ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2011-12-15(Thu)

[] 「人間の條件 第六部 曠野の彷徨篇」(1961) 小林正樹:監督  「人間の條件 第六部 曠野の彷徨篇」(1961) 小林正樹:監督を含むブックマーク

 しばらく彷徨をつづける梶たちだけれども、またべつの敗残兵と合流し、かなりの人数にふくれあがる。そこでもやはり、梶はリーダー格をまかされることになる。まだ生活をつづけている日本人たちの集落にたどり着くけれど、その集落には老人と女たちばかりである。長老格は笠智衆、女のひとりを高峰秀子が演じている。集落にはいくども敗残兵たちが通過していったようで、そんな敗残兵たちに集落の女たちは慰めを与えている。それは自分たちもまた生き延びるための方策なのだろう。そんな生活のありさまを高峰秀子が梶に語るシーンがあるけれども、ここでの高峰秀子はちょっともったいぶった、「うまい演技」というのが先に感じられて、わたしはあんまり感心しなかった。

 集落にソ連兵一隊が近づいてきて、梶たちは隠れて戦闘準備をとっているけれど、一触即発というときに高峰秀子がとび出して来て、「ここを戦場にしないで」とうったえる。これを聞いた梶は日本兵全体に投降を呼びかけて、全員で捕虜になることを選ぶ。ちょっとばかし観念の先走りした脚本ではないかという気がしないでもない。これから先は俘虜生活である。

 ここで、梶がいかにも当時の左翼的に、ソヴィエトロシアという社会主義国に過大な夢と期待を持っていることがわかる。なんだ、めっちゃ左翼マルクス主義者だったんじゃないかと、ちょっとばかし鼻白らむ。第一部や第二部のあたりでのヒューマニストぶりは右翼左翼とはかんけいなく、根源的なぶぶんで梶という男が持っていたものではないか、という気がしていたんだけど、第三部の、新城というあきらかに左翼マルクス主義者との出会いで、あれ?梶もやっぱりマルクス主義者なのか?という疑問を持ったのだけれども、ここにきてあまりに明白に、梶もまたマルクス主義に期待をかけている左翼だったと了解される。つまり、ある意味でこの連作でうったえられているのは、「ヒューマニズム=左翼」という図式でもある。

 この映画が製作、公開されたのは1959年から1961年にかけてのことで、まさに六十年安保の前後である。そういう社会的空気を感じるなあ。ぐうぜんにも、さいきんは新藤兼人監督の「第五福竜丸」、そして山本薩夫監督の「荷車の歌」と、どちらも1959年公開の映画を観てしまっている。いったいどんな年なんだと、この年の「キネ旬ベストテン」を調べてみると、第四位に「荷車の歌」、第五位がこの「人間の條件」の第一部/第二部、第八位が「第五福竜丸」で、第十位にまた「人間の條件」が、第三部/第四部でランクされている。なんだ、わたしは、一気にそういう1959年の空気にみちた作品を連続して観ていたわけだったのか、という感じである。ちなみに、この1959年のキネ旬が選んだ日本映画の一位は、今井正監督の「キクとイサム」、二位が市川崑監督の「野火」で、三位が今村昌平監督の「にあんちゃん」だった。どれもわたしは観たことがないので、どうこうということはできないけれど、このころが政治的な空気にみちていたことにはまちがいはない。翌60年には山本薩夫監督の「武器なき斗い」、大島渚監督の「日本の夜と霧」などがリストに上がっていて、この「人間の條件」第五部と第六部は、1961年の四位にリストされている。このことでわたしはやはり、「日本の夜と霧」がターニングポイントになっているのではないかという考えもあるのだけれども、そのあたりをここで書いているとどんどん脱線していって終わらなくなってしまうので、このあたりまで。

 とにかく映画の方はまだつづき、捕虜収容所内で桐原にまた会ってしまうわけである。彼は将校待遇という地位を利用して、梶と、梶といっしょに捕虜になっている寺田に苦役を与えつづける。梶は捕虜規律違反としてソヴィエト軍の会議に呼び出される。そこにソヴィエト共産党員らしき人物をみとめ、「彼になら、わたしは語りたいことがいくらでもある」と思うのだけれども、彼の存在をこころよく思わない日本人通訳の意図的誤訳もあって、つまりは絶望的な結果になる。ほのかにスターリン主義への批判を感じさせる演出ではあるけれど、そのことはこの作品からははなれた、1961年の時点からの批判だろう。梶の絶望とスターリニズムとは、むすびつくだろうか。

 桐原の卑劣な課役で病床にあった寺田が、さらに桐原によってリンチ的な苦役を課されて死亡する。梶は夜中に桐原を呼び出して撲り殺し、収容所を脱走するのである。

 わたしがむかしTVでみた記憶のある、その加藤剛主演のTV版「人間の條件」の記憶は、どうやらこの最終部分のようだった。襤褸を着た加藤剛がまんじゅうを盗み、雪原をどこまでも歩いていくシーンが記憶からよみがえった。そして、「こういうの、最近なにかで観たなあ」と思ったのだけれども、考えてみるとそれはイエジー・スコリモフスキ監督の「エッセンシャル・キリング」の予告の映像だった。映画本編がどのようなものか、観ていないのでなんともいえないけれど、なんか「エッセンシャル・キリング」と、この「人間の條件」第六部とをみくらべてみたいなあ、という気分にはなった。

 全編終了。たとえどのような結末を迎えようとも、梶はスーパーヒーローである。戦時中にこのような生き方をつらぬいた存在もあったかもしれないけれども、やはりわたしにはこの作品、「もしも汝がヒューマニストを自認し、また(もしくは)マルクス主義者としてでも、反戦の意志、もしくは人権を守る意志をつらぬこうとしているとして、戦時下、そして終戦時の混乱の困難な状況のなかでもまた、(たとえその結末がどのようなものであろうとも、この映画の梶のように)その生き方をまっとうできるのか」という問いかけを、観るものに痛烈につきつけるもののように思えてならない。敗戦後の、敗残兵としてのサヴァイヴァルを賭けた逃避行での「じぶんが生き残るため」のちから、というのはヒューマニストとは無縁の、あくまでその人の力量のもんだいではあるように思えるから、ちょっとこの第五部と第六部は別もんだいかな、という気はするけれど、まあ彼はスーパーヒーローである。観ているわたしなりあなたは、どこまで彼にちかづけるか。これはつまりこの映画の公開された日米安保条約締結というときに、あなたはどんな行動ができますか、という問いかけでもあるだろう。あなたも梶のように行動しましょうと。

 この映画でわたしがちょっと感銘を受けたのは、先にも書いたんだけれども、そういう行動がじぶんだけのことではなく、その家族のこともまた考えたうえでの行動であるべきというあたりで、新珠三千代の「それではわたしは犬ですか」ということばが、わたしには重たかった。たとえば自分が反戦主義者で徴兵忌避をして監獄に入れられるとして、自分はそれでよくっても、残された家族もまた自分の行動のせいである種のはく害を受けるとしたらどうだろう。そういうことである。まあつまりは家族もまた「同志」であらねばならない、ということに落ち着ければいいけれども。

 わたしは決して梶のようなマルクス主義者ではないし、なにもかも梶の行動や考えに同調するわけでもない。梶が桐原を撲殺するのはつまり「暴力革命」かいな、などと思ったりする。また、ぜんたいにとてもリアルにもんだいを追求している印象のこの映画、それでもやはり映画的「きれいごと」もふくまれていることもたしかだと思う。それでもあれこれと思うところの生まれる作品だった。ここには書いていない、わたしのかんがえていることもたくさんある。ちょっと急いで書いたので混乱してるかも。あ、混乱はいつものこと。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20111215/p2
   3267136