客にストーリーの流れを理解させる手法が気持ち良い。たとえばまず客観描写で捉えられた群集のショットがあり、そのなかのひとりの動きをクローズアップする。カメラは彼の目線を捉え、次のショットはその彼の見ている主観ショットになり、彼の興味、心理状態をあらわす。このようにしてストーリーを組み立てると同時に、描かれる人物の主観/心理をも同時に観客に伝えていく。これと、いかにもヒッチコックらしい小道具の使い方。
 移動遊園地の見世物小屋で観客とのボクシング試合を仕事にしていた主人公は、客としてやって来たプロのチャンピオンに敗れてしまう。主人公には婚約者がいたけれど、チャンピオンは彼女に横恋慕して、腕輪のプレゼントを贈ったりする。プロのボクサーに転身しチャンピオンを目指す主人公は婚約者とも結婚するけれど、妻の心はチャンピオンの方へ行ってしまっている。主人公は出世して、チャンピオンとのその座を賭けたタイトルマッチがクライマックスになる。
 主人公の結婚式で、指輪を彼女の指にはめようとするとき、腕からチャンピオンから贈られた腕輪がずり落ちて来る。ラストで妻の夫への愛は当然復活し、腕輪をその場に捨ててしまう。主人公に敗れてチャンピオンの座を滑り落ちた男のもとに、そのスタッフが「こんなものを拾った」と腕輪を持って来る。それを見た男は、自分が失ったのはチャンピオンの座だけではないことを悟ることになる。
 何度か出て来るリングでのボクシングのシーンの演出も面白く、近年の映画のようにリング内にカメラが入り込んで主観描写になるようなことはしないけれども、逆に観客の視線を限定して、たとえばファイトシーンを画面の外にはずしてどちらが勝っているのかわからなくし、その画面に主人公が再びインすることで彼の勝利を語ったりする。または、興奮した観客のシルエットでリング上を見えなくして同じような効果を出す。クライマックスのチャンピオン戦は俯瞰撮影が基本なのだけれども、かなり本格的なボクシングの試合と感じさせるみごとな演出になっている。この時期のヒッチコック、「下宿人」でのサスペンス、この「リング」でのヒューマン・ドラマ、そして翌年の「農夫の妻」でのコメディと、いろいろなジャンルに挑戦することで映画の基本を極めようとしているようにも思える。

[]「岩窟の野獣」(1939) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「岩窟の野獣」(1939) アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 もう一本、ヴィデオ配信のなかにあったヒッチコック作品がこれ。この前が「バルカン超特急」で、あとがアメリカでの「レベッカ」になる、つまりは英国時代最後の作品。邦題はモンスターでも出て来そうでものものしいけれど、原題は「Jamaica Inn」で、今ならレゲエでも聴こえて来そうな雰囲気。しかしじっさい、この作品はいっしゅの海賊ものというか、嵐の夜に商船を難破させ、その積み荷を強奪する連中の話で、ジャマイカ・インという宿屋が彼らの根城になっている。どうも調べたところでは、「レベッカ」と同じくデュ・モーリアの原作らしいところが面白い。ここでも作品の主人公は叔父を頼って見知らぬ土地へやって来る女性(モーリン・オハラのデビュー作になるらしい)になるので、「レベッカ」との親和性も感じられるけれど、この作品の演出の重点は、その盗賊団の背後の黒幕であるところの治安判事の悪党ぶりを描くあたりに置かれている。この治安判事役がチャールズ・ロートンで、もうこの頃からでっぷりとした体格で、まるでホガースの版画からそのまま抜け出して来たようなイギリス俗物紳士といういでたちである。で、この悪党の語る自己正当化というか、犯罪擁護論のうんちくがあれこれと面白く、いっしゅ世界秩序に対するトリックスター的な要素が感じられ、興味深いものがある。ただ、演出面であまりにこの悪党を描くことに精力を注ぎすぎている印象で、メインのストーリーの描写、そしてなによりも表面的な主人公であるモーリン・オハラ側の描写が、なんともそっけない印象。そうそう、そのモーリン・オハラの叔父にあたる人物、チャールズ・ロートンのいちの手下役でレスリー・バンクスが出ているのだけれども、このレスリー・バンクスという役者さんは、前にやはりヴィデオ配信で観た「猟奇島」という作品でも、船を難破させてあれこれと画策する悪役で印象的だった人物。ここでもまた船を難破させる役で、わたしのなかでは、レスリー・バンクスがいるあたりで決して船に乗ってはいけない、という定理が生まれつつある。
 ヒッチコック作品の系譜で考えて、ある種のアンチ・ヒーローもの、という捉え方が出来る気もするけれども、どこかその路線で走ることへの躊躇、というかためらいとでもいったものが、この作品をどっちつかずの作品にしてしまっている印象がある。考えてみればヒッチコックという人はモラルということに頓着した演出はしていない印象だけれども、結果的にはいつも悪は敗北することになる。ヒッチコックにとって、その「悪の敗北」ということはテーマでも何でもなく、ただのご都合でしかなかったんじゃないか、という感想は充分に成り立つだろう。そう考えると、のちのヒッチコック映画の主人公たちはほとんどみな、自分がやってもいないことを自分のせいにされることから逃れようとしているだけで、正義感などとは無縁な動機から一所懸命がんばっているわけだ。そういうモラリスティックな観点からの演出でないというあたりにも、ヒッチコック映画の普遍性があらわれて来るのではないのか、などと考えたりした。

 

  

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■ 2010-07-02(Fri)

 Mac OS 9 もそろそろ限界という感じで、なぜかYouTube の埋め込みがとつぜん出来なくなったり、まわりが進化していくたびに取り残され感が強くなる。ずっと長いこと、その日の日記のタイトルを、「今日の一曲」としてその日にちなんで選んだ曲からとってきたけれど、とにかくYouTube が見れなくなった時点で(自分で見ることも出来ないのに)埋め込む意味もなくなっていたし、このあたりでそういうのは終りにいたしましょう。そこで記述方法をすこし変えてみたのだけれども、とりあえず暫定的なものなので、またしばらくしたらあれこれと変更するかもしれない。

 今日も東京に出かける。ミイにはお留守番やってもらうけれども、ひょっとしたらお引越ししてしまうかもしれないななどと考えて、窓を開けて出かけることが心配になったりする。これでまたミイが外に出てしまったら、もうこれ以上ミイたちの面倒をみることに抵抗を感じる。ベランダにミイが食事にやって来ても、そこで食事を出してやると新しい野良ネコを育てることになってしまう。
 しかし、今の時点ではミイを部屋に閉じ込めて出かけることはやはり出来ないと考え、窓は開けたままで外出する。

[]「恋ごころ」(2001) ジャック・リヴェット:監督 「恋ごころ」(2001) ジャック・リヴェット:監督を含むブックマーク

 今日もまた、飯田橋の日仏学院でのジャンヌ・バリバール特集。今日上映されるのはジャック・リヴェット監督の2001年の作品「恋ごころ」。ジャンヌ・バリバールはまさに主役で、そのコケットな魅力を振りまいていた。リヴェット監督の作品、そんなに観ているわけではないけれども、そんな中でわたしのいちばん好きな作品は「彼女たちの舞台(原題の英訳は「Gang Of Four」!)」だったけれども、この「恋ごころ」の主人公も「彼女たちの舞台」と同じように舞台女優で、同じように舞台でのリハーサルから映画は始まる。
 ジャンヌ・バリバールの演じるカミーユはフランス人の舞台女優だけれども、三年前にフランスを離れ、今はイタリアの劇団に所属していて、今回パリ公演でふたたびフランスへ戻って来ている。劇団の主宰者ウーゴは、彼女の新しい恋人でもある。カミーユは三年前に別れたパリでの恋人ピエールのことが今も心にひっかかっていて、リハーサルにも気持ちが落ち着かない。けっきょくピエールの家を訪れてしまうのだけれども、そこにはピエールの新しい恋人ソニアがいた。一方、ウーゴはイタリアの18世紀の劇作家ゴルドーニの幻の未発表戯曲の草稿がこのパリで見つかるものと、図書館通いをしている。その図書館で大学生のドミニクと知り合うのだけれども、じつはその探している草稿が見つかる可能性がいちばん高いのが、そのドミニクの家につたわる先祖の古書コレクションの中にらしいということがわかる。ドミニクの家に足げく通うようになるウーゴをドミニクは誘惑しようとする。カミーユはけっきょくピエールを舞台に招待し、その返礼にウーゴ、ピエール、ソニアの四人でのディナーに招かれる。ピエールはカミーユへの未練たらたらでよりを戻そうとする。
 あまりあらすじばかり書いても仕方がないけれども、わたしにはとてもとても楽しく面白い作品だった。「彼女たちの舞台」がその背後にどこかミステリー映画じみた構造をしのばせていたように、この「恋ごころ」という作品でも、表面の恋のさやあてゲームのような展開の裏に、どこか探偵映画みたいなサスペンスっぽい展開を楽しませてくれる。その根底にはゴルドーニの未発表戯曲を探すという、まさに探偵的なサブストーリーがあり、そこに肉付けするようにピエールに閉じ込められたカミーユの脱出劇、さらに指輪泥棒の話(いったい指輪はどこに?)まで絡んで来て、最後には舞台裏での男と男の対決まで用意されている。これではまるでスタンリー・ドーネンの「シャレード」みたいだ、などと書くとリヴェットの信奉者には怒られてしまうだろうか。しかしこれらの展開はそのラストにはすべて、舞台の上での出来事としてメタ演劇/映画化されてしまう、というのがいかにもリヴェット的といえばいいのか。やはり、こういう作品を観てしまうと、もっともっとリヴェットの作品を観てみたくなってしまう。そう、邦題の「恋ごころ」というのはいかにも、だけれども、原題は「Va savoir」。フランス語はわからないけれど、英語タイトルは「Who Knows?」となっている。そう、それこそピッタリのタイトルだと思う。

 映画を観終えて外に出て、またいつもの公園で手製弁当を食べる。そのあと駅ビルの本屋へ行き、先月末に発売されたらしいトマス・ピンチョンの「メイスン&ディクスン」の邦訳実物を確認した。なんと、どっさりと平積みされているではないか。昔、待望されていたエーコの「薔薇の名前」の邦訳がようやっと発売されたときを思い出したりした。あのときも、そんな「薔薇の名前」みたいな本など取り扱いもしないような普通の駅前の本屋でも平積みされていたものだった。なんだかかわいいイラストの表紙で、やっぱり現物を見ると欲しくなってしまう。そんな余裕はないので、こんど図書館にリクエストを出そう。

 電車に乗って明るいうちに帰宅。途中で外の空が真っ黒になり、まさに豪雨というような雨の中を電車が通過して、自宅の駅に着いたときには雨は降っていなかった。ミイはどうした?と思って部屋の鍵を開ける。用意しておいたキャットフードはほとんど手付かずで、どうもミイはわたしがいないとあまり食事をしない。キッチンの下を覗いてみると、ああ、やっぱりミイたちはいなかった。そうか、出て行ってしまったか、などと思っていると、ひょいとミイが姿を見せた。どうも外からやって来た雰囲気でもなく、いったいどこから姿を現わしたのか。「ただいま」と背中をなでてやると、目を細めて姿勢を低くして喜んでいる。「ミイ、おまえの新しい住処はどこなんだい?」と聞くと、和室の方へ入って行き、ベッドの下に姿を消した。え、また最初の住処に戻ったのか? 覗いたりするとミイが興奮するだろうから、夜になってミイがまた外に出て行ってから覗いてみると、たしかに、家族はまたベッドの下に引っ越していた。そこで、いいのかよ?

[]「英国の頭脳」(1940) テリー・モーセ:監督 「英国の頭脳」(1940) テリー・モーセ:監督を含むブックマーク

 夜、ひかりTVのヴィデオ配信で「英国の頭脳」という作品を観る。1940年のアメリカの作品で、監督はテリー・モーセという人。おそらくはボリス・カーロフの主演ということでリストに残っているのか。ネットで検索してもこの作品の日本語情報はまるで見あたらない。原題は「British Intelligence」。
 第一次世界大戦時のスパイ戦を描いた作品で、登場人物のひとりが二重スパイであることが観客にはわからないように進行しているので、ラストのどんでん返しでちょっと驚くことになる。ボリス・カーロフはもちろんドイツのスパイであって、名前のみ知られて実体のわからない、ストランドラーというスパイに扮している。頬に大きな傷あとをメイクしたボリス・カーロフの存在感はやはり抜群なのだけれども、暗闇で斜めから捉えられた彼の顔、その眼の光からはやはり、「フランケンシュタイン」のモンスターを思い出してしまうだろう。
 ただ、ひとつの作品としてはあまりに、その「二重スパイ」というトリックのみに耽溺してしまっている印象で、あまりに直線的すぎる感じがする。これにプラスして、もう少しでも登場人物をふくらませるサムシングがあれば、もうちょっと今でも注目される作品になっていたかもしれない。ただ、そのボリス・カーロフが足が不自由だという演技をしていたこととか、その正体が誰にも知られていない、などという設定からも、「ユージュアル・サスペクツ」のあのカイザー・ソゼの造型に多少なりとも影響を与えている可能性は、これはないとはいい切れない気がする。

 

  

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■ 2010-07-01(Thu)

 調べてみたのだけれども、いわゆる野良ネコというのは出産して子育てしているあいだに、何度も住処を移動するらしい。ミイの家族がまた転居して行く可能性もあるということだけれども、その場合にどう対処するのか。また外からやって来るミイとその子ネコたちにエサをあげるのか。それはけっきょく野良ネコ援助に他ならないことになり、わたしがやりたいことではない。わたしは出来ればミイたちをこのまま外に出さないで、家ネコとして室内飼いを続けることが出来ればいいと思っているのだけれども、それは可能なんだろうか。
 ミイは相変わらず、住処から出て来ては板の間にベターっと横になって休むことを時間を置いて繰り返している。子ネコたちの動きは激しくなり、ミイがいないときには住処からはみ出してしまっていたりもする。母ネコの乳の奪い合いみたいなのも見られる。ミイは左右に二つずつ、三列の乳首を持っているけれども、これを横になって子ネコに含ませようとしても三列に一匹ずつしか行き渡らないだろう。普通に考えても二匹はあぶれてしまう。いったいどうやって公平に分配しているんだろう。ほかの子ネコの頭を、前足で何度も叩くようにして押し退けている子ネコがいる。頭を蹴られている子ネコも、それでも乳首から口を離さずに、母親のおなかにしがみついている。

 相変わらずだるい気分で、なんだか眠っているあいだに生気を子ネコか何かに吸い取られているんじゃないかと思う。

[]「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー」(1993) ユエン・ウーピン:監督 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー」(1993) ユエン・ウーピン:監督を含むブックマーク

 今日は「ひかりTV」配信ヴィデオで「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー」を観た。本編の主人公ウォン・フェイフォンの少年時代の物語で、ツイ・ハークは製作のみになり、監督はユエン・ウーピンという人。「鉄猿」と呼ばれる鼠小僧のような儀賊(表の姿は医師)、さいしょは「鉄猿」を犯罪者として追うウォン・フェイフォンの父親、彼らを滅ぼそうとする悪徳役人との闘いがメインのストーリー。これに少林拳法の使い手や医師の女性の助手、少年ウォン・フェイフォンらが闘いに絡んで来て、すばらしいクンフーアクションてんこもりの、実に楽しいアクション映画。どうも冒頭の「鉄猿」登場シーンが日本の時代劇のような雰囲気で、なにかそういう、日本の鼠小僧映画が典拠になっているように思えてしまう。中国の街並も、出て来る市井の人々も、すっかり江戸の町を思わせる雰囲気。
 とりあえず、アクションのみどころは、ウォン・フェイフォンの父親役のドニー・イェンのクンフーで、このひとはこのシリーズの第二作、「天地大乱」篇では軍の提督役をやっていた人。まあほかの出演者のクンフーもみなすごいんだけれども、ちょっとばかしワイヤー多用という感じのする場面もある。いちいち技を決めて見栄を切る場面なども楽しく、そういう意味では古風な演出なのかもしれないけれども、香港のクンフー・アクション映画の原点を見せてくれるような映画だと思った。


 

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