ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2011-09-30(Fri)

 きょうで九月もおしまい。この月はAさんと下北沢で「鉄割アルバトロスケット」を観て、そのあとにお客さんで来ていたあれこれのひとたちと遅くまで飲み、東京に宿泊してしまったあたりからはじまったのだけれども、そのおしまいの日もまたAさんと観劇の予定で、その舞台は「鉄割」を観たときにごいっしょしたBさんの主演、Cさんの演出というわけで、九月はこれで一巡して、その円環を閉じるという感じである。きょうもまた、東京で夜を明かすつもり。

 ニェネントにたくさん食べるものを出しておいてあげ、ししゃもを焼いてあげる。ししゃもを出すというのは「わたしは今夜は帰らないからね」というサインのつもりなのだけれども、わかってくれてるのかしらん。

 きょうの公演場所は森下にあるセゾンの森下スタジオ。ふつうにソワレ公演というか夜のじかんで、そのまえに特に予定も立てないでいるので、ちょっとゆっくりめに家を出る。朝晩はようやく秋っぽくなってきたとはいっても、午後のひざしは強くって暑い。今夜から気温が下がるという予報だったので、バッグのなかに上にはおるシャツを入れていく。こういうときに風邪とかひきやすいから、気をつけなくっちゃ。

 三時に森下駅でAさんと合流し、森下スタジオというのも久しぶりなので、場所を確認するつもりでまずはその森下スタジオへ行ってみる。この森下駅周辺というのがどうもわたしはわからないというか、目印になるような建物もなく、森下の交差点に立ってみてもいつも、どちらの方角がどちらになるのかわからなくなってしまう。それに、ちょっと路地裏にはいるとどこもかしこも同じような景色になってしまう。あんのじょう、森下スタジオに向かっているつもりが、まったく逆の方角に向かって歩いていた。とちゅうで「どうもおかしい」という感じになってきて、公演のチラシの地図でたしかめると、とんでもない道を歩いていたわけである。
 なんとか森下スタジオにたどりつくと、もちろんまだ公演には何時間もじかんがあるのだけれども、そのロビーというか入り口のなかに、ちょうどBさんが立っていた。あいさつをする。「あらあらぁ」、という感じである。Bさんもちょうど着いたところだったらしい。「お酒も飲めるそば屋があるので、うちあげをそこでやるから行きましょう」といわれ、「そのそば屋って、きっと以前ときどきわたしがひとりで行っていたことのあるそば屋じゃないのかな」などと思う。

 Bさんとひとまずお別れして、まだまだじかんはある。久々に森下探索。まあこのごろはときどき居酒屋の「Y」とかにわざわざ飲みに来たりするけれど、あまりこのあたりを歩き回るじかんは持たなくなってしまった。いぜんその森下スタジオでもっとひんぱんに公演とかがあったころには、あれこれとあたりをひとりで歩いたものだった。好きな町である。谷中とかのような坂道があるわけではなく、さっき書いたように目印になるようなスポットがあるわけでもないのだけれども、谷中のように観光化されていない下町情緒みたいなものは、このあたりがいちばんだと思う。Aさんはじつはこの森下からそれほど離れていないところに住われているのだけれども、もちろんわざわざ森下に出てきて歩き回られているわけでもないので、「森下は楽しいんだよ」と案内する。大通りからちょっと横道に入ったところで「氷」のしるしがはためいていて、かき氷屋が営業していたりする。もちろん客席は道路に出された木の椅子だけである。終戦直後からまったく改装せずに営業をつづけているような小さな飲み屋、小料理屋が軒を連ね、そろそろ店を開ける準備をはじめている。どこもカウンター席が七、八席あるだけのような小さな店である。「いちげんさん」では入ることも出来なそうな。Aさんもそんなこの町の風情に興味津々である。その道をもうちょっと先まで歩くと、その「酒も飲める」そば屋のまえに着く。「サワー175円」と書かれた看板が出ている。むかしこの店でひとりで飲みながら、谷亮子の結婚式のTV中継をみていたことなんかを思い出したりした。ありゃあいつごろのことだったのか。

 とにかくじかんもたっぷりあるので、お茶でも飲みましょうということで、森下の交差点の方に引き返す。昭和な匂いのする喫茶店があったけれど、残念なことに店は開いていなかった。また交差点にもどり、別の方角に歩くと、「カフェテラスなんとか」という店があったので入る。店の感じは明るいのだけれども、ボックス席が並んでいて、なんだか地方都市の駅前にありそうな喫茶店という雰囲気。とてもここが東京とは思えない。しかもこの喫茶店、ドリンクのメニューが異様に安いのである。森下はおもしろい。
 喫茶店であれこれと話題はつきないのだけれども、まあ公演まえにちょっと腹ごしらえしておこうということで、けっきょくまた店が開いたばかりの「Y」へ行き、おなじみの煮込みとガーリックトーストを食べ、けっきょくそれなりに、三合ほどは飲んでしまうわたしではあった。開演時間が近づいて森下スタジオへ。開演まえにしこたま決めこんでからというのもあまりやらないことだけれども、きょうは体調がいいのか、アルコールの影響はほとんど感じない。

 会場はその森下スタジオの、以前は更地だったばしょに新しく建てられたスペースで、ロビーというかその上演される部屋の外には食堂のようなテーブルがいくつも並べられていて、ここでもちょっとした宴会が開けそうである。

 さて、なかなかに楽しくも興味深かった舞台も終わり(感想は下に)、そのロビースペースでちょっとパーティーじみた展開。そのあとにスタッフの方々、観客の方々と、うちあげの会場へ行く、って、予想通りにあのそば屋であった。やっぱりそうだったか、なんかわたしは森下情報それなりに持ってるのかもね、などと思ってしまう。ほかにも飲み屋何軒か知ってるし、森下のことならわたしに聴いて下さい、という感じになってしまう。
 タクシーの座席から道路に放り出された体験などというような、いろいろな初対面の方々の貴重なお話などを聴いていると、あっという間にじかんも過ぎてしまう。さいしょわたしのとなりにいらっしゃったお方の顔が、どこか見覚えがあるのだけれども、などと気に懸かっていたら、帰り際にその方がミュージシャンのIさんだったことがわかり、まあちょくせつにお話ししたことはないとはいえど、むかしのわたしのイヴェントにも出演していただいたこともある方でもあったし、恐縮してしまった。

 みなさんとお別れしてほとんど終電の大江戸線に乗り、新宿に出て最近の定宿のカプセルホテルに行く。とちゅう歌舞伎町界隈を通過しなければならないのだけれど、そこでみょうなアフリカ系の呼び込みに声をかけられ、英語で答えたらしばらくつきまとわれてしまった。へんにマジメな男で、わたしがちょっとジョークで切り返したらついてこれなくなって、そのままどこかへ行ってしまった。気のきいた返答を期待してたのに。


 

[] ARICA プレゼンツ トライアル「LOVE GAME LOVE」藤田康城:演出・構成 倉石信乃:テクスト 安藤朋子:出演 装置・オペレーション:高橋永二郎 猿山修・高橋永二郎・茂木夏子:音楽・演奏 @森下スタジオ Sスタジオ  ARICA プレゼンツ トライアル「LOVE GAME LOVE」藤田康城:演出・構成 倉石信乃:テクスト 安藤朋子:出演 装置・オペレーション:高橋永二郎 猿山修・高橋永二郎・茂木夏子:音楽・演奏 @森下スタジオ Sスタジオを含むブックマーク

 しばらくぶりの森下スタジオにはあたらしくSスタジオというのが増築されていて、そのあたらしい場所での公演。開演された会場に入ってみると、しかしスタジオとはいってもほとんど会議室のような風情ではある。その中央にほとんど部屋いっぱいになるような長いシーソーが設置されていて、観客席はシーソーの両側に並べられている。きょうの舞台の主題は「お夏清十郎」ということだし、ああ、これはシーソーの上の空間が歌舞伎の花道に見立てられるわけだろうか、などと思ったりしてみる。
 そのシーソーはモーター仕掛けになっていて、そのあたりのメカニックな感じがARICA の舞台らしいのだけれども、部屋全体が暗転して開演になると、まっくらやみのなかでそのシーソーのメカニックな音が、これはモーターが起動される音なのかどうかわからないけれども、「キリキリッ」という音が会場にひびく。これがいい。くらやみと機械のきしむ音。これはたんなるわたしの性癖なのだろうけれど、わたしにとって「ホラー」というものが成立するためには、この「くらやみ」と「キリキリッ」という音さえあればじゅうぶんである。たとえば、まよなかにPeter Gabriel のサードをCDプレイヤーにセットして明かりを消し、その一曲目、つまり「Intruder」のイントロが聴こえてくれば、それだけでわたしはこわがる。つまりそのセッティングがそっくりそのまま、この夜の舞台に持ちこまれたわけで、まあわたしはこの導入部だけで堪能しましたね。

 舞台はいつまでも暗転のままであるわけもなく、やがて照明がともされたりもする。やはりシーソーの上が細長い舞台として機能して、その「舞台」のうえで、安藤朋子さんが「舞台に立つ女優」の化身として、その「舞台」ということにあらわれるいろいろなジャンルを演じてみせてくれる印象。新宿歌舞伎町の地下室で行われた前作公演でも、シェイクスピアっぽいところをふくめての女優ぶりをたのしませていただいたわけだったけれども、容れ物じたいがそっくり「装置」であったような前回にくらべ、今回は装置じたいが「舞台」を規定し、空間が限定されるという感覚が、よりいっそう「演じる」ということをこそ際立たせるように思えた。歌舞伎はもとより、いっしゅん、「ブラック・スワン」のナタリー・ポートマンをやるのか? と思わせられる場面もあったし、これはわたしはその方面に暗いのでわからなかったのだけれども、観客席にはり出した舞台というのはストリップの舞台でもあったそうな。

 ARICA の公演というのはいつも、そういうメカニックな装置と安藤さんとの共演という側面が強いのだけれども、しばらくはその装置が脇役的な位置に甘んじてきたあと、久々にそういう装置が安藤さんと対等な共演者として出現してきた感じである。演出の藤田さんが終演後のあいさつで、この作品はこのあともどんどん発展して行くものだと語られていた(トライアル公演と銘打たれていたのであった)。この装置との共演ならばほんとうにいろいろなことが出来そう。わたしにはものすごく刺戟的な楽しい舞台ではあったし、この設定でもっともっと、いくらでも場所を変えて発展するのであれば、わたしもその行き先をずっと観続けてみたいものだと思った。



 

[]二○一一年九月のおさらい 二○一一年九月のおさらいを含むブックマーク

舞台;
●9/1 (木)「鉄割あっ!」鉄割アルバトロスケット 戌井昭人:作 牛嶋みさを :演出 @下北沢 ザ・スズナリ
●9/19(月)大橋可也&ダンサーズ|新作公演「OUTFLOWS」大橋可也:振付 @駒場東大前・こまばアゴラ劇場
●9/30(金)ARICA プレゼンツ トライアル「LOVE GAME LOVE」藤田康城:演出・構成 倉石信乃:テクスト 安藤朋子:出演 装置・オペレーション:高橋永二郎 猿山修・高橋永二郎・茂木夏子:音楽・演奏 @森下スタジオ Sスタジオ

映画:
●「ツリー・オブ・ライフ」テレンス・マリック:監督
●「アレクサンドリア」アレハンドロ・アメナーバル:監督
●「ラスト・ターゲット」アントン・コービン:監督

展覧会:
●真珠子個展「花びらうらない」@銀座 ヴァニラ画廊

読書:
●「赤の他人の瓜二つ」磯崎憲一郎:著
●「リトル・ピープルの時代」宇野常寛:著
●「和子の部屋 小説家のための人生相談」阿部和重:著
●「こちらあみ子」今村夏子:著
●「半七捕物帳 巻の五」岡本綺堂:著

DVD/ヴィデオ:
●「我が家の楽園」(1938) フランク・キャプラ:監督
●「十戒」(1956) セシル・B・デミル:監督
●「めまい」(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「ガンヒルの決斗」(1959) ジョン・スタージェス:監督
●「昼下りの決斗」(1962) サム・ペキンパー:監督
●「アウトロー」(1976) クリント・イーストウッド:監督
●「アンソニーのハッピー・モーテル」(1996) ウェス・アンダーソン:監督
●「運命を分けたザイル」(2003) ケヴィン・マクドナルド:監督
●「3時10分、決断のとき」 (2007) ジェームズ・マンゴールド:監督
●「コップ・アウト 〜刑事(デカ)した奴ら〜」(2010) ケヴィン・スミス:監督
●「キック・アス」(2010) マシュー・ヴォーン:監督
●「我が家は楽し」 (1951) 中村登:監督
●「暁の非常線」(1957) 小森白:監督
●「人喰海女」(1958) 小野田嘉幹:監督
●「猛吹雪の死闘」(1959) 石井輝男:監督
●「裸の島」(1960) 新藤兼人:監督
●「もず」 (1961) 渋谷実:監督
●「野獣の青春」 (1963) 鈴木清順:監督
●「肉体の門」 (1964) 鈴木清順:監督
●「刺青一代」(1965) 鈴木清順:監督
●「女賭博師」(1967) 弓削太郎:監督
●「女賭場荒し」(1967) 弓削太郎:監督
●「日本残侠伝」(1969) マキノ雅弘:監督
●「あらかじめ失われた恋人たちよ」 (1971) 清水邦夫/田原総一朗:脚本・監督




 

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■ 2011-09-29(Thu)

 きのうきょうと、なんだかしごとを楽しんでやってしまった。もういまのしごとを始めて十ヶ月、いいかげん同じ職場のひとたちとも(意外なことに)なじんでしまったし、きのうは職場のひとをからかって遊んだりしてしまった。だいたいのひととはうまくやっているし、とにかくはわたし、嫌われてはいないようである。

 帰宅してニェネントをかまうと、なんだかニェネントのようすがおかしい。ありゃりゃ、また発情期ではないですか。ちょっとひんぱんすぎるんじゃないですか。ふだん抱えている不満がたまりにたまって、こういうことになるんでしょうかね。わたしにおしりを向けてすわりこみ、わたしを振り返って悩ましい目で見上げてくる。ないて要求してくる。こまりましたね。しょうがないからまた、腰のあたりをポンポンたたいてあげます。これがキリがない。手をとめるとまた振り向いて「にゃあお」とないて、つまり「もっと続けて」って意味である。お猫さまのご希望でありますから、これをむげにすることはできません。疲れます。

 続けてTVの国会中継をみるけれども、きょうの質問は同じ与党の連中で、ちっとも面白くはない。とちゅうでことばにつまってしまうような、壇上に立つことさえおぼつかないような質問者に、こちらがみていてハラハラするあたりが見どころだっただろうか。質問者が何をいっていたのか、どのような答弁だったのか、まるで記憶に残らない。

 きょうは木曜日で、西のスーパーが全商品10パーセント割引の日。午後から出かけて、ニュージーランド産のタマネギが十個ぎっしりと袋に詰められてこれが百円、つまり割り引かれると九十円なのを買う。タマネギ、在庫はあるんだけれども、この安値には勝てない。これからはタマネギを使った料理を徹底しよう。

 帰宅して、ニェネントのお相手に疲れてしまったというか、ヴィデオなどを見はじめてもいつのまにかウトウトしてしまう。ムリして起きていようという気分でもなく、本を読みながらそのまま寝てしまった。

 

[] 「カフカ全集 1」(1)フランツ・カフカ:著 川村二郎・円子修平:訳  「カフカ全集 1」(1)フランツ・カフカ:著 川村二郎・円子修平:訳を含むブックマーク

 いちおう読み始めようと借りて来たものだけれども、返却期限までにちゃんと読み切れるかどうかわからない。まだ読みはじめたばかり。

 この新潮社版の全集は「決定版」と銘打たれているけれども、このあとに池内紀さんの訳による「カフカ小説全集」が出ているわけで、まあ小説に関してはもう「決定版」とはいえないかな、などとは思う。第一巻は「変身、流刑地にて」とのサブタイトルで、カフカの生前に活字化されたことのある全作品がおさめられている。きょうはその冒頭の「物語『ある戦いの記録』からの二つの対話」と、「観察」からのいくつかを読んだ。その「物語『ある戦いの記録』からの二つの対話」の、「酔っぱらいとの対話」が面白かったので、ちょっと書いておく。

 話者は広場の噴水の近くでひとりの酔っぱらいに出会い、「あなたはきっとパリからいらっしたのでしょう」と、奇怪な質問を延々と酔っぱらいにぶつける。

「煌びやかな服装のあなた、あなたにお訊ねしますが、ぼくが聞いたことはほんとうなのでしょうか。パリには刺繍した衣裳だけでできている人間がいて、表玄関しかない邸宅があるそうですね、それから夏には空が抜けるように青く、貼りつけられた白い雲がそれを飾っているのですが、その雲はみな心臓の形をしているというのはほんとうでしょうか? それからまた、見物人でごったがえしている臘人形館があって、そこには有名な英雄や犯罪者や恋人の名を書いた小さな札が懸っている木が立っているだけなのだそうですね。」

「パリでは思いがけないところで道が分れるのでしょう、物騒なんですってね? かならずしも秩序整然といかないのは、まあ当然です! 事故が起きたりすると、あちこちの横町から、舗道にあまり触れない大都会特有の足取りでひとびとが集ってきます、みんなは好奇心でいっぱいなのですが、幻滅することになりはしないかと恐れてもいます、そしてはあはあ息を切らしながら、小さな顔を突き出すのです。それでもたがいの身体が触れたりすると、慇懃にお辞儀をして、詫び合うのです、(以下略)

 ‥‥カフカの、その「作品」の根底にある何かが、ここにあらわになっているような。カフカの「作品」というものが、いったいどこで成立しているのか、それを外に出すということがどういうことなのか、うまくいえないけれども、ここに読み取れる気がする。やはりカフカは、この世界で「例外的な」存在、という感じ?




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■ 2011-09-28(Wed)

 きょうもしごとから帰宅して、国会中継をみる。きょう楽しかったのは、議長が「ヤジがうるせえ。ヤジ飛ばすんならもっとおもしれえヤジを飛ばしやがれ!(わたしの意訳)」と一喝したあたりで、ホントだよ、国会は劇場なんだから、気合いを入れてパフォーマンスしろよな、ということはわたしも思うのであった。まあこのあたり、(そういうヤジを飛ばしてる)前政権にあった野党の情けなさはあると思う。センスないんだなあ。現政権党も同じようなものだけれども、きょうの議長の一喝は、ベタではあるが「そういうことだ」と同意する。ちなみに、この議長の声は、すこぶる劇場的でよろしい(と思う)。

 いつのまにか秋たけなわである。「たけなわ」って、何のこっちゃいって、わからないのだけれども、クリシェ言として「秋たけなわ」。なんか、九月もどうということもなく過ぎて行くことよなあ、などと感慨にふける。観たい舞台とかもあれこれあるのだけれども、もうなんだか最近のあたらしい劇団の舞台なんか、どれも(「ぜったいに」×「100〜無限大」)ぐらい面白くなさそうである。やっぱそんなのよりはもう、手慣れた演出を展開する古参劇団だけ観ていりゃあいいような気になってしまう。老化現象の第一歩である。そういうことでらいしゅうは、かつての伝説のユニット、「Self23」の久々の舞台を観に行くことにして、チケットをゲットした。もしもぜんぜんダメダメな舞台だったとしても、それが「Self23」の舞台ならばそれでかまわない。そういうふうに思って観に行ける舞台がいい、と思う。来月行く予定の舞台は、その「Self23」、それから「維新派」、天野天街演出の「赤色エレジー」と、どことなく「いま」からずれた舞台ばかりである(と書くと、なんとも維新派に悪い気がするけれども)。せんげつとか観たのも、鉄割とか少年王者舘とかだし、「いま」くない(だろう)。しかし、じゃあ「いま」な舞台なんてどこにあるんだと、教えてもらいたい。ふん。映画とかだって美術とかだって、音楽とかだってそうだけれどもね(わたしの意見では、文学は、がんばっていると思う。ちゃんと「いま」は、あると思う)。

 

[] 「人喰海女」(1958) 小野田嘉幹:監督  「人喰海女」(1958) 小野田嘉幹:監督を含むブックマーク

 新東宝作品の特集上映の三本目。タイトルのインパクトでなかなかこれを凌駕するものもないだろうけれども、これはむかしの見世物小屋の「大イタチ」とか「大ザル」の看板にだまされて、ついつい木戸銭を払って見てしまったというような感覚はある。わたしだって、海女さんが男のモモ肉とかを火にあぶって、かぶりついているようなイメージをもっていたもん。‥‥、そういう映画ではありませんでした。

 監督の小野田嘉幹さんの作品、まえに「女巌窟王」を観させていただいて、これはホントに楽しい作品だったのだけれども、うーん、コレはどうも、ちょっとねぇ、という感じではある。つまり、純情なフリをしてじつはまったくの悪女というヒロインをめぐる映画なんだけれども、そのヒロインの純情側にも悪女側にも振り切れない演出で、そういう女性の哀れさというものを描いているふうでもないし(ほんとはベクトルとしてはこっちの方を向けたかったんだろうけれども、なにかひとつ、それとも無数に足りない気がする)、悪女っぷりを見せつけるものでもない(こっちの方に徹していたら、「タイトルにだまされた」ということでもなかったろうに)。背後で漁場の独占をはかる男(これが若き日の丹波哲朗なんだけど、この人はむかしっからまったく変わらないんだね、ということで、やっぱりすごい俳優だと再認識した)の側での陰謀が動くわけでもなく、殿山泰司演じる刑事の執念をみせるわけでもない(ちょっとだけ、みせるけど)。ましてやその「悪女」(これはもちろん三原葉子)を愛している男(宇津井健)のドラマでもなく、悪女の妹(三ツ矢歌子)と新聞記者とのラブストーリーも、背後でドラマを動かすエンジンたりえない。

 いったいなんで、「女巌窟王」であんなに楽しい映像をつくり出した監督が、どうしてこういう中心の定まらない作品をつくってしまったんだろうと、ちょっとばかし悲しくなってしまった。きっと、脚本のなかに、さきに書いたようなあれこれのポイントが詰め込まれすぎていたのだろう。たとえばきのう観た「暁の非常線」のように、ある意味でドラマなんかぜんぶ捨ててしまうような演出をすれば、とにもかくにも、何かが救われたのではないかと思う。そういう意味では、海女の泳ぐ水中撮影シーンとかに、演出の全力をはたいてしまったのでしょうかね。ああ、救われなかった。ただ、日本の海岸の鬱陶しさというか、泥っぽさみたいなものはよく感じられた気がする、って、これじゃあほめ言葉にならないか。

 若き日の宇津井健、このキャラ、この体型、この走り方(いや、これはダメかな。だって笑っちゃうんだもん。ごめんなさい)なら、実写版の「巨人の星」の星飛雄馬役にピッタリだなあ、などと思って観ていた。



 

[] 「運命を分けたザイル」(2003) ケヴィン・マクドナルド:監督  「運命を分けたザイル」(2003) ケヴィン・マクドナルド:監督を含むブックマーク

 かなりヒットしたらしい映画の、そのタイトルぐらいは記憶にあったので録画しておいて観たのだけれども、こういう、再現ドキュメントみたいな作品だったというのはまったく知らなかった。じっさいの当事者三人(実話がベースなのである。ひとりはまあ「お留守番」役だったので、実質は登山したふたり)のコメンタリーに映像をかぶせたという体裁で、これはオーディオ・コメンタリーの真逆というか、当事者の語ることがらに即した映像を付加した作品、というようなもの。

 ただ、まずはじっさいにこのふたりの登山体験をもういちどやってみました、というような撮影クルーの努力の成果がすごい。たんにものすごく苛酷な登山をもういとどやりました、というのではなく、それを撮影しちゃいました、という迫力はある。もちろん全部ホントにもう一度やっているわけはないのだけれども、観ている側にそう思わせてしまう力が、この映像にはある。

 ただ、基本的にすべてのことがらは当事者がコメンタリーとして語っているので、これを「ドラマ」として観ることは、ほとんど不可能である。いわゆる「余韻を感じる」、「余白を読む」というような、一般にフィクショナルな作劇で観客に求められるような観客の側の働きは無効とされる。ただ、「当事者が体験したであろう同じような情景」をこそ、スクリーンから受け取る。そこで生み出される「臨場感」こそがもんだいなんだろう。一種の「追体験」映画なのか。

 それでも、いくつかの興味深い映画的な事象には、観客として出会うことになる。まずは、絶望的な状況に追いこまれた男(ジョー)の内面描写というのか、コメンタリーにはまったく語られることのない、モノクロの、心象風景的な映像がはさみ込まれることでの効果。ここでこそ、この作品が「映画」として動いているようには思えてしまう。‥‥では、「映画」とは何なのか。
 もうひとつ、たびたび写し出される当事者本人の、正面からとらえられた映像、そこで、ザイルを断ち切ってしまったサイモンという人の語り口と、取り残されてもなお、奇跡的に生き長らえたジョーとの語り口の、その差異が如実に露出した映像の力。ここにこそ、感銘を受けざるを得ない。

 ジョーが極限状態で頭のなかでひゃっぺん返しに聴こえてきたのが、ボニーMのディスコ・ミュージックだったという。彼はボニーMなんか好きでもなかったのに、頭のなかで鳴りつづけるその音楽を止めることが出来なかったと。これはすっごいわかる。たとえばキューブリックの「フルメタル・ジャケット」の戦闘シーンで流されるTrashmen の「Surfin' Bird」のような。もはやそれいじょうの思考がストップするときに、脳内でこういうことが起きるというのは、たとえばマラソンをやっていて「もうダメ」というときにも起きることである。そういうとき、わたしだったらどんな曲が脳内で無限リピートされるのだろう。Sam The Sham & Pharaohs の「Wooly Buddy」とかかなあ。でもやっぱり、「Surfin' Bird」は、無敵な気がする。




 

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■ 2011-09-27(Tue)

 しごとを終えて帰宅して、TVをつけると国会中継をやっていたのでしばらくこれをみる。なんだかなぁー、という感じ。質問側はすべて前政権党というわけで、きょうの質問は政権党に対して「もっと保守に徹しろよ」というような質問ばかり、というあたりに集約できそうな。まあそういわれてしまうあたりが今の内閣だというのは、そういうことだろうと思う。中途半端ということか。基地問題に関してしつっこく質問攻めされた法務大臣が、答弁で逆ギレして感情的になってしまったシーンは見どころだった。けっきょく、「(党の方針に)賛成していないが、閣議で決まったことにはしたがう」という答弁に。このひとは面白い(顔も)。

 ニェネントはいよいよもって「わたしにかまってちゃん」状態というか、わたしにまとわりつくような感じである。わたしがちょっと動くとすぐについてきて、いっしょに遊ぼうとする。かわいいけれども、いささかなりともうるさい。午後からはベッドのわきの衣装ダンスの上でずっと寝てしまい、部屋のなかは静かになった。夕食は、きのうつくった肉じゃがの残りですませる。

 

[] 「猛吹雪の死闘」(1959) 石井輝男:監督  「猛吹雪の死闘」(1959) 石井輝男:監督を含むブックマーク

 お楽しみ、新東宝作品の連続上映を録画しておいたものを、きょうになって観た。まずはあの石井輝男監督の初期の作品。脚本も石井輝男で、主演は宇津井健。当時の新東宝のスター、三原葉子も出演し、若き日の菅原文太が悪役で出演している。

 ‥‥って、これって、三船敏郎のデビュー作、1947年の「銀嶺の果て」(谷口千吉監督、脚本に黒澤明も協力)のかんぜんなパクリ、じゃあないですか。ほんとうに何もかもおんなじ(まあそりゃあ多少は変えてあるけれども)。ただ、メインは男ばっかりだった「銀嶺の果て」に対してのお色気対策で、ムリに三原葉子の出番をぶちこんだというわけだけれども、このあたりがほんとうにてきとうな感じで、強盗団が語る「逃走するのに女性連れの方が目立たない」というほどの必然性も、これがない感じである。強盗団の内部での仲間割れも、すぎてしまえばみな忘れられてしまうようで、「こいつに銃を持たせちゃヤバいだろうに」というヤツ(まあこれが菅原文太だけれども)も、仲間割れで負けたあとでも銃を持っていたりする。ほんとうにキビしい雪山で撮影されたという「銀嶺の果て」に対抗してか、垂直に切り立つ岸壁を登るシーンがちょっとした見せどころになってるけれど、引いた絵がないから、緊迫感はかなり失せる。まあそこまで危険な撮影をしているわけもないだろうということで、一団が猛吹雪でビバークして、吹雪もおさまって外に出るとそこはすっかりなだらかなゆるい斜面で、木々には積雪もしていないし、あたりの雪の量もたいしたことなかったりする。なんだかなあ、という感じである。

 けなしてばかりではアレなので書いておくと、そのビバーク後の雪原での一対二の取っ組み合いシーン、ここで手持ちカメラでのちょっとした長まわしがとてもいい感じではあって、手ぶれで揺れるカメラの映像と、そのくんずほぐれつの取っ組み合いとのシンクロかげん、カメラと被写体との距離感など、素晴らしいものではあった。あと、「銀嶺の果て」では若山セツ子のやっていた役を、この作品では星輝美という女優さんがやっているんだけれども、この女優さんがとってもよかった。


 

[] 「暁の非常線」(1957) 小森白:監督  「暁の非常線」(1957) 小森白:監督を含むブックマーク

 その新東宝で、天知茂が圧倒的な印象の悪役で主演した作品。もうただひたすら、天知茂の悪役ぶり、その多彩な表情づくりをこそ楽しむ作品だろうと思う。ガンガンにのちのハマり役「明智小五郎」をほうふつとさせるというか、いや、こっちはよほど「怪人二十面相」的ではあるけれど、「すばらしい!」としかいうことばがない。

 のちの天知茂の代名詞となる「ニヒル」などというのではなく、この作品での天知茂はむしろ、徹底したサディストとして造型されている。情け容赦なく命乞いする男を撃ち殺し、ダイナマイトを仕込んだ金庫の扉とともに男を爆破する。ドライブに連れ出した女を車もろとも崖から落下させ、いやらしい笑みを浮かべながら女を手込めにしようとする。そういう次第であるけれども、これがそのままこの作品の全プロットでもあるわけで、これ以外にはほとんどなにもない、というのがこの作品である。なんとすばらしいことだろう。後半で必死で逃亡する天知茂もまたすばらしい。ただ、ラストに命乞いする天知茂はあまり観たくなかったかな。たとえば「パブリック・エネミーズ」のジョニー・デップのように、ひたすらクールに死んでほしかった気がするのである。

 天知茂、アラン・ドロンとかと比較されるのかもしれないけれど、いまこうやって観ると、むしろジュード・ロウのイメージにクリソツであると、わたしなどは思ってしまう。渡辺謙のイメージもあるけれど、渡辺謙にはここまでファナティックな強烈さは持ち合わせがないだろうと思う。しかも、この気色の悪い笑顔とかはもう空前絶後、天知茂ひとりのもので、もっともっと、こういうノワールものに出演して、こういう気色悪い笑顔をみせてほしかったものだと思わずにはいられない。

 監督の小森白(きよし)という人のことはよくわからないけれど、この作品を観るかぎり、うまいもんだと感心してしまった。密室の使い方もいいし、和室と洋室の使い分けもいい。映画内の時間意識の取り入れ方もうまくいっている印象で、ノワールものに向いていたんじゃないかと思う。彼のフィルモグラフィ—をみると、その監督としての後期はやっぱ、エログロ路線のサディズムものにシフトしているようであって、それはそれで納得である。すっごいタイトルの作品が林立しているので、ちょっと観てみたくなるのである。わたしのなかでは、この「暁の非常線」は傑作。





 

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■ 2011-09-26(Mon)

 月曜日でしごとは非番。天候が秋っぽくなってから、出かけよう出かけようと思っていたのを先送りにしてきていたので、きょうは出かけることにする。またターミナル駅のシネコンで映画を観ようかというもので、せっかくの秋空に映画館の映写室という暗室にこもってしまうのは、あまり快適な行為ともいえない気もするけれども、じゃあ秋空のもとでいったい何をするのかというと、たいしたことも思い浮かばないのである。ちょうど観てみたい映画も上映されているのだから、これを観に行く。ちょっと早めに昼ごはんを食べてから出かけて間に合う上映時間だったので、外でムダにお金をつかってしまうこともないだろう。

 そういうことで、昼食にスパゲッティをつくって食べてから出かけ、映画を観る。感想とかは下に。

 映画が終わってから近くの酒の量販店へ行き、焼酎のパック、紅茶、タイ製のインスタントヌードルなどを買う。まだ明るいうちに帰宅し、夕食にほんとうに久々に「肉じゃが」をつくる。いつも思うけれど、カレーの調理と肉じゃがの調理というのは、途中まではまるで同じだよな。ちょうど日本酒が買ってあったのでこれを使う。可もなく不可もない出来。なにかひとつ足りない気がするけれど、まぎれもなく肉じゃがの味である。まあいいか。

 

[] 「ラスト・ターゲット」アントン・コービン:監督  「ラスト・ターゲット」アントン・コービン:監督を含むブックマーク

 せんしゅうだったか、このシネコンに「アレクサンドリア」を観に来たときにこの映画のポスターをみて、監督がアントン・コービンだということでちょっとびっくりしちゃって、それで観てみたくなってしまった作品。主演はジョージ・クルーニー。

 アントン・コービンという人はもちろん、ロックの分野での卓越したフォトグラファーであって、わたしのなかではまずはそういう人としてカテゴライズされているというか、彼の写真で印象に残るものはあれこれとある。そんなコービン氏が映画を撮ったのは、かつて彼自身が被写体としたJoy Division のIan Curtis を主人公とした「コントロール」という作品で、もっちろんわたしは映画館に観に行った。
 かつて被写体として写真作品に定着させた人物たちを、これは「仮象」させたといえばいいのか、そのときのリレーションシップを、じぶんがカメラに収められなかった部分を含めて、微妙な感覚で「再現」させた作品という印象を持ち、それは写真家として過去の被写体を再構築する作業として、興味深いものと思ったものである。

 そんなアントン・コービンが、音楽の世界を離れて、こういうサスペンス・ドラマ(らしい)を撮ってしまうというのは、いったいどういうことなんだろう。アントン・コービンは、映画という表現分野のなかにどのようなものをみていて、「コントロール」の次にこの「ラスト・ターゲット」という作品を撮ったのか、おおげさにいえばそのあたりを見極めてみたいということで、この作品を観た次第である。

 この作品、原題は「The American」である。‥‥この、邦題との差異は、ちょっと大事であると思う。マーティン・ブースという人の書いた原作がちゃんとあって、脚本はローワン・ジョフィという人。撮影は、「コントロール」と同じくマーティン・ルーエという人。

 映画は、スウェーデンの雪景色からはじまる。その雪景色のなかをひと組の男女が歩いている。その映像を観たとき、そこにまさにアントン・コービンの作品があるように感じて、彼がこうやって映画を撮るということが、わかるような気がしてしまった。それはなんというのかつまり、一般に彼はロック・フォトグラファーなどということで、ミュージシャンや映画スターのポートレイト作品などで知られているわけだけれども、彼は決して、いわゆるファンの視点からミーハー的に写真を撮っているのでも、ましてやパパラッチであるわけもなく、つまりはミュージシャン(または映画スター)という生き方を選んだひとたちの「生きている姿」をとらえていたという印象になるわけで、そうすると彼が映画を撮るということは、(前作「コントロール」はまだ別のもんだいになるけれども)ひとつにはとにかくは「ある生き方」を選んだひとの姿をとらえること、という解釈が出てくることになり、そのことをこの映画のファーストシーンで、わたしは強く感じとってしまったわけである。雪のなかを歩く男女の姿は、映画のストーリーとは関係なくまた別のストーリーを語っている。うまくいえないけれど、そういうのをアントン・コービンは撮ろうとしていたんじゃないだろうか。この作品には登場人物の後ろ姿をとらえたショットが多い。そういうあたりも、ふつうの娯楽映画とはちょっと違うテイストを生み出している気がする。いわゆるディープ・フォーカスをあまり使っていないあたりにも、そのあたりに関係してるのかもしれない。

 主人公は裏社会の組織に属している男で、つまりは敵も存在するし、自分の存在が気取られるようなことになれば、愛している女性も自分の手で殺害することに躊躇はない。殺し屋というよりは、暗殺用の銃などをカスタマイズして製作する職人肌の存在みたいである。イタリアの風光明媚な田舎町に逃れて来て、「誰とも話さず、知り合いをつくらないように」という指令を受けて、ひたすら注文を受けた銃をつくるわけだけれども、材料を調達するのに住民と交渉しなければならないし、町では目立つアメリカ人ということで、神父などが話しかけてはくる。禁欲的なわけではないので、娼婦を買ったりもする。娼婦はひとりに決めているが、いつのまにか親しくはなってしまう。蝶のことに詳しく、背なかや腕に蝶のタトゥーをしている。そして、やはり彼をねらう銃口がその町にねらいを定めてくるわけである。

 映画のクールなタッチはちょっとばかしメルヴィルの「サムライ」を思わせるものもあるけれど、主人公はあそこまで自分を律しているわけでもない。どこから彼をねらうやつに自分の住処がばれたのかわからず、上司(?)に「おまえも鈍くなった」といわれる。このしごとをさいごにして、娼婦との別の暮らしを現実にしようとする。人間臭いし、おそらくはじっさいに鈍くなっているのだろう。ストーリーなど関係なく、そういう男の姿をきっちりととらえた作品だと思う。わたしはじゅうぶんに堪能した。ラストに、木立のなかを白い蝶が飛んでいる。その蝶の姿は、たとえばわたしのウチのTVモニターとかでは識別できなかっただろう。映画館で観て、よかった。

 ただ、脚本に難をつけたくはなるのであって、ラストに主人公がじぶんをねらっているのが誰かわからずに、最後のしごとの銃に細工をしていたのだとすると、これは裏切り行為ではないのか。もしもその銃が別のしごとに使われて、それが失敗に導かれるならば、とうぜん主人公はどこまでも組織に追われる身になるだろう。結末をバラすと、依頼人=組織が彼をターゲットにしているわけだけれども、そのことに主人公は自分がじっさいにねらわれるまで気づかないでいるように描写されている。彼をねらうのに彼のつくった銃が使われ、その銃にほどこしていた細工のために彼は(いちどは)難を逃れる。そうすると、依頼されたしごとに対して細工をして、依頼どおりのちゃんとした銃をつくっていないというのは、道義的にどうなんだろうということになる。このあたりがクリアされていれば、もう誰にでも薦められる作品なんだけれども。

 「サムライ」のほかに、ちょっと「日曜日には鼠を殺せ」だとかも思い出した。西部劇でもこういうのがあったようだけれども、このクールさは、西部劇とは別の世界という気がする。個人主義のあり方が違う。ヨーロッパが舞台だからだろうか。




 

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■ 2011-09-25(Sun)

 雲は多いけれどもきょうもからっとした秋っぽい気候で、ようやくことしの夏ともおさらばだなあという気分。これからの衣類をちょっと買い足そうと、川を越えたところにあるDVDレンタルの店に併設されている古着屋に行く。げんざい半額セール中なのである。あれこれ見てまわり、このさいズボンとかも買ってしまおうとか、ちょうどいいサイズの革靴が売られているとかいうことになる。古着屋に置かれているズボン系統はほとんどブルーのジーンズばっかりで、生まれてこのかたほとんどそういうジーンズなど履いたことのないわたしにとって、選択肢はかなりせまいのだけれども、試着するとほぼピッタリのものがみつかったので喜ぶ。半袖Tシャツが150円、長袖Tシャツも150円、秋向けのニットシャツが250円、ズボンが450円、それと靴が450円。合計1450円。ここで靴とズボンを安く買えたのはひじょうにうれしい。これでこの秋も乗り切れそうである。

 まいしゅう土曜日はデッキにMDをセットして、FMのエアチェックをセットしてからしごとに行き、あとでゆっくり聴くことにしているのだけれども、ぎゃくに土曜日が非番でしごとに行かなかったりするとこれを聴き逃してしまったりする。せんしゅうはこれをやってしまった。きのうの土曜日はちゃんとエアチェックして、きょうゆっくりと聴く。

 ピーター・バラカン氏の「ウィークエンド・サンシャイン」は八月末に亡くなられた作詞家/プロデューサー、Jerry Lieber の特集で、せんしゅうも同じ特集だった続きらしい。この番組もほとんどオールドタイム・ミュージック専門みたいなことになっているので、とにかくまいしゅうにようにどなたかミュージシャンの訃報が伝えられ、その小特集のようなことになる。それが二週間連続してというのはちょっと異例のことで、Jerry Lieber ってそこまで偉大だったのかなあなどと思いながら、あまり期待しないで聴いていた。これがあれこれとおもしろくて、聞き入ってしまった。「Jailhouse Rock」の人でしょ、ぐらいの認識だったのだけれども、ものすごく幅広い活躍をされていた方だった。Red Bird Records の創立者でもあって、Shangli-Las やDixie Cups を世に送りだしたのは彼(と、Mike Stoller のコンビ)だったし、Stealers Wheel の「Stuck in the Middle with You」をプロデュースしたのも彼らだった。
 いちばん興味深く聴いたのは彼らとPeggy Lee とのかんけいで、そのあたりをバラカン氏がざっくりと語られたあと、「Is That All There Is?」という、これは名曲だな、これをはじめて聴く。
 おもしろく思ったのは、この番組が終わったあとのゴンチチのふたりによる番組「世界快適音楽」でもまた、この「Is That All There Is?」がオンエアされたことで、バラカン氏はこの曲のレコーディングまでのエピソードを語っていたのだけれども、ゴンチチのおふたりは歌詞の内容について語られていた。両方聴いてこの曲のトータルなイメージができ上がるわけだけれども、このあたり、連続した番組で同じ選曲がなされるというのは、それぞれの番組をはなれてチェックしているひととかが存在するのだろうか。こうして一方でレコーディングのエピソードについてだけ語り、一方では歌詞の内容だけ語るということに、なんらかの調整がはたらいているようにも思えるのだけれども、これはたんに偶然だったのだろうか。

 「野生の探偵たち」のチャプター1を読み終えたので、ちょっとここまでの感想など。

 

[] 「野生の探偵たち(上)」(1)ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳  「野生の探偵たち(上)」(1)ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳を含むブックマーク

 チャプター2から展開はがらりと変わるようだけれども、このチャプター1は大学に入ったばかりで前衛詩人のグループに参加した男の子の、10月から12月末までの日記という体裁。舞台は1975年のメキシコで、とにかくメキシコの詩人の名まえがわんさか出てくるわけだけれども、そのなかにまぎれてレーモン・クノーだとかアラン・ジュフロワなどの聞き覚えのあるフランスの詩人の名まえも出てくるので、基本的には実在のメキシコの詩人なのだろう。レオノーラ・キャリントンやレメディオス・バロなどの名まえも出てくる。

 とちゅうで書かれている、詩人たちの分類をめぐるおっかしな話がおもしろかった。詩の大海にはいくつかの潮流があり、それらはホモ、おかま、ヘンタイ、痴カマ、隠れホモ、フェアリー、ニンフ、オネエということになり、そのなかでいちばん大きな潮流は、ホモとおかまだということ。ネルーダはおかま詩人で、ウィリアム・ブレイクはホモ詩人だと、登場人物のひとりが語っている。あ、そのまえに、文学とは同性愛文学と異性愛文学、それと両性愛文学との三つがあるというはなしがあって、長編小説はたいていが異性愛文学、詩というのはどれをとっても同性愛文学だということである。詩のはなしにもどると、ボルヘスはオネエで、オネエというのはふとホモになったかと思うと次の瞬間には単に無性愛的にもなるということらしく、わたしはそれだったらたいていの詩人はオネエにしておけばいいような気がしてしまう。痴カマ詩人の規範はヴェルレーヌだということで、それはわかる気はする。考えて、日本には「お稚児」という伝統もあるので、お稚児詩人というのもありそうに思った。

 脱線してしまったけれど、このチャプター1はこれ自体で独立して、たいそうおもしろくも楽しい青春文学というか、ビルドゥングスロマンという読み方が出来る。わずか二ヶ月のあいだのことだけれども、書きはじめではまだ童貞だった主人公は、このチャプターの末尾では、あれこれの女性たちとの関係のなかで迷いそうなところにまできている。詩人仲間でも知られる存在になり、信頼のおける男として認められる存在にもなっている。そういう二ヶ月間が、いちにちも欠かさない日記の形式の一人称で書き連ねられているわけである。そうだよなあ、十八歳ぐらいのときの一ヶ月とか二ヶ月というのは、このくらいには濃厚でぶっとんだ季節にかんたんになりうるわけだよなあと、遠い眼をして思い出したりもしてみる。

 ここまでのところは、とてもおもしろく読んでいる。これからどう展開していくのか。




 

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■ 2011-09-24(Sat)

 朝、五時からのしごとに家を出るころは、もうすっかり暗くなってしまった。しごとが終わって外に出て、空をみると雲ひとつない晴天で、秋晴れというんだろう。暑さにげんなりすることもなくなり、どこかへ出かけたくなるけれども、しごとのあとでくたびれているという感覚もあって、けっきょく家でいちにち過ごすことになるに決まっている。

 家に帰るとニェネントが玄関までお出迎えしてくれていて、ニェネントを抱き上げ「ただいま、今帰ったよ」とあいさつして、ニェネントの食事を出してあげる。それからじぶんの朝食の準備をし、つまりトースト二枚にレタスと目玉焼きとハムをはさんだだけのものだけれども、これにケチャップかマヨネーズをあえて食べる。景気がいいとトマトのスライスもはさむ。食べているとニェネントが近寄ってきて、わたしの手もとをのぞきこんでくる。ひとが食べているものにはとにかく興味を示し、じぶんもほしがる。
 天気がいいのでふとんや毛布をベランダに干し、そのままひるまえに買い物に出てタバコとミックスナッツを買ってきた。ミックスナッツをつぶしてオリーブオイルに入れ、ベランダからもうすっかり伸び切ってしまったバジルの葉をつまんできて、きざんでいっしょに入れる。ことしさいごの簡易(いんちき)バジリコソースで、ベランダのバジルももうこれでことしの役目は終了。パスタをゆでてつくったばかりのソースをあえて食べる。やはりミックスナッツはあまり向いていないようで、まだカシューナッツだけの方がおいしかった気がする。

 午後からヴィデオを観て、「野生の探偵たち」を読み、谷崎訳の「源氏物語」もすこし読む。

 

[] 「キック・アス」(2010) マシュー・ヴォーン:監督  「キック・アス」(2010) マシュー・ヴォーン:監督を含むブックマーク

 ごくふつうの男の子がスーパーヒーローにあこがれ、等身大のままスーパーヒーローの世界をのぞいてしまうという設定だと書いてしまうといかにも乱暴だけれども、そういうものとすると、だいぶまえに読んだジョナサン・レセムの「孤独の要塞」をどうしても思い出してしまう。というか、どうしてもまずは先に「孤独の要塞」のイメージからこの映画も観てしまうじぶんがいる。ぜんぜんまったくちがう設定、ちがう展開ではあるけれど、とにかくどこまでも主人公の男の子が等身大であるというあたりだけ共通していて、わたしなどはただそこだけで反応してしまう。
 そんな気もちで観ているのも「ヒット・ガール」と「ビッグ・ダディ」が華々しくも登場するまでのことで、それ以降はちょっとひねったスーパーヒーロー映画ということになり、けっきょくそこに落ち着く。スーパーヒーローものとしての主役はつまりは「ヒット・ガール」の方なのだけれども、それにからむサブストーリーに「キック・アス」少年を持ってきて、こちらがメインストーリーであるかのようにその「キック・アス」少年の視点からの展開に多くの時間を割いているあたりに、たんなるスーパーヒーローものからのひねった展開がある。サブストーリーとメインストーリーのよりあわせ方がうまくいっている印象。
 もちろん「ヒット・ガール」じたいの存在は魅力的ではあるけれど、そのヒット・ガールよりも弱っちく、精神的にも幼いんじゃないかというようなキック・アス少年との取り合わせによって、その魅力をいや増すことになる。

 ヒットガールが敵地に単身乗り込むところで、なんとバックに「夕陽のガンマン」のテーマ曲が流されてびっくりしたと同時に、どうもこう、こころがウキウキしてしまうじぶんを抑えられなくなってしまう。しかもそのあとはJoan Jett & Blackhearts の「Bad Reputation」に続くのだからたまらない。New York Dolls の曲も使われていたらしいけれど、わたしはNew York Dolls はあまり聴いていないのでわからなかった。

また、「孤独の要塞」を読みたくなった。




 

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■ 2011-09-23(Fri)

 いったいいつごろからそうなのかもうわからなくなってしまったけれども、ニェネントはめったにのどをゴロゴロとならさなくなった。いぜんはわたしがそばにいるだけでゴロゴロとのどをならして、それはいくらなんでも過剰反応ではないかと思ったし、ひょっとしたらのどをならすというのは「うれしい」とかいう感情をあらわすのとは別モノなのかもしれない、ひょっとしたら「不安感」?などとも思ってしまっていたのだけれども、とにかくいまではもうほとんどのどをならさない。それだけおとなになったということなのかもしれないけれど、それでもさいきんはわたしと遊びたがる雰囲気で、またちょっと幼くなったようにも思えるのである。
 わたしが部屋のなかを移動するとどこかにかくれていて、わたしのうしろからふいにわたしの足にタッチして逃げていく。子ネコのころよくやっていた「遊び」だけれども、さいきんまたひんぱんにこれをやる。これはわたしも「うわっ!」とおどろいて、付き合ってあげなければならない。ベッドに寝ていてもわたしの腕がベッドからはみ出していると、下からまえ足でちょん、とタッチしてくる。このときはもうわたしもお休みモードなので、あまりニェネントに付き合ってはあげない。

 けさ、そんなニェネントの夢をみた。ニェネントの鼻のあたまが鼻水でぐっしょり濡れていて、わたしは「風邪をひいてしまったんだなあ」と心配している。そのほかに、高校時代の同級生の出てくる夢も、二日つづけてみたりした。高校のころもほとんど意識もしなかった同級生で、何十年もこれっぽっちも思い出したこともないような人物たちである。夢からさめてその同級生の名まえを思い出そうとして、ふたりは思い出せたけれどもあとのひとりは思い出せない。高校のころの彼のしぐさが、みょうに思い出される。夢の内容は忘れてしまった。

 きょうは久々の勤務日。あれこれとやり方がかわってめんどう。しごとが終わるころに、また雨が降ってきた。ちょっと出かけようかという気分もあったのだけれども、やめることにした。きのう借りてきたロベルト・ボラーニョの「野生の探偵たち」をちょっと読みはじめる。おもしろそう。



 

[] 「めまい」(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督  「めまい」(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 おそらくさいしょは父母に連れられて映画館で観ている映画だと思う。小学校にあがるかあがらないかのころで、もちろんその内容が理解出来ているわけもないのだけれども、冒頭の、ジェームズ・スチュワートが屋根の雨どいにぶら下がって下を見るシーンは記憶にあった。だからわたしが高所恐怖症なのは、幼少時にこの映画を観たせいであるということができる。そのあとはきっと高校生のころにTVで観ているけれど、記憶に残るものは何もない。あとは二、三年まえにDVDでちゃんと観て、まあどういう話なのかは理解した。それいらいの鑑賞。

 主人公もまた病んでいるという意味で、ヒッチコックの作品のなかでもかなり(いちばん?)ヤバい作品だと思う。ある意味で、女性をそのイメージでしか愛することが出来ない男の悲劇というか。映画にはミッジという、主人公がむかし婚約していたことがあるらしい女性が登場し、その婚約は女性の方から破棄したようなことも語られる。しかしこの作品でミッジは主人公に未練タラタラである。ミッジは主人公に十全たる意味でちゃんと愛してほしいのだけれども、男はそれに答えられないという事情がなんとなく推測される。いちど婚約を破棄したというのも、その愛情に疑問を感じていたからではないだろうか。どうもこの男、女性をイメージとしてしかとらえられないのではないのか。相手を現実の生きた人間として、感情のやりとりをするという、愛し愛されるためのふつうの才に欠けている。もちろん未婚であり、年齢相応の恋愛体験の持ち合わせもないのではないかと想像されてしまう。
 そういう男が、ある種の「お膳立て」のうえでマデリンという女性を知る(そういう「お膳立て」がなければ女性と知り合うようなチャンスをつくれない男でもあっただろう)。そのミステリアスな雰囲気に男はイチコロなわけだけれども、ほんとうはこの犯罪計画ではそこまで想定していたわけではない。ただ、男がマデリンという女性を知り、そのイメージを保持していればいいだけの話だったわけである。ところが男はそのイメージに恋してしまった。犯罪は成就され、女は墜落死したものとして男のまえから姿を消す。男は「高所恐怖症」というフォビアとともに取り残される。どうやらここで、「高所恐怖症」というのが、現実を見つめられない主人公の精神のアナロジーになっているようである。

 ここからあとはすべて、男のイメージへの妄執からの幻想ということもできるけれども、男の目のまえにあらわれたマデリンそっくりの女性ジュディに、マデリンのイメージをどこまでもかぶせようとする。同じ髪型をさせ、同じ服を着せ、同じデートスポットに行く。ジュディの人格など、はなから無視して、ただジュディのなかにマデリンのイメージをみようとするだけである。ジュディの「現実」など見ようとしないわけで、(まちがえて、または世間知らずのせいで)男を愛してしまうジュディは、そのことで悩む。意図せずにか意図してか、ジュディはマデリンとして身につけていたネックレスで男の前に現われ、「ジュディ=マデリン」ということをあきらかにする。ここで、ジュディのなかにマデリンの面影をみていた男は混乱する。つまり男は、マデリンのイメージのなかにジュディという現実の女性など消えてしまえ、というような夢想に生きていたのに、ぎゃくにジュディこそがマデリンだったということになると、こんなにもたいせつにしていたマデリンのイメージというものが消失してしまう。だから男は必死でマデリンのイメージをこそ救出しようとする。これがラストへの流れ。男は、ジュディなどという女にマデリンのイメージを消されることから逃れることが出来た。ジュディという女のことなどどうでもいいのである。男の妄執の勝利としてこの作品は終わる。おそらくはこののち、イメージと化したジュディもまた男の妄執のなかで生きはじめ、「ジュディ=マデリン」という現実は、男のなかにまさに「狂気」の妄想を生みだすことになるだろう。あたまがくらくらする。

 

[] 「裸の島」(1960) 新藤兼人:監督  「裸の島」(1960) 新藤兼人:監督を含むブックマーク

 観るまえから、これはどう考えてもロバート・フラハティの名作ドキュメンタリー「アラン」(1934) の翻案だろうと思っていて、やっぱり観ていてもそういう見かたが打ち消されるわけでもないのだけれども、このまさにドキュメンタリータッチで演出された作品の、そのわずかなドラマ構造の演出が、この作品に独自のちからを与えているように思える。

 それと、こうやってセリフを廃した映像を観ていると、この作品を撮影するスタッフやキャストの姿が想像され、まちがいなく一台のカメラだけで撮影された映像をもとにして、それを編集してこの作品がつくられていることが如実に感じ取られることになり、一編の映画作品の制作過程というものがくっきりと浮かび上がってくるように思えた。

 お椀をふせたような小さな島の中腹にある小さな家に住む家族、その坂道をひたすら降り、水に満たされた桶をかついで登る作業のくりかえしのなかで、その「登る」という行為になにか特別なちからが付与されているかのようにみえはじめる。そうすると、終盤の長男の死のあとに、そのひつぎをかつぐ夫婦の歩みが、海岸に降りるのではなく、島の上の方へと登るショットを観るときに、観ているわたしはちょっと動揺してしまう。ひとつにはわたしは、この葬儀はひつぎを舟に乗せてほかの島まで運んで、そこで行うものと思っていたわけで、舟に乗って島に来た僧侶と長男の小学校の同級生だけの列席で、この島で葬儀が行われるという展開にはちょっとショックを感じた。夫婦の親戚縁者のいない葬儀に、この夫婦の過去が垣間見られるようでもある。そしてやはり、重きものは担ぎ上げられるという、宿命に似た行為のくりかえしが、この葬儀でもまたなされるということにも、驚きがあるのであった。

 さいしょの方で、妻が転んで運んで来た桶の水をこぼしてしまったときに無言で(この映画はみんな無言ではあるけれど)妻を張り倒した夫ではあったけれど、ラスト近く(長男の死後)に妻がやりきれなさに桶を蹴飛ばし、育った苗を次々に引き抜いてしまうシーンでは、ただ沈黙とともに妻を見つめる夫がいる。

 映画とはまるで関係のないことだけれども、妻役の乙羽信子は桶を運ぶ姿ものら仕事の姿もスマートでスタイルがよく、さすが宝塚出身というか、その出自は隠せないものである、などと思って観ていた。夫役は殿山泰司で、彼が主役をつとめた作品というのはこれ一本ぐらいのものではないかしらん。すばらしい(あとで調べたら、1962年の同じ新藤兼人監督の「人間」でも、主役を張られていたらしい)。




 

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■ 2011-09-22(Thu)

 四連休最終日。台風は北海道の方へ行ってしまった。あさ起きると空は晴れている。ベランダに出るとみどり濃いいちょうの葉が落ちていた。いちょうの木はちょっと離れた公園にしかないので、そこから飛ばされて来たわけだろう。

 図書館の返却期限になり、まだリオタールの「震える物語」というのを読んでいなかったので、さくやからあわてて読むのだが、これはまあちょっと歯がたたないというか、これで何かを読み取れというのはらんぼうな話ではないかと。たしかに「物語」の体裁はとっているのだけれども、ではその物語は成立しているのか、成立しているとしたら、させているのはいったいどんなものなのか。そもそも、「成立」ってどういうことなのか。とにかく読まなかったことにした。
 返却のため昼まえに図書館まで歩く。いちょうの葉はあちこちに落ちていた。葉のついた小枝も落ちているけれど、このあたりで街路樹が倒れたということもないようだった。図書館のまえを流れている川はとうぜん増水し、堤防の下の河原はすっかり水没してしまっていて、茶色くにごった水が速いスピードで流れている。

 もういいかげん図書館から借りて来なければいいのだけれども、ついつい書棚をみていると手が伸びてしまう。いぜん短編を読んだチリ出身の作家、ロベルト・ボラーニョの長篇「野生の探偵たち」を読みたくなり、その上巻を借りることにする。それと、そろそろカフカもまたざあっと読んでみようかと、全集の第一巻(「変身」など)。そろそろ源氏物語もざあっと読んでみようかと、これは原典では気楽に読めないし、谷崎潤一郎の現代語訳のものが一巻あたりのページ数もそんなにないので、とにかく第一巻を借りる。このうちのどれかは読まないまま返却するかも。

 台風一過の晴天がつづくとばかり思っていたのが、ひるすぎから空がくもって窓の外はうす暗くなる。あまり暗いので外をみると、しとしとと雨が降っていた。

 夜のニュースをみていると、あたらしい日本の首相がアメリカへ行ったという報道。「日本を世界でいちばん安全な原子力発電所の稼働する国にする」みたいなことをいっていて、震える。なんで日本でこういうこといわないで、いきなり外国でいいはじめるのか。どうしようもなかったまえの首相だったけれど、それでも「脱原発」ということはいっていて、そこだけはちゃんとやってほしいと思っていたのが、首相が代わってしまって、まずはそういうことがなしくずしに崩されてしまう。原発は稼働させる、増税はするというので、喜ぶのはどういうひとたちなんだろう。まえからわかっていることだけれども、これではっきりと現政権には「No!」である。

  

 

[] 「我が家の楽園」(1938) フランク・キャプラ:監督  「我が家の楽園」(1938) フランク・キャプラ:監督を含むブックマーク

 原題は「You Can't Take It with You」。わたしはこういうタイプの人情コメディというのは苦手だけれども、冒頭のエレベーターのドアの開閉でつなげていく演出はよかったし、終盤の展開も楽しんでしまった。それでもやはり、中盤の演出とかはどうも楽しめないというか、それぞれのシークエンスの、あるひとがセリフを語り、それを待って相手が答えるというときの間合いの取り方が古くさいというか、いちいちあいだに空白がはさまっていく感じが何だか気になる。それと、なんというか、天真爛漫なひとたちの天衣無縫なふるまいというのにもなんだか感情移入できないで、「そんなバカ、やめてくださいよ」という感じである。まあわたしはこういうところで人情コメディというものに入り込めないのかしらん。




 

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■ 2011-09-21(Wed)

 台風15号は関東を直撃した。わたしは連休もあしたまでなので、きょうあたりまたお出かけしようかなどとのんびりしたことを考えてもいたのだけれども、ニュースを見て、もうきょうは一歩も外に出ないことにした。ベランダに出て、雨や風の影響を受けそうなものを片付けておく。それでしばらくTVとか見ていると、ニェネントがわたしのそばにやって来た。ニェネントのあたまにさわると、なんだか湿っている、というか、濡れている。あれっと思ってからだの方もたしかめると、全身しっとりと濡れちゃっていた。いつのまにか外に出てしまっていたんだろうかとベランダの窓を見ると、たしかにニェネントが通り抜けられるぐらいに窓が開いていた。さいきんはずっと窓をロックしたりしていないから、わたしが閉め忘れたか、それともちょっとしたすき間をニェネントが開け拡げたかしたのだろう。とにかく、外に出てそのままどこかに行ってしまうようなことがなくってよかった。そう、きょうはニェネントの15ヶ月の月の誕生日。もう15ヶ月も室内だけで生活すると、外に出て行こうという気もちもなくなってしまうだろうか。きょうは台風来襲ということもあったので、とくに誕生日のお祝いはなし。

 ゆうがたあたりから外に風の音が響くようになり、窓のガラスにもベランダを越えて雨が吹きつけている。救急車だかパトカーだか、それとも消防車のサイレンの音が風の音にまじってきこえてきて、ものものしい空気になる。TVのニュースをみると、首都圏ではほとんどの電車がストップしてしまっているらしい。台風をあまくみて出かけたりしていたら、たいへんなことになっていた。
 あたりが暗くなってくるにつれて風の音はいっそうはげしくなり、ニェネントはそんな風の音が気になってしかたがない。窓のそばのパイプ椅子の上から、ベランダの外をのぞいてみたりしている。この時点で台風はこのあたりのかなり近くを通過しているようで、これからクライマックスになるのだろうかと思っていると、いつの間にか風の音はおさまってしまった。台風の移動するスピードが早かったし、暴風雨圏は台風の進行方向の前の方に集中していたようで、台風が通り過ぎると天気の回復も早かったみたい。窓の外をのぞいてみると、もう雨もほとんどやんでしまっていた。ベッドで寝ようとするともう寒いぐらいで、押し入れから久々に掛布団を引っぱり出して、かぶって寝た。あしたは台風一過でいい天気になるだろう。出かけようかな。

  

 

[] 「アウトロー」(1976) クリント・イーストウッド:監督  「アウトロー」(1976) クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 イーストウッド自身が監督した西部劇としては、72年の「荒野のストレンジャー」に続く二作め。このあとの彼の「西部劇」というのは85年の「ペイルライダー」、92年の「許されざる者」の二本があり、この四本を並べてみるとなんかこう、すっごい一貫したものがあるなあと思えるところがある。一匹狼のガンマンの復讐ストーリーというか。

 イーストウッドは南北戦争で北軍側の一隊に妻子を虐殺され、南軍側について北軍とたたかう。政治的な理由ではなく復讐のためだろうが、南軍は敗北する。イーストウッドは降伏せずに逃亡の道を選ぶ。これも復讐はまだ終わっていないということから来るのだろうけれども、逃亡者ではあっても復讐の気もちは失わない。これが逃亡の途中で住むところをなくした先住民の長老や、牧場生活への移住のとちゅうで先住民との交易をなりわいとする無法な一団に男手を殺された母娘(祖母と娘?)などなどと出会い、なんというかファミリー的な生活をはじめてしまったりする。みな、アメリカの開拓の歴史のなかでの犠牲者ばかりである。しかし復讐という大義の残っている(というか追っ手がどこまでも追ってくる)イーストウッドは、さいごのたたかいへとのぞむわけである。

 冒頭の、家が焼かれ妻子が虐殺されるシーン、カメラはイーストウッドの視線を代理するわけだけれども、ナタで殴打され倒れたイーストウッドのまえで地面はゆらぎ、そのあとでスコップでカメラに土がかぶされるショットがはさまれる。これがイーストウッドの視線ならば、イーストウッドはここで死んでいることになり、このあとに登場するイーストウッドは亡霊なのではないかということで、まさに「荒野のストレンジャー」や「ペイルライダー」を想起させられる。

 サーヴィス精神満点というか、多くのサブストーリーが詰め込まれて飽きさせることがないし(逆にいえばちょっと詰め込みすぎ?)、川や砂漠など、いろいろなロケーションを盛り込んだ絵の楽しさもすばらしい。

 脚本にはフィリップ・カウフマンが参加し、撮影は例によってブルース・サーティース。この原作はフォレスト・カーターという人の書いたものなのだけれども、このフォレスト・カーターという人物の、Wikipedia での記述がおもしろい。フォレスト・カーター、悪名高いジョージ・ウォレスのスピーチライターだったこともある熱烈な「人種隔離主義者」だったらしい。この作品でも主人公を南軍に加担させるあたりにそのあたりの反映もあるのだろうけれど、晩年はその過去をかくして、アメリカ先住民に関する書籍を残しているらしい。その反映もこの原作にはあるわけだろう。まあ原作がどのようなものであっても、原作者がどのような人物であったとしても、この映画の脚本はそのあたりは換骨奪胎され、少なくとも差別意識などは感じとれない(まあアフリカ系の人物は登場しないわけだけれども)。ただ「アメリカ」の大義の犠牲になったひとびとへのシンパシーこそが、この映画の主題なのだと思う。




 

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■ 2011-09-20(Tue)

 台風が、こっちへ向かってくる。近年の台風はどちらかというと空振り気味の、警戒のわりにはほとんど風雨もはげしくないようなものが多かった気がするけれど(それで被害にあっていたひと、ごめんなさい)、このところ直撃パンチである。日本はもうボコボコにされている感じ。

 外は台風の影響かもう雨が降っているけれども、まだはげしいというのでもなく風もない。暑かった先日までにくらべてずいぶんとしのぎやすく涼しくなった、という感じである。スーパーに買い物に行き、三百円近いレタスを買う。このところずっとレタスの高値が続いていて、地場農家のとかで安いのが出ないかチェックしていたけれど、まるで出て来ないうちにウチのストックがなくなったのでやむなくの購入。あと、そのうちに肉じゃがでもつくろうと思って、しらたきなどを買う。きょうはちょっと涼しくなったことだし、久しぶりにカレーをつくった。水を入れすぎてゆるくなり、ちょっと失敗。

 きのう、帰宅してから知ったのだけれども、東京で大規模な脱原発のデモが行われていたらしい。参加者は六万人というから、いままでで最大規模のデモだったんじゃないだろうか。せんじつのデモで逮捕者が出たとかで、これからデモへの参加者が減るんじゃないかとか心配したんだけれど、杞憂というヤツだったか。しかし、わたしはこのデモのことノーチェックだったのがなさけない。このテの情報を集めるようなことはしていなかったからしかたがないけれど、知っていれば参加する方向で考えていただろうに。Twitter とかを活用すればいいんだろうけれど、いちおう登録はしてあってもまったく活用していない。なんか、「フォロアー」とか、ああいう概念というか呼称というか、イヤなのである。いちおう、「Wasn't born to follow」ということでやっておりますもんで。

 そのニュースでもうひとつ気になったのが、愛知県のどこかの花火大会で、福島県の業者製造の花火が忌避されて打ち上げられなかったというニュース。その花火大会じたいが東日本震災の復興支援をうたっていたらしいのに、逆支援〜差別の助長になってしまった。放射性物質というものをどのようなものと空想しているのだろうか(たしかにちゃんとした教育は必要かも)。ある意味ではすでに手遅れ。二次喫煙を忌避する嫌煙運動というのもこの延長にあるようにも思えるけれど、まあいまになってのこの行為、被災地のひとびとに石を投げるのに等しい行為に思える。主催者もちゃんとこのあたりをクリアして、花火の製造過程で放射性物質がまぎれこむ確率、その予測される量(もしくは実測値)、空中で拡散されたばあいにどういう数値になるかなど説明できないといかん、ということかもしれないけれども、とにかく悲しいニュースではあった。

  

 

[] 「半七捕物帳 巻の五」岡本綺堂:著  「半七捕物帳 巻の五」岡本綺堂:著を含むブックマーク

 ついに、全巻読破。またさいしょっから読みたいのである。

●「妖狐伝」
 当時はさびれていた品川あたり、鈴ォXにふってわいた化け狐のうわさ。その品川沖には異国の黒船が停泊しているという時代であるが、じつはその狐のうわさ、黒船と大いに関係していたのである。よなかにその鈴ォXを歩いていた男が、女とすれ違い声をかけられる。男は女を「狐」と思い込むのだけれども、ということから妙な話に発展する。

●「新カチカチ山」
 舟で梅見に出かけた旗本の、その舟がとちゅうで沈み、主人と妾、そしてふたりの女中が溺れ死ぬ。しかし同行していた本妻の娘と、女中のひとりの姿は発見されないままになる。本妻は屋敷の名に傷がついても真相を究明してくれということで、半七親分が乗り出す。旗本の家督はまだ若い長男が引き継ぐが、しばらく経ったころ、この長男も女と心中してしまう。その女こそ、舟から行方不明になっていた女中なのであった。おもしろい。

●「唐人飴」
 これは青山周辺を舞台にした事件。冒頭に唐人のかっこうをして飴を売り歩く男のことが出てくるけれど、この存在はヒッチコックのラガマフィンマンというか、じつは事件にまったく関係はない。岡本綺堂はときどきこういう人物をさも重要そうに書いたりするけれど、これは偶然のように半七が出会う人物がたいてい事件の関係者ばかり、というあたりへの反作用として書かれている気もする。とにかく、その青山の羅生門横町というあたりに、唐人の服の袖をつけた男の腕が切り落とされているのが発見される。半七は、近くの寺で興行している女芝居の連中にからんだ事件ではないかと推理する。さいしょにその腕を発見したのは近所の常磐津の女師匠なわけだが、この師匠というのがつまりレズビアン(江戸時代には「男女(おめ)さん」といったらしい)で、その愛欲がらみの犯罪ということである。

●「かむろ蛇」
 江戸末期に、コレラが「コロリ」と呼ばれ大流行したときの話。水道端にあった氷川明神に伝わる俗信で、その境内でかむろの女の子を見かけると、その子は蛇の化身なので見たものは死んでしまうと。参拝のときにそのかむろの姿を見てしまった煙草屋の母と子と女中の三人、それではじぶんは死んでしまうのかと恐れおののく。まずは女中が夜の室内で、どうやらまむしにかまれて死んでしまう。母もコレラで死んでしまうのだけれども、これは娘の命をねらった、手のこんだ犯罪ではあった。

●「河豚太鼓」
 葉茶屋の家族の女性たちが湯島天神に参詣に出かけ、そこで長男の玉太郎という七つの子が行方不明になる。事件の背後には当時普及しはじめた「種痘」をおそれ、その子に種痘を受けさせたくないという気もちがあったと。そこにあくどい占い師がからんでくるのだけれども、犯人はある意味では被害者の家からもらった河豚を食べて死んでしまうんだね。

●「幽霊の見世物」
 なんだかこのあたり、ずっと参詣とかに出かけて事件に巻き込まれる被害者の話ばかりが続くんだけれども、これも浅草の幽霊の見世物小屋(つまり「お化け屋敷」だけど、当時はそういう呼び名はなかったんだろうか)のなかで、日本橋の下駄屋の女隠居の死体が見つかるというもの。さいしょは恐怖心で心臓がいっちゃったんだろうと思われていたし、下駄屋の関係者もみな善人ばかりのように思える。しかし、見世物小屋ではじかに人間が客をおどしていて、それはやっちゃあいけないことだった。その見世物小屋の人間が一部始終をちゃんと見ていたことがわかる。

●「菊人形の首」
 これは谷中、千駄木あたり、団子坂周辺で起きた事件。恒例の谷中菊人形の展示(これは今でもやっているけれど、江戸の時代の方がにぎわっていたような)の時期、横浜から男女三人の外人がふたりの付き添いを連れて、馬で見物にやってくる。菊人形を見ようと馬を空き地につないで歩き、そこで女スリの被害にあう。その騒ぎで逆に外人たちは群集に追われ、湯島の方まで逃げて行くけれど、そのあいだに馬が二頭盗まれてしまう。その馬が和種ではなく、運ばれてきた洋種だったというあたりがこの話のミソか。ここに、狐を使う「市子」という、これは占い師みたいな巫女みたいな業種の女の話がからんでくる。

●「蟹のお角」
 さきの「菊人形の首」の続編みたいな話。「菊人形の首」でのスリ女が、偶然にも横浜でその犯行相手の外人夫婦らと知り合う。外人には写真の趣味があり、入れ墨のある女は格好の被写体になるわけである。しかし、こころ邪な女は‥‥。馬の次は犬が登場である。

●「青山の仇討」
 千葉の佐倉から江戸見物に来ていた一行から家族ふた組四人の男女が別れ、青山の親戚をたずねる。とちゅう、通りでかたき討ちの現場に遭遇し、その仇討を果たした男に「証人になって証言してくれ」と、辻番所へ同行させられる。これはじつは大義のある仇討ではなかったようで、仇討の男は彼が語ったような身元には存在しない。そんなうちに男はまんまと番所から逃げてしまう。青山の親戚をたずねた四人は翌晩にいとまを告げて帰路につくのだけれども、その途中で辻切りに襲われ、年長の男が斬られて重傷を負い、その娘がさらわれてしまう。さらわれた娘は同行していた別の家族の兄妹の、その兄のいいなづけではあったのだが。さらに、残された兄妹にも魔手は伸びてくる。いったい誰が何のために? というわけである。ぐうぜん事件に巻き込まれて心中をじゃまされた男女(お決まりの商人と芸妓ではある)があるのだけれども、事件の解決したあとに半七親分が女を身請けしてやり、ふたりを夫婦にしてやるのである。いよっ、半七親分! てなところ。

●「吉良の脇指」
 これも仇討ものだけれど、半七親分がその仇討の助太刀をするといえばいいのか、奉公する中間(ちゅうげん)に殺された旗本と妾、その妾の弟が仇討をしたいのだという。半七はその犯人がどこに潜んでいるかまでを調べて、知らせる役である。まあこの犯人はいけ図々しいというか、自分が手配されていることを逆手にとってひとを恐喝するようなやからなのであるが、そこは半七親分の手にかかっては逃げおおせることは出来ない。題にある「吉良の脇指」とは、その殺された旗本が所有していた吉良上野介の遺品ということで、仇討にはこの脇指が使われることになる。


 

[] 「昼下りの決斗」(1962) サム・ペキンパー:監督  「昼下りの決斗」(1962) サム・ペキンパー:監督を含むブックマーク

 これは70年の「ケーブル・ホーグのバラード」の系譜というか、西部の古き良き時代のイイ男が、「西部」の消滅(近代化)とともに消えて行くというようなおはなし。いきなり西部の町なかで行われる馬のレースでは、なんと馬ではなくってラクダが勝ってしまうし、ガンマンの腕自慢(口自慢?)の場は、移動遊園地の射的場になってしまう。さらに主人公の元保安官(ジョエル・マクリー)が街角で自動車にぶっつかりそうになるあたり、まさに「ケーブル・ホーグのバラード」的である。
 その元保安官は金山から金を運搬する仕事を請け負いに来たのだけれども、契約書の文字が老眼で読めないので、トイレに隠れて読んだりする。25万ドル分の金塊を運ぶ(じっさいに行ってみると2万ドルぐらいしかないのだけれども)というので、では助手が必要だと、その射的場でふさいでいた元盟友のランドルフ・スコットをさそうことになる。さらにウエスタン・スタイルにこだわる弱っちい若者(ロン・スター)も仲間に。この仲間三人が決まるのが中華レストラン。壁には漢字で書かれた四文字熟語みたいなのがいっぱい貼ってあるけれど、なかなか達筆で意味も通っているようなので、これはちゃんとした中国のひとに書かせたのだろう。まああまりストーリーを説明してもしかたがないけれど、とちゅうで頑固一徹クリスチャンな父から逃げて来た女性と道中を共にすることになる。かのじょは二度ほど会ったことのある鉱山の男と婚約しているので、行って結婚するという。ところが鉱山に到着してみるとその婚約者の男には三人の兄弟がいて(このなかにウォーレン・オーツとかの姿がみえる)、この四人で花嫁を共有しようとするような。というか、みんな強姦野郎どもである。三人でその兄弟から女を救い出し、金塊と共に山を降りるのだけれども、元盟友はその金塊を元保安官から奪う計画を立てたりして、これを見破られて銃を取り上げられ、手をしばられて山を降りる。ここに鉱山の四兄弟が女を取り戻そうと追ってくる。金塊強盗などあらわれず、金塊をねらうのは身内、しかもチンケで乱暴なばかりのならず者に追われる始末。女性の家に行くと、先回りした四兄弟が女性の父を殺害して待ち伏せしている。それで撃ち合い。若いウエスタン野郎はケガ。盟友タッグを復活させたふたりは兄弟と正面から立ち向かい、互いにバンバン撃ち合う。身を隠そうともせずにズンズン進む。なんで弾が当らないのか、もうここはリアリズム演出ではないのだよ。兄弟はみな倒され、元保安官も致命傷を負って倒れる。「死ぬところを見せたくない、ひとりにしてくれ」というのはやはりダンディズムなのだろうか。

 つまり、何もかも思っていたようなものではない、現実に裏切られてしまうことの連続という作品で、それはもう西部の全盛期は過ぎてしまったからだろう。そのなかでイイ男としてどう切り抜けていくのか。うまく切り抜けてもやっぱり西部劇の時代はもう終わりだから、過去の男として消えて行く。若いウエスタン野郎も知り合った女性といっしょに、さらに西をめざしてサンフランシスコにまで行っちゃうのだろう。

 カメラワークで、山道を進んで行く男たちを後ろから見ていて、そのカメラがぐうんとクレーンで上昇し、高いところからはるか地平まで写し出す。次のカットではこんどは青空を写していたカメラが下に向きを下ろし、さっきからはるか移動してきた男たちがくつろいでいる場面になる。こういう演出はなにかほかの映画で観たことがあったような気がする。




 

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■ 2011-09-19(Mon)

 きょうまで、カレンダーの上では一般に三連休だったわけだけれども、わたしはきょうから四連休になる。わたしの連休が終わるとまた、カレンダーでは三連休がはじまる。それできょうは外に出かけることにしている。せんしゅうのフェスティバル・トーキョーには行こうかどうしようかまよって、けっきょく行かなかったわけだけれども、きょうはまえから予約してあったこともあり、駒場アゴラ劇場での大橋可也&ダンサーズの公演に行く。ゆうがた開演なので、余裕があればちょと寄り道してからゆっくりと帰ってこようという計画。よるの公演で終演時刻と電車のじかんをあれこれ心配するのも疲れるけれど、おわりがみえていれば計画が立てやすい。

 また太平洋の南西に台風があってこちらの方に向かってきているということで、空は曇っている。傘を持っていった方がいいのか迷うけれど、バッグに入れてある折り畳み傘にたよることにする。
 電車に乗り、車内で読書しはじめるけれど、さいきんはどうもわたしにとって電車というものは、動く読書室というよりも移動する仮眠室というぐあいにシフトしてしまっていて、すぐに眠くなってしまう。さいきんはいつも、赤羽をすぎたあたりでちゃんと目が覚める。だいたい一時間ぐらい寝ていることになるのかな。

 ちょっとはやく渋谷に着いて、本屋に立ち寄ったりしてじかんをつぶす。なにか買ってもいいつもりでいたけれども、収穫はなし。きのうだか、渋谷のセンター街が名称を変更して「バスケ通り」になるというようなニュースを読んだけれども、じっさいにもう、通りにはそういう表記がされていた。「センター街」というと「怖い街」というイメージになっているので、イメージを一新したいのだそうだけれども、わたしには「バスケ通り」のほうがずっとずっと、怖いイメージである。バスケのユニフォームを着た若けえあんちゃんたちが町を闊歩していたら、おそろしくって足を踏み入れられない。

 そういうわけで、そのあたらしい「バスケ通り」という看板から逃げるように電車で移動。舞台を楽しんでから電車でひと駅乗り、また「G」へ行く。外はもうすっかり暗くなっているけれどもまだ六時半ぐらいで、台風が近づいているせいなのか、このじかんの風は涼しかった。
 この夜はほかのお客さんの持ち込んだ、まったく知らないデュオのアルバム、なんというか60年代風のゆるいポップスを聴かされて、少々元気を失ってしまって帰宅した。

 

 

[] 大橋可也&ダンサーズ|新作公演「OUTFLOWS」大橋可也:振付 @駒場東大前・こまばアゴラ劇場  大橋可也&ダンサーズ|新作公演「OUTFLOWS」大橋可也:振付 @駒場東大前・こまばアゴラ劇場を含むブックマーク

 この何年かの「大橋可也&ダンサーズ」の活動で、みのがしている公演も多々あるのだけれども、観た公演はどれもわたしなりに楽しんだ。おそらくはそのコンセプトのなかには現在の状況に対するクリティックなアプローチもあるのだろうと想像できる舞台なわけだったけれども、その舞台から、わたしはいっしゅの「ライヴ感覚」というものを楽しんでいたつもりがある。せんげつ観た「ウィスパーズ」にしても、音と身体とのユニークなアプローチによる共同作業という意識で観て、これを楽しんだ。状況へのアプローチ、ということでいえば、むかしの彼らの舞台にあった「暴力」へのアプローチはこのところ影をひそめ、それよりは「終わりなき日常」とかへのアプローチを感じさせるようになっていたのが、彼らのさいきんの舞台からの感想ではある。「ウィスパーズ」の舞台でも、「震災以後」などということはまったく想起しないで観ていた記憶がある。
 でも、きょうのこの舞台、なんだかその「震災以後」ということを強く意識させられてしまった。タイトルもタイトルだし、舞台上部に仕込まれたぐちゃぐちゃになったダクト配管のような装置から、汚泥が床にこぼれ落ちてくるのなど、どうしても福島原発の事故などを思ってしまう。それで、観ていて思っていたのはきわめて素朴なことなのだけれども、ひとつにはいまの現実に対して「どうすることもできない」という無力感を再確認することだった。そして、舞台での「想像力」というのはどういうことなのだろうかと、考えていた。

 舞台での「想像力」というばあい、演出として発揮される「想像力」と、観客がその舞台を観ながらはたらかせる「想像力」というのが考えられる。ここで、前者の演出の想像力とは、つまりは後者の観客の想像力を起動させるために駆使されるものではあるだろう。わたしは観客であるから、観客としての想像力を駆使するけれども、そのなかでその舞台の演出に駆使されている想像力について思いをめぐらせることもある。これを批評行為と呼ぶのかもしれないけれど、わたしは観客としての立場からあれこれの感想を書きつらねるだけである。
 せんしゅうのフェスティバル/トーキョーの野外公演に行かなかったことは別に書いたけれど、これもあれこれ考えて理由をつけて行くのをやめたわけで、つまりこんかいの震災からみょうにインスパイアされたような作品はあまり観たくなかったということで、まあ飴屋さんの演出のは観たい気もあったけれど、もういっぽうのお方はそういうことやっちゃうんじゃないかな、という危惧があって、やっぱり観ない方がいいや、と決めたわけ。これはどうやら危惧したとおりの作品だったようで、やはり行かなくってよかったよと思っている。

 ちょっとこの日の舞台のことからはなれるけれど、さいきんになって、以前にもまして震災以降の「非日常」を強く感じてしまうじぶんがいるように思えてならない。あれがぜんぶ夢だったらどんなにいいだろう、ある日目が覚めたらそんな夢からさめて、なんにもなかった世界がもういちどここからスタートすればと、空想することが多い。やはり震災以降のこの日々はわたしには「悪夢」の世界で、だれかが「それは大げさだろう」などということは、わたしは許さない。あの津波のことや、福島原発の水素爆発のことを思い出すことに、震災直後よりももっと、不快感を強く感じるようになった。この「非日常」とどう向き合って行けばいいのか。おそらくはこれからわたしが生きて行くあいだずっと、この「非日常」に向き合わなければならない。だから、その答えではなくっても、そういうことへの「なにか」を提示してもらいたいという気もちがある。
 ‥‥そういうものは、ない。そういうものをみつけられないということが、この「非日常」の正体であったりもする。だったらなぜ、引き起こしたくない記憶をもういちど引き出されなければならないのか。「この作品は震災をイメージさせる」なんてことは、わたしには最悪の事象のように思えてしまう(いちぶではこれが賞賛のことばとして流通する怪奇さ)。
 かつては、日常のかげにかくされた事象を、舞台なりでそのすがたをイメージさせることなどで現実認識の窓を開き、あらたな思考回路を生み出させる効果もあっただろうけれど、いまは、かくされていることはない(これは政治的な隠ぺい事項をいっているのではなく)。すべてが表面にあるのだから、そんな「表面」をもういちど「表面化」してもしょうがない。やるんなら正面から四つに組んで、全力でその「表面」と闘ってほしいのだけれども、だれもそんなことはやらない。みんな「隠喩」で示してそれでよしとしている。

 まあこれらのことがすべてこの日の舞台に当てはまるということではないのだけれども、さいきん考えているこんなことがらを思い出してしまったということはある。ぜんかいの「ウィスパーズ」ではこんなこと考えなかったというのは、やはりこの「OUTFLOWS」が、震災後のいまを意識して製作されていたからだろう。

 そういうことから出来るだけはなれての感想を書くと、こんかいの音楽は大谷能生氏が担当。音じたいにはおもしろくも興味深いところはあったのだけれども、なんだかいままでの(ここのところわたしが観た舞台での)音楽との「ライヴ感覚」からすると、いっぱんの舞台音楽(といういい方があるのか知らないけれど)にもどってしまった印象がある。あと、後半のダンサー三人のからみのシーン、これは勝手な連想だけれども、むかしの実相寺昭雄監督の演出したATG映画を思い出してしまった。ぜんたいに、いままでの「斜めから見る」ような演出よりはストレートな印象も受けたけれども、わたしがそういうストレートなものを求めるならば、「解体社」とか、そっちの方に行ってしまいたい。

 



 

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■ 2011-09-18(Sun)

 またしごとのシステムが大きく変化する。まあシステムというよりもハード面での変化なんだけれども、入力用の機器がすべて一新される。そのために手順があれこれと変わってしまうのである。いちおうきょう、あるていどのことがらはマスターしたけれども、わたしはまたあしたから四連休になるので、連休明けにしごとに出るとなにもかも忘れてしまっている可能性もあるし、わたしが休んでいるあいだにやり方が統一され、なにもかも変更されることになるかもしれない。なんだかなー、という感じである。

 シャープという会社が去年発売した「ガラパゴス」という情報端末(つまり、iPad の類似品)、早くも販売終了ということになるようである。まあこの機器が発売されるときから、メーカーのいう「早期に百万台販売する」という妄想にあきれていたのだけれども、やっぱりなあ、という感じである。この情報端末の普及の前提にあるのは、つまりは「電子書籍の時代」が到来するという「見込み」だっただろうと思うけれど、まあわたしの考えでは「電子書籍の時代」なんて、百年も早いだろうという気がする。本を読む人が「もうこれからは電子書籍で読もう」などと思うようになる日は、はるか彼方のことだろう。ひとつの基準として、たとえば夏目漱石の全作品が電子書籍化される、シェイクスピア全戯曲の翻訳がタブレットで読めるという状況、つまり基本の古典作品がデータベース化されることがとにかくも前提で、さらにいえば、ピンチョンの作品群だとか、金原ひとみの新作が読めるというような事態になったときにはじめて、「じゃあ、その電子書籍というので読んでみようか」というふうに気もちが動くことになるだろう(まあこれはあくまでも「わたし」の基準ではあるけれども)。そうじゃなくって、単に「電子書籍」ということばに踊らされる人なんて、悪いけれども、しょせん「読書家」などではないはずである。その「読書家」分析をあやまったあたりが、まずは「ガラパゴス」販売戦略の失敗ではないのか。ニュースを読むと「目標の百万台に及ばず、数十万台にとどまったようだ」などと書いてあるものもあったけれど、数十万台も売れているわけがない。それだけ売れていれば撤退しないだろう。わたしなどは、数万台売れていれば「へえー、よくそれだけ売れたものだ」と思うようなものである。たとえ秋葉原の路上で100円で売っていても、わたしは「ガラパゴス」は買わない(いや、100円なら買うか)。

 ニェネントが、部屋じゅうを駆け巡っている。なんか気分的にハイになっているんだろうなと思い、手もとにあったほうきを持ち上げて、ニェネントの前にぶらぶらさせてみた。思いのほか反応して、そのぶらぶらしているほうきの先端にねらいをつけて飛びついてくる。ニェネントの目がクリッと丸くなって、「ああ、やっぱりまだ子ネコなんだなあ」という幼い表情が丸出しになっている。ほうきを見上げる口元のあたりも、「子ネコ」という感じ。それで、狙いをつけたほうきの穂に飛びついてきて、ネコパンチをかませてくる。けっこう力強い。しかも、ワンツーパンチである。ついでにかみついてくる。いつまでも飽きないで熱中している。わたしもついつい付き合って、いつまでもほうきをニェネントの目の先でぶらぶらさせる。さいきんになく長いじかん、ニェネントと遊んだ気がする。

 

 

[] 「こちらあみ子」今村夏子:著  「こちらあみ子」今村夏子:著を含むブックマーク

 読みはじめは、ちょっとハードな状況にあるけれども天真爛漫天衣無縫、活発で明るい女の子を主人公にしたポジティヴな物語かと思って読んでいたんだけれども、読んでいるうちに、そのハードな状況は、つまりはその主人公の女の子が呼び込んでいるものじゃないかと気づく。ネガティヴといえばネガティヴな、おぞましいといえばおぞましいストーリー。ちょっとばかし、ショックだった。

 「あみ子」を主人公として三人称で書かれたこの作品は、その「あみ子」の視点のみでつらぬかれ、いったいあみ子の周辺は客観的にはどういうことになっているのか、なかなか読む側にはわからないことになっている。しかしたとえば母のいうあみ子の「インド人」とはどういうことなのか、それが学校の給食のカレーのとき、あみ子は手だけを使って食事をすることをいうのだな、とわかってくるように、じょじょに家庭の事情もまた読み取れてくる。そして、家庭は崩壊の危機に近づいていく。母はあみ子の実母ではなく、父の再婚による継母であることもすいぶんあとに書かれているけれど、そのことがそのまえのあみ子の行為に、より残酷な意味合いをもたせることになる。

 あみ子が決して想像力の欠如した子ではないことは、読んでいればおのずから読者にも了解されることなのだけれども、たとえばあみ子の宝である、一台になってしまったトランシーバーのおもちゃが象徴するように、その想像力は一方通行になってしまっているといえばいいのか、このあたりのことを簡単にそう割り切って考えてしまうと、この作品を読みそこなうことにもなりそうではある。「こちらあみ子、こちらあみ子」とトランシーバーに呼びかけても、返答はない。いつもかのじょに答えるのは「霊」の声、だったりする。そこにかのじょの孤独地獄を読み取ることも出来るだろうけれども、では誰が、どのような返答を出来ただろうか。ラストから冒頭へ回帰する時の流れのなかで、あみ子は他者への想像力を方向転換しはじめているようにも読める。トランシーバーに返答する相手があらわれるのだろうか。

 ちょっと、いままでに読んだことのない種類の作品という印象で圧倒された。
 しかし、もう一編収録されている「ピクニック」を同じ構造の作品と読むと、こちらはちょっと失敗しているのではないかと思う。どこがどう失敗していると思えるのか、ここで書くこともないように思う。





 

[] 「アンソニーのハッピー・モーテル」(1996) ウェス・アンダーソン:監督  「アンソニーのハッピー・モーテル」(1996) ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 原題は「Bottle Rocket」で、打ち上げ花火(ロケット花火)のこと。ウェス・アンダーソンの長篇デビュー作にして、わたしの大好きな傑作。ここにも、ちょっとばかし「あみ子」ちゃんみたいな、あぶなっかしい人たちが登場してくる。

 主人公のアンソニーは精神を病んで療養所に入所していたんだけれども、めでたく退所ということに。ここで親友のディグナンが出てくるんだけれども、まあこっちの方がよっぽど精神を病んでいるんじゃないかということになる。ディグナンというのは、いってみればストーリー(計画)フェチというか、じぶんの行為にすべてストーリーを付加していかないといられないらしい。じぶんの75年後までの計画をノートにしたためた彼のヤバいところは、それらの計画がみんな犯罪に結び付いてしまうあたり。そんなディグナンに巻き込まれてしまうアンソニーだけれども、彼は「今そのとき」をこそ大事にする、「まとも」なところがある。彼にとってはそういう「今」の、いっしゅんいっしゅんこそがかけがえのない美しいものに感じられているようである。これともうひとり、ボブという、兄貴のことだけが全世界のような、やはり変なおぼっちゃまがディグナンの仲間になりたがっている。ボブの兄貴はまた、ボブをバカにすることにこそ生きがいがあるような男である。アンソニーとディグナンは夜の郊外書店に強盗に入り(このあたりは邦画の「アヒルと鴨のコインロッカー」の元ネタになってるんじゃないかと思ったりしているけれども)、ボブを運転手にして逃走、見知らぬ土地のモーテルに潜伏するわけで、アンソニーはそのモーテルではたらくパラグアイ人のイネスにひとめ惚れしてしまうと。

 まあこのあとに、ディグナンの計画する倉庫の金庫をねらった大がかりな現金強奪計画のおバカなてん末(爆笑)とかがつづき、さいごはディグナンが刑務所に入ってしまうのだけれども。

 基本的にはアンソニーの視点からの展開で、そういう彼の「今を美しく感じる」という気もちが、この作品をみずみずしい新鮮さにあふれさせている。ただのコメディー映画でないあたりはウェス・アンダーソン監督のいつものことだけれども、この作品での、「人生のこの時期にいちどだけ、こんなことをやっちゃってもいいじゃないか」というような視点が、まるでジャック・ロジエの「アデュー・フィリピーヌ」を思わせるような、切なくも楽しい感覚を生み出しているのだと思う。もちろんそのテーマは主人公たちが興じる「打ち上げ花火」にも通じるものであり、夜の青い光につつまれたプールや緑の芝生の美しさとともに、この作品をわたしに忘れがたいものにしてくれている。何度観ても、楽しいものは楽しい。




 

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■ 2011-09-17(Sat)

 いつまでも暑い日がつづき、伸びた髪が首筋にまとわりついてうるさい。汗が髪をつたって首筋をぬらし、それがかゆみになる。この際ちょっとばかし髪をカットしようと、久々に自分でチャッチャッと髪を刈る。すこし伸ばし気味にしておきたいのであまりカットしたつもりはなかったのだけれども、あれれ、なんだか以前のいつもの髪型に戻ってしまったような。

 ニェネントをかまう。ニェネントを抱き上げて、いつものように寝転がってニェネントをわたしの顔の上にあげ、ニェネントの鼻先をなめたり、ニェネントのまえ足にかみついてやったり。きょうはいつもの度を越してしつっこくニェネントをかんでやる。ニェネント、怒る。わたしの二の腕につめを立ててきて、ほんとうに久しぶりに腕から血がにじんだ。ああ、やっぱり、いままでニェネントがわたしにつめを立てても、あれでやっぱり加減していたんだなとわかる。きょうはほんとうに怒ったんだ。ちょっとやりすぎたかしらん。そう思いながらも指先でニェネントの顔をはじいてやると、ネコパンチをくり出して応戦してくる。嫌われたかしらんと思うけれど、やはりあとでわたしの腕をなめてきたりする。まあなめてくれるのが愛情表現というわけでもないんだろうけれど、ふん、絆だね、という感じではある。自分勝手な飼い主の繰り言ではあるが。

 きのうから東京の方面で「フェスティバル/トーキョー」がはじまっていて、その幕開きは飴屋法水さん演出の野外公演。余裕があれば行きたいなあとは思っていたのだけれども、なんとか観ることができるくらいの余裕はありそう。それでやはり出かけようかなあなどと思ったり、ムリして行くこともないだろうと思ったり。今回の公演のテーマが宮澤賢治というのはちょっとわたしにはしきいがあるし、飴屋法水さん演出の単独公演ではなく、ロメオ・カステリッチの舞台といっしょの公演というのも気にかかる。ロメオ・カステリッチ、あまり期待するような気もちがわたしのなかにないわけである。これをムリして観るよりも、らいしゅうのフォルクスビューネの公演を観た方があれこれと刺激を受けるんじゃないかと思ったり、まあやはりここは無駄遣いしないようにとか思ったり、うだうだしているうちにじかんが過ぎて、つまりはけっきょく行かないで、いちにち家で本を読んだりヴィデオを観たりしてしまった。

 

 

[] 「和子の部屋 小説家のための人生相談」阿部和重:著  「和子の部屋 小説家のための人生相談」阿部和重:著を含むブックマーク

 図書館から借りたまま放置してあったのをようやく読んだ。阿部和重の著作ということになっているけれども、内容は十人の女性の小説家との対談(ひとつは鼎談)で、それぞれの小説家が阿部和重に「悩み」をぶつけ、回答してもらうというもの。
 やはりそこは小説家が小説家に「人生相談」するんだから、小説家としての生き方、小説を書くということそのものへの設問が多いわけで、そういうことがモロに出たさいしょのふたつの対談などはすいすいと読み進むというわけでもなかったけれど、みっつめの川上未映子との対談あたりからがぜん面白くなってしまい、あとは終わりまで一気に読んでしまった。

 こういう対談集がうまれたそもそものきっかけが、阿部和重がこの本でも対談を行っている角田光代らと会ってあれこれと会話していて、「あんた、人生相談とかやるといいわよ」とおだてられたのを本気にして現実のものにしてしまったということで、なるほど、読んでいても阿部和重の反応の早さ、またその的確さ、ユニークさなどからうまれる楽しさを、存分に味わうことができた。自分とは正反対の文学観を持っている相手にも、「そりゃあ違うだろ」などという論争モードにならないところなど、すばらしい対談の名手ではないか、という感想も出てくる。

 まあ相手がすべて女性ということもあって、恋愛相談のようなモードもうまれてくるわけだけれども、わたしはこの本の九編の対談のなかでは、綿矢りさとの対談がいちばん楽しく読めた。というか、読んでいて何度か吹き出してしまったり。綿矢りささんという人、悪い意味でなくって、ほんとうに「ふつう」の女の子というトークで、もうここは「文学」から離れて、ひたすらガールズトークっぽい対話がころがっていく。この本ぜんたいに、阿部和重氏じたいが自分の男性性をおもてに出さないで対話されているわけで(だから「和子の部屋」なのだ)、そのことがこの対談集全体に素敵な「軽身」をもたらしているという印象。

 もちろん「小説を書く」ということをめぐる対話なども読みごたえがあり、対話相手の文学観などがあらわになって「なるほどねえ」ということにもなる。わたしはこの本に登場する対談相手の書いた小説は、ふたりを抜かしてだいたいすこしは読んでいるのだけれども、それぞれの対談から生まれる各作家の差異が、なるほどそれぞれの小説の差異となって感じられるということもある。川上弘美との対談での「編集者の仕事」についての展開も面白かったし、さいごの桐野夏生との対談など、わたしはあまり読んでいない彼女の小説を、今すぐにあれこれ読みはじめたくなるように感じさせられてしまうのだった。
 楽しい企画だったので、これはぜひとも継続し、次のゲストにはやはり、LADY GAGA を呼んでいただきたいものである。



 

[] 「ガンヒルの決斗」(1959) ジョン・スタージェス:監督  「ガンヒルの決斗」(1959) ジョン・スタージェス:監督を含むブックマーク

 これ、せんじつ観た「3時10分、決断のとき」のオリジナル、「決断の3時10分」の影響が強いんじゃないかと思う。というか、列車で犯人を護送するために、列車到着時間までホテルの二階の部屋に立てこもるという設定、ホテルの部屋の外は敵ばかりという圧倒的アウェー状態など、あれこれと共通している。ただしこの作品、先住民の妻を殺害された保安官が、犯人の残した遺留品(馬の鞍)から、犯人がかつての自分の盟友の周辺の人物であることを知り、その盟友の仕切る町へと単身列車に乗って捜査に行くというもの。犯人はかんたんに割れるのだけれども、それはその盟友の一人息子だったと。盟友は「息子を連れていくならばおまえを殺す」ということになり、町じゅうが保安官の敵になる。酒場の女ただひとりをのぞいて。

 保安官役はカーク・ダグラスで、その盟友はアンソニー・クィンが演じている。すでに交通手段として鉄道網が活躍している時代で、町のバーの内装にもアール・デコ様式のような雰囲気がある。先住民との争いも表面的には終結していて、だから主人公の妻は先住民である。もう西部開拓の時代ではなく、町に暮らすひとたちも、町に根付いた「市民」としての生活をだいじにしている。冒頭、カーク・ダグラスは町の子どもたちに、かつての無法者たちが暴れていたころのじぶんの武勇伝を語って聞かせている。子どもたちは「そんな時代に生まれていればよかった」と語るような時代である。アンソニー・クィンはそんな時代に、そもそもの町が成り立っているかなめであるような大物として存在しているわけだけれども、カーク・ダグラスの「法」の前に屈服しようとしないところで、古い西部の無法時代の精神を象徴しているわけだろう。カーク・ダグラスにも「妻を殺されたことへの復讐」という私怨はありそうだけれども、その私怨は「法」の代理人という任務と同一のものとして、いってみれば「浄化」されている。妻を無惨に殺されたうらみは、先住民への差別意識への告発として表現される。あたらしい「法」〜国家との契約〜の時代が、旧的な「強いものが正義である」という世界観を打ち破る、という映画である。「法」は「親子の情」よりも、「友情」よりもまさるものだと。

 酒場の女(アンソニー・クィンの愛人)として登場するキャロリン・ジョーンズの存在が、この作品に娯楽映画として華をそえるのだけれども、彼女がカーク・ダグラスに手渡すショットガン、はたして役に立ったのかどうか、よくわからない。犯人のアンソニー・クィンの息子を連れまわすときにあごの下に銃口をあてているのとか、かんたんに外せそうだし、ふつうの銃の方がやりやすそう。ラストの銃撃戦でも、ふつうにピストルでよかったじゃん、という感じはする。

 



 

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■ 2011-09-16(Fri)

 まだ暑い日がつづく。またアイスが食べたくなり、ぜんかいの「白くま」は食べたあとの口のなかがイヤだったので、こんどはいつもの(といっても、めったに買うことはないけれども)「スイカ&メロンバー」を買ってくる。賞味期限が切れそうで安売りしているコーナーに肉まんが置いてあったのも買う。まるで季節感のない買い物である。帰ってから肉まんをレンジでふかして食べていると、ニェネントが寄ってきて机にあがり、肉まんに顔を近づけてくる。やっぱり肉のにおいですかねえ。これはふかしたてのあつあつだから、猫舌のあなたには食べられませんよ。

 この日曜日は震災から半年の日で、しかもアメリカの同時多発テロからもちょうど十年という日だったけれど、わたしは何も書かなかった。ちょっとあとに知ったのだけれども、その日に新宿あたりで行われた反原発デモでは、デモの参加者に逮捕者が出たらしい。いきさつを読むとどうやら挑発に乗ってしまったという雰囲気もあるけれども、じっさいのところはわたしにはわからない。まえにわたしが反原発デモに参加したときにもそういうまわりからの挑発の空気は感じていたので、ああいうのがいっそう切迫してきたのかな、などという感想はある。ただ、いまは主催者は参加者からぜったいに逮捕者が出ないように尽力してほしい。「アラブの春」をやるわけではないのだから、平和裏にデモの解散までもちこみ、まずは参加者が不安を感じることなくデモに参加できるような空気をつくらなくては。こんかいのデモに参加もしていないで勝手なことをいってもひきょうだけれども、今は「デモ」というかたちではない意思表示の方法を考えるべきとき、なのかもしれない。もちろんそれは宇野なにがし氏のいう「ハッキング」(わけのわからんことばだ)ではないだろうけれども。

 

 

[] 「女賭場荒し」(1967) 弓削太郎:監督  「女賭場荒し」(1967) 弓削太郎:監督を含むブックマーク

 しょうじき、せんじつ観たこのシリーズの一本まえの作品「女賭博師」には、あんまりピンとくるものがなかったのだけれども、この「女賭博荒し」には成田三樹夫が主演級で出演しているもので、これはやっぱり観ておこうと。
 ‥‥これはやはり、期待どおりにおもしろかった。前作なんかもんだいじゃないおもしろさで、これならシリーズ化されるのも当然である。同じ監督でもここまで変わるものかと感心する。まあ演出手法がとつぜんにすばらしくなるというものでもないはずだけれども、ここでのホテル内の賭場の撮り方だとか、終盤のクライマックス、早朝の絵馬堂での一対一の対決の見せ方とか、これはちょっと身を乗り出して観てしまう。これはひとつには脚本の良さ、ということもあるんだろう(脚本は長谷川公之というひとで、この方は美術評論家としても活躍された方だそうである)。主演の江波杏子もこの役になれたのか、クールさにも磨きがかかって見惚れてしまう。この作が「昇り竜のお銀」としてのデビューになるわけで、これは東映で翌68年からシリーズがはじまる藤純子(富司純子)の「緋牡丹博徒」シリーズの元ネタでもある)。いや、クールさというのではもうほかに比すべくもない名優、成田三樹夫という存在がここにあったればこそ、江波杏子もまたきわだってみえることになったのだろうか。かげになりひなたになり、つねに江波杏子をサポートするのが成田三樹夫ではあって、賭博の世界に江波杏子を引き込むのも彼なのだけれども、つまり彼は裏社会どっぷりの男であって、その存在はたんじゅんに「正義」とも「悪」とも割り切れないところがある。まさに成田三樹夫のために書かれたような役で、すばらしい存在感を示してくれる。
 ただ、さいごに江波杏子と対決することになる高千穂ひづる(なんと、役名は「緋牡丹のお秋」というのである)だけれど、この配役は前作の川口小枝的なミスキャスト感が強い。勝負師というよりも、どうみても銀座の高級クラブのママさんぐらいにしか見えず、クールさの際立つ江波杏子のライヴァルとしては、どうにも市民的にすぎるようではある。ましてやこのラストだし。

 前作に引き続き江波杏子の父は加藤嘉が演じていて、ここでもキリリと引き締まった演技をみせてくれる。この隣人夫婦役で桂米丸と都家かつ江がちょこっとだけ出てくるけれど、このふたりのやりとりがふたりの芸を感じさせ、とっても楽しい。あとは悪役で小池朝雄とか待田京介とか。こうなっちゃうと、ほかの「女賭博師」シリーズも観たくなっちゃうのである。




 

かなかな 2011/10/20 09:18 初めまして。
津軽じょんがら節で意識して以来、江波杏子の他のも見たいと思い、女賭博師シリーズを観ています。
このシリーズは沢山ありすぎて似たような話が多いので、
今はサブキャストに好きな俳優が出てくるときだけ全編観ていますが、この女賭場荒しは最高でした。
なんたって小池朝雄と待田京介、それに成田三樹夫。
仁義と網走メンバーじゃないですか。タイトル見ただけで期待度がぐんぐん上がりました。
成田三樹夫の神出鬼没には笑いましたが、
「私にとってかけがえのない女でした」イイ役でしたね。
失恋したお銀さんの涙、ラストの正面アップの決意に満ちた顔、思わず「完」に拍手。
確かに高千穂ひづるはあの役には合わないかも。
もっとドスの効いた女優はいなかったのかな。

crosstalkcrosstalk 2011/10/20 12:04 どうもです。

「津軽じょんがら節」の江波杏子、よかったですね。
日本映画専門チャンネルではしばらくこの「女賭博師」シリーズを放映するようなので、機会があればまた観ようと思っています。

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■ 2011-09-15(Thu)

 十二日の夜はじつは旧暦の八月十五夜で、つまり中秋の名月だった。わたしはその夜ターミナル駅のシネコンで映画を観ていたわけだけれども、帰りの電車に乗るときには、その月に雲がちょうどかかってしまっていた。電車から降りたときにはもうちょっとで雲のあいだから月が顔を出しそうだったけれど、このときもちゃんとその十五夜の月をみることは出来なかった。でも、帰る途中に、庭に出て月見としゃれこんで空を見上げている方の姿も、見てしまったりした。二、三年まえにも、月見のためのすすきを刈っている方を見かけたことがある。このあたりにはちゃんと「月見」という伝統が残っている。

 翌朝になって出勤するとき、西の空に美しい丸い月がうかんでいるのをみた。きょう職場でそういう話をすると、ほかの職場の方々から、このあたりにはその十五夜に合わせた風習が残っているという話を聞くことができた。その行事は「ほうじぼ」と呼ばれているらしく、十五夜の夜になると、このあたりの子どもたちは外に出て集合し、おのおのがわらを束ねたもの(これが「ほうじぼ」と呼ばれるらしい)を手にもって、歩きながらそのわら束で地面を打っていくとのこと。それで、皆ではやしことばをうたいながら、あたりの家をまわって歩くらしい。そうすると、子どもがまわって来られた家では、子どもたちにお菓子だかお小遣いだかをあげるのだということ。ハロウィーンそっくりである。どうやら収穫の時期をまえにして、害虫を追い払うとかそういう意味があるらしいのだけれども、その子どもたちがはやしたてることばは、地域によっていろんなヴァリエーションがあるらしい。ちょっと記憶から抜けてしまったけれど、「おおむぎこむぎ、」とはじまるのはどの地域も同じみたいだけれども、そのあとがどうもいろいろあるらしい。職場にはこの地域で育ったひとばかりが集まっていて、それでその住われている地域があるていど離れているというあたりで、こういう風習での地域的差異というのが、思いがけずに出てきたりすることになる。面白いなあ。
 笑ってしまったのは、その十五夜になるとそうやって子どもたちがいっぱいやってくるわけで、いちいち小遣いとかやってるとたいへんであるということで、十五夜のよるは家族で車に乗って外に出かけてしまうのだというひとの話。おかしいけれど、そうやって貴重な風習がすたれてしまうようではいけませんねえ。まあこういう風習の残っているのは市街地から離れた農業地域で、わたしの住んでいる駅前ではそうやって家々を巡回する子どもたちなんて、居やあしませんよ。

 こういうことを、フィールドワークとしてちゃんと記録することから民俗学がはじまるわけだなあ、などと思ったり、そういう風習(あれは「鳥追い」、だった)を記録したつげ義春のマンガ、「ほんやら洞のべんさん」などを思い出したりしてしまうのであった。

 

 

[] 「十戒」(1956) セシル・B・デミル:監督  「十戒」(1956) セシル・B・デミル:監督を含むブックマーク

 ‥‥シナイ山上で、神はモーゼの目の前で十五の戒めを岩に刻み、この戒めを民に伝えよとモーゼにのたまう。五つずつ三枚の岩板に刻まれた戒めをモーゼは民のもとに運ぼうとするけれど、いかんせん三枚の岩板は持ち運びにくく、とちゅうで一枚落っことして粉々に割ってしまう。モーゼは知らん顔をして山を下り、二枚の岩板をかざして「見よ、これが十戒であるぞよ」と語った‥‥。
 いや、これはメル・ブルックスの「珍説世界史」のギャグだけれども‥‥。

 せんじつ「アレクサンドリア」という映画を観たばかりなので、どうしてもあれこれと比べてしまう。この原典の「出エジプト記」というのがあるからこそ、なおさらにアレクサンドリアの破壊には力がこもってしまったんだろうか、などと思ったりするけれど、この作品はそれほどガッチガチに宗教色に染め上げられてしまっているというわけでもなく、主人公のモーゼの数奇な運命をこそメインにもって来ているという印象にはなる。だからこそ、ユル・ブリンナーの演じるラムセスだとか、アン・バクスターのネフレテリとの関係とかがクローズアップされるというか、なんだか、バンプなアン・バクスターの、およそエジプトらしくない「(現代的な)イヤな女」ぶりなんかが、わたしにはいちばん印象に残ってしまう。こんな女を妻にむかえりゃ、そりゃあユル・ブリンナーのラムセスもかわいそうになってしまうよ。

 まあその神からの戒律のせいで人がバタバタ死んだりするわけで、多少は「観ているあんたらも十戒は守ろうね」といってるのかもしれんけど、「出エジプト記」にはそう書かれていたのよ、というニュアンスの方が強いんじゃないかと思う。「金の子牛」のどこが悪いのか、この作品じゃあよくわからないもの(すくなくともわたしには)。

 一般にこの作品、モーゼが紅海をふたつに割って、そこをヘブライびとが逃れるシーンで有名だけれども、このシーンは特撮技術さえあれば誰が撮ってもこういう演出になるだろう。それよりも、そのモーゼがシナイ山に行くあいだに堕落するヘブライびとの狂乱のシーン(まあこれは現代のロックフェスティヴァル、いってみれば「ウッドストック」だね。われわれは堕落していますよ!)こそがものすごくって。これって、絵心がなけりゃあ演出できないだろうというか、これはまるでルーベンスの大作がそのまま動き出したかのようなバロックさ、というか、これがまた地面が割れてそんなひとびとが奈落に呑み込まれる場面まで、もう観ていてもあたまがクラクラしてしまう。波打つような群集をすり鉢のようなロケーションに配置し、嵐のように動かす演出の強烈さ。色彩設計もすごい。わが家の解像度の低いチンケなモニターで観てこれだけ圧倒されるんだから、映画館の大画面で観たらいったいどうなっちゃうんだろうと、じぶんの身の上を心配せずにはおれない気がしてしまう。こんな強烈な演出してこます監督なんて、いくらCGとかの技術が発達しても、今後もうあらわれないんじゃないかと思ってしまう。

 出演者たちはみな、演劇舞台のように格調高くも聴き取りやすい英語をしゃべっているわけで、おかげでわたしぐらいの英語力でもかなり聴き取ることは出来たんだけれども、この日本語字幕、あまりに超訳すぎるというか、ほんとうはもっとカッコいい言い回ししてるのに、平たんなことばに置き換えてしまっている。残念。





 

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■ 2011-09-14(Wed)

 月曜日に映画を観に行って、ついでに寄ったホームセンターのペット売り場にネコのラグドールのこどもが売られていた。ニェネントとちがって面割れしているんじゃなくて、鼻のあたりを頂点とするようにこげ茶のグラデーションになっているんだけれども、しっぽがすっかりこげ茶だったりするのはニェネントとおんなじ。これが「あっ」とおどろく価格で売られていた。まだ子ネコなので愛くるしくもかわいいんだけれども、一年もたつとニェネントなどとそう大してかわらなくなってしまうんだろうか。まあニェネントがぶさいくなネコだなどというつもりはないけれども、やっぱ体型はおかあさんだったミイに似てきたというか、どこかスマートさに欠ける気がしてしまうのである。ふつうにラグドール100パーセントのネコなら、ニェネントみたいな体型にはならないか。

 ニェネントは、わたしがリヴィングにいるときにはよく、リヴィングに置いてあるパイプ椅子の上で丸くなっているんだけれども、きょうみていたら、その椅子の上から降りようとして足を踏み外し、ボテーンと床に落っこちてしまった。ふふ、見ちゃったぞ。こいつ、運動神経鈍いんじゃないかしらん。室内飼いなのであまり運動ができないせい? ペット売り場にはネコのお散歩用の首輪みたいなものも売っているのをみた。ああいうのを買って、ときどきはいっしょに外を散歩してみようかな、などと考えたりする。

 きょうもまた残暑きびしく、部屋にいても暑い。また昼寝をしてしまう。

 

 

[] 「日本残侠伝」(1969) マキノ雅弘:監督  「日本残侠伝」(1969) マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 このあたりすげえややこしいんだけれども、「日本侠客伝」というのがあって、「昭和残侠伝」というのもある。どちらも高倉健主演で、どちらもシリーズになっている。池部良の風間重吉役が有名な、クライマックスに「唐獅子牡丹」が流れるのは「昭和残侠伝」で、このシリーズは全九作ある(うち二本はマキノ雅弘監督)。「日本侠客伝」は全十一作あるけれども、その九作目まではすべてマキノ雅弘監督。これらはもちろんすべて東映の作品だけれども、日活がマキノ監督を招いて、一本だけ撮ったのがこの「日本残侠伝」というわけ。原作もマキノ監督で、脚本も永田俊夫というひとと共同で書いている。まあ、「すべておまかせしますので、ぜひ当社でも一本、ヤクザ映画を撮って下さい」と誘われたのだろう。ここでの主演は、高橋英樹。ちなみに、この「日本」と「昭和」、「侠客伝」と「残侠伝」の組み合わせなら、もうひとつ「昭和侠客伝」というのがつくれるわけだけれども、そういう映画はいまだ存在していない。(※後記:あとで偶然、あの石井輝男監督が1963年にまさに「昭和侠客伝」という作品を撮っていることを知ってしまった。これで組み合わせはすべて埋まっちゃいましたね。)

 わたしはたぶん、「日本侠客伝」も「昭和残侠伝」も、どちらもその第一作を観ていると思うのだけれども、この「日本残侠伝」の設定は、なるほどその既成作品の双方からいただいてきちゃっている感じはする。この「日本残侠伝」での浅草/木場のあたりの、新旧の材木商らの抗争というのは「日本侠客伝」で、時代もこちらに近いのだけれども、デパートを作るので職人の長屋を取り壊すのだというあたりは、「昭和残侠伝」での、終戦後の焼跡のヤミ市を統合してスーパーにしようとする話とかさなってくる。まあ双方のイイトコ取りみたいなというか、東映では文句のひとつもいいたくなったんじゃないかと思うけれど、「ふん、こっちには高倉健がいるんでえ」というあたりで、ケンカにもならなかったんじゃないかと思う。やっぱりねえ、高橋英樹がダメというんじゃないけれど、東映映画での高倉健の、「しのんでしのんで、がまんしたあげくに、ついにブチ切れてしまう」というあたりの圧倒的な迫力を、ここで高橋英樹に望むことはできなかった、というあたりでしょうか。ストーリー展開でも、じつはラストのなぐりこみのまえにいちばんの懸案は解決しているというか、高橋英樹の乱入は、意趣晴らし/かたきうちという要素の方が強い。

 しっかし、マキノ雅弘という監督は群像を撮るのがめちゃうまくって、こんかいは自分で脚本も書いているから、そういうシーンをうまく使っている印象。談合、葬儀、そして争議、乱闘と、奥行きを出しながら画面を動かしていく力には圧倒させられる。ストーリーなんかどうでもいいから、ただそういう監督の手腕をさえ楽しめばいい。そういう映画かと。


 

[] 「女賭博師」(1967) 弓削太郎:監督  「女賭博師」(1967) 弓削太郎:監督を含むブックマーク

 これは大映映画末期のヒットシリーズから。この作品は第一作というわけではなく、66年の「女の賭場」のヒットを受けて製作されたもの、ということ。タイトル部のバックの映像が当時の東京の「モダン都市」という側面を強調した映像で、つまりはそういうモダン都市の裏側で、いまでも江戸からの伝統の賭場がひらかれているのよ、というあたりのギャップ感をねらってるんだろうか。じっさい、この江波杏子の演じる賭博師のおもての顔は、六本木のピアノ・バーの経営者ということで、経営者みずから、そのバーでピアノを弾いたりもするわけである。それがいざ賭場がひらかれると、バーのウエイターでもある山田吾一とともにその場におもむくわけである。

 まずはこの、江波杏子にどこまでも忠実な男、山田吾一の造型がおもしろい。映画のさいしょのシーンはいきなりのサーヴィスで、江波杏子の入浴シーンなんだけど、さあこれから賭場へ、というわけでその風呂上がりの裸身にさらしを巻いていくんだけれども、それを手伝う山田吾一のシャイな目線がいい(これとほとんど同じようなシーンが、せんじつ観た「アレクサンドリア」にもあったっけ)。まあ全編にわたっての、彼の童貞っぽさもうかがわせるような、目線の演技というのがきわだっていて、これを受ける江波杏子のクールさとの対比が、ほんとうに楽しい。

 でもあとは、いまみると大したことないな、というか、そのピアノ・バーだってインテリアが決まってないし、照明も明るすぎてちっとも都会的な感じがしない。それで江波杏子のライヴァルとして登場するのが川口小枝なんだけど、そりゃあ大島渚監督の「白昼の通り魔」では(田舎の娘として)抜群の存在感は示した女優さんではあるけれども、このひとはやはりこの映画でも、ちっとも都会的な感じがしない。都会的な江波杏子に対する存在としては、こういう田舎娘ではもうさいしょっから勝負あった、と感じてしまうのはわたしだけではないだろう。これが江波杏子の恋人のカメラマンをとってしまう。むむむ。「赤い殺意」の春川ますみがとつぜんまぎれこんできたというわけだが、これはそういうドラマじゃないだろうが、と思う次第である。ぜんたいの構成などをみても、アバウトないい方ではあるけれども、この時代の東映、日活などと比しての、大映という映画会社の立ち位置がわかるような気がする作品、ではあった。

 この映画で披露される賭けごと、どうも見なれないというか、そもそものルールからしてまるでわからないんだけれども、「手札引き」という博打らしい。観ていて何がどうなって勝ち負けが出てくるのかさえわからないので、あれよあれよ、という感じではあった(あんまり説明しちゃうと賭博を奨励することになっちゃうんだろうか)。




 

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■ 2011-09-13(Tue)

 きのうは映画が終わるとすぐに電車のじかんがせまっていたので、あわてて飛び乗ってニェネントへのおみやげを買ってあげるじかんが取れなかった。

 きょうも暑い。しごとを終えて帰宅して、ベッドで本を読んでいたらそのまま寝てしまった。目が覚めたらもう十二時で、おひるを食べる気分でもなくブラブラする。録画していたヴィデオを観ていたらまたいつの間にか寝てしまっていて、こんど目が覚めたらもう外は暗くなっていた。炊いて保温にしてあったごはんで食事をし、それから本を読んでいたらまた寝てしまった。寝てばっかりのいちにち。書くことがないので、きのう観た映画の感想をこっちへ引っぱってくることにした。

 

 

[] 「アレクサンドリア」アレハンドロ・アメナーバル:監督  「アレクサンドリア」アレハンドロ・アメナーバル:監督を含むブックマーク

 この作品はこの春に一般公開されていたらしいけれど、ぜんぜん知らなかった。いまになって当地のシネコンで上映。アレハンドロ・アメナーバル監督の作品は、「オープン・ユア・アイズ」も、「アザーズ」も楽しんで観たものだったけれど、そのあとの「海を飛ぶ夢」は見逃してしまっている。この「アレクサンドリア」は、アレクサンドリア図書館の破壊と、同時期の女性数学者ヒュパティアの虐殺を描いたものらしいっちゅうのと、監督がアメナーバルなもんで、これは観ておこうと思ったもの。

 ‥‥これは、宗教の「不寛容」をこそテーマにした作品で、つまりグリフィスの「イントレランス」(不寛容)の、バビロン篇を再映画化したような気配が感じられる。しかしこの作品で狂気じみた不寛容ぶりを発揮するのは当時のキリスト教信者たちである、というあたりがこの作品の大きなポイントで、これはまさにこの現代、西欧の保守的なキリスト教の信者たち、その信者たちで構成される国家が、イスラム教徒やイスラム教国家を攻撃してきていることをこそ念頭においての作品であり、そのあたりをクローズアップした演出であることが強く感じられる。また、ラストにヒロインのヒュパティア(演じているのはレイチェル・ワイズ)がキリスト教徒たちに引き立てられていくシーンで、キリスト教徒からヒュパティアに「魔女め!」とのば声があびせられるあたりでは、この作品の製作国であるスペインの暗い過去、「異端審問」をもまた強く想起させられることになる。
 異なる宗教の神々を否定し、文化遺産である美術品や書物を破壊、焼却し、その信者たちをまた石もて打ち殺すすがたに、近年イラクに対してアメリカのやったことを重ねて見てしまうことはたやすく、特にアレクサンドリア図書館中央に建てられていた巨神像をキリスト教徒たちが打ち倒し破壊するシーンは、まさにアメリカ軍兵士らが当時のイラクの指導者であったフセインの大きな立像を破壊した行為のアナロジーとして眼に写る。
 映画のなかでさいしょとさいごに、遠く宇宙から地球への俯瞰映像がだんだんに地表に近づいて、この作品の舞台のアレキサンドリアへといたるシーンがあるけれど、宇宙からみればこの作品の時代設定である四世紀から五世紀の世界も、二十一世紀になったこの現代も、たかだか千六百年ぐらいの違いではないか、いったい何が変わったというのか、とでもいっているように感じられることになる。

 ただ、このキリスト教徒たちの増長にあわせて、ヒュパティアの天文学上の研究が描かれるわけだけれども、まあこれはフィクションとして、かのじょの思考は地動説にいたるところだったし、ひょっとしたらニュートンの発見とおなじ発見への端緒も、そこにはあったんじゃないか、ということになる。物理学的思考の過程をていねいに演出してみせてくれているのにはちょっとは感心したけれど、説明が足りないところもあるよな、などと思ってしまった。
 ヒュパティアをはさんで、アレクサンドリアの町をつかさどる長官と、奴隷からキリスト教徒になる男との三角関係というか、ふたりの男がヒュパティアに寄せる想いもまたクローズアップされていて、そのあたりがヒュパティアの運命に影響をおよぼすことになるからこそクローズアップしてるんだけれども、このあたりの演出はどうも釈然としないところがある。それはヒュパティアの側にまったく恋愛感情がないせいかもしれない。

 わたし的には、アレクサンドリアの図書館の破壊をいかに演出するのか、というあたりに興味もあったのだけれども、このあたりはじつにあっさりした演出で、「ここに世界の知の遺産が収納されていて、それがいま破壊されようとしている」という「畏れ」が感じられないのであった。これが例えば「薔薇の名前」での、修道院の図書館焼失シーンなどの方がまだ「うわあ」という感じがあったなあ、などと思ったりもするのだけれども、ここで、映画としての「美術」の、その圧倒的な「差」にもまた、思いいたることになる。やっぱり、こういう中世だとかそれ以前とかを舞台にした作品は、ダンテ・フェレッティに美術をやってもらわなくっちゃダメよ、って感じなのである。もう、こういうある程度以上の大きさのある建造物を映画内でつくり出すばあい、ダンテ・フェレッティ以外のひとでいい仕事をしている美術監督というのは、これは残念ながらずっと近年、めぐりあったことがない。それで、この作品の美術もまた、そうとうに「残念」な思いをあじわってしまった。
 まあアレクサンドリアというのはエジプト美術もギリシャ・ローマ美術も併存していたのか知らんけど、どうもこの映画で出てくる美術はやっぱり、どこか情けないのよ。巨像のたぐいはどれもみんなどこかぶよぶよしているし、後ろ姿しか見えない彫像とかで、「それって、ミケランジェロでしょ?」っていうのもある。屋根の上のお馬さんとかは、そりゃあ「ブランデンブルグ門」じゃろうとか、ちょっと元ネタがわかりやすすぎる。エジプト風の図書館の門の浮き彫りデザインも、造型的に「なんだかさえないなあ」という感じで、それはただ「あれ」と「これ」を組み合わせているだけで、その組み合わせのセンスがちょっとね、という感じなわけである。ああ、やっぱりダンテ・フェレッティにやってもらうしかないのか。彼の技術を引き継ぐ美術監督に、はやく登場していただきたいものである。そういうわけで、期待したようなアメナーバル監督の演出の楽しみ方ができた、というわけでもなかった。ちょっと残念ではあった。

そう、この映画の原題は「アゴラ」で、つまりはギリシャ時代にはひとびとの討論の場であった「広場(アゴラ)」が、ここで殺戮の場になってしまったのだ、というあたりを伝えるものだろう、と思う。





 

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■ 2011-09-12(Mon)

 しごとは非番で休み。ひさしぶりに近くのターミナル駅のシネコンで映画を観ようという計画。月曜日はメンズデーで、外見が男であれば一本千円で映画を観ることが出来る(もちろん、わたしの外見は「男」である)。しばらく新作映画を映画館で観ていないので、きょうは二本観てやろう。

 きょうも残暑がきびしい。ニェネントを暑苦しい部屋に置き去りにするのはかわいそうだけれども、まあ耐えてくれるだろう。このごろは食欲も旺盛というか、ドライのキャットフードもいっぱい食べてくれるのでうれしいところである。またなにか、おみやげを買ってきてあげたいね。

 ローカル線で、ターミナル駅までの道中。午前中は進行方向の左側から太陽の光が差し込む。だから乗客はみな右側の席にすわる。車両の重心は大きく右側にかたよっている。大きなカーブがあるとあぶないんじゃないだろうか。きょうはひさびさにロリータ・ファッションの、ピンク柄のスカートがパラシュートのようにふくらんでいる女の子の姿をみた。ほんとうにこのファッションの原点はロココなのかなあ、などと考えてみる。ロココのことなど知りもしないので、とちゅうで思考を放棄した(ロココ時代はスカートの下に下着は着けなかったのだ、ぐらいのことは知っているけれど、だからどうこう、などということは考えない)。

 映画の感想は下に書くけれど、これからの予告編をあれこれと観た。スピルバーグの新作はお馬ちゃんの映画、らしい。「猿の惑星」のリメイクの予告も観たけれど、キャラクターのCGがまだまだ不自然な気がした。「キングコング」ぐらいでかいキャラクターなら、多少粗くってもなんとかごまかせるのかも知れないけれど、人間と対等の大きさだと、それなりにかなりのリアリティーが要求されることになるんだろう。「アバター」でも、「いまいち」という感じはあったもの。日本映画では、このシネコンではこれから青山真治監督の「東京公園」を上映してくれるのがうれしい。その予告を観た。さすがフォーカスの決め方とかいいなあなどと思って観ていたけれど、この作品の撮影は田村正毅ではないらしい。ぎゃくに、以前から「世界でいちばん汚らしい画面を構築する監督」として記憶に残っている監督の、その新作も予告で観た。この予告でも、生ゴミのはいったゴミ箱をひっくり返したような、異臭のただよってくるような画面で、こうなるともう格別の才能である(最低限、照明効果ぐらい勉強してほしい)。生ゴミといっしょにされてしまう俳優の方々はほんとうに気の毒なことで、わたしの好きな女優さんも出ているのでかわいそうになる。しばらく前から思っているのだけれども、たとえばコマーシャル・フィルムの演出を請け負ったことのあるような監督さんは、画面に何が写り込むか、それが視覚的にどのように作用するのか、かなり意識的になられるというか、まあたいていは基本的にはド汚い画面はつくったりしないんだけれども、TVドラマの世界からダイレクトに映画の世界に来られたような監督さんには、そういう美意識の持ち合わせがないことが多いようである。せんじつTVで観た「沈まぬ太陽」も、きったねえ画面ではあった。画面がきったねえと、それだけで観る気が失せてしまうことがある(まあ、こないだのケヴィン・スミス監督の映画もそうとうにとっちらかってはいたけれども、ケヴィン・スミスは、アレだから許す)。
 二、三年まえに観た「K-20 怪人二十面相・伝」という作品は楽しくって、なかなかのお気に入り映画だったんだけれども、その監督だった佐藤嗣麻子さんの新作は、「アンフェア」シリーズの最新作らしい。これもちょっと食指をそそる感じで、余裕があれば劇場で観たいなあと思ってしまうような予告、だった。

 

 

[] 「ツリー・オブ・ライフ」テレンス・マリック:監督  「ツリー・オブ・ライフ」テレンス・マリック:監督を含むブックマーク

 すべての個人史のなかには、宇宙生成からの記憶も含まれる。「わたし」とは何なのか、どこから来て、いったいどこへ行くのか‥‥。

 ‥‥なんだ。スタン・ブラッケージ監督の「DOG STAR MAN」の通俗版リメイクかよ、という感覚で観ていた。基本はつまり「個人映画」というカテゴリーから観られる作品だろうけれども、その「個人」というファクターに、「キリスト教」という、他者(西欧限定)との共通理解項を設定している、というあたりがたまらなくイヤ、という作品だった。テレンス・マリック、なにが「哲学者」かよ、という感じである。この作品、ぜったいに基本制作姿勢は「DOG STAR MAN」と同じようなものだと思うけれども、悪いけれどもその「DOG STAR MAN」の、さいしょの「D」の字にも及ばないという感じがする。観客をなめてはいけない。

 「DOG STAR MAN」でなければ、この作品をフェリーニの「8 1/2」とくらべてもいいだろう。だけど、フェリーニは観客の嗜好などまったく構わずに「わたし」に耽溺して、ぎゃくに<(「わたし」=「観客」)/「映画」>という視座を獲得していたのではないのか。この作品の演出姿勢は、けっきょくはキリスト教的ポピュリズムの産物、というあたりに落ち着く(だけ)だろう。ポピュリズムから「わたし」=「観客」への展開を希求して、はたして「いま」のこのときに、いったいどのような地平が「映画」の彼方にみえてくると思っているのか。幻滅した。

 演出的に、「シン・レッド・ライン」でも観られた、ブランコにのる「夢の」女性なるもの、そして「ニュー・ワールド」でつかわれたモノローグ、などとの親和性などを感じたりもするけれど、ぎゃくに、じゃあ「シン・レッド・ライン」や「ニュー・ワールド」でやっていたのは、じつはこういうことだったのか、と、鼻白む思いがする。

 ただ、この作品のなかの、ナラティヴなものにいたらない、「情景」としてだけ残されている記憶の描写に、ちょっとゾクッとするものを感じてしまったことは事実で、まあこういう作品を作ってしまったことはそれとして(ダーレン・アロノフスキーだって、「ファウンテン 永遠につづく愛」みたいな作品をつくってしまっているではないか)、これを「遺作」にしようなんて考えないで、また別の作品をつくってくれればいいのである。





 

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■ 2011-09-11(Sun)

 きょうも暑い。あっついなあ。ベランダのクレソンの葉も、「緑」を通り越して茶色っぽい色になってしまって、まるで日焼けしちゃったように見える。さいきんあまり食べていない。このあいだ、なまのトマトを使って作ったパスタのミートソースはかなり成功で、まいにちおいしくいただいている。しかし温かいスパゲッティは暑さ対策には役立たず、ドラッグストアで「白くま」というアイスバーを買ってきた。ことし冷菓を買うのは二度目。これはちょっと、味が口のなかに残りすぎるかな。

 「リトル・ピープルの時代」についてまた書くとあまりに粘着質だけれども、その宇野常寛さんのいう「ハッキング」っていうのは、ネグリ/ハートの「マルチチュード」にも書かれていたんじゃなかったかと思い出したのである。わたしはなんとも漠然とした印象だった「マルチチュード」にはちょっと失望していて、あまり記憶にも残っていないんだけれども、たしかそのマルチチュード的運動の展開として、アノニマス(匿名性)からの<帝国>へのハック行為ということが書かれていたような(この件は現在も進行している「アラブの春」においてかなり有効な手段だったと考えられるから、やはり「マルチチュード」をあなどってはいけないのであろう)。そうするともう、「リトル・ピープルの時代」という本は、コンセプトとして「マルチチュード」の焼き直しという側面がより強く感じられる気がする(「想像力」などというあたりは問題外だし、この著作を執筆中に進行していたはずの「アラブの春」にも、著者のその「想像力」はまるで働かなかったようではあるけれども)。で、きゅうに思いあたったのは、つまりこの「リトル・ピープルの時代」って、先行する「マルチチュード」などの社会科学書の、「n 次創作」なんだなあということ。いまごろ気がつくなんて。そういうわけで、そういう「n 次創作」(当然だけれども、「n 次創作」という概念もまた宇野常寛さんのオリジナルではない)に対して、それがオリジナルな著作であるかのようにあれこれいってもしょうがないのである。問題にするんなら、巻末に付けられたマルにCの「著作権マーク」に妥当性があるのかな、というあたりになるんだろう。「レイプ・ファンタジー」ということばの使用法、その解釈はたしかにオリジナルだけれども。
 ‥‥この本については、もうこのあたりで書くのをやめよう。

 

 

[] 「刺青一代」(1965) 鈴木清順:監督  「刺青一代」(1965) 鈴木清順:監督を含むブックマーク

 この作品ははじめて観た。ヤクザ組織連合に弟を殺されて、対決するために主人公(高橋英樹)が立ち上がるしゅんかんに雷鳴がとどろき、窓の外の夜景が雷光に青く照らし出されるのだけれども、もうここからの展開がすごいというかすばらしいというか、まあまた「関東無宿」をやっているという部分もあるのだけれども、リアルさなどはなっから無視した、いかにも「舞台的」な空間/照明を駆使した展開に眼がくぎ付けになる。主人公はあるときはRPGのように横へずんずんと移動していき、あるときはふすまをつぎつぎに開けていきながら、奥へ奥へと進んでいく。もちろんカメラはその主人公をピタリ中心にとらえて、どこまでも彼を追っていく。拍手である。短いけれど、ガラスの床ごしに登場人物の対決をその床の下から透視撮影した映像もある。

 もちろん美術は木村威夫だけれども、そのクライマックスまではあまりセット撮影はされていなくって、ほとんどが山中のトンネル工事現場、その飯場、森のなかなどでのロケ撮影、というあたりに注目してしまう。花火やダイナマイトによる山肌の爆破シーンなどが効果的に使われ、そのトンネル工事現場が何者かに爆破される映像の直後に、とつぜんに海岸の岩にくだける波頭の映像があらわれるモンタージュには、ほんとうに驚かされた。



 

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■ 2011-09-10(Sat)

 暑い。なんて暑いんだ。ことしいちばんの暑さだったんじゃないかというようないちにち。はじめて扇風機の風力を「強」にして使った。
 ニェネントのこんかいの発情期が、ようやく終わった。うんと抱いてかわいがってあげる。ニェネントは抱かれ慣れていないというか、わたしが抱くのが下手クソということなのか、だっこしてもひゃーひゃーないて逃げ出そうとする。しばらくまえまではこうやってだっこしてやって蛍光灯のスイッチのヒモの下に連れていってやると、その蛍光灯のヒモでいっぱい遊んでいたものだったけれど、もうぜんぜん興味を示さなくなってしまった。成長するというのは、ちょっとつまらないことでもある。それでもまだふいに、わたしのうしろからわたしの足にタッチして逃げていって遊んだりしているから、まだまだ子どもなところは残っているのだね。いずれそんな遊びにも飽いてしまうんだろうか。
 ニェネントの鼻のあたまをなめてやると、しょっぱいことがある。汗をかいているせいか、しょっぱい食べ物を食べたあとのせいなのか、それともそれはものすごい病原菌の味なのか(それだったらわたしはとうに病に倒れている)。

 Aさんと終日、「リトル・ピープルの時代」についてメールでやりとりをする。Aさんもこの本を読むのをとちゅうでやめようかと思うほど幻滅したとのことで、まあ意気投合である。この原点には、「村上春樹きらい!」という一点があるわけである。宇野常寛というお方は村上春樹の「分身」、いや、「変身!」のお姿であらせられる。

 

 

[] 「コップ・アウト 〜刑事(デカ)した奴ら〜」(2010) ケヴィン・スミス:監督  「コップ・アウト 〜刑事(デカ)した奴ら〜」(2010) ケヴィン・スミス:監督を含むブックマーク

 「ジェイ&サイレント・ボブ」のケヴィン・スミス監督作品。わたしは好きなんだよね、このひと。「ダイ・ハード4.0」にコアなオタクの役で出演していたと思ったら、その「ダイ・ハード」主演のブルース・ウィリスを主役にして、「ジェイ&サイレント・ボブ」みたいなお下劣な作品をつくってしまったのですね。まあブルース・ウィリスにはこういう「お下劣さ」を許容する度量があるというあたりでこの作品は楽しいものになってはいるけれど、観ていて、もうひとりの、つまりはブルース・ウィリスの相棒の刑事役の、トレイシー・モーガン(出川哲朗に似ている)という役者には、この「お下劣さ」のハードルはちょっと高かったかな、という印象はある。やはり、「ジェイ&サイレント・ボブ」シリーズでのジェイソン・ミューズ(ジェイ役)みたいな、(ほかの映画などに)使いまわしのきかない強烈なお下劣さを演出しきってしまったところにこそ、ケヴィン・スミスの監督としての手腕があったわけである。

 しっかし、こうやってあらためてケヴィン・スミスの演出をみると、きったねえ画面だなあというか、二十年近く(正確には十七年?)演出やっていてもちっともうまくならないなあとか、妙に感慨深いところはあるわけである。でも、彼(ケヴィン・スミス)のいいところは、そういうとんでもないお下劣さと、ちょっとハートウォーミングなところとの絶妙な混ぜぐあいというか、それだけはいっつもかならず外さないでやってくれるあたりに感銘してしまう。こんかいの作品、主役ふたりのコンビよりも、強盗に入られた家の奥さんの方がさらに強烈にお下劣であり、また強烈なパワーの持ち主であったというあたりが最高で、もう大笑いしてしまった。こういうシーンが後半にもあるとよかったのに、ねえ。




 

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■ 2011-09-09(Fri)

 これは残暑というヤツで、まだまだ暑い。あさしごとに行くときにはもうずいぶんと涼しくなっているのだけれども、これはたんにまだ日がのぼっていないせいのようで、しごとを終える九時にはもう太陽はずいぶんと高いところにのぼっていて、大気もしっかりとあたたまってしまう。
 経済的なことがいつもいつも頭をよぎり、「はたしてどのくらい、今のわたしにむだづかいする余裕があるのか」ということばかり考えているといっても過言ではないのだけれども、こんげつに関してはかなり余裕がある。と思ったら、これはらいげつ分が早くまわって来たためというか、らいげつはこんげつよりも相当に実入りは減少することになるらしい。それで、いつまでたっても、むだづかいの出来ないハメになってしまうのである。それでもこんどの月曜日には映画を観に行きたい。演劇も、まだ予約していないものでやはり観たいものもある。

 スーパーに行くともう栗が生鮮品コーナーに並べられていて、やはり季節は秋である。そのうちにきっとまた、めちゃ安の栗が並ぶことになるので、それを買って栗ごはんを作ろう。きょうは、地場野菜コーナーのトマトがかなり安かったのを買う。まいあさのホットサンドにトマトのスライスをはさむと、そのおいしさは十倍ぐらいアップする(自己感覚での対比数値)。ついでにひき肉を買い、トマトを入れてまた大量にスパゲッティ用のソースを作った。これでまた当分は昼食にスパゲッティになる。

 

 

[] 「リトル・ピープルの時代」宇野常寛:著  「リトル・ピープルの時代」宇野常寛:著を含むブックマーク

 友人に貸してもらっていた本。読んでいるとちゅうから、そのどこか意図的ななじまない単語の使い方、よくわからない論旨、「それって、あの本に書いてあったことのアレンジ?」という既読感というのか、そういうのにページをめくるごとにひっかかっていたのだけれども、とにかく読み終えた。この書物に関しては、目のまえにこの現物を置いて、一ページめくるごとに「ほら、ここでこんな変なことをいっている」などと、とうとうと述べたてて、それでいちにちをつぶすこともできる。そういう不健康なことはやらないで、とりあえず「これだけは」ということは書いておく。

●この本で書かれている基本のコンセプトは、ポストモダン以降の西欧の社会科学者の著書の論旨を寄せ集めたパッチワークだとしか思えない。その社会科学者とはジャン=フランソワ・リオタール(ポストモダン以降の「大きな物語」の喪失)であり、スラヴォイ・ジジェク(とりわけ、「レイプ・ファンタジー」について)であり、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート(「貨幣と情報のネットワーク」って、<帝国>のことだろう)であり、またおそらくはジャック・デリダ、そしてジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの著作などもヒントになっているかもしれない(「悪い場所」などということばも出現するので、椹木野衣とかも読んでいるのだろう)。これらの著者の著作はこの「リトル・ピープルの時代」の巻末の「参考文献リスト」には掲載されていない。道義的にもんだいはないのだろうか。それとも、あまりに有名すぎる著者たちであるから、だれでも知っている常識として、あえて参考文献にあげるまでもないと考えられたのか。

●たとえこれらの思想が常識だとしても、それらの論旨を寄せ集めたこの書物では、その寄せ集められた論旨を横断してあたらしくオリジナルな論旨を繰り拡げているわけではない。それどころか、この書物の結論として提出される「想像力」の問題は、ポストモダン以前の、「実存主義」的解決にまで退行するものではないのか。それがどうして「ハッキング」(下段参照)ということに結び付くのか。

●この本の著者は、「いやいや、実存主義ではなく、ネグリ/ハートのいうマルチチュード、デリダのいう脱構築とかを念頭においていたのだ」といい出す可能性もある。しかし彼のいう「ハッキング」(本書第三章の末尾に「リトル・ピープルの時代──それは、革命ではなくハッキングすることで世界を変革していく<拡張現実の時代>だ」という<名文>がある)とはあまりに陳腐であり、ちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。そもそもこの本の著者はいったいどこにこの世界を変革するという意志の湧き出てくる原点を持っているのか、この著作ではまったく読み取れない。ゲームをやっていれば世界は変革されるらしいが。

●村上春樹の小説を読み解くキーワードとして、「レイプ・ファンタジー」が語られているのだけれども、おそらくはこの「レイプ・ファンタジー」ということば、スラヴォイ・ジジェクが自著のなかで用いているものがオリジナルだと思うのだけれども、こまってしまうのは、ここでその意味を相当な程度で曲解し、ジジェクの使った意味とはまるでちがう意味を与えているように思われる。わたし的には、このあたりがこの書物のいちばんにヤバい点ではないかと思っている。え?「脱構築」したんですか。

●この著者はたくさんの社会科学書を読破され、自在勝手にそれらをつぎはぎされているようなのでとてもわたしの読書体験など及ぶべくもないのだけれども、「思想史的に述べれば大陸系哲学の現時点での終着点としてのポストモダン的権力論からアメリカ正義論へのトレンドの移行に符合している」(何に符合しているのか、じつはわたしはいっこうに興味はないのだけれども)、という一文の根拠がいったいどこにあるのか、わたしはまったく知るところがないし、調べてもそのような現象は確認出来ないでいる。ほんとにほんとなの? にわかには信じがたいのだけれども(じつはわたしは、この著者はここで適当なデタラメを書いているのではないかと疑っている、というのが本心である)。

 とにかくこの本についてなら、いつまでも粘着質に批判し続けることができそうだけれども、じぶんの人格があやうくなってしまうのでここで打ち止め。まあ世のなかにはこういう本もあるんだという驚きを体験したのであった。




 

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■ 2011-09-08(Thu)

 まいあさ、しごとのために四時五十分に家を出る。夏のあいだはもう明るくなっていたこの時間帯、日の出は遅くなり、九月の秋の訪れとともに外の世界は薄明につつまれるようになった。もうじきに「まだ夜明け前」という時間帯に移行してしまう。しごとが非番だったりしていちにちおいて出勤すると、「このじかんはもうこんなに暗くなってしまったのか」と痛感する。
 これはきのうのことだけれども、出勤のためにその薄明のなかを外に出ると、目のまえを白いネコがよぎって行った。生きていたんだ。しゅんかん、じぶんで勝手に付けていた名まえも忘れてしまっていた。こいつは「ジュニア」だ。ミイの亭主づらをしていたノラの、きっとその二代目である。母親はミイではないはずで、こいつはひょっとしたらノラなのかもしれないのだけれども、どうも体型がノラよりもほっそりとしていて、全体の印象にノラよりも若々しいところがある。よく生きていてくれたと、うれしくなった。むかしノラやミイが出入りしていた、道路をはさんではすかいにある家の門をくぐって、そのなかにはいっていってしまった。あの家の方とは地震のときにちょっとお話をする機会もあったものだったけれども、ひょっとしたらいまではジュニアを飼っておられるのかもしれない、などと思ってしまった。ネコのいる町は、やはりそれだけでうれしい。いなくなってしまったミイのこどもたち、ニェネント以外の四匹も、どこかでたくましく生きていてくれたりはしないだろうか。子ネコのうちにひろわれて、どこかの飼いネコになっていることもあるかもしれない。

 きょうは非番でしごとは休み。まだまだ「サカリノさん」のニェネントと、いちにち遊ぶ。もう以前の子ネコのような遊びには興味を示さなくなったニェネント、それでもわたしの話相手にはなってくれつつある。まあわたしが一方的にニェネントに話しかけることが多くなったというだけのことで、これはわたしの老化現象のあらわれにすぎないのかもしれない。これからはよりいっそう、わたしの良き共生のパートナーになってほしいのである(いまのところ、もちろん合格点である)。

 

 

[] 「肉体の門」 (1964) 鈴木清順:監督  「肉体の門」 (1964)  鈴木清順:監督を含むブックマーク

 これはDVDにもなっているので、これで三回目ぐらいの鑑賞になる。こんかいはチャンネルNECO での鈴木清順特集の一本として。

 野川由美子の強烈な映画デビュー作であり、鈴木清順監督と美術の木村威夫氏とのタッグの輝かしい成果であり、戦後日本の精神的外傷をとらえた傑作などとあれこれ、この作品についてはいうことができるけど、やっぱり鈴木清順監督なりの「妙な」ところこそが気にかかる作品。娼婦グループのひとりが客を取るシーンでの、ありえないピンスポット照明だとか、何度か使用されるダブル・ヴィジョン(二重映像)の演出だとか、「ふうん」という感じである。まあダブル・ヴィジョンについては映画手法の文脈のなかでとらえられるものだけれども、ピンスポット照明というものは舞台で行われるものである。鈴木清順監督の作品を観てよく思うのは、映画空間の舞台空間への置き換えみたいな演出の多用なのだけれども、それはこのあたりからはじまっていたわけだろうか。

 こんかい久しぶりに観て思ったのは、なんちゅうのか、登場する人物たちのなかでただひとり、愛することの悦びを知っている存在として登場する町子(富永美沙子さんが演じているけれど、この女優さんは夭逝された、といっていいでしょう)への、演出上のシンパシーというか、入れ込み方というか、ここにたとえば「ツィゴイネルワイゼン」の大楠道代への系譜だとか、そういうのを読み取りたくなってしまうんですねえ。つやっぽいんです。


 

[] 「野獣の青春」 (1963) 鈴木清順:監督  「野獣の青春」 (1963)  鈴木清順:監督を含むブックマーク

 その鈴木清順監督特集の二本め。以前レンタルDVDでいちど観ているけれど、もうすっかり忘れてしまっていた。しかしこれ、すごい! もう、驚きの連続。ぜんかいいったいわたしは何をぼんやりと観ていたんだろう。かなりぎっちりと詰め込まれたストーリーを、よくぞここまでの時間(92分)で的確に処理したものだというのもすごいし、映像的な「驚き」というものもたっぷりと詰め込まれている。なにもかもが高濃度で圧縮されている感じで、「超コンデンス」とはこの映画のことではないのかと(そうすると、天野天街さんと鈴木清順さんとの比較などを考えてしまいたくもなるわけで、この比較はそんなに突拍子もないことではないように思えてしまう)。

 冒頭の、「シンドラーのリスト」的な、モノクロ映像で赤い花だけ着色というあたりも鮮明に記憶に残されたりもするけれども、このあたりからすでに、主題を浮き立たせるための処置というよりも、フィルム映像として現実から離れた表現をめざすという、作家の意志の方を強く感じる。これはそれぞれの暴力組織のアジトをとらえたシーンでまたためされることになり、「外界につうじる大きな窓」、その窓の外の世界を同じような構図で三通り観せられることになる。さいしょは防音設備で仕切られたキャバレーの内側の部屋で、マジックミラーなのだろう大きなガラス窓の向こうでは、キャバレーの客たちがホステスらと飲み興じている姿が無音状態ですかして見られることになる。ここで、宍戸錠がその窓の外の世界からこちら側、内側の部屋に連れてこられ、室内は暴力の応酬という世界になってしまうのだけれども、そのときに窓の外ではフロアショーがまさにはじまるところで、セミヌードのダンサーが、手前で繰り広げられる暴力沙汰とはまったく無関係に踊りはじめる。このダブル映像のなかの(窓の手前と向こうとの)断絶が、まずは強烈な印象を残す。
 つぎのアジトはこんどは映画館のスクリーンの裏側という設定で、窓と同じような枠組をつけられた背後のスクリーンには、映画館で上映中の作品のモノクロ映像が大きく写されている。ちょっとだけ、そのタイトルクレジット部分が写されて、「原作:菊村到」というのが読み取れる。調べてみたけれど、この時代、菊村到が原作の映画というのは思いのほかたくさん存在することに驚かされる。まあそのことはいいにしても、この「野獣の青春」と内容がかぶりそうな、ノワールなタッチの引用された作品、この映画での銃声が、本作の内容に影響をあたえることになる。まあ映画のバックに別の映画が上映されているというアイディアは、この作品の専売特許というわけではないのだけれども、こうやってその引用された映画の音声が本編に影響をあたえるというのはおもしろい。先のキャバレーの裏側のアジトでは、窓の外は「断絶」の世界だったが、ここではそもそも断絶しているはずの虚像が、映画内の現実に影響をあたえてしまう。
 さて、もうひとつのアジトでは、いちおう窓の外は現実の風景なのだけれども、そこは黄色い砂塵の吹きすさぶ、荒涼とした風景である。ありえない風景。ここでは窓の内側の「映画内風景」もまた、その「ありえない」砂塵の侵食をうけてしまうそうである。しかも、その窓の外へ逃げる女を追って、男(そのアジトを仕切るボス)がやはりその窓の外の荒野へ飛び出してしまう。ここでまさに、映画の舞台である「窓の内側の世界」は、虚構と思えた「窓の外の世界」と同一地平におかれてしまう。うがった見方をすれば、ここにこそ、鈴木清順監督の考える、「映画とは何か」という設問への回答があるようにも思えてしまうのである。

 ほかにも、興味深くも楽しいシーンの満載された、ステキな作品だった。そんなに全作品観ているわけではないけれども、鈴木清順監督の日活時代の作品では、「肉体の門」や「殺しの烙印」などよりも、わたしにはコレがいちばん、かもしれない(あと、やっぱり「関東無宿」はよかったなあ)。





 

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■ 2011-09-07(Wed)

 けさチャンネルNECOで放映されていた、新東宝映画三本立てを録画するのを忘れてしまった。楽しみにしていたのに残念なことであった。もちろんそれぞれの作品はばらけてまた再放送されるからまた観ることは出来るのだけれども、やはり三本連続して観てこその価値、インパクトというものがあるではないか。

 午後から図書館に出かけ、連続して読んでいた「半七捕物帳」の読み残しのさいごの一冊を借りてくる。あとは阿部和重の「和子の部屋」、リオタールの「震える物語」など。また自宅本を読むのが先送りになってしまう。阿部和重の「和子の部屋」の表紙はBeatles の「Sgt. Peppers」のパロディになっていて、この本に登場する作家たちを囲んで古今東西の作家たちがズラリと並んでいるわけだけれども、ザアッとながめて、その三分の一ほどの作家しかわからなかった。だからどうということでもないのだが。

 ニェネントはきょうもまた「サカリノさん」である。疲れる。抱き上げてベッドに連れていき、わたしの顔の上にニェネントをかかげて下からニェネントの顔をみやる。下方の、ある角度から見上げるニェネントの顔は「まんまる」である。ドラえもんみたいだ。ネコはかみつかれるのを嫌がる。前足をつかんでかみつくと、「シャーッ」と怒ってわたしを威嚇する。しつっこくかみつくと、ニェネントもかみついて逆襲しようとする。しかし、からだの大きさがちがうから、ぜったいにわたしの勝利に終わる。いいかげんなところで解放してやるとベッドの下に逃げていくけれど、そのベッドの下からわたしの腕にちょっかい出してくる。ときにはぺろぺろとなめてくる。別にわたしがニェネントにかみついたりしても、それがゲームだと理解してくれているんだろうか。

 

 

[] 「3時10分、決断のとき」 (2007) ジェームズ・マンゴールド:監督  「3時10分、決断のとき」 (2007)  ジェームズ・マンゴールド:監督を含むブックマーク

 きょねんだったか、「ひかりTV」のヴィデオ配信で観たデルマー・デイヴィス監督の「決断の3時10分」(1959)の、評判になったリメイク作品。なるほど、こういうリメイクのやり方があるのかと、興味深く観た。忘れていたけれどもこの原作はエルモア・レナードの短編で、1959年のオリジナルは、原作に忠実なものなのだろうと思う。つまり凶悪な駅馬車強盗の首領が逮捕され、彼を列車で監獄(刑務所?)まで連行しなければならないけれども、とちゅうでぜったいに彼の部下どもが首領を奪回しに来るわけだから、たとえ報奨金が支払われても、連行への道に同行することに誰もがしりごみする。借金を抱えた牧場主が、借金返済のために護送に同行することになるというもの。強盗団の首領をこのリメイクではラッセル・クロウが演じ、牧場主をクリスチャン・ベールが演じている。ほかに、駅馬車のボディガードとして雇われる男(ピンカートン探偵所に所属しているらしい)にピーター・フォンダ、牧場主の妻にグレッチェン・モル(好き!)、牧場主の長男にローガン・ラーマン、強盗団の首領の腹心の部下にベン・フォスターなどという、存在感を示す俳優陣でわきが埋められている。

 これはおそらく、凶悪な犯罪者が、厳重な警戒のもとで護送されるけれども脱走してしまう(かもしれない)というあたりで、「羊たちの沈黙」のレクター博士を連想してしまったんじゃないだろうか。それで、ラッセル・クロウが演じる首領に、そのレクター博士的な性格を持たせることになったわけだろう。ここに、この作品が成功した一点があると思う。インテリジェンスがあり、価値観さえ合致すればその相手に不思議な人情味も発揮する反面、信じられないほどの残虐さも持ち合わせているというハンニバル・レクターが、この西部劇のなかにそのすがたをあらわすわけである。そういう意味で、ラッセル・クロウという俳優はすばらしい仕事をやってのけているわけだし、彼のこころを動かすことになるクリスチャン・ベールもまた、グッジョブだった、ということになる(まあ、ジョディ・フォスターをやってのけたわけである)。それぞれの脇役もまた、この二人のドラマを支えてみごとだった。

 別にオリジナルの「決断の3時10分」が凡庸な作品だったなどというつもりはないけれど(いやいや、おもしろかったですよ)、過去の西部劇作品群のなかに埋もれていた作品に、それ以降に継続して製作された映画群から、換骨奪胎したあるキャラクター(もしくはコンセプト、といってもいいんだろう)を移植して、まったくあたらしい作品としてよみがえらせる。楽しませてもらった。映画なんてつねに何もかもあたらしくなくっちゃいけない、なんてものではないのであって、何がしかのパラダイムが転換したあとに、そのパラダイムによってそれ以前の過去の作品をリフレッシュさせて再制作する、ということはこれからも有効な方法だろうとは思う。ただ、この作品に関していえば、クリスチャン・ベールの片足が南北戦争の際に不自由になってしまっているという設定が、彼がホテルから駅までラッセル・クロウと随走する場面では、これがほとんど不自由さを感じさせないわけで、観ていて多少は白けてしまったわけではある。




 

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■ 2011-09-06(Tue)

 ひとが超早足で追いかけたら追いつけそうなスピードで西日本の方に上陸した台風が、とても大きな被害を出している。さいわいにも、このあたりははげしい雨が降ることもなかったけれど、なんだか日本中がぼこぼこにされる年である。たしかに明るい話題がほしくなる。
 あたらしい内閣はなぜかさいしょっから「増税内閣」などとも呼ばれていて、前首相が消費税増税を語って参議院選挙で与党が大敗したのに、支持率があまり悪くはないらしい。それで調子に乗ったのか、あたらしい厚生労働大臣がたばこの増税について語ったらしい。「最低でも七百円」って、それではもうほとんど禁煙法。たばこは金持ちとヤクザのステータスになる。それもわかりやすくていいかもしれない。

 ニェネントはあいかわらずの「サカリノさん」状態。しかし、いつもいじょうにわたしになついてくる。しごとを終えて帰宅して、玄関のドアをあけると、もうとちゅうでわたしの足音を聞きつけているのか、玄関を開けたところでわたしをお出迎えしてくれる。わたしのすがたをみると決まって前あしをうんとまえに伸ばして背なかを落として大きなのびをする。それからキッチンの引き戸のレール部分につめをたて、ほじほじとつめをとぎはじめる。「うれしい」ということなんだろうと思うけれど、つめとぎは別にちゃんと用意してあげているのだから、そっちを使ってほしい。もうキッチンのレールの部分は白木がむきだしになって、ひどいことになっている。

 きょうもまた昼寝をして、借りている「リトル・ピープルの時代」を読んだりする。ほんとうにひどい本で、「なんだこれ」という感じなのだから読まなければいいのだけれども、あまりすごいのでついつい読んでしまうし、貸してくれたAさんに悪いから。

 

 

[] 「我が家は楽し」 (1951) 中村登:監督  「我が家は楽し」 (1951)  中村登:監督を含むブックマーク

 原作、脚本は田中澄江。タイトルどおりある家族の物語なのだけれども、いわゆる大きな旧家というのではなく、東京近郊の借家に住む、父母とこども四人という構成の家族。こども四人というのは現代の感覚からいうとかなりの子だくさんなのだけれども、そのせいかお父さんが勤続二十五年になる課長だというのに生活は楽ではないようで、お母さんは家で内職をして家計をたすけている。おそらくこれは戦後の都市周辺の典型的な小市民のすがたなのではないかと思うけれど、そんななかでつまりは美しい(戦後の日本の規範となるような)「家族の絆」を描く作品。父役は笠智衆で母は山田五十鈴、公募展への絵の入選をめざしている長女が高峰秀子という配役で、高校生の次女役はこれがデビュー作になる岸惠子。そりゃあ楽しい家族だろう。

 その、勤続二十五年で授与された功労金の「月給二ヶ月分」という三万円を、父が電車のなかでスリの被害にあってなくしてしまう。しかも、住んでいる借家の家主がかわり、その家主から早急に立ち退いてくれとも申し渡される。すわ、「自転車泥棒」的な展開になだれこむのか、などと思ってしまうけれど、もちろんそんな展開になるわけもない。ただ、家計を助けるためにいちどは絵をやめて働こうとする長女が、現実の社会のみにくさにふれるという描写はある(看板に偽りがあるのを承知で消費者に売り込もうとする企業)。ここで母親が長女に「じぶんもかつては絵を描こうとしていた時期があり、それは断念せざるを得なかった。だからあなたには絵を断念せずに描き続けてほしい。それがわたしの夢でもある」と語るわけである。まあここに日本の戦後復興の夢が重ねられていることはいうまでもないけれど、それが金銭的なもの、社会的ステータスをめざすというものではないあたりで、この作品はすくわれている。もうとちゅうからはすっかり、この映画の主役は山田五十鈴の母親に移行してしまう感じで、かのじょが娘という次の世代に託す夢こそが主題になる。
 とにかくていねいな演出で、とくにさきに書いた母親が娘に絵を続けるように語るシーン、ここで山田五十鈴の演技がまたすばらしいのだけれども、ちょっと長廻しで山田五十鈴の長い語りを捉える演出には、じっと見入ってしまった。
 ラストは「幻想」ではあるかもしれないけれど、そういう幻想に夢を託すことこそ、いっぽうでこの時代の映画に求められていたことだっただろう。




 

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■ 2011-09-05(Mon)

 きょうはしごと。せんしゅうシステムが変わったあと、つまりは五時からのさいしょの一時間強がめちゃいそがしくなり、それが終わるともう、いちにちのしごとはほとんどそれでおしまい、という状態になってしまったようだ。やりにくい。わたしなどは五時からの出勤だからまだいいんだけれども、六時からのひとたちには同情する。出勤するといきなり喧噪のなかに放り込まれ、状況もわからないままにその日のしごとはだいたい終わってしまう。ストレスがたまることだろうと思う。

 そういうわけで気疲れしてしまうのか、帰宅してのんびりして昼食をとり、そのあとに本などを読もうとするととたんに眠くなり、二時間ほど昼寝をしてしまうのが日課になりつつある。あんまり昼寝の習慣というのはつけたくはないのだけれども。

 ニェネントはあいかわらずわたしの顔をみて「おねだり」を続けている。妙ななきごえをあげて室内を彷徨したりする。ただ、おねだりしたあとの「お礼」なのか、わたしにからんできて腕をペロペロなめたり、わたしが歩いていても横から飛び出してきて、わたしのくるぶしのあたりにまとわりついてきたりする。かわいい。夜寝ているといつの間にかベッドの上にあがっていて、わたしに足もとのあたりで丸くなって寝ている。あさになって目が覚め、足を動かしたりするとニェネントにあたり、ニェネントにかみつかれてしまったりする。

 

 

[] 「もず」 (1961) 渋谷実:監督  「もず」 (1961)  渋谷実:監督を含むブックマーク

 脚本は水木洋子だけど、もとは同じ水木洋子脚本のTVドラマだったらしい。TVでは誰が出演していたのかわからないけれど、この映画版では淡島千景と有馬稲子が母娘を演じている。このふたり、あんまり歳は変わらないと思うけれどもなあ。
 わたしは有馬稲子の若いころの作品というのは「東京暮色」ぐらいしか観ていないけれど、設定もイメージも、この「もず」と「東京暮色」は似通っている気がする。なんとなくじとっと暗い、というか。それで、その母役の淡島千景はせんじつ観た「にごりえ」で淡島千景が演じた役柄の、その二十年後とかという感じがする(つまり、心中に巻き込まれなかった「お力」である)。
 この母娘が、娘が上京することで二十年ぶりに再会するところから物語がはじまるのだけれども、これがおたがいの生き方に関して辛らつな態度を示し、どうしてもいさかいになってしまうわけである。しかし母は娘を、娘は母を愛していて、おたがいにうまくやっていきたいと思っているのだけれども‥‥。

 渋谷実という監督の作品を観るのは、わたしにははじめてになると思うけれど、そのフィルモグラフィをみると、どちらかというとライトな風俗コメディを得意にしていたのではないかという感じはする。ライトな風俗コメディというのが映画的に評価が低くなるなどというつもりはないけれど、この「もず」でのシリアスさには、この演出はちょっとマッチしていない気がしてしまう。まずはすこしテンポが早すぎる。さいしょの母娘の対話など、それぞれのセリフが重いのだからもうちょっと間をとった方が、観るものにその重みを受けとめるじかんが生まれるだろう。この作品での倍のじかんを取ってもいいような気がする。このテンポは「ああいえばこういう」という丁々発止の、コメディ的な演出にこそ合っているように思える。
 この作品で見惚れたのはやはりセット造型のみごとさで、とくに後半の母娘がいっしょに暮らす住まいの周辺の重厚なセット、母の入院する病院の、その窓の外の夜景など、これはちょっとリアリズムを越えた映画ならではの情景というか、その美しさに感じ入ってしまう。




 

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■ 2011-09-04(Sun)

 四日間もしごとを休んで、そのあいだフラフラしていたこともあって、例によって虚脱感。それが四日間分累積されている感じ。きょうはしごとも非番なのでとにかくゴロゴロしている。あとはニェネントの発情期の世話、である。ゴロゴロしているとわたしのそばにやって来て、わたしの顔を見上げて「にゃあお」となくのである。腰をほぐしてちょうだい、ということである。整髪ブラシのせなかで叩いてあげるのがいいんじゃないか、ということになった(とくにニェネントと話し合って決めたわけではなく、わたしがやりやすいということに主眼がある)。

 こんげつも、はたしてあるていどは経済的余裕があるのか、キチキチの生活を強いられるのか、まるで読めないことになっている。とにかく暑さもいちだんらくしたので、あれこれの衝動的な買い食いはセーブできるだろう。切り詰められるのはやはり食費なので、こんげつはそのあたりでてっていした倹約をやってみようかと思う。たとえばごはんにマーガリンをのせ、削り節をトッピングしてしょう油をちょっとたらしただけの食事とか(それでは「ネコごはん」である)。

 

 

[] 「あらかじめ失われた恋人たちよ」 (1971) 清水邦夫/田原総一朗:脚本・監督  「あらかじめ失われた恋人たちよ」 (1971)  清水邦夫/田原総一朗:脚本・監督を含むブックマーク

 清水邦夫が当時東京12チャンネルのディレクターだった田原総一朗と共同で脚本を書き、演出したという作品。脚本は清水邦夫が、演出は田原総一朗がおもにリードしたらしい。圧倒的にセリフ量の多い主役を石橋蓮司が演じ、彼がその周囲をつきまとうことになる男女、まるでセリフはないんだけど(だって、ろうあ者だから)、これを加納典明(!)と桃井かおりが演じている。ちょこっと緑魔子が石橋蓮司にからんで「第七病棟かよ!」と思わせてくれたり、しゅんかんカルメン・マキの姿を拝めたりする。音楽が成毛滋というあたりも、貴重なところ。

 まあこのころの清水邦夫はほんとうに世間(の一部)をブイブイいわせていたわけで、その当時のいきおいの片鱗を、ここでも体感することが出来るだろうか。わたしも当時は彼の戯曲作品を読んだり、舞台を観たりした体験があるけれど、この「あらかじめ失われた恋人たちよ」 はやっぱり「真情あふるる軽率さ」の系譜のなかにあるんじゃないのか、などと思ったりする。いやじつはもう、まるで憶えているわけではないのだけれども。

 しかしこの作品、やはり田原総一朗とのタッグというのは、これはミスマッチだったというしかないだろう。だってこの映像的な演出、ただフォトジェニックな風景をさがして、そのなかにどのように人物を配置するかということしか考えていないようにみえる。それぞれの画面は美しいかもしれないけれど、これでは清水邦夫の脚本は動かない。ぎゃくに、「ここは田原総一朗が書いたにちがいない」というあたりの演出は、ちゃんと絵が動いている。きっと、緑魔子の登場シーンは、田原総一朗が書いたんだろうと思う。蜷川幸雄もどこかに出ていたらしいけれど、やっぱここは(このときの)蜷川幸雄演出でこの作品を残しておけば、単なる「カルト作品」という評価を越えたインパクトを、いまでもたもちえたのではないか、などと思ってしまうのである。




 

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■ 2011-09-03(Sat)

 四日間休みをとっていたので、きょうは久々の出勤。ちょうどせんしゅうの月曜日からシステムが変わって、その月曜日にはまるでしごとがなくって、いったいこれからどうなるんだろうと思っていた。ひょっとしたらわたしの休んでいるあいだにまるでしごとのやり方が変わってしまったり、なんてことも考えていたのだけれども、出勤してみるとほんとうに、すっかり変わってしまっているようだった。わけがわからない。どうやらしごと量がけっきょく極端に減ったままのようで、わたしはいつもの分室でのしごとではなく支店居残りで、いつもとちがうしごとをいちにち通してやった。やっとらいしゅうからのシフト表を入手してみてみると、わたしはまたあしたは非番で休み。そのいつもの分室のしごとがどのように変化したのか、いつまでもわからないままである。なんだかなあ、という感じ。

 帰宅してパソコンに向かっていると、わきにニェネントがやってきてゴロンと横になり、わたしの顔をみてにゃあにゃあないている。なんですか、わたしを見上げるその表情は。まるでなにかおねだりしているみたいじゃあないですか。まるで発情期じゃあないですか、などと思ってまたニェネントの姿勢や顔の表情をみると、こりゃあやっぱり発情期なんじゃないのか。で、そういうときのように腰をスプレー缶でポン、ポンと叩いてやると、ひゃあぁ!っと身をよじる。ひゃあ、また発情期ではないですか。前のが終わってまだ二週間もたっていないんじゃないの? どうしたというんでしょう。それって、生理不順っていうんですか? 腰を叩くのをやめると、しばらくしてまたわたしの顔を見上げて、にゃんにゃんとないておねだりしてくる。まいったなあ。

 台風が西日本の方に近づいているらしく、大きな被害が出はじめている。このあたりも空は曇っているけれども、それほどの影響は感じられない。湿度が高く、むし暑い。また昼寝をいっぱいした。

 

 

[] 「赤の他人の瓜二つ」磯崎憲一郎:著  「赤の他人の瓜二つ」磯崎憲一郎:著を含むブックマーク

赤の他人の瓜二つ

 いまのわたしが、青木淳悟とともに現代日本のあたらしい小説の書き手として新作を楽しみにしているのが、この磯崎憲一郎。この新作はことしの三月には刊行されていたようなのだけれども、まったくチェック出来ていなかったのをようやく読んだ。

 このひとの小説は、前ぶれもなくとうとつにコロコロと視点が変化するのはいつものことで、しかもそれまでの展開とはつながりのない、まったくあたらしい展開にいつのまにか移行してしまっていたりするわけだけれども、この新作はそういうテイスト全開の、いってみればちょっとした「奇書」というような印象もある。ものすごく、変である。書き出しは、こうである。

 血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。──私が初めてその男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった。まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない、気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。

 このあと、「当時、私たちはみな、江戸時代の長屋のような社宅に住んでいた。」と続くのだけれども、書き手なのだろうと推察される「私」はいっこうに姿をあらわさないで、その社宅に住む家族の生活の客観描写になる。しばらくあとの「これが工場労働者の生活だった。私の生活がそうだったのだから、その男も同じ生活を送っていたことはまず間違いない。」という箇所をさいごに、この作品には二度と書き手らしき「私」は登場して来ない。あとはすべて三人称記述である。だから、タイトルにもある「赤の他人の瓜二つ」とは、いったい誰と誰のことなのか、それすら不明のままである。冒頭の数ページを読めば、さいしょに出てくる「その男」とは、その社宅に住む工場労働者のことなのではないか、とも推測されるのだけれども、そのことへの言及はないわけだから、冒頭の「その男」とは、この作品には登場しないでいるまったく別の男だとも考えられるのである。そして、「赤の他人の瓜二つ」というタイトルに則したような展開は、この作品のなかばにいちど登場し、さらにラストにもういちど、深読みすればそういうことだろう、というような結末が用意されている。そういうふうに読むと、この結末はまるでコントの「おち」みたいなもので、どういうふうにこの結末が「赤の他人の瓜二つ」ということなのかを書こうとすると、この小説の重大な秘密をばらしてしまうようで、つまり「ネタバレ」として、ここに書くことをためらわされてしまうのである。

 しかしまあ、その「おち」だけがこの小説の面白さではないことはいうまでもなく、先に書いたような意表をついた視点/物語の転移、移動が、ラスト近くのある一点に、ふいに収束するのであろうという展開を読むことの楽しさ、面白さこそ、という作品ではある。
 その工場労働者の家族の記述がしばらく続いたあと、その工場がチョコレート工場であるということから、その原料であるカカオ豆をはじめて西欧に持ち帰ったコロンブスの、これは史実なのかどうかわからない奇妙な話に移行する。さらに、そののちヨーロッパで健康飲料として大流行したというチョコレートが、じつは毒薬を盛るのに好都合とみなされたということから、フィレンツェを舞台としたメディチ家の宮廷医と、謎の貴婦人とのミステリーじみた関係の物語にふいに移動する。このあとに小説はふたたび工場労働者の家族の話にたちもどるけれども、こんどはまるで映画「卒業」のような展開になる、その長男の物語がはじまる。さらに小説家になることになるその妹の話がつづき、さいごにまたその父(と母)の話に回帰するわけである。ここで、これまでの多くの磯崎憲一郎氏の作品でおなじみの「雑木林」があらわれることになり、とりわけ彼の「終の住処」との親和性を感じさせられることになる。

 こういう感想だと、まるで支離滅裂な作品ではないのかという印象を与えるかもしれないし、じっさいにこの本をめくって、そういうふうに受け止められる読者も少なくはないだろう、というのはたしかだと思う。しかし、この書物には、凝縮された「物語」を読む、という楽しみ、その、てんでバラバラのようなそれぞれの「物語」のからみ方、タイトルの意味するところなど、それがたとえ誤読ということになろうとも、とにかくは興味深くも楽しく読むことができたというのは、少なくともわたしにとっては、はっきりといえることである。

 ちなみに、引用した冒頭の一節、「それほど男は私にそっくりだった。まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない、気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。」という部分からは、ついついナボコフの「絶望」という小説を思い出してしまうのである。そうすると、この小説はなお楽しい。




 

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■ 2011-09-02(Fri)

 ほんとうに久しぶりに、東京で夜を明かした。まあずっと起きていたわけではなく、つまりは新宿のカプセルホテルに宿泊。到着して着替えてそのままドッと爆睡。目が覚めたらもう朝の八時になっていた。せっかく宿泊したんだからついでにひと風呂浴びたりすりゃあいいんだけど、どうもそういう気分でもなく、九時ごろに外に出る。さくやチェックインしたころにはかなりの雨が降っていたのだけれども、すっかり晴れた空。夜にはげしく雨が降ったあとに快晴の朝になったときというのは、空気も日の光も清浄に感じられるというか、これは気分のいいものなのだけれども、この朝にそういう感覚を受け取った。

 JRで上野まで出て、しばらく駅ナカをみてまわってから、宇都宮線に乗って帰る。電車も空いていて快適。
 ちょうど十二時に地元駅に到着して、改札を抜けて歩いていると、どこかからネコのなきごえが聴こえた。ふりむいてあたりを見まわして、ネコのすがたをさがす。わたしのあとに歩いてくる人が、そばのベンチの下をちょっとのぞいてからまた歩いていった。そのベンチの下をみると、いたいた。茶トラの成猫が通り過ぎる人たちに向かってないている。そばに寄ってみると、わたしの顔をみて「にゃあ」とないた。その表情がとってもいい。ちょっと顔をなでてあげるとしばらくわたしを見上げている。からだをみると、無惨なほどにげっそりとやせているのがわかった。これだけ人を避けないというのはおそらく野良ネコではない。これは飼いネコが捨てられたのか、それとも迷ってしまって家に帰れないでいるんだろう。うーん、ちょっとだけ、考えてしまった。このままではきっと食べるものがなくて飢え死にしてしまう。ウチでニェネントといっしょに飼ってあげようかと。でもそれはおそらくムリな話で、この茶トラがオスだったりしたらめんどうだし、ニェネントだけでももてあましてしまうところもあるというのに、もういっぴきネコを飼うのは非現実だ。それでも、すっごくかわいそう。わたしが背を向けて歩きはじめても、ちょっとだけわたしのあとについてこようとするしぐさをみせる。つらい。でも、不細工なネコじゃないし、人馴れもしているみたいだから、こうやって駅のまえで通りかかる人にアピール続けていれば、もっともっとだいじに飼ってあげられる人が拾っていくかもしれない。そういうことが起これば、わたしがムリをして飼うよりもずっとずっとこのネコにしあわせなことである。でも、歩きながらついついミイのことなんか思い出して、涙がこぼれそうになった。やっぱり駅まで引き返してそのネコを抱きかかえて家に帰ろうかとか、逡巡しながら帰宅する。ニェネントがわたしを出迎えてくれた。元気そうだけれど、食事はまだすこし残していた。ニェネントちゃん、キミはしあわせなネコなんですか?

 保温にしてあったごはんでかんたんに昼食をすませ、きのう買ったAmy Winehouse のCDをリピート・モードにしてベッドに寝転がって聴き、予想どおりそのまま昼寝になってしまった。さすがにこの日はたくさん昼寝をし、目が覚めると外も部屋のなかももう、薄暗くなっていた。きのうAさんが貸してくれた「リトル・ピープルの時代」という本をすこし読みはじめる。「なんだ? この本は?」という感じである。少なくとも一ページに一ヶ所は論理の飛躍で意味の取れないところ、おかしな論旨がある。そもそもが「大きい物語」「小さな物語」といういい方はリオタールのポストモダン論じゃあないのか。ちゃんと典拠は書いておくべきだと思うが。

 


 

[] Amy Winehouse 「Back To Black」  Amy Winehouse 「Back To Black」を含むブックマーク

 びっくりしてしまうぐらい、60年代のガール・グループ(R&Bもポップも総括して)の音の影響をモロに表に出した音づくりだった。ライナーノーツには「Thank you, Shangri-Las」との記述も(そういわれてみると、どれかの曲がちょっとばかしShangri-Las の「I Can Never Go Home Anymore」を思わせるものだったような)。一曲目の「Rehab」のイントロからもう60年代モード全開で、ここは歌詞に出てくるRay Charles の影響というか、彼のコーラスグループRaelettes のコーラスをやっているんだよ、という感じである。Supremes の「Baby Love」のイントロを持って来た曲もあるし、すっかり聴いているわたしのこころも60年代にバックしてしまう。しかし、当時にもこれだけの歌唱力を持った歌手というのは、そんなにおいそれとはいなかったんじゃないかな。というか、これだけ力を抜いたようなルースな感じの歌唱で、それでも強烈なパワーを感じさせられるのはどういう魔力なのか。
 とりあえずザッと聴いた感じでのお気に入りは、やはり「You Know I'm No Good」、それにボーナストラックの「Monkey Man」あたりだけれども、いやいや、やっぱりトータルにすべてすばらしい。チェックするのが遅すぎたのであった。しばらくは愛聴盤になるだろう。




 

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■ 2011-09-01(Thu)

 ついに九月になってしまった。もう秋である。日本には台風が近づいていて、このあたりでも空は曇っている。わたしは四連休の三日め、また東京へ出かけ、また下北沢のスズナリで観劇する。またAさんといっしょである(月が変わるとイニシャルをリセットして、Aさんから順にはじめることにしているので、おとといのOさんときょうのAさんとは同一人物なのである)。これは少年王者舘のチケットを入手していたあとになって、鉄割アルバトロスケットも直後にれんぞくして公演することがわかったせいで、Aさんの都合もあってこういう日程になってしまったのである。ふつうに夜の公演なので、わたしはばあいによっては帰宅できないじかんになってしまう。七時半開演で上演時間は約二時間とのことなのだけれども、九時四十分に下北沢駅から電車に乗って、それでなんとか(このあいだみたいに)新幹線を利用して帰宅できる計算になる。きわどい。新幹線など利用しないで在来線だけで帰宅しようとすると、九時二十分の電車に乗らなければならない。これはよほど舞台が予定よりもはやくはねないかぎり乗れないだろう。九時半になったら舞台のとちゅうでも抜け出して帰宅しようかと計画を立てる。Aさんは舞台が終わったらあしたがあるのですぐに帰るというので、こんや帰宅しないで東京で宿泊するにしてもなんだかじかんをもてあます気がする。まあ東京で一夜明かしてしまうということも考えにいれてはいるけれど、経済的なことを考えればやはりこんやは帰宅しておきたい。

 Aさんとはきのうメールで連絡をとり、ひるまは銀座のヴァニラ画廊での真珠子さんの個展を観ることに決めている。有楽町駅でAさんと待ち合わせ、まずは昼食をとる。画廊に近い方でどこかあたらしい店を探そうとしたけれど、そのあたりにあるランチを提供している店はどこもちょっと高級すぎたので、引き返していつも銀座で昼食をとる店に落ち着く。この店はドリンクバー付きでゆっくりできるし、メニューも豪華、しかもたいへんに美味なのである。ランチの値段ももちろんリーズナブル。やはり銀座はココ。ごはんもおかわり自由なのでちょっとおかわりしてみたら、さいしょよりも大盛りのごはんがやって来た。予想外の展開に難儀してとにかく全部食べちゃって、いささか食べすぎである。画廊へ行くまえに大通りにある楽器店へ立ち寄って、Amy Winehouse のCDを探す。もちろん、セカンドの「Back To Black」である。国内盤が思いのほか安かったので、迷わず買う。CDの国内盤新品を買うなんていったいいつ以来になるだろう。さて、真珠子さんの個展の感想は下に。

 銀座の用事は終わり下北沢へ移動して、スズナリの見わたせる二階にあるカフェでお茶をする。ここで二時間以上じかんをつぶす。まあよく会話のネタが続くものだと、じぶんでも感心しますよ。

 ようやく開場のじかんになり、またもやスズナリの観客席へ。いちおう、とちゅう退席という事態を想定して、通路わきの出口の近い席を確保する。すわって開演をまっていたら、あとからやってきたBさんにあいさつされた(なんだ、このあいだお会いしたときには「鉄割」を観るなんていってなかったのに)。会場をみまわすと、それなりに知っているひとの顔が何人か識別できる。Bさんが来てるんならどうせ帰りに皆で飲むんだろうから、同席させてもらえば夜が楽しくなるな、それならこんやは東京で夜明かししちゃってもいいな、という気分になる。

 楽しい舞台がはじまり、やがて終わる。感想はまた下に書くけれど、やはり終わった時点で時計をみると、すでに九時四十分になっていた。東京で夜を明かすプランに決定したわけである。Aさんはさっさと帰ってしまい、プランどおりにBさんたちと、駅の近くの居酒屋で終電近くまで飲んで食べる。集まったのは約十人、つまりBさん(俳優の人)Cさん(演出の人)Dさん(美術の人)Eさん(編集の人)Fさん(ダンスの人)Gさん(パフォーマンスの人)Hさん(イヴェントスタッフの人)、それから初対面の方々が三、四人という布陣。わたしはけっこう、初対面の方々とおはなししていたみたいであった。楽しい飲み会だった。わたしは新宿のカプセルで夜明かしすることにして、新宿までの電車ではDさんといっしょ。おそらくはじめてちゃんと、Dさんとふたりで会話をした。ここでもうとっくに日付けは変わっているので、九月一日の日記はもうおしまい。

 

[] 真珠子個展「花びらうらない」@銀座 ヴァニラ画廊  真珠子個展「花びらうらない」@銀座 ヴァニラ画廊を含むブックマーク

 ことしの二月、横浜での指輪ホテル主催のイヴェントではじめてみた作家。そのときには「アニメ紙芝居活弁」なる出しモノだったけれど、まあなんというか、幼女に擬した作者のぶちまける、おぞましい童画世界にちょっとしたショックを受けたわけで、ちょうど彼女の個展が開催されていたのを観にきたしだいである。こんかいの展覧会はその童画、というか、彼女のイラスト、そして「アニメ紙芝居」(活弁はなし)、それからおそらくはこの個展のメインなのだろうロウケツ染めの作品群の展示。床もいちめん、そんな彼女のイラスト(ロウケツ染め?)をびっしりとプリントしたものになっている。

 彼女の童画を模したイラスト、あきらかに戦略的なものであって、それはアニメ紙芝居での「森のなかのケーキ」だとか、天狗の面をかぶったウサギだとかのシンボルであまりにあきらかなのだけれども、彼女の純真な天真爛漫をよそおったへたうま童画を観せられると、それがたんなる戦略ではすまされないような感慨をうけることになる。それはいっしゅのアウトサイダー・アートを想起させられるものでもあるけれども、やはりそこに童女の無垢さ、その無垢が汚辱にまみれたところをみてしまったようなあぶなさを感じてしまう。印象としては丸尾末広の「少女椿」のヒロイン、みどりちゃんが描いた絵日記、というところだろうか。会田誠の「ミュータント花子」を想起しそうにもなるけれど、もちろんそういう露骨なものではなく、その「露骨ではない」というあたりでの「戦略」の隠し方が絶妙なのではないかと思う。

 こんかいのメインのロウケツ染め、ここでは「へたうま」というのではなく、ストレートに美しい作品という印象を受けてしまう。そういう表現方法による作品のギャップもまた、彼女の魅力なんだろう。


 

[] 「鉄割あっ!」鉄割アルバトロスケット 戌井昭人:作 牛嶋みさを :演出 @下北沢 ザ・スズナリ  「鉄割あっ!」鉄割アルバトロスケット 戌井昭人:作 牛嶋みさを :演出 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 いつもの本公演。短い演目が約四十、途中休憩をはさんでズラリと並ぶ。それぞれが暗転で終了し、次に移行していくわけだけれども、まずはその暗転のタイミングが絶妙で、「暗転」の生み出すギャグ、という印象もある。その暗転のあいだにちょっと流されるBGMのセンスも、そのあたりの音楽の趣味がわたしとかなり合致しているようなのもうれしいのである(いぜん、Frank Zappa の楽曲もよく使っていたし、Nick Drake ネタの出しモノも拝見したことがある)。こんかいはLou Reed ネタの再演など。クライマックスはこれはもうほとんどラストにやってくる「馬鹿舞伎」で、こんかいは児雷也にガマの油売りが合体したようなオリジナルというか、ほとんどはじめてバックの語りの内容が聴き取れるものだった。

 これまでの常連だったメンバーがふたりほど辞められたようで、これは残念なことだった。まだあたらしいメンバーがその穴を埋めるにはいたらず、そのぶんほかのメンバーの出番を多くしてカヴァーしていた。生まれたばかりの馬だか鹿だかの赤ちゃんの動きを模した「生まれたて馬鹿」に、ちょっと馬鹿し感銘を受けた。




 

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