ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2012-11-30(Fri)

 きょうもしごとは非番で休み。いちにち部屋でのんびりしようと思った。洗濯物がたまっていたので早朝から二回洗濯をした。二回目のときに窓を大きく開け、ベランダにある洗濯機に洗濯物をほうりこむときにちょっとだけ、「こんなに窓をあけるとニェネントが外に飛び出しちゃうかもな」とも思ったのだけれども、「いやいや、ニェネントもせんじつハーネスをつけて外に連れ出してあれだけいやがったのだから、もう外はこりごりだと思っているにちがいない」と思って、かまわずに窓は開けっぱなしにしていた。ところがやっぱり、開いた窓からニェネントがベランダに飛び出してきて、アッと思ってつかまえようとするわたしの手をすりぬけて駐車場に飛び降り、となりのベランダにジャンプして上ってしまった。ひさしぶりのニェネントの脱走。まああれだけ外の世界にこりてしまったあとだから、窓をあけておけばじきに部屋に舞い戻ってくるだろうと考えた。

 それでもやはりニェネントの行き先は気になるので、玄関から外にまわってニェネントの行方を追ってみた。ところが、ニェネントのすがたがどこにも見えない。となりの部屋のベランダをのぞきこんでみてもそれらしき気配もなく、どこかほかに行ってしまったみたいである。わたしが玄関にまわっているあいだに、どこかほかのところへふっとんで行ってしまったのを見逃してしまったのかもしれない。とにかくニェネントの行動範囲はそんなに広くはないはずで、せいぜいこのたてものの周辺ぐるり、それを越えてもこのブロックから外に出るものでもないだろう。それでこのブロックの周辺に目をこらしてぐるりと歩いてみたのだけれども、みあたらない。わたしが歩いているあいだに部屋にもどっていることもあるかもしれないと帰ってみるけれども、やはりいなかった。だんだんにしんぱいになってくる。

 もういちど外に出て、となりの家のベランダをのぞいたら、となりの家で飼っている犬がベランダに出てきていて、わたしに吠えついてきた。さっきはこの犬はベランダにいなかったはずなのに、どうしていまはベランダに出てきているんだろう。ニェネントはこの犬にびっくりして衝動的に遠くへ逃げてしまって、帰る道がわからなくなってしまったんじゃないだろうか。こんどはもうひとつ外側の道もぐるりと歩いてみてニェネントを探した。やはりみつからない。どこかの知らない人に連れていかれちゃった可能性もある。もどり方がわからなくてどこかの隅でおびえて途方にくれているのかもしれない。ニェネントを散歩に連れていった公園もずっと見渡してみたけれど、やはりいない。

 ここで、きょうが十一月の末の日だということを思い出した。それが何かというと、二年まえにニェネントのお母さんのミイが死んだ、その二周忌の日が十一月の二十九日だったはずである。あ、ミイがニェネントを連れて行ってしまったと、そのときに思った。きのう、わたしはすっかり、その日がミイの命日だったことを忘れていた。きっとミイが、「わたしのことを忘れないで下さい」といっているのだ。それで、そんなことも忘れてうかれている薄情なわたしをせめて、その子どものニェネントを連れていこうとしている。そう思った。ああ、もうニェネントにも会えないかもしれない。探してもムダなことなのかもしれない。

 部屋にもどり、もういちどベランダに出て外を見渡したり、となりのベランダをのぞいたりしてみた。すると、そのとなりのベランダに、たしかにニェネントがいて、わたしの方をみていた。「あ、いたんだ」と思って、「ニェネント、もどっておいで」と呼ぶのだけれども、ニェネントは動こうとしない。しかたがないのでとなりの家のブザーを押し、出てこられた奥さんに「すみません、ウチのネコがおたくのベランダに入ってしまって、どうやら出られなくなってしまっているようで」と伝える。「ではみてみましょう」ということで奥さんが引っ込まれて、わたしもベランダの外にまわってみる。またニェネントのすがたはみえなくなっている。ベランダに来られた奥さんに、「どこか洗濯機の下とかものかげにかくれているのかもしれません」とみてもらう。しゃがみこまれた奥さんが「あ、いたいた」とおっしゃる。洗濯機の下のせまいすき間に入りこんでいるらしい。うちのベランダとの境界に灯油のタンクが置かれているのでニェネントの通路がなくなっていると思い、「そのタンクをどけていただければじぶんでもどってくると思います」と告げる。でもそのとき、奥さんに追われたニェネントが洗濯機の下のせまいすき間を後退し、わたしのうちのベランダへ抜け出して、走ってわたしの部屋にもどっていったのが見えた。「あ、抜け出したようです、どうもありがとうございました。ご迷惑をおかけしました」といって、部屋にもどった。

 ニェネントはまえに脱出事件を起こしたときのようにベッドの下にもぐりこもうとしているところで、すっかりおびえ切っているようすである。おそらくはとなりの犬に吠えられて、恐怖のいっときをすごしたことだろう。バカだなあ。

f:id:crosstalk:20121201150449j:image:left しかし、さいごにニェネントがじっとしていた場所は、まさに二年まえにミイが動けなくなってじっとしていた場所だったわけで、これはやっぱりミイがニェネントを呼び寄せていたのだと、わたしは思ってしまうのである。‥‥こんなことを書くと笑い飛ばされてしまうかもしれないけれども、わたしはずっと、ミイのことを「とくべつな」ネコだと思っていた。ミイの意志をわたしは読み取れていた気もしていたし、ほとんど「会話」のようなことも出来た。それいじょうに、わたしにはわからない超常的なところも持っているネコだという思いもあって、わたしはミイというネコに対して、畏敬の念に似た感情も持っていた。ミイの死もまた、ひとつの神秘だったと思う。そうしてミイの死からちょうど二年がすぎて、ミイはまだ、「わたしはここにいる」ということをわたしに示してくれた気がする。きょうのことを「偶然」と考えるのがふつうなのかもしれないけれど、わたしにはどうしても「偶然」とは思えない。わたしは、これからもずっと、ミイのことを忘れてはいけない。そうして、ミイの子どもでただ一匹生き残っているのだろうニェネントといっしょに、ニェネントを育てながら生きていかなくてはならない。ニェネントを愛して、ニェネントを通じてミイを愛していかなくてはならない。これはミイと出会ったわたしとミイとの、いつまでもつづく絆(このことばはきらいだけれども)なんだろう。ミイは決して、死んでしまったのではない。こんなことを考えるようになった自分のことが不思議だけれども、そうとしか考えられない。ある意味での「神秘体験」だった。(きょうの写真は生前のミイのもの。追悼。)



 

[]二○一二年十一月のおさらい 二○一二年十一月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●「This is ARICA Show! 首くくり栲象+ARICA パフォーマンス 蝶の夢 in VACANT」@原宿・VACANT
●バットシェバ舞踊団「SADEH21ムサデ21」オハッド・ナハリン:振付 @与野・彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
●小林達雄×ミステリヤ・ブッフ プロデュース「スワン・ソング」アントン・チェーホフ:原作 福田光一:台本・演出 @中野・スタジオあくとれ

 ‥‥あと、地元での薪能にも出かけました。

展覧会:
●「没後120年記念 月岡芳年」(後期)@原宿・太田記念美術館
●「デヴィッド・リンチ展 〜暴力と静寂に棲むカオス(DAVID LYNCH ”CHAOS THEORY OF VIOLENCE AND SILENCE”)」@原宿・ラフォーレミュージアム原宿

読書:
●「季節のない街」山本周五郎:著
●「島尾敏雄」より<戦争><家族><日常> 吉本隆明:著
●講談社現代新書「生物と無生物のあいだ」福岡伸一:著
●「悲劇の解読」より <太宰治> 吉本隆明:著
●「理解できない悲惨な事件」リンダ・ウルフ:著 間山靖子:訳

DVD/ヴィデオ:
●「海の底」(1931) ジョン・フォード:監督
●「素直な悪女」(1956) ロジェ・ヴァディム:監督
●「カウボーイ」(1958) デルマー・デイヴィス:監督
●「ワーロック」(1959) エドワード・ドミトリク:監督
●「ピアニストを撃て」(1960) フランソワ・トリュフォー:監督
●「突然炎のごとく」(1962) フランソワ・トリュフォー:監督
●「牝猫と現金」(1967) ジョルジュ・ロートネル:監督
●「夕陽の挽歌」(1971) ブレイク・エドワーズ:監督
●「フロント・ページ」(1974) ビリー・ワイルダー:監督
●「ブレイクアウト」(1975) トム・グライス:監督
●「ミッドナイト・エクスプレス」(1978) アラン・パーカー:監督
●「白と黒のナイフ」(1985) リチャード・マーカンド:監督
●「バグダッド・カフェ(ニュー・ディレクターズ・カット版)」(1987) パーシー・アドロン:監督
●「スネーク・アイズ」(1998) ブライアン・デ・パルマ:監督
●「ジョー・ブラックをよろしく」(1998) マーティン・ブレスト:監督
●「悪の華」(2003) クロード・シャブロル:監督
●「エグザイル/絆」(2006) ジョニー・トー:監督
●「フローズン・タイム」(2006) ショーン・エリス:監督
●「ミス・ポター」(2006) クリス・ヌーナン:ス:監督
●「スルース」(2007) ハロルド・ピンター:脚本 ケネス・ブラナー:監督
●「ナイト&デイ」(2010) ジェームズ・マンゴールド:監督
●「ザ・ウォード 監禁病棟」(2010) ジョン・カーペンター:監督
●「エアベンダー」(2010) M・ナイト・シャマラン:監督
●「カウボーイ&エイリアン」(2011) ジョン・ファヴロー:監督
●「SUPER8/スーパーエイト」(2011) J・J・エイブラムス:監督
●「決闘高田馬場」(1937) マキノ正博・稲垣浩:監督
●「東京五人男」(1945) 齋藤寅次郎:監督
●「稲妻」(1952) 林芙美子:原作 成瀬巳喜男:監督
●「美女と液体人間」(1958) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督
●「女死刑囚の脱獄」(1960) 中川信夫:監督
●「忍びの者」(1962) 山本薩夫:監督
●「次郎長三国志」(1963) マキノ雅弘:監督
●「続・次郎長三国志」(1963) マキノ雅弘:監督
●「次郎長三国志 第三部」(1964) マキノ雅弘:監督
●「もののけ姫」(1997) 宮崎駿:監督
●「崖の上のポニョ」(2008) 宮崎駿:監督
●「借りぐらしのアリエッティ」(2010) 米林宏昌:監督
●「アウトレイジ」(2010) 北野武:監督
●「マイ・バック・ページ」(2011) 川本三郎:原作 山下敦弘:監督
●「ラビット・ホラー」(2011) クリストファー・ドイル:撮影 清水崇:監督
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 1.「地図にない村」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 2.「ビッグベンの鐘」」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 3.「A, B & C」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 4.「我らに自由を」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 5.「暗号」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 6.「将軍」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 7.「皮肉な帰還」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 8.「死の筋書」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 9.「チェックメイト」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 10.「旗色悪し」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 11.「暗殺計画」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 12.「反乱分子」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 13.「思想転移」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第三話「矢がすりの女」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第四話「大阪屋花鳥」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第五話「人情廻り燈篭」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第六話「河豚太鼓」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第七話「唐人飴」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第八話「怪談津の国屋」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第九話「蟹のお角」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十話「張子の虎」


 

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■ 2012-11-29(Thu)

 きょうはしごとは休みだけれども、ちょっとハードスケジュール。まずは九時に開店早々のスーパーヘ行って買い物をすませ、十時からは予約してある歯医者へ行って歯の治療をする。前歯三本を一気にさし歯にする第一段階で、ちょっとした手術というか、ある程度じかんがかかるんじゃないかとは予測していたけれども、一時間半もかかってしまった。このあとは東京に出て演劇のマチネ公演を観る予定になっていて、十二時半の電車には乗りたいと思っているのでいそがしい。銀行のATMにも寄らなくてはならないし、図書館にDVDを返却するつもりでもいる。そんな用事をすませて帰宅したら、もう十二時になってしまっていた。まともな昼食にするのはあきらめてカップ麺ですませ、ニェネントのごはんを出してあげ、ばたばたと準備をととのえてギリギリのじかんに部屋を出た。ところが、ケータイとSUICA のカードを持って出るのを忘れていて、やはりケータイはひつようなので家に取って返す。これで、電車には間に合わなくなってしまった。あ〜あ、もう部屋でゴロゴロしていようかな、などと思ってしまったけれども、三十分後に出る次の電車でもギリギリ間に合うかもしれないと思って調べてみた。なんとか三時の開演ピタリぐらいに間に合いそうなので、とにかくはひとあんしん。どたばたとあわてていたせわしない気分を部屋で落ち着かせるじかんもできた。ちょっとのんびりして部屋を出る。

 予定通りの電車に乗り、ターミナル駅で乗り換える。乗り換えたあとの電車のなかではこのごろのいつものようにすっかり寝てしまい、目がさめたら電車は赤羽駅を出たところだった。あとはもう寝ないようにして新宿駅で中央線に乗り換え中野駅で下車。ほんとうにひさしぶりになる「スタジオあくとれ」に向かった。なんとか開演まえ三分だかそこらぐらいに到着。無事に観劇することができた。

 終演後、こんかいの舞台の関係者のDさんやEさんとちょっとだけおはなしして、お別れする。ほんとうはきょうはこのあと六本木で東谷さんの追悼イヴェントがあるはずなので、わたしとしても献花ぐらいの気もちでおうかがいした方がいいように思っていたのだけれども、どこか気もちの整理がつかないところもあり、けっきょく遠慮することにした。どうすればよかったのか、いまでもわからない。

 それで久々に下北沢の「G」に行くことにして、新宿に出て小田急線に乗り換える。もう暗くなった下北沢にはたくさんの人があふれていて、踏切りのそばのスーパーもどこか師走という気分でにぎわっているような印象を受けた。冬の夜の街には独特の空気がある。「G」には久しぶりにお会いするFさんがカウンターのなかにいて、ネコのはなしをいっぱいする。しばらくして店に電話がかかってきて、それがGさんからの電話だったらしいのだけれども、池ノ上の駅で人身事故があって不通になっていると。Gさんとも何年もお会いしていない気がするけれど、とにかく、Fさんはその事故にあったのがオーナーのHさんなのではないかと心配するのである。しかしそのうちにIさんもオーナーのHさんもやってきてFさんもほっとして、店もにぎやかになった。カウンターにはいつものお客さんのJさんも。しばらくそうやって飲んでいたのだけれども、なんだかカウンターの奥の方にいた顔に見覚えのある客がIさんを相手にして、「なになには芸術ではないだろう」みたいな(わたしには)つまらない話をしているのがきこえてきたので、そのバカな客に論争(ケンカ)をふっかけてやろうかという気分になってしまった。そこで東谷さんのことを勝手に思い出し、ここはぐっとこらえましょう、ということにした。つまりはこれが、わたしの勝手な東谷さんへの供養なのか。わたしのバカもなかなかなおらない。


 

[] 小林達雄×ミステリヤ・ブッフ プロデュース「スワン・ソング」アントン・チェーホフ:原作 福田光一:台本・演出 @中野・スタジオあくとれ  小林達雄×ミステリヤ・ブッフ プロデュース「スワン・ソング」アントン・チェーホフ:原作 福田光一:台本・演出 @中野・スタジオあくとれを含むブックマーク

 とにかくこのあいだのARICA の公演、というか黒沢美香をふくむトークショーをきいて、わたしはどう転んでも「ことば」の人間ではないな、というのを痛感したわけで、そういう意味でこのところ、いわゆる「演劇」作品というものがわたしにはヒットしてこないわけだと、いまさらながら再認識させられたわけだけれども、つまりはわたしは「ことば」と「身体」とのかんけいというものがわからない。そこで、こんかいのこの舞台での、小林達雄さんという役者さんの「身体」というものがわからない、という困ったもんだいにぶちあたってしまう。

 そもそもわたしは、チェーホフという作家の作品をまるで読んでいないというのがもんだいで、この舞台の基本であるチェーホフの「白鳥の歌」というものを知らない。観ていてとにかくは老俳優とプロンプターとの対話というのがおもしろいなあ、などとは思うのだけれども、それがこの舞台でのオリジナルな演出なのか、もともとチェーホフの原作戯曲に内包されていたものなのかも知らない始末である。ただ、そこから、「俳優」である主人公が、シェイクスピアをふくめたさまざまな戯曲の記憶に縛られてしまっているというふくらませ方はとってもおもしろいところで、わからないとはいいながらも楽しませていただいた。「秋刀魚の味」からの引用もわかったのだけれども、それならそれで、日本人役者が西洋戯曲をやってしまうという距離感を、どこかでもうちょっとあらわにするようなところがあってもよかった気がした(このことはわたしの記憶抜けで、ちゃあんとそういうことは提示されていたわけです。下記コメントにある通り)。わたしの気がつかなかった仕掛けはあったのかもしれないけれども。
(付記:このことを書こうと思っていたのに忘れてしまっていた。この「スタジオあくとれ」のざらっとした空間に、蝋燭の炎、そのあかりが美しく映えていて、まさに劇場の「なにもない空間」というものを照らして、とても印象的だった。)


 

[]「理解できない悲惨な事件」リンダ・ウルフ:著 間山靖子:訳 「理解できない悲惨な事件」リンダ・ウルフ:著 間山靖子:訳を含むブックマーク

 この本は、せんじつ観たクローネンバーグ監督の「戦慄の絆」のもとになった双児の医師の怪死事件が書かれているので読んだのだけれども、(日本だったら)もっと扇情的な週刊誌の記者だってもう少しは突っ込んだ書き方ができるだろうと思うような、情けない本だった。アメリカのジャーナリストというのはこの程度なのか。

 この本で取り上げられた九つの「理解できない」事件というのは、つまりは著者のなかに差別意識と偏見があるからこそ「理解できない」のであって、それはこの本のなかの「高級住宅街の惨劇」の書き出しで、「(ふたりの子どもを殺害して自殺した主婦が)高等教育を受けていることや経済的に恵まれていること、そのうえ、母親らしい女性だったことを思えば、考えるのもおぞましく、想像するのもためらわれる」と書かれているあたりから想像されることではある。じゃあなにかいあんた、低学歴で貧困層だったら、それでふだんから子どもたちにつらくあたっていた母親が子どもたちを殺したりしたのだったら、わたしゃ考えることも想像することもできますよということなのかよ、と思ってしまう。ほんとかよ。すべての殺人事件は、「人を殺してしまう」という一線を越えてしまうところでどれも、「理解できない悲惨な事件」なんじゃないのかよ。‥‥この著者はクソでありバカであり、つまりはこういうヤカラが存在するからこそ、「悲惨な事件」はつづくのである。「まえがき」でこの著者はいちおうはカポーティの「冷血」を読んだと書いているのだけれども、いったいどういう読み方をすればこういう著作をものにすることができるのか。アホである。基本的にこの本に収められた「事件」は、そういう高学歴で高収入の人物が起こしたがゆえに「理解できない」として紹介されていることは明白である。先にも書いたけれども、この著者は自分が持っている差別意識や偏見をさいごまで疑いもせず、「この人はあたまも良さそうでお金も持っているのになぜ?」ということだけで書いているわけで、読んでいても、つまりは低学歴で低所得のヤツのことなんかどうでもいいという著者の目線は感じる。「冷血」を読んでいったい何を受けとめたのか。アメリカという国の持つ精神的な貧しさはまず、この著者の精神のなかにこそ存在していると思う。とんだクソ本を読んでしまった。

 ただ、その双児の医師の章と、躁病からおかしくなってしまっただろう女性医学者の章だけは興味深く読むことはできた。どちらも被害者のいない、「自殺」めいた事件だからか。


 

福田光一福田光一 2012/12/01 17:11 「スワン・ソング」台本・演出の福田です。いささか気になった点、ご意見させてください。
 まず、「ことば」か「身体」か、という二元論の立て方は、演劇の場合ナンセンスだと思います。そこにはもちろん現前する身体があり、「発語する身体」か「沈黙する身体」か、という差異があるのみです。唐十郎氏の「特権的肉体論」が詩人(ことばの人)中原中也論から始まるように、「ことば」と「身体」は演劇において不可分であり、太田省吾氏の営為もそのことをめぐる「沈黙劇」や「台詞劇」だったはずです(いま、ダンスと演劇の差異、といった問題には踏み込みません)。 
 つぎに、チェーホフの原作と今回の台本との差異については、たしかにパンフレットなどでより具体的に示したほうが親切だったかもしれませんね。ただ、チェーホフの別の戯曲の引用はじめ、すぐに原作にはないとわかるメタレベルの台詞を入れたつもりなので、ある程度は伝わると思った次第です。原作は作者自身によれば上演時間15分(実際は30分前後)の短い習作で、ほとんど老優の独白に、プロンプターが合いの手を入れるだけのものです。
 それから、西洋戯曲を翻訳で上演する問題が扱われていない、というご指摘には、心底がっかりいたしました。この原作を上演するに当たって、まず考えたのがその問題であり、実際、井伏鱒二がこの原作を歌舞伎に翻案した話や、新劇俳優の芥川比呂志のエッセイの引用(「ここはいまロシアだよ」というツッコミも入れました)、シェイクスピアの台詞と近松の台詞を対話させるという試み、そして老優の過去をめぐる革命前夜の物語がロシア(西洋)ではなく「四十年前のこの町の話」であり、老優とはそれを演じる俳優自身のことなのだ(もちろん小林達雄とイコールではありません)、と僕としてはかなり周到な仕掛けを苦心して施した肝心要の問題なので、それがまったく伝わらなかったことに、徒労感さえ覚えます。
 ともかく、「観客」と「作り手」のすれ違いはいまに始まったことではありませんし、大人げない反応をするつもりはありませんが、これだけは言いたい、と筆を執りました。乱筆乱文御容赦!

crosstalkcrosstalk 2012/12/01 18:00  失礼いたしました。まずは日本で西洋演劇を翻訳上演するというもんだいにかんしては、すっかりわたしの記憶ちがいからのまちがいを書いてしまいました。この点にかんしましては平謝りです。申しわけありません。
「チェーホフを読んでいない」というのはあくまでもわたしの側のもんだいで、そこまで観客に親切にやっていただくひつようはないと思います。観てわからなかったことをどうするか、というのは観客のもんだいだと思います。そういうところで、わたしのこの日記での書き方はよろしくないということも言えるかもしれません。そういうところで不快感をおあたえてしまったようでしたら、まさにわたしの不徳のいたすところ、ということになるでしょう。この点にかんしてもお詫び申し上げます。
ひとつ書いておきたいのは、わたしのなかでもまた「ことば」と「身体」とは二元論として対立するものではないのです。ただ、それでは「ことば」と「身体」は不可分なものととらえるかというと、どうもそうとも言い切れないところはあります。ではそれは二元論ではないのかと問われればただ、ときとしてそこに分離があるのではないのか、と考えるしかないところがあります。そういうことがあらわに感じ取られるたぐいの舞台はあると思います。そのことはそれが是であるとか非であるとかいうのではなく、つまりは「わからない」と書くしかないわけです。こんかいの文章がその舞台を否定するように受け止められたとしたらこれもまた申し訳なかったことではありますが、わたしとしてはここでも、わたしのもんだいとして「わからない」ということで困ってしまったことを書いてしまったということです。
「すれ違い」の部分があったことは申し訳なかったですけれども、すべてがそういうもんだいではなかったこと、わたしが「わからない」ということが即、舞台を否定するようなわけではないことをご理解いただきたく存じます。

福田光一福田光一 2012/12/02 11:55  わかりました。僕としてはただ、誤った情報を訂正したかっただけでした。ネットのレビューといっても、「情報」としては、読者には主観的感想というより客観的批評と受け止められる部分もあるわけですから(文を「書く」「読む」ことは当然他者と関わることですね)。丁寧なご返答、ありがとうございました。
 さて「ことば」と「身体」ですが、実は僕としてもたいへん頭を痛めていることなのです。「発語する身体」と「沈黙する身体」の差異は、その様態が単に異なるというだけではないですね。台詞の意味内容というものが、「発語する身体」に強く影響するわけですが、そのことに無自覚な演劇は、僕も好きではありません。今回もクリエイションの過程で、いかに台詞を発語するか、俳優との作業のなかで探りながら進んでいったのですが、この点に関してはいまだ答えに辿り着いてはいません。今回主演の小林氏は新劇からいわゆるアングラに進んだ、ある意味近代演劇の流れのただなかにいた俳優ですから、「老優」の設定もそれと重ねてあります。シェイクスピアやチェーホフから、サーカスやキャバレーの道化へ、と。
 演劇において「ことば」と「身体」が不可分だと言ったのは、この点を避けては通れない、と言いたかったのです。今回の舞台は「劇中劇」の入れ子構造ですが、発語の様態の差異を必ずしも明確にできなかったという反省点はあります(あえて「芝居がかった」発語を、「劇中劇」を「演じる」ことしかできない「役者」という設定にした、とはいえ)。crosstalkさんが「わからない」とおっしゃるように、僕自身も答えを見つけたわけではないのです。ただ、作り手は「わからない」では済まないので、その問題を具体的に探究しつづけるしかない、ということです。
 ニワトリか卵か、台詞(ことば)か身体か、というのは、特に60年代以後の現代演劇において様々に探究されてきたことです。つまりそれは戯曲と上演の問題ですね。ことに、今回の「スワン・ソング」は、まず戯曲(原作)の上演ということそれ自体がモチーフですから、いろいろと考えさせられました。率直に言っていまだ探究途上だと思います。が、この点について無自覚なプロセスではない、ということだけは、わかってください。ありがとうございました。

crosstalkcrosstalk 2012/12/03 11:59 そうなんです。誤った情報をここに書いてしまったことについては、詫びても詫びきれないという思いを持っています。このことにかんしましては、酒のボトル一本ぐらいのサーヴィスなどでも済まされない過誤だと、自覚しております。
いまさらながら付記で書きましたけれども、わたしはこの舞台の「美しさ」、についてのことを書き忘れていました。ついつい、「わからない」ということにこころを奪われてしまっていたようです。この舞台のメタ構造は読み取っていたつもりだったのですが、それでもなお残余した「わからない」ということに、わたしはこだわりすぎたようです。ネットに発信する身として、その責任についてはいつも自戒(このことばでいいのかな)していたつもりではいたのですが、読み直し作業がなおざりだったと思います。あらためて平謝り、です。

私もチェーホフ読んでません私もチェーホフ読んでません 2016/03/31 20:21 気持ち悪いやりとり。
クリエーターは自分が作った作品の言い訳なんかしちゃダメでしょう。
たとえ観客に誤解されたのだとしても、同じもの見て正しく理解した別の観客からの指摘があるまで黙って見ているべきで、いきなり御本人登場じゃぁねぇ。
御丁寧にもネタのバラシまで自らして、それが伝わってないとがっかりするなんて、まるで一人芝居だ。
もっと徒労感を感じた方がいいと思います。

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■ 2012-11-28(Wed)

 ひさびさに、目覚めたときに、ストーリー性のある夢を記憶していた。わたしは京都に旅行しているのだけれども、観光ではなくしごとで来ているようである。滞在地は学校のようなたてもので、わたしはそこの教室のような部屋でイヴェントの企画書みたいなものを書いている。京都に在住というわたしの友人がふたり、わたしといっしょの部屋にいる。企画書がそのままチラシに使えないだろうか、などというはなしになるけれど、わたしはそこであした歯医者に行かなければならないことを思い出す。これはげんじつにもあした歯医者に予約してあることだけれども、夢のなかのわたしがあした歯医者に行くためにはもう京都を発たなければならない。わたしはじぶんの足元をみるのだけれども、履いているのは編上げのブーツで、しかも左右ちがう色のブーツ。わたしは帰ることになったのか、友人ふたりとバスのいちばんうしろの座席にすわるのだけれども、そこにいた中年の女性が「あとから知り合いが乗ってくるので席をひとつあけておいてくれ」という。友だちのひとりが「そんなことはできない」といい、わたしも同調して「そうだ、東京でもそんなことはやらない」という。‥‥そんな夢だった。

 十月のはじめに買った1.5TのHDDがもう満杯になってしまい、また別のHDDを買い足さなくてはいけないかな、と考えている。これはつまらないいたちごっこで、自分で観る能力を越えて録画しつづけていれば、いつまでもこういう状態はつづくことになる。このまま一生録画した映画を観つづけて、そんな映画を観ながらTVのまえで死んじゃって朽ち果てていくつもりなのだろうか、この男。
 ‥‥なんていうところで、きのう届けられた「ひかりTV」の番組表といっしょに通販のチラシがはいっていて、それをみるとつまりは買い足したいと思っていたHDD、2TBのものが「こりゃあ安いや」という価格でこの月末から売り出されるのが掲載されていた。タイミングもばっちりだし、見透かされているのではないかという気がしないでもないけれども、やはり買ってしまうことだろう。

f:id:crosstalk:20121201100411j:image:right ニェネントとこのごろはいっぱい遊ぶので、ニェネントもそういうつもりになっているのか、わたしにからんでくることが多くなった。もう寝ようとしてベッドのふとんにもぐりこんでから、ふとんを手で「ぱん、ぱん」とたたくと、ニェネントがすぐにベッドのそばまでふっとんできて、首をクイクイさせながらわたしの方を見上げている。ふとんから手を出してベッドのそばのニェネントの目のまえでぶらぶらさせると、ニェネントはまえ足をあげてわたしの手先にちょっかいを出してくる。そのうちに口をあけてやわらかくかみついてきたりもする。なんてかわいいんだろうと思って、両手を出してニェネントをつかまえてベッドの上に抱き上げると、抵抗されて爪をむかれ、手をひっかかれて出血してしまった。痛かった。


 

[]「もののけ姫」(1997) 宮崎駿:監督 「もののけ姫」(1997)  宮崎駿:監督を含むブックマーク

 すっごい黒澤明的というか、ダイナミックな作画演出は迫力があるし、やはりせんじつ観た「ポニョ」の統一されていない作画は(これだけのことができるんだから)おかしいんじゃないかと思ったりする。映像としては、まずは原因があってそのあとにその結果が明らかになるというオーソドックスな演出に終始している印象はあるけれども、描かれていることがらの説明が少ないというあたりで、いろいろと事前に知識を集積しておかなくてはならない。子どもには無理なところもあるだろう。

 時代も中世になって、家内工業という規模ではない重工業が発達しはじめている。そこでどうやら森を切り崩していかなければ発展はないということがあるらしいし、その重工業をねらう組織もある。現代とのアナロジーを感じてしまうところはあるけれども、観ていてずいぶんと観念的なストーリーだと思うし、飛躍を感じるところもある。ただ、イメージの造型はやはり卓越している印象で、つぎの傑作「千と千尋の神隠し」につながるだろう。


 

[]「カウボーイ&エイリアン」(2011) ジョン・ファヴロー:監督 「カウボーイ&エイリアン」(2011)  ジョン・ファヴロー:監督を含むブックマーク

 古い西部劇の価値観をそのまま踏襲して、そこにこれまた古くさいエイリアンが登場するというSF。演出もどうこういうものでもなく、ちょっとハリソン・フォードの演技に感心したところがあるくらいのもの。
 このあいだ観た「SUPER8」でも感じたんだけれども、それなりに知性のあるという設定の異星人が、いったいどうしてこうまでもグロテスクで、しかもいつも素っ裸なんだろう。‥‥このあたりは「E.T.」からしてそういう設定なんだけれども、まあ「エイリアン」は知性とは無縁の昆虫らしいからいいとして、いいかげん「またかよ」という感じでうんざりする。しかもその造型が、口のなかにまた口のある「エイリアン」の模倣というか、胸のなかからまた別の腕が出てきたりするから、いやんなっちゃった。


 

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■ 2012-11-27(Tue)

f:id:crosstalk:20121130091918j:image:left きょうは天気のいいいちにちだったけれども、こういう日の射しているおだやかな日和でもだんだんに寒くなってきた。しごともいそがしくはなってきているけれども、まだほんとうに「たいへんだ」というようになるのは、十二月になってからだろう。しごとから帰るとこのごろのいつものように、ニェネントがベッドの上でわたしのかわりに眠っている。わたしがベッドのある和室をのぞくと、あたまをもたげてじっとわたしのことをみるのだけれども、「おかえりなさい」のあいさつもない。それでわたしがキッチンで朝食の準備をはじめるとのこのことキッチンへやってきて、「わたしにもごはんをちょうだいな」と催促してくるので、ネコメシとネコ缶をニェネント皿に出してあげる。まいにち変わらない日課。

 「ひかりTV」から十二月の番組表が届いていたのをチェックするけれども、十二月は娯楽作品の放映がちゅうしんなので、これというような作品は放映されない。WOWOWのステージもので大人計画やNODA・MAPの舞台が放映されるあたりが楽しみ。あと、Rolling Stones の結成五十周年記念ライヴの生中継があるみたい。ひょっとしたら、このあたりがさいごのライヴになるかもね。

 夕食はきょうも鍋にして、このごろの日課になったニェネントとのお遊びのじかんを楽しむ。このところちょっとワイルドになってきたニェネント、それでもやっぱりかわいいのである。いや、いぜんよりもずっとかわいく感じられる。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 13.「思想転移」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  13.「思想転移」を含むブックマーク

 原題はなんと「Do Not Forsake Me, Oh My Darling」で、あのフレッド・ジンネマン監督の西部劇「真昼の決闘」の主題歌の有名な冒頭の歌詞である。「わたしを見捨てないでおくれ、わたしのいとしい人よ」というような意味だけれども、こんかいのこの「プリズナーNo.6」の内容とどんなかんけいがあったのか、わかったようなわからないような。

 おもしろい回だった。ある科学者がいて、彼は人間の精神、思考をその肉体から分離させ、ほかの人間のそれと入れ替えるという画期的な発明をしたまま行方不明になっていると。「村」の組織はその不完全な技術を入手しているのだけれども、つまりは入れ替えた精神をもとの肉体にもどす技術がわからない。そこで行方不明のその科学者を探し出したいわけで、そういうことにはスパイとしての能力抜群のNo.6 のちからを借りたいわけである。そこでまずは、組織の人間とNo.6 との精神とを入れ替えてしまう。他人に肉体になってしまったNo.6 はとうぜん元にもどりたいわけであるから、わかっている資料をあたえてやればその科学者を見つけだすこともできるだろうと。
 そういうわけでこんかいはパトリック・マッグーハンはほとんど出番なしで、肉体は他人のNo.6 が活躍する。しかも、科学者を探し出すために村から外の世界へ出ていくのである。わけなくその老人科学者を見つけだすNo.6。科学者は「では元にもどしてやろう。それには入れ替わったふたりとわたしの三人っきりにしてもらわなくてはならない」と。

 結末は思いもかけぬ展開というかどんでん返しで、観ていて思わず拍手してしまった。まあ老科学者がいちまいうわて、だったということ。


 

[]「忍びの者」(1962) 山本薩夫:監督 「忍びの者」(1962)  山本薩夫:監督を含むブックマーク

 原作はあの村山知義なのですね。この作品のタイトルぐらいは知っていたけれども、主人公が石川五右衛門なのだとか、時代は戦国の世で台頭する織田信長に対抗する勢力に仕える伊賀忍者たちのはなしだとか、まるで知らなかった。ここでの主演はもちろん市川雷蔵で、親分役の百地三太夫に伊藤雄之助、市川雷蔵のライヴァルの忍者に西村晃(身体能力の高いところをみせてくれる)、市川雷蔵の恋人に藤村志保、ほかに岸田今日子の顔なども。

 演出は山本薩夫で、荒唐無稽な忍術の描写などなくって、つまりはリアリズム忍者ものなのだけれども、いくらリアリズム志向とはいってもやはり観た感じは「マンガ」っぽく、ドラマとしての厚みはあまり感じられない気がした。というか、いまげんざいの日本映画の志向というのはこのあたりの演出にとどまっているものが主流なんじゃないかと思ったりする。もう一歩、という感想はある。


 

[]「ブレイクアウト」(1975) トム・グライス:監督 「ブレイクアウト」(1975)  トム・グライス:監督を含むブックマーク

 これまた実話をもとにした作品だということ。しかしそこはブロンソン。どこか脳天気にマイペースで突っ走る。愛妻のジル・アイアランドもいっしょ。トム・グライスという監督のことはまるで知らないけれども、製作はアーウィン・ウインクラー。ふうん、こういう作品も手がけていたのか。

 どこかオフビートというか、アクション映画なんだけれどもユーモア感覚もだいじにしましょうね、みたいな作品。わたしは気に入った。脱獄させられる男をロバート・デュヴァルがやっているんだけれども、これはいてもいなくてもいいような演出しかされていなくてかわいそう。まったく見せ場なし。脱獄ものだというのでまたまたランディ・クエイドが登場していて、これがなんと女装しちゃったり。わたしはお色気ムンムンのシェリー・ノースという女優さんのことが気に入って、お名まえも記憶させていただいた。‥‥しかし、その脱出作戦でのシェリー・ノースとランディ・クエイドとの役割はさっぱり、わからない。


 

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■ 2012-11-26(Mon)

 ぱらぱらと雨も降って、寒いいちにちだった。午後になってひさしぶりにスーパーに行き、すっごく安くなっている白菜を買い、夕食は鍋にすることにした。帰宅してまたCars のCDを聴きながら、ふとんに入って本を読んでいたら、あんのじょう眠ってしまった。ニェネントがわたしの寝ているふとんの上に乗ってきて、重たいなあと思いながらそのまま眠くなってしまった。
 なんだか気がかりな、恐怖をおぼえるような夢をみた記憶があるのだけれども、イメージとしてはどうしても思い出せない。ただ、その夢をみていたときの心的な状態だけがふっと思い出され、そのときにまたふいにうすら寒いような恐怖心がよみがえってくるのだけれども、そういう気もちになったとたんに現実に引きもどされ、またなにもかも思い出せなくなる。怖い夢だったはずだけれども、またその夢のなかの世界に入ってみたい気になったりする。

 目がさめると窓の外はもううすぐらくなっていて、とっくに再生をやめているCDプレーヤーの、電源のあかりだけが部屋のなかで青く光っていた。起きだして部屋のあかりをつけ、ヴィデオを一本観てから夕食にした。

f:id:crosstalk:20121128110139j:image:left 夕食のあとも、ひるねをしたせいでなかなか眠る気分にならない。わたしの近くでうろうろしているニェネントをつかまえてひざの上に抱き寄せ、ニェネントの鼻のあたまをなめて遊んだ。こんなことをやっているとそのうちに変な病気に感染してしまうかもしれないな。ニェネントのあたまをなでると目を細めて、うれしがっているような顔になるのだけれども、それがほんとうにうれしいのかどうかなんてわからない。そういう顔になってしまうだけなのかもしれない。
 ひざからおろしてやるとぶるぶるっとあたまを振って、ゆっくりとキッチンの方に歩いていく。わたしも立ち上がってニェネントを追っていくと、わたしの方を振り返ってみていて、わたしがあんまり近づくとぴょんとはねて逃げていく。追っかけっこのはじまり。しばらくはそうやって、ニェネントと(で)遊んですごした。ニェネントは、めったなことではわたしごときにはつかまらないのである。


 

[]「カウボーイ」(1958) デルマー・デイヴィス:監督 「カウボーイ」(1958)  デルマー・デイヴィス:監督を含むブックマーク

 ジャック・レモンが主役ということでこれはコメディなのかと思ったら、マジにグレン・フォードとからむドラマだった。それも、あまり知られることもないだろうカウボーイの生活を追っていくような、ちょっとめずらしいストーリー。

 ジャック・レモンはシカゴだかのホテルのフロントマンなのだけれども、いずれはカウボーイになりたいと思っている奇特な男で、そのホテルに牛追いをおえて宿泊にきたカウボーイの一行のリーダー、グレン・フォードに、「カウボーイになりたい」とたのみこむわけ。まあその背後には不首尾におわった恋愛もんだいとかもあるようだったけれども、とにかくはカウボーイのひとりとして牛追いの旅をはじめることになる。

 ここでのカウボーイとは牧場付きのそれではなく、牧場から牛を買い上げて市場となるシカゴなどの都市まで移動させるカウボーイで、とちゅう牛の暴走や先住民の襲撃などの危険を越えていかなければならない。ここで、カウボーイのいのちと牛のいのちとどっちが大切なんだよ、みたいな、ジャック・レモンとグレン・フォードとの衝突もある。観ていても、こりゃあ苛酷でやってられない職業だよな、みたいな感じなんだけれども、アメリカのフロンティア・スピリットとでもいうものがこういう世界に残ってるのだ、というような主張も感じられる。なんというか、ハードボイルドとヒューマニズムの融和、とでもいうのか。

 牛の群れの描写も迫力があるのだけれども、牛追いの旅がおわりホテルにチェックインしておつかれさま、という幕切れには、どこかものたりないものを感じてしまった。やっぱこういう役どころでのジャック・レモンというのは違和感あるのだけれども、この作品はまだワイルダー作品に出るようになるまえの作品で、彼もまだじぶんのキャラクターを絞り切ってはいなかったのだろう。

 この映画もまた事実を元にしているというか、ジャック・レモンのモデルになった人物の自叙伝から、そのカウボーイ体験のぶぶんだけを映画にしたものらしい。


 

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■ 2012-11-25(Sun)

 ほんらいはきょうは非番で、しごとは休みなのだけれども、出勤者の数が少ないので「出勤してもいいですよ」なんてよけいなことをいってしまって、出勤ということになっている。金曜日がやたらいそがしかったので、きょうもおなじような感じなら出勤人数が足りないだろうと思ってのことだったけれども、金曜日ほどしごと量があったわけでもなく、休んじゃってもよかったなあ、という感じ。

f:id:crosstalk:20121127115323j:image:right 帰宅してからは、ヴィデオをみたり、Cars のCDを順繰りに聴いたり、ニェネントと(で)遊んだりして、いちにち部屋にこもりっきりですごした。このところニェネントをかまってあげるじかんが増えたので、ニェネントもいままでよりわたしのことをかまってくれる印象。どうもニェネントはわたしのことを「親」とかいうよりも「きょうだい」と思っているんじゃないかという気がする。ただ、食事のことだけは、わたしにねだれば出してくれることはわかっている。ほとんどなきごえをあげないおとなしいネコだけれども、わたしがしごとから戻ってじぶんの朝食の準備をはじめるときだけは、そばに寄ってきてわたしを見上げて「にゃあん」となく。「わたしにもあさごはんをちょうだい」ということ。あとニェネントが声を出すのは、わたしがニェネントをふとんの上などにフォールダウンさせて押さえつけるときに「いやだよう」ということで「ふにゃあ」となくのと、抱き上げてニェネントのまえ足にわたしがかみつくときに、「シャーッ!」っと怒りのこえをあげるときぐらい。なにやってるんだか。

 また自宅本を読むのはお休みしていて、このあいだ図書館で借りた「理解できない悲惨な事件」を読んでいるけれど、スキャンダラスな題材をいっぱい取り上げているわりには面白くない本で、著者の姿勢がちょっと不愉快。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十話「張子の虎」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十話「張子の虎」を含むブックマーク

 これは原作がとっても面白くって記憶に残っていた作品だったけれども、どうもわたしにはあまりに原作の印象が強く残りすぎていたせいか、なんか演出のアラばかり目についてしまったような。

 半七に追われる罪人に二階からぞうりを投げつけて半七の手助けをした芸妓のお駒は、おかげで江戸の人気者になるのだけれども、あるよるに首を絞められた死体で発見され、その枕元には張子の虎が置かれていた、という発端からのストーリー。ちょっと芸妓の描写がみみっちいというか貧乏くさいというか、こういうところにTVドラマの限界があるのかもしれないけれども、もうちょっと華やかなところを楽しみたかった気はして、そういうのでは原作を読んで勝手に想像していた方がよかったという感じである。こんかいのゲストは赤座美代子、だった。


 

[]「ミッドナイト・エクスプレス」(1978) アラン・パーカー:監督 「ミッドナイト・エクスプレス」(1978)  アラン・パーカー:監督を含むブックマーク

 主演はブラッド・デイヴィスという俳優さんで、わたしはこの人のことは「警察署長」というミニシリーズのTVドラマでの、二代目署長じつは悪徳署長という役でもって、とても印象に残っている俳優さん。この方はエイズで夭折されてしまったこともあって、映画での主演作というのはこの「ミッドナイト・エクスプレス」しかないと思う。ここでも、たんじゅんに「いい男」ではない、どこか悪党っぽい容貌で印象に残る演技をみせてくれる。ちょっと斜視なところもいい。

 さてこの作品、事実をもとにした作品ということで、この映画で主人公になった男性がアメリカへ帰還して書いた本がもとになっているらしいのだけれども、どうもトルコ人の描写などで改変されたところがあるらしく、原作者もそのことでは遺憾に思ったとのこと。脚本はあのオリヴァー・ストーンなのだから、そりゃあ彼のしわざにちがいないだろう。むかしっからそういうことをやっていたわけだ。

 ハシシ密輸容疑でトルコで逮捕された男が、アメリカとの犯罪人引き渡し条約がなかったため、トルコの刑務所に幽閉されることになる。さいしょは四年二ヶ月という判決だったので、刑期を終えて釈放され、帰国できることを望んでいたのだけれどもその刑期終了まぎわに再審があり、けっきょくは懲役三十年の判決を受け、その時点で脱獄を決意すると。

 まあたしかにトルコ人はひでえヤツらばっかりみたいな描写だし、この作品をトルコの人に見せることはできないだろう。ブラッド・デイヴィスがじっさいには無罪だったりしていれば、それこそ「ショーシャンク」的なカタルシスも得られるのだろうけれど、主人公はじっさいにハシシ密輸をやろうとした犯罪人ではある、というあたりがリアルというか‥‥。

 アラン・パーカーの演出は刑務所のなかの陰影を奥行き深くとらえてみごとで、わたしもむかしこの作品を観てアラン・パーカーという名まえを記憶しておこうと思ったのだった。この人のでいちばん好きなのは「ザ・コミットメンツ」、かな。あと、刑務所のなかのアメリカ人、ジョン・ハートとランディ・クエイド、とくにジョン・ハートがすばらしい。音楽はこのころブイブイいわせていたジョルジョ・モロダーで、このあたりにも音楽好きなアラン・パーカーの姿勢を感じさせられる。


 

[]「東京五人男」(1945) 齋藤寅次郎:監督 「東京五人男」(1945)  齋藤寅次郎:監督を含むブックマーク

 これはげんざいのNHKのBSでの「某監督の選んだ日本の名作百本」という特集上映の一環で放映されたもの。いったいなんでまたその「某監督」がえらそうに選んで、自分の映画でもないのにその番組のオープニングで「よーい、スタート」なんて声をかけるのか、その恥知らずぶりにはあきれるばかりだし、番組中でその映画を紹介する役割を負った別の映画監督の、いかにも「たいこもち」的なトークもまた、気色悪いものである。この「東京五人男」という作品に関しては、終戦まもない東京の焼け野原をじっさいにロケーションしているということで資料的価値が高い、ということらしい。って、それだけでいいんだろうか。まあこの特集上映はよく観るのだけれども、映画本編いがいの、そういうところは大嫌いである。

 この「東京五人男」は終戦から三ヶ月の1945年11月に撮影に入り、翌1946年の1月には劇場で公開されたらしい。タイトルからは五人の男が組んでなんかやらかすようなものを感じさせるけれども、コメディアンとして著名だった五人がいろんな役をやる、ちょっとコントの寄せ集めのようなところはある。もちろんそのコントの題材は終戦直後の混乱であり、とくに配給所の不正というのが槍玉にあげられたりするし、国民酒場の描写、混雑する都電や大豪雨の被害などのようすが描かれる。大豪雨というのは、この1945年9月に日本を直撃した枕崎台風の大被害を受けて、この作品に組み入れられたものだろう。ここで豪雨で流される家などの特殊撮影を担当しているのは円谷英二。コントをみていて、どこか「どですかでん」を思い浮かべてしまうところがある。このとき、東京は「季節のない街」、だったのだろう。

 ラストに、スローガンをかかげて行進する人たちのながい描写。このあたりに、じきに起きることになる「東宝争議」の萌芽を感じてしまうのは、うがったみかたなんだろうか(この作品はその東宝の作品なのはいうまでもない)。


 

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■ 2012-11-24(Sat)

 きょうは、埼玉のさいたま芸術劇場へバットシェバ舞踊団の公演を観に行く。これからあれこれと観劇などの機会がれんぞくする。しごとも年末でハードになってきたし、経済的にもきついところがある。きょうの公演のチケットはずいぶんまえに買ってあったので行くしかないけれども、これが当日精算とかだったらパスするところかも。ただ、なんねんかまえに観たこの舞踊団の公演はほんとうにすばらしいものだったし、おととしの来日公演には行っていないので、こんかいはやはり観ておきたいところ。あしたはしごとだけれども、昼公演だからはやく帰宅することもできるだろう。

 きょうはしごとは非番。ちょっとゆっくりめに起きてニェネントにごはんを出してあげ、きのうの分の日記を書いたりしているうちに昼が近づき、ちょっと早めに昼食をとってから出かける。きょうはきのうとちがって晴天で寒さもやわらいでいる。大宮駅まで行って、埼京線に乗り換える。大宮駅から先はしばらく、駅の構造も外の風景もおなじような駅ばかりがつづくので、気をつけていないといけない。大宮からふたつめの与野本町駅で下車し、ひさしぶりになるさいたま芸術劇場への道を歩く。わたしと並んで、ヘブライ文字のプリントされた袋を持った、おそらくはイスラエルの人らしい、背の高いスマートな男性が歩いていた。ものすごく歩くのが早くって、あっというまにずっと先の方へ行ってしまわれたけれども、やはり舞踏団にかんけいした人なのか、大使館とかの方なのか。ダンサーっぽいと思ったけれど、いまのじかんに劇場にむかう出演ダンサーがいるわけもない。

 開演二十分ほどまえに劇場に到着し、ロビーに入ると、外人女性と会話されているAさんのすがたをみかけ、あいさつした(この日記でまいつきお会いした順に「A」さんからアルファベットでお呼びしているのが、今月は友人知人と会う機会がいままでまるでなかったので、この月末にきてようやく「A」さん、である)。座席にすわって会場をみわたして、空席が目立つかな、などと思ったりもしたけれど、開演のじかんにはほぼ満席になっていた。

 それでその舞台。感想は下に書くけれど、もう、ほんっとうにすばらしかった。このところずっと、「もうダンスなんて」みたいな気分もあったのだけれども、やはりすばらしいものはすばらしいし、それが「ダンス」ゆえの感銘、ということでもある。

 終演後ロビーに出て、Aさんとおはなしする。「すっごいよかったねえ!」とか。Aさんはやはりこの舞台を観ていた幾人かの人たちといっしょに、これからARICA の舞台を観に行かれるとのこと。では駅まででもいっしょに行きましょうということにしたけれど、その、これからARICA に行かれるのはBさん、Cさんと、いずれもわたしの旧知の方々だった。Aさんは海外の人の知り合いが多いので、またそういう人と会話されているのだけれども、その相手はわたしが来るときに並んでいた、あのイスラエル人らしい人だった。それであとでチラシの写真などを見て思い当たったのだけれども、あの方はこんかいの公演の振付もされているオハッド・ナハリン氏その人、だったのではないだろうか。
 駅までの道をAさんBさんCさんといっしょに歩き、きょうの舞台のことなどで話がもりあがった。Bさんといっしょに観ていた人が、きょうの舞台のラスト、ダンサーがつぎつぎに舞台の裏に落下していくシーンにふれて、Dumbtype の「S/N」じゃないか、とおっしゃったというのをきいて、わたしもそのシーンで「S/N」を思い出したということをいうと、Aさんは「転校生」を思い出されたと。あと、黒田育世にも「落下」はあったよね、というのもあって、「ダンス」と「落下」、なんてお題が出されたみたい。

 駅でわたしは皆とぎゃく方向なのでお別れし、大宮でいちど下車して古本チェーン店に立ち寄り、「マトリックス」の最終章のDVDを105円で買った。帰り道、大宮の駅までのアーケードには、安くて居心地のよさそうな、ひとりで気楽に入れそうな飲み屋が軒を列ねているので、いい舞台を観たあとだったし、ふらっと入ってみたくなってしまった。そこはがまんして帰宅。

f:id:crosstalk:20121126111433j:image:left 家に帰るとまたニェネントくんがお出迎えしてくれた。まだじかんは七時。郵便受けをみると、注文していたCars のCDがようやっと到着していた。保温してあったごはんとつくりおきのシチューで夕食をとり、さっそくCDの封を切った。五枚組だというのに、ボックスの厚みはふつうの一枚のケース入りCDと大差ない。ボックスの中身はそれぞれ薄っぺらなオリジナルジャケットにCDが入っているのだけれども、かまわないけれども「Heartbeat City」などはダブルジャケットだったはずなのがシングルにされている。あれ、収録曲名がわからないじゃないか、ということだけれども、すべてのアルバムの収録曲タイトルとそれぞれのプロデューサー名は収めてあった外ボックスにかんたんに記されている。まあCars はメンバーチェンジとかしてないからいいけれど、アルバムごとにメンバーが代わってしまったようなグループのボックスではそのあたりのことがわかんないんじゃないかとか、ちょっとだけ思った。まあいまはネットで調べればそのあたりのことはすぐわかるし、歌詞だって検索できるから、オリジナルのジャケットが再現されて、それで音が聴ければそれで充分だろう。ファーストアルバムから順に、寝るまでずっと聴いていた。やはりCars はいい。面白いことに、発情期以外はめったになきごえを出したりすることのないニェネントが、Cars の音に合わせるように「ニャア〜ン」とか何度かないていたことで、ひょっとしたらニェネント、Cars の音が気に入ったんじゃないのだろうか。いい趣味をしている。


 

[] バットシェバ舞踊団「SADEH21—サデ21」オハッド・ナハリン:振付 @与野・彩の国さいたま芸術劇場 大ホール  バットシェバ舞踊団「SADEH21—サデ21」オハッド・ナハリン:振付 @与野・彩の国さいたま芸術劇場 大ホールを含むブックマーク

 ‥‥いやあ、すばらしかったね、ということばしか出ないような、感銘を受けた舞台だった。このところダンスの舞台をあまり観なくなっていたけれども、いったいダンスという表現にはどこにどういう魅力があるのかという、根源的なところから再認識し直され、観る歓びとはこういうことなのだと感じさせられた。やはりわたしのばあい、ほんとうにいいダンスには演劇の観賞ではおよびもつかない感銘を受けるということも、ひさしぶりに思い知った、ということでもある。で、いったいこの感銘とは何なのかを、また考えてみたくもなる。

 十七人の男女のダンサーが、まずはひとりひとり舞台に交代であらわれ、自己紹介をするような、それぞれのゆったりとした動きをみせ、群舞へと移って行く。それぞれがばらばらな動きをしているようでも、それがどこかぜんたいでひとつの統一されたムーヴメントをあらわすようでもある。ときに何人かのダンサーの動きがユニゾンになり、またばらけていく。そのうちにフロントに四、五人の女性ダンサーが並び、その中央で赤いレオタードの女性がひじょうに官能的なダンスを披露する。ゆったりとした動きのなかにしなやかさを感じさせられる。このあとは男性ダンサーたちだけが横に一列に並んでたがいの肩に手をかけ、ラインダンスのかたちでゆっくりとした動きを見せる。ゆっくりと足を曲げてあげて静止したりするだけで、そういうのでは訓練されたダンサーでなくってもだれでもやれそうな動きなんだけれども、なぜかわたしはこのシーンを観ていて涙があふれてきてとまらなかった。べつにダンサーとしての身体能力の高さをみせつけられるようなものではない。それなのに、観ていてこんなにこころを動かされるというのはどういうことなんだろう。おそらくはこのまえに女性たちのダンスがフィーチャーされていたこともかんけいしているのだろうけれども、それにつづいてのこうした男性だけのダンスへの流れのなかで、観ていて知らず知らずのうちにわたしのなかに感応するものがあったのだろう。これは映画でいえばそのシナリオでもなく役者の演技力でもなく、演出のちからから観客が受けとる感銘のようなもので、これはたんに身体能力の高さをみせつけるのではない、振付、つまりは演出のオハッド・ナハリン氏の才能だとしかいいようがない。
 このあとに、舞台上手で直立した男性がことばにならない発声をつづけ、その周囲でダンサーたちが踊っている場面がつづく。意味を伝えるのではなく声を出すこともまた、身体の機能としてダンスに組み込まれるということだろうか。そういうところでは、ここでのダンスの動きというものは意味を伝える動きではない、ということにもなる。

 そう、舞台は高さ二、三メートルの白い壁が背景にされ、その壁の上部は何もなく、ずっと舞台後方までつづくくらやみになっていた。どうしてもっと上まで壁にしていないんだろうとちょっと思っていたけれど、これはラストになって、壁の裏側からダンサーたちが上にあがってきて、その裏側に落下して行くというシーンがずっとつづくんだった。さいしょのうちはひとりずつあがってきて、ひとりずつ「落下」というかたちで消えて行くのだけれども、だんだんに複数のダンサーがいっしょにあがってきて、落下というよりもダイヴ、という感じに変わっていく。そのあいだ、舞台の白い壁には、映画のエンディングのクレジットのようにスタッフ、キャストの名が映されていく。いいエンディングだったし、いちばんさいごのダンサーのダイヴィングもみごとだったなあ。

 そのクレジットで、使われていた音楽がBrian Eno & Harold Budd だったり、Angelo Badalamenti だったりしたことを知った。Angelo Badalamenti のは、「マルホランド・ドライブ」のサウンドトラックだったようだ。わかんなかったけど、そういうふんいきはあったというか。

 またもういちど観たくなる、すばらしい舞台だった。たった二回だけの公演はもったいない。らいねんでもいつでも、再演してくれないかしらん。


 

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■ 2012-11-23(Fri)

 きょうもまた、原宿へ出かける。このところ東京へ出かけるのは原宿ばかりになっている。近年はほとんどわたしには縁のないところだった原宿。ずいぶんむかしにはイヴェントのかんけいでいつも歩き回っていた原宿。いまはわたしのまるで知らなかった顔をみせてくれている。

 そのまえに、きょうはしごとがたいへんだった。このしごとをはじめてからいちばん疲れたような気もしてしまう。これから年末までずっと、こういう状態がつづくだろうか。定年近い先輩がまるでしごとで協調してくれないように感じるのがつらい。しごとを終えて帰宅しても疲れがしこりのように腰のあたりにたまっているような感覚で、眠い気分もあって、このままベッドに倒れこんでずっと眠ってしまいたいという誘惑にもかられる。出かけるのはやめてしまおうかという気もちでもある。あしたはしごとは休みにしてあるけれど、また午後からさいたま芸術劇場でのバットシェバ舞踊団公演にも行く予定になっている。なんかつらい。でもやっぱ、きょうのお目当ての公演とは別に、近くでやっているデヴィッド・リンチの展覧会も観ておきたい。

 やはり勇気を出して行くことにして、じぶんの昼食をとってニェネントのごはんを出してあげて、外はいつしかこまかい雨も降っていて寒そう。あたたかい格好をして傘を持って家を出る。電車に乗ってさっそく睡眠モードになり、乗り換えも忘れそう。また原宿駅で下車する。東京も茨城とおなじように小雨もよう。

 まずはラフォーレ原宿でデヴィッド・リンチの展覧会。同時に上映されている映像作品をぜんぶ観るとつぎに行く予定のARICA のパフォーマンスにまにあわなくなるので、とちゅうで退出。それでも観られなかったのは連作になっている作品の片割れとかなので、だいたいぜんたいのようすはわかっただろうか。

 展覧会場を出て、表参道をさらに下ってつぎの会場を探す。とちゅうで左の道に折れ、このあたりもむかし歩いたものだったなどと、思い出すことがあれこれと。ARICA のパフォーマンスの会場ははじめて行くスポットなので、ちょっと迷う。スポットの看板も出されていないのだけれども、それらしい人たちがたむろしている場所をみつけて「ここだろう」と寄ってみると、やはりそこだった。

 いぜん横浜だったかで観た「蝶の夢」の別ヴァージョンを楽しみ、そのあとはARICA の安藤さん、藤田さん、そして「蝶の夢」のゲストの栲象さんと、いぜんARICA のゲストとして出演されたことのある黒沢美香さんら四人でのトーク。おもに「ことば」をめぐり、身体、動きとの関連などについて語られ、聴きながらわたしも考えることが多かった。
 たとえば演劇や映画であれば、「ことば」はまずはそのままセリフとして流入してくるわけだし、その動きにかんしても、脚本のト書きでことばとして指定されていてもいる。しかし、ダンスやパフォーマンスでの「ことば」のかかわり方は、まるで異なるものだろう。わたしがいっぱんの演劇よりもパフォーマンス色の強い演劇、そしてダンスやパフォーマンスの舞台ばかりを観ているということも、そういうこととかんけいがあるのだろうと思う。わたしはおそらくは視覚的人間で、もともと「ことば」というものは苦手なところがある(この日記の文章を読めばすぐわかるだろうが)。そういう面でダンスやパフォーマンスに惹かれるし、映画を観ていてもストーリー展開などとはちがうものを観たがってしまうのだろう。それでやはり、ダンスやパフォーマンスでの「ことば」の役割を考えるというのは苦手なところがある。そういうところに、まずは「ことば」から入られるという黒沢美香さんのダンスが、いつもわたしには「謎」をふくんで見えてしまう理由があるのだろうか。これからものごとを考えるときに、そういう「ことば」のことにも寄り道して考えるようにできるといい、などと思った。

f:id:crosstalk:20121125103438j:image:right ローカル線の終電で帰宅して、玄関の鍵をあけると、ニェネントがドアのすぐ内側の三和土まで出てきてお出迎えしてくれていた(鍵をあける音で来てくれたんだろう)。「ただいま」とわたしが靴を脱いで部屋にあがると、ニェネントはリヴィングに置いてある段ボール箱のところへ行って、その段ボールに爪をたててぼりぼりとやりはじめる。「You'd be so nice to come home」てな感じで、わたしが帰ってきて喜んでくれているのかな、などと勝手に想像して、勝手にうれしくなる。

[]「デヴィッド・リンチ展 〜暴力と静寂に棲むカオス(DAVID LYNCH "CHAOS THEORY OF VIOLENCE AND SILENCE")」@原宿・ラフォーレミュージアム原宿 「デヴィッド・リンチ展 〜暴力と静寂に棲むカオス(DAVID LYNCH "CHAOS THEORY OF VIOLENCE AND SILENCE")」@原宿・ラフォーレミュージアム原宿を含むブックマーク

 まえにリンチの作品「インランド・エンパイア」を観たとき、「ああ、もうこの人は、ふつうの意味での映画なんかあんましつくらなくなっちゃうだろうな」なんて感じも受けたのだけれども、やっぱそれいらい、新作映画をつくるよりも、こういう展覧会のかたちでの美術作品の発表や、ネットをつかった実験映像っぽい作品の発表という方にちからをそそいでいる印象を受ける。こんかいのこの展覧会は彼の写真作品、ドローイング、コンバインされた平面作品などの展示を中心に、あれこれの媒体で発表された新旧の映像作品の上映をふくむ展覧会。

 まずは写真や平面作品から受ける印象だけれども、この人ってやっぱりヴィジュアル的な原点は「イレイザーヘッド」にあるのかなあ、という印象で、大きな作品に盛り上げられた「物体」などからは、どうしても「イレイザーヘッド」の胎児を思い浮かべてしまう。写真作品での「廃墟」からもまたそういう感覚を呼びおこされるし、「雪だるま」の写真連作(わたしはこの連作がとっても好き)からも、オーディナリーな人々がかいまみせるイマジネーションが(その技術的な稚拙さからか)どこかゆがんだ像として定着されてしまう「怖さ」を感じてしまう。
 あとは、ドローイングなどから受けるポップ・カルチャーからの影響というのも面白いところで、どこか「マルホランド・ドライブ」とかを思い出してしまう。とくにここでカートゥーンコミックの「マイティマウス」あたりを選んでいるあたりに、むかしTVで「マイティマウス」を見ていた世代の人間として、興味深いものがある。
f:id:crosstalk:20121125115354j:image:left ちょっとここでその「マイティマウス」について書いておきたいのだけれども、このスーパーマンがネズミに変身したようなヒーローは、どこか子ども向けでないというか、奇妙にセックスシンボルみたいなところがあって、いつも女性のネズミにモテモテだし、「ひょっとしたらこのネズちゃん、セックスに強いプレイボーイ?」みたいな、どこか子どもが見てはいけない世界をのぞき見してしまうような罪悪感を感じさせるアニメだった。なんか、イヤらしかったんだよね。そういうところがどこかでデヴィッド・リンチもわかってて描いているみたいで、共感してしまうところのある作品だった。

 映像作品でなんといっても興味をもって観てしまったのが、1968年に製作されたという(このとき、リンチは22歳)「16mm Experiment」という作品。まずわからないのがこの作品、彼のことをWikipedia で検索した経歴では該当する作品が不明。複数の作品をあつめてこのタイトルで上映している可能性もあるけれども、どうもわからない。
 おそらくはリンチ自身が出演しているらしい冒頭のオブジェと人物がからむシークエンスから、映像を二分割して左右対称シンメトリーでマンダラ模様を描き出すシークエンス、印象的な容貌の女性の映像と、彼がそもそものさいしょから「映画フリーク」ではない、きわめてダダイズム的(?)なところからスタートしているように思えるところが興味深いし、そのオブセッション(とでもいうもの)がやはり「人間の身体」というところにあると思える部分でも、とっても面白いものだった。そういう部分で、「ああ、この人も<視覚的人間>なのだなあ」(このことは断じて<映画的>ということではない!)などと納得させてもらえた、ということでも印象的な作品だった。

 ‥‥ほかにも気になって書いておきたいこともあるけれども、とりあえずはこのあたりで。


 

[]「This is ARICA Show! 首くくり栲象+ARICA パフォーマンス 蝶の夢 in VACANT」@原宿・VACANT 「This is ARICA Show! 首くくり栲象+ARICA パフォーマンス 蝶の夢 in VACANT」@原宿・VACANTを含むブックマーク

 この「VACANT」という空間は周囲が板張りで、まえにこの「蝶の夢」が上演されたときの<外の空間>よりも、「室内」という空気が濃厚。それだけに、待機されている安藤朋子さんが、まずは「家のなか」にいるという感覚で、そこに栲象さんが訪れてくるということでは、まえの公演との設定はぎゃくになるだろうか。安藤さんは「待機」されている、というところなのだけれども、ここでは弥勒菩薩ポーズで待たれていたのが面白かった。栲象さんも、どこかいつもの<首くくり>とはちがう印象もあって、三度目に首をくくられてからあとの展開では、まるで安藤さんとのデュエットのバレエみたいでもあり、宙でスピンされる栲象さんからは、<美>ということばしか思い浮かばない。ことばを失うような、うつくしい、至福のひとときだった。


 

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■ 2012-11-22(Thu)

f:id:crosstalk:20121123110836j:image:left ニェネントが指サックで遊んでいるところを見た。ゴム製の指サックはぴょんぴょんはねるし、細長いかたちをしているので飛んで行く先にもはね方にも意外性があり、見ていても面白そうだなと思ってしまう。電話台のかげとかに指サックが入ってしまうとまえ足でけんめいにかき出すのだけれども、そのときにも指サックはぴょんぴょんとはねる。ニェネントにはいちばんのおもちゃ。
 和室でパソコンのまえにすわっていたらとつぜんにニェネントがうしろからやってきて、わたしのひざにまえ足でちょん、とタッチして、ぴゃっとふっとんで逃げていった。「ねえねえ、遊ぼうよ」ということなんだろう。ずいぶんむかし、まだニェネントが六ヶ月ぐらいのとき、おなじようにすわっていたわたしの背なかにうしろからタッチして逃げていったことがあったけれども、こういう「遊び」はそれいらい。まずはめずらしいことだけれども、やはりとにかくそういう行為がかわいらしくって、あらためてニェネントに惚れてしまう。

 きょうは午前中に歯医者へいった。まずはX線撮影をしてみた結果、いまの差し歯は固定する根の部分が一ケ所で貧弱だから長持ちはしないだろうということで、それはわたしも思っていたことである。そこで、両側の二本の歯といっしょにしてしっかり固定した方がいいだろうと。えええ、それは治療費がしんぱいだなあ、ということできいてみると、きょう型取りなどをして二千円ぐらい、一週間後に具合をみて八千円、さらに一週間後ぐらいにすべての治療を終えて、そのときに一万五千円。合計二万五千円ほどの自己負担になると。前歯だから保険が効かないからというけれど、これが妥当な金額なのかどうかはわからない。ただ、たった三回の通院ですべて終わってしまうというのはいい。とりあえず「承知しました」ということにした。
 帰宅してネットなどでこれが妥当な治療費なのかどうか調べてみたら、まさにわたしとおなじように三本の歯を治療するというケースのことが書かれているところをみつけた。いろんなケースの質問に対して専門の歯科医が答えているようなサイトだったけれども、そこで「このくらいが妥当」とされていた治療費が、どんぴしゃりわたしがいわれた金額とおなじだった。これは「もっと安く済む歯医者はないだろうか」とかじたばたしないで、きょうの歯医者でさっさとやってもらうのがいいのだろう。って、その費用、どうするんだよ。ニェネントの不妊手術の費用をまわすしかないだろうか。ひどい飼い主だなあ。

 午後から図書館から借りていた「崖の上のポニョ」を観て、けっきょくほとんど読まなかった森茉莉の「ドッキリチャンネル」といっしょに、図書館へ返却しにいった。DVDの棚をみていると、こんどは「もののけ姫」が空いていたので借りてきた。このところジブリ作品ばかり借りている。ついでに、先日観た「戦慄の絆」のモデルになった事件を書いたノンフィクションを読みたくなって「たしかこの図書館に置いてあったはず」と探したけれどもみつからない。たしか「理解できない」謎、とか、不思議とか、そういうタイトルだったという記憶があって、館内の図書検索端末から「理解できない」で検索したらそれは「理解できない悲惨な事件」というタイトルで、閉架におなじ本が二冊在庫していた。「なんで二冊も?」って感じ。とりあえずはリクエストを出して借りた。それで、この「理解できない悲惨な事件」を手にして思い出したのだけれども、おなじような不可思議な事件というか、ガラパゴス島でコミューンみたいな共同生活をしていた何人かの男女が不可解な殺しあいをしてしまった事件のことを書いた本があったはずで、たしかこの「理解できない悲惨な事件」と同じ出版社から出ていたはず。それもまた読みたくなってしまったんだけれども、こっちは書名もなにも記憶にない。あれはいったい何という本だったっけ。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 12.「反乱分子」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  12.「反乱分子」を含むブックマーク

 原題は「A Change of Mind」。村民との協調性に欠けると告発されたNo.6 は、ロボトミー手術に似た超音波治療を受けさせられる。これがじっさいにはそういう治療は行われていなくって、「おまえは治療を受けたのだ」と思いこませて心理的に追いつめるというNo.2 の作戦。これでNo.6 にくすりを服用させてさらに従順心をうえつければNo.2 の思いのままよ、ということなのだが、じつは治療を受けていないのだからNo.6 のそのあたりの注意力はばっちりで(このあたりにNo.2 側の作戦の甘さが)、くすりを服用したフリをして真相を知ってしまう。従順になったフリをして、ぎゃくに村人のまえでNo.2 を窮地におとしいれてしまう。こんかいもまたNo.6 の勝ち。しかしこんかいの村民はみな指導者の指令に従順というか、かんたんにスローガンを連呼する群集になってしまう。


 

[]「崖の上のポニョ」(2008) 宮崎駿:監督 「崖の上のポニョ」(2008)  宮崎駿:監督を含むブックマーク

 いぜんいちど、劇場で観たと思う。手描きにこだわったということらしいのだけれども、人物など動く部分でのセル画と、静止している背景画とのタッチの差、バランスが気になってしまうところはある。

 ストーリーのなかで一貫して、まだ五歳児の宗介とポニョとをちゃんと成人したおとなの存在としてあつかっている。子ども二人だけでボートに乗っていても誰もしんぱいなどしないし、だいじな決定もまた当人たちの意志にまかせる。ぎゃくに宗介の母の行動の方が子どもっぽいところもあるし、これが老人ホームのおばあさんたちになると、かんぜんに幼女である。この逆転をどうみるのか。

 震災後にこの作品をみると、津波のシーンはともかくとしても違和感は満載。家が沈んでしまった人たちがまるで祭りのように大漁旗を船にかかげてえい航する映像を信ずることができず、これは地球の人類のはなしではないのだろうと思ってしまったりする。


 

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■ 2012-11-21(Wed)

 しごと先から移動のため車に乗るとき、ようやく日の昇りきった空を一列の渡り鳥が横に連なって飛んでいくのがみえた。何十羽もの鳥が空にみごとにV字をかたちづくっている。ちょうど鳥たちはわたしたちのすぐ真上を飛んでいるところで、Vの字のふたつの辺は視界にはいるかぎりの空のほとんどはじからはじまで横断している。おそらくは雁だろうと思う。こんなに壮大なV字飛行ははじめて目にした。冬。しごともついに年末モードに入り、いそがしくなった。

f:id:crosstalk:20121122195544j:image:right ニェネントのさいきんのお気に入りの遊び道具は、わたしがしごとで使っている指サックである。しょっちゅう指サックを使うようなことをしているわけではないけれども、ときにそういうものがあった方がいいしごとも手伝うので支給されている。いつもはしごと着のポケットに入れっぱなしにしてあるのだけれども、いぜん部屋に置きっぱなしにして、そのままになっていたのをニェネントが見つけだしたのである。しごと先ではあたらしいのをもらっているので、部屋にある方のはもうニェネントちゃんにあげちゃいます。
 どうやって遊ぶのかというとまえに綿棒で遊んでいたのとおなじやり方で、つまり口にくわえて首を振り、くわえていたものをピョーンと放り出すのである。それを走って追いかけ、また口にくわえておなじことをくり返すのである。興がのるとこれをいつまでもやっている。部屋のすみの方でニェネントがばたばた飛びはねている気配があると、きまってこの遊びに夢中になっている。綿棒にくらべてゴム製の指サックはくわえやすいところもあるだろう。弾力もあるし、振り飛ばされて床に落ちてからもはずんだりするからいっそうニェネントを楽しませるのだろう。どたどたばたっ!っと、すごい音をたてて走り回っている。

 差し歯にしてある前歯がまたぐらぐらしはじめて、これではきっとまた近いうちに抜け落ちてしまうだろう。きょうかあしたにでも歯医者に行かなくては。ちゃんとつくりなおした方がいいんだろうか。そうするとまた経済面が圧迫されるだろう。なんとはなしに気分がうつになる。夕方からふとんにもぐって、うたた寝してしまった。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第九話「蟹のお角」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第九話「蟹のお角」を含むブックマーク

 これはまえに予告をみてから楽しみにしていた回。ゲストが野川由美子だし、調べると、演出がまた山下耕作なのである。‥‥しかしこれ、綺堂の原作は異人も登場して、ヌード写真もネタにされるかなりえげつない内容だったはずだけれども、予告にはそういう気配はまるでなかった。

 って、観てみると、これが原作からまったくはなれたオリジナルストーリーになっていた。あららら。原作では「蟹のお角」という通称は、かのじょが背中に彫った蟹の刺青ゆえの名だったはずだけれども、ここでは女巾着切りということで、そのスリをおこなう指が蟹のハサミを思わせる、ということが通称の由来らしい。その蟹のお角がじつは半七の幼なじみ。すでに三度巾着切りでお縄ちょうだいしていて、もういちど捕まると死罪になるのだった。半七はかのじょにかたぎの幸せな生活を望むのだけれども、かのじょがいっしょになった亭主というのが悪党で‥‥、という話。オリジナルなんだけれども、これはこれでとっても面白かった。なんといっても野川由美子の貫禄あふれた演技もみどころだったし、これを受ける半七役の尾上菊五郎がまた、表情などいかにも歌舞伎役者よのう、というような魅力をみせてくれる。もちろんそういう演技を引き出し定着させた山下耕作の演出もみごとで、ラストに半七にお縄をちょうだいした野川由美子が尾上菊五郎と並んで歩いていく後ろ姿がだんだんに遠ざかっていくとき、わたしの目も涙でくもってしまったわさ。


 

[]「SUPER8/スーパーエイト」(2011) J・J・エイブラムス:監督 「SUPER8/スーパーエイト」(2011)  J・J・エイブラムス:監督を含むブックマーク

 スーパー8を使って「ゾンビ映画」を撮ろうとしている同級生たち、おそらくはまだローティーンだろうけれど、彼らがほとんど「グーニーズ」的な活躍をみせる作品。その「グーニーズ」にロズウェル伝説などを加味してみました、みたいな。ウォークマンが発売されたばかりだったり、ラジオがスリーマイル島の事故を伝えたりしているあたり、時制は1980年ぐらいなんだろう。ヒッピーの残党みたいな男性がディスコミュージックに抵抗を感じていたり、「シートベルトで死んじゃう!」みたいなセリフもあったりして、時局ネタで笑わせてくれるところも。
 ‥‥楽しいっちゃあ楽しいんだけれども、どうもどこかすっきりしないところがあれこれあるのもたしかで、「それでいいのかよ」という感想もある。わたしは「グーニーズ」の方がいいけれど、ただ、エル・ファニングが出演していて、やはり彼女はいいのである。


 

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■ 2012-11-20(Tue)

 パソコンのキーボードがおかしくなった。いくつかのキーが反応しない。近接したキーのところもあるけれども、まったくはなれたところのキーでもダメなところがある。キーボードにコーヒーだとか液体をこぼしたわけでもないので不可解。いちおう分解してなかを見てみたけれども、見た目におかしなところも見えない。組み立て直してみるといちじ的に復帰したけれど、いちど電源を落として、あとでまた使いはじめるとまたダメになっていた。どうも、基板の配線で断線したところがあるのか、それともケーブル内で断線している気配。こうなると修理はだいたい不可能で、まあ十年近く使いつづけていたキーボードだから、もう寿命とみてあきらめた方がいいのだろう。そうするととうぜん代わりのキーボードがひつようになるのだけれども、うちにはまえに中古ショップで買ってしばらく使っていたキーボードがしまってある。こいつはコーヒーだかをこぼしてしまって使えなくなったキーがあり、放置してあったものだけれども、使えないキーはたしか左下の方の、文字入力にはあまりかんけいのないところだった記憶があって、それだったら多少不便でも使えないこともないかもしれない。

 キーボードを交換してテストしてみると、なんだか使えないキーなんてどこにもないみたい。放置していたあいだに、わるさをしていた水分が蒸発してしまったんだろうか。思い返せばキーボードが浸水してしまったとき、やはり分解して水で浸した綿棒とかで掃除したような記憶もある。そのときはダメだったけれども、やはり放置しているあいだに水分がとんで復旧していたのだろうか。とにかくうれしいことで、またキーボードを買わなくっちゃいけないのかと、しんぱいしてしまった。

f:id:crosstalk:20121121200058j:image:right こわれたキーボードを分解していると、やはりニェネントがきて机の上にのってきて、「ねえねえ、なにやってるの?」と、わたしの手もとに顔をつっこんでくる。じゃま。ドライヴァーの使い方でもおぼえていただきたいものだなどと思って、ニェネントがドライヴァーをまえ足で回しているところを想像したら笑いがこみあげてきた。
 このごろニェネントはわたしがTVでヴィデオとかながいじかん観ていると、TV台の上に飛び乗ってきてわたしがTVを観るじゃまをするようになった。TV台はむかしブラウン管TVをのせていたものなのでそれなりの大きさがあり、TVのまえにはニェネントが乗ってくるぐらいのスペースはある。わたしがヴィデオばっかり観て遊んでくれないので、わたしの気をひこうとしているんじゃないだろうかとか思う。ニェネントがTVのまえにくると、ちょうど映画の字幕が読めなくなってしまう。「こら!見えないでしょ」と手をあげて追い払うように近づくと、「いやん」って感じで飛び下りて逃げていく。

 きのうはものすごく寒いいちにちだったけれど、きょうはかなりあったかい。きのう、「あしたはシチューにしよう」と決めたので、夕食に冷凍してあった牛肉をつかってビーフシチューをいっぱいつくった。きのうきょうと、しごと場で缶コーヒーを買ったいがい、まるでお金を使っていない。思い出してみたら日曜日からずっと買い物をしていない。けっこうなことなのか。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 11.「暗殺計画」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  11.「暗殺計画」を含むブックマーク

 原題は「It's Your Funeral」。No.6 は現No.2 を暗殺する計画が進行していることを知る。計画の中心人物は次期のNo.2 に内定している男で、どうもその背後にはNo.1 の指令があるような(現No.2 の抹殺が次期No.2 へ昇格する条件なのか)。村人にも計画に加担しているものがいて、No.6 もまた、計画に加担するように仕組まれるわけである。No.6 のいちにちの行動が監視カメラでチェックされる楽しいシーンもある。なんだ、村での生活を満喫しているようではないか。
 ‥‥No.6 は、計画を阻止しようとする。そのこと自体も計画され仕組まれたことなのだけれども、No.6 は村人が巻き込まれることをふせぐためにも、次期No.2 を失墜させるためにも、裏を読んで計画を阻止するのである。
 しかし、まえから気になっていたんだけれども、村の若い女性たちはみな、赤白のボーダーシャツにスラックス姿でキャップをかぶっている。これって、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナ?

 ‥‥教訓。敵にダメージをあたえるには、その敵の敵を守ってやることも効果的であるか。


 

[]「悪の華」(2003) クロード・シャブロル:監督 「悪の華」(2003)  クロード・シャブロル:監督を含むブックマーク

 ファミリードラマの体裁だけれども、ある家族の三代にわたるミステリーでもあるというか。映像のタッチにきのう観た「アウトレイジ」を思わせる美しさがあって、とくに冒頭とラストに写し出される白い階段と、そこに敷かれた深紅のカーペットとが印象に残る。シャブロル独特の語り口というのか、ある種のあいまいさを残したまま作品は終わる。このあたり、もっとつきつめればミヒャエル・ハネケの作品にも通じるような感覚がある。すでにこの「悪の華」撮影時にはハネケの名声は確立しているわけで、シャブロルもそのあたりで似た資質を持つものとしてチェックしていた可能性はある。面白い作品だった。


 

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■ 2012-11-19(Mon)

 さいきん、ニェネントとのかんけいがとても良好である。寒くなってきたのでニェネントもわたしのそばにいた方があたたかいと思っているのかもしれない。まいばんわたしの寝ているベッドの上で、あたまをわたしのすねのあたりにのせて眠っている。ちょっとした「ひざまくら」という感じで、ニェネントの重みが足につたわる。わたしがよなかにトイレに起きたりすると、ニェネントもベッドから降りてわたしについてくる。それで部屋のかげにかくれて、わたしがベッドにもどるときにわたしの足にうしろから飛びついてきて、わたしをおどろかせようとする。わたしはもうそういう遊びに慣れっこになっていてちっともおどろかないのだけれども、サーヴィスで「わあ、びっくりした!」とおどろいたふりをする。ぎゃくに、そういうときにニェネントが飛びついてこないと「どうしたんだろう」と心配になってしまう。
 キッチンにパイプ椅子を置いたら、わたしが炊事するときとかにその椅子の上にあがって、わたしのやっていることをじっとみている。きょうの夕食は餃子にして、油をひいて餃子を熱したフライパンに水を入れて蒸そうとしたとき、「ジュ!」という大きな音がして、その音にびっくりしてしまったニェネントはパイプ椅子から飛び下り、一目散にとなりの和室の方へ逃げていってしまった。ニェネントは大きな音がこわいのである。
 だいたいわたしが手をうごかして何かやっていると「ねえねえ、何やってるの」って感じでわたしの手もとのそばまできてのぞきこみ、まえ足でちょっかい出してくるのだけれども、こうやってパソコンにキーボードで打ち込んでいるときには反応してこない。

    f:id:crosstalk:20121120185003j:image

 ひるま和室でうでまくらをして横になっていたら、手もとの方で何か気配がする。手もとの方をみてみるといつのまにかニェネントがそばにきていて、わたしの指先にまえ足でちょっかい出してくるのだった。指をうごかすとよけいに、ちょん、ちょん、とさわってくる。ぺロッとなめてきたりもする。「ねえねえ、遊ぼうよ」とねだる子どものようである。
 いまニェネントは、ベッドの毛布の上で丸くなって寝ている。ほとんど腹を上向けにして、まるで無防備。よく、ばんざいして寝ているネコだとか、寝相のわるいネコの画像など見たりするけれど、家のなかで寝ているネコはどんな無防備なすがたで寝ていても、だれも襲ってきたりしないことを知っている。ほかの動物はけっしてみせない、飼いネコだけがみせるすがたで、ネコを愛する人はそのすがたを見てさらにネコへの愛情を深めるのである。

 読んでいる「昭和文学全集」の巻は、ついに竹内好にまできた。彼がどういう人なのか、わたしはほとんどわかっていない。彼の「魯迅」を読みはじめた。公開されている「アウトレイジ・ビヨンド」をできたら映画館に観に行こうかと思っているので、おさらいというか予習というか、まえの「アウトレイジ」を観たりした。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第八話「怪談津の国屋」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第八話「怪談津の国屋」を含むブックマーク

 やはり怪談じみたミステリーというのは面白くって、これは原作でも記憶に残っていた一編。演出も脚本も知らない人がやっているけれども、この時代はこういう時代モノの怪談というものを見せる技術がまだまだ残っているというのか、まあこのあたりの演出技術を「チープ」と感じる人もいるだろうけれども、わたしはいろいろと楽しませてもらった。こんかいは、大詰めの捕り物で半七もめずらしく捕り物装束の出立ちを見せてくれ、捕り物も集団でくんずほぐれつと、なかなかにハードだった。こんかいのゲストは夏純子で、そういう人、いたなあと、記憶がちょっとよみがえってきた。


 

[]「アウトレイジ」(2010) 北野武:監督 「アウトレイジ」(2010)  北野武:監督を含むブックマーク

 はじまってすぐに、すっごい画面がきれいだなあと感嘆する。映像がシャープだし、色価のはずれたものを写し込まないで、各画面それぞれが色調を整えた美しい絵になっている。とくに夜間の撮影が美しく、ここは過剰な照明を避けて自然な感覚をつらぬいている。室内や昼の撮影でもあまり人物に照明をあてていることを感じさせず、やはりナチュラルな感じ。撮影は柳島克己という人で、近年の北野武作品の撮影はずっとこの人。照明の高屋齋という人とはやはり北野武作品でずっとコンビを組んでいるようで、この作品あたりで最高の成果を出しているんじゃないだろうか。いぜんいちどDVDで観た作品だけれども、そのときはそうとうガタのきたブラウン管TVでの観賞だったし、こんかいはうちのTVもよくなったからね。こういうことにも気づくのよ。

 さて、まえに観たときには「また<仁義なき戦い>をやってもしょうがないのに」みたいにも思ったのだけれども、こんかい観ると、やっぱこれって日本の企業社会の戯画でもあるんじゃないかって思って、たけしの演じる大友組組長とは、そんな構造のなかに組み込まれた弱小企業の経営者の悲劇、かなって、加瀬亮の出世ぶりとかをみても思ってしまう。三浦友和はぜったい続編で死ぬよな、と想像できる。


 

[]「スネーク・アイズ」(1998) ブライアン・デ・パルマ:監督 「スネーク・アイズ」(1998)  ブライアン・デ・パルマ:監督を含むブックマーク

 冒頭に「黒い罠」をじかん的にはこえるような超・長回しがあるんだけれども(カメラを振って、画像が流れるところでこっそりつないでいるんだと思う)、そこで主演のニコラス・ケイジがただ延々と騒いでいるだけみたいなので、せっかくの長回しでもあんまり「すごいなあ」と思わない。そのあともどこか「空転」のれんぞくで、みていても「そんなはずないだろ」とか、「あ、こいつが犯人だ」とか、どうしてもストーリーの流れのなかに没入できないで観てしまう。どうも根本は、この「国防長官暗殺計画」というものをこんなところでやろうとするのがおかしい。そのあとも「国防長官が暗殺された」というビッグニュースがいつの間にかどこかへ消えてしまった感じで、「そもそもが何の陰謀なんだっけ?」みたいな。

 ラストはアントニオーニの「さすらいの二人」のラストみたいに、ゆっくりと動いていくカメラが、こちらは「さすらいの二人」とはぎゃくに、あるモノに向かって接近していくのだけれども、これを「さすらいの二人」のラストがかもし出す「なぞ」に匹敵するものだと考えてやったのだとしたら、「なぞ」を「なぞ」として提出する努力をおこたっている。もしもこれが殺された(端役の)女性のしていた指輪だとしても、「それがどうした?」という思いしか浮かんでこない。やはり、技巧に溺れた失敗作、ということだろう。


 

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■ 2012-11-18(Sun)

 じつはきのうのよる、けっきょくは雨のなかを電車に乗ってとなり駅まで出かけ、「薪能」を観てしまった。当日のチケットを買っていて、ひょっとしたらちゃんと金を払って観に来ているのはわたしぐらいのものなのではないのかと思ってしまったのだけれども、つまりどうやらほとんどの観客はどこかから招待券をもらって来ている気配である。なんだかなあ、という気もちにならないこともなかったけれども、上演された狂言も能もひじょうに面白く、エキサイティングだったわけで、東京などだったらこの料金で観られることもないだろうから、とにかくは満足して帰宅した。ほんとうはインデックスをたてて感想を書いておくべきだろうけれども、しかじかの理由があってやめておく。機会があればもっと能などは観てみたい。それで大阪のだれかに「変質者」と呼ばれるならばそれもけっこう、その男が政権を取って、能・狂言の観客を「変質者」として逮捕監禁するのならやってみろ、という気もちはある。文楽もしばらく観ていないので、また観に行きたいものである。

 Amazon に注文したCars のボックスがなかなか届かないなあと思ったら、どうやら海外からの発送らしく、まだ一週間ぐらいはかかりそうである。Cars、はやく聴きたい。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 10.「旗色悪し」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  10.「旗色悪し」を含むブックマーク

 冒頭で、No.2 に質問攻めにされる女性が窓から飛び下り自殺をするのだけれども、どうやらその一部始終を目撃していたNo.6 は、「このろくでもないNo.2 だけは、何としてもせん滅されなければならない」と思ったのだろう。この回はただひたすら、No.2 を破滅させるためにだけNo.6 は行動する。つまりはNo.6 はまた別の組織から送り込まれたスパイとしてふるまっていろいろな証拠を残し、監視するNo.2 を疑念の無間地獄へ追い込む。疑心暗鬼からNo.2 はNo.6 と接触する人物すべてをNo.6 の協力者と思い込み、誰もかも解雇してしまうのである。とうぜん、No.2 は破滅していく。こんかいはNo.6 の勝利である。

 ‥‥教訓。すべてこの世界が信じられないと思ったとき、それ以後の行動原理はいったいどこに置くべきだろうか?


 

[]「ジョー・ブラックをよろしく」(1998) マーティン・ブレスト:監督 「ジョー・ブラックをよろしく」(1998)  マーティン・ブレスト:監督を含むブックマーク

 冒頭の誕生日パーティーの準備のセッティングをみていて、なんだかどことなくフェリーニの「8 1/2」みたいだなあ、なんて漠然と思っていたのだけれども、ラストのクレジットをみると、この作品のプロダクション・デザイナーはダンテ・フェレッティだった。まあダンテ・フェレッティは「8 1/2」にはかんけいしていないのだけれども、つまりはそういうことをやってみたかったのだろう、というか、演出としては彼に依頼してそういうことをやってみたかったのだろう。つまり、ある一面でこの作品は「8 1/2」にアプローチしていると。

 観ていて、ストーリー展開がなんともフランク・キャプラ的なハートウォーミング・コメディっぽいな、などと思っていたら、これもあとで調べたら1930年代の作品のリメイクだということもわかった。わたしはこの手の作品はあまり観ないので、こういうのは近年のアメリカ映画にはあまり引き継がれていないように思っていたので、こうやってこの種の世界をまた映像化するのはいいことだと、たんじゅんに思っている。

 主演はブラッド・ピットで、つまりは彼は交通事故で死んだ青年の肉体を借りた「死に神」なんだけれども、そういう、「じつは人間じゃなくってね」という演技はおもしろい。彼が連れに来た(つまり、死への誘いである)のがメディア王であるところのアンソニー・ホプキンスなんだけれども、この人はうますぎてちょっとイヤミなのね。ここはブラッド・ピットの仏頂面とのバランスでいうと、そりゃあクリント・イーストウッドのいつも苦虫をかみつぶしているような顔の方がいいような気がして、観ながらもアンソニー・ホプキンスの顔をクリント・イーストウッドにすげかえながら鑑賞した。死に神の相手をつとめるのはやはり、そういうことでは百戦錬磨のクリント・イーストウッドの方が似合っていると思う。そういうのでは、せっかくいい役で出ているマーシャ・ゲイ・ハーデンがあまりいいところを見せてくれずにざんねんでもあったのだけれども、この作品でとにかくよかったのはブラッド・ピットと恋仲になるクレア・フォーラニ。‥‥わたしはそのあたりのことはよく知らないけれど、たとえばラヴシーンでふたりの人物が至近距離でみつめあったりするとき、ほんとうに相手の目をみたりしてしまうとつまりは「寄り目」になってしまうので、じっさいにそういう場面の演技をするとき、じつは視線はあらぬ遠方に向けられているのだということをきいたことがある。それがこの作品のクレア・フォーラニは、そういう見つめあう場面で、みごとに「寄り目」になっていると思う。で、つまりはそれがおかしいというのではなく、その斜視がとても魅力的に感じられる。‥‥日本でも、山口百恵ちゃんなんかにもそういう「斜視」の魅力があったという記憶があるのだけれども、こういう「特性」というのはいいものだと思う。さいきんこの女優さんの作品を観る機会もなくてざんねんだけれども。

 演出としては、これは信じられないほどにごていねいにつくられていますね、という印象で、尺もそれで三時間とかの長尺になってしまっているのだけれども、それでいいのかどうか、わたしにはよくわからないところがある。とにかくは「冗長」という感覚は受けなかったけれども。
 アンソニー・ホプキンスの「豪邸」の通路に、ありとあらゆる近代から現代にかけての美術作品が飾られていた。セザンヌからミロ、そしてマーク・ロスコ、などなど。尺が長い分それらの名画にもいっぱい出演していただいていて、目を楽しませていただいた。


 

[]「エアベンダー」(2010) M・ナイト・シャマラン:監督 「エアベンダー」(2010)  M・ナイト・シャマラン:監督を含むブックマーク

 シャマラン監督の作品、わたしはどれも好きでしたよ。いっぱんには何だか「トンデモ映画」ばかり、という評価だったらしいけれども、演出的にはけっこう正統なヒッチコック的作画術の後継者というところを感じて、どの作品も楽しませていただいた。それが、なんというのか、「リング」の二番煎じみたいな、しかも3Dな映画を撮ったというので、やはり心配はしていた。いったいなぜ彼は、「ライヴァルはピーター・ジャクソン」な人になってしまったのか。それで、その成果はどうだったのか。

 ‥‥ダメだと思う。ぜんぜん。演出面で、連続するひとつのシークエンスのなかで見せられるだけのものを見せたいというのはわからないでもないけれども、それを見せられてインパクトを感じるというものでもない。そもそもが、「リング」が、人々を破滅へと導く指輪を廃棄するという、まあたとえていえば原発みたいな、現代的なテーマを扱っていたという印象に比して、四元素を制御するものが世界をおさめるというような古くさすぎる主題を扱っているあたりもダメダメ。現代の世界観はとてもそんなところには居座っていないことを察知しなければ、ファンタジーだって成立するものではないだろう。シャマラン、ダメじゃん。


 

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■ 2012-11-17(Sat)

 きょうは目がさめたときからもうすっかり「薪能」モードになっているのだけれども、TVの天気予報で関東地方はよるになって荒れるといっていて、がっかりする。まだ真っ暗ななかをしごとに出て、しごとをやっているうちに日が昇って明るくなってくるのだけれども、やはり空は曇天。配送の人で薪能などの話をしても通じそうな人もいるのでそういう話題をふってはなしかけてみたら、こんや駅の北の神社で行われることはご存知ではなかったけれども、むかしからここの薪能はいつも雨にたたられるのだというはなしをしてくれた。わたしがこの土地に来て以降はずっと市民会館が開催場所になっていたけれども、そのまえにはもっと北の方にある神社の境内でやっていたらしい。それが開催期日がいつも雨になってしまうので市民会館でやることになったのかもしれない。そのはなしをきいてそんなことを想像した。それで久々に野外でやろうとしたらまた雨になりそうだというのは、よっぽどたたられているのだろう。

 しごとを終えて帰宅して、中止になるとしてもひょっとしたら会場設営の名残りぐらいみることができるかもと思い、昼食をとってからその神社の方に出かけてみた。ついでに、久しぶりにこのあたりの写真でも撮ってみようか。出かけるまえに、その「薪能」のチラシに書かれている「問い合わせ先」に、どのようになっているのか問い合わせようと電話してみたのだけれども、その電話番号は役所の一部門で、つまりきょうは土曜日で役所は休みなのだから、だれも電話に出ない。‥‥こういうのが、お役所しごとの配慮の足らないところで、イヴェント開催にたずさわった人間としても、「なにやってんだよ、イヴェントの基本だろ」という感想は出てくる。「やっぱりね」みたいな感覚で外へ出て、駅に向かった。

f:id:crosstalk:20121119175101j:image:right 駅の北口からは北にまっすぐに道路が延びているのだけれども、ちょっと西側に曲がってからやはり北に向いた道があり、こちらは駅からちょっと行くとすぐにゆるやかな上り坂になる。
 このあたりはもうちょっと北に行くと栃木県になり、だんだんと山並も近づいてくるのだけれども、まだまだ関東平野のただなかで、こういうまちなかにちょっとした坂道があるところというのは珍しいのではないかと思う。こういうところが、まったく縁もゆかりもないわたしがこの土地に魅せられたところのひとつ、ということもできる。

 その坂道をのぼり切ったあたりから古い商店街の区域になり、もう今では営業している商店は少ないのだけれども、それでも残っている店舗のたてものは歴史を感じさせるものが多い。おそらくは明治時代などにこの土地がにぎわっていたのはこの通り沿いが中心だったんじゃないかと想像する。写真を撮ったのだけれども、あんまりよい写真が撮れなかったので、また機会があれば。

 薪能の開催場所の神社は駅からは十分ぐらい、この旧商店街通りと駅前通りとのあいだにある。その神社のてまえで、数少ないこの地の観光スポットを訪ね歩いていらっしゃるような、そういうパンフレットをお持ちのおばさんのふたり連れとすれ違った。今夜の薪能をめあてに、明るいうちからこのあたりを散策されておられる方ではないのかと思う。この地では珍しい「観光客」なのでは。
f:id:crosstalk:20121119175159j:image:left その神社についてみると、その境内にもやはり、この方々も薪能目当てにちがいない、と思われるような老夫婦が歩いていらっしゃった。神社の境内はふだんとまったく変わらない(って、ふだんほとんどここに来たことはないのだけれども)静けさで、とてもこの夜に「薪能」が行われるようなふんいきではない。どこにもそのような会場設置のようすもみられはしない。その神殿の左右に、なぜかウサギの像がかがみこんでいて、その顔をみるとなんとなくニェネントに似ているようにも思えるのだけれどもとにかく、そのうしろに貼り紙がしてあって、「今夜の薪能は○○の○○○ホールでの開催となります」と書いてあった。

 そうなのか。予報などから、きっとはやい段階で開催場所を変更することにしたのだろう。せっかく行く気になっていたイヴェントだけれども、やはり屋内ではあまり食指も動かないし、会場が電車でひと駅離れたところというのもネック。どうせそのうちに雨も降り出すだろうから、雨のなか、お出かけするのもおっくうである。やっぱりきょうはあきらめようか。そうしよう。

f:id:crosstalk:20121119175518j:image:right 帰路につき、家の近くの踏切りで、西の駅の方とぎゃくの東側との写真を撮ってみた。このJRのローカル線はつまりは単線で、この踏切りから西側では駅に入るので線路は分岐するけれど、東側では合流して一対のレールがずっと延びている。駅はこの駅始発、終点という電車もあるので三つのホームがあるし、第三セクター鉄道などふたつの鉄道も、この駅を始終点として営業している。
f:id:crosstalk:20121119175613j:image:rightある意味で大きな駅だなどと書くと、書きながらも苦笑してしまうけれども、これでも明治、大正、昭和と、北関東の商業の中心地として発展した町だったのである。歴史をたどれば千年以上の歴史を持つ土地でもあり、そういう痕跡史跡も随所に残されている。おもにそういう史跡は駅の北側に集中しているので(わたしの住む駅の南側は野ッ原だったのだろう)、そのうちにちゃんと、老人らしくそういうスポットを探索してみたい。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第七話「唐人飴」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第七話「唐人飴」を含むブックマーク

 この回の演出はまた安田公義で、脚本はなんと「仁義なき戦い」などの笠松和夫。ストーリーも、青山界隈で切り落とされた腕だけが連続して発見されるという怪事件なので面白そうなのだが、どうも想像していたような楽しさはちょっと欠けていたというか。江戸時代には「男女(おめ)」と呼ばれたらしいレズビアン嗜好というのが犯罪の背後にあるのだけれども、そのあたりの処理に脚本も演出もつまづいてしまったのかな、などという気もする。原作とちがって、このTV版ではラストはかならず捕り物で解決しなければならないという制約もあるだろう。するとしぜん余韻というものに欠けることにもなりやすいのかもしれない。

 この回のゲストのひとりが、たぶん渡辺やよいという人で、わたしはよく知らない女優さんなんだけれども、とにかくびっくりしたときの表情などがオーバーで楽しい演技の人。アップに耐えるというのか。


 

[]「悲劇の解読」より <太宰治> 吉本隆明:著 「悲劇の解読」より <太宰治> 吉本隆明:著を含むブックマーク

 わたしは太宰治という作家はまるで読んでいなくて、食わず嫌いというか、先入観でどうも苦手な気がしていたわけなんだけれども、せんじつ彼の原作の映画「ヴィヨンの妻」を観て、ちょっと興味を持ってしまった。

 おそらくは太宰治の作品などというのは、たとえば中学とか高校とかのうちに読んでおかないと、それをすぎてしまうとなんだか読むのもばかばかしいような気分になってしまい、手に取るという機会が失せてしまうのではないのか。‥‥なんでそんなに死にたがるのか、なんで女性といっしょでなくっちゃ死ねないのか、なんでそんな偽悪的な生き方をしなくっちゃならないのか、こういうことを「わかろう」とする時期というのが、わたしには訪れることがなかったということでもあるだろう。それがさいきん、「わかろう」としてもいいような気もちになっている。

 文学者、いや、小説家というものは、知識に優れただけでなくその人生においても秀でた生き方をしていなければならぬ、などと思ったことはないけれども、おそらくはあまりにその生き方と作品とが密接にかんけいしてしまうような作家について、敬遠するような気もちがわたしにはあったのだろう。それがどうしたことかわからないけれども、そういう本の読み方もしてみたくなっているわたし、である。

 吉本隆明氏は、先に読んだ「島尾敏雄」で顕著なように、まさに小説家の作品と、その生き方とのかんけいをち密に探るような読み方をされるようであり、この小文でも、その作品から太宰治の生の苦悩を解き明かしてくれている。ちょっといまは読書スケジュールがつまっているので、はたして近いうちに太宰治の作品を読むことになるのかどうかはわからないけれども、読みたいという気もちは強くなった。


 

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■ 2012-11-16(Fri)

 図書館に借りていた「アリエッティ」のDVDを返しに行き、こんどは「崖の上のポニョ」が空いていたので借りることにした。ついでに何かかるく読めるものがあれば借りようと思って棚をみてまわり、森茉莉の全集の「ドッキリチャンネル」収録の巻をちょっと読んでみることにした。「ドッキリチャンネル」なのに、とっても分厚い本である。というか、これ一巻ではおさまっていなくって、もう一冊「ドッキリチャンネル」の巻がある。通読しようとは思っていないけれど、ちょっと手があいたとき、パラパラとめくって拾い読みするのにちょうどいいのではないかと。

 本とDVDを借りて図書館を出ようとして、エントランスの壁に貼ってあるポスターに目がとまった。この地域でいぜんからやっている「薪能」のポスターだった。きょねんは震災のあとで会場の安全性に不安があったらしくて中止になっている。それまではその会場でまいとし行われていたのだけれども、市民会館として使われていたたてものだったわけで、せっかく薪能なのに屋内でやってもおもむきがない気がして、いちども行ったことはない。それが、ことしのポスターを見ると、場所は駅の北にある神社の境内となっているので、こんかいは行ってみたくなった。期日はもうあした、になっている。あしたはとくに予定もないし、チケット代もさほどではない。置いてあったチラシをもらって帰宅した。

 わたしは能や狂言というものをいままでじっさいに観たことはないのだけれども、屋外で行われる薪能というものならば、機会があれば体験してみたいものだとは思っていた。東京にいたころにはそういう機会もいっぱいあったのだろうけれども、情報を得るのも下手だったし、観たいという熱意もそこまでのものでもなく(文楽は何度か観に行ったけれども)、けっきょく行かずじまいだった。それがいまの住まいに転居してきて、このあたりではまいとし秋に薪能をやっていること、「発表会」レベルではない、本格的な公演であることも知っていたけれども、先に書いたように「屋内じゃあね」というところでパスしてきた。それがわが家からかるく歩いていけるところにある神社でやるというのでは、やはりここは行っておこうと思うのだった。ただ、開催日のあしたの天気予報はよろしくない。どうかいい天気になりますように。

 「ポニョ」を観るのは後日にして、ゆうがたのあいたじかんに、「ドッキリチャンネル」をさいしょのページからくくって読んだ。面白くって声を出して笑った。そう、説明しておくと、この「ドッキリチャンネル」というのは、森茉莉が1979年から85年まで週刊誌にずっと連載していたコラムで、つまりはTVをみての雑感。基本はTVに顔を出すタレントへのひじょ〜に辛口の人物評がメインであって、元祖ナンシー関、なのである。
 きょう読んだところでは、日本映画を代表する女優といわれていた(「浮雲」とかに出ていた)女優を「ムカムカする女」といい、「外国映画の解説をやる」人物のとあることば、「私は嫌いな人間を見たことがありません」(これはちょっとちがうのだけれども、この人物の著書のタイトルになっていて有名なことば)に、「この言葉ほど偽善の匂いに満ちた言葉をきいたことがない」という。どちらにもわたしは「ウンウン、そのとおり」と、読みながらうなずくのである。とくに後者は、映画なんかどんなにたくさん観たって人間が成長するわけではないということの最適な例証だと、わたしはむかしっから思っていた。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 9.「チェックメイト」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  9.「チェックメイト」を含むブックマーク

 こんかいは人間をチェスの駒にしてのゲームからはじまる。ゲームの指示に従わないルークの駒の男がいて、「反抗的」と病院に収容され、No.6 は彼に興味をもつ。ナンバーで呼ばれるのが基本のはずの「村」の住民のなかで、彼は例外的に以後「ルーク」と呼ばれつづける。また、No.6 に恋してると催眠をかけられた女性がNo.6 につきまとう。彼女はNo.2 ら組織がNo.6 を追うための追跡装置のようであるが、催眠の効きすぎなのか、ちょっとしつっこい。いっぽうルークは元発明家で、「村から脱出したい」という思いでNo.6 の仲間になり、No.6 につきまとう女性のネックレスに仕込まれたトランジスタを手に入れ、組織の目をごまかしながらそれを使って脱出のための無線装置をつくる。その無線で遭難した飛行機をよそおって近くを航行中の船を呼び、No.6 が集めた逃走の意志のある村人とともに逃走しようとするのだけれども‥‥。村で接触してくる人間はみんなあやしいってじぶんでもいっていたのに、No.6 は逃走の意志のあると予測する人物に接触することで、ぎゃくにじぶんがあやしまれちゃっていたとは。

 ‥‥教訓。他人に横柄に接するのはやめましょう。


 

[]「牝猫と現金」(1967) ジョルジュ・ロートネル:監督 「牝猫と現金」(1967)  ジョルジュ・ロートネル:監督を含むブックマーク

 ミレーユ・ダルク主演で、彼女はブーツとミニスカートがよく似合うのだけれども、そういう姿はあまり見せてくれない。なんと4億フランの現金を銀行から盗んだ男がミレーユ・ダルクの恋人で、ミレーユ・ダルクは彼の赤ちゃんを産んだところで恋人の死を知る。強盗の仲間や警察が、彼女こそかくされた4億フランのありかを知っているはずとつけねらう。彼女は独身の母のための福祉施設に入り、そこで知り合った女性(アヌーク・フェルジャックという女優さん)と意気投合し、ミレーユ・ダルクが男と住んでいた田舎の山腹の一軒家へ、ふたりの赤ちゃんといっしょに行く。もちろん強盗仲間もつけてくるし、その家の近所には自称画家というわけのわからん男も住んでいる。強盗仲間のひとりのハンサムな男が寝返ってふたりの女性の味方になり、武装して強盗たちを迎え撃つ。はたして勝敗は? そして、4億フランはどこにあるんでしょ。

 冒頭の、その強盗が線路の上を逃走して射殺されるまでの映像が、「モンタージュ」とはこういうことですよ、というような小気味のいいノワールな演出なのだけれども、ミレーユ・ダルク登場以降はどこかのんびり、ほんわかした空気が作品にただよう。ミレーユ・ダルクの落ち着くさいしょの場所は独身の母のための福祉施設だし、そのあとは人里はなれた古い家。どちらも世間から隔離されている。とにかくミルクにたよる赤ちゃんがいるので、どんな緊急事態のときでも、「ミルクの時間」のアラームが鳴ると赤ちゃんにミルクをあげなければならない。となりの画家はいつもこっけい至極。そんななかで銃撃戦に突入したり、追い詰められているはずなのに悲愴感はまるでない。‥‥ということで想像できるように、ラストはハッピーエンディング。ミレーユ・ダルクという女優さんの持ち味もあるだろうけれども、どこかすっとぼけた味わいのアクション映画、という印象だった。


 

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■ 2012-11-15(Thu)

 けさは寒かった。しごとは五時からだけれども、六時半ごろになって車でちょっと離れたところへ移動する。その移動用の車のフロントガラスが、ぎっしり氷結していたのである。もうこれでは秋とはいえない。冬である。わたしはいつもしごとで冷蔵の荷をあつかうのだけれども、輸送用の蓄冷剤をいつも素手でさわっている。いままではその冷たさもがまんできたけれども、きょうは蓄冷剤を冷凍庫から取り出したりしていると手が冷たくて痛くなってしまった。しごと用の防寒手袋を買わなければいけない。

 しごとを終えて帰宅すると、ニェネントはベッドの上でまだ寝ている。亭主が外ではたらいていても家でゴロゴロ寝てばかりいて何もしない女房、みたいである。もちろんネコに何かを期待するのがまちがいなのだけれども。ネコさんにはいっぱい食べてもらって元気に大きくなってもらって、それでときにいっしょに遊んでもらえればいいのである。あとはネコさんのすがたをみて「かわいいねえ」とこちらが勝手に思っていればいい。そういう存在である。
 ニェネントはよく、部屋のすみとかでじっとわたしの行動をうかがっているようなときがあって、「なんですか?」とニェネントに近づくと、ある距離まで近づいたところでふいにきびすを返して逃げていってしまう。ひょっとしたら追っかけっこをして遊びたいのかな、などと思って、そういうときにはしばらくニェネントのことを追いかけたりする。きょうも玄関のところでわたしのことをみているので、近づくとやはりぐるりと向きを変えて逃げようとする。その向きを変えるときにあたまを思いっきり壁にぶっつけて、「コーン」と音がした。やっぱバカっぽいネコだこと。「コーン」という音だって、あたまのなかはほとんどからっぽです、みたいな響きかただし。

 寒いので、夕食はせんじつそろえた材料の残りで鍋にした。寝るまえに「昭和文学全集」の吉本隆明の残り、「太宰治」のところを読み、やはりいままで食わず嫌いだった太宰治の本をちょっと読みたくなってしまった。そうそう、ほんとうに衆議院はあしたにも解散されてしまうらしい。年末は選挙ですか。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第六話「河豚太鼓」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第六話「河豚太鼓」を含むブックマーク

 あ、この話はなんとなく原作をおぼえてる。「うえぼうそう(植疱瘡)」をめぐる事件で、江戸時代にもそういう「種痘」があったんだと、ちょっとおどろいた記憶もある。で、なんとこの回の演出は山下耕作。そりゃあすごいや、って感じなんだけれども、調べたらじつはわたしは山下耕作がメガホンを取った映画などまるで観ていないのだった。まあ名まえだけは知っていた、というところ。

 ‥‥期待に違わぬ佳作で、随所に映画的表現が織り込まれているというか、やはりキャリアのある人はちがうものである。このあいだの安田公義監督の演出のときもそうだったけれど、ラストのところで屋根の上での捕り物になる。このあたりに岡っ引きの見せ場があるではないか、というあたりはスクリーンの演出をやっていた人たちは目ざとく見つけちゃうというか、見せ場にしてしまう。やっぱこのシリーズは面白い。こんかいのゲストは松尾嘉代だった。


 

[]「スルース」(2007) ハロルド・ピンター:脚本 ケネス・ブラナー:監督 「スルース」(2007)  ハロルド・ピンター:脚本 ケネス・ブラナー:監督を含むブックマーク

 むかしローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインとのふたりでやった「探偵<スルース>」のリメイクで、もとはアンソニー・シェイファー原作の舞台劇なのを、こんかいはハロルド・ピンターが脚本に参加して細工しているらしい(映画のなかのTV映像で当人も顔を出しているとのこと)。ここではマイケル・ケインがむかしのローレンス・オリヴィエの役の側にまわり、むかしマイケル・ケインがやった役をジュード・ロウがやっている。ざんねんながらわたしはその「探偵<スルース>」を観ていないので、こんかいどのような細工が行われたのかよくわからないのだけれども、検索してみたところではどうやら、パート3の対決がいろいろといじられているらしい。

 しかし、ケネス・ブラナーという人はいつもいつも、「どうです、わたしは才気あふれているでしょう?」といわんばかりの演出をやってしまう人物で、こんかいもやはり「うへぇ!」っていうところ満載。この戯曲じたいが、またそういうのを助長させるようなものだし。映画でなくって舞台でやるのだったら「なるほどね」と思ってしまうところもあるかもしれないけれど、逆に映画なんだったらそういう衒いはやめて、ストレートに観客席からの目線で演出してもいいような気もするけれども。

 たしかにラストはひねりがあって面白くって、どうやら先に「負け」を察したジュード・ロウが、それだったらと捨て身の勝負に出て、マイケル・ケインをも破滅に引きずり込んだ、というところだろう。どちらも、これで「おしまい」。


 

[]講談社現代新書「生物と無生物のあいだ」福岡伸一:著 講談社現代新書「生物と無生物のあいだ」福岡伸一:著を含むブックマーク

 わたしが読んだ本はこの本がかなり売れてから増刷されたもののようで、帯にいろんな人からの賛辞が寄せられている。‥‥って、ほんとかよお?って感じで、まあわたしが近年読んだ本では、ある数学者が「日本の田園風景がいい」とかほざいていた本に次いで、「ゲゲゲ!」な本だった、という印象。

 もちろんわたしは理科系の人間ではないから、ここに書かれている二十世紀の生物学の流れのことなどまるで知らなかったし、そのことで「なるほどねえ」ということがたくさんあったことはたしかだけれども、なによこの本のこの奇妙な修辞の連続は。「文章がうまい」とほめている人もいるようだけれども、(まあ文章の下手なわたしが書くのもなんだけれども)「これが<うまい文章>かよ」という感覚をおさえることはできない。

 この本は、前半がそういう二十世紀の生物学の流れから、まさに「生物と無生物」の境界をさぐるような記述ではあると思うけれども、どことなく業界内部の暴露記事という空気を感じてしまうこともたしか。まあそのことはいいとしても、後半はタイトルのことなんかどこへいってしまったのか、著者の研究している分子生物学の分野から、これはまちがいなく生物の、その「動的平衡」(と著者のいうことがら)をめぐる研究現場からの報告となってしまう。あっちゃこっちゃ著者の身辺の記述に飛躍する文章は著者のきもちわるい自意識のみをあらわにしているようでもあり、読んでいても「うへえ〜」、という感じである。

 この著者が、この本のなかで他者の著のことを(その著作のなかの翻訳にかんして)くさしていることもあるのでわたしも書くけれども、この本には変な文章があちこちにある。この本のテーマに無かんけいの、枝葉末節なことではないかと思われるかもしれないけれど、ひとつあげておく。

 このシンプルな、しかし転換的な生命観を私たちが本当の意味で発見したのはそれほど昔のことではない。私たち、という言い方はもちろん公平ではない。

      (「生物と無生物のあいだ」p.154 )

 これは、ルドルフ・シェーンハイマーという学者の業績を紹介する導入部の文章なのだけれども、同時にこれは詐欺師の文章でもあると、わたしは思う。まあ詐欺師というものはこの世の中にまん延していて、そういう詐欺師文章で小説を書いてノーベル賞の候補になるような人物も存在するのだから、こういうのもごくふつうの、あたりまえの文章ということなのかもしれない。しかし、ここで書かれている「私たち」というのは、いったいなにものなのか。いったいなぜこんな文章が生まれるのか、わたしには合点がいかないことになる。さいしょの「私たち」のあとに「本当の意味で発見した」と書いているのは、つまりここで書かれていることはかなり厳密なことなのだという印象を受けるのだけれども、そのすぐあとで「公平ではない」と、先に書いたことを否定する。え? この場合、「正しくはない」じゃないの? 「公平ではない」ということは、どこかそういう「私たち」という言い方にも理(ことわり)があるということなのだろうか。
 この文章を読む限りでは、そもそもがさいしょっから「このシンプルな、しかし転換的な生命観を本当の意味で発見したのは、ルドルフ・シェーンハイマーという人物である」と書けば万事OK、なにももんだいはないはずである。なぜこんな書き方をするのか。やはりここで彼は「私たち」ということばを書きたかったのだ、ということしか理由はないように思える。では、「私たち」とは誰なのか、著者である福岡伸一氏と、その研究仲間のことなのか、分子生物学にかかわる同時代のすべての人のことなのか、著者と読者のことなのか。そのどれも、その「私たち」にあてはめて読んでみてどうもしっくりこない。まあ「分子生物学にかかわる同時代のすべての人のこと」というのはわからないでもないけれども、それだと「私」という存在は、そのシェーンハイマーという人物と「同時代人」とはいえないのではないのか(シェーンハイマー氏の研究は1930年代後半になされたのだと、このあとに書かれている)。やはりどうしても、こういうもってまわった言い方がなされる理由がわからない。ただわたしにいえるのは、こういう奇妙ないい方をするのは詐欺師の常套手段だとしか思えませんよ、ということぐらいである。「私」という、そして「私たち」というインチキ。

 この薄い本のなかには「私」ということば、そしてここに書いた「私たち」ということば、もうひとつ、「あなた」ということばもあちこちに出てくる。「私」はバカです、というのは著者の勝手だとしても、「私たち」はバカです、だとか「あなた」はバカです、なんてことをいわれると、そりゃあおかしいんじゃないかということになる。いろいろと、ことばの使い方がこの著書の場合どうも怪しい。つまりは詐欺師の手口を連想させられてしまうのである。彼はいったいどういう目的で「私たち」をだまそうとされておられるのか。‥‥わからないでもないけれども、そんなことを究明するじかんをつくるよりも、さっさとこの本をゴミ袋に放り込んでしまおう。‥‥おしまい。



 

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■ 2012-11-14(Wed)

 せんじつ東京都の知事をやめた人があたらしく結成した党の名まえが「太陽の党」だというので、笑ってしまった。岡本太郎が生きていたら何というだろう。党のスローガンは「政治とはバクハツだ!」とかにしてくれたらすばらしいのだが。というか、首相はほんとうに衆議院を解散するのだろうか。

 きょうもまたしごとは非番で休み。このところ、いちにちおきに出勤したり休みになったりの飛び石連休だったけれども、とりあえずきょうでおしまい。きょうはあさからヴィデオで映画とかばかり観てすごし、けっきょく五本も観てしまった。そんなにわたしは映画ファンなのか、じぶんではよくわからない。たぶん本を読むよりもてっとり早く、ひとつの作品を鑑賞することができるからなんだろう。たんにほかにやることがないからヴィデオを観ているだけで、つまりはただのじかんつぶし、なのかもしれない。映画も観ているとその手法だとか語り口でいろいろと気づかされることもあるし、はっとするような美しさにも出会ったりして楽しいのだけれども、わたしの場合それで人生とかいうものが豊かになるとかいうものではない。というか、本を読んだり映画を観たりして人生とかいうものが豊かになるわけもないと思う。そういうものを学ぶために映画を観ているわけではない。何度も書いているけれども、そういうところでは映画のストーリーなんかもどうでもいいところもある。もちろんストーリーを追って観て楽しむこともよくあるけれども、映画が面白いとしたら、そういうところにだけあるわけもない。それは本を読むということでもおなじこと。もちろん、舞台を観るのもおなじ。しょうじきなところいつもわたしは、そういう表現の面白さの、ほんとうのところはつかみ取れていないという思いでいる。もっと面白い観方があるんではないのか、わたしはそれをつかみ取れるのか、そういう気もちでいつもそういうものを読んだり観たりしている。

 きょうの夕食には、せんじつ買ってあったさつまいもを輪切りにして、ちょっと多めの油でほとんど天ぷらを揚げるように炒めておかずにした。なかなかにおいしかった。わたしの味覚も安上がりなのでたすかる。そう、白菜を外に出してあったら、その白菜の葉っぱをニェネントがしきりにかじっていた。いままでそういうものをニェネントにあげていなかったけれども、ニェネントのかじれるような葉っぱ、ネコ草とかをちゃんとニェネントにあげた方がいいのかもしれない。



 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第三話「矢がすりの女」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第三話「矢がすりの女」を含むブックマーク

 録画していないと思っていた回の録画がみつかったので観た。原作の方はまるで記憶になかった。

 事情があってべつべつに育てられた兄妹が成人して出会い、血縁と知らずに恋愛関係になり、将来を約束するけれども、事情を知っている男の父が理由をかくしてただやみくもにふたりを別れさせようとする。そんなことするもんだからふたりは駆け落ちしようとするだねえ。まあちょっと語るに落ちるというか、半七捕物帳のなかでもオリジナル性に欠ける印象も。演出にもちょっといまいち感もあったけれども、原作では描かれないところの殺陣は見ごたえがある。とにかく半七は強いし、十手vs.刀というのも面白いものである。


 

[]「女死刑囚の脱獄」(1960) 中川信夫:監督 「女死刑囚の脱獄」(1960)  中川信夫:監督を含むブックマーク

 チャンネルNECO の新東宝映画特集で観たのだけれども、中川信夫監督の作品だとは観はじめるまで知らなかった。中川信夫監督は1959年に「東海道四谷怪談」、そしてこの1960年には「地獄」を撮ったころだから、円熟期というのだろうか。やっぱ強烈で、観終わっても、映画演出としてとんでもない傑作に出くわしてしまった、という印象。
 冒頭の鴨狩りに出た六人の男女の、ふたりずつ三組の組み合わせをみせるイントロ、これが車で帰ろうとするところに、待っている男がナイフを投げたりしている。なんかゾクゾクするみせ方。で、資産家の父がなにものかに毒殺され、その次女だかのヒロインがえん罪で逮捕され、判決は死刑。刑執行まで地方の刑務所の女子房に放り込まれる。もう、この刑務所のなかの撮影とかがほんっとにすばらしくって、基本はよるの、暗闇のなかでのスポット照明だとか、その構図だとか、ギターによる音楽だとか、みいんなすばらしい。もう脱獄シーンなんか最高。
 つぎの大きな見せ場は列車のなかで、刑事が脱獄したヒロインをさがすために車内の通路を歩くのだけれども、このときにカメラはその歩く刑事のあたまの上あたりの位置で、刑事役の役者といっしょに移動する。これがいいんだ。

 ストーリー? ストーリーなんかどうでもよくって、ちょうどきょうの日記に書いたように、映画技術としてまことにすばらしい作品に出会えたというよろこび。この録画は保存版にしよう。


 

[]「素直な悪女」(1956) ロジェ・ヴァディム:監督 「素直な悪女」(1956)  ロジェ・ヴァディム:監督を含むブックマーク

 ブリジット・バルドーのデビュー作だということと同時に、その夫だったロジェ・ヴァディムにとってもこれが監督デビュー作。共演はクルト・ユルゲンスや、まだとっても若いジャン=ルイ・トランティニャンなど。

 ロジェ・ヴァディムという人の映画には(バーバレラ以外)いつもがっかりさせられるというか、この人の演出はお上手ではない。それでこれがデビュー作ときているから、みた感じはちょっとしろうと映画みたいである。
 ブリジット・バルドーにもわたしはあんまし興味ないのだけれども、この作品のあとに彼女はロジェ・ヴァディムと別れて、ジャン=ルイ・トランティニャンといっしょになっちゃったらしい。


 

[]「マイ・バック・ページ」(2011) 川本三郎:原作 山下敦弘:監督 「マイ・バック・ページ」(2011)  川本三郎:原作 山下敦弘:監督を含むブックマーク

 山下敦弘監督としては「天然コケッコー」いらい4年ぶりの新作だったらしいのだけれども、わたしはせんじつ彼の新作「苦役列車」を映画館で観ているので、そんなにあいだがあいたという感覚でもない。ただ、その「苦役列車」でもかいまみられた、どこかスッコーンと抜けたような、山下敦弘監督独特のタッチはこの「マイ・バック・ページ」ではまるで感じられなかった。なんか、まじめにやっているなあという感じ。映像的に舞台になった七十年代初頭のふんいきというのはリアルに出ていて、まあわたしもその時代の記憶というのはなかなかにしっかりとしていて、たとえば赤瀬川原平がジャーナルに連載していた「櫻画報」でやった例の「アカイアサヒ」ってやつの、その号の表紙がこの映画で出てきたとおりに女性のヌード写真だったことなどもおぼえていたし、映画のなかで部屋に貼ってあるのが二度ほど写る映画のポスター、その下半分をみただけで、それがベルトラン・ブリエ監督の「ヒットラーなんか知らないよ」という作品のポスターだったということもわかっちゃう。‥‥まあそういう自慢をしてもしょうがないけれども。

 いったいどんな内容なのか、まるで予備知識もなく観はじめたのだけれど、「赤邦軍」という名をきいて、それって「赤衛軍」じゃないの?って感じで、当時トップニュースになった朝霞の自衛官殺害事件のことも思いだした。ああ、ああいうハネあがりもいた時代だった。そういうハネあがりと、ついついそういう男を手助けしてしまう新左翼シンパとのはなし、だった。いまの人には想像しにくいところもあるだろうけれども、当時はそういう新左翼や学生運動のシンパという存在はとても多くって、たしかにジャーナリスト関係にまずはそういうシンパがたくさんいたけれど、市井の人々もまたそういう気もちの人は多かった。デモで官憲に追われる学生をかくまったりもしたわけで、このあたりは黒木和雄監督の「泪橋」でも描かれていた記憶がある。

 ‥‥しかし、そういうシンパシーを抱いていたのはいいとして、ではその結果が殺人行為となり、人のいのちが失われてしまったんだよ、というときにどうするのか。デモに追われる男をかくまうのと、人を殺した男をかくまうのとでは、まるでわけがちがう。そのあたりのことを突き詰めた作品かなあ、という印象はある。

 ラストに主演の妻夫木くんが飲み屋で飲んでいて、笑顔がだんだんにくずれて泣き出してしまう、かなり長回しのショットがあって強くこころに焼きつけられるのだけれども、妻夫木くんはいぜんにも「ジョゼと虎と魚たち」のラストで、歩いていてとつぜんに泣き崩れてしまう印象的なシーンがあったわけで、彼はそういう演技が得意技なのかなあなどと思ってしまった。ちなみにわたしも、ネコのミイのことを思い浮かべればいつどんなときでも泣き崩れることができる。オヤジが泣いてもダメか。


 

[]「借りぐらしのアリエッティ」(2010) 米林宏昌:監督 「借りぐらしのアリエッティ」(2010)  米林宏昌:監督を含むブックマーク

 またまたまたまた、郊外の洋館風のたてものが舞台のジブリ作品。もちろんまわりは緑がいっぱい。いいかげんこういう情緒的なプチブル趣味を批判したくもなってしまうけれども、この作品はこじんまりと気もちよくまとまっていたので、あんまりそのあたりをどうこういう気はなくなってしまった。

 ‥‥サイズが変わって小さくなると、世の中の見え方はまるでちがってしまう。音だって小さくなった分増幅されてきこえてくる(ほんとうにそうなのかわからないけれども)。水滴は巨大になるだろうし、いろんな物音もまったくちがってきこえてくるだろう。とくに、そういう「音」というのか、音響へのこだわりの強く感じられる作品で、そのあたりはとっても印象に残った。
 病弱の、それゆえにこそ感受性も豊かでやさしい性格であろう男の子をフィーチャーして、そういう小人族というような存在との交流をもたせるというのもよくわかるし、小人族でフィーチャーされるのが少女だというのもわかる。そこにこの作品の魅力もあるし、けっきょく共生はできないんだよね、ということもわかる。観る人に「いっしょにやっていければいいのに‥‥」と思わせることが出来ているということで、とても成功した作品だと思う。ジブリ作品では「千と千尋の神隠し」がいちばんいいと思うけれども、この作品も好き。


 

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■ 2012-11-13(Tue)

 わたしがやっているしごとについて、具体的にどういう会社なのか特定されるようなことは書きたくはないのだけれども、まちなかにはわたしの勤める会社の車がいっぱい走っている。そういう会社である。わたしの住まいがまたその勤め先に近いこともあり、ちょっと外を歩いてもよく会社の車に出会うことになる。で、運転している人も顔見知りのことが多く、つまりはあいさつがかかせない。「あ、うちのクルマがやってくる」と気づいたら、あいさつの準備である。ついそういう車を見過ごしてしまったら後日、運転の人からこのあいだどこそこを歩いていたでしょ、なんていわれてしまった。「クラクション鳴らしたんだけれど気がついた?」ということにもなる。だからぼんやりと歩いてはいられない。それできょうもそういう車が向こうからやってくるのに出くわし、あいさつしようとしたら運転していたのはまるで知らない人だった。なかなかめんどいのである。

 けさ、ニェネントがいっぱい嘔吐した。あたらしいネコ缶を食べてすぐのことだったので、またネコ缶が合わなかったのかと思ったのだけれども、いままでになくたくさん嘔吐して、しばらくげーげーやっているので、いささか心配になってしまった。このまま普通どおりにしていていいんだろうか。あまりつづくようだと動物病院へ連れていかなくてはならないだろうとか、あれこれと考えてしまう。ようやく落ちついたニェネントはベッドの上で横になっていたので、あたまをなでたりして「だいじょうぶなの?」とか問いかける。もちろん返答などしてくれるわけないけれど、さわった反応とかをみるかぎり、いつもと変わりないように思える。しばらくそのままにしてようすをみたけれども、わたしの昼食のときにはベッドから起きてきて、ネコメシをボリボリ食べはじめた。どうやらだいじょうぶなのだろう。ちょっと心配したけれどもほっとした。

 きょうの夕食には白菜ともやしと鶏レバーを炒める。白菜があると連日白菜ばかりになってしまう。せんじつさつまいもがあんまり安かったのでつい買ってしまったけれども、これを食べる機会がない。安いからとなんでも買ってしまうのもけっきょくは不経済である。

 「生物と無生物のあいだ」という本を読み終えて、書いておきたいことがあるのだけれども、いまちょっとじかんがとれないので、あしたかあさってにあらためて書ければと思う。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 8.「死の筋書」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  8.「死の筋書」を含むブックマーク

 まえの回で無人になっていた村にいっぴきだけ残っていた黒猫、それらしいネコがこんかいも登場してくる。No.6 になついているのだけれども、あたらしいNo.2 のデスクのそばにもいつもいる。No.6 の行方を追うための組織のスパイなのである。こんかいのNo.2 は女性で、いつも友好性をよそおいながらもやはりどこか高圧的ではある。
 なかなかひとすじなわではいかない、いろんな要素のつめこまれた回で、「あれはどうなったの?」というところも多いのだけれども、面白い回だった。まずはNo.6 は睡眠中に組織によって脳にちょくせつ作用するような実験を受けるのだけれども、これはNo.6 の強い意志力の方が勝利したようである。「村」ではカーニヴァルが行われるのでそれぞれパートナーをみつけるように指示され、No.6 はある女性を指名するけれど、この女性がなにものなのか、ひょっとしたら味方なのか、何も知らないのか、どうもあいまいなところがある(美人で、胸がでかい)。No.6 は海岸に打ち上げられた男の溺死体を発見し、男の持っていた携帯ラジオをふところにしまい、死体をかくす。のちにそのラジオから「約束は履行されない ほかのことは今夜やらなければならない」という、よくわからないメッセージを受信する。No.6 はかつての同僚と海岸で合うが、その同僚は脳実験を受けており、「わたしはじきに存在しなくなる」と語る。

 カーニヴァルの夜、No.2 はピーターパンの扮装をしている。No.6 はカーニヴァルの舞台裏に潜入するけれども、そこにはモルグのような部屋があり、そこの引き出しのなかに安置された死体に目をとめる(誰の死体なのか、画面ではよくわからない)。No.2 といっしょにつけてきた黒猫に発見されたNo.6 は連れ戻され、カーニヴァルの席でNo.6 を被告とした裁判が行われることになる。No.2 が判事で、カーニヴァルのパートナーの女性が検事役になりNo.6 を告発する。主な罪状はラジオを所持していたこと。No.6 は海岸で会ったかつての同僚を弁護側の証人として召還することを求めるけれども、やってきた同僚はすでに廃人のようになっている。判決は有罪で、死刑を宣告される。No.6 は逃げるが、群集が彼を追ってくる。ロココ調の部屋に逃げ込んだNo.6 はそのつい立てのかげで作動しているテレックスのようなものをみつけ、これを破壊する。No.2 が部屋にやってきて、「おまえはもうすでに死んでいる。おまえはあのモルグの引き出しのなかにいるのだ」という。破壊したはずのテレックスがまた作動しはじめる‥‥。原題は、「Dance of the Dead」。

 ‥‥教訓。ネコを信じてはいけない、かな? ついついストーリーをこまかく書いてしまったけれども、面白い回だった。


 

[]「ザ・ウォード 監禁病棟」(2010) ジョン・カーペンター:監督 「ザ・ウォード 監禁病棟」(2010)  ジョン・カーペンター:監督を含むブックマーク

 映画作品としては久々の、ジョン・カーペンター監督作品。主演はアンバー・ハードという女優さんで、なかなかに魅力的。とにかくCGなどにほとんどたよらないで、ストレートに「映画」に立ち向かっている演出姿勢にやはり感動する。たとえばさいしょの方でヒロインが病院の看護人とエレヴェーターに乗るシーンがあるのだけれども、そのエレヴェーター内部の映像、ふたりの背後は暗黒の大黒だったりする。リアリティを重視すればそういうエレヴェーター内部などありえないわけで、こういう、「じっさいにはこう見えるわけないんだけれども」ということを演出に取り入れる作家が、わたしは好きである。そういう、ドアの下のすき間からもれる光と影でなにものかの存在の動きをあらわすとか、シャワールームでの湯気を通過する外光とか、「絵」で映画を展開させていく強さ、そして美しさを感じるわけである。たしかにこれまでにそういう表現がなされていなかったわけではないけれども、では映画というものはいつもいつも「新しさ」だけを求めてつくられなければならないのか。そういう「新しさ」をうたった映像が、じっさいに強さや美しさをもっているのか。既製の表現を積み重ねてトータルな作品をつくっても、それはいつも「古い」といわれてしまうのか。いったい映画表現でだいじなものは何なのか、どこにあるのか、などということを思ってしまったりした(そういう意味では、わたしには映画を観るうえでストーリーなんかどうでもいいところがある)。まだまだ撮ってほしい監督さんである。


 

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■ 2012-11-12(Mon)

 きょうのことではないけれども、リヴィングでしょう油のボトルをひっくり返した。ほとんどボトルはんぶんのしょう油をこぼしてしまい、なんとかぜんぶふきとったつもりだったのだけれども、きょうになって、床に置きっぱなしにしてあった画集(展覧会のカタログ)にしょう油がかなりしみているのをみつけた。ふきとり忘れたしょう油がカタログの下にびっしょり。それだけならよかったんだけれども、各ページの内側にぐっしょりとしみ込んでしまっている。いったいどうやったらここまで内側に浸透してしまうのだという感じで、がっくりするとどうじにあきれてしまった。ページをめくるとその周囲をぐるりと茶色いしみがかこんでいる。年代物の古書のようでデザイン的には悪くはないかもしれないけれど、とにかくしょう油くさい。もう、古本屋に売ることはできないだろう。

 Amazon で売られているボックスセット、ほかのも欲しくなってSoft Machine のとCharles Mingus のものを注文してしまったのだけれども、なんだか届いてもどうせ聴かないんじゃないかという気になってしまい、代金の支払いはやめておこうかと考える。まえに注文したCars の代金もまだ払っていないのでとうぜんまだ届いていないのだけれども、こちらはちゃんと代金を払うつもり。

 スーパーに行くと白菜が目にとまり、そろそろ鍋物の季節だなあと思って、きょうの夕食は鍋にする。白菜とえのきだけと豆腐さえあれば、それだけで経済的でかんたんな鍋になる。冷凍庫にいつ買ったのかわからない鮭の切り身が凍りついていたので、ちょっとだけ鍋に入れる。美味だった。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 7.「皮肉な帰還」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  7.「皮肉な帰還」を含むブックマーク

 No.6 が目覚めて窓の外をみると、村人のすがたがまるでみあたらない。外に出て歩いてみても、人っ子一人いやしない。No.2 もいないようだ。ただ、いっぴきの黒猫がくつろいでいるすがたがあるだけ。脱出するチャンスではないか。って、たいていこういう場合は罠が仕掛けられているわけだけれども、まあだれもいない村に居残る理由はない。No.6 はいかだをつくって海から脱出することにする。村の存在の証拠になる写真を撮り、村の新聞などをいかだに積み込む。しばらくの航海ののちに一隻の船に出会うのだけれども、その船は武器の密輸船。No.6 は船の二人の乗組員と対決し、けっきょくは近くにみえた陸地まで泳いで逃れることになる。どうやらその陸地はイギリスだったようで、トラックの荷台にかくれたりして無事にロンドンへ帰還する。かつて属した組織のメンバーに会い、証拠の写真などをつきつけるが信用されない。ではその村の所在をたしかめようということになり、海流などから推測してスペイン〜北アフリカあたりがあやしいと。No.6 は組織の手配の飛行機に同乗して「村」を探して、ついに空中から「ここにまちがいない」というところを見つけるのだが‥‥。

 かれの属していた組織と「村」とが、密接なかんけいにあると推測されることになる回だけれども、彼が自らのアイデンティティーを保持したままでは、けっして「脱出」が可能ではない、ということだろう。

 ‥‥教訓。犯人は現場にもどってくるから逮捕されてしまうのである。


 

[]「白と黒のナイフ」(1985) リチャード・マーカンド:監督 「白と黒のナイフ」(1985)  リチャード・マーカンド:監督を含むブックマーク

 監督は「スターウォーズ」のどれかのメガホンを取って評判になった人物で、この作品も評判は高いようだけれども、この作品のあとしばらくで死去されてしまった。

 つまりは法廷ものということなんだろうけれど、わたしにはまるっきし面白くもなかった。もっともっと撮りようがあるだろうに、絵はいつも平板。とってつけたようなラストはいいにしても、映画的な魅力には欠ける作品だと思った。


 

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■ 2012-11-11(Sun)

 きょうは日曜日だけれどもしごと。そろそろ年末でいそがしくなってくるころだけれども、まだ日曜日はひま。四じかんの勤務でも、じっさいにはたらいていたのは二じかんちょっと、ぐらいだっただろう。

 ニェネントが食べなかったネコ缶をこのあいだ会社の人にあげたのだけれども、きいてみたらその家のネコもやはり、そのネコ缶を食べなかったらしい。またほかの人にあげたらしいけれど、そこのネコがはたして食べてくれたのかどうかはわからない。どこのスーパーのペットコーナーにもおいてある、そういう意味ではメーカー品なのだけれども、どうしたことだろう。
 このあいだ近くのドラッグストアでいままで買ったことのないネコ缶が安く売っていたので、ためしに買って帰って、ニェネントさまにおうかがいをたてた。ニェネントさまにおかれましてはとてもお喜びになられましてめしあがっていただけましたようで、安心してきょうはまとめて買ってきた。いままでのネコ缶のなかでも、飛びついてきて食べてくれるというのではトップクラスの反応で、これからはこのネコ缶にしようかと思う。ただ、安いだけあってプルオープンにはなっていないので、缶切りをつかわないといけない。わたしなどが食べる人さま用の缶詰類はどれも塩分過多なのでこのところまったく買っていないし、残っていた缶詰もみなプルオープン式だったので、ながいこと缶切りなどというものをつかっていない。なんだか缶切りのコツを忘れてしまったんじゃないかと思うくらい、じぶんでも開けるのがへただと思う。

 また買い物のはなしだけれども、せんじつ百円ショップで買った電池にとりかえたばかりの掛け時計が、もう遅れはじめた。これは電池切れの徴候としか思えない。百円ショップの乾電池はもっと高価なメーカー品の乾電池にひけをとらないぐらいながもちするとはよく耳にすることだけれども、わたしはいちどもそういう恩恵を得たことがない。百円ショップで買った電池はいつも、メーカー品のものの十分の一ぐらいしか持たないという感覚がある。あっというまに電池切れしてしまう。こんかいもやはりそうだった。百円ショップの乾電池の性能にはばらつきがある、つまりあたりはずれがあるのだときいたこともあるけれど、そうするとわたしはよほどそういう乾電池運が悪いのだろう。

 きょうはヴィデオを三本観たけれども、うち二本はみじかい作品だったので、それほどTVのまえにくぎづけになっていたわけでもない。講談社現代新書の「生物と無生物のあいだ」という本を読んでいる。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第五話「人情廻り燈篭」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第五話「人情廻り燈篭」を含むブックマーク

 ‥‥すっごい、おもしろかった。原作でのタイトルは「廻り灯籠」で、原作にかなり忠実にドラマ化していると思う。この回の演出は座頭市シリーズなどで観たことのある安田公義で、まずは手慣れたケレン味たっぷりの演出が楽しめる。クライマックスでの屋根をつたっての追跡シーンなどうまいものである。意外と濃厚なキスシーンなんちゅうのもあって、そうか、もう1979年だもんな、などと納得する。

 これがおもしろいのは、ひとつには江戸を舞台とした時代劇というよりも、まさに「西部劇」というストーリー展開だということで、岡本綺堂が西部劇などというジャンルを知っていたこともないだろうけれども、この「脱獄」〜自分を捕らえた保安官への意趣返し〜保安官の恋人の不安、などという展開、ちょっと「真昼の決闘」的なものもあり、これ、ちゃんと西部劇としてリメイクしてもおもしろいんじゃないかと思うのだった。

 ここで気の弱い与力の千次を演じているのは荒谷公之という人で、ちょっとキアヌ・リーヴスを思わせる(まあこのあたりはいろいろと主観も入ってるだろうけれども)イイ男なのである。劇団四季に所属していた役者さんらしいけど、あんまりたいした映画とかには出演されていらっしゃらないようで、もう目にする機会もあまりないだろう。

 

[]「ワーロック」(1959) エドワード・ドミトリク:監督 「ワーロック」(1959)  エドワード・ドミトリク:監督を含むブックマーク

 いかにも長大な原作小説がありますというような、かなりつめこんだあまりスムースでもない脚本。撃ち合いシーンはなんどもなんどもあるので、映画としても三本分ぐらいの密度がある感じ。たんじゅんな勧善懲悪ドラマというのではなく、なんというのかワーロックという町の自治をめぐる政治ドラマという側面もあるし、ぜんたいが何組もの友情、愛情で結ばれた男たちや女たち、そして反目と憎悪、不信などで対立するひとびとのからんだドラマが展開する。

 作品のおおきなテーマとしては「倫理」ということが浮かび上がってくると思ったけれども、たとえば無法者一家から離脱して群保安官補になるリチャード・ウィドマークでは、彼の倫理と「法」とがちゃんと一致していると考えられる。いっぽう、流れ者で雇われ保安官になるヘンリー・フォンダの倫理は、かならずしも「法」と一致するものではなく、そのことをもんだいにする町民の声がおおきくなる。もうひとり、ヘンリー・フォンダと行動を共にするアンソニー・クインという存在があるけれども、彼の倫理はかなりゆがんでいる、というか、倫理など持っていないのかもしれない。彼の行動論理は「オレはヘンリー・フォンダとはなれてはやっていけない」という一点にあり、それを阻害するものを排除するだけである。

 ラストはリチャード・ウィドマークとヘンリー・フォンダとの決闘なのだけれども、撃たずに町を去っていくヘンリー・フォンダに、彼の倫理観の変化をみるべきなのか。

 エドワード・ドミトリクという監督さんの作品を観るのははじめてだけれども、撃ち合いヘといたる緊張をはらんだ対立を描くシーンなど、すっごいなあ、という感想を持った。俳優ではやはりヘンリー・フォンダがいい。腰にガンベルトをして、両腕をちょっと拡げて歩く姿はまさに「ガンマン」という感じで、意外とこういうことをすらっとやってのける俳優さんはいないものである。むかし「三つ数えろ」に出演していた記憶のあるドロシー・マローンも出演していた。

 

[]「決闘高田馬場」(1937) マキノ正博・稲垣浩:監督 「決闘高田馬場」(1937)  マキノ正博・稲垣浩:監督を含むブックマーク

 公開当時は「血煙高田の馬場」のタイトルだったようだけれども、1952年にほんらいの57分から51分に短縮されたものが再公開され、そのときに「決闘高田馬場」というタイトルが冒頭に付けられてしまったらしい。監督にふたりの名まえがあるけれども、じっさいにはマキノ正博監督の単独演出ということ。主演は阪東妻三郎。もうかんぜんに彼のワンマンショーである。すごいすごい。

 高田馬場へと駆ける阪東妻三郎を延々ととらえるショットからはまさに「驚異の韋駄天走り」ということばしか思い浮かばず、「韋駄天走り」などということばを知ってはいてもいままで活用する機会もなかったけれども、まさにこの作品の、走る阪東妻三郎をあらわすために存在することばなのだと納得した。
 そのあとの決闘シーンもまた強烈で、ことあるごとに片足をあげたりして見得を切る妻三郎のリズミカルな動きに、こりゃダンスだね、などと思ってしまったのだけれども、じっさいに阪東妻三郎は撮影のまえにジャズのレコードをいっぱい聴き、そのリズムを活かしてダンスのつもりで演じたらしい。いやはや、これ、終わったとたんにぜったいに観客席からは拍手歓声が巻き起こったことだろう。なんか、そういう現場を体験したかった。


 

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■ 2012-11-10(Sat)

 おととい、なぜかロック女になってしまった娘と話をしていて、古いロックの音源などがアーティストごとにオリジナルアルバム五枚組とかのボックスセットになったものが、Amazon などで超低価格でリリースされているという情報をもらった。娘はJefferson Airplane のもの、その1st から5th までのボックスでわずかに1500円ぐらい、というのを買ったらしいんだけれども、はなしではいろんなアーティストのものがリリースされているらしいので、きょうになってあれこれと検索してみた。‥‥いや、これはなかなかのものである。みたところ、これは旧Columbia 系とRCA 系のレコードを中心にリリースされている気配がある。Jefferson Airplane はRCA 系というわけだけれども、このほかにもColumbia 系ではSly & The Family Stone、Byrds、そしてジャズの方でMiles Davis だとかThelonious Monk なんていうとてつもないメンツの、そのオリジナルアルバムが、三枚組とか五枚組で、とてつもない廉価で販売されている。これは、いっしゅの崩壊現象ではないかという感覚にもなる。じっさいにこれらのボックスセットがリリースされはじめたのは2010年ぐらいからのことらしいけれども、まあ自分の記憶をたどれば、それよりもずっとまえから、たとえばBillie Holiday の十枚組で1500円とかいうものはリリースされていたわけで、CDというメディアじたいの売り上げが低迷しているあたりからの価格破壊が、そういう著作権切れ(?)のものだけでなくもっと広範囲なものになってきたということなのか。とにかく、購買者にとっては、それはそれでうれしいことかもしれない。

 とにかくそうやってわたしもしばらくチェックしていたのだけれども、先に書いたThelonious Monk 後期の「Straight, No Chaser」から「Solo Monk」を含む五作品、なんとボーナストラック付きで千円以下の価格というのもそそられてしまうし、ロックの方ではSoft Machine(ロックではないか)のThird からの五枚組、Boz Scaggs(じつはちょっと好きだった)の「Middle Man」までの五枚、そしてCars の1st からの五枚などというのが気になった。Cars の名まえをみたらきゅうにCars が聴きたくなり、それにわたしは彼らのベスト盤と「Heartbeat City」ぐらいしかちゃんとは聴いていないわけだし、とにかく「Drive」をまたすぐにでも聴きたくなり、注文してしまった(調べたらそのCars、さいきんまた再結成して、なんと七枚目のアルバムまでリリースしたらしい)。う〜ん、ここにきてCars かー。ちょっとひたりたい。Soft Machine も、やっぱり買おうかな。あとで調べると、Jazz の方のジャンルではオリジナル八枚のアルバムを2in1 のかたちで四枚組にしたものが、やはり九百円ぐらいであれこれと出ていて、そのなかにCharles Mingus のものもあったので、これも欲しくなってしまった。

 くすりをまたちゃんと飲んでいるので、きょうは健康。ニェネントとひとしきり遊んで、夕食には残りごはんでオムライスをつくった。ヴィデオで「次郎長三国志」の続編を観たら、そのあとに思いがけずに第三部もつづけて録画してあった。さいごの第四部はやはり録画していなかったけれども。よる寝るまえに、しばらく読んでいた吉本隆明の「島尾敏雄」を読み終えた。さいきんは読みはじめてもそのままうっちゃってしまっている本が多い。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 6.「将軍」 「プリズナーNo.6」(1967〜68) 6.「将軍」を含むブックマーク

 「将軍(さま)」といえば、あの国である。あの国といえば、ブレインウォッシュドである(たぶん)。‥‥なんと、そういう連想そのまんまの回。しかも、元祖スーパーコンピューターみたいのが登場してきて、驚異のスーパー学習術(洗脳術)が開発されている。ここで犠牲にされそうなのはNo.6 だけでなく、「村」の住民すべてが対象。なんかこの組織、とてつもないことも考えているようである。組織内部の反逆者と手を組んだNo.6 は、そのスーパーコンピューターに「Why?」と問いかけ、コンピューターを自爆させるのである。こんかいはNo.6 の勝利だったけれども、近未来ディストピアものとして先駆的な作品かと。

 教訓。超管理社会で生きるものは、「なぜ?」と問うてはなりませぬ。この国もそのうちにそうなるのかも。

 

[]「続・次郎長三国志」(1963) マキノ雅弘:監督 「続・次郎長三国志」(1963) マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 追分の三五郎と森の石松の道中が前半のメインとなるのも東宝版とおなじだけれども、次郎長らが牢屋に入れられて牢名主とやりあうのって、こんなに長尺をさいていただろうか。十五分ぐらいはあったかな。この第二作全編を通じてのけんか出入りというのはこのシーンしかない印象で、なんだかその牢屋内でのけんかがこの編のメイン、みたいな。はやく外の世界で、みんなで大暴れしてほしい、って感じ。

 温和な印象の次郎長がゆずれないところではびしっと表情を硬くさせ、てこでもゆずらないところをみせるあたり、やはり鶴田浩二の良さがきわだつ。

 

[]「次郎長三国志 第三部」(1964) マキノ雅弘:監督 「次郎長三国志 第三部」(1964) マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 録画し忘れたと思っていたのだけれども、この第三部まで録画してあってよかった。みんなようやっと清水港へもどって、次郎長一家らしいはじけぶりをついに爆発させてくれる。これは旧作東宝での第四部と第五部とを合体させたリメイク、というところで、東宝版第五部がちょっと中だるみという印象もあったところをすっきりとまとめている。というか、このあと東宝第六部からの展開はつらい悲劇的なものにもなっていくので、この清水での一家の興隆ぶり、そして終盤の祭りの盛り上がりこそぜんたいのクライマックスという感じでもあって、いっそこの次郎長三国志はここまで、ということでもいいような気もする。

 エピソードごとにきっちりとまとめた演出も軽快で、エピソードをおわらせる暗転処理がリズムにもなって、楽しく観終えた。

 

[]「島尾敏雄」より<戦争><家族><日常> 吉本隆明:著 「島尾敏雄」より<戦争><家族><日常> 吉本隆明:著を含むブックマーク

 島尾敏雄の作品はずいぶんいぜんに、病妻ものではなく、戦時中の体験を書いたものをいくつか読んだ記憶がある。ストーリーなどの記憶はまるでないけれども、だいたいどのようなものであったかのおぼろげな記憶はある。その後の病妻ものも予備知識みたいなものはあったし、「死の棘」の映画化されたものは観たことがある。そのていどの知識で、こうやってこのち密な作家論を読んだのだけれども、ある面で「読書(テクストを読むということ)とは、こういう行為をいうのか」という思いにもいたった。

 たとえば、この「昭和文学全集」のおなじ巻におさめられていた江藤淳の「成熟と喪失」を読んでの違和感というのはまえに書いたけれども、「成熟と喪失」のなかには批評する側がまず抱いている観念があり、江藤淳はその観念を補強して提出する手段としてテクストを読みついでいる<だけ>なのではないのか、というような感想があって、はたしてテクストを読むというのはそういうことなのか、そういうことでいいのかという疑問を抱くことになる。そうではないだろう。じぶんの観念を救うために他者のテクストを利用するように読むのではなく、もしもそういうことが可能ならその他者を知るためにテクストを読むのではないだろうか。自己を救うなんて行為はつまらない。もしもそういういい方をするならば、自己のなかの他者を救うことにこそ意味がありえるのではないか。この「島尾敏雄」を読んで、そういうことがここまで虚心(ということとはちがうのだけれども)に先入観なく、ち密に行われているということに、軽く感動してしまった。

 この「島尾敏雄」は、彼の全著作集の「作家論」のうちの一巻としてはじめて単行本化されたもので、文学全集のあとがきとして書かれたものや雑誌などに発表されていたものに、あらたに書き下ろしを加えられたもの。じっさいにはもっと長い批評である。
 吉本隆明は島尾敏雄とは対談もやっているし、そのあたり、テクストに書かれたいがいのところで島尾敏雄という人物について知っていることもあるだろうけれども、この評論にはそのような先入観はまるで感じられない。たとえば「戦争とはこういうものだから」という視点から島尾敏雄の戦争体験を語るのではなく、ぎゃくに島尾敏雄の戦争体験から読み取れることから戦争というものを逆照射する視点を感じる。「家族」にしても同様に、いっぱんの家族観から島尾敏雄の家族の特殊性を読んだりはしない。そういう観念としての先入観というのではなく、人と人との結びつきにおいての、その関係性でのもんだいてんを指摘するようなことはあるけれども、それは「関係とはこうあるべきである」というような視点ではない。このあたりの読解の方法は彼の「マチウ書試論」での聖書読解のち密さを思わせるもので、書かれたテクストとその背景にある事実を基本に、テクストにあらわれる島尾敏雄という世界を読み解いていく。そこから、ある面でのこの書物でのクライマックスというか、島尾敏雄の戦争体験と彼の戦後の家族のもんだい、その根底に通底するものがあることを読んでいく。その視点から、この「島尾敏雄」を読むものに、人(他者)の精神の底深さ、そしてさらにはその底深さから読むものみずからへの距離、のようなものまでも測らせてくれるようである。本を読むとは、他者を発見するということでもあり、その「他者」とは、じぶんのことでもあるだろう。


  

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■ 2012-11-09(Fri)

 茨城で大きな竜巻の被害がでてから半年がたつというニュースをせんじつきいて、その竜巻が起きたのはわたしが入院していたさいごの日だったことを思いだし、わたしもつまり退院してから半年がたったということになる。いらい、まいにち六種類のくすりを飲みつづけてきているわけだけれども、こうやっていつまでもいつまでも投薬がつづけられなくてはならないのか、つまり治癒してくすりなどひつようにしなくなる日が来るのかどうか、疑問に思わないわけではない。薬品=ドラッグというものには副作用というものがあり、じっさいに服用している六種類のくすりのうちのひとつは、副作用をおさえるものでもある。‥‥余談になるけれども、世の中には無知な人もいるわけで、ドラッグとサプリメントとの区別がつかず、くすりを服用することで病気が治癒されるのならばそれは健康にいいという考えで、どこも悪くもないのにまいにち不ひつような薬品を服用していた人がじっさいにいる。正露丸などもまいにち何錠か飲み、それで病気が予防できると考えていたらしい。そんなことはかえって健康によくないと告げると、パッケージにはっきりと「健康を害する」と書かれているタバコとくらべても、効能として病気をなおすものがからだに悪いわけがないではないか、という返答だった。わたしはそのときほかのことでその人物と絶交しようとしていたので、ではお好きにして下さいとそれいじょう何もいわず、そのことが絶交へのさいごのひと押しにはなったわけだった。
 ‥‥閑話休題。それでわたしもつまりは、こうやってくすりを服用しつづけることへの不安というものがあるのだけれども、ちょっとテストしてみたい気もちもあって、二日ほどくすりを飲むのをやめてみた。それでふたたび血圧が上昇したりするようであれば、やはり投薬を受けることをやめることはできないけれども、いまの状態から変化がなければ何らかの考えがみちびき出されるかもしれない、そう考えたわけである。これはわたしもまた無知にとらわれていたということかもしれないが、病院のとりこになってくすり漬けになってしまうような生活をおくりたくはない。そのためのテスト、というつもりもあった。

 ところが、けさになってちょっと具合が悪くなってしまった。もしもこの状態で診察を受けると即入院といわれても不思議ではないような状態。きのう外出したことも影響したのかもしれないけれど、とにかくは緊急時のためのくすりを飲み、すぐにいつものくすりの服用も再開した。さいあく病院へ行かなくてはとも思ったけれど(そうなるとまた入院ということになるだろう)、ひるにはおちついて平常の状態にもどった。やばいところだった。やはりいまのわたしは、そういうくすりによって健康をたもっている存在なのだと思うしかない。ここはやはり医師の処方にしたがうのがいちばん、と考えるしかない。
 ニェネントという存在もあるし、わたしはニェネントが天寿をまっとうしてお迎えがくるまでは、しっかりとニェネントのケアをしてやらなくてはいけない。ひとりぐらしが困難という状況になってはいけないのである。とにかくは、テストの結果には歴然としたものがあったわけである。

 午後から、このあいだから「時代劇専門チャンネル」で放映がはじまっている「半七捕物帳」の、録画したものを観た。面白ければずっと観つづけるつもり。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第四話「大阪屋花鳥」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第四話「大阪屋花鳥」を含むブックマーク

 のちに時代劇で一世を風靡する「捕物帳もの」の元祖こそ、この岡本綺堂によって書かれた「半七捕物帳」で、わたしは全作品を通して二回読んでいる。大ファンである。その「半七捕物帳」、TVでは何度も何度もドラマ化されているようで、1953年から1997年まで、単発ドラマをふくめて十回ぐらいは製作されていたようだけれども、映画作品としてはいちども撮られたという記録はない。原作は江戸末期の風俗を読み取る資料として一級品だし、その江戸を舞台として、派手なアクションを売りとしない正統な推理小説世界がくりひろげられる。それだけに映像映えしないというのか、この作品から派生したのちの捕物帳ものにくらべると、主人公の得意わざだとかキャラクターの個性とかが際立つような作品ではないので、ちょっと地味な印象にはなってしまうのかもしれない。資料をみると、1966年にTBSで製作されたものの半七役が長谷川一夫で、妻のお仙を淡島千景が演じたという豪華版があったらしい。映像が残っていればぜったい観たいものだけれども、やっぱ残っていないんだろうな。
 このあとに、東映が製作して1971年秋から半年間NET系で放映されたというものがあり、これは平幹二朗と中村玉緒の主演だったらしい。平幹二朗の半七というのもちょっとコワモテすぎる気がしないでもないけれども。

 それで、こんかい「時代劇専門チャンネル」で放映されているのが、1979年の春からやはり半年放映されたもので、これは「歌舞伎座テレビ」(!)というところの製作で、主演は尾上菊五郎で、お仙を演じているのはまだ若かった名取裕子。当時菊五郎はこの「半七捕物帳」を舞台化したものにも主演していたようで、そのあたりに「歌舞伎座テレビ」なるものの存在がからんでくるようではある。放映はすでにはじまっていて、わたしはその第四回、「大阪屋花鳥」からの観賞である。これは原作を読んでなんとはなしに記憶に残っている。とにかく、半七役の尾上菊五郎が浮世絵のような顔だちで、彼が登場するだけで画面が「江戸」という空気になる。こんな役者さんだったのかと、今ごろになって再認識するわけである。すばらしい。あと、このTV版がいいのは、小道具などの懲りようだろうか。ちょっとそこまで並べなくてもいいんじゃないかと思うぐらいに、ふひつようにいろんなものが家のなかに鎮座していたりするのだけれども、それがおそらくはきちんとした(徹底した)時代考証をへての小道具だろうと、観ていてもびしびしと伝わってくる。

 で、この回は「大阪屋花鳥」。きちんと「推理もの」という定石をまもり、観るものにもまた推理をさそう脚本はいいと思う。ただ、じかん的そのほかの制約があるのだろう、「あれ?」と思うような展開があったことは、しかたのないことだろうか。その悪女である大阪屋花鳥を演じている女優が、これがどうみても吉行和子みたいにみえるんだけれども、冒頭のキャストのテロップには吉行和子の名まえはみえなかったので、似てる女優さんもいたものだなどと思うのだけれども、そのうちに「え? 天本英世?」みたいな人も登場してくる。おっかしいなあ〜、って思っていたら、本編終了後に、その回だけのゲスト出演者のテロップが出てきて、やはりあれは吉行和子と天本英世だったのだと、ようやくなっとくするのであった。

 やっぱ面白いので、これからしばらくは、ちゃんと録画して観ようと思う。

 

 

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■ 2012-11-08(Thu)

 きょうはまた原宿へ行き、せんじつ観た「月岡芳年展」の後期展示を観る。それだけではなく、じつはそこでわたしの娘と待ち合わせをして、夜は娘の知っているという青山のロック・カフェへ行くのである。娘とのことは照れくさいのであまり書きたくはないのだけれども、娘をそういうロック好きにしてしまったことにはわたしにも責任はあるので、そういうことには付き合うべきなのである。というか、娘と会って、そういうひとときを過ごせるのはやはりうれしいこと。

 「月岡芳年展」のことは下に書くけれども、展示としてはちょっと「前期」の方に印象的な作品が勝っていた気もする。この太田記念美術館、十二月には楊洲周延展といっしょにまた芳年の「月百姿」連作から三十点を公開するらしい。「月百姿」にはすばらしい作品が多いので、また行かなくっちゃならないか。この美術館のそばのファッション施設でもこれから「デヴィッド・リンチ展」なるものが開催されるようなので、いっしょに観ることができるときにまた来ようかと思う。しばらく足を踏み入れたことのなかった原宿、ここに来て連続して通うことになるとは。

 美術館を出て、薄暮の表参道を娘と歩く。そのカフェのオープンにはじかんがあるので、青山の「LC」で軽く食事をとることにした。「LC」に行くのもほんとうに久しぶり、というか、まだやっているのだろうか。むかしはそれこそオープンカフェのはしりのような店で、青山近辺のなんというのか、不良外人のたまり場のようなところだった。まだ一般的でなかったハロウィーン・パーティーなんていうのも、ここでははやい時期からやっていた。オーストラリア料理というのか、カンガルー肉などを出していた記憶がある。ワニ肉も出していたかもしれない。とりあえず、その十数年前からあまり変わっていない青山の裏道を歩く。

 「LC」の店はちゃんとまだ存在していて、やはり外にはオープンテラスの席がならんでいた。そこには客がだれもいないのでやっていないのかと思ったけれども、この気候ではオープンテラスにすわる人もいないだろう。屋内に入ると、なんだかむかしよりもずっとこぎれいになっている印象。とりあえず席にすわり、ちょっと高いなあというメニューからパスタとドリンクを娘とそれぞれ注文する。カンガルー肉などというものはメニューにみあたらず、やはり方針転換したのかそれともオーナーがかわったのか。それでも出てきたパスタはさすがにとてもおいしかった。娘はドリンクがおいしいといっていた。店のふんいきも悪くなく、ちょっと財布によゆうがあればデートに使えそうだな、などと思うけれど、そんな、わたしがデートなどやるのかいな。

 そろそろそのカフェがオープンというじかんになり、店を出てカフェに行く。なんか、60年代からいちどもおかたづけしてません、というような乱雑としたふんいきで、十人も入れば満員になってしまうような小さな店(あとから来たお客さんでけっきょくは満員になってしまった)。じつはじきに閉店してしまうらしい。飲みながら娘とそういう音楽の話などして、あっというまに帰らなければならないじかんになってしまった。 

 表参道の駅で娘と別れて、電車で帰宅。電車のなかで眠くなり、寝過ごしてしまいそうになったり。‥‥たのしいいちにち、だった。


 

[]「没後120年記念 月岡芳年」(後期)@原宿・太田記念美術館 「没後120年記念 月岡芳年」(後期)@原宿・太田記念美術館を含むブックマーク

 芳年の作風の時代的変遷は前期の展示を観てだいたいわかっているので、個々の作品の印象で観ていく。大火のあとの仮の吉原遊廓を描いた絵など、資料的に価値のありそうな作品もあるし、前期の展示にもあった西南戦争の報道を兼ねたような作品での、作家の思い入れのようなものにも感じ入るところがある。表現の背後にある、幕末から明治の動乱の時代をどのように作家はみたのか、そういう作家の証言をもっと読み取れればいいと思った。

f:id:crosstalk:20051004152731j:image:right やはり芳年後期の「新形三十六怪撰」の連作に佳作が多いし、「月百姿」はどれもすてきである。こんかいいちばんこころに残ったのは、その「月百姿」の「有子」という作品。

 はかなしや波の下にも入ぬべしつきの都の人や見るとて

 という和歌が添えられている。有子は平安時代後期の厳島神社の巫女だったとかいう人で、この歌を遺して入水したという。娘も、この作品がよかったといっていた。


 

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■ 2012-11-07(Wed)

 ニェネントはわたしとよく、追っかけっこをやるのだけれども、それがニェネントがわたしとの遊びというつもりでやっているのか、それともほんとうのところわたしを忌諱して本気で逃げ回っているのか、じつのところわからないところがある。かくれていて、ふいにうしろからわたしの足とかに飛びついてきてちょっかいを出してきたりするのは、これはまちがいなく遊びのつもりなんだろうから、わたしのことはどこかで遊び相手とは認識してくれているところはあるとは思う。でも、しろくじちゅういつも、わたしのことを遊び相手だと思ってくれているのかどうか。

 きょうはセーターを着てしごとに出たら、日が昇ってからはちょっと暑くなってしまった。ぽかぽかとあたたかいいちにちで、もう十一月になったのだから小春日和といってもいいんだろうけれども、ついこのあいだまで冷房をつけていた記憶もあるので、寒い日々がつづいていたのがここにきてぽかっとあたたかい日になったという感じでもなく、小春日和といってしまうのとはちがう気がしてしまう。

 アメリカの方では大統領選挙が行われ、現職のオバマ氏が引きつづいてもう四年間、大統領でいることになった。少なくともあと四年間はかつてのブッシュ的な軍事的対外政策は行われないだろうということで、安堵感はある。シリアに対する姿勢など、わからないところもあるけれども。いっぽうのこの日本は、状況は最悪といえるのではないのかと思う。ぜんたいの傾向が右傾化していることはまちがいなく、あたらしい政党の登場がその傾向に拍車をかけながらも、多くの支持を得ているようす。隣国とのかんけいはさらに悪化していくのだろう。日本の「緑の党」はどうなんだろうか。次回の総選挙にどれだけ候補を擁立できるのだろうか。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 5.「暗号」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  5.「暗号」を含むブックマーク

 こんかいはパトリック・マクグーハンのふた役。なんとある日目覚めたNo.6 は口ひげをたくわえていて、「No.12」の表札のある家にいる。「おまえはNo.12 じゃないか」ということで、彼の家にはNo.6 にそっくりな男が住んでいて、「オレがNo.6 だ」と主張する。No.12 とされたNo.6 はいつのまにか嗜好もNo.6 とは別人になっているし、左ぎっちょになってしまっている。No.12 とちょくせつ対決するNo.6 だが、あらゆる点で「おまえはNo.6 ではない」とされ、精神的にも追いつめられる。しかし残っていたある写真をきっかけに、カレンダーを細工されていたある期間に人格改変をほどこされていたことに気づく。うまいことNo.6 を名のるニセものと入れ替わって追いつめ、ニセNo.6 は例の白い風船におそわれて抹殺されてしまう。ニセのNo.6 になりすましたほんもののNo.6 は、周囲を信用させてもうちょっとで「村」から外へ出るところまでいくのだけれども‥‥。No.6 は天使のような大胆さは持っていたのだけれども、あと一歩。

 自分が自分であるというアイデンティティーが崩壊されるという恐怖を描いた秀作で、原題の「The Schizoid Man」(これはそのまま暗号としても使われることばなのだけれども)そのまま、という状態に追い込まれてしまう。‥‥しかし、ニセのNo.6 は死んでしまったようで、組織側が「それでよし」としてしまうのでは、肝心の「情報」は得られないままではないか、という疑問は残る。

 教訓。ウソをつくときには、悪魔のように細心にならなければなりません。

 

 

[]「次郎長三国志」(1963) マキノ雅弘:監督 「次郎長三国志」(1963)  マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 ことしのはじめに、おなじマキノ雅弘監督による「次郎長三国志」全九作をまとめて観たのだった。あちらは1952年から53年にかけて東宝で撮られたものだったけれども、きょう観たのは、それから十年たって東映で撮られたもの。こちらは全四作あるらしいのだけれども、次の「続・次郎長三国志」の二本しか録画していない。ちょっとざんねん。この第一作はちょうど、まえの東宝版での第一作と第二作にあたる部分をてぎわよく一本にまとめましたというところで、やはりラストにちょっと森の石松(ここでは長門裕之)が登場してくる。導入部も東宝版が広沢虎造のうなる浪曲ではじまったように、当時の名コメディアン堺駿二(堺正章のお父さん)による浪曲からはじまる。カラー作品である。

 当時の東映はまさに仁侠路線まっしぐらで、こういう次郎長モノなどはぴったりではないかと思うのだけれども、そういう「男の美学」路線というよりも、ライトなコメディに翻案された次郎長、というテイスト。東映の仁侠スター勢ぞろいというわりには、ぜんたいに軽い印象はある。どこかもうちょっと、ヘヴィーなところをみせてほしかったような。

 次郎長には鶴田浩二、お蝶役は佐久間良子っつうあたりはこのあいだ観た「人生劇場」をもういちど、という感じでもあるけれど(キャピキャピの藤純子も出ている)、作品としてはこっちの方が先。あとは山城新伍、松方弘樹、大木実、津川雅彦などという布陣で、田中春男だけが東宝シリーズとおなじ法印大五郎役で出演している。旅に出た次郎長の一行が三島で立ち寄る次郎長旧知の料理屋が、閑古鳥のなく貧窮ぶりだったのだけれども、ここの夫婦が一行をあたたかくもてなす。この旦那役は藤山寛美だったけれど、その奥さんを演じていた女優さんの演技がわたしは気に入って、いったい何という女優さんだったのだろうと調べたのだけれども、これがなかなかわからない。ようやく判明したところでは、この女優さんは千原しのぶという女優さんで、50年代の東映映画の「お姫さま」役でブイブイいわせていた方だったらしい。ちょっと、そのころのそういう「お姫さま」映画、観てみたくなってしまった。


 

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■ 2012-11-06(Tue)

 ふだん、たいていは午前中に買い物もすませ、あとはいちにちじゅう部屋に引きこもってばかりの生活で、しごとが休みで買い物に出たりしなければいちにち一歩も外に出ないですごしてしまうこともある。たまに午後から外に出たりすることもあるけれど、夕方だとか夜になって外を歩くことはまずない。きょうはめずらしく、夕方の薄暮どきにちょっと買い物に出た。新鮮な感覚。このあたりは駅前通りなのだけれども商店街もなく、ネオンサインというのもはまるで目に入らない(駅前のパチンコ屋にはネオンがあるのだけれども)。夜間になるといくつかある店舗や事務所の看板にライトがあてられるだけの間接照明。ただ、コンビニストアの看板だけが内側から光っている。まだ空には明るみがのこっていて、すこし色づいてきた木の葉の色も、まだ闇に沈んでいない。いきかう車はライトをつけて走っていて、景色のなかを照らしながら移動していく。ネオンだらけの都会の夕暮れどきとはやはりちがう景観だし、街灯と家庭のなかの電灯の明るさだけの住宅地の景観ともちがう。都市ではなく、町、という空気を感じる。こういう風景が好きという理由で東京を出てきたところもある。せっかくそうやってこの町で暮らしているんだから、そういう美しさをもうちょっと受けとめる努力をしてもいいのに。

 ベッドの上で寝ているニェネントをかまって、まえ足をつかんでかみついたりしていたら、思いきり頬をひっかかれて、流血の惨事になってしまった。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 4.「我らに自由を」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  4.「我らに自由を」を含むブックマーク

 No.6 の閉じこめられている「村」は、かんぜんな管理社会なのだけれども、なぜか民主主義っぽくよそおって、No.2 を選出する村民による選挙が行われるという。現No.2 の陰謀めいた推薦もあって、No.6 はその対立候補になってしまう。そんなの策略の茶番に決まってるじゃん、というところだけれども、じゃあNo.2 になってすべてを解放してやろうじゃないかという気になってしまうNo.6。って、やっぱり策略だった。教訓も何もあったものじゃない。

 この回の演出はパトリック・マクグーハン自身で、ちょっとヴィジュアル的にはおもしろいところがあった。まずはシティホールのなかにある村議会場が、デザイン的にかなり美しい。それと、No.2 がNo.6 を連れていく山のなかの密造酒を製造して飲ませている洞窟。錬金術めいた器具が並んでいて楽しい。

 

 

[]「ミス・ポター」(2006) クリス・ヌーナン:監督 「ミス・ポター」(2006)  クリス・ヌーナン:監督を含むブックマーク

 せんじつ、何かの本で読んだのだけれども、「ピーター・ラビット」の作者としてあまりに有名なベアトリクス・ポターという人、じつは絵本作家になるまえには菌類、地衣類の研究をかさね、生物学者として研究発表をしようとした人物だったのだけれども、当時(といっても、わずかに百年ちょっとまえのことなのだけれども)の英国では女性の科学者などという存在は認められずに生物学者の道をあきらめ、そののちに絵本作家になった人物だということ。まったく知らないことだった。そのベアトリクス・ポターのことがあたまに残っているときにこの「ミス・ポター」という映画が放映されたので、そのあたりのことを知りたいという気もちもあって観てみた。

 ‥‥ところが、そのあたりの、生物学者への道の挫折、ということにはまるで触れられていない「伝記映画」、だった。わずか90分のこの作品で、もう20分でもそのあたりのことを描くじかんは取れなかったのだろうか。それでも110分、ふつうの劇映画の枠内にじゅうぶんおさまる尺だろう。それとも、そのあたりのこともちゃんと描いたのだけれども、何らかの理由でカットされてしまった結果、この長さの映画になってしまったのか。いまでもなお、百年前には女性は科学者になれなかったという事実について、そのことを語ることへの障害があるのだろうか。とにかく、いったいなぜこの作品がそのあたりのことを描かなかったのか、そのしかとした理由はわからないのだけれども、ベアトリクス・ポターという人物が、この映画で描かれたような「だけの」存在だと認知されることになるのなら、撮られないでいた方がよかった作品、ということにならないだろうか。このままではこの映画にどのような価値があるのかわからないので、感想も何も抱くことはできない。


 

[]「エグザイル/絆」(2006) ジョニー・トー:監督 「エグザイル/絆」(2006)  ジョニー・トー:監督を含むブックマーク

 リアリティなど無視して、ある美意識の表現をつらぬいた美しい作品。ポイントはやはりこの作品のなかで何度か描かれる銃撃戦で、宙を舞うドア板だとか、真上から撮られたカーテンのゆらめきだとか、スローモーションもまた美しく、こころに残るものである。

 ジョニー・トーという人はやはり独特の才能をもった人で、日本なんかではこういう才能をもった人があらわれても認められないんじゃないだろうか、という気がする。もっと彼の作品を観たくなった。


[]「バグダッド・カフェ(ニュー・ディレクターズ・カット版)」(1987) パーシー・アドロン:監督 「バグダッド・カフェ(ニュー・ディレクターズ・カット版)」(1987)  パーシー・アドロン:監督を含むブックマーク

 一世を風靡した作品。この主題歌はむかし付き合っていた女性のフェイヴァリットだった。パーシー・アドロンという人がこういう曲を好きなのか、この映画では「いったいなぜにこの主題歌?」というところで、劇の内容と歌とはとりあえずはまるでかんけいがない。まさかヒロインが別れたダンナさんを呼んでいるわけでもないだろうし。
 こんかい久々に観ても、なんとも気分的な作品というか、じつのところ登場人物らはそれぞれ、いつまでもてんでバラバラなまんまなんじゃないかという感想。他者のことを想う、というのは、もうちょっとどこかちがうんじゃないだろうか。そういう意味ではベタベタしていなくって、このくらいさっぱりしているのがいいといえばいいのかもしれない。ただ、こんかい観た「ニュー・ディレクターズ・カット版」というのは、ヒロインがドイツからまたバグダッド・カフェにもどってきて、そのあとにカフェでのマジックショーが延々と続くので、ちょっと飽いてしまった。長くするひつようはなかっただろう。

 パーシー・アドロンはこのちょっとあとにk. d. lang の唄う「So in Love」の、とてつもなく美しいヴィデオ・クリップ(エイズ撲滅のためのキャンペーン・クリップ集、コール・ポーターへのトリビュート「Red, Hot + Blue」に収録)があったけれども、やはりパーシー・アドロンの最高傑作はその「So in Love」の方だろう。


 

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■ 2012-11-05(Mon)

 きょうはあまり日も照らず、寒いいちにちになった。しごとをやっていても、いつもなら日の出のあとはぐんぐんあたたかくなるのに、日もかげっていていつまでも寒かった。帰宅してついにこの秋になってはじめてセーターを着た。毛皮を着ているニェネントはあたたかそうな気がするけれども、きょうもベッドのうえでふとんに埋もれるようにして寝てばかりいる。あんまり寝てばかりいて、からだの具合でも悪いんじゃないかとしんぱいになるほどで、ベッドのうえのニェネントにちょっかいだして、遊びがてらようすをみたりする。

 このところヴィデオを観てばかりいるけれども、HDDを買ってからはあたらしく録画するのはHDDにまかせ、いぜん録画してあったVHSテープをはやく観ちゃって、観終えたものから捨ててしまおうというつもりである。家にあるものをできるだけ減らしていきたい。読み終えた本も捨てるつもりにしていて、いくつかは捨てたものもあるけれども、このところまた、なかなか自宅本を読まなくなってしまっているので、いっこうに減っていかない。VHSテープの方は、これからばんばんと捨てていけるようにしたい。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 3.「A, B & C」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  3.「A, B & C」を含むブックマーク

 あたらしいNo.2 は、なんだかさいしょっからてんぱってるふんいきで、No.1 からの電話なのか、「あしたまでになんとか‥‥」とか汗かきながらしゃべっている。こんかいは臨床実験というか、なんと被験者の夢を外から見られるようにして、その夢にある人物データをインプットすると夢のなかにその人物があらわれるのである。夢のコントロール。A、B、そしてCの三人の人物データがインプットされるのだけれども、つまりそのうちのだれかはNo.6 と秘密を共有しているというか、その人物にならNo.6 は辞職の理由などをしゃべるかもしれない、ということ。この臨床テストにはまず薬品の注射がひつようなんだけれども、その注射あとからNo.6 はじぶんがそのような臨床テストを受けていることを知り、三人目のデータがインプットされるまえに薬品をうすめておき、じぶんの夢をじぶんでコントロールしてNo.2 を面喰らわせるのである。

 夢のなかで、ジェームズ・ボンドっぽいところもあるNo.6 の交友かんけいが、ちょっと垣間見られる。
 ‥‥教訓。他人の夢を信用してはいけません。

 

 

[]「突然炎のごとく」(1962) フランソワ・トリュフォー:監督 「突然炎のごとく」(1962)  フランソワ・トリュフォー:監督を含むブックマーク

 トリュフォー監督の作品というと、わたしはどうしても早口でまくしたてるナレーションで進行していく映画、という印象ばかりが強いのだけれども、そらはどうやらずいぶんむかしに観たこの「突然炎のごとく」と、そのあと観た「恋のエチュード」からの印象からなのだと思う。とにかくその後に観たアントワーヌ・ドワネルのシリーズものでは、そういう出しゃばったナレーションの記憶はない。ひょっとしたら「突然炎のごとく」と「恋のエチュード」にかぎった演出だったのかもしれない。しかもこんかいこの作品を観て調べてみると、この二作は双方ともにアンリ=ピエール・ロシェの原作からの映画化、なのであった。内容からしてもその一方が「二人の男に愛される女性」であればもう一方は「二人の女性に愛される男」の物語、というわけで、このふたつの作品はつまりは「姉妹作」といえるのではないのか。そこでその演出法も引き継がれ、どちらも原作を活かしたナレーションがいっぱい使われたのではないのだろうか。このことはそのうちに「恋のエチュード」を観る機会があればかくにんしてみたい。

 さて、その「突然炎のごとく」を久しぶりに観たわけだけれども、印象に残るシーンのいっぱいある作品だった。撮影のラウール・クタールも、のちにこの作品を絶賛しているようである。わたしはやはり、鉄橋の上でのかけっこのシーンがなんとも大好きである。ラウール・クタールもカメラをかかえていっしょに走って、たいへんだったことだろう。あと記憶に残るのは、ジャンヌ・モローが歌を唄うシーンかな。

 ストーリーの方はなんというか困ったもので、ひとりの男性への愛にしばられることを拒絶する奔放な女性と、その女性を愛してしまったけれども強い友情で結ばれているふたりの男性の物語、である。って、こういう話だと、わたしなどはボルヘスの短編の、ひとりの女性を愛してしまった兄弟の話「じゃま者」を思い出してしまう。「じゃま者」では兄弟愛に結ばれたふたりの、兄の方がその女性を殺し、いっしょに埋めに行くという物語なんだけれども、わたしは「おはなし」としては、ボルヘスのそれの方が好き。この「突然炎のごとく」はとにかく、ジャンヌ・モロー演ずるカトリーヌがいったいなんでジムを巻き添えにして死ななければならないのか、これは単なるエゴイスティックな「殺人」であって、わたしは彼女の行為にまったくシンパシーを感じることができないのである。

 ジュール役を演じているのがオスカー・ウェルナーだった、ということは知らなかった。ジムの過去の愛人役で、せんじつ観た「ピアニストを撃て」に出ていたマリー・デュボワが出ていた。この女優さんはいい。


 

[]「季節のない街」山本周五郎:著 「季節のない街」山本周五郎:著を含むブックマーク

 読んでいてどうしても、その「どですかでん」だとか、せんじつ観た戌井さん演出の舞台を思い出して比較してしまうのだけれども、なるほど、映画ではここから先はカットしていたわけか、などとはなっとくするところはある。

 読むまえからちょっと予想していたけれども、小説としては何もかも書きすぎではないかという印象で、これでは舞台用のシナリオである。って、つまりはだから映画化されたのか。とくに冒頭の「街へゆく電車」なんか、何もかもすべて説明してしまっていて、これでは「はい、そうですか」いじょうの感想も生まれようがない。「がんもどき」にも、読んでがっくりした。おねがいだから、説明しないで下さい。
 べつに大衆小説などとジャンル分けして差別するつもりはないけれども、これでは読むのがつらい。ストーリーだけ追って書いてくれればいいのに。


 

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■ 2012-11-04(Sun)

 ニェネントはあさ、わたしがしごとに出るときもベッドの上で丸くなって寝ていて、わたしがしごとからもどってきてもまだ、ベッドの上で寝ている。わたしがキッチンで朝食の準備をはじめるとようやく起きてきて、わたしが出してあげたネコメシを食べる。そのあともまた部屋のあちこちでゴロゴロして、いちにち寝てばかりいる。「運動もしなくっちゃ」と思っているのか、いちにちに一度か二度、部屋じゅうをかけまわる運動会をやっている。和室からTV台の方に走ってきてTV台の上にとびあがり、台を蹴ってジャンプしてリヴィングを横断する。つむじ風が起きるようないきおいである。この運動タイムがおわると、またゴロゴロと寝てばかりいる。みた感じ、なんだかこのごろ太ってきたんじゃないだろうか。運動が少なすぎるんじゃないのか。どうみても普通のネコよりもひとまわり大きくみえるし、腹のあたりの肉付きもたっぷり。さいきんは見方によっては顔にもたっぷりと肉がついてきたようにみえる。デブネコになるつつあるのか。

 十一月にはこのあいだまではそれほど予定もなく、あまり外出することもないかもしれないなどと思っていたのだけれども、やはりあれこれと予定がはいってきて、とくに後半はかなりのハードスケジュールになりそう。そういう、「これは出かけなくっちゃ」などということがあるということは、こうやって田舎ぐらしをしている身にはやはりうれしいことということ。

 きょうから、「ひかりTV」から録画した「プリズナーNo.6」を通して観ることにした。もちろんむかし通して観ていて、結末も知ってはいるけれど、いま観たらどんなに見えるだろうか。わたしはてっきり白黒番組だと思っていたのが、思いがけずにカラーだった。「季節のない街」も読了したけれど、感想はあしたにでも。きょうからはまた「昭和文学全集」の吉本隆明の残り、「島尾敏雄」を読みはじめた。いったいいつになったらこの分厚い本を読み終えることができるんだろう。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 1.「地図にない村」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  1.「地図にない村」を含むブックマーク

 まずはイントロダクション。秘密諜報員だったらしい主人公のパトリック・マクグーハンがその冒頭で上司に辞表をたたきつけて辞職する。この導入部はまいかい放映されたものだったけれども、しごとを辞めるんだったらこういう辞め方もやってみたい。パトリック・マクグーハンがテーブルをたたくとティーカップが飛び上がり、その受け皿は割れてしまう。激烈。このパトリック・マクグーハンは、いつも怒った顔がいい。

 それで自宅にもどってかんたんに拉致されて、気がついたら知らないところの知らない家にいるというわけで、その山と海にかこまれたこじんまりとした村の住民はすべてナンバーいくつとかの数字で呼ばれ、彼が来るまえからずっと平穏な生活をおくっていたようである。パトリック・マクグーハンはNo.6 という名をあたえられ、村の生活にとけこむように即されるというか。もちろんNo.6 はその村からの脱出を図るけれど、村の店で売っている地図には村より外の世界は描かれていない。「地図にない村」というのではなく、地図の外のない村、という感じ。村を統治しているのがNo.2 という存在なのか、そのNo.2 に呼び出されたNo.6 は、「情報を出せ」とせまられる。その「情報」とは、つまりは辞職の理由、ということらしい。No.2 がいるということはその上にNo.1 がいるということなんだろうけれど、No.1 はすがたをあらわさない。もちろんNo.6 (だけでなく村人すべて)はつねに監視されているけれど、村人のなかにも村から脱出しようとするものもいる。どうやらNo.6 とおなじように、拉致されてきた人物も多いようである(全員そうなのか?)。しっかし、脱出しようとすると白い巨大な風船のようなものがあらわれて脱出しようとするものの顔にかぶさり、窒息させてしまうのである。この回はNo.6 が海からの脱出をこころみて、やはりその風船におそわれて失敗するまで。

 ‥‥教訓。ふつうに脱出しようとしても、こりゃあどうもムリっぽい。

 

 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 2.「ビッグベンの鐘」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  2.「ビッグベンの鐘」を含むブックマーク

 No.2 は人物がすげ代わっていて、この回ではちょっと有名な俳優、レオ・マッカーン(Beatles の「HELP!」にも出ていた俳優さん)が演じている。力ずく情報を得ようとするのではなく、親密さを装っての懐柔作戦という感じ。もうりっぱな村民になってしまったように村の暮しに同化しているNo.6 なんだけれども、その隣家にあたらしくNo.8 という女性がやってくる。やはりNo.6 とおなじく拉致されてきたようである。東欧のスパイだったというNo.8 はこの村の場所がわかるといい、外部の助けを借りてこの村から脱出できるだろうという。No.6 と協力して計画を練り、まずは舟をつくって海から村の外に出る。そこで待ち受けていたNo.8 の仲間の助けを借りて大きな貨物の木箱のなかにかくれ、船便、飛行便を経てロンドンへ脱出する。そこでNo.6 のかつての同僚だか上司だかと再会するのだが‥‥。

 ‥‥教訓。村民といえども、No.6 の情報を得るために組織側がおくりこんだスパイのような存在もいるのである。だれにも気を許してはならないのだ。


 

[]「ラビット・ホラー」(2011) クリストファー・ドイル:撮影 清水崇:監督 「ラビット・ホラー」(2011)  クリストファー・ドイル:撮影 清水崇:監督を含むブックマーク

 もともとは3D映画として公開されたようで、随所にそういうことを意識した映像が見受けられる。スタッフのことはまるで知らないで観はじめたのだけれども、冒頭にすぐにクレーンを使った撮影があって、いまどきの邦画ではめずらしいなあと思っていたら、撮影監督はクリストファー・ドイルなのだった。彼の撮影した作品というのはジャームッシュの「リミッツ・オブ・コントロール」いらいになるか。もう、彼の映像を観られるというだけで楽しみになる。満島ひかりや緒川たまきも出ているし。

 ‥‥ということで、がんばってさいごまで観たのだけれども、なんというのか、よくこんな高校生の書いたような脚本でゴーサインが出たものだと、あきれてしまうことになる。

 「こわいウサギの着ぐるみ」映画といえば、もちろんまずは(こわいかどうかは観る人の主観だろうけれど)デヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」、だろう。別にこの「ラビット・ホラー」のスタッフが「そんなの、知りまっせん」ということでもいっこうにかまわないし、妄想なら妄想でいいんだけれども、なんというのか、「映画とは何か」という問いかけは、持っていてほしかった気はする。たとえば、同じように妄想を描いた作品といえる「シャッター・アイランド」は、どういうところで映画として成立しているのかとか。

 もちろん、わたしはクリストファー・ドイルのファンだから、彼のつくった絵を観るかぎりにおいて、これは美しい「映画」だった。とくに彼の色彩、色調へのこだわり。画面のなかにどんな断片たりとその画面の色調を崩す色をまぎれこませることを拒否し、表面的なストーリーの流れではない、絵としての流れをつくりだす手腕に見愡れるのである。とくに後半、「このデルモンテのトマトジュース缶の赤は?」というところからラストまで、その「赤」で魅せてくれる美しさには酔い痴れてしまう。


 

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■ 2012-11-03(Sat)

 どうやらニェネントの発情期もおわったようで、きょうはおだやかなニェネントだった。こんかいの発情期は軽くすんだものだと思う。やはりよるになるとベッドの上に飛び乗ってきて、わたしのわきで丸くなって寝ているのだけれども、そうやってベッドに飛び上がってわたしを乗りこえていって、うずくまってからはしばらくのあいだ、のどをゴロゴロとならせているのがきこえる。このごろはあんまりのどをならせることもなくなっているので、めずらしいことだと思う。わたしのそばにいることが大好き、ということなんだろうか。ただその場所があたたかくって気もちがいいということなんだろうか。

 きょうはしごとが休みだったので午前中からヴィデオを観てすごしたのだけれども、昼食(インスタントのラーメン)を食べたあとにねむくなってしまい、じゃあベッドで本でも読むかとベッドにもぐりこみ、そのまま寝てしまった。それで目がさめたら外はもううすぐらくなっていて、時計をみると五時になっていた。四じかんぐらい寝てしまったことになる。ひるねという域をとうにこえてしまった。

 じゃあきょうはそんなにはやく寝ることもないなと思い、起き出してゆっくりと夕食のじゅんびにかかる。きのうブロッコリーを買ったので、きょうはそのブロッコリーを入れて、せんじつつくった野菜の牛乳煮風シチューをもういちどやってみる。わたし好みの薄味に仕上がり、この冬はこの献立をしつっこくやってみようかと思う。

 ひるまいっぱい寝てしまったのでなかなか寝つけないんじゃないかと思ったけれど、けっきょく九時ごろにはベッドに入って寝てしまった。


 

[]「夕陽の挽歌」(1971) ブレイク・エドワーズ:監督 「夕陽の挽歌」(1971)  ブレイク・エドワーズ:監督を含むブックマーク

 あのブレイク・エドワーズがこんな西部劇を撮っていたなんて、まるで知らなかった。それも雇われ仕事ではなく、じぶんでプロデュースしてじぶんで脚本も書いている。彼自身が「この映画を撮りたい!」という強い意志でつくった作品なんだろうか。わたしはブレイク・エドワーズという人のことをまるで知らないので、そのあたりの事情もわからない。調べてみるとなんともはや! ほんらいは三時間をこえる大作だったこの作品、そのブレイク・エドワーズのまるで知らないところでばっさばっさとカットされ、結末も180度ぐらい変更(つまり正反対の結末に)されてしまっての公開となってしまったらしい。そのなごりでか、そんなに長くはない作品なのに「序曲」や「インターミッション」が挿入されているわけである(カットしちゃえばいいのに)。それでもってとうぜんブレイク・エドワーズも激怒するだろうし、ハリウッドではよくあるはなしといえばそうなのだけれども、この映画公開から十年後になって、そのブレイク・エドワーズ監督によって、そのあたりのうっぷんをぶちまけたらしい「S.O.B.」という作品がつくられることになったらしい(そっちが観てみたくなった)。ちなみに、この作品の製作会社はMGM。

 そんないきさつがあるとはいえ、とにかく、この作品はコメディではない。「夕陽の挽歌」などという、マカロニ・ウェスタンなんだか香港製アクション映画なんだかわからないような邦題がつけられてしまっているけれども、原題は「Wild Rovers」。なんだかトラディショナルソングっぽいタイトルだけれども、じっさいに登場人物はそういう伝承歌らしきもの(映画のためのオリジナルソングなのかもしれないのだが)を、馬に乗りながらとか、ことあるごとに唄っているのである。製作年度は1971年だから、もう映画界にとって「西部劇」などというものでもない時代になっちゃってるというか、つまりは「アメリカン・ニュー・シネマ」だぜえという時代なのだけれども、ブレイク・エドワーズもそういう時流に影響されたのかもしれない。観た感じこの作品、西部劇全盛の時代にロマンチックに脚色された「カウボーイ」たちが実際に生きた世界をもっとリアルにとらえなおそうとした作品なんじゃないかと想像する。冒頭からそういうカウボーイたちがそれぞれの馬にまたがるまでの、その足もとなどの描写にけっこうなじかんをさいたりしているし、牧場に侵入してくる羊飼いどもとの確執も描かれる。何もないたいくつな日常。出世するわけでもなし、「結婚なんかするよりも銀行強盗をする方が未来は明るい」と思ってしまうような世界から、そういう未来にまだ希望を持っている若僧と、未来に絶望した(のだろうか)中年カウボーイとが、銀行強盗をやってのけて逃亡する。彼らの雇い主の牧場主の息子たちが彼らを追うけれども、牧場主は羊飼いとのあらそいで射殺されてしまう。息子たちも、いつまでも強盗を追うのではなくて故郷へ帰っても良さそうなものだけれども‥‥。

 強盗をやってしまう二人の男を、ウィリアム・ホールデンとライアン・オニールが演じていて、牧場主がカール・マルデン、その息子のひとりがトム・スケリットという配役。音楽(ジェリー・ゴールドスミス)のせいもあるけれども、とっても牧歌的な世界が拡がる。ただ、いったいどこまでが監督のブレイク・エドワーズの意図したものなのかわからないわけだから、いいとか悪いとかいう映画でもないのかもしれない。

 子犬が好きで、逃走中だというのにどこまでも連れて行こうとするライアン・オニールがかわいくて、そういう彼にやさしく接するウィリアム・ホールデンがまたいい。雪のなかで、野性の馬を捕らえて馴らすところのシーンが好き。

 

 

[]「フロント・ページ」(1974) ビリー・ワイルダー:監督 「フロント・ページ」(1974)  ビリー・ワイルダー:監督を含むブックマーク

 このあいだ観た「サボテンの花」の脚本、I・A・L・ダイアモンドと、ビリー・ワイルダーとの黄金コンビによる作品。オリジナルはベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーによる1928年初演の戯曲で、ハワード・ホークスの「ヒズ・ガール・フライデー」もまたこれと同じ原作によるものだということ。はてさて、ケイリー・グラントとロザリンド・ラッセルの打々発止のやりとりの楽しかった「ヒズ・ガール・フライデー」にくらべると、どうもこの「フロント・ページ」はお寒い印象がする。ここでは女性の登場する余地がほとんどなくなってしまったせいか、なんともギスギスとした仕上がりになってしまった気がする。あえて「ヒズ・ガール・フライデー」と対抗するのはやめといて、仕事に打ち込む男たちの世界として構築したのかもしれないけれども(原作がこうだったのか?)、どうもやはりこれでは「色気」がないというか、ワーカホリック男のワーカホリックぶりだけが前面に出て、笑おうにも笑えないところがある。ビリー・ワイルダー監督のものとしては、ちょっとよけておきましょうか。



 

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■ 2012-11-02(Fri)

 風の強いいちにちだった。しごとに出る早朝にはほとんど風も吹いていなかったのだけれど、しごとをしているときからだんだんに風が吹きはじめ、しごとから帰るころには風の音がピューピューときこえるようになっていた。部屋にいても何かが風で飛ばされる音があちこちからひびいてきて、じぶんのうちのベランダはだいじょうぶだろうかと確認したり。
 ひるまえに買い物に外に出たけれど、あいかわらず強い風。うちのアパートから外に出る階段のところに、2リットルの空きペットボトルが三、四個ころがっていた。風に飛ばされてきたわけだ。部屋からきこえた音にはこのペットボトルが飛んでくる音もまざっていたんだろう。

 昼食はスパゲッティ。わたしはスパゲッティのパスタなんて安くてもそんなに味にかわりはないものと思っていて、いつもいちばん安いものを買っていたのだけれども、きょうのパスタはまるでおいしくなかった。やはり安いパスタにはまずいものもあるのだ。これからは見たことのないパッケージのパスタに手を出すのはやめよう。
 夕食はきのうの残りのおかずと、さいきん得意になった鶏そぼろですませた。鶏そぼろは酒のつまみにもなるので便利。

 きょうもニェネントは発情期だったけれども、いつものようにいつまでもしつっこくわたしにからんでくることもなく、たいていは部屋のすみで眠っていた。もうこんかいの発情期も峠をこしたのだろうけれど、こんかいは楽だった。これからもこの程度ですむようなら不妊手術しなくてもいいか、なんて勝手なことを考えたりする。

 またヴィデオを三本観て、「季節のない街」ももう少しで読了。


 

[]「海の底」(1931) ジョン・フォード:監督 「海の底」(1931)  ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 とっても端正な映画という感じで、いちいちのシーンでのぴしっと決まった構図とか、見せ場のつくり方とか、なんというのか美しい作品だという印象。

 第一次世界大戦時の大西洋での、ドイツUボートとアメリカ偽装船とのスパイ戦をふくむ戦いを、カナリア諸島の港町から海上への流れで描いた作品。ドイツには偽装船ということがばれているのだけれども、それが戦局にまるで影響しないでUボートは撃沈されてしまうわけで、あまりにスキだらけのアメリカ兵なんかふくめて、脚本としてはいまいちな気がする。

 

 

[]「ナイト&デイ」(2010) ジェームズ・マンゴールド:監督 「ナイト&デイ」(2010)  ジェームズ・マンゴールド:監督を含むブックマーク

 ひとむかしまえの荒唐無稽なマンガを思い出すような作品で、万能無敵なスパイが単身、じぶんが巻き込ませてしまった女性を助けながらも、アメリカ、ヨーロッパをかけめぐって活躍してしまう。冒頭から国家的な組織をも敵にまわし、乗り込んだ旅客機のパイロットを撃ち殺してしまうという展開で、「それじゃあこの映画もここでおしまいじゃないか」みたいに思っていたら、そんなバカな、という展開。そのあともとにかく「ひょえー」みたいなことばかしノンストップにつづいていくのだけれども、そんななかでちゃんとロマンティック・コメディなふんいきをつくってるのがいい。主演はトム・クルーズとキャメロン・ディアスで、わたしはこのふたりの役者の作品なんてあんまり観ていないけれど、「コラテラル」でみた、トム・クルーズのちょっと異常にキレた感じというのが引き継がれているようでもあり、観ていないけれど「ミッション・インポシブル」のシリーズでもこういう超人的な感じなのかもとも思い、この人はこういう、みた感じは常人でもじつはまるで常人ではないような役柄が似合うのかもしれない。

 視点はずっと、ラスト以外はキャメロン・ディアスの側から描かれていて、はたしてトム・クルーズを信じていいのか彼は悪人なのか、観客も迷わせられることにはなる。とんでもないことがおきてもそのてん末はカットされ、キャメロン・ディアスの意識がもどるととりあえずは危機を脱している、という演出もくりかえされ、これがラストではトム・クルーズの視点に切り替えられるあたりが楽しい。

 じつはわたしにはめっちゃ楽しい映画だったわけで、観終わってすぐに、またさいしょからもう一度観たくなってしまった。この監督のジェームズ・マンゴールドという人、まえの「3時10分、決断のとき」というのも楽しませてもらったし、これからは注目しておいた方がいい監督さんなのかもしれない(そのまえのジョニー・キャッシュの伝記映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」はあまり感心しなかったけれども)。

 

[]「稲妻」(1952) 林芙美子:原作 成瀬巳喜男:監督 「稲妻」(1952)  林芙美子:原作 成瀬巳喜男:監督を含むブックマーク

 林芙美子原作の成瀬巳喜男監督作品というものもいくつもあるようだけれども、この「稲妻」はいつもの東宝ではなくて大映作品。大映ではこの翌年に「あにいもうと」も撮っているようだけれども、このいきさつはよくわからない。以後の成瀬作品はすべて、東宝で撮られたものになる。

 主役はまたまた高峰秀子で、冒頭の字幕では二番目に香川京子の名が出てくるけれど、この映画のなかでは出番の少ない香川京子よりも次女(高峰秀子の姉)の三浦光子の方が印象に残る。きのう観た「美女と液体人間」では刑事部長なんていう役だった小沢栄太郎が、やはり本来の悪役というか、男のイヤらしさを一手に引き受けたような役で登場して、高峰秀子に抱きついてかみつかれたりする。それで、目のまえの損得感情でしか動かないような、高峰ら四人のきょうだいそれぞれのお父さんもちがいますよ、という「すべてあんたが悪いんじゃないの」みたいなお母さん役を浦辺粂子が演じていて、とってもいい(とくにラスト)。

 主人公の高峰秀子はいっしゅの男性嫌悪であり、家庭環境からつよい親族憎悪にもとらわれているんだけれども、実家の二階に間借していた林芙美子の分身みたいな女性の生き方に惹かれるところもあり、実家から出て一人暮らしをはじめるわけ。そのときの隣人が香川京子と根上淳で、洗濯物を干したりする根上淳のすがたに、高峰の男性嫌悪もきっと終止符をうたれることであろう。ラストには(永続的なものかどうかはわからないけれども)母とも和解して、ふたりが並んで歩く美しいシーンでこの作品はおわる。

 わたしにもまた親族憎悪というものがあり、ここで描かれたようなうんざりするような状況にも「理解する」いじょうの感覚を持っている。そういうところで、林芙美子がこういう作品の原作なのであれば、わたしはもっと林芙美子の作品を読んでみたいとも思う。‥‥林芙美子は、わたしが生まれた町に暮らしていたことがある。

 この作品での成瀬巳喜男監督の演出はほんっとうにすばらしいもので、成瀬監督といえば「浮雲」とか「乱れる」とかが「すばらしい作品」として思い浮かぶものだけれども、この「稲妻」もまた、そういう成瀬監督の傑作として、記憶にとどめようと思う。

 すっごいかわいい子ネコが登場する作品で、そのことも記憶しておきたい。


 

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■ 2012-11-01(Thu)

 十一月になった。秋なんて駆け足で過ぎ去ろうとしていて、もう目のまえには冬のすがたがみえている。ベッドには毛布もひっぱりだした。よる寝ているとニェネントがベッドにかけあがり、布団の上を横断してわたしのひざのあたりの壁ぎわで寝るようになった。きょねんの冬もこうやってベッドの上のわたしのわきで寝ていたものだった。やはりニェネントも「寒くなってきたわ」と感じて、すこしでもあたたかいところで寝ようとするんだろう。ニェネントが布団の上を横断するとき、布団ごしにニェネントの四本の足からニェネントの体重が伝わってくる。けっこう重たいものだなあなどと、眠りにつくまえのぼんやりとしたあたまで考えている。

 きょうのニェネントはついに発情期最高潮だけれども、いぜんのように「まいったなあ」というところまではいかない。このまま平常にもどってくれるといい。せんじつニェネントに買った汁だくのネコ缶は、しごと先でネコを飼っている人にあげることにした。

 近所のドラッグストアに買い物に行くと、もうクリスマス・ツリーが飾り付けてあった。きのうまではハロウィーンさわぎで、クリスマスがすぎるともうお正月(そうそう、きょうから年賀ハガキも売り出されたのだった)。この季節いがいはこんなに連続した商業イヴェントというのもないような。しかしいまからクリスマス・ツリーを出しておいても、それで何かが売れるというわけでもないと思うけれども。
 十二月になるとお小遣い程度のボーナスも支給されるので、やはりニェネントに不妊手術を受けさせようかと思う。いくらぐらいかかるんだろうか。ニェネントの手術をすませたら、つぎはやはりパソコンがほしいかな。いやそのまえにきっとケータイがダメになる。わたしはいまだにPHSを使っているのだけれども、そのPHSでもスマホモード(スマートフォンの略なんだから、「スマフォ」と呼んでもらいたい気がするけれども)のものが出ているようで、このごろはそのお薦めのメールがケータイに届くことが多い。

 昼食はスパゲッティー、夕食はまえに買ってあったマーボー春雨のパックをあけておかずにした。昼から延々と、ヴィデオを三本観た。


 

[]「ピアニストを撃て」(1960) フランソワ・トリュフォー:監督 「ピアニストを撃て」(1960)  フランソワ・トリュフォー:監督を含むブックマーク

 「大人は判ってくれない」に次ぐトリュフォーの長篇第二作で、撮影はラウール・クタール。シャルル・アズナブール主演。わたしははじめて観る作品。

 どうもこの作品を観た感じでは、トリュフォーという人、映画技法の面から映画をつくっていくのではなく、映画話法としての面を追求しようとしていた人なのか、などと思うことになった。「映画技法」ということを「どういうふうに見せるか」という工夫だとしたら、「映画話法」というのは「どういうことを、どういうふうに語るか」ということになるだろうか。

 この「ピアニストを撃て」、つまりは主人公の抱え持つメンタルなもんだいと、サスペンス風のドラマ展開とがからまって進行していくのだけれども、いちいちストーリーが脱線して、そこにコミカルな印象がミックスされてくる。冒頭から、追われる男が夜の街を逃げまどうノワール調のはじまり方をするのだけれども、その男が街灯にぶっつかって倒れ、通りかかった男に助け起こされてその男と世間話をしながら歩きはじめたりするわけで、「あれ、いままで追われて必死で逃げていたんじゃなかったっけ」みたいなわけで、こういう展開のジャンプはまだ出てくる。そのあたり、技法的ななにかがあるわけでもなく、オーソドックスに連続していく。わたしはそのあたり不満というか、これではただの「ずっこけ映画」なんじゃないの、という感覚になる。

 ‥‥わたしはやはり「映画技法」の面から映画を楽しんでいるしゅるいの観客で、そういうところで満足させてくれる作品ならば、たとえストーリーが陳腐であっても楽しんだ気分になれるところがある。もちろん「話法」というものも重要ではあるだろうけれども、それはもっとこう、「技法」とからんで一体となって観客を楽しませてくれるべきものだと思う。そのあたりのところでヒッチコックの作品はいい手本になっているというか、彼の場合は、語り口をきわだたせるためにそれまでにない斬新な映画技法が駆使されているのではないかと思う。そのあたり、この「ピアニストを撃て」でのかなり説明的な映像演出というものをあんまり楽しむことはできなかった。わたしがいままでトリュフォー作品にそんなに惹かれてこなかったというのも、そういうところに理由があるのかもしれない。そう気づかされた気がする。

 

 

[]「美女と液体人間」(1958) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督 「美女と液体人間」(1958)  円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督を含むブックマーク

 この作品もまた、よるの街を逃げる男の描写からはじまるノワール調。本多猪四郎という監督さんは器用なところのある人で、いっぱんに知られている怪獣映画なんかでも、そういう怪獣登場いがいの場面なんかきちっと演出して撮っていて、感心させられることがよくあるけれど、この作品の導入部も、いい感じ。

 ストーリーにはつっこみどころもありますけれども、麻薬取り引きをめぐる犯罪と主題の液体人間をめぐる事件とを、東京のせまい一区域の夜に限定してつなげていくのは、この作品のスケールに合っていたと思う。アダルト向け作品ということで、キャバレーのエロティックなフロアーショーの場面が長々と挿入されます。当時はベッドシーンなんて描けなかったわけだから、女性のヌードに近いすがたをおがめるのはこういうシーンならでは、というところもあったんだろう。ここでジャズ・ミュージシャンの演奏シーンが単独で撮られてもいて、その演奏がなかなかにいい。さいごには地下の下水道にいるらしい液体人間をやっつけるため、下水道にガソリンをまいて火をつける。ここに白川由実を連れてその下水道を逃走中の佐藤允がからんできて、クライマックスになる。ラストの下水道から外に流れ出て燃え上がるガソリンの炎、これがかっなり、強烈である。おそらくは下水道内部もセットだろうけれどもとってもよくできていたし、このラストの炎も、その炎の大きさからも、じっさいに大きな炎をひろがらせて撮影したんだろうと思う。迫力のあるラストだった。

 平田昭彦がいつもの科学者役ではなくって警視庁の捜査一課長をやっていて、いつもの怪獣映画とはちがう演技をみせてくれるのがいい。悪役の佐藤允が、その存在だけでこの画面にノワールな色調をかもし出すようですてき。そう、いつも悪役でなじみの小沢栄太郎が、ここでは刑事部長役。ヒロインの白川由実も、お美しい。実験でマジックハンドでつかまれ、うしろ足でもがいて逃れようとするガマガエルちゃんが、かわいそうだった。


 

[]「フローズン・タイム」(2006) ショーン・エリス:監督 「フローズン・タイム」(2006)  ショーン・エリス:監督を含むブックマーク

 ぜんぜんどういう映画だか知らないで観はじめ、さいしょのうちはあれこれと映像として面白いショットもあったので観ていたけれど、中盤からはどうでもいい青春コメディ&どうでもいい恋愛モノになってしまった。このいかにも「イギリス映画」という感じには好感を持つけれど、ちょっとじかんを無駄にした。

 しかし、こういう、「時間よとまれ」っていうの、小さいころにTVで「ふしぎな少年」というドラマをやっていたことを思い出した。それでもね、ヤボなことをいえば、もしも仮に時間がとめられるとして、それでその命令を出した人物だけが時間の停止から逃れられているとしても、まわりのものはすべての分子、原子レベルから停止しちゃってるんだから、たとえどこかの誰かさんだけに時間が動いていたとしても、彼は自分のいるところから一歩だって、空気をかきわけて動けるものではありまっせん。いや、それ以前に‥‥。



 

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