ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2010-09-30(Thu)

 きのう上京して、解せなかったことがひとつある。それはJRの運賃のことなんだけれども、つまりわたしは恵比寿で映画を観て、そのあとで日暮里へ向かったわけだ。わたしはてっきり山手線内はいちばん反対側の遠いところまででも190円以内で行けると思っていたんだけれども、この日恵比寿から日暮里まで切符を買おうとしたら250円だよと出ていたので、ちょっと驚いた。それはたんじゅんにわたしが知らなかっただけということなんだけれども、となりの鴬谷駅までだと190円。ひと駅でいっきに60円も運賃が高くなる。これはおかしいのではないかということである。というのは地元での運賃体系があるからで、わたしの利用する駅から四つ離れた駅までの運賃は190円、そしてその次の駅までの運賃は230円というのをわたしはおぼえていたのである。その地元での190円と230円の駅の間隔はどう考えても鴬谷〜日暮里間の距離よりは長いはずで、だったら東京でも、190円のつぎの距離の運賃は230円もしくはそれ以下でなくってはおかしいではないかといいたいのだけれども、おそらくこれは都心部の運賃体系はそれ以外の地域と異なる設定をされているせいだろうと思う。だからつまりちゃんと理由はわかっているのだけれどもなんだか腹立たしい気分で、鴬谷から歩いてやろうかとか、渋谷まで歩いてから山手線に乗ろうかとか考えてしまうのだった。

 きのうはそれで映画館や劇場などであれこれとチラシを手に入れてしまい、十月以降の予定も考えてみようという気分になるけれど、もちろんそんなにあれこれと行けるわけもなく、あまりたくさん予定を立てようとするとけっきょく何も行かないという結果になったりする。もう始まっている「山形国際ドキュメンタリー」の東京セレクションもあれこれと観たいのはあるのだけれども、もう行く気分ではない。でも岩名さんの新作はまちがいなく行くだろうし、フィルムセンターでは吉田喜重監督の大特集が始まる。むかしTVで放映された「美の美」からのセレクションが上映されるのが貴重なところで、これはぜひとも観たい。あとは川島雄三監督の特集も渋谷であるのだけど、どれを観たらいいのか迷っているので行かない公算が高い。美術展などだけれども、情報を入手する努力をまったくおこたっている日々で、いったいどこでなにをやっているのか、大きな美術館のもの以外まったくわかっていない。そういう大きな美術館での展覧会なのだけれども、葉山で古賀春江の大きな展覧会をやっているのは行きたいと思っている。十一月になると観覧料無料の日があるみたいなのでその日に行こうかと。十一月にはアンヌ・ヴィアゼムスキーが来日して、それに合わせて彼女の出演作の特集上映イヴェントもある。観ている作品ばかりだけれども、「テオレマ」などはまた観てみたい。

 配信終了まぎわのヴィデオをいくつか観た。

[] 「集団奉行所破り」(1964) 長谷川安人:監督  「集団奉行所破り」(1964)  長谷川安人:監督を含むブックマーク

 1964年だなあという反体制気分の強い作品で、のちの篠田正浩監督の「無頼漢」とか思い出したりするけれど、こちらの方が破天荒で面白いのではないか。撮影が「仁義なき戦い」の吉田貞次で、音楽の津島利章もまた「仁義なき戦い」の人。
 この時代にはこういう「集団時代劇」と呼ばれるような作品群があれこれつくられていて、いまリメイク版が公開されている「十三人の刺客」も、このジャンルの作品ということになるらしい。
 舞台は大阪で、七年まえにえん罪で処刑された廻船問屋の河内屋に恩義を感じていた元海賊の八人が集結し、河内屋なきあと奉行所が商人からわいろを取り立て貯めこんでいるという二千両を奪取し、河内屋の七回忌法要も行おうとする。ここにかつて河内屋の番頭をつとめていながらこれを裏切り、いまは奉行所の与力になり、「まむし」と呼ばれている竹内金次郎というのが立ちはだかる。元海賊の首謀はこれまた「仁義なき戦い」の金子信雄で、まむしの竹内金次郎を先日なくなられた佐藤慶が演じているけれど、この佐藤慶がとにかく印象に残る。ただ、元海賊八人衆に立ち向かう悪玉ということでフィーチャーされるのがこの佐藤慶ひとりだけで、しかも彼もさいごにはじつは善人の部分もあったという感じで変節してしまうので、強いラスボス不在のまま終幕というところはある(ラスボスはとつぜんの嵐なのかもしれないけれど)。それでもクライマックスの大雨のなかの大勢入り乱れての殺陣はそれなりに迫力はあったということで、海賊たちが勝利するけれども二千両などは手に入らない、それでも‥‥、というお約束のラストもいい感じ。


 

[] 「太陽の帝国」(1987) スティーヴン・スピルバーグ:監督  「太陽の帝国」(1987)  スティーヴン・スピルバーグ:監督を含むブックマーク

 むかし観ているけれど久しぶりに。このとき少年のクリスチャン・ベールもいまでは大スターだけれども、このころから変態的要素は持っていたのだなあということで、スピルバーグがじぶんの映画のなかでこういうゆがんだ子供像を(あるていどではあっても)造型していたというのは今回観ての認識。しかしそうはいっても、やはりこの作品のメインになる収容所での展開は「オリバー・ツイスト」的で、ベイシー(ジョン・マルコヴィッチ)がつまりはフェイギンとして描かれているのではないかと。それはそれで、戦中の苛酷な状況のなかでイノセントを失ないながらも(ここは「オリバー・ツイスト」的ではないが)生還する少年の「喪失」の物語として通用するだろうとは思うのだけれども、J・G・バラードの原作が書いているのはもっともっと異なる次元の話で、それは「リアリティ」をどう認識するか、「リアリティ」を喪失するとはどういうことか、ということでもあって、スピルバーグはそのあたりのことをこの作品ではまったく描き切れてはいない。これではバラードの「太陽の帝国」の表面的なストーリーをなぞっただけ、ということになるだろう。たとえばバラードの「太陽の帝国」では、主人公の少年がニュース映画をみるという一節に、その「リアリティの認識」ということをめぐる興味深い記述があったと思うのだけれども、まあこのスピルバーグ版ではそのニュース映画をみるなどというシーンも出てこないわけで、そういうのがなければラスト近くに主人公が「原爆の光」をみるというほんとうの意味が生きてはこないだろうに、とは思う。

[] 「ユー・ガット・メール」(1998) ノーラ・エフロン:監督  「ユー・ガット・メール」(1998)  ノーラ・エフロン:監督を含むブックマーク

 はじまってしばらくの演出がまるでむかしのロマンティック・コメディみたいというか、エルンスト・ルビッチがこういう感じだったのではないかなどと思っていたら、じっさいにこの作品はルビッチの1940年の作品のリメイクだったということをあとで知った。もちろんルビッチ作品では電子メールではなくて、じっさいの手紙での文通だったわけだろう。そうすると、たとえば手紙をポストに投函する描写だとか郵便配達が手紙を届ける描写などを工夫できるリアル手紙の方が、映画としては演出の妙があるのではないかと思うわけで、そのあたりたしかにここでは、メールの受信だとか送信ということに演出上の工夫があるわけでもない。それでもじっさいにメールのやりとりが増加したであろうこの時代に、このような作品を提示したというのは多くの観客の共感を得たことだろうと思うし、主役になるふたりが独身とはいえそれぞれ恋人が存在するというのも、時代に則したちょっとした工夫でもあるのだろう。ストーリー的には、さきに男の方が自分のメール相手が目の前にいる女性だと気づいてしまうあたりがフェアじゃないという意見も出てきそうだし、老舗の本屋がつぶれるのも仕方がないというのが90年代のアメリカなのかなあなどと思ったりもする。メグ・ライアンという人はこういうロマンティック・コメディに向いているというか、ちょっとメアリー・ピックフォードあたりを意識しているのではないかという気がする。トム・ハンクスはこういうのがいいのか、わからないなあ。どうしてもこういうロマンティック・コメディではジェームズ・スチュアートみたいな男を思い浮かべてしまうわけだけど、ラストのシーンでトム・ハンクスが着ている服装は、あれでありなのか?という疑問だな。そういうのではニューヨークを舞台にしているのにあまりニューヨークらしさが見てとれなかった気がする。架空の店を出してしまったせいだろうか。

[]二○一○年九月のおさらい 二○一○年九月のおさらいを含むブックマーク

舞台;
●9/19(日)神村恵 × 大倉摩矢子「尻尾 と 牙 と また尻尾」@吉祥寺・Art Center Ongoing
●9/29(水)「南国からの書簡」(「薔薇の人」黒沢美香・高野尚美 編)@日暮里・d倉庫

映画:
●「ミックマック」ジャン=ピエール・ジュネ:監督

美術展:
●綺朔ちいこ「静かな水銀スープ」@浅草橋・parabolica-bis 2F ガレリア夜想・mattina

読書:
●「メイスン&ディクスン」(下) トマス・ピンチョン;著 柴田元幸:訳
●「キング、クイーンそしてジャック」ウラジーミル・ナボコフ:著 出淵博:訳

DVD/ヴィデオ:
●「箱根風雲録」(1952) 山本薩夫:監督
●「仇討崇禅寺馬場」(1957) マキノ雅弘:監督
●「集団奉行所破り」(1964) 長谷川安人:監督
●「昭和残侠伝」(1965) 佐伯清:監督
●「心」(1973) 新藤兼人:監督
●「復讐するは我にあり」(1979) 今村昌平:監督
●「二百三高地」(1980) 舛田利雄:監督
●「廃市」(1983) 大林宣彦:監督
●「夏の庭 The Friends」(1994) 相米慎二:監督
●「東京ゴッドファーザーズ」(2003) 今敏:監督
●「パプリカ」(2006) 今敏:監督
●「インスタント沼」(2009) 三木聡:監督
●「孤児の生涯」(1919) マーシャル・ニーラン:監督
●「嵐の孤児」(1921) D・W・グリフィス:監督
●「血と砂」(1922) フレッド・ニブロ:監督
●「メトロポリス」(1927) フリッツ・ラング:監督
●「雨」(1932) ルイス・マイルストン:監督
●「悪魔と天使」(1946) アーチー・L・メイヨ:監督
●「プリンセス・シシー」(1955) エルンスト・マリシュカ:監督
●「若き皇后シシー」(1956) エルンスト・マリシュカ:監督
●「ある皇后の運命の歳月」(1957) エルンスト・マリシュカ:監督
●「ロリータ」(1962) スタンリー・キューブリック:監督
●「シベールの日曜日」(1962) セルジュ・ブールギニョン:監督
●「太陽の帝国」(1987) スティーヴン・スピルバーグ:監督
●「グレート・ビギン」(1996) クロード・リュニザー/マリー・プレンヌー:監督
●「目撃」(1997) クリント・イーストウッド:監督
●「ユー・ガット・メール」(1998) ノーラ・エフロン:監督
●「天国の口、終りの楽園。」(2001) アルフォンソ・キュアロン:監督
●「ナポレオン EPISODE1:皇帝誕生・EPISODE2:帝国の崩壊」(2002) イヴ・シモノー:監督
●「閉ざされた森」(2003) ジョン・マクティアナン:監督
●「ロング・エンゲージメント」(2004) ジャン=ピエール・ジュネ:監督
●「パルス」(2006) ジム・ソンゼロ:監督
●「光州5・18」(2007) キム・ジフン:監督




 

 

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■ 2010-09-29(Wed)

 金はないがきょうは出かける。日暮里での黒沢美香「薔薇の人」公演、そのマチネを予約してあるのだけれども、せっかく東京に出るのだからとまた悪いクセをだし、日暮里のまえにちょうど映画を一本観る時間があるのを発見する。ジュネ監督の新作「ミックマック」をやっている恵比寿の映画館、ちょうど水曜日はサービスデーで千円で観ることができるのでこれに行く。
 あさはやく起き、さくやから準備してあった昼のおべんとうをまとめあげ、ニェネントをひとしきり遊ばせて、ニェネントのいちにちの食事をセットしてあげてから出かける。きのうは雨だったけれど、きょうはまっ青な空が拡がるおでかけ日和。こんないい天気なのに映画館や劇場にもぐりこんでしまうのはもったいないという気にもなってしまう。

[] 「ミックマック」ジャン=ピエール・ジュネ:監督  「ミックマック」ジャン=ピエール・ジュネ:監督を含むブックマーク

 観終って恵比寿ガーデンプレイスのパティオのベンチにすわって、自作のおべんとうを拡げて食べていて、さっき観た映画はこの手作り弁当みたいだな、などと思っていた。つまりたんじゅんに、手作りガジェットにあふれたおもちゃ箱をひっくり返したような膨大な小道具大道具、それを駆使して進行されるどこかアナログ感あふれる手作りファンタジーという味わいのストーリーなどなどからの連想なのだけれども、もちろんジュネ監督のこの新作はわたしのおべんとうのように貧弱なものであるはずもなく、「豪華な」という形容のことばをあたまにつけることを忘れてはいけないだろう。しかしやはり、たとえそのように「豪華」と名付けようとも、その「豪華」の質はあくまでも「手作り」な、レトロ感がただよいさえするもので、「人工」とか「人造」などという、ハイテクとはほど遠いことばこそが似合う世界というわけになる。とくに、主人公たち奇人変人の共同生活の場であるガラクタの山の下にある住処〜古道具再生工場、そこにごろごろと転がっていた奇々怪々な綺想のグッズの数々、そして仇役の武器製造会社社長(アラン・レネ作品でおなじみの、わたしの大好きなアンドレ・デュソリエが演じている)のビザールなコレクションなどにこそ、この映画作品を観る楽しみがあるということになる。そういう意味で、それらのガジェットをこそもっとじっくりと見せてほしかったという、観終ってしまって残されたかなわなかった夢こそがこころに引っかかってしまうことになる。まあこのくらいにそういうガジェットをちょん、ちょんとみせるあたりにこそジュネ監督の持ち味があるのだろうけれど、そのあたりがストーリーのなかにうまくはめ込まれていた印象の前作「ロング・エンゲージメント」に比べると、この「ミックマック」ではそういうガジェットを自立させようという意志と、映画としてのストーリー展開を重視する意志とが衝突してしまった感じを受けてしまう。
 そう、ここでジュネ監督の持ち出すガジェット群がその映像のなかで自立していけば、その世界はシュワンクマイエルの映像世界に近接してくるだろう。


 

[] 「南国からの書簡」(「薔薇の人」黒沢美香・高野尚美 編)@日暮里・d倉庫  「南国からの書簡」(「薔薇の人」黒沢美香・高野尚美 編)@日暮里・d倉庫を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20101001104927j:image:right 日暮里にしばらくまえに出来ている「d倉庫」というスポットにいくのは、これがはじめてになる。このあたりは「繊維街」と呼ばれるあたりで、西日暮里に住んでいたころにはときどき歩いたことがある。バス通りから少し内側に入ると、アパートやマンション、小さな商店がぎっしりと並んだ独特の雰囲気の住宅地になる。そんな下町らしい風景の、駐車場の奥に「d倉庫」があった。
 まずは階段を上って二階のロビーで受付をすませ、せっかく上がったのにまた奥の階段を下りると、そこに客席と舞台があった。いかにも下町の隠れ家ふうのスポットで、わたしはこういう場所は好きだったりする。ロビーの外、さいしょに階段を上がったところにある喫煙所で一服したりして開演を待つ。

 さて、こんかいの「薔薇の人」だけど、これは黒沢美香さんの「ソロダンス」ということで連続してきているシリーズなのだけれども、チラシをみると高野尚美さんという方との共演ということらしい。そうすると、「薔薇の人」シリーズとしての「ソロダンス」というスタンスはどういうことになるのかという疑問は、観るまえから多少感じていた(観てみないとわからないので、それ以上深く考えたわけではないが)。チラシには、おそらくは黒沢さんが書かれた文章が掲載されている。

私たちは舞踊家族に生まれました。
子供の頃から自然と見聞きしている稽古風景、会話、舞台、写真、音楽はありがたいことにも無意識に私たちの身体に染みついているものです。両親の時代である昭和初期の踊りの形は、大正時代から活躍した石井漠や、その後の伊藤道郎、小森敏を語らずには始まりません。この公演は、現在の私達の舞踊芸術の基盤となる過去の舞踊家の姿勢を尊び学び、次の時代への前進を提示する硬派な試みです。

というわけでほとんどマニフェストというか、読んでいてもこちらの気構えを要求されるようなコワい文章である。ましてやこちらは石井漠のダンスこそ映像でちょっとだけ観た記憶はあるけれど、大正から昭和にかけての舞踊の系譜などほとんど知るところもないときているし、不勉強で高野尚美さんという方についてもなにも知らない。いったいどうやってそういう「硬派な試み」におつきあいすればいいのかと、不安になってしまう。

 ということで始まってしまったこの舞台だけれども、またやはりいつもの黒沢美香さんの公演のように、集中力の持続がきつくて意識がさまよってしまったりまぶたが重くなってしまうという事態に襲われたりはしたけれど、つまりは楽しい舞台だった。黒沢さんと高野さんは同じ白シャツに蝶結びにした赤い紐タイ、半ズボンというスタイルで、栗毛のマッシュルームなかつら姿で登場。観ていて思ったのはつまりはこのふたりはひとりの少年(?)の分身した姿で、ソロダンスというコンセプトは、「ふたりでひとり」というかたちでちゃんと守っているわけだということ。ふたりが左右にわかれて同じ振りを踊ることもあり、前後に重なってひとりの人物になることもある。長い長い筒になったストッキングのようなもので腕がつながってしまったりもするし、高野さんがへばって横たわると黒沢さんがドリンクを飲み、それで高野さんが元気を取り戻すなどというわかりやすいシーンなどもある。舞台はつまりは南国にいるおじさんからの手紙で南国へ誘われるという状況設定であって、舞台の奥の片すみではだんだんに椰子の木が成長していくのである。
 それでつまり「舞踊」はどうなのか、ということだけれども、いつものようにわたしのちからでは要約もむつかしい黒沢さんのダンスではあるけれど、表面的には「硬派」という印象を受け取るわけではない。むしろここでのふたりの動きは大衆芸能の延長と受け取れるようなものでもあって、「はっ!」とかけ声をかけてふたりの重なるようなところなど、それって「歌舞伎」じゃないの、ってことになる。
 そういうわけで先に書いたようにわたしは昭和初期の舞踊について知るところはないとはいえ、チラシにあった<現在の私達の舞踊芸術の基盤となる過去の舞踊家の姿勢を尊び学び、次の時代への前進を提示する>ということのなかには、たんに過去の「舞踊」にとどまらない、もっと過去にもさかのぼるような、また、もっと大衆演芸的な視点が含まれているのではないのか、という印象になる。そういうことが<次の時代への前進を提示する>ものなのだとしたら、わたしはここで提示されたものに賛成する、というかぜひとも、ここから引き継がれる舞踊を観てみたいのである。

 あれこれとりとめもなく書いてみたいこともあるのだけれども、この「薔薇の人」シリーズでいつも印象的な音楽、こんかいは幕開けからアコースティック・ギターの印象的な、弾き語りのフォークっぽい音楽だった。ちょっと気に入ってしまい、あれは誰の音楽だったんだろうと思っている次第。舞台のラストは「虹の彼方へ」をバックに舞台奥の扉が開くと、そこは劇場の外の駐車場に通じているんだった。きょうは晴天で明るい陽光がふりそそいでいて、そこが「南国」といわれてだまされてしまってもいいような気分だった。



 

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■ 2010-09-28(Tue)

 ニェネントはさいきん、あきらかに活発になってきた。元気に育つのはうれしいけれど、少々暴走ぎみなこのごろ。よる、わたしがベッドに入ると決まっていっしょにベッドにとび上がってくるのだけれども、まずは本を読みはじめるわたしの、その読んでいる本に攻撃をかけてくる。のどをごろごろ鳴らしている。追い払うとこんどは部屋じゅうをかけまわりはじめてしまう。リヴィングのいちばん端までいって、そこから全速でベッドまで走ってきてかけ上がり、わたしの足元からあたままで縦断してまたかけ下りていく。トイレの方からキッチンまでぐるりとかけ抜け、またリヴィングからベッドを急襲する。これを二〜三回くりかえし、つぎの段階はベッドの上にとどまって、わたしの足にかみついてくる。いまは掛布団の季節になったので、布団のなかに足をちゃんと隠してしまえばもんだいないけれど、布団のすきまから攻撃することもある。これをわたしが防禦すると、つぎにベッドにそった壁に下げてあるポスターに攻撃をかける。これを破かれてしまうのはあまり愉快ではないのでベッドの下に追い払う。ニェネントはまたベッドに上がってくる。これをさいしょからくりかえす。
 もう昨夜はそんなニェネントとのおつきあいに疲れ、ベッドのある和室の外にニェネントを追いやり、和室をすっかり閉め切ってから寝た。いっしょに寝られないのはニェネントにはショックだったかもしれない。

 そういうわけでニェネントの呪縛から逃れて、昨夜はぐっすりと寝ることができて、目覚めも爽快であった。和室のふすまを開けるとニェネントが待ちかねていたように和室にとびこんできて、またいつものあさがはじまるわけだ。
 人がやっていることに興味あまりあるニェネントは、わたしがなにかはじめるとかならずわたしの手もとをのぞきこんでくる。わたしがTVを録画するのに使っている旧式のVHSデッキは、録画予約をリモコンからでなくそのデッキの前面で操作してやらなければいけないのだけれども、この操作をはじめるとかならずニェネントもとんできて、あれこれのボタンを押しているわたしの指先にじぶんの前足を並べるようにちょっかい出してくる。ものすごくうざい。このごろは炊事をはじめるとわきの本棚にかけ上がり、わたしの手もとを注視する。まだキッチン台に上ってはこないけど、そうなるとえらい騒動になりそうだ。

 あさからぽちぽち降っていた雨も午後にはやんで、買い物がてらホームセンターの方まで歩いてみた。幹線道路からはなれた住宅地のなかの道路のむこうから、茶色いパジャマの上からマントのように長いやはり茶色のガウンをはおり、その前をはだけて紅赤色のガウンの裏地をのぞかせながらふらふらとこちらに歩いてくる老人と出会った。白と黒とがまじってグレイに見える頭髪はくしゃくしゃで、やはりグレイのひげも伸び放題。みていても「あのひと、だいじょうぶだろうか」という感じで、すれちがうのもためらわれるのである。老人は道路わきの畑にふらふらと入っていってしゃがみこみ、しばらくして立ち上がったときには片手に土から抜き出したばかりのニンジンを二本ぶら下げていた。わたしは老人が畑にしゃがんでいるあいだに別の道の方に曲がってしまったので、老人とすれちがうことはなかったけれど、ふりかえってしばらく、ニンジンをぶら下げて歩いていく老人の後ろ姿をみてしまった。暗黒舞踏だな、と思った。

 きょうは、BSで先日放映していたオーストリアの映画、ロミー・シュナイダーがエリーザベト王妃を演じた三部作を続けて観た。

[] 「プリンセス・シシー」(1955) エルンスト・マリシュカ:監督  「プリンセス・シシー」(1955)  エルンスト・マリシュカ:監督を含むブックマーク

 映画公開時でもロミー・シュナイダーはまだ17歳。この活き活きとした演技と可愛らしさでは、それは人気は出るだろう。この第一部は、彼女演じるエリーザベトがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚するまでの、シンデレラのような物語。この三部作はいまでもドイツやオーストリアでは人気があり、とくにこの第一作はいまでも毎年クリスマスにTVで再放送されつづけているという話を聞いたことがある。じっさい、かなりシンデレラの物語を意識して書かれた脚本(監督のエルンスト・マリシュカが書いている)という感じで、ラストのおとぎばなしのような結婚式まで、ハッピーな気分にあふれた作品である。エリーザベトが結婚まで暮したバイエルンののどかな風景と、おおらかな父のもとでのびのびと育てられている子だくさんの家族の姿が印象的で、どうもわたしはこの演出で「サウンド・オブ・ミュージック」を思い浮かべてしまう。そう考えると、だいたいそのキャリアでファミリー・ムーヴィーなどとはまったく縁のなさそうなロバート・ワイズが、いきなりあの「サウンド・オブ・ミュージック」を演出するにあたって、先行するこの「プリンセス・シシー」を参考にしていただろうということは十分に想像できる。「すべての山に登れ」みたいな展開もある。


 

[] 「若き皇后シシー」(1956) エルンスト・マリシュカ:監督  「若き皇后シシー」(1956)  エルンスト・マリシュカ:監督を含むブックマーク

 「プリンセス・シシー」の翌年に製作公開された第二作。しゆうとめの大公妃との確執が表面のテーマになって、前作のハッピーな雰囲気よりはちょっとばかり重苦しい空気になる。このときオーストリア=ハンガリー帝国成立に向けてのエリーザベトの尽力もテーマになり、この第二作はエリーザベトがハンガリー女王として戴冠する式典まで。さいしょの方でエリーザベトがロマのキャンプに迷いこみ、ジプシー占いを見てもらうシーンがあり、こういうのをひょこっと紛れこませるあたりに演出者の意識を感じる。この第二作で印象的なのは、娘の養育権を大公妃に奪われたエリーザベトがバイエルンに実家に帰ってしまい、それを皇帝が迎えにいき、そのままアルプス旅行となって民間の山小屋に宿泊するあたりかな。かならず美しいヨーロッパの風景をいくつも取り入れているこの三部作でも、このアルプスの風景はきわだって美しいし、多少重苦しいこの第二作でもここがいちばんハッピーな気分のシークエンスになる。「皇帝円舞曲」で踊る舞踏会のシーンもいい。

[] 「ある皇后の運命の歳月」(1957) エルンスト・マリシュカ:監督  「ある皇后の運命の歳月」(1957)  エルンスト・マリシュカ:監督を含むブックマーク

 三部作の最終作だけれども、じっさいにはもっともっと連続してエリーザベトの生涯を追っかけるつもりだったらしい。ここはロミー・シュナイダーがいつまでも自分につきまとう「シシー」のイメージを嫌って(マネージャーとの確執とかもあったらしいが)フランスへ移り、そこで彼女はアラン・ドロンと出会うことになるわけだけれども、まあそれはまた別のお話。
 この最終作ではエリーザベトは肺の病気(結核?)になってしまい、ポルトガル領のマディラ島で療養し、ギリシアとかで遊ぶうちに奇跡的に完治してしまう。またまた皇帝がエリーザベトを迎えにいき、そのまま北イタリアとの関係修復のための公式訪問となり、けっきょくは大歓迎を受けるというところまで。「軍隊の威力よりもエリーザベトの美しさの方が強力な武器である」という、第二作での対ハンガリー関係で示された彼女の魅力がここでもオーストリアを救うと。
 ここではマディラ島の風景、ギリシアの景色も美しいけれど、何といってもラストのヴェネツィアでの式典のロケがすっばらしい。三部作を通じて、もちろん皇帝はエリーザベトを愛しているのだけれども、彼女との結婚を押し切った以外は母である大公妃を押し切ることができないで、ただ「愛している」とくりかえすだけで存在感はちょっと薄い。そんなエリーザベトを助けるのはいつもバイエルンの彼女の母で、この母を演じているのはじっさいのロミー・シュナイダーの母ということ。あと、第一作からずっと登場してエリーザベトを警護する大佐(第一作では少佐だった)の、そのまさにコメディリリーフぶりが楽しくって、この三部作の明るいアクセントになっているわけだ。ロミー・シュナイダーの成長ぶりもすばらしいけれど、三部作をトータルにみれば、「結婚式」というわかりやすいハッピーエンディングを迎える明るい空気に満ちた第一作がいちばん愛されているというのは当然だろう。なぜドイツやオーストリアの人々がこの三部作を愛するのか、たんにいまは存在しないおとぎばなしのような皇室へのノスタルジーを超えたサムシングがあるのだろうか。50年代中期という製作〜公開時期も考えてみるべきだろう。




 

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■ 2010-09-27(Mon)

 あさから雨で、肌寒いくらい。ベランダに出したキャットフードはなくなっていたけれど、きょうはミイやジュロームのすがたをみかけることはなかった。しかし、たとえジュロームがこれからいつもベランダに来るようになったとしても、その先をどうするのか。つまりわたしはジュロームをニェネントといっしょに飼いたいのだけれども、もうすっかり野良ネコになっているジュロームはおいそれとは人にちかづいて来ないだろう。いぜんのようにベランダの窓をいつも開けはなっておけば、室内でエサを食べるようになるかもしれない。しかし考えてみると、ジュロームをこの部屋に出入りさせることは、ニェネントがジュロームについて外へいってしまう可能性もあることになる。そもそもニェネントをいつもベランダに出していると、発情期になって雄ネコがちかくに来たりするとそのままついていってしまうこともあるわけだ。わからないけれど、ちかくにネコがいなくてもマーキングした匂いなどに反応して、ベランダに出してあげたとたんにどこかへいってしまい、家出少女のようにそのまま戻ってこないことになるかもしれない。ニェネントをベランダに出られるようにしたのは間違いだったかも。ニェネントはすっかりベランダで遊ぶのが日課として気に入ってしまい、きょうも窓のそばでわたしを見て、「外に出たい」とないたりする。

 ニェネント、いまごろになってまたトイレを失敗した。それも二回続けてで、いちどは部屋のすみに置いてあるちり取りのなか、つぎはやはり部屋のすみの新聞紙の上。いったいどうしたというのか。トイレのネコ砂は毎日汚物を取りのぞいてキレイにしてやってるつもりだし、たいていはちゃんとトイレを使っているわけだ。部屋のコーナー部分はあぶないので、コーナーにはモノを置かないようにするのが対策のひとつ。

 「ひかりTV」の10月分の番組表が送られてきた。けっきょく、当分は観つづけてもいいかなという気分になってしまっているのだけれども、配信ヴィデオの方はサッサと古い作品を中心に観られるだけ観てしまって、契約を止めてしまうつもりではいる。TV番組の方も、番組表をみていると同じようなプログラムをくり返しているようなところもあって代わり映えしない印象だけど、まあ月に二〜三本は「おお!」という作品が放映される。10月はユーリ・ノルシュテイン作品集と、「飾窓の女」などだろうか。

 きょうはやはり配信終了まぎわの作品を観た。

[] 「目撃」(1997) クリント・イーストウッド:監督  「目撃」(1997)  クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 原題は「Absolute Power」で、原作小説があるらしい。脚本は「明日に向って撃て!」や「大統領の陰謀 」なども手がけたウィリアム・ゴールドマンで、ジーン・ハックマン、エド・ハリス、スコット・グレン、そしてジュディ・デイヴィスなどという、そうそうたる共演者の顔ぶれ。そろそろ老いにさしかかった職人的手腕をもつ伝説の泥棒(イーストウッド)が、忍び込んだ豪邸でその屋敷の老主人の若い妻と大統領の情事を目撃してしまう。サディスティックにエスカレートした大統領の暴力を女性が恐れてナイフで大統領を刺そうとするところを、叫び声をきいて部屋に入ってきたSPらが女性を射殺することになる。イーストウッドは逃げるときに重要な証拠品を持ち出す。大統領、そしてSPはイーストウッドを追い、その手はイーストウッドの娘に及ぶことになるけれど、というお話。
 「許されざる者」を1992年に撮ったイーストウッドはこのころ以降本格的にその路線を引き継いで、「かつてその手腕を誇った伝説の人物のその後」みたいな作品ばかり撮って自分で演じることになるけれど、この「目撃」も、そのような作品のひとつということになるだろう。日本人の目からみると「ルパン三世のその後」みたいなものだけれども、この作品はたしかに「ルパン三世」のようなフィクショナル性の強い世界をくり拡げた、エンターテインメント色の強いものになっている。ここに「アメリカ大統領」みたいな、あっと驚くような悪の親玉をもってきたあたりがユニークなわけだけれども、それぞれの脇役に見せ場をつくってあげながら手早く的確に描く演出、自分の演じるキャラクターをどのように観客の期待に答えるようにみせるかという演出はやはり見事。ただ、「アメリカ大統領」の破滅を描く結末は皮肉ではあるけれども、そのスケールがちょっとこじんまりしてしまったかな、という印象はある。どうせフィクショナルな作品なのだからもっと跳ねてもよかったような。イーストウッドは次の「トゥルー・クライム」でこの路線をもういちどくり返し、その次の「スペース・カウボーイ」で、ぴょぉ〜んと飛び跳ねたのだ、という感じがする。

 



 

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■ 2010-09-26(Sun)

 きのうの午後から抜けるような青空。きょうのあさも空をみているだけで気持ちがよくなる晴天で、どこかへ出かけてみたくなるけれど、そんな余裕はない。

f:id:crosstalk:20100927100409j:image:right 午前中、キャットフードを置いてある窓の外で白いものが動く影がすりガラスごしにみえた。上の透明ガラスのところからベランダをのぞいてみると、ミイとジュロームが来ていた。ジュロームが皿にあたまをつっこんでキャットフードを食べていて、ミイはちょっと離れたところからまわりを見張ってジュロームを守ってあげている感じ。「母性」だなあ。「野生」という感じもして、みているとベランダがつまりはサバンナの草原で、母ライオンが子ライオンの食事を見守っている情景なのではないかと想像したくなる。ミイはまだ子離れしているのではなく、子ネコにエサのとれる場所とかを教えてあげている段階なのだろう。そしてもうすぐ子離れだ。
 しかし、けっきょく子ネコはジュロームだけになってしまったのか。まえにみた正常に発育していなかった子ネコはムリだったにしても、このあいだ公園の前でひなたぼっこして眠っていた子ネコはどうしたのだろう。先に放逐してしまっているのだろうか。数からいうとまだもういっぴき子ネコはいたはずだけど、それはダメだったのか。
 まぢかにみるジュロームは順調に大きく育っているようで、ニェネントとかわらない大きさ。とっても元気そうだ。さきに食事を終えてベランダのまんなかあたりで休んでいる。そのあいだにこんどはミイが残ったキャットフードを食べはじめる。しばらくして二匹は行ってしまったけれど、キャットフードはきれいに食べつくされていた。

 読んでいる「世界動物発見史」が面白くて、さいきんはこの本ばかり読んでいる。第一章の「怪物の部屋」はおもにアジア、アフリカでヨーロッパ人に発見された動物についてで、読んでいてとうぜん奴隷貿易のことを思い浮かべるし、また、このヨーロッパからみた自然科学史は、もうひとつの「オリエンタリズム」なのだろうということになる。もともと挿画の多い本で、そういう絵をみているだけでも楽しくなってしまう本なのだけれども、そのなかに葛飾北斎の版画も多く挿入され、当時のアジアの人の方がヨーロッパ人よりも観察眼に優れていた例証とされていたりする。1956年に原著が刊行されたというわりには広い視野を持った本で、データ的に古いのではないかという気がしないではないけれども読みがいのある本ということになる。ただ編年体の記述から離れて「読みもの」として倒叙法をとったりする文章は、ときに時系列にそった事実関係がわかりにくいことがある。
 「怪物の部屋」の最終チャプターは「海の悪魔と真夜中の驚異」と題され、むかしから船乗りたちから伝えられてきた「海の怪物」が、だんだんに科学的に解明されていく過程を書いたもの。チャプターの表題になっている「真夜中の驚異」ということばは、1526年にスウェーデンからローマに移った主教オラウス・マグヌスの著わした「海の怪物、海の悪魔及び真夜中の驚異」という書物からのものだけど、そういうタイトルを選ぶあたりの当時の想像力のありかたがおもしろい。
 第二章は「自然の宝庫」と題され、おもに昆虫、鳥類、微生物などについて。昆虫の変態は十七世紀中頃まで認識されていず、芋虫は芋虫としてその生を終え、蝶や蛾とは別の生き物だと思われていた。これをはじめて科学的な眼で観察して記録したのは、画家の一家に生まれてなぜか虫などばかりを描きつづけたマリア・シビラ・メーリアンという人物。要約して紹介されているこのひとの人生も波乱に富んでいておもしろそうなのだけれども、「蟲愛づる姫君」のヨーロッパ版、だったのだろう。
 ひじょうにおもしろかったのは「ゴクラクチョウと政治と熱帯の死」というチャプターで、これは1522年以来延々と続いた長い物語で、世界周航から帰還したマゼラン艦隊の船が、東インド諸島のモルッカ島から持ち帰った鳥の標本が巻き起こした騒動からはじまる。それはつまりゴクラクチョウだったのだけれども、なんとその標本には肉も骨もなく、足さえもないように見えたのだった。そんなの標本だからあたりまえだろうがと思うのだけれども、これがモルッカ島で住民がお土産用に特殊なつくり方でつくっていた「はく製」で、じつに巧妙に皮と羽根だけを残してつくられていて、肉や骨を抜き取ったあとがわからないようになっていたわけ。これにすっかりだまされてしまったのが当時のヨーロッパの人々で、けっして地上に降りることのなく飛びつづける驚異の鳥、「天国の鳥」、「空気の精」として伝説化し、東インド諸島が香料の重要な産地でもあったことから、「ほかに類がないほどの動物学的探索の動機となり、烈しい植民地競争を引き起し、そして多数の探検家が命を落とす原因になった」。とにかくモルッカ島を訪れれば同じような標本がいくらでも入手できるわけだから始末がわるい。この「ゴクラクチョウ」専門の貿易業者まであらわれ、標本は驚くべき高値で売買されることになる。この騒動はさまざまな新種の動物の発見を附随させ、また多くの自然科学者や探検家が現地で命を失いながらも、19世紀中頃まで解決されることがなかったということ。

 ヴィデオは、配信停止まぎわの作品をかけこみで観た。

[] 「復讐するは我にあり」(1979) 今村昌平:監督  「復讐するは我にあり」(1979)  今村昌平:監督を含むブックマーク

 いぜんTV放映のそのラストシーンだけをぼんやりと観ていて、「ああ、ラストに緒形拳が遺骨を宙に投げ捲く映画なのだな」と間違って記憶していた。遺骨を捲くのは三國連太郎だった。原作は昭和38年におきた西口彰事件から取材した佐木隆三の小説で、この西口彰事件というやつ、おぼろげながら当時の報道がわたしの記憶のすみに残っていたりするけれど、さすがにどんな事件だったのかなどという記憶は残っていない。
 ‥‥強烈な作品だった。映画は榎津巌(緒形拳)が逮捕されパトカーで連行されるシーンからはじまり、そこから過去にさかのぼって事件の発端、榎津の少年時代からの過去、手配から逃れながら犯行を重ねる榎津の姿が描かれる。ほとんどのシーンが突き放した描写で、この榎津という連続殺人犯の内面をあらわすこともないのだけれども、さいごのほうに、榎津が投宿していた宿の女経営者の母(清川虹子)との印象的な対話がある。この母もまた肉親だかを殺害して刑に服した過去があって、ここで母はもう榎津が手配されている殺人犯だと知っているのだけれども、自分は憎んでいた相手を殺したときに「すっきりした」のだと語り、榎津に「おまえはほんとうに殺したいヤツを殺していないんじゃないのか」と問うわけだ。これはまるで「ほんとうに殺したいヤツをこそ殺せ」と焚き付けているような感じで、じつは映画を観ていれば、この榎津が「ほんとうに殺したいヤツ」というのがその父(三國連太郎)だということが当然のようにわかる展開になっている。
 その父は榎津の逃走中、母(ミヤコ蝶々)と榎津の嫁(倍賞美津子)と奇妙な三人の生活をおくっている。じつは嫁は父を慕っているのだけれども、父はクリスチャンゆえか嫁への欲望を抑え、ひじょうに屈折した関係を続けている。これに対応するように、榎津はその逃亡のさいごに宿の女主人(小川真由美)と関係を持ち、さきに書いたその母と三人で疑似家族のような奇妙な関係になって食膳を三人で囲んだりする。けっきょく榎津はこのふたりをも殺害してしまうのだけれども、そこに「家族」への嫌悪がひそむのか、たださらなる逃亡を続けるための殺人なのかはわからない。ひとつのクライマックスは留置されている榎津を父が面会する場面で、つまりは父は息子に「おまえにはオレを殺せない」と侮蔑する。ここが先の清川虹子との対話につながっても来るわけだけれども、ここですでに信仰を捨てている父の、隠さずに自己をむき出しにする立ち姿は、あまりに強烈であるだろう。
 モラルもヒューマニズムも、そのかけらも見い出せない作品で、ラストに三國連太郎が骨を投げ捨てる行為は、映画的にはまさにヒューマニズムをこそ投げ捨てる行為であるとも解せられるわけだろう。




 

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■ 2010-09-25(Sat)

 やはりきっと、ニェネントはラグドール種との雑種なのだと思う。思い返してみれば、いぜん公園でミイといっしょなのをみた首輪をつけたネコはラグドールにまちがいなかったと思うし、そのネコがニェネントの父親なのだろう。ニェネントはあまりうるさく啼いたりしない。こういうところもラグドール種の特徴らしい。ラグドール、なかなか高級種なのである。またニェネントをベランダで遊ばせていると、通りかかった女の子たちが「にゃーお」とか、ニェネントに声をかけているのがきこえてきた。どうです、かわいいネコでしょう。わたしとしてもこれからはもうすこし敬ってあげなくてはならないかもしれない。
 しかしそれが、夕食のときにテーブルにしつっこく上がってきてうるさい。何度下におろしてもすぐに上がってくる。あんまりうるさいのでちょっとこらしめてやろうかと、いたずら心もあって、練りワサビをほんのちょっと指にとって、ニェネントの鼻の上になすりつけてやった。おっと、ニェネントはぴょんぴょんとび跳ねて首を振り、前足でしきりに鼻をこすりはじめたけれど、同時に口からだ液をいっぱい流しだし、ニェネントが首振りするたびにそのだ液がまわりに飛び散る。びっくりするくらいのだ液を噴き出すので、「いかん、オレはとんでもないことをやってしまったか」とおどろいたり反省したり。水飲ませようと水の入った皿のところに連れていくけれど、もうそのころにはおさまったようで水を飲もうともせず、それからはおとなしくなってくれた。とくに異常もないようでとにかくほっとしたけれど、あんまりいたずらをやってはいけない。
 それで怒って仕返しというわけでもないだろうけれど、よるになってから、いままでになく強くわたしの腕にかみついてきた。痛かったし、大きな長いひっかき傷ができて血が流れた。

 ベランダに出してあったキャットフードが、いつのまにかなくなっていたりする。おそらくは知らないあいだにミイが来ているんだと思う。ジュロームもきっといっしょだろうと思う。からになった皿にまたキャットフードを入れておく。
 そういえばこのところひとつきぐらい、ミイの親子以外の野良ネコの姿を見なくなった。みんな暑さでどうにかしてしまったんだろうか。
 ひるまベランダから外をみていると、向かいのアパートの通路にジュロームがいるのがフェンスごしにみえた。ミイの姿はなく、どうやらジュロームいっぴきでのお散歩らしかった。ジュロームをもっと近くでみたいと思い、そりゃあ出来たら家に連れて帰りたいとも思って、玄関から外に出た。そのアパートの正面への角を曲がったとき、アパートの向こうの角からジュロームがタッタッと走って道を横切って行くのがみえた。ジュロームの進む先はいぜんミイが住処にしていたところで、どうやらジュロームはそこを住処にしているようだった。きっとミイもいっしょにいるんだろう。たしかにあの場所は住処としてそうとう安全な場所だ。出産するネコがその前後に引越しをくりかえすのは、その住処に血の匂いや子ネコの糞便などの匂いがつくのを嫌ってのことらしいので、もう子ネコも大きくなったので元の住処に戻ったということなのだろう。あの場所にいるのなら、それはまたわたしのマンションにもやってくるだろう。

 きのう観て書いていなかったヴィデオの感想を。

[] 「パルス」(2006) ジム・ソンゼロ:監督  「パルス」(2006)  ジム・ソンゼロ:監督を含むブックマーク

 黒沢清監督の、わたしには衝撃的だった「回路」(2000) のハリウッド版リメイク作を観てしまった。脚本にはウェス・クレイヴンの名前も見えるけれども、ハリウッドでもこの作品はあるていど実験的なケースぐらいのスタンスで、そのほかのスタッフ/キャストは若手でかためてみたというようなところだろう。オリジナルの「回路」で衝撃的だったシーンはていねいにそのまま踏襲して再現している。つまり、煙突の上から飛び下り自殺する人、物陰から主観描写のカメラにぬーっと姿をあらわしてくる「そいつ」のシーン(オリジナルでは「そいつ」をダンサーの北村明子が演じていたのだった)、煙をあげながら頭の上を墜落して行く旅客機、などなど。まあこういうポイントはどれもオリジナルと同じ演出(こまかく見ればすべてオリジナルの演出が上)なので、もうオリジナル以上の衝撃を受けることもない。で、もうオリジナルの「回路」を観てから十年も経っているわけなので、こまかいところなど忘れてしまっているのだけれども、この「パルス」が「回路」と根本的にちがっているのは、基底にあるコンセプトの、ネットの世界への依存度ということになるだろう。たしか「回路」ではネットは単にきっかけとして「異界」とのドアになっただけで、以後は「異界」はネットの存在などにおかまいなしにこの世界に侵入してくるわけで、だから黒沢清監督のほかの作品「カリスマ」や「叫び」とも通底してくることになるわけだけれども、この「パルス」では、問題はあくまでもネットのことというか、電脳世界の現実への侵入という問題になる。もちろんそういうテーマは「回路」という作品を離れて興味深いものではあるし、たとえば東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」も、そういう世界を描いているといえると思う。これは別にこの作品がダメというのではない、これはこれで面白い展開の仕方だと思うわけ。

 しっかししかし、「回路」という先行する作品の枠組みを使って作品を形成するこころみは、ここではやはりうまくいっているとは思えない。ここでさきに書いた「回路」とこの「パルス」との相違点につながるわけだけれども、それにはもうすこし黒沢清監督の作品について考えてみなければならない。まず、「回路」では「異変」、「異界の侵入」はひじょうにあいまいな、理由のわからない変異として描かれているわけで、それはたとえば「カリスマ」のラストと強くリンクするような「わからなさ」であったり、「叫び」のラストにも共通するものだろう。いいかえれば、これらの黒沢監督の作品は日本の幽霊映画の影を色濃く持っているものだといえる。幽霊は幽霊であり、なぜ幽霊が存在するのかなどということは幽霊映画ではけっして究明されたりしない。これは黒沢監督がしっかりと引き継いでいるコンセプトだろう。そしてもうひとつ、その変異が増殖して行くというところからは、あまたある「ゾンビ映画」からの引き継ぎも考えるべきだろうと思う。ゾンビ映画にしても、いったいなぜ死人が生き返るのかの説明など不要であるし、ただゾンビは感染して行くばかりであり、人々はゾンビから逃げまどう。とくにこの「回路」にはそういうゾンビ映画の変種という側面が強いわけで、これらの黒沢清監督作品は、「幽霊映画」、「ゾンビ映画」のコンセプトを引き継いだあたらしい表現の作品群ということだと思う。黒沢監督の別の作品「LOFT」がミイラを題材にしていることも、ホラー映画のジャンル、歴史を考えてみれば興味深いことであるだろう。
 そこでこの「パルス」だけれども、演出陣がここに「ゾンビ映画」「幽霊映画」のコンセプトをたしかに織り込んでいることはあきらかに読み取れると思う。そして、「幽霊映画」にかんしては、この「パルス」では「リング」などのいわゆるJホラーの映像を参考にしているように見受けられるわけだけれども、それがあくまでも「映像」的に参考にしているだけにとどまっているあたりに、ひとつの限界を感じることになる(「映像」的にどのような影響を受けているのかを見ていくと、それはそれで面白いものがみえてくるのだけれども)。つまり、「幽霊」とはなにか、ということがわかっていない、ということになる。いや、「幽霊」とはなにか、などということはわからないのだ、ということがわかっていない、といい直すべきだろう。ということは、この「パルス」、「ゾンビ映画」的な側面だけが生き残ってしまったことになり、とくに後半になるにしたがってそういう側面ばかり生き残ってしまう。ほとんどゾンビとおなじ「異界」の描写で、この作品は類型化の道をまっ逆さまに落下する。ラストも「28日後... 」みたいなサバイバルものに習ってしまった。
 そういうわけでこの「パルス」、電脳空間に結び付いたあたらしいタイプのゾンビ映画へのこころみだといえるかもしれないけれど、中途半端に黒沢監督の「回路」をなぞろうとしてしまったこと(まあリメイクなんだからしょうがないけれど)、けっきょくは「ゾンビ映画」の系譜のなかで想像のつく展開に堕してしまったこと、こういうことで残念な作品になってしまった。




 

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■ 2010-09-24(Fri)

 あさ、いつものようにニェネントをベランダに出して遊ばせる。もうさいきんはベランダにしばらく放置して勝手に遊ばせていてるのだけれども、もうそろそろとわたしがベランダに出ると、その足音で遊んでいたところからわたしの足もとにふっ飛んでくる。たまにいちばん奥の部屋のベランダまで行ってしまっているのだけれども、わたしがベランダの柵をコンコンとたたくと、やはりその音で走って戻ってくる。いちばん奥の部屋にはいつもほとんど人はいないので妙なことにはならないだろうし、ニェネントも人影をみればちかよらないだろうと思う。まあこれは楽観的な見方で、ニェネントはどんな人にもなついてしまうのかもしれないし、なによりも、いつかベランダから跳び下りてどこかへ行ってしまうかもしれない。
 それできょうもニェネントを呼び戻そうとベランダに出たのだけれども、奥まで行ってしまっているようで、ニェネントの姿は見えない。ベランダの柵に乗り出して奥を見ると、そこにベランダから駐車場にいるミイと向かい合っているニェネントの姿があった。ベランダの上と下できょりは一メートルぐらいしかなく、ただだまって見つめ合っているだけ。おどろいてしまった。ミイが誘えばニェネントがミイについていってしまうように思い、柵を叩いてニェネントを呼ぶけれど、そんな音は気にもとめないでミイの方をじっと見ている。ミイの方がわたしに気がついて、すこしこっちの方をみてからゆっくりと駐車場の外に出ていった。ニェネントは行ってしまうミイを見つづけていて、その姿が見えなくなってしまってからわたしのところへ戻ってきた。ニェネントはミイがじぶんのお母さんだとわかっていたのだろうか(たぶんわかっていないだろう)、そしてミイはニェネントをじぶんの子どもだと知っているのだろうか(知っている可能性が強い)。二匹は見つめ合いながらいったいお互いにどうしようとしていたのだろう。たとえミイがニェネントのことをじぶんの子どもとわかっていても、もう連れて行ってじぶんで育てようなどと考える段階は越えているだろう。つまり、ミイはお互いのテリトリーを確認していたのかもしれない。
 ニェネントにとってきょうのミイは、まずはジュロームがいなくなってからはじめて出会う自分と同類の生き物ということになるのではないのか。じぶんと同じくらいの大きさの、じぶんと同じような格好をして同じような動きをする生き物。ニェネントはそんなミイとの出会いでどんなこころのゆらぎを感じたのだろうか。戻ってきたニェネントは、いつものニェネントとまったく変わりなくわたしになついてきて、遊びつづけている。ニェネントのきもちはわからない。

 しばらくしてベランダの外を見ると、またミイが駐車場のフェンスの向こうにいて、こっちを見ていた。そのわきに、ミイをそのままひとまわり小さくしたような子ネコの姿があった。あ、ジュロームだ。元気に育っていたわけだし、まだ母ネコと行動を共にしているんだ。ジュロームもミイと並んでじっとわたしの方を見ている。なんとかジュロームを呼び寄せたくなってしまった。いまでもジュロームなら迷うことなくここでニェネントといっしょに飼っていきたいと思っている。いぜんミイにキャットフードの袋を振ってみせると走ってこちらにやってきたのを思い出し、キャットフードの袋を持ち出してミイたちに見せ、ガサガサと振ってみせた。おっと、その音におどろいてジュロームが逃げてしまった。ミイはちょっとこちらを見ていたけれど、ジュロームのあとを追っていなくなってしまった。失敗、である。
 ミイはこれからどうするだろう。またジュロームをこのあたりに連れてくるだろうか。それよりも、わたしはどうするのか。もうベランダにキャットフードを出して野良ネコにあげるのはやめていたけれど、まえのユウのときのように、ミイが「あそこに行けば食べ物がある」とジュロームに教えるようなことがあるなら、ぜひそうなってほしい。それでまた、ベランダにキャットフードを出しておくことにしてしまった。ジュロームが来るといいのだけれどもと思う。

 よるベッドで本を読んでいると、ニェネントがそばに寄ってきて、本のページの上に足をのせてじゃまをする。本を持ち上げると本の裏側にまわり、背表紙にかみついてくる。うしろに垂らしたしおりのひもを引っぱってかみつき、とうとうかみ切ってしまった。図書館から借りた本だったりするといやなことになる。
 いまはナボコフの「キング、クイーンそしてジャック」を読み終わり、合本されているおなじナボコフの「断頭台への招待」を読みはじめているのだけれども、並行して、いぜんにとちゅうまで読んでいた「世界動物発見史」をまた図書館から借りてきて読んでいる。キリンに関する章を読み終わり、モンゴル帝国のハーンの動物園の章へ。多くの動物は中世までにいちどはヨーロッパで知られていたのだけれども、近世には忘れ去られ近代になって再発見されることになる。

一八二七年のある日、エジプトのパシャは、センナーのアラビア人たちが雌のキリンの子を二頭生け捕りにして、ラクダのミルクで育てていることを知った。彼はキリンをカイロに移し、在留ヨーロッパ人たちを招待して庭にいるキリンを見せた。ヨーロッパの商人や各国の領事館の役人と職員たちはすっかりキリンに見とれてしまった。この伝説の生き物の存在は、彼らの故国ではほとんど忘れられかけていた。さまざまな博物学の本や、多くの旅行記に述べられてはいたのだが。彼らの驚嘆に気をよくしたパシャ・モハメッド・アリはヨーロッパ人の友人のうち誰か二人に、キリンを贈呈することにした。そして、さまざまな国の領事館にキリンの当たるくじを引かせた。運よくくじに当たったのは大英帝国とフランスだった。キリンは細長いボートに積まれ、アレクサンドリアへ運ばれてそこから船に乗せられた。その後まもなく、まさにキリンブームがロンドンとパリを襲った。特にパリでは、キリンは文字通り流行の最先端となった。その後数年間、世界中の御婦人がたはこぞって「キリン調」の装いをこらすことになった。

                      (p85)

 ‥‥面白い。キリンのことをまったく知らずに成人し、いきなりキリンを目にするというのはどんな感じだろう。なにもわけのわからない子どものうちにキリンなどの存在を知ってしまうのは、つまらないことだと思う。しかし、キリンを運んだ「細長いボート」とはどんなものだったんだろう。ボートはたいていは「細長い」のだが。

 きょう観たヴィデオはふたつ。

[] 「ナポレオン EPISODE1:皇帝誕生・EPISODE2:帝国の崩壊」(2002) イヴ・シモノー:監督  「ナポレオン EPISODE1:皇帝誕生・EPISODE2:帝国の崩壊」(2002)  イヴ・シモノー:監督を含むブックマーク

 フランス/イタリア/ドイツの合作で、TV放映用に製作されたものだけれども、予算はかなり注ぎ込んだ作品らしい。なぜか英語を使用しているのは、ひとつには輸出を考えてのことなのだろうけれど、フランス、イタリア、ドイツそれぞれの製作国で平等に同様のリスクを負うためか、とも解釈できる。日本ではなぜか「キング・オブ・キングス」というわけのわからない邦題でDVD化されているらしい。ナポレオンを演じているのはクリスチャン・クラヴィエという知らない役者さんだけど、この人はフランスの有名な喜劇俳優らしい。きのう観た映画のせいで、ときどき河原崎長十郎に似ているな、と思ったりした。わきをジョン・マルコヴィッチやジェラール・ドパルデュー、イザベラ・ロッセリーニ、アヌーク・エーメなど有名どころがかためているわけで、この作品の情報をネットで検索したら、ジョン・マルコヴィッチ主演みたいに書いてあるサイトもある。いくら芸達者でも、マルコヴィッチにナポレオンはムリだろう(やったらやったで観てみたいのはたしかだけれども)。

 さて、ナポレオンの映画といえば、キューブリックが実現をめざしていたものだったりするけれど、わたしなどが知っているのはアベル・ガンスのサイレント映画ぐらいのもので、じつはこの「ひかりTV」で、そのアベル・ガンスのものも放映されている。そっちも録画してあるので、この作品を観るのははアベル・ガンス版を観る予行練習みたいなもの。チャンネルを合わせるのが遅れてしまい、15分ぐらいあたまの部分を観そびれてしまったけれど、とにかくエジプト遠征からセント・ヘレナ島(この島は先日読んだ「メイスン&ディクスン」の舞台でもあった)での死まで、NHKの大河ドラマで一年かけても描き切れないのではないかというような、歴史に残る事象の連続また連続なのである。観終わった印象。ははあ、この作品は当時の衣装の再現と役者のギャラにいちばん予算を使っているな、という感じ。どこでどうやって撮影したのかわからないような、豪華絢爛たるむつかしい漢字があちこちの宮殿の内部もいっぱい出てくる。まあそういう豪華さは目を楽しませるわけだし、たとえばダヴィッドが描いた有名なナポレオン戴冠式の絵で、いったいなんでナポレオンがジョセフィーヌに冠をいただかせる場面を描いたのかとかわかるしくみになっている(教皇は列席していただけで、なんとナポレオンはじぶんでじぶんのあたまに冠をのせたのだ。そんな場面は絵にならないではないか!)。
 しかしながら、あくまでもナポレオンを中心に描かれたドラマを見通して、その戦闘や政変、ナポレオンの政策などの、その背景などはかなり描かれるのだけれども、じっさいにそれがどういう結果になったのかという、ある意味で肝心の部分の省略されることが多い演出になっている。「ヨーロッパ人だったらそんなこと知っていてあたりまえ」ということなのか、観ていて「そうか、アレはこうなってしまったわけなのか」と、のちのドラマの展開から想像するような演出になっている。そういう意味ではがゆいのは戦闘シーンの演出で、「バリー・リンドン」ばりに当時の戦争での布陣、戦術などを忠実に再現しているようなのだけれども、じゃあそれでどちらが優勢でどちらが負けいくさなのかというのがわからない戦闘シーンのシークエンスがいくつかある。ストーリーとしても理解しにくいし、スペクタクルとしても観ている方はいささか不完全燃焼になる。たとえば多くの死者を出したロシア遠征も、その苛酷さも退却の姿もほとんど描かれない。この遠征でフランス軍は壊滅状態になり、軍隊は若い男子を駆り集めてなんとか体裁を保つという描写があってはじめて、観ている方はロシア遠征の結果を知るようなことになるわけだ。そういうスペクタクル作品としては、ヤマ場不在のドラマなのではないのかという印象になる。
 それではナポレオンという人物を描いた「人間ドラマ」としてはどうなのか、ということになるけれど、製作者もそのあたりに力を注いでいるわけで、たしかにひとつの人物像は浮かび上がってくる。わたしの観た感想では、ここで描かれるナポレオンという男、理想を抱きながらもリアリストにならざるを得ない性格というのか、まわりの状況にも流されて「こうなるはずではなかった」というような選択をとって行く人物、ということだろうか。まあこの作品をみているとあまりじぶんの過去を反省するような人物ではないという印象で、「余の辞書に<反省>ということばはない」とばかり、過去のじぶんを裏切るような選択を続けているように思えるのだが。
 印象に残ったのは、戦場で重傷を負い死にゆく元帥が彼を看取るナポレオンに呪詛のことばを投げつけて息絶えるシーンで、元帥は「わたしは多くの人を殺したから地獄へ行くだろうが、あなたも地獄へ行くのだ。あなたは人々に見捨てられ、孤独に死んでいくだろう」と語るわけだ。
 そういうわけで、ナポレオンという人物像を、多少は否定的にとらえるような視点は感じる作品だった。まあ観ているとあまりまともな善人らしい人物も存在せず、みんな腹に一物持っているようなのだけれどもね。そう、ジェラール・ドパルデューは警察大臣のジョセフ・フーシェ役を演じていて、このジョセフ・フーシェという人物はシュテファン・ツヴァイクが本にしている人物だろう。マルコヴィッチは外務大臣だったタレーランを演じていて、彼はこの作品ではナポレオンの運命を左右した重要な策士として描かれているけれど、ここでもマルコヴィッチは例のささやくような小声(中年女性殺しのウィスパー・ヴォイスというヤツなのだ)でひとに語りかけ、ふにゃふにゃとした演技を見せて、「またこんな演技をやっている!」と思ってしまうし、そんな彼を毎回下から仰ぎみるような角度で撮影する演出も、わけがわからないということになる。




 

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■ 2010-09-23(Thu)

 一気にさむくなった。雨が降っている。TVでは十一月上旬の気候だといっている。九月と十月はどこに忘れられてしまっているのだろうか。わたしの財布のなかもさむくなったので、毎週木曜日の買い出しも牛乳と玉子だけ、最低限のものにした。よるは買ってあった栗の1/3を使って栗の炊き込みご飯をつくる。ネットのレシピに、まず栗を少しごま油で炒めてから炊き込むとおいしいと書いてあったのをやってみたけれど、ぜんたいにごま油の味がひろがってしまって、こんなのがおいしいわけがない。わたしとは味覚がぜんぜんちがう人のお気に入りなんだろう。次回からはふつうの炊き込みご飯にしよう。まだ買った栗の2/3は残っているので、あと二回できる。いっかいで二食分になるから、ほとんどこんげついっぱいは栗ご飯ばかりになるかも。

 このあいだ新宿に出たときに、猫カフェのフリーペーパーをひろってきた。その猫カフェでお客を待っているいろいろなネコの写真が満載で、たしかにキャバクラの客呼び込みと同一コンセプトなんだけれども、つまりはニェネントのようなネコはいるだろうか、それはどんな種類のネコなんだろうということに興味があったのだ。つまりニェネントは野良の雑種なんだけれども、母ネコは黒白のブチで面割れ。ニェネントといっしょに生まれたきょうだいの残り四匹はみな黒白ブチだったけれど、ニェネントだけは薄茶と白のブチで、耳の付け根と尻尾が濃い茶色になっている。ネコというのは複数の雄ネコの子を同時に妊娠して出産するらしいので、ニェネントの父ネコはほかの子ネコとはちがうのかもしれない。このあたりの雄ネコにはノラと名付けている白ネコがいて、これはまちがいなくこんかいのミイの子どもたちのお父さんの一匹なのだけれども、まだほかに雄ネコがいるのかもしれない。または隔世遺伝でこうなってしまったのか、いっしゅの変異体なのかということも考えられるけれど、ニェネントのようにはっきりとした特徴を持っていると「どんな種類に似ているのか」と調べたくなるわけだ。それで、ぱらぱらとそのフリーペーパーをみていたのだけれども、ニェネントと同じような特徴のネコがいた。耳と尻尾が茶色であとは白いネコ。ラグドールという種類で、かなり人気の高いネコらしい。もちろんニェネントは雑種だからすっかり同じ特徴を持ち合わせているわけではないけれど(ラグドールは長毛らしいし)、写真によってはそうとうにニェネントに似ているラグドール種の写真もある。つまり、ニェネントの父ネコはラグドール種のネコだということなのだろうか。このあたりにそんなネコをみたことがあっただろうか。ああ、そういえばずいぶんまえに、公園でミイがどこかのすごくかわいい飼いネコと向かい合っていたことがあった。そのネコの特徴はほとんど忘れてしまっているけれど、今思い返せばそのラグドールの特徴を持っていたような気もする。あのネコがラグドール種で、ニェネントのお父さんということなのかもしれないな。ネットで見つけたニェネントに似ているラグドールの写真をアップしてみる。かなり似ていると思う。まあただの野良ネコでいいんだけれども、どんな父親だったのかはやはり気になるわけだ。

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 ひかりTVで放映されていたTV番組としての映画をずいぶんと録画していて、DVDではなくて旧式のVHSなのだけれども、その録画したテープが増えてしまった。まだこれからも録画しておきたい番組はあるだろうし、すこし以前に録画したものを鑑賞して、そのテープを次回の録画に使おうということにした。先日までの日本映画三本も録画してあったものだけれど、きょうも録画してあった映画を三本観た。

[] 「シベールの日曜日」(1962) セルジュ・ブールギニョン:監督  「シベールの日曜日」(1962)  セルジュ・ブールギニョン:監督を含むブックマーク

 学生のころに観て、もういちど観てみたいと思っていた作品。
 インドシナ戦争でパイロットだったピエール(ハーディ・クリューガー)は戦場で記憶を失って帰郷。記憶を失ったまま、彼の面倒をみた看護婦のマドレーヌ(ニコール・クールセル)に愛され庇護される日々を送っている。ある夜、ピエールは修道院の寄宿学校に男に連れられていく少女(パトリシア・ゴッジ)に出会う。その男が少女の父で、娘を見捨てようとしていることを知ったピエールは、修道院の勘違いもあって、父親の代わりに毎日曜日にその少女と会いつづけることになる。その苛酷な境遇からか精神的に成熟してしまっている少女と、記憶を失い子どものような精神を持つピエールは、町の中心にある池のある公園(ヴィル・ダヴレイというところらしい)で、まるで恋人同士の逢瀬のような時間を持つ。そんなふたりは町のうわさにもなり、マドレーヌの知るところともなる。マドレーヌはふたりの関係を理解するのだけれども、ほかの人たちはそうは思わない。クリスマスの夜にふたりはいなくなり、誰かが警察に連絡して捜索がはじまる‥‥。

 とにかく、アンリ・ドカエの撮影の美しさはまさに一級品で、日本の水墨画にインスパイアされたらしい(作品中にそんな水墨画も写っている)グレートーンで捉えられたヴィル・ダヴレイの景色の美しさ、特に池の水面の反射から捉えた、水の波紋ごしの風景や人物の映像の美しさは、ほかに例えようもない。そういうモノクロ撮影の美しさという意味では突出したすばらしい作品といえるのだけれども、そのドラマとしては、少しばかり疑問の残るつくりになってしまっているという印象。
 いちばんひっかかるのは少女の造型にかかわる部分で、ときに、単に少女に成熟した「おとなの」女性を演じさせているだけになっているのではないのか。あまりに安易に「おとならしさ」をやらせているという印象で、彼女がピエールに「そんなことまでいわせるの?」などと語るシーンなんか、まさに「そんなことまでいわせるのか?」という感じで、ちょっと笑ってしまった。これは失笑であるけれど、ふたりのシーンの演出など、単におとなの恋人たちを規範とした演出にみえてしまう場面が多いということになる。
 もちろんそんな少女でもファンタジーを信じるような童心はもっているわけで、その少女の童心とピエールの童心が悲劇に向かってしまうというのはわかるし、その反面に彼女が大人びた精神を持たされてしまっていることも理解はできる。そうでなければクリスマスの彼女からピエールへのプレゼントの意味も理解できないのだけれども、そういうわけで、演出面ではときに「勇み足」を感じさせられてしまうことになり、もうちょっと抑えてほしかった気がする。ラストの少女の悲痛な叫びは、大人らしく生きることを余儀なくされたまだおさない子の、その背伸びした大人らしさの「喪失」の叫びで、同時に童心もまた裏切られることになる(だから彼女はまさにじぶんを「もうなにものでもない」存在と認識する)、それは彼女のなかの年齢相応の「おさなさ」と、背伸びした「大人らしさ」との共存が世界に承認されなかったということであって、つまり、その分裂を生きることを余儀なくされてしまった存在の悲劇ということになる。そういう演出面の「勇み足」がなければと、惜しまれるテーマだと思う。
 そしてピエールのほうだけれども、ピエールのなかにあった「おさなさ」は、記憶喪失、やはり戦場体験から来るらしい「めまい」と、いく重もの病理としてあらわれているようだけれども、このあたりの病理がこんとんと描写されてしまっているので、たとえば彼が「めまい」を感じなくなったということが、いったいどういうことなのか、記憶喪失もいっしょに治癒されたということなのか、まずは彼の病理(そういってよければ、の話だけれども)がいったい何なのかということが明快なかたちで伝わって来ないうらみがある。そしてピエールの周囲の人々。彼の「おさなさ」は「純粋さ」や「無垢」に結び付けられているようだけれども、それが病理的なものとして治癒されるべき「おさなさ」であるのなら、ピエールと少女の失踪を警察に知らせるというある男の行為は、ピエールのなかにそういう治癒されるべき危険な病理をみていることになる。この映画であらわされた悲劇は、ピエールの病理は犯罪に結び付くだろうという病理への偏見と予断の生んだ悲劇なのだけれども、ではピエールの病理は治癒されるべきなのか、それとも彼の「純粋さ」を守らなければならないのか、という大きな解決のつかない矛盾は、そのまま宙ぶらりんの状態で残っているように思えてしまう。マドレーヌのピエールへの庇護は理解できるけれど、いったいマドレーヌはピエールの何を庇護しようとしたのか。擁護されるべきと考えられるピエールの「純粋さ」は治癒されるべき病理なのか、それとも彼が生来もっているものなのか。庇護することは治癒につながるのか。少女との逢瀬は少女にとってはほとんどライフラインのようなものであったかもしれないけれど、ピエールは少女のなかに何をみていたのか、よくわからない。そもそも、ピエールはインドシナで少女を殺したかもしれない、そのことが彼の記憶喪失の原因ではないかというような冒頭の暗示は、いったいどのように解釈されるべきなのか。わからない。

[] 「天国の口、終りの楽園。」(2001) アルフォンソ・キュアロン:監督  「天国の口、終りの楽園。」(2001)  アルフォンソ・キュアロン:監督を含むブックマーク

 アルフォンソ・キュアロン監督の作品は、いぜんに「トゥモロー・ワールド」をたいへん面白く観た記憶があるだけで、それ以外の作品を観たことがなかった。こんかい偶然にこの「天国の口、終りの楽園。」を観たのだけれども、「トゥモロー・ワールド」でも特徴的だった手持ちカメラでの長回しを多用した、印象に残る作品だった。考えることといえばセックスのことばかりみたいなふたりの青年(というよりも少年か)が、だんなの浮気の告白を聴いて(事情はじつはもっと複雑だけれども)家を出た人妻と三人で、でっちあげの美しい海岸「天国の口」をめざしてドライヴするんだけど、その「天国の口」という海岸は実在したわけでという、ロードムーヴィー的な斬り口を持った作品。車窓風景にメキシコの政治状況も暗示するようなショットも続き、ラストの展開のビターさとあわせてちょっと辛口のビルドゥングス・ロマンという趣き。海岸での三人の最後の夜のカメラの長回しが圧倒的にすばらしい。字幕頼りに観ていて音量を絞っていたので気が付かなかったけれど、BGMにFrank Zappa や羽鳥美保(ex.チボ・マット)らの音楽が使われていたらしい。音楽チェックで大音量でもう一度観てみようかな。

[] 「箱根風雲録」(1952) 山本薩夫:監督  「箱根風雲録」(1952)  山本薩夫:監督を含むブックマーク

 山本薩夫監督の特集でBSで放映されていたもので、前進座総出演。河原崎長十郎主演でその妻役が山田五十鈴。中村翫右衛門が面白い役で印象に残ることになる。
 「箱根風雲録」というとなんだか壮大な活劇を連想するけれど、徳川家綱の時代に芦ノ湖からトンネルで駿河の農地へ水を引くための「箱根用水」を完成させた友野與右衛門の物語である。完成に五年の月日を費やし、さまざまな困難に私財も投げ打って尽力した友野與右衛門は、幕府のでっちあげたえん罪容疑でその用水開通のときに死刑となる。いったいなぜ幕府がこの工事を妨害しようとしたのか、ちょっとばかしこの映画ではわかりにくくもあるのだけれども、町人ふぜいが農民と協力して事業にあたることに反権力の動きを予見し、また幕府の威光を脅かすものとうつったのであろう。じっさいに友野のもとに農民たちが集結するさまをみた蒲生玄藩という幕府転覆を企む島原の乱の残党は、友野に「共に幕府を倒さんか」ともちかける。この蒲生玄藩を中村翫右衛門がやっているわけで、その妾を轟夕起子が演じて、乗馬シーンなどをみせてくれる。
 とにかく前半は演出がもたついて、話がスムースに流れないきらいがあるのだけれども、農民の工事への日当の支払がとどこおり、農民が仕事を放棄、それを単身江戸にもどった友野の妻が家財資産をすべて売却して駿河に骨をうずめる覚悟で帰ってくるあたりからがぜん画面は精彩を放ちはじめる。とにかくこの山本薩夫監督、群集シーンの人々のエネルギーを活写するのが得意のようで、前半の小人数密室ドラマ部分のぎこちなさはいったい何だったのかとばかりに後半は手に汗を握る展開になる。農民たちなどあれこれの登場人物それぞれに、ちょっとずつでもタンカを切るような花のある場面を持たせているのもいい感じで、作品に幅を持たせている印象になる。用水完成に心血を注ぐ友野を演じる河原崎長十郎の熱演、妻の山田五十鈴の覚悟ぶりもいいのだけれども、やっぱ面白いのは中村翫右衛門の演じる蒲生玄藩というキャラクターで、書いたようにさいしょは友野を討幕の仲間に誘うのだけれども、用水に賭ける友野の情熱に打たれて仲間を捨て、坑道で農民と共に肉体労働に打ち込むことになる。これが友野が幕府側に捕らえられると仲間のもとに戻って決起し、友野救出の戦いを繰り広げて果てることになる。友野を救いに向かう場面、馬上で風に髪をなびかせながら号令をかける姿はさながら「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールで(そこまでほめることはないが)、とにかくカッコイイのである。これ以降しばらく続く戦いのシーンであれば「箱根風雲録」というタイトルも場違いなものではないし、ここはちょっとした熱血アクションという観客サーヴィスのシーンということだろう。あれこれと面白いところのいっぱいある作品で、いまの映画技術でリメイクしてもいいんじゃないのかなどと思ってしまうのだけれども、まあそういうことは決して起らないだろう。



 

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■ 2010-09-22(Wed)

 あさ起きたときから頭が痛い。洗面所へ行くと、ニェネントが歯みがき用のコップを下に落として割ってしまっていた。ああ、きのうは散財して飲みすぎてしまった。こんげつはもうちょっとは倹約生活をめざしていたのに、さいごに来てご破算にしてしまった。あたまがいたい。
 午後になってスーパーに買いものに出て、戻ってきたら、部屋のドアのまえにネコのうんちが盛り上げられていた。靴先でうんちを側溝へ蹴落としてドアを開ける。こんなことをやるのはミイにちがいない。ミイにしかこういうことはできないだろう。砂もないところでわざわざ用を足すなんて、わたしへの嫌がらせなのか、それとも猫ヴードゥー教の呪いをかけたつもりなのか、あとで盗賊仲間をつれて泥棒に入るときの目印なのか、ミイのほんとうの考えはわからないけれど、わたしに恨みを抱いているという意思表示は感じるぞ。やはり、みょうに賢いネコだ。
f:id:crosstalk:20100923201926j:image:right そんな母ネコの恨みも知らないで、ニェネントはすっかりわたしになついている。生まれて三ヶ月になってだいぶ成長したけれど、まだまだ子ネコだなあと思うことが多い。暗いところではまだ眼が赤く見えるのも子ネコのしるし。アルミホイールを丸めたボールが大好きで、いつまでも遊んでいる。攻撃的な気分でないときは、わたしの腕に跳びかかってきてもかみつかないでペロペロとなめてくれる。悪い気はしないので、わたしもニェネントを抱き上げて、鼻のまわりをペロペロなめてあげる。ネコの鼻はときにとてもしょっぱい。寝るときにはいつも、できるだけわたしのそばで眠ろうとする。あれ、ニェネントがいないぞ、などと思うときにはたいていわたしのまうしろで寝ていたりするので、不用意にうしろに手をついたりするとニェネントをつぶしてしまうことになる。そういうとき、ニェネントは「ふぎゃ!」と、つぶされるような声を出す。じっさいにつぶされそうになっているのだ。
 しかしなんで寝るときにあたまのてっぺんを下にのどの裏を上にして、首をひねったような姿勢で寝るんだろう。寝ているニェネントをみていると、きのうの散財のことも忘れてしまう。それでいいことにしよう。

 まえに観たヴィデオ作品のことを。

[] 「心」(1973) 新藤兼人:監督  「心」(1973)  新藤兼人:監督を含むブックマーク

 またも「文芸作品」で、原作は夏目漱石の「こころ」なのだけれど、ここではその小説の後半の、「私(先生)」とKとをめぐる、「私」の罪悪感のもととなった事件の話のみにスポットをあてて描いている。それも時制を「現代(もちろんこの映画製作時の現代)」に移し、そのほかかなり自由な翻案をおこなっている。もちろんこの脚本は新藤兼人監督自身の手になるもの。このあたりは「さすがだなあ」というか、小説作品の「こころ」から映像作品の「心」へと、そのみごとな転身ぶりを見せている印象がある(といっても、わたしは小説の「こころ」の細かいところなどもうおぼえてはいないのだけれども)。とにかく、風景などの映像にストーリーを重ねて画面に精神的な奥行きを持たせていく技術は、先に観た「廃市」などとても及ぶものではない。ここでは、人物が坂道を上っていくのか下っていくのかということにも、大きな意味が与えられているだろう。
 物語はつまり、同じ下宿にやっかいになる「私」とKの友人同士が、同じにその下宿の「お嬢さん」を好きになるのだけれども、まずはKから「俺はお嬢さんが好きだ」との告白を聴いた「私」が、そんなKを出し抜いて先に求婚し承諾をもらってしまう。そのことを知ったKが自殺してしまい、「私」には罪悪感が残るという話で、小説「こころ」ではその「私」が自殺するところからはじまり、後半に「遺書」のかたちで、この「私」とKと「お嬢さん」のてん末が語られるというものだったはず。で、この映画で興味深いのは、おんな手ひとつでその下宿を切り盛りしているその「お嬢さん」の母親の存在がクローズアップされていることで、これを乙羽信子が演じている。おそらくはこの母、Kの気持ちも「私」の気持ちも両方ともわかっていながら、資産のある「私」からのKへの裏切りをも意味する娘への求婚を承諾しているのだろうと描かれていることで、つまりはほとんど「私」の共犯者みたいな存在ともいえるというか、「私」の罪悪感のもとになる感情、その陰の声の具現化のような存在に思える。ちょっと強烈だったのが、下宿で自殺したKの死体を「私」が発見してその母に報告したとき、母はあわてるふうも見せずに「ご家族に電報を打って下さい」というのだけど、これに「私」が「電話の方が早いのでは」と聴くと、「電報ならば、お知らせだけで済むのです」と答えることで、これはまず原作にはないものだとは思うけれども、この母の持つ「非情さ」が鮮明に打ち出され、その「非情さ」こそが「私」が共犯者のように分ち持たなければならなかったものだったということが、観るものに強烈に伝わってくることになる。しかもこの母は「私」の結婚後、先に逝去してしまうのだから、「私」はその母の分も含めた「罪悪感」を抱え込まなくてはならなかったのではないのか。映画のラストで「私」は、Kには弱いところがあったから敗者になって当然だったのではないかと、Kと同じ試練を自分に与えようとするらしい。この、山に登ろうとするラストシーンが唐突であまりに短いこと、仮に「私」にKができなかったことを成し遂げられたとしても、そのことで「私」の罪悪感が消え去るとはとても思えないこととか、ひとつの作品のしめくくりとしてはなかなか納得のいくものではないだろうと思う。というかやはり、漱石の「こころ」から離れて、そこに新藤兼人の「心」をしつらえようとしたあたりに無理があったのではないだろうか。意欲作というか、面白いところもあれこれあったのだけれどもね。




 

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■ 2010-09-21(Tue)

 まいつきごとにその都度リセットして、会った人の名はイニシャルで「A」さんからはじめて書いているのだけれども、こんげつはそれなりにいろんな人に会ったりしたけど実名を出させてもらったり、お会いしていてもここでわざわざ書かなかったり、お会いしてもいないのに名前を引っぱりださせてもらったり、なんだかよくわからなくなってしまった。で、きょうお会いするのはCさんということにして、そのCさんと連絡をとって、新宿で待ち合わせて飲むことにした。つきに一度ぐらいは会って飲もうよと話をしていたのが、さすがに八月はあの暑さだったので、まあ暑いからこそ外で飲むのもよかったのではないかとも思うけれどパスしていて、久しぶりの飲み会。
 ぜんかいはわたしの手元に大手居酒屋チェーン店のクーポン券があったので、そういう店で飲んだのだけれども、こんかいはCさんの意向にあわせようと、「どこで飲もうか」と聞くと、三丁目の方に行ってみたいということで、足をそっちに向けた。三丁目で飲むのも久々で、さいきんはときどき篠原有司男の作品のある居酒屋で飲んだりするぐらいだけど、あの店は何という店名だったか。このところ三丁目界隈はものすごく様変わりして、立ち飲み居酒屋とかホルモン焼の店が増えているのはまえにあたりを歩いていて知っていたけれど、きょう歩くとさらに知らない店が増えている印象。いち時期は通りに面した店でもロックを聴かせるような店が乱立していたような記憶があるけれど、そういう店も淘汰されてしまったような。まあ十年以上前にはよくこのあたりのロック・バーとかに入り浸っていたものだけれども、あのころの店の店長でお亡くなりになってしまった方もいるし、雇われ店長さんの店などはみな店長さんも代わってしまっているだろうから、そういう店に行ってももうはじめての店に行くような感じになってしまうだろう。とにかくきょうは飲んで食べてを優先なので、やはりふつうの居酒屋をさがす。さいきんはあちこちで「◯◯水産」みたいな、海産物を客に勝手に焼かせて食べさせるような店が増えているけれど、ここにもそういう店があったので、「安いかも」と、中に入った。きょうも外は夏日の暑さで、テーブルの上でガスコンロをガンガン使う気分でもないので、火を通さなくてもいいもの中心に進行。アルコール類はちっとも安い店ではなかったので、失敗の選択である。
 さて、いよいよあと十日ほどでタバコの大幅な値上げということで、やはりCさんも禁煙を考えているということ。Cさんのまわりでもこれを機会に禁煙しようという人がいっぱいいるらしい。わたしもそんな禁煙を考えているひとりで、さいきんは予行練習的に喫煙量を大幅に減らしているのだけれども(すごいときはいちにち三本すごし、もう禁煙は目の前だななどと思い上がっていたけれど、例によってまた喫煙量はふえている)、きょうは駅前で「ゴールデンバット」を買ってしまった。それで考えたのは、禁煙しなくっても「ゴールデンバット」に切り替えればいいんじゃないかという情けない案だったのだけれども、たしかに「ゴールデンバット」は、十月に値上げされてもまだ二百円なのだ。これならそれほどの家計への負荷ではないのではないか。おそらく、十月以降は「ゴールデンバット」だとか「いこい」だとか「エコー」への鞍替え組が増加するだろう。そんなことをCさんに話すが、CさんにはそういうB級タバコのニコチン・タール含有量は受けつけられないそうだ。ちなみに「ゴールデンバット」は、Cさんの吸っていたタバコの四倍から六倍のニコチン・タール含有量なのであった。そういう問題とは別に、両切りフィルターなしの「ゴールデンバット」はやはり吸いにくいというか、同じ両切りのショートピースに比べて巻きがゆるいのだろう、吸っていてタバコの葉が口に入ってしまったりしてはなはだ具合が悪い。そこで考えるのだけれども、これからゴールデンバット専用の吸い口の使い捨てパイプを売り出せば、これはそうとうに売れるのではないだろうか。「ゴールデンバット」はほかの紙巻きタバコよりもおそらく巻きが細いので、既成のパイプではサイズが合わないのではないかと思う(じっさいに試してみていないけれど)。そんな「ゴールデンバット」のための吸い口を売り出せば、つまりはフィルターの役もはたすわけだし、ケチくさいことを考えればより短いところまでも吸えるだろう。そうだ、これからは「ゴールデンバット」専用パイプで起業しようではないか、などとつまらないことを考えたのであった。Cさんは無反応である。

 久しぶりに飲む三丁目で、ちょっとばかし昔の気分になってしまったのか、その居酒屋(予想以上に高かった)を出てもまだまだ時間が早かったこともあり、ついついCさんを誘って、二丁目の入り口にある「N」のドアを開けてしまった。「N」にはなんどか人に連れられて入ったことはあるけれど、じぶんで行くのはこれがはじめてになる。まあきょうはCさんといっしょだし、CさんはむかしTVディレクターとして唐十郎の短い番組を撮ったりもしているから、唐組の人たちも多く出入りするこの「N」でも、きっと話は盛り上がるだろうと思っての選択ではある。
 連休も終わったばかりで店にほかに客はなく、うまい具合にわたしたちふたりで盛り上がらせていただいた。って、わたしはさっきの店で多少出来上がっていたので、調子に乗ってしまってずいぶんと高い酒を飲んでしまった。しかも重ねて二杯いじょう飲んでしまったりして、ひじょうに楽しい時間は過ごせたのだけれども、出るときのお勘定でいささか青くなってしまった。Cさんに助けてもらったけれど、財布はほとんどカラ。こんなに飲んでしまったのはほんとに久しぶりというか、こういうことをやってはいけない。あしたからの予定が大きく狂ってしまいそうだ。どうしよう。Cさんにも散財させてしまって悪いことをした。しかし飲みはじめた時間が早かったのでちゃんとウチに帰って来れたというのはお手柄で、あの飲み方だと、ふつうのわたしの場合だったら帰って来られなかっただろう。そんなことになっていたら「まっ青」になるぐらいではすまなかったにちがいない。部屋のドアを開け、ニェネントの相手もせずにベッドに倒れ込んで寝た。

 以下はきのうみたヴィデオから。

[] 「廃市」(1983) 大林宣彦:監督  「廃市」(1983)  大林宣彦:監督を含むブックマーク

 原作は福永武彦なのだけれども、はたして今の時代に福永武彦の作品の需要などというものがあるのだろうか。福永武彦自身がその晩年に「私は後世には作家池澤夏樹の父としてのみ記憶されるだろう」といっていたらしいけれど、この自己評価は的中しつつあるのではないだろうか。わたしもむかし、福永武彦の作品をなにか読んだけれど、ひじょうに気恥ずかしい読後感を持った記憶は残っている。この「廃市」の映画のころには、まだ福永武彦も人気があったのだろうけれども、つまりは「文芸映画」というつくりになっているわけだ。監督自身のもったいぶったナレーションも入り、準クラシック調の音楽も格調高く鳴り響くだろう。
 それで映画を観ればしぜんと原作のことを想像してしまうわけで、じっさいこの映画版は小説のかなり忠実な映像化らしいのだけれども、これはどうみても、ローデンバッハの「死都ブリュージュ」の精神を受け継いだ翻案だろうと思う。タイトルの「廃市」というのは北原白秋から来ているそうで、その北原白秋はまさにローデンバッハから柳川をブリュージュに見立てていたらしい。ローデンバッハの「死都ブリュージュ」はわたしも読んでいるけれど、これはまさに頽廃した世紀末デカダンスの世界で、その精神はクノップフの絵画作品などに色濃く引き継がれているわけで、わたしはそのような世界観を愛好しているといえると思う。しかし、どうもこの「廃市」は「国境の長いトンネルを抜けると、そこは死都ブリュージュだった」というような作品で、けっきょくは川端康成的気分というか、外から来たものの無責任な視点を感じてしまうわけで、「死都ブリュージュ」というよりはやはり「雪国」的だな、という感じになる。こういう感想はおそらく原作に内包されていたものから出てきたものだろうけれども、以下の感想は「映画」ゆえ、というものになるだろう。つまり、柳川の町こそを主役にするのならば(本来、そういう作品でなければならないだろう)、かんたんな話、もっと町の風景なりの捨てショットを生かすなりして、物語の背後の「廃市」という存在を浮き上がらせるような演出が求められるだろうということ。
 もうひとつ、この物語では登場人物の心情吐露が重要な役を果たしているのだけれども、どうもそういう場面の演出がただの説明セリフの読み上げになってしまっているようで、「語る」ということがドラマになっていない。このあたりが映画作品としては致命的に思え、文芸気分的な趣味的な作品という印象になってしまう。たとえ原作が大アマの感傷的作品であっても、演出次第で優れたドラマになり得たであろうに、とは思う。

 観たヴィデオはまだ一本残っているのだけれども、そういうわけできょうはすっかり死んでいるので、またいずれ。





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■ 2010-09-20(Mon)

 外でミイが徘徊しているのをみた。ミイ一匹だけで、まわりに子ネコの姿はみえない。やはりもう子離れしてしまったのだろうか。ミイがこのあたりに残っているということは、子ネコたちをこのあたりのミイのテリトリーから追い払ったということなのだろう。子ネコたちが元気に成育しているかどうかわからないけれど、これからは、あのときの子ネコたちに出会うチャンスは少なくなるだろう。

 ニェネントはジャンプ力がついてきて、このところあちこちでジャンプする。きょうは、横になってTVをみていたわたしの頭がジャンプ台にされてしまった。まえは上がることの出来なかった洗面台の上がさいきんのお気に入りスポットなのだけれど、そこでわたしの歯ぶらしをおもちゃにする。あさ、顔を洗おうとすると、歯ぶらしが洗面台のなかや近くの床に転がっているのを見つけることになる。じぶんでは歯をみがく必要などないくせに、歯ぶらしの何がおもしろいというのか。

 読んでいた本を読み終わり、ヴィデオを三本も観てしまった。

 

[] 「キング、クイーンそしてジャック」ウラジーミル・ナボコフ:著 出淵博:訳  「キング、クイーンそしてジャック」ウラジーミル・ナボコフ:著 出淵博:訳を含むブックマーク

 地方から実業家の叔父を頼ってベルリンに出てきた青年が、その叔父の妻と不倫関係になり、妻の発案で叔父を殺害しようとする、というストーリー。じつはこの、泳げない男をボートに誘い、海に突き落として溺死させて遺産をせしめようというのは、コッポラ監督のメジャーデビュー作「ディメンシャ13」(1963) の冒頭に同じシチュエーションが出てきて、そのボートの上で男から思いがけない財産のはなしをきいて、計画を中断するというところまで、さらにはけっきょくは殺そうとした妻の方が死んでしまうという展開まで同じもので、脚本も手がけたコッポラはこのナボコフの小説を読んでいたんじゃないかと思ってしまうのだけれども、この「キング、クイーンそしてジャック」の、ナボコフ自身と彼の息子ドミトリイによる英訳が出るのは1967年になるので、ロシア語の原書が書かれたのは1928年とはいえ、コッポラがそこまでチェックしていたとは思えない気もする。ただ、ナボコフが「ロリータ」で大ブレイクするのは1958年以降のことなので、彼のロシア語時代の作品をさかのぼって紹介するような動きはあったのかもしれない。「キング、クイーンそしてジャック」から「ディメンシャ13」へ、というラインが現実のものであった可能性はまだ残る。
 それよりも、わたしがこのようなナボコフの犯罪がらみの作品を読むときによく思い浮かべていたのはパトリシア・ハイスミスの作品群で、それはつまりは、犯罪のプロットの描写よりは犯罪にかかわる人物の内面に重きをおく姿勢、たとえば犯罪に無縁であった人物が犯罪を犯すがわに取込まれていく、その心理描写だったりということ、それにその犯罪の、非常にアイロニックなてん末から受ける印象、などがわたしのなかで共通する印象になる。じっさいに、ナボコフの「絶望」の結末は、わたしはどうしてもハイスミスの作品のどれかと混同して、ごっちゃになってしまっているのだ。

 ‥‥などと思っていたのは、じつはかなり以前のことで、じっさい、ナボコフ作品もハイスミス作品も、長いことあまり読んでいないのだから(ハイスミスの作品も近々まとめて読み返してみたいと思っているのだけれども、しかし、ナボコフとハイスミスを比較して読む人なんていないだろう)。
 こうやって、じつに久しぶりにこの「キング、クイーンそしてジャック」を読んだわけだけれども、これをもしハイスミスの作品と比較するならば、おそらくはその心理描写など、ハイスミス作品の方が「小説らしい」というか、ふつうの読後の充実感はまさっているのではないだろうか。じゃあこのナボコフの小説はつまらないのか、というとそういうわけではなく、わたしにはその、スッコーンと抜けた感覚のなかに、ある種のポップな現代性を読み取る楽しさがある、ということになる。
 「スッコーンと抜けた」というのは、この小説ではいろいろな意味でいえることなのだけれども、その登場人物の内面描写でまずは近代心理小説のかたちをなしていない。みんな「からっぽ」、なのである。青年はまずは性欲に溺れているだけであり、その将来の計画も野心もなにも持ち合わせていない男のようだ。じっさい、想像以上に「バカ」なのだろう。その不倫相手の妻にしても、青年といっしょにいたいという欲望と夫への嫌悪感、そして金銭欲しか持ち合わせていない、これもまた「バカ女」であろう。この小説のほとんどはこのふたりの主観描写で進行していくわけで、妻からは「なぜこの男がここにいるのか」と邪魔者扱いされる夫の視点はほとんど出てこない。しかし、わずかに描写されるこの夫の視点こそが、この小説に「小説らしい」奥行きを与え、そのような夫の存在とほかのふたりの関係こそがこの小説の面白さなのではないのか、という印象になる。ちょっと長くなるけれども、そんな夫の独白に以下のようなものがある。

(‥‥)クルトは少年時代、どんな芸術家でもよい、芸術家になりたかった。だが、そうはいかず、父の店で働いて退屈な長い歳月を送ったのである。彼が手に入れた最大の芸術的な満足は、インフレ時代の商売の上での冒険だった。しかし、彼は知っていた。俺にはもっと他の芸術、他の発明の値打が判るんだ、と。いったい何のせいで俺は世界を見ることができないのだ。俺には資産がある——だが、俺と、俺を手招きする夢のすべての間には、何か致命的なヴェールが垂れ下がっている。彼は大理石のように美しい妻をもった独身者だった。何も蒐集する対象がない情熱的な蒐集狂だった。死に場所である山頂を見出し得ぬ探険家、記憶に留まらぬ本の貪欲な読書家、そして、幸福にして健全なる失敗者だった。芸術や冒険の代りに、彼は郊外の別荘やバルト海の保養地での月並みな休暇に卑小な慰めを得た。これすらも、安っぽいサーカスの匂いが彼のおとなしく勿体ぶった父親を酔わせたように、彼の心にスリルをあたえたのである。

 これはこの本の巻末の富士川義之氏の解説にも書かれているけれども、この男の姿は、のちのいくつものナボコフ作品の主人公として、もっと深化されたかたちで何度も登場する。それは「絶望」のヘルマンであり、「ロリータ」のハンバート・ハンバート、「青白い炎」のキンボートの姿でもあるだろう。そして、富士川義之氏も書かれているように、この作品の弱点は、この夫の「作品全体における位置づけと役割がはなはだ不明瞭にしか掌握されていないことに尽きる」(富士川義之)ということになるだろう。たしかにそのとおりだと思うのだけれども、しかし、この作品のほとんどを占める青年と妻の「からっぽ」な描写、内面吐露と、若き日のナボコフの、いかにも生意気で気取ったレトリックにあふれた修辞で連続していく文章の、やはりその「からっぽ」さとが奇妙にマッチしていて、これはまるで、その壮大な「空疎さ」を売り物にする現代美術のような味わいなのである。そしてそれはやはり「面白い」といえるわけであって、この面白さは、「ロリータ」の面白さにも通底しているものだろうと、わたしには思える。つまり、やはりこの頃からナボコフの作品の面白さは、ナボコフという人間の持つキザな気取り、生意気さとも密接に結び付いているわけだ、ということになる。そういう、妙にひねった感覚で読むのがナボコフを読む楽しさでもあり、あるしゅの現代性もまたその中に感じ取れるのだということが、こんかいの発見になる。

[] 「夏の庭 The Friends」(1994) 相米慎二:監督  「夏の庭 The Friends」(1994)  相米慎二:監督を含むブックマーク

 三人の男の子と老人の交流を描くドラマで、原作は児童文学で著名なものがあるらしいけど、脚本は田中陽造だった。クレーンを多用した撮影や、老人の住む家の庭からふいのプールのシーンへの切り替え、病院のなかの描写など、相米監督らしい演出を楽しめるシーンはあるのだけれども、ものすごく予定調和的に進行する物語の、どこがそんなに魅力的なのかわからない(そもそもわたしはガキが出てくる映画が苦手なのだ)。いちばんわからないのが男の子のひとりがかけている「丸い」メガネで、どうしてこんなアンリアルでマンガチックな小道具を選んだのか。この映画全体がアンリアルでマンガチックなものだということをあらわして、その予定調和ぶりをやわらげようとしたのか。それでも枯れ井戸から虫や蝶、鳥が飛び出してくるというのは、この映画の性格からはわたしにはまるで理解できない。
 ラストに、古びて崩壊していく老人の家をとらえる(その背後にはマンションが林立している)ことで、いろいろな意味での「戦後」「昭和」が消え去っていくさまを示したのだろうか。いろいろと、わからない作品だった。

 あとの二本のことは、あしたにでも。





■ 2010-09-19(Sun)

 ニェネントには二日間つづけて、ながい時間お留守番をしてもらった。部屋のなかでの生活も落ち着いているようなので、準備しておけばもうわたしが外泊してもだいじょうぶだろう。わたしのそばで眠っているニェネントのヒゲをひっぱったり、からだをツンツンとつっついてみたりしても、まったく気にもとめないように眠りつづけている。もうなんにも警戒するものなどこの部屋のなかには存在しない。眠りたいときに眠りたいだけ眠り、食べたいときに食べる。遊びたいときに遊んでくれない飼い主、遊びたくもない気分のときにしつこくかまってくる飼い主はいるけれど、なにものにおびやかされることもない日々である。ニェネントのきょうだいたちは、外の世界でどのような生活をおくっているんだろう。まだこのあたりは、身をかくして眠ることができるようなかくれ場所にはこと欠かないだろうけれど、食べるものをみつけるのはたいへんだろう。きょうあしたでもう、生まれてから三ヶ月になるわけだ。ミイもそろそろ子離れする時期だろう。じぶんが生きていけるなわばりをみつけて、野良ネコとして生きていくわけだ。きょうだい四匹のうち、どれだけがこれからもちゃんといっぴきで生きていけるんだろうか。やはり、短いあいだでもニェネントといっしょに遊んで暮していたジュロームのことが、いちばん気になってしまう。ジュロームをみつけたらなんとか連れ帰って、ニェネントといっしょにここで暮せるようにしてあげたい。

 なぜかこのごろは偶然に「捨て子」の映画ばかり観ているけれど、きょう観たのもそんな一本。

 

[] 「孤児の生涯」(1919) マーシャル・ニーラン:監督  「孤児の生涯」(1919)  マーシャル・ニーラン:監督を含むブックマーク

 ハリウッド最初の映画スターといわれるメアリー・ピックフォードの主演作で、原題をみると「Daddy Long Legs」で、そりゃあ「足ながおじさん」ではないか。邦題の「生涯」からは、「生まれてから死ぬまで」みたいな印象を持ってしまうけれど、この作品で描かれるのは主人公が「生まれてから結婚するまで」のこと。彼女の生活は、この映画の終わるところからはじまるのだよ。
 ゴミ箱に捨てられていたのを拾われた主人公は、囚人労働の延長の収容所のような孤児院に入所する。利発な主人公はことあるごとに孤児院経営者と衝突しているけれど、理事のひとりが彼女のかしこさに注目し、ある資産家に「彼女に教育資金を送ったら?」と進言する。この資産家が「足ながおじさん」(これは、主人公が資産家のシルエットを見てつけたあだな)として、彼女に援助金を送りつづける。大学に進学し、作家としての才能を開花させる主人公は、けっきょくある男との結婚を決意するけれど、その男こそ「足ながおじさん」だった、と。
 サイレント映画の演出というのはコメディに向いているのか、それともまずはコメディというジャンルでサイレント映画の演出は発展したのか、この作品でのコミカルな演出はいまの目で観てもとても楽しく、観ていてじっさいに何度も笑ったりしてしまった。メアリー・ピックフォードの快活な演技は、いぜんに「嵐の国のテス」で観ているけれど、この作品でもとくに、十二歳からを演じている孤児院時代の、いたずらっ娘のイメージがすばらしい。じっさいに彼女はこういう「子ども」役で人気を博し、いつまでもそういう役を演じていたようだ(当人は不満もあったらしい)。いま観ていても、彼女の持っているスター性にはうたがいをさしはさむ余地はないだろう、という魅力を感じることになる。この作品ではラブシーンを演じるまでのひとりの女性の成長を描いているので、当時のファンにはたまらなかっただろうと思う。この、成長してからのライト・コメディのような感覚での彼女の演技は、最近ではメグ・ライアンなどに引き継がれているものなのだろうなと、観ていて思った。
 ただ、作品としてはまとまりに欠けるというか、彼女の孤児院時代とそれ以後の大学時代などに、あまりに大きな断絶を感じてしまう。






 

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■ 2010-09-18(Sat)

[] 神村恵 × 大倉摩矢子「尻尾 と 牙 と また尻尾」@吉祥寺・Art Center Ongoing  神村恵 × 大倉摩矢子「尻尾 と 牙 と また尻尾」@吉祥寺・Art Center Ongoingを含むブックマーク

 ふたりの踊り手の三日間にわたる作業の、最終日に行ってきた。わたしはあまりその内容も知らずに行ってしまったのだけれども、一日目、二日目と、それぞれのダンスへのかかわり方などをかたり合い、それをふまえて各日にたがいのソロを踊るというものだったらしい。最終日のこの日は、きのうおとといの報告をふくめてかたり合い、踊る。
 まあわたしのような門外漢からみても、このふたりの踊り手が同じような指向性を共有しているとも思えず、共同作業ということを想像するのもむつかしいのだけれども、その舞台でのストイックな姿勢というか、情緒的なものを排した、あるいみでミニマムなダンスというのが、ふたりの舞台から共通して感じとるものといえるかもしれない。
 で、けっきょくこの日の対話などを聴かせていただいて、大倉さんがもんだいにしているのは「時間」というイメージであって、神村さんのばあいには「空間」といっていいのだろうか。それはわたしなどが彼女たちの舞台を思い返してもイメージとして合致するものであって、大倉さんの時間の運動、神村さんの空間の運動というものの、それぞれの向かうベクトルの次元はそうとうに隔たっている印象で、じっさいにきょうのさいごにふたりが同時に踊る場面でも、(せまい場所で、ふたりの踊りをどうじに視界にいれてみることが出来ないのだけれども)そこにふたりが相容れるような契機は、わたしの目にはやはりなかったようにうつった。‥‥もちろんこの日のダンスは、おたがいが三日間の対話のなかから引き出したものを、その場で即興でかたちにしてみたものだっただろうから、あるいみでまだとっちらかった状態のものだろう。とちゅうで観客のケータイのコールが鳴りっぱなしというアクシデントがあり、わたしもそこから集中してみることができなくなってしまったけど、おふたりの踊り手にとって、みのりのある三日間であればいいと思う。わたしには、さいきんのダンス界の状況などクソ面白くもないものになってしまっているのだけれども、こういう、ふたりの原点を確認するようなこころみが、そういうわたしの考えるような状況を突き破っていくようなものに人知れず育っていくのか、それともこれもまたタコ壷状態のひとつのあらわれにすぎないのか、いまのわたしにはわからない。

 神村恵さんは、来週の土曜日に深川の「SNAC」でソロダンスのシリーズをスタートさせる。これはぜひ行ってみたいのだけれども、ちょっと今のわたしの状況ではむつかしいかもしれない。



 

 

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■ 2010-09-17(Fri)

[] 綺朔ちいこ「静かな水銀スープ」@浅草橋・parabolica-bis 2F ガレリア夜想・mattina  綺朔ちいこ「静かな水銀スープ」@浅草橋・parabolica-bis 2F ガレリア夜想・mattinaを含むブックマーク

f:id:crosstalk:20100919101145j:image:left 綺朔(あやさき)ちいこさんには、わたしが日暮里の寺で開催したイヴェントの、チラシのイラストを描いていただいたことがある。当時わたしも綺朔さんも、日暮里のかなり近いところに住んでいた縁(えん)からでもあるのだけれども、そのご綺朔さんがよそに転居し、すぐにわたしもこちらへ引越してしまった。このイヴェントをいっしょにたちあげてくれたAさんにしても当時は谷中墓地のそばに住んでいたんだけれども、いまはやはり別のところに転居してしまい、そういうわけであのころ日暮里周辺に住んでいた知人はだれもいなくなってしまった。それはともかくとして、きょうからその綺朔ちいこさんの四年ぶりの個展がはじまる。綺朔さんからの連絡で、そのわたしたちのイヴェントに描いてもらったイラストが絵はがきになって、会場で販売されるという。初日のきょう、観に行ってきた。

f:id:crosstalk:20100919101259j:image:right ギャラリーは浅草橋にある「夜想」の拠点的なスポット、 [paraborica-bis] なんだけれども、わたしにははじめての場所になる。1Fでは田村秋彦という作家のオブジェ群が展示されていて、2Fの[mattina] というスペースが綺朔さんの展示スペース。以前の彼女の展覧会でも拝見した旧作にあわせ、タロットカードをモティーフにした新作、そして会場の空気を手助けするオブジェが並ぶ空間。この展示のために綺朔さんの友人が作曲したといううつくしく清楚なピアノ曲が、綺朔さんの作品にマッチしてギャラリー空間を浄化する。静かなドラマを喚起するような、人体とオブジェが一体化したようないつもの彼女の作品世界は、タロットという枠組みのなかで製作に苦しんだ気配もあり、やや統一感に欠けるという印象もあったのだけれども、いつもにましてファンタジックな物語性を感じさせながらも、やはりまごうことなき彼女の世界が観るものの眼のまえに展開されていたと思う。窓に貼られた大きなステンドグラスのシールも、この展示に合わせて綺朔さんがつくられたものなのだそうだ。

 会場でさっそく綺朔さんとお会いして、その絵はがきを見せていただいた。そこに人形作家の清水真里さん、ペヨトル工房の今野さんもいらっしゃって、しばらく話をした。今野さんはわたしが綺朔さんと顔見知りなのをおどろき、綺朔さんや清水さんはわたしが今野さんと顔見知りなのにおどろく。絵はがきにわたしたちのイヴェントのイラストを選んだのは今野さんだったということで、そのことにわたしはおどろき、そのイラストがわたしらがやったイヴェント用のものだったということに今野さんがおどろく。わたしが描いたイラストではないのだけれども、今野さんが選んでくれたというのはうれしい。
 清水真里さんにお会いするのも久々なので(彼女はこの春にココで個展をやっていたのだけれども、なぜかわたしは観に行かなかった)、あれこれと話をした。しばらく会場にいて、今野さんともちょっと、演劇など舞台作品について会話する。今野さんのような方と批評的なことを含めての対話をしていると、自分の思考じたいも対話とともに活性化してくる。おたがいの持っている情報をそれぞれが伝えて交換するだけでなく、その情報にたいしての意見交換、ディスカッションになり、双方向のインターフェイスになるという感じ。今野さんはやはり対話をそのようにもっていく達人で、そういう、人との会話というのをじぶんは長くやっていないなあと思う。この日の対話でも、じぶんで放置したままにしてあった、記憶の奥に蓄積してあるデータ群を再発見した思いがする。こうやっていま、じぶんの部屋でひとり考えているフリをしていても、ただ自分の思考を検証もせずに、出てきた結論を肯定しているだけなのだ。自己検証という行為はむつかしい。綺朔さんの作品からも刺激を受け、じぶんでもああいう「じょうずでうつくしい絵」を描いてみたいなどという、とんでもないことを夢想したりしてしまった。

     f:id:crosstalk:20100919101413j:image

 綺朔ちいこさんの個展、「静かな水銀スープ」は9月27日(月)まで開催中。夜にはあれこれのスペシャル・イヴェントも開催されます。情報は http://www.yaso-peyotl.com/ から。

 



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■ 2010-09-16(Thu)

 よなか、寝ているあいだにニェネントがベッドに登ってきてとなりで寝ているらしいのだけど、これが夜明けどきにわたしをガンガン咬んでくる(おもにふくらはぎのあたり)。もちろん痛いので目がさめて、からだを動かすとニェネントのからだにぶっつかって、びっくりすることになる。するとまたニェネントが咬んでくる。とにかくわたしはそんな乱暴な起こされかたをされて機嫌が悪いので、すねでニェネントをベッドの上からはらいのけてやる。ニェネントが宙を飛んでベッドから落下していく映像がぼんやりと目をよぎり、それからまたひとねむりする。ニェネントは腹をすかせてわたしを起こそうとしていたのかもしれない。
f:id:crosstalk:20100918083014j:image:right すっかり外もあかるくなってから起き出して、窓をあけるとかなり本格的な雨が降っていた。外に出るのを待っていたニェネントが驚いている。たしかに、ニェネントが目にするはじめての、ざあざあ降りの雨になるだろう。窓のそばで外のようすをうかがい、あっちを向いたりこっちを向いたりしながら、おずおずと外へ足を踏み出していく。ニェネントには、空から水が降ってくるのが見えるのと、その水が地面に落ちてたてる音があちらこちらからきこえてくるのと、どっちが驚きなんだろう。わたしは音の方じゃないだろうかと思うけれどもね。いちどそんな雨にもなれてしまうと、いつもどおりベランダで遊ぶようになるのだけれども、ニェネントをもうひとつ驚かせるのは駐車場の車が動き出すときのエンジン音で、これが響き出すと、ベランダのどこで遊んでいても部屋のなかに飛んで逃げ帰ってくる。で、その車が外へ出ていくのを、部屋のなかから首を振りながら見ている。

 TVの天気予報では茨城県南部は強い雨といっていて、午後には大雨注意報が出されたようだけれど、このあたりはそこまで強い雨とも思わなかった。茨城を北と南にわけるなら、このあたりはちょうど真ん中でどっちともいえない。西と東にわければまちがいなく西なのだけれど、天気予報で茨城県を代表しているポイントはたいてい水戸、ちょっと詳しいところで水戸と取手ということになっているけれど、この場所からはどちらもかなり遠く、予報を参考にしていいのかどうか迷ってしまうこともある。予報の出されるポイントで考えるとこのあたりは水戸と宇都宮の中間あたりになるので、このふたつのポイントの予報が同じなら問題はない。違っているとなると、むしろ東京と同じに考えた方が的中率が高い気がする。いままでほとんどのケースで、このあたりと東京の天気はイコールだった。しかしきょうのような場合は、これらすべての予報が違っているので困ってしまうことになる。って、外に出かけるわけでもなく、困ってしまうというのはウソなのだが。

 ニェネントはひるまはまた丸めたアルミホイールで遊ぶ。これでよほど神経がたかぶったのか、そのあとわたしが手を出して遊んであげるといままでにない狂乱ぶりを見せ、わたしは「こいつ、頭がおかしくなってしまったんじゃないか」と心配になるほど。わたしの手をめがけて両前足をめいっぱい拡げ、あたまを下にして裏返ったり、からだをねじって奇妙な体勢をとったり、とにかくものすごいスピードであらゆる変なかっこうをやってみせている感じ。いったいこの生き物は何を考えているんだ。
 成長して身体能力も伸びてきたので、トイレのわきの洗面所の洗面台にものぼることが出来るようになった。おそらくはもうじき、キッチンの調理台にも駆け上がれるようになってしまうんだろう。あたらしい混乱のタネになるんだろうか。そう、いままでTVに映っているものに興味を示したことはなかったんだけど、せんじつの柔道世界大会の表彰式のところで、選手が授与されて皆に見せているメダルに反応して、TV台の上に伸び上がってメダルを取ろうとしていた。ちゃんと「価値のあるもの」がわかるのだろうか。

f:id:crosstalk:20100918083111j:image:left きょうはスーパーで栗が安く売っていたのを買ってきた。秋である。このあたりでは栗などはスーパーで買わなくても、歩いていれば道ばたにいくらでも転がっているだろうと誤解している人が多いらしいが、決してそのようなことはないのであって、欲しければちゃんとスーパーで買うことになっているし、とにかくここは荒れはてても駅前の繁華街と呼ばれる地域のなかなのである。たしかに夏のあいだ、「ゴーヤ」は道ばたに多く見かけたけれども、あれだって勝手にひろってきてはいけないことになっているのである。ただ、栗などはいくぶん東京などでよりは安く買えるはずであって、ちなみにこんかい、写真の分量で150円なのであった。おそらくこれだけでも三〜四回は栗ごはんが炊けるんじゃないかと思う。これはかなり食費が助かることになる。

 きょうは追悼というつもりで、今敏監督の作品を二本観た。

[] 「東京ゴッドファーザーズ」(2003) 今敏:監督  「東京ゴッドファーザーズ」(2003)  今敏:監督を含むブックマーク

 これはあきらかに(タイトルからしても)ジョン・フォード監督の「三人の名付け親」からのパスティーシュなんだけど、なんだか観終っても釈然としない、薄気味の悪い映画だった。たしかに演出のテンポはいいし、ヒューマン・コメディとしてのセンスにもすぐれたところもあるように思える。しかし、(亡くなられて間もない方の作品を否定的にとらえるのもためらわれるけれども)これでは「物語の放棄」ではないのか。「物語の放棄」、それはそれでいいのだけれども、この作品はどこまでもどこまでもその物語に頼っていく類の作品なのだから困る。たとえば映画のラストは「宝くじの当選」だったりするわけだけれども、これが小説を読んでそのラストで、なかなか幸福をつかめない主人公が宝くじに当たることでめでたしめでたし、だったりしたら、その本を破り捨てたくなってしまうかもしれない。ホームレスになっている登場人物たちの出奔理由も、そのほとんどが「それじゃあそもそも物語にならないじゃないか」みたいなものである。なんでこんなことになってしまうのだろう。観ていて思ったのは、この作品の背景には都市などに顕著な社会的事象(問題)があれこれ存在するのだけれども、その社会的事象の背後にあるものを、この映画はまったく見ようとしていないということになる。ホームレスの人たちの描写もそうなのだけれども、赤ちゃんを盗んだ女性、その彼氏の描写のおざなりさなどはあまりにひどい。‥‥考えていくと、この作品に登場する人物の描写はどの人物もおざなりだと思えてくる。そんなこといつまでも考えても無益なのでやめる。アニメだからとリアリティを無視していいものではないし、とくにこの作品の主題は現実に根ざしたものだろう。ファンタジーへ飛躍することで作品を救済することもできるかもしれないけれど、この作品には現実ばなれしたアニメらしいファンタジー的描写はほとんどない。だったら物語を解体して、実験映画にするしかなかっただろう。
 鈴木慶一の音楽は、よかった。

[] 「パプリカ」(2006) 今敏:監督  「パプリカ」(2006)  今敏:監督を含むブックマーク

 もう一本今敏監督の作品を観てしまった。こちらの音楽は平沢進で、すごくイイ! しかし‥‥。
 「インセプション」のように他者の夢のなかに入っていくというか、夢が現実世界を侵犯してしまうという。‥‥だから、これでは「インセプション」と同じなのだけれども、どうして「これが夢だ」という描写になると、夢の「時間」や「文体」を無視してしまうのか。ここでやっているのはただ大がかりなデペイズマンだけで、それも、ありえないほどに想像力に乏しい。「夢」がこんなに貧弱なものだったら、なんと悲しいことだろう。
 もっと気になるのは、この作品のなかで「会長」という人が、「個人の最後の守るべき領域である夢の世界まで科学に侵犯させることは許さない」というようなことを語るけれども、まあ現実にはじっさいに人の夢に介入することなど不可能なわけだけれども、これは首肯すべき意見ではないのか。作品のなかでこの「会長」は脱線横滑りしてラスボスになってしまうけれど、いったいそのような彼の意見がどのように受けとめられ、反ばくされたのか、描かれていた覚えがまるでない。この倫理の問題を提示しながらもあっさりと無視してしまうのにも、「東京ゴッドファーザーズ」と同じく、現実の事象の背景をふっとばしてしまうこの作家の特性があらわれているように思える。ごめんなさいです。

 「夢」を描いた映画‥‥。あるいみ、すべての映画作品は「夢」を描いたもの、ということも出来るわけだけれども、「これが夢だ!」と大上段にかまえた作品がほとんどみな「夢」の構造を無視してしまうのは、いったいどういうわけなんだろう(黒澤明監督の、「夢」という作品とかもあった)。やはりある程度の実験性を持たせなければ「夢」の記述は不可能で、商業的メジャー作品ではなかなか適わぬことではあるのだろう。思い出してみればデイヴィッド・リンチの作品群はみな優れた「悪夢」の記述だろうと思うし、ケネス・アンガーの作品はもっともっと「夢」の記述に踏み込んでいるだろう。さいきん観た作品では、そう、デニス・ホッパーの出ていた「ナイト・タイド」(カーティス・ハリントン監督の1961年作品)という作品が、せつなくも美しい「夢」を描いた作品だったと思う。日ごとに、あの「ナイト・タイド」は傑作だったなあと思うようになってきた。




 

 

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■ 2010-09-15(Wed)

 このところあさ起きるとまず窓をあけ、ニェネントにベランダで遊んでもらうのが日課。けさも涼しくて、あの暑い夏も台風で吹き飛んでしまったのだろう。秋到来。窓をあけて外から入ってくる外気がすがすがしい。ニェネントもベランダでピョコピョコはねている。どこかそんなに離れていないところから、ネコのなきごえがきこえてきた。このなきごえはきっとミイのものだなと思い、ベランダから外をみまわしてみるけれども、あたりにネコの姿はみえなかった。それでも、やはりどこかから「にゃあ、にゃあ」となくネコの声がきこえてくる。近くにミイがいて、ニェネントのことを呼んでいる。
 まえからそうなのだけれども、ニェネントはよそのネコのなきごえにまったく無関心で、そうやっていつまでもミイの呼ぶ声がしていても、ぜんぜんきこえないみたいに遊びつづけている。もうニェネントには母の記憶など残っていないんだろうか。そして、ないているミイは、ニェネントがじぶんの子ネコだとわかって呼んでいるんだろうか。ただネコの姿がみえるから呼びかけているんだろうか。ミイももうそろそろ子ばなれの時期で、ここでニェネントを呼びよせても何をしてあげるということもないだろうし、縄張りを侵犯するライヴァルという意識になるんじゃないだろうか。それとも、ミイとしては理不尽に引きはなされたじぶんの子ネコのことが、いつまでもいとおしいのだろうか。そのうちに、ミイの呼び声はきこえなくなってしまった。

 ひるになって買い物に出かける。近くの公園のまえの家の駐車場のすみで、白黒ブチの小さなネコが寝ているのがみえた。ああ、ニェネントのきょうだいの一匹だ。ネコはわたしが近づいていくと目を覚ましちょっと逃げていくけれども、まだ近くにすわりこんで、じっとこちらをみている。鼻のまわりが黒くて、黒白の比率などをみると、これはきっと、わたしのつけた順番では三番目の子ネコだろう。ということは、ウォロフ語で「三」にあたる「ニェッタ」という名前になる。このあいだミイが駐車場に連れていた子ネコは「ベンナ」か「ニャール」ということで、ジュロームの姿もそのまえにチラリとみているから、あんがいみんな育っていたわけだなあ。しかし、このニェッタのまわりに母ネコのミイの姿はみえない。もう子ばなれしてしまって、それぞれの子ネコは単独行動するようになっているんだろうか。ほかの三匹もどこかで別々にそれぞれの生活をはじめているんだろうか。つまり、四匹の野良ネコの誕生か。
 いま目のまえにいる子ネコはあまり警戒心が強いようでもなく、捕まえようと思えば捕まえられそうだ。ここで捕まえて、ニェネントといっしょにうちで飼えるだろうか。もともとジュロームとニェネントの二匹をいっしょに飼おうと思っていたんだから、当初の考えから外れるわけではない。ただ、ユウのときのことがあるから、少しでも野生で育ってしまった野良ネコを、ニェネントといっしょに飼うのはむつかしいかもしれない。いやそんなことを考えているよりはとにかく、まずはその子ネコを連れて帰ってみようと、捕まえようとしたら逃げられた。捕まえようとするときに、自分のなかでも迷いがあったしな、逃げられるよ。
 でも、やはり野良ネコで生きるのはかなしくてつらいだろう。次に見かけたときには迷わずに連れて帰れるようにしよう。

 きょうはまたサイレント映画を観た。

[] 「嵐の孤児」(1921) D・W・グリフィス:監督  「嵐の孤児」(1921)  D・W・グリフィス:監督を含むブックマーク

 フランス革命の時代を背景に、時代の大きな流れに翻弄されるふたりの孤児を描く、スケールの大きな歴史〜メロドラマ。リリアン・ギッシュと妹のドロシー・ギッシュの共演。きのう観た「血と砂」とかに比べると、グリフィスがいかに映画というものの演出技術に長けていたかはよくわかる。って、あまりに稚拙という印象の「血と砂」と比べてもしかたがないが。
 ひとつには、字幕にたよらなくても画面でみせる演出と演技指導というのがあり、まずはロングショットとミドル、クローズアップとの切り替えのたくみさがあり、そのロングの画面では、主題になる人物などを画面中心からずらす絵画的な構図の多用、奥行きを持たせる構図と、カメラ、人物群双方のダイナミックな動きなど、ほとんど現代の映画作品と比べても遜色ないという印象になる。さらに演出でも観客の感情移入をエスカレートさせるような手法が随所で取り入れられているわけで、ここで印象に残るのは、中盤での観客をじらしにじらすふたりの孤児の再会シーンのものすごくしつっこい引っぱり方とか、ラストの、ギロチンにかけられるリリアン・ギッシュのショットと、特赦令を持って馬で処刑場に向かう人々のショットとの、「間にあうのか、間にあわないのか」という執拗なモンタージュ(これは同じ演出を「國民の創生」でもやっていた)など。とにかくエキサイティングで面白い作品なのだけれども、しかし、ここで描かれるフランス革命の姿はあまりに一面的というか偏見に満ちたというか、ここでも「國民の創生」でのような、グリフィス流の独断的な歴史観を披露してしまっているだろう。ここではロベスピエール一派やサンキュロット、それに対立するダントンらの描き方に「それでいいのか」という疑問を持ってしまうわけだけれども、これがただ通俗作品として戯画化、簡略化した結果というのではなく、グリフィスの場合にはかなり確信的にこのような歴史観を提示しているあたりがヤバい。つまりこのことは「國民の創生」でのKKK団擁護にも如実にあらわれているけれども、どうもグリフィスという人、下から沸き上がる民衆運動というものには否定的な見解のようだ。民衆というのは、ここではダントンのような雄弁家というか、優れた指導者に導かれてこそ、理想的な秩序にたどり着くもの、おそらくそのような考えがあるのだろうと思う。
 映画作品のなかに、その作家が自分の史観なり思想などを反映させるのはあたりまえのことで、そんなことを批判などしたりはしないけれど、グリフィスの場合にはそのようなオピニオンをかなり独善的に「これこそ真理だ」と提示して観客に押し付けるようなところがあり、それが「映像作品のはらむ暴力性」として感じとられるあたりが、わたしがグリフィスに抱く違和感、疑問ということになる。



 

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■ 2010-09-14(Tue)

 あたらしいビン詰めのビンのふたをあけるのは楽しい。とくに安い輸入品なんかには、かんたんにはあかない、あるいみ粗雑なつくりのものが多く、つまりこういうビンをあけるのが楽しい。きのう買ったマーマレードのビンは大きさもかなりのものだったので、楽しみもそれだけ大きかった。まずはスプーンの柄の部分をビンとふたのすき間につっこみ、テコのようにしてビンとふたのあいだを拡げる。これを少しずつずらしながら周囲ぐるりと一周する。とちゅうで「もうあくかな」と手であけようとしてもまだあかない。もう少しスプーンを使ってふたをゆるめ、こんどはスプーンの先の部分をふたの下に差しこんでねじると、「ペコ!」っと音がする。手でふたをねじるとパカッとふたがあく、この喜び。もうちょっと手こずるときにはお湯でふたの周囲をあたためたりとかの手順を踏むこともあるのだけれども(ここまで手こずるとそうとうに楽しい)、きょうはそこまでいかなかった。

f:id:crosstalk:20100916094335j:image:left あさはやっぱり、みじかい時間でもニェネントをベランダに出してあげる。ベランダのそばに生えているねこじゃらしと遊んでいて、ついにはじぶんで摘み取って、部屋のなかに持ち込んで遊びはじめた。なかなかやるじゃない、という感じ。せんじつのじゃがいもはもうすっかり傷んでしまってぼこぼこで、なにか代わりの遊び道具をあげようと考えて、試しにアルミホイールを軽く丸めて転がしてみた。これははまったようで、動きも不規則で、軽いからちょっとキックするとかなりの距離をふっ飛んでいくし、宙を飛んでしまったりもする。ときにはくわえて振り回す。アルミホイールがはやく動くのでニェネントの動きもはやくなり、部屋じゅうあちらからこちらへ、ドタンバタンの大騒ぎになった。しばらくすると手ぶらでわたしのそばにきて、そのまますわりこんでしまった。「もう飽きたのかよ」とアルミ玉を探してみると、ニェネントの取れないすき間に入りこんでしまっていた。引っぱり出してまたニェネントのそばに転がしてやると、やはりまた夢中で遊びはじめる。こりゃ楽でいいやとほったらかしているとまたわたしのそばにきてわたしをみて、食事をねだるときのように「ミー!」って啼いている。あれ、またアルミ玉が取れなくなったのかよと探すと、やはりすき間に転がりこんでいた。出してあげるとまた遊びはじめた。ふうん。「取ってくれ」とおねだりに来たわけか。よっぽど気に入ってしまったんだな。それでもそのうちに疲れてしまったのか飽いてしまったのか、アルミ玉を放りだして和室で寝てしまった。遊んでいたアルミを拾ってみると、さいしょは軽く丸めただけだったのがつぶれてしまって、ただのアルミ箔のかたまりに縮んでしまっていた。

f:id:crosstalk:20100916094452j:image:right きょうもヴィデオを一本観て、そのまま早くに寝てしまった。このごろ睡眠時間が長い。ニェネントの影響なのだろうか。

[] 「血と砂」(1922) フレッド・ニブロ:監督  「血と砂」(1922)  フレッド・ニブロ:監督を含むブックマーク

 ルドルフ・ヴァレンティノ主演のサイレント映画。スペインを舞台とした闘牛士の物語で、「闘牛は残酷な競技」、「闘牛士の運命は手配されている殺人犯と同じ」とか、「つまりは闘牛に熱狂する観衆がいちばん残酷なのだ」などのメッセージが。いままでに観たサイレント映画ではいちばん字幕にたよる演出(字幕の分量ももちろん多い)というか、絵の部分をカットして字幕だけ並べても、このストーリーはぜんぶ了解できるだろう。つまり、ぜんぶ字幕で説明している。人物の動きもとぼしく平板な演出で、字幕で説明される物語に付加された挿画という印象になる。みどころはヴァレンティノの美丈夫ぶりとその流し目、これに対するニタ・ナルディという女優の毒婦ぶり(ヴァレンティノを破滅させる)ということになる。これなら、もっと映画らしくリメイクとしてつくり直してみたくもなるだろうけど、ラストの闘牛場に拡がる血だまりに砂をかぶせるところは、映像として記憶に残った。



 

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■ 2010-09-13(Mon)

 買い置きのパスタ、紅茶パック、マーマレードがすべて底をついてしまったので、ターミナル駅まで買いに行こうと思う。このターミナル駅にある店鋪ならパスタは2/3の価格、紅茶もマーマレードなどは近辺に比較できる価格で売っている店はないので、わざわざ買いに行くわけだ。ただ電車に乗る交通費がかかってしまうので、じつはそのあたりを考えると、このあたりで買うのと大きな差はなくなってしまう。ほんとうはターミナル駅に出かける用があって、そのついでに買ってくるのがいちばんいいのだけれども、こんかいは何の用もない。ただ、本屋でドゥルーズ/ガタリの「千のプラトー」を買っておきたいというのはあるけれども、これもとくに火急の用というわけでもなく、東京にでも出かけるときについでに買えばいい。ならばこのさい映画でも観てこようかと、スケジュールを調べる。このターミナルのシネコンは東京なら単館ロードショーでおわるような渋い作品もよくやっていて、いまはワイダ監督の「カティンの森」をやっている。これを観てもいいな、などと思う。あとは、原作を以前読んでいる「悪人」でもいいんだけれども、どうだろうか。映画館のHPをみていると知らない映画も多くて、そのなかの「BOX 袴田事件 命とは」というのが紹介を読んでいて観てみたくなり、きょうはこの映画を観ようと、あさはやくに電車に乗った。

 ターミナル駅について映画館へ行くと、わたしは日曜日のタイムテーブルをみていたようで、みたい映画の上映までには三時間ちかく時間がある。じゃあそれまでに先に買い物をすませようとその店に行き、パスタ3Kg、紅茶100パック、マーマレード900gビンなどを買う。これでそうとうに重量もあるし、その買い物した袋をぶら下げて歩きながら、なんだか「交通費をかけて出てくるんだからついでに映画でも観よう」という思考が、じつは無駄遣いを生む元凶の思考ではないかという気分になり、本だけを買ってそのまま家に帰ることにした。

 まだお昼をすぎたばかりの時間に帰りの電車に乗って、沿線の田んぼの稲穂が黄色く色づいているのとか見ていると、もう秋なのだろうかと思ったりするけれど、芝生のみどり色があざやかな、絵本に出てくるようなかわいい家が線路ぎわに建っていて、その芝生のうえに原色のビーチボールがころがっているのが目に入ってきて、それはやはり夏の光景。というか、そこだけが、ポップアートのタブローのような印象だった。空は薄曇りで、明るいグレー一色でで全面塗りつくされていた。

 午前中から外に出かけたりしたので、帰宅してからぐったりしてしまった。ベッドにあがって横になり本を読んでいると、かまってもらえないニェネントがベッドにとび上がってきて、わたしの読んでいる本の上に前足をのせてくる。「じゃまだよ」とニェネントをのけるけれど、しつこく本にからんできて、ついにページの端っこを咬んで破り取ってしまった。「バカものが!」と追い払うけれど、ニェネントはその破り取った紙片を食べてしまったようだ。おまえはヤギか、と。
 本を読んでいるうちにやはりそのまま眠ってしまい、目が覚めたときにはもう外は暗くなっていた。時計を見ると六時半で、ねぼけたわたしは朝だと思ってしまい、なんで六時半なのに外はまだ暗いんだろうと不思議に思ってしまった。ああ、昼寝をしてしまったんだ。いまはもう夕方だ。寝過ぎたせいか、あたまがいたい。起き出して夕食をつくり、TVを見ながら食事をし、あたまがいたいのでもう寝ようと、パジャマに着替えてまた寝てしまう。ニェネントにとっては、ちっとも遊んでもらえない、つまらないいちにちだったことだろう。

[] 「インスタント沼」(2009) 三木聡:監督  「インスタント沼」(2009)  三木聡:監督を含むブックマーク

 これは昨夜みた映画。主演は麻生久美子。三木聡監督の作品というのはそれなりに観ているのだけれども、作品をかさねるごとにだんだんよくなって来ている印象があって、まえに観た「転々」も楽しんだけれど、この「インスタント沼」もまずはとても楽しめる作品で、さらにあれこれと興味深いところも感じとってしまうわけで、これはわたしのお気に入りの作品。三木聡監督の次回作が楽しみになってしまう。
 その、興味深いということでいちばんにいえるのは、この作品がじぶん探し系ファンタジーというものを想定して展開していきながら、そのようなファンタジーへのアンチテーゼといえるようなコンセプト(使いたくない言葉)を含んでいるあたり、じゃないかと思う。で、映画としてより具体的には(描かれる世界がじつは近接してるがゆえに)小栗康平監督の作品へのアンチテーゼっぽい視点をどうしてもわたしは感じとってしまう。小栗康平監督の映画が「じぶん探し」映画といちがいにいい切ることはできないだろうけれども、ここでは小栗康平監督の「ファンタジー」というものの演出法に関してのアンチ、という視点なのだろう。それは例えば「眠る男」であったり、「埋れ木」であったり、なのだけれども、ああいうヒューマニスティックなファンタジードラマの「まじめな」演出を「そうじゃないだろう」と倒転させてみせる面白さを、わたしなどはつよく感じてしまう。そういう作品を支えるのが三木聡監督の遊戯性をたっぷり持った演出であり、また、絶妙のぶっとんだ演技をみせる麻生久美子の名演技、ということになると思う。
 「ジリ貧人生」から決別しようとするヒロイン(麻生久美子)は、とあることから知らなかった自分の父親の情報を手に入れる。その父親をさがすと、「電球商会」という骨董屋をいとなむ男(風間杜夫)にぶちあたる。「ガス」というパンクな電気屋(加瀬亮)とも知り合い、そこに入りびたるヒロインは自分で骨董屋を開いたりするが、風間杜夫から祖先から代々伝わるたからものを保管している蔵の鍵をゆずり受ける。その蔵のなかにあったのが、「インスタント沼」だったわけだ。
 ‥‥目に見える合理的なものしか信じないヒロインに、同居する母(松坂慶子)は「あなたが目にしていないだけで、世の中にはたとえばカッパもちゃんと存在する」と説き、じっさいにヒロインに見せてやろうとカッパを取りに行き溺れ、「眠る女」になってしまうわけだけれども、ここから、ヒロインには母が乗り移ってしまったように、それまでにない行動をとるようになる。つまりそれ以降、ヒロインは眠る母の夢の世界にいるのかもしれない。で、ヒロインが見いだすのが「電気商会」であり、「ガス」であり、風間杜夫からは「なにか困ったときには水道の蛇口をひねれ」というアドヴァイスをもらう。「電気」「ガス」「水道」のライフラインそろいぶみというわけで、このあたりはちょっとロジカルにすぎる気もするけれど、そういう、全体にただコント的にギャグをつなげただけではない構成が、観る側を飽きさせずにさいごまでひっぱっていってくれる。映画的な魅力にあふれた作品という印象で、こういうコメディ作品はわたしは好きなのだ。
 そう、映画のなかで「骨董業界のオピニオンリーダーといわれる有名な店」というのが出てくるんだけれど、このモデルはきっと、わたしの知人のあの店だ。店の片隅に「アレ」が置かれていたし。ちょっとちゃかされてましたけれどもね。



 

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■ 2010-09-12(Sun)

 きょうの阪神対ヤクルト戦、ようやく阪神が勝ってくれた。それも秋山という高卒ルーキーの完封というけっこうなおまけつきで、久々にTV観戦を楽しむことができた。

 ネコのことだけれども、部屋飼いのネコでもとつぜん外にとびだしていき、そのままもどって来なくなることもあるということ。おもに繁殖期にそういうことが起きるらしい。オスはメスを求めて、メスはオスを求めて外の世界へとびだしていく。いつの世も同じ、イッツ・ザ・セイム・オールド・ストーリー。
f:id:crosstalk:20100913223951j:image:left というわけで、ニェネントをベランダに出してやるのも考えものかもしれない。しかしニェネントはすっかりベランダで遊ぶのが気に入ってしまったみたいで、和室の窓を開けるとその音を聞きつけてふっ飛んでくる。「外で遊びたいの」というわけだ。出してあげるとしばらくは外で夢中で遊んでいるけれど、それでもわたしが窓ぎわに立つと、ちゃんと部屋のなかに戻ってくる。で、窓を閉めると「閉めないでちょうだい」とばかりに、窓のさんに前足をかけて、外に首から突っこみ出ようとする。はい、きょうの屋外運動はここまでです。ニェネント、こんどはわたしと遊びたがる。わたしがパソコンとかに向かっていても、ひといきいれて右手を畳についたりすると飛び出してきて、その手にからみついてくる。振りはらうとあおむけになって、前足でわたしの手にちょっかい出してくる。わたしは指でその前足のちょうど肉球を畳に押さえつけ、「ばんざい」のかっこうをさせる。それが好きなのか、しばらく目を閉じてそのポーズをつづけている。また起き上がり、わたしの腕に攻撃してくる。咬みついてくる力がだんだん強くなってくる。だいたいこのシークエンスに進んだときに、わたしの腕に傷がつき、血がにじむことになる。ニェネントじしんも強く咬んでいる意識はあるようで、ほんとうに痛い一撃をくらわせてくるときは、咬むと同時にサッと遠くへ逃げていってしまう。

 きのう観たヴィデオのことを。

[] 「雨」(1932) ルイス・マイルストン:監督  「雨」(1932)   ルイス・マイルストン:監督を含むブックマーク

 ルイス・マイルストンは、1930年の「西部戦線異常なし」で知られる監督で、この「雨」はサマセット・モームの原作からの脚色で評判になった戯曲の映画化で、主演はジョーン・クロフォードとウォルター・ヒューストンのガチンコ勝負。
 舞台は南太平洋の小さな島で、ここにアメリカからの客船が検疫のために足どめをくらい、乗客はこの島にしばらく滞在を余儀なくされる。その乗客のなかに宣教師のウォルター・ヒューストン、その夫人、友人の医師夫妻のグループがいる。それと、ひとり旅らしいサディ・トンプソンという女性がジョーン・クロフォードで、けばけばしい化粧と服装、ビッチなふるまいで宣教師グループをいらだたせる。皆が投宿する島でひとつのまともなホテルの部屋でも「セントルイス・ブルース」のレコードを大音量でかけ、駐屯している軍隊の兵士が集まって酒を飲み、乱痴気騒ぎをしている。宣教師は彼女を改心させ神の道にみちびくことに異様に執着し、島の領事館へかけあって、彼女を別の船でアメリカへ強制送還させようとする。もちろんつまりは彼女は転落してアメリカから逃げてきた存在で、アメリカに帰るということは刑務所に収監されることを意味する。彼女の強制送還は決定するが、彼女は駐屯している兵士のひとりからいっしょにシドニーへ行こうと誘われ、オーストラリアでの新しい生活を夢見る。宣教師に「なんとか見逃してシドニーへ行かせてくれ」と哀願するが、宣教師は受けつけずに彼女に説教し、激烈に信仰への道を説く。サディは宣教師に屈服し、アメリカへ帰ることを受け入れ、化粧も落として質素な身なりに変身してしまう。宣教師とサディは雨の夜にホテルの外で会い、彼女を讃えた宣教師は「あなたは輝いていて美しい」と語り(つまりここで宣教師はサディに屈服する)、ふたりは別れる。翌朝、海岸で宣教師の自殺死体が発見される。そのことを知るまえにサディはまた厚化粧とケバい服装を復活させていて、宣教師の死の知らせにも心動かされる様子もない。「わたしは輝いていて美しいのよ」と、兵士と腕を組んでシドニーへの船に向かう、というおはなし。

 映画はいきなり暗雲たちこめる空のショットからはじまり、水面に雨粒の落ちてくる波紋をとらえるショット、砂浜の砂に雨の降りかかるショット、そして大きな南国系の植物の葉に雨の降るショットなどが積みかさねられて、ちょっとばかし「これはアヴァンギャルド映画か」というような導入部。これが雨のなかの兵隊の行進につながって行き、カメラ移動もいい感じなのだけれども、たとえばもう少しあとの、船の乗客のパスポート審査のシーンの奇をてらったようなショットの冗長なくり返し、ジョーン・クロフォード登場シーンの、まるでミュージカル映画みたいな、見得を切るような演出など(これも前半と後半で同じ演出を二回やる)をみていると、この監督はたんじゅんに、ギミックなことをやろうとしているだけなのだろうと了解できる。そもそもが(読んでないけれど)サマセット・モームのオリジナル・プロットがそれほどに面白いのか、というあたりから疑問なのだけれども、欲望に屈する聖職者というありがちな(わたしにはどうでもいい)テーマを、住民の太鼓の鳴り響く南洋の島という極端な非日常空間の、しかもどしゃ降りの雨の下に持ってきましたみたいな作為性がまず鼻についてしまうし(こんなシチュエーションでなくても、どこででもありうる主題に思える)、自殺という結末は大仰で、聖職者にはリアリティもない。これは戯曲版か映画の脚色なのだろうけれども、ホテルの主人が「ツァラトゥストゥラ」なんかを読んでいるなどというのも、扱いがナマすぎるというか、そんなのやるんだったら本の表紙だけ映しておいてもいいわけで、そういうのはのちにトリュフォーやゴダールがじっさいにやることになる。監督は「文芸映画」ということにとらわれすぎたのか、大仰なもったいぶった演出と、通俗的でギミックな演出とのあいだで引き裂かれてしまっているように見える。

 

 

 

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■ 2010-09-11(Sat)

f:id:crosstalk:20100912203634j:image:right せんじつニェネントがベランダに出てしまったのだけれども、ときどきはベランダに出してあげてもいいような気になり、けさの陽射しもやわらかだったので、ニェネントに「出てもいいよ」と和室の窓を大きく開ける。ニェネントはちょっとためらうように外のようすを見ていたけれど、すぐにベランダのコンクリートに降りて遊びはじめた。ベランダにそって生えてきた低木から刈り取って放置してあった枯れ枝や、ちょうどベランダのすぐそばに生えているねこじゃらしで遊んだりしている。ときどき姿が見えなくなってドキドキしてしまうけれど、わたしがベランダに出ていくと、となりの空き部屋のベランダの方からもどってきたりする。あまりそっちには行ってほしくはないな。でも、外のひかりの下でみるニェネントの姿というのも新鮮で、もしもこういう野良ネコが外をウロウロしているのをみたら、「お、なんてかわいい野良ネコがいるんだろう!」と思ってしまうんじゃないか、それほどにはかわいらしくみえる。
f:id:crosstalk:20100912203720j:image:left それでも、もうニェネントも生後十二週をこえて、顔なんかはずいぶんとおとなじみてきたようで、ときどき、目の感じなどは母親のミイにそっくりなこともある。窓のへりに立ってベランダをのぞくとニェネントが部屋に戻ってきたので、スケールで体長をざっと計ってみると、頭からおしりまでだいたい35センチあった。ニェネントが二ヶ月ぐらいのときに計ったのは30センチぐらいだったから、あたりまえだけれども、着実に成長してきてると。

 さいきんはTVで野球中継ばかり見ている。こんなにまいにち野球ばかり見たというのは、学生のころに高校野球を連日見ていたことがあったぐらいでほかに思い出せない。とにかくきのうはひどい負け方をした阪神の、対ヤクルト戦のふたつめ。せんじつ乱調だったピッチャーのメッセンジャーが先発で、これが絶好調の好投。2−0とリードのまま終盤で、きょうこそは行けるかと思ったのが、リリーフの藤川が逆転ホームランを打たれてしまうではないか。ふつか続けてこんなひどい負け方をするなんて信じられない。やっぱりわたしが見ていると阪神は負けるということなのだろうか。しかし、つい先日の、続けて20安打以上打って毎試合10点以上取っていたころの打線はどうしてしまったのか。リーグ優勝があぶない。

f:id:crosstalk:20100912203818j:image:right 夕方になって少し涼しくなり、またニェネントをベランダに出してあげた。ちょっと目を離していて、ふとベランダの方を見てみると、となりのベランダの境から、ニェネントではないネコの前足が出てくるのが見えた。黒白のブチのネコで、ニェネントはそれに気がつかないでいて、窓のすぐ前で枯れ枝で遊んでいる。びっくりしてベランダに飛び出て、ニェネントを抱き上げた。ニェネントもびっくりしてにゃあにゃあと啼く。ニェネントを抱いたままとなりのベランダをのぞくと、そこに母ネコのミイがいた。ミイはすぐにベランダから駐車場に飛び出てそこにとどまり、こちらのようすをうかがっている。もうこのあたりにミイはあまり来ることもないと思っていたのに、おどろいた。ちょうど近くにミイがいるときに知らずにニェネントをベランダに出したので、ミイの方が寄って来たんだろう。
 しかし、ミイはどうするつもりだったんだろう。ジュロームのことがあるので、わたしはミイがニェネントの首ねっこをくわえて連れ去ってしまう幻覚にしゅんかん囚われ、ニェネントを抱き寄せてしまったけれども、もうニェネントはミイがくわえて運べるようなからだではないし、そもそも、もうここまで来ると子育てという時期でもないだろう。ミイがなわばりを守るために、ニェネントを攻撃しようとしていた可能性もある。そういうことはニェネントに恐怖のタネを植えつけることになるだろう。それでも、変なはなしだけれども、もう少しようすをみて、いったいミイがニェネントにどうしようとしていたのか、それにニェネントがどういう反応をするのか、見てみたかった気がする。

 夜、配信ヴィデオを二本観た。

[] 「悪魔と天使」(1946) アーチー・L・メイヨ:監督  「悪魔と天使」(1946)   アーチー・L・メイヨ:監督を含むブックマーク

 原題は「Angel On My Shoulder」で、しかし作品のなかに悪魔は登場してくるけれども、天使は出てこない、というあたりがポイント。主演は「暗黒街の顔役」(わたしは未見)で知られるポール・ムニ。そういう、ハードボイルドなギャングスターのキャラクターをここで引きずって、ここではコメディタッチのとっても微妙で繊細な演技を見せる。とにかく、このポール・ムニという役者さんが魅力的だなあとずっと思いながら見ていた。悪魔役がクロード・レインズで、婚約者役で「イヴの総て」のアン・バクスター。このふたりのサポートも、演出のアーチー・メイヨ(まえに観た「悪魔スヴェンガリ」もこの人が監督)もよかった。
 おそらくこの時代は、ギャング映画の全盛期から続く「検閲逃れ」の一環として、このような、ギャングが善をなしてしまうような作品が、コメディに限らずあれこれ製作されていたわけで、ちょっと時代はさかのぼるけれど「汚れた顔の天使」(1938)などもそうだろうし(これはシリアスな作品だった)、もうちよっとあとにはボギーの「俺たちは天使じゃない」(1955)もある(こっちはコメディ)。どれもタイトルのに「天使」がおり込まれているけれども、つまりはみんな、ギャングが登場する映画なんだけれども、どこか「いい人」になってしまうというか、そういう映画群であると。
 この「悪魔と天使」のばあい、主人公のポール・ムニが仲間にだまされて撃たれて死に、地獄に堕ちてしまう。彼はどうしてもじぶんをだましたスマイリーというヤツが許せない。片や地獄の悪魔はさいきん人材難というか、現世に善が広まりつつあるのに困っていて、その元凶のひとりがポール・ムニにそっくりの判事なので、地獄のポール・ムニをその判事と入れ替えて、悪をはびこらせようとたくらむわけ。ポール・ムニはスマイリーに復讐できるのならと引き受けるわけだけれど、なんだかんだで、やることなすこと善行になってしまい、判事の評判はいっそうあがってしまう。まあスマイリーはほとんど自滅で死んでしまうし、ポール・ムニは自分が入れ替わった判事の婚約者との出会いから、つまりは愛を信じる「いい人」になってしまう。悪魔のたくらみは成就しないまま、ポールと悪魔は地獄へ帰っていく。どうやらポールは悪魔をゆすって、地獄でもうまくやって行きそうだね、という作品。
 もう、ものすごくストーリーに無理があるわけで、いくらなんでもそりゃあないでしょうみたいな展開が続くけれど、べつにシリアスな作品でもなし、悪魔役のクロード・レインズとポール・ムニのかけ合いを見ているだけで楽しくなるし、さいしょのヤクザなポール・ムニが、すこしずつ変わってくるわけだけれども、その演技がとってもすばらしい。まあそういう彼の演技をコンパクトに見せてくれる映画なのだと思えば、たしかにそのためにだけ留意して書かれた脚本なんだろうし、多少の無理も、それでいいじゃないかということになる。

 もう一本観たヴィデオのことは、またあしたにでも書くことにして。

 

 

 

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■ 2010-09-10(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 また強い陽射しがもどってきたけれども、台風のまえのあの強烈な暑さはやわらいだみたいで、朝などははずいぶんとしのぎやすくなった気がする。

f:id:crosstalk:20100911103813j:image:right ニェネント用のあたらしいドライタイプのキャットフードを買ってきたのだけれども、ニェネントはあんまり食べない。おいしくないのだろうか。以前から、ニェネントがあまり食べたくないらしい気分のときには、食事トレイのまわりの床をまるでトイレでのようにカキカキするのはわかっていたんだけれども、きょうになって、ニェネントはつまり、「これはクソだ!」といっている(身ぶりであらわしている)のではないかと思いあたった。「こんなクソみたいなモノは、食べられませんことよ」とおっしゃっておられるのだ。ネコのボディ・ランゲージをひとつ了解したわけだけれど、その「クソ」みたいなキャットフードはまだまだたくさん残っているし、なんとか食べていただきたいものだと思う。
 そんな「クソ」のような食事をあてがわれてむくれたのか、午後からのニェネントはいつまでも寝ている。あんまりいつまでも寝ているので、具合が悪くなってしまったのかと心配になってしまう。からだをつっ突いてみたり、抱き上げて体温の具合をみてみたりするけれどもとくに異常はないみたい。それでも、いつまでも眠り続けている。
 夕食で人間さまはほっけの開きを焼いておかずにしたので、その食べ残しをニェネントにあげる。暗くなってようやく起き出してきたニェネントは、残されたほっけのおいしそうなところだけかじって食べ、頭やしっぽ、まんなかの骨などはすっかり残して、またまわりの床をカキカキする。「残った分はもうクソです」ということか。

 昼間は「ひかりTV」の音楽チャンネルで、「1981年の洋楽ヒット」などというのを観てしまう。アメリカで大ヒットしたメジャーな曲ばかりなので「1981年ならもっともっとあるだろう!」というわたしの希望がかなえられるわけもないけれども、それでもオヤジらしく懐かしく観てしまった。Blondie の「The Tide Is High」とか、Bruce Springsteen の「Hungry Heart」とかが、こころに響いたね。

 夜はまた野球で、甲子園での阪神対ヤクルト戦。序盤にぽん、ぽんと得点して、2−1でリードしたままゲームが動かない。やばいなあと思っていたら案の定、みごとに逆転された。アタマきてふて寝。本も読まないしヴィデオも観ないいちにちだった。



 

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■ 2010-09-09(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 ほんとうに久しぶりに気持ちのいい朝。まだおだやかとはいえないけれどもけっして暑くはない太陽のひかりと、開けた窓からかなり強引にはいってきて、部屋のなかの様子を探っている風。やっとこういう気候の下で生活できるような季節になったのか。
f:id:crosstalk:20100910172228j:image:right 窓を開けてそのままにしていたら、破れている網戸のその破れ目(ユウがここから逃げて行ったのだった)から、ニェネントが窓の外に抜け出していた。ベランダの窓のへりに寝そべってじっとしているニェネントをみてびっくりし、そのままどこかへ逃げていくのではないかと心配してつかまえようとすると、ニェネントは自分から部屋のなかに戻ってくる。ニェネントもきょうの外の日ざし、そして吹き抜ける風が気持ちいいのだろう。おそらく多分いまのところ、ニェネントは放っておいてもベランダよりも外には出て行かないんじゃないだろうか。ニェネントにベランダより外の世界はただ目に見えているだけの世界で、人が月や金星を夜空に見るのと同じなのではないのか。でも、そのうちにベランダよりも外の世界を見てみたくなり、ベランダから飛び出して行こうとする日がくるかもしれない。もちろんこの部屋には戻ってくるだろうけれども、やはりニェネントをベランダの外に出してやろうとは思わない。

f:id:crosstalk:20100910172325j:image:left 先日から行方不明になっていたニェネントのおもちゃのじゃがいもが、どこからか姿をあらわした。どこか物陰にくわえこんで隠してあったのだろう。自分で口にくわえてあちこち持ち運んでいる。サッカーのドリブルのように前足を交互に出して器用にじゃがいもを蹴り出し、転がったあとを追っていく。わざとじゃがいもを見失ったみたいにして見当ちがいの方へちょんちょんと進んでいき、(じゃがいもに意識があるのなら)じゃがいものスキをつくように、いきなり振り返って攻め込み、猛攻撃を加える。じゃがいもはもう、ボコボコである。

 家の本をまた読もう計画、さいしょはナボコフの「キング、クィーンそしてジャック」(出淵博:訳)から。この小説を書いた1928年、ナボコフはベルリンで生活している亡命者で、この小説にはドイツ人ばかりが登場するのだけれども、ナボコフはドイツ語を解さないばかりか、ドイツ人の知人ひとりいなかった。長篇小説第一作「マーシェンカ」でじぶんのはつ恋のことを書いたナボコフは、すでにこの長篇第二作で、じぶんの体験を典拠にして作品をつくりあげることをやめているわけだ。小説冒頭の、チャプター2の書き出しの部分が面白い。

 黄金(きん)いろの靄、ふっくらした掛布団。もうひとつの目醒め。でも、たぶんまだ最終的な目醒めではない。こういうことは割合よく起る。君は我にかえり、自分が、たとえば、優雅な見知らぬ夫妻といっしょに優雅な二等車室に坐っていることに気づく。でも、実際はこれはいつわりの目醒め。君の夢のもうひとつの層にすぎない。まるで君がひとつの層から次の層に浮かびあがりながら、決して表面には到達できない、決して現実のなかに脱出できないとでもいうかのように。けれども魔法をかけられた君の心は、夢のひとつひとつの新しい層を現実への扉と勘ちがいする。君はそれをすっかり信じこみ、息をひそめて、記憶できぬくらいの幻想のなかを連れてこられた駅を出ると、駅前広場を横切る。 (‥‥‥‥) だが誰が知ろう。これこそ現実なのか。最終的な現実なのか。それともこれもまたもうひとつのいつわりの夢にすぎないのか。

                        (P22〜23)



 阪神対中日三連戦は舞台を甲子園球場に移して、この夜がみっつめ。まれに見る緊迫した熱戦で、延長12回、2−2の引き分け。お互いに守り切ったというか、チャンスをものにできないはがゆさは両軍おなじ程度だけど、9回裏、せっかくの一塁ランナーが盗塁に失敗して「もはやこれまで」の2アウトランナーなし、ここから三塁打を放った藤川と、すぐに適時打で土壇場で同点に持ちこんだ代打桧山の好打にはしびれた。どんなにがんばっても取れない得点が、わずかなチャンスで1分間で取れてしまうわけだ。10回裏にはノーアウト満塁にまで行くのに無得点。タッチアウトに抗議したブラゼルが退場処分で、それまでに総力戦で野手を使い果たしてしまっていた阪神には野手がいなくなってしまう。控えのピッチャーの西村が外野手としてプレーした。打者ごとにライトからレフトに、またライトへと守備位置変更したり、このことだけではないけど、めったに見られないようなすごいゲームだった。6時の試合開始から11時20分の終了まで、ずっと観てしまった。おかげでこの日はヴィデオ鑑賞なし。




 

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■ 2010-09-08(Wed)

 あさ起きて外を見るともう雨が降っていた。この雨はきっと台風の影響なのだけれど、午後になってから降るものだとかってに想像していた。きのう見た天気予報などでは台風はめずらしく日本海がわから上陸し、福島県あたりを横断して太平洋に抜けるコースが予想されていた。このあたりでも強い雨になるかもしれないなと思っていたけれど、けっきょく一日をつうじて、「おしめり」ていどの雨量でしかなかったと思う。夕方のニュースを見ると台風はずっと南よりのコースを高速で通過していて、静岡あたりから太平洋に出ていくコース。なんかブーメランみたいなコースどりで、太平洋にもどってまた勢力を回復するんじゃないかという感じ。東京などの方がこのあたりよりずっと雨量が多かったようで、TVの画面には浸水さわぎを起こしたブティックなどの映像がながされている。みながのんびりとバケツなどを使って排水作業をやっていて、災害という感じはまるでない。リクリエーションのあとかたづけをしてるみたいだった。それとも、暑かったことしの夏をかたづけてる?

f:id:crosstalk:20100910113914j:image:right おかげでこのあたりでも暑さはやわらいで、「もう、このままでは死ぬ」という気分からは解放された。ちょっと秋っぽい上着を着てみたのだけど、やはりまだ暑かった。それに、すわっていたらとつぜんニェネントがうしろからわたしの背中に爪をたててかけ登り、またかけ降りていった。不意打ちで驚いたし、いままでニェネントに爪をたてられたのではこれがいちばん痛かった。ニェネントがわたしの背中に爪をたてたのと、わたしが秋っぽい服を着ていたこととに関係があるのかどうかなんてわからない。

 阪神対中日三連戦ふたつめ、いきなり先発ピッチャーのメッセンジャーが崩壊して、5−0からスタート。ハンデ5点もあげちゃいくらなんでも苦しいだろと見ていたけれど、阪神の攻撃はブラゼルのホームランだけ。点差は拡がるばかりできょうはダメと、とちゅうからヴィデオにチェンジした。

[] 「ロング・エンゲージメント」(2004) ジャン=ピエール・ジュネ:監督  「ロング・エンゲージメント」(2004)   ジャン=ピエール・ジュネ:監督を含むブックマーク

 もうじき新作「ミックマック」の公開されるジャン=ピエール・ジュネ監督の作品だけれども、どうもめんどくさそうな印象があって今まで観ていなかった。というか、大ヒットした「アメリ」という作品が、わたしにはちょっとうっとうしかったわけで、「またああいうのを見せられても」という気分と、「タイトルからしてもどうも生真面目な作品らしい」というのが合わさって、いままで観ないできていた。ジュネ監督のマルク・キャロとの共同監督時代の「デリカテッセン」、「ロスト・チルドレン」は好きな作品だけれども、彼ひとりの単独監督になってからの「エイリアン4」、そして「アメリ」と来る路線がどうだろう?という気分だった。それでもこの「ロング・エンゲージメント」のタイトルとか、宣伝に使われていたヴィジュアルイメージなども「まじめ映画」という印象であって、「アメリ」みたいな作為的な世界とはちがうだろうというような期待もあった。その反面、ジャン=ピエール・ジュネ監督のまじめな作品などなにが面白いんだろう、という先入観もあって、まあ機会があれば観てみよう、くらいのものだった。きょうは阪神がボロ負けしそうなのでこの作品を観る。‥‥面白かった、です。
 舞台は第一次世界大戦時のフランス。「故意の自傷」(前線逃れのため、自分で自分の手などを傷つける)の罪で死罪とされ、フランス軍とドイツ軍が対峙する戦場の、そのまんなかに放り出されそのまま死んだと思われている五人の男、そのなかのひとり、いちばん若い男の婚約者だったヒロインが彼の生存を信じて、戦後になって長い時間をかけて彼を探すという物語。仕組まれたいろいろなサブ・ストーリーからあれこれの驚くような真実があきらかになり、ほとんどサスペンス・ミステリーという展開になるけれども、ジュネ監督の演出はやはり彼らしい「つくりもの」っぽい世界を現出させることに手腕を発揮し、第一次世界大戦後のフランス、というノスタルジックでレトロな世界が「(夢見られた)存在しない世界」として描かれ、これこそジュネ監督の作品の魅力だった、だろうと思う。そのなかにジュネ監督らしい残酷でブラックなショットもはめこまれ、彼の映画にあってはストーリー自体のリアリティ(ほんとうらしさ)など吹き飛んでしまうのだけれども、それでもやはり、「夢見られた」「つくりもの」の世界という、映画本来のおもしろさ、娯楽性を堪能させてもらえた。スピード感のあるスケールの大きな撮影もよかった。音楽はアンジェロ・バダラメンティで、原作がなんとセバスチャン・ジャプリゾだったということを、観終えたあとに知った。たしかにこの映画の、現実のレベルが幾重にもかさなったようなち密なプロットは、それなりのストーリーテリングの名手の手腕が必要だったろう。しかし、観終ってみると、そういうサスペンスだのミステリーだのという複雑なプロットの印象よりは、もっともっとエモーショナルな感動が残る。そういうところが、わたしの感じるジャン=ピエール・ジュネ監督の魅力なのだろう。


 

 

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■ 2010-09-07(Tue)

 月曜の夜、なんだか目がさえてしまっていつまでも起きていた。駐車場の方からまたネコの啼き声が聴こえてきて、外を見てみるけれどまっくらでなにも見えない。懐中電灯を持ちだしてきて外を照らす。ミイが一匹だけで駐車場のまんなかにすわってこちらを見ていた。またなにかをわたしに告げにきたというわけだろう。いや、わたしにではなくてニェネントを呼んでいたのかもしれないけれど、ニェネントは以前から、そんな母の呼び声をまるで気にもとめなくなっている。
 ミイはすぐにいなくなってしまったようだけれども、しばらくするとまた別のネコの声が、こんどはもっともっと近くから聴こえる。窓を開けると、その窓のすぐそばにいた白いネコがさっと逃げていった。あれはノラで、つまりはニェネントのおとうさんネコの可能性が高いのだけれども、ノラは自分のこどもと思って会いにきたわけではなく、この部屋に雌ネコの匂いをかぎとってやってきたのだろう。だからちょっと低い声で啼いていて、あれは求愛のささやきだったんだろうと思う(じぶんの子どもかもしれないのに!)。ニェネントはそんなノラの啼き声には気がついたみたいで、窓のそばに寄って外を気にしていた。
 夜になると、人知れずにネコたちだけの生活が動いているのだろう。

 火曜はまた暑いいちにちで、いったいいつまでこの暑さは続くんだろうと思うけれど、あしたには台風がこのあたりの北を通過するようで、雨も降って気温は下がるという予報。夜、神戸での阪神対中日戦を観ているとあちらでは風も強く、もう雨も降っていた。ゲームは一点を争う緊迫した展開になり、阪神が犠牲フライであげた一点をスタンリッジ〜藤川のリレーで守り切り、1−0での勝利。スタンリッジがよかったけれど、終盤は藤川がちょっとヨレヨレで、ハラハラしながら観てしまった。

 きょうは韓国の、「光州事件」を題材にした映画を観た。

[] 「光州5・18」(2007) キム・ジフン:監督  「光州5・18」(2007)   キム・ジフン:監督を含むブックマーク

 こういうテーマの作品だとコスタ・ガヴラスの作品をあれこれ思い出してしまうけれど、この光州事件を描いた作品はまるでそういうものではなかった。あれこれと疑問のわいてしまう作品で、光州事件の犠牲者を追悼する気持ちはわかるけれども、追悼と美化とはまったく別のはなしだろう。そういう「美化」のためだろうけれども、じつに情緒的な描き方になっていて、「いったい1980年の5月に、光州でなにが起こったのか?」ということはほとんどわからない。この事件ではまだわかっていないことがあれこれ残されているはずだけれども、そういうことを問題にしようという姿勢は皆無で、「この映画は事実である」という冒頭の字幕を、この作品はどんどん裏切っていく印象がある。
 つまり、完全にフィクションとしての演出は、まるで近未来独裁国家を舞台とした、ハリウッドの影響を受けたディザスター映画を観せられたような印象になる。「いったいなぜ、このような惨劇が起こったのか?」という視点の欠除が、この作品をいっしゅの不条理ドラマのようにみせてしまう。
 まず、いったい誰が、軍隊の市民への発砲(水平撃ち)を指令したのかということがあり、これはこの作品を観たあとに調べると、いまでも解明されていないらしい。せっかくこの題材で映画作品をつくるのなら、それらのことをもっともっと究明し、「何が解明されていないのか」を明確にしなくてはいけないんじゃないの?と、強く強く思ってしまう。そして次も同じような問題だけれども、いったいどのように市民側の武装が決定されたのかということで、この映画ではじつにあっさりと家族を殺された男が武器の調達に向かってしまう。じっさいにもなしくずし的に倉庫に保管されていた武器へと市民が向かったのかもしれないけれども、市民の武装〜市民軍への組織化はこの事件での大きなポイントであるだろう。映画ラストで男が軍隊に取り囲まれ、暴徒呼ばわりされて「オレたちは暴徒じゃない!」と叫ぶのがひとつのクライマックスになるけれども、何の葛藤もなくあっさりと武器を手にしてしまう描写では、「暴徒じゃない」というセリフにつながってこない面もある。まあこの作品は市民蜂起をある意味で「聖戦(ジハード)」として、そっくりそのまま肯定するような視点なのかもしれないけれど、つまりこれだけでは事件のそもそもの性質はまるで見えてこないから、観ていてもそんな彼らを肯定、擁護するのもむつかしくなってしまう。おもにこの映画でいっているのは「家族が殺されたから立ち向かう」ということばかりで、たしかに映画の中でも家族の結びつきが大きな主題になっているわけだけれども、それが「なぜ国家の軍隊が国民に向けて発砲し、彼らの家族が殺されることになったのか」という根本の疑問へたどり着かない。これが解明されなければ、いくらこの事件での犠牲者の方々を美化しても、今になって事件を作品化する意味はまるでないのではないか。



 

 

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■ 2010-09-06(Mon)

 内田百里蓮▲離蕕いなくなってなんであんなに泣いたのだろう。そういう、自分が泣いたということを、いったいどのように書いていたんだろう。「ノラや」を読みたくなって本棚を探していて、そもそもこの本を自分では持っていないことに思いあたった。先日買ったアンソロジー(昭和文学全集)にも、「ノラや」は抜粋でも収録されていなかった。おぼえている限りでノラがいなくなってからの百里糧瓩靴澆楼柩佑覆曚匹如△修鵑覆犬屬鵑糧瓩靴澆髻⊆制することなくひたすら書き続けていたのではなかったのか。なぜ百里呂△修海泙如⊆分の悲嘆を書いていったのだろう。それも、悲しみにくれる百里鮨看曚垢襪泙錣蠅里茲Δ垢發舛磴鵑販篝鼎貿Ъ韻靴撞述していたわけだ。彼は自分の悲しみを包み隠さず、あるいみ正直に、ぜんぶ記述しておこうと考えたのだろう。おそらく彼はそのなかで自分がどこか滑稽な存在であることを承知していて、どこかそういう自分を突き放して(戯画化して)書いていたんじゃないだろうか。そういうのをたしかめたくなったのだけど、それが百里諒法論だとしたら、「阿房列車」にしても同じなんじゃないかと、いまさらながらに気がつく。

f:id:crosstalk:20100907140945j:image:right ニェネントは、わたしがパソコンに向かっていたりTVを見つづけているときには、よく隅っこで眠ってしまっている。遊んでもらえないことがわかっているのだろうけれど、わたしが立ち上がって部屋を移動したりすると、目を覚ましてついてくる。キッチンにいくと、足にまとわりついてくる。わたしが動き出せば遊んでもらえる時間になったと思うんだろう。部屋のすみにかくれていて、いきなりわたしの前にとびだしてきてぴょんと跳び上がって、また一目散に部屋のすみに逃げていく。ここでちょっと挑発してやると、ニェネントのいきおいはノンストップになる。和室からリヴィング、キッチンと、あらゆるところを全速でかけぬけて、いろいろなところへかくれこんでわたしのようすをうかがっている。ニェネントのいるところに近づいていくと、ぴゅうとばかりにとびだして、また部屋じゅうをかけまわっていく。さいきんは玄関のげた箱の下の狭いスペースにかくれるのが好きで、そこは土ぼこりとかいっぱいなのであまり入りこんで欲しくないんだけれどもしょうがない。あと、通りがかりにふすまにジャンプして、爪をたてていく。いままでにふすまを破かれたのは二ヶ所。そのうちにもっともっと増えてしまう。

 きょうは日本映画をふたつ観た。

[] 「仇討崇禅寺馬場」(1957) マキノ雅弘:監督  「仇討崇禅寺馬場」(1957) マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 この「崇禅寺馬場」というのは、江戸時代から知られた仇討に対して返り討ちのなされたという実話らしく(わたしはまったく知らない話だった)、戦前に八度も映画化されている題材で、マキノ雅弘監督にとっても、これが戦前作品のセルフ・リメイクということになる。主演は大友柳太朗で、脚本に依田義賢の名前がみえる。小林正樹監督の「切腹」や「上意討ち 拝領妻始末」のように、体面を重んずる封建的社会の矛盾の犠牲になった人々を描いたといえるだろうか。
 郡山藩の剣術指南役の伝八郎(大友柳太朗)は御前試合で若い柳生流の藩士宗左衛門に判定負けし、お役御免を言い渡される。婿養子の弱い立ち場で妻からも侮蔑された伝八郎は家を出てぼうっとしていたところ(むしゃくしゃもしていたんだろう)、ぐうぜんに仲間たちと勝利を喜ぶ宗左衛門に遭遇し、「真剣なら負けていない」と、けっきょくは彼を斬り殺してしまう。
 大阪へ流れた伝八郎は用心棒として沖仲士の頭、万蔵のもとに身を寄せ、万蔵の娘、お勝は伝八郎に恋心を抱き、かなり敢然とアタックする。いっぽう、斬られた宗左衛門のふたりの兄は仇討ということになるが、体面を重んじる藩からは脱藩を命じられ、勝って戻れば復藩などと‥‥(こちらの兄たちも哀れである)。それでけっきょく、果たし合いということになるんだけれども、伝八郎に生への執着はなく、ただ正々堂々と相手と戦い、勝負をの決着を求めるのみ。その決闘の場所がつまり崇禅寺の馬場なのだけれども、伝八郎を愛するお勝は決闘場所を探りあて、若い沖仲仕衆を集めて伝八郎の加勢に乗り込んでしまう。兄弟ふたりは惨殺され、伝八郎は非道ものと追求されるが彼自身も望む決闘が成し遂げられぬまま相手に死なれ錯乱に陥り、お勝はそんな伝八郎とふたりで身を隠す。お勝の父万蔵は真相を知るが、すべてを伝八郎のたくらみとし、お勝も利用された犠牲者としてことを決着させようとする‥‥。
 この終盤に精神の均衡を失い、死んだ兄弟の幻影に迷う伝八郎の狂気がかなりのもので、これと、愛に狂ったともいえるお勝の執心が重なった「正気ではない世界」の描写は、ちょっとばかし怪談めいた展開にはなるけれどもすばらしい。伝八郎のばあい、いちども自分ののぞむようなまっとうな「勝負」の出来なかった無念さの原因はお勝にもあるわけだけれども、武士であろうとする彼のアイデンティティーはもっと早くに抹殺されている。そしてお勝という女性、「女の恋とたたかうのは、剣でたたかうよりもすごいことよ」と語るだけの執念を持っているわけで、封建社会の犠牲になったという見方は出来ないかもしれないが、彼女の父が体面のために彼女だけを救済しようとするとき、彼女の「愛」もまた、壊されてしまうわけだ。ラストはこれはいっしゅの「心中」で、近松的な世界に一歩あゆみよった依田義賢の脚本のみごとさ、だと思う。
 マキノ雅弘監督の演出はロングショットを多用したきっちりとした構図を選ぶことが特徴的で、それぞれの場面が「絵になる」という見せ方になるのだろうけれど、やはり後半の描写はそんなことにとらわれず自在に情念の世界を描いている印象で、監督としての力量を感じさせてくれる。むかしの時代劇映画の豊かな多様性の一端を垣間見せてもらえる、とても面白い作品だった。

 

[] 「昭和残侠伝」(1965) 佐伯清:監督  「昭和残侠伝」(1965) 佐伯清:監督を含むブックマーク

 のちにそのマキノ雅弘も監督した「昭和残侠伝」シリーズの一作目で、以前観た「日本侠客伝」(これはまさにマキノ雅弘監督作品だった)と、時代設定を変えただけでほとんど同じ構成ではないか、ということになる。たしか「日本侠客伝」で高倉健は日露戦争から復員してくるわけだけれど、こちらではもちろん太平洋戦争から復員してくる。舞台は浅草で戦後のヤミ市、ドヤ街が舞台になり、ちょっとばかし「仁義なき戦い」ともかぶってくる内容。そうすると、たてまえ的なセリフを並べ、美談、悲話を盛り込んだりするこの「昭和残侠伝」の脚本と、「仁義なき戦い」の脚本との差がまた気になってしまうのだけれども、やはりこの「昭和残侠伝」は非現実的なスーパーヒーローものであって、リアルさを追求したアンチヒーローもの、ともいえる「仁義なき戦い」などとは、そもそも対極にあるものだということ。
 むかしむかし、池袋あたりで遅くまで飲んだか何かして、電車が動きだすまで文芸座のオールナイトにもぐりこんだ。そのときやっていたのがこの「昭和残侠伝」シリーズのどれかだった。そのラスト、雪の降るなか、着流しで風呂敷に包んだ日本刀を持った高倉健が歩いていくと、橋のたもとあたりで池部良が傘をさして立っている。「ごいっしょさせていただきます」とかなんとかいって、ふたりが雪の中を並んで歩きだす。バックに流れるのは高倉健の唄う「唐獅子牡丹」に決まっている。これがまあ「昭和残侠伝」シリーズのお約束で、じつはいまでも、その池袋で観た「昭和残侠伝」、そのシーンだけしかおぼえていない。そのお約束のシーンの原形がこの第一作で出てくるけれども、もうこの時点ですでに、のちのシリーズ化を前提にしたみごとな完成度になっている。この作品では雪も雨も降っていないけれども、俯瞰撮影された草原のかたすみに小さく高倉健の姿がみえ、なんとその姿にスポットライトが当たっている。バックに「唐獅子牡丹」が流されはじめ、もうここでリアリティとかなんとかまるで関係のない、ただ「昭和残侠伝」という意匠の世界に突入している。これはつまりはスーパーヒーローへの変身シーンということでもあるんだろう。これから先の高倉健も池部良も、並の身体の並の人間ではなくなってしまう。いったい何に変身するんだろう? この第一作を観た感じでは、それは善悪を超越した殺人マシーンのように見えてしまう。その、どんな敵に対して、いつどのように「善悪を超越した殺人マシーン」に変身するか(高倉健は、自分のなかにそういう「殺人マシーン」が潜んでいることを承知しているから、そいつが出てくるのをひたすらおさえ、耐えてしまう。しかし、ついには「超人ハルク」のように、「堪忍袋の緒が切れてしまう」のだ)、そこにこそ、この「昭和残侠伝」シリーズの映画的魅力があるんだろう。



 

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■ 2010-09-05(Sun)

 借りていた図書館の本をようやっと読み終えたので、これからは部屋に積んである本たちをつぎつぎに読破しちゃうぞ、と思ったら、ついにドゥルーズ/ガタリの「千のプラトー」の文庫版が刊行されはじめたというニュースが。上中下の三巻らしい。もちろん(書き込みとかするので)これは自分で買うけれども、またもや「積ん読本減らし」はおあずけになってしまいそう。しかし、「差異と反復」なんか、すっかり内容を忘れてしまっている。

 「ひかりTV」と契約してから配信ヴィデオなどTVの観すぎで読書時間がものすごく減ってしまったし、だいたいもっとほかにやりたいことがあるわけなのに、まるで時間が無限にあると思っている人のようにみんな先延ばししてしまう。わたしという個体の時間なんてもうそれほど残っているわけではないのに。

 そんな配信ヴィデオ、きょうは「二百三高地」という映画を観た。

[] 「二百三高地」(1980) 舛田利雄:監督  「二百三高地」(1980) 舛田利雄:監督を含むブックマーク

 わたしは日露戦争というもの自体は、その日露戦争で日本という国がどのような進路をたどるようになったのかとか、戦争周辺のこととかのほうに興味があって、たぶん日本が勝ったのだろうということぐらいしか知らない。二百三高地という拠点についても知ることはない。この当時大ヒットしたらしい映画作品は脚本が笠原和夫。彼がそうとうに心血を注いだ力作だったらしいということもあって、日露戦争お勉強のつもりも合わせての鑑賞となった。
 映画はまずロシア兵に銃殺されるふたりの日本人の刑執行のようすから始まるわけで、それではこのふたりが銃殺されるまでのいきさつを描くような作品なのかと思ったらまったく違っていた。いったいなぜこんな導入部を必要としたのかは、観終ってもさっぱりわからない。赤い地にでーんと「二百三高地」と大書きされたタイトルが写ったあとは、司令官乃木希典(仲代達矢)を中心とした軍部上層部の作戦会議などで大局をしめす一方で、徴兵された小学校教師(あおい輝彦)を中心とした、戦場での兵卒の実戦状況とを並行させて描いていく。つまり、旅順にはロシア軍の「ナバロンの要塞」みたいな、強力な攻撃力も防禦施設も持つ要塞があったわけで、ここを攻略しないと、この戦争の要である旅順港周辺海域の制海権を得られないことになる。乃木将軍はこの要塞への三度にわたる直接総攻撃を指令し、多大な犠牲を出すことになる。参謀本部では海軍を交えた作戦会議が幾度もおこなわれるが、ロシア軍要塞をダイレクトに攻撃するのではなく、その西にある「二百三高地」を攻略し、そこから大砲で要塞を攻撃する作戦を通させるのは乃木将軍ではなく、参謀長の児玉源太郎(丹波哲朗)である。このあたりわたしは知らなかったが、司馬遼太郎の著作などにより乃木希典無能論というのがあるそうで、この映画でもさいしょの作戦はどうみても間違いだろう、というような視点があるみたい。映画ラストの明治天皇への復命の際に、多くの戦死者を出したことの責任を痛感して乃木将軍は泣き崩れることになるが、彼はこの日露戦争で長男と次男を失いもするわけで、この映画の演出では息子を亡くしたから泣いたのか、一般兵卒のことを思って泣いたのか、あいまいな気がする。これはあまりに軍部上層部の描写と一般兵卒の描写をきっちりと分けてしまっているせいで、乃木将軍と兵卒とが出会う場面というのは、佐藤允演じるヤクザあがりの兵卒に乃木将軍がタバコを箱ごとあげるシーンぐらいしかない。これだけでは乃木将軍が兵士たちをどのように思っていたのかはわからない。
 それよりもこの作品でいちばんとまどってしまうのは、兵士側の描写の中心になる小学校教師の描写で、彼はロシア文学を学びロシア語も話せるのだけれども、出征まえには「わたしはロシアの国を愛している」と語り、小学校の教室の黒板に「美しい国日本 美しい国ロシア」と書いてから出征することになる。そんなにロシアを愛していて、この戦争に出兵する葛藤もありそうなものだけれども、そのあたりはさっさと入隊して兵士生活になじんでしまう描写。で、この人物が、戦場での体験(自分の部下が死んでいったりするわけだ)から、ロシア兵をとんとこ憎む存在に変ぼうしてしまう。つまりはこの変ぼうに至る描写も薄いのだけれども、すごいのは、戦場で看取ったロシア兵から「家族に送ってくれ」と頼まれて受取ったそのロシア兵と妻らしい女性がいっしょに写された写真を、自分が日本に残してきた恋人(これを夏目雅子が演じている)からもらった彼女の頭髪といっしょに焼いてしまうっていうシーンで、ぎょっ!それは人間のやることではないだろう!と思うのだが、たしかにこのシーンでこの小学校教師は人の心を棄てるわけで、この描写でみごとにそのことをあらわしてはいると思うし、非人間的なことが横行してしまうのが戦場というものだろうけれども、とつぜんにハードすぎないだろうか。このちょっと前に、別のひん死のロシア兵がこの小学校教師に「殺してくれ」と嘆願する「フルメタル・ジャケット」みたいなシーンがあって、このときは教師はロシア兵士を撃つことはできない。ここで顔色変えないでロシア兵士を撃ち殺し、それでロシア兵士の遺品を焼き捨てていたらそれこそ「タフ」なヤツで、この映画はもっと逆説的に強烈な反戦映画になっていたかもしれないけれど、この映画の基調はそこまでハードなものではないとみえる。とにかくこれだけの演出ではわたしにはこの小学校教師の変節は理解できないし、違和感を憶える。優等生として描かないで、戦争に加担した人々の葛藤を描くという脚本の姿勢はとってもいいと思うけれど、ありがちな美談、ありがちな悲話もあれこれと組み込まれている。兵卒の描写はこの小学校教師ひとりにしぼり、この教師の心変わりをてっていして描いたりしていれば、もっと突き抜けた作品になっていたようにも思う。

 

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■ 2010-09-04(Sat)

 パソコンの前にすわってキーボードを打っていたら、とつぜんにパソコンの電源が落ちてびっくりした。机のうらがわのコンセントを見てみると、そのそばにニェネントがいてコードをいじっていた。コンセントは抜けかかっていて、つまりはニェネントがコードを引っぱっているうちに、少しずつ抜けてきてしまったんだろう。コンセントを差し込み直すとかなり硬くて力がいるのだけれども、それでもニェネントぐらいの力でもずっと引っぱっていればゆるんでしまうわけだ。ゆるんだコンセントをそのままにしておくと、ニェネントがさわって感電するような事故も起きるだろう。ときどきは点検しなくてはいけない。

 さいきんのニェネントはわたしの夕食にめちゃ興味を示す。食卓の上の皿に首をつっこみ、皿のなかに前足を伸ばしてきて、あげくは食卓の上にあがってくる。食卓の上にあがってくるクセはつけたくなく、すぐに抱きおろすのだけれども、叱ってもなぜ叱られているのかわからないだろうと思い、叱りつけたりするわけでもないのでまたすぐにあがってこようとする。とにかく皿に足を伸ばしたりしてきたらピシャリとぶつことにした。効き目があったようでもない。
 そのニェネント、リヴィングに放置してあったチラシの上に乗ってもぞもぞとしだした。前足で床をカキカキしたりするので、こいつ、トイレしたいんじゃないかとトイレに連れていったら、案の定おしっこをしている。‥‥あぶないところだった。うんちはちゃんとトイレを使うのに、おしっこは別のトイレを使いたいとでもいうのだろうか。ちゃんとトイレはふたつ用意してあるのに。

 ピンチョンの「メイスン&ディクスン」の下巻をようやく読み終わり、夜は配信ヴィデオで「メトロポリス」を観た。

[] 「メイスン&ディクスン」(下) トマス・ピンチョン;著 柴田元幸:訳  「メイスン&ディクスン」(下) トマス・ピンチョン;著 柴田元幸:訳を含むブックマーク

 ‥‥なんとか少しずつ読み進めて完読したわけだけれども、難物だった。訳者の柴田元幸氏は「あとがき」で、「ピンチョン、そんなに難しくありませんから」と書いていて、たしかに文章とかストーリーとかはけっして難しいものではないんだけれども、そのイメージの展開をたどるのがとっても難しい。ふつう使われるような読者にイメージをふくらませるためのレトリックはほとんど使用されず、ひじょうにベタな描写が続くのだけれども、じつはそのなかであっと驚くような、「怪異」といっていいようなイメージが繰り拡げられたりしている。そしてそのようなイメージはストーリーとからまって次へと発展するような性質のものでもなく、あらわれたと思うとフッと消えていってしまう。いままでの経験による読書方法が役に立たないという感じで、なんどもいま自分が読んでいるページに書いてあるのがいったい何のことだったのか、わからなくなってしまう始末だった。ピンチョンの小説はたしかにみなそういう感じだったといえばそうなのだけれども、わたしには「競売ナンバー49の叫び」と「ヴァインランド」は面白い小説だった。「重力の虹」の読感はこの「メイスン&ディクスン」に近いものがあって難渋したけれど、もうちょっとイメージは捉えやすかった気もする。まあ「メイスン&ディクスン」、読み終えて、いったい何がわたしのなかに残ったかというと、これはちょっといいあらわしにくい。とにかくたしかに「東海道中膝栗毛」みたいなもんだというのは正しいだろうけれど、下巻に出てくる、この小説のひとつのポイントともいえるだろうふたりの主人公の対話を書き写しておく。

「わし等何処に送り出されても、——岬(ザ・ケープ)、聖(セント)ヘレナ、亜米利加、——何が共通してます?」
「長い船旅、」今や慢性と化した疲労に目を瞬(しばたた)かせてメイスンが答える。「他に何かあったか?」
「奴隷です。岬じゃわし等毎日、奴隷制の鼻先で暮してました、——聖ヘレナではもっとそうだったし、——そして今また此処、もう一つの植民地でも、今回は奴隷を所有する連中と奴隷に給料を払う連中との間に線を引く仕事をやった訳で、何だかわし等まるで、世界中で、この公然の秘密に、この恥ずべき核(コア)に繰返し出会う運命(さだめ)になってるみたいな‥‥。そしていつも、そんなのは他所の話だよって振りしてる、——土耳古(トルコ)の話さ、露西亜(ロシア)あ、東印度会社さ、彼方(あっち)の方の話だよ、生温(なまあった)かい塩水と火薬の煙みたいな匂いがする所の話さ、彼方じゃ何千何万て人間が数えられもせずに殺され、住処(すみか)を奪われ、罪もない連中が日々奴隷所有者や拷問者の手に落ちてる、だけどいやいや和蘭陀(オランダ)じゃあり得ないよそんなこと、英国でもそうさ、彼(か)の愚者の花園じゃそんなの‥‥? 何てこった、メイスン。」
「何てこった? 私が何をした?」
「わし等ですよ。わし等、王の金を受取らなかったですか? 今また受取ってませんか? かつてわし等は奴隷達に傅(かしず)かれ、わしも汝も異を唱えず、今ここでも、<線>の南に行けば矢っ張り殆ど受容(うけい)れちまう、——何処まで行けば終るんです? わし等何処へ行っても、世界中、暴君と奴隷と出会うのか? 亜米利加だけは、そういうのがいない筈だったんじゃありませんか。」

                       (下巻440頁)

[] 「メトロポリス」(1927) フリッツ・ラング:監督  「メトロポリス」(1927) フリッツ・ラング:監督を含むブックマーク

 「完全版」と銘打った、Art Zoid の演奏付き上映会にわたしはたしかに行っていて、それは調べるとたかだか八年ほど前のことにすぎないのだけれども、Art Zoid の演奏も、映画の内容もまるで記憶に残っていない。なさけない。ただ、「メトロポリス」なるもののイメージ、つまりはあの未来都市や働く労働者、そして何よりもあの「機械人間」のすがたは鮮烈に記憶していて、これはなにもその「完全版」を観たときの記憶ではなく、もっと古い記憶にもとずくものだろう。
 こんかい「ひかりTV」のヴィデオ配信で観たものは88分のヴァージョンで、これは現在日本で販売されているDVDよりもかなり短い。例によって、どのあたりを典拠にしたヴァージョンなのかわからない。この「ひかりTV」にこのようなクラシック映画(つまりはパブリック・ドメインの作品)を提供しているのは「モーションプロ」という会社だけれども、前からここで書いているサイレント映画の字幕の問題、そして作品の尺数の問題などについて、いったいどういう姿勢でそれらの古典映画を提供しているのか、会社のホームページをみてもまるでわからない。なんか、バッタもん扱いという気がして、あまり好印象ではないのだけれども。
 で、とにかく「メトロポリス」。楽園のような地上に住む支配者階級と、苛酷な労働条件のもと、地下空間に住む労働者階級との対立から労働者の反乱、最終的には和解までの物語で、そこにマッド・サイエンティストの生み出した「機械人間」(ヴィデオの字幕での呼称)が深くかかわることになる。ちゃんとしたヴァージョンでは、支配者の男とこのマッド・サイエンティストには過去においての対立というか葛藤があったらしく、それが「機械人間」の行動に投影されたりしているようなのだけれども、わたしが観たこのヴァージョンではそのあたりはカットされ、経営者の決定がただのバカに見えてしまうことになる。まあストーリーのことはあきらめて、イメージとして興味深かったのは地下世界での労働のようすであるとか、かなりていねいに演出された「機械人間」誕生の瞬間、とかになる。
 大きな時計の文字盤のようなマシーンに組み付いて、その針を動かしてマシーンを制御しているような「労働」のすがたはものすごく重要な仕事のようでもあるし、無益なばかばかしい仕事のようでもあるけれど、ヴィジュアル的にとても目を惹くもので、そのいっしゅ抽象化された労働の姿のなかに、めいっぱい労働というもののコアな部分を表現しているように思う。じっさいに今でも、工場などのコンピュータ制御のマシーンのオペレーションは、動作こそもっともっと小さいけれど、つまりはこんなものだろう。
 で、やっぱり今観てもすごいなあ、と思うのが「機械人間」誕生のシーンで、テスラ・コイルの放電現象とかをめいっぱい活用したとてもダイナミックな映像は、リアルさを追求した近年のSF作品などでは逆にナンセンスなものとして映像的に考えられないものになってしまうから、こういう無意味に壮大な演出というのはいまでもなお、観るものにショックを与えることが出来るのではないか(このシーンと比べられるのはたとえば「フランケンシュタイン」で、そのフランケンシュタインのモンスターに生命を吹き込むシーンとかになるだろうけれど、やっぱりこの「メトロポリス」にはかなわないという印象)。

 

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■ 2010-09-03(Fri)

 ヴェネツィア映画祭が開幕したというニュースがあり、「どれどれ」と、出品された作品のリストを探したら、そのなかにモンテ・ヘルマンの新作がリストされていて驚いた。それで今回の審査委員長はタランティーノときているわけで、タランティーノならもう作品を見ないでもモンテ・ヘルマンに金獅子を贈ろうとするんじゃないだろうか。「レザボア・ドッグス」はさいしょモンテ・ヘルマンに監督してもらいたくて書かれた脚本だったらしいし(けっきょく、製作総指揮にモンテ・ヘルマンの名前が出ることになるけれど)、こないだの「イングロリアス・バスターズ」の冒頭のフランスの農家のシーンはそっくり、モンテ・ヘルマンの1965年の作品「旋風の中に馬を進めろ」と同じ展開、つまりまさにモンテ・ヘルマンへのオマージュになっていたわけだ(馬に乗った男たちをナチス軍のジープ隊に置き換えただけ)。タランティーノとモンテ・ヘルマンとの関係はほとんど子弟関係というか、そんなふたりの関係はともかくとしても、モンテ・ヘルマンに賞を穫ってほしい気がする。つまり、もっとモンテ・ヘルマンの名は知られてもいいと思う。とにかくこの「Road To Nowhere」が賞をとらなくても、ちゃんと日本で公開されますように。

 きょうは腕のかぶれはさほどひどくないのだけれども、午後から近くの皮膚科へ行った。予想どおり、庭いじりとかしましたか?とか、近くに木などあるところにお住まいですか?などと聞かれる。患部に塗る軟膏と飲み薬二種類を処方されて帰宅。軟膏はいいんだけれども、飲み薬の方が気になって、ネットで調べてみた。「エバステル」という錠剤と、「セレスタミン」という錠剤。「エバステル」はとくに問題はないようだったけれど、「セレスタミン」というのはつまりは副腎皮質ステロイド薬だった。これはかなり慎重を要するくすりで、かゆみを抑えるよりはこのくすりの副作用の方が心配である。飲まないことにした。
 こういうことで思い出すのが、いぜん出会ったほんとうにバカな男のことで、彼はドラッグとサプリメントを混同し、「くすり」→「病気を治す」→「健康になる」という連想からか、自分の健康を維持するために、ふだんからなにもなくとも(サプリメントのように)薬品を常用していると堂々と公言したのだ。バカのカミングアウトである。きっかけは、この男が他人の服用しているくすりをゆずり受けたりして、処方せんなしに服用しているなどというはなしをするものだから、「それは危険なのだ」ということからはじまったもの。彼の論理は「パッケージに危険性を明記してあるタバコにくらべ、病気をなおす薬品が健康に悪いわけがない」というものだった。それだけでも驚き人間なのだけれども、すごかったのは毎日「正露丸」を何粒かかならず飲んでいるという話を自慢げにしてくれたことで、聞いているこちらはまさに、あいた口がふさがらなかった。まあ「週刊K曜日」のような「正露丸」へのバッシング気分などないけれども、世のなかには信じられないようなバカがいるもんだと驚いてしまったわけだ。と、きょうはちょっと人の悪口を書いてみました。

f:id:crosstalk:20100905000900j:image:left そんなこと書いたりするものだから、ニェネントがリヴィングのすみに放置してあった新聞紙をときどきトイレにしていたことが発覚。がっくり来てしまった。もうフローリングまでおしっこがしみてしまって、板が黒く変色しているではないの。もう信じられません。バカネコ。用を足している現場を押さえたわけではないので、ここで叱りつけてもネコはなんで叱られているのかわからない。わたしはただ現場をきれいに片付けて、消臭剤スプレーをがんがんまくだけ。「おまえのおかあさんは頭いいのに、おまえはほんとに大バカだ」とかしっつこくいって、ニェネントに一生消えないコンプレックスを植えつけてやってもいいが、ニェネントはバカなのでわたしのことばはわからないのだ。これからはニェネントの動作やふるまいに、また前のように気をつけていないといけないだろう。

 ヴィデオ配信で生命のドキュメンタリーとかいうのを一本みて、さっさと寝ることにした。

[] 「グレート・ビギン」(1996) クロード・リュニザー/マリー・プレンヌー:監督  「グレート・ビギン」(1996) クロード・リュニザー/マリー・プレンヌー:監督を含むブックマーク

 なんかすごい(変な)タイトルだと思ったら、原題は「Genesis」だった。でも、気分的にはこの邦題をつけた人のきもちがわかる。まさに「生命の起原と謎」に迫る壮大な意図をもった作品で、いかにもフランスらしい「わたしとはなにか?」というような、フィロソフィーの香りが画面から匂い立ってくるではないか。それでも被写体からヒト以外のめんどうくさいほ乳類を除外し、自然現象なども織りまぜながら並べられていく映像は美しい。スタッフで気がついたのは撮影にウィリアム・ルブチャンスキーの名前とかがあることで、なるほど、それぞれのシークエンスがちょっとしたドラマ仕立てになっていて、そのような撮影、編集がほどこされている。うちの受像機で観てもものすごく色彩が鮮やかで、これは撮影のための特別セットを組んでいる場面も多いとみた(あたりまえか)。かなりユーモラスな場面、ポエジーを感じさせる場面(フランスだから)も多く、観ていてもこころがなごんだりもするけれど、決して子どもも楽しんで勉強できる「科学映画」ではないだろう(それぞれの被写体へのいわゆる「科学的な」説明は皆無)。ラストに「死」のテーマを語ったりするけれども、それは抽象的なもので、自然界の生死の、そのダークサイドにはスポットを当てない、あくまでもポジティヴな演出。演出者は輪廻転生を信じてるんじゃないかと思わされた(宗教まであと一歩、という感じでもあった。あ、タイトルは「Genesis」だったか!)。
 わたしの記憶に残りそうなのは、やっぱヘビがタマゴを呑み込むシーンかな。すごいんだ。そうそう、製作はアラン・サルドだった(製作に16年かかったらしい)。


 

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■ 2010-09-02(Thu)

 きのう「ロリータ」の映画版と小説とのちがいを書いて、映画だと背景の人物にも観客は気がついてしまうなどと書いたけれど、小説は読者に再読されることを期待できても、ヴィデオやDVDのない当時の事情を考えると、映画で同じ作品を二度三度と見返すことなど考えられないということもあったと思う。それにしても、文字だけで想像力を喚起させる小説作品とヴィジュアルに音声まで加わった映像作品(舞台作品)とでは、そこで使えるトリックに差異が出るのはとうぜんで、それで思うのは、この秋に少年王者舘は名古屋でだけ、諏訪哲史(この人も名古屋の人だった)の「りすん」を舞台化するわけだけれども、その原作小説の冒頭のぶぶんを、舞台ではどうするんだろうか、ということ。つまり「りすん」という小説、その冒頭は、「しぇけなべえべ」からはじまる意味不明のひらがなことばがずらりとつづいているわけで、「いったいコレは何?」というわけだけれども、これは「Twist and Shout」の歌詞の日本語的聴き取りの記述というわけで、諏訪哲史さんはこれとおなじことをデビュー作の「アサッテの人」でも「Alone Again (Naturally) 」を使ってやっていた。で、小説で読むぶんにはいいんだけれども、これを舞台でやるとなると、とうぜんメロディーがついてくるわけで、それではどんなに日本語的発音でやっても、すぐに元ネタはわかってしまい、原作のこのぶぶんの効果はまるで消えてしまうだろう。それでははたして天野天街さんは、このぶぶんを舞台でもやるのかやらないのか、やるんだったらいったいどんな演出でやるんだろうと、とっても興味がある。名古屋には行けないけれど。

 十日ぐらい前からおもに腕にかゆみが拡がり、いちめんに赤斑というのか、赤い湿疹が出来てしまっていて、これが日によってひどかったりほとんど消えてしまったりしていたのだけれども、きのうきょうと悪化。腕をむき出しでは人まえにさらせないだろうというところまで来てしまったし、かゆみもいちだんと強い。これはずっと昔にもいちどやったのだけれども、おそらくは干してあった洗濯物になにかの虫の鱗粉とか植物の花粉が付着して、それをそのまま着てしまって、要するにかぶれてしまったものだろう。風呂に入ったり着替えをするといったんはかなりおさまるのだけれども、その元凶の鱗粉なり花粉のついた衣服をまた洗濯すると、こんどはその鱗粉なり花粉なりがいっしょに洗ったほかの洗濯物にまで拡がってふちゃくしてしまう。それで、またそういうのに着替えをするとかぶれてしまう。そんなことをくりかえしていると、持っている衣服すべてがかぶれの原因になってしまう。とにかくひどくなってしまったので、あしたにでも皮膚科の診療所へ行こうと決めた。

 夜はまた阪神対横浜戦のライヴ。きょうは中盤まではたがいに競り合う接戦の面白さ。桧山の代打逆転打があり、終盤はばぁんと突き放しての快勝。久保田〜藤川のリレーもみることができたし、久保田はタイムリー・ヒットまで打ってしまった。そんなよけいなことをやってしまったせいで疲れたのか、つぎの回に失点してしまった。この失点がなかったらゲームのあとはお立ち台だっただろうに、ざんねんでした。

 ヴィデオ配信は、きょうはてきとうにコレをみようと、ぜんぜん知らない作品を観た。

[] 「閉ざされた森」(2003) ジョン・マクティアナン:監督  「閉ざされた森」(2003) ジョン・マクティアナン:監督を含むブックマーク

 原題は「Basic」で、ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソンなど出演。パナマの密林でのレンジャー部隊の訓練で、死人と行方不明者が出る。救出されたふたりの隊員のひとりはまず口を閉ざし、事件の調査にもとレンジャー隊員だった経歴のある麻薬捜査官のトラボルタが呼び寄せられる。だんだん見えてくる事件の全貌は、見えてくるにしたがって先の推定をくつがえしつづけるというもの。
 サミュエル・L・ジャクソンがレンジャー部隊を訓練する教官で、これがつまりはめっちゃくちゃなシゴき路線。彼の目のかたきにされる訓練生の名前がパイルとなると、そりゃあ「フルメタル・ジャケット」とクリソツな設定というわけで、さいしょのうちは軍隊内部の人間関係のもつれからの犯罪事件を思わせる展開なのだけれども、「藪の中」的に「実は‥‥、」みたいな話がくりかえされるうちに、物語はどんどん地滑り的にどうでもいい方向に向いていく。結末なんかもうどうでもいいよ。
 ジョン・マクティアナンの演出はそれなりに緊張感をはらみ、冒頭のジャングル内でのカメラ移動速度をそれに続く病院内でのカメラの移動速度に合わせたり、見ていてもサスペンス気分は盛り上がる。ジャングル内でも照明が大がかりで、これはきっとセットを使って撮影してるんだろう。なんでもかんでも現地ロケ、というのよりは、わたしはこういうのに好感持ったりするけれど、この全編暴走気味の照明の暴れぶりにはあきれもし、さいごの頃には飽きてしまった。まあミステリー的なストーリーの解明以上に映画として演出上の興味はないようで、観ている方はさいごには気分が醒めてしまった。それに、(これは短いショットなのだけれども)舞台となった中南米地域の住民のことを同じ人類とは思っていないような演出が気になってしまう。そういう意識って、ポロッとこぼれ落ちてしまうものなのだ。


 

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■ 2010-09-01(Wed)

 ミイと子ネコの姿をその後見かけることはない。あの子ネコの発育状態では、人が行き来するような時間に外に連れて出るのは避けるだろう。せんじつわたしがミイたちを見たのも、人がふつうまだ起きていないような早朝の時間だったし。でも、考えてみると、ミイたちがいま住処にしているらしい場所からこのマンションの駐車場にくるまでには、車の往来のある広い道をふたつ横断してこなくてはならないし、この場所がそれだけの労力をはらって来る価値のある場所とはとても思えない。もっと快適な原っぱ、空き地がこのあたりにはいくらでもある。それでもこのマンションの駐車場にわざわざ、からだの不自由そうな子ネコを連れてくるというのはどういうことだったんだろう。もちろん、この駐車場がミイの昔からのなわばりだからということはあるだろうけれども、いまになって思うと、ミイがわたしにあの子ネコの姿を見せにきたのではないかという気がしてしまう。
 ネコというのはかしこい動物で、ときに人の思いもおよばないような心理的駆け引きを見せたり、そこに深い洞察があるのではないのかと思わせるような行動をとることがある。とくにミイはかしこいネコで、その行動のうらに彼女なりの判断をうかがわせ、将来への布石を打っているのだろうというような行為も見せてきた。こんかいミイがその子ネコをこの駐車場に連れて来たというのも、きっとなにか理由がある。あの朝わたしがあんなに早く目が覚めてしまったのにも、ミイの意志がはたらいていたのかもしれない。子ネコを連れてきた理由はいくつか推測できるように思えるけれども、これからのミイの行動を見てみないとまだはっきりと決めつけることはできない。いや、きっとわたしにはわからないままになってしまうだろう。あのときのミイの行動だけが、意味の読み取れないサインとして記憶に残っていくだけだろう。

 ついにパソコンのOSを入れ替えようと準備し、データのバックアップをとって、インストール・ディスクをパソコンに飲み込ませる。しばらくするとインストール開始のメッセージがあらわれ、「再起動」のボタンを選択して先へ進めるようにとのメッセージ。で、「再起動」をクリックして、しばらく待つ。またさっきと同じインストール開始〜「再起動」のメッセージになってしまう。あれれ? これでは先に進まないじゃないか。いちおうもういちど再起動させるけれど、事態に進展はない。これはおかしい。おかしい。
 調べてみると、パソコン本体に付属しているOSのディスクは、その付属していたパソコンと同一スペックのものに対してしか有効ではないということ。ディスクを借りてきた「G」にあるマックは、うちにあるものの次の世代のiMac だから、つまり借りてきたディスクはうちのマックには使えないのだった。がっくり、である。急に時代から取り残されてしまった気分になってしまい、「どうにかならないのか」と、あれこれ考えてしまった。つまりはパソコンに付属していたOSディスクではなく、箱入りの市販されていたOSディスクを入手しなくてなならない。最新のOS(いまはSnow Leopard だっけ?)でなくていいから、古いものをネットオークションかなにかで入手する方策を考えるか。でも、ネットオークションでこの手のモノを入手するのには相当な不安がある。あたりまえだけれどもある程度の金額もかかるし、どうしよう。
 とにかくそういうわけで夢は消え失せ、いまのパソコンをそのまま使い続けることにする。

f:id:crosstalk:20100903112422j:image:right 夜は「ひかりTV」で、甲子園での阪神対横浜戦の中継を観る。わーい、お祭りだー! 二けた得点の圧勝。久々に姿をみる下柳はなかなか好投したし、マートンもブラゼルも打った。いやゲーム内容も楽しかったけれど、うれしかったのが解説が福本豊氏だったこと。福本さんの解説を聴くなんて何十年ぶりだろう。この夜の解説も、とくに終盤になって彼のトークを堪能させてもらった。ピッチャーがいう「肩の違和感」ってなんやねん、投げられるのか、投げられへんのか、どっちやねん、などと。
 野球中継のあと、ヴィデオ配信でキューブリックの「ロリータ」を遅くまで観てしまった。

[] 「ロリータ」(1962) スタンリー・キューブリック:監督  「ロリータ」(1962) スタンリー・キューブリック:監督を含むブックマーク

 原作を読むときにはこの映画のことはなにも思い出せないし、映画を観るときには原作のことは忘れてしまっている。そういうサイクルをひとまわりさせ、ずいぶんに久しぶりにこの映画版を観た。やっぱここで気になるのは、この映画版の脚本も書き下ろしたナボコフの、その脚本と小説との相違、とかいうことになってしまうけれど、また原作を読んでずいぶん時間が経ってしまったので、ちゃんと原作の細かいところを憶えていて観るわけでもない。それでも、いくつかは気がついたこともある。
 まずは誰でも気がつく小説との相違は、映画ではハンバートのクィルティ襲撃から始まっていること。これがどういうことかというと、小説の方はたしか、ロリータをハンバートから奪ってしまうところのクィルティという存在は、だいぶあとの方になってからしか出てこない。しかし、じつは小説の中で「クィルティ」という名前は、さりげなく、さいしょの方からあちらこちらに姿を現わしている。これはナボコフのいう「再読の歓び」というやつで、初読では気にもとめない背景に通り過ぎていく人物のなかに、じつはさいしょっからクィルティの存在があったことに、二度めに読むときに「なんだ、ここでもうクィルティが出てきてるじゃないか」と気がつくことになる。これは小説ならではの技法というか、もちろん映画でも、そういう背景の人物群にクィルティをさりげなくまぜこませておくことも出来るわけだけれども、小説を読むのと映像を観るのでは、そこではたらく「記憶」、もしくは「注意力」というのはまるで異なるものになるだろう。ましてや、クィルティを演じるのは、観る観客の多くが名前を知っているであろうスター(この場合はピーター・セラーズ)が演じることになるから、観客は背景の群集のなかに早くから「あ、あそこにピーター・セラーズがいる」と気がついてしまうだろう。それで、映画版ではもうさいしょっからクィルティ=ピーター・セラーズの姿を観客に記憶させ、そのあとにさりげなくでも何でもクィルティが登場したら、「あ、ここで出てきてるではないか」と気がつくしくみにしている。で、映画版ではクィルティがそばにいることに気がついていないのは、主人公のハンバート・ハンバートただひとり、という構成になる。ハンバートも読者もすぐそばにいたクィルティに気がつかないというしくみの小説との、ここがいちばん大きな相違ということになる。
 この小説版からの根本的変更は、はたしてナボコフの考えだったのか、それともキューブリックのアイディアであったのか、そのあたりのことをちょっと知りたいと思った。翻訳も出ているナボコフの書簡集に、このあたりのことも出ているのかもしれない。読んでみたい。
 あと、このときのピーター・セラーズの役づくりが、次作の「博士の異常な愛情」につながっていったのだなあと、こんかい観てはじめてわかった。


 

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