ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2011-11-30(Wed)

 新宿でFさんと、園子温監督の「恋の罪」を観る。新作ロードショー映画を観るのは久しぶりの気がする。

 新宿駅に着いて、待ち合わせ時間までまだじかんがあるので少し街をぶらつく。レンタルヴィデオの店に行くと、借りた品の返却には郵便が使えるようになっているようだった。この店は在庫が豊富なのでまえから利用したかったのだけど、返却がネックでなかなか利用出来ないでいた。返却が郵送なら気楽である。これからは利用してみようかと思うのだけれども、もしも返却期限がすぎてしまったときにはどうやって清算するんだろう、などと考えてしまった。

 待ち合わせは新宿三丁目の駅なので、飲み屋やバーが並んでいるあたりを歩いてみる。「ああ、この店は新しいけれど、むかしよく通ったあの店と同じオーナーの店だな」というバーがまた増えている。そのあたりのことは、店の名まえや外観をみるとだいたいの見当がつくのである。むかしからあったそのオーナーの店もちゃんと残っている。あのオーナーはこのあたり一帯で何軒のバーを経営してるんだろう。またふらりと寄ってみてもいい。

 約束のじかんになってFさんと合流し、まずは映画館で席の予約をしてからちょっと遅い昼食をとり、上映時間までお茶などしてじかんをつぶす。といってもあっという間に上映時間になり、映画館に行く。

 この映画館はよく通った記憶はあるけれど、このところまったく来ていない。おそらくは四、五年ぶりぐらいになるんじゃないだろうか。ちょうど映画館に着いたときにまえの回が終映したらしく、おおぜいの人が映画館から出てくる。いつまでも出てくる人の列というか波というかがとだえることなく、作品自体がずいぶんとヒットしているのだなあという印象。たしかにせんしゅう前売りの特別鑑賞券を買おうとしたら売り切れていたし、きょうは水曜日ということで、この映画館は誰でも千円という日なわけで、平日の昼間だけれどもこんなに混み合っているんだろう。ロビーで「風にそよぐ草」のチラシを見つけ、Fさんに「こんどはこの映画を観に行こう」とさそう。

 ‥‥楽しい映画鑑賞が終わり、神経的には満腹気分になるけれど、おなかはもうすいている。観たばかりの映画の感想とかを、飲みながら語りたいところでもある。Fさんと新宿で会うときにはさいきん続けて行っている居酒屋へ行き、ちょっと飲んでちょっと食べ、いっぱいおしゃべりをする。ここの肉じゃがは純和風の味で、とてもおいしい。こういう味を自分でもつくり出したいものなのである。とにかく、さきに素材を炒めたりしてはいけないのだろう。しょう油もあまり使ってはいない。
 ふたりでの会話をめぐって、FさんがあることがらをiPhone で検索しようとしたら、「注目キーワード」に阿部和重の名があがっているという。「いったいどういうことなんだろうね」とキーワード検索してみると、阿部和重が川上未映子と結婚したニュースがあるという。どちらも再婚のはずだけど、せんじつ「和子の部屋」でふたりの対談を読んでいたこともあって、おどろいてしまった。川上未映子が阿部和重のような小説を書くようになってもおもしろいけれど、阿部和重が川上未映子のような小説を書いたらイヤだと思う。

 終電に間に合うようにFさんと別れて新宿駅へ行き、予定通りの電車で帰宅した。きょうは浪費を気をつけていたのだけれども、支出は思っていたよりもずっと少なくすんだ。これで日曜日の飲み会も安泰のようである。



  

[] 「恋の罪」園子温:監督  「恋の罪」園子温:監督を含むブックマーク

 客入れの段階で場内にずっと、マーラーの第五交響曲のアダージェットが流されていて、「どうしたことだろう、『ベニスに死す』がリヴァイヴァル公開されたせいだろうか」などと思っていたら、映画のなかでなんどもなんどもくり返しコレが流されるのであった。しかもそれがいつもクライマックスのまえで音が途切れてしまうので、「こりゃあ映画のラストで『ガーン!』とクライマックスが来るのだな」と思うわけで、じっさいにその通りになった。エンドロールをみていると、Aunt Sally の曲も使われていたようである。わたしはAunt Sally をそんなに聴いていたわけではないので、それがどこで使われていたのかはわからない。

 映画はほとんどデヴィッド・フィンチャーの「セブン」だよな、というオープニングで、これは「セブン」での七つの大罪とは別の、「恋の罪」なのだよ、という感じ。「恋」といっても、英語タイトルは「Guilty Of Romance」なので、ストレートな「恋、=Love」とは、ちょっとちがう。ここでは「原罪」としての「Romance」と考えると、わたしなどはストンと首肯する気分はある。これは、「欲望」に近いところがあるんじゃないだろうか。
 さて、この作品はいわゆる「東電OL殺人事件」(この通称はあまりよろしくない部分があるけれど)をモデルとして製作されたものらしいけれど、じっさいの事件はあくまでも「容器」のようにシチュエーションとして使用されているだけで、これを同じものとしてみることはまるで出来はしない。むしろ、その死体にほどこされた細工などからは「ブラック・ダリア」こそを想起してしまう。そうするとわたしには妙に合点の行くところがあるわけで、「ブラック・ダリア」(この場合、デ・パルマの映画作品はちょっとずれているので、ジェイムズ・エルロイの原作小説の方で考える)という作品は、おおまかにいえば捜査する警官が被害者であるブラック・ダリアという死せる女性にどんどん惹かれていくという話なんだけれども、わたしはこれは男性が「ブラック・ダリア」という存在に惹かれるという設定よりも、同性である女性が「ブラック・ダリア」に惹かれるという設定にこそ、リアリティが生まれる気がするのである。これはつまり、「堕ちて行く」ということへの欲望のもんだい。そしてまさに、この「恋の罪」という作品は「堕ちて行く」ことの快楽と罪とを描いた作品ではないかと思う。もちろん、「堕ちて行く」という行為のなかに「罪をおかす」という概念も含まれているわけで、そのあたりを女性の「業」として、みごとに描いている作品、という印象をもった。

 重っ苦しいテーマではあるけれど、ここでの園子温氏の演出はとてもユニークなもので、これは「愛のむきだし」から継続されている姿勢でもあるだろうけれど(「愛のむきだし」とまったく同じように、女性が男性に馬乗りになって本の一節を暗唱する場面もある。まあここでは田村隆一の詩作品だから「聖書」ほど長くはないけれども)、観ていて竹中直人氏の「笑いながら怒る」という芸のことを思い出したりしてしまった。アホらしくて笑ってしまうのだけれど、そのアホらしさの裏がわにあるものは重たい。ちょっとばかし、「城」だとか「言葉」をめぐる展開は観念的すぎる気もするのだけれども、それもまた園子温氏の持ち味ではあるのだろう。

 役者陣では、被害者を演じた冨樫真という女優さんに圧倒された。まったく知らない女優さんだったけれども、舞台では活躍されている方らしい。まさに堕ちた「ブラック・ダリア」の化身のような強烈な存在感で、彼女が画面のうしろに赤い服、赤い口紅であらわれたシーンでは、戦慄をすら感じてしまった。



 

[]二○一一年十一月のおさらい 二○一一年十一月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「基礎訓練」(1971) フレデリック・ワイズマン:監督
●「ストア」(1983) フレデリック・ワイズマン:監督
●「臨死」(1989) フレデリック・ワイズマン:監督
●「DV―ドメスティック・バイオレンス」(2001) フレデリック・ワイズマン:監督
●「鉄西区 1部:工場」(2003) ワン・ビン(王兵):監督
●「鳳鳴(フォンミン)―中国の記憶」(2007) ワン・ビン(王兵):監督
●「世界の現状」(2007) アピチャッポン・ウィーラセタクン/ヴィセンテ・フェラス/アイーシャ・アブラハム/ワン・ビン/ペドロ・コスタ/シャンタル・アケルマン:監督
●「石炭、金」(2009) ワン・ビン(王兵):監督
●「恋の罪」園子温:監督

読書:
●「マザーズ」金原ひとみ:著

DVD/ヴィデオ:
●「海の牙」(1949) ルネ・クレマン:監督
●「疑惑の渦巻」(1949) オットー・プレミンジャー:監督
●「街の野獣」(1950) ジュールス・ダッシン:監督
●「北京の55日」(1963) ニコラス・レイ:監督
●「ダントン」(1983) アンジェイ・ワイダ:監督
●「マディソン郡の橋」(1995) クリント・イーストウッド:監督
●「ザ・ロード」(2009) ジョン・ヒルコート:監督
●「終着駅 トルストイ最後の旅」(2009) マイケル・ホフマン:監督
●「プチ・ニコラ」(2009) ロラン・ティラール:監督
●「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」(2009) 佐々木芽生:監督
●「無法松の一生」(1943) 稲垣浩:監督
●「丹下左膳」(1953) 松田定次:監督
●「悪名」(1961) 田中徳三:監督
●「座頭市物語」(1962) 三隅研次:監督
●「続・座頭市物語」(1962) 森一生:監督
●「新・座頭市物語」(1963) 田中徳三:監督
●「座頭市兇状旅」(1963) 田中徳三:監督
●「座頭市喧嘩旅」(1963) 安田公義:監督
●「座頭市千両首」(1964) 池広一夫:監督
●「座頭市あばれ凧」(1964) 池広一夫:監督
●「座頭市血笑旅」(1964) 三隅研次:監督
●「座頭市関所破り」(1964) 安田公義:監督
●「座頭市二段斬り」(1965) 井上昭:監督
●「座頭市の歌が聞える」(1966) 田中徳三:監督
●「座頭市海を渡る」(1966) 池広一夫:監督
●「座頭市鉄火旅」(1967) 安田公義:監督
●「座頭市牢破り」(1967) 山本薩夫:監督
●「座頭市血煙り街道」(1967) 三隅研次:監督
●「座頭市果し状」(1968) 安田公義:監督
●「座頭市喧嘩太鼓」(1968) 三隅研次:監督
●「座頭市と用心棒」(1970) 岡本喜八:監督
●「座頭市あばれ火祭り」(1970) 三隅研次:監督
●「新座頭市・破れ!唐人剣」(1971) 安田公義:監督
●「新座頭市物語・笠間の血祭り」(1973) 安田公義:監督
●「座頭市」(1989) 勝新太郎:監督
●「ラヂオの時間」(1997) 三谷幸喜:原作・脚本・監督
●「鈍獣」(2010) 宮藤官九郎:脚本 細野ひで晃:監督
●「ゲゲゲの女房」(2010) 鈴木卓爾:監督
●「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(2010) 三浦大輔:監督
●「雷桜」(2010) 廣木隆一:監督
●「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(2010) 大森立嗣:監督

 こんげつはちょっと、この「おさらい」にもコメントを。

 まず、どうもこんげつはお金が残らないと思っていたのだけれども、いくらロードショー公開ではないといっても九本も映画を観ているのだから、それはサイフが軽くなるのもとうぜんである。自省。映画いがいの舞台や美術展、コンサートなどはゼロである。

 それから、十一月が終わってみればわずか一冊の本しか読了できていない。まああまりにヴィデオを観すぎた結果でもあるのだけれども、どうも「面白い」と思える本との出会いがない。十二月は仕切りなおそう。




 

 

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■ 2011-11-29(Tue)

 きょう11月29日は、世界でいちばんかしこくも気高いネコ、そしてニェネントのお母さんネコだったミイの一周忌である。なにか供養になることをやってあげようと、スーパーのペット食コーナーで焼き魚の切り身のパックや、ちょっといいキャットフードのパックを買ってきた。パイプ椅子を即席の仏壇にして、おいた皿に買ってきた供物をのせ、ろうそくや線香がなかったのでランプに火をつけて皿のうしろにおいた。追悼。ミイのことを思い出したらまた涙があふれてしまう。「何やってるの」と寄ってくるニェネントの顔をみると、なんだかミイに似てきたような気がした。ニェネントがお母さんのようなかしこさを見せないのはまだ幼いせいなのか、それともやっぱりバカなのか、わたしが甘やかして育ててしまったからなのか。

 ベランダにはやはりベンナがきていて、ネコメシをあげようとするとニャアニャアなく。それでもやはりベンナは野良なので、どこか精悍なところが見える気がする。ひるすぎにベンナがいるかと思ってベランダの窓を開けると、わたしのわきからニェネントがベランダに飛び出し、そのまま柵のあいだから駐車場にとび降りてしまった。やばい! 「ニェネント、そこにいるんだよ」と声をかけて玄関から駐車場へまわる。ニェネントは動かないでベランダの下にうずくまっていたけれど、わたしが近づくと逃げるようなしぐさをみせる。いちどはベランダにとび上がり、そちらへわたしが行くと、また逃げようとしてベランダからとび降りる。こんどはツツツーッとベランダの下にそって、となりの部屋の下の方へいく。さらにそこから先に行ってしまいそうな気配を見せて、わたしの気分はちょっとあせる。それでもわたしが近づくとニェネントはそこでゴロンと横になり、わたしに甘えるような姿勢になる。なんだ、遊んでいるつもりなんだ。ニェネントを抱き上げて、「楽しかったですか?」と声をかけながら、部屋に連れて帰った。わたしに抱かれているニェネントは首をしきりに上下に動かして、つまりはあたりのようすに興味しんしんなのである。やっぱりネコの散歩用のヒモを買って、ニェネントといっしょにこのあたりを散歩してみようかなどと思うのである。

 きょうはヴィデオで、「座頭市」シリーズのさいごの二本を観た。



  

[] 「新座頭市物語・笠間の血祭り」(1973) 安田公義:監督  「新座頭市物語・笠間の血祭り」(1973) 安田公義:監督を含むブックマーク

 きのう観た「破れ!唐人剣」からこの「笠間の血祭り」のあいだにもう二本あるのだけれども、これは録画できなかった。それでもって、この「笠間の血祭り」は「破れ!唐人剣」に引き続いて安田公義が監督した作品。とりあえずの「座頭市」シリーズは、この作品がラストになる。
 脚本は服部佳子という人で、この人と映画界とのかかわりはこの「笠間の血祭り」いがいは不明であるけれど、どうやらTVで「木枯し紋次郎」シリーズの脚本を書いたことはあるような。観ていると、どうもいかにも60年代末の映画/演劇の変動の時代を通過した脚本、という印象がある。風俗的にも岸部シローや横山リエたち、ヒッピーを思わせる集団が出て来たりもするし、いままでのいわゆる「悪事」をはたらく悪人、というだけではなく、金にものをいわせるあこぎな商売、悪条件の労働や労働力の搾取ということも「悪」として、座頭市の刃の標的になるのである。

 舞台は座頭市の故郷、笠間ということになり、映画の冒頭に「協力・笠間市」という文字も出る。またも土地のヤクザと悪代官を相手にあばれるのだけど、同じ笠間の出身の市の幼なじみ、江戸で成功した米問屋の新兵衛というのが帰郷していて、これが地元の農民らを抑圧搾取するあこぎな商いをくわだてているわけである。悪代官役は二度目の佐藤慶、ヤクザの親分はまたまた出て来た遠藤辰雄、米問屋の新兵衛を演じるのは岡田英次である。このほかに幼かった市をおぼえている陶工の作兵衛に志村喬が扮し、その娘おみよに十朱幸代という配役。

 勝新太郎の座頭市もさすがに堂にいったもので、そのセリフ回し、タンカの切り方、ふるまいなど、やはりひとまずこの最終作で完成された座頭市をみることができる、という感じである。あとはわたし的には横山リエの、蓮っ葉なすれっからしのようでどこかピュアなものを感じさせられる存在感がすてきで、横山リエは「新宿泥棒日記」とこの作品がベスト、なんじゃないかと思う。

 脚本も演出もヴァラエティ色をおさえたシリアスなもので、安田公義も絶好調である。わたしはここまでこのシリーズをみて、この安田公義という監督さんのことがいちばん印象に残ったことになる。この人の作品はもっと観てみたい気がする。あと、この作品は照明がとってもがんばっている。撮影とタッグを組んで、人工的ではあるけれどもハッとするような美しい画面を楽しませていただいた。照明は斉藤省三という人で、撮影は牧浦地志。

 とりあえずのシリーズのラストを飾るにふさわしい、「座頭市」らしい楽しめる作品だった。



 

[] 「座頭市」(1989) 勝新太郎:監督  「座頭市」(1989) 勝新太郎:監督を含むブックマーク

 わたしが観なかった「座頭市」シリーズの作品で、勝新太郎がじぶんで監督した作品もあったらしいけれど、とにかくはシリーズ終了から16年をおいてみずからが監督しての「座頭市」。配給は松竹である。しかしこのときには日本映画界もスタジオ・システムが崩壊してしまっていて、かつてのシリーズのときのような作品構築がむずかしくなっていたらしい。そこをバブル景気の勢いでむりやり乗り切った作品だと。製作も脚本も監督も勝新太郎がからみ、主演もする。つまりはワンマン映画であろう。

 かつてのシリーズでの印象に残る場面のいくつかが、ここで同じように再現されていて、なつかしさを感じさせるけれど、ひとつひとつの場面に思い入れが強すぎるのか、要領よくまとめるに至っていないといううらみはある。勝新太郎という人の破天荒(クレージー)な側面と、ロマンティスト、センチメンタリストとしての側面が強く前面に出ているという感じで、まさに「個人映画」という雰囲気ではあるけれど、そのクレージーな勝新太郎とロマンティスト勝新太郎とがとけ合わず、水と油のように分離してしまっているのではないだろうか。




 

 

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■ 2011-11-28(Mon)

 きょうはしごとは休み。映画を観にいこうという気もちもあったのだけれども、やはりやめることにした。きょうもうちで「座頭市」を観よう。

 あさ、ベランダのベンナにネコメシを出してあげる。あいかわらずわたしを警戒しているけれど、「シャーッ」という威嚇のこえは出さなくなり、ずっとニャアニャアないている。「おいで!」と手を出しても、ネコパンチ攻撃なし。
 ちょうどベンナがベランダで食事をしていたときに、上の階のふたりの子どもたちが通園のために降りてくる時間になったようで、子どもたちがベンナを発見して追っていく気配。ベンナは向かいのアパートの方へ逃げたらしい。残された子どもたち、おねえちゃんとその弟のようだけれども、駐車場で「ネコちゃん、ネコちゃん」と唄いながら手をふって、輪をかくように踊り始めた。窓のところからそっと、そんな子どもたちが踊るのを覗き見してしまった。かわいいのである。

 夕方になってベランダの窓に白い影がうつり、これはジュニアである。窓を開けて追い払う。また腰をもたつかせるような変な走り方で逃げていく。やっぱりジュニアが小鉄を追い出したのだろうか。

 ニュースで、大阪のダブル選挙の結果をしきりに報道している。右傾していると思われる民放局の報道も、どちらかというと勝者に批判的なニュアンスが感じられる。J党が敗北したのだから無理もないところだけど、報道をみていると、ヒットラーが台頭してきたときというのは、きっとこういう感じだったんじゃないだろうかというような気分になるし、新しい府知事の発言にはたしかにそういう恐怖をおぼえるところがある。いまの首相もけっきょくTPP参加、消費税増税というあぶない路線を選んでいるし、何もかも思いきり悪い方に振れようとしている気配である。

 「ひかりTV」と「WOWOW」の、十二月の番組表が送られてきている。WOWOWのステージもので、ケラリーノの「黴菌」、ポツドールの「おしまいのとき」が放映されるのがうれしいところ。とくにポツドールはじっさいに観に行きたくて果たせなかったし、こんなに早く放映されるとは思っていなかった。WOWOWはあとは「男はつらいよ」全作品放映とかで、これは興味なし。「ひかりTV」の方は「日本映画専門チャンネル」でマキノ雅弘の「次郎長三国志」全九作一挙放映というのがあるけれど、その日はわたしはお出かけするので、ヴィデオテープには録画予約で録画しきれない。ざんねんである。げんざい渋谷でやっている鈴木清順監督の特集上映で、「悪太郎」と「東京流れ者」がみたいなあと思っていたのが、「チャンネルNECO」で放映されるのがうれしい。「チャンネルNECO」はおおみそかの深夜、つまり元旦の早朝に「蛇にピアス」、そして「愛のむきだし」放映というスケジュールで、新年早々のプログラムとしては強烈である。あとは「ファミリー劇場」というノーチェックだったチャンネルで、黒沢清の「勝手にしやがれ!!」シリーズをずっと放映中なのに気がついた。もうはんぶんは放映が終わっているようである。ざんねんなことをした。

 トニ・モリソンの「ビラヴド」をずっと読んでいるのだけれども、じつはほとんど面白くない。もうやめちゃおうかなあというところである。このところ読書が不調。


  

[] 「座頭市あばれ火祭り」(1970) 三隅研次:監督  「座頭市あばれ火祭り」(1970) 三隅研次:監督を含むブックマーク

 脚本に勝新太郎の名まえもみえるけれど、ちょっとばかし話を大きくし過ぎた印象のシリーズ第21作。とにかくこんかいの悪役には、関八州のやくざ組織を束ねる「闇公方」っつうのが登場する。ラスボスである。これを森雅之が演じているが、このラスボスも盲目という設定で、灰色のコンタクトを使っての、光を反射する「邪眼」ぶりが不気味である(また撮影は宮川一夫)。

 どうもこの、「闇公方」とのガチンコ勝負だけで満腹になりそうなところに、これとぜんぜん関係なくうろちょろしている机竜之介みたいな浪人(仲代達矢)がいて、メインストーリーとは関係なく市を狙っている。さらに極道にあこがれるチンピラとしてピーター(池畑慎之介)は出てくる。「闇公方」の命で市を探ろうとしてぎゃくに市の人情味に(いつものパターンだが)ほだされてしまう女性が大原麗子で、このあたりの脚本はあまりに通り一遍である。

 三隅研次監督の演出が生かされるのは、こういうある意味ハリウッド的で大げさなドラマより、もっと小振りでノワールっぽい雰囲気の方であろう。ここでは三隅研次監督の演出もほとんど観るべきところもない。けっきょく仲代達矢のすっごい表情も生かされず、観客サーヴィスにあれもこれもと欲張ったことが裏目に出たざんねんな作品ではあった。あまりに不気味な森雅之の貫禄は楽しめたけれども。


 

[] 「新座頭市・破れ!唐人剣」(1971) 安田公義:監督  「新座頭市・破れ!唐人剣」(1971) 安田公義:監督を含むブックマーク

 っつうことで、名監督もすべってしまう勝プロダクションのサーヴィス精神。そういうときにはもう、エンターテインメントならまかしてくださいという職人監督、安田公義さんの演出の方が安心して観ていられる。こんかいは安田公義自身も脚本に参加して、「こうやって面白くしましょう」と、全面協力の姿勢である。シリーズもついに、海外からのゲストを呼んでしまった。わたしはこの人知らないけれど、ブルース・リー登場前の香港映画界でカンフー・ブームの基礎をつくった武術スター、だったそうである。ヒット作は「片腕ドラゴン」。この作品でもその香港映画のイメージを引き継いで、追っ手を逃れて日本に流れて来た片腕の武術家、ということで登場する。そういう、香港映画でのアクションの描き方と「座頭市」シリーズのアクションとでは、とうぜん演出手法がちがうだろうと予測できるし、じっさにその通りだろうと思うのだけれども、そこはさすがに安田公義監督、ちゃんと香港映画流のアクションを演出しているという印象がある。ストーリーもこういう企画モノだとしっちゃかめっちゃかになってしまいそうなところを、ちゃんとキチンと締めている。きっと香港でも公開されたのだろうけれど、両雄どちらにも華を持たせている(結末をすげかえたものが香港で公開されたという話もあるようだ)。

 あと、この作品でよかったのが浜木綿子という女優さん。じつはわたしは十代のころにTVでみたこの女優さんのことはあんまり好きではなかったんだけれども、ここでのちょっと熟れたような、酸いも甘いもかみわけたような存在感はすばらしいもので、またそれが座頭市との相性の良さを感じさせもする。シリーズここまでの女優さんではいちばん、なんじゃないかな。ヴァラエティとしてのコメディアンの使い方もさすが安田公義さんは上手で、ここでは「てんぷくトリオ」をほんとうにうまく使っている。すばらしいエンターテインメントぶり、でした。


 

 

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■ 2011-11-27(Sun)

 きのうはジュニアのすがたも小鉄のすがたも見かけなかった。ベンナがベランダに来ていただけ。あいかわらずベンナは窓を開けたわたしのすがたをみると「シャーッ」と、威嚇してくるけれど、それでもネコメシ(キャットフード)はもりもりと食べる。いまはニェネントと二匹のネコを扶養しているかたちなので、ネコメシがどんどんなくなる。スーパーに買いに行く。買ったネコメシのパッケージをよくみると、デザインはいままでのと同じなのだけれども、大きく「静岡工場産」という文字が付け加えられていた。

 ゆうがた、ニェネントが窓の外に気をひかれているようなのでベランダをみると、白いネコがベランダのネコメシをまさに食べようとしているところだった。ジュニアである。おとといの小鉄との一戦で敗退してなわばりを小鉄に明け渡していることを期待していたんだけれど、そうはならなかったようである。ぎゃくに小鉄が負けちゃったのだろうか。

 きょうは県内の某スポットで行われるアート系のイヴェントに出かけようかと思っていたのだけれども、週末の余裕がほんとうになくなってしまうので、やめた。あしたも出かけるのはやめようか。ビンボーな年末である。

 きのう観た現代アートのコレクター、ヴォーゲル夫妻を描いたドキュメンタリー「ハーブ&ドロシー」のことを、また考える。しばらくワイズマンのある意味でニュートラルな立ち位置の作品を観てきたので、かんぜんに夫妻を賛美する演出姿勢にちょっとばかし違和感を感じていた。でもそのコレクターとしての姿勢を非難するのはむずかしい。現代美術というジャンルの底辺でしょうらいの作家としての自立をめざす若いアーティストたちに、「作品を買ってもらえる」という、作家としての第一歩をあたえる。投機目的の作品購入ではなく、審美的な観点からのみコレクションしていく。ある意味理想的なコレクター、なのかもしれない。しかし、ドキュメンタリーのなかで語られたように、彼らに突出した審美眼があったのだろうかというと、これはちょっとよくわからない。すぐれた「眼」を持っていることはたしかだろうけれど、こればかりは「ハーブ&ドロシー」を観ただけでは判断できるものではない。つまり、夫妻が買った作品だけでなく、買わなかった作品もまたみせてもらうようなことがなければ判断はつかない。夫妻が買いつづけても作家として埋もれたままという作家も多いだろう。そういうことを考えはじめると、批評行為によってアーティストが認知される、または認知されないということも、考えなくてはならない。

 ドキュメンタリー作品としての「ハーブ&ドロシー」は、現代美術をとりまく状況が「健全」なものである、という前提から撮られていると思う。そのなかで夫妻のコレクター道は賛美されるけれど、ほんとうにそれでいいんだろうか、というのは作品からはわからないのである。

 きょうもまたヴィデオを三本観た。

  

[] 「座頭市喧嘩太鼓」(1968) 三隅研次:監督  「座頭市喧嘩太鼓」(1968) 三隅研次:監督を含むブックマーク

 せっかくの三隅研次監督の登板だけれども、またもや脚本がひどい。これでは三隅監督も手の施しようがなかっただろう。どちらかというとヴァラエティ色を強くしてめちゃな展開を乗り切ろうとしている感じがする。

 市が行きがかりで斬ってしまった男の姉とか妹に出会い、さいしょは市をかたきとうらんでいたその女性が市を許し、親愛の情を抱くようになるというのは、これまでも何度もあったストーリーで、市が女性からもらったかんざしに情を託すというのもおなじみの展開。ところが本作ではそのかたちをなぞるだけで、まるで情が動くさまが描かれない。致命的であろう。

 三隅研次監督の演出は前半でその冴えを堪能できる。いままでも思って来たけれど、その「音」の演出、映像とのからめ方が卓越している。間合いの無音の部分が緊張感を増す。ラストの佐藤允との対決もいいけれど、ちょっとコミカルな役柄の藤岡琢也がいちばんもうけものの役だったような。若いころの三田佳子って、栗山千明に似てるんじゃないかと思った。


 

[] 「座頭市と用心棒」(1970) 岡本喜八:監督  「座頭市と用心棒」(1970) 岡本喜八:監督を含むブックマーク

 ここからはすべて「勝プロダクション」の製作になるらしい。それでもって監督に岡本喜八(脚本にも参加)を起用し、カメラは宮川一夫である。なんと三船敏郎を呼び出して「用心棒」を演じさせる。これも「こんなところに!」という若尾文子が華を添え、滝沢修が老練の味をみせる。米倉斉加年、岸田森、神山繁、細川俊之、嵐寛寿郎、寺田農、そして常田富士男と、キョーレツな布陣がわきをかためる。しかも、それぞれの見せ場がちゃあんと観客を堪能させてくれる(もうちょっと若尾文子に、という感想はあるが)。

 脚本はもちろん、勝新太郎にはそれまでの「座頭市」のイメージからのあて書きで、三船敏郎には「用心棒」のイメージでのあて書き。ある意味で映画「座頭市」と映画「用心棒」のパロディであり、「ばけもの」Vs.「けだもの」というモンスター映画。それでも冒頭の嵐のなかを駈ける男たちや、男たちがマッスになってぶっつかりあう乱闘シーンとかに、岡本喜八タッチも楽しめるわけである。面白かった。ラストの、風に吹き飛ぶ砂金って、ジョン・ヒューストンの「黄金」だな。


 

[] 「雷桜」(2010) 廣木隆一:監督  「雷桜」(2010) 廣木隆一:監督を含むブックマーク

 えっと、なんでこんな作品をわざわざ観てしまったかというと、廣木隆一が監督していたからという理由だけからのこと。ご他聞にもれず、「ヴァイブレータ」あたりの演出がお気に入りだった。ほかにも何本か彼の作品は観ているけれど、「M」を観たいと思っていてそのままになってしまったあたりからは、まるで観ていない。そのごの彼のフィルモグラフィーをみると、「余命一ヶ月の花嫁」なんつうのも撮ってるんですね。はたしてこの時代劇、どないやねんという興味である。

 ‥‥むかしむかし、ある王国に陰うつな王子がおりました。あるとき、王子はひとりでふらりと馬に乗って森に出かけ、そこで道に迷ってしまいます。そこで王子は、白馬に乗る野性のまま育ったような女性と出会うのでありました‥‥、てな感じの、ドイツの民話だか童話だかメルヒェンみたいなお話が、舞台を江戸時代の日本に移して展開する。桜の花がもっと象徴的に描かれていれば、これはドイツ・ロマン派のメルヒェンであろう。これだけのベタなメルヒェン指向ならば、ミュージカルにでもすればよかったかもしれない。「オペレッタ狸御殿」とか。しかしどうも演出がこう、そういうメルヒェンにリアリティを与えようと腐心して、それでも空転している印象がある。

 この作品の導入部から考えれば、どこかで主人公たちは「ここではないどこか」、夢の彼方の世界を垣間みて、それを希求しなければならないだろう。いちおうそれはラストシーンでちゃんと用意されているわけで、演出としてこれをラストにもってくる意図はわかるけれど、なんだか本編でのどたばたした物語の経緯がすっきりしない。リアリスティックなものとファンタジックなものとのそしゃく、結合がきわめてよろしくないという印象になる。実写映像とはどうあっても「リアルさ」をよそおうものである。ほんらいが「絵空事」の物語、このような実写映画化の試みじたいが無謀だったのではないかと思う次第である。



 

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■ 2011-11-26(Sat)

 きのうのはなし。わたしは気がかりな夢をみて昼寝から目覚め、夕食でも食べようかと準備していたのだけれども、そのときに窓の外でネコの声がした。と同時にバタバタッという物音がして、またネコの声がきこえた。どうねらネコは一匹ではないようで、これはネコどうしが争っているんだという予想がつく。薄暗くなっている窓の外をのぞくと、道路とマンション敷地との境い目で二匹のネコが取っ組み合ったままひとつのかたまりになっているのがみえた。一方は白いネコで、これはジュニアである。もう一方がひょっとしたらベンナなのかと思ったけれど、グレーの背なかがみえて、これはせんじつ裏の家の庭にいたグレーと白の斑ネコだとわかった。お互いにかみついて離さないでいるのか、道路のきわで二匹がかたまっちゃっているようにみえる。これはぜったいに、色ごとではない。面白そうなので見に行くことにした。靴をはいて玄関からまわってみるとちょっと場所をずらしてはいるけれど、さっきとまるで同じ体勢で取っ組み合ったままである。近づこうとするとうしろから車がやってきてライトで照らされた。なんか、ネコのケンカなどを見物してるところを見られるのも気まずいので、家の方にちょっと引き返す。二匹のネコはその車の進路のまえで両すくみ状態で、車が近づいてもまるで動こうとしない。車を運転している人も、ネコが進路をよけるのを待って車をとめてしまう。いちおう、じぶんたちが車の邪魔になっているという意識でもあったのだろうか、ネコはそこでまたお互いをけんせいするように、つかずはなれずに道のわきにころがるように移動する。もう車はネコをよけて行けるのだけれども、運転する人もしばらく停車したままでネコのケンカを見物している。わたしもそのうしろからずっと見ている。

 しばらくして車は発進して行ってしまい、それでわたしはネコのいたあたりに足を向けてみた。ちょっとのスキにネコは二匹ともどこかへいなくなってしまっていた。まだネコの声がきこえるような気がしたけれども、それがどこからきこえてくるのかわからない。気のせいだったのかもしれない。もうちょっと続きを見たかったけれど、姿が見えないからしょうがないので部屋に戻った。

 しっかし、なかなか強烈なケンカだった。ほとんど互角の勝負だったんじゃないだろうか。わたしとしてはジュニアに肩入れする気はもうとうないので(人間から逃げるときの腰のうごきがなさけないのだ)、どちらかというと新参もののグレーと白の斑ネコが勝って、ジュニアを追い出してくれるといい、ぐらいに思っている。あの斑ネコにも命名してやらなくちゃいけないな、などと思ったりして、そりゃあジュニアと闘うんだから「小鉄」しかない、ということになる(「じゃりン子チエ」参照)。眉間にキズはないようだけれども、「小鉄」の名はあのネコにピッタリだと思った。これからはもう、あの斑ネコはわたしのなかでは「小鉄」である。また、次の世代のネコたちの時代がやって来たのだろうか。

 それできょう。しごとから帰って、TVで「カーネーション」の一週間分をまとめて観る。せんしゅうはまた観るのを忘れてしまって、このところ隔週での鑑賞。父は「呉服店」の看板をおろし、「洋裁店」の看板を糸子にあたえるのである。たいしたロマンスもないままに糸子は結婚する。このあたり、「ゲゲゲの女房」も「おひさま」も、結婚までに熱烈な感情はないままであった。時代背景というのもあるんだろうけれど、あさっぱらからあんまり観る人を熱くさせちゃいけないという配慮でもあるんだろうか。主人公の尾野真千子はもちろんいいんだけれど、ツンデレな料亭の女将(どうやらせんしゅう結婚してしまったようである)、栗山千明の「ふんっ!」という気取りが楽しい。それから、さいきんようやくセリフつきになってきた糸子の妹(次女)の静子が、むかしの子役スター、アンジェラ・カートライトのようでかわいい。

 午後からは、ヴィデオをたくさん観てしまった。



  

[] 「座頭市牢破り」(1967) 山本薩夫:監督  「座頭市牢破り」(1967) 山本薩夫:監督を含むブックマーク

 冒頭にも大きな文字で示されるけれど、「勝プロダクション」の第一回作品とのこと。なんと監督は山本薩夫で、脚本には中島丈博の名まえも見られる。撮影はまた宮川一夫。

 ‥‥前半と後半でまっぷたつになった作品というか、あの前半部がどうして後半でここまで様変わりしてしまうのか、ちょっとわけがわかんない。山本薩夫監督の作品はいぜん「箱根風雲録」というのを観ているけれど、なるほど、似ているなあというか、ほとんど同じじゃん!という感想にもなる。農民の解放を求めるサヨクチックな視点と、悪役のサディスティックな残虐行為の描写、などなど。そういうサヨクチックな展開から座頭市が農民解放のヒーローみたいになっちゃって、農民たちに戸板に乗せられてまさに担ぎ上げられたり、あげくは農民たちおおぜいに手を振って見送られるラスト。そんな「座頭市」は観たくない、という代表格の作品。まあ自身のプロダクションの第一回作品なんだから、もっと徹底したヒーロー像にしてみようと思ったんだろうなあ。結末はある意味暴力革命容認みたいなもので、さすが1967年の作品である。いいけれど。

 おなじみの「座頭市の歌」がフィーチャーされていた。


 

[] 「座頭市血煙り街道」(1967) 三隅研次:監督  「座頭市血煙り街道」(1967) 三隅研次:監督を含むブックマーク

 「座頭市牢破り」のちょっとヘンな座頭市から、やはりここは三隅研次のクールな演出での座頭市へ回帰。脚本はまた笠原良三なんだけれども、こんかいはそのヴァラエティ指向がちょっと三隅研次監督とソリが合わないところがあるというか、前半のそのヴァラエティ指向と後半のシリアスな展開とがまるで別モノ。二作つづけて、前半と後半でまっぷたつという作品になってしまった。ただし、後半の素晴らしさに関してはもう、何の文句もない。ここでも、すべてがきりりと引き締まったすばらしい演出ぶりが堪能できることになる。特に、クライマックスの雪のなかでの近衛十四郎との対決、これはもう、ありとあらゆる時代劇映画のなかでも屈指の決闘シーンといえるんじゃないだろうか。これは近衛十四郎という役者さんの殺陣の、その重厚な名人芸に負うところも大きいと思うけれど(とにかく、観ていて引き込まれてしまうのである)、もちろんそれを引き出して映像におさめる演出がまた見事、ということになる。後半だけならばこの作品がベスト、といいたくなるのだが。


 

[] 「座頭市果し状」(1968) 安田公義:監督  「座頭市果し状」(1968) 安田公義:監督を含むブックマーク

 さてこんどは、エンターテインメント作品の演出として適役の安田公義監督による、シリーズ第18作。脚本は直居欽哉というひとで、撮影にまたまた宮川一夫。こんかいは志村喬が村の医者役で出演している。ほかにバタ臭い顔つきの待田京介、憎まれ口を叩かせたら天下一品の小松方正などが出演し、女優陣では野川由美子が彼女らしいキャラクターで登場する。まあ三隅研次演出の作品のあとではどうってこともないという、かわいそうな印象になるけれど、とにかく楽しめるエンターテインメント作品としては、ちゃんと水準を維持していると思う。こんかいはついに、座頭市もひん死の重傷を負うのである。

 印象に残るのはやはり宮川一夫の撮影で、このシリーズではいつも暮れかかった薄暮時の撮影が美しいんだけれども、それと川岸などの水辺とを組み合わせた美しさ、空のどんよりとした暗さ、たいまつの赤い炎と青い風景とのコントラストなど、そりゃあ美しいとしかいいようがない。


 

[] 「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」(2009) 佐々木芽生:監督  「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」(2009)  佐々木芽生:監督を含むブックマーク

 監督は日本人だけれども、れっきとしたアメリカ製作の作品。著名なヴォーゲル・コレクションの当事者夫妻の、その意外なコレクター道を追ったドキュメンタリー。まあふつうは現代美術のコレクションをするひとたちというのはつまりは、せんじつまで六本木の新国立美術館で展示のあったフィリップス・コレクションのダンカン・フィリップスのように、大富豪であったりするだろうというのが一般の通念なのだけれども、このヴォーゲル夫妻、夫婦共稼ぎで1LDKのアパート住まい、生活費は妻のドロシーさんの稼ぎをあてて、夫のハーバートさんの郵便局勤めの稼ぎをぜんぶ、これをアートのコレクションにあてるというもの。しかもたんじゅんに画廊へ行って画廊経由で作品を買うのではなく、まずは興味を持った作家にちょくせつコンタクトをとり、そのアトリエを訪れてから気に入った作品を買う、というもの。アトリエでは作家にできるだけ多くの作品を見せてもらい、気に入れば作家が反古にしようとしたものでも、別の作品のための下書き資料のようなものでも売ってもらう。購入の基準は自分たちの収入で買える価格であることと、彼らの住むアパートに持ち込めること、これだけである。当初は自分たちもアーティストをめざしていた夫妻が最初に買った他人の作品は、ソル・ルウィットの作品だったと。1960年だか、61年のことだったらしい。これが71年とかになると、クリストとジャンヌ=クロードは夫妻から電話をもらって、「あのヴォーゲル夫妻からついにコンタクトがあった!」と、喜ぶようなことになっている。コレクションは30年も40年も続けられると膨大な量になり、アパートに納めきれなくなる。学芸員のコンタクトで、四千点を越えるヴォーゲル・コレクションはナショナル・ギャラリーに依託されることになる。もちろん夫妻はその礼金を元手にまたコレクションをはじめるのだが。

 まあ、熱してしまったコレクターというのはこういうものであることは想像は出来る。それはわたしなどでもわかる範囲で考えれば、たとえばレコードのコレクターのことを考えればそのまま納得はいく。コレクターのあり方のティピカルなサンプルではあるだろうけれど、特異なのはつまり、アートの分野でこういうコレクターはそれまで(これからも)存在しなかったということだろうか。でも、なんねんかまえの「美術手帖」に、日本でのアートのコレクターを特集した号があった記憶しているけれど、そこでもこういうヴォーゲル夫妻のようなコレクターがほかに存在していることが紹介されていたと思う。たとえば数年前に開かれた「ネオテニー展」で紹介された、高橋コレクションの例などもある。もちろん、ヴォーゲル夫妻のようにつつましい生活をおくりながらのコレクションというのはちょっと壮絶なものでもあるけれど、「スキモノ」というのは得てしてこういうものである。このドキュメンタリーのなかで、夫妻が「ニューヨークという都会に住んでいるからこそ出来たこと」と語っていたことに、考え込んでしまった。




 

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■ 2011-11-25(Fri)

 しごとから帰って、ベランダをみるとベンナが来ている。またキャットフードを用意して窓をあけ、ベンナに「おいで、おいで」とやる。もうベンナとの距離は50センチぐらいまでちぢまっている。またベンナが「シャーッ!」とわたしを威嚇する。かまわずに「おいでよ」と手を伸ばすと、強烈なネコパンチをくらった。
 ニェネントもわたしが遊んで(いぢめて)いるとネコパンチをくり出して来ることはあるけれど、ニェネントは(たぶん)わたしのことを(とっても)尊敬しているので、パンチにも爪をむきださないのだろう。パンチをくらってもちっとも痛くはない。仮に爪をむきだしていても、ニェネントはふだんから爪をよくといでいるのであんまり痛くないのである。ところがベンナはわたしのことを敵だと思っている(らしい)ので、思いきり爪を出してパンチしてくる。右手の人さし指に爪がくいこみ、出血騒ぎになった。いてえんだよ。いったい誰がまいにちまいにち食べるものを提供してやっているのか、ベンナはちっとも理解していない。バカなネコというのも困ったものである。でも、そういう野生的なところが魅力なんだよな、などとも思ってしまうのである。早くわたしが庇護者であることをわかっていただきたいものであるが。

 給料が振り込まれたけれど、予想していたのよりちょっと少ない。そもそもの出勤日がふだんよりいちにち少なかったし、そのうえにいちにち欠勤したからである。もうちょっとあると思っていたのに、計算が狂った。らいしゅうはFさんと映画を観に行ってそれでどうせ帰りに飲むし、そのつぎの日曜にはGさんHさんとの飲み会の予定もある。もういちど月のはじめに収入があるのだけれども、それは飲み会のよくじつの月曜日になるのであった。わたしはこれも飲み会のまえに振り込まれるものと勘ちがいしていた。つまり、ピンチである。月末までに家賃、水道代、そして電話料金プラス「ひかりTV」視聴料が支払われると、いくらも残らない(つまり、そのくらいの給料なのである)。その残りから映画を観て予想される二回の飲み会の支出を引くと、もう残りの数字は四ケタになるだろう。しかも、あさっての日曜日にはちょっとしたイヴェントを観に行こうかとも計画していたし、そのよくじつの月曜には鈴木清順の「悲愁物語」を観に行きたいと思っていたところである。まあ月はじめの振り込みがあればあとは楽になるし、そのあとにはわずかながらでも年末のボーナスも支給される。あと一週間ちょっとの辛抱なんだけれども、ヤバい。そういうわけで、きょうもワイズマンを観に行く予定にはしていたのだけれども、しかもいちばん観たいと思っていた「チチカット・フォーリーズ」の上映なんだけれども、ワイズマンのレトロスペクティヴはまたらいねんも場所を変えてやるようだし、それをアテにして、きょうは行くのをやめることにした。

 行かないと決めると、なんだかきのうまでの疲れが残っていたのか、ぐったりとしてしまった。ベッドに寝ころんで本を読み、とうぜんそのまま昼寝モードになってしまう。山口百恵そっくりな女の子とセックスする夢をみて目が覚めた。なんやねん。起き出して、きのうの残りのおかずと保温してあったごはんで夕食をとり、ヴィデオを一本観てからまた寝た。



  

[] 「丹下左膳」(1953) 松田定次:監督  「丹下左膳」(1953) 松田定次:監督を含むブックマーク

 「座頭市」のシリーズにもひでえ脚本のものがあったけれど、こりゃあひでえ。大風呂敷を拡げすぎて四つどもえ、五つどもえにもなる壷の争奪戦になり、誰がなんやらまるで収拾がついていない。登場人物はみんなその場その場の気まぐれで行動するばかりで、無責任このうえない。演出もわけわからんというか、役者たちは勝手気ままに好きに演技してるだけに見えるし、ほとんどシュールともいえる場面のつなぎにびっくりする。カメラはなんどもなんども人物ににゅーっとズームに寄って行ってきもちわるいし、編集の労を節約したようないいかげんなカメラの動きでのワンカットが頻出する。ただただあきれて観ていたけれども、ただ、これが時代劇初出演だったという淡島千景だけ、やはり魅力的なのであった。大立ち回りのなかを左膳の刀をもって駆け抜けるショットがすばらしいのであった。

 ところで、名作である山中貞夫監督版の「丹下左膳」でのセリフ、「星の降る夜にまた逢おう」というのがここでも出てくるけれど、これは林不忘の原作にあるセリフなのだろうか。




 

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■ 2011-11-24(Thu)

 きょうはあさにはしごとに出たけれども、あしたはまた休みである。つづけて観たワイズマンの作品がどれも面白いので、きょうもまたワイズマンを観に行こうと予定をたてる。開映時間がゆっくりなので、昼食をとってから出かける。「小春日和」というほどでもないけれども、晴天で気もちがいい。久しぶりに、となり駅まで延々と歩いてみる。木々の葉は色づいていたりもう散りはじめていたり、もうすぐすっかり冬である。あちこちに朱色の柿の実がその黒っぽい幹にいっぱいぶら下がっているのが見え、風景のアクセントになっている。

 電車が来るまで駅前の古本チェーン店の棚をみてまわり、叩き売りコーナーに古い新潮社の赤い箱の日本文学全集が並んでいるなかから、名作集の明治篇というのを選んで買った。齋藤緑雨、川上眉山、小栗風葉、眞山青果、そして田村俊子など、あんまり手軽には読めない作家の短編がいっぱいつまっていて楽しそう。あと、いぜんからこの店の棚で売れ残っている神谷美恵子の「生きがいについて」が気になって、手にとってみた。わたしはタイトルから「こういう生きがいを持ちましょう」というような、よくあるタイプの本なのかと思っていたところもあるんだけれども、考えてみたら神谷美恵子さんがそういう本を書きそうでもなく、内容をみたらつまりは「生きがい」を持つということはどういうことなのか、という本だったわけで、本につけられた価格も美本なのにかわいそうに最低価格なので、これも買ってしまった。また自宅本が増えてしまった。

 やって来たローカル線の電車に乗り、ターミナル駅で乗り換え、電車のなかで眠って渋谷到着。駅のそばでタバコを一服して、もう青信号が点滅しはじめた横断歩道を急いで渡る。わたしのまえを、紺色の丸い帽子をかぶった幼稚園児らしい三人組が走って行った。男の子がひとりと女の子がふたり。男の子がまんなかで、右側の女の子と手をつないで走って行く。パタパタパタと走る音がきこえる。何かが光っていた。左側の女の子の、ズルリとしたタータンチェック柄のスカートが、わたしの時間を止めた。この光景をおぼえておこうと思った。

 映画館へ行くとちゅうチケットショップに寄って、らいしゅう観に行く予定の園子温監督の「恋の罪」の前売りチケットを探したけれど、これがもう売り切れになっていた。あららと思って、別のチケットショップのまえに行ってみる。ウィンドウに貼られたいろんな映画のチケットをみていると、「風にそよぐ草」のタイトルが目にはいった。え?っと驚く。そのチケットにはまぎれもなくサビール・アゼマの顔があって、やっぱりアラン・レネのあの「風にそよぐ草」なのである。わたしはこの作品はきょねんのアラン・レネのレトロスペクティヴで観たのだけれども、わたしのなかではこの十年、いや、この二十年でいちばんすばらしい、おどろきの作品だった。「もういちど観たいものだ」と思っていた夢がかなったようだ。「ぜったいに行こう」とこころに決める。

 映画館で入場整理券をもらい、まだじかんがあるので、近くのデパートの上にある「ジュンク堂書店」に行ってみる。渋谷にこの店が出来てからはじめて訪れることになる。エレヴェーターで書店のある階で降りると、目の前にすぐに日本の幻想文学だとか、セリーヌの全集などが並んでいる。あたまがクラクラする。
 ここの店鋪はつまりは同じあちらこちらの「ジュンク堂」のように、高いこげ茶色の本棚がずらりと並んだ、大きな図書館のようなレイアウトなんだけれども、ここの店はワンフロアにすべての書物が凝縮されているというか、店のなかを歩いているとありとあらゆるジャンルの本のあいだを歩いているという感覚が強く、ほかの大型書店ではなかなか味わえない感覚におちいることになる。ふだんは決して通り抜けないような、法律関係だとか理化学関係の本が並んだ本棚のあいだを歩いて行くというのが、なんだかわたしが迷子になってしまったような不思議な感覚を産む。
 ただ歩いていただけであっという間にじかんがすぎてしまい、あわてて映画館にもどる。きょうは、デパートの舞台裏にせまった「ストア」という作品を観る。

 きょうはとちゅう眠ることもなく無事に終映。まだ六時半で、あしたは早起きのひつようもないので、「G」へ足を伸ばしてちょっと飲んで帰ろうと。
 映画館から神泉の駅まで歩いたら、駅の近くでつづいて二匹の野良ネコに出会った。どちらも黒白のブチ。人間のことは平気らしく、ちかよってもすぐには逃げようとしない。そうか、こういうネコなら飼いネコに出来るけれど、人間を警戒するベンナのような野良ネコはむずかしいんだよな、などと思う。

 電車で二駅乗って、もう暗くなった商店街を歩いて「G」へ。思いがけずカウンターがほぼ満席で、顔なじみのEさんのとなりだけ空いていたところに割り込ませてもらう。きょうはめずらしくEさんとあれこれと話をして、Eさんお気に入りのBob Dylan のアルバム「Dylan」を聴いた。ちゃんと聴くのははじめてで、女性コーラスが入っているのにびっくり。Joni Mitchell の「Big Yellow Taxi」なんか唄っているのにまたびっくり。

 ちょっと早めに店を出て、十時半ごろに帰宅した。 



  

[] 「ストア」(1983) フレデリック・ワイズマン:監督  「ストア」(1983) フレデリック・ワイズマン:監督を含むブックマーク

 ダラスにある、ニーマン=マーカス百貨店という老舗、日本でいえば日本橋のあそこだろうかというような高級百貨店の、クリスマス商戦の舞台うらを記録した作品。例によってダラスの街の遠景から、カットの積み重ねでそのデパートに入って行く。ちょっと店内の様子をざっと撮影し、デパートのスタッフのミーティングの場にカメラは入って行く。「わたしたちデパートの人間の役割は、デパートでものを『売ること』だ。医者が病院で患者を治療するように、自動車整備工が自動車を整備するように、わたしたちはものを売る。医者が患者とただ世間話をしていただけでは医者の役割を果たせないように、わたしたちは顧客にものを売ってこそ、その役割を果たせるのだ」という、これは檄なんでしょうかね、店長なんでしょうか、そういう人物がそういう訓示をたれる。次にカメラはどこかのフロアでの(おそらくは開店前の)ミーティングに移行し、チーフらしい女性が「わたしたちに大切なのは、笑顔と指の運動です」みたいなことをいう。その笑顔が客のこころをキャッチし、指先はレジスターの数字キーを打つというわけ。それで、指を動かし笑顔をつくるという体操を全員でおこなう。「ラプソディー・イン・ブルー」などを編曲した(まったく体操とはミスマッチな)BGM付きである。

 これであとは、店員たちの接客のさまがいろいろ、あれこれと映し出されることになる。高級百貨店なのだから、日用雑貨を売っているところなんか出てこない。四万五千ドルの黒貂のコートを客に勧めているところや、何十万ドルという宝石貴金属を扱っている店員の姿、高級オートクチュール売場でのミニ・ファッションショーなどの様子が紹介される。なんどもミーティングのさまもカメラに収められ、各店員はじぶんの顧客リストから良客ベストスリーを選び、それぞれに電話で来店を即するように求められたりする。店鋪の舞台うらも紹介され、宝石貴金属を加工するひとたち、縫製するひとたちの姿が撮影される。百貨店のなかをカメラが移動し、エレヴェーターの開閉するドアや、上から俯瞰したエスカレーターに乗る客の姿がところどころインサートされる。クリスマスということもあって、店内のあちこちで突発的にミニライヴがおこなわれ、クリスマスソングが演奏されたり唄われたりしている。ふつうの客にしか見えない男がフロアで立ち止まり、とつぜん唄い出したりするのは面白かった。道化のメイクをした男がエスカレーターに乗っていたり、アメリカのデパートもアミューズメントパーク化をめざしているというか。ラストにこの百貨店の創立75周年の壮大なディナー・パーティーの様子が映され、百貨店代表のスピーチ風「マイ・ウエイ」の熱唱(?)。

 あれ?と思うのは、さいしょにあれだけ「売るのが使命」といっていたのに、実は商談が成立してものが売れるというシーンは一度たりと出てこないことで、このあたりはワイズマンもかなり意識的に撮って編集しているようである。結果として商品が売れるとかそういうことではなく、高級商品を売ろうとする努力のなかで、売ろうとする店員がどのようにスペシャリスト然とした存在にみえるのか、またはそうみえないのか、そういうポイントを執拗に追求しているようにもみえる。挿入される店員たちの会話で示されるように、彼ら、彼女らこの百貨店の店員には、「わたしはニーマン=マーカス百貨店のメンバーなのだ」という誇りがあるのだろう。リッチな顧客と対等に張り合い、商品を勧めることのできる「とくべつな存在」である百貨店店員、そのすがたをどこまでも記録しようとした作品なのか。

 ただ、わたしもそれなりに大きな店鋪(まちがっても「高級」ではなかったけれども、何十万という価格の商品は並べられていた)での販売や裏方の経験はあるので、どちらかというと「似たようなものだなあ」という「既視感」がさきに立ってしまったことは否めないところであり、また逆に、婦人服などの販売のことは観ていてもよくわからないところがある。

 これまで観た「基礎訓練」や「DV」、そして「臨死」のような、まさに非日常を題材としたような作品とくらべ、日常の延長に埋没するように日々繰り返される、とくべつにユニークともいえないような行為の記録だけれども、そこで何万ドルもの価格のついた、わたしなどからすれば想像も出来ない(一生縁がない)商品を売るというのは、どこかやはり「非日常」の香りがただよう。社員のミーティングで、社内で納品された「クリスタルのシャンデリア」が行方不明になっているなどということがいわれるけれど、そんなとてつもないものが行方不明になってしまう空間というのは、やはり特殊な空間であるだろう。ラストのパーティーでの舞台裏のコックや給仕たちの喧噪が、ここはその百貨店ではないという意味で、妙にリアルにみえてしまう。資本主義経済の一般顧客相手の商業活動の、その最上位あたりに位置するであろう高級百貨店での労働、それがいかに「ふつうの労働」であり、また、「特殊な労働」であるのか、というあたりを、わたしなりに思わせられる作品ではあった。



 

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■ 2011-11-23(Wed)

 きょうは勤労感謝の日で、わたしもふだんの勤労をひとり癒す。だれもわたしの勤労を感謝してくれるわけでもない。

 ベランダにやはりベンナがいて、キャットフードをあげようと窓を開けると、もちろんそれまでいた作業台から飛び下りるのだけれども、もうそれは逃げるためではなくて、キャットフードを食べる体勢になっている。わたしとの距離はまた縮まって、もう手を伸ばせばベンナにさわれそうな近くで待機している。「おいで、おいで」と手招きすると、きょうは「シャーッ!」と、威嚇された。なんだよ、これではタチの悪いごろつきの恐喝ではないか。「早くエサを置いて、おまえはとっとと失せやがれ!」という感じである。

 ニェネントの月の誕生日をすっかり忘れていたけれども、もう一歳と五ヶ月になる。きょうみていたらベッドの上にあがって毛布にすがりついて、その毛布にかじりつくようにしてまえ足を交互に動かしている。のどをゴロゴロならしている。これは、「おしゃぶり」ですね。きっと毛布の肌ざわりが母ネコを思い出させるんだろう。その母ネコのミイの一周忌も近づいてきた。なにか供養してあげたい。

 ひるからBSでヴィクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」が放映されていて、録画しながらところどころ観ていた。冒頭の音楽が聴こえてくるだけでジーンとなってしまう。なんども観た映画だけれども、「こんなシーンがあったんだ」と思ったりする。そのうちにゆっくりと観よう。あしたは「エル・スール」が放映される。
 ヴィクトル・エリセについてほとんど何も知らないので、図書館に借りていた本やCDを返すついでに、ヴィクトル・エリセについての本を借りてきた。あと、せんじつ読んだ阿部和重の女性作家との対談本「和子の部屋」での綿矢りさというキャラクターが興味深かったので、「文藝」のバックナンバー、綿矢りさ特集号を借りてみた。このひとには「わたしは作家だから」というような、てらいだとか自意識とかいうものから、面白いほど解放されている。とってもいい意味で「ふつう」なのである。

 きょうはまた「座頭市」シリーズを二本観た。



  

[] 「座頭市海を渡る」(1966) 池広一夫:監督  「座頭市海を渡る」(1966) 池広一夫:監督を含むブックマーク

 とつぜん、座頭市は四国に行く。いままで心ならずも斬ってしまったひとびとへの贖罪のため、札所めぐりをしようというらしい。これまでいちど鰍沢が舞台になったことはあるけれど、基本的にいつも北関東周辺が舞台だったのが、なんとも唐突である。もっちろん、ここでも市は悪いヤツに出くわしてしまう。なんと脚本が新藤兼人なのだけど、池広一夫演出は強烈な西部劇タッチ。悪役に山形勳が登場し、こんかいは馬喰の親分ということで馬がふんだんに登場するし、山形勳の武器は弓である。しかしこういう山形勳、どうみてもアンソニー・クインである。そうすると勝新太郎はカーク・ダグラスで、これは「ガンヒルの決斗」か、という感じになる。山形勳の暴虐に苦しむ村びとが、よそ者である市にすべてまかせてまるで協力しようとしないというのも、何かの西部劇にあったような。

 ここでの女優は安田道代(現・大楠道代)で、またまた座頭市が斬ってしまった男の妹という設定。

 西部劇趣味はかまわないけれど、「座頭市」ものとしてはちょっとカラッとしすぎる印象もあるし、せっかくの市の贖罪の気もちもラストにはどこか行方不明になってしまう。演出はあまりわたしの好みではない。

 

[] 「座頭市鉄火旅」(1967) 安田公義:監督  「座頭市鉄火旅」(1967) 安田公義:監督を含むブックマーク

 いつの間にかまた北関東へ戻ってきた座頭市。札所めぐりはちゃんと終わったのだろうか。

 脚本は笠原良三で、このひとはクレージーものだとか喜劇のスペシャリストなんだけれども、「赤い天使」だとか、ときどきシリアスなドラマを書いてしまうことがある。この「座頭市鉄火旅」では、まだ思いきりコメディアンだった藤田まことだとか、人気絶頂だった水前寺清子なども出演し、バラエティ色を強めている。それでも、刀鍛冶の東野英治郎をからめた、市の仕込み刀をめぐるドラマはとても面白い。女優は藤村志保で、このひとの気丈さも作品をぴしっとしめている感覚。軽さと重厚さのバランスのとれた佳作。安田公義の演出も、ここでは冴えている。




 

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■ 2011-11-22(Tue)

 ひさしぶりにしごとは休みだけれども、目覚しをセットしていなくてもあさ暗いうちに目が覚めてしまう習慣はかわらない。きのうは六時間に及ぶ映画を観て、あげくに終電で帰宅していても、四時ごろにはとにかく目が覚めてしまう。きょうはお出かけしないで家でゴロゴロしていよう。しかしきょうは寒い。ニュースでも、きょうはこの秋(冬?)いちばんの冷え込みになるといっている。外が明るくなってきて、セーターを着てゴミを出しに外に出ると、おとなりの奥さんと顔を合わせてしまい、「寒いですね」とあいさつする。旦那さんが外で犬をつれて奥さんを待っていらっしゃる。これから犬の散歩に出かけられるのだろう。

 きのうおとといとまるでベンナのすがたをみていないので気になっていたのだけれども、けさはちゃんとベランダにベンナがいた。ところが、同じベランダにはジュニアのすがたも。ベンナにはジュニアとは仲良くしてほしくはないと思っていたのだけれども、そういう願いもむなしかったということか。まあ仲良くしてほしくないということが顔を合わせればケンカすればいいという意味をふくむなら、それはケンカなどしないでほしいという気もちもあるわけで、仲良くしてほしくない、でもケンカはしないでね、という両立しない気もちのなかではこういう成り行きもしかたがないと、了解するしかないだろうか。


  

[] 「プチ・ニコラ」(2009) ロラン・ティラール:監督  「プチ・ニコラ」(2009) ロラン・ティラール:監督を含むブックマーク

 むかし、この原作の翻訳が「わんぱくニコラ」として何巻か文春文庫から出ていて、わたしはこれは全部読んだ。愛読書だった。書いたのはゴシニという人で、挿画はサンペによるものと、その名まえもおぼえている。いつも懲罰を与える教師はブイヨンというあだ名で、この人はいつも生徒に「わたしの目をごらん!」というのだけど、その目がブイヨンスープみたいだから、らしいのである。この本を読んでいたころは、そうやってよく、「わたしの目をごらん! ブイヨン!」と遊んだ記憶もある。そんな「プチ・ニコラ」が映画になった。

 わたしはガキンチョの出てくる映画というのが基本的にダメで、とくに小津監督の「お早よう」などは五分いじょう画面を観つづけることも困難なのだけれども、これがこの「プチ・ニコラ」は平気、なんともなかった。もちろん原作を読んでいての鑑賞ということもあるのかもしれないけれど、それだけの理由でもなかった気がする。どうも、出てくる子どもたちと、その親との関係のあり方あたりに理由がありそうな気もするし、これはひょっとしたらじぶんの子ども時代を思い出させられるようなものがイヤなのかもしれない。そのあたりは「お早よう」とかの観たくない映画のことをもうちょっと観直してみなければわからない。でも観たくない映画なんだから観ないだろう。だから、この理由はもうおそらくは一生わからないままかもしれない。まあフランスのガキとじぶんのガキンチョ時代では比べられるものもないから、平気で観ていられたのかもしれない。それでも、「プチ・ニコラ」のほかにガキンチョ映画で楽しめたのは、塩田明彦監督の「どこまでもいこう」があったりする。こっちは日本映画なのだから、この「プチ・ニコラ」がフランス映画だから楽しく観れたのだともいえなくなってしまう。やはり理由はわからないのである。

 さてこの「プチ・ニコラ」、主人公のニコラは日本なら小学校低学年というあたりで、そのクラスメートとの交友、親や先生たちとの闘争(?)を描いたもの。なぜかクラスには男子しかいないようで、このなかの六〜七人が主要キャラクターになってニコラとともに活躍するわけで、キャラクター設定は原作本とおなじ。というか、観ていてどんどんとかつて読んだ原作のことを思い出してきた。告げ口が得意で優等生ぶっているアニャンのことを皆はぶんなぐってやろうと構えているんだけれど、メガネをかけているアニャンは「メガネがこわれるよ」となぐられるのを逃れる。でも、身体測定の視力検査のとき、いっしゅんメガネをはずしたしゅんかんに、ピシッと誰かに顔をはたかれるのである。これ、原作にもあったなあなどと思い出す。そういえば原作のサンペによる挿画で、ニコラたちクラスの生徒が、先生のあとについて一列に並んで進んで行く場面がしょっちゅう出てきてた。この映画でもやっぱり、やたら皆が整列するシーンがある。原作はみじかい短編のつみかさねなんだけれど、この映画化作品ではそういう短編のエピソードをあれこれとかさねながら、それぞれのエピソードがあまり断片的にならないでぜんたいをうまく構成している印象。さっきのアニャンの視力検査とか、ちょっとした小ネタも楽しい。子役たちもみんなキャラが立っていていい感じで、やはりわたしはアニャンが憎めなくって好きなのであった。また原作本を読みたくもなってしまった。


 

[] 「座頭市の歌が聞える」(1966) 田中徳三:監督  「座頭市の歌が聞える」(1966) 田中徳三:監督を含むブックマーク

 うーん、連続して「座頭市」を観るのにもちょっと飽いてきてしまったところもあるけれど、この作品は面白かった。またかたき役の浪人に天知茂で、例によって登場する地元のやくざの親分に佐藤慶、天知茂がもういちどやり直そうと探している女性、いまは女郎に身をおとしているのが小川真由美である。このほかに盲目の琵琶法師を浜村純が演じていて、「諸行無情」感を高める。

 だいたいこのシリーズ、市が旅先で無法のかぎりをつくす地元のやくざを倒すストーリーと、女性が登場しての情をからめたストーリー(市はかならずその女性と親しくなる)とを並立させて成立しているんだけれども、この脚本はそういうシリーズのお約束ごとを守りながらもきっちりと仕上げられている印象。子役が登場して、「シェーン」や「汚れた顔の天使」みたいな展開もあるけれど、これはちょっと舌足らず。脚本に犬塚稔は参加していない。シリーズもこのあたりになると、やくざの方でもただやみくもに向かって行って倒されるのではなく、「どうやって市を倒すか」と、まいかい策を練ることになる。ぜんかいは大きなたいまつに火をつけて市をかこみ、その炎の音などで市の勘を狂わせようとしたけれど、こんかいは太鼓でかこんでの、音による錯乱を狙う。

 撮影がまた宮川一夫で、ロング撮影による薄暮どきの橋の上、シルエットで描く殺陣が印象に残った。




 

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■ 2011-11-21(Mon)

 七日間れんぞくの勤務もようやくきょうでおしまいで、あしたは久々の非番の休日。それではお出かけいたしましょうというわけで、きょうも渋谷へワイズマンのレトロスペクティヴに行く。きょうは「臨死」という、彼の作品のなかでも単独では最長(358分)の作品を観る。ちょっと気合いを入れて行かなくてはいけないと思うけれども、さいきんはそういう気合いを入れるという機会が失せているので、いったいどうやって気合いを入れればいいのかわからないのである。わからないまま渋谷にちょっと早めに着き、観るまえに食事を取っておくことで、「気合い」のかわりにした。しかし、また「上海食堂」のランチを食べて満腹になってしまったあとで、「人間というものは満腹になると次の段階は眠くなるのじゃないだろうか」などと思いあたるのである。もう遅い。映画館へ行く。

 ‥‥やはり、観ていて何度か睡魔におそわれてしまった。これはしゅんかん的な睡眠で片がついているはずで、「いけない」とスクリーンに集中しなおして、それで流れがわからなくなっているということもなかった。しかし、観ている途中でズボンのポケットに入れてあったはずのサイフがないことに気づき、このあたりで気もそぞろになってしまった。ここでまたサイフをなくすとエライことである。落ち着かない。すぐに途中休憩になったのであわてて座席の下とかを探すと、下に落ちているのがすぐに見つかってホッとする。気づかないでそのまま観終わっていたらサイフを落としたまま帰宅していたかもしれない。身ぶるいするような出来ごとである。

 そういうわけで、まったく気合いの入らない鑑賞になってしまったけれど、とにかくは無事完遂。終映じかんをみると、急げば地元ローカル線よりもひとつ早い電車に間に合うようなので、駅へ急ぐ。「ひとつ早い電車」といっても、つまりは50分の時間差。50分間電車のないローカル線なので、一本でも速い電車に乗れるというのは大きい。
 ところが、渋谷駅についてみると山手線は人身事故でストップしていて、その影響で湘南新宿ラインまでちょうどストップしたところだった。ついてない。山手線でストップしているのは外まわりだけだったので、動いている内まわりに乗って上野まで出て、上野始発の宇都宮線に乗ることにする。これで終電帰宅確定。まあ上野からゆっくりすわって帰れたからいいんだけれども。


 

[] 「臨死」(1989) フレデリック・ワイズマン:監督  「臨死」(1989) フレデリック・ワイズマン:監督を含むブックマーク

 原題は「Near Death」で、ボストンのベス・イスラエル病院、ICU(集中治療室)の活動を追ったドキュメント。「臨死」というタイトルから思い浮かべてしまうスピリチュアルな視点を持つ作品ではない。また、その治療の様子をとらえた映像はほとんどなく、医師と看護人とのディスカッション、医師と患者、医師と患者家族との会話にほとんどの時間がさかれている。ここでの共通するもんだいは、病院には最新医療設備がととのっていて、とりあえずの延命処置はほぼ確実に遂行することは出来るのだけれども、では回復の見込みのない患者をいつまでも延命処置だけで生命維持させていくのか、というあたりに集約される。で、医師と看護人らのディスカッション(廊下で全員立ったまま行われる)では、治癒の可能性の論議と、患者及び患者家族に何を伝えるかということの論議にカメラが向けられる。ここで、ほとんどのケースのポイントは、人工呼吸チューブを取り外すかどうかということになる。つまりおそらくは、人工呼吸チューブを装着していることが、まずは患者にとって苦痛というか、望ましい状態ではないこと、そして、チューブを装着しているかぎり、ICUから出ることは出来ないわけである。人工呼吸チューブを取り外しても、患者は自力で呼吸出来るようになるかもしれない。そうすればたとえ末期患者でも、いちどは自宅へ帰してあげられるチャンスも生まれることになる。医師もはっきりと、「それがわれわれの勝利だ」と語っている。その前提となるチューブの除去に、患者に意識があれば患者の同意をとり、患者家族の同意をとるということがひつようになり、これがこのドキュメンタリーでももっとも時間をさかれて記録されることになる。

 作品はせんじつ観た「DV」のように、ボストンの街の遠景からはじまる。海ではボートのエイト競技の練習が行われていて、カメラはそのボートを追って行く。意外な導入部だった。そこからまた映像は「DV」のようにハイウエイに入って行き、ベス・イスラエル病院のメイン・エントランスにいたる。「さあ、到着しましたよ」という感じ。車から降りてエントランスへ入って行く人たちが写される。このメイン・エントランスの静止映像は作品のなかで何度も挿入される。「DV」で施設の外観が挿入される演出の再現だろうけれど、「DV」では「施設の一日」でのじかんの推移というような意味合いも含まれていたのに対し、ここでは「また夜が来て、一日がすぎて行った」みたいな感覚。病院内で掃除をする職員の姿が同じように何度も写され、「また朝が来た」という感じである。

 カメラはICU室内へ入って行くけれど、ここでバックに音楽が聴こえてくる。さいしょの曲は知っている曲だけれど、いまそのタイトルが思い出せない。二曲目はニーノ・ロータ作曲の映画「ロミオとジュリエット」主題曲である。え、ワイズマンはこういうかたちで音楽は使わないはずなのに、などと思うけれど、これはつまり病室内に流されている、病院によるBGMということなのである。カメラはいきなりシビアな治療光景を写し、電気ショック療法などを施すもののモニターのパルスはまばらになり、やがてフラットになってしまうさまが写し出されるのだけれども、これ以後はそういうシビアな治療光景は出てこない。ここからはラストまで、主に四人の末期患者の治療への取り組みが、きっちりと取材される。ひとつのディスカッション、ひとつの患者家族と医師との対話が、ほぼ編集なしでフルに記録される映像が続く。

 さいしょの男性患者は意識もしっかりしていて、医師に対しても非常に理性的な対応をされている。植物状態で生き長らえても意味がないと了解していて、フォン・ビューロー事件のようなのはイヤだという意見を述べられる。ここは医師らの治療方針と患者の意志が合致したケースだけれども、つぎの女性患者ではいろいろなもんだいが提示されている。まずは患者の意思表示が困難な状態なのだけれども、医師たちは彼女の意志を何度も確認しようとする。意志が変化していないことを確認するためでもあり、変化していたらしていたで、その変化に対応するためである。ここでは人工呼吸チューブを外し、自力呼吸のための喉の手術をするかどうかということがもんだいのようである。ここで医師らのあいだでも意見の統一が得られていないようで、ミーティングでは手術肯定派の医師への疑問が提出されている。「やたら切りたがる医師だ」などという発言もある。手術に反対する医師や看護人が多数派のようだけれども、患者の夫がまた医師であり、「まだ出来ることがあるはずだ」という考えをもっているというもんだいも絡んでくる。さいしょは喉の手術に反対の意志を示していた患者本人も、手術を施行する方にかたむいていく。医師らから何度も何度も同じことを聴かれる患者のいら立ちも記録される。このケースはじつは手術施行が成功したようで、映画ラストのテロップで、映画完成時にこの患者さんはまだ存命中と書かれていたようである。

 三番目のケースの男性患者はまだ三十代前半だけれども、もう肺が末期状態にあるらしい。まだ幼い子どもが何人もいる。妻に医師が「可能性がない」ことを伝える。さいごのケースはイタリア系らしい初老の男性患者で、病院で強い発作を起こしている。妻はただ涙にくれ、「出来ることなら何でもしてくれ」と語る。幸いにも発作からの危篤状態からは回復され、会話も可能になってICUから出て行かれる様子が記録されている。しかし彼もまた、いまだに末期患者であることに変りはない。

 看護人たちが控え室で会話する様子も記録され、ここでは「脳死」をテーマに、患者家族に脳死状態について正しく知ってもらいたいという話になる。亡くなられた患者の遺体が遺体安置室に運ばれる様子も写され、また、その遺体安置室から霊きゅう車で遺体が外に出て行く様子もみられる。このフィルムは日本の医科大学所蔵のフィルムのせいだろうか、そういう遺体安置室での遺体運搬にかかわる会話には字幕がつかない。ふん、なるほどな、などと思う。

 医療技術が進歩すると、とにかく生命だけはいつまでも維持されてしまうことになる。わたしなども時代が昭和から平成に移り変わるとき、ある人物の年末〜正月の死を避けるために異様なまでに生命維持の処置がされたことを知っている。「自然死」というのではなく、もうこれでは「生きている」とはいえない状態で生かされてしまうケースが出てくる。そのときに、医師はいつまでも生命を維持させることよりも、「もうこれまで」という判断をまかされてしまうことになる。まずはその困難さに正面から向き合った作品だった、という印象。すべてのひとにこういう事態にいたる可能性はあるわけだから、こういう「不測の事態」へのこころがまえは、当人およびその家族でしっかりと決めておかなくっちゃいけないよね、などと思うのである。わたしは治癒の可能生のない延命処置はぜったいにいらないな。



 

 

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■ 2011-11-20(Sun)

 きょうも天気は良くない。ずっと曇っていてときどき雨が降る。ゆうがたには思いもかけない強い雨が降り、遠くに雷鳴も聴かれた。ベランダをのぞいてもいちにちじゅうベンナのすがたが見えなくて、ちょっとさびしかった。

 ニェネントはわたしと遊びたがってしょうがない。ちょっとわたしが動くとうしろから不意打ちをかけてくるし、買ってきたヨーグルトを食べはじめると、「なにをわたしに隠れて食べてんのよ」とばかりにすぐに寄ってきて、ヨーグルトのカップに鼻をつっこんでくる。では遊んであげましょうと、ニェネントの鼻さきに指はじき攻撃をしかける。これにはニェネントもネコパンチで応酬してくる。ニェネントのネコパンチも強力になってきた。これにかみつき攻撃もプラスされてくると凶暴である。わたしにかみついてくるときには、首をかしげてななめからわたしの手に狙いをつけ、「ニャァー」と裏声のようななきごえをあげてから飛びかかってくるのである。あまがみをしているのかしていないのか、けっこう痛い。

 秋も深まってきて、また白菜の季節である。夕食は買ってあった白菜と冷凍してあったレバーを炒め、削り節としょう油で味付けするおなじみの献立。とにかくこれからは白菜が安い。また白菜でこの冬を乗り切ろう。

 昼からは、ヴィデオの消化がはかどったいちにちになった。


 

[] 「座頭市あばれ凧」(1964) 池広一夫:監督  「座頭市あばれ凧」(1964) 池広一夫:監督を含むブックマーク

 ほんとうはこれが「座頭市千両首」の次の作品で、監督は「千両首」と同じく池広一夫だけれども、脚本に犬塚稔が復帰している。どうもこの人は出たり入ったりしているけれど、執筆のペースが作品製作に間に合わないのだろうか。この人が脚本に入るとそれなりに堪能できたのがこれまでの印象だけれども、この「あばれ凧」はあんまりよろしくない。もちろん「千両首」のようなお話にならない破たんはないのだけれども、やっぱこれは演出にいまひとつメリハリがないせいとも思える。それでも、まえの「千両首」に比べるとこれでずいぶんといい。

 この池広一夫監督というのは、この「座頭市」シリーズでいままでゆいいつ、血のりをべったりと使う監督さんである。そのほかの演出では市がいくら斬りまくっても、画面に赤い血が流れることはない。これはちょっとした「座頭市」シリーズの特色というか、このころの時代劇映画の特徴でもあっただろうけれども、この監督のまえの作品「千両首」でも、この「あばれ凧」でも朱色の血が画面を染める。そのわりには殺陣の演出は旧態依然としたもので、とくに印象に残るものでもないというのがつまらない。ただ、前半のロケーションはどれも美しいもので、このあたりの構図をふくめた風景の映像はこれまでのシリーズでもピカいちのものだと思う。撮影監督は竹村康和という人。

 そう、「あばれ凧」というタイトルがどうもそぐわないというか、「凧」などどこにも出てこないし、ここでの主役は「花火」なんだから、「なんとか花火」がいいんじゃないかと、過ぎたことながら思ってしまうのであった。タイトル文字はこの作品のがいちばんいいと思った。


 

[] 「座頭市血笑旅」(1964) 三隅研次:監督  「座頭市血笑旅」(1964) 三隅研次:監督を含むブックマーク

 あ、もう、これがこれまでのベストですね。第一作以来の三隅研次監督、どの画面にもピシッと冷気のようなものが走っていて、もうすっかり堪能させていただいた。脚本から犬塚稔がはずれているんだけれども、これまでの定型をはずしたような中盤のロードムーヴィー的展開もいいし、久々に僧侶を物語にからめることで、シリーズの根底にあったはずの仏教的精神、世界観を思い出させられたりもする。まあちょっと原点に立ち返ったというところだろうか。登場するキーになる赤ん坊を通じて、座頭市という造型のこの世界へ執着する気もち、希望する気もち、それが成しえないという無常感がしっかりと描かれていて、わたしは泣いたね。もちろん殺陣もすばらしい。


 

[] 「終着駅 トルストイ最後の旅」(2009) マイケル・ホフマン:監督  「終着駅 トルストイ最後の旅」(2009) マイケル・ホフマン:監督を含むブックマーク

 トルストイの作品というのはもうずっと読んでいないし、読んだといってもそんな数をこなしているわけでもない。短いのをちょこちょこ読んだだけ。いわゆる人道主義、博愛主義としてのトルストイの晩年の思想はアナキズム的視点から語られることもあったけれど、肉欲をも否定するこの人の思想はどちらかといえば保守的な、原始キリスト教に近いものがあったのではないだろうか、という解釈をした記憶はある。彼の妻が「悪妻」と呼ばれていることは知っていたけれど、トルストイの死を含め、このふたりのことはわたしはまるで知らない。

 それでこの映画は、そのトルストイと妻ソフィアとのさいごの一年を描いたもの。トルストイ主義者からなる組織があったようで、その組織からえらばれてトルストイの秘書になる、ワレンチンという若者を軸にして物語は進行する。ワレンチンはもちろんそういうトルストイの取り巻き、トルストイ主義者らからはまず信頼されているわけで、トルストイ自身からも、またトルストイ夫人からも信頼を得るという複雑な境遇におちいるわけである。トルストイとその夫人は衝突をくりかえしているわけだし、トルストイ主義者はトルストイと夫人を切り離してトルストイを自分たちの偶像として完成させたいわけである。ここにもうひとり、トルストイ家周辺のコミューンに滞在するマーシャという女性がワレンチンに接近するが、彼女は肉欲も否定しない自由な存在として描かれ、トルストイ主義者の教条主義を嫌悪しているわけである。そういう四すくみのなかに置かれたワレンチンはトルストイにも妻のソフィアにも理解を示し、少しずつトルストイ主義からは距離を置くようにみえる。そんななか、トルストイは妻との抗争に疲れて「家出」する。

 どちらかというとトルストイの妻のソフィアに同情的な作品で、トルストイ主義者たちはほとんど「アホ」として描かれている。トルストイがソフィアを愛しながらもソフィアの物欲に悩み、ソフィアもまた、主義者たち取り巻きに囲まれてしまっている夫にいら立ちを隠せない。ながいとしつきをともに暮らした男女の愛憎、葛藤を、あんまり深く立ち入らないで表現している感じはいい。このラストをワレンチンの未来と重ねるあたりもいいですね。

 妻のソフィアを演じているのはヘレン・ミレンだな、ということはわかって、この人の出演作を観るのも久しぶりな気がするけれど、年齢をかさねて、より気品のある美しい女優さんになられた印象。調べたら、この女優さんのお父さんはじっさいに亡命ロシア貴族であられたとのこと。そりゃぴったりの配役である。それで、トルストイを演じているのが誰なのか、じつはさいごに字幕が出るまでわからなかったんだけど、これがクリストファー・プラマーだった。そういえば「Dr.パルナサスの鏡 」にもこういう風貌で出ておられたわ。イギリスとドイツとロシアの共作映画だということ。



 

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■ 2011-11-19(Sat)

 あさから雨。気温も上がらず、この秋になってはじめて、セーターを着てすごした。ベランダにいるベンナはきょうはいちにちじゅうベランダにいたのか、いつベランダをのぞいてもその姿が見えた。キャットフードを出してやるとやはり待避して、きのうと同じに「おいで!」と呼ぶと「ニャッ!」と答える。さてこれからどうしたものか。「おいで!」と呼んでいればそのうちにベンナの方から寄ってきて、なでなでしても逃げて行かないようになってくれるのか。

 なんだか買い物に行くとついつい、スナック菓子とかおつまみみたいなものを買ってしまうようになってしまい、これでは食費ぜんたいをいっしょけんめい抑えようとしてもなんにもならない。さいきんの経済的困窮のひとつの原因はこういうところにもあるのだろう。あとはしごと場でじかんがあいたときなど、缶コーヒーを買ってしまうこともよろしくはないわけである。

 ゆうがたからWOWOWでメトロポリタン・オペラの「トリスタンとイゾルデ」の録画を放映していたのを、ヴィデオ録画しながらチラチラと観る。五時間のプログラム(舞台裏のレポートを含む)なので、録画でもしておかないといっきに観るのはつらい。ワーグナーものは舞台美術も見どころになるけれど、でっかいホリゾントのバックからの照明でおどろくべき効果を出していた。じっさいに劇場で観れば圧倒されるだろう。放映された映像も編集されてマルチスクリーンが多用されていたけれど、その舞台美術/照明との相乗効果がまたインパクトがあるように思えた。いつになったらこの録画ヴィデオをゆっくり観ることが出来るだろう。まだせんじつ放映された「ラインの黄金」と「ワルキューレ」のヴィデオも放置してある。そのうちに「ジークフリート」も「神々の黄昏」も放映されちゃうだろうし。


 

[] 「ザ・ロード」(2009) ジョン・ヒルコート:監督  「ザ・ロード」(2009) ジョン・ヒルコート:監督を含むブックマーク

 原作はコーマック・マッカーシーのもので、わたしもこれは映画が日本で公開されるまえに読んでいる。この映画はかなり忠実に原作を映像化しているという印象で、現作で記憶にあったシーンの、映像化されたイメージに違和感もない。ただ、映画の方では主人公(ヴィゴ・モーテンセン)がかつての妻(シャーリーズ・セロン)を追想するイメージ映像が印象的にフィーチャーされている。

 わたしはこの原作、ゾンビ映画のシリアスな翻案だと思って読んでいたので、そういう原作のシリアスさを前面に出して、「食人」というポイントを映像では描かなかった演出にホッとした。ちょっとまちがえると亜流ゾンビ映画になってしまう。「火を運ぶ人」という使命をみずからに与え、「善い人」でありつづけようとする主人公の決してブレがないわけではない行動と、彼がいっしょに果てのない旅をする息子に教える行為、その内容がこころにしみる。

 なんだか自分もまた、災厄の世界を歩まなければならない気分におちいることもある。そういう歩みの支えになりうる作品だった。原作の忠実な映画化という点でも、規範的な映画だった。


 

[] 「苦役列車」西村賢太:著  「苦役列車」西村賢太:著を含むブックマーク

●「苦役列車」
 長大な小説の一部という感じで、これだけでは主人公の人物像がまだはっきりしないし、一編の独立した作品の展開としてもの足りない気もするのだけれども、「オレはこういう人物だ」というほのめかしはやたらに多い。それがなんだか読者にしょっちゅう「オレのことを理解しろ」とせまっているようで、まあわたしはこの作家のことを理解しようとは思わないのね。

●「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」
 こっちはとても面白かった。「苦役列車」と同じく「オレはこういう人物だ」ということに終始した作品だけれども、「苦役列車」に比べると「ほのめかし」に終わらない具体的記述がしっかりと書かれている。西村賢太という作家の実像がくっきりと描かれているというか、この作品で描かれる時期(つまり、具体的には「川端康成文学賞」の最終候補にあげられる時期)の自分をとりまく情況を、まさに自分の視点から描いて、彼の小説家としての考え方(読んだ書物への批評なども書かれていて、ここがいい)とか、小説家としての生活がよく理解できる印象。「苦役列車」のような作品ならばもう読みたいとは思わないけれども、こういう「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」のような作品もあるのだったら、もっと読んでみたいと思わせられたのであった。この文体なんかはちょっとばかし、むかしの私小説へのノスタルジーを思わせられてまばゆいけれども。




 

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■ 2011-11-18(Fri)

 きょうもほんとうはワイズマンを観に行きたかったのだけれども、さすがに三日れんぞくというのも、肉体的にも精神的にも経済的にもキツいわけで、逡巡はあったけれども家でのんびりすることにした。調べるとワイズマンのレトロスペクティヴはこれから国内を巡回し、らいねんにはふたたび東京周辺でも行われるようである。そのときに行こう。まだ二本観ただけだけれども、ワイズマンの作品はどれを観ても面白そうである。まだげんざいの東京での上映はらいしゅういっぱい続いているので、行けるようならまた観に行こう。らいしゅうはしごとも非番の日が多いし。

 しごとから戻ってベランダをみると、やはりベンナが作業台のうえで寝そべっている。窓を開けてキャットフードを出してあげるとまた作業台からとびおりて逃げるそぶりをみせるけれど、その待機している場所とわたしとの距離は、日ごとに短くなってきた。きょうはもう、ベンナまで一メートルちょっとの距離。手を伸ばすと届きそうである。ベンナを手招きして、「おいでよ、おいで」と声をかけると、わたしをみて短く「ニャッ」とないた。「いや!」っといってるみたいである。また「おいで」と手招きするとまた「ニャッ!」。まさか手招きするとのどをゴロゴロならしてわたしにすり寄ってくるとは思ってないけれど、たとえその「ニャッ!」が「拒否」だとしても、わたしのことはずいぶんと認知してくれるようになったと思う。

 きょうはいちにち、のんびりとすごした。


 

[] 「街の野獣」(1950) ジュールス・ダッシン:監督  「街の野獣」(1950) ジュールス・ダッシン:監督を含むブックマーク

 原題は「Night and the City」とカッコいいのだけど、ちょっと内容とはあまりそぐわない邦題になっている。わたしは知らなかったけれども近年ロバート・デ・ニーロの主演でリメイクされているらしく、その邦題はそのまま「ナイト・アンド・ザ・シティ」となっているとのこと。監督はジュールス・ダッシンで、わたしなどは赤狩りでヨーロッパに渡り、ギリシャに落ち着いて「日曜はダメよ」や「トプカピ」をヒットさせたの監督だよね、ぐらいの知識しかなかったけれども、この作品はまさに彼がその赤狩りから逃れて、イギリスでロンドンを舞台に撮ったノワールもの。初期のジュールス・ダッシンはそういうノワールものを得意にしていたらしい。この作品の主演はリチャード・ウィドマークで、彼の愛人役でせんじつ「疑惑の渦巻」で観たジーン・ティアニーが出演している。どちらもアメリカの俳優である。原作があって、イギリスの作家ジェラルド・カーシュのミステリー。

 リチャード・ウィドマークは夜のロンドンを徘徊するチンピラで、いつもでっかいことをやり遂げたいという夢をみている。「Somebody になりたいんだ」というセリフが象徴的だけれども、長期的な展望をもって夢を実現しようとするようなこらえ性はない。つまり行き当たりばったりの夢である。愛人のジーン・ティアニーに金をせびってばかりだが、ジーン・ティアニーはなんとか彼にそんな夢をみてばかりいないで地道に生きてほしいと思っている。そんなリチャードはロンドンに来ていた往年の名レスラーとその弟子と出会い、プロレスの興行を計画して出資者を探す。ここで酒場の経営者や野心ギラギラのその妻、ロンドンのプロレス興行を仕切る男だとか、有象無象のやからがリチャード・ウィドマークの周辺でうごめき出すことになる。

 映画の冒頭で借金取りから逃げて夜のロンドンを走り回るリチャード・ウィドマークは、やはりロンドンを走り回ってチャンスをつかもうとし、ラストではまた追っ手から逃れて夜のロンドンを逃走する。ロンドン橋やビッグ・ベンのシルエット、せまい路地などがロンドンらしさをかもし出す。おそらくは前年に製作、公開された「第三の男」からの影響もあるだろうけれど、階段を使ったりの高低差の演出、光と影のコントラストの演出などが印象にのこる。

 リチャード・ウィドマークひとりのドラマではなく、その周囲の人々ひとりひとりにドラマがあり、それがけっきょくさいごには、すべての登場人物が何らかの「ルーザー」になってしまう。リチャード・ウィドマークはそのチャンスをみのらせる可能性もあったように見えるけれど、勝負どころをまちがえているというか、やはり長期展望ではなくその場その場をしのげばいいという人生観が、すべてのつまずきのもとになっているようである。その延長でもあるような、ラストの無意味な愛人のための工作が哀しい。死に方まで「その場しのぎ」なのである。




 

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■ 2011-11-17(Thu)

 しごとの帰り、玄関のドアへの通路のそばにジュニアがいた。そのジュニアのそばに、見たことのないネコがいた。グレーと白のブチで、首輪はしていない。やはり野良ネコなんだろうか。ジュニアはわたしをみてあわてて走り去って行ったけれど、そのブチのネコの方はゆっくりと歩いて、向かいの家の方に消えて行った。どうもふだんは目にふれない「隠れ野良」が、このあたりを席巻しているようである。しかし、すっかり代替わりしてしまったわけである。やはり野良ネコの寿命は短いからか。

 きょうもまたワイズマンを観に行く。開映時間がきのうよりも一時間遅いので、ゆっくりと家を出る。ほとんどきのうと同じような気候で、やはり快適である。映画館においてあるチラシで、これからのいろいろな上映作品の情報を得る。らいげつは鈴木清順監督の特集もあって、わたしのまだ観ていない作品が多いので、ちょっと通ってみようかと思う。あとは日仏学院での政治映画(テロル映画)の特集とかも観たい作品がある。また経済的にもいろいろと悩ましいところである。

 きょうの作品は三時間をこえる長篇なので、終映時でもう五時半になっている。さっさと帰宅する。電車のなかで、トニ・モリスンの「ビラヴド」をけっこう読み進んだ。帰宅して八時。ご飯を炊いて、買ってあった白菜と豆腐などでかんたんな鍋をやって食事にする。
 TVで「ブラタモリ」をやっていたのを観る。いつもTV番組のことなど意識していないので、いつもいつも見逃してしまう。せんしゅうもやっていたのに。せんしゅうは江戸の動物事情みたいな特集だったようで、観たかったものだと思う。こんしゅうはその延長で上野動物園。「こども動物園」の方に純日本産の馬(「和馬」とでもいうのか)や、同じく日本産の山羊などが飼育されているのは知らなかった。もうしばらく上野動物園にも行っていないし、わたしもブラリと行ってみたくなってしまった。


 

[] 「DV—ドメスティック・バイオレンス」(2001) フレデリック・ワイズマン:監督  「DV—ドメスティック・バイオレンス」(2001) フレデリック・ワイズマン:監督を含むブックマーク

 フロリダ州には38ヶ所のDV被害者保護施設があり、この作品で取材されたタンパにある「スプリング」という施設はそのなかで最大のもので、年間1650人の人々がこの施設の恩恵を受けるという。フロリダ州だけでこれだけの規模ということは、アメリカ全体ではいったいどんなことになるのか。

 作品はまずはそのタンパらしい都市の景観からはじまるけれど、これがごく短いショットの積み重ねで、だんだんにその街のなかに入って行くような感覚になるのではないだろうか。映像はハイウエイになり、こんどは市街地から郊外に視点が移動して行く。パトカーが民家へ入って行き、この導入部では警察に通報のあったいくつかのDV被害の現地へ、カメラはパトカーと同行している。警官が被害者や目撃者から情況を聴き出し、適切なアドヴァイスを与えるシーンが続く。周辺の人たちの情報では、加害者はじぶんの娘がアフリカ系の男と結婚したことに不満があってほかの人間にも暴力的にふるまうのではないかということや、あるいは加害者がアルコール依存症だから、などということが語られている。ここで印象に残るのは警官たちの的確な情況判断と的確なアドヴァイスで、このような助力によって被害者たちが保護施設へ受け入れられているのだろうと推測されることになる。このあたり、おなじDVのケースでも担当者がまったく情況判断が出来なくて放置し、最悪の結果を招いてしまうニュースを多く聞く日本の場合とくらべてしまう。

 このいくつかの現地レポートのあとはずっと、その保護施設「スプリング」でのレポートになる。電話相談を受ける相談員のショットから、じっさいにこれから入所するDV被害者への聴き取り調査、カウンセリング、入所者の施設での生活、施設職員たちのディスカッションなどがつづく。ワイズマンのことだから説明的なテロップもつかないし、演出側からの被写体へのインタヴューがあるわけでもないけれど、段階を踏んでDVのげんじつ世界での惨状、保護施設の役割、精神的なDVへの「取り込まれ〜洗脳」から抜け出して行く被害者たちの姿、なお解決のつかないもんだいをディスカッションする施設職員たちの姿と、観ていればおのずから、このDVということのはらむもんだいが浮き彫りにされて行くさまが了解される。まずはこれから入所する被害者への聴き取りで、「こんな被害を受けましたか?」という連続する設問のすべてに「イエス」と答える被害者、五十年間も夫のDVに耐え忍んできたが、部屋に火をつけられ焼き殺されそうになりついに逃げて来たという老人などなど、逃げようにも逃げられない情況に追い込まれていた被害者の体験が語られる。驚きの連続である。職員は、虚言癖のあるDV被害者である母親のその子どもたちのことで悩み、ディスカッションする。その男の子は九歳にしてじぶんの妹への性的虐待の加害者になり、十一歳にしてこんどは性的虐待の被害者になっているという。母親にまかせることは出来ない。こういう話も驚きである。しかし入所者たちは所内でのディスカッションで、だんだんと自己を解放して行く。十三歳で家庭から追い出されるも同然に路上に飛び出した女性は十四歳で男と知り合い、その男に何年も何年もDVを受けてきた女性は、男に首を切られてついに施設に入所している。彼女はディスカッションで「わたしはようやく自分の感情を外に出すことを出来るようになってきた」と語る。わたしは彼女の話にはほんとうにこころを動かされた。腕をあげるとその内側にまだ大きな青いあざの残るのが見える若い女性は、もうほとんどヴァレリー・ソラナスの「男根根絶協会」の会員である(カッコいい)。

 これら施設のレポートのあいだに、その施設の外観の無人の映像、短いショットがはさまれて行き、その映像がだんだんに日が暮れていき、ついに夜になったときに、カメラはふたたび施設を離れてパトカーについて行く。この最後のケースが衝撃というか、それまでの施設のレポートがここではどう役に立つのか、「こういうケースでいったいどうしたら被害者を救えるのか」というようなことになる。どうやら警察に電話したのは加害者である男の方らしいのだが、この初老の、マイク◯木の生き写しのような男はつまり、九ヶ月まえから被害者の女性と同居しているらしい。その夜、男は女のふるまいか何かが気に入らず、寝る前にそのことで徹底して女と話し合いたいと望んだという。しかし女の方は疲れ果てていて、ただ眠りたいと。男はだったら「出て行け」ということで警察を呼んだというわけ。しかし、警察の方はただ男のいうように女を連れ出すことは出来ない。まずは女性の同意がひつようなのだけれども、女性はひたすら「もう眠りたいだけ」とくりかえすだけだし、じっさいにこれから彼女が行ける知人の家とかいうものはどこにもないのである。おそらくは男の方でもその女性がどこにも行けるところがないことを百も承知で、そのうえで「出て行け」といっているのだろうと推測できる。つまり、この「警察を呼ぶ」ということを含めてのDVという気配が濃厚である。しかし、「どこにも行くところがない」としかいえない女性に、警察はもうどのような手段を施すことも出来ないのである。この情況では、施設の存在を伝えることも出来はしない。女性の方には「出て行く」という意志もないのである。しかし情況はあきらかに「家庭内暴力」の現場、である。なすすべもなく警察はそのまま帰ることになり、ここでこの「DV」という作品も終わる。保護施設の職員の努力とそのすばらしい成果とを伝えながらも、そういう保護施設の存在も救いにならないというケースで作品は終わる。あとは観客の認識、判断に任せられるというか、ただ「ほら、こんなすばらしい救済施設がある」というのでは終わらない苦い現実を観客に知らしめる、強烈なドキュメンタリーだった。




 

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■ 2011-11-16(Wed)

 やっぱり「月桂冠」とはいえども、一升瓶の日本酒というのは美味いもので、紙パックにはないガラス瓶のすべやかさが、舌ざわりにひびいてくるような気がするのである。もちろんそれは「幻想」だろうと思う。でも、「ガラス瓶の幻想」などというとそれでまた甘美であって、酒を飲むときぐらいはそういう甘美な幻想に浸りたいものである。賞味期限がせまって半額になった日本酒の生む幻想。安上がりなものであるが。

 きょうからようやく、渋谷でのフレデリック・ワイズマンのレトロスペクティヴ上映に通うのである。日程はもうほぼ半分終了してしまっているけれど、可能な限り興味の湧く題材のものは観てみたい。

 もう秋も深まっているけれども天候も良好で、ジャケットをはおれば暑くも寒くもない快適な気候である。電車のなかでひとねむりして、渋谷で下車して映画館へ行き、映画を観る。

 午後一時からはじまった映画は、二時半ぐらいには終わってしまう。長い作品の多いワイズマンの作品ではみじかい方かもしれない。ここはひとつ、久々に外食でもしてみようと、以前よく行った「上海食堂」へ行ってみる。ここはしばらく店がしまっていたようだったけれども、せんじつ前を通ったらまたあかりがついていたりしたので、機会があったらまた行ってみようと思っていた。
 調理人とかがかわったのか、メニューが一新されている気配だけれども、ランチメニューは500円か600円とあいかわらずの値段。チャーハンとミニ麻婆豆腐とスープのセットで500円というのを注文する。出てきた献立が以前にもましてすごいヴォリュームで、これなら食べ貯めして夕食分にもなりそうであった。店の復活を歓迎する。

 そのあと、なぜか今年は出すことにした年賀状作成の材料をそういう店で買い、しばらく店のなかをぶらぶらと見てまわる。電車に乗って自宅駅で下車してもまだ七時ごろ。やっぱもう少し食べておこうとスーパーに寄って助六寿司としめさば、どちらも半額になっていたのを買い、帰宅してまたしめさばで酒を飲んで、寿司を食べて寝る。またあしたもワイズマンのレトロスペクティヴに行きたい。


 

[] 「基礎訓練」(1971) フレデリック・ワイズマン:監督  「基礎訓練」(1971) フレデリック・ワイズマン:監督を含むブックマーク

 ワイズマン監督の作品というのは、過去に「アメリカン・バレエ・シアターの世界」、「コメディ・フランセーズ」の二本のみ観たことがあるけれど、どちらもその対象とされたカンパニーへの興味の方が先にあったので、ワイズマン監督作品というのは知っていても、だからどうこうという観方をしていたわけでもない。そういうわけではこんかいの上映ではじめて、ワイズマン監督と正面から向き合う気分である。

 この「Basic Training」は、「愛と青春の旅だち」や「フルメタル・ジャケット」で描かれていた、軍隊の訓練キャンプの様子を記録したもの。こちらは陸軍の訓練なので先にあげた劇映画(どちらも海軍だか海兵隊の訓練だったはず)とは様子が異なっているかもしれないし、とにかくじっさいにヴェトナム戦争が泥沼化していた時期、どういうふうに一般の若者を一兵卒に鍛え上げていたのか、興味があったわけである。「フルメタル・ジャケット」のように罵倒して兵士の人間性をはく奪するような訓練が行われていたのか。

 冒頭、まずはジーンズにTシャツの男たちが訓練施設に入所し、身体検査から散髪を経て宿舎に案内される過程はそっくり「フルメタル・ジャケット」である。ただ、まるで犯罪人のように当人のネームプレートをかかえての写真撮影をされ、指一本一本の指紋をとられたりする。宿舎の感じは「フルメタル・ジャケット」とほとんど同じだし、教官がかぶっている騎兵隊帽みたいなのも同じ。トイレ掃除の場面もある。とにかく教官の命令にはぜったい従い、軍規を遵守することが求められる。ちょっとおかしかったのはフィルム上映で皆に「正しい歯の磨き方」の指導があったりするあたりで、そうか、戦場で虫歯が痛くなったりするヤツが続出したりしたらおはなしにならないもんな、などと思う。
 ところが、いざ訓練がはじまってみるとこれがなんともユルいというか、それほどハードって感じでもない。隊列をうまく組んで行進出来ないのが集団から離れて個別トレーニングを受けたりはしているけれど、集団の方だってうまく出来なくって笑い合いながら訓練受けている。映画のきびしさはウソなのか、という感じである。規則を守れなかった訓練生が呼び出されたりするけれど、罵倒されるわけでもない。コーラの缶を訓練に隠れて持ち込んだ訓練生が、教官にかなりネチネチとやられるシーンはあって、教官が訓練生に「そのニヤニヤ顔をなんとかしろ!」といわれる。これは「フルメタル・ジャケット」で、ヴィンセント・ドノフリオがそっくり同じにいわれるセリフである。ここまで来て、このドキュメンタリーがかなりはっきりと「フルメタル・ジャケット」に引き継がれていることを了解した。つぎに出てくる「営倉入り」か「軍法会議」かの選択をせまられる訓練生などみていると、「こりゃあぜんぜん絶対服従なんかじゃないじゃないか」ということになる。当人の考えなど聞かずに、「おまえは営倉入りだ!」ってビシッと言い渡せばよさそうなものである。それを「営倉入りがイヤなら軍法会議という選択肢もあるが、その場合は除隊後にも記録が残ることになるぞ」などというわけである。自分の履歴が汚れるよりはたかだか一週間ほどの営倉入りの方がずっとマシそうだし、こんなトラップみたいな選択肢を与えるというのはどうかと思っちゃうんだけど、これがまた選択をせまられた訓練生が「じゃあ、営倉入りよりは軍法会議にする」なんて答えるんだからいやんなっちゃう。やっぱりこれはその訓練生がどちらを選ぶのかのテスト気分もあるんだろうか。「民主主義」を標榜する国家の軍隊なんだからこうなっちゃうのだろうか。ほかの規律違反者でけっきょく命令を聞かず、ぎゃくに教官をなめてかかる言動をみせる訓練生も出てくる。もうここまでくると、まるで劇映画に出てくる訓練の様子とちがう。

 訓練生ひとりひとりにライフル(M16)が手渡され、これからその手入れを徹底して教育することが語られるあたりは「フルメタル・ジャケット」だけど、訓練生がそのM16を「Gun」と呼んだのは、徹底して矯正されるあたりは興味深かった。しかし、家族が面会に来たときに訓練生はそのM16を持って行って家族に見せたりもする。なんか、ゆるい。どうもこれは、ワイズマン監督がそういうゆるいところばかり強調するようにやってるんじゃないだろうか、と思うようになる。これはたぶんその通りで、訓練所の将校が昇格したのを祝う式で、将校のそばに立つその妻がそっと将校の手にふれるところを、何気なく撮影していたりするあたりにもあらわれているんじゃないかと思う。教官たちがあつまって雑談しているシーンがあって、そこではカルマ〜輪廻転生のことが話題になっている。「人は初対面の人間を見ただけで好感を持ったり嫌ったりするけれど、それは前世で会っているからだ」とか。ゆるい。「愛と青春の旅だち」や「フルメタル・ジャケット」でも出てきた、駆け足のときに教官がリードして唄う変な歌がやはり出てくるけれど、映画などの歌よりもずっと脱力モノの歌で、ここは観客も笑っちゃうのであった。その訓練の終わり近くに実戦を模した訓練もおこなわれ、ヴェトナムの農家のようにつくられた藁ぶきの家の周辺での模擬戦やったりする。しかし、そのショットでは訓練生は真剣にやっているようにはとても見えない。「こんなんで大丈夫なのかよ」と、アメリカのことながら心配になってしまうけれど、まあみごとにヴェトナムから撤退するわけだ。

 ただひとつ、とても印象に残るシビアなシーンがあって、それはその模擬戦のまえの夜間訓練をとらえた映像なんだけれども、仰向けで鉄条網の下をくぐり抜け、ほふく前進する訓練生たちの映像、銃に手をかけるアップの映像などのバックに、効果音のような規則正しいノイズ音がかぶさる。ワイズマンがバックにじっさいにない音楽を使うわけがないのだけれども、このシーンのバックのノイズ音はまるで映画音楽のように聴こえた。ここでの訓練生たちは(ほかのシーンで見られるような)たるみもなく、その真摯さは美しくもさえ感じられてしまった。

 ワイズマンの作品にはナレーションは使われないし、撮影するカメラは存在しないものとして「透明化」している(もちろん、写されている人物は自分の目のまえににカメラがあることを承知で語り、行動している)。同意のない人物の映像は決して使われることはないという。「アポなし取材」などもってのほかだし、つまり彼の作品の映像はすべて、題材とされた組織のお墨付きをもらったものということだろう。しかしけっきょく、この「基礎訓練」でのアメリカ陸軍の訓練の様子はどうも、「なんなの、コレ?」という印象になってしまうわけだ。それこそがつまりはワイズマン監督のドキュメンタリーの勝利、なのだろう。決して「フルメタル・ジャケット」や「愛と青春の旅だち」がウソというわけでもないだろうし、これが「真実」だ、などというドキュメンタリーもないわけだけれども、そういうドキュメンタリーというものの演出の根源にせまるように思える作品だった。

 あの駆け足のときの歌というのはRunning Cadince というもので、調べるといろいろの歌が出てきた(CDもリリースされているのだ)。「フルメタル・ジャケット」で唄われていたのもあれはあれで「有名」なものらしい。この「基礎訓練」で唄われていたものはみつからなかったけれど、ジェシー・ジェイムズを唄った楽しい歌の歌詞があったので、書き写しておく。オチがいいです。

Jesse James said before he died
There's five things that he wanted to ride
Bicycle, tricycle, automobile
An M-1 tank and a ferris wheel

Jesse James said in his final will
He had five things that he wanted to kill
A lion, a tiger, a kangaroo
A long haired hippie, and instructor too
And if he could kill just one
He'd kill the instructor, let the hippie run




 

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■ 2011-11-15(Tue)

 けっきょくあさの四時まで寝てしまい、きのうから十二時間続けて寝たことになる。なんだか夢をみた気配で、それが夢をみて目が覚めて、起きようとしたらからだが動かなくて起きられないというような夢だった。

 きょうからはずっと、連続して七日間休みなしのしごとである。きのうまでの三連休なんかいらなかったわけで、これからの七連続勤務のあいだにその分をばらまいておいてほしかった。あしたからは東京にフレデリック・ワイズマンの作品を連続して観に行く予定だし、これがまた長尺の作品が多いことだし、ブレイクがほしい。

 ジョーセフ・ヘラーの「キャッチ=22」をがんばって読んできたのだけれども、どこまで読んでもなんというのか「面白さ」がわき上がって来るわけでもなく、いつまでも世間で通用している論理を裏返すような記述ばかりで、いいかげん読みあぐねてしまった。それはたとえば「彼には時間がなかった。たちまち日曜日がやってきた。それはつまり、つぎの分列行進競技の準備をする期間が一週間のうちたった七日しか残っていないということだった。」というような文章で、あまり続くと「へえ、そういういい方が面白いのかよ?!」ということになってしまう。わたしも無限の時間を享受できるわけではないので、もうこのあたりでこの本はうっちゃることにした。かわりにトニ・モリソンの「ビラヴド」を読みはじめる。
 図書館に読み終えた「マザーズ」を返却に行き、ちょっと読みたいと思っていた西村賢太の「苦役列車」を借りてしまった。あと、朗読のCDで樋口一葉の「にごりえ」と「たけくらべ」のが新しく置いてあったのを借りる。ついでに先日「マディソン郡の橋」でいやというほど聴いたジョニー・ハートマンのCDもいっしょに。帰宅して朗読CDを聴きはじめたけれど、これはとてもほかのことをやりながら聴き流すことができるようなものではなく、プレイ中はちゃんと集中して聴いていないといけないのだということがわかった。こんなあたりまえのことがわかるのが遅すぎる。プレイヤーから外して、ジョニー・ハートマンにした。これならほかのことをやっていてもちゃんとそれなりに楽しむことが出来る。音楽のちから、偉大なり。


 

[] 「座頭市関所破り」(1964) 安田公義:監督  「座頭市関所破り」(1964) 安田公義:監督を含むブックマーク

 順番をまちがえて観るのを二本ほどすっとばしてしまったけれど、まあどちらにせよこのあと録画しそこねたものもあるので、律儀にじゅんばんどおりに観ることにこだわってもしかたがない。‥‥なんだけど、このまえに観た「千両首」で「こまったなあ」と思っていた部分をそのまま引きついでいるような作品で、ちょっと失望した。
 こんかいのライヴァルは平幹二朗なんだけど、このほかにもいったい何のために出演しているのかわからない用心棒も出てくる。ストーリーがまた悪徳代官もので、土地の親分(これは上田吉之助)と代官が結託して悪事をはたらいておるわけだ。またいつの間にかあらわれるキャラクターとか、よくわからないまま消えてしまうキャラクターがあれこれと出てくる。ただ、座頭市の人情面はよく描かれていた印象はある。じぶんが倒した平幹二朗のむくろに上着をそっとかけてやったりするのだけど、倒された平幹二朗のさいごのことばが「まいった」というのは、失笑を呼ぶ。

 

[] 「座頭市二段斬り」(1965) 井上昭:監督  「座頭市二段斬り」(1965) 井上昭:監督を含むブックマーク

 これまた悪徳代官ものなんだけれども、ここでがぜん面白くなる。脚本に犬塚稔が復帰したということもあるだろうけれど、この井上昭という監督の演出がモダンというか、わたしは気に入ってしまった。冒頭、座頭市が登場するシーンの、手まえのオブジェ越しの美しい構図、楼閣で代官を無表情に覗き見する女郎たちの視線のショット、きょくたんに下からあおったショットや、あげくは真上からのショットなども自意識過剰ぎみに取り入れられている。白い壁だかふすまをバックにした賭場のシーンがまた美しい。ラストのせまい路地を使った殺陣の演出も緊迫感があるし、ここでカメラの市の背なかを追う手持ち撮影も印象に残る。撮影は森田富士郎という方。

 市のユーモラスな側面もじょうずに描いているというか、序盤の、市がおでんにカラシをたっぷりつけて食べるシーンは笑ってしまう。ある意味で、演出がしっかりしていればストーリーが軽くっても充分に見ごたえのある作品を産み出せるのだ、などというと脚本に失礼だろうか。とにかく脚本に前作などのような欠陥はない。あ、今回の準主役は三木のり平で、子連れの壷振りである三木を市がカタギにもどさせるというサブストーリーである。この三木のり平の娘役で小林幸子が出演していた。芸達者である。音楽は伊福部昭なんだけれど、フラメンコ・ギターをフィーチャーした異色な音付けだった。


 

[] 「無法松の一生」(1943) 稲垣浩:監督  「無法松の一生」(1943) 稲垣浩:監督を含むブックマーク

 戦時中の検閲で大きくカットされ、さらにその後GHQの検閲でまたまたカットされた1943年の作品。もちろん無法松は坂東妻三郎で、無法松が慕う未亡人役は、このあとに広島で被爆して夭逝された園井恵子が演じている。

 舞台は北九州の若松で、わたしが生まれたところに近いのだけれども、映画のなかでの出演者のことば(方言)が、ぜーんぜんちがう、という感じはある。ちょっと残念(これは近年の青山真治監督の作品がちゃんとあっちの方言を再現している)。

 冒頭、二階の室内から外を見下ろしたカメラがそのまま外へ飛び出し、外にいた人物をあおる位置にまで降下するという、あっとおどろくショットから始まる。まるで「さすらいの二人」のラストだわさという感じで、撮影は宮川一夫なのであった。ただの導入部のわずかなシーンに、こんな労力をはらうわけである。なんか、そのころの日本をとりまく情況への憂さ晴らしではないかという感覚を受ける。

 わたしは中学ぐらいのときに、学校の体育館でこの映画の三船敏郎版リメイクを見せられた記憶がある。どうしてもそのリメイクの方の「オレは汚れちょる」みたいなセリフが強烈に、ほとんどトラウマのように記憶に残っている(ただし「オレは汚れちょる」というのが正確かどうか自信はないけれど)だけに、松の想いのなんのほのめかしもなく淡々と終わってしまうこのオリジナル版には、ちょっと驚いてしまった。そうか、そこに検閲の魔手が及んでいたわけですか。それは監督も無念だったことだろう。
 それでも、時をへだてたいくつかのエピソードで構成されたこの作品の魅力ももちろんあるわけであって、やはり坂東妻三郎の存在感はすばらしいし、クルクルとまわる人力車の車輪のシルエットでじかんの流れを象徴するショットも美しい。




 

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■ 2011-11-14(Mon)

 ベランダぐらいなら、ニェネントを外に出してやってもいいだろうと思っているのだけれども、きょうもベンナがいるときにニェネントをベランダに出してやった。なんだかほとんどおたがいに無関心で、ニェネントはすぐにベランダの手すりから身をのり出して、ベランダの外に興味を示す。そこでニェネントをベランダからつれもどすわけだけれども、そのあとにベランダの窓を開けると、いっしゅんわたしのわきをすり抜けて、ニェネントがベランダに出てしまった。それだけでなく、ベランダの柵をくぐって駐車場に飛び下りてしまった。まさかそのままどこかへ行ってしまうこともないとは思うのだけれども、やはり気もちとしてはあせる。ベランダに出て下にいるニェネントをみると、「へへん、やっちゃったわよ」みたいな自慢げな顔をしてわたしをみている。それでもその降りた場所からは動かないようなので、急いで玄関から外に出て、駐車場にまわる。そのいっしゅんの、玄関から駐車場に行くあいだにどこかへ行かれてしまったりしたらたいへんなんだけれども、駐車場に行くとニェネントはさっきの場所にじっとしていた。近づくとちょっと逃げようかというそぶりを見せるのであせる。ニェネントは左右をみて、「どっちへいこうか」という雰囲気。でもけっきょくそこから動かずにいて、無事に回収。「ちょっと自由になりたかったのよ」ということなんだろうか。ネコの本性はそりゃあ「自由、好き勝手」というところにあるんだろうから、尊重してはあげたいけれど、外の世界はやっぱり危険。ノミはつれて帰るだろうし、いろんな病気のもとにあふれている。道路には車がびゅんびゅん走っているし、もしも外で同族のネコに出会っても、歓迎してくれるとは限らない。歓迎してくれても、いまのニェネントならそのまま腹ボテになってしまうのだよ。まあこの部屋のなかでおとなしくしていなさい。

 きょうは三連休のさいごの日なんだけれども、きのうまでと同じく、これといった予定もない。ごろごろしていたらへんなすごし方になってしまった。まず、ちゃんと朝食は食べたのに午前中にやたらおなかがすいて、インスタントラーメンをつくって食べた。買い物に出て、賞味期限が近いのか半額で売っていた「月桂冠」の一升瓶を買い、「きゅうにおなかが空いたりするからなあ」と思って、スナックパンなども買う。帰宅して昼間から酒を飲んでTVをみていたら、昼メシを食べるタイミングを逃してしまう。買ったスナックパンをちょっと食べ、夕方までTVばかり観ていた。また録画予定の時間になり、録画のセッティングをしてから、本でも読もうとベッドに横になる。そのまま寝てしまい、目が覚めたらもう八時になっていた。これから起きだして食事の準備をして食べるのもかったるい気がして、「もう寝よう」と引きついで寝てしまう。午前中に二食たべただけで、ほとんど食事をしないで終わってしまったし、午後だけで八時間寝てしまった。リフレッシュなのか何なのか。


 

[] 「悪名」(1961) 田中徳三:監督  「悪名」(1961) 田中徳三:監督を含むブックマーク

 脚本は依田義賢で、撮影は宮川一夫。もちろん原作は今東光だけど、シリーズ化されたあとは依田義賢のオリジナル脚本になったらしい。げんざい鑑賞中の同じ勝新太郎主演の「座頭市」シリーズが楽しいので期待して観たけれど、「座頭市」のどこか破天荒な面白さにくらべて、「折り目正しい」というか、少々まっとうすぎる気がしてしまう。誰も死んだりしないからなのだろうかねえ。そんな理由じゃないだろうけれど。勝新の朝吉と、田宮二郎の「モートルの貞」との、つまりは「バディもの」でもあるはずなんだけど、この第一作ではまだちょっともの足りないし、勝新がいろんな女性に好かれて、そのなかで水谷良重にだけ異様に肩入れするあたりも、じつはよくわからない。

 これは撮影の手柄だろうけれど、勝新が野ッ原で山茶花究の組のものに取り囲まれて対決するシーン、まずは鉄道の陸橋の上から見下ろすかたちで勝新が取り囲まれるショットがいい。そのあとの展開も見晴しがすてき。


 

[] 「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(2010) 大森立嗣:監督  「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(2010) 大森立嗣:監督を含むブックマーク

 印象的だった「ゲルマニウムの夜」の監督の第二作。社会的にも対人的にも切り捨てられてしまう弱者へのシンパシーというか、では「破壊衝動」があって、そのあとにどうなるか、というようなあたりに焦点を当てた作品かと。

 もう60年代じゃないんだから、こういう「逃避行」というのでもないんじゃないか、という思いが強い(「イージーライダー」かよ、って)。そういう社会的弱者の施設に立ち寄るというのも、「わざとらしい」と思う以上の演出上の工夫が感じられなかったのが残念だし、ラストに「あっちへ行こう」と海に入って行くことで、「ウソ」になってしまう。それなら、物語的に回収されることなく、まさに「放り出されて」しまうカヨちゃんにも何らかの「ウソ」を与えてもいいじゃないかということになる。もっと上手なウソを観たかったし、そういう「ウソ」でこそ救済されるものがあると思う。

 なぜか二世タレント乱立の作品で、あれっと思ったら、監督も麿赤児の息子さんだった。麿赤児は、この映画をどう観ただろうか。


 

[] 「マザーズ」金原ひとみ:監督  「マザーズ」金原ひとみ:監督を含むブックマーク

 金原ひとみには、作品をじぶんの実人生と並走させるという大きなモティヴェーションがあるというか、ここでも、彼女の出産〜育児体験がこの作品を書かせたのだろうと。しかしどうも生々しい。小説の体裁をとった育児書じゃないかとも思ってしまって、特に前半はそれまでの彼女の作品にあった「現実」との絶妙な距離の取り方があまり感じられず、ちょっと読みはじめたことを後悔しそうになった。しかし、後半に主人公三人の一人、作家の分身のような小説家が、コカインを服用するところを窓掃除の男に見られちゃうというところからの、まさに怒濤の展開は「さすが金原ひとみ」という感じで、「そうそう、こうでなくっちゃ」などと、およそこの本の主題とは関係のないところで大喜びして読んだのであった。

 まあ金原ひとみというような存在にも、こういう作品を書かせてしまうというのが、「出産〜育児」というもののやっかいなところではあるんだろう。わたしは男性なので関係ないよといいたいところだけれども、元妻の出産〜育児という事態には、その体験を共有した部分もある。だから思い出してあれこれと考えた部分もあった。だからどうということでもない。金原ひとみには早く育児を乗り越えていただき、次のステップの作品を書いていただきたいと思うしかない。




 

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■ 2011-11-13(Sun)

 ベンナはゆっくりと食事をする。キャットフードを出してあげるとすぐにとんで来て、ネコ皿にあたまをつっこむ。それでわたしはわたしのことをやり、TVなどをみたりして、二十分ほどしてベランダをみると、ベンナがまだネコ皿にあたまをつっこんでいる。わたしがベランダをのぞくとニェネントもわたしについて来て、外のようすを気にかけるふうである。また窓を開けてニェネントを出してあげてみた。ニェネントもベンナも淡々としているというか、さいしょはニェネントがベンナに近づいて行って、ちょっと接触するのだけれども、そのうちにベンナのことよりもベランダの周辺のことが気にかかるようすをみせる。ベンナもニェネントが近づくとちょっと背なかを丸くして警戒の姿勢をみせるけれど、すぐに警戒をといてそこにすわり込んでしまう。もうニェネントのことなどどうでもいいようである。ニェネントがベランダから外に飛び降りたりしないうちに、ベランダに出てニェネントを抱き上げて室内にもどる。さすがにわたしがベランダに出るとベンナはベランダから逃げてしまう。

 けさみた夢はまだおぼえているので、いまのうちに書いておく。

 わたしはどこか高いところから、向かいにある建物(三階建てぐらいのビル)周辺の風景を見ている。見ているのはわたしひとりではなく、どうやらわたしの娘がそばにいるらしい。草むらにネコがいて、わたしたちがそのネコの数をかぞえると十匹ぐらいいた(このシーンはどうやら、せんじつ観た映画「世界の現状」の、ペドロ・コスタのパートから来てるんじゃないかと思う)。
 わたしは先ほど見ていたビルの屋上らしいところに来ているけれど、そこでニェネントのなきごえを聴く。ニェネントを探すと、そのビルの屋上に接して、個室を積み木のように積み重ねられたようなカプセルホテルがあり、その手がとどくところの個室のなかで、ニェネントが出られなくなっていた。一メートル四方もないような異様にせまい個室で、ちょうどそのいちばん上の階がわたしのいる屋上からのぞきこめる。その階は屋根のない吹きさらしになっていて、宿泊しているらしい人のあたまと、そこに並んだネコのすがたが見える。
 わたしは誰かにいわれて、電車に乗って旅行に出かけることになる。修学旅行らしい。事務室のような部屋の高いところにある収納を開け、そこにある大きな細長い段ボール箱に、旅行に持って行くものを詰める。妙にガランとした車両のなかで、このまま旅行に出てしまうとあとで旅行の費用を払わなければいけないと思いあたる。4万8千なにがしの金額があたまに浮かぶ。車内の誰かに、「旅行費用が払えないので来るつもりがなかったのに、手違いで来てしまった」と話すのである。

 きょうはヴィデオをたくさん観て、「マザーズ」をほとんど読み終えた。


 

[] 「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(2010) 三浦大輔:監督  「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(2010) 三浦大輔:監督を含むブックマーク

 ポツドールの三浦大輔が監督した作品。ポツドールらしい、イヤなテイストに満ちている。主人公のおもわくはいつも空転し、思いをよせる女性(さいしょは主人公に気があるようだったのだが)には裏切られつづけ、ライヴァル(さいしょは友人だったと思っていたのだが)には敗北しつづける。いろんなひとが主人公を応援しているのだけれども、それでも主人公は負ける。女性はさらに裏切りを重ねる。
 主人公の敗北の姿はみじめで、直視できない。こういうところが三浦大輔氏の持ち味だろう。主人公がずっと思っている女の子は画面に映っているところではけなげでかわいい(まあ主観によるが)のだが、その陰ではまさにビッチな女としてふるまっている。そういうビッチなところの描写がないというのも三浦大輔氏、だろう。ラストのプチ・ハードボイルドな行為と、そのあとの疾走が心地よい。

 

[] 「マディソン郡の橋」(1995) クリント・イーストウッド:監督  「マディソン郡の橋」(1995) クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 初見。なんでイーストウッドはこの映画の監督、そして主演を引き受けたんだろう、などと思いながら観ていた。「ダーティハリー」だとか彼の主演する西部劇などで、彼なりのヒーロー像を造型してきた延長で、既婚の中年女性たちのヒーロー像を、ここで提出しようとしたんだろうか。「理想の不倫相手」と。その「理想の不倫相手」の誘いをラストに拒絶してしまう、というのもまた、観客の既婚の中年女性たちの虚栄心を満足させるわけだろう。ジョニー・ハートマンのヴォーカルが甘い。

 などといいながらも、二度ほど出てくるその「橋」周辺での映像、演出がやっぱりみごとで、記憶に焼きついてしまう。とくに、屋根付きの昼でも暗い橋のなかを彷徨するメリル・ストリープの姿をとらえた映像が。

 いっしゅんだけうつるジャズバーで演奏するバンドのベーシストが、イーストウッドの息子なんだろう。


 

[] 「鈍獣」(2010) 宮藤官九郎:脚本 細野ひで晃:監督  「鈍獣」(2010) 宮藤官九郎:脚本 細野ひで晃:監督を含むブックマーク

 ‥‥舞台での演出と、映画の演出とはまるで違う、はずである。宮藤官九郎の戯曲作品は、主題のまわりをこまかいギャグでつつんでいきながら、予期せぬ物語の飛躍をすらりと通過する。これは舞台上の空間と時間が、それを観る観客がそのとき限定されている空間と時間と共有されることを前提として観客に了解される。ところが映画というものの空間と時間は、そういう舞台という「限定」から自由。その「自由さ」が、その作品のおもしろさにつながらないケースが多い。「限定された」「不自由な」空間と時間から成立する舞台が、その「限定性」、「不自由さ」ゆえに現実をつきぬけた面白さを持ちえるのではないかと思う。
 おそらくこの「鈍獣」も、舞台でならば相当に面白い作品なんだろうと想像できる。しかしこの映画作品としての「鈍獣」、わたしには観つづけることも苦痛で、なんども途中で観るのをやめてしまおうかと思った。いちども笑えなかったし、「?だから?」というままに終わってしまった。なんでこういうことになってしまうんだろう。とりあえず今のところは、「演劇作品は劇場で観よう」というあたりまえのことしかいわない。


 

[] 「海の牙」(1949) ルネ・クレマン:監督  「海の牙」(1949) ルネ・クレマン:監督を含むブックマーク

 第二次世界大戦末期、ヨーロッパでナチスドイツが敗北する直前に、オスロから南アメリカに逃亡しようとするUボートがあった。船内にはナチス将校、フランスでナチスに協力した新聞を発行していたジャーナリスト、イタリアの実業家で元ファシスト党員、その妻、ゲシュタポのイデオローグとその愛人らしいチンピラの男などが乗っている。それぞれの思惑はあるだろうが、南アメリカにナチスの拠点を移し、活動を継続しようとしているらしい。ドーバー海峡でイギリス艦の魚雷攻撃を受けてファシスト党員の妻が頭を強打、意識不明におちいる。船内に医者はおらず、近郊の港町から医者を拉致してくることになる。その医者の視点からの、脱出までの物語。さすがレジスタンスで闘った体験のあるルネ・クレマンの演出で、ナチスへの憎しみに満ちた作品である。そのナチス精神を体現するのがゲシュタポのイデオローグで、ナチスドイツの降伏がわかったあとも乗組員の降伏を許さず、燃料の補給のため接触したドイツの艦船を魚雷攻撃で撃沈するという狂気をみせる。日本の終戦時にもじっさいにこういう輩がいたことは、何かで読んだ記憶がある。

 せまい艦内を移動するドキュメンタリー・タッチのカメラもいいし、なによりもわたしはそういう呉越同舟な人物たちがテーブルを囲む食事のシーンとかが気に入った。ラストの爽快感もいいけれど、主人公とともに艦内で生き延びたはずのかわいいネコちゃんの姿を、救出されたあとにワンショットでもみせてほしかったのである。




 

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■ 2011-11-12(Sat)

 きょうからしごとは三連休になる。べつにここで三日つづけて休みたいと思っているわけでもなく、ほんとうはらいしゅうの半ばとかに休みがある方が、ずっとありがたいのである。とくにやることもなく、つまりは怠惰ないちにちをおくることになる。

 あさは「カーネーション」の一週間分をまとめて観る。先週はデパート(百貨店)の洋装制服の注文を取ってしまう話で、國村隼が百貨店の支配人で出演。とても楽しかった展開だったけれども、今週はまた「ふりだしにもどる」という感じで、デパートの発注を受けたことはなんのキャリアアップにもなっていないみたい。ここでこんどはダンスホールの売れっ子女給のためにイヴニングドレスをつくる話になる。こうやって毎週ふりだしにもどって、毎週新たなチャレンジをして行くのだろうか。けっきょくサクセスストーリーなんだから、トータルになにもかもビッグになってしまうよりは、あれこれの分野ごとのチャレンジとサクセスを盛りこんでいった方が、こまかいカタルシスの連続が得られるわけか。

 風邪のぐあいもすっかりよくなったので、ニェネントといっぱい遊ぶ。ニェネントがどう思っているのかわからないけれど、わたしが移動するたびについてくるのはわたしのことをしたっているから、と考えていいんだろう。パソコンをいじっていても、すぐとなりのテーブルの上にあがってじっとこちらを見ている。「はやく遊んでちょうだい」という感じなんだろうか。
 あいかわらずベンナがベランダに来ている。キャットフードをあげようと窓を開けると、作業台からとびおりてベランダのすみに行ってしまうけれど、そこにじっとしてこちらを見つづけている。ネコ皿にキャットフードを盛って窓を閉めると、すぐにネコ皿のところにやって来て食べはじめる。ベンナの鼻のまわりはそこだけ茶色っぽい。からだ全体はこげ茶と黒のトラだけれど、しっぽだけは黒白のシマ模様で、アライグマのようである。どこでどんなふうに生まれ、どうして野良ネコになってしまったんだろうか。


 

[] 「ダントン」(1983) アンジェイ・ワイダ:監督  「ダントン」(1983) アンジェイ・ワイダ:監督を含むブックマーク

 脚本にジャン=クロード・カリエール、ワイダ本人、そしてアニエスカ・ホランドらの名まえが見える。そうか、アニエスカ・ホランドはポーランドの人だったのかと、いまごろになって知る。原作があって、ゲオルグ・ビューヒナーではなく、ポーランドの作家の戯曲によるものらしいけれど、ワイダはこの舞台をポーランドで演出した経験があるらしい。この映画でのダントン役はジェラール・ドパルデュー、もう一方の主役といえるロベスピエール役をポーランドの俳優ヴォイチェフ・プショニャックが演じていて、やたらこの人の演技が印象に残る。そのほかに、ダントンの盟友カミーユ・デムーラン役でパトリス・シェローが出演している。

 ポーランドにおいて「連帯」に参加したワイダであるから、この題材への思い入れにはよほど大きなものがあるだろうと思う。とくにジョルジュ・ダントンの存在に、ポーランドでの自らの活動をかさねてみていたであろうことも想像できる。しかしこの作品でクローズアップされているのはロベスピエールの方で、ダントンを抹殺しなければならないという、まさに「苦渋の選択」を選んでしまうその彼の、革命思想とでもいうものをあらわにするような作品という印象。救わなければならないのは「革命」であるべきで、革命精神を犠牲にするような路線は、それがじぶんの心情に反していようとも選ぶべきではないと考える、その苦悩がとても印象的に描かれているわけで、これがまた恐ろしくもある。

 ロベスピエールは決して毛沢東やスターリンのように「権力」をこそ望んだのではなく、道なかばの「革命」を遂行するためには「非情」にならねばならないと決意するわけだろう。それがつまり「粛清」となり、恐怖政治を産み出すことになる。結果として毛沢東やスターリンと同様の印象を残すことになり、革命過程の路線堅持ということでは連合赤軍の「粛清」をも想起させられるもんだいである。

 では果たして、「革命」という行為に錯誤がふくまれているのか、「革命」が実現しようとする「人権宣言」のことばがまちがっているのか。救われるべきは彼の考える革命ではなく、「人権宣言」の精神ではなかったのかと問いかけるラストが、見事である。

 そのほとんどが密室での論議であり対話でありという作品なのだけれども、ダイナミックに移動するカメラがそういう議論や対話を劇的に盛り上げる。まるでギリシャ悲劇を演出するような、象徴的な演出もこころに残るのである。ただ単に「ロベスピエール、ひどいよね」というのでは終わらない、重たい作品だった。





 

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■ 2011-11-11(Fri)

 しごとのかんけいでまいあさだいたい四時に目覚め、出かけるまで一時間ほどTVを見ている。たいていの局はこのじかんはまだTVショッピングを流しつづけていたり、時間つぶしっぽい番組が流れているだけなので、古いSLの映像とかを放映しているチャンネルに合わせることになる。このSL映像が終わるとちょっとだけ子犬や子ネコの映像が流れ、十分ほどの世界遺産紹介番組につづく。このあとがまた十分ほど、日替わりでいろいろな人物が登場してオピニオンをのべるコラム番組になる。ほんとうにさまざまなジャンルの方々が登場し、国際問題から国内政治、風俗の話題など多岐にわたるトークを聴くことが出来る。って、いつもちゃんと聴いているわけでもないけれど。ちょっとまえには詩人の長田弘氏も出ていらっしゃったし、聞いたこともないパンクバンドのメンバーが登場して「これってプロモーションだろう」みたいな、「イントロデューシング・アワーセルヴス」で終始した回もあった。きのうかおとといにはわたしも名まえを知っている現代美術の作家が登場し、いま開催中のプロジェクト、というか展覧会の紹介をしていた。‥‥もうほんとうに、日本の現代美術はダメダメだなあと思った。以上。

 この番組が終わるとニュースになるんだけれども、このニュースの女性司会者がなんというか、わたしのいちばん近づきたくないタイプの女性なのである。ふだんいろいろなところに出歩いてもお目にかかることのないタイプというか、さいわいにも実生活でこういう女性とお近づきになったことはない。ふだんはどこかに隠れて棲息しているんだろうけれども、TV局もよくこういうのを探し出して来るものだと感心する。動物園の、好きではない動物の檻のまえでウォッチングするような感覚で、その人物の「こういうところ、こういうしゃべり方がイヤなんだよな」などと思いながらニュースをみて、あさから世界への耐性をちょっとばかし刺激してからしごとに出かけるわけである。

 ニェネントがよく食事をする。いつも前日の食べ残しがよくあさもけっこう残っていたのが、このごろはまいあさネコ皿がきれいに食べつくされている。成長期なんだろうか。「よく食べたねえ」といいながら、あたらしくキャットフードやネコ缶を出してあげる。そのあいだニェネントはニャアニャアなきながら、わたしの足もとのまわりを行き来するのである。ニェネントの食事を出してあげて、つぎはベランダのベンナ用のネコ皿にキャットフードを盛っておいてあげる。ベンナはベランダにいることもあるし、いないこともある。けさはベンナの姿はみえなかった。

 なんだかきょうもWOWOWとかの録画に追われて、ほとんど何も観ないで終わってしまった。やはりリアルタイムに観る習慣をつけないと、これでは「愚行」である。


 

[] 「鉄西区 1部:工場」(2003) ワン・ビン(王兵):監督  「鉄西区 1部:工場」(2003) ワン・ビン(王兵):監督を含むブックマーク

 何年ぶりかの、二度目の鑑賞。もちろんこの「鉄西区」、トータルにすっごいパワーの作品なんだけれども、そのなかでもこの第一部こそはまさに「圧巻」であり、このなかにまさに「世界」、その「歴史」がある。そのように感じてしまう。こんかい見直して、やっぱりやっぱり「すごい」のである。

 まずはその、瀋陽鉄西区を走る資材運搬鉄道運転席からの車窓風景から、工場のゲートが開かれてその工場へ入って行く導入部が、あまりにすばらしい。まあ「電車でGO!」っていえばそうなんだけれども、この車窓風景はこのあともいいところで何度か挿入される。工場地区の衰退とともに沿線風景は変わって行く。線路の周囲にはゴミが散乱するようになる。人の姿は見えなくなり、それまでの人々の喧噪は消え失せる。
 労働者の労働する情景というよりも、このドキュメンタリーではとくに前半、休憩する労働者にスポットがあてられる比率が高い。まあなんで皆さん素っ裸でカメラのまえに立つんでしょうね、って感じだけれども、この建てられてほぼ半世紀は経過するだろう廃墟に近い工場の、その汚れた壁や緑色に塗られたロッカーなどと、そういう男たちの裸体との対比がものすごく強烈である。
 映像は1999年の冬の記録から始まり、2000年のミレニアムを迎える新年会のようすなどもとらえている。へえ、中国の人って、カラオケで歌う人なんて放置状態なんだとか、習慣の違いというか、文化の違いにふれたりもする(これは「東天紅」などの古い革命歌を唄う年輩の上司への、若い世代の「暗黙の無視」なのかもしれないが)。

 途中休憩をはさんで(この第一部だけで240分ある)後半になると、とたんに映像はドラマティックな展開になる。まずは銅製錬所の炉の破損から銅が外に流出する事故がおき、そのあとにはついに工場の閉鎖というニュースが流れ、あちこちの工場から労働者がいなくなる。鉛を扱っている労働者が四年に一度行く療養所の記録になり、そこの池で死者も出る。長く閉鎖されていた事務所に事務員が戻ると、床一面に厚く氷が張っているのをまずは除去しなければならない。工場は次々に閉鎖され、無人の情景がつづくことになる。ここで、休憩まえの、ランダムとも感じられた工場での人々の営みのようすが逆照射され、終末感がいっそう強められてしまう。ああ、あそこには人々のパブリックな営みの「Whole」が記録されていた、それがいま、失せてしまった、という感覚を抱く。「すべて」だとか「全体」などということばではいい表わせない。「Whole」ということばこそが、適切ではないかと思う。

 おそらくは長い期間、工員らとじかんを共にしたであろうワン・ビンのカメラを、被写体であるひとびとはまるで意識していないように見える。もちろん目線をカメラに向ける人もいるけれど、それでカメラから逃げようとするような動きはまるで感じられない。ここまで撮影する側を不可視化するというだけでもすばらしいものだと思うけれど、この第一部のなかで二回ほど、そのカメラが登場人物に意識される場面がある。ひとつは事故のときの映像で、進もうとするカメラを先に行く人物が「危険だからここにいろ」と制止する場面、もうひとつは療養所で死者が出たとき、遺族にカメラがとらえた映像を見せればいいじゃないかという話題になる場面。このふたつ、ぎゃくにカメラ(というか、ワン・ビンという人の存在)がどのように、工場の人たちに日常的に受け入れられていたかを示すことになっていると思う。

 映画技術のことを知らないしろうと感覚でいうけれど、とちゅうで音声は連続していても画面(視点)の切り替わるシーンが何度かあり、いっしゅん複数のカメラが持ち込まれているのかと思ってしまったけれども、これはちみつな編集作業の成果なのだろう。




 

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■ 2011-11-10(Thu)

 きょうもいい天気。また渋谷へ、ワン・ビン監督の特集上映二日め。「石炭、金」を観て、そのあとの「鉄西区」の第一部を観る。終映時でまだ七時まえだったし、映画館から神泉の駅まで歩き、電車に乗って「G」へ行く。Aさん、Bさんと映画やネコの話など。オーナーのCさんはずっと、カウンター席のはじにおいてあるパソコンに向かっていた。むかしここにいたDくんはいま海外にいて、トルコ(イスタンブール)からギリシアにまわっているとのこと。わたしもイスタンブールには行ってみたいと思う。行けるわけないが。

 早めに帰宅して(それでも十時半ぐらいにはなっていたけれど)、きのう録画していたつもりの「座頭市」シリーズの放映、失敗しているのに気づいた。チャンネルをまちがえて合わせていて、バスケのゲームなんかが録画されている。せっかく成田三樹夫が出演していたものなのに、残念。
 ちょっとこのところ録画ラッシュで、またヴィデオテープが間に合わなくなる。放映と同時進行で観ていればいいんだけれども、つまりはとちゅうであれこれと、家事をやったりトイレに行ったりするので、どうもいちど録画して、ということになってしまう。いちど観たらすぐに次の録画を重ねていくように使い回ししているのだけれども、このところあまり録画したものを観るじかんがとれていない。いつもヴィデオを観ていた夕方に「座頭市」シリーズが放映されるようになったので、「この時間は録画中」ということでヴィデオを観ることができない。あとで観るために録画しているのに、観ようと思うと録画をしているさいちゅうで観られない。ちょっと考えるとバカみたいである。これからメトロポリタン・オペラの放映だとか、ニコラス・レイ作品の小特集だとか、録画しておきたいものの放映がつづくので、困ってしまう。やっぱり、録画用のHDDを買いたくもなるのである。年末にはボーナスだの多少の収入増加はあるわけで、パソコンを買い替えるか、あたらしいTVモニターを買うか、それとも遊んで使ってしまうのか、堅実に貯金するのか、悩ましいところである。いやそれよりも、いちにちがあと六時間ぐらいよけいにあって、まいにちよけいに映画を二本観て、さらに二時間ぐらい読書その他ができるようだといいと思う。でもそうしたらTVの方でも六時間よけいに放映時間が増えたりして、おんなじことになってしまうわけだろう。というか、いちにちが二十四時間だろうが三十時間だろうが、じかんは決して余ったりしないのだろうと思う。いちにちはいちにちである。

 以下、きょうは「石炭、金」の感想だけ書いて、「鉄西区」はあしたにでも。


 

[] 「石炭、金」(2009) ワン・ビン(王兵):監督  「石炭、金」(2009) ワン・ビン(王兵):監督を含むブックマーク

 ワン・ビン監督には珍しく、53分という尺のドキュメンタリー。英語字幕版なのだけれども、その英語の短いセンテンスが「take」だとか「get」などが幅広い意味をもたされて多用される、口語的文章。これがわたしはけっこう苦手で、ちょっとつらかった。前もってあるていどの翻訳を含んだ参考資料を配られていたので助かった。これはつまり、現代中国石炭流通の、その「運び屋」を主人公にしたようなロードムーヴィーである。

 まずは、中国北部の内モンゴル自治区近くらしい鉱山での、石炭積み込みから。広大な荒野が土ぼこりで視界がさえぎられ、この土ぼこりの強烈さは印象的。鉱山は露天掘りなのだろうけれど、採掘しているようなようすでもなく、ただ並んだトラックの荷台にユンボが大きな石炭のかたまりを積み込んで行く。そのトラックの運転手だかが、「ここの石炭は質がわるい」とかの話をしている。石が多く、石炭も砕けやすいので採掘にダイナマイトも使えないといっている。乱暴な運転をするとトラックの荷台で石炭が粉々になってしまうと。それにしても写し出される石炭塊は、へたをすると一メートル立方ぐらいありそうな大きさである。

 どうもこのドキュメントに登場する石炭流通にかかわる人たちはほとんどみんな個人業というか、その場その場で価格を交渉して決めて行く。日本でいえば漁業関係の流通を思わせられるけれど、石炭という石っころが金に換算され、トラックの荷台から下ろされたり転がされたりしていくわけである。運送用のトラックはめちゃ巨大というか、大型トラックの後尾にまた荷台を連結して運搬している。35トン搭載しているという会話が出てくる。一トンあたり700元から800元のあいだで皆が交渉している。うーん、漁業関係、つまり水ものなら相場というものが情況で変化するというのはわかるけれど、同じ鉱山から産出される石炭ならば、その流通価格というのはさきにある程度決定されていてしかるべきなんじゃないだろうか。そうすればこの作品で描かれるようなしちめんどうくさい個人レベルの交渉ははぶかれ、もっとシステマティックに流通しそうなものだけれども。どうも考えると、さいしょの鉱山での採掘の段階での鉱石の「ムラ」があまりに大きすぎるために、こんなことになってしまうんじゃないのか。そもそも鉱山の映像に、採掘の責任者みたいな人がみあたらない。ただユンボで地面を削ってトラックに積んでいるだけだから、誰も採掘された石炭の質を保証するものがいない。だからそこから先がみんな個人レベルでの「売り買い」になってしまうのだろう。その、個人レベルの「売り買い」だからこそ、この作品のように商品が金銭化される過程があらわになってくるわけだけれども、ルーティン化された企業レベルでの流通システムからみたら、この作品での「流通」は噴飯もの、だろう。というか、この作品に登場する人物たちの行為はみな、もっと大きな世界レベルの「流通」のなかで安く使われているというか、買い叩かれているわけである。トラックの運転手はじぶんの積んでいる石炭の質に思い悩む必要などないはずだし、荷下ろしして石炭を砕こうとする労働者もまた、労務管理をじぶんでやらなければならないハメになっている。ああ、なんてことをやっているんだっていうことを、このドキュメンタリーは如実に記録している。しかしさて、ここで逆照射されているものは何なのか。たんに「中国、遅れてるよね」というのではないところに、ワン・ビンの鋭さがあるわけである。わたしはそう思う。


 


 

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■ 2011-11-09(Wed)

 しごとから戻ってベランダをみると、いつもの場所にベンナが寝ていた。いちにちあけての再会。「よく戻ってきたね」。キャットフードをあげようと窓をあけると、さっきまでじぶんの食事にかかりきりになっていたニェネントがしゃしゃり出てきて、ベランダの外をのぞこうとする。ベンナは警戒してベランダの奥に逃げ、そこからわたしの動きをみている。ニェネントがそんなベンナのすがたを目にとめたようで、しきりに外に出たがる。どうなるかみてみよう。ニェネントを引き止めていた手を引っ込めてみる。ベンナがベランダの外へ逃げて、ニェネントがそれを追って行ったりしたらたいへんなんだけど、そういうことにはならないんじゃないかと、わたしには予感のようなものがある。
 ニェネントはベランダにとび出してベンナのそばへ行き、ベンナのおしりあたりに鼻を近づけてクンクンとやっている。ベンナはめいわくそうにしていたけれど、ニェネントが鼻先をベンナのからだに押し付けるようにすると、たまらずにベランダの外へとび出していった。ニェネントはベランダに残っている。あんまり放置するとベンナを追って行ってしまいそうなので、きょうはここまで。キミたちは、お友だちになれそうですか?

 きょうも昼間はなんだか暖かい。くしゃみがなんども出て、風邪がぶり返すんじゃないかと心配になる。あしたはまたワン・ビンを観に行きたいので、このまま回復していってほしい。


 

[] 「ゲゲゲの女房」(2010) 鈴木卓爾:監督  「ゲゲゲの女房」(2010) 鈴木卓爾:監督を含むブックマーク

 鈴木卓爾という映画作家、けっこうむかしから好きな人である。インディーズ時代というのか、矢口史靖監督とふたりで司会進行役をやりながら短編作品の上映会をやっていたのを観に行ったこともあった。その後矢口史靖監督はあのようにビッグになられたし、鈴木卓爾氏も順調に活動をつづけられ、さいきんは映画監督としての彼の評判を聞くことも多くなった(役者としての活動もさかんで、よく映画のなかで殺される役をやられている)。前作「私は猫ストーカー」、わたしはまだ観ていないんだけど、とても観たいと思っている。そんな彼の最新作。

 きょねんのあさのTV小説での「ゲゲゲの女房」もだいたい通して観ていたので、どうしても先入観としてもTV版とくらべてしまうのだけれども、企画としてはこの映画の方が先で、「TV版がああだったから映画ではこういうアプローチで」ということではないのだ、ということ。ただ、どうしても観ていて「さあ、そろそろサクセス・ストーリーになるんだろ」みたいに思ってしまっていた。そうではなくてこの作品、どこまでも「貧乏とともに生きる」ということをこそ描いた作品だった。決して笑顔のたえない「貧しいけれども楽しいわが家」とかいうものでなく、やはり貧乏は苦しいしつらい。でも、生活苦をまっ正面からとらえるような、暗い「リアリズム」映画でもない。映画のなかで、訪れた税務署の男たちに「これだけの申告された収入だけで生活して行けるわけがない。隠している収入があるだろう」といわれた水木しげる(宮藤官九郎)が彼らのまえに質札の束をぶちまけて、「おまえらに貧乏生活がわかってたまるか」とタンカをきる場面があるけれど、つまりそういう、「堂々とした」貧乏生活を描いた作品、という雰囲気はある。そこには戦争で片腕を失い、生死の境界から命からがら生還した水木の、「貧乏で死ぬことはない」という信念のようなものがある(しかし、登場人物のひとりは飢え死にするらしいが)。水木家の二階にいそうろうのように間借りする男(村上淳)が水木にめちゃダークなはなしを聴かせるとき、水木は「空気変えましょ!」と窓を開けたりして、この作品が暗い生活苦を描くものではないことをあらためて示したりする。終盤に週間マンガ誌からのSFマンガ執筆の依頼が来るけれど、そういうしごとは自分には継続出来ないとして依頼をことわる。じぶんができないことを引き受けて早晩に行き詰まるよりは、じぶんの出来るしごとが継続していけることを優先する。ラストも決して「成功」を示すものでもなく、それまでと同じ生き方が継続されていることを描いているようである。

 おどろいたことに撮影が青山真治作品でなじみのたむらまさきで、演出を含めて印象的なシーンがあれこれとある。まず、冒頭のシーン、ヒロインの布枝(吹石一恵)がまだお見合いのまえに実家の酒屋を手伝っているわけで、自転車でクネクネした道を酒の配達をしているシーンがとてもこころに残る。二度大きく曲がって、少し勾配が上がって行きながら左右に森がせまって来るような道を、ヒロインが自転車に乗って進んで行くのを、そのうしろからフィックスで撮影している。ヒロインはとちゅうで自転車を降り、手押しで進んで行く。キアロスタミかよ、という感じだけれども、なんだか映画の冒頭からガーン!っという感じである。
 ふたりが結婚してのよる、しげるが布枝に風呂で背なかを流してくれとたのむシーンからも印象に残る。そうか、片腕なのだからじぶんでは流せないわけだということだけれども、それで布枝が靴下を脱ぐシーンになる。ここは画面は足のアップになる。つぎのシーンではもうふたりは寝ているのだけれども、布枝がふとんから立ち上がって、寝巻きのまえを合わせようとしている。ふとんの下をさぐって寝巻きの帯をみつけ、敷きぶとんの下から帯を引っぱり出す。すごくいいシーンだった。

 基本的に音楽がついていない(音楽は鈴木慶一)。ずっと背景は無音なんだけれども、あるとき布枝が部屋で壁を見上げると掛け時計が止まったままになっている。彼女は下に踏み台を置いて上がり(ここでも足のアップ)、時計を十二時十七分ぐらいに合わせてネジを巻く。ここからバックに時計の振り子の音が継続するようになる。この時計の「十二時十七分」という時刻は、映画のラストで写される時計の指している時刻でもある。

 ラストの音楽に、久々に小島麻由美の歌声を聴いた。彼女には「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな曲もあったことを思い出す。こんかいは作曲が彼女自身ではないのがちょっと残念な気がするけれど(鈴木慶一さんがダメというわけではさらさらない)、彼女の歌声もまたこころに滲みた。

 わたしも貧乏生活が好きで実践しているが(というか選択の余地はないのだが)、いまは質屋が活用できるような時代ではないし、貧乏生活ということではまだまだわたしも修行がたりないと、痛感するのであった。






 

■ 2011-11-08(Tue)

 きのう観た映画についての補足。「鳳鳴—中国の記憶」の英語字幕で、「人民公社」はやはり「Commune」と翻訳されていた。日本ではダイレクトにそのまま「人民公社」として訳されているけれど、60年代以降の西欧で毛沢東思想が広く支持された背景に、この「コミューン」ということばの威力があったのではないだろうか。これはわたしの勝手な想像である。

 もうひとつ、シャンタル・アケルマンの「上海の夜は落ちて」のことがどうもあたまを離れないのだけれども、あの長いショットでビルの側面に何度もあらわれる中国語の内容がわかった。「都市は暮らしをいっそう良くします 愛される上海人になりましょう」という意味らしい。あの上海の夜の景観が、どうやってこのメッセージに結びつくのだろうか。「良い暮らし」とはどういう暮らしなんだろう。それが都市で得られるとはどういうことなのか。「都市=上海」を「東京」におきかえると、「東京は暮らしをいっそう良くします 愛される東京人になりましょう」となるからわかりやすい。押しつけられる「幻想」であるし、都市以外の地域は、都市に比するなら暮らすには値しないといっていることになる。押しつけられなくっても、こういう幻想を抱いている人はいる。わたしはそこから逃れようとしているわけだけれども、ではきのう、「上海の夜は落ちて」を観ながら味わった甘美な想いは何だったんだろう、ということになる。都市には魅惑されるけれども、その都市に取り込まれてしまってはいけないと、わたしは思っているわけだろうか。つまり、都市とは性悪女だな。

 きょうはベンナのすがたをいちども見なかった。ベランダのネコ皿が空になっていても、それをベンナが食べたのか、それともジュニアが食べたのかわからない。ジュニアのすがたも見なかった。

 風邪はずんずん快方に向かっていると思っていたけれど、しごとから帰ってしばらくすると、また熱っぽくなってしまった。まだ気をつけていないと。

 夕飯のおかずにまた肉じゃがをつくった。こんかいこそはじぶんの考えている味にしようと、ちょっと調べたりしてからとりかかる。手順はほとんど同じだけれど、しょう油だけはずっとあとになって入れる。カレーの材料を煮込んでカレールーを投入するようなタイミング。ただそれだけでずいぶんと風味が変化する。この味の方がわたしはずっと好きだけれど、まだ理想には遠い。


 

[] 「座頭市千両首」(1964) 池広一夫:監督  「座頭市千両首」(1964) 池広一夫:監督を含むブックマーク

 撮影が宮川一夫にバトンタッチしたので期待して観たのだけれども、これはひどい。いままで脚本にかかわっていた犬塚稔がこの作品ではかんぜんに抜けてしまっているようだけど、つまりまずは脚本がとてもいいかげんではないかという印象。解決のつかないまま放り出されてしまっていることがらや、わけもわからずに出番がなくなる登場人物があれこれとある。座頭市を含めて登場人物らの行動原理がまるでわからないし、その行動の目的がいつのまにか忘れられている。シリーズのここまででかなり確立している座頭市という造型さえ真ん中に置いておけば、それでなんとか絵になるだろうという「やっつけしごと」っぽい印象。シリーズのまさに「中だるみ」状態の作品であろう。

 演出もほとんどみるところもなく、出演する俳優は自分のやりたいようにやっているだけにみえる。とくに新国劇のスター島田正吾(国定忠治役)は、まさに新国劇スタイルそのままに演じていて、周囲の役者との演技の乖離があまりに大きすぎる。これは島田正吾が良くないのではなく、演出の責任だろう。その忠治が赤城山を下り、追っ手が手に手にちょうちんを持って追うところの、宮川一夫の撮影のみ、わずかな見どころだったという感じだった。

 たいていの映画作品にはそれぞれの面白さがあるわけで、観ていて大きく失望することもあまりないのだけれども、この作品にはしんそこ失望した。めずらしいことである。




 

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■ 2011-11-07(Mon)

 きのうだったかおとといだったかもう忘れてしまったけれども、夢をみた。「ああ、風邪をひいて熱があるからこんな夢をみるんだなあ」と思った記憶はあるから、どこか奇妙な夢だったのだろう。しかしどんな夢だったのかもう思い出せなくなってしまった。なんとなくさいきんは夢をみたらこの日記に書いてみようと、決めたわけでもなくばく然と思っていたので、そうやって忘れてしまう夢というのが気にかかる。でも、決めていたことではないので忘れたなら忘れたでいいじゃないかとも思う。そうすると、そうやって何も決めようとしないでずっと生きて来たんじゃないかね、そのていたらくがコレだろうと、まったくつまらないことも考えてしまうのである。これもまだ風邪が抜け切らないせいだろう。

 あさ起きるとすっかり熱の気配もなく、ふつうに行動できるようである。しごとに出て、ふつうにしごとをして帰宅して、ニェネントに食事を出してやり、ベランダをみてまたベンナが来ているのを確認してからベランダのネコ皿にキャットフードを盛ってあげる。さあ、きょうは出かけようと準備をする。げんざい開催中の「ワン・ビン全作品一挙上映!!」というやつ、きょう行っておかないとどうしても観ておきたい「鳳鳴—中国の記憶」が観られなくなるし、「世界の現状」も観ておきたい。どうやら体調もOK。天候も絶好。

 電車に乗るとまたとなりの女性二人組がグルメな話をはじめて、このあいだやはり電車のとなりになった同じ二人組なんじゃないかと思ったけれど、そのあたりは深く追求しないうちにわたしは寝てしまった。電車のなかで寝てしまうのは体調を崩すげんいんになるのでヤバいのだけれども、映画館のなかで寝てしまうよりはいいかもしれない。道中のほとんどを寝ているうちに渋谷到着。映画館へ行く。

 けっきょく、同じ映画館でいま上映しているヴェンダーズの「パレルモ・シューティング」は、スケジュール的にもう観られなくなってしまった。吉祥寺で上映しているときに「いいや」と行くのをやめて、この渋谷で上映がはじまってからも「金がない」とか「風邪だ」とかいうことで予定を変え、とうとうアウトである。しかたがない。
 この映画館に来るのははじめてだけれども、ロビーがなんだかせまくてうす暗く、ちょっと開場をまっていても気がめいる。上映開始ギリギリまで開場しなくて、ずいぶんロビーでまたされた。なんだか映写の担当のひとが入場の案内もしているようす。これとチケットの販売の女性がひとりと、ひょっとしたらふたりだけでやっている気配もある。苛酷だなあ。

 予定通り、連続して二本の作品を観た。ひさしぶりになんというかアートっぽい作品を観た気分で、そういうのをものすごくおもしろいと思いながら観ている自分がいた。

 帰りの電車のなかでは読みさしの金原ひとみの「マザーズ」がずいぶんはかどった。自宅駅で下車してスーパーに寄り、このじかんには半額に値引きされたさしみなど、出来合いのおかずを買って帰った。先日炊いたご飯が保温して残っているので、これでかんたんに遅い食事をすませてから寝る。観て来た映画のことをあれこれ考えて、寝つきが悪かった。


 

 

[] 「鳳鳴(フォンミン)—中国の記憶」(2007) ワン・ビン(王兵):監督  「鳳鳴(フォンミン)—中国の記憶」(2007) ワン・ビン(王兵):監督を含むブックマーク

 183分。ものすごくたんじゅんなセッティングで、カメラ据えっぱなしのような映像なのだけれども、なぜか圧倒されたドキュメンタリー、だった。そこに垣間見える「演出」が、また刺激的なのである。もちろんまずは、ここで被写体になっている中国の「反右派闘争」、「文化大革命」で迫害を受けた鳳鳴という女性の存在感、その「語り」のちからこそがあるのだけれども。

 この作品のなかでその鳳鳴さんがみずから語っているように、彼女はすでにこの作品で語られる主題についての著作があるらしい。そのことが、このよどみのない語り口にもつながるのだろう。
 じつは、さっきこの作品に関しての王兵監督のインタヴューを読んだのだけれども、そこで監督は「彼女と同じような体験(迫害)を受けた人は数多くいる、しかし、彼女のように語れる人はいない」と語っている。まさにその通りだろうと思う。わたしも中国の近代史の本や文化大革命の本を少しは読んでいるし、たとえば田壮壮監督の映画「青い凧」でも、この「反右派闘争」がどのようなものであったのかは描かれていた。それに、同じ王兵監督の「溝」(この作品は「無言歌」という邦題でらいげつロードショー公開されるそうである)もすでに観ている。そういう意味で、「そんなことがあったのか」という新たな認識を得た、という内容ではない。しかし、こうして、このように語るひとの姿、その姿をこのように記録する映像というのは、やはりやはり、「驚異」なのである。その語られた内容ではなく、その語りを納めたこの映像が、なにもやっていないようでいて、「ミラクル」である、と思ってしまう。そう、ふつうのドキュメントであれば、もっと演出を加えて、たとえば当時のフィルムや写真などで語られることがらの「事実」を強調し、補強しようとするのではないだろうか。わたしもこの作品のラストでは、そういう当時の写真とかが登場するのではないかと思ってしまったりしたけれど、とにかく映像に記録されるのは語る鳳鳴さんの正面からの姿と、わずかに彼女の住まいのなかの様子、そして冒頭の、戸外で彼女の部屋まで歩いている彼女のあとを追うカメラからの彼女の後ろ姿の映像、それだけである。

 冒頭。その彼女の後ろ姿。つまりは、スタッフが彼女の部屋に招かれて、これから彼女の話を聴くというわけである。カメラは一定の距離を保ちながら彼女のあとをついていく。これは、「名まえのない男」でのカメラを思い出させられる。彼女が歩むごとに、彼女の靴が「キュ、キュ」と音をたてているのが印象に残る。

 カメラは彼女の部屋に入り、居間のいろいろな陶器などが置かれるテーブルの手まえにセットされる。うしろの壁に冬景色らしいものを描いた油絵の額が飾られていたのは記憶に残っている。彼女はテーブルのうしろのソファにすわり、「自分に語り聞かせるようにしてしゃべりますね」と語ってから、1949年のことから語りはじめる。「自分に語り聞かせるようにしてしゃべりますね」ということは、つまりスタッフ(監督)から彼女に質問などをして話を誘導することはないということであり、すべては彼女にゆだねられているということだろう。ここから、三時間に及ぶ彼女の語りがはじまる。カメラは基本的にフィックスされているけれど、アップされた画像、さらにもう少しアップされてバストショットぐらいになる画像と、三段階ぐらいに切り替えられる。べつにそれは彼女の表情に注目させるためではなく、かなり恣意的な印象で切り替えられていく。

 そう、彼女の語りでひとつこころに残るのは、彼女にとっては悲惨な体験であろうことがらを話ていても、決して感傷的にならないことである。話に熱が入って声の調子が高くなることはあるけれど、つまって語尾を濁らせたり、頭の向きを変えたりすることはいちどたりとない。いつもカメラの方に顔を向けているけれど、その視線が彼女の内側を向いていることだけはたしかだと思う。でも、感傷には決して陥らない。そこにこの作品の素晴らしさがあると考えると、やはり彼女は希有な語り手だといわざるを得ない思いがする。長い語りの結びもまた印象的なもので、1979年に彼女もようやく復権を果たしたことを踏まえ、当時の「反右派闘争」で告発され、「右派分子」とのらく印を押されて公権を剥奪されたものが55万人いて、げんざいではその99.98パーセントの人が(収容所で死亡した鳳鳴さんの夫をふくめ)復権しているけれど、それでもなお0.02パーセントの人はいまだ復権することなく現在にいたっていると彼女は語る。それは、ありえないことではないのか。いまなお復権を果たさず「右派分子」の汚名を着せられたままの、千人近い人たちが存在すること、それは当時の中国共産党の「反右派闘争」というものを正当化しようとするものではないかと、彼女は告発するのである。当然である。およそ人はその政治的、宗教的信念、その他もろもろあらゆることがらによってはく害されてはならないことは基本中の基本であり、もしも国家というものに正当な存在理由があるなら、そのまっさきにあげられなければならない国家の基本理念だろう。国家の進路に反対する意見の人たちの権利をはく奪し、政治犯として処罰する国家とは全体主義へと向かうのである。中国という国が民主国家の道を歩もうとするのならば、その「反右派闘争」、「大躍進政策」そして「文化大革命」、さらには「天安門事件」のいまわしい過去をてっていして反省し、被害者が復権されなければならないだろう。そのことをあらためて認識させられる、そういう鳳鳴さんの「語り」であった。ひとごとのようによその国のことを書いたのでついでに書いておけば、この日本でもその裁判から百年の時をすぎた「大逆事件」の、その被告たちはいまになっても復権なされないままでいることを忘れてはならない。わたしも、こういういまわしい国家のなかで生きているのである。

 長くなってしまうけれどもう少し。固定されたカメラからとらえられ、ただ彼女の語りを記録しただけのようなこのドキュメンタリーだけれども、もちろんそこには「演出」がある。そして、その「演出」こそがこのドキュメンタリーに比類のない重さを与えることになっている。

 まず、彼女の語りは窓からの光源のみをたよりに記録されはじめるわけだけれども、じかんの進行とともにだんだんと部屋は暗くなっていき、彼女の表情もしかとはわからなくなってしまう。ただ、ときどき彼女のかけているメガネのレンズが光を反射する。このある時点で、おそらくは監督が彼女の話をさえぎり、「明かりをつけてください」というようなことをいう。それを聞いた彼女が席を立って、部屋の蛍光灯のスイッチを入れる。以後はその照明の一定した明るさの下での記録になる。これは監督が撮影に夢中になって、もしくは鳳鳴さんが語りに夢中になって照明のスイッチを入れ忘れたのではなく、あきらかに「演出」である。この効果のほどを書くまでもないと思うし、あまりに長くなってしまったのではしょるけれど、この作品のなかでほかに「演出」と認識できるのは、たとえばとちゅうでトイレに立つ彼女の行動、そしてかかってくる電話など、これも演出だろう。
 さきに書いたように、カメラは基本彼女の語る姿を正面からとらえるのだけれども、さいごのパートではカメラは彼女とともに別の部屋に移動し、書き物机にすわる彼女の姿をうしろからとらえる。それと前後に二回ほど、室内から窓をとらえた長くはないショットがある。

 もうひとつ大きな「演出」を指摘すれば、その彼女の語りはさいごに、彼女が復権後にふたたび彼女の夫の亡くなった収容所を訪れたときのことになるのだけれども、ここで室内はおそらくは冒頭の夕暮れの光にもどり、つまりおそらくはこのパートの語りはもっと早い段階で語られていたわけで、編集によってさいごに持ってきたのだろう。

 ドキュメンタリーもデジタルヴィデオによる撮影があたりまえになり、フィルムでの撮影では考えられなかった長時間のワンカットでの撮影が可能になる。そこからあらたなドキュメンタリーの可能性がうまれる。この作品もそのあらたな可能性を求めたものだともいえる。

 さいごに書いておけば、この作品で語られたことに潤色を加えてつくられたのが、これからロードショー公開される「無言歌」であることがわかった。また、この日この作品につづいて観た「世界の現状」での王兵のパートもまた、この作品からの延長でつくられた「ドラマ」である、と思う。



 

[] 「世界の現状」(2007) アピチャッポン・ウィーラセタクン/ヴィセンテ・フェラス/アイーシャ・アブラハム/ワン・ビン/ペドロ・コスタ/シャンタル・アケルマン:監督  「世界の現状」(2007) アピチャッポン・ウィーラセタクン/ヴィセンテ・フェラス/アイーシャ・アブラハム/ワン・ビン/ペドロ・コスタ/シャンタル・アケルマン:監督を含むブックマーク

 2007年のカンヌ映画祭の監督週間で公開された作品だということで、2008年の東京国際映画祭で上映されたことはあるそうな。ポルトガルの製作になる作品で、六人の映像作家による、一作十五分ほどの短編のオムニバス。

●「聡明な人々」アピチャッポン・ウィラーセタクン:監督(タイ)
 げんざいとてつもない規模の洪水に見舞われているタイの、その川の流れをテーマにしたような作品。高速で進むボートに乗る人たちは、これから水葬を行う遺族たちらしい。オレンジの僧衣をまとった僧侶の姿もみられる。犬も一匹同乗している。カメラもボートにいっしょに乗っていて、そのボート内からの映像のみの作品。大量の花びらなど色あざやかな供物といっしょに、無造作にヴィニール袋に詰められていた遺灰らしきものも川に投げられる。川の水は茶濁していて、川の流れに逆行するボートにあたって波打つ水のいきおいが強い。川幅は広く、これはメコン川なのだろう。乗っている若者が、夢のなかに死んだ父が出て来たことなどを話しているけれど、その声はオフで映像はほかのものを写している。わからないけれど、タイの人々と川との深い深い結びつきを感じさせられる。死んだ人々のたましいは川にたゆたっているのだろうか。「ブンミおじさんの森」にも葬儀が出て来たことを思い出す。

●「ゲルマノ」ヴィセンテ・フェラス:監督(メキシコ)
 わたしはてっきりブラジルの映画だと思い込んで観てしまったけれど、メキシコの監督の作品らしい。風景の美しい湾を舞台とした物語。いつからかその湾にタンカーのたぐいの巨大な廃船が捨てられるようになり、湾内の漁獲量が激減しているらしい。そういう、もう漁業をやめようかと考えている三人の漁師たちが主人公。なんだかドキュメンタリーっぽい作品をつづけて観ているので、いまはこういうナラティヴなドラマというものに拒否反応がある。ラストになぜか旧ソヴィエト時代最後の現役タンカーに、エンジンの止まった漁船が衝突しそうになる。この寓意が、わたしにはまったくわからないのである。お手上げ。

● 「片道」アイーシャ・アブラハム(インド):監督
 ネパールから密入国同然にインドに移って来た男をとらえたドキュメンタリー。彼はバンガロールで警備員として生活しているけれど、その住まいも建築中のビルのなかを建築の進行につれて移動させられるような。最下層クラスの人々として、いいように使われているのだろう。バンガロールはまるで上海のように発展をつづける都市。ネパールの現状も男のネパールへの想いやTVのニュース映像などで紹介される。わたしもたしかきょねんあたりのニュースでみたけれど、この国の長くつづいた王制は混乱の末にピリオドを打ち、たぶんげんざいも毛沢東主義の政党が第一党として連立政権を樹立しているはずだけど国内の混乱はおさまらず、王政復活を求める声も大きいらしい。ところがそんな国王候補がアホみたいな発砲事件を起こしたというニュースだった記憶がある。この作品でも主人公の男が「王制でも共産党でもどっちでもいい」みたいなことを語るけれど、極端な例を引き出して語っているのではなく、じっさいに「王政か毛沢東主義か」という国なのだ。男はネパールへ帰りたいと思うのだろうか。

●「暴虐工廠」ワン・ビン(中国):監督
 時代は1967年だというから、「文化大革命」の初期のころという設定だろう。廃工場のなかで、男たちが「反革命分子」とされた女性に拷問を加え、同士の名まえを吐けとせまる。もちろん「反革命分子」との告発も恣意的なものだろうし、共謀はありえないのだから「同士」など存在するはずもないことは観ていて想像できる。拷問を受けても、ウソでもつかないかぎり逃れるすべはない。さきに観た「鳳鳴—中国の記憶」の鳳鳴さんの語りを思い出させられるけれど、鳳鳴さんはこういう拷問を加えられたという話はしていない。ほとんど拷問自体が目的化しているようで、カメラが移動すると別の男が拷問で死にいたらされたのであろう死体を洗っている。女性も撲殺され、そのセクションの上司らしい男が「捨ててこい」という。画面が変わって、おそらくは現代になる。同じ場所なのか、やはり廃工場を男たちが手作業でこわそうとしている。あるところには火がかけられ、画面手前にいる男が床板らしきものを鉄の棒でこづきつづけている。その床板の下には地下室があるんだろうと思える。この作品はここで終わる。闇から闇に葬られる過去ということだろうか。クレジットに出る出演者の名まえは五人だけである。ということは、1967年の部分で拷問に加担する男たちが、その工場を解体する場面でも登場しているということになる。意識的なダブルキャスト。

●「タラファル」ペドロ・コスタ(ポルトガル):監督
 「ヴァンダの部屋」のように、または「鳳鳴」のように固定されたカメラからのドキュメント風映像。アフリカ系の中年の女性が、十代前半だろうその息子と対話している。母親は息子に、死ぬことを定められた人はある男からまずは手紙を受け取るのだという話をしている。息子は外に出て、そこにすわるひとりの男と他愛のない話をする。開けた地平の向こうに家並みがあり、彼らのそばには二匹のネコが近づいている。壁に貼られた紙がアップで映る。ある男に「不法滞在ゆえに出頭せよ」と書かれた役所からのもののようである。これがその母の語った「手紙」なのだろうか。タイトルの「タラファル」とは、1975年までポルトガル領だったアフリカ西端の島国、カーボヴェルデにあった刑務所の名前だったらしい。登場人物もカーボヴェルデの人たちなのだろうか。かつてカーボヴェルデからポルトガルに移住した人々にいま、国外退去命令が出されているらしい。

●「上海の夜は落ちて」シャンタル・アケルマン(ベルギー):監督
 名まえだけは聴いたことのあったシャンタル・アケルマン、初体験。ひたすら、現代の上海市街の夜の映像を映しつづける。町にながれている音楽なのか、世界中のポピュラー・ミュージックみたいなのがランダムに聴こえている。海上をすすむジャンク船のような船は、帆の代わりに巨大なLEDパネルを積んでいて、そこにイメージ映像がながされている(日本でもそういうスクリーンを積んだ大型トラックが走っているけれど)。後半はずっとフィックス画像で、ふたつの高層ビルの壁面がスクリーンとして、巨大なイメージ画像が映されている。その光景を延々と。「ブレードランナー」の近未来都市のイメージがここで現実のものになっている、という印象もないわけではないが、なぜかじっと観ていて、こころに染みてしまった。自然の景観の美しさではなく、どこまでも人工の景観、人工の光が世界をつつんでいる。わたしはどこかのテーマパークのライトパレードを観ている気分になってしまっていたのかもしれないけれど、たとえば草間弥生の作品にだって、こういうことを感じさせるものがある。シャンタル・アケルマンは、こういう都市の姿を批判しているのだろうか、肯定しているんだろうか。わからない。ただ、わたしは行ったことのない見知らぬ都市の姿に、ひたすら見惚れてしまっていただけなのだろうか。それはそれでいいんじゃないかと思っている。なぜか記憶からぬぐえない映像だったことだけは、たしかなことなのである。




 




 

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■ 2011-11-06(Sun)

 きょうも少し熱っぽいのだけれども、だいぶ楽になった。しごとも非番なので、いちにち静かに過ごして症状がやわらぐのを待つ。できればあしたはしごとに出ておきたいし、そのあとワン・ビンの特集上映もなんとか行きたいと思っているので、安静に安静に。

 やはりあさベランダをみるとベンナが寝ている。この段階からどうやっててなずけて、部屋に入って来れるようにするのか、その道は遠い気がするけれど、すくなくともとうぶんはこのベランダにいてくれることだろう。ジュニアがもう来ないことを期待するのだけれども、ひるまベランダをみると、そのジュニアがキャットフードを食べていた。わたしは窓を開けておどして、ジュニアを追い出すのである。

 午後にはだいぶ調子が良くなったようだったので、買い物に出る。ふだん買わないお菓子などをたくさん買った。帰り道、ウチの前の道にジュニアがいるのがみえた。またウチのベランダをねらっているようで、近づいて追っ払う。相手はネコなんだけれども、これではイタチごっこである。

 きょうはほとんど本を読まなかった。

 

 

[] 「北京の55日」(1963) ニコラス・レイ:監督  「北京の55日」(1963) ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 もうじきはじまるニコラス・レイ特集上映の前哨戦。わたしの記憶で彼の作品を観たことがあるとすれば「理由なき反抗」かな、とは思うのだけれども、観ていたとしてもこれはむかしすぎて、まったく記憶に残っているものがない。「大砂塵」もおそらく中学生とかのころにTVで観ていると思うけれど、これもなんだか洞窟のなかに男女がいてどうこう、というような記憶がないでもないけれど、それがはたして「大砂塵」なのか、まったくほかの映画の記憶なのか、まるでわからなくなっている。とにかくちゃんと観ておきたい監督の筆頭にあげたい監督なんだけれども、そうやって(ほぼ)はじめて観る彼の監督作品「北京の55日」は、どうやらほんとうのニコラス・レイの持ち味とは距離のある作品なのだろうと思うしかない。つまり、70ミリ大画面による歴史スペクタクル巨編というわけで、1900年の義和団事件での、六月から八月にかけての北京ろう城戦を中心に描いた作品。どうやらいっぱんには列強の中国進出を正当化した、もんだいの多い作品という評価になっている作品のようではある。とにかく観てみようと。

 どうやらもう、映画の冒頭から中国への列強支配はもう避けられない状態になっているような描写になる。それぞれの国の公使館のまえにそれぞれの兵士が整列し、各国の国歌がかさなって演奏される(日本の国歌も流される)シーンから映画ははじまり、それを聴いた中国人が「なんてうるさいんだ!」「あれは中国を食いものにしようとする猛獣らの雄叫びなのさ」などという会話を交している。なかなかシニカルである。しかし、次のシーンでは義和団員らがイギリス人牧師に残虐な暴行を加えているシーンになる。これをこの映画の活劇部分の主人公らしいチャールトン・ヘストンがなんとかしようとする。残虐な中国人に対しての人道的西欧人という対比になって、がっかりする。しかしどうも主人公のチャールトン・ヘストンはぜんたいを通して直情的というか、あまり首の上にのっかっているものを使えるような人種ではないように見受けられる。代わりにいっしょけんめい解決案を探ろうとするのがイギリス公使のデヴィッド・ニーヴンなんだけれども、いまとなってみれば、こういう人道的解決を求めているようで、西欧の立場をさいごまで擁護しようとするやからがいちばん悪質ではないかという感想も出てくる。穏健な人物と描かれているけれどもいやらしいのである。もうひとり、ロマンス部分担当というか、零落したロシアの男爵夫人をエヴァ・ガードナーが演じている。このあたりの熟女というか、おとなの女性を描くというあたりに監督のニコラス・レイの持ち味がありそうではあるけれど、この映画での相手役はそういうことのまるで似合わないチャールトン・ヘストンが引き受けてしまってるので、まあすべて台無しである。なんとか負傷したイギリス人の看護につとめてその女性らしいやわらかさを出そうとはするけれど、かつて中国の男と不倫して離婚されたというのなら、映画のなかでそういう中国の人間との親密なところをみせてほしかった。同じように、中国人とのあいだに娘をもうけたイギリス人の話も出てくるわけで、この混血の娘の未来をどうするのかというサブのテーマもある。この少女がとてもかわいいのだけれども、なんだかそれで解決したのだかどうだか、かなりアバウトなエンディングになる。

 中国側はつまり清王朝末期というわけで、西太后の時代だけれども、ここでは暴走して義和団に肩入れする皇太子がひとり悪役っぽいイメージになってしまい、映画のなかで彼にも自分の政策を語らせるチャンスをあたえてやりたくなってしまう。ただ、その皇太子らの強引さに疑念ももっている、悩める西太后という描写には演出でのリスペクトも感じられ、ラストの西太后のセリフをきわだたせる。冒頭で「野蛮な中国人」という描写になる、とは書いたけれど、そのまえにチャールトン・ヘストンが兵士らに「長い文化を持つ中国人を蔑視するな」と語るように、映画のなかでは基本的に、中国の文化には敬意をはらっていることがみとめられる。すぐに出てきそうな貧民窟などの描写はないし、当時の中国美術、建築を再現した美術スタッフのしごとも見事なものだと思う。もうちょっと、そういう宮廷いがいの中国のひとでの大きな役がほしかった気がする。
 デヴィッド・ニーヴンの家族の挿話でも描かれるように、中国へ赴任して来ている西欧人の、故郷へ寄せる思いもまたテーマのひとつとして描こうとしているわけだけれど、彼らの帰郷をはばむものがいったい何なのか、帰りたけりゃあ早く帰りゃあいいじゃないかと思ってしまうわけで、つまりこの作品では見えないものがある。その見えないものが何かというと、つまりは「帝国主義」というものではないのか。登場してくる西欧人が誰も、彼らがそのとき中国でおこなっていることに疑問を投げかけたりしないのが、この映画の悲しいところである。

 それで、ニコラス・レイの演出のことを考えるのだけれども、だから脚本に困った部分はいろいろあるように思えるなか、例えば冒頭のイギリス公使館での盛大な舞踏会と、それに対抗するような紫禁城内の壮麗さ、西欧文化とは異なる厳粛さの提示などに意気込みは感じられるし、さきに書いたイギリス人の父と中国人の母との混血の少女への肩入れは大きなものに感じられる。文化をまたいだドラマを描きたかったのではないかとか推察はしてしまうけれど、製作サイドの意向に押し切られている感じはする。列強による中国の分割支配を正当化した作品、という評価はしかたがないところだと思う。


 

[] 「座頭市喧嘩旅」(1963) 安田公義:監督  「座頭市喧嘩旅」(1963) 安田公義:監督を含むブックマーク

 ついに、過去のしがらみから逃れた「座頭市」シリーズ。前作までのストーリーから引き継がれたプロットはどこにもない。だからというわけではないけれど、これはおもしろかった。

 下妻一家というのが登場するので、この下妻を地名から来るものだとすれば、やはりまだ北関東をさまよっておられる市っつぁんである。旅の途中で、さむらい連中に追われている藤村志保を助ける。この藤村志保が日本橋の豪商のむすめで、どこかの藩に奉公に出ていたのがそこの殿に手込めにされそうになったのを逃げて来たということで、市は江戸まで送っていくことを約束する。ところがまわりに藤村志保がいい金になると知った悪党があれこれと。しかも、市っつぁんはどこかの一家に抗争の助太刀を依頼されていてことわっていたのが、そこにも藤村志保の存在が利用されてしまう。市っつぁんは例によって藤村志保ととっても仲良くなってしまうけれど、自分はカタギじゃないからさいごまで藤村志保を送ってあげられないとは思っている。それでも藤村志保には「ちゃんと送っていってあげるからオレを信頼してくれ」とはいっている。ラストはそのふたつの組の抗争、対決で、ロケーションもなんだか黒澤明の「用心棒」をほうふつとさせられるものになる。

 「見せ物(つまり「居合い抜き」をみせること)」と「ケンカの助っ人」はおことわり、といっている座頭市だけれども、つまりは助っ人を引き受ける。ここで助っ人料をたくみに引き上げる市っつぁんのかけひきするトークが痛快で、そのあとの彼の行動も義きょう心とか仁義とかとは無縁で、きれいごとではすまない世界に住む男、ということが痛感させられる。彼を動かすのは信頼するに足りる人間関係であって、信頼していない人間など利用すればいいだけなのである。こんかいは藤村志保に信頼され、とにかくその信頼には答えなくてはいけないとがんばるのである。そう、藤村志保とふたりでおにぎりを食べるシーンがいい。
 ラストの群闘シーンも見ごたえがあって、カメラもがんばっている。スカッとする快作。




 

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■ 2011-11-05(Sat)

 風邪の症状はさらに悪化。どうもきのう、足湯などやってちゅうとはんぱに汗をかいたのがよくなかったのではないかとか思う。これからはみょうな自己流療法はやめておこう。
 とうぜんのように、きょうのしごとは欠勤ということで電話で連絡した。ムリをして出勤するのも自分のためにもよくないし、ほかの人に感染させてしまうおそれもある。あしたはまた非番だから、なんとかあしたいっぱいでふつうに行動できるようにもっていきたい。
 夕方には咳がひどくなった。咳をしてもひとり。

 そういう体調なものだから、きのうなどニェネントの発情期の「甘え」もほとんどほうったらかしで、ニェネントは「かまってよ」とばかりに、しょっちゅうわたしの腕とかをなめてきていた。また奇声をあげてなきながら、部屋のなかでウロウロしていたのだけれども、そういうほうったらかし状態であきらめたのか、きょうはそういう発情気分もおさまってしまったようである。このついたちからつづいたニェネントの発情気分、こんかいは四日間でおしまいかな。

 さて、もう一匹のネコ、ベンナの方だけれども、あさのまだ外もうす暗いころ、窓から外をみるとやはり、作業台の上で寝ていた。どうやらこの場所を定宿とこころえているようすで、よるもずっとこの場所ですごしているんだろう。キャットフードをあげようと窓を開けるとあわてて作業台から飛び下りて、ベランダのすみへ待避する。わたしが皿にキャットフードを盛っているようすをじっとみている。わたしが窓を閉めるとすぐに寄ってきて食べているようである。

 ゴロゴロしながら本を読み、ヴィデオを観てすごす。「マザーズ」も、「キャッチ=22」もようやく離陸、という感じ。夕食はお茶漬け。

 

 

[] 「新・座頭市物語」(1963) 田中徳三:監督  「新・座頭市物語」(1963) 田中徳三:監督を含むブックマーク

 ストーリー的にはまだ前作までの展開をひきずっているところもあり、前作のラストで市にたおされた親分の一味が座頭市を追っている。この作品の舞台は真壁から下館のあたりということで、つまりわたしの住んでいるこのあたりである。真壁のあたりという設定でさいしょの方にだだっ広い野っ原が出てくるけれど、たしかにこの風景にはこのあたりの郊外を思わせるところがあって、意外にじっさいにこのあたりでロケしてるんじゃないかと思った。というかそれよりも、この作品の製作からほぼ半世紀、このあたりにはそっくり、この映画で映されたような荒涼とした風景が残っていることにおどろくべきか。つまり、江戸時代(もしくはそれ以前)からまったく変わらない風景。

 また監督がかわって、ここでは田中徳三監督。舞台が下館に移ってからはほとんど夜間の展開で、家と家とのあいだの路地などを使ったシーンとかが、奥行きを感じさせて、そのよるの明かりの使い方とともに印象に残る。朝まだきの霧のかかった森のようすも美しく、この作品からカラー作品になっているわけだけれども、じゅうぶんその効果を感じさせる絵づくりになっている。アクション・シーンも派手になってきた感じ。
 市はヒロインの坪内ミキ子に惚れられて、いちどはカタギになっていっしょに暮らすことを約束する。そのときに彼を追ってきた男と対決し、ボコボコにされてもいいと仕込み刀を捨てるのだけど、追って来た男の方も事情を理解し、サイコロの丁半勝負で市の腕を賭けて決着をつけることにする。ほんとうは市は勝負に負けているのだけれども、男は出た目を変えて自分が負けたことにして去っていく。しかしその男も、かつての市の剣の師であった男に斬り殺される。このかつての師は坪内ミキ子の父でもあるのだがつまらない悪党になってしまっていて、ラストでついに市はその師と勝負する。
 カタギになるという約束は反古にするし、その女性の父を殺害してしまうわけだから、もうふたりで暮らすことなどはできない。またも市はひとりで去っていくのであった。無常。


 

[] 「座頭市兇状旅」(1963) 田中徳三:監督  「座頭市兇状旅」(1963) 田中徳三:監督を含むブックマーク

 こんどは下仁田あたりが舞台で、どうもこのシリーズはいつもこのあたりとか北関東周辺が舞台で、つまりそれが座頭市の行動範囲ということで、ずっとシリーズが連続していることもあらわしている印象。ここでも第一作と第二作のヒロインだった万里昌代が登場してきて、ストーリーの連続性を感じさせる。ところがこの万里昌代、あまりストーリーにかかわらないまま殺されてしまう。なんだか殺されるためにだけ登場してきた感じではある。

 こんかいは、いつの間にか座頭市の首に賞金がかけられているというところから始まるわけだけれども、冒頭の祭りの相撲大会に市が出場して、ばったばったと相手をつぎつぎになぎ倒していくところが楽しい。

 監督は前回にひきつづいて田中徳三監督。ここでは昼間の大乱闘シーンなどで魅せてくれる。かなりアップでとらえた映像とか、アクション・シーンとして印象に残る。座頭市も「いい仕事をした」という感じのラストで、前作までの無常感はかなり薄い気がする。


 

[] 「疑惑の渦巻」(1949) オットー・プレミンジャー:監督  「疑惑の渦巻」(1949) オットー・プレミンジャー:監督を含むブックマーク

 オットー・プレミンジャー監督というのはどういう人なのか、いままでに彼の作品で観たことのあるのは「黄金の腕」「月蒼くして」「悲しみよこんにちは」ぐらいのもので、アルコール依存症のギャンブラーの話、ちょっとアブないセリフ満載のラブ・コメディー、そしてフランスのベストセラー小説の映画化と、どうも共通項がみえにくい気がする。まあこの三作でムリしていえば、ちょっとアブない話をスタイリッシュな演出でみせるということになるんだろうか。知らなかったのだけれども、このオットー・プレミンジャー、この作品でも主演しているジーン・ティア二ーの主演の「ローラ殺人事件」(1944) で監督デビューしているらしい。この「ローラ殺人事件」はかなりいいらしい。らいしゅうあたりWOWOWで放映されるので、楽しみである。

 この作品、「疑惑の渦巻」というのはなんか大げさな邦題だけれども、原題は「Whirlpool」なんだからしょうがない。原作小説が別にあるらしいけれど、脚本はベン・ヘクトによるもの。催眠術による新手の犯罪を描くことにモティヴェーションがあったのだろうけれど、「容疑者Xの献身」じゃないけれど、なにもそんなしちめんどくさいことやらなくても、という感じがしてしまうプロットではある。まあみているとバーでのグラスの処理とか、「なるほどね」ということではあるけれども。

 演出のテンポもストーリーテリング(ただ、ラストはちょっとご都合で流れてしまった気がするけれど)も魅力的だし、俳優陣もとてもステキである。主演のジーン・ティア二ーがまず、どこか生活に不安を抱えた上流階級夫人っつうのを演じていてみごと。わたしがいちばん気に入ったのが、この初老の担当刑事(チャールズ・ビッグフォード)で、ちょっとの出番で役を越えた生活感を出していてすばらしい。それともちろん印象に残るのは犯人役のホセ・フェラーの憎ったらしさと奇怪さで、その自信たっぷりでイヤミな言動と、「そこまでやるか」という犯行の仔細に薄気味悪さが倍増される。




 

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■ 2011-11-04(Fri)

 やはりまた、風邪をひいてしまった。熱がある。このところの気候は調整がむずかしい。どうも水曜日あたり、さいしょの暖房のきいた室内でのしごとで汗をかいて、つぎに吹きさらしの倉庫へ移動して、冷えてしまったのが原因だと思う。きょうはしごとは非番だったけれど、あしたまでに回復できるだろうか。なんとか熱をとばそうと、風呂にちょっとだけ湯をはって足湯をやる。これが効き目があるらしい。本など読みながらしばらく足湯につかっているとからだぜんたいが暖まってきて、汗をかきはじめた。これがはんぱな汗ではなく、着ている服が汗でぐっしょりになるので着替える。これがまた汗をかくのでまた着替える。いっぱい汗をかいたのでなんとか行けるかな、などと思ったけれどもダメだった。悪寒と鼻水でダウン。

 あたらしいネコだけれども、ベランダに出してあげたキャットフードは順調に食べているようす、だと思っていたら、ちょっと窓ごしにベランダをみると、そこでネコ皿にあたまをつっこんでむしゃむしゃキャットフードを食べているのは、白いネコだった。ジュニアである。そうか、やっぱり生存しておったか、とは思う。しかし、生きていてくれたことにはちょっとの感慨はあるけれど、わたしはジュニアのめんどうをみようとは思っていないのである。おそらくはジュニアは道路の向かいの家でめんどうみてもらっているんじゃないかと、わたしは勝手に推測している。とにかくジュニアごときに「オラ、オラ!」とばかし、新参の子ネコを追い出されてしまいたくはない。ベランダの窓をあけ、ジュニアを威嚇する。ジュニアはむかしのジュニアとかわらずにこそこそと逃げていく。この、逃げていくときのジュニアの下半身の動き、うしろ足の屈曲した感じがいかにも卑屈で、どうもわたしはそういうジュニアが好きになれない。

 あとでベランダをみると、そのあたらしいネコはまた作業台の上で寝ていた。ちょっとうれしい。
 あたらしいネコに名まえをつけてあげたい。ニェネントはアフリカ西部のウォロフ語で「4」の意味だったわけで、いなくなったジュロームは「5」だった。もういちどまたウォロフ語のお世話になって、ここはリセットして「1」ということにしてあげたい。ベンナ、である。まだ男の子だか女の子だかわからないけれど、ベンナならどっちでもだいじょうぶだろう。そういうわけで、これからはあたらしいネコをベンナと呼ぶことにする。ベンナともっと、なかよくなりたい。

 昼食でつくりおきのカレーを食べてしまい、夕食には白菜を八分の一ぐらいにカットしてあるのを20円で買ったのを使い、鶏のレバーと削り節で炒めたものにした。レバーの威力で風邪がふっとんでしまえばいい。昼寝はいっぱいしたし、夜も七時頃にはもうふとんにもぐりこんで寝てしまった。

 

 

[] 「ラヂオの時間」(1997) 三谷幸喜:原作・脚本・監督  「ラヂオの時間」(1997) 三谷幸喜:原作・脚本・監督を含むブックマーク

 あるべきものが何かの横槍で、どんどん元の姿から崩壊して行くさまを描くのが、このころの三谷幸喜氏の作品の特徴というか、「笑の大学」は検閲官の存在によって台本がどんどん書き直されていくわけだし、このあとの「みんなのいえ」も、夢みたマイホームが「船頭多くして舟、山に登る」ということになってしまう(よくおぼえていないけれど、そうだったはず)。まあこの「ラヂオの時間」は、そういう崩壊感覚がいちばんみごとに描かれた作品じゃないかと思う。かんぜんな密室劇というわけではないけれど、ラストまですべて放送局の建物内でおさめたのもよかったと思う。そのラジオドラマの原作者(鈴木京香)がドラマに託した夢(妄想)が、主演のふたり(戸田恵子と細川俊之)の気まぐれ(ライヴァル意識その他)で壊れていく。崩壊を防いで整合性を持たせようとするスタッフの努力は、よけいにドラマをとんでもない方向への脱線へと導く。それでも三谷幸喜氏はちゃんと着地点を模索するわけで、そういうあたりが例えばむかしのボンド映画「カジノ・ロワイヤル」での「すべてが崩壊したままで終わる」という構成とはちがうよね、ということになる。わたしは崩壊しっぱなしでいいと思うんだけれども、こういう、どうしても着地点に回収したいというあたりに、わたしはなんというか、三谷幸喜氏の限界を感じてしまったりもするわけである。

 この作品が「映画」としては三谷幸喜氏の第一作ということで、あれこれの試みにもトライされているわけだけれども、やっぱり「とっても下手」で、さいしょの長廻しにも、とちゅうで流れとしては途切れてしまう箇所が気になるし、奇怪なショットの挿入も流れをとぎらせている印象もある。ガタガタなんだけれども、妙に整合性を持たせようとしているあたりでまたスケールも小さくなっている気もする。それでも、どこか「いきおい」でみせてしまう楽しさがある。これ以降の彼の映画作品、もっと技巧的なことを追い求めているんだろうけれど、やはり「上手ではない」し、よりスケールがこまくなってしまっている印象。いままでのところ、この「ラヂオの時間」がいちばん楽しい、ですね。




 

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■ 2011-11-03(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 ついに、あのネコがわたしのまえに姿をあらわした。またベランダの作業台の上で寝ていた。ここはこれから寒くなると絶好のひなたぼっこスポットになるだろうからなあ。やはり野良ネコなのだろうか、わたしがベランダの窓を開けるとベランダのすみに逃げて行ってしまう。それでもすみにじっとしていて、こちらの様子をうかがっている。カラになっているネコ皿にキャットフードを盛ってあげて窓を閉め、しばらくして部屋のなかから様子をうかがうと、いっしょけんめいキャットフードを食べているところだった。

f:id:crosstalk:20111104153510j:image:right やはり、ニェネントなどよりもからだがひとまわりは小さい感じで、これはまだ一歳にもなっていないんだろうと思う。六ヶ月ぐらいなんじゃないか。かわいいけれども、目つきがするどい感じなのが野良っぽい。生まれたときから野良だったのか、それともさいきんになって捨てられたとか迷いネコになったとかの事情はわからないけれども、もうこのあたりは野良ネコが生きていくにはハードな環境になっていると思う。よくこれまで生きてきたと思うけれど、もう、またこのままいなくなってしまって、「ああ、やっぱりダメだったんだろうか」と想像するのはイヤなのである。どこまで出来るかわからないけれど、出来ればめんどうをみてあげたいと思ってしまう。

 ミイを慣らすときにはベランダの窓を開け放っておいて、ミイが勝手に部屋に入ってこれるようにしておいたのだけれども、いまはニェネントが外に出て行かないように窓を閉め切っておかなければならないので、まずは部屋のなかに入れてあげるというのがむずかしいだろう。とりあえず、しばらくはベランダにキャットフードを出しておくことをつづけるしかないだろう。それでいつまでも野良ネコのままでいると、どこかで迷惑をかけることになるだろう。ただ食べ物をあげるだけでいてはいけないんだけれども。

 きょうはWOWOWでずっと、三谷幸喜の特集というか、彼の舞台作品や映画、そしてWOWOWのための新作と、あさから放映がつづいていて、なんだかけっきょくこれをずっと観てしまった。家事をしながらとか、友だちとメールを交換しながらとか、パソコンをいじったりしながら、そしてとちゅうで昼寝をしたりしながらだから、あんまりちゃんと観ていたわけではない。
 しごとから帰ってTVをつけると映画版の「笑の大学」をやっていて、これはいぜん舞台版をTVで観たことがあるけれど、密室での二人劇だった舞台版の方がずっとおもしろかったなあ、などと思いながら観た。これが終わると「ラヂオの時間」で、わたしは三谷幸喜の映画ではこれがいちばんというか、いまのところこれしか楽しめる作品がないわけで、久しぶりにちゃんと観てしまった。感想は別にしてあした書くけれど、かなり大笑いした。そのあとは夕方からさいきんの舞台の「ベッジ・パードン」の放映。ロンドン留学時の夏目漱石のはなしで、漱石を野村萬斎、ロンドンでの漱石のささえになる家政婦のベッジを深津絵里が演じていた。深津絵里は声だけとか聴いていると、とても深津絵里とは思えないのであった。さいきんの三谷幸喜氏には石川啄木をモティーフにした「ろくでなし啄木」というのもあったけれど、そういう伝説的な作家を主人公にした、フィクショナルな伝記をつくることにシフトしているわけだろうか。ここでも漱石のちょっとネガティヴな側面を描いているようでもある。まあ井上ひさしみたいにはなってほしくはないけれど。
 などと思っていると、その「ベッジ・パードン」のあとは「ろくでなし啄木」の放映。観ながら寝てしまい、目覚めたら新作の「Short Cut」というのがはじまるところで、チャンネルを合わせてベッドから観ていたけれど、そのまま寝てしまった。なんとなく鼻水が出て、風邪っぽい。


 

 

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■ 2011-11-02(Wed)

 思っていたとおり、ケータイはしごと場の車の床にころがっていた。みつからなかったらたいへんなところだったけれども、ひと安心。

 ベランダのネコ皿はやはり誰かが食べて行った形跡があり、というか、あさになってみたら空になっていた。しごとに出るまえにキャットフードをまた盛っておいて、しごとから帰るともうキャットフードはなくなっていた。用心深く、わたしの気配がないときにだけベランダにやってくるんだろうか。ここに来ていることはたしかだろうけれども、その姿が見えないというのはつまらない。というか、このあいだ見たネコではない別のネコが来ているのだという可能性もある。ジュニアもきっとどこかでしぶとく生存していることだろうし(そう期待している)。

 せんじつつくったカレーはまだずいぶん残っているので、きのう思いついたように茄子を炒めてちょっと煮て、カレーのなかにぶっこんでまたあたためた。(ちょっと)ゴージャスになった。

 

 

[] 「座頭市物語」(1962) 三隅研次:監督  「座頭市物語」(1962) 三隅研次:監督を含むブックマーク

 WOWOWではこの十一月に「座頭市」シリーズ全作品を放映する予定らしく、そのしょっぱな、まずはこの記念すべき第一作から観てみる。監督は三隅研次、音楽は伊福部昭、脚本は犬塚稔という人で、この人こそ座頭市の生みの親、ということも出来るそうである。

 やっぱり、まずは三隅研次の演出がいい。冒頭の座頭市の登場シーンの、わきからのぞきみるような、手まえの障害物ごしの移動撮影から、みるものの気もちを持っていかれてしまう。それでまずは「いいカモが来た」とばかりにたかる賭場の連中を逆ねじにかける導入部が最高で、このユーモアの感覚がこの後の座頭市シリーズの通低音になるんだろう。

 この第一話の座頭市のライヴァルは平手の造酒で、これを天知茂が演じているのもこの作品の魅力のひとつ。労咳病みの厭世的な剣豪はそれでも釣りが趣味で、そこで同好の士の座頭市と知り合い、ともに酒を酌み交わして語り合う仲になる。いがいと人恋しい両ヒーローだけれども、いずれは互いに剣を交すことになるだろうという予感。とうぜんそのラストの対決で座頭市が勝つのだけれども、平手の造酒が倒れるときに「どんな死に方よりも、おまえに討たれたということがうれしい」と語り、これはもういのちをかけたラヴシーンである。

 そういう情緒面と、クールな闘争劇とのバランスがみごとなこの第一作で、そういう意外と人なつっこい、情に厚いところもあるけれども、情にほだされることのできない渡世人の哀しみも描写される。とにかくとにかくおもしろくって、夢中で観てしまったシリーズの第一作だった。


 

[] 「続・座頭市物語」(1962) 森一生:監督  「続・座頭市物語」(1962) 森一生:監督を含むブックマーク

 その第一話の、ほぼ一年後の物語で、ストーリーは前作からちゃんと連続している。つまり座頭市は平手造酒の一周忌に墓参する。クライマックスはその墓地を中心に展開。座頭市の兄の与四郎という人物が登場し、これをまさに勝新太郎の実兄、若山富三郎が演じている。この兄弟のあいだに、ひとりの女性をめぐっての、いまだに解決しない憎しみが横たわっているわけである。さらに、第一話からひきつがれる因縁もまた解決されなければならない。この第一話と第二話とでもって、ある意味で過去のしがらみから座頭市は解放されるのだということもいえるだろう。

 ここでの監督は森一生。ノワール色が少し強くなる感じで、追うもの、逃れるものという対比がひとつの基調にもなる。殺陣はこちらの方が前作よりも精密な感じがした。しかし、このラスト。余韻も何も観客に感じさせるまえに、ばっさりとぶった切って、ばっさりと「終」の文字が出る。誰にも文句をいわせないような、究極の「終」ではあるだろう。ちょっと、あっけにとられてしまった。




 

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■ 2011-11-01(Tue)

 ケータイを、しごと場に忘れたまま帰宅してしまった。おそらくは移動の車のなかに落としたのだろうと思う。持っていたバッグが車のなかで倒れ、いっしゅん「なかみが座席の下に落ちちゃったんじゃないかな」と思ったのだけれども、きっとそのとおり、そのときにバッグのなかのケータイがこぼれ落ちてしまったんだと思う。なんだかケータイが手もとにないと落ち着かず、アラームとしても活用していたのであしたのあさちゃんと起きられるかどうかも心配になる。考えてみたらケータイのアドレス帳にしか記録していないデータもいっぱいあるし、ちゃんとパソコンの方にも転記しておかないと、ほんとうになくしてしまったときに困ることになるだろう。

 ほんとうはきょうはしごとのあと東京に出て映画を観ようと思っていたのだけれども、ケータイは時計のかわりにもなっているわけで、電車の時間の確認とかに不安もあるし、おそくに帰宅することになって寝るのがおそくなると、それこそあしたのあさが心配にもなる。それでもよほど出かけてしまおうと思って、いちどは家を出たのだけれども、「やっぱりきょうはやめておこう」と、とちゅうで引き返した。そのあとは家でごろごろと、何もしないでいちにちをすごした。

 ベランダに出してあったキャットフードがきれいになくなっていて、つまりはネコがベランダに来ていたということ。「ああ、やっぱり来たんだ」と、なんとなくうれしくなった。まず、おととい来ていたネコにまちがいないだろう。また皿にキャットフードを盛っておき、ときどき窓からベランダをのぞいてみる。きょうはそのネコの姿をみることもできなかったけれど、またネコウォッチングな生活がやってくるといい。
 ニェネントの方はまた、発情期になった。しばらくはまた悩まされることになる。

 夕食にきのうつくったカレーを食べてから冷蔵庫に茄子が残っていることを思い出し、カレーを仕込むときに茄子も使えばよかったのにと思いあたる。

 きょうはヴィデオはなんにも観なかった。本は「キャッチ=22」と金原ひとみの「マザーズ」、そして「日本美術の再検討」の三冊を並行して読んでいる。小説を読むというのはその小説の世界にはいりこむまでにじかんがかかって、そこまでいくのになかなか気もちが集中できなかったりする。「キャッチ=22」も「マザーズ」も、なかなか離陸できない。「日本美術の再検討」がおもしろく、ここまでのところでまとめておく。

 

 

[] 「日本美術の再検討」(1)矢代幸男:著  「日本美術の再検討」(1)矢代幸男:著を含むブックマーク

 そもそもわたしは明治以前の日本美術史など学んだこともなく、「再検討」もへったくれもないのだけれども、とりあえずは中学あたりで学んだ日本美術などの概念の記憶、いま現在わたしなどが美術館などでそういう美術を鑑賞するときにたよりにする自分のなかのデータベースなどへの問い直しには導かれる思いがする。以下、この書物の章ごとのまとめとして。

●序—美術史と美術
 まず、日本美術研究には<総論>はあっても<各論>がないというか、基本となる作家の個人研究がおろそかになっているという指摘。日本には規範となる「雪舟伝」も「光琳伝」もないと(この「日本美術の再検討」が書かれたのは1958年から59年にかけてのことだから、その後情勢は変わっているのだろうけれど、たしかに日本美術の世界には個人研究の書物はいまでも少ないように思う)。
 もうひとつ、ここで西欧のオリエンタリストによるよる東洋(日本)美術の研究が、近代日本でも美術研究の規範にはされるわけだけれども、資料的価値のみ過大に評価され、十全とした芸術批評の対象になっていないのではないかという指摘が出てくる。これはまさにサイードの「オリエンタリズム」のもんだいで、この時代にこういう指摘がなされていることは注目すべきだと思うし、いま現在の鑑賞においても留意しなければならないことだろう。
 この延長で、岡倉天心の<東洋の精神>から日本美術を読み説くにも疑問を呈することになる。なるほど、「オリエンタリズム」をそのオリエント側から呼び寄せたのが岡倉天心である、という指摘は正しいだろう。

●考古学年代の問題
 ここでもんだいにされるのは、はたして縄文文化と弥生文化は一民族の文化として連続したものだろうか、という問いかけで、あまりにもその様式の異なる両時代の土器や、土偶、はにわを見比べると、これは異なる民族の支配の交代をあらわしているのではないかということ。いわれてみるとたしかにそうだ。このあたりはわたしにはよくわからないけれど、残されたこのふたつの時代の考古学的な出土品は、その作成技術もまた大きく異なってしまっているのだから、こういう劇的な変化もまた起こり得たのかもしれないな、とは思う。

●古墳美
 わたしはじっさいに古墳というものをみた記憶がないからわからないんだけれども、著者は古墳というのはその周辺の環境からふくめて保全しなければならないと主張している。この著作が書かれてすでに半世紀、もうこれはまにあわないんだろうな。周辺の風景美を含めての古墳の立地があったという主張で、こういうことがちゃんとなされていれば、わたしなどの古墳観はすっかり違っていたかもしれない。そもそも古墳のあるところが観光地になっているというはなしを聞いたこともないし(宮内庁の管轄だから、観光地にしちゃいけないのか)。

●日本彫刻の問題点
 つまり、西欧の人体美を追求する彫刻作品と、日本の寺院にある仏教彫刻とは、そのあらわそうとする世界観がまるでちがうのだということ。寺院の美術館化にも苦言を呈していて、そもそも正面から眺められるようにつくられている仏像を横からみたりうしろからみても意味がないだろうと。まあそのあたりはあんまり心配して下さらなくっても、みる方では宗教的精神はだいじにしてみていますよ、といいたい。でもやっぱり、横からみたりもしたいんですね。90度の精神的啓示、というのもあるわけで。

●奈良朝美術の複雑性
 ここではいっぱんに中国(唐)伝来の唐美術とされている作品にも、純然とした日本製の作品もあるのではないかという問いかけ。このあたりは考古学のもんだいもあるので、読者としてはおまかせいたします。




 

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