ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-04-30(Tue)

 くすりも切れたので、きょうはしごとのあとに内科クリニックへ通院。連休にはさまった開業日のせいだろうけれども、病院内のまちあい室のソファーがほとんどぜんぶ、じゅんばんをまつ人でうまっていた。午後から出なおした方がいいんじゃないかともおもったけれども、まっているときに読む本ももってきているので、そのままじゅんばんをまつことにした。かろうじてあいているソファーにすわって、ずっと本を読んだ。一じかん半またされ、おかげで本をぜんぶ読みおえることもできた。
 ようやく診察の番がまわってきて、いつものように「おかわりありませんか」ときかれ、「風邪をひいちゃいました」とこたえた。「そちらも診察しましょうか?」といわれたけれども、もう熱があるわけでもないし、あとは放置しておいても快方にむかうだけだろうから、そっちの診察はけっこうですとこたえた。よけいなくすりを出されたりしてもしょうがない。‥‥血圧の方もずっと安定しているので、またくすりが一種類、かるいものにかわった。まいあさ服用するくすりが四種類、あさひるばんとのむものが一種類。

 きょうはあさからくもっていて、天気予報ではまた雷雨になるようなことをいっていたけれど、しごと中にすこしだけ雨になっただけで、あらしみたいな天気にはならなかった。でもあまりあたたかい日ではなかった。まだまだからだは本調子でもなく、また昼寝をいっぱいしてすごした。昼食は納豆ですませ、夕食はのこっていたごはんをインスタントのチャーハンの素で炒めたもの。こういうインスタントのチャーハンとかいうのはどうしてこうまでにしょっぱいのか。これだったらただ塩でごはんを炒め、玉子をからめただけの方がよほどおいしいのではないのかとおもったりする。

 どうも、「コモンウェルス」の上巻の、きょう読んだおわりの方の「愛だぜ! 愛!」ってぶぶんが解せなくて、そういうつもりからでもないけれど、まえから読みさしで放置してあった神谷美恵子の「生きがいについて」をまた読みはじめた。冒頭のぶぶんでちょっとばかし、そういうネグリ/ハートへの疑問もじぶんのなかであらわになった気もした。


 

[]「コモンウェルス <帝国>を超える革命論」(上)アントニオ・ネグリ/マイケル・ハ−ト:著 水嶋一憲:監訳 幾島幸子・古賀祥子:訳 「コモンウェルス <帝国>を超える革命論」(上)アントニオ・ネグリ/マイケル・ハ−ト:著 水嶋一憲:監訳 幾島幸子・古賀祥子:訳を含むブックマーク

 そんなに難解な書物というわけでもないのに、なかなか読みおえられなかった。やはり読書力が低下してきているのかと心配になる。

 この上巻には、第一部・共和制(と貧者のマルチチュード)、第二部・近代性(と別の近代性の風景)、そして第三部・資本(と<共>的な富をめぐる闘い)、そして間奏曲として「悪と闘う力」というみじかい章までが掲載されている。それで、第二部あたりまではひじょうに共感しながら読みすすめていた。とくに「近代性(モダニティ)」というものへの疑問には共感することがおおく、そこへの対立項、オルタナティヴな近代という視点にも同意した。‥‥しかし、これって、六十年代のヒッピーなんじゃないの?ってな疑問もでてくるわけで、読みすすめるにつれてだんだんに「愛よ!愛!」という声がつよくなりもするわけで、いよいよもってヒッピーじゃん、みたいなことにもなる。<同>ではなく、<共>にこそ価値があるというのにもまた、むかしのコミューンをおもいださせられる。

 ネグリ/ハートはここで、善悪の二元論でものごとを分類するのではなく、愛でもなんでも、「腐敗」したものを排除するのだという。わたしだって、冷蔵庫のなかで腐敗していきそうなものは注意深くとりのぞく努力はおこたっていない。しかし、腐敗していくものとは「愛」だとか「共同体」だとか、そういう「外」にあるものではなく、「人」そのものだったりするのではないのか。そしてまた、そういう腐敗の温床ともいえる「権力」を、いったいどのように排除していくというのか? このあたりの疑問は、下巻を読まないことにはなんとも解決がつかないわけである。そういうわけで下巻へつづく。


 

[]二○一三年四月のおさらい 二○一三年四月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「吉原炎上」(1987) 五社英雄:監督
●「愛、アムール」ミヒャエル・ハネケ:監督

読書:
●「2666」ロベルト・ボラーニョ:著 野谷文昭・内田兆史・久野量一:訳
●「コモンウェルス <帝国>を超える革命論」(上)アントニオ・ネグリ/マイケル・ハ-ト:著 水嶋一憲:監訳 幾島幸子・古賀祥子:訳

DVD/ヴィデオ:
●「風と共に去りぬ」(1939) マーガレット・ミッチェル:原作 ヴィクター・フレミング:監督
●「幽霊紐育を歩く」(1941) アレクサンダー・ホール:監督
●「パルムの僧院 完全版」(1947) クリスチャン・ジャック:監督
●「オール・ザ・キングスメン」(1949) ロバート・ロッセン:監督
●「アパッチ」(1954) ロバート・アルドリッチ:監督
●「戦場にかける橋」(1957) デヴィッド・リーン:監督
●「勝負師」(1958) クロード・オータン=ララ:監督
●「荒野の用心棒」(1964) セルジオ・レオーネ:監督
●「夕陽のガンマン」(1965) セルジオ・レオーネ:監督
●「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」(1966) セルジオ・レオーネ:監督
●「グレートレース」(1965) ブレイク・エドワーズ:監督
●「存在の耐えられない軽さ」(1987) フィリップ・カウフマン:監督
●「OSS 117 私を愛したカフェオーレ」(2006) ミシェル・アザナヴィシウス:監督
●「JUNO/ジュノ」(2007) ジェイソン・ライトマン:監督
●「シルビアのいる街で」(2007) ホセ・ルイス・ゲリン:監督
●「OSS 117 リオデジャネイロ応答なし」(2009) ミシェル・アザナヴィシウス:監督
●「スペル (Drag Me to Hell)」(2009) サム・ライミ:監督
●「エレクトリック・ミスト 霧の捜査線」(2009) ベルトラン・タヴェルニエ:監督
●「ファンタスティック Mr.FOX」(2009) ウェス・アンダーソン:監督
●「ソーシャル・ネットワーク」(2010) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「ウィンターズ・ボーン」(2010) デブラ・グラニク:監督
●「禁断メルヘン 眠れる森の美女」(2010) カトリーヌ・ブレイヤ:監督
●「インモータルズ -神々の戦い-」(2011) ターセム・シン:監督
●「ダーク・シャドウ」(2012) ティム・バートン:監督
●「スノーホワイト」(2012) ルパート・サンダース:監督
●「月形半平太」(1952) 内出好吉:監督
●「毒婦高橋お伝」(1958) 中川信夫:監督
●「女吸血鬼」(1959) 中川信夫:監督
●「早射ち野郎」(1961) 野村孝:監督
●「雪の喪章」(1967) 三隅研次:監督
●「御用金」(1969) 五社英雄:監督
●「HOUSE ハウス」(1977) 大林宣彦:監督
●「五番町夕霧楼」(1980) 水上勉:原作 中島丈博:脚本 山根成之:監督
●「戦場のメリークリスマス」(1983) 大島渚:監督
●「勝手にしやがれ!! 強奪計画」(1995) 黒沢清:監督
●「勝手にしやがれ!! 脱出計画」(1995) 黒沢清:監督
●「勝手にしやがれ!!黄金計画」(1996) 黒沢清:監督
●「テルマエ・ロマエ」(2012) 武内英樹:監督

 

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■ 2013-04-29(Mon)

 きょうもすっかり風邪。しかしきょうはしごとがある。がんばって通勤まえにコンビニでマスクを買って、出勤した。ちなみに、わが家を出て一分歩くとコンビニがある。もちろん(こんな田舎でも)二十四時間営業である。そのコンビニを出て三十秒ほど歩くと、わが職場に到着する。もうせけんてきには黄金連休に突入したことだから、しごと量も激減しているだろうと予測していたけれども、やはり楽勝のいちにちだった。風邪などなんのその。終業いちじかん半ぐらいまえにはやることはすべて完了。なんとなくぶらぶらしていて、さいごのいちじかんは公認の休憩じかんになった。休憩室(きょうはいつもの倉庫には行かなかったから、ここには休憩室がちゃんとある)にいって、TVでもみましょうかと、ちょうど「あまちゃん」のはじまるじかんなのでチャンネルをあわせると、なんとこの休憩室のTVはそのチャンネルがうつらないということ。受信料払ってないのかもしれないけど、ちょっとショックだった。

f:id:crosstalk:20130430174328j:image:left いちじかんばっちり休憩室で休憩して終業。帰宅するとやっぱり風邪なわけだから、ぐったりとしてしまう。なにを食べてもおいしくはない。TVのまえに寝ころがって録画してあった映画をひとつみて、やっぱだるいのでベッドに移動してそのまま寝てしまった。またきょうもいっぱい寝た。‥‥よなかにちょっと目がさめたら、ベッドのすぐ下でニェネントが丸くなっていたので、抱き上げてベッドのなかに入れちゃって、いっしょに寝た。


 

[]「スノーホワイト」(2012) ルパート・サンダース:監督 「スノーホワイト」(2012)  ルパート・サンダース:監督を含むブックマーク

 ‥‥おもしろいじゃん! ちとばかし前半でのシャーリーズ・セロンだとかその弟役のサム・スプルエルとかの力みすぎというか暴走ぶりが目にあまるところもあるし、「えっ?」っという脚本の暴走もなきにしもあらすだけれども、この監督さんの美意識というか、光と闇、色彩感覚は好き。いいショットもいっぱいある。シャーリーズ・セロンが玉座のまえにエリック(クリス・ヘムズワース)を迎え入れる場面の、逆光をとらえたショットなんか、構図をふくめてものすごく美しい。で、だんだんにみていくと、「これって宮崎駿じゃん!」とか、さらにそのあとは「ロード・オブ・ザ・リング」じゃん!みたいなことにはなるのだけれども、いちおうそのあたりではもうドラマとしての牽引力は獲得しているところもあるので、「ま、いいか」みたいな気分ではみられる。まあハリウッドとしての意地ということもあるんだろうけれども、というか、そういう光と影の演出力には魅力は感じた。みていて、軟弱なウィリアムなんかよりも、無骨だけれどもちゃんと背景をもっているエリックがぜったいいいよね!なんて感情移入して、ちゃあんとそういう展開になるところがすっごくうれしかった(まあ風邪ひいてみているんだからしかたがありません)。そもそもわたしは、この白雪姫役のクリステン・スチュワートが好きなのである。すいません。

 この監督のルパート・サンダースという人は、イギリス出身の方らしい。小人たちが唄ったり奏でたりする音楽がイギリスの伝承歌っぽくってよかったな、などとおもっていたら、さいごのクレジットをみると、なんとJune Tabor とMaddy Prior の作になる曲を使っているとのクレジットがあった。Silly Sisters である。ここで使われていたのは彼女らのセカンド・アルバム、「No More To The Dance」の一曲め、「What Will We Do?」という曲だったようである。‥‥わたしはもうこの曲の記憶などないのだけれども、とにかくは映画のなかでJune Tabor とMaddy Prior の曲を使ってくれるなんて! それだけでわたしはもうこの監督を応援してしまうのである。なんせ、風邪ひいてますから。


 

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■ 2013-04-28(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 すっかり風邪。風邪をひくというのもひさしぶりのことだとおもう。こうやってブログとかの形式で日記を書いていて便利なのは、「風邪」とかで検索すると、このまえにいつ風邪をひいたのかがわかること。しらべたら、きょねんの三月いらいのことだった。いちねんかんいじょう風邪をひかなかったわけだ。しかしそれで健康だったわけではなく、もっとやっかいなことになってしまって入院したりしているのだから、ちっとも自慢できない。

 ‥‥なにもする気になれず、ずっとベッドで横になっている。おくられてきていた五月の「ひかりTV」と「WOWOW」の番組表をみてすごす。「ひかりTV」はいよいよもって、興味をもてる作品の放映がすくなくなっている。これだったらDVDをレンタルする方がよほど安上がりだろう。「これはみたい」というのは、ベルイマンの「野いちご」と「処女の泉」、それに青山真治の「EUREKA」、吉田喜重の「嵐が丘」ぐらいのものか。そのあたり「WOWOW」は充実しているというか、うれしい作品の放映がおおい。五月は日活時代の鈴木清順監督の特集もやるし(みたことのある作品がほとんどだけれども)、「アメリカン・ニューシネマ特集」ということでまえからみたかった「真夜中のパーティー」や「小さな巨人」もやる。「風にそよぐ草」もやってくれるし、みたかった「SHAME」もやる。

 ニェネントをかまってやらないので、「つまんないの」というように、ニェネントが部屋じゅうを走りまわっている。夕方の四時ごろになって、「もうこのまま寝ちゃおう」ということにして、目をとじた。よるの九時とか十二時ごろにちょっとめざめたけれど、そんなじかんから起きだしてもしょうがないのでそのまま寝た。夕食をとるのをわすれた。


 

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■ 2013-04-27(Sat)

 あさめざめたら、のどのおくに違和感があった。これはたぶん、「風邪」の前兆である。きのう寝るときに毛布をはずしてしまったのがいけなかったのだろうか。まだまだ毛布はひつようだったのだ。まだ悪寒がするとかいうこともなく、のどの違和感いがいに症状もないし、こうなってしまうと(いままでの経験から)どんなにもがいても二十四時間ぐらいで本格的な風邪になってしまう。きょうは東京にCDやDVDを売却に行くことにしてあったし、いまさらその予定をキャンセルすることもないのである。予定どおりに東京にでかけることにする。空は晴天だし、春の空気も気もちいいではないか。

 せっかくだから映画でもみてみようかと、風邪の前兆があるわりにはとんでもないことをかんがえ、ほんとうはレオス・カラックスの新作をみたい気もちもあるのだけれども、きょう行くのは新宿だし、新宿の映画館でみたいものをさがす。すると、まだハネケ監督の「愛、アムール」をやっているところがあって、その上映じかんもちょうどいいので、これをみにいくことにした。

 昼食(いぜん買ったラーメンがまだのこっている)を食べてから、ニェネントの食事を皿にだしてあげてからゆっくりと出発。
 新宿に到着し、まずはCDとDVDを買い取りの店にもっていく。そのあと映画をみて、終映後に買い取りの店にもどると、ちょうど査定がおわっている。なんとCDがすべて買い取りの対象外ということで、ちょっとばかしショックをうけるけれども、買い取ってくれたDVD四枚で八千円をこえたので、「これはこれでいいだろう」と承諾。‥‥もともとのこりのCDは、まとめて千円にでもなればめっけもの、ぐらいの気もちでいたわけだし、いいのだ。

 まだそんなにおそいじかんでもないので、ひさびさに下北沢にでて、「G」によってみる。小田急の駅が地下にもぐってからははじめての下北沢。旧駅の、これはもう廃墟みたいな建造が、まだそのままむきだしでのこされているのがおもしろい。おもしろい空間だとおもった。なんか、いまだからこそできる活用法がありそうにおもうのだけれども。

 「G」のカウンター席には、おふたりの先客がいらっしゃった。カウンターのなかにはFさん。「CDを買ってもらえなかったので、ここでほしいという人にあげちゃうわ」とここまでもってきたCDをぶちまけると、カウンター席のふたりのお客さんが興味を示してくださった。CDのほとんどはBlue Note のジャズのアルバムだったのだけれども、ちょうどわたしがくるまえに、カウンター席のおふたりでジャズのお話とかをされていたらしい。ある意味、最上のタイミングでもあった。ほとんどのアルバムをよろこんで引き取っていただき、のこったものは店で引き取っていただいた。そう、カウンター席にいらっしゃったおふたりはどちらも美術の作家の方で、しかもそのおひとりは、わたしが近年みていちばん感銘をうけた作品の作者の方その人であられたのである。共通の知人もあれこれとあり、いろいろと話もはずんでしまった。

 ちょうどこの店で聴かせてもらおうとHope Sandoval の「Through The Devil Softly」を持参していたので、これをかけてもらった。‥‥わたしの部屋で聴くのとはぜんぜんちがう音のひびき方で、こっちの方が数段にヤバかった。カウンター席のおふたりも、「これはあぶないねえ」という反応。「ツイン・ピークス」を思いうかべるなどとのご意見をきき、そうか、なるほどねえ、などとおもう。


 

[]「愛、アムール」ミヒャエル・ハネケ:監督 「愛、アムール」ミヒャエル・ハネケ:監督を含むブックマーク

 けっこうおそろしい話を、ぜったいにエキセントリックにならない落ち着いた演出でみせられ、やはりハネケだなあと感心した。ふつうの人ならば身につまされるような話だろうけれども、わたしは独り暮らしだし、「フン、他人事よ」みたいな意識ではみていた。

 映画の終盤に部屋のなかにハトが窓から迷いこんできて、それをだんなさんのジャン=ルイ・トランティニアンがつかまえる。‥‥いままでのハネケの作品では、こういう鳥だとか動物はたいてい殺される。たとえば「隠された記憶」でのニワトリだとか、「白いリボン」でのインコだとかをおもいうかべてしまうから、「ああ、また殺しちゃうんだな」なんて不遜なことをおもってしまう。でもそういう展開にはならず、ジャン=ルイ・トランティニアンは、おそらくは彼の遺書になるのであろう手紙のなかで、「ハトが部屋に迷いこんできたのをつかまえて逃がしてやった」と書く。映画ではそういう逃がしてやるシーンはないので、「ほんとうはあのハトは殺しちゃってるんじゃないのか」なんて、またもや不遜なことをおもってしまうわたし。‥‥しかし、そのハトを捕らえるとき、ジャン=ルイ・トランティニアンは、布をハトにかぶせて捕らえる。かんがえてみれば、この「布をかぶせる」という行為が、この映画での別の重要な行為を想起させられることになるわけで、そうすると、ここで彼はそのハトを殺したりするわけがないのである。それで、たいていの演出ではここで彼が窓からハトを逃がしてやるショットを入れるのだろうけれども、ハネケはそういうことはやらない。なんか、ここにこそ、この作品の「キモ」があるんじゃないかとおもった。「かんじんのことはみせない」というハネケ監督の演出術が、ここでも生きているんだなあという感想をもった。


 

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■ 2013-04-26(Fri)

 べつに世間のゴールデンウィークにあわせてくれたわけでもないだろうけれども、あしたとあさってはしごとが非番で連休。ちなみに、そのあとは五月一日がやすみで、それから四日と五日がまた連休になる。なんとなく、ゴールデンウィークっぽいところはある。それでもやすみだからといって旅行できるような経済状態なわけもなく、ぎゃくにこの住処の契約更新でいっぱいお金をとられた。いまの感覚では、六月末にわずかながらのボーナスが支給されるまで、かなりきつい財政状態がつづくんじゃないかと予測している。その財政状態をいくらかでも緩和するため、もう聴かないCDだとか、もうみないDVDを処分売却しようとかんがえている。いちおうこんかいの売却のめだまは、タルコフスキーの「ストーカー」のDVD(いまは廃盤)と、エイゼンシュテインのボックスセットあたり。うまくいけばこの二点だけでいちまんえんとかいっちゃうかもしれないと、それこそ皮算用している。その売却にきょうあたりでかけてみようとおもっていたんだけれども、天気予報では関東は午後からあらしになるようなことをいっている。このあたりのJRはちょっとした風やかみなりですぐにストップしてしまうので、でかけても帰ってこれなくなるとヤバい。きょうはでかけるのはやめることにした。

 土曜日なので、あさの「あまちゃん」がいっしゅうかんぶん、まとめてみれる。ときどきは昼の再放送をみているのだけれども、こんしゅうは「アイドル」をめぐる展開で、またまたがぜんおもしろくなった気がしている。小泉今日子にあまちゃんが「アイドルってどうよ」ってきくだけで笑えるし、そのお母さん役の小泉今日子がわかいころ、安全地帯のレコードを買っていたとなると爆笑してしまう。‥‥まいしゅう、土曜日はその再放送をDVDレコーダーについているHDDに録画しちゃっているのだけれども、きょうはためしに予約録画をはじめてやってみた。ちゃんと録画できた。ということは、いまほとんど満杯になってしまったチューナーにじかづけしてあるHDDのかわりに、このDVDレコーダーのHDDをつかえることになる。そのうちになんとか、いまのHDDのなかみはどこかに移植するとかなんとかしようとおもっていいるけれども、それは経済的にももうちっと先のこと。それまでのつなぎに、このHDDは活用できそうである。

f:id:crosstalk:20130428134819j:image:right ゆうがたになって、やはり予報どおりに外がずんずんと暗くなってきて、風の音がゴーゴーとひびくようになった。ニェネントがパソコンのうえにあがり、窓の外をいっしんにじっとみている。わきでみているとなにかかんがえごとをしているみたいで、すごく賢こそうにみえる。やはりどこかにおかあさんのミイのおもかげがみえるようで、なおのこと、いとおしくおもった。そのうちに雨がふりはじめ、雷鳴がとどろくようになった。ニェネントはそのまましばらく、窓の外をながめつづけていた。

 きょうもヴィデオを二本みて、きのうののこりのカレーで夕食にした。

 

[]「女吸血鬼」(1959) 中川信夫:監督 「女吸血鬼」(1959)  中川信夫:監督を含むブックマーク

 テロップをみていると、この原作は橘外男だということ。監督はこの年に「東海道四谷怪談」を撮っている中川信夫だし、主演は天知茂。そりゃあおもしろそうだと期待したのだけれども、がっくりした。これはもう脚本がめちゃくちゃで、登場人物たちの行動の意味がまるでわからないシーンばっかり。それに「女吸血鬼」というタイトルは大ウソで、ただ天知茂の吸血鬼に囚われているだけ。まあこういうのは新東宝の作品にはよくあることなので、そんなに怒る気もしないけれども。

 後半に出てくる地下要塞というか地下城はなかなかのものといえるだろうし、この映画のなかでカナメになるポイントとして、その囚われた女性を描いた油彩画が登場するのだけれども、これがけっこういい出来だとおもった。おそらくはそれなりの手慣れた画家に依頼して描いてもらったんだろう。こういう大道具、小道具、美術では手を抜いたりしないのが中川信夫監督。


 

[]「勝手にしやがれ!!黄金計画」(1996) 黒沢清:監督 「勝手にしやがれ!!黄金計画」(1996)  黒沢清:監督を含むブックマーク

 めっちゃおもしろかった。こんかいからんでくるヒロインが藤谷美紀というのもすばらしいんだけれども、そのキャラクター造形もすてきである。きっとじっさいに彼女はこういうキャラクターなところがあるんじゃないだろうか。そんな彼女がちゃっと歌いだすシーンなんかをごく自然に演出している。あとはワンショットのなかで複数の人物が交差する、その交差のさせ方がとってもおもしろい。「宝の地図」という、だれもが空想した子ども時代の夢想を、ここまでにおとなの世界によみがえらせた作品なんてないんじゃないだろうか。けっしてビターなところにおちつかずに着地するのもすばらしい。悪徳刑事を怪演していた大鷹明良という方、まえからそのお顔は存じ上げていたけれども、ようやくそのお名まえもわかった。って、「流山児★事務所」の方だったのか。きっと、彼の出ていた舞台もみたことがあるだろう。


 

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■ 2013-04-25(Thu)

 このところ、ちょっと肌寒い日がつづいていて、カラッとした晴天というのもあまりなかったのだけれども、きょうは出勤するときから晴れていて、春だなあという天候だった。出勤するときに、もうずいぶんと外があかるくなっているのにおどろいた。

 しごとをおえて帰宅して、録画してあった「蜷川幸雄×イスラエル『トロイアの女たち』」をとらえたドキュメンタリーをみた。またむかしのはなしになるけれども、このエウリピデスの「トロイアの女たち」の舞台というもの、はたちぐらいのころに、そのころわたしの「おねえさん」だったすてきな年上の女性ふたり(ひょっとしたら三人だったかな?)と、いっしょに観にいったことがある(わたしは「おとうと」だったんだろうか)。鈴木忠司演出、白石加代子と市原悦子の主演だった。いまでもあのときの舞台が少々記憶にのこっているのは、その舞台のちからだったのか、わたしと並んで観ていたすてきなおねえさまがたのおかげだったのか、そりゃあいまではもうわからない。その白石加代子さん、こんかいの「トロイアの女たち」にも出演されている。

 さて、そのドキュメンタリー、いちいちカテゴリー分けしてべつにまとめて書くものでもないのでここに書いておくけれども、そのきょねんのくれに上演された蜷川演出の「トロイアの女たち」の背景、稽古風景などをとらえたもの。まず蜷川氏は、この舞台のイスラエルとの共同製作をもちかけられたとき、いっしょにアラブ系の俳優を参加させるという条件を提示したらしい。これはよくわかる。日本の舞台観客にはそれなりにアンチ・イスラエルな人たちがおおい。イスラエルから来日する舞台公演は観にいかないといっている人もわたしは知っているし、もしもただ蜷川氏がイスラエルとの共同作業で舞台演出をてがけたなら、そのことを批判する人もおおぜいでてきたことだろうとおもう。だから舞台には白石加代子ら日本人役者さんたちの日本語、ユダヤ系の役者さんたちのヘブライ語、そしてアラブ系の方々のアラビア語が並立することになると。

 このドキュメンタリーの稽古風景をみていると、蜷川氏にも「はたしてどうやったら?」というところはあったようだけれども、それを稽古をつみかさねるうちに舞台のなかに求心性をみつけていく、あたえていく過程はとっても興味深かった。‥‥じつはわたしは蜷川幸雄氏の舞台というのはほとんど観てなくって、これもはたちぐらいのころに、「櫻社」での「盲導犬」(ことし、蜷川氏はまたその「盲導犬」をやるらしい)を観たことがあるくらい。あのときはなぜかなぜか、ほとんど会話したこともない櫻社のスタッフの人に誘われて、招待されての観劇だったけれど、あの櫻社の人はわたしをスカウトしようとしていたのかしらんと、調子にのっておもいだすこともある。‥‥まあそんなことはどーでもいーけれども、このドキュメンタリーの終盤でみられる稽古風景からはたしかにちから強いものを感じたし、舞台本番も観てみたくなった(って、じつはすでにWOWOWで放映されたものを録画してあるんだけれども、まあ体調のいいときにでも観ましょう)。それと、なんというか、蜷川幸雄氏の若々しさというものにも感銘をうけたというか、とても七十七歳とはおもえない。わたしもできるならずっと、あのくらいの元気さをもって、これから先をニェネントといっしょに生きていきたいとおもったわけである。

 ドキュメンタリーのなかで蜷川氏がちょっと、こころにのこることをおっしゃっていた。こういうところにも蜷川氏の若さがあるんだろうとおもった。書き写しておく。

 演劇というのは日常生活に似ていて、毎日おなじことをくりかえしていくんですね。そのなかであたらしい刺激を発見しながら、日々あらたに日常生活をおくっていく、それを大事にすることが演劇の生命を保証することなんだというふうに、ボクは考えています。

 ‥‥まあ、こういうことばがこころにのこってしまうというのも、わたしの「老化」なんだろうけれどもね。

f:id:crosstalk:20130427085929j:image:right 午後からは録画してあった映画をふたつみて、ニェネントとあそんで、再生させたカレーで夕食をすませ、そのあとは本を読みながら寝た。


 

[]「HOUSE ハウス」(1977) 大林宣彦:監督 「HOUSE ハウス」(1977)  大林宣彦:監督を含むブックマーク

 じつは、いままでこの映画のことはほとんど知らないでいたのだけれども、ただ公開当時に映画館でこの映画をみて、ショック死された方がいたという新聞記事は、読んだ記憶がある。いちおうホラー映画なんだろう、ぐらいの認識でみはじめた。

 ‥‥ああそうか、大林宣彦という人はCMディレクターの出自だったわけだなあという、つまりはイメージショットの連続。コマーシャル的なキャッチーな画像処理がどこまでもつづく。切れ目なしに音楽もつづくし、「こりゃあ永久にふつうのドラマにはおちつかないな」と予測する。しかし、その予測いじょうに映像は過激に過激にエスカレートするというか。それでもって、それがじつにキッチュというか、アート臭さがまるっきし匂わない。たとえばシュヴァンクマイエルなんかにもこういうところはあるし、シュヴァンクマイエルも映像ではないコラージュの平面作品などをみるとめっちゃキッチュなんだけれども、そんな彼でも映像になるとなんかシュルレアリスト的な主張があるというか、「これが映画芸術のオルタナティヴ」みたいなところはあるのだけれども、この「HOUSE ハウス」にはそんな主張なんかありまっせんというか、からっぽ、というか。それが、そのことがぎゃくにすごい。からっぽなのにそうぞうしいことおびただしい。純正ノイズとでもいうべきか。暴走かげんでいえば、それは「なにわ天閣」氏の作品の方がいっちゃってるかもしれないけれども、とにかく商業映画の枠内でこんなことをやってしまうなんて。‥‥ちょっとばかし、(大場久美子の「寄り目」にも)感動した。


 

[]「禁断メルヘン 眠れる森の美女」(2010) カトリーヌ・ブレイヤ:監督 「禁断メルヘン 眠れる森の美女」(2010)  カトリーヌ・ブレイヤ:監督を含むブックマーク

 まえに「青ひげ」を観たことのあるカトリーヌ・ブレイヤ監督の、また「おとぎばなし」ものというか。まあ「禁断メルヘン」という接頭辞はちとオーバーな気がしないでもない。

 いってみれば現代の女性が「わたしが<眠れる森の美女>だったら」との夢想をそのまま映像にしたようなものだけれども、このストーリーテリングがたくみというか、まえの「青ひげ」でもおもったけれども、物語のころがし方がうまい監督さんだとおもう。その夢想のなかで眠るヒロインは眠りのなかで夢をみていて、つまりは入れ子構造というか、終盤までいくと、これが二重の入れ子になっていたことがわかる。内側のその夢のなかでヒロインは「雪の女王」に囚われた男の子を「永遠の恋人」と追い求めているわけだけれども、このあたり、ヒロインの夢想のなかでの「おとぎばなし」的な展開での、出演者たち、美術、撮影、演出がみんなとてもいい。いってみればティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」的なものでもあるのだけれども、これは演出力の面でははっきり「月とスッポン」。いうまでもないけれど、こっちの方がいいにきまってる。

 ヒロインは「夢」から醒め、げんじつの世界にもどり、そこで雪の女王に囚われていた「永遠の恋人」(の子孫ということ)にめぐりあい、恋をするというか、セックスをする。それで妊娠するのだけれども、男に「あなたは永遠の恋人なんかじゃない、永遠なんて存在しない」といって別れるのである。まあ「夢想」からも卒業したってことなんだろう。

 少女期の夢から思春期の夢想を経て、おとなとして成長していく女性を描いたものとしては、けっこう思いつきは平凡(といっては失礼だけれども)というか、こういう観念的なストーリーラインは思いつく人もいそうな気はする。それでもストーリーラインを包括した演出力をもつこの監督さんは、けっこういいのではないのか。


 

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■ 2013-04-24(Wed)

 あさめざめたとき、なんだかずいぶんと長いじかん熟睡していた気がした。それだけでなく、きのうのことがずっとむかしのことだったようにおもえる。記憶にフィルターがかかってしまったように、つい十じかんほどまえのことが、すぐ手にとどくところにあるはずなのによくみえない、そういう気もちがする。認知症の前兆かいな、などとろくでもないことをかんがえる。たとえTVに出ているちょくせつはしらない人のことでも、認知症なんて呼んじゃいけないなと反省してみた。‥‥このところずっと、おとといもきのうも、The One AM Radioの「The Harvest」ばっかし聴きつづけているので、それでちょっとおかしくなってしまったのかもしれない、などとおもったりもした。

f:id:crosstalk:20130426114952j:image:left ふと、わたしのまわりでうろうろしているニェネントの顔をみると、きゅうに成長しておとなびた顔になったような気がした。すこし、おかあさんネコのミイにも似てきたようにも感じた。そのうちにまたガキネコのような顔にもどってしまったりして、そういうことをくりかえしながら、すこしずつおとなになっていくんだろうなあ。

 さて、(そんなに遠い過去のことではない)きのうのまずいカレーの処置だけれども、「どうしようか」とかんがえて、ぜんたいをいちど水切りざるにとって、水道水でカレーのところだけ流しさるという暴挙をやってみた。のこった野菜や肉をまたなべにとり、水と、こんどは市販のカレールゥとを足してあたため、再調理してやった。
 ‥‥これで、まともに食べられるカレーになった。めでたしめでたし。次回はまずはパウダーをローストしてから、小麦粉なんかつかわないでつくってみよう。ヨーグルトをいれるのもいいらしい。まだまだ五、六回ぶんのパウダーはのこっているから、これからはまいしゅうカレーをつくってもいい。‥‥そんなにカレーばかりたべていると、黄疸のようにからだじゅうがきいろくなっちゃうだろうか。


 

[]「毒婦高橋お伝」(1958) 中川信夫:監督 「毒婦高橋お伝」(1958)  中川信夫:監督を含むブックマーク

 ずいぶんといぜん、桜の季節に、友だちらと谷中墓地でお花見のうたげをひらいたことがある。集合したじかんがおそかったのでいい場所はどこもふさがってしまっていたけれども、交番のちかくの道路ぎわの石碑のまえが、ちょっとひろいスペースで空いていたので、そこに陣どることにした。‥‥しばらく飲んだりしゃべったりしていると自転車にのったおじさんがそばにきて、「キミたち、そんなところで盛りあがっているけれど、キミたちのうしろにある碑は、明治時代に刑務所から脱獄してつかまって死刑にされたヤツの碑なんだよ。あんまりいい場所じゃないからよそへ移った方がいいよ」とおっしゃってから立ち去っていかれた。もちろんわたしたちがそんなことなど気にしようはずもなく、そのままおそくまでその場所で宴会をつづけた。ところが後日、そのときに撮影した写真ができあがったのをみると、いくつかの写真に、あかるい光の玉が虫のようにとびまわっているような、ぎざぎざの光の軌跡がうつっているものがあった。シャッタースピードからかんがえて、その短時間にそれだけの軌跡をえがける虫が存在するわけもなく、「ありゃりゃ、心霊写真を撮っちゃった」みたいな。それでおもいあたったのが、そのときわたしたちが飲んでいた場所の石碑の由来だったりもした。‥‥やっぱ、そういう心霊現象というのはほんとうにあるのかなあとおもってしまった体験ではある。

 ‥‥ということはじつはこの映画「毒婦高橋お伝」とはまるでかんけいないのだけれども、その高橋お伝の墓が谷中墓地にあるわけで、「高橋お伝」ときくと、あのときのあの花見のうたげ、そしてあの心霊写真(?)をおもいだしてしまうのである。

 まえおきがながくなってしまったけれど、つまりははじめて、いったい高橋お伝とはどういう人物とつたえられているのか、知ることができた。Wikipedia などをみるとじっさいにはこの映画などで描かれたようなものではなく、「そういうことはありそうだ」みたいな、ちょっと同情もできそうな殺人を一件犯しているだけ(だけ、ということもないけれども)のような。どうも、こういう「高橋お伝伝説」がうまれたというのも、そもそもは仮名垣魯文の書いた「高橋阿伝夜刃譚」のせい、みたいでもある。それで仮名垣魯文は「勝手な創作を書いてごめんなさいね」という気もちがあったのか、さらなる話題づくりのためか、その谷中墓地に彼女の墓を建立することになる。このあたりもWikipedia から仕入れたことだけど、もうひとつWikipedia には「ひょええ〜!」という記述もあって、つまりは死刑(斬首刑)執行、遺体解剖後、その性器が保存され、東大法学部におさめられたというのである。‥‥う〜ん、むかし、保存されたガラスケース入りのラスプーチンの男根といわれるものの写真をみたことはあるけれども(これ、ふつうのズボンとか、ぜったいにはけないね、とはおもった)、しかしそれが女性の性器という場合、そもそも「切除」ということが想像できない。だいたいがいったいなぜ、「保存」しようなどとかんがえたのか。わけがわからないのである(写真でみるかぎり、この高橋お伝という人物はそうとうに美人だったようでもあり、そのあたりがいろんな人のいろんなところに反応させたのかもしれない)。

 まったくこの映画とかんけいのないことばかり書いてしまったけれども、この新東宝映画、監督は中川信夫で、タイトルロールの高橋お伝を演じるのが若杉嘉津子。もちろんこのコンビは翌1959年の「東海道四谷怪談」のコンビなんだけれども、中川信夫監督はこの「毒婦高橋お伝」から、せいぜい一年半後の「東海道四谷怪談」までのあいだに、七本とか八本ぐらいの映画を撮っている。すっごい。まあこの「毒婦高橋お伝」は中川監督おとくいの怪談映画ではないけれども、この、高橋お伝だけにかぎらず、登場人物たちがおちていく地獄、みてしまう地獄というものはやはり、ある意味で「怪談」なんだろう。お伝のまえの夫はアル中で無職、もちろん極貧なんだけれども、お伝とのあいだに生まれた娘(この子役がかわいい)といっしょである。これがろくに食事もあたえずに放置し、ただ酒屋に酒を買いにいかせるだけの存在みたいなもんで、やがて死んでしまう。さいしょにお伝を逮捕した警官がまた、お伝の色香にくるってしまうわけだし、お伝以上の極悪人、古物商の主人(これを丹波哲郎がやっておる)は地下に牢をつくり、お伝にてつだわせたりして集めた若い女たちをとじこめている(この牢に、さっきの警官のフィアンセもまたとらえられているというのもおもしろい)。

 冒頭の明治初期の東京のまちなみのセットとかもなかなかのものだし、あれこれと視点を変えての中川監督の演出もやっぱりすばらしい。カメラの位置もさまざまにかわり、中川監督にとっての世界はけっして「水平」なものではなく、もっともっと垂直性をもつものだとよくわかる。これが「東海道四谷怪談」になると、「重力」の世界もまた「水平性」をうしなうというか。すっごいおもしろい作品だった。


 

[]「勝負師」(1958) クロード・オータン=ララ:監督 「勝負師」(1958)  クロード・オータン=ララ:監督を含むブックマーク

 ジェラール・フィリップの晩年(といってもまだ35歳ぐらいなんだけれども)の作品。原作はドストエフスキーで、書物の方では「賭博者」というタイトルになっているとおもう。たぶん、高校生ぐらいのときにいちど読んでいるはずだけれども、おぼえているわけもない。監督はクロード・オータン=ララなんだけれども、クロード・オータン=ララにドストエフスキーなんかできるわけないじゃん、てな先入観はある(そんなにクロード・オータン=ララのこと知ってるわけじゃないのに)。

 ‥‥ジェラール・フィリップは、ものすごく屈折した、びみょうな演技をみせてくれる。しかし、それでもってこの映画が映(は)えるのかどうかというと、これもまたびみょうなところなんじゃないだろうか。ちょっとばかし、孤軍奮闘という空気がなきにしもあらず。そういう気がした。だって、やはり監督がここでなにを撮ろうとしたのか、まるでわからないのだから。


 

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■ 2013-04-23(Tue)

 しごとからかえったあと、TVで国会中継をつけっぱなしにして朝食などしていた。政権がかわったというか、またもとにもどってしまったので、むかしのばかばかしさがまた復活もしたし、いまの政権与党らのおごりのようなものもいっそうにあらわになってもみえる。いじめもんだいで、文部科学省の副大臣が野党の質問のやおもてに立たされていたけれど、この副大臣という老人が、「いじめもんだい」、そしてさいきんクローズアップされている「体罰」などということの本質など、まるで把握していないことがバレバレになる。彼がいうのは「いじめが絶対的に<悪>だということを生徒に教え指導するとき、生徒の方が教師よりからだがおおきかったりすると威圧され、指導できないのではないのか」ということらしい。だから、そういう指導教師にはからだのおおきな、つよい人物(つまり、たとえば武道家)がもとめられるのではないかといったらしいのである。思考回路として幼稚園児か小学生ていどなのではないだろうか。こういうことを年輩の方にいってはいけないのだけれども、認知症のうたがいもある。
 総理もおもしろいことをいっていた。「たった30パーセントの議員が賛成しないために法案が成立しないというのはおかしい」とか。つまり、十人の人がいて、あるもんだいでそのうちの三人が反対したとき、「たった三人の反対だから」とつっきってしまうというかんじ。わたしだったら「三人も反対している」という感覚はある。‥‥なにがもんだいになっているかにもよるだろうけれども、ただ賛成が五割をこえればなんでも決めてしまっていいということなら、国会の審議なんかほとんど不要になってしまう。まあこういう発言でもって、いまの政権がこの国をどのような国にしたがっているのかがわかるというものだろう。

 きょうは、せんじつ買ってあったカレーのスパイスセットでもって、即席カレールゥをつかわない、本格的なカレーにトライしてみた。って、ほとんどなんにもかんがえないで、スパイスセットのなかにはいっていた21種類のスパイスをぜんぶまぜあわせ、みじん切りのたまねぎをきつね色になるまで炒めたなかに小麦粉といっしょにほうりこんで、ルゥらしきものをつくってみただけ。かんたんに完成。‥‥これが、ぜんぜんおいしくなかった。というか、まずい。いちおう高級なカレーっぽい香りはしないでもないけれども、味が粉っぽいし、辛みもまるで足りない。やっぱなんのレシピも参考にしなかったのはまずかったか。
 (つくりおえたいまごろになって)スパイスのはいっていた箱をよくみると、まずはまぜあわせたスパイスを油をひかないフライパンでローストすべし、と書いてあった。これで青臭さがきえるらしい。あと、辛口に仕上げるためには入れないでいいスパイスもあったのだった。ぜんぶまぜちゃった。まあそのことはしかたがないとしても、いちばんのしっぱいはローストしなかったことだろうとおもう。まぜてしまったカレーパウダーはまだ、ものすごくいっぱいのこっている。次回はちゃんとローストしてみよう。
 しかし、このまったくおいしくないカレー、どうしようか‥‥。

 

 

[]「オール・ザ・キングスメン」(1949) ロバート・ロッセン:監督 「オール・ザ・キングスメン」(1949)  ロバート・ロッセン:監督を含むブックマーク

 みたあとで調べてみたら、わたしはこの映画をDVDで三年まえにみているのだった。‥‥まったく記憶になく、「ひょっとしたらこの映画、まえにショーン・ペンが出演してリメイクされたものをみたことがあったかな?」などとおもいながらみていた。すっかり忘れてしまっているというのもショックだったけれども、その三年まえにみたときにこの日記に書いていた感想が、こんかいみての感想よりもよほどしっかりしていることにもまたショックをうけた。


 

[]「JUNO/ジュノ」(2007) ジェイソン・ライトマン:監督 「JUNO/ジュノ」(2007)  ジェイソン・ライトマン:監督を含むブックマーク

 この作品の監督、ジェイソン・ライトマンという人のことは注目しておいていいんだろう。この「JUNO/ジュノ」はその監督第二作なんだけれども、ここで脚本を書いているディアブロ・コーディという人がなんだかおもしろい経歴だし、やはりこの作品でなによりもおもしろいのは脚本だとおもう。ありのまま、リアルな等身大のハイティーンを主人公にするような作劇は、あれこれとある、またはあっただろうけれども、ここではそのリアルなハイティーンに、まるでリアルではないすっごいムリをさせるというか。まあ「まるでリアルではない」というわけではないけれども、そう、かんがえられるかぎりでのいちばんの困難(このばあいは妊娠〜出産、ということ)に立ち向かわせる。そういうドラマなんじゃないかとおもいながらみていた。
 ここで、その産まれてくる子どもの里親になろうとする夫婦の、「いったい<愛>ってなに? <結婚>ってなに? そして人生の目標とは?」みたいな関係が印象的にはめこまれ(というか、ヒロインのジュノがまさに触媒になる)、ちょっとわたしもひきこまれてみてしまった。‥‥じつは、この里親志望夫婦の夫のなかにあった悩み、これに似たものがかつてのわたしのなかにもあったわけで、じつはそのことが離婚した理由でもあった(あ、書いちゃった)。‥‥そんな「書いちゃった」のあとに書いていいことかどうかわからないけれども、あのときに離婚してよかったと、いまでもおもっている。じぶんがどこまで自己実現できたかどうかなんていえないけれども、できたところがあるとすれば(それはまちがいなくあるのだけれども)、あのときに自分の道を選択したためだとおもっている。そういうわけで、とちゅうからはもうこの養父におもいいれたっぷりにみてしまい、ちょっと映画のほかのことはどうでもよくなってしまった、かな?



 

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■ 2013-04-22(Mon)

 ちょっとかたづけものをしていたら、ずっと行方不明になっていたCDがふっと出てきた。いぜん「そういうCDをもっていたなあ」とおもいだしたこともあって、「あれはなんというアーティストだったっけ」とおもいだそうとしても、これがどうしてもおもいだせなかった。いぜん手もちのCDを大量に処分したときにいっしょに処分しちゃったんだろうとあきらめていたのだけれども、きょうになってみつけだした。「this too will pass」という2007年リリースのアルバムで、アーティストはThe One AM Radio という。

 しかしいったいなぜ、わたしはこのCDを買ったのだろうか。まったくそのあたりのことの記憶がない。なにかの記事でこのアルバムのことやThe One AM Radio のことを読んだわけでもないし、CDショップの試聴コーナーで聴いて気に入って買ってしまったのではないだろうか。‥‥いましらべると、このThe One AM Radio というユニットは、ロサンゼルスに活動の拠点をおくHrishikesh Hirway という人物のプロジェクトで、2002年にCDデビューをしているらしい。この「this too will pass」はサード・アルバムで、2011年に四枚めのアルバム「Heaven Is Attached By A Slender Thread」をリリースしているとのこと。

f:id:crosstalk:20130424124714j:image:right みつけだしたCDジャケットをみつめ、ああ、わたしはこのアルバムのさいしょの曲がだいすきだったんだとおもいだした。プレーヤーにセットしてその曲「The Harvest」を聴いた。‥‥しらずに、涙がでてしまった。歌詞カードのこの曲の歌詞を読みながら聴いて、なおさらに涙がとまらなくなってしまった。
 Wikipedia で「The One AM Radio」の項目をよんでみると、「the style borders electronica, folk, post rock, chamber music, and ambient music」などとかいてある。たしかにこの「The Harvest」にしてもアコースティック・ギター一本をバックに唄いはじめられるようなのだけれども、よく聴くとバックにほかの弦楽器もひそかにきこえるようだし、後半にはドラムの音やエレクトロニックな音も聴かれ、ヴァイオリンやチェロなどの音もよりクローズアップされてくる。この、アレンジが絶妙。メロディもたしかにいいんだけれども、ほとんどおなじメロディのリフに終始しているともいえるなかで、この音のふくらませ方がすばらしい。いやなによりも、この歌詞が‥‥。

Eleven weeks ago, you went into the yard.
Beneath an inch of snow, the ground was frozen hard.
You worked to dig a hole, lit only by the glow from hope you buried deep, to see what it would grow.
Oh, you haven't told anyone.
Beneath that vernal sun, you sit patiently.
Here comes the spring.
Oh, what will it bring?
What will it be?

 自分なりに訳してみたいんだけれども、いろいろと微妙なところをわたしには日本語にできないので、やめておきます。ただ、ロックなどポピュラーミュージックで唄われる詩の世界とはずいぶんと異質なものだろう。

 きょうはそういうわけで、この「The Harvest」ばかりを、リピート機能でそれこそひゃっぺんがえしで聴きつづけたいちにちになってしまった。いちおう、ヴィデオも二本みた。

 

 

[]「勝手にしやがれ!! 強奪計画」(1995) 黒沢清:監督 「勝手にしやがれ!! 強奪計画」(1995)  黒沢清:監督を含むブックマーク

 冒頭のショットから、「あ、これは谷中のあそこのパン屋さんだ!」とおもいあたるし、そのあとも「夕焼けだんだん」は登場するし、舞台は谷中近辺かとおもいきや、ひんぱんに荒川土手あたりもでてくる。もちろん、そんなことで「ありえないじゃないか」などと文句をつけるヤツはいない。いいのである。

 これはいわゆる「Vシネ」ということで、まさに低予算みえみえなんだけれども、その低予算ゆえともいえるたのしさにみちているし、そのなかでなお「映画」であることのおもしろさがみてとれる。そういえば七瀬なつみという子いたよねえとなつかしい思いもするし、哀川翔をカクンとまいらせ、ツルゲーネフの「初恋」を読ませてしまうその「天使」ぶりもたのしい。というか、たのしいのはその「カクンとまいってしまう」哀川翔の方か。

 大杉漣や洞口依子らも、その登場のしかたもふくめてすばらしいし、このころはそんなに注目されていた俳優でもなかったと思う國村隼がまたたのしい(ラストの物品交換マシーンをつくるようなキャラは、彼でなければかんがえられないかもしれない)。


 

[]「勝手にしやがれ!! 脱出計画」(1995) 黒沢清:監督 「勝手にしやがれ!! 脱出計画」(1995)  黒沢清:監督を含むブックマーク

 第二作。‥‥ありゃ、ファーストシーンはさっきの第一作とおんなじじゃありませんか。こんかいは、この作品のころにさかんになっていたのではないかと思われる「かくし撮り」から物語突入。だいたいこのシリーズは男のもっているコワモテのイメージと、それとは裏腹なその人のよさ、おまぬけかげんとのギャップのおかしさをメインにしているみたいで、そこにはやはり哀川翔という役者さんのイメージがおおきいんだろう。これからもたのしみ。


 

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■ 2013-04-21(Sun)

 あさ目がさめて、奇怪な夢をみていた記憶がよみがえった。しかし、奇怪だったということいじょうのことがいっこうにおもいだせない。フラッシュバックのようにその断片はよみがえるような気はするのだけれども、その断片を追い求めていこうとすると、するり、とあっちから逃げていってしまう。

 このところずっと、寝るときにHope Sandoval & The Warm Inventions の「Through The Devil Softly」をかけっぱなしリピートにして寝つく習慣になっていて、そのせいでいままでいじょうに暗うつな人間に変身しつつある気がしないでもない。‥‥これではいけないと、きのうからはGavin Bryers の「Sinking Of The Titanic」にすげかえた。「これではいけない」ではなく、かんがえてみればまったく大差ないのである。むかしは「ネクラ」ということばがあったものだけれども、これはいまは死語になっているんだろう。でもわたしは、まちがいなく「ネクラ」である。そのことが、そういうことが自分をダメにしているとは、けっしておもわない。これからも、死ぬまでこういう嗜好性のままやっていくことだろうとおもう。こじつけていえば、そこに「モダニティ」や「進化」に対抗するものがあるとおもってもいる。

 ‥‥しかしながら、いささかなりとこのところはあまりに「無為」に生きすぎている気もする。窓から見える風景はまいにちおなじものだし、それはそれであたりまえではないかと受けいれてしまう意識がある。それは「それでいいじゃないか」とはおもいたくはない。

 あたたかくなってきたせいか、ニェネントの抜け毛がすごい。ニェネントを抱いておろしてやるとき、抜けた毛がいっぱい宙にまうのがみえる。じぶんの胸元も毛だらけになっている。いつも黒い服ばかり着ているのだけれども、いまはとてもそんなネコ毛のめだつものを着ることはできない。グレーのものを着るようにしている。まいにち三度はかっている血圧も、このところいい値で安定している。これも春がきたおかげかもしれないけれども、きょねん入院してしまったのはゴールデンウィークのころだったから、気をつけないといけないだろう。


 

[]「ダーク・シャドウ」(2012) ティム・バートン:監督 「ダーク・シャドウ」(2012)  ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 ティム・バートンの作品には、このところずっと幻滅しつづけている。好きな監督だったけれども、さいごに彼らしくておもしろいとおもったのは、「マーズ・アタック!」か「スリーピー・ホロウ」あたりになるだろうか。まえの「アリス・イン・ワンダーランド」なども、このあいだのEさんといっしょに映画館にみにいったりしたのだけれども、「もうこれからはティム・バートンに期待してもしょうがないのかもしれない」ぐらいの感想でおわってしまった。Eさんもがっくりしていた。

 そういうわけで、この「ダーク・シャドウ」も映画館にみにいくこともしなかったし、一般の評判もやはりいまいちのようだった。「いちおうみておこうか」ぐらいのかるい気もちで、HDDに空きスペースをつくるためもあり、みおわったら即消去するつもりでもあった。

 ‥‥ところが、これがめっちゃおもしろかった。ほんとうに映画館の大きなスクリーンでみることをしなかったのをくやんだし、消去するなんてとんでもないのである。

 まずは、設定が1972年ということで、ティム・バートンにはめずらしく当時の既製曲をふんだんに使っているあたりがツボ(Alice Cooper のライヴもある!)。ちょっとこのあたりの音楽を聴きまくっていたころをおもいだしたりもするし、その使い方がまたステキだった。まずは家庭教師になりたいとコリンウッドへとむかうヴィクトリア・ウィンターズの乗る列車の、「夜の大捜査線」の冒頭をおもわせる空撮でクレジット字幕がでるのだけれども、ここでかかるのがなんとMoody Blues の「Night in White Satin」で、わたしはここでおもわず大笑いしてしまった。きっと映画館でみていてもここで笑ってしまったとおもうけど、そうすると「こんなところで笑う異常なオヤジがいる」と、映画館のなかで警戒されていたことだろう。映画館でみなくってよかったのかもしれない。しかし、すっばらしい選曲。このあとも、コリンウッド館のひきこもり娘のクロエ・グレース・モーリッツがかけるLPからの音楽が、Vanilla Fudge の「Season of The Witch」だったりするのも、この映画にぴったりの選曲ではないかと狂喜してしまう。

 この作品は、ティム・バートンの系譜でいえばまさに「ビートルジュース」あたりの系譜になるのだろうけれども、ここで脚本をてがけているセス・グレアム=スミスという人の名まえにみおぼえがあり、しらべてみたらあの「高慢と偏見とゾンビ」を書いている人物だった。なるほどねえ。「高慢と偏見とゾンビ」という作品はジェイン・オースティンと「ゾンビ」をマッシュアップした作品というわけだったけれども、この「ダーク・シャドウ」はヴァンパイアもののリミックス、という空気がある。そこにはめこまれるホラー映画の系譜からの味付けがまたたのしい。もっとこういうところはみたかった気もするけれども、二時間ぐらいという上映時間の枠があればこのあたりでしかたがないだろうか。しかし、ティム・バートンとこのセス・グレアム=スミス、いいコンビだとおもう。

 それでやっぱり気にいってしまうのは、監督のティム・バートンがまずはこの映画をつくることをたのしんでいるふんいきがつたわってくるあたり。けっこう展開にいいかげんなところもあって、そのあたりでこの作品の評価があまり高くなかったりもするのだろうけれども、わたしにはそういうところにもティム・バートンの魅力があるようにもおもえてしまう。「もういいや」とおもいかけていたティム・バートンだけれども、やはりこれからも、注目しておくべき監督さんだとおもった。とにかく大好きな作品である(まいにちでもみたい)。Eさんにも、「ダークシャドウ」がおもしろかったと、メールを送ってしまった。


 

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■ 2013-04-20(Sat)

 すっごく読書のペースがおちている。なかなかちゃっちゃっと読みすすめず、読みはじめると早々にねむくなってそのまま寝てしまう。どうもせんげつよんでいた「2666」あたりがネックだったか、という気がしないでもないけれども、「2666」がおもしろくなかったわけでもなく、きんねん読んだ小説でもトップクラスで印象にのこるものだった。いま読んでいるのはネグリ/ハートの「コモンウェルス」で、これがまたとっても刺激的というか、ネグリ/ハートの著作をぜんぶ読んでいるわけでないけれど、「<帝国>」そして「マルチチュード」にくらべても、これまでのわたしのかんがえをきれいにリードしてくれるというか、つまりは「はげしく同意=<禿同>」しながら読んでいる。それでも読書ペースがあがらないのはやはり社会科学書ゆえ、ということもあるけれども、読んでいてそんなに「どういうこと?」とかんがえながら読んでいるわけでもないのだから、もうちょっとペースがあがってもいいとおもう。
 いまはまだ第二部のとちゅうのだんかいだけれども、第一部がまずは「共和制」ということへの疑問からはじまり、<所有財産>対<貧者>ということがかたられていく。「Imagine no possessions」というのは有名な歌の一節だけれども、はたしてどれだけの人たちがこの歌詞に同意しただろう。この歌が「I wonder if you can」とつづくように、私有財産の否定ということには困難がともなうだろう。その私有財産の起源を近代の「共和制」にさぐるこの本の論説は、おもしろくも刺激的。第二部は「近代性(モダニティ)」というものへの疑問、というところだけれども、このあたりもわたしがぼんやりとながらかんがえていたことでもあり、その裏付けがあれこれと得られたようで、ある意味で痛快でもある。これからどのようにこの本が展開していくのかたのしみなのに、なかなかさきにすすまないのはなさけない。

 きょうは夕食にあたらしいやり方でチャーハンをつくってみたけれども、ちょっとばかし失敗だった。失敗の理由はわかっているので、ごじつ再トライしてみたい。

 よるベッドにはいって本を読んでいると、ベッドの下でニェネントがまるくなって寝ていた。抱き上げてベッドのわたしのとなりにおいたら、そこでそのまま寝てしまっていた。いつもはじぶんでベッドのわたしのとなりにあがってきていたのに、そうしなかったのは、このあいだわたしがしつっこくいぢめてしまったせいだろうか。


 

[]「早射ち野郎」(1961) 野村孝:監督 「早射ち野郎」(1961)  野村孝:監督を含むブックマーク

 宍戸錠主演の無国籍ウェスタン。つまり「エースのジョー」。南田洋子や吉永小百合もでている。日本の風景のなかに馬に乗ったウェスタン・スタイルの男が登場する。街もウェスタン・スタイルだけれども、「派出所」などと書かれた日本語の看板と「Bar」とかの英語看板がならんでいる。まあいまの日本もそうだけれどもね。住民もそういうウェスタン・スタイルの野郎どもとスーツ姿の市民とがいっしょにくらしている。西部劇のように銀行強盗が出現するわけではなく、ダム建設でうるおうその山間の町の、ダム会社へのボーナスが強奪されたと。

 ‥‥わたしはそういう無国籍演出にはとくに違和感なんかおぼえなかった。だいたい日本なんて戦後はそういうアメリカ文化を直輸入した立国をやってきてるわけだし、いまではあれこれの民族衣装をまとった人たちも都会を闊歩しておられる。看板のことは、いまの日本の商業地域をみればまったくとやかくいうことはできないだろうし。

 映画としてはちゃっちゃかちゃとお手軽お気楽映画でうすっぺらいのだけれども、アクションシーンでのみんなのがんばり方は「すごいなあ」と、印象にのこった。宍戸錠なんかワンショットのなかでジープからとびおりて足場の悪そうな材木置き場をつっぱしっていくし(ただし彼の足元はうつらないけれども)、アクロバティックなガンさばきはやっぱいいんじゃないだろうか。そんな彼に撃たれる悪役のスタントも、屋根の上からほんとうに地面に足からワンショットでころがり落ちる。みていても、あれは一歩まちがえば骨折モノだよね、とひやひやする。なんというか、そういうところに、当時の映画人たちの職人根性をみせてもらった気がする。


 

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■ 2013-04-19(Fri)

 いまわたしのやっているしごとは、早朝の五時からあさの九時まで。しごとをおえて帰ってきてもまだ九時なんだから、ふつうに休日をすごすようにいちにちをすごせる、ということもできる。ただ、よくじつにはやくおきなければならないから、それだけはやく寝ることになる。いまはだいたいよるの八時ごろにはもう寝てしまっている。あさは四時にアラームでおきるから、だいたい八時間睡眠とっている計算。健康的ではないか。そういうふうにしごとのあるまえの日ははやく寝たいから、たいてい東京などにおでかけするときには、まえもってそのよくじつにはやすみをとっておくし、「あしたはしごとがないからでかけてもいいな」という発想にもなる。もうすぐせけんてきにはゴールデンウィークだけれども、わたしにはほとんどかんけいはない。

 しごとがやすみの日でもたいていはあさの五時とか六時にはめざめてしまい、あさからTVをみてすごしている。こんかいの朝のテレビ小説もけっこうみている。しごとのある日はみることができないので、ひるの再放送をみることもあるけれど、土曜日にいっしゅうかんぶんの再放送がBSで放映されるので、それをまとめてみる。その「あまちゃん」だけれども、どうもはじまってしばらくはエンジンがかからなかったというか、それぞれの登場人物のキャラがかみあわない印象をうけたりして、あまり熱心にみるわけでもなくなっていた。それがこのところようやく、がぜんおもしろくなってきた(こんしゅうは演出がチェンジしているので、そのせいもあるのか?)。ヒロインに友だちができ、その子がまえにみた映画「桐島、部活やめるってよ」で印象にのこっていた女優さんだったこともあるけれど、彼女のキャラクターがいい。さいしょのころは「ちょっとトゥーマッチ」というかんじのした恒例のスナックのシーンも、がぜんたのしくなってきたし。

 ニェネントのネコ缶を「ささみ入りかつお」だけにかえてから、まるで食べのこすことがなくなった。やっぱ「ささみ」が好きなんかな。いっぱい食べて、そのあとはこのごろ寝てばかりいる。わたしがキッチンに立つとその音をききつけて「なんかちょうだい」とよってくる。皿をみると空になっているから、また出してあげるととびついてくる。食べて寝て食べて寝て、ますますおおきく、ずんずんと肥満していくような気がする。


 

[]「OSS 117 リオデジャネイロ応答なし」(2009) ミシェル・アザナヴィシウス:監督 「OSS 117 リオデジャネイロ応答なし」(2009)  ミシェル・アザナヴィシウス:監督を含むブックマーク

 冒頭からおしゃれなマルチ・スクリーン映像の連続で、ここでもって、高校生のころにみたノーマン・ジュイソン監督の「華麗なる賭け」というのが、こういうマルチ・スクリーン全開の作品だったんじゃなかったかとおもいだした。はっきりいってこの映画のことはほとんど記憶にのこっていないし、その高校のころにみたあとにヴィデオなどで再見したわけでもない。おそらくはこの映画のことを思いだしたりする機会も、なんじゅうねんもまるでなかったのではないかとおもうのだけれども、こういう、ぜったいに「華麗なる賭け」を意識してやってるにちがいないような映像をみると、たちどころに記憶がよみがえってきてしまう。記憶力というものはおもしろいものだなあとおもう。

 さて、きのうみた「私を愛したカフェオーレ」につづいて、ボンド映画のパロディというか、そういう過去の映画からのパロディ満載の、ミシェル・アザナヴィシウス監督による「OSS 117」の第二弾。リオが舞台ということは、わたしがむかしみたアンドレ・ユヌベル監督による「リオの嵐」とおなじ原作なんだろうか。これはわたしが「リオの嵐」のことをほとんど記憶していないので、どうこうとくらべてみることはまるでできない。なんじゅうねんもまえにみた「華麗なる賭け」のことはおもいだしても、せいぜい二年ほどまえにみた「リオの嵐」のことはなにもおもいだせないというのも、記憶力というものの不可解さ、というか、わたしがボケてきたということだろうか。

 こんかいもまた「元ナチス」という悪役がでてくるのだけれども、主人公はここでは超コンサバというかウルトラ右翼というか、レイシストの本性まるだしだし、じつはナチスにもシンパシーをもってるんじゃないのというあたりもにおわせてくれる。ただ、めっちゃたのしかった「私を愛したカフェオーレ」にくらべると、あれこれのこだわりがたりなかったのか、ぜんたいの印象もうすい気がしてしまう。おそらくいっしゅうかんもしたら、この映画のことはまるで忘却の彼方に消えてしまいそう(マルチ・スクリーンのことはおぼえているだろう)。


 

ossファンossファン 2017/09/05 17:29 ラストクレジツトで「リオの嵐」のリメイク的な事(フランス語分かんないので?)書いてます。リオからイグアスの滝への場面展開やらよく似てます。

ossファンossファン 2017/09/05 17:29 ラストクレジツトで「リオの嵐」のリメイク的な事(フランス語分かんないので?)書いてます。リオからイグアスの滝への場面展開やらよく似てます。

crosstalkcrosstalk 2017/09/08 16:30 なるほど。ご指摘ありがとうございます。

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■ 2013-04-18(Thu)

 きょうはしごとはやすみ。またあしたからしごとに出なければならないとかんがえるとうんざりする。あしたのことはあまりかんがえず、たのしかったきのうの余韻にひたりながらすごしたいいちにち。

 近所で開店準備をしていたドラッグストアがきょうオープン初日なので、きっとあれこれの特売品を用意しているだろう。あさの十時ごろにいってみた。店のまえの駐車場は満杯で、空きをまつ車が車道に列をつくっている。店頭には仮設テントがたてられ、おおぜいの人がそのテントをとりまいている。おそらくは会員カードの発行かなにかをやっているのだろうとおもう。店のなかにはいると、ここもすごいかずのお客さんであふれている。特売品はたしかに安い。玉子1パック68円だとか、マヨネーズ98円などというのを買う。スイスロールが39円。スイスロールなんて食べる趣味はないのだけれども、安いから買ってしまう。あとは通常価格のウィスキーとジンジャーエールなど。しかし、棚にならんでいる商品をみると、けっきょくは近隣のスーパーやドラッグストアとおなじ商品がまるでおなじ価格でならんでいるだけ。ドラッグストアだから生鮮食料品のたぐいはおいてないわけだし、こんなにせまいはんいに同系統の商品をならべた店が乱立するいみがわからない。‥‥まえにも書いたけれども、わたしの住まいを中心としてかんがえて、だいたい半径1キロのはんい(つまり、らくに歩いていけるはんい)に、スーパーマーケットが4軒、ドラッグストアが5軒、そしてコンビニが2軒あるわけだ。ホームセンターもあるし、家具屋もある。安くないけれども家電量販店もある。家電にかんしては中古品専門のいい店もある。劇安の衣料品店もあるし、衣服にかんしては古着専門店でいいものが買える(わたしがいま着ている服や靴、ほとんどすべてがこの古着屋で買ったもので、着ているもの履いているものすべてあわせても、二千円ぐらいしかかかっていない)。東京でもこれだけコンビニエンスなスポットというのはなかなかにないんじゃないだろうか。

 ドラッグストアから帰って、昼食はのこっていたうどん玉でまた焼きうどんをつくり、満腹になってベッドによこになって本をよんでいたら、あんのじょう眠ってしまった。めざめたらもう外はくらくなりかけていて、まえに炊いて保温しっぱなしだったごはんでかんたんな夕食にした。たくさん昼寝したのでそこから録画してあった映画をみたりしたけれども、けっきょく十時まえにはまた寝てしまった。


 

[]「OSS 117 私を愛したカフェオーレ」(2006) ミシェル・アザナヴィシウス:監督 「OSS 117 私を愛したカフェオーレ」(2006)  ミシェル・アザナヴィシウス:監督を含むブックマーク

 きょねん日本でも公開されたアカデミー賞受賞作品「アーティスト」の、その監督ミシェル・アザナヴィシウスと、主演のジャン・デュジャルダンのコンビになる作品ということ。「アーティスト」も録画してあるけれども、この旧作をさきにみることにした。って、「OSS117」というコードネーム、きいたことがあるなあとおもったら、「ファントマ」シリーズを撮っているアンドレ・ユヌベルというフランスの監督さんがいて、彼がこのシリーズを撮ったものを、わたしは二本ほどみているのだった。‥‥もちろん、その旧作は、ジェームズ・ボンド映画に影響をうけてつくられた正統派スパイ・アクション映画だった(もっとも、フランスの作家の書いたこの原作はイアン・フレミングに先んじているらしい)のだけれども、海外に植民地をあれこれ有していたフランスがそんなのんきな映画つくってていいのかいな、なんて感想はもったものだった。そんなことをいえば元祖ボンド映画もヤバいのだけれども、元祖の方はそのあたりうまくよけて製作されていた印象はある。

 それで、この原作がかつて映画化されていたのかどうかはよくわからないけれども、とにかくはリメイク、という感覚だろうということでみはじめた。‥‥あんまり期待していなかったんだけれども、これがすっごくおもしろかった。まずいえるのが、西欧の世界支配の図式というか、いまでいえばグローバリズムというか、そういう意識を主人公のフランス人スパイに体現させ、おおいに笑いものにしているあたり。

 いちおう作品は第二次世界大戦末期の、主人公のナチスに対する活躍からはじまるのだけれども、舞台はエジプトにうつる。時代は戦後十年ほどたっており、エジプトは王政を廃して共和政に移行したばかり。ナセルの台頭してきたころで、まだまだ国内は混乱しているようである。エジプト潜入していた主人公の友人だったスパイが行方不明になり、調査のため主人公が現地に派遣される。ところが彼はエジプトの政治・文化にまるっきし無知であり、西欧的価値観をむりやり現地におしつけてひんしゅくを買い、いざこざのタネをまくことになる。スパイの本業よりも、そのかくれみのの養鶏業の方に夢中になっていたりもする(夢中になりかたも笑えるけれども)。まあほとんどアホなんだけれども、これがいがいな才能ももっていて笑わせられる。ひとつめ、縄抜けの才能がバツグンであること(これでもって、いくどかの危機から抜けだすのだ。さすがにスパイである)。ふたつめ、古代エジプトの象形文字、つまりヒエログリフが読める。これも危機脱出の役に立つのだ。みっつめ、ウードと歌がうまい。ウードはエジプトではじめて目にした楽器のはずなのに、これをディナーショーの楽団の一員になりすまして弾きこなすのである。

 さて、ここでこの主人公がウードを弾きながら唄う曲がおもしろい。これが「バンビーノ」という曲で、わたしもよく聴いたおぼえのある名曲なんだけれども、どうも調べたかぎりではこの曲はダリダのほぼデビュー曲なのではないのか、ということ。で、ここでおもしろいのが、このダリダという一世をふうびしたシャンソン歌手、生まれはエジプトのカイロで、のちにフランスに移民して歌手になるわけで、まさにここでそのダリダの「バンビーノ」がうたわれるというのは、ちょっとばかしこの映画のテーマにもなってるわけではないのかとおもってしまった。こういう、たんじゅんに茶化しているだけではないふところの深さがこの映画にはあるようにおもえる。

 書きたいことがあれこれあってたいへんな映画で、しばらくは保存版としておいておこうかとおもっているんだけれども、ひとつだけ書きくわえておけば、撮影がとってもきれい。ラストの花火もすばらしい。


 

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■ 2013-04-17(Wed)

 三月はいっぱい東京にでて、いろんな人たちにも会い、散財ともいえる結果になってこの四月いこうがくるしくなってしまったのだけれども、きょうはひさしぶりに東京へいって、Eさんと映画をみる予定。その映画が神田神保町にある名画座での「吉原炎上」。まえにEさんにこの時期、平田オリザの舞台とこの「吉原炎上」とどっちにいこうか、みたいにきいたとき、即答で「吉原炎上」!といわれていたのである。

 どうもこのごろはわたしもあそびにでていないせいか「うつ」ぎみなところもあり、きょうはEさんと会って、おもいっきり「元気」をもらってしまいたいとおもっている。ニェネントにいっぱい食事をだしてあげて、お気に入りの卵黄もプラスしてあげて家をでた。

 Eさんとは五月に水族館劇場の公演をまたいっしょにいく予定なので、きょうはその前売りチケットを買ってからEさんと合流しようとおもい、まずはチケットをあつかっている日暮里の古本屋へいってみる。ついでにひさびさに谷中界隈を歩いてみた。‥‥むかしからまるでかわっていないともいえるし、ずいぶんとかわってしまったなあともいえる。むかしパチンコ屋だった跡地がフラダンスの教室になってしまったところは、いまでもフラダンス教室の看板がでていた。しぶといなあとおもった。そのまえにある古い中華の店はむかしとおなじく中華の店なんだけれども、店名がかわってしまっていた。この店どくとくのメニューもあったんだけれども、店頭の看板にはそういうメニューは書かれていなかった。ちょっとさびしい。

 その先をいって階段をおりたところでふるいジャズ・バーが営業していたのだけれども、とうとうなくなってしまっていた。むかしむかしは一階がジャズ喫茶で、二階がバーだった。けっこうジャズの世界では有名な老舗だった。はたちぐらいのころにはそのジャズ喫茶にもよくいったものだった。いつしか一階の喫茶部が閉店してもずっと、二階のジャズ・バーは営業していた。すぐそばに住んでいたころ(十年ぐらいまえ?)に一、二度いってみたことがあるけれども、マスターがテレビで野球中継なんかみているのにちょっと幻滅したものだった。そのころにかよった歌舞伎町のジャズ・バーのマスターが、「あそこもジャズのたましいをすてたね」といっていたのを、いまでも記憶している。でもやはり、なくなってしまうとさびしい。

 谷中銀座は、すっかり観光スポットになってしまった。そういう観光客めあてにやっているような店がふえた。なんだかネコ関連の店がふえている気がする。谷中の野良ネコも有名になったわけだけれども、きょう歩いたはんいではネコにであうことはなかった。

 めあての水族館劇場のチケットは、もうとりあつかっているはずの古本屋にいってみると、発売がおくれてしまっているとのこと。ちょっとざんねんだった。やはりネットで予約しようか。

 地下鉄で新御茶ノ水に移動して、じかんぴたりにEさんと合流し、喫茶店「S」でちょっとおそい昼食をとる。おそらくはこの「S」という店、わたしがEさんと知りあったころにつれていった店だったんじゃないかとおもう。そろそろ二十年になるわけだ。それいらい、わたしが彼女と神保町で会うときにはきっと、この店によっている。ランチメニューからわたしがエビピラフを注文すると、Eさんが「まえもエビピラフ注文してたよね」という。「ここのピラフの、ひと味たりないかんじがすきなんで」とこたえる。たぶん、たりないのは塩あじだとおもう。わたしは塩分がにがてになっていることもあり、ここのピラフはお気に入り。‥‥しばらくあれこれの演劇のこととかを話題にしておしゃべりをして、本屋街をいっしょに歩いた。わたしは神田にくると、新刊書の店だけれども、東京堂書店に足がむいてしまう。わたしが知っている書店のなかでは、ここがぜったいにインテリアもおちついていて、品ぞろえも充実している印象で、いちばんのお気に入りである。きょうもEさんといっしょに足をむけ、あれこれの本、図鑑などをみたりしてじかんをつぶした。本屋の棚を散策して、おなじような興味をもっておなじような本を棚からだしてみて、その本をひらいてみていっしょにたのしむことができるような友人というのは得がたいものだとおもうけど、そういうたのしいじかんを堪能できた気がする。

 さて、そろそろ映画のはじまるじかんなので、その「神保町シアター」という映画館へいく。もう開館して十年になる映画館らしいけれども、わたしはこれがはじめての来訪。Eさんもこの映画館は知らなかったらしい。けっこう設備のととのった、ゆったりとしたすてきな映画館だった。ただ、上映がはじまってみるとスクリーンの左右で明度がちがっている印象だったのは、わたしの錯覚だったのか。
 まあほとんど「名画座」的な性格の映画館だからだろうか、観客のほとんどはわたしより年輩みたいな男性のひとり客ばかりだった。わたしのまえにすわっていたやはりご年輩の男性客は、どうみても「あと二、三分でおわるぜよ」というところで席を立たれてしまわれた。あの時点ではまだ「どういうエンディングになるのか」なんてわからないはずなのに、わたしにはわけがわからなかった。

 ‥‥終映。とてもおもしろい作品だとおもったけれども、映画館から出て歩きながら、Eさんも「めっちゃおもしろい映画だった」と。上映じかんもまるで気にならなかったという。わたしはきょうじゅうに帰宅したかったので、あんまり映画のあとごいっしょできるじかんもなかったけれども、わたしにとっては神保町といえばここよ、という居酒屋「Y」に、ふたりでいく。ここはけっこう安くって、しかもおいしい。きょうも堪能した。ふだんはEさんとあれこれの舞台や映画をみたあとにこうやって飲んだりしても、そのときにみた舞台や映画のことから話題がはずれることがおおいのだけれども、きょうはずっと、さっきみた「吉原炎上」のはなしに終始した。こんなにいれこんでいるEさんのことをみるのも、たえてなかったことだとおもった。この映画を観にいこうとさそってよかったなあとおもったし、まずいちばんに、わたしもすっごく元気を回復した。すばらしいいちにち、だった。


 

[]「吉原炎上」(1987) 五社英雄:監督 「吉原炎上」(1987)  五社英雄:監督を含むブックマーク

 ‥‥苦界のなかでもがきくるしみ、なんとか光明をみいだそうとする女たちと、そこにひとときの快楽をもとめようとするだけの男たちとの対比がきょうれつな一篇。花魁たちの、じぶんこそがトップになろうとする競争心よりも、「おなじ脱出口をみている」という連帯意識、それもぬけだしたものへの羨望よりも、脱落したものへの「あわれみ」の意識がよりつよい(だって、ぬけだしたものなどほとんどいないのだから)。そういう視点こそ、これをみる女性たちにも共感されるのではないか、いっしょに観たEさんの熱中ぶりなどからも、そうおもったりした。

 男たちはみなだらしない。遊廓の経営者(山村聡)や、女衒というのか、ヒロインの名取裕子を遊廓につれてくる成田三樹夫も、岸部一徳など遊廓の従業員らも、ただ「世の中がこうなっているからこううごいているだけだ」みたいな連中ばかり。そして財閥の二代めで遊廓の上得意客、根津甚八の演じる究極の「ダメ男」の存在が決定的。インポテンツなんかなんだかわからないけれども、ただ幻想だけを追い求めるだけの存在。そんなに名取裕子にいれあげるのなら、インポだろうがなんだろうと、とっとと身請してやって妾にでもなんでもしてやりゃあいいものを、そういう度量もない(できない理由は想像がつく)。精神的にもインポである。‥‥男からみると、この根津甚八のドラマがけっこうおもしろい。財閥から追い出され、そこでもらった金をぜんぶ名取裕子のまえに差しだすあたりとか、首ねっこおさえつけてどやしつけてやりたくなる。それでとうぜん名取裕子に愛想つかされ、これまたほかの遊女とねんごろになり、そこでもつまりはその女性と「あやとり」などしているわけだ。ラストでようやく女性を抱けたとき、「もうこれでおしまいでいい」とおもったんだろうねえ、その吉原炎上の火種になるわけだ。なんだろうねえこの男。この映画では描かれないけれども、明治末期になっての政治社会体勢の変化でスポイルされていく、江戸の名残りの象徴、あたらしい世界を夢みながらも体制にのっていけなかった存在の象徴なんだろうか。彼が冒頭で「救世軍」の一員として登場していたのも象徴的ではないかとおもう。さいごに名取裕子を身請して結婚しようとする小林稔侍が、役所を引退して田舎暮しに落ち着こうとするのだが、この時代、野心をもっていた男たちを待ちうけていた運命は(軍国主義をおしすすめたにしても)過酷なものだったろう。ちなみに、この吉原大火のあった1911年というのは、「大逆事件」の判決、処刑があった年でもあるわけ。根津甚八もまた、この時代のなかで財閥の道をすすむことにも疑問もあって、しかし社会主義に没入することもできんかったんだろうなあと、ちょっと同情的な感想をもったりもする。

 映画そのものとしても、この洋風建築の楼閣のみごとさ、クレーンを多用した撮影のすばらしさが印象にのこる。「吉原」と外の世界との境界である「おはぐろどぶ」のとりいれかたもいい。わたし的には、座敷で芸妓さんたちが舞をみせるシーンだけで感涙してしまうので、そういうシーン(すばらしかった)が二回しかなかったのが不満。


 

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■ 2013-04-16(Tue)

 ニェネントの主食のネコ缶はもう、あるメーカーのものがいちばんのお気に入りだろうということはだいたいわかっている。あまり高価なものは買っていないけれども、いま買っているものよりも高いネコ缶でも、それほど食べなくてのこしてしまうことがよくある。そのニェネントお気に入りのメーカーのネコ缶でも、ときどき食べのこしていることがある。そのネコ缶には三種類あって、つまり「かつお」味と「しらす入りかつお」、それと「ささみ入りかつお」。これをいつも等分に買ってじゅんばんにあげていたのだけれども、どうやらニェネントはこのうちの「ささみ入りかつお」がいちばん好きらしい、というのがいまごろになってわかった。「ささみ入りかつお」だと、ぜったいにまっさきに皿が空になる。これからはその「ささみ入りかつお」だけを買うことにした。

f:id:crosstalk:20130418091145j:image:left そのニェネントと、きょうはいっぱいあそんだ。追いかけっこをやって、追いつめてつかまえて床に押さえつけたり。わたしにはあそびだけれども、ニェネントはそうとうにイヤだったにちがいない。爪をむいたニェネントのまえあしで左手の親指をおもいっきりひっかかれてしまった。かなり深くに爪で切りさかれたようで、かなり出血していたかった。ニェネントに傷をおわされたというのもずいぶんとひさしぶりのこと。このところはニェネントがわたしをかんだり爪をたてたりするとき、やはり加減をしてくれていたのだろうとおもった。きょうはどこかがまんのげんかいをこえてしまったんだろう。それでもそのあとでしばらくして、わたしのそばによってきてわたしの手をペロッとなめたりする。「ちょっとやりすぎちゃった。ごめんね」とでもいっているみたいだった。それはわたしの方もやりすぎだったのだから、「いいんだよ、こっちもわるかったから」と、ニェネントのあたまをなでてやった。

 きょうの朝食は買いおきのラーメン、昼食はまた焼きうどんと、ふだんとはまるでちがうメニューになった。


 

[]「風と共に去りぬ」(1939) マーガレット・ミッチェル:原作 ヴィクター・フレミング:監督 「風と共に去りぬ」(1939)  マーガレット・ミッチェル:原作 ヴィクター・フレミング:監督を含むブックマーク

 南北戦争を背景として、ヒロインの波瀾万丈の軌跡をえがいた一大叙事詩というか。‥‥これ、いくらでも長くできるじゃないかという感じで、大河ドラマとか朝のテレビ小説とかでやっていいんじゃないのか。というか、この作品の中盤でつまりは南軍の敗北におわり、登場人物たちが幾多の困難にぶちあたるというあたりは日本の敗戦時のシチュエーションにかさなってみえてしまう。スカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)が畑のラディッシュを掘り出してかじり、二度とこんな飢えを体験しないよう誓うところなんか、日本のドラマにもこういうのあったんじゃないかという既知感にとらわれてしまう。

 有名なアトランタの炎上シーンだとか、まっかな空を背景にしてクラーク・ゲーブルがヴィヴィアン・リーを抱いてキスするシーンだとか、いがいと早い段階で通過してしまう。

 冒頭からヒロインはとにかくビッチというか性格の悪さ全開なんだけれども、これがたびかさなる不運にみまわれつづけながら、運命のみちびきのように困難を打開していく道をえらばされている、という印象。原作は南部人の作品らしくも人種差別にあふれた本らしいけれども、映画では黒人たち使用人も人間味あふれた存在としてえがかれているといえるとおもう。けっこうずけずけとヒロインに意見するマミーの存在がいい。真ミーを演じたハティ・マクダニエルという女優さんは1910年代には歌手として活躍していた人らしい。この作品でアカデミーの助演女優賞を獲得したとのこと。


 

[]「御用金」(1969) 五社英雄:監督 「御用金」(1969)  五社英雄:監督を含むブックマーク

 あした五社英雄監督の「吉原炎上」をスクリーンで観にいくので、その予習というか、五社監督のけっこう初期の映画を観た。

 ‥‥これって、五社監督はぜったいにセルジオ・レオーネ監督の作品を観ているし、その演出、作劇にもけっこう影響をうけているとおもう。これはきっと、「夕陽のガンマン」だな、と。セルジオ・レオーネ監督の描く荒野がここでは雪原になり、公的な金塊を強奪しようとする悪玉と、ここではそれを阻止しようとする男、彼を手助けするなぞの男との対決。しかも阻止しようとする男の妻は悪玉の妹であると、いろんなシチュエーションがまた「夕陽のガンマン」をおもいださせる。首吊りの縄を手裏剣でぶち切るというのもセルジオ・レオーネっぽいではないか。

 しかし、これがただの「まね」におわっていないあたりがやはり五社英雄監督で、それがたとえば浅丘ルリ子の配置などという妙になっている。アクション映画の男たちのたたかいのなかに、こうやって女性の登場人物に存在感をもたせられる演出のできる人はいない。ラストのうつくしくも厳しそうな雪原のなか、仲代達矢のあとを追って歩む司葉子のすがたもいい。そう、ラストの、面をかぶった地元民たちによる太鼓の乱打がまたいい。ちょっと中村錦之助の存在感がうすくかんじるのは、撮影とちゅうでの不慮のキャスト交代のせいなのか。


 

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■ 2013-04-15(Mon)

 Facebook に、まるでしらない人物たちから「友達リクエスト」がきていたことはまえに書いたけれども、そういうのがすべて、「出合い系サイト」みたいな「つり」だったということが、いまごろになってわかった。Facebook にはそういうのはないのかとおもっていたけれども、もうちょっと巧妙にやればよさそうなものを、そういう人物(つまりは若い女性だな)が、そろいもそろっていちどにおなじ文面のバレバレのメッセージをよこすのだから、わらってしまった。おなじくわたし自身のこともまた、「この人たちはわたしの文を読んでおもしろがってくれて、<友達リクエスト>してくれたのだろうか」などとおもってしまっただけ、そうとうにバカだなあとおもった。

f:id:crosstalk:20130416151101j:image:right まえから「やりたいことがある」などと、ここでも書いていたのだけれども、つまりは、ニェネントのこと、そのお母さんのミイのこと、そしてこのあたりに行き来していた野良ネコのことを、この日記をもとにして再構成してみたいとおもっていただけのことである。わたしのような記憶力のよわい人間には、こういうブログというか日記を書いていたことはほんとうにおおきな助けになってくれて、自分でもこのブログの過去の記述をよむと「そんなこともあったんだ」と、ひとごとのようにおもったりもするし、ふといろんなことをおもいだして感慨にふけったりもしてしまう。そういうことをちゃんとまとめておくのは、わたしのためというよりも、ニェネントのためなんだともおもう。

 夕方になってきゅうに「焼きうどん」がむしょうに食べたくなり、夕食は「焼きうどん」にしようと、ちかくのドラッグストアに買い物にでた。ドラッグストアへの大通りをわたるとき、むこうからわたしがつとめている会社のトラックがやってきた。こういうときはわたしの知っている運転手さんが乗っていることがおおい。あいさつしておかないと失礼になる。やってくるトラックの運転席に目をやると、運転席の人がわたしの方をみて手をふっているのがみえた。やはりわたしの知ってる人なんだ。ちょうど逆光になって運転している人の顔は識別できなかったけれども、わたしをみてほほえんでおられるようだった。だれだかわからないまま、わたしも手をふりかえしていた。なんかうれしくて、気もちのなかでは「ありがとう」といっていた。

 うどん玉を買って帰り、はじめての自家製「焼きうどん」をつくった。またストックの春キャベツもつかった。あんまり過剰な味付けなんかいらないんだなあとおもった。きょうは味付け過剰でちょっとトゥーマッチ、だった。居酒屋の焼きうどんはおいしいなあ。


 

[]「グレートレース」(1965) ブレイク・エドワーズ:監督 「グレートレース」(1965)  ブレイク・エドワーズ:監督を含むブックマーク

 前半だけの印象でいえば「大傑作」。おかしくって、なんども爆笑した。‥‥みていて、これって「ヤッターマン」というか、「タイムボカン」なんじゃないの?なんておもっていたんだけれども、まさにそのとおりというか、「タイムボカン」のシリーズはこの作品からおおきな影響をうけているらしい。

 ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」のヴァリエーションというか、この映画で描かれたニューヨーク〜パリ間のレースというのはじっさいに1908年におこなわれたものらしい。しかしわたしはみていてニューヨークからパリへの経路がまるで想像もつかず、まさかシベリア経由だったとは(じっさいのレースではそれこそ「八十日間世界一周」みたいに日本経由だったらしく、そっちの経由でのこの作品をみてみたかった気はする)。

 レース出発までのプロフェッサー・フェイトの妖館での研究ぶりがさいこうで、これもまたジュール・ヴェルヌの「悪魔の発明」(もちろんわたしはカレル・ゼマンの映画もおもいうかべているのだけれども)を彷佛とさせられるというか、このギャグのれんぞくには感動して、なみだをながしたのである。ジャック・レモンとピーター・フォークのコンビはさいこうだし、「お熱いのがお好き!」でジャック・レモンと組んでいたトニー・カーティスもいい。そして、ドロンジョ役(ではないのだけれども)のナタリー・ウッドがまたすばらしい。ブレイク・エドワーズ監督と音楽のヘンリー・マンシーニとの共同作業も「ピンク・パンサー」からの仲だし、ここでの主題曲あつかいの「The Sweetheart Tree」は、わたしも中学生のころによく耳にしていて記憶にのこっていた。


 

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■ 2013-04-14(Sun)

 天気がいい。ひるから、東にあるアルコール量販店にいってみた。この店はふだんはそんなに安売りという印象もないのだけれども、ときに賞味期限まぢかのものなど劇安価格で売られている。たまにチェックしてみることにしている。

f:id:crosstalk:20130416073803j:image:right 東にむかう道には花壇がつくられていて、いまはチューリップなどがいっぱい咲いていて春らしい。この花壇のある道はすきだ。

 めあてのアルコール量販店は人でごったがえしていた。どうやら新聞の折り込み広告で安売りの宣伝をしているらしい。たしかに酒にかぎらずおつまみ類なども、どこのスーパーなどよりも安く売られていた。White Horse がけっこう安かったので、ひさびさにウィスキーというものを買ってしまった。あと、もう賞味期限がちかい生麺のラーメンが二食のパックで30円で売られていて、こんなのは冷凍しておけばいいんだからと、みそととんこつとしょうゆ味、それぞれふたつずつ買った。これでとうぶんはラーメンがつづくことになるだろうか。

 せんじつスーパーで、春キャベツの外がわがちょっといたんでいるものが安く売られているのを買ってあるのだけれども、春キャベツというのはやわらかくでとってもおいしい。かんがえてみたら、いままで春キャベツなんて意識して食べたことはなかった気がする。昼食はその買ったばかりのラーメンに春キャベツをいれて食べ、夕食にはやはりキャベツをつかってお好み焼きをつくった。

f:id:crosstalk:20130416073847j:image:left 発情期のおわったニェネントは、やんちゃになった。「わたしはわたしで、この家のなかではあなたとはべつの主導権をもってるのよ」と主張しているみたいな。‥‥なんだか、またひとまわりおおきくなったような印象もあり、ひょっとしたら卵黄のおかげなのかもしらん、などとおもったりもするけれども、外でみかけた野良ネコだとか、わたしの記憶にあるいろんなネコたちとくらべても、やっぱり「デカネコ」ではないかとおもう。くつろいでいるときにはちゃんと「香箱」をつくっておすわりしているときもあって、かわいらしい。


 

[]「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」(1966) セルジオ・レオーネ:監督 「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」(1966)  セルジオ・レオーネ:監督を含むブックマーク

 わたしが中学生のころ、この主題曲はアメリカでかなりヒットしていたときがある。しらべてみたら1968年のことで、そのまえの1967年になってようやく、「荒野の用心棒」も「夕陽のガンマン」もアメリカで公開され、ねんまつにはこの「続・夕陽のガンマン」も公開されてヒットしたようだ。日本で「荒野の用心棒」が公開されたのは1965年だから、アメリカよりはちょっとはやい。アメリカでヒットしたこの「続・夕陽のガンマン」の主題曲はオリジナル・サウンドトラックによるものではなく、Hugo Montenegro によるものだったようだけれども、とにかくはシングルのヒット・チャートでなんと二位にまでなっている。なんということだろう。ちょっとかんがえられないことなんだけれども、それだけこの映画もまたヒットしたということなんだろう。‥‥映画音楽でもって、「歌」ではなく、インストゥルメンタルとしてここまでのヒットになった曲というのは、ほかにはわたしには記憶がない。

 映画の方だけれども、これはまたずいぶんとお金をつぎこんでつくられているというか、背景になる南北戦争の描写とか、本家のアメリカ製西部劇よりも迫力があるかもしれない。そりゃあこのあとにアメリカに招聘されるわけだとおもう。

 ‥‥冒頭から、むさくるしくてきたならしい男の顔がアップでせまり、そういう「どアップ」とロングの映像との切り返しがきもちいい。例によっての白壁の独特の室内描写もさえわたる。「The Ugly」、「The Bad」、そして「The Good」の三人のイントロデューシングだけで三十分はかかっている。大長編で、脱線もおおいけれども、とにかくここではイーライ・ウォラックの存在感がすばらしい。どこかの映画祭で主演男優賞をもらうべきすばらしさ、だとおもう。彼の存在がなければこの作品の印象はがらりとかわっていたかもしれない。クリント・イーストウッドももちろんいいのだけれども、こんかいはどこかスキだらけというか、偶然の采配がなければ二、三回は死んじゃってるんじゃないのか。「あれ? こんかいは前作までのポンチョは着てないのか?」とおもっていたら、ちゃんとラストには衣装替えして出てきてくれた。


 

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■ 2013-04-13(Sat)

 きょうはしごとは非番でやすみだけれども、いつものくせではやくに目がさめてFM放送をきいていた。とつぜんに地震速報が流れ、「このあたりでもこれから揺れるのかな」とみがまえた。まったく揺れなかった。‥‥どうやら地震は関西の方だったようだけれども、気になってTVもつけてみた。FMもつけっぱなしだったのだけれども、そのうちにFMもTVのおなじアナウンサーのおなじ音声が流されているのに気がついた。FMでも「画面はいま、現地のようすをうつしています」などといっている。‥‥ところが、おなじ音声なのに、TVの方の音はFMよりもちょっと遅れている。このタイムラグってなんだろうとおもってしまって、ひょっとしたらつまりは、不測の事態が画面にうつりこんでしまうのを、そのみじかいタイムラグで検閲しているのではないか、などとかんがえてしまった。二年まえの大震災のとき、TVでは津波にのみこまれる人のすがたもうつしてしまったという。そういう映像がオンエアーされないための工夫なのかと。たとえばアメリカではかつてジャネット・ジャクソンがライヴでおっぱいポロリ事件などを起こしていらい、生放送でもタイムラグをもうけて検閲機能をはたらかせ、そういう不測の事態がオンエアーされてしまうことをふせいでいるときく。そういうことの日本版なのかなあなどと思ってしまったわけである。

 しかしそれはいくらなんでもかんがえすぎだったというか、まるでわかっていなかったというか、まったくそういう理由でのタイムラグではないのであった。これは地デジ放送というものの特性らしく、つまり放送するデータをまずは圧縮して電波にのせて発信し、それをまた伸張して映像としてみられるようにしているらしいのだけれども、そのデータの圧縮・伸張にじかんがかかってしまうのだと。そのせいでラジオ放送とのタイムラグが生じるというか、地デジ放送はじつはリアルタイム映像ではないのである。じゃあいったい、そういう面でのぜったいてきな正確さがもとめられる時報などはどうなっているんだろうとおもったら、いまの地デジ放送は「時報」というのはやっていないんだということ。そういえば、むかしのTVはお昼のニュースのまえなどには時計が画面いっぱいにうつされて、「プッ、プッ、プッ、ポーン」という音といっしょに正確な時刻をしらせていたわけだけれども、たしかにいまのTVはそういう時計の大写しなんていうのをやっていない。‥‥みょうなことで、ちょっとしたべんきょうをやってしまった。

 このところ読書のペースがガタオチで、「2666」なんか一ヶ月かかってしまったんだけれども、いま読みはじめたネグリ/ハートの「コモンウェルス」も、難渋する予感。ただ、ネグリ/ハートのまえの著作「マルチチュード」にはちょっとがっかりしてしまったところもあり、そのあとに読んだネグリの単著「芸術とマルチチュード」なんてまるでアホらしい本だったことからも、「こんどはどうなんだろう?」みたいな危惧もあったんだけれども、いまのところはブレもかんじられず、はっきりとアナーキズムに近接してきている印象もあり、いろいろと指針になってくれそうな予感。
 そのアントニオ・ネグリ、ちょうどいま来日されていて、きのうは東京で講演会ももよおされていたらしい。急速に右化していきそうないきおいのこの国に、「そうじゃない!」という声をひびかせる加速装置になってくれるといいとおもう。「コモンウェルス」のいまよんでいるぶぶんの、「身体」という概念には共振する。ドゥルーズ/ガタリにも通じるものをかんじる。

f:id:crosstalk:20130415122423j:image:right きょうもちょっとばかし、東京にいってみようかという気もちもあったのだけれども、きょうはうちのあたりをとおるローカル線がなんかの理由で不通になっているらしく、やっぱりおでかけはとりやめ。ヴィデオをふたつみて、平常心をとりもどしたニェネントとあそんで、本をよみながら寝てしまった。


 

[]「夕陽のガンマン」(1965) セルジオ・レオーネ:監督 「夕陽のガンマン」(1965)  セルジオ・レオーネ:監督を含むブックマーク

 せっかく「荒野の用心棒」が尋常でない映画になっていたのが、ここでちょっと「普通」の映画になってしまったような気がしないでもない。ただ、たんじゅんに笑っているだけではないジャン・マリア・ヴォロンテの悪役はすばらしい。目をあけたまま眠るすがたにはぞっとするし、彼のかかえもつ「悪夢」こそがこの映画でいちばんのすばらしいところ、だろうか。


 

[]「五番町夕霧楼」(1980) 水上勉:原作 中島丈博:脚本 山根成之:監督 「五番町夕霧楼」(1980)  水上勉:原作 中島丈博:脚本 山根成之:監督を含むブックマーク

 原作や脚本はいいんだけれども、演出がボケだとこんなになってしまうという見本のような作品。まるでTVのバラエティ番組とかんちがいしてしまっているような。もったいないなあ。
 「飢餓海峡」とかあるけれども、わたしは水上勉という人の作劇がすき。松本清張なんか、彼にくらべるとぜんぜんおもしろくないけれど、水上勉は「飢餓海峡」(傑作!)いがい、いい映画化の企画にめぐまれなかったようにおもう。この作品もそう。


 

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■ 2013-04-12(Fri)

 せんげつ、新宿でCさんとDさんと飲んだとき、水族館劇場のはなしをして、ついいきおいで「こんどの公演に三人でいこうよ」などという展開にしてしまった。じゃあわたしが三人分の予約をしておかなくてはいけないのか、それはいまの経済状態ではきびしいなあとおもっていて、どうしよう、わすれたことにして放置しておこうか、などと卑劣なことをかんがえていたのだけれども、きょうCさんから電話があり、Cさんの方で三人分予約してくれたとのこと。‥‥ものすごく、ホッとした。よくおぼえていてくれたと、感謝。
 じつは、いままでいつも水族館劇場の駒込での公演をいっしょに観にいっていたEさんとも、こんかいの世田谷での公演は観にいく約束ができていて、つまりこんかいの水族館劇場の公演、わたしは二回観にいくことになるわけである。ちょうどいいぐあいに、そのわたしのいく二回のスケジュールに、二しゅうかんほどの間隔ができたのもよかった。
 CさんやDさんとはずいぶんとむかしに紅テントなどをいっしょに観にいったことがあったけれど、彼らも水族館劇場は初体験になる。水族館劇場にはぜひとも、東京でのこれまでの三年間のブランクをうめるような、すてきな公演をやってほしいものである。

 あしたはしごとも非番でやすみなので、きょうは東京に出て映画でもみようかとおもっていたのだけれども、そこでちょっとした事件があって、なんかがっくりしてでかけるのはやめてしまった。おまけにやめていたタバコなんか買ってしまった。いいわけになるけれども、そのくらいショックな事件だった。わたしのことではないけれども他人のプライヴェートなことなので、いくら匿名でやっているからわからないだろうとはいえ、ここにその詳細を書いてしまうことはためらわれる。けっきょく東京にでかけるのもやめて、部屋でごろごろしてしまった。

 ひるから線路のむこうのスーパーに買い物にいき、その帰りに、うちのちかくの駐車場に二ひきの野良ネコがたむろしているのをみた。どちらもしらないネコ。いっぴきは白ネコで、おそらくはむかしいたジュニアの血縁だろうとおもうけれども、まだちょっとおさないかんじで、ジュニアではない。もういっぴきは黒ネコなんだけれども、その黒はちゃいろっぽい黒で、いままでこのあたりでみたことのない種類のネコだとおもった。‥‥しばらくまえにうちのベランダにきていたトラネコの「ベンナ」(かってに名まえをつけた)もいつしかこなくなっていたけれども、それでもしぶとく野良ネコたちは生きつづけている。でもきっと、彼らの寿命はみじかいんだろうとおもう。

f:id:crosstalk:20130413105936j:image:right よるになって、ベッドで本をよんでいると、ベランダのそとからネコのなきごえがきこえてきた。わたしといっしょにベッドの上にいたニェネントは窓までふっとんでいって、そとのようすを確認している。わたしも気になっておきあがり、窓のそとをみてみたけれども、もうそとはまっくらだし、ネコのすがたはみつけられなかった。「いいや」とおもってまた本をよんでいると、こんどは駐車場にもどってきた車から子どもたちが降りてきてこえをあげている。さっそくニェネントはとびだしていってパソコンの上にあがり、窓のそとを一心にみつめていた。


 

[]「荒野の用心棒」(1964) セルジオ・レオーネ:監督 「荒野の用心棒」(1964)  セルジオ・レオーネ:監督を含むブックマーク

 ほんらいのアメリカ製の西部劇をみるとき、やはり「時代だなあ」という感覚とともにみていることがおおいのだけれども、この「荒野の用心棒」はいまみても新鮮というか、古さを感じさせない。ものすごくシチュエーションが限定されていて、よけいな日常会話がいっさい排除されているせいかもしれない。捕虜交換のじりじりとした描写もすばらしいし、残虐なリンチもしつっこく長い描写。室内と外との対比もきまっているし、絶妙なユーモア感覚もすてきだとおもった。


 

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■ 2013-04-11(Thu)

 しごとの、作業量がずっと激減しつづけている、とおもう。それにともなってか、メンバーのかずも減ってしまった。もう補充はしないのかもしれない。‥‥二年半まえにこのしごとについたときには、おなじしごとに従事するメンバーは八人いた。それでもけっこうめいっぱいなしごと量だったのだけれども、せんげつあたりには三人でやるというのが常態になってしまっていた。いちおうおなじしごとにあたる人員は六人いたけれども、うちふたりはたいてい倉庫にはこないで、支店の方のしごとにあたるのがあたりまえになり、勤務のシフトで六人のうちひとりかふたりは非番の人がいるから、倉庫で従事するのはへたをするとふたりということがおおくなった。その六人のうちひとりが三月いっぱいで退社し、もうひとりもことわりもなくこなくなってしまった。どうやらほかのしごとをみつけたらしく、もうこのままやめてしまうだろう。つまり四月からはメンバーは四人になり、そのうちのひとりはだいたい倉庫にこないので、じっしつは三人である。たいていそのうちのだれかひとりは非番でやすみになるから、この四月からはじっさいに作業するのはふたりということになりそうである。わたしとAさんとBさんとの三人。Aさんとは入社した日もおなじで年齢もほぼおなじだし、とってもやりやすいというか、わたしも彼といっしょということですくわれている。それでBさんとはずいぶんまえに大きな衝突をして、いっちばんやりにくい存在だったわけで、こまったもんだとおもっていたところはある。わたしの方は「もういいかげんに和解してやろうじゃないか」というつもりだったのだけれども、Bさんの方ではそうでもないらしく、いちいちつっかかってこられて難渋していたところはある。しかしBさんも「のこり三人でいつまでもつっかかっていてもしょうがない」とかんがえられたのか、このところきゅうに、わたしに対しても温和になられた。まあほっとしたというか、これからはAさんと組んでやるかBさんと組んでやるかというペア作業のくりかえしになるんだろう。まあふたりでやっても無理なくおわってしまうぐらいに作業量がへっているわけだが。

f:id:crosstalk:20130412173214j:image:left ようやく、ニェネントの発情期がおわった。七日間の発情期だった。ただわたしはニェネントのおしりをペン、ペンとたたいてやるだけだったけれども、つかれたし、ニェネントはもっとつかれたというか、うんざりしていたんじゃないだろうか。「おつかれさま」というところ。ニェネントをなだめてあげるには空のペットボトルで腰をたたいてあげるのがいちばんのようなんだけれども、きのうなんかは、ニェネントがはなれたところにいるときに、ペットボトルを手のひらでポン、ポンとたたいていたらその音をききつけて、ニェネントの方からちかくによってきたりした。だいたいネコというものはきままな存在で、たとえ飼い主のいうことでもきいたりしないもの。「おいで!」なんていっても無視するのがネコというものである。それが、「ほら、ペットボトルだよ」なんてやってあげるとよってくるというのは、「わかってるんだなあ」というかんじである。まあネコメシをだしてあげるときにガサゴソと音をたてるとよってくることとかわりはないのだけれども。

 よる、ベッドで本をよんでいると、ニェネントがベッドのうえにあがってきて、わたしのあしもとでまるくなって寝はじめた。かんがえてみたら発情期のあいだはずっとわたしのベッドにはあがってこなかったわけで、そういうニェネントの意識もなんだかおもしろくおもえた。発情期のあいだはベッドにはあがってこなかったけれども、ベッドのすぐ下のスペースで寝ていた。発情期のときにはなにかはばむものがあるのだろうけれども、やはりわたしのそばにいたいとおもってくれていたわけだろうか。ニェネントはかわいいよ、とおもった。


 

[]「存在の耐えられない軽さ」(1987) フィリップ・カウフマン:監督 「存在の耐えられない軽さ」(1987)  フィリップ・カウフマン:監督を含むブックマーク

 原作はわたしのきらいなミラン・クンデラ。脚本にはジャン=クロード・カリエール(きらいにはなれない)もかかわっている。監督はフィリップ・カウフマンで、この監督さんのことはいいんだかどうだかよくわからない。撮影にはスヴェン・ニクヴィストの名まえも。この映画じたいはずいぶんむかしにヴィデオでみた記憶があり、映画のラストのセリフ、「なにを思ってるの?」「‥‥どんなに幸せかと」というのはなぜかよくおぼえていた。

 ラヴ・ストーリーとして、とってもよくできている、などと書くとあまりに僭越だろうけれども、「プラハの春」をからめてのパーソナルなドラマはとってもすてきというか、感銘をもおぼえた。やはりラストのセリフが記憶にのこるのもしかたがない。わたしだって、さいごのときにこうおもいながらすべてがおわるといいとおもう。そういうことが、きれいに演出されていたとおもう(アメリカへの手紙はちょっとヤボな演出かもしれないけれども)。

 しかしながら、どうもしっくりこないところもある。たとえば、登場人物のひとりレナ・オリンがレストランで、その店のBGMにたいして「このノイズをやめて」なんて給仕にいうのは、ヤボの骨頂もいいところであろう。どんな音楽がそこでかかっていたのかわからなかったけれども、じゃあこの映画でフィーチャーされているヤナーチェクの音楽は、「ぜったいてきにノイズではない」のか。この部分は原作にもあるのかどうかしらないけれども、これでは「退廃芸術」を排除しようとした全体主義者とかわるところはない。だれも、公共の場ではじぶんのきらいな音楽をストップする権限はないだろう。たしかにそういう場所でじぶんのきらいな音楽が流れるのは苦痛かもしれない。しかし、いやならその場を立ちさればいい。出るときに「音楽がひどい」ぐらいのことはいうかもしれない。それがわたしのかんがえ。音楽というのはそういうものだとおもう。

 そのヤナーチェクについては、わたしのだいっきらいな日本の小説家が、さいきんの作品の冒頭で「みんなヤナーチェクなんてしらないだろう」みたいないやらしい書き方をしていたのをおもいだす。もしもこの原作小説にもヤナーチェクの名がでてくるのなら、やっぱクンデラもそのわたしの嫌悪する日本の小説家もおなじようなものだねえと、納得する(でもそれではヤナーチェクへの偏見になってしまうか)。ただ、レナ・オリンという女優さんは、いい。

 プラハの街のなかにソ連軍の戦車が侵入してくる場面があったけれど、ここでわたしはベルイマンの「沈黙」をおもいだしてしまった。「沈黙」もまた、スヴェン・ニクヴィストの撮影だった。


 

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■ 2013-04-10(Wed)

 きょうは「もえないゴミ」の収集日だったのに、なにかかんちがいをしてしまって、出すのをわすれてしまった。‥‥このあたりでは、「もえないゴミ」の収集はつきにいちどだけのことである。東京だったら、区によってちがうだろうけれども、まいしゅういちどは「もえないゴミ」の収集日があった記憶がある。地方に住んでいるからゴミはあまりださないということはありえないとおもうのだけれども、やはりつきにいちどだとたまってしまう(ちなみに、「もやせるゴミ」の収集は、いっしゅうかんに二回ある)。うちのばあい、まずはニェネントがまいにちひと缶のネコ缶をたべるので空き缶がまいにちできる。これがいちばんの「もえないゴミ」。これに、さいきんではわたしもビンに入ったアルコール類の消費がおおいわけで、これが一ヶ月では数本の空きビンではすまないのである。こんげつはずいぶんとたまってしまい、じぶんでもおどろいていた。やはりこれはのみすぎかもしれない。‥‥そのほかにも量はすくないけれどもあれこれと「もえないゴミ」はでてくるわけで(こんげつは蛍光灯もひとつ寿命になったし)、すでにきのうまでにゴミ袋ひとつでは入りきれなくなってしまっていた。「こんげつはおおいなあ」とおもっていたうえに、そのつきにたったいちどの「ゴミの日」に出しわすれてしまった。つまりらいげつは二ヶ月分のもえないゴミを出すわけで、これはへたをしたらゴミ袋よっつぐらいにまでふえてしまいそうである。

f:id:crosstalk:20130412105809j:image:right そのわが家でいちばんの量の「もえないゴミ」を排出しているニェネントは、きょうこのごろの「発情期」のせいで、いちばんの騒音をまきちらしてもいる。それでもここはけっこうがっちりした集合住宅なので、あんまり室内の音も外にはもれていないようだけれども、ネコの発情期のノイズはふつうではないところもあるから、近隣から苦情をもちこまれてしまう事態もかんがえられないことはない。しばらくはがまんしてくださっていたとしても、ネコの発情期というのは五、六日つづくので、「がまんしていたけれども、いいかげんにしろ!」ということになったりもするだろう。って、ニェネントの発情状態はきょうで七日目になるのだ。わたしだって、いいかげんにしてほしいとおもうのである。

 きょうはなんとなく寒い。しごとをおえて帰宅してからは録画してあった映画をすぐにみはじめて、まったくそとにでないですごしてしまった。


 

[]「戦場のメリークリスマス」(1983) 大島渚:監督 「戦場のメリークリスマス」(1983)  大島渚:監督を含むブックマーク

 公開当時映画館でみたんじゃないかとおもう。そのあともヴィデオでみた記憶もあるけれど、あんまりこころをゆすぶるような作品でもなかったような。この作品の有名な音楽だって、キャッチーなワンフレーズをどこまでもリフレインさせているだけみたいで、あんまりいいとおもっているわけでもない。こういうガムランでやる映画音楽なら、「キリング・フィールド」でのMike Oldfield の「Etude」の方が記憶にやきついている。

 で、映画の感想だけれども、やはりびみょうというか、これって、日本人の自己弁明というような映画なんだろうか。こういう内容で、つくったのがここで描かれた日本人なのだというのがどうもしっくりこない。ここで描かれているのは戦争での善悪をさばくというようなことではなく、あるシチュエーションのなかでのちからかんけいのもと、それぞれの人物がその背後にどのようなものをかかえもっていて、それがどのようにその行動に影響をおよぼしたか、ということなんだろうか。もちろんカルチャーギャップのもんだいもあるけれども、ここでひとつ主題になっているホモセクシャルの意識については、支配側の日本人も、俘虜であるイギリス人、オランダ人などの外国人でも、ここではおなじようにある種の「恥」の感覚はもっているように描かれている。‥‥その意識をさかてにとって挑発するのがデヴィッド・ボウイの演じるセリアズというイギリス人兵士。なんだかこの挑発のおかげで日本人(坂本龍一の演じるヨノイ大尉)に「弱さ」があった、みたいな劇になっている印象だけれども、わたしはそんな「弱さ」にいかほどの意味があるのか、とおもってしまう。戦争という機会に乗じて、じぶんの弱さゆえに人を殺してしまうという行為を理解しろというのか。それは自己弁明ではないのか。なんどもでてくる切腹シーンもわたしには理解できない。

 この映画ではそういう弱さとは無縁の、オープンマインドとでもいえるようなものをもっていたハラ軍曹(北野武)という存在を、ロレンス中佐(トム・コンティ)との交流を通して擁護しているみたいで、ラストにはそのハラ軍曹が戦犯とされ処刑されることへの異議みたいな視点がしめされる。これではオープンマインドをもっていさえすれば擁護されるべきだ、みたいなもので、そういう視点からの戦争裁判ということへの価値判断というのは、ちょっとちがう気がする。この映画で描かれたことはあまりにかたよったシチュエーションだけであって、戦場というものをこういうことだけで語ってしまうのはやはり無理があるとおもう。いったいなぜハラ軍曹は戦犯とされたのか、その裁判のことを伝えてくれなくては、この映画だけではまったく判断することはできない。


 

[]「戦場にかける橋」(1957) デヴィッド・リーン:監督 「戦場にかける橋」(1957)  デヴィッド・リーン:監督を含むブックマーク

 ‥‥そういうわけで、おなじ日本軍による俘虜収容所を舞台にした映画をみてみた。原作は「猿の惑星」の原作者でもあるピエール・ブール。ピエール・ブールもまた俘虜の体験があったらしいけれども、そのときの日本軍への印象から「猿の惑星」もうまれたらしい。この映画では、日本の軍人がなにをかんがえていたかなどということはもんだいではない。ただ、日本軍はタイの山奥に鉄道を通し、そこに鉄橋をつくろうとしていた。その建設に俘虜たちが動員されたわけである。日本軍はジュネーブ協定を無視して俘虜の将校らにも労働を強制しようとするけれども、俘虜のニコルソン大佐(アレック・ギネス)は生命をかけてこれを阻止するわけである。

 デヴィッド・リーン監督の作品にはめずらしく、というか、ほとんどコメディのような演出がつづく。深刻な事態でも笑いとばしているような演出だし、主要登場人物がみんな死んでしまうラストでも、「狂気だ」などといいながらも「ばっかだねえ」といっているような印象がある。

 早川雪洲の日本軍、アレック・ギネスのイギリス軍らの俘虜たち、そして収容所から脱出してまた舞い戻ることになるウィリアム・ホールデンらのゲリラ隊と、視点を移動させながらの描写はこのつぎの「アラビアのロレンス」への布石だったというべきだろうか。空から人間たちの愚行を見おろしている鳥の存在があるおかげで、壮大な皮肉を感じさせる作品という印象も強まった。


 

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■ 2013-04-09(Tue)

 いくどか書いているけれども、うちのパソコンは前世紀の遺物なので、YouTube そのほか、ふつうにパソコンでたのしめるサイトをみることができない。それでも三、四年まえまではそんな旧式のパソコンでもYouTube をみることもできていた時代があって、そのころのこのわたしの日記もしばらくはYouTube をはりつけていたころもあった。おなじころにFacebook も閲覧することもできたので、登録することだけはやっておいた。そのうちに活用することもあるかもしれないとおもっていたのだけれども、なにもやらないうちに、このパソコンではFacebook を利用できなくなってしまった。ところがこれが、「友達リクエスト」というのがとどくとメールで知らせがくるわけで、ぼちぼちとそういうリクエストがくるようになった。じっさいに知り合いの方ばかりだから放置してももうしわけないわけで、ケータイからFacebook にアクセスして(これはなんとかできる)、とにかくリクエストしていただいた件を承認することだけはやっていた。

 それで、さいきんになって、なんだかFacebook というものをなにもやらないで放置しておくのもいけないかな、などという気分にもなってしまった。でも、いまげんざいのことはいつもこのブログに書いているわけだし、時事もんだいについて書くのは苦手。じぶんでイヴェントとかやらなくなってるから、そういう宣伝することがらもない。それで、ミイのことやニェネントのことを、過去にさかのぼってまとめて書いてみようということにした。‥‥じつは、そのうちにそういう、ミイとのいきさつ、ニェネントたちの誕生、ミイの死、そしてニェネントの成長のことをまとめてみたいという気もちもあったので、そのれんしゅうのつもりもあった。

 なんかいかそうやってFacebook に投稿するようになって、せんげつお会いした方からも「いきなり書きはじめたのでおどろいた」みたいなこともいわれた。やはり読んでくださってる人もいるというか、じぶんがパソコンではFacebook をみないので、いったいじぶんの投稿がどういうふうにディスプレイにあらわれているのかもわからない。それでもちょっとは反応してくださる方々もいて、まあ書きつづけてもいいのかなあと、なんどか投稿していた。それできのう、ニェネント誕生のこと、そのニェネントのお父さんネコが、公園にいるのをみたことがあるラグドール種の飼いネコにまちがいないだろうということを書いたのだけれども、それがそのあとにまったく知らない人たちから「友達リクエスト」が届くようになった。きょうまでに五人の知らない人たちからのリクエストがあった。‥‥そんなに拒否する理由もないので、すべての皆さんを承認した。なんか、そうするとそういうあたらしい人たちは、わたしがこれからもネコのことを書きつづけることを期待されているのだろう。なんというか、ちょっとしたプレッシャーである。というか、わたしはじぶんがFacebook に投稿したことって、じぶんが「友だち」と承認している人たちにしか読まれないんだとおもっていた。そうではなかった、ということなのか。

 きのうは夕方からベッドで寝てしまって、目がさめたらまよなかになっていたのでそのままねむりつづけてしまったのだけれども、どうやら寝ちゃったのはまだ午後の五時ごろだったみたいで、けっきょくけさはいつもどおり四時まで寝ていたので、十一じかんねむったことになる。おかげできのうは夕食も食べなかったし、薬を飲むのもわすれてしまった。

 きょうは図書館にようやく読みおえた「2666」を返しにいき、やはりわたしのリクエストで買ってもらったネグリ/ハートの「コモンウェルス」の上巻を借りてきた。あと、「動物の歴史」という本も。

 帰宅して映画を一本みて、きのうぜんぶ食べてしまうはずだったカレーの残りで夕食にした。ようやっとつくりおきのカレーがぜんぶなくなった。


 

[]「ファンタスティック Mr.FOX」(2009) ウェス・アンダーソン:監督 「ファンタスティック Mr.FOX」(2009)  ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 ストップモーションの人形アニメ。アメリカ製の作品なんだからピクサー風の3D・CGアニメーションでやればよさそうなものだけれども、そこはウェス・アンダーソン監督だからこだわりがあったのかもしれない。それでやはり、ウェス・アンダーソン監督らしくというか、3DのCGアニメーションとそんなに大差ないような作品になってしまったじゃん、というかんじ。

 シュヴァンクマイエルなどヨーロッパで活躍するストップモーションアニメ作家の作品だと、人間や動物だけでないもの、ほんらいうごくはずのないものがうごきだすというか、たんじゅんに「人形がうごく」ということからとおくはなれた発想のもとにスタートしている印象がつよいけれど、ここはやっぱアメリカ製。人間だとキツネは演じられないから人形をコマ撮りでうごかしました、というあたりからはじまってるみたいだし、さきに書いたようにCGアニメとどこがちがうの? という印象はのこる。またこの監督らしくも「家族」のもんだい、みたいなテーマ。

 Beach Boys の「Heroes and Villains」とかが流されるのはおもしろかった。ラストの曲がガレージ・パンクっぽくって「だれがやってるんだろう?」とおもっていたら、Bobby Fuller Four の「Let Her Dance」という曲だった。彼らの大ヒット曲「I Fought The Law」よりもまえのシングルで、Top100 にもランクインしていない曲らしい。それはわからないや。ウェス・アンダーソンはやはりおもしろいところを使ってくる。


 

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■ 2013-04-08(Mon)

f:id:crosstalk:20130409114531j:image:left ニェネントはきょうもまだ発情している。わたしの方におしりをむけてしっぽをあげ、「なんとかしてよ」となくのだけれども、つまりニェネントの肛門がわたしからまるみえになる。その肛門がなんだか赤くただれているようなので、「だいじょうぶなんかしらん」とおもって、肛門のわきをちょっと指でおさえてみると、その肛門の左右から緑色っぽい膿のような液体がピュッととびだしてきた。びっくりしたし、この液体がなんともくさいというか、へんなにおいがする。すぐにティッシュでふきとったけれども、すっごくくさい。これもネコの発情期にかんけいするものなのだろうか。‥‥さっそく調べてみると、これは肛門嚢というやつらしい。ネコにとって「においつけ」のためのだいじな器官、分泌液ということで、有名なスカンクの悪臭も、つまりはコレだということ。ネコやイヌの病気のひとつに「肛門嚢炎」というのがあって、つまりは肛門嚢がつまってしまうらしい。そうすると飼い主がこいつをしぼってやったりすることもだいじになったりするらしい。きょうははからずもそういうことをわたしもやってしまったわけである。くさかった。ネコのオスはひんぱんに「においつけ」をやるというけれども、こんなにおいをあちこちにすりつけるんだろうか。それはたまらんなあとおもうし、ネコはひとさまなどよりは数万倍も鼻がきくくせに、こんなにきょうれつなにおいをださなくってもいいじゃないかともおもう。‥‥とおくはなれたところにいるネコにも、はなれたところにいるじぶんの存在をしらせるためなんだろうか。

 きょうはちかくのドラッグストアでポイントが二倍になる月曜日なので、買い物にでかけてまたスミノフのウォッカを買う。ついでにキンミヤの焼酎とホッピーとを買い、賞味期限がちかくて半額になっていたビーフジャーキーとさきいか天も買った。すべて酒とその酒のさかなばっかり。そもそもが金がないという危機感のなかで、あらゆるいみでまったく健全な買い物ではないなあとおもう。

 午後から録画してあった映画を一本みて、そのあとのこりわずかになっていた「2666」をベッドに寝ころがって読了。‥‥ついによみおえたぞ、という安堵感からか、そのまま寝てしまった。これがちょっとおそい昼寝ぐらいですめばよかったのだけれども、目がさめたらもうよなかの十二時にちかいじかんだった。ここで起きだしてもしょうがないので、またそのまま寝ることにした。


 

[]「2666」ロベルト・ボラーニョ:著 野谷文昭・内田兆史・久野量一:訳 「2666」ロベルト・ボラーニョ:著 野谷文昭・内田兆史・久野量一:訳を含むブックマーク

 2003年に50歳でなくなられたロベルト・ボラーニョの遺作。大長編で未完であるけれども、どうもボラーニョは、この作品をさいしょっから「未完」のままおわらせるつもりだったみたい。ある面で、カフカの「城」のような作品を、意図して書いていたわけだろう。それがじぶんの「死」を予知してのことだったのかわからないけれども、どこまで書いても「未完」でおわるという形式は、意識していたふしがある。そしてもうひとつ、「後世に残る」ということへの意識(というか考察)、そして前作の「野性の探偵たち」からひきつがれた、マイナーな作品、マイナーな作家ということがまた、この作品の柱にもなっている。

 わたしはここでその小説家の名まえをもういちどここに書いて批判してしまっていいとおもうのだけれども、むかしはちょっとはおもしろい作品を書くとおもって読んでいた保坂和志という作家について、彼がそのエッセイのなかで、作家が「後世に残る」ということについてあまりにばかばかしい意識しかもっていないことをしり、あほらしくって、以降はもう保坂和志の作品を読むことは放棄したものだった。

 このロベルト・ボラーニョによる「野性の探偵たち」は、もう読まれることもなくなった作家、その軌跡を追うミステリーみたいなところもあった作品だった。‥‥はたして、作家とは、その作品が印刷されて流通すればそれでもって特権的な「不滅の存在」になれるとかんがえていいのか。芥川賞を受賞した作家でも、わすれさられた作家はいっぱいいる。国会図書館に所蔵されていればそれでもって「不滅」とかんがえるならば、国会図書館なんて「墓場」みたいなものだろう。保坂和志がイヤなのは、一方で地方の旧家などが祖先の銅像などを所蔵しているということをあざわらったりするところで、そんなことはよけいなお世話だというか、「じゃあ肖像画だったらいいのかよ」と問えば、きっと保坂和志は反論できないだろう。できっこないのである。彼にあるのはただじぶんが「小説家である」という「優越感」でしかないし、彼はきっと、そういうヨーロッパの伝統からくるものは賛美してしまうだろう。つまらない存在である。はたして、保坂和志はこのロベルト・ボラーニョに作品群にたいしてどんな感想をもつのか、興味がないわけではない。

 ‥‥ついつい脱線してしまったけれども、この「2666」という作品、一方でアルチンボルティという(ふざけた)名まえの小説家が、全編をつうじての主人公である。もう一方に、メキシコの架空の町サンタテレサでおこりつづけている連続女性殺人事件というのがある。

 ここまで書いて、また脱線したくなってしまう。さきに小説家が「不滅の存在」になろうとすることを書いたのだけれども、ここでミラン・クンデラの「不滅」という、まったくおもしろくなかった小説のこともおもいだしてしまう。‥‥ロベルト・ボラーニョはここで、おなじようにカフカがいいよね、なんていっているミラン・クンデラみたいな作家への「ノン!」を書いているんじゃないかという気もする。

 アルチンボルティという作家は、20世紀の悲惨な戦争のなかで宿命的に「作家」になる道を選ばざるをえなかった存在、ということもできる。そこで、ひょっとしたら、彼は「不滅」な存在になったのかもしれない。この作品はそういう、「作家とはなにか、どういう存在なのか」ということがテーマなのかもしれない。だから、たとえば保坂和志みたいな、たとえばミラン・クンデラみたいな、くっだらない存在が、「オレが歴史にのこる不滅の存在だ」などとぬかすことへの、おおきな「ノン!」の声ではないのか、ということもできるのではないのか。

 ‥‥おそらく、アルチンボルティという作家は、サンタテレサという架空の土地のなかで消えてしまうのである。その「消えてしまう」ということを、幾層にも、重層的に語っているのが、この長大な小説ではないだろうか。わからないけれども、とにかくもあれこれといろんなことをかんがえてしまう小説。一面で、「もう<小説>など存在し得ない」という小説でもあるとおもう。


 

[]「テルマエ・ロマエ」(2012) 武内英樹:監督 「テルマエ・ロマエ」(2012)  武内英樹:監督を含むブックマーク

 主人公の阿部寛が雨のなか、古代ローマの階段にすわっているシーン、てまえにロバがいるシーンがよかった。それから、外波山文明氏がでていたのがうれしかった。

 ‥‥原作マンガは読んでいないけれども、この脚本はちょっとなさけない。日本の女の子がマンガ家志望ということはまったく活きていないし、その日本の温泉旅館が廃業寸前なんだったら、古代ローマのアイディアをいただいて再生するぐらいのことは、あと一分も追加すれば描けるだろうとおもう。そもそもが、ハドリアヌス帝が「神聖化」されようがどうだろうが、わたしなどにはどうでもいいことなのである。いったいなにが現代日本がわの原動力というかメリットなのか、そのあたりが描けていれば、もっとたのしめたとおもう。

 わたしも銭湯にはあしげく通った存在なので、もうちょっと「銭湯」をクローズアップしてほしかったというところもある。銭湯の桶の<ケロリン>の文字、番台で売っている<コーヒー牛乳>にはノスタルジックなおもいがある(ここにくるまえに谷中に住んでいたときに通った「世界湯」という銭湯の桶には、あのときも<ケロリン>のロゴが書かれていた)。


 

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■ 2013-04-07(Sun)

 きょうはしごと。きのうの天気予報で「たいへんなことになる」みたいなことをいっていたのでしんぱいだったけれども、目がさめて外のようすをみてもまるでどうっていうこともないようだった。なんだ、からぶりだったか、というかんじで、ほっとした。五時にちかくなって家をでると、もう東の空があかるくなってきている。そういう季節になったのだなあ。これからは出勤じかんもだんだんにあかるくなってくる。Sunny Side of The Year がはじまる。

 日曜日ということもあってしごと量もすくなく、ちょっと申しわけないぐらいに遊び気分。せんじつからのシステム更改のトラブルも、わたしらの部署では「しょうがないよね」ぐらいのリスクですんでいるところもあるけれども、べつの部署ではもっと深刻なことにもなっているらしい。

f:id:crosstalk:20130408160403j:image:right そとの嵐はどうということもなかったけれども、家に帰るとニェネントが嵐。わたしはニェネントのことをまちがいなく愛しているとおもうのだけれども、こういうときにニェネントが苦しんでいる(のだろう)のを、どうしてあげることもできないのはとてもつらい。

 きのう「幽霊紐育を歩く」をみて、あとでおもって書き忘れていたのだけれども、むかしのハリウッドとかのアメリカ映画には「スクリューボール・コメディ」というのがあって、ひとつの特徴として怒濤の展開というか、圧倒的なセリフ量をすごいスピードでまくしたてるような演出がおこなわれていたとおもうのだけれども、きのうみた「幽霊紐育を歩く」にもそういうところはあった。それでおもったのは、せんじつみた「ソーシャル・ネットワーク」について「いままでになかったタイプの映画」なんて書いたのはこのあたりのことをいったわけだったけれども、こういう戦前の映画にはあった表現なのだったとおもいあたった。

 ずっと「2666」を読んでいて、あとちょっと、というところからなかなか先にすすまないのだけれども、ついについに、のこり5ページぐらいのところまできた。そこまできたらいっきに読んでしまえばいいのだけれども、なんだかもったいなくってあしたにとっておくことにした。

 ひるまヴィデオを二本みて、夕食はまたカレーライス。これがぜんかいにこりでちょっと分量をへらしたのだけれども、そのあとにやけに空腹をかんじてしまい、しばらくしてまだのこっていたごはんにふりかけをかけて、一膳ぶんぐらい食べてしまった。いったいじぶんがどのくらいの量を食べたらまんぞくなのか、よくわからなくなった。


 

[]「パルムの僧院 完全版」(1947) クリスチャン・ジャック:監督 「パルムの僧院 完全版」(1947)  クリスチャン・ジャック:監督を含むブックマーク

 スタンダールの小説で有名な作品だけど、スタンダールなんか読んでいるわけがない。それで「え? こんな作品なの?」と、ちょっとおどろいてしまった。たいていの登場人物たちはみな、じぶんの欲望だとかエゴにしたがって生きているだけみたいだし、ラストに愛を誓いあうカップルにしても、その「愛」って、なんですか?ってかんじ。だいたい、あれだけ無節操だった主人公のジェラール・フィリップの、ラストでの豹変ぶりがまるでわからない。ラストの「スタンダールがいうように、幸福の探究はむずかしい。だが、一生をかけるに値する」というナレーションが、どうしたらこの映画の内容に合致することになるのか、わたしにはさっぱりわからない。わたしがそういうことに鈍感なのか、この映画の脚色が変なのか。

 ただ、このクリスチャン・ジャックという監督さんの演出はけっこうみごたえがあって、ロングの映像とクローズアップの映像とのリズムなどいい感じだとおもった。この映画でもってして、スタンダールの「パルムの僧院」がどうのこうのといえるわけがないのはたしかだとおもうけれども。


 

[]「アパッチ」(1954) ロバート・アルドリッチ:監督 「アパッチ」(1954)  ロバート・アルドリッチ:監督を含むブックマーク

 アパッチ族さいごの戦士、マサイという人物を描いた作品。ロバート・アルドリッチの、ほとんど監督デビュー時の作品らしい。映画監督としての才気を感じさせてくれるショットもあれこれとあるけれども、どうやらこれはバート・ランカスターのつくりたかった映画らしいというか、彼がプロデューサーのハロルド・ヘクトという人物といっしょにつくったヘクト・ランカスタープロダクションで製作された作品。このプロダクションはおなじ1954年に、おなじくロバート・アルドリッチ監督でもって、あの「ヴェラクルス」を撮っている。‥‥これはどういうことなのか。バート・ランカスターは、ここで新人監督のロバート・アルドリッチをどのようにおもっていたんだろうか。先に二本連続して契約をしていたのか、それともこの「アパッチ」がよかったから「ヴェラクルス」もアルドリッチで撮らせたのか。調べればわかるんだろうけれども。

 「ヴェラクルス」は相手役がゲーリー・クーパーだったということもあってよくしられた作品だけれども、この「アパッチ」はほとんどしられていないだろう。これはもちろんその後のアメリカの先住アメリカ人への対処の変化にもかんけいしていることだろう。それでも、この「アパッチ」をみて、むかしみた「ヴェラクルス」をおもいだしてみると、ここにバート・ランカスターという俳優の、ものすごく屈折したマチズモがみえてくる気がする。‥‥このことを書きはじめると、それこそ彼の出演作をぜんぶみてから解析してみたい気分になってしまうわけで、いまはやらないし、おそらくはもう一生やらないだろうとおもうけれども、とにかくこの人は屈折している。

 ただ、この1954年という時点でのこの映画の「限界」というのは、だれがみても感じとれることだろう。‥‥ここで描かれているのは、狩猟民族から農耕民族への転換のそのシンボリックな一点、一瞬ということもがいえるとおもうけれども、そこでいわれているのは狩猟民族から農耕民族への転換というのはほとんど人類の進化の一過程のように当然のことであり、しかもその規範とはヨーロッパから移住してきた白人種によってもたらせたものとして描かれている。それこそまさに「オリエンタリズム」の好規範である。そのことを「オリエンタリズム」以降の現代から批判するのは容易だとはいえども、これだけの好規範というものがめったにないこともたしかだとおもう。ある面で、先住アメリカ人(つまりは当時の呼称で「インディアン」)の終焉を、きっちりと描いているということはいえるのではないだろうか。そしてそのことはこの作品の意図とはずれているわけでもあり、ずれていないということもできる。


 

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■ 2013-04-06(Sat)

 天気予報でいっていることでは、これから日本につよい低気圧が来襲するので、きょうのよるからあしたのあさにかけては嵐になると。せっかくこのしゅうまつまでもちこたえた桜の花だったけれども、しゅうまつはお花見どころではなくこのまま花も散ってしまうということなんだろう。それで、本格的に春がやってくる。

 きょうはしごとも非番でやすみ。あさはFMでピ−タ−・バラカン氏の番組を聴いてすごした。きょうはもうじきに来日公演のあるJim Kweskin Jug Band の特集だったので、いまのわたしの音楽嗜好とはかなりへだたりもあった。それでも、番組のさいしょの方でかかった「My Gal」という曲が、ずっとむかしに聴いたことのある曲だった。ああ、中学生のころにもっていたLovin' Spoonful のなにかのシングルの、B面がこの曲だったとおもいだした。この曲のあとに、ピーター氏も「わたしはこの曲は中学生のころにLovin' Spoonful のもので聴きました」と語っていたので、「おんなじだ」と、ちょっとうれしくなった。あの時代のおなじころ、日本とイギリスでおなじ歳の中学生がおなじ曲を、それもヒット曲でもないマイナーな曲をおなじように聴いていたわけだ。それでもって、ほかのLovin' Spoonful のシングルのB面には「On The Road Again」なんていう曲がはいっていたのをおもいだし、あのころはCanned Heat の同名曲がヒットしていたし、Bob Dylan にもおなじタイトルの曲がある。「なんでみんなおなじタイトルの曲をつくるんだろう」と、当時はふしぎにおもったものだった。もちろんケルアックとかビート・ジェネレーションのことなんかしらなかったから。「ほかにどんなアーティストがこのタイトルの曲をつくってるんだろう?」なんておもって調べてみたら、Willie Nelson だとかRoy Wood、そしてAerosmith なんてえところがこのタイトルの曲をやっているようだった。もちろんすべておのおののアーティストのオリジナルで、同名異曲ということだろう。

 FMのあとはTVで、「あまちゃん」をいっしゅうかんぶんまとめてみた。やっぱり十貫寺梅軒のすがたはみつからなかった。ちょっとDVDレコーダーのHDDに録画してみようかとおもってやってみたら、すんなりとうまく録画できた。なかなか高性能のDVDレコーダーだったようである。かんがえ方によっては安い買い物ができていた、ということかもしれない。ただ、時計を合わせての予約録画ができない。そうそう、「あまちゃん」の音楽は、大友良英なのだった。ドラマがおもしろいのかどうか、びみょうなところもあるけれども、小泉今日子が画面に登場するとそれだけでガラッと空気がかわってしまうのがおもしろい。まえに映画でみて記憶にのこっていた、橋本愛という女優さんがでてきた。これからがたのしみということか。

 午後からは録画してあった映画をみて、また「Through The Devil Softly」をしつっこく聴いた。ニェネントはきょうも荒れているけれども、いつもほどのしつっこさはない。つまり、わたしのまわりにへばりついて「なんとかしてよ」とうったえてくるじかんが、いままでよりみじかい気がする。ひとりでなきながら部屋をあちこち徘徊してはいるけれども。



 

[]「幽霊紐育を歩く」(1941) アレクサンダー・ホール:監督 「幽霊紐育を歩く」(1941)  アレクサンダー・ホール:監督を含むブックマーク

 なんか、みていて「ジョー・ブラックをよろしく」なんかおもいだしてしまって、「ジョー・ブラックをよろしく」も戦前の映画のリメイクだったわけだから、むかしはこういうロマンチックな「幽霊」映画というジャンルが人気があったんだろうか。

 この、すべてにそうとうにムリがある設定を、「映画だから」みたいなところで乗り切っていくあたりがたのしくて、げんざいの「ほんとうらしさ=リアリティ」みたいなものがもとめられるような映画界では、こういう演出はむずかしいかもしれない。ちゃんと、そういう「ムリ」を観客にもなっとくさせるような(かなりつなわたり的だけれども)わき役(ボクシングのマネージャー)もいて、このあたりが逃げ道にもなっているという印象。「逃げ道」というのはたいせつだなあ、と。


 

[]「シルビアのいる街で」(2007) ホセ・ルイス・ゲリン:監督 「シルビアのいる街で」(2007)  ホセ・ルイス・ゲリン:監督を含むブックマーク

 まったく予備知識なくしてみはじめたのだけれども、冒頭の、ホテルの部屋のドアにジャケットがかけられていて、そのとなりに開けられた旅行カバンがおかれているのを真正面からとらえたショットをみて、ちょっと気に入ってしまった。そのあとのテーブルの上のマップや部屋の鍵のショットもよかった。ベッドにすわっている主人公の男性がずっと一点をみつめて、いつまでもうごかない。これもいい。ずっとずっと、どこまでもいい。

 ‥‥しかし、いったいこれはどういう作品なのか。それがなかなかにみえてこない。主人公はカフェにでかけ、そこで女の子ばかりみつづけている。むかし、「Music to Watch Girls By」という曲があったけれども、これって、「Movie to Watch Girls By」なんだろうか。そのうちに主人公は赤い服の女の子のあとをつけはじめる。どこまでもどこまでもつけていく。ちょっとヤバい。これではストーカーである。ここの撮影もキマっていてうつくしいことはたしか。やがて赤い服の女の子を追う主人公はそのまま市電(トラム)に乗る。このトラムがまた窓が大きくて、登場人物をとらえたカメラには窓のフレームがまったくうつりこまない。これはあとで調べてわかったんだけれども、この街はフランス東部にあるストラスブールで、そこのトラムはかなり有名みたい。このトラムのなかでようやく会話がはじまり、観客に主人公の意図もわかることになる。ここまででもそうとうにいいのだけれども、すばらしいのはこれからあとで、そのよるに主人公はクラブのようなところでひとりで飲んだりして、バックにはBlondie の「Heart Of Glass」。そこでひとりの女性をじっとみつめ、彼女もまたみつめかえす。そしてどうやら彼女と一夜をともにした主人公は翌日になってまた街にでる。こんどはそのトラムのステーションにいつまでもいつまでもすわりつづけ、やはりいきかう女性たちをみている。ここでそういう女性たちをとらえるカメラがすばらしい。風がふいて、女性のうしろ姿の髪を風がみだしたりする。主人公はまえの日まで描いていたノートをめくったりしている。そこにはそういう彼がみていた女性たちのスケッチなどが描かれていて、これがまた風でぺらぺらとめくれる。このショットがとてつもなくいい。わたしみたいに映画にストーリーばかりを求めないようなものには、ほんとうにフィットする作品だった。‥‥ひとつケチをつけるとすれば、町中の壁に書かれていた「ローラ、愛してる」という落書きかな。

 あとで調べたら、このスペインの監督さんはそのイニシャルがJLGでつまりだれかさんとおんなじで、ついせんじつ東京で特集上映会が行なわれたことはわたしもしっていたのだった。ああ、なるほど。注目するにあたいする作家さんでしょう。‥‥じつはわたしはホテルのドアをとらえたさいしょの印象的なショットで、なんとはなしに小津安次郎監督のことをおもいうかべてしまっていたのだけれども、あながちそれもまとはずれでもなかったみたい。もちろん、この監督の作品はもっとみてみたい。この作品をなんとはなしに録画しておいて、ほんとうによかった。


 

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■ 2013-04-05(Fri)

 ニェネントの発情期はつづく。発情期にかぎったことではないけれども、まいあさわたしがしごとにでかけようとすると、ようすを察したニェネントはなきながら玄関口にさきまわりして、ちょうどドアのまえにまるくうずくまってわたしをみあげてなく。どうみてもニェネントがわたしに、「いかないでよ」というメッセージを発しているようにかんじてしまう。そのままドアをあけるとニェネントがドアのそとにとびだしてしまうから、だきあげてげた箱のうえにのっけてやる。だきあげるときに怒ったようなこえをだし、ときにはわたしの手にかみついてくる。そとにでてドアをしめようとすると、げた箱のうえのニェネントがちょっとさびしそうな目をしてこちらをみているような気になる。

 きょうはしごとをおえて帰宅して、ゴミをだそうとそとにでようとしたらまた「いかないでよ」パフォーマンスになった。ドアをでてゴミをだしておく場所まではいくらもきょりがないから、ニェネントをだいてそとにでた。たとえこんなにみじかいきょりでも、ニェネントをそとにつれだすなんてほんとうにひさしぶり。片手にはゴミ袋をぶらさげていて片手でニェネントをだいているだけだから、腕のなかでニェネントがあばれたらどうなってしまうかわからないなと、ニェネントをつれてでたことをちょっと後悔した。それでもずっとニェネントはおとなしくしてくれた。やっぱり首を上下にうごかして好奇心全開のポーズだったけれども。

 注文してあったCDがとどいたので、なんどもリピートして聴いた。午後からはサム・ライミのホラー映画の録画してあったのをみた。CDが「Through The Devil Softly」で、映画は「Drag Me to Hell」というタイトル。魔界と地獄にどっぷりのいちにちだった。


 

[]「Through The Devil Softly」(2009) Hope Sandoval & The Warm Inventions 「Through The Devil Softly」(2009)  Hope Sandoval & The Warm Inventionsを含むブックマーク

f:id:crosstalk:20130406153148j:image:left 基本はすでにもっている2001年のCD「Bavarian Fruit Bread」の延長の音なんだけれども、びみょうにハードになっているというか、空気としてはVelvet Underground のサードみたいなところもある。まえよりもベース音がおおきくなっているような気もするし、エフェクトもあれこれと効かせてある。「Bavarian Fruit Bread」にはまだサンルームの音みたいなところもあったけれども、こんかいは地下室にもぐってしまったような音で、まさに「Through The Devil」とも感じる。地下の照明の暗いバーでひとりで得体のしれない酒を飲みながら、このCDがその店でかけられたりしたら発狂してしまうんじゃないだろうか。‥‥まえに買ったTricky の「Nearly God」にもこういうふんいきはあったけれども、どうもさいきんのわたしの好みはちょっと危険ではないだろうか。

 やはり全曲をつうじて、このHope Sandoval の地を這うような(?)ヴォーカルが圧倒的で、指がギターのフレットをこする「キュッ」という音も効果的。三曲目の「For The Rest Of Your Life」(なんというタイトル!)での無気味なベースのリフレインとグロッケンシュピールの音、そしてHope Sandoval の無気力なんだかソウルフルなんだかよくわからない歌声とのからみが、わたしのフェイヴァレット。めずらしくロックしている八曲目の「Trouble」も、クセになる。


 

[]「スペル (Drag Me to Hell)」(2009) サム・ライミ:監督 「スペル (Drag Me to Hell)」(2009)  サム・ライミ:監督を含むブックマーク

 公開当時映画館でみている。やっぱこの原題がステキなんで、邦題もすなおに(?)「わたしを地獄に連れてって」とかにすりゃあよかったのに。ラストはヒロインにはかわいそうだけれども、爽快。笑った(こうなっちゃうだろう、という伏線もいい)。

 しかしこんかいみて気になったのは、この「ラミア」とかいう悪魔だかなんだかの出自というか履歴のこと。そのあたりの映画の歴史はよくしらないけれど、「エクソシスト」登場までのアメリカのホラー映画に登場する「悪魔」というのは、きっとヨーロッパのキリスト教あたりにその出自があっただろうから「ヨーロッパ」から「アメリカ」という移民の流れにともなってわかりやすいんだけれども、これがもっとグローバルになってきて、まずは「エクソシスト」でのパズズというのは中近東起源。まだパズズはアンチクライストだから理解できるところもあるのだけれども、このあとのアメリカのホラーは、たんじゅんにヨーロッパ起源の悪魔を出しにくくなったというのはいえるようにおもう。それで、アメリカ大陸先住民の信仰をとりいれた作品もあったとおもう。
 それでこの「スペル」だけれども、冒頭の導入部に登場するのがヒスパニック系アメリカ人社会なわけで、ここで「ついにヒスパニック系悪魔の登場か!」とおもったんだけれども、これがどうやらロマのもちこんだものらしい、ということになる。‥‥しかししかし、ロマとしてアメリカに生き、旧大陸のロマの伝統を新大陸にもちこんだ人たちなど存在するのか、という疑問がわく。まあ映画なんだからそのあたりはいいかげんなんだろうけれども、それでも「ロマ」という名がでてくることは気にはなる。
 しかしやっぱ、映画にでてくるそういう「ラミア」にかんする文献資料の図版など、いかにも中世ヨーロッパの古書の模倣っぽくって説得力ないし、インド人らしい占師がそのあたりに精通しているというのもよくわからない(まあロマの起源は北インドとはいえるだろうけれど)。あんまりまじめにかんがえてもしょーがないんだろうけれども、アメリカでヒスパニック系の悪魔やアフリカン系の悪魔が描写されないというのには、なにかレイシズムに抵触するような理由でもあるのだろうか。


 

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■ 2013-04-04(Thu)

f:id:crosstalk:20130405125049j:image:right きのうとっても「かまってちゃん」だったニェネントは、やはりまた発情期だった。きょうはとても苦しそうで、しぼりだすようななきごえをあげながら部屋のなかを徘徊している。つらそう。ぜんかいニェネントが発情期になったのは二月なかごろだったから、そのあいだは七しゅうかんぐらいになるのか。やはり本やネットで読んだりした一般のネコの発情期間隔よりも、ニェネントのばあいはずっとあいだがみじかいとおもう。またきょうも電話台の上にあがって、受話器をおっことすのをくりかえす。わたしが和室でパソコンに向かっているとすぐそばにやってきてわたしにおしりを向けてすわりこみ、ふりかえってわたしをみあげて「なんとかしてよ」となく。いつものパターンである。きょうはペットボトルの空きボトルがなかったので、手のひらでペンペンとニェネントの腰をたたいてやった。いくらか満足そうになる。

 外はきのうの荒れた天候もおさまり、春らしい陽気になった。北のスーパーが玉子の特売日なので買いにでかける(これからはニェネントの分の玉子も買っておかなくちゃいけない)。おもったほど桜の花も散っていなくって、これならこのしゅうまつもこのあたりならお花見はできそう。このしゅうまつの町内会の「さくらまつり」も、かんじんの桜が散ってしまっているということにもならないですみそうで、ことしの桜はずいぶんとながもちしている。

 このごろ食事量をへらしていて、それなりにウェイトも落とせたんじゃないかとおもっている(しごと用にしているボトムスのウェストがけっこうゆるくなった)。きのうカレーをいっぱいつくったので、昼ごはんはきのう炊いたごはんが一合半ぐらいのこっていたのをぜんぶカレーライスとして食べてしまった(まだカレーはいっぱいのこっているけれども)。それからはずっと食べすぎ気分で腹がくるしくて、夕食のじかんになってもなにも食べられない。ちょうど買ってあった豆腐をはんぶんだけ冷奴にして食べて「夕食」ということにした(って、アルコールもいっしょだったけれども)。まえはきょうの昼食ぐらい食べるのがふつうだったのに、なんか胃がちいさくなってしまったんだろうか。

 注文していたCDの発送が完了したので、あしたには届くだろうという発送元からのメールがきていた。代金をコンビニで払いこんだのがきのうの夕方だから、はやいといえばはやい。東京とかのおおきなCDショップなんかに買いにいっても現物があるかどうかもわからないし、とにかぐ電車賃がCDの価格の二倍もかかってしまうのだから、こういうネットでのショッピングはたすかる。はやく聴きたい。


 

[]「エレクトリック・ミスト 霧の捜査線」(2009) ベルトラン・タヴェルニエ:監督 「エレクトリック・ミスト 霧の捜査線」(2009)  ベルトラン・タヴェルニエ:監督を含むブックマーク

 アメリカとフランスとの合作作品で、つまり監督はベルトラン・タヴェルニエ。もうこの監督の作品なんてまるでおぼえていないのだけれども、わたしはなにかの作品でもって、「この監督はきらいだ」と決めてしまったような記憶はある。いや、それはベルトラン・タヴェルニエではなく、ベルトラン・ブリエだったかもしれない。そういうこともおもいだせない。

 主演のかなり乱暴な刑事だか警官だかをトミー・リー・ジョーンズが演じていて、その奥さんがメアリー・スティンバージェン。そのほか地元の有力者としてなつかしのジョン・グッドマンやネッド・ビーティなどもでてくる。あと現地で新作の撮影にはいっている映画スターにピーター・サースガード、そしてケリー・マクドナルドなどが登場してくる。けっこうな顔ぶれがそろったというかんじはする。映画の舞台はルイジアナ州のスワンプ地帯で、どうやらハリケーン・カトリーナ来襲の直後らしい。しかしまあいったいなぜもってしてルイジアナを舞台にして、こういう作品をフランスの監督が撮るのだろう。なんか過去へのこだわりがあるのかいな、などとおもっていたら、たしかにそういう過去へのこだわり、というのもこの作品の柱ではあった。それでもそれでも、だからいったいこの映画はなんなのか、さいごまでみてもわかんなかった。ぜんぜん「サスペンス」なんか感じないし、人間ドラマなわけもない。アルコール依存症によって幻覚とげんじつとの境界が失せ、しかもそのことを他者と共体験してしまうというのもまたひとつの「柱」ではあるだろうけれども、じゃあそれがこういう演出でいいのかというと、「よくないんじゃないの」といわざるをえない。ここではたんじゅんに、そういう境界の喪失を「シャイニング」的演出でやってこまそうとしたんだろうけれども、あのばあいは「向こう側」へ行っちゃうということで成り立っているところもある。ここでのトミー・リー・ジョーンズは「こちら側」にとどまっているんだから、これではただの「ウソ物語」って感じ。トミー・リー・ジョーンズのドランカーぶりもあんまし伝わってこないし。

 あとは音楽の使い方があんまし好きではない。Buddy Guy 当人なんかひっぱりだしてきて、セリフまでいわせたりしているんだけれども、はたして彼の音楽をほんとうに「ルイジアナのブルース」といえるのかどうか。たとえルーツが南部にあるにせよ、大陸を移動してシカゴで完成させたブルースではないか。‥‥せんじつ「ウィンターズ・ボーン」での音楽の使い方に感銘をうけ、あの映画での無名アーティストのライヴがとてもよかっただけに、この映画にはがっかりした。ラストなんかヘンデルだよ。ヘンデル。やっぱつまりは、この監督にはあんまり惹かれない。そうそう、Levon Helm が出ていたけれども、太鼓は叩いていなかった。


 

[]「雪の喪章」(1967) 三隅研次:監督 「雪の喪章」(1967)  三隅研次:監督を含むブックマーク

 原作は水芦光子という金沢の小説家によるものらしいのだけれども、戦後それなりに人気もあったらしいこの作家の作品も、いまではどうやらすべて絶版になっているみたいである。金沢出身ということであの室生犀星のさいしょの女性の弟子になった人らしい。なるほどなるほど。そりゃあたいへんだ。‥‥1962年に発表されたらしいこの「雪の喪章」は、水芦光子の代表作としてけっこう読まれたらしい。その結果のこの映画化だったのだろう。

 金沢の老舗金箔商に嫁いだ女性の、戦前から戦後にかけての一代記。主演は若尾文子だけれども、この映画のとき三十代前半。いままでにみた彼女の出演映画のなかでは、これがいちばんに美しい。とにかく見愡れてしまう。戦後になって歳をかさねたという設定でも、老けメイクなどまるでやらないのがいい。彼女はその金箔商の二代目ボンボンの正妻なんだけれども、ボンボンは中村玉緒を妾にして若尾文子とも同居する。姑がまたその行為を容認するようなことをいう。このあともずっと、みていてもワッハッハと、なんども爆笑してしまう。‥‥これが三隅研次のヤバいところで、ここでこの笑うべき状況をそのまんまに、いっしょに笑ってしまってもしょうがないのである。とにかく体裁は「文芸映画」。ここはみるものに若尾文子のいきどおりそのままをいっしょに体験させてもらわなくてはならない。外からの視点で笑っちゃうようではいけない。彼女をここまで美しく撮っているのは監督の功績なんだとおもうけれども、ドラマのなかにわけいっていくような演出は彼のものではないということか。ここで「妻は告白する」とかの増村保造監督だったら、とかおもいうかべたりするけれども、ただ、増村保造監督は女優の「うすきみわるさ」みたいなものは映像化するけれど、「美しさ」っつううことにはあんまし興味はないんかな。「劇的なるもの」ということの、かんがえかたがちがうんだろうとおもう。

 その金箔屋の番頭として、「貧乏」からのがれるために三十の歳まで童貞でがむしゃらにはたらき、若尾文子を慕いつづけるのが天知茂で、戦中には戦争成金になったりするんだけれども、こういうおなじような造形って、ほかのなにかの映画だか小説だかで知っている気がするのだけれども、どうしてもおもいだせない。天知茂って、渡辺謙にちょっと似てるかな。

 ほんらいソフト化されていない作品らしいけれども、「日本映画専門チャンネル」での放映でハイヴィジョン化されたものだったらしい。美しい映像だった。ソフト化してほしい(ソフトになっても買わないだろうけれども、この録画は保存しておきたい)。


 

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■ 2013-04-03(Wed)

f:id:crosstalk:20130404201630j:image:left ニェネントのやるいたずらでわたしがいちばんイラつくのは、玄関の電話台の上にあがって電話の受話器をはずしてしまうこと。このごろは留守電設定ボタンを押すこともおぼえたのか、そうやってはずされた受話器から留守電メッセージがきこえてくる。もちろん放置できないので、「こら!」と怒りながら電話台の上のニェネントを追いはらい、受話器をもとにもどすことになる。‥‥このいたずらをやるとわたしの気をひけることを学習したのか、それできょうはわたしにかまってほしい気分なのか、きょうはいくどもいくどもそうやって受話器をはずしてしまうことをくりかえす。もしかしたらニェネントにも外に友だちがいて電話しようとしているのかもしれんけど、とにかくきょうはひんぱんにやる。やはりわたしにかまってほしいのかなあとおもったりする。ちょっとあたまいいのかな。

 それでニェネントを抱きあげて、おもいっきりかまってあげたりする。ニェネントは「ひゃー! やめてよぉ!」みたいなさけびごえをあげるのだけれども、「ふん、きみの望んだことでしょうが!」と押さえこんで、指でニェネントの鼻さきをペンペンとタッチしてやる。ニェネントは目を細めておとなしくなってしまうので、じつはこれが大好きなのかもしれない。いいかげんにして放してやると、わたしの手をあまがみしてきたり、ちょっとなめたりしてくれる。やっぱうれしいんだろうか。わたしもちょっとうれしくなる。きょうは「わたしのこと、もっともっとかまってよ!」といううっくつしたメッセージの発信、だったのかもしれない。まだまだ遊びざかりのニェネント、もっともっと遊んであげなくっちゃいけないんだろう。

 きょうはずっと雨のいちにち。それほどの雨量ではないみたいだけれども、風もつよいみたい。これできのうあたり満開だった桜も散ってしまうんだろうか。きょうはしごとのあとはまるで外に出なかったのでわからない。「あまちゃん」の昼の放送をみようとおもったら、きょうは高校野球の決勝戦をやっているせいなのか、再放送はなかったみたい。しょうがなく図書館から借りている「ソーシャル・ネットワーク」のDVDをみて、これに監督の音声解説と脚本家と俳優たちの音声解説との二種類がついているのも両方再生してみてしまった。合計六時間。午後のじかんはこれでほぼぜんぶつぶれてしまった。夕食にはカレーをつくったので、これでしばらくはまたカレーライスばかりになるんだろう。


 

[]「ソーシャル・ネットワーク」(2010) デヴィッド・フィンチャー:監督 「ソーシャル・ネットワーク」(2010)  デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 むかし映画館でみて、そのときはとにかくBGMと出演者のすっごい早口のセリフまわしとが同調して聴こえ、映画自体が壮大なラップ・ミュージックみたいだという印象をもったものだった。そういうことばかりに気をとられ、どんな映画だったのかおぼえていないくらいに。

 きょう久々にみかえしてみて、やっぱこのあいだみた「セブン」みたいに、ものすごっく完成度の高い作品だとおもった。すごい。それで、この作品って、つまりはいってみれば「Roll Over "Citizen Kane"」みたいなものだとおもう。‥‥みんな、「市民ケーン」という作品のことはベタ誉めするけれども、映画技法的なこと、ストーリーテリングの妙味などをべつにしたら、あんな小児的なセンチメンタリズムのどこがいいというのか、わたしはまえまえから疑問におもっていた。あんな発育不全おやじを擁護して「ああ、バラのつぼみ」なんてのたまって、まったくナンセンスだと。まさになんの意味もない(文句をいいたい方がおおぜいおられるような気がするけれど、いわないでいてください)。この「ソーシャル・ネットワーク」は、そのあたりをすっかり逆手にとっているところがないだろうか。ここで若くして億万長者(これは死語だろうか?)になる主人公は、まさに小児っぽさまるだし。わたしはこれを「市民ケーン」への皮肉、としてもみてしまった。もちろん、この「ソーシャル・ネットワーク」のラストもまた、ちょっとしたセンチメンタルかもしれないけれども、みていれば、そんなことは、(若いときのちょっとした心痛とでもいうか)どこのだれでもが通過してきたことではないかという感想はうかんでしまう。いってみればちっちゃいはなしではないかということだけれども(こういう知人友人関係は、このわたしだって自分の過去でおもいあたるところはある、きっとだれにでもあることではないのか)、これが何十億ドルもの金を動かしてしまうというドラマ。そこでみんなの眼の色がかわる。ところが主人公はまわりの眼の色がかわることにほとんど無関心でとおす。それを「裏切り」ととるのかどうか。みているものがちがう。このあたりのおもしろさ。まったく、演出の上からもいままでになかったタイプの映画だとおもう。

 主演のジェシー・アイゼンバーグという若い俳優さん、すばらしいしごとをされているとおもう。まずはこういう演技の前例というものがほとんどないだろう。それだけにやはり、この演技を引きだしたデヴィッド・フィンチャーの演出はきょうれつ。やはり冒頭のルーニー・マーラといっしょの「ラップ」がすごいし、この「ラップ」は中盤に背景音をかえて、ジャスティン・ティンバーレイクによって別ヴァージョンが演じられる。音楽担当のトレント・レズナーとアッティカ・ロスはすばらしいしごとをやっていて、劇の進行につれての場面ごとの音楽を聴いているだけでしびれてしまう。

 デヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィーをみると、なんとなく一作ごとに小休止しながら問題作を発表しつづけているような印象をうけてしまう。その「小休止」もまたじゅうぶんにすばらしいのだけれども、超リメイクみたいな最新作「ドラゴン・タトゥーの女」のあとはどんな作品をみせてくれるんだろう。ミレニアム三部作をぜんぶリメイクするのだっただろうか。はやくオリジナルな新作がみたい。


 

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■ 2013-04-02(Tue)

 四月になってあたらしく更新されることがいろいろとある。わが家の契約更新ももうじきだし(このことが四月になったというのは偶然だけれども)、つとめ先でも到着品の入力システムがかわる。こういうときにはトラブルがつきもので、わたしたちもそういうことにそなえて、倉庫には行かないで支店内でしごとをするのだけれども、その倉庫へは行かないということ、つまり倉庫は閉めてしまうという連絡が徹底していない。ここでまたそのことがわたしの責任のようにうけとめる人がいる。わたしは責任者ではないし、もちろん倉庫へは行かないということを決定しているのは上司である。このところの夢見ごこちきぶんから醒まされるようなかんじ。ぎゃくに上司の方とこころをかよわせられたというか、めずらしくけっこう雑談などをしたりということもあった。社員のあいだの人間かんけいもかいまみえたというか。

 TVでもあたらしい朝のTV小説、「あまちゃん」がはじまった。「カーネーション」がおわったあとの二期分にはほとんど関心はなかったけれども、こんかいは久々に、ちゃんとみようかなとおもっている。その第一回がきのうだったけれども、冒頭の出演者テロップのなかに十貫寺梅軒さんの名まえをみつけ、「いったいどこにでてくるんだろう」とたのしみにして、目をこらしてみたのだけれども、どこにも彼の姿はみつからなかったとおもう。どこにでておられたのだろう。これ以降の回でもでてこられるのだろうか。‥‥ドラマはいかにもむりやりな展開で、これからもこういうむりやり路線で走るのならおもしろそう。そう、冒頭にでてくる一両だけで田んぼや畑のあいだを走っているディーゼル車、あれとそっくりな鉄道が、ここにも走っている。海がないから海女さんはいないけれども。

 冷凍庫の食パンの在庫がすくなくなったので、ひさしぶりに南にあるちょっと高級イメージのスーパーにいってみた。このスーパーは西にある格安スーパーと同系列なのだけれども、店の内装もきれいで商品もきちんと並べられ、野菜でもクズのようなものは基本的においていない。そう、このスーパーのお菓子売り場の「おせんべい」コレクションはそうとうなもので、これだけのいろんなおせんべいが並んでいるスーパーなんでそうざらにはないのである。ざんねんながらわたしはあんましおせんべいを愛していないので、お世話になることもないのだけれども。ただ、食パンにかんしては西の格安スーパーと同様に、賞味期限になるものはその賞味期限の日の昼ごろになると半額に値下げされたシールが貼られる。それをねらって昼まえにでかけてみたわけである。食パンなんてつまりは買ってすぐに冷凍してしまえば、トーストして食べるうえではまるでちがいなどない。だからわたしはいつも冷凍庫にそうとうな量の食パンをストックしてある(最大で八斤まで保存できる)。どうせ冷凍するのだから賞味期限などかんけいないから、いつもそういう賞味期限になった安いパンを買うことにしている。いぜんもともとの価格の安いパンを買ってみたら、これがかくじつにまずかったわけで、それからはそれなりの食パンで値引きされたものしか買わないことにしている。
 ‥‥おもわくどおり、きょうも半額にされた食パンがおかれていた。半額シールの貼られている三斤をぜんぶカゴに入れる。いちおう店内をぐるりとまわってみると、豚レバーにも半額シールが貼られているものがあったので、これも冷凍保存すればもんだいないのでカゴに入れる。わが家の冷凍庫には、そうとうな量の肉たちもまたストックされているのである。野菜売り場にいってみると、レタスのおかれたコーナーの横に別あつかいらしいレタスが山のようにつまれていた。みてみると、どのレタスにも「30円」のタグがつけられている。たしかにみたからにいたんでしまっているようなレタスがおおいけれども、30円は安い。となりの通常のコーナーのレタスは150円ぐらいだけれども、大きさはあまりかわらない。その30円の山をちょっとみてみると、外見ではほとんどいたみなど識別できないようなものもあったので、これも買うことにした。ちょっとまえまでは300円ぐらいしたレタスが、その十分の一の値段で買えるようになったというのもおもしろい。高級イメージのスーパーだったけれども、さいきんになくお買得の買いものができた気がする。たまにはこっちのスーパーものぞいてみよう。


 

[]「インモータルズ -神々の戦い-」(2011) ターセム・シン:監督 「インモータルズ -神々の戦い-」(2011)  ターセム・シン:監督を含むブックマーク

 あの映像がすっごく印象にのこっている「ザ・セル」や「落下の王国」の監督、ターセムの新作。まあギリシア神話からのいかにもハリウッド的な翻案らしいということはわかっているし、この監督もあんまし節操ないんだなあという先入観はもっていた。「ザ・セル」にせよ「落下の王国」にせよ、「なんかアバウトだなあ」というところは感じていたけれども。

 ‥‥つまりは「ポストモダン」ってヤツですね。まずは、それって二十年ぐらい遅れていませんか? という感じはする。ギリシア神話を解体再構築してまったく別のおはなしをやったって、それは勝手なんだけれども、とにかくまずはおもしろくないではないですか。それに、ここでのミノタウロスって、まるっきしフェリーニの「サテリコン」の模倣というか、これだけCGとかVFXとかつかっても、「サテリコン」のおもしろさの足元にもおよんでいないではないですか。‥‥なんだ。つまりはフェリーニは「サテリコン」でもってポストモダンを先取りしていたわけで、それから五十年もおくれて、ポストモダンなんていつのはなしよ、というころになって、CGとかの最新技術をつかって「もう終わってしまっている表現」をまたやってみせる。わるいけれども、この製作スタッフは「あったまわるいんじゃないの」という感想しかでてこない。ターセム・シンという監督、もともとオリジナリティということでは不安もあったわけだけれども、こういうくっだらない企画になど乗らない方がよかったような。ここで次のステップへの門戸がひらかれるというのならいいけれども(いま調べたら、彼はこのあとに「白雪姫と鏡の女王」という作品の監督をやっているのね。なんとなくこれも「クソ企画」という感じだけれども、機会があったらみてみようかしらん)。


 

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■ 2013-04-01(Mon)

 きのうの異様な感覚はずいぶんと消えてしまったようだけれども、まだなにかがのこっている。ちょっとしたきっかけでいつもとはちがう想念がこころに浮かんでは消えていく。生きていくということは、ひとつの連続したじかんの流れのなかで、その生きる体験を認識する主体を、それと同化するにせよなんにせよ、コントロールするということではないかということ。その「認識する主体」こそがいっぱんに「自我」とかいわれるものではないかとおもうのだけれども、それはちがうのではないか。「自我」というものは「時間」に拘束されるものではない。いや、それは「自我」などとよばれるべきものではないのだろう。‥‥これは宗教ではないけれども、このことを誤解すれば人は宗教に逃げ道を見い出すのだろうか。宗教によってコントロールされるのではなく、「わたし」というもののなかに、その「わたし」という「認識する主体」をコントロールするものがそなわっている。これはきっと同心円をえがいてかさなっているけれども、層がことなっている。次元のもんだいでとらえれば、ひとつ上の次元ということなのだろうか。いや、そういうとらえ方はつまらないし、まちがっているだろう。

f:id:crosstalk:20130402122938j:image:right 音も、いままでとことなって聴こえていた。きのうはまずはGabin Bryars の「The Sinking of the Titanic」を聴いてみたのだけれども、あまりに重たく、あまりにつらいので途中でやめた。そのあとにHope Sandoval & The Warm Inventions の「Bavarian Fruit Bread」を聴いてみた。Hope Sandoval はこのところお気に入りのMazzy Star のヴォーカリストで、そのMazzy Star の活動休止中(彼女たちは最近また活動を再開している)にリリースされたのがこのWarm Inventions 名義のアルバム。「Bavarian Fruit Bread」は2001年のリリースだけれども、2009年には「Through the Devil Softly 」というアルバムもリリースしているらしい。じつはこの「Bavarian Fruit Bread」はバックにBert Jansch も二曲ほど参加していることもあって、むかしむかし買ってあったアルバムなんだけれども、しょうじきいまのいままでそれほど聴きほれるというアルバムでもなかった。最近Mazzy Star をちょっと聴きつづけていたこともあってこのCDも手近なところに出してあったので、「これでも聴こうか」と、かるい気分でプレーヤーにのせたのだけれども、これに、はまってしまった。こんなにおそろしい音だったのか。いままでまるで気づかなかった。そう、やはり、なにひとつとして特別なものはこの音のなかにはないようなのだけれども(もちろん、Bert Jansch の参加している曲での彼のギター音は「とくべつ」なのだけれども)、そのHope Sandoval の叩くGlockenspiel の音と彼女の声、これはどこかで、いわゆる「音の完成度」とかとは別の次元で、聴く人の耳に響いてくるものなのだと。あたりまえのことだけれども、「歌がうまい」とか「演奏がすごい」というのは尺度になるものではないし、さらに「楽曲がいい」ということさえも無かんけいに聴く人にせまるものもある。そして、そういうことはどこのだれにでも伝わるものでもなく、たとえわたしがこの「Bavarian Fruit Bread」を絶賛しても、ほかの人がこれを聴けば「なんだ、つまらない」という反応になるだろう。こんなことあらためて書かなくても、本や映画でもっていくども体験したことではある。ようやくわたしも、Hope Sandoval の良さがわかるようになったということかもしれない。あまりに「Bavarian Fruit Bread」がよかったので、「Through the Devil Softly 」も注文してしまった。

 「2666」もずいぶんと読みすすみ、もうあしたあさってにもようやく読了しそう。この本のもっていた邪悪な空気というものもまた、わたしの変調に影響をおよぼしていたのではないかとおもったりする。「Bavarian Fruit Bread」、そしてこの「2666」は、フラッグを立てる通過ゲート、だったのかもしれない。亀裂(クラック)というものが、いかに重要なものであることか。

 昼からヴィデオをふたつみて、夕食には冷蔵庫にのこっていた残飯のようなものを炒めあわせて、ちょっとしたチャンプルーのようなものをつくってみた。残飯処理としてはたいへんに美味であった。

 よる、ベッドで本をよんでいたら、リヴィングでニェネントがガサゴソとうごく音がした。ベッドで寝たままリヴィングの方に目をむけると、ニェネントの目がついになってオレンジ色に光っているのがみえた。これもまた、じかんのれんぞくを遮断するもののようにみえた。ここにまた、ニェネントが存在する意味もあったのかとおもった。


 

[]「月形半平太」(1952) 内出好吉:監督 「月形半平太」(1952)  内出好吉:監督を含むブックマーク

 「月さま、雨が‥‥」、「春雨じゃ、濡れていこう」、というのは、まだわたしの世代では「名文句」としてだれもがしっていたものだとおもう。しかし、この「月形半平太」というのがいったいもってどういうおはなしなのか、ちゃんと理解していたわけではない。‥‥まるでしらなかったけれども、この「月形半平太」というのは、「国定忠治」とならんで、「新国劇」のあたり演目だったらしい。なんども映画化されているらしいけれども、ここで半平太を演じているのは市川右太衛門。この人、ちょっと太めな印象もあるけれども、チャンバラがかっこいいのね。さすがむかしの俳優さんはちがう、というかんじ。これに山田五十鈴(やはりすばらしい!)だとか、喜多川千鶴(この人のことはまるでしらないけれども、風情のあるすてきな女優さんだとおもった)などがからんでちょっとした色恋ざたもあるし、その心情が当時の幕末京都の緊迫した情勢を背景に屈折した展開になる。わきの男優陣もみなさん、しゃらっとしていいかんじ。

 月形半平太という人物がちょっとした才人として描かれているだけに、(おなじように手紙を読んで果てるのだから)ラストをもうちょっと工夫したら、「シラノ・ド・ベルジュラック」みたいなところにいけたような気がしないでもない。オレだったらそういうふうに書き換えるね。たとえ「剽窃」といわれようが。

 監督の内出好吉という方はこののち職人監督として活躍される方のようだけれども、これが監督第二作。ラストのクレーンを使った長廻しがすてきだし、あれこれと才気ばしったキレのいい演出はたのしめる。ただ、さすがに美空ひばりさんにはあれこれと演出のうえでくちだしできなかったのか、芸妓という設定なのにこのじゃらじゃらとした歩き方には興ざめもはなはだしい。


 

[]「ウィンターズ・ボーン」(2010) デブラ・グラニク:監督 「ウィンターズ・ボーン」(2010)  デブラ・グラニク:監督を含むブックマーク

 ああ、この人が話題のジェニファー・ローレンスという女優さんなわけね、と。

 原作というのか脚本というのかが秀逸で、これってつまりはむかしのギャングものの「フィルム・ノワール」なストーリー展開なんだけれども、これをうまいことげんざいのアメリカ南部(ミズーリ州)の白人貧困層のもんだいに移植している、という印象。「ファミリー」はもろそのまんま「ファミリー」だし、「おきて」も「おきて」。みょうに芝居っけたっぷりな連中がいっぱいでてくるけれども、そういうなかではやはりヒロインのジェニファー・ローレンスというコの存在感は大きい。あとはティアドロップという人物を演じているジョン・ホークスという俳優さん、かつてのサム・シェパードだとか、デニス・ホッパーみたいな存在感がある、なんていうとあまりにほめすぎになってしまうか。でもよかった。

 それと音楽。南部の伝承歌をさりげなくライヴ感覚で取り入れているところは、それだけで涙がでそうになる。ついつい、ここで唄っていたMarideth Cisco という人の名まえをメモして、ネットで検索してしまった。‥‥どうやら、この映画だけでフィーチャーされた方らしい。そういうこともまた、映画製作のあり方として賛同してしまった。バンジョーの取りいれ方に拍手したい。いい映画だとおもった。


 

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