ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2011-06-30(Thu)

 きのう読み終えた「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」という本のことが、いまでもまだ腹立たしくて、出版社に「あんまりいいかげんな本を垂れ流すんじゃない!」と抗議しようかとか、かなり本気で思ったりするのだけれども、まあこういうことを含めてのこの国であって、わたしもまたそのなかでのうのうと生きているということ。こういう国であることにあきらめの気もちを抱えて、いままで何もしないで生きてきたのだから、こういうことにだけ目くじらを立てるのもまたいっしゅの反動になってしまう気もするわけである。いや、悪いのはじつはわたしなのである。でもやはりまだ腹立たしい。

 それから、きのうの日記に、もしもこの日記がいつまでも更新されなくて、つまりわたしが人知れず死んでしまっていたとしても、このまま放っておいてくれなんて書いたのだけれども、わが家にはニェネントのいることをすっかり忘れてしまっていて、それはニェネントに申し分けないことだった。訂正すれば、この日記がいつまでも更新されないでいると、つまりはわたしが死んでしまっているかもしれず、そうするとこの部屋のなかでニェネントがいっぴきで飢えているという状況が考えられるわけで、これはやはりかわいそう。それでつまりはこの日記があるしゅのライフラインというか、あまり更新されないままだと、しかるべきところへ連絡していただけると助かります。すいませんお願いいたします(こんなことを読者にお願いするというのもそれはおかしなものだけれども)。

 閑話休題。きょうはしごとがまた非番で、また渋谷へ行く予定。きょうからは「グラウベル・ローシャ」の季節である。ユーロスペースで開催中のグラウベル・ローシャのセレクションを五本すべて観る予定。きょうはそのしょっぱなで二本観るつもり。

 じつはきのう、ちょっとだけれども、いわゆるボーナスというものを会社から支給され、六月にあまりに映画とか観すぎて財布が軽くなってしまったのが、いくらかでも緩和されたわけである。八月には恒例の「少年王者舘」の東京公演もあるわけで、そのチケットもそろそろ予約しておきたいところで、そのほかにもこの七月に行きたい知人関係の公演もある。わずかなボーナスなど、あっという間になくなってしまうだろう。

 さすがにヘルツォークのときにくらべて観客数はいささか少ないのだけれども、じつに久しぶりに体験する(といっても、これまでにわたしは「アントニオ・ダス・モルテス」しか観たことはなかったのだけれども)グラウベル・ローシャ、やはり強烈なのである。とくに「黒い神と白い悪魔」は堪能した。もういちどでも観たい。

 映画は終わって、外もそろそろ薄暮という感じなのだけれども、わたしもあしたがまた非番という久々の連休なので、ちょっと夜遊びを、などと思って、またまた「G」へ行く。先週来たばかりなのだけれども、きょうの顔ぶれもCさん、Dさん、オーナーのEさん、お客さんのFさんなど、先週とまるで同じ顔ぶれなのである。それにプラスして、きょうはカウンターの席はかなり埋まっている。BGMはさいしょヴェルヴェットからそのあとはストーンズ、それでCさんが「つぎは何をかけようか」ときくので、ちょっと考えて、やはり暑苦しくなってくると「It's a Beautiful Day」がいいと、リクエストする。Cさんもこのとき「It's a Beautiful Day」、と思っていたそうで、以心伝心である。蒸し暑い日にはやはり「It's a Beautiful Day」がいい。とっくに手放してしまった彼らのセカンドが、また無性に聴きたくなった。


 

[]「狂乱の大地」(1967) グラウベル・ローシャ:監督 「狂乱の大地」(1967) グラウベル・ローシャ:監督を含むブックマーク

 ブラジルそのものを思わせる架空の国、エルドラドを舞台にした政治劇というか、政治をめぐる寓話めいた作品で、これが日本初公開。

 主人公の詩人/ジャーナリストであるパウロは、理想の実現のために保守から革新にわたる政治家と接近し、タッグを組むけれど、ことごとく裏切られる。そのさまを、荒々しい演出でパワフルに、またアナーキーに、カオティックに提示する。画面と関係なく響く銃声とか、演出全体に同じとしに製作されたゴダールの「ウィークエンド」を彷佛とさせられるところもあり、この時期のゴダールとローシャの地域性を越えた同時的な親和性もうかがえることになる。
 主人公のパウロが、革新と思っていた男の変節に裏切られ(こういうことはついさいきんの日本の状況をも思わせるものがあるではないか)、車での逃走のとちゅうで検問を突破し、その検問の警察に追われて射撃されるシーンでの、こまかいリフレインを入れる編集/演出というのはグラウベル・ローシャのお得意のやり方というか、これは「アントニオ・ダス・モルテス」(こんかいはまだ観ていないけれど、いずれまた観に行くつもり)のクライマックスの地主殺害の場面でも使われていた手法だし、あたかも登場人物のひとりのようにずんずんと移動しまくるカメラの動きも印象的である。熱に浮かされたような強烈な作品なのだけれども、どうも睡眠時間の調整に失敗していたのか、久々に映画を観ていてついウトウトとしてしまった。余裕があればもういちどちゃんと観直してみたいのである。


 

[] 「黒い神と白い悪魔」(1964) グラウベル・ローシャ:監督  「黒い神と白い悪魔」(1964) グラウベル・ローシャ:監督を含むブックマーク

 「アントニオ・ダス・モルテス」がさいしょに日本で公開されて、一部で評判をとったときに、どこかでひっそりと公開はされたことのある作品で、わたしはこれではじめて観たけれど、その「アントニオ・ダス・モルテス」と内容的にばっさりダブる作品だった。強烈。

 貧しい牛飼いのマヌエロは、毒蛇にかまれて死んでしまった牛のことで領主といさかいになり、暴力をうけたはずみでこれを殺害し、妻とともに逃亡生活にはいる。このときにセバスチャンという黒人神父にしたがう一派と行動をともにして、政府軍に追われることにもなる。「大地が海となり、海が大地になるときが来る」という神父のわけのわからない教義から子どもを殺されたマヌエロは、その神父を殺害して、コリスコという山賊(カンガセイロ)の部下となる。それでもって、カンガセイロの殺し屋として知られるアントニオ・ダス・モルテス(死神アントニオ)に追われることになる。ここで、セバスチャンに統率される信者の群れやカンガセイロ一派たちは、もちろん革命勢力として解釈されているわけだけれども、「アントニオ・ダス・モルテス」でみられる劇的な(ある意味明快な)革命/反革命の交替劇(アントニオの転向)はおこらず、いっしゅ民話的な世界のなかから、「生き残ったもの」の使命のようなものが暗示されるわけである。

 ギター弾き語りの音楽がまさに、「アントニオ・ダス・モルテス」でもってもういちど使用される音楽そのままであり(「アントニオ・ダス・モルテス」ではそのほかにサンバからバラッド、シンセ音楽ととにかく刺戟的な音楽の花盛りになるけれども)、そのアントニオを演じる役者も「アントニオ・ダス・モルテス」と同じである。この「黒い神と白い悪魔」では、殺し屋アントニオよりも、しょっちゅうカメラ目線でクローズアップされるカンガセイロのコリスコの方が、より重要な描かれ方をしているけれども、このコリスコを演じていた役者は、「アントニオ・ダス・モルテス」でカンガセイロを演じている役者ではない。データをみてみると、この役者は「アントニオ・ダス・モルテス」では「教授」を演じているのだった。あ、そうか、なるほどね、という感じ。ちなみに、「狂乱の大地」で政治家の取り巻きのひとりを演じていた役者が、「アントニオ・ダス・モルテス」では目の見えない地主を演じていたわけで、なんか、こういうそれぞれの作品で演じる役者の整合性というのもまたおもしろい気がするのである。
 演出面での意図的な人物の動かし方、重ね方などもおもしろいもので、そういうのではとくに前半のストーリー展開でのかなめになるだろうマヌエロの地主殺しから夫婦での逃走の過程、これがわずか五秒ほどのフラッシュバック的演出/編集で、ほんとうにいっしゅんのうちに説明されてしまう。このあたりのドライさというか、ナラティヴな流れを最小限にとどめようとするような演出が小気味よいわけである。いやあ、やっぱり、グラウベル・ローシャはすごいね!という感じで、この作品もまた、機会があればもういちど観てみたい。

 

 

[]二○一一年六月のおさらい 二○一一年六月のおさらいを含むブックマーク

舞台;
●6/15(水)大人計画 ウーマンリブ vol.12「サッドソング・フォー・アグリードーター」宮藤官九郎:作・演出 @下北沢本多劇場

映画:
●「白いリボン」ミヒャエル・ハネケ:監督
●「ブラック・スワン」ダーレン・アロノフスキー:監督
●「セラフィーヌの庭」マルタン・プロヴォスト:監督
●「小人の饗宴」(1970) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督
●「フィツカラルド」(1981) ヴェルナー・ヘルツォーグ:監督
●「コブラ・ヴェルデ 緑の蛇」(1987) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督
●「キンスキー、我が最愛の敵」(1999) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督
●「The Wild Blue Yonder」(2005) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督
●「My Son, My Son, What Have Ye Done」(2009) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督
●「黒い神と白い悪魔」(1964) グラウベル・ローシャ:監督
●「狂乱の大地」(1967) グラウベル・ローシャ:監督

読書:
●「プードルの身代金」パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳
●「アメリカの友人」パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳
●「女嫌いのための小品集」パトリシア・ハイスミス:著 宮脇孝雄:訳
●「半七捕物帳 巻の六」岡本綺堂:著
●「キリスト教の歴史」小田垣雅也:著(講談社学術文庫)
●「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」内橋克人:編 (岩波新書)

DVD/ヴィデオ:
●「悲しみよこんにちは」(1957) オットー・プレミンジャー:監督
●「クロムウェル」(1970) ケン・ヒューズ:監督
●「華麗なるアリバイ」(2008) パスカル・ボニゼール:監督
●「ずっとあなたを愛してる」(2008) フィリップ・クローデル:監督
●「誰がため」(2008) オーレ・クリスチャン・マセン:監督
●「海女の戦慄」(1957) 志村敏夫:監督
●「女岩窟王」(1960) 小野田嘉幹:監督
●「怒号する巨弾」(1960) 石川義寛:監督
●「拳銃残酷物語」(1964) 古川卓巳:監督
●「殺しの烙印」(1967) 鈴木清順:監督
●「みな殺しの拳銃」(1967) 長谷部安春:監督
●「嫌われ松子の一生」(2006) 中島哲也:監督
●「アウトレイジ」(2010) 北野武:監督
●「映画監督・石井岳龍の挑戦〜3Dのその先へ」石井岳龍:構成・演出
●「フェラ!」ビル・T・ジョーンズ:芸術監督・振付




 

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■ 2011-06-29(Wed)

 このあいだのことだけれども、よるに寝ていて胸苦しくて目が覚めたりして、もう夜なかの二時ごろなのだけれども、これはべつにニェネントがわたしに胸にのっかっていたとかいうのではなく、ただ胸が痛いというか胸の中央(つまり心の臓のあたり)がしめつけられるような感覚があって、愉快ではないどころではない、もうひょっとしたらこのまま心臓が止まって死んでしまうんじゃないかとかいう感覚でもあって、とてもイヤなものだったのだけれども、これが十分だか二十分だか続いて、ふとその痛みもやんでしまう。こういうのが一週間ほど日をおいて二回続いた。イヤな気分だった。これも夏バテの症状のひとつで、循環器までおかしくなっちゃったのだろうか。そういうわけで、この日記があまりにながいこと更新されないでいると、つまりはわたしが自宅のベッドの上で腐乱死体になっちゃってるよ、などということもまるでないとはいえないのです。まあそういうときにも放置しておいていただいていっこうにわたし的には不都合はありませんので(どうせもう死んでるんだから)、そのまま放っておいて下さいますように。

 とにかくそういうふうに、死になれ親しむというか、やる気のない毎日をおくっているしだいで、きょうもヴィデオも観ないで、本だけを読んでいちにちを過ごした。

 夕食に買ってあった安い牛肉をたくさん使って、ビーフシチューをつくった。濃い味のビーフシチューはほんのちょっとでごはんがたくさん進むので、夏バテには効くんじゃないかと思う。これからしばらくは、毎晩ビーフシチューになるだろう。
 風呂に入っていると、またニェネントが開いたままのドアから風呂場をのぞきこんでいるので、どうだろう、ここらでいっちょうニェネントにもシャワーを浴びさせてやったらどうだろう、などと悪いことを考える。ニェネントを呼ぶとかんたんに風呂場のなかに入ってくるので、ドアを閉めてまずはニェネントを閉じこめる。場合によってはニェネントがいやがってわたしに爪を立ててきたり、必死の抵抗をするかもしれないので、これはわたしも命がけである。ニェネントの上にシャワーを持ってきて栓をひねると、ニェネントのからだにお湯がふりかかる。‥‥なんだ。あまりいやがらないじゃないか。それでもからだじゅうにシャワーを浴びせてやるとさすがに「キャー」とか悲鳴をあげて、ちょっとばかし抵抗する。でも、このくらいの抵抗ならいつでも受けて立つ。ニェネントのからだをタオルでくるんで拭いてあげて、ニェネントうまれてはじめてのシャワー体験は無事終了。夏の時期はこれからもときどき、ニェネントにシャワーしてあげよう。


 

[]「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」内橋克人:編 岩波新書 「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」内橋克人:編 岩波新書を含むブックマーク

 めったなことで岩波新書とか読まなくって、それでもこの新刊書をつい買ってしまったのは、33名の執筆者のなかに柄谷行人や中井久夫の名まえがあったからで、そうでもなければ「私たちは何をすべきか」などという、ちょっとおぞましい副題を持つ本を買ったりなどしないし、まあもうちょっと中身を吟味してから買えばよかったと反省している。つまり、読み進めるにつれて失望感ばかりが拡がる、そんな読書だった。ああ夏バテがひどくなる。
 もうひとつこの本を買ってしまった理由に、震災後の先日も再読した、中井久夫氏の編になる「1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神科医たち」のような、「生」のドキュメントを期待していたということもある。そういう期待は裏切られた。というか、この小冊子の後半まで読み進んだとき、つまりこの書物は編集さえロクに行われていない、垂れ流し書物なのではないかという疑問さえ抱くようになった。

 まずはこの本、「3・11は何を問うているのか」という、総論的ないくつかの文章からはじまり、つぎに「命をつなぐ」という総題のもと、こんかい現地で活動したあれこれのNPO団体の方々の活動の報告になる。つまり、いっちゃ悪いけれども、これは「わたしたちはこんな有益な活動をした」というコマーシャルではないのか、という感想が生まれる。さきに書いた「1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神科医たち」を読んだ感じとは根本的に何かがちがう、という感覚がある。それはリアルタイムなドキュメント性ということでもあるだろうし、読んでいるうちには、それは被災者のとらえかたでもあるように思えてくる。ここではどうも、「被災者」という存在を、トータルに「ひとつ」の存在として見ているように思えてならない。もともと「1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神科医たち」で書かれていたのは、標題にある通りに精神科医の視線からのドキュメントであり、ここで視線を注がれる被災者は、精神科医にかかっていた患者であるということもあり、つまりは被災者トータルのなかでのまたマイノリティへの視線であること、などもまた書物の奥行きを深めていた印象がある。

 それでこの新書の第三部は「暮らしをささえる」という標題のセクションになるのだけれども、ここを読んでいて、わたしはちょっとばかしあきれてしまった。ああ、「岩波文化」なんて、つまりはこういうことなんだよなと思ってしまう。

 例としてここにそういう文章の一部を引くけれど、震災後にわたしもすこしは「とんでもない」言説を聴いたり読んだりはしてきたけれど、まあこれいじょう「とんでもない」文章というのはないだろうと思う。ちょっと長くなるけれども。

 放射能に対する防災教育も喫緊の課題である。放射能災害は目に見えない被害であり、何世代にもわたって生命の危機を引き起こす危険がある。これまで、放射能に対する防災教育は学校において一度も行われたことがなかった。それどころか、教科書を含めて原子力発電は安全でクリーンなエネルギーとして教えられてきた。今回の事故は、五四基もの原子力発電プラントを有する日本列島の危険な状態を再認識させた。放射能被害に対する防災教育は、地震の防災教育と同様、十全に行われるべきであった。原発事故と放射能災害に対する基礎知識の教育、外部被曝と内部被曝から身を守る方法など、どのような事態が起っても冷静かつ迅速に対応できるよう、科学的知識と防御の行動について、すべての子どもを対象に教育することが必要である。文部科学省は、早急に原発事故と放射能被害に関する研修を全国の教員全員に実施しなければならない。

  「教育にできること、教育ですべきこと」(佐藤学)より

 ‥‥「アホか!」という感じである。まあこれからも原子力発電所の操業を継続しなければならないという要請があってこそ、こういう「ごまかし」を書くのだろうけれども、いざ原発事故が起きたとき、「外部被曝と内部被曝から身を守る方法」というのがどういうことなのか、これはぜひともわたしもお聴きしたいものである。それが原発事故が起きるまえに学習していてこそ役に立つようなものということは、それはとにかく「操業中の原子力発電所から半径300キロ以内に居住してはいけない」ということにしかならないのではないのか。そうではない「外部被曝と内部被曝から身を守る方法」というのはどういうものなのか。「シェルターにこもってそこから一歩も外に出ない」というならそれもよし。ではそのシェルターはどこにある?
 この著者(「教育方法学」というもののオーソリティであらせられるらしい)の放射線被害への驚異的な無知ぶり(「実践できないこと」を教えようとするのは「無知」と呼ぶしかない。これもつまりは我田引水しようとしての結果だろうけれども)はそれこそ「アンビリーバブル」ではあるけれど、刊行される書籍のなかにこういう文章を垂れ流しのように残してしまう編集者、出版社というのも、これはもう東京電力株式会社に匹敵するもので、これはこれでほとんど「犯罪行為」と呼んでもいいのではないかと思う。

 じつはこの本でこのあとに続く某精神科医の文章にもじつにおかしなところがあるとわたしは思うのだけれども、とにかくこの時期にこのような「トンデモ本」が出版されてしまうというのもまた、この日本の現状なのでしょう。





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■ 2011-06-28(Tue)

 きょうはしごと。マスクでもしていけばよかったのだけれども、頬の傷をそのままに出勤。「どうした?」と聴かれ、「ネコがタンスの上から降ってきた」と答える。傷口にさわると痛い。悪化せずに治りますように。

 あさの早いじかんでもだんだんに暑さがしんどくなってきて、きょうから持っていっている保冷ペットボトルの紅茶がいのちを救う。
 帰宅してもぐったりして、また昼寝などをしてしまう。やっぱり夏バテの症状なのか。ことしは暑中見舞いのハガキを知人友人に出そうと企んだのだけれども、まさか文章だけというわけにもいかず、もう「絵」なんてずいぶんと描いたりしていないので、いったい何をどうしたらいいのだかわからない。これはやばい。認知症のはじまりかもしれないではないか。

 ニェネントもさすがに暑いのか、ベッドの上であお向けになって、両足をのばして寝ている。足をまっすぐのばしていると「ずいぶんデカい動物だなあ」という印象で、こんな動物が家のなかでウロウロしていると思うと、それは奇妙な感覚になる。写真を撮ってやろうと近づくと、わたしの気配を感じて起きてしまい、あお向けの姿勢をくずしてしまう。
 食事をあまりとらないのもあいかわらずで、ネコ缶の食事だと食べ残しがすぐにいたんでしまうと思い、いつもより皿に出してあげる分量をへらしたりしてみる。そうするとよけいに空腹になってしまうだろうか。空腹になれば必然的に餓えを満たす量だけ食べそうなものだけれども、へらした量でも食べ残している。ネコ缶はやめて、ドライタイプのキャットフードだけにしてみることも考える。

 きょうもヴィデオを観ずに、寝転がって本を読んだだけ。せんじつ買った岩波新書の震災関連の本は、何かちがう感じ。だいたいわたしは、時事的なことがらに関しての岩波書店とか朝日新聞社とかの「オピニオン」ってヤツにいつも疑問はあるわけで、こんかいもあわてて買って失敗した気分。まあさいごまでは読み通してみよう。「半七」をまたすこし読んだ。


 

[]「半七捕物帳 巻の一」(2)岡本綺堂:著 「半七捕物帳 巻の一」(2)岡本綺堂:著を含むブックマーク

 この「半七捕物帳」については、覚え書き的にあらすじを書いてしまうので、つまり犯人は誰だったということまで書くつもり。まだ読んでいなくてこれから読むつもりのひとは気をつけて下さいませ(などと今ごろ書いても遅いわ)。

●「湯屋の二階」
 江戸時代の風呂屋にはたいてい二階に休憩所みたいな部屋があり、そこで若い女性がお茶や菓子を売っていたりもしたし、将棋を差しているひまじんもいるし、いっしゅの社交場だったような。そんな湯屋の二階にひんぱんにふたりの武士が出入りし、どうやらなにか計画を練っている様子。「どうもあやしい」と知らされた半七らが、その武士らから預かっている荷物を開けてみると、なんとミイラ化したひとの首や蛇のような動物の首が出てくるわけよ。そんなときに武士によるらしい押し込み強盗が発生する。「すわ」ってわけで半七が武士を追跡すると、とある刀屋でその武士のひとりが鮫の皮を売りさばこうとしているのを目撃する。なんだなんだというわけだけれども、つまり押し込み強盗と湯屋のふたりの武士は無関係で、このふたりの武士はいろいろあって、ある仇討の助太刀を申しわたされた身で、まいにちまいにち仇の行方をてきとうに探していた次第。つまり仇討などやる気ないのであるけれど、湯屋に通い詰めているうちにひとりがその湯屋の娘と恋仲になってしまい、駆け落ちをたくらむことになったと。それでその武士の家系に代々伝わる家宝を売りさばいて駆け落ちの資金にしようとしていた、というのが真相である。ある意味しょーもないオチではあるけれど、これがなんだか江戸っぽくっていいのである。どこか川島雄三っぽい、などとわたしは勝手に思っている。

●「お化師匠」
 慾のつっぱった踊りの女師匠がある日、死体で発見される。その首には蛇がまきついていて、ひゃあ、蛇に絞め殺されたのか、というわけである。この師匠はじぶんの姪を後継ぎにしようと芸をしこんでいて、その姪が美人だったので彼女目当ての男性の弟子の数が増えることになる。これが病弱なのに稽古を休ませず、とうとうその姪は一年まえに病死してしまったわけである。それ以来、その女師匠の家には死んだ姪の霊があらわれるといううわさもたっていたわけ。しかし犯人は?
 これはちょっと読んでいて飛躍がありすぎる気がしないでもないけれど、当時は「池鯉鮒(ちりゅう)様」のお符というのがあったそうで、これが蝮よけ蛇よけの効能があるということで、このお符を売るものは蛇を持っていて、そのお符がじっさいに蛇をいやがらせるというのを大道でみせて売り歩いているわけ。女師匠の首の蛇を検分した半七は、それがそういうお符売りのもっている蛇だと関知し、江戸にいるお符売りを探すと、つまりはそのお符売りがじぶんの蛇を盗まれたことがわかる。盗んだヤツが師匠殺しの犯人だ。これがかつての女師匠の愛人で、つまり久々にその女師匠のところにいってみると邪険にされたので、こいつぁあ殺してしまおうとなった次第。
 つまり、死んでしまった姪と事件とはまるで関係がないわけで(ほんのちょっとあることはあるが)、そのあたりが弱いかな、という印象はある。お符売りという商売についてのうんちくがいかにもおもしろいけれども。




 

 

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■ 2011-06-27(Mon) このエントリーを含むブックマーク

f:id:crosstalk:20110629111658j:image:left よなかに、何かが顔の上に落ちかかってきて目が覚める。もちろん、ニェネントが頭の上の洋服ダンスのてっぺんから、わたしの顔を着地台にしてとびおりてきたのである。思いきり頬の上に着地しやがって、そのまま「ニャン」とないてどこかへふっとんで行った。いたいなあと思って頬にさわってみるとヌルリとした感触があり、手をみると血がいっぱいついていた。なんということ。
 タオルで拭こうと起き上がって洗面所へ行くと、そのあたりにいたニェネントがあわてたように逃げていく。どうやら、悪いことをしたという自覚があるような。洗面所で鏡をみると、頬に縦にながい傷がついている。いわゆる「向こう傷」というやつである。別に出入りがあったわけではないけれど、この傷はかなり目立つだろう。うんざりするけれども、こうなってしまったものはしかたがない。タオルで血を拭いて、そのまま寝る。

f:id:crosstalk:20110629111723j:image:right 朝になって、わたしのかわりにベッドの上で寝ているニェネントの写真をとってやると、きょうは久々にすっきりした美猫の顔をしていて、写真写りがいいような気がする。ひとの顔を傷つけておいてじぶんはすっきりかよと、憎たらしいのである。朝のサンドイッチをつくるのもめんどうで、買ってあったスナックパンを食べていると、ニェネントが寄って来てわたしの手もとにまとわりつく。「食べたいのかよ」と、パンをすこしちぎって手のひらにおいてやると、ペロリと食べてしまった。そうか、ニェネントはパンも食べるのか。それではともうちょっとちぎってあげるけれど、もう食べないのであった。つまりわたしの食べているものは何でもじぶんも食べる権利があると考えてはいるのだけれども、じっさいに食べてみるとそんなにおいしいものではなかった、ということなのか。

f:id:crosstalk:20110629111748j:image:left きょうもまたしごとは非番。きのうの二日酔いからまだ癒えていないのかもしれないけれども、はやくも夏バテという体調で、食欲もなく、何もする気がしない。ただ、あしたからのしごとに備えて魔法瓶を買っておこうと思って、ホームセンターへ出かける。魔法瓶は高いので、保冷効果のあるペットボトルのケースのようなものを買う。帰宅して、久々にヤカンいっぱいに紅茶をつくり、あしたしごとに持って行く分をふくめて冷蔵庫で冷やしておく。やはり夏は冷たい紅茶がいちばんである。

 夕食もあまり食べず、ヴィデオも観ず、本もあまり読まないで、きょうは早々と寝る。




 

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■ 2011-06-26(Sun)

 あさアラームで目覚めるとそれはもう二日酔いという感覚で、これからしごとに行くのかと思うとぞっとするわけである。それでもこんなことで休むわけにはいかないのでヘロヘロしながら会社に向かう。まあ日曜日のしごと量は少ないし、なんとか無事にこなして帰宅。そのまままた寝てしまう。

 とにかく食欲もなく、いちにちゴロゴロしていたのだけれども、いいかげんTVをなんとかしなければならないと、地デジ用のチューナーをセットしてみる。わたしは室内のアンテナの端子まで工事しなければならないのかと思っていたのだけれども、そういうものではないようで、チューナーをセットすると、ちゃんといくつかのチャンネルは見ることができるのだった。しかしところが見ることのできないチャンネルがはんぶんある。これがどういうことなのかわからない。ちょっと調べた感じでは、やはり屋上のアンテナから室内までの配線も交換しなければこういうことになる場合もあるような。それはめんどいし、かんぜんにアナログ放送が終了すると事態が変わることもあるらしいので、それまでは放置することにする。いまげんざい見ることができるのはNHK、テレビ朝日、TBSだけである。

 らいげつのひかりTVとWOWOWの番組表が送られてきていたので、寝ころがってチェックする。ウィリアム・ワイラーの初期作品、高峰秀子の1940年代の作品、そしてアラン・レネの「去年マリエンバートで」、「二十四時間の情事」、「夜と霧」の三連発あたりがうれしいところ。昼から図書館へ行って、「半七捕物帳」をまたあたまから読むことにして、その第一巻などを借りてきた。

 わたしとおなじで食欲がないのか、ニェネントが食事を食べ残す。しかも気温が高くなっているから、長く置くといたんでしまう。しかたなく、食べ残してじかんのたってしまったものは捨てることにする。いぜんはとにかく皿のなかをぜんぶ食べてしまうまで出しっぱなしにしていたけれど、もうそういうわけにはいかないのである。わたしの方はパンとかそうめんだけですませる。これではとても体力もつきそうもなく、早くも夏バテぎみなのである。ヴィデオなども観る気が起きず、「半七」をすこし読み、きのう買った岩波新書をすこし読み、そのまま寝てしまった。


 

[]「半七捕物帳 巻の一」(1)岡本綺堂:著 「半七捕物帳 巻の一」(1)岡本綺堂:著を含むブックマーク

●「お文の魂」
 筆者はまだ半七老人と知り合ってはいない(というか、まだ年齢的におさない)という設定で、筆者がおじさんから聴いたはなしのなかに半七が登場し、その後成人してから筆者は半七本人との交友がはじまるというわけ。
 堕落した破戒僧が人妻を離縁させて手込めにしようと、「受難の相が出ている」などというわけである。離縁しないと災難がふりかかるということを本気にした人妻は、夜な夜なまくら元に女の幽霊が立つのだという。おさない娘もその霊を「おふみの霊」だという。この「おふみ」というのは、その人妻が貸本屋から借りた草双紙のものがたりの登場するもので、娘はその挿画の記憶から夜なかに幽霊をみたと思い込んだときに「おふみの霊」というわけである。
 江戸時代の貸本屋というのは、川島雄三の傑作「幕末太陽伝」でも小沢昭一がそういう役をやっていたけれど、本をかついでお得意さん宅をまわり歩き、そのお得意さんが好きそうなものを勧めて貸していくわけである。客がやってくるのを待っているわけではなく、知性と営業能力のひつような職業である。江戸の町人文化をささえた業種だったろう、という気がする。

 この作品が「半七」の第一作だから、1917年に「文芸倶楽部」に掲載されたものだろう。

●「石燈籠」
 日本橋の小間物屋の年ごろの娘が、浅草へお詣りに行ったまま帰って来ない。夜なかに帰ってきたと思ったら、その母親を短刀でさして殺害し、またその姿を消してしまう。
 半七はその帰ってきたという娘は別人ではないかと推理し、庭の塀ぎわの苔むした石燈籠の上に小さな足跡をみつける。つまり燈籠の上に飛び乗って、そこから塀の外へと逃走したのだろう。そんなことが出来るのは両国の見世物小屋の女軽業師にちがいないと。半七の推理はもちろんズバリ的中で、まあこの女軽業師ってえのがワルで、娘を拉致して地方へ芸者として売り飛ばし、ついでにその娘の実家の財産目当てに強盗に入ったものである。
 半七につかまった女軽業師は、いっしゅんのスキをついて隅田川に身投げして果てる。シャーロック・ホームズばりの、まっとうな推理小説という感じ。

●「勘平の死」
 しばらくのちにこの「半七捕物帳」が舞台化されたときに選ばれたのがこの作品。綺堂の持ち味が生かされた、人情話っぽい佳品という印象。
 京橋のおおきな金物屋「和泉屋」では、まいとしの暮れに年忘れの素人芝居を催していて、そのとしは「忠臣蔵」をやることになっていた。六段目の勘平切腹の場面で、竹光のはずの刀が本身の刀に差し替えられていて、勘平を演じていた店の若旦那はそのまま死んでしまう。若旦那には仲働きのお冬という婚約者同然の恋人がいて、半七はこりゃあその若旦那とお冬と、店のほかのだれかとの三角関係ではないかと推理する。半七はわざと酔ったふりをして店に乗り込んで、「この店のなかに犯人がいる」というタンカを切る。そのタンカに顔色を変えた男がいた。もちろん彼が犯人で、お冬に横恋慕して若旦那を亡きものにしょうとたくらんだもの。半七はさらに科人の刑罰がいかに残酷なものであるかを語り、つまりこれでもって犯人の男に自害をすすめているわけである。
 このほかに、ちょっとおまけ的に、その若旦那生誕の秘密(というほどでもないが)みたいな話がかぶさってくる。




 

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■ 2011-06-25(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 図書館で、年にいちどの古い雑誌リサイクル譲渡の日。この四、五年はまいとしずいぶんと古い雑誌をもらって来ているけれど、じつはパラパラとめくってみるばかりで、あまりちゃんと読んでいるわけでもない。だいたい「ユリイカ」「群像」「文學界」「現代思想」などをもらってくるのと、おもしろそうな特集があれば「SFマガジン」や「ミステリーマガジン」など。きょねんまではひとり十冊までだったのが、ことしからはひとり十二冊までになった。もうここの図書館はずいぶんまえに「ユリイカ」の定期購入をやめてしまっているので、「ユリイカ」をもらって帰るのも、ことしあたりでおしまいかもしれない。わたしのとなりにいたご婦人は、「オール讀物」一年分十二冊を、ごっそりと抱えていらっしゃった。わたしのことしの収穫は、「ユリイカ」の森茉莉の特集号、かな。帰ってからパラパラと読む。

 きょうはこれから、GさんとHさんと新宿で飲むことになっている。ついでに、これからのしごとでの暑さ対策のグッズなども買っておきたくて、待ち合わせじかんよりもすこし早く新宿へ行く。買いたいのは、保冷効果のあるタオルだとか、冷たいドリンクを入れておける魔法瓶など。
 南口の、都市型ホームセンター店鋪へ行ってみる。保冷効果のあるタオルというのはことしはやはり注目されているようで、フロアの入り口のところに特設コーナーがもうけられていた。おおぜいのひとがむらがっていて、ちょっと立ち入りにくい雰囲気なのだけれども、なんとか覗きみた感じではやはり値段が高すぎるという感想。デザインのいいふつうのタオルを買う。魔法瓶もやはりこの店はあまりに高すぎるという印象で、うちの近くのホームセンターで買った方がずっと安いようなので、買うのをやめる。この店では、ちょっとまた絵など描こうかという気分なので、面相筆を一本買ったりした。となりの本屋をみていると、岩波新書でこんかいの震災に関するものが刊行されていた。執筆陣で気になるひとの名前もあったので、ついつい買ってしまった。
 そろそろ集合時間も近くなり、集合場所へ向かうとちゅうで道ぞいの大規模雑貨店にちょっと立ち寄る。保冷効果タオルが、さっきの店の四分の一ぐらいの価格で売っていた。これを買う。これから飲むというのに、きょうはずいぶんとむだづかいをしている気がする。

 待ち合わせ場所でGさんと遭遇するけれど、Hさんがなかなか来ない。連絡してみると電車が遅れているということで、Gさんとふたりで先にいつもの店「T」に行って待つことにする。けっきょくHさんの来たのは一時間いじょうあとになってから。この店にも「浦霞」があったので、前半はいつものホッピー、後半は浦霞を飲む。スタミナをつけようと、ニンニクの天ぷらなどつまむ。話の流れで次回は三人でカラオケに行こうか、などということになる。男ばかり三人でカラオケか。どうなることやら。
 やはり焼酎と日本酒というのは取り合わせが悪く、ちょっとばかし悪酔いして帰宅。酒を飲んで気分が悪いというのも、じつにひさしぶりのことである。あしたはしごと。だいじょうぶだろうか。




 

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■ 2011-06-24(Fri)

 きょうもまた東京へ。ヘルツォークの最終日で、また二本観る予定。もうすっかりこの宮益坂からの道もなれてしまい、とくにどのコンビニのどのあたりに何が置いてあるか、喫煙できるスポットはどこかなど、なかなかとくわしいにんげんになってしまった。ひるごろに上映館に到着して一本めと二本めの予約をして整理券をもらい、近くのコンビニでサンドイッチとかを買って、こどもの城あたりのオープンスペースのひかげで簡単な食事をする。タバコを一服し、まだじかんがちょっとあまるので、このあたりに二軒ある古本屋を覗いてみたりする。安くておもしろそうな本があれば買ってしまったりもする。それで映画館へ戻ってくらやみへもぐり込み、暑さをしのぐ。

 これでこんかいの「ヘルツォーク傑作選」は六本も観てしまうわけで、つまり本編上映前の予告編は、まったく同じものを六回観てしまうことになる。まあいいのだけれども、まったく好みではないタイプの作品の予告編は苦痛になる。これがまた流れる音楽も耳をふさぎたいくらいに神経にさわる音楽だったりするので、拷問である。

 映画が終わり、あしたはしごとも非番なので夜遊びをしようと。しかしまあ、さいきんずっと(何年も)ひとりで遊ぶのは「G」でしかないわけで、またきょうも「G」へ行く。電車に乗って移動する。きょうはCさん、Dさん、それにオーナーのEさん、カウンターのお客さんにFさんなど。しかしさいきんわたしが「G」へ行くと、カウンターにはかならずFさんがいる。まいにち来ているのだろうか。
 やはりヘルツォークを何本か観てこられたCさんと、ヘルツォークのはなしなど。BGMは「ツインピークス」のサントラから、フランソワ・ド・ルーベの映画音楽集へ。Fさんから「あなたの銀幕の女王はだれ?」と聴かれ、「それはマリー・ラフォレ」と即答するも、みなマリー・ラフォレをほとんど知らないのである。Fさんはスザンヌ・プレシェットだということで、こんどはわたしがほとんどスザンヌ・プレシェットを知らないのであった。

 終電に間に合う時刻で帰ったのだけれども、電車がすこし遅れていてひやひやしたし、すわっていたわたしの前に立った男性が上の棚にじぶんのバッグを乗せたとき、そこから何かの飲み物がこぼれてきて、わたしとわたしのとなりの男性にふりかかったりした。その男性がほとんどあやまるというのでもないおざなりな態度だったので、不快だった。とくに、わたしのとなりの男性にはひとこともあやまったりしていない。もうちょっとからんでやろうかとも思ったけれど、わたしは善人というわけでもないけれど、あまり悪役のタイプでもないのでやめた。


 

[] 「The Wild Blue Yonder」(2005) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督  「The Wild Blue Yonder」(2005) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督を含むブックマーク

 日本未公開作。「Science Fiction Fantasy」との字幕からはじまる。まあひとを喰った作品というか、たしかに「Science Fiction Fantasy」ではある。アルファ・ケンタウルスの惑星から、星の終末をむかえて地球へと脱出してきた異星人が、地球に同化しようとしてきた歴史を語る。飛行機に乗ったり、絶望して自殺しようとしたり、ショッピングモールをつくってひとを呼ぼうとしたけれどもだれもこなかった、とか。これと、人類の宇宙探索計画が並行して描かれる。主人公の異星人ブラッド・ドゥリフがひとりで廃墟っぽい風景のなかでカメラに向かって語るいがいの映像は、基本的にここまでは「アリもの」ばかりの使いまわしなのだけれども、おそらくはロシアの宇宙船内部をとらえたらしい映像はめずらしいというか、これははじめて目にしたのだけれども、この宇宙船内部はほとんど物置小屋のように雑然としていて、宇宙への旅とはじっさいにはこのようなものなのかと、まあ幻滅するわけである。
 そういう意味でこの作品、宇宙旅行への幻滅をこそ主題にしているようでもあり、たとえばその地球から4.5光年の距離にあるアルファ・ケンタウルス星へ、地球から探索衛星ボイジャーのクラスのスピードで旅立った場合、二万年かけてもその旅程の15パーセントぐらいにしかたどりつけはしないということ。高速に近いスピードをげんざいの人類の技術力で産み出そうとすると、ほとんど全宇宙を包括するエネルギーがひつようなのだよ、と。
 ここで、いかにもうさんくさい中国系の科学者などが登場し、「重力のねじれ」を利用して「重力トンネル」を開通させられるのだと、もっともらしいことをいいはじめる。それで人類はアルファ・ケンタウルス星への旅に出発する、らしい。ブラッド・ドゥリフは「あの星は終末をむかえているのに」と嘆く。ここから先は「水中撮影」を宇宙の映像として、探険が続く。

 まあ遊び心満載の作品というか、反SFというか、とにかくこんな作品をじっさいに製作してしまうヴェルナー・ヘルツォークというひと、いまさらではあるけれど、やっぱり「変」である。


 

[] 「My Son, My Son, What Have Ye Done」(2009) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督  「My Son, My Son, What Have Ye Done」(2009) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督を含むブックマーク

 この「ヘルツォーク傑作選」の目玉作品というか、日本未公開なのだけれどもこの作品のプロデュースはデイヴィッド・リンチ。出演陣も、刑事にウィレム・デフォー、母殺しの主人公に「バグ」のマイケル・シャノン、その婚約者がクロエ・セヴィニー、それからウド・キアーなどなどで、母親役は「ツインピークス」でもローラ・パーマーの母親役を演じていたグレイス・ザブリスキー。

 ある意味で「何もないツインピークス」というか、何かありそうで何もないというおはなし、だろうと思った。母親を殺害して人質をとって自宅に立てこもっているマイケル・シャノンをとらえようとする刑事がいて、彼のもとに犯人の婚約者と犯人の演劇活動の先輩がやってきて、「彼は事件のまえからこんな妙なふるまいをしていた」というエピソードをいっぱい語る。まあ事件の発覚からラストの逮捕まで、映画のあたまと終わりは決まっているわけで、そのあいだにいかにエピソードをつめこんでいくかというつくりかただろう。ふくらまそうと思えばもういくらでもふくらませることができて、「彼の行動は謎だ」とかいいだせばいくらでも「ツインピークス」化も可能というか。しかしヘルツォークがユニークなのは、「この母殺し事件にミステリーはない」みたいな演出でもあるわけで、母離れ出来ない息子、子離れ出来ない母の悲劇として、これはあまりに明解ではないかというわけである。しかし関係者はアイスキュロスの「オレスティア三部作」に関係つけようとしたり、事件前の息子のペルー行きになにかを見つけようとしたり、ダチョウやフラミンゴ、ニワトリの変ちょこな話も持ち出される。
 犯人が人質をとっていたと思われていたのが、じつはその人質が二羽のフラミンゴであったように、「何かある」と思わせてじつは何もない、というような作品だったという印象。その「何かある」と思わせるエピソードをこそ楽しむ作品か。





 

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■ 2011-06-23(Thu)

 体調も万全ではないのにお出かけが続いて、少し疲れがたまっている感じ。あしたもあさってもまた出かける予定があるので、きょうはいちにち家でおとなしくしているつもりである。しごとも非番で、朝寝をしてのんびりとじかんをやり過ごす。季節はもう夏に突入してしまった感じで、起き出して本を読んだりしていても暑い。ついに、扇風機を引っぱり出してきてセットする。ことしの夏はまた、この扇風機にがんばっていただく。

 ニェネントにまた「ビーフのテリーヌ仕立て」をあけてあげる。ニェネント、がっつく。そのニェネントだけれども、ちょっとまえには「なかなかの美猫に成長したものだ」というか、一皮むけたような、すっきりした容姿になってきたのではないかと思っていたのだけれども、どうもこのところ、また以前のブサイクなニェネントに逆戻りしてしまったふうではある。目が大きすぎるというのか、目が大きいのはかわいさを産み出す重要なポイントだとは思うのだけれども、なんだか顔のなかでの目のバランスが悪いんじゃないかと思ったりする。さいきんは全体の体型などがおかあさんネコのミイに似てきた気もするのだけれども、顔が中途半端におかあさんに似てしまったようなところがあるのではないのか。ミイはほんとうに「和猫」という感じで、わたしの好きなタイプの顔だったけれど、ニェネントのばあい、そのおかあさんの「和」の血と、おとうさんからの「洋」の血とのバランスがいまのところよろしくないのではないかと思う。わたしとしてはもうちょっと「和」のほうに傾いてくれればいいのではないかと思っている。今後の成長に期待したい。

 きょうはヴィデオなどまったく観ないで、本ばかり読んでいた。ハイスミスの「女嫌いのための小品集」を読み終わり、おなじようにコンセプトを限定した短編集「動物好きに捧げる殺人読本」を読みはじめる。講談社学術文庫の「キリスト教の歴史」も読み終えた。ベガンの「ロマン的魂と夢」もだいぶ読んだ。森達也の「「A」撮影日誌」などというものも、ちょっと読みはじめた。

 

[] 「女嫌いのための小品集」パトリシア・ハイスミス:著 宮脇孝雄:訳  「女嫌いのための小品集」パトリシア・ハイスミス:著 宮脇孝雄:訳を含むブックマーク

 かなり大きな活字で二百ページほどのなかに、十七編の掌編、短編が収録されている。あっというまに読み終わってしまうというたぐいの作品集で、こういう掌編も書いているというあたりに、やはりハイスミスにはサキに似た部分もあるのではないかという気がする。女性作家でありながら「女嫌い(Misogyny)」をテーマにしてしまうあたりにハイスミスらしさがあるわけだけれど、ここで嫌われているのは女性だけではなく、そんな女性たちに振り回されてしまったりするバカな男たちもまた同じなんじゃないかと思えるわけで、まあ「人間嫌い」小品集ではあるのだけれども、それをじぶんと同種である「女性」なるものへこそ標的を向けるあたりに、ハイスミスの「イヤミ」があるんだろう。
 ひとりの女に振り回されるふたりの男が、協力してその女を殺してしまうような話はボルヘスにもあったし、「完全無欠」の美女の話は、そのシニカルな文章からもナボコフの「ロシア美人」を思い出してしまう。「天下公認の娼婦、またの名は主婦」とか、「動く寝室用品」などというのは、もうこのタイトルだけで語ってしまっているではないか、などという印象。


 

[] 「キリスト教の歴史」小田垣雅也:著(講談社学術文庫)  「キリスト教の歴史」小田垣雅也:著(講談社学術文庫)を含むブックマーク

 ほんとうは新潮文庫の「日本仏教史」という本を読んでいたのだけれども、どうもこれは読みあぐねてしまい、「読まないだろうけれど」と思いながらも借りて来ていたこの「キリスト教の歴史」に鞍替え、こちらのほうが興味をもっておもしろく読めて、ついに通読してしまった。
 まあ「キリスト教の歴史」というのはほとんど「ヨーロッパ思想史」という様相もあるわけで、こうやって「キリスト教」というキーから歴史を振り返るというのは、ぎゃくに世界史がとらえやすくなるという側面を感じた。著者はクリスチャンで、さいしゅう的にキリスト教を擁護はしているけれどもその視点は現代的で、非クリスチャンにもその信仰が読み進めるじゃまにはならない。長いキリスト教の歴史をこれだけコンパクトに要領よくまとめた筆力に感服した。いろいろと「へえ、そうだったのか」と教わることが多かったのは、つまりはわたしが無学だったということだけれども、こういう本ならば手もとに一冊所有して、たまにパラパラと読むのもいいなあと思った。良書だと思う。




 

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■ 2011-06-22(Wed)

 ヘルツォーク鑑賞も佳境に入ってきて、きょうも上京して二本観る。

 出かけるまえにニェネントの食事の準備をしておこうと思ったのだけれども、きのうの鯛の白身がそのまま残っていたりするので、置いておけば食べるだろうかとそのままにして出かけた。

 帰宅してドアをあけると、なんとも異様な匂いが部屋にたちこめていた。きょうは暑かったので、ひるのあいだにその白身肉がかんぜんにイッてしまったらしい。しかしまたなんともすごい匂いである。たった六、七時間でこんなになってしまうものなのか。まちがえてニェネントがこれを食べて食中毒とか起こされたらそれこそたいへんなんだけれども、さすがにニェネントもそのあたりの危機は感知していたようで食べた気配もなく、元気にとびはねている。きのうあげられなかった、ビーフのテリーヌ仕立てのネコ缶を開けてあげる。ニェネント、がっつく。ごめんなさいでした。

 せんじつ、経済産業大臣が浜岡以外の原発を再稼働させたいとのたまったことを、現首相は容認したということである。イタリアでは国民投票で原発再開に対する反対が93パーセントを越え、つまりイタリアは今後原子力発電を完全にスポイルすることになったというのに、当の被災国ではこういうことである。現首相が浜岡原発の再稼働停止といったときには多少期待したのだけれども、なにが市民活動家出身なんだよといいたい。この国で生きていかなければならないのか、そして、この国で死んでいくしかないのだろうか。人災は継続中。
 キリスト教史の本を読んでいて、1755年のリスボン大震災がその後のヨーロッパ史に激烈な影響を与えたということを知った。こんかい、2011年の震災も、世界史にリスボン大震災と同じような意味合いをもつことになるのではないのか。そのことをスルーして、たとえ「とりあえず」でも震災前とおなじ路線を歩もうとする愚鈍国家が、その震災/原発事故の当事者であり、わたしの住む国である。


 

[] 「キンスキー、我が最愛の敵」(1999) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督  「キンスキー、我が最愛の敵」(1999) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督を含むブックマーク

 クラウス・キンスキーの死後に製作されたドキュメンタリー。冒頭にいきなり、キリストに関する即興劇らしい舞台でのキンスキーの狂気ぶりが紹介される。これがヘルツォークが「アギーレ」でキンスキーを起用する直前の映像らしい。
 まあいろんな逸話がてんこもりの強烈なドキュメントだけれども、なかではキンスキーとヘルツォークの、「自然」への思考のちがいが興味深かった。キンスキーは「自然」とはエロティックなものだというのだが、ヘルツォークはそれはむしろ「わいせつ」なものだろうという。しかしそのように「自然」をとらえるキンスキーは、それにもかかわらず「自然」に足を踏み入れることを恐怖しているフシもある。これがこのドキュメントのラストに、キンスキーから離れようとしない蝶のめちゃ印象的な映像から、ヘルツォークはその自然感でキンスキーに勝ちをゆずったような印象もある。

 ヘルツォーク監督、キンスキー主演というビューヒナーの「ヴォイツェク」の映画化されたものがあることを知り、これはほんとうに観てみたいのだけれども、このコンビの作品ではこれだけが日本では未公開になっているようである。日本の配給会社は何をやっているのか。


 

[] 「小人の饗宴」(1970) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督  「小人の饗宴」(1970) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督を含むブックマーク

 ヘルツォークの長篇デビュー作、らしい。ひゃあ、強烈である。ここですでにナラティヴな説明は最低限にとどめ、状況をセットしたうえで仕込まれたドキュメンタリー・タッチの映像が延々と続く。今まで書かなかったけれど、ヘルツォークの作品ではいつも動物たちが印象的な登場をする。「フィツカラルド」のオウムや豚、「アギーレ」の猿、そしてこの「小人の饗宴」でのニワトリや豚、などなど。
 永劫に円を描いて疾走する乗用車、永劫にこわれた「笑い袋」のように笑いつづける小人、あたまがくらくらする。




 

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■ 2011-06-21(Tue)

f:id:crosstalk:20110623102153j:image:right ついに、わたしとニェネントの最大のイヴェント、ニェネントの満一歳の誕生日がやってきた。もちろんわたしはニェネントの誕生のしゅんかんに立ち会ったわけではなく、母ネコのミイがニェネントたちをわが家に連れてきたのは、きょねんの六月二十三日のことになる。そのまえの日に姿をみせたミイは、もう出産を終えたスマートなからだになっていたのだけれども、きょねんの日記を読むと、そのまえにさいごにミイが出産まえの大きなおなかをかかえて姿をみせたのは、十九日になっている。だからニェネントの誕生は十九日から二十二日のあいだのどこでも可能性はあることになる(どうもいま考えると、二十日あたりの方がもっともらしい気もしてくるのだけれども)。まあとにかくニェネントの生まれたのは六月二十一日と、とりあえずは決めてしまっているので、きょうはそのお祝いである。モンプチの「ビーフのテリーヌ仕立て」のネコ缶と、マタタビのスティックは買ってあるけれども、もうちょっとほかにも何か買ってあげたいと、スーパーへ行ってみる。

f:id:crosstalk:20110623102218j:image:left きのうはやはり「鯛の尾頭付き」かなあ、などと冗談めかして思っていたのだけれども、じっさいにスーパーに行ってみると、その鯛のあたまとか、クズっぽい部分だけをパックしたものが安い値段で売っていた。「これがいいや」と買って帰り、まずはナマのまま、ニェネントのまえに「ほーら」と置いてあげる。パックをあけてみると、ふつうににんげんが食べてもおいしそうな白身の部分もけっこうついている。「おいしそうなところはじぶんで食べちゃえばよかったな」などといやしいことを考えたりするけれど、ニェネントはそんな食べやすそうでおいしそうな部分をペロリと食べてしまった。まだまだあたまの裏側だとか骨のあいだに食べられるところがいっぱい残っているので、火であぶってから箸でほじり出し、ドライフードといっしょにして皿に盛ってあげる。火をとおした白身の魚肉は、やはりにんげんが食べてもおいしそうである。これも気に入って食べてくれるかなあと期待したのだけれども、ニェネントはちょっと手をつけただけでどうやら放置するようす。まあナマの部分をけっこう食べたので、もう満腹になっているのかもしれない。そのまま置いておくことにした。しかし、この鯛のパック、こんどじぶん用に買ってもいいな、などと思うのであった。

f:id:crosstalk:20110623102245j:image:right ニェネントを抱き上げ、鼻の先をペンペンと叩いてやって、「ニェネントちゃん、一年間、病気もケガもせずによく育ってくれましたねえ。これからもよろしくだよ!」と語りかけ、マタタビのスティックを出してやった。しばらくようすをみていると、そのスティックをくわえては首をふって放り出し、飛んでいった方に走っていっては、また同じことをくりかえしている。綿棒で遊ぶのとおなじことをやっているわけだ。みている感じではマタタビだからどうこう、という反応はないようだったけれど、ちょっとずつはスティックをかじって食べているようである。

 わたしの方はまだ腰が痛かったりするけれど、これは少しずつは快方に向かっているようではある。先日録画しておいたミュージカルの「フェラ!(Fela!)」を観て、それからちょっと本を読んで寝た。


 

[] 「フェラ!」ビル・T・ジョーンズ:芸術監督・振付  「フェラ!」ビル・T・ジョーンズ:芸術監督・振付を含むブックマーク

 フェラ・クティを聴いたのはずいぶんとむかしのことで、そのときはつまみ食い程度に一枚のアルバムを買っただけで、その後継続してフェラを聴きつづけたというわけでもないのだけれども、その後も彼の活動のことはあれこれと日本に伝えられてはいたし、そのわたしの聴いたアルバムに収録されていた「ITT(International Thief Thief)」という曲のフレーズは、ちょっとあぶない呪文のようにわたしのこころのなかに記憶されていた。直径5センチぐらいありそうに巻かれた巨大なマリファナを彼が舞台でふかしている写真なども記憶に残っている。強烈なひとがいるなあという印象を持っていたけれど、ずいぶんまえに彼の訃報をきき、その後は彼の息子が父の遺志をついで音楽活動をしていることもきいている。
 そのフェラ・クティを主人公にしたミュージカルがニューヨークで大ヒットしているというニュースは、たしかきょねんかおととしぐらいにきいていたと思うけれど、とにかくフェラが主人公であること、その舞台の振付けをビル・T・ジョーンズが担当しているらしいということから、これはぜひ観てみたいものだと思っていたもの。ビル・T・ジョーンズというひとはもう二十年以上のキャリアをもつアメリカのパフォーミング・アーツ界の重鎮で、かつてそのヴィデオがユーロスペースの「アート・ドキュメンタリー」にセレクトされて公開/販売されたことがあるので、わたしの記憶に残っている。じつは彼のダンスを観たことはないのだけれども、アフリカ系のコンテンポラリー・ダンサー/振付家というあたりに、注目してみたいという気もちは強いものがある。そんなミュージカルがこの「フェラ!」である。まさかこの日本でその舞台を観ることができるとは思っていなかったけれど、先週、BSプレミアムで(もちろん日本語字幕付きで)放映されてしまった。そのまえの週あたりには、わたしがいつも聴いているFMの「ウィークエンド・サンシャイン」で、ピーター・バラカン氏が「武器なき祈り?フェラ・クティ、アフロ・ビートという名の闘い」の著者である板垣真理子氏をゲストに招き、そのフェラ・クティの特集も組まれていて、これがそのミュージカル放映への最適のガイドにもなってくれたわけである。

 前置きが長くなってしまったけれど、そのミュージカル、「フェラ!」である。振付けだけだと思っていたビル・T・ジョーンズは、脚本から演出まで全面的にこのミュージカルにかかわっているらしいことを知った。中継録画されたのはニューヨーク公演ではなく、全世界に同時中継されたというロンドンのナショナル・シアターでのもの。ことしの一月の舞台らしい。
 三時間近い舞台は前半後半の二部にわかれ、前半はフェラの本拠地であるナイジェリアの「シュライン」と名付けられたライヴハウスでの、フェラの久々のライヴステージを模した構成になっている。「久々の」というのは、このライヴのまえにフェラは自宅周辺での仲間との共同生活の場、活動の拠点である「カラクタ共和国」をナイジェリア軍に攻撃されており、このときのケガがもとでフェラの母はのちに死亡することになるわけで、それ以来のライヴという設定らしい。また、その「シュライン」でのライヴも、このライヴをさいごに休止することもフェラの口から語られる。

 とにかく、ここはミュージカルというよりも、「ライヴ」そのもの、である。ステージ後方では十人ほどのミュージシャンがプレイを続け、観客席からはそのシルエットがみえるだろう。フェラというか、フェラを演じる役者(サー・ウガランジャー)は、このライヴまでのフェラの歩みを総括して語り、それを歌う。構成のたくみなワンマン・ライヴという感じで、フェラという人物の軌跡を読み取りながら、そのフェラの音楽を楽しむ(ここまでの音楽は基本的にみなフェラの音楽らしい)。なるほど、こういうやり方もあったかと、ちょっと眼からウロコ状態になる。たんなる「そっくりさんショー」ではない(役者のサー・ウガランジャーは、顔はあまりフェラに似てはいない感じだけれども、体型や声はフェラを彷佛とさせられる気がする)、ライヴの再現ではない、まさに再構築された、「ミュージカル」としての舞台になっている。ちゃんとわたしが写真でみたごん太のマリファナも登場するし、この第一部のラストは、わたしがゆいいつ知っているフェラの曲「ITT」で締められる。とにかくこの呪術的な「アフロ・ビート」のサウンドは聴くものをとりこにし、わたしもヴィデオを観ながら、この第一部のさいごには観客といっしょに拍手してしまったよ。

 それで中継では幕間にビル・T・ジョーンズへのインタビューをはさみ、後半の第二部になる。こちらはライヴというのではなく、フェラが死者の世界にいる母に会うために冥界にくだるという展開になる。ここでフェラは母からその遺志を引きつぎ、その焦点を定めたミュージシャンへと成長するのだろう。
 ここでフェラ・クティのいわゆる「アフロ・ビート」というのは、つまりはファンク・ミュージックとしてわたしの耳にとどくわけだけれども、かなりアフリカの土着的ダンスを意識したような振付けと合わせて、これは全体に「ヒップホップ」からアフリカへの回帰、というメッセージのような印象を受けることになる。「アフリカ!」ということを前面に打ち出した演出は、アメリカではアフリカ系の市民の支持を集めたことだろうし、イギリスなどその他の国でも、もういちど、非ヒップホップ系のアフリカ系音楽への郷愁を感じさせるようなものだったかもしれない。この作品の舞台になった1970年代から80年代にかけて、アフリカ系の音楽は世界を席巻していたのではなかったか。どうもわたしは、いつまでも続くヒップホップから先へ進まないアフリカ系アメリカ人の音楽にはいささか飽きて来ているところがある。その同じ感覚を、このミュージカルを支持した多くの観客を共有できるのかどうかはわからないけれども、フェラ・クティという強烈な個性を持ったミュージシャンの再発掘と同時に、これをきっかけにあたらしいムーヴメントが起ることをさえ、わたしは期待してしまったりもする。わたしの抱いていたいままでの「ミュージカル」という概念を打ち破る、すばらしい舞台だったと思う。このヴィデオは保存しておいて、また機会があったら観てみたいと思うのである。




 

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■ 2011-06-20(Mon)

 きょうも、腰がロケンロォルしている。これはなにかのひょうしにつまりはぎっくり腰になったのだとしか考えられない。それほど重症でもないのできょうもしごとに出たりはするけれど、家に帰ると動くのがおっくうになる。それでも洗濯をして干し、乾いたらすぐに取り込む。いちおう、洗濯物などもあまりながいあいだ外気にふれさせるのもよくないだろうということぐらいは気にしたりしている。取り込んだ洗濯物をとりあえずパイプ椅子の上にまとめて置いておいて、夕方に始末しようと思ってみると、そのパイプ椅子の上にニェネントが上がったりしたのか、洗濯物が下にバラバラに落ちていた。そのうちの、作業着にしていてあしたも着ていく予定のジャケットが、パイプ椅子のわきに置いてあったバケツのなかに落ちていた。「ああーっ!」と声を出してしまう。なんということ。このバケツはニェネントの非常時の飲料用に取ってあったのだけれども、恩を仇で返された思いである。びしょ濡れになったジャケットをまた外に干して、まあこのままあしたのあさまで干しっぱなしにしておけば乾くだろうけれど、せっかく外に干すじかんを短くしようと努力したのが、ぜんぶムダになってしまった。しかし、これでニェネントを怒ってもしかたがないのである。

 とにかくあしたはニェネントの満一歳の誕生日である。どんなごちそうをしてあげようか。ここはやはり鯛の尾頭付きということだろうか。ちょっと、ムリだな。

 光フレッツに関しての営業電話がかかってきて、こんかい光フレッツとの組み合わせでのプロバイダー契約料が安く出来るようになったという。きいてみたら、その安くなったという金額でもいまわたしが払っている契約料よりも高い。そう告げると、「失礼しましたー」と、電話は切れてしまった。そんなにふつうは高い料金を払っているのだろうかと、ちょっとネットで調べてみると、どうやらはからずもわたしが契約しているプロバイダーは激安で、ほかの大手のプロバイダーだと、へたをするといまわたしが払っている三倍以上の契約料を払うことになるようではある。とくにいまのプロバイダーを選ぶときにそういうことを他と比較して選択したわけでもなく、まだわが家がダイヤルアップでのインターネット接続だった時代に、このプロバイダーだけがダイヤルアップ接続の格安サポートを続けていたから選んだにすぎない。

 TVが映らないのだけれども、それはそれであまり気になることでもない。ちょうど買い物に出たときにおとなりの方に出会ったので、TVはどうなっているのか聴いてみると、これがまだ工事は終わっていないのだということ。とにかくウチはわたしが外出していたので室内工事が終わらなくてダメなのかと思っていたけれど、この集合住宅全体がダメなのだろうか。契約している「ひかりTV」で地デジとかみることはできないのだろうかと調べると、げんざいの「光フレッツ」の契約を一段階あげるというか、「光フレッツネクスト」に契約しないといけないらしい。いったいどのくらい現状よりも負担が増加するのか、あまり大差ないようならばそっちに契約しようかと、NTTに問い合わせの電話をしてみた。どうやらさいしょに工事費用というのが発生するらしく、これが一万から一万八千かかるらしい。たかが「地デジ」だけをみるためにそこまで負担するというのはあまりにバカげている。現状で結構。

 ヴィデオをふたつ観て、「女嫌いのための小品集」を読み進め、ひさしぶりにベガンの「ロマン的魂と夢」を読んだ。ブレンターノはこっぱずかしいという印象で、こういうスイーツな連中とのおつきあいはごめんこうむると速読し、ようやく期待のホフマンの章までたどりついた。


 

[] 「映画監督・石井岳龍の挑戦〜3Dのその先へ」石井岳龍:構成・演出  「映画監督・石井岳龍の挑戦〜3Dのその先へ」石井岳龍:構成・演出を含むブックマーク

 石井岳龍とは、石井聰亙のあたらしい名前。とにかくこのところ新作も公開されず、いったい何をやっているのかという感じだったけれど、いちおう今年中には新作「生きているものはいないのか」が、公開される予定になっているらしい。このヴィデオはその新作とはまるで関係がなく、げんざい石井岳龍がハマっている「3D」の世界での試作などの紹介。もともとゼロ年代にはこのひとはサウンド面でのあたらしい展開に熱中していたわけで、まあ3Dにハマるというのもその延長としてわかりやすい気はする。
 で、このドキュメントでは芭蕉の俳句の世界をインタラクティヴに3D映像化する過程と、その作品、観客の反応を紹介するもの。東大の情報工学科の教授などとの共同作業になるのだけれども、その教授が「なぜ3Dを追求するのか」みたいな問いに、「世界を知りたいから」という、これはまあふつうに考えてじつにナイーヴな返答だろう、そういう返答をすることで、わたしなどは「???」ということになってしまう。ほんとうは、彼はなぜそのような返答をするのかということを、突き詰めて一時間ぐらい追求していただきたいなどとも思うわけである。理工系のひとたちのいう「世界」とはどのようなものなのか、少なくとももうちょっと聴かせてもらわないと、わからない。

 そのせいか、その石井聰亙(どうもわたしにはこの古い名前の方が、彼らしいと思えてならない)の新しいこころみ、興味をもつことが出来なかった。それって、十年以上もまえに森万里子がやったことを、いまさらクオリティを上げただけではないのか、ということである。最新技術は「道具」にすぎないというのは当然なのだけれども、だったら、その地平からいったい「何」が立ち上がってくるのか、そこでも「世界」ということばがからんでくる。このドキュメントの演出じたいが石井聰亙の手になるものであるのなら、これではいかにも「不完全」、という印象をぬぐえないことになる。

 

[] 「誰がため」(2008) オーレ・クリスチャン・マセン:監督  「誰がため」(2008) オーレ・クリスチャン・マセン:監督を含むブックマーク

 デンマーク映画である。このあたりは知らなかったことだけれども、第二次世界大戦時のデンマークの立ち位置は、ちょっと微妙なものにあったらしい。被占領国としてナチスに協力した反面、もちろんレジスタンス運動も起っており、デンマーク警察は彼らを保護したりということもあったらしい。これはそういうデンマークでのレジスタンス運動の、実在したふたりの闘士を描いた作品。

 脚本にもそのデンマークの微妙な立ち位置を読み取ることができ、つまりは明確に白黒をつけられない情況というものが、ていねいに描かれる。それはひとつには事実の隠ぺいと裏切り行為であり、闘士の信念はいったい何によって支えられているのか、という根本の部分での「ゆらぎ」が、このふたりの闘士それぞれを別のかたちでとらえることになる。

 ここでとても興味深いのは、この作品の演出スタイルが、まさにハリウッドの「マフィアもの」を典拠にしていることで、つまりレジスタンス活動は非合法な勢力争いのあらわれであり、ドイツ軍はそれを取り締まる「警察」というかたちであらわれることになる。そこで、ふたりの主人公の「レジスタンス」への大義名分は、「善悪」という基準からはずれ、宙ぶらりんのものになる。
 この作品の背景には、たしかにナチスは巨悪であり、レジスタンスは英雄的行為であったという、これはこれで正統な史観があることはたしかなのだけれども、ところがこの演出はそのあたりのことを、その観客の歴史観をとりのぞけば、じつにニュートラルに描いている。そこにこの邦題が出てくることになるわけだろうけれど(原題は「Flammen & Citronen」という、主人公ふたりのコードネームの並列)、この作品は「正義」などはもんだいにされていない。主人公ふたりの行動を支えるのは、じつは、この作品を観ている観客の歴史観による「まなざし」なのである。そういう観客の歴史観からの視点までドラマに取り入れたという意味では、これは画期的な作品ではないかと思う。これはデンマークという地政学的なポジションあっての作品、なのかもしれない。「映画とは何か」という問いかけも含んだ、なかなかの力作であると思った。



 

 

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■ 2011-06-19(Sun)

 やはり腰の痛みは取れないのである。ただ、外へ出てスタスタと歩くぶんにはそれほど痛みもないし、負担がかかるという気もしない。部屋のなかでソロソロと歩いたり、寝ていたり、すわっているときがやばいのである。それでは外に出かけた方がいいのじゃないかというわけでもないだろうけれども、映画の券を消化しておくひつようもあるので、ひるまえから出かける。ちなみにきょうはしごとも非番なので、ほんらいならば家でじっと養生していた方が、正しいのかもしれない。ただ、らいしゅう金曜日までの「ヘルツォーク傑作選」のチケットがあと五枚もあるので、行けるときに少しでもへらしておかなくてはならない。このほかにグラウベル・ローシャの上映も行かなくっちゃいけないし、なかなかいそがしいのである。

 出かけようと準備していると、駐車場に何かの工事の車が入っていて、TVアンテナなどを積んであるのが見えた。ついにこのアパートも地デジ化か、というわけである。ドアを開けて外へ出ると、同じタイミングでとなりの方も外へ出て来て、「TVが見えなくなった」とおっしゃる。ははあ、工事に来ているのは若い男性だったけれど、住民にことわりなしに勝手にしごとをはじめているわけだ。わたしはもうこのまま出かけるけれど、この様子だときっと帰ってくると工事は終了していて、もうアナログTVは見られなくなっているだろう。そして、どうやれば地デジ視聴に切り替えられるのかもわからないままにされることになるだろう。そう予測する。わからないのだけれども、共同アンテナを地デジ用に交換したばあい、その室内に引き込まれている端子も交換されなければならないのだろうか。つまり、この室内でもじゃっかんの工事がひつようになるのだろうか。つまりそういうことがまるでわからないままに放置されるだろう。そう予測して家を出た。

 とちゅうでちょっと電車が遅れて、映画館に着いたのは上映十分まえ。やはりかなりの観客数で、はじっこのほうになんとか空き席をみつけてすべりこむ。用心のために開映のまえにトイレに行くと、三人ほどドアの前で並んでいる。しばらく並んで中に入ると、つまりここのトイレは「小」のためのがひとつだけ、「大」用の個室がふたつ並んでいるのだけれども、その大のための個室は両方とも空いているわけである。「大は小をかねる」わけで、どうもバカげた並び方だったと思う。並んでいるひとなんか無視して、とりあえず中をたしかめてみてもよかったわけだ。

 予告編上映のなかに野良ネコの出てくる「Peace」というドキュメンタリー映画があって、観ていて、やっぱりネコはいいなあと思うのである。野良ネコが見知らぬネコの闖入に目を細め、「シャーッ!」と威嚇する。その表情がいい。

 映画が終わり外に出ると、ものすごい数のひとたちが次に上映される作品を待っていた。これなら、わけのわからない新作映画を上映するよりも、こういう旧作の上映イヴェントの方が映画館としては利益になるんじゃないのか、などということは、以前にも同じことを考えた記憶がある。

 さて、せっかく出てきたのだからちょっと遊んで行こうか、などということもあたまをかすめるわけだけれども、この週末にもわんさと出てくる予定なので、きょうはおとなしく帰ることにする。

 まだ明るいうちに帰宅して、TVをつけてみる。やはり映らなくなってるではないか。この件に関しての何の通知もない。想像していた通りであった。ただわが家には地デジのチューナーもないので、もうアンテナ工事がすべて終わっているとしても地デジTVをみることは出来ないのである。それでもいちおうチャンネルをスキャンしてみると、意外なことに1チャンネルと3チャンネルだけはほとんどいぜんと同じぐらいにみることができるのであった。もともとこのふたつのチャンネルは映りがとても悪かったわけだけれども、アナログアンテナがもともと機能していなかったのかもしれない。まあニュースにせよ何にせよ、「ひかりTV」でだいたいは間に合うので、それほどに不便を感じることもないだろう。
 ニェネントで遊び、ハイスミスの次のスケジュール、「女嫌いのための小品集」をちょっと読んでから寝る。


 

[] 「コブラ・ヴェルデ 緑の蛇」(1987) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督  「コブラ・ヴェルデ 緑の蛇」(1987) ヴェルナー・ヘルツォーク:監督を含むブックマーク

 この作品が、キンスキーとヘルツォークとのタッグによるさいごの作品ということ。音楽はやはりPopol Vuh で、この作品の原作はブルース・チャトウィン。

 主人公の男はもとブラジルの山賊で(髪型もなにも、キャプテン・ハーロックみたいである)、サトウキビ畑のオーナーに見込まれてまずは農園の奴隷の管理をまかされ、ついにはアフリカへ奴隷の買い付けに行くことになる。そのアフリカでもなんだかんだと騒動は持ち上がって、という内容。まずはブラジルの山賊というとつまりはカンガセイロということで、これはグラウベル・ローシャの(いままさに公開中の)「アントニオ・ダス・モルテス」なんかを思い浮かべてしまうわけである。おそらくはヘルツォークもそのあたりのことは意識にあるようで、ここでは「アントニオ・ダス・モルテス」のようなブラジル土着の音楽ではなく、後半はアフリカの土着の音楽のオンパレードになる。これがまた、かなり強烈である。

 まえに「フィツカラルド」を観ての印象を合わせてだけれども、どうもヘルツォークというひとはナラティヴな演出には興味がないようで、この「コブラ・ヴェルデ」でも、その背景もわからないままに情況はネコの眼のようにコロコロと変化し、もう主人公もおしまいだね、というところからとつぜんに指導者に復活するし、また奈落に突き落とされ、また大暴れする。さっきまでコケにしていた人物をつぎには信頼し肩を組み、いつもいつも、きのうの味方はきょうの敵である。そこでつまりはやはり、ただひたすら映像の力のみが立ち上がることになる。おそらくヘルツォークというひとは、ドキュメンタリー作品の方にこそその力を発揮するひとなのではないだろうか。というか、情況をセットして動かし、それをドキュメンタリーのように撮ることのなかに、作品の力が生まれる。そこでは、「物語」などという地平/着地点はまるでひつようでなくなるだろう。スクリーン上で今・そのとき繰り拡げられているエネルギーの拡散、それを受けとめることこそが、ヘルツォークの作品を鑑賞するということなのではないのか、そう思う次第である。きょうもスクリーンを堪能した。




 

 

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■ 2011-06-18(Sat)

 なんとはなしに、腰が痛いのである。風邪でベッドに寝てばかりいるのがよくないのかもしれない。ほかに理由があるのかもしれない。

 じつはきょうもまた東京に映画を観に行く予定はあったのだけれども、いろいろと調整してきょう出かけるのはやめることにした。それでもあしたは出かけることになるだろう。

 ベッドに寝ていたら、とことことやってきたニェネントがわたしのひじをペロッとなめて、タタタタッとリヴィングの方へ走って行った。愛情表現なのか、遊んでいるのか、なんともうれしいのである。
 そのニェネントがドライのキャットフードを食べないので、きょうはどうしても食べさせてやろうと、ネコちゃんふりかけをたくさんかけてあげた。もちろん、ふりかけのかかった部分を選んで食べてしまう。またキャットフードが残ってしまった。それでもそのままに放っておいたら、夕方にはドライだけの皿をきれいにぜんぶ食べてしまっていた。空腹にはかなわなかったのか。もうちょっとしたら誕生日のお祝いでいっぱいごちそうをあげましょう。

 経済産業大臣が、浜岡原発以外の停止中の原発の再稼働という方針をあきらかにした。保守勢力が国会の90パーセントを越える国なのだから、こういう方針はとうぜんのことだろうと思う。「電力不足」〜「節電」〜「予想される経済の停滞」〜「やっぱり原発再稼働」というレールどおりの展開。J党の幹事長は、原発反対デモを「集団ヒステリー」と言ったという。福島では、「原発さえなければ」といいのこして自殺された方も出た。これからもこの国で生きていくしかないのか。

 きょうは宍戸錠のもう一本、「殺しの烙印」を観て、「半七捕物帳」を読み終えた。


 

[] 「殺しの烙印」(1967) 鈴木清順:監督  「殺しの烙印」(1967) 鈴木清順:監督を含むブックマーク

 やはり、いっしゅフィルム・ノワールのかたちを借りた不条理コメディ(ギャグ)映画だと思うけれど、ところどころにその映像演出力のへんりんを見せつけられる思いで、やはり堪能するわけである。しかし、ぜんたいとしておもしろいのかと問われれば、返事に窮してしまうということもある。脚本や演出で悪ノリしているぶぶんがやはりおもしろいともいえるし、そうではないともいえる。まっとうな演出でじゅうぶんすばらしいではないかともいえるし、はみ出した部分にこそ、この映画の魅力があるわけでもある。どうも分裂している。ただ、映画表現のパースペクティヴを拡げるような演出の実験はやはり魅力的で、たとえば宍戸錠と真里アンヌがその声では対話できないだろう距離をおいて対話するシーンなど、映画独自の話法として可能生を感じさせられるわけである。


 

[]「半七捕物帳 巻の六」(5)岡本綺堂:著 「半七捕物帳 巻の六」(5)岡本綺堂:著を含むブックマーク

 この巻というか、この全集さいごの作品は、半七の登場しない長篇「白蝶怪」。事件を解決するのは、のちに半七の養父になる吉五郎である。真冬の夜中に舞う白い蝶という、いささか幻想的とも怪談的ともいえる設定から、ひとつのミステリーが紡ぎ出される。半七もののおもしろさとは、つまりはいうまでもなく江戸の庶民の生活を活写した風俗描写によるぶぶんも大きいわけで、それはこの「白蝶怪」でも堪能させられる。この作品では事件にかかわる男女の数も多いのだけれども、ラストまでにはずいぶんの数の関係者が死んでしまうのが意外。とくに副次的な主人公ともいえる長三郎をある意味で魅了する、お冬という少女まで死んでしまうのは、ちょっとかわいそうというか。




 

 

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■ 2011-06-17(Fri)

 風邪をひいてからも出歩いてばかりいるので、なかなか調子がよくならない。とにかくうちでおとなしくしていればいいはずなのだけれども、らいしゅうは連日のように出かけまくらなければならないスケジュールをたててしまっている。これはなかなかキツイなあと思っているところにDさんから電話で、そのらいしゅうにDさんEさんと会うことになってしまった。

 ニェネントは元気なのだけれども、いつもあげているキャットフード、ネコ缶とドライフーズとを混合しているものの、ドライだけまるっきし食べないで残すのが目立つようになった。そりゃあ缶詰の方がおいしいだろうから、いぜんからドライの方だけがあとに残されることは日常だったのだけれども、放っておけばおなかがすくのだろう、その残ったドライフーズもいつのまにか食べてしまっていたわけだけれども、このところはその残されたドライフーズをいつまでも食べないで残している。きのうなどは「いつかは食べるだろう」とあたらしく食事を出してあげないでいると、そのまま夜まで何も食べないでいるので、こちらが根負けしてネコ缶を開けてあげた。このままネコ缶しか食べないぜいたくネコになってしまうのだろうか。まあ、金井美恵子によれば、ネコを飼うということはそのネコに思いっ切りぜいたくをさせてあげることだというから、わたしもニェネントにひもじい思いはさせたくないし、できればいつも「おいしい、おいしい」という食事を出してあげたい。でもなあ、メタボ猫ということもあるのだぞ。

 録画してあった映画、きょうは日活の宍戸錠特集三本立てのうち二本を観た。


 

[] 「みな殺しの拳銃」(1967) 長谷部安春:監督  「みな殺しの拳銃」(1967) 長谷部安春:監督を含むブックマーク

 宍戸錠は某ヤクザ組織の幹部なわけだけれども、組長の卑劣なやり方に反逆して三人の兄弟で抗争をくり拡げることになる。同じ組織の幹部である二谷英明とはマブダチだったけれど、ラストには決闘のようにふたりは対決する。

 宍戸錠の兄弟の次男を藤達也が演じていて、ひとり過激にキレまくっている。これは三男がうじうじしているし、宍戸錠にしてもどうも優柔不断という印象もあるので、ひとり目立つだけではないかという感じ。その宍戸錠の優柔不断ぶりがどうも不可解で、兄弟が銃を入手しようとするとさいしょは止めたりするのに、あとは率先して撃ちまくることになる。なにをどう考えているのかわからない。そもそもこの抗争自体がアンリアルというか、街を牛耳っているヤクザ組織にたった三人で対等な抗争が張れるのかという疑問はぬぐえないし、警察はどこにいるのよなどということを考えてはいけないのだけれども、どうも演出姿勢がちゅうとはんぱにリアルさを求めているらしいあたりに違和感がある。ラストの決闘も、せんじつ観た新東宝の「怒号する巨弾」の天地茂と宇津井健の決闘の方が魅せられた気がする。写りこんでいるガードレールがあれでいいのかどうか、効果ないじゃないかという疑問もある。
 出演はほかに高品格、山本陽子(若い!)、沢たまきなどなど。美術は木村威夫。


 

[] 「拳銃残酷物語」(1964) 古川卓巳:監督  「拳銃残酷物語」(1964) 古川卓巳:監督を含むブックマーク

 競馬場からの現金輸送車を車ごと強奪し、一億二千万をせしめようという、のちの三億円事件とかさいきんの六億円強奪事件をほうふつとさせるような内容。原作は大藪春彦で、フィルムノワール調ハードボイルドという空気は楽しめた。とくに、かなりリアルさを追求した現金強奪までの描写は見ごたえがあった。まず「計画」として、すべてがうまく運ぶイマジナリーな強奪の経緯が示され、そののちに現実の強奪での不具合が提示される。同じシーンが二度出てくるのはちょっと工夫が足りない気がするけれど、どういう計画だったのかというのを視覚的に観客に了解させる演出はOKだと思う。ただ、ここからあとはもう乱射シーンばかりという印象もあって、せっかく「第三の男」ばりのすばらしいロケーションの下水道での撮影などがあまり生かされなかったのが残念。ラストはこれはキューブリックの「現金に体を張れ!」からの借用だろう。
 松原智恵子が宍戸錠の妹役で、車椅子に乗ってちょっとだけ出演。あとは川地民雄など。監督の古川卓巳というひとは1956年にあの「太陽の季節」を監督したひととのこと。ほかの作品を観たことがないのでわからないけれど、演出のセンスは好き。




 

 

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■ 2011-06-16(Thu)

 ところで、きのう都内のコンビニで、無糖の紅茶のペットボトルをみつけた。夏の飲料としてわたしには冷えた無糖の紅茶がいちばんなんだけれども、これをメーカーはあたらしく売り出してはそのうちに販売打ち切りというサイクルをくりかえしているわけである。このまえに無糖紅茶が売られたのは三年前の夏ぐらいだったと思うけれど、秋にはもうどこにもその姿を見かけなくなってしまっていた。こんどの無糖紅茶も秋までの寿命だろうけれど、それならそれでまた来年の夏には復活させてほしい。そうであればわたしは満足である。なにもあたらしい商品としてヒットをねらわなくてもいい。コマーシャルを流さなくてもいい。ただ、まいとし夏になれば、冷たい無糖の紅茶を店頭に並べてほしいのである。

 TVのニュースをみていると現首相がニコニコしている。「わたしを早くやめさせたかったら、すぐにわたしのいうことをきいて、いうとおりにしなさい」ということらしい。まるで暴君のさいごっぺである。このあいだ少しTVで国会中継をみていたけれども、震災関連ではなくとも、現首相の政策方向には疑問に思うこともある。たとえばTPPへの参加など、もっともっと議論しなくっちゃならないだろう(まあこの件は現首相もやり遂げようとは思っていないだろうけれども)。どちらかというと現首相はグローバリゼーション追従という方向を向いているようだけれども、これはたんじゅんにいえば日本はもっと競争力をつけろということだろう。しかし、震災後の情況はまるでそれ以前と異なってしまっている。しばらくは企業にせよ農業にせよ、国による保護政策は切り捨てることは出来ないのではないのか。そうすると現首相の方向は震災後の情況と合致していないといえるわけで、いくら震災によって情況が一変したとの認識が現首相にあったとして、方向転換のひつようを考えているとしても、もっといまの情況に対応できる人物こそが現首相にかわって首相になる方がよっぽどいいだろう。TVの現首相のニコニコ顔をみて、こちらはまるでゆかいな気分にはなれない。とにかく少しでも早く、早く首相が交代し、あたらしい首相がどんな動きをみせてくれるのか、こちらにみせてほしい。

 お出かけした翌日ということで、風邪が直りきっていないこともあって、きょうはいちにちダウン。「半七捕物帳」を楽しんで、寝る。


 

[] 「半七捕物帳 巻の六」(4)岡本綺堂:著  「半七捕物帳 巻の六」(4)岡本綺堂:著を含むブックマーク

●「地蔵は踊る」
 茗荷谷にあったという架空の「縛られ地蔵」をめぐる、ひとの「欲」のひきおこした事件。だいたいが参拝客目当てででっちあげられた「縛られ地蔵」というわけで、夢のお告げで木の根元を掘ってみたら出てきたという、いかにもウソっぽいうわさを流して建立された地蔵堂。こういうのはいつの世にもあるものである。それで客足が減少してくると、こんどはその地蔵堂の下にトンネルを掘り、下から地蔵を踊らせる。これに若い僧侶に岡惚れした「毒婦」(こういうことばはいいですねえ)のはなしが重なり、罪もないものも含めて何人もの死者が出る。
 「半七捕物帳」には、こういうタイプの、いっけんひとつの事件に見えながらも、じつは動機のことなるふたつの事件がからまっているというようなタイプの事件が多い。そこでこそ半七の推理が冴えわたるのである。

●「薄雲の碁盤」
 これも「半七捕物帳」にいくつか出てくる、怪談モノというか、怪異譚めいたところのある物語。ただしその怪異は、事件にちょくせつは関係はない。やっぱりわたしはこのタイプの話がとびっきり好きである。
 「高尾の碁盤」というのはじっさいに存在するらしく、これはつまり、吉原のナンバーワン芸妓の高尾太夫の所有していた碁盤のこと。だからここでの「薄雲の碁盤」とは、その高尾の妹太夫として名をはせた「薄雲太夫」のもっていた碁盤ということ。これにはその薄雲太夫の所有していたときから、ネコの怨念がこもっているらしいのである。このはなしがおもしろいんだけど、まあここでの事件は先に書いたように、そのネコの怨念とはちょくせつには関係ないわけだけれども、その碁盤の上に女性の生首が置かれていたという猟奇事件。道を踏みあやまった相撲取りが出てきます。舞台は深川の、いまの森下周辺。

●「二人女房」
 昭和十二年の初冬に発表された、綺堂の「半七」最後の作品。これもふたつの事件があたかもひとつのようにあらわになったもの。このあたりは半七モノも円熟の極みというか、語り口だけでも楽しめる一級品。
 舞台は江戸を離れて吉祥寺、府中あたりに飛ぶわけで、物語に関係なく脚注を読んでいて知ったのだけれども、吉祥寺という地名は、明暦三年の江戸の大火で焼けだされた本駒込の吉祥寺門前の人々が移住して開発してつけた地名だということ。いぜんその本駒込の吉祥寺の前とかを歩いて、「ここに吉祥寺がある」とか、吉祥寺についても「いったいなぜ吉祥寺という寺もないのに吉祥寺という地名なんだろう」などと考えたりもしていたわけで、ここでその謎も解けたわけである。「半七」は勉強になる。




 

 

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■ 2011-06-15(Wed)

 そういうわけで、きょうは下北沢へ「大人計画」を観に行く。まいとしこの時期は本駒込での「水族館劇場」の公演を楽しんでいた時期なのだけれども、水族館劇場は本駒込での活動を休止するとのことで、とにかくことしは公演なし。代わりに「唐組」へ行こうかとばくぜんと考えていたのも、風邪でダウンしてお流れ。それでその代わりが「大人計画」というのはどうなんだろうと、じぶんの節操のなさがなげかわしくも思えるのである。

 とにかくしごとを終えてからニェネントの食事の準備をし、きょうは帰りが遅くなるだろうからししゃもを焼いてあげる。よるに放映されるブロードウェイミュージカル「FELA!」の録画予約をセットしてから出かける。駅から電車を乗り継ぎ、指定された時間に劇場前に行く。わたしはキャンセル待ちのトップである。ところが、いざ並ばせられて人員点呼されてみると、その当日券予約客のなかにこの時間に集合しないキャンセル者が何人かいて、わたしの順番はくり上がってしまい、当日券の補助席のほぼ最後尾に順位が上がってしまった。これは考えてみればキャンセル待ちのほうがずっといい席で観ることができるわけで、キャンセル待ち1番の地位のままでキャンセル客のあらわれるのを待ったほうがいいのではないか、などと、順番がくり上げられたあとになって反省するわけである。もちろんキャンセル客がひとりも出てこない事態もあるだろうけれど、だったらまた別の日にトライして、きょうは映画でも観に行けばよかったのである。けっきょく、劇場の最後列に設置されたパイプ椅子での鑑賞ということになってしまった。しかたがない。これがわたしの運命であったのだ。

 開幕、そして終演。感想はまた下に書くけれど、突っ込もうと思えばあれこれといえることはいえるけれど、あまり不完全燃焼ということもなく、楽しめる舞台だった。つまり満足である。

 終演後、こんどは渋谷に出て映画を観るというハードな計画。開催中の「ヘルツォーク傑作選」の「フィツカラルド」、わたしに観られる日はおそらく今日しかないのである。それでまだ開映まで時間があるのでユーロスペースへ行き、やはりたくさん観る予定の「グラウベル・ローシャ・ベスト・セレクション」のチラシを手に入れ、五回券を購入する。つまり、これは全上映作品を観るつもりでいる。それでUターンして宮益坂をのぼり、シアター・イメージフォーラムに到着。こんどは「ヘルツォーク傑作選」の三回券を二組購入。つまり、この「傑作選」からは六本観るつもりでいる。なんだかんだできょうは何年ぶりかのものすごい浪費の日である。チケット代だけで二万円近くもはたいてしまった。
 六時からの「フィツカラルド」開映までに少し時間があるので、近くの某サイゼリアでピザを食べ、ジンジャーエールをいっぱい飲む。

 開映時間近くにシアターにもどると思いのほかの混雑で、はじまるころにはほぼ満席なんじゃないかという大入り状態だった。映画を楽しんで、またローカル線の終電で帰宅。疲れた。


 

[] 大人計画 ウーマンリブ vol.12「サッドソング・フォー・アグリードーター」宮藤官九郎:作・演出 @下北沢本多劇場  大人計画 ウーマンリブ vol.12「サッドソング・フォー・アグリードーター」宮藤官九郎:作・演出 @下北沢本多劇場を含むブックマーク

 宮藤官九郎の作・演出ということで「ウーマンリブ」久々の公演。って、わたしにとってそもそも「大人計画」ナマ初体験。もっとコント的な積み重ねの展開なのかと思っていたけれど、思いのほかちゃんとしたストーリーはあるようなないような。出演は松尾スズキだとか岩松了だとか、田辺誠一だとか荒川良々だとか。そして宮崎あおい。豪華である。音楽は向井秀徳。

 舞台は東京の西のはずれにあるという(山を越えれば山梨、らしい)和菓子屋で、舞台下手の一階部分が店鋪、その上の二階が引きこもってしまっている長男のふとしくん(矢本悠馬)のこもり部屋。一階の上手が居間で、まあたいていのドラマはここで進行する。その上はベランダの手まえに屋根があるだけという感じで、まあここでときどき歌を唄うヤツがいるのだね。
 ものがたりは、数年まえに家を飛び出した長女の翠(宮崎あおい)が彼氏(岩松了!)を連れて家に帰ってくるところからはじまるわけで、しょーもない小ネタギャグを連発しながらもはなしはそれなりに転がって行く。荒川良々は未来(2013年)からふとしくんの部屋にタイムトリップしてきた男で、その2013年には世界戦争が勃発して人類の(男限定、だったか?)4/5は死んでしまうという、縁起でもないはなしをもってくる。それがまあおねえちゃんは二年後には死んでるよなどというデータを示したりする(こういうネタばれみたいなことは書かない方がいいのか)。

 考えてみればかなりいいかげんなはなしで、そりゃあ「リアリティ」などを求めるような舞台ではないけれど、俳優たちのキャラを生かし、またそれを裏切るような演出の連続で乗り切って行くわけで、そこはやはりわたしなどは店主の松尾スズキと岩松了との対決(?)などをひじょうにおもしろく観たりするわけである。わたしは岩松了さんのキャラクターの魅力を満喫した。
 宮崎あおいは、勝ち気でクールな役柄を凛とした空気をただよわせて演じていて、良かっただろうと思う。屋根の上での田辺誠一とのデュエットがやっぱりああいう歌い方で、なかなか気もちはパンクである。そう、屋根の上でのシンギングといえば「時間ですよ!」の堺正章なんだけど、田辺誠一はまさにそういうポジションの役柄であった。
 ラストにまた、「ブラック・スワン」のラストを思い出したりする。などということも書かない方がいいのか。

 まあそれぞれの役者の良さを引き出すようなキャラクターを造型し、それを動かせば成立してしまっているような演出だけれども、これはこれで楽しいものではあった。役者の顔ぶれはぜいたくだし。


[]「フィツカラルド」(1981) ヴェルナー・ヘルツォーグ:監督 「フィツカラルド」(1981) ヴェルナー・ヘルツォーグ:監督を含むブックマーク

 わたしはこの「フィツカラルド」は初見。音楽はPopol Vuh。クラウス・キンスキーはやはり尋常ではない精神の男を演じているわけだけれども、ここではその精神が暴力的なかたちであらわれるというのではない。そこにあるのはただただアマゾンの奥地に「オペラハウス」を建設するという夢だけであって、それはつまり、そのじぶんの劇場でじぶんが観客になる、というような「夢」で、事業的に成功させたいとか(成功するわけないじゃないか)、金もうけしたいとか、そういう野望とはまるで次元がちがう。だからこそ、現地の成功した事業家たちからは変人扱いされるわけである(まあ誰がみても変人だろうけれども)。そういう男が、そのオペラハウス建設資金欲しさに、ふつうだったらとても足を踏み入れることの出来ないアマゾン奥地(まずは危険な先住民の存在があり、これを避けようとすればとても船で乗り越えられないアマゾンの急流が道をはばむ)に、ゴム採取目的で土地を買う。船も買う。ただし、その資金を提供するのは主人公の愛人らしい町いちばんの娼館のオーナー、クラウディア・カルディナーレなのであるけれども。

 その船でキンスキーらがアマゾンをどんどんと昇って行くにつれ、空気は「地獄の黙示録」、もしくはコンラッドの「闇の奥」に酷似していくようなのだけれども、この主人公の願望はクルツ大佐の野心とはまるでベクトルがちがう。そして、圧巻の「船の山越え」となるわけである。ここでほとんど監督のヘルツォークの意志と主人公のキンスキーの、その意志も行為も同一化され、とにかくなんといっても、船が山をのぼる。豚もおだてりゃ木に登るというけれど、さすがに船はそういうわけにもいくまい。ここはもうフィクションでも何でもない、じっさいの労働の記録でしかない。すばらしい。

 主人公の願望は船を山越えさせるけれど、アマゾンの意志は彼を裏切ることになる。主人公はクルツ大佐ではないのだから。そこで彼は別のかたちでじぶんの願望を実現し、この映画は終わる。‥‥結果として、すべての出資はクラウディア・カルディナーレに頼っていることになるわけだけれども、いったいなぜそこまで彼女がキンスキーを援助するのか、しょうじきいうと納得できない部分もある。それを納得させてくれるシーンがワンカットあればよかった気はするけれど、まあそんな世俗的な文句をいっちゃあいけない映画である。




 

 

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■ 2011-06-14(Tue)

 きのう出かけてちょっとばててしまったけれど、きょうもしごとである。風邪の症状としては鼻水ぐらいが気になるだけ、そのくらいには回復した。あさってが非番なので、あしたはまた出かける予定がある。これが下北沢・本多劇場での大人計画の公演に、当日券をゲットして出かけようというもので、まあこの当日券がとれなければ、ヘルツォークの映画を観に行こうというわけである。すべてはこの日の午後に、明日の当日券予約のための電話が通じるかどうかにかかっている。ちょっとまえのNODA・MAP の公演のように、当日券めあてならただひたすら並ぶというシステムだと、いまの健康状態ではちょっとキツいわけで、電話予約ができるというのはありがたいことである。
 予約電話の受付は午後四時からで、この午後四時の時報とともに電話をオペレーターにつなぐ努力が求められる。これにはそれなりのノウハウがあるらしく、その時刻のちょっとまえに電話番号のさいごのひとけたを残してダイヤルしておき、時報とともにさいごのひとけたを入力するといい、というもの。これでたしかにわたしは過去にいちど、この「時報後最速直通」というのはやったことはある。ダメだったこともそれなりにある。それで、ダイヤル117などで正確な時刻をチェックして、準備万端である。
 四時が目前になり、ちょっと前の時間にダイヤルをはじめた。‥‥ところが、このいまの自宅の固定電話、ダイヤルするのに一秒ぐらい空白時間があると、そのままそこまでのダイヤル番号で発信してしまうのである。やばい。先にわかっていればケータイで電話したのに。

 あわててあたまからダイヤルしなおしたけれども、やはりそこで午後四時の時報はちょっとすぎてしまい、もう「お話し中」のコール音しか聴こえてこない。‥‥失敗、である。なんどか再ダイヤルしてみたけれど、いつも「お話し中」である。やっぱ、ダメだったかと、買い物に出かけた。
 帰宅して、もう四時半もまわっているけれど、もういちど電話してみた。そうすると、これがみごとにつながったではないか。つまりもう当日券は残っていないかもしれないけれど、確認してみるしかない。‥‥やはり、当日券はソールドアウトである。しかし、当日のキャンセル待ちでの予約を受け付けているので、キャンセル待ちということで劇場に来てくれればいいということ。それでいきましょう。ダメだったら映画を観に行けばいいのだから。オペレーターがキャンセル待ちの整理番号を伝えるので記録してくれというので、「ちょっと待って下さい」と、メモ用紙をもってくる。伝えられた整理番号は「1番」であった。メモ用紙などに書かなくっても、そのくらいおぼえられるわ。しかし、「1番」ということは、だれかひとりでもキャンセル客があれば、チケットをゲットできるということである。しかも、当日用の補助席ではなく、それはちゃんとした指定席だろう。だったら、ここでキャンセル待ち1番だということは、思いのほかラッキーな結果かもしれないではないか。

 夕食は晩酌を決め込んできのうの残りのしめ鯖を食べて日本酒を飲み、そのあとはやはりきのうの残りの惣菜で食事。日曜に録画した中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」を観てから寝た。


 

[]「嫌われ松子の一生」(2006) 中島哲也:監督 「嫌われ松子の一生」(2006) 中島哲也:監督を含むブックマーク

 公開時に映画館で観た作品だけれども、例によってすっかり内容は忘れている。

 観終わって、じぶんがこの日記に過去に書いた感想を読んで、「なるほど」と思ったりした。なんだかじぶんも「松子化」の度合いがはげしくなってるんじゃないかと思う。

 ラストのながい、低い位置からの鳥瞰撮影って、何年かまえに佐野あたりでみた、エンジン付きのハングライダーみたいなもので撮ってるんじゃないかと思った。とちゅうで黒沢あすかがワイングラスをぐいっとかたむけるポーズが、じつにかっこよかった。




 

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■ 2011-06-13(Mon)

 あさ起きて、なんとかしごとに出てもだいじょうぶだろうというくらいに回復。がんばってしごとへ行き、しごとを終えるころにはさらに元気回復したし、天候も良好なので、ひるからまたターミナル駅へ映画を観にいく。きょうは先週観ようかと思っていた「セラフィーヌの庭」を観る。観客はわたしと年輩のご婦人ふたりだけ。

 ほんとうは映画のあとちょっと東京まで行って、買っておきたいというものもあったのだけれども、やはり映画を観終えるとそれほど元気というわけでもなく、もちろん上京は中止して帰宅した。うちにはおいしい日本酒もあるし、こういう病み上がりみたいなときにはなにかおいしいものを食べたいものだと考えて、スーパーをみてまわる。出来合いのお惣菜を買い、それとしめ鯖を一パック。きょうはおかずもなにもつくらないで、買ってきたものをおかずに、ご飯だけ炊いて夕食にした。ニェネントは買ってきたおかずに興味を示さない。



 

[]「セラフィーヌの庭」マルタン・プロヴォスト:監督 「セラフィーヌの庭」マルタン・プロヴォスト:監督を含むブックマーク

 2008年のフランスとベルギーの合作映画。日本公開は2009年らしいのだけれども、どうして今ごろ?という感じで、このシネコンで公開になっている。

f:id:crosstalk:20110616123301j:image:right 主人公のセラフィーヌ・ルイについては、ずいぶんむかしに何かで読んでおおまかなことは知っていた。ひょっとしたら、ずいぶんむかしの美術手帖に連載されていたアウトサイダー・アーティスト、もしくは精神を病んだアーティストについてのコラムからの知識ではなかったかと思うのだけれども、そのせいでか、わたしのなかでセラフィーヌの作品とルイス・ウェインの作品とはちょっとごっちゃになっていた。「セラフィーヌ? それって、ネコの絵を描いていたひとだっけ?」という感じである。つまり、イラストレイターのルイス・ウェインもまた精神を病んで、彼の描いていたネコのイラストがその病の進行とともにどんどん幾何学的にというか抽象的にというか、装飾的にというか、まるでネコらしさが失せていくわけである。ついでだから、ルイス・ウェインのネコの絵も一枚載せておきます(まだまだこれは変遷のとちゅうの段階)。そう、セラフィーヌの絵は、まるで羽毛のような葉を持つ植物だとか、生命をもったような美しくも奇怪な植物の絵なのだった。

f:id:crosstalk:20110616123327j:image:left で、セラフィーヌ。もう中年もすぎ、身よりのない彼女は(おそらくは)フランスの北東部の小さな町で家政婦をなりわいにして暮らしているのだけれども、あるときに聖母マリアのお告げで絵を描きはじめることになる。貧しくて教養もない彼女は絵の具まですべて自分でつくるわけであるけれど、このあたりはこの映画でかなりこまかく描写されている。白だけはつくれないので白の塗料だけ買い、これに木の汁や動物の血液などをまぜ、基底材には教会のキャンドルのろうを使う。彼女は敬けんな信者だから、教会のろうを失敬するときには、ちょっとばかし申し訳なそうな表情をみせる。

 映画はなかなか彼女の絵をみせてくれなくてじらされる。「あなたが絵を描いていることはバレているんだから、早くみせなさい!」という感じになる。冒頭はそんな彼女と自然との交感(交歓)のようすがていねいに描かれることになる。森や木、草むらの色彩など、これがまるでジブリアニメのいちぶのような演出で、大きな木の映像などまさに宮崎駿のそれを彷佛とさせられる。
 映画は1912年からはじまって、そのセラフィーヌの町に画商のウーデが越して来て、彼の部屋をセラフィーヌが受け持つことになる。せんじつ観た「白いリボン」とほとんど同じ時代だなあ、などと思って観ていると、この画商のドイツ人、ヴィルヘルム・ウーデを演じているウルリッヒ・トゥクルという役者さん、その「白いリボン」で男爵だかを演じていたひとだった。そうすると、この「セラフィーヌの庭」もまた、時代の流れにあれこれが影響をうけるなかで、セラフィーヌにとっては残酷な展開をみせることになる。ヨーロッパにとって、このあたりからの四十年はハードな時代だったなあと、この作品からも受け止められてしまう。
 セラフィーヌが絵を描いていることを知り、また、その作品に正式に絵画を学んだものにない魅力を感じた画商(彼が扱っていたアンリ・ルソーの絵、がセラフィーヌの絵と並べられる)は、なんとか彼女を援助して絵を描かせつづけようとする。しかし第一次世界大戦のぼっ発のためにドイツ人である画商は町から出て行かざるをえない。彼がふたたびその町に戻るのは1927年のことで、再会したセラフィーヌはまえよりも大きくてすばらしい作品を生み出すようになっていた。画商は彼女の画家としての将来に期待して、金銭的な援助も与えて絵を描かせるのだけれども、素朴な彼女は高価な服を買いあさったり、ついには豪華邸宅を購入しようとまでして画商を困らせる。しかも世界恐慌の時代がやってきて、画商はセラフィーヌの展覧会の開催を延期せざるをえない。このことが事情を理解できないセラフィーヌには大きな打撃になり、精神を病んで療養施設に強制的に入れられてしまうことになる。

 いつも賛美歌を唄いながら絵を描いていたセラフィーヌの精神のバランスが、いったいいつからくずれていたのかはわからない。ある意味ではもう絵を描きはじめたときから、それはいっしゅの「病み」のあらわれだったということもできるかもしれない。それでは精神を病むということはどういうことなのか。ゴッホの絵を統合失調症とむすびつけて解釈する視点もある。もちろん、ヘンリー・ダーガーのことをわたしなどは思い浮かべてしまうことになるけれど、セラフィーヌはある意味で「生前に発見されていたヘンリー・ダーガー」ということもできるかもしれない。
 しかし、この映画で無心、無欲に絵を描きつづけるセラフィーヌの姿には、まさに世界と交歓することの出来た「選ばれたもの」の幸福を感じとることにもなる。では、その絵が売れることを約束し、経済的に援助した画商の行為が裏目に出たのか、つまり、彼女はそのまま誰にも評価されないままに絵を描き続けていたほうがしあわせだったのか、もしも彼女の個展が画商の力でパリとかで開催され、それが彼女に名声をもたらしたとしたら彼女はどうなったのか。個展が評価されずに作品が売れなければやはり彼女は狂ったのだろうか。むかしから考えていた、作品をつくりつづけることと、その作品が評価されるということのもんだいについて、この作品はまた新たな視点から考えさせてくれることになった。セラフィーヌは1932年に療養施設に入所して、二度と絵を描かぬまま1942年にその施設で死亡する。映画には描かれていないけれど、彼女の作品は彼女の生前にパリの画廊で展示されたことがあるはずである。

 この映画、まずはセラフィーヌ役のヨランド・モローという女優さんの演技がすばらしいのだけれども、静かなヴィオラ・ダ・ガンバ(だろうと思う)による音楽、セラフィーヌをつつむ美しい自然の風景をきっちりととらえた撮影もすばらしい。ラストのシーン、療養所の個室をあてがわれたセラフィーヌがドアを開けると外の広い庭に出ることができ、彼女は大きな木の下の椅子を持ち出してすわる。もちろんここはファンタジーである。美しいエンディングだった。




 

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■ 2011-06-12(Sun)

 風邪ダウン三日目。すこしずつは快方に向かっているようで、夕方にはだいぶからだも軽くなり、ドラッグストアへマスクを買いに行ったりする。ひるまちょっと暑くなって、扇子でぱたぱたあおいでいたらニェネントがやってきて、「あら、新しい遊びなのね」とばかり、扇子にちょっかいを出してきた。うしろ足で立ち上がり、両まえ足で扇子をつかもうとする。かわいいので、そうやってしばらくニェネントと遊んだ。

 たくさん寝たときにいくつか夢をみたのだけれども、たいていは忘れてしまった。ひとつは夢のなかで「これは夢だ」と思っていたような気配もあり、ひとつはストーリーがとてもおもしろかったと、夜なかにめざめたときにはちゃんとおぼえていたのだけれども、もうまるで思い出せない。おぼえている夢は、電車かバスでわたしはある町へ行くのだけれども、その駅だか停留所は建物の高いところにあり、わたしがそこから階段で下に降りるときにうしろから押され、まえをゆっくりと歩いている若い男性を押してしまう。男は不快そうにわたしを振り向いてよけるのだけれども、その顔をみたわたしは「こいつならこわくはない」などと思っている。その建物から出て町なかに出るには、建物の一階にある立ち飲み屋のような店のなかを通過しなくてはならない。飲んでいる男たちのあいだをすり抜けて町に出る。雨が降っている。わたしの目当ては、ある店のようで、そこでタバコを買いたいと思っているようである。その店に行くとタバコは駄菓子屋の四角いガラス瓶のようなものが積み上げられたなかに入っていて、わたしの買いたいタバコはそのいちばん上のガラス瓶に入っているのがみえる。その奥の階段の二階から、Cさんが降りてくるのがみえる。このあとのことは記憶に残っていないけれど、なにかわたしはアングラ演劇を観ようとするような、おぼろげな記憶は残っている。この夢のことを思うと、別のときにみた別の夢へと思索はリンクしていく。

 WOWOWで中島哲也監督の特集をやっていて、「下妻物語」の、半分近く終わったあたりから観る。風邪のときにはこういうのがいい。舞台になっている町はこの場所からすぐに南のところだし、わたしもじっさいに行ったことのある場所もあれこれと出てくる。田んぼばかりのまったいらな風景の奥に筑波山がぴょんと置かれているというのは、このあたりでもまるで同じ景観である。ヤンキーな少年少女たちがたむろしているのもやはり同じ風景で、ふだんはコンビニ周辺だけに棲息するらしい彼ら、彼女らは、夏祭りになるととつぜんに異常な数に上昇する。ちょっとまえまでは、にっちゅうローカル線に乗るとロリータ・ファッションの女の子の姿もまたかならずのように見かけたものだったけれど、さいきんは絶滅してしまったのか、その姿をしばらく見ていない。だからたいていのことはこのあたりも映画「下妻物語」と共通しているけれど、映画とこの地域とのいちばんおおきな違いは、やはりこのあたりにはJASCO がないということである。まあこのあたりのひとはみな車をもっているから、べつに地元にそういう大規模店鋪がなくても不便というわけでもないんだろう。車のないわたしにしても、ローカル線に乗ればその終点のターミナル駅周辺でだいたいのものはそろえることができる。
 映画を観ていると、むかしのしごとでしょっちゅう利用していた関東鉄道常総線の駅舎が出てくるけれど、この駅舎は三、四年まえに取り壊しになってあたらしい駅舎になってしまっている。ものすごくおんぼろな木造瓦葺きの駅舎で、これはなかなか味わいがあったのだけれども。この映画はとにかくなにも考えずにスカッとできるわけで、まあ風邪のときの治癒効果は高いのではないだろうか。からだの調子はずいぶんと良くなった。

 あしたはしごとに出たいので、本を少し読んでやはり早めに寝た。



 

[]「半七捕物帳 巻の六」(3)岡本綺堂:著 「半七捕物帳 巻の六」(3)岡本綺堂:著を含むブックマーク

●「廻り灯籠」
 牢屋を脱獄(牢ぬけ)した悪人が、じぶんを召し捕えた岡っ引きに怨恨をもち追いまわすという話。岡っ引きの方が若年ものでいくじがなく(というか、仲を約束された彼女が大騒ぎするので)、逃げまわってしまう。半七の尽力で事件は解決するけれど、逃げまわった岡っ引きは面目が立たずに廃業するというもの。舞台は高田馬場あたりとか。

●「夜叉神堂」
 むかしの、仏閣の「御開帳」での出しものから派生した事件。文化九年の渋谷長谷寺での京都清水観音の出開帳を背景にしていて、この出開帳は史実である。そこに、小銭を寄せ集めてつくられた五尺あまりの大兜が、奉納の造り物として参道に並べられ、評判を呼ぶ。ただ、兜の前立てや吹返しには金の小判や銀の二朱銀が使われていて、これがある晩に盗まれてしまうわけである。この事件に、その長谷寺の夜叉神堂がからんで思いがけない解決になる。金銀を盗んだ男も悔いており、だれもおとがめをうけることにはならない。




 

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■ 2011-06-11(Sat)

 きのうはけっきょく十六時間とか十七時間とか寝てしまって、夜なかにはかんぜんに風邪の症状というか、発熱もあるようだった。ネギをぶちこんだ鍋を食べて、玉子酒を飲んで、あとはおとなしく寝ていたのだけれども、風邪を追い出すことはできなかった。

 あさ起きても頭痛はするし、とてもしごとになど行ける状態ではない。欠勤の電話を入れて、また寝続けることにした。健康なときでもあまりに睡眠時間をとりすぎると頭痛もしてくるわけで、きのう寝てばかりいたことがいまの頭痛につながっているのかもしれない。いつまでも熱があるようで、こんなんだったら病院へ行ったほうがいいのではないかと思う。でもきょうは土曜日で、たしか病院の診察はないのだった。
 冷凍庫に入れてあった凍らせたペットボトルをタオルにくるんで、氷のうがわりにあたまにあてるけれど、熱のせいかほとんどひんやりとも感じない。久しぶりの重症である。

 つけっぱなしのTVのニュースで、現首相は「被災地のがれきの撤去などを見届けてから辞める」などといっているとのこと。じぶんで軍手をはめてスコップをもって被災地へ行くわけでもあるまいに、見届けてどうなるのだろうということである。辞めろというほうもいうほうではないかと思っていたが、ここまで居直るというのにも幻滅する。またJ党の政権にもどるのもうんざりだけれども、政権の座に居座ろうとするM党もまた消えてほしい。震災後のこの国はどうなっていくんだろう。きょうは東京で反原発のデモがあるし、体調が良ければデモに出てみて、そのあとに唐組の公演を観てみようなどという計画もあったのだけれども、とても動ける状態ではない。ヴィデオなど観る気分にもならないけれど、ハイスミスの「アメリカの友人」は読了した。



 

[] 「アメリカの友人」パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳  「アメリカの友人」パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳を含むブックマーク

 トム・リプリーのシリーズの第三作で、まえの「贋作」から引き継がれている部分も大きい。原題は「Ripley's Game」で、「アメリカの友人」となっているのはヴィム・ヴェンダースの映画によるところだろう。ヴェンダースはじつはハイスミスの大ファンで、ほんとうは「変身の恐怖」を映画化したかったらしいのだけれども、これはすでに映画化権が売られてしまっていて、ハイスミスがヴェンダースに「次作の映画化権はあなたに与えましょう」と約束したらしい。それがこの「アメリカの友人」。
 ハイスミスは書いていてこれが映画化されることを想像していたのか、彼女の作品にはめずらしく、撃ち合いだとか列車内での殺人だとか、アクション・シーン満載の作品になっている。それが、ヴェンダースの作風とはミスマッチにはなってしまうんだけれども‥‥。

 リプリーはいぜんから「運び屋」の手伝いをしていた男から、「前科のないまともな人間で、マフィアの暗殺をやってくれるヤツはいないだろうか」ともちかけられ、パーティーでちょっとイヤなことばをはきかけられた男を巻き込んでやろうと考える。その男は妻子のある額縁商なのだけれども、白血病で通院している。リプリーは彼の白血病が進行していて、余命いくばくもないといううわさを流すことになる。おもわくどおりに男は暗殺のしごとを引き受ける。さいしょの暗殺は成功するけれども、もう一件、列車内でマフィア幹部を暗殺するというしごとが残っている。ここでリプリーは男ひとりでは出来ないだろうと判断して、彼の手助けに行くわけである。けっきょく暗殺はうまく行くのだけれども、計画はマフィアの知るところとなり、リプリーたちはマフィアの復讐の標的にされる。

 この作品では、ひとをはめておいて、あとになってその男を助けようとするリプリーの心変わりがひとつのテーマであり、額縁商の男とその妻との関係のなかに入り込まざるを得ないリプリーの心理、額縁商、そしてその妻の心理の推移を読み進めることのなかにこそ、この作品のおもしろさがある。やはりリプリーの屈折した心理はこの作品の主役にふさわしいだろうし、ち密な描写からはやはりひとを殺めることのおぞましさ、そして追われることの恐怖が伝わってくる。
 この妻は映画でやるんならぜったいにサマンサ・モートンだな、などと思うわけだけれども、つまりはわたしはヴェンダースの「アメリカの友人」をほとんど記憶していない。まえに書いたように、アクションの盛り込まれた、ハイスミスとしてはちょっと異色の作品ではあるけれども、それでもやはり登場人物の心理描写など、これはやはりハイスミスの作品である。




 

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■ 2011-06-10(Fri)

 きょうはしごとは非番。なんだか風邪のひきはじめのような症状で、のどに痛みがある。きのうしごとで汗をかいたのがいけなかったかな、などと思う。いつものしごとのあるときぐらいのじかんに起き、ヴィデオなどを観て昼すぎまで起きて、それからは断続的に寝てばかり。きのう久々に白菜の1/4カットのや長ネギなどを買ってあったりしたので、夕食には鍋をつくり風邪をやっつけようと。

 せんじつターミナル駅で買ったキャットフードの缶詰を、ニェネントにあげてみた。白身魚のゼリー仕立て。ものすごい勢いで食べる。まるでショベルカーのように、皿の上の食べ物を下あごですくい取って行く。さいしょのうちはときどきゼリー仕立ての缶詰を買ってあげていたけれど、ここのところはぜんぜんそういうのは買わなくなっているからなあ。やっぱりゼリー仕立てっておいしいんだろうなあ。

 夜になるといよいよ風邪っぽくなり、このままならあしたはしごとどころではないなあなどと考える。

 

[] 「ずっとあなたを愛してる」(2008) フィリップ・クローデル:監督  「ずっとあなたを愛してる」(2008) フィリップ・クローデル:監督を含むブックマーク

 クリスティン・スコット・トーマス主演。恋愛ドラマではなく、6歳の息子を殺害したとして15年の刑に服して出所してきた姉を迎える妹とかの話。その姉(クリスティン・スコット・トーマス)と妹(エルザ・ジルベルスタン)とのドラマが中心になるけれど、あれこれの脇役、ちょっとだけ登場する人物などもしっかりと描きこまれていて、そこがこの作品のいちばんいいところ。監督のフィリップ・クローデルは作家として知られていて、映画作品としてはこれが第一回監督作品になるらしいけれど、次はこのひとの演出した群像劇を観てみたい。




 

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■ 2011-06-09(Thu)

 さくやはそれなりに早く帰宅したといっても、やはり翌日の早朝のしごとはきつい。というか、この日も仕事量が異様に多くって、わたしなどは居残り。居残りになると室内でのしごとが続くので、いまの季節ちょっと暑い。汗をかいてしまい不快である。

 帰宅してゴロゴロしていると、玄関のブザーが鳴った。出てみると、わたしあての小包だった。Bさんからの日本酒のプレゼント。きゃあ、うれしい。さっそく開けてちょこっとなめてみる。きのうの「浦霞」がちょっと甘味のある感覚だったけれど、これはまろやかながら引き締まった味がして、わたしの好みの味であった。いつも自宅で飲む紙パックの酒など比べものにならないのは当然である。ありがとうございます。

 WOWOWで放映されていた「フランス映画」の特集から一本を観て、そのまま寝てしまった。

 

[] 「華麗なるアリバイ」(2008) パスカル・ボニゼール:監督  「華麗なるアリバイ」(2008) パスカル・ボニゼール:監督を含むブックマーク

 原作はアガサ・クリスティーだけど、ポワロみたいな事件を解決する探偵は出てこない。密室モノではないけれど、「8人の女たち」的な雰囲気はある(もちろん、誰も歌を唄ったりはしないけれども)。ランベール・ウィルソンやピエール・アルディティが出ているので、どうもアラン・レネの作品を思い浮かべたりもするけれども、これはそんな映画ではない。

 探偵役がいないせいか、だれが容疑者なのか、だれが嫌疑をうけているのかということがはっきりとしない。つまり、これが演出でもって観客に「こいつって怪しくない?」と思わせながら推移していくわけだけれども、推理材料をぜんぶ提示して理詰めに観客に推理させるわけではないので、そういう推理も気分的なモノにならざるを得ない。そういうところがフランス的なのかなあ、などとは思ったりもするけれど、だから、「あまりに怪しいヤツはきっと犯人じゃないだろう」みたいな常道でストーリーを読んでいくことにもなる。

 ラストにとつぜん住居の屋根の上での追跡劇になり、ここはヒッチコックの「裏窓」なんだけれども、いきなりの展開という感じはしてしまう。それでもこのラストで、観ている側に開放感が与えられるのはたしか。




 

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■ 2011-06-08(Wed)

 しごとを終えてから電車に乗り、東京へ行く。あしたもまたしごとなので、あまり遅くまでは遊んでられない。翌日がしごとというのに東京とかに出かけるというのも、あまりやったことがない。空は曇天で、外に出るとパラパラと雨が降り出した。まあ映画を観てあとは飲み屋とかだから、折り畳み傘があれば間に合うだろう。きょうは新宿でAさんと「ブラック・スワン」を観るのだけれども、きょうはレディーズデーでAさんはチケットが安いのだけど、わたしはそういうわけにいかないので、先にじぶんの分の特別鑑賞券を買っておくことにした。それで京王線の入り口にあったチケットぴあに行ってみると、これが閉鎖されていた。チケットぴあの店鋪はどんどんなくなっていく。回れ右をして、チケットのディスカウント店の並んでいる方へ行く。さいしょの店も、その次の店も、「ブラック・スワン」は売り切れである。これはふつうに1800円出して観なくてはいけないんだろうか。そんなことは絶えて久しくやったことがない。などと思っていたら、三軒目の店に一枚だけ残っていた。これを買ってAさんと落ち合う。

 まずは映画館へ行って座席を予約する。うしろ半分はほとんど満席になっていたけれど、ちょうどタイミングよく、余分に確保してあった車椅子席を解放したところで、中央通路ぞいのすばらしい席を確保できた。それでいつもAさんと行っていたランチの店へ行くと、これがまた閉店してしまっていた。この店はランチのボリュームもあったし、照明を落とした落ち着いた雰囲気でゆったりできた店だったので、残念。それではと、閉店した店と同じように夜は居酒屋で営業して、昼はランチで店を開けているような店を探してみて、パスタの店を見つける。メニューはサラダ山盛りのヘルシーメニューだったけれど、この店はこの店でゆっくりできて、OKであった。

 映画館。座席はほとんどVIP席であった。映画を満喫して外へ出て、昭和のにおいのする喫茶店でコーヒーを飲み、花園神社の境内の唐組のテントをみてから、三丁目の居酒屋でちょっと飲む。この店には東北の銘酒がメニューに並んでいて、わたしは宮城の「浦霞」などをたのしむ。「浦霞」の蔵元は塩釜だから、壊滅的な被害は受けなかったのだろうか。この店は料理もいけるのである。ゆっくりいつまでも飲んで食べてしていたいところだけれども、とにかくあしたもしごとなので、早めに帰路についた。

 

[] 「ブラック・スワン」ダーレン・アロノフスキー:監督  「ブラック・スワン」ダーレン・アロノフスキー:監督を含むブックマーク

 いささか少女漫画っぽいバレリーナ物語なのだけれども、とにかく過剰サーヴィスというか、たたみかけるような演出で、観ていてもドーパミンだかアドレナリンだかが脳内噴出するようであった。終わってみると「あれ?」というところもあるのだけれども、とにかく観ているときには夢中にさせられたのである。

 しかしこれはどう観てもポランスキーの世界で、ヴィジュアル的にも「ローズマリーの赤ちゃん」から多くを負っている感じだし、コンセプトの「妄想」は、やはりポランスキーの「反撥」に通じるところが大きいと思う。
 主人公のニナ(ナタリー・ポートマン)の母親(バーバラ・ハーシー)のメイクなど、どうみても「ローズマリーの赤ちゃん」のうさんくさい隣人のおばさん(ルース・ゴードン)にそっくりであるし、そのニナが鏡に自分の背なかの傷を映してみるシーンなど、そのまま「ローズマリーの赤ちゃん」にあったショットの再現であったりする。

 ついに「白鳥の湖」舞台初日を迎える前夜から、初日舞台終了まで(つまり、映画の終わりまで)のハイテンションぶりは異様なほどで、もうほとんどこれは笑ってしまう次元である。バレエのシーンはできるだけナタリー・ポートマンの全身を映さないように(つまりはやはり、それはムリだよということだろう)、たいていは上半身だけのショットで、そういう制約もあってのことか、全体に映像の美しさを堪能するような種類の作品ではない。それでも、「ブラック・スワン」を踊るニナの舞台シーン、「これはすごいんだ」ということを納得させるためというか、CGが最大限に活用されるわけだけれども、これは素材がダンスだとかバレエだからこそ、という特殊効果シーンなんだけれども、作品全体が「妄想」という非現実のフィルターがかけられているなかで、もうひとつ、観客の「妄想」をも巻き込んだようなこころにくい演出で、ここで映画としてのクオリティがいちだん上昇したような感覚である。



 

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■ 2011-06-07(Tue)

 メガネがみつかって、ひと安心。これで緊急の支出からも逃れられたけれども、きのうはいちおうメガネ屋をのぞいてみて、どのくらいの価格でどんなメガネがあるのか、みてみたりはしてみた。まあ本気で買おうとはしていないから、じぶんでかけてみてフィットするかどうかなどチェックしないし、つまりそれで対策がたつというようなものでもない。

 Aさんと連絡がついて、あしたいっしょに東京で、ダーレン・アロノフスキー監督の評判の「ブラック・スワン」を観ることになった。どうやらこんげつはたくさんの映画を映画館で観ることになりそう。

 ひるまスーパーに買い物に出かけた帰り、家の近くで白い野良ネコが闊歩しているのがみえた。ジュニアだと思う。もうこのあたりでネコの姿を見かけることがほんとうに少なくなってしまったので、チラリとでもそんなネコの姿をみかけると、なんだかホッとする。
 家のニェネントは元気である。かたづけて広くなったリヴィングのすみからすみまで、ニャアオゥ!っとなきながらかけめぐり、TVの上にダダダッとかけあがり、またすぐにとびおりて走っていく。めずらしい躁状態。押さえこんで鼻をペンペンとやってやると、目を細めてじっとしている。むりやり口をこじ開けて、口のなかに指をつっこんでやるともちろんいやがって、わたしの手をかんでくる。ネコを飼っていてこういうことをやってはいけないのだけれど、どうもこれをやっちゃうのである。

 ヴィデオを二本観て、本を少し読んできょうはおしまい。


 

[] 「怒号する巨弾」(1960) 石川義寛:監督  「怒号する巨弾」(1960) 石川義寛:監督を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20110610093027j:image:left 新東宝三本立ての三本目。このタイトルはわけわからないけれど(性的なほのめかしからの観客動員を期待したのか)、モノクロのフィルム・ノワールである。おもしろかった。監督の石川義寛というひとのことは例によってあまりよくわからないけれども、新東宝時代には怪談ものをいくつか撮っているようで、その後はTVで「忍者部隊 月光」だとか「光速エスパー」、「荒野の素浪人」などの監督をつとめていたらしい。出演は、戦時中に父子でうけた「スパイ」の汚名と父の死への復讐のために、政府や財界の要人への連続殺人をくりかえす男に天地茂、それを追う刑事に宇津井健、天地茂と交際していて、彼が犯人だとわかっても彼についていく警視総監の娘に三ツ矢歌子という、いまでも「豪華だなあ」と思ってしまう布陣。音楽をこのころの新東宝映画で活躍していた渡辺宙明が担当していて、クールなジャズのサウンドや、このころのヨーロッパ映画音楽のムードを移植したような(パクリの寸どめ?)スコアがいい。

 犯人の天地茂は地下に潜伏しているのではなく、古美術商として社会に認知されているわけで、射撃場では宇津井健とその腕を競い合う仲である(これがラストの決闘につながる)。まあ他愛のないストーリー展開ではあるけれど、同年公開の黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」にかぶるような設定が目につくことになる。ぜんたいの過去の復讐というテーマや、小道具としてのテープレコーダーの使用など、これはぐうぜんのことなのか、「悪い奴ほどよく眠る」をみたスタッフがそれを参考にしたのか、「悪い奴ほどよく眠る」の公開が1960年9月15日で、この「怒号する巨弾」の公開が同年11月12日と出てくるので、これはパクリでギリギリ間に合うところだろう。
 夜間や地下室の暗い空間での闇と光のコントラストをうまく取り入れ、まあ「第三の男」みたいな映像を目指しているんだろうけれど、TVで観るにはちょっと全体に暗すぎるかな、という印象。遊園地のシーンは出てくるし、このときの音楽がやはり「第三の男」っぽかったりする。
 天地茂のクールな悪役ぶりを際立たせることこそがこの作品のメインで、宇津井健の刑事はまるでそえもののように存在感は薄い。せんじつ観た「パブリック・エネミーズ」のジョニー・デップとクリスチャン・ベールの(それとマリオン・コティヤールまで含めての)関係を想起させられてしまう。おそらくは宇津井健の刑事は警視総監の娘の三ツ矢歌子に気があるわけだけれども、三ツ矢歌子の方は刑事のいうことにはまったく耳をかさずに天地茂のもとに走るのである。そして、ラストの決闘でも三ツ矢歌子はもちろん天地茂の側につき、彼の胸ポケットに白い花をさしてやる。この三角関係もまた、遠回りして「第三の男」でのジョセフ・コットンとオーソン・ウェルズ、そしてアリダ・ヴァリとの関係をうかがわせるところもある。

 しかし、この作品でいいのはやはり、若き日の天地茂のかっこよさであり、死を覚悟して死地におもむく姿には「サムライ」のアラン・ドロンを思い出してしまったりする。死に顔も美しく、宇津井健が三ツ矢歌子に「見ないほうがいい」というのは、もちろんそれは嫉妬からだろうと思うのである。

 

[] 「アウトレイジ」(2010) 北野武:監督  「アウトレイジ」(2010)  北野武:監督を含むブックマーク

 いままでの北野映画からすっかり出演者の顔ぶれを変えて、それでまたヴァイオレンスもののあたらしい展開を目指したんだろうか。冒頭のヤクザの宴会と、外で組長を待つ組員たちの撮影、宴会が終わり会場からそとへ走り出す黒塗りの車を追っての「OUTREGE」のタイトルが出るまでの映像はすばらしい。
 しかし、観ているうちにどうしても、これは「仁義なき戦い」の焼き直しではないかとしか思えなくなってしまい、それだったらどうしても「仁義なき戦い」にかなうようなものではないという感覚になる。北野武の親分である國村隼の組長もいいのだけれども、このいいかげんさなどどうしても「仁義なき戦い」での金子信雄とくらべてしまうことになるし、そうすると奥さん役の木村俊恵との名タッグを組んだ「仁義なき戦い」の方がはるかにおもしろかったじゃないの、ということになる。指つめに関する挿話も、「仁義なき戦い」の方が堪能させられた。

 刑事役の小日向文世、生き残るインテリヤクザ役の加瀬亮あたりの存在は印象に残った。




 

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■ 2011-06-06(Mon)

 メガネが失せてしまったので、それではやはりあたらしいのを買いましょうか。すぐには買わないまでも、メガネ店に行ってみたりして、さいきんのメガネの傾向(おもに価格面)と、その購入対策を立ててみようと、ターミナル駅まで出かけてみることにする。ついでに、そのターミナル駅のシネコンで映画でも観ようと(ほんとうは、映画を観ようという方が優先順位は高いのだけれども)。
 まえにも書いていると思うけれど、このターミナル駅のシネコンはオーナーの道楽というか、採算を度外視するような作品、東京ならば「単館系」と呼ばれるような作品、そんな作品をいつもスケジュールにかけてくれるのである。その作品の選択をみていると、ここのオーナーはかなりの映画ファンだろうと、思われるのである。もちろん東京のロードショーからは時期は遅くなるけれども、それなりに「名画座」的な機能をはたしてくれている。それでいま上映している作品では、ハネケ監督の「白いリボン」、それからフランス映画の「セラフィーヌの庭」あたりが渋いわけである。そう、「英国王のスピーチ」も上映中。これからも、ソフィア・コッポラの「SOMEWHERE」だとか、これはよく知らないけれど「君を想って海をゆく」、それに園子温監督の「冷たい熱帯魚」、なんてのが上映予定リストに載っている。まあハネケの「白いリボン」は観たいと思っていたのでこれはマストという感じだし、できれば「セラフィーヌの庭」も観てもいい。とにかくきょうは月曜日のメンズデーで、外見が男性であれば一本千円で観ることができる。だからきょうは映画を観て、それでもしかしたらメガネを買って帰る、という予定になる。

 きょうはしごとは非番、あさからなかなかいい天気なので、ベランダのクレソンやバジルに水をあげるために窓を開けてベランダに出ると、そのベランダに置いてあるテーブルの上に、ちょこんと、わたしのメガネがたたまれて置いてあったのであった。‥‥そうなのである。これもいぜんいちど同じことをやったことがある。犯人はわたし。プランターの植物を観察するときに、ついメガネをはずしてそのあたりに置いて、そのまま忘れてしまうのである。やっぱりね、さすがにもうろくしたわたしでも、メガネを捨てるようなことはやはりやらないのである。
 とにかくこれで、きょうメガネを買うというばくぜんとした予定は消滅。ただ映画を観に出かける。やはり「白いリボン」にしよう。

 外はちょっと暑い。電車に乗り、電車のなかでパトリシア・ハイスミスの次のスケジュール、「アメリカの友人」を読みはじめる。ターミナル駅で降り、駅のそばのビルの七階のシネコンへ行く。もう開場している館内にはほかのお客さんもいなくって、このシネコンではまえに二回ほど、わたし以外にだれも客のいない「ひとり映画館」という至福の体験をはたしているわけで、また「ひとり映画館」か、などと期待したのだけれども、けっきょく五、六人のお客さんが上映までに入ってきた。
 上映開始。映画は外の暑さを忘れさせてくれる涼しい映画だった。感想は下。満足して外に出て、もう昼食のじかんも過ぎているので、駅の反対側の中華レストランで昼のランチを食べる。この店にはずいぶんまえに二回ほど来たことがある。清潔な店内のわりに安いメニューが豊富で、いぜんは焼きそば350円とかのメニューもあったのだけど、それはこの日のメニューにはなかった。定食の550円というのをたのみ、久々に肉を思いきり食べた。

 酒の量販店で、震災でワケありということで安くなっているバーボン・ウィスキーと、パスタのソースを買う。また駅の方に戻り、天井まで高々と商品を積み上げている量販雑貨店へ行き、キャットフードのコーナーをみてまわる。そろそろニェネントの誕生日なので、ちょっと豪華なネコ缶(「ビーフのテリーヌ仕立て」などという、わたしでも食べてみたくなるようなしろもの)と、家の近くで買うよりずっと安かったドライフード、それからマタタビのスティックを買う。ニェネントの誕生日にはそのビーフのテリーヌ仕立てを皿に盛って、その上にマタタビを一本立ててあげようかと思う。自分用の酒のおつまみとしてイカ天を買うけれど、このイカ天はニェネントもまた大好物なのである。

 外へ出てもまだまだ陽は高いのだけれども、早めに帰ることにして電車に乗る。車窓風景をみていて、いつもは陽射しを避けられる側にすわってばかりいたので気づかなかったけれど、こうやっていつもとちがう側をみると、震災の影響がまだいまでもみてとることができる。ボウリング場の外壁が大きく崩れ落ちていたり、歴史のありそうな古い木造の大きな倉庫の屋根瓦がぼろぼろにはげていたりするのが目をひく。

 帰宅してきのうの続きの新東宝映画を観て、TVをみて(「ネプリーグ」に、田中要次さんが出演されていた!)、ちょっと本を読んでおしまい。


 

[] 「白いリボン」ミヒャエル・ハネケ:監督  「白いリボン」ミヒャエル・ハネケ:監督を含むブックマーク

 そうだ、この作品の脚本には、あのジャン=クロード・カリエールが、ハネケ監督を手伝っているのだった(脚本協力)。そういうわけで、この作品には、1913年から1914年(第一次世界大戦がぼっ発する)にかけての、ここで描かれた時代のみならず、ナチス台頭までを含めた、ある意味で地政学的な視点があるのではないかということになる。それはこの精緻な脚本のちからによるところが大きいだろう。

 北ドイツの小さな村におこったあれこれの事件、それらの事件に通底したものは何だったのかということを、単純な犯人探しのミステリーを越えた、もっと大きな歴史の流れのなかに置いて描く演出にはみていても背中がゾクゾクしてくる。
 映画は、その村に外の町から来ている教師の語りで進行することになり、この教師が村のなかの人間関係を深くは知らないということからはじまり、それでもだんだんに「いったいこの村に何が起こっているのか」という真相に近づいていくわけになる。しかし映画はその教師の知り得ないことがらをも目撃し、観客に知らせることになる。映画で語られるあれこれの事件にかんして、語り手の教師と、その恋人(婚約者になる)のエヴァという女性だけが、ある意味であれこれの事件にまったく無関係な立場にあるように描かれるわけだけれども、では、この語り手の教師はいったい何者なのか、この教師の回想にはどんな意味があるのか、というあたりまで含めてのこの作品であって、この教師がこの村でのそれらの事件の裏にあるものを垣間見て、その事件ぜんたいの構造を想像でき得ていたとして、ではこの教師はどういう存在になるのか、というあたりをこそ、この作品はいいたいのではないのか、などと思うわけである。この教師にも、「白いリボン」は結び付けられているのではないのか。

 ハネケの作品には、なにからなにまで、「これにはこういう意味がある」などと解読してしまうことで、そのいちばんのテーマが手もとからすり抜けてしまうようなところがある。スクリーン上で展開するものからはみ出てしまうものこそを感知すること、そんなことが観客には要求される。だからわたしにもこの作品の背後にあるものなどほんとうにはわかっていないだろうと思うし、わかったような顔をしてストーリーを解読してもしかたがないじゃないか、などと思うわけである。ただ、彼の作品にはヴィジュアル的にひとをゆさぶる、ショッキングなショットがかならずあるわけで、それは監督が観客に贈るインヴィテーション・カードのようなものでもあると思うのだけれども、この「白いリボン」では、牧師の娘がその父の鳥かごの鳥のあたまをハサミで切断し、その羽根を拡げてあたまの部分にハサミを刺し、十字架のようなかたちにして父の机の上に置いたショットあたりではなかったか。

 やはり、ハネケの今までの作品と同じように、考えれば考えるほどにおそろしくなるような作品だった、と思った。



 

[] 「海女の戦慄」(1957) 志村敏夫:監督  「海女の戦慄」(1957)  志村敏夫:監督を含むブックマーク

 新東宝三本立てプログラムの二本め。この監督の1956年のやはり新東宝の「女真珠王の復讐」というのはかなりヒットしたらしいけれど、どうもそれはこの「海女の戦慄」でも主演している前田道子という女優さんのオールヌードの場面がある、ということによったのではないだろうか(オールヌードというのは日本映画史上はじめて、ということだったらしいけれど、後ろ姿のみのヌードだったらしい)。はっきりいってきのうの「女岩窟王」との演出力の差はあまりに歴然としていて、ちょっとばかし見あぐねてしまった。前田道子さんという女優さんは清純そうな顔をしてそれでいてグラマー(死語?)で、うん、好きですよ、というタイプなのだけれども、この方はその新東宝のお下劣な演出に逆らって、そのためにすべての映画、TVの世界からオミットされてしまわれたらしい。その後は全国のナイトクラブやキャバレーで仕事をされていたとのことだけど、1999年に石井輝男監督の「地獄」でスクリーンにカムバックされたらしい。

 どこかの漁港を舞台にしたこの作品で、その漁港にある「イカリ亭」という、ちょっと国籍不明の居酒屋の造型だけが、印象に残った。新東宝には美術のひとでがんばっていたひとがいたようである。




 

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■ 2011-06-05(Sun)

 メガネはみつからず、そのまましごとに出る。職場にもメガネは忘れられていたわけでもなく、いちにちメガネなしですごした。ちょっと不便なような、スカスカするような感じがしないでもない。帰宅すればカラーレンズの近視メガネはあるので、ひつようなときはそいつを使えばどうってことはない。でもやはり、あたらしいメガネを買わなくてはならないか。

 政局のこと。過去のことを考えて、やはり政局の「政権交代可能な二大政党制」への転換としてM党が台頭し、かわりにS党が消滅(してはいないが)したときから、こうなることは予測できるように思える。つまり小選挙区制の導入もあり、保守二大政党による議席独占状態になる。さいきんはいくつかの新政党が誕生して、選挙では投票率を上げているけれども、これらもみな保守政党である。革新勢力の消滅(してはいないが)の結果がこのていたらくではないのかと、思いたくもなる。そもそも原発事故への対応にしても、J党M党双方に原発推進派が多数存在している以上、まともな対応ができるわけでもないだろうに。
 つまりはたいていのひとが、あまりに長くつづいたJ党の独裁状態に嫌気がさして、政権交代可能な党が出現するのを歓迎したわけだろう。これらぜんたいはつまりは保守派の画策というか茶番劇であり、政権交代によって新しい風が吹くだろうというのがまったくの幻想だったことは、震災まえからあきらかだった。だからここで「やっぱりJ党にまかせなければダメだ」とか、「まだもうすこしM党にやらせてみようではないか」などと反応するのも不毛で、つまりげんざいの、この二大保守政党がぎゅうじる状態をなんとかしないといけない。しかしこれには何年も何年もかかるわけだし、いまわずかに残続している旧革新勢力にこれから先期待できるわけもない。とにかくこんなことを考えても、いま目のまえの震災後の情況をどうするのか、ということの回答にはならないのが悩ましいわけである。
 こんご、連立ということにもなりそうな雰囲気だけれども、妙にJ党に対抗するような姿勢をとらされてきたM党の議員には、これでホッとしているところもあるのではないだろうか。いっしょになかよくやって下さい、というところである。

 きょうもヴィデオをひとつ観て、ちょっと「半七捕物帳」を読んだ。



 

[] 「女岩窟王」(1960) 小野田嘉幹:監督  「女岩窟王」(1960)  小野田嘉幹:監督を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20110607105915j:image:right 「ひかりTV」で観ることのできる「チャンネルNEKO」で放映された、後期新東宝作品の三本立て連続放映の一本目。まあある種の期待感と、「どうせがっかりするんだろうな」という気もちを双方抱きながら観始めた。とにかくタイトルがキワモノですからね、という感じだったのだけど、これはこれは、異様におもしろかったのである。ほとんど鈴木清順の世界であるなどというとほめすぎかもしれないけれど、日活後期の時代の鈴木清順映画の、ぶっとんだ世界観をほうふつとさせられることはたしかで、こういう作品の延長線上に鈴木清順が出現するということは、まちがいないことだと思う。これでキャラクターをもうちょっとつくりこめばそりゃあ「傑作」と呼べるのだけれども。とにかくおもしろかったので、この映画のポスターを見つけてきたりした。

 監督の小野田嘉幹という人物のことなど、知っていたわけもないけれど、新東宝倒産後はテレビ映画の監督として活躍していた人で、なんと、近年になって「伊能忠敬 子午線の夢」などという映画作品を監督されていたりする。新東宝時代の監督作品には、「女奴隷船」(!)、「女王蜂の逆襲」(!!)、「人喰海女」(!!!)などという作品があり、平田昭彦はこのひとの弟、奥さんは新東宝でそのキャリアをスタートさせた三ツ矢歌子だったということである。

 さてさて、映画はいきなりのキャバレーのフロアショーからはじまって、これが原色ギラギラの照明と、なんともエロエロな衣装のふたりのダンサーによる、いかにも映画のなかでくり拡げられるタイプのダンスというか、そう、むかしはこういうのを観たくって映画館の暗闇に足を運ぶひとたちがいたわけだよね、などと納得するというか、映画のなかにしか存在しない架空の世界がたしかに存在したわけで、みんなそういう世界を観たがっていたわけだと、このファーストシーンを観て思うわけである。のちの日活の無国籍アクション映画へと、脈々と受け継がれる伝統というか、こういうのは黒澤明の「酔いどれ天使」あたりからはじまっているのかもしれないけれど、黒澤明のそれは、あくまでも「どこかにたしかにありそうな」現実として描かれていたわけである。この「女岩窟王」では、冒頭の舞台は九州の南のさきにある港町とかいうことで、そりゃあ鹿児島か、という感じだけれども、あとでちょこっと出てくる外の街の風景をみても、こりゃあそんな特定の場所と結び付くような設定ではないだろうという感じである。

 で、その冒頭のふたりのダンサーこそがこの映画の主人公であって、まあそれは痛快な大活躍を見せてくれるわけになる。そのキャバレーこそは某麻薬組織のアジトで、踊子であるふたり(姉妹なのである)は、むりやりその組織のボスとかジャーマネの情婦にされてしまう。それだけでなく、このふたりの兄もまた、麻薬組織と知らずにボスにかかわって、麻薬の取り引きの現場を手伝うんだけれども、そこでドジを踏んでしまい、姉妹の目のまえで組織に殺されてしまう。ここで別の麻薬組織との抗争があり、兄が殺害された現場を見てしまった姉妹もその抗争の現場になる沖合いの無人島に連れていかれ、つまりは悪党どもは敵対する麻薬組織といっしょにこの姉妹も闇にほうむってしまおうというわけである。これが組織の若いモンが彼女たちに惚れてだか同情してだかふたりを助けようとして、その島の海岸にあった洞窟(むかしの廃坑?)に三人で逃げ込む。男は撃たれて倒れ、そのときに大きな落盤が起きて、姉妹はその洞窟に閉じ込められてしまうのである。悪党どもはこれで姉妹が助かることもあるまいと、島を引きあげる。
 残された姉妹は必死の思いで洞窟を掘り進めるわけで、ついに外へ出ることができるのだが、そのときに洞窟内で金銀財宝のつまった宝箱を見つけてしまうのであった(^_^!)。ここで、無人島の海岸で服を脱ぎ捨てて泳ぐ姉妹のサーヴィスショット。
 無人島ということもあって、近海をとおる船もしばらくはまったく見えないのだけれども、何日目かに、ヨットに乗ったイイ男がふたりを救出してしまうのである。まさに「映画」である。さて、そういうことで、そのイイ男を仲間にしての、三人による麻薬組織への復讐がはじまるのである。

 この脚本も監督の小野田嘉幹氏によるもので、チャキチャキとしたテンポのいい演出も小気味いいし、省略するところはサッサと省略して、スピード感もある。終盤には営業時間をすぎた遊園地に悪党の子分を追い詰めるシーンなどという、ふん、ヒッチコックぐらい観てますよとばかりの気張った演出もある(残念ながら、ここはちょっとショボい)。ラストはもちろんラスボスと姉妹の対決になるのだけれども、ここで冒頭のフロアショーが再現され、追い詰められたボスが恐怖の叫びをあげながら姉妹の踊りに巻き込まれ、ほとんど三人で踊るかのごとくダンスが進行していくシーンなんか、感動的ですらある。すばらしい!

 姉妹を演じているのは姉が三原葉子という女優さんで、妹が万里昌代。ふたりを助けるイイ男が吉田輝雄という布陣。それぞれが当時の新東宝の看板スターだったようだけれども、この時点では三原葉子さんの方が、万里昌代さんより多少は格が上だったみたい。わたしの好みをいうと、万里昌代さんに軍配が上がることになるだろう。

 あまりにおもしろかったので、録画したこのテープ、永久保存版として取って置こうかなどとまで思ってしまうのであった。


 

[] 「半七捕物帳 巻の六」(2)岡本綺堂:著  「半七捕物帳 巻の六」(2)岡本綺堂:著を含むブックマーク

●「川越次郎兵衛」
 当時のパンキッシュな遊び人たちが、いったいどんな八方破れな遊びをやったのか、みたいなお話。ここに「田舎源氏」の一件についての注解があり、ハメをはずした遊興に興じた若者たちがじっさいにいたらしいので、そのあたりからの引き継ぎで生まれた短編かな、という気がする。その脚注がおもしろいので描き写しておく。これは嘉永五年(1852年)のこと。

「十一月十五日、鷲(おおとり)明神縁日、堀田原池田屋が催しにて、幇間及女芸者召連れ、舟にて浅草の鷲明神に詣で、夫(それ)より向島へ渡り大七にて仕度す。道中すべて柳亭種彦作田舎源氏をまねびて装飾し、土手通りを大川橋の方へ練り行く。舟は橋の辺へ待せ置きたるが、絹の幕を打ちたり。此辺往来繁き処なれば、見物夥しきに乗じ総踊りを演ず。此事官に聞へ、御咎(おとがめ)にて二十三日、北御番所にて手鎖になりたる者二十六人(内女九人)なり。」

    「増訂武江年表」より

 「田舎源氏」というのは、天保十三年までに刊行された、柳亭種彦による「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」のことで、「源氏物語」の舞台を室町時代に移植して翻案したもので、ベストセラーにはなったのだけれども「将軍家の大奥の内情を書いた」と中傷され、作者の柳亭種彦はこれを気に病んで自害したらしいのである。





 

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■ 2011-06-04(Sat)

 きのうから近視のメガネが見あたらなくなってしまって、まあこういうことは以前にもよくあったことなんだけれども、こんかいは可能性として、ゴミ袋に落ちてしまったメガネをそのまま捨ててしまったんじゃないかという気が、しないでもない。ここのところずっと、室内にいるかぎりはほとんどメガネも不要なので、外から帰ると外したメガネをそのあたりにポン、と放り出してしまう。そうするとその「ポン!」がどこなのか、あとでわからなくなることになる。たいていはキッチンのどこかなんだけれども、こんかいはどうも口を開いて置いてあったゴミ袋のすぐ上の棚にちょっとのせて、「きょうはゴミの日だから」と、あたりのゴミをまとめてゴミ袋につっこんでいたときに、真上のメガネがその置かれた場所の傾斜角度と引力の関係で、真下に開かれたゴミ袋のなかに落下したのではないかと思うのである。
 まあいまの状態では近くのものを見るときにはまったくメガネは不要なわけで、それでひんぱんにメガネをかけたり外したりしてしまうのだけれども、やはり乱視ということもあって、外を歩くときだとか、映画を観たりとか、そういうときにはメガネがひつようになる。もうひとつ度つきのサングラスはあるのだけれども、まさかこれでしごとには行けないのである。どちらにせよあまりにオールドファッションなメガネだったので、あたらしいメガネが欲しいとは思っていたわけで、あしたになっても見つからなければ(職場に置き忘れてきているという可能性も、まったくないというわけでもない)、ここであたらしく買うことを考えなければいけないだろう。

 そういうわけできょうはしごとは非番。あさから晴天で、気温はどんどん上がっているみたいである。報道をみているとわたしの脳内幻覚はいっそうはげしくなり、わたしの半分がもう半分のことを「ペテン師」呼ばわりしている。どうやら保守的になったわたしの脳は、もう腐りはじめているようである。そんなわたしにニェネントがまとわりついてくる。キミもあと二週間ちょっとで満一歳になるんだね。なにか盛大なお祝いをしてあげたい。

 「プードルの身代金」を読了し、「半七捕物帳」をちょっと読み、「ロマン的魂と夢」を読み進める。まだフォン・アルニムの章。じぶんの創造物におびやかされる作者、というのは興味深いという気がする。アルニムもちょっと読んでみたい。ヴィデオを一本観て、そのあとたくさん録画をしてきょうはおしまい。


 

[] 「プードルの身代金」パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳  「プードルの身代金」パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳を含むブックマーク

 ハイスミスとしては「妻を殺したかった男」タイプの作品で、主人公のドジさかげん、複数の登場人物の視点のからみ合い、警察の捜査の非人間性と、「妻を殺したかった男」と共通する要素は多い。
 あるインテリのブルジョワ夫妻の飼い犬が誘拐され、千ドルの身代金を要求する脅迫状が届く。夫妻は犬が戻ればと思って身代金を支払うけれど、犬が戻って来ないので警察に訴え出る(じつは犬は誘拐されてすぐに殺されている)。警察はそんな犬の誘拐事件などに興味を示していないのだけれども、その訴えをきいていた若い警官がその事件に(というか、その被害者に)興味をもち、独自に捜査しはじめる。若い警官はいがいとかんたんに犯人を見つけ出すけれど、犯人を置いてさきに被害者の夫妻のところに連絡に行くというバカみたいなドジをやって、犯人を逃がしてしまう。犯人は別の警官に逮捕されるのだけれども、その犯人は若い警官への腹いせもあって、「身代金の一部をその警官に渡して逃がしてもらったのだ」と主張する。犬を誘拐した犯人は精神病院に収容されるけれど、すぐに釈放同然の自由の身になってしまう。それで犯人は若い警官がガールフレンドと同居していることを知り、こんどはガールフレンド宛てにいやがらせの手紙を出す。警官のガールフレンドは当時の反体制気運の渦中のにんげんで(この小説の発表されたのは1972年)、警察というものを快く思ってはいなくて、この一件もあって彼との距離をとりはじめる。若い警官、窮地である。
 それでつまりは若い警官は犯人を追って、殴打してこれを殺してしまうわけだ。後半はその警察の殺人課に徹底的に追求される警官と、その心理の移動にスポットが置かれる。若い警官は、犬を誘拐された夫妻にもガールフレンドにも、自分が犯人を殴殺したことは告白する。

 ものすごくイヤな話で、ハイスミス節も絶好調。若い警官には同情したくはなるけれども、あまりにも彼は愚かである。そのなかで、孤独から逃れようとするその警官の心理があまりに哀しい。彼は犬を誘拐された夫妻、あるいはそういう階級に「あこがれ」に似た気もちをもっていて、ああいうひとたちと親しく交際できたらどんなにいいだろうというのが、その犬の誘拐犯を捜査しはじめた動機でもあるだろう。で、じつはその気もちは、犬を誘拐した犯人の抱いていた感情、「あの階級のヤツら」へのルサンチマンの裏返しで、ほんとうのところ差異はないのではないのか。都会のなかで孤独であったということで、その若い警官も犬を誘拐した犯人も同じスパイラルのなかに閉じ込められていて、警官の殺人はつまりは「近親憎悪」のなせる技だったわけだろう。
 若い警官のさいしょのドジが、あまりに非現実的なドジということもいえるけれども、彼にとって優先事項がどこにあったのかということでは、そういうことにもなるだろうということになる。それに、ハイスミスの作品ではもう、そういう「現実性」ということを考えてもしかたがないのである。ただ、歪んでいくこころの哀しさを読みとるべきなのであって、これもまたハイスミスらしいウィアードな佳作なのである。


  

[] 「クロムウェル」(1970) ケン・ヒューズ:監督  「クロムウェル」(1970) ケン・ヒューズ:監督を含むブックマーク

 世界史のなかでも、このイギリスの清教徒革命とかいうあたりはどうも苦手なところで、クロムウェルという男がどんなことを考えてどんなことをやったのか、ちゃんとわかっていたわけではない(残虐非道なことをやったという、アバウトな知識はある)。それでにわか勉強をしながらのヴィデオ鑑賞になった。監督のケン・ヒューズというひとのことも知らないのだけれども、「カジノ・ロワイヤル」の共同監督だとか、「チキ・チキ・バン・バン」などの監督をやられた方。この映画を観た限りでは、演出家としてかなり力のある人物だと思った。

 タイトル・ロールのクロムウェルを演じるのがリチャード・ハリスで、対するチャールズ一世をアレック・ギネスがやっている。ドラマはほとんどこのふたりの対決の歳月を描くかたちで、大河ドラマのように進行する。リチャード・ハリスの「剛」に対してアレック・ギネスの「柔」と、わかりやすい描き分けをやっているんだけれども、アレック・ギネスの演技もあって、チャールズ一世の方により人間らしさを感じざるを得ないところはある。このチャールズ一世の王妃の造型がちょっとばかし「マクベス夫人」で、脚本もぜんたいにシェイクスピアばりの史劇を目指していただろうことがうかがえる。圧巻は二度の戦闘シーンで、まずはかなり牧歌的な雰囲気の「エッジヒルの戦い」のパースペクティヴの効いた演出があり、そんな甘っちょろいのではダメだ、とばかりにハードにせまる「ネイズビーの戦い」の迫力はそうとうなもので、せんじつ観た「ヘンリー五世」での戦闘シーンなど軽く凌駕している。わたしは堪能した。
 ただ、ここでクロムウェルは圧倒的な理想主義者として描かれ、現実とのギャップのなかで苦悩しながらの選択を強いられるとするわけだけれども、ここでクロムウェルの演出のイメージとしての「剛」ということとのそしゃくがあんまりよろしくないというか、リチャード・ハリスはたしかに熱演でいいのだけれども、ちょっとばかしその演技、そして演出が一面的にすぎるというのか、どうもわかったようなわからないような、それでいいのか、というような気分にさせられてしまうことはたしかなのである。この演出でいけばファシストも英雄になってしまう。そういう感覚は抱いてしまうわけである。





 

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■ 2011-06-03(Fri)

 快晴ではないけれど、きょうは少し暑いくらいの日になって、きのうまで半袖で肌寒かったので長袖にしていたのが暑すぎ。

 居間を歩いているとニェネントがわたしのまえにまわりこんできて、そこでゴロリと横になっておなかをみせる。「ねえ、遊んでよ!」ということで、「そうかそうか、遊んでほしいのか」とニェネントの首を押さえこんで、鼻のあたまを指先でツンツンと軽くたたいてやる。乱暴なようだけれどもニェネントはこれがどうやら好きなようで、目を細めて、前あしをわたしの腕にまわしてかかえこむようにして、じっとしている。

 肉類のストックが少なくなってきたところで、ちょうどスーパーで肉の安売りをしていたので、鶏のムネ肉のブロックなどを買ってくる。ストックしておくにはまずはそのまま料理に使える大きさに肉をカットして、こわけにして冷凍するわけである。肉をカットしていると皮の部分がわかれて残ってしまい、むかしはこれを保存しないでその場で塩焼きにして自分のおやつにしていたのだけれども、いまはこれはニェネントのおやつなのである。ニェネントのトレイにのせてあげると、あっという間にペロリと食べてしまう。

 TVをみていると、「ひとつになろう、日本」などという、これはスローガンなのか、そういうことばをよく耳にして、ひとつになっても困るんだけれどもね、などと思ったりするわけだけれども、政局運営のトップの部分で、まさに「ひとつになれない日本」というのが、あらわになっている。「現首相では震災後の復旧、復興政策がまったく進展しない」ということで、J党など旧政権にあった党らが不信任決議案を提出することにして、それに政権にあるM党からも同調する動きが出てきたわけで、きのうになって現首相が「一定のめどがついた段階でやめる」と辞任を肯定し、いちおうの騒ぎはおさまった。しかしまずは現首相は「めどがつけられない」からこその不信任案提出だったはずで、「おまえにはできないだろうからやめろ」といわれたヤツが「では、やってからやめる」といい、それで「そうか、わかった」と納得するというのはどういうことなのか。つまり、ただやめさせたいということが先にあってのことだったということだろう。だいたいが、「おまえはやめろ」といいながらも、ではあいつがやめたあと、誰がどのようにあとを継いでやるのかということがまったくわからなくって、つまり、現首相がやめたらやめたでまた混乱が待っているだろうとしか考えられない。
 それで、じゃあ現首相が続投すべきだとも思えないところはたしかにあって、「現首相では震災後の復旧、復興政策がまったく進展しない」というのにも一理は(いや、もっと!)あるのではないか。悩ましいところではあるけれど、じっさい震災がなくってもこういう状態はもう何年も続いているわけで、中央集権というのはもう崩壊しているというか、世が世なら、これは革命騒ぎになってしかるべき事態であるけれど、つまりは健全な左翼というのが消滅してしまったツケ、でもあると思う。「健全な左翼」なんて変ないい方だし、そんなものが存在したことは一度もなかった、ともいえるけれど、自分のなかでの「左翼」というものへの思念が、この十年とか二十年とかのあいだに大きく変わってしまった。つまり、これは自分自身の変節へのツケなのだ、という気分にもなる。げんざいの政局のバカ騒ぎは、きっとわたしの脳内状態の反映でもあるのだろう。

 ヴィデオをひとつ観て、なぜかおなかが空いてしまって変な時間にカップ麺とかをつくって食べ、ベッドで本を読んでいたらそのまま寝てしまった。「あれ?」と目が覚めたら、夜なかの十一時をすぎていた。カップ麺など食べたので、からだが「もう夕食も終わった」と思って、夜なかモードになってしまったのだろう。変なじかんに中途半端にモノを食べてはいけない。


 

[] 「悲しみよこんにちは」(1957) オットー・プレミンジャー:監督  「悲しみよこんにちは」(1957) オットー・プレミンジャー:監督を含むブックマーク

 原作はフランソワーズ・サガンの有名なデビュー作で、それよりもやはりここはジーン・セバーグのデビュー作というか、「セシル(セシール)」だよ、ということになる。アメリカとイギリスとの合作映画らしいけれど、舞台はフランスで、映画のタイトルもフランス語そのままである。ミレーヌ・ドモンジョも出てるし、冒頭のライヴではジュリエット・グレコが歌うシーンもみられる。その冒頭のシーンなどは、つまり主人公が打ち沈んだこころをもつようになった現在で、これがモノクロ画像。そして回想される一年まえの出来ごとはカラーということになる。

 わたしは、フランソワーズ・サガンという存在にはちょっと偏見をもっていて、つまりあんなのはスノッブなブルジョワの世界のなかでちょっと気のきいたことを語ることができる、つまりはブルジョワのパーティーでは話題を独占するタイプのパーティー・ガールなんじゃないかという気分なのであった。って、やっぱりそういう感じの映画であった。
 だいたい、このオットー・プレミンジャーの演出スタイルは、いぜん観た彼の「月蒼くして」(1953) をまるっきし踏襲しているわけで、デヴィッド・ニーヴンは双方で同じような役で出演しているし、ジーン・セバーグにしても、「月蒼くして」のマギー・マクラマラのイメージをそのまま引きついでいるわけだ。つまりこの演出は、原作をまるでロマンティック・コメディとして料理して、付け足しのように短く「ちょっとした悲劇だったのよ」的なラストを用意しているだけみたいである。だから、モノクロ部分の「現在」の彼女の陰うつさも、たんじゅんにカラー部分の明るくてはつらつとした「セシル」の、もう一面をみせるだけぐらいの意味合いで、観客がそこで物語に感情移入できるようなものではない気がした。

 しかし、ジーン・セバーグがこの作品でどのくらい評判になったのかわからないけれど、この映画の彼女はたしかに魅力的で、「セシル・カット」ということばに比例した人気があったとして、それがゴダールのデビュー作に主演することになるといういきさつが、よくわからない。そのあとのまったくの低調ぶりも、これまたよくわからない。たしか何年かまえに彼女を題材にしたドキュメンタリー映画があったと思うけれど、ちょっと観てみたくなってしまった。




 

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■ 2011-06-02(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 あさ起きて、コーヒーなど飲んでいるとニェネントも起きてきて、わたしのわきにやってくると、わたしのひじあたりをペロペロなめてくれる。あさのあいさつでこれ以上うれしいあいさつはない。

 きょうも肌寒いくらいの気候で、雨も降っている。スーパーの地場野菜コーナーにこのごろグリーンピースがおいてあるので、いっちょグリーンピースごはんでもつくってみようかと、ひとふくろ買ってきた。食卓のうえでサヤをむいているとやっぱりニェネントが「なに? なに?」とやってきて、食卓のうえにあがって、サヤをむいているわたしの手もとにちょっかい出してくる。かわいいけれどじゃまである。
 サヤをむいてみると豆の量はものすごく少なくて、グリーンピースごはんのレシピに出ている豆の量の、これでは1/4とか1/5ぐらいの量しかないのではないのか。まあとにかくつくってみようとやってみた。ふつうのごはんとほとんど同じ味であった。ちょっとしょっぱいだけ。

 小さいころに母がよくグリーンピースごはんをつくってくれたのがおいしくて、まあわたしにとっての「おふくろの味」なのだけれども、その再現というわけにはいかなかったわけである。しかし、ちゃんとしたグリーンピースごはんをつくろうとすると、これはそれほど安上がりという献立にもならないのではないか、ということになる。裕福ではなかったわたしの家でよくグリーンピースごはんなんかつくってくれていたなあ、などと考えると、あれはきっと、わたしの家の庭で収穫したグリーンピースを使っていたんだろうと思いあたるわけで、そうすると、小さいころの家のまわりの情景などが思い出されてきたりもすることになる。
 九州でのわたしの家族の家は、廃業した木型工場に残された管理人棟のような住まいだった。あれはおそらく親の登記した正式な住まいではなく、きっと、不正入居というか、不法居住というようなものではなかっただろうかと想像するのだけれども、両親ともにいなくなってしまったいまでは確かめようもない。とにかくはその工場の跡地の、かなり広々とした土地を家族で自由に使っていたわけで、いちばんにはそこはわたしの遊び場として役立ってくれたわけだけれども、どうじにそこに母があれこれの野菜を家庭菜園的にそだてて、収穫していたわけである。そのなかにグリーンピースがあったことは、なんとなく記憶している。たしかムラサキ色の、スイートピーのような花が咲いていたような記憶もあるのだけれども、これはあまりたしかな記憶ではない。

 きょうはちょっと本を読んだだけで、ヴィデオも観ないで終わってしまった。まだ気分がクサクサしてるのかもしれない。





 

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■ 2011-06-01(Wed)

 きょうから六月である。しかし気温はそんなに高くなく、半袖では涼しすぎる。
 すこし部屋がかたづいて、ニェネントがリヴィングをかけまわっている。ダーッとかけてきて、パッとストップしてわたしの方をみて、サッとユーターンして、またダーッとかけていく。楽しそうである。いっぱい運動して、いつも元気なネコでいてほしい。
 わたしはしごとであまり気分のよくないことがあって、あまり元気ではない。もういちにち部屋でじっとしていたい気分だったけれど、図書館の本を返さなければいけないのを思い出して、図書館まで出かける。図書館に足を踏み入れてしまうとまたなにか借りたくなってしまうのが活字中毒者の悪いクセで、なにかないかと棚をみてまわる。こんかいの三島賞の受賞作を読もうかと思ったけれど、作家の名まえをおぼえていたりしないのだった(あとで調べて、今村夏子というひとの「こちらあみ子」という作品だとわかる)。「レンブラントの目」という本がおもしろそうなんだけれども、二段組みで七百ページを超える大著だから、これを借りるとまたほかの本を読まなくなってしまう。せめて、いま読んでいる「ロマン的魂と夢」を読み終えてからにしたい。それで、「半七捕物帳」でまだ読んでいない巻が一巻残っていたのを思い出し、こういう気分のクサクサした日には「半七」がいいや、と、これを借りてきた。あと、読まないかもしれないけれど「日本仏教史」などという本も。

 帰宅してからベッドに横になって、読みさしの「プードルの身代金」を読む。じつは、わたしはこの「プードルの身代金」を二種類の訳書でもっている。一冊はむかしからもっていた講談社文庫のもので、もう一冊は何年かまえに古本チェーン店で105円で買った扶桑社文庫のもの。扶桑社文庫のを買ったのは、そのあとがきが滝本誠氏によるものだったためで、それだけを読むためでもいいや、という気もちだったわけである。それで、先日から読みはじめたわけだけれども、扶桑社文庫のほうで読んでいたのだけれどもどうもしっくりこなくって、講談社のほうも出してきて、同じところを読み比べたりしてみる。そうするとどうも扶桑社のほうの訳文にはおそらくは誤訳だろうというような部分もあるし、センテンスをそっくり省略しているらしいところもある。それではやはり講談社のほうで読もうかとこちらで読み進めると、こんどは講談社のものは訳文がかたいというか、扶桑社の翻訳のほうが日本語としてすっきりしているように思えるのである。しかし、ときどき変である。一長一短とはこのことで、英語力というのは講談社の訳のひとのほうが上なのかもしれないけれど、訳文を読みやすい日本語にするという点では、扶桑社の訳のほうがまさっているという気がする。けっきょく、扶桑社のほうで読み進め、「変だな」と思ったら講談社のほうを開いてみることにした。

 夕食はお好み焼きをつくり、きょうはヴィデオは観ないで、あとは「半七捕物帳」をひとつ読んでおしまい。なんとなく低調な気分のいちにちである。


 

[] 「半七捕物帳 巻の六」(1)岡本綺堂:著  「半七捕物帳 巻の六」(1)岡本綺堂:著を含むブックマーク

●「歩兵の髪切り」
 いま書店で手に入る「半七捕物帳」というのは、たぶん光文社文庫のものだけだろうけれど(筑摩文庫で「選集」はさいきん刊行されているか)、この図書館の本は、筑摩書房の大型本。「半七捕物帳」を読むならば、ぜったいに文庫よりもこっちのほうがいい。まずはさし絵がついてるのである。さし絵などいらないという向きがおられても、この本にはふたつの注釈がついていて、ひとつは語句的な注釈、そして江戸の地名や当時の事件についてのくわしい注釈もべつについている。それぞれの作品の末尾には、その作品での舞台になったあたりの東京の現在の地図と、それにかさねて当時のスポットや地名が書かれているわけである。これがうれしい。
 つまり、「半七捕物帳」という作品、じつは推理小説風な謎解きという要素はもちろんあるけれども、それいじょうに、岡本綺堂による精確で精密な時代考証にささえられた、幕末の江戸の街並、ひとびとの暮らし向きなどの描写をこそたのしめる本というわけなのである。ほんとうは江戸時代の切絵などを手もとに置きながら読み進めていくと楽しいだろうけれど、そこは各作品末の地図が役に立ってくれる。

「半七捕物帳」というのはどれも、書き手である新聞記者が明治中期に出会った元岡っ引きの半七老人からむかしの話を聞く、という構成になっていて、つまりこの時代的にもエクリチュールとしてもワンクッションおいたあたりにミソがあるわけで、たんじゅんに半七のむかしの捕り物ばなしだけを書いているわけではないのである。たいていは町なかのどこかで書き手が半七老人に偶然出会い、いっしょに食事したり一献かたむけたりするときに、半七老人が語るはなしを書き手がまとめたもの、という体裁なわけで、これがいつも一回の会食とかでははなしが終わらず、書き手があらためて半七老人宅などをおとずれて、そのはなしの続きをきくことになる。そういうふうに、作品のなかに「このときのはなしはここまでだった」とか、「そのつづきをききたくて、ある日半七老人宅へ行ってみたのだった」などということもぜんぶ書かれている。だから半七老人の語るときの時制はすでに明治も中期になっているわけで、そこに「江戸をなつかしむ」という気配が濃厚になる。岡本綺堂本人を思わせる書き手は江戸時代を知らず、そのまさにじぶんがいる東京の町の、自分の知らない時代のことをきく、ということがこの連作のおおきなポイントなのだと思う。

 きょう読んだ「歩兵の髪切り」はもう幕末の慶応元年に起こった出来ごとということで、この「半七捕物帳」全作のなかでも、描かれた時代はもっとも明治に近いもののひとつというわけで、語られる話にもそういう幕末の空気が濃厚である。幕府の徴用した歩兵隊というのがこの話のメインになっていて、これは関東諸国の農民の次男三男を集めて教練した組織なのだけれども、なかにはたちの悪いのもまじっていて、まあ犯罪に手を染めるものもいるわけだ、というおはなし。これはめずらしくも未解決事件で、まあだいたいの事件のあらましはわかっていて、おそらくは犯行に加わっていたであろうものも、のたれ死にのような死にかたをしているけれど、主犯格の男と、それを手引きした小料理屋の女中とは、駆け落ちしてゆくえをくらませてしまっている。まあ半七もどんな事件でもすべて解決したんだというのでなく、こういう未解決のものもまぎらせることで、「ほんとらしさ」を保っているわけだろう。




 

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