ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2011-05-31(Tue)

 あさ起きて出勤の準備をしていると、ニェネントが外のことを気にしていて、めずらしくニャンニャンなきながら窓の外をみている。いったい何がみえるんだろうとわたしも外をみてみると、ベランダのまえの駐車場を、毛並みのいい小型犬が行ったり来たりしているのが見えた。これはたしか二階に住んでいる方が飼っているイヌで、ときどき、その二階の方が自転車のまえのかごのなかにそのイヌを入れて出かけようとしているのをみた記憶がある。二階のイヌということはつまり座敷犬ということで、こんなあさ早くに外をいっぴきでウロチョロするはずはないのだけれども。きのうのうちにでもどこか外で迷ってしまい、それがようやくここへ戻ってきたのだろうか。わたしがちょっと窓をあけると、おどろいてしまったようで駐車場の外へ走って行ってしまった。
 つとめに出ようと外に出ると、駐車場の入り口にそのイヌがすわっていた。ちょっとなでてやるとさすがにひとになれていて逃げようともしなくて、わたしのあとについて来ようとするそぶりもみせたけれど、そのまま入り口にすわりこんでしまった。そこでおとなしくしていれば飼い主がきっとみつけてくれるだろう。

 しごとを終えてスーパーに買い物に行こうとすると、その二階にいるイヌの飼い主が、自転車の乗ってなにか大声を出している。さいしょはわからなかったけれど、イヌの名まえを呼んでいたのかもしれない。わたしのちょっと先を自転車で走っているんだけれども、なにかをさがすように左右に目を走らせておられるようにも思える。あのイヌが見つからないんだろうか。あれからどこかへ行ってしまったのか、かわいいイヌだからだれかが連れて行ってしまったのか。しかしこれはぜんぶ、イヌが迷子になったのでは、ということをふくめ、わたしの推測ばかりである。ちょうど読んでいる、ハイスミスの「プードルの身代金」の内容にダブってしまう事件(?)である。

 きょうは風もおさまって、洗濯をしておかなければいけない日になった。あれこれと洗濯をして干し終え、ちょっと遅い食事を終えたころに、Jさんから電話がかかってきた。Jさんは年にいちどくらい栃木の方に出てくる用事があるそうで、そこからいぜんにもいちど、わざわざこっちまで訪ねて来て下さったことがある。この日もやはり栃木に来ているということで、これからこちらに向かわれると。
 じつはその、部屋がかなり乱雑なことになっていて、これはニェネントのせいばかりではない。なかなかかたづけようという気にならなくて、「これはだれかがお客さんで来るとかいうことがないと掃除できないな」などとは思っていたわけである。ついにその日がやってきた。しかし、じかんの猶予は一時間くらいしかないわけで、それでもいっしょけんめいかたづけたのだけれども、とにかく「ものすごく散らかった部屋だなあ」というのが「かなり散らかった部屋だなあ」(主観で、かなりひいきめを込めている)という段階にしかならないうちに、Jさんから「駅についた」という連絡がはいった。これはもうしかたがない。
 けっきょく、たいしてかたづいてもいない部屋にJさんをお招きし、そのうえにまったくのおかまいもしないで小一時間、あれこれの会話を一方的に楽しませていただいた。ほんとうに失礼なことであった。ニェネントもまた礼儀をわきまえず、隣室から「いったい何ものが部屋に入ってきたのか」と、警戒してのぞいている。「ごあいさつをしなさい」と引きずり出しても、姿勢を低くして警戒体勢を解かないのである。まあわたし以外のにんげんとほとんど接したこともないので、そりゃあおどろいたんだろう。

 また用事の残っているJさんを駅までおくり、帰宅する。わざわざ遠方ありがとうございました。

 しかし、おかげで多少なりとも部屋はすっきりしたわけで、これでまただれかが来てくれるとまたきれいになる。しかし、東京からはここは遠いので、まあ小さな旅行でもするつもりで、どうぞおいで下さい。もちろん宿泊も可能です。ふとんなしで床でごろ寝でよろしければ、十人ぐらい、いや、もっとたくさん、宿泊可能ではあります。

 Jさんからきいた話では、東京での方がこのあたりよりももっと放射線量などに神経質になっているらしい。この町の25日の放射線量率測定結果は、0.09マイクロシーベルト/時、ぐらいらしい。やはり東京よりちょっと高いだろうか。もうじぶんではほとんどこういう数値を気にとめることもなくなってしまった。

 よるはヴィデオを一本観て、「プードルの身代金」を読んで寝る。

 

[] 「パブリック・エネミーズ」(2009) マイケル・マン:監督  「パブリック・エネミーズ」(2009) マイケル・マン:監督を含むブックマーク

 ちょっとまえに観た「犯罪王ディリンジャー」と同じく、ジョン・デリンジャー(ディリンジャー)を主人公としたドラマ。かれを描いた映画というのはこのほかにもあと二本ほどあるようで、そのうちの一本はウォーレン・オーツが主演する「デリンジャー」。これは観てみたいのだけれども、ソフト化されていないようす。Wikipedia に出ているデリンジャーの肖像写真は、かなりウォーレン・オーツに似ている気がするんだけれども。
 それで、この「パブリック・エネミーズ」は、デリンジャーにはちっとも似ていない雰囲気のジョニー・デップが主演。マリオン・コティヤールが演じるビリー・フレシェットという女性とデリンジャーとの関係を追いながら、かれを追うFBI捜査官のメルヴィン・パーヴィス(クリスチャン・ベール)らの追跡ぶりを織り込んでいく。これがいわゆる「ドラマティック」な展開というのではなく、ナラティヴな話法にしたがわずに、映像的にポイントポイントを重点的に描いていく感じ。だからデリンジャーの脱獄にしても、史実である木製の銃(に似せたもの)を使ってのくだりの描写なんか、「木製銃だった」とチラリとセリフで語られるだけで、へえ、そこに重点は置かないわけだ、などと思わせられる。いくつかのシーンの白昼夢のような光景が印象に残り、たとえばそれは冒頭の刑務所からの集団脱走のシーンの、刑務所の壁や周辺の風景、そして銀行強盗シーンの異様に高い銀行の天井だとか、ほとんど人影のない銀行の外の風景とかになる。それらのシーンではいっしゅの沈黙が画面を支配しているようなのだけれども、ただ銃声だけは鳴り響いている。ずっと、そういう画面のちからのようなものに魅せられて観ていて、こういうのも新しいタイプの映画のあり方だな、などと思う。たとえば近年の「ジェシー・ジェイムズの暗殺」なども思い浮かべていた。好きな映画である。

 マイケル・マンという監督の作品はほとんど記憶になく、監督の名を記憶にとどめようともしていなかったのだけれども、こういう作品をつくるひとなのであれば、ほかの作品もちゃんと観てみたい。ただ、このひとの作品というのはそりゃあ「男と男の映画」だろう、ぐらいの思い込みは持っていて、そうするとここでデリンジャーのジョニー・デップに相対するのはメルヴィン・パーヴィスのクリスチャン・ベールかよ、と思って観ていくわけだけれども、どうもこのメルヴィン・パーヴィスというのは好きになれない男で、まあそういうふうに描かれているわけだ。そう思っているとラストも近くなってから、そのメルヴィン・パーヴィスの部下の捜査官が「デリンジャーはシャーリー・テンプルの映画なんか見ない」などとイイこというわけで、そうするとその捜査官こそが選ばれた人物で、ラストにとっても重要な役割を果たすことになるのだった。いやあラストはまたないてしまったではないですか。この捜査官を演じていたのはスティーヴン・ラングというひとで、「アバター」でマッチョなかたき役を演じて大暴れするひとだった。

 ビリー・ホリディの歌が何ヶ所かで使われていたのもわたしにはポイントで、とくに「The Man I Love」は、セリフのなかにもうまくその歌詞が生かされていた。かなめになる「Bye Bye Blackbird」はBillie Holiday の歌唱ではないのだが、これはDiana Krall というひとで、わたしはまるで知らなかったのだけれども、このひとは現在現役バリバリのひとで、Elvis Costello 夫人でもあるということだった。ちょっと聴いてみたいシンガー。

 とにかく、いろいろとこころに残る映画で、また最初から観たくなってしまうのであった。




 

[]二○一一年五月のおさらい 二○一一年五月のおさらいを含むブックマーク

舞台;
●5/3(火)平田オリザ演劇展 vol.1「走りながら眠れ」平田オリザ:脚本・演出 @駒場東大前・こまばアゴラ劇場

映画:
●イメージフォーラム・フェスティバル2011「名前のない男」(2009) ワン・ビン:監督
●イメージフォーラム・フェスティバル2011「アニメーション・セレクション1 秘密の機械」
●「キラー・インサイド・ミー」マイケル・ウィンターボトム:監督 ジム・トンプソン:原作

読書:
●「断腸亭日乗」(上) 永井荷風:著
●「断腸亭日乗」(下)永井荷風:著
●「関東大震災の禍根 −茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件−」桜井優子・五島智子:著
●「贋作」パトリシア・ハイスミス:著 上田公子:訳
●「11の物語」パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳
●「「ローリング・ストーン」インタビュー選集 世界を変えた40人の言葉」ヤン・S・ウェナー/ジョー・レヴィ:編 大田黒奉之/富原まさ江/友田葉子:訳
●「胴乱詩篇」天沢退二郎:著

 このほかに、「昭和文学全集」から上林暁の作品をわずかに読み、アルベール・ベガンの「ロマン的魂と夢」は継続して読んでいる途中。

DVD/ヴィデオ:
●「壮烈第七騎兵隊」(1941) ラオール・ウォルシュ:監督
●「犯罪王ディリンジャー」(1945) マックス・ノセック:監督
●「ふしぎの国のアリス」(1951) クライド・ジェロニミ/ハミルトン・ラスク/ウルフレッド・ジャクソン:監督
●「マーティ」(1955) デルバート・マン:監督
●「手錠のまゝの脱獄」(1958) スタンリー・クレイマー:監督
●「トム・ジョーンズの華麗な冒険」(1963) トニー・リチャードソン:監督
●「ねえ! キスしてよ」(1964) ビリー・ワイルダー:監督
●「山猫」(1963) ルキノ・ヴィスコンティ:監督
●「激突!」(1972) スティーヴン・スピルバーグ:監督
●「見えない恐怖」(1973) リチャード・フライシャー:監督
●「続・激突! カージャック」(1974) スティーヴン・スピルバーグ:監督
●「ミッドウェイ」(1976) ジャック・スマイト:監督
●「結婚しない女」(1977) ポール・マザースキー:監督
●「大列車強盗」(1979) マイケル・クライトン:監督
●「ヘンリー五世」(1989) ケネス・ブラナー:監督 ウィリアム・シェイクスピア:原作
●「復讐の銃弾」(2006) ブレイク・カルフーン:監督
●「ターミネーター4」(2009) McG:監督
●「パブリック・エネミーズ」(2009) マイケル・マン:監督
●「アリス・イン・ワンダーランド」(2010) ティム・バートン:監督
●「他人の顔」(1966) 安部公房:原作・脚本 勅使河原宏:監督
●「黒木太郎の愛と冒険」(1977) 森崎東:監督
●「千と千尋の神隠し」(2001) 宮崎駿:監督
●「十二夜」ウィリアム・シェイクスピア:作 串田和美:演出
●「ろくでなし啄木」三谷幸喜:作・演出




 

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■ 2011-05-30(Mon)

 ニェネントが和室のパイプ椅子の下にかくれ、わたしが和室に入って行くととび出してきて、うしろからわたしの足のすねを両前足でかかえこむ。それでわたしがおどろいて振り向くと、いっしゅんでとんで逃げて行く。これがニェネントとわたしの、いちばん楽しいゲームである。なんといってもこのゲームはニェネント主導なのがいい。わたしがニェネントで遊んでいるのではなく、ニェネントがわたしと遊んでいるわけだ。こういうときのニェネントが、もちろんいちばんかわいい。世界でいちばんかわいいネコである。
 きょうのニェネントは、玄関口の電話の台にしてある棚の、いちばん下の段に入れてあった段ボール箱や電話帳などをぜんぶ引っぱりだして、その棚のなかに入りこんで丸くなっている。その場所が好きなのならあげてもいいよ。

 西の方の台風のせいか、午前中は雨。その雨も午後にはやんでしまい、うっすらと陽がさしてきたりする。洗濯でもしておこうかとも思うけれど、風が強いようで、部屋のなかにも、そとの風の音が響いてくる。洗濯物も飛ばされてしまいそうで、洗濯はやめる。風の音は暗くなるまでやまなかった。

 お出かけした日のよくじつということで、やはり昼寝をいっぱいしてしまった。起きるともうゆうがたに近くなってしまっていて、なんとはなしにがっくりとする。ヴィデオを観て、ハイスミスの「プードルの身代金」を読みはじめた。

 

 

[] 「復讐の銃弾」(2006) ブレイク・カルフーン:監督  「復讐の銃弾」(2006) ブレイク・カルフーン:監督を含むブックマーク

 WOWOWで放映された、日本未公開の作品。こういうCSなどで放映される未公開作品にはおもしろいものもありそうで、じっさいにマイケル・ウィンターボトム監督の「トリストラム・シャンディ」などもシネフィル・イマジカで放映されていたりしたらしいので、これはあなどれないという気もちで観てみた。原題は「Killing Down」。

 ‥‥これはハズレ。日本未公開というのも当然である。1987年のニカラグア、つまりサンディニスタ政権とレーガン・アメリカの支援を受けたコントラとの内戦のさなか、アメリカから「革命」を見にきて農業などの手伝いをしているアメリカの大学生にまぎれて、主人公のCIAの情報部員が情報収集をしていた。ところは正体不明の覆面の武装ゲリラに大学生たちのキャンプは襲われ、主人公以外はその場で射殺され、拉致された主人公も拷問暴行を受けてのちに解放される。六年後のアメリカで、カタギになりきれない主人公は武器売買秘密組織に雇われるけれど、そこで出会った男が、六年まえの武装ゲリラの指示者だったと気づく。さあ復讐だあ。
 つまりその武装ゲリラというのはイスラエルからゲリラ訓練のためにニカラグアに密入していたらしいのだけれども、なんでも暗殺だか虐殺だかの練習のためにアメリカの大学生たちを襲ったということらしい。それで、どうもカタギじゃないようにみえる主人公を不審に思って、拷問してみるとCIAだとわかったもんで、あわてて解放したと。‥‥いくら何でもアホらしい。虐殺の相手に、たとえサンディニスタ支持であっても、わざわざめんどうなもんだいの持ちあがるアメリカの学生などを選ぶはずもなく、そんなの現地人を対象にやればいいに決まっている。あまりにバカバカしい脚本であるし、作り手にとって歴史や政治などはつまりはアクションのためのいいわけにすぎないのだろうけれど、アリバイ工作が成立していない。「おとり捜査」とかなんだとかはさみこんだそのごの展開も、あまりに乱暴である。おもしろくもなんともない。こういう映画もあるんだと、唖然としながら観ていた。観るための時間と、録画のための電気代をムダにした。




 

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■ 2011-05-29(Sun)

 梅雨入りはしたし、台風も接近してきているのできょうも雨。またきょうも午前二時とかに目がさめてしまい、そのまま起きてしまった。寝ていたニェネントも起きてきて、パソコン机のまえにすわっているわたしの、そのうしろのパイプ椅子のうえに乗って、そこでじっとしている。寝ているのかとうしろを振りむくと、わたしをみて大きなアクビをする。パソコンの画面をみていても背なかにニェネントの気配がせまってくるようで、ニェネントはわたしの背後霊に変身する。

 そういうわけで外は雨で、これからも雨足はいっそう強くなってきそうだけれども、気分転換にお出かけすることにした。たしかCさんが東京で個展をやっていてその案内が来ていたはずで、きょうあたりが最終日ではなかったかと思っていたのだけれども、しごとを終えて帰宅してから調べたら、Cさんの個展はきのうで終わっていたのであった。だいたいギャラリーのスケジュールは月曜日から土曜日までで、日曜日はやすみというのが基本なのをすっかり忘れていた。ぜひ行きたかったし、Cさんの前の展覧会の展示(とてもよかった)の感想とかも伝え切れないままになってもいたので、行けなくて申しわけなかったという気分でもあるし、彼女の作品を観ることができないのも残念である。
 それではお出かけする口実もなくなってしまったわけだけれども、それでもただ「G」に飲みに行くだけにでも外に出てみよう。そういうことにして、ちょっと遅めの時間に駅に行き、電車を乗り継いで、池の上駅から「G」へと歩く。ここでは雨がそうとうはげしく降っていて、これはもともと茨城よりも東京の方が雨量が多いということなのか、時間の経緯にしたがって雨足が強くなっているのかはわからないのだけれども、これだけのはげしい雨のなかを歩くというのも久しぶりのように思う。雨水が雨どいからいきおいよく落ちて、排水溝へざあざあと流れこんで行く。道の途中で、うしろから来る「G」のDさんにあいさつされた。Dさんはわたしを追い抜いて、先に「G」の方へと急いで行った。わたしもちょっと遅れて「G」に到着。

 きょうの「G」は、そのDさんと、ひさしぶりにお会いするEさん、そして前回来たときにお会いした「G」の新しいメンバーのFさんがあとからやって来て、オーナーのGさんなどという顔ぶれ。カウンター席のお客さんはいつものHさん、そしてひさしぶりにお会いするIさんなど。外は雨だけれどもそれなりに店のなかはにぎわって、楽しいじかんをすごすことが出来た。
 「G」とは、わたしの精神的な避難場所といっていいのだろうか。けっきょく茨城にいても東京に戻りたがってるんじゃないかなどといわれそうだけれども、そういうことではない。日常生活をおくる環境として、いまの住処は、いまのわたしに望みえるベストに近い環境だと思っている。そこで生活をしながらも、けっきょくはわたしにとって気のおけないようなひとたちというのが東京周辺に住んでいるというのはしかたがないことだし、こうやって気の休まるスポットがやはり東京にあるなどということと合わせても、それが日常生活をおくる場所と相容れないなどということは距離的なことに還元されるものではなく、たとえ東京のど真ん中に住んでいてもかわることのないことだろう。そういう生活をずっとおくってきているから、じぶんのなかで「それがおかしなことだ」などとは思ったこともない。
 ただ、さいきんはニェネントのことがあるので、ほとんど東京に宿泊してしまうということをやらなくなり、家に帰れる電車に間に合うように、ふつうの基準から考えればずいぶんと早いじかんに帰路につくようにしている。これはちょっと不便というのか、規制されてしまうことではある。ぜんぶ、ニェネントのせいである。

 きょうもローカル線の終電に間に合うように「G」を出て、電車のなかで本を一冊読み終えて帰宅した。

 

 

[] 「胴乱詩篇」天沢退二郎:著  「胴乱詩篇」天沢退二郎:著を含むブックマーク

 天沢退二郎の著作(詩)というのは、そんなにちゃんと読んだ記憶というのもないのだけれども、ちょくちょくと拾い読みみたいにチェックしていたりはする。この「胴乱詩篇」は、1997年刊行のもの。詩集というよりはショートショートのような味わいの、序詩をふくめて四十八編からなる作品集。歴史(時間)も地理も超越したような、「夢」の記述のような散文詩。「胴乱」というのはやはり「動乱」に通じるのかと思ったりもするけれど、どの詩にも登場する「わたし」は、あるときは勤王の志士のような存在であり、あるときは文学全集の編纂者であり、また、演劇関係者として登場して来たりもする。破天荒な日常との乖離が、それでもどこか日常(現実)としっかりとリンクしながら、奇妙なブラック・ユーモアとともに語られていく。いっしゅ、「ねつ造された夢」のおもしろさのとりこにされてしまう。時間軸、空間軸での飛躍のしかたなど、目がくらむ思いもする。こういう本はちゃんとじぶんで手もとに所有しておいて、たとえば風邪をひいてベッドに縛りつけられるときなどに、またゆっくりとくりかえし読んでみたいものだ、などと考えるのである。つまり、とにかくおもしろかったし、また読んでみたいと思うわけである。図書館に預けておこう。




 

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■ 2011-05-28(Sat)

 目が覚めるとまだとうぜん外はまっくらなんだけれども、時計をみると一時半だった。それは真夜中だということでまた寝ようとしたけれども、なんだか目がさえてしまって、考えてみたら五時間以上は寝ているわけだし、さいきんはたっぷり睡眠時間をとりすぎている感もあるので、もうこのまま起きてしまうことにした。きょうはしごとも非番なので、あかるくなるまでたっぷり本を読み、ハイスミスの「11の物語」は読了。そのほかに「ロマン的魂と夢」も読みすすめた。充実したノヴァーリスの章を終えて、つぎはティークの章になるのだが、ここでノヴァーリスにくらべてものすごく後退するというか、まあじっさいの作品を読んでみないとなんともいえないけれど、ここで書かれているティークというひとは、単純にジャンキーとあんまり変わらないんじゃないかという感じである。たしかにドイツロマン派からラファエロ前派、それからシュルレアリスムときてビートニクあたりまで、これは歴史にくりかえされるジャンキーの系譜なんじゃないかと思えることもあるわけだ。さっさとティークを通過して、アヒム・フォン・アルニムの章に突入。このひとのばあい、当人はさておいてもその夫人であったベッティーナの方が奇々怪々人物である模様。このベッティーナという女性はやはりドイツ・ロマン派の巨匠ブレンターノ(いずれこの書物でも紹介される)の妹らしいけれど、なんというのか、有名人の追っかけをやっていたような女性だったというか、とにかくはゲーテとの往復書簡が有名らしい。調べると、ミラン・クンデラの「不滅」はかのじょのことをフィーチャーした作品。ひょっとしたらウチに「不滅」は(読まれないまま)どこかに転がっているかもしれない。

 七時ごろからラジオのFMをつけっぱなしにする。ピーター・バラカンの「ウィークエンド・サンシャイン」を聴いていたら、フェラ・クティの生涯を描いてアメリカで大ヒットしたミュージカル「FELA!」が、さらいしゅうあたりにBSで放映されるとのこと。これは観たかったのでうれしい。ダンスの振り付けがビル・T・ジョーンズなのだ。

 午後からまたヴィデオを一本観て、ふと「ひかりTV」のチャンネルをみると、ピーター・ジャクソンの「キングコング」を放映しているところだったので、とちゅうから観る。ちょうど「ドクロ島」に船が到着するあたりから。映画館で観たときには「なんだか躁な映画だなあ」と思っていたんだけれども、こうやって見返してみると、つまりはどこまでも観客サーヴィスに徹しているんだろうという印象はある。あくまでおもしろがらせようとするわけだけれども、そのおかげでオリジナルの「キングコング」にあった「恐さ」が薄まってしまっていて、そのかわり、「気もち悪さ」がどうも気にかかる。オリジナル「キングコング」に出てきたステゴザウルスだとかトリケラトプスとか、プテラノドンなんかを登場させてほしかった。ニューヨークに着いてからも躁状態だけれども、ラストのエンパイア・ステート・ビルのシーンでは、ボロボロ泣いてしまった。映画館で泣いた覚えはないので、やはりわたしの涙腺はとしのせいでゆるまってしまっているんだろう。

f:id:crosstalk:20110529111828j:image:right 観終わってからしばらくニェネントとあそぶ。これは、正しくは「ニェネントあそぶ」なのかもしれない。せんじつニェネントのしっぽのことをほめたので、ニェネントのしっぽのうつる写真を撮っておこうと思って、あれこれとトライするけれどもなかなかうまくいかない。まずはいつもくねくねと動き回るので、この写メールではぶれてしまう。しょうがないので、失礼ながらお尻から撮った。こうやって写真にしてみると、そんなにとくべつなしっぽでもない。

 ゆうがた、夕食に残っている白菜を使おうと、キッチンの収納にしまってあった白菜を出してみると、かなりいたんでしまっていた。白菜は気温が高いとすぐにいたんでしまう。冷蔵庫に入れておくスペースもなかなかとれないので、そろそろ白菜の季節もおしまいだなあと思う。きょねんの年末からずっと、白菜にはほんとうにお世話になった。
 きょうは、いちにちが長かった。

 

 

[] 「11の物語」(3)パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳  「11の物語」(3)パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳を含むブックマーク

●「アフトン夫人の優雅な生活」
 ニューヨークの精神分析医が、ホテルで夫婦で生活しているというある夫人から、夫の生活習慣のことで相談を受ける。当人と面談しないことにはなんともいえないという精神分析医に、「今なら夫が在宅しているから来てほしい」というアフトン夫人。では、と行ってみると、入れ違いで夫とは会えない。不審に思った医師が帰りにホテルのフロントにきくと、アフトン夫人などというひとは宿泊リストにないということ。
 ヨーロッパから渡米した医師のヨーロッパへのノスタルジーから、気品あふれる夫人に魅惑されてしまっているという側面もありそう。

●「ヒロイン」
 ハイスミスが二十代半ばのころに発表した、彼女のデビュー作。これはどうもそっくりヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」の焼き直しという感じなんだけれども、とにかくは読ませられる。ここですでに一人称記述が冴えているという感じ。

●「もうひとつの橋」
 一代で大企業を立ち上げた経営者が、交通事故で妻とひとり息子を失い、ともだちを訪ね歩く予定でひとりでヨーロッパ旅行に出る。予定を変えてイタリアの片田舎に立ち寄った主人公は、高速の上の陸橋から身を投げて自殺する男を目撃する。ちかくのホテルが気に入ってしばらく滞在するが、あれこれと彼の気もちを裏切るようなことが起きる。彼も自殺するのではないかと読んでいる方はハラハラするけれど、しかし彼は危機を脱したようである。彼の行動をずっと追いつづける記述ではあるけれど、あるリミット以上はかれの内面に踏み込まないということがこの短編の効果を産んでいるのだろう。

●「野蛮人たち」
 もうひとつの「変身の恐怖」を思わせる短編だけれども、主人公のやったことの結果ははっきりとわかってしまうので、主人公の不安だけがテーマというわけではない。そうするとちょっとノーマルすぎるかな、という気がしないでもない。

●「からっぽの巣箱」
 これもサキの小説にありそうな短編で、UMA小説というか、正体不明の小動物が家のなかに入りこんでいるのに気づく夫婦。退治するために知人から猫を借りるけれど、夫婦は猫好きではない。猫はみごとにその小動物を退治したようだけれども、やはりその正体はわからない。知人にも猫は不要らしく、そちらで飼わないかと持ちかけられるのを夫婦は断わって返しに行く。ところがまた小動物が家のなかにあらわれ、それにあわせたように猫も知人の家から長い距離を歩いてやってくる。
 こういう、正体のわからないものを書くのがうまいんですよね、ハイスミスというひとは。妻の方が、猫とその小動物はグルなんじゃないかと考えるあたりがポイントというか、そこにはひとにはわからないことがあるのだという感じ。ハイスミスに「ツイン・ピークス」みたいなのを書いてもらったら、それはとってもおもしろそうだったのに。


 

[] 「見えない恐怖」(1973) リチャード・フライシャー:監督  「見えない恐怖」(1973) リチャード・フライシャー:監督を含むブックマーク

 こういう「猟奇モノ」というのか、こわいミステリーというのは、このリチャード・フライシャー監督の得意とするところらしいのだけど、あんまりそういう作品が手軽に観ることができないのが残念。ヒロインは盲目で、住んでいる家の住民がみんな殺人鬼に殺されてしまう。家を留守にしていたヒロインは助かるのだけれども、現場に証拠品を落とした犯人がまたその家にもどってくるのだよ! ヒロイン役はミア・ファーローなんだから、よけいにこわい!
 どうしてもオードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」を思い出してしまうわけで、その「暗くなるまで待って」は密室ドラマだったけれども、こちらは早々とヒロインは家の外に逃げ出すことになる。なんだ、もう大丈夫なんじゃないかと思うたびに、それがあたらしい危機のはじまりだったりと、観客はホッとしたりうなされたりと何度もくりかえされていそがしい。そういう観客がいそがされたりだまされたりする映画というのはやっぱり楽しいもので、とちゅうで移動生活するロマのひとりが犯人っぽくって、「ロマが犯人なんて、そういう設定はいけないんじゃないか」と思わせられるあたりも、それもまた「罠」なのである。あ、これは観ていないひとに聴かせてはいけないプロットだった。




 

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■ 2011-05-27(Fri)

f:id:crosstalk:20110528115559j:image:left きのうネコのラグドール種のことを調べていて、意外とニェネントはまだまだラグドールとして通用するんじゃないかと思うようになり、ちょっとニェネントへの見方を改めようかなどと思ってしまう、イヤな性格の飼い主である。まあともかくは雑種なので、どこまでラグドール種の性質を受けついでいるのかわからないのだけれども、Wikipedia などによれば、成長するのに四年ぐらいかかるようなことが書いてある。
 和室の時計が電池切れでとまってしまい、パイプ椅子を持ち出して時計をはずして電池を交換、パイプ椅子をそのまま和室に置いておくと、ニェネントがその上に乗っかったり、椅子の下でまるくなったりする。イスはこのまま和室に置いておこうか。

 外の社会のはなしだけれども、渋谷の岡本太郎の「明日の神話」に福島の原発を描き足した「犯人」が判明して、つまりいま人気のあのアーティストグループだったわけだけど、それがわかったとたんに「すばらしい行為だ」と持ち上げる連中がいっぱい出て来て、きもちわるい。当初、かんじんのその「描き足し」がニュースネタになったときには無視していたあれこれのひとたちが、仕掛人がわかったとたんにその行為を賞賛するというのはどういうことか。そのアーティストグループのやったことだったから「すばらしい行為」で、そうでなかったら「どうでもいい」ということなのだろうか。わたしは「おもしろい事件だ」などと思っていたのだけれども、ここへきて、ちいっともおもしろいものではなくなってしまった。アート界なんてやっぱりむかしとおんなじというか、むかしよりもひどくなっている。

 夕方のニュースで、関東地方もきょう梅雨入りしたという報道。沖縄の方からは大きな台風が、日本の太平洋側にそって北東に進んでくる。らいしゅうの前半には大雨になるらしい。

 まいにちまいにち、本を読んでヴィデオを観てというやり方、ちょっと変えなければいけない。しごとが早いじかんで終わってしまうので、しごとがある日も非番の日もおなじような生活スケジュールですごしてしまうけれど、週にいちにちぐらいはまったくちがうことをやる日を設定するべきだろう。考えてみる。

 それできょうも本を読んでヴィデオを観てすごした。

 

 

[] 「11の物語」(2)パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳  「11の物語」(2)パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳を含むブックマーク

●「クレイヴァリング教授の新発見」
 もう一本の「かたつむり」モノ。こちらはハワイの近くの小さな島に棲息する巨大なかたつむりの伝説を聞き、単身探索のためにその島をおとずれる動物学の教授の話。「巨大」というのが、殻の直径が二十フィートあるというのだから、つまり6メートルになる。それはでかい。それでこの短編、ほとんど怪獣モノという展開になるわけで、ついにその巨大かたつむりを発見した教授は、島から脱出できずにそのかたつむりにねらわれて、島じゅうを追い回されるのである。「ハイスミスはこういう作品も書くのか」というおどろきもあるけれど、とにかくおもしろい。じぶんが愛着をもち、研究しようとする対象に身を滅ぼされるという皮肉からは、やはりハイスミスらしさはうかがえることになる。

●「愛の叫び」
 同じホテルの部屋に同居して生活する老女ふたりの愛憎関係。「何がジェーンに起こったか」とかを観ているので、これではあまりにソフトに感じてしまうことはたしか。


 

[] 「ヘンリー五世」(1989) ケネス・ブラナー:監督 ウィリアム・シェイクスピア:原作  「ヘンリー五世」(1989) ケネス・ブラナー:監督 ウィリアム・シェイクスピア:原作を含むブックマーク

 ケネス・ブラナーの、初監督作品ということ。もともとシェイクスピア役者として名を成していた彼が、さいしょに映画の題材に選んだのがこの「ヘンリー五世」というのはわかる気がする。つまり、舞台では見せることができないが物語の展開ではひじょうに重要な戦争シーンを、映画であれば制約なく撮ることができる、ということがあっただろうと想像できる。わたしは原作戯曲は読んでいないし、もちろん舞台も観たことはないのだけれども、原作戯曲と同じく物語を進行させるコロス(デレク・ジャコビ)が登場するわけで、これは舞台の構成をそのまま踏襲したというか、シェイクスピアの戯曲をあまり脚色しないでそのまま生かすということを演出のかなめとしたのだろう。ただ、どこまで原典に忠実にやっているのかはわたしにはわからない。この点でいえば、フランス人もみな英語をしゃべっているわけなのに、フランス女王カトリーヌとその侍女にふたりだけはフランス語をしゃべっているというのはいかにも奇異なんだけれども、これは原典がそうなっているわけなのだろうか。

 演出としては、舞台で大見えを切るような、舞台映えしそうな場面では舞台演劇的な演技を求め、そうでもなければリアリティを重視する演出だろう。城のなかのセットづくりは舞台空間の再現をめざしているようであって、観客席の方向がちゃんと設定してあって、ロングなどはその視点から撮られているわけだけれども、ドラマの展開では舞台上にずかずかとカメラがはいりこんで俳優のクローズアップの積み重ねで見せたり、移動カメラによって空間の広さをきわだたせたりもする。
 その、かんじんの戦闘シーンだけれども、まあ泥のなかでの騎馬と弓兵との合戦などというと、どうしても「七人の侍」ではないか、というわけになるけれど、これはブラナーはそういわれるのを嫌ったんじゃないかな、そういう演出だな、などという感想になる。一対一の対戦という描写を避け、全体としてマッスのようなぐちゃぐちゃな戦いを描きたかったのだろうか。ざんねんながら、ちょっとばかし平板ではあると思った。しかし、戦闘終結後の、ヘンリー王が少年の死体をかついで戦場の長い距離を歩く、ワンカットの長い移動撮影はちょっとばかし力にあふれていて、これはこころに残った。

 音楽の演奏が当時はサイモン・ラトルが指揮者だったバーミンガム市交響楽団によるもので、これはかなりめずらしいものだろうと思うけれど、この頃のサイモン・ラトルのメリハリのきいた指揮は、そういう音楽のことはあまりわかっていないわたしも好きなものだった。この映画でもやっぱりオーケストラの演奏がちょっとちがう、という印象はある。




 

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■ 2011-05-26(Thu)

f:id:crosstalk:20110527121107j:image:right ニェネントの顔をじっと見ていて、このコの耳ってふつうのネコよりも大きいんじゃないかという気になって、ネット上のネコの画像とあれこれ見てくらべてみた。そうやって見てみると、ニェネントの耳がとくに大きいというわけでもなかった。ついでに、ニェネントが血をひいているラグドール種の画像をいろいろと見て、いかにニェネントがラグドールからかけはなれた容貌になってしまったかたしかめてみようと思ったのだけれども、いがいにも、ニェネントにそっくりなラグドールの成猫はいっぱいいるみたいである。ときには「え! これってニェネントそっくりじゃん!」みたいな写真に出くわしたりもする。ただ、そもそものラグドール種はかなり長毛なので、そのあたりでニェネントは「なんちゃってラグドール」感はぬぐえない。それでもニェネントの毛色、顔の面割れの感じ、それからしっぽの色や長さなどはかなり本格的ラグドールである。ニェネントのしっぽはちょっといい感じで、機嫌のいいようなときにはまっすぐ上に立てて、その先の部分をくねくねと動かすわけだ。先っちょを丸めて、クエスチョンマークみたいな弧を描いてみせるところなど、みごとなものである。そういうわけで、きょうはニェネントがちゃんとラグドールの容貌を引きついでいるあたりをたしかめることになった。あるサイトでは、ラグドール種は成長が遅いのだという記述があった。ちゃんとした成猫になるのに三年ぐらいかかるみたいなことが書いてあり、そうすると、暗闇で赤くみえるニェネントの眼は、やっぱりまだ成長しきっていないのかもしれない。もっと、ふだんでも青くなってくるのかもしれない(さいきん、まえよりも青くなっているような気がする)。

f:id:crosstalk:20110527121140j:image:left ひるからヴィデオで長塚圭史の演出した「タンゴ!」を観ていて、とちゅうできょうが木曜だったことを思い出して、つまり西のスーパーは全品10パーセント引きの日、北のスーパーは玉子の安売りの日なので、ヴィデオをとめて買い物に出る。ひさびさに、一パック98円の玉子が売られていた。

 帰宅すると、「ひかりTV」と「WOWOW」の、六月の番組表が届いていたので、もうヴィデオなど観ないで番組表をチェックする。五月はほんとうに観たい作品の放映がなかったのだけれども、六月は、わたしにはかなり充実している感じである。「WOWOW」では三浦大輔演出の舞台の放映、阪妻生誕110年ということでの連続放映、ジョニー・トーの特集、さいきんのフランス映画の特集など。「ひかりTV」はサム・ペキンパー作品群だとか、「アンソニーのハッピー・モーテル」(何回でも観たい)、「あの胸にもういちど」(まだ観たことがない)など。それから「尼僧ヨアンナ」と「パサジェルカ」の放映はいちばんうれしい。チャンネルNECO の知らない日活映画放映も、六月は宍戸錠主演映画、野川由美子主演映画の連続放映があるのが楽しみ。

 よる寝ていると、ひるまつまんでいて出しっぱなしにしてあった「かっぱえびせん」の袋を、ニェネントがガサゴソと引っぱりまわしたりしている音がきこえる。そんなにひどいことにはならないだろうと、そのまま放っておいて寝る。

 ハイスミスの「11の物語」の、読んだところまでの感想を書いておく。

 

 

[] 「11の物語」(1)パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳  「11の物語」(1)パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳を含むブックマーク

 冒頭の、グレアム・グリーンによる「序」が、すばらしいハイスミスへの賛辞になっていて、まずはこれがいい。「ハイスミスの犯罪小説は、何度読み返しても飽きることがない」という、いささかほめすぎでないかというようなことばではじまり、彼女の作品は「閉所恐怖症的」で、「道徳的な結末など待っていない」と書く。英雄的な主人公も、正義を果たす探偵たちも出てこないというわけである。グリーンも、ハイスミスの最高傑作は「変身の恐怖」とするあたりも、わたしにはうれしいことである(といっても、ハイスミスのキャリアはこの短編集のときそのなかばにも達していないわけだけれども)。
 それで、本編。

●「かたつむり観察者」
 これはもうミステリーとは無縁の、いっしゅの怪奇物語といえばいいのか、サキの作品にこんなのがあったかもしれない。書き出しがいい。「食用かたつむりを観察するという趣味を持ちはじめたとき、ピーター・ノッパードは一握りほどのかたつむりがアッという間に何百という数に増えようなどとは夢にも思わなかった」。もう、ほんとうはこれですべてなのだけれども、物語はエスカレートする。
 ハイスミス自身が、かたつむりの観察が趣味だったらしいけれど、この作品にも出てくる、かたつむりのセックスについては、わたしも「虫」のいっぱい出てくる映画「ミクロコスモス」のなかで紹介されていたのを観ている。‥‥全身が粘膜ともいえるだろうかたつむり同士が、ぴったりとからだをくっつけあって、ヌメヌメとお互いのからだのうえを愛撫するように這い回るわけで、粘膜=性感帯だという通念で解釈すれば、それはいかほどの快楽になるのだろうと想像すると、ほとんど気が遠くなりそうになった記憶がある。「虫のセックスを覗き見するな」という教訓であろう。

●「恋盗人」
 犯罪といえば犯罪だけれども、隣人の郵便受けから手紙を盗み、その手紙に返事を書いてしまう男のはなし。ひょっとしたらじぶんも、そういうことをやってしまうのではないか、という気持ちを抱きそうなプチ犯罪というか、そういうつもりなくしてひとのこころを弄んでしまう。ここから、ハイスミスお得意の展開の長篇小説になだれこむことが可能だろう。

●「すっぽん」
 一人称視点の作家ハイスミスの本領発揮というか、子どもの気もちを理解しない母親のことを、その子どもの視点から描いたもの。母親の無理解ぶりと、そのために少しずつこころがずれていく少年の変化を描く筆致は絶妙で、ラストでは、少年を理解しないのはまわりのおとな皆そうなのではないか、という恐怖をあたえられる。ひとつの傑作。

●「モビールに艦隊が入港したとき」
 これも、ちょっとあたまの弱いらしい女性を主人公にした、一人称記述による作品。港のカフェにつとめる主人公が入港した軍艦の水夫の甘言にだまされ、娼婦館に放り込まれて捨てられ、そこへ通う客に求婚されて結婚してみると、暴力夫だったと。その夫を殺害してたいした逃亡計画もないままに逃げる主人公。彼女の独白からの世界理解の幅のせまさがかわいそうになり、彼女の巻き込まれた悲劇から、彼女は逃れることができた可能性はなかったのかと、同情しながら読むことになる。もちろん結末は予想できるけれども、ちょっとしたどんでん返しは用意されている。それがまたハイスミスらしく残酷で、そこでの彼女の絶叫にこころが痛む。これもすばらしい。




 

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■ 2011-05-25(Wed)

 買ってきたキャベツを外に出しっぱなしにしていたら、ニェネントがかぶりついていたりする。どうやら多少は食べているみたいである。ニェネントにはネコ草とかぜんぜん与えていなくって、まあそれはそれでかまわないだろうと思っていたけれど、やっぱり植物性の食物もひつようなのだろうか。とりあえず、キャベツの葉を二枚ほどちぎって、ニェネント用のトレイにおいてあげる。かじっているようではある。これからは留意してあげなくてはいけないかも。でも、キャベツでいいんだろうか。

 きょうはあさから晴天。昼ごろから川向こうまで歩いて、古着屋で夏服をあれこれ買い、ファッションセンターで下着や靴下を買った。古着屋で買った服の方が下着などよりも安い。シャツやジャケットと靴下一足とが同じぐらいの価格である。

 冷蔵庫のなかにだいぶ前につくったカレーが残っているのを忘れていて、きょうになって思い出してあたためて夕食にした。これはもう傷みかけている味がする。ヤバいかな?と思いながらぜんぶ食べてしまった。あしたたいへんなことになるかも。

 ハイスミスの短編集だけ読み継いで、ヴィデオを観て、はやばやと眠くなってしまった。ベッドで横になって本を読んでいると、ニェネントが、ベッドからはみ出たわたしのひじにちょっかいを出してくる。なにするんだよお、と、半身を起こして手先をぶらぶらさせてニェネントを挑発すると、前あしでわたしの指先に猫パンチ攻撃をしかけてくる。ニェネントの爪をわたしの指の爪でひっかけたりして遊んでいると、ニェネントの爪の先がわたしの爪と肉とのあいだに刺さって、とびあがるほど痛かったのであった。

 

 

[] 「ミッドウェイ」(1976) ジャック・スマイト:監督  「ミッドウェイ」(1976) ジャック・スマイト:監督を含むブックマーク

 アメリカ側はヘンリー・フォンダやチャールトン・ヘストン、ロバート・ミッチャム、その他その他の豪華俳優陣なのだけれども、日本側は三船敏郎以外は日系の役者による一点豪華主義。これは日本人もみな英語をしゃべるという映画設定なので、いたしかたなしか。「トラ!トラ!トラ!」みたいな前例はあるけれど、これがアメリカでの観客動員があまり伸びなかったのを反省し、観客へのサーヴィスを優先しての、この「ミッドウェイ」になったわけだろう。三船敏郎は吹き替えではなくじっさいに英語をしゃべっているようである。

 方法論としてはまさにプチ「トラ!トラ!トラ!」という製作姿勢で、日本側の視点、そしてアメリカ側の視点をかなり公平に並列させている印象はある(終盤は日本のことはどうでもよくなってしまうけれど)。つまり、アメリカにとって屈辱的な真珠湾攻撃に関する映画を日米双方に公平に描いたのなら、アメリカの最初の大きな勝利であり、その後の戦局に大きな影響を与えた「ミッドウェイ海戦」もちゃんと映画にしておかないと、バランスが悪いだろうということがあったのだろうと思う。だから構成なども、「トラ!トラ!トラ!」での演出姿勢を踏襲している印象はある(暗号解読が鍵になるのなんか、おんなじ展開やんか。こんかいはアメリカがちゃんと解読するけれど)。ただ、こちらでは当時の実写フィルム、そして「トラ!トラ!トラ!」や、日本映画からの戦闘シーンの流用、編集がおこなわれている。当時の実写フィルムのシーンではパイロットの声がかぶせられたりしているけれど、観ていてそぐわない感覚は受ける。実写フィルムを使うことでリアリティの裏付けに役立てようとしたのかもしれないけれど、この映画のスタッフにそこまでの演出力はないのであった。戦いの推移もなんとなくわからないでもないけれど、もうちょっとメリハリの効いた演出がほしかった気はする。

 チャールトン・ヘストンの息子(役)がヘストンと同じ部隊に転属され、彼が日本人の女性と結婚したいという関係になっていること、それでヘストンがその女性と家族に会いに行くあたりが、前半の軍事面以外での中心になるおはなしで、やはりこの1976年という製作年では、日本はアメリカの友好国なのだということを前面に出さないといけない。この日本人女性を演じているクリスティナ・コクボという日系の女優さん、わたしの好きなタイプなのであった。





 

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■ 2011-05-24(Tue)

 きょうもあさには雨が降っていて、もう梅雨入りしたのかと思ってしまうけれど、予報では午後には晴れるといっている。じっさいに午前中に雨はやみ、そのうちに晴れ空が拡がった。

 ようやくきょうが給与の振り込み日で、なんとか四月五月の金難をのりきったという感じ。振り込まれた給与を引きだして、ホームセンターに行って「コンパクトパワークリーナー」という名称の小型掃除機を買った。とにかくウチにある掃除機は吸引力が弱くて弱くて、とくにニェネントの抜け毛がすさまじくなってからはその非力さにないてきた。買った掃除機は小さいから、机の上とかでも気軽に掃除できそうだと思う。消費電力が600Wというから、いまの省電力気運には逆行するものだろうけど、とにかくパワーがなくっちゃ困る。
 帰宅して、梱包をといて箱から掃除機を出していると、ニェネントが予想どおりに近づいてきて、「何? 何?」って感じでのぞきこんでくる。組み立てもかんたんで、すぐにスタンバイOK。ふふふ、ニェネントくん見ていな、きっとキミはおどろくよ、と、コンセントにコードをつなげて、手元のスイッチを入れる。「ゴーッ!」という音がひびいて、もちろんニェネントはそのとたんにふっとんで逃げていく。いやこれはたしかに吸引力抜群で、畳の上のゴミをぐんぐん吸い込んでいく。ノズルからちょっと離れたところにあるゴミでも、ズズズッと吸引されていく。まえの掃除機なんか、ノズルの真下にあるゴミでも、ちょっと重量があると食べ残してしまっていたわけで、感覚的には吸引力は十倍はあるんでないの、という感じである。こうなるとまえの掃除機なんかもう出番はないという感じで、すべての掃除をこのハンディクリーナーですませたくなってしまう。
 かんたんに身の回りの掃除をすませてスイッチを切ると、となりの部屋に避難していたニェネントがもどってきた。ダストケースをあけてみると、予想以上のゴミがたまっていた。ニェネントの毛もいっぱい取れている。これはお買い得だったな、という感じで、じつはなにも給料日まで買うのをまつほどの値段ではなかったのである。
 ノズルをニェネントの方に向けて、ニョロニョロとヘビのように動かしてやると、音がしないぶんにはニェネントはまるで平気なわけで、前あしでちょっかいを出してきて、あげくに吸引口のブラシ状の部分にかみついてくるのである。そこでまたスイッチを入れると、「ゴーッ!」っとなって、ニェネントはほんとうに飛びあがって逃げていく。スイッチを切ると寄ってくる。入れるとまた逃げていく。おもしろいので、しばらくは掃除機でニェネントをからかって遊んだ。

 晴れた空が気もちいいので午後から洗濯をして、きょうはクレソンのプランターから時間をかけててってい的に虫を駆除した。やはりいままで駆除のしかたがいいかげんだったようで、小さな芋虫が十匹いじょういた。いままではあるていど大きな芋虫にしか目がいっていなかったわけである。しかし、伸びきったクレソンの茎は大きいのではもう30センチぐらいは伸びて、食べられるところはわたしと芋虫とであらかた食べてしまっているので、もう種がついているだけである。こういうのは、茎を切ってしまった方がいいんだろうか。

 「ロマン的魂と夢」を読み進め、ジャン・パウルから、ようやくノヴァーリスについての分析がはじまった。やはり、ノヴァーリスは別格で、彼のまえには「ロマン主義」なんて「たわごと」に思えてしまうのである。ノヴァーリスを、すぐにまた読みたくなってしまった。あとは、ハイスミスの「11の物語」を読み継いだ。読んだ分の感想は、あしたにでも。

 

 

[] 「黒木太郎の愛と冒険」(1977) 森崎東:監督  「黒木太郎の愛と冒険」(1977) 森崎東:監督を含むブックマーク

 考えてみればわたしは森崎東という監督にはまるで興味ないのだけれども、なぜか観てしまった。じつは、タイトルから黒木和雄監督のことを勝手に連想していて、それで録画してしまっていたのであった。
 どこがどういうふうにおもしろいのか、わたしにはわからない映画であった。おそらく出演していたひとたちは楽しかったんだろう。わたしにはその楽しさを共有できない。ただ、緑魔子が孤独な女教師役で出演していて、彼女が主演の田中邦衛に襲われるシーン、彼女の顔のアップで、その眼があらぬ方向でロンパリになっているのに驚いてしまった。「12モンキーズ」のブラッド・ピットを思い出したけど、緑魔子のほうが、わたしには強烈だった。

 

[] 「「ローリング・ストーン」インタビュー選集 世界を変えた40人の言葉」ヤン・S・ウェナー/ジョー・レヴィ:編 大田黒奉之/富原まさ江/友田葉子:訳  「「ローリング・ストーン」インタビュー選集 世界を変えた40人の言葉」ヤン・S・ウェナー/ジョー・レヴィ:編 大田黒奉之/富原まさ江/友田葉子:訳を含むブックマーク

 1968年のピート・タウンゼントへのインタビューから、2005年のボノへのインタビューまで。いままでに書いていないさいごの部分のインタビュー相手は、ボブ・ディラン、オジー・オズボーン、キース・リチャーズ、エミネム、そしてボノ。はじまりこそはピート・タウンゼントだけれども、あくまでもアメリカ中心の人選というか、20世紀後半から21世紀にかけてのアメリカの文化の流れというものを、強く感じることになる。聞き手の話の引きだし方にもよるのだろうけれど、ただ「成功してうれしい」とだけいっているような、つまらないインタビューもかなりある。オジー・オズボーンへのインタビューも、そういうたぐいかもしれないけれども、これはおもしろかった。ある意味でいちばんティピカルな「労働者階級からの成り上がり」という話がきけるわけでもある。しかし、やはりトルーマン・カポーティのものが、ぜんたいのインタビューへの逆視点というか、批評になっていていちばん興味深かった。
 トルーマン・カポーティは1972年に、この「ローリング・ストーン」誌の依頼でバンドのローリング・ストーンズのツアーのレポートを書くという契約をして、バンドのツアーに同行する。しかし、彼はそのレポートを書くことを放棄した。その理由を、ここでアンディ・ウォーホールが聞いているわけだ。そうしてカポーティは、つまりはいまなお継続するロック文化に対しての批判を語る。それは新譜をリリースしてそれに合わせてツアーを組むということだと要約していいのかもしれないけれど、アーティスト、そしてアーティストの取巻き連中への辛らつな批判になる。よく訓練されたパフォーマーであり、同時に優秀なビジネスマンである(だけの)アーティストは、カポーティによれば「音楽のことなど何ひとつわかっちゃいない」ということになるし、そんなアーティストの最新アルバムはいつも、「何か伝えたいテーマがあるとは思わない」もので、「一晩中ポラロイド写真を撮るのと同じこと」だという。この本に収録されているアーティストの半分以上は音楽(ロック)関係のアーティスト、またはプロデューサー、レコード会社のオーナーということになるけれど、彼らの発言を、このカポーティのインタビューでの発言から逆照射するひつようがあるだろう、と思う。成功することでアーティストが失うもの、享受するものに失わせるものを考えることが求められ、そこでダライ・ラマの発言などが生きてくることになるだろう。20世紀後半がどんな時代だったのか、この本から読み取れるものは思いのほか大きいと思う。そういうところから、もういちど読み直してみてもいいと思う本であった。




 

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■ 2011-05-23(Mon)

f:id:crosstalk:20110524134128j:image:right ニェネントが、ベッドのうえで変なかっこうで寝ている。あおむけになっておなかをうえにして、上半身はねじって掛けぶとんにしがみついている。何やってるんだろうとのぞきこむと、寝ているのであった。
 きょうはしごとはなし。わたしもさいきんは昼寝ばかりするようになって、きょうもベッドで本を読んでいてそのまま寝てしまっていた。寝ていたのは二時間にもならないけれど、目が覚めて、寝てしまったじかんをムダにしてしまったように思えて、気分的にはずっと落ち込んでいた。きょうは給料の振込み日だと勘ちがいしていて、ATMに行ってみると入金されていなくて、それにもがっくりさせられたのである。ペイデイはあしただった。それで、月曜日はメンズデーで映画を千円で観られるので、ちょっと映画でも観に行こうと思っていたのだけど、財布のなかみもすくないのでやめた。らいしゅうも月曜日が休みなので、らいしゅうには映画に行きたい。

 ヴィデオを二本観て、<「ローリング・ストーン」インタビュー選集>を読み終わり(感想は後日)、ハイスミスの短編集「11の物語」を読みはじめた。

 

 

[] 「続・激突! カージャック」(1974) スティーヴン・スピルバーグ:監督  「続・激突! カージャック」(1974) スティーヴン・スピルバーグ:監督を含むブックマーク

 スピルバーグのはじめての劇場用作品で、このときから撮影はヴィルモス・スィグモンドで、音楽はジョン・ウィリアムズという新人監督の作品らしからぬ布陣。そう、きのう観た「激突!」で、とちゅうの車の追いつ追われつのシーン(まあ、全編そんなシーンなんだけれども)で、音楽がかなり早い16ビートで聴かせるところがあって、1972年という製作年を考えると、ちょっとばかし斬新な感じを受けたのであった。書くのを忘れていたこと。

 この作品、どっちかっというとコメディっぽい展開ではあるけれど、実話をもとにした作品らしい。だんなが刑務所に服役しているのを妻が脱獄させ、里子にされてしまった子どもといっしょに暮らそうと、子どもを取り戻しに行く。とちゅうで乗っていた警官ごとパトカーをカージャックして、三人での逃避行になる。映画のほとんどがそういうハイウエイ上での展開になるから、まあ「激突!」とおなじみたいだな、ということにはなるけれど、続編などではないので、この邦題はやっぱりいけないよ。
 それで、犯人たちのパトカーを何十台というパトカーが追い、さらにそれを一般市民や報道の車が追い、ヘリコプターまでくり出される。犯人夫婦はどうみてもドキュンのアホなのだけど、その真情あふれるアホさかげんに人質にされた警官もシンパシーを感じはじめるし、追跡を指揮する警部もどうやらふたりに同情的になっていく。しかし、さいごの決断はシビアなものだったねえ、というお話。まあハイウエイを舞台にあっちゃこっちゃ視点を変えての演出など「激突!」を深化させた感じではあるし、ラストの、救出された人質警官のシルエットのバックに、夕陽を反射する川の流れが写されるのなんかも、夕陽を背にした主人公のシルエットでおわる「激突!」とおんなじ趣向ではある。でもそれなりの余韻はあって、いい感じである(スピルバーグの作品でいちばんいい?)。

 妻役はゴールディー・ホーンで、夫はウィリアム・アザートン。このひとは「ダイ・ハード2」でアホなTVレポーターをやっていたひとだと思い出した。それから追跡の指揮をとる警部がベン・ジョンソンで、わたしはこの作品での彼が好きである。人質警官役は無名の俳優みたいだけど、よかった。
 しかし、このほぼデビュー作からして、引き裂かれた家族のことをテーマにしているなんて、なんて一貫した監督ではあることよ。

 

[] 「壮烈第七騎兵隊」(1941) ラオール・ウォルシュ:監督  「壮烈第七騎兵隊」(1941) ラオール・ウォルシュ:監督を含むブックマーク

 このタイトルだと、映画ではラストにくるリトル・ビッグホーンの戦いだけを描いた映画みたいな印象になるけれど、これはじっさいにはカスター将軍の一代記といった映画で、彼の士官学校への入学からその死までの生涯を描いたもの。しかし英語タイトルも「They Died With Their Boots On」ということだから、これは第七騎兵隊の連中をさしたタイトルではあるだろう。監督はラオール・ウォルシュで、カスター将軍を演じるのがエロール・フリン。うーん、ついに、エロール・フリンの主演した映画を観たぞ、という感じ。小さいころに、彼が海賊をやっているような映画をTVで観たことがあるような気がするけれど、まあちゃんと観たのはこれがはじめて。そんなにエキセントリックにスタンドプレイやっちゃうというのでもなく、まともじゃん、という変な印象。しっかしこの映画、カスター将軍を「英雄」にまつりあげるためだろうけれど、そうとう無茶な脚本ではある。史実を曲げているところもいっぱいあるようだ。もちろんアメリカ先住民の描き方など、これでも多少は気を遣っているんだろうけれども(もっとひどいのはある)、やはりひどいものである。ただし、ラオール・ウォルシュの演出は、そんな脚本にかかわらずに、かっこいいことはかっこいい。映像としてはかっこいいけれど、その内容はクソ、というタイプの映画のひとつではあるだろう。こういうところが、映画という表現のこまったところなのである、と思う(グリフィスの作品、ジョン・フォードの作品などにもいえること)。
 先住民部族の族長、「クレイジー・ホース」を演じる若き日のアンソニー・クィンが、とってもかっこいいのである。




 

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■ 2011-05-22(Sun)

f:id:crosstalk:20110523082945j:image:right また忘れていたけれど、きのうはニェネントの十一ヶ月の月の誕生日だった。ついに、あと一ヶ月でニェネントも一歳になる。まだまだこどもっぽいところが残ってるけれど、だいぶおとなじみてきたこのごろではある。

 しごとから帰って、部屋のなかで本を読んだりしていると、きょうはいやに外が暗い。いつもはひきっぱなしにしてあるカーテンをあけてみると、どんよりと暗い雲が空をおおっている。さいきんはもう初夏といってもいい晴天がつづいていたので、こういうくもり空もひさびさになる。午後になると雨が降り出した。

 ベランダのクレソンは、ミニチュアの熱帯雨林のように生い茂っている。食べられるようなところはほとんど摘んで食べてしまったけれど、小さな枝葉がかなり成長してきた。いまごろになって芋虫がついて葉を食べている。クレソンにつく芋虫は食欲旺盛で、いっぴきついただけでも想像以上に葉をかじられてしまい、被害は甚大である。きょねんまでは茎が伸びるまえに葉をほとんどぜんぶかじられてしまい、根いがいはまったく成長しないままで年をこしていた。水でプランターを満たして(ほとんど水栽培のようになっているわけだ)、クレソンの茎のあいだをぱらぱらと指ではらってやると、ついていた芋虫が水のうえに落ちてくる。これをベランダの外に捨てる。まいにち、最低でもいっぴきは退治している。まだまだ小さな芋虫がたくさんついているのかもしれない。暑さによわい植物なので、近いうちに室内に入れてやらなければいけないだろう。そうすれば虫もつかなくなるだろう。

 もういっぽうのバジルの成長も順調で、双葉で芽を出してきていたのがもうみんな、葉が四枚とかになって大きく拡がってきている。プランターの大きさに比べて芽の数が多すぎるだろうけれど、しばらくはこのままにしておこう。ことしはバジルも収穫がたくさん見込めそうだ。

 エーコの「カントとカモノハシ」は、読んでいても、なにもかもあたまを素通りしていく。いまのわたしには時間のむだにしかならないみたい。<「ローリング・ストーン」インタビュー選集>、きょうはミック・ジャガー、パティ・スミス、ハンター・トンプソン、ビル・クリントン、ダライ・ラマまでを読む。あとのこりは少し。パティ・スミスのがおもしろかったけれど、ダライ・ラマはあまりつっこんだ話を語ってはいない感じ。

 

 

[] 「激突!」(1972) スティーヴン・スピルバーグ:監督  「激突!」(1972) スティーヴン・スピルバーグ:監督を含むブックマーク

 もともとTV放映用に製作されたスピルバーグのデビュー作で、きょう観たのはのちの劇場公開版の90分のもの。レストハウスとかで主人公の独白がナレーションでかぶさるのがじゃまで、なければいいのに、と思ったら、もともとの劇場版にはこのナレーションはないものらしい。低予算ゆえか、かなりの長まわしなどもやっていて、その主人公がレストハウスに入り、トイレに行き、また出てきて外をみるまでの長まわしは印象に残った。カー・チェイスのパートは、さまざまな視点、さまざまなアングルからのショットの積み重ねがいい。主人公をしつように追い回すトラックからの視点が、終盤になってようやく挿入される。こういう視点の演出もいい。

 この作品では主人公の走る道はほとんど砂漠道みたいなもので、ほかの車とすれ違ったりすることもない。いまなら携帯電話とかで通報するんだろうけれど、この映画ではもう、主人公はまったくの孤独のなかで、かれを追い回す猛獣のようなトラックから逃げなければならない。とても文明の地で起きているとは思えないあたりが恐ろしいのだけれども、このラスト、まさに「眼には眼を」の砂漠のように、主人公も生還できないのではないだろうか、とは思う。ラストの主人公の姿から鳥瞰撮影に移動すれば、まさに「眼には眼を」なんだけれども、そこまでのことはやらない。原題は「Duel」だから、「決闘」というわけだ。




 

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■ 2011-05-21(Sat)

 野菜や肉など、いろいろな食材を買ってきて料理に使っていると、「これはお買い得な食材だったな」とか、「当たりだったな」とか思うことがある。もちろんこの逆に「失敗したな」というようなものもある。まあ肉などよりは野菜の方が当たり外れは多く感じるけれど、このところずっと使っていたキャベツはいいキャベツだった。人生最高のキャベツだった、といってもいい。じつは日本産ではなくアメリカ産のキャベツだったのだけれども、ぜんたいの大きさもかなりあったし、身のつまりかた、いつまでも新鮮度をキープしていたその生命力とか、とにかくこちらが感銘を受けてしまうほどであった。いつ買ったキャベツだっただろうと調べると(この日記に買った日が書いてあった)、四月のなかごろのことで、一ヶ月以上保存していたことになる。そのキャベツを、とうとう食べ切ってしまった。ありがとうございました、さいごまでおいしく食べさせていただきました、という感じである。

f:id:crosstalk:20110522122349j:image:left きょうも引きこもりのいちにち。ニェネントとの静かな時間。しばらく読んでいなかった<「ローリング・ストーン」インタビュー選集>を思い出して読む。トム・ウルフ、ジャック・ニコルソン、ビル・マーレイ、クリント・イーストウッド、エリック・クラプトン、ティナ・ターナー、ロビン・ウィリアムズ、レナード・バーンスタイン、スパイク・リー、ジェリー・ガルシア、そしてアクセル・ローズ、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・レターマン、デヴィッド・ゲフィン、カート・コバーン、コートニー・ラブあたりまで。スパイク・リーの明解なとんがり方、ブルース・スプリングスティーンの、世界にフィット出来ないという感覚、そして自殺への意志など全否定しているカート・コバーンなどが印象に残った。ヴィデオを観て、夕食は白菜とか豆腐とかえのきだけをぶちこんだ鍋。ベッドでエーコの「カントとカモノハシ」を読み継ぐけれど、これはやっぱりかなりの難物で、すぐに眠くなってしまうのであった。


 

 

[] 「ねえ! キスしてよ」(1964) ビリー・ワイルダー:監督  「ねえ! キスしてよ」(1964) ビリー・ワイルダー:監督を含むブックマーク

 原題は「Kiss Me, Stupid」で、この時期のワイルダーらしい艶笑ものなんだけど、ディーン・マーティンが「ディノ」という役名で、どうしょうもない女ったらしの歌手として出演、って、それってどうみてもディーン・マーティン本人としか思えないんだけれども(そもそも、「ディノ」という愛称からして彼のものとして流通しているわけだし)、「そこまでやるか!」という役で、これにはちょっと、前長野県知事でもあった元小説家がTVでよくやっていた自虐ネタギャグを思い出さないこともない。アルコール好きであること、女好きであることが、当人のパブリックイメージを傷つけないというのは、幸福なのか不幸なのか。

 ストーリーは次の興行地へ単身車で移動するディノが、道路の工事中とかである田舎町にさしかかるわけで、その町にはアマチュア作曲家が将来のアーヴィング・バーリンとかを夢みてもんもんとしているわけである。で、ディノの到来。作曲家とコンビを組むガソリンスタンド店員の作詞家の策略でディノをその町に一泊させ、彼らの音楽を聴かせて彼のレパートリーにしてもらおうとするわけ。そのえさとして、ディノに作曲家の若い妻を差し出そうという、エスキモーの接客法みたいなヤバい計画を練る。ところが作曲家はひといちばいのジェラス・ガイなわけで、その夜ひとばんだけ妻を追い出し、町の酒場のウェイトレスのキム・ノヴァクを連れてくるというわけ。まあいろいろあって、妻がキム・ノヴァクの住処であるトレーラーのなかで寝ているところにディノもやってくることになったりして、けっきょくは作曲家のプッシュした曲をディノはTVで歌ってくれていて、いろいろあった妻も彼のもとに戻って来て、「キスしてよ、おバカさん!」ということになるというお話。

 ほんとうは作曲家の役はピーター・セラーズがやるはずだったらしいんだけれども、彼が心臓発作で倒れてしまったので、代役でレイ・ウォルストンというひとが出ている。このひとはTV中心に活躍していたひとらしく、あまり映画の出演作はないみたいなんだけれども、この作品ではほとんどロベルト・ベニーニの原形みたいな感じで(髪の乱れ方とか、ベニーニにそっくりになることもある)、とってもいい。それとやっぱりキム・ノヴァクの、もったりとしながらも妖艶な感じがすばらしく、こういう感じのキム・ノヴァクをもっと観たいなあという感じになる。
 しかしやっぱりビリー・ワイルダーの演出、ということで、三人が三方向を向いてすわれる変な椅子だとか、編み棒と毛糸の玉だとか、特大のキャンティ・ワインの瓶だとか、小道具の使い方がいいなあと、うっとりと観てしまうのである。それでもこの脚本、つまりは作曲家の妻とディノとの関係は、どうみても行くところまで行ってしまっているわけで、それっていいのかなあ、などとは思ってしまうのである。




 

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■ 2011-05-20(Fri)

 あさ起きて、しごとに出かけるまえのじかんをパソコンに向かっていると、そのパソコンのディスプレイの向こう、窓の外の屋根の上に丸い月がかかっているのが見えた。月が見えても空はすっかり明るくなっていて、これはつまり朝月夜というやつだろうと思ったりするのである。

 きょうもしごとは忙しく、また慣れないしごとをずっとやらされて、疲れた。それでもしごとを終えてちゃんと朝食をとり、昼にはきのうと同じ白菜スパゲッティをつくって食べて、元気になった。
 平常心を取り戻したニェネントは愛らしくなって、目のかたちがくっきりと、アーモンドではない、柿の種のようなかたちにみえる。おつまみの「柿の種」ではなく、もっとふくらんだ、丸みをおびた柿の種のかたち。その目が、鼻を中心にして左右に美しいバランスで並んでいる。おまけに、その瞳がちょっとばかり寄り目なのがいい。なんか、ニェネントって、すっごい美猫なんじゃないだろうかと、きのうきょうと、飼い主のひいき目で思ったりする。もちろん正統な美猫ではないだろうけれど、にんげんでもロンパリはひとを惑わせる魅力を持っていたりする。ふん、ニェネントに「惑わせる」などという形容詞を使ったりすると、そりゃあ大笑いではある。

 きょうもいちにち引きこもり。まいにちヴィデオを一、二本観て、それで本を読んでばかりの生活。じつはそれでいいと思っているわけでもなく、それではよくないと思うじぶんを取り戻したいという気もちが、これでもあったりはするのである。まずは、この日記をまいにち書くという自己規制が、もんだいだったりはする。この日記を書いていないとだいじなものが逃れてしまうように思ったりもするけれど、日記を書くために使っているものから逃れたら、もっと異なる地平が見えるようになるかもしれない、などとも考えるのである。つまり、こうやって日記を書くことで、じぶんを「常識人」というところにつなぎとめているのかもしれない。きょうで657日間、連続してまいにち日記を書いていることになるらしい。

 

 

[] 「結婚しない女」(1977) ポール・マザースキー:監督  「結婚しない女」(1977) ポール・マザースキー:監督を含むブックマーク

 いま観ると、「ああ、この映画あたりからアメリカ映画の風俗描写みたいなものはガラリと変わってしまったわけなんだろうなあ」などと思ってしまう。風俗描写というか、その時代に生きるひとたちをとりあげたドラマというのは、この作品以降すっかり変わっちゃったんじゃないかと、それほどそういうドラマなど観てもいないくせに思ったりする。観客と等身大というか、共感できる、観ている観客の身にも起こりそうなハプニングとかがあって、それを主人公の友だちとかとディスカッションしたりする。ここでこの時代の「女性の自立」などという背景を語るのはかんたんだけれども、じつはそんなことこの映画を観るまえにちゃんとわかっているわけでもなく、この作品を観て後追いで「そんなこと、わかっていたよ」などという感想を抱きそうになるわけでもある。ついつい、そういう訳知り顔にさせられそうになる作品である。なぜそうなってしまうかというと、この作品があまりに平明で理解しやすいということがあるのではないかと思う。理解しやすいというか、誤解のしようがないという感覚である。そういうところから、このタイプの演出が映画界を席巻してしまうのはわからないではない。映画自体のことではなく、映画のなかの登場人物のこと(行動とか)でもって、たっぷりと友だちとお茶の時間をつぶすことが出来る。それはまず前提として、観るひとがこの映画を観て、ほぼ同じようにストーリー展開を読み取るということだと思う。それは、演出家がこの作品において自己主張などしていないということかもしれない。
 もちろん、映画監督としての技術が卓越していることは観ていてもわかるわけで、移動カメラを多く使った演出でとらえられるニューヨークの街も魅力的であり、ドラマのなかでの力点のおいていき方も適切だろうと思う。しかし、この監督は観客に挑戦しようなどということはいっさいやっていないように思えてしまうわけである。そう、さいきん観たヴィデオでこの種の風俗ドラマというと、「三人の妻への手紙」などが思い出されるけれど、その「三人の妻への手紙」での監督から観客への問いかけと、この「結婚しない女」でのそれとでは、これはまるで違うもののように思えてしまう。つまり、「三人の妻への手紙」では、監督のジョセフ・L・マンキーウィッツは、「この映画、どうよ?」という問いかけは観客に対してなされているように思えるけれど、この「結婚しない女」で監督のポール・マザースキーは、「映画」としてではなく、スクリーンを観ている観客のとなりにいる友人の、観客への打ち明け話のように観てもらいたがっているように思えてしまう。それがいいのかわるいのかなどわたしにはわからないけれど、正直いうとあまり観たいしゅるいの映画ではない。ハリウッドの、ターニングポイントになる作品だったことだろうけれども。

 映画のなかで、主人公とその三人の女性の友人がいっしゅの「女優論」みたいなのを語るシーンが、おもしろかった。もう過去の「スター女優」の時代ではないという認識が、この監督にあることがわかる。異議はない。それで、こういうおそらくは無名の女優ばかりをキャスティングしているわけだろう。主役のジル・クレイバーグはとってもいいけれど、この女優さんはきょねんお亡くなりになられたそうである。その恋人になる絵描きがアラン・ベイツだったということは、映画が終わるまで気がつかなかった。




 

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■ 2011-05-19(Thu)

      f:id:crosstalk:20110521113309j:image

 これが、きのう博物館で買った、国芳描くところの「猫のすヾみ」絵はがき。なんか、遊び人(ネコ)の若い衆が粋な姉さんを誘っているようだけど、舟の上の二ひきのネコが、いかにも下心ありそうな、悪だくみいっぱいな顔をしてる。「姉さん姉さん、その舟に乗っちゃいけないよ」と声をかけたくなるけれど、わたしはこの舟の上のネコの表情が大好きである。国芳にはネコを描いた作品がいっぱいあるけれど、わたしにはこれがいちばん。あと、「猫飼好五十三疋」などという作品もたまらないけれど、これは国立博物館蔵ではないみたいで、絵はがきは売っていなかった。写楽などよりも国芳の展覧会があれば観たいなあと思ったら、ことしは国芳没後百五十年だそうで、関西では回顧展がすでにはじまっている。これが年末には東京に廻って来るらしい。うれしいことである。しかし、ことしの年末というときは、ちゃんとやって来るのだろうか。

 うちのニェネントはようやく発情期もおさまって、またかわいいニェネントにもどった。発情期のあいだ食欲がなかったせいか、すこし顔などほっそりとしたようにも見え、わたしに甘えてくるところも愛らしいのである。「おまえはかわいいねえ」と、ニェネントの鼻のあたまをいっぱいなめてやる。

 きょうはお出かけしたあとの日なので、ぐったりと寝て過ごす。いちおう買い物に行って、ことしはいつまでも売っている白菜を、また買ってしまった。いつまでもいつまでもわたしの食事のメニューは白菜がらみばかりである。こんかいはひとつスパゲッティにも白菜を使ってみようと、いつもおかずでつくっている削り節としょう油で白菜を炒めるのを、パスタにからめてみた。ウインナともやし、そしてベランダでとれたクレソンをいっしょにする。これがなかなかおいしくて、つくるのもお手軽で経済的なのでしばらくは続けてみたいなどと思うのであった。
 上林暁の短編をひとつ、読んだ。

 

 

[] 「晩春日記」上林暁:著  「晩春日記」上林暁:著を含むブックマーク

 昭和二十一年二月に発表された作品。「私の妻の徳子は、数日前から家に帰っています。六年の間脳病院に行っていたのです。」とはじまる作品は、目のまえにいるだれかにかたり聞かせるような文体で、おだやかに展開される。ただその妻がどのようにしているか、妻とどんな会話をしたのかということだけが、記録として淡々と書かれてゆき、「こうなってほしい」などという書き手の希望が書かれるわけでもなく、妻とふたりでの生活の外のことはいっさい描かれることもない。外はまさに戦渦のまっただなかにあるはずなのに。じぶんたちの境涯を、発狂後三十六年ものながいあいだ狂気のうちに生きたというヘルダーリンなどに比べれば、「まだまだ幸福なのだ」と考えてじぶんをなぐさめ、「退院の日を決めてくれ」と妻に問われて「退院させよう」とこころに決めることになるが、そのときに「じゃあ退院したら炊事も洗濯も出来るんだね」と念を押すあたりに、作者のこころづもりがあらわれているのかもしれない。「今年の春は、こうして闌(た)けてゆきます。」という末尾の一行に、なんともいえない無常感が感じとられ、そこには「希望」も「絶望」もない、ひたすら時の過ぎ行くのを見据えているような作者の視点が感じられるように思う。




 

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■ 2011-05-18(Wed)

 水曜日でしごとは非番。きのう決めたように、東京へ行って映画を観ることにする。七時まえの電車に乗ると、渋谷に到着したのは九時少しすぎたところ。十時の映画上映にはちょっと早すぎた感じなので、せんじつTVの報道でみた牛丼の安売り合戦のおこぼれをいただいて、早い昼食にしようということにする。ということで、牛丼チェーン店「M」にて、240円の牛丼を食べる。「つゆだく」にすればよかったかなどと考えるけれど、ちゃんと店のなかにすわって240円で食事ができるのだから不平はない。映画館へ向かう。

 この映画館のあるところは、つい先ごろまで「宮下公園」という名まえの広場のあった場所のすぐそばで、これは渋谷区が某スニーカーメーカーに売り渡して改修、そこで生活していたひとたちを追い出した場所なわけである。どうやら改修工事も終わり、つい先ごろあれこれの有料施設をともなってオープンしたばかりのようである。まあとにかくふつうにちゃっちゃか上がって行けるようすではないことは見てわかった。そこは弱者には強いスニーカー屋だから、ぬかりなくやっているわけだろう。このあたりの空気はどうもあまり好きではない。

 観た映画はマイケル・ウィンターボトム監督の「キラー・インサイド・ミー」で、感想は下に。じつは、観終えてから銀座に移動して、周防正行監督の「ダンシング・チャップリン」を続けて観ようかとも思っていたのだけれども、その「キラー・インサイド・ミー」の上映が終わってロビーに出ると、つぎの映画を観るために並んでいるお客さんでロビーはあふれていて、つまり水曜日のサーヴィスデーだとこういう感じになるわけだ。これは銀座はもっとひどいだろうと勝手に予測して、外は天気もいいわけだし、なにも暗い部屋のなかにこもることはないさと、さっさと銀座行きは中止。それでかわりに上野にでも行って、博物館の常設展示でも観たり、公園でぶらぶらしたりしようではないかということにした。動物園に行くというのも、いいかもしれない。

 渋谷からだと、上野に行くには地下鉄の銀座線かJRの山手線のどちらか、ということになるけれど、せっかくひざしが心地いいのにまた地下にもぐることもないだろうし、上野駅のコンコースはもう改修が終わっているだろうのをまだみたことがないので、山手線で移動。それで駅内をぐるりと歩いて、なんだか大宮駅みたいになってしまったなあ、みたいな感想。売店でビールとおつまみを買って、これでもって公園で「遅れてきたお花見」でもやろうかと。
f:id:crosstalk:20110519172759j:image:left 公園口から外に出て歩くと、公園の中央部分がぜんぶフェンスでかこまれ、のぞいてみるとあの噴水池がなくなってしまっている。まさか地震のせいではないだろうに、いっしゅんギョッとする。大規模な改修工事中。フェンスにそって歩き、修学旅行の少年少女たちとすれ違いながら国立博物館のまえまで行く。いまは写楽の展覧会をやっていることは知っている。さいきんの研究で写楽の正体は(ついに)すっかり割れてしまっているわけで、そのあたりを取り入れての展示なのだろうか。つまり写楽イコール斎藤十郎兵衛という阿波の能役者ということで、わたしは写楽ってあんまり絵が上手でなかったりするとは感じていたので、絵師ではなく役者だったということに納得する。写楽がいいのはほんとうに何枚もなく、ただその何枚かが飛び抜けていいわけだけれども、それで「写楽展」などをぜんぶ観てみたいという気分にはならない。

f:id:crosstalk:20110519172845j:image:right 常設展の方だけを観ようとすると、ラッキーなことに、ちょうどこの日は常設展示だけならば無料解放されているのであった。ふだんは600円だったか入場料はかかるので、こんな日に「博物館へ行ってみよう」と思ったことがうれしくなる。本館まえにある池のわきの喫煙ベンチで、おつまみを食べながらビールをのんで、さらにタバコをすってリラックスする(博物館はまだあちこちでタバコをすえるというのが、たいへんによいのである)。ひざしは少し強いぐらいかもしれないけれど、わずかに吹いている風が心地よい。目のまえの池では、いくつか蓮の花も咲いている。ひとびとは、日本の文化の粋を観たくって博物館にのみこまれて行くし、観終わったらしいひとたちは、それなりに満足した表情で外へ歩いて行く。そんななかでわたしは不謹慎にもアルコールを飲んでいるけれど、だれもそれをとがめたりはしない。こんなに気もちのいい時間をすごしたことなんて、近年ではまるで記憶にない。安上がりな「お楽しみ」だったわけで、路傍でカップ酒などを飲んでいるひとたちの幸福感もわかるような気がする。わたしとの距離はあまりないわけだ。

 さて、博物館に来たならば、それはもう東洋館に行かなくては気がすまない。わたしにとってこの博物館の東洋館はとっておきのお気に入りスポットで、何が展示されているからいいというのではなく、その薄暗さ、ひと気のなさこそがいいと思っているんだろう。とにかくただゆっくりと東洋館のなかの展示を観てまわるのがいいのである。それで東洋館に向かうと、これは悲しいことに、東洋館は来年まで改修工事で閉館しているのであった。どこもかしこも改修工事ばかりである。それではと、本館のなかを急ぎ足でぐるりとまわってみる。なんだか展示の仏像の数とかが少なくなっている。全体に「こんなものだっけ」という展示で、あまりこころに残るものもなかった。
f:id:crosstalk:20110519172930j:image:left 外に出て、またベンチでタバコをすっていると、アジア関係の展示は表慶館の方でやっているという掲示に目がとまり、「そっちへいってみようか」と、足を向ける。表慶館はいぜんは縄文文化とか弥生文化の展示中心で、あまりピンと来る展示ではなかった記憶もあり、ほとんど足を踏み入れたことはない(ふだんは閉館していたのかもしれない)。中もせまいのである。で、こんかいは、プチ東洋館としてちゃんといい空間をつくっていた。この暗さ、そして静けさはまさに東洋館のものである。展示を観て行くとエジプト美術のコーナーになり、はたしてエジプトが「東洋」か、ということはあるけれど、ここでじつに久しぶりにエジプトの魚の神、オクシリンコスの像を観ることができた。これはずいぶん前に東洋館で展示されていて、わたしのいちばんのお気に入りだったものだけれども、展示替えでその姿を消してからずいぶん経つ。ここでこうやって再会できるとは思っていなかった。写真撮影OKなので撮ってきた。この、どこかユーモアを含んだような優雅な姿。エジプト美術にはあれこれのすばらしい神像があるけれど、わたしにはこの魚神像がいちばん、なのである。めぐりあえてうれしかった。

f:id:crosstalk:20110519173054j:image:right 時間があるので、法隆寺宝物館もひととおり観てまわった。ここはこの館が開館したときにいちど来て以来になるだろうか。そのときは観客が多くってざわざわしていたけれど、この日は静かである。小さな観音菩薩像がいくつも林立した部屋とか、この建物も暗くて静かでいい。また秋にでも、静かなときをここで過ごしに来てみたいものである。
 しかし、さいきんはあまり歩いたりしていないので疲労度が高い。上の階に階段で上がったあとは、エレベーターで降りたくなってしまう。

 震災後、海外からの観光客が減ったような報道は見聞きしているけれど、この博物館にはそれなりに海外からの観光客の姿が目につく。本館地下のミュージアムショップに立ち寄ってあれこれ見て歩き、歌川国芳の描いた猫の浮世絵の絵はがきを三枚ほど買った。ニェネントに見せてやりたい。

 上野駅から宇都宮線でターミナル駅まで出て、まだ明るいうちに帰宅。さすがにちょっと疲れて、駅前のスーパーでお弁当を買ってきて夕食にした。どうやらニェネントの発情期はおさまったようだな、などということを確認してから、バタリと寝てしまった。

 

 

[] 「キラー・インサイド・ミー」マイケル・ウィンターボトム:監督 ジム・トンプソン:原作  「キラー・インサイド・ミー」マイケル・ウィンターボトム:監督 ジム・トンプソン:原作を含むブックマーク

 ジム・トンプソンの原作は、ずいぶんむかしに読んでいる。これはちょうど河出文庫がパトリシア・ハイスミスの作品を文庫化しはじめたころにいっしょに文庫で出したもので、それはおそらくハイスミスの作品とジム・トンプソンの作品に、なにか通底するものがあるとして、いっしょに売り出そうとしたものではなかったかと、そう考えている。ハイスミスの作品にはふつうの市井の人物があるきっかけから犯罪に足を突っ込んで行く心理が描かれているわけだけど、このジム・トンプソンの原作(「内なる殺人者」というタイトルだった)では、やはり犯罪者の心理が克明に描かれていたわけである。やはり一人称独白のように描かれた原作で、主人公はまずは正義感の強い保安官補として登場するのだけれども、これが読んでいると、「こいつ、ぜんぜんまともじゃないじゃないか」という異常性をあらわにしてくることになる。ハイスミス作品では登場人物はある程度ノーマルで、そのノーマルさが犯罪に染まって行く過程が恐ろしいという読み方ができるけれど、「内なる殺人者」では、主人公は実は狂っているわけである。その狂気を自己正当化する心理が、一人称独白によっておぞましくも見事に描かれていたあたりが原作のおもしろさで、まあハイスミス作品の登場人物もおぞましくも狂ってしまうことはあるけれど、そこには理性との葛藤があったりはする。「見知らぬ乗客」で主人公に交換殺人を持ちかける男はさいしょから「狂っている」という見方もできるけれど、こういう登場人物はその後のハイスミス作品にはもう登場せず、ふつうのひとが犯罪のスパイラルにのみこまれてしまうという彼女の作品の基本には、外部からのつよい影響で犯罪に足を踏み入れてしまうという構造があり、そこには先に書いたような、自己と外の社会との葛藤が存在する。ところが、ジム・トンプソンの作品「内なる殺人者」には、そういう内と外との葛藤というのは存在しない。同じように犯罪者の心理を克明に描くといっても、ハイスミスとトンプソンとでは根本がちがっているということになる。そういう意味で、「内なる殺人者」の主人公には外的社会は存在せず、これはすべて主人公の欲望の織り成す幻想世界についての描写なのではないのか、ということになる。プロットなどはほとんど忘れてしまっているけれど、これがわたしの「内なる殺人者」の感想になる。

 それでこんかいの映画化された「キラー・インサイド・ミー」になるのだけれども、まずは監督がマイケル・ウィンターボトムだというあたりに、観る方としては期待してしまうことになる。例えば彼のデビュー監督作だった「バタフライ・キス」など、もうほとんど忘れてしまっているけれど、いっしゅ行きっぱなしの愛の話ではあったかもしれないし、「日陰のふたり」とか「アイ ウォント ユー」とかにも(やはり忘れてしまっているけれども)そういう共通する何かがあったかもしれない。とにかく、娯楽作として妥協してしまうような作品をつくるような監督ではないだろうという期待はある。さいきん彼の監督作品をほとんど観ていないけれど、それはほとんどわたしの怠惰ゆえ、ということになる(彼のフィルモグラフィをこれを機会にみてみると、近年ではスターンの「トリストラム・シャンディ」を映画化したものもあるような。これはものすごく観たい)。
 それと、この作品で主人公のルー・ハーディを演じているのがケイシー・アフレックだというのも、観てみたいという気を起こさせられた理由ではある。このひとがすごいと思ったのは、何年かまえの「ジェシー・ジェームズの暗殺」での印象に残る演技で、つまり、なにげない顔をしてさらりと卑劣なことをやってしまうというか、あの「卑怯者」キャラクターをああやって演じた俳優であれば、この「内なる殺人者」の主人公のアブノーマルさをきっとみごとに演じてくれるだろう、という期待はあったわけである。

 それで映画本編。やはり原作のように主人公のモノローグを入れての進行なのだけれども、じつは核心のところでその主人公がなにを考えているのか、ということはみごとにオミットしている。これがこの作品ではうまくいっていて、モノローグのぶぶんは主人公のノーマルさを浮き立たせ、ところが映像では主人公ではそのノーマルさを裏切る非道さを際立たせることになる。だから主人公のなかにごくふつうの常識人と、そこからは想像できない人非人ぶりとが同居しているということが、原作以上にはっきりと示されることになると思う。「愛してる。すぐ終わる」と語りながら唐突に女性を殴り殺そうとする主人公が観るものに与えるショックは、そのケイシー・アフレックのなにげない顔とあわさって、尋常のものではない。ウィンターボトムの演出も、原作のストーリーを追うように見えながら、おそらくはストーリーなんて重視していないというか、この異常な主人公の造型をきっちりと組み立てることにのみ専念しているようではある。
 わたしはもうほとんど(例によって)原作をおぼえてなどいないのだけれども、おそらくたしかにこのようなストーリーだったとは思う。しかし、あきらかにある一点から先はこれは主人公の妄想というか、まちがいなく非現実として演出されている。しかしお膳立てはとにかく現実と見まがうようになっていて、もうここからあとはほとんどデイヴィッド・リンチの世界というか、現実とも非現実ともつかない、主人公にとっては甘美なことであろう破滅の世界がくりひろげられる。
 医師の息子として教養ある環境に育った主人公は、書斎にすわってマーラーを聴く。書棚には膨大な量の書物が並んでいる。いっぽうで舞台となったアメリカ西部の荒んだ環境はBGMのカントリー・ミュージックなどでもあらわされ、とくにラストのSpade Cooley & His Western Band による「Shame On You」の、その一見陽気な曲調と辛らつな歌詞との対比は強烈である。ぜんたいにそういうカントリー・ソングの連なりでストーリーを引っぱって行く演出はみごとなもので、ここはさすがにマイケル・ウィンターボトムであると、うならされてしまうのである。もういちどでも何度でも観たいと思わせられた、わたしにとってはすばらしい傑作である。やはりこの映画を観てよかった。






 

■ 2011-05-17(Tue)

 きょうはちょっとくもり空。気温もそれほど高くはないようだけれども、これはきょうも室内に引きこもっていたのでよくわからない。あしたはしごとが休みなので午後からどこかへ出かけようかとも思ったのだけれども、映画館のスケジュールを調べたりすると、いまちょっと観たい映画が、あしたの水曜日ならサーヴィスデーで千円で観ることができる。モーニングショーで観たいものがあって、あしたのあさ早くに出れば開映にじゅうぶん間に合うわけで、あした出かけることにした。レイトショーというのはどうしてもあちらで夜を明かすことを覚悟で観なければならないので、こちらに転居してからはいちども行ったことはないけれど、午前十時ぐらいからのモーニングショーはOKである。午前八時開映はムリ。

 ぜんかい上京したときに、六月には「ヘルツォーク傑作選」というのがあるという情報は仕入れていて、これはいくつか観に行きたいと思っている。それで、そういえばユーロスペースできょねん仕入れた情報では、グラウベル・ローシャ作品の連続上映が2011年陽春だったではないかなどと思い出し、調べるとこれも六月に開催されるようである。全五作品、これはぜんぶ観たいと思っている。まあしばらくは舞台関係で観たいというものもないようだし、六月は映画三昧になる予定。しかし、六月はやってくるのだろうか。

 きのう図書館にDVDを返却し、「もう新しく借りないこと」と決めているのに、ついウンベルト・エーコの「カントとカモノハシ」を借りてしまった。それといっしょに、天沢退二郎の1997年の「胴乱詩篇」というのも借りた。きょうは「カントとカモノハシ」を読み進め、ヴィデオで、ルイス・キャロルの「アリス」を題材にしたものを二本観てしまった。

 

 

[] 「ふしぎの国のアリス」(1951) クライド・ジェロニミ/ハミルトン・ラスク/ウルフレッド・ジャクソン:監督  「ふしぎの国のアリス」(1951) クライド・ジェロニミ/ハミルトン・ラスク/ウルフレッド・ジャクソン:監督を含むブックマーク

 映画がはじまって、タイトルのバックに音楽が流れる。ああ、これはビル・エヴァンスがあのヴィレッジ・ヴァンガードでのセッションで演奏していた曲ではないですか。ビル・エヴァンスはやはりディズニー・アニメの曲「いつか王子さまが」とか「星に願いを」もやっているし、ディズニーじゃないけれど、「リトル・ルル」という曲もアニメの主題曲だった。エヴァンスは意外とアニメファンだったのかもしれない。というか、きっとそうだったに違いない(まあディズニー作品の音楽はクオリティ高いので、ジャズで取り上げられることは多いんだけれども)。

 わたしのあたまのなかではどうしても、「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」がごっちゃになっていて、「やっぱ、アリスでいちばん好きな話は<セイウチと大工>なんだけど」と思っていたりして、この「セイウチと大工」はじつは「鏡の国のアリス」のなかで語られるのだなどということは、ぜんぜんわかっていなかったりする。それは、ひょっとしたらわたしが小さいころに、このディズニーの「ふしぎの国のアリス」を観たせいなんじゃないかと思ったりもするけれど、年代的には観ているはずはないのだとも思う。でも、このディズニーの「ふしぎの国のアリス」には、「鏡の国のアリス」から越境して、この「セイウチと大工」の挿話は出て来るのであった。ちゃんとカキを食べちゃうかどうかハラハラしたけれど、意外にも原作どおりに、残酷にもカキをみんな食べちゃうのでうれしくなってしまった。ディズニーがこんな残酷なこと描くなんて、という感じ。

 しかし、ディズニーがじっさいの「アリス」のテニエルの挿画にあるヴィクトリア王朝風のアリスを描くはずもなく、キャラクター・デザインはすべて大幅に描き変えられている。これは仕方がないだろうけれども残念である。原作のナンセンスことば遊びも希薄で、だったらアニメなんだからもっと映像的に奇想を盛り込んでもいいんじゃないかという気もちも、かなり裏切られる。「ダンボ」のなかの、ピンクのゾウのダンスなんかはよかったのになあ、などと思う次第である。このあたりは演出家のイマジネーションがためされるわけでもあり、そうするとやはりシュワンクマイエルの「アリス」はおもしろかったなあ、ということになる。ちょっとおもしろかったのは最初の方、アリスがウサギ穴の底でドアノブと会話して、ドアノブが「あそこにテーブルがあるだろう」というと、それからテーブルが姿をあらわす、というふうに、すべてドアノブのことばが先行して、彼が語るものが語られたあとで姿をあらわすというあたり。


 

[] 「アリス・イン・ワンダーランド」(2010) ティム・バートン:監督  「アリス・イン・ワンダーランド」(2010) ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 きょねん映画館で観て、これがちっともおもしろくなかったわけだけれども、小さいTVモニターで観たら印象が変わるだろうかとまた観てみた。やっぱりつまらなかった。

 だいたい、ルイス・キャロルの「アリス」のひとつの魅力は、世間一般の常識だとか、処世訓だとか、経済原理などを無視したうえで、本のなかでの「ナンセンス」の支配する「別世界」を構築したということを本のなかで楽しむということなのであって、そういう原作を面白がった読者が、父の経済原理を継承してアジアに進出しようとするアリスなどみたいと思うのだろうか、分別をもって「王子様なんてあらわれないのよ」と語るアリスをみたいだろうか、ということになる。あの世のルイス・キャロル(チャールズ・ドジソン)がこの映画を観ることがあるならばどんな反応を示すか、だれでもあるていど想像はつくだろうと思う。

 しかし、なんでティム・バートンは、こんな、「ファンタジーの否定」みたいな、しかも大英帝国オリエンタリズムなラストを持つこんな作品をつくってしまったんだろう。ひとついえるのは、やはりこの映画での「アリス」は、これは人違いの「アリス」だったのだろうということがある。つまり、じっさいにルイス・キャロルがモデルとした「アリス」はアリス・リデルという名まえだったことはかなり有名な事実で、そうするとこの作品でのアリスの名まえ、「アリス・キングスレー」はやっぱり別人だろうということになる。そうするとこの作品は、あの「アリス」と間違えられてしまって、それでも「じぶんは<アリス>だ」と思い込んでしまう女性の話ということになる。だからこの作品、(19世紀的な)アリスの取り違え、ということにはなるのかもしれない。そこでまあラストの阿片(ドラッグ)へのほのめかしもあるんだろうけれど、そう解釈して多少でもこの作品がおもしろくなるかといえば、まったくそうではないあたりが悲しい。

 思い出してみると、ティム・バートン、「猿の惑星」以降、観てほんとうにおもしろいと思える作品がないんじゃないか、という感じはする。ディズニー的な足かせは早くはずしてしまった方がいいのではないかという感想。




 

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■ 2011-05-16(Mon)

 夢をみて、どうやらきのう観た「千と千尋の神隠し」のヴィジョンがその夢に反映していたのかもしれない。わたしはどこか清潔な石畳のうえの細長い空間にいて、そこはなにかの劇場の搬出口のようなところなのか、わたしは荷物を手元においていて撤収を待っているようである。あたりを照らす明るい照明の美しい夜で、わたしは見知らぬ年輩の女性に案内されて、搬出口かなにかへ行く。そこでは次の舞台の準備をやっているようで、奇怪な形状のふたつのクリーチャーが動いているのがみえる。身長2メートル以上はありそうなクリーチャーの身体は陶器のように白く、足はつるりとした木の幹のようなかたちにみえる。その腰の周囲にぐるりと白い乳房のようなものがいくつもぶら下がっていて、そのひょうたん型の乳房のせんたんの、乳首の周囲には赤い線が放射状にみじかくきざまれている。わたしを案内してくれた女性はそのクリーチャーの知り合いのようで、なにかあいさつをかわしている。そのときにその女性の化粧の濃い顔がわたしのまぢかにあるのだけれども、その彼女の姿は、いま思えば「千と千尋の神隠し」の「湯婆婆」の姿を現実的に変形したものではなかったかと思える。クリーチャーの姿をみたわたしはそれはマシュー・バーニーの「クレマスター」なのじゃないかと思うのだけれども、これは夢をみているわたしが夢のなかで考えたのか、目覚めてから夢を思い出してそう思ったのか、もうわからなくなってしまった。

 きょうも、しごとに出てそのあとにドラッグストアに買い物に行ったいがい、ずっと家に引きこもっていた。ドラッグストアで賞味期限間近いピザを半額で売っていたのを買い、昼食でそのピザを食べた。とてもおいしかったので、ニェネントに「おいしいねー」と語りかける。ニェネントはピザなど食べられないので、あげたりはしない。ニェネントの「サカリノさん」はまだまだ継続中で、わたしのそばに寄ってきては「腰を叩いてちょうだい」と、おしりをわたしに向けてくる。

 東京電力はいまになって、福島原発でメルトダウンが早い段階で起きていたことを公表した。どうせ知っていて隠していたんだろうということだけれども、原発事故が明らかになってすぐに「メルトダウンが起きた」といわれれば、たしかにもっとパニックになっていた可能性はある。わたしもあのときは「炉心融解にはいたっていないようだから落ち着いていよう」などと考えていた記憶はある。しかしことは福島県の原発周辺の住民にとっては、まるでそのようなことではない。落ち着いている場合ではなかったことになる。パニックをおさえ、正しい情報を知らせることが政府や東京電力に求められていたわけなのに、そうはなっていない。

 きょうも、ヴィデオを一本観た。

 

 

[] 「山猫」(1963) ルキノ・ヴィスコンティ:監督  「山猫」(1963) ルキノ・ヴィスコンティ:監督を含むブックマーク

 じつはこれが初見。イタリア語完全復元版での放映で、186分。ヴィスコンティのそれ以降の作品への転機になった作品だということは知識としてあったけれど、どうもはじまってしばらくはよくわからないというか、観ていてもそれ以降のヴィスコンティを思わせるようなものではないじゃないかという感じなのである。シチリアの風景は美しいのだけれども、焦点が定まらないまま時の経過だけが提示されているような印象で、主人公サリーナ公爵(バート・ランカスター)の行動にも惹かれるというものでもない。ところが、そのサリーナ公爵のもとに新生イタリアでの上院議員の地位を依頼する使者が訪れ、公爵がそこでついにじぶんの運命感というか死生感というか、つまりホンネを語るところで、「そうだったのか」とばかりに、観ているわたしはがぜん覚醒する。大きな時代の転換点のなかで、サリーナ公爵はもう貴族階級の役割は終わったと考えている。いまはただ永い「眠り」のなかに身をゆだね、「官能的な死」をこそ待ち望んでいると語る。だから彼の行為はつまり「無為」であり、それまでの(この使者との対話の場面までに、すでに映画は二時間近く進行している)展開は、ここにきてようやくその意味が了解されることになる。このあとに、公爵がダメ押しのように壁にかけられた絵画(この絵の題材は「サルダナパールの死」なのではないかと思ったけれど、ベッドの上で死にゆく人物はあまり貴族っぽい感じではない)を前にして皆の前で「死」を語る、やはり印象的なシーンがあり、そしてついに、クライマックスの舞踏会へとなだれこむ。

 舞踏会というのはいろんな映画作品で描かれてきたものだけれども、これだけゴージャスで、しかも哀しい舞踏会を描いた作品などありえないだろう。カットごとに次々に、それぞれがあまりに圧倒的な映像が連続する。そのなかで、まるでその舞踏会に背を向けるような主人公の姿が、目に焼きつけられる。その公爵が未来を託す自分の甥(アラン・ドロン)の、成り上がりブルジョワジーの娘である婚約者(クラウディア・カルディナーレ)の求めに抗しきれずに、かのじょとふたりで踊るシーンなど、もう涙で画面が見えなくなってしまうのである。うーん、ヴィスコンティがプルーストを映画化したいと考えていたのもむべなるかな、という感じで、これはどうしても「失われた時を求めて」の最終章、「見い出された時」の舞踏会を想像してしまうわけである。

 いやあ、ヴィスコンティは、やっぱりすごい! という一編で、観終えたあともしばらくは、興奮状態がおさまらないのであった。





 

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■ 2011-05-15(Sun)

 ニェネント、うるさい。腰のあたり、しっぽのつけ根ふきんをポン、ポンと叩いてやるのがいちばん気もちがいいらしいのだけど、それでやってやるとやめてからも「もっとやって」と、せがんでくるのである。食事のことも忘れて狂っている。

 きょうもあさから晴天で、やはり出かけたくなるのであるが、なんだかんだでけっきょくスーパーへの買い物いがいの外出はしない。さいきんはなんだか引きこもり気味の生活である。よるはカレーをまた大量につくった。

 じつはせんじつ図書館に借りていた本を返却したときにDVDで宮崎駿の「千と千尋の神隠し」がめずらしく空いていたのを借りて来ていて、それを午前中から観てしまった。宮崎駿の作品ではコレと「ハウルの動く城」あたりをちゃんと観ていないのだけど、この「千と千尋の神隠し」は、意外なおもしろさにあふれる作品だった。観終わって過去の宮崎駿作品のこととか思い出していて、コミック版の「風の谷のナウシカ」のラストって、ちょっと震災/原発事故後のいまの情況に重なるように思えてしまった。まさに大気の汚染された世界で、いったいどのような生き方を選ぶのか。わたしは「ナウシカ」のラストをしっかりとは記憶していないので(たしかナウシカは腐海を消すことが出来るという種族(?)の路線を拒否して、ひとびとに腐海とともに苦難の道を生きることを選ばせるのだったような)、これはもういちど読み直してみなければ何ともいえないけれど、ナウシカの決断にわたしは納得していなかったわけである。はたしていま読んでどうなのだろう。

 

 

[] 「千と千尋の神隠し」(2001) 宮崎駿:監督  「千と千尋の神隠し」(2001) 宮崎駿:監督を含むブックマーク

 バブル以降の世界などの、背後に示される寓意、風刺もふくめて、ひじょうにおもしろく観ることが出来た。いっしゅの奇想にもあふれていて、宮崎駿の作品ではひょっとしたらコレがいちばんかもしれない。物語の展開は唐突で、打ち上げ花火のように思いもかけぬ新展開がつづき、あたらしいキャラクターも脈絡なく登場する。展開もかなりのご都合で強引に押し切られていたりもするけれど、わたしなどはここにたとえば唐十郎の舞台を観るような楽しさを感じてしまうことになる。それはひとつにはその舞台になる場所が「遊廓」という造型になっているせいかもしれず、つまりそこに子どものためのものではない、おとなのノスタルジーを刺激するものがあるためだろうか。


 

[] 「贋作」パトリシア・ハイスミス:著 上田公子:訳  「贋作」パトリシア・ハイスミス:著 上田公子:訳を含むブックマーク

 終盤はちょっと帳じり合わせにいそがしくなってしまった印象はあるけれど、ハイスミスはこんなおぞましいことも書くのかとも、そのことをいかにもハイスミスらしいではないか、ともいえる気がする。これはつまり死体処理のデティールの描写のことで、「ひとを殺めることよりも、その殺められた死体をどうするかということこそが、殺人のいちばんのもんだい(懸念事項)なのだ」ということを延々と述べたような作品でもあるし、そんな描写の一方で、美術作品をめぐるその作家と社会とのもんだいもまた、プロットにうまく練り込んでいる印象もある。ハイスミスの作品の登場人物には建築家だとか小説家など、表現行為にたずさわるものが多いのだけれども、その、「表現する」ということこそが主題になっているという意味でもこの作品はとくべつなものでもあって、いっしゅのアート・ミステリーとして、希有のものだということもできるし、その「アート」をプロットに埋め込んだ作品として説得力もあり、ミステリーをはなれた「芸術家小説」としてもじゅうぶんに読みえるではないか、ということになる。記憶に残る作品だと思うし、やはりハイスミスは偉大である。





 

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■ 2011-05-14(Sat)

 いちねんでいちばん快適な季節(秋にももういちどあるけれど)の、そのまた快適ないちにち。こういう日は家にこもっていないで外に行きたくなるけれど、それで映画館だとか劇場のなかにこもってしまうのもつまらない。しばらくこういう晴天がつづくらしいので、そのうちになにか気もちのいいお出かけをしてみたい。そろそろ部屋の窓をあけっぱなしにしておいていい季節なのだけれども、ニェネントがいるのでそうもいかない。

 また部屋のなかにハエがいて、ニェネントが追い回している。前あしでうまくハエをはさみこんで落としたりはするんだけど、あまり力を入れてないんだろう、落とされたハエはまた飛んで行ってしまう。それでまたニェネントが追う。みていて楽しい。
 ニェネントの「サカリノさん」はまだつづいていて、疲れる。やはり不妊手術をほどこしてあげた方がいいだろうか、などと考える。不妊手術をやってあげれば外に出られるようにしてやってもいいように思うけれど、外からノミを連れてきたり、病気に感染してしまったりすることもあるだろう。飼いネコの幸せとは、ネコにとってどういう状態から来るのだろう。

 食卓にベランダで収穫したクレソンをのせるようにしている。三年かかってようやくの収穫。ただ、いまはまだ花盛り状態。花の咲いているのをよけるとそれほどたくさんとれるわけでもない。思ったほどかたくはなく、いろんな料理に使えそうである。きょうは白菜の炒め物にいっしょに入れて食べた。

 ハイスミスの「贋作」を集中して読み、あともうすこしで読了。ヴィデオをまた一本観る。

 

 

[] 「大列車強盗」(1979) マイケル・クライトン:監督  「大列車強盗」(1979) マイケル・クライトン:監督を含むブックマーク

 原作者のマイケル・クライトンみずからが監督した、19世紀イギリスでじっさいに起きた金塊強奪事件をもとにした映画。さすがにきのうの「トム・ジョーンズの華麗な冒険」のあとでは「なにがおもしろいんだか」という感じで、役者のそれぞれの良さもほとんど引き出されていないように思える。ただ、ラストの、主犯のショーン・コネリーが裁判所前から手錠を外して逃走するシーンが、よかったのであった。


 

[] 「薔薇盗人」上林暁:著(「昭和文学全集 14巻」)  「薔薇盗人」上林暁:著(「昭和文学全集 14巻」)を含むブックマーク

 しばらくまえに読んだ作品。上林暁などという作家など、わたしにはまったく縁がないというか、こうやって「昭和文学全集」などというものを買い込んでいなければ、読む機会など永遠になかっただろう。
 このひとは、奥さんが精神を病んで入院することから「病妻もの」の短編の連作で戦後に名をなす作家らしいけれど、この「薔薇盗人」は作家三十歳のときの、さいしょに注目された作品らしい。カチッとした短編で、なんとなく芥川龍之介とかの作風を連想させられる気がする。ということで、こんどは芥川龍之介もちゃんと読み直したくなったりもすることになる。

 ひじょうに映像的、色彩的な作品で、映画のようにロングショットやクローズアップ、移動撮影みたいなのをうまく組み合わせているような感じでもあるし、前半の色彩の乏しいような描写のなかで、とつぜん幼い少女の胸にクローズアップされる薔薇の花の、そのおそらくは赤い色彩が、「シンドラーのリスト」の花の色のようにこころに刻まれる。視点の移動のしかたもちょっとおもしろくって、客観描写に徹するのかな、などと思っていると、主人公少年の担任教師の少年への視線がふっとまぎれこんできたりする。それで主人公少年の内面には決して踏み入らないあたりに、この小説の成功があるようにも思う。ただ、主人公の環境をつつむ貧困などの描写は通り一遍で、そのあたりに深いリアリティはないわけだけれども、このリアリティのなさが、ぎゃくにラストのちょっと夢幻的な光景(となり村へ芝居を見に行く)を引きたたせているかもしれない。もうちょっと夢幻的に書けたような気もするし、その方がよかったような気もするんだけれども。





 

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■ 2011-05-13(Fri)

 ニェネントはあきらかに発情期で、わたしはネコの発情期というのは三、四ヶ月ごとぐらいだろうと、ひじょうに甘い考えをもっていたけれど、とんでもないのであった。まあさいしょのときのようにはあまりなき叫ばないように感じるのは、たんにわたしも二回目でなれてしまっただけなのかもしれない。すぐにわたしのそばにすり寄ってきて、すわりこんでそこでじっとしていることが多い。それで腰をなでるというか、押してやる感覚で刺激をあたえると、からだをよじらせて興奮する。そういうのをもっとやってほしいのか、わたしの腕とかをペロペロなめてくるのである。

 あさは曇っていたのがしごとの終わるころには空も晴れてきて、帰ってから洗濯をいっぱいした。ひるは暑いくらいにまでなったけれど、ゆうがた近くになって洗濯物を取り込むと、しばらくしてまた雨になった。いいタイミングの洗濯だった。

 「ローリング・ストーン インタビュー選集」のつづきを読む。きょうはジョニー・キャッシュ、ニール・ヤング、オリアーナ・ファラーチ(イタリアのジャーナリスト)、ブライアン・ウィルソン、ジョージ・ルーカス、ジョニー・カーソン、ジョニ・ミッチェル、そしてフランシス・コッポラまで。コッポラへのインタビュアーはグリール・マーカスで、きょう読んだものではやはりこのインタビューがいちばん刺激的。まあ聞き手の話のひきだし方にもよるけれども、ジョージ・ルーカスなんて何を寝ぼけたことをいっていることか、という感じになってしまう。しかし、時代がらということか、どのインタビューにもたいていドラッグの話がとびだしてくることになる。アメリカという国の60年代、70年代を語るにはドラッグの話題ぬきには不可能だということになるのか。

 ハイスミスの「贋作」も半分ぐらいまで進む。自分自身もアーティストではあるが、贋作に手を染めてしまい、その贋作とはいってもオリジナルな作品だけは評価されるアーティストの悲劇と、ひとを殺めてその死骸を処理するという、常軌を逸した「労働」の産む疲労感というのが支配する作品。死体の処理についてはコーエン兄弟のデビュー作「ブラッドシンプル」を思い浮かべてしまう。コーエン兄弟はこの「贋作」を読んだうえで「ブラッドシンプル」をつくったんじゃないか、とさえ思う。楽しいヴィデオを一本観た。

 

 

[] 「トム・ジョーンズの華麗な冒険」(1963) トニー・リチャードソン:監督  「トム・ジョーンズの華麗な冒険」(1963) トニー・リチャードソン:監督を含むブックマーク

 このトム・ジョーンズというのは、ラスヴェガスで腰を振って歌っているエンタテイナーのことではない。18世紀のイギリスの小説家、ヘンリー・フィールディングの小説の主人公の名まえなのである。わたしはフィールディングの作品はどれかしら読んでいるんじゃないかと思っていたけれど、それはリチャードソンの作品との勘違いで、まだどれも読んでいないのだった。それでつまり、そのサミュエル・リチャードソンの作品というのはいっしゅの道徳律につらぬかれた作品で、わたしがむかし読んだ「パミラ」なんてつまりは裏返しのサドみたいなもので、「美徳は救われる」という基本姿勢は、読んでいても「これは冗談かパロディ小説なんだろう」と思わずにはいられなかったものである。で、このフィールディングというひとは、そういうリチャードソンの説く道徳というのは社会の実相を写しているわけでもなく、それは偽善なんじゃないかみたいな視点から小説を書きはじめたということらしい。だから逆リチャードソンなんだけれども、リチャードソンはリチャードソンでそういうイギリスの社会をとらえて描写するには巧みだったわけで、そういうところはこのフィールディングもしっかりと継承していることになる。これが19世紀になるとそういう社会の虚飾とか偽善への告発はもっと明確になり、また民衆のエネルギーを書き写すのも巧みになるわけになる。つまり、一方でサッカレーが登場し、一方でディケンズが登場することになる。だからサッカレーの原作になる「バリー・リンドン」の描く世界と、この「トム・ジョーンズ」で描かれる世界との差異というのは、つまりは18世紀と19世紀市民社会の視点との差異だろうかなどと考えるのだけれども、ほんとうにそうなのかということは、フィールディングなんかこれっぽっちも読んでいないわたしにはなんともいえないのである。それでも、キューブリックの「バリー・リンドン」と、このトニー・リチャードソンの「トム・ジョーンズの華麗な冒険」とは、あれこれ比較してみても楽しいことにはなるだろうとは思うしだいである。ただし時間の余裕がないので、ここではそういうことは書いている余裕はない。ただ、キューブリックは「バリー・リンドン」をつくるまえに、この「トム・ジョーンズの華麗な冒険」を観て、ずいぶんと参考にしていることはまちがいないだろう。

 まあここで書いておきたいのは、やっぱりトニー・リチャードソン監督というのはすごい、ということで、こういう演出技術をもった監督というのはすっかりお目にかかることが出来なくなってしまったいま、こういう作品を観るとほんとうに新鮮だなあと思うわけである。そもそもがこの原作がそれなりの長さがあって、まあ読んでいないから何ともいえないけれども、まともに映画化しようとしたら三時間とか四時間とかかかっちゃうだろうと想像できるし、しかもこの映画ではたとえば前半の鹿狩りのシーンとか、ものすごい時間と労力をさいて描くわけで、空撮まで取り入れたこのちからの入れようはなんだろう、ということになる。ひょっとしたらトニー・リチャードソンはこの鹿狩りのシーンを撮るためだけにこの映画をつくったんじゃないの、などとまで想像してしまうわけである。
 この作品での登場人物は、ほとんどカリカチュアライズされているわけだけれども、それはつまりは18世紀のイギリスの風景と、それとフィールディングの小説で読み取れる18世紀イギリス人の精神とをフィルム上に再現、定着させようという意志の結果ではないかと思う。ここでキューブリックの「バリー・リンドン」とリンクする部分が浮上してくるだろうとわたしなどは愚考するわけだけれども、書かない約束だからそのことは省略。ただここでは、トニー・リチャードソンの演出手法にのみ見惚れるわけになる。
 冒頭がサイレント映画的な演出ではじまるように、全編にわたって「ことば」よりも「絵」によって物語をつむいでいこうとする姿勢こそが、観客がこの映画を観て愉楽を与えられる要素のいちばんにあげられることであって、「ことば」の集積でできた原作を、ここまでに「絵」の要素に解体、再構築した監督の手腕はただものではない、ということになる。そこには、18世紀の「野卑」なイギリス、「虚飾」のイギリス、「偽善」のイギリスのなかに生きるひとにエネルギーの源泉をみた監督の、たんにフィールディングの原作ストーリーを映像化する以上に、「これをこそ描かねば」というエネルギーをみることになる。

 ひょうひょうとタイトル・ロールを演じるアルバート・フィニーももちろんすばらしいけれど、脇役にわたっての登場人物すべてがすばらしい。主人公の家庭教師のひとりが「どこかでみたことのある顔だ」と思っていたら、キューブリックの「博士の異常な愛情」でソ連大使を演じていた俳優だったり、いちばんイヤな男ともいえる主人公の甥を演じているのがデヴィッド・ワーナー、だったりする。しかしやっぱりここはヒュー・グリフィスがすばらしい。脚色のジョン・オズボーンのしごとも、賞賛されてしかるべき、だろうと思う。まれにみる愉しい作品だった。トニー・リチャードソンの作品をもっと観てみたいけれど、そうもいかないのだよな。





 

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■ 2011-05-12(Thu)

 きょう木曜日はスーパーが全商品10パーセント引きの日。あれこれのものもなくなってきたし、かなり大量に買い込む。スーパーまでの道ばた、住宅の庭、公園の植え込みなどに咲いている花がいろいろとある。名まえがわかるのはアヤメ、ツツジ、ポピーやヤグルマギクなど。スズランも道路のわきに固まって咲いているところがあるし、まだ咲いているチューリップもある。マーガレットや、大きいのでは藤の花。名まえを知らない花もいっぱい咲いている。アジサイの葉が育ちはじめてもいる。

 ベランダのバジルの芽がまえいじょうにたくさん伸びてきて、もうプランターの大きさからすれば間引きしないといけない。きょねんはぜんぜん発芽しなかったのに、調子がいいとまいただけ芽がでてくる。セシウムのおかげだろうか。

 現首相が浜岡原発いがいの原発の操業を容認したことにがっかりしていたのだけれど、その後の発言でエネルギー政策のすべてを見直すということらしい。とにかく「震災時に政権交代していてよかった」と、しんそこ思えるようなことをやってほしいのである。まだそこまで実感してはいない。

 ニェネントがへんにわたしにすり寄って来たりして、「おまえ、何やってんの」となでてあげたりすると、これがまた発情期の再発のようである。って、こないだ「サカリノさん」だったばかりじゃないの。ネコの発情期ってそんなに間隔がみじかいのか。前回ほどにはうるさくないたりしないのでいいんだけれども、わたしが部屋のなかを移動すると、わたしのまえでゴロリと横になって「このワタシのほてったからだ、何とかしてちょうだい」状態になる。わたしにいわれても困るわけだが、つまり不妊手術を決定しなくっちゃいけないのか。

 いまは読みかけの本がたくさんあって、あっちをかじっちゃほうりだし、それでこっちをかじってみたり、また新しいのをひっぱりだしてきたり、節操がないというのか。読んでいるとちゅうの本はアルベール・ベガンの「ロマン的魂と夢」、平凡社の「世界名詩集大成」のフランスのIV、小学館「昭和文学全集」の14巻め、そしてパトリシア・ハイスミスの「贋作」など。これに、きのうのよるから「ローリング・ストーン インタビュー選集」というのも読みはじめている。ピート・タウンゼント、ジム・モリソン、フィル・スペクター、ジョン・レノン、レイ・チャールズ、そしてトルーマン・カポーティあたりまで読んだ。トルーマン・カポーティへのインタビュアーはなぜかアンディ・ウォーホール(ほとんどインタビュアーの役目を果たしていないともいえる)だったりして、やはりこのインタビューが圧倒的におもしろい。あとはフィル・スペクターのとか。くわしくは別の機会に書くことにして。
 ハイスミスの「贋作」は、はやい段階でもうトムはひとを殺してしまった。前作「太陽がいっぱい」のデティールをあれこれと生かしながら、そのうえに、ハイスミス自体はタッチしていない映画版「太陽がいっぱい」の脚色からも、イメージを借用しているようでもある。かなりおもしろく、やはりこの時期のハイスミスは絶好調なのだろう。ヴィデオもまた一本観た。

 

 

[] 「他人の顔」(1966) 安部公房:原作・脚本 勅使河原宏:監督  「他人の顔」(1966) 安部公房:原作・脚本 勅使河原宏:監督を含むブックマーク

 原作は中学か高校のころに読んでいるけれど、うわべのストーリーいじょうのものを読み取れていたわけもないし、この映画版ははじめて観る。スタッフの豪華さにおどろくというか、まずは音楽が武満徹で、キャッチーで印象的なワルツを聴かせてくれる。それで美術には磯崎新の名もあるし、病院の診察室などに三木富雄の作品がいっぱい使われている。タイトル部分は粟津潔のデザインだし、そうそう、脚本はやはり「砂の女」につづいて安部公房自身。出演者にもなんと入江美樹の名まえもクレジットされていて、入江美樹といえばたしか小澤征爾夫人になられるひとではなかったか、などとついつい調べてしまったりする。当時トップモデルとして人気のあったかのじょの、これが唯一の映画出演作みたいである。そのほかの出演は仲代達矢や京マチ子、平幹二郎、岸田今日子など。

 男(仲代達矢)と妻(京マチ子)、男と精神科医(平幹二郎)などの対話シーンが多く、ここでの脚本、演出などひじょうに演劇的で、それはつまりことばのイントネーション、抑揚などの演出、そして舞台上にシフトするような非現実的な対話内容などから感じるのだけれども、これは安部公房自身が演劇の世界に興味をもつことになるのもわかるというもので、かれの戯曲というのをあまり観たこともないけれど、せめて読んでみようか、という気分にはさせられることになる。
 表面的なストーリーをたどればSF的なミステリー、などといってしまうこともできるだろうけれど、男と妻とのかんけい、男と医師とのかんけいなどをたどっていっての心理的ミステリーの背後に、社会のなかで存在する「個」の、その存在のあり方をもあらわにしようとするあたりに、この作品のおもしろさがあるわけだろう。看護婦役の岸田今日子の存在が、なんというのか不気味というのか、ひとびとのかんけいをよけいミステリアスにしてしまうようである。なんとも説明のつかないぶぶんがいかにもおもしろいと感じさせられる映画。





 

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■ 2011-05-11(Wed)

 すこし前のことになるけれど、津波で家が流される夢をみてしまった。がれきの浮いている海の上を、鉄筋三階建てのわがマンションが右から左へゆっくり動いて行く。そのあとで、ミステリーじみた夢もみた。まったく知りもしない人物ばかり登場するのだけれど、ふたりの男が知り合いの女性を殺害する。そのふたりの男は女性の小学校低学年になる息子をまいにち放課後あずかっていて、働いている女性のしごとが終わったころに息子を送って行くのが日課になっている。それで男たちは女性を殺害し、息子をその家にひとり帰すのだけど、母の殺されたことがわかっている息子は、母がいないからといって取り乱したりしない。そのことから、夢をみているわたしは、息子が母の不在にちっとも動揺しないのは母の死を知っているからだろうと想像し、つまり息子をあずかっていたふたりの男が母を殺害したのだと推理する。そのとき、「夢のなかでミステリーをつくっちゃったな」と考えているじぶんがいたので、いまじぶんが夢をみているんだということを意識していたことになる。それだけのことだけれども。

 ニェネントの抜け毛はすさまじく、ちょっとニェネントにさわっただけでぼそっと毛が抜けて、こまかい毛が宙を舞っているのがみえる。おそらくはそうとうの分量をわたしも吸い込んでいるはずで、のどに何かひっかかっているような、口の奥に違和感がある。そのうちにポロッと毛玉を吐き出すかもしれない。それで、ゴム手袋をはめてニェネントの背なかをさすってやると、おどろくほどの毛が抜けてきて、しっぽのまわりに集まる。ほとんど綿羊の毛ではないのかという感じで、ネコの毛で毛糸とか毛織り物とかつくれないものなのだろうかなどと考える。しかし、白とうす茶のぶちのニェネントの毛がぜんぶまじってしまうと、なんとなく薄汚れたような色合いになってしまうのである。やはりこれは使い道はないだろうということになる。
 ニェネントはさいきんは、ベッドのあたまの方に置いてある洋服ダンスの上でじっとしていることが多い。やはりバカネコらしく高いところが好きなのである。その場所でじっとしている分にはいっこうにかまわないのだけれども、これがわたしがベッドで寝ているときに、そのベッドの上にとびおりてくるわけで、びっくりしたり重たかったり、ときには痛かったりするので、ぜひやめていただきたい。

 夕ご飯のおかずに、タマネギと白菜とブタ肉を炒めて牛乳で煮込み、ブロッコリーやジャガイモやクレソンを入れてホワイトシチューみたいなのをつくってみた。‥‥まったく、味らしい味がしなかった。このくらい無味な料理というのもめずらしいと、つくったひとをほめてやりたい気分である。少なくともまずくはないので食べる。「あじけない」とはこういうことをいうのだと悟った。

 きょうは、ハイスミスの「贋作」を読みはじめる。「太陽がいっぱい」の主役、トム・リプリーを主人公としたシリーズの二作目である。こんどはまさに「美術作品」をめぐる物語で、「太陽がいっぱい」で偽のサインを書いたりしていたのが、ここでは実はすでに死亡している画家を生きていることにして、画廊ぐるみで贋作の大量生産をする。その贋作グループの一員がリプリーで、仲間がいるという展開が意外ではある。贋作だとバレそうになる理由が、その画家の紫系の色彩に使われる絵の具が、あるときはコバルトバイオレット単色だったり、あるときはカドニウムレッドとウルトラマリンをまぜているものだったりするので、作品を買った男がその製作年代などに疑問を持つわけである。このあたりのハイスミスのデティールはいい感じであるが、カドニウムレッドとウルトラマリンをまぜると、コバルトバイオレットとは似ても似つかない暗い色になるのではないかと、むかし絵を描いていたわたしは思ったりするのである。どうなんだろう。

 じつは何日かまえに書いたように、「昭和文学全集」をすこし読みはじめている。感想を書いてもいいんだけれども、もうちょっと時間がゆっくりしたときに。ヴィデオはきょうも一本観た。

 

 

[] 「手錠のまゝの脱獄」(1958) スタンリー・クレイマー:監督  「手錠のまゝの脱獄」(1958) スタンリー・クレイマー:監督を含むブックマーク

 性善説映画、というか、ちょっと美辞麗句や劇画調の決めセリフの並んだ脚本に背なかがゾワッとしないでもないけれど、「女はつまずきの石だぜ」というメッセージも盛り込まれている。この、トニー・カーティスをまどわせる女性がかなり身勝手な存在に描かれているあたりのミソジニーっぷりに、アメリカ映画の一方の真骨頂があらわれているのかもしれない。ちょっと出てきてトニー・カーティスとシドニー・ポワチエを助けちゃうロン・チェイニー・ジュニアの存在と、いい対照をなしているわけだ。淡々とふたりを追う保安官のセオドア・バイケルがいい。
 冒頭の、護送車の事故を写す夜のコントラストが美しく、全体にそういうモノクロ映画の、白黒のコントラストの設計のみごとな作品だと思った。アカデミー賞では脚本賞と撮影賞を受賞している。




 

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■ 2011-05-10(Tue)

 しごとのこと。いつもは家の近くの営業所で五時から六時までしごとして、これはこの場所で九時までしごとをする別のひとたちの手伝いなどになる。それから別の作業所へ移動して九時までのしごとをするのだけど、きょうは五時から六時までのしごと量が異様に多く、わたしとあと一名、移動せずにそのまま九時まで手伝いをした。同じような作業のくり返しだからとまどうことはないのだけれども、いつものほとんど吹きっさらしでの作業とちがって、この時間の室内はちょと暑いし、多少の緊張もあるし、やはり休憩もなく四時間ぶっつづけで立ちづくめで疲れてしまった。たった四時間の労働でへとへとなんて、だらしないではないかと自戒する。
 帰宅してからも疲労をひきずっているのか食欲もなく、朝食のサンドをつくって食べることもしない。自宅にいてちゃんと朝食をとらなかったことなんて、近年ではほとんど記憶にもない。おそらくこの家に来てからもはじめてのことではないかと思う。昼食もつくる気がせず、線路の向こうのスーパーで出来合いのお弁当を買って来てすませる。こんなことも絶えてなかったことであるが、そのお弁当がおいしかったことがしゃくにさわるのである。で、部屋でこういうお弁当のような、トレイに盛られたものを食べていると、かならずニェネントが興味をもって近寄ってくる。とにかくおかず類にニェネントの好きそうなものが並んでいるせいだろう。なにかお相伴にあずかれるものと思っているのか、お弁当のなかにまえ足をつっこんでくるという、不作法かぎりないことをやるわけである。「あのね、これはネコ用のものではなくて、にんげん用の味付けになっているから、ネコは食べちゃいけないのだよ」と、ニェネントのあたまをぶって追っ払う。

 そういうわけで、お弁当を買いに出たいがいは、いちにち部屋のなかですごした。きょうもじわじわと気温が上がり、ゆうがたからは雨も降り出したようで、むしむしする。なんだか部屋のなかがニェネントのおしっこくさい気がする。

 「ロマン的魂と夢」の第一章を読み終わり、いよいよドイツ・ロマン派の詩人、作家たちへの分析がはじまる。「世界名詩集大成」、スーポーとブルトンの共著、「磁場(抄訳)」はいちおう読み終わる。つまりはこれは自動筆記(オートマティズム)の実験なのだから、きのう書いたような「スーポー、つまんない」などという感想はまちがい、だろう。あるいみ「詩/文学」の否定という側面をみること。しかし、そう思って読むとやはりいかにもまだまだ文学的ではないかと、二千十一年の読者は思うわけである。どこか、「ロートレアモン的であろう」とする意志みたいなものも感じる。つづいてブルトンの「地の光(稲田三吉:抄訳)」をすこし読む。これは、いってみれば、かっこいい。どこかビートニクの詩人たちのようでもあり、ブルトンの知性と気取りとが、ひとつのスタイルに昇華されているような。

 むしろ生を
   フィリップ・スーポーに

たとえ七つのその色が より清らかなものであ
 ろうとも 厚みのないプリズムなどよりはむ
 しろ生を
常におおわれている あの時間よりも また 
 つめたい炎の あのおそるべき車よりも む
 しろ生を
熟れすぎて腐りかけた あの石よりも
むしろ すべりどめのついた この心をこそ
さざ波の 囁きたえぬ あの沼よりも
空中で また大地のなかで 同時に歌う あの
 純白の布よりも
そして又 私の額を まったき空虚のそれと
 対峙させる あの華燭の典よりも
       むしろ生を

むしろ悪魔祓いのシーツと
脱出の傷あとをもった生をこそ
むしろ生を そしてむしろ 私の墓のうえの
 花飾りをこそ
現存そのものである この現存の生をこそ
そこで ひとつの声が尋ねる 「お前はそこに
 いるのか」と すると他の声が答える
 「お前はそこにいるのか」と
だが ああ 私はもう そこにいないのだ
しかし又 われわれが死においやろうとするも
 のと 利害をともにしようなどと思いたつと
 き
       むしろ生を

むしろ生を むしろ生をこそ 年ふりた幼少年
 時代よ
バラモン教の托鉢僧から出た この細紐は
宇宙が走るレールのようだ
太陽は いくら一片の漂着物になろうとしても
女の肉体が すこしでも太陽に似ているかぎり
  太陽であることを やめることはできまい
お前は その軌道を 端から端まで眺めながら
あるいは又 お前の手という名前をもつ 見事
 な嵐のうえに ちょっと目を閉ざすだけで夢
 想にふけるのだ
       むしろ生を

自分がそこに入ることは 決してあるまい と
 悟ったとき 人生のさまざまな待合室ととも
 に むしる生を
そこでは 首飾りたちがサービスをしてくれる
あの温泉旅館などよりは むしろ生を
むしろ冷淡で 時間のかかる生をこそ
ここ 書物のページが 冷たい光線のうえで
 閉ざされようとするとき
はた又 かなた 自由なる承諾の言葉が より
 よく より見事に言われようとするとき
       むしろ生を

むしろ 申しぶんなく美しい あの頭にたいす
 る 軽蔑の本質としての生を
生がもとめ また恐れもする あの完成された
 ものとは 正反対なものとしての生
神の虚飾としての生
まだ使っていないパスポートとしての生
ポン・ダ・ムーソンのように 小さな街として
 の生
そしてもう すべてが言われたかのように
       むしろ生を

 ヴィデオを一本観た。

 

 

[] 「マーティ」(1955) デルバート・マン:監督  「マーティ」(1955) デルバート・マン:監督を含むブックマーク

 アーネスト・ボーグナインが女性に縁のなかった男を演じて、アカデミー賞の主演男優賞を得た作品。アカデミー賞では作品賞も監督賞も脚色賞も獲得している。「ひとは外見じゃないよ」という永遠のテーマとともに、おたがいに自立するためには親子の同居というのは障害になるかもね、という核家族化推進メッセージも込められた作品みたいで、この1955年という年において、ベビーブーム以降のアメリカのあり方をサジェストしているのかもしれない。年ごろの子どもたちは親を連れてこの映画を観に行けば効果的、だったかもしれない(かえって、親子ゲンカの種になったりして)。
 ズームアップとかズームアウトするカメラが主人公の心的状態に呼応していて、ああ、よろこんでるんだとか、ガッカリしてるんだとか、観客によく伝わる。まあ観るひとはおそらく誰もがじぶんの身にあわせて思うところがおおい作品だったことだろうから、こうやって観客の心理と主人公の心理とを重ねて行くような演出が効果的。複数の人物によってふたつの会話が交錯して、ちょっとしたディスコミュニケーションになるシークエンスが複数ある。

 ここで、主演のアーネスト・ボーグナインの外見、容貌がさえないかどうかはおいておいて、相手役の女優、ベッツィ・ブレアが、劇中でいわれるように「イモ」かどうか、ということがちょっと気になるのだけれども、まあみた感じは充分に魅力のある女優さんだろうと思うわけである。そうすると、みている観客は、「あの役の女優さんはいい感じだけれども、それは映画のマジックで、映画のなかではあの女性はイモに見えるわけだよな」と、じぶんのみているものにシフトをかけるわけだろう。これはきのう書いたトレヴァー・ナン監督の「十二夜」でも「あのふたりはそんなに似てはいないけれど、映画のなかではうりふたつのそっくりさんなのだよな」とシフトをかけるのと同じこと。そういう、観客の目にシフトをかける演出というのもおもしろい、と思う。

 映画は「えっ、そこで終わるのかよお!」というところでエンド・クレジットが出るわけで、ちょっといまの映画などになれた目には「すべてはこれからじゃないの」という感覚。いまなら考えられないような作劇で、その後のことは観客のみなさんで想像して下さいね、ということというか、ハッピーエンドにするのなら、ここまでで充分ではないかということでもある。「どこで終わらせるか」というのも、時代とともに変化する。





 

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■ 2011-05-09(Mon)

 ベランダのプランターにまいたバジルが、いい感じで芽を出してきた。きょねんはそもそもが発芽に失敗して、けっきょく苗に育ったものを買ってきて植え代えたわけで、セシウムのおかげにせよ、こんかいの発芽は喜ばしい。いっぽうのクレソンはもう花ざかりになっていて、ぐんぐんと成長をつづけている。ばんばん収穫したほうがよけいに育つらしいので、もうこれからは食卓にのせるようにしないといけない。暑さには弱いらしいので、いまが旬ともいえるかもしれない。

 インターネットの契約料一年分を払い込み、これで予定外の支出はおしまい。しごとのときはあさ早いのでそれほど暑さなど感じないけれど、昼間になって外に出るともう暑いといえる。ニュースによると、現首相は浜岡以外の原発の稼働はストップしないと明言したようで、がっかりである。けっきょくは原発の存在の容認ということになる。わたしはこんかい福島で水素爆発が起きたときから、すべての原発は停止させて廃炉にすべきだといっている。まあそれいぜんから原子力発電という装置・システムには反対だったわけで、まえには変な比喩で原子力発電の不合理さを書いたけど、いい直すと、原子力発電というのはダイナマイトを爆破させ、その爆風で風車を回転させるようなものでしかない。ヒトという存在は、核融合の膨大なエネルギーのほんのわずかしか利用できないでいて、しかもそのエネルギーが自然界(地球)におよぼすどうしようもない悪影響の、その完璧な障壁をいまだつくりえていない。これはげんざいのヒトの持つ叡智を超えたエネルギーであって、ヒトはそれを制御し切れていない。(この比喩はやはり妥当ではないけれど)ダイナマイトをつねに爆破させ、その障壁が不完全なものであれば、その爆破エネルギーの犠牲になるものが出てくる。完璧な障壁をつくれないのであれば、そんな危険なエネルギーで風車ごときを回転させることはストップさせるしかない。安全なエネルギーをわたしたちが見つけられていないわけではないというのに。

 午後、しばらくヴィデオを観ていると、どこかからニェネントのなきごえが聴こえた。なにをないているんだと思っていると、そのなきごえがだんだんに悲鳴のように聴こえてきた。声のする方を探ってみるとやはりまたキッチンの下の収納のなかからで、またいつのまにか入っちゃって、それに気づかなかった飼い主さんに開き戸を閉められてしまったようである。戸を開けてみてもとび出してこないで、まだ悲鳴をあげている。かがんでなかを覗いてみると、収納の天井というかキッチンの裏側の部分にあたまを突っこんでしまっていて、どうやらそこからあたまが抜けないでいるらしい。ばっかなネコのヤツ、という感じであるが、ほんとうにあたまが抜けないとえらいことである。手を突っこんで胴を引き出してやろうとすると、そこであたまが抜けたのか、わたしの手をかんでから収納からとび出してきた。かまれた手が痛かった。恩を仇で返すとはこのことで、なんというバカなネコであることよとあきれる。収納のなかのキャットフードの袋がみごとに破かれて、中身が散乱していた。なさけない。

 「断腸亭日乗」をようやく読み終わり、録画してあった演劇のヴィデオを観て、「ロマン的魂と夢」をすこし読み、これも読みさしで放置してあった「世界名詩集大成」、フランスの巻をひらいてみたりする。スーポーとブルトンの共著、「磁場」の抄訳(佐藤朔:訳)をちょっとだけ読んだ。さいしょの「八十日間」というのが、とてもおもしろかった。散文というのはこういう書き出しもできるのか、とかいうおどろきとか、突飛ではあるけれどもけっしてデタラメではないイメージの飛躍を定着する文体など、興味深いものがある。しかし、つぎの「柵」というのはふたりの方法論があらわになっていて、つまりは短文によるペーパー上でのふたりの対話というものなのだけど、これはどうもふたりが噛み合っていないというか、どちらも新奇なイメージをつむぎ出してやろうとやっきになっている感じが先にあり、共作ということになり得ていない気がする。なによりもここでのイメージの定着はわたしなどが読んでも「陳腐」と感じてしまう。読んでいると、おそらくはこっちがブルトンでこっちがスーポーだろうと想像できたりするけれど、ブルトンにはまだ文章をつむぐ才能を感じるところもあるけれど、スーポーって、ダメなんじゃないの?(才能ない?)と、わるいけど、そういう感想。

 

 

[] 「十二夜」ウィリアム・シェイクスピア:作 串田和美:演出  「十二夜」ウィリアム・シェイクスピア:作 串田和美:演出を含むブックマーク

 何のデータもなくって録画ヴィデオを観はじめて、冒頭がちょっと録画ミスされているんだけど、いったい誰の演出なのかわかっていないで観ている。それでも、出演者たちが楽器を演奏して祝祭的気分を盛り上げるとか、こりゃあ串田和美しかこういうことやるひとはいないだろうと想像でき、じっさいにその通りなのであった。
 かなりの潤色もほどこされているんだけれども、それでも(もしくはそれゆえ)観ているじぶんを、すこしナイーヴな視点にシフトして観ていかなくちゃいけない気分になる。もちろんそれは、主演の松たか子のガキっぽさに由来するものかもしれない。全体がその主役をサポートする演出とすれば、この舞台ぜんたいが「ガキっぽさ」に支配されることになる。ここに笹野高史の圧倒的なすばらしい演技がなければ、わたしには耐えられなかったかもしれない。というか、みていて、高ビーで乙女チックなりょうがよかったとか、ついついそういう俳優陣の演技の質を吟味してしまうところに、演出のもんだいがあるような気もする。
 演出のパターンは、いかにも六十年代あたりからのお引きずりを感じさせられるものだけれども、それがシェイクスピアとの噛み合いがよろしくないのではないか、という印象はある。
 まあこの舞台のポイントは、ふたごの兄妹を松たか子がひとり二役でこなしている、というあたりにあるのだろう。せんじつ観たトレヴァー・ナン監督によって映画化されたものでも、みんながふたりの区別がつけられないという設定になっているこのふたごの兄妹が、つまりはどうみても「別人」ではないか、ということが最大のネックにはなっている。そのあたりはつまりこの「ひとり二役」ならクリアできるわけだけれども、ではラストにその兄妹がいっしょに舞台上にすがたをあらわす場面をどうするか、ということになる。で、このぶぶんの演出が最悪というか、松たか子に舞台上をとことこと移動させて、まるでリーディング公演みたいに二役をやらせる。なんの工夫もないわけである。トレヴァー・ナンの映画などでは、「このふたり、みかけはまったく似ていないけれど、そこは想像力をはたらかせて、このふたりはおんなじ容姿をしているのだ」と思い込んで観なければ成立しないことになっている。この舞台ではその点はクリアされているけれど、このラストで観客は「舞台には松たか子はひとりしかいないけれど、そこは想像力をはたらかせて、松たか子はふたりいることにして観なければならない」ということになる。わたしは、そんなことを観客に要求する演出なんて(とくにこの場合)「クソ」だと思う。せっかくあれこれの潤色をほどこしているんだから、ここで「あっ!」とおどろくはなれわざを演出してみせてこその、この「十二夜」なのではないだろうか。がっかり、なのであった。


 

[] 「断腸亭日乗」(下)永井荷風:著  「断腸亭日乗」(下)永井荷風:著を含むブックマーク

 せんじつこの日記の内容にふれて、荷風には理想世界への憧憬がまったくないように読めると書いたのだけれども、荷風にとって「いま、ここ」から逃れえるところはちゃんとあるんだった。それがこの日記の上巻のおわりにあらわれる玉の井であり、この下巻では戦災まえの浅草のオペラ館であり、戦後はやはり浅草のロック座ということになるのではないのかと思う。つまり「遊ぶ」ということを徹底してやってのけた人生だったのかなと。希有な人物ではあったと思う。彼の世俗批判精神は、この下巻では戦時中のちまたのうわさ話の記録などにも読み取れるようでもあるし、そのぶぶんは当時の世相記録としても、とてもおもしろいものだとおもう。
 戦中にいちど、そして戦後にいくどかお歌が彼を訪ねてくるわけだけど、それいがいで興味深いのは、昭和二十四年の浅草での偶然の見知らぬ娼婦との出会いで、荷風が電車を待っていてタバコの火をつけようとして、風で難儀していると、「あたしがつけてあげよう」と、立ちんぼうの女性から声をかけられ、「あなた、永井先生でしょう」といわれる。どうして知っているときくと、「新聞や何かに写真が出ているじゃないの」ということで、荷風がとうじ連載していた作品も「昨夜読んだ」といわれる。そのときは電車が来てしまうのでそのまま金を与えて別れるけれど、三日後にやはり浅草でまた彼女にあう。荷風は彼女の経歴とかを聴きたくて、吾妻橋のうえでしばらく話をする。「今宵(こよい)も参百円ほど与へしに何もしないのにそんなに貰っちゃわるいわよと辞退するを無理に強ひて受取らせ今度早い時ゆっくり遊ぼうと言ひて別れぬ」ということになる。「年は廿一、二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそぞろに惻陰(そくいん)の情(じょう)を催さしむ」とつづくけれど、そのあとに「不幸なる女の身の上を探聞し小説の種にして稿料を貪(むさぼ)らむとするわが心底こそ売春の行為よりもかへつて浅間(あさま)しき限りと言うべきなれ」と結ばれる。これよ。これが永井荷風なのである。「やってくれますね」という感じでもあるし、書かれなかった「うらがわ」というのもあるだろうけれど、戦後の荷風さんでは、ここがいちばんである。

 晩年の日記は「晴。正午浅草。」などというだけのミニマムな記述がつづき、足が不自由になり昼食の浅草通いも不能になる。昭和三十四年四月廿九日、「祭日。陰。」という記述で、この「断腸亭日乗」はおわることになる。
 永井荷風の死因は胃かいようによる心臓マヒだったという。これはめちゃくちゃ痛かったことだろうと、同じような疾病で苦しんだ体験のあるわたしは想像できる。四月三十日の朝、孤独死した死体が発見された。読了して、彼の墓まいりをしたくなってしまった。こういう気もちになるのは、はじめてのことである。




 

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■ 2011-05-08(Sun)

 近所のドラッグストアへ買い物に行き、タバコの棚をみると「エコー」が並んでいたので買う。もうとっくに国産の安いタバコはみかけなくなっていたのに、また「エコー」だけでも出荷が再開されたのだろうか。

 これはきのうのことだけれども、ゆうがたTVをつけてみるとめずらしく野球中継で、阪神と横浜との一戦。阪神が4−2でリードする八回裏まで来ていて、横浜の攻撃中だった。これは阪神の勝利だなと見始めるとすぐに四球、暴投の連続であっというまにピンチ。一気に逆転されて、そのままあっけなく負けてしまった。わざわざ阪神の負けるところだけ見たようで、おもしろくないことはなはだしい。ことしはマートンもブラゼルもまだ本調子ではないようだ。

 野球のせいというわけではないけれども、気分的に鬱(うつ)というか、行き場のないやるせない感覚に囚われている。やはり荷風の「断腸亭日乗」などをずっと読んでいると、じぶんの書くこの日記もどきがいかにもくっだらない価値のないものに思えて、書く気も失せてしまうわけである。切ない。せんじつ西のスーパーへの路上で出会った白いネコのこともたびたび思い出され、やはりこれも切ないのである。あのときのネコのなきごえを思い出しただけでまた泣けてきてしまい、あのネコをみかけたあたりまでまた歩いて行ったりしてみる。もちろん出会うこともない。ペットロスというわけでもないだろうに、これはいったいどういうことなんだろうと考える。もちろん、またミイのことが思い出されてしまうということがあるのだけれども、せんじつ見たみすぼらしいネコの姿をどこか擬人化して考えて、まるでじぶんが三文小説の主人公にでもなって、路傍で物乞いをする薄幸の少女に出会ったような気分になっているのだろうかとも思ったりする。アホである。さいきんはTVなどをみていても、そういうイヌなどの小動物がみんないとおしく思えてしまう。切ない。

 連休中にまた本を買ってしまったりして、自宅本読破計画もストップしているし、あまりヴィデオとかばかり観ないでもっと読書時間をふやそうと思う。それで、長く放置してある「ロマン的魂と夢」をひさしぶりに開いたり、ついに昭和文学全集をすこし読みはじめたりする。「断腸亭日乗」はもうすこしなので、これを図書館に返却したら、もうしばらくはあたらしく借りてこないようにしたい。


 

[] 「関東大震災の禍根 −茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件−」桜井優子・五島智子:著  「関東大震災の禍根 −茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件−」桜井優子・五島智子:著を含むブックマーク

 百ページほどの本だけれども、内容は濃い。以下に目次を写しておく。

  はしがき
  はじめに
第一章 虐殺はどう行われたか
 茨城県の場合
 千葉県の場合
 一 軍隊による虐殺
 二 自警団、民衆による虐殺
 三 軍隊の命令による村民の虐殺
 四 虐殺を防いだ話

第二章 虐殺の要因
 一 戒厳令の発布
 二 流言飛語の発生と拡大
 三 朝鮮人に対する偏見

第三章 虐殺事件と社会への影響

  参考文献
  あとがき

 まず、「虐殺はどう行われたか」の茨城県の場合だけれども、大正十二年九月のあいだの「いはらき新聞」によると、茨城県内では二十一件の朝鮮人虐殺、暴行に関連した記事があったらしいのだけど、著者らの調査で事実と確認できたのは一件だけということで、報道のミスリードということが想定されるだろうと、わたしは思う。茨城県内には当時それなりの朝鮮人労働者が存在していたけれど、これらの人々が暴行を受けたという事実はなかったらしい。ここには警察や雇い主による警戒や保護がじっさいにあったということ。
 しかし、千葉県の場合は東京に近隣しているせいか陰惨で、多くの事件がじっさいに起きている。著者らは当時を知るひとへの聴き取り調査(この本が出版されたのは1980年)などから、「じっさいに何が起こったのか」ということをいくつかのレポートにまとめている。読んで恐ろしい記述がつづく。軍隊で虐殺をちょくせつに行ったのは「習志野騎兵連隊」で、ひどいのは日本人と知りながら連行して朝鮮人中国人といっしょに兵営に押し込め、反抗的なものを外に連れ出して八名を斬殺したというもの。これは兵営内で自治組織をつくろうとしてとがめられたものらしく、そこで殺害されそうになった生き残りの男性は「なぜ、みなが自治的に秩序よく生活するようにみちびいてはいけないのか」と軍人に聴くと、「思想を吹き込むだろう」といわれたとのこと。このあたり、主義者らの虐殺と朝鮮人虐殺とがリンクしているさまがうかかえることになるだろう。軍隊による虐殺はおもに銃殺だけれど、自警団などは銃を持たないから、刀や棍棒、農具などが凶器となっている。「にんげんとして、よくそんなことが出来たなあ」という感想を持つ。

 で、「なぜそのようなことが起きたのか」ということになるが、まずはこの震災下に発令された戒厳令が、治安維持のための「行政戒厳」だったものが、暴徒鎮圧のための「対敵戒厳」と混同されたということ。そのため、戒厳令による検問所の設置がそのまま朝鮮人を見つけだすためのものになってしまった、ということもあったという。また、報道関係にも言論統制が行われ、流言飛語が事実無根であることが報道できなかったということも著者はいう。しかしこれは(流言飛語を抑えるために)朝鮮人かんけいの記事は書かないようにという指示だったらしいのだけれども、さきの「いはらき新聞」にこれらの記事は載っているわけだから、著者のいうことには矛盾があるかもしれない。
 「流言飛語」については、こんかいの東日本震災とも関連もあるので、すこし写しておく。以下のようなうわさが地震直後から流れていたということ(これらの記述、原典をどこまで信頼できるのか、というもんだいはあるかもしれない)。

 九月一日午後一時ごろ 「富士山ニ大爆発アリテ今尚大噴火中ナリ」「更ニ大地震の来襲アルベシ」
 九月一日午後三時ごろ 「社会主義者及ビ鮮人ノ放火多シ」
 九月二日午前十時ごろ 「不逞鮮人ノ来襲アルベシ」「昨夜ノ火災ハ、多ク不逞鮮人ノ放火又ハ爆弾ノ投擲ニ依ルモノナリ」
 九月二日午後二時ごろ 「鮮人約二百名、神奈川県寺尾山方面ノ部落ニ於テ、殺傷、掠奪、放火等ヲ恣ニシ漸次東京方面ニ来襲シツツアリ」「鮮人約三千名、既ニ多摩川ヲ渉リテ洗足村及ビ中延付近ニ来襲シ、今ヤ住民ト闘争中ナリ」「横浜方面ヨリ来襲セル鮮人ノ数ハ、約二千名ニシテ鉄砲、刀剣等ヲ携帯シ、既ニ六郷ノ鉄橋ヲ渡レリ」

 ‥‥以下、こういうのが延々とつづく。こんかいの震災でもこれに似た流言があったことを思い出すけれど、まあひとというのは変わらないものだということだろうか。しかし、これが九月四日ぐらいになると、「鮮人は速やかに之を捕えて殺戮すべし」というものにまでなる。たんじゅんにうわさ話のみではなく、ガリ版印刷で配付されたり、街頭に貼り出されたりもしていたらしい。いちおう警視庁はこれらのうわさが事実無根と認識し、これを否定するビラを三万枚印刷して自動車で撒布、メガホンで宣伝してまわったという。しかし、その文面には「鮮人ノ大部分ハ順良ニシテ何等兇行ヲ演スル者無」とあり、それじゃ一部はやはり暴徒なのか、ということになる。
 流言の発生源について、著者は「自然発生説」と「内閣陰謀説」のあることを紹介している。まえにとちゅうまで読んだ「関東大震災と戒厳令」という本は、もちろん左翼チックな視点からの「陰謀説」であったわけだ。このことには、当時戒厳令の発令をつよく主張したらしい内務大臣の水野錬太郎、警視総監赤池濃という人物の存在が気になる。つまり、このふたり、1919年から1922年(震災の一年まえ)まで、水野は朝鮮総督府政務総監、赤池は同総務府警務局長という地位にあったというのはヤバいんではないか、ということにはなる。まさにこのとき朝鮮では三・一独立運動のまっただなかであり、彼らはその運動を弾圧することに全力をあげていたことであろうから。

 民衆をして自警団を結成させ、鮮人虐殺、暴行への道をとらせたのは、もちろん大地震の非常時のまっただなかにあったひとたちの「なにが起きるかわからない」という恐怖心が大きな要因だったろうと思う。それで、大きな被害がなかった茨城県ではほとんどそのような暴力行為は起こらなかったことも説明がつくかもしれない。そして、もしもこの「虐殺」が内閣による「陰謀」だったとしたら、その陰謀はあまりにもうまく成果をうんだ、というしかない。同時期の大杉栄・伊藤野枝らの虐殺も考え合わせても、わたしもここは「謀略」だと思いたい部分はある。けっきょく、この成果は、十五年から二十年にわたっての日本の進路におおきな影響を与えたんじゃないか、わたしはそう思う。だから非常時の世間の動向というのには気をつけなくっちゃいけない。わたしはそう思っている。

 このとき虐殺された朝鮮人の正確な数はいまでも不明だけれども、おそらくは六千人は下らないものとみられている。日本政府はこの事件への謝罪はおこなっていないし、だいたいが国民自体が「あのときは悪いことをした」などと反省したわけでもない。それで、おそらくは中国でもそういう虐殺をくりかえすわけになり、1945年まで突っ走ることになる。




 

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■ 2011-05-07(Sat)

 連休も終わり、きょうはしごとがある。しかしきょう出勤すればあしたはまた非番のやすみ。それで月曜火曜と出れば、また水曜は非番である。いつもこのくらいのスケジュールだといいと思う。

 ニュースで、某焼肉店でユッケを食べた客が多数食中毒を起こして、すでに四人死亡ということ。ほんらい生食用の牛肉というのはこの日本では流通していないらしい。けっこうむかし(はぶりのよかったころ、というのか)はユッケが好きで、よく食べたものだった。まずはO−157による食中毒が流行したときにいちど店のメニューから外され、そんなさいちゅうにわたしも焼肉店などに行かなくなってしまったので、もうながいことユッケというのは食べていない。こんかいの事件はおなじチェーン店の異なる店鋪で食中毒が起きているわけで、これはよっぽどひどい肉をつかまされた店側が、チェーン店に分割配送した結果の事件だろうかと思う。ユッケによる食中毒死亡事故というのはいままでにどのくらい起きていたのかな。聴いたことがない。

 もうひとつ大きなニュースで、首相が静岡の中部電力浜岡原発の操業停止を要請したということ。この首相が就任してからやってきたことのなかで、いちばんまともなことだと思うけれど、浜岡だけかよ!という感想はある。ちゅうとはんぱな決定で、つまりは政府としては基本的に原発容認という姿勢になる。理由が予想される東海地震を想定してということらしいけれど、地震なんていまの日本ならどこにでも起こりうるということもいえるのではないのか。浜岡をとめるなら、日本中の原発はすべてとめるべきだろう。
 そういうことできょうもまた東京で反原発のデモがあるのは知っていて、行ってもいいと思っていたのだけれども、外は雨が降っているし、また預金をおろしていなくて財布のなかみが二千円ぐらいしかないのでやめた。どうもこのごろは週末になって財布が心細くなるのがつづく。土日にATMを利用しても手数料はわずかなものだというのに、これをいつまでも嫌っているのはもう「吝嗇」ともいえること。

 「断腸亭日乗」を引き続いて読む。そういえば、きのう三谷幸喜の舞台を観た石川啄木は、永井荷風のことを「あれは西洋かぶれだから日本のことが嫌いなだけだ」といっていたらしい。たしかに彼のなかにはフランスへのあこがれだとかいうのはあるだろうけれど、それだけではないのはたしかで、江戸の文化への傾倒ということもまたある。つまりはてっていした「いま、ここ」というものへの嫌悪というのか、それはロマン主義者に共通する思考ではあるだろうけれど、荷風の場合はその対極の理想世界への憧憬というものがまったくないように感じられる。かといって、たんじゅんにニヒリストともいい切れない。日記を読んでいても彼の屈折ぶりは読み取れる思いがする。
 昭和十九年にかの「お歌」がひさびさに荷風をたずね、荷風大いによろこぶ記述がたのしい。東京空襲というのは早くから予想されていて、はやくも開戦直後に料理屋で「そのうち東京は空襲されることになる」と語る人物がいたことも、日記には書かれている。防空演習というものも早くから行われているわけで、昭和十九年はじめごろには、たいていのひとは「そのうちに空襲に見舞われることになる」と予感していたようである。ついに昭和二十年三月十日をむかえ、荷風の「偏奇館」も焼け落ちる。

 ヴィデオを一本観て、しごとちゅう聴けないのでエアチェックしてあったFM放送の、ウィークエンド・サンシャインのRobert Johnson 特集などを聴きながら寝る。


 

[] 「ターミネーター4」(2009) McG:監督  「ターミネーター4」(2009) McG:監督を含むブックマーク

 冒頭の、飛び行くヘリコプターを外から捉えていたカメラが、そのままヘリコプター内部まで入り込んでしまうショットとかで、「そういうこと、やるんだ」などと思ったりしたけれど、あとは、知らない他人のやっているヴィデオゲームをみせられているような映像と、マカロニウェスタン調の戦争ドラマとが交互に続く。「チャーリーズ・エンジェル」みたいなおちゃらけ作品ならこういう演出も生きるのかもしれないけれど、シリアスさが求められてしまうとすぐにホラーっぽい演出になってしまうような気がする。ストーリーもなんだか新味もない感じで(わたしはいつも、結末から逆算して書かれたストーリーなんて好きじゃないのだ)、つまりはおもしろく観ていたわけでもない。





 

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■ 2011-05-06(Fri)

 ニェネントがわたしのそばで、まるくなって眠っている。いつもいつもわたしのそばにいたがるというわけではないけれど、わたしとしてはわたしのそばにいるニェネントがしあわせそうにみえる。というか、そう思いたい。ネコにはしあわせなんていう概念の持ち合わせはないだろう。

 書くのをおこたっていたけれど、先日ちかくの古本チェーン店で「関東大震災の禍根 −茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件−」という小冊子を買っていて、これをすこしずつ読んでいる。この本は「筑波書林」という土浦にある出版社の刊行する「ふるさと文庫」シリーズの一冊で、この「ふるさと文庫」というのは地元をテーマにした風土記、ドキュメントなどを中心にすでに五百冊以上刊行されているもの。まあいってみれば、良心的な地方出版社による良心的な書物だといえる。こういう書物を古本屋で買うのは申しわけないような気分にもなるけれど、じつは一般書店においてあるのを見たことがなかったりする。
 この「関東大震災の禍根」という本に関しては、まえから震災時のひとびとの精神状態を知りたいという興味からこの種の本を探していた結果みつけたもの。まえに図書館で借りた「関東大震災と戒厳令」という本がわたしには読むにたえないものだったわけで、ほとんど読まずに返却してしまったけれど、こんどはつまりわたしの知りたかったことが書かれているようである。著者は茨城大学教育学部卒業のふたりの女性で、大学在籍時の研究課題として作成したレポートが土台になっているらしい。「虐殺はどう行われたか」という章での、当時のひとびとへの聴き取り調査などをもとにしたレポートは、ときになまなましくもある。風評、流言から住民が集合して、なんの咎もないひとたちをしばりあげて撲殺したり惨殺したりという記述に、ひとのこころの恐ろしさを感じる。以下読書中。

 どうもこの関東大震災の悲劇の裏には正確な情報の欠除というもんだいがあったようだけれども、ようやく下巻にうつった「断腸亭日乗」もまた戦時下という空気が強くなり、ここでも正確な情報が伝えられないということがあるようだ。もしくは、事実無根の情報を正しいものと思い込む。荷風はちまたで聞きあつめたさまざまな風評をこの日記に記録していて、それらがどれも興味深い。荷風の軍部や翼賛体制国家、それに同調する文士らへの憎悪は激烈で、まあよく書き残したものだとも思うし、その語り口はいま読んで爽快でもある。しかし、「余の生命もいよいよ終局に近(ちかづ)きしなるべし。乱世の生活は幸福にあらず死は救の手なり悲しむに及ばずむしろよろこぶべきなり」などという記述にも出会うことになる。

 録画してあった三谷幸喜の舞台を観た。


 

[] 「ろくでなし啄木」三谷幸喜:作・演出  「ろくでなし啄木」三谷幸喜:作・演出を含むブックマーク

 舞台美術とか、障子の開閉をうまく使った演出とか、どうもこれは先ごろのサイモン・マクバーニー演出の「春琴」の影響なんじゃないかと思ったりする。そういうこともあって、わたしには野田秀樹の舞台などよりは楽しんで観ることが出来た。
 物語はつまりは石川啄木とその盟友テツ、そしてまあ啄木の愛人のような関係にあったトミとの三人が、テツの金で宮城に旅行。旅館に宿泊した一夜の出来ごとの意味をめぐって、啄木死後に再会したテツとトミが回想するというもの。つまりはちょっとした「藪の中」で、死んだ啄木まで登場して旅館の一夜をみとおりに再構成してみせることになる。その同じ展開を異なる視点からそれぞれみせる演出がおもしろい。

 啄木のろくでなしぶりは有名なもので、まわりにいたひとたちはたまったものじゃあなかっただろうと思うが、この舞台に登場するテツやトミなどが実在の人物なのか、宮城旅行というのがほんとうにあったのか、わたしはそこまでは知らない。劇作として三人三様の「真実」の着地点として「まあそんなものだろう」というか、啄木擁護というか、とくに記憶にとどめようとか思うものでもなく、もっと非人間的なところにつっこんでみてもよかったように思うわけである。





 

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■ 2011-05-05(Thu)

 さいきんのパターン、「お出かけした翌日はふだんよりよけいに寝てゴロゴロとすごす」というのを遵守したいちにち。それでも木曜日は西のスーパーは全品10パーセント引きという特売日なので、忘れずに行く。とちゅうの道でほとんど灰色になった白ネコに出会う。顔にも疥癬ができていてみすぼらしいんだけど、かわいい顔をしている。わたしのすぐそばにいてちかづいても逃げないので、背なかをなでる。「にゃあ」と、思いがけずに愛きょうのある声でないた。さわった背なかはもう骨が浮いていて、見かけよりガリガリにやせている。ネコはそのままそこにすわりこんで、わたしになでられるままになっている。きゅうに、ものすごくそのネコがいとおしくなって、家につれて帰ってニェネントといっしょに飼いたくなってしまった。それで、まずはスーパーで買い物をしてからな、などと思ったのはやはり、じぶんのなかで「ほんとうは飼おうなんて思っていないよな」というのがあったのだろうか。買い物を終えてまたそのネコのいたところに戻っても、もちろんそこで待っているわけもない。じぶんの行動をいやらしく感じたし、ミイのことをふいに思い出して、歩きながら涙がこぼれた。

 さいきんはTVをみていても、イヌもまたかわいく思えてしかたがないようになってしまった。たんじゅんにじぶんが老化してきているわけだろうか。

 長くかかった「断腸亭日乗」の上巻をようやく読み終わり、ヴィデオを一本観た。


 

[] 「断腸亭日乗」(上) 永井荷風:著  「断腸亭日乗」(上) 永井荷風:著を含むブックマーク

 先に書いたように、この上巻では「お歌」との交際の展開をいちばんたのしく読んだ。しかしそこにも荷風の老人意識が根底にひそんでいるように思える。だいたい日記の書きはじめ、大正八年正月に「余既に余命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠(すくな)からず」などと書いているのだけれども、このとき荷風は数え年でまだ四十一歳なのである。文壇などというものとのつきあいも遮断し、出版社、新聞社の原稿依頼からも逃げてばかりいる(各新聞雑誌社へ送付するハガキでの法外な原稿料などの申し渡し〜前金百円、三年以内に脱稿の際には追加料金一文字につき一円〜には笑ってしまう)。政治家軍人、世間風俗一般への批判は痛烈で、このあたりが関東大震災後の「外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面(てきめん)といふべきのみ」などとのことばになる。このいわば超然とした態度をつらぬくのに、いっしゅ世捨て人のような「老人」としての「自我」があるわけだろう。
 まあ、それでも世間との交際をいっさい絶っているわけでもないあたりが荷風先生の面目躍如というところで、まいにちのように食堂やバー、酒館などへ出かければ顔見知りの常連と語り合い、つまりは女給や芸妓らとの交際も果てるところはない。世間とは超絶したところで「酒池肉林」を楽しんでいるわけじゃないか、などという感想も持つわけだけれども、そういう、浮世どっぷりなのか、浮世ばなれなのか、どっちとも凡人には判然としないような、質素でゴージャスな生き方をこうやって楽しませてくれる、たぐい稀なる日記文学ではないか、ということになる。

 この上巻の後半になってようやく「ぼく東綺譚」の舞台になった玉の井界隈の探索がはじまり、わたしが唯一読んだ荷風の小説はつまり「ぼく東綺譚」なのだけれども、そこで書かれていたことの原形が顔を出すことになる。こんどはもういちど「ぼく東綺譚」を読みたくなってしまった。


 

[] 「犯罪王ディリンジャー」(1945) マックス・ノセック:監督  「犯罪王ディリンジャー」(1945) マックス・ノセック:監督を含むブックマーク

 

 もちろんギャングスターのジョン・デリンジャーのことは知っているけれど、その名まえはギタリストのRick Derringer と同じ「デリンジャー」なのだと思っていた。ウォーレン・オーツの主演した「デリンジャー」も、先年のジョニー・デップ主演の「パブリック・エネミーズ」もまだ観ていないので、この映画のタイトルが「犯罪王ディリンジャー」となっているのがいぶかしく思ってもいたわけだけれども、映画を観るとつまりはJohn Dillinger なので、「ディリンジャー」という表記の方がネイティヴな発音に近いんじゃないかと思う。でもまあ、一般に「デリンジャー」で通っているんなら、そういうことで行こう。

 デリンジャーに関しては、FBIのエドガー・フーヴァーの伝記を(途中まで)読んだときに、つまりはFBIの宣伝に利用されてしまった犯罪者みたいにして出てくるわけで、「パブリック・エネミーズ」という呼称もエドガー・フーヴァーによってあたえられたものであるわけだ(この映画でもラジオのニュースで「パブリック・エネミー・ナンバーワンのジョン・ディリンジャー」として語られる)。

 監督のマックス・ノセックというひとのことはよくわからないけれど、名まえから想像がつくようにドイツの出身で、この映画のどことなく乾いた演出も、たしかにドイツっぽい感じはする。脱獄や銀行強盗の描写で、先に「そんなことは不可能だ」とだけ語らせて詳細は明かさず、いざその時になって、「なるほど、そういうやり口なわけね」と納得させる演出はモダンというか、いまでも通用する演出としてわたしは好きである。主人公のディリンジャーの人物像がいまいちもうろうとしている感はあるけれど、この作品の製作されたのが1945年であれば、ギャングスターをあまり英雄的に描かないようにというシフトのかかっていた時期ということで、そういう規制はあったのだろうと思う。Wikipedia などでデリンジャーを調べると、この作品はほとんど事実関係は無視した「創作」という感じは強いようではある。デリンジャーのチンピラ時代のさいしょの強盗で盗んだ7ドル20セントが、彼がFBIに射殺されるラストで所持していた金額と一致しているのが、「むべなるかな」という感じ。

 この映画がほぼデビュー作らしいデリンジャー役のローレンス・ティアニーという俳優、クールでいいんだけれども、「レザボア・ドッグス」の元締め役で出演していたひとなのであった。





 

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■ 2011-05-04(Wed)

 きょうからやすみ。きょうもまた東京へ行き、この日は「イメージフォーラム・フェスティバル」のプログラムをふたつ観る予定。きょうはスーパーの特売日でもあるので、午前中にスーパーに買い物に行き、バナナと玉子を買う。帰宅してからニェネントにししゃもを焼いてあげ、またキッチン収納からドライフードを外に出してやってから出かける。きのうは天候がくずれたけれど、この日は晴天。ローカル線沿線の田んぼの田植えもほとんど終わっている。そんな田園風景をみる目もちがってしまっている。この稲がちゃんとみのり、秋にはいつもの年のようにふつうに収穫して、ふつうに出荷出来るようでなくっちゃいけない。これは福島の原発事故のこれから、そしてそれにともなって放射性物質への過剰反応が起こらないこと、にかかっているように思ったりする。

 湘南新宿ラインで新宿に到着。この日も連休中で子ども連れの方々が多い。西口から会場のパークタワー・ホールまで歩く。二、三年まえまではまいとし、ゴールデンウィークにはこの「イメージフォーラム・フェスティバル」を観に来ていたのだけれども、きょねん、おととしとまったく観ず、ひさしぶりということになる。パークタワー・ホールじたいも、いぜんは舞台公演なども行われていて行く機会がそれなりにあったけれど近年はそういうプログラムも行われなくなって、この会場に行くということもひさしぶりになる。

 まずはブラザーズ・クエイの新作を含むアニメーションのセレクション・プログラムを観て、それでひとつとばして夜に上映されるワン・ビンのドキュメンタリーを観る予定。ふたつのプログラムのあいだに四時間ほどの空き時間が出来るのをどうしよう、ということになるけれど、けっきょくまた渋谷まで出て、きのう立ち寄った古本チェーン店へ行く。じつはきのうこの店にまた「昭和文学全集」の端本が一冊三百円で並んでいるのをみていて、きのうは別の本を買って手いっぱいになってしまったのでそれいじょう買わなかったけれど、やはり欲しくなってしまって買いにきたもの。川崎長太郎のはいった巻と、小林秀雄などの巻との二冊を買う。もうちょっと買ってもいい巻もあったけれど、二冊買っただけでずっしり重たいのである。川崎長太郎はむかしちょっと読んだけれど、また読んでみたくなったし、おなじ巻の上林暁だとかも読んでみたい気になったもの。小林秀雄は、そもそもそのかけらですら読んだことがないのだ(高校の教科書に「考えるヒント」が載っていたかもしれない)。
 また新宿にとってかえし、荷物が重たくなってしまったのでパークタワーまでの無料送迎バスを利用する。これに乗るのもまたひさしぶりになる。

 さいごのプログラムを観て、外に出るととうぜんもうまっくらで、送迎バスだろうが路線バスだろうがもう運行は終わっている。まあたいした距離ではないので歩くのだけれども、節電対策なのかビルの照明はすべて落とされ、街灯のたぐいもこのあたりにはないようで、まっくらやみを歩く感じになる。自宅あたりの夜よりもずっと暗く、歩いていると前から来るひとと不意にすれちがったりしてびっくりしたりする。そのすれちがうひとの顔もくらやみにつつまれてまるで見えないので、なんだか不思議な疎外感のようなものを感じる。
 とちゅうでまだ営業していたアルコールの量販店に立ち寄り、ここは輸入食料品なども安価なのでここを歩くときにはよく買い物するわけで、この日も安物のウオッカとパスタを買ってしまった。荷物がふえてまた重たくなり、手が疲れる。帰りの電車でもしばらくすわれずに疲れたけれど、赤羽の駅からすわることができたので助かった。昨夜につづいてのローカル線終電車での帰宅だった。


 

[] イメージフォーラム・フェスティバル2011「アニメーション・セレクション1 秘密の機械」@西新宿・パークタワーホール  イメージフォーラム・フェスティバル2011「アニメーション・セレクション1 秘密の機械」@西新宿・パークタワーホールを含むブックマーク

 ●「シャドウ・カッツ」(2009) マーティン・アーノルド:監督
 ミッキーマウスとプルートの登場するディズニーのカートゥーン・アニメ、そのミッキーとプルートがニコニコと笑うラストの部分を延々と反復させ、たまに目の部分だけを黒くしたり、まわりを黒くして目の部分だけにしたり。ミッキーの顔もプルートの顔も、だんだんにブキミにみえてくる。ディズニーへの悪意は感じるけど、素材はもうパブリック・ドメインになっているわけだろうか。

 ●「シークレット・ライフ」(2008) 「シークレット・マシーン」(2009) 「シックス・イージー・ピーセズ」(2010) レイノルド・レイノルズ:監督
 さいしょの「シークレット・ライフ」は、温室のような部屋のなかで、ツル系の植物の成長と女性とをコマどり撮影でとらえたもので、有機的で美しい作品だった。「シークレット・マシーン」は冒頭にマイブリッジの人体の連続写真が出て来て、つまりは人体を科学的に計測するさまをとらえたものということだろうか。この三作で同じ女性を被写体に選んでいるんだけど、モデルが女性であることからあらわれるエロティシズムと、冷徹な科学的視点とのギャップをねらっているんだろうか。

 ●「マスク」(2010) ブラザーズ・クエイ:監督
 まちにまったクエイ兄弟の最新作だけど、製作はポーランドでいつものプロデューサーのKeith Griffiths の名まえは、クレジットに確認できない(彼の名まえは先日観たアピチャッポン・ウィーラセタクンの「ブンミおじさんの森」でプロデューサーのなかに確認して、「なるほどね」などと思ったのであったが)。なんと原作はスタニスワフ・レムで、いわばロボットもの。音楽はペンデレツキ。
 冒頭から彼らの作品には異例なことに女性の声によるナレーションが流れ、つまりはその声がストーリーを語っていくことになる。(長篇劇映画においても)つねにナラティヴな展開を避けてきたクエイ兄弟の作品としては意外な展開で、わたしとしてはこの「声」のせいで、映像それ自体に語らせる彼らの作品の特徴が、阻害されてしまっていたように思えてしまう。あくまでも「声」で語られるストーリーを補完するための映像という感じで、展開はまさにナラティヴである。映像はライティングの移動に重きを置いたような雰囲気が強く、それはそれで繊細さを感じさせられて美しいのだけれども、造型としての力がすこし薄くなってしまったような気がする。主人公の殺人マシーンが生命を得て登場するシーンなどまさに美しいのだけれども、「エイリアン」かよ、という感じも多少してしまうし、つまりはクエイ兄弟の最新作としては少々失望した、というのが正直なところではある。


 

[] イメージフォーラム・フェスティバル2011「名前のない男」(2009) ワン・ビン:監督 @西新宿・パークタワーホール  イメージフォーラム・フェスティバル2011「名前のない男」(2009) ワン・ビン:監督 @西新宿・パークタワーホールを含むブックマーク

 

 きょねんの暮れに「溝」というすばらしい「劇映画」をみせてもらったワン・ビン監督の、パンフレットによればその「溝」と対を為すスタイルで作られたというドキュメンタリー。
 ‥‥負けた。圧倒的である。とにかくなにひとつ説明のない映像のなかで、ひとりの男が延々と「生きるための営為」をくり拡げる。観ていて息がつまるような静寂。とにかく、この「説明のなさ」が圧倒的で、これをどのように解釈すればいいのかなどと考えてもムダな事としか思えない。すべてがフィクションであったとしても、この作品にとってはそんなことは非難の論点になり得ないだろう。
 おそらくはこの作品、ロバート・フラハティの「アラン」だとか、新藤兼人の「裸の島」を想起させられるところがあるだろうけれど、わたしは「裸の島」はちゃんと観ていないし、「アラン」を観たのもずいぶんとむかしのことで、そのほとんどを記憶していない。だからそんなことを書いてもしかたがない。とにかくこの作品はあまりに圧倒的である。
 パンフレットには、以下のように紹介されている。

廃墟となった村に一人の男が住んでいる。男は、昼間は荒野に種をまき、夜は岩の隙間に出来た洞穴で過ごす。一言も口をきかないその男の横にカメラが佇む。男は四季を通して働き、飯を食べ、眠る。

 この紹介も不正確というか、まずは「廃墟」というのがよくわからない。じっさい、男が肥料として動物(家畜)の糞を道路からひろいあつめる長いシーンがあるんだけど、道路は舗装されているし、その背後には耕運機の稼働する音が響いているわけだし、ワンシーンだけれども、男のうしろに自転車に乗ったひとが通過するシーンもある(このシーンの挿入がある意味で「すごい」ということになる)。だいたい、冒頭に岩の隙間から男がはい出してくるシーンからして圧倒的なんだけれども、そこでもう男はくわえタバコ姿なわけである。タバコ喫ってるというのは社会との交渉があるのではないかと想像させられるけれど、これもそのあとで男が自分で手巻きタバコをこさえるシーンがあることで、わけわからなくなる(この演出もにくい!)。「一言も口をきかない」というのも不正確で、じっさいにはとちゅうで男が収穫した「うり」のようなものを料理するところで、男はさかんにしゃべっている。字幕もつかないし、いったい中国のどのあたりの言葉をしゃべっているのかもわからない。
 観ていて衝撃を受けるシーンはいくつもあるけれど、やはりまずは被写体である男とカメラとの関係がすばらしい、ということになる。まずは冒頭の起き出した男がどこまでも延々と歩くシーン、その男を追うカメラの位置関係になるけれど、観ていくと男の行動には意味不明な行動も含まれているのだけれども、カメラはそういう男の行動にいちいち付き合って、「それって、なんだったの?」みたいなショットも、そのまま残されているわけである。
 で、やっぱりすごいのは、男の食事するシーンだろうか。「おぞましい」ということもできるし、つまりは「生命維持」の根源を見せつけられているような心地にはなる。ここまでラディカルに「人」という存在の、その根源のぶぶん(つまりは「生きる意志」のような?)を見せつけられるのは、やはり「ショック!」としかいいようがないではないか。ワン・ビン、おそるべし。しかもそれは「永劫回帰」でもあるのだから。





 

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■ 2011-05-03(Tue)

 あしたからまた三連休になる。あさのしごとが終わるともう休みに突入したようなもので、きょうは夕方から東京でAさん、Bさんと飲むことになっている(月が変わったからイニシャルもAからにリセット)。ゆうがたの待ち合わせまでにじかんがあって、せんじつ観た「平田オリザ演劇展」からもうひとつ観てちょうどいい感じになるので、まずはコレを観に行くことにした。ちょっと早く渋谷に到着し、じかんがあるのですこしブラブラする。せんじつ発見した360円のタバコを買ったり、古本チェーン店をのぞいたり。「社会学小辞典」、「コンサイス 20世紀思想事典」、美本各105円というのを買う。定価の合計は8300円。いいんだろうか。

f:id:crosstalk:20110505112243j:image:right さくやのニュースで、渋谷駅の連絡通路にある岡本太郎の「明日の神話」に、福島の原発事故をイメージした別の絵が上張りされていたのだ、というのがあった。それで、どうなってるのかと、みにいったけれど、もちろん「現状復帰」されてしまっていた。ネットのニュースにそのもんだい部分の写真があったけれど、これ、かなり計画的というか、そんじょそこらの「ちょとやってみよう」気分ではぜったいにできないし、ひとりでやったというわけでもないんじゃないかという気もする。というか、この上張り作業をやっていたときって、あるていど衆人監視のなかでやっていたんじゃないかとも思う。
f:id:crosstalk:20110505113841j:image:left 報道の写真をみると、ちゃんと原画のサイズを考えて描かれているし、タッチも太郎チックである。もちろんまずはちゃんと「明日の神話」という作品のコンセプトに合致させた行為であって、しろうとのしわざではない。「犯人」には座布団を十枚ぐらい進呈してあげたい気分であり、あの世の岡本太郎もよろこんでいるだろう。ことしの日本美術界のトップニュースだな。

 京王線で駒場東大前駅に移動し、ネットで予約したのもおそかったから入場はずいぶんとあとの方になる。それでも観やすい席で観ることはできた。感想は下に。

 舞台がはねて外に出ると、ちょっと雨になっていた。新宿の待ち合わせ場所に直行し、ちょうどいいじかん。三人集まって、またサブナード地下の居酒屋で飲む。
 ゴールデンウイークまっさかりで、きょうも新宿や渋谷でたくさんの子ども連れグループをみたけれど、この居酒屋にも子ども連れの一団が一角を占領していた。子どもたちの親らしいおとなたちは、ホッピーをガンガン飲んでおった。まあこの居酒屋はメニューがおどろくほど豊富なので、子どもたちに食べられるようなものもあれこれある。この日はボトル半額サーヴィスをやっていたので、ほとんどアルコールを飲まないAさんを放置して、Bさんとふたりで焼酎のボトルをカラにして、それでちょうどいいじかんになったわけである。震災後AさんBさんと会うのはこれがさいしょになるけれど、まあもちろん東京や埼玉に住む彼らがそれほどの被害をこうむったわけではない。Bさんはその日に東京に出てきていて、ちょっとした帰宅難民になったとのこと。わたしの知り合いでも帰宅難民になったひとはずいぶんといる。地震のおきたじかんが影響したわけになる。


 

[] 平田オリザ演劇展 vol.1「走りながら眠れ」平田オリザ:脚本・演出 @駒場東大前・こまばアゴラ劇場  平田オリザ演劇展 vol.1「走りながら眠れ」平田オリザ:脚本・演出 @駒場東大前・こまばアゴラ劇場を含むブックマーク

 関東大震災のあとに虐殺された大杉栄と伊藤野枝の、最期の二ヶ月間の日常を描いた中編。十九年ぶりの再演らしいけれど、いかにも平田オリザらしい「現代口語演劇」だとか「静かな演劇」などというエッセンスを楽しめる作品だった。

 おなじふたりの住居の居間を舞台にして、フランスから帰国して以降の大杉と、伊藤野枝との淡々とした日常。ふたりが舞台から去ると背景に風の音のようなノイズが流れ、そこで時の経過がはさまれてふたりは衣装を変えてまた登場する。一幕四場という感じだけれども、外の社会に対してはきっととんがっていたであろうふたりの、この舞台で描かれる日常は、表面的にはあくまでも弛緩したダラダラとした日常で、ファーブルの「昆虫記」を翻訳しながらの「虫」についての雑談などがつらつらとつづき、そこに劇的な展開があるわけでもない。つまりたとえば吉田喜重の「エロス+虐殺」にあった緊張など、この舞台には無縁である。大杉が神近市子に刺された「日陰茶屋事件」についても、大杉が平塚らいちょうにあったときに、「刺されるってどんな感じなの?」ときかれたという、野枝との会話のなかでほのめかされる程度である。しかし、かなり早い段階で、伊藤野枝が大杉に「幸せになりたくっていっしょにいるわけじゃない」と、ぼそっと語ることが、この舞台の空気を支配することになる。この「ダラダラとした日常」の背後にある緊張、これは予備知識として大杉栄と伊藤野枝の生涯をはあくしていることを求められるわけだけれども、その、とんがっていたふたりの、リラックスしきったふたりだけの日常を描いたものとして、彼と彼女が外の社会と対峙していた緊張のうらがえしであり(それはつまり吉田喜重の「エロス+虐殺」を補完するものかもしれない)、しかもそこから平田オリザらしい演劇世界を展開させたものとして、わたしは堪能した。とくに飯島瑞穂演じる伊藤野枝の、舞台にゴロゴロと寝っころがっての、いわば大杉栄(役者は古屋隆太で、いいサポートぶりだったと思う)に甘えきったという身体の表現は特筆モノで、ある意味でこの演出からのちにチェルフィッチュなどの登場につながるだろうというのもあるし、五反田団なんてこのまんま、なんじゃないかという気もするわけである。これは、とてもいい作品、だと思った。

 わたしは大昔に大杉栄の著作はだいたい読んでいるんだけど、この劇中で大杉が幼いころにネコを殺し、その夜にネコに取り憑かれてよなかに起き出して「にゃあお」とないたという話は、その「日陰茶屋事件」について彼が書いたエッセイ、「お化けを見た話」に書かれていたことだったのではなかったかと、舞台を観ながら古い記憶を呼び戻そうとしていた。「幸せになりたくっていっしょにいるわけじゃない」ということばは、わたしには重たくも記憶に焼きつけられるもの、だった。





 

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■ 2011-05-02(Mon)

 このごろのニェネント、かまってやるといままでは手などをカシカシとかんできたのが、このところペロペロとなめてくれる。成長しておとなになって、おしとやかになってきたということなのだろうか。ただ、寝ていると足をとつぜんにかんでくるのがこまる。寒いうちはふとんや毛布に防護されていたけれど、いまはふとんから素足がはみだしたりして寝てしまうわけで、その足がねらわれる。これが痛いのである。「イテッ!」と、目がさめてしまう。それで反射的にニェネントをけっとばして、ベッドの上から追い払ってしまうことになる。いままではあさ目がさめるとニェネントもわたしの足もとで丸くなって寝ているのをみつけることが多かったんだけど、さいきんは起きてもベッドの上にニェネントがいない。けっとばされるので懲りたのか。

 よるになって、ビンラディンがアメリカの特殊部隊だかなんだかにパキスタン奥地の自宅を襲撃され、殺害されたというニュースを知った。それで9.11のテロが解決するというわけでもなく、また反米闘争・テロ活動が再燃するのではないだろうか。なんだかまた殺伐とした気分になってしまう。

 きょうは読書もはかどらず、ヴィデオを一本観てから寝た。


 

[] 「ハムレット」(1990) フランコ・ゼフィレッリ:監督  「ハムレット」(1990) フランコ・ゼフィレッリ:監督を含むブックマーク

 ダンテ・フェレッティという、美術監督というかプロダクション・デザイナーがいて、このひとは二十代のときにパゾリーニの「アポロンの地獄」やフェリーニの「サテリコン」などの美術を担当し、その後も現在まで多くの作品の美術を担当している。「薔薇の名前」、「バロン」、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」、「タイタス」、そして先日観たスコセッシの「シャッターアイランド」など、みなこのひとの担当した作品。まあコスチュームものの背景はまかせて下さいというところだけれども、たんじゅんに古色蒼然とした背景をつくりあげるのではなく、このひとの作品には、通底するいっしゅ独特の美意識がある。まあわたしにはこのひとの美術の最高作は「サテリコン」で、あとはそのヴァリエーションではないかという考えになることもあるけれど、とにかくこのひとがプロダクション・デザインを担当した作品は、映画の出来はどうであろうとも、とにかくその美術からかもしだされる空気、雰囲気をまちがいなく堪能することができる。そういうわけでこの「ハムレット」でも、舞台となるデンマークのエルシノア城の造型、その内装などで、ダンテ・フェレッティのいつもどおりのデザインを楽しむことができる。フランコ・ゼフィレッリの演出も、光と影、逆光などをうまく生かして、美しい映像をつくりだしていると思う。俳優陣では、まだ若いヘレナ・ボナム=カーターのオフィーリアがすばらしい。




 

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■ 2011-05-01(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 さいしょの三連休もきょうでおわり。あっけないものである。そしてきょうから五月。一年の三分の一もおわってしまったわけで、震災からも五十日がすぎた。震災以降生活習慣でかわってしまったことがいくつかあって、まずはちょっとした外出でもケータイをぜったいに持って出ること、そして、たいていの外出には玄関の鍵はかけないでいくこと。これはあまり意味がないかも知れないのだけれども、わたしが帰れなくなってしまってもだれかがかんたんにドアを開けてくれることを期待して、ニェネントを閉じ込められたままにすることをさけるため。帰れなくなったときにこの地域の知っているひとに電話して、ニェネントを救出してもらってもいい。あともうひとつの習慣は、風呂の残り湯をつぎに風呂に入るまで捨てないこと。これは震災のとき断水してしまって困ったから。風呂の残り湯でも、たとえばトイレを流すのだとかに使えるわけである。

 きょうは外が風が強いようで、ひゅうひゅうと風の音が部屋のなかにも響いてくる。ベランダで立てかけてあったイーゼルが、風で倒れたりする。イーゼルなんかもう使うこともないんだけど、捨てるにも大きすぎるのでベランダに出しっぱなしにしてあったのである。それでベランダに出てみると、せんじつバジルの種をまいたばかりのプランターもこけていて、土が外にちらばっている。こんなものが風で倒れるわけもなく、またどこかのネコ(おそらくはジュニア)がベランダにやってきて、プランターのうえに乗っかって部屋のなかでものぞこうとしたんだろう。バジルが発芽できないじゃないか。
 もうひとつのプランターのクレソンは順調すぎるぐらいに育っていて、花の数もふえた。これはひょっとしたら大気中のセシウムなんかを吸収して成長してるのかもしれないではないか。‥‥放射線で汚染されたクレソンをひとが食べて、食べたひとがクレソン化してしまうなどという、「マタンゴ」のようなことを想像してしまった。ふん。

 「断腸亭日乗」をきょうも読むのだけれども、これががぜんおもしろくなってきて、上巻の残り百ページほどまで進んでしまった。とにかく楽しく読めるようになったので、中断せずに下巻までいっきに読みたい。なにがおもしろいって、荷風のことだから日記のなかに芸妓とのつきあいもあれこれ書かれているわけで、いちどは入籍までした(これで荷風は親族と縁を切ることになったりするわけだ)八重次の名まえもときどき出て来ていたし、お富という女性にベタ惚れしたはなしなども臆面なく(のろけ半分に)書きつらねたりもする。お久という女給に足元をみられてしつこく金を無心され、ようやく追っ払ってから「今まで心づかざりしかど実に恐るべし毒婦なり」などというはなしも出てくる。これに昭和二年ぐらいから、お歌という芸妓と知り合い、これの借金を肩代わりしてやってつまりは身請けだね、それからはまいにちのようにそのお歌が来てくれたとか、お歌とどこそこへ行ったとかいう記述がつづくことになる。

お歌二十一になれりといふ。容貌十人並とは言ひがたし。十五、六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり。新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷(たすき)をはづす事なし。昔より下町の女によく見られる世帯持の上手なる女なるが如し。余既に老いたれば今は囲者(かこいもの)置くべき必要もさしてはなかりしかど、当人頻(しきり)に芸者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざるほどなるを幸ひ返済してやりしなり。カッフェーの女給仕人と芸者とを比較するに芸者の方がまだしもその心掛まじめなるものあり。如何なる理由にや同じ泥水稼業なれど、両者の差別はこれを譬(たと)ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし。

 ‥‥と、いうことになる。これがお歌のための住まいを世話してやり、そこを「壼中庵」などと名付け、まあちょっとした隠れ家として活用し、このあたりの記述はじつにもって楽しそうなのである。このとき荷風は数え四十九。翌年にはもうお歌にベタ惚れ状態で、次のように書く。

薄暮お歌夕餉の惣菜(そうざい)を携え来ること毎夜の如し。この女芸者せしものには似ず正直にて深切(しんせつ)なり。去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事(つか)へむとするものの如し。女といふものは実に不思議なるものなり。お歌年はまだ二十を二ッ三ッ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり。むかしはかくの如き妾気質(めかけかたぎ)女も珍しき事にてはあらざりしならむ。されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と称する民権主義の都会に、かくの如きむかし風なる女のなほ残存せるは実に意想外の事なり。絶えてなくして僅にあるものといふべし。(‥‥中略‥‥)ここに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし。人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし。

 まあ、なんという惚れ込みよう。いささかなりともうらやましくも思えたりするわけである。荷風おじさん、すっげえロマンチストやね。
 これがのちにお歌にせがまれて、待合(つまり現在のラブホみたいなものだな)の経営にあたらせたりしてやったりもすることになるのだけれども、これが、昭和六年の六月、車のなかで突然にお歌が倒れて、そのまま入院することになる。どうも何の病気なのかわからないんだけど、医師は最悪にはいずれ発狂することになるだろうなどと診断する。そんな病気、あるのかいな。で、荷風は待合を引き上げさせ、気が狂っちゃうんじゃどうしょうもないということで彼女ととりあえずは別れることになる。なんというドラマだろうと思い、それだけ荷風と交際のあった女性ならば、ネットででも検索すればその生涯とかもきっと知ることができるだろうと、調べてみたりするわけだ。すると、これがちょっととんでもない検索結果が出てきてしまって、読みながら大笑いしてしまった。改行。

 つまり、その問題のお歌の病気というのはまったくの仮病で、じつはお歌は荷風にないしょで若い男と逢瀬をくりかえしていた。その男と酒など飲んだあとに予定外に荷風があらわれ、とにかくしゃべったりしたら酒の匂いがばれてしまうと思ったお歌は、ずっとしゃべらないで、きっと息もしないでがまんしていたのだろう。それで車のなかでついに息がつまって卒倒してしまったらしい。そんな事実はとても医者にも話せないので、以後病院でも仮病で押し通したもの、というのが真相らしいのである。(ただし、この「お歌仮病説」は、松本哉というひとの「永井荷風ひとり暮し」という著作で書かれているだけのようで、一般に「これが真相」といえるのかどうか、わたしにはわからない。わたしもロマンチストなのである)笑ってしまう。
 しかし、その検索したサイトには荷風とお歌さんが並んで写っている写真が掲載されているのだけれども、その写真でみるかぎり、荷風の書くように「容貌十人並とは言ひがたし」などとは思えないのである。わたしには理知的で現代的なクール・ビューティーにみえる。昭和初期の荷風とわたしたちとでは審美基準も変化しているのかもしれないけれど、お歌さん、美人だと思う。
 さて、それで、「断腸亭日乗」から離れて、そのお歌さんのその後も調べてしまったのだけれども、退院後おおやけには荷風とは別れることになるけれども、その後もしょっちゅう会ってはいたようで、そのことは以後の「断腸亭日乗」にも書かれるらしい。戦時中から地方の料亭に移り住み、荷風亡きあとの昭和三十年代に亡くなられるまで、生涯独身ながらも幸福な生涯をおくられたらしいのである。とにかく、「断腸亭日乗」はおもしろい、ということ。




 

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