ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2012-05-31(Thu)

 年金を受給できるようになり、それでたんじゅんに経済的にうるおって楽になるかというと、そういうわけでもないのであって、入院の経費のことがあったり、あれこれとめんどうなことがつづき、とりあえずはらいげつに年金が支給されるまでかなり苦しい、ぎりぎりっぽい生活になる。あたらしいTVを買うなんて、とんでもないことだった。それでもこれからは、こころぼそいながらも自立した生活になるわけである。六月はその年金支給といつもの給与と、そして少ないながらも賞与も支給されるはずなので、ひょっとしたらTVを買えるぐらいの余裕もできるかもしれない。いや、五月は入院でしごとを休んだぶん、年間の有給休暇を超過してしまっているので、給与がかなり少なくなっているはず。やっぱりまだ、わたしにはそういうあれこれの余裕はでてこないだろうか。

 ニュースをみていると、新藤兼人監督がお亡くなりになられたそうで、享年百歳。ちょうど「日本映画専門チャンネル」ではずっと、新藤兼人監督の特集が放映されていたところだった。「日本映画専門チャンネル」は、せんじつ原田芳雄氏が亡くなられるまえにも特集を組まれていたり、なんか、そういう、先を察知したような特集の組み方はどうなんだろうと思ったりもして、それだったら、FMのピーター・バラカン氏の「ウイークエンド・サンシャイン」なんか、いつも後追いで物故ミュージシャンの特集を組むのではなく、「日本映画専門チャンネル」みたいに、先取りした特集の組み方をすればいいのに、などということは考えるわけもない。そういうこととぜったいまるでかんけいないけれど、Bob Dylan が叙勲され、オバマ大統領から「なんとか自由勲章」とかいうのを受け取られている映像も、ニュースで放映されていた。


 

[] 「人間・この劇的なるもの」福田恆存:著(昭和文学全集 27)  「人間・この劇的なるもの」福田恆存:著(昭和文学全集 27)を含むブックマーク

 むかし、絵の勉強なんかやっていとき、木炭デッサンなどというものをやったりして、空間表現の鍛練をしたりする。画面のなかに距離感や空間意識をもたせる練習というか。すると先生がやってきてあれこれといったりするのだけれども、「<空間>というのはだね、その描かれた木炭紙から、デッサンを描いている(みている)人とのあいだにあるものなんだよ」などと、わけのわかったようなわからないようなことをいっていく先生などがいるわけで、なんかすっごいかっこいいこといってるように聞こえるんだけど、「だからなんなんだよ」と考えると何もわからないというか、じつはすっごく空疎なんじゃないかとか思ったりもしたわけだけれども、この福田恆存の本を読んでいると、ははあ、あのときのデッサンの教師は福田恆存を読んでおったのか、などと思ってみたりもする。っつうか、おなじような文章があったね。

 この「人間・この劇的なるもの」は1956年の刊行で、福田氏お得意のシェイクスピア論、というか「ハムレット」の構造を読み説きながら、そういう劇構造を「人生論」にもあてはめてみようか、などという、まことにもって気もち悪い著作。ラストの結論の部分がすっごいから、書き写しておこうっと。

 ヒューマニストたちは、死をたんに生にたいする脅威と考える。同時に、生を楯(たて)にあらゆることを正当化しようとする。かれらにとって、単純に生は善であり、死は悪である。死は生の中絶であり、偶然の事故であるがゆえに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでいる。が、そうすることによって、私たちの生はどれほど強化されたか。生の終りに死を位置づけえぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであろう。死において生の完結を考えぬ思想は、所詮、浅薄な個人主義に終るのだ。中世を暗黒時代と呼び、ルネサンスを生の讃歌と規定する通俗的な史観や、封建時代に死臭をかぎつけ、現代に生のいぶきを感じる過った人間観は、すべて個人主義的なヒューマニズムの所産にほかならない。
 生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生きつづけるであろう。

 まあこういう文を額面どおりに受け取っていたら、書いた福田氏から「ブヮカめが」と笑われもするだろうけれど、「全体」という文字が出てくるからいうわけじゃないけれど、全体主義への渇望のようなものも読み取れるだろうし、これでは理想的な生は「神風特攻隊」隊員ではないか、ということにもなっちゃう(三島由起夫氏もやっぱり、仲間だね)。
 ‥‥ちょっと書いておけば、こういう、くだらない反語・逆説表現の詐欺にとらわれない(だまされない)ためには、わたしにはせんじつのカフカの日記を読んだという体験が、役に立った気がする。

 これだけでなく、この本にはもうあれこれと読んでいてがまんの出来ないことがいっぱい書いてあって、とにかくよくがまんしてさいごまで読んだものだ。それでも、福田恆存はこりずにもう少し読む。


 

[]二○一二年五月のおさらい 二○一二年五月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「旅芸人の記録」(1975) テオ・アンゲロプロス:監督

読書:
●「ダンテ・クラブ」(下)マシュー・パール:著 鈴木恵:訳
●「賜物」(上)ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳
●「賜物」(下)ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳
●決定版カフカ全集7「日記」マックス・ブロート:編集 谷口茂:訳
●「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳
●「嵐が丘」エミリー・ブロンテ:著 河野一郎:訳
●「芸術とはなにか」福田恆存:著(昭和文学全集 27)
●「人間・この劇的なるもの」福田恆存:著(昭和文学全集 27)

DVD/ヴィデオ:
●「逢びき」(1945) デヴィッド・リーン:監督
●「地球最後の日」(1951) ジョージ・パル:製作 ルドルフ・マテ:監督
●「七年目の浮気」(1955) ビリー・ワイルダー:監督
●「太陽がいっぱい」(1960) ルネ・クレマン:監督
●「シェルブールの雨傘」(1964) ジャック・ドゥミ:監督
●「寒い国から帰ったスパイ」(1965) ジョン・ル・カレ:原作 マーティン・リット:監督
●「唇からナイフ」(1966) ジョセフ・ロージー:監督
●「ハリーとトント」(1974) ポール・マザースキー:監督
●「ブリキの太鼓」(1979) ギュンター・グラス:原作 フォルカー・シュレンドルフ:監督
●「女の都」(1980) フェデリコ・フェリーニ:監督
●「コラテラル」(2004) マイケル・マン:監督
●「ラースと、その彼女」(2007) クレイグ・ギレスピー:監督
●「その土曜日、7時58分」(2007) シドニー・ルメット:監督
●「ウォーリー」(2008) アンドリュー・スタントン:監督
●「メアリー&マックス」(2009) アダム・エリオット:監督
●「瞳の奥の秘密」(2009) フアン・ホセ・カンパネラ:監督
●「結婚の夜」(1959) 筧正典:監督
●「女妖」(1960) 三隅研次:監督
●「大殺陣」(1964) 工藤栄一:監督
●「ジェネラル・ルージュの凱旋」(2009) 中村義洋:監督


 

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■ 2012-05-30(Wed)

 ニェネントが元気である。ふだんわたしが和室にすわってパソコンに向かっているときには、わたしのうしろの箱のなかにすっぽりおさまって「ボクシング・ニェネント」状態でおとなしくしているのだけれども、わたしがトイレに立とうとすると、すぐに反応してトイレの方に先回りしていく。わたしがキッチンに行くとやはり先回りして、キッチンの下からわたしを見上げてニャンニャンないている。それで和室にもどろうとするとあとをついてきて、これがわたしがベッドに横になろうとして足を持ち上げたりするとき、その持ち上がったわたしの足に飛びついてくる。とにかく、ニェネントが活発に動き回ってくれるのはうれしい。

 「中世の秋」はやっぱりなんとなく読むのもかったるく、ここはもう、気になっている「昭和文学全集」にいちどトライしてみようかと、せんじつ(って、かなり前だけれども)吉本隆明氏が亡くなられたときから和室に出しっ放しにしてあった巻から、とりあえず読みはじめてみることにした。この巻は福田恆存・花田清輝・江藤淳・吉本隆明・竹内好・林達夫の六人が収められている。この顔ぶれにはなんともおぞましいものがあるけれど、やはりさいしょの福田恆存は、わたしには「こんなの読んでどうするんだ」みたいなものだった。
 いつも本を読みおえてから感想をここに書いているけれど、まさかこの一巻ぜんぶ読みおえてから感想を書くわけにもいかないだろうし、ひとりの作家を読みおえてからとも考えたけれど、やはりここは目次に掲載されているひとつの作品を読みおえるたびに、感想を書いておくことにした。


 

[] 「芸術とはなにか」福田恆存:著(昭和文学全集 27)  「芸術とはなにか」福田恆存:著(昭和文学全集 27)を含むブックマーク

 1950年に書かれた本、ということだけれども、まずは「奇々怪々」な書物という印象をうける。基本の「です、ます」という文章に断定的な「〜だ。」という文をまぜこむいやらしい弁説スタイルに、逆説的反語的な言説を連続させて読むものをけむにまくというのか、「わたしはいま、評論家/批評家として卓越したユニークな文章を、こうやってあなたがたに読ませているわけだから、こころして読むように」とでもいっているみたいである。まあ勝手にして下さいというところだけれども、著者の立地点/スタート地点は、この本で著者の否定している、近代芸術というものの築いた土台の上にあるのではないのか。あまりにも「個」というものが突出しすぎている。しょうじきいって「気もち悪い」。まあ、世のなかにはこういうことを書く人もいるわけだ、しかもそれなりに各分野に影響を与えたりするわけだ、ということは勉強になった。それ以外に、何か価値のある本だとは思えない。


 

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■ 2012-05-29(Tue)

 夕方から嵐もようで稲妻がひかり、雷鳴がとどろく。いっしゅん停電しそうになったけれど、ここはなんとか持ちこたえてくれたようだった。
 きのうのあさ、「ひかりTV」で放映されていたアントニオーニの「情事」を録画したつもりだったのだけれども、録画時間を二時間の設定でやってしまった。「情事」は141分あるのだ。さいごの二十分が欠けてしまった。「ひかりTV」ではおなじプログラムをなんども放映するのがふつうなので、またやらないかとチェックしてみたけれど、もうやらないみたいである。がっくり。

 「中世の秋」を読みはじめたのだけれども、なんか、もうちょっと堅いものと期待していたのが、出だしはずいぶんとふにゃふにゃなのでちょっと肩すかしをくらった感覚。「嵐が丘」のあとではどうも読むのにもちからが入らないというか、違う本にしようかな、などと考えている。


 

[] 「シェルブールの雨傘」(1964) ジャック・ドゥミ:監督  「シェルブールの雨傘」(1964)  ジャック・ドゥミ:監督を含むブックマーク

 さいしょは歩道を歩く人たちの傘が真上から見おろされる映像で、ここで五つの傘がそろったところで「シェルブールの雨傘」とフランス語で映画のタイトルが出てくるところで、なんだか涙が出てきてしまったりする。第一部が「旅立ち」、第二部が「不在」、そして第三部が「帰還」という三部構成。
 やっぱ、第一部のポップな色調に彩られた、夜のシェルブールがいい。こういう感じのまま行くのかな、などと思っていると、第二部はいきなり日中のシェルブール駅で、ここのリアルな感じが意外な、というか。

 この主題歌があまりに有名で、まあわたしが覚えている英語の歌詞だと「If it takes forever, I will wait for you.」ということになるのだけれども、映画の展開はみごとにこの歌詞を裏切っていくことになるのね。そのことがぎゃくに、生きていくことの哀しさとかを浮き上がらせるようで、「ひどいなあ」とかいうんでなくって泣けてきてしまう。

 セリフがすべて歌になっている徹底ぶりで有名な映画でもあるけれど、ふつうのミュージカルならかならず出てくるような、心情吐露の歌というか、ソロの内的独白ソングというのがないのね(というか、ミュージカルによってはこういう歌の連続だけで構成されることもある)。わずかにジュヌヴィエーヴが結婚することになるカサールが自分の過去を唄うところと、ギイの手紙の内容が歌で示されるところぐらいがソロの歌という感じで、あとはみんなかけあいなのである。考えてみると意外だけど、そういう、歌でドラマを構築するという姿勢がはっきりした作品なんだなあと。

 こんかい観て、たとえばドヌーヴの歌声はあのダニエル・リカーリがやっていたんだとか、そのおかあさん役の歌声をやっていたのが作曲のミシェル・ルグランのおねえさんで、とうじ人気のあったスウィングル・シンガーズの中心メンバーでもあったクリスチアーヌ・ルグランが担当していたことなどを知った。あと、カサールの唄う歌は歌詞はちがっても二回ともおなじメロディーなんだけれども、この曲、Sergio Mendes & Brazil '66 が「Watch What Happens」のタイトルで唄っているのを聴いたことがあるのに思いあたった。主題歌に次いでこの曲あたりがポピュラーなのか。なんか、サントラ盤で全曲、音だけで聴いてみたくなってきた。



 

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■ 2012-05-28(Mon)

 読んでいた「嵐が丘」を読み終り、ではこれからつぎに何を読もうかなどと、あたまをめぐらせる。このところようやく、図書館から借りてこないで自宅本を読むという習慣になりつつあって、できればこのまま自宅本を消化していきたい。おそらくは三年もかければ、家にある本はなんとか読んでしまえるのではないかと踏んでいる。難物はきょねんいっぱい集めてしまった「昭和文学全集」というヤツで、これは一冊読むのに一ヶ月はかかってしまうんじゃないかという感覚で、これが十五冊ぐらい手もとにあるから、こいつの消化だけで一年から一年半かかってしまいそうである。
 まあ読書というものは家の本をぜんぶ読んでしまえばそれでおしまいというものではなく、またどんどん新しい本を読みはじめてしまうのだろうけれど、とにかくは積もっているものをなんとかする。それで、なにか新しいこともはじめたいのである。とりあえずは、手もとの近くにあったホイジンガの「中世の秋」を読みはじめた。


 

[] 「ラースと、その彼女」(2007) クレイグ・ギレスピー:監督  「ラースと、その彼女」(2007)  クレイグ・ギレスピー:監督を含むブックマーク

 「空気人形」じゃないけれど、なかなか女性と仲良くなれない青年(優しくっていい男なんだけれど)が、ネット通販で買ったラブドールを「ぼくの彼女だ」とまわりに紹介することからはじまる物語。
 彼が住むのは、それぞれがみんな顔も名まえも知りあっているような小さなコミュニティなわけだけれど、そこでコミュニティじゅうのひとたちが、主人公のいうことに合わせて、まるでその人形がじっさいに彼のガールフレンドであるかのようにふるまう。まあちょっとした共犯関係だけれども、そういう共犯関係とはまさに「幻想」でしかないはずなのに、「そういうコミュニティでよかったね」というような作劇は、まったくリアルではない気がする。医師との対話が精神分析的に進行するところも「なんだかなあ」という感じで、楽しめる作品ではなかった。


 

[] 「嵐が丘」エミリー・ブロンテ:著 河野一郎:訳  「嵐が丘」エミリー・ブロンテ:著 河野一郎:訳を含むブックマーク

 いやあ、むかしいちど読んでいるはずなんだけれども、ここまでに強烈な作品だとは認識していなかった。そらおっそろしいというか、小説というものがこういうところまで踏み込めることにおどろくというか、そもそも人間がこのような世界を覗き込むということがとんでもないことに思え、こんなことまで物語に書けるということが、人間の限界を越えてしまっているような気がしてしまう。
 とくに中盤にキャサリンが精神錯乱だかにおちいるあたりなど、読んでいるこっちの方まであたまがどないかなってしまうんじゃないかと思った。またさいしょっから読み返したいのである。

 ちょっとこの「嵐が丘」についてネットで検索して、あの唐十郎氏がこの「嵐が丘」に多大な影響を受けられていて、彼の戯曲にはいつもヒースクリフとキャサリンが登場しているのだということを読んで知り、「あっ、そうかー!」っと、ちょっとあてられてしまった。とにかく、「嵐が丘」という小説は、大傑作である。


 

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■ 2012-05-27(Sun)

 早朝のTVで、世界遺産に登録されているという、スペインのクエンカという町を紹介する番組をやっていた。崖っ淵に建てられた町なのだけれども、そのなかに「宙吊りの家」という建物があるのが画面にうつされ、近くには「スペイン抽象美術館」という美術館もあるというような紹介がされている。その「スペイン抽象美術館」の内部がうつされるのだけれども、それを観たときに、「これって、ジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』に出てきた場所なんじゃないのか」などと思ってしまう。わたしの記憶ではまさにここは「リミッツ・オブ・コントロール」の世界なんだけれども、では気になったからといってその「リミッツ・オブ・コントロール」のDVDなりを借りてきたり買ってしまったり(DVDを買ってもいい作品だけれども)して観たとしても、こんどはこの、いまTVでやっているクエンカの光景を記憶していないことになるから、「ああ、やっぱりそうだった」とは合点することはできないのである。そうすると、なんだかそういうことぜんたいがジャームッシュの映画っぽく思えてしまい、わたしも何かの使命を受け取ったような気分になったりもするのである。するとよけいに、また「リミッツ・オブ・コントロール」を観たくなってしまった。

 退院してようやく、生活のパターンもおさまってきたというか、まえのようにちゃんと食事もつくるようになってきたし、ある程度のじかんを読書にあて、だいたいいちにちに一本のヴィデオを観て、iTunes でオールディーズを聴きつづけるというこのところの日課が完成しつつある。しかし、それでいいんだろうかという思いもまた、あたまをもたげたりもしている。


 

[] 「七年目の浮気」(1955) ビリー・ワイルダー:監督  「七年目の浮気」(1955)  ビリー・ワイルダー:監督を含むブックマーク

 はじめて観たけれど、なんだ、原題は「The Seven Year Itch」で、ダイレクトに「浮気」といっているわけではないのね。っつうか、そこにこの作品の面白さがある、という気もするわけで、主人公のトム・イーウェルにとっても、マリリン・モンローやそのほかすべての登場人物にとっても、これは「浮気」なんかじゃなくって、まさに「Itch」だっていうこと。というか、そういうふうに主人公が女性と出会うことで妄想たくましゅうしながらも、その虫をなんとか押さえ込むという、まさに「いけず」な物語をこそ楽しむ作品で、わたしにはとっても面白い作品だった。

 っつうか、冒頭からの主人公の独白というか妄想というかの展開が、せんじつ観たフェリーニの「女の都」をちょっと思い出させられるところもあって、まあやはり男というものは困ったものである、と。これがやはりこのあいだ観た「逢びき」のトレヴァー・ハワードだと、こころはまさに「Flame of Passion」と燃え上がっていたんだけれども、あと一歩というところでじゃまがはいったりして、「ここは深入りすべきではない」とばかりに女性と別れることになる。映画にもなったグレアム・グリーンの「情事の終り」ではどっぷりと「深入り」しちゃうんだけれども、あるところ(空襲であやういところを助かるのだったか)で女性が神の啓示を感じ、「関係をやめなければならない」と思うことになったと記憶している。そういうふうに並べてみると、ただ避暑先の妻子を思い出して浮気の虫をおさえてしまうことになる(というか、「浮気」という認識もしたくないのだが)この「七年目の浮気」はいちばんだらしがないというか、おそまつな気がしてしまう。

 しかし、主人公が観客に状況を延々と語って説明するような、虚構性を前面に押し出したような演出はわたしのお気に入りで、ビリー・ワイルダーとしても、こういう遊びごころを交えた演出というのではこの作品はかなりとくべつなんじゃないのか。
 主人公の妄想のなかに映画「地上より永遠に」のパロディは出てくるし、「大アマゾンの半魚人」も、映画のなかでちょこっとだいじな役割をもたせられている。あげくに、主人公はよその人物に「(ウチにいるのは)マリリン・モンローだったりして」なんていうジョークまで披露する。

 マリリン・モンローといえば思い浮かべる、地下鉄の通気口の上でスカートがふわぁっと持ち上がる、っていうシーンはこの作品ものもだけれども、なんだ、マリリンの足もとだけとか、ぎゃくに足の方は写さなかったりとか、よく写真でみるようなパンティまるみえのものじゃあないのね。

 

 

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■ 2012-05-26(Sat)

 らいげつの「WOWOW」と「ひかりTV」の番組表が送られてきたのをみる。「WOWOW」ではフランス映画月間ということで、せんじつ日本では初公開されたばかりの、ゴダールのジガ=ヴェルトフ集団時代の作品三本がもう放映される。これは劇場に観に行きたかったからうれしいんだけれども、なんか、無理して劇場に観に行っていたりしていたら、そうとうがっくり来ていただろうと思う。フランス月間はあとはトリュフォーやシャブロルの特集など。シャブロルの特集がうれしい。あとはさいきんちょっと気になって来ている監督、オットー・プレミンジャーの作品の特集も期待するところ。
 「ひかりTV」の方では、ようやく本家本元のオリジナル版「プリズナーNo.6」が放映されるようで、これがいちばんの楽しみ。

 あいかわらずタバコを吸いたくてなかなか苦労しているのだけれども、とりあえず今のところは禁煙がつづいている。ネットでみると、永年喫煙してきたヤツらが禁煙をこころみて、一年後に達成される率は10パーセントから(行動療法というのを実行しても)25パーセントなどと書いてある。こういうのを読むと「じゃあオレは禁煙を達成してみせるぞ」と思うことになるので、意図的に禁煙達成率の数字を低く書いてあるかもしれない。でも「これだけ達成率が低いのだから、オレが禁煙に失敗したのもしかたがない」と考えることもできるわけだ。こういうところに、ひとの性格が出てくるのだろう。

 昼も夜も、きのうつくったカレーですませた。


 

[] 「地球最後の日」(1951) ジョージ・パル:製作 ルドルフ・マテ:監督  「地球最後の日」(1951)  ジョージ・パル:製作 ルドルフ・マテ:監督を含むブックマーク

 「ディープ・インパクト」だとか「ハルマゲドン」みたいに、彗星(惑星)が地球に接近するという発想のSF作品の元祖だけれども、この作品で宇宙の彼方からやって来るのはかなり巨大な恒星で、そのまわりには地球のような惑星も周回している。で、結末を先に書けば地球は滅亡し、わずかな人類がその到来した惑星の方に脱出ロケットで脱出するのである。

 いきなり聖書の「創世記」からの、「ノアの方舟」に関しての引用からはじまるように、脱出ロケットはまさにもうひとつの「ノアの方舟」なのだ、ということでつくられている。まず地球はその惑星の接近で大地震や津波に襲われ、そのあと接近する恒星によってすべてが破壊されてしまう。ちょっと、その大地震の描写がこわかったかな。
 SF映画の特撮としては、そういう津波の被害を描くあたりもがんばっているけれど、やはりこの作品ではジェットコースターのような発射レールに据え付けられた脱出ロケットを描くあたりに、そのちからを注いでいる印象。

 のちにつくられる「ディープ・インパクト」だとか「博士の異常な愛情」では、いったい誰が滅亡から逃れて生き残りのメンバーになるのか(このふたつの映画では地下シェルターに逃げるということになるけれど)というあたりで、いちおうのウンチクも語られるけれど、この作品はそのあたりがかなりいい加減というか、妙な展開になる。まずはロケットの製作資金を拠出する富豪(車イスに乗っている)は無条件でロケットに乗れることになるのだけれども、彼がそのロケットに乗れるメンバーを決定したい、という条件は拒否される。じゃあどうするのかというと、そのロケットを製作する工場の労働者から、抽選で決定するのである。男女別々にくじをひいて、それぞれ同数がロケットに乗れるのだけれども、そのなかに恋人同士がいたからといって配慮などはしない。あとで、乗れるはずの人物がその抽選にはずれた恋人のために席をゆずって美談にするという展開。っつうか、ロケット工場の労働者だけで決めちゃっていいのだろうか。それで資金を出した富豪もさいごには乗れないのだけれども、「資金を出した」ということが特権にならないなら、「ロケットをつくった」ということだって特権にはならないんじゃないだろうか。って、けっきょくロケットに乗ったのは白人ばかりになるし。

 抽選からはずれた労働者たちが反乱を起こそうとして、さいごに乗ろうとしていた科学者と車イスの富豪が反乱をくいとめる、みたいな展開になるのだけれども、そのときに車イスの富豪がつい、車イスから立ち上がることになる。ぜったいにここは「博士の異常な愛情」のラストにつながっている。

 さて、方舟ロケットは無事にあたらしい惑星に着陸するのだけれども、ここのマット・ペインティングが、強烈にへたくそなのである。というか、「絵に描いたような世界」というのをあらわしているのかもしれないけれど、もうここでは地球の常識は通用しなくなっているのだろう。

 


 

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■ 2012-05-25(Fri)

 しばらく、舞台というものを観ていなくて、無理して観なくてはいけないというようなものでもないし、まずは観たいと思うような舞台がない。それでもやはりどこかで、舞台作品を観ておきたいという気もちは消えていない。そうするとけっきょくは、むかしから観てきている劇団の舞台を観ておけば安心ということになる。このところいつもかかさずに観ている劇団といえば、「少年王者舘」ぐらいのものになってしまったかなあ。あとは「鉄割アルバトロスケット」も行くけれど、「鉄割」は(せんじつもそうだったけれども)行かないでしまうことも多い。「維新派」は拠点が関西だから、こちらで公演やるときだけ観に行くことになっている。「水族館劇場」はわたしにとってはながいあいだ初夏の風物詩だったのだけれども、二年前から東京での公演をやっていない(ちょうどいま、北九州公演がはじまるころである)。それで、あとはときに唐組に行ってみたり。つまりなんのことはない、そういうふうにわたしの観ている劇団とは、どこも何十年も活動をつづけている古参の連中ばかりである。

 それでこの夏は、ずいぶんと久しぶりに「大駱駝艦」などを観てみようか、などと考えていたのだけれども、彼らのサイトなどをみると、ことしは彼らの創立四十周年になる、その記念公演ということらしい。それはめでたいことである。もうわたしもさいごに彼らの公演を観てから十年いじょう経っているし、麿さんもいつまでも永遠に舞台に立たれるものと思い込んでいるととんでもないのである。
 そういうことで、きょうがその七月の公演のチケットの発売日ということは記憶にあったので、しごとを終えて帰宅してしばらくして、もう昼に近い時間になってから、劇場のチケット予約のページに行ってみた。って、おどろいたのは、予約しようと思っていた最終日のチケットが、もう五枚しか残っていなかったということで、このところそういう舞台公演を観ないでいたから、そういう予約の段階でチケットが売り切れるとかいうこともあるのだと、思いいたることもまるでなかったわけで、いやあやはり「大駱駝艦」あたりになると人気ものだねえとか、あらためて認識してしまうことになる。というか、あわてて予約したわけである。

 まあ考えてみれば、そういう公演では当の主催劇団が取るチケットと、それから「ぴあ」や「e+」などのチケット屋に流す分、そして劇場の分と、あちらこちらにチケットも分散するわけだから、発売と同時にほとんどソルドアウトということもあるわけだし、劇場には優先販売される演劇ファンの会員とかもいるわけだし、そういうツテがなければ、わたしなどはチケット発売の初日にがんばってチケットを確保しなければならないのはとうぜんなのであった。
 ついでにその劇場の別のスケジュールなんかみてみると、一ヶ月ぐらい先の康本雅子さんの公演なんかも、チケットはぜんぶ売り切れているみたいだった。

 きょうは午後から雨が降りだしたり、あまりいい天気ではない。ニェネントは元気で、室内を歩くわたしに、かくれたところからふいに攻撃をしかけてきたりする。
 食料品のストックをチェックすると、ずいぶんまえに半額で買ってあったカレールーが賞味期限になっていて、あわててカレーをつくった。


 

[] 「瞳の奥の秘密」(2009) フアン・ホセ・カンパネラ:監督  「瞳の奥の秘密」(2009)  フアン・ホセ・カンパネラ:監督を含むブックマーク

 アルゼンチン映画。なんか、タイトルの奥にボルヘスっぽさがあるだろうかな? そんなことはとくにないよね。でも、とても面白いサスペンス・ドラマだった。

 主人公は裁判所付きの検事だか何だかで、担当した事件への捜査権をもっているようである。彼はその仕事を退職して、今でも気にかかる二十五年前のレイプ殺人事件のことを小説にしようと思っているわけで、それでかつての職場であこがれた女性にもういちど会ったりしながら、当時の事件をまた再構成していく。被害者の夫だった人物の居場所をつきとめて彼を訪れたりもする。
 事件の犯人は早くに逮捕されているのだけれども、この時代の南米の不安定な政局のなか、アルゼンチンはビデラ将軍によるクーデターから、いわゆる「汚い戦争」の時代へと突入していく。そのなかでこのレイプ犯はなんと釈放され、政府の「死の部隊」隊員として活動することになる。このあたりのアルゼンチンの歴史についてわたしはほとんど知らなかったけれど、隣国チリと同じように、国民の自由を圧迫する政治が行なわれていたわけである。

 映画の主人公にとって、退職しても気にかかることとは、つまりこの事件のことでもあっただろうし、また同僚への秘められた気もちもあったことだろう。それらのことはつまり、アルゼンチンの人たちが共有するであろう、この時代の暗黒の部分へのやり切れなさ、ということでもあるのだろうと思う。そのことが、つまりはその時代のせいで釈放されてしまったレイプ殺人犯のその後をたどる、というような主人公の行為になるのだろう。そのことは、おそらくは観客であるアルゼンチンの人たちの多くがそのまま共有できる、苦い追憶なのだろうと思う。

 きのう観た「その土曜日、7時58分」で、主人公のフィリップ・シーモア・ホフマンは、ラストであのまま生き残らずにいてよかったではないか、父の行為はあれで彼にとって大きな「慈悲」なんじゃないか、などと思ってしまったけれど、この作品はちょうどその「逆」というか、「死刑制度のない国で、つまりは死刑ではなくして犯罪者に罪を問う」という行為について、なかなか残酷な解釈をしていることになる。で、この解釈が、アルゼンチンの人たちにとっての、映画で描かれた二十五年前についての解釈にもなるんじゃないかと思ったりもする。

 さすがサッカーの国アルゼンチン、ということで、カメラが空撮俯瞰からサッカー競技場へせまり、そのまんま(もちろん目立たない編集はしてあるのだけれども)観客席に移動して入り込んでしまうショットなんか、とってもファンタジスタ、なのである。

 

 

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■ 2012-05-24(Thu)

 木曜日は、スーパーが一割引きになる日。タバコをやめるために口寂しい日々がつづいているので、ついいろんなものを買ってしまう。キャンディをいくつか。かりんとう。チョコレート。アイスコーヒーや牛乳など。こんなに買ってしまっても、まだいちにちに一箱タバコを買っていたころよりも出費は少ないだろう。

 ネットでみていたTVの価格が、どんどん高くなっていく。さいしょに「これ」と思ってチェックしていたものは、もうそのころより六千円ぐらい高くなってしまったし、ほかにチェックしておいたものも、やはり高くなってきている。これからはボーナスの時期も近づくし、もう安くなることも期待できないかもしれない。時期を逃したな、という感じ。‥‥そうすると、いま安い値段がついているDVDなんかも、六月になると高くなってしまったりするのだろうか。ブニュエルの作品なんかがいやに安い価格になっているので、欲しいなあという気もちはある。でもそうするとTVがどんどん遠ざかっていくみたいで、いちどは「新しいTVが欲しい!」と思った気もちが宙ぶらりんになり、「無念」という感覚になる。


 

[] 「その土曜日、7時58分」(2007) シドニー・ルメット:監督  「その土曜日、7時58分」(2007)  シドニー・ルメット:監督を含むブックマーク

 二年ぐらいまえに、やはりヴィデオで観ている作品。そのときの感想は こちら に書いてあるけれど、こんかいもだいたい同じような感想で観ていた。ただこんかいは、主人公のフィリップ・シーモア・ホフマンのおちいる「八方ふさがり」の状況が観ているわたしにも伝染してくるというか、じぶんもまた「出口なし」のどうしようもない、ひどい状況に追い込まれたような気分になって観てしまった。そうするとやっぱりラストはこれは「慈悲」だよな、という気分にもなってしまう。

 この映画では、フィリップ・シーモア・ホフマンは、父親(アルバート・フィニー)に愛されなかったとずっと思っていたのに、母の死(フィリップ・シーモア・ホフマンに責任がある)のあと、その父から「おまえを愛している」みたいなことをいわれて動転する。‥‥こういう話は、ひどいものだと思ってしまう。
 わたしの父は、確実にわたしのことなど愛してなどいなかった。だから、この映画のアルバート・フィニーのようなことをいい出す心配はなかった。もしもそれに似たことを父がとつぜんいい出したとしても、わたしは父のことを知っているから、それはウソをいっているとわかる。それにわたしは、父に愛してほしかったなどと思うことはずいぶんとむかしに、とうに放置してしまっている。つまりわたしもまた、父を愛しなどしなかった。それはとても不幸なことだろうとは思う。でもこういう物語をきいて、主人公がとってもかわいそうだとは思う。それはもちろん、自分のことを「かわいそう」などと思うのとはちがうことである。でもこの映画を観ていて、主人公の救いのなさに自分を重ねていたのはたしかである。


 

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■ 2012-05-23(Wed)

 ニェネントが元気に、ひとりで遊んでいる。またどこかから綿棒を見つけてきたようで、どこかわたしの知らないところに綿棒がいっぱい貯め込んであるのかもしれない。綿棒を口にくわえ、首を振ってどこかへ振り飛ばす。その飛んでいった綿棒をさがして、また首を振って飛ばすのをいつまでもくりかえす。ひとりで遊んでくれるのはわたしも楽だし、そういうニェネントもかわいいのだけれども、ちょっとひとり遊びというのがかわいそうに思えたりもしてしまう。そうするとわたしがいっしょに遊ぶということになるのだけれども、わたしがニェネントと遊ぶというのはニェネントにとって楽しいことなのかどうか、そのあたりがわからない。ニェネントをあおむけに押さえつけ、その鼻先をぺろぺろなめてやって、やはりやられる方は楽しくないのではないのか。むしろ、イヤなのでは。

 わたし自身は元気なのかそれほどでもないのか、じぶんではよくわからない。入院とかしてやはり痩せたような気はして、じっさいに、ズボンのベルトを通す穴はまえよりもゆるゆるになってしまった。ちょっと手があくと一服したくなるのはあいかわらずで、そういうときはキャンディをなめたり、トーストを焼いてハムをのせ、コーヒーをいれていっしょに食べたりする。そのうちに体重が増えてくるんじゃないかと思う。
 夕食にはこのところ、せんしゅう買った焼豚のブロックをカットして、キャベツの千切りといっしょという献立がつづいている。お手軽献立である。


 

[] 「逢びき」(1945) デヴィッド・リーン:監督  「逢びき」(1945)  デヴィッド・リーン:監督を含むブックマーク

 原題は「Brief Encounter」で、邦題よりはもっと切ない感じ。

 駅の構内にある喫茶店に駅員が入って行くのを追う描写から、新しくやってきた客をとらえたカメラが、客席のふたりの男女にようやくたどり着く。ここは客観描写なんだけれども、そのまま自宅へ帰る女性を追って行く映画はいつか、その女性のモノローグによる回想へと移行して行く。男との偶然の出会いが重なり、好意が愛情へと変化していく。このあたりからラストまでずっとヒロインの視点だけで突き進み、相手の男の内面は、彼のことば、振舞いから押し測られるだけになる。うんうん、恋愛というのはこういうことだよなあと、観ていても熱くなってしまう。

 でも、さいごの一線は、越えそうで越えなかったのね。女性の側からすれば、それでラストの夫のやさしい(すばらしい)言葉を素直に受けとめられることになるけれど、男性の方は心残りがあるんじゃないのかなあ。さいごの別れのシーンにもじゃまが入ってしまうし。
 女性の側からの視点で描かれているから、なんか「はかなくも美しい思い出」みたいな空気もあるけれど、男性の側の視点で描いたら、これはぜんぜん違うものになってしまうんじゃあないだろうか。ちょっとかわいそう。

 ふたりのデートで映画館で予告が映されていて、「Flames of Passion」とかいう映画で、それがものすごくくっだらない映画みたいで笑えるんだけれども、次の二人のデートでその映画を観に行っていて、「つまらないので途中で出た」っつうのでまた笑えた。あんな予告の映画を観に行くなんて。


 

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■ 2012-05-22(Tue)

 このあいだ、Donna Summer の死去のことを書いたと思ったら、こんどはBee Gees のRobin Gibb 氏の訃報が伝わってきた。もうディスコの時代もそういう過去も過去、大むかしのことになってきたのかと思ったりもするけれど、Bee Gees のことをディスコ・サウンドなどとくくってしまうのもぜんぜん違うだろうと。しかし、このGibb 兄弟たちは短命というか、もう長男のBarry Gibb しか、ご存命ではないのではないか。たしか四人兄弟だったはずだけれども。
 わたしはBee Gees っつうのはほとんど興味なくて、シングル盤のコレクターだった中学〜高校のころにも彼らのシングルを買ったこともないし、もちろんアルバムも買ったことはない。彼らは、いちども<Rock>だったことのないバンドだった(別にわたしもRock だけが好きなわけでもないけれども)。それでもBee Gees で一曲、というのであれば、わたしは「Words」を選びたいかな。

 もう一枚、きのうの日食のときの写真を。これはクライマックスの金環のときだけど、太陽はまぶしすぎて写っていない。反射した円環が下の方に写っている。

    f:id:crosstalk:20120523150206j:image

 きょうはしごとを終えるころから雨が降りはじめ、そのあとはずっと雨が降って、肌寒いいちにちになった。「嵐が丘」に並行して読んでいるボルヘス、とりあえず「伝奇集」は読み終えたので、まとめておこうかと。


 

[] 「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳  「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳を含むブックマーク

 いちおう過去に、この「伝奇集」も、「不死の人(エル・アレフ)」も、「ブロディーの報告書」も、いちど読んだことはある。いま読んでいるのは筑摩の「世界文學体系81」の、「ボルヘス/ナボコフ」の巻。ここでボルヘスとナボコフとがおなじ巻に収められているというのは、ふたりが共に1899年生まれであるということよりも、まさにこのふたりにこそ、文学の「モダニズム」の、さいごの煌めきが体現されているせいかもしれないからだろうと、わたしは勝手に解釈する。ボルヘスにせよナボコフにせよ、彼らの作品の背後には、まさに「文学の王国」というような、確固とした揺らぐことのない、観念の世界が想定されているのではないのか。わたしはそういう創作姿勢に、モダニズムという呼び名を与えたくなるわけである。
 とくにボルヘスのばあい、ブッキッシュといえばいいのか、「本」についての本、「本」のなかにしか存在しない世界(まあ小説なんていうのはみんな「本」のなかにしか存在しないのだけれども)についてのことをまた本のなかに書くというような、メタな姿勢のなかにおられるわけである。そのことが、わたしにはどこが面白いのかわからないことも、そういう姿勢が鬱陶しいこともある。ボルヘスももうちょっとあとになるとアルゼンチンのならず者の世界を前面に押し出したりして、わたしにはそういうのが面白かったりもする。そういうのがこの「伝奇集」でも第二部というのか「工匠集」には少し、そういう端緒のような作品も読むことができる。

 ボルヘスの作品は、その構成にも、注意深く組み立てられた妙が読み取れるようだけれども、とりあえずはその作品の概念だけでも把握しておけばいっぱんに話が通じるわけである。そういうメモ書きをちょっと。

■八岐の園
●トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス
 「世界」とは、書物のなかでねつ造されたものにほかならないというような、ボルヘスの名刺代わりのような作品。

●アル・ムターシムを求めて
 架空の書「アル・ムターシムを求めて」を、世界文学史のなかにすっぽりと収めるこころみ。

●『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール
 ピエール・メナールという人物は、二十世紀というときに「ドン・キホーテ」をふたたび書く。それは結果として原典から一字一句たがわぬものになるのだけれども、十七世紀に書かれたセルバンテスの「ドン・キホーテ」とは意味がちがうんだよねー。

●円環の廃墟
 わたしという存在は、他者によって夢見られた存在なのかもしれないという、SFファンが喜びそうなテーマ。

●バビロンのくじ
 ただ幸運が当るだけのくじではなく、罰則をも含むくじをとことん発展させると、それは現実世界とちっとも変わらないものになってしまう。

●ハーバート・クエインの作品の検討
 これまた架空の作家についての考察。「円環の廃墟」はこの作家からの影響で書かれたと。

●バベルの図書館
 「無限」の世界の図書館には、あらゆる書物、これから書かれるであろうすべての書物を含めた「Whole」が収められている、と。それが「無限」というものだから、わたしにはピンと来ない。

●八岐の園
 まえにも書いたように、この作品は好きである。わたしはSFよりも推理小説が好きなのだ、ということなのかもしれない。

■工匠集
●記憶の人・フネス
 人生のすべての体験を記憶する男についての作品だけれども、じっさいにこういう記憶力を持った人というのは存在するらしい。そういう人は「みんなそういうもんだろう」と思って生活していたりするらしい。ぎゃくに、三歩あるくとすべて忘れてしまう、わたしのような人間もいる(そんなわたしも、妙なところで異様な記憶力を発揮/維持してしまうことがあったようである)。

●刀の形
 このあたりから「ならず者」の話が出て来るのかな。こういうの、好きである。

●裏切り者と英雄のテーマ
 これまた「ならず者」というテーマに、「文学」が重なってくる。このあたりのボルヘスが好き。

●死とコンパス
 推理小説だろうけれど、あんまりわたしの好みではない。たしかアレックス・コックスが映画化したものも観ているけれど、「一本の直線でできた迷路」という概念以外、なにも思い出せない。

●内緒の奇跡
 トム・ウルフが書いた「現代美術コテンパン!」という本に、これに似たはなしが載っていたと思う。ある美術家がトイレットペーパーに「世紀の傑作」を描いたけれど、それでケツをふいて水洗に流しちゃった、みたいな。あ、ちっとも「似たはなし」ではないか。

●ユダについての三つの解釈
 ‥‥酔っ払いのグタ話という雰囲気で、このあたりにはまるで興味ない。

●結末
 ここに出てくるマルティン・フィエロというのはどういう人物なんだろう。アルゼンチンでは名うてのならずものなのか。

●フェニックス宗
 「秘密」ということで結びつく宗派。この宗徒を含まない人間の集団はないそうである。もはや彼らの「秘密」は失われ、本能になってしまったと。

●南部
 わからないところもあるけれど、おそらく、この作品がいちばんいい。アルゼンチンという土地もクローズアップされてくるし、どこかボルヘスの分身に思われる主人公の体験することがらは、どこからが、またどこまでが幻覚なのだろうか。


 

[] 「メアリー&マックス」(2009) アダム・エリオット:監督  「メアリー&マックス」(2009)  アダム・エリオット:監督を含むブックマーク

 ものすごくグロテスクな造型の人物の登場するクレイ・アニメーションで、オーストラリアの少女とニューヨークの男との、二十年にわたる文通、それぞれの「孤独」の物語。実話だそうである。

 この造型がここまでグロテスクだというのも故(ゆえ)なきことではなく、じっさいに登場人物を取り巻く世界の精神は、かぎりなくグロテスクなものなのである。ふたりが文通してこころを通わせているかというとそういうものではなく、ただ好物のチョコレートを交換しているだけで、あとは互いにおのれの周囲のことについて独白をつづけているだけのように思える。そのなかで、成長した少女がニューヨークの男に「意味」を与えようとしてしまう。男はその行為に怒るけれど、さいごには女性を許す。

 話の発端は、少女がニューヨークの電話帳に出ている名まえに興味を持って、「どんな人だろう」と手紙を出すことにある。このふたりを引き合わせた偶然こそが「奇蹟」のようなものではあるけれど、だからといってここに、こころあたたまる年齢を越えた友情とかいうものが芽生えるというのとはちがう。ただ、それぞれがより深く、おのれについて知るというきっかけにはなったことだろう。彼女の過ちは、「おのれを知る」ということを、「相手を知る」ということと取り違えたということなのだろうか。それが「意味」を与えるということにもなる。
 彼女がもういちど、「おのれの問題」と捉え直そうとしたときに、世界は彼女に対してその扉を開くことになるのだろう。しかしそのときに男はもういなかったわけだけれども。

 冒頭の音楽がPenguin Cafe Orchestra だったり、あれこれと耳に懐かしい音楽の聴かれる映画でもあった。


 

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■ 2012-05-21(Mon)

 きょうは、しごとのじかんちゅうに金環日食という天体イヴェントがある。そのあとわたしはしごとを早退して、胃腸科病院で胃カメラをのみ、胃のなかの状態をチェックする。いわばマクロコスモスとミクロコスモスとを、わずかな時をおいて同時観測するような。

f:id:crosstalk:20120521074351j:image:left ちょうど金環日食のじかんはしごとも一段落していて、外で観察しようとしたりするけれど、太陽を直視するわけにもいかないのでほとんど見るのはあきらめていた。でもちょっとじかんをおいて、運転手の方が「よく見えるよ」といっているので出てみると、ちょうど太陽に雲がかかってフィルターのようになり、裸眼で見てもだいじょうぶだった。クライマックスはちょっと過ぎている。ケータイで撮影してみた。

 そのあとは病院で胃カメラ。鼻に麻酔をかけて、鼻の穴から胃カメラのチューブを挿入する。モニターにうつる体内の様子を、じぶんでもみることができる。とくに潰瘍とかがあるわけでもなく、きれいである。ただ二ヶ所ほど、ちょっと赤くすりむけたようになっているところがあった。医師の先生も「これが痛んだのかもしれませんが、もう治りかけていますね」と。まあ大丈夫でしょうということである。じぶんでも胃のなかに目を走らせたので、なんとなく安心。「こうやって年にいっかいぐらいは検査するといいですね」と先生。きょうのイヴェントは、これで終わった。


 

[] 「結婚の夜」(1959) 筧正典:監督  「結婚の夜」(1959)  筧正典:監督を含むブックマーク

 「女妖」、「女の都」と、なぜか「女性はコワい」みたいな作品をつづけて観ているけれど、またそういう作品を観てしまった。原作は円地文子の「黒髪変化」という短編らしい。監督はこの東宝でサラリーマン喜劇などを撮っていた筧正典という人で、主演は小泉博と安西郷子。小泉博は「次郎長三国志」にも出演していたけれど、このころはこういう「女ったらし」みたいな役が多かったのか? 安西郷子という女優さんははじめてみるけれど、このすぐあとに三橋達也の奥さんになって引退されているので、活動期間は短かったようだし、そういう東宝サラリーマンものへの出演が多かったようである。

 とにかく小泉博はデパートの店員で、客だろうが同僚だろうが女とみれば片っぱしから手を出してしまうような男なんだけれども、そこにデパートの客としてひっかかってしまうのが安西郷子。彼女には小泉博がはじめての男というわけで、こないだの「女妖」の山本富士子のようなわけにはいかず、「危険な情事」のグレン・クローズに近い立ち位置になってしまう。「わたしを捨てたら神もお許しにならないでしょう」と。つまり小泉博が身を落ち着けて結婚するとき、その式での巫女をやっているのが安西郷子で、それだけでも小泉博はびびってしまうのが、彼女は新婚旅行への列車にまで乗って来てしまう。コワいですね〜。

 終盤にその安西郷子が登場するたびに、まるでホラー映画みたいな効果音や音楽のヴォリュームが上がっちゃうんだけれども、演出としてはもう怪談のつもりでやっている。おそらくは四谷怪談あたりを目指しているというか、ここで悪いのはやっぱ小泉博で、安西郷子という存在は、その怨念において際立つことになる。「危険な情事」みたいなミソジニー映画ではないけれど、やはり女性はコワいのである。


 

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■ 2012-05-20(Sun)

 iTunes のストリーム配信を聴いていて、きょうはいつもの「Oldies」をやめて、「Classic Rock」というジャンルから、「Deep Classic Rock」っつうのを聴いた。しかし内容は、いつも聴いていた60年代オールディーズとほとんど同じだった。Gary Lewis & Playboys の「Green Grass」がかかり、いまの季節にぴったりの曲だなあなどと、しばし聴き惚れる。季節はもう初夏である。
 きのうエアチェックしてあったピーター・バラカンの「ウイークエンド・サンシャイン」を聴くが、また物故者の特集になってしまっていた。こんかいはBooker T & MG's のベーシストDonald "duck" dunn 氏の特集。せんしゅうの東京でのライヴのよくあさ、東京のホテルで亡くなられていたそうである。いぜんにもそういう、おなじように日本で亡くなられたミュージシャンの方がいらっしゃった記憶がある。しかしこの番組は物故者の特集ばかり。ついせんじつ、Donna Summer も亡くなられてしまった。でも、ピーター・バラカン氏の番組では特集はやらないだろう。わたしはディスコ・サウンズにほとんど興味はないけれど、Donna Summer さんは、とても偉大なシンガーだったと思っている。

 昼はヴィデオを観て、夕方にTVで相撲なんかみてしまった。初優勝した力士はきのうのインタヴューでも印象に残っていたけれども、喜びをいっぱいにおもてに出していい感じの人。もうかなりの年配の力士なのらしい。そのことがこの明るさとかんけいあるのだろうか。相撲をみたあとははやめに夕食を食べて、はやめに寝る体勢にはいった。あしたは胃カメラでの検査。
 ベッドのなかで「嵐が丘」を読み進めるけれど、こりゃあすげえや!って感じである。全宇宙がこのイギリスの片田舎に凝縮されてしまっているというか、ここに登場するたった二軒の家こそが、全宇宙なのである。あたまがクラクラする。きょうも、タバコを一服したいという気もちが強かった。


 

[] 「女の都」(1980) フェデリコ・フェリーニ:監督  「女の都」(1980)  フェデリコ・フェリーニ:監督を含むブックマーク

 なんか、結婚していたころに当時の妻といっしょにヴィデオでみた記憶があるけれど、内容はほとんど忘れてしまっていた。って、こんな内容の映画をモトツマといっしょに観ていたのか。そりゃあ離婚してしまうわな、などとわけもなく反省する。

 なにこれ。北野武がときどきやるシモネタ映画とおんなじじゃないの? いったい何のためにこんな映画をつくるのか、などと思いながら観るのだけれども、これがあいにくと美術にはちからが入っているし、演出だってやはりくさってもフェリーニ。どこかすごいのである。おはなしはちっともすごくないけれど。

 もういいかげん観るのやめちゃおうかなあ、なんて気分でいると、あの「8 1/2」のラストのやりなおし、みたいな雰囲気にはなってくるし、そのなかでまた「アマルコルド」みたいなこともやっている。っていうか、フェリーニが過去を振り返って、「8 1/2」では「人生は祭りだ。共に楽しもう」っていっちゃったけど、「ごめんなさい、楽しんだのはわたし一人だけでした」と懺悔している映画みたいにもみえる。

 主役はまたまたマルチェロ・マストロヤンニで、「8 1/2」や「甘い生活」からの引き継ぎで、フェリーニ監督の分身のような、はたまたマストロヤンニ本人のような役柄。それで奥さん役がアンナ・プリュクナルで、そうそう、そういうパンキッシュなシャンソン歌手がいたんだよなあと、なつかしく思い出すことになるけれども、これがやっぱり、フェリーニ映画でのその夫人役としてはかなり攻撃的なパーソナリティで、このあたりにも、この作品でのフェリーニ監督の自虐的なところが垣間見えるように思える。

 映画上のパートナー、音楽のニーノ・ロータが亡くなられてからさいしょの作品で、よくフェリーニはニーノ・ロータという盟友がいなくなっていい映画がつくれなくなったようなことをいわれるけれど、演出にかける気迫は衰えてはいないと思う(この映画をつくったときフェリーニは六十歳である。ひゃ、いまのわたしとおんなじだ)。ただ、なんだかこのあたりから後ろ向きといっていいような映画(この映画もそうだろう)をつくりはじめたのは確かだと思う。そのこととニーノ・ロータの不在が関係あるのかどうか、わたしにはわからない。



 

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■ 2012-05-19(Sat)

 あさ起きて、しごとへ出るまえにTVをみていると、きょうは土曜日なのでいつもと番組がちがって、健康についての番組をやっていた。テーマは「禁煙」だった。ある種の人たちにとって、いかに禁煙ということがむつかしい行為なのか、とくとくと説かれるのである。わたしはまだタバコを絶って一週間ぐらいだけれど、こういう番組をみると「ではやってやろうじゃないの」という気分にはなる。とりあえずは一ヶ月が目安で、その期間を乗りこえたら禁煙達成と考えていいのか。せっかくタバコをやめるのならば、代わりになにかはじめてみてもいい。たとえば絵を描きはじめるとか、楽器を習いはじめるとか(これはちょっと冗談)。タバコを買ったつもりで、その分を貯金するという人は多いようである。

 このところ、しごとがちょっといそがしい。おまけに来週ぐらいでやめてしまう同僚もいるので、これからよけいにいそがしくなりそう。


 

[] 「女妖」(1960) 三隅研次:監督  「女妖」(1960)  三隅研次:監督を含むブックマーク

 タイトルからわたしが勝手にイメージしたような、つまり女性なるものの妖しさを描いたというような内容ではなかったけれど、なんだか奇妙な味わいの作品だった。原作は詩人(または作詞家)の西条八十の書いた「女妖記」という短編集ということなのだけれども、この短編集は西条八十が過去の女性遍歴を振り返って書いたという、告白というかおのろけの書らしいのである。

 で、この映画では、おそらくは原作では山のように登場したであろう女性たちの、三人だけを描いたオムニバスになっている。それが山本富士子であり、野添ひとみであり、叶順子である。西条八十らしい主人公を演じるのは船越英二で、この人の瓢とした感じが役に似合っている。
 山本富士子はなんと浅草あたりのヤクザの娘で、親の亡きあとには二代目を襲名することも期待されているような存在。船越英二はそんな彼女の「はじめての男」になってしまうようである。山本富士子の側でそういうことはクールに割り切って消えてくれたからいいけど、あんた、下手したらエライことになってたで、みたいな。
 つぎの野添ひとみは有名人専門にひっかける詐欺師っつうか、狂言自殺みたいなことをやる女。この郊外のアパートという建物がすっごくおもしろい。
 ラストは、かつて上海で付き合っていた女の娘というのが叶順子で、つまり船越英二の娘だということでもあるのだけれども、あまりに屈託のない彼女に船越英二も圧倒されてしまう。

 いっしょに金魚すくいをやって、その金魚の泳ぐ水槽にぼっちゃんと転げ込んでしまう山本富士子とか、目のまえでグラスに毒を盛って飲んでみせる野添ひとみ。そして観光地で「ハハハハ」とふたりで笑いながら、柱の回りをくるくる回りつづける船越英二と叶順子。奇怪である。ラストに船越英二は出版社の編集者と東京のマンションらしき一室で会話する。この会話も奇妙というか、「あんたはそういう<砂上の楼閣>みたいなのが好きなんだよ」みたいに編集者にいわれ、その窓には東京タワーのすがたが反射して映っている。たあいない映画という感想もあるけれど、それでもとっても変な感触である。


 

[] 「ジェネラル・ルージュの凱旋」(2009) 中村義洋:監督  「ジェネラル・ルージュの凱旋」(2009)  中村義洋:監督を含むブックマーク

 ちょっとまえに観た「チーム・バチスタの栄光」の、シリーズ続編。「チーム・バチスタの栄光」の方は医療ミスということがもんだいで、そのことが患者の死にもつながっていたわけで、そのあたりで軽いコミカルな演出との違和感がちょっとあったんだけれども、この作では病院の救急センターという存在がテーマであったりするわけで、まあ患者の死とかがダイレクトに描写されるわけでもないので、その軽さ、コミカルな描写/演出が違和感なく(というのはおかしないい方だけれども)楽しめた作品だった。

 わたしもそういう救急搬送されたことのある人間だったりするわけで、そのあたり身近に感じなかったわけでもない作品。救急センターの患者受け入れシーンとかはリアルで迫力を感じた。

 しかし、画面としてはなんちゅうか映画的なスケールを感じられない演出で、まあこうやってTVモニターで観る分にはちょうどいいけれど、映画館の大きなスクリーンでこういうの観て、どうなのよ? みたいな感想もないわけでもない。


 

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■ 2012-05-18(Fri)

 あさにふとんのなかで目覚めて、まずは起き上がってタバコを一本、などと思ってしまうのだけれども、ああ、起きてもタバコを吸うことなんか出来ないんだと考え、少しだけ起き上がる気力が萎えてしまう。

 クスリがなくなるので、しごとのあとに病院へ行く。医師から「タバコはどうされていますか」と聞かれ、「やめています」と、きっぱりと誇らしげに答える。まだせいぜい四、五日のことなのに。「よく止められていますね」といわれ、「だれかが<がんばったね、もう好きなだけタバコを吸ってもいいよ>といってくれるのを待ってます」と答える。「がんばったね」とはいってもらえなかった。

 タバコをやめたぶん口寂しいので、しょっちゅう何かを口にしている感じである。だいたいはインスタントコーヒーを飲んでまぎらわすのだけれども、キャンディーをなめたり、食パンを焼いてハムをのせて食べたりもする。これから体重が激増することになるのかもしれない。

 夕方、ヴィデオを観ていると、下から突き上げられるような揺れがあった。「これはまた大地震かも?」みたいな揺れに感じられ、すぐにTVの電源を落としたりした。考えてみれば、リモコンでTVを消しても何をやったことにもならないのだけれども。またTVをつけて速報をみるとこのあたりは震度4で、まさにこのあたりが震源地だったようである。

 読んでいるボルヘスはぼちぼちにして、今日から寝るまえにはブロンテの「嵐が丘」を読むことにした。


 

[] 「寒い国から帰ったスパイ」(1965) ジョン・ル・カレ:原作 マーティン・リット:監督  「寒い国から帰ったスパイ」(1965)  ジョン・ル・カレ:原作 マーティン・リット:監督を含むブックマーク

 ちょうどこのヴィデオを観るまえに、ボルヘスの「八岐の園」を読んだところだった。このあいだ書いたようにどうもボルヘスが苦手なわたしだけれども、この「八岐の園」には、いつも魅了される。もちろんそのストーリーの細部にまで魅了されるのだけれども、たんじゅんに、運命的な出会いをも即座に「捨て石」にせねばならないクールさ、非情さに惹かれるわけでもある。それでこの「寒い国から帰ったスパイ」だけれども、原作はずいぶんとむかしに読んでいる。たしかその原作の方の邦題は「寒い国から帰ってきたスパイ」だった。リチャード・バートン主演の映画が存在することは知っていたけれど、きょうやっと、はじめてこれを観た。原作の印象が強かったので結末とかも記憶に残っていたけれど、楽しんで観ることが出来た。って、さっきあげたボルヘスの「八岐の園」に並行するようなところが、この作品にはある。つまりそれは「捨て石」ということに関してにすぎないけれど、ここにはその「捨て石」にされた側の悲しみがある。人のこころを持っていたがゆえに「捨て石」とされたという部分もあり、この主人公がそういう人のこころを捨て去ることができれば、結果として主人公が守ってしまったような、重鎮としてのスパイの地位も得られていたことだろう。

 しかし、「この人物をこういう環境におけば、私生活でもこういうことになるだろう」と読まれてしまうことこそが悲しいのかもしれない。このあたり、近年の韓国映画「オールド・ボーイ」の典拠になった可能性もある。

 主演はリチャード・バートンで、スパイとして、身を持ち崩すというニセの「演技」の生活をしながらも、使命を果たそうとするあたりの渋さがいい。相手役というか、クレア・ブルームが哀れな役を演じているけれど、まあこういうところにフラッと行ってしまう男というのはやっぱ、ダメだね、などと勝手なことを思うのであった。「オレは神もマルクスも信じない」ということが、まったく何のつっかえ棒にもなり得なかった男は、いったい何を信じていたのだろうか。
 冒頭に出てくるベルリンの壁のチェックポイントは、きっと「チェックポイント・チャーリー」なんだろうなんて思いながら観た。ベルリンに行ったときにみた風景に、似ていたと感じた。


 

[] 「コラテラル」(2004) マイケル・マン:監督  「コラテラル」(2004)  マイケル・マン:監督を含むブックマーク

 まあこれもある意味で「捨て石」の物語というか、そういうことでは「捨て石」にされることを拒否した男のはなし、といえるかもしれない。夜のロサンゼルスがかっこいい作品。

 プロの殺し屋がトム・クルーズで、彼をのせて気に入られてしまい、彼から逃れられなくなってしまうタクシーの運転手がジェイミー・フォックス。まったくバディものではないのだけれども、この二人がいつの間にか、それぞれをおぎないあう「陰」と「陽」というような相互依存関係になっていくあたりが、かなり面白い。もちろんジェイミー・フォックスはトム・クルーズから何とかして逃れようとしているのだけれども、そのために積極的に彼の代理役を演じたりもしてしまう。いってみれば、トム・クルーズという存在がまるでジェイミー・フォックスの分身にみえてくるあたりが、この作品の興味深いところ。そういうあたりではこのトム・クルーズ、ジェイミー・フォックスこそが呼び込んだ存在というところもありそうで、つまりジェイミー・フォックスは、トム・クルーズの語る「六十億分の一のちっぽけな存在」から抜け出さねばならず、その「離脱」をげんじつにするためにトム・クルーズという存在(ここまで書いてくるといささか「幻影」じみて思えてくるけれども)を必要としたのではないかということになる。

 二人が夜のジャズ・クラブへ入るとき、そこでライヴ演奏されている曲がMiles Davis の「Spanish Key」なので、ここでちょっと腰を抜かそうかと思ってしまった。ものすごくオリジナルに忠実に演奏しているなあ、なんて思って、こういう、この時代のMiles のコピー・バンドがじっさいに活動していて、「Bitches Brew」や「In a Silent Way」の曲をライヴでやったりしていたらちょっと興奮するなあ、などと思ったのだけれども、ラストのクレジットをみると、この演奏シーンはオリジナル「Bitches Brew」の音をそのまま使っているだけで、いわば「口パク」ライヴなのだった。


 

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■ 2012-05-17(Thu)

 久しぶりに、目が覚めたときに夢を記憶していた。げんじつには存在しないどこかの盛り場の、ギャラリーで本を読んでいる。そこでいつしか夜を明かしてしまったらしく、ギャラリー内の展示の入れ替えがはじまっている。外に出るとたくさんの人たちとすれ違う。その人たちの着ている赤い服が、なんだか記憶に残っている。

 ずいぶんと、うつな気分は追い払えたような気がする。しかし、あさ起きたときにはタバコを一服したくなるし、食事のあとにもまたタバコがほしくなる。

 借りっぱなしになっている本(カフカの「日記」)をいいかげん図書館に返しておこうと、午後から外に出る。ちょうど家から真南にあたる方向の空に黒いけむりがあがっているのがみえ、どうやら火事らしい。あたりの人たちもそのけむりの方を見上げながら、火事だろうと話している。ここからは二キロぐらいは離れているだろう。消防車のサイレンがきこえる。
 図書館に着いてみると、きょうは臨時の休館日。本は返却口から返しておいた。

 ヴィデオでなつかしい「太陽がいっぱい」を観て、またボルヘスをちょっと読んで寝た。


 

[] 「太陽がいっぱい」(1960) ルネ・クレマン:監督  「太陽がいっぱい」(1960)  ルネ・クレマン:監督を含むブックマーク

 むかし何度か観た作品だけど、かなり久しぶりに観た。なんだか自分のなかでこのあとにつくられたマット・ディモン主演の「リプリー」とごっちゃになってしまっていて、主人公のリプリーが映画の冒頭からフィリップといっしょなのでびっくりした。「あれ? フィリップの親から頼まれるシーンとかなかったんだ」とか。

 このあいだパトリシア・ハイスミスの原作もまた、久しぶりに読み返したりもしていたんだけれども、こうやってこの映画と比べてみると、たんじゅんにラストがちがうんだよ、というようなものではないことがよくわかる。この映画版の脚本は監督のルネ・クレマンとポール・ジェゴフという人の手になるものらしいけど、このポール・ジェゴフという人、このころにはクロード・シャブロル監督の作品をあれこれ手がけていた人物のようで、「二重の鍵」や「気のいい女たち」、「ダンディ」などの作品でこの人の名まえが見られる(なんと、ゴダールの「ウイークエンド」に出てくるピアニストがこの人らしいのである)。ちょっと「なるほど」と納得する感じでもあって、「そうか、この作品にはシャブロル監督の作品の匂いもするわけだ」みたいな。
 で、映画のために原作から改変した部分は、先に書いたようにラストだけではないのであって、まずはトムがフィリップを殺してしまうヨットというのは、原作では借りた小さなボートにすぎないし、マージュをふくめて三人でのクルージングなど、原作にあるわけもない。また、原作ではトムとフィリップは似ているけれども周囲はそのことを意識していないという不可解な設定から、パスポートの偽造などするひつようもなかったわけだけれども、ここはその、トムによるパスポートの変造とサインの練習というのが、ひとつの緊張をはらんだヤマ場になっているわけでもある。
 また、原作でのトムはマージュのことをほとんど嫌っているわけで、映画のような微妙な三角関係がうまれる余地はない。よくこの作品がじつは同性愛を描いているということがいわれるけれど、そのあたりは原作の方がより濃厚であって、映画版ではやはり、トムがフィリップに入れ替わるというあたりのこまかい描写にちからを注いでいるようで、そのことはさいごに、フィリップの恋人だったマージュを自分のものにすることで完成されるものになるわけである。わたしはハイスミスのファンではあるけれど、この「太陽がいっぱい」に関しては、この映画版の方がいいような気がする。ラストさえいじれば完全犯罪はかんたんに成立するし。

 久しぶりに観て、この作品でデビューしたマリー・ラフォレはやっぱりいいなあと、あらためて見惚れてしまうんだけれども、ラストにアラン・ドロンの攻めに屈し、あえなく陥落してしまうところの演技がすばらしい。しょっぱなにロミー・シュナイダーがちょっと出てくるのに、こんかいはじめて気がついた。



 

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■ 2012-05-16(Wed)

 少しずつ、体調はよくなりつつあるように思う。発情期のニェネントはきのうにつづいて疎ましくもうるさいのだけれども、きょうはちょっとはかまってあげる余裕がある。とはいってもやはりうるさい。しかし、ふとしたはずみにタバコを吸いたくなるというのはあいかわらずで、入院していたときにはちっともタバコのことなど思い出さなかったのに、これはどうしたことだろうと思う。部屋のなかにしみついたタバコのヤニのせいなのか。

 きょうもしごとは非番なので、いちにち一歩も外に出ないですごす。つまりパジャマ姿のまま、あさ起きてからよる寝るまで。
 ついつい読みはじめてしまったので、ボルヘスの「伝奇集」をつづけて読んでいるけれど、「いったいなぜこれが面白いのか」とか、「どこをどう、面白いと感じればいいのか」などという感想を持ってしまうことしばし。たぶんわたしがアホなせいだから、とは思うのだ。

 ヴィデオを一本観て、こんやはiTunes のラジオチューナーで、ボサノヴァなどを聴きながら寝た。


 

[] 「大殺陣」(1964) 工藤栄一:監督  「大殺陣」(1964)  工藤栄一:監督を含むブックマーク

 ちょっとまえに観た三池崇史監督の「十三人の刺客」という映画、オリジナルはこの「大殺陣」の前年に、おなじ池上金男の脚本、工藤栄一の演出でつくられたものだったらしい。で、こういうのを、<集団抗争時代劇>とかいうらしいのである。「十三人の刺客」、わたしはこの工藤栄一監督版では観ていないので、この「大殺陣」がそれに比べてどうのこうのということも出来ないのだけれども、この「大殺陣」だけ限っていうならば、この作品、手法に耽溺した表現という意味で、これを「マニエリスム」といいたくなってしまうような作品である。

 とにかく、「いったいなぜここまで」と思えるほどに登場人物のテンションは高く、その演出や撮影もまた凝っているわけだけれども、そのストーリー展開のなかで、彼らがそこまでにテンションが高くなる理由が理解しづらいというか、まあ「造反有利」なら「造反有利」というぶぶんに、観ているものが共感する余裕もなく持って行かれてしまう感じがする。すっげえ大変な陰謀を企てているわけだろうな、という気配は濃厚なんだけれども、ではその陰謀とはいったいどんなものなのか、というのがどうも、置いてきぼりのままに、映画内でそのテンションのみが高揚しっぱなしという空気。

 観終ってみればとくに脚本が弱いとか、そういう印象でもないのだけれども、この異様なテンションとのバランスは、どこかずれている感じはする。そのバランスのずれを楽しむのがこの作品の面白さ、なのかもしれない。



 

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■ 2012-05-15(Tue)

 和室で机の前にすわってパソコンに向かっていると、ニェネントがやってきてわたしの足もとでうずくまって、「ねえ、かまってよ」となく。このところそういう気分ではないので放置していると、わたしがちょっと腕をひざの上におろしたときなんかに、その腕をペロペロとなめてくる。

 きょうはあさから雨が降っている。年金のはじめての振り込みがあった。年金事務所からの説明では七月になるかもという話だったので、ずいぶん早いじゃないかと思う。しかし、説明書類を読むと、わたしの場合なら五月からというのがあたりまえなのである。銀行の通帳に記帳が出来なくなっていたこともあったので、駅の北の支店まで足を運んで、記帳出来るように調整だかしてもらって帰る。年金収入によってわたしの生活にゆとりが生まれるかというと、いちがいにそういうわけでもないのだけれども、まあ多少はそういう面もあるだろう。

 それで、入院まえから気になっていたTVでも、やはり買ってしまおうかとネットを検索すると、つい二、三日まえまで一万六千円台だったものが、きょうは二万二千円台になってしまっていた。なんということ。じぶんでも「この安値はいつまでもこのまま持続するわけでもないだろう」とは思っていたけれど、目のまえでこうやられるとショックである。

 きょうもタバコが吸いたくて、スーパーでキャンディとかあれこれ買ってしまった。きのうまで、いちにちに一食はスーパーの出来あいのお弁当などですませていたけれど、きょうはひるまはそばをゆで、夕食はちゃんとご飯を炊いた。ただしおかずはスーパーで買ったコロッケを工夫もなくそのままに。

 ヴィデオをきょうも一本観て、少しずつ元気を取り戻しつつあるだろうか。夜にはけっきょく、ボルヘスの「伝奇集」をつづけて読みはじめてしまった気配である。



 

[] 「ハリーとトント」(1974) ポール・マザースキー:監督  「ハリーとトント」(1974)  ポール・マザースキー:監督を含むブックマーク

 かなり有名な、ネコと老人のロードムーヴィー。ネコがどうやって「旅」するねん!って思っていたけれど、まあほとんどネコには無理やりの旅で、それがこたえたのか、ラストの方ではついにお亡くなりになってしまわれる(まあ老齢という設定ではあるけれど)。主人公のハリーは七十二歳とかいう設定で、ネコのトントは十一歳というのは、わが家の十年後のすがたにだいたい合致するわけだけど、本質的にお金持ちで血縁にも恵まれている(そのことでのドラマはあるけれども)ハリーと、そういうものは持たないわたしとに共通するものもないから、まあひとごととして観るだけである。ネコの出番に期待したけれど、やはりネコは演技するわけでもなく、バスのなかでサンドイッチにちょっかい出すくらいである。

 過剰に情緒に訴えるような演出でもなく、サラリと「この歳になってまだ、人生を楽しんじゃったよ」みたいな、ひょうとしたところには好感は持つ。ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」をちょっと、思い浮かべてしまった。



 

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■ 2012-05-14(Mon)

 月曜日。きょうはしごとは非番の休みで、あさからゴロゴロする。なんでだか急にタバコが吸いたくなってしまい、なんとか抑えようとコンビニでキャンディーを買ってきたりする。とにかく口淋しく、なにかを飲んでいるか食べているかしていたくなる。インスタントコーヒーの消費量が一気に増加する。

 こんなとき、ニェネントがまた発情期を迎えてしまう。いつものときでもうっとうしく感じてしまうのが、いまはわたしの気分もよろしくないので、よけいにうとましく感じてしまう。ニェネントが近くに寄って来ても相手にするよゆうもなく、放置していると、ニェネントがリヴィングを行ったり来たりしながら、咆哮するわけである。これがいまのわたしには神経にさわる感じで、ニェネントをみつめて「うるさい!」とどなる。それでもニェネントはそんなことで咆哮をやめるわけもなく、ぎゃくにいっそう大きな声を出しはじめるようにわたしには感じられる。いいかげんがまんできません、という感じで、近くに転がっていた段ボールの空き箱を、ニェネントに投げつけた。ニェネントには当らなかったけれど、ニェネントはびっくりしたように逃げていった。これじゃDVだよな。これでニェネントがわたしをおそれて避けるようになったらどうしようか、などと漠然と思うけれど、いまはただ、ニェネントがうるさくってうっとうしいということがいちばんなのである。

 現在のわたしの陰うつさのひとつの源泉なのかもしれない、カフカの日記を、ようやくとにかくも読み終えた。強いインパクトを受けたことはたしかだけれども、これからはもうちょっと楽しい本を読みたい。というか、次はナボコフの「青白い炎」にしようと本を引っぱり出して用意してあったのだけれども、おなじ本に収録されているボルヘスの「伝奇集」をちょっと、読みはじめてしまった。これまた難儀なのではないかと思う。


 

[] 決定版カフカ全集7「日記」マックス・ブロート:編集 谷口茂:訳  決定版カフカ全集7「日記」マックス・ブロート:編集 谷口茂:訳を含むブックマーク

 とにかくすべてのページはくくって、すべての活字に目を通したのはたしかなんだけれども、はたしてこれでカフカの「日記」を読んだといえるのか、また、カフカの「日記」を通読することに意味があるのかとか、考えてはしまう。まえにも書いたけれども、日常の記録や観察と創作ノート、そして作家の内面の吐露などなどからなるこの「日記」の、行間の乖離はほとんど「深淵」といってしまいたくなるほどに深いもので、その「深淵」を越えてときを置かずに連続して読み継いでいくのはいかにも「乱暴」な作業に思えてしまう。なんだかやはりこういう書物は一気に読むのではなく、手もとに所有しておいて、もっとインタラクティヴな読み方がなされなくってはならない気がする。

 でも、そもそもカフカの「日記」を読むというのは、どういうことなのか。その端緒のようなものは、こんかい通読して、どこか読み取れたようには思う。それは「不可能性」への意志のようなものではないのか。そのことはせんじつここに書き写した「私は文学そのもので」という一文からも読み取れる。ずっとあとの方の、一九二一年の日記には次のような文がある。

 ぼくが仮に陸上選手であるという大それた望みを持つとすれば、おそらくそれは、天に昇ってそこで地上でと同じように絶望していることが許されたら、と思うのと同じことだろう。

 こういう考えはカフカにとってはなじみのものというか、別に陸上選手でなくっても、たとえば文学関係の職業に従事できることになる、というようなことになっても、カフカは同様のことを思うことだろう。しかしカフカという人は、単に絶望を希求する人ではない。時期はさかのぼるけれど、一九一五年には次のように書いている。

(‥‥)もしぼくが他人で、ぼくとぼくの生活経過とを観察するとすれば、次のように言わざるをえないだろう。すなわちすべては無駄に終るほかなく、絶えざる懐疑のなかで使い果され、創造的なのはただこの自己苦悩においてのみだ、と。当事者としては、しかしぼくは希望を抱いている。

 ‥‥ほんとうは、このカフカの「日記」から、わたしなりのノートを製作するぐらいのじかんをとって読みたかったけれど、ここでいちど図書館に返却する。図書館に返却するということは、すべてを忘却の淵から投げ捨てることにも思える。



 

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■ 2012-05-13(Sun)

 日曜日だけれども、きょうはしごとがある。あさ起きるときのうよりはだいぶ調子もよく、きのうの夜は「あしたのしごと、休んじゃおうかなあ」などと考えていたのだけれども、がんばって出勤することにした。出勤してみるときょう出勤のはずの同僚が急欠になっていて、めちゃメンバーが少ない。こういうときにわたしが休んでいてもまた面白いことになっていただろう。

 しごとを終えて帰宅して、少しは元気を出さなくっちゃいけないと、久しぶりにヴィデオを一本観た。夕方になると先日注文してあったDVD、「唇からナイフ」も到着したので、夜にはこっちも観た。


 

[] 「ブリキの太鼓」(1979) ギュンター・グラス:原作 フォルカー・シュレンドルフ:監督  「ブリキの太鼓」(1979)  ギュンター・グラス:原作 フォルカー・シュレンドルフ:監督を含むブックマーク

 ずいぶん昔にヴィデオで観ているし、原作も(ひょっとしたら途中まで)読んでいるけれど、登場人物の顔だとか、そのほか印象的なシーンはけっこう記憶に残っていた。ストーリーはほとんど忘れていたけれども、観ていると思い出した部分もある。

 しかし、今この作品を観ると、このあいだの「旅芸人の記録」みたいに、これはつまり「ダンツィヒ」という土地をめぐる作品というわけで、かつて「自由都市ダンツィヒ」として発展した都市が第二次世界大戦前のナチスの台頭を受けて、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人、少数民族のカシュバイ人らの運命が、このダンツィヒという場所を舞台にして錯綜することになる。主人公の祖母はカシュバイ人で、祖父は放火常習犯で逃走をつづける(いつの間にか行方不明になっている)ロシア人である。その二人から生まれた主人公の母はポーランド人とドイツ人との二人の男と関係を持っていて、主人公オスカルの父親はどっちなんだかわからない。そういった大人たちのはちゃめちゃさにうんざりしたオスカルは、三歳の誕生日を迎えて、それ以降はもう成長しないことに決める。はたしてオスカル、そしてオスカル周辺の人物たちの運命やいかに、という作品。

 やっぱギュンター・グラスの原作の力が圧倒的だとは思うけれども、ジャン=クロード・カリエールや、原作者のギュンター・グラス自身も、この映画の脚本書きに参加している。フォルカー・シュレンドルフという監督さんのことはよくわからないけれど、ずいぶん前にこの監督さんがロベルト・ムージルの「若きテルレスの惑い」を映画化したものを観ている。ちょっといい映画だった記憶はある。
 で、この「ブリキの太鼓」だけれども、それぞれのシーンでもって映像的にインパクトを感じることは多い。しかし、その映像のちからがドラマとして動き出さないのではないか、というような感想もある。「絵」はすごいけれども、劇としてはどうよ、というような感じといえばいいか。もうちょっとカメラの切り返しとか編集を入れて、絵がダイナミックに動くような演出も出来そうな気がした。


 

[] 「唇からナイフ」(1966) ジョセフ・ロージー:監督  「唇からナイフ」(1966)  ジョセフ・ロージー:監督を含むブックマーク

 おそらく公開当時に観ている映画なんだけれども、そのあとにヴィデオなりDVDなりで観る機会はあったはずで、それも五年とか十年とかまえのことではないかと思う。場面場面の記憶は残っているんだけれども、その月日のながれのなかで内容は改変されて記憶され、こんかい久しぶりに観て、「あれ? こんなんだっけ?」っていう感想を持ったシーンがいくつかあった。

 原作はいわゆる「コミック・ストリップス」で、そういうたぐいの原作を持つ作品としてはずいぶんと早い時期のものだろうと思う。一般にはジョセフ・ロージーがおふざけでつくったゆる〜い映画として評価も低いようだけれども、わたしはけっこう好きな作品。なんというのか、通した作品としての、ストーリーだとか演出の一貫性だとかいうもののない作品という印象といえばいいのか。おのおのの場面というかシークエンスごとが、枠にはめ込まれたようにその部分だけで独立しているというか、それこそコミックというものが、コマごとの絵がじつはまったく連続はしていないにもかかわらず、その連続で作品が成立しているというあたりを、そのまま映画にしてしまったような気配がある。

 こんかいちゃんと観ても、いったいなぜこういうストーリー展開になるのかまるでわからないというか、それぞれの登場人物の行動にまるで必然性がない感じで、とにかくはラストには敵のアジトでの決戦になればいいのだという感覚。

 こういう作品のいいところは、あたまからしっかりと目を離さないで観ていなくてはいけないというのではなく、どこでも目にはいった部分だけ楽しむような見方でまるでOKということで、これからもときどき観返してみたい作品なのである。ラストの、モニカ・ヴィッティの眼へとズームするカメラ、そのモニカの表情はすばらしい)。

 タランティーノがこの作品を好きで、「キル・ビル」のなかにこの作品のテイストが活かされているらしい。こういう女性が主人公のサスペンス・アクションというのではたしかに先駆的作品だろうけれど、わたしはそういうものでもう一本、フランスでクロード・シャブロルが撮った「探偵マリー・シャンタル」ものの(この原作はコミックではないようだけれども)、「ジャガーの眼」という作品がもういちど観たい! これもシャブロルの作品群のなかではほとんど評価されてない作品だけれども、これは主演するマリー・ラフォレの美しさの際立つ作品だった(それ以外は何も覚えていないけれども)。


 

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■ 2012-05-12(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 めざめると、これまでになくからだの調子がよろしくない。調子がわるいというのでは胃の感覚がよくないのだけれども、なんだか全身ダウナーというか、精神的にアウトという感じで、調子がわるいというよりは気分がわるいという方がぴったりとくる。きのうからタバコはきっちりやめているし、何がわるかったかと問えば出かけたという行為自体か、それともやはり酒を飲んだということなのか、あるていど相乗効果になってしまった部分もあるだろうけれども、やはりここは飲酒がよくなかったと考えるのがふつうだろうか。

 もう何もしたくないという雰囲気でずっと部屋で寝ていたけれど、入院まえに胃腸科の医院で検査するはずだったのがそのままになってもいるし、午後になってからその胃腸科の医院へ行った。血圧もまたちょっと高くなっていて、要注意。十日ぐらい先に胃カメラの検査予約ということになる。そのくらい先でだいじょうぶというのは緊急性はないということ。この気分のわるさは、そのほとんどが精神的なところから来ているということだろう。

 帰宅してからもずっとベッドで横になっていて、ときどき、読みさしのカフカの「日記」のページをひらく。こういうのを読んでいるのもよろしくないだろうと、P・K・ディックの短編集(これまた、こういうのもよろしくないだろうと考えることもできるだろう)をひらき、冒頭の短い作品を読む。コントっぽい作品だったし、読んで「ふふふ」という感覚がもち上がったから、わたしの状態もそんなに深刻なものでもないのだろう。ぜんぶ、カフカのせい、なのかもしれない。



 

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■ 2012-05-11(Fri)

 きょうはしごとのあと、東京へ出て映画館で映画を観る。しかも、尺長四時間にせまる、長い長い映画を観るのである。退院直後、服用している治療薬のせいか、体調もよろしくないというのに、だいじょうぶなんだろうか。わたしとしてはこういうことをバネにして元気を取り戻せたら、などという目論見もあるわけで、わたしにそういう元気を出させてくれそうなAさんといっしょに行く。

 きのうまでは天候不順というか、かみなりが鳴ったり雹が降ったりというたいへんな天気がつづいたのだけれども、きょうはそのあたりは心配なさそうな晴天。昼に高田馬場駅でAさんと合流し、いぜんその名画座への道ぞいにみつけたカフェに入って昼食をとる。もちろんはじめての店だけれども、二階まであってかなり大きな店。予想どおりランチ・サーヴィスをやっていて、ランチのメニューはドリンクにデザートは飲み放題、食べ放題。料理としてはイタリアンだけれども、けっこうボリュームもあっておいしく食べた。ここで映画を観るときはまた立ち寄りたいし、夜になればアルコールを楽しむのもいいだろう。

 ゆっくりと食事を終え、その近くにある目的の映画館へ。きょう観るのはテオ・アンゲロプロス監督の代表作「旅芸人の記録」である。その評判はいぜんから聞いてはいるけれど、わたしは今まで観る機会がなかった。どんな映画なのかということも、実はほとんど予備知識もない。とにかく途中で熟睡してしまったりしなければいい。きょうはこの作品の上映の最終日ということもあってか、客席はほぼ満員。ブザーが鳴って上映がはじまる。

 ‥‥映画は、思いのほかへヴィーにおもたい作品だった。って、そのくらい想像しておくべきだった。でもやはり「すごい作品」という感じで、やはり観て良かったと思う。感想は下に。

 映画館を出ると外はまだ明るいのだけれども、すでに六時はすぎている。さっくのカフェに行くという選択もあるけれど、このところわたしは「お刺身食べたい」人間になっているので、Aさんにも付き合ってもらって、駅の反対側まで行ってそういう店を探す。ちょっとそのあたりはカウンター席がメインの小さな小料理屋という風情の店が目立ち、いまのわたしの基準ではあまり安くもなさそうである。むかし新宿のバーで労働していたとき、道をはさんでそのバーの正面にあった居酒屋とおなじチェーン店をみつけ、そのチェーン店は「安かろうまずかろう」という評判をきいていたのだけれども、「これだけ安ければまずくってもいいですよ」という感覚で、この店に入った。一階はなんというか、一人客用に並べられた、立ち食いそば屋のようなカウンター席がずらりと並んでいて、ちょっと圧倒されたけれど、案内された地下にはちゃんとテーブル席もあるのである。刺身、イカの一夜干し(美味)そのほか、あれこれと食べたけれど、どれもけっこうおいしくいただいた。アルコールはちょっとひかえておこうと思っていたのに、Aさんとの会話もはずみ、ついつい予定以上に飲んでしまった。三時間近く居座って、あれこれと飲み食いしたのだけれど、会計してみると信じられないくらい安くあがった。

 映画は重たかったけれど、入院以後のうつうつとした空気を吹き飛ばすような、いい気分転換になったと思う。これで上昇気流に乗れればいいのだけれども。


 

[] 「旅芸人の記録」(1975) テオ・アンゲロプロス:監督  「旅芸人の記録」(1975)  テオ・アンゲロプロス:監督を含むブックマーク

 「羊飼いの少女ゴルフォ」という演目のみ(?)を演じながら旅をつづける一座を追いながら、1939年から(語られることがらとしてはもっと以前から)1952年までのギリシャの変動を語る作品、といえばいいのか。
 ちょうど今日、出かけるまえにみていたTVで、「いったいギリシャはなぜ、ヨーロッパのお荷物になってしまったのか」というようなコーナーをやっていたわけで、出かける準備などでいそがしかったのでほとんど聞き流していたけれど、ちゃんと真剣にみていればタイムリーな事前勉強になりえたはず、だったのである。

 冒頭に、画面いっぱいの赤い緞帳にスタッフ/キャストがクレジットされ、その緞帳のかげからアコーディオン奏者がすがたをみせ、<これから「羊飼いの少女ゴルフォ」を上演いたします>というようなことを語られ、本編がはじまる。だからこの本編全体が、(タイトルはともかくとしても)この旅芸人一座による「劇」なのだという見方も成立するわけで、じっさいにこの作品全体にわたって、「メタ構造」というか、フィクショナルな構成がひじょうに重層的に展開していく。全編ワンシーンワンカットの長まわしが基本なのだけれども、そのワンカットのなかでの時間軸が演劇的に演出されていたりもする。ギリシャ劇にくわしくないわたしはまったくわからなかったのだけれども、その全体の流れのなかにアイスキュロスの「オレスティア」が織り込まれていたということ。とくに冒頭の一座のひとびとのくり拡げる人間模様はこのあたりからの展開に重ねられているらしかった。

 第二次世界大戦の時代、まずはイタリアに侵攻され、次にはナチスドイツに占領され、ギリシャにハーケンクロイツの旗がひらめく。軍が芸人一座を訊問し、「イギリスのスパイが逃げこんでいるようだから全員ギリシャ語をしゃべってみろ」と強要される。ドイツ軍は撤退し、パルチザン解放戦線と王党派が衝突する。パルチザンは掃討され、王党派をあと押しするイギリス軍が進駐することになる。旅芸人一座はここでは英語を語る兵士たちと友好のときを持つ。1946年の新年パーティーでは左派と王党派が歌合戦みたいなこぜりあい。親ソヴィエト勢力も力を増すし、イギリスの役目はアメリカが交代して受け持つことにもなる。なんということ。世界にじゅうりんされるギリシャという感じ。

 もう全編ほとんど説明的な描写もなく、字幕でその年号があらわされなければ観ていてもっと混乱していたかもしれない。それでもとつぜんに、団員の女性が状況を延々とカメラに向かって語り出すシーンもある。

 しっかし、やはりこれは「映像美」というべきか、そういうワンシーンワンカットでも、みごとに構築された構図、そのカメラ移動の動きにまた「美しさ」を感じてしまうことしばし。特にわたしは、雪の山道をロバ(?)とともに進む一座のメンバーが、一座の宣伝の歌を唄いながら進んでいくシーンで、これはなぜか、もう涙がとまらなくなってしまった。

 とにかくいろいろなことを想起させられた作品で、観ていたときにもっといろいろ思っていたこともあったけれど、こうやって書こうとするとなんだかとりとめもなくなってしまいそうである。東欧の国々の近代史もたいへんなものだけれども、東側にくるめ取られなかったとはいえ、ギリシャにはギリシャのつらい歴史があるわけだと、あらためて再認識した。わたしなどの知っていたギリシャは、この映画で語られたあとの軍事独裁時代以降のことで、そのあたりはコスタ=ガヴラス監督の作品から想像はできる世界ではあった。
 音楽もまた重要な役割をはたすこの作品から、エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」とかも思い浮かべたりした。


 

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■ 2012-05-10(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 入院していたときには何もしなくてよかった。というか、入院患者はただ寝ていればよかったわけだけれども、こうやって退院してしまうともちろん寝てばかりいるわけにはいかない。しごとに行ってしまえばまわりにもひきずられてちゃんとしごとはこなし、それで帰ってくるのだけれども、そのあとがもう何もする気がしない。ただベッドに横になり入院生活の延長みたいなことをやるけれども、まずは食事の準備を自分でしなければならない。これがまるで食欲がないこともあって、何もつくる気がしない。で、ついついスーパーで出来あいの弁当を買ってしまったり、ただ白米を炊いてありあわせのもので食事を終えたりと、まったくよくないサイクルに入ってしまっている。

 気分転換になにか好きな音楽でも聴こうと思い、いまいちばん聴きたいなと思い浮かんだのが、ジョン・バリーが音楽をやっている、リチャード・レスター監督の「ナック」のサウンドトラック盤だったりして、これを探し回るのだけれどもみつからない。CDをあれこれ処分したときにまぎれてこれも処分してしまったようである。コピーもとっていない。そうするとよけい、むしょうに聴きたくなってしまい、ではネットショッピングでみてみて、安ければまた買おうかという気分になる。それでネットで検索していたら、思いがけずにジョセフ・ロージー監督の「唇からナイフ」のDVDが、とても安く出ているのをみつけてしまった。ずっとDVDになんかなっていないものと思っていただけにちょっとおどろいてしまい、そうするとこれを観たくなってしまうのである。ダーク・ボガードがエビを料理するシーンをまた観たい。それでついつい注文してしまった。かんじんの「ナック」の方だけれども、これもDVDがやはり「唇からナイフ」とおなじ価格で出ているので、じゃあサウンドトラックよりも映画そのものを買ってしまった方がいいようにも思う。でもたしかサウンドトラックは主題曲のいろんなヴァリエーションも収録されていたし、映画の方だとセリフがかぶってしまったり、とちゅうでフェイドアウトしてしまったり、音楽じたいとして楽しむのとはちょっとちがうだろうという気になってしまう。サントラ盤は新品だとDVDよりも高かったりするけれど、中古なら多少安くなる。しかしなんだかいきおいで「唇からナイフ」を注文してしまったので、そんなに連続してお買い物してもなあ、などという気分にもなり、こちらはちょっと見合わせることにした。
 しかし、リリースされていないと思っていたDVDがそういうふうに安い価格で出ているのなら、ほかの観たいと思っている映画も、いちどバサッとチェックしてみたくなる。

 あしたはお出かけである。いまの気分が明るくなるといいと思う。


 

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■ 2012-05-09(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 きのうとおなじような、気だるいいちにち。残っていたタバコを吸いはじめてもしまう。ただ、一本吸い切らないうちにイヤになって消してしまう。それでもしばらくするとまた、次の一本に火をつけてしまう。

 あさってはAさんと六本木へ出かけ、鉄割アルバトロスケットと東陽片岡さんとのジョイント・イヴェントを観ることに、入院のまえから決めてあった。いまの気分転換のためにも行きたいのだけれども、鉄割のステージは夜の八時からなので、よほどそのステージがみじかくなければその日のうちに帰ってくることはできないだろう。入院まえには東京で夜を明かすのもいいや、ぐらいに考えていたけれども、やはり退院すぐにそんな夜更かしをすることをおそれる気もちもあるし、生活費だって入院でたいへんなことになっている。どうしよう。イヴェントに行ってもとちゅうで帰ってこようか。じつは東陽片岡さんとはずいぶんむかしに何度かお会いしたことがある。ちょうどわたしがバーのカウンターのなかでやっていたころ、お客さんで来て下さったこともあった。もうずいぶん経つので、きっとわたしのことも覚えていらっしゃるわけでもないだろうとも思うのだけれども、ちょっとまたお会いしてみたい気もちがあるのもたしか。行きたいけれどわたしは途中で帰ることになりそうだとAさんに連絡すると、それだったら中止して、なにか映画でも観ようかということになった。
 ちょうど高田馬場の名画座で、先日事故死された(せんじつお会いしたBさんは「狙われたんだ」といっておられたが)アンゲロプロス追悼特集をやっていて、その「旅芸人の記録」は観たいんだけどと、入院のまえには思っていたところだった。そのあとに入院ということになってしまって、残念だけれどもこれは行けそうもないな、などと思っていたところだった。これにしようか。Aさんに「長い映画(四時間あるのね)だけれども、どうだろう」と提案したところ、これでOKということになった。駅からその映画館への道ぞいにせんじつ発見した、さいきんオープンしたらしいカフェにも入ってみたいところだったし、映画のあとにでも行きたい。なんだか話がいい方にころがった感じで、ちょっと気もちが明るくなれた。

 よる、TVでちょうど「狭心症」についての番組をやっていて、これはきのうもみたのだけれども、みんな症状も原因もわたしにはあてはまらないような例ばかりで、あんまり参考にはならない。でも、喫煙はいけません。きょうやっていたのはまさにわたしが受けた「カテーテル検査」で、その映像がわたしが見た自分のからだの映像とおなじようなものだったので、「症状の重い人はこういうものか」と感じながらみてしまった。やっぱわたしのは、血管も太くって立派だわ。

 きょうもヴィデオも観ないでカフカの「日記」を読む。こんなのをずっと読んでいるから気分がうつうつとしているのかもしれない。あさって出かけて、それでこの「日記」もなんとか今週中に読んでしまって、もっと活動的に変身しなくってはいけない。

 カフカの、一九一三年の日記。

 また日記をつけることが是非とも必要になってきた。ぼくのあやふやな頭脳、F、役所でのぼくの堕落、書くことの体力的な不可能性と書くことへの内面的欲求。

 「F」というのは、カフカと婚約していたフェリーツェのことで、「役所」というのは彼の職場。もちろんこの頃のカフカはまだ結核におかされているわけではなく、健康な身体だったはずである。このあとにカフカはフェリーツェに求婚し、そのことについてフェリーツェの父親に出そうとする(けっきょく出さなかった)手紙には、こう書いている。

(‥‥)私は貴方に次のように精確に簡潔にお答えしなければならないでしょう。私の勤めは私にとって耐えがたいものである、なぜなら、私の唯一の要求と私の唯一の使命に、つまり文学に反対するからである、と。私は文学以外の何ものでもなく、何ものでもありえず、またあろうとも欲しないゆえに、私の勤めが私を占有することはけっしてできず、むしろそれは、私をすっかり混乱させてしまうでしょう。そういう事態から私はそう遠くは離れていないのです。私はたえずひどい神経衰弱に支配されていますし、私と貴方のお嬢さんの将来をめぐって憂慮と苦労を重ねたこの一年というものが、私の抵抗力のなさを完璧に証明しました。貴方はお訊きになるかもしれません、なぜ私はこの勤めを止めないのか、また——財産は私にはありません——文学的な仕事で暮しを立てようとしないのか、と。それに対しては、私にはそういう能力がなく、私が自分の境遇を見渡してみる限り、むしろこの勤めで没落し、しかも急速に没落するでしょうという情ない返事しかできないのです。

 この出されなかった手紙はまだまだ続くのだけれども、ちょっとわたしにはショッキングというか、なにか空恐ろしいものがある。でも、まさにここにこそカフカという存在があることが、わたしにはわかりかけてきた気がする。この手紙のおしまいは、「結婚生活は私を変えることはできないでしょう、ちょうど私の勤めが私を変えることができないように。」と結ばれている。これは、フェリーツェとの婚約を破棄する手紙ではなく、フェリーツェに求婚したのちにそのことを父親に報告する手紙、なのらしいのだが。


 

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■ 2012-05-08(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 さっそく、きょうからしごとに復帰する。あさアラームで目を覚まし、ベッドからおりると胃の調子がわるかった。入院中はいちどもこのようなことにはならなかったのに、これは精神的なものなんだろうか。とくにしごとに行きたくないと思っているとか、自覚としてはそういうわけでもないのだけれども。
 とにかく、どうっていうこともなくしごとを終えて家に帰る。これは入院生活の影響だろうけれども、なにもする気がしない。入院していたときにはなにもやるひつようはなかったわけだけれども、もちろんこれからは自分のことは自分でやらなければならない。なんとか朝食にはいつものトーストサンドをつくったけれども、昼食をつくる気がしない。TVでのおとといの竜巻の報道などをみながらだらだらとして、けっきょく昼食はとらず、昼食後のクスリだけは飲んだ。これではいけないと買い物に出て、安かった白菜とかえのきだけ、それに豆腐などを買う。夕食はなんとかご飯を炊いて、買ってきた素材をただ鍋に入れて煮立て、酢じょうゆで食べた。

 夕方の報道をみていると、おとといの竜巻はこのあたりでも発生していたようで、よく行くことのあるとなりの駅のまえに生えていた木が、幹の部分でまっぷたつに裂けている様子などが映される。距離にしてここから四キロぐらいだろうか。いちばん大きな被害の出た南の被害地はここから十五キロぐらいのところ。ちょっとずれていればこのあたりだって大変なことになっていたわけだ。

 ヴィデオも観ず、寝っころがってカフカの「日記」を読みつづける。カフカ二十八歳のとき、一九一一年の日記は分量が多いのだけれども、この年にカフカはプラーク(プラハ)を訪れて滞在しているユダヤ劇団に入れあげ、劇団員とも親密に交際している。劇団はとうぜんユダヤ人としてのアイデンティティーを前面に押しだす舞台をやっていたようで、かなりの回数にわたってその舞台を観、団員とも交際していたカフカへの影響はとてつもないものがあったようである。
 一九一二年の日記には、次のようなことが書いてある。

 日記を今日からしっかりつけること! 規則正しく書くこと! 諦めないこと! たとえ救いはまったく到来しなくても、ぼくはしかしいつでも救いに値する人間でありたい。今晩、ぼくはまったく無関心に家族のテーブルですごした。右手は、そばでトランプ遊びをしている妹が坐っている安楽椅子の背にかけ、左手は軽く膝にのせていた。ときどき自分の不幸を意識しようとしたが、ほとんどうまくいかなかった。

 ‥‥カフカの考える「救い」、そして「自分の不幸」という概念には、屈折した深いものがある。

 彼自身を完全に識ること。彼の諸能力の大きさを、一個の小さなボールのように捕えることができること。最大の没落をも既知のものとして受け取ること。そしてそうしながらも没落のなかになおも弾力的にとどまること。

 ここには、彼の文学への姿勢が書かれているように思えてならない。


 

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■ 2012-05-07(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 ついに、きょうで退院。きのうの悪天候がウソのようにあさから快晴で、なんだかわたしが入院してからつづいていた不順天候が、退院といっしょに消えてしまうような感覚である。朝食のあと、もういつでも出られるように着替えをして、きのうの竜巻かんけいの報道をTVでみつづける。けっきょくTVカードの1000円分は5ポイントだけ残してぜんぶ消費してしまった。

 九時半ごろに看護の方が来られ、入院してからずっと左腕につけていた名札のリングをはずしてもらい、これからのクスリを大量にもらって、これで晴れて退院である。きのう書くのを忘れたけれど、担当の医師の方からの話というのはきのうの夕方に終わっている。つまり、冠動脈に異常はなかったので、あとはクスリによる治療でだいじょうぶでしょうということと、ふだん通っていた地元の内科医院への申し送りについてなどのはなし。これからは日常のなかで通院ということがつづき、まいにちクスリを飲むという生活になる。

 病院を出て、また駅までの道を歩き、ローカル線に乗る。沿線できのうの突風だか竜巻だかの被害なんかが見えはしないかと窓の外をみていたけれども、「これは」というような風の被害には気がつかなかった。

 帰宅してドアのカギを開ける。ニェネントが出迎えてくれる。リヴィングへ行くとあらら、せんじつトイレットペーパーをどこかに出しっぱなしにしていたのか、床一面に、細かく裂かれてヒモのかたまりのようになったトイレットペーパーの残骸が飛び散っている。ニェネントはトイレットパーパーをこうやってめちゃくちゃにするのが大好き。やっちゃってくれましたね。まあトイレットペーパーをどこかに出したままにしておいたわたしがいけない。
 とにかくはニェネントのネコメシを出してあげ、ネコ缶もたっぷり。あ、いけない、ニェネントへのおみやげを買ってくるのを忘れてしまった。ごめんごめん。

 ちょっと片付けて和室のパソコンのまえにすわっていると、ニェネントが寄ってきて、わたしのそばでうずくまって丸くなっている。なでてあげるとうれしそうにのどをならしていて、にゃあにゃあとなくのだけれども、そのなきごえがなぜかとってもハスキーというか、かすれてしまっている。って、わたしがいないのが淋しくって、まさかずっとなきつづけていて声がかれてしまったとか? 抱き上げて鼻のあたまをいっぱいなめてあげるけれど、ニェネントをおろすとニェネントの抜けた毛で服がいちめんすごいことになってしまった。もう暖かくなって来たから、いよいよ抜け毛の季節なんだろう。

 このあいだ一時帰宅したときに、ヴィデオの録画予約を映画三本分やってあったのだけれども、たしかめてみるとさいしょの一本しか録画できていなかった。ちょっとがっくり。そう、今月はアントニオーニの「赤い砂漠」と「情事」の放映があり、まずは「赤い砂漠」を録画予約してあったのだけれども、これはうまく録画できていた。カール・ドライヤーの「怒りの日」は録画失敗していたけれど、これはもういちど放映されるのでそのときにかならず。今月はあとはクローネンバーグの「戦慄の絆」とか、ハーディ原作の「遥か群集を離れて」、なんていう作品の放映が楽しみ。

 いいかげんニェネントと遊ぶとそのあとはなんだか惚けたような気分になり、もうなんにもしないでいちにちをぼんやりとすごしてしまった。カフカの「日記」を読んでいて、けっこうショックというか、おどろかされてしまうようなところもあるのだけれども、やはり全部読み終えたあとに書いた方がいいのか、読みながら思ったことをまいにち書き継いでいった方がいいのか。


 

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■ 2012-05-06(Sun)

 きのうのよなかに、わたしの病室にいつの間にかあたらしい入院患者の方が来られたようである。おそらくは救急搬送されて来られた方で、こういうことはむかし入院していたときにもあったことである。看護の方とあれこれ話されている声でわたしも目が覚めたのだけれども、どうやら昼には家族の方が来られて、そのままいったん帰宅されるようである。

 カーテンを開けると曇天。しばらくすると強い雨が降りはじめ、すぐにやんでしまった。そのあとはまた晴天になった。きょうは天候の変化がはげしくなるだろうというようなことを、きのうの予報でいっていた。やはりあまりおいしくない朝食を食べ、そのあとはしばらくTVをみてすごす。国立博物館で開催されている「ボストン美術館展」の紹介番組など。あとはずっと読書。ちょうど昼食のころからまた外が暗くなり、雨がはげしく降りはじめた。雷鳴もとどろいて、ときどき稲妻も光ってみえた。こんどは風も強く吹いているようで、窓の外の木立の枝が大きくゆれている。風で舞いあげられた木の葉などのような細かいものが、窓の下の方から上に向かってびゅんびゅんと飛んで行く。こんな風だと傘なんかまるで役に立たないだろうな、などと思う。風が強かったのは一時ちょっとまえだったけれど、しばらくして強い風はおさまったようだった。雨はまだ降っている。

 きのう「風呂に入りたい」といったら何かの都合でダメだったのを看護の方が覚えていてくれて、「今日入られますか」と聴かれた。入ることにした。
 風呂から上がるともう、わたしの病室には誰もいなくなっていた。けさの方は帰宅されたのだろう。しばらくベッドで横になっていると、体温や血圧の検診がまわって来た。風呂上がりでどうだろうと思ったら、血圧はちっとも高くなかった。このところ、高い方でも百を切るようなこともつづいている。あんまり低いのもどうかと思うんだけれども。しかしさすがに体温は風呂上がりはダメで、はかったら七度七分なんてことになって、看護の方と「あらあら」なんて感じで、じかんを置いてはかり直したりした。そのままの数値を書いたりしたら、あした退院できなくなってしまう。

 またTVをつけてチャンネルをスキャンしていると、「茨城で突風の被害」などという、これは速報というのか、画面の外に青色の速報枠がつくられ、ずっと被害の数値などがテロップで出されていた。何百という家屋が被害を受け、わたしの住む市でも被害が出たようだった。「それって<竜巻>、なんじゃないの」などと思うのだけれども、そうすると、昼にこの病室の窓から見た激しい強風も、その一環なのではなかったかと思いあたる。報道されている茨城で突風が起きたじかんともだいたい一致するわけである。まだニュースはやっていないけれども気になる。
 TV画面の速報青枠のなかでは競馬中継をやっていて、勝った馬は「カレンブラックヒル」という名まえだったので、ちょっと笑ってしまった。馬主はやはり、女優カレン・ブラックのファンだったのだろうか。

 ニュースのじかんになり、その「突風」の映像が流される。まちがいなく「竜巻」である。わたしの住む南にあるつくば市での被害が激烈で、まさにその竜巻の「つめあと」というような映像が、現地から中継される。アメリカの大きな竜巻のニュースなどでこういう光景をみたことはあるけれども、これが日本の、しかもわたしの住んでいるところからそれほどに離れてもいないところの光景であるということにおどろいてしまう。さらにわたしの住むところの北にある地域でも、おなじ竜巻らしい被害が出ているという。でも思い出してみると、竜巻が起きても不思議ではないような不気味な雲模様は、住んでいる地域の空でかつていく度か見たことがある。

 はたしてうちのあたりは、ほんとうに大丈夫なんだろうか。ベランダのものがめちゃくちゃになっていたり、最悪のケースでは窓ガラスが割れてしまっていて、そのことを誰も通報したりしないで放置されていたりしていないだろうかとか、考えないわけでもないのである。とにかくあしたは晴れて退院。

 ナボコフの「賜物」、下巻も読了。


 

[] 「賜物」(下)ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳  「賜物」(下)ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳を含むブックマーク

 上巻のなかで、「チェルヌイシェフスキーの伝記を書いて何になる?」と聞かれた主人公のフョードルは、「発火練習ですよ」と答えている。下巻の半分以上を占める第四章は、すべてそのフョードルが書いたという設定の、チェルヌイシェフスキーの伝記の掲載にあてられている。もちろんこの部分にはナボコフはフィルターをかけて、じぶんの作品というよりは、つまりはじぶんの作品のなかの主人公が書いたものだという、メタ構造といっていいのか、そういうことになっている。

 たとえば詩人が主人公である小説を仮定して、その小説のなかに、主人公が書いたという詩が挿入されているというケースに近いものがある。なんかじっさいにそういう詩人を主人公にした小説を読んだことがある気がするけれど、そうすると、小説のなかで主人公が大詩人だなどという設定だとすると、その大詩人ぶりに相当する詩をはめこまなければならないからたいへんである。つまりはその挿入した詩が、その詩だけ独立させて客観的にみて、その小説のなかでの評価にあたいするものでなければならない。そのあたりで、画家や音楽家を主人公にした芸術家小説はなんとかなってしまっても、文学者を主人公にした芸術家小説はむっずかしいだろう、というたんじゅんな感想はある。
 この「賜物」の場合は、これから本格的に文学の世界に歩をすすめようとする主人公が書いたもの、というわけだから、つまりはそれが「大傑作」ではなくっても許されるだろうか。でも、そこに主人公の小説家としての未来を期待させるものはひつようだろう。書く方にもそれなりの矜持と、もちろん実力も要求されるわけである。つまり、ちゃんと主人公のいう「発火装置」として、機能していなくてはならない。

 で、やっぱり、この第四章を読むと、これは小説のなかの主人公フョードルの書いたものだという性格は、たしかに読み取れそうな気にもなる。しかしやはり、これはナボコフ自身の作品だよな、ということもまた、強く感じてしまう。
 この「チェルヌイシェフスキーの生涯」をふくむ「賜物」を書いたあと、ナボコフはこの伝記のスタイル、方法をまた踏襲して、「ニコライ・ゴーゴリ」を書くわけである。そうするとやはり、この小説の主人公フョードルは、かぎりなくニアイコールでナボコフ自身ではないか、という感想は捨てきれなくなってしまう。

 わたしはさいきんになってナボコフの短編を全部読んだり、長篇作品も初期の作品から少しずつ読み返したり、ロシア時代のナボコフ伝を読んだりして来ているけれど、どうもこう、このところはその気取った文体だとかが鼻についたりもして来ている(特に短編作品にそういうことを強く感じる)。そしてまさに、この「チェルヌイシェフスキーの生涯」のなかに、そういう「気取った」ナボコフのすがたをみつけてしまう気がする。で、いったい、その「気取った」ナボコフというのは何だろうか、などと考えてしまう。それで、この「賜物」の訳者の大津栄一郎氏の巻末の「訳者あとがき」を読んで、「そうか」と思いあたったところがあった。
 つまり、そこにあるのは「モダニズム」なのである。

 とくにこのナボコフのロシア語時代、ある意味で作家としての「自己形成期」の作品というのは、まさに十九世紀的な文学から距離を置く「モダニズム文学」といえるわけなんだろう。そのことはまた、ロシアから亡命してヨーロッパに渡ったナボコフにとって、ロシア文学との訣別という意味でもまた、彼なりのモダニズムを追い求めなければならなかったわけだろう。そのことがまた、有名なサルトルの「根無し草」という批判をも呼び込んでしまったわけではないのか。で、ナボコフはこのあとにロシア語という母国語をもまた捨て、ダイレクトに英語で執筆するようになったとき(つまり、次作の「セバスチャン・ナイト」以降)、そういう彼なりのモダニズムをより深化させ、まさにナボコフならではの言語世界を産み出すことになるわけだろう。

 そういう意味でこの「賜物」、次の「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」への飛躍を予感させる作品ではあるし、つまりその「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」はまた、この「賜物」での「チェルヌイシェフスキーの生涯」を「発火装置」として執筆されたとも想像できるのではないか、などと思ったりする。


 

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■ 2012-05-05(Sat)

 きょうはこの病院へ来てはじめてのあさからの快晴で、気もちがいい。朝食を持って来てくれた看護の女性も、はじめてみる顔で、かわいかった。やっぱり病院の楽しみはこういうところにある。しかし、ちょうど読んでいたカフカの「日記」のなかに、つぎのような文章をみつけてしまう。

 次のことは非常に悪いことであるように思われる。すなわち、独身であること。老人になって体面をようやく保っている体たらくでありながら、だれかが一晩みんなとすごそうと思っているときに仲間に入れてくれと頼みこみ、自分の食べ物を家へ持って帰ること。だれに対しても落ち着いた自信をもって当てにせずに待っているということができないこと。やっとの思いでか、あるいは腹をたてでもしないと人に贈り物ができないこと。人に表門で別れを告げて自分の妻といっしょに階段を駆け上がって行くということが一度もできないこと。病気のときベッドの上に起きていられるのに、自分の窓からの眺めしか慰めがないこと。

f:id:crosstalk:20120508192558j:image:right ‥‥などなど。まあカフカにはわざとこういうことを書いてじぶんを追いつめるようなところがあるわけで、そのひとつがこの「独身者」という観念なのだけれども、じっさいの独身者としては、読んでいてこころ穏やかではないのである。

 こうやって連続して彼の「日記」を読んでくると、「カフカ」という存在のことが、少し解りかけてくる気がする。彼が生きようとする「文学」とは、いわゆる一般の「生」とか「幸福」とかと両立させられるようなものではないんじゃないのか。だから彼はたえず「日記」のなかで、自らを「生」とは反対の方向に追い込もうとしているように読めてしまう。しかし、「生」とは反対、ということは、いわゆる「死」ともまた異なるところに位置している。そこにつまり、「文学」がある、と。

 きょうもまた祝日で、病院も一般の外来の受付はしていない。一階におりると、待合室のからっぽの椅子がずらっと並んでいるのだけが目にはいる。ドアの外の陽射しがまぶしく、病院のなかはよけいにうす暗くみえて感じられる。入院患者への見舞い客と、救急の外来受付に来た人のすがただけが、ぽつぽつとみえている。

 よるはTVで、そんなに遅くはないじかんに「ウォーリー」を放映していたのをぜんぶ観た。そうか、きょうは「こどもの日」というわけだった。


 

[] 「ウォーリー」(2008) アンドリュー・スタントン:監督  「ウォーリー」(2008)  アンドリュー・スタントン:監督を含むブックマーク

 まあ「Video」じゃなくって「TV」で観たんだけれども、カテゴリー分けは「Video」ということで。

 いわゆる「ピクサー」のCGアニメというのをちゃんと観るのは、これがはじめて。ストーリー展開も観ていて元気が出るというか、登場するキャラクターたちがそれぞれ、そのキャラクターに決められていた「しごと」から、それぞれの判断で逸脱して、あたらしい生き方をみつけていくあたりは爽快。それと、この作品ぜんたいが、映画だとかアニメという表現の総体へのオマージュになっているというあたりが、とってもステキである。先行するアニメ作品からの影響というのも模倣というのではない気もち良さを感じた。たとえば冒頭の見捨てられた地球でひとりはたらくウォーリー周辺の描写、色彩感覚とか、どうもわたしには大友克洋の「大砲の街」が思い出されてしかたがなかったし、ポイントになる「木の芽」からはやっぱ、「風の谷のナウシカ」のラストの、腐海に芽生えた木の芽が思い出されてしまう。「ナウシカ」といえば、エンドロールの部分で、本編物語のその後を見せたりするあたりも、そういう影響を感じてしまうような(ちょっとみえる、ゴッホ風のウォーリーとイヴのすがたがいいですね)。そういうふうに決して「まね」とかいうのでなく、ちゃんと引き継いでやっている、というふうに受けとめられてしまうあたりが、つまりは好きである。

 あとはいろんなSF映画からのネタもありそうだけれども、わたしなんかはあんまりそういうの観ていないので「2001年宇宙の旅」あたりしか思い浮かばなかったけど。前半のほとんどサイレントな展開はそれこそサイレント映画です、って感じで、ああいう、人間のかたちをしているわけではないキャラクターの、その動きで楽しませてくれるというのも新鮮。ウォーリーはミュージカル映画を観て「手をつなぐ」ということにあこがれるし、ウォーリーとイヴの手配画像というのもなんだか映画的。そういう、映画っていうのはいろんなことを学べる「先生」みたいなものだから、巨大宇宙船のなかでの頽廃した娯楽としては映画は出てこないのね。

 おそらくちっちゃな子どもが観てもすごく楽しめそうだけれども、いっしょに観ているお父さんとかは「ねえ、<がいらいのおせんぶっしつ>って何のこと?」とか、「船長とオートは何のおはなししてるの?」とか聴かれることになるだろう。それでも「うるさい! だまってみてろ!」って突っぱねておけば、そういうことはわかんなくっても、ちゃんとその概念は理解して、楽しんでくれるんじゃないだろうか。あ、そのまえに泣いてしまうか。


 

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■ 2012-05-04(Fri)

 一時帰宅の許可をもらい、きょうは午後から家に帰る。だけれども外はこの日もあさから雨である。雨足も強く、持っているちいさな折畳み傘で外に出るのはイヤだなあと思う。ところが、昼食のころから雨も上がり、食事を終えたときには空はすっかり晴れてしまった。ずっと雨だったのが、わたしが外に出るのに合わせて天気が良くなったようで、ちょっとうれしくなった。
 ひさびさにパジャマから着替えて、外に出た。すっかり快晴になっている。気分がいいので駅まで歩くことにした。駅からはそんなに待たずに電車に乗れた。

 そう、入院してから、ずっと禁煙している。ときどき、フッとタバコを吸いたくなることもあるけれども、それでもそんなに苦労しないでがまんできる。きっとまわりに喫煙している人がまるでいないせいかもしれないし、このところはタバコを吸っていても、そんなにうまいと思っているわけでもないのであった。なんとなく、禁煙なんてたやすいことだなんて思ってしまっている。そうするとこんどは、すぐに禁煙できるんだから、帰宅を機会にちょっと吸ってみようかなんて思ってしまうのである。そういうわけで、家に戻るまえにコンビニに寄って、タバコを一箱、買ってしまった。けっきょく、禁煙なんて出来ていないのである。

 ドアの鍵をあけて部屋にはいると、ニェネントが出迎えてくれた。大盛りにしてあったネコメシもすっかりなくなってしまっていた。おなかをすかせていたんだねとニェネントを抱き上げると、のどをゴロゴロいわせている。やっぱりひとりで寂しかったんだろう。‥‥あれ、ニェネントの首輪がなくなっている。どうしたんだろうと部屋を見回すと、床の上に首輪がころがっていた。どうやってはずしたのかわからないけれど、とにかくゆるめにしてあったから、まえ足にひっかけたりしていたらはずれてしまったのかもしれない。わたしが長いこと帰って来なかったので、「いつまでも放っておいて! もうワタシはあなたの飼いネコではありませんことよ!」という、怒りの意思表示なのかもしれないと思った。どうせまたすぐに病院に戻るわけだし、しばらくは首輪してなくってもいいからと、そのままにしておく。それよりもネコメシをまたいっぱい盛ってあげ、ネコ缶を開け、ミルクを皿についであげる。

 買って来たタバコの封を切り、一本吸ってみる。‥‥ちょっとクラクラするけれど、そんなにうまいものだとも感じない。ぎゃくに、これで禁煙出来そうだな、などという気分にはなれた。また出かけるまでにもう一本火をつけてみたけれど、タバコなしではいられない、という感覚はなくなっているように思った。このままやめられるといいんだけれども。

 帰宅したいちばんの理由はニェネントなので、ニェネントの無事を確認して食事の準備をしてあげれば、もうすることもない。伸びてきた指の爪を切り、持ち帰った洗濯物をバッグから出し、近所のドラッグストアにさいきんお気に入りのコーヒーキャンディーを買いに行く。これでもうおしまい。あとは駅に行くまえにスーパーのとなりの百円ショップに寄り、イヤホンを買えばいいだけ。まだじかんがあるので、ひと風呂浴びてしまった。病院の風呂は窓もなくってちょっと閉そく感があるし、やっぱりわが家の風呂が落ち着く。風呂から上がって着替えして、ちょっと一服してから出かけることにする。それで部屋を出ようとすると、ニェネントが飛んできてドアのまえにごろりと横になり、「行かないでよぉ」ポーズになる。ごめんね、ニェネントくん。おみやげを買ってきてあげるからね。ニェネントを抱いて下駄箱の上にあげ、ドアを締めてカギをかける。そのしゅんかん、ちょっとニェネントのことがいとおしくなってしまう。

 イヤホンを買って電車に乗り、また駅から病院まで歩く。おばさんの運転する車に何台もすれちがうのだけれども、なんだか運転しているおばさんがどの人もティナ・ターナーにそっくりなような気がしてしまう。栃木県はティナ・ターナー。

 申請してあったじかんよりちょっと早く病院へ戻り、さあこれから後半戦。もうこれからは検査も治療もないし、ただ薬を飲んで食事をして寝ていればいいのである(ほんとうはもういつでも退院できるらしいのだけれど、連休中で受付が閉まっているためと、連休明けにいちおう、担当医師の所見を得てからの退院になるらしい)。またパジャマに着替え、こんどはイヤホンがあるからTVカードを買って、TVのニュースをみながら夕食を待つ。なんだか連休は大雨で、とくに東日本はさんざんらしい。

 夕食。なんだか、だんだんにまずくなる。きょうは大根ときゅうりのおひたしと煮魚、それと素材のよくわからない茶わん蒸し。どれもまるでおいしいと感じられず、どうせ部屋にはわたしひとりだから、「まずいなあ」と声を出しながら食べた。ナボコフの「賜物」の上巻読了。




 

[] 「賜物」(上)ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳  「賜物」(上)ウラジーミル・ナボコフ:著 大津栄一郎:訳を含むブックマーク

 ついさいきん新訳の出た「賜物」の、これはなつかしい福武文庫版。ナボコフの作品のなかでも、これはみずみずしくもさわやかな異色の一編、という感覚もあるのだけれども、考えてみればナボコフの作品はその一編一編がいつも異なる感触なのであって、この作品だけを「異色」とかなんとかいうこともできないだろう。まあちょっと最初の長篇「マーシェンカ」を思い出すところはあるかもしれないけれども。

 この上巻は第三章までで、旧ロシアから亡命してきてベルリンに住んでいるフョードルという作家志望の青年が主人公。そのベルリンでの生活を描きながら、第一章ではロシア時代の生活の思い出など、第二章では中央アジアかどこかで行方不明になったままの探険家の父の思い出、そして第三章では「運命の人」ジーナとの出会いが描かれる。ぜんたいをつらぬくのは、主人公フョードルの、「文学」を目指すその意志、といえばいいのか、このあたりが、並行して読んでいるカフカの「日記」に書かれているカフカの「文学」への意志とまさに強烈な対比になってしまい、わたしのあたまのなかではナボコフとカフカとがほとんど取っ組み合いの乱闘をはじめそうなあんばいでにらみ合いを続けているのである。

 この小説の主人公フョードルのことをそのまま、書いているナボコフのことだと考えたりはできないのだけれども、それでもやはり、フョードル=ナボコフではないのかと思ってしまうことは避けられない。第二章でナボコフはフョードルに父のことを書かそうとして、フョードルに「じぶんは無力で臆病だ」と語らせる。ここにやはり、このフョードルぐらいの年齢の、作家を目指していたころのナボコフ自身の独白めいたことを読み取りたくもなる。さらに、そのフョードルに「ぼくはたんに言葉の冒険者にすぎないのです」とまでいわせると、それはまさにナボコフのことだろうが、などといいたくもなってしまうのである。このことは第三章ではもうちょっと具体的に書かれている。

(‥‥)自分を三流詩人と考えるのは、自分を天才詩人と考えるのと同じことだった。フョードルは自分を前者とは思わなかったが、後者だとうぬぼれてもいなかった。ただ、一行も書けなくなってしまうあの悪魔的絶望に落ちこまないようにすることだけが大事だと思っていた。

 ‥‥こういうことを書くナボコフは、(たとえナボコフ自身がこんなこと考えていなかったとしても)やはりめずらしい。そして、わたしがこの文章から思い浮かべてしまうのは、やはりカフカのことだったりする(このことはここではくわしく書かないけれども)。そして、ここではあんまりに長くなるので引用しないけれど、このずっとあとに、バスに乗るフョードルが外の景色を見ながら抱く心情の独白もまたこの延長にあって、そこでは「ぼくがほんとうに教えるべきものは、ぼくだけが(百万人のなかでぼくだけが)教え方を知っている」ということを主人公に語らせている。そのことを、主人公は外国語の個人教授という退屈で空疎な仕事で青春を浪費している、と感じていることからみちびきだすのである。なんだろう、青いナボコフ。

 さて、下巻では、そのフョードルの書いたという設定の「チェルヌイシェフスキーの生涯」がまるごと掲載されるという、ちょっと意表をつく展開が待っている。


 

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■ 2012-05-03(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 あさ目覚めても、部屋のなかにはだれもいない。ちょうど夜が明けはじめたじかんのようで、窓のカーテンの外がうすら明るくなっている。ピンク色にみえるカーテンから光がもれてきて、ベッドの掛け布団もシーツもピンクだし、あたりは非現実な空気につつまれている。なんだか「2001年宇宙の旅」の、木星で目覚めたボーマン船長のことを思い浮かべてしまう。カーテンを開けると、外は予想に反してはげしい雨が降っていた。

 病室には、それぞれのベッドのわきに私物をおさめるスペースがあり、ちいさな冷蔵庫、そしてTVのモニターも置いてある。TVをみるには90分で100円という料金がかかり、1000円のTVカードを自動販売機で購入して、これをTVの下にあるデッキに挿入するとみることができる。1000円ということは900分、つまりカードを買うと15時間分TVをみることができる。そんなにはみないだろう。1000円払ってまでTVをみようとは思わないのだけれども、TVカードの残ったポイントをお金に清算するマシンもあり、退院するときに大きなむだは出さないようで、それならTVカードも買ってみようかと思う。それで、これはこういう共同の空間ではあたり前のことだけれども、TVをみるにはイヤホンを使わないといけないことになっている。イヤホンは一階にある売店で400円ぐらいで売っている。これが高い。百円ショップに行けば105円で売っているのだから、一時帰宅したときに買って来ようと思っている。
 この売店にはなぜか、イナゴのつくだ煮のパックが置いてある。イナゴのつくだ煮はたしかにこのあたりの名産ともいえるのだけれども、なにも病院の売店でそんなもの売らなくてもいいじゃないかと思う。見舞客めあてに置いてあるのだろうか。そうするとこのあたりのもうひとつの名物、「レモン牛乳」を置いていないというのが気になってしまう。餃子を置いていないというのはとうぜんだろうけれども。

 午前中はまだ三角巾がはずせず、朝食はまたおにぎりだった。午後になってようやく三角巾もはずしてもらい、すっかり自由になった。医師からの説明もあり、血管に異常はみとめられなかったので、あとは投薬だけで治癒できるでしょうということ。ほんとうだろうか。せっかくあんな、すぐに治療手術に移行できる検査をやったんだから、検査から手術へとすすんで、「これですっかり治りましたよ」ということになった方がわかりやすかったというか、すっきりしただろうに。退院は当初の予定どおり、五月七日でOK。
 きのうの検査のときの、モニター映像をプリントしたものをいただいた。わたしの心臓と、周囲の冠動脈である。なんか、心臓に毛が生えているじゃないの、って絵である。そのくらい図々しければいいんだけれども。

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 あしたは外出許可をもらい、午後からちょっと帰宅するつもり。ニェネントはどうしているだろう。昼食も夕食も、きわめてまずかった。

 ナボコフの「賜物」を読みはじめ、並行してカフカの「日記」も読む。ナボコフが「賜物」の舞台にしたベルリンには、晩年のカフカも訪れたりもしていたわけだ。ナボコフがケンブリッジを卒業してベルリンへ移ったのは1923年ぐらいなのだろうか。その年の秋にカフカもまたプラハからベルリンへ移り、彼のさいごの冬をベルリンでおくっている。このとき、ベルリンのどこかで、カフカとナボコフがすれちがったこともあったかもしれない。その、そういうしゅんかんがあったと想像すると、なんだかめまいがする思いである。

 カフカの「日記」は、若いころから何度か読もうとしてきて、そのたびにすぐに挫折してしまったものである。つまりそこにはいわゆる日記としての日常の記録もあるし、また創作ノートでもあるというあたりの、その乖離のようなものが読んでいて乗り越えられなかった気がする。こんかい読んでいても、これはほんらい一気に読み継ぐような種類の本ではないのではないかと思ったりもするけれど、とりあえずさいしょの壁は越えたような気がする。入院中には読み終えられないだろうけれど、こんかいはさいごまで読んでみたい。 



 

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■ 2012-05-02(Wed)

 きのうの夕方には、わたしのいる病室にあたらしい入院患者さんが入って来た。やはり入り口側のベッドで、わたしのいる窓側は変わらずにがらんとしている。わたしが来るまえからいらっしゃった患者さんは、どうやらきょうのうちに退院されるらしい。窓の外は曇天で、ずっと雨が降っているようである。掛け布団がちょっと暑苦しい感じだけれども、これは季節の変わり目でしかたがないのかもしれない。きょうは午後から、わたしの検査/治療手術である。

 わたしの症状は不安定狭心症で、胸痛という自覚症状があり、放置すれば心筋梗塞を発症するおそれがある。検査は心臓カテーテル検査というもので、造影剤の点滴により心臓冠動脈の状態を確認し、手首からのカテーテル挿入で心臓付近の血圧を測定する。この検査で冠動脈などに狭窄がみとめられれば、検査に引きつづいて経皮的冠動脈形成術というのをおこない、つまりかんたんにいえば冠動脈を拡げるという治療を行なうわけである。

 朝にはパジャマから検査着というものに着替えして、胸に心電図を計測するようなモニターをつける。少なめの昼食のあとから点滴がはじまり、三時ぐらいから検査になる。まだ右手は自由なんだけれども、先に用意してあった三角巾で吊る。点滴を引きづりながら検査室というところに移動し、狭い検査台の上に横になる。検査台の左に吊られた台の上には、古いコンピュータのディスプレイのようなのが四つ積み重ねられていて、これはずいぶん重たそうだなー、なんて思ったりする。わたしの胸のそばにはアームのついた直径三十センチぐらいの円盤みたいなのがあって、見た感じからは映画で見た地雷探知機とかを思い浮かべてしまう。このほかにも、わたしからはよく見えないところに検査器具のようなものがある気配。検査は三、四人の医師などで行なわれるようだけれども、みんなわたしの右手の下の方に集っている感じで、ちょっと高い位置に横になっているわたしからはそのすがたはみることができない。

 右手に麻酔がかけられて検査がはじまるけれど、わたしの意識ははっきりしている。どこも痛みを感じるところはない。さっき見た重ねられた四つのモニターが急にぐうんとスムースに移動して、ちょっとびっくりする。モニターのひとつには心電図らしいグラフが描かれ、ひとつにはどうやら「地雷探知機」から透視された、わたしの体内のようすが映されているようである。で、その「地雷探知機」がまた、わたしの胸のあたりにそってズズズと移動する。その動きは「地雷探知機」というよりも、映画「宇宙戦争」での、あたりのようすをまさぐる火星人のモニター装置を思い出してしまう。とにかくわたしが横になっている目の位置からでは、動いているのはその積み重ねられたモニターと胸元の「地雷探知機」だけしか見えない。なかなかにSFチックで不気味な体験だった。

 そんなことしてるうちに、担当医師から「血管に異常はないので検査は終了します」と告げられ、なんだかずいぶん早くに終わってしまった。そのまま検査台から自力で降り、病室へ戻って横になる。麻酔がとけても三角巾は外せず、夕食は左手でスプーンを使って食べる。ご飯はおにぎりにしてくれてある。

 ‥‥しかし、異常がなかったとはいっても、胸痛が起きたのは事実だったわけで、これではいぜん救急搬送されて検査したときとおなじてん末ではないのかなどと思ってしまう。このまま異常がなかったからと退院して、また症状が再発するようならたまらない。どうなんだろう。だいたい以前の血液検査の結果でわたしはコレステロールとかたまりにくい体質なんじゃないかとは思っていたわけで、こんかいの検査で心臓周辺の動脈が正常だというのは、「やっぱりね」という気がしないでもない。この日はそのあたりの説明を聴くことはできなかった。

 同室のひとり残っていた患者さんもいつの間にかいなくなっていて、広い病室はわたしひとりだけになってしまった。気は楽になった。


 

[] 「ダンテ・クラブ」(下)マシュー・パール:著 鈴木恵:訳  「ダンテ・クラブ」(下)マシュー・パール:著 鈴木恵:訳を含むブックマーク

 残りを一気に読了。うーん、古典とかの、本を読むということをめぐるミステリーというか、この下巻にはダーウィンの「進化論」を擁護している本を焚書にするような場面も書かれている。下巻になってちょっとは、登場人物たちの、ダンテの「神曲」翻訳を遂行せねばという使命感の意思表示があって、多少は面白くなる気配もあったけれど、けっきょくは犯人もまたダンテ擁護派なのであったというわけで、そういうダンテ不必要という保守派との、ダイナミックな対立構造がなんとなくあいまいになってしまった感がある。っつうか、資料を寄せ集めてドラマをつくってみました、というのを越えるものがないというか、ダンテの「神曲」への踏み込んだ解釈が読めるというわけでもない。「神曲」を読んでいなくても楽しめるのだろうけれど、読んで「神曲」のことがなにか理解できるかというと、表面的な断片、「地獄編」ではこーんな残酷な責め苦が描かれている、程度のことがわかるだけで、まあつまりは下世話な好奇心、興味に訴えてくるだけよ、みたいな。著者はせっかくダンテの研究家としてならした人らしいけれど、この作品でじぶんのキャリアを捨てたな、という感じもする。

 この本があちらで出版された年は「ダ・ヴィンチ・コード」の年、だったらしいけれど、まあどっちも似たり寄ったりというところである。この著者はこのあとに、エドガー・ポーの死の前の五日間の謎にせまる、という作品を書いているらしい。この「ダンテ・クラブ」にはしょうじきがっかりしてしまったわたしだけれども、なんだかそっちの方はちょっと読んでみたいなどと、まるで懲りていないのである。


 

 

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■ 2012-05-01(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 病院からは午後一時までに入院手続きをしてほしいということだったので、家を出るのは十一時半ぐらい。家を出るまえにニェネントにネコメシをほんとうにてんこ盛りにしてあげ、ネコ缶もひと缶ぜんぶ出してやった。ひと缶だとあっという間に食べてしまうのだけれども、そうするとネコメシの方をまるで食べないし、ネコ缶はいまの気候だと開けてしまうとすぐにいたんでしまうので、ひと缶がせいいっぱいである。ちょっと考えて、ここのところニェネントにはぜんぜんあげていないミルクを皿にとって置いてあげた。ニェネント、すぐにミルクの皿にとびついてなめはじめる。やっぱりミルクは好きなんだ。ずっとあげないで悪いことをした。これからはもっとミルクをあげようと思うのである。

 天気予報では不安定な天気になるようなことをいっていたけれど、家を出るときには薄日もさしていた。電車に乗ってローカル線の終点まで。この駅から病院までは歩いて二十分強。歩くのもちょっとかったるいなあという境界あたりの距離で、駅前からは一時間に一本ぐらいバスも出ているのだけれども、次のバスまでずいぶんじかんがあるので歩くことにする。病院の近くで昼食をとればちょうどいいだろうと。

 病院の近くにはファミリーレストラン、牛丼屋、ラーメン屋、そば屋などが近接して営業しているのだけれども、そのファミレスはまずいので有名だし、ラーメンや牛丼でもないだろうと、そば屋に入る。店のつくりはいかにも地方のそば屋という感じで、こういうところはかなりおいしいか、それともひどくまずいかのどちらかなんだよな、などと思いながら天ぷら定食を注文する。‥‥これがなかなか出来てこない。これじゃあ一時をすぎてしまうなあなどと思い、べつに一時をすぎたからってどうということもないんだけれども、またされるのは好きではないのでちょっといらいらする。おいしければいいんだけれど、などと思いながら首が長くなる。
 やっと出来てきた天ぷら定食、これが、格別にまずかった。天ぷらはなんと巨大なかきあげで、とても持ち上がらないので箸で小さく分けようとしたら、箸がポキッと折れてしまった。このかきあげ、ほとんど全身タマネギだけでできている。駅のホームにあるそば屋なんかの、天ぷらそばにのってるかきあげの方が、ぜったいにおいしい。それで、ごはんと別に盛りそばもついてきているのだけれども、このそばはわたしが記憶するかぎりで最悪の味だった。見た目からして、伸びきって弾力のなくなったゴムを束にしたような感じで、一本一本がばらばらにあっちこっちの方向を向いている。どうやったらこういうふうにつくれるのか不可思議なのである。味はしない。どうせ病院の食事もまずいだろうし、シャバでさいごに食べるメシがこれかと、情けなくなってしまった。しかも、勘定を払って外に出ると、いつの間にかかなりの雨になっている。折畳み傘をバッグに入れてあるからいいのだけれども、なんだか病院に着くまえにがっくりしてしまった。

f:id:crosstalk:20120507144352j:image:right 病院に着いて入院受付の窓口へ行くとまずは血液検査に回され、そのあとで循環器科の外来の真上にある病棟に案内された。六つベッドのある大部屋の、奥の窓ぎわのベッドがわたしのベッド。窓の外には木立が並んでいて、その向こうには川が流れているのがみえる。悪くない。さっき降っていた雨はもうやんでいる。おなじ部屋には入り口のところのベッドにひとり居られるだけで、静かである。ちょっとリゾート気分?

 担当医師からあしたの検査の説明を受ける。右腕から心臓までカテーテルを挿入し、心臓周辺の血管の検査を行ない、血管が細くなっていたり状態が悪ければ、そのまま血管を拡げる治療を行なうということ。一時間から、長くても二時間ぐらいで終了するらしい。もちろん局部麻酔ですむ。
 このあと、看護士の方からまた説明を受け、これから風呂にはいってカテーテル挿入部の剃毛をしておくようにと、剃刀をわたされる。検査の結果によっては鼠けい部からカテーテルを入れることになるので、そっちも剃っておくように「ここからここまでね」と絵を描いて示される。「ええ〜、右腕からだけですみますって先生がいってたよ〜」っと抵抗するけれど、「すまないこともあるのです」みたいな感じで却下される。こんなプレイをひとりですることになるとは夢にも思わなかった。おまけに渡された剃刀は一枚刃の粗末なヤツで、これはヒゲを剃るときに使うとかならず切り傷をつくってしまうたぐいのモノなのである。

 ‥‥しかたなく風呂にはいって、じぶんで剃毛する。‥‥やっぱり、切っちゃった。だいじなところなのに。風呂から出て、看護士の方に傷薬をもらうことになる。「ちゃんと剃りましたか」と聞かれ、しょうがないからパンツを下ろして確認してもらう。「もうちょっと下までおねがいします」だと。それでもういちど。

 なんだかさんざんなことになってしまったが、ゆでた豚肉に味噌だれをあえたような夕食は、そんなにひどいものではなかった。これはウチでじぶんでつくってもいいな、などと思った。

 あしたは本番である。本を読んで、さっさと寝た。



 

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