ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2012-09-30(Sun)

 大きな台風が日本に接近していて、こんやから明朝にかけて、このあたりも通過して行くらしい。台風のスピードが早いので、もしも暴風雨になってもじかんとしてはあまり長くはつづかないだろうと予測できる。きょうはしごとは休みだけれども、あしたはしごと。そのしごとのじかんには台風には遠くに行ってしまっていてほしい。天気予報をみるかぎりではそうなりそうである。

 夕方になっても台風はまだ東海地方の西側の海上にあるので、このあたりにはまるで影響はない。スーパーへ買い物に行き、半額になっている栗のパックを買った。かなり大きなパックで、ほとんど一キロぐらいありそうな感覚だけれども、二百円でおつりがくる値段。このあたりも栗の産地で、まいとしこの時期になるとかならず(たいてい一度だけ)栗が劇安になる。おととし、さきおととしもこの時期にそういう安い栗を買い、栗ごはんをいっぱいつくったものだった。きょねんはざんねんながら、そういう「安い栗」を売っているときに出くわさなかったので、恒例の栗ごはんはつくれなかった。ことしは二年ぶりの栗ごはんになるだろう。
 しかしパックの栗はどちらかというと小粒で、これは皮をむく作業にじかんをいっぱいとられそうである。皮をむいていれば指先はいたくなるし、労力をかんがえると「安い」などといってられないところはあるのだけれども、年にいちどぐらい、そんな原始的な努力をやってみることもだいじだろう。

 スーパーからの帰り道、空がいつのまにか暗くなっていて、ぽつぽつと雨が降りはじめた。ついに台風が近づいてきた。栗ごはんをつくるのはあした以降にして、きょうはブロッコリーとじゃがいもをゆでただけのかんたんなおかずにした。ブロッコリーを一個まるまる使ったのでたくさんつくりすぎてしまい、とうぜんあしたもこのおかずがつづくことになる。

 ヴィデオを一本観て、また吉本隆明を読んだ。


 

[]「不意打ち」(1964) ウォルター・E・グローマン:監督 「不意打ち」(1964)  ウォルター・E・グローマン:監督を含むブックマーク

 WOWOWでずいぶんまえに「トラウマ映画館」とかいうタイトルで放映されていたもの。録画してあったのをいまごろ観た。この邦題ではどんな作品なのかまるでわからないけれども、原題は「Lady In a Cage」で、富豪の中年女性が腰をいためていて、二階との行き来にその「Cage」のようなエレヴェーターを使っている。壁のなかに埋め込まれたいわゆるエレヴェーターではなく、つまりあとからひつようになって設置されたものだから、一階と二階との吹き抜け空間にむき出しで設置されている。で、その中年女性が家にひとりのときにそのエレヴェーターに乗っていると、そとの配線のショートで宙ぶらりん状態でストップしてしまう。彼女は外にきこえる非常ベルを鳴らすのだけれども、それでやってくるのはろくでもないヤツらばっかし、ってな展開。アレです。「時計じかけのオレンジ」だとか、「ファニーゲーム」の源流。ちょっと早すぎた作品というか、もうあまりにおぞましいので、当時は上映がストップされたりもしたし、イギリスでは四十年近くも(つまり今世紀になるまで)ヴィデオの発売すらされなかったらしい。

 エレヴェーターで宙吊りになってしまう女性をオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じていて、その家で乱暴狼藉をつくす、マルコム・マクダウェルみたいな青年を、若き日のジェームズ・カーンが演じている。監督のウォルター・E・グローマンという人はおもにTVの方で活躍していた人らしく、劇場映画作品というのはかぞえるほどしか撮ってはいない。彼がこの翌年に撮った「A Rage to Live」というのも、スザンヌ・プレシェット主演でベン・ギャザラ共演、性欲に溺れて破滅して行く人妻のおはなしっぽくて面白そう。いぜん観た「恐怖の足跡」なんかもそうだけれど、この時代のこういうあまり知られていない監督の作品には強烈なものが多い気がする。

 この作品で面白いのは、いきなりそのジェームズ・カーンらの無軌道な若者三人組というのが来襲するのではなく、まずはいわゆるバム(Bum)というのか、アル中らしくてあたまのおかしそうな、それでも「悔い改めよ!」と繰り返すのは当時のアメリカの何かの宗派に属しているのか、そういうわけわからん浮浪者がさいしょに彼女の家にやってきて、それで「わお! ここにあるものはいただきほうだいだ」となり、これをまたわけわからん知り合いの娼婦に教えて、いっしょにその豪邸に行く。これをつけていくのがジェームズ・カーンらで、じつはこれは彼らの襲撃では終らず、もういっちょうわてのヤツらがラストにはやってくる。で、つまりはマトモなヤツらはさいごまでやってこないし、ラストでも「誰も気がつかない」という展開がしばらくはつづく。こういう弱さを見せるおいしいターゲットに、ろくでもないヤツらの触手は敏感だけれども、ふつうに生活している人たちにはそういう「SOS」がきこえることはない、というのはやはりひとつの真理だろう。というか、「SOS」がそとにとどかないというのは、いまでも映画の表現での大きなポイントではありつづけているだろう。あの「エイリアン」のキャッチコピーは「In Space, No One Can Hear You Scream.」というものだったけれど、この地上でも、あなたの悲鳴は聴こえないのである。

 さて、映画ではじつはその被害者の女性もまた、その息子(どうやら自殺したらしい)を溺愛して彼の自立をじゃましていたことに、ようやくそのラストで彼女も気づき、「わたしもモンスターだわ!」(字幕=たしか寺田次郎さん=はこうは訳していなかったけれども)と独白するわけである。つまり彼女もまた、その息子の悲鳴を聴いてはいなかったわけである。

 ‥‥いがいとエグい描写をしつっこくつづける演出は、それこそ「時計じかけのオレンジ」や「ファニーゲーム」の先駆者たる位置をいまも明確にして、なかなかのものである。感心した。オリヴィア・デ・ハヴィランドはこの時期にロバート・アルドリッチ監督のホラー、「ふるえて眠れ」などという作品にも出演している。そのロバート・アルドリッチは、「ふるえて眠れ」のまえにあの「何がジェーンに起こったか?」を、ベティ・ディヴィスとジョーン・クロフォードを撮っている。で、この「不意打ち」は、当初はそのジョーン・クロフォードの主演で企画されていたらしい。それが「何がジェーンに起こったか?」にジョーン・クロフォードが出演するので、こっちの役はオリヴィア・デ・ハヴィランドにまわってきたらしい。これが、次のその「ふるえて眠れ」でも、またもやジョーン・クロフォードの代役としてオリヴィア・デ・ハヴィランドの出演ということになったらしい。なんというかこの時期、キャリアのある大女優がそういった「ホラー」ものに出演するという、ブームがあったようでもある。


 

[]「転向論」吉本隆明:著 「転向論」吉本隆明:著を含むブックマーク

 これのまえに「戦後文学は何処へ行ったか」という小文も読んだのだけれども、わたしは「戦後文学」がどこへ行ってしまってもいまさら興味もないので、読んでも「ふうん」というほどの感慨もなかった。って、そもそもその小文で紹介される作品を、わたしはほとんどなにひとつ読んでなかったし。

 で、この「転向論」。ここで俎上にのせられているのはおもに、戦中戦後の共産党周辺での「転向」もんだいなのだけれども、ここで吉本氏がもんだいにしているのは、その官憲の圧迫に屈して「主義」を捨てた側だけに「転向」のもんだいがあるのではなく、屈せずに「党」を維持した幹部連中の、<出鱈目(でたらめ)きわまる原則的サイクルを廻転させるだけで、少しも、現実的な危機の構造にふれて思想の展開を検証しようとする意欲をもたない>連中もまた、「転向」という回路で考えなくてはならないということ。こういうことをしっかりと発言する吉本氏はいい。わたしなどでもいつも、政治の次元ではないにしても、そういう「転向」というもんだいの前面に立たされている、だろうと思う。「転向」とは何か。現代に無縁のキーワードではない、ということを教わった。


 

[]二○一二年九月のおさらい 二○一二年九月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●MITAKA ”Next” Selection 13th マームとジプシー「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」藤田貴大:作・演出 @三鷹市芸術文化センター星のホール
●十六夜 吉田町スタジオ オープニング公演 イデビアン・クルー「涙目コーデュロイ」井手茂太:振付・演出 @関内・十六夜 吉田町スタジオ

映画:
●「プロメテウス」リドリー・スコット:監督
●「Virginia/ヴァージニア」フランシス・フォード・コッポラ:監督

読書:
●「日本文学と「私」」江藤淳:著
●「短編五芒星」舞城王太郎:著
●「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著 栩木玲子+佐藤良明:訳
●「マチウ書試論 -反逆の倫理-」吉本隆明:著
●「日本のナショナリズム」吉本隆明:著
●「転向論」吉本隆明:著

DVD/ヴィデオ:
●「ウィンチェスター銃’73」(1950) アンソニー・マン:監督
●「波止場」(1954) エリア・カザン:監督
●「悪の花園」(1954) ヘンリー・ハサウェイ:監督
●「理由なき反抗」(1955) ニコラス・レイ:監督
●「西部の人」(1958) アンソニー・マン:監督
●「あなただけ今晩は」(1963) ビリー・ワイルダー:監督
●「ダンケルク」(1964) アンリ・ヴェルヌイユ:監督
●「不意打ち」(1964) ウォルター・E・グローマン:監督
●「質屋」(1964) シドニー・ルメット:監督
●「ミーン・ストリート」(1973) マーティン・スコセッシ:監督
●「カサンドラ・クロス」(1976) ジョルジュ・パン・コスマトス:監督
●「ロッキー」(1976) ジョン・G・アヴィルドセン:監督
●「オードリー・ローズ」(1977) ロバート・ワイズ:監督
●「エイリアン」(1979) リドリー・スコット:監督
●「コットンクラブ」(1984) フランシス・フォード・コッポラ:監督
●「戦慄の絆」(1988) デヴィッド・クローネンバーグ:監督
●「プレイグ」(1992) アルベール・カミュ:原作 ルイス・プエンソ:監督
●「ルームメイト」(1992) バーベット・シュローダー:監督
●「ワイルドシングス」(1998) ジョン・マクノートン:監督
●「ショーン・オブ・ザ・デッド」(2004) エドガー・ライト:監督
●「ウディ・アレンの 夢と犯罪」(2007) ウディ・アレン:監督
●「ブーリン家の姉妹」(2008) ジャスティン・チャドウィック:監督
●「血の伯爵夫人」(2009) ジュリー・デルピー:監督・脚本・製作・音楽・主演
●「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」(2009) マルコ・ベロッキオ:監督
●「サバイバル・オブ・ザ・デッド」(2009) ジョージ・A・ロメロ:監督
●「インビクタス/負けざる者たち」(2009) クリント・イーストウッド:監督
●「モールス」(2010) マット・リーヴス:監督
●「インセプション」(2010) クリストファー・ノーラン:監督
●「忠臣蔵 天の巻・地の巻」(1938) マキノ雅弘(天の巻)・池田富保(地の巻):監督
●「女性の勝利」(1946) 溝口健二:監督
●「銀座化粧」(1951) 成瀬巳喜男:監督
●「絶海の裸女」(1958) 野村浩将:監督
●「にっぽん昆虫記」(1963) 今村昌平:監督
●「日本列島」(1965) 熊井啓:監督
●「紀ノ川」(1966) 有吉佐和子:原作 中村登:監督
●「肉弾」(1968) 岡本喜八:監督
●「反逆のメロディー」(1970) 澤田幸弘:監督
●「狂った果実」(1981) 根岸吉太郎:監督
●「自殺サークル」(2002) 園子温:脚本・監督
●「百万円と苦虫女」(2008) タナダユキ:監督
●「私は猫ストーカー」(2009) 鈴木卓爾:監督
●「テヅカ TeZukA」シディ・ラルビ・シェルカウイ:振付

 

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■ 2012-09-29(Sat)

 「さいたま芸術劇場」からの案内メールで、十一月の「バットシェバ舞踊団」公演の案内が来ていて、この公演のことは知っていて、もう九月のはじめからチケットも発売されていることもわかっていたんだけれども、その十一月の予定がまだ立たないこともあって、チケットは買わないでいた。その公演のころにはわたし的にはとくに予定もありませんよ、ということがちょうどわかったこともあり、観に行きたい公演でもあったので、ネットでチケット購入しておこうということにした。

 会場の「さいたま芸術劇場」ではたいていS席とA席のチケットがあり、A席は二階席と一階の周辺部分の席ということになるのだけれども、こと一階席にかんしては、S席とA席との差異というものはチケット価格の差異ほどに大きくはない。ことによるとA席の方が、それなりに舞台にも近いところから会場の雰囲気がながめわたせて、なんかいいじゃん、なんてことになったりもして、ここでの公演はいつもまずはA席が先に売り切れる。わたしはそう思っている。だからA席が空いていればA席のチケットを買う。それできょう、そのチケット購入サイトをみると、まだA席がいっぱい残っていた。もう売り出されてから一ヶ月たつのに、という感じである。へえ、バットシェバって、人気ないのかなあ、なんて思ったりもする。というより、やはりこれは「コンテンポラリー・ダンス」というものが客を呼べなくなっている、ということのひとつのあらわれなんじゃないかということになる。せんじつのイデビアン・クルーの公演でも、あれこれと今後のダンスかんけいのチラシなどもらって来たりもしたけれど、いろいろなプログラムの盛り込まれた、かたまりのような大きなイヴェントがいくつかはあるのだけれど、つまりは「単独公演」というものの数は、やはり激減しているのではないかという印象がある。つまりこれはなんというのか、音楽の世界でたとえれば、オムニバス・アルバムには参加するけれど、ソロ・アルバムはリリースしませんよ(「アルバム」という概念がもう古すぎるか)、というようなアーティストが増えているということか、そういうソロやっても客が来ませんよということなのか、つまりはそういう「ダンス」と銘打ったイヴェントはあれこれあるとはいっても、それがなんだか「ダンスのともしびを消さないように」というような、ちょっと内側を向いてしまったイヴェントではないか、というような印象を抱いてしまう。そういうわたしの印象が「誤解」であればいいのだけれども。

 そういう、「ダンスもダメだねえ〜」、なんていうことは、わたしもここで繰り返して書いてしまっているわけで、じゃあそういう事象の原因はどこにあるのか、っつうと、わたしなりの仮説もあるのだけれども、そういうことのひとつに、「ダンスもダメだねえ〜」などと勝手なことをいっている、わたしのような存在のせい、であることもまたたしかなことである。これはべつにわたしという「個」の存在の影響力がそれなりにある、などということでは毛頭なくって(あるわけねえじゃん)、名も知れない「匿名」なわたしが考えたり行動したりすることが、空中を伝播して、なんかのパワーになってしまう。とくにネガティヴなことこそ伝わりやすい。そういう考えがある。って、わたしもそうとうに電波オヤジになってしまったような。もちろん、「わたし」ではない、「ダンス」の停滞にもっと責任のある存在の名まえが、いまでもすぐに二、三人は思い浮かんだりもするのだけれども、わたしだって悪い。

 世の中、「ダンス」にかぎったことではなく、美術も、音楽も、映画も、もちろん演劇も、たぶん文学だって、「ダメだねえ〜」といえばダメなんだろうと思う。それで、わたしはもちろん、それでいいとは思っていない。‥‥田舎に引っ込んだにんげんが、なにいってるんだろう。

 きょうもヴィデオを二本観て、ニェネントと(で)遊んで、ちょっと本を読んで寝た。


 

[]「コットンクラブ」(1984) フランシス・フォード・コッポラ:監督 「コットンクラブ」(1984)  フランシス・フォード・コッポラ:監督を含むブックマーク

 1920年代末から、30年代初頭にかけてのニューヨーク。実在したクラブ「コットン・クラブ」で交錯する人間模様を、「ゴッドファーザー」で評判をとったコッポラ監督が描きました、ってな作品。まあ「地獄の黙示録」は撮ってしまったし、いっしゅの停滞期のなかで、あの「ゴッドファーザー」的な、アメリカの裏社会みたいなのをもういっちょやってみましょうか、みたいな空気は感じる。ちょっとユルい「グッドフェローズ」みたいな空気を感じないわけでもない。ここで当時の音楽がいっぱい再現されて、その当時の「コットン・クラブ」の店内の様子などの雰囲気こそがこの作品のいちばんいいところ、なんだろうけれど、どうなんだろう、コッポラという人はそれほどまでには音楽に思い入れがないんだろう。これが音楽大好きのスコセッシならば、もっともっと(「グッドフェローズ」みたいに)音楽をドラマに活かしてうまく演出するだろうけれど、ここではやはり<あまり上手くない>当時の再現、ってなレベルにとどまっているし(ちょっと、あんまりなキャブ.キャロウェイにげんなりした!)、けっきょくは音楽にたよるよりは視覚にうったえるタップダンスだぜえ、みたいなところはある。

 コルネット・プレイヤーで、のちに映画スターになってしまうリチャード・ギアとダイアン・レインとのドラマと、グレゴリー・ハインズらのドラマ、これらを当時のギャングの抗争とからめて進行していくというのはいいんだけれども、ぜったいにグレゴリー・ハインズがらみのドラマが弱い。

 それでも、せんじつ堪能させてもらった新作「Virginia/ヴァージニア」みたいな、演出のキレ、みたいなものは楽しませてもらった。やはり、「ストーリーよりは文体」な人なのか。


 

[]「日本列島」(1965) 熊井啓:監督 「日本列島」(1965)  熊井啓:監督を含むブックマーク

 撮影が姫田真佐久氏で、これがとにかくすばらしい。さまざまなポイントから撮られた映像の豊かさは、いまの日本映画とかでは得られないものだと思う。とくに、ラストの国会議事堂をバックに歩く芦川いづみをとらえたショットって、被写体の芦川いづみからかなり距離をおいたところからの、望遠を使ってのアップでしょう。ものすごいこだわりというか、まあこれは監督の熊井啓氏から来ているものなのかどうかわからないけれど、まるで「第三の男」のラストのような(ちがうか)、忘れることのできないラストシーンでしょう。

 その姫田真佐久氏の撮影以外はもうどうでもいいというか、この監督さんの「下山事件」をやった作品でも感じたのだけれども、つまりはこれは「謀略史観」みたいなものであって、そういうことって、「あんた、ここで描いたことの裏付けはあるのか?」って聞かれて、「いや、証拠はひとつもないけれど、わたしの考えるに、ぜったいにこういうことです!」などというのでは困っちゃうのね。こういうのやるんなら、ソヴィエトのスパイのことも映画にしなさいよ、って思ったりするのは、吉本隆明を読んだりしたせい?


 

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■ 2012-09-28(Fri)

 「ひかりTV」と「WOWOW」の、十月の番組表が送られてきた。ひかりTVの「ザ・シネマ」というチャンネルで十一月にかけてヴィム・ヴェンダースの特集があり、十月には「都会のアリス」など、初期の作品が六本放映される。さいきんWOWOWばかり観て、それいがいのひかりTVのチャンネルを視聴する頻度もずいぶんと落ちていたのだけれども、このヴェンダース特集はほんとうにうれしい。これで「さすらい」も放映してくれるなら最高なのだけれども、その「さすらい」だけが放映されない。WOWOWの方では、これまたジョセフ・ロージーの小特集。「召使」とか「できごと」をやってくれれば文句ないのだけれども、ぎゃくに「エヴァの匂い」以外、知らない作品ばかりなのがいい。これでまた、十月もヴィデオ三昧になるだろう。

 このところ隣国と日本との領土権をめぐる騒ぎがずっと続いていて気になることもあり、先日から吉本隆明の「日本のナショナリズム」というのをぼちぼち読んでいたのを読了した。
 そういう、隣国での反日デモなどというものが、日本での大衆レヴェルでのパトリオティズムを刺激して、国内でも隣国を攻撃するようなデモンストレーションが行われるのではないかとしんぱいしているけれど、いまのところ社会的にはそういう動きも報道されないのでホッとしている。ところがしかし、政治レヴェルではナショナリズムへの傾倒が顕在化してきているようで、とくにJ党(おそらくは次回の総選挙でふたたび政権を取り戻すことになるんだろう)の党代表(総裁)選挙で、ほとんどウルトラナショナリズムみたいなことをいうやつらばかりがしのぎを削るというか、吐き気をもよおすような発言ばかりがTVを通じて流れてくる。これに東京都知事(そもそもがこの人物がよけいなことをやるから隣国を刺激したわけだが)だとか大阪市長とかのRight Wing がからんで、これからの日本はひどいことになりそうである。報道をみるかぎり、まだ社会レヴェルではこの国は健全だと思っているのだけれども、これからはまず政治レヴェルでそういう健全さが崩されて行くことになるんだろう。
 はたして、「エコでフェアでピースな社会をめざして」などといっている日本版「緑の党」は、そういう不健全なナショナリズムにブレーキをかけることができるんだろうか? わたしも、いつまでも傍観者でいることからは離脱しないといけないのだろうけれども。

 図書館が十月になると長期休館があるので、いま貸し出しを受けると、ふだんよりも二週間長く借りていることができる。このところ自宅本のおかたづけを優先して考えていたけれど、ここは何か難物を借りてみようかと、筑摩の世界文学大系の「べケット/ブランショ」の巻を借りてきた。考えてみれば、ブランショでちゃんときちんと読み終えた本など一冊もないのだ。帰宅して、そのブランショの「謎の男トマ」を、ちょっと読みはじめた。こわい。ホラー小説みたいである。

 夕食はインスタントの冷し中華とか、賞味期限を過ぎたカップ麺ですませた。ベッドで「謎の男トマ」を読みながら、いつの間にか寝てしまった。


 

[]「理由なき反抗」(1955) ニコラス・レイ:監督 「理由なき反抗」(1955)  ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 ジェームズ・ディーン主演。「エデンの東」でのジェームズ・ディーンには驚かされたけれども、「ジャイアンツ」での泥酔状態演技は気に入らなかった。この「理由なき反抗」でも冒頭はそういう酔っ払い状態でちょっとうんざりもしたけれど、それからのドラマでの、ちょっとした反応の演技とか、やはり傑出した俳優だったのだろうと思う。

 ニコラス・レイ自身の手になるというストーリーにはちょっと図式的なところもあるのだけれども、演出として、並んだ車のヘッドライトによるライティングというのが前後二回出てきて、これがやはりすばらしい効果を出している。

 この作品での主演クラスの三人、ジェームズ・ディーンとナタリー・ウッド、そして、サル・ミネオらは、誰もが若いうちに不幸な事故で他界されている。「呪われた映画」だったのか。


 

[]「日本のナショナリズム」吉本隆明:著 「日本のナショナリズム」吉本隆明:著を含むブックマーク

 もともとは筑摩書房の「現代日本思想大系」の「ナショナリズム」の巻の解説として、1964年に書かれた文章。どこまでもどこまでも、対立する二項の二元論でつきすすむ論旨。「ナショナリズム」には「インターナショナリズム」が対比され、「知識人」には「大衆」、もちろん「右翼」には「左翼」、という具合である。そのなかで、大正以降に大衆のいだく「ナショナリズム」の、その主題が喪失したということがひとつのポイントだという。この大衆ナショナリズムは、土着性としてとらえられることによって、吉本隆明のいう「自立」への道をあゆみはじめるだろうと。それはつまり、大衆自体がその生活思想を深化させる、ということらしい。つまり、<大衆がそれ自体としては、すべての時代をつうじて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登場しえない>という認識からのことだろう。

 そもそもがこの小論、そういう「大衆」の、語られることのない声はどこにあるのか、というようなことから書きはじめられる。戦後になって、戦没学生の手記、疎開学童のの記録、主婦の戦争体験などがつぎつぎと公刊されたわけだけれども、<「書く」という行為と修練に参加したとき、すでにこれらの大衆にとらえられたナショナルな体験の意味は、沈黙の行為から実生活へと流れる大衆そのものの思考とはちがったものになっている>ということになる。つまり、<現実上の体験と、その体験を記録することのあいだには、千里の距(へだた)りがある>ということ。「ものを書く大衆」とはつまり「知的大衆」と呼べるのか、そういうとらえ方は、知識人に近づく方向を高次にあるものと見なすものであるだろう。それに抗して、吉本氏は<「大衆」が、この「話す」から「生活する」(行為する)という過程を、みずから下降し、意識化するとき、権力を超える高次に「自立」するものとみなす>という。
 ‥‥どうもこう、かんじんのところにくると抽象的になるというのがこのころの吉本氏の著作の特徴なのか、このあたり、せんじつ読んだ「マチウ書試論」での「関係の絶対性」という記述を思い出したりもする。まあ指南書ではないのだからそう具体的に書けるものではないだろうけれど、それまでの吉本氏の「分析」と、こういう「結論」のあいだには、わたしなどはどうしても、ちょっとした断絶を感じてしまう。わたしの読解力の欠如なんだろう。

 しかし、「ナショナリズム」に対比されるものとして、つねにひきあいに出された「インターナショナリズム」=「スターリニズム」がすっかり解体してしまったげんざい、この論考がどれだけ有効なものであるかは大きな疑問ではある。そもそもわたしには「大衆」というものがほとんど実感として理解できないところもあるし、それは吉本氏にいわせればきっと、「ばかやろう」ということだろう。ただ、この論考を読んで思ったのはやはり、そういう「ナショナリズム」に対比されるべき、あたらしい「インターナショナリズム」を模索することしかできないだろう自分を意識すること、でしかない。「自立」にはほど遠い、だろうか。

 

 

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■ 2012-09-27(Thu)

 きょうもしごとは休みをとってある。あさねをして、それでも七時ごろにはベッドから出て食事にする。キッチンで食パンを焼いたりしているとニェネントがやってきて、キッチンのそばのネコ皿のまえにすわり、わたしを見上げてニャアニャアとなく。まだきのう出してあげたネコメシは残っているのだけれども、ほかのものが食べたいらしい。ネコ缶をあけて出してあげると、のどをゴロゴロいわせてかぶりついてくる。いつものことではある。

 きのう外出中に録画してあったヴィデオなどをみて、パソコンをいじっていたらいつの間にか、インターネットへの接続ができなくなってしまった。インターネット接続の設定をみてみると、この部屋に引越してくるまえの、古い設定のままになっている。これではインターネット接続できるわけないのだけれども、いままでいったいどういう具合で接続できていたのだろう。
 パソコン自体がひじょうに古いものなので、接続設定によくわからないところがある。プロバイダーから受け取っているIDとパソコンが要求するIDとの書式がちがうというか、そもそもパスワードを入力する欄がないのはどういうこと?などとあたまをかしげる。

 いちおうわかる範囲で設定してみるけれど、やはり接続はできない。どちらにせよ、いつかはパソコンを買い替えなければいけないとは思っていたけれど、それが緊急の要請になってしまったか。というか、こういう事態になってみると、いかにじぶんがインターネットに依存しているのか、考えてみてちょっとあきれてしまった。パソコンのまえにすわりこんでモニターをみつめる、などということにまいにちずいぶんと多くのじかんを割いている。もしもじぶんがいまからしばらくインターネットに接触できなくなるとしたら、などと想像しても、まずはそういう事態を回避することから考えるだろう。そうすると、もうできるだけ早くあたらしいパソコンを買うことになるだろう。

 あいかわらずネットに接続できないパソコンの電源を落とし、ベッドに寝ころがって、いますぐにパソコンが買えるかどうか、考えたりする。十月の中ごろになればなんとか中古パソコンでも買うことはできるだろうけれども、先月にはTVを買って予定外の大きな支出をしたばかりだし、先の見通しがたてにくい。らいねんの五月にはこの部屋の契約更新があるので、その分を用意しておかなければならないのがいちばんのネック。とにかく、中古のパソコンでどのくらい出せばそれなりに満足のいくものが買えるのか、そのあたりをチェックしなければならないだろう。

 夕食はスパゲッティですませ、またパソコンの電源を入れてみる。‥‥つながった。どこでどう設定が正しかったのか、よくわかっていないのだけれども、とにかく再起動させるまではその設定は有効ではないのだ。あたりまえのことであった。とりあえずはひと安心して、風呂に入って寝た。

 

[]「ダンケルク」(1964) アンリ・ヴェルヌイユ:監督 「ダンケルク」(1964)  アンリ・ヴェルヌイユ:監督を含むブックマーク

 ジャン・ポール・ベルモンドが、ひとりはぐれた兵士のように、撤退するイギリスとフランスの兵士であふれるダンケルクをさまよい、さまざまな出来事を目撃するというような構成。しかしベルモンドははぐれ兵士というわけでもなく、何人かの仲間がいて、皆で海岸の廃棄された車のあたりに陣取ってはいる。近くまでせまったドイツ軍からの砲撃や、戦闘機からの銃掃射はしょっちゅうのことで、そのたびに死者やけが人が出る。町の民間人でもまだ家に残っているものもあり、ベルモンドはそんな若い女性(カトリーヌ・スパーク)に出会ったりする。さいごにはベルモンドもその女性といっしょに逃げることを約束し、海岸で彼女の到着を待つのだけれども‥‥。

 ダンケルクの撤退って、ここまで悲惨な状況だったのだろうか。なんか、奇跡的にスムースに、イギリス兵もフランス兵も脱出できたようなことを読んだ記憶があるし、たしかいぜん観た「つぐない」という映画でも、登場人物がダンケルクで脱出用の舟艇の到着を待っているシーンがあった。「負けいくさ」なのだから精神的に明るいものではないだろうけれど、この作品のような「生きるか死ぬか」みたいな状況だったんだろうか。

 撮影がアンリ・ドカエで、とにかくすばらしい。海岸の白い砂と、そこを行き来する暗い色彩の兵士らの行列や、点在する車両などとの対比が美しく感じられる。まちなかのシーンも印象に残るショットがあれこれとあった。観ていて、なぜか「プライベート・ライアン」を思い出したりもして、ヤヌス・カミンスキーはこの「ダンケルク」のアンリ・ドカエを意識していたんじゃないだろうか、なんてことを考える。
 アンリ・ヴェルヌイユの演出も興味深いところがあって、これは撮影とも密接にからんだ演出なのだけれども、たいていの場面で画面てまえにベルモンドだとか、ドラマを構成する登場人物がアップでとらえられているのだけれども、その背後にはつねに、整然と行列して進んで行く連隊兵らのすがたがある。そのあたりはいかにも「フランスから撤退するイギリス軍とフランス軍兵士」ということなんだけれども、そこにはこういうドラマもあったのだ、ということを印象づけるような演出、といおうか。


 

[]「絶海の裸女」(1958) 野村浩将:監督 「絶海の裸女」(1958)  野村浩将:監督を含むブックマーク

 ものすごくしっかりとした演出で、まあストーリーはアレなんだけれども(脚本には川内康範の名まえも)、飽きずにけっこう集中して観た。冒頭の、船のデッキで語り合う男女から、カメラが大きくふれて、そのずっと上の方でボクシングのスパーリングをやっている人物まで一気にみせてしまうところから、「あ、こりゃただものではないぞ」という感じで画面に向かうのだけれども、そのあとの船の難破シーンもまた、船内の描写だけでも迫力があった。終始的確な絵コンテというのか、ムダのないショットのつなぎを楽しませてもらった。この野村浩将という監督さん、戦前に田中絹代主演で「愛染かつら」などを撮っていらっしゃるベテラン監督。戦後はずっと新東宝で撮りつづけられたらしいけれど、そのあたりの作品、もうちょっと観てみたいという気になった。

 観ていて、南海の孤島に取り残された主人公がそこでかくされた財宝を発見し、名まえをかくして帰国して復讐するっておはなし、どこかで観たなあって思ったんだけれども、それって、きょねんだか観たやはり新東宝の「女岩窟王」じゃん、って気がついた。「女岩窟王」もまた楽しい映画だったけれど、製作年度からいうとこっちの方がまえ。「女岩窟王」はこの「絶海の裸女」からつくられたものだろう。

 ところで、もちろんタイトルに反して「裸女」などは登場しない。そもそも主演が久保菜穂子(すっごい悪女ぶり、楽しませていただきました)なんだから、脱ぐわけもない(それでもそれなりに露出度は‥‥)。


 

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■ 2012-09-26(Wed)

 しごとは休みをとってある。あさ起きて窓の外をみるとみごとな快晴で、すがすがしい気もちになる。きょうは横浜まで出かけ、Bさんといっしょにイデビアン・クルーの新作を観る予定。ぜっこうのお出かけ日和だろうと思う。

 外に出ても快適な空気で、こういう日というのはいちねんでも春と秋に二、三度ずつでもあるかないか、というようなものだろうと思う。こんな日に、家にこもっていないで外へ出るスケジュールを組んであるというのはラッキー。

 十時半の電車に乗り、いつものようにターミナル駅で湘南新宿ラインに乗りかえる。きょうは一気に横浜までこの電車で行き、同じ席にずっと、二時間ちかくすわっていた。いいかげん尻が痛くなったし、車内冷房でからだが冷えてしまい、横浜に着くころには冷房が肌寒く感じるようになっていた。横浜から久しぶりに乗る京浜東北線で関内駅まで出て、Bさんと合流。
f:id:crosstalk:20120929104953j:image:right 空にすこし雲は多くなったけれど、空気はすがすがしい。会場である、あたらしくできたという「十六夜吉田町スタジオ」をまずは探索する。あたらしくできたといっても、わたしはこのあたりに足を踏み入れるのはまったくはじめてなので、なにがあたらしくってなにが古いのかなど、わかるわけもない。おまけにこのあたりの建物はみな年季がはいっていて、四階とか五階建てになっているビルの塗装の色、その外に張り出した古い配管の束とかが、視覚的にとても味わいのあるものに感じられる。ビルもまた異様なまでに横長のものが多く、ぜんたいに見知らぬ土地に来てしまったような感覚にもなる。そんな横長のビルのなかに、目的地のスタジオをみつけたけれども、先におなじビルのなかのカッコつけたカフェで昼食をとる。

f:id:crosstalk:20120929104918j:image:left 食事を終え、そのビルの裏側の通りを歩いてみる。向かいの廃ビルの、外にむき出しになった階段がおもしろいな、とみていると、その階段の上の方に、何匹かのネコがかたまって寝ている姿がみえた。どうやら、親ネコのそばでその子ネコが三、四匹かたまって寝ているようす。まだ子ネコは三ヶ月ぐらいのかわいいさかりにみえる。やわらかな日ざしの下、まるで何のしんぱいもなくまどろんでいるようにみえる。いいものをみつけた。この廃ビルなら外に立入禁止の金網が張ってあるし、ずっと、人にじゃまされずに暮らせるだろうか。

 開演時間もせまったので、会場のスタジオへ。まんなかに大きな柱があるし、その奥にもおなじような柱がみえる。おそらくはまんなかのものだけほんものの柱で、あとはフェイクだろうと思う。ふだんはギャラリーとして使うのか、まあ舞台公演で使っていくにはむずかしいところもあるようには感じる。入口側の壁にそって、三十ぐらいの座席がしつらえてある。まんなかの柱で死角ができそうなので、すわる席をどこにしようか、ちょっとちゅうちょする。

 ‥‥舞台の感想は下に書くとして、終演後、近くの伊勢佐木町の通りをいつも歩いていたという(通学路だった?)Bさんと、その伊勢佐木町あたりをしばらく散策する。ふつうだったら車道にするぐらいの道幅の、石畳の歩道がまっすぐに続いていて、その両側が商店街なのだけれども、さっきのダンスではないけれども、雀荘なども並んでいてちょっとストレンジな感覚の商店街。ちょっと裏道に入ると、そこはほとんど風俗街。
 さっきのスタジオの近くまでもどり(スタジオの名にもあるけれど、そのあたりは吉田町というらしい)、名まえを聞いたことのある「C」という居酒屋で、ちょっと飲む。よくある古い大衆居酒屋という感じの店。まぐろの刺身が千二百円、というのが痛かったか、それほど飲まなかったのにちょっと予算をオーバーしてしまった。けっきょくBさんといっしょに京浜東北線で東京方面へ戻り、わたしは上野から宇都宮線で帰った。関内を出たのは八時ぐらいだったと思うけれど、けっきょくはローカル線の終電のじかんになってしまった。


 

[]十六夜 吉田町スタジオ オープニング公演 イデビアン・クルー「涙目コーデュロイ」井手茂太:振付・演出 @関内・十六夜 吉田町スタジオ 十六夜 吉田町スタジオ オープニング公演 イデビアン・クルー「涙目コーデュロイ」井手茂太:振付・演出 @関内・十六夜 吉田町スタジオを含むブックマーク

 ひさしぶりに観るイデビアン。こんかいは井手茂太さん、斉藤美音子さん、そして中村達哉さんの三人での舞台。席からダンサーたちへの距離が近いので、その身体のキレのよさがよけいに印象に残る。カッコよくって、おかしくって、ストレンジな舞台。

 ダンサーたちの目線や表情も大きな要素になる、つまりはコントっぽい展開もあるのだけれども、それを「コント」とだけ了解させないで引っぱっていく、ダンサーたちのちからがあるし、そういう振付けのすばらしさ、ということだろうと思う。ダンサーの身体の強度というのは作品を構成するためのひとつの要素であるという、あたりまえのことがなんともすばらしく感じられたし、その「作品」として提示される、人間関係の機微、というようなものが、とにかくはダイレクトに伝わってくる。終盤の、三人が並んですわっての展開では、ほんとうにちょっと涙目になってしまった。イデビアン・クルーは、つぎの公演もきっと行きたい。


 

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■ 2012-09-25(Tue)

 また雨。これは秋の長雨というものになるのか。この雨期が過ぎれば、本格的な秋がやってくるんだろう。きょうも、天候のせいもあるけれども、もう暑さを感じることもなく、扇風機ももうそろそろしまう時期だろう。あさの天気予報ではしごとの終る午前九時ごろには雨もやむような予報だったので、職場も近いので、傘を持たずにちょっとぬれながら出勤した。ところがその九時になっても雨はやまず、仕事の帰りもぬれてしまった。しかし、その少しあとには雨もやんでしまった。もうちょっとはやくやんでくれればよかったのに。

 朝食(二枚のトーストに玉子とハム、レタスをはさんだものと、カフェオレ)をとって、血圧の薬もきょうできれるので病院へいく。かんたんな診察と問診をうけ、まいにちの六種類の薬を二週間分もらって帰る。この二週間分の薬で三千円ぐらいかかるので、月に六千円、ずっと年間薬にたよることになると、八万円ちかくかかってしまう。まあタバコをやめたことを考えれば負担はかわっていないという考え方もできるけれど、いつまで薬にたよらなくてはならないのだろうか。

 昼食にまたペペロンチーノのスパゲッティをつくり、夕食には冷凍保存してあったさんまのみりん干しを焼いた。そのさんまを皿にのせ、食卓において食べはじめると、ニェネントがやってきて食卓のまえでわたしの方を向いてすわりこむ。じっとわたしのことをみている。やっぱり魚が食卓に出ると気になりますか。でも、これは人間さま用の味付けになっているから、きみにはあげないよー、だ。

 きのうとちゅうまで観ていた「反逆のメロディー」もふくめ、きょうは三本のヴィデオを観てしまった。


 

[]「反逆のメロディー」(1970) 澤田幸弘:監督 「反逆のメロディー」(1970)  澤田幸弘:監督を含むブックマーク

 日活作品。脚本の基本はふつうにヤクザの抗争劇なんだけれども、主演の原田芳雄はジーンズの上下にサングラス、長い長いモミあげと、およそヤクザっぽくはないし、さらに、バイクを乗り回す出来損ないのイージーライダーみたいな佐藤蛾次郎が、原田芳雄の舎弟みたいになついてしまう。だいたい、冒頭の「組解散」の場面で、夜の闇のなかで看板などを燃やしているシーン、わたしはとうじの大学紛争のバリケードを写した映像なのか、なんて思ってしまっていた(映画のタイトルもタイトルだし)。

 まあヤクザの抗争劇とはいっても、脚本としてこれはいくらなんでもメッチャクチャな展開ではあるし、演出も粗い。ズームインとかズームアウトをあちこちで使う撮影もあんまりピンとこないんだけれども、後半の警察のガサ入れというのか、ヤクザの組ヘの家宅捜索のシーンでの、刑事(青木義朗という俳優さんで、この人はよかった)にずっとついていくカメラの、長回しのカットはかなりよかったし、ラストの荒れ地をひとり歩いていく原田芳雄の姿もいい(「テオレマ」のラストを思い出したけれども)。腕時計をからめて語られる、梶芽衣子のさいごのセリフもよかった。


 

[]「インビクタス/負けざる者たち」(2009) クリント・イーストウッド:監督 「インビクタス/負けざる者たち」(2009)  クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 まあこういう作品は「ドラマ」とかいうんではなく、南アフリカのマンデラ首相が積極的におこなった、「和解」と「赦し」ということがどういうことだったのか、それがどのように実を結んだのかをみせる映画。

 わたしはむかし横浜で観た「モローラ−灰」という、南アフリカの演出家ヤエル・ファーバーの舞台作品のことを思い出していたけれど、そのような深刻な、身を切るようなドラマは、この作品にはない。そういうドラマはラグビーというゲームのなかに吸収されてしまい、どこか「スポーツ根性もの」の変型、のような印象にもなってしまう。ソウェト地区のような集落も写されるけれど、映画は決してそのなかへ入ってはいかない。まあ入っていってしまえばまったくちがう映画にはなってしまうだろうけれど、やはり、その「赦し」というのが、人間としての大きな困難に立ち向かうような行為であったことは、もうちょっと強い主張があってもよかった気もする。

 それでもやはり、冒頭とかの、短いカットの積みかさねでみせていく演出など、さすがにイーストウッドと、感服させられる。


 

[]「あなただけ今晩は」(1963) ビリー・ワイルダー:監督 「あなただけ今晩は」(1963)  ビリー・ワイルダー:監督を含むブックマーク

 「アパートの鍵貸します」と同じコンビの主演、同じスタッフによる作品だけれども、Wikipedia をみると、当初はヒロインにはマリリン・モンローを予定しての企画だったらしい。なるほど、マリリンのコケティッシュも、シャーリー・マクレーンのコケティッシュも、近いところがあるといえばいえるだろうか。この作品でのシャーリー・マクレーンも、いきいきとすばらしい存在感をみせてくれる。わたしは「アパートの鍵貸します」のシャーリーよりも、この作品のシャーリーの方が、好きかもしれない。

 まだ現実味のあるドラマだった「アパートの鍵貸します」にくらべると、この作品はリアリティなど無視の荒唐無稽なコメディなんだけれども、その現実からの乖離の分だけ、映画としての楽しさをっぱい味あわせてもらえるという感じでもある。書き割り的なセットもすてきだし、ある面で、サイレント時代の喜劇を観るような感覚がある。

 バーテンダーの「ムスタッシュ」(ルー・ジャコビ)の存在がとてもいい。「That's another story」っていうのは、この作品での彼の口ぐせ、だったのか。


 

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■ 2012-09-24(Mon)

 きょうはあさから晴天で、それでももう暑さもそれほどでもなく、すごしやすいいちにちになった。しごとが、このところめったになかった「ヒマ」な日で、倉庫の方に移動してやるしごとなど、十分もあれば終ってしまうのであった。もうそのあとはやることもないので、あれこれと片付けたりしていてもすぐに終ってしまう。それじゃあと、外のしきりの金網の周辺に生えている雑草を除去することにした。金網にそって、背たけも一メートルを越えるような雑草がずっと生えているわけで、それが何かのじゃまになるわけでもないけれども、まあ視覚的にはうっとうしいといえばうっとうしいし、これが冬になって枯れ草になってしまうと、なんともうざい。そういうわけで、軍手をはめて、何か道具がいるだろうかと探しても適当なものもないので、ハサミなどを持ち出して雑草に立ち向かう。ところがこれが、両手で茎の部分を持ってぐいっと引くと、思ったよりもかんたんに引っこ抜ける。このしゅるいの雑草は背たけは伸びるけれども、根の方はあまり地中深くまで張らないようで、よくこんな貧弱な根でこの大きさを支えているものだと、ちょっと意外な思いである。しかも、このなんにちか降り続いていた雨のせいで土がとっても柔らかくなっていて、ほんとうに力をかけずにボソッと、面白いように抜くことが出来る。道具なんか何もいらない。素手でOK。ちょっと、楽しくなってしまうたぐいの作業になった。抜いた雑草は、その金網の向こう側が道路沿いの草むらに延長されているので、金網の向こうに投げ捨てていけばいい。だれの迷惑にもならないし、だれも文句はいわない。
 ‥‥ちょっとばかしワーカホリック状態なんじゃないの、ってぐらいに草抜きに熱中してしまい、やっと「ああ、いいかげん疲れたからやめようか」って思ったときに残りの雑草群をみると、せいぜい一メートルぐらいの幅で残っているだけだったので、ここでやめるわけにもいかないと、がんばってやり通してしまった。この、残り一メートルはちょっとしんどくて、こりゃあ帰ってから腰痛とかに悩まされるかも、などと思ってしまった。‥‥なんとか敷地内の雑草は、ほぼ処分しつくしてやった。なんとなく、からだ全体から雑草の匂いがする。ふだんよりも「労働」した、という感じ。

 帰宅して、きのうの日記を書き、昼食にはひさしぶりにペペロンチーノのスパゲッティをつくる。これがけっこうイケる味で、わたしには、先週とかつくっていた出来合いのアラビアソースとかを使ったスパゲッティよりもよほどおいしい。この、手製のペペロンチーノスパゲッティというやつ、わたしのやり方では、ありとあらゆる献立のなかでももっとも低予算でつくれる料理でもある。これからはもうちょっとこの献立をたくさんやってみようか、などと考える次第である。

 きょうもヴィデオを二本観た。ぐうぜんにも、二本とも「ヨット上での殺人」という、「太陽がいっぱい」的なクライマックスをもった作品だった。もう一本、とちゅうまで観たのだけれども、これがむかしの原田芳雄の主演作「反逆のメロディー」で、原田芳雄はその「反逆のメロディー」の翌年に、「八月の濡れた砂」に出演している。「八月の濡れた砂」もまた、クライマックスはヨット(というか、クルーザーだけれども)の船内で繰り広げられる作品だった。その「八月の濡れた砂」も最近録画してあるはずなので、「反逆のメロディー」は中断して、「八月の濡れた砂」を探してみた。みつからなかったのできょうはここまで。

 夕食は炊いたごはんが残っていたので、これもひさしぶりに炒飯をつくった。きょうは玉子の投入のタイミングがうまくいって、近年にない美味な炒飯が完成した。


 

[]「ワイルドシングス」(1998) ジョン・マクノートン:監督 「ワイルドシングス」(1998)  ジョン・マクノートン:監督を含むブックマーク

 映画がはじまって、さいしょにテロップで出てくる出演者はケヴィン・ベーコンで、この作品のプロデュースもまたケヴィン・ベーコンがやっているのだけれども、まあ彼が主役というわけでもないだろう、というか、いったいだれが主役なのかということをさいしょに知らせてしまうと、さいごに誰が勝つのかということがわかってしまうか。‥‥ネーヴ・キャンベル、である。

 ‥‥って、冒頭の展開で、マット・ディロンが、「オレは無実だ」って主張になるのだけれども、ええ? マット・ディロンが、あの顔をして、無実なわけないじゃないかと、だれでもが思ってしまうだろう。その予測どおり、観ていると「どんでん返し」が待ち受けているのだけれども、これがさらに次のどんでん返しになり、さらにまた逆転と、四、五回はそういう展開になるあたりがこの映画のキャッチーなところ。

 演出はそんなに優れたものでもないけれども、しょっちゅう登場するワニさんだとか、イグアナなんかはいい味を出しているし、やっぱビル・マーレイのとぼけた感じをいっぱい引き出しているあたりは気に入った。だからまた演出のことを書いてしまえば、そのクライマックスのクルージングはどうしたって「太陽がいっぱい」なんだから、そういうだれもが比較したくなるような、しかも「ぜったい負けてるよね」みたいな演出からは、逃げるべき。


 

[]「ウディ・アレンの 夢と犯罪」(2007) ウディ・アレン:監督 「ウディ・アレンの 夢と犯罪」(2007)  ウディ・アレン:監督を含むブックマーク

 いやあウディ・アレンはきらいだけれども、やっぱベテランだよね、というのがこの作品で、ほら、クライマックスのクルージングは、みごとな「省略」で処理している。

 ここではウディ・アレン当人は出てこないし、彼の分身みたいないやらしいおやじも登場してこない。脚本はウディ・アレンだけれども、そういうストーリーテリングに徹した演出だったことが、わたしのだいきらいなウディ・アレン・カラーが出てこないですんだのですね、という印象。撮影はヴィルモス・ジグモンドで、音楽がフィリップ・グラス。

 そのストーリーテリングのうえで、視点を「危機を乗り越えた」ユアン・マクレガーの側から描いているのが正解で、危機の克服に失敗したコリン・ファレルの側にもドラマはあるのだけれども、それをあくまでも「想像させる」という描き方がすばらしい。

 「人を殺すということ」=Murder が、いかに困難なことか、ということはヒッチコックも語っていることらしいけれども、そのあたりのことを彼の作品でせつせつと読み取れる作品というのは、じつは存在しないと思う。それはたとえばコーエン兄弟のデビュー作、「ブラッド・シンプル」の主題でもあるのだけれども、そういう主題をもっと本質的な、サスペンスとは距離をおいた心理劇として描き、演出としてはサスペンスの要素をきっちりと取り入れたあたりに、この作品のすばらしい魅力がある、と思う。わたしは、ウディ・アレンの作品では、これがいちばん好き。


 

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■ 2012-09-23(Sun)

 よなかに目がさめて肌寒さをおぼえ、掛け布団を引っぱり出して、かぶって寝た。アラームが鳴って起きても、なんとも涼しい。ついに、秋がやってきた。外は雨で、ひさしぶりに傘をさして出勤した。

 帰宅してから、きのうエアチェックしてあったFM番組を聴く。「ウィークエンドサンシャイン」では、この九月一日に亡くなられたというHal David の追悼小特集があり、つまりBurt Bacharach である。このあたりさすがピータ・バラカンさんで、Bacharach とはいってもふだんあまりかからないような曲をやってくれ、なつかしい思いで聴いた。うれしかったのはSandie Shaw の「(There's) Always Something There to Remind Me」で、この曲のリリース当時の邦題は、「恋のウェイトリフティング」という珍妙なものだった。なんでこんな邦題にされてしまったかというと、この曲がヒットした1964年の秋というのはつまり「東京オリンピック」の開催されていたときで、そのオリンピックのウェイトリフティングで、日本の三宅義信選手(こんかい、ロンドンの女子ウェイトリフティングで銅メダルを獲得された三宅選手の叔父さん)が金メダルを取るなど、日本選手がメダルを合計三個ぐらい獲得して、がぜん「ウェイトリフティング」というのが注目されたりしていたわけで、そういうのにあやかってのこの邦題というわけ。
 わたしが洋楽を聴きはじめたのも、ちょうどそういう、東京オリンピックが終ったころからなので、この「恋のウェイトリフティング」などは、わたしがさいしょに聴いていた洋楽群のなかの一曲というわけ。この曲はもちろんほとんどヒットしなかったし、そののちもオンエアーされる機会もほとんどなかったから、わたしなどはものすご久しぶりにこの曲を聴くことになった。それだけに、なつかしさもハンパではなかったかな。知ってのとおり、Hal David 作詞/Burt Bacharach 作曲のコンビ作品にはメロウな名曲がたくさんある。「LAヴァイス」のドックならちょっとはバカにしていたかもしれないし、わたしも「フン!」って思っていたころもあったけれど、わたしもトシになったということなのか、このところはいつでも、このコンビの作品を耳にすると、うっとりと聴いてしまうのであった(まあ、いまでもダメな曲もあるけれども)。きょう、この小特集を聴いてうっとりしてしまったのは、ほかにJackie DeShannon の「What The World Needs Now Is Love」(Beatles の「All You NeedIs Love」より早い時期の曲だし、こっちの方がいい!)だとか、Aretha Franklin の「I Say A Little Prayer」だとか。‥‥このエアチェックしたMDは、保存版にしようと思う。

 昼食はかき揚げ天をいれた蕎麦で、夕食はまたカレーなのだけれども、ようやっとそのカレーもおしまいになった。TVをつけると大相撲をやっていて、その優勝をかけた千秋楽の一番はちょっと、ちからがはいった。勝負のついたあと、勝ってなおひたいに土俵の土をこすりつけるようにあたまを土俵につける力士に、「役者やのお!」と、喝采をおくりたくなった。いいもの(勝負)をみた。

 よる、TVをみていると、いぜんから気になっていた「お宝自販機」が登場していた。この現物、わたしは青山の裏通りでなんどか目にしていて、気になっていたものである。一回千円で、べつにギャンブル性のあるものでもないらしいのだけれども、ボタンを押して商品が出てくるまで、いったい何が出てくるのかわからないのである。ニンテンドーDSだとか、デジカメ、iPODなんかも当ったりするらしい。やっぱりギャンブルか。まあべつにR18とかそういうものが出てくるわけでもないようで、それなりにリーズナブルな、遊びごころにあふれたものが出てくるらしい。TVでその自販機から出てきたものも、なんだか楽しそうなモノ、だった。なんか、こういうの、じっさいにやってみたいという気もちもあるんだけれども、やはりやってみる勇気はない。ほんとうにこういうのを平気で出来るようになったとき、わたしもそのときにはついに、「ビンボー」から脱却できた、と、思っていいのかもしれない。いまのわたしは、それが「百円」でも、やる勇気はない。


 

[]「ルームメイト」(1992) バーベット・シュローダー:監督 「ルームメイト」(1992)  バーベット・シュローダー:監督を含むブックマーク

 かなりヒットしたサイコ・スリラーで、そのティピカルなストーリーはよく知られていると思う。わたしははじめて観た。

 ヒロインのブリジット・フォンダがファッション関係のマーケティングだか、そういうしごとをやっているというあたりもミソで、「いかにして女性は男性の気を惹く存在になりうるか?」という原理が、まずはこの作品の前面に存在している。生活面でもブリジット・フォンダはその面での「勝ち組」っぽいところがあり、効果がありすぎて襲われそうになったりもする。いっぽうのジェニファー・ジェイソン・リーはつまりはそういう面ですっかり負けているわけで、その克服のためにブリジット・フォンダのマネっこをする。同居しているわけだから、外見だけでなく、じっさいのブリジット・フォンダの所有物まで自分のものにしていったりもして、そこで屈折した自信を得ていったりする。もともとそれは自分ではないのだから、空疎である。その空疎は、自己防御のためにひとに知られてはいけないということになる。ある意味で、ファッションというものは空疎だ、ということをいっている作品でもある。

 ラストの展開で、そのジェニファー・ジェイソン・リーとブリジット・フォンダの立場が逆転し、それまで恐怖を味わっていたブリジット・フォンダが、ぎゃくにジェニファー・ジェイソン・リーに恐怖を与える存在になるあたりが、ものすご面白い。この逆襲、ファッションの奥にあるものを持っているものと、持っていないものとの差異、ともいえる。

 監督のバーベット・シュローダーは、フランスでヌーヴェルヴァーグの動きに加担していた存在でもあり、エリック・ロメールの作品のプロデュースをやったり、ゴダールの「カラビニエ」の助監督をつとめたりもしているらしい。彼の監督第一作の「モア」は、わたしは映画館で観ている。近年も活動を続けられているようで、最新作では江戸川乱歩の「隠獣」を、ブノワ・マジメル主演で撮っていたりする。気になる人である。


 

[]「テヅカ TeZukA」シディ・ラルビ・シェルカウイ:振付 「テヅカ TeZukA」シディ・ラルビ・シェルカウイ:振付を含むブックマーク

 これはこの春にBunkamura のオーチャード・ホールで上演された舞台の、録画映像。‥‥まったく、面白くなかった。観続けるのも苦痛だった。

 ‥‥そもそもわたしは、手塚治虫というひとの作品がまったく好きでなく、「まんが」というものを代表するエクリチュールというものは、横山光輝などの作品にこそあるものだ、と思っている。大友克洋などもそっちの側から描いている作家だろうし、つげ義春なんかも、わたしは横山光輝の延長から解釈している。そういう意味で、手塚治虫などという作家の作品を解明するという作業そのものが、面白くも何ともないと感じられる。だいたいが、こういう舞台で、そういうほめあげるほどでもない作家へのオマージュだけで二時間見せられるなどということが苦痛である。

 まあそういうことはわたしの個人事情としておいておくとしても、やはりつまらない舞台である。ダンスとしての振付けなどには、どこかナマの身体を感じさせる、色香みたいなものは、途中であったかもしれないけれども、これが五十年まえのモダン・ダンスの路線からはみだすようなものでもない印象はある。もう見慣れてしまって食傷気味のカンフーっぽいものもみせられた。それで音楽がまた、「五木の子守唄」などの、何の工夫もない文部省推薦みたいなパフォーマンスになる。いったい誰にみせようとしている舞台なんだろう。これがつまりはプロジェクターで投影される「マンガ」と、じっさいのパフォーマーとのシンクロナイズ、みたいなものを見せたいのだとしても、それはたんに練習の成果としてシンクロナイズしてましたね、ということにすぎず、こういうことはあえてまたいってしまうけれど、もう十年もまえから、天野天街氏が少年王者舘でこころみておられることで、舞台上でのマンガ的平面性の同化ということでは、彼はもっともっと刺激的なことをやりつづけておられるのである。もうこのあたりいいかげん、せんじつ「マームとジプシー」をみても書いたけれども、天野天街氏がいつまでもマイナーな地平にとどまっておられるからといって、そういう彼の作業をみないで、「どうよ」などというこっけいなことは、やらないでいてもらいたい。

 ‥‥いわゆる「コンテンポラリー・ダンス」というものの近年の不毛さは目もあてられないものがあるけれども、それがこうして、日本国内にとどまらない事象なのだということを認識するのは、やっぱり悲しい。


 

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■ 2012-09-22(Sat)

 きょうもまた、きのうまでのように変な天気。あさ、しごとをやっていたときには、遠くで雷の音がきこえていた。しごとを終えて帰宅して、洗濯物もたまっていたのでしょうがない、ここいらで洗濯を、ってことで洗濯物を干していたら、やはりいつか晴天になってしまった。そうそう、しごと場のネズミはきょうは出現せず。あたりの野原に帰って行ってしまったのだろうか。

 きのうはニェネントの、二歳と三ヶ月になる月の誕生日だったのに、またすっかり忘れてしまっていた。っつうか、きょうは、わたしのただひとりの親族と、いまでもいえる人の誕生日である。こればかりは忘れたりすることはない。わたしがこれまで生きてきたことの意味であり、また、これから生きていくことの意味でなくてはいけないことである。いまのわたしはもう「なにものでもない」存在、といわなければならないところもあるけれども、じつのところそうとも思っていない。その、そうとも思っていないというところを、どうにかしたいとは思っている。まだじかんは残されていると考えているけれども、そういつまでも残されているものでもないことも承知しているつもり、ではある。しかしまいにち、こうやって怠惰ではあることよ。


 

[]「マチウ書試論 −反逆の倫理−」吉本隆明:著 「マチウ書試論 −反逆の倫理−」吉本隆明:著を含むブックマーク

 ここで吉本隆明は、いっぱんにいわれるように「マタイによる福音書」と書かず、フランス読みで「マチウ書」と書く。キリストもまた、ここでは「ジェジュ」である。これはかなり意識的な操作だと思うけれど、つまりはこの原典を「聖書」として読まず、これを原始キリスト教の布教のための創作、としてとらえていることを明確にするためでもあったろうと思う。したがって、吉本隆明にかかれば、この「マチウ書」の作者は、「一流の思想家であるほどには、文学者でない」ということになり、そういう記述上の稚拙な点、矛盾する点を列挙されることにはなる。そういう「マチウ書」が成立する背後には、原始キリスト教とユダヤ教との殺伐なあつれき、争闘を読み取らなければならないとするのだが、いったいなぜ、吉本隆明は、このようないっけん当時の日本とは無関係ともとれるようなもんだいを取り上げ、そこに「反逆の論理」という副題までつけたのか。それはほとんど、この論文の最終節あたりまで読みすすめないとわからない、ともいえる。

秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。

 ‥‥いきなりに、こんな文章が飛び出してくる。へ?「関係の絶対性」???ってな感じで、ある意味唐突な印象も受けることになるけれど、この「関係の絶対性」というキーワードでとらえ直せば、彼が何をいっているのか、読み取ることはできるだろう。それでもやはり、「吉本隆明も詩人だなあ」という感想はある。

 人間は、狡猾(こうかつ)に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。

 ‥‥よくもまあ、いってくれるものである。いまでもこういう文章にだまされる人もいるだろうか。「ぼくたちの孤独がある」なんていわれたら、カクンとイカれちゃいますかねえ。まあ、当時の左翼青年たちがこのあたりを精神の縁(よすが)とされてデモの隊列に加わられたであろうことは、想像にかたくないところがあります。
 いぜんから、その評判はきいていた「マチウ書試論」、ちょっと、こういうものだとは思っていなかったけれども、たしかにこういう語り口の方が、ある面で熱狂的に賛同、共感されるのかもしれない。いっしゅの、「若さ」にうったえるもの、というか。

 ちなみに、わたしは吉本隆明がダメなわけではない。若いころにいちばん感銘を受けた書物は、「言語にとって美とはなにか」だったし、同じように「共同幻想論」もまた、熱中して読んだ記憶がある。ただ、吉本隆明はこの二冊だけしか読めなかったけれども。

 さて、これからもう少し、その吉本隆明を読んでみよう。


[]「波止場」(1954) エリア・カザン:監督 「波止場」(1954)  エリア・カザン:監督を含むブックマーク

 せんじつ「質屋」でのボリス・カウフマンの撮影がよかったので、あらためて、おなじボリス・カウフマンによる、その撮影とかに注目してみようと思ったのだけれども、どうもこちらはピンとこなかった(もちろん、印象に残るところもあったのだけれども)。

 って、いつみても、これって、エリア・カザンが非米活動委員会で「証言」した行為への、自己弁明としか思えないところがあって、ツラいわけである。いやそれでも、このあいだ観た「ロッキー」が、いかに「ドラマ」以前のものであったかが、よくわかるというものかもしれない。


[]「狂った果実」(1981) 根岸吉太郎:監督 「狂った果実」(1981)  根岸吉太郎:監督を含むブックマーク

 これはむかし、リアルタイムに映画館で観た。おなじ日活映画だけれども、石原裕次郎の映画ではない。ロマンポルノである。しかしこれ、根岸監督の、あの「遠雷」のまえの作品だったのだから、よくそういう作品を選択して観たものだなあと、じぶんのことを感心してみたりもする。っつうか、わたしには主演の蜷川有紀がタイプ、だったということでもあるんだけれども(いま観ても、やっぱりイイです)。男優の方の主役は、よく知らなかったけれど、元暴走族だったらしい、本間優二という人。この作品でのハマり役。

 ‥‥これはやっぱ、アレかなあ、「関係の絶対性」というヤツかしらん。「階級格差」っつうか、階級が異なると、背後の文化もまるでちがうものをしょってくることになるし、それが有閑階級からすると、興味しんしん、みたいなことにもなる。変なはなし、わたしの体験からでも、こういうことは理解できる。というか、わたしの場合はその両方の階級(あんまり階級ということばを使うとちがう気もするけれど)のことが推測できたから、この作品にはちょっとこころを奪われるところがある。そういう、「興味」が、「愛情」と区別がつかないようになる情況も、理解できる気がする。いまでも、気になる作品であったことにかわりはない。


  

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■ 2012-09-21(Fri)

 きょうはまたしごとは非番。このところずっと天候が不順で、いちにちのあいだに晴れたり曇ったり雨が降ったり、さらには雷が鳴ったりしているのだけれども、きょうもそういう変な天候。ひるま晴れているときはまだひざしも強く、外を歩いても暑いし、部屋にいても冷房をかけたくなる。

 きょうの昼食はまたカレー。昼食のあとヴィデオをみていたら、そのまま眠ってしまいそうになった。そこはがんばって持ち直し、夕食はまたまたカレー、ということになった。まだ二日ぐらいはカレーが続きそう。

 このところ、明るいうちに二本ほどヴィデオを観て、夕食のあとは読書、というパターンになっている。きのうまでは「哲学とは何か」を読んでいたのだけれども、きょうは吉本隆明の「マチウ書試論」を、はんぶんほど読んだ。


 

[]「女性の勝利」(1946) 溝口健二:監督 「女性の勝利」(1946)  溝口健二:監督を含むブックマーク

 溝口監督の、戦争後の第一作。脚本が野田高梧と新藤兼人という、意表をつかれる取り合わせなんだけれども、彼らが自然発生的にこのような脚本を書くはずもなく、とうぜん仕掛け人が存在するわけである。この作品は松竹大船の作品で、製作として月森仙之助という人の名まえが読みとれる。おそらく、この人あたりが仕掛けた作品だろうと思うのだけれども、ネットで調べても、この月森仙之助という人物のことはよくわからない。しかし、この作品とおなじ1946年にはマキノ正博監督の「待ちぼうけの女」の製作にもあたっていて、この脚本がまた新藤兼人だったりするから、まさに「製作」としてこの人物があれこれの仕掛けをしていたことはまちがいない。すると、その新藤兼人と野田高梧を組ませたのも、この月森仙之助という人物なのだろう。このふたりを組ませて、この作品でいったい何をやろうとしていたのだろう。

 とりあえず、この作品を観て思うのは、戦争も終ったし、これからの日本はこう進んでいくのだよ、という「読み」のようなものが、制作側にあっただろうということ。それは一面では「過剰な期待」ではあっただろうけれど、同時に、敗戦までの個々の「生」への痛烈な反省、という側面もあっただろうと思う。この脚本で溝口健二監督がメガホンを取ったことのなかに、のちに溝口監督が「夜の女たち」を撮るさいに、じっさいにそういう「夜の女性たち」を前にして、「あなたがたがそのように身を持ち崩された責任の一端はわたしにもある」みたいなこと(こまかいところではちがうかもしれないけれど、まあこういうこと)を語られたということと、通底するものがあるように思える。

 そういう事情はわかったとしても、しかしやはりこの脚本、この演出は、ちょっと耐えられない。けっきょく主題は弁護士である田中絹代が法廷で何をかたるのかみたいなことで、つまりは大弁論大会として終ってしまう。あまりに主張がナマすぎるということもあるし、すべてが「ことば」でかたられるだけ、という演出もまたつらい。新藤兼人はのちに溝口健二監督のことを、「愚作もたくさんつくられた」みたいなことをいっていたと思うけれど、まさにこの作品など、そういう一本、といってしまいたくはなってしまう。

[]「サバイバル・オブ・ザ・デッド」(2009) ジョージ・A・ロメロ:監督 「サバイバル・オブ・ザ・デッド」(2009)  ジョージ・A・ロメロ:監督を含むブックマーク

 もうこうなると、時代も何も超越しているというか、「ゾンビ映画は永遠に不滅です」みたいな感じになってしまう。なんかの単語のあとに、「‥‥Of The Dead」と接尾すれば、ホラ、ゾンビ映画になっちゃいますよ、と。

  

  

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■ 2012-09-20(Thu)

 きのうのネズミの件だけれども、きょうはまたその数が増えて、生体が三匹、それと死体がひとつ見つかった。同僚のCさんと、まあなんというのか「始末」をつけた。古くからこの倉庫に出入りしている人のはなしでは、急に雨が降ったので、まわりの草むらから倉庫の中に逃げてきたのではないかという推理で、この倉庫に「巣」をつくっているわけでもないだろうと。倉庫のなかにエサになるようなものはないし、たぶんそういうことなんだろうと思う。
 しかしかんけいないのだけれども、ネコが「寝子」から来ているのだとしたら、やはりネズミというのは「寝ず見」ということなんだろうか。ネコは寝てばっかりだけど、ネズミは寝てなんかいられない。ネコの寝ているあいだにせっせとエサをあつめ、せっせと子どもをつくんなくっちゃならない。それで「寝ずの見張り」もひつようになるだろう。

 しごとを終えて帰宅して、ヴィデオを一本観て、昼食はきのうつくったカレー。午後はベッドで本を読んでいたらやはりそのまま眠ってしまい、目がさめたときはもう暗くなっていて、時計をみると七時をすぎていた。さすがにそれからカレーで夕食、という気にもならず、トーストを一枚焼いて夕食とした。

 そのあとは目がさえてしまったので、ドゥルーズ+ガタリの「哲学とは何か」の「序論」を読んだ。序論のタイトルは「こうして結局、かの問は‥‥」というものだけれども、この文はこの序論のおわりちかくにちゃんと出てくる。

<こうして結局、かの問は、すなわち哲学についての問は、そこで概念と創造が互いに関係しあう特異点なのである>

 ‥‥げんざいの資本主義の勝利のもと、哲学のあった場所をマーケティングが占領しようとしている。出来事は展示会でしかなく、概念は売ることのできる製品でしかない。哲学は、これら厚顔無恥で愚かしい対抗者たちにぶつかればぶつかるほど、ますます自分に元気を感じ、「商業的職業訓練」という、災いの時代への転落を防いでくれるのである、と。



 

[]「西部の人」(1958) アンソニー・マン:監督 「西部の人」(1958)  アンソニー・マン:監督を含むブックマーク

 この映画、そのむかしに昼のTVでやっているのを観た。わたしが中学生のころである。劇中でジュリー・ロンドンが悪党どもにかこまれて服を脱げと強要され、ゲーリー・クーパーの目のまえでじっさいに脱ぎはじめるところで、わたしは鼻血が吹き出るほどに興奮したし、そのシーンの記憶だけがしかと残っていた。‥‥もちろん、そんなに露出させるほど脱いでしまうわけでもないのだけれども。

 とうぜんそういうところいがい、ストーリーもなにも記憶しているわけでもないのだけれども、なぜかその女性がジュリー・ロンドンで、ゲーリー・クーパーが主演だということはよくおぼえている。中学生だったけれど、ジュリー・ロンドンが「Cry Me A River」の歌手であることぐらい、知っていた。

 さて、そういう古い記憶の掘り起されるこの作品、いま観てみると、どうもピンとこないところもある作品という印象。アンソニー・マン監督の作品は、やはりジェームズ・ステュアートの主演の方が、パキッとわかりやすいのか。そのピンとこないところというのは、映画のなかでのジュリー・ロンドンは、彼女を守ってくれたゲーリー・クーパーに惚れるわけだけれども、つまりクーパーには故郷に妻子がいるとかでいっしょになれない。ラストも未練タラタラのジュリー・ロンドンのことばで終るのだけれども、いったいぜんたい、ゲーリー・クーパーの方ではどう思っているのか、これがさっぱりわからない。まあゲーリー・クーパーという存在、キャラクターが、わたしにはそういう「なに考えてるかわからない」というものではあるので、そのあたりは一貫しているわけだけれども、ここではなんというか、「朴念仁」であるとか、さもなければ「インポテンツ」みたいな印象になる。オレもそろそろおしまいなんだよね、っていってるのだろうかね。

 

 

 

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■ 2012-09-19(Wed)

 こういうことを不用意に書くとヤバい場合もあるのだけれども、しごと先の倉庫にネズミがいた。外から荷物を受け入れて、また外に送り出すようなことをやっているしごとなので、その職場にネズミがいたというのは、解決しなければいけない「事件」である。小さなネズミで、しっぽを入れても体長は十センチほど。仔ネズミだろうかと思ったけれど、みた感じもう成長しているというか、こいつはもうおとなで、つまりは野性のハツカネズミだろうと思う。棚に積んだ段ボールを取ったときに棚からはじき出てきて、段ボールのあいだにいたようだけれども、動きがにぶくって、かんたんにほうきでちり取りに追いやることができた。‥‥家に持って帰って、ニェネントにみせてやろう(食べさせてやろう)とか、いっしゅん思ったりもしたけれど、そのまま外の雑草の生えているあたりに放り出した。いちおう、帰社してから上司に報告しておく。

 おととい観たコッポラの「ヴァージニア」のことがたびたび思い出され、また映画館に観に行きたくなってしまったりする。まえに「スリーピー・ホロウ」を映画館で観たときも、あとで観たくなって、けっきょくあの作品は三回も映画館で観てしまった(それほどの映画でもないのに)。けっきょくわたしはああいうゴシックホラーが好きなのか、スケジュールが合えばもういちど観に行こうという気もちである。

 あさは雨も降ったりしたけれど、昼からはまた晴れて、やはり暑い。あしたもまた雨で、その雨のあとに秋が来ると、天気予報でいっていた。それならまずは食欲の秋と、夕食にカレーをつくった。二種類のルーを半分半分につかったんだけれども、気のせいかまろやかな味になっておいしかった。大量につくったので、またしばらくはカレー三昧になるだろう。

 きょうもヴィデオを二本観て、まだずっと読みさしの「昭和文学全集」の、江藤淳の「戦後と私」など、みじかい作品をふたつほど読んだ。やはりわたしにはこの江藤淳という人にはがまんならないところがあり、きょう読んだ小品でも、「この人はいったいなぜこんな文章を書くのか」という、こんぽんのところからしてわからないというか、ふゆかいになる。きょうはヴィデオもあまりゆかいな気もちで観られなかったし、よろしくないので、寝るまえにおととい買ったドゥルーズ/ガタリの「哲学とは何か」を、ちょっと読んだ。<つねに新たな概念を創造すること、それこそが哲学の目的なのである>、と。


 

[]「紀ノ川」(1966) 有吉佐和子:原作 中村登:監督 「紀ノ川」(1966)  有吉佐和子:原作 中村登:監督を含むブックマーク

 自分のなかで、この中村登という監督の名まえはまったく記憶に残ってないのだけれども、調べたら、わたしもきょねん観た「我が家は楽し」という作品が、この中村登監督の出世作らしい。あれ、なんで記憶にないんだろうと思ったら、なぜかしらん、この日記では「田中登」と、まちがって書いてしまっていた(いちおう、というかあわてて訂正しておいた)。その「我が家は楽し」はとってもていねいに撮られた印象の、かわいい作品だったのだけれども、そのあとの作品で「監督:中村登」というものがまるで思い出せない。ほんとうは実力のある監督だったのではないのか、ただわたしが知らなかっただけではないのか、そういう気もちで、この「紀ノ川」を観た。

 冒頭の、ヒロインの司葉子が船で紀ノ川を下って、嫁入りするシーンなど、じっくりと美しく撮ってある。ちらっと写る東山千栄子もいいし、これはなかなかの作品なのではないのかと期待した。そのあとも、どの場面もていねいに、また美しく撮られている。撮影は、吉田喜重監督作品でも撮影を担当している成島東一郎。いいじゃないの、と思って観ていると、だんだんに「あれ、さっきいっていたことはけっきょく、どうなってしまったんね」みたいなことがいっぱい出てくる。たとえばその司葉子のことをじつは好きだったんじゃないかという義弟の丹波哲朗が、司葉子のことを「あれは紀ノ川なのだ」みたいにいうのだが、わたしの観たかぎりでは、それを裏付けるような、というか、それに関連するようなことは、その後まるで描かれない。司葉子の娘が岩下志麻で、これが時代の潮流に乗って、ことあるごとに母に刃向かうのだけれども、結婚するといつのまにかおとなしくなってしまい、こんどはことあるごとに「お母さん、お母さん」みたいなことになってしまう。なんやねん。

 ‥‥空疎である。空疎な美文というものがあるけれど、この作品はまさにそれ。脚本は黒澤作品も手がけた久板栄二郎で、まあこの脚本にも責任はあるのかもしれないけれど、では演出するものはそういう脚本の欠点をみないで、そのまま映像にすりゃあいい、なんてことがあるはずもない。だいたい一時間ぐらい経ったところで「ありゃりゃ」と思っちゃって、そのあとを観続けたのだけれども、「二時間で終わりかな」って思ってると、そこからまだ一時間ぐらいダラダラと映像は続く。いいかげんうんざりした。空疎な二時間五十分、だった。わたしにはもう、「中村登」の名まえなど記憶にとどめるひつようはないだろう。

 

 

[]「カサンドラ・クロス」(1976) ジョルジュ・パン・コスマトス:監督 「カサンドラ・クロス」(1976)  ジョルジュ・パン・コスマトス:監督を含むブックマーク

 このころってあれでしょ、「タワーリング・インフェルノ」から「ポセイドン・アドベンチャー」と、ディザスター・パニックものが大ヒットしていたころでしょ。それに引き続いて公開されたのがこの「カサンドラ・クロス」で、日本でもかなりヒットしたという記憶もあるのだけれども、この作品はハリウッド大作ではなく、カルロ・ポンティの製作した、イタリアとイギリスと西ドイツの合作映画。だからなんというのか、製作側にアメリカへのうっぷんでもたまっていたのか、徹底して悪役はアメリカで、それもアメリカ人が悪いとかいうのでなく、組織としてのアメリカ軍とか、そこに根本的な非合理がある、みたいな描き方。それでもけっこう演出スタイルはハリウッドっぽいというか、オールスター・キャストだし、あれこれと派手である。

 オールスター・キャストといっても、そこはヨーロッパらしい渋さがにじみ出ているというか、ソフィア・ローレンの主演はカルロ・ポンティの映画だからしょうがないというか当然なんだろうけれども、その相手役にロバート・ハリスというのは渋い。日本でこのころアイドル的人気のあったレイモンド・ラブロックの出番も多いし、ベルイマン作品でおなじみのイングリッド・チューリンが、「こんな娯楽作品に!」って感じでおどろかせてくれる。ちょっとしか出てなくって、さいごにその顔がアップになるもんで「ああ、この人も」というのがアリダ・ヴァリ。このあたりがいかにもヨーロッパ映画、という感じになるけれど、やっぱ演出がハリウッドっぽいし、カルロ・ポンティとしてもそのあたりでハリウッド・スターの大物も、というところがあったんだろう。なんと、エヴァ・ガードナーがここで、スクリーンにその貫禄をみせてくれているわけだ。その愛人というかペットの役で、まだ若いマーティン・シーンの姿。とりあえず映画のなかでうらみを一人で買っているような、アメリカの軍人役でバート・ランカスター、その部下でちょっと脳天気っぽい(じつはたんじゅんな脳天気ではないのだが)若いのにジョン・フィリップ・ローなどなどが出演している。そうそう、リー・ストラスバーグも、収容所体験のあるユダヤ人として出演している。

 さてさてこの作品なんだけれども、なんちゅうのか、冒頭からストーリーがでたらめというか、「そりゃおかしいやろが!」とか「そりゃないだろ!」みたいな展開が山ほど出てくるわけで、観ていてちょっと腹立たしくもなってくるのだけれども、ところが、その腹立たしさが、はたしてこの作品の展開からくる腹立たしさなのか、バート・ランカスターが示すめちゃくちゃな対抗策に腹立たしく思っているのか、このことがだんだんにごっちゃになってきてしまう。ある意味、すっごい演出、という気にもなってしまう。

 とうとう終盤にはハデな撃ち合いにもなってしまうし、いよいよ映画は悪夢的な展開になっていくのだけれども、そのラストにはけっきょくは、ものすごいっぱいの無垢の乗客たちが死んじゃったりするのね。なんだか観ていてもやりきれない。ラストに「バート・ランカスターもイングリッド・チューリン(かわいそう)も消されるんだな」みたいな暗示もあるんだけれど、そこも合わせて、なんともやりきれない、暗うつな気分にさせられるパニック・ムーヴィー。まあそういうところにヨーロッパ映画らしさが出ているといえばそういうことなのか。


 

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■ 2012-09-18(Tue)

 しごとは休みで、きのうからの連休。それでも、しごとのある日のいつものじかんには目がさめてしまった。起き出してパソコンをつけてあれこれとみていて、あれ、とうしろを振り向くと、ニェネントがわたしのそばでうずくまっていた。かわいいねえ、やっぱりわたしのそばにいるのがいいんだねえと、抱き上げていじくりまわす。口をあ〜んとあけさせて口のなかをのぞくと、上あごにも下あごにも前歯が並んでいるのがみえる。上も下も、その両側に牙というか、犬歯(ネコでも「犬歯」というのだろうか)が対になってとがっているのだけれども、そのあいだに、せいぜい一ミリほどの小さな歯が六本、やはり上にも下にもおなじように生えている。すっごくちっちゃな歯で、かわいらしいのだけれども、こんな小さな歯がいったいどういう役を果たすんだろう。ただ、くわえたもののすべり止めの役なんだろうか。ネコの口のなかは、上あごの内側がざらざらの波模様になっていて、きっとやわらかい食べ物はこのやすりみたいなところと舌とではさんで、すりおろすようにして食べるんじゃないかと思う。硬いものを食べるときはカリ、カリと音をたてて食べているけれど、みていると奥の方の歯で噛んでいるようである。やはり、この小さな前歯は「すべり止め」なんだろうと思う。

 昼にヴィデオを一本観て、昼食はまたもスパゲッティ。午後は「LAヴァイス」を読んで、予定どおりにきょうで読み終えた。


 

[]「インセプション」(2010) クリストファー・ノーラン:監督 「インセプション」(2010)  クリストファー・ノーラン:監督を含むブックマーク

 まえに映画館で観て、めんどくさい映画だなあとか思っていたのだけれども、こうやって観直してもおなじ感想というか、観念が先走りすぎてストーリーを支配し、映像が追いついていない作品という印象。CGを駆使した映像はすごいじゃないか、という意見もありそうだけれども、きのうのコッポラの映画ではないけれど、内容と結びついた、美しさを感じさせるような映像というものではなかった。

 まえに観たときにも、「夢というものはもっと豊かな映像を持っているものだ」と思ったのだけれども、再見して、そういう気もちはよけいに強くなった。「ペンローズの階段」とかを持ち出して、ほらほら、なんていうのはやはり観念が先行しているからこういうことをやるわけで、作者は「無意識」であるとか、「非合理」という夢の性格について無頓着というか、あえてそういう側面を無視しているようである。この作品でゆいいつ持ち出される「非合理」とは、コマであらわされる「トーテム」というものだけ、のようだけれども、それもまた合目的的な原理のもとの存在で、「非合理」といえるようなものでもないだろう。

 「夢」の映画というのなら、やはりわたしは「アンダルシアの犬」のような作品がいいし、この作品とよく比較される「去年マリエンバードで」の演出は、まるで異なるものだと思う(いっしょにするなんて、失礼至極であろう)。

 とにかくわたしは、クリストファー・ノーランという監督の作品がすばらしいものだ、なんてとても思えないでいる。

 

 

[]「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著 栩木玲子+佐藤良明:訳 「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著 栩木玲子+佐藤良明:訳を含むブックマーク

LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

 やさぐれたアロハシャツの、ヒッピーくずれの私立探偵ドックが、1970年のロサンゼルスで、失踪した元恋人と、げんざいはその愛人だったらしい不動産業者の行方をさぐる。ドックがロサンゼルスのなかを移動すれば、向こうからあたらしい情報、あたらしい事件が飛び込んでくる。ロス市警のライヴァル、ビッグフットとのさやあてなどもまぜこみながら、ドックは殺人にも巻き込まれるし、サーフバンドのサックス奏者が死んだという情報も、いや、彼は生きているという情報も。ニクソンの肖像を刷り込んだドル紙幣も大量に発見され、なぜかそれは流通もしているような。事件はつまりは、ヒッピー的な相互扶助の精神とかに転向しようとしていた不動産業者をもういちど思想転換させ、60年代のヒッピー思想をなしくずしにしてしまうような企み、だったような。その背後にはチャールズ・マンソン事件の影が、いつも見え隠れしているような。

 時代の流れは大きく右旋回していくようだけれども、ドックはとりあえず、サックスプレーヤーとその家族を守ることはできた。それはドックに残されたさいごの「賭け」だったかもしれない。ロスの霧のなかを走るドックは、なぜかBeach Boys の「God Only Knows」を聴いている。ああ、この曲が出てくるからといって、あの例の日本の小説家がこの作品を気に入ったりすることが、ぜったいにありませんように!

 いろいろな読み方、楽しみ方のできる本だと思うけれど、わたしはどうしてもこの作品のなかで紹介される音楽に反応してしまう。そして、この作品の時制と、主人公ドックが聴いていたり、その周辺でかかっている曲のもつ時制との「ずれ」とかが、気になってしまうのである。

 時は1970年。この小説はおそらく、その四月から五月にかけての出来事として書かれているらしい。そうすると、じっさいにそのときにヒットしていた曲がガンガンかかっていてもおかしくないし、それが自然だと思うのだけれども、じつはそういう楽曲はまるでこの小説には登場して来ない。この時期、わたしの資料ではちょうど、Jackson 5 がデビューして、圧倒的な人気を得た時期になる。まずは「ABC」が大ヒットし、それにつられて先にリリースされていた「I Want You Back」もまたトップに登り詰めていたのがこの1970年の春。そのちょっとまえには、解散前のBeatles のさいごのシングル「Let It Be」が、さらにそのまえはSimon & Garfunkel の「Bridge Over Troubled Water」が大ヒットしていた。そしてこの小説のラスト、この本の巻末の解説によれば1970年5月8日にはどんな曲が?というと、翌9日付けのチャートではGuess Who の「American Woman」が一位になっていた。そういう曲、この作品のなかにはまるで登場してこない。それはともかくとしてもしかし、この時期のアメリカ西海岸では、それこそウエストコースト・ロックとでもいうものが、いわゆるシングルチャートとは別にガンガンかけられていたのではないだろうか。そういうのでは、わずかにJefferson Airplane の名まえこそは、この作中にいちどだけ登場する。それよりは東海岸で活躍していたDoors の方がとにかくは二回登場する。つまり、そういう西海岸派のロックはまるで無視。登場人物たちはロックがお好きではないのか、ドックがいつも思い浮かべるのはもっと古いサーフィン・サウンドだったり、60年代初頭までのオーソドックスなポピュラーソング、そしてドゥーワップなどばかり。ほかの登場人物も、古いミュージカルナンバーだとかを唄ったり。Blue Cheer やElectric Prunes は出てくるけれど、それは音楽というよりも会話を遮断する「騒音」として認識されているような。
 ロックが登場しないのと同じように、ここではリズム&ブルースもまるで人気がない。わずかにLittle Anthony & Imperials の名が、いちど出てくるだけ。しかしながら、いかにもトマス・ピンチョンらしく、Bonzo Dog Band はかかるし、Tiny Tim も、Wildman Fisher も、もちろんFrank Zappa の名まえなどがずらずらと登場する。たしかドックはPearls Before Swine のTシャツを着ていたときもあったようだったし、このあたりはこの作品のBGMとして、これらのアーティストの楽曲が聴こえるようだと最高だろう。少なくともこのあたりのアーティスト、いわゆる通常の売れ線ロックとは一線を画している。あとは、Tim Buckley とか、Captain Beefheart なんかも聴きたいっすねえ。

 いわゆるロックに興味がない、ということは、つまりはまえの年のウッドストック・フェスティヴァルをヒッピーたちの祝典とかとしてとらえて賛美するのではなく、そのウッドストックの一週間前に起きた、チャールズ・マンソンらによるシャロン・テート殺害事件の方をこそ、という視点の延長でもあるのだろう(ちょうどこの小説の時制に、Crosby, Stills & Nash の「Woodstock」もまた、ヒットしていた)。

 さてそれで、もうひとつのキー、サーフィン・サウンド、というのか、サーフ・ロックというのかについてだけれども、なかなかメジャーなところにあがってくるバンドが少なかったのでわたしもよくわからないんだけど、60年代初頭の西海岸には、このテのサーフィン・サウンドを演奏するアマチュアバンドが群れていたらしい。そういうなかでメジャーになるのがVentures だったりChantays だったり、Dick Dale だったりというわけ。これにヴォーカルが入るとBeach Boys とかJan & Dean になる。まあ基本にパンクな要素をかかえていたのがそういうサーフィン・サウンドの原点ではないかと思うんだけど、そういうパンクっぽさで思いっきり突っ走ったのがTrashmen なんか、だろうか。面白いのは、のちにフォーク・ロックとしてブレイクして、そのあとに「Happy Together」なんかの大ヒット曲をリリースするTurtles が、そのバンドのスタート時にはサーフ・バンドだったというあたりで、とくに解散後、このバンドからヴォーカルの二人を含めた三人がFrank Zappa と合流、あたらしいMothers Of Invention を結成したりしているあたりで、その時制は1970年末になるからこの小説には間に合わなかったけれど、この小説の終ったあとの世界で、ドックはこのあたらしいMothers Of Invention を愛聴するようになったかもしれない(まさかTuetles が、この作品に登場する「ボーズ」のモデルというわけもないだろうけれども)。                              

 ‥‥作品とまるでかんけいのないことをダラダラと書いてしまった。まあ、こういうふうに楽しませてくれるところが、わたしがピンチョンを愛読する理由であったりもする。

 作品のまんなかあたりで、ヒッピーたちがミュージックショップの試聴ブースで、ヘッドフォンを装着して音楽を聴いているのをドックがながめ、次のような感想をいだくあたり、ちょっとナマだけど、ピンチョンの主張だろうか。

(‥‥)ここでは誰もが閉じこめられるようにして、互いに黙って音楽を聴いていた。そのうちの何人かはこのあとレジへ行ってロックを聴くための金を払うわけだ。ドックにはそれが奇妙な賦課金というか回収金のように思えた。一つの壮大で集合的な夢の中、誰もがそこに留まってトリップを続けるよう仕向けられている

 これ以降、ずっとこうやって音楽は売られてきて、わたしもまた、そうやって音楽を買っていた。

 ‥‥次の引用も、ピンチョンらしからずベタといえばベタなところだけれども。

この世をほのかに照らすかに見えたサイケデリック・シックスティーズの光も結局ついえて、すべては暗黒へ還っていくのか‥‥闇の中から何やら恐ろしい手が延びてきて<時代>が収奪されるというのも、マリワナ吸いから煙るクサを奪って踏み消すくらい簡単なことなのか。

 また「ヴァインランド」が読みたくなってしまった。新訳も出ているんだった。


 

■ 2012-09-17(Mon)

 そういうわけで、きょうとあしたはしごとが休み。世間的には、おとといの土曜日からきょうの敬老の日までが三連休だったらしい。通常のカレンダーでのしごとをやってないので、そのあたりの感覚が薄いというか、とくに祝祭日というものは、わたしのなかでまるで意識されなくなっている。

 きのう決めたように六本木へ買い物に行き、映画を観てくる予定なんだけれども、映画は三時半の上映に合わせて行くことにして、それなら家で昼食をとってからゆっくりと出かけられる。映画を観てそのまままっすぐ帰宅すれば、八時半ごろには戻れるんじゃないだろうか。余裕があるので、午前中に一本ヴィデオを観て、昼食はまたスパゲッティにして、ゆっくりと家を出た。

 きょうもまだ残暑がきびしく、ひざしも強いのだけれども、天気予報では夕方に雨が降るかも、ということで、電車に乗ると傘を持っている人のすがたも。電車のなかで「LAヴァイス」を読みすすめ、ずいぶんとはかどった。予定どおり、あしたじゅうには読了できるだろう。やはり読書には電車のなかがいちばん、である。いままでは六本木に行くには新宿で大江戸線に乗り換えていたのだけれども、きょうは恵比寿まで行って、そこから日比谷線に乗り換えた。地元からは新宿で降りようが恵比寿まで乗ろうが、運賃はおなじなのだった。大江戸線で新宿から六本木へ行くより、日比谷線を使う方が五十円安いんだね。乗り換えもかんたん、なのである。

 六本木へ着いて、六本木ヒルズのシネコンへ行く。めざす映画のチケットを買おうとしたら、どこにもその「ヴァージニア」のタイトルが書かれていない。いったいどういうことなのかと、なんども掲示を見直してみる。やはりみつからない。じつはもう上映は終了してしまっているのだろうか。とにかく、「案内」に行ってきいてみると、それは六本木の別の映画館で上映されているとのこと。えええ! わたしは六本木の映画館というのはココだけだと思い込んでいた。どうやらそういうまちがいをしでかす人はわたしだけでなくおおぜいいるようで、案内にはちゃんと、六本木ヒルズからそのもうひとつの映画館までのみちすじを示した地図が用意してあるのだった(!)。場所は六本木交差点のちょっと向こうの裏通り。むかし、アート系のクラブとかごちゃごちゃと並んでいたあたりで、よく行ったことがあるあたり。もう上映開始時間はせまっているけれど、なんとかギリギリ間に合いそうである。

 ちゃっちゃかと歩いて、無事にじかんまえに映画館発見。そうか、いつのまにかこういうミニシアターみたいなのが出来ていたわけか。まるで知らなかった。
 チケットを買って、映写室に入って座席にすわると、すぐに予告編とかの上映がはじまった。客席は二百席もないようで、スクリーンもあまり大きくはない。で、その予告などの上映がプロジェクター上映だったので、本編もそうだったらイヤだなあと、ちょっと不安になる。プロジェクターはやはり、画像の鮮度も落ちるし、色彩もきたないのである。観ていても、「ウチのTVの方がよっぽどキレイに映るよ」なんて感想があたまをよぎる。
 しかし、とつぜんに画像が鮮明になり、ああ、本編が始まるのだな、と了解できた。ちゃんと本編は映写機での上映だったということなのか。

 上映時間一時間半の作品で、楽しんでいるあいだに、あっという間に終ってしまった。いやあこれもまた、楽しい映画だったこと。映写室を出て、プログラムを買っちゃってもいいなと、映画グッズ売り場へ行くと、この作品のプログラムはもう完売になっているようだった。ざんねん。

 外へ出て、ほんらいの目的だった買い物も無事にすませ、ちょっと本屋に寄って書棚の新刊書籍などをチェックする。フーコーの「知の考古学」が文庫になっているのも気になったけれど、ドゥルーズ/ガタリの「哲学とは何か」もまた文庫化されていた。ちょうど「LAヴァイス」もそろそろ読み終わるので、つぎは「哲学とは何か」にでも取り組んでみるかと、これを購入した。

 また日比谷線で恵比寿まで行き、ちょっとじかんもあったので、むかしよく行った飲み屋街のあたりをぐるりとまわってみた。このあたりのふんいきは嫌いではなく、またこのあたりでちょっと飲んだりもしてみたい。歩いていると「飲み放題980円」なんて看板が出ていたので、「入っちゃおうかな」なんて、気もちがふらっとした。しかしどうせ飲むだけではすまないわけだから、やはりここはまっすぐ帰宅して、スーパーで安く値引きされた刺身とか弁当を買おうということにした。
 電車を乗り継いで、八時ごろ自宅駅に到着。スーパーへ行ってみると、ちょうど弁当のパックなどが値引きされはじめたところだった。助六寿司と、百円になっていた「まぐろ丼セット」というのを買って帰る。「まぐろ丼セット」というのは、ごはんの上にのせればすぐに「まぐろ丼」になりますよ、というセットで、保存食のパックごはんを電子レンジであたため、おいしくいただいた。いや、それほどおいしくもなかったのだけれども、百円だから何でもおいしい。


 

[]「質屋」(1964) シドニー・ルメット:監督 「質屋」(1964)  シドニー・ルメット:監督を含むブックマーク

 ホロコースト体験で家族を失いながらも生還し、いまはニューヨークの下町で質屋をいとなむ男の、なおいまでも彼の精神をさいなむそのトラウマ体験を、そのまま映像化したような作品。主演はロッド・スタイガー。フラッシュバックというよりも、あまりにみじかすぎて、それではサブリミナル映像でしょう、というような過去のイメージが頻出する。客が質草に差し出す指輪を見れば、収容所でそういう私物を供出させられたことを思い出し、電車に乗れば、収容所へのユダヤ人輸送列車のことを思い出す。裸の女性が目のまえに立っても、自分の妻が収容所でナチス将校にレイプされたのを見せつけられた体験に結びつく。あまりに苛酷すぎる。

 撮影がボリス・カウフマンで、そのニューヨークの下町、そこを駆け抜ける人物をロングでとらえたり、移動カメラでとらえたりするショットがすばらしい。やはり彼が撮影監督だった「波止場」を、また観たくなった。

 

 

[]「Virginia/ヴァージニア」フランシス・フォード・コッポラ:監督 「Virginia/ヴァージニア」フランシス・フォード・コッポラ:監督を含むブックマーク

 主人公はそんなに売れていないオカルト作家で、地方の町をみずから巡回して、持ち込んだ自分の著作にサインして売っているという設定だけれども、出版者にかけあえば前金で一万ドルとか気前よく出してくれるし、自宅に戻ればなんとホイットマンの「草の葉」の初版本(映画のなかでは十六万ドルになる、といっている)も所有しているようで、これは思ったほど売れてないわけでもなさそうである。で、彼が、塔の上に七面の時計がしこまれた時計台のある田舎町にやってくる。その町にはむかしエドガー・アラン・ポーが宿泊したことのあるというホテルの廃墟も残されている。この主人公を演じているのは、ちょっと太めになったけれども、あいかわらず髪をうしろに束ねているヴァル・キルマー。その町の保安官(ブルース・ダーン)が彼に興味を持ち、自分もそういうホラー小説を書こうとしているので、アイディアを提供するからいっしょに書こうとか言い出す。ちょうど死体置き場に殺された少女の死体もある、見ておかないか、と。どうやらこの町の川向こうに、カルトっぽい若者の集団がテント生活を続けていて、この死体も彼らにかんけいしているだろうと保安官はいう。

 夢のなかで主人公はまだ営業をつづけている例のホテルへみちびかれ、その道すがら、謎の少女(エリ・ファニング)に出会う。かのじょは自分のことを「V」と名のる。ホテルに行くと、じつはむかし、そのホテルを舞台にして十二人の少年少女が殺害され、その遺体はまだそのホテルの地下に埋められたままだという。目覚めた主人公は、その大量殺人事件がげんじつに起きていたことを知る。にわかに創作意欲がわきあがり、保安官のいうようにここで小説を書いてみようという気になる。

 主人公が眠るとまた夢のなかできのうの夢の続きがはじまる。夢のなかにエドガー・アラン・ポーがあらわれ、彼を導いて行くことになる。過去の事件のことが、だんだんに明らかになっていく‥‥。

 ‥‥いやあ、期待していたとおり、じつにち密で美しい映像。とくに夢のシーンでの、モノクロ映像のなかであやしくゆらめく黄色い炎や、なによりも深紅のカーテンの美しさ。堪能させていただきました。

 で、ものがたりの方だけれども、コッポラといえば、その映画作家としてのスタートが、あのロジャー・コーマンのもとでの、つまりはB級映画の製作にあることは周知の事実である。そして、そのころのロジャー・コーマンは、つぎつぎとエドガー・アラン・ポーの作品を映画化していたわけでもある。コッポラのデビュー作といえるのか、「古城の亡霊」もまた、エドガー・ポー趣味にあふれたゴシック・ロマンではあった。‥‥そうすると、この映画の主人公に、そのコッポラ当人の過去のすがたをも、ちょとは投影してみたくもなるというものである。いや、過去のすがたであるひつようのない、げんざいのコッポラであってもいいだろう。そうやってみていると、主人公と出版社の男とのやりとりで、出版社の男が「文体ではなく、ストーリーをちゃんとやってくれ」みたいなことを作家に語るあたりで、ちょっとばかし笑い出したくなってしまう。そうか、コッポラはそういうことをいわれているんだろうか、そういわれることもしかたがないかな、などということを思ってしまう(って、わたしは近年のコッポラの作品をまるで観ていないので、あんまりわかったようなことはいえないのだけれども)。

 それでまあ、この作品に関して、もんだいにされたそのストーリーがどうかというと、これがかなりいいかげんというか、置いてきぼりのままの部分とか、どうもしゃくぜんとしないところにあふれているようにも思えてしまう。そういう意味では、出版社の要請なんかけっとばしてしまって、「ストーリーよりも文体を」ということでつくっちゃった作品じゃないの、って感じになってしまう。つまり、そういう「文体」としてみれば、この作品はその美しさで観るものをたっぷりと楽しませてくれることになる。で、「この楽しさって‥‥」などと考えると、なんだかここで、「スリーピー・ホロウ」あたりの、絶頂期のティム・バートンの作品を思い出してしまうことになる。ちょっとユーモアを含んだこの語り口も、映像の組み立て方も、ほんとうに「スリーピー・ホロウ」あたりを彷佛とさせられてしまう。って、「アレ?」って思い当たることがあり、記憶をたどってみると、その「スリーピー・ホロウ」、まさにコッポラこそがプロデューサーをつとめていたのだった。そういうことなのか、コッポラのなかで、この「ヴァージニア」をつくるとき、過去にじぶんがプロデュースした「スリーピー・ホロウ」のことを思い出していたことだろうけれど、いったいどのように思い出していたんだろう。オレがメガホンをとれば、「スリーピー・ホロウ」なんかメじゃないぜ、みたいな気もちもあったのかなあ。そうそう、そういう過去の作品のことでいえば、つまりは、エドガー・アラン・ポーの原作の映画化で、いままでの作品でいちばんインパクトのあった作品といえば、そりゃあフェリーニがテレンス・スタンプで撮った「悪魔の首飾り」だ、といっちゃっていいんじゃないだろうか。その「悪魔の首飾り」への、ある意味とんでもないパスティーシュも、この作品のなかには登場するわけである(びっくり!)。あと、「それって、ぜったいアンドリュー・ワイエスでしょ」みたいな、老女をとらえたショットが、前後の脈絡もなくはさみこまれたりもする。

 しっかし、この結末。作者が、自分んの娘の死の責任が自分にあるとその作品のなかであらわしても、それが本になってある程度売れちゃえば、それでもってニコニコしちゃって、懺悔するわけでも反省するわけでもないみたいな。こういう「オレが悪かったんだぁ」みたいなことを作品のなかで書いちゃっても、あとはケロッとしてるみたいなのって、この映画のなかで主人公が語ったような、「自分のことを、自分のために書く」ということへの強烈な皮肉というか、作家からすれば「自虐」なのかもしれない。

 日本のタイトルは「ヴァージニア」で、それはエドガー・アラン・ポーの年少の早逝した妻の名まえだから、観客をだますのにはうってつけ(わたしもだまされた)なのだけれども、原題は「Twixt」という、どこか美しいことば。調べると、これが「Twixter」ならば、「思春期と大人のあいだの人、大人になりきれない若者」とかの意味になるらしい。そうすると、コッポラとしてはやはりこの作品のメインは、エリ・ファニングの演じた「V」という女性だとか、その川向こうでたむろしているグループや、そのリーダーのフラミンゴという名まえの、ボードレールなどを暗唱する男などの存在にある、ということなのだろうか。わたしも、そのフラミンゴと「V」とが、いっしょにバイクで疾走する場面では、ちょっとばかし恍惚となってしまった。まだわたしはコッポラよりはずっと年下なのに、ね。

 ネットをみるとやはり一般にはずいぶんと評判の悪い作品のようだけれども、とにかくわたしは大好きな作品。また観たい。

 


 

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■ 2012-09-16(Sun)

 きょうしごとに出れば、あしたあさってはまた連休なので、がんばってしごとに出た。日曜日だというのに冷蔵の荷物がいつもの何倍も来ていて、すっかり消耗、すっかり涼しくなってしまった。

 あしたかあさってにはせんじつ買えなかったものを買いに、またお出かけする予定。かくじつにゲットするにはやはり東京まで出かけないと安心できない。それなら、せっかく出かけるんだからまた映画でも観ちゃおうかな、なんて考える。給料日まであと一週間。その買い物をして映画を観ても、「つかいすぎ」ということにはならないようである。もうさいきんは情報不足で、いったいどんな映画がロードショー公開されているのか、まるで知らない。それでもなんとなく、色彩設計とかちゃんとしている、画面のきれいな作品を観たいという気もちがあって、そういう基準で探してみる。だいたいわたしは映画のストーリーとか出演俳優とかほとんどどうでもよくって、まあストーリーがどうでもいいというのは自分ではちょっと過激な観方ではないかと思ってるんだけれども、そりゃあ観てしまえばストーリーを軸にして作品を理解するから重要だけれども、観終ってしまえば、しゅんかんしゅんかんの印象的なシーンを基準に映画を記憶することになる。つまり、さっき書いたように、きちんとした色彩設計、しっかりした美術、ちゃんとした撮影技術で撮られた作品がいい、ということである。ストーリーにムリがあっても、演出で困ったところがあっても、そういうことは度を過ぎなければあんまり気にしない。ただ、演出の下手な監督はだいたいがそういう美術や撮影、色彩に無頓着なことが多いので、やはりそれまでの実績で、「この監督の作品ならきれいに撮ってくれているだろう」というように、監督の名まえで作品を選ぶケースが多くなる。まあビッグネームの監督ならOKというわけでもないし、近年の名の知られた監督でも、そういうことまでは期待できないという人がほとんどになってしまった。つまり、いっぱんに映画というものも「ドラマ」として見られることがほとんどになってしまい、わたしのように「つくりもの」として見ようとするような視点は、もちろん主流にはなりえないのである。
 じゃあ、「つくりもの」ということならSF映画とかならなんでもいいんじゃないのか、てなことにもなりそうだけれども、そこで演出力っつうことになってくる。いまのSFはただCGとかSFXとかの技術にたよるばかりで、そのあたりで観てもうんざりしてしまうことは多い。せんじつ観た「プロメテウス」なんかは、そのあたりの演出力とのバランスがとれているわけで、観ていても楽しかったけれど、SF映画がみんな「つくりもの」として楽しめる、ということにはならない。ただ、分野として、SF、それから怪奇幻想関係で、ホラーとかも好きである(ホラー映画もまた、SF映画とおんなじにひどいことになっている印象だけれども)。

 そういう基準で、げんざい上映されている作品をチェックして行く。ちょうど岩井俊二監督の「ヴァンパイア」なんていう作品が公開されたばかりで、蒼井優とかも出演していて気にならないこともないのだけれども、公開されはじめたばかりでは劇場も混んでいるだろうし、どうも岩井俊二監督というのも、信用がならない監督ではある。やはりとりあえずはパス。公開中作品のリストをずっとみていくと、ぜんぜん知らなかったけれども、コッポラ監督の新作、エドガー・アラン・ポーを題材にしたという作品が公開されているのが目にとまった。
 う〜ん、これだね。コッポラ監督ならまさに、そういった映画を成り立たせる色彩設計、美術、撮影に気を配ってくれる監督だろうし(過大評価?)、さらにこの人は映画の音響設計に関しても卓越した演出力を持つ、そういうオールラウンドに気配りのきく、まれな監督さんではあられるだろう(こういうことのできるのは、あとはゴダール監督ぐらいのものだろうか、なんていうと、「コッポラとゴダールをいっしょにするのか」と怒られてしまいそうだけれども)。
 ‥‥決定。あしたは、六本木に出て、コッポラ監督の「Virginia ヴァージニア」を観よう。

 きょうは「ひかりTV」で「エイリアン」が放映されていたので、グッドタイミングと、録画しないでダイレクトに観て、これまではアナログTVでしか観たことがなかった作品だし、「やっぱりハイヴィジョンはすばらしいなあ」と、その画像のクリアさにちょっと驚嘆した。そのあとは、ずいぶんまえに録画してあったクローネンバーグの「戦慄の絆」を観る。やはりわたしにとってクローネンバーグのベストは、この「戦慄の絆」だろうか。DVDを買いたくなった。

 

[]「エイリアン」(1979) リドリー・スコット:監督 「エイリアン」(1979)  リドリー・スコット:監督を含むブックマーク

 「プロメテウス」を観たあとなので、その関連でいろいろと気になったこともある。しかし、この作品を映画館のスクリーンで観たことはなかったし、まえに観たのも古いアナログTVのモニターで、VHSなどで観ただけだったから、こうやってクリアなハイヴィジョン画面で観ると、まるではじめて観るようなおどろきに似たようなものも感じた。とくに、二番目の犠牲者になるハリー・ディーン・スタントンがネコを探して宇宙船内をあちらこちらと移動する場面で、そのノストロモ号の異様な巨大さ、また、その老朽ぶりがあらわされるシーン、やっぱり驚異を感じる。

 いま観ると、そのシステムの異様な古くささが気になってしまう。モノクロでテキストのみのコンピューターディスプレイだとか、宇宙船の操縦制御に大量のトグルスイッチが使われているところなど、「ありえない」という感想になる。やっぱ「未来世界」を描くSFの、宿命的な困難さではあるんだろうけれど、さいきんのSF作品では、「近未来ならこうなっているだろう」という、予測をふくめての映像になっていることが多い。しかし、観ている方ではそういう未来のテクノロジーの予測というのに違和感を感じたりもするのである。

 ギーガーの造型などに見慣れてしまったこともあり、そういう面での「おどろき」というのはもうなくなってしまったけれども、映画美術のなかでのアートっぽいこころみということでは、画期的なものとして、いつまでも記憶に残るんじゃないだろうか。

 

 

[]「戦慄の絆」(1988) デヴィッド・クローネンバーグ:監督 「戦慄の絆」(1988)  デヴィッド・クローネンバーグ:監督を含むブックマーク

 そういう、映画のなかでのアート、ということでは、わたしはこの「戦慄の絆」の方が好きである(この作品はむかし映画館で観た)。冒頭のタイトル・クレジット部で連続して出てくるイラストの美しさ、これはクローネンバーグ監督の次の作品「M・バタフライ」でも、花札カードとして同じように提示され、そっちもまたきわめて美しいものだった。この「戦慄の絆」の冒頭のイラストは、ドラマのなかで現実の手術器具として登場し、ドラマ展開に大きな役割を果たす。そのいくつかの器具からは、さきに観た「エイリアン」の、クリーチャーの身体を思わせられるものもある。その手術器具いがいでも、美術がとっても印象に残る作品である。いくつも出てくる部屋の形状、内装、そのライティングなど、近未来の住宅モデルのように見えるものがあるし、この兄弟の住むマンションのエレヴェーターの内部はステンレス張りになっているように見える。そういうインテリアだけでなく、弟の手術シーンでの深紅の手術着のことはぜったいに忘れることの出来ない、強烈な印象を残す。

 ものがたりはじっさいに起きた双児の医師の怪死事件をもとにしたものらしいのだけれども、たしかその事件の概要の書かれた本はむかし日本でも翻訳が出ていて、わたしもそれを読んだ記憶がある。もうすっかり忘れてしまったけれど、この映画作品との関連は、「双児の医師がいっしょに謎の死をとげた」ということいがい、なにもなかったと記憶している。このものがたりは、その事件から触発されたクローネンバーグのオリジナル、ということ。離れてはいても自分たちを精神的に「結合双生児」ととらえているふたりの、そのたがいに狂っていくさまは、わたしには涙なくしては観られなかった。



  

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■ 2012-09-15(Sat)

 きのう早くに眠りについたまま、あさの四時まで寝てしまい、ケータイのアラームで目が覚めた。それでもまだ眠りたいという感覚で、きょうはしごとがあるからとムリしてベッドから起き上がった。いつもどおりに出勤して、ちゃっちゃっとしごとをこなし、無事帰宅。

 このところニェネントの食欲がおう盛というか、いままでになくよく食べる。またこれから成長して大きくなるんだろうか。じつはラグドール種というのはネコのなかでももっとも大きく育つ種という情報もあって、そういうラグドール種のデカい写真をみたこともある。やはり成長しきるのに三、四年かかる種、らしいので、ニェネントもまた、これからもまだ大きくなるんだろうか。あんまりデカいのもイヤだけれど、牝ネコは牡ほどには大きくならないらしいので、そういうことにしておいてほしい。

 昼食にはまたスパゲッティを食べ、夕食を何にしようかと保存棚をみてみると「マーボ豆腐」のパッケージが三つも見つかったので、そりゃあストックしすぎということで、豆腐を買ってきて、そのマーボ豆腐で夕食にした。おそらくはあしたもまたマーボ豆腐になるだろう。きょうはヴィデオ、DVDを三つも観てしまった。

 

[]「悪の花園」(1954) ヘンリー・ハサウェイ:監督 「悪の花園」(1954)  ヘンリー・ハサウェイ:監督を含むブックマーク

 いままでに観たヘンリー・ハサウェイ監督の作品、しょうじきどれもかったるい作品ばかりだったけれど、いわゆる西部劇とはひとあじちがった、屈折した人間ドラマっぽいこの作品は、いままでの彼の作品よりは興味深く観ることが出来た。もちろんそこに、ゲーリー・クーパーだとかリチャード・ウィドマーク、そしてスーザン・ヘイワードなどという、わたしには魅力的な役者さんたちが出演していたから、ということもあるだろうけれども。

 金鉱発掘のためにたぶんサンフランシスコに向かっていた船が故障して、乗員はそばのメキシコ海岸の町に上陸する。酒場で飲んでいるとスーザン・ヘイワードがやってきて、鉱山の事故で夫が動けなくなっているので、助けに来てくれと。道のりは遠いし、その鉱山の周辺にはインディアン(先住民)もうようよいるらしいんだけど、提示された二千ドルという礼金につられてか、スーザン・ヘイワードの魅力につられてか、船に乗っていた三人のアメリカ人と、一人のメキシコ現地人が助けに向かう。もちろんそのなかにゲーリー・クーパーとリチャード・ウィドマークが入っていて、つまりはその他のふたりはさっさとインディアンに殺されるとか事故で死んじゃうとか、もしくは仲間割れで殺されるかだろうって想像がつく。ものすごい山道とかを馬で走破して、五人はその鉱山に到着する。とちゅうでいちばん若いアメリカ人がスーザン・ヘイワードにせまるけど、きっちり拒絶されたりする。スーザン・ヘイワードの夫は落盤の下でまだ生存していて、助っ人に助け出されるのだけれども、助けに来たスーザン・ヘイワードの真意を疑っている。オレよりも金が目当てだろうと。皆が発掘した金を手に入れたいま、ケガをして馬に乗るのがやっとの自分はお荷物でしかないだろうと、若者に頼んで馬に乗せてもらい、一行からひとり離脱しようとするが、すぐにこのふたりはインディアンにやられてしまう。じわじわと迫ってくるインディアンからの逃走、とちゅうでメキシコ人も殺され、予想どおりに生き残ったのは三人になる。山の崖道までもどり、ここでひとりがインディアンの追跡をくいとめれば、助かることもできるだろうということになる。ゲーリー・クーパーとリチャード・ウィドマークはその残るひとりを決めるのにカードを使い、リチャード・ウィドマークが残ることになる。スーザン・ヘイワードと安全なところまで脱出できたゲーリー・クーパーは、あのさいごのカードはイカサマだったと、リチャード・ウィドマークのところへもどっていく。インディアンらは撃退されてその姿もなかったが、リチャード・ウィドマークもまた瀕死の重傷を負っていて、ゲーリー・クーパーにみとられて死んで行く。ラストは、夕陽の壮大な光景のなかを、ゲーリー・クーパーとスーザン・ヘイワードの乗る二頭の馬がつらなって走るロングショットでおわる。

 ゲーリー・クーパーはとちゅうで元保安官だということがわかり、どうやらリチャード・ウィドマークはイカサマばくち打ちらしい。例によってゲーリー・クーパーはいったい何を考えているのか、何をやろうとしているのか読み取れないところがあって、もちろんわたしにはそういうところがゲーリー・クーパーの魅力なんだけれども、それでもスーザン・ヘイワードに対してどんな感情を持っているのかはよくわからない。リチャード・ウィドマークはなんというのかニヒリストというのか、どこか死に場所を探していただけのようなところがあり、スーザン・ヘイワードのことなんかどうでもいいみたいである。そうするといったい、この作品でのスーザン・ヘイワードの立ち位置はどこにあるのか、あんまりしゃんとみえてこない。まだ若者や助けたダンナを惑わせたりする前半はわかるけど、そのあとは彼女の存在理由がなくなってしまう感がある。ただ「助けられるべき存在」というか。それで、ラストにゲーリー・クーパーは「もしも大地が金におおわれていたなら、人々はひとにぎりの土をうばいあうことだろう」などというのだけれども、インディアンを含めて、この作品のなかでそういう「金」への執着をしめすものはどこにもいないし、いったいどこに金をしまってあるのかも観るものにはわからない。それできゅうにこういうセリフ。なんか、脚本がとちゅうで変わってしまったとか、極端な演出をやっちゃったとか、裏事情がありそうな気もする。それでも、とくにスーザン・ヘイワードとそのダンナとの関係、それを推量するゲーリー・クーパーだとかとの関係、またそういうことに無関心に見えるリチャード・ウィドマークの存在など、面白いといえば面白いものであった。

 テクニカラーでシネマスコープ。すっごいなあ。モニターがかわると、テクニカラーもまた美しく感じられる。ロケーションもすばらしい風景がいっぱい出てきて目を楽しませてくれる(山の崖道はマット・ペインティングだったけれども)。スーザン・ヘイワードの乗馬姿がカッコいい。音楽はバーナード・ハーマン。ヒッチコック作品とはちがう、正統映画音楽とでもいえそうなスコアを聴かせてくれる。

 

 

[]「銀座化粧」(1951) 成瀬巳喜男:監督 「銀座化粧」(1951)  成瀬巳喜男:監督を含むブックマーク

 成瀬巳喜男がそのキャリアでそれまでの不調から脱し、彼独自の演出タッチを打ち出しはじめた作品ということ。風俗コメディとして楽しい作品で、当時の銀座周辺、そして東京のあちこちの街並が記録されているところも興味深い。昭和でいえば二十六年の作品だけれども、銀座なんてなんにもないんだね。今とおなじ風景というのは、上野の博物館ぐらいのものだろうか。

 主演は田中絹代で、こういうコメディタッチの作品でも、ちょっとした目配り、しぐさで笑わせてくれる。やっぱりすばらしい女優さんだなあと思う。その他の女優さんたちもなんか生き生きしているし、そういう映画のなかの女性たちの足を引っぱったり、また希望を持たせたりする男性陣もいい感じ。やっぱ女性映画の成瀬巳喜男、と納得。

 終盤の、代理デートがまた代理デートになり、さいごにその男性の相手をした香川京子の、「トンビにあぶらげ」的な展開、とっても楽しかった。

 

 

[]「ロッキー」(1976) ジョン・G・アヴィルドセン:監督 「ロッキー」(1976)  ジョン・G・アヴィルドセン:監督を含むブックマーク

 ちゃんと観た記憶はまるでない。そもそもシルヴェスター・スタローンの出演した映画というものをまるで観たことがなかったのだけれども、「エクスペンダブルズ」なんか観ちゃったし、それで「ランボー」シリーズもぜんぶ観ちゃったりしたから、ま、いいや、と。

 はじまって一時間は、まるでそのラストの対戦のためのトレーニングとかはじまらない。ここまでタリア・シャイアとの仲の進展を中心に、ロッキーの周辺に暮らす人々の描写が続いていて、このあたりがこの作品の魅力になっているのね。まあいくら「アメリカン・ドリーム」なんていったってありえないことでしょうが、なんて観ていても、それでも楽しんでしまう。ま、いいか。

 そのロッキーの早朝のトレーニングのシーンで、これはフィラデルフィア美術館らしいのだけれども、そこの階段をいっきに駆け上がるところを、カメラがまたいっきに撮り切っちゃうカットがあって、なんかすっごいカメラだなあなんて思ったら、この作品、ステディカムをさいしょに導入して撮影した作品で、その階段シーンもステディカムで撮影されていたらしい。さいきんの映画を観て、「これ、ステディカムだな」とか思って観ることもあんまりないんだけれども、こういうステディカム初期の映画で「ステディカム、すごいなあ」、なんて思ってしまうのも面白い。



 

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■ 2012-09-14(Fri)

 しごとは休みだし、きのうは遅くまで起きていたので、たっぷり朝寝をする。目覚めるともう外はすっかり明るくなっていて、窓ごしのひざしもまぶしい。きょうもまだ、きびしい残暑がつづきそう。ニェネントも、この住まいのなかでいちばん涼しそうなスポットの玄関わきでゴロゴロしている。

 遅い朝食をとって、きのう録画しておいた映画を観る。観終って、スパゲッティで昼食にして、そのあとにもう一本ヴィデオを観る。そのあとはベッドで横になって、読書にでもはげもうかと思ったのだけれどもすぐにそのまま寝てしまい、目が覚めたらもう暗くなっていた。時計をみると午後九時をすぎていて、これから起きだして食事のために炊事をする気にもならず、またそのまま寝てしまった。

 

[]「ウィンチェスター銃'73」(1950) アンソニー・マン:監督 「ウィンチェスター銃'73」(1950)  アンソニー・マン:監督を含むブックマーク

 アンソニー・マン監督といえば西部劇、とくにジェームズ・スチュアートを主演に迎えての作品群が思い出されるのだけれども、むかしむかしそれらの作品を観たおぼえはあるというものの、もうすっかりその内容、デティールなど憶えてはいない。そのアンソニー・マン監督とジェームズ・スチュアートとのコンビになる、これがさいしょの作品だということ。

 この作品が公開された時点で、ジェームズ・スチュアートという俳優さんがどのようなイメージで見られていたのかはよくわからないけれども、フランク・キャプラ監督の作品で主演したジェームズ・スチュアートのイメージでいけば、やはり善人、悪いことなどできない正義の人、ということになるだろうと思う(いや、わたしはそれ以降の彼の出演作品ぜんたいからのイメージをいっているのかもしれないけれども)。そして、この西部劇でも、そのイメージを裏切らない役柄で主演している。というか、彼がスクリーンに登場したしゅんかんから、「この人は悪人ではない」と観客に思わせるものがある。ぎゃくに、この作品で「悪役」で登場する役者さんたちは、たいていすでに「悪役キャラ」として知られていた俳優さんたち、だったらしい。そういう、その役者さんがスクリーンに登場しただけで観客はそのキャラクターの役どころがわかるということを、ほんとうにうまく活かした演出ではないだろうか。

 ストーリーは、その「ウィンチェスター銃'73」という、何万挺にひとつというようなライフルの名器、その争奪戦、銃の行方を追って行きながら、同時に主人公ジェームズ・スチュアートの復讐劇をからめていく。まずはドッジシティという町での射撃大会というものがあり、ン? ドッジシティって、きいたことある地名だなあ、などと思っていると、そこの保安官がワイアット・アープだったりして、ああ、そうだった、なんて思うんだけれども、この、ワイアット・アープの登場のさせ方がなんとも粋、というか、きっと西部劇ファンを楽しませてくれるものだったろう。それでもちろんジェームズ・スチュアートが優勝し、その名銃を手にするのだけれども、探し求めていた仇(彼はその射撃大会でさいごまでジェームズ・スチュアートとしのぎあうのだけれども)に銃を奪われてしまうわけだ。ジェームズ・スチュアートはこの町でまずはその仇とめぐりあうのだけれども、ワイアット・アープ保安官の采配で、射撃大会のあいだの銃の携帯は禁止されていたので、どうにも手を出すことも出来なかったわけだ。この仇のヤツは逃亡中に武器商人とのカードの賭けで負け、銃はその武器商人のものになる。さらに、武器商人は先住民(つまり、インディアンだな)に襲われて殺害され、銃はインディアンのチーフのものになる。このチーフを、若き日のロック・ハドソンが演じているのも楽しい。ジェームズ・スチュアートはとうぜん、旅の友といっしょに仇と銃を追っているわけだけれども、ここで酒場の歌手だかのシェリー・ウィンタース(この頃からちょっと太め!)と行動を共にしたりする。インディアンに包囲された騎兵隊といっしょになって戦ったりしながら、銃はいろんな悪いヤツらの手から手へとわたっていく。さいごにはまたあの仇のところへ銃も行ってしまい、そこでジェームズ・スチュアートとの対決が待っているわけだ。

 ジェームズ・スチュアートが仇を追って行く過程で、いったいその仇はどういうヤツで、どんなことをやらかしたのか、少しずつ観客にもわかるようになっている。それはつまりは、観客の側でもその仇への憎しみを増すというか、ジェームズ・スチュアートはぜったいにヤツを倒さなければならない!っていう思いを強くするわけだろう。

 わたしもやっぱり、その「善人ジェームズ・スチュアート」というのをいつも応援してしまいたいわけだし、そういう気もちをじゅうぶんに満足させてくれる娯楽作、ということができると思う。シェリー・ウィンタースも魅力的だったということは否定できないし、いつもジェームズ・スチュアートと行動を共にしていながらもけっしてでしゃばらない友人(ミラード・ミッチェルという役者さん、らしい)の存在もいい。つまり、ジェームズ・スチュアートが「いい人」だ、ということを、いつも彼の存在がフォローしているわけ。

 

[]「オードリー・ローズ」(1977) ロバート・ワイズ:監督 「オードリー・ローズ」(1977)  ロバート・ワイズ:監督を含むブックマーク

 ぜったいに「エクソシスト」を意識してつくられた、いっしゅオカルトな作品。監督はロバート・ワイズなんだけれども、この監督さんはほんらいこういう趣味を持ち合わせていらっしゃるような印象。どこか粘着的にせまってくるところ、「エクソシスト」に拮抗しそうなところもあるんだけれども。

 ここでの主題は「悪魔憑き」とかではなく、輪廻転生(リインカーネーション)。どっちにせよ、ある平和な家庭のなかでとつぜんに、娘がべつの人格に入れ替わって錯乱するような展開は、どうしたって「エクソシスト」である。物語の視点は終止その娘の母親(マーシャ・メイソンが演じていて、このあたりも「エクソシスト」のエレン・バーステインに対抗しようとしているようなフシがある)からのもので、いつも娘を監視している謎の男(まだ若いアンソニー・ホプキンス)から、「あなたの娘は交通事故死したわたしの娘の生まれかわりなのだ」などといわれるわけだ。その事故死した娘の名まえが「オードリー・ローズ」というわけだけれども、錯乱状態に陥った娘に、そのアンソニー・ホプキンスが呼びかけたりすると、平静を取り戻すようにみえる。アンソニー・ホプキンスは母親に、自分の娘は自らの死を納得できないまま死に、あなたの娘としてまた生まれてきているので、その死を納得させてやらなければ、いつまでも魂の平静を得られないままになる、みたいなことをいう。母親は、彼が呼びかければ娘も平静を取り戻すので、彼のいうことは信ずるべきなのかもしれないと思うのだけれども、父親は彼のことを「異常者」と決めつける。その後の娘の発作での騒ぎから、ついにもんだいは訴訟事件となり、アンソニー・ホプキンスの行動が犯罪行為として、裁判にかけられることになる。つまり、「輪廻転生」ということがじっさいにあるのか、ということが裁判の争点にもなるわけである。もうここまでくると「エクソシスト」とはまるで別モノ、という感じではあるけれど、西欧文化に親しんで育った現代人が、そういう合理主義で割り切れないもんだいにどう対処するか、ということでは共通する「根」があるかもしれない。

 この映画ではつまりは「エクソシスト」の真逆を行き、西欧合理主義で承認されている「催眠術治療」的なものを法廷に持ち込み、「裁判」の一環として、催眠行為が持ち込まれるわけだ。輪廻転生を問題外とするその催眠行為により、ふたたび娘は大きな錯乱におちいり、そのまま絶命してしまう。

 この作品が残念なのは、その「裁判」が大きな過誤だったとして(映画ではそう描いている)、それ以降の登場人物らの反応がかなりしょっぴかれて描かれていること、だろうか。母親はもうそれでもって、「輪廻転生」はある、としながらも、「娘は平静を得た」みたいに納得しているわけで、これはアンソニー・ホプキンスが主張していた「オードリー・ローズ」の成仏、イコール、マーシャ・メイソンの娘の「オードリー・ローズ」からの解放、ということとはまるでちがう。これではとにかく「娘が死んじゃってめでたしめでたし」みたいで、あまりに無責任である。終着点はこんなところにあるはずではなかったのに、というのが、まずは観ているものの感想。それに、そういう「裁判で魂の存在を問う」みたいな乱暴なやり方への反省が、まるでない。裁判を望んだ父親は、この結果にどのような反応を示したのか、まるでみえてこない。作品としてはきわめて中途半端な主張で終っている、という印象。

 娘役の子の配役が、やはり「エクソシスト」のリンダ・ブレアー的なものを目指したのだろう、こう、なんというかふにゃふにゃと気持ち悪いところのある女の子で、リンダ・ブレアーみたいにグチャグチャにならないだけ、よけいに無気味な印象になる。この女優さん、やっぱこの作品のあと、成人されてからも、そういう怪奇映画みたいなのに出演されている模様。


 

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■ 2012-09-13(Thu)

 きょうは買い物の用事もあり、あしたはしごともまた休みなので、買い物のついでに映画でも観ることにした。ターミナル駅のシネコンで「プロメテウス」を上映しているので、コイツにしようと。

 午後からローカル線に乗って、ターミナル駅で下車する。ターミナル駅は駅周辺の大がかりな改装がほぼ終了し、とくに東口の側はいぜんとはまるでちがった景色になってしまった。まずは買い物をすませておこうと思ったのだけれども、買いたかったものは品切れで買えなかった。やはり東京の方まで出かけるべきだったかもしれない。これでもういちど来週にでも買い物に出なくちゃあならない。西口に出て、映画館のある駅ビルに入ってエレヴェーターに乗る。まだ上映開始時間にちょっとじかんがあるので、ほかの階のステーショナリー売り場でも行ってみようと、その階のボタンを押すのだけれども、ボタンは点灯せず、まるで無反応である。いっしょに乗っていたご婦人もやはり、行きたい階のボタンがつかないので困惑している。「どうしたんでしょうねえ」などといっているうちに、いちばん上の映画館のある階まで一気に行ってしまった。わたしはとりあえずその階で降りたけれど、ご婦人の方は同じエレヴェーターでもういちど下まで降りて行かれた。降りてあたりを見回すと、映画館いがいの、おなじ階にあったレストランや食堂などへ通じる通路に、シャッターがおろされている。下の階に本屋があったはずなので、開いていた非常用の階段で降りてみると、下の階に入るドアがかんぜんに閉まっている。どうやらこの駅ビルのほとんどが休館しているらしい。一階の悪趣味雑貨量販店ほ通常通りオープンしているし、最上階の映画館も上映はやっているのだけれども、それいがいの階はすべてお休み、らしい。そういう告知があんまりちゃんとなされていないし、一階にはふつうに入れるわけだし、映画館がやっているもんだからエレヴェーターも動いている。そんなわけで、おおぜいのお客さんが「営業中」と思いこんでエレヴェーターで上にあがってくるのである。映画館の階にもどっていくと、またのぼってきたエレヴェーターのドアが開いて、まさに困惑した表情の人たちがみえた。だれも降りようとはせず、またそのままおなじエレヴェーターで降りて行った。罪深いなあ。

 もう上映時間までさほど待つこともないようなので、チケットを買って、映写室に入る。なんと、客はわたしひとりだけのようである。この映画館はもともと客は少なく、そのうえに映画館主の趣味らしいマイナーな作品の上映も多いので、ここでいままでにも二回ほど、客がわたしひとりという「マイ映画館」を楽しんだことがあった。きょうもまた「マイ映画館」になりそうである。
 ‥‥なーんて、思っていたのだけれども、室内が暗くなって予告編が上映されはじめたとき、お客さんがもうひとり入って来られて、隅の方の席にすわられた。ちょっと、残念な気もちになった。

 ‥‥上映終了。感想は下に書くけれども、なんちゅうか、いかにも娯楽映画という楽しい映画だったし、思い出すと笑ってしまうような展開もいっぱいあったので、帰りの電車のなかで思い出すとつい表情がゆるんでしまうのであった。いけない、これでは「あぶないおじさん」にしか見えないではないかと、以降は映画のことを思い出すのを禁じ、本を開いて読むことにした。

 帰宅してまだ七時をまわったばかり。やはり、映画を観るのも近場ですませると楽である。それでも、これからごはんを炊いてなにかおかずをつくるというのもめんどいので、そばをゆでて冷凍のかきあげ天ぷらを温めて入れ、かんたんな夕食にした。やはりせんじつ「プロメテウス」を観たというBさんと、メールでたのしいやりとりをやって笑い、ニェネントをひとしきりかまってやって、風呂に入ってから寝た。


 

[]「プロメテウス」リドリー・スコット:監督 「プロメテウス」リドリー・スコット:監督を含むブックマーク

 予算をふんだんに使ったSF大作なんだけれども、その骨子は古くからあるB級映画の「探検モノ」のお約束を外れない。B級っぽいつっこみどころもあれこれと残されていて、これはまさに「活動大写真」という雰囲気。

 ‥‥つまりは、べつに宇宙の彼方とかじゃなくってもいいわけで、アフリカだとか南米のジャングルの奥地に文明の痕跡が発見されて、それを調査するために探検隊が編成されてジャングルの未踏の地へ踏み込んで行く、と。ジャングルの奥地で、未知の文明の痕跡をたしかに発見する。そこでは見知らぬ部族が発達した科学力を駆使して何かをつくっていた形跡がある。なんとそれは未知の生物を武器として開発し、それを使って外界の人類を滅ぼそうとする計画だったことがわかる、って、つまりはそんな話だね。まあその部族が人類すべてを創造していたなんてとてつもないこともあるようだけれども、つまるはそういう探検物語の舞台を宇宙に持って行ったと。
 それで、B級映画のお約束で、探検隊員のなかにはアホやバカも含まれていて(隊員選考の審査基準というものはなかったのかと思ってしまうが、おそらくはアメリカのラスヴェガスだとか、日本のパチンコ屋で集めたメンバーなんだろう)、そういう自分勝手な行動をとるヤツが、ちゃんとさいしょの犠牲者になる。お約束である。まあそれで、隠されたほんとうの探検の目的なんかも明らかにされ、探検隊の目的も科学的なものからずれこんで、ずいぶんと私利私欲にまみれたものになってしまう。その結果、武器生物はあたらしく誕生してしまうし、部族のただひとりの生き残りのヤツに探検隊員はあらかたヤラれてしまう。その生き残りのヤツが地球に向けてその武器生物カプセル満載の宇宙船を飛び立たせようとするけれど、とつぜん人類救済の使命に燃え上がる船長の犠牲的行為(フレー!フレー!)で、宇宙船は落下するだね。そのときに下敷きになって死んじゃう人もいるだよ。って、知らないうちに、ストーリーをあらかた書いてしまった。もしもまだ未見でこれを読んでしまった人がいたら、ほんとうに申しわけない。‥‥ついでに、エイリアンは「イカ」です。

 って、まあここまでは「プロメテウス」のB級映画っぽい側面だけれども、それだけで終らないのがさすがにリドリー・スコットというか、あれこれの罠もいっぱい仕掛けられているわけだし、サスペンス・ホラーとしてすっばらしいシーンも演出している。

 「エイリアン」第一作のシガニー・ウィーヴァーに相当するヒロインとして、ここではスウェーデン版の「ドラゴン・タトゥーの女」できょうれつな印象を残してくれた、あのノオミ・ラパスがフィーチャーされているわけだけれども、とにかく彼女がすばらしいです。「ドラゴン・タトゥーの女」ではハードボイルドで中性的なイメージの強かったノオミ・ラパスだけれども、ここではどこか女性らしいかわいらしさのようなものも感じさせてくれるし(ちょっと、わたしの知っている女性に感じが似ているンで困った、って、困るひつようはないか!)、それでも「生き残る」という意志の強さをおもてに出したキャラクターの存在感を、みごとにあらわしていたと思う。とにかく、この作品で最高のシーンとは、まさに彼女が胎内にエイリアンの子をやどしてしまい、これを最新鋭の治療ポッドとかいうのを駆使して胎内からつまみ出すまでのサスペンスで、とにかく「ギャー!」っという感じというか、足元をひっぱって行かれるような演出で、スクリーンを観ていても、座っている椅子からすべり落ちそうな感覚になる。治療ポッドにたどり着いてみたら、「男性専用」だったなんていう、見えすいた設定も楽しいっす。
 それでまあ、おなじ監督だということもあって、「エイリアン」の第一作に通底する部分とかも探したくなってしまうんだけれども、たとえばそれはアンドロイド(これがまた曲者で)のこわれ方で第一作を思い出したりもするだろうし、そのこわれたアンドロイドの首をヒロインがバッグのなかに入れて脱出のフライトに出る、なんていうのも、「おまえは猫か?」みたいな楽しみ方もできるだろう。

 あとはやっぱり、この作品の根本にある宗教観というのか、反ダーウィン主義というのか、そのあたりがやはりいちばんのもんだいといえばいえそうなんだけれども、キリスト教原理主義を思わせながらも、そのあたりで徹底的に遊んじゃっているような設定というのは、これはどういうんだろう。アメリカ(のポップ・カルチャー)の望むあたらしい「神話」というものが、リアルな宗教の世界をも侵食しはじめた、ということなのか。
 とりあえず、二十一世紀になって、ダーウィン主義の「負」の側面が肥大して表面化してきていることはたしかだとして、アメリカではそこでキリスト教原理主義というものもまた、ちからを得てきている。そういうところで、反ダーウィン主義というものは打ち出しながらも、原理主義をおちょくっている、という感覚をこの作品から受け取ることにもなるのだけれども、これはまだ、この「プロメテウス」だけで「暗示」されたことがらから、わたしが推測したものにすぎない。じゃあ、製作が予測されるこの続編ではどういう展開になるのか、なんか、この「プロメテウス」を観ただけではなんともいえないところもあるだけに、やっぱ続編は観ないではすまされないだろうか。って、うまく「商売」に乗せられてしまった、か? いやいやしかし、続編で、そんなことまで描く勇気が、その続編のスタッフに期待されているんだろうか。しかしやはり、なぜ「エンジニア」たちは二千年前に滅びたのか、二千年前にいったい何があったのか、そしてそれはなぜ「二千年前」なのか、知りたくなってしまう。

 ‥‥そういうことは置いておいて、映画として、リドリー・スコットの監督作として、「エイリアン」や「ブレードランナー」のような、映像としてのカルトな人気を将来的に持ち得るとは、ちょっと思えない、かな。まあ、「奇作」、ということはいえると思う。


 

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■ 2012-09-12(Wed)

 せんげつはまるで家でヴィデオなど観なかったので、こんげつはちょっとたくさん観てみようか、というモードになっている。たんじゅんに、あたらしいTVで観る映画の色彩とか美しく感じられるので、観るのが楽しいということでもある。
 しごとを終えて帰宅して、朝食をとってからまず一本観て、そのあとは昼食。それで午後からまた一本観る。やろうと思えばもう一本ぐらい観ることはできるけれど、いまのところこういうペースでいちにちに二本ぐらい。あとは本を読んだりしてすごす。

 きょうはさいしょ、録画してあった「マクリントック」という映画を観はじめたのだけれども、かなり晩年のジョン・ウェインなどが登場して、西部を舞台にしていてもなんとも保守的な展開になりそうだし、冒頭の展開もかったるいので、これは時間のムダになりそうだと、パスした。ただ、冒頭の会話のなかで、ジョン・ウェインの朝食が生卵とハチミツだけだったみたいなことが出てきて、なんだ、アメリカ人も生卵を食べるんじゃないかと。英語でも「Raw egg」っていっていたみたいなんで、ほんとうに生卵なんだろう。生卵にハチミツをたらして、まぜて飲むということなんだろうか。

 夕食はきのうさぼってしまったので、残っていた食材でレバニラ炒めをつくる。つぎはまた大量にスパゲッティのミートソースでもつくって保存しておこうか、などと思っている。

 ピンチョンの「LAヴァイス」を、スローペースながら読みつぎ、ときどき「悪趣味大全」を開いてみたりする。こうやって並行してこの二冊を読むと、「LAヴァイス」がまさに、そういうアメリカ的「悪趣味」にどっぷりの世界であることがわかる。たとえば、「LAヴァイス」の主人公のドックは、たいていいつもアロハシャツを着ているわけだけれども、そのアロハシャツ、つまり、ハワイアン・シャツについて、「悪趣味大全」にはつぎのような記述がある。

 ハワイアン・シャツは長年、騒々しい旅行者や競馬場の予想屋、映画の中のギャングや週末休暇をもらった兵士、それに仕事用に装う必要がないことを世間に誇示したがる人たちのユニフォームとして知られてきた。ハワイアン・シャツはゆったりとして、ズボンにたくし込まずに着ることができ、花、フラダンスの娘、跳ね上がるカジキ、ホノルルの景色などの絵柄が鮮やかな色使いでちりばめられている。それを浜辺やプールサイド以外の場所で着ることは、自分たちが一般社会におけるお仕着せの制約に縛られていないのだということを主張するための、俗物たちの古典的なやり方だ。

 ‥‥まあ、こういうのを読まなくても、だいたい無意識のうちにこういうことは感じてはいるのだけれども、こうやってはっきり書かれたものを読むと、あらためて無意識下のそういう考えを面白く感じることになる。この文章はあとでこう続く。このあたり、「LAヴァイス」のバックグラウンドであろう。

 ヒッピー以降の時代になると、男たちの多くがファッションとは自己表現であり、自分のしたいようにすべきだと考えるようになった。「文句あるかよ」とでも言いたげに、保守的な服装のルールを軽蔑していることを、ファッションを通じて表現したがった連中の間で、ハワイアン・シャツはお気に入りのアイテムとなった。


 

[]「血の伯爵夫人」(2009) ジュリー・デルピー:監督・脚本・製作・音楽・主演 「血の伯爵夫人」(2009)  ジュリー・デルピー:監督・脚本・製作・音楽・主演を含むブックマーク

 わたしなどはエリザベート・バートリの名で記憶しているけれど、十六世紀末ハンガリーに実在した、吸血鬼伝説のひとつの起源となった貴族バートリ・エルジェーベトの物語の映画化。なんとまあ、ジュリー・デルピーがなにからなにまで自分でやっちゃっているワンマン映画というか。

 じっさいにどこかの古城(写真で見たことがある気のする城)でロケーションしたのか、室内の暗い色彩(主演するジュリー・デルピーもいつも黒いドレスを着ている)やゴシックな雰囲気はいいんだけれども、なんか、バストショット以上のアップ映像が多くって、「もうちょっと引いて撮ればいいのになあ」などとずっと思いながら観ていた。

 いちおうメッセージがあって、男たちが国のために戦場で多くの人命を奪っても「英雄」とたたえられるという世界で、なぜわたしのやったことがそこまでおぞましいものといわれなければならないのか? みたいなことを主人公がいう。
 彼女はただちょっと美しくなりたくて、若返りに処女の生き血を使っただけであって、そこにはいわゆる「倒錯の美学」というものはない。まあ、カルトな映画を愛する身としてみれば、そのあたりにどうしても不満が出てしまうこと、いかんともしがたい。

 やはりジュリー・デルピーがつくったという音楽が、とてもよかった。


 

[]「プレイグ」(1992) アルベール・カミュ:原作 ルイス・プエンソ:監督 「プレイグ」(1992)  アルベール・カミュ:原作 ルイス・プエンソ:監督を含むブックマーク

 これはむかし映画館で観て、「とってもいい」なんて思っていて、なんねんかまえに中古ヴィデオ屋でVHS版で売られていたものを買ってあったもの。主要な出演者はみな、あるていどビッグネームである。つまり、ウィリアム・ハート(この人は、さっき観た「血の伯爵夫人」にも出ていた)、ジャン・マルク=バール、ラウル・ジュリア、そしてサンドリーヌ・ボネール、ロバート・デュバルという顔ぶれ。

 カミュの原作がアルジェリアのオランを舞台にしていることから、時制を現代に移行させ、ペストというもんだいに加えて、南米の政情不安というものをいっしょくたにして描いている。いま観ると、なんというのか、登場人物たちの知識人臭さというものばかりが鼻につき、それに対比されるだろうラウル・ジュリア演じるコタールという男が、ただのチンピラ犯罪者にしかみえないところがツラい。ラストはなんだか「ミッシング」をいっしょにしちゃいました、みたいな展開で、そりゃないだろ、って思った。まあ、観ないですませてもいっこうにかまわない作品だった、ような気がする。

 フランスからの報道記者のジャン・マルク=バールがカメラをかまえて街のようすを撮影してるとき、男の子が彼に「なにを撮ってるの?」とまとわりつき、よるの湾岸のようすをジャン・マルク=バールが撮影しているとき、そのうしろにその男の子がまだついてまわっていたシーン、がよかった。


 

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■ 2012-09-11(Tue)

 きのうおとといの連休もおわり、きょうからはまたしごと。あさ、五時まえに家を出るときに、ついにもうすっかり、あたりは暗くなってしまっている。これからまた、らいねんのゴールデンウイークあたりまでの八ヶ月ぐらいは、夜明けまえの暗闇のなかを出勤するわけである。

 しごとを終えて帰宅して、トーストとカフェオレの朝食をとってから、きょうは病院へ行く。さいきんまた、ちょっと血圧が高くなってきているのが、しんぱいといえばしんぱいである。医師に相談して、たしかにその傾向はあるということで、このままつづくようなら薬をもうちょっと強いものにするということ。もしかしたら、夏バテ防止とかいう感じで、塩分をとりすぎた結果なのかもしれない。もうちょっと涼しくなったら落ち着くだろうか。

 家に戻ってヴィデオを観て、昼食はスパゲッティにして、また午後からヴィデオを観る。そのあとはベッドで横になって本を読んでいたら、あんのじょうそのまま眠ってしまった。目覚めるともう夕食のじかんで、なにかをつくるというのもめんどうで、レバニラ炒めの材料はそろっているのだけれども、ありあわせのものでかんたんに食事をすませた。そのあとはまた「LAヴァイス」を読んだり「悪趣味大全」を読んだりしながら、けっこう遅くまで起きていた。


 

[]「百万円と苦虫女」(2008) タナダユキ:監督 「百万円と苦虫女」(2008)  タナダユキ:監督を含むブックマーク

 むかし映画館で観た作品。タナダユキは好きな監督である。しばらくその作品を観ていないなあと思っていたら、もうじき新作が公開されるらしい。楽しみである。

 で、この作品、もういちど観てみて、おそらくはきっと、当初のタイトルは「百万円と前科女」だったんじゃあるまいか、と想像する。きっとそうにちがいないけれど、「それはいくらなんでもヤバい」とかなんとかいわれて、やむなくタイトル変更したんじゃないだろうか。どうも、「苦虫女」というのが、ピンとこないのである。

 ちゃんというべきことはいって、観せるべきところは観せて、そういうところがタナダユキ監督のいいところなんだけれども、この作品でも「桃娘」にされそうになるのを蹴るところなど痛快だし、昼食の手製弁当のふたをあけると、海苔でつくった「100」の文字がうらがえってふたにくっついているところなど、視覚的にもとっても楽しいわけである。

 ただ、べつにリアリティなんかいいんだけれども、やはり夏のあいだの「海の家」での短期バイトだとか、桃の収穫の手伝いだとかだけで百万ためた、という展開はいくらなんでもムリがあり、それじゃあ日本じゅう億万長者だらけになってしまう。だろう?


 

[]「肉弾」(1968) 岡本喜八:監督 「肉弾」(1968)  岡本喜八:監督を含むブックマーク

 これも、じつは高校生のときに日劇文化で観ている映画。じつは大谷直子が出ていた部分いがい、ほとんどおぼえていないんだけれどもネ。

 低予算なのがみえみえでつらい部分もあるし、低予算でもこんなに撮れるんだと、感心してしまうところとがある。それでもいま観ても、この終戦時に、ただひとり放り出された青年の、どうしようもないどんづまりに、ときに笑わされながらも感応してしまう。これは、特攻兵の情況よりももっともっとつらい。「日本のいちばん長い日」は、ほんとうに終りなき長い日だった、ということになる。


 

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■ 2012-09-10(Mon)

 きのうの舞台観賞が、わたしには不発だったので、出かけたよくじつといってもふさぎこむわけでもなく、元気である。あさからヴィデオを観たり、ニェネントと(で)遊んだりする。ニェネントにもそんなわたしの活力が乗り移ったのか、また「ニャッ!」とかないて、部屋じゅうをドタドタと駆け回っている。あたりにあったものをけちらして、元気いっぱい。

 午後から近くのドラッグストアへ買い物に行き、日本酒のパックが賞味期限間近で半額になっているのを見つけ、よろこぶ。「辛口」と書いてあるし、いちおう名の知れた酒造会社のものなので、大きなハズレはないだろう。ぜんぶで四パックが半額で売っていたのを、いちどにひとりで全部買うのもアレだし、持って帰るのも重たいので、まずは二パック買って帰り、夕方にもういちど行って、残りの二パックも買った。買うときには、レジ係の人が昼に買ったときとはちがう人なのを確認してから買った。とにかくこれで当分はアルコールかんけいはしんぱい無用。って、どういうしんぱいなのかはわからないけれども。

 夕方には踏切りの向こうのスーパーへ行き、こんやのおかずのことを考える。まずはキャベツがひと玉五十七円とかで出ていたのを買う。このところ、塩分摂取への配慮からインスタントラーメンとか焼そばとかをほとんど食べなくなったので、キャベツの需要はほんとうになくなってしまっている。まえに買ったキャベツはほとんど食べないままにへなへなになってしまったけれど、これからはちょっとキャベツをしっかり食べようか。それで肉コーナーへ行くと、これも賞味期限が切れる豚レバーが一パック百円で置かれていた。そうか、それではこんやは久しぶりにレバニラ炒めにしようということで、ニラともやしを買い足した。ついでにえのきだけも買う。もやしは相変わらずひと袋九円。合計で三百円でおつりがきた。

 帰宅して、キャベツをちょっときざみ、それいがいの買ってきた食材をそれぞれはんぶんずつ使って、ちゃっちゃっとレバニラ炒めにした。なかなか美味。あしたもまたレバニラ炒めになるだろう。

 きのう買った「悪趣味大全」の本を、パラパラとめくってみる。この「悪趣味大全」は1996年の刊行なのだけれども、ネットでチェックしてもこの本はほとんどひっかかってこない。かわりに、1995年に刊行された、「ユリイカ」の別冊の「悪趣味大全」の方ばかりがヒットしてくる。つまり、「ユリイカ」の方でそんな特集を出したので、新潮社のさる編集者が、「だったらこんなのがあるゼィ!」ってないきおいで刊行したのがこの翻訳本、なのだろうか。まあそんなことはどうでもいいのだが、わたしのなかではもう、ピンチョンの「LAヴァイス」を読み解くキーワードは「悪趣味」にあり、ということに、なってしまったのである。


 

[]「ブーリン家の姉妹」(2008) ジャスティン・チャドウィック:監督 「ブーリン家の姉妹」(2008)  ジャスティン・チャドウィック:監督を含むブックマーク

 ナタリー・ポートマンと、スカーレット・ヨハンソンの共演作として話題になった作品。原作は向こうではかなりのベストセラーになったものらしく、その余波での映画化というか。‥‥もちろんイギリス映画なんだけれど、主演の二人はイギリス人ではない。というか、このキャスティングのなかで、すぐにイギリス人俳優だと思っちゃうのは、二人の母親役のクリスティン・スコット・トーマス(よかった!)ぐらいのもの。それで、キャスティングでうれしいのは、ヘンリー八世の王妃キャサリンの役で、あのアナ・トレントさんが出演されていること、だろうか。もうついつい、アナ・トレントさんなどと、「さん」づけしてしまう。

 まあ作品の方はこう、紙芝居的というか、説明的な展開の演出でどうってこともない。原作も別に史実に忠実とかいうものでもないらしいし、トマス・モアやクロムウェルが登場してくるわけでもない。このあたり、史実に忠実な物語というわけでもない、というのはかえって、演出しにくいモノなのかもしれない。そういうところで、アンがヘンリー王と自分とのあいだに生まれた子の権利を守ろうとしたと考えれば、せんじつ観たマルコ・ベロッキオの「愛の勝利を」を思いうかべたりもできるのだけれども、やはりそのあたりの演出力の差、というものはいかんともしがたい。

 物語とはまるでかんけいないけれども、わたしがいちばんうれしかったのは、アン・ブーリンの姉メアリー(スカーレット・ヨハンソン)がさいしょにヘンリー王に紹介されたとき、王に「何かやってみせよ」みたいにいわれ、「何も出来ませんが」ってな前置きで、伝承歌の「Western Wynde」を唄うシーン、かな。まあこの曲も今でこそトラディショナル・ソングということになるけれど、この十六世紀当時だとまさに<旬の>歌、だったのかもしれない。ここでのスカーレット・ヨハンソンのシンギングは(って、吹替えではないことを祈るけど)、わたしもこの曲を知ることになったMaddy Prior のシンギングを典拠にしていた、と思う。(スカーレット・ヨハンソンが唄うにふさわしい)美しい曲。

 

 

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■ 2012-09-09(Sun)

 きょうはまた東京の、中央線沿線に出かける。三鷹の芸術文化センターでの、「マームとジプシー」という劇団の公演を観るのである。このところ、あたらしいところの劇団やダンス・カンパニーを観るということをしなくなっているので、まわりでちょっと評判のいい「マームとジプシー」を、観てみることにした。

 三鷹には五年ほどまえに、こんかいとおなじ「MITAKA "Next" Selection」というプログラムで、こんかいとおなじようにあたらしい劇団を観ようと、行ってみた記憶はある。あのときはヒットしなかったけれど、こんかいはどうだろう。して、三鷹というスポットはどんなところだったっけ。なんだかほとんど思い出せない。舞台はマチネ公演で、午後の二時には開演するので、現地で昼食をとることになるだろうけれど、三鷹の駅前にお手ごろな食事スポットがあるかどうかもわからないし、このところごぶさたしている吉祥寺にちょっと寄ってみたいという気もちもあり、吉祥寺でいちど下車することにした。それで食事をして三鷹へ行き、観劇のあとは下北沢に寄って、また「G」で飲むのがいい。そういう計画で、きょうとあしたはしごとも休みをとってある。

 あさから晴天で、きょうも残暑はきびしくなりそう。わけあって、節約のためもあって、となりの駅まで延々と歩く。もうこのあたりの田んぼには、稲刈りも終っているところがある。季節はもう秋である。駅前の古本チェーン店に寄り、最安値で売っていた「マトリックス」と、「マトリックス リローデッド」のDVDなんか買ってしまった。また観たくなっていたし、レンタルするのと価格的にそんなに変わらないわけだし。そうするとしぜん、三部作の残りの「レボリューションズ」も欲しくなってしまう。

 十時半ごろにこのあたりを出る電車で行くと、吉祥寺に着くのは十二時半をまわったあたりになる。ちょうど吉祥寺は祭りのさいちゅうで、神輿が街なかを練り歩いているところだった。
 あの「いせや」の公園口店が店を閉めて取り壊すというはなしを聞いていたので、ほんとうにあの店がなくなってしまったのか、確認しに行ってみた。もちろん、ほんとうになくなってしまっていて、あの場所は工事中のシートで囲まれてしまっていた。まあ高田渡もいなくなってしまったんだから、しかたがない。シートに貼られている掲示の文句を読んでみると、この八月から北口で、あたらしい店だか仮店舗だかが営業をはじめているらしい。この公園口にあたらしい「いせや」が出来るのは来年の八月、らしい。

f:id:crosstalk:20120912112159j:image:right けっきょく、どこにでもあるようなラーメンのチェーン店でつけ麺とかを食べ、三鷹駅へ。そうそう、三鷹というのはこういう駅だったと思い出す。なんとなく、地方都市というか、東京っぽくない街という感じ。なんと、この三鷹でも祭りのまっさいちゅうだった。駅前の道路は歩行者天国になり、ここでも若い衆にかつがれた神輿がデカい顔をしていた。しばらく歩いて会場の芸術文化センターに着くともう開場されていて、劇場内の座席もずいぶんと埋まっていた。中央の舞台を囲むようにして、その周囲270度には座席がセットされている。まだうしろの方の席はあまり埋まっていない。それでも正面の、比較的いいんじゃないだろうかという空き席をみつけ、確保する。

 ‥‥開演。はじまってすぐ、「こりゃちがうな」という気分になり、帰りたくなった。それでも、観ていればまたぜんぜんちがう展開になるかも、などと思って、しばらく観つづけた。‥‥やっぱりダメで、というか、なおいっそうツラい展開になだれこむ。けっきょくさいごまで観てしまった。そのさいごの方では、たんに情緒的、感傷的なものをみせるだけのものに感じられ、それはわたしのいちばん観たくないしゅるいの演劇だったのだけれども、なぜわたしはさいごまで観てしまったのだろう。わたしとしてはネガティヴなことしか書きようがないので、コラムをたててそちらに書くのも失礼だろうと、この日記の側に感想を書いておく。

 まず、同じシチュエーション、同じ会話の反復というのがなんども繰り返されるのだけれども(なんども繰り返されるから「反復」というのだ)、それを役者さんたちが立ち位置を変化させたりしながら、たとえばさっきやったことを後ろを向いてやれば、観客は180度回転した視点を得ることになる、そういうことなんだろう。この「反復」ということでいえば、まあこれは「少年王者舘」の十八番というか専売特許というか、わたしなどはそっちの方でさんざん見なれているわけである。だからといってここでほんとうは、そういう少年王者舘の天野天街さんの演出と、きょうはじめて観る「マームとジプシー」とを比較する、などという乱暴なことはやっちゃいけないかな、とは思いはするのだけれども、やっぱ、その「反復」によって、舞台空間と日常空間の差異をきわだたせる「少年王者舘」とはちがって、「現実」の見え方を、あくまでもリアルな視点からきわだたせようとするような演出は、けっきょくリアリティ追求の方法なのだろうか、などと思うわけで、もう舞台上のリアリティなんてほとんど興味のないわたしにはつまりはツラい、ということなのであった。

 舞台上で役者が観客に情況を説明するような、そういうセリフというのもどこか「チェルフィッチュ」を思い出させられ、まさに役者たちがセリフを語りながらダンスみたいに見えるような跳躍とか、そういう所作をやってしまうというのは「チェルフィッチュ」の影響だろうとしか思えないのだけれども、観ていてそういう、「チェルフィッチュ」の影響じゃないの、という感想しか出て来ないのも、ツラいといえばツラい。それで、中盤あたりに、四辺形の頂点あたりに四つ置かれた椅子に対して、俳優たちが走り回って移動をつづけたりするんだけど、それって、むかし、「東京デスロック」がおんなじような動きをやっていたよね、なんてことも思い出して、ここはちょっとシラけた。

 「チェルフィッチュ」の場合、その語られることばから喚起されるものに、圧倒的なちからがあったわけで、それが小説としてリライトされてもなお、読者をひきつけるモノがあったのにくらべ、ここでの「ことば」は、あまりに弱い。けっきょくは感傷的な思いの吐露にすぎないではないか。そういうものを聞かされても、はっきりいってちょっと迷惑なぐらいである。その「ことば」にしても、たとえば「黙々と電話をかけつづける」というような言い方が、わたしは「おかしいんじゃないの」などと思うのである。そういうのって、つまりはいたずらの無言電話をかけつづけてるの?ってこと? それで、物語としても、登場人物の一人であるはずの「おばあちゃん」という存在が、あまりにも軽視されすぎてはいないかと、気になってしかたがない。映像にもかなりがっかりした。以上。‥‥やっぱり、こんかいもヒットしなかった。わたしにとって、三鷹は「鬼門」なんかしらん。

f:id:crosstalk:20120912112305j:image:left 終演後、劇場のまえにあった三鷹市のマップをみていると、太宰治の墓と森鴎外の墓とが、このすぐ近くのおなじ寺の墓所にあることがわかった。ちょうど帰り道なので、立ち寄ってみることにした。‥‥なんだか、そういう、森鴎外なんかの墓のすぐそばに太宰治の墓があるなんて、どういうんだろうと思ってしまうのだけれども、行ってみると、これがほんとうにトイメンというぐらいに、すぐそばで向き合って建っている。やっぱり、なんだかなあ、という、よくわからない感情がわきあがる。とくに、この墓所の入り口に森鴎外の遺言が掲示されていて、それがつまり、じぶんの生前の、軍人であるとか文人であるとかの肩書きはすべて捨て、「森林太郎」というただの個人として埋葬されたいという趣旨のことで、じっさいに墓石には「森林太郎」としか彫られていない(書は遺言で中村不折の筆になるもの)。

f:id:crosstalk:20120912112352j:image:right そうしたら、向かいの太宰治の墓もまた、「太宰治」としか彫られていないわけで、やっぱり、なんだかなあ、という感覚ではある。まあわたしも森鴎外という作家には一時期傾倒したこともあったし(って、そんなに彼の作品は読んでないけれども)、太宰治のことも、いままで基本的にはまるで興味がなかったんだけれど、このあいだ根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」を観て、なんだかそういう、自嘲というのか自虐というのか、そういう彼のあり方にもちょっと関心が向いてきていたりもする。そういうわけで、二人の墓にそれぞれお参りしてきた、わけである。

 駅への道すがら、通りにあった古本屋に立ち寄って、しばらくは棚をみてまわる。わたしも持っていたナボコフの「アーダ」の上下巻揃いが、一万円で置いてあった。まあわたしもけっこう高い値で売却したからなあ、なんて思ったりする。「悪趣味大全」という本を見つけ、気になって手に取ってみる。アメリカものの翻訳で、奥付けをみると1996年の本。なんと、版元は新潮社である。それで思い出したんだけれども、そのころの新潮社には、きっとこういうアンダーグラウンドなアートっぽい志向性を持った編集者がいたはずで、わたしの知っているアーティストのAKIRA さんも、たしかこの頃に新潮社から小説を出版していたはずである。AKIRA さんはいまどうしているのだろうか。故郷のあの観光地で、実家の旅館を継いだりしているのだろうか。などと遠い目になってしまったりする。‥‥しかし、この「悪趣味大全」、パラパラとページをめくると、いま読んでいるピンチョンの「LAヴァイス」の、格好の副読本になってくれそうである。定価が3900円(高い!)なのが千円、というのもいい。ちょっとレジに持って行くのが恥ずかしかったけれども(店番をやっていたのがきれいな女の人だったもんで)、「すみません、ごめんなさい(こんな本買っちゃって)」とかいいながら、買ってしまった。

 このあとは吉祥寺から井の頭線に乗り換え、池ノ上で下車して「G」へ行ったのだが、きょうの日記はすっごく長くなってしまって疲れてしまったので、このあたりで終わりにする。まあ「G」は「G」で、いつもの「G」だった、と。


 

[]MITAKA "Next" Selection 13th マームとジプシー「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」藤田貴大:作・演出 @三鷹市芸術文化センター星のホール MITAKA "Next" Selection 13th マームとジプシー「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」藤田貴大:作・演出 @三鷹市芸術文化センター星のホールを含むブックマーク

 

 

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■ 2012-09-08(Sat)

 ものにもよるけれども、食品の賞味期限というのはさいきんはいろいろと事情があってだろうけれど、かなりオーバーなところで設定されていると思う。たとえば玉子などというのは記載されているところよりもそうとうに長持ちする。牛乳なんかにしても、開封していなければ書いてあるよりずっと保存はきくだろう。レトルトパックの製品や即席麺類などは月単位で賞味期限を越えてもOKだと、わたしは思っている。もちろん刺身だとかそういうナマで食べなきゃなんない生鮮食品はすぐにいたんでしまうから、こういうものに書かれている賞味期限は守るべきだろうと思う。それでも冷凍保存できる肉類は買って帰るとすぐに冷凍庫にほうりこむので、賞味期限ギリギリでも気にしない。食パンもおなじである。

 そういうわけで、わが家にはそういう賞味期限ギリギリだとか、もう過ぎてしまったものだとかの在庫がそうとうにある。せんじつもアルコール量販店で、賞味期限まぎわの隣国製の食品をあれこれ買ってきた。「生姜茶」というものがあって、ビンに入れられたその見かけはマーマレードそっくりである。これが賞味期限が来ていたので、六百円というのを百円で売っていたのを買った。帰宅して開けてなめてみると、なんというのか、基底材はまさにマーマレードとおなじというか、その、マーマレードならオレンジピールとかが入れられているそのかわりに、生姜が入っているのである。ビンには「お湯で割ったり水で割ったりして飲め」とか、「ヨーグルトに入れて食べろ」とか書いてある。それで、もっぱらヨーグルトを買ってきて、そのなかにまぜて食べたりしている。なかなかにおいしい。ただ、ふだんはヨーグルトなど買ったりしないわけで、この「生姜茶」なるものを買ったおかげで、そういうものをプラスして買ったりするわけで、考えてみたらムダな支出を増やしている結果になっているのかも知れない。

 そのときにいっしょに買った、よくわけのわからないレトルトパックがあって、日本語がほとんど書いてないので正体不明なんだけれども、パッケージに印刷されている絵をみると、なんというのか、キムチスープとか、そういうたぐいのものなのではないかと思われる。これはなんと十円だった。まあ捨てちゃってもイイや、なんて気もちで買ってきたのだけれども、こんや、ついに意を決して、こいつを食べることにした。っつうのも、きのう買って夕食に使ったもやしが残っているからで、まあどんなにまずいスープでもそういうもやしなんかをぶちこめば、多少は食べやすくなるのではないのかと考えたわけである。これがもやし以外に、肉だとかシーフードだとか、その他野菜をいろいろ入れればさらにおいしくなるかも、とか考えることもできるのだけれども、ぎゃくに、その基材のスープのためにすべての材料が汚染されて食べられなくなる、という事態もじゅうぶんに想定できる。だから、もやしぐらいでやめておくのがちょうどいいのである。ちなみに、このところ踏切りの向こうのスーパーではいつももやしが劇安で、一パック九円ということになっている。きのうパックのはんぶん以上は使っているので、残りはまあ四円分ぐらい。これとその得体の知れないスープが十円なら、さいあくのときも被害はたいしたものでもない。
 そういうわけで、レトルトパックの中身を鍋に開けてみた。やっぱ赤っぽくって、キムチっぽいのだけれども、白菜らしい野菜のかけらと、ほうれんそうみたいな緑野菜の葉っぱらしいものがみえる。すっごくまずそうである。いちおう、もやしを入れて火にかけてみる。‥‥そろそろ熱もまわったかなというころあいで皿にとって、テーブルに運ぶ。食べてみる。‥‥どうも、食べるがわに、「これは得体が知れない」という気もちが少しでもあると、そういうものはのどを通らないものである。とにかくはぜったいに美味だとは思えない。もういちど、レトルトパックのパッケージをよく見てみると、下のすみに貼ってあるシールに、原材料などが日本語で印刷されていた。なんで気がつかなかったのか、読んでみると、すぐに、「どじょう」という単語に、ぶちあたった。え、ちょっとまって。スープのなかにどじょうが入っている? それ、わたし的にはダメですね。これでおいしいと感じてるんだったらいいけれど、困ったなあ、という味だったうえに、材料に「どじょう」と書いてある。ここでその皿は食卓からはずすしかなくなった。ごはんは缶詰めとふりかけで食べた。十四円、捨てた。

 そういえば、けさしごとに行くまえに聞いていたFM放送でいっていたのだけれども、世界レヴェルで見たときに、いちばんのゲテモノ料理というのは、日本の「たまごかけごはん」なのだということである。とにかく、日本以外のすべての国の人たちにとって、「生卵」というものをそのまま食べるというのが信じられないそうな。生卵を食べるのは、この地球上でヘビと日本人だけ、らしい。ゲテモノ料理というとすぐに中華料理を思い出したりもする人もいるだろうけれど、中華料理というのはナマモノは食べない。野菜ですらすべて火を通してから食卓にのせる料理なのである。そういう意味で、ナマ食というのは日本は得意である。まあさすがにいまの人たちは、「たまごかけごはん」ではなく生卵をそのまま食べるというか飲むことはやらなくなってしまったけれども、わたしなどが小さなころには、生卵の上と下の頂点にちょん、ちょんと穴をあけ、そのいっぽうに口をつけて、「チューッ!」って、中身を吸い取って飲んでいたものだった。う〜ん、たしかにワイルドだなあ。これをやると、中身が空っぽの、割れてない丸いままの卵の殻が残されるわけで、これがたとえば工作の材料になったりとか、あれこれと使いみちがあったのだった。いまでも、田舎とかに行くと、こうやって卵の中身をちゅるちゅると吸っているおじいさんとかが、きっと存在していることだろうと思う(いや、田舎に限らず、東京なんかにだっているさ)。

 きょうもヴィデオを二本観て、ピンチョンの「LAヴァイス」を読みすすめる。このあいだは「コレって『チャイナタウン』???」なんて思ったけれど、きょうは、コレって、エルモア・レナードじゃん、って感じになってきた。


 

[]「にっぽん昆虫記」(1963) 今村昌平:監督 「にっぽん昆虫記」(1963)  今村昌平:監督を含むブックマーク

 こういう、演出としてヒロインの行動に判断を下さないような作品を撮っても、観ている側はヒロインについて「なんだよ」みたいな判断は下せる。たとえばきのう観た「ミーン・ストリート」なんかだと、主人公のやっていることに判断を下しにくいところがあった。一面で、この作品みたいに、人間のやってることなんか昆虫みたいなものだという視点はわかる。観ている側は、こういう、左幸子みたいなことは自分はやらないね、みたいな視点は、きっと取りたいだろう。でも、いっしょに描写される戦後の日本の社会史みたいなものを観させられると、そうやってこの映画を観ている自分だって、けっきょく何もやってねえじゃないかという痛い反省に導かれるような気がする。そうするとやっぱ、自分も昆虫みたいなものかよ、なんて思いながら映画館を出ていったんだろうか。なんかそういう、観客をも告発してしまうというか、そういう厳しい視点の作品がつくり得た時代があったのだということに、ちょっと戦慄する。「なんだよ」というヒロインへの判断が、そのまんま観ている観客にフィードバックされるような。じっさい、この作品のつくられたつぎの年には東京オリンピックが開かれ、つまりは「高度経済成長」という、幻想の時代がはじまるということなのか。主人公がときどき詠む、自嘲気味の川柳めいたものが強烈。

 しかし強烈な演出であって、強烈な撮影(姫田真佐久)。動くときにはぐんぐん動き、止まるときにはしっかりワンカットに情況をおさめるカメラはやはりすごい。そういえば、書いちゃうけれど、わたしはその姫田真佐久氏のご子息のことを知っていた。あの人、どうしてるんだろう?


 

[]「忠臣蔵 天の巻・地の巻」(1938) マキノ雅弘(天の巻)・池田富保(地の巻):監督 「忠臣蔵 天の巻・地の巻」(1938)  マキノ雅弘(天の巻)・池田富保(地の巻):監督を含むブックマーク

 これはもう、「忠臣蔵」なんて、観る人はだいたいその展開なんか百も承知のことだろうという前提のうえに、描くエピソードを絞りに絞って描いた、「忠臣蔵」のカッコいいところ集、みたいな作品。このぎゃくをやっているのが、この作品の三、四年後に製作された溝口健二監督の、「討ち入り」のない、「元禄忠臣蔵」なんじゃないだろうか。

 この作品のひとつのクライマックスは、「地の巻」で描かれる、立花左近の登場する、いわゆる「大石東下り」の場面だろうけれど、このシーンを創出したのは、マキノ雅弘の父、マキノ省三によるものらしい。ここではマキノ雅弘はメガホンを取ってはいないけれど、やはり、映画作品としてこのシーンに賭ける熱意というものは伝わってくるではないか。いつしかカメラがその立花左近の視線に同化し、室内をなめるように進んでいくその先に、浅野家の家紋をみつけてそこで停止する。ここで立花左近は彼のスタンスを決めるのである。

 映画的演出が、いつしか歌舞伎の舞台の記録のように変貌していくシーンがいくつかあり、基本は歌舞伎の舞台であるところを、カメラを通じて映画表現として変換する。そのあたりの変移こそが楽しめる作品かもしれない。


 

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■ 2012-09-07(Fri)

 ニェネントは、わたしがそばに近づいてもそのまま動かずにいて、わたしにつかまえられて抱き上げられるにまかせるときもあるし、近づくとサッサと逃げてしまうときもある。逃げてしまうと追うのがおもしろいので、しばらくはニェネントと追っかけっこをやったりする。そりゃあもちろんニェネントの方がすばしっこいので、普通に追うのではつかまえることはできないけれど、通路になっているふすまとかを先に閉めてしまって、袋小路をつくってからそこに追い込むとかんたんにつかまえられる。まあそこまでしてニェネントをつかまえて遊びたいかどうか、というわたしの気分によるけれど、このところは暑さもあってあんまりそこまでやったりしないでいた。きょうは久々にニェネントとそんな追っかけっこをやり、追いつめて抱き上げて、鼻をペロペロなめてやったり、まえ足にかみついてやったりして遊んだ。そんなことをやっているとわたしのところに寄りつかなくなりそうなものだけれども、そんなあとにわたしのそばで寝ているニェネントに手を延ばして近づたりすると、そのわたしの手の先をなめて来たりするのでかわいい。

 きょうは昼間にヴィデオを一本観て、そのあとはベッドに横になって「LAヴァイス」を読みすすめた。このごろは記憶力が減退してきていてヤバくって、読んでいても「この登場人物ってだれ?」みたいなことにすぐにぶちあたってしまう。昔のことや、昔読んだ本、観た映画のことは今でも忘れないでよく憶えているのだけれども、さいきんのことになると、映画を観ても、あまり印象に残らない作品だとすぐにストーリーも何もかも忘れてしまい、そういう観たばかりの映画のタイトルを眼にしても、「はたして、どんな映画だったかしらん?」と、しばらく考えこんでしまうことがよくある。そうとうにヤバい。なんとか記憶力の減退を防ぐ方策を、マジに考えたいと思ったりしている。


 

[]「ミーン・ストリート」(1973) マーティン・スコセッシ:監督 「ミーン・ストリート」(1973)  マーティン・スコセッシ:監督を含むブックマーク

 まだ若くって、鼻がピン!としてカッコいいハーヴェイ・カイテルが主演で、ロバート・デ・ニーロも出演。ニューヨークのリトル・イタリー地区を舞台に、あんまり合法的なことを稼業としているわけでもない四人の若者たち、そのかんけいを、主人公のハーヴェイ・カイテルの周辺と共に、彼の視点で描いた作品。これをポップ・ミュージックのちりばめられたヤクザ群像劇とみれば、まさに「グッドフェローズ」の原点みたいな作品。

 たいていのこの作品を紹介するサイトで、主人公のハーヴェイ・カイテルのことを、三流ヤクザだとかチンピラとか書いているけれど、わたしがこの作品を観た感じでは、たしかに彼は非合法なことに手を染めてもいるけれど、親族関係の縁で将来はレストランのオーナーにもなれそうだし、敬けんなカトリック信者でもある。映画でガンガン語られる彼の内面は決して「チンピラ」ということばを思い出させられるものではない。その主人公がなぜか徹底してかばおうとする存在がロバート・デ・ニーロで、これはまさにハシにも棒にもかからないチンピラである。

 いったいなぜ、主人公はそんなチンピラ男をかばおうとするのか。それは主人公にとって、そのチンピラ男が、彼の「負」の部分を生きる、いわば分身だからであるだろう、と思った。映画は教会で祈る主人公のすがたからはじまるけれども、つまり、彼の「信仰の躓き」とは、「教会で懺悔すればすべてが許されてしまう」ということへの疑問、なのである。ここにこそ主人公の、デ・ニーロというチンピラへの不思議な執着が生まれるのだろう。主人公は何度も炎に指先をかざし、その熱さをがまんしようとする。それは贖罪というような行為なのかもしれない。

 かんたんな答えを出せるような映画ではないけれども、ハーヴェイ・カイテルの意識とその行動から、その分身としてのロバート・デ・ニーロの存在を、あれこれ考えてみることになる作品だった。「グッドフェローズ」を傑作だと思っていたけれども、この「ミーン・ストリート」の方により惹かれる、かもしれない。

 しかし、Rolling Stones の「Tell Me」の字幕での翻訳があまりに意訳というか、オーヴァーなのに笑ってしまった。そんなこと唄ってないって。


 


 

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■ 2012-09-06(Thu)

 天気予報で、午後から天候がくずれるといっていたとおり、二時をすぎたころから空が暗くなりはじめ、そのうちにかみなりの音がきこえるようになった。外では雨が降ってきて、雷鳴もちかくなってくる。さいしょのうちはこの場所の北の方できこえていたのが、いつのまにか南の方からきこえるようになっていた。ずっと窓の外に注意していたわけではないけれど、稲光というのはまるで見えなかった気がする。こういう天候があって、ちょっとずつすずしくなっていくのだろう。昼間はそういう雷鳴をBGMにして、ヴィデオを二本観てしまった。

 冷凍してあったイカを解凍して、ホイル焼きかなんかにして夕食のおかずにしようと思っていたのだけれども、なんだかめんどうになってしまって、ごはんに生玉子をかけたりだとか、ありあわせのいいかげんな夕食にしてしまった。

 寝るまえにベッドで「LAヴァイス」を読みすすめる。ピンチョンの作品としてはとっても読みやすい感覚で、なに、これ、「チャイナタウン」かよ、って感じだけれども、あんまり読みすすめないうちに、寝てしまった。


 

[]「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」(2009) マルコ・ベロッキオ:監督 「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」(2009)  マルコ・ベロッキオ:監督を含むブックマーク

 この作品は、おととしの「イタリア映画祭」でプレミア上映されたときに、観に行きたいとちょっとだけ思ったりしたものだった。さいきんはヨーロッパの作品がロードショー公開されることも少なくなって、そういう映画祭だとか特集上映とかの機会でないと、こういう、マルコ・ベロッキオあたりの、日本では知名度のそれほど高くはない監督の作品を観ることはできない気がしていたし、このまえに観た彼の作品「夜よ、こんにちは」のことが記憶に残っていたりしたせいでもある。
 それでもこの作品はいつの間にかちゃんとロードショー公開されていたみたいで、こうやってWOWOWの放映で観ることが出来た。マルコ・ベロッキオのフィルモグラフィーをチェックしてみると、やはり、まえに日本で公開されたその「夜よ、こんにちは」と、この「愛の勝利を」とのあいだに、彼は二本の作品を撮っているようだった。もちろん日本ではまったく未公開のままである。

 さて、それでこの「愛の勝利を」だけれども、「ムッソリーニを愛した女」なんていう日本の副題で、これはムッソリーニがパルチザンに銃殺されたときにいっしょに銃殺された女性のはなしなのだろうか、などと勝手に想像していたものだけれども、そうではなく、若き日のムッソリーニのさいしょの妻として、その長男の母となったイーダ・ダルセルという女性の、おもにムッソリーニと別れたあとの、壮絶な物語、なのであった。

 政権奪取したムッソリーニ側からその過去のかんけいを隠ぺいされ、結婚の事実もなかったことにされたイーダは、じぶんがかつてはムッソリーニの妻であり、なによりも、じぶんの息子はつまりはムッソリーニの長男なのだということを訴えるのだけれども、息子と離れさせられ、精神病院に収容されることになるわけである。それでも不屈のたましいで、事実を訴えつづけようとするそのすがた、観ていて、これだけの苛酷な環境で幽閉されれば神経を病んでしまったわけかと思うしゅんかんもあるのだけれども、ドラマは感動的なラストへと観るものを導く。

 非常に印象的な演出手法で、当時のプロパガンダ映画のように、スローガン的な大きな文字を画面に反復してズームさせてみせたり、ミュージカル舞台のような音楽の取り入れ方も何度かくりかえされる。チャップリンなどの映画作品が上映されるシーンもやはり多く、それが終わり近くではトーキー映画になり、時代の流れを感じさせられる。ムッソリーニ役の役者は、ヒロインとじっさいにあっていたときだけの出演で、彼が政権を握ってからは、じっさいのニュース映画の映像でしか出てこない。これが、長男が成長したとき、ムッソリーニを演じた役者がふたたび登場して、その長男を演じてみせる。

 主人公がムッソリーニとさいごに逢うことができるのは、おもしろいことに「未来派」の展覧会会場だったりする。おもに夜や暗い室内の撮影が多く、ここでわが家のあたらしいモニターも威力を発揮できたというか、その陰のなかでの微妙な表情が、やはりすばらしい。そう、主人公はさいしょに知り合うときから、ムッソリーニの世界へはなかなか入って行けない。そこへ行くために、かのじょは区切られた閾の上にあがってそちらの世界を見るのだけれども、そういう、上にあがって乗り越える、という場面が、かのじょが精神病院に幽閉されてからも、脱出の試みとして何度も出てくる。そしてそれがさいごに成功する、ラストの十分間ほどの展開は、涙なくしては観ることが出来なかった。

 主人公のイーダ・ダルセルを演じているのは、ジョヴァンナ・メッツォジョルノという女優さんで、とにかくすばらしい。この方はちょっとまえに公開されたガルシア・マルケス原作の「コレラの時代の愛」にも出演されていたらしく、さいきんではヴェンダース監督の「パレルモ・シューティング」にも出ていらっしゃるようである。


 

[]「モールス」(2010) マット・リーヴス:監督 「モールス」(2010)  マット・リーヴス:監督を含むブックマーク

 

 まえに映画館で観たスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」の、アメリカ版リメイクで、監督は「クローバーフィールド/HAKAISHA」の監督のマット・リーヴスという人。

 こういうのをなんというのか、リメイクという名目で猿マネをした映画というのか、映画としておもしろい部分は、すべてスウェーデン版とおなじ演出。とくにラストのプールのシーンをどうするのか、ちょっと気にかけて観ていたのだけれども、これがまるっきしおんなじなので、あきれてしまった。それ以外の、スウェーデン版とは異なるような部分は、つまりは説明としてわかりやすさを求めただけの演出にみえ、そんなものは説明しなくてもいいのに、などとしょっちゅう思いながら観ていた。

 けっきょく、映画監督って、こんなこと(人の猿マネ)やってもいいのかと、おどろいてしまった作品だった。


 

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■ 2012-09-05(Wed)

 きのうまで、いちにちおきにしごとが公休だったりしごとがあったり、つまりは飛び石連休という、いまではほとんど死語になってしまったような状態だったのだけれども、きょうからはちゃんと連続してしごと。このところはこなすべきしごと量もすくなく、しぜんに待機状態という休憩じかんがながくなる。あまり休憩ばかりつづくよりは、多少でもしごとをやっている方が楽なのだけれども。

 まだまだ暑いとはいってもそれでもだいぶやわらいで、汗がだらだら流れてくるということもなくなった。ようやく腕の発疹もおさまって、発疹のあともほとんどめだたなくなった。これで半そでで外出しても人目も気にならないわけだけれども、もう半そでという季節もながくはない。考えたら八月中ずっと、この発疹になやまされたわけである。これもこの八月の異変のひとつ、だったのだろう。

 レンタル店から借りていたDVDを午後から観てしまい、図書館から借りている「高慢と偏見」のDVDほもう観ないことにして、レンタル店へDVDを返却に行き、帰りに図書館によってDVDと本を返却する。リクエストを出したら買ってくれたピンチョンの「LAヴァイス」が、もう入荷しているとの連絡をもらっていたので、借りて帰る。とっても楽しみである。帰り道にもうひとつ、近所の米屋さんによって、お米を買って帰る。米屋のご主人さんと、「いつまでも暑いですねえ」とか、短い会話。

 帰宅して、夕食のじゅんびでキッチンで米をといだりしていると、ニェネントが近くによってきて、皿に残っているネコメシをかじりはじめる。いつもたいていわたしがキッチンに立つとそばによってきてネコメシを食べはじめるのは、「ほら、わたし、いっぱい食べてるでしょ。だからおいしいところをもうちょっとちょうだいよ」といっているみたいに感じられる。だから、ネコ缶をあけて出してあげる。いぜん買っていたネコ缶は、つまりおいしくないところがあったのか、よく食べ残したまま、そのあとまったく手をつけないで放置したりしていたのだけれども、二ヶ月ほどまえからちがうネコ缶に買い替えた。それからは食べ残すことはまったくなくなった。やっぱりおいしいんだろうか。じつは、まえに買っていたのよりいま買っているネコ缶の方が価格は安いんだけれども。

 夕食はまだ残っていたビーフシチューのさいごをあたためて、お手軽にすませる。食事のあとしばらくはニェネントと(で)遊んで、風呂にも入らずにそのままベッドに横になって、借りてきた「LAヴァイス」を読みはじめる。冒頭からCountry Joe & Fish のTシャツ、なんて文句も出てきて、舞台は1970年のロサンゼルス。「競売ナンバー49」や「ヴァインランド」のように、ポップ・カルチャーに彩られた、わたしの大好きなピンチョンの世界がくりひろげられそう。これだったら、じぶんで買っちゃってもいいな、とか思う。とにかく読みすすめるのが楽しみである。


 

[]「自殺サークル」(2002) 園子温:脚本・監督 「自殺サークル」(2002)  園子温:脚本・監督を含むブックマーク

 観る人のこころをわしづかみにしてしまった、飴屋法水氏の演出の舞台「転校生」のラストの、「いっせーの!」という女子高校生たちのジャンプは、この「自殺サークル」からの「引用」だったということなのだけれども、そのなかなか観ることのできなかったオリジナルの「自殺サークル」を、ようやっと観た。

 園子温監督の作品、それなりに観てはいるけれども、やはり「愛のむきだし」の、強烈な情念のかたまりのような作品から、何かが変わったんだろう。それ以前の「紀子の食卓」だとか、「うつしみ」だとか、「桂子ですけど」とか、観たことは観たのだけれどもまるで記憶に残っていないし、観ているときもあまりいい印象ではなかった気がする。ただ、初期の「自転車吐息」だけは、その「オレさま」ぶりに、ちょっとこころ動かされるところはあった。

 それでこの「自殺サークル」だけれども、これでは映画づくりの基本をすべてはずしてしまっているではないか、という感想になる。まあ冒頭の集団ダイヴのシーンはともかくとして、そのあとにつづくまさにホラー映画な展開、そしてそれ以降もずっと、その演出にはほんとうにがっかりしてしまった。たいていの映像はつまりは説明でおわってしまい、映像独自のちからをまるで感じられなかった。観ていても、やっぱり黒沢清はすごいよなあとか、そういうことばかし思っていた。キャスティングもただ名の知られた役者を並べただけのようなところもあり、ミスキャストとしか思えないところもあれこれと。

 つまりはその、冒頭の集団ダイヴへの思い込みが強すぎた結果ではあるのだろうけれども、そのアイディアを生かしてくれる、監督自身ではないべつの脚本家のちからを借りるとか、監督自身がもうちょっとこの「自殺サークル」の世界からいちど出て、その外側からながめる視点がひつようだったような気がする。

 

 

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■ 2012-09-04(Tue)

 きょうはしごとは休みだからいいのだけれども、あさは七時ごろには目が覚めた。気のおけない人と楽しいすごし方をした日の翌日というのは、酔いざめの気分も手つだっていつもちょっとブルーな気分になるものだけれども、きょうもずっとブルーだった。午前中に、きのう読みさしだった、図書館から借りていた舞城王太郎の新作を読みおえて、午後は何をするでもなくTVをみながらベッドに横になっていたら、あんのじょうそのまま眠ってしまった。

 目が覚めたらもう外は暗くなっていて、こういうことをやっているとひるとよるが逆転しかねないのでよくないな、などと思う。時計をみるともう八時になっていて夕食をつくる気分などではなく、スーパーにお弁当を買いに出た。外はわずかに雨が降っていた。

 帰宅して買ってきたちらし寿司を食べ、また寝ようとしてベッドに横になるけれど、もちろんなかなか眠れない。ずっと読みさしの「昭和文学全集」から江藤淳のみじかい評論をひとつ読み、それでも眠れないので、ニェネントをつかまえていっしょにベッドで横になった。ニェネントに腕をまわして逃げられないようにすると、ニェネントは「ん〜、ん〜」とうなっている。それでも、腕をといて自由にしてやっても、しばらくはわたしのそばに横になったままで、逃げようとはしない。ようやくわたしの腹の上に乗ってベッドの下へ行こうとしたので、またつかまえてわたしの横で逃げられないようにしてやる。またニェネントは「ん〜、ん〜」とうなる。いいかげんにして、ニェネントをベッドの下へ行かせる。そんなことをしているうちに、いつのまにか、また眠ってしまったようである。


 

[]「短編五芒星」舞城王太郎:著 「短編五芒星」舞城王太郎:著を含むブックマーク

 ずいぶんとしばらくぶりに読む舞城王太郎だけど、かのじょ(?)ももう三十八になるのだなあ。それで、少し落ち着いちゃったといえばいえるのだけれども、どこかノイジーで、これが健康なんだか不健康なんだかよくわからないあたりは変わらない魅力だとも思える。タイトル通り、せいぜい四十ページぐらいの短編が五つ収録されているのだけれども、それらがリンクしあっての短編集といえるのかどうか、というあたりはちょっと微妙(このあたりが芥川賞の候補作としてどうよ、というはなしもあったらしいけど)。ふたつめの「アユの嫁」、それからよっつめの「バーベル・ザ・バーバリアン」、さいごの「あうだうだう」あたりに、森林と、そこに棲むスーパーナチュラルな存在(神様?)とのはなしが出てきて、「アユの嫁」と「あうだうだう」はまさに作者の地元福井の森林が舞台になっている。やはりこのみっつがおもしろく読めて、とくに「アユの嫁」はイメージ豊かな世界で、ちょっとこころに残る、傑作っぽい読後感。
 「美しい馬の地」も、とってもいやなはなしでいいのだけれども、やはりほかの作品とのつながりがわからない。また、まんなかの「四点リレー怪談」に、作者なりのこの短編集をつなげる仕掛けがひそんでいそうなんだけれども、そういう作為が先に気になってしまうような、わからない作品。まあ、「アユの嫁」のはなしは記憶に残りそうではある。


 

[]「日本文学と「私」」江藤淳:著(「昭和文学全集 第27巻」より) 「日本文学と「私」」江藤淳:著(「昭和文学全集 第27巻」より)を含むブックマーク

 やっぱりわたしには江藤淳という人はどうでもいい人、というか、「保守」という立場のつまらなさをあらためて認識させてくれるという意味では「反面教師」っぽいところのある存在。この小論では、つまりはペリー以降の日本の文学のあり方を、坪内逍遥、夏目漱石、有島武郎あたりの作家の、(社会に対する)「私」というものの認識をたどりながら語るもの。まあページ数が少ないせいかめっちゃ乱暴な論旨というか、「社会」と「個」との相克を、これだけの例証で語ってしまったつもりになっていることがこわい。
 まずは、江藤淳という人、本当にマジで、日露戦争での勝利ということを政治的には評価しているようである。だからその延長で太平洋戦争があり、江藤淳はそのこんぽんのところでは太平洋戦争がまちがっていたとは思っていないのだろう。そういうところから、文芸批評家としても「何をいってるんだか」という血迷いごとをとつぜんに語り出す。戦後文学について、<‥‥しかし「平和」が国是である以上、作家はもはや血沸き肉踊る戦さを描くことはできない。トルストイの『戦争と平和』の太平洋戦争版はいまだに書かれてはいない>などと、信じられないことをいいはじめてしまう。あらためていうまでもなく、「平和」というものは「国是」などというレヴェルのものではないことは、第二次世界大戦以降の世界の「ジョーシキ」であるし、文学というものがそういう世界文学の名作のリメイク版を待望している、という認識にも、おどろくべきものがある。

 ‥‥なんか、この全集、もうちょっとこの江藤淳のものが続いているんだよね。花田清輝はさすがに途中で投げ出したものだけれども、まああと三、四篇。そんなに長くもないようだから読んでみようかしらん。


 

 

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■ 2012-09-03(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 いまは日本画をやっているAさんから、グループ展の案内をいただいたので、メールでAさんに連絡をとり、きょう行くことにしている。またあしたはしごとは非番だから、ちょっと夜にむこうでAさんと飲んできて、帰宅が遅くなってもだいじょうぶである。

 そのグループ展の会場のギャラリーは立川で、ちょっと遠いといえば遠いのだけれども、ネットの乗換案内で検索すると、ちょうど行きたいぐらいのじかんに、大宮から立川や八王子方面へ直通の、「むさしの号」という列車が運行されているのを知った。これは中間部分は武蔵野線なのだけれども、大宮からその武蔵野線に入るところ、そして武蔵野線から立川に接続するところでは貨物線をつかっているらしい。わたしにはつごうのいいショートカットだし、これに乗っていくことにした。帰宅するじかんにも使えるだろうかと調べたけれども、いちにちに何本も運行されているものではなく、帰りはやはり新宿経由がよさそう。

 きょうは晴天。すこしは涼しくなったようだけれども、まだまだ暑い。スーパーのなかの和菓子屋の出店で、お茶菓子を買って持っていく。わたしも食べたことのない和菓子だけれども、ざんねんながらこの地域の和菓子ではなく、ターミナル駅のあたりでつくっているものらしい。
 電車に乗って、大宮でその「むさしの号」に乗り換える。降りたホームの向かいがわのホームで、大宮駅始発の電車だったので、乗り換えもかんたんだし楽にすわれた。出発して、さいしょの駅に到着するまでがやたらと長い距離だった。三十分ちょっとで立川に到着。

 立川に来るというのもほんとうに久しぶりのことだけれども、改札を出てみるとふんいきが大宮の駅にそっくりだった。東京近郊の駅というのは、東京を中心にして同心円的に同じような風景の駅がまるく並んでいるものだけれども、大宮と立川は東京からの距離からもその「同心円」上に並んでいるということなのか。これをもっと南でみれば、まさに町田あたりが似たような風景になり、これもつまりは同心円なのだろう。

 いただいた案内状をたよりにギャラリーを探す。駅のすぐ近くで苦労せずにみつけることができた。って、駅からの線路にそった大通りに面したマンションの、その一階にあるのだからすぐにわかるし、ギャラリーとしては一等地だろう。で、入口の大きなドアが思いきりアール・デコなデザインで、ちょっとあっけにとられてしまうほどだった。ギャラリーのなかに、Aさんが留守番をされているすがたがみえたので、外からあいさつをしてギャラリーへ。

 Aさんとあらためてあいさつをして、作品をみせていただく。七、八人のグループ展で、Aさんの作品も三点ほどだけれども、またぜんかいみせていただいたときとはちょっと異質な展開の作品で、こまかいデティールが美しい。人体解剖のデッサンからスタートされたAさんの作風も、ここではもうほとんど人体解剖がスタート点だとはわからなくなっている。それでも人体の持つ曲線がちょっとエロティックな様相をみせて、くねっている。すてきな作品だと思った。

 Aさんが二階もあるのだと話され、たしかにギャラリーの奥にまたアール・デコならせん階段が上へのびている。二階の作品も拝見する。‥‥ギャラリーの入り口やそのらせん階段はアール・デコなんだけれども、天井にほどこされた浮き彫りレリーフがロココ調なのがおかしい。Aさんのはなしでは、このグループ展にも出品されているギャラリーのオーナー自身のデザインということ。

 お茶をいただいて、持ってきた和菓子を出して、わたしもAさんと食べる。風流な味の、おいしい和菓子だった。もうギャラリーを閉めるじかんも近いのだけど、それまでAさんと作品のはなしなどをする。その、ギャラリーをデザインされたオーナーの方がお出でになって、引き継いでいただいてわたしたちは外へ出る。すぐ近くの居酒屋にAさんに案内してもらい、そこでAさんと飲む。いつもの都心のギャラリーでのAさんの個展では、わたしが早く行って早くひとりで出てしまうので、こうやってAさんといっしょに飲むというのは、ほとんどはじめてのことではないのか。Aさんはむかしわたしがやっていたイヴェントにずっと参加していただいていたので、そういう、あのころのイヴェントのなつかしいはなしだとか、まあその後のわたしのプライヴェートなはなしとかでもりあがる。どういうはなしをしたのかはここに書かないけれど、Aさんは、わたしのはなしを面白がってくれたようである。
 帰りの電車のことがあるので、八時半ごろでおひらきにして、Aさんと立川駅で別れる。楽しい席だったので、またAさんとはどこかで飲んだりしたい。

 ‥‥八時半でおひらきにしたのは正解で、新宿駅に着くと、いつもわたしが最終電車としている電車のじかんの、かなりまぎわだった。電車のなかで本をひろげて読みはじめたけれど、すぐに眠くなってしまった。あぶなく、乗換駅で寝過ごしてしまうところ。


 

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■ 2012-09-02(Sun)

 きょうはしごとは休み。いちど目覚めると外がぼんやりと明るくなりはじめているようで、まだ六時まえぐらいかなと思ってまた寝る。きょうはあんまり暑くはない感覚で、やはりもう九月だなあなどとベッドの中で思っている。そのうちに外からなんだかザァッというような音がきこえてきたので、雨でも降っているのだろうかと、ベッドから起きだして窓の外をみてみる。すごい雨が降っていた。向かいの家の屋根の樋から、屋根から落ちてきた雨水がいきおいよく吹き出しているのがみえる。雨の降る音が響いている。豪雨だなあ、などと漠然と思い、ふだんだったらしごとをしているじかんだから、きょうはしごとが非番でよかった、などと思う。

 雨はそんなにながくは降りつづかず、昼ごろにはいちどはすっかり晴天になってしまった。それでもときどき窓から外をみていると、空には大きな黒っぽい雲の早いながれがみえて、また降り出すんじゃないかななどと思わせられる。思っていたとおり、夕方になってまた雨になった。

 きょうは朝から夜まで一歩も外に出ない引きこもり生活で、とうぜん一円のお金もつかわなかった。あしたは東京に出かける予定だからセーブしたつもりでもないのだが。

 昼食のじかん、おととい冷蔵庫に保管したそのまえの日につくったホットサラダのタッパーを出して、皿にとろうとすると、ねばーっと糸をひくのがみえて、こりゃダメだ、かんぜんにいたんでいる。やっぱりきのうつくったビーフシチューをさっさとたいらげなくっては。


 

[]「ショーン・オブ・ザ・デッド」(2004) エドガー・ライト:監督 「ショーン・オブ・ザ・デッド」(2004)  エドガー・ライト:監督を含むブックマーク

 アメリカのジャンル映画へのオマージュというか、パスティーシュ作品をつくりつづけているサイモン・ペッグらの集団による、ゾンビ映画へのすばらしいパスティーシュ。

 まずは、「オレたちはイギリス人だから」というのか、「オレたちはオタクだから」というのか、そういう出発点があって、その日常ドラマがゾンビの世界に侵食されたら、というような、誰もが想像してもおかしくないようなことを、きっちりと映画にする。たとえばオリジナルの「ゾンビ」映画がショッピングモールにろう城するならば、オレたちはパブだね、なんていうあたりの、こう、奇妙なおかしさというのは、だってここはイギリスだから、オレたちはイギリス人だから、という主張からくるおかしさではあるだろう。それと、主人公を取りこんでいく、ゾンビとはかんけいのない日常ドラマと、そういうゾンビの侵略との混ざりぐあいがとってもうまくいっている。とにかう楽しい作品だった。

 やっぱわたしが好きなのは、レコード投げのシーン、かな。


 

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■ 2012-09-01(Sat)

 とうとう九月、ということになってしまったけれども、なんだかたいへんな八月だったなあと思いながらこの日記を読み返してみると、こういう異変の連鎖というのは、まさに一ヶ月まえの七月の三十一日にはじまっている。この日に無線LANがこわれて使えなくなり、おなじ日には、ニェネントがみじかい家出事件を起こしている。この部屋のまえの駐車場で野良ネコのジュニアともうれつな闘争をおこない、肩口と頬に傷を負って帰ってきたわけだけれど、ここからニェネントのTVへのダイヴィングキックによる破壊、そしてきのうのパソコンのフリーズと、ここまでがちょうど一ヶ月である。

 そういう、とんでもない事件が続発した影響があったのか、いつもの月のようにヴィデオ三昧というわけでもなく、観劇だとか美術展観賞だとか、映画観賞に読書と、かんがえかたによってはとってもバランスの取れた一ヶ月だったような気もする。それできのうのパソコンのクラッシュになるわけだから、これはそういう、「今までのような生きかたをあらためなさい」という、どこかのだれかからのメッセージだと受け取るべきものなのかも知れない。まあわたしも節目の年齢をむかえて半年が経ったし、このあたりであたらしい展開を、ということを考えないわけでもない、というか、まえから考えていたことでもある。大震災からももうすぐ一年と六ヶ月になることでもあるし、これはあまりかんけいないかも知れないけれど、ニェネントも八月二十一日には二歳と二ヶ月になっている。ニェネントの月の誕生日のことはすっかり忘れていた。ニェネント、ごめん。

 クラッシュしたパソコンにおそるおそる電源を入れてみると、きのうとはちがって、いちおうデスクトップ画面の表示まで順調に進み、インターネットにも接続できた。なんだ、やはりじかんをおけば復旧するわけか、とか思いながらしばらく使っていたら、またフリーズした。やはりダメか。ここでまた、すぐに電源を入れると、エラー音がしてまるで使えないのだけれども、二時間ぐらい放置して電源を入れると、やはりいちおう少し使えるようになる。しかし、やはり使っているときにふいにフリーズする。やっぱり古い先代のパソコンを使おう。

 月の誕生日をすっかり忘れてしまっていて、悪かったと思ったというわけでもないけれど、きょうはニェネントをいっぱいかまっていちにちをすごした。どうもこの二、三日、ニェネントがわたしにからんでくることよなあと思っていたのだが、つまりはまた発情期になっていたわけである。ちょうどヴィデオテープの整理をやっていたら、録画した記憶もなかった「私は猫ストーカー」の録画されたテープが出てきたので、ニェネントをだっこしながら観たりした。

 夕食には、久しぶりにビーフシチューをいっぱいつくった。


 

[]「私は猫ストーカー」(2009) 鈴木卓爾:監督 「私は猫ストーカー」(2009)  鈴木卓爾:監督を含むブックマーク

 街角でネコを追いかける女の子が主人公で、その女の子をストーカーする男の子だとか、女の子のバイト先の古本屋の経営者夫婦だとかアルバイトの同僚とかがごちゃごちゃと登場し、デジタルヴィデオでのホームムーヴィーのような作品の仕上がり。なんと撮影はたむらまさきで、全編手持ちカメラでもって、このカメラこそがストーカー、みたいな撮影ぶりをみせてくれる。意外なことに、鈴木卓爾監督にとってこの作品がはじめての長篇映画の単独監督作品ということ。まあこのあとに「ゲゲゲの女房」を撮っているわけで、わたしは観るじゅんばんがぎゃくになってしまった。

 さきに書いたように、家庭用ヴィデオでもこ〜んなに見ごたえのある作品がつくれますよ、というような作品で、いわゆる映画っぽい切り返しなどやらないで、カメラの動きと編集だけでこの作品を仕上げている。結果はとってもアンティームなふんいきでいっぱいで、その撮影されたネコたち、登場人物、そして地域全体とからなる、親密な空気にみたされた作品になっているという印象。で、この舞台になっている町なんだけれども、さいしょは吉祥寺周辺かとも思って観ていたのだけれども、これはどう観ても谷中周辺で、諏訪神社が出てきたときにようやく、やっぱりあのあたりだったと確信できた。

 さて内容だけれども、とりとめのないドラマからはネコ好き人間のうっとうしさもにじみ出てきて、「だからネコ好きはなあ〜」、などとひとごとのような感想を持つのだけれども(まあネコ好きのうっとうしさだけではないけれども)、そのあたりはつくっている人間もちゃんと認識しているフシもある(脚本は黒沢久子という人で、このあとに若松孝二の「キャタピラー」なんていう作品の脚本を手がけている)。あとはやっぱりしろうとネコたちの名演に見愡れるばかりなのだけれども、ネコがこんなにもカメラの思う通りの動きを、してはいけない気がする。とくに後半の不忍池のところに出てくるネコの人へのなつき方は、ちょっと驚異であった。うちのニェネントは、あんなことはぜったいにやらない。


 

 

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