ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2011-10-31(Mon)

 きのうのネコは、きょういちにち姿をみせなかった。きのうからベランダに出しておいたキャットフードも、よるまで手つかずのままだった。やっぱりどこかの飼いネコが気まぐれな散歩のとちゅうで、ふらりとやってきただけだったのだろうか。もうこのあたりは野良ネコが生活できるような環境でもなさそうだし、いきなり野良ネコが姿をみせるというのも奇妙な気もするわけである。でも、だからこそ、飼われていたネコが捨てられたのだ、とかいうことも考えられる。またひょっとしてここにやってくるかも知れない。なんだかきのうあのネコをみてそれだけで愛着がわいてしまって、また姿をみせてほしいと思っている。

 外のネコの気配を知ったせいか、ニェネントはドアの外へ出ようとする。ドアを開けるときはまずドアのそばに来たニェネントを抱き上げてからドアを開け、ドアの外からニェネントを室内に放り出してからドアを閉める。やっぱりそのうちにネコ用のお散歩ロープを買ってきて、いっしょに散歩でもしてあげようかとも思う。

 夕食に、冷凍室にあったサイコロステーキ用の牛肉を解凍して、ビーフカレーだよ、というのをつくった。サイコロステーキ用の肉というのは炒めると形がくずれてきて、つまりはこれはひき肉みたいなものをかためて四角くしてあるんだと、いまごろになってわかった。まあサイコロステーキなんて外でも食べないし。

 

 

[] 「ゾンビランド」(2009) ルーベン・フライシャー:監督  「ゾンビランド」(2009) ルーベン・フライシャー:監督を含むブックマーク

 アメリカの、ゾンビ映画の伝統からうまれた二次創作のようなゾンビ映画。もう「ゾンビとは何か」とか、こまかいことは説明不要で、いきなり地上がゾンビに埋め尽くされている状態から映画がはじまる。主演は「ソーシャル・ネットワーク」が印象に残るジェシー・アイゼンバーグで、これにウディ・ハレルソンとか成長したアビゲイル・ブレスリンらがからみ、奇妙な本人役でビル・マーレイも出演。

 これはもう、いぜん読んだコーマック・マッカーシーの小説「ザ・ロード」のパロディのようなもので、同じく映画化されている「ザ・ロード」とくらべて観てみたい気がする(らいしゅう放映されるので楽しみ)。まあ「ザ・ロード」という小説じたいがゾンビものをシリアスにリアライゼーションしたパロディみたいなもので、その「ザ・ロード」のリアルさ、シリアスさをとっぱらって「ゾンビ映画」全開モードにしたのがこの作品、という感じ。
 おたがいをまったく信頼していない四人組(そのうちの姉妹二人は信頼し合っているだろうけれども)が、ゾンビのいない地を求めて西海岸へと向かう道中記、そしてラストの「パシフィック・ランド」という遊園地でのゾンビとの死闘を経て、四人のおたがいに信頼関係が生まれると。

 まるでゲームをやっているみたいに、画面のなかに「生き延びるためのルール」の文字がはめこまれ、つまりは映画としてのリアリティなんて、これははなっから無視している。つまりはゲーム感覚でゾンビにあふれたアメリカを横断して行くというものなんだろう。そういう軽くってスピーディーな演出はやっぱり楽しい。オーラスはゾンビをすべて退治するのか、ゾンビのいない地を見つけ出すのか、とにかくは道中の盟友を見つけ出したというところでこの作品は完了。

 しかしやっぱりビル・マーレイの本人役での登場ぶりがいちばん不条理というか、彼はゾンビ化していないのだけれどもゾンビにおそわれるのを防ぐためにゾンビの扮装をしていて、その扮装をさいごまで取らない。しかもまるでヌーヴェルヴァーグ映画のように、どうでもいいようなてん末で、ほとんど何もしないうちに死んでしまう。すごい、のである。
 ウディ・ハレルソンとジェシー・アイゼンバーグのコンビもめちゃ楽しそうに演じているし、エマ・ストーンとアビゲイル・ブレスリンの姉妹のこにくたらしさもかわいい。笑いを取ることに熱中するわけでもない、いいところですき間を残すような、ライトな感覚の演出が気もちのいい作品だった。


[]二○一一年十月のおさらい 二○一一年十月のおさらいを含むブックマーク

舞台;
●10/3(月)self23 / shyz2 「赤色反応」岡靖洋:脚本・演出・音楽 @日暮里・d-倉庫@下北沢 ザ・スズナリ
●10/11(火)オフィス コットーネ プロデュース「赤色エレジー」林静一:原作 天野天街:脚本・構成・演出 あがた森魚:音楽
●10/11(火)維新派「風景画—東京・池袋」松本雄吉:構成・演出 @池袋・西武池袋本店4階まつりの広場

映画:
●「東京公園」青山真治:監督

展覧会:
●「モダン・アート、アメリカン —珠玉のフィリップス・コレクション—」@六本木・新国立美術館

読書:
●「東京飄然」町田康:著
●「野生の探偵たち(上・下)」ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳

DVD/ヴィデオ:

●「オペラハット」(1936) フランク・キャプラ:監督
●「西部の顔役」(1942) ウィリアム・マクガン:監督
●「誰が為に鐘は鳴る」(1943) アーネスト・ヘミングウェイ:原作 サム・ウッド:監督
●「ガス燈」(1944) ジョージ・キューカー:監督
●「ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声」(1945) マイケル・カーティス:監督
●「OK牧場の決斗」(1957) ジョン・スタージェス:監督
●「噂の二人」(1961) ウィリアム・ワイラー:監督
●「黒いチューリップ」(1964) クリスチャン・ジャック:監督
●「空軍大戦略」(1969) ガイ・ハミルトン:監督
●「リスボン特急」(1972) ジャン・ピエール・メルヴィル:監督
●「デリンジャー」(1973) ジョン・ミリアス:監督
●「風とライオン」(1975) ジョン・ミリアス:監督
●「天国の日々」(1978) テレンス・マリック:監督
●「ミッシング」(1982) コンスタンチン・コスタ=ガヴラス:監督
●「クリスティーン」(1984) ジョン・カーペンター:監督
●「愛と悲しみの果て」(1985) シドニー・ポラック:監督
●「フランティック」(1988) ロマン・ポランスキー:監督
●「I SHOT ANDY WARHOL / アンディ・ウォーホルを撃った女」(1996) メアリー・ハロン:監督
●「ファーゴ」(1996) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督
●「ファウンテン 永遠につづく愛」(2006) ダーレン・アロノフスキー:監督
●「ウディ・アレンの夢と犯罪」(2007) ウディ・アレン:監督
●「パリ20区、僕たちのクラス」(2008) ローラン・カンテ:監督
●「人生万歳!」(2009) ウディ・アレン:監督
●「ゾンビランド」(2009) ルーベン・フライシャー:監督
●「2012」(2009) ローランド・エメリッヒ:監督
●「クレイジー・ハート」(2009) スコット・クーパー:監督
●「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009) ニールス・アルデン・オプレウ:監督
●「ミレニアム2 火と戯れる女」(2009) ダニエル・アルフレッドソン:監督
●「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」(2009) ダニエル・アルフレッドソン:監督
●「銀座カンカン娘」(1949) 島耕二:監督
●「稲妻草子」(1951) 稲垣浩:監督
●「続・社長千一夜」(1967) 松林宗恵:監督
●「女賭博師尼寺開帳」(1968) 田中重雄:監督
●「はなれ瞽女おりん」(1977) 篠田正浩:監督
●「月とチェリー」(2004) タナダユキ:監督
●「容疑者Xの献身」(2008) 西谷弘:監督
●「悪人」(2010) 李相日:監督
●「十三人の刺客」(2010) 三池崇史:監督


 

 

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■ 2011-10-30(Sun)

 見知らぬネコが、ベランダに来ていた。

 洗濯をしようとベランダに出たわけだけれども、ふと振り向くとベランダに出してある作業台の上にネコがすわっていて、わたしの方をじっとみていた。おや、と思ってネコの方に近づこうとすると作業台からとびおりて、そこでじっとしている。あまりひとを恐れてはいないのだろうけれど、それ以上近づこうとすると、ふっとベランダから逃げて行ってしまった。
 濃い茶色のトラネコで、長いしっぽはアライグマのようなきれいなしま模様になっている。からだはニェネントよりもちょっと小さいようで、顔の感じからもその動作からも、ニェネントよりも若いネコのように思える。かわいいネコだと思った。

 このところニェネントがみょうに媚びたなきごえをあげたりしていたのは、外にこのネコが来ていたせいかも知れない。そう考えると合点もいくのだけれども、はたしてあのトラネコ、このあたりであたらしく野良ネコになってしまった個体なのか、それともどこかで飼われているネコがお散歩でここまで足を伸ばしているのか、そのあたりのことが判然としない。野良ネコにしては警戒心が薄いようにも思えるけれど、首輪をしているようではなかった。捨てられてしまったネコなのだろうか。

 夕方にベランダに出てみると、ベランダの下からそのネコが走って逃げて行くのがみえた。なんだ、また来ていたのか。このあたりをなわばりにしようとしているんだろうか。かわいいネコだったし、ニェネントといっしょにここで飼うことを夢想してしまった。もしもあのトラネコが牡ネコだったら、不妊手術をしてあげよう。でも、野良として外の生活になれてしまっていたら、部屋飼いにするのはむずかしいのだろうか。そんなことはとにかく、また来るといいなと思って、ベランダにキャットフードを盛った皿を出しておく。

 買い物に行こうと外に出ようとすると、いつものようにニェネントがドアのところへ先回りして行くんだけど、きょうはドアを開けると外へとび出して行こうとした。間一髪でストップ。あのトラちゃんの魅力に惹かれているんだろうか。わたしも同じだよ。

 きのうまでの粗食から逃れ、きょうはおいしいものを食べようと思っていたのだけれども、けっきょくポテトとマカロニなどでサラダをつくっただけで終わってしまった。あとはふりかけ。粗食はつづいている。



 

[] 「月とチェリー」(2004) タナダユキ:監督  「月とチェリー」(2004) タナダユキ:監督を含むブックマーク

 わたしはこの作品の監督、タナダユキさんのファンである。しかし、この作品はきょうまで観たことはなかった。デビュー作の「モル」を観たのはずいぶんとむかしのことで、いまはほとんどその内容も忘れてしまっているけれど、この「月とチェリー」もどこか「モル」を思い出させられるようなところがあったような。

 タナダユキ監督の持ち味というのは、ちょっとエグい主題をとりあげて、そのエグさは保ちながらも、なんともスマートに演出してしまうあたりといえばいいのか、奇妙な「おしゃれ」さが感じられるあたり、などというと、これはズレているかもしれない。うん、そう、そういう何かがズレているという感覚が斬新に感じられるのだろうか。とにかくは彼女の作品は好きである。

 この「月とチェリー」、つまりは谷崎の「痴人の愛」あたりの男女の役割を交代させ、しかもそれを男性側の視点から描いているもので、「女性に調教されてしまう男」の純愛物語、である。登場人物が男も女も大学生というあたりで、どこか生活の生々しさから逃れ得ているところも成功のカギというか、男の子の成長ロマンという側面もまたかいまみえるあたりがステキ、なのである。まあどういう成長なのかよくわからんけど。

 ポコ、ポコとはさまれる青空のショットが効果的で、このある意味でアホらしいおはなしにお似合いのアクセントになっている。
 この主役ともいえる女性を演じているのは江口のりこで、こういう意表をつく配役もいいし、これがまた江口のりこがいいのである。

 タイトルの「月とチェリー」のチェリーとは女性のすっているタバコの銘柄のことのようで、その「チェリー」はこの夏に生産中止になってしまった。

 

 

[] 「十三人の刺客」(2010) 三池崇史:監督  「十三人の刺客」(2010) 三池崇史:監督を含むブックマーク

 どうも三池崇史監督のもつ、演出の「過剰さ」というのは苦手で、さいしょのうちこの監督の作品をつづけて観たあとは、「もういいや」という感じで、すっかり彼の映画を観なくなってしまった。けっこう前に観た「スキヤキ・ウエスタンなんとか」というのも、わたしにはあまりにトゥーマッチだったよ。しかし、この「十三人の刺客」は、おもしろかった。

 オリジナルは東映、1963年の工藤栄一監督作品だったらしく、ひょっとしたらこちらが放映されたときの録画VTRがうちのどこかに転がっているかもしれないけれど、とにかくそちらを観たことはない。しかしどうもこの作品にはあきらかに<もうひとつの「七人の侍」>テイストが感じられる。それに、当てにならない権力機構に代わって天誅を成すというあたりに「忠臣蔵」っぽいところもある。それが1963年版ではどのように料理されていたのかはわからないけれど、この三池崇史監督版では、「七人の侍」に対抗する気もちが強く感じられる。それは中盤にまさに三船敏郎的にふるまう野人の伊勢谷友介が登場して「十三番目」の仲間に加わるあたりから顕著になり、決戦の場になる落合の宿を仕掛けだらけに大改造するあたりも、これは「七人の侍」の村落の要塞化をほうふつとさせられる。

 ただし、「七人の侍」にあった、厳密な数字へのこだわりというか、野盗が何人残っていて味方が何人倒れたかというような、観客に戦局を伝えるようなサーヴィスはここではもう放棄されていて、ほとんど「男たちの挽歌」みたいな、「どこまでも押し寄せてくる敵」のマッスと十三人との闘いが、いかにも三池崇史監督の演出らしく、こってりと、しつっこく、血みどろに描かれるわけである。まさに「小細工はここまでだ!」と役所広司ががなりたてるように、ただただ人を斬り、人が斬られるシーンが延々とつづく。まあ観ていればその十三人の刺客がどのように倒されていくのかはわかるし、あと何人になってしまったなあとかいうのもわからないでもないけれど、「七人の侍」にあったような冷徹な状況提示というものではない。しかし、おもしろかった。三池監督のトゥーマッチさが、この作品ではプラスに作用したということ。たしかに60年代から70年代にかけての東映時代劇という雰囲気はある。そう、どちらかといえばこれは、ペキンパーの「ワイルドバンチ」のようなテイストか。

 出演者ではもう誰が誰だか、わたしなどにはよくわかっていないところもあるけれど、あまりスクリーンでは見なれない市村正親の「濃い」顔とか、古田新太の爽快な暴れぶりを観ることができた。ちょっと大きなスクリーンで観たかった思いがする。エンド・クレジットで近藤公園などの名まえも見えて、そういえばあの男は近藤公園だったのか、などとあとになって思いあたる始末。暴君ネロのような悪役松平斉韶が強烈なんだけれども、これを稲 垣 吾 郎(すいません、検索よけで字間にスペース挿入します)が演じていて、印象はよかった。まあ無表情に残虐のかぎりをつくすというか、感情移入しない演技を通しただけともいえるけれど、背骨の伸ばし方がいい感じというか、誰でもが出来る役ではないだろう。彼が所属するS M A Pのメンバーはそれぞれが映画で主演を果たしているけれど、まともなのはこの稲 垣 吾 郎ひとりのように思える(ちゃんと観たりはしていないけれど)。




 

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■ 2011-10-29(Sat)

 もうそろそろ十一月。よる寝るとき、あさ起きたときなどに肌寒さを感じる。きのうの帰宅がおそくなり、それでもけさはいつも通りのじかんにしごとに出て、しょうしょう寝不足ということで昼寝をいっぱいしてしまった。ほんとうはきょうから、せんしゅう開催日をまちがえて行ってしまった「ワイズマン・レトロスペクティブ」がはじまるのだけれども、どうせ行っても映画館のなかで寝てしまうことになるから行かない。観たかった「チチカット・フォーリーズ」はまだほかの日にも上映があるはずである。それに、ついたちには公開中のヴェンダーズの「パレルモ・シューティング」を観に行きたいと思っている。げんざいのサイフのなかみを考えると、きょう出かけたりするのはとんでもないことになる。リヴィングの蛍光灯が寿命になってしまっているのも、はやいとこ取り替えなくてはいけない。つきの上旬がすぎればなんとか余裕もできるので、それまでのがまん。

 夕食にはせんじつ三合も炊いてしまった例の「松茸(風味)釜飯」の残りを食べる。ほんとうは捨ててしまいたいんだけれども、食べるものを捨てたりすることはわが家ではかたく禁じられている。それでもこいつだけを食べるとまずくってわびしい気分になるのでポテトサラダをつくっておかずにし、ムリしてぜんぶ食べた。きのうの昼食もわびしかったことだし、あしたはなにか、おいしいと感じられるものを食べたい。


 

[] 「オペラハット」(1936) フランク・キャプラ:監督  「オペラハット」(1936) フランク・キャプラ:監督を含むブックマーク

 人間の善意を信頼し、そこに期待するようなフランク・キャプラの作品にはときどき違和感も感じるわけで、せんじつ観た「我が家の楽園」も、わたしには楽しめないところがあった。というのはひとつには、そういう「善意あふれる人間」というものの造型が、ドストィエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵みたいになってしまうというか、ピュアでイノセント、ということが世間知らずで一見非常識(そして傷つきやすかったりする)という造型につながりがちではないか、ということで、キャプラ作品に限らず、じっさいにそういう人物の登場する映画作品って多いんじゃないかと思う。で、そういう人物が常識のまかり通る世間に出てもんだいが起きたりするわけで、世俗の世界に妥協して生きているひとびとの姿勢を問い返すことになる。その、そういうピュアな人物の造型がなんというか困っちゃうことが多い。天真爛漫とか天衣無縫とかいっても、いくらなんでもそりゃあないでしょうとか、まあそういう存在が善意の連鎖を呼ぶといっても、どこか非現実的なままの展開になってしまう感じがする。もっとこう、そういうピュアな善意といえども、俗世間とちゃんと俗世間の論理で衝突させるべきだろう、などと思ったりもするわけである。するとびっくり、この「オペラハット」は、まさにそういう作品だった。

 主人公のディーズ氏はとつぜん膨大な遺産を相続することになり、いなか町からニューヨークへやって来る。ここにその遺産のおこぼれを狙ったり、そのラッキーボーイを報道しようとする連中なんかが押しかけてくるわけである。もちろんここでディーズ氏は「善意」の象徴のような人物なのだけれども、おもしろいのは彼は世知にたけた常識人の部分もふくみもっているということで、それはいなか町では友人となんかの工場を経営していたということからも来るのだろうか。絵はがきに添えられる詩を書くことも趣味であると同時にちょっとは収入にもなっているようで、町の楽隊ではチューバを担当し、いつもチューバを手放さずにいてニューヨークにも持参する。消防車ウォッチングも趣味のひとつのようで、消防車のサイレンを聞くとすっとんでいく。そういう人物である。ただ女性と付き合ったことはないらしく、いなか町では夢の女性との空想の散歩を楽しんでいたと。

 遺産を相続してニューヨークに出て来てからも見聞をあれこれとやってみたいということで、いろんなひとに会い、いろんなところに出かける。下心のある人物には「あれはおかしい」と判断しているし、いきなり理事を務めることになるオペラ興行の団体の会議では「いくら芸術といっても、大きな赤字を出していいものではない」というまっとうな主張をして帳簿を見直させる。レストランで著名な詩人らと会っても、彼らがじぶんのことをバカにしてかかっていることは見抜いて幻滅する。遺産にはさほど執着がないというか、どう使えばいいのか考えるのがめんどそうだったけど、収入のない農業従事者をあつめてアメリカの善意の理想を体現する感じで、大規模農園事業をはじめようとする。

 おもしろいのはそのディーズ氏が、遺産目当ての連中に「精神的に責任能力のない、入院の必要な人物」として裁判に引っぱり出されるというクライマックスで、これはひょっとしたら脚本家が、そのむかし自分の書いたそういう「ピュア&イノセント」ドラマのことを「こういう主人公はげんじつには精神病院行きだよ」とでもいわれたことを受けて書いた脚本なんじゃないかとか、空想してしまう。というか、まさにわたしがそれに類する疑問をもっていたわけだけれども。裁判とかの展開はかなりフィクショナルなものだけれども、それでもつまりは映画のなかにそういう夢のような人物を配置することの正当性を、その映画みずからでもって証明しようとしているようなあんばいで、つまりは観ていてもあまり背なかがこそばゆくなるようなこともなかった。ディーズ氏にも人間くさい欠点(すぐにひとを殴っちゃったりするんだね)があるんだよ、というあたりの設定も、「それじゃあ裁判で有罪になっちゃうんじゃないの」とハラハラさせられるけれど、たんじゅんに「ピュア&イノセント」じゃあないんだよという感じで納得させられる。

 主演はゲーリー・クーパーで、わたしはこの俳優さんのことじつはよく知らなかったんだけれども、無表情で立っているだけでなにかを表わしてしまうようなところがあって、その演技をこういうコメディー風の作品でも発揮できるというのはやはり才能のある役者さんなのだろう。

 フランク・キャプラの演出はけっこう大胆なところもあって、ときどきハッとおどろかせられたりする。遺産を管理する男が事務所にはいって行くところをどこまでもワンショットで追って行ったりするのは、ビリー・ワイルダーなんかもやっていたように記憶しているけれど、このころの演出の常套だったのだろうかしらん。ゲーリー・クーパーに恋をする新聞記者をジーン・アーサーという女優さんが演じているけれど、彼女が新聞社で編集長と対話するシーンで、画面では編集長は横を向いているけれど彼女はずっとカメラには後ろ向きのままというのは、映画として斬新な感じがした。

 




 

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■ 2011-10-28(Fri)

 せんじつ町田康の本を読んでいて、そのなかに彼が招待券をもって美術館に行く話があり、そこでわたしも手もとに美術展の招待券があることを思い出した。すっかり忘れていたのだけれども、その二枚の招待券をムダにしないよう、Aさんに連絡していっしょに行くことにしていた。それがきょうである。

 きょうもしごとはあったので、しごとを終えてからあたふたと家を出る。展覧会は六本木の新国立美術館なので、まずは新宿でAさんと待ち合わせ、ふたりで西新宿の居酒屋が昼間やっている500円ランチを食べてみる。チキンカツ一品にみそ汁、生玉子と海苔とがセット。社員食堂のメニューというか、なんだか施しを受けているような気もちになる。しょう油が異様にしょっぱくって(おそらく気づかずにいっぱい使ってしまったのだろう)口のなかがおかしくなった。早々に退散。

 地下鉄の大江戸線で六本木へ移動して展覧会を観て、地下のミュージアムショップみたいなところをしばらく見てまわる。ここのショップにはアイディア商品みたいなヘンなものが、あれこれとたくさんおいてある。
 美術館を出て近くにあったカフェでお茶をする。六本木価格というか、ちょっと高い。その店には犬が飼われてもいたので、犬の飼育費が価格に上乗せされているのだろうか。

 そのまままた大江戸線に乗り、こんどは森下まで移動して、またまた「Y」へ行って飲む。あしたはしごともあるし、こんやは早めに帰ろうと思っていたのだけれども、ついついAさんとの会話に興が乗り、けっきょくわたしの終電のじかんまで長居してしまう。サイフも軽くなってしまってヤバいのだけれども、いつにもましてきょうの会話には熱がはいってしまったのである。いろんなことをあらためて考えるきっかけになるような。

 美術館でひろったチラシで、らいねんに東京で、大規模なポロックの回顧展がひらかれる予定なのを知った(名古屋ではもう来月からはじまってしまう)。めっちゃうれしい。大きい作品がいくつも来ればいいけれど。


 

[] 「モダン・アート、アメリカン —珠玉のフィリップス・コレクション—」@六本木・新国立美術館  「モダン・アート、アメリカン —珠玉のフィリップス・コレクション—」@六本木・新国立美術館を含むブックマーク

 フィリップス・コレクションのなかから、19世紀なかごろから1950年代ぐらいまでのアメリカ美術を選んでの展示。エドワード・ホッパーやジョージア・オキーフ、ポロックやサム・フランシスなど、ぽつぽつと知っている作家の作品もあるけれど、ぜんたいに20世紀初頭の、まるで名まえも知らなかった作家の作品がふしぎと印象に残る展覧会だった。

 このコレクションの主、フィリップスというひとは当時のアーモリー・ショーにも批判的だったようで、つまりは保守のひとというか、50年代以降の「抽象表現主義」と題されたセクションにも、まるで日本の公募展に出品されているような半具象の作品が目立つ。ポロックも展示されていたのはドリッピング以前の作品だった。おもいっきり当時の最尖端の作品が含まれている展覧会、というわけでもないのである。

 「自然」や「都会」など、テーマを十数個並べて各セクションに部屋を区切る展示は、ひとりの作家がセクションを越えて散在するような展示にもなっていて、そのことがそのようなわたしなどには未知の作家の、それぞれの世界への興味のもち方を印象づけるような展示だった。まあいってみればマイナー・ポエットらの作品展というか、悪くいえば群小作家といってしまえるような作家が多いという印象はあるけれど、ちょうどせんじつ小説「野性の探偵たち」を読んだところだったし、そういう世界美術史としては決して名まえの出てこないような作家たちの作品を、そのマイナー性で楽しんでしまうような鑑賞になった思いである(会場の椅子においてあるこの展覧会のパンフレットで、そういう知らない作家たちのプロフィールを読むのも楽しかった)。

 ぜんたいの感想としてだけれども、ひとつには「都市」(おもにニューヨークだろう)というもののとらえ方が、おそらくはヨーロッパなどほかの地域の作家とはかなり、根底から異なっている印象はある。この展覧会での展示からだけの感覚でいって、たとえばヨーロッパでの「未来派」というのはまるでアメリカに伝達されていないようで、そういうヨーロッパ的な未来派経由の都市のとらえ方ではなく、これがキュビズムからのルートで都市をとらえているのだろうと察せられる。そこで描かれる色面としての平面の組み合わせからなる作品から、この展覧会からははみ出した時代の産物ポップアートまで、道はつながっているような印象もおぼえた。

 それから、さきに書いたこととつながるけれど、つまり19世紀末から20世紀への、美術史の「イズム」の流れの歴史、そのどまんなかにいたわけではない作家たちの作品からは、そういう「イズム」解釈をはなれて、ダイレクトにおのおのの作家個人のメンタリティーだとか精神というものに興味をもってしまうものだなあ、というわけで、いつも観るような、個人の回顧展だとか、ひとつの「イズム」紹介のような企画展とははなれた、ある意味で「ごった煮」のような展覧会というものの楽しさを、ここで知ったような気がした(それでも、ここからははっきりと「アメリカ」という風土が見えてくることもまた、たしかなことではある)。




 

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■ 2011-10-27(Thu)

 腰痛はすっかり消えてしまった。夕食用に、きのう買った松茸風味釜飯を炊いてみる。裏面の調理方に書かれている、炊くときに加える水の量があまりに多すぎるんじゃないかと思ったけれど、書いてある通りにやってみる。炊きあがってみるとやはり、ごはんがやわらかすぎるではないか。松茸の香りも風味もまるで感じられない。ただやわらかく炊いてしまったご飯にちょっと味が付いているだけで、おいしいとかそういうものではない。がまんして食べるだけである。

 らいげつの「ひかりTV」とWOWOWの番組表が送られて来たのを開封し、じっくりと目を通す。「ひかりTV」のプログラムにはそんなに「おっ!」とおどろくようなものもないけれど、WOWOWの方でニコラス・レイ監督作品が五本連続放映されるのが楽しみ。あとはメトロポリタン・オペラでの「トリスタンとイゾルデ」が放映される。図書館に「ニーベルングの指輪」のヴィデオはそろっているのに、この「トリスタンとイゾルデ」はおいてなくて嘆いていたわけである。うれしい。あとは「座頭市」シリーズ全作放映というのもあるけれど、ちょっとぜんぶは観きれないだろう。NHKのBSでは「ミツバチのささやき」と「エル・スール」が放映される。

 せんじつナボコフの「闇の中の笑い」のことをちょっと書いたのだけれども、この長く絶版になっている篠田一士翻訳のものにかわって、この九月にまったくの新訳で「カメラ・オブスクーラ」のタイトルですでに刊行されているらしい。翻訳はナボコフ短編全集の訳者のひとりでもあられる貝澤哉氏で、ロシア語版からちょくせつの翻訳とのこと。まえの篠田一士氏訳は英語版からの重訳だったわけだし、あのお方の翻訳らしく読みにくい本だった。すぐにでも、あたらしい翻訳で読んでみたくなった。


 

[] 「パリ20区、僕たちのクラス」(2008) ローラン・カンテ:監督  「パリ20区、僕たちのクラス」(2008) ローラン・カンテ:監督を含むブックマーク

 主演の中学校国語教師フランソワ・ベゴトーはげんじつに教師であり、彼が実体験にもとづいて書いた小説をもとにローラン・カンテ監督が映画化したもの。フランソワ・ベゴトーじしんが彼自身とイコールのような教師役を演じ、生徒たちらも全員、演技経験のないほんとうの中学生という、かなりドキュメンタリーっぽい作品。いちおうのプロットにそって進みながらも、多くの生徒らの発言、リアクションはアドリブが多いらしい。まあじっさいに中学校の教室にカメラを持ち込んでドキュメンタリーを撮ろうとすればとうぜん生徒たちは構えてしまって、これだけの生き生きとした姿をカメラの前にさらさせるのはむずかしいことだろう。そこにある程度のフィクショナルな筋書きを持ち込み、フィクション前提で「ふだんの姿」を生徒たちに求めれば、こういう作品は成立するわけだろうなと想像する。

 邦題にあるように舞台になる中学校はパリの20区にあるという設定で、名門私立中学とはかなりの格差があるだろうと、父兄のひとりが教師との面談で語ったりもする。日本でいえばこれは中学二年生に相当するというか、翌年度になれば進学コースと就職コースとに振り分けられることになるようである。パリの20区というのはパリ市の北東に位置し、高収入というわけでもない住民、アジア、アフリカ、東欧からに移民の比率もひじょうに高いようである。この映画で描かれるクラスもまた、じつにさまざまな人種の生徒の集合である。これでもマチュー・カソヴィッツ監督の「憎しみ」で描かれた郊外のバンリュー地区や、となりの19区ほどには荒れてはいない地域のようである。

 わたしなどの中学時代を思い出してみて、じつはけっこうこの映画で描かれるような状況に近いものがあったので、ちょっと感情移入して観てしまう。まあウチの中学はもうちょっと荒れていて、東京でも当時いちばん高校進学率の低い地域だったし、親兄弟がヤクザ関係、というような級友が何人もいたし、民族の異なる級友も多かった。この映画のようにダイレクトに生徒たちの本音を引き出そうとするような教師などもちろんいなかったので、この教師のやり方など興味深く観た。生徒に自己紹介文を書かせるという発想がおもしろく、それをけっきょく皆にメソッドを理解させやらせてしまう手腕とか、さすがプロの教師という感じでもある。それでもこの作品での教育法で疑問に思ってしまうことがふたつほどあって、ひとつはディベートを授業に持ち込み、そこでほんとうに自分の主張をいわせるやり方で、もうひとつは職員の会議に生徒代表を参加させるやり方。映画でもこのふたつのやり方が火ダネになって紛糾することになるけれど、もしかしたらこれらのことは学校のカリキュラムで決定されていることで、この原作者の教師はこれらのカリキュラムへの反対の意志をこのドラマで示しているのかもしれないと思った。

 教室内で授業ちゅうにおこったこと、拡げても学校内でおこったことだけを問題としているので、いやあほんとうは放課後のことがたいへんなんだよ、とは思うわけでもある。



 

[] 「噂の二人」(1961) ウィリアム・ワイラー:監督  「噂の二人」(1961) ウィリアム・ワイラー:監督を含むブックマーク

 オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーンの共演するシリアス・ドラマで、知らなかったけれども原作はリリアン・ヘルマンの「子供の時間」で、ウィリアム・ワイラーは1936年にもいちど同じ原作で映画化しているとのこと。そのときはこの作品のひとつのテーマである「同性愛」について、描くことさえタブー視されていたらしく、原作を大きく改変しての映画化だったらしい。そのことがウィリアム・ワイラーのこころにひっかかっていて、後年そういうタブーのゆるくなった時代に再映画化したというわけだろう。この1961年版の原題は「The Loudest Whispers」。

 オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーンは共同で郊外に全寮制の女子学校を設立しているわけだけれど、ウソばかりつくワルガキの少女(憎たらしいこと「チャーリーとチョコレート工場」や「ミルドレッド・ピアーズ」に出てくるワルガキに匹敵する)が懲罰で一時自宅に帰されたとき、いいわけに悪いのは教師の方だと祖母に語り、盗み聞きしたシャーリー・マクレーンと滞在中の彼女の叔母との口げんかの内容を過大解釈してシャーリー・マクレーンとオードリー・ヘップバーンとが異常な関係にあるというわけ。このガキがさらに学校の別の少女の弱味(盗癖がある)につけこんで脅迫し、じぶんの発言の裏付けに利用する。聞いた祖母からそれこそ噂はThe Loudest Whispers として広まり、すべての父兄は子どもを学校から引き取ってしまうわけである。名誉毀損の訴訟にも敗れた教師二人は途方にくれる。オードリー・ヘップバーンの婚約者も彼女らの仲に疑いをもっていることをヘップバーンにあばかれ、結婚の約束も反古にしてふたりは別れる。しかし、シャーリー・マクレーンはじぶんの内面に自信がもてなくなっていく。

 いくつかの対話のシーンがとてもこころに残る作品で、ひとつ印象に残るのはその名誉毀損の裁判が映画のなかでまったく描かれることはなく、事後に敗訴したことだけが語られるのだけれども、そのまえにまさに裁判に匹敵する当事者たちの対決が描かれていて、このシーンでの、まさに「逆転敗訴」というような結末にいたるまでの経緯がおもたい(よけいにガキが憎くなる)。さらにヘップバーンと婚約者との長くおもたい対話の末に、ヘップバーンが婚約者の「疑い」のことばを引き出す場面は「恐怖」ですらある。そして、ラストのヘップバーンとマクレーンとの対話(というか、マクレーンの独白)。映画はほとんどがふたりの教師が住まいにしている学校を舞台にしているけれど、そこを「覗き見」的に取巻いて、「噂の」ふたりを見て行こうとするあれこれのひとびとの影が、いやらしくも恐怖である。

 今ならばアメリカでもこの日本でも、同性愛をここまで差別しようとする空気もありえないだろうし、この映画で描かれた時代でも、自覚的に同性愛の道を生きるものは毅然と世間の風評に立ち向かえもしただろう。しかし、いわれのない中傷のようにレッテルを貼られたものは、そのレッテルをはがそうと、隠そうとやっきになるあまり、よけいに中傷の的にされてしまうだろう。つまり「スティグマ」である。この映画、その逃れられない「スティグマ」の恐怖を描いた作品ではあるだろう。ラストシーンでの、ひとびとのあいだをまさに毅然と歩くヘップバーンの姿がすごいわけだけれども、彼女はなにゆえあれだけの毅然さを身につけたのか、ということを考えることになる。






 

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■ 2011-10-26(Wed)

 ニェネントが、「フニャッ!」とか奇声を発しながら部屋じゅうをかけまわる。玄関の三和土へ行って、「にゃあご」というような、誰かに媚を売るような声でないている。そういうなきごえを出したことはいままでおぼえがないので、いったいどうしたんだろうとニェネントのそばへ行くと、わたしをみてゴロゴロとはげしくのどをならしている。ほんとうにどうしたんだろう。もっと遊んでほしいのか、情緒不安定で神経がおかしくなっているのか。抱き上げて、鼻先をペロペロなめてやる。目を細めてなされるがままになっているのは、うれしいんだろうか。

 しばらく前にまたスパゲッティのミートソースを大量につくったので、このところ昼食はスパゲッティの連続。自家製のミートソースだけでは味がいまいちなので(わたしの料理の腕によるものである)、粉チーズを買ってきて使うと、これが格段においしくなるから不思議である。ではミートソースなしでもパスタにチーズをふりかけるだけで食べられるんじゃないかというと、そういうものではないのである。

 昼から図書館本を返却に行き、金原ひとみの「マザーズ」がようやく棚に残っていたので借りてしまった。また自宅本があとまわしになってしまう。
 図書館から帰りに近くのアルコール量販店にまわり、「松茸風味釜飯の素」というのが百円でおつりがくる価格でおいてあったのを買う。ずばり「松茸」ではなく、ちょっと小さめの文字で(風味)と書かれているあたりがミソ。国産品ではなく、おとなりの大国製というあたりも安値の理由だろうけれど、そのあたりでいくら安くても大量に買うのがためらわれてしまうのはたしかである。あした仕込んでみよう。


 

[] 「フランティック」(1988) ロマン・ポランスキー:監督  「フランティック」(1988) ロマン・ポランスキー:監督を含むブックマーク

 筋立てはまるでちがうけれども、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」をほうふつとさせられるサスペンス。「北北西に進路を取れ」でのエヴァ・マリー・セイントを思わせるような役で、のちにポランスキーのミューズとなるエマニュエル・セニエが出演している。魅力的である。

 すべてが主人公の医師(ハリソン・フォード)の視点からのみ描かれ、わからないことはわからないままというか、事件の背後関係はあんまりよくわからない。っつうか、んなしちめんどうくさい密輸法を選ぶことからして、なぜ?という感じはする。人脈がないから麻薬なんかを密輸入していた連中にたのんだということだろうけれど、あれだけカムフラージュしてあれば誰でも持ち出せる気もするし、誰がやってもX線検査で引っかかるような気もする。

 そうはいってもこの作品、そういう一人称に徹したおもしろさというのはたしかにあって、主人公の意識の「まるでわからない」→「ヒントを見つけた」→「少しわかって来た」→「たぶん、こういうことだろう」→「じゃあ、(もっと明快にするためにも)こちらから勝負をかけてやろう」という流れを、観客として(ある程度)いっしょに追体験する楽しみにはあふれている。ある程度のややっこしさは脚本に求められてもいただろうけれども、もうちょっと見通しがいい脚本の方がよかった気もする。たとえばエマニュエル・セニエの欲張りな行動が解決のプラスになっているのか、混乱させただけなのか、まあどちらでもいいんだけれどもわたしにはわからなかった。ポランスキーはそういう解決のつかない部分を残すのが好きな人だろうから、これはしょうがないか。そういうところにポランスキーの魅力があるんだろうから。

 ヒッチコックなんだから、屋根の上のシーンとかはやはり印象に残る。それと、ラストのエマニュエル・セニエの靴を踏み外す足。最高である。


 

[] 「稲妻草子」(1951) 稲垣浩:監督  「稲妻草子」(1951) 稲垣浩:監督を含むブックマーク

 稲垣浩監督の作品というのはまるで観たことがなく、これがはじめて。この作品と同じく阪東妻三郎主演の有名な「無法松の一生」は1943年の作品で、稲垣監督は1958年に三船敏郎主演でみずからこれをリメイクしているわけである(忘れていたけれど、この映画は中学校のときに学校の上映会でみている)。

 江戸時代の上意討ちにかかわる、追う男追われる男、その男たちを想う女たちという四角関係ドラマ。阪東妻三郎が追う男で、追われるのは若き三国連太郎。女たちが田中絹代と木暮実千代という豪華布陣。阪妻は三国連太郎が追われる理由となった行為に同情的で、出来れば彼を斬りたくないと思っている。田中絹代はかつて三国連太郎と将来を誓い合った仲だったけれど、あれこれともんだいをかかえた父弟を残して行くことができず、三国と別れた過去がある。未練タラタラではある。そこへ三国が故郷である田中絹代らのいる町へもどってくる。阪妻は三国を追ってその町にやってきて田中絹代と知り合い、お互いにビビッと来てしまうのである。木暮実千代も阪妻に惹かれてしまうが、田中と木暮は大の親友である。そんなめんどくさい脚本書くなよという感じであるし、とにかく田中絹代の行動は「何考えてるんだよ」というところで、支離滅裂としかいいようがない。ラストもこれはいったいどうなってしまったのか、その直前のシーンから何も引き継がれてはいない。意味不明である(とりあえず四人のうち誰も死なず、誰も決定的破局は迎えないのはたしかだが)。四人(いや、三国連太郎は心ちゅうの描写などほとんどないのだけれども)がそれぞれウツウツと悩む姿を楽しむ映画だったのだろう。阪妻はいぜん観た「大江戸五人男」での幡随院長兵衛役のような威勢のいいところは見せてくれない。田中絹代はそりゃあオヨヨと悲しみにくれるのはお得意だからなれたものである。それでいちばん印象に残ったのは木暮実千代であって、威勢はいいながらも田中との友情から気もちをおもてに出せない悩ましさを演じてみせてすばらしい。

 とつぜんの驟雨におそわれて阪妻と田中絹代がふたりで雨やどりするシーンが、いいっちゃあいいんだけれども、どうも背なかがむずがゆくなるようなおセンチでぶりっ子なセリフがつづいて、ガマンするのも苦しい。さいしょの阪妻と田中絹代の出会いの場、クライマックスの決闘の場になる天満宮への石段を映画の象徴的メインの場にしようと努力しているけれど、この石段がちっともフォトジェニックではないあたりも悲しいところ。





 

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■ 2011-10-25(Tue)

 とにかくはこんげつ分の給与は振り込まれ、ホッとひと息というところなのだけれども、どうも当面しばらくはこういうつなわたりっぽい経済状態がつづきそうである。

 夢をみた。わたしはわたしの娘と思われる人物といっしょに、おそらくは車に乗って出かけるのだけれども、出かけるときに部屋からニェネントが逃げてしまう。夢のなかでは「しかたがない」と思って、そのまま外出する。夜の東京のようなところにいて、デパートというにはあまりに雑然としてせまいスペースのなかで大きな地震にあう。壁にひびがはいり、上から段ボール箱が落ちてくる。「家に帰れなくなる。ニェネントをどうしよう」ということがあたまをよぎるけれど、ニェネントが部屋の外に逃げていることを思い出し、ニェネントはなんとか生きていくだろうと考える。外に脱出するけれど、そこは東京とは思えない田舎道で、片側はずっと田んぼがつづき、片側には屋根の高い倉庫のような建物が連なっている。それでもわたしのなかでは「ここは神田神保町あたり」という認識がある。地震はおさまっているけれど、夜でも空に不気味な雲が重なっているさまが見てとれる。その雲からろうと状に竜巻が下にのびていて、移動している。竜巻はひとつではなく、ふたつとかみっつの竜巻が同時発生している。その竜巻の上の方がプラズマの光のように青白く発光している。竜巻のひとつが接近して来たようで、近くの倉庫の屋根が吹き飛ばされてこわれるさまが見える。わたしは「ここからも逃げなければ」と考えている。田んぼの側にふたりのヤンキーっぽい男性がいてヤンキーっぽくしゃがみこんでいた。ひとりがわたしの方をみて、なにかわたしの娘のことについてしゃべりかけてきた。夢の記憶はここまでしかない。

 おもしろかった「野性の探偵たち」を読み終わり、もういいかげん自宅本を読み始めようと考える。とりあえずジョーセフ・ヘラーの「キャッチ=22」をめくりはじめるけれど、せんじつ買った「日本美術の再検討」をふと手に取ってめくってみると、これがなかなかに興味深いというかおもしろそうであり、文章も読みやすそうなので、並行してこれも読むことにする。


 

[] 「人生万歳!」(2009) ウディ・アレン:監督  「人生万歳!」(2009) ウディ・アレン:監督を含むブックマーク

 ‥‥ウディ・アレンのファンの方が以下の文を読まれると考えると、じつに申し訳ない気分になる。そういう方々にケンカを吹っかけているわけではなく、これもまたわたしのメンタリティのもんだいではあると思っている。どうか読み飛ばすなり、「ウディ・アレンの良さがわからないとは、あわれなヤツがいることよ」と、スルーしていただきたい(いろんな方が検索によってこういう私的なブログまで閲覧に来られるというげんじつは承知しているので)。

 じつはこの作品を「ちゃんと」観たとはとてもいえない。ふつうに観始めていたのだけれども、すぐにどうにもガマンができなくなってスイッチを切りたくなり、そこをなんとかガマンして、それ以降を倍速早送りで観てしまったわけである。「アニー・ホール 」や「ウディ・アレンの重罪と軽罪 」などと匹敵する、いやそれ以上に、わたしのいっちばんイヤな、いっちばんきらいなウディ・アレンがここに。ウディ・アレン自身は主演されているわけではないけれども、この主人公はあきらかにウディ・アレンの分身である。自身で主演した「スコルピオンの恋まじない」もまた映画のなかでの彼自身の造型がイヤだったけれども、その幾十倍も「イヤ」、である。おぞましくって反吐が出そうになる。主演が彼自身ではないだけに、よけいに(自分自身の身体という足かせから逃れ)彼自身の精神像が投影されてしまっているわけではないかと思う。

 いっぱんにはこういう映画のなかでの監督自身の造型を「自虐」ととらえて評価するようだけれども、わたしにはそういう「自虐」もまた「気取り」と表裏一体の自意識と映り、そのインテリぶった物言い、繊細ぶった神経質さがガマン出来なくなる。居酒屋などでわたしのとなりにこういう人物がいて、こういう物言いをしていたら酒がまずくなる。わたしの虫のいどころが悪ければ口論を引き起こすかもしれない。どのセリフもイヤである。

 しばらく前の我が国では、「おやじ好き小説」というのが連続してヒットしたことがあって、そういう「おやじ好き小説」のベストスリーは「センセイの鞄」、「博士の愛した数式」、そして「しょっぱいドライブ」だよね、などということがいわれたものだった。これらの著者はいずれも女性だけれども、かならずしもこれらの女性作家が実生活でも「おやじ好き」であるということではないだろう。まあじっさいに「おやじ好き」だったとしてもかまわないんだけれども、これを男性側から、「若い女性に愛されたオヤジ」として書けるものだろうかと考えるわけである。ましてや、それを作者自身のこととして。つい思い出してしまうのは田山花袋の「蒲団」とかになってしまうけれど、ありゃあある意味で「自虐」の極みというか、そこにあるのはある種の「痴態」であって、「そんなことまで赤裸裸に書いてしまう」というあたりで、その後の私小説の理念まで含み持つことになる。「蒲団」にあったのは、バカみたいなおのろけとバカみたいな執着心とで解体して行く作家の「自我」だったのではないのか、そこにこそ、いま読んでもその解体の痛みを共有できる思いもあって、「イヤだ」という感覚を越えられるところがあるように思える。わたしは読んでいないけれども、日本にはこういうかたちのオヤジ小説はもっとあるのではないだろうか。
 もうひとつ、海外で思い浮かべるのはナボコフの「闇の中の笑い」とかであるけれど、ここでもちろん作者と主人公を同一視することはできないのは、同じ作者の「ロリータ」でもいえることだろうし、そもそもナボコフには「のろけ」という意識はまるでないだろう。「闇の中の笑い」で描かれるのは、若い娘への愛で盲目になり破滅していくオヤジのことである。

 そうするとイヤなのが、このアレンの「若い娘に愛されてしまうオヤジの話」というプロットのなかにもつまっているわけで、これは彼の自意識と合わせてのダブルパンチ映画である。まずはこの映画で相手が「若い娘」であるひつようもないのだけれども、わざわざそういうふうにする意識がわからないし、「鴨がネギを背負って来るように」転がり込んで来た女性との出会いのドラマがあるわけでもない。あまりに主人公に都合のいい出会いではある。それが彼女に一方的に愛され、「愛されちゃったんだからしかたない、わたしも彼女を愛してしまうのだ」程度の展開。まあ彼女にあたらしい男との出会いをお膳立てしてあげているふうではあったけれども、「彼女は去って行ったけれども、わたしは相変わらずわたしである」なんていう恋愛ドラマってあるのかいな、という感じである。そうするとやはりこの作品、「若い女の子に愛されちゃったよ」という、オヤジのおのろけでしかないんじゃないかと思うのである。そこに気取ったセリフがちりばめられて‥‥、ああ、イヤだ。


 

[] 「ウディ・アレンの夢と犯罪」(2007) ウディ・アレン:監督  「ウディ・アレンの夢と犯罪」(2007) ウディ・アレン:監督を含むブックマーク

 しょうこりもなく、もう一本ウディ・アレンの監督作品を観てしまうわたし。しかし、こっちは楽しんでしっかりと観ることが出来た。とにかくウディ・アレン本人の出る幕などないクライム・ミステリーですからね。

 ものすごく古典的というか、正攻法の演出と、出演者たちの抑え気味の演技がいい。ゆったりとカメラを移動させたりするショットの印象的なヴィルモス・ジグモンドが撮影監督で、音楽がフィリップ・グラス。このフィリップ・グラスの音楽がまた、彼がこんなスコアを書くんだという驚きというか、古典的なクライムミステリー映画の音楽を再現するようなものだった。

 背景にイギリスの労働者階級の青年の「成り上がり」への夢があるわけで、これは主人公兄弟の兄のユアン・マクレガーに体現されることになる。いっぽうの弟、コリン・ファレルにはそういう野望を持つわけではなく、きょうの幸福感があした以降もつづくことをこそ望んでいるようである(ただし彼はギャンブルで大きすぎる借金を抱えてしまう)。「成り上がりたい」兄と「借金苦から逃れたい」弟とが「金が必要だ」という一点で結託し、ある犯罪に手を染めることになるけれど、ふたりのそもそもの差異がさらなる悲劇につながることになる。原題は「Cassandra's Dream」だけれども、こういう程度の知的衒いはきらいではない。

 まるで「遊び」を廃して一直線な演出は、その音楽やカメラワークのちからも得て観るものの意識を集中させる。とくに兄弟の、逡巡しながらも殺人実行へといたるミステリーの王道のようなプロットがすばらしいし、その殺人実行の場面の緊迫感もいい。ただ、ラストの兄弟でのヨットによる航海が淡白すぎるというか、ここをもうちょっと引き伸ばしてしつっこく描写してもよかった気がする。決定的な瞬間のまえでカットして見せない演出は的確だと思うけれども。

 ウディ・アレンももう、この作品みたいに、じぶんのことなんか投影しないで映画を撮ればいいのに。





 

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■ 2011-10-24(Mon)

 きょうからまたしごと。もうほとんど腰痛は気にならない。意識するとまだ違和感は感じるけれども、痛みというものではない。

 またおとといの上京のときのはなしになるけれども、その世田谷のあたりを迷って歩いているとき、「世田谷観音」というところにぶちあたって、ちょっと境内に立ち寄ってみたりした。くもり空に緑のうつくしく映える境内で、歩き疲れをいっしゅんでも忘れさせる効果があった。境内に池があり、その奥に観音像が建っている。手まえに立て札があり、その観音は「夢逢観音」というのだと書いてある。いわく、「思い出したくないようないやな夢を、いい夢に変えてくれる」観音だということである。その観音のまえに立って、じぶんの「思い出したくもないイヤな夢」を思い浮かべようとしたら、それはさすがに「思い出したくない」ものなのであって、ちっともそういう夢を思い出さないのであった。イヤな夢は忘れる、つまりじぶんの精神防禦機能がキチンとはたらいているということなんだろうけれども、せっかくここで「いい夢」と取り替えてもらおうと思ったのに、これでは果たせないんじゃないかとガッカリするわたしであった。


 

[] 「風とライオン」(1975) ジョン・ミリアス:監督  「風とライオン」(1975) ジョン・ミリアス:監督を含むブックマーク

 せんじつ観た「デリンジャー」がこのジョン・ミリアス監督の第一作だったけれど、グッドタイミングでそのミリアス監督の「風とライオン」が放映されていたのを観た。もうひとつのタイミングで、せんじつリビアのカダフィ大佐が逃亡中に発見されて射殺されたという大きなニュースも流れたわけで、この北アフリカの民族らのことがこの映画でどう描かれているのかという興味からも観たわけである。つまり、カダフィ大佐もベルベル人ベドウィンの人間であり、それはこの作品の主人公であるライズリという男(ショーン・コネリーが演じている)と同じはずである。
 さきに書いておけば、わたしにはベドウィンのひとびとの人生観、思想がわからない。だからカダフィ大佐のもくろんでいたことも、リビアという国のこともわからないのだけれども、ただ、アフリカという大陸がほんらいは国境で隔てられた「国家」の集合として成立しているのではなく、移動遊牧民を含む数多くの「民族」の集合として存在するはずのものだとは思っている。アフリカという大陸をみるとき、そこに西欧的な概念としての「国家」だの、「民主主義」などというものをむりやり持ち込むことの、そのあまりの「乱暴さ」を感じてしまうのである。もともと国境などというものとは無関係に移動していた民族が、近代になって国境で区切られて「国民」という概念に押し込められてしまう。アフリカの悲劇の原因は、わたしにはまずはこのあたりに存在するように思えてならない。「国家」というあり方じたいがそのまま暴力的に機能しているのがアフリカぜんたいなのではないのか、ここに、「アフリカ」という国はないのだから「アフリカ」という呼称でぜんたいをひっくるめてはならない、といういい方への反ばくが可能な一点があるようにも思えるのである。アフリカのひとびとの人生観、思想がわからないと書いたけれど、たとえばこの映画でも登場するベドウィンのひとびととは、つまりはイスラム化した遊牧民のことである。わたしは生前のカダフィ大佐の言動にふれるたびに、映画「アラビアのロレンス」に登場したベドウィンの一部族の長、アンソニー・クィンを思い浮かべたものである。そしてやはり、「アラビアのロレンス」でのアンソニー・クィンを、西欧的な思考のもとで理解するのは困難だと思うのである。

 その「アラビアのロレンス」にはもうひとりのベドウィン人、オマー・シャリフの演じるシャリーフという人物が登場するけれど、西欧的「知」を身につけたシャリーフという造型は、まだ交流が可能だと思わせられるところがある。この「風とライオン」の主人公ライズリは、多少はこのシャリーフに近い「ものわかりのよさ」が感じられる。というかこの映画、そのベドウィン族の長ライズリと当時のアメリカ大統領ルーズベルトとを、はるか海を隔てた「似た者同士」の両雄として描こうとしている。映画で描かれる時代は1904年とかそのあたりなので、「アラビアのロレンス」よりは十年以上は過去、場所はモロッコのタンジール周辺ということで描かれている。つまりこれはイギリス、ドイツ、フランスなどのヨーロッパの列強がまさに北アフリカを分割統治しようとしていた時代であって、主人公ライズリはそのような列強の進出を抑えるために、たよりにならないサルタンを無視してタンジールのアメリカ人家族(母と息子と娘の三人)を拉致誘拐し、アメリカにゆさぶりをかけるわけである。そのアメリカ人の母をキャンディス・バーゲンが演じていて、このひとは同じ年に製作された「弾丸を噛め」でも、誘拐される役をやっているわけである。「あたしを誘拐してちょうだい」という願望でもあったのだろうか。

 しかし、ここで笑っちゃうのは、そのアメリカのルーズベルトとライズリとが深いところでお互いを認め合い尊重するという展開で、その背後には北アフリカに対するヨーロッパ列強への不快感ということで利害が一致していたということもあるだろうけれども、これがまさしくもこの作品の「幻想」だったことは、この映画以後三十五年のアメリカ対イスラム圏の歴史を思い起こすまでもなく明白明白、明白すぎるほどである。つまり、この「風とライオン」の時代から「アラビアのロレンス」を経て、いまだにアメリカを含む西欧がアフリカもしくはイスラム圏を理解したことなどないのではないか。それはわたしもまた「理解」からほど遠くあるわけで、そのことがわたしを悲しい気分にさせる。
 そういうオプティミズムはみられるにせよ、やはりここでジョン・ミリアス監督はライズリという男を肯定的に理解しようとしているわけであり、その意志を西欧が引きついでくれればとは願いたくはなる。この日本でもまた、ベドウィンのひとびとを「蛮族」などということばで切り捨てようとする現象に、今でも出会ったりする。まあ日本民族もひでえ「蛮族」だがな。

 この映画ではふたりの雄は「ハンター」、もしくは「ファイター」として並べられることになる。まるで日本の戦国時代の領主を描いたようなもので、たしかにジョン・ミリアスというひとは黒澤明監督作品に深く傾倒していたらしい。映画の冒頭の掠奪シーンはたしかに黒澤映画ばりにみごとなものだし、「デリンジャー」でも観ることの出来たようなクライマックスの戦闘シーンもまた迫力がある。しかしこの監督、情緒面での演出はそうとうに苦手のようで、つまり誘拐されたキャンディス・バーゲンはいつのまにかライズリの考えを理解して彼を助けようとするまでになるのだけれども、その「転向」が、この作品ではまるで伝わって来ないのである。


 

[] 「野生の探偵たち(下)」ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳  「野生の探偵たち(下)」ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳を含むブックマーク

 ついに読了。おもしろかった。というか、これだけあれこれのことを想起させられながらの読書というのも絶えてなかったような気がするし、親近感を持ちながらの読書になった。

 ここにあるのは、その名を歴史(文学史)に残すこともなく忘れられて行く詩人たちへのオマージュというか、思い出される価値もない若き日の愚行へのロマン的なノスタルジーなのかもしれない。わたしやわたしの周辺のあいつらの、そういう愚行をいくらでも思い出せるわたしとしては、「いつの時代でもどんな土地でも、空転する情熱、そんな情熱にもいたらない夢想というのは同じような軌跡を描くものだなあ」とも考えたりもするわけでもある。

 上巻の感想でも書いたけれども、このチャプター2は数多くの人物へのインタヴューのようなかたちをとっていて、そのうちのちょっとした長さのものなどはそれ自体が短編小説を読むような感覚になるし、メキシコでのオクタビオ・パスの「大物」ぶりを知らされることにもなる。チャプター2さいごの、リベリアでの体験談は臨場感のあるドキュメントタッチで、この部分だけでもこの作家の才能を思い知らされる。ざんねんなことにこの作者のロベルト・ボラーニョは、数年前に五十歳で逝去されてしまっている。まだ翻訳されていない傑作が残っているらしいけれども。

 いろいろと書きたくなる作品だったけれど、あまり書くとじぶんのはずかしい過去を曝露してしまいそうでもある。やめておこう。(あ、そうか! この作品じたいが、さきに書いた「夢逢観音」のように、イヤな夢をステキな夢に変えてくれる観音さま、なのかもしれないと、いま気がついた。)





 

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■ 2011-10-23(Sun)

 いちおう、きょうまでがしごと休み。きのうの東京飄然紀行でひどいめにあったので(だいたいがわたしのせいなのだけれども、町田康の本のせいでもあるだろうことよ)、きょうはいちにち休養日ということにして動かない。

 きのうはそういういちにちだったし、とりあえず飲み会が中止になったり観劇しようと思ってしなかったりと、あまり金を使うこともなかったわけで、下北沢に行ってからは厄落としみたいな気もちで、あれこれと買い物をしてしまった。まずは中古CD店をのぞいてみて、Bert Jansch の「L. A. Turnaround」のCDがあったのを買ってしまう。これはアナログ盤をずっと大事にしていてここに転居するときまで持っていたんだけれども、MDに落として中古レコード屋に売ってしまっている。MDがあるからいいんだけれども、ボーナストラックなどもついているし、音もよくなっているだろうと期待もしたし、なによりも彼への追悼の意である。きょうはいちにちこれを聴いてすごした。このアルバムを聴くといつものことだけれども、「Travelling Man」を聴いて涙する。

 あとは古本。中古CDだとか古本だとか、そういうセコハンものばかり買っている。古本屋の店頭の餌棚をみているとサイードの「オリエンタリズム」の上巻だけが文庫本の棚にぽこっと差し込まれてあって、帯がないとはいえ美本なんだけれども、これが100円という値札が貼ってある。いちど読んだ本だし、どうせ上巻を読めば下巻も読みたくなるわけだけれども、とにかく100円ならほしいよな、ということで買ってしまった。資料的に拾い読みも出来る本だし、下巻が読みたくなれば図書館で借りればいい。ここでなんだか、100円の本を一冊だけ買うのもアレだという見栄というか、とてもよろしくない感覚がわきあがり、餌棚を見まわして矢代幸雄氏の「日本美術の再検討」を見つけて、いっしょに買う。こちらは300円で、合計400円。びみょうにむだづかいっぽい。

 きのうはさいしょっから「G」に行くつもりでいたので、自宅のドーナツ盤レコードを二枚寄贈するつもりで持参していて、これをおいて来た。マリー・ラフォレの主演映画サントラからの「赤と青のブルース」(もちろん、マリー・ラフォレが歌っている)と、ぺギー・リーの「ジャニー・ギター」と「ブラック・コーヒー」のカップリング。オーナーのGさんもさすがに「赤と青のブルース」はご存知ではなかった。「ジャニー・ギター」から「大砂塵」のニコラス・レイの話になり、ヴェンダーズがそのニコラス・レイの最晩年を撮った「ニックス・ムーヴィー」の話などになる。店のターンテーブルでかけられた「ジャニー・ギター」の、曲のテンポがおそろしくゆっくりなのに今さらながらおどろく。「赤と青のブルース」をかけると店の雰囲気がおしゃれになるような。あとでHさんがフランス・ギャルをかけてくれた。ナイスな選盤である。考えてみると、このフランス・ギャルのベストアルバムも、わたしがこの店にあげたものであった。

 きのうのことばかり書いたけれど、きょうはそういうわけでただゴロゴロしていただけなのである。近くのドラッグストアで半額になったしゅうまいを買い、まだまだ残っている仮面ライダーキムチとおかずにして夕食。ニェネントをいぢめて「シャーッ」っと怒らせたりして、本を読んで寝た。読んでいる「野性の探偵たち」は、あとほんの少しで読了。


 

[] 「ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声」(1945) マイケル・カーティス:監督  「ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声」(1945) マイケル・カーティス:監督を含むブックマーク

 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のジェームズ・M・ケインが原作のミステリー。たんじゅんにミステリーというだけでなく、家族、母娘の愛憎ドラマという側面が強い。それだけにこころに残るドラマではある。よくわからないけれど、この脚本にウィリアム・フォークナーがかかわっていたという情報もある。この作品で主演のジョーン・クロフォードはアカデミー主演女優賞を受賞、復活するわけである。きのう「G」でかけてもらった「ジャニー・ギター」は、このちょっとあとのジョーン・クロフォード主演の「大砂塵」の主題歌だった。

 「ミルドレッド・ピアース」というタイトルはヒロインの名まえそのままで、平凡な家庭の主婦だった女性が夫のバートと別居して職をさがし、ようやくウェイトレスになるのだけれども、そのウェイトレスを天職と感じ、大成功する。みずからレストランを経営するようになり正式に前夫と離婚し、富豪というふれこみのモンティという男と愛人関係になる。ミルドレッドにはふたりの娘がいたのだけれども、その不遇時代に次女は肺炎で死亡する。長女は母の職業さえ小バカにするような、みえっぱりでぜいたく、わがままな性格に育つけれど、ミルドレッドはそんな長女の幸福を願っているわけである。ミルドレッドはそんな娘のためにモンティと結婚する。
 映画はそのミルドレッドの大きな邸宅でモンティがなにものかに射殺されて倒れるショットからはじまる。モンティは倒れるときに「ミルドレッド‥‥」ということばを残す。まあ観ているとそりゃあミルドレッドがモンティを射殺したんだろうと推測されるわけで、映画もそれを裏付けるような展開になる。かのじょは別の男に罪をなすりつけようと工作するわけだし、警察の取り調べでも「あなたはただの参考人にすぎない」といわれる。しかし警察は犯人として前夫のバートを引き立てる。ミルドレッドはおどろいて「決して彼は犯人ではない」と主張する。もちろん観ていれば犯人はミルドレッドと思えるのだから、かのじょの主張は正しいだろう。ミルドレッドは警察にそれまでのかのじょの半生を語ることで、映画のドラマが過去にさかのぼって動きはじめる。こういう語り口がまずはうまいなあと思う。さらに、この語り口はラストに観客に「えっ!?」と思わせる布石をも準備することになる。ちょっと考えるとわかるのだけれども、これは時系列にそった演出ではむずかしい効果で、こういうひねった倒序法によってこそうみだされる効果であるだろう。

 「チャーリーとチョコレート工場」の生意気な、消えてしまった方がよほど世界のためになりそうなクソガキどもに輪をかけたような、おそらくは映画に描かれた史上最強のクソなまいきなわがまま娘、ヴィーダの造型がもうとにかく卓越しているというか、画面を観ていてもその画面のなかにはいって行って、ビンタのひとつやふたつはくらわしてやりたくなるような女である。なんでこの長女ではなく、素直そうな次女が死んでしまうんだよと、その演出をうらみたくなる。そのヴィーダを演じているのはアン・ブライスという女優さんで、以後それほど有名な作品には出演されていないようだけれども、同じマイケル・カーティス監督の1957年の「追憶」という作品では、みごと主演をはっていらっしゃったようである。

 そのマイケル・カーティスという監督さんはもちろん「カサブランカ」で有名だけれども、なんというか脚本の「妙」をうまく演出できる監督さんなのだろうと思う。わたしはあまり「カサブランカ」の脚本が好きなわけではないけれども。





 

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■ 2011-10-22(Sat)

 きょうは夕方から新宿でEさんFさんと飲む予定、だった。どうせ出かけるんなら映画でも観ようと考え、フレドリック・ワイズマンのレトロスペクティヴ上映のチラシが手もとにあって、どうやらこれがきょうからだろうということで、やっぱりまずは「チチカット・フォーリーズ」を観ておきたいと、そのつもりで早めに家を出る準備をする。映画が終わったあとは下北沢へでも移動して「G」へ行ってじかんをつぶしてもいい。これで給与まえの財布でギリギリというところ。天気予報は雨で、しかも雷をともなって強く降るだろうなどといっている。しかし、外は曇天とはいえ雨が落ちて来ているわけではない。いちおうビニール傘を持って出る。

 電車のなかでとなりにすわっておられたふたり連れの女性が、あれこれのグルメの話をしておられた。道頓堀の串カツの話題など出て来たので、寝たフリをして耳を大きくした。もう三十代も後半、いわゆるアラフォーということになるおふたりだったけれど、女性もあまり恋愛ばなしでもなくなると、こういうグルメな話題でのガールズトークになってしまうという感じで、とってもおもしろく聴いてしまった。そんなことしていたら電車のなかでわたしのケータイの着信音が響きわたり、あらあらと出てみるとEさんからで、雨なのできょうの飲み会は中止にしようと。「ええ?」と多少ふきげんな声で答える。なんだよ、雨、降ってないんだけどという感じだけれども、天気予報がアレだったからそういう決定もしかたがないとあきらめる。じゃあ映画観て「G」へ行ってそれで終わりだな。むだづかいしなくってよかったということかも、と、思っていた。

 昼まえに渋谷に着いて、まずはチケットショップでそのワイズマンのレトロスペクティヴ鑑賞の三回券を買う。もっと観たいところもあるので、三回ではすまないかもしれないんだけれども。
 映画館へ行き、チケットを出して「次の回を」と告げると、目の丸い受付の女の子がよけいにその目を丸くさせて、「はぁ???」と。「ワイズマンは29日からなんですけれども」といわれ、もうそのときにはわたしの勘ちがいに気づいていたんだけれども、「きょうってなんにちですか?」と、いちおうその目の丸い子に聴いてみる。きまっている。きょうは22日の土曜日である。そのような返事をもらい、「あ、一週間まちがえました」と。「らいしゅう、またいらして下さい」といわれ、すごすごと引き下がる。もうこれはほとんど認知症のはじまりに近いボケぶりである。まいった。
 さて、どうしよう。同じビルの二階にある映画館では近年のフランス映画の特集プログラムが組まれていて、ちょうどきょうはデプレシャン監督の「キングス&クィーン」をやっている。好きな映画だからもういちど観てもいいんだけれども、それよりも駒場に移動して「マームとジプシー」という劇団の公演を観た方がいいかな、などと思う。14時からのマチネがあり、その当日券受付は一時間まえの十三時から。まだじかんがある。では駒場まで歩いて行けばだいたいちょうどいいんじゃないだろうかと、「歩くのも運動のうち」とやみくもに歩きはじめる。

 ‥‥地図もなにもみないで、ただ駅から西側に離れればいいという甘い考えがまた悲劇を生む。いや、とちゅうに掲示板で地図を見つけることが出来るだろうと思っていたんだけれども、このけっきょくはめっちゃ長くなる徒歩旅行のあいだ、まったくそのような地図を見かけることがなかったのである。とにかくわたしは進路を南に取りすぎたようで、駒場からはどんどんはなれる一方になる。いつのまにかあたりの住居表示は「下馬」とかいうことになってしまう。ここでわたしは大きな勘ちがいをして、下馬といえばもう、三軒茶屋もすぎてしまったところではないかと思ってしまったのである。ここでもうじかんも十三時に近くなっていて、こりゃあもう当日券を買うとかそういうもんだいではなく、ほとんどわたしは迷子状態なのである。東京のことをバカにしたのがいけなかったと反省する。しかしここでわたしは「上馬」と「下馬」の位置関係をまるで逆に考えていたわけで、三茶の先にあるのは上馬の方で、じっさいには下馬というのはまだ渋谷方面からみれば三茶の手前なのである。それを勘ちがいしているわたしは、ここでう回しなければならないと考え、どうやらさらに変な方向に進んでしまったようである。もしくは歩いているうちにどうどうめぐりをしていたようでもある。東西南北を知ろうと太陽の方をみると、やはりじぶんが足を向けている方向はおかしいのである。いつのまにか時計は午後二時になり、つまりもう二時間も歩いていることになる。さすがにもう足が痛くなってきて、この際とにかくどこでも駅をみつけて電車に乗ろうと。あたりの地名は「柿の木坂」になってしまい、また目黒区である。まあ渋谷区と世田谷区、そして目黒区の境界というのが入り組んでいるということはあるていど知っていたけれど、そういう生半可な知識があるのもかえっていけない。それについつい住宅地ばかり歩いてしまい、よけいにおかしなことになってしまったようである。とにかく大きな通りに出てコンビニに入り、棚の東京の地図を見てようやく、そこが東急の都立大学駅の近くなのだとわかった。都立大学??? それは歩きすぎだろうかという感じである。いったいどこでどうなってしまったのか。

 つまりはほうほうのていで駅に到着し、とにかく渋谷にもどる。これでやっとひと安心である。それから井の頭線で下北沢に出て、「G」で渇きをいやし、しばらくごろついてから帰宅した。

 アンラッキーないちにちだった。ひどいことが三つ連続した。まずは飲み会の中止、そして映画上映日の勘ちがい、それから迷子ちゃん。へとへとである。きのう観ていたヴィデオの残りのことを書いておしまいにしよう。


 

[] 「デリンジャー」(1973) ジョン・ミリアス:監督  「デリンジャー」(1973) ジョン・ミリアス:監督を含むブックマーク

 いぜんから、ウォーレン・オーツが主役でデリンジャーを演じた作品があることは知っていて、ぜひ観たいものだと思っていたものが、WOWOWで放映された。はじまってみると「A・I・P(American International Pictures) 」の文字がまっ先に大きく出て、そうか、そうだったのかなどとひとりごちる。そりゃそうだ、ウォーレン・オーツが主演なんて、失礼ながらメジャーではちょっと考えにくいものなあ。‥‥おっと失礼。傑作「ガルシアの首」があったではないか。忘れていた。というか、残されたデリンジャー本人の写真をみると、これがウォーレン・オーツにそっくりなのである。ここでのタイトルロールも当然か。しかしこの作品、冒頭の出演者のクレジットで次々に驚かされることになる。まずはベン・ジョンソン、そしてハリー・ディーン・スタントン(まあAIPですからね)、それから「Introducing」ということでミッシェル・フィリップスの名があり、リチャード・ドレイファスまでも。すごい。監督は誰だろうと思ったら、これがジョン・ミリアスだった。わたしはジョン・ミリアス監督の作品なんて何も観ていないからここでどうこうという感想もないけれど、「地獄の黙示録」の脚本を手伝った人物だということぐらいは、あたまのかたすみにある。おそらくこれが監督デビュー作だろう。

 デリンジャーの生涯を描いた映画はこのところ、「犯罪王ディリンジャー」と「パブリック・エネミーズ」とを観ているけれど、このほかにもまだあるらしい。アメリカン・ニューシネマ時代のアンチヒーローにはピタリの人物であり、このまさにニューシネマ時代の1973年の作品がどのようにデリンジャーを描いたか、楽しみに観る。

 前半は「オレが有名なジョン・デリンジャーだ! 顔をよく見ておけ!」と、自己顕示欲のかたまりのようなデリンジャーの無法の限りを描き、恋人ビリー(これがミッシェル・フィリップス)もまたほとんど強奪誘拐のようにじぶんのものにしてしまう。このデリンジャーのあばれっぷりに並行して、FBI側のメルヴィン・パーヴィス(ベン・ジョンソン)の強引なやり口も描かれる。「パブリック・エネミーズ」ではこのパーヴィス役はクリスチャン・ベールが演じていたのにくらべるといささか歳をとりすぎているように思うけれども(当時のパーヴィスの写真をみると、クリスチャン・ベールには似ていないけれども年齢は近いようである)、これはどうやらパーヴィスのなかにその背後にいるFBI長官、エドガー・フーヴァーの姿を投影させたものだろう。このあたりの演出には納得、である。

 デリンジャー映画の筋立てはわたしが観た三本でどれも同じようなもので、まずはその銀行ギャングぶりを描き(「犯罪王ディリンジャー」ではそのチンピラ時代にさかのぼって描かれ、この「デリンジャー」以外は仲間を脱獄させるシークエンスが入れられているけれど)、つぎが木でつくったニセ拳銃での脱獄、リトル・ボヘミア・ロッジにおけるFBIとの銃撃戦とデリンジャーの孤立、そして映画館でのデリンジャー射殺、という流れになる。

 この「デリンジャー」では、ロッジでの銃撃戦までは印象としては淡々と進行するような感じを受けたのだけれども、銃撃戦のあまりのすさまじさ、それ以降はわたしの目は画面にくぎ付けにされてしまった。この銃撃戦、これはもうほとんど「男たちの挽歌」かよ、みたいな猛烈さであって、戦争映画でもこれだけの銃弾量を消費するのはそうはないだろうと思ってしまう。しかも「男たちの挽歌」のようなハチャメチャさではなく、それなりのリアリティーも感じさせる演出。

 それで、この銃撃戦のあと、四散したデリンジャー一味のひとりひとりの、その死までの道程をきっちりとみせてくれる。このあたりはまさにアメリカン・ニューシネマっぽくもあり、「俺たちに明日はない」の影響も感じられることになる。「きょうはホントにツイてねえ」といいながら死んで行くハリー・ディーン・スタントンが(ウォーレン・オーツよりも)いい。ラストのデリンジャー狙撃はいささかなりとあっさりしていた印象はあるし、ちょっとウォーレン・オーツの影もうすい気もしたけれども、とにかく中盤から終盤への流れは、これはとても印象に残る作品だった。



 

[] 「女賭博師尼寺開帳」(1968) 田中重雄:監督  「女賭博師尼寺開帳」(1968) 田中重雄:監督を含むブックマーク

 その後観ていないうちに、いつのまにか第八作の放映までになっていた。この第八作、「尼寺開帳」というタイトルがそそるのでついつい観てしまった。監督はいぜん大映版「ガメラ」シリーズのどれかで観た田中重雄氏(そういえばその「ガメラ」には江波杏子も出ていたのだった)。主人公はいつもの「昇り竜のお銀」だけれど、この回の父親役は大坂志郎で、アニキ役が川津祐介、ライヴァルの「尼賭博師」には三条魔子が扮している。そしてなんと! 志村喬御大までも出演されているではないか。このほかにも当時のコメディアンがあれこれ出演されていて、鳳啓助・京唄子のおふたり、「おじゃまします」で一世を風靡したことのある南州太郎、それからコント55号のおふたりの出番まであり、ここまでがお笑い担当。江波杏子があまりやらないお色気担当は三条魔子(かたき役としてはこれまで観た三本でこのひとがいちばん!)がきっちりはたし、これはもうサーヴィス精神いっぱいの作品(終盤の乱闘シーンもいい!)。楽しかった。

 どうやらこのシリーズは内容はまったく連続していなくって、いつも「昇り龍のお銀」がヒロインではあるけれど、毎回ちがう父親(やはり賭博師である)が江波杏子を一流の賭博師に育て、毎回その父が敵(悪いヤツ)に殺害される、そして毎回江波杏子の知らなかったきょうだいがあらわれることになる、というものなのだろうか(さいしょの二本はこういうプロットになっていないようだし、それいがいにわたしが観た二本だけでいっていることだけれども)。まえに観た「女賭場荒し」の父親は加藤嘉で、かれは往年の名賭博師だったわけだけれども、この作品の父親(大坂志郎)はイカサマ師であり、刑務所に入ってもこりないであたらしいイカサマの手口を考えてばかりいる、しょーもない父である。ある意味で江波杏子の足をひっぱってばかりなんだけれども、さいごに殺されてしまうことで、かたき側にそのイカサマ手口を奪われてしまう。江波杏子は「あ、コレは父のいっていたあたらしいイカサマだ」と気づいて、勝負に勝つわけである。それまでに江波杏子もいささかなりとイカサマにも手を染めていて、それをじつは兄である川津祐介が賭場でいさめる。イカサマに未来はないのである。





 

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■ 2011-10-21(Fri)

 連休二日め。とくにやることもなく、いちにちヴィデオを観てすごす。腰の痛みはきのうと変わらず、まだ少しあるというところ。

 せんじつ日用雑貨量販ショップで買ったネコ缶をニェネントはお気に入りのようで、わたしがあさ起きてキッチンに立つといつも以上にニャンニャンと食事をせがむ。ゼリータイプではないのであまり食べないかと思っていたのだけれど、元値はいつも買っているネコ缶よりは上のクラスのものだから、そりゃあ味がちがうんですかね。
 食事をネコ皿に出してあげると、のどをゴロゴロいわせて無心に食べている。そう、さいきんどういう変化なのか、またのどをならすようになったニェネントである。抱き上げてもゴロゴロいっている。それが「うれしい」ということならば、わたしもうれしいですよ。

 きのうちょっと東京について考えたことのつづき。東京はつねにいつも、基本はただ「現在」であって、はてしなく「現在」が更新されつづけていくところだと思う。「現在」の更新が「日常」であるような。つまりはわたしはそういう生活に飽き飽きしたというところもあるんだろう。東京から離れればもっと刺戟的な日常が訪れるなどという考え(幻想)をもっていたわけでもなく、ほとんどは成り行きでの転居だったけれど、わたしのなかに東京脱出を願望するものがあってこそのスムースな転居だっただろうと思う。それでも、こうして転居して来てみるとそれはそれで「刺戟的」な日常が待っていた。と、思う(Bad な体験もあるけれど)。
 考えてみればこちらに転居して来てもう六年以上経つわけで、そのあいだこういうことをちゃんと考えていたわけでもない。そのあたりのことをもうちょっと考えて、なんらかの結論を出してもいい時期だろうと思う。

 きょうはもうちょっとヴィデオを観ているんだけど、とりあえず二本だけ書いておく。


 

[] 「ミッシング」(1982) コンスタンチン・コスタ=ガヴラス:監督  「ミッシング」(1982) コンスタンチン・コスタ=ガヴラス:監督を含むブックマーク

 9・11というのは、とくにラテンアメリカのひとにとっては、この映画で描かれる1973年の9月11日のチリのクーデターの方がよほど恐怖の記憶なのだろうと思う。いま読んでいるチリ生まれの作家ロベルト・ボラーニョの「野性の探偵たち」にも、なんの説明もなく「あの9月11日」という記述が出て来るわけで、その日をさかいに恐ろしい変化が起きたことを痛感させられる。この小説の舞台はおもにメキシコなんだけれども、そのときにチリからメキシコに逃れて来たひとたちも登場する。9・11を題材に世界の監督が短編を製作して一本の作品にしたとき、たしかケン・ローチ監督は「こっちの方をこそ記憶せよ」とばかりにこのチリのクーデターのことを描いてもいた。当時の世界情勢のなかで当然のように、このクーデターにはアメリカのちからが関与していた。そのあたりを暴いたのがこの作品で、アメリカで出版された実話をもとにした本からの映画化になっている。

 チリで生活していたアメリカ人の若い夫婦は現地の左翼新聞などともかかわっていたようだけれども、基本的にはノンポリといっていいんだろう(そのノンポリ性があだになるだろう)。クーデターで夫が行方不明になり、アメリカからその父親がチリにやってくる。富を絶対視するような保守的な父は息子たちの生き方に批判的ではあったわけで、チリでの息子の捜索中にも残されたその妻とあれこれと衝突する。捜査に協力する姿勢はみせているチリのアメリカ領事館だけれど、父がなにげなく質問した事項(アメリカの軍隊がチリの警察を教育指導しているはずだから、軍隊経由でチリ警察に問い合わせられないのかと聞くわけである)に領事館側が動揺する(アメリカ軍とチリ警察の結びつきはないと、やっきになって否定しようとし、そのような質問をした父に質問を撤回させる)ことでさすがの父も「これはおかしい」と気づきはじめる。さらに、夫の捜索でみせる妻の勇気を理解し、感銘を受けるようになる。

 あくまでも視点はこのアメリカ人登場人物にかぎられ、父や妻、そして行方不明の夫の目に映ったものだけが描かれる。それは戒厳令下の外出禁止令の市街であり、どの部屋にも累々とつづく処刑場の死体の山である。そして真実をごまかそうとするアメリカ領事館の人間と、真実を探ろうとする民間のアメリカ人たち。西欧人までこうやって被害者になってしまったというあたりをきっちりと、そのアメリカ人の視点から描いたあたりでこそ、この作品の高評価になるわけだろう。乾いたドキュメンタリー・タッチを交えたコスタ=ガヴラスの演出はやはり迫力があり、とくに戒厳令の夜の描写、白い馬が市街を駆け抜けるショットなど印象に残るし、ミステリーの謎を解明するように真実が少しずつあかされていく展開にも引きこまれる。


 

[] 「リスボン特急」(1972) ジャン・ピエール・メルヴィル:監督  「リスボン特急」(1972) ジャン・ピエール・メルヴィル:監督を含むブックマーク

 メルヴィル監督の遺作。初見。すばらしい。四人組銀行強盗団を捜査する警視がアラン・ドロンで、おもてではバーを経営しているその強盗団のリーダーがリチャード・クレンナという配役。イメージとしてこれはちょっと逆なんじゃないかと思ったりした冒頭。アラン・ドロンはいきなりその冒頭で「警察が人間に抱く感情とは、疑いと嘲りだけだ」なんて言い放つ、非情な警視である。

 さいしょの、雨のフランス郊外の銀行での強盗シーンがもうすばらしくて、青を基調にしたクールな色彩と、メルヴィルお得意のセリフを廃したたんねんな描写とが、とにかく観るものを惹きつける。さまざまな短いカットの積み重ねが「みごと!」と、感嘆する。これと対照的に、中盤のヤマ場、リチャード・クレンナがヘリコプターからその「リスボン特急」へ乗り移り、乗車している運び屋からヤクを強奪するシーンでは、乗り移ったあとにリチャード・クレンナが列車の化粧室で顔を洗い、着替えを終えるまでの一連の動作がすべて、とぎれなく長まわしで撮っていたりする。

 リチャード・クレンナの愛人がカトリーヌ・ドヌーヴで、銀行強盗団のひとりが重傷を負い入院しているところへ看護婦を装って侵入し、口封じのためにその男を殺害したりもする。ところがこのカトリーヌ・ドヌーヴはアラン・ドロンとも関係は進行中で、しかもアラン・ドロンとリチャード・クレンナとは親友の仲らしい。これはちょっとエグすぎるシチュエーションだけれども、メルヴィルの演出はそのあたりの説明もほとんどしないわけだし、あーだこーだとウェットな展開があるわけでもない。このあたりがメルヴィルのクールさ、である。けっきょくドロンがリチャード・クレンナを射殺するラストだって、どこまでもクールななかに哀しみをにじませる演出がすてき。車のなかで無言を守るドロンを正面からとらえたショットに、はたして人への「疑いと嘲り」を読み取れるだろうか、ということになる。

 それでもじつは、映画のラストの時点ではリチャード・クレンナらの第二の犯行、そのリスボン特急でのヤクの強奪についてはドロンはまるでわかっていないというあたりもまた面白いところで、せっかくこの計画を事前に密告した女装のゲイに対しては「ガセネタ」をつかませやがってと、かなりひどい仕打ちをしている。放逐されるゲイがあわれなシーンでもあり、ドロンの非情さの一例だけれども、ドロンの判断が正しかったわけではないことを、観客は知っている。

 いったいなぜ、電車であれば高架線がじゃまであるはずの電車の屋根へのヘリからの移動が可能だったかというと、このとき、パリ〜リスボン間の「リスボン特急」はディーゼル気動車での運行だったのだということ。





 

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■ 2011-10-20(Thu)

 腰の状態さらに良し。きょうからしごとは四連休になる。連休明けが給与振込日というあたりが悩ましいけれど、なんとかこの四日間、多少は遊んでも克服できそうである。きょうあしたはおとなしくしていよう。病院に行くとしても来週ということで。

 黒沢清の新作は、WOWOWの新年放映の連続ドラマらしい。「告白」の湊かなえ原作の「贖罪」というミステリーで、小泉今日子主演ということ。いまから楽しみである。WOWOWのこれからは、大人計画やNODA MAPの舞台録画が連続して放映される。

 しかしこのごろは映画の新作やさいきんの劇団の舞台とか、観なくなってしまった。経済的な理由も大きいけれど、あまり「観たい」という欲求が起きて来ないということもある。映画はうちであれこれの古い映画を観て、それでじゅうぶんみたいな気分になってしまうし、「新しいもの」ばかり追っかけるということがばからしくも思える。映画館で観ようと思うものも、レトロスペクティヴみたいな特集上映の方に食指がうごいてしまう。舞台を観るのもベテラン劇団の舞台を優先してしまう。いままであまりに古いものに興味をもたなさすぎたということもあるけれど、一面でただ「いま」だけを観ていてもわからないものがあるということに、いまになってようやく気づいたということだろう。
 生活のこともそうで、たとえば「東京」とはどういうところか、などということに、その東京のなかで暮らしていてはわからないところがある。大きな意味ではわたしの住んでいるところも東京なんだけれども(そう聞いて笑うひともいるだろうけれど)、東京にいないとできないことがあり、みえないことがある。ぎゃくに、東京にいないからできること、みえるものがもちろんいっぱいある。わたしはもちろん、その東京にいないからできること、みえるものを大事にしたいと思っているわけである。東京という「場」には批判的でありたく、その視点を求めているけれど、じつはまだみつけていない。わたしの生活様式は、まだまだ東京的なものである。きっといつまでもそう生きていくだろうけれど、まずはそのわたしの生活様式に批判的でありたい。そのためのこの日記、でもあるはずだけれども。

 きょうも仮面ライダーキムチなどで夕食。こんしゅうはほとんど食材の買い物もせず、おそらくいちばんの出費になったのはタバコ代である。


 

[] 「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」(2009) ダニエル・アルフレッドソン:監督  「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」(2009) ダニエル・アルフレッドソン:監督を含むブックマーク

 もっと意外などんでん返しとか、驚かされる真実があかされるのかと思って観ていたけれど、思いのほかストレートな展開だった。ストーリーはまさに「2」からつづくもので、「2」であかされた真実が法廷であらわにされるまでをていねいに描いている。この法廷自体は、ヒロインのリスベットの「2」での父親殺し未遂を審判するものだけれども、拘束されているリスベットの周囲で、リスベットを社会的に抹殺しようとする強大な組織と、真実をあかしてリスベットを救済しようとする雑誌「ミレニアム」側との、つまりは情報収集戦という様相。

 派手さはないけれど、じっくりと、おそらくはかなりの量の情報をテキパキと処理してみせてくれるわけで、さいごまで飽きずに観つづけた。ひとがたくさん殺されればいいというものではない。法廷に登場するリスベットのパンク・ファッションが目をひき、つまりは全身で法廷に「No!」と主張する。やっぱカッコいい。その感情は決しておもてにあらわさないけれど、微妙な動作や目線でかのじょを助けた人たちに感謝を伝える。

 こういうのを観ると、どうしても原作を読んでみたくなってしまうんだなあ。


 

[] 「はなれ瞽女おりん」(1977) 篠田正浩:監督  「はなれ瞽女おりん」(1977) 篠田正浩:監督を含むブックマーク

 日本映画専門チャンネルで、原田芳雄特集放映の一環で放映されたもの。期せずして、この特集プログラム放映中に原田芳雄氏は逝去されてしまった。この作品の原作は水上勉氏。

 ちょうどこの映画が製作されていた時期、画家斎藤真一氏による瞽女(ごぜ)をテーマにした連作が人気を得ていたわけで、この作品にも映像の上で、その斎藤真一氏の絵画の影響を思わせる構成、構図がみられるように感じられる。スタッフがすごいことになっていて、音楽が武満徹氏なのはだいたいの篠田監督作品の常連だけれども、美術は「心中天網島」いらいの粟津潔氏、照明が「このひとすごい!」とさいきんになってわたしの知ることになった佐野武治氏、そして撮影が気合いの入った宮川一夫氏というメンツである。こうこれだけですばらしい映画になっちゃうんじゃないかという顔ぶれ。とくに宮川一夫氏の撮影が特筆もので、野外でのきびしさを感じさせる冬景色、佐野武治氏のこれまたすばらしい照明による屋内撮影と、もうこれだけ観ているだけで堪能させられるものである。ひょっとしたら篠田正浩監督の演出がいちばんじゃまなんじゃないの、などと失礼なことを考える。
 そう、脚本は「赤い殺意」などの長谷部慶治氏と篠田正浩氏によるもので、このあたり、今村昌平監督作品のように、感情を全開させておもてに出すような脚本、演出がどうも、この雪深い風土とか、水上勉氏の作風と合わないんじゃないかみたいな印象を持つことになる。もうちょっと内側から絞り出されるような感情の表出があったならば、主人公らの哀しさもまた強く感じられたように思ったりする。このあたりが、日本映画も七十年代になると変化してきたという感じ。

 舞台はおそらく明治末期から大正にかけての越中地方で、日本の軍国主義への歩みのなかで、徴兵の身がわりに買われて軍隊入りして脱走した男と、禁制の男と関係をもったために瞽女の組織から放逐され、「はなれ瞽女」として生きる女性との悲劇を描くもの。国家のいう「日本国民」というはんちゅうから、こぼれてしまわざるを得なかった男女の悲劇でもあるけれど、そのあたりの描き方がもうひとつもの足りない感じにはなった。ふたりの再会後のラヴシーンを、もうちょっとじっくりやってもよかったんじゃないのか。そこでふたりの「未来のなさ」を、より強く感じさせられたはず。主演女優の夫である監督が遠慮したのだろうか。ラストの「されこうべ」は、観ていて「あら、やっちゃった!」って感じたけれど、観終わると意外に、これがこころに残るものだった。「無常感」ですね。

 当時の大道芸人や香具師の芸や口上などが、おそらくはそうとうに正確にここに再現されているであろうことも見どころだろうけれど、「ここ」という見せ方でもなかったのも残念。ただ、さすがに瞽女の芸は、これはかなり堪能することが出来た。
 キャスト陣も豪華で、「こんなところに」という俳優さんたちがズラリと登場する。小林薫氏が、「こんな役、状況劇場でもやってなかったっけ?」というような憲兵役で出演している。おそらくはこのあたりが本格的スクリーン・デビューなんじゃないかと思う。その状況劇場の不破万作氏も、ちょこっと顔をみせてくれた。





 

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■ 2011-10-19(Wed)

 腰の痛みは、いちだんと快方に向かっているようである。きょうはもうほとんど通常に動き回って痛みを感じない。ただ、直立してちょっとかがむときに痛みがあるくらい。これがちゃんと結石が排せつされたおかげなのか、その確証がないあたりが少々悩ましいところで、トイレで便器に「カラカラカラーン」と石が落ちていったような記憶はないし、こうやってまだ少し痛みがあるところもあやしい。石が外に出てしまったのならこれで「完治」だけれども、石が残っていて痛みが消えただけだとまたいずれ痛みが出て来るのかもしれない。まああしたからの四連休でいちど医者に行ってみようか、とは考えている。めんどうだなあ。

 きのうまではいささかと温暖な天候というか、半そででちょうどいいという感じだったのが、きょうはこの時期らしい涼しい気候になった。ニェネントにも快適なのか、「ニャッ!」となきながら部屋じゅうを走りまわってあばれ放題、ほとんどドメスティック・ヴァイオレンスの域に達している。ふすまに爪をたててよじ登ってさらにボロボロにし、キッチンにとび上がってモノを床に落とす。ヴィデオテープを十巻まとめ買いしたときの空き段ボール箱をみつけてそのなかにすべり込み、なかでもがいて箱を破壊する(ニェネントには小さすぎたし、かんたんに分解されてしまうつくりなのだ)。分解された段ボールに爪をたて、ボリボリと爪をとぐ。あげくに段ボールのへりにかみつく。机の上のオーディオ・デッキに飛び乗ってモノを落とす(いぜんはスピーカーを転落させたりしたけれど、あとでわたしに怒られるので、さいきんはこの技は披露しない)。カーテンに爪をたててカーテンレールによじ登り、カーテンレールにかけて室内干ししてある洗濯物にちょっかいを出す。カーテンレールを移動していて足をすべらせて、落っこちそうになる(運動神経が鈍いようである)。
 よるになってインスタントのコーンポタージュをつくって飲んでいると、匂いがしたのかすぐにわたしのそばに寄って来て、わたしが手に持っているカップをのぞきこんだり、まえ足をかけようとしたり、カップのへりをなめようとしたりする。きょうはあなたは暴れすぎなので、あげません。

 


 

[] 「ファーゴ」(1996) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督  「ファーゴ」(1996) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督を含むブックマーク

 コーエン兄弟お得意の、どこか犯罪者の計算が狂っていく過程を見せていくクライム・ミステリー。むかし映画館で観た。ウィリアム・H・メイシーという、木彫り人形のような顔をした役者さんの間抜けっぽい存在感、「必死だな、でも馬鹿だな」という演技がすばらしい。映画館で観たときは、ここでとんでもないワルを演じるピーター・ストメーアという役者さんが印象に残ったけれど、きょう観た感じではそれほどでもなかった。単に映画のなかでの対比の問題だった印象。まわりがウィリアム・H・メイシーだとか、「ヘンな顔」のスティーヴ・ブシェミなのだから、際立ちやすい。妊娠六ヶ月とかで捜査に当る婦人警官のフランシス・マクドーマンドがやっぱり楽しくって、「世のなか、そんなことってあるのかしら?」って感じで、捜査しながら「Oh! Yah!」って目を丸くするさまがいい。ピーター・ストメーアを逮捕するときに騒音で声が聴こえないと判断して、帽子の警察マークを「コレ、コレ」って感じで指さすところが好き。かのじょの旦那さん役がジョン・キャロル・リンチで、このひとの「おだやかな日常」を体現する演技もいい。

 こうやってみると、コーエン兄弟ってもうこのあたりでは「ブラッドシンプル」や「赤ちゃん泥棒」、そして圧倒的な「ミラーズ・クロッシング」のころのようなギミックな映像をつくろうとかしてないし、落ち着いちゃってる印象もある。撮影監督が代わっているせいもあるのだろうか。この作品ではケルトのトラディショナルのような音楽がいい。

 この作品を観て、いまになって思い出すのは、この作品が公開されたあと何年かして、この撮影現場で日本人女性の死体が雪のなかで発見された事件で、これは生前現地で目撃されたその女性がほとんど英語をしゃべれなかったこと、「Fargo」という地名も書かれた手書きの地図を現地のひとに見せていたことなどとあわせて、これは映画に影響されて、映画のなかでまだ残されているはずの誘拐身代金を探しにきて迷って、そのまま凍え死んでしまったのではないかという憶測を生み、あちらではちょっとした「都市伝説」にまでなってしまった事件だった。じつはこの事件をテーマにしたドキュメンタリーまで製作されているのだけれども、おそらくは遺族のことを慮って、日本ではほとんど知られていない事件である。真相はどうやら、失恋したその女性がその破れた恋の思い出の地「ファーゴ」での、覚悟の自殺だったらしい。まあ不謹慎ではあるけれど、わたしはちょっとそのドキュメンタリーを観てみたいなどと思っている次第なのである。



 

 

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■ 2011-10-18(Tue)

 あさ起きると、腰痛がかなり楽になっていた。「うそのように痛みが消えてしまった」というのではないけれど、気にしないで自由に動ける運動範囲が広くなったというか、腰を曲げたりするとき以外はほとんど痛みはない。
 きのうきょうとまたあたたかくなって、しごとにも半袖で出たりして、それで寒いわけでもない。しごとに出ても腰のこともあまり苦にもならず、しっかり労働したのであった。自分の気分としてはまだしばらくは腰痛がつづくかなあという思いもあったし、しごともヒマなので、あさってから二日間の有給申請を出すつもりでいたけれど、腰痛がちょっと引いてしまったからどうしようかと考え、けっきょくやはり申請を出して、もともとの非番の土曜日曜とあわせて四連休にした。ただし給与まえの苦しい経済状態なので、休んだからといって何かとくべつに行動するつもりもない。EさんFさんと土曜日に新宿で飲む約束があり、これで財布ギリギリなのである。その土曜日の昼に映画一本ぐらい観ることが出来るかも、という程度。

 帰宅してからも余裕が出たというか、ひさびさにニェネントをかまってにゃんにゃんと遊んだ。暖かいので昼食はそうめんにして、夕食はきのうと同じくキムチと納豆と、匂ってくる献立てですませた。

 


 

[] 「ミレニアム2 火と戯れる女」(2009) ダニエル・アルフレッドソン:監督  「ミレニアム2 火と戯れる女」(2009) ダニエル・アルフレッドソン:監督を含むブックマーク

 せんじつ観た「ドラゴン・タトゥーの女」につづく、「ミレニアム」シリーズの二作め。だいたいわかってきたのは、このシリーズ、いかに予想外の真実を隠しておくか、そういうあたりにポイントがおかれている印象で、「えええ!」という展開が待ちかまえていた。こりゃあ次作の「3」でも、おどろきの真実というのが明かされるんだろう。

 前作が正統派ミステリーっぽい演出だったのに比べると、アクション・シーンにちからの入った演出になっている。ああ、監督が代わってるんだなあと納得する。サディスティックな拷問的シーンは減り、一対一の格闘シーンがいっぱい出てくる。ちょっとだけれどもカー・チェイスもあって、ぜんたいにアクション映画に衣替えしたような印象もある。モンスター的な悪役の登場など、「ダイ・ハード」から「ダイ・ハード2」への転換のような雰囲気がある。ただし、ややっこしそうなプロットを追っかけていかなくっちゃいけないのがちょっとキツくって、まあこれは第一作だってややっこしかったのだからしょうがないところか。とくに「???」という演出があったわけでもない。

 この作品でもヒロインのリスベットを演じるノオミ・ラパスがカッコよくって、つまりはこんかいは格闘シーンで魅せてくれる。この女優さん、髪をブロンドにすると誰だかむかしの女優さんに似ている気がするのだけれども、それが誰なのか思い出せない。

 

 

[] 「I SHOT ANDY WARHOL / アンディ・ウォーホルを撃った女」(1996) メアリー・ハロン:監督  「I SHOT ANDY WARHOL / アンディ・ウォーホルを撃った女」(1996) メアリー・ハロン:監督を含むブックマーク

 むかし映画館で観たけれど、もうすっかり忘れてしまっている。ただ、この作品で監督のメアリー・ハロンというひとの名をおぼえ、次作の「アメリカン・サイコ」がまたいい出来だったわけである。この「I SHOT ANDY WARHOL」に近い手法で撮られたような、次の「ベティ・ペイジ」も興味深い作品だった。まあ「アメリカン・サイコ」は別にしても、近現代アメリカの女性で、ちょっとエキセントリックな実在の人物にスポットを当て、その時代背景もふくめてじょうずに映像化している監督さんという印象で、対象人物への距離の取り方とか、わたしは好きである。

 この作品はじっさいにアンディ・ウォーホールを撃ってひん死の重傷を負わせた過激なフェミニスト、ヴァレリー・ソラナスの事件まえの二年間を描いたものだけど、かのじょの描写と並行して(時間的比率は短いけれども)、トランスジェンダーでありウォーホール映画のスーパースターであったキャンディ・ダーリングの描写をも盛り込んでいるあたりで、なんというか作品としてみごとなバランスになっていると感じた。

 ウォーホール狙撃後に施設に入所させられ、退所後にホームレスとして生を終えることになるヴァレリー・ソラナス、彼女はなぜアンディ・ウォーホールを狙撃することになったのか、周辺の情況とともに映像化して問いかけるような作品。わたしは映画館に観たときの記憶がすっかり抜けてしまっていて、ここにウォーホールともうひとり、ヴァレリー・ソラナスの周辺には、オリンピア・プレスのモーリス・ジロディアスもまた存在し、彼もつまりは当時のニューヨークでうろちょろしていたわけである。このポイントをまるでおぼえていなかったというのは悲しい。
 「オリンピア・プレス」といえば、もうちょっとまえの時代に、出版先がみつからずにいたナボコフの「ロリータ」を出版した版元として、わたしなどにもはっきりと記憶されているわけだけれども、このほかにもバロウズの「裸のランチ」、ポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」、テリー・サザーンの「キャンディ」などを手がけた出版社だったということ。この映画でも、ヴァレリー・ソラナスに「キャンディ」の本を手渡す場面が出て来たりする。ちょっと興味をもってこのモーリス・ジロディアスのことを調べると、彼の作家との契約はいつもいいかげんなもので、おかげでジロディアスが(ある意味で不当な)利益をあげることもあり、「ロリータ」のときなどは契約の不備で大損してしまったりという、じつにアバウトな人物だったらしい。このあたりのアバウトさ、あやしさはこの映画でも描かれ、じつはヴァレリー・ソラナスの標的でもあった、ということになっている(幸運にも彼は事務所にいなかったのだ)。ここにもうひとり、アンディ・ウォーホールという、他人のいうままに動いていただけみたいなアバウトな人物がいるわけで、このアバウトなふたりにはさまれてしまったヴァレリー・ソラナス、めっちゃ不運だったということもいえるし、そもそもがそういうアバウトな人物でなければヴァレリー・ソラナスという存在に興味をもつようなものはいなかったのではないか、ということもいえる。

 ヴァレリー・ソラナスの著作(つまりは有名な「SCUM宣言」だけど)が狂気の産物かどうか、というあたりは抜きにして(こんなことをいいはじめたらゴッホは狂人だったとか、ドストィエフスキーは狂っていたとか、ほんとうにつまらない論議に首をつっこむことになってしまう)、かのじょがそういうアンディ・ウォーホールだとかモーリス・ジロディアスとかいう「困ったちゃん」相手に「わたしは作家になれるかも」という勝負を賭けていたというのがそもそも不幸なことで、このあたり、「さあこれからわたしは作家だ」という一歩を踏み出す境界にある人物というのが精神的に不安定になるのはとうぜんで、この映画のいいのはそのあたりをキチンと描いているあたりではないのかと思う。ここになにか狂ったものを見い出そうとするならば、それはその「時代」だったのだ、というあたりをていねいに描いている作品だったという印象。ソラナスがウォーホールを狙撃したのは、あの1968年のことだった。やはりいい作品である。

 ウォーホール周辺の、ファクトリーでのパーティーなどの描写もその空気を感じとれるようで、わたしだってこういう空気、空間がじぶんの近くにあったとしたら、そこへ一歩足を踏み込んでいたとしたら、もう抜け出せなくなったんじゃないかと、この作品を観ながら感じてしまった。そして、観ながら、これっていっしゅの「貴族趣味」なんだなあ、などということも思っていた。
 わたしはむかし、Velvet Underground のファクトリー時代の貴重なブートレグアルバムを持っていたけれど、そこでの演奏はとてつもなく、どこまでもゆるいもので、この映画のなかで聴かれる彼らの演奏はテクニックもありすぎるし、ハードすぎる気もした。そう、この作品の音楽はJohn Cale が手がけている。彼も、「この映画ならOK」という気もちがあって、音楽を引き受けたのだろう。のちに、やはりこの時代のファクトリーを、イーディ・セジウィックをヒロインに描いた「ファクトリー・ガール」という映画のことを、Lou Reed が「最悪の映画」などと罵倒していたことを思い出す。

 映画のなかで、そのファクトリーでのパーティーが終わったあとの、外から日ざしの差し込むファクトリーのショットが出てくるけれど、このショットが、わたしにはとてつもなく美しく感じられた。




 

 

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■ 2011-10-17(Mon)

 ひさびさに、目覚めても記憶に残っている夢を二日つづけてみた。さいしょの夢は、いまでは断片的にしか記憶に残っていないけれど、むかしの友人のDが赤と黒のチェックのジャケットを着て立っていたシーンをおぼえている。それと、黄色い地に黒い文字でたて書きされたテクストがあって、それは掲示板のようなものだったかもしれないけれど、そのなかに「トルストイの妻がその時に見たものは‥‥」という一節があったことを妙におぼえている。いったいなぜ「トルストイの妻」が?という感じだけれども、これは「トルストイ最後の旅」とかいう映画の放映を、録画して観るつもりでいたこととかんけいがあるのだろう。
 もうひとつの夢はけさみたもので、わたしは大きな社員食堂らしきところに同僚らと並んでいる。社員食堂というよりも路地奥の食堂街アーケードというふんいきもある。たんじゅんにひとつの場所で注文してそこで食べるだけでなく、あれこれのところでおかずなどの単品を買い足して、じぶん独自の食事メニューもつくれるらしいのだけど、それを実行に移そうとするのはどうやらわたしだけのようである。わたしは同僚の並ぶ列からはなれ、まずは皿にちょっとした佃煮類や煮物のような小ものを盛ってあるものを並べたところで、ひとつ買う。買おうとしたときに皿の上のものをこぼしてしまうけれど、「どうせじぶんで食べるのだからいいや」などと思っている。これが80円ぐらいだった。つぎに、コロッケだかかき揚げの天ぷらだかをふたつ買い、208円。さきに同僚と別れたところに引き返すけれど、もう同僚らはそこにはいなかった。時計をみるともう十二時二十分をまわっていて、彼らはとうに食事を終えてしまったのだろう。140円のかけそばを注文し、先に買ったコロッケだかかき揚げだかをのっけて、小皿をわきに置いてひとりで食事する。食事を終えてあたりを歩いてまわる。迷路のような道を行くと、小料理屋のような、座敷席のある店が見えたりする。
 目覚めてかんがえると、この迷路のような空間はいぜんにも夢でみたことのある場所だったような気がした。というか、きょうみた夢のことをかんがえていると、むかしみた夢のことを思い出したわけである。

 きょうはしごとは非番で休み。まだ腰の痛みがあって、やはり病院へ行くべきかと、ばくぜんと思う。そのつもりで行動しようとしているとあれこれとめんどうになり、やはり先週かんがえていたように、映画館に行って映画を観ることにした。そのくらいには腰痛も軽いということもある。
 病院に行かないと決めると急に気が楽になり、腰の痛みまでも軽減されたように思ってしまう。とにかく歩き回ったりすることにも結石を降下させるという効果があり、わたしはこれからいっしゅ治療行為を行うのだ、などと、からだに思い込ませる。

 電車に乗ってターミナル駅に行き、上映時間まで駅ビルの雑貨品量販店を見てまわったり、本屋で立ち読みしたり。

 映画を観ていても、すわってしまえばこっちのものというか、まるで痛みを意識することもない。

 終映後、自宅へのローカル線発車までのじかんにまた量販店にもどり、安売りしていたネコ缶(この店はよくネコ缶を安売りしているのだ)、超安値の人間用シャンプー、そして「仮面ライダー・キムチ1号」という、300グラムもあるのに百円でおつりのくるキムチなどを買う。このキムチがふつうにキムチの味をもっていれば、当面はコイツだけで食事はすませられるかもしれない。期待。

 電車に乗って帰宅して、トイレットペーパーのストックがなくなったのを思い出して買いに行く。賞味期限日になった納豆が半額で売っていたのをいっしょに買い、これとキムチとの合わせ技で乗り切ろうと。
 ごはんを炊いて、買って来た仮面ライダーなキムチの封を切って食べる。予想外にまともなキムチで、もちろんこの価格だから素材は白菜オンリーだけれども、じゅうぶんにこれだけでおかずの役を果たせそうである。ただ、納豆の賞味期限がアレなので、いっしょに食べる。二品をおかずにしたといっても、かなりの粗食である。納豆一パックが半額で10円とか15円ぐらい、きょう食べたキムチはせいぜい5円かそこら。約20円のおかずでの食事というのは、ベストスリーに入る記録だろう。


 

[] 「東京公園」青山真治:監督  「東京公園」青山真治:監督を含むブックマーク

 とても面白かったので、観終わってパンフレットも買っちゃおうかと思ったりしたけれど、げんざいの経済状態をおもんぱかって断念した。
 青山監督の前作「サッド ヴァケイション」がなんだか「いやあ、オレも結婚しちゃったよ」っていっているようなところもあったように感じたわけだったけれど、この新作はその監督のあたらしい生活が順調に実を結ぶまでになっている印象であり、うらやましい限りである。その「実を結ぶ」というのは、ひとつにはこれは豊かな「女性映画」ではないかという印象で、ひとりの男性を中心において三人の女性を配置して動かすという構成、その女性たちをくっきりと造型する手腕に見とれてしまったということ。

 主人公の男性はある意味で「媒体」みたいなもので、この映画の中心はあくまでも主人公の義理の姉と、主人公の亡き友人の恋人だった女性との、主人公とのあいだ目で揺れ動く、それぞれのこころの軌跡のようなものそれ自体にあって、ここにもうひとり、まったくセリフのない被写体としてだけ登場する女性が、それぞれのかんけいに深く影を落とすことになる。

 義理の姉を演じているのが小西真奈美で、友人の恋人だった女性は榮倉奈々。被写体の女性は井川遥という配役。セリフのない井川遥の爽やかな笑顔もまぶしいけれど、小西真奈美と榮倉奈々の対照的な演技、それを引き出す演出がすばらしい。主人公の男との対話シーンがほとんどおたがい真正面からのカメラで、律儀なほどの切り返しで進行するわけだけれども、ちょっとななめに構えて視線もうつろいがちな小西真奈美、しっかりとカメラ目線で笑顔をみせる榮倉奈々という対比がつづく。展開上、演出の力点は小西真奈美がわにあるけれど、ここでのフォルマリスティックな(といっていいんだろう)演出はとにかく美しく、無音での、この作品唯一のラヴ(キス)シーンの長まわしなど、息を止めて観入ってしまうじぶんがいる。小西真奈美も、すばらしい演技をみせてくれた(わたしはこの演技で、かのじょのこれからの女優としての道がひらけただろうと思う)。
 榮倉奈々の方も、これはひとすじなわでいかないところがあって、たとえ大福を食べながらくちびるに白い粉をつけてケラケラと笑っていても、とうぜんそのうらがわには(おそらくは最近)恋人に死なれたというこころの傷があるわけである。しかもクセものというか、じぶんから動こうとしない主人公をたきつけて「けじめ」をつけさせようとし、そのことがまた彼女の「けじめ」への行為へと移っていく。
 これを主人公の男性(三 浦 春 馬)からみれば、青山監督はみずからをこの主人公に仮託していて、おそらくは青山監督の結婚生活の実体験がここに活かされているような、そんな演出、脚本ではないかと想像する。

 さきに書いた主人公と義理の姉の長いキスシーンがあって、そのあとのショットでふたりが服を脱いでベッドのなかにいたらどうしよう、などといっしゅん思ってしまったけれど、もちろんそういう展開にはならない。それでは別の映画になってしまう。しかし、これでおたがいの「けじめ」になったのかというとあやういところもあって、これから先このふたりがどうなってしまうかなんて、この映画だけではいいきれないわけである。ラスト近くの友人の恋人だった女性の決断も、その結果がどのように転ぶのか、まったく予断はできない。ある意味ですべてはあいまいまななではある(つまり、続編も作れるわけである)。ただ、ラストのIKEA店内での、主人公と被写体の女性とその夫との遭遇だけは一件落着というところで、この作品のエンディングにふさわしいものだった。IKEAというロケーションも、この部分の演出もすばらしかった。

 この作品で主人公はなかなかじぶんから行動しようとしないわけだけれども、彼に代わってガサガサと動き回るのが歯科医である被写体女性の夫(高橋洋)で、彼の出番の演出がなんというか奇妙なことで、主人公の側のドラマと好対照になる。映画の冒頭の歯科医院の部分がなんだか「え?」というショット、モンタージュの連続で、主人公の行動だけでなくして「燥」的な感覚を与えられるような。なんか、いろいろとおもしろかったり美しかったりするショットもあって、いちいち書いているときりがない。ひとつ書けば、その夫(歯科医)が終盤に主人公と公園で待ち合わせるとき、夫は大きな木の根元に寝転がっているけど、このショットって、きっと「ジョンの魂」のアルバム・カヴァー写真でしょ。で、「ジェラス・ガイ」とつなげてるのかな、と思ったら、「ジェラス・ガイ」はこのアルバムの曲じゃあなかったんだな。まあこのあたりはわたしの勝手な解釈。

 しっかしいい映画だった。青山監督のほかの作品とのことも書こうかと思ったけれど、そんなことしなくてもこの作品単独ですばらしいのだから、それでいい。次回作が楽しみ楽しみ。

 



 

 

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■ 2011-10-16(Sun)

 あいかわらずの腰痛。でもしごとには行く。腰が痛くなってからニェネントとあんまり遊んでいないので、ニェネントは不満がたまっているかもしれない。そのせいか、わたしが出かけようと玄関の方へ行くと、その気配を察して玄関にとんでくる。わたしより先にドアのまえに行き、「はやく開けなさいよ」みたいにわたしの方をみる。ときには玄関まで「ニャアオッ」となきながらとんでくる。さいしょはドアを開けるとそのまま外へすっとんで行ってしまうのではないかと心配もしたけれど、ドアを開けてもなかから外のようすをみているだけで、とび出していこうとはしない。くびを上下にふって、そういう動作はつまり好奇心全開のしるしなのだろう。わたしがドアの外に出てもついてこようとはせず、つまりは「お見送り」である。はい、行って来ますよ。

 腰が痛いのであまり外出もせず、昼寝をしたりでいちにちがすぎてしまう。たまに台所に立つとニェネントがやってきて、きょうはわたしのすねをペロペロとなめてくれた。たいていはそれこそ「すねかじり」で、かじってくることが多いのだけれども、やはりなめられるとうれしいというか、「かわいいヤツめ」という感じで、ネコ缶を出してやったりする。

 あした病院へ行くべきかどうか、考える。放置しておいてそのまま石が排せつされてしまえば病院へ行くことなど無意味になってしまうけれど、なかなか排せつされないといつまでも痛みがつづくわけである。調べると、放置して排せつされずにいつか痛みがなくなっても、結石は残っているのでそれは芳しい状態ではないという情報も。別の深刻な状態につながるということ。まあそういう「病院に行きましょう」メッセージは利害もからんでいるので、いちがいにうのみにするものでもない。ビールでも飲んでようすをみましょうか。

 あ、きのう、「カーネーション」をみるのを忘れてしまった。


 

[] 「ファウンテン 永遠につづく愛」(2006) ダーレン・アロノフスキー:監督  「ファウンテン 永遠につづく愛」(2006) ダーレン・アロノフスキー:監督を含むブックマーク

 むかし映画館で観ましたけどね。これまた「ツリー・オブ・ライフ」をめぐるおはなしで、テレンス・マリックにせよアロノフスキーにせよ、めんどうな方々ではある。ただ、キリスト教一辺倒だった(と思う)テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」にくらべ、アロノフスキーさんはマヤの信仰やインド哲学あたりにまで勝手に「生命の樹」の起原を求めようとしているというか、一見、なんとかキリスト教的世界観から脱却して「生」をとらえなおそうとはしていらっしゃるようにはみえた。しかしどうもここで描かれているのはやはり、先にキリスト教的世界観にある「生命の樹」があり、マヤの信仰やインド哲学も「同じ」ではないかといっているようである、という意味で、やはりキリスト的なものを肯定しているのではないかという印象になる。だいたいからして、中米奥地にある「生命の樹」を、植民地支配的に侵略、強奪する意識がどうも好きになれない。

 アロノフスキーという監督、圧倒的に男性原理のひとというか、「レスラー」はつまりひっくるめていえば「男の哀愁」なわけで、こないだの「ブラック・スワン」にしても、どこか男性側からみた(どこか都合のいい)女性の造型という感覚はぬぐえないところもあるんだけれども、この「ファウンテン 永遠につづく愛」もまた、女性を守るために戦う騎士的な男性像を夢中になって造型している感じがする。そもそも、不治の病におかされた女性(主人公の妻)が未完の小説を書き、それが16世紀のスペイン女王の命を受け、中米に「生命の樹」を探しに行く男の話だなんて、あんまりだわさ、という感じになる。「わたしの夫であるあなたがヒーローなのよ」と、妻からお墨付きをもらったようなものである。なんと都合のいいこと。

 「死」をどのように受け入れるかなんて、わたしにはほんとうにどうでもいいことなのである。だから、この映画もまた、どうでもいい映画ということになる。ただ、かなり気持の悪い映画だったということはいえると思う。


 

 

 

ryuji_s1ryuji_s1 2011/10/17 22:08 尿管結石ですか
やはり病院に行くべきです
軽いものなら溶かせるはずです

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■ 2011-10-15(Sat)

 腰が痛いことは変わらず、やはりこれはなんらかの「結石」だろうと思う。がまん出来ないような強い痛みではないのでしごとにも出勤するけれど、それはもちろん楽なわけではない。ただ、腰が痛いということが腰が悪いということではないので、多少のムリをしてもいいだろうという感じだし、そういうムリをして痛みが増すというわけでもない。しかししごとを終えて帰宅してからの方がずっとつらくって、すわる姿勢をとるとき、そこから立ち上がるとき、そして寝たり起きたりするときに痛みが走る。やっぱり月曜日にはまた医者行きでしょうか。経済状態がまた心配になる。

 帰宅してからはしごとちゅうにエアチェックしておいたFM放送の、「ウィークエンド・サンシャイン」などを聴いてすごす。思いがけずにせんじつ逝去されたBert Jansch のフル特集だった。久しぶりに聴くような音源、はじめて聴く音源などを楽しみ、もう彼のいなくなってしまったこの時、この世界からの一時間四十分のトリップ。

 町田康の「東京飄然」を読み終えて、星野博美というひとの「銭湯の女神」をちょっと読みはじめる。あれれ、なんだか感傷的な正義感の強いひとなのかなあ、などと思いながら読み、それでついには「正しい新聞の読み方」という一文があって、そういうタイトルをつけるのはいっしゅの諧謔なんだろうと思っていたのに、著者はほんとうにマジに、香港のひとたちの新聞の読み方から、「正しい新聞の読み方」というものをいっているつもりらしいことがわかった。このひとのあたまのなかには「正しい本の読み方」、「正しい映画の見方」というものが横たわっていらっしゃるのか。この著者の作品はまったくわたしなどが読む本ではないということで、ここで放置。


 

[] 「東京飄然」町田康:著  「東京飄然」町田康:著を含むブックマーク

 五年ほどまえに刊行された、著者が東京周辺を「飄然」と、原則日帰りの旅行をするというもの。そんなにいくつもの「旅行」がなされているわけではなく、分けるとぜんぶで五つの小旅行の記録である。まずは早稲田から都電に乗って飛鳥山公園にぶらりと出かける。つぎに盟友の慶西君と鎌倉〜江ノ島への一泊旅行。そして大阪の串カツの味を求めての新橋〜銀座彷徨。「超俗的精神」を求めての上野、美術鑑賞の旅。そして高円寺ライヴハウスへのロックな旅、である。

 とにかく一ページごとに数回笑わされ、十ページごとにはたまらず爆笑させられてしまう痛快旅日記、というわけである。しかし、たとえばさいしょの飛鳥山公園彷徨などを読み、そこでの著者の世間への気後れのような意識とかにふれ、さらにつぎの鎌倉、江ノ島旅行で、盟友という慶西君の登場による弥次喜多道中へと進むと、「それって、つげ義春の旅行モノと同じでないの?」という感覚をもってしまう。そう考えてみるとこのふたり、つまり町田康とつげ義春というふたりの精神構造(などというとほんとうにおこがましいけれども)、世界に相対する思考形態って、ほんとうに似ているのである。ただ、あくまでもどこまでも、つげ義春氏のばあいは「うつ」状態で彷徨してしまうのだけれども、町田康氏のばあい、これはまさに「躁」、なのである。おなじ思考形態でありながらも、結果として両極になってしまうのがこのふたり、というふうに思えてしまう。

 ‥‥ちょっと、読んでいて気になってしまったのが、彼が上野の都美術館で観る「栄光のオランダ・フランドル絵画展」、そこで「こんな絵だった」と書かれているいくつかの作品のことで、「男が妻子を捨て浮気相手と遊びに行くという愁嘆場を描いた作品にしかみえない」とか、女とこびとのような男が二人組で、勤勉に働いている男を誘惑しているところ(わたしの要約)とか、「ポール・マッカートニーが十頭のライオンに取り囲まれて呆れ果てている」絵とか、そりゃあいったいどんな絵なんやねん、わたしも観てみたいぞい、という気もちになるわけで、これがどうも忘れられずに、ネット検索して調べてしまった。‥‥だいたい、判別した。そして、よけいに笑えた。「男が妻子を捨て‥‥」とか、「女とこびと‥‥」というような作品は、ちゃんとこの本を読んでいただかないとその面白さを伝えることはできないけれど、「ポール・マッカートニーが十頭のライオンに取り囲まれて呆れ果てている絵」というのは、ここに紹介しておきたい。

f:id:crosstalk:20111016200731j:image:left

 これは作者は不詳らしく、ただ「ルーベンス周辺の画家」ということである。タイトルは「獅子の洞窟にいるダニエル」、である。もちろんわたしは知らなかったけれど、これは聖書の「ダニエル書」をもとにした作品、だったのである。せんじつ読んだ「レンブラントの目」でも感じたことだけれども、まあこの時代のひとたちときたら、今じゃあ考えられないような画題で作品をものしていたわけであります。とにかくその絵をみただけでは、何のことだかちっともわからない。それを即座にテーマを見極めて鑑賞する教養が、観るものに要求されたわけであります。まあ現代の「コンテンポラリー・アート」なるものも、その背後にある現代のアートの歴史を知らなければ楽しめないところがあるのと、これは同じようなものでしょうか。

 さいごの、高円寺のライヴハウスに登場する長髪のミュージシャンって、灰野敬二???


 

[] 「容疑者Xの献身」(2008) 西谷弘:監督  「容疑者Xの献身」(2008) 西谷弘:監督を含むブックマーク

 原作は東野圭吾というベストセラー作家。「ガリレオ」というシリーズものらしいのだけれども、TVでも放映されていたらしいそのシリーズのことを、わたしはほとんど知らない。物理学者の湯川という人物が女性刑事の内海にヒントをあたえ、事件を解決していくようなシリーズらしい。これもレクター博士とクラリスのタッグのヴァリエーションというわけである。ところがその湯川と内海とのあいだにいかなるドラマも不在で、容疑者と大学時代に友人だったという湯川はともかくとして、内海という女性が主役面してなんども画面に登場することに、まるで意味がない。また、湯川という人物を演じる男優の演技が、日本で「刑事コロンボ」を模して製作された推理ドラマの主人公を演じた役者の演技を思い出させるたぐいのもので、彼が登場するとそのたびにドラマが止まる。このふたりを主役にしなくてもじゅうぶん成立するドラマなので、ああ、このふたりが出ていなければ、とは思う。

 そのかんじんの推理ドラマに関しては、それなりに興味を抱いて観つづけてはいた。真相を書いてしまうと、先に殺された男とは別の男を翌日殺害し、そちらの死体が発見されるようにしむけ、先の殺人の犯行日をいちにち遅らせて認知させ、ほんとうの犯人のアリバイを成立させるというもの。聞いたときには「へぇ〜!」って思ったのだけれども、考えてみれば(考えなくっても)、ほんらいの(第一の)死体が発見されないような処分をしたということなら、なにもよけいな(しちめんどくさい)偽装工作などしなくても、殺人じたいが発覚しないですむではないか、と思うわけである。つまり、ドラマぜんたいがそこで成立しなくなってしまう。

 湯川という男は大学時代に、その容疑者になる男がある数学問題の回答を「美しくない」といって、再計算していたところに惹かれて友人になるらしいけれど、ある回答の数式を「美しくないから」といって拒否して別の回答を模索したのは、ポール・デュラックのそれなりに有名な逸話である。量子物理学を専攻する湯川なら、そこでほんらい「ふん、デュラックを気取ったバカなヤツ!」と、相手を軽蔑して立ち去っていたことだろう。

 せんじつ「悪人」を観たときに、映像の色彩計画がなされていないと思ったけれど、この作品はそのあたりはちゃんとクリアされていて、それはちょっと図式的とも思えるぐらいだったけれど、「映画」という感じは抱きながら観ていた。




 

 

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■ 2011-10-14(Fri)

 やはりけさも腰が痛い。なんだか「ギックリ腰」というのともちがうという感覚で、考えてみるとこれはまた「尿道結石」とか、そういうたぐいのものではないのかと思えるのである。またかよ!という感じで、五、六年まえにもやはりやっていて、これがそうだとすると、この人生三回目の快挙になる。まあいままでのような七転八倒の痛みではなく、平静なフリはしていられる。しごともちゃんとやってのけられる。このままいつのまにか治癒してしまうことを祈る。

 じつは先日スーパーでようやく栗が安く売られているのを買ってあって、きょうは栗ごはんをつくろうぜ、ということにした。きょねんも書いたと思うけれど、このあたり、歩いていればいくらでも栗の実なんか転がっているだろうと思われているようではあるが(いちど、そういう地域に住んだことはあって、ひろった栗でげんじつに栗ごはんをつくったことはある)、それは誤った考えであるし、ばあいによっては地域差別である。ちゃんとわたしたちは(たいていのばあい)お店で栗を買うのである。
 さて、その栗ごはんの製作、仕込みがなかなかとたいへんである。栗をちょっとゆでて、それから表皮と渋皮をむくのがたいへん。ウチの包丁は100円ショップで売っていたもので切れ味もそういうものなので、これが思いがけずにちからが要求される。苦労してむいてみると、中身がすっかりいたんでしまっていて使えなかったりする。二十個とちょっとの栗をむくのに、四十五分もかかってしまった。しかも、わたしがそういう手仕事をしているとニェネントが「なにやってるのー」と寄って来て、ひとの手もとにまとわりついてくるのもまいどのことで、これがじゃまなのである。
 しかしまあ、皮さえむいてしまえばこっちのもので、昆布のダシとか酒とかみりんをぶちこんで、四合ほどまとめて炊いてしまう。これでこれから、三食とか四食は栗ごはんばかりになるだろう。秋である。

 

[] 「OK牧場の決斗」(1957) ジョン・スタージェス:監督  「OK牧場の決斗」(1957) ジョン・スタージェス:監督を含むブックマーク

 ガッツ石松、である。というか、西部劇ではおそらくいちばん有名な史実の映画化で、ジョン・フォードの「荒野の決闘」とおなじ話である。もう「荒野の決闘」を観てずいぶん経つので、わたしは(例によって)すっかり忘れてしまっている。そしてこの作品は初見。バート・ランカスターのワイアット・アープ、カーク・ダグラスのドク・ホリデーを中心とした、どっちかというとこのふたりの奇妙に屈折した友情がテーマのような作品。主題歌は大ヒットしたフランキー・レインの歌で、わたしはこの曲のフランキー・レインの歌い方の、その語尾をみょうに力んでみせるような感じがイヤで、聴くたびにじんましんがからだじゅうに出来そうになるのである。こんかいはうんとがまんして最後まで観たけれど、映画のなかで何度もこの歌が歌われるので、ちょっとした拷問のようであった。

 どうしても史実というものが先にあるためか、いささか、ワイアットが(それまで登場していなかった)兄弟からの電報で助けにいくという展開が唐突というか、いきなり、という感じはする。それでも、ガンマンにあこがれる若者をいさめようとしてやはり甲斐のない展開とか、ガンマンを愛してしまった女たちの悲愁というか、それゆえの身の振り方がまたガンマンを動かすというあたりに、やはりグッときてしまう。

 ジョン・スタージェスという監督さんはほんとうにソツのない演出をされるというか、ポイントでキャッチーな場面を放り込まれるのがうまいという印象で、たとえば最初にドク・ホリデーがあらわれる場面で、彼はそのホテルのドアに幾本もナイフを投げて突き立てている。この反復はたとえば「大脱走」で営倉に入れられたスティーヴ・マックィーンの、壁相手のキャッチボールなんかを思い出したりするけれど、さらにそのドアに突き刺さったナイフが、ドクの愛人のケイトが部屋をとび出してドアを乱暴に閉めるとき、ひとつだけバタンと床に落ちたりするのを観ると、「うまいもんだなあ」と思ってしまったりするわけである。




 

ryuji_s1ryuji_s1 2011/10/15 20:52 栗ご飯
季節ですね
大好きです

栗の処理が大変ですね

crosstalkcrosstalk 2011/10/16 04:14 どうもです。

栗の皮をかんたんにむける道具が開発されれば、大ヒット商品になるでしょうね。

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■ 2011-10-13(Thu)

 これはきのうのことだったけれども、あさ、洗濯をしようとベランダの窓を開けたのである。いつものようにニェネントがとんで来て、外をのぞくのである。「ダメよダメよ」とニェネントを部屋に追い込んで、わたしだけベランダに出て窓を閉めようとしたら、外の駐車場の方からかわいい声で「ネコちゃん、おいでー!」という声がした。エッ?と思って駐車場をみると、ちょうど上の階にお住まいの方がこどもを幼稚園だか保育園へ連れていかれるじかんで、駐車場の車のなかから四歳ぐらいの女の子がこっちをみて、車をおりようとしていた。いやあ、見られちゃったか、見られちゃったらしかたがない。とくにそれがかわいい女の子のリクエストであったりすれば、これはとてもあらがえるものではない。特例である。ベランダの窓を開けて、ニェネントをベランダに出してやった。どこかへ行ってしまわないかとしんぱいではあるけれど、おそらくはベランダより外にはとび出して行かないんじゃないかという、飼い主としての確信というか、ニェネントへの信頼はある。
 ニェネントはベランダをうろうろして、やはりベランダを越えて外へ行こうとはしないでいる。駐車場の女の子は車から降りて、ベランダににこにこしながら近づいて来た。車の運転席にはおばあちゃんらしい年輩の女性が座っていらっしゃったけれど、ここは孫の好きにさせているようである。ただ運転席でじっとしておられる。女の子は「ネコちゃん、ネコちゃん」とニェネントを呼ぶのだけれども、ニェネントはわたし以外のにんげんの存在をほとんど知らないので、ほかのにんげんにこびを売ったりするようなことはしない。女の子が近よってきてもまるで無関心で、ベランダのなかを右往左往しているだけ。そのうちにベランダの隣家とのフェンスの下をくぐってとなりのベランダに行くような気配をみせたので、ちょっとあせる。ニェネントの方へ行って、「そっちへいっちゃダメです」と抱き上げる。隣家ではこれまた犬を飼われていて、その犬がニェネントの気配だか匂いだかをかぎつけて、ワンワンと吠えはじめる。女の子はベランダのすぐそばまで来ていたので、抱いたニェネントを女の子の方へ差し出して、「こんにちは」とやってあげる。ニェネント、いやがって女の子を避けようとする。しょうがねえなあ、もうちっと隣人に愛想よくしないと嫌われるぞ、などと思うのだけれども、あかん。「ごめんね、きょうはここまでね」と女の子にいって、さようならをしてニェネントを部屋のなかにもどした。女の子は「ネコちゃんが立ったよー」とかいいながら車に戻っていった。別にニェネントが立ったわけではない。わたしが上半身を抱き上げていただけである。なんか、せっかく興味を持ってくれたのにサーヴィスが足りなかったなあ、せめてちょっとニェネントにさわらせてあげるとかすりゃあよかったなあ、などと思う。
 ふだんのしごとのある日はこのじかんはしごとしているので、なかなかあの女の子とニェネントが再会する日も来ないだろう。いつもこんなだとめんどいのでほっとしたような、それでもちょっと残念なような気もちでもある。

 きょうは久々のしごと。なんとなく腰が痛い。ぎっくり腰でもまたやったのだろうか。重い荷物とか持ち運びするしごとなので、ちょっと油断すると「ガク」っと、行ってしまう。

 きのうあたりから、世田谷のとある場所で異様に放射線量の計測値が高いというニュースを報道していたけれど、きょうになって世田谷区長がじきじきに記者会見して、近くの民家の床下に放射性物質が放置されていたせいらしい、ということ。そのニュースじたいもおどろきだったけれども、いつのまにか世田谷区長が保坂展人氏になっていたこともまた、おどろきであった。


 

[] 「2012」(2009) ローランド・エメリッヒ:監督  「2012」(2009) ローランド・エメリッヒ:監督を含むブックマーク

 震災時には放映が見合わせられていた作品。「もういいだろう」ということになったようだけれども、だったら当時観たかったのに放映が見送られた「渚にて」も放映してほしい。

 ローランド・エメリッヒという監督の作品をそんなに観ているわけではないけれど、「インデペンデンス・デイ」だとか「GODZILLA」とかの印象では、大味な、あたまからっぽな娯楽作品を撮るひとだなあ、という印象ではある。まさにこの「2012」もまた、大味でいいかげんで、あたまからっぽな作品になっていて、いっそのことその潔さにシビレてしまうぐらいである。

 ‥‥わたしは、たいていの映画というものはどこかしら、大なり小なり、世俗を超越した視点なりテーマを観客に伝えようとするものではないかと思っていたりするわけだけれども、それがプリティマッチに幻想だとしても、こういうふうにたんじゅんに視覚的要素でだけ、世俗日常を越えちゃいましたというような作品って、珍しいんじゃないかなあと思うのである。まあ視覚的に世俗日常を超越したというのはつまり、世界がぶっ壊れますよ、ということなんだけれども、たしかにそりゃあその世界がぶっ壊れるさまはすさまじいものがある。じゃあその世界がぶっ壊れたあとに、たとえば倫理とかそういうものであたらしいものが出てくるのかというと、この作品にはそういうものは何にもなくって、つまりは金があれば生き残れるというのがくつがえされることもなく最後まで有効な第一条件であって、つぎに、まるでアリバイ工作のように「やはりヒューマニズムは大事だよ」というのがチラリと出てくるけれど、何十億というひとびとを見殺しにした連中がほんのちょっとしたいいわけ程度に一家族を救済したって、天国の門が開かれたりするのでしょうか。

 「金持ちが天国への道にいたるというのは、ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しいだろう」というのは、かのイエス・キリストのおことばであらせられるけれど、この映画、「そんなこたあねえよ、とにかく生き残れるのは金持ちだけさ」といっているわけである。生き残ることと天国へといたることとはまた別のこと、ということもできるだろうけれど、とにかく「未来は金持ちの手にゆだねられている」というわけである。先行する世界滅亡映画、「博士の異常な愛情」や「ディープ・インパクト」では、そんなことぜったいいわなかった。まあ「なんといってもこれが真実、地獄の沙汰も金次第というのが真理さ」という身もフタもないことをいっちゃいました、ということで革新的なんかもしれないけれど、はたしてそれがおもしろいですか、ということ。
 いまのアメリカでも、拡がる格差に抗議する運動がさかんになっているけれど、「そんなこといっちゃっても、キミたちに未来なんかないんだよ」というのがこの映画かと。すごいですねえ。そういう格差に無関心な連中が、たとえばぐうぜんTVなどで報道される不幸な生い立ちの人物だとか絶望のどん底にある人物とかに同情して、チャリティ意識を起こして救済しようとしたりする。そんなことは偽善だろうともいえるんだけれども、この映画のラストもそういうイヤな匂いのかたまりである。わたしは、この映画を観て感動した、などという方とは、お友だちにもなりたくない、かな。近寄らないで!

 そういうことでなくしても、この映画に描かれるディザスター、「それってちょっとおかしいんじゃないの?」というのは、科学的知識のないわたしなどでもいくらでも指摘できる気がする。まあいちばん大きいのは、これだけの地殻変動が起こってしまい、地熱もまた上昇しているのであれば、これはもう古生代以前の地球というか、海水は煮えたぎり、植物はすべて枯れ果てて酸素は消滅し、人類型の生物はすべて、たとえ津波の被害から逃れられても生き延びることなど出来っこないだろうということ。地震をともなわずに地殻が割れて地表にヒビが入っていくなんてのも、そりゃあ「宇宙戦争」だろうが、ってな感じだし、あれだけの地殻変動でエベレストの高さに変動がないとか、数え上げるとキリがない。

 中心になるジョン・キューザックの家族の話もまったく弱くって、こういうのをみると、スピルバーグの家族へのこだわりが、すばらしいものに思えてくるのである。‥‥観なけりゃいいのに観てしまった、そういう映画、だった。




 

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■ 2011-10-12(Wed)

 きのう帰宅してみると、用意していった食事をニェネントがいっぱい食べ残している。ひょっとしたら外泊するかとも思っていたので、いつもよりかなり多く皿に盛ってあげたのだけれども、せっかくのネコ缶もそっくり残していて、ほとんど食べていない印象。ニェネントは元気そうなのでもんだいなさそうで、これはしばらくニェネントのようすをみるとして、皿の上のネコ缶は、これはどうもいたんでしまっている感じ。たぶんもうニェネントはこれを食べないであろう。いちおうあしたまでこのままにしておくけれど、食べなければ捨ててしまうしかない。もったいないことをしやがって。

 きょうはわたしの連休のラストいちにち。きのう出かけたよくじつなので、だいたいこういう日はまさに休養日になってしまう。ひるまえに買い物に出て、ちょっとばかしきのうの「ぜいたく」のつづきで、日本酒とかおつまみとか買ってくる。これをくいくいと飲んだり食べたりしていたらしぜんと眠くなってしまい、ベッドの上にころがってそのまま寝てしまった。目が覚めたらもう四時に近いじかんになっていて、昼めしも食べそこねてしまっている。もう夕食の準備のじかん。せんじつ、秋だからさんまでも焼こうと思って、大根おろし用に大根のかけらだけ先に買ってあったのだけど、ちょっとそれから日にちもたってしまって、いいかげんにしないと大根がむだになってしまう。そういうことでこんやはさんまを買ってきて焼こうということに決定。スーパーに行くとさんま一匹98円であった。おとといは128円だったので、だいぶ安くなっている。さんま日和である。
 部屋じゅうけむりだらけにしてさんまを焼き、大根おろしをあえていただく。もちろんニェネントがすっとんでくる。お膳の上にあがって皿のなかのさんまにちょっかいを出そうとする。いけません。しかし、ニェネントにはきょうはあたらしく食事を出してあげていない。それでやはりきのうの残りには口をつけないでいるので、きょうはおなかをすかしていることだろう。食べ終えたさんまの残りを別の皿にとって、ニェネントに出してあげる。用心深くまえ足でひっかけて、手もとにひきよせてからかじりはじめる。骨とか半分ちかく食べちゃったけれど、頭はほとんど残したまま。どうぞ、頭もまるごとぜんぶ食べちゃいなさいよ。

 けっきょくやはり、いちにち何にもしないですぎてしまった。町田康の「東京飄然」をまた読んで、笑いながら寝てしまった。

 きのうの残り、維新派の感想を書いておこう。


 

[] 維新派「風景画—東京・池袋」松本雄吉:構成・演出 @池袋・西武池袋本店4階まつりの広場  維新派「風景画—東京・池袋」松本雄吉:構成・演出 @池袋・西武池袋本店4階まつりの広場を含むブックマーク

 あれ? と思ったら、音楽がいつもの内橋和久さんではないのであった。そのせいだけではないだろうけれど、いつものなじんだ「維新派」の作品テイストとはまるで異なった、身体を使ったインスタレーションというようなものだった。

 配付されたリーフレットに掲載された「演出ノート」にはこうある。

「風景画」は、ある場所に俳優と観客が参加する三次元の絵画です。
「風景画」は、幾何学的風景論です。
「風景画」は、身体的風景論です。

 ‥‥などと、書いてあるわけだけれども、このあたりに足をすくわれてしまうと「???」ということになりそうな、そんな作品ではあった。

 会場はテニスコートが二面ぐらい取れる感じの屋上スペース。その空間の北側に座席が設置され、南側と西側には遠景に見えるビルのミニチュアがぎっしりと置かれている。この西武デパートは山手線に並行して建てられていて、南側というのはつまりは新宿方面で、見なれた西新宿のビル群の模型が、奥にズラリと並んでいる。天候がよければそのミニチュアの向こうがわにまさにそのオリジナルのビルも見えるのではないか、そうすると印象もまたちがったものになるのではないかとも思うけれども、ざんねんながら日の暮れたせいか、曇天のせいか、そういうオリジナルビル群のすがたはみえない。なんか、なにも日没後にやらなくっても、昼のあいだの、遠くのビルもそのすがたがみわたせるじかんにやってもよかったんじゃないかと思ったりする。そう、この「風景画」という作品はせんじつ瀬戸内海の犬島でも公演されていて、そのときは干潟を舞台にしてにっちゅうに行われていたらしい。いったいどのくらい共通する演出の作品なのかわたしは知らないけれども、きっとずいぶんとちがった作品ではあっただろうと想像する。

 作品は連続した11のシーンに分けられ、それぞれに「境界」「点」「線」「図形」「方位」、「四角形」「消失点」「対角線」とかのタイトルが付加されていたようだけれども、わたしは開演まえにそういうのを見ていなかったので、とくにそういうことを意識しないで観ていた。

 いろんなことをすっとばして書くけれども、あれこれと興味深い演出もあり、観ているときには「???」というようなシーンもあった。これは二番目の「点」だったかと思うのだけれども、マトリックスに並んだ維新派の二十四人のメンバーが、それぞれの向く方向をどこかでグループ分けして九十度単位で変え、全員が直立したまま身体をまえに傾け、その体勢で同じ動作をするのだけれども、そこで全員が同じ動作をしていても向いている方向がちがうせいか、観ていてひじょうに奇妙な感覚を体験した。いわば、空気がずれる、というような、特異な感覚である。ここに観るものの感覚のかく乱をもくろむような演出意図があったのなら、それは大成功といえるだろう。意図的にふぞろいな集団がふぞろいなディレクションで、それでも統一した動きをする。これがなんでかわからないけれども、視覚的には奇妙な体験となる。わたしにこのあたりはほんとうに興味深く、いっしんにひとびとの動きを見つめていた。たしかにそこには、見たことのない「風景」があったのだろう。

 先に書いたように出演メンバーは二十四人なのだけれども、これらのひとびとはほんとうにまったくふぞろいで、身長も体型もさまざま。これらの出演者が、あるときにはみごとにきっかけを合わせて動く、運動するわけだけれども、あるときにはこの動きがほとんどバラバラになるというか、「ぜんぜん合わせてないじゃん」というようなことにもなる。だいたい、それぞれのメンバーが腕を直角に上に折り、それをまえに突き出してそれを「四角形」だよ、とみせても、身体差からあまりにもその四角形がそれぞれバラバラということで、そもそもこのあたりを「幾何学的」というのはフェイクだろうとか、ダ・ヴィンチ的身体の幾何学を想像するとこれはほど遠いことになる。いわばマスゲーム的に、全員の動きを一糸乱れぬものにしようとする部分もあり、おそらくは意識的にあえて合わせようとしない部分がある。

 ひとの身体の、その単体、集合から「幾何学的」な視覚効果を生み出そうとすれば、とうぜん同じような体型の人物を集め、結果はまさにマスゲームというものになってしまうだろう。そうしない、そうはやらないという意識、それはそうは出来ないということかも知れないけれども、そこにこの作品の面白さの一端はあると思った。そのなかで、マスゲーム的なものからは離れたなにかを見せようとするような。それは決して自虐的に、統一され得ない「ダメダメな身体」を見せつけるものではないわけで、それを「風景」といってしまうのは正しい、のかもしれない。だからわたしは、まえに引用した演出ノートの「身体的風景論」ということには同意するだろう。
 しかし、これが「風景」だからということで、背景にビルのミニチュアを並べるということが、いまひとつしっくりと来ない。いくつかの演出のなかに唐突感をおぼえることもたしかで、たとえば皆が世界の河川の名まえを順にあげていき、メンバーの動きは舟を漕ぐようなものに移行し、そこに「維新派」の前年までの三部作のテーマであった「移民」のテーマの再現をみることはできるけれど、このあるいみ無味乾燥な作品のなかで、そこだけ妙な意味合いを持たされてしまうような気がするのである。まあそのような「物語」を付加しないと、このあまりに抽象的な作品に観客を惹き付けつづけることが困難だろう、ということも思われたのかもしれない。

 手放しで賞賛することは出来ないけれど、「失敗作」として忘れ去ろうとしてもどこか記憶にしつっこく残ってしまうような、でも「問題作」だったなどというカテゴライズも拒むような、そんな「問題作」だった。




 

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■ 2011-10-11(Tue)

 三連休二日め。きょうは舞台作品の連続鑑賞という、さいきんはめったにやらない豪華日程。おかげで金欠もまたひどくなる。ただ、ふたつめに観る予定の「維新派」の公演は、調べると思ったより早く終了するようで、それならむこうで夜を明かすことなど考えないで、終わったらすぐに帰宅しようじゃないかと予定を変更する。間に合わなければあっちで夜を明かすのもしかたがないけれど、基本はきょうじゅうに帰宅するということにしよう。

 ニェネントに多めに食事を出してあげておいて、九時まえに家を出る。きょうは平日でまだ通勤通学時間圏内なので、それなりに車内は混んでいるが、すわれないことはない。途中の駅から乗って来た、髪を金に染めたそれでも初老の女性がわたしのとなりにすわられて、バッグのなかからペーパーフォルダーを取り出された。ちらっと見てしまうとフォルダーにはさまれているのは楽譜の束で、そのなかから一枚ひき出された楽譜は、「Wrap Your Trouble in Dreams」だった。そのうしろにも「Cheak to Cheak」だとか「Blue Moon」とかの楽譜のタイトルがのぞいている。主旋律の楽譜に歌詞のついた基本楽譜で、きっとこのわたしのとなりの方、うたを歌う方なんだろうと想像できた。趣味で歌っておられるのか、ちゃんと歌手として収入のある方なのかわからんけれど、金髪に染めた髪といいちょっとソフィスケイトされた服装といい、どことなくカタギじゃないのよ、という雰囲気は伝わってくる。まさかお顔をのぞきこむわけにもいかず、ま横にすわっているとどんな顔の人なのかまるでわからないのだけれども、ターミナル駅に到着して下車するときにちらりとみた感じで、年齢のわりにお美しい方だった。だからどうということでもないが。

 まずは下北沢でAさんと集合し、昼食をとってからスズナリでの「赤色エレジー」。感想は下に書くとして、終演後新宿へ移動して、Aさんのチェックしてあったグループ展を観る。わたしには知らない作家ばかりの展示だったけれど、ある作家の写真によるスライド・ショーをしばらく観て、そのドキュメントタッチと作為性との意図的なブレが記憶に残った。そろそろ暗くなって来たじかんに池袋に移動し、西武デパートの別館部分の屋上を舞台にした、維新派の「風景画」を観る。この感想は都合であした書くとして、終演時で八時半。一時間ぐらいはじかんがとれるので、駅に近いところでてきとうな店に飛び込む。サッカーW杯アジア予選をTV放映していてうるさい。ふだんならぜったい来ない店である。ちょっと値段は高めだし、サラダや焼とんなど決しておいしいものでもなかった。二度と来ることもないだろうし、ちょっとのじかんだからがまんする。

 Aさんと別れ、帰宅するのに間に合う最終の電車に乗る。ところがところが、とちゅう駅で先行電車がストップしたかんけいで、乗り換えなければいけない駅に到着するのが五分ほど遅れてしまった。アウト。乗り換えるはずの電車は発車したあとである。このままこのあたりとか、さもなくば東京に引き返して夜を明かすか、まだもう一本残っている新幹線を利用して帰るか。やはりここは新幹線である。ぜいたくな観劇の夜はまた、ぜいたくな旅程ということになる。特急乗車券を買い足して、新幹線改札口をくぐる。
 ここでちょっとおどろいたのだけれども、新幹線ホームには「喫煙所」が設置してある。もうJR管内はどこへ行っても禁煙区域なのだと思い込んでいただけに、これはサプライズだった。つまりここにあるのは利用客への階層的差別であって、在来線を利用するだけの客などにはタバコなどすわせてあげたりはしないのだけれども、特急料金を払えるような、クラスが上の顧客にはちゃんと喫煙所を設けてあげているのである。いぜんから、一部の駅にむかし設置してあった設備のちゃんとした喫煙所をわざわざ撤去してまで駅構内を「禁煙」にする意図がわからなかったのだけれども、つまりそういうことをしてまでも顧客差別をやりたかったわけだ。もちろんここで「それは差別ではないか」などというとそういう新幹線ホームの喫煙所も撤去されてしまうだろうから、いわない。こうやって、わたしのような貧民でも新幹線を利用することはある。もしもそういうときに喫煙所が存在していれば、「これも特急料金にふくまれているのだ」と、ちょっとは納得してしまうかもしれない。そういうわけで、新幹線が到着するまで、こころゆくまで喫煙したのであった。

 新幹線乗車時間わずか十五分、その喫煙タイムとあわせて、ちょっとだけの「ぜいたく気分」を味わってから帰宅した。



 

[] オフィス コットーネ プロデュース「赤色エレジー」林静一:原作 天野天街:脚本・構成・演出 あがた森魚:音楽  オフィス コットーネ プロデュース「赤色エレジー」林静一:原作 天野天街:脚本・構成・演出 あがた森魚:音楽を含むブックマーク

 出演者はきほんてきに緒川たまきと寺十吾(じつなしさとる)のふたり。ここに時にあがた森魚と石丸だいこのふたりが加わる。あがた森魚はだいたい歌でからんできて、舞台左右にはバンドがひかえていてサポートする。寺十さんは少年王者舘の舞台にもかつては参加していた記憶もあるし、「真夜中の弥次さん喜多さん」などでも天野天街氏演出作品に出演されていた。げんざいはtsumazuki no ishi の舞台を中心に活動されていると思う。石丸だいこさんはかつての少年王者舘のメイン・アクターで、いまの少年王者舘の夕沈さんあたりの造型の原点になっていたようなひと。げんざいはたしか横浜あたりを中心に活動を継続されているはずである。きょうの観客はどうも少年王者舘の観客と一致している、いうわけではないようなので、まあこのおふたりにとってはこの舞台は「アウエー」であろうか。

 後半になって舞台は、うしろに折り畳まれていた背景が引き伸ばされて、主人公ふたりが生活する四畳半アパートの部屋になる。それまで見えていたバンドのメンバーの姿は、壁にかくされてしまう。それまでの部屋が折り畳まれていた前半は、これは路地なのだという設定なのだろう。天野さんの演出でいつもおなじみの映像の映写の、そのスクリーンとしてはちょっとイマイチという感じで、ぜんたいにそういう舞台設計とかにじかんが取れなかったような印象も。

 天野さんの脚本も、ちょっとまえに観た少年王者舘の「超コンデンス」での「酔っ払い」モティーフをまた持って来たようなところも。
 しかしながら、ここで「ずっといっしょにいられたら」という「希望」の主題はいきいきと描かれ、「いつまでもかわらずに」という、ふたりおたがいの気もちがそれでもすこしずつずれていってしまうさまの演出としてはぴったりで、おたがいに同じものをみていようとして、それがいつのまにかちがうものになってしまうという哀しさがひしひしと感じられてしまう。ここに天野さん得意の「時の流れ」をアクロバティックに描く演出が加わり(あがたさんと石丸さんとは、四十年後のげんざいの幸子と一郎の姿でもあるわけ)、わたしゃ泣いたね。
 まさに舞台上での時間と空間の演出でなければ実現しない世界で、そういう舞台の魅力を満喫した。

 もちろんこの舞台ではじめて観る緒川たまきさんはやはりお美しくもキュートであられ、すこし天然ぎみに一郎をほんろうしてしまう幸子のキャラクター、その日常の幸福感と時の移ろいの哀しみを、しっかりと組み立てられていた。ひさしぶりにその舞台を観ることになる寺十さんもあいかわらず達者で、幸子や、そして舞台演出にまでほんろうされてしまうような「ダメ男」ぶりをきっちりと造型されていた。そんな彼が、幸子も「あなたはいえない人と思っていた」という「別れよう」のひとことをいってしまう、この「赤色エレジー」のかなめの場面の、ふたりのやりとりはすばらしかった。

 あがた森魚さんもノリノリで、彼じしんがじぶんのアルバムジャケットのデザインを天野天街氏に依頼しているぐらいの天野天街氏のファンでもあられたということなのだけれども、ちからのこもった歌唱で主演のふたりにみごとにからんでおられた。音楽も楽しめ、舞台ももちろん楽しめる、ほんとうに「ぜいたく」な公演だった。たった五日間、八公演だけで終わってしまうのはいかにももったいない舞台ではあった。





 

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■ 2011-10-10(Mon)

 いよいよ、わたしの秋の三連休がはじまった。ところが、こんげつはやはり経済状態が危機なのである。二十四日の給与振込日まであと二週間、あんまりぼこぼこと遊びまわっていると預金を使い果たしてしまう。このところ、いぜんにくらべてそんなに浪費した記憶もあまりないのだけれども、なぜか預金残高は残り少なくなっている。いろいろとあって、いまげんざいどのくらい手もとに余裕があるのかがなかなかわかりにくいことになっているのが困るのだけれども、きのうあれこれと計算して、いまの預金残高が急に増えることなど、しばらくはないということがはっきりしたわけである。しかもあしたは東京で舞台をふたつ続けて観る予定になっている。このチケットはすでに連れのAさんの分といっしょに買ってあるので負担にはならないし、Aさんのチケットの立て替え分ももどってくる。それでも、よるはまた東京に宿泊してしまう予定をたてているし、もどってくるチケット立て替え分はそれで消えてしまうだろう。残った金であと二週間、なんとかならないわけではないけれど、きびしいところはある。考えてみれば先月はもう少し東京で観たい舞台などがあって、「行っちゃおうかな」、なんて思ったりしていたんだけれども、もしもあれいじょうなにか観に行っていたら、かんぜんにアウトだっただろう。あぶないところだった。

 そういうわけで、じつはきょうはターミナル駅のシネコンへ、青山真治監督の「東京公園」が上映されているのを観に行こうと考えていたのだけれども、とりあえずは見合わせておこうということにした。たぶんまだらいしゅうも上映しているので、この三連休がすぎてどのくらい余裕があるかをみて、余裕があればらいしゅう観に行こうということにしたわけである。

 図書館から借りていた「野生の探偵たち」の上巻をやっと読み終えたので、図書館に返却に行く。やっぱりカフカ全集は読み切れなかったし、谷崎訳の「源氏物語」も、ちょっと読んで「いま読んでいる余裕はない」と、放棄した。‥‥谷崎訳は、きっと原典に忠実に現代語に移しているんだろうけれども、敬語のたぐいが重なってうるさいし、主語が思いっきり省かれている文ばかりなので、ちょっと油断して読んでいると「このセンテンス、そもそもがいったいだれの話なんだ」とわからなくなることしばし、だったのである。わたしが八十歳を越えたあたりでまた、読んでみようかどうか考えてみよう。
 図書館の本棚をずっとなめて行って、ちょっと軽いものを読みたくなり、「野性の探偵たち」下巻といっしょに、町田康の「東京飄然」と、星野博美の「銭湯の女神」とを借りてきた。どちらも、「東京」という場を「ななめ」から見るようなエッセイ集、という雰囲気。

 帰宅してニェネントと遊び、ヴィデオを観て、「東京飄然」を読んで大笑いしながら、そのまま寝てしまった。



 

[] 「野生の探偵たち(上)」(2)ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳  「野生の探偵たち(上)」(2)ロベルト・ボラーニョ:著 柳原孝敦・松本健二:訳を含むブックマーク

 ようやっと上巻読了。まえにチャプター1までのまとめは書いたけれど、チャプター2はこの小説ぜんたいの2/3ぐらい占める膨大なページ数になり、下巻へとまだまだ続くことになる。このチャプター2、メキシコからスペイン、フランス、イスラエルにわたるあれこれの地域にいる五十人以上の人物の発言、まあインタヴューに答えているような形式の文章がずっと続く。これはいってみれば「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」みたいなもんで(たとえが古い!)、いっしゅ、そこに不在の人物を追い求めていく旅の過程で、かんけいしたひとびとから、その不在の人物のことを聴き集めたもの、のようである。その不在の人物とはチャプター1でも話題になった詩人グループ「はらわたリアリズム」の中心人物、アルトゥーロとウリセスのふたりのようである。1976年からはじまる旅は、この上巻では1981年まで。ここでふたりの道程をたどるインタヴューの連続と並行して、そのふたりもまた過去の女流詩人(かのじょの作品はまるで印刷物として残っていないのだけれども)セサレアを追い求めてある男をたずねていっているわけで、ふたりと会ってセサレアの話を語ったという文筆家の話も、おなじインタヴューへの答えのようなかたちで、分散されて収録されている。アルトゥーロとウリセスという詩人もまたセサレアのように「忘れられた」詩人といった雰囲気で、このチャプター2は、過去の詩人をたずねる詩人たち、さらにその詩人たちをたずねるという二重構造になっているわけだろう。

 このインタヴューから浮かび上がってくるふたりの詩人のすがたは(もうひとり、セサレアという女流詩人がどういう人物だったか、まだここまでではあまりわかってこない。これはきっと下巻で)、ボヘミアンというかバガボンドというか、ヒッピーというか浮浪者というか、どうもあまりろくでもないすがたをしているようではある。そうすると思い出すのはこの作家ロベルト・ボラーニョの、いぜん読んだ短編集「通話」にもひんぱんに描かれていた、二流、三流作家へのシンパシーをふくんだ自虐的言及であって、つまりこの長篇のテーマもまた、文学史にその名も残らない、作品も残っていないような、作家志望のまま消えていってしまったような詩人たち群像を描くことなんだろう。もちろんそこにはシンパシーもあるわけだろうけれど、そういう名もない作家志望のものたちの軌跡をたどることで、詩だとか文学だとかが時代のなかで熟成する過程とでもいうようなものを見わたせるような。つまりなんというか、文学史に名まえが残るような作家が成長するその背景には、育たずにそのまま枯れてしまったというような無数の「芽」が存在したのだ、というような。‥‥このあたりのこと、わたしじしんの青年期を思い出してもまさに同じような物語が進行していたわけで、読みながらついついそういったことを思い出してしまうのである。

 ‥‥上巻を読んだだけであまりあれこれと書いてしまってもしかたがないので、さあ、下巻を読もう。


 

[] 「西部の顔役」(1942) ウィリアム・マクガン:監督  「西部の顔役」(1942) ウィリアム・マクガン:監督を含むブックマーク

 「西部の顔役」という邦題の作品は二本あるようで、もう一本は「The Quiet Gun」という原題の、1957年の作品。こちらのジョン・ウェイン主演作の原題は「In Old California」で、どうも邦題のイメージは、この作品にはしっくり来ない。ここで「顔役」というのはジョン・ウェインのことではなく、彼と敵対する、町の大ボスのことなんだろう。

 舞台はカリフォルニア州のサクラメントで、ジョン・ウェインの演じるクレイグという男は、ボストンから薬局を開業するためにやってきた薬剤師という設定。スーツを着たジェントルマンで、いわゆるジョン・ウェインのイメージからすると、ちょっと意表をつく設定である。しかし指だけで一ドル銀貨をひん曲げてみせたり、ならず者の挑発を撃退するのに銃の妙技を見せたりはする。やっぱりジョン・ウェインなのである。やって来たクレイグに、町の大ボスであるブリットの婚約者で歌手のレイシーが好意を抱き、持ち部屋を貸してあたらしい薬局の共同経営者になる。町の大ボスはおもしろくないわけで、弟と共謀してなんとかクレイグを追い出そうとする。クレイグはクレイグで、町に来た「ガラガラヘビ」のような蓮っ葉女にひっかり、レイシーをやきもきさせる。そんなとき、町外れの金鉱山で伝染病が発生する‥‥。

 ちょっとコミカルな演出の、楽しい西部劇だった。西部の無法者がはばをきかす町に、東からやって来た男があたらしい風を吹き込むという展開、その東からの男をジョン・ウェインがやっているというあたりが斬新な印象を受ける。のちの「リバティ・バランスを射った男」もおなじようなモティーフともいえるけれど、そこではジョン・ウェインは古いタイプの西部の男を演じていたわけである(この作品で東からやってくるのはジェームズ・スチュワート)。クレイグに意気投合して彼の助手になるケッグスという歯痛持ちの男と、彼をてなずけて結婚してしまうレイシーの付き人のヘルガ(銃の名人でもある)のカップルがわきを支え、クレイグを誘惑するエレンの手練手管のみせ方など、映画として楽しめるものだった。後半の乗馬スタイルでの疾走しながらの銃撃戦も迫力があって、みていると、ジョン・ウェインというひとは運動能力もそうとうに高い人のようである。


 

[] 「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009) ニールス・アルデン・オプレウ:監督  「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009) ニールス・アルデン・オプレウ:監督を含むブックマーク

 スウェーデンの作家、スティーグ・ラーソンの書いた世界的ベストセラーをスウェーデンで映画化したもので、三部作の第一作になるもの。あれこれとディテールに既視感もあるけれども、ヒロインであるリスベットという女性(彼女が「ドラゴン・タトゥーの女」である)のオリジナルな魅力にはやはり惹かれて、面白く観た。

 既視感、つまりこの作品の演出には、やっぱり「羊たちの沈黙」だとか「セブン」だとかの先行するシリアル・キラーものに影響は受けている感じで、リスベットと共に四十年まえの事件を調査するミカエルが「羊たちの沈黙」のクラリスであり、ぎゃくに若い女性のリスベットの方にレクター博士的な存在として造型している印象になる(ラストシーンなど、まさに「羊たちの沈黙」のラストである)。そういう性別も年齢もぎゃくに設定し、しかもリスベットの背景の謎をうまくドラマのなかに取り入れた感じで、観ていても熱中させられた。しかも、このリスベットを演じているスウェーデンの女優さん、ノオミ・ラパスというひとがいい。クールでバイセクシャル。その過去に秘密をもつ、ピアスとタトゥーだらけの存在をここまで魅力的にしているのは、このノオミ・ラパスという女優の存在感が大きいだろう。ちょっと調べたらこの女優さん、次回作はハリウッドでのリドリー・スコット作品、それも「エイリアン」の第一作からさかのぼる、それ以前のストーリーを描いた作品のヒロイン役を演じるらしい。誰もこの作品の彼女の魅力にはあらがえないという結果だろう。観てみたい。今から楽しみである。
 そうそう、この「ドラゴン・タトゥーの女」じたいもハリウッドでリメイクされ、その監督はなんとデヴィッド・フィンチャーがあたったそうである。せっかく「ソーシャル・ネットワーク」で新機軸に突入していたのに、また「セブン」に逆戻りかよ、という感じもしないでもないけれど、やはり観てみたい。もうポスト・プロダクションの段階で、公開を待つばかりになっているらしい。興味津々のリスベット役は、わたしの知らない女優さん(「ソーシャル・ネットワーク」には出ていたそうな)、だった。




 

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■ 2011-10-09(Sun)

 きょうは日曜日だけれども、わたしはしごとである。でも日曜日のしごとはいそがしいわけではなく、出勤する人数もふだんのはんぶんの四人ぐらいでじゅうぶん間に合う。きょうの出勤はわたしを入れても三人で、それはちょっときびしいかなと思っていたのだけれども、はじまってみるとしごと量はふだんよりも多いくらいで、想像以上にみっちり働いてしまった。

 ニェネントがやたらとわたしにちょっかいを出してくる。きっとわたしと遊びたいんだろうと思うけれど、「おまえ、出ていけ!」と追い出しにかかっているのかもしれない。ニェネントがいつもわたしを好いていてくれていると思い込むのは飼い主の幻想だろう。でもまあ、きっとわたしのことは好きでいてくれている。その気もちを裏切っちゃいけない、ということだろう。

 リヴィングでくつろいでいると、ニェネントがそろそろと近づいてくる。「おいで!」と手招きしても寄ってこないので立ち上がって近づくと、サッときびすを返して逃げていく。それでしばらくは追っかけっこになる。リヴィングととなりの和室とキッチンとをぐるぐるまわるだけなのだけれども、逃げるニェネントを追ってニェネントが見えないところに行くと、わたしは向きを変えて逆方向からニェネントに近づく。逃げているつもりでやってくるニェネントと鉢合わせして、ニェネントはまた向きを変えて逃げる。つかまえようと思ってもなかなかつかまらない。たいていはわたしがギブアップするのだけれども、きょうはニェネントのすきをついてつかまえてやった。鼻をぺろぺろとしつっこくなめてから放してやる。首をブルブルッとふってから、どこかへかくれてしまった。
 TVをみているといつのまにかまた近づいてきて、わたしのそばにあるパイプ椅子にあがって丸くなって眠りはじめた。



 

[] 「空軍大戦略」(1969) ガイ・ハミルトン:監督  「空軍大戦略」(1969) ガイ・ハミルトン:監督を含むブックマーク

 邦題はなんだか抽象的なタイトルでどんな映画なのかよくわからないのだけれども、観ていると原題「Battle of Britain」と出てくる。ふうん、「イギリスの戦い」かあ、もちろん背景は第二次世界大戦であって、これでもわたしなんかはよくわからなかったのだけれども、つまり第二次世界大戦における「イギリスの戦い」というのは、おもに1940年、ドイツによるイギリスへの空襲からイギリス軍が制空権を守るという戦い、なのであった。映画のメインは戦闘機による空中戦。これにつきる作品である。

 わたしも少年期のプラモデル趣味の影響で世界の軍用機の名称ぐらいの記憶は残っていて、イギリスはスピットファイア、ドイツはメッサーシュミットである。アメリカはムスタング、日本はもちろん零戦が代表的な戦闘機だけれども、もちろんこの映画には出てこない。スピットファイアとメッサーシュミットの戦い、スピットファイアとドイツの爆撃機(これをハインケルというのは記憶になかった)との戦いである。
 きょねん観たアラン・レネの新作にして大傑作「風にそよぐ草」で、サビーヌ・アゼマが改装したスピットファイアを操縦して空を飛ぶシーンがあり、フランス人にとってもスピットファイアへの愛着のようなものがあるわけだ、などとばくぜんと考えていたのだけれども、この映画を観ると、まずはドイツの空からの侵入をくいとめたスピットファイアの活躍には、そういうイギリス人はとうぜんとして、全ヨーロッパの反ファシストの人たちが喝采を贈ったわけだろう。なるほど、というところである。というわけでこの作品、イギリスでは公開されてからはしばらく、毎年のようにTVで放映されていたらしい。イギリスの人たちのスピットファイアへの思い入れははんぱなものではないだろう。

 出演者もまた、当時のイギリス俳優オールスターキャストということだったらしく、わたしがわかるのは司令官のローレンス・オリヴィエをはじめ、トレヴァー・ハワード、マイケル・ケイン、エドワード・フォックス、そしてロバート・ショウあたりの顔ぶれ。ロバート・ショウがイギリス出身というのはちょっと意外だった。あとはこの人はカナダ出身だけれども、クリストファー・プラマーがスザンナ・ヨークとの夫婦そろっての軍人という役どころで出演していた。ドイツ側でわかるのはクルト・ユルゲンスぐらい。
 しっかしこの作品、地上でのドラマという点では、はっきりいって見るべきところはまるでない。いちおう人間ドラマっぽく見せようとするのがクリストファー・プラマーとスザンナ・ヨークとのドラマぐらいなんだけれども、まあジェームズ・ボンド映画の演出を手がけたガイ・ハミルトン監督らしく、ちょっとスザンナ・ヨークの色っぽいシーンはあるけれど、あんまりにちゅうとはんぱな印象である。戦局の説明になる描写もかなり乱暴というか、ヨーロッパ戦線にそれほど明るくないものには「???」というところはある。なんか、そういうイギリス国内での情況よりはドイツ側の情況の方がよくわかるような感覚で、これはイギリスの情況は説明しなくってもイギリス人ならよく知ってるのだよ、ということなのだろうか。ドイツではヒットラーの党大会かなんかでの演説シーンがあったりするけれど、だったらイギリス側でもチャーチルを出せば、いっぽん筋が通るような気もした。どうもこう、大きな支柱の欠けたドラマという印象で、それは攻撃側ではなくて受け身に迎撃する側のせいなのか、そのイギリス側の視点があいまいなまま、戦闘シーンの視点はイギリスになるというあたりに原因があるのかな、とも思う。ドラマと戦闘シーンが分離しているような。

 それでもつまり、その戦闘シーン、空中戦の演出に関してはこれはそうとうなもので、とにかくホンモノのスピットファイアやメッサーシュミットが空を飛んでいるというリアルさは、やはりCGなどではあらわせないナマな感覚である。編隊飛行をし、攻撃して敵機を撃墜し、また攻撃されて海に落下したり、空中でこっぱみじんに爆発したりする。これらすべて、特撮というのではなくじっさいの空中撮影から撮られているようである。もちろんコックピット内の映像はスタジオ撮影だけれども、このあたりの空中戦の映像はほかに類をみない壮大さ、だと思う。とくにこの終盤、さいごの空中戦のシーンでは、エンジン音や射撃音、爆破音などすべて消されたなかで、ウィリアム・ウォルトンによる壮麗な音楽と、少ないけれどもセリフのやりとりだけによって、まさに空中ショーのような数分間がつづくことになる。まあこのシーンでもって、イギリスの人たちは画面を見て溜飲を下げたことだろう。クライマックスである。

 劇中でもひとつの主題になっているけれど、ラストのテロップで、イギリス空軍に参加して空を飛んだ外国人の数のリストが流される。イギリスではパイロットが不足し、亡命ポーランド人をはじめ、何百という外国人がスピットファイアに搭乗したのである。それはいよいよ、ヨーロッパでのスピットファイアへの愛は強烈なものになるだろう。

 


 

[] 「クレイジー・ハート」(2009) スコット・クーパー:監督  「クレイジー・ハート」(2009) スコット・クーパー:監督を含むブックマーク

 日本でもきょねん公開され、ジェフ・ブリッジスがアカデミーの主演男優賞を受賞した作品。往年のカントリー歌手がドサまわりのなかで、地元の女性記者に取材を受けてホレてしまう。アルコール依存症が原因で女性の信頼も愛情も失い、アルコールを断つことを決意する。十四ヶ月が経ち、彼は音楽界の第一線にカムバックしている。コンサート会場の外で女性と再会するけれど‥‥、というおはなし。

 製作にT-Bone Burnett もまた加わっていて、音楽はもちろん彼が担当している。まあT-Bone の周辺に、この映画の主人公のようなアルコール依存症のミュージシャンがいるのかいな、などと邪推してみたくなるけれど、Amy Winehouse の悲劇のあとになってみると、なんかユルいなあとか、甘いなあとか思ってしまうのは事実である。

 そもそもアルコール依存症の描写からしてゆるくって、これでは「失われた終末」、「黄金の腕」のような先行する同テーマの作品のような深刻さは感じられないことになる。あんまりハードに演出してしまって、PG-12 とかに指定されてしまうことを回避したかったのかもしれないけれど、観ている感じでは「そんなのアルコール依存症じゃないじゃん!」って感じにはなる(アルコールに依存していれば、多少のアルコール量では気分悪くなってゲロなんか吐かないだろうに)。いつでもちゃんとまともな会話は出来てるし、「気分悪くなる」いがいのどんな症状も出てこないのである。まあユルい恋愛ドラマとしてみても、映画のご都合で発展している感じでもあって、リアルさを装いながらもリアルさは感じとれない。
 それでも、たしかにジェフ・ブリッジスは自然な立ち振る舞いで、演技しているなどと思わせないところはあるし、相手役のマギー・ギレンホールもいい対し方をしていると思う。場面場面の演出もイイ感じで、これはこの監督の初監督作品らしいけれど、それなりに力量のある監督かもしれない。

 で、音楽なんだけれども、じつはわたし、T-Bone Burnett が音楽にかかわった映画で、「いい」と思ったことなどいちどもない、というのが正直なところで、評判になったコーエン兄弟の「オー・ブラザー!」も「?」だったし、「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」なんかも、これは「きらい」なくらいである。決してT-Bone Burnett がきらい、というのではないんだけれども、どういうことなんだろう。で、この映画だけれども、ジェフ・ブリッジスの歌がいいこともあって、気に入っている部分はある。とくにジェフ・ブリッジスの歌う「Hold on You」とかいう曲は好きだ。しかし、主題曲扱いされている「The Weary Kind」、劇中では「名曲だ」などというセリフもあるけれど、わたしにはどこがいいんだかちっともわかんない。「?????」、である。こんかいも、T-Bone Burnett の音楽には「留保」がついてしまうことになった。





 

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■ 2011-10-08(Sat)

 きょうはしごとは非番で休み。目覚しもセットしていないけれど、それでも四時ごろにはめざめてしまう。よる寝るのが早いのだからしかたがない。

 この週から、あたらしい連続朝ドラ「カーネーション」がはじまっている。しごとがある日はそのじかんに見ることができないけれど、土曜日にはその週の放映分をBSの方でまとめて再放送する。きょうはこれを見た。脚本が渡辺あやで、主演が尾野真千子ということで、ひそかにはじまるのを楽しみにしていたのである。
 大正末期の岸和田からはじまり、まずは「だんじり」から。ヒロインの子ども時代の子役が、まあなんというかアビゲイル・ブレスリン的というか、へちゃむくれ気味なのがいい。子役はかわいくなくっちゃいけないなんて、そんなことに固守することはないのである。幼年期のヒロインはだんじりの上に乗る「大工方」になるのが夢の、男まさりなわんぱく少女なわけだけれども、これが神戸の超リッチな親戚の家に年始回りで遊びにいく。その家の大きなダンスホールをのぞいて、そこに踊る外人たちの洋装にこころうばわれてしまい、「ドレス」をつくることを夢見るようになる、というところまでが第一週。ヒロインの家は呉服屋で、世間に洋装が広まるのはこまるわけでもある。同級生の、日焼けをさけていつも日傘をさして通学する小料理屋の気取った娘がおもしろく、これがこの週のラストでは成長し、栗山千明が演じることになる。尾野真千子もちょっと顔見せ。ヒロインには三人のいもうとがいるのだけれども、この週にはその三人を描き分けたりせず、どの子も同じ髪型で同じような服、日本人形が三つ動き回っているみたいで、この演出はOK。まあ子役たちががんばった第一週ではあった。元かしまし娘の正司照枝がおばあちゃん役で出演していたのが、なつかしい思い。

 冷蔵庫のなかの、イカの塩辛のビンが気になる。待ちきれず、昼すぎになってちょっとビンを開けてつまんでみる。‥‥すでにもう、美味である。塩かげんも、みりんのほんのりした甘味も、ちょうどいい感じ。久々に食するせいもあるだろうけれども、いままでに作成したなかでもトップクラスの出来だろうと思う。ついついコップに酒を注ぎ、塩辛をつまみながら飲んだりしてしまうのだな。晩ごはんにはこれをおかずにしていただいて、おしまい。


 

[] 「ガス燈」(1944) ジョージ・キューカー:監督  「ガス燈」(1944) ジョージ・キューカー:監督を含むブックマーク

 もとはイギリスの舞台で大ヒットした作品らしく、そのイギリスでもいちど映画化されているらしい。わたしはこれがはじめて観る機会になった。ぜんぜん内容とか知らなくって、てっきりラヴストーリーなんだろうと思っていたら、ヒッチコックばりのサスペンスではないですか。というか、出演者の顔ぶれとかちょっとした演出からも、どうしてもヒッチコック作品を思い浮かべてしまう。さいしょに列車でイングリット・バーグマンに話しかけてくる、ちょっとおせっかいな老嬢は「どこかでみたおぼえがある」と思ったら、「バルカン超特急」で、列車のなかで消えてしまう老嬢役を演じた女優さんだったし、ここでは疑惑を解明する刑事役のジョセフ・コットンは、「疑惑の影」ではぎゃくに疑惑を持たれる人物を演じていたわけである。ぜんたいになんだかヒッチコックの「断崖」をひねったような展開だなあと思っていると、料理番の女性がミルクを注いだコップをお盆にのせ、二階の部屋まで持ってくるという、「断崖」ではジョーン・フォンティーンがやっていた有名なシーンを垣間見せてくれたりもする。まえの持ち主が死に、あちこちにいろんな遺品ののこる古い屋敷や、小道具の手紙などは「レベッカ」も思い出させられることになる。そうするとイングリット・バーグマンもヒッチコックの「汚名」に出ていたわけだよな、などと考えたけれど、「汚名」はこの作品のあとにつくられているものだった。ともかくは監督のジョージ・キューカーも、そのあたりの既成のヒッチコック作品のことは意識して演出しているんじゃないかとは思うわけである。

 ただ、わたしにはこの作品にはヒッチコック作品とはテイストの異なる面白さを見い出すわけで、それはやっぱりシャルル・ボワイエの悪役ぶり、そのシャルル・ボワイエとバーグマンとの演技の対比の妙、などといったところを楽しんだわけである。まあヒロインが心理的に追いつめられるという点では「レベッカ」というものがあるけれども、ヒッチコック作品の男たちは、悪役であってもどこか「やさしい男」を装っているとか、じっさいに「やさしい男」だったりというわけで、まあイギリス時代にはそういうてっていした悪いヤツというのも登場はしていても、この「ガス燈」のシャルル・ボワイエほどの造型はなされていなかった気がする。「やさしい男」みたいに装いながら、ねちねちとバーグマンを追いつめていくいやらしさは、まさにヒッチコック的造型のまぎゃくを行くものかもしれない。これをシャルル・ボワイエが表情をあまり動かさず、ほとんどまゆのうごきとか目線の移動とかだけで演じていくわけで、これはこのあとの非情な悪役のひとつのプロトタイプにもなるものだろう。これに対して、バーグマンがさまざまに表情を変えてボワイエに追いつめられるさまを演じる。まさにきのう観た「誰が為に鐘は鳴る」のゲーリー・クーパーとバーグマンの取り合わせのヴァージョン、という感じではあるけれど、クーパーとバーグマンとの主題は愛情の交感だったとすれば、ここでのボワイエとバーグマンとは、一方的な心理的攻撃ということになる。じぶんがほんとうにおかしくなっているんじゃないかと思い込みそうになるバーグマンの演技もいいけれど、やはりそこにはシャルル・ボワイエの演技との対比ということが生きてくる。

 作品のなかで、決してシャルル・ボワイエの正体をあかしている描写などないのだけれども、みていればその正体に誰でもが気づく脚本になっていて、そうやって観客は先にボワイエの正体を見抜きながら、ではかれの目的は?とか、描写されないことを先読みするように、つねにうながされることになる。で、そのラストでのバーグマンとボワイエとの対決というか最後の対話で、バーグマンの真意は観客にはいまひとつわからないように演出されていて、彼女がナイフを取り出すシーンでは「どうなるんだろう?」って、ハラハラしてしまう。面白かった。あれこれの小道具の使い方もいい。


 

[] 「銀座カンカン娘」(1949) 島耕二:監督  「銀座カンカン娘」(1949) 島耕二:監督を含むブックマーク

 脚本に山本嘉次郎の名まえも見えるけれど、主演の高峰秀子が画家志望で郊外の一戸建てに居候している、というあたりの設定に、やはり彼女主演の「我が家は楽し」の反映を見てしまうのは、それはうがちすぎた見方だろうか。その郊外の家の主がなんと古今亭志ん生で、引退した落語家という設定だけれども、家賃が払えずに追い出されそうになり(このあたりにも「我が家は楽し」の影が)、ふたたび高座にカムバックしようと家で落語のおさらいをしていたりする。その妻役が浦辺粂子で、息子役が灰田勝彦。そこの二階に親の縁で居候しているのが高峰秀子と、音楽家志望の笠置シズ子というわけで、まあ豪華配役である。

 わたしは「銀座カンカン娘」という曲が先にあって、それを使ってこの映画が出来たのかと思ったのだったけれども、じつはこの映画のオリジナル、らしい。そのわりに、「銀座」と見てわかるショットは、この映画のなかでひとっつも出てこない。登場するバーやダンスホールが銀座にあるという設定らしいけれど、戦後まもないこの時期の銀座がどんなだったか、わたしにはわからないのである。この映画を観た感じでは、大宮あたりと大差ないような気がするけれど。

 まあとにかくは主題歌の「銀座カンカン娘」がひゃっぺんがえしに歌われるだけの映画、っていってしまってもいいんだけれども、わたしはここに登場する犬のポチに、ちょっとばかし惚れこんでしまった。さいしょのショットからして、郊外を走る電車からカメラが移動すると、一本道の彼方からそのポチが駆けこんでくるみごとなショットである。そのあとの、浦辺粂子に「捨てて来てほしい」といわれて高峰秀子らがなんとかそのポチを捨てようとして、その都度失敗するあれこれのヴァリエーションがとっても楽しい。

 監督の島耕二というひと、戦前から活躍した監督さんということで、「次郎物語」などのタイトルはわたしも聞いたことがある。戦後には「細雪」なんかも撮っているひとである。「宇宙人東京に現わる」も、このひとの監督作品。




 

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■ 2011-10-07(Fri)

 しごと量もおちついて、またヒマをもてあますことになる。あれこれと職場のひとと雑談をしたり。いっぱんにはあしたからまた三連休になり、秋の行楽シーズンなのである。わたしはちょっと遅れて、月曜日からの三連休というスケジュール。「どこか旅行へでも行くのか」とか聞かれ、そういうわけでもないのだが、あれこれの旅行の話になる。「旅行とかするのか」と聞かれ、「いまげんざいもずっと、旅行中です」と、答えそうになる。なんかアホみたいなんでそんな答えはしないけれど、ふっとそう答えたくなったというのは、やはりそういう潜在意識みたいなのがあるんだろう。アホみたいに思われないようなところでなら、「ずっと旅行中です」と答えてみたいと思った。そんなところはないか。「究極の旅というのは、行ったその地に住み着いてしまう旅だ」というような誰かの文を、たしかつげ義春がエッセイで引用していた記憶があるけれども、誰の書いた文だっただろう。わたしは「究極の旅」をやっているところ、なのかねえ。そりゃあ「アホ」と「カッコいい」の境界だな。べつにカッコよさなんかねらわないけれど、いい。これからはもっと「旅人(たびびと)気分」で生活してみようか。
 しごとを終えて、さっそくそういう旅人気分で歩いてみる。「おや、こんなところにこんな風景がある」なんてやっていると、それって、つげ義春が「蟹」でやっていたことじゃないかと思いあたる。つげ義春はそのまま「こんなところ」にあるパチンコ屋に入って、大損してしまうわけだけれども、わたしはそんなことはしない。まあネコを飼っている旅人なんてありえないというか、おかしなものである。映画「ハリーとトント」は、ネコと旅をする老人の話だったはず。観たおぼえはないけれど、ちょっと観てみたくなった。

 見える世界は、もうBert Jansch が存在しなくなってしまった世界の風景である。

 帰宅して、きのう仕込んだイカの塩辛の製作にかかる。ひとばん酒に漬けておいたイカを取り出して、キッチンの布巾かけにひっかけておく。ヴィデオで映画を一本観てからいよいよ製作にかかる。塩漬けにしてあったイカワタをさっと洗い、タッパーのなかにワタの中身だけをあけてぐちゃぐちゃにまぜる。量もたっぷりあってイイ感じである。干しておいたイカ本体を布巾かけからおろし、小さくきざんでワタといっしょにまたぐちゃぐちゃにする。ぐちゃぐちゃにするのは得意。みりんと酒をちょっと足して、鷹の爪といっしょに、用意してあったコーヒーの空き瓶にいれる。瓶のふちまで、はかったようなぴったりの分量だった。これを冷蔵庫に入れて、あしたの夕方にはもう食べられるようになるだろう。見た感じの身とワタの割り合い、レンガ色の色合いと、これは傑作の予感。

 夕食にはまた「肉じゃが」にトライする。じっくりじかんをかけて煮込み、ちゃんとまごうかたなき「肉じゃが」の味なんだけれども、ぜんかいと同じで、何かが足りない。まあぜんかいとおなじ作り方なんだからおなじ味なのはあたりまえなんだけれども、もうちょっと濃い味がいいなあ。次回は工夫してみよう。


 

[] 「誰が為に鐘は鳴る」(1943) アーネスト・ヘミングウェイ:原作 サム・ウッド:監督  「誰が為に鐘は鳴る」(1943) アーネスト・ヘミングウェイ:原作 サム・ウッド:監督を含むブックマーク

 BSで放映された「ワールド・プレミア上映版」の、録画してあったもの。それまで上映されていたものよりも尺がかなり長いものらしい。映像も美しく、ノイズとか褪色とかを感じさせない。
 ヘミングウェイの原作はもちろん読んだことはないけれど、この映画化作品はやはりきっと、先日観た「愛と哀しみの果て」のように、原作からもっとラヴロマンスの方向にシフトした演出だろうなあと推測はされる。

 わたしはゲーリー・クーパーっていう役者のことはよくわからなくって、いままで西部劇とか観てきた印象としては感情を表に出さないヒーローというか、どこか自分の生き方をつらぬく個人主義者みたいな人物を演じているひとという印象があるのだけれども、この作品ではスペイン人民戦線と共闘するイギリス人兵士を演じていて、イングリット・バーグマンと熱い愛を語ったりする。へえ、こういう役もやるんだと、ちょっとおどろいた。ここでイングリット・バーグマンは「これは百面相か」というぐらいに多彩な表情をみせ、それを見せることにこそ演出の力点も置かれているようだけれども、ゲーリー・クーパーっていう人、どこか表情に乏しい気がしていたわけなんだよね。でも、この作品を観ると、そういう乏しくも感じさせる表情の奥に、こう、なんというかにじみ出てくるような情感を出すことが出来る役者さんなのかなあ、などと思った次第ではある。そういう意味では、そういうイングリット・バーグマンの過剰さと、ゲーリー・クーパーの抑えた演技との対比をこそ楽しむ作品なのかもしれない。

 ゲーリー・クーパーの役柄はこれは特殊工作員というかジェームズ・ボンドという感じで、単身重要任務遂行のためにスペイン山岳地帯の山岳ゲリラと合流し、フランコ軍の交通拠点の橋を爆破しようとする。きのう観た「黒いチューリップ」にもほとんど同じシチュエーションも出てきたし、戦争では橋の爆破というのはちょっと定番お約束作戦。しかしこの作品ではこれはどうしても「戦場にかける橋」を想起せずにはいられない。ここでけっきょくその橋の爆破は作戦としては無用なものとなり、それでも作戦を遂行する男たちの「ムダな死」ということが前面に描かれ、「戦場にかける橋」の不条理さとリンクする感じはある。ラストに救出される前に、任務遂行中に知り合った女性との、お約束のラヴ・シーンということになるのがボンドものの常道だけれども、これは救出されないヒーローの話である。

 人民戦線側の残虐さも描くことで、さすがに「黒いチューリップ」よりは深いところを見ている作品、これは「文芸作品」ですよというアピールは強いものがある。サム・ウッドという監督さんについて知るところはないけれど、そういうシリアスなドラマのなかにラヴシーンをうまくまぎれこませる手腕は、これはなかなかのものだと思った。「鼻がじゃま」というのは、この映画の名セリフではあるし。どこか寓話的な山岳ゲリラの連中の造型も、これはリアリズムではなく、それなりに「娯楽作品」という枠組みを固守している印象はある。わたしはそれが悪いとも、古いとも思わない。山岳地帯のロケ撮影とスタジオ撮影ともうまく編集している。ポイントを中心から大きくずらしたりするアングルも印象に残った。

 山岳ゲリラのリーダーの偉丈夫な妻、ピラーという造型が印象に残るのだけれども、これってぜったいに、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のドーラのキャラクターの原典なんじゃないかと思う。服装なんかも同じだし。




 

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■ 2011-10-06(Thu)

 スティーヴ・ジョブズ氏が亡くなられたというニュース。日本の前首相がやめたり、ヤクザな芸能人がとつぜん引退発表をした同時期に、アップルの第一線から退かれるというニュースを聴いてから、それほどのひにちが経っているわけではない。たしかに確実に、世界を変革した人物だった。ずっとずっとMac を愛用してきているものとしても、つつしんで哀悼。
 などと思っていると、もっとショックなニュースが伝わってきた。わたしのもっとも敬愛するギタリストのBert Jansch氏が、ガンのため亡くなられたという報道。じつはきのうおとといと、CDプレイヤーにぐうぜんセットされていた彼の「Moonshine」を聴いていた。聴きながら、この「Moonshine」も彼の代表作のひとつだろうけれど、彼の作品には「傑作」が多すぎるなあ、などと思っていたのだった。デビューアルバム、そしてPentangle の作品群、「Birthday Blues」、この「Moonshine」、「L. A. Turnaround」、「Avocet」、そして近年の「Black Swan」などなど、ほかにもあるけれど、こういうアルバムが大好きだった。来日のときにサインをもらって、握手を求めたりなどというミーハーなことをやってしまった記憶もある。きょねんAlex Chilton が思いもかけない若さで亡くなられたのも大ショックだったけれども、Bert Jansch の死もまた、とてつもないショックである。また「Moonshine」を聴く。

 きょうのしごとはとてつもなくいそがしかった。さいきんの一週間分のしごと量を、きょういちにちでこなしたという感じである。もっとこう、平均化出来ないんでしょうかね。

 午後からは西のスーパーへ買い物に行く。全商品10パーセント引きの特売日である。しばらくごぶさたしていたスルメイカが安かった。しかもかなりでかくって、ワタとかいっぱいつまっていそうだったので、久しぶりにイカの塩辛をつくろうと、二はい買う。あとは冷凍の鮭の切り身など。
 帰宅して、イカの一ぱいはしょうが焼きにしてこんやのおかずにすることにして、そのワタもあわせて塩辛にはワタいっぱいにしょうと。ワタを塩漬けにしておくじかんは長い方がいいので、さっそく二はいとも解体してワタを取り出す。ニェネントが気配を感じて寄ってくる。ふん、こればっかしはあげませんよ。あなたは腰をぬかしますからね。
 ‥‥予想した通り、大きくてりっぱなワタである。これだけ大きなワタのイカというのも、いつでも出会えるというものでもない。タッパーに並べて入れて、塩を大量にぶっかけて冷蔵庫に入れておく。本体は一方はこんやのしょうが焼き用で、一方はひらいて内蔵を洗い落とし、タッパーにいれて酒をぶっかけておく。これをあしたになってちょっとばかしぶら下げて乾燥させ、ワタといっしょにビンにぶちこんでおけば、おいしいイカの塩辛の出来上がりになる。

 そういうわけで夕食にはそのイカをタマネギといためて、しょうが焼きにしておかずにする。

 またBert Jansch のCDを聴きながら本を読み、そのまま寝た。


 

[] 「黒いチューリップ」(1964) クリスチャン・ジャック:監督  「黒いチューリップ」(1964) クリスチャン・ジャック:監督を含むブックマーク

 アラン・ドロンがフランス革命期の覆面の義賊「黒いチューリップ」に扮する冒険ロマン。しかも兄弟の二役で出演し、兄の初代「黒いチューリップ」を弟が継ぐ、みたいな内容。プレイボーイ肌の兄は実は革命に関心はないのだが、貴族相手の強奪ゆえに義賊あつかいされている。覆面を取った素顔は、町の社交界で浮き名をながす貴族のひとりである。これが警備隊長に頬に傷を負わされ、正体のバレるのをふせぐために自分そっくりの弟を呼び寄せる。この弟の方は革命の理想に燃えていて、進んで人民の味方になろうとするわけ。

 わたしはシネフィル・イマジカで放映されたものを録画して観たのだけれども、シネフィル・イマジカの作品紹介では原作は大デュマであるみたいに書いてあった。たしかにデュマには「黒いチューリップ」という作品はあるのだけれども、これはどうやらぜんぜんちがう作品のようである。おまけに、作品データを調べるためにgoo映画で検索すると、そのあらすじがこれまたぜんぜんちがう。いったい何を典拠にして「あらすじ」を書いているのか、とにかく映画を観ていないで書いていることはまちがいない。

 そういうことはともかくとして、映画の内容。‥‥これは、「ヨーロッパでも西部劇シチュエーションで映画つくれるんだぜえ」っていうようなモティヴェーションの映画というか。舞台はパリ郊外の田舎町で、その草原のような道を貴族の乗る馬車が行く。遠くには雪をいただいた山がみえている。そこに馬に乗った「黒いチューリップ」が登場して、つまりは西部劇の駅馬車強盗である。覆面をした「黒いチューリップ」と愛馬ヴォルテールとの活躍は「ローン・レンジャー」みたいでもある。ただしそこはヨーロッパ、銃の一撃であっという間に勝敗が決してしまうような、あるいみ味気ないものではなく、剣劇の伝統があるわけである。まるでアメリカの西部劇に向かって「どうだ、こんなこと出来ないだろう」といっているように、剣劇にちからがはいる。銃も出てくるけれど、これはあくまで添え物。

 ちょっとばかしコメディータッチの牧歌的革命讃歌かと思いきや、人民議会を解散させようと乗り込んでくる軍隊の提督を縛り首にしちゃったり、兄アラン・ドロンの初代「黒いチューリップ」もあっさり処刑されちゃったり(ここで弟「黒いチューリップ」が助けに来るのかと思っていたのに、来なかった)と、革命後の恐怖政治時代まで先取りしているのか、という感じである。

 出演者では「エヴァの匂い」に出ていたヴィルナ・リージが剣さばきの妙技をみせてくれたり、ステキである。もちろんアラン・ドロンもカッコいい。お馬さんもかわいかった。そう、撮影はアンリ・ドカエなのだった。




 

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■ 2011-10-05(Wed)

 あさしごとに出るときから雨が降りそうな雲行きだったのが、しごとから帰るころにはぽつぽつと降り出し、それからあとはいちにち雨だった。気温もあまり上がらず、肌寒いくらいである。きょうやろうと思っていた洗濯は出来なかった。

 ニェネントはかすかに「ゴロゴロ」と、のどをならしているのがわかった。わたしがしごとから帰って食事を出してあげるとき、ゴロゴロいっている。抱き上げてやったときにもゴロゴロいっていた。そうか、やっぱりわたしに抱かれるとうれしいのか。
 わたしが和室でパソコンに向かっていると、わきのベッドの上でニェネントが寝ている。そばに行ってベッドの上にわたしも寝ころがって、ニェネントの足をちょん、とさわると、からだをビクッとさせて目覚める。わたしがそばにいるのがわかって安心するのか、そのまま寝ころがってまえ足の内側を一所懸命なめて、そのまえ足でなんどもなんども耳のうしろの身づくろいをしている。なんどもまえ足をなめ、そのまえ足でなんども耳のうしろをなでる。いつまでもやっているので、わたしもいつまでもそばに寝ころがって見ていた。おもしろい。
 いいかげんにしてわたしが台所に立つと、わたしのあとについてきてわたしを見上げる。抱き上げると、なにがいやだったのか逃げようとして、うしろ足をバタバタさせる。腕でおさえると「シャーッ!」と怒りの声をあげる。わたしの手をねらってかんでくる。まあもともとあまりニェネントをこうやって抱いたりしないので、わたしも抱くのが下手だし、ニェネントも抱かれなれてはいない。きょうはどこか気にさわる抱き方だったんだろう。怒るニェネントも楽しいので、そのまま腕のなかのニェネントを手先でかまう。ニェネントはマジな顔をして、わたしの手をかみつこうとねらってくる。いちど床に下ろしてやっても逃げていかないので、また抱き上げる。こんどは平気な顔をしていて、本心怒っているわけでもなさそうではある。


 

[] 「続・社長千一夜」(1967) 松林宗恵:監督  「続・社長千一夜」(1967) 松林宗恵:監督を含むブックマーク

 東宝の、「駅前シリーズ」と並行して継続して製作されたプログラム・ピクチャー、「社長シリーズ」の一本。この「社長シリーズ」は三十本以上あり、「駅前シリーズ」は二十本以上、これに「若大将シリーズ」とか、「ゴジラシリーズ」、クレージーキャッツものなどで、60年代の東宝のスケジュールはほぼ埋まってしまうような感じで、これらの作品と文芸作品っぽいものとの抱き合わせで二本立てで公開されていたようである。ちなみにこの「続・社長千一夜」はシリーズの第二十七作で、併映されたのは「上意討ち 拝領妻始末」だったらしいのだけど、この二作のギャップはなんとも強烈な気がする。まあ一方のシリアスなドラマで緊張したこころやあたまを、こちらの作品でもみほぐしてあげましょうという感じなのだろうか。

 主演はもちろん森繁久弥で、加藤大介、小林桂樹、三木のり平などが毎回同様の役柄で登場し、フランキー堺が奇怪な外人役で登場するというのが「お約束」だったらしい。森繁の奥さん役は久慈あさみで、小林桂樹の奥さんは司葉子。森繁を誘惑するバーのマダムとかの役で草笛光子、新珠三千代らが登場し、この作品では森繁の秘書役で黒沢年男が出演している。

 フランキー堺演じる奇怪なブラジル人がブラジルの精力剤「ガラナ」だかを森繁にプレゼントし、森繁はその効果のほどを体感しようとするのだけれどもいっつもけっきょく奥さんのところへいってしまうというか、「これから」というところでかならずじゃまがはいるというお約束。フランキー堺は森繁の会社と協定して、富士山の裾野に観光ホテル建設を計画しているのだけれども、いざその富士の裾野に宿泊してみると自衛隊の演習の砲音がうるさく、「とてもこんなところにホテルは建てられない」というオチ。ええ〜、自衛隊演習の現地実写フィルムも挿入されてるのに、反自衛隊映画ですかあ、という感じである。公開されたのが1967年ですからね、ヴェトナム戦争もあって反戦ムードの高まっていた時期だなあと思うけれど、ゴジラ映画とかで東宝と自衛隊は友好関係にあったんじゃないだろうか。それで東宝は演習の撮影フィルムも持っているんだろうけれど、こういう意図で使用されちゃうと自衛隊もだまっちゃいなかったんじゃないだろうか。

 ほかの「社長シリーズ」では三木のり平などが怪演する宴会シーンとかがお約束になっていて爆笑になるらしいのだけれども、この作品にはそういう爆笑というのはなし。ほんわかした軽い艶笑コント、という感じである。舞台となる会社のオフィス、社長室とかの造型で、ちょっとばかしジャック・タチの「プレイタイム」とかを想起したりした。


 

[] 「天国の日々」(1978) テレンス・マリック:監督  「天国の日々」(1978) テレンス・マリック:監督を含むブックマーク

 せんじつ観た「ツリー・オブ・ライフ」にはがっかりさせられたテレンス・マリック監督だけれども、やはりこの「天国の日々」はいい。すばらしい。もちろんテレンス・マリックではこの作品がいちばんだと思う(「地獄の逃避行」はあんまりおぼえていないけれども)。あんまりにも美しい撮影はネストール・アルメンドロスで、彼がトリュフォー作品のクランクインに合流するために帰国したあとは、ハスケル・ウェクスラーが撮影を引き継いでいる。こういうのを観ると、上っ面だけきれいに撮ろうとしたような「愛と哀しみの果て」の画面なんて、なんてつまらなく見えてしまうことだろう。有名な日没時の「マジックアワー」での撮影はもちろん(ため息が出るほどに)美しいのだけれども、夜間の撮影もこれまた美しい。ライヴの部分の音楽をLeo Kottke が担当していて、カントリーやブルーズなんかのアメリカのルーツ・ミュージックを聴かせてくれているのも特記事項。映画じたいの音楽スコアはエンニオ・モリコーネが書いているんだけれども、印象に残るのはサン=サーンスの「動物の謝肉祭」からの「水族館」のメロディである。

 語り手になる妹のリンダがタップダンスを踊るシーン、バレエ教室に行くシーン、そしてアビーがバレエを踊るシーンなどがあちこちに出てきて、さらに飛行機でやってくる芸人の一団の舞台など、ぜんたいにそういう登場人物たちがエンターテイナーを指向するようなショットが印象に残るわけで、つまりこれは「旅する芸人」の話なんじゃないかと邪推する。じっさい、主人公のふたり、ビルとアビーは兄妹といつわってしごとを得ているわけで、アビーはそこから地主の妻になるわけだけれども、妻を装っている、ということになるだろう。
 映画の背景の時代は1910年代で、映画の終盤では第一次世界大戦にアメリカも参戦していることがわかる。移動労働者という存在はスタインベックの「怒りの葡萄」を思い出すけれども、この「天国の日々」は、そういう社会問題を主題にした作品ではないことはいうまでもない。

 まあ、ナラティヴなものを読み取るだけではすまされないすばらしい作品というのは、どのようにアプローチしてその良さを語ればよいのかわからないものであって、あれこれと断片的に「ここがいい」とか「あそこがよかった」というしかない気分にもなるのだけれども、きょうのわたしの誤解としては、世界自体を舞台とすることになった旅芸人の至福のときと、その放逐のストーリー ではないかということにする。ラストでどうもわけのわからない女の子とふたりで道を進んでいくリンダは、きっとそののちには芸人になるんじゃないかと思ってしまうわけである。




 

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■ 2011-10-04(Tue)

 きのうの観劇はいぜんから予定していたので、職場にはその翌日休みの申請を出してあったわけで、きょうは休みである。しごとが早いじかんなので、お出かけする当日を休むよりもその次の日を休む方がよゆうができてあれこれと楽なのである。そういうわけできょうはお気楽極楽ないちにち。窓からみえる外の天気は秋ぜっこうちょうのようで、出かければ爽快だろうなどと想像もするけれど、じつはいちにちじゅう、一歩たりとも外へ出ないですごしてしまった。洗濯びよりだなあとも思ったけれど、まあいいや、きょうは怠惰にすごそう。

 部屋のなかを移動するたびに、ニェネントが近くに寄ってくる。食事の準備をしていると、思い出したように近くのじぶんの食事のトレイに顔をつっこみ、残っていたフードをかじりはじめる。「これ、食べちゃうからあたらしいのちょうだい!」ということなんだろうか。肉類とか、ニェネントも好物でありそうなものを調理していると、わたしの足もとでのびあがってまな板の上をのぞきこんでくる。まな板の上にまえ足をのばしてくることはないけれど、つまり、「それ、わたしもほしい!」だろ。それで食事していると「なに食べてるの?」と、ひとの手元をのぞきこんでくる。おやつだとかわたしが手づかみで食べているものは、じぶんでなめて味をたしかめようとする。トイレに行くと閉めたトイレのドアの外で、ドアを開けようとカリカリやっている。やめて下さい。

 ニェネントとの平和ないちにちは、あっという間に過ぎてしまう。


 

[] 「悪人」(2010) 李相日:監督  「悪人」(2010) 李相日:監督を含むブックマーク

 横文字の飛び交う都会の外で生きる若い男女の話でもあると思うので、エンド・ロールのバックに流れる横文字で唄われる歌にすごい違和感がある。

 後半、逃避行に走るふたりの、その深津絵里の赤いセーターがとても印象的なだけに、映画全体としての色彩設計がもうちょっとどうにかならなかったのかと思う。ふたりの隠れ処になる灯台のシーン以外はぜんたいに、もっと彩度を落としてモノクロに近い映像の方がよかったのではないのか。灯台周辺の景色、海や空の色が美しいだけに、それ以外の計算のない色彩の汚れが気になるわけである。こういう、演出もせずにただフィルムに写り込んでしまう色彩をナマに使ってしまうような作品が、日本の映画にはずいぶんと多いと思う。ドキュメンタリーを撮っているんじゃないだろうに。
 ラストの方の、深津絵里のいくつかの表情をとらえたショットは印象に残ったけれど、ぜんたいに妻夫木聡の表情がとぼしい気はしたし、被害者の父(柄本明)がなぜ、しつようにちょくせつの犯人ではなく被害者を置き去りにした男(もちろん、こっちの方が圧倒的にイヤなヤツなのだが)の方をせめようとするのか、わたしにはよくわかんない。原作がそうだったのかもしれないけれど、バランスをとろうとしたきれいごと、という気がしてしまうし、なにも映画のなかで断罪しなくても、観るものの判断にまかせればいいじゃないか。この部分の演出は納得がいかない場面が多い。


 

[] 「クリスティーン」(1984) ジョン・カーペンター:監督  「クリスティーン」(1984) ジョン・カーペンター:監督を含むブックマーク

 ジョン・カーペンターのほんとうに久々の新作がいま公開されているらしい。観てみたいけれど、いつまで公開してるんだろう。
 この「クリスティーン」は、そんなジョン・カーペンターが1984年に、スティーヴン・キングの原作を映画化したもの。この1984年という時期はまさにスティーヴン・キングのさいしょの絶頂期というか、この時期には彼の原作の映画化されたものが連続して公開され、そのそれぞれがすばらしい作家性をもった監督によるものだったこともあり、「つぎにスティーヴン・キングの作品を映画化するのはだれだろう?」などという興味もあったわけである。ちょっとメモ書きとして書いておけば、スティーヴン・キングのデビュー作の「キャリー」が1976年にデ・パルマ監督によって映画化され評判になり、わたしもこれでスティーヴン・キングという作家に興味をもって、原作も読むようになったわけである。つぎが1980年のキューブリック監督の「シャイニング」で、「クジョー」などの映画化が続いたあとに、1983年、クローネンバーグ監督によってこれまた傑作の「デッドゾーン」が映画化されている。そしてそのつぎがこの「クリスティーン」、ということになる。このあたりはすべて、わたしも公開当時に映画館で観ているのだけれども、そのなかではこの「クリスティーン」、ちょっと毛色の違う作品、という感覚で観ていた。それっきりになっていたのをじつに久しぶりに再見。

 やはり「ホラー」という味わいからは距離のある作品、という感じで、弱っちいいじめられ男が非現実的な力強い味方を得てやり返し、逆に比類のない権力を手に入れ、暴君として破滅するというプロットは、なんだかグリム童話にでも出てきそうな典型的な寓話構造で、とくにクリスティーンが力を発揮しはじめるまでの前半は、学園が舞台ということもあって、そういういじめられっ子の下剋上学園ドラマという色彩が強い。ここで超自然現象的ホラー色を強くすればまた「キャリー」の再現という感じではあるけれど、この「クリスティーン」での超自然現象はもっともっと非現実的で、いっしゅのテレキネシス能力があれば「現実」にこんなことも起こり得るんじゃないかというような「キャリー」の恐怖感はここにはない。いっくらなんでもそんなことは起きっこないよ、というような「お話」を映像化した、ということでは、これはディズニー映画のようなおとぎ話の映像化にひとしいものだろう。

 さて、この作品、そのクリスティーンというのは1958年型プリムス・フューリーというわけで、自己再生能力も持つ「意志を持つ(女性である)クルマ」というわけなのだけれども、そのカー・ラジオからはいつも、50年代のオールディーズが流れてくる。この50年代オールディーズというのがかのじょ(クルマ)のアイデンティティーというか生命のある証(あかし)のようなものとして描かれる。ピッカピカに磨かれて光を反射する赤とシルヴァーの輝く車体が印象に残るわけだけれども、ここで、50年代オールディーズ、赤く輝く50年代車のボディ、ということではどうしても、ケネス・アンガーのすばらしい1965年の作品、「K.K.K.(Kustom Kar Kommandos )」を思い浮かべてしまうことになる。つまり、クルマへのフェティシズムの世界である。この「クリスティーン」でのジョン・カーペンターの演出に足りないものがあるとすれば、やはりこの「フェティシズム」なのではないだろうか。というか、クルマがまた「意志(生命)を持つ女性なるもの」としての特性をもつのならば、そこにフェティシズムをもちこむことは困難になるだろう。つまり、生命なきもの、デティールへの愛情こそが「フェティシズム」の条件とすれば、そのケネス・アンガーの「K.K.K.」的世界観をここにもちこむことは困難ではあっただろう。もちろん、この「クリスティーン」と「K.K.K.」とをリンクさせようとするのはわたしの勝手な思い込みにすぎないわけだけれども、クルマにホレるというのがフェティシズムの発露と考えれば、そのなかに「女性なるもの」を見ようとしたスティーヴン・キングの原作のなかに、「クルマへの愛」への誤解があるのではないだろうか? わたしはクルマを愛したことがないからわからないけれども、ケネス・アンガーの「K.K.K.」で描かれていることはわかるつもりでいる。ジョン・カーペンターは「K.K.K.」のことを知らないわけはないだろうと思うのだけれども、原作を引き継いで、クリスティーンというクルマをフェティシズムの対象としてよりは、やはり「おとぎ話」に登場する魔女や妖怪の姿をこそ、クルマのメカニックのなかにあらわそうとしたわけだろう。それはそれでしょうがない。




 

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■ 2011-10-03(Mon)

 きょうもしごと量は少ない。あまりヒマなのも、じかんをもてあましてしまう。この先べつの部所に移されるとか、あまりよろこばしくない変化が行われるような気がする。

 ニェネントのこんかいの発情期はおわったようである。不完全燃焼で残ってしまったエネルギーを発散するためか、部屋のなかをドドドッと走り回る。ふすまに爪をかけて上の方までよじのぼる。それをやってはいけません。

 よるは東京に舞台を観に行く。夕方になって家を出る。くらくなってから上野駅に着き、山手線で日暮里駅へ。きょうはd-倉庫での、待望の「self23」の公演。あんがい知り合いで観に来るひともいるかもな、などと思っていたわけだけれども、客席へ入ってこられるお客さんのなかに、BさんやCさんの姿があった。そもそもこの舞台のことを知ったのは、八月のBさんの公演での折り込みチラシのおかげだったので、ああ、やっぱりなあ、という感じはあった。終演のあと、ちょっと声も出さずにあいさつしただけになってしまった。Cさんはこの公演のことをこのわたしのブログで知られたということ。じつは告知のつもりもあってココに書いてもいたわけで、そういうきっかけで来られたということはわたしにはとってもうれしかった。

 また舞台の感想は下に書くけれど、終演時で八時半をまわったところ。Cさんといっしょにあれこれしゃべりながら日暮里駅に戻り、わたしの帰れるさいごの電車のじかんまで、わずかなじかんだけれども上野で飲みましょうということに。ほんの三十分ほどのことだったけれども、なんだか濃厚なじかんだったような。ちゃんと「飲んだ」という気分にはなりましたね。いずれこんどはもっとゆっくりと飲みましょうということにして、Cさんとお別れして上野駅へ。ちょっと余裕をみすぎていて、これならもう十分ぐらいCさんと飲んでいてもよかったのに、ということになる。

 舞台を含めて、楽しんだつかのまの上京だった。らいしゅうはまた東京で観劇。「赤色反応」のつぎが「赤色エレジー」なのである。


 

[] self23 / shyz2 「赤色反応」岡靖洋:脚本・演出・音楽 @日暮里・d-倉庫  self23 / shyz2 「赤色反応」岡靖洋:脚本・演出・音楽 @日暮里・d-倉庫を含むブックマーク

 self23 の評判はあれこれ聴いていた。わたしが観たself23 の舞台は、むかしわたしが企画していたイヴェントの出演者による企画で、川崎の廃工場を舞台にしたイヴェントの一環として、self23 が出演したものだった。もう二十年近くの過去になる。「ああ、これがself23 だよな」という感慨はあったけれど、夜の空気のなかで工事現場と廃墟が一体になったような、なんともいえない雰囲気のほかは、じつはもう記憶からすっ飛んでしまっている。その後十年ほど前に、赤羽橋にあったディープラッツで、そのself23 の舞台があったことはチラシで知っていたけれども、これはスケジュールが合わなくって泣く泣く断念した。それ以来でself23 である。こんかいはshyz2 というユニットとの共同作業ということで、出演者はself23 の岡さんと、女性パフォーマー四人。この女性パフォーマーのうちふたりが指輪ホテルの方で、そういうふうに指輪ホテルとself23 とに交流があるとか、そういうことはまったく知らないでいた。

 舞台。開場して客席へ向かう。舞台左右にイントレというか大きな脚立というか、そういうものが置かれ、舞台中央に女性がふせってじっとしている。女性の衣服のわきのあたりは、おそらくは血で赤く染められている。スモークがたかれていて、客席もそのスモークの匂いにみちている。なにか、こういうスモークの匂いというのがみょうになつかしい。むかしはこういうスモークをたいたような舞台が、あれこれとしょっちゅう行われていた気がする。

 ‥‥なんというのだろう、ゴシック系の舞台というのか、抑制された演出による三人の神話的女性ヌワ、マゴ、そしてマリアとのからみによる寓話的/神話的世界。ヌワとマゴとは中国の古代神話に登場するキャラクターらしい。ここに実体のパンドラと虚体のパンドラとがからむ。虚体のパンドラを岡さんが全身を黒ビニールでぐるぐる巻きにした姿で演じ、暴力の世界を体現する。世界の滅亡と再創出の物語とも、個の「死」以降の黄泉めぐりと再生の物語とも。きちんと構築された脚本への思い入れは強く、この舞台世界をきちんと体感してほしいという、メッセージ性の高い演出の意志がひしひしと感じられる。もちろんわたしなどはいちど観ただけではつかみきれないことばかりの舞台ではあったのだけれども、奇妙にこころが騒ぎ、なにものかがこころに焼きつけられる舞台ではあった。
 まあこういうゴシック系舞台というのはかつてほかに観たこともあるのだけれども、現代の演劇舞台にみられるような、一方での舞台的物語構築手法、一方での前衛性、どちらからも距離をおいたような演出はわたしにはどこか新鮮で、予想外に完成度の高い舞台構築にも驚きを感じ、ああ、やっぱりきょうのこの日、日暮里に来て、この「self23」の舞台を観たということは正しかった、などという感慨が浮かぶのであった。

 ひょっとしたら、わたしのなかで「反時代性」みたいなものが、成長しつつあるのかもしれない。





 

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■ 2011-10-02(Sun)

 きょうはしごと。「なんだかなー」というぐらいにヒマである。そしてあたらしいシステムにはわからないところもいっぱいある。それでまた「なんだかなー」とつぶやく。
 つぶやくといえばTwitter だけれども、いまのところわたしはTwitter をやるつもりはない。ひとに伝えたいことがあれば、メールで十分ではないか。ひとのいっていることを、わざわざTwitter で聴きたいとも思わない。わたしの知人がTwitter をやっていたりして、その内容をブログにもアップしていたりする。(この「はてな」の)アンテナをはっているので、ある程度の内容はアンテナを起動すると読めるのだけれども、「なんだかなー」という感じである。

 こうやってまいにち、ブログというものを書いてさらしてはいるけれども、知らないひとにもいっぱい読んでいただきたいなどという気もちはさらさらない。これはわたしの精神の運動のためにやっていることだし、まあその一面で知人への近況報告という側面はある(何人かの知人の方々がときどき読んで下さっていることは知っている、ありがとうございます)。知らないひとが読んで下さればそれはそれでかまわないけれど、知らないひとには面白いブログでもないと思う。
 もうときどきこうやって書くのもめんどうになって、やめてしまいたい気分にもなるけれど、わたしの大嫌いなことば、「継続は力なり」を実践しているわけである。いや、「力」ではない。継続ということは「運動」なのである。

 しごとを終えて帰宅する。ニェネントの発情期はこんかいはあんがい早くおさまってしまったようではある。おととい会ったAさんは「雌のネコは不妊手術をしないといつでも発情期になってしまうのでかわいそうだよ」といっていた。そうなのだろうか。
 ドラッグストアで安い芋焼酎を買う。いつもは麦焼酎なのだけれども、「どうなんだろう」という感じで。‥‥やはりわたしは麦焼酎がいい、ということがわかった。昼食にせんじつ買ったタイのインスタントヌードルを食べてみる。辛い。いちばん辛いのを買わなくってよかった。夕食はスープ餃子。これは少ない分量で食がすすむのでとっても経済的なのである。ひとパック買うと四食分にはなる。


 

[] 「愛と悲しみの果て」(1985) シドニー・ポラック:監督  「愛と悲しみの果て」(1985) シドニー・ポラック:監督を含むブックマーク

 原題は「Out of Africa」で、アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々」が原作なのである。このちょっと有名なディネーセンの原作にももんだいは大ありではないかと思うんだけれども、この映画は何ですか、という感じである。ひどい。

 まずは、この時代の「女性の自立」という潮流に迎合したわけだろうけれども、そういう「ひとりでも自立して生きていこうとする」ヒロインをメリル・ストリープが演じる。「でもやっぱりイイ男とイイ関係になりたいよねえ」という願望を満たす役がロバート・レッドフォード。じつのところ、めためたなメロドラマである。しかも舞台は二十世紀初頭のアフリカ。ヨーロッパの「帝国」がアフリカを分割して植民地支配した時代である。メリル・ストリープもロバート・レッドフォードも、付け足しのように現地人の子どものための学校をつくったり、ヨーロッパのアフリカ支配の構造を批判するようなことをいったりはする。しかし。

 アフリカの風景は、絵ハガキのように美しい。さいしょのうちこそは「おお!」などと目を奪われるかもしれない。しかし、いつまでもどこまでもその絵ハガキ的構図がくり返されると、そういう「美しいアフリカ」という(反差別)意識構造こそがあらわになり、まさにそこにこそ「オリエンタリズム」が潜んでいるだろうと思うわけである。つまり、いったいなぜ、「オリエンタリズム」以降の1985年になってこの原作を映画にしたのか、ということはやはり問われなくてはならないという気がする。しかも、この映画はそれこそ原作にあったアフリカの生活のディテールをすっとばし、男と女のメロドラマばかりをクローズアップする。メロドラマをメインにすれば、アフリカへの意識をどこかで回避できると思ったのだろうか。

 ぜんたいの構造は「風と共に去りぬ」にならったものだろうと思う。ひとりの女性がひとりの男性によせる思いをメインに、その女性の波瀾万丈の生をドラマ化しようと。そして、「風と共に去りぬ」が作者の人種差別意識もまたその作品に痕跡を残したように、この「愛と悲しみの果て」もまた、オリエンタリズムの痕跡を残すことになる。
 でも、この「愛と悲しみの果て」のヒロインの、反吐が出そうな優等生ぶりにはげんなりする(もちろん原作のせいではないだろう)というか、これにくらべれば「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リーの抱えた矛盾は、なんとも魅力的なものに思える。シドニー・ポラックには、こういうところがある。




 

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■ 2011-10-01(Sat)

 十月になってしまった。よなかに新宿の歌舞伎町の奥にあるカプセルホテルに到着し、着替えるのもそこそこに、まゆのなかにもぐりこんで寝る。きょうはついたちで「映画デー」なので、せっかくだからなにか観てから帰ろうと思っている。映画館が開くにはたっぷりじかんがあるし、睡眠不足で映画館のくらやみにもぐりこむのはちょっと避けたい気もちもある。いっぱい寝ておくつもりだったけれども、七時ごろには目が覚めてしまった。しょうがないから風呂に入ったりしてじかんをつぶす。カプセルホテルといっても風呂までカプセルサイズというわけではなく、まあちょっとした銭湯ぐらいの感覚はある。ゆっくりと湯舟にはいっていると、土地柄なのか、刺青をされている方の姿がやたら目につく。銭湯のたぐいは「タトゥーの方お断り」ということになっているはずなので、こういう光景は貴重だよね、などと思って湯舟でぶくぶくぶく。

 じかんをつぶしあぐねて外に出て、山手線をいっしゅうしてじかんをかせぐことにする。渋谷に出て、シアターイメージフォーラムで公開中のヤン・シュヴァンクマイエルの新作、「サヴァイヴィング・ライフ -夢は第二の人生-」を観ることにしている。

 予定通り山手線をいっしゅうするけれどもあんまり眠ることもできず、そのまま渋谷で下車、映画館へ行く。映画はじまる。

 ‥‥さいしょはこのまま眠ったりしないでさいごまで観られるかな、などと思っていたのが、とちゅうからどうもあやしい感じになってきて、ふっと気がついたら寝ていた。しばらく観ていて、またふっと気がついたら寝ていた。これを何度かリピート。どうも上映時間のはんぶん近くは寝ていたんじゃないだろうか。

 ということで、これはちゃんと観たことにはならないと、感想コラムを作成することは控えておくけれど、まあはんぶん観ただけでもわかることがわかる部分もあって、この映画、おそらく面白いのは冒頭の、シュヴァンクマイエルじしんがちょっと講釈を入れるシーン、ここだけだろうと思う。ここだけでぜんたいの演出スタイルはわかるし、だいたい精神分析の絵解き映画なんておもしろいわけでもないだろう。もっとなんかね、ちがう展開もあるのかと思っていたけれど、ぎゃくに「そういう方には行かないでほしい」という方向にばかり横滑りして行ったんじゃないかな、と思う。「映画を通して精神分析を学ぶ」なんて、ジジェクあたりを読んでヒッチコックあたりを観ている方が、よっぽどスリリングなのである。

 映画ぜんたいはシュヴァンクマイエルの平面コラージュ作品が動きましたよ、というテイストなんだけれども、動かなくってもやはり平面コラージュで楽しい作品はあるわけで、そのあたりを超えているかどうかというのは、かんたんに「超えてないよ」と、いってしまえるのではないのか。

 まあずっとじぶんのなかで、ナラティヴな展開を示すものへの拒否反応みたいなものが強くなっていて、なにもシュヴァンクマイエルがこんなナラティヴなことやらなくってもいいじゃないか、と思うわけである(とちゅうのことは寝ていたとしても、ラストは「なんじゃそれ!」ってモノだった)。考えてみても、舞台などでもそういうナラティヴなものがいやだとか、さいきんはずっとあるわけで、きのうのARICA の公演が楽しかったのも、そういうナラティヴな展開からは自由な演出だったからだろう。

 映画館に置いてあったチラシで、フレデリック・ワイズマンの作品(ほぼ全作品)の連続上映、そしてワン・ビンの全作品上映などの特集があることを知る。いいかげんこのあたりでちゃんとワイズマンも観ておきたいし、ワン・ビンの「鉄西区」もまた観たい気がする。ペドロ・コスタやウィーラセクタンらとのオムニバス、「世界の現状」という作品はぜったいに観たい!
 ‥‥ところで、このワン・ビンの全作品上映のチラシ、裏側の上に大きく「ワン・ビン、恐るべし!」という文字があるんだけれども、「ワン・ビン、おそるべし」というのは、ことしのイメージフォーラム・フェスティヴァルで彼の「名前のない男」を観たとき、このブログでわたしが書いたことばではある。まあわたしがそんなに世のなかで知られてるとか、そんな幻想は持っていないつもりだし、そうなりたいと思っているわけでもないし、そんなに独創的なことをいっているつもりもない。ぐうぜんこのチラシのコピーを書いたひととシンクロしてしまったこともあるだろう。それでも、微妙なところではあるけれども「どうなんだろう?」という気もちがないわけではない。こういうことに関しては「そういったのはオレなんだけれども」ぐらいの自己主張はするにんげんではあるので、いちおう書いておく。たいしたことではないのだが。

 映画が終わり、電車に乗って帰宅する。映画館で寝たのでもう眠くない。カフカ全集の、「観察」の残り、「判決」、「変身」までを読んだ。自宅駅について部屋の玄関ドアへの道を行くと、ネコのないている声が外まできこえてきた。ニェネントである。ひとりで悶々としておられましたか。ドアを開けると、なくのをやめてそばに寄ってきた。多めに出してあった食事はぜんぶ食べられていたので、あたらしく出してあげる。やはり疲れたというか、急にねむけにおそわれてそのまま寝てしまう。


 

[] 「カフカ全集 1」(2)フランツ・カフカ:著 川村二郎・円子修平:訳  「カフカ全集 1」(2)フランツ・カフカ:著 川村二郎・円子修平:訳を含むブックマーク

 十八編の掌編から成る「観察」、長いセンテンスを駆使した文章の練習のような作品もあるけれど、やはりさいごに収められた、ちょっと長めの「不幸であること」という作品が、とても不穏な空気で気味が悪い。夜なか、話者の部屋に少年の幽霊が出現するのだけれども、話者はていねいにその幽霊と対話する。それでも幽霊は「あなたはわたしを脅迫している」という。話者は「わたしはあなたがやっとあらわれたことを喜んでいるのに、あなたは親切じゃない」といって部屋を飛び出し、階段の上で隣人に出会う。「幽霊からはけっしてはっきりした答えを引き出せない」と、隣人に語る。なにか、すべてがかみあわない。話者こそが幽霊のようである。

 「判決」はそれいじょうに無気味で不穏であり、やり切れない読後感がのこる。カフカと父とのかんけいの、カフカの抱く恐怖のようなもの。

 「変身」は何度も読んだ作品だけれども、やはりカフカは家族のなかでじぶんを「虫」のような存在だと想像していたのだろう。じぶんがいなくなれば、家族は郊外の行楽地に楽しげに遊びに行ったりするのだろうと。ラストの、その家族三人の乗る電車には、ほかに乗客は乗っていないと書かれている。



 

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