ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-01-31(Thu)

 しごとを終えてからあと、きんじょにある三軒すべてのスーパーをまわって買い物をした。そのついでにというか、中古電気機器などをあつかう店まで足をはこび、DVDレコーダーの中古品をチェックしてみた。そういう録画機器はけっこうなかず置いてあったのだけれども、これがすべてジャンク品として置かれている。書かれていることを読むと、どれもDVDの録画はNG状態だと。それではレコーダーではないわけだけれども、ジャンク品として置かれているんだからしょーがない。わたしもちょっとまえにはVHSテープからダイレクトにDVDに録画できる機器をもっていたのだけれども、やはりはんとしぐらいつかったところで録画機能がダメになった。DVDの録画のメカというのはこわれやすいのだろう。
 帰宅してからネットでそういうDVDレコーダーの中古品が売られているかみてみたけれども、いまはやはりBlue-ray が主流になっていてこれがけっこうな価格になっているし、旧型のDVDレコーダーがあってもそんなにやすいものではなかった。まだHDDの方がずっとずっとやすい。またこんどの日曜に東京にいくので、そのときに新宿ででもそういう店をちょっとのぞいてみようかとおもう。HDDをうちで三台も四台もならべておく、なんていうばかなことはやりたくない。

 きょうは木曜日なので、西と南のスーパーでは一割引きの日。ねんまつから近所のドラッグストアで見切り品というか半額商品を買いあさったおかげか、このところそういう食料品などはほとんど買わないですんでいたけれども、ここにきて野菜類の在庫があれこれときれてきた。いまはレタスやキャベツなど劇高になってしまっているけれども、ドラッグストアではレタスが百円ぐらいの安値で売っているので、これはおととい買った。こういうドラッグストアでは年間契約で野菜などを仕入れているらしいので、時期的ないっぱんてきな価格の変動はこの店の売り値にはさほど反映されないらしい(ふだんはほかのスーパーよりも割高になるので買ったりしないけれども)。おとといは別のスーパーでおおきな玉ねぎがやすかったのを買ったので、玉ねぎはとうぶんだいじょうぶ。きょうはニンジンとじゃがいも、そしてほうれん草をやすく買えたので、しばらくはまた買い物しなくってだいじょうぶだろう。お米もなくなったので、ひさびさに家のそばの米屋さんでいちばんやすい米を買った。米屋さんのガラス戸をあけて「ごめんください」となかに声をかけると、でてきた奥さんがわたしの顔をみて、「あ、こんにちわ」と顔見知りなあいさつを返してくれる。いわなくってもいつものお米をケースからだしてきてくれる。「いつもいちばんやすい米を買っていく人」として記憶されているんだろうなあとおもう(たぶん、店頭でちょくせつその米を買っているのはわたしだけ)。べつにかまわないけれども。

f:id:crosstalk:20130201190234j:image:left 買い物から帰宅して、借りているDVDをまたひとつ観た。ひざしがあたたかいので、ニェネントはリヴィングの窓とカーテンのあいだにうずくまって、まるくなってうごかない。たしかにあたたかそうなスポットである。このところ、ニェネントの顔がまたブスである。きりっとして精悍な表情をみせて「おお、うつくしいネコに成長したなあ」とおもわせられる時期と、「やっぱりどこか間の抜けた顔をしているなあ」とおもってしまう時期とが交互にかんじられるニェネントだけれども、いまはつまりは後者である。またそのうちにいい顔をみせてくれるときがくるだろう。


 

[]「カラヴァッジオ」(1986) デレク・ジャーマン:監督 「カラヴァッジオ」(1986)  デレク・ジャーマン:監督を含むブックマーク

 ずいぶんむかしにいちど観て、「ああ、Lol Coxhill がでている!」とおもったものだったけれど、なぜかこんかい観て、いったいどこにLol Coxhill がでているのかわからなかった。ただ、バックの音楽でサックスが聴こえるところはまちがいなくLol Coxhill の音で、たしかそういう場面で出演していたという記憶はあるんだけれども。

 とにかくはカラヴァッジオのタブローのドラマティックな陰影、そして色彩をそのままスクリーンに再現するような、うつくしいうつくしい撮影がまずはこころにのこるわけで、きのう「冷たい熱帯魚」でこまってしまった体験もこれでちゃらにできるかな、と。

 この作品はカラヴァッジオの画家としての生涯(かなり脚色されている)を、あきらかに現代にいきるアーティストと共通のもんだいをかかえたものとしてみていて、小道具としても、当時にはありえないカラー印刷されたパンフレットだとかタイプライター、自動車などがすがたをみせたりするし、現代の展覧会のオープニング・パーティーとまるでおなじような情景も演出されている。基本になるのは画家とパトロン、そして同性愛者としての画家の、その恋人らとのかんけいから、画家のかかえた、時代をこえた苦悩を描いたものというか。

 とうじのカラヴァッジオの評判は、彼をあたらしい絵画の開拓者として絶賛するものもあったし、世俗的として批難するものもあったということ。‥‥それでおもいだしたのだけれども、げんざい某所で開催されている「会田誠展」への批難攻撃ぶりが、ちょっと話題になっているらしい。「これは芸術だ」「これは芸術ではない」と仕分けをしたがる人たちは、会田誠氏の作品を「芸術ではない」と排斥したいだろう。芸術とは崇高なものであるとおもいたい人たちにも攻撃されるだろう。かんけいないけれども、さいきんわたしも「映画は芸術ではないとおもう」と、となりの席で語る人にであった。彼によれば、「舞台」というものも芸術としてはどうかとおもえるらしい。‥‥では、いったいどこまでが芸術でなくって、どこから芸術になるんだろう。となりの席のことなので反論もしなかったけれども、だいたいわたしは「なにが芸術か」なんて、ながいことかんがえたこともない。ただわたしには、それぞれのジャンルで「いい作品」と「いいとはおもえない作品」があるだけのことで、それも線引きがはっきりしているわけではない。いい作品のなかにも欠点もあるだろうし、よくはおもえない作品のなかにも惹かれるところもあったりする。「いい」というのもさまざまで、イメージをうらぎられるから「いい」とおもったり、イメージがうつくしいから「いい」とおもったりもする。その「いい」といういい方がアバウトすぎるというのであれば、「こころをうごかされる」といいかえてもいいのだけれども。わたしは会田誠氏の作品にさほどきょうみはないのだけれども、美術館からしめださなくってもいいだろうに、とはおもう。エゴン・シーレだって、クールベだってえげつない絵は描いている。

 ‥‥脱線してしまった。とにかくこの「カラヴァッジオ」、ショーン・ビーンと、そしてティルダ・スウィントンのデビュー作だったらしい。


 

[]二○一三年一月のおさらい 二○一三年一月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●「鉄卜全」鉄割アルバトロスケット 戌井昭人:作 牛嶋みさを :演出 @下北沢 ザ・スズナリ

映画:
●「007 スカイフォール」サム・メンデス:監督
●「山川菊栄の思想と活動-姉妹よ、まずかく疑うことを習え」(2011) 山上千恵子:監督

展覧会:
●「シャルダン展 -静寂の巨匠」@丸の内・三菱一号館美術館
●「未来を担う美術家たち 文化庁芸術家在外研修の成果 DOMANI・明日展」@六本木・新国立美術館

読書:
●「エコー・メイカー」リチャード・パワーズ:著 黒原敏行:訳
●「ぼくは覚えている」ジョー・ブレイナード:著 小林久美子:訳
●「蘆刈」谷崎潤一郎:著
●「ネコの行動学」パウル・ライハウゼン:著 今泉吉晴+今泉みね子:訳

DVD/ヴィデオ:

●「ストライキ」(1925) セルゲイ・エイゼンシュテイン:監督
●「戦艦ポチョムキン」(1925) セルゲイ・エイゼンシュテイン:監督
●「望郷」(1937) ジュリアン・デュヴィヴィエ:監督
●「悪魔の美しさ」(1949) ルネ・クレール:監督
●「孤独な場所で」(1950) ニコラス・レイ:監督
●「カジノ・ロワイヤル」(1954) イアン・フレミング:原作 ウィリアム・H・ブラウン・ジュニア:監督
●「暗黒街の女」(1958) ニコラス・レイ:監督
●「甘い生活」(1960) フェデリコ・フェリーニ:監督
●「袋小路」(1965) ロマン・ポランスキー:監督
●「ラムの大通り」(1971) ロベール・アンリコ:監督
●「スタンド・バイ・ミー」(1986) スティーヴン・キング:原作 ロブ・ライナー:監督
●「カラヴァッジオ」(1986) デレク・ジャーマン:監督
●「エド・ウッド」(1994) ティム・バートン:監督
●「レ・ミゼラブル」(1998) ヴィクトル・ユーゴー:原作 ビレ・アウグスト:監督
●「マトリックス」(1999) ウォシャウスキー兄弟:監督
●「マトリックス リローデッド」(2003) ウォシャウスキー兄弟:監督
●「マトリックス レボリューションズ」(2003) ウォシャウスキー兄弟:監督
●「アニマトリックス」(2003)
●「永遠のハバナ」(2003) フェルナンド・ペレス:監督
●「007 カジノ・ロワイヤル」(2006) イアン・フレミング:原作 マーティン・キャンベル:監督
●「007 慰めの報酬」(2008) マーク・フォースター:監督
●「ペルシャ猫を誰も知らない」(2009) バフマン・ゴバディ:監督
●「洲崎パラダイス 赤信号」(1956) 川島雄三:監督
●「蛇姫様」(1959) 川口松太郎:原作 渡辺邦男:監督
●「初春狸御殿」(1959) 木村恵吾:監督
●「安珍と清姫」(1960)
●「長脇差忠臣蔵」(1962) 渡辺邦男:監督
●「眠狂四郎 殺法帖」(1963) 田中徳三:監督
●「新宿泥棒日記」(1969) 大島渚:監督
●「愛の亡霊」(1978) 大島渚:監督
●「幻の湖」(1982) 橋本忍:原作・脚本・監督督
●「紅の豚」(1992) 宮崎駿:監督
●「愛のむきだし」(2009) 園子温:監督>
●「真夏の夜の夢」(2009) 中江裕司:監督
●「冷たい熱帯魚」(2010) 園子温:監督
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第二十一話「置いてけ掘」
●「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第二十二話「お照の父」
●「ザ・ローリング・ストーンズ 50周年記念ライブ ONE MORE SHOT」(2012年12月15日)@ニューアーク・プルデンシャルセンター

 

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■ 2013-01-30(Wed)

f:id:crosstalk:20130201163137j:image:right このところ、ひるまはずいぶんとあたたかくなった。あさしごとで着ていたジャケットを着て外にでると、ちょっと汗ばんでしまうぐらいあたたかい。ニェネントの好きな天気予報によると、こんどの土曜日は四月ぐらいのあたたかさになってしまうらしい。もう冬もそろそろおしまいだろうか。

 外に買い物にでるとすぐに、むかいの家の方からネコのなくこえがきこえてきた。きのうのよるきいたネコのなきごえとおそらくはおなじネコで、気になってむかいの家の庭をのぞきこんだりしたのだけれども、そのネコのすがたはみつからなかった。なきごえのきこえた家はむかしジュニアのすがたをよくみかけた家で、ひょっとしたらジュニアがまだそこにいてないているのではないかとおもった。ちょうどはんとしまえに、わたしの部屋を抜け出したニェネントが外でジュニアと大げんかをして、ケガをしてもどってきたときからあと、そのジュニアのすがたはまるでみかけてはいない。

 放映された映画などを録画するばかりで、どんどんHDDののこり容量がすくなくなっているわけで、やはりここらでDVDレコーダーを入手して、HDDのなかみをDVDにコピーしていくのがいちばんかなあ、などとかんがえる。いまはもうBlue-ray のじだいになっているから、旧型のDVDレコーダーなどは中古でやすくなってるんじゃないだろうか。あしたにでもいぜんTVを買った中古機器の店にいって、チェックしてみようかとかんがえる。

 「ひかりTV」とWOWOWの、二月の番組表がおくられてきてうるのだけれども、「ひかりTV」ではほんっとうに「これは観たい」というような作品が放映されない。もう契約を切ってしまおうかとおもうぐらい。WOWOWの方ではまずはウディ・アレンの特集。わたしは彼の作品にはどうしても好きになれないものがいっぱいあるのだけれども(「アニー・ホール」だとか)、「誘惑のアフロディーテ」だとか「カイロの紫のバラ」なんていうのはまた観てみたい。あとはきょねん評判になったタル・ベーラの「ニーチェの馬」だとか、アカデミー賞をとった「アーティスト」などは観たい。フリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」なんていうものも放映される。さいきんはほんとうに観たり録画したりするのはWOWOWやBSばかりで、いつまでもおなじ作品をくりかえして放映してばかりの「ひかりTV」の各チャンネルにはいいかげんうんざり。ただ、「日本映画専門チャンネル」や「チャンネルNECO」などでは、これはめったに観られないめずらしい作品を放映したりするのでこまる。

 きょうも借りているDVDをひとつ観て、夕食には肉じゃがをつくった。できた肉じゃがはまずいわけではないのだけれどもやはり洋食の味がして、わたしとしてはもっと和風の、居酒屋ででてくるような肉じゃがにしたかったのである。こんどまたトライしてみよう。


 

[]「冷たい熱帯魚」(2010) 園子温:監督 「冷たい熱帯魚」(2010)  園子温:監督を含むブックマーク

 「愛のむきだし」には圧倒的なところもあったし、それにつづくこの「冷たい熱帯魚」も評判がいいようなので、期待していたのだけれども、かなりがっかりした。
 ‥‥とにかくまずは、画面(絵)がきたない。きたなすぎるぐらいにきたないとおもう。おそらくは映画という表現の、視覚的なぶぶんへの配慮というのか効果というのか、そういうことはまるで考えておられないとしかおもえない(ぎゃくの意識で、大島渚監督などはわざと即物的な撮り方をされたりもしていたけれども)。ただ、血と肉で赤く染まった浴室のシーンはインパクトあるのだけれども、もしもそれを美意識というのなら、映画ぜんたいにそのような美意識をはたらかせていただきたかった。前作の「愛のむきだし」ではそのあたりのことは気にはならなかったのに、こんかいこんなことになっちゃっているというのは、つまりはそういうことは撮影監督などのスタッフにすべておまかせしているとおもえてしまう。「愛のむきだし」では撮影も照明も「こう撮ればインパクトあるだろう」とか、「この場面ではカメラはここに据えて」とか、監督ぬきでかんがえて撮られていたということなんじゃないのか。
 映画というのは視覚的(プラス聴覚的)娯楽なわけで、ただストーリーさえつむぎだせばそれで「いい作品」ができるわけではないはず。というか、舞台でも小説でも、ただストーリーさえおもしろければということで成り立つものではない。この監督さんはけっこうながいキャリアをお持ちのはずだけれども、そういうことはまるで意識にはないようだ。日本にはこういう意識の監督さんがほかにもまだおられることは承知しているけれども、この監督さんはねちっこい情念にうったえるぶぶんできょうみ深いところもお持ちだとおもうので、そういう映画的な技術と、彼のつむぎだすストーリーとをひとつのものにして、作品にしていただきたいものだとおもう。


 

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■ 2013-01-29(Tue)

 職場のちかくのDVDレンタルの店でまた古着の半額セールをやっているようなので、午後からいってみた。このごろはこの「半額セール」のときでもたいしたものも店頭にならんでいなくて、これはべつに半額セールじゃないときにいってもおなじようなものだろうとおもう。ほんとうはあたたかいオーバーがほしいとおもっていて、きょうもちょっとデザインのいいあたたかそうなオーバーがでていたけれども、ざんねんながらサイズがちいさすぎた。いまのものでがまんしよう。かわりにちょっと若づくりなジャケットがサイズもぴったりだったもんで買ってしまった。750円。こんなのを着て下北沢とかの若者の町を歩いたりすると、「オヤジ狩り」にあって路地でぶんなぐられるかもしれない、などとおもう。でもこのあたりは若者の町ではないので、そういうしんぱいは無用なのである。

 ついでにおなじ店内のレンタルDVDのコーナーをみてあるき、ヴェンダースの新作「パレルモ・シューティング」があったので借りることにした。一本借りるんならもっと借りようかとチェックして、まえから観てみたかった園子温監督の「冷たい熱帯魚」と、「こんなところにこんなものがあった」的な、デレク・ジャーマンの「カラヴァッジオ」とを借りた。そんなDVDを借りたせいで帰宅してもなんだかウキウキしてしまうのだけれども、そうやってしばらくはDVDなどばかり観てしまうと(ほかにもエイゼンシュテインのボックスセットも「観てちょうだい」といっているし)、HDDに録画してあるものが観られなくなってしまう。そうするとまだこれからもHDDへの録画スケジュールはいっぱいつまってるし、「これは観ちゃったから消してもいいや、それで空いたところにあたらしいのを録画しよう」としのいでいる自転車操業がストップしてしまう。そうするとつまりはHDDのディスクがまんぱいになってしまってあたらしい録画ができなくなり、またあたらしいHDDを買いましょうかなどという不毛ないたちごっこになってしまいそう。そこでかんがえて(かんがえるまでもないことだけれども)、いまのHDDのなかにおさまっているものでちょっと長めのもの、それで観てしまったらすぐに消してもいいやとおもえるものを観てしまおうということにした。えらんだのはきょねんの暮れにもよおされたRolling Stones の結成50周年の記念ライヴ。なんと四時間の尺を独占している。そうだ、これを観ようということで、観おわったらすぐに消してしまおうと。というわけで、このライヴを観た。感想は下に。

f:id:crosstalk:20130131095337j:image:left 外もくらくなって夜もふけて、そろそろ寝ようかというころになって、外からネコのなきごえのようなものがきこえてきた。ようなものというか、まさにネコのなきごえだった。まどの外をのぞいてみたけれどももうくらくなっているからわかるわけもない。しばらくはそんなネコのなきごえがつづいていた。ニェネントは反応するだろうかとおもったのだけれども、まるで気にもとめないでベッドの上でまるくなっている。

 

[]「ザ・ローリング・ストーンズ 50周年記念ライブ ONE MORE SHOT」(2012年12月15日)@ニューアーク・プルデンシャルセンター 「ザ・ローリング・ストーンズ 50周年記念ライブ ONE MORE SHOT」(2012年12月15日)@ニューアーク・プルデンシャルセンターを含むブックマーク

 わたしはRolling Stones というバンドへの思い込みもほとんどなく、彼らのアルバムも一枚ももってはいない。もっと踏みこんでいえば、わたしはMick Jagger という存在が好きではない。このあたりのことはいぜんに読んだ「ローリング・ストーン」誌でのトルーマン・カポーティへのインタヴューを読んで「わが意を得たり」という感想をもち、それいらいずっと「カポーティのいうとおりだよな」とおもってきた。そのインタヴュー記事のインタヴュアーがアンディ・ウォーホールだったということもおもしろいのだけれども、そこでカポーティはストーンズについて「何か伝えたいことがあるわけでもないのに」「ひとばんじゅうポラロイドカメラを撮りつづけるような」新作アルバムをリリースしつづけると批判している。よく訓練されたパフォーマーで、優秀なビジネスマンではあるかもしれないけれども、「音楽のことなどなにひとつわかっちゃいない」とまでいう。おそらくはメンバーのなかでもとくにMick Jagger をさしてのことだろう。わたしもまた、ずっとそのようにおもっていた。
 しかし、きょねんのロンドンオリンピックの閉会式でのThe Who のライヴをみて、「これがあのウッドストックで、あれだけのパフォーマンスをみせたバンドかよ?」と、がっくりしたわけである。こういっちゃかわいそうだけれども、ヴォーカルのRoger Daltrey にはしっかりと「老い」をかんじたわけで、ああいうかたちでステージに立つんなら解散しちゃって二度とライヴなんかやらないほうがいいだろうに、などとおもったのである。おなじ閉会式にでていたKinks のRay Davies はもう、そういうKinks のハードなイメージをすてたソロ・アーティストとしての温和なステージで、とてもよかったけれども。
 ‥‥それでおもったのは、やっぱりRolling Stones ってすごいよねということだし、そもそもがげんざいの音楽シーンというものが「何か伝えたいこと」のためにあるのではなく、ステージ上でのパフォーマンスをたのしませる娯楽でいいじゃないか、ということになってしまっているとおもう(もちろんそうじゃない真摯なミュージシャンたちもそんざいするわけだけれども)。過去の音楽シーンの隆盛をじっさいに体験したひとたちが現在形でたのしめる音楽もほとんどなくなってしまっているだろうし、けっきょくほとんどが還暦をとうにすぎたロック・ミュージシャンらのライヴが、いまでもおおきなイヴェントなわけである。
 そういうわけで、このRolling Stones のライヴは「いちおうみてみようか」という気分で録画してあったもの。ただわたしはマーティン・スコセッシ監督の撮った「シャイン・ア・ライト」も映画館で観たのだけれども、スコセッシの演出に興味はもったものの、かんじんのストーンズのライヴじたいにはあんまり感銘をうけなかった。さて、こんかいはどうなんだろうか。

1.Get Off Of My Cloud
2.The Last Time
3.It's Only Rock'n'Roll(But I Like It)
4.Paint It Black
5.Gimmie Shelter
6.Wild Horses
7.Going Down
8.Dead Flowers
9.Who Do You Love?
10.Doom and Gloom
11.One More Shot
12.Miss You
13.Honky Tonk Women
14.Before They Make Me Run
15.Happy
16.Midnight Rambler
17.Start Me Up
18.Tumbling Dice
19.Brown Sugar
20.Sympathy For The Devil
21.You Can't Always Get what You Want
(Encore)
22.Jumpin' Jack Flash
23.(I Can't Get No) Satisfaction

 ‥‥ついつい、セットリストなんか書いてしまったけれども、つまりはその、とってもたのしめるライヴだった。いきなり「Get Off Of My Cloud」のイントロがきこえてきたときには、むかしリアルタイムに聴いた曲だったし、ちょっとばかしこうふんしてしまった。つぎの「The Last Time」なんかはライヴでやるのはめずらしい曲のようだけれども、もちろんわたしはリアルタイムに聴いていて、しかもなかなかに好きな曲だった。このあたりはMick Jagger も高音がでなくなっているというのか、ちょっとざんねんなところもあった。三曲目あたりからはバック・ヴォーカルの音もかぶさってきて、音に厚みがかんじられるようになる。「Paint It Black」ではシタールの音も聴こえたけれども、あれはバックミュージシャンによるものだったのか、ギターの音にエフェクトをくわえてもああいう音にはならないとおもうけれども。
 そのあとにちょっとしたハイライトというか、Lady Gaga をゲストにむかえての「Gimmie Shelter」。ここでLady Gaga はむかしのTina Turner 役というか、Mick もそのように彼女を相手にしてのパフォーマンス。これがLady Gaga のシンギングもいがいとソウルフルで、見せる/聴かせるというライヴのだいご味をたのしんでしまった。「シャイン・ア・ライト」のときよりもわたしのしっている曲をおおくやってくれたせいかもしれないけれど、あきないでさいごまで(さいごの「Satisfaction」はちょっとたいくつ、だったけれども)たのしんでしまった。

 会場のニュージャージー州のプルデンシャル・センターというところはかなりでかそうだったけれども、調べるとやはり二万人収容できるというから、マディソン・スクエア・ガーデンと同規模である。中央ステージのしゅういをまるく「花道」のような通路ステージがかこんでいて、その内側に二百か三百ぐらいの「超特等席」がセットされていた。きっとあの席のチケットは何千ドルもしたことだろうとおもう。
 「シャイン・ア・ライト」の会場だったビーコン・シアターは、こことはくらべものにならない小さな会場で、その「せまさ」をスコセッシ監督は撮影のためにフルに活かしたのだろうけれども、けっきょく、わたしなどは映像から「でっかい会場だなあ」とおもうだけでインパクトをかんじてしまうわけだし、きょうれつなライティングでみんなまっしろけに写ってしまったような「シャイン・ア・ライト」より、「やっぱりこういうのがロックのライヴだよな」などとおもってしまうのである。

 ところで、なぜかわたしの手もとにある「ミック・ジャガーの真実」という本(これは量販古本チェーン店の「クズ本」コーナーでみつけたもので、転売すれば多少なりとも利益がでるだろうとおもって買ったもの)のチャプター1の標題は、「四十五歳になって、まだ<サティスファクション>を歌ってるくらいなら、死んだほうがましだよ。」というMick のことばがとられている。あらららら、というところだけれども、つまり、二十一世紀のロック・ミュージシャンは死ぬことを拒否する、のであろう。死ぬまで「満足しないで」歌いつづけるしかない。そこにこそ、ロックは生きつづけるんだろう。


 

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■ 2013-01-28(Mon)

 きのう観た「DOMANI・明日展」のことをちょっと調べていて、その海外研修をうけているアーティストたちはその研修期間中、年末年始でも日本へ帰国できないし、家族いがいの、たとえば親しい友人の葬儀のためのいちじ帰国もできないのだということを読み、ちょっとおどろいた。物見遊山的な気分でいてはいけません、ということなんだろうか。わたしなんかは家族よりも友人のほうが大事だから、じぶんのことでかんがえるとつらいこともあるかも(べつに年末年始に帰国できなくってもかまわないけれども)。

 きのうはFさんとふたりで焼酎のボトルを一本あけてしまったりしたので、きょうはちょっとだけきつい。二日酔いというのではないけれども、げんきいっぱいというわけにはいかなかったいちにち。午後からはいっぱいひるねもしてしまった。夢をみて、わたしは友だちとなにかの舞台を観にいっているのだけれども、その終演後に顔見知りの出演者とあれこれはなしをしているといっしょにいたはずの友だちからメールがはいり、「きょうははやく帰らないといけないのでさきに帰る」ということ。時計をみると9時26分になっていて、わたしもぎりぎり帰宅できないじかんになっている。いつのまにかわたしは山手線にのって日暮里のあたりまできているのだけれども、帰宅できないのでまた渋谷の方にひきかえそうとする。ところがその舞台の出演者の方々がわたしの方までやってきていて、また歓談する。出演者ではないスタッフの女性の歩くすがたがおもしろくって、なぜか記憶にのこっている。またげんじつには存在しないふしぎな街並のなかにいるわたし。
 そのまままた寝てしまい、ぼんやりとめざめたときに「いままで夢をみていたなあ」とおもいだし、夢の記憶をたぐっていたらまた眠ってしまい、そこでまた夢をみていたようだった。夢のなかの意識とめざめて覚醒した意識とがごっちゃの感覚になり、つまりはこれが「夢うつつ」という状態なのだろうとおもった。

 もう外がうすぐらくなってから起きだして、DVDをひとつ観てから、おとといからののこりのご飯でドライカレーをつくって夕食にした。どうもうちのフライパンはご飯をうまく炒められなくって、みんなフライパンにくっついてしまう。できあがりもびちゃびちゃというか、おいしくはない。

f:id:crosstalk:20130130110534j:image:right あしたはしごとなのでもうちゃんと寝ようとパジャマにきがえてベッドにはいろうとしたら、うしろから走ってきたニェネントに足首を抱きつかれ、ふいをつかれてついびっくりしてしまった。ニェネントはときどきこの必殺技をやるのだけれども、このところやらないでいたので油断していた。


 

[]「戦艦ポチョムキン」(1925) セルゲイ・エイゼンシュテイン:監督 「戦艦ポチョムキン」(1925)  セルゲイ・エイゼンシュテイン:監督を含むブックマーク

 もちろんこの映画は過去に観たことはあるけれども、それがいつごろのことだったか記憶にはないし、内容もほとんどおぼえていない。記憶にあるのは肉にたかるウジと、あの「オデッサの階段」のシーンだけ。そういう「戦艦ポチョムキン」を観た。いきなり本編ではなくわたしの嫌悪する白髪あたまの「映画評論家」が登場し、あのわたしの嫌悪するスタイルのきもちわるいトークをはじめるので、あわててスキップする。もうはるかに過去に亡くなられてしまった人物だからと油断していると、ふいにこういう亡霊があらわれてくることがある。ようやく本編。

 せんじつ観た「ストライキ」とおなじように、やはりみじかいショットのち密な編集作業というのがこころにのこるのだけれども、「ストライキ」にくらべると観念的なモンタージュというのがほとんど目立たなくなっている気がする。エイゼンシュテインという人はそもそも役者に「名演技」など期待していないし、カメラをとめないでその演技の連続を記録するということにはまるで関心などもっていない。役者はあるしゅんかんの「表情」をみせたり、あるしゅんかんの「動き」を演じさえすればいい。そういうところではまったくプロの俳優であるひつようなどない。ただそれらの映像を組み合わせることによって、舞台芸術などとはまったくベクトルの異なる、つまりは映画芸術と呼んでもいいものがスクリーン上にあらわれるのである。それがつまりはエイゼンシュテインの「モンタージュ」ということ、なのだろうとおもう。

 やっぱり「オデッサの階段」シーンは圧巻で、ここでは「俯瞰」〜「クローズアップ」、「登場人物のみたもの」〜「それをみた登場人物の表情」という対比される映像が、階段に集う民衆の混乱とそれを射撃するコサック兵の整然とした行進という対立構造によって、より強烈なパワーをもちえることになっているとおもう。さいきんの映画作品ではこういう対比で追っていくような映像も少なくなっている気もするので、ものすごく新鮮でもあったし、イメージというものをかんがえるのにも勉強になった。やっぱいまでもなお、偉大な作品でありつづけているとおもう。


 

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■ 2013-01-27(Sun)

 きょうはよるから新宿でFさんとGさんとで恒例の飲み会。それでひるのあいだに六本木にでて、展覧会をふたつ観ようかなという計画をたてる。そのまえに近隣の古書量販店によって、せんしゅうチェックしたピーター・グリーナウェイのDVDボックスセットも買ってしまおうかというもくろみもあるのだけれども、きょうはさいふの中身がそれほどゆたかではないので、DVDなどをいちばんに買ってしまうと飲み会にえいきょうが出てしまうんじゃないかとなやむ。まあこのところFさんGさんといっている居酒屋はそうとうにやすいので、五千円ものこっていればじゅうぶんのはずである。もしもDVDを買ってもなんとかそのぐらいはのこりそうなので、もう買ってしまうつもりで古書量販店へいく。ちゃんとそのDVDものこっていたので、レジにもっていこうとしたけれども、なんだかパッケージのサイズもちょっとちいさいしおかしいな、などとおもってよくみると、これがBlue-ray Disc だった。あぶないあぶない。買ってしまってもまるで観ることのできないものを買おうとしていた。っつうか、買わないですんだもので、さいふにもよゆうができたわけである。めでたしめでたし。

 せんしゅうよりは客のずいぶんとすくない電車にのって、まずいちど新宿で下車する。西口のチケットショップでこれから観る展覧会のチケットをやすく買い、食事をしてから六本木へいくつもりだったのだけれども、そのチケットがどこのチケットショップにもおいてなかった。年末にみてまわったときにはたしかにかなりやすい価格でその展覧会のチケットもおいてあったのだけれども、どうやら売りきれてしまったみたい。東口にあるチケットショップの方までいってみたけれど、やはり売ってなかった。それはそれでしかたがないと、新宿ではときどき立ちよる寿司屋にはいって、ランチタイムの海鮮ちらしを食べた。やはりおさかなはおいしい。

 メトロをつかって六本木へ移動するけれど、ちょっとじかんがおそくなってしまったので、観ようとおもっているふたつの展覧会をりょうほう観ることができるかどうかびみょうなところ。とにかくは「DOMANI・明日展」の会場へはいる。こんかいの「DOMANI・明日展」も興味ぶかい展示だった。感想は下。ゆっくり観てしまったのでやはりもうひとつの展覧会はきびしいところ。しかしその「ARTIST FILE 2013」は三月いっぱいまでやっているわけだし、そっちの展覧会でほんとうに観たいのは志賀理江子さんの作品だけだったりもするし(ほかの作家のことはたんにしらないだけだから、観てみればまた「観てよかった」ということにもなるかもしれない)、きょうはこれでよしとしようということにして、駅の方の本屋でさいきんの新刊本などをチェックすることにした。
 ‥‥きょうみをひかれた新刊。ナボコフの「ヨーロッパ文学談議」が文庫になって再刊されていた。ナボコフはたしかこの本でジェイン・オースティンのことを「えくぼのある文体」といっていたとおもう。むかし(おおむかし)に読んだ本だけれども、また読んでみたい。あとはネグリ/ハートの<帝国/マルチチュード>シリーズというのか、その最新作「コモンウェルス」。ネグリ/ハートも「マルチチュード」のあとはちょっとばかしあやしいんだけれども、これはまた図書館に買ってもらって読んでみたい。それからロベルト・ボラーニョの「2666」という分厚い本。わたしはうちのそばの図書館でこのロベルト・ボラーニョをしり、既刊本の二冊も図書館から借りて読んだ。すっごくおもしろかった。この本も、ぜったいに図書館で買っていただきたい。

 いいじかんになってのでまた新宿に移動して、紀伊国屋書店1FでFさんとGさんとじかんどおりに遭遇。わたしたち三人のじかん厳守ぶりもすごいなあ、などとおもったりする。そこから、三人でこのところいつもいく区役所通りの居酒屋「S」へ移動。アルコールOKのFさんとわたしはまた焼酎のボトルをいれる。ぜんかいの飲み会でわたしがかなり酔ったことについて、Fさんは「ボトルを空けたあとにホッピーとかあれこれごちゃまぜに飲んでたからよくない」という。きょうは気をつけよう。
 ‥‥けっきょく、Gさんがきょう買ったという「Luckey Boy」などという錠剤のことなどでもりあがってしまい、焼酎のボトルもそうそうに空になってしまった。このあとは気をつけてサワーとかのソフトなドリンクで安全をはかる。会計は三人で七千円にとどかなかった。たしかにこの日は鍋をちゅうしんにしてあまりあれこれと注文しなかったけれども、それでもボトル一本空けてるし、それでこの会計はやすいとおもう。この三人のメンバーでまえによくいっていた居酒屋もやすかったけれども、あの店は味にもんだいはあった。この「S」には、そういう味的なことでそんなにおおきな不満もないし、つまりはリーズナブルだとおもう。

f:id:crosstalk:20130129120804j:image:left このよるはしゃんとした足どりで帰路につき、ニェネントのまつ部屋にしっかりと帰ることができた。きょうは、気象情況の解説をするニェネントの勇姿をそえておきましょう。


 

[]「未来を担う美術家たち 文化庁芸術家在外研修の成果 DOMANI・明日展」@六本木・新国立美術館 「未来を担う美術家たち 文化庁芸術家在外研修の成果 DOMANI・明日展」@六本木・新国立美術館を含むブックマーク

 2009年からときどき、おもいだしたようにこの展覧会には足をはこんでいるのだけれども、こんかいは名まえをしっているアーティストもおおいのでたのしみな回ではある。けっこうひさしぶりに観る曽根裕さん、澤田友子さん、そしてこの人の作品が展示されるならどこへでも観にいきたいとおもっている(そんなにどこへでもいける身分ではないのだけれども)塩田千春さんらの作品にまずは期待するし、池田学さんの作品もいぜん観たことがある。チラシにのっている橋爪彩さんのタブローもおもしろそう。

 会場はまずは神彌佐子さんの日本画作品から。日本画といっても紙本着色で顔料をつかっているというぐらいのもので、印刷物もコラージュされている。奥のいちばんの大作はむかしの古い蚊屋に作品をセットしてある。抽象的なイメージの作品のなかで、ショッキングピンクのような色彩がこころにのこる。東欧的なイメージだという気がしたけれども、研修先はフランスだったということ。
 つぎの部屋は陶芸の青野千穂さんだったけれども、わたしはこの作家の研修まえの作品をどこかで観たおぼえがあった(わるいけど、その研修まえの作品がいちばんよかった)。
 しばらくあましきょうみのない作品の作家がつづいて、橋爪彩さんの部屋。スーパーリアリズムというか、筆あとをのこさないようなつるっとした絵肌で写真のように描かれているのだけれども、観ていて、写真をもとにしてそのまま写したのではぜったいこうはならないだろうという発見をした。というか、そこのところが興味ぶかい作品たちだった。白いいろがきれいで、すきです。
 つぎの平野薫さんの、古着をぜんぶほぐして糸にしてまた服のようなかたちにしたり、ぐるぐるまいて糸玉にした作品もおもしろかった。そして澤田友子さん。いぜんからのセルフ・ポートレイト作品はやはりたのしいけれど、新シリーズ「Sign」はあまりにウォーホールではないかと、あまりに表面的な感想をもった。
 ひとつぬかして曽根裕さん。彼には研修まえの展覧会でお会いしたこともあったんじゃないかとおもうけれども、作品を観るのはほんとうにひさしぶり。なんと、大理石で「街」の彫刻をつくられていた。やられたなあというかんじ。彼にはこういう、発想をぴょんとうらがえしてみせてくれる才覚というのか、そういう魅力がある。

 ‥‥このあたりから展示の密度は濃くなって、つぎは糸井潤さんのフォトグラフ。フィンランドで撮影した白夜と極夜の写真。すばらしかった。しばらくみとれてしまった。ヴィデオの「Solitude」という作品がまたたまらなくすばらしかった。ああ、こういう未知の作家の作品に出会えるからこういう展覧会はいいなあとおもって彼の経歴をみると、出身地がわたしの住んでいる市のとなりの市だった。「あれ?」って考えてみたら、この方、きょねんその市にある車屋美術館で個展をひらかれた方だったとおもいあたった。つまり、わたしがいつも飲みにいく「G」でもいぜん個展をやられていて、「G」のCさんはその車屋美術館での個展も観にいかれたというはなしをきいていた。その人である。わたしが「G」で飲んでいたときに、糸井潤さんの知り合いという方もわたしのとなりで飲んでおられたのだった。なんだか、すっごい近しい作家さんだったというか、知っている作家さんだったからよかったというんじゃなくって、こうやって気にいってしまった作品の作者とわたしもちかしいところに接点をもっているようで、ちょっとうれしくなった。

 つぎの部屋が塩田千春さんの展示。古靴を赤い糸でむすび、その赤い糸をのばして宙の一点に集中させたインスタレーション。あいかわらず情念を感じさせる作品世界はあっとうてきなんだけれども、一点だけなのでものたりなくおもってしまったりもする。ぜいたくな観客である。ラストは池田学さんで、ミヅマ・ギャラリーでだかどこかで彼の作品は観たことがある。カラーインクとペンによる細密画で、細密画なのにあっとうてきな大きさだったりする。ミヅマさんが好きそうな作品だなあとおもった(けなしてるのではありません)。

 いぜんこの展覧会を観たときにおもったように、つまりは文化庁の事業の成果の宣伝なんだから、そんなチケット代を千円もとらなくってもいいんじゃないかということだし、こうやってあつめられた研修をうけた作家たちに、びしっと通底するコンセプトがあるわけでもない。テーマも手法も超コンサバな油絵作家と塩田千春のインスタレーションが同居して展示される意味がわからない(まあそれがつまりは文化庁の事業ということなんだろう)。しかしながら、こんかいは印象にのこる作家の作品が多かったので、ま、いいかっ、と。


 

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■ 2013-01-26(Sat)

f:id:crosstalk:20130128092737j:image:right ニェネントはすっかりTVの天気予報がお気に入り番組になったみたいで、TVで天気予報がはじまるとすぐにTV台にかけあがってくるようになった。もちろん天気予報士の手にしている棒のせんたんのまるいところにじゃれつくためなんだけれども、TVの画面の変化はめまぐるしいし、その天気予報士の棒も画面にあらわれたりすぐに消えたり、ちっともじっとしていない。だからこそニェネントにはおもしろいのだろうか。
 このところニェネントはわたしが食事をしているとき、わたしのたべているものにちょっかいをだしてくる。いぜんはこんなことあまりやらなかったし、べつにニェネントの食事の量をへらしているわけでもない。このあいだ「ネコの行動学」という本を読んで、ニェネントがわたしのことを性的な対象とはみなしていないことはわかった(よかった!)けれども、どうやらニェネントはわたしのことをきょうだいみたいなものと認識しているようである。しかも、ときにはじぶんのほうが年長だとおもっている気配もある。たしか飼い犬が飼い主にたいしてそのような認識をしているようなことをきいたおぼえがあるけれども、ニェネントもおなじなのかもしれない。

 きょうはひるから、駅の北にある地域交流センターで上映される記録映画を観にいく。これはこの市をちゅうしんにおもに県内で活動している人権団体が主催し、「男女共同参画宣言都市」であるこの市が共催しておこなわれるもの。映画の上映のあとにはトークも予定されているようだけれども、そこまで聴いていこうとはおもっているわけでもない。なぜこの映画をみたいとおもったのか、その理由は下に書いておくので。

 けっきょく映画だけを観てかえってきたけれども、この市街地の北側というのはふだんあまり歩くところではないし、ちょっとたまにはそんな道を歩いてみようというつもりで、しばらくさんぽきぶんで歩いてみた。ほんらい市街地の商業的なちゅうしんはこの駅の北側にあったのだけれども、駅のすぐまえにある商業ビルはわたしがこの地にくるまえにスーパーが撤退していて、そのあともべつのスーパーが二度ほどあらたに出店したけれど、どちらもすぐに店をたたんでしまった。いまでは市がこのビルを買いとり、商業施設はすべて撤退してしまっている。駅前通りにはわたしの来たころにはまだ食堂が二軒、駅のちかくで営業していたのだけれども、その駅前通りの道路拡張工事で廃業してしまった。いまは駅の北口からまっすぐに、かなり道はばのひろい整備された道路がのびているけれども、とても商店街などといえるものではない。いわゆる日用雑貨、食料品をあつかっている店がない。きょねんはたしかこの道路の全長が東京スカイツリーの高さとほぼおんなじだみたいな、わけのわからないキャンペーンをやっていたけれども、けっきょくこの道路は夏祭りのときにだけ、その道はばや長さがいかされる。その祭りのときにはすっごいにぎわいで、おそらくは万単位のひとたちが道路にあふれて、そのあいだをいくつもの神輿がねり歩いていく。つまり、そのための、そのときだけのための道路なんだろうとおもう。
 裏通りを歩いてみると、けっこうスナックやバーが軒をつらねていたりする。このあたりのむかしから栄えた風俗街は駅前通りのはんたいがわの、西がわにのびている道路ぞいで、昭和の時代からつづいているだろう古い居酒屋や小料理屋がいっぱいならんでいる。そっちはつまりは古い街並で基本は和風なんだけれども、こっちがわは新興勢力というか、居酒屋もバーもスナックも店構えはモダンである(バーやスナックならばとうぜんのことだけれども)。その風俗街のようなところをぬけると、いつも買い物にくるスーパーのわきにでる。ここからはいつも歩く道。プチおさんぽはこれでおしまい。帰宅してからヴィデオを一本観た。


 

[]「山川菊栄の思想と活動−姉妹よ、まずかく疑うことを習え」(2011) 山上千恵子:監督 「山川菊栄の思想と活動−姉妹よ、まずかく疑うことを習え」(2011)  山上千恵子:監督を含むブックマーク

 明治後期から大正にかけての社会主義運動家の活動にはきょうみがある。この三月には東京で「大逆事件」をあつかったドキュメンタリーが公開されるようで、それはぜひ観にいきたいとおもっている。そういうときにこの地でこの映画が上映されることを図書館に掲示されたポスターで知り、観にきたわけである。山川菊栄のことはよくはしらないけれども、平塚らいちょうらとの論争のことや、伊藤野枝や堺真柄らとたちあげた「赤瀾会(せきらんかい)」の活動など、しりたいことがあれこれとある。

 ‥‥しかし、彼女の大正時代の活動についてはほとんど年譜をよみあげるだけ、みたいな進行で、つまりはこの映画のほとんどは戦後の社会党での活動を紹介するようなもの。それはこの上映会を主催するような団体の方向性とはいっちするわけだろうけれども、わたしの観たかったのはそういうものではなかった、という感想にはなる。ただ、ちょっとだけふれられた平塚らいちょうや与謝野晶子との「母性保護論争」というものでは、情にながされない客観的な視点から論争の結論をみちびきだしたらしい。ここで彼女は「子育て」ということを「不払い労働(アンペイド・ワーク)」ととらえていたらしいけれど、それはつまりはイヴァン・イリイチのいった「シャドウ・ワーク」という概念にかさなるのではないかとおもった。やはり、このころの活動をもうちょっと掘り下げたものを観たかった。

 ただ、タイトルにつかわれている「姉妹よ、まずかく疑うことを習え」という文句はなかなかいいんじゃないかというか、はじまったあたらしい大河ドラマの第一回のサブタイトルが「ならぬものはならぬ」という、いっしゅの思考停止を則するようなものだったことをおもうと、これからも「疑うこと」はさらに重要になってくるんじゃないだろうか。「革新」といわれている政党のやることもね。


 

[]「眠狂四郎 殺法帖」(1963) 田中徳三:監督 「眠狂四郎 殺法帖」(1963)  田中徳三:監督を含むブックマーク

 眠狂四郎というのは市川雷蔵の専売特許というか、スクリーンでこのヒーローを演じたのは市川雷蔵だけかとおもっていたのだけれども、じつはさいしょにスクリーンで眠狂四郎を演じたのは鶴田浩二だったらしいし、市川雷蔵の死後には松方弘樹をむかえてつくられたものもあるらしい。しかしやはり、眠狂四郎といえば市川雷蔵だろう。この「眠狂四郎 殺法帖」は、その市川雷蔵が眠狂四郎を演じた第一作。監督は「座頭市」だとか「兵隊やくざ」、「忍びの者」なんかのシリーズものをよく撮っていた田中徳三監督。ただ、シリーズものが得意といっても、つまりたいていはすでにそのシリーズの基調、路線がさだまったあとに、その路線をひきついでの演出だったようで(田中徳三監督は「悪名」の第一作も撮っているけれども、これはそもそもはシリーズ化は予定されてはいなかったはず)、つまり、この眠狂四郎シリーズをどのようなものにするかという確固としたイメージはもっていなかったようである。だからいがいとおしゃべりな眠狂四郎に「あれれ?」ということにもなる。脚本も、これはかなりの長篇からあれこれを削りとってムリに90分におさめたという気配も濃厚で、「いったいあの登場人物はなんだったんだ?」みたいなキャラクターもいたりする(ばっさり削っちゃってもよかったような)。

 まあとにかくは、三隅研次監督による次作「眠狂四郎 勝負」をたのしみにするしかない。


 

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■ 2013-01-25(Fri)

f:id:crosstalk:20130126171128j:image:left きのう買い物で外にでて踏切りの方に歩いていたときに、わたしのまえを一匹のネコが走って道路を横断していったのをみた。茶色のネコ。首輪はしていなかったし、あのこはきっと野良ネコじゃなかったかとおもう。しっぽはみじかくってほとんどないくらい。ポンポンのようなまるいかたまりがおしりの上にのっかっているだけみたいな。ああいう野良がミイのいたころにこのあたりを徘徊していたような記憶もあるんだけれども、なんて名まえをつけてやっていたっけ? ジュニアだったかしらん。あの野良はミイとなかよくしていた野良なんだろうか。その子どもなんだろうか。でも、たしかにこのあたりにもまだ野良ネコは棲息しているんだとおもった。
 きょうもまたおなじ道筋で、ネコの走るのをみた。きのうのよりもっと黒っぽいキジネコで、あれはひょっとしたらベンナだったのかもしれない。遠目にはよくわからなかった。まだこのあたりにも複数の野良が棲息しているような気配で、こういっちゃなんだけれども、ホッとしたところがある。ミイに食べ物をあげないでいて、けっきょくつまりはミイを死に追いこんだわたしがいえることではないけれども。

 きょうのしごとはたいしたしごと量でもなかったので、同僚のHさんとふたりだけで分室倉庫にいってしごとをおわらせた。あまりひまにもならないでいそがしすぎることもなく、ふたりでちょうどいい分量のしごとで、あるいみで理想的なワークだった。おなじ日にいっしょに入社したHさんとは、とってもしごとがやりやすい。わたしもしごとではいいかげんなところがあるし、Hさんにもいいかげんなところはある。そういうところのマッチングがいい。気がねしないでいろんなことたのめるし、つまりはわたしはHさんを信頼しているところがある。

 ゆうがたから図書館へいって、ナボコフの「プニン」を借りてきた。本棚をみていてまたちょっと葛原妙子の短歌が読みたくなり、彼女の歌集も借りてきた。CDは、Talking Heads の「Remain in Light」、なんつーのを借りてしまった。きょうはヴィデオで「レ・ミゼラブル」を観た。


 

[]「レ・ミゼラブル」(1998) ヴィクトル・ユーゴー:原作 ビレ・アウグスト:監督 「レ・ミゼラブル」(1998)  ヴィクトル・ユーゴー:原作 ビレ・アウグスト:監督を含むブックマーク

 ことしのお正月映画は、ミュージカル仕立ての「レ・ミゼラブル」の大勝利みたいである。これとわたしの観た007の「スカイフォール」いがいは、そんなに観てみたくなるような映画もやっていなかったし。‥‥さて、それでわからなくなったのが、いったいぜんたい「レ・ミゼラブル」ってどんなおはなしよ、ってなことで、これはお正月に下北沢の「G」にいったときにもCさんなどともはなしをして、つまりはCさんもよくはしらないのであった。わたしの記憶ではジャンバルジャンという(ジャン・バル・ジャンなのか、ジャン・バルジャンなのか、はたまたジャンバル・ジャンなのかもわからない)主人公が銀の燭台を盗んでつかまって投獄されて鉄仮面をつけられるけれども、この主人公は比類なき怪力なので牢獄をぶちやぶって脱獄し、よくわからないけれども投獄されるまえのうらみをはらすという壮大な復讐劇ではないのかとおもっていたのだが(いじょう、ほとんどはデタラメ)、どうもその新作のミュージカル映画の紹介などをみていると、アン・ハサウェイの演じる薄幸の女性が登場するようだし、そもそもがTVでのスポットCM(これは日本のミュージカル舞台の)に登場するあの風に髪をなびかせる少女はなにものなのよ、ということである。それでこの件にかんしては、せんじつDさんにくわしい話をきいて、すっかりなっとくしてしまった。Dさんはこのあたりのことに信じられないほどにくわしい。まずはそのコゼットという少女のことだけれども、かのじょはつまりはこんかいの映画ではアン・ハサウェイの演じたファンティーヌという女性のててなし子で、ファンティーヌの死後は主人公のジャン・バルジャンがわが子のように育てるのである。日本版のミュージカルではこのコゼットを岩崎宏美が演じ、その初演の年の紅白歌合戦で岩崎宏美がその舞台を再現させたらしく、その舞台〜歌唱はいまでも伝説になっているとかいないとか。で、そのときに唄われたのが「夢破れて」っつう曲らしくって、この曲はあのスーザン・ボイルが大ブレイクをはたしたきっかけになった曲なのだということ。このあたりのDさんの博識ぶり(というのか)には恐れ入ってしまうのである。

 そういうわけで、録画してあった1998年版の「レ・ミゼラブル」を観た。ジャン・バルジャンを演じるのはリーアム・ニーソンで、そのファンティーヌをやっているのがユマ・サーマン。ジャン・バルジャンをずっと追っているジャベール警部というじゅうような存在を、ジェフリー・ラッシュがやっている。そのコゼット役はこのころは人気のあったクレア・デインズ。監督はビレ・アウグストで、わたしはこの監督の「ペレ」だとか「愛と精霊の家」だとかは観ている。「愛と精霊の家」はイザベル・アジェンデ原作の壮大かつ幻想的なストーリーで、まああれこれあるだろうけれども、とにかくはうまく映画作品にまとめていたという印象、記憶はのこっている。だからこの「レ・ミゼラブル」なんかでも、期待しちゃっていいのかもしれない。

 ‥‥というわけで、そのビレ・アウグストの「レ・ミゼラブル」。まずはリーアム・ニーソンのジャン・バルジャンが「がんばるじゃん」(ごめんなさい、これを書いてはいけないとおもいながらも、書いてしまった)なんだけれども、やはりそれいじょうにユマ・サーマンががんばっている。この作品でのこのファンティーヌ役というのはがんばりがいのある役どころだなあと痛感。さらに、あんまり動きをみせないでその内面をイメージさせるジェフリー・ラッシュが、またすばらしい。

 しかし、この19世紀前半のパリの街並、風景がすばらしいよなあとおもっていたのだけれども、さいごにこれはプラハで撮影されていたことがわかった。プラハで撮影された映画といえば「アマデウス」をおもいだすけれども、ひょっとしたらこの「レ・ミゼラブル」の方が、街の美しさを描いたというのではより印象にのこるかもしれない。ラストのジェフリー・ラッシュには、なけた(原作はもっともっと、ジャン・バルジャンの臨終まで描かれているらしいけれども)。


 

両国ジャベール両国ジャベール 2013/02/09 11:11 初めまして。帝劇の初演で岩崎宏美さんが演じたのは、コゼットではなく、今回の映画でアンが演じたファンテーヌでした。娘のコゼット役は斉藤由貴さんで、当時は資生堂のスポットCMがすごく流れてましたよ。

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■ 2013-01-24(Thu)

f:id:crosstalk:20130126105607j:image:right しごとをおえて帰宅して、おひるまえに買い物にでようとしたらニェネントがわたしのでかける気配を察したらしく、にゃおにゃおとなきながらわたしのまえにまわりこみ、玄関のドアのまえにごろんとよこになる。「わたしをおいてあんただけ外にいかないでよ」といっているみたいで、この所作はニェネントがよくやるのだけれども、きょうは「それならニェネントもいっしょにでかけるか?」ってはなしかけ、しばらくつかっていないハーネス(手綱)をとりだしてニェネントの胴につけてやった。ハーネスをつけることにはそれほどには抵抗しなかったニェネントだけれども、いざ玄関のドアをあけて外にでようとすると、あしをふんばって抵抗する。「おいでよ!」とひっぱっても、かなりのちからがいる。やっぱりもう、ハーネスをつけての外出にはすっかりこりてしまったようす。「外がいやなんだったらおうちでおるすばんしてちょうだいね!」とハーネスをはずしてあげ、わたしだけ買い物にでる。こんどはわたしのじゃまなどしようとしないニェネントであった。

 きょうは借りているCDの、「Mingus Presents Mingus」を聴いてすごした。Charles Mungus のところのれんちゅうは、インプロヴィゼーションのところでおたがいに会話している感じでおもしろい。たまにけんかをしているようなふんいきにもなる。それでやっぱり二曲目の「Original Fables of Faubus」がアグレッシヴで、元祖パンクってな感じで聴いていて高揚する。この曲にはほかのレーベルで録音したときにはオミットされた「歌」がついているんだけれども、これがどうもわたしのヒアリング能力では聴きとれないところがいっぱいで、じっさいのところ「バカなやつの名まえをあげてくれよ」「そりゃフォーバス知事やで」「フォーバス知事はバカやねん」ってなやりとりいがいのところはなにを唄ってるんだかわからないできた。もうそろそろ歌詞カードが挿入されてもいいんじゃないかとおもうんだけれども、この図書館のCDにもまだ歌詞は掲載されていない。ググってみたらどこかにこの歌詞もアップされているかもなどとおもってやってみたら、ちゃんとでてきた。‥‥ははは、こりゃあすごいや! おもしろかったのでここにコピーしておこう。

 「この曲を、全アメリカでいちばんのゲス野郎、いや、二番か三番かもしれんけど、フォーバス知事にささげる」とかの、Charles Mungus のコメントから曲ははじまる。

Oh, Lord, don't let 'em shoot us!
Oh, Lord, don't let 'em stab us!
Oh, Lord, don't let 'em tar and feather us!
Oh, Lord, no more swastikas!
Oh, Lord, no more Ku Klux Klan!

Name me someone who's ridiculous, Dannie.
Governor Faubus!

Why is he so sick and ridiculous?
He won't permit integrated schools.

Then he's a fool! Boo! Nazi Fascist supremists!
Boo! Ku Klux Klan (with your Jim Crow plan)

Name me a handful that's ridiculous, Dannie Richmond.
Faubus, Rockefeller, Eisenhower

Why are they so sick and ridiculous?

Two, four, six, eight:
They brainwash and teach you hate.
H-E-L-L-O, Hello.

 ちょっと注釈しておかないといけないだろうけれども、とうじアーカンソー州の知事だったフォーバス氏は、1957年に州内のリトルロック高校に入学した九人の黒人学生の登校が暴動を誘発するとして、登校を阻止するために州兵を動員、リトルロック高校に配置するわけ。アメリカではようやく1954年に白人と黒人の分離教育が違憲であるという判決がでていて、つまりフォーバス知事は違憲状態を継続しようとしたわけ(じっさいに彼はそののちも黒人の入学しそうな高校を三つ閉鎖したりもして、1967年にようやく知事をしりぞくまでずっと、分離教育を継続したのである)。これが有名な「リトルロック高校事件」。くわしくはべつのところで読んでください。この曲で<He won't permit integrated schools.>と唄っているところが、つまりはこの「リトルロック高校事件」のこと。
 この曲の後半で、Mingus がDannie Richmond に「もっとバカなやつの名まえをあげてみなよ」といって、Dannie はフォーバスのほかにロックフェラーとアイゼンハワーの名まえをあげていたのは気がつかなかった。この発音は聴きとれない。アイゼンハワーはとうじの大統領で、この事件でリトルロック市長から(黒人学生をまもるための)軍の派遣を要請されていたけれど、ずっとこの要請を無視していたらしい。バカとかアホとかいわれてもしょーがないか。九人の学生はようやく、派遣された連邦軍に守られて通学するようになる。ロックフェラーというのはおそらくはのちに副大統領になるネルソン・ロックフェラーのことだろうか。とうじ彼はアイゼンハワー大統領のもとで保健教育福祉次官という地位にあったので、そのあたりでこの事件でなんらかの役割をはたしていたのだろうか。ただWikipedia で読むかぎりでは彼は人種差別撤廃を積極的に支持したということで、ひにくなことにそのフォーバスがアーカンソー州知事をようやくしりぞいたあとに、そのアーカンソー州知事に就任している。しかしアーカンソー州が分離教育をじっさいに撤廃するのは、彼が知事をしりぞいたつぎのとしの1972年になってからのこと。ほんとうに人種差別撤廃に積極的だったのかどうか、よくわからないところはある。とにかく、彼らは「洗脳して、あんたに<憎しみ>を教えてくれる」ということ。
 ‥‥ということで、きょうは「Original Fables of Faubus」という曲の歌詞から、アメリカの公民権運動の歴史のなかでも重大な事件、「リトルロック事件」のことをべんきょうしてみました。

 ひるすぎからはヴィデオを二本観てすごした。図書館から電話があり、リクエストしていた本の用意ができているということ。あしたにでも借りにいこう。


 

[]「初春狸御殿」(1959) 木村恵吾:監督 「初春狸御殿」(1959)  木村恵吾:監督を含むブックマーク

 まだいまのうちなら「初春」と銘打った映画を観てもだいじょうぶだろうと、おめでたい気分にひたりたくって観賞。「狸御殿」である。公開は1959年ということになっているけれども、じっしつは1960年のお正月映画。このころはつまりは日本映画の絶頂期で、まだまだ娯楽の王道は家庭のTVモニターの世界ではなく映画館のスクリーンにあったわけだけれども、この作品を観るとそういう「ここに娯楽の王道あり」ということが痛烈に意識される。って、これってつまりはショーとしての映画。じっしつは舞台でのヴァラエティ・ショーなんだけれども、フィルムに記録して、全国津々浦々の映画館でものすごくたくさんの観客が日本じゅういっしょにおなじ舞台を観ることができる。そういう感じ。映画的技法なんてここではもんだいではないけれども、瞬時に登場人物が消えたりあらわれたり、衣装が変わったりしてしまう。これは舞台ではぜったいにできないこと。「素朴だねー」などと、ばかにしてはいけません。

 主演は若尾文子(二役)に市川雷蔵、勝新太郎あたりだけれども、ここはほとんど若尾文子主役のワンマンショーの気配もあるし、ほとんど踊りでおつきあいだけの市川雷蔵よりは、出番はすくないけれどもちゃんとじっさいの美声を聴かせてくれる勝新太郎の方がちょっと得をしてる気がしないでもない。というか、若尾文子の扮するたぬきの「お黒」のおとうさん役の、菅井一郎という役者さんが印象にのこってしまう。まあなんといってもどこまでも若尾文子さんの映画、という気がしないでもない。かのじょがどんどん分裂してその数を倍々にふやしていったりして、スクリーンは若尾文子さんで埋めつくされてしまうのなんか、「マトリックス リローデッド」のエージェント・スミスもまっさおである(!)。

 っつうか、そんな筋書きよりもここはお正月ヴァラエティ・ショーの舞台。チープなんだか豪華なんだかよくわからない書き割りの舞台のうえ、まだラジオで聴くしかない「紅白歌合戦」を聴いて年を越して新年を迎えたあと、初詣のあとは映画館でこんな豪華絢爛(?)・総天然色(これはほんと)のスクリーンで、歌や踊り、そしてちょっぴりお色気も楽しむのよ。‥‥このつづきは50年ぐらいまってくれれば「オペレッタ狸御殿」でね、というところだけれども、「オペレッタ狸御殿」よりも、こっちの方がたのしいかも。


 

[]「新宿泥棒日記」(1969) 大島渚:監督 「新宿泥棒日記」(1969)  大島渚:監督を含むブックマーク

 ひさしぶりの再見。もっとへきえきしてうんざりしてしまうかとおもっていたけれども、けっこうたのしんで観てしまった。おもいのほか、終盤の状況劇場とからんだ展開にいちばんたいくつしてしまったかな(だって、そこまででだいたい本筋はおわっちゃってるし)。いかにも六十年代らしい本の万引き常習童貞少年(青年)が、彼に精神的親和性をかんじる女性とそうぐうし、紆余曲折しながらも和合をとげるまでのおはなし、という感じで観てしまった。紀伊国屋書店の階段で岡の上鳥男クンの手に鈴木ウメ子ちゃんの手がかさなるシーンにはやはりなんというのか、恍惚感があるというか。いまでは紀伊国屋書店の店内もずいぶんと変わってしまっているけれども、外観のいちぶ、そしてこの階段のところはこの映画の撮影のときからまるで変わっていない(紀伊国屋ホールや画廊のあたりは、いまでもまさにとうじのまんまなんじゃなかったっけ?)。そんな紀伊国屋書店のまえであさって、わたしはこの映画のころに知り合ったともだちと待ち合わせしている。


 

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■ 2013-01-23(Wed)

f:id:crosstalk:20130125112249j:image:left 和室にすわってパソコンにむかっていると、めずらしくわたしのちょっとうしろにニェネントがすわっている。わたしがたちあがってニェネントの方に足をふみだすとニェネントはまた追いかけっこをはじめましょうかという感じで逃げていくのだけれども、逃げだす方向転換のとき、わきのふすまに立てかけてある板(ニェネントがふすまにつめをかけてやぶくのをふせぐためのもの)におもいっきりあたまをぶっつけてしまった。ガン!って音がした。ありゃあかなり痛かっただろうとおもうけれど、ニェネントはなにもなかったようにそのまま逃げていった。そのあともへいきなようすで追いかけっこをするんだけれども、この子、ちょっとにぶいんじゃないかとおもった。
 きょうもニェネントはTVの天気予報がはじまるとTV台のうえにとびあがり、天気予報士のもっている棒にちょっかいをだす。これはもう天気予報の番組でそうやってあそべることを記憶、学習したのだとしかおもえないのだけれども、どうなんだろう。その天気予報では、あしたは雪になるかもしれないといっている。どうなるんだろう。

 きょうはヴィデオでちょっと感銘をうける作品を観てしばらくぼうっとしてしまったけれども、そのあとはまた図書館から借りているオールディーズ・ヒットのCDを聴いてすごした。ぜんたいにおもいだしてなつかしいとおもうような曲もすくなく、「こういう曲もあったなあ」といういじょうに聞き惚れてしまうものは、やはり「さらばベルリンの灯」とBobby Hebb の「Sunny」ぐらいのもの。きのうはVikki Carr の「It Must Be Him」なんてなつかしいとおもったけれども、きょう聴くとこの歌手のうたい方もどこか鼻につくし、ちっとも好きな曲ではなかった。Bobby Hebb のことをCDの解説で読むと、<12歳の時にロイ・アキューフのグループのメンバーとしてカントリーの殿堂「The Grand Ole Opry」に黒人として初めて出演した>とあった。って、ロイ・アキューフってなによという感じなのだけれども、このCDの発売が2004年だということをかんがえると、解説もそのころに書かれたものだろう。そんなググることもかんたんにできるような時代になって、ポピュラー・ミュージックの常識みたいな大御所(でもないのか)の名まえのカタカナ表記もできない(つまり、知らない)ような存在が<解説>を書いているなんて、異常なことだとおもう。Roy Acuff のファンが泣いたり怒ったりしたことでしょう(Roy Acuff のファンはこういうCDは聴かないか)。



 

[]「永遠のハバナ」(2003) フェルナンド・ペレス:監督 「永遠のハバナ」(2003)  フェルナンド・ペレス:監督を含むブックマーク

 まったくもってどういう作品なのかしらないで、ただタイトルに「ハバナ」の文字があったというだけの理由でしばらくまえに録画してあったもの。観はじめてもしばらくはふつうの劇映画のつもりでいて、つぎつぎに登場人物の名まえや年齢がテロップでインサートされるのをみていて、「そんなにたくさんの人の名まえと顔はおぼえられないよ」なんておもっていた。そこで、つまりはドキュメンタリーなんだなと、ようやく気がついた。十人いじょうの市井のひとびとの、それぞれのいちにちを追ったドキュメンタリーらしい。

 ハバナで撮られたドキュメンタリーというと、どうしてもわたしなどはヴィム・ヴェンダースの「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」をおもいうかべてしまうのだけれども、あの映画に登場したキューバのミュージシャンたち、映画をみるまではまるでしらなかった人たちばかりだったし、作品としても「ミュージシャンという生き方をえらんだ人たちの、ミュージシャンとしての生活をとらえたドキュメンタリー」というイメージもつよかった。だから、この「永遠のハバナ」に登場する人たちがたとえミュージシャンという存在ではなかったとしても(じつはラストまでみるとそういうわけでもないことがわかるのだけれども)、わたしにはどこか「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」につうじる空気がかんじられるのだった。それはおなじハバナという街で撮られているというせいでもあったかもしれないけれども。

 このドキュメンタリーは、カメラなどの撮影スタッフは「存在していない」ということで撮られている。カメラは登場人物の住まいのなかにもはいっていて、登場人物をほんとうに至近距離からのクローズアップでとらえたりもしているのだけれども、きほんてきに彼らがカメラ目線になることはないし、スタッフからの質問などがあるわけでもない。冒頭に各登場人物の名まえと年齢だけはテロップでしめされるけれども、ナレーションなどの説明はそれいがい、ラストまでは皆無である。それでもみていれば「この男の子はおそらくはダウン症で、それでも学校へ通学していて、学校から家に帰るとおとうさんがまっている。おかあさんはいないみたいだな」などということは読みとれたりはする。この人は靴の修理をやっているとか、鉄道の保線のしごとをやっているとかは、ダイレクトに画面からわかる。

 カメラはじかんの経過にしたがいながらそれぞれの登場人物を追っていくけれども、だんだんに夕暮れもちかづいてきて、ここで「きっとよるになるとみんな遊びにでかけるんだろうなあ」などとおもうんだけれども、その予想はあたったというか、いやいや、おもっていたよりももっとみんなすごいというか、よるになるとひるとはちがう顔をみせてくれる人がいっぱい。ひるまはコンクリートの袋をはこんでいた青年が、よるになるとメイクをしてバレエのステージに立つ。保線区員だった男性はサックス・プレイヤーだったし、靴を修理していたおじさんはばっちり服装も決め込んで、ダンスフロアで踊っている。これはもうちょっとはやい段階でわかるケースだけれども、企業のなかで診療医をやっていた男性はゆうがたにはピエロのメイクをして、子どもたちのまえでマジックをやってみせている。

 とちゅう、ラジオや舞台からいくつかの音楽が流れてくるのが聴こえるのだけれども、やはりその音楽がよくって、またわたしは「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」をおもいだしてしまう。わたしはとくに、夕暮れどきにラジオから聴こえてくる「夕暮れ」という曲が気に入ってしまった。ラストちかくにうつるハバナの海岸の通り、海からの波しぶきが道路にもかぶってくるんだけれども、この道路は「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の冒頭でライ・クーダーとそのご子息がサイドカーで走っていた道路だったんじゃないだろうか。やっぱわたしはどこまでも「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」をおもいうかべてしまうんだけれども、なんでもない登場人物の表情だとか、うつされるあれこれの情景だとかを目にするだけで、なんとなくなみだ目になってしまうのだった。

 予備知識もまるでないままに観はじめた作品だったけれども、よくまあ録画してくれていたものだと、じぶんじしんに感謝したい。すばらしい映画、だった。


 

[]「悪魔の美しさ」(1949) ルネ・クレール:監督 「悪魔の美しさ」(1949)  ルネ・クレール:監督を含むブックマーク

 このあいだジュリアン・デュヴィヴィエの映画を観たけれど、きょうはべつのフランス映画の巨匠、ルネ・クレールの映画を観た。ファウスト伝説の現代的な翻案で、ジェラール・フィリップとミシェル・シモンというふたりの名優の共演。時代設定はおそらく19世紀なかごろだろうか。

 ファウスト伝説というのはゲーテが「ファウスト」を書いたもとになった伝説で、ゲーテの時代17世紀には人形劇としてヨーロッパ各地で上演されていたわけで、いく種類ものヴァージョンがあるそうな(シュヴァンクマイエルがまさに「人形劇」として映画化してもいる)。ゲーテも子どものころにその人形芝居をみて、それがのちにゲーテ版「ファウスト」として結晶する。ゲーテはその「ファウスト」のなかにあれこれの壮大な人生哲学をもりこむわけだけれども、もちろんそういう要素はゲーテの創作であって、ゲーテの「ファウスト」イコール「ファウスト伝説、ファウストの人形劇」ではない。この「悪魔の美しさ」はつまりは「ファウスト伝説」をもとにしているところがおおきく、「あのゲーテの代表作をこんなにしちゃってからに」となげくのはまとはずれではあるだろう。ただ、この「悪魔の美しさ」でファウストがさいごに愛するのがロマ(ジプシー)のマルグリットという名の女性だというのは、ゲーテの「ファウスト」のマルガレーテからの流用なのかもしれない。

 ここでのルネ・クレールの演出はあくまでも軽妙で、ほとんどマンガ映画みたい。その演出をふたりの名優が助けるのだけれども、とくにミシェル・シモンの「お下品」一歩てまえ(だけれども品格があるのがすごい)みたいな演技が、ほんっとうにすんばらしい。ファウスト伝説ではファウスト博士は錬金術師なわけで、そのあたりをじゅうぶんに活かしてここでのファウスト博士は科学者。砂から金をうみだして国家財政のピンチを救うし(あとでまたその金は砂になってしまうけれども)、飛行機や潜水艦などの開発もすすめるもよう。そういうところに科学万能主義への危機感を読みとったり、科学とむすびついた近代兵器開発への警鐘をみてもいいんかもしれないけれども、これはそういうことをそんなに声高にうったえるような作品ではない。どちらかというとファウストとメフィストフェレスとの人格入れ替わりの喜劇という側面のつよい作品で、そのことでさきに書いたように、ジェラール・フィリップとミシェル・シモンの演技が最大限に活かされるのだという印象。たのしい映画、だった。


 

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■ 2013-01-22(Tue)

 ことしにはいってきのうまで、しごとはほとんど休みばかりのわりあて(はんぶんは休みみたいな)がつづいていたけれども、その反動できょうからしばらくはまるで休みがなくなってしまう。このつぎの日曜と月曜は連休になっているけれども、そのあとはしばらくは(といっても二しゅうかんだけ、だけれども)休みは月曜日だけになってしまう。週休二日制はどこへいってしまうのか。これからは個人的なスケジュールもなかなかにつまってきていて、らいしゅうはFさんGさんとのことしはじめての飲み会、つまりは新年会みたいなものをやる。飲み会はよるだからひるまは六本木へでて、観たかった美術展を観ておきたいとおもっている。そのつぎのしゅうには舞踏家の岩名雅記さんの監督した三作めの映画作品の試写会にご招待いただいている。うれしいかぎりである。岩名さんのこれまで二本の作品はいずれもすばらしい作品だったので、ほんとうにたのしみにしている。試写会のあとにはこのブログでもおよばずながらも宣伝をやらせていただくつもり。かんがえてみたらきょねんはこんなにスケジュールがつまったという記憶もなく、これからはどんどん人によばれて外にでるきかいもへっていくばかりになるのかな、などとさびしいこともおもっていたので、なんだかうれしい。おとといでかけて活気づいたきぶんがこのままずっとつづくといい。人をたよりにするのではなく、じぶんでもそのように行動しなくっては。

 きょうは午後から図書館へ借りていた本とDVDを返却しにいった。図書館のエントランスに利用者からの図書購入リクエストへの回答というか、なにを買ってなにを買わないことにするかというのがはりだされているのだけれども、わたしのリクエストしていたナボコフの「プニン」は、やっぱり買ってくださるようだ。はやく買ってください。つぎはなんの本をリクエストしようか。ネグリ/ハートの新刊(もう「新刊」でもないか)あたりを読んでみたいかな。借りようとおもっていた「ロード・オブ・ザ・リング」のDVDはまだ貸し出されていたので(ぜったい延滞)、しょうがないからCDでも借りようと棚をチェックする。このあいだFMでちょっとかかっていたのを聴いたReturn To Forever のファーストアルバムでも聴こうかとおもったけれども、アレは聴いているとものがなしくなってしまうところがあるので、あぶないからやめる。かわりにアグレッシブなきぶんになってやろうと、Charles Mingus の「Mingus Presents Mingus」を借りることにした。これはうちをさがせばどこかにあるかもしれないんだけれども、まあいいや。
 ポピュラー音楽のコーナーをみていると、60年代から70年代にかけてのヒット曲のオムニバスアルバムが、ずらりと年代ごとに10枚いじょうならんでいるところがあって、いったいどんな曲が収録されているんだろうとちょっと収録曲をチェックしてみた。これ、つまりはそのアーティストたんどくではソロアルバムなどリリースできないような人たち、つまりは「一発屋」ちゅうしんのセレクトがメインみたい。そこにビッグアーティストのヒット曲もぶちこまれ、さらにとうじヒットした映画音楽もいくつか収録されている。あれ? そういう映画音楽が収録されているんだったら、このあいだきゅうに聴きたくなったジョン・バリーの「さらばベルリンの灯」の主題曲も、ひょっとしたら収録されてたりしてね、なんてかんがえて、60年代なかばごろの盤をじゅんばんにチェックしてみた。‥‥って、まさかとおもったけれども、ほんとうにその「さらばベルリンの灯」の収録されているCDが、ちゃんと存在した。やっぱりとうじはそれなりにヒットした曲だったということなのか。もちろん、うれしくなってこれも借りたことはいうまでもない。
 この67年から68年までのヒットをあつめたという一枚、それいがいの曲はレインボウズの「バラ・バラ」だとか、これはやっているアーティストのことはしらないけれどもとうじヒットした「マナ・マナ」だとか。こういうのはどうでもいいんだけれども、わたしがよろこんだのはPaul Jones の「傷だらけのアイドル(Free Me)」なんていう、さがしてもみつからないような曲が収録されていたこと。Paul Jones は第一期のManfred Mann のリード・ヴォーカリストで、グループを脱退してソロになり、すぐに「傷だらけのアイドル(Privilege)」という、芸能界で破滅していくアイドルを描いた映画に主演する。Paul Jones なんて日本ではまるで知られていなかったのにこの映画は日本でも公開された(だって、邦題がついてるし)。監督はいったいだれだったのかしらないけれども、とにかくとうじ中学生だったわたしはよろこんで上野(だと記憶している)までこの映画を観にいった。ひょっとしたらアントニオーニの「欲望」との二本だてだったかもしれない(どちらも66年に製作された映画)。Paul Jones はこの映画のあとほんとうに傷だらけになったのかどうかはしらないけれども、とにかくこのあとはその名まえもまったくきかなくなってしまった。
 あとはこのCDの収録曲でなつかしかったのはBobby Hebb の「Sunny」、そしてVikki Carr の「It Must Be Him」あたりだろうか。「Sunny」はいまでもときどきは聴かれるけれども、Vikki Carr なんて、知っている人もほとんどいないだろう。この曲はたしかジルベール・ベコーの曲だったとおもう。このころはいがいとアメリカでも、ジルベール・ベコーの曲はヒットしたものである(もちろんアメリカのアーティストが英語で唄っていることはいうまでもない)。

 ゆうがたは、その「さらばベルリンの灯」をRepeat 機能でひゃっぺんがえしに聴きながら、「哀愁の料理人」ってな感覚でホワイトシチューをつくって夕食にした。牛乳があまりのこっていなくって足りなかったし、ホワイトソースにしたあとさましてしまったので、あとでダマになってしまった。味もいまいち。いっぱいつくったのに、ちょっとしっぱいだった。

f:id:crosstalk:20130123182608j:image:left ニェネントは外が暗くなるともう、ふとんのうえでまるくなって寝てばかりいる。それでわたしも寝ようとふとんにはいると、ニェネントの寝ているあたりのふとんはすっかりあたたまっている。こたつネコではなく、ネコごたつである。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第二十二話「お照の父」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第二十二話「お照の父」を含むブックマーク

 キレのいい演出で楽しめた回。ちょっとしたうごきで、尾上菊五郎の歌舞伎役者としての片鱗をかいまみられるようなところもあった。あれれ、音楽がなんだかジャズっぽいアレンジのをつかっている。まえからこういう音楽つかっていたんだっけ? こんかいの演出は小俣尭という方で、TVドラマだけを演出していた方のようだけれども、いい演出だなあとおもった。露店で宙吊りにされてもがく亀ちゃんがかわいかった。


 

[]「望郷」(1937) ジュリアン・デュヴィヴィエ:監督 「望郷」(1937)  ジュリアン・デュヴィヴィエ:監督を含むブックマーク

 なんだかセリフがとぎれてしまうのをこわがっているみたいに、冒頭から切れ間なくセリフがつづく。しかもそのセリフがすべて説明的なことがらばっかりで、「これってなによ?」みたいな感覚になる。はじまってずいぶん経過して、ようやく家屋の屋上からのカスバの街の夜景がうつされてほっとする。それまでは閉所恐怖症になりそうな気分だった。

 けっきょく、ただただ感傷的な気分だけでひっぱっているだけの作品というか、そのことでファンも多いのはわかるけれども、このぺぺ・ル・モコって、つまりは自己抑制もできないチンピラではないか。ノワール映画のわき役にこういう造型はよくでてきて、「アイツもバカだったなあ」みたいなことでおしまいになるようなキャラだろう。(わたしには)とてもこういう男が主人公で感情移入できるものではない。
 ただ、ミレーユ・バランという女優さんのツンデレぶりはステキだった。この方、ヴィシー政権時代にナチス将校を愛してしまって、解放後に投獄されちゃったらしい。きっとナチスの将校が猛アタックして陥落させたんだろうな。


 

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■ 2013-01-21(Mon)

 このところしばらく、東京などにでかけたあとの日はちょっとした虚脱感におそわれたりしていたのだけれども、きょうはなんとなく元気。活力をとりもどしたというのか。ニェネントも元気で、部屋のなかをはしりまわっている。障害物をとびこえるときのジャンプするすがたもかっこよくって、ニェネントもなかなかやるじゃん、などとおもってしまう。

 窓からみえるむかいの家の屋根の雪は、まだとけないでのこっている。きのう東京でみた感じでは、やはりこんかいの雪は東京の方がたくさん降っている印象だった。電車の窓からみえる外の家並みの、その屋根につもっている雪がどこまでもつづいていて、そののこっている雪の量がだんだんにおおくなっていくようにもみえた。TVの天気予報ではまたあしたのあさは雪になるかもしれないといっている。

f:id:crosstalk:20130123111236j:image:right ニェネントは天気予報の放送のことをおぼえているのか、天気予報がはじまるとTV台のうえにかけあがり、また気象予報士のもっている棒のせんたんのまるいところにちょっかいをだす。「この番組がはじまるとあそべる」と、学習したのだろうか。きょうはそのあとにまた綿棒をほうりなげてあそびはじめ、わたしがみていると、いままでにないぐらいに高く、そして遠くに綿棒をとばしているのがみえた。なんだかワイルドなニェネントで、みていてもちょっとたのもしくおもえてしまう。

 きのう買ったエイゼンシュテインのDVDからさいしょの「ストライキ」を観て、図書館から借りている「ネコの行動学」を読みおえた。きのう買うのをまよったピーター・グリーナウェイのボックスセットだけれども、これはもう品切れらしく、ネット通販ではけっこうな価格(その量販古書店で売っている倍いじょう)がついている。これは買っちゃって転売すればすこしはもうけになりそうな気配もある。こんしゅうは給料も支給されるし、こんどいったときに買ってしまおうかとかんがえる。って、こういうときにかぎって、だれかにさきに買われてしまったりするのだが。


 

[] 「ネコの行動学」パウル・ライハウゼン:著 今泉吉晴+今泉みね子:訳  「ネコの行動学」パウル・ライハウゼン:著 今泉吉晴+今泉みね子:訳を含むブックマーク

 1956年に第一版が出版され、そののちに加筆訂正がくりかえされ、この翻訳は1982年に出版された第六版から、ということ。著者はドイツの動物行動生理学研究所にネコ専門の研究部門を設立され、ピナ・バウシュの本拠地だったヴッパタールにみずからの研究所をもっていたらしい。

 わたしはニェネントのことをすこしでもよくしりたいとおもって読みはじめたのだけれども、あくまでもてっていした観察の記録として書かれたこの書物、ニェネントのようないわゆる飼いネコの行動観察からははなれたところがおおく、ニェネントの行動をこの本のなかで照合するようなこと、もしくはこの本に書かれている観察記録からニェネントの行動の意味をとらえるというようなことは、ほとんどできんかった。とくにこの書物のはんぶんいじょうをしめる第一章の「獲物への行動」など、キャットフードを食べるだけのニェネントからはうかがいしることのできない行動ではあった。ただ、この日記に書いたように、わたしなりにそういう獲物をあたえる実験はやってみて、ニェネントの反応はみることはできた。

 電極による刺激だとか、脳のいちぶの除去手術をほどこしたネコの観察など、「そこまでやるんか」みたいな印象もうけたし、時代を感じるところもあるけれども、それはそれでその結果えられた成果はあっただろう。ネコの性行為、そして子育てについての記述などは、ニェネントのお母さんのミイのことをおもいだしながら、「なるほど」などとおもいながら読んだ。

 ‥‥この本を読んで、ニェネントについてわかったこと。どうやらニェネントはわたしのことは性的な対象とはみていないようである。よかったよかった。っつうか、あんまりわたしになついてない???


 

[]「ストライキ」(1925) セルゲイ・エイゼンシュテイン:監督 「ストライキ」(1925)  セルゲイ・エイゼンシュテイン:監督を含むブックマーク

 エイゼンシュテインの長篇デビュー作。そりゃあこのあとの「戦艦ポチョムキン」もとてつもなくすごいのだけれども、この「ストライキ」もすごい。デビュー作でこれ、というおどろきがある。

 もちろん、エイゼンシュテインといえば「モンタージュ理論」といわれるような、その技法もこの作品からすでに散見することができるけれども、この作品を観ると、彼がまずは編集作業というものにおおきな比重をおいて映画をつくっていることがよくわかる。とにかく「長回し」などといえるようなショットはほとんどなく、ひじょうにみじかいショットをつないでいくことで、その描かれた状況をうかびあがらせる。撮影現場にはいるまえにすでにち密な編集計画が存在していたわけだろうとおもうしかない。そのなかで、労働者らの描写と資本家らとの描写が対比されていく。「モンタージュ」とは、こういう対立する要素を並列させることのなかからしぜんにみちびきだされた理論ではないのだろうか。それと、きょうれつな比喩表現というものもある。ラストの弾圧される労働者たちにかぶっての屠殺される牛の映像はほんとうにきょうれつで、いま観てもそのインパクトには圧倒させられる。資料的な価値ではなく、映画としての魅力、ちからにあふれている。


 

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■ 2013-01-20(Sun)

 きょうは東京へ。下北沢でDさんとまちあわせをして、ひさびさの「鉄割アルバトロスケット」の舞台を観る予定(きょねんは鉄割の舞台をいちども観なかった)。

 きょうとあしたはしごとも休みをとってあるし、ことしはじめての観劇にむけて万全の態勢はとってある。あさからそとは晴天だし、ちょっとさむいけれどもいい日和になりそう。またいつものように行くまえに古書量販店へたちより、電車のくるまでのじかんをつぶす。DVDのコーナーにエイゼンシュテインのボックスセットだのピーター・グリーナウェイのボックスセットだのがかなり安い価格でおいてあるのが気にかかってしまい、どっちもほしいなあなんて、また、ちょっと安いとすぐに買いたくなってしまうわるいクセがでてしまう。こういうときにかぎって財布によゆうがあったりしていけない。けっきょく、安いほうのエイゼンシュテインのボックスを買ってしまった。ぜったいに観て損のない作品ばかりだろうし、観おわって処分してもそれなりの価格で売れるだろうと。ついでにむかしの文学全集の端本、ローベルト・ヴァルザーの「ヤーコプ・フォン・グンデン」の収録されているものも買ってしまった。「ヤーコプ・フォン・グンデン」はブラザーズ・クエイの長篇映画第一作の「ベンヤメンタ学院」の原作小説。まえから読みたいとおもっていたもの。

 おもいのほか混み合っているローカル線に乗り、ターミナル駅で乗り換えて新宿、さらに乗り換えて下北沢に約束のじかんどおり到着。Dさんともぶじに遭遇し、まえに下北沢にきたときにみつけたなかなかふんいきのいいカフェでランチをとる。これからは下北沢でランチとなればこのカフェを定番にしたい。
 ゆっくりと食事をして会場のスズナリへいくとおもいがけなくもずいぶんはやくに開場していた。きょうが楽日ということもあって満員で、みんな着ていたオーバーや荷物を受付であずけるので、そのじかんをみこしてはやくに開場しているのだろう。

 舞台の感想は下に書くとして、終演後はまた「G」へいって、ちょっと飲む。こちらもめずらしく(なんていっちゃあいけないけれども)お客さんでいっぱい。きょうは電車も劇場もどこも人がいっぱいだった。せんじつの「幻の湖」のはなしになるけれども、Dさんによればそのはなしはむかしさんざんやったではないかということ。すっかり忘れてしまっている。「G」にはぜんかいきたときにその「幻の湖」を録画したヴィデオをあげてある。ちょうどヴィデオはきょねんの暮れにきょうみをもってくれていたEさんのところにいっているらしく、「気合いをいれて観ます!」というメッセージ、だったそうである。
 気のおけない店で、気のおけないともだちのDさんとあれこれと会話をかさね、きょねんの暮れからのちょっと鬱積していた気分も晴れたおもいがする。Dさんのはなしでちかぢかフランシス・ベーコンの展覧会があるということをきき、それでデヴィッド・リンチがたしかベーコンを好きだったはずとおもいだし、そうするときょう買ったエイゼンシュテインのDVDのジャケット写真がまるで「イレイザーヘッド」ではないかとおもいあたった。ぜったいにリンチはこのエイゼンシュテインの肖像写真から「イレイザーヘッド」のキャラクターをつくっていると、確信する。どうだろう。

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f:id:crosstalk:20130122103451j:image:left  ちょっとはやめに「G」をでてDさんとも別れ、いつもよりは混んでいない電車にのって家にかえる。玄関のかぎをあけると、ドアのすぐ内側までニェネントがきていて、お出迎えしてくれた。おそらくはわたしのあるく音をはやくにききつけて、玄関までとんできたんだろうとおもう。わたしがかえってきたのがうれしいのか、おいてある段ボールのところへはしっていって、ボリボリとつめをといでいる。ニェネントはうれしいときにはこうやってつめをといだりするんじゃないかとおもうんだけれども、どうなんだろう。
 あさ出るときにいっぱい皿に出してあげていたネコメシがすっかりなくなっていて、「たくさん食べたねえ」と、またネコメシを出してあげる。ニェネントとびつく。わたしもちょっとおそい食事をとり、ニェネントといっしょに寝た。


 

[] 「鉄卜全」鉄割アルバトロスケット 戌井昭人:作 牛嶋みさを :演出 @下北沢 ザ・スズナリ  「鉄卜全」鉄割アルバトロスケット 戌井昭人:作 牛嶋みさを :演出 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 いつもとおなじ鉄割の舞台なんだけれども、どこかこう、ただ暗転のタイミングだけでみせるような演出がおおくなったような気がする。パフォーマンスとしてのインクレディブルな感覚がうすくなったというか、これではいわゆる「コント集団」ではないかという感想も。恒例のラストの「馬鹿舞伎」にしても、いっていること(意味)が聴きとれてしまう、というのはどこかちがうのではないかとおもったりもする。戌井さんもこのところは「ふつう」の演劇の「ふつう」の脚本もてがけられるようにはなっているし、もちろん文学のほうでの活動もさかんであられる。もうこれいじょう鉄割のパフォーマンスを発展させようという気もちもないのだろうか。かつてあの「HIGHLEG JESUS」を主宰されていたのに、その後あの女優さんと結婚されたり、コンサバ路線に転換されてしまった感のある河原雅彦氏のふんだわだちを進もうとされているのか。鉄割のこんごがしんぱいになったりもするのである。


 

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■ 2013-01-19(Sat)

 こんかいの芥川賞を受賞された黒田夏子さんが七十五歳ということで話題になっている。わたしなんかはまだまだガキである。ニェネントもいることだし、わたしもすくなくとも八十歳ぐらいまではガンガン元気な生活をおくりたい。わたしはまだその黒田さんの受賞作を読んだりしていないけれども、横書きでひらがなのきょくたんな多用ということが注目されているらしい。わたしは小説を書いたりはしないけれども、このブログを書いていてもそれなりに、漢字とひらがなのつかいわけということはこころにかかることがらではある。かんけいないけれども横書きだし。むかしはコンピューターが変換する漢字をそのままつかっていたけれども、このごろは意識してひらがなでのこすぶぶんをおおくしていて、その比率もすこしずつひらがな多用という方にかたむかせてきている。それでもどこまでひらがなにするかという基準には、まだまだまようところがいっぱいある。まあひとつには「あんまりコンピューターのいいなりにはならないよ」ということでもある。しかし、それで読みやすい文章になっているかどうかはよくわからない(まあ読者をふやそうとおもって書いているブログではないし)。

f:id:crosstalk:20130121105003j:image:left きょうのニェネントは発情期もすっかりおわり、おっとりとして静かなニェネントにもどった。あいかわらずTV台のうえにあがってわたしのみるじゃまをするのをよくやっているけれども、きょうはTV台のうえから、TVの画面で天気予報をやっていたのをみつめていた。気象予報士のかたが先端にまるい球のついた棒で地図などをさししめすのだけれども、そのまるい球が気になるわけで、まえ足で画面のなかでうごかされる球を追う。ニェネントがめずらしくみせてくれるネコらしいうごきで、かわいらしかった。

 きょうはヴィデオを三本も観て、だいたいそれでいちにちがおわってしまった。


 

[]「カジノ・ロワイヤル」(2006) イアン・フレミング:原作 マーティン・キャンベル:監督 「カジノ・ロワイヤル」(2006)  イアン・フレミング:原作 マーティン・キャンベル:監督を含むブックマーク

 きのう観た54年のTV版「カジノ・ロワイヤル」ではボンドの恋人はヴァレリー・マティスという名まえだったけれど、ここではヴェスパーという女性とマティスという男性のふたりの存在に分離している。こちらではそのヴェスパーは映画のなかではじめてボンドと出会い、あるていど一件落着のあとにボンドと愛しあうようになる。TV版ではかつての恋人だったのがカジノ場で再会するという設定。はたしてどちらが原作に忠実なのか。どうも、作品の構成からいくとTV版のほうが自然なような気がするけれど、ヴェスパーとマティスをあわせてひとりの人物にしてしまったのは、TV版の脚色ではないかともおもう。まあこんなことはどうでもいいんだけれども。

 公開当時映画館で観た映画だったけれども、これがまるっきし忘れてしまっていた。ぼんやりとクレーンのうえでの敵との対決シーンを記憶していて、それが映画のクライマックスだったんじゃないかとおもっていたのが、これは冒頭の導入部でしかなかった。でもやっぱりこうやって観なおしてみても、アクション・シーンとしてはここがいちばんではないかとおもう。メインのカード対決は、TV版ではバカラだったけれど、ここではちょっととくしゅなポーカー・ゲームだった。じぶんの持ち札と、場にさらされた親の札とをくみあわせて役をつくる。メインの勝負では場のエース札をからめての役づくりでの勝負かとおもったら、ボンドはそのエース札をつかわずにストレート・フラッシュで勝つ、というのは痛快だった。

 このあいだの「スカイフォール」のようにあれこれのデティールをもりこんでいて楽しいのだけれども、やはり後半のそのヴェスパーとの「純愛」は、いくらなんでもボンドらしくはない。「そんなジェームズ・ボンドはみたくない」という感じ、だった。


 

[]「蛇姫様」(1959) 川口松太郎:原作 渡辺邦男:監督 「蛇姫様」(1959)  川口松太郎:原作 渡辺邦男:監督を含むブックマーク

 これもヘビどしにちなんで、というわけでもないけれども、またも市川雷蔵主演の大映映画。まさに時代劇映画全盛の時代の、「歌あり踊りありアクションあり」(笑いはないけれども)の、娯楽時代劇の王道をいくような楽しい作品だった。映画として「すげえ!」というような突出した演出をみせてくれるわけではないけれども、これはいかにも「手だれ」の演出というか、この展開のなかでとつぜんに歌謡曲めいた唄を挿入するなんてことをやってしまうのがすごい。市川雷蔵も、殺陣はみせるし映画のなかの舞台での歌舞伎めいた演技や踊りはみせるし、ほのかなラブシーンもみせるし、ファンにはたまらないところもあるだろう。

 とにかくは川口松太郎の原作がとてもおもしろそうだな、などとおもったけれども、じっさいに発表当時人気をさらった原作らしく、映画化されたのもこの作品をふくめて三度ほどあるらしい。勢力を増す悪徳家老とその一族の暴虐に対抗する姫と、その姫を支援する家臣、侍女たち、またその侍女の家族、そして旅まわりの芸人一座の連中など、この映画でもそんな多彩な登場人物をうまくバランスよくまとめている印象。とくにわたしは、城中で姫のまわりにいつもひかえている侍女たちの存在が気にいってしまった。

 姫を演じているのは嵯峨三智子で、気品を感じさせて美しいなかで、きっぱりとした決断をしめせるあたりの存在感がとってもいい。そして市川雷蔵のいもうとで、姫にもっともしんらいされる侍女で、悪徳家老らに殺害されてしまうのが中村玉緒。従順ではかなさを感じさせ、じつは死後に蛇に化身して姫や兄をまもろうとするのが彼女で、「蛇姫様」というタイトルはちょっとちがうやん、というところはある。


 

[]「スタンド・バイ・ミー」(1986) スティーヴン・キング:原作 ロブ・ライナー:監督 「スタンド・バイ・ミー」(1986)  スティーヴン・キング:原作 ロブ・ライナー:監督を含むブックマーク

 わたしはロブ・ライナーというのが好きでなくって、やっぱこの作品でもその「ロブ・ライナーくささ」というのが鼻につく気はするけれど、ほんらいのストーリーにはとってもおもしろいものがある。

 まずは、いいところはぜんぶ主人公らの四人組で、わるいやつらはみんなキーファー・サザーランドらの年長不良グループなのよという、二元論的なわりきりかたがあんまり気もちよくはなく、主人公四人組が個々の家庭事情のなかでなやみくるしむというのが、だったら年長不良グループにだってそういう事情はあるんじゃないの、というあたりがあまりにすっとばされてしまっている気はする。主人公の四人組にだって年長の不良グループに通じてしまうようなあやうさはあるんだけれども、四人組はそれぞれにあまりに「いい子」すぎる。

 構成でいえば、冒頭でリチャード・ドレイファスのわきにおいてある新聞に「弁護士のクリスなんとれが刺殺された」という記事が出ているのがクローズアップされるわけで、ここのぶぶんを記憶していれば、本編でのリヴァー・フェニックスのそのごの進路がわかってしまう。これはぜったいに、演出としては「勇み足」だと、わたしはおもう。

 ‥‥わたしも、この映画の主人公たちとおなじぐらいの年齢のときに、新聞で家から歩いて30分ぐらいのところの路上で殺人事件があったという記事を読み、ひとりでそこまで歩いて現場を見に行ったことがある。そのとき、その現場のわきの大きな側溝のなかに、血だらけの肉のかたまりのようなものが落ちていたことをはっきりおぼえている。でも、あの肉のかたまりはその殺人事件とはまるでかんけいのないものだっただろうとおもう。


 

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■ 2013-01-18(Fri)

 さいきんとつぜんにCD音源ばかり聴くようになり、CDプレーヤー(ミニコンポ)は過重労働(ハード・ワーキング)じょうたい。そのせいだろうけれども、午後になってCDプレーヤーの電源がはいらなくなってしまった。電源がONできないということはとうぜんCDが聴けないということで、あせりまくった。やはりCDプレーヤーはいまの生活にひつようだし、とくにいまつかっているCDプレーヤーは、カセット・テープ(まだいくつか手もとに残っている)やMD(FMのエアチェックにつかっている)も録音再生できるので重宝していた。もしもこのままCDプレーヤーがだめで買いなおさなければならなくなるとして、はたしておなじようなスペックのものがいまも売られているものなのか、はたまた価格はいくらぐらいのものなのか、しんぱいしてしまうわけである。もしも買いなおすのだったら、いぜんTVを買った中古ショップがぜったいに安いのでまずは行ってみようとおもうけれども、中古ということでの不安もあるし、そういうMDやカセット・テープもつかえる機種があるだろうか。ネットの通販でしらべてみると、わたしがもっているのとおなじメーカーのおなじようなスペックの機種がでているけれども、やはり二万円ぐらいする。それはいまのわたしにはきびしい。

 いまもっている、その故障してしまったCDプレーヤーは、たぶん十年ぐらいまえに秋葉原で買ったもの。もちろん新品で、三万円ぐらいした。スピーカーも小さいからちょっと低音が弱い気がしないでもないけれども、バランスのとれたいい音をひびかせているとおもう。よそのうちでCDを聴いたとき、「うちのプレーヤーの方がずっといい音がする」とおもったこともある。このプレーヤーを買うまえに、CD三枚だか五枚だかをれんぞくしてプレイすることのできるミニコンポももっていたけれども、そのれんぞくプレイのメカがこわれてつかえなくなった。そのまえにはターンテーブル、アンプ、スピーカーべつべつに買って、かなり本格的なオーディオ装置になっていた(そのころは豪邸にすんでいたし?)。とにかくは、つまりはいまのプレーヤーに愛着もあるわけである。

 夕方から「修理してみようか」という気分になり、あれこれとチェックしてみた。通電してスリープじょうたいにあることをしめす赤いLEDが、ちゃんとついていた。基本の電源はちゃんときているわけだ。しかし本体のスイッチでもリモコンでも、電源ONは機能しない。これはとうぜん、電源ぶぶんのスイッチングのメカの故障でしかない。ひょっとしたら修理できるかもしれないけれども、電源のぶぶんは100ボルトの電流がながれるのでへんなことをやるとたいへんなことになる。もしもスイッチングのはたらきをする部品がこわれてしまっているのなら、これは修復不可能である。とにかくはまずは分解してみようということで、棚から本体をおろしてうらがえしてみる。「03年製」というラベルが貼ってある。まさに十年目になるわけだ。おもいがけず光デジタルやUSBの端子もちゃんとついていたけれども、このネジ止めの厳重さにはおそれいってしまった。裏面だけで十ケ所ぐらいの固定ネジがあり、裏ぶたをとりはずすには側面をふくめて二十ケ所ぐらいのネジをはずさなければならなかった。まるで戦時中のメカを分解している気分になった。

 とにかくは裏ぶたをとりはらい、コードが外にのびている根元の電源供給ぶぶんをみてみる。って、外からみても異常がわかるわけもないのだけれども。とりあえずそのあたりの電源コードをギュッギュッと押してみたり、左右にゆりうごかしたりしてみる。こういうことだけでなおってしまうことだってある。ここでまずはプラグをコンセントにさして、電源スイッチを押してみる。‥‥ほら、なおったではないか! なおっちゃったよ。こんなにかんたんになおるとはおもっていなかったけれども、とにかくはうれしい。ほっとした。きょうの教訓。やはり、なんでもまずは分解してみるものである。

f:id:crosstalk:20130119135909j:image:left とにかくは安心して、あまり長くないヴィデオを一本観て、夕食はきのうのホワイトシチュー。ヴィデオを観ているときに、わたしのとなりにニェネントがすわりこんできた。ニェネントの発情期はもうすっかり終了して、いつものおっとりしたニェネントにもどっている。ヴィデオを観ながらニェネントの方に手をのばしていると、そのわたしの指さきをまえ足でタッチしてきたり、ぺろぺろとなめてきたりする。かわいくって抱きしめてやりたくなる。


 

[]「カジノ・ロワイヤル」(1954) イアン・フレミング:原作 ウィリアム・H・ブラウン・ジュニア:監督 「カジノ・ロワイヤル」(1954)  イアン・フレミング:原作 ウィリアム・H・ブラウン・ジュニア:監督を含むブックマーク

 これはアメリカのCBSがTVドラマとしてつくった、いちばんさいしょのジェームズ・ボンドもの。原作発表後一年、という時期での製作。あしたにでも2006年のダニエル・クレイグ主演の「カジノ・ロワイヤル」を観ようとおもっているので、その予習というか、おそらくはこちらの方がイアン・フレミングの原作に忠実につくっているだろうという予想もあって、みくらべてみたいと。

 ここでジェームズ・ボンドを演じているのはバリー・ネルソンという俳優で、アメリカ人という設定になっているようす。たしかにゴリラみたいな容貌で、いわゆるボンドのダンディズムからはかなりへだたっている印象。冒頭の銃で狙撃されるシーンがまたなさけない演出で、ボンドも警察の護衛をつけてもらいそうになったり(けっきょく、あとでほんとうにつけてもらうことになる)、さいしょっからこまったなあという印象。しかし、ここで悪役のル・シッフルを演じているのが、なんとぺーター(ピーター)・ローレという配役なわけで、やはりここはさいごまでちゃんとみなければ、という感じになる。

 けっきょくこの作品のメインは、そのカジノのなかでのゲームの推移の描写になる。イギリスのスパイとして、ボンド・シリーズでおなじみのフェリックス・ライターが登場するけれども、ここではクラレンス・ライターという名まえになっていた。ボンドとライターとがカジノのバーで情報を交換しながらも、カモフラージュにバカラのルールについての説明がはいるので、みている観客にもこれからおこなわれるバカラについての予備知識が得られるというわけである。それで、本番のボンド対ル・シッフルのバカラでのあらそいということになる。このあたりのゲームの推移の演出は、奇をてらわずに正統でリアルなゲーム展開というか、おもしろかった(まあバカラというのはほとんど丁半ばくちみたいなもんだから奇をてらうこともできないか)。鷹揚にかまえるぺーター・ローレがいい。


 

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■ 2013-01-17(Thu)

f:id:crosstalk:20130118182133j:image:right ニェネントの発情期も、ようやくおさまってきたみたい。きょうはニェネントのおもしろい行動をみた。まえにやってみた「獲物の捕獲実験」のつづきみたいなことだけれども、いつものように和室でわたしとストーブとのあいだでまるくなってるニェネントのそばに、小さなクモが這い出てきた。ニェネントは気づかないのだけれども、「気づいたらどうするだろうか」とおもって、指さきでクモの方を指さして「ほら!」とやってみる。ニェネントはさいしょはわたしの指にばかり気をとられているのだけれども、そのうちにようやく、わたしの指のそばでうごいているクモを発見した。まえ足でちょん、ちょんとクモにちょっかいを出している。クモは足をひっこめてまるくなってしまうけれど、すぐにまたモゾモゾとうごきはじめる。ニェネントはからだをクモの上にもって行き、顔をクモに近づける。わたしの目からはニェネントの顔の下になったクモはみえなくなったけれども、ニェネントが口をうごかしているので、「食べちゃったのかな」とおもったのだけれども、ニェネントが顔をあげると、まだたたみの上でクモはまるくなっていた。またうごきだしたクモに、ふたたびニェネントは顔を近づける。こんどニェネントが顔をあげると、もうクモのすがたはみえなくなっていた。‥‥食べちゃった。ニェネントにもまだ、生きた小動物を補食する本能というかスキルというか、そういうものはあったわけだ。ちょっとほっとした。できれば、夏になると出現するゴキブリを補食してくれるとありがたい。でもそんなことをふだんからやるようになると、ニェネントの鼻先をなめるのがばっちくなるか。

f:id:crosstalk:20130118182202j:image:left ひるすぎに注文してあった「Knack」のサントラ盤CDが届いたので、きょうはいちにちじゅうこのCDを聴く。全15トラックで、そのうちの4トラックは映画からのダイアローグ、つまり「セリフ」。それで残りの曲のほとんどすべてが、メイン・テーマ曲のメロディーをアレンジしたものばかり。むかしあった、メインの曲をちゅうしんにそのヴァージョンをなん曲も収録したマキシ・シングルというヤツをおもいだす。このCDは過去にいちど手もとにもっていたものだったけれども、メイン曲いがいはまるで記憶に残っていなかったというのはこういうあたりに理由があったのかもしれない。「あのジョン・バリーが、こんなに美しい曲も書いていたんだ」と感嘆する蠱惑的なメロディーをさまざまなアレンジ、楽器編成で聴けるというのも楽しいけれども、やはり一曲目のメイン・テーマの、なめらかな弦の響き、そして女性コーラスとのからみ、ベースとひそやかなハモンド・オルガンとの調和こそがベスト中のベストとはおもう。しかし、この三分そこそこの曲の、さいしょの一分ほどはつまりはイントロのひっぱりで、また後半の一分ほどはハモンド・オルガンのソロからホーン・セクションがしゃしゃり出て、それこそボンド映画の主題曲のようなエンディングになってしまう。だからこの曲のほんとうに官能的な美しさを堪能できるのは、ちゅうかんのほんの一分ほどだけ、ということはできる。しかし、なんとすばらしい一分間だろう。
 アルバムのまんなかあたりには、男性ヴォーカルによるテーマ曲のヴォーカル・ヴァージョンも収められている。ちょっとアンディ・ウィリアムズみたいなヴォーカルで好みではないけれども、まあいいか、というところ(ほんとうは女性ヴォーカルで聴きたかった)。

 ジョン・バリーといえばつまりは007シリーズの音楽をまっさきにおもいうかべるわけだけれども、では大ヒットした「ロシアより愛をこめて」の主題歌もジョン・バリーの作曲かとおもうとそうではなかった。わたしがおもいだすジョン・バリー作曲の「美しい」映画音楽というと、あとは「さらばベルリンの灯」という、いまでは忘れさられたような映画の音楽が、哀愁がこもっていてすばらしかった。わたしは中学時代にこの主題曲のシングル盤はもっていた。書いていたらまた、この「さらばベルリンの灯」を聴きたくなってしまった。奇しくもこの30日はジョン・バリー氏の一周忌にあたるみたい。追悼の気もちをこめて、「ナック」をもういちど聴く。

 夕方からは、これも亡くなられた大島渚監督への追悼ということもあって、「愛の亡霊」のヴィデオを観た。これはせんしゅうぐらいから観てみようかとストックから引っぱり出して置いてあったものだった。

 夕食にはまた野菜と肉の牛乳煮というか、ホワイトシチューをつくった。きょうはさいきん買いすぎてストックのたまってしまった牛肉をつかってのシチュー。やはりちょっと牛肉はミスマッチ気味だけれども、これはこれでおいしく食べられた。


 

[]「愛の亡霊」(1978) 大島渚:監督 「愛の亡霊」(1978)  大島渚:監督を含むブックマーク

 この作品で取り上げられた「車屋儀三郎殺人事件」というのは明治時代の実話がもとになっていて、近隣にすんでいた生前の長塚節がこの事件に興味をもち、作品にしようとかんがえていたらしい。長塚節がすんでいたのはこの地からそれほどはなれているところではないので(といってもそれなりの距離はあるけれども)、背景になる土地風土というものはなんとなく想像できる気がする。「真景累ヶ淵」の舞台になった累ヶ淵もそんなにはなれた場所ではないとかんがえると、このふたつのゴーストストーリーには場所の近さというだけでなく、どこか類似したものも感じとれるのではないのか。

 映画としては、大島監督も海外での映画賞をねらいにいってるなという感じもするのだけれども、それでもそこに「愛のコリーダ」から引き継がれる強烈な情念を描いたところはさすが。近年の某監督がしつっこくも海外の映画賞をねらうような作品ばかりをつくりつづけている(こんどは小津安次郎でトライするらしい)のとは、根本のところで映画にかけるおもいがちがうだろう。警官らが吉行和子のすまいにふみこんだときの、吉行和子と藤達也が全裸で抱き合っているショットには、「どうだ、見てみろ!」という意気込みとちからを感じる。ただの「美しい映像」ではない。ただ死ぬまえの日常生活をつづけたいような田村高廣の幽霊もいいし、暗闇のなかから人物がほのかに浮かびあがるようなライティング、カメラもまたすばらしい。


 

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■ 2013-01-16(Wed)

f:id:crosstalk:20130117173522j:image:left きょうはまた非番でしごとは休み。外にまだ残っている雪のせいか、室内でもすっごく寒い。天気はいいのだけれども、外もきっと寒いんだろうとおもって、まるで外出しなかった。また「Sinking of the Titanic」を聴き、わたしもまた沈んでいく気分である。ニェネントは、きょうもまだ発情期がつづいている。夕食は何にしようかとかんがえて、ひさびさにお好み焼きをつくってみた。‥‥ちょっと分量が多すぎてもてあまし、だいぶ残してしまった。皿の上に食べ残したお好み焼きをのせたまま、しばらく食卓の上に置きっぱなしにしていたら、ニェネントがお好み焼きをなめていた。かつおぶしの匂いにひかれたのかもしれないけれど、どうも食べられそうもないとおもったのか、かじったりはしないで行ってしまった。

 早めにベッドに横になり、本を読んでいるうちに寝てしまった。よなかに目がさめて、みていた夢をおぼえていた。細部は忘れてしまったけれども、わたしはほかの二、三人といっしょに拉致されていて、殺される運命にあるらしい。逃げる道などないんだけれども、わたしはここらですっとぼけてみせればそのまま解放されるんじゃないだろうかとかんがえて、立ち上がって何かいう。もくろんだとおりに、わたしは外へ出ることができる。外の風景は新宿の三丁目あたりだったとおもう。そのほかにもいろんな夢の断片がおもい出されるけれども、ストーリーはつながらない。ひるま観た「暗黒街の女」のせいでみた夢なんじゃないかとおもう。

 きのう、大島渚監督が亡くなられた。TVでのその報道ぶりにちょっとおどろいた。映画監督が亡くなられての報道では、黒澤明監督いらいのとりあげ方のように感じる。監督の全作品を上映してくれるといいのに。わたしはまだかなりの本数大島監督の作品で観ていないものがあるし、「日本春歌考」をもういちど観たい。



 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第二十一話「置いてけ掘」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第二十一話「置いてけ掘」を含むブックマーク

 こんかいの監督さんは小野田嘉幹さん。あの新東宝映画の佳作(?)、「女岩窟王」の監督さんである。やっぱこれは非常に「手だれ」な演出というか、まずはドラマのなかでの視点の切り替えがスムースであること。それからなによりも、女優さんを美しく撮っているのがいい。こんかいのゲストは宮本信子さんだったけれども、ちょっとしたショットでその女性の哀しさを美しくとらえていて印象的、だった。はかなくも殺されてしまうその妹役の女優さんも、きれいに撮られていた。やっぱ佳作、でしょう。


 

[]「紅の豚」(1992) 宮崎駿:監督 「紅の豚」(1992)  宮崎駿:監督を含むブックマーク

 おとながみるには登場人物がみな幼児的性格がすぎるので、これはこどもたちがちょっと背伸びをする感覚でみるような作品なんだろう。そのわりに主人公はちょっと屈折しすぎている気がしないでもない。

 ‥‥やはり、滑空シーンはステキだけれども。


 

[]「暗黒街の女」(1958) ニコラス・レイ:監督 「暗黒街の女」(1958)  ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 原題は「Party Girl」。暗黒街のボス(リー・J・コッブ)をなぐさめる(ボスが大好きだったジーン・ハーロウが結婚してしまったのだ)パーティーにひとり百ドルで呼ばれるナイトクラブのダンサーのことのようで、百ドルも支払われるというのはアフター・パーティーのことも期待されているのだろう。そのなかのひとりであるヒロイン(シド・チャリシー)がボスの顧問弁護士(ロバート・テイラー)と相思相愛の仲になる。ボスとその仲間の非道ぶりを弁護しきれなくなった弁護士は警察にすべてを告白して足を洗おうとするけれど、ボスはヒロインをおびやかせて弁護士をひきとどめようとする。

 どこかゴッドファーザーのパート2みたいなストーリーを、その弁護士と愛人の視点から展開させていくわけで、弁護士の忠告をきかずにどんどんエスカレートしていく暗黒街の一団のさまと、その弁護士と愛人との愛情の高まりとがシンクロしていく描き方が、このあいだ観た「孤独な場所で」での構成をおもわせるところがあり、やはりニコラス・レイの持ち味のひとつがこういう演出なんだろう。

 ヒロインを演じているシド・チャリシーという女優さんは「雨に唄えば」にも出演していたというミュージカル女優で、そのダンスで人気があったらしい。わたしはまるで知らなかった。この「暗黒街の女」でもダンスシーンを何度もみせてくれる。撮影時に彼女はもう四十歳ちかく、相手役のロバート・テイラーがまた五十歳ちかいわけで、「熟年の恋」という落ち着きをみせてくれている。


 

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■ 2013-01-15(Tue)

 きのうの雪はとうにやんで、晴天。雪は物流かんけいのしごとに大きな影響を与えているようで、しごとの量はいままでで最低。ほとんど皆無にひとしいしごと量だった。けっきょく倉庫に行くこともなく、搬入搬出口のスペースの雪かきをやる。すでに何台かのトラックがはいってきたあとでもあり、雪はつぶされて凍ってカチカチになっていて、シャベルを使ってもわずかに表面を削りとるだけという場所が多い。さいわい外の水道は凍っていなかったのでホースで水をまき、とにかくは積もった雪のじょうたいが変わるのを期待する。みじかいじかんではなかなか変化もないのだけれども、それでもすこしずつは作業がやりやすくなってくる。終業じかんまで、ばっちりはたらいた。このしごとについてからいままででいちばん疲れたかもしれない。

f:id:crosstalk:20130117114730j:image:left 帰宅するとニェネントはまだまだ発情期。「うあお、うあお」とないている。こんかいは、いつまでつづくんだろう。

 このあいだ図書館から借りた「ネコの毛並み」でもニェネントのことがよくわからないので、ネコの遺伝子のことやラグドール種のことをまたネットで調べてみた。いつもおもうのだけれども、ニェネントはただラグドール種に見た目が似かよっているだけで、つまりは「他人のそら似」なのかもしれないという気もするし、「ニェネントをほんとうにラグドールの仲間にいれちゃっていいもんだろうか」ともおもうわけである。まあげんみつにいえばそもそも、ニェネントのお母さんのミイはまちがいなくラグドールなどではないわけだから、ニェネントを純粋のラグドールなどといえるわけもない。それでもニェネントにはお母さんの黒白ぶちの毛並みの遺伝はまったく出ていないようだし、そういうところではどこまで「この子、ラグドールなんです」とシラを切りとおすことができるのか、そのあたりを確認しておきたいのである。もちろん、ニェネントを純正のラグドールと信じこませて交配とかさせて、いざ子ネコが生まれてみたら黒白ぶちのネコばかり生まれちゃったりもするわけで、そうするとわたしは立派な詐欺師になってしまう。

f:id:crosstalk:20130117114816j:image:right 調べてみたところではラグドール種の毛並みには三つのパターンがあって、カラーポイント、ミテッド、そしてバイカラーということになるのだけれども、そのなかでとにかく、バイカラーのラグドールはニェネントにそっくりである。ちょっとよそのサイト(ネコカフェ?)から写真を無断で借りてきちゃうけれど、これなんか、うちのニェネントと区別がつきません。ほかにも、あちこちに「これってニェネントじゃん」という写真がごろごろころがっている。これだったら、「ほら、ごらんのとおり、うちのニェネントは純正のラグドールです」といえそうである。これからは堂々とそういおう。
 ネットで読んだラグドール種の性格もまた、ニェネントに合致するところが多い。あんまりなかないで(発情期はのぞくけど)おとなしいし、手入れもそんなに手を取らせない。やさしい性格といえばニェネントもそうなんだろう。ただ、「抱かれるのが好き」と書いてあるサイトもあるけれども、ニェネントはわたしに抱かれるのは好きではない。ひざの上にのせられたりするのも基本的にきらい。あちこちのラグドールを飼っていらっしゃる方の書かれていることを読むと、やはりひざの上にのってきたりはしないというラグドールも多いみたいではある。
 ‥‥このごろ、ちょっと顔つきがお母さんのミイに似てきたような気がしないでもないけれども、やっぱりニェネントは「ラグドール」、ということにしよう。


 

[]「袋小路」(1965) ロマン・ポランスキー:監督 「袋小路」(1965)  ロマン・ポランスキー:監督を含むブックマーク

 これって、脚色して舞台でやったらおもしろそう。まったく説明なしに約百分間つっぱしり、これはディスコミュニケーションの世界というのか、みえている世界の裏側にある、まったくみかけとはちがう世界があらわにされる。やはりメインになるのはドナルド・プレザンスのあまりに屈折した心情だろうけれども、はたしてこの舞台になった古城とは現実に存在したのだろうか、これらの「できごと」はじっさいに起きたことがらだったのだろうかと、観おわったあとにわからなくなってしまうところがある。すべてがドナルド・プレザンスの心象風景だったのではないかと。

 なぜか、観たあとに勅使河原宏監督の「おとし穴」をおもい出したりした。


 

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■ 2013-01-14(Mon)

 あさは、雨が降っていた。天気予報では雨が雪に変わるかもしれないといっている。しごとに出て、終えて帰るときも雨だったけれども、十時半ごろに窓から外をみると雪になっていた。向かいの家の屋根がもううっすらと白くなっていて、雪のいきおいも強いのでもっと積もりそう。TVをつけてみると、どのチャンネルでもブロックノイズがいっぱい。なんとかみてとれる報道では東京の方も雪らしい。窓の外では雪がせっせと降り積もっていく。この地でも、積雪というのはなん年ぶりかのこと。やはりせっかくだから雪のなかを歩いてみたくって、ひるごろにドラッグストアまで買い物にいってみた。わずか二分ほど歩いただけでも、さしていた傘がけっこう雪で白くなった。家にもどると、残っていた家を出たときのわたしの足あとも、白く塗りつぶされそうになっていた。

f:id:crosstalk:20130115200951j:image:left f:id:crosstalk:20130115201032j:image:right

 帰宅してまたTVをつけると、ほぼすべてのチャンネルはまるで映らなくなってしまっていた。ただひとつみることのできるチャンネルをみると、東京の方も吹雪じょうたいになっているみたいで、映像からはこのあたりよりも積雪量も多いようにみえる。

f:id:crosstalk:20130115201113j:image:left 昼食はスパゲッティにして、TVを消してまた「Sinking of the Titanic」を聴く。外の雪はまだはげしく降っていて、風の吹く音がぴゅーぴゅーと聴こえてくる。なんだか音楽とマッチしている。ニェネントも、パソコンの上にあがって窓の外をみている。ニェネントにとってはたしかはじめての本格的な雪景色。いつもとまったくちがう外の景色をみて、どう感じているんだろう。

 CDのあとはヴィデオを二本観た。部屋のなかも寒いので、夕食は鍋にした。雪は小やみになったようで、TVもどのチャンネルも正常に映るようになっていた。ニュースをみていると、ここを通っているJRもストップしているようだった。首都圏では十何年ぶりの積雪になったらしい。東京の知人にメールしてみたら、「八甲田山」みたいだったと。

 暗くなった窓の外の景色をみていると、なぜか映画「ナック」の音楽をおもいだしてしまった。このサウンドトラック盤はいぜんもっていたんだけれども、コピーするのを忘れたまま処分してしまった。それでなにかきっかけがあると、また「ナック」のサントラが聴きたいなあという気分になることがよくある。主題曲がとにかく大好きだし、サントラ盤にはこの主題曲のヴォーカル・ヴァージョンなどというのもはいっていた。映画自体のヴィデオはあるのだけれども、映画では音楽にほかの音もかぶさってくるし、フェイドアウトもしてしまうから、ちゃんと音楽に集中して聴こうとしたらやはりCDがいい。まえにネットの通販で検索したら三千円ぐらいして、そりゃあ買えないなあという気分だった。ネットの通販はコロコロと価格が変動するので、どうなっているだろうとチェックしてみると、なんと850円になっていた。「これは買いだな」と、すぐに注文してしまった。きょねんの暮れから、これでCDを三枚もれんぞくして買っている。いったい、どうしたんだろう。たしかに部屋にいても音楽を聴くことは多くなっている。どんな心境の変化なんですかと、当人にきいてみたい。


 

[]「真夏の夜の夢」(2009) 中江裕司:監督 「真夏の夜の夢」(2009)  中江裕司:監督を含むブックマーク

 楽しかった「ナビィの恋」の記憶のつよい、中江裕司監督の作品。そのあとの「ホテル・ハイビスカス」も観たけれども、いまではもうほとんどおぼえていない。沖縄の青い空とハイビスカスの赤い花だけがおもい浮かぶ。この「真夏の夜の夢」はタイトルから想像するとおりにシェイクスピアの翻案で、もちろん舞台は沖縄(のなかのどこかの離島)。原作の妖精たちがここでは沖縄の精霊キジムナー(この作品ではキジムンといわれていた)におきかえられるわけで、「ここは沖縄だ」ということこそが主題でもあるような。おそらくは現地で生活する人たちといっしょに、イヴェント(お祭り)感覚でつくられただろう作品で、映画のなかの野外舞台の場面など、じっさいにその場にいた人たちの方がよっぽど楽しかったんじゃないだろうかとおもう。ただ、原作にあった恋人たちの入れ替わり、取り違えのテーマなど、そのお祭りのなかでどこかへすっ飛んでいってしまった感じ。もちろん沖縄の風景は美しく、すてきなショットもあるのだけれども‥‥。

 ‥‥観ていて、「あ、これは雪の日にふさわしく、ラストは雪になるかもな」とおもっていたら、やはりラストには雪が降った。いいタイミングだった。


 

[]「アニマトリックス」(2003) 「アニマトリックス」(2003)を含むブックマーク

 9篇のアニメーション作品のオムニバス。前半四本の、「マトリックス・トリロジー」本編に直結するような、ウォシャウスキー兄弟が脚本を書いたものはどれも、ただ説明だけの映像というところ。残されたホロコーストの映像を参考にしたような描写の作品もあったけれど、ホロコーストの映像は、こういうかたちで使用されるために残されているのではないだろう。作り手の神経を疑うものだった。五番目の「プログラム」(川尻善昭:監督)が、いかにも日本のアニメらしい作画と、大胆な色彩で楽しめた。画面の「白」がとても美しかった作品。このあとは後半の三作品が印象に残ったけれども、森本晃司監督の「ビヨンド」がやはりいちばん、だろうか。いま観ると「電脳コイル」をおもい浮かべるけれど、アニメとして空間のあらわし方がおもしろかった。


 

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■ 2013-01-13(Sun)

f:id:crosstalk:20130114114951j:image:right じつはニェネントの発情期がかなり本格的になってきた。こんかいは軽くすむのかとおもっていたけれども、やはりいつもどおりの発情期だった。‥‥部屋のなかをあちこちと徘徊しながら、「うあお、うあお」というような、さけびごえにも似たなきごえでなきつづける。わたしにしっぽを向けてすわりこみ、わたしの方をみあげて「なんとかしてよ」みたいな表情をうかべる。なにをしてあげればいいのか? それは、空のペットボトルなどでニェネントのしっぽのつけねあたりをペン、ペンと叩いてやるののがいちばん、みたいである。これをやってあげると、「うにゃあ〜」みたいななきごえをあげて姿勢をひくくして、首が胴のなかにうもれてしまったみたいになる。わたしが手をとめるとキッとわたしの方をふりむいて、「やめないでよ!」という(このときだけは、わたしもネコのことばが理解できる)。いちどはじめると、とうぶんはつづけてあげなくてはならない。

f:id:crosstalk:20130114115044j:image:left 注文してあったGavin Bryars の「Sinking of the Titanic」が届いた。ふつうのCDケースではなく、リーフレットのような、ちょっと縦長サイズの紙のあいだにCDがはさみこまれている。この録音は2005年におこなわれた49回めの「International Festival of Contemporary Music of Venice Biennale」で演奏されたライヴ盤。これは、美術の方のヴェネツィア・ビエンナーレとは別物なんだろうか。調べればわかるんだろうけれども、まだ調べていない。
 このCDはイギリスのTouch というレーベルからリリースされているもので、「はて、<Touch>って、なんだか聴いたことあるなあ。むかしここから出ていたアナログ盤をなにかしら持っていたんじゃなかったか?」などと思ってちょっと調べてみた。カタログにはわたしが聴いたことのあるような音源はリストされていなかったけれども、池田亮二さんのCDは複数リリースされている。ほかにも、KK.NULL さんのソロアルバム、なんていうのも出ている。やっぱ、アヴァンギャルド系の音楽を中心にリリースしているレーベル。
 この盤での演奏はGavin Bryars のほかにPhilip Jeck のTurntable、そしてユニットAlter Ego によるもの。Philip Jeck はイギリス人で、ターンテーブルなどを使ったサウンド構築アーティストとして著名で、来日したこともある。このTouch というレーベルからは複数のCDをリリースしている。気になってWikipedia(英語版)をみてみたら、こんなことが書いてあった。いったいなにもの?

Philip Jeck (born 1952) is an English multimedia composer, iconoclast, magician, choreographer, prankster, woodsman and alchemist.

 Alter Ego はよく知らないけれども、Philip Glass の曲を演奏したアルバムが出ているみたい。

 CDを、プレーヤーにのみこませて聴いてみる。ランニングタイムは72分強と出てくるから、いままでにリリースされた「Sinking of the Titanic」のなかではいちばん長い演奏である。いきなりこれはターンテーブルなんだろう、スクラッチ音がひびいて、これがしばらくつづく。ダブルベースのボウイング音のような音も聴こえてくる。よく聴いているとこの背後でべつの音(合唱?)の気配もあるのだけれども、それが何なのか、よくわからない。どうもこのスクラッチ音はターンテーブル上のホコリによるもののようで、この「ホコリ」というものに、タイタニック号の遭難にむすびつくあれこれの意味をもたせているらしい。このスクラッチ音のぶぶんは十分いじょうつづき、鐘の音のあとにようやく、アンサンブルの演奏がはじまる。やはりエコーをきかしてあるのか、響きのある重厚な音。テンポもいままでの録音いじょうにゆっくりしていると思う。いままでとおなじく、効果音的なパーカッションの音も聴かれるし、やはり生き残った人の証言のテープ音も再生される。構成としてはCrepuscule 盤とおなじようだけれども、テープで再生される音源はもっと多彩になっているとおもう。宗教歌の合唱らしい音も聴こえるし、ピアノの音もする。後半では虫のなきごえもインサートされる。いい。とってもいい。Crepuscule 盤もまたやはりすばらしいものだったとおもうけれど、この盤はこの盤で、またべつのすばらしさがある。さいしょとさいごにスクラッチ音があることで、まさにタイタニック号の遭難のときから音がインポートされてきたような感覚にもなる。愛聴盤がまたふえた。

 このライヴ、会場では用意されたスクリーンにフィルム映像や写真が映されたらしい。ジャケットにはその映像からのポストカードも封入されていた。じっさいにそのライヴ会場で、スクリーンを観ながら音を聴きたかったなあ。

 音楽を堪能したあとにヴィデオを一本観たら、もう夜になってしまった。食欲があまりないので夕食はレトルトパックのごはんでお茶漬けにしてすませる。こんやはふだんならもう寝ているじかんに、TVでダイオウイカをじっさいに撮影したという番組が放映されるので、がんばって起きて観るつもり。それまでやはりTVをみてじかんをつぶす。さまぁーずの番組が好きなのでまたチャンネルをあわせると、こんやは北千住を歩いていた。わたしはいろいろとあって十年ぐらいまえにちょっとだけ北千住で暮らしたことがあるし、小さいころに家族が北九州から転居してきたのが、北千住からバスで15分ぐらいのところだった。だから中学のころだとか、よく北千住に遊びに行った。ビートルズの映画を観たのも北千住の映画館だった。TVをみていてもわたしの知っている通りは出てくるけれども、わたしの知っている店は登場しなかった。トルコライスのおいしい食堂があったなあ、なんてことをおもいだしたりしていた。
 そのあとは大河ドラマで、とちゅうまでみたのだけれどもやっぱりおもしろくないので、ベッドに寝ころがって本を読む。そのあとに、ようやくダイオウイカの登場。さいしょに登場するモノクロ映像もインパクトがあったけれども、やはりカラー映像でみるダイオウイカは驚異だった。じっさいに生きて海のなかにいる海生生物は、陸揚げされて死んでしまったあととはまるで色彩がちがうというけれども、黄金色、そして銀色にかがやくようなダイオウイカのすがたは美しかったし、まさに「邪眼」といえるようなその眼。つよく印象に残った。番組がおわってベッドに入っても、なんだか寝つきがわるくってなかなか眠れなかった。きょうはいいものを聴き、そしていいものを観た。


 

[]「孤独な場所で」(1950) ニコラス・レイ:監督 「孤独な場所で」(1950)  ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 原題もまさに、「In a Lonely Place」。わたしはニコラス・レイ監督の作品というのは「理由なき反抗」と、商業作品としてはさいごの「北京の55日」しか記憶に残っていないので(ガキのころに「大砂塵」はTVでみたけれども、ジョーン・クロフォードが出演していたということ、主題歌がPeggy Lee の「Johnny Gouitar」だったということいがい、ほとんど記憶に残っていない)、こんなすっごい映画をつくる人なのかと、認識をあらたにした。とにかくそれぞれがすばらしいカメラ位置からのカットごとに、その映像だけで写される登場人物の心理が読みとれるおもいがする。とくに、よるの砂浜でのピクニックめいた四人での会食の席で、ハンフリー・ボガートが怒りからひとり飛びだしてしまうシーンで、それを追うグロリア・グレアムをとらえたいっしゅんのショットは強烈だった。
 映像にそれだけのことを託すということについて、この映画のなかで脚本家だという設定のハンフリー・ボガートがちょっと語っているシーンがある。「男性がキッチンで朝食の準備をしていて、そのわきで室内着の女性がたたずんでいる絵があれば、それだけでその二人が恋愛中だということがわかるだろう」と。これは、ニコラス・レイの映画製作の信条でもあるだろう。まさに、そういう作品。

 この作品にしびれてしまうのは、そうやって観るものに登場人物の心理を推測させながら、そういう恋愛感情の推移と、殺人事件の捜査展開とがもつれあっていくあたり。基本は苦い恋愛映画なんだけれども、絶妙なタイミングで警察の捜査の進展がはさみこまれてきて、それが主人公ふたりのかんけいに影をおとしてくる。
 ハンフリー・ボガートの孤独地獄はおそろしいもので、彼自身がその孤独を恐れるからこそ暴力的になってしまい、そのことが他者との溝を大きくし、また孤独を深め、他者を信頼できなくなってしまう。まわりの情況もまた彼の足をひっぱる。おそろしい悲劇。

 グロリア・グレアムという女優さんはこの作品ではじめて観たけれども、「クール・ビューティー」という感じでステキである。この作品の撮影のころには監督のニコラス・レイと結婚していたらしいけれども、そのかんけいはすでに破局していたそうである。クールなわけである。気になって調べると、ちょっとびっくりしてしまうスキャンダルも読んでしまった。


 

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■ 2013-01-12(Sat)

 読んでいる「ネコの行動学」という本はまさにネコの行動観察記録がメインで、イエネコだけでなくネコ科ぜんぱん、たとえばトラやライオンの観察記録なども書かれている。第一部は「獲物に対する行動」で、獲物への接近のしかた、攻撃方法などの記録が多く書かれている。そのなかに、著者が飼っているイエネコのまえで死んだスズメをひもで吊るしてぶらぶらさせると、ネコはスズメに飛びかかって食べてしまうということが書かれていた。そんな記述があたまにあったので、きょうはちょっとエグいこころみをやってみた。

 じつはけさ、しごと場の倉庫の駐車スペースで、一羽のメジロが死んでいた。なぜ死んだのかわからないけれども、外傷はみつからない。死んでからそんなにじかんもたっていないようす。‥‥ここまで書けば何をやってしまったのかわかっちゃうだろうけれども、つまりはその死骸をもちかえり、本に書かれていたようにニェネントのまえにひもでぶら下げてみたのである。ニェネントにはいったいどのくらい野性の本能が残ってるんだろう。ほんとうは生きている獲物を襲わせて(食べさせて)みたかったけれども、死んだ動物のことでも「食べられる」と認識して、食べちゃったりできるだろうか。そのあたりのニェネントの能力というのか性格というのか、そういうのを知りたかった。

f:id:crosstalk:20130113110007j:image:left しかしニェネントは、わたしが帰宅したあとに、メジロを吊るすのにちょうどいいひもを探し出したときから、そのひもを相手にしてのお遊びモードに突入。とにかくはひもを持って移動するわたしについてきて、ひものはじに飛びついてこようとする。なんか、こまったなあと思いながら、メジロの足にひもを結んで、リヴィングとキッチンのさかいの桟にぶら下げて振ってみた。もちろん、ニェネントはよろこんでメジロの死骸に飛びついてくるけれども、これはさっきのひもを相手にした遊びのつづきという感覚で、そこに食べられるものがあるというような認識はさいしょっから吹っ飛ばされているだろう。実験としては、スタートからはんぶんは失敗。

 それでも、ニェネントにとってはこのメジロの死骸というのが大きさや重量で格好の遊び道具だったようで、もう夢中になってぶら下がったメジロに飛びかかっていく。そのうちにひもが桟からはずれて、メジロは床に落ちてしまった。「さて、これでニェネントはメジロを食べちゃうんだろうか」と、和室の方からみていたのだけれども、ニェネントはメジロをくわえては首を振ってつまりは放り投げ、それを追っていってはまたくわえ上げて放り投げるというのを、いつまでもくりかえしている。こういう行為は「ネコの行動学」のなかにも<羽をむしり、振りとばす>食べるまえの行為、として紹介されていて、その記述に合致した行為のようにも思えるのだけれども、どうもニェネントのばあいはこれはどこまでも「遊び」でしかないように思える。ニェネントはいぜんから綿棒やゴム製の指サックをつかって同じような遊びをくりかえしていて、ここでメジロの死骸でやっていることもその延長でしかないようにみえる。それにしてもかなり夢中になってそういう「振りとばし」をつづけていて、おそらくは三十分ぐらいはやっていたけれども、けっしてそのメジロを食べようとはしないのである。やはり、エサになる動物をみずから捕獲した経験のまるでないニェネントには、「獲物」という認識の持ち合わせはないのだろう。もちろん、その気になれば「捕獲行為」というものをこれから学習させることはできるだろうけれども、そのためにはまずは「生きた獲物」を用意してやらなければならないだろう。とりあえず、いまのニェネントは「野良ネコ」として生きていく技術、伎倆はもっていない。

 午後からは、あたらしい大河ドラマの第一回の再放送をみた。いきなりアメリカの南北戦争からはじまり、「スピルバーグかよ!」みたいな映像がつづいたけれど、さいごまでみてけっきょく、この脚本や演出には相当にがっかりした。カメラ位置がなっとくいかない場面も多いし、アウトフォーカスをやっていてもその効果はまるで感じられない。ふつうにパンフォーカスでやればいいじゃないかと思う(知らないけれども、パンフォーカスで通すのはむずかしいのだろうか)。ちょっと書いておけば、武士の「いくさ」の場に比されるイヴェントの狩り場に、のこのことガキンチョたちがはいりこんでしまうという設定は、いくらなんでもムチャである。目を離した母親の責任はとてつもなく重大。それで、主人公(幼少期)が木の枝から落下するショットがあり、そのあとにその現場にわらじだけが残っているという展開。あの高さからのあの落ち方なら死んじゃってもおかしくないというか、無傷でいるのがまずは不可解だし、それよりも、いったいどんな落下のしかたでわらじだけが脱げてしまうようなことになるのか。視聴者をバカにしてんのかと思ってしまう(まさに、エド・ウッド的な展開)。後半でちょっとやってみせる「忠臣蔵」の「松の廊下」からの演出の流用というのも、「才気」というよりも「模倣」の方を感じてしまう。西島秀俊や松重豊など、好きな役者があれこれ出演しているので観つづけたい気もちがないでもないけれども、とりあえず第一回の印象はまったくよろしくない。

 TVのあとはDVDを一本観たけれども、これも印象がよろしくなかったので、ヴィデオの在庫をひっくり返して、フリッツ・ラングの「M」を観た。堪能した。これでまんぞくして眠ることができる。


 

[]「マトリックス レボリューションズ」(2003) ウォシャウスキー兄弟:監督 「マトリックス レボリューションズ」(2003)  ウォシャウスキー兄弟:監督を含むブックマーク

 ‥‥なんか、もっと精神世界的な方向に行くのかと予想したのだけれども、そういう背景になるような思想的なものは、第二作からはまるで無視されるのね。えっ!? いったい何が「レボリューションズ」(なぜか複数形だし)なの?って感じ。

 作品として、つまらない閉鎖的な自己言及ばかりの脚本になってしまっていて、つまりは、自分で演出しておいて、作品のなかで「すげえ!」とか、「信じられない!」とか、つまりは自分でいってしまう。そういうことはスクリーンに向かっている観客にいわせなくっちゃダメでしょう(ウォシャウスキー兄弟は、このあとの「スピード・レーサー」でもこういうことをくりかえしていた)。エポックメイキングな第一作が、おなじスタッフの製作でも、ここまでの愚作で終結するというおどろき。


 

[]「M」(1931) フリッツ・ラング:監督 「M」(1931)  フリッツ・ラング:監督を含むブックマーク

 ほとんど「書き割り」的な都市の一画の描写から、連続殺人犯のシルエットがポスターにかぶさってくる導入部からぞわぞわしてしまう。「マトリックス」のようにいくらVFXが進化しても、やはりこの根源的な「絵」のちからこそにリアリティーがあると、痛感させられる。

 残された物的証拠、犯罪者の資料などから捜査方針を探っていくところなど、ぞんざいにすっ飛ばしているところもない印象で、捜査の過程がとってもリアルだと思った。もしも(科学的捜査手段の発達した)いま、この作品をリメイクするとしても、現代に合わせてあんまりいじるひつようもないように思える。

 それでやはり、この作品がすっごいのは、単純に「犯人」を捕らえるということで終わってはいないということ。警察組織と並行して、その捜査のために「しごと」のやりにくくなった「夜」の世界の支配者たちが、みずからのちからで「犯人」を捕らえようとする。このしゅんかんに、犯人もまた「弱者」の側の存在になってしまう。犯人役のぺーター・ローレの、さいごの告白、そして慟哭には、観ているわたしもきょうれつな感銘を受けてしまう。「司法」の役割とは何か、「裁判」とは何か、ひいては「国家」とは?ということまで考えてしまう。しかも舞台はナチス擡頭期のドイツ、である。

 映画のスケールとしては「マトリックス」シリーズなどにはくらべることも出来ないだろうけれども、訴えていることはわたしにはこちらの方が数億倍痛切に思える。演出にしても、そのシーンごとのまさに適切なカメラ位置、風船やゴムまりなどの小道具の使い方、居酒屋のシーンでのあっとおどろく長回しなど、「マトリックス」シリーズも、某大河ドラマも、およぶべくもない。七十年もまえの作品なのに、この七十年のあいだに、映像表現はじつは退化しているのだろうか?


 

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■ 2013-01-11(Fri)

 きょうもまたしごとは非番で休み。あした出勤するとまたあさっては休みで、あたらしい年になってからはんぶんもしごとに出ていない感じ。けさもしごとに出るような感覚でまだ暗いうちから起き出したのだけれども、なんだかダラダラしているうちにふだんしごとを終えて帰ってくるぐらいのじかんになってしまった。すごくじかんを無駄にしてしまったような気になった。

f:id:crosstalk:20130112111026j:image:left きょうは内科クリニックに行ってくすりをもらって来なければならない日なので、十時ぐらいになって家を出る。クリニックの場所はうちから踏切りを越えて東に進み、川を渡ってすぐのところ。その川の手まえには図書館がある。このあいだネコの本を借りていま読んでいて、ほかにもネコの本を読みたくなっているので、図書館に寄り道して動物学のコーナーヘ行く。このあいだ棚にあって、きょう借りようと思っていたネコの本はすがたが見えなくなっていて、どうやら貸し出されてしまった気配。べつの本をさがし、「ネコの毛並み」という本を借りた。
 クリニックへ行くと、待合室は人であふれていた。おそらくはみんなずっと通院している人で、年末年始にクリニックが休みだったのでこうやって集中しているんだろう。読む本が手もとにあってよかった。二じかんぐらい待たされたけれども、そのネコの本を読んでいたので待ちくたびれることもなかった。おもにネコの毛色の遺伝子について書かれた本だったけれども、そういう遺伝子の表も出ているなかで、いったいニェネントがどこに分類されるものなのかわからない。ただ、ニェネントのきょうだいたちはみな黒白のぶちだったわけだけれども、これはお母さんのミイの遺伝子なわけだから、ニェネントだけが引き継いだと思われるお父さんネコの遺伝子が、ほかのネコではおもてに出なかったと考えると、ニェネントのきょうだいらもみんなおなじ父親だとも考えられる。もしくはわたしがずっと考えていたように、ニェネントだけはお父さんがちがうのだろう。けっきょく、そのあたりのことはわからない。

 クリニックでくすりをもらって外に出るころにはもう、十二時をすぎていた。川にかかる橋を渡ろうとしたら、すぐそばの河原にツルのような大きな鳥がちょうど降りてきた。お、「エコー・メイカー」か、などと思ったけれども、これはきっとアオサギ。でも、羽を拡げるとかなりの大きさだし、河原に降りて立つ姿もなんだかりりしい。ケータイを持っていたら写真が撮れたのに、などと思った。
 そのまま道ぞいにあるスーパーに寄って、特売コーナーに袋づめされたミカンがずいぶんと安く売っていたのをみつけて買う。ミカンを買うなんていうのはいつ以来なのか、まるで記憶に残っていない。ひょっとしたら、ひとり暮しになってからはじめてのことかもしれない。

 昼食はめんどいのでカップ麺ですませ、買ってきたミカンも食べた。おいしかった。食後は借りている「ネコの行動学」を読みついで、だんだんにおもしろくなってきた。あとはDVDを一本観ると、もう外はまっくらになってしまう。夕食はまだいっぱい残っている白菜をつかって、かんたんな鍋にした。


 

[]「マトリックス リローデッド」(2003) ウォシャウスキー兄弟:監督 「マトリックス リローデッド」(2003)  ウォシャウスキー兄弟:監督を含むブックマーク

 第一作だけだったらよかったものを‥‥、という気がしないでもない続編。おそらく最終話とは同時に撮影、製作されたのだろうと想像できるけれども、最終話もどのあたりに着地するのか、だいたいの予想はできる気がする(裏切ってほしいけれども)。あの第一作がこういうところに来てしまうのか、やっぱりね、というがっくり感。トリロジーまとめて、どのDVDも中古店で105円で売られちゃっているのも、わかる気がする。


 

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■ 2013-01-10(Thu)

 スーパーの野菜類が値上がりしているのはこれは正月料金なんだろうと思っていたんだけれども、寒さのために入荷量が減っているせいだということ。レタスなど、いまは300円ぐらいにもなっている。白菜もずいぶんと高くなっているけれど、レタスもキャベツも白菜も年末に買ったのがまだけっこうあるのでだいじょうぶ。というか、年末にドラッグストアでレトルト類などを半額でいっぱい買ってしまったので、いまのわたしの食卓はその消化につとめているさいちゅう。このところほとんど生鮮食料品というものを買わない。それでもきょうは西のスーパーが一割引きの日なので、なくなってきたマーガリンだとかマヨネーズなど買いに行った。

 帰りに、スーパーから道路をへだてたところに一匹の犬がいるのをみた。首輪をつけているので、きっとスーパーで飼い主が買い物をしているのをまっているんじゃないかと思った。首輪にはひもなどはついていないので、犬はどっかへ行ってしまうこともできるだろう。それでもじっとご主人さまを待っているのが犬のすてきなところ。わたしもけっこう犬ちゃんは好きで、このあいだ「幻の湖」を観たせいでもないけれども、さいきん犬ちゃんをいとおしく感じることが多い。きょうも、その犬のわきを通り抜けるときに「どうしたの?」とか話しかけ、あたまや首筋をなでてやった。犬にふれるのはずいぶんとひさしぶりのこと。犬はわたしを見上げて、目を細めている。やはり犬もかわいい。犬のそばを通りすぎてからふりむいてみると、ちょっと二、三歩ばかし、わたしの方についてこようとするそぶりをみせて、やはりもとの場所にもどって行った。

f:id:crosstalk:20130111175150j:image:right うちのニェネントは、とうとう、ずいぶんとひさしぶりに発情期に突入してしまったようす。玄関のところでにゃあおにゃあおとなきごえをあげている。わたしにちかよってきて、わたしにおしりを向けるのだけれども、いつのも発情期のようにはしつっこくもうるさくもない感じ。このごろはわたしも寒いので、和室とリヴィングのさかいに電気ストーブをおいてつけておくことが多いのだけれども、つまりはニェネントはそのストーブとすわっているわたしとのあいだに入ってきて、ストーブのまえで丸くなっている。ニェネントはわたしのそばにいるのが好きだし、あたたかいところも大好き。このストーブのまえのスポットは、この季節ニェネントのお気に入りスポットになるだろう。

f:id:crosstalk:20130111175221j:image:left きょうはヴィデオを一本観てから、そのストーブの近くにすわって、Alex Chilton の遺作「Loose Shoes and Tight Pussy」をずっと聴いていた。すべてカヴァー曲。晩年のChilton はこういう渋い選曲のカヴァー曲をあつめたアルバムが多かったけれど、そういう古いジャズ・ヴォーカルの曲やソウル/R&Bの曲を取り上げても、けっしてギター以外の楽器を入れなかった。つまりはホーン・セクションの音もすべてギターに置きかえてやるんだけれども、そこに彼独特のムードがかもし出されてくる。いつ聴いてもすてきな音世界。もっと生きてほしかった。


 

[]「エド・ウッド」(1994) ティム・バートン:監督 「エド・ウッド」(1994)  ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 わたしにとってティム・バートンの映画が面白かったのは、このもうちょっとあとの「スリーピー・ホロウ」までのことで、そのあとの作品はどれもがっかりさせられるものばっかしになってしまう。で、この「エド・ウッド」がどうだったかというと、どうもいまいちピンとこない作品、だった。久々に見直してみたけれども、やはりどこか生真面目すぎるという印象はある。もちろんそこにティム・バートンの、エド・ウッドという人物、そしてベラ・ルゴシへの過大なリスペクトがあるのだけれども、彼らのほんとうのユニークさを知るには、1950年代のアメリカのB級映画がどんなものだったのか、というあたりも知らなければならないと思う。わたしはこのティム・バートンの映画に登場するエド・ウッドの映画はだいたいヴィデオで観ているし、エド・ウッドの映画いがいにベラ・ルゴシが出演していた、ほんっとうにくっだらない映画も観ている。このあたりのことはこの作品でベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーがいいことをいっていて、そういったベラ・ルゴシ出演映画にくらべたら、エド・ウッドの映画からは「風と共に去りぬ」を観るような感動をおぼえると。

 たしかに行き当たりばったりのエド・ウッドの演出は表面的にはひどいしろものだけれども、当時はもっと節操のない、というか、こころのない映画というものも撮られていたわけで、そういうものにくらべれば、エド・ウッドのこころざしというものはたいしたものである! ‥‥この「エド・ウッド」には出てこないけれども、彼が「グレンとグレンダ」のあとに撮った「牢獄の罠」などは、かなり「まともな」犯罪ミステリーだった。

 これはわたしの勝手な要望だろうけれども、つまり、「最低映画」とはどういう作品をいうのか、ここでエド・ウッドの映画だけを「最低」と取り上げるのではなく、1950年代のハリウッド全盛期にはもっと精神的に「最低」といえる作品が存在していたわけだし、対極にオーソン・ウェルズを引っぱり出してくるのではなく、「最低」というものをもうちょっと掘り下げてほしかったような気がする。


 

[]「蘆刈」谷崎潤一郎:著 「蘆刈」谷崎潤一郎:著を含むブックマーク

 溝口健二監督の「お遊さま」の原作。とにかくわたしはその映画版の方での、お遊の妹のおしず(乙羽信子)が新婚の夫にせまってそのこころのうちを語るシーンの、わたしがこれまでに観たどんな作品よりも強烈な長回しと、そのカメラ(宮川一夫)がぐいぐいと位置を変えていくカメラワークとで、わたしは魅了しつくされてしまっている。あるいみではわたしの観たあらゆる映画のなかでのベスト・ワンといえるような映画。そう、映画のなかでなんども出てくる、外の空間とも室内とも判然としない不思議な空間のことも気にかかるものだった。

 こんかいはじめてその原作を読んで、これが能の謡曲からモティーフを得て書かれたことなどを知り、それでもって、映画での室内と外とが通底する空間のわけがわかった気がする。つまり全編が能の舞台、だったわけだ。

 谷崎潤一郎の小説は映画で描かれるよりももっと小説的な技巧に富んだものでもあり、また、谷崎らしくも倒錯したエロティシズムをも感じさせられるものだった。ラストにフッと語り部の男が消えてしまい、ではいったいあの男はなんだったのか、彼の語ったはなしはなんだったのかという、奇怪なミステリーじみた世界が残る。映画は原作とはずいぶんちがっているものだったけれども、また「お遊さま」を観てみたくなった。

 

 

 

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■ 2013-01-09(Wed)

 しごと量が減ってしまったので行かなくなっていた倉庫の方に、ひさしぶりに行ってしごとをした。倉庫のなかにはハトのフンがあちこちに散乱していて、ハトの羽根も飛び散っていた。Aさんが、倉庫のなかで死んでいたハトの死骸を外に捨てたらしい。いぜんのようにまいにち倉庫でしごとがあったなら、たとえ倉庫をねぐらにしているハトなんかでも、そのしごとでシャッターが開いているあいだに外に出たりしたのだろうけれども、このところはいっしゅうかんぐらい倉庫にだれも出入りしなかったわけで、出ようにも出られなくって、そのまま飢え死にしたということなんだろう。いっしゅの孤独死。わたしはハトという動物(鳥類)にまるでシンパシーをもたないので、「かわいそう」とか思うわけでもないけれども、「あわれ」だろうとは思う。わたしもそのうちにそういう「あわれ」な存在に成り下がることだろう。かわいそうではない。

 これからの予定。美術展で観たいものが集中している。ひとつは木場の現代美術館の「MOTマニュアル」。それから六本木の国立新美術館での「アーティスト・ファイル2013」と、同じ国立新美術館での「DOMANI・明日展」などなど。書いた順に観たい度合いは高まっているので、「MOTマニュアル」はもうあきらめかけている。「DOMANI・明日展」はきっと観に行くつもりなので、だったらいっしょに「アーティスト・ファイル2013」も観るだろうと思う。舞台はいきなり「鉄割」から、ことしははじまる。これはもう予約してあるので確定。ほんとうは「東京デスロック」の「東京ノート」も観たい気はあるけれど、いまさらムリだろうし、そういうオールディーズ(みたいなの)ばかり観るようなのも、じぶんとしてどうかとは思う。

f:id:crosstalk:20130110182526j:image:right きょうは部屋で、Amy Winehouse の「Back to Black」を聴いていた。いいアルバムなんだけれども、通して聴くとボーナストラックなどがぜんたいの流れのじゃまをする。CDというものの、こまったところのひとつ。
 ゆうがたになって暗くなってから、図書館に本を返しに行った。それでDVDの「ロード・オブ・ザ・リング」を借りようと思ったのだけれども、あいにくと誰かが先に借りていたので、あいていた宮崎駿監督の「紅の豚」を借りた。あとは「ネコの行動学」という本を借りてみたけれど、帰宅して読んでみるとこれはちょっとわたしには専門的すぎたかもしれない。

 ニェネントは、わたしがよなかにトイレに起きたりしたときにわたしについてきて、わたしがベッドにもどるときにうしろからわたしの足にとびついてきて、わたしをおどろかせるのが大好き。


 

[]「長脇差忠臣蔵」(1962) 渡辺邦男:監督 「長脇差忠臣蔵」(1962)  渡辺邦男:監督を含むブックマーク

 「長脇差」ってなんのことよ、って思ったらつまりはドスのことで、時代は幕末、きっかけの舞台も掛川あたりと、まるで「忠臣蔵」ではない。ここでやがては滅びる運命の幕府方の老中がつまりは街道筋の住民を迫害し、その件で次郎吉という地元の親分(宇津井健)が直訴するわけだけれども、つまりは手打ちの獄門さらし首、なんつうことになってしまう。それでその手下などの侠客衆らが、清水の次郎長親分の助けを得たり、幕末の動乱に乗じたりしながら親分の仇を取るわけである。ここで大石内蔵助にあたる役柄を演じるのが市川雷蔵。脚本はけっこうしっかりと「忠臣蔵」をなぞっていて、いちばんうれしいのは垣見五郎兵衛に相当する場でもって、その市川雷蔵と勝新太郎とのふたりの見せ場があるあたり。まさに「カツライス」対決の実現。‥‥まあぜんたいに、殺陣というのが「そういうふうに見えればいいのよ」的な演出で、観ていてほとんど「絶句」してしまいそうになるようないいかげんさなのだけれども、まっ、いいか、というところ。


 

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■ 2013-01-08(Tue)

 みんな、BSの「おしん」放映に夢中。このあいだは総集編が放映されて、たいていみんなコレをみていて、これからはまいしゅう日曜日にノーカットでいち年かけて全話放映するらしい。もう「ぜんぶみるぞ」と息まいている人も多いみたい。まあ震災のあとで、しかも政権がまたJ党にもどり、しかも首相がウルトラ・ナショナリストなうえに、弱者切り捨て政策をいまから匂わせているんだから、「わたしたちは<おしん>だね」という気分にはなるというもの。‥‥わたしはあんまし「おしん」には興味はないのだけれども、ことしの日曜日の大河ドラマは、ちょっと観たいかも。わたしがこの大河ドラマというものをいちねんかんぜんぶ通して観たというのは、川上音二郎と貞奴を主演にした「春の波濤」とかいうヤツだけ。もちろん「坂の上の雲」みたいなのはイヤだけれども、明治モノとか、ほんとうは好きである。まあこんかいの大河ドラマが「坂の上の雲」路線なのかどうか、まだわからないところがあるけれど、とりあえずは観てみたい。

 ‥‥ほんとのほんとをいえば、この大河ドラマでもって、いつか大杉栄と伊藤野枝との生涯をやっていただきたいものだと思っている。もちろんその周辺には幸徳秋水、平塚らいてふ、石川啄木などが登場し、永井荷風が登場してもいい。甘糟正彦の生涯を並走させて描いてもいい。脚本を書く人がいなければわたしが書いてもいい。その場合はもちろん、吉田喜重監督の「エロス+虐殺」へのリスペクトから、大杉が妻の堀保子に「野枝さんとキスした」と語る場面は、ぜったいに入れる。二十世紀冒頭のこの日本では、大杉栄こそがいちばん描きがいのある人物だと思うのだけれども。

f:id:crosstalk:20130110124737j:image:right ニェネントは、ときどきわたしに「邪眼」をみせてくれる。わたしは犬というのも好きなんだけれども、犬さんの眼は、いつも人への従順さをみせてくれる。そこがまたいとおしいのだけれども、ネコはときに悪魔の眼をみせてくれる。これもまた、ネコのもっている大きな魅力のひとつである。ネコ好きということは、どこかマゾヒズムと同居しているようなところがあるんじゃないだろうか。


 

[]「半七捕物帳」(1979) 岡本綺堂:原作 第十九話「湯屋の二階」 「半七捕物帳」(1979)  岡本綺堂:原作 第十九話「湯屋の二階」を含むブックマーク

 これは原作もかなり記憶に残っていた一篇だけれども、ここはとにかくもやはり笠原和夫氏の脚色がすばらしい。原作はけっこうのんびりした作品だったという記憶があったけれど、ここではもうあっちもこっちも期限付きののっぴきならない世界。気になってあおぞら文庫で原作をちょっと検索して読んでみると、これはまさに「お正月」の作品だったわけで、それはちょうどよかったね、という感じ。楽しい一篇だった。


 

[]「安珍と清姫」(1960) 島耕二:監督 「安珍と清姫」(1960)  島耕二:監督を含むブックマーク

 ことしは巳年ということなので、やっぱりこの作品。安珍には市川雷蔵、清姫に若尾文子という夢の共演。とくに安珍清姫伝説に忠実につくられたものでもなく、「えええええっ!」というような脚色もあるのだけれども、なんというのか、いかにも大映映画らしく、いろいろと楽しめる作品ではありました。‥‥ちなみに、安珍は鐘のなかで焼け死んだりはせずに生還します。いまこうやって観ると、ちょっとこのあいだの「幻の湖」を思い浮かべてしまうようなところも。


 

[]「マトリックス」(1999) ウォシャウスキー兄弟:監督 「マトリックス」(1999)  ウォシャウスキー兄弟:監督を含むブックマーク

 ほぼすっかり忘却の彼方に沈んでしまいそうな作品なので、もういちどDVDで。‥‥おどろくほどにストーリーはたんじゅんなんだけれども、やっぱエポックメイキングな作品だったんだなあとは再認識。「ボーン・アイデンティティー」のシリーズだって、ダニエル・クレイグのボンド映画だって、拡大解釈すれば「ロード・オブ・ザ・リング」のシリーズだって、この作品の影響を抜きには考えられないところがある。すっごいよねー、という感じ。


 

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■ 2013-01-07(Mon)

 やはり外出をしたよくじつというのは不調で、あさ起きたときからなんともダウナーな気分。わるいクセというのか、すでにわるい性格となっているのか。ほんとうはこうやって外出したよくじつのしごとを非番の休みにしておくのではなく、無理してもしごとに出たりしている方が気がまぎれていいのかもしれない。

f:id:crosstalk:20130109162926j:image:left ニェネントはきのうのわたしのお出かけのあいだに、ネコ皿に残っていたまぐろをぜんぶ食べてしまっていた。おなかがすいてしまって、ほかに食べるものがないのでしかたなしに食べたんだろうか。ではどうよ、ってな感じでまたまぐろをこまかくしてネコ皿に出してやると、やはり「フン!」ってな感じで行ってしまった。

 書き忘れていただいじなことがひとつあって、せんじつ、しごとをはやく終えて家に帰るときに、黒白のネコが走っていくのをみた。わたしのいたすぐそばの路地へ走りこんだので、そのすがたをはっきりみることができたけれど、まだ生後はんとしぐらいの子ネコ、だったと思う。ぜったいに野良ネコで、それもミイの血筋をひいているネコだと思った。おそらくはミイがうちで育てたニェネントをのぞく四匹のネコ、ニェネントのきょうだいがどこかで生き残って暮らしていて、わたしがみた子ネコは、そのニェネントのきょうだいの子どもなんじゃないかと思う。おそらくはテリトリーをわたしの家の周辺からちょっとずらしているので、わたしはこの日までまるで出会わなかったわけなのか。いったいどの子が生き残ったんだろう。いがいとみんな、四匹ともどこかで生きているのかもわからない。とにかく、ミイの血縁のネコがニェネントのほかにもちゃんと、野良ネコとしてしぶとく生きているというのはまちがいないと思う。またそのすがたをみたいと、つよく思う。


 

[]「ペルシャ猫を誰も知らない」(2009) バフマン・ゴバディ:監督 「ペルシャ猫を誰も知らない」(2009)  バフマン・ゴバディ:監督を含むブックマーク

 タイトルに「猫」は出てくるけれども、じっさいにネコが登場するわけではない。イランで非合法な音楽活動を展開しようとしている若者を、ドキュメンタリー・タッチで描いた作品。バフマン・ゴバディという監督の名まえは聴いたことがあったけれど、その作品を観るのはこれがはじめて。

 監督の訴えていることはわかるし、じっさいにイランの法規制はわたしなどが想像するいじょうにきびしくも苛酷なものなんだろう。しかし、この作品はあまりにナイーヴすぎないだろうか、という疑問はある。ある面では西側というかキリスト教文化圏にこびているようにも感じてしまう。ほんとうにアメリカやヨーロッパの資本主義的、キリスト教文化圏こそが、規範となる文化なんだろうか。わたしはこの作品を観ただけでは、この監督を応援しなければならないとは思わない。


 

[]「ぼくは覚えている」ジョー・ブレイナード:著 小林久美子:訳 「ぼくは覚えている」ジョー・ブレイナード:著 小林久美子:訳を含むブックマーク

 すべての節が「ぼくは覚えている(I remember)」ではじまる、みじかいものは一行、長くてもせいぜい十行ぐらいのヴァースの連続からなる書物で、「詩」のようでもあり、読んでいると著者の自伝のような空気も感じる。

 著者はほんらい美術の人で、多くの詩人たちとの交流があったらしい。1942年生まれで、すでに94年にエイズで他界されている。この本は1975年に発表されたらしいけれども、書かれているのはだいたい60年代初頭までの、つまりは著者の成人ぐらいまでの「覚えていること」が中心。みていたTV番組や映画、ロック以前のポピュラー音楽、それから日本でいえば駄菓子屋で売られていたようなそういう駄菓子の記憶。

 そんな、覚えていることをただ羅列していきゃあいいんだったら、誰にでもできるじゃあないか、などと考えるのはあさはかというもので、たぶん、ここまでに多くのことがらを、それなりに明確に記憶の底から掘りおこして書きつらねていくのはかんたんなことではないし、さらに、その奥から著者の赤裸々なコンプレックスのすがたを立ち上がらせるようなこと、そのことを読むものに納得させること、誰にでもできることではないだろう。

 まずはその、戦後から50年代、60年代へといたる大衆文化への著者の嗜好を横糸として並列しているとすれば、そこで縦糸になるのが、著者のホモセクシャルへと進むみちへの記述、ということになるんだろうか。わたしなどにはまったくわからないヴァースもあるけれども、「わかる、わかる」と共感できるヴァースもある。わたしがいちばん共感したのは、つぎのヴァース。

 ぼくは覚えている。ロックンロールにひどく傷ついたのを。ロックは自由でセクシーなのに、ぼくはそうじゃないから。


 

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■ 2013-01-06(Sun)

 ことしはじめてのお出かけ。きょうの予定は東京駅で降りて近くの美術館で美術展を観て、あたりで昼食をとったあと有楽町で映画でも観よう。そのあとはあしたもしごとは休みだし、やはりちょっと飲んでから帰りましょうかと。

f:id:crosstalk:20130108100953j:image:right そういうわけでスケジュールによゆうをもたせようと、あさの九時まえに家を出る。玄関で靴をはいているとニェネントがやってきて、ドアのまえに横になってわたしが外へ行くのをじゃまするみたいな。抱き上げてげた箱の上にニェネントをのせようとすると、怒ったようなこえを出して抱き上げたわたしの手にかみついてきた。ちょっと痛かった。「わたしをおいて行かないでよう!」っていわれているみたいで、こころもちょっと痛かった。

 けっこう空いているローカル線から都心に向かう電車にのりかえ、電車は東京に近づくにつれて混み合ってくる。わたしはとちゅうで上野行きの電車にのりかえ、さらに上野から東京駅へ出る。‥‥きょねんようやく改装改修のおわった東京駅、丸の内側はずっとながいあいだ工事中のシートにつつまれていたけれど、ようやっとすべてのシートもはずされてすっきりとした。駅のまえには、ケータイをかまえて写メールしている人たちがいっぱいいらっしゃった。しかし、地下にもぐって美術館のある方角にむかうと、まるで人のすがたをみかけなくなる。丸の内も北側には近年できた大きなスポットがいくつかあるけれども、はんたいの南側は基本が企業ビルばかりで、もともと土日や祝祭日には人のすがたがみえなくなってしまう。あたらしく美術館がオープンしたりしたいまでも、そういうあたりに変化はないみたい。

 ‥‥美術館に到着。じつはきょうが観にきた「シャルダン展」の最終日で、混んでいるといえば混んでいるけれども、作品を観るさまたげになるようなものではなかった。作品点数も多くはなかったので、ゆっくり観てもいちじかんちょっと。美術館を出て、有楽町の方へと歩いた。きょうはなにか映画も観ようと考えてはいたのだけれども、きのうとかチェックした感じでは、ことしの正月はあまりわたしなどが観たいと思うような作品も公開されていない。ただ、きのう「007」のまえの作品を観ているので、その新作を観るのもいいなあと、ばくぜんとは思っていた。監督がサム・メンデスだし(って、サム・メンデスの作品は好きでないのが多いんだけれども)、悪役がたしかハビエル・バルデムだったはず。有楽町の駅のそばのシネコンのチケット売り場へ行ってみると、ちょうどいちじかん後が上映開始じかんで、まだチケットも残っていた。かなりまえの方の、どまんなかの席をゲットして、上映開始までどこかで食事をすませておこうと、駅の方へ歩いた。
 駅のまえのあたりでは、ずいぶんむかしにこのあたりで映画を観たときなどによく立ち寄った中華料理の店が、まだ当時のままの建物、外観、内装で営業していて、ひっさしぶりにこのお店で食事してみた。ビールの小瓶なんかもたのんでしまったあとで、「いけない、これから映画を観るというのにビールなんか飲んじゃって、とちゅうでトイレに行きたくなったらいやだなあ」などと後悔するけれどももう遅い。小瓶だし。‥‥とくに美味だというのではないけれど、料理の味もなんだかむかしと変わっていないような気もして、なんとなくなつかしかった。

 無事に、とちゅうでトイレに行きたくなることもなしに映画を楽しんで、外に出るともうあたりは薄暗くなっていた。さあ飲もうと、メトロに乗って下北沢に出て、「G」ヘ行く。もちろんことしはじめての「G」だし、外で飲むのもことしはじめて。カウンターにはオーナーのBさんと、はじめて顔をみる新人さんと。しばらくしてCさんもやって来て、いつもの「G」である。どうもこのところアルコールをくいくい飲んでしまうようで、あんまり飲みすぎないうちにおうちへ帰る。家のドアをあけるとニェネントが出迎えてくれた。

 美術展、そして映画、そして気のおけないスポットでのアルコールと、楽しいいちにちだった。

 

[]「シャルダン展 −静寂の巨匠」@丸の内・三菱一号館美術館 「シャルダン展 −静寂の巨匠」@丸の内・三菱一号館美術館を含むブックマーク

 シャルダンという画家の名まえは知っていても、その作風にどこか通俗的なふんいきを感じて、いままでとくに意識にとめたことのなかった画家だったし、この展覧会も、しょうじきに書くとそれほどに強く「観たい!」と願って観にきたというわけでもない。ただやはりこの展覧会のサブタイトルにある「静寂」ということばに惹かれたこともあるし、「わたしはシャルダンという作家のことなどなにも知らない」と思ったこと、この展覧会が、そんなシャルダンの作品だけを集めた<個展>としては日本初のものだということなどから、その最終日ぎりぎりに訪れたもの。わたしはこの美術館を運営する企業、そのグループのことは嫌悪しているので、ほんとうはのこのこと訪れたりしちゃあいけないんだけれども、そういう節操のないことはいつもやってしまう。この美術館にはまえにバーン=ジョーンズの展覧会も観にきてしまっているし、なにをやってるんだか。

f:id:crosstalk:20130108191918j:image:left それでシャルダンの作品だけれども、やはりこれはいっしゅ不思議な感慨を抱かせられる作品だと思った。シャルダン以降のコンサヴァティヴなあれこれの無名作家が、ほとんどシャルダンの模倣みたいなことをやりつづけていることも、シャルダンの作品を虚心にみつめるさまたげにはなる。ちょっと観た感じでは、売り物の額縁のなかにサーヴィスで入れるようなものにぴったりじゃないの、みたいな印象もあるのだけれども、これがタブローのそばに眼をもっていくと、ちょっとしたおどろきを感じてしまう。「天使のように大胆に 悪魔のように繊細に」ということばこそ、シャルダンの静物画作品にぴったりなのではないか。しかも、これはわたしの印象なのだけれども、対象を画布に写し描くというよりも、「絵」そのものを描いているではないのか、という印象を受けてしまう。もちろんシャルダンの基底にあるのは「写生」というリアリズムなのだけれども、彼の眼は、油絵具という物質が、描く対象と一致することをめざしているように思えてしまう。だからこれは観ているととても奇妙な感覚で、絵のなかに「絵」そのものが描かれているような感覚を受けてしまう。それは「美しい」などという感覚とは異なるものだと思った。「カーネーションの花瓶」という作品を載せておく。

 やわらかいピンクの色や淡い青色が印象的につかわれる人物画の、そのやさしさもまたすばらしいものだった。

 ただわたしは、ある作品でキャプションに書かれていたシャルダンの署名についての記述がじっさいの作品のそれと一致しないのがあるのをみつけ、近くにいた女性職員にきいてみたら、「それはこういうことで」という説明を受けた。記述がちがっていることはちゃんとわかっていて、職員に「きかれたらこのように答えるように」と伝えられていたとしか思えない。キャプションの誤りを訂正しておくべきではないのかと思うけれども。(あとで思ったけれども、図録でもキャプションとおなじ記述にしてしまったので、会場のキャプションだけを訂正するのはやめたんじゃないだろうか。しかしどっちにしてもよろしくはないことだろう。)

 かんけいないことだけれども、「羽を持つ少女」と題された作品が二点出品されていて、これがサイズから何からほとんど同一で、まあシャルダンのオリジナルとされる方があれこれと勝っているのはたしかなのだけれども、はたしてもう一点の方もシャルダンが描いたのかどうなのか、いまでも結論は出ていないらしい。これはまったくのしろうとの考えなんだけれども、背景の処理がオリジナルともこれ以外のシャルダンの作品とも異なる描き方になっていることや、少女の着ている前掛けをとめるピンの描き方が、じっさいのモデルを眼にしたことがないのではないかと思わせる妙なところもあるので、こりゃあシャルダンの作品ではないんじゃないの、とわたしは推理した。

 

[]「007 スカイフォール」サム・メンデス:監督 「007 スカイフォール」サム・メンデス:監督を含むブックマーク

 この作品を監督したサム・メンデスのほかの作品はそんなに観ているわけでもなく、前作の「お家をさがそう」は観たけれども、これはどちらかといえばきらいな作品。むかし観た「アメリカン・ビューティー」もあまり好きな作品ではない。ただ、お正月にやっている映画でほかにあまり観たい作品もなかったし、じつのところ、わたしはダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドというのがけっこう好きなのである。それできのうは前作の「慰めの報酬」をヴィデオで観て予習までしてきたわけ。

 ‥‥観終わって、これって、わたしの思い出せるかぎりのボンド映画のなかで、いちばんおもしろかったかもしれない。かなり前の方の席で、視覚のほとんどがスクリーンで占められる位置で観たこともよかったのかもしれないけれども、終映後に明るくなった場内では、わたしのまわりにいた複数の人たちが賛辞の声を出していた。少なくとも、きのう観た「慰めの報酬」などはもんだいにならない。

 まずは、恒例のタイトル部分の映像からしてちょっとちがうというか、女体を使うというコンセプトは変わらないんだけれども、これが本編につながって展開していくというのは、これがはじめてなんじゃないだろうか。しかもとちゅうからは同じダニエル・クレイグが主演した「ドラゴン・タトゥーの女」のあのタイトルデザインへのオマージュみたいな展開にもなり、観るものを飽きさせないでくれた気がする。
 きのう観た前作「慰めの報酬」が、ボンドが拘束すべき人物をつぎつぎに殺してしまうことにMがいらだつ、というのがひとつのバックボーンにあったのだけれども、ここではぎゃくにまずはMの非情さがクローズアップされ、まずはボンドがその犠牲になりかかる。さいしょの盛り上がりは夜の上海での高層ビル上のガラス越しの映像で、とにかくこのシーンはたんなるアクション映画というのをこえた美しさがある。上海おなじみの高層ビル壁面の巨大ディスプレイが、ここで最大限に利用されている。ここはもう、うっとりと観てしまった。このあとはマカオで、ちょっとした「ジュラシック・パーク」をみせてくれる(ちがうか)。マカオの人がいなくなった廃墟街というのが出てくるけれど、これはラストのクレジットで長崎の軍艦島での撮影だったことがわかる。そう、あとのロンドンの地下鉄での追いかけっこ、やはりここの原型は「フレンチ・コネクション」だろうか。

 クライマックスはスコットランドの荒野のなかの「荒涼館」が舞台になるけれども、ここで悪役のハビエル・バルデムはヘリコプターで登場。しかもAnimals の「Boom Boom」を大音響で流しながら、というのはもっちろん「地獄の黙示録」で、なんかこう、もうちょっとインパクトのある曲もほかにありそうな気もしたけれども(わたしはいま思えばBeatles の「Helter Skelter」なんかがいいような気がするけれども)、まあこれはこれで強烈な。このあともいろんな既製の映画作品を想起させられるシーンも多くって楽しめるけれど(思い出すとゾンビ映画みたいなところもあったっけ)、やっぱボンドとMとのラブシーンというのは極め付け!(この部分、ウソです!)‥‥ラストにはあたらしいQ、そしてあたらしいマネーペニー、Mと登場し、むかしのボンド映画の導入部、ってなところでおしまいになる。やっぱダニエル・クレイグのボンドは、今回も女性にはあんまし興味はないみたい。「カジノ・ロワイヤル」での彼女の死が、まだこたえているんだろうか。


 

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■ 2013-01-05(Sat)

 きょうから三連休。ようやくわたしの「お正月」が来たという感じ。きょう外へ出かけてもいいんだけれども、あれやこれやのスケジュールで出かけるのはあしたということにして、きょうはうちでまたいちにちをすごすことにした。

 あさ起きて、まずは洗濯。しばらく着っぱなしだったしごと着を洗う。洗いはじめてすぐにポケットに何か入れたまま洗濯したのではないかと思って、とちゅうで洗濯機をのぞいてみた。まだ洗いはじめたばかりなのに、洗い水がかなり茶色くなってしまっていた。かなりおどろいた。ポケットはからっぽだった。

f:id:crosstalk:20130107122342j:image:right 洗濯のあいだ朝食のじゅんびをして、またニェネントにまぐろ肉を出してあげる。ニェネント、そっぽを向く。まああんまり生肉に執着されつづけるよりは、このあたりで飽いてくださる方が今後がやりやすいけれども、このところ食事の量が減っているようなのは気になってしまう。このごろはベッドの上で寝てばかりいるから、そんなに食べなくってもいいんだろうか。

 ‥‥ニェネントが寝てばかりいるので、わたしも洗濯物を干してからはベッドにもぐりこんで、聴くのを忘れていたFMを聴いたりする。きょうの「ウィークエンド・サンシャイン」は11時までのスペシャルだったので、その後半だけでも聴くことが出来た。おもに1960年までのポップスの特集で、わたしが洋楽を聴きはじめたころに聴いたなつかしい音源もオンエアーされて、いい感じだった。おかげできょうはベッドに横になっていても眠ってしまうこともなかった。読んでいる本(ジョー・ブレイナード「ぼくは覚えている」)におもしろいジョークが載っていて、笑った。メリーアン・ジョークというらしいけれど、次のようなもの。

「ママ、ママ、あたし弟が嫌いよ。」
「おだまりなさい、メリーアン、出されたものはちゃんと食べなさい!」

 午後からはヴィデオを二本観て、夕食には白菜を入れたホワイト・シチューをつくってみた。わるくない。白菜は正月になって値が上がってしまったので、年末に買っておいて正解だった。


 

[]「007 慰めの報酬」(2008) マーク・フォースター:監督 「007 慰めの報酬」(2008)  マーク・フォースター:監督を含むブックマーク

 この前作の「007 カジノ・ロワイヤル」は公開当時に映画館で観ているのだけれども、ラストだったかのクレーンを舞台にしたアクション・シーンぐらいしか記憶に残っていなくて、もちろんストーリーなどまるで覚えていない。だから、その「カジノ・ロワイヤル」のおわったところからはじまるという展開のこの「慰めの報酬」、こまかいところではわかっていないところがあるんだけれども、要するに「カジノ・ロワイヤル」ではボンドの恋人だった女性がボンドを裏切ったのだと、そういうことらしい。

 原題は「Quantum of Solace」という、なんだかこむずっかしい感じの単語が並んでいるので、邦題もなんのことだかよくわからない印象。さらに、わたしはそういうわけで「カジノ・ロワイヤル」のことをよく憶えていないし、ストーリー展開もどこかややっこしい。まあボンド役がダニエル・クレイグになって、シリアスでリアルな演出になったことはその「カジノ・ロワイヤル」で了解しているけれども、ここまでになると「いったいどこが007なんだか」という気がしないでもない。メインのボンド・ガールとかんけいをもたないままにわかれるというのも、ボンド映画では異例のことではないだろうか。いちおう、こんかいのかたき役がマチュー・アマルリックだというのも楽しみにして観ていたのだけれども、「こんなもんでいいのかよ」という感じはした。そう、それに、オーストリアを舞台にしたとき、歌劇「トスカ」を上演する劇場の客席で、隠しマイク、イアフォンで「会議」をやるというのは、荒唐無稽にもほどがある、と思った。ヴィジュアル的に目を惹くシーンをつくれなかったので、その「トスカ」のヴィジュアルにたよってしまった、というところだろうか。



 

[]「幻の湖」(1982) 橋本忍:原作・脚本・監督 「幻の湖」(1982)  橋本忍:原作・脚本・監督を含むブックマーク

 世紀の「怪作」の登場。わたしはちょっとまえにいちど観てはいるけれど、例によってほとんど記憶に残っていない。‥‥まあ、ラストの「宇宙」はともかくとして、現代のソープ嬢(この映画ではトルコ嬢)の復讐物語と、戦国時代の挿話とをかみ合わせるというのはわからないでもない。しかしそれでもどうしても、このヒロインの思考経路に同調することができない。いくらじぶんの飼い犬を殺したヤツが憎いといっても、放し飼いにされた犬が湖畔で鯉の活造りをやっている人に飛びかかり、そこでその人が持っていた包丁のみねで犬を打ってしまったということなら、責任はどう考えても飼い主にあるだろう。あきらかに「逆恨み」である。もちろんこのメインのストーリーは戦国時代の悲恋につながらなくはないのだけれども、ヒロインはその話を聴いても、「だってわたしは<お市の方>だから」と、シンパシーを寄せるふうでもないのである。それでラストのマラソン勝負になるけれど、ここでヒロインは結婚も決めているわけで「マラソンに勝った」とよろこぶならそれでよしとして、その愛犬を殺した男に気のきいたセリフでも投げつけてやればいいんじゃないかと思う。ところが彼女は男の腹に包丁を突き刺してしまう。‥‥それではただの殺人犯。なんの擁護もできるものではないし、彼女のその結婚をふくめた将来の夢もなにも、これでふっとんでしまったではないか。「それでよし」とするこの作品、やっぱどこかタガがはずれている。ラストをみると、そのタガのはずれ方が<宇宙レベル>のものだということがわかる。あれこれのデティールもやはり、タガがはずれているだろう。

 やっぱり劇場でおおぜいの観客といっしょに、笑いながら、野次を飛ばしながら観てみたい作品。



 

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■ 2013-01-04(Fri)

 きょうはしごとだったけれども、やはりヒマもいいところで、また七時で有休をつかって早退した。いつまでもこんな感じで早退ばかりしていると有休を使いはたしてしまう。

 帰宅してあさのTVをみながら朝食をとっていたら、なにかの拍子にわきに置いてあったTVのリモコンにさわってしまい、チャンネルがかわってしまった。そのどこだかわからないチャンネルで、ちょうど画面に「死んでいく子どもたちへの接し方」みたいな表がうつされていて、ドキッとしてしまった。放送大学の、小児看護学の講座のじかんだった。‥‥子どもに、「死」ということをかくしてはいけない。死を迎えるしかない子どもたちが同じ病棟に入院していて、そのなかの子がだれか先に死んでしまったとして、その子の不在の理由を残された子にかくす(ウソをつく)と、その子は精神的に不安定にもなってしまうという。子どもたちのおちいるストレスにはいろいろな原因がある。この話とは別だけれども、宗教的になるひつようはない。無宗教の人のための礼拝堂というものが存在するそうである。‥‥ちゃんとしっかりと聴いていたわけではないけれども、ぐうぜんにリモコンにさわってしまい、ふつうだったらみることもない(存在もしらない)番組をみてしまうというのも、「ほんとうに<ぐうぜん>だったのだろうか」なんて、思ってしまわないこともない。読んでいる「エコー・メイカー」の影響なのか。ぐうぜんではないと考えるのならば、このことは記憶しておかなければいけない。

 記憶といえば、新年になってから一、二度夢をみていて、よなかに目覚めたときにはちゃんとおぼえていて、記憶しておこうとその内容を反すうしてからまた眠ったのだけれども、おぼえておこうとしたことは記憶に残っていても、その夢の内容は思い出せなくなっていた。いぜんやっていたようにまくらもとにノートを置いておこうかと思った。

f:id:crosstalk:20130106080853j:image:right ひるまえにスーパーに行ってみると、「すだこ」が半額になっていたので買った。ひるごはんのおかずにしてぜんぶ食べてしまった。貧相なお正月。
 ニェネントはまぐろの肉を食べなくなった。肉の鮮度がおちたのか、こんかい買ったまぐろがそもそもおいしくないのか、いいかげんあきちゃったのか。あさはそのままにしておいたらいつの間にか食べてしまったようだったけれども、ひるに出してあげたぶんはそのままずっと残っている。ネコ缶もあけてあげたけれども、ネコ皿に出してあげたとき近くに寄ってくるだけで、鼻先をちかづけて「フン、フン」とやっただけで、またあたたかいところへ行ってしまう。 

 午後からはヴィデオをひとつ観た。長い作品だった。観ているとちゅうで、注文してあったCD、Tricky の「Nearly God」が届いた。もうひとつ注文してある「Sinking of the Titanic」は取り寄せちゅうみたいで、しばらく先になりそう。
 「Nearly God」は、ビートのない世界、というか、リズムさえも消し去られようとする世界。ちょっとばかし、きのう聴いていた「新内」のことを思い出した。読みさしの「エコー・メイカー」を読みながら聴くと、はまった。その「エコー・メイカー」もようやく読了した。


 

[]「愛のむきだし」(2009) 園子温:監督 「愛のむきだし」(2009)  園子温:監督を含むブックマーク

 まえにレンタルDVDでいちど観ているけれど、すっかりストーリーを忘れてしまっていた。こんかい観ての感想のひとつは、渡辺真起子もすごいね、ということと、作品全体があれこれの既存イメージを流用することで成り立っているのではないか、ということ。映画作品に限らず、あれこれの情況、事象に対するステレオタイプなイメージ、そういうもののごった煮コラージュ、という感じ。このあとの評判のいい「冷たい熱帯魚」をまだ観ていないので、観てみたい。


 

[]「エコー・メイカー」リチャード・パワーズ:著 黒原敏行:訳 「エコー・メイカー」リチャード・パワーズ:著 黒原敏行:訳を含むブックマーク

 リチャード・パワーズもまた、読み終えるとすぐにその内容を忘れてしまうたぐいの作品ばかりなのだけれども、とにかく読んでいるときには面白くってやめられない。この「エコー・メイカー」は、新作といってもアメリカでは2006年に発表された作品。舞台となるネブラスカのカーニーという町は、鶴の居留地として有名な町である。この鶴の群れの存在が、作品の大きな背景になっている。交通事故で脳に損傷を受け、「カプグラ症候群」という状態に陥るマークという青年と、弟のその「カプグラ症候群」の被害を受けるというのか、「姉のニセモノ」と思われつづけながら弟の看護をする姉のカリン、弟に信頼されている謎だらけの看護人バーバラ、そして神経科学者のウェーバーが主な登場人物。事故のあとの昏睡状態から覚醒したマークの手元にはなぞのメモが残されていて、その五行のメモのそれぞれの行が、この五章からなる小説のそれぞれの章のタイトルになっている。

 読むものはやはりマークが治癒してカリンの存在を認め、カリンの努力が報われることを望みながら読むのだけれども、マークの遭った交通事故の目撃者もいないし、事故の詳細がわからない。さらに残されたメモを書いたのは誰なのか、その内容は何を意味しているのかという、ミステリー小説じみた興味ももって読むことになる。さらに新作著書がメディアの書評で酷評されるウェーバーの、その妻とのかんけい、マークやカリンへのかかわり方がこの作品に大きな膨らみをもたらしている印象。すべてのことがらが、「わたし」と「世界」とのかんけいとして位置付けられるようなこの作品で、読んでいる方もまた、じぶんのことを考えざるをえないところもある。

 マークとカリンの父親は暴力的な男で、母親は狂信的な信仰の持ち主だったらしい(ふたりともすでに他界している)のだけれども、この作品の主要登場人物はみな理性的な常識人(というかインテリ)で、それぞれの過誤はあるだろうけれども、すべてを理性的に解決しようとしている。あるいみ張本人のマークですら、その根本は(姉のカリンよりも?)センシティヴな存在として描かれている。ただひとつ、この作品で理性からはみ出す「暴力的」な情況というのは、マークの陥った「カプグラ症候群」であって、登場人物はその、どう立ち向かったらいいのかわからない症候に、それぞれの立ち位置から立ち向かうわけ。‥‥読んでいけば、そういう「暴力的」情況というのはほかのかたちでもすがたをみせてくるのだけれども、けっきょくこのあたりでこの作品が「ポスト9.11小説」ともいわれるのだろう。



 

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■ 2013-01-03(Thu)

 新年になってはじめての非番休日。って、きのうも二じかんほどしかしごとしていないし、しごとに出ても出なくても、いちにちのすごし方がそれほどに変わるものでもない。ちょっとあさ寝ができるぐらいのもの。
 新年らしくどこかにぎやかなところに出かけてみたい気もあるけれどもおっくうさが先にたち、きょうも部屋でいちにちすごす。おせち料理があるわけでもなく、TVの正月番組もつまらないし、まるで正月らしくはない。ただニェネントだけはまぐろ肉という「おせち料理」があってしばらくはゴキゲンだったけれども、そのまぐろもいろいろと新鮮味を失ってしまい、ネコ皿にまぐろを出してあげてもあんまりよろこばなくなった気配。

f:id:crosstalk:20130105080349j:image:right おひるまえに、そろそろおせち料理が値引きされて出ているかもしれないと思って、線路の向こうのスーパーへ行ってみる。ざんねんながらそういう出物はなかったけれども、またニェネントがよろこびそうなまぐろの肉塊が置いてあった。こんかいは沖縄産のまぐろで、「加熱用」と書いてある。沖縄にも漁業はあるのだなあと、無知なわたし。とにかく安いので、また買って帰る。
 ただ「刺身で食べてもおいしくありませんよ」という意味の「加熱用」というわけで、べつに傷んでいるわけでもないので、まえのようにこまかくしてニェネントのネコ皿に出してあげる。‥‥まあきのうまでのつづきということで、さいしょにみせてくれたような熱狂ぶりはみせてくれないけれども、それでもおいしそうに食べてくれた。ことしも元気にすこやかに育ってちょうだい。わたしはあなたの世界を守ってあげますからね。‥‥これが、わたしの新年の抱負。

 午後からヴィデオを一本観て、そのあとはまたベッドに横になって読書。BGMはまずはHarmonia MundI 盤のPergolesi の「Stabat Mater」にする。「いいねえ」と思って、ベッドから起きだしてこの曲のことをネットで検索してみたら、思いがけなくもこのわたしのブログがひっかかってきた。おととしの新年にもわたしはこの曲を聴いていたことが書かれていた。なんだ、じぶんの発想はあんまり変わらないものなんだなあと思った。
 「Stabat Mater」を二回ぐらいリピートして聴いたあとは、邦楽でも聴きましょうかということで、わたしの持っている邦楽のCDは「新内」のものしかないのだけれども、これを探し出して聴いた。わたしはけっこう「新内」というのは愛好していて、これはいっしゅのノスタルジー的な気分もあるのだろうけれども、江戸時代に誕生した都市型の音楽ということでも興味がある。それに、こうやって久しぶりに新内の名演奏を聴くと、リズムではない、「間合い」で進行して行く構成に刺激を受ける。ふた棹の三味線、そして唄いとが、ほんとうにみごとにからんでいく。スリリングでもある。

 きょうはなんとか眠ってしまわずに読書にはげむ。外はもう暗くなってしまい、まだ残っているビーフシチューで夕食をとる。ニェネントはまたまぐろ。たしかにこれだけおなじメニューがつづけば新鮮味もうせてしまうだろう。

f:id:crosstalk:20130105080433j:image:left よる、もうちょっと読書をつづけて、あともうちょっと。あしたには読み終えることができるだろう。よるのBGMは、きょねんの暮れに買ったCars の五枚組廉価盤から、4th の「Shake It Up」を聴く。‥‥わたしはCars のベスト・トラックはずっと、5th の「Heartbeat City」のなかの「Drive」ということにしていて、もちろんいまでもこの曲は大好きなんだけれども、このCars の五枚組を通して聴くようになって、この「Shake It Up」のなかの三曲目、「I'm Not The One」こそ最高なんじゃないかと思うようになってきている。この曲のサビのコーラスの「Goin' Round and Round」というリフには、油断していると泣かされてしまう。やっぱRic Ocasek は、ロックの世界でも稀な才人だと思う。


 

[]「甘い生活」(1960) フェデリコ・フェリーニ:監督 「甘い生活」(1960)  フェデリコ・フェリーニ:監督を含むブックマーク

 ‥‥わたしには、わたしなりの「甘い生活」の時期があった、と思う(ここまでに放埒なものではなかったけれども)。この映画を観たのは、そういうわたしの「甘い生活」のまえのことだったから、そんなに痛切なものでもなかったけれども、ずいぶんと久しぶりにこの作品を観て、どこか、その時期に知らずに受けていた「傷」を、なめられていやされるような感覚に陥ってしまった。同時に、「ああ、わたしにもここ(胸のあたり)に傷があったんだ」などと、感傷的な思いにもひたってしまった。

 この映画の影の主役は「ローマ」という都会だったけれども、これとまったくおなじような背景は、東京でも造れる。こういう「都会の罠」というのは、あちらこちらの都会に仕掛けられているものだろう。

 映画のなかのひとつひとつのエピソードが痛切であり、どのシーンの背後にも痛みがある。‥‥映画って、ここまでも人の内面の傷を描けるものなのだと、驚いてしまったりもする。フェリーニがどうのこうのというまえに、傑作だと思う。とくにわたしは、主人公と父とのエピソードにぞっとしてしまった。ここでは主人公の「わたしと話してくれ」という望みを父が無視するけれども、わたしの場合はこれは立場が「逆」だった可能性もあった。この映画での父は、その夜のマルチェロの哀願に似た要請のことをこれっぽっちも記憶にとどめないだろうけれども、逆にわたしなどは父の要請を無視していたのかもしれない。それもまた「傷」である。

 もしかしたらわたしは、無意識のうちに「もう傷つきたくない」と、東京から逃げ出したのだろうか。



 

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■ 2013-01-02(Wed)

 きょうもまたしごと。いちおうあしたのしごとは非番だけれども、新年らしいわたしの休日は五日からの三連休ということになるだろう。

 やはりきょうもまたしごとはまるでなく、出勤時から待ち受けているしごとはあっという間にさばいてしまい、そのあとの、ほんらいならば別の倉庫へもっていくはずのしごとも終わらせてしまった。これが六時半にやってくるトラックも空状態で、いつもわたしたちが出かけてやる倉庫でのしごとが何もなくなってしまった。まさかトラックが空でくるとは思っていなかったので失敗した。わたしなどがやるしごとがなくなってしまっただけでなく、その倉庫へ荷を取りにくる運送の人たちのしごとまでなくなってしまった。運送の人に「倉庫にこっそり、一個でも持って行ってよ」とかいわれる。倉庫への便がなくなると、その分彼らの収入も減ってしまうということは知らなかった。思っていなかった結果とはいえ、わるいことをしてしまった。
 影響はもちろんわたし自身にもあって、そのあとはまるでやるしごとがなくなってしまった。職場にいてもしょうがないので、早退でいいからと上司にことわって帰宅した。

f:id:crosstalk:20130104092330j:image:left ニェネント用のまぐろの肉塊が、なんだか匂ってきた。いちおう賞味期限はきのうまでになっているし、このあたりが限界だろう。ニェネントももうまぐろがめずらしくもなくなってしまったのか、出してあげても飛びついてきたりしなくなった。

f:id:crosstalk:20130104092415j:image:right 昼からヴィデオを一本観て、本を読もうとベッドに横になる。BGMに何か聴こうと、CDのストックのなかからWynton Kelly の「Kelly Great」なんていうのを引っぱり出してきた。これもほんとうにひさしぶりにCDプレーヤーのトレイに乗せる一枚。‥‥まずはPhilly Joe Jones のドラムにあわせて、Wynton Kelly のスウイング感あふれたピアノが聴こえてくる。さいこう。やっぱこの一枚、いちばんのリラクシング・ミュージックだと思う。Miles Davis は彼のピアノを「タバコに火をつけるマッチだ。マッチがなければタバコを吸うことはできない」といったというけれど、まさにその通り。こむずかしいことを考えさせるのではなく、しかも甘ったるくもなく、心地よい世界へと連れて行ってくれる。ベッドの上に寝ころがって本を開くと、窓からの陽の光が本のページをあかるく照らしてくれるけれども、その陽のあたたかさと音のあたたかさとがマッチして、まるで別世界にいる気分になれる。Wynton Kelly には「Kelly Blue」だとか「Kelly at Midnight」などの名盤もあるけれど、わたしにはこの「Kelly Great」がダントツにすばらしく聴こえる。きっとゲストのLee Morgan やWayne Shorter の存在も大きいんだろう。やっぱWynton Kelly はフロント・アクトよりもサポートの音がすばらしく思える。Wes Montgomery との「Smokin' at the Half Note」もすばらしかった。‥‥しかし、あまりに心地よい音の響きにつつまれて、やはりあんのじょう寝てしまった。この昼寝のクセはよくない。薄暗くなってから目がさめ、あんだけリラクシング・ミュージックを聴いたのに、なんだかぐったりした感覚だけがのこる。

 暗くなってから外へ買い物に出た。このところこのあたりをよるになって歩くことはまるでなくなってしまっているので、コンビニや居酒屋のよるの明かりが、なんだかとっても美しく感じられてしまう。それにいまは年末年始というので、駅前からの桜並木に青いLEDのイルミネーションが飾られている。けっこういいかげんな飾り付けなんだけれども、ファンタスティックといえばファンタスティックなんだろう。

 帰宅してきのうつくったビーフシチューで夕食をとり、ニェネントにはまた「まぐろ肉」を出してあげる。まだもう一回分ぐらいは残っているけれど、やっぱり匂う。

 寝るまえにまた読んでいる「エコー・メイカー」を開き、このよるはけっこう読み進んだ。


 

[]「ラムの大通り」(1971) ロベール・アンリコ:監督 「ラムの大通り」(1971)  ロベール・アンリコ:監督を含むブックマーク

 ブリジッド・バルドーとリノ・ヴァンチュラの共演で、監督は「冒険者たち」のロベール・アンリコ、音楽はフランソワ・ド・ルーベ。いってみれば映画への愛とノスタルジーで成り立つ作品なんだろう。こういう作風の映画を撮る日本の監督もいたっけな。その日本の監督とここでのロベール・アンリコに共通することだけれども、わるいけど、作品を組み立てる技術はいまいち。ノスタルジーにひたっているだけでは映画は出来はしないと思う。


 

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■ 2013-01-01(Tue)

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 あたらしい年も、ふだんと変わらずにいつものしごとからはじまる。アラームで目覚めても外はまだまっくら。ベッドから起き上がって着替え、外に出る。ニェネントはまだ、ベッドの上で丸くなって寝ている。
 きょうは同僚のAさんとふたりだけの現場。やはりしごと量も少なく、あっという間に終わってしまう。あとはAさんと雑談をしたりして、のんびりした新年である。AさんはずっとBSTVで高倉健さんの映画の放映を観ていて、昨夜から寝ていないという。さいごに「昭和残侠伝」をやっていたのが、出勤じかんに重なってしまって観られなかったのがざんねんだと。あれ、それってわたしもチェックしていて録画しておこうと思っていたヤツではないのかしらん。わたしはてっきりあしたかあさっての放映だと思っていたので、録画予約もやっていない。しかし、Aさんにそういう趣味がおありだったとは知らなかった。Aさんのはなしでは、その「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」の舞台は宇都宮だったということ。それでこのあたりが舞台になった作品のはなしになり、「座頭市」の出身地は笠間であり、彼の剣術の師匠はこの土地の人間で、この土地が舞台になった「座頭市」の作品もあるんだと話すと、Aさんもちょっとおどろいていた。座頭市がうろちょろしていたのはいつもこのあたりではあった。

 しごとのあいまに、しごと場からみた初日の出をケータイで撮っておいた。このあたりの初日の出はちょうど筑波山にかかるのでなかなかのスポットなのだけれども、撮ってみたら陽のひかりがまぶしくって、筑波山がどこにあるのかわからないフォトになった(上の画像がそれ)。とにかくは元旦としてはすばらしい晴天で、なんとなくしごとのあとにふらっと出かけてみたい気分にはなった。

 しごとを終えて帰宅して、ニェネントにまた「まぐろ肉」をこまかくして出してあげる。ニェネントよろこぶ。ニェネントも、これが三回目のお正月である。ことしもよろしくね。わたしの朝食はりんごのジュースだけにした。

 午後からヴィデオを観て、ねむくなってまた昼寝してしまった。あんまり昼寝するのが習慣になってしまうのはイヤだ。昼寝から目覚めるともうあたりは暗くなってしまっているし、なんだか貴重なじかんを失ってしまった気分になる。よるもなにをするでもなく、ただ夕食にビーフシチューをいっぱいつくって食べて、それでまた寝てしまった。

 ‥‥もしもわたしのなかにまだ「明かり」があるのだったら、その明かりが、わたしの進むみちを照らしてくれるように。


 

[]「洲崎パラダイス 赤信号」(1956) 川島雄三:監督 「洲崎パラダイス 赤信号」(1956)  川島雄三:監督を含むブックマーク

 新年にさいしょに観るんだったらコレがいいな、というので「洲崎パラダイス 赤信号」を観た。パラダイスが目のまえにあって、それで赤信号がともっている。そういう情況をわたしは観てみたい。

 まずは冒頭の、橋のたもとで新珠三千代と三橋達也が「これからどうする?」と語る場面のカット割りの多彩さに圧倒されてしまう。撮影は高村倉太郎という人。たんじゅんな切り返しではなくって、カメラをあっちにやったりこっちにもってきたり、なんていうのか、みんながあなたがたふたりをみているのよ、みたいな。そのあと二人がバスに乗ってからの映像もすばらしい。ここは知っている人がみればこの二人がどの路線バスに乗ってどこ行きに乗り換えたのか、ちゃんとわかることになっているらしい。現地ロケということを最大限に活かした作品なんだろう。

 それで、なんどもなんどもうつされる「洲崎大門」の「パラダイス」の文字。‥‥これって、「ツィゴイネルワイゼン」での釈迦堂の切り通しなんじゃないの、って感じである。
 せんじつ、図書館かどこかでちょっと拾い読みした本のなかで、鈴木清順監督がこの川島雄三監督のことをあまり評価していないようなことが書かれていたけれども、なんかこうやって「洲崎パラダイス 赤信号」を観返してみると、それってつまりは近親憎悪に近いところもあるんじゃないかと思ったりする。コンセプトはちがうのだけれども、ここでの洲崎大門の「あっち側」と「こっち側」というのはやはり、「釈迦堂の切り通し」に通底しているのではないかという気はする。もちろんここで鈴木清順監督が模倣していたなどというつもりはまるでないけれども、どこかここでの新珠三千代と三橋達也との「じと〜」とした感覚というのは、鈴木清順監督の作品のなかにもあるんじゃないだろうかと思った。ちがうはなしだけれども、たとえば黒沢清監督はミヒャエル・ハネケ監督のことを「だいっきらいだ」というけれども、この二人の作品を観ると「似ているところあるじゃん」という気はするし、そこまで反目するものでもないだろうと思ったりする。それは「近親憎悪」なんじゃないの、と。

 「赤信号」というよりは「黄信号」とでもいうような、けっきょくはまた最初のシーンにもどってしまう二人だけれども、黄信号だったらまだ走って行けば突破できるかも、というのがまだ、このラストでもこわい感覚。

 きょねん亡くなられた小沢昭一氏だとか、芦川いづみ、轟夕起子などの助演陣の存在感もすばらしい。わたしは川島雄三監督の作品をそんなにいっぱい観ているわけではないけれども、とりあえずはこの作品がいちばん。



 

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