ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2012-12-31(Mon)

 とうとう、2012年もさいごの日になってしまった。なにもやらない、だらしないいち年だった。救急車に乗ったり入院したりということはあったけれども、身体不自由になったわけでもないのだから、なにもしなかったことのいいわけにはならない。ただ、この年の瀬になってようやく、「まだまだ生きることを何かに求められている」という考えになった。そういうことであしたからのあたらしい年は生きていかなくっちゃという、希望のようなものをもてるようになったのは進歩、だと思う。外からの「生きろ」という声を実践するのはわたし。ふふ、むかしのわたしなら「奇妙な考え」としてはじき飛ばしたような思考ではないか。まあそれだけ「老いた」ということではあるだろう。意識して生きることを実践するというのは、死ぬ準備をすることなのだから。

 きのうのよるに友人からメールをもらい、ちょっとは離人症的な気分を克服できた気がする。それでもせんじつのそういう離人症体験は貴重なものだった、ということはできる。自意識をずらすことができたというのか、ある条件の下では世界はまったくそれまでと異なる様相を示すことがわかった。その、「ある条件」というものも、すこしはわかった気がするけれど、そうかんたんには呼びもどせはしない。内的なじかんがスライスされて、そういう薄切り状態でげんじつのじかんに挿みこまれてくる。あまりに薄切りなので、向こう側が透けてみえてしまうのである。しかしそのことで、げんじつのじかんには認識もできないようなフィルターがかかる。だから、わたしのいる世界は、外のだれと共有できるものではない世界になる。これは存在するすべての人にあてはまることだと思う。

 きょうはひるまえに線路の向こうのスーパーへ、ことしさいごの買い物のつもりで出かけた。店内はお正月モード一色で、野菜もお正月価格だし、生鮮食料品コーナーも、おせち料理とその材料、きれいに盛り付けられたお刺身などばっかり。でも、そのお刺身コーナーの隅っこに、バリ産だという「めばちまぐろ」の生肉のブロックが置いてあった。ほとんどまっ黒な肉のかたまりで、とてもそのままでは人類が食用にできるとは思えないのだけれども、ニェネントちゃんならきっとよろこんで食べてくれるだろうと買って帰った。ずっしりと重たいけれど、たったの200円。

f:id:crosstalk:20130101113723j:image:right 帰宅して、そのまぐろ肉のブロックをこまかくさばいて、ニェネント皿に出してあげた。だいたいわたしがキッチンでなにかやってるときまってのぞきこんでくるニェネントだけれども、やはりその匂いとかでも「これは自分の好物」とかわかるんだろうか、皿に出してあげるまえからなんとなくそわそわしている気配がある。皿にのせるとすぐにとびついて、ほんとうにおいしそうにすぐにぜんぶ食べてしまった。よろこんでもらえたようでわたしもうれしい。ニェネントちゃんの年末年始のごちそう。まだあしたあさっての分ぐらいはあるけれど、どうか、いつまでもこれがつづくとは思わないでよね。‥‥わたしは、年越しそばのつもりでおそばでの昼食。なんだかニェネントの方が豪華なんじゃないの、という感じがする。

 ひるまはヴィデオをみてすごし、夕食のじかんになって、ご飯を炊いているあいだにまたニェネントにまぐろ肉を出してあげる。こんどはもう皿に出してあげるまえから「あ、またわたしの大好きなまぐろだ! はやくちょうだいよ!」ってな感じで、にゃあにゃあないている。こんな反応もほんとうにめずらしい。やはりまたすぐに皿にかじりついて、すぐにぜんぶ食べてしまう。‥‥よっぽどおいしくってうれしかったのか、食べ終わったあとに、部屋じゅうをかけめぐってあばれる。キッチンからリヴィング、和室とかけぬけて、またわたしのいるキッチンまでもどってきて、わたしをみて急ブレーキをかける。いきおいがついているので、ブレーキをかけてもフローリングの床の上でニェネントのからだがすべる。それでまたいきおいをつけて、こんどは和室からリヴィングへとまわって、またキッチンへすべってくる。こんなにはしゃいでいる(あばれまくる)ニェネントのことは、ほんとうにはじめてみた。なんだか、わたしの方まではしゃぎたい気分になってしまった。
 えーっ! その黒まぐろ、そんなにおいしいのかよ、ってな気分で、わたしもそのまぐろの肉塊から、あんまり黒ずんでいないところを削りとって自分の夕食のおかずにくわえてみた。‥‥って、やっぱバリ島のまぐろ、おいしくないじゃん、ってな感じで、わたしの食べ残しはまたニェネントにあげるのであった。

 夕食のあとはもうさっさとベッドにもぐりこんで、読書モード。ただTVはつけっぱなしで、紅白とかにチャンネルは合わせてある。じつは、きゃりーぱみゅぱみゅという存在にちょっと興味があって、そのステージをみてみたいと思っていたのです。‥‥あ、出てきたぞ、というのでベッドから起きだしてTVをみる。そのステージの後半、サッと衣装をチェンジしたあと、バックのダンサーたちのマスクだとか衣装をみて、「これって、<キュピキュピ>じゃん!」と思い当たる。そうか、「きゃりーぱみゅぱみゅ」という名まえからして「キュピキュピ」だし、これってぜったい「キュピキュピ」の存在を意識してやってるよね、と思うのであった。‥‥真相はどうなんだろう。(知らなかったけれども、キュピキュピのスタッフというのがある大きな事件のほぼ当事者ということになり、そのあたりが原因でキュピキュピの東京公演が中止になったということを読んだりした。)
 あとは、美輪明宏の、信じられないほどにオーセントリックなステージをみてかなりの感銘を受け、またベッドにもぐりこんで寝た。



 

[]「ああ爆弾」(1964) 岡本喜八:監督 「ああ爆弾」(1964)  岡本喜八:監督を含むブックマーク

 ほぼ全編が、能・狂言、歌舞伎、文楽などの古典芸能の様式のパロディーという演出。‥‥まだわたしは、こういうのをちゃんと観ることのできる精神状態にはないというか、観ていてもその演出のあざとさ、そしてしつっこさにげんなりしてしまう。おそらく映画館で観ていれば、がまんできないで冒頭の十分ぐらいで席をけっていたんじゃないだろうか。もっと別の気分のときに観ていればまたちがった印象をもったかもしれないけれども、ただただ忍耐の95分、だった。


 

[]「原子力戦争 Lost Love」(1978) 黒木和雄:監督 「原子力戦争 Lost Love」(1978)  黒木和雄:監督を含むブックマーク

 原田芳雄氏、佐藤慶氏、そして山口小夜子さんという、もういまではこの世にいない三人の出演作。原子力発電所の事故がらみの展開として、きょねんもこれと同じことをやっていたんじゃないかというような興味、いや、興味いじょうのものもあるのだけれども、げんじつに切り込んだ和製ミステリーとしておもしろい作品だった。ただ、次は自分がねらわれるとわかっているはずの原田芳雄氏は、あまりに無策すぎる気がする。

 この撮影のロケ地はやはり福島らしいのだけれども、わたし的にはそういう原発ということではなく、地方の街の路地だとか夜のネオン街の景観とかに惹きつけられてしまう。これはわたしの病気みたいなもので、こういう嗜好があるせいでこの地に転居して来たりもしたわけだと、この映画を観ながら思ったりした。‥‥いったい、この嗜好の正体は何なんだろう?



 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 17.「終結」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  17.「終結」を含むブックマーク

 ついに、最終回。思いがけなくも、Beatles の「All You Need Is Love」やDelta Rhythm Boys の「Dry Bones」がフィーチャーされていた。とくに「Dry Bones」は、この回のかなめ的なあつかい。

 ‥‥じつは、この最終話の結末だけは、ずいぶんむかしにレンタルのVHSヴィデオで観た記憶が残っていたんだけれども、その記憶がちょっとまちがっていたところもあった。こんかい観るときわめてディック的というか、SF的な背景を持たされた「自己分裂」のストーリー、という感じがしてしまう。ある意味ですべては主人公の脳内幻想としてかたづけることもできるけれども、ここまできちんと造型化したことに「ブラヴォー!」と賛辞を贈りたい。



 

[]二○一二年十二月のおさらい 二○一二年十二月のおさらいを含むブックマーク

展覧会:
●「楊洲周延「東絵昼夜競」-歴史・伝説・妖怪譚 月岡芳年「月百姿」30点同時展示」@原宿・太田記念美術館

映画:
●「アウトレイジ ビヨンド」北野武:監督
●「ミロクローゼ」石橋義正:監督

読書:
●「魯迅」竹内好:著
●「近代主義と民族の問題」竹内好:著
●「近代の超克」竹内好:著
●「岡倉天心」竹内好:著
●「ガラパゴスの怪奇な事件」ジョン・トレハン:著 高野利也:訳
●「アンビヴァレント・モダーンズ」ローレンス・オルソン:著 黒川創・北沢恒彦・中尾ハジメ:訳
●「春琴抄」谷崎潤一郎:著

DVD/ヴィデオ:
●「チャイナガール」(1942) ヘンリー・ハサウェイ:監督
●「ハムレット」(1948) ローレンス・オリヴィエ:監督
●「心のともしび」(1954) ダグラス・サーク:監督
●「マッケンナの黄金」(1969) J・リー・トンプソン:監督
●「シシリアン」(1969) アンリ・ヴェルヌイユ:監督
●「フレンチ・コネクション」(1971) ウィリアム・フリードキン:監督
●「フレンチ・コネクション2」(1975) ジョン・フランケンハイマー:監督
●「オーメン」(1976) リチャード・ドナー:監督
●「テス」(1979) トマス・ハーディ:原作 ロマン・ポランスキー:監督
●「Emma エマ」(1996) ジェイン・オースティン:原作 ダグラス・マクグラス:監督
●「プラットホーム」(2000) ジャ・ジャンクー:監督
●「ブラッド・ワーク」(2002) クリント・イーストウッド:監督
●「アリス・クリードの失踪」(2009) J・ブレイクソン:監督
●「女と銃と荒野の麺屋」(2009) チャン・イーモウ:監督
●「スーパーマンを待ちながら」(2010) デイビス・グッゲンハイム:監督
●「バンクシーの世界お騒がせ人間図鑑」(2011) バンクシー/ジェイミー・ドゥクルーズ:監督
●「好人好日」(1961) 渋谷実:監督
●「赤い影法師」(1961) 小沢茂弘:監督
●「家庭の事情」(1962) 源氏鶏太:原作 新藤兼人:脚本 吉村公三郎:監督
●「姿なき追跡者」(1962) 古川卓巳:監督
●「拝啓天皇陛下様」(1963) 野村芳太郎:監督
●「続・忍びの者」(1963) 山本薩夫:監督
●「アカシアの雨がやむとき」(1963) 吉村廉:監督
●「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督
●「ああ爆弾」(1964) 岡本喜八:監督
●「原子力戦争 Lost Love」(1978) 黒木和雄:監督
●「人間失格」(2010) 太宰治:原作 荒戸源次郎:監督
●「乱暴と待機」(2010) 本谷有希子:原作 富永昌敬:監督
●「監督失格」(2011) 平野勝之:監督
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 14.「悪夢のような」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 15.「おとぎ話」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 16.「最後の戦い」
●「プリズナーNo.6」(1967〜68) 17.「終結」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十一話「お化け半鐘」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十二話「帯取りの池」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十三話「チャルゴロを聴く女」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十四話「小女郎狐」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十五話「かむろ蛇」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十六話「二人女房」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十七話「化け銀杏」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十八話「金の蝋燭」



 

[]二○一二年のおさらい 二○一二年のおさらいを含むブックマーク

舞台:17(演劇8、ダンス8、能・狂言1)
 ことしはすこし、ダンスを観ることが多くなった。十一月のバットシェバ舞踏団はすばらしかったし、黒沢美香さん、そして大駱駝艦なども印象に残った。演劇では、ずっと観つづけている少年王者舘が、いままでにない展開をみせてくれて楽しませていただいた。

展覧会:9
 歌川国芳展にはじまり、さいごは楊洲周延、月岡芳年と、浮世絵で明けて浮世絵でおわったいちねん。楽しみにしていたポロック展には二回行ったし、バーン=ジョーンズ展や六本木の古代エジプト展などもすばらしかった。                    

読書:59
 「昭和文学全集」に収録された作品を作品ごとにカウントしているので、これだけの冊数を読んだわけではない。とにかくなん十年ぶりかに読み返した「嵐が丘」が圧倒的だったし、ピンチョンの新作「LAヴァイス」もそりゃあ楽しめた。まだ読んでいてらい年にまたがることになるパワーズの「エコー・メイカー」もすばらしい。

映画:18
 もうとても「わたしのベストテン」などを書けるような本数を観なくなった。それでも印象に残るのは、モンテ・ヘルマンの「果てなき路」、カウリスマキの「ル・アーヴルの靴みがき」、コッポラの「ヴァージニア」など。そうそう、ワイズマンの「クレイジーホース☆夜の宝石たち」もすばらしかった。

DVD/ヴィデオ:375
 「プリズナーNo.6」や「半七捕物帳」などのTV作品も、一回分を一本でかぞえている。まだまだ録画してあるだけで観ていない作品が山と残っている。どうするんだよ。

 ‥‥あたらしい年は、こうやって受けとめるものの数ももっと少なくなってしまうと思う。



 

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■ 2012-12-30(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 冷たい雨が、いちにちじゅう降りつづいていた。きょうでことしのしごとはおしまい。もうここまでくるとしごと量もいっしゅうかんまえの五分の一、いや、もっとすくなくなってしまっている。

 しごとを終えて帰宅して、トーストにレタスと目玉焼きとハムをはさんだ、いつもとおなじ朝食をとる。このあさのメニューはもうなん年もたいていおなじで、めったなことではかわらない。朝食のあとは五種類のくすりを飲み、血圧をはかって記録する。せんしゅうはずっとおちついた値だったのが、こんしゅうはあさの計測値がちょっと高くなっている。寒さのせいなのかもしれないけれど、ひるとよるの計測値はずっと正常値がつづいている(ときには低すぎるんじゃないの、という数値にもなる)。これからもずっと、くすりからは離れられない生活がつづくのだろう。

 ひるまえにまたドラッグストアに買い物に行く。また半額コーナーにいろいろな食品が追加して置かれているのをみて、またレトルト食品などを中心にいっぱい買ってしまう。賞味期限をチェックしてもまだはんとしぐらいだいじょうぶなものばかりなので、きっと回転のわるい商品の追放処分なんだろう。こういう食品は食塩をいっぱい使っているのでわたしにはあんまりよくないし、わたしもじっさい味覚的にも塩味を忌避する傾向にあるのだけれども、半額になると「えっ?」という価格になるので、保存食のつもりでもついつい買ってしまう。
 あとはおつまみのコーナーなどをみて歩いていて、イカの足の薫製が400グラムも詰められたものが300円ぐらいで売っているのをみつけ、「ウソだろ?」みたいな感覚になった。これは半額コーナーではなくって、通常の価格のコーナーに置かれている。なんか値段の付け方まちがってるんじゃないかって思ってしまった。イカはわたしの大好物なので、年末年始はこれで行こうと、買って帰った。いっしょにニェネントのネコ缶もまとめ買いした。お正月には、またニェネントにカツオの刺身を買ってあげたい。

 きょうはなんだかTVとかヴィデオを観る気にならず、ずっとCDを聴いてすごした。まずはまたGavin Bryars の「The Sinking of The Titanic」の三枚のCDをぜんぶ聴いた。Gavin Bryars はいまはどうしてるんだろうとネットで調べたら、その「The Sinking of The Titanic」のまさに新録音盤が2007年だかにリリースされているのを知り、Amazon にも高い価格ではなく出ていたので、ことしさいごのお買い物のつもりで注文してしまった。
 つぎに聴いたのは、Harold Budd がHector Zazou と共演した「Glyph」というアルバム。リリースされたのは1995年ぐらいのものか。とにかく一曲目の「Pandas in Tandem」という曲のイントロ、というか導入部だけは最高だったという記憶で、やはりCDプレーヤーからその曲が流れはじめ、しばらくのリズム展開のあとにHarold Budd の感傷的なピアノの音が割り入って来て、そのバックでこまかいパルス音が左から右に流れるしゅんかんは「鳥肌モノ」、だった。このさいしょの一分間だけは大傑作なんだけれども、じつはこのあとはどうでもいい音になってしまうアルバム。きょうもやっぱ、その「Pandas in Tandem」(変なタイトル)のあとはどうでもよくなってしまった。

 まだ明るいうちに風呂に入ることにして、またなにか聴きながら「いい湯だな」とかやるつもりでなにを聴こうかと考え、「Glyph」のリリースとおなじ時代の名作、Massive Attack の「Protection」なんてえのを引っぱり出してきた。「Protection」、いま生きていくうえでも重要テーマだなあ、などと。
 ‥‥湯につかって、さいしょのタイトル曲でのTracy Thorn のヴォーカルを聴いていると、ほんとうに気もちがやわらいで行くのが実感できる。Tracy Thorn にとっても、この曲が最高のシンギングなんじゃないだろうか。湯舟につかって浴室の天井を見上げながら聴いていると、全世界がその2メートル四方に満たない天井に収縮してしまうような感覚を覚えた。
f:id:crosstalk:20121231064316j:image:left 音がよく聴こえるように、浴室のドアは開けっ放しにしてあったのだけれども、ふっと浴室の外をみると、バスマットの上にニェネントがちょこんとすわりこんでいて、目をまん丸にして耳を低くして、わたしのことをみていた。ニェネントなりの「興味津々」というしるしなんだけれども、ずっと浴室は締めっきりだし、わたしもふだんはドアを締めて入浴しているので、「こんな隠し部屋が‥‥」みたいなところなのかもしれない。きょねんの地震でなんにちも断水したこともあって、あれ以降は湯舟の湯はそのままつぎの入浴まで流さないようにしている。いぜんは入浴のあとの湿気を抜くためにしばらく浴室のドアを開け放していたこともあったけれど、それでニェネントが浴室にはいりこんで、湯舟に落っこちたことがある。「我輩は猫である」ではないけれども、意外とネコの死因の高いところで「溺死」というのがあるらしいのがわかって、ふだんはぜったいに浴室は開け放しにしないことにしているから、ニェネントには浴室のなかというのはもの珍しいのかもしれない。しかし、入浴シーンをじっとみつめられるのは恥ずかしい。

f:id:crosstalk:20121231064230j:image:right 風呂上がりは、こんどはデヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」のサントラ盤を聴いた。パソコンのまえにすわって聴いていたら、ニェネントもパソコンの上にあがってじっとしているんだけれども、スピーカーからまるで動物の断末魔の叫び声みたいなのが聴こえてくると、まずはスピーカーの方にあたまを向けて「なにが起きてるの」みたいな反応をして、それからパソコンの上からとびおりて逃げていってしまった。‥‥変形されたFats Waller のパイプオルガンもいいし、やはりPeter Ivers の「In Heaven」に打ちのめされる。

 ‥‥なんだか、この年末になって、暗い音楽ばかり聴いてしまった気分。しかし、それでわかったことがひとつある。わたしはちょっとばかり、ほんのちょっと、「離人症」の症状が出ていることがわかった。このあいだからときどき心的にあらわれるフラッシュバック的な映像、TVをみていてもそれがまるで「他人事」みたいな感覚、読んでいる「エコー・メイカー」から受ける感覚など、「いったいこれはなんだろう」という思いはあった。いろんなCDを聴きながら、「離人症」ということばをふいに思い浮かべ、これを調べてみたら、思いあたることがいろいろと書かれていた。まだわたしの症状は軽いし、そういうことからみえてくることがらは興味深い。世界は変わらなければならないというのは、わたしの望んでいたことでもある。‥‥ニェネントはいるし、ご心配は無用。

f:id:crosstalk:20121231064402j:image:left Massive Attack を聴いていて、「そういえば、Tricky というアーティストがいたなあ」と思い出し、Amazon で検索したらその「Nearly God」というアルバムがすごく安く売られていたので、これも買ってしまった。このジャケットが、わたしがきょう浴室で天井を見上げていた感覚を思い出させてくれる。このジャケットを手に入れるためだけでもいい。



 

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■ 2012-12-29(Sat)

 きょうからはしばらく飛び石連休というか、一月の二日、三日だけはふつかれんぞくの勤務だけれども、それいがいは七日の非番の日まで、いちにちおきに出勤しては休みになる。どこかで年休をとって三連休をつくるのもいい。
 そういうわけできょうは非番の休み。外は好天で洗濯するとかお出かけするとかすればいいのに、なんと部屋から一歩も外に出ないですごしてしまった。窓の外が暗くなってきたのをみて、「あーあ、きょうはなんにもしなかったなあ」と、がっくりする。

f:id:crosstalk:20121230105729j:image:right ニェネントはようやく、和室のパソコンの上にのっかることができることを発見した。まえのパソコンはとても上にのることなどできはしなかったけれど、いまはすっごく古い箱型のパソコンを使っている。ニェネントはきょうのきょうまで、そのパソコンの上にのれることに気づかなかったのである。‥‥わたしも和室でパソコンのまえにすわっていることが多いので、ニェネントがわたしのそばにひっついていたいのなら、まさに理想的なスポットではある。そういうわけで、ベッドで寝ていないときにはパソコンの上に居すわって、上からわたしの手もとを見つめている。パソコンに向かっていてふっと目線をあげると、思いがけずにニェネントと目と目が合ってしまい、「いやあ、照れちゃうなあ」なんてことになってしまう。パソコンの上で向きさえかえればそのまま窓の外もみることができることもあるし、ニェネントはわたしがパソコンに向かっていなくっても、パソコンの上でまどろんでいる。パソコンの上に座布団を敷いてあげようか。

 図書館から借りているリチャード・パワーズの「エコー・メイカー」をこのところ読みすすめていないので、ちょっと拍車をかけて読まないと返却期限までに読み終えられない。きょねんはピンチョンの「逆光」上下巻、どちらも二段組七百ページというのを二しゅうかんで読み終えたこともあったし、それにくらべれば一冊六百ページなんてどうってことないんだけれども、ちょっとつまずいてしまうとペースが狂ってしまう。とっても興味をもちながら、あれこれと考えながら読んでるのだけれども、どこかつらいところのある本だということはいえる。おもしろくない、などというのではないけれども、つい、「この本を読んでいる<わたし>とは<誰>なのか」みたいなことを思ってしまう。きつい。それでもきょうはがんばって、ようやく三百ページをこえるところまできた。図書館に借りている本はあと二冊あるけれども、そっちは本を開くこともなしに返却することになるだろう。


 

[]「チャイナガール」(1942) ヘンリー・ハサウェイ:監督 「チャイナガール」(1942)  ヘンリー・ハサウェイ:監督を含むブックマーク

 Wikipedia でこの作品の項目をみると、アメリカでこの作品が公開されたのは1942年の12月9日、となっている。まさに「パール・ハーバー」からいち年が経ったところでの公開で、この映画でも、日本軍の真珠湾奇襲作戦というのが「日本軍の機密」としてちょっと取り上げられてはいるけれども、ここでの背景は日本の中国侵略。日本の軍人を敵役で登場させるのもむずかしかったのか(ちょっとだけ出てきて、奇妙な日本語を聴かせてくれるが)、日本軍に通じたアメリカ人のスパイというのをドラマにからませている。主人公はジョージ・モンゴメリーという俳優で、エロール・フリンみたいな容貌の、じつはすけこましが専門の報道映画カメラマンという設定。彼が惚れてしまう中国人女性がジーン・ティアニーで、「どこが中国人やねん」と誰もが思うところだろうけれども、とにかくもって比類なく美しいことはまちがいない。

 しっかしまあ、まさに太平洋戦争中に公開された「反日」映画としてはどうも中途半端な出来で、たしかにセリフでこそ「ジャップ」だとか「猿」だとか、あれこれと日本人を侮蔑する言葉は出てくるんだけれども(字幕ではそのあたりはオミットされていたね)、いったいぜんたい主人公は何を原理にして行動しているのかということはまるでわからないままである。‥‥悪口いえばいいってもんでもないだろうに。いやもちろん、冒頭に「男というものは自分、女、そして祖国を守ろうとするものだが、この映画はそのうちのふたつだけを守ろうとした男のストーリーである」というテロップも出てくるので、まあそういうことなんだろうとは了解するけれども、けっきょくは「愛する女性を殺されてしまった、彼女を殺したのは日本軍なのだ」っつう展開で、この演出では「反戦」という意図もみてとれないし、「憎むべき敵」としての<日本/日本軍/日本軍人>というものの姿も、まるで不鮮明なままである。このような(いいかげんな)主人公では、観るものに「愛国心」を喚起させることもむずかしかっただろう。‥‥やっぱ、いくら飛躍してジーン・ティアニーに中国人は演じさせても、悪役として日本人を演じる俳優がいなかったことは大きいだろう。原案はダリル・ザナックで、脚本も製作もベン・ヘクトということなんだけれども、美しいジーン・ティアニーを観ることができる以外、映画としての価値は低いだろう。ヘンリー・ハサウェイの演出は、彼の後期の「のんびりした」作風よりは、ずっといいと思う。



 

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■ 2012-12-28(Fri)

 寒いいちにちだった。わたしがしごとに出るときも、ニェネントはベッドからおりて来ようとはしない。ダンナがはたらきに出るときでもずっと寝ているグータラ女房みたいではないかと思ったりする。

 きょう、年末の過剰だったしごと量が、ほぼ通常にもどった。「やっと終わった」という感覚。世の中はあたらしい年を迎える準備にはいったみたい。
 しごとを終えてスーパーに行くと、冷蔵食料品を置いてあるコーナーはほとんどがおせち料理の素材に置きかえられ、野菜の価格もめっちゃ高く書きかえられている。レタスが250円ぐらいもするのにはまいった。わけありコーナーにあったリンゴが、みた目は無傷なのが四個で97円というのは安いので買った。リンゴなんて、いちねんにいちど食べることがあるかどうか。

f:id:crosstalk:20121229175401j:image:right きのうのカツオがまだ残っていたのをニェネントにあげる。ほんっとうにおいしそうに、一気に食べてしまうのをそばで観察した。わたしも刺身とか食べたくなった。TVを観ていると、またニェネントはTV台の上にかけあがって、わたしのじゃまをする。「じゃあ遊ぼうか」とニェネントを抱き上げたりはするけれども、それでニェネントがうれしいと思っているのかどうか、ニェネントの表情はとぼしいのでわからない。ニェネントの耳にさわると、やはりとっても冷たかった。人間とおなじなわけだ。ニェネントも熱いものにさわったりしたときには、まえ足を耳にもっていって、「あちちち」とかやるんだろうか。ニェネントは口や舌の構造から、「あちちち」なんて声は出せないけれども。
 ニェネントの口を「あにゃぁ〜」とあけさせると、牙の噛み合わせとか、よく出来ているんだなあと感心する。それで、人間でいえば「前歯」にあたるところに、上にも下にも六本ずつ、とっても小さい歯が並んでいる。これで食べ物をくわえとって、カシャ、カシャと噛み砕いているわけだ。とくに下に並んでいる六本は幅も長さも1ミリぐらいしかなくって、かわいらしくきれいに並んでいる。上の歯だって、下よりはちょっと大きいだけ。ネコは歯なんかみがいたりしなくても虫歯になんかならないからいいな。ちゃんと食べ物を選んでるから(チョコレートがころがっていてもぜったいに食べないから)。

 ヴィデオを観たあと、ちょっと酒とかを飲んで、ベッドに入ってパワーズの「エコー・メイカー」を読みながら、Gavin Bryars の「Sinking of The Titanic」の、1995年リリースのPoint Music 盤を聴いた。って、わたしはこのPoint Music 盤というのはかんぜんな新録モノだと思っていたのだけれども、こうやって90年のCrepuscule 盤とつづけて聴くと、これ、基本の音はぜったいに同一のものである。ただ冒頭に船が氷山に激突するサウンド・エフェクトなどが挿入されていたり、生き残った人の証言の音声テープだったかの音声もちがうので、てっきりすべてあたらしく録音したのだろうと思っていたけれども、この95年盤はあくまでも90年のCrepuscule 盤の音をメインにして、そこにあれこれのあたらしい音をオーヴァーダブしていったものなんじゃないだろうか。いまごろになって気がついた。‥‥そんなことを考えながら、わたしはやはりそのまま寝てしまった。目がさめるともう、外は暗くなっていた。ご飯を炊く気にもならず、このよるはミートソースをつくってスパゲッティにした。残っていたトマトを使うのを忘れた。

 夕食を終えてまたベッドで本を読んでいたら、また寝てしまったようだ。よくもまあこんなにいっぱい眠れるものだと感心してしまう。「ああ、ニェネントがベッドに上がってきたなあ」、とかいうのは覚えている。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十八話「金の蝋燭」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十八話「金の蝋燭」を含むブックマーク

 当時の芝居小屋での歌舞伎というのか、そういう芝居、小屋での光景が、ストーリーの導入部に活かされていた。こういうのを観ると、唐十郎などはこの世界を引き継いだわけだなあと、いまさらながらに納得してしまう。安心して観ていられる回だった、といういい方はおかしいか。



 

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■ 2012-12-27(Thu)

 スーパーに行って、魚の切り身のクズの部分が安く売っていて、ニェネントに買ってあげようかなあ、とか思いながらとりあえずはほかのものをチェックして、またもどってみたらだれかに買われてしまっていた。なんか悪いことした気分になって、冷凍モノを解凍したカツオの刺身がとっても安かったのを、ニェネントにあげるつもりで買って帰った。
f:id:crosstalk:20121229072849j:image:left 帰宅して、ニェネントのお皿にそのカツオをちょっとだしてやった。匂いででもわかるのだろうか。ニェネントはすぐに飛んできて、あっという間に出してあげたのをぜんぶ食べてしまった。ちょっとずつじかんを置いて、「ほら、ニェネントくん!」とカツオを出してあげるたびに、すぐにぜんぶ食べてしまう。やはりよっぽどおいしいんだろうなあと思う。まいにちまいにち、こうやって生のおさかなをニェネントにあげられるといいんだけれども。

 ニェネントとわたしとはこのごろ以前よりずっとベタベタのかんけいで、わたしがニェネントをかまうだけ、ニェネントもわたしをかまってくるように感じられる。それはわたしも望むところで、らい年はもっともっと、ニェネントといいかんけいをつくりあげたい。もっともっと。

 「ひかりTV」と「WOWOW」の、らい年一月の番組表が送られてきたのをチェックした。まずうれしいのはWOWOWでのデヴィッド・リンチの特集の放映で、劇場公開された映画作品だけでなく、ネットで公開された短編作品などもかなりの量放映される。とっても楽しみ。あとは、せんじつDVDを買ってしまおうかと思ったりもしていたコーエン兄弟の「ミラーズ・クロッシング」が放映されるし、「赤ちゃん泥棒」までも放映されるのがうれしい。日活の「戦争と人間」も、全作品がいっきょ放映される。観なければ。

 夕食に、白菜がまだ残っているのを、持っているレシピ本をたよりにして、やったことのない献立をやってみた。じつはちょうど近所のドラッグストアで、この献立にひつような貝柱の缶詰が半額セールコーナーに置いてあったのだ。
 白菜をネギとかしょうがといっしょに炒め、貝柱の缶詰をぶちこんで固形スープと牛乳といっしょに煮込む。けっこう美味だった。ニェネントにはもちろん、カツオ肉を出してあげた。やはりすぐにぜんぶ食べてしまったニェネントと顔を見合わせて、「おいしいね〜」、と。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十七話「化け銀杏」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十七話「化け銀杏」を含むブックマーク

 演出がまた前々回の方になってしまって、やっぱり観ていられなくってがっかりなのだけれども、ぎゃくに映像演出での失敗例としていろいろと知ることもあった。こういうことはやってはいけないと。たとえば、二人の人物の切り返し(リヴァース・ショット)描写で、そのふたつの人物の画面のなかでのスケールや角度がバラバラだと、じつに奇妙な画面が出来上がったりする。ゴダールの「勝手にしやがれ」みたいな、脈絡のないジャンプカットも出現するけれども、そういうアヴァンギャルドなことをやろうとしてのことではない。あいだにコマーシャルがはさまったときのつなぎに飛躍がありすぎるだけ。
 前回でラストの捕り物シーンの演出、編集がひどかったのを反省したのか、今回はワンシーンワンカットに近い長回しで処理していた。そうすると殺陣の演出に依存できるわけか、けっこう楽しめる捕り物になっていた。しかし、もうこの人の演出では観たくはないのだけれども(調べたら、この人の演出はあと二回残っている。ざんねん)。


 

[]「フレンチ・コネクション2」(1975) ジョン・フランケンハイマー:監督 「フレンチ・コネクション2」(1975)  ジョン・フランケンハイマー:監督を含むブックマーク

 前作で事件は解決していないじゃないか、ってなところでつくられた続編だろうけれども、全編マルセイユが舞台で、フランス人はもちろんフランス語をしゃべる。アメリカで公開されたときには字幕がついたんだろうけれども、アメリカ映画できっとここまでいっぱい字幕がついた作品って、そんなにないんじゃないだろうか。もちろんそれは第一作のウィリアム・フリードキン監督のドキュメンタリー・タッチをひきついだということでもあるだろうけれども、ここでは撮影もクロード・ルノワールを起用して、なんというのか「フィルム・ノワール」的な空気を呼びおこそうとしている。そういうのでは、共演のロベール・フレッソンとジーン・ハックマンとの、反目しあいながらもどこかで互いを認めている空気感はとってもいい。ただやっぱ、アクションシーンになると、どこかでなにかを爆発させないと気がすまないジョン・フランケンハイマーさんの演出というわけで、ハリウッド的に派手派手しくはなるし、ラストの延々と走るジーン・ハックマンだって、どこかハリウッド的ではある。

 まえにこの作品を観たときにも思ったことだけれども、ラストにジーン・ハックマンにフェルナンド・レイが撃たれるというところで、まさにハリウッドがヨーロッパ映画を「Shoot」してしまった、という感覚ではある。


 

[]「ブラッド・ワーク」(2002) クリント・イーストウッド:監督 「ブラッド・ワーク」(2002)  クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 ここでもまた、冒頭からクリント・イーストウッドが延々と走る。しかもマルセイユのようなハーバーの映像から作品ははじまるし、イーストウッドは「フレンチ・コネクション」を意識してたのかしらん。

 ずいぶんまえに観て好きな作品だったけれども(この作品を観てクリント・イーストウッドって監督さんが単純なアクション映画を撮る人ではないことがわかった)、脚本は「L.A.コンフィデンシャル」のブライアン・ヘルゲランドだということは知らなかった。ブライアン・ヘルゲランドはこのあとの「ミスティック・リバー」も脚本を担当しているわけで、1997年の「目撃」から99年の「トゥルー・クライム」、そしてこの作品と、まさにイーストウッドの、アクセルを踏み込んだドライヴがはじまっている感覚。つまりこのあたり、現役をリタイアしようとする(してしまった)その道のスペシャリスト(刑事だとか泥棒だとか、新聞記者だとかボクシングのトレーナーなどなど)が、ふたたびその「スペシャリスト」としての試練を通過する、みたいな作品がつづいている。その集大成がやはり「グラン・トリノ」なのだろうか。

 この作品がいとおしいのは、人と人とのリレーションシップこそが主題になっているというか、もちろんストーリーの中心にもそういうテーマはあるのだけれども、それだけではない、イーストウッドが出会っていくさまざまの人たちとの接触にもまた、そういうリレーションシップの大切さ、すばらしさを感じさせる演出になっているのがすてきな作品。それでその裏返しに犯人はイーストウッドの存在をひつようとし、そのために見知らぬ他者を殺害していく。その死せる見知らぬ他者こそが、いまのイーストウッドを生かしている。



 

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■ 2012-12-26(Wed)

 「漂白」ということばがあるけれども、そういう汚れを落として白くなるよりも、汚れをためてためてためこんで、黒く、まっ黒になるのがいいと思う。
 身体的に汚れるのはアレだけれども。なんというのか、いろんなことの考え方を変えてみたい。まだらい年のことを書くには時期早尚かもしれないけれども、らい年は、やることがいっぱいある。

f:id:crosstalk:20121228104556j:image:right ニェネントはわたしのそばにひっついていることが多くなった。わたしがしごとから帰ってきて和室でパソコンに向かっていると、いつの間にかわたしのすぐわきにすわりこんでじっとしている。わたしのそばにいるといくらかでもあたたかいのだろうか。それで、ニェネントを抱き上げてひざの上にのせてやるのだけれども、どうもわたしのひざの上というのはいやなようで、すぐに逃げていこうとする。

 きのうのだんかいで、きょうのしごとはひょっとしたら全部わたしひとりでやらなければならない可能性もあったので、上司に訴えておいた。そのおかげというか、非番のひといがいは全員集合みたいなことになり、最悪の事態にはならなかった。しかし「鶴の一声」というのか、あまりに集合しすぎ。やって来たおえらいさんに、「これで人たりないの?」みたいなことをいわれたりした。もうクリスマスもすぎたけれども、まだまだしごと量は多い。いっぱい来てくれて助かった。

 川向こうのレンタルヴィデオ店で、また古着の半額セールをやっているので行ってみた。しごと着にしていたボトムスがもうボロになってこのあいだ捨ててしまったので、サイズの合うボトムスがあればいいのだけれどもと思っていたのだけれども、ウエストも丈もぴったりの、けっこういいデザインの黒いボトムスがあったので、うれしくなった。350円。あと、この時期アンダーウエアーがわりにするグレイの長袖のTシャツ250円と、プリント地の黒いシャツ350円とを買った。黒いシャツには銀色のゴシックな書体の文字(読めない)が、やはりゴシックな装飾といっしょにプリントされているのである。こんなのを着てこのあたりを闊歩することはできんだろうと思う。帰宅して、買ったボトムスとシャツを着てみると、往年のマイナーなゴシックロックバンドの元メンバー、みたいである。70年代からいまだに活動をつづけている売れないヘビメタバンドのベーシスト、というコンセプトでどうだろう。
 わたしは長いことずっと、黒い服ばかりを着つづけているのだけれども、これはニェネントのようなネコとの同居生活ではつらいところがあって、とにかく黒い服にはニェネントの毛がめっちゃくっちゃ目立ってしまう。いったいなんでこんなにネコっていうのは抜け毛が多いんだろうと思ってしまう。それでも、「ふんっ!」って感じで、黒い服は着つづけているけれども。

 きょうはあまり本を読みすすめられなかった。



 

[]「Emma エマ」(1996) ジェイン・オースティン:原作 ダグラス・マクグラス:監督 「Emma エマ」(1996)  ジェイン・オースティン:原作 ダグラス・マクグラス:監督を含むブックマーク

 原作はたしか文庫本でもっていると思うけれども、まだ読んでいない。タイトル・ロールはグウィネス・パルトローが演じていて、いい役でわたしのひいきのトニ・コレットが出ていた。むかしのわたしのひいきだったグレタ・スカッキのお顔も久しぶりに拝見できたし、そういうところではうれしい作品だった。って、イギリスの女優さんがいないんでないの?

 グウィネス・パルトロー演じるエマという女性、彼女こそ「高慢と偏見」に満ちた人物というか、階級的差別感とプライドを原則として、偏見にあふれた世間知らずの人物なわけで、まあ原作者からの救いの手が差しのべられていなければ「とんでもない」存在ではある。そんな彼女のいちばんの被害者こそはトニ・コレットの演じるハリエットという女性で、もしも彼女に作者の救いがおよばされていなければ、こんなにかわいそうな存在もいない。

 おそらくはジェイン・オースティンもヒロインのエマのことを「おばかさんねえ」ってな視点で書いているんだろうけれども、この映画の演出も、そのあたりをとってもイイ感じで描いていてほほえましい。一歩まちがえばクソ女なんだから。そういうあたり、グウィネス・パルトローの演技もステキなものではあるし、トニ・コレットのはにかみ演技もすばらしい。ちょこんちょこんと出てくる絵画的な構図もまた、この作品をちょっと高級なイギリス製の茶器(ティーセット)に思わせてくれて、まあ午後のお茶もおいしく飲めるというものである。


 

[]「フレンチ・コネクション」(1971) ウィリアム・フリードキン:監督 「フレンチ・コネクション」(1971)  ウィリアム・フリードキン:監督を含むブックマーク

 わたしはけっこうウィリアム・フリードキンという人の演出が好きで、そんなに彼の作品をなにもかも観ているわけではないけれども、「エクソシスト」も、この「フレンチ・コネクション」も、さいきん(でもないか)の「BUG/バグ」なども、けっこう惚れ込んでいる。そんななかでもドライヴ感最高の作品がやはりこの「フレンチ・コネクション」で、ときどきは観返してみたくなる作品のひとつ。

 冒頭からしばらくの、無言の映像だけでつないでいく演出も小気味いいし、後半の流れの、「もう説明なんかしないからね」というぶっ飛ばし感は、ちょっとばかしハリウッド映画の規範を逸脱している。撮影監督はオーウェン・ロイズマンという人で、「エクソシスト」も撮影はこの人。めっちゃいいしごとやってらっしゃるという感じがする。

 ‥‥やはり何度観ても、このラストの不条理感みたいなもの、「え? これで終わり? 解決してないじゃん」というところは、唯一無比のものだと思う。ゾクゾクしてしまう。



 

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■ 2012-12-25(Tue)

f:id:crosstalk:20121226110408j:image:left ベッドの上にからだを立てているニェネントが、その白い毛と、首輪の赤い色とでもって、いっしゅんわたしの部屋にやってきたサンタクロースにみえた。きょうはクリスマスだった。

 さくやはなかなか眠れなかった。なにかCDをかけて聴こうとして、しばらく聴いていないGabin Bryers の「The Sinking of The Titanic」を聴いてみようと思った。わたしのCDのストックにはこの曲の三種類のヴァージョンが並んでいるけれども、やはりまんなかのCrepuscule 盤がいいと、思った。‥‥ベッドのなかで重い低音の流れるこの曲を聴きながら、これもまた、わたしの「死」なのかもしれないと思った。

 せんじつある方から「音楽葬」のはなしをきいていて、こころに残っていたことがある。音楽葬というのは無宗派、無宗教なので、お坊さんとか呼ばなくっていいので安上がりなのだということ。‥‥いやいや、そんな費用のことよりも、わたし自身が信仰をもっているわけでもなく、そんな、死んじゃったからといってとつぜんに宗教かんけいの方かいらっしゃって供養していただくなんて、つまりはナンセンスではないかという気もちは、いぜんからもってはいた。その方のはなしをきいて、やっぱりわたしの場合も音楽葬がいいな、などとばくぜんと思っていたところはある。そのころの思いでは、ではどんな音楽がいいかと問われれば、だんぜんフォーレの「レクイエム」、それも、ミシェル・コルボ指揮のやつがいいな、などと思っていたのだけれども、考えてみたらフォーレの「レクイエム」だってつまりはキリスト教で、わたしの考える「無宗教」というのではないではないか、ということになる。

f:id:crosstalk:20121226110327j:image:right このよる、つまりはクリスマスイヴのよるに、こうやって「The Sinking of The Titanic」を聴くと、まさにこの曲でこそわたしを葬っていただければ、それがいちばんだと思った。わたしはクリスチャンではないし仏教徒でもないから、天国も地獄も、輪廻転生も来世もあるとは思っていない。だから宗教くさくない音楽がいい。この「The Sinking of The Titanic」にも賛美歌などがコラージュされているというはなしもきくけれども、そういう宗教的な面が前面に出された音楽ではないと思う。もしもリクエストが可能ならば、わたしの葬儀にはこのCrepuscule 盤の「The Sinking of The Titanic」をかけてもらえるといいな。‥‥そんな深い思いで書いているわけでもないのだけれども、そういうことを思いながらの、ニェネントとの二回目のクリスマスイヴのよるだった。

 このところ近所のドラッグストアでは在庫整理でもやっているのか、わけあり半額コーナーにつぎつぎにいろんなものが並べられてくる。貧乏性のわたしはそういうところばかりチェックしているので、欲しくもないものでも「あ、半額だ」と、なんでも買ってしまう。きょうもわさび風味のそばの薬味だとか、おせんべいだとか、あれこれと買ってしまった。けっこう賞味期限が切れるまでにはまだひにちがあるものなので、買っておいてもいいだろうと。

 よる、ベッドで本を読んでいると、ベッドの下にニェネントが来て、「ベッドにあがろうかどうしようか」とうずうずしているふうなので、手をニェネントの方にのばしてやると、そのわたしの指さきにちょっかいを出してくる。おもしろいので、ペンペンとニェネントの鼻さきで指をはじいたりすると、まえ足をくり出してネコパンチで応酬してくる。なんどかめにけっこう強いパンチをくらったので、ネコパンチもあなどれないな、などと思った。ニェネントのあとの反撃は「かみつき技」である。こういうとき、かのじょはあんまり加減というものを知らないので、けっこうかまれると痛い。わたしを、かみ殺さないで下さいね。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十六話「二人女房」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十六話「二人女房」を含むブックマーク

 原作は全巻読んでいるけれども、このはなしはまるで記憶になかった。ちょっとプロットがややこしいせいかもしれない。こんかいはまた脚本が下飯坂菊馬にもどり、そういう展開の妙は楽しませていただいたけれども、やはり演出があんまし‥‥という感じで、こう、TV向けということを意識したのか、顔のどアップの連続というのがちょっとうんざりさせられる。ゲストは長内美那子だったのだけれども、観終わったとたんにストーリーもなにもかも、忘却の彼方へと消えていってしまった。‥‥そんなものよ。

 

 

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■ 2012-12-24(Mon)

 ‥‥かんがえて、やはりニェネントの不妊手術はやめようということにした。手術費用がねん出できないという理由ではない。そうではなくて、ニェネントには未来がある。そのニェネントの未来を、わたしごときが摘み取ってしまっていいはずがない。もちろんいまのわたしには、ニェネントが子を産んだとしてもその子たちをニェネントといっしょに育てるような余裕はもっていないけれども、そんなわたしにもいまは予想もつかない未来というものがひらけることもありうる(と希望する)。それになによりも、ニェネントの母ネコのミイの血筋はもう、ニェネントにしか残っていないはずである。わたしはミイの血が引き継がれていくことを望むべきではないだろうか。そのことが、ミイというすばらしいネコと出会ったわたしが、いちばんに考えるべきことなのだろう。わたしがそのミイの血を根絶やしにしてしまってどうするのか。
 ‥‥もうひとつ。もっと感傷的な理由ではあるけれども、ニェネントをこの家から外に出して、わたしのいないところに一匹だけ取り残すことは、やはりできない。慣れ親しんだというか、そこでしか生活したことのない家から引き離され、見知らぬ部屋で一匹取り残され、しかもまるで見知らぬ人にからだをいじくりまわされるなんて、もしも自分の身にそんなことが起きたら、きっと恐怖で発狂してしまうのではないだろうか。そんな体験をやはりニェネントにさせたくはない。飼い主のエゴだろうか?

 ネコの発情期はつらいのかもしれないけれども、だからといって母ネコになれる権利をはく奪していいわけもないだろう。先に書いたように、いまのわたしにはすぐにニェネントを母にしてあげることはできないけれど、そういう未来、可能性をめざして、わたしもニェネントもいっしょに生きていかなくては。そのことがまた、死んでしまったミイの遺志を継ぐことにもなるのだと思う。たとえミイがもうこの世にいないとしても、わたしはミイのために生きていきたいし、それはつまりはニェネントのために生きるということでもある。ニェネントの生を尊重すること。わたしのつとめであり、使命である。これからはそのように生きたい。

f:id:crosstalk:20121225105026j:image:right ニェネントは寝てばかりいるけれども、ずっとパソコンに向かっていたりTVを観ていたりするばかりのわたしが移動したりすると、起き出してわたしのそばに寄り添ってきたりする。わたしがキッチンに立つときはかならずキッチンに飛んでくる。キッチンのわきに置いてあるパイプ椅子に飛び乗り、わたしがなにをやっているのかじっとみている。もう寝ようと着替えてベッドに入るといっしょにベッドの上にあがってきて、わたしの足のところで丸くなって寝る。もっともっと、ニェネントのよろこぶことをやってあげられるといいのだけれども、いったいニェネントにはなにがいちばんうれしいのだろう。

 きのうの夢の記憶が、それこそ映画のフラッシュバックとおなじように、おそらくは一秒の二十四分の一というひとコマのじかんぐらい、とつぜんに思い出されて、また消えていってしまう。そこから手がかりが得られるのではないかと、いっしょけんめい思い出そうとするのだけれども、「なにかがみえた」といういじょうのものではない。寝ようとしているとき、また、ふっと引き込まれてしまいそうなときはあった。

 せんじつとちゅうまで観ていた「ハムレット」の残りを観て、そのあとも二本の日本映画を観た。よるはベッドのなかで図書館から借りているリチャード・パワーズの「エコー・メイカー」を読んだ。このよるは百ページ近く読み進んだ。リチャード・パワーズにはピンチョンのようにぶっとんだところはないけれども、精緻な現実の見取り図を読み取らせてくれるようなところはある。この新作では、交通事故から「カプグラ症候群」と呼ばれる症状をみせる男性、その看護をするその姉のストーリー。「カプグラ症候群」というのは、目のまえにいる自分に親しい存在が「ニセもの」としか認知できなくなるらしい。つまり、その交通事故にあった青年は、けんめいに看護する姉のことを姉そっくりに化けたニセの人物だと思うわけ。小説はその姉の視点から書かれる。しかし、ひとりの個人ではなく、世界がそっくり「ニセもの」としか感じられなくなったら、どうなるのだろう。このごろわたしは、この世界は「ニセもの」なんじゃないかと思うことがある。‥‥そうなんじゃないだろうか。


 

[]「ハムレット」(1948) ローレンス・オリヴィエ:監督 「ハムレット」(1948)  ローレンス・オリヴィエ:監督を含むブックマーク

 もともとが舞台俳優であるローレンス・オリヴィエは、ここで「ハムレット」を映像化するにあたって、「映画だからこそできること」というものを求めていたのではないかと思う。‥‥もちろん、ローレンス・オリヴィエはこの作品に先立って、「ヘンリィ五世」というシェイクスピア作品を映画化しているので、そっちを観ていないとなんともいえないところもあるのだけれども、ここでオリヴィエ卿がやろうとしたのは、その舞台の内側、ステージの上にまで、観客の視線を導き入れることをめざした演出だったのではないのか。だから執拗にカメラは移動をくりかえすのだけれども、それはつまりは観客が舞台の上にあがってきて、役者のうごきにつれていっしょに移動してくれること、そういう視線をこそ望んだのだろうと思う。基本にあるのは「舞台劇」としての「ハムレット」であろう。そういうなかでゆいいつの例外というか、オフィーリアの溺死のシーン、このシーンのみは、あのジョン・エヴァレット・ミレイの有名な「オフィーリア」を典拠とした演出なのは明白だと思う。わたしはこのシーンの演出、とくにカメラの動きはすばらしいと感じた。ほとんど、青山真治監督の「ユリイカ」の、川に流れるサンダルのシーンに匹敵する。

 

 

[]「姿なき追跡者」(1962) 古川卓巳:監督 「姿なき追跡者」(1962)  古川卓巳:監督を含むブックマーク

 ことし亡くなられた二谷秀明氏を追悼しての放映を録画してあったもの。ギャング団の内部抗争と追求する警察との入りくんだドラマのなかで、ギャング団の後継者と目された人物はいったい誰なのか、っちゅうような、ちょっとしたフィルム・ノワール仕立ての活劇。さいしょは二谷秀明こそがその謎の人物なんじゃないかと思うのだけれども、あっさりとその路線は捨て去られてしまう。そのあたりのキー・パーソンに浅丘ルリ子嬢が登場していて、フィルム・ノワールとしていい感じの展開なんだけど、早い段階で「じゃあ、残ってるのはコイツしかいねえじゃねえか」ってなことになってしまうのが残念。もうちょっとごまかせば、ラスト近くで「あのトレンチコートはたしかあの男‥‥」みたいな面白みは増しただろうに。

 でもでも、そういうフィルム・ノワールなテイストを残した演出はなかなかにステキ。とくに、横浜のレンガ倉庫を「場」に選んだところをちゃんと活かしているあたり、ぎゃくにいま観ても楽しめる要因になっているかも。‥‥いまは、あの舞台は「赤レンガ倉庫」として有名で、わたしも行ったことあります。

 はやくからその正体の割れてしまっている「姿なき追跡者」を演じていたのが郷英治という役者さんで、その顔をみれば「ああ、いろいろと端役をやっておられた方ね」と思い当たるのだけれども、おそらくはこの作品でいちばんフィーチャーされていた俳優さんだったんじゃないだろうか。好きです。

 あとは、あのチョコレート好きな子役ちゃんも、こまっしゃくれていてなかなかのもの。‥‥好きです。

 カメラの、伊佐山三郎さんという方のしごともステキだし、わたしは好きな映画でした。


 

[]「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督 「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964)  円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督を含むブックマーク

 「美女と液体人間」路線を、モロに流行の怪獣映画に連結しようとされたような作品。‥‥じつはわたし、この映画、公開当時に親にせがんで、映画館に連れていってもらって観ています。当時はちょっとしか「ドゴラ」のすがたが出てこないので不満があったのだけれども、いいトシをこいたオヤジになってからこの作品を観ると、これがおもしろかった。
 ‥‥う〜ん、1964年という公開時期が早すぎたね。‥‥これって、サイケデリック映画の先駆けではないっすか。ガキなんか相手にして作らなかったさいごの特撮映画というか、上から下へという引力の法則を逆転した映像もさることながら、宇宙空間にはそれまでの常識的な視覚空間からは外れた世界がある、ということを示したのは「おみごと」だと思う。‥‥だって、「2001年宇宙の旅」なんて、ここからあと一歩、でしかないじゃないか。なに、その「あと一歩」が、とてつもなく大きいんだって? ‥‥そんなことも、ないでしょう。

 いい役で出演している藤山陽子さんって女優さんがいいな、なんて思ったら、ここでの主役級の夏木陽介っちとは、このあともずっと共演関係がつづいたらしい。この女優さんのことはまるで知らなかった。あとはもちろんここでは若林映子さまの登場で、まあこの世界は若林映子さまが出てくればガキンチョの入りこむスキなどありませぬ。ああやっぱ、「007は二度死ぬ」をまた観たくなった。
 あとはもう、ものすごい出演陣で、小泉博なんかでも顔見せ程度だし、中村伸郎、田崎潤、天本英世、藤田進、それに加藤春哉などなど。元祖「へんな外人」のダン・ユマという人も記憶に残しておくべきかもしれない。

 まあこれ以降の東宝特撮映画というのは、この作品の興行不振もあって(だって、ボクちゃんだって当時はつまんなかったもん)、極端なガキンチョ路線にまい進してしまったのはざんねんだと思う。いま観ると、けっこうおもしろかったんだけれども。


 

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■ 2012-12-23(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 よあけどきに、奇妙な感覚で目がさめた。夢をみていたようだけれども、その夢が思い出せない。ただ、目のさめるしゅんかんに、目のまえに「死」が近づいていたような感覚だった。また発作が起きていたのかもしれない。時計をみるとあさの六時ごろで、窓の外も少し明るくなりはじめている。きょうはしごとは休みだけれども、いつもならいっしょけんめいはたらいているじかんではある。なんだかこのまま起きてしまうのもいやで、また目を閉じて眠ることにした。

 七時をまわってから目がさめ、起きて朝食をとったりするのだけれども、夢のことがこころにひっかかってしかたがない。夢の記憶がとつぜんにふっとよみがえってきたりもするのだけれども、その断片はすぐに消え失せてしまう。夢というよりも、読んだはずもない本の断片のようなものでもあった。小説ではなく、どこか思想書のようなもので、その本のページの、活字の集積を視覚的にふっと思い出すようでもあり、その内容が呼び起こされるようでもあった。

 あさに測った血圧には異常もなく、そのあとはいつもとかわらない日常。ひるをすぎてTVをみていると、また奇妙な感覚がよみがえってきた気がした。「へんだな」と思っていると、アルコールのような、薬品のような、この部屋にはありえない匂いが鼻をついた。それと同時に、世界と自分とのあいだにフィルターがかかったような、奇怪な感覚になった。そのしゅんかん、「あっ」と、声を出してもいたかもしれない。

 そんな状態はほんのいっしゅんですぎさってしまい、すぐになにもかももとどおりの世界にもどった。

 ‥‥よあけどきに目ざめた体験とあわせて、きっと「死ぬ」というのは、こういう感覚の延長にあるのではないだろうかと思った。あるいみで「隣死体験」だったのかもしれない。やはり夢のことがちらちらと思い出されるのだけれども、どうしてもその細部は思い出せない。気にはなるのだけれども、じかんがたつとともに思い出されることはどんどんと少なくなっていく。

 こんなことを書くと人にしんぱいをかけてしまうかもわからないけれども、わたしはこういうふうにポコッと死んでいくんだろうなあと思う。きっと、闘病生活なんてものには無縁だろう。それはそうありたいというわたしの願望でもある。五、六年まえに、光束夜の金子寿徳さんが駅のホームで倒れられ、そのまま逝去されたという知らせをきいたとき、「どうせ死ぬんならそういう死に方が理想だな」などと(とんでもないことを)思ったものだけれども、そういけるかもしれない。

f:id:crosstalk:20121224094542j:image:left ただ、わたしにはいまニェネントという同居者がいて、わたしがいなくなれば、そのままではニェネントは餓死してしまう。なにがあっても、そのことだけは避けなければならない。まずはこの自室での、いわゆる「孤独死」というヤツはダメね。少なくともこの部屋の外でいっちゃって、「では遺品整理」ということでだれかに部屋に来ていただいて、「ありゃ、猫チャンがいる」ということにならなくては。それからも、「引き取り手がないから動物愛護センターへ」などという展開もさけなければならない。

 そういうことへの解決策もふくめて、わたしにはやらなければならないことがある。そのことでらい年ずっとかかってしまうかもしれないけれども、そのことがちゃんと終わるまでわたしゃ死ぬわけにはいかない。どうか、それだけの時間を、わたくしにお授け下さい。

 きょうは展開上、変なことを書いてしまったけれども、どうか心配などしないで下さい。わたしは元気に生きています。


 

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■ 2012-12-22(Sat)

f:id:crosstalk:20121224090150j:image:right 寒くなってきて、ニェネントはふとんの上で丸くなっているじかんが多くなった。それでもたいてい、いちにちにいちどは運動のつもりなのか部屋じゅうをかけめぐる。和室の方からかけてきてTV台の上にジャンプして、そのTV台のへりを蹴ってリヴィングの窓のまえまで2メートルぐらいのジャンプ。そのまま方向転換してキッチンへかけぬけ、玄関先からまた和室へともどっていく。乗り気なときにはスタートするときに「にゃご!」などとないてみせる。あんまりなかないニェネントだけれども、この「運動」のとき、そしてわたしに食べ物をねだるときにだけなく。まあ、発情期になってしまうとなきどおしではあるけれども。‥‥そういえば、さいきんずっと発情期が訪れない。冬の寒い時期には遅れるのだろうか。

 きょうもしごとはいそがしく、四十分の超過勤務。あしたからは久しぶりの連休になるけれども、天候もよくないようで、とくにお出かけする予定もない。このあたりで大掃除でもやらないといけないかも。
 帰宅して遅い朝食をとり、ニェネントにも食事を出してあげる。きょうは午前中からヴィデオ、久しぶりの「プリズナーNo.6」を観て、またインスタント・ラーメンで昼食。そのあとローレンス・オリヴィエの「ハムレット」をはんぶんまで観て、ベッドにもぐりこんで本を読み、そのままニェネントと並んでのお昼寝になってしまった。
 目がさめるともう外はうすぐらく、もう夕食の準備をしなければならない。きょうはレシピ本を取り出して、白菜をつかっていままでやったことのない献立をやってみようと。冷凍してあった安い牛肉を炒め、白菜やにんじんといっしょに煮込む。‥‥なんだ、肉じゃがのじゃがいものかわりに白菜にしたようなものだった。これなら肉じゃがの方がおいしい。

 昼寝をしたわりにはまた早くに寝てしまった。どうも、ベッドで本を読んでいるとすぐに眠くなってしまう。


 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 16.「最後の戦い」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  16.「最後の戦い」を含むブックマーク

 ついに、この「プリズナーNo.6」も残すところあと二回。こんかいの邦題も「最後の戦い」となる(原題は「Once Upon a Time」というものだけれども)。たしか第一回で登場していたレオ・マッカーンが、No.2 としてふたたび登場する。やはりこのシリーズのなかでは別格の名優ゆえ、だろうか。

 こんかいはNo.6 はまたも催眠処方でその幼年期へと逆行させられ、その時期の精神面から辞職の理由に迫ろうとするわけだけれども、つまりはNo.6 はそんなことで負けることはない。ラストではついに、No.1 と対面できるところにまで行くのである。あとは最終回のお楽しみ。まあこの回の演出はパトリック・マッグーハン自身で、おもに密室内でNo.2 とのふたりの対決だけでみせるというところでは、不満がなかったわけでもない。

 

 

[]「春琴抄」谷崎潤一郎:著 「春琴抄」谷崎潤一郎:著を含むブックマーク

 こういうのを読むと、ぐちゃぐちゃと冗長で能書きばかりをたれるマルキ・ド・サドの作品など、まるでつまらないものではなかったか、などと生意気な感想も持ってしまうけれども、つまりはサドの作品のように外の世界から断絶した城のなかなどでだけ、食うにこまらない貴族らが変態的な欲望を爆発させるのではなく、ここではちゃあんと明治初期の大阪を舞台にして、主人公たちは市井の生活をずっと継続しているわけである。彼女たちの生活の証言者もいるし、外の世界からの暴力的闖入がふたりの運命を大きく変化させもする。やはりひとつの小説として、谷崎潤一郎という作家の才能に驚嘆する一篇ではある。中学の国語の教科書に載せて、国語の授業でコレをやったらおもしろいだろうな。中学生の反応を知りたい。って、読んでるヤツは中学のころにかくれて「春琴抄」ぐらいは読んでるだろうし。

 しかし、そのさいごまでツンデレをとおす春琴もすっごいし、やはりみずからの眼をつぶす佐助の行為。その部分の谷崎の描写もまたすばらしいものであった。春琴の飼う鶯(うぐいす)の描写もまた、こころに残ってしまう。句読点のきょくたんに少ない文章が成功しているかどうかはわからないけれども、やはり「傑作」だと思う。

 

 

 

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■ 2012-12-21(Fri)

 きょうもしごと量は多かったけれども、スタッフの数が多かったのでなんとかなった。いつもきょうぐらいのスタッフ数でやればスムースに行くのだけれども。
 しごとが終わって帰宅して、朝食をすませてからかかっている内科の医院へ行った。まあまあ順調というか、「このままの生活をつづけて下さい」というところだけれども、ちょっと塩分の取りすぎかもしれないと。自分でもいまでは塩っ気というものが好みというわけでもなく、自炊ではスパゲッティをゆでるときぐらいしか塩というものは使わない。きっと、インスタント食品の買い込みすぎだったかもしれないと思った。もう年末年始にかかるのでその分クスリをいっぱい受け取って、予想外の出費になってしまった。しかし、これから一生、こうやって血圧降下剤とかを服用しつづけなくってはならないんだろうか。

 病院の帰りに近くの図書館に寄り、ナボコフの「プニン」のリクエストを出しておいた。この図書館ではだいたいわたしのリクエストは買ってくれているので、こんかいもだいじょうぶなんじゃないかと、勝手に思っている。館内をぐるりとまわってみると、リチャード・パワーズの新作「エコー・メイカー」というのがあったので借りた。なかなかの長篇で、こりゃあ2012年から2013年への橋渡しはこの本になるだろうなあと思う。いっしょに諏訪哲史の新作エッセイ集と、ジョー・ブレイナードという人の「ぼくは覚えている」という本とを借りてきたけれども、ウチで読んでいる本もあるわけだから、「エコー・メイカー」だけでせいいっぱいなんじゃないかと思う。

f:id:crosstalk:20121223124348j:image:left 帰宅してからはニェネントと遊んだり、ヴィデオを観たりしてすごし、夕食にはとにかく白菜がいっぱいあるので、白菜とレバ肉とかを炒めたものですませた。いっかい白菜を丸ごと買ってしまうと、それから当分は白菜ばかりになってしまうのはつらい。というか、白菜をつかった別の献立を開発しなくてはいけない。
 読んでいる「春琴抄」をはんぶんぐらいまで読み、借りてきた「エコー・メイカー」を少し読んでから寝た。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十五話「かむろ蛇」 「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十五話「かむろ蛇」を含むブックマーク

 この回の脚本は安田正義で、ゲストにピーターも出演しているので、期待して観たのだけれども、こんかいはまるでダメ、だった。やっぱ、演出というのは映像作品のかなめである。‥‥これでは、絵がつながらないではないか。それに、出てくる「かむろ蛇」をやっている少年とか、もうちょっとキレイに撮らなくっちゃあいかんでしょう、という感じである。ラストの殺陣も、めっちゃ演出が下手だと思った。せっかくこのところ毎回おもしろく観ていただけに、残念な回だった。

 

 

[]「好人好日」(1961) 渋谷実:監督 「好人好日」(1961)  渋谷実:監督を含むブックマーク

 笠智衆が俗ばなれした数学者をやっていて、彼につきそう妻を淡島千景、その娘(養女)を岩下志麻が演じている。俗ばなれした数学者というと「博士の愛した数式」とか思い浮かべてしまうけれども、そういうのではなく、どこまでも「脱俗」と「俗」との対比というか、ここでの笠智衆は、「俗」から脱したというより、天然児としてそのままに生きてきた人物、みたいに描かれている。そういう人物に対しての、「俗」にまみれた人間たち。まずはそういうなかでの岩下志麻の立ち位置がとってもいいポジションで描かれていて爽快なのと、この作品で主人公の笠智衆といちばん親和性のある存在が、三木のり平の演じる「こそ泥」、というあたりが楽しい。

 美術がとってもいい作品というか、主人公の住むすまいだとか、ちょっと歩き回る路地の風景などがすばらしい。‥‥ただ、淡島千景の存在をちょっと抑えすぎなんじゃないの、というのが、淡島千景ファンとしての言い分ではある。

 

 

 

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■ 2012-12-20(Thu)

 しごとが、いままででいちばんいそがしかった。お歳暮にプラスしてべつの大口が到着してきたせいで、ほんとうにてんてこまいのいそがしさ、だった。けっきょくいつもより一じかんオーバーの労働。ちょっとまいっちゃった。

 きょうは二十日で、近所のドラッグストアで、そこのポイントカードのポイントが1.5倍のあたいで使えるというありがたい日。もうポイントも500ポイントをこえてたまっているので、750円にはなる。お歳暮用で売っているインスタント・コーヒーの詰め合わせセットを買った。おつかいものにするのではなくて、じぶんで飲むためのもの。六つ入って二千円ぐらいと売り値も値引きされているし、ふだん安く売っているインスタント・コーヒーよりはずっとおいしいコーヒーでもあるし、これをだいたいはんとし飲んでいるとぜんぶなくなって、その時期がまたちょうどお中元の時期になって、また安いセットを買えるのである。恒例の半額コーナーに、寄せ鍋のつゆというのが置いてあったのでいっしょに買って帰り、夕食は買い置きの白菜やえのきやねぎなどをぶちこんで寄せ鍋にした。おいしいけれども、ちょっと塩気が多いのがいけない。

f:id:crosstalk:20121222120612j:image:left ニェネントはまたTV台の上にあがってしまうのだけれども、どうやらその場所が、部屋のなかにいくつかある「滞在スポット」のひとつになってしまったようである。あとは晴れた日にはリヴィングの窓ぎわでまどろみ、それいがいの、いちにちの大半のじかんはベッドの上でまるくなっている。

 ずっと読んでいる「昭和文学全集」の、この巻のラストは林達夫。まえにもちょっと書いたけれども、どう読んでもわたしにはまったく興味のわかないものばかり。みじかいからいくつかのエッセーを読んだけれども、そういうことを書く著者にまったく共鳴できず、読みつづけるだけじかんのムダ、という結論になった。けっきょくこの巻をすべて通読することはかなわなかったけれども、五月の末から読みはじめてここでいちおう読み終えるということにするまで、七ヶ月かかったことになる。まだまだ部屋には手つかずの「昭和文学全集」のべつの巻が十冊いじょう転がっているのだけれども、いったいいつになったらぜんぶ読了できるのだろう。というか、生きているうちに読み終えられるのか。
 とりあえず、ではつぎの巻をということで、この全集の第一巻、「谷崎潤一郎・芥川龍之介・永井荷風・佐藤春夫」の巻を引っぱりだし、さいしょの谷崎の「春琴抄」を読みはじめた。‥‥わたしはてっきり、この「春琴抄」はまえに読んだことがあるはずと思いこんでいたのだけれども、どうやらそれは「刺青」とのとりちがえで、まだわたしは「春琴抄」は読んでいないことがわかった。サイモン・マクバーニーの舞台でいちど観ているわけなのに、たしかにストーリー的なことは記憶にない。ただ、春琴と佐助とのかんけいについてだけ、わかったつもりになっていた。とにかく、評論よりは小説の方が読むスピードはあがるのではないかと思う。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十四話「小女郎狐」 「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十四話「小女郎狐」を含むブックマーク

 この回の原作は「半七」のなかでもちょっとした「傑作」として記憶に残っていたもの。江戸をはなれた片田舎での連続殺人事件、そこに土地にいい伝えられる「狐伝説」がからみ、こっちの方がもっとリアルだけれども横溝正史の先駆みたいなところもある。

 こんかい、いいなと思ったのはその原作からの脚色で、脚本はこのシリーズでいままでに観た作品のいくつかも手がけている下飯坂菊馬という人なんだけれども、そもそもがこの原作は半七の出番はなかったはずである。そこを原作にはなかったところの、江戸にいる半七のもとに事件捜査の依頼が来て、というあたりの展開がなかなかに小気味よく、演出(鈴木敏郎)もしっかりしていて、楽しくみることができた。このところこのシリーズも安定して楽しむことができる。いい。

 

 

[]「シシリアン」(1969) アンリ・ヴェルヌイユ:監督 「シシリアン」(1969)  アンリ・ヴェルヌイユ:監督を含むブックマーク

 ジャン・ギャバン、アラン・ドロン、そしてリノ・ベンチュラの三大スターの夢の共演作。脚本と監督はアンリ・ヴェルヌイユで、脚本にはあのジョゼ・ジョヴァンニも協力している。それで撮影はアンリ・ドカエ。期待して観たのだけれども、ちょっとばかし大味な出来だったかな、と。

 ‥‥せっかくアラン・ドロンが持ちこんだ、宝飾品展示中の美術館のセキュリティ図面がつまりはなんの役にもたたず、これがその宝飾品輸送をかねた旅客樹のハイジャックになってしまうのも乱暴ではないかといいたくもなるし、あれこれと都合のよすぎる展開ではないかとつっかかりたくもなる。ただ、アラン・ドロンとその妹との、捜査網を逃れた連絡がなんとか、フランス映画のフィルム・ノワールの空気をかもしだしていると思ったけれども、無邪気な(?)子どもの「ぼく、ウソつけないの」的なひとことでアラン・ドロンもおしまいよ、というのもジャン・ギャバンも度量がない気もするし、そのジャン・ギャバンの息子どもの方がよっぽどみんなアホっぽいようにしか見えない。だったとしたらそのあたりの「親バカ」ぶりゆえの破滅、という展開にしてもよかった気がする。それに、アラン・ドロンほどの悪党が、ラストであんな隙(すき)をみせるわけもない。わたしがジャン・ギャバンだったら、間抜けな寝取られ亭主と浮気妻をいっしょに即ぶっ殺し、アホな孫も処分してしまって、アラン・ドロンを養子にして、シチリア島でいっしょに優雅な老後をおくりたい。それが極悪人の老後というものではないのか。しかしそれではリノ・ベンチュラの出番がなくなるか。

 ハイジャックされた旅客機がニューヨークの摩天楼上空を飛ぶシーンは、いまではどうしても「9.11」を思い浮かべずに観ることはむずかしい。この映画があの計画のヒントになったのではないかとまで思ってしまう。

 やっぱこの作品はアンリ・ドカエの撮影あってこそで、アラン・ドロン逃亡先のネオンぎらぎらの窓の外だとか、ジャン・ギャバンの巣窟の川をこえたポジションからのショットだとか、「これがアンリ・ドカエ?」という意外性と、「やはりアンリ・ドカエだよな」という安定感、とを楽しめばいい。‥‥この映画でのいちばんのミスマッチは、もちろんエンニオ・モリコーネの音楽ではあるだろうけれども。

 

 

 

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■ 2012-12-19(Wed)

 きょうはしごとも休みで、のんびりと、つまりは「骨休め」をする。いままで生きてきて、骨が疲れたという感覚を持ったことはないし、そもそも骨というものに感覚はないのだろうけれども、「疲労骨折」というものがじっさいにそんざいするのだから、やはり骨休めというのはだいじなことであろう。

f:id:crosstalk:20121221123532j:image:left ひるまTVをみていたら、またニェネントがTV台の上にあがってきて、わたしがTVをみるじゃまをする。「TVなんかみてないで、わたしと遊んでよ」というつもりだと思う。ニェネントを抱いてひざの上であおむけにして、鼻のあたまを指先でかるくペン、ペン、とたたいてやると、まえ足をわたしの腕にかけて目を細め、気もちよさそうにみえる。ほんとうに気もちがいいのかどうかはわからないけれども、ひざからおろしてあげるとわたしの手をペロリとなめてくれた。「ありがとうね」といっているみたい。

f:id:crosstalk:20121221123705j:image:right ゆうがたになって、夕食の惣菜がないことに気づき、そうだ、買い物しなくっちゃ、というわけで家を出た。外はちょうど薄暮どきで、晴れわたって蒼く澄んだ空がとっても美しかった。近くの公園のみえるところまでくると、その公園のなかにクレーンを積んだトラックが入っていて、ちょうど公園のなかにあたらしく街灯を立てようとしているところだった。空の上にはきれいな三日月もみえて、こういう光景を写真に撮っておきたいと急に思い、家にもどってケータイを持ってきた。まあカメラとしての性能はかなり低いものだけれども、撮ってみると空の色だとかはけっこう再現されているようである。ただ、上の方にみえる月をいっしょの構図のなかにおさめることができなかった。それで、公園のなかに入ってみて、公園のまんなかの大きな木と月とをいっしょに撮ってみた。

        f:id:crosstalk:20121221123743j:image

 

 

[]「アカシアの雨がやむとき」(1963) 吉村廉:監督 「アカシアの雨がやむとき」(1963)  吉村廉:監督を含むブックマーク

 西田佐知子の、あの大ヒット曲をタイトルとした作品で、西田佐知子も出演してこの曲を唄ってくれるけれども、主演は浅丘ルリ子で相手役は高橋英樹。この曲を使うのならばぜったいに、お涙ちょうだいの大悲恋メロドラマになっているだろうと予想していたのだけれども、なんとハッピーエンドに終わるすれちがいメロドラマだった。浅丘ルリ子が失踪したり高橋英樹の視力が失われたり(もちろん、ラストにはその視力が回復するのである)、なんだかせんじつ観た「心のともしび」のシチュエーションを思い出してしまうけれど、やっぱ名匠ダグラス・サークの演出にくらべっちゃうと、ずいぶんと調子のいいドラマだなあという感じを受ける。一方の失踪だとか一方の失明というのはメロドラマの定番、ということなんだろう。

 「ええ〜!」みたいな展開、演出は多いのだけれども、この作品の撮影が姫田真佐久氏というところで救われたというか、安定した移動ショットや美しい光のとらえかた、構図などを堪能させていただいた。姫田真佐久氏の撮った浅丘ルリ子がまた美しいのである。
 あとは、いまはない上野の旧都美術館とその周辺がロケされているあたり、なつかしい思いで観た。

 

 

[]「人間失格」(2010) 太宰治:原作 荒戸源次郎:監督 「人間失格」(2010)  太宰治:原作 荒戸源次郎:監督を含むブックマーク

 はじまったと思ったらいきなりSPレコードの回転する蓄音機のアップで、ありゃあ、「ツィゴイネルワイゼン」のヴィデオとまちがえちゃったと、本気で思ってしまった。で、画面がかわるとこれがまたボブカットの大楠道代さんのすがたもみえたりして、そこで「ツィゴイネルワイゼン」とはちがう映画だとは気がついたけれども、でもやはり「ツィゴイネルワイゼン」であることにはかわりはない。また荒戸源次郎さんもえげつないことをやられるなあ、という気もちである。その後もずっと、「よくここまで鈴木清順氏の演出を勉強されましたね」という感じの、「ツィゴイネルワイゼン」のヴァリエーションという映像がつづく。主演は生田斗真というイケメンの俳優さんなのだけれども、これにからむのが伊勢谷友介で、これが「ツィゴイネルワイゼン」でいえば原田芳雄にあたる役どころ、というところ。ついには鎌倉も出てきていよいよか、というところでトンネルも出現し、これはあの釈迦堂の切り通しにあたるような位置付けか。

 鈴木清順氏の大正ロマン三部作のような夢幻的世界、さらにぶっとんだ演出を求めると「ちょっとまだまだ」という感覚はあるけれども、寺島しのぶの登場するシーンはどれもすばらしく、海辺での心中シーンなどは「荒戸さん、すごい!」などと思ってしまった。‥‥ちょっとうちのTVではセリフが聴き取りにくく、とくに後半はもう寺島しのぶも出てこないし、ってな感じで、ちょっとぼんやりと観てしまった。ちゃんと映画館で観ればよかったなあ、と思う。

 中盤になって主人公は本郷へ引越しするのだけれども、その引越し先があの巨大な下宿屋の「本郷館」で、ざんねんながら映画でその全景が写ることはなかったけれども、すくなくともさいしょの門から玄関へととらえるショットはじっさいに「本郷館」での撮影だったと思う。あとの階段や廊下、そして室内の撮影も、ひょっとしたらじっさいの「本郷館」で撮っていたのかもしれない。もう「本郷館」も取り壊されてしまっただろうか。

 

 

 

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■ 2012-12-18(Tue)

 あしたはしごとも休みだから、ことしさいごのお出かけのつもりで午後から電車に乗った。晴天。三時すぎに原宿駅で下車して、また「太田記念美術館」へ行く。これまでまるで縁のない美術館だったのに、この十月からまい月いちどは来るようになって、これで三度目の来訪。いまは明治時代の浮世絵師、楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)の作品の展示、それと月岡芳年の連作「月百姿」からの展示もされている。わたしにはまったく未知の作家だった楊洲周延の作品にも興味があったのだけれども、やはり月岡芳年の作品がもっと観たくなって、きょうこうやってやって来たしだい。

 わたしが入館したときには館内にほとんど観客もいなくて、静寂にみちた空気だった。大きな美術館ではないけれども、俗ないい方をすれば都会の喧騒を忘れさせてくれるというところの、隠れ家のようなスポットである。もともとわたしは都会の喧騒のなかで生活しているわけではないので、どっちかっちゅうと、わたしの住んでるところとおんなじね、というところであろう。ある意味ゴージャスな作品世界を楽しみ、美術館の外に出るともう、薄暮から夜の都会へとそのすがたを変化させようとするじかんだった。展覧会の感想は下に。

 きょうはついでにまた池ノ上に出て「G」に立ち寄ってみようという目論見で、神宮前から表参道を歩いて青山通りに折れ、渋谷まで出ることにした。とちゅうで、いまちょっと気になっている本を探すつもりで、青山通り沿いの大きな書店に寄ってみる。書名だけしかわかっていない探し物なのでやはりみつからなかったけれども、思いがけなく、ナボコフの「プニン」が再刊されているのが目にとまった。「プニン」、いいよなあ。もうほとんど忘れてしまったけれども、ナボコフの作品としてはたぶんいちばん軽いタッチの作品で、彼の作品によく感じる鼻につく気負いもなく、ただただ寝とられ亭主のプニンさんがいとおしくなる作品だったという記憶がある。若いころにこれを読んで「やっぱ、ナボコフは小説のホームラン王です」と思ったものだった。また読んでみたい。とりあえずは地元の図書館に購入リクエストを出そうっと。

 渋谷から井の頭線で池ノ上に行き、「G」までの道すがら、コンビニで肉まんを買って歩きながら食べた。まえは冬になるとよくこうやってコンビニで肉まんを買って食べたものだったけれど、こういう買い食いをやるのもひさしぶりな気がする。
 「G」ではオーナーのDさんひとりで店番をされていて、ほかにお客さんもいないようだった。Dさんが「DVDのコレクションが増えたんだよ」という。DVDのケースをのぞかせてもらうと、ほとんどがヴィム・ヴェンダースのDVDだった。Dさんはヴェンダースの大ファンだからな。DさんがなにかDVDプレーヤーにセットしてくれて、なんだろうと思ってみたら、「戦慄の絆」だった。それでなんだかDさんと映画談議になってしまい、市川雷蔵の映画のはなしなどしていたら、あとから来られてカウンターにすわられたお客さんが興味を示された。「ある殺し屋」で、市川雷蔵がふだんは小料理屋で腕のいい板前としてひっそり暮らしてるけど殺し屋なんだよねー、という話のとき、「そういう、板前が殺し屋だという自主製作の映画をウチで上映したことがある。あれはその映画のパロディだったのか」とおっしゃられる。いったいどういうお方なのかときくと、「G」の近くの「GG」(頭文字だけで書くと「G」と同じになってしまうので、ここはダブルで)のオーナーさんだということ。「GG」ならばむかし二、三度行ったことはあるのだけれども、いまはそういう自主製作映画の上映もやられているらしい。知らなんだ。
 しばらくして店のEさんも出勤してこられて、またしばらくは映画談議。わたしが家ではCS放送やWOWOWなんかで映画ばっかし観ているのだという話から、CSではらい年の新年早々というか、おおみそかから新年になってすぐに「幻の湖」なんて放映するんだよね、などという話をすると、Eさんは「幻の湖」のことは知らなかったようだけれども、その「GG」のオーナーさんは観たことはないけれどもその評判などはごぞんじのようで、「ぜひ観たい」というごようすであられる。おおむかしいちど観ただけのわたしなどより、そのストーリーのことなどもよく知っていらっしゃるのである。そういうわけで、わたしが新年早々に(VHSテープにだけれども)録画して、「G」におあずけしておくことにした。店内は奇妙に盛り上がってしまった。‥‥しかし、新年の年明け早々に、「幻の湖」は観たくはないなあ。

f:id:crosstalk:20121220121109j:image:left あまり遅くならないうちに、そしてあまり飲みすぎないうちにおいとますることにして、「G」を出て帰路についた。ニェネントちゃんが「だんなはきょうもなかなか帰ってこないなあ」と、待ちくたびれているんじゃないだろうかと、飛んで帰りたい気分ではあった。

[]「楊洲周延「東絵昼夜競」-歴史・伝説・妖怪譚 月岡芳年「月百姿」30点同時展示」@原宿・太田記念美術館 「楊洲周延「東絵昼夜競」-歴史・伝説・妖怪譚 月岡芳年「月百姿」30点同時展示」@原宿・太田記念美術館を含むブックマーク

 わたしはこの楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)という人物のことをまるで知らなかったのだけれども、生まれは天保九年(1838年)、没年が大正元年(1912年)ということで、まさに明治時代に活躍された浮世絵師。ことしがその没後百年ということでのこの展覧会でもあるらしい。幕末のころには彰義隊に加わり、その後も旧幕府軍の一員として戊辰戦争(宮古湾海戦)で戦ったことがあるという、画師としては変わった経歴の持ち主である。そのあたりの体験からか、当初は西南戦争などのつまりは戦争画で人気を得たらしいのだけれども、のちには明治時代の女性たちを描いた美人画で圧倒的な人気だったと。こんかいのこの展覧会では、そんな楊洲周延の作品のなかから連作「東絵昼夜競(あずまにしきちゅうやくらべ)」の五十点が展示されている。
 この「東絵昼夜競」というのは、古今東西(中国の伝説もふくむ)の神話・伝説・古事奇譚に題材を求めたシリーズで、ひとつの作品を上下に分け(上部は四分の一ぐらいの面積しかないけれども)、ひとつの題材、人物のその昼と夜とを描き分けている。‥‥やはりわたしなどは妖怪譚に題材をとった、九尾の狐だとか怪猫、化け狸などの作品などをおもしろく観て、その劇画チックな構図や作者の想像力、描写力を楽しむことができた。彼の名を高めたという美人画というか、女性をメインに描いた作品も多数あるのだけれども、その顔の描写は観念的で古くさく、どの作品もおなじ顔ではないかというところもある。遠近法描写も取り入れられていたりするけれども、どうもうまく消化されていないというか、やはり浮世絵と遠近法というのはソリが合わないのではないかという印象もある。ただ、女性たちの着ているきものの、その柄模様はどれもゴージャスで手がこんでいて美しく、このあたりに人気の秘密もあったのではないかという気がした。そう、かつて「地獄太夫」と呼ばれる遊女が存在していたようで、その道中着というのか、そこに地獄絵が一面に描かれているのである。引き連れているふたりのかむろもまた、そのような柄絵のきものを着ている。なかなかに強烈な存在だなあと思った。

f:id:crosstalk:20121220200108j:image:right 同時に展示されていたのが同時代の浮世絵師、月岡芳年による連作「月百姿」からの三十点で、わたしはどっちかというとこちらが目当てでの来場組。この連作は月岡芳年円熟期の作品で、とにかくはそのダイナミックな構図、そして繊細な描画線の美しさを堪能した。なかでもやはり、チラシにも載せられていた「源氏夕顔巻」が圧倒的なすばらしさで、これはいっしゅの幽霊画なのだろうけれども、淡い色彩で、手まえに蔓のある植物(夕顔、なんだろうか?)を配した構図がいい。黒く塗りつぶされない長い髪の、その線描もまた限りなく美しいではないか。ここでの女性の顔は真横を向いているのだけれども、これが(好みもあるだろうけれども)わたしにはやはり、最高に美しく感じられる。考えてみれば、浮世絵というものでこうやって真横からみた女性を描いた作品というのは、ほかに例がないんじゃないだろうかと思うのである。‥‥これはただわたしの無知ということで、じっさいにはそういう横顔を描いた浮世絵というのもあるのかもしれないけれども、ここはやはり月岡芳年の卓越したデッサン力に感服しておく(例として出しては申しわけないところだけれども、同じ会場に展示された楊洲周延の作品にも、男性のものだったけれども横顔を描いた作品があって、これはちとデッサンがくるっているというか、絵としては成功していないと思った。横顔というのはむずかしいのである)。

 そう、こんかいの展覧会ではすべての作品にその題材を説明するキャプションがついていた。まえの月岡芳年の展示では一部の作品にしかキャプションはついていなかったけど、やはり知らない題材をあつかった作品も多いので、キャプションがついていると作品への興味も増す。わたしのような専門家でもない観客にはうれしいことだった。



 

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■ 2012-12-17(Mon)

 外は曇天で、寒いいちにちだった。しごとは休みなのであさからずっと部屋にいるとよけいに部屋のなかは寒く感じる。景気づけに、このあいだ買った「インランド・エンパイア」のDVDをプレーヤーに放りこみ、チャプター検索でいちばんラストのNina Simone の「Sinner Man」の流れるシーンを観た。気分が高揚して、ちょっとからだもあたたまった気がした。「このシーンだけ観られればイイや」と思って買ったDVDだけれども、さいごに劇場公開された予告編を観たらほかにもやはりおもしろそうなシーンもあるわけで、いずれじかんがあれば全編観てみたいと思った。いつになることやら。

f:id:crosstalk:20121219104100j:image:left ひざしの明るい日ならニェネントは窓ぎわで丸くなり、ひなたぼっこしながら寝ていることが多いのだけれども、きょうはまるで日もさしていないのでずっとベッドの上で寝ている。
 午後から近くのドラッグストアに買い物に行き、また半額セールのコーナーに置いてあったインスタントラーメンやそばなど、いっぱい買ってしまった。ちょっと買い込みすぎで、キッチンの食料品の収納がいっぱいになってしまった。夕食にそのひとつのインスタントラーメンを試食してみたけれども、あまりおいしくなかった。わたしの小さいころからあったインスタント麺で、小さいころにはそれなりにおいしいと思っていたのだけれども。あんまり野菜などを入れすぎるとダメなのかもしれない。

 読んでいる「昭和文学全集」も竹内好まで読み終えて、この巻の残りは林達夫だけなんだけれども、これが読みはじめてもまるで興味が持てなくって困ってしまう。先に図書館から借りた本ばかり読み終えてしまうし、いまは外に出かけるときなどには岡本綺堂の「修善寺物語」などの戯曲集の文庫を読んでいる。岡本綺堂はやはりいい。あしたはまた原宿の「太田記念美術館」へ行って浮世絵を観るつもりでいるし、なんだかすっかり老人趣味ではないか。

 

 

[]「バンクシーの世界お騒がせ人間図鑑」(2011) バンクシー/ジェイミー・ドゥクルーズ:監督 「バンクシーの世界お騒がせ人間図鑑」(2011)  バンクシー/ジェイミー・ドゥクルーズ:監督を含むブックマーク

 わたしは評判になった「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」をまだ観ていないので、この「バンクシー」なる存在のことはまるで知らなかったのだけれども、アート活動に非合法活動をドッキングさせたような、いかにもイギリス的なコンテンポラリー・アーティストなのだということで、グラフィティを主にして、ゲリラ的なアート活動を続けられているらしい。いったいどういう人物なのかということは不明、なのだそうである。その「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」はバンクシーの作品そのものが紹介されているらしいけれど、こちらは彼が共同監督として名をつらね、世界のそういうエッジなポジションのパフォーマンスを紹介する作品。原題は「The Antics Roadshow」で、50分弱のもの。おそらくはTVで放映されたものだろうと思う。

 冒頭からいきなりグラフィティ・アートというか、自転車に取りつけたマシーンで、自動的に壁に虹の半円を描いたりする行為が写される。前半はこの種のグラフィティものがあれこれ紹介され、ベルリンでの道路の交差点のそれぞれ四つの車道に四色のペンキをぶちまけ、そこを通過する車のタイヤが、交差点のなかに抽象模様を描いていくさまを写したり、日本にむかしあった勝どき橋のようなはね上げ橋の車道に、巨大なペニスのグラフィティを描いてしまうものなど。後者は、その橋がはね上がると直立していくペニスの絵が人々の目に触れることになる。このあたりまでは行為者もそれを「アート」と主張するところを感じるけれども、だんだんに行為者自身も「アート」だなんてこれっぽっちも思っていないだろう、というような事例があれこれと紹介される。もちろん、監督したバンクシーのなかには、そういう「アート」の境界を拡張する視点、アートを美術館や旧的な批評から飛び出させようとする視点を感じておもっしろい。とくに、その人はただの一般の美術館の観客なのだけれども、美術館のなかの立入禁止区域の階段を降りようとして靴ひもを踏んでしまって転げ落ち、階段の下にあった中国李朝の壺、ひとつが何十万ポンドもするってえヤツを割ってしまった、なんて人物を紹介するときに、そのバンクシーの視点を感じてしまう。もちろん、彼からすれば、ストリーキングというものもゲリラ的なアート・パフォーマンスのひとつなのである。そんななかで、じっさいに国家の政治的な決定や企業の決定に影響をあたえたパフォーマンスが紹介され、つまりは「Antic(おふざけ)」のパワーを提示する。やはりげんざいもなお、アートというものは変化、拡張をつづけているのだなあと実感するし、そういうところではジェレミー・デラーの作品を思い浮かべたりもしたし、このみじかい作品の基底にあるオプティミズムにも同意することになる。まずは、「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」を観たい。


 

[]「監督失格」(2011) 平野勝之:監督 「監督失格」(2011)  平野勝之:監督を含むブックマーク

 わたしはたしか、この監督の「流れ者図鑑」は観ているのではないかと思うのだけれども、なにひとつ記憶に残ってはいない。ここで取り上げられた林由実香嬢と監督のかんけいも知っていたし、その林由実香嬢の死も知っていた。

 その妻のマンガで「監督不行届」と揶揄(?)された庵野秀明がプロデュースして、「監督失格」というタイトルの作品をつくらせるというのも「ギャグなのか」というところもあるけれども、そういうことを林由実香嬢の死をまえにして語るのも不謹慎ということになる。

 ‥‥しかし、こうして目の前に「事実」があったから、その「場」を撮ってしまったから、ということで「作品」が成り立つだろうというのは、それはやはり幻想ではないのかという気がしてしまう。第三者がどうこうといえるものではない、ある人物の死という「事実」というものの重みはあるだろうけれども、それがこうして「作品」として出されてしまうなら、観るものはやはりそれを「作品」として観てしまわなければならない。そういうところでは、監督がみずからを主人公として、いっしゅの自己回復を得たと訴える作品ではあろうけれども、その彼の「自己回復」の実体というものは、この作品からはわからないまま、だった。書かないけれども、ラストには疑問がある。

 


 

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■ 2012-12-16(Sun)

f:id:crosstalk:20121217172435j:image:right ‥‥きのう、東京で飲んで酔ってしまったことであれこれと考えることもあり、気分的には落ち込んだりもする。つまり、その前日にあらためて気づいたことでもあるのだけれども、人は年齢を重ねるにしたがって退化するのだということで、わたしはわたしなりにひとむかしまえの「豊かな老後」という幻想にひたっていたところもある。わたしは両親のみじめな老後をじっさいに目にして来ているので、「あのような道はたどるまい」と決めて、そののちの行動を律して来た。そんななかで、たとえばいま住んでいる、この、縁もゆかりもないところへ転居して来たというのも、そういう「決定」のひとつではあったと認識している。これはわたしのなかではプチ「移住」だったけれども、その決定のなかでのネガティヴな面をいまさらに認識しているのかもしれない。しかし、では東京にしがみついていれば「アカルイミライ」があったのかといえば、まったくおなじような情況におちいっていた可能性も強い。‥‥ふたつの土地での、その天候の差異をひとりの人間が同時には体感はできないように、あっちにいたらどうとか、こっちに来たからこうなった、とかは決していえるものではない。しかしそう考えてしまうと、やはりどうしても、この地でのネコのミイとの出合いと、その子のニェネントをさずかったことこそが、奇特な体験と認識されることになる。これもまた発展のないいっしゅのループだけれども、わたしにはこのミイとの出会い、ニェネントとの生活をこそポジティヴにとらえていくしかないのだと、またあらためて認識する。

 きょうは選挙の投票日だった。しごとが終わってから早いじかんに投票には行って来た。TVではよるの八時の投票〆切りのじかんになると同時に、おおよその大勢が報道された。おおかたの予想は誰にでもできたと思うけれども、ここまでの結果になるとは。‥‥いや、これもまたとうぜん予想できたことだろう。しかし、「反原発」を訴えた党がのきなみ伸び悩んでいるのはどういうことなのか、ちょっとわからなかった。ただ「反原発」ということでは、票を呼びこむ材料にはならないということなのか、それらの党派に「あたらしさ」が感じられないということなのか。小選挙区制になったからとばかりはいえないところがある。これでまた、らい年の夏には参議院選挙があるのだけれども、そこでも右派政党が圧勝するようでは、いっそう住みにくい国になってしまう。この時期に解散総選挙に打って出たのは、早めに政権をゆずって、これから参議院選挙までの期間に、あたらしく政権を取得する党や躍進した右派諸党らがエラーをしでかすのを期待するのか、それまでの国会審議で巻き返しのチャンスをねらってのことだったのだろうと思うけれど、たかがはんとしぐらい、誰だってネコをかぶっておとなしくしていることはできる。そのあとは、福祉は切り捨てられ、軍事路線も拡張され、与党には憲法の改変も自在となるわけだろう。まあもともとがそういう国でしかなかった、ということである。「悪い場所」に、生きてしまった。

 

 

 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十三話「チャルゴロを聴く女」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十三話「チャルゴロを聴く女」を含むブックマーク

 こんかいの演出は山下耕作ということで、やはりこの人の演出は安心して楽しむことができる。しかもこんかいのゲストは波乃久里子。堕ちてゆく女性の哀しさを表情からもにじみ出させる演技で、観ながらもつい涙目になってしまう。それで、半七親分も「女ってえのはわからねえなあ、堕ちていくときりがねえ」なんて名文句を吐くのだけれども、そんなことをいわれてしまう女性をそのように演じるというのもたいへんなこと。ラストのロングの映像で、半七たちとすれちがう波乃久里子のすがたでまた泣いてしまう。傑作、だった。


 

[]「心のともしび」(1954) ダグラス・サーク:監督 「心のともしび」(1954)  ダグラス・サーク:監督を含むブックマーク

 ちょっとちがう映画の話をするけれども、わたしはチャップリンのメロドラマというのがむかしから苦手で、「ライムライト」はいちど観て「もう二度と観ないぞ」と決めたし、「街の灯」もやっぱりイヤだ。なんでわたしはそれらの作品が受け付けられないのかあまり考えたこともなく、ただイヤだった。それがきょう、この「心のともしび」を観て、そういうチャップリン映画がなんでわたしにはダメなのか、ようやくわかった気がする。というか、この「心のともしび」の展開は「ライムライト」に似ているところもある(ラストは「街の灯」、かな)。

 「ライムライト」にせよ「街の灯」にせよ、この「心のともしび」にせよ、他者に献身的につくす男を主人公とした「美談」である。もちろん、その献身は相手への愛情ゆえなのだけれども、「心のともしび」では「あがない」ということが重要なファクターになっている。たんじゅんに相手を愛しているからというのではなく、その人を救済することで自分自身もまた救済される。自分自身を救済するということは、自分の存在するこの世界をもまた救済するということでもある。これは「ある女性を愛する」、「世の中のためにつくす」というだけでは終わらないものである。たんじゅんに「聖人のようになる男の美談」ではない。もっと、いのちがけの行為なのである。彼は彼女を救済せずには生きていけない。そういうせっぱつまったところが、この作品の呼び起こす感動だと思う。チャップリンの映画は、あれはたんに「自己愛」であろう。

 この「心のともしび」、冒頭の展開はかなりあぶなっかしいというか、遊び人のぐうたら息子(ロック・ハドソン)がモーターボートの事故で一命をとりとめるかわりに、ジェーン・ワイマンの夫であった聖人のような医師が死んでしまう。それからしばらくはジェーン・ワイマンをふくめて医師の関係者たちはロック・ハドソンに憎しみや嫌悪感をあらわにする。なにもそんなに露骨に嫌ってもしょうがないじゃないか、って感じはする。医師が助かってロック・ハドソンが死ねばそれでよかったのか、と。しかし、これがあきらかにロック・ハドソンのせいでジェーン・ワイマンが失明してから、どこか展開ががらりと変わってしまう。ここでこそロック・ハドソンが憎しみの対象になってもよさそうなのだけれども、周囲ではだんだんにロック・ハドソンの気もちを尊重しはじめる。このあたりはダグラス・サーク監督の演出のうまさだと思う。ロック・ハドソンの変化、ジェーン・ワイマンとその周辺人物の変化のみせ方がすばらしい。終盤に飛行機で飛んで舞台をヨーロッパに移すとき、観るものの気もちもフライトする気分になる。

 ダグラス・サーク監督のうまいところのひとつに、室内と、その室内から見通せる窓の外の風景との描写というのがあると思う。舞台が都会ではなく、自然豊かな地域だということがまた、登場人物の内面とも重なるようにみえる。また、車での移動のときに視界にすぐに入ってくる「湖」がまた、そのロック・ハドソンが事故を起こした湖として、(観客もそのことを忘れないように)いつもロック・ハドソンにつきまとうように見えてくるというあたりもいきている。

 ダグラス・サーク監督はこの作品のあと、ほとんどおなじキャスティングで「天はすべて許し給う」を撮っている。「天はすべて許し給う」ではイヤなおばさんだったアグネス・ムーアヘッドは、この「心のともしび」では、ジェーン・ワイマンに献身的に付き添う、とってもいい人として登場している。

 


 

[]「続・忍びの者」(1963) 山本薩夫:監督 「続・忍びの者」(1963)  山本薩夫:監督を含むブックマーク

 まえに観た「忍びの者」の続編だけれども、戦国時代末期の、織田信長、明智光秀、そして徳川家康や豊臣秀吉らが登場してつばぜり合いをみせるという本作の方が、前作と同じマンガ的な演出ならばよりおもしろく観られるのではないだろうか。主人公の石川五右衛門(市川雷蔵)も、ラストでは釜ゆでの刑に処せられるし。ここでは(前作もそうだけれども)織田信長(城健三郎)はまさに「野人」という描かれ方で、知性やデリカシーとは無縁の存在のようであり、その臣下である明智光秀(山村聡)は苦渋の思いをあじわわされるわけである。で、「本能寺の変」ということになるけれど、じっさいに織田信長の息の根をとめるのが、やはり織田信長に同族も妻も殺された恨みを持つ石川五右衛門だった、というのがいい。その石川五右衛門が、服部半蔵の入れ知恵で豊臣秀吉をも暗殺しようとするのだけれども‥‥。

 

 

 

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■ 2012-12-15(Sat)

 きょうは、東京でAさんBさんとの飲み会。時期が時期だから忘年会というところ。きょうもほんとうはちょっとはやくに家を出て、展覧会でも観てからAさんBさんと合流しようと思っていた。そのつもりで準備をしていたのだけれども、電車のじかんが近づいてものんびりしてしまって、ギリギリのじかんに家を出た。ところが、家を出てしばらく歩いてからケータイを部屋に忘れてきたことに気づき、いちど部屋にもどってふたたび駅へ向かったのだけれども、駅のそばに着いたところで、乗るはずの電車がホームに入って来るのがみえた。ちょっと間に合いそうに思えない間合いだったので、あきらめて家にもどった。展覧会を観るのはまた別の日にして、きょうは飲み会だけにしよう。

f:id:crosstalk:20121217104805j:image:right そうするとまだ出かけるまでにじかんはあるので、本を読んだりニェネントと遊んだりしてじかんをつぶした。そんなことをしていると、またつぎの電車のじかんにもギリギリになって家を出ることになってしまった。駅に着いてホームへ降りる階段にさしかかったときにはもう電車が到着していて、下車してきた人たちが階段を上ってくるのとすれちがった。階段をかけ降りてなんとかセーフ。

 電車のなかでも読みさしの本を読みついで、新宿に着くまでには読み終えた。下車した新宿の駅の周辺はもう薄暗くなっていて、イルミネーションの光が美しい。人の行き来があわただしく、もう師走というふんいきだなあなどと思ったけれども、あしたが選挙の投票日ということで、名の知られた候補者の街灯遊説が行われるところだったらしい。

 待ち合わせじかんのちょっとまえに待ち合わせ場所に到着。すでにAさんが待っていてくれた。Aさんはいつもわたしと会うと地震の話をするわけで、きょうもBさんが来るまでのみじかいじかん、せんじつの地震の話になったりした。わたしが皆とは距離のはなれたところに住んでいるので、地震とかでも揺れ方がちがうんじゃないかと想像されているのだろうか。

 すぐにBさんも来られたので、また「S」へ行く。危険なのだけれども、ボトルをたのんだ方が安上がりなので、Bさんとわたしとでボトルを注文して飲むことにした。Aさんは飲める方ではないので、ボトルを片づけるのはわたしとBさんとのしごとになる。
 十月のはじめにはAさんとBさんはいっしょに大阪へ行き、あちらに移ってしまったCさんに会ってきているので、その話をきく。この大阪行きにはわたしも誘われていたのだけれども、京都にも一泊しての二泊三日の旅程ときいていて、経済的にもちょっとキツいかと思って誘いをことわっていた。きょうきいたのではけっきょく一泊の旅行になったようで、それだったら行ってもよかったかなあと思ったりもした。そのうちにわたしひとりででもCさんに会ってきてもいい。Cさんは足が不自由になって車椅子での生活なのだけれども、AさんBさんといっしょに外に出て、古本屋に寄って段ボール箱いっぱいの古書を買ったりされたらしい。そういう意味ではとってもお元気そうである。
 ‥‥やはり、ボトルで飲むというのはちょっとまずかったようで、九時ごろにおひらきにして外に出たときに、ひさびさに酔いがまわっているのを感じた。電車に乗ってすぐにすわれたのでそのまま寝てしまったけれど、フッと目がさめたときにじぶんのいる場所がわからず、つい電車からとびおりてしまった。まだまだ乗換駅の手前の駅で、つぎの電車でもまだローカル線の終電に間に合うじかんだったからよかったけれども、ほんとうに終電車ギリギリのじかんに乗っていたらここで帰れなくなってしまっていたところだった。ちょっと酔いもさめてしまった。

 

 

[]「アンビヴァレント・モダーンズ」ローレンス・オルソン:著 黒川創・北沢恒彦・中尾ハジメ:訳 「アンビヴァレント・モダーンズ」ローレンス・オルソン:著 黒川創・北沢恒彦・中尾ハジメ:訳を含むブックマーク

 戦後日本研究のスペシャリスト、といっていいだろう著者による、日本の知識人四人の思想を検証しながら戦後日本のナショナリズムのあり方をも探る書物。ここで紹介され取り上げられているのは江藤淳、竹内好、吉本隆明、そして鶴見俊輔の四人で、ちょうどわたしはそのうちの鶴見俊輔をのぞく三人の著作を「昭和文学全集」を通じて読んだところだったので、タイムリーな本だとして図書館から借りてきたもの。

 読むにあたって、まずはこのアメリカ人著者の「立ち位置」というものが気になる。取り上げられた知識人らがみな戦前の生まれであり、アメリカによる占領下の時代から六十年安保の時代に思想形成をし、同時に著作を発表して大きな影響力をもったわけでもあり、そのような時代背景がまずはアメリカ人の眼にどう写っていたのかというあたりが、その判断に大きな影を落とすように思われるのだけれども、そういうところで著者は公平で中立的な立場から論じているようには読める。ただ、この一見「公平で中立的な立場」というのにはやっかいなところがあるのではないかとも思うのだけれども、ちょっとそのことは置いておいて。

 著者のオルソン自身は、この四人のなかでは江藤淳との親交がいちばん厚かったようだけれども、ある面では江藤淳への評価がいちばん手きびしい。ちょっと引用すれば‥‥。

究極のところ、彼の世界観は、旧来の、物質的野心と達成感の欧米志向的態度に強く条件づけられていた。彼はほかのアジア地域についてほとんど書かず、アジア人への関心も示してない。彼の関心は、明治時代の文学その他の先達同様、いかにして日本が欧米に追いつけるかどうか、という一点にかかっており、それは一九八〇年以前の世代にはまだ浸透力をもっていたが、それ以降の世代には実り少ないものだろうと予想できる。

 これはたしかに、わたしが読んだ江藤淳の著作からも、わたしなりに無意識ながらも読み取っていたところで、たとえば彼が日本の戦後文学がわたしたちなりの『戦争と平和』を産み出してもいないではないかなどと批難するとき、「なんてバカなことをいいだす人なんだろう」と感じたわけである。そのことでもある。

 この書物に通底する著者の意見のよりどころの、そのもっとも大きなものは、つまりはこれら日本の知識人たちとアジアの国々とのかんけい、ということであったりもする。これが竹内好のばあいにはすべての規範は中国にあり、中国の進路にこそ日本の活路をさぐる道もあるということになるのだけれども、竹内好は世界のなかで中国以外のどこにも目を向けようとはしていない、ということになる。吉本隆明は日本の外にはいっさい目を向けず、彼の考える「大衆」にいっしゅのロマンティシズムをかたむけるばかりである。そういうなかでは、著者がさいごに論じた鶴見俊輔にこそ、「彼にも過誤はあるとしても」という留保付き、ながらもいちばんのシンパシーを感じているようでもある。そこには著者も鶴見俊輔と共有する「プラグマティズム」的なメソッドへの信頼もあるだろうし、まあここに取り上げられた四人がいずれも、「趣味と志向においてブルジョワ的だった」とするなかでは、鶴見俊輔だけが「行動の人」だったということにも、著者の共感があるのかもしれない。

 著者のローレンス・オルソンは、この著作の刊行された直後の1992年に他界されているけれども、いまなお存命であられたら、たとえば柄谷行人のような存在をどのように認識されていただろうか。社会科学の分野でながく海外にその思想の紹介されることもなかった日本の知識人の、いったいなにゆえにその思想が海外で紹介されることもなかったのか、この著作を読むとそこに日本のひとびとの考える「民主主義」と「ナショナリズム」とのあいだに、奇怪なギャップが存在するゆえではないのか、という示唆には気もちを動かされた。



 

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■ 2012-12-14(Fri)

 あいかわらず、しごとは多忙。まったく休むじかんもなく、気がつくと終業じかんになっている。あといっしゅうかんぐらいはこういう毎日がつづくだろう。帰宅してそれほどぐったりするわけでもないけれども、外に出かけるのはおっくうになる。でも、ニェネントのネコメシもなくなってきたので、午前ちゅうに買いに出た。買って帰って、このネコメシを出しっぱなしにしておくとヤバいかも、などとちょっとは思ったのだけれども、しばらく収納にしまわずに外に出したままにしていた。‥‥やはり、やられてしまった。かたづけようとすると、ネコメシの袋のよこがやぶかれていて、中身が外にちらばっていた。失敗である。ちょうどからっぽになったネコメシの袋があったので、中身はぜんぶそっちへ移しかえた。

f:id:crosstalk:20121216120335j:image:left こんなことでニェネントをしかっても彼女にわかるわけもないのだけれども、いちおうつかまえて押さえつけ、お仕置きのマネをしてみた。「どうだ、まいったか」とやると、しっぽを左右に振っていやがるのである。ついでに、いったいニェネントはどのくらいの大きさになるのか、メジャーを取り出してはかってみた。体重計はないので体重はわからないけれども、ひさしぶりの身体検査。あたまの先からしっぽのつけねまで、だいたい50センチぐらいある。しっぽの長さをはかってみると、これが22センチから23センチぐらいあった。ネコとしてはりっぱなしっぽなのではないかと思う。子ネコのころにはまんなかあたりで直角に曲がったままのしっぽだったけれども、いまはもうちゃんと伸ばせるようになっている。ただ、まだねもとから15センチぐらいのところで節のようになっているのはなおらない。

 ふっと思い出して、この地に引越してきたころに書いていた別のブログを、ランダムに読み返したりした。もうすっかり忘れてしまっていたようなことがらがよみがえり、なんだか複雑な気分になった。なんというのか、わたしはわたしの内面でどこか不変の部分というのはある、残っているのではないかと思っていたけれども、そんな思い込みは幻想ではないのかと思った。もちろん、人というものはつねに変化しつづけていくものだという認識はあるのだけれども、そういうことはどこまでもポジティヴなものとしてとらえていた。でもげんじつはそういうものではなく、ネガティヴな変化ということもちゃんと認識しなければいけない。古い日記を残していた効用というか、かなしい認識ではあるけれども、ものごとや自分のことを見つめなおす契機にはなった。わたしのなかには退化しつつある部分もあるのだと。
 そういうなかで、ミイとの出会い、そしてニェネントとのいまの暮らしということが、どれだけ自分を救っていることか、切実に思い知った気がする。ニェネントはミイからわたしに託された「生」なのだと考えても、やはりミイというネコは、わたしを救済するためにわたしのまえにあらわれたのだと。

 書くのを忘れていたが、小沢昭一氏がお亡くなりになられた。なん年かまえに浅草で、氏の「トーク」をなまでじっさいに体験できたことはわたしの貴重な記憶になる。すてきな人たちがお亡くなりになることの多かったいち年だったような思いもある。追悼。

 

 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 15「おとぎ話」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  15「おとぎ話」を含むブックマーク

 原題は「The Girl Who Was Death」。またも、いっけん「村」からは外の世界での展開で、No.6 は結果としてロンドンの街を爆破しようとする父と娘の計画を阻止しようとするのだけれども、まさにスパイ映画的にいろいろなところで未知のなにものかから指令を受けて行動する。イギリス的なユーモアにあふれた一編でもあり、遊園地での展開なども「いかにも」というところだし、ナポレオンを模倣する爆破犯、いかにも60年代的なルックスのその娘らのからむ展開も楽しい。No.6 がパブでビールを飲んで、ジョッキの底に書かれたメッセージがその一口ごとにワンフレーズずつ読めるようになっていくところは好き。

 しかし、こんかいもまたNo.6 の脳内で展開したドラマなのか。またもNo.6 の勝利と。


 

[]「拝啓天皇陛下様」(1963) 野村芳太郎:監督 「拝啓天皇陛下様」(1963)  野村芳太郎:監督を含むブックマーク

 クレジットにあった原作者の名まえがそのまま、登場する作家(長門裕之)の名まえだったりするけれど、じっさいに渥美清の演じた主人公が実在したわけでもないようである。ただ、戦中戦後にかけての、軍隊生活であるとか戦後の闇市時代の描写に説得力を感じる作品で、「こういう人物がじっさいにいても不思議ではない」というリアリティーみたいなものは受けとめた。げんじつに、地方の農村から徴集された農民には、軍隊生活で読み書きをおぼえたものも多くいたらしいし、生活苦に追われた男たちにはそれこそ軍隊とは「いちにちに三度のメシが食べられる」天国、と感じられたところもあったらしい。その軍隊生活が、戦後の混乱を生き抜くヴァイタリティーの源泉にもなったであろうことも、理解できるし、この作品の公開されたのが高度経済成長のはじまる時期の1963年であったことも、「なるほどね」という感慨もある。

 演出はとってもしっかりしていて、とくにここでの撮影は川又昂という方なのだけれども、とにかくその移動撮影だとかロングショットだとか、いちいちすばらしいものがあると思った。調べるとこの方、小津安次郎作品の撮影助手からキャリアをスタートさせた方のようで、「日本の夜と霧」のような、大島渚作品の撮影もやられていたらしい。って、わたしは「日本の夜と霧」の不安定なカメラというのはとても印象に残っていたのだけれども、この作品での川又昂氏のしごとなどをみると、あの不安定さはまさに意図されたものだったわけになる。あらためてもういちど「日本の夜と霧」を観てみたい。

 出演者では、わたしはいぜんから「加藤嘉」という俳優さんのことにどこかひっかかりを持っていたのだけれども、この作品での中隊長役の加藤嘉氏はほんとうにすばらしく、「ああ、やはり加藤嘉氏という方はすばらしい俳優さんなのだ」と、認識できた。あとは、長門裕之の奥さん役の左幸子さんが印象に残った。

 

 

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■ 2012-12-13(Thu)

 しごとは非番で休み。また映画を観に行くことにしている。きょうは東京まで出かけるつもりで、映画も二本はしごしようかともくろんでいる。観ることに決めている一本は渋谷であしたまでで公開がおわってしまう石橋義正監督の「ミロクローゼ」で、これはぜったいに観たかった作品。さいきんしごとがいそがしくなったりニェネントに惚れなおしたりして、あやうく見逃してしまうところだった。もう一本「最強のふたり」も観ようと思っているのだけれども、これまで観てしまうと帰宅じかんが遅くなってしまう。どうしようかな、という気もちもある。まああっちへ行ってから決めよう。

 またニェネントにおるすばんをたのんで、昼ちょっとまえに家を出る。きょうは湘南新宿ラインで渋谷まで行く。ターミナル駅で乗りかえたあとは座席で熟睡し、目がさめると池袋を出たところまで来ていた。渋谷で下車して、駅前のスクランブル交差点をわたり、スペイン坂をのぼって、「ミロクローゼ」を上映している映画館のあるファッションビルに入り、いちばん上の階の映画館へ行く。このあたり、ビルのいちばん上が映画館というのはきのう行ったターミナル駅のシネコンとおなじだけど、さすがに観客は四人だけというわけもなく、地方のうらぶれた感じ(などと書いてしまうと語弊もあるけれども)とはやはりまるでちがうなあと。チケットを買うとネクターのペットボトルをもらった。そのわけは、映画がはじまってしばらくしてからわかった。わたしもこうしてネクターを飲んで、「偉大なミロクローゼさま」のちょう愛を受けとりたいものである。映画の感想は下に。

 「ミロクローゼ」にすっかり満足して精神も健全になったようで、これからもう一本映画を観たりすると、いまのこの充実した気分をこわしてしまうおそれもありそうだという気になり、きょうはもうこのまま帰宅することにした。ただ、まだ昼食をとっていなかったので、渋谷でよく行く上海食堂へ寄ってランチの豚角煮ラーメンを食べた。おいしかった。満腹になった。五百円。
 電車に乗るまえに、もう一本映画を観てしまったつもりで何か買い物してもいいんじゃないかという気分になった。駅のまえのDVDショップに寄り、まえから観たいと思っていたチャールズ・ロートンが監督した「狩人の夜」のDVDをみつけたので買う。一枚千円のセールをやっていて、ついでにという感じでデヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」も買ってしまう。「インランド・エンパイア」をまたぜんぶ観る気力はいまはなさそうだけれども、ラストの、Nina Simone の「Sinner Man」の流れる場面をまた観たいのである。

f:id:crosstalk:20121215101835j:image:left 電車に乗って家に帰る。ぐうぜん、ローカル線に乗るのがきのうとおなじじかんの電車になってしまった。きょうはご飯の炊きおきはないのだけれども、おそい昼食をとってそんなにじかんもたっていないし、スーパーに寄り道して、もう値引きされはじめているお弁当コーナーから助六寿司を買って帰り、夕食にした。和室のパソコンのまえでその助六寿司を食べていると、ニェネントが「あら、いつもとちがうじゃないこと?」なんて感じで近寄ってきて、助六寿司のパッケージをのぞきこんだり、まえ足でちょっかいを出してきたりするのだった。

 

 

[]「ミロクローゼ」石橋義正:監督 「ミロクローゼ」石橋義正:監督を含むブックマーク

 石橋義正氏のことは、べつに映画監督と思っているわけではない。エッジ/オルタナティヴの部分でさまざまな活動を続けられているアーティストであってディレクターであって、だから彼の「映画」作品を観るときにはいわゆる「映画的」なものを求めて観るわけではなく、ぎゃくにどのように映画からはみ出していかれるか、というあたりにこそ興味をもったりする。で、彼の劇場用映画としては、1997年の傑作「狂わせたいの」いらいの作品ということになるのだろうか。「狂わせたいの」は、おなじ石橋氏の主宰するパフォーマンス・ユニット「キュピキュピ」の歌謡・ダンスショー舞台の延長にあるような作品、という印象もあったけれども、はたしてこんかいの新作はどんなキテレツな世界をみせてくれるだろうか。

 ‥‥上映開始。かっこいい音楽をバックにかっこいいオープニング・クレジット。そのあとにとつぜん、まるで「オー!マイキー」のような、表層は牧歌的な風景になり、オブネレリ・ブレネリギャー(だったっけ?)と偉大なミロクローゼの、愛の物語がはじまる。ここはまさにナラティヴな展開の妙というか、ナレーション(美波さんの担当)と映像とのシンクロもしくはギャップ、そしてナレーションの奮闘ぶりを楽しむ。ゴルゴンゾーラみたいな名まえのネコをもっとみたかった。この「胸に穴のあいてしまった」ブレネリギャーの導入部のあとからは、主演の山田孝之の独壇場になだれこんでいく。青春相談員の熊谷ベッソンのパートでのダンスはまるで「土曜の夜のフィーバー」みたいで、やっぱ「キュピキュピ」なカラーを感じてしまう。とちゅうから片目の浪人タモンの物語に転換するけれど、ピョンとばかりに時代を縦横に横断して江戸の遊廓のような世界へ突入。でもここでもどこか、キュピキュピのショーを楽しませていただいている感覚ではある。すべて「表層」の世界。奥行きなど不要なわけだし、だからこその快楽映像でもある。タモンが幾十人もの男たちを切り捨てつづけていく長回しの場面でのスローモーションの自在な挿入にしても、リアルさなど求めていないからこそできる演出ではあるだろう。そして、これが表層の世界であるがゆえに、賭博場の「場」に敷かれた白い布地の、その織り目までもがクリアに映されて印象に残されることにもなる。

 ところがこれが、ラストにまたオブネレリ・ブレネリギャーの物語に回帰したとき、彼が訪れる旅館「なきゃむら」の妙に現実的な空間が、作者から観客へのいやがらせのように、目にしみることになる。じつはそういう「表層」の世界というものが、げんじつの世界と通底してしまう、してしまっているということなのか。この映画でそこまで深読みすることもないだろうとは思うのだけれども、じぶんなどでも日常生活をはなれて山里の旅館なんかに行っちゃったりしたとして、そのつまりはじぶんの求めた非日常の世界が、この映画世界のような「虚構」というか「表層」への入り口、もしくは終着点ではないのか、などと夢想させられた。
 ‥‥この「夢想」には、ちょっとクセになるところがあって、しばらくは継続して、この夢想にひたっていたいとは思ってしまったのである。

 石橋氏は、また久々に「キュピキュピ」の活動を開始されたらしく、わたしなども、その舞台をまた観ることができればいいと思っている。



 

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■ 2012-12-12(Wed)

 きょうは映画を観に行くことにした。観たい映画もいろいろと上映されていて、一本だけでなく複数観たいのだけれども、そのスケジュールがうまく組み立てられない。かんがえて、きょう近くのターミナル駅のシネコンで一本観て、さらにあした東京へ出て、一本か二本観ることにした。あしたはしごとは休みだからいいけれど、あさってはしごとなので、ほんとうはまえの日に帰りが遅くなる遠出はしたくはないのだけれども、きょう東京に出かけるにはじかんが遅くなってしまった。もっとはやくから計画を立てておけばそれなりに準備していたのだけれども、しかたがない。

 TVをみていると東京都知事選挙の政見放送をやっていて、そのなかでスーパーマンの扮装をした老人が「候補者」として登場してきて、おかしなパフォーマンスをやってみせてくれた。カメラからはみだしてしまうのもかまわずに立ち上がり、画面から顔が欠けたままスピーチとパフォーマンスをつづける。さいごはスーパーマンのように手をまえに伸ばした姿勢で消えていった。笑えた。このほかのふたりの候補者の政見放送も奇妙なものだった。人間というのはいろいろと不思議なものだと思う。

 出かけるまえに、靴下を買うために南の方の衣料品店に出かけた。「ファッション市場」と銘打つこの大型の衣料品店、まったくファッションとは無縁な空気のただよう店内なのだけれども、とにかく安い。靴下五組で299円というのを買った。帰りに入り口に安い靴を置いてあるのをみていたら、作業用の安全ブーツが799円だった。いましごとに履いていっている靴もそうとうにガタが来ているし、安全ブーツというものは、わたしのやっているようなしごとでもそれなりに有用なわけだから、なによりも安いので、これも買って帰った。帰りにドラッグストアに寄り、賞味期限が近いせいか半額になっているカップ麺を六個も買った。賞味期限はらい年の一月いっぱいぐらいなので、まあそれまでの保存食、という感じ。

 帰宅してあたらしい靴下を履き、ニェネントに「ごめんね、おるすばんをたのむね」といいおいて家を出る。うちから歩いて二分ほどだけれども、駅のあたりはさいきんずいぶんと様変わりしている。まずは駅をまたいで南北をつなぐ歩道橋にエレヴェーターを設置する工事が、このところずっと行われている。この歩道橋を利用する歩行者というのもこのあたりにはほとんどいないと思うのだけれども、たしかに歩いて駅の南北をつなぐ道は踏み切りで仕切られているので、足の不自由な人たちにとっては、この歩道橋が利用できた方が安全ということはあるだろう。利用する人がいちにちに十人もいないにしても。‥‥しかしところが、この駅の南口の改札は二階にあり、そこへ行くには階段をのぼるしかない。もしもそういうバリアフリーをめざすのなら片手落ち、というところだろう。駅構内でもホームを移動するには階段を使うしかない。そちらの方もいずれは改善するということなのだろうか。
 あと、その南口の二階の改札のまえにカレーショップがオープンした。いちおうむかしはキオスクが入っていたスペースなのだけれども、駅の利用客も減少して店を閉じてしまった。そのあとにカレー屋ができたのだけれども、ただわたしの興味はいったいいつ、そのカレーショップが閉店するだろうか、ということでしかない(客が来るわけがない)。この駅の南口を降りたところにあるラーメン店(強烈なボリュームで野菜がトッピングされたタンメンが有名だった)も、いまは営業を休止してしまった。カレーショップは春まで持つだろうか。

 駅からローカル線に乗り、ターミナル駅に到着。駅のそばのビルのシネコンへ行き、チケットを買う。まだ開映までじかんがあるので、下の階の書店をのぞいてみる。この店もしばらく来ないうちに様変わりしていて、旧コミックコーナーのはんぶんが古本コーナーになっていた。新刊書をあつかう書店がおなじ店内に古本コーナーを併設しているというのははじめてみた。某古本チェーン店のような105円コーナーはないけれどだいたいが定価の四分の一ぐらいの価格になっているから、その古本チェーン店の通常品の価格よりも安い。みていて文庫本で読んでみたい本もあったけれども、また読書予定がくずれてしまうので買うのはやめた。

 ‥‥映画開映。きょうの観客はわたしをふくめて四人だった。観たのは北野武監督の「アウトレイジ ビヨンド」。感想は下に。

f:id:crosstalk:20121214105922j:image:right 終映後さっさと帰宅して、家についてまだ七時ごろ。きのうから炊きおきのご飯で夕食をとり、そのあとパソコンにむかっていたら、わたしのわきをニェネントがすりぬけていく。わたしにお尻をむけて歩いていくニェネントの、そのしっぽのところをちょんとさわったらびっくりしたらしく、しっぽをピンと立てて、うしろ足だけをそろえてぴょっとジャンプさせた。そのさまがとってもかわいくって、つかまえて「おまえはかわいいねー」と、いぢめる。

 

 

[]「アウトレイジ ビヨンド」北野武:監督 「アウトレイジ ビヨンド」北野武:監督を含むブックマーク

 変な話だけれども、せんじつウチのTVで観た前作「アウトレイジ」の方が、ずっと画面がクリアできれいだったような気がした。ぜんたいのタッチは前作と変わらないと思ったけれども、画面が大きくなるとそれだけアラも目立つということなのか、この「アウトレイジ ビヨンド」がTVで放映されたときにはぜひ観るようにして、どんな印象を受けることになるか、たしかめてみたい。

 ‥‥夏のころだったか、映画館でこの「ビヨンド」の予告を観たとき、いきなりたけしがアップで登場して「オレが死んだ、なんてデマを流したのはてめえだろう!」ってタンカを切ったのには、ほんとうにイスからずり落ちそうなぐらいおどろいてあきれて、そして笑ったのだけれども、あの予告はやはりケッ作だったなあと思う。しかし前作で國村隼だとか石橋蓮司、そして北村総一朗あたりの楽しい人たちがみんな死んでしまって、さすがに彼らは生き返らせることもできなかったのがつらいのはたしかで、こんかいの中尾彬や西田敏行、塩見三省、そして神山繁らがダメだったとはいわないけれども、前作ほどの破天荒さがなかったのはたしかだと思う。そんななかでこんかいの主役は小日向文世だったというか、フィクサーのように情況をひっかきまわすわけだけれども、彼がすべてを見通しているわけでもなく、目算が外れもするわけである。

 ラストが葬儀の場面ということなど、いよいよ「仁義なき戦い」を想起させられることにもなったし、終盤の大殺りく劇などからは「ゴッドファーザー PART II」なんかも思い出してしまう。ただ、山王会が政治の分野にも勢力を拡げたというには政治家の影はみられなかったし、前作「アウトレイジ」で登場した組長の豪華邸宅のようなゴージャスさには欠けていた気もする。

 しかしまだ、いままでの北野武作品の常連役者で出てきていない俳優もあれこれいるし、「じゃあ松重豊はどういう行動を取るのよ」とかもあるし、たけしも生き残ったことだし、やはりパート3も、ということになるのではないだろうか(関東は誰もいなくなっちゃったか)。「アウトレイジ」でも感じたけれども、鈴木慶一の音楽の、抑えた感じがとってもいい。過去の北野武作品の音楽から切り替えたのは大正解だったと思う。



 

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■ 2012-12-11(Tue)

f:id:crosstalk:20121212203147j:image:left まえにも書いたけれども、このごろはニェネントがかわいくっていとおしくって、遊んだりしなくってもいつもいっしょにいたいという気もちで、わたしも老いたのか、というところだけれども、しごとに出ようと玄関をあけるとき、ニェネントが玄関口までやってきてわたしのことを見上げたりされると、やはりちょっとかなしい気分になってしまう。そういうこともあって(経済的な理由もあるのだけれども)遠出するのを控えるというか、無理して出かけることもないや、などと家にいてすごしてしまうことも多くなった。
 でもやはり家にこもりっきりでいると精神的に硬直してしまうようで、職場で起きたどうでもいいようなことをいつまでも考えこんでしまったり、こころのやわらかさが失せてしまう気がする。あさってはしごとも休みだから、あしたにでも映画に行くか展覧会に行くかなどしてみようかと思う。土曜日にはAさんBさんとの飲み会の予定もある。ニェネントにはひとつがまんしてもらおう。

 よるになってもう寝ようとベッドに入ると、ニェネントがベッドのそばに寄ってくる。そのままベッドの上にのぼってくるのかと思ったら、ベッドの下でじっとしている。寝たままニェネントの方に手をのばすと、そのわたしの指さきにまえ足をかけてきたり、かるくかみついてきたりする。とてもかわいい。

 考えていることがあって、らいねんになったらそのことを実行しようかと、ひそかに思っている。書いちゃったら「ひそかに」でもなんでもなくなってしまうのだけれども、ことしの残りの期間はその準備をだいいちにやらなければいけないと思う。まあそんな大それたことがらでもないし、準備といってもほとんど「こころ構え」みたいなものでしかない。でもまだ、わたしにもやれることはあると思う。ただ、どうやるのか、ということがいまのもんだいなのである。

 

 

[]「テス」(1979) トマス・ハーディ:原作 ロマン・ポランスキー:監督 「テス」(1979)  トマス・ハーディ:原作 ロマン・ポランスキー:監督を含むブックマーク

 公開当時、映画館で観ていらいの観賞。たしかストーン・ヘンジが出てきたよなあ、ぐらいの記憶しか残っていなかった。

 まずは、太陽の光を美しくとらえた撮影がとってもすばらしくって、冒頭の乙女たちのダンスの場面での日暮れどきの光、これはいうところのマジックアワーのみじかいじかんを最大限に利用した演出。そしてラストには、そのストーン・ヘンジの巨石のあいだからの、日の出のいっしゅんがほんとうに美しい。

 原作をわたしは読んでいないのだけれども、悲劇のヒロインが転落していくさまの描写も抑制されていて、先に書いた美しい映像のこともあって、気品に満ちた印象を受ける。のちにテスと結婚するエンジェル・クレアが、道のまんなかにできた大きな水たまりをこえるために、テスをふくむ四人の娘たちをひとりずつ抱き上げて水たまりをわたる場面なんか、なんというのか少女マンガでも読んでいるような気分にもなった。

 物語の根底にあるのは、テスのなかの、彼女を愛人にしようとするアレックスへの「ぜったいイヤ!」という感情と、いっぽうでのエンジェル・クレアへの強い愛情というものがあるようだけれども、まあなんというのか、アレックスの愛人でもぜいたくな暮しができるからいいわ、っつう気もちになれれば、テスの家族だって満たされただろうし、こんな悲劇にはならなかったろうに、というつまらない感想を持つのである。さらに、結婚してすぐにテスの過去を知ってテスを捨てたエンジェルが、テスの友人(かつで水たまりを渡らせてあげた)に「わたしを愛しているならいっしょにならないか」と誘うのだけれども、その友人が「わたしはあなたを愛しているけれども、それはテスがあなたを愛するのにはとてもおよばない」っていったりもするわけで「すごいこというな」とおどろくのだけれども、この作品のなかには、そういう「感情」の強さということが、はかりにかけられるように目盛りつきで示されているような印象を受ける。自己の感情に忠実であろうとしたテスが、その感情の求めるものを得るために行動したための悲劇、ということだろう。


 

[]「女と銃と荒野の麺屋」(2009) チャン・イーモウ:監督 「女と銃と荒野の麺屋」(2009)  チャン・イーモウ:監督を含むブックマーク

 ついこないだ観た「アリス・クリードの失踪」は、コーエン兄弟の作品、とりわけ「ミラーズ・クロッシング」へのオマージュからなる作品という印象だったけれども、このチャン・イーモウ監督の作品は、まさにそのコーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」のリメイクということ。これが舞台を過去の中国にうつし、まばゆい原色とトリッキーな映像の混合したコメディタッチの作品になってしまった。けれども、コメディとしていったいどこがどうおかしいんだかわたしにはさっぱりわからず、まともな神経で観つづけるのはちょっと困難な気がした。わたしには「ブラッド・シンプル」は大傑作と認識していたので、なんというか、ここにある作品はその「ブラッド・シンプル」への侮蔑のように思えてしまう。あそこがダメ、ここがダメと、いくらでも書き連ねることもできそうだけれども、そういう不健全なことはやめておく。ただひとつ、ラストで悪徳警官(「ブラッド・シンプル」では私立探偵)がヒロインを追いつめたとき、ドアに剣をなんども刺して(「ブラッド・シンプル」では銃をなんども発砲するのだが)、弱くなったドア板をこぶしで破るシーンがあって、そのときにそのドア板にあけられた穴から外光が射してくるのだけれども、このシーン、「ブラッド・シンプル」では、そのドア板の穴それぞれから射しこむ光の角度がそれぞれバラバラで、まずはそのような現象はドア板ていどの厚さを通過する光では起こり得ないということと、その映像的な美しさとでもって、演出効果を強く記憶に残さざるを得ないシーンだったわけだけれども、このシークエンスだけはきっかりと「ブラッド・シンプル」の展開に忠実になぞっているというのに、その「光」をやっていないことには不満がある。まあやったらやったで、そこまでマネするか、ということにもなるのかもしれないけれど、いっちばんラストの「落ちてくる水滴のアップ」というのは、この作品の改変されたストーリーのなかでは大した効果もないのに無理してなぞったりしているのだから、やっぱダメである。

 中国の清朝時代の戯画なのかという印象もあるけれども、だからどうだというと、どうともいいようがない。

 

 

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■ 2012-12-10(Mon)

 きょうはほんとうは非番でしごとは休みなんだけれども、ほかの人が休みを交代したりしたせいで、五時からしごとにつくのがひとりだけになってしまっていた。彼が「ひとりではこまる」というので、わたしも出勤することにした。やはりひとりでこなせるしごと量ではない。やり残してしまってもいいところもあるのだけれども、とうぜん、そのしわ寄せはどんどんと繰り越されてしまうわけだ。いまはぜんたいのメンバーも少なくなっているので、休みのシフト構成を組むのもむづかしそうである。わたしはボーナスがよけいなことでふっとんでしまったので、そのぶんこれからは休みなしでずっとしごとに出てもいいんだけれども。

f:id:crosstalk:20121212112645j:image:left ことしもあと三しゅうかんになってしまって、やはりごたごたしている部屋をかたづけて掃除して、つまりは大掃除をしなくっちゃ、というモードではある。まずはスーパーなどに置いてある空き段ボール箱をもらって帰って、そのなかにガラクタ類を押し込めてとりあえずのスペースを確保することを考え、スーパーへの買い物がてら、そういう段ボール箱を持って帰った。じつは段ボール箱というのはニェネントの大のお気に入りアイテムで、とにかく箱をころがしておけば、そのなかにもぐりこんで丸くなっていたり、箱の外がわに爪をたててボリボリと爪をといだりするのである。きょうも、持って帰った段ボールをリヴィングに置いていたら目ざとくみつけて、いつのまにかなかにもぐりこんでいた。

 ずっとタバコをやめていて、それで口寂しかったりもして、ついついいろんなおつまみ類を買ってきてぽりぽり食べたりするんだけれども、これが経済的にはよけいな支出になっていることはいうまでもない。惣菜類で二十円安いとか三十円安いとかやりくりしても、ほんらいの生命維持にまるでかんけいのないモノ、おつまみなどをひとつ買えば、そういうやりくりは無意味になってしまうではないか。それできょうは、手製のポテトチップもどき、を、じぶんでつくってみることにした。じゃがいもが一個あればそれなりの分量がつくれるだろう。ほんとうは天ぷら油をいっぱい使ってカラッと揚げればおいしいんだろうけれど、フライパンにちょっと多めのサラダ油をはって、スライスしたじゃがいもを炒める感覚ではある。じゃがいものスライスにはピーラーをつかって、どこまでもベロベロと削っていけばかんたんである。気をつけないと自分の指もスライスしてしまうけれど。で、スライスしたじゃがいもを、表面がキツネ色になるぐらいまで、ちょっとしつっこく炒める。塩分ひかえめ生活をしているので、ちょっとブラックペッパーをばらまくだけ。‥‥完成。そりゃあ多少はベタァとしているかもしれないけれど、なかなかにイケる味だった、と自賛する。むかしどこかで、ただの焦げ味しかしないひどいポテトチップを買ってしまった記憶があるけれども、それよりもぜったいにおいしかった。まあだいたいわたしには、じぶんのつくったものは基本的に美味であるというような、じぶんびいきな(ある意味便利な)性格ではあるのだけれども、他人に食べてもらうのではなく、じぶんで勝手に「おいしい」と思っているだけなんだから、だれに迷惑をかけるわけでもなく、わたしひとりで悦に入っていることにケチをつけられたくはない(いちおう名誉のために書いておくけれども、他人にわたしの料理は「おいしい」とほめられたことはある)。これからはときどき、この自家製ポテトチップを楽しもう。


 

 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十二話「帯取りの池」 「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十二話「帯取りの池」を含むブックマーク

 ひさしぶりの半七っつあん。こんかいもおもしろかった。「そういうのがあったなあ」という原作の記憶もおぼろげにはあるけれども、このちょっと原作よりはオーヴァー気味な脚本、演出はいいんじゃないだろうか。武家屋敷と町方の岡っ引きとのちからかんけいのちょっとした描写もいいし、半七の彼女(いいなづけ?)のおせんの父が、やはり目明かしの先輩という設定らしく、屋台でヤケ酒を飲んでいる風体の半七をはげましてアドヴァイスを与えるあたりもいい。あとは「出合い茶屋」というものの存在。ほとんどげんざいの「ラブホテル」の原型であり、そうか、江戸時代からこういうものはあったわけね、というあたりの風俗的知識を得ることができたのである。


 

[]「ガラパゴスの怪奇な事件」ジョン・トレハン:著 高野利也:訳 「ガラパゴスの怪奇な事件」ジョン・トレハン:著 高野利也:訳を含むブックマーク

 うーん、まさに「怪奇な事件」で、後半はおもしろくって一気に読み終えた。

 そもそもがこの本の由来からして興味深いところがあって、著者のジョン・トレハンという人物はほんらいは動物学(生物学)者で、イギリスの自然史学会の会長をつとめたような方。そんな彼がガラパゴス諸島での野外調査から得た副産物がこの書物で、調査の方向が脱線しちゃいましたね、というところなのだけれども、とにかくは著者が「楽しんで書いている」というあたりがビシビシ伝わってくる。このあたり、まえに読んだ「理解できない悲惨な事件」の著者のジャーナリストが、つまらない偏見やモラルにとらわれてものごとをみているのとは大きなへだたりがある。好奇心満載。これでいいんだと思う。しかも、この書物の冒頭には「あくなき興味をもって助言してくれた娘レベッカに捧げる」との文句も。
 ‥‥ここでつい想像してしまうのだけれども、ガラパゴスでの調査旅行を終えて家に帰った著者が娘に、「いやあ、ガラパゴスではむかし、こんなきっかいな事件があったということを知ってねえ、これがおもしれえんだよ」などと話してきかせるわけだけれども、それをきいた娘はまさに予想いじょうの興味をしめし、「パパ、そぉんなおもっしろい話、ぜったいにパパが書いて本にするべきよ!」ということになったのだろう。いい親子だなあと思う。
 しかも、この本の日本語版が出版されるいきさつもまたおっもしろい。この翻訳者の高野利也という人、彼もまた文学かんけいの人ではなく、本業は「分子生物学」。って、このあいだ読んだ「生物と無生物のあいだ」の著者とおなじ分野の人。彼はそういう生物学者同士というかんけいから、ケンブリッジで著者のジョン・トレハン氏と出会うわけだけれども、その二度めの会合で「どうだろう、わたしの本を日本で出版したいんだけれどもなあ」などと持ちかけられ、さいしょは別に翻訳してくれる人を探そうとしたのが、けっきょくは自分で翻訳してしまうのである。なんか、みんなおもしろい人たちだなあと思ってしまう。

 さて、この「事件」の方には、おもしろいというよりもとんでもない人たちがつぎつぎに登場してくる。「事件」の方も、登場人物の不審死が二件三人、それとふたりが行方不明になる事件と、多彩である。それらの事件は集中して1934年に起きているのだけれども、ことの発端はドイツ人男女が1929年に、ガラパゴス諸島の南に位置するフロレアーナ島に移住してくることからはじまる。彼らはべつにダーウィンの「ビーグル号航海記」に惹かれてやってきたのではない。男はフリードリッヒという医師で、ニーチェ哲学に心酔し、みずからの哲学体系をも完成させようとしていたらしい。渡航のとき43歳。女性はドールといい、フリードリッヒの患者であったのが医師に惚れこんでしまい、不倫関係の情婦となってしまったもの。たがいに配偶者がいたのだけれども、いちおうそれぞれの配偶者の納得を得てふたりで出航してきたらしい。フリードリッヒがガラパゴスへの移住を考えたのは、「孤独という偉大な理想」を実現するためということで、ガラパゴスのフロレアーナ島を「エデンの園」ととらえ、その地でアダムとイヴになろうとしたのだろうか。それはそれでいいんだけれども。
 それでこのフリードリッヒという男、(まあ想像はつくけれども)そうとうに独善的な人物で、(ニーチェの信奉者だから)そもそもが女性の人格をみとめないところもあり、ドールにもしばしば暴力もふるっていたらしい。想像するいじょうに奇矯な人物でもあり、「歯がなくなると歯ぐきが硬化して歯のかわりになるのではないか」と考え、じぶんの歯をぜんぶ抜いてしまったような人物でもある。すげえ。とうぜんのごとくドールもまた変な女性というか、フリードリッヒにいわれたことはそのまますべて受け入れてそのように実行するけれど、こころの底ではどのような考えを持っていたのか不明なわけで、残された手記は「うそだらけ」、というところがある。彼女もまた歯がないんだけれども、これがフリードリッヒにいわれて抜いてしまったのかは不明。とりあえずふたりは島の内地に家をつくり、その周囲に農園を開拓する。ドールは花壇もつくろうとするが、「そんなものは無用」と反対したフリードリッヒに花壇をつぶされるようなことがあったらしい。

 このふたりのガラパゴスへの渡航、島でのふたりきりの生活は本国ドイツからの取材を受け、ちょっとしたニュースになる。その新聞記事を読んで、まずは若いドイツ人五人がおなじように島に移住しようとやってくるのだけれども、これはすぐに挫折してみんな島を去ってしまう。そのほかにも、好奇心から航海のとちゅうでその島に寄港してふたりに会っていく人たちは、かなりの数あったらしい。これが1932年の夏になって、かなり本気で移住するつもりのドイツ人家族がおなじ島にやってくる。そのウィットマー家の人たちとは、中年の家長ハインツ、夫よりは若いその妻のマルグリット、ハインツの前妻とのあいだの子、十二歳になるハリー、そして二匹のシェパード犬である。なんとマルグリットはこのとき妊娠中。ウィットマー家は長男のハリーの健康をかんがえて移住したというところもあり、農場をきりひらいて現実的に自活の道をさぐろうとしている。

 ウィットマー家の人たちはフリードリッヒとドールの住まいに表敬訪問し、ふたつの家の交流がはじまるのだけれども、フリードリッヒはハインツを嫌い、ドールもマルグリットを気に入らず、よそよそしい交流になる。船が寄港して輸送された船荷を置いていく入り江があるのだけれども、たがいに、じぶんたちの荷物がそこから盗まれているのではないかと疑心暗鬼になる。

 ‥‥このふたつの家族だけだったなら、まだまだなんとかやっていけたのではないかとも思えるのだけれども、おなじ1932年の秋、キョーレツなキャラクターが島にやってくる。「バロネス(つまりはバロンの女性形)」と呼ばれる(呼ばせる)、このとき四十歳ぐらいのドイツ人女性で、ふたりの男性をしたがえて、フロレアーナ島にリゾートホテルを建てるという名目で島で暮らしはじめる。したがえたふたりの男性は、そのときどきのバロネスの気分で、その愛人役もしくは奴隷役をふりあてられているらしい。バロネスのいっていることは嘘八百というか、誇大妄想というか、先住家族をあきれさせる。その性格も、写真でみる容姿も、まさに「ビッチ」と呼ぶにぴったりな気がする。「男というものは犬とおなじで、従わなければ力でねじふせて飼いならせばいいのよ」ともいっていたらしい。すっげえな。
 とにかく、このバロネスの登場以来、島の三つの集団のかんけいはめちゃくちゃになってしまう。フリードリッヒもハインツもバロネスをめいわくに思い、また荷揚げされたじぶんたちあての荷物が盗まれているのではないかと考えるのである。さらに、バロネスから奴隷扱いされることが定番になってしまい、身体的にも精神的にも衰弱したルドルフという男が島から抜け出そうとして、あっちこっちの家に顔を出したりもする。バロネスが寄港した船からの客人を招いて狩猟パーティーを開いたりして、そこでけが人も出る。ドールの飼っていたロバがバロネスに虐待されて死んでしまったりもする。しかし、そんななかでマルグリットは無事に男児を出産したりもする。

 1934年の三月、とつぜんにバロネスとその愛人役の男性とがすがたを消してしまう。船で航海に出たのではないかというものもあったが、ドールはふたりの荷物がみな残されていること、とりわけバロネスの愛読書「ドリアン・グレイの肖像」が残されていることを不審に思う。フリードリッヒやルドルフは、バロネスらはもう生きてはいないようなことをにおわせる発言をする。‥‥ようやく乗せてくれる船をみつけたルドルフは、島とは永久に別れを告げて島を出ていくのだけれども、おなじガラパゴス諸島内で気晴らしのクルージングに出たまま行方不明になってしまう。十一月になって、諸島の北にあるマルチェナ島の海岸で、ミイラ化したルドルフと船の同乗者との死体が発見される。ほぼ同時期にフロレアーナ島では、フリードリッヒが傷んだ鶏肉からの食中毒で急死する。ひとりになったドールは1935年になって島を去り、ヒットラー政権下のドイツへ帰っていく。‥‥ウィットマー家の人たちだけが島での生活をつづけ、長女も生まれ、その後も平和に島で暮らしているとのこと。

 ‥‥なんか、ぜんぶあらすじを書いてしまった感じだけれども、書き手のジョン・トレハン氏はなかなかの文筆家というか、いくつかの謎の事件にふれながらも読者に「ひっかかり」をあたえ、「ん? なんかおかしいぞ」と思わせるあたり、とっても楽しく読めた。それで最終節の「推理」で、「真相はこうではないのか」という著者の推理を披露する。まあその「推理」についてまでここで書いてしまうのもおそらくはルール違反なので、このあたりでやめておきましょう。とにかくは、好奇心のかたまりのようになっている著者が、その好奇心を納得のいくまで追求している、というあたりでステキな本で、そんじょそこらの推理小説や冒険小説を読むよりも、ずっと楽しい読書だった。

 

 

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■ 2012-12-09(Sun)

 まいあさ四時に目覚ましで起きるのだけれども、もちろん外はまっくら。しごとは五時からで、職場は近いので四時五十分近くになって家を出るのだけれども、空には星がいっぱい光っている。わたしは近視と乱視と老眼の複合状態なので、メガネなしではクリアにみえないところもあるけれども、このところは雲のないすみきった天候がつづいているので、それなりに「星がきれいだな」なんて思ったりはする。

 その、近視と乱視と老眼の複合状態についてなんだけれども、七、八年まえまではずっと近視プラス乱視を矯正するメガネをかけていたのだけれども、老眼になってきてメガネをかけていると手元のものがはっきりみえなくなってきて、とくにそのころはコンピューター画面を操作するしごとをやっていて、メガネをとらないと画面がみえにくくなり、しぜんにメガネをはずすことが多くなった。そうするとこんどは遠くのものがみえないということになり、いわゆる遠近両用のメガネをつくったりもしたのだけれども、これはものをみる視界にあれこれの制限がでてくるので(かんたんにいえば上半分は近視矯正、下半分が老眼用ということになる)しぜんにメガネをはずしていた方がいいや、という感じになってしまった。もともとそんなに強度の近視でもなかったし、乱視も軽いものだったので、たとえば映画や舞台を観るときいがいはメガネなどあんまりしないようになった。そんなうちに、その近視じたいも軽減されたというか、視力がアップしたような感覚もあり、外を歩くのにメガネなしでもまったく気にならなくなった。そういうわけでいまは映画、舞台観賞いがいでメガネをかけることはなくなってしまった。‥‥ところが、これでこまるのは美術展などの観賞で、やっぱクリアに観たいよね、というのでメガネをかけてから鑑賞するのだけれども、たしかにそうすると鮮明にデティールなど観ることができる。しかしそうすると、その作品につけられたタイトルやキャプションなどが読めないということになってしまう。そういうわけでわたし、展覧会に行くとメガネをかけたりはずしたり、ひんぱんにくりかえすことになってしまうのである。さいわいにもわたしの老眼の度合いはたいしたこともなく、いまでも裸眼で文庫本を苦労なく読めるわけで、老眼メガネのない不自由はまるで感じない(ただ、CDのライナーノートや解説の文字は、あんまりにも小さくって読めないときがあるなあ)。

 きょうは日曜日で、いままでの経験だとしごと量はふだんのはんぶんぐらいのはずなんだけれども、おととい、さきおとといからそんなに減っているわけでもない。ぎゃくに人員は非番の人が多くてふだんより少ないので、個人的にはおとといやさきおとといよりもハードだった。しごとがいちだんらくついたあとも、あしたにそなえてのあとかたづけでたいへんである。

f:id:crosstalk:20121211081205j:image:right あしたは、少ない額ではあるけれどもボーナスが振り込まれるはず。そのボーナス分はすっかり、歯の治療で使ってしまった。HDDなんかも買ってしまったし、予定していたニェネントの不妊手術の費用をねん出できるかどうか、微妙なところになってしまった。ただ、このところのあれこれのお出かけ〜観劇の予定を中止したりしているので、年内の予定もあまり残ってはいない(観たい映画や展覧会がまだあるし、飲み会の予定もあるけれども)。ここをうまく乗り切ればニェネントの手術もOKだろうか。もうすこし経済状態のようすをみてみたい。ただ、このところいぜんに増してわたしのなかにニェネントに感情移入してしまっているところがあって、つまりはいとおしく思っているのだけれども、そんなニェネントを病院に連れていって、そのからだに傷をつけるようなことがかわいそうに思ってしまう。もちろんこの部屋から外にニェネントを連れ出せば、それだけでニェネントは不安におびえてしまう。これは想像ではなくって、たしかなことである。やはり、かわいそうな気がしてしまう(いっぽうで、いつまでもニェネントに発情期の苦しみを与えつづけるのもひどいことだとも思う)。

 

 

[]「アリス・クリードの失踪」(2009) J・ブレイクソン:監督 「アリス・クリードの失踪」(2009)  J・ブレイクソン:監督を含むブックマーク

 映画の内容はまるで知らないで観はじめたけれども、タイトルぐらいはわかっているわけで、冒頭からの男ふたりがいろいろな道具をそろえたり部屋の内装をセッティングしている場面を観て、つまりはそのアリス・クリードという女性をら致監禁しようとしているのだな、ということはわかる。このシークエンスの、ジャンプショットというか、説明などを省略した演出は小気味いいし、その後の展開の布石としてもいい感じ。

 登場人物はかんぜんに誘拐犯のふたりの男と誘拐された女性の三人だけで、その後半までのすべてのシーンは、監禁部屋の密室とその外の犯人たちのアジト部屋にかぎられている。じつは誘拐犯のひとりは誘拐した女性と密接なかんけいにあった男で、そのことを女性にばらしてしまう。そこでもうひとりの誘拐犯を出し抜いて、富裕な女性の家族に要求している身代金をふたりでせしめてしまおうという計画を明かすのである。ところが次のシーンでは、誘拐犯のふたりの男はムショで知り合っていらい愛人かんけいにあることが描写される。女性は女性で親とのかんけいは良好ではなく、身代金は親がとうぜんじぶんに支払うべき、じぶんの価値ではないかという認識もあるようである。‥‥こうやって、女性もいちどは監禁状態から逃げ出すチャンスを得たり、三人のなかで目にみえない力関係はコロコロと変化していく。

 終盤になって映画は監禁室から外に出て、男ふたりは身代金を森のなかに取りに行くのだが、そこで裏切りを知っていた男がその裏切った男に銃口をむける。銃をむけられる男はそこで必死の命乞いを語りかけるのだけれども、ありゃりゃりゃ、このシーンはそっくり、コーエン兄弟の傑作「ミラーズ・クロッシング」のなかで、ガブリエル・バーンがジョン・タトゥーロに銃をむけるシーンと相似形じゃありませんか。そうか、そうすると、このドラマぜんたいの構成も、たとえば同じコーエン兄弟の「ブラッドシンプル」のように、犯罪にかかわるだれもが陰謀を抱いていて、そのぜんたいの状況を把握している人物は(観客以外)だれもいない、というものではないか。ちょっとこのあたりでストーリーに甘いところも感じるけれど、ぜんたいにきちんとしたコーエン兄弟作品へのパスティーシュであり、映像的にも演出の上でも、つまりはとってもウェルメイドな作品だったという印象。さいごのクレジットの部分もどことなくソール・バス風というか、さいきん観た映画ではいちばんのラスト・クレジットだった。この監督さんには、これからも注目してみたい。


 

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■ 2012-12-08(Sat)

 選挙まぢかということで、NHKでは政見放送をしょっちゅう放映している。立候補者個人の政見放送というものはあたりまえだとして、いまは政党としての政見放送というのもやっている。これがどれもひどいもので、つまりはイメージ戦略というか、CMとどこがちがうんだよ、というものばかりである。民放ではいぜんからこの種の政党によるコマーシャルというのを放映しているわけで、あらためてここでNHKでこのような愚劣な映像を放映する意味がわからない。衆愚政治もここに極まれり、という感じだし、これでまた、NHK受信料の支払いを拒否する理由もできた、という気がする。こまかくいえばそりゃあ「公職選挙法」がこういうものを認めるからいけないのだけれども、NHKがまともな組織なのだったら、このあり方に異議をとなえるべきだろう。

 きょうは土曜日でしごと。いつもの土曜日のように、FM放送をエアチェックの設定にしてしごとに出て、帰宅してから聴く。タイマーをセットできれば聴きたい番組のじかんだけ録音すればいいわけで、その方法もとうぜんあるはずなんだけれども、じつはその設定がわからないでいる。しかたがないのでMDをロングプレイモードにしてしごとに出るときから録音をはじめている。このモードだと五時間ぐらい録音できるから、しごとを終えて帰宅してもまだ録音をつづけている。それはいいんだけれども、再生するときにあたまからぜんぶ再生しないといけない。もちろん早送り機能はあるのだけれども、せいぜい倍速になるぐらいだし、早送りするあいだずっとボタンを押しつづけていないとならない。めんどうなのでぜんぶ聴く。そういう次第で土曜日はひるのあいだずっと、このMDを聴きつづけるのである。とちゅうでストップするとまたさいしょっからぜんぶ聴かなければならないので、ノンストップで聴きつづける。それでも、意図せずに録音したクラシックの番組に聴きほれたりすることもある。きょうはRolling Stones の新曲(!)や、来日していたらしいChieftains の小特集などを楽しんだ。Chieftains のライヴ、行きたいなあ。こんかいは焼津なんかでも公演があったそうなので、こんどは茨城でもやってくれないかしらん。

f:id:crosstalk:20121210160513j:image:right ニェネントとあまり遊ばなかった。つまらないと思ったのか、ニェネントが部屋のなかをドドッとかけまわっている。TV台の上にかけあがり、そこからまたジャンプしてリヴィングをかけ抜けてキッチンへ行き、そこから玄関の方へ抜け、和室へと行ってこの家のなかを一周してみせる。そのあとはベッドの上にあがって丸くなって寝てしまう。もっと、いつもニェネントと遊んであげたいと思っているのだけれども。
 夕食はまた白菜を炒めたりして、ようやっと買ってあった白菜がなくなった。このところよけいな出費が多かったので、これからは食費を切り詰めて節約しようかと思っている。では、あしたからどんな献立にしようか。

 

 

[]「プリズナーNo.6」(1967〜68) 14.「悪夢のような」 「プリズナーNo.6」(1967〜68)  14.「悪夢のような」を含むブックマーク

 原題は「Living in Harmony」。なんと西部劇仕立てで、それは、このまえの回のタイトルが「Do Not Forsake Me Oh My Darling」という往年の名作西部劇映画を思わせるものだったところから引きつがれているのか。冒頭からパトリック・マッグーハンがウェスタン・スタイルで登場し、連邦保安官のデスクにシェリフのバッジをたたき返す。いつもの設定のパロディというか、西部版パラレル・ワールドというのか、「Living in Harmony」というタイトルの「Harmony」というのは、パトリック・マッグーハンが到着した町の名まえで、ここはいつもの「村」の相似形、のようである。ここでパトリック・マッグーハンは、町の判事からふたたび町の保安官になることをせまられる。町ではキッドと呼ばれる男(シルクハットをかぶり、どうみてもイギリス人なのだけれども)が暴虐をつくしており、パトリック・マッグーハンに惚れているらしい酒場の女とのかんけいも微妙である。すべてがいつもの「村」のパラレルな展開に思えるのだけれども。

 ‥‥じつは、こんかいもまたNo.2 らによるNo.6 への思考操作ということなんだけれども、つまりはNo.2 らの出演者が「劇」に入れこみすぎてしまって失敗するのである。冷静沈着なNo.6 の勝利。このところ連戦連勝ではないか。


 

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■ 2012-12-07(Fri)

 このところ、おだやかな晴天がつづいていて、十二月としてはすごしやすい。線路の向こうのスーパーのとなりの100円ショップへ行き、らい年のカレンダーとスケジュールブック(ダイアリー)とを買った。なん年かまえまで、100円ショップで売られているカレンダーやスケジュールブックは「さすが100円ショップ」としかいいようのないものばかりで、とくにスケジュールブックは各ページの上に「 月 日( )」とだけ印刷されていて、その「ひにち」は自分で記入して下さい、ってなものでしかなく、とてもスケジュールブックとして活用できるものではなかった。ところが二、三年まえからこのあたりがとつぜんにグレードアップしたというか、どちらも文具店で千円ぐらいで売られているものとの差異がほとんどなくなってしまった(というのはいいすぎだろうか)。とくにスケジュールブックは年々進化してきているというか、何種類ものデザイン、レイアウトのものが売られているし、きょうわたしがみつけたものなど、むかし使っていたそれなりに高価なスケジュールブックよりも使いやすそうだったりする。この、年末のカレンダーとスケジュールブックとは、100円ショップでの「お買得商品」ではないだろうか。
 この100円ショップは、そのとなりにあるスーパーと競合してしまうので、いまでは食料品は取り扱わなくなってしまって買えなくなってしまったのだけれども、あと100円ショップでの「お買得商品」として思いつくのは、瓶詰めの「豆板醤」だとか「輪切り唐辛子」など、だっただろうか。「輪切り唐辛子」とかはスーパーで売っている「高級品(?)」にくらべて半分以下の価格で、五、六倍の量が入っている。わたしは両方使いくらべたことがあるけれど、味に「差」があるとは、まるで認識できなかったぞ。

 100円ショップからの帰りに図書館に寄って、こんどは「ガラパゴスの怪奇な事件」という本と、江藤淳、吉本隆明、竹内好、そして鶴見俊輔の四人を論じた「アンビヴァレント・モダーンズ」という本とを借りてきた。せんじつ借りた「理解できない悲惨な事件」にはちょっと懲りたのだけれども、それで思い出したのがこの「ガラパゴスの怪奇な事件」という本の存在で、同じ出版社から出されているのだけれども、まあこの1930年代初頭にガラパゴスの島で起きた「怪奇な事件」こそ、好奇心をそそるセンセーショナルな事件なのである。だいたいの事件のあらましは記憶しているつもりだったけれど、その「背景」だとか、前後のいきさつはまるで忘れてしまっている。もういちど読むことにしたわけである。

f:id:crosstalk:20121209122525j:image:left 午後はひさしぶりに手持ちのDVDを観たりしてすごした。夕食の準備でキッチンに行ったり来たりしていると、歩いているわたしの足もとにニェネントがうしろから、いつものようにちょっかいを出してくる。ところがいつもとはちがって、わたしが一歩踏み出すたびに、それぞれの足にれんぞくしてちょっかいを出してくるのである。あらあら。びっくりもしたし、あんまりにかわいいので抱きしめてあげようとニェネントを追うと、またまた追いかけっこになってしまった。いままでにまして、ニェネントのことがいとおしく感じられた。ニェネントの望むことならなんでもかなえてあげたい。まあこのことは、ニェネントがどこかの性悪女のように高価なものをねだったりしないこと、「海外旅行に連れていって」みたいなことをいいださないことを見越していうのだけれども。‥‥ニェネントちゃん、あなたの望みはなんですか?

 ‥‥そうやって夕食の準備をしながらTVもつけっぱなしにしていて、選挙の政見放送をやっていたのだけれども、とつぜんにアラーム音がTVからきこえてきた。地震の予報だった。「ほんとかな?」なんて思いながら、とりあえずはつけてあるガスの火をすぐに消せるポジションについた。‥‥しばらくして、ほんとうに揺れが来た。リヴィングにいたニェネントも天井を見上げている。「ニェネント、ほんとうに来たねえ」とかしゃべりかける。ちょっと大きいことは大きかったけれども、横ゆれだったのでこころを落ち着けることができた。しかし、それからあとのTVでの、津波を予測した避難勧告はすごかった。震源地は宮城沖でM7.3だというから、予測されている津波の高さ、高いところで1メートルというのは正当なものだろうと思うけれど、TVのアナウンサーは「東北大地震を思い出して下さい!」と、叫びに似た声をあげている。やはりこういう報道をとらざるを得ないのだろうかと考える。過少評価して死者が出てしまったりしたら、それは報道の責任にされることもあるだろう。‥‥わたしがいま、宮城県の海の近くにいたのだったら、避難するだろうか。‥‥やはり、避難するんじゃないだろうか。

 

 

[]「プラットホーム」(2000) ジャ・ジャンクー:監督 「プラットホーム」(2000)  ジャ・ジャンクー:監督を含むブックマーク

 わたしが持っているこのDVDは中国製のもので、とにかく安かったのでむかしアジア系のネット通販を通じて買ったもの。ジャ・ジャンクー監督の作品や、ホウ・シャオシェン監督、そしてティエン・チュアンチュアン監督の作品などを複数、おなじような中国製のDVDで買ってある。もちろんわたしは中国語がわかるわけもないので、英文字幕にたよっての観賞になる。で、中国映画を英文字幕で観ていちばんこまるのが、とにかく登場人物の名まえがややっこしいというか読めないというか、読めないということはおぼえられないということで、観ていて「この人物はなんて名まえだっけ」ということにぶちあたる。まあ観ていれば「そうそう、この人物の名はこういう<記号>だった」と思いあたるようにはなるのだけれども、読めないことにかわりはない。まあ基本的にはいちどは映画館で日本語字幕で観たことのある作品が多いので、そのあたりのことは助けにはなっている。

 とにかく、さいきんはおとなりの国中国のことも気にかかるし、竹内好などを読んだりもしたもので、ひさしぶりにこの「プラットホーム」をストックから引っぱりだして、DVDプレーヤーにつっこんだ。
 ‥‥やっぱ、圧倒的にすっばらしい作品、だった。まずはユー・リクウァイによる、ワンシーンワンカットが基本の美しいカメラワークが印象に残る。とくに、被写体を追ってのゆっくりとしたカメラの動きが美しく、スティルショットとあわせて、この作品の魅力になっていると思う。

 作品はまさに中国のとう小平の時代、80年代はじめの経済解放政策の浸透していった時代を背景に、「文化劇団(英語字幕ではCultural Teamと表記されていた)に所属するふた組のカップルのゆくえを追いながら、中国社会の変化をとらえていく。まずはこの「文化劇団」というもの、冒頭でその地方公演のようすを見ることができるのだけれども、つまりはまだ神格化されていた毛沢東の、その生地へと鉄道で旅をする民衆を描いたもののようで、つまりは一般への毛沢東思想の伝授、その神格化にひと役はたしていたような集団、だったのだろう。それが毛沢東の失墜と経済解放政策のなかでそのスタイルを変えていくところもまた、この作品の見どころだと思う。よくこの作品での象徴的な名場面と紹介される、毛沢東の肖像画のまえでパーマをかけて赤いドレスを着た女性がフラメンコを踊るシーンもまた、この「文化劇団」の集会でのことである。劇団は解放政策のなかでどんどん西欧文化を取り入れるようになり、エレキバンドの演奏なども披露されるようになる。とちゅうで交代したあたらしいリーダーは、ただのどさ回り集団のプロモーターにしかみえなかったりする。

 さきにわたしは、そのフラメンコダンスのシーンが名場面といわれていると書いて、じっさいにわたしもそのように思っていたのだけれども、この作品にはそれ以外にもふたつかみっつの、やはり印象的なダンスのシーンが描かれている。ひとつは映画も中盤を越えたあたりで、よるの事務所のような空間のなかで、ひとりの女性(たぶん、チャオ・タオだったと思う)が、ラジオのディスクジョッキーが紹介する中国製ポップスを聴きながら、たったひとり踊り出すシーン。どこか孤独な寂しさを感じさせるシーンで、解放政策がそれぞれの孤独をこそ深めていったのではないのか、というような印象を受ける。
 そのあとに、終盤になってから、その「文化劇団」のプロモーターのようなリーダーがふたりの女性団員(ダンサー)といっしょに地方の役所だかを訪れ、「ディスコ・ダンス」を観客にみせるというふれこみで、リーダーはそこにいた男たちのまえでダンサーにダンスを披露させるシーンがある。ところがそこにいた男たちはまるで決定権などもっていないのだった。徒労。「文化劇団」など、ほんらいの意味ではもう存在する理由はないのではないだろうか。ただ西欧化されたショーを見せるためにどさ回りをする集団。
 さいごに、わたしにはこれこそ<名場面>と思われるダンスのシーンが映される。さっきのダンサーふたりが、トラックの行き来する街道ぞいに停められたトラックの荷台で、そのディスコダンスを踊っている。だれも観客など存在せず、行き来する車はスピードをゆるめることもない。うまくいえないけれど、ここにみえるのはひとつの絶望感でもあるだろうし、絶望を越えた<やけくそ>の意気みたいなものも感じてしまう。この作品が一面でその「文化劇団」の変遷をたどっているとすれば、このシーンはその「結論」であろう。

 映画の主題であるふた組の男女のことも書きたいけれども、こんかいはここまで。わたしはジャ・ジャンクーの「一瞬の夢」はもっていないので、もういちど観てみたいと強く思うようになった。この作品以降のジャ・ジャンクーの作品、「青の稲妻」や「世界」、そして「長江哀歌」とかには、どこかその「荷台の上でのダンス」のヴァリエーションのようなところもあるような気がしてしまう。これらの作品もまた観直してみなければいいかげんなこともいえないけれども、やはりもういちど、「一瞬の夢」を観てみたい。


 

[]「オーメン」(1976) リチャード・ドナー:監督 「オーメン」(1976)  リチャード・ドナー:監督を含むブックマーク

 冒頭からしばらくの、「音」をクローズアップするような演出がおもしろかった。騒音をカットして、静寂のなかで、たとえば子どもたちの歓声や、たとえば鐘の音、電話の呼び出し音とかのみをクローズアップする。

 この時代のオカルト映画、たとえば「エクソシスト」だとか、たとえば「オードリー・ローズ」なんかでも、そういう超常現象におそわれる子どもたちに、どこかうすきみわるい印象を与えるような子役を選んでいるのだけれども、ここでもダミアンを演じている子役さんにはぶきみな印象がある。こういうオカルト映画の子役のオーディション会場というものが、いっちばんこわいんじゃないだろうか。想像したくない。


 

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■ 2012-12-06(Thu)

 しごとは非番で休み。きょうもおだやかないい天気。予約してある歯医者へ行き、前歯を三本まとめてさし歯にした。これでらいしゅう支給される予定のボーナスはすべて消えてしまう。ぜんかい治療にずいぶんじかんがかかったので、きょうも遅くなるのかとしんぱいしたのだけれども、十五分ほどですべて完了した。ぜんかいはつまりはこんぽんになる屋台骨の基礎工事で、そこがしっかりできていればあとは神輿をのっけるだけみたいなものだったのだろう。はやくおわったので、きょうは行くつもりもなかった内科医にもいって、また二週間ぶんのくすりをもらってきた。二週間にいちど、こうやって内科医に通院して、そのたびにくすりをもらってきて、それ相応のくすり代を支払う。こういうことを半年いじょうつづけているわけで、それだけでもことし一年間にかかった医療費はそうとうなものになっている。これにきょうの歯医者への支払いも合算すると、海外旅行も可能だったぐらいの金額が医療費として消えていったことになる。らいねん医療費控除の申告をすれば所得税で還付を受けられるだろうか? 微妙なところではある。

 帰宅してしばらくして、注文してあったHDDがようやっと届いた。これもまたかんがえればよけいな支出ではあったことよ、ということなのだけれども、いまはそういう、放映される映画などを観ることに集中しているわけで、そういうじぶんの生活様式を問い返さないかぎりはこの出費はやむをえないところだろう。しかし、購入したHDDは2TBと、まえに買ってある1.5TBのHDDよりも大容量なんだけれども、そのサイズはひとまわり小さくおさまっている。むかしわたしがコンピューターかんけいのしごとに就いたとき、わずか百メガぐらいの容量のハードディスクでも運ぶのに大のおとながふたり以上かかって、しかもディスクを傾けないように細心の注意をはらって運搬していたことをかんがえると、SF的な乖離を感じてしまう。

f:id:crosstalk:20121208173617j:image:right あたらしいHDDをセットして、それでまた接続をかえて古いHDDに録画してあった映画を観たりする。きのうきょうとあまりかまってもらえないニェネントがTV台の上に乗ってきてTVの画面のまえにすわり、わたしがTVを観るじゃまをする。「ねえ、遊んでよ」ということらしい。それでしばらくは追っかけっこをして遊ぶ。そんなニェネントの顔をみていると、なんだか頬とかに肉がついたようにもみえ、ちょっと成長したような感じもうける。たくましいような印象。でもこれはただ冬仕様になったということで、全身の毛がふくらんでみえるようになっただけのことなのかもしれない。冬仕様のニェネントもいい。

 そう、中村勘三郎さんが、お亡くなりになられた。わたしは歌舞伎の舞台というのを未体験だし、彼の舞台姿をみたこともないのだけれども、映画ではたしか「顔」とかでの印象的な出番は記憶している。阪神淡路の大震災が起きるシーンだった。あと、TVの番組でまさに泥酔されている中村勘三郎さんのすがたを拝見した記憶は鮮明である。TVで、ここまでにじっさいに酔っぱらったすがたをさらされた方というのをわたしは見たことがなかった。すっごいなあと思ったし、その酔いかたに爽快なところを感じた。わたしも酔うんだったらああいう酔いかたをしたいと思ってしまったものだし(けっこう出来てるかもしれないとうぬぼれたりするが)、こういう人といっしょに飲めたら楽しいだろうなと思ったものである。それと同時に、こんなに飲んじゃう人は長く生きられないんじゃないの、と思ったこともたしかである。よけいな予感が当たってしまった。ご冥福をお祈りいたします。

 

[]「家庭の事情」(1962) 源氏鶏太:原作 新藤兼人:脚本 吉村公三郎:監督 「家庭の事情」(1962)  源氏鶏太:原作 新藤兼人:脚本 吉村公三郎:監督を含むブックマーク

 すっごい、おもしろかった。吉村公三郎監督というのもいいじゃないの、などと僭越なことを思ったりするし、新藤兼人氏も、こういうくだけた感覚の本の方がその良さを発揮できているような気もする。定年退職した父親役の山村聡、長女の若尾文子、山村聡の再就職先に勤務する川崎敬三らの演技がとにっかく楽しい。そこに山村聡の退職金を狙う女給の藤間紫と山村聡とのやりとりで大笑いさせられるし、ちょっとだけの出演だけれども、山村聡に再婚話をもってくる杉村春子もまた「杉村春子」していてウフフ、なのである。

 まずは定年退職した山村聡、退職金として支給された二百五十万(当時のレートだから、いまなら十倍ぐらいになるだろう)を、四人の娘それぞれとじぶんとで五十万ずつ分けましょうというところから物語ははじまる。四人の娘たちはみな、いつ結婚してもおかしくない年齢にはなっているわけである。

 しかし長女の若尾文子はつとめ先の課長(ちょっとしか顔を見せないけれども、根上淳が演じている)との不倫関係を精算しようとしているし、次女の叶順子には田宮二郎という恋人がいる。この田宮二郎がぜったいあやしくって、結婚するのに借金を精算する大金がひつようだとかなんとかいうもんで、叶順子はその五十万をぜんぶ田宮二郎に渡しちゃう。叶順子の会社の同僚に藤巻潤がいて、これが叶順子に「田宮二郎はあやしいからやめろ」と忠告するし、金を受け取った田宮二郎は叶順子に冷たくなるわけである。三女は三条魔子という女優さんが演じているけれども、つとめには出ていなくってつまりは家事手伝い。山村聡は見合い相手をさがしてやらなくっちゃあと、退職した会社の同僚だか上司だかの小沢栄太郎に相談しようとするんだけれども、「辞めちゃったやつには用はない」とばかりに、けんもほろろの応対をされる。四女は渋沢詩子という女優さんで、こちらはちゃっかりともらった五十万を元手に、会社の同僚相手に「高利貸し」みたいなことをはじめる。山村聡じしんも、常連だった小料理屋の女給(藤間紫)に退職金目当てのモーレツなアタックをうけるのである。

 若尾文子は会社を退職して、じぶんで喫茶店でも経営しようとかんがえ、うまく手ごろな店舗の権利を五十万で手に入れる。その喫茶店の二階の建築デザイン事務所に船越英二がいて、若尾文子の店の内装を引き受けるのである。じつはその店舗の権利をもっていたのが月丘夢路で、かのじょは山村聡との縁談に乗り気なのである。‥‥女性たちにはいつも押されぎみの山村聡だけれども、再就職先の川崎敬三と会話していて気に入ってしまい、かれを三女に紹介してみようかという気もちになる。四女にはまあ、川口浩という取り巻きがいて、どうもしょうらいは決まったようなものである、と。さいごには若尾文子のあたらしい店で山村聡の誕生日パーティーがおこなわれ、つまりはしょうらいが約束されたようなカップルが五組もそろうわけである。

 この当時の東京の風景がちらっと写されるのも興味をひくところで、旧の原宿駅だとか、吉祥寺の駅前通りなどがその古いすがたをみせてくれる。ラヴホテル街も出てくるけれど、あれはどこなんだろう。湯島あたりだろうか。

 ちゃっちゃっと、ちょっとシニカルさをたたえた演出がここちよく、「そういえばこれは大映映画だったよな」というあたりで、松竹のホームドラマとはひと味ちがう感触をたのしめる作品だった。川崎敬三のセリフ、「われわれはつねにものおじしてますからね、世のなかというものに」っつうのがなんかこころに残った。


 

[]「岡倉天心」竹内好:著  「岡倉天心」竹内好:著 を含むブックマーク

 天心は、あつかいにくい思想家である。また、ある意味では危険な思想家でもある。あつかいにくいというのは、彼の思想が定型化をこばむものを内包しているからであり、危険なのは、不断に放射能をばらまく性質をもっているからである。うっかり触れるとヤケドするおそれがある。

 この長くはないエッセイもまた、さきの「近代の超克」からひきつがれたもんだいをあつかっている。せんじつ読んだ「近代主義と民族の問題」にも通底する視点はきょうれつに感じたし、この「昭和文学全集」に掲載されている四編のエッセイからは、著者の竹内好氏のアジアと日本の近代をみつめる強靱で硬質な視線を読み取る。

 ここではさきの「近代の超克」で一方の主役を演じた「日本浪曼派」に利用された、岡倉天心について考察される。岡倉天心はまさに「文明開化」を認めなかった存在であるにとどまらず、「アジアは一つである」という一文をも残している。この謎のような一文にかんして、竹内氏は以下のように述べられている。

(‥‥)天心はアジアの名で愛または宗教を考えているのであって、武力を考えているのではない。武力は非アジアまたは反アジアである。次に、一つという判断は、事実ではなくて要請である。一つで「あらねばならぬ」、もっと正確にいうと「にもかかわらず‥‥あらねばならぬ」ということなのだ。

 まあこれでもちょっと、わからないことにはかわらないけれども、こういうところが「定型化をこばむ」ということでもあるのだろうか。わたしなどは、「ヤケド」するまえにさっさと退散した方が良さそうだ。



 

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■ 2012-12-05(Wed)

f:id:crosstalk:20121207122515j:image:left きょうはしごとで人員がいつもよりひとり少なかったこともあり、これまでいじょうに忙しかった。帰宅してもなんだかぐったりしてしまっていて、外はひさしぶりにいい天気であたたかな陽ざしもさしているのだけれども、部屋でゴロゴロしてすごす。あんまりニェネントをかまって遊ぶこともせず、ニェネントもなんだかつまらなそうである。

 あまりヴィデオとかを観るという気分でもなく、なにかこのごろ聴いていないCDでも聴こうかとストックをひっくりかえしてみた。もうわが家のCDはほとんどが自分で焼いたCDRばかりになっているのだけれども、ひっぱり出してみるとなんと、音の記録されている部分が腐食して穴があいていたり、うすい銀紙がはがれたようにはく脱しているものなどが複数みつかった。けっこうショックで、ものごとはどんどんデジタル化しているのだけれども、その媒体の耐久性はぎゃくにどんどんと落ちてきている。音だったらカセットテープの方がかくじつに保存はかんたんだし耐久性もある。画像はいまはHDDに保存するけれども、これも取扱説明書にはっきりと<ハードディスクは恒久的な保存場所ではありません>と明記されている。それではDVDRに保存すればいいかといえば、つまりはCDRとおなじもんだいになるだろう。ここでも保存という面ではVHSテープがいちばんたしかかもしれない。しかし画質が、というもんだいはある。

 とりあえずはCDのストックから、ほんとうにひさしぶりにMothers of Invention なんか出してきて聴いたりした。そもそもがFrank Zappa を聴くのがここに越してきてからはじめてのことになるかもしれない。かなり陽気な気分になれた。Frank Zappa 偉大なり。あとはAlex Chilton の「Loose Shoes and Tight Pussy」など。

 なんかお米のストックがいっぱいある気分なので、めずらしく昼食も夕食もお米のご飯にした。買ってある白菜がなかなかなくならないので、このところはその白菜をつかった料理ばっかし。って、だいたいが炒めるか鍋にするかしかレパートリーはないのだけれども。

 

[]「近代の超克」竹内好:著 「近代の超克」竹内好:著を含むブックマーク

 この「近代の超克」という、ことばは目にしたことはあったのだけれども、いったいぜんたい何のことなのか、じつは知らなかった。

 このエッセイは1959年の十月、「近代日本思想史講座7 近代化と伝統」のために書き下ろされたもので、戦後十余年を経た時点での、竹内好氏自身をふくむ知識人たちの戦中の苦い記憶(なのだろう)とともに考察されたもの。日本の中国侵略から太平洋戦争突入の流れのなかで、当時の知識人たちがどのように時局に組み込まれ、どのように時局をリードしようとしたかということを、おもに雑誌「文学界」1942年の九、十月号に掲載されたシンポジウム「近代の超克」(これは翌年単行本化されたらしい)、を通じて考察したもので、また、この「近代の超克」にさきだって、1941年から42年にかけて雑誌「中央公論」に掲載され、おなじく単行本になった「世界史的立場と日本」という座談会のことも関連して取り上げられている。さらに、このエッセイの書かれた時点でこの「近代の超克」論議がいまだどのようにひきずられているのか、ということも考察されている。

 このエッセイには「文学」1958年四月号に掲載された小田切秀雄氏の「『近代の超克』について」から、これが「ほぼ今日の通説といっていい」としていちぶ引用されているので、そのさらにいちぶをここに再引用しておく。

太平洋戦争下に行われた『近代の超克』論議は、軍国主義支配体制の『総力戦』の有機的な一部分たる『思想戦』の一翼をなしつつ、近代的、民主主義的な思想体系や生活的諸要求やの絶滅のために行われた思想的カンパニアであった。(‥‥)『文明開化』と官僚主義への批判という形で日本浪曼派が行ってきた資本主義文明批判はこの論議によってヨリ広い視野のなかにひきだされ、さらに日本の近代社会とその生活・文明・芸術等においての近代的な側面のいびつな展開とそれの伴った弱点がさまざまな角度から論難攻撃され、その結論として軍国主義的な天皇制国家の擁護、理論づけないしそれの戦争体制の容認・服従ということが思想的カンパニアとして行われたのである。

 ‥‥げんざいの視点から読むと、ええー! とんでもないことではないか! と思ってしまうのだけれども、ことはそうたんじゅんではない。西欧の帝国主義によるアジア支配を「文明開化」以降の日本にもあてはめて考え、その帝国主義からこの日本をふくめたアジアを「解放」するのだという視点をとれば、ほとんど左翼の論調との差異を感じ取れないところもあるのではないだろうか。じっさいにこの「近代の超克」は多くの読者を得て、熱心に読まれたのである。

 わたしは知識人でもなんでもない存在だけれども、もしも徴兵され、銃を手にして戦場へ駆り出されるような事態になれば、どのような手段をこうじてもぜったいに忌避しようと思っているし(まあこの年齢になってしまうと徴兵されることもないだろうけれども)、この国がそのような方向にけっして進まないようにと願っている。しかしそれでも、もしも自分が中東やアフリカに生まれていたとしたなら、どこかで銃を手にとるような行為を是認しているのではないだろうかと想像したりする。いわゆる「解放戦線」になら、武器を手に参入することをいとわないと考えるかもしれない。‥‥そうすると、わたしなんかも戦時中に成人をむかえるような存在だったとしたら、「これはアジアの解放だ!」などといわれてコロッといっちゃわないとも限らないんじゃないのか。おそろしいことである。そうするとよけいに、この「近代の超克」や「世界史的立場と日本」のようなものを分析し、正体をとらえるような力を持っていなければならないのである。このエッセイには阿部知二がそのような反省を書いたエッセイからの引用がある。

(‥‥)そのころの私は、漠としたファシズムへの嫌悪や戦争への恐怖をいだいていたとはいえ、それらを歴史的に分析し、その正体をとらえる思想力をもたなかった。

 さらに、吉本隆明も次のように書いている。

戦争に負けたら、アジアの植民地は解放されないという天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。また、戦争犠牲者の死は、無意味になるとかんがえていた。

 エッセイはさらに多岐にわたるもんだいが分析されているけれども、まずわたしはそういう、わたしならどうしただろうか、ということを真剣にかんがえるのであった。


 

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■ 2012-12-04(Tue)

 あさ、出勤で外に出るとぽつぽつと雨が降っていた。このところよるのあいだに雨が降ることが多く、それでもだいたい夜明けのじかんにはやんでしまうので、傘を持たずにしごとに出た。
 きょうはまた膨大なしごと量で、ほかの人たちのしごとがどのようにはかどっていいるのかまるでわからないまま、つまりはわき目もふらずにじぶんのしごとだけで手いっぱいのしごとぶり。残ったしごとをだれかが手伝ってくれているのか、そのまま放置されているのかもわからない。なにがどうなったのか不明のまま、なんとかかたがついたようだけど。‥‥外では雨あしが強くなっていて、こういう天気になるとは想像していなかったけれども、傘がなくては外を歩けない降り。わたしの家は職場から早足で一分程度しかかからないからいいんだけれども。

 注文してあるHDDがなかなか届かない。ちゃんと代金も準備して玄関口に置いてあるのだけれども、いつまでも来ないとほかのことに使ってしまいたくなる。いま使っているHDDもほぼ満杯になってしまっていて、残量が3パーセントだとかいっているみたいなので、早くつぎのHDDがほしい。ただ、こういう欲望の連鎖の泥沼状態は承知しているところで、ここはなんとか二台のHDDでもって、保存用と消費用とを使い分けるようなことをやってみたい。できるのだろうか。

f:id:crosstalk:20121206185245j:image:left きょうのニェネント。いつもながらのことではあるけれども、ニェネントはあたまの悪そうな顔をしている。ニェネントのお母さんだったミイはおそらくはネコとしては卓越した頭脳を持っていたのではないかと思うのだけれども、このニェネントにかんしては、きっとピーナッツの粒ぐらいの脳みそしか持ち合わせていないんじゃないかと思える。でもでも、だからこそいとおしいネコだというところもある。ダメな子どもほどかわいいのだというのは親の心理としては真実だと思う。わたしはニェネントの親(保護者)のつもりでいるのだけれども、ニェネントはわたしのことを目下、もしくはせいぜい同類ていどに思っているんじゃないかと感じるときがある。ニェネントがわたしを保護者のようにあつかってくれるのは、食べ物の催促のときだけだと思う。

 きょうの夕食から、せんじつ買った新潟米の出番になった。あたりまえのことというか、くやしいけれどもおいしいご飯であって、どうせいずれはまえの標準米にもどらなければならないし、わたしには標準米が似合っていると思うのだけれども、こうやっておいしいお米をおいしいと感じてしまうのがなぜか哀しい。


 

[]「赤い影法師」(1961) 小沢茂弘:監督 「赤い影法師」(1961)  小沢茂弘:監督を含むブックマーク

 柴田錬三郎原作による東映映画。主演は大川橋蔵だけれども、キラ星のごとくビッグスターが顔見せしている。まず冒頭から九ノ一というのか女忍者で木暮実千代が登場して伏見城だかどこだかに忍び込み、これが近衛十四郎の演ずる服部半蔵に捕らえられ、なんと胸をわしづかみにされたりしてつまりはレイプされてしまう(まあ描写はおとなしい)。いきなりなんですか、という感じなんだけれども、そこでタイトルが出されて本編になるとそこは江戸の世、家光の治世になっているわけで、その木暮実千代の子息ということで成人した若影(大川橋蔵)が登場する。どうやらこの母子は石田三成の遺志を継ぎ、徳川家に謀反を起こそうとしているらしい。そのために、かくされた軍資金のありかをみつけようとしている。徳川家光はここで御前試合を楽しむぐらいしかやることのない人間みたいなあつかいなのだけれども、その家光が御前試合の勝者に与える剣に、その軍資金の隠しどころの暗号が印されているらしい。

 大河内傅次郎、大友柳太朗、里見浩太朗、東野英治郎、平幹二郎などなど、「ろう」の付く人々がいっぱい登場し、御前試合でのさまざまな剣術合戦も見どころなのだろう。たしかに前半は「なんだかおもしろそう」という感覚で観ていたのだけれども、だんだんに奇想天外というよりも荒唐無稽というニュアンスも強くはなるし、なんども繰り返される御前試合の演出、みせ方もワンパターンというか、絵が平板になっていくばかりで、とちゅうからはちょっと観る気も失せてしまった、というのが正直なところ。原作は柴田錬三郎の代表作ともされ、とてもおもしろいらしい。

 

[]「近代主義と民族の問題」竹内好:著 「近代主義と民族の問題」竹内好:著を含むブックマーク

 じつはいま、この項目を書くまえに、同じ全集のつぎに収録されている「近代の超克」というのを読んでしまっているので、このエッセイはその延長線にあるもの、「近代の超克」が戦中の事象をとらえたものとすれば、ここでもんだいにされているのはその延長線上にある、戦後の事象をテーマにしているといえると思う(このエッセイの書かれたのは1951年)。ここでも、戦中にさかのぼって「日本ロマン派」という存在が、その近代史の「難点」として登場する。いまは、わたしにとってげんざいもなお有効だと思われる、次の文章を引用するだけにとどめておきたい。

 ウルトラ・ナショナリズムから、ウルトラの部分だけを抜き出して弾劾することは無意味である。同時に、ウルトラでないナショナリズムを、対決を通さずに手に入れようとする試みも失敗におわるだろう。アジアのナショナリズム、ことに典型的には中国のそれは、社会革命と緊密に結びついたものであることが指摘されている。しかし日本では、社会革命がナショナリズムを疎外したために、見捨てられたナショナリズムは帝国主義と結びつくしか道がなかったわけである。ナショナリズムは必然にウルトラ化せざるを得なかった。「処女性を失った」(丸山真男)といわれるのは、そのことである。


 

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■ 2012-12-03(Mon)

 しごとはおとといほどいそがしくはなかった。しかし、人員補強で手伝いに来ていただいている「お偉方」諸兄には腹立たしい思いをすることになる。ふだんしごとをやっているのはわたしたちなのだから、なぜ不明な点はわたしたちに「どうやっているのか」ときかないのか。なぜ勝手にものごとを処理してしまうのか。「お偉方」のやることだから、やったことはそれはそれで通ってしまうのだけれども、そのしわ寄せをくらうのはわたしたち、ということになる。不快。

 帰宅してネットをチェックしたら、「ひかりTV」の方も不通になってしまっていて、この朝に録画予約してあったものがいくつか録画されていなかった。ケーブルが原因ではなくてルーターがちゃんとはたらいていなかったようで、このあたりを復帰させたら正常にもどった。ケーブルを買わずにすんだのはうれしいけれども、ニェネントの「おいた」が原因ではなかったのか、という疑いはぬぐえない。
f:id:crosstalk:20121205130536j:image:right ニェネントはまた、TV台の下からTVにむかってジャンプキックをくらわせた。ニェネントとしてはTVの上にうまく乗っかれるのではないかと想像していたのだろうけれども、ただTVの画面にキックしただけで飛び乗れず、そのままキッチンの方へすっとんで行ってしまった。TVはまたグラグラとゆれる。下部をTV台とワイヤーでしばっていなければきっと転倒していた。そうすればまた画面にヒビが入って写らなくなり、ただの黒い大きな板になってしまっていたことだろう。もういいかげん、ニェネントにはこういう「おいた」はやめていただきたい。

 それでTVをみていたら、再来週に投票のせまった選挙の公示があした行われるようで、そういう報道や討論ばかり行われている印象。あれこれの新党がいっぱい出現したようで、つまりは「アメリカのような、政権交代可能な二大政党政治をめざす」とした、かつての誰かさんの構想が崩壊したということだろうし、そうするとそれに合わせて仕切り直されたげんざいの小選挙区制というのは、まったく情勢にマッチしていないんじゃないだろうか。このあいだまではそういう新政党は中道右派、右派、もしくは極右ばかりだったから、わたしとしてもそういう声はききたくないところだった。期待している「緑の党」は供託金が集まらなかったとかで、こんかいの選挙には候補者はたてられないようだし。それがここに来て中道左派っぽい新政党が急にクローズアップされてきているようで、メディアもそういう中道左派路線というのが好きなようで、報道などでもあつかいがちがうようである。ああ、これで社民党も共産党も票をくわれることになるだろう。極右と中道左派との区別がつかないような人たち(じっさいにそういう人たちはかなりいるそうである)が右派政党や極右政党への投票をやめて、せめて中道左派政党へ投票してくれればいいと思ったりはする。とにかく、これいじょうのウルトラナショナリズムの起動だけはみたくない。

 夕方からまたドラッグストアに買い物に行ったら、また別の新潟米が半額になっていた。こんどはなんと「コシヒカリ」で、半額になるといつも買っている<標準米>よりも安いので、これもまた買ってしまった。‥‥わたしの生涯でいまだかつて、結婚していたときを含めても、自宅で「コシヒカリ」を食べたという記憶はないなあ。なんか、画期的なことではある。


 

[]「マッケンナの黄金」(1969) J・リー・トンプソン:監督 「マッケンナの黄金」(1969)  J・リー・トンプソン:監督を含むブックマーク

 これって、「シネラマ」映画。いまでいえばほとんど「3D」とおんなじというか、そういう観客を楽しませるショットがあちこちにはめこまれている。吊り橋をわたる場面のカメラだとか、壮大な峡谷が崩壊していくショットだとか。‥‥けっきょく、その後シネラマ映画というのは衰退していくわけで、なんかそういう歴史をみると、いまの3D映画の未来というものも主流になんかなりっこないだろうな、とは思う。

 しっかしこの映画、シネラマ仕様ということもふくめても、なんかムダなところがいっぱいあるような映画。まずは「なにこれ、この豪華なキャスト!」っていうのがあるんだけれども、主演級のグレゴリー・ぺック、オマー・シャリフ、そしてテリー・サバラスあたりはいいとしても、アンソニー・クエイル、エドワード・G・ロビンソン、リー・J・コッブ、レイモンド・マッセイだとか、イーライ・ウォラック、バージェス・メレディス、なんつうメンツが、ただひとつかふたつのセリフだけであらわれては消えていくっつうのはどうなんだろうね、などとは思うのである。なんかほんとうは四時間ぐらいやりたかったのが削りに削られてこうなってしまったのよ、みたいな雰囲気もあって、中盤からの展開はものすごくアバウトな印象を受けてしまう。せっかくハゲタカの舞う導入部からはじまっているんだから、エンディングもやはりハゲタカで締めるような展開がよかったんじゃないだろうか。こいつは極悪人だな、という印象のオマー・シャリフも、意外にも生き延びてしまう。‥‥この後、パリに行ったのだろうか。

 これはやはりほとんど聖杯探究伝説のヴァリエーションであって、アメリカの場合はそういう聖杯伝説の起源を先住民(インディアン)の先史に求めているというあたりはいつものことだけれども、けっきょく「聖杯」ではなくって「黄金」よ、というあたりが世俗的というか、やはりハリウッド、という感銘は受ける。
 あと、主題歌をホセ・フェリシアーノが唄っていて、テロップでは「Introducing」と紹介されているのだけれども、ホセ・フェリシアーノがドアーズの「Light My Fire」のカヴァーでブレイクするのはこの前年の1968年のことだから、「Introducing」というのもちょっとおかしいんじゃないかという気はする。そう、この映画のプロデューサーのひとりは、あの映画音楽の巨匠、ディミトリ・ティオムキンだった。


 

[]「魯迅」竹内好:著 「魯迅」竹内好:著を含むブックマーク

 竹内好という人がどういう人なのか、はずかしながらまるで知らなかったわけで、しかもこの題材が「魯迅」という、これまたわたしにはまるでわからない作家を俎上の乗せられていらっしゃるということで困ってしまったんだけれども、その論旨の進め方で、この竹内好という方のことは多少は理解もできたと思う。まずは思いっきり硬派な方、というアバウトな印象が先にたつ。いわゆる「魯迅入門」などというものではなく、どこまでも、竹内好という方が魯迅をどう読み取ったかということがまっ先におもてにあらわれる。評論というものはすべてそういうものともいえるだろうけれど、ぜったいに客観的な立場、視点をおもてには出さず、魯迅のある側面にかんしてはばっさりと省略してしまおうともされている(けっきょく、書いてはいるのだけれども)。つまりは伝記的な事象はほとんど追求せず、このあたりはこの本を読んだあとに読んだ、ネットのWikipedia での記述とのあまりの差異におどろいてしまうほどである。

 竹内好という人は魯迅のなかになにをみたのだろうか。竹内好はその年譜によると1932年、彼が二十二歳のときに北京に留学され、その地の風土と人間に魅了され、「あまりやる気のなかった中国文学に本気になった」ということである。中国と日本、というのは竹内好の生涯のテーマであられたようで、まずは文学研究の立場から、自分よりもひと世代さきに進んでいた魯迅が、その中国のなかで文学者としてどのように進んでいったのかを究明しようとする。そこから、中国の未来をもまた読みとろうとしているようでもある。
 ぜんたいをつうじて、ここで魯迅を読むことが竹内氏自身の進路をも決定してしまうというような、どこか「いのちがけ」な読み方が、この著作にあらわれている感覚。あとで知ったのだが、竹内氏がこの著作を執筆されていたときの時勢は、まさに日中戦争のまっただなか。やがて徴集されることを覚悟していた竹内氏は、この著を「遺書」のつもりで書かれていたところもあったらしい。その「きびしさ」が、読んでいてもびんびん伝わってくる思いがする。

 まだ、彼のほかの著作を読まないと何ともいえないところもあるのだけれども、とりあえず。


 

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■ 2012-12-02(Sun)

 きょうはしごとは休み。寒いのでじっとしているのだけれども、からだをあたためるアルコールがなくなったので、午後から近くのドラッグストアへ買い物に出る。ぐるっと店のなかをみてまわると、なぜか米の5キロのふくろに<半額>のシールが貼られているのが目に入った。めちゃ安である。いったいどんなわけがあるのかわからないけれど、知られたブランド名ではないといってもれっきとした新潟米で、精米されたのもこの十一月で、つまりは新米。まさか食べて食中毒をおこすようなもののはずもないので、買って帰った。お米はいつも、わたしんちのすぐそばの米屋さんで標準米を買いつづけていたので、ちょっと浮気をしてしまった感じで申しわけない気もしてしまう。

f:id:crosstalk:20121204111809j:image:left お米のほかに、ビーフジャーキーがやはり半額になっていたのも買った。午後はずっと酒をちびちびやりながら、ビーフジャーキーをさいて食べてすごした。ちょっと机の上にそのビーフジャーキーのふくろを置いたままにしていたら、ニェネントがめざとく(というより匂いのせいだろうけれども)これをみつけて、ふくろをバリバリやっていた。ニェネントはふくろから中身を出せないので、ちょっとちぎってあげてみた。ニェネントはそれをなめてみてからぱくっと食べちゃったけれども、いけない、これはニェネントには塩分が多すぎるだろうと思いあたった。‥‥って考えると、つまりはわたしにも塩分はよろしくないのである。もうほとんど食べちゃったけれども。

 夕方からなぜかパソコンがインターネットにつながらなくなってしまった。だいたいケーブルがわるさをしているというか、ニェネントがルーターにちょっかいを出したりして、接続がわるくなってしまうせいのようである。まえにもこういう現象はいく度か起きたことがあり、ケーブルの接続をチェックすると復帰したりしたものだけれども、きょうはどうやっても復帰しない。ケーブルがどこかで断線しているとか、ソケット部の接触がわるくなっているのだろうか。とにかくきょうは放置して、あしたもまたダメだったらケーブルを買いに行かなくちゃならないだろう。またよけいな出費になる。


 

[]「乱暴と待機」(2010) 本谷有希子:原作 富永昌敬:監督 「乱暴と待機」(2010)  本谷有希子:原作 富永昌敬:監督を含むブックマーク

 本谷有希子の作品というのは、むかしいちどだけ舞台で「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を観て、同じ作品の映画化されたものも観た。小説もなにか読んだような気がするけれど、なにを読んだのだったか思い出せない。この「乱暴と待機」の舞台上演が2005年ということは、「腑抜けども‥‥」とおなじころの作品だろうか。たしかに共通する空気は感じてしまう。理由のはっきりしない攻撃心(?)と、やはり理由のはっきりしない罪悪感(?)との相克から、互いに離れられない構造が生まれてしまうというのか、媚び、へつらい、後ろめたそうな行為などがれんぞくするわけだけれども、その背後にはそれらがまったく裏返しにされたような、憎悪に似た感情がかくされているような。しかしじつは、それもまた憎悪などではなく、どこか愛情のような親和性ヘと回帰していくような。

 この映画のおもな登場人物は四人だけで、美波、浅野忠信、小池栄子、そして山田孝之という顔ぶれがそれぞれ「怪演」をみせてくれる。演出の富永昌敬もまた「水を得た魚」というか、彼のほんらいの持ち味がそのままこの作品の魅力にかぶってくるようなところがあって楽しい。ただ、なぜ小池栄子が妊娠しているという設定のひつようがあったのか、わたしにはよくわからなかったし、うちのTVでは山田孝之のぼそぼそ語りが聴きとりにくかったところはある(聴けるようにヴォリュームをあげると、ふつうの音がとんでもなく大きくなってしまって近所迷惑になってしまう。やはり劇場で観るべきだった)。

 わたしはいまの住まいに転居するまえは、この映画のような一戸建て集合住宅に住んでいたことがあり、だいたい外見も間取りもおんなじようなふんいきだった(天井裏はあんなに広いわけはないのだが)。ちょっとなつかしかった。


 

[]「スーパーマンを待ちながら」(2010) デイビス・グッゲンハイム:監督 「スーパーマンを待ちながら」(2010)  デイビス・グッゲンハイム:監督を含むブックマーク

 アメリカの教育制度に疑問を投げかけるようなドキュメンタリーだったけれども、これではあるイデオロギー、党派性のもとに製作されたものと受けとめるしかなく、「不都合な真実」みたいなものだろうと。アメリカ製のドキュメンタリー(もちろんワイズマン作品はのぞく)はこういうのが多い。

 映画中のアニメーション、学校で教育を受ける子どもたちがベルトコンベアーに乗せられて流されていくような絵で、教育制度自体がシステムのなかに組み込まれ、システム全体のなかでの功利的な合目的性の一部であるというような描写は、まったくもっていただけない。子どもたちは工業製品ではない。


 

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■ 2012-12-01(Sat)

 十二月になってしまった。予想していたとおり、しごとが異常にいそがしくなった。わたしの受け持ちにかんしては通常の十倍のしごと量になる。いつもなら終わってからほかのしごともやるのだけれども、きょうはひとり手伝ってもらってもなお、ずっとおなじしごとだけで終わってしまった。ほかのしごとの状態がどうだったかなんてまるでわからない。おそらくはきょうがいちばんいそがしい日なのだろう。これからはきょうまでではないだろうけれども、とうぶんはいそがしい日々がつづく。

f:id:crosstalk:20121203120539j:image:right 帰宅してもぐったりして、何もやる気もしない。ほんとうはきょうは東京でAさんBさんと飲み会のはずだったけれど、Aさんからからだの調子がよくないので延期しようという連絡をもらっている。わたしも健康というわけではないけれども、Aさんの体調はしんぱいになる。Bさんはいつも元気のようでうらやましい。飲み会のつもりであしたはしごとは休みにしているので、映画でも観に行こうかという気もちもあったけれど、外はぱらぱらと雨も降っていて寒いし、しごとで疲れたし、いちにち家でニェネントといっしょにいることにした。昼のニュースでは、ここからそれほど離れていないところでは雪になったらしい。寒いわけである。ニェネントもふとんの上で丸くなったきりであまり動こうとしない。わたしもふとんにもぐりこみ、CDを聴いたり本を読んだりしながら、そのまま眠ってしまった。二時間ぐらいの昼寝。

 夕食にはこのあいだ買った白菜ともやしと、冷凍してあった豚レバーとを炒め、削り節としょう油で味付けしておかずにした。なかなかにおいしかった。ニェネントはこの献立はお気に召さないようで、夕方になって元気になったくせに食卓に近づいてくることもない。元気になったニェネントはわたしが部屋を移動するたびにかくれていたものかげから飛び出してきて、うしろからわたしの足にからみついて、「ワッ!」って感じでわたしをおどろかせようとして、そのあとはドドッと逃げていく。ニェネントがこの遊びをやってくれるとわたしはとってもうれしいんだけれども、このところしょっちゅうやってくれるようになった。だからわたしもニェネントを抱き寄せ、「かわいいねえ」と、ニェネントの鼻のあたまをペロペロとなめてあげる。ニェネントもおとなしくされるがままになっているので、嫌ではないんだろうと勝手に想像している。しかしいったい、ニェネントがいちばんよろこんでくれるのはどんなことなんだろう。それがわかればいっぱいやってあげるのだけれども。

 昼寝をしたわりには早くに眠くなり、夕食を終えたら風呂にも入らずにふとんにもぐりこんで寝てしまった。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十一話「お化け半鐘」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十一話「お化け半鐘」を含むブックマーク

 これも原作がおもしろかったので記憶に残っていたものだけれども、こんかいは演出も安田公義ということで、安心して楽しむことができた。ちゃんとお猿さんも出演してくれたし、いかにも「半七捕物帳」らしい、「推理もの」というあたりを堪能できる一篇だった。
 ‥‥しかし、岡本綺堂は「モルグ街の殺人」を知っていたのだろうか? 気になるところではある。


 

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