ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2012-07-31(Tue)

 きょうはふたつほど、「事件」が起きた。まあさいしょのは大した事件でもないのだけれども、もうひとつの方は深刻というか、よるにほとんど眠れないことになってしまった。

 まずひとつ。きょうはしごとは非番の日だったのだけれども、あさ起きてパソコンの電源を入れ、インターネットに接続しようとしたらこれがつながらない。このパソコンは三年ほどまえに買った無線LANで接続しているのだけれども、パソコンの上においてあるその無線LANの子機の、POWERのランプはついていて、ネットに接続しようとするたびにAIRというランプも点滅するのだけれども、LINKというランプがどうやっても消えたままなのである。こりゃどうしたんだろうと電話のそばにある親機をみると、こちらがすべてのランプが消えちゃっている。つまり、電源が落ちてしまっているわけである。あちこちいじってみたり、電源をはずしてぜんたいをチェックしてみたりしたけれど、つまりはダメである。この親機のおいてあるあたりではニェネントがよく寝そべったりしているので、ニェネントが悪さをしたのかもしれん、などと考えるのだけれども、とにかく電源が落ちてしまった電気製品を修理するのはなかなかむずかしいものである。どうしようか。

 しかし、二年ほどまえに「ひかりTV」と契約したとき、この無線LANが「ひかりTV」には使えないことがわかっていて、その「ひかりTV」の方はけっきょく、ふつうに床にケーブルをはわせて接続しているわけで、じつはいまさらパソコンだけ無線LANでつないでいるなんて、ちゃんちゃらおかしいのである。ここは無理して無線LANを修理しようなどと考えず、ただパソコンの方もケーブルでつないじゃえばいいのである。そうした。無線LANはただの「燃えないゴミ」に、変身した。パソコンのインターネット接続は、まえよりも快適になった。

 もうひとつの事件はよるおそくなってから起きた。もうわたしは寝ていたのだけれども、リヴィングの方でニェネントが「ふぎゃっ」という変な声を出して、何かものをけっとばしたような音をたてたので目が覚めた。起き上がってリヴィングに行ってみたけれど、ニェネントのすがたがみえない。するとこんどは、部屋の外からニェネントの声がきこえてきた。「えっ?」っと思ってカーテンをめくってみると、なんと、窓がニェネントが通り抜けられるぐらいのスペースであいている。そこからニェネントは外に出てしまったようである。わたしが窓をしめ忘れたことは考えられないのだけれども、きちっとぴったりしめないで、いくらかでもあいていたのだろう。そこにニェネントはまえ足をつっこんで、窓をこじあけたのだろう。そういうことができることは知っている。

 あわててベランダに出てみると、わたしがベランダに出たのを合図にしたように、ニェネントの「うぎゃう!」というような叫び声がきこえ、それと同時にベランダの下から白いネコがとび出して行った。って、まちがいなくジュニアである。あいつ、しょうこりもなくまだこの部屋の周辺でうろちょろしているわけか。そのジュニアがとび出して行くと同時に、反対側にニェネントがするりと動いたようにみえた。目をこらしてみたけれど、そのあたりにネコの姿はもうみられなかった。ちょっとあせってしまって、懐中電灯をさがして、ベランダのまえの駐車場に出てみる。ニェネントが部屋にもどれるように、窓は大きくあけておいた。

 地面を懐中電灯の明かりで照らし、しばらくニェネントのすがたを探すのだけれども、まったくみつからない。どこか家のあいだの路地に入って行ったのか、道路の方に出て行ってしまったんだろうか。気もちはあせる。
 駐車場からまえの道に出て、あたりをぐるりと一周してみた。駐車場の奥にある寿司屋の敷地から、そのとなりのアパートの通路、そしてミイのよくいた公園にも行って、ぐるっと一周してみる。ニェネントはいない。家のまえの道路から先に行ったあたりまで、足もとを照らしながら歩いてみる。やはりニェネントはいない。
 ひょっとしたらじぶんでもう部屋にもどっているかもしれないと思い、わたしも部屋にもどるけれど、やはりニェネントはいない。

 おそらくはジュニアとけんかして、気が動転していることだろう。それでじぶんを見失ってあちこち動き回っているのかもしれない。この家へもどる道がわからなくなってしまっているのだろうか。あまり遠くに行ってしまっていたら、もうわたしにも探すすべがない。もういちど外へ出て、あたりをまたぐるりとまわってみた。やはりニェネントはみつからないで、しょうがなく部屋にもどった。
 もうきょうは、外を探しまわってもみつけることはできないだろう。ニェネントもおびえていて物陰にじっと隠れているのかもしれない。犬だったら飼い主のすがたをみつけたらワンワンないてとび出してくるようなこともするのかもしれないけれど、ネコはそういうことはしない。

 部屋のなかでぼんやりして、ニェネントはもうもどって来ないかもしれないな、などとばくぜんと考えたりする。なんてこった、どうするのよ、という感じ。おそらくはわたしの寝ているときにベランダのそばにジュニアがやってきて、部屋のなかにニェネントの気配をかぎつけて、ニェネントを呼んだのだろう。ニェネントはそれに答えて窓をあけて外に出てしまったわけだろう。なんてこった。ジュニアのヤツめ。‥‥ニェネントが発情期でなかったのはさいわいだけれども、はたして貞操は守ったのだろうか。ってなことも、とにかくはニェネントがもどってこないことには、考える意味もない。呆然、というところである。

 どのくらいじかんがたったのかわからないけれど、ニェネントは不意に、なにもいわないで部屋にもどってきた。わたしのわきをすり抜けて、ベッドの下に入って行った。とにかくはほんとうにホッとした。
 ベッドの下をのぞくと、ニェネントの顔が目のまえにあった。ニェネントはわたしの顔をみただけで「シャーッ!」っと威嚇する。「わたしはいま、たいへんなんだからね。ちょっとひとりにさせといてよ!」って感じだろうか。まあたしかにこんなときにニェネントをいじりまわしてもしかたがない。静かにしといてあげよう。ネコ皿にネコメシとカニカマを盛っておいて、わたしも電気を消して寝ることにした。

 ‥‥しかし、なんだかほとんど眠ることができなかった。大事件のいちにち、だった。


 

[]二○一二年七月のおさらい 二○一二年七月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●大駱駝艦・天賦典式 創立40周年公演「ウイルス」麿赤児:振鋳・演出・鋳態 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター

映画:
●「クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち」フレドリック・ワイズマン:監督
●「サスペリア PART2」(1975) ダリオ・アルジェント:監督

読書:
●「グロテスク」桐野夏生:著
●「エックス・レイ X-RAY The Unauthorized Autobiography」レイ・ディヴィス:著 赤塚四朗:訳
●「成熟と喪失 ―“母”の崩壊」江藤淳:著

DVD/ヴィデオ:
●「嵐が丘」(1939) エミリー・ブロンテ:原作 ウィリアム・ワイラー:監督
●「荒野の決闘」(1946) ジョン・フォード:監督
●「大地のうた」(1955) サタジット・レイ:監督
●「いとこ同志」(1959) クロード・シャブロル:監督
●「さよならをもう一度」(1961) アナトール・リトヴァク:監督
●「モラン神父」(1961) ジャン=ピエール・メルヴィル:監督
●「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世記」(1991) ジョージ・A・ロメロ:脚本 トム・サヴィーニ:監督
●「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」(1995) クロード・シャブロル:監督
●「最後の賭け」(1997) クロード・シャブロル:監督
●「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」(2003) エロール・モリス:監督
●「みんな誰かの愛しい人」(2004) アニエス・ジャウィ:監督
●「マイティ・ハート/愛と絆」(2007) マイケル・ウィンターボトム:監督
●「スタンダード・オペレーティング・プロシージャー アブグレイブ刑務所の証言」(2008) エロール・モリス:監督
●「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」(2009) サム・テイラー=ウッド:監督
●「ジョン・レノン、ニューヨーク」(2010) マイケル・エプスタイン:監督
●「ブルーバレンタイン」(2010) デレク・シアンフランセ:監督
●「ギャラリー」(2010) ダンカン・ウォード:監督
●「神々と男たち」(2010) グザヴィエ・ボーヴォワ:監督
●「わが恋は燃えぬ」(1949) 溝口健二:監督
●「近松物語」(1954) 溝口健二:監督
●「ある大阪の女」(1962) 須川栄三:監督
●「おとし穴」(1962) 安部公房:原作・脚本 勅使河原宏:監督
●「転校生」(1982) 大林宣彦:監督
●「226」(1989) 五社英雄:監督
●「行きずりの街」(2010) 阪本順治:監督


 

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■ 2012-07-30(Mon)

 昨夜の、デモからの帰りのときのはなしになるけれど、十時ごろにターミナル駅に電車が着いてみると、この駅でいままでにみたことがないほどに、ホームに人があふれていた。若い人たちがほとんどで、とくに浴衣姿の女性が目立つ。まさかこっちでも脱原発デモをやっていたなんてことはありえないのだけれど、考えてみればこれは、この駅の近くで行なわれていた花火大会から帰宅する人たちなのだろう。じかん的にもちょうど、そういう花火大会などがおわりそうなじかんでもある。おとなたちは車をつかって出かけたりするのだろうけれども、高校生ぐらいの子らは電車で出かける。夏祭りにも、花火大会にも、電車をつかって行く。いまこそが、このあたりではいちねんでいちばん電車の混み合うことの多い時期である。
 あんのじょう、わたしの乗り換えるローカル線のホームに行くと、すでに来ている電車はぎっしり満員、ほとんど都心の通勤通学時間を思わせる混み方なのである。しかも、ほとんどの乗客はそういう高校生ぐらいの、つまりは若者たちであり、それがやはりたいていはいわゆる、この北関東地区で夜遊びをしそうなタイプ、いっぱんに「ヤンキー」と呼称されるような連中なのである。まあつまりはそういう連中はたいてい、ほかの乗客に思いやりを示したりはしてくれないわけで、電車の入り口のあたりにかたまっている連中は、わたしのようにあたらしくこれから電車に乗ろうとする人間に道をあけてくれたりするわけもない。そういうヤツらのあいだを抜けて多少は電車の奥の方へ移動しようとすると、どうしてもそういうヤツらと接触する。ヤツらはそれでもよけないから、わたしの方でまわりの連中を押しのけるようにしなければ、なかへ入っていけない。あまり愉快なものではない。それでも奥へ進んで行くと何かが足にあたり、カラカラと音をたててころがっていく気配がある。人のからだのすきまから床をみると、どうやら床にソフトドリンクの空き瓶がおいてあったようである。わたしの近くにいた若者がわたしの顔をにらんでくる。いわゆる「ガンをつける」という行為である。不愉快もここにきわまる。こっちもデモの帰りで気分は高揚しちゃってるので、しばらくは相手を見返したりという危険な行為もしてしまう。こんかいは相手がかかわるのをやめて目をそらしたけれど、いいトシこいて、こんなことやっちゃいけません。

 電車が出発し、駅に到着するごとに客はどんどん下車して行く。わたしの降りる駅に着いたときにはかなり車内も閑散としていた。
 夕食をとらないままなので、まだ開いているスーパーに立ち寄り、半額に値引きされかろうじて売れ残っていた穴子寿司とかを買って帰った。あさはまたしごとで早く起きなくてはならない。さっさと飯を食べ、さっさと寝た。

 そのよくあさがつまりきょうになるけれど、なんとか寝坊せずに出勤したけれど、さすがにしごとをしていてもちょっと眠たかった。
 きょうは借りてあったDVDを返却しないといけないので、しごとがおわって帰宅してからシャブロルの「いとこ同志」だけをなんとか観終え、ひるすぎから返却しに外へ出た。空はまっさおで陽射しも強く、とにかく暑い。帰宅して早くにベッドに乗っかって寝てしまった。借りていたDVDのうち、ロッセリーニの「戦火のかなた」はけっきょく、観ないまま返却してしまった。


 

[]「いとこ同志」(1959) クロード・シャブロル:監督 「いとこ同志」(1959)  クロード・シャブロル:監督を含むブックマーク

 わたしもむかしは、この映画に出てきたようなホーム・パーティーを体験したものである。多くはじぶんで主催してわたしの部屋でやったし、他人の部屋でやったパーティーに行ったこともなんどもある。って、わたしはジャン=クロード・ブリアリではないので、じぶんでやるときには脱線しない、脱線させないという、品位のあるパーティーではあった。このことがまたわたしの限界でもあるだろうけれど、当時のパーティーを思い出して、赤面したり後悔したりするようなことはない。ひとのやったパーティーでかなりひどいのはあって、この映画の空気にちょっと近くなっちゃったパーティーもあった。

 そういうことはともかくとしてこの作品だけれども、視点はそのジャン=クロード・ブリアリをたよって田舎からパリにやってきた、いとこのジェラール・ブランの側から描かれる。ラストの悲劇に向けての伏線はいっぱい張られているのだけれども、じゃあジェラール・ブランがどこまでもかわいそうで、ジャン=クロード・ブリアリがどこまでもジェラール・ブランのじゃまをしてしまう困ったヤツなのかというと、そうといいきれないというか、ジェラール・ブランの側にももんだいはいろいろとありそうである。まずは観ていてもしょっちゅう母に手紙ばかり書いているジェラール・ブランにはちょっと引いてしまうところがあるわけだし、表面的に彼が被害者とばかりはいえない。ある意味で、彼らぐらいの年齢だったとしたらやってもいいじゃないかということもあるし、そういうことで傷つくこともあるさ、ということでもある。まあジャン=クロード・ブリアリはちょっと極端かも知れないけれど、それだったらおなじようにジェラール・ブランもまた極端じゃないか、ということはいえると思う。

 ここでのカメラはまたまた、このあいだ観た「モラン神父」につづいてアンリ・ドカエで、ここでもとってもユニークなカメラワークをあれこれとみせてくれる。はたしてこういう自在なカメラワークが、監督のシャブロルの考えから出ているのか、それともメルヴィル監督の演出のもと、既成の映画でのカメラワークにとらわれないしごとをあれこれと実践していたアンリ・ドカエが主導してやったことなのか。わたしの勝手な想像ではまずはアンリ・ドカエがアイディアを出し、それをシャブロルが映画のなかに取り入れていったのではないかという気がする。


 

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■ 2012-07-29(Sun)

 きょうはしごとは非番の休みで、あさは六時ごろにしぜんに目が覚めた。ゆっくりとベッドから出て、トーストを焼いて朝食のじゅんびをする。わたしがキッチンに立つとニェネントも出てきて、キッチンのそばに置いてあるネコメシの皿のそばにすわる。まだ皿にネコメシが残っていたりするとそこでボリボリと食べはじめたりするけれど、皿がからっぽだと皿のまえにすわって、じっとわたしを見上げていたりする。いじらしいというか、これにはわたしもかなわないので、冷蔵庫からカニカマを取り出すわけである。包装をはずしているともうニェネントはそれがじぶんの大好きなカニカマだとわかって、ニャンニャンとなく。カニカマをほぐして皿においてやると、もうのどをゴロゴロとならしながら皿に首をつっこんできて、出されるそばからモリモリと食べるのである。

 こういう人間用の練り物はネコにはカロリーも塩分も過多で、よろしくないんだそうだけれども、さいしょにニェネントにあげたときにはそういうことすっかりわたしのあたまになくって、ついついニェネントのよろこぶさまもかわいくって、あげつづけてきてしまった。調べるとネコ用のカニカマというのもあるそうだけれども、こんどちゃんとさがしてみよう。

 じぶんの朝食もすませてのんびりして、考えてみたらいまのじかんはお祭りのクライマックスの「川渡御」というのをやっているころ、行ってみようかしらん、などと思って時計をみると、もう八時半をすぎてしまっていた。「川渡御」は九時までのはずなので、いまから出かけても現地に到着したらすぐにおひらきになってしまう。もうちょっと早く気がつけばよかったけれど、まあそこまでして行ってみたいと思っているわけでもない。それにきょうはわたしのお祭り、夕方からの東京での脱原発集会に参加するつもりだし、けっきょくひるまでずっとTVをみてすごす。
 ロンドンではオリンピックもはじまったようで、あっちでもこっちでもお祭りなのである。開会式がどんなんだったのか、ちょっとみたかったのだけれども、もうどこも放映していない。

 いちおうデモに参加するつもりなのだから、ほんとうはメッセージを伝えるようなゼッケンとかプラカードとか用意して、それこそオリンピックの開会式みたいに準備しておこうと思っていたんだけれども、けっきょくそういう準備もしないできょうになってしまった。ただ、よるになって国会議事堂をかこむとき、キャンドルのようなあかりを用意してほしいというのを読んでいたので、ひるまえに百円ショップに行って、それらしいのを買って準備した。あとは日よけのサンバイザーも買う。帰って電池なんかを装備してあかりをつけてみると、さすがに百円で安っぽい。ふたつ買ってあったのを上下につなげるとなんとか手に持つこともできるんだけれども、ひとつだけ買ったのだとまるで使いものにはならなかったところ。

 きのうとおなじぐらいのじかんに家を出て、四時ちょっとまえに集合場所に到着。ここからこの日のデモ、集会のレポートになるけれど、長くなるかもしれないし、レポートはレポートでカテゴリー分けをして書いておきたい。これがこのわたしの日記にはちょうどいいカテゴリーもつくってないし、あらたにそういうカテゴリーをつくるのもめんどいので、[Column]なんてところにぶちこんでおくことにした。


 

[]「7.29脱原発国会大包囲」に参加した。 「7.29脱原発国会大包囲」に参加した。を含むブックマーク

 集合地は日比谷公園で、どこか広いところでデモ出発まえの集会など開かれていたのかもしれないけれど、わたしにはわからなかった。だれか知人に会う可能性があるので、できるだけ見渡しのいいところにいたいと思っていたのだけれども、ちょうどデモ出発地点の近くにある建てものに、外から二階へあがる階段があって、その二階のおどり場が絶好の観覧席になっていた。しかも、だれかカメラマンが使っていたらしいキャタツが持ち主のいないまま置きっぱなしになっていて、そこに腰かけて下をながめることにした。もちろんわたしいがいにもこの場所から下をながめようという人は、カメラマンを含めておおぜいいるわけだけれども、そのなかでわたしがいちばんの特等席に陣取ってしまった。
 f:id:crosstalk:20120731210537j:image:rightちょうど目のまえで参加者が旗やプラカードをふりかざして、デモ行進への出発を待っている。ここでみていれば知人とかがいればわかるだろうし、わたしが気がつかなくてもむこうでわたしのことを見つけれくれるかもしれない。それで、かなりながいことその場所に陣取って、デモに出発する人たちをながめていた。皆が持っている旗やプラカードをながめているのも楽しい。「へ〜え、そういう団体が存在するのか」とか、「そういう人たちも参加しているのか」とか思ったり、プラカードに書かれていることで知らなかったことを知ったりもする。「むかしデモに出てました」というような年配の方や、血気にはやったような元気いっぱいの男性諸君(こういう書き方は失礼か)などだけではなく、小学生ぐらいの子どもを連れていらっしゃる方をふくめ、女性の方の参加者、ごくふつうの見かけの人たちの参加者がおおい。

f:id:crosstalk:20120731210659j:image:left デモの列が公園を出ていくペースが異常におそいので、どうなってるんだろうと、いいかげんのじかんになって公園から皆が出発するあたりを見に、おりていった。
 つまりは、いくらデモをやっているといっても、車道にはふつうにクルマが走っているわけで、いくら交通規制をしているといっても全面ストップにはしていないわけだから、交通誘導の警官たちが信号を守って出発させているわけである。この警察の行為を批判するような声がデモ参加者側から出されてもいたけれど、まあ信号無視してデモに出発してもすぐにクルマにひかれちゃったりしてもしょうがないし。
f:id:crosstalk:20120731210828j:image:right ぜんかい(きょねんの四月二十四日)「反原発」のデモに参加したときに、そういう交通誘導の警官でさえ、腰に手錠をぶら下げていたことが印象に残っているけれど、こんかいの警官たちの腰には、手錠のようなものは光っていなかった。

 いくらかずつでもデモの列は前進し、ようやくぜんたいのおわりの出発もみえてきたあたりで(五時半ぐらいだったかな?)、わたしもデモの列にまぜてもらって出発した。けっきょくいままでのところ、知人のすがたはみつからず。参加者人数はまえの「反原発」デモのときよりはずっとおおい。そのまえに参加した「イラン戦争反対」のデモのときよりは少ないだろうか。わたしの感覚では、これは二万人にとどかないだろうか、というくらい。ぜんたいの感覚では、いちじきわたしが感じていたようなデモへの違和感みたいなものを感じることもなかった。これはわたしが変わったのか、それともデモの方の雰囲気が変わったのか。おそらくはこんかい、「そういう違和感を感じたくはない」という、わたしの意識のはたらきが作用したのではないだろうか。

 出発してすぐに、某銀行の敷地あたりに陣取ったウヨクの方々の挑発がある。原発稼働に反対することは福島宮城の復興をじゃまする行為だといっている。デモの参加者は「ヒトゴロシ」だともいう。わたしには理解不能の論理である。
f:id:crosstalk:20120731210923j:image:left デモはそんなに長距離を練り歩くわけではなく、日比谷公園から新橋の方角に進んで東電本店、そして経済産業省のまえなどを通りながら、皆がシュプレヒコールをあげていくわけである。わたし個人としては、デモの列のなかでいっしょに歩いていれば意思表示は出来ていると思っているので、このシュプレヒコールに関してはとっても消極的参加者である。

 一時間弱でまた出発地の日比谷公園にもどってきて、ここからは各自バラバラに国会議事堂まえに移動する。首相官邸まえに移動するグループもあり、このあたりは各自の判断にまかされているようなアナウンスもある。このデモの主催者はげんざい、まいしゅう金曜の首相官邸まえの集会も主催しているところらしいから、そのあたりでれんぞくさせているのか、それとも参加者が多すぎて国会まえに収まりきれそうもないので首相官邸まえという選択肢も入れたのか、まあデモの予定というのはそんなにその場で変えられるものでもないだろうから、これはさいしょから決められていた選択肢なのだろう。わたしはもちろん、国会議事堂まえのコースを選ぶ。
 国会議事堂へは日比谷公園から西に、坂道をのぼって行ったところにあるらしい。そういうこともはじめて知る。もちろんたいていの参加者もこの議事堂コースを選んでいるようで、とくにわたしのうしろからはずいぶんおおぜいの人が坂道をのぼってきていて、歩道から車道にはみだして歩く人もいる。わたしもちょっと車道に出て歩いてみたけれど、誘導の警官にすぐに歩道にもどるようにうながされてしまった。女性警官が拡声器を使って、「参加者の一部の皆さんで、車道を歩かれている方はすぐに歩道にもどって下さい」といっている。わたしをふくめわたしの周囲で、「参加者の一部の皆さん」といういい方をからかう声があがる。ところが、このアナウンスからしばらくして、うしろからあがってくる連中のほとんどは歩道から車道へ出て歩き出したようで、もう警官もこれを阻止しようとはせず、車道の車線の一方はデモ参加者で埋まってしまった。なんだ、できるんだと、ちょっと意外な感じ。自分のなかにもなんか、そういう自己規制する気もちが出来ちゃってるんじゃないかと思ったりする。でもまさに、「赤信号みんなで渡ればこわくない」ということだろうか。それこそが、デモで出来ること、なのかもしれない。あるしゅのかく乱を起こすこと、そういうちからが試されているのだろうか。もちろん今はわたしも、それが暴力を生む混乱になることを望んだりはしていない。そうではなくって出来ることとはどんなことだろう。

   f:id:crosstalk:20120801201408j:image

 地図をあげておくけれども、国会議事堂の正門まえには、百メートルいじょうある広い直線道路がある。ゆるい坂道で、のぼりきったところに議事堂正門がある。この道路の歩道の部分が、きょうの「国会大包囲」の参加者の集結場所になる。ちっとも「大包囲」ではないような気がしないでもないけれど、集結場所はぎっしりの人であふれんばかり。車道ぎわに立っている人と、わきの高さ一メートルほどの石垣のうえに座っている人とのあいだを、落ち着く場所を探している人たちが行き来している。わたしはできるだけ国会に近いところまで坂をのぼり、あと十メートルぐらいのところで石垣に空きをみつけ、そこにすわり込むことにした。用意したキャンドルライトを出して、スイッチを入れてかかげる。低予算だけれども、夜の野外ではなかなかに映えるキャンドルだったような。

 わたしのあとからもずいぶんと人々が坂をのぼってきて、けっきょく国会近くはもう人でいっぱいで落ち着ける場所もないようで、また坂の下にぎゃくもどりする人たちが多い。歩道の真ん中では、そうやってぎゃくもどりする人たちと、まだ下からのぼってくる人たちとがぶっつかて、かなり混雑している感じ。もうわたしも石垣の上に立ち上がっている。きょうの集会もこんなところでおしまいになるのかなと、わたしは写メールしたり、友人にメールをうったりしていた。ところがそんなメールをうっているとき、人々が歩道から次々に車道内にあふれだしていくのがみえた。前の方の人たちは走り出している。歩道にいた人たちもどんどんつづいて車道に移動している。もちろんわたしも車道にくり出た。

f:id:crosstalk:20120801201519j:image:left 地図でみればわかるように、この部分の道路は車両通行止めにして解放してしまってもほとんど何の影響もない。ましてや日曜のよるで国会にはあかりもついていなくて、人影はない。車でこの道路を使って国会に行こうとする人などいるはずもない。だったらさいしょっから集会のために解放してもよさそうなものだけれども、このあたりのことはこの集結場所にくるときに起きたことのリピートっぽい。もしかしたら警備側でさいしょは規制しておいて、あとになって解放してやることで、いっしゅの「ガス抜き」効果を狙っているのかもしれない。

 しかしちょっとまえまできゅうくつな思いをさせられて、それで急に広い場所に出るときの開放感というものは大きい。さまざまな音を出す人たちもおおぜいいるし、皆も浮かれ気分でシュプレヒコールをどなっている。わたしはひとりで身軽ということもあって、かなり前の方まで移動することができた。もう最前列まで二メートルもない。ガードを立ててこちらを向いて警備する警官の顔もまぢかにみえる。警官の側からも拡声器を使って何かいっているようだけれども、参加者たちの出す音の方がずっと大きくてまるで何をいっているのかわからない。

f:id:crosstalk:20120801201610j:image:right ちょうどわたしのそばには、数人の女性たちの集団がきていて、これはいっしゅのパフォーマンスグループというのか、ちょっと露出度の高いセパレートの同じ服装で、「反核」という文字をかたどって焼かれた大きなパンだとか、スローガンを書いた垂れ幕を皆で持って、つまりは踊っている。わたしのまわりでは皆が高揚している。
 ‥‥この感覚は、むかしあった「野外レイヴ」というに近い。「デモ」ではなく「集会」ゆえの楽しさ、なのだろう。これはさいしょっから車道もまた開放されていたものなら、ここまでは盛り上がることもなかっただろう。警備側はほんとうは車道を開放することなく歩道だけを使った集会でおわらせたかったのだろうけれど、どこかで誰かがそれを突破したわけだ。それで「こうなってもやむをえない」という想定もなされていたのだろうけれど、結果として、この車道の開放は、集会参加者の勝ち取ったものとなった。そこにこの高揚の理由もあるだろう。まあ考えはいろいろあるだろうけれど、わたしには、異様に楽しい「脱原発集会」という感覚だった。デモや集会に参加してこういう感覚を得たのは、はじめてのことである。警備側、体制側からすれば、デモや集会に参加した人々に楽しい思いなどさせるべきではないだろう。これは参加者がリピーターになったり、ほかの参加者を呼び込むことにつながってしまい、運動にいきおいを与えてしまう。警備側はとうしょは車道を解放していなかったのをあとで解放するわけだけれど、まさにこれは大失敗で、そうなるのならさいしょっから車道も開放しておけば、ここまでの高揚感は与えずにすんでいただろう。わたしはさいきん行なわれている首相官邸まえでの集会のようすは知らないけれど、そちらではどういうことになっているのだろう。

f:id:crosstalk:20120801201806j:image:left この国会議事堂まえでほとんど一時間ぐらいすごしてしまったけれど、そろそろ皆も落ち着きはじめた気配もあり、わたしもあしたは早朝からしごとなので帰宅することにした。その集会場になった車道の坂道を下って行くと、だんだんに人影も

まばらになってくる。ほとんど道もおわりになるあたりで、警備の警官から歩道にもどるようにいわれ、ちょっと笑いたくなる。こんなところで反抗してもしょうがないので歩道にもどる。わたしのすぐうしろでも若い女性がひとりで車道を歩いていたようで、ほぼ同時に歩道にもどる。そのときにその女性が、わたしにきこえるように「あ〜、疲れた」と声を出した。わたしは彼女の方を振り向いてほほえんだだけだったけれど、それをきっかけにしてもっと彼女と語ってもよかったのだ。というか、そうすべきだった。別にナンパするとかそういう気もちではないけれど、やはり帰宅するのに電車にいっぱい乗らなくっちゃいけないとかいうのがあると、そういう余裕が持てなくなる、というはなしである。いぜんにもそういうことがあった。

 虎の門駅まで歩き、そこから新橋までメトロで。あとはJRに乗り換えて帰路についた。

 ‥‥こういう感想ではよろしくないのかもしれないが、つまりはとても楽しい「デモ〜集会」のいちにちだった。この「国会大包囲集会」がまた行なわれるならまた来たいし、毎金曜の首相官邸まえでの集会にもやはりこんど参加してみようかと思う。って、すべての原発の再稼働をストップし、原子力発電にまったく頼らない世界になれば、そういうデモも集会もなくなるわけで、そういう社会こそが望みではある。


 


 

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■ 2012-07-28(Sat)

 町の夏祭りもはじまって、これからお盆にかけての二、三週間が、いちねんでいちばん暑苦しい時期になる。ひるま部屋でじっとしていても暑く、外へ出ればもっと暑い。それでもここらでちょっと暑気ばらいでもいたしましょうかと、午後から東京へ出かけて、じぶん勝手に「納涼ホラー映画大会」鑑賞、ということにした。映画は京橋のフィルムセンターでやっている「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」というプログラムから、ダリオ・アルジェント監督の「サスペリア PART2」。このプログラムは別にホラー映画だけ上映するわけではなく、「大脱走」だとか「愛と哀しみのボレロ」とか「ターミネーター2」とか、まあしょうじきいうとどういう基準で選んだのかよくわからないところのあるプログラム。これを「納涼ホラー映画大会」などと呼ぶのは、ほんとうにわたしの勝手な気もちからである。このプログラム、じつはあしたはニコラス・ローグ監督の「ジェラシー」とかも上映されて、ほんとうはそっちも観たいのだけれども、あしたはわたしの夏祭り、「脱原発 国会大包囲」なんつうのに参加してみようと思っているので、映画大会はきょういちにちだけの予定。

 しかし、「ジェラシー」はまた観てみたいなあ。冒頭がウィーンの美術館でクリムトの作品を観るヒロイン(つまりテレサ・ラッセル)の姿で、このバックに、つまりは映画の冒頭から、Tom Waits の「Invitation to the Blues」が流れる。わたしはこの映画を観たとき知らなかったこの曲にうちのめされ、映画を観終ったあとすぐに、この曲の入ったアルバム「Small Changes」を買ったものだった。この映画、ほかにもKeith Jarrett の「The K?ln Concert」なんかが印象的に使われていたり、音の面でのインパクトも大きかった。もちろん映画がとてもすばらしいもので、いまでもニコラス・ローグならこの作品がいちばんではないかと思ったりする。「彼女を愛するなら、ただ愛するのではいけない。強く愛さなければならないのだ」と、テレサ・ラッセルの旦那さんが彼女の不倫相手のアート・ガーファンクルに語るシーンがあったと記憶している。この映画の原題は「Bad Timing」で、いったい何がバッドタイミングだったのかと考えるとずいぶんと即物的なタイトルという印象で、邦題の「ジェラシー」っつうのは、よくわからんけどとってもいいと思ったものである。

 とにかくきょうは「サスペリア PART2」。

f:id:crosstalk:20120731142851j:image:left くすりがなくなるので午前中に病院へ行く。きのうの異状についてはその後どうということもない。きょうは血液検査のために採血し、次回は心電図をみるという。
 映画の上映は夕方からなので、午後からゆっくり家を出る。外はまひるの熱気の下で眠っているような世界。きのうからはじまり、あしたが最高潮になる夏祭りの、そのなか休みのいっとき、という感じである。

 電車のなかはやはり涼しくて快適で、暑苦しい部屋でひとりゴロゴロしているよりもよほど健康的な気もする。東京駅まで出て、フィルムセンターまで歩く。夏の盛りの、土曜日の午後の東京駅周辺というのは、なんだか空気がちがう。道路のはじにすわり込んでなにかを無心に食べている人が複数いるけれど、いわゆるホームレスの人たちとかいう服装ではなく、しかし家出するような若いコたちでもなく、なんというのか、あとさき考えずにいなかをとび出してきた人たちというのか、とにかく非日常感覚に満ちたようなすがたである。やっぱ東京駅だなあ、などと思ってしまう。

 フィルムセンターもけっこう混み合っていて、納涼空間としたらもうちょっとスカスカの方がいいような気がした。フィルムセンター常連のような方々のすがたも多い。いつものように500円で観ることができるものと思っていたら、こんかいは1000円だった。

 ‥‥楽しい映画鑑賞がおわり、帰りに東京駅まえの大きな書店によろうと思ったら、ちょうどもう閉店するじかんになっていた。たしか地下街に趣味のいい古書店があったはずだと思い、さがしてみる。なかなかみつからず、もう帰ろうかと思ったとき、目のまえにあったのがその古本屋だった。場所も外装もいぜんと変わってしまったのではないのか。しばらく棚をみて、欲しい本もあったのだけれども、けっきょくなにも買わないで電車に乗る。

 地元の駅に着くと、まだ祭りはつづいているようで、北口の大通りからは神輿をかつぐ人たちの喚声がきこえてくる。駅の周辺には、ゆかたすがたの人たちがまだたくさんたむろしている。スーパーに寄ってもう半額以下の捨て値になっている刺身のパックとかサラダを買って帰り、きのう炊いて保温にしてあったごはんの残りでおそい食事をして、おるすばんをしてくれたニェネントに、彼女の好物のカニカマをほぐしてあげた。


 

[]「サスペリア PART2」(1975) ダリオ・アルジェント:監督 「サスペリア PART2」(1975)  ダリオ・アルジェント:監督を含むブックマーク

 はじめて観る作品。って、そもそも「サスペリア」からして、もうほとんど記憶にない。じつはこの「PART2」の方が古い作品で、「サスペリア」がヒットしたものでこういう邦題で公開されたらしいのだけれども、きょう上映されたのは英語版で、その英語タイトルも「Suspiria Part 2 Deep Red」というもの、だった。音楽はここではじめてGoblin がアルジェント作品にかかわったらしいけど、どうもここでの音づくりは、このちょっとまえの「エクソシスト」でのMike Oldfield の音(つまり、「Tubular Bells」)を意識してる感じがする。でも、とってもいい。

 主演はデヴィッド・ヘミングスなんだけど、ピアニストである彼はぐうぜん犯行のしゅんかんを目撃してしまうことから、独自に犯人を探し求めるわけである。同じようなことをやるアントニオーニの「欲望」では彼はそのまんま不条理の世界へ入ってしまうけれど、この映画ではそういうことにはならなかったみたい。って、わたしは観ていて「いやいや、どこかにヒネリがあって、じつは真犯人はデヴィッド・ヘミングスだったりして」なんて思いながら観てしまったのは、やはり主人公がデヴィッド・ヘミングスだったからにちがいない。

 そういうわけで思いのほかまっすぐな展開で、このあたりはせんじつヴィデオで観たダリオ・アルジェントの近作「ジャーロ」に、どこか近いところがある。美術的にアール・ヌーヴォーの意匠の頻出する演出もたのしいけれど、とちゅうの、突進するゼンマイ仕掛け人形のシーン、とにかくすばらしい!

 冒頭に、この犯人によるさいしょの犯罪をシルエットで描いたシーンがあって、これがラストに犯人が割れてからまたもういちどリピートされるんだけれども、じつはそのシーンにちょっとした映像トリックがあったらしい。って、わたしはわかんなかったよ。もういっかい観なくっちゃ。


 

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■ 2012-07-27(Fri)

 きょうはしごとをしていて少しからだの調子が悪くなった。「あ、なんだかおかしい」と感じたときに、まるであたまのどこかのリセットスイッチが押されたように、思考と感覚がたがいに交渉しあっていっしゅのコレスポンダンス状態になり、じかんの感覚まで失せてしまいそうになった。じかんにすればとてもみじかいあいだのことだと思うけれど、いままでに知らない身体感覚なので、深く記憶に残っている。
 ほんとうは非常によろしくない状態なのかもしれないけれども、すぐに普通の状態にもどったこともあって、きょうはそのままにした。どちらにせよあしたには病院へも行くので、ようすをみている。

f:id:crosstalk:20120729093059j:image:right 知らないうちに梅雨明けもしているようで、暑い夏のさかりである。きのうから、この町の大きな夏祭りもはじまっている。わたしの住まいは駅の南側なので静かだけれど、駅の反対側は夜になるとすごいことになる。市内の各町内会だとかいろいろな団体の神輿がくり出され、駅前のまっすぐな道をつぎつぎに練り歩いて行く。だいたいこの町の駅北口側からまっすぐ延びている道はこのお祭りのためにつくられているようなもので、ふだん交通量もさほどではないくせしてゆったりした道路幅をもっているし、駅前のロータリーも祭り関係のテントを張るのにちょうどいいだろうし、神輿のUターンのためのスペースも確保されている。この祭りのときには近郊からもくるまや電車で人がくり出して来て、このあたりにこんなに人口があるものかと、とりわけこんなに大勢の若い連中がふだんはどこにかくれていたのかと、おどろかされることになる。
 祭りは日曜の早朝に市を流れる川に神輿が突入し、最高潮に達して終幕になる。わたしはまだ、この「川渡御」というのは見に行ったことがない。すっごいらしいんだけれども。


 

[]「成熟と喪失 —“母”の崩壊」江藤淳:著 「成熟と喪失 —“母”の崩壊」江藤淳:著を含むブックマーク

 安岡章太郎の「海辺の光景」、小島信夫の「抱擁家族」、そして遠藤周作の「沈黙」や吉行淳之介の「星と月は天の穴」などを読みときながら、近代文学の流れのなかから戦後日本の家族のすがたの変ぼうをみようとする評論。副題にあるように、江藤氏が語るのは戦後日本の家族像のなかでの母親像の崩壊、のようである。っつうか、ここでは「妻」もまた、「母」への予備軍というのか、その延長としてとらえられているあたりがポイントというのか、男性の「母性回帰」といえる視点がとられている。それでこのあたりのこと、晩年の江藤淳氏とこの書物とのかんけいを思うと、アレである。アレ、というのは、(結論をさきに書くようだけれども)わたしの考えではアホらしいということに近くなってしまうのだけれども、そういうことをいうのは失礼だろうという気もちもあるんで、「アレ」、なのである。

 内容とかんけいなくさいしょに書いておきたいのは、批評対象作品からの膨大な量の引用のことで、じつはわたしはこの評論の対象にされている作品をどれひとつ読んではいないのだけれども、この評論じたいにこれだけの引用がなされているとなると、なんだかもうほとんどその作品を読んでしまったような気分になってしまう(とくに「抱擁家族」)。まずはこのあたりはヤバい気がするわけで、まさに「読み方を誘導されている」思いがする。それでさらに、これって、原稿料はどうなってるの? なんてよけいなことまで考えてしまう。

 まあそのことは置いておいて、その内容だけれども、これを読めばだいたい誰もが「じゃあ父親は?」という疑問を持つだろうと思う。そのあたり、まずだいいちには敗戦によって「父」の権威はすでに失墜しているわけだろう。それで江藤淳氏はそういう敗戦以降の日本のことを考えるとき、まずは権威失墜している「父」のことは置いておいて、「母」のことを考えようとしたのだろうかと思ったりする。これが読んでいるとどうもそういうことだけではないらしく、江藤淳氏は戦後日本社会の原点を母性的農耕社会に置こうとされているようである。

 このあたりは小島信夫の「抱擁家族」の分析にかなりち密に書かれているけれど、ここにアメリカ的生き方の否定というポイントも読み取れる。ここで江藤氏のとらえるアメリカとは、母のもとから出奔して(母からこばまれて)放浪するカウボーイのイメージで、これはエリク・エリクソンの著作から得たものらしいんだけれども、このカウボーイのイメージは、ほんっとうにしつっこいぐらいにくり返し書かれている。もうエリクソンというより西部劇の見過ぎなんじゃないかと思っちゃうけれど、読んでいてもとても「へ〜え、そうなんだ」とは思えないところがある。江藤さん、参考者はエリクソン一冊っきりなんですか、って心配しちゃう。たとえば後半で吉行淳之介の作品にふれて、『彼は「カウボーイ」に倣って夜の都会に車を走らせるが、彼の周囲には草原もなく、「母なし仔牛」もいないのである』などと書くけれど、アメリカ人だって夜の都会に車を走らせれば、<彼の周囲には草原もなく、「母なし仔牛」もいない>ことは同じであろう。というか、夜の都会に車を走らせるということはきわめて「アメリカ的」行為に思えるのだけど、つまり江藤さんはそれはアメリカではないと思っていらっしゃる。西部劇の見過ぎであろう。

 江藤さんはつまり母性的農耕社会に行きたい人らしいんだけれども、この評論の書かれたころ(1965年)の経済成長とかあたらしい都市生活様式の登場とかいうことにはまるで無頓着でいらっしゃる。「抱擁家族」の引用とか読んでいると、それってまさにこの時代の都市生活について書いているんじゃないの、と読めそうなところもあるんだけれども、江藤さんはそういうところへはもんだいを引っ張って行こうとはしない。このあたり、このひと、たんなる「保守」で、あたらしいことはわかんないんじゃないの、という感じも受けてしまう。読んでいてだんだんどうでもよくなってくるわけである。

 ちょくせつ父の権威の失墜にふれた、というわけではないけれど、「敗戦」について、『「近代」のなかで、われわれが辛うじてつくりあげようとした独自の価値体系が崩壊し切った瞬間』とあらわすところもあり、この著者への「?????」度が、いっそう高まる。ではその「独自の価値体系」とはどんなものだったのか、どんなものだったと想像できるのか、彼は書いていない。むしろ、その「戦後」になって民主主義を謳歌するようになった日本人が、<日本国家に対する忠誠の動揺について語らない>ことを、著者は「片手落ち」と断じている。

 もしも江藤氏がほんらい母性的農耕社会を近代日本の理想と考えられていたのであれば、その戦争まえに「独自の価値体系」をつくりあげようとしたのは「父」なる存在ではなかったのか。そこから彼の思考を開始したうえで「父の失権」というパラダイムシフトを語り、そこから「母の時代」、その「母」の崩壊へと語りつがれたなら、もっと読むべきところも感じとれたのではないだろうか。



 

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■ 2012-07-26(Thu)

 きょねんのいまごろの日記を読んでみると、きょねんのニェネントは、よるにはわたしの寝ているベッドに上がって寝ていたこともあったような。なんか、ことしはいっしょに寝てくれないのだね。
 きょねんもやはりこの時期は暑かったと思うんだけれども、きょねんのわたしはずいぶんと読書にはげんでいるのにびっくりする。まあ暑いということと本をたくさん読むということはかんけいがあるわけでもないけれど、ちょっとことしのペースはよろしくない。読んでいる本に興味を持てないこともあるだろう。江藤淳の「成熟と喪失」もさいしょは面白いかと思っていたけれど、やっぱりダメであった。(つまり読んでいて楽しくもないから)ずいぶんかかったけれど、ようやくそろそろ読了である。つぎはもうちょっと楽しそうな本を読もう。


 

[]「大地のうた」(1955) サタジット・レイ:監督 「大地のうた」(1955)  サタジット・レイ:監督を含むブックマーク

 ついに、はじめて「大地のうた」を観た。ストーリーなどよりも映像が主導して作品の世界が展開して行くのがすばらしい。インドの人たちの瞳は、美しい。

 ただ、これは腹が立ったからどうしても書いておきたいけれど、DVDをセットすると、ふつうに某オヤジ映画解説者のコメントがはじまってしまう。本編と解説とが区別されないで、おんなじメニューでの連続としていっしょになっている。「ま、いいか」と、ちゃんとみることはしないでそのままにしておいたら、さきに聴きたくはなかったストーリー展開だとか、このおやっさんの考える「みどころ」なんかを平気な顔してぜんぶしゃべってしまう。‥‥わたしはもともとこの淀川長治という人のことは、そのしゃべり方からなにから大嫌いだし、やはりさいしょにこのオヤジがすがたをあらわしたところで、メニューをとばせばよかった。観ていても、「ああ、ここんところの展開とか、さきに聴いてしまったんだよな」と、がっくりしていた。

 本編のまえにその内容にふれた解説を平気で入れるなんて、いくらそのオヤジが著名だったからって、どうかしている。観終っても、そのことだけはいつまでも不愉快だった。


 

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■ 2012-07-25(Wed)

 あさ、ベッドからはみ出している足の先をニェネントにかじられて目が覚めた。「はやく起きてよ」とでもいうつもりなのだろうか。さいきんお気に入りのカニカマが食べたくなったのかもしれない。ニェネントに夏バテということばは不要だろう。

 しごとが一段落して、冷蔵ケースなどをかたづけていたら、ふたのところをカブトムシが這っていた。商品として送られて来ていた荷物から抜け出してしまったのだろうかなどと思ったりしたのだけれども、同僚にはなすと「このあたりは普通にカブトムシいるよ」と、かるくいなされた。わたしが天然のカブトムシをみるのはおそらくは九州にいた小学生時代以来のことなので、かるくテンションはあがっている。つまみあげると予想通りにけっこうちからが強くって、みた感じは身のしまった栗の実のような。近くの枇杷の木のところへ逃がしてやった。
 同僚は、このあたりでもクワガタをみかけることの方が多いといっていた。クワガタならば、わたしが杉並に住んでいたときに玄関にへばりついたりしていたから、あまりめずらしくもない。思い出してみれば、あの杉並のアパートの壁にはヤモリなんかのすがたをみかけたりもした。このあたりではヤモリをみかけたことはない。まあこのあたりで普通にみかけるけれど東京ではみかけたことのない虫のトップは、やはり「オハグロトンボ」だろうか。オハグロトンボはかなりヘナチョコな飛び方をするから、はじめてみた人はびっくりするかもしれない。わたしは小学時代に北九州でこの蜻蛉はみて知っていたので、こっちに来てこの蜻蛉をみたときにはなんだか懐かしい気がしたものだった。


 

[]「モラン神父」(1961) ジャン=ピエール・メルヴィル:監督 「モラン神父」(1961)  ジャン=ピエール・メルヴィル:監督を含むブックマーク

 メルヴィルの作品だけれども主人公は女性で、これを「二十四時間の情事」のエマニュエル・リヴァが演じている。主人公は教育機関のような、ほとんど女性ばかりの職場ではたらいている。ファシズムとの戦争はつづいていて、さいしょはイタリア軍が駐留している町なんだけれども、ちょっとあとにはこれがドイツ軍になってしまう。きっと東フランスとかスイスとか、そのあたりが舞台なんだろうと思う。主人公はシングルマザーで、だんなさんは戦争で亡くなられたのかもしれない。職場は知的なふんいきで、主人公は同僚(上司?)の女性にちょっとこころを寄せているようなことも語られる。

 主人公は挑戦するような気もちで修道院をおとずれ、そこの若い神父、つまりジャン=ポール・ベルモンド演じるモラン神父と、宗教について語り合うのである。
 まあけっきょくは主人公の気もちは恋ごころへと変わって行くのだけれども、もちろん神父はそういう気もちを上手にはねつけるわけである。

 撮影はやっぱりアンリ・ドカエで、ここでのメルヴィルとのコンビは、とってもとってもすばらしい。メルヴィル自身が既成の映像作品にとらわれず、まったくあたらしい表現をアンリ・ドカエとともに探究しているようにも感じられるのだけれども、そういうことが「実験的」とかいうのではなく、絵として既成作品にない力強さを感じさせてくれる。たとえば、主人公が職場で同僚とケンカするシーンの演出、撮影なんか面白いんだわさ。

 主人公の娘が後半になってちょっと成長してくるんだけれど、これが「シベールの日曜日」のパトリシア・ゴッジ、なのだった。つうことは「シベールの日曜日」にパトリシア・ゴッジを推薦したのはアンリ・ドカエ、だったりして。


 

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■ 2012-07-24(Tue)

 きょうも暑かった。もうお中元というシーズンでもないだろうと思うのだけれども、しごとはけっこう忙しい日々がつづいている。きょうもなかなかハードで、ほとんど息をつくひまもなく、いちにちのしごとが終ってしまう。帰宅してからは、日曜に買ったウィスキーをロックでぐいぐいと飲んでいい気もちになるのだけれども、もうボトルは空になりそう。やはり週に二本買わないといけないのだろう。アルコール以外では、せんじつ買った「冷たい牛乳ですぐ溶ける」というインスタントコーヒーで、冷たいカフェオレばかりつくって飲んでいる。おかげで牛乳の消費量はふだんの十倍近くになっていると思う。そんなに牛乳をたくさん飲んで健康にもんだいがないのか、ちょっと心配になる。


 

[]「226」(1989) 五社英雄:監督 「226」(1989)  五社英雄:監督を含むブックマーク

 やはり五社英雄監督の演出は濃厚なのだけれど、「二・二六」の思想的背景を伝えようとかそういう作品ではなく、かなりヴィジュアル優先の作品だなあと思いながら観た(DVD化にさいしていくらかカットされた部分があるらしい)。原作は「仁義なき戦い」の笠原和夫で、視点をあくまでも決起した青年将校側に限って描きながらも、空間を移動しながらの立体的な組み立てになっている。決起に参加させられた兵卒に「わたしはただ軍隊をつとめあげて除隊して、田舎に帰って平穏な生活がしたいだけだ」とか、「わたしはまだ入隊して五十日しか経っていない。そんなわたしが<昭和維新>などとどんなかんけいがあるのか」などと言わせているあたりが、いかにも笠原和夫らしい、というところだろうか。ぎゃくに北一輝など、ラストにいちどだけ名が出てくるだけの存在でしかない。

 とにかくわたしの独断と偏見では、この映画でいちばんヴィジュアル的にかっこいいのは坂井中尉を演じている加藤雅也で、ほとんどセリフとかないのだけれども、ただカメラが彼に接近して行って、下から彼の表情をあおって撮ったり、ただ遠くから彼の顔姿をとらえているだけで、なんだか迫ってくるものがある。
 ‥‥などと考えると、つまりはこの作品が同じ年に製作された「帝都大戦」との姉妹(兄弟)作に思えてしまってしかたがなくなってしまう。そもそもが「帝都物語」のあの印象的なカーキ色の軍服は、この「二・二六事件」のときに青年将校たちがまとっていたものなのではないのか。それで、この「226」でも、再現された当時の東京の街を、この軍服を着て闊歩する軍人たちの「美しさ」にやられてしまうのである。などと書いてしまうとヤバいのだろうか。

 さきに書いた「再現された当時の東京の街」、とくに後半の舞台になる山王ホテル周辺の風景、そして、映画で描かれる四日間のあいだに降って積もって融けてゆく雪の描写などもまた印象に残る。

 映画の冒頭が三浦友和演じる安藤大尉の逡巡からはじまるだけに、そのあとなかなか三浦友和の出番がなくってハラハラするのだけれども、後半になって一気に彼の存在がクローズアップされてくる。その手始めの、山王ホテル前での松方弘樹との邂逅というのか対決というのか、そこでぐるりと360度回転するカメラには、やはりほほえんでしまう。

 「吉原炎上」で裸電球を手で握り割らせた五社英雄監督、やはり彼の映画作品とは、そういう「熱さ」の演出を楽しませてもらうものだろう。圧倒的に面白かった。


 

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■ 2012-07-23(Mon)

 だいぶ夏らしい陽気にもどった。外を歩くと汗が吹き出てくるような、暑い夏である。午後から川を越えたところにあるレンタルDVDの店まで行って、ゆっくりと選んで六本のDVDを借りてきた。DVDをレンタルするのなんて、考えてみたら二年ぶりのことになる。まあそのあいだ「ひかりTV」とかのお世話になっているわけだけれども、いまになってみるとはたして、こういう安い価格で自分の観たいDVDだけを借りて観ている方がいいのか、それとも「ひかりTV」などでふつうの自分の考えでは観ることもないだろうような作品を観るのがいいのか、そういうことはわからなくなってしまう。おそらくいちばんいいのは、そういうことに金やじかんを使わないでいることではないのか、などと思ったりもする。
 きょうは、六枚のDVDを借りてきた。内容は以下の通り。

 「嵐が丘」(1939) ウィリアム・ワイラー:監督
 「戦火のかなた」(1946) ロベルト・ロッセリーニ:監督
 「いとこ同志」(1959) クロード・シャブロル:監督
 「モラン神父」(1961) ジャン=ピエール・メルヴィル:監督
 「大地のうた」(1955) サタジット・レイ:監督
 「226」(1989) 五社英雄:監督

 「大地のうた」にかんしては、その三部作がぜんぶ置いてあったので、次回にまた借りて来ようと思っている。そうするとついでにまた、ほかのDVDも借りることになるだろう。ロッセリーニ監督の作品がほかにも置いてあったのを観たいし、あとは観たことのないルイ・マル監督の作品なんかを観てもいい。メルヴィルの「モラン神父」がなぜかポツンと在庫してあったのが謎、だけれども、ちゃんと棚をよくみれば、ほかのメルヴィルの作品も在庫があるのかもしれない。なんだかまた、DVDをレンタルする日々がはじまってしまいそうである。

 

[]「ジョン・レノン、ニューヨーク」(2010) マイケル・エプスタイン:監督 「ジョン・レノン、ニューヨーク」(2010)  マイケル・エプスタイン:監督を含むブックマーク

 原題は「LennoNYC」というもので、もともとは「American Masters」という、アメリカで古くから放映されているTVのドキュメント番組枠で放映されたもののようである。この「American Masters」っつうのはとっても面白そうな番組枠で、多くのミュージシャン、アーティストに関するドキュメンタリーがつくられているらしい。去年だか日本で劇場公開されたトム・ディチロ監督によるドアーズのドキュメンタリーも、じつはこの「American Masters」で放映されたもののひとつ、だったらしいし。そういうんならどこかのCS放送ででも、WOWOWででも、連続してこの「American Masters」を放映してくれりゃいいのだけれども。たとえば2007年には「Atlantic Records: The House That Ahmet Built」なんつうのも放映されている。観たい。

 で、この「ジョン・レノン、ニューヨーク」だけれども、まあわたしはあんましジョン・レノンという人物に興味もないし、フランク・ザッパとの共演の映像が出てくるわけでもない。さいしょっから彼のことをビッグスターとしてつくられたこのドキュメント、もうちょっと掘り下げても良さそうなところなどをいっぱい感じてしまう。ジョン・レノンに関してのドキュメンタリーというのでは、ずいぶんむかしに「イマジン」というのがあって、そっちも観た記憶があるけれど、その「イマジン」の方が、作品としては面白かったんじゃないか。


 

[]「嵐が丘」(1939) エミリー・ブロンテ:原作 ウィリアム・ワイラー:監督 「嵐が丘」(1939)  エミリー・ブロンテ:原作 ウィリアム・ワイラー:監督を含むブックマーク

 とにかくせんじつ原作を読んで、「なんて強烈なんだ」と異様な感銘を受けた「嵐が丘」。このローレンス・オリヴィエがヒースクリフを演じた作品がいちばん有名なのだろうか。中学生だったころにも観たような記憶もある。

 原作を読んだあとに観てみると、ほとんど四、五人の登場人物たちだけで全宇宙を構成していたような原作から、「そうか、結婚式だとか舞踏会だとかのシーンで、主人公たちいがいにも存在した人類も登場するわけか」みたいな、妙な感想を持ったりする。原作の激烈さを再現することはかなわないわけだろうけれども、それでもローレンス・オリヴィエと、キャサリンを演じるマール・オベロンという女優さんとは、その激情を表現していい感じである。とくに吹きすさぶ風のなかでヒースをあつめ、荒涼とした丘のそばで語り合うふたりの姿は、恐ろしくも崇高であるようにも思える。デヴィッド・ニーヴンだとか、レオ・G・キャロルなども出演していて、わたしはイザベラ役のジェラルディン・フィッツジェラルドという役者さんも印象に残った。

 さいしょのテロップで脚本にベン・ヘクトが加わっていることが読み取れ、珍しいなあなどと思って調べてみると、じつはテロップに名まえが出ないだけで、彼はじっさい多くの作品の脚本に加わっていたのであった。原作に比べると、キャサリンの子どもらの代になってからの展開は省略されているけれど、これはおそらく誰が脚本を担当してもそうするだろうと思う。それはけっして原作の欠陥ではないのだけれども。


 

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■ 2012-07-22(Sun)

 きょうも、きのうのようにけっこう涼しい。やはりよるのあいだにちょっと一雨降ったような気配もある。予想ではこの水曜日とか木曜日には梅雨明けということになりそうだったこの地域だけれども、そのあとなしくずしに天候がくずれ、どうやら梅雨明けということにはなっていないようす。このままではことしもちゃんと「梅雨明け」しないままに、夏になだれこんでしまうのではないかしらん。

 とつぜんあらたまって書くけれども、わたしのしごとというのは、まいあさ五時にわたしのウチから歩いて一分の職場に出勤し、そこで六時半ぐらいまでひとしごとこなし、それから車で五分ほどのところの倉庫っぽい場所(「分室」と呼ばれているが、「隔離棟」というに近いところがある)に移動して、またしごとする。これを九時までやっておしまい、というのがまいにちの日課である。その、車で「分室」へ移動する道すじに、レンタルヴィデオ(もちろん今はDVDとかブルーレイのレンタルだけれども)の店とかがあって、そこのなかにある古着屋がいまは半額セールをやっているだとか、DVDのレンタルも今は旧作が50円だとか、車で通過するときにはまだ営業はしていないのだけれども、その看板でわかることになっている。そういうわけで今はまた古着の半額セールをやっているようなので、午後からちょっと出かけてみた。わが家からせいぜい徒歩十分ぐらいのところ。

 まあ古着はいちおう、掘り出し物がないかどうかというチェックぐらいのもので、こんかいはそれほどのものもなかったけれど、デューク・エリントンの「Sophisticated Lady」の、赤くって粋なTシャツが半額で250円なのを(ほとんど着る機会もないと思うけれども)買ってしまった。ついでにDVDのレンタルが旧作50円というのも気になって、レンタルDVDの棚もずらっとながめてみる。なぜかメルヴィルの「モラン神父」とか、サタジット・レイの三部作なんかが並んでいるので、観てみたくなってしまう。とくにこのあいだAさんと話題になった五社英雄監督の「226」などという作品もみつけてしまい、これはもうレンタルしようという気もちになる。で、いっしゅうかん借りれるのならきょう借りるよりもあした借りた方が、観るじかんに余裕があるので、あした改めて借りに来ることにする。DVDをレンタルするなんて、ずいぶんと久しぶりのこと。なんだか楽しみでワクワクしてしまう。
 帰り道にアルコール量販店に寄ってみると、この店はこの日曜をふくむ週末だけ、酒などの販売価格が安くなるのだということが、(今ごろになってやっと)わかった。スコッチウィスキーのボトルで三百円違う。ここで週末にだけ酒を買うスケジュールをたてるひつようがある。

 帰宅してTVで大相撲をみる。ほら、やっぱり横綱は負けてしまったね。予想通りだった。
 夕食はブロッコリーとじゃがいもをゆでてウィンナと炒め、マヨネーズをあえておかずにする。あしたの分もつくったつもりが、おいしくてちょっと食べすぎてしまった。夕食のあとはTVでさま〜ずなんかをみて、「せんしゅうの方がおもしろかったかな」などと思いながら、そのまま寝てしまった。


 

[]「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」(2003) エロール・モリス:監督 「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」(2003)  エロール・モリス:監督を含むブックマーク

 監督のエロール・モリスという人は、せんじつ観た「スタンダード・オペレーティング・プロシージャー アブグレイブ刑務所の証言」を撮っている監督である。こちらの原題は「The Fog of War: Eleven Lessons from the Life of Robert S. McNamara」と、また長いことになっているけれども、つまりは「マクナマラ氏の人生から学ぶ11の教訓」というのか、そういうタイトル。カメラに対峙して自分の過去を語るマクナマラ元米国防長官の映像と、そのマクナマラ氏の語りを補足する過去の資料映像、ニュース映像だけで組み立てられたドキュメンタリーで、音楽にフィリップ・グラスの名がみえる。

 もうアメリカという国には「華氏911」だとか「フード・インク」みたいな、インチキドキュメンタリーを撮る人しかいないのかと思ってしまっていたけれど、そんなことはなかった。こういう、ちゃんとドキュメントということに意識的な方法をつらぬく監督も、もちろんいるわけである。

 この作品、被写体であるマクナマラ氏を断罪したり賛美したりするものではない。もちろん彼は卓越した頭脳の明晰さを駆使されてきたわけで、その点で凡人のおよぶところではないのだけれども、彼の人生で彼の目のまえに立ちはだかった「戦争」、それは太平洋戦争であり、キューバ危機を頂点とする東西の冷戦であり、そして彼がもっとも深く関わったヴェトナム戦争であったりするのだけれども、それらの「戦争の霧」のなかで立ちすくむマクナマラ氏のすがたをこそとらえた作品という印象を受ける。

 さきに書いたように、この演出はマクナマラ氏の過去の功績に判断を加えるものではなく、ただひたすら彼の語ることだけを伝え、その彼の語りを当時の映像で補強するだけである。しかし映画の後半で、マクナマラ氏をとらえるカメラのうしろから、おそらくはこの作品の監督からの、いくつかの質問が飛ぶ。このあたりに、この作品の意図というか、演出姿勢も透けてみえるわけだろう。

 わたしにはとっても印象的なドキュメンタリーだった。


 

[]「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」(2009) サム・テイラー=ウッド:監督 「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」(2009)  サム・テイラー=ウッド:監督を含むブックマーク

 ビートルズとしてデビュー前(彼らがハンブルグへ行く前まで)のジョン・レノンを描いたドラマ。実の母ジュリアと、育ててくれた伯母のミミという、まったく対称的な二人の女性のあいだにいるジョンには、げんざいの父の不在という悲しい現実と、その不在の理由とがあるわけである。

 このあたりのことは、ビートルズがデビューしたころに読んだ雑誌の記事でおぼろげに記憶に残っていたりもしたけれども、この作品がいいのは、主人公があのビートルズのジョンだ、ということを無視して観ても、ひとりの男の子のドラマとして、観るものを惹きつけるところがあるところだと思う。

 ジョン役の役者もいいんだけれども、わたしには、ミミ伯母さんを演じたクリスティン・スコット・トーマスと、母のジュリアを演じたアンヌ=マリー・ダフとが、じっさいに姉妹なんじゃないかと思えるぐらいに似ていて、しかもそのなかで際立った性格の違いをみせてくれるあたりが気に入ってしまって、じぶんの気もちのなかでは、クリスティン・スコット・トーマスに奔放なジュリアの方を演じてもらったらどうだったろうとか、そういうことを思ってしまうのである。

 あんまり映画とかんけいないことだけれども、この監督のサム・テイラー=ウッドという方は女性で、この作品が縁でジョン役のアーロン・ジョンソンと結ばれ、ふたりの娘さんも産まれているらしい。ふたりの年齢差は23歳。それで、出演しているアンヌ=マリー・ダフのことをちょっと調べたら、こちらもずいぶん年下のジェームズ・マカヴォイといっしょになってやがるの。で、クリスティン・スコット・トーマスはどうなのよ?と調べると、こちらはげんざい待機中の独り身、ということらしい。
 まったくこの映画とはかんけいのないことだったけれど、何がいいたいかというと、せんじつ観た「さよならをもう一度」のイングリッド・バーグマンはアホやったなあ、ということ。まあ時代が変わったっつうことではあるけれども。


 

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■ 2012-07-21(Sat)

 よる遅くに雨が降ったようだけれども、けさはなんだか異様に涼しいあさだった。とても七月下旬の気候とは思えない。すごしやすいし、しごとも楽になる。この夏がこれからずっとこういう気候なら、原発を再稼働させるという名目がなくなってしまうのではないだろうか。

 しごとを終えて帰宅してからは、エアチェックしてあったあさのFM放送を聴く。けさの「ウィークエンド・サンシャイン」は、Doug Sahm の1989年のアルバム「Juke Box Music」の曲を、そのオリジナルと共に並べてかけるという特集。久々の好企画というか、こういうんなら、Alex Chilton がやったカヴァー曲を、そのオリジナル音源といっしょにやってくれるような企画があるとうれしい。ピーター・バラカン氏はAlex Chilton には興味はなさそうだから、そりゃあやらないだろうけれども。もしも実現すればChet Baker からKinks、Wilson Picket からSeeds なんていう、異様な飛びぐあいの選曲が楽しめそうだけれど。

 このところしばらく、夕方にTVをつけると大相撲をやっていて、ついついみてしまうというか、そのチャンネルのままにしておいてしまうのだけれども、まあ相撲という興行は老齢者向けというか、みていて面白がってしまうところがある。今場所は横綱と大関がふたりだけ十四日目まで勝ちっ放しで、あしたの千秋楽にこのふたりが全勝対決するわけである。その大関がちょっとばかし悪役ヅラなのもいいし、よく張り手をくり出すあたりもキャラクターとしていい。これで横綱がスーパーヒーローっぽく立ちはだかれば面白いんだけれども、これがきょうの横綱は立ち合いでサッサと身をかわしてしまって、「そりゃあずるいよ」というか、まるで横綱らしくはなかったのである。どこか体調が悪いのかもしれない。おそらくあしたは大関が勝つだろうと予想する。


 

[]「エックス・レイ X-RAY The Unauthorized Autobiography」レイ・ディヴィス:著 赤塚四朗:訳 「エックス・レイ X-RAY The Unauthorized Autobiography」レイ・ディヴィス:著 赤塚四朗:訳を含むブックマーク

 ようやく読了。キンクスのリーダーがみずから書き下ろした自伝というわけで、つまりこういう本というのはそのミュージシャンのファンのために書かれるものだろう。だからわざわざそのミュージシャン当人が書くひつようもないところがあるわけで、当人が触れたがらないようなスキャンダルの真相など、他人が書いたものの方がズバリと斬り込めるところはあるだろう。ぎゃくに当人が書けば、それまで知られていなかったことがらの真相があらわになることもあるだろう。まあそういうところがミュージシャン当人によって書かれた自伝というものの期待されるところなんだろうけれども、どうもこう、レイ・ディヴィスが書いたということになると、その著作には彼の音楽キャリアを超えた何かがあるんじゃないかと期待してしまうところがある。それはたとえばピート・タウンゼントの「四重人格」だとか、ジョン・レノンの「In His Own Write」に、単にミュージシャンの手なぐさみを超えたものを読み取ろうとする気もちに近いものがあるだろうか。

 ただ、もともとレイ・ディヴィスの書く音楽自体がひじょうにパーソナルというか、もともと自伝的な空気が濃厚なわけで、この本がそういう彼の書いた自伝というのであれば、やはりどこかで彼の書いた音楽とリンクするようなところをみつけたい、という気もちでも読みはじめることになる。

 ‥‥まず、この本がレイ・ディヴィスだとかキンクスなどという固有名詞をはなれて、この本独自の魅力を持っているかどうかということでは、これはざんねんながら「ノー」というしかない。まえにちょっと日記のなかで書いたように、この「自伝」は年老いたレイ・ディヴィス本人に、会社から派遣されたある匿名の青年がインタヴューをしていって、レイ・ディヴィスの人生を再構成して行くという内容なのだけれども、本のなかでその「ある匿名の青年」というクッションをおいたというのも特に「文学的な」ものでもないというか、そのことで独自の世界が拡がってくるようなものではない。ラストになってようやくこの主人公の「分裂」の意がわかるような展開にはなるのだけれども、それもけっきょくは著者の自意識のもんだいに帰することができるというか、それ以上のものでもない気はする。けっきょくわたしは、キンクスのファンという立場でしか、この書物を楽しむことはできなかった。

 ‥‥そういう、キンクスのファンとしての視点から読んでのことだけれども、まず、ここでは「Waterloo Sunset」の曲に関して、いわれていたような映画「遥か群集を離れて」の影響は語られていず、この曲中の「テリー」とは、オーストラリアに移住した彼の甥ということになっている。この甥のテリーの父はアーサーという名で、この人物はまさにアルバム「アーサー」のモデルなのだと。
 まあこういうことはどうでもいいようなことだったけれども、いちばん面白かったのは彼らキンクスが「ラヴ&ピース」という時代の潮流に背を向けて、反時代的な「ヴィレッジ・グリーン」などをリリースしたという背景には、彼らがその時代にアメリカで活動できなかったということがあったというような分析で、じっさいにアメリカでの活動が解禁されたあと、レイ・ディヴィスはLAにべっとりな生活になるのである。そうすると、キンクスがキンクスでありえたということには、彼らのアメリカでの公演活動の禁止という事実が大きな意味をもっていたということになる。


 

[]「神々と男たち」(2010) グザヴィエ・ボーヴォワ:監督 「神々と男たち」(2010)  グザヴィエ・ボーヴォワ:監督を含むブックマーク

 きょうもフランス映画を観た。1996年にじっさいにアルジェリアで起きた、イスラム原理主義者によるフランス人修道士誘拐事件を映画化したもの。

 説明的な描写もまったくなく、映画の背景の基礎知識がないと置いていかれてしまう。わたしはそういう基礎知識もなく観はじめたので、そういうイスラム系の人々、そしてクロアチア人たちなどの登場するこの作品の、その舞台からしていったいどこなのか、わからなくって悩んでしまった。そこで観るのを中断して調べて、ようやくこの映画の舞台がアルジェリアであること、実際に起きた事件をもとにしてつくられた作品であること、本国フランスでは観客動員三百万人を越える大ヒット作になったこと、などを知る。

 ‥‥さいごまで観て、ある意味で打ちのめされるわけだけれども、なんというのか、たとえばきのうは「みんな誰かの愛しい人」という映画を観て「良かった」とかいって、そのまえには「ギャラリー」などという映画を観て「ひどいね」とかいう感想を持ったりして、それできょうは「神々と男たち」という映画を観て、またあれこれというようなことは、とってもむつかしい気がする。たとえばこの作品がフランスで公開されていた時期とは、まさにサルコジ政権によって「ブルカ禁止法」などというものが施行されたときなのであって、そのこととこの作品のヒットということは決して無関係ではないだろうし、それでこの作品が反「ブルカ禁止法」、などという次元だけで割り切れるような作品というわけでもない。
 わたしはこのブログで映画の感想とかをずっと書いているけれど、こういう作品を観ると、それぞれの作品についての評価をたとえば点数などで表記するようなことをしていなくて、ほんとうによかったと思うことになる。つまり、わたしにはこの作品に満点をつけるようなことはできないけれども、それはわたしの側にもんだいがあるのであって、そういう点数をつけるという行為は、他者にとって不当なことでしょう、という感覚。じゃあ満点をつければいいじゃないかといわれれば、そういうことをやると自分をごまかしてウソをつくことになる。そういう感覚。だからわたしはこのブログを、そんな映画感想ブログにしたくはないと思っている。


 

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■ 2012-07-20(Fri)

 またふたたび禁煙をはじめてきょうで二日めになる。こんかいの方がキツいというのではないけれども、「自分はいつでもやめることができる」という自信があって、そのことが「だったらいま、ちょっと喫ってもいいじゃないか」という誘惑につながる。まいにちはかっている血圧も、たばこを喫っているときでも高くなったりはしなかったし、ついつい、ちょっとぐらいならいいんじゃないだろうか、などと思ってしまう。

 Cさんから電話があり、CさんとDさんとわたしとで、秋に関西に行って大阪のEさんに会って来ようという計画にさそわれる。って、わたしにそんな経済的余裕はないし、十月初旬の三連休という、まさに秋の行楽の最高潮だろうというような時期にあわせての計画、というのにも気もちを合わせられない。わたしは団体行動は苦手だし、しょうじき行きたくはないのだが。

 きょうもヴィデオを一本。読んでいるレイ・デイヴィスの自伝はもうちょっとで読み終わるのだけれども、まいばん、その「もうちょっと」をクリアするまえに眠ってしまう。


 

[]「みんな誰かの愛しい人」(2004) アニエス・ジャウィ:監督 「みんな誰かの愛しい人」(2004)  アニエス・ジャウィ:監督を含むブックマーク

 なんだかいかにもフランス映画らしい邦題といえばいいのか、わたしはどうしてもこのタイトルをおぼえることができない。「きょう観た映画は何てタイトルだっけ」と思い出そうとしてもまるでとっかかりがない。監督の名まえも出演者の名まえもわからない。出演しているジャン=ピエール・バクリという人はアラン・レネの作品にも出演していらっしゃったので顔はおぼえていたけれど、その名まえはわからない。この作品はカンヌ映画祭で脚本賞を受賞したとのことなので、「カンヌ映画祭」で検索して、その脚本賞受賞作を調べていって、それでようやくこの「みんな誰かの愛しい人」にたどりつくことができる。

 ‥‥いかにもフランスらしいインテリジェンスな空気のなかで人と人とのつながりを問い直すような群像劇で、監督のアニエス・ジャウィという方も出演されているし、脚本はその監督のアニエス・ジャウィと、出演しているジャン=ピエール・バクリとの共同。
 ジャン=ピエール・バクリが有名作家エチエンヌの役で、その娘のロリータを中心に映画は展開して行く。ロリータには体型だとかいろいろとコンプレックスもあるし、じぶんに近づいてくる人たちは要するに自分の父のエチエンヌとコンタクトをとることが目当てだろうとひがんでしまうところもある。ロリータは声楽を学んでいるけれど、その先生をこの映画の監督のアニエス・ジャウィが演じている。じつは彼女の夫がかけだしの作家で、まさにロリータの父エチエンヌとのコンタクトを望んでいたりする。

 そのロリータ、表面からみれば有名作家の娘というせいからか、性格ブスだなあという評価になりそうだけれど、まあつまりはみんな、ちょっとした愛情表現というか、フォローが足りないわけだよなあという感想になる。こういう「勝手な思い込み」という世界は日本の方が得意なような気もするから、こういう作品を観て思いあたる部分もあるような。きのうの「ブルーバレンタイン」につづいて、対象に接近して撮った作品だった。脚本はたしかにいいけれども、演出はきのうの「ブルーバレンタイン」の方がよかっただろうか。


 

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■ 2012-07-19(Thu)

 きのうおとといとしごとを連休したあと、きょうからはまたしごと。やはり連休したあとはもういちにち連続して休みたい気分で、あさ家を出るのもちょっとおっくうである。きょうもしごとはいそがしく、しごと場の気温は上昇をつづける。

 これはきょうのニュースではないけれども、エネルギー政策についての意見聴取会が全国各地で実施され、そこに抽選で選ばれた発言者(たしかぜんぶで九人)のなかに電力会社の社員が含まれていて、会社の意向の代弁を行なおうとしたことでもんだいになっている。あっちでもこっちでも、その限られた発言者のなかに電力会社社員が選ばれているということは、おそらくはまた全社員に応募申し込みをさせているわけなんだろう。そのことで非難するむきもあるようだけれども、TVのニュースをみていると、あのまましゃべらせてあげた方が「電力会社の本音」がきけるんじゃないだろうかと思ったりもする。このあいだのニュースではそういう社員の方が、「ちょくせつ原発事故で死んだ人は誰もいないじゃないですか」という、ある意味耳を疑うような発言をされてもいた。これが「電力会社の本音」ということならば、どんなことをしてでも原発の再稼働はストップさせなくてはいけないという気分になる。


 

[]「ブルーバレンタイン」(2010) デレク・シアンフランセ:監督 「ブルーバレンタイン」(2010)  デレク・シアンフランセ:監督を含むブックマーク

 「トム・ウェイツの曲にこういうタイトルのがあったよね」ぐらいの気もちで、まるでどういう映画だか知らないで観てしまった。‥‥たしかに、トム・ウェイツの唄のように哀しい気分にはなった。つらかった。

 いろんな障害を乗りこえて夫婦になったライアン・ゴスリングとミシェル・ウィリアムズのカップルが、どっちが悪いとか何がいけないとかいうのではなくこわれていくさまを、とっても近い距離からクローズアップで撮った作品。じっさいにバストショット以上のアップ撮影が多用されているのだけれども、そのことが安易だとか、映画っぽさを感じないとかいうふうには思わないで観ていた。BGM音楽を使わなかったこと、各シーンの色彩設計が活きていること、そのシーンに観るものを惹き込ませる、ちょっとした長回しなどをつかった、各場面の演出にちからがあること、そういうことがこの作品の魅力になっているのだろうか。時制を行ったり来たりするあたりも効果的だし、もちろん、真綿でのどを絞めるようにじわじわと攻めてくる脚本もたまらない。それでラストの花火に、一気に持って行かれてしまう。
 監督のデレク・シアンフランセという人物の、キャリアなどまるでわからなくって、どうもこれからの人というか新人らしいのだけれども、ちょっとこれから注目してみたくなる才能だと思った。ミシェル・ウィリアムズも、ライアン・ゴスリングも、よかった。

 って、わたしもDivorce したことはあるんだけれども、こういう切ない、どうしようもない別れ方ではなかったから、いま思い出して感傷的になることなどまるでないのである。それはそれでもんだいではあるが。



 

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■ 2012-07-18(Wed)

 きのう帰宅してちょっと調子悪かったりしたものだから、やはりきちんと禁煙していないといけないと、痛切に思った。もしもまた病院の世話になるようになったとして、たばこを喫っていたというのでは、申しひらきができないではないか。禁煙のやりなおし。

 美術展のチケットまで買ったわりにはあんまり財布はやせ細っていなくって、そのあたり映画というのはチケット代も舞台ほどにはならないし、そういうところでは健全ではある。ただ、このところそれほど派手に飲み食いするようなことも控えているので、この健全路線はわたしのもくろんでいるところの結果でもある。

 どうせきょうは、いちにち部屋でゴロゴロしているだけだろうと予想していたのだけれども、そのとおりになってしまった。きょうのことで書くこともなく、それできのうの映画の感想をきょう書くという計画もやはり、活かされることになった。


 

[]「クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち」フレドリック・ワイズマン:監督 「クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち」フレドリック・ワイズマン:監督を含むブックマーク

 ワイズマン監督のドキュメンタリーで、さいしょに観たのはたぶん、「BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界」だったと思う。そのあとに「コメディ・フランセーズ 演じられた愛」も観ているはずなんだけれども、じつはこのあたりの記憶というのはあんまりはっきりと残っているものでもなく、じっさい「刺激的だった」とか「おもしろかった」とかいう感想があったわけでもない。それからずいぶんと経って、きょねんのワイズマン監督の回顧上映で四本ぐらいの作品をつづけて観て、わたしもよくやくワイズマン監督の作品のおもしろさがわかるようになったのか、この「クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち」、とにかくおもしろかった。もちろん露出度の高いダンサーたちがいっぱい出てきてエロティックなダンスをみせてくれるのだから、それだけでわたしなんかは「カクンとイカレて」しまっているのかもしれんけど、いえいえ、わたしゃそんなとこばっか観ていたわけではありませぬ。とにかく、パリの「クレイジーホース」というバーレスク・クラブの経営方針、そして情熱的な芸術監督や悩み多き振付け家など、いろんなことが読み取れてくる楽しい作品で、「クレイジーホース」の楽しみ方の一端が、この作品から伝わってくるわけである(じっさいに「クレイジーホース」に行くより、きっとこの作品をみているだけの方がずっと楽しめそうでもある)。

 さてさて、その「クレイジーホース」のダンサーたちのパフォーマンス、じつはわたしはずいぶんまえにTVのたばこのCMで、彼女たちがズラッと並んでポーズをとっていたシーンを、かなりはっきりと記憶している。だから、「クレイジーホース」のドアはくぐったことはないけれども、ああいう、腰をぐっと突き出すような「決め」のポーズなどは、多少予備知識としては持っていた。

 それでこの作品、冒頭の「影絵」から、しばらくはバンバンとその舞台のパフォーマンスを堪能させてくれる映像がつづく。このあたりの舞台を斜めから捉えた映像から、正面からの映像への移行というのが、まずはとても気もちいいのだけれど、その舞台の映像から裏方の作業へ切り替わると、とたんに細かいカットの積み重ねの編集へとダイナミックに変化する。このあたりのドキュメントとしての演出はほんとうに見事。ここからリハーサル、そしてクラブの運営会議などと「クレイジーホース」の裏側が紹介される。まあ振付けのフィリップ・ドゥクフレなどは顔はわかっているのだけれども、観ていると「きっとこの女性が経営者だろう」とか、「客にはテーブルに置いた冷たくしたシャンパンを勝手に飲んでもらうことで、余計な給仕とかの経費は節約してるわけだね」とか、もちろんワイズマンの作品だからナレーションなどというものがあるわけもないのだけれども、いろんなことを読み取ることができるわけである。たとえばダンサー(ショーガールというのか)へマイクを差し出してのインタビューなんかやるわけないのだけれども、いちばんさいしょの楽屋のシーンで、その鏡のはじに子どもの写真とかはさんであるのが見られたりして、なんとなく彼女たちのそういう私生活も想像してしまったりもする。みんなで集まって、バレエのNGシーン集みたいなヴィデオをみて笑い声をあげているシーンがとても印象的だった。あと、オーディションで落ちたダンサーのほおで光っていた涙も、記憶からはずせない。

 出演者へのインタビューなんかやりませんよ、というのがワイズマン監督の演出スタイルと思っていたのだけれども(つまりそもそもが、カメラというものは彼のドキュメンタリーのなかでは存在していないものなのである)、おどろいたことに、アリという芸術監督が、カメラのまえで延々と語り出した。びっくりである。で、このアリという人物が情熱家というかロマンティストというか、この熱い語りはワイズマン作品らしくはないのだけれども、ダンサーたちを賛美するその語り、姿勢が、いつも頭をかかえこんでばかりいるフィリップ・ドゥクフレと好対照で、とにかく印象に残ってしまった。きっとこういうところに「クレイジーホース」の理念が生きているのではないだろうか、そんなことを思ってしまう。
 対照的にフィリップ・ドゥクフレは印象がうすいというか、なんかこの人誤解してるんじゃないだろうか、という雰囲気がつきまとってしかたがない。まあ映像としてでてくるダンス/パフォーマンスはそのドゥクフレの振付なんだろうけれど、このドキュメントではいまいち、振付家としての存在感も薄い気がする。で、ラストの方で、「DESIR」の文字にからんでダンサーたちが並んでいる場面がまさに、むかしTVでみたたばこのCMのシーンの延長にあるようで、「ああ、これが<クレイジーホース>」って感じでうっとりしてしまった。

 つまりはワイズマン監督の演出もすばらしかったし、クレイジーホースのダンサーたちもみんな素敵だった。そしてやっぱり芸術監督のアリさんに、なんだかあてられてしまったような。めっちゃ楽しかったので、もういちどこっそりと観に行ってもいいな、などと思うのであった。



 

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■ 2012-07-17(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 渋谷でAさんと待ち合わせをして、フレドリック・ワイズマン監督作品なのにロードショー公開されている「クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち」を、お上品なル・シネマという映画館で観る予定。あさから空はピーカン照りで、気温もぐんぐん上昇している。映画は一時半ぐらいからの上映を観るつもりなので、渋谷駅に十二時待ち合わせ。だから家を出るのは九時ごろで、まだそんなに暑苦しい陽射しでもない。電車にさえ乗ってしまえば、あとは車内は冷房完備だから楽である。あっちに着いても、映画館にさえもぐり込んでしまえば、あとは日光にさらされることもないから安全である。映画がおわるころにはもう日ざしの危険も薄らいでいるだろうし、あとはまた居酒屋にもぐり込んで涼しい思いをすればいい。かなり上出来のプログラムである。ニェネントにはまたお留守番してもらって(ごめんね)、ちょっとごちそうを出してあげて家を出る。

 ダイレクトに渋谷に行くとちょっと待ち合わせじかんに間があるので、新宿でいちど下車して、西口のチケットショップをあさる。いま六本木でやっている、大英博物館のエジプト美術展のチケットを、安く買うのが目的である。百円しか割り引かない千四百円とかで売っているショップもあるけれども、いちばん安いショップでは九百九十円。これだけ差があると、ちゃんとチェックすることは重要である。しかし、同時期にやっている「ツタンカーメン展」の、通常のチケット価格の高さにはおどろかされる。某お台場TV局主催ということもあるのだろうけれど、いわゆる「展覧会」でここまでのチケットの値段というのは「法外」ではないのか。ツタンカーメンのカノプスは、ちょっと観たい気もするのだけれどもね。

 いつの間にかしらない展覧会というものはやっているもので、チケットを並べているウィンドウを覗いていると、バーン=ジョーンズの展覧会などというものをやっているではないか。おそらく、彼の作品だけを集めた展覧会というのはこれは日本でははじめてのことになるのではないのか。やっている会場は軍需産業系で気に入らないけれど(ここはまえにいちど行ったけれど、ミュージアムショップなどひどいのである)、やはりこれは行かないわけにはいかないので、チケットを買ってしまった。こちらは、当日千五百円のチケットが半額で売っているショップがあった。
 六本木でやる「具体美術」の展覧会も行きたいし、木場の現代美術館の「特撮博物館」も、やはり観たい気もちはある(もういちど、ピピロッティ・リストの作品をゆっくりと観たいし)。なんだか美術展でスケジュールが埋まってしまいそうである。

 待ち合わせじかんも近くなり、渋谷へ移動して無事にAさんと合流。まずは映画館へ行って指定席になっている席を決め、食事にする。渋谷でAさんと会うのも何年ぶりかという感じで、Aさんといぜんに何度か行ったことのあるカフェでランチにする。つまりこのカフェもしばらくぶり。‥‥わたしには、ちょっと高価なランチになってしまった。

 そろそろ、ということで映画館へ移動。この日はだれもが千円均一で観られるサービスデーなので、席はまえからうしろまでぎっしり満員。年配のご婦人の客が多いのがさすが渋谷文化発信地、という空気だけれども、いったいそういう年配のご婦人の方々は、この映画から何を受けとめようとして観に来ていらっしゃるのか、よくわからないのである。

 ‥‥さて、予告編のあと、本編の上映。いままでに観たワイズマン監督の作品のなかで、わたしにはいっちばん楽しめた作品だったろうか。まあちょっとワイズマン監督作品らしくないところもあったけれど、映画の感想はあしたにでも書きましょう。

 とにかくもAさんもこの作品を気に入ったようで、パンフレットまでも買っている。
 まだじかんも早く、外もあかるい。やはりこういう楽しい作品のあとはうまい酒を飲んだりしながら語りたいもので、そういう居酒屋や飲み屋がオープンするじかんまで、映画館のあった建てもののなかの大型書店なんかをぶらついたりしてじかんをつぶす。

 外に出るとちょうどいいぐらいの薄暮になっていて、まあ渋谷ならこの店かな、というところで、井の頭線の近くの「U」の階段をのぼる。
 せんしゅうの大駱駝艦の舞台もよかったけれど、きょうの映画もまた格別だった。そういういい舞台、いい映画のあとに、気のおけない友人と飲む酒はやはりうまい。きょうもまた、すばらしい酒になった。


 

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■ 2012-07-16(Mon)

 きょうは海の日で祭日だけれどもしごとがある。ついにきょうで七日れんぞくで出勤ということになり、これははたらきすぎである。誰かがそのことでわたしのことをかわいそうと思ってくれたのか、きょうのしごとはほんとうに久しぶりにヒマだった。おかげで早いじかんにしごともおわってしまい、職場できのうまでの疲れをゆっくりと癒すことができた。あしたあさっては連休だけれども、また出かけるので疲労が蓄積してしまうかもしれない。きょうのゆったりした気分はほんとうにうれしい。

 空はまた晴天で、まだ梅雨明けという報道はきいていないけれど、もうことしの梅雨もほとんどおわりだろう。よるのあいだに雨が降っていた日は多かったけれど、ひるま雨にたたられることの少ない梅雨だった。思い出してみても、この梅雨のあいだに傘をもって外出したのは、ほんの二、三回だったような気がする。

 せんじつ買って飲んでいたウイスキーはほんとうにまずかったのだけれども、ようやくボトルを空にして、きょうはやっぱりちゃんとしたスコッチを買ってきた。帰宅して、グラスに氷を入れてチビチビとなめてみるけれど、やはり味がぜんぜんちがう。そのスコッチをなめながらつまらないヴィデオを観て、早くに寝た。


 

[]「ギャラリー」(2010) ダンカン・ウォード:監督 「ギャラリー」(2010)  ダンカン・ウォード:監督を含むブックマーク

 ロンドンを舞台に、ギャラリスト、コレクター、そしてアーティストたちのアホさ加減を描いた作品。日本未公開だけれども、クリストファー・リーやヘザー・グラハム、それにサイモン・マクバーニーなどが出演していることもあって、ついつい観てしまった。で、観終ってのわたしの感想はというと、おそらくこの作品こそが史上最低の映画なのではないのか、などという感想。しかしまあこんな映画に「史上最低」などという栄誉を与えてしまうこともないだろう。つまり、つっまらない映画である。

 現代美術業界の人間たちへの悪意もけっこうだけれども、こんな脚本なら、ギャラリーに二、三にちもかよって出入りする人たちを観察すればかんたんに思いつくだろう。まったく深みのない皮相な脚本で、よくこんな脚本を映画化してもいいと思ってしまう人間が存在したことだと、感心してしまう。
 わたしもいぜんはこの映画で描かれているような情況にそっくり似た事態を、東京の美術界で目にしたこともあるけれど、ここでの描き方はあんまりに皮相すぎる。

 色と欲まみれの業界人を笑いたいなら、てめえら映画人たちはどうなんだよっつうことは、やっぱりいいたい気分になる。まあそのあたりは映画の演出や撮影においてアートっぽさをてっていてきに排除して、ドきたない映像にすることで、「どうです、わたしたちはアートなんかとは無縁ですから」といっているみたいである。つまりは、女の子のスカートの下を覗き見することにいのちをかけたような作品である(じっさいにそういうシーンがあるけれども)。
 登場する女性アーティストが、自分のプライヴェート・ライフをそのセックスライフをふくめて映像化して作品にするというアイディアも、まったくもってくっだらなすぎる、というか、アホらしすぎて怒る気もしなくなる。品性下劣、としかいいようがない。
 いったいサイモン・マクバーニーはどんなことを考えてこの映画に出演したのか、こんなくだらない作品でおっぱいをみせてしまうヘザー・グラハムの将来はどうなるのか。この映画を観たあとは、そんなことしか考えられなかった。早く忘れたい。




 

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■ 2012-07-15(Sun)

 きょうもやはりいそがしかったしごとの合間に、職場の先輩のBさんがきのう首相官邸まえの反原発集会に行かれていたというはなしをきいた。Bさんは16日のデモにも行かれるようなことをおっしゃっていた。Bさんが市民運動をやられている方に協力されていることは知っていたけれども、東京の集会に参加されたときいて、ちょっとおどろいた。まさか同じ職場の方がそこまで積極的に反原発への行動を起こされているとは思ってもいなかったし、けっきょくきのうは自分は行かなかったわけだし、なんだか刺激される思いだった。わたしは16日には行かないだろうけれども、29日にはちょっとムリしても行こうと思った。

 ゴキブリがおおぜい出てきたので、せんじつゴキブリ駆除の毒エサ入りのカプセルみたいなのを買ってきて置いておいたのだけれども、ふつかもたつとあれだけいたゴキブリの姿がすっかり消えていなくなった。すっごい激烈な効果だなあと感心。

 暑いせいか、ひるまはダラダラとすごし、よるは早く寝てしまう。読書もはかどらず、なんとかヴィデオを一本観た。


 

[]「最後の賭け」(1997) クロード・シャブロル:監督 「最後の賭け」(1997)  クロード・シャブロル:監督を含むブックマーク

 クロード・シャブロルがせんじつ観た「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」のあとに撮った作品のようで、主演はイザベル・ユペールとミシェル・セロー。

 歳のはなれた詐欺師のコンビが大金をせしめようとするけれど‥‥、みたいなサスペンス。クロード・シャブロルによる脚本はすっごいゆるい感じはするんだけれども、そのゆるさが主演の二人のひょうひょうとした演技につながっている印象もあり、コメディってわけではないのだけれども、なんだか楽しく観ることができた。南の島のビーチから北国の雪景色まで横断するロケーションも爽快。とちゅうで、シェーンベルグの「浄夜」をつかった、イサドラ・ダンカンみたいなダンスがみられる、おもしろいシーンがある。




 

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■ 2012-07-14(Sat)

 きょうもしごとはたいへんにいそがしい。このごろはまえの日にアイス・ティーをやかんいっぱいつくって冷蔵庫で冷やしておき、多少保冷力のあるペットボトル容器でしごとに持参しているのだけれども、これをしごとの合間にかなりゴクゴク飲んでしまう。早朝とはいえ気温は上がってきていて、もう放置していると熱中症になりますよ、という真夏の季節に近づいている。

 きのうはひるまにもいっぱい寝てしまったものだから、きょうはしごとのあとも眠くなったりもしない。しごとから帰って、ニェネントにネコメシといっしょにカニカマをほぐして出してあげる。カニカマをほぐしているとき、ニェネントがわたしの手もとを見上げながら「ゴロゴロ」とのどをならしている。このごろはニェネントもめったなことではのどをならしたりしなくなったので、なんだかなつかしい音を聴く気分である。
 日が昇るにつれて、部屋のなかも温度が上がってくる。扇風機のスイッチを入れても、「微風」ではもうあまり効果がなくなった。グラスに氷をとり、このあいだアルコール量販店で買った国産の安いウィスキーでオン・ザ・ロックをつくる。きいたことのない名まえのウィスキーだけれども、やはりせんじつ買ったスコッチにくらべると数段味がおちる。というか、まったく旨くはない。すこし水を入れて水割りにして、それでようやくがまんして飲めるようになる。

 消費税引き上げをめぐって、政権与党から離脱したグループがあたらしい政党をつくるようである。「政権交代可能な二大保守政党」という枠組が崩壊する。しかし、その「政権交代可能な二大保守政党」というものを成立させるために、選挙区制度もすっかり更新されてしまっている。ここへ持ってきたのはこんかい与党から離脱した連中のリーダー格のヤツだったのではなかったっけ。与党は与党で前与党の二政党と談合をくりかえし、国会というものの存在する意味がどこにあるのか、わからんようになっている気がする。戦争中の大政翼賛ってこういう感じだったのではないかと思う。じゃあこんかいあたらしい政党を立ち上げる連中に期待するなんてのも、よほどの愚行である。まあ連中が「日本には革新はひつようない」としようとするなら、そんな日本にも「春」がひつようになるのではないのか。原発のもんだい、消費税のもんだいと、ひとをひどい目にあわせようとするのなら、ひとは反抗するよ。

 そのあたらしい政党がなんだか笑っちゃうようなジョークのようなネーミングなので、そういう変なネーミングで「D Q N ネーム」のことを思い出し、ちょっと調べてみた。すると、わたし自身が親にそういうD Q N ネームをつけられていたことを、いまになって思いあたり、彼らが元祖モンスター・ペアレンツであったことなどを思いあわせて、じつはわたしの両親はまさに「D Q N」だったのだということに、ついに、やっと気がついた。わたしは両親の老齢化とともに「この二人、いったいなにをやりたくて生きてきたんだろう」という疑問につきまとわれていたものだったけれど、彼らは老齢になってアホになったのではなく、じつはずっと若いときから、わたしが生まれるまえから、まさに「D Q N」だったのだ。そりゃあわたしが「D Q N」なのもムリはない。まいったまいった。いまごろになって気がつくなんて。

 きょうは、ヴィデオを一本観た。


 

[]「さよならをもう一度」(1961) アナトール・リトヴァク:監督 「さよならをもう一度」(1961)  アナトール・リトヴァク:監督を含むブックマーク

 原作はフランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」。映画の原題は「Goodbye Again」と、あんまりに散文的である。邦題は直訳といえば直訳だけど、まだ情緒があるというか。

 えっと、イングリッド・バーグマンとイヴ・モンタンの腐れ縁中年カップルに、アンソニー・パーキンスという若者が飛び込んでくることで、腐れ縁カップルが自分たちのなれあいぶりに刺激を得られるんじゃないかと思うわけじゃろう。つまりアンソニー・パーキンスはピエロなわけで、冒頭ではまさに金持ちのぼんぼん、アホづら青年なのだけれども、これがけっきょく使い捨てされるころには冷徹に情況を見定め、外見も聡明そうになってしまうのである。
 まあ原作がどうなってるのか知らないけれど、ここでイヴ・モンタンに感情移入して「そういうのもしかたがないよね」と考えることはまず不可能で、自分のエゴで動いているだけの、イヤな中年オヤジにしかみえない。そうするとイングリッド・バーグマンはそんなイヴ・モンタンなんか捨てちゃって、アンソニー・パーキンスの腕のなかに飛び込んじゃえばいいじゃないかと思うわけで、じっさいにそういう展開になりかけるのだけれども、ここでもイングリッド・バーグマンはあまりにも愚かで、これも感情移入できないことになる。まあ彼女に「わたしはあまりに年上だから」といわせたい何かが、作者のフランソワーズ・サガンのなかにあったような気配は感じる。
 じゃあそれでひたすらアンソニー・パーキンスに同情票が集まるかというと、このぐうたら青年もまた二人に負けないバカっぷりをみせてくれる。たしかに後半にその冷静な語りで株は上げるけれど、その(ある意味で唐突な)語りがなければ、目もあてられない作品だったことだろう。

 パリを舞台として、パリの観光映画というのではなくパリらしい雰囲気を前面に打ち出した感じはいいのだけれど、登場人物が英語とフランス語とのチャンポンっつうのは、英語圏の人たちにはせっかくの映像の上でのパリらしさによけいな追いうちをかけるようなものにうつるのではないのかと、字幕をたよりに観ているくせによけいなことを考えてしまう。監督のアナトール・リトヴァクという人の作品は、有名な「追想」を観たという記憶もなく、ただこのあとの「将軍たちの夜」を観た記憶があるだけだけれども、その「将軍たちの夜」でのピーター・オトゥールが、この「さよならをもう一度」でのアンソニー・パーキンスに、どこか似ている気がする。



 

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■ 2012-07-13(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 お中元のシーズンということで、このところずっとしごとがハードである。これだけお中元を出す人、もらう人が多いというのは、ここが首都圏からはずれて、古くからこの土地に住みついている人たちが多いせいなのだろうか。それとも首都圏、都市圏でもおなじようにお中元のやりとりがさかんなのだろうか。わたしはお中元を出したりもらったりしたという記憶はないけれど、それはわたしが親族とのつきあいということをやっていないせいかもしれない。
 とにかくきのう、きょうあたりのいそがしさは半端なものではなく、それほど長くはない労働拘束じかんが終ったときにはぐったり。きょうは帰宅して朝食をとったあと、ベッドにもぐり込んでそのまま寝てしまった。昼寝というのはふだんでもよくやるのだけれども、いつもならせいぜい一じかんちょっとで目覚めるところが、五じかんぐらい寝てしまった。きょうは内科でもらっている薬がなくなる日なので病院へ行かなければならないのも放置して寝つづけた。

 午後三時ごろにようやくベッドから起きだして、着替えをして病院へ行く。血圧値などはとてもいい数字になってきているし、そろそろ薬をへらしましょうかというはなしになる。げんざいわたしは六しゅるいの薬を常用していて、通院しているのだからそのくらいふつうなのかと思っていたところもあるのだけれども、きのう歯科医に行ったさい、げんざい常用している薬のことをきかれ、六しゅるいだと答えたら、ちょっとオーバーなリアクションでおどろかれてしまった。そうか、六しゅるいというのは尋常じゃないのかと、そこで思ったわけである。まあ薬代もバカにならない額になっているし、薬がへるのは大歓迎である。
 担当医に、「たばこをやめられてもう二ヶ月になりますね。もう喫わないでだいじょうぶですか?」などときかれ、どうもいまさら「また喫いはじめています」なんてとてもいえないわけで、「はあ、どうでしょう」などと、あいまいな答えをする。やっぱりまたちゃんとやめなくっちゃな、とは思っている。

 考えてみたらきょうは金曜日。まいしゅうの首相官邸まえの脱原発集会の日で、「行ってみよう」などとばくぜんと思ったりしていたものだけれども、もうこのじかんになると行くことはあきらめるしかない。調べると16日にも29日にも大きな集会、デモが予定されているみたいである。16日の方は、参加すると表明している文化人とかのなかにわたしの好きでない名まえがいくつか読み取れたりするので、行くんだったら29日にしようかななどと考える。いや、行くんだったら、というのではなく、行こう、と。

 きょうはひるまずっと寝てしまったのでヴィデオは一本も観なかった。よるはなかなか寝られず、ベッドのなかで読みさしのレイ・ディヴィスの自伝や江藤淳の「成熟と喪失」を読みすすめたり。江藤淳は、だんだんに妙な展開になってきた。


 

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■ 2012-07-12(Thu)

 差し歯にしている上の前歯が、いぜんからちょっとグラグラしていたのだけれども、きのうあたりからその違和感が強くなった。昼食を終えてから、ちょっとその前歯にさわってみたら、かんたんに取れてしまった。こまったことになってしまった。こういうことは放置しておくわけにもいかないわけで、きょうじゅうに歯医者に行かなければ。ちょっとだけ、瞬間接着剤で接着しちゃおうかなどと考えてしまったけれども、すぐにこの考えは却下。またしばらく通院しなければならなかったり、治療費がいっぱいかかったりしたらイヤだけれども、こればかりはしかたがない。
 この差し歯治療をやってくれた歯医者はウチから歩いて一、二分のところにあって便利だったのだけれども、わたしの治療が終ったすぐあとに歯科部門は廃止されてしまい、いまはもうない。そのそばにも別の開業医があって、そこが近いからと行ってみたら、きょうは休診日だった。南にあるスーパーのそばにも歯科医があったのを思い出したけれど、医者は水曜日とか木曜日には休診するところが多いので、まずは帰宅してネットで調べてみたら、そこもやはりきょうは休診だった。そうすると思い出すのは踏み切りを越えたところにあるかなり大きな歯科医で、そこはインプラントだとか歯周病なんかの専門と看板も出ていて、インプラント技術はいまのわたしにはかんけいないし、そもそもわたしは大きな歯科医院というものに、あまり好感をもっていない。ほかの内科医だとか胃腸科、そして外科なんかはかまわずに大きな病院へ行くというのに、そういう心理はじぶんでも奇妙な気がするけれど、考えてみれば、そういう家内手工業的な病院というのはもう、歯科医の世界にしか存在しないとわたしが思っていることとかんけいしてるのかもしれない。ほんとうはどんな病院でも小さいところが好きなのだ。

 それでその大きな歯科医院を調べると、きょうはやっている。あんまり行きたくないなあと思いながら家を出て、ここも歩いて五分もかからないところにあるその歯科医院のビルのドアをあける。受付に行って事情を話すと、予約患者優先なので待っていただくことになるといわれる。待合室のソファーにはすでに何人かの患者がすわっていて、なんだかもう、受付の素っ気ない応対も含めて、そこでいやんなっちゃった。考えてみればこのあたりにはほかにも歯科医はまだまだ存在しているはずで、やはりわたしが望むような、あまり大規模でない歯科医を歩いて探すことにした。「じゃ、いいです」とその歯科医院の外に出て、ちょっとあたりを歩いてみる。すぐに、二軒ほどの歯科医がみつかった。
 まあわたしの住まいの周辺というのはほんとうにコンヴィニエンスな環境であって、まえにも書いたけれども、ここから歩いて五分ほどの圏内に二軒のスーパー(もうちょっと歩けばもう二軒のスーパーに行ける)、二軒のコンビニ、ドラッグストア、たいていの病院、市役所、図書館、郵便局、鉄道の駅、そのほかレストラン、定食屋、居酒屋などなど、ほんとうに生活にひつような施設はだいたい何でもそろっている。これはたぶん都心でもあまりないような環境だろうと思う。それできょう歯科医を探してみたら、その歩いて五分ぐらいの圏内に五、六軒の歯科医が開業していたわけである。

 その二軒の歯科医のうちビルの二階にある方を選んで、こんどは先に電話をし、確認してから行くことにした。やはり、予約の方優先になるので待っていただくことになるかも、ということだけれども、さっきの歯科医院の事務的な応対にはなかった「あたたかみ」みたいなことを、勝手に感じるわけである。それですぐにその歯科医のドアをくぐる。さきにおかあさんと幼い娘さんの連れの方が待たれていたけれど、娘さんの診察治療はすぐにおわり、こんどはおかあさんも診察してもらう。待合室でひとりでおかあさんを待つ娘さんのために、受付の方がTVをつけてヴィデオ(VHS!)をつけてあげていた。うん、こういう病院がいいんです、などと思う。すぐにわたしにも治療の番がまわってくる。ちゃっちゃっと歯をくっつけられ、五分ぐらいで終了。受付にもどると、おかあさんはまだわたしのとなりで治療がつづいているので、娘さんがひとりでヴィデオをみていた。それがアメリカのなんともなつかしい味わいのカートゥーン・アニメで、もちろんディズニーではない。そういうところも気に入ってしまった。会計も千円でおつりがきて、治療はこれ一回でおしまい。理想的な治療だった。つぎに歯医者にかからなければならなくなったら、迷わずにこの歯科医にしようと思った。

 きのう書くのを忘れていたけれど、パンダの赤ちゃんが死んでしまって、ちょっとショックだった。ヴィデオを一本観た。


 

[]「おとし穴」(1962) 安部公房:原作・脚本 勅使河原宏:監督 「おとし穴」(1962)  安部公房:原作・脚本 勅使河原宏:監督を含むブックマーク

 もともとはTVドラマ用だったらしい安部公房の原作をもとにした、勅使河原宏の長篇デビュー作。音楽監督は武満徹で、「音楽」としてのクレジットには一柳慧と高橋悠治の名も並記され、もうこれだけでも超豪華メンツである。主演が井川比佐志というあたりに意表がつかれる気もするけれど、コレが実にいい。

 勅使河原宏といえばやはり「砂の女」だろう、というところだけれども、いやはやどうして、この「おとし穴」、そうとうにおもしろい作品だった。
 当時の時代背景をうつして、炭坑の労働争議をバックにした不可解な殺人事件が、その殺された男の視点から描かれる(男は殺されたあとは幽霊のような存在として登場する)。とにかく事件の真相を解明するとか、謎を解くなどという作品ではなく(そういうの大好き)、ただ情況のみをドキュメンタリー・タッチで描くのだけれども、その情況が不可解というか不条理というか、演出も気妙にねばっこいのである。
 まずはその殺人の起こる、ほぼ無人の炭住周辺の空間が非現実的なのだけれども、そこにいたる主人公の行動の描写がつまりはドキュメンタリー・タッチで追ってきて、ここで空間ががらっと変わってしまうことにちょっとおどろかされる。そういうリアルな作品だと思っていたのが、いつしか夢幻的な空気に支配されることになる。それでも、演出はやはりドキュメンタリーっぽく継続して行く。

 いつも困ったような顔をしている井川比佐志もいいんだけれども、脇役の演技演出で興味深いところがいっぱいある。このあたりが「砂の女」なんかとちょっとちがうよ、という印象にもなるだろうか。まずは無人の炭住にひとりで住んでいる駄菓子屋の女、佐々木すみ江がすばらしい。で、ほとんどいつもシュミーズ姿の彼女にイヤらしい目つきの巡査の観世栄夫がからんで、このふたりの強烈な映像の濡れ場もあったりする。撮影は瀬川浩という人で、この人は「砂の女」や「他人の顔」でも勅使河原宏監督とタッグを組んでいる。あと、新聞記者の佐藤慶や、殺人犯の田中邦衛なども印象に残る。

 音楽は誰がどこで演奏しているかとかわかるわけもないのだけれども、これはプリペアド・ピアノなのだと思う、その硬質な音がすばらしい印象を残す。

 とにかく「これは傑作だよな」という感想で、ふつうは録画したテープは上書きして別の録画に使い回ししているんだけれども、このテープは保存しておこうと思ってしまったしだいである。



 

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■ 2012-07-11(Wed)

 しごとを終えて部屋にもどり、ドアの反対側の駐車場の方の空をみると、たくさんの蜻蛉が群れて、不規則に空を飛んでいた。蜻蛉は秋の虫というイメージだけれども、この蜻蛉は初夏に飛び交うしゅるいで、からだの色も緑っぽい。なんだかもう梅雨も明けてしまったような雰囲気で、きょうも部屋で扇風機に活躍してもらった。

 ニェネントはあいかわらずとてもかわいい。食事に大好物のカニカマを出してやろうとすると、もう先に「あ、カニカマだ」とわかるようで、わたしの手もとを見上げてニャアニャアとなく。「はやくちょうだいよ」というところである。視覚的に「カニカマだ」とわかるのか、それともカニカマのにおいからなのか、冷蔵庫を開けてカニカマを出すときの音か気配でわかるのか。

 ことしは部屋のなかにゴキブリの姿をよくみかけてしまう。よるになって部屋の明かりを消したあと、台所に行くといる。冬に台所の下の排水管がこわれて修理したとき、いちど地下との仕切りをとっぱらったあと、ちゃんと塞いでいなかったかもしれない。そのせいで地下の通路から部屋に入って来ちゃうんじゃないだろうか。ときどきニェネントがそんなゴキブリに気がついて、追いかけたりしていることがある。あしたは殺虫剤を買って来よう。

 いま、東京ではまいしゅう金曜日のよるに、首相官邸まえで原発稼働反対の集会が行なわれているそうで、週をかさねるごとに参加者も増えて来ているらしい。わたしも行ってみようかという気もちはある。あさってにでも行こうか。


 

[]「近松物語」(1954) 溝口健二:監督 「近松物語」(1954)  溝口健二:監督を含むブックマーク

 わたしのもっとも好きな溝口監督の作品は「お遊さま」だとか「元禄忠臣蔵」なんかになるけれど、このあたりの作品は全体の構成とかストーリー展開とかに難があるというか、あんまり人におすすめしたいという気分にはならなかったりする。それで、そういう面も含めていろいろとバランスの取れた作品と考えると、「残菊物語」あたりの作品が、「溝口監督っていうのはほんっとうにスゴいんだよ」とすすめられるように思えて、じっさいに人に「残菊物語」はいいよ、とか推薦はしていたのだけれども、久しぶりにこの「近松物語」を観たら、「スゴいっていうんじゃあこの作品も相当なものだなあ」と思えたわけである。映像も演出も強烈なことはいうまでもない、見どころのたくさんある作品であることは承知していたけれど、物語の展開もキチッとしているし、なによりもここで描かれる「死を越える愛」というか、「愛の勝利」というテーマ、メッセージが非常に現代的。そのメッセージ性は戦前の「浪華悲歌」や「祇園の姉妹」を思い出させられるところもあるけれども、これまでの溝口健二監督作品にあった悲劇性はこの作品にも引きつがれているとはいえ、ある面では主人公二人の夢がかなえられたともいえるラストには、溝口監督の作品にはめずらしい、「幸福感」のようなものが感じられる気がする。この「死を越えた愛の勝利」とでもいう主題にはいっしゅ独特のモダンさが感じられるようでもあって、なんか、溝口作品が海外で評価されるとしたら、このあたりの作品がいちばん受け入れられやすいんじゃないかという気もする。

 そういう物語展開もさることながら、やっぱりその演出、映画技術としてすばらしい作品でもあることはいうまでもない。う〜ん、観終ったあと、じつはこの作品こそが溝口健二監督作品の最高傑作なんじゃないだろうかとまで思うようになってしまった。わたしはちゃんと観てないんだけれども、ゴダールが「映画史」で引用した溝口作品はたしかこの作品から、だったんじゃなかっただろうか。

 この作品での美術の水谷浩、音楽の早坂文雄、撮影の宮川一夫という「溝口組」の充実ぶりは特筆もので、とくに大経師の屋敷、工房内を奥行きをもって作りあげた美術、浄瑠璃を意識した三線や拍子木を使った音楽は、もうほんっとうにすばらしい!

 溝口監督の演出ももちろんこれは「見事」としかいいようもないもので、とくに主人公の二人、香川京子と長谷川一夫との逃亡(道行)シーンでのロングでの演出のすばらしさ。もうコレを観てしまうと、篠田正浩の「心中天網島」などもこの「近松物語」からの模倣じゃないの、などと思ってしまう。川の浅瀬を長谷川一夫が香川京子を横抱きにしてわたるシーン、わたしは大好きだし、やはり心中へ向けての舟のなかでの長谷川一夫のこころのなかの吐露、それを受けて香川京子が「死にたくない、生きたい」と気もちを変化させるシーンはもう、名シーンであろう。ここでふたりは世間のしきたりから死への道を選ぶのではなく、個の幸福のための「生」をこそ選ぶことになる。映画後半で、山道でふたりが抱き合うラブシーンがまた、強烈なのである。大経師の進藤英太郎や番頭の小沢栄の描写にみられる、溝口作品としてはめずらしい、そこはかとないユーモア感覚もまた新鮮である。

 これからは、人に溝口健二のすばらしさを伝えるときには、この「近松物語」をすすめることにしよう。



 

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■ 2012-07-10(Tue)

 きょうからは七日れんぞく出勤という、ちょっとハードなスケジュールである。まいにちのしごと自体も閑期の何倍ものしごと量であって、まだ夏本番を迎えないうちに夏バテしてしまうのでないかと心配している。
 このところずいぶんと気温も上がってきたようでもあり、きょうからついに、しごとから帰宅してから扇風機を使いはじめた。買い物に出て、冷たい牛乳ですぐにアイスコーヒー(というか、カフェオレだろう)をつくれるというインスタントコーヒーを買ってきた。つくった冷たいカフェオレが思いのほかおいしいので、つづけてなんばいもつくって飲む。久しぶりに牛乳の消費量がいちどにふえた。

 よるのニュースで、山田五十鈴さんが亡くなられたことを知った。淡島千景さんが亡くなられたのもこの春のことだったし、大女優がつぎつぎと姿を消して行かれる。このあいだ観た「ある大阪の女」のオリジナル、溝口監督の「浪華悲歌」が、とっても若い山田五十鈴さんの主演作だった。わたしは彼女の作品をそんなに観ているわけではないけれども、いま思い出すのは成瀬巳喜男監督の「流れる」だろうか。晩年にどんどんかわいらしくなられたようにみえる山田五十鈴さん。合掌。

 寝るまえに、図書館からもらって来てあった雑誌「群像」の吉田重喜監督の小特集の号、ポンピドゥ・センターでのシンポジウムを読んだ。この2008年にポンピドゥ・センターでは吉田重喜監督の回顧上映が行なわれたのだった。刺戟的なシンポジウムで、また吉田監督の作品をあれこれと観たくなった。

 きょう観たヴィデオは、クロード・シャブロル監督の作品。


 

[]「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」(1995) クロード・シャブロル:監督 「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」(1995)  クロード・シャブロル:監督を含むブックマーク

 ルース・レンデルの原作もむかし読んでいるし(ルース・レンデルで読んだのはこの作品だけ)、この映画じたいも観た記憶はある。サンドリーヌ・ボネールとイザベル・ユペールのふたりが、あまりに強烈な作品。

 カメラが室内でぐるりとその向く方向をなんども変えたりするのだけれども、そのことでそのカメラが「室内にいるもうひとりの人物」=「いっさいの目撃者」である、という感覚を呼び起こされる。つまり、カメラ=観客の目であれば、観客こそがこの惨事のさいしょっからの目撃者にされる。邦題タイトルにあるように、「惨劇」が起きることはわかっているわけだけれども、いざその「惨劇」への幕開きとなると、サンドリーヌ・ボネールとイザベル・ユペールのふたりの行為があまりにおぞましくて、観ることがイヤになりそうになる。だって、被害者らには何らの「非」もないわけだし。

 サンドリーヌ・ボネールはつまり失読症(ディスレクシア)であり、そのことを知られまいとしていたことが、犯行への引き金になるのだけれども、ここでの「失読症」というのは「文盲」ではない。しかし、たしかわたしの読んだ翻訳では、このあたりのことはただ乱暴に「文盲」として翻訳されていた記憶がある。で、わたしもぜんかいこの映画を観たときには、そういうニュアンスで観てしまった記憶もある。それはぜんぜんちがうのである。もしも被害者側になんらかの落ち度があるとすれば、被害者家族の父親が彼女のことを文盲とおなじに理解していること、であるかもしれない。このあたり、娘(ヴィルジニー・ルドワイヤン)は、正当に彼女のことを失読症と理解しているのだけれども。

 原作のこまかいところは忘れてしまってもいるのだけれども、この映画でのラスト、録音されたラジカセを再生させるということに何らかの意味がこめられていると考えると、奇妙な面白さを感じさせられる思いがする。



 

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■ 2012-07-09(Mon)

 遠出をしたよくじつのつねとして、ゴロゴロと寝てすごす。外はずっと快晴で、ひるまはそろそろ夏っぽく暑くなってきた。

 ベッドで横になって、いまは江藤淳かレイ・デイヴィスかを読むという、なんだか取り合わせのよくない読書をやっている。
 江藤淳の「成熟と喪失」は、書いてあることはわかるのだけれども、批評の対象にした作品をそこまですべて説明していいものなのか、ちょっと疑問に思うし、やはり論旨にどこか書かれた時代背景を読み取ってしまう。
 ロックのアーティストであるレイ・デイヴィスの方は、その構成からしてもゴーストライターの世話などにならずに自分で書いたことは明白だろうけれど、若い記者が老いた自分を訪ねてきて、その若い男に自分の過去を語るというアイディアが、少なくとも前半ではほとんど活かされていない気はする。

 おとといから残っていた豆腐で冷や奴にして、やはりおとといから保温しっぱなしのごはんで夕食にする。ヴィデオは一本観た。


 

[]「転校生」(1982) 大林宣彦:監督 「転校生」(1982)  大林宣彦:監督を含むブックマーク

 むかし観てますけど。行ったことのない尾道の街のことはまるで知らないけれど、先日観た「八日目の蝉」が小豆島の観光映画であったようなかたちでは、これは尾道の観光映画ではない、というあたりが、いちばんの成功の要因のような気がする。とにかく町の風景がよくって、観た人が尾道詣でをしたくなるというのもわかる。
 男性の乗り移った小林聡美はただただすっばらしいんだけれども、尾美としのりの方は、その乗り移った女性の、それまでにちょっと紹介された性格からすると、ちょっとばかしナヨナヨしすぎている気はする。
 尾美としのりの撮った8ミリからはじまり、その8ミリ映像でおわるのはいいけれど、劇中でもそのあたりを活かせなかったものだろうかと思うのは欲ばりすぎるのだろうか。



 

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■ 2012-07-08(Sun)

 きょうはまた東京へ行く。Aさん(月が替わったので、またイニシャルはリセットして「A」から。せんげつのAさんとこんげつのAさんはと、同じ人物というわけではありません)と、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで大駱駝艦の公演を観るのである。大駱駝艦、たぶん十年以上まえにいちど舞台を観ているし、やはりそのころにTVの舞台中継も観た記憶はあるけれど、つまりはほんとうに久しぶりに観るわけである。まえに観たときからこんかいまでのあいだに、いろんな新しいダンスとかがあらわれて、また消えていって、それでずっとまえからやっている人たちが、「創立四十周年」などという公演をやる。なんだかなあ、という感じではある。

 天気予報では、きょうはあまりいい天気ではないようなことをいっていたけれど、あさから雨も降らず、わたしの乗った電車が渋谷についたころには薄日もさしはじめていた。渋谷から地下にもぐって田園都市線に乗り、三軒茶屋へ。考えてみたら、ここにはせんしゅう来たばかりなのだなあ。
 Aさんと合流し、劇場のあるビルの二階にあるカフェでランチにする。このカフェは、お客さんの平均年齢が高い。たいていのお客さんは、わたしよりひとまわりもふたまわりも(!)年上の方にみえる。

 食事を終え、あれこれとおしゃべりをしてじかんをつぶし、開演じかんになるころにカフェを出て、エスカレーターで一階上にある劇場へ向かう。せんげつ森下スタジオでのイヴェントの打ち上げでお会いして盛り上がった振付家の方が、そのエスカレーターのとなり、上から降りていらっしゃるのとすれちがった。ほぼ同時にお互いに気がついて、下と上とであいさつをしあう。Aさんがおもしろがっていた。

 劇場はもちろん満員。わたしたちの席はちょっと端っこではあるけれど、まえから三列目で舞台もまぢかである。客席を見回すと、せんしゅうの康本さんの公演よりお客さんの平均年齢も高く、外国の方のすがたも多い。四十年の歴史というのか。

 開演、そして(感覚として)あっというまに終演。きょうは楽日でもあったせいか、カーテンコールがなりやまない。たしかに、わたしにも異様なまでにおもしろい舞台だった。大駱駝艦初体験のAさんもまた、きょうの舞台を気に入られたようである。
 舞台の余韻を反芻しながら外に出るが、まだじかんもちょうど五時で、がんがんに明るい。すずらん通りを歩き、居酒屋「I」の入り口からなかをのぞいたら、「もういいですよ」みたいな感じで招き入れられてしまった。「I」の、きょういちばんめの客である。考えてみたら、この「I」で飲むのも十年ぶり、ぐらいである。まあそんなにいく度も通った店というわけではないけれど、好きな雰囲気の店である。Aさんとの会話も楽しく盛り上がり、酒も料理もうまい(きょうはめずらしく黒ビールでずっと通した)。Aさんとわたしとの年齢差は四半世紀あるし、もうAさんと知り合ってからもかれこれ二十年近くになる。そのあいだ、彼女はわたしにとっての最高の友人のひとりでありつづけてくれていて、そのことが、わたしがどこかで特別な存在であるとわたしが思い込める典拠であったりもする。
 Aさんとの次回は、ワイズマン監督の「クレイジーホース☆パリ」の観覧になる予定。

 早く飲みはじめたこともあるし、わたしもあまり深酒などをやってはいけませんね、などという自粛ムードもありますので、はやくも八時ごろにはお開きにして、帰路についた。あしたはちゃんとしごとも休みを取ってあるので、そのあたりにぬかりはないのだが。


 

[] 大駱駝艦・天賦典式 創立40周年公演「ウイルス」麿赤児:振鋳・演出・鋳態 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター  大駱駝艦・天賦典式 創立40周年公演「ウイルス」麿赤児:振鋳・演出・鋳態 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

 観るまえに、大駱駝艦がはじめてというAさんに、わたしは次のような解説をしておいた。
 「一、全体の動きは非常にスローモーで、眠くなること必至であろう。二、麿赤児は、登場してもほとんど動かないだろう。」
 ‥‥考えてみれば、わたしもこんなことがいえるほど大駱駝艦の舞台を観ているわけでなく(というか、思い出せる舞台はほとんど「泥芸者」ひとつしかない)、この解説はみごとなまでに外れてしまった。みんなちゃっちゃか動き回るし、御大麿赤児氏はほとんど「ソロ・ダンス」といえるようなシーンがあり、セリフ(?)まであるのだった。やはりこれは、「創立40周年」ということゆえの大盤振舞、だったのだろうか。とにかく、まれにみる楽しい舞台だった。

 まず思ったのは、この舞台での彼ら、彼女らの動きは、これはいわゆる「(暗黒)舞踏」とも「ダンス」ともみなせないのではないかということで、たしかに痙攣のような動き、腰を落としてのふるえるような動きというのは、一面で舞踏の系譜ということもできるだろうけれども、この舞台全体をおおう奇妙な「明るさ」のようなもの、そこからわたしが受ける印象は、むしろ舞踏からはいちばん遠いものとして受けとめられるような。しかしそれがダンスといえるようなものとも思えない。天上をも下界をも指向していないような。つまりこれは「地上のダンス」ということなのか。しいていえばアート系というか、まあアート系などという呼び方もあまりしたくないとすれば、つまりは美術系の行為といえるものなのか。
 さきに書いたように、わたしはいままで大駱駝艦の舞台はほとんど観ていないわけだけれども、彼ら、彼女らの舞台がダンスの世界からダンス的にはほとんどもんだいにされていないように思えること、そして舞踏の世界でもちょっとわきにおかれているような印象を受けていたことも、こうやってその舞台を観てみると、なんとなく合点がいく気もする(ひょっとしたらダンスや舞踏の世界でも話題になり、評価されているのかもしれないけれども)。これは大駱駝艦の公演に名づけられた「天賦典式」という概念ともかんけいのあることだろう。つまり、「being born in this world is a great talent it self」という世界観からおのずと生まれる「身振」なのだろう。

 その「身振」のことだけれども、そこにやはりある種の「観念」を出発点としているようにみえる、ということでは舞踏の系譜のなかで捉えられるものなのかもしれない。もちろんそこに「形態模写」のような意志もみられない。とくにこんかいはタイトルにあるように、「ウイルス」をこそ表象しようとされていたようであるから、そんな形態模写どころではない。むしろ三角定規をやろうとするような、素粒子をやろうとするような。わたしがこの舞台を観ていて「面白い」と感じたということは、そのあたりの精神のありように感応したのかもしれない。まあわたしはこの日の舞台を観ていて、なぜかずっと「パンダの繁殖」のことなんか思っていた、とんでもない観客ではあるのだけれども。

 わたしがいちばん楽しく観たのは、シーンにつけられたタイトルでいえば、さいしょの方の「ベラの女たち」で、これはやはり「妖怪人間ベム」から来てるのかいな、などと思ってしまったのだけれども、腰を落として手をふるわせながら登場した女性たちが、さまざまな「奇々怪々な」動作、表情をかわりばんこにみせてくれる。もうわたしはあと一歩で客席から転げ落ちて爆笑するところで、ちょっとからだをふるわせながら見入っていた。このシーンはあたまからいつまでも離れず、夜になって思い出してうなされるのではないかと思った。

 しかしなんとも魅力的な舞台。いつもこんなのを見せて下さるのなら、わたしもまいかい観覧に馳せ参じなければならない。って、また気に入ってしまった舞台というのが古くから(って、四十年! 大駱駝艦がはじまったとき、わたしはまだ二十歳だったわけだし、いっしょに観たAさんはまだ生まれてもいない)やっているカンパ二ー、ということになってしまった。これはやはりわたしの老化から来るものだろうかといぶかったけれども、Aさんもまた大いに気に入られたらしい。



 

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■ 2012-07-07(Sat)

 ニェネントは、かわいいだけではなく、ネコとして最高級に美しいのではないかと、ニェネントをみていてこのところ思うようになってしまった。もちろんこれは飼い主のひいき目であり、わたしのヤバいところでもあるだろうけれども、たとえそれが錯誤であっても、じぶんと同居していつも生活を共にしているパートナーのことを「かわいい」とか「美しい」とか思っているということは、生活の意識を一面で豊かにしてくれているのではないだろうか。「ウチには、なぜいっしょに暮らしているのかわからない、愛しているわけでもないイヤな女がいる」などと思いながらすごすより、よほど健康なことだろう。いやしかし、あまり健康的な生活というのも、好みのもんだいであまり好きなわけではない。それで喫煙を再開したというわけではないのだが。
 ニェネントがかわいくて美しいというのは、わたしの主観によるところのものだから、ニェネントの近影をここにアップするようなことはしない。

 きょうもしごとはハードだった。帰宅してFMでゴンチチの「世界の快適音楽」を聴く。この日は「And」のとくしゅうということで、曲名やアーティスト名に「And」の含まれる曲など。って、それって、あまりに範囲が膨大ではないのかという気がする。ポピュラー音楽の半分とはいわなくても、三分の一とか四分の一はこのとくしゅうにひっかかって来そうな気がする。聴いていて、Blood, Sweat & Tears の「You've Made Me So Very Happy」という曲を、ほんっとうに久しぶりに聴いた。別に思い入れのあった曲というわけでもないのだけれども、妙に聴きこんでしまった。ずいぶんと長いこと聴かなかったので、じっさいに聴いていた当時の空気が、この今に直結してしまったのだろう。彼らの曲でもこれが「Spinning Wheel」(嫌いな曲)だったら、こういうことにはならなかっただろう。演奏のクオリティが高かったということもあって、当時は今みたいないい音の再生装置で聴いていなかったので、そういうところが新鮮だったということもあるかもしれない。うちにあるのはそんなに高価な再生装置ではないけれど、けっこう満足しているところがある。

 昼食はけっきょく食べないですごし、午後から外に出て豆腐とトマトを買い、夕食は冷や奴とトマトサラダですませる。


 

[]「ある大阪の女」(1962) 須川栄三:監督 「ある大阪の女」(1962)  須川栄三:監督を含むブックマーク

 団玲子お姐ちゃんの珍しい主演作で、じつはこの作品、溝口健二監督の1936年の傑作「浪華悲歌」からの、時代背景などをかえたリメイク作とのこと。脚本にその「浪華悲歌」の依田義賢の名まえが出ているけれど、はたして依田義賢がこの作品のためにあらためてなにか書いたのか、それともたたき台にされた旧作の脚本のことを指すのかはわからない。それで、そもそも「浪華悲歌」ってどんなストーリーだっけと、このあたりからどうもわたしの記憶にはあやしいところがある。心斎橋だかの橋のたもとで、ヒロインの山田五十鈴が自分のことを「不良少女という病気や」と、声をかけられた知り合いの男に語るラストをなんとか思い出した。金のために勤め先の社長の愛人になったりする女性の話だった。

 ラストはオリジナルと比べまったくちがうのだけれども、観おわって、「はて、こんなストーリーの作品、さいきん観たような」と思って考えてみたら、このあいだ観た、その溝口監督の「わが恋は燃えぬ」とあんまり変わんないじゃないかと思いあたった。「わが恋は燃えぬ」は政治にめざめた女性が、そういう政治的に自分があこがれていた男たちが皆アホでうんざりし、「あたしゃこれからの女性の自立のために学校をつくるわよ」と決意して故郷へ帰っていくおはなしだった。この「ある大阪の女」のヒロインは政治になんか興味はないわけで、ただお金のために男にたより、その男たちのふがいなさ、いやらしさに幻滅するのである。このあたり、「わが恋は燃えぬ」でヒロインがいくら政治に自分を賭けるといっても、その政治意識の内面の描かれない展開では、要するに複数の男に惚れてたのよだけみたいなもんで、そういうので、この作品とおんなじじゃないかということになる。高邁な政治的理想も、金銭欲も、追求すれば同じ穴のむじなということなのか、そこに二十世紀中期日本の女性の立ち位置があったということなのか、表現する男性たちの内面の投射なのか、考えてみると興味深い。
 もう男に懲りたのか、都会での政治活動をあきらめて「故郷で学校つくるわ」という「わが恋は燃えぬ」のヒロインはカッコいいかもしれないけれど、それまでの行動からの飛躍、逸脱はつまりはほうったらかしで、「そんな、いままでやってきたことと、まるでつながりがないじゃありませんか」みたいな雰囲気はあった。それに比べると、「こんどはうまくやるわ」といって去っていくこの「ある大阪の女」の方がよほどさっそうとしているし、「わたしはわたしである」という継続される意志を感じる。団玲子という女優さん、その内面の奥深さを感じさせるような演技ではないけれど、「からっぽ」というものが感じさせる爽快さ、さっそうさがある。脇役陣では、ふにゃふにゃした川崎敬三だとか、したたかでイヤらしい山茶花究なんかが印象に残った。

 出てくる部屋どこにも置かれたあまりにごちゃごちゃした小物類、室内の色彩センスの悪さ、不安定にふらふら動きまわるカメラとか、「どうでしょね」というところも多かった。ただ、映画のなかで部屋のステレオから聞こえてくる「東京ドドンパ娘」や、トランジスタラジオから流れる「上を向いて歩こう」などの音楽に、ぐんとこころを惹かれてしまった。


 

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■ 2012-07-06(Fri)

 しごとは非番で休み。あした出勤すると、あさってからは二連休。こんないそがしいときにこれだけ休むとひんしゅくモノということなのか、その二連休のあとは七日連続の出勤というスケジュールにされている。ひどい。これは労働基準法違反なのではないのかと思ってしまったりする。
 せっかくの休日だから本をいっぱい読んで、ヴィデオもいっぱい観ようと思っていたのに、ベッドに横になったままニェネントをつかまえてかまったり、あさのTVをみたりしているうちに、いつのまにかひるがすぎてしまった。散歩がてら買い物にでも行きますかという感じで、図書館の方をまわってアルコール量販店に行ってみる。またスコッチウイスキー(CLAYMORE)が安かったのを買う。安いんだから二、三本まとめて買っておこうかとも思ったけれど、帰り道にウイスキー瓶を何本もぶら下げて歩くというイメージがいやで、一本だけにした。まえに買った安売りのざるラーメンも、ふた袋買う。ゆっくり歩いて帰って、所要じかん約四十分。帰宅してからヴィデオを観る。

 夕方のニュースをみていると、原発反対デモの様子が報道されていた。さいきんはまいしゅう金曜日に定期的に行なわれているらしい。首相官邸まえに二万人以上の人たちがあつまっている。大飯原発が再稼働されたこともあり、抗議の声は大きくなっているだろう。こういう報道でまた金曜日のデモへの参加者も増えるのかもしれない。わたしも行こうかしらん。

 夕食はきのう買ったニラももやしも残っているので、きょうはふつうの鶏肉といっしょに炒めてみた。やっぱレバーでないとイマイチなのだなあと、納得(レバーを使ったきのうもイマイチだったのだけれども)。
 夕食後はTVでまずらしくプロ野球の巨人阪神戦なんつうのをやっていたのでチャンネルを合わせると、もうすでに阪神は大差をつけられてボロ負け状態だった。ことしの阪神はぜんぜんダメ。TVを消してベッドでレイ・デイヴィスの「エックス・レイ」を読みはじめたけれど、すぐに眠くなってしまった。


 

[]「行きずりの街」(2010) 阪本順治:監督 「行きずりの街」(2010)  阪本順治:監督を含むブックマーク

 小西真奈美が出てるし、ちょこちょこと興味ある役者も出ているし、いいときはいい阪本順治監督なんで、ちょっと観てみた。ラヴストーリーかと思っていたけれど、意外とサスペンス。

 冒頭からなんというか、やっぱり阪本順治監督は画面の組みたてがうまいなあとか思いながら観ていたけれど、なんだよ、出てくる登場人物は誰もが過去に主人公と深いかかわりがあるんじゃないか、いったいどこが「行きずり」なのよ、って感じで鼻白んでくるというか、とちゅうでストーリーなんかどうでもよくなってしまった。ラストにはまるで呼ばれたように小西真奈美も現場にやってくるし、なんてしあわせな主人公でしょうね。さいごの方の教室での暴力シーンは情況説明がたりないというか、失敗していると思う。あれ? どうなってるの? という感じだった。それに、映画のなかで二回出てくる夜の月のショット、時制も場所もまるでちがうのにあきらかに同じときに撮ったショットだったので(月齢などまるで同じ)、ちょっとあきれた。時も場所も離れても、見えるのは同じ月というつもりなんだろうけれど、時も場所も離れていないとしかみえないのである。ある意味ファンタスティックなホラー映画での月だったらそういうことは気にしないのだけれども、これって、いちおうシリアスなドラマでしょ。

 和服姿もみせてくれる小西真奈美はもちろんいいんだけど、やっぱ「東京公園」でみせてくれたすばらしい「女優」の顔は、まだちょっとみえないか。それよりも、なんだかぽわぁっとふわふわした感じの谷村美月が、とってもおかしかった。


 

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■ 2012-07-05(Thu)

 きょうもニェネントはちょっと発情期のつづきだけれども、ニェネントが二歳になってからずっと、ニェネントのことがかわいくってしょうがない。自分でも、そこまでニェネントのことをかわいいと思う自分のことがちょっとおかしいんじゃないかと思うぐらい、なのである。これもきっと老化のあらわれで、じいややばあやが孫のことを異様にかわいがるのとおんなじ神経なのかもしれん。
 それでこのごろはそのかわいいニェネントに好物のカニカマをたくさんあげる。こういうのもじじばば心理だろう。冷蔵庫を開けてカニカマを出し、わざとガサガサと音を立てるようにして、「ニェネント〜!」って呼ぶと、ニェネントは一心に走ってやってきて、「早くちょうだいよ」と、わたしのことを見上げてくる。これがまたかわいいのである。それで、いつもはそのカニカマをほぐして皿に出してあげていたのを、めんどいやと、そのまま皿に出した。もちろんニェネントは一気にたべてしまう。
 ‥‥しばらくして、ニェネントが「ゲェ、ゲェ」と声を出し、食べたものを吐こうとしている。さっき食べたカニカマがまるごと、かたまりのまま口から吐き出された。そうか、やはりほぐしてあげなくっちゃ、あのままでは個体が大きすぎて、ネコにはよろしくないということなんだろう。

 つくり置いてあったシチューがとうとうなくなった。きょうはスーパーでニラが安かったので、久々にレバニラ炒めなどをつくってみた。単に「焼肉のたれ」で炒めるだけの、かんたんメニュー。あんまりおいしくなかった。

 夕方のニュースをみると、トップニュースは上野のパンダに赤ちゃんが誕生したというものだった。予定よりかなり早いし、そもそも妊娠しているかどうかも不確かだったんだから、ちょっとおどろいた。パンダの赤ちゃんというのはめっちゃ小さくって、人間とかで考えると妊娠五ヶ月とか六ヶ月で早産してくるようなものだろうから、野性の状態でもあれがちゃんと育つというのが不思議な気がする。
 パンダっつうのはずいぶんむかしにいちど見に行ったような記憶があるけれど、なんか、また見てみたい。動物園もしばらく行っていないので、そのうちに行ってみようか。赤ちゃんパンダが公開されるまえならまだそんなに混みあわないだろう。


 

[]「スタンダード・オペレーティング・プロシージャー アブグレイブ刑務所の証言」(2008) エロール・モリス:監督 「スタンダード・オペレーティング・プロシージャー アブグレイブ刑務所の証言」(2008)  エロール・モリス:監督を含むブックマーク

 このドキュメンタリーでもって、おととい観た「マイティ・ハート/愛と絆」とバランスが取れるのかもしれない。イラク戦争時にアメリカ軍が、捕虜収容所で捕虜たちに、「サダム・フセインのいどころをつきとめる」という口実でどんな虐待行為を行なっていたのかをあきらかにする。

 この事件自体は2004年に、多くの証拠写真をともなった内部告発によって表ざたになり、軍法会議によって七名の軍人が有罪となる。このドキュメンタリーは、そのときに公表されたショッキングな写真の数々と、有罪になった軍人(このドキュメンタリー製作時には二名をのぞいてすでに釈放されていて、その釈放された軍人のほとんどがこのドキュメンタリーに出演している)の証言、そして多くはないイメージ映像によってつくられている。

 まずたんじゅんな感想をいえば、軍務に服しているときに、このような軍務からはずれた写真を(ここまで大量に)撮るという行為じたいが理解できないというか、アホじゃんか、と思うわけだけれども、そういうアホの存在のおかげで、中東でアメリカ軍がいったいどんな残虐行為を行なっているかがあらわになったわけだから、まあバカとハサミは使いようというか、アホにもまた存在意義はあったわけである。強調しておきたいのは、彼ら、彼女らが大量の証拠写真を残してしまうほどに「アホ」であったことと、この軍隊による残虐行為とは、因果関係はないわけで、つまりは証拠写真を残す愚行をやってしまうような存在だったからこのような残虐行為をやってしまった、ということではないのである。このドキュメンタリーで語られた残虐行為以外にも、もっともっと多くのそのような行為が行なわれていたわけであり、この作品では被害者はすべてイラク人男性なのだけれども、そうではない、イラク人女性が被害者になったケースもまた多かったようである(Wikipedia 「アブグレイブ刑務所による捕虜虐待」の項より)。また、この内部告発以降、多くの部隊でそのような虐待の証拠の隠滅が大規模に行なわれたようでもある。

 また別の感想。インタビューに答えた(元)軍人のうち三人は女性軍人だったけれど、彼女たちに共通しているのは、軍務に服するというパブリックな行為と、パーソナルな感情からくる行動との区分がついていない、という感じである。また、男性軍人たちがそのような彼女たちの意識を利用して、残虐行為に参加させているわけでもある。フェミニズム意識をくすぐったり、仲間意識に訴えたり、そのあたりは悪質でもある。男だけで行なった残虐行為はもっとダイレクトに暴力的で、じっさいに捕虜を死にいたらしめたりもするわけだけれども、語弊があるかもしれないけれど、このあたりはぎゃくに理解しやすいところがある。軍隊のなかで、男性軍人が女性軍人の私的感情を利用して「ある逸脱した行為」に走らせる。この構造が、ひどい。あまりに、ひどい。その背後に、つまりはラムズフェルドみたいなやつの存在があると描くこの作品、マイケル・ムーアの作品などのように「正義はここにある」などと大上段に切り出さないだけにわたしなどは好感を持つし、説得力もあったのではないかと思う。

 カメラはインタビューに答える人たちを正面から見据えるけれど、こまかい編集を入れて画像のフレームを変化させる。そして、ちょこちょこと挿入されるスローモーションによるイメージ映像などをあわせて観ていると、この演出家は映像的な面にも意欲的な人物なのだろうと想像できる。音楽がダニー・エルフマンだった。

※7月8日附記:軍人としてのパブリックな意識とパーソナルな感情について、きのうのよる考えていて、じぶんがここに書いたことが書きたりないように思えた。つまり、たとえ軍人として任務にあたっているときでも、私的感情を封印して行動することはできないだろう。もしもそれができたらそれは兵隊ロボットで、それは上層部の考える軍人としては理想的だろうけれども、人間というのはそういうものではない。わたしはこのドキュメンタリーに登場した軍人たちが、「軍務に服するというパブリックな行為と、パーソナルな感情からくる行動との区分がついていない」と書いたけれど、パーソナルな感情をいだくことが過誤だったというのではなく、あくまでも、そのパーソナルな感情が、他者によってミスリードされたことこそがもんだいなのではないかと思う。そして、(わたしはわからないが)軍隊というところは、そのように個々の軍人のパーソナルな感情を都合よくあやつるというところにこそ、その恐ろしさがあるのではないのかと思うようになった。軍隊というところはそのようなことをこそふだんから、兵士たちに行なっているところではないのか。この事件はそのあたりの「あやつり行為」がいささかなりとも脱線し、結果としてこのように露出したもの、といえるのかもしれない。


 

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■ 2012-07-04(Wed)

 きのうもちょっと書いたことだけれども、古本チェーン店の安売りで買い込みすぎてしまった「昭和文学全集」、これからは月に一冊ずつのペースで読み捨てていくぞと決意していたのだけれども、どうもさいしょに選んだ一冊がわるかったというか、まったく読み進めることができないでとちゅう放棄、放置してあった。これではいけない、ここで挫折してしまったらこれからの人生はどうなるのだという気もちで、放り出してあった本をまた拡げてみた。とにかくいけないのは福田恆存とか花田清輝であって、ここをすぎればなんとかなるのではないかと、花田清輝の残っていたいくつかの作品をすっとばして、江藤淳を読むことにした。そのさいしょが夏目漱石論で、まあ福田恆存とか花田清輝みたいに、そもそもいってることがわかりませんというのではないのだけれども、ここで書かれている後期の夏目漱石の作品をわたしはほとんど読んでいないし、書いている江藤淳もまた、読み手もそれらの俎上にのせられた作品を読んでいるだろうという前提で書いているもんだから、これまたわからない。それでこいつもすっとばして、つぎの「成熟と喪失」を読みはじめた。‥‥これが、ようやく、面白い。冒頭から、「これなら読めるだろう」というよりも、ちゃんとふつうに興味をもって読み進められる。ほんとうに、ようやくだよ、という感じである。さあ、ちゃんと読もう。

 とにかく七月になってから、しごとが異常にいそがしい。去年の同時期にくらべてしごと量がふえたというわけではないのだけれども、いっしょにしごとする同僚の数が約半分に減っているせいである。会社のお偉方が何人も手助けに参じて来て下さっているので助かるが、それでもやはりハードである。帰宅してもぐったりして、TVをみていてそのままに寝てしまうことが多い。それで、かまってもらえないニェネントが、リヴィングでなき叫んでいる。なんとかヴィデオを一本観て、よるにはニェネントにカニカマのプレゼント。そう、さいきんのわたしの食生活は、あさはいつものホットサンド、ひるはざるラーメン、よるは大量につくり置きしてあるビーフシチューというメニューのくりかえし、である。


 

[]「荒野の決闘」(1946) ジョン・フォード:監督 「荒野の決闘」(1946)  ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 いやあ、すごい作品というのはやはりすごいもので、この歳になってはじめて、ジョン・フォードの偉大さを実感した。すっごい作品である。

 まず、ジョン・フォードにとって、西部の風景というのはとにかくは「地平線」からはじまる。画面のなかに地平線をどういうふうに引っぱるのか、そのなかでどのようにドラマを動かすのか、ということがあり、その意識が「町」の描き方につながる。さらにこれが、屋内をどのように撮るかということになる。バーのなかのみごとなカウンターの奥行きの利用のしかたには、ほんとうに観ていてしびれてしまうのである。

 この作品を観るのはこれがはじめてというわけではなく、リンダ・ダーネルがそのすがたをあらわしただけで、その役名「チワワ」というのが、わたしのあたまをよぎったりする。簡潔な描写ながらもものすごく重層的なストーリー展開のなかで、ワィアット・アープとクラントン一家との対決、決闘という主題のかげに、ドク・ホリディという人物の造型、チワワとのくされ縁と、そのホリディを追って町に来るクレメンタインとアープとの出会い、ワイアット・アープのこころのゆらぎなどがしっかりと描かれる。そこに、ヘンリー・フォンダの演じるワィアット・アープの、英雄的なカッコよさと人間臭さがくっきりと浮き彫りになるのね。

 ヘンリー・フォンダという役者さんは、セルジオ・レオーネの「ウエスタン」を観たとき、「なんて拳銃を持つのがサマになる役者さんだろう」と感心したんだけれども、やはりこの作品でもそのあたりがたっぷりと堪能できる。ガンベルトをしめているときの両腕をちょっと開き気味にした歩き方、それに、拳銃の把手をちょっと不自然に、逆に持ってかまえるときなど、やはり、なんてカッコいいんだろうと思ってしまう。

 ラストの、モニュメント・ヴァレーみたいな奇観を持つ山の方角へとひたすらに伸びる一本道、これって、ほんとうに現実にこんな風景が存在するのか、それとも、遠景の山をふくめて、この映画のためにジョン・フォードがつくらせたものなのか、わからなくなってしまうのである。


 

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■ 2012-07-03(Tue)

 たばこはダメよといわれていても、アルコール禁止令は出ていないわけで、もちろん飲み過ぎることは御法度ではあるけれど、たばこを喫うのを控えるぶん、アルコールの刺激は欲しいなあという感じがある。それだったらなんか重量感のあるアルコールがいいかなとかいう気もちで、さいきんはウィスキーをロックでたしなむのが習慣になった。これならばチビチビとなめるという感覚で、一気にがばがば飲んでしまうこともなく、結果として経済的だということもわかった。いまはアルコール量販店でバーゲンだったスコッチをたしなんでいるけれど、これがなくなったらなにか飲む銘柄を決めて、いつもそれをストックしておくようにしようかと思っている。なにがいいだろう。あまり高価なものもいかんし、安いものはやはりクオリティが足りない。

 「グロテスク」を読み終えて、昭和文学全集の方の読破計画は、出航したばかりなのにはやくも座礁したまま。せんじつ聴いたKinks のアルバムが耳にのこったので、そのリーダーのRay Davies の書いた「自伝的小説」がどこかにあったはずと探し、その「エックス・レイ」というのを見つけ出して読みはじめた。ジャーナリストになりたての若い主人公が、年老いてへんくつになったレイ・ディヴィスを訪れて、その過去を聞き出すという設定。つまりは若い主人公もまたレイ・ディヴィスの分身で、「自己との対話」という感じの本なのではないか。

 さいきんはいちにちにヴィデオを一本観るのがほとんど日課になっていて、きょうも一本観た。


 

[]「マイティ・ハート/愛と絆」(2007) マイケル・ウィンターボトム:監督 「マイティ・ハート/愛と絆」(2007)  マイケル・ウィンターボトム:監督を含むブックマーク

 アメリカでの同時多発テロ発生のあと、2002年のパキスタンのカラチを舞台に、取材中にテロ組織に誘拐されたウォール・ストリート・ジャーナル誌の実在の記者を救出しようとする人々の活動を、その誘拐された記者の妻の視点から描いた、ドキュメンタリー・タッチの作品。夫と同じくジャーナリストであり妊娠中だった妻をアンジェリーナ・ジョリーが演じているけれど、これはじっさいにベストセラーになった原作手記の著者であるその妻からの指名があったらしい。監督がマイケル・ウィンターボトムになったのは、プロデューサーであったブラッド・ピットの指名、ということ。ウィンターボトム監督はこのまえに「グアンタナモ、僕達が見た真実 」を撮ったりしているし、そのまえにも国際紛争をテーマにした作品をいくつか撮っているあたりからの指名になったんだろう。このあたりの作品をわたしは観ていないけど、ウィンターボトムはこのしばらくあと「キラー・インサイド・ミー 」を撮っていて、これはわたしの大好きな作品ではある。

 作品は記者を救出しようとするアメリカ側の視点にほぼ限定されているけれど、彼ら、彼女らがパキスタンのカラチという、つまりは反米意識の強い環境のなかで活動しているということが強調され、救出活動の困難さこそがこの作品の主題だという印象もある。また、救出側の国籍を越えたメンバーがまた、反パキスタンとみなされるという対立構造をも生んでいる。そんななかでこの作品としてクローズアップされるのは、主人公の気丈さではある。ウィンターボトム監督はあまり大騒ぎしないでというか、ただ「このようなことがあったのではないのか」という視点から、あくまでもひとつの事件の経緯として、淡々と演出している印象がある。どこに正義があるかとか、大上段に構えた演出ではないというのが、いかにもウィンターボトム監督らしくていい。

 ウィンターボトム監督といえば「音楽」をどうするか、っちゅうのがわたしなどの興味のひとつではあるのだけれども、さすがにドキュメンタリー・タッチのこの作品では既成の音楽は使われないな、などと思っていた。ところが、ラストの字幕テロップもはじまるというところになって、あっと驚く「In a Manner of Speaking」が流れはじめて、ほんとうにびっくりした。女性ヴォーカルで、つまりはオリジナルのTuxedomoon のヴァージョンではなかったけれど、それでもあなた、Tuxedomoon の楽曲ですよ。
 で、いったい誰がこの曲をカヴァーしたりしてるのよと調べると、これがNouvelle Vague というフランスのバンドで、なんとこの連中、80年代とかのパンクだとかニューウェイヴの楽曲を、いまになってボサノヴァ風にアレンジしてリリースしつづけているバンド、らしい。で、この「In a Manner of Speaking」は、彼らのファースト「Nouvelle Vague」の三曲めに入っているらしい。このアルバムがまたいやんなっちゃうというか、一曲めがJoy Division の「Love Will Tear Us Apart」だったり、Clash の「Guns of Brixton」、Public Image Ltd. の「This Is Not a Love Song」、そしてDead Kennedys や、なんとJosef K なんかまでカヴァーしている。しかも、このNouvelle Vague のセカンドアルバムのタイトルは「Bande a Part」と来ている。なんかこう、気分的に許せないっすね。こんなの聴いちゃいけません(いや、ちょっとは聴いてみたいけど)。
 ‥‥ウィンターボトム監督も、なにもこんなわけのわからないバンドのカヴァーなんか使うんじゃなくて、オリジナルのTuxedomoon のヴァージョンをこそ使って欲しかった。マイケル・ウィンターボトムなのに。

 オリジナルのTuxedomoon のアルバムについては、ちょうどしばらくまえにこの日記にも書いていた。ここ。


 

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■ 2012-07-02(Mon)

 このあいだ東京へ行ったときから、また喫煙の習慣がもどってしまっていて、なにが禁煙だよというところだけれども、どこかキリのいいところで、またぴったりとやめなければならない。そのくらいのことはできるつもりでいて、「禁煙なんて簡単だよ、わたしはもう幾度となくやっている」といったのは、たしかマーク・トゥエーンだったのではないかと記憶しているけれども、まあわたしにもそういう気もちはある。って、それではなんにもならないじゃないか。

 ニェネントがあいかわらずうるさくって、「ネコの発情期」を調べると年に数回しかないという記述で、まいつきのように発情期になるニェネントはちょっと異常なのか。部屋の電気をつけている時間がながいとなりやすい、みたいなことを書いてあるところもあるけれど、わたしゃいつも、夜の八時ごろには電気消して寝てるのよ。
 ネコの妊娠機能をとりあげてしまうというのが、なんだか不自然な行為に感じられて、そんなことをニェネントにしたくはないという気もちもあったし、もちろんわたしの経済的なもんだいもあって、ニェネントの不妊手術のことなど考えなかったんだけれども、どっちにせよニェネントは一生そういう性行為などしないですごすことになるんだから、発情期などという状態でもんもんとさせてしまう方が、ニェネントにはずっとかわいそうなことなのかもしれない、などと思うようになった。
 液晶TVも買ったし、つぎはパソコンか、などと考えていたけれども、ニェネントの不妊手術のことを、さきに考えてあげなくっちゃいけないのかもしれない。

 「グロテスク」をようやく読みおわり、ヴィデオを一本観た。


 

[]「グロテスク」桐野夏生:著 「グロテスク」桐野夏生:著を含むブックマーク

 う〜ん、登場人物の他者へ向ける憎悪とかの強烈さは、ちょっとだけ「嵐が丘」を思い出したりもしたのだけれども、どうもここで登場人物を動かしている原理は、「嵐が丘」ならば「情念」といえるようなところが、この「グロテスク」ではいささかなりと「観念」なのではないか、というあたりが不満足といえば不満足。文章がもうすでに、「ここはこう読み取るように」というような著者の指示にそって書かれているようでもあり、幾重にも読み取れるような重層さ、多義性はここにはないだろう。ただ、それぞれの章の書き手、語り手が、はたして「ほんとうのこと」をいっているのかどうか、というあたりにこの作品の面白さがあるのかもしれない。この主題からしてもうちょっと、読者への憎悪とか悪意があってもよかったような気もする。


 

[]「わが恋は燃えぬ」(1949) 溝口健二:監督 「わが恋は燃えぬ」(1949)  溝口健二:監督を含むブックマーク

 なんと、原案が野田高梧で、脚本は依田義賢と新藤兼人が共同執筆という、強烈なメンツによる作品。明治中期を舞台に、政治にめざめた女性(田中絹代)が、革新を説く男性の政治家の保守的な女性観に、連続して裏切られちゃうというようなおはなしで、ちゃんとモデルがあるらしいけれど、しょうじき展開が図式的というか、あんまり面白いストーリーというわけでもなかった。

 冒頭に、「本映画は日本の永い封建家族制度の伝統の中から、自由を求めてぬけ出そうとする女性の苦悶を描き、真に正しい女人解放の理念を広く若き世代に訴えんとするものである」っつう字幕が出てきて、やはり公開が1949年だし、また溝口健二自身もこういうものを描きたかったらしい時期でもあり、ここでもなんとなく、女性たちに「申しわけなかった、オレが悪いんだ」とあたまを下げる溝口健二監督のすがたがみえるようである。

 ただやっぱ映画技術としてはものすごい、見どころのたくさんある作品ではあって、このころの溝口作品らしく、ストーリー展開としてはイマイチな気がしても映画技法的には超一級品、というスタンスの作品のとして受けとめられた。あとは美術(水谷浩)の強烈なすばらしさも、この作品では書いておかなくっちゃいけないだろう。「これ、日本じゃないでしょ」みたいな、女囚たちの放り込まれているだだっ広い監獄だとか、監禁虐待される娼婦が火をつける置き部屋の炎とか。風俗考証は甲斐庄楠音が担当している。

 ラストの、その元娼婦をめかけにして囲う男性(もちろん政治家)を田中絹代がたずね、男に別れを告げて去っていく、室内での長回しはこれがなかなか強烈で、いやあもう、溝口健二監督にはこういう超絶技があるもんだから、堪能できるのである。撮影はまだ宮川一夫ではなく、「元禄忠臣蔵」も撮った杉山公平という人。


 

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■ 2012-07-01(Sun)

 二〇一二年もはんぶんが過ぎてしまい、きょうから七月になった。しごとのうえではお中元のシーズンに突入したということでもあり、めっちゃいそがしくなった。しごと量はきゅうに倍以上になり(わたしの担当している冷蔵品の量は、下手したら十倍にもなる)、てんてこまいである。しごとを終えるとちょっとぐったり。帰宅してまたベッドで寝てしまう。
 発情期をむかえたニェネントがやはりうるさく、これではあんまり「かわいい、かわいい」ともいってられない感じでもある。それでも、わたしがニェネントの大好物だろうということに勝手に決めたカニカマをほぐして、ニェネントのお皿に出してあげる。ニェネント、飛びつく。これからは、カニカマはいつもストックしておかなくちゃいけないな。

 きのう買ったKinks の「Everybody's in Show-Biz」を、じっくり聴き、ヴィデオを一本観た。


 

[]「この世はすべてショー・ビジネス(Everybody's in Show-Biz)」(1972) キンクス(Kinks) 「この世はすべてショー・ビジネス(Everybody's in Show-Biz)」(1972)  キンクス(Kinks)を含むブックマーク

この世はすべてショービジネス+2

 Wikipedia でKinks のアルバムをざあっとみていくと、この前作の「Muswell Hillbillies」が、Kinks の「黄金時代」のさいごの作品とみなされることが多いらしい。前作からRCAに移籍して、これがそのRCAでの第二作になるけれども、RCA時代のKinks というかRay Davies というのはほんとうに好き勝手、自分のやりたいことをとことんやってしまったという印象がある。
 じっさいにはそれなりにあつれきはあったのだろうけれども、しょうじきそれほどセールス面でレコード会社の期待に答えられたわけでもないだろうに、よくぞここまでニッチな世界に耽溺できたものだと感心する。わたしがいっているのはこの「Everybody's in Show-Biz」のあとにリリースされた「Preservation: Act 1」から「Schoolboys in Disgrace」までの作品群のことで、じつはわたしもこのあたりのアルバムはそれほどしっかりと聴きこんでいるわけではない。そういう意味で、わたしにとっては、そういうKinks がニッチな世界へ行ってしまうまえのさいごの作品が、この「Everybody's in Show-Biz」、という感じではある。つまり、わたしにとってのKinks の「黄金時代」のさいごは、このアルバムになる。

 二枚組で一枚はスタジオ録音で一枚はライヴ、というとPentangle の「Sweet Child」とおんなじだね、という感じだけれども、Pentangle がスタジオでやってもライヴでもそりゃあ超絶技巧だよ、という雰囲気だったのにくらべると、ここでのKinks はスタジオもライヴもルースですよ、とでもいう感じはある。なんというか、スタジオ盤で提出した「Show-Biz」という世界のあり方を、ライヴで実証しているというところがあって、いいかえれば、スタジオでの「オレはたしかにロック・ミュージシャンだけど、べつにとくべつな存在じゃない、あんたらとおなじ普通の人間だよ」というテーマから、ライヴでは「これをやってるのはスタジオ盤で唄ってた<普通の人間>なんだよ、ということで聴いてよね」という感じ。それで、そういう<普通の人間>という立ち位置から、ショービズの世界へのあこがれも唄うし、それは「ステージに立っているオレって、<普通の人間>なんだけれども、ショービズの世界にいるわけだね」というアンビヴァレントな視点でもある。オレが<普通の人間>でこうやってスター然と舞台に立っているなら、誰だってスターでありえるじゃないか、と。

 ホーンセクションの音がかなり前面に出ているんだけれども、なんというか、ルースでスカスカの音である。ここはライヴ盤の方での音にスタジオ盤も合わせてライヴっぽくやっている感じでもあって、ルースだけれども臨場感というのか、生々しさはある。そんななかにぴょこ〜んと、いやに完成度の高い名曲「Celluloid Heroes」がまぎれこんでいるところが面白い。ここで唄われる銀幕スターへのあこがれが、ライヴ盤で唄われる「Mr. Wonderful」だとか「Baby Face」などのポピュラーナンバーへとつながるだろう。ライヴ盤の構成は、じっさいに会場でライヴを体験しているという意味での臨場感など求めているわけではなく、曲が終ったあとの観客の拍手の音などカットされていたりするし、「Lola」などのように、曲の一部しか収録していなかったりする。これはもちろんある意味で演劇性を求めたRay Davies の意向の反映だろうけれども、よくもまあこういうことをやらせてもらえたものだと、Ray Davies の幸運さということもちょっと感じてしまう。
 まさにこのあとRay Davies は、「Preservation: Act 1」にはじまるコンセプト・アルバムの連作に突入するわけで、まあわたしもついていけません、ということになってしまう。それでRCAからArista へ移籍する1977年以降は、トルーマン・カポーティがRolling Stones の音を評していったような、「ポラロイドカメラを一晩じゅう写しつづけるだけのような」楽曲を寄せ集めた、ふつうのロックアルバムばかりをつくるようになってしまう。わたしはそう思う。

 だからやはり先に書いたように、わたしにとってのKinks のラストは、この「Everybody's in Show-Biz」である。


 

[]「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世記」(1991) ジョージ・A・ロメロ:脚本 トム・サヴィーニ:監督 「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世記」(1991)  ジョージ・A・ロメロ:脚本 トム・サヴィーニ:監督を含むブックマーク

 1968年のジョージ・A・ロメロの監督デビュー作を、そのジョージ・A・ロメロとメナヘム・ゴーランとの製作でリメイクしたもの。監督のトム・サヴィーニは、特殊メイクアーティストとして著名な人物。

 とにかくオリジナルは「ゾンビ映画」というジャンルをも確立させた歴史的作品で、やはりそっちを観てみたい気もちもある。このリメイク版の展開はオリジナルに忠実らしいけど、ヒロインの造型と結末には変化があるらしい。せんじつ観た「ゾンビ」にくらべると、やはりたてこもるのが一般民家ということもあって、閉そく感が強い。観ていての恐怖感はやはりこちらの方が強いだろうか。ここでもゾンビ以上の障害はいっしょに避難している人間だったりする。ラストにヒロインはたてこもった民家から脱出し、外にいた人たちに助けられるのだけれども、この作品のラストでは人類はゾンビに対しての圧倒的優位をとりもどしているようにみえ、ゾンビらに対しておぞましい蛮行を延々とくり拡げる。ほとんどリンチでありホロコーストであるシーンの連続で、つまりは人間とは何と醜いことよ、というメッセージを強く感じとることにもなる(このメッセージは、せんじつ観た「ゾンビ」でもかいま見られたような‥‥)。

 

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