ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2012-01-07(Sat)

 また夢をみて目を覚ました。みた夢を記録しておこうと枕元にノートを置くようにしてから、脳の方も「そういうことなら」とはりきって、夢をみることに精を出してがんばっているみたいである。きょうみた夢はとちゅうでシチュエーションもがらがら変わっていくし、いろいろな人物も登場してくる。プロットも複雑というか、その要点だけをまとめて書いているつもりでも、ぎっしりとノート二ページぐらいになってしまった。まえにも夜なかに目覚めて「複雑な夢をみたなあ」と思ってそのまままた寝ると、つぎに目覚めたときにはもうすっかり忘れてしまっていることもあった。あのときの夢もきょうの夢みたいにながくて複雑なものだったのだろう。きょうの夢も、記録していなければ、もう今ごろは何の記憶も残っていないようなことになっていたのだろう。夢の内容はともかくとしても、夢をみてすぐに記録しておいて、その夢の記憶をとだえさせないでおくことだけでも、なにか有益なことのようにも思える。
 そういうわけでいままではみた夢の内容もここに書いたりしていたけれど、とにかく長くなるし、いちどノートに記録してあれば、自分的にはここに再録する意味もあまりなくなってしまう。ただ、きょうみた夢などは奇想に富んでいたというか、壁の絵の中にはいっていくような場面もあり、やはり「インセプション」などで描かれた「夢」というのは、あまりに平板で陳腐ではないかと、あらためて思うことになる。夢のさいごの記憶のところでは「人面鳥」とでもいうものが登場して、コンドルのようなグレーの羽の色と長い白い首の先に人のあたまがのっかっているのだけれども、近づいてみるといつのまにか首は短くなって、胴の上はすぐに頭になってしまっているのだけれども、その頭が桂 歌丸そっくりの顔をしていて、それが浪曲のようなものをうなっているのである。アホか。幼稚園児のみる夢みたいではないかと、じぶんの脳の状態が心配になってしまう。まあ、わたしのみた夢などよりは、「インセプション」の夢の方がはるかに理知的、ということはいえるだろう(面白いのはだんぜんわたしの夢の方、だと思うが)。

 しごとから帰って、朝食代わりというのでもないけれどもロールパンをかじっていると、ニェネントがよってきて、さかんにわたしの手もとのロールパンに首をのばしてくる。「あれ? ほしいの?」と、ちょっとちぎってニェネントの口もとにおいてやると、あっという間に食べてしまった。おやおや、と、またちぎってあげるとまた食べる。一年半もニェネントといっしょにいても、ニェネントがロールパンが好きだなんてまったく知らなかった。って、ロールパンを買うこともなかったからしかたがない。これからはロールパンをもっと買って、ニェネントといっしょに食べよう。

 

 

[]「次郎長三国志第七部 初祝い清水港」(1954) マキノ雅弘:監督 「次郎長三国志第七部 初祝い清水港」(1954)  マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 第六部であれだけつらい旅をしてきた次郎長一家、いったいあれはなんだったのかというような、いきなりの明るい新年ではじまるし、ほとんど第四部の「勢揃い清水港」の空気、テイストに近い明るさ。ここでは喜代蔵(長門裕之)が新しく一家のメンバーになり、喜代蔵は喜代蔵で、丁稚姿みたいなほとんどガキンチョな若い衆をあつめて若親分づらをする。母親代わりを求める喜代蔵。

 後半は前作の仇久六が清水におそってくるのを、奇策で返り討ちにする展開。ここは観客もいっしょにだまされるのだけれども、ネット上の「goo 映画」というサイトに書かれている「あらすじ」は、まるで本編とちがうあらすじになっている。「goo 映画」というのは、いぜん観た「黒いチューリップ」でもある意味デタラメなあらすじを載せているけれど、どういうことだろう。


 

[]「次郎長三国志第八部 海道一の暴れん坊」(1954) マキノ雅弘:監督 「次郎長三国志第八部 海道一の暴れん坊」(1954)  マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 お蝶と豚松の盛大な法事が幕開き。法事に身受山鎌太郎(志村喬)が登場。石松は、次郎長の刀の金比羅さまへの奉納の旅に出て、その道中に小政と知り合う。金比羅さまに刀を無事納め、遊廓に足を運んだ石松は、そこで夕顔という女性と運命の出会い。しかし石松を待ち受けるのは‥‥、ってな内容。

 この作品はむかし単独で観たことがあり、そのときに、この森繁久弥の演じる「石松」というキャラクターが、のちの「寅さん」の造型に影響を与えているように思ったのだけれども、こんかい観ても、そもそも森繁久弥のルックスからして、どこか渥美清を思い出させられるところがある。あとは志村喬の硬派と軟派を同居させた演技が強烈で、やはり見惚れてしまうし、こういう演技は志村喬でもめずらしいものではないかと思う。


 

[]「次郎長三国志第九部 荒神山」(1954) マキノ雅弘:監督 「次郎長三国志第九部 荒神山」(1954)  マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 ‥‥どうして急に、こうなってしまうのか。とつぜん、お上やヤクザの犠牲になる農民がクローズアップされ、農民役で土屋嘉男は出てくるし、農民ではないけれども高堂国典も登場するし、まるで「七人の侍」である。おなじ年におなじ東宝で製作された作品だし。調べると、この作品の脚本はじつは橋本忍によるものだという記述がネット上のあちこちにある。しかし、映画冒頭のクレジットでは、脚本は「マキノ雅弘」と書かれていた。どちらにしてもこのシリーズの流れからは異例という感じはするけれども、橋本忍の脚本に対してマキノ雅弘監督が大幅なリライトをくわえたという情報もある。このあたりが真相に近いのではないかという気がしないでもない。おそらくは「農民対ヤクザ」みたいな、このシリーズにそぐわない感覚の、社会問題的な視点を導入しようとしたのは橋本忍の方ではないかと思う。そういうのはクロサワ監督とかにまかせておけばいいという感じで、正統派活動写真の伝統をひくマキノ雅弘に似合ったものとはとても思えない。じゃあ監督自身がリライトしたのならもっとどうにかならんかったんだろうか、という疑問もあるけれど、リライトはしたけれどどうにもならんかった、という感じだったのだろうか。このあたりのことはわからない。

 とにかく、「いままでのシリーズはいったい何だったのか?」というような違和感満載。これまでの「力対力」という設定のなかにストレートな正義感や人情を盛り込んできたシリーズの世界が、一気にこわされる思いがする。いちおう全編観たけれど、じつはとちゅうでもう、どうでもよくなってしまった。だいたい、冒頭でなぜ大政を中心に次郎長一家が孤立し、しかも次郎長親分が別のところにいることになっているのか、まったくわからない。第八部とこの第九部とのあいだに、もう一本あってしかるべきなのではないかと思ったりする。まあこのシリーズにはそういう「とつぜんの飛躍」というのはしょっちゅうなので、ここだけのもんだいというわけではないけれど。

 わたしのなかでは、このシリーズは第八作まで、という感じではある。

 しかし、映画の世界では多くの作品が「三部作」として名を残し、きょねんの暮れに観た「人間の條件」は六部作、そしてこの「次郎長三国志」は九部作。すべて「三の倍数!」というのはやはり、世界のナベアツの影響なのだろうか。って、ナベアツって、いつのはなしやねん。



 

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