ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-05-31(Fri)

 きょうはまた水族館劇場へと行くわけだけれども、そのまえにあさのしごとがある。この日はまえからあるイヴェントがらみでたいへんな量の荷物が到着することがわかっていたのだけれども、それがわたしたちの勤務じかんに到着するのか、それともわたしたちのしごとがおわったあとに臨時便で到着するのか、まるでさだかではなかった。この日はEさんとわたしのふたりだけなので、もしもわたしたちがやらなければならないとなるとたいへんな作業になる。というか、それは無理がある、とかんがえるのがノーマルだろうとおもう。

 あさ、しごと場に着くと、Eさんが「来てるよ」といった。ありゃりゃりゃ、たいへんである。‥‥こまかくは書かないけれども、とにかくわたしたちふたりだけで、なんとかしごとはこなしたわけである。しかし、それに附随するほかの部署のひとたちとの連携での指示がなにもない。ふだんどおりにはできないことはわかっているのに、ふだんとおなじにやろうとしている。いつもとちがうようにやらなければならない部分はその場の責任者に「こうやっておくから」と了解を得てからしごとをすすめる。しかし、ほかの連携するひとたちとの手順はわたしたちだけの判断ではなんともならない。そういうことはぜんたいをみわたす責任者がちゃんと判断しなければいけないはずなのに、だれもそういうことをやっていない。‥‥けっきょく、つまらない待ちじかんがうまれてしまい、せっかくわたしたちはがんばっていつものじかんのうちに作業はおわらせたというのに、超過勤務になってしまった。さらに待たされそうな気配にもなったので、そこはもうわたしたちがいるひつようもないはずだから「ここでおしまい」と、終業にした。けっこううんざりしてしまったし、そういう腹立ちもあって、ハイテンションにもなってしまった。いつもほとんど雑談することもない配送の方も、めずらしくわたしたちとあれこれとおしゃべりをしていった。やはりハイテンションなのだろう。

 とにかく、きょうはこのあとにわたし的におおきなイヴェントがあるというのに、よけいなエネルギーをつかってしまった。帰宅してからロールパンで朝食をすませ、ニェネントにごはんをいっぱい出してあげる。きょうはまた外泊になるのだから、ニェネントはだいじな「おるすばん」役である。卵黄も出してあげる。まだニェネントも発情期がつづいていてハイテンション。わたしもちょっとハイテンション。キッチンの排水もハイテンションにならないように願いながら、家を出る。

 きのうだかおとといだかに、関東地方もずいぶんと例年よりも早い「梅雨入り」しちゃっているのだけれども、きょうとあしたは雨も降らずに晴天になるらしい。水族館劇場には野外劇のぶぶんもあるから、やはり晴天であってくれるのはありがたい。おととい映画をみに上京したのとおなじじかんの電車で新宿までいき、ここで下北沢へとのりかえる。Aさんとの約束のじかんにはまだちょっとあったので、新宿駅の西口をすこし歩いて、中古のパソコンの店などをのぞいてみた。だいたいわたしの予想していた価格帯だったけれども(これなら買えるだろう)、やっぱいままでのようにデスクトップ型がいいのか、それともノートパソコンがいいのか、さらに、ずっと買ってきたMac がいいのか、ここいらでWindows にしてみようかとか、あれこれと迷うのである。結論は出ないまま、下北沢に移動した。

 無事にAさんと遭遇し、下北沢でAさんと会うときはここだよね、というカフェで、ちょっとおそい昼食にして、そのまま、ながいじかんそこにいすわる。よくまあこんなにながいじかん会話することがあるものだと自分でも感心したりするけれども、たぶんAさんとなら、やろうと思えばいくらでもいくらでもトークはつづけられるだろう。もちろん、彼女はわたしのこころの支えなわけだし、いろいろな想念、思念を共有することのできる。そういうことでは、わたしがもっとも愛する人ではある。「彼女」、というのとはまるでちがうけれども。

 まずは現地で整理券を配るというじかんもちかづき、ここで若い番号をゲットしておけば好きなところに座れるわけだから、茶沢通りを歩いて現地へとむかう。わたしはまえにいちど来ているから、「ほら、ここだよ。あたらしい場所もいいでしょう」とか、案内する。整理券をゲットしてから開演のじかんまで、二週間まえとおなじカフェでお茶をしてすごす。‥‥開演のじかんになり、また現地へもどる。夕方になってすずしいというか、とってもいいぐあいの気候。金曜日というせいか、座席数でチケットの発券を制限しているせいか、そんなに混み合ってもいなくってこれも快適。わたしは前回とどういうふうに舞台が変わってしまっているのかとか、そういうあたりにも興味があったのだけれども、たしかにまるでちがうところもあれこれとあったけれども(まえは観客だったという出演者も増えていた)、もっともっと重厚になっているのでは、という期待はそれほどには叶えられなかっただろうか。とにかくは感想は下に。

 終演後、Aさんが「きょねん、大駱駝艦みたあとに行った居酒屋がいい」ということで行くのだけれども、つまりは二週間まえにBさんとCさんと来た「I」なわけで、わたしもここがいいと思っていた。金曜の夜だから席も空いていないかな、などと心配したのだけれども、いってみると、これがちょうど二人すわれる席が空いていた。まえもそうだったけれども、いつもこの店はわたしを「ウェルカム」してくれるような。またポイントカードをつかえたので、もうこれからのわたしの目標は、このポイントカードをフルに埋めること、だろうかなあ。

 Aさんと話していて、SFファンであるAさんの好きな作家の作品が、こんどこの三軒茶屋の劇場でダンス作品として舞台化されるということをきき、Aさんはその舞台をみたいらしい。なんだかコンテンポラリー・ダンスのカンパニーがそれをやるらしくって、「いったい誰がやるんだろう」ときいてみたら、それがまたわたしのよく知っているカンパニーだった。このところ彼らはちゃんとした舞台での公演をやってなかったような記憶もあるし、やるんだったらぜったいにみにいきたいと思っていたのである。そういうことをAさんにはなしをして、わたしもそういう舞台があるのを知らなかったわけだし、Aさんもわたしがそのカンパニーをよく知っていることは知らなかったわけだ。次回はこれをいっしょに行くことに即決した。じゃあ、そのときにはまた舞台がはねたあとはこの「I」にきて、またポイントカードのポイントがたまることになるんだろう。

 いちじかんちょっと「I」で飲んでAさんと別れ、わたしはそのまま下北沢方面へ歩き、また「G」へいく。店のFさんに「きょうは演歌はないから」と。カウンター席に、むかしこの店でカウンターのなかにいたGさんもすわっておられた。わたしのとなりの席の男性がチェルフィッチュの舞台とか好きという話をされていて、Gさんがまたわたしのとなりに移動してこられて、わたしは両隣りのおふたりに「水族館劇場」の宣伝をしてしまうのであった。‥‥このあたりで日付けもかわるので、あとはまたあした。


 

[]水族館劇場「NOSTROMO あらかじめ喪われた世界へ」桃山巴:作・演出 @三軒茶屋 鎮守の杜 太子堂八幡神社境内 特設蜃気楼劇場「夜の泡(うたかた)」 水族館劇場「NOSTROMO あらかじめ喪われた世界へ」桃山巴:作・演出 @三軒茶屋 鎮守の杜 太子堂八幡神社境内 特設蜃気楼劇場「夜の泡(うたかた)」を含むブックマーク

 プロローグの野外劇のところで、神社の茂みに一羽のカラスがやってきて、合唱のシーンでいっしょに唱和(「和」ではないか)したのが、すばらしかった。この境内をねじろにするカラスたちも、きっと舞台を楽しんでいるだろう。人間たちだけのための舞台ではないのである。

 わたしのばあい、二週間まえにみたときにはまだ「未完成」という気もしていて、それがこんかい、どのように形をかえてくるのかというのが楽しみだったけれども、トータルなじかんとしてはぜんかいとかわるところがなかった。おそらくは周辺の住宅地への気配りというか、「九時まえには終了させよう」ということだったのではないかと想像する。‥‥トラブれば、らいねんからの上演場所がまた宙に浮いてしまう。そういう危機感は、わたしもよく理解できる。ストーリー展開としては、やはりもっともっとふくらませられる設定だったとはおもうし、ある意味では「断腸の念」での舞台、というところもあったのではないかという気もする。

 しかし後半の演出はかなり変化していて、ぜんかいにくらべるとかなり見通しのきく作劇にはなっていたとはおもう。いつもの彼らのやり方で、そのタイトルからはコンラッドだとかプルーストだとか、そしてかつてのATG映画だとかがよみとれるのだけれども、ストーリー展開のもうひとつの元ネタには、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」があるとおもう。そのあたりと、終戦後の日本での人身売買というあたりとをリンクさせようという意図はいいのになー、などとはおもうんだけれども、うーん、なんというのか、「狂気」がたりない、というのか、どうも登場人物たちがなかなかリンクしないまま進行してしまう。舞台というものは、その舞台上で人物が出会い、いっしゅの化学反応のようなもの、そのことによって状況が変化していくことを観客にみせていく、そういうことのなかに魅力があるのではないかとおもうのだけれども、じつはこの舞台のなかでは、そういう狂おしくおもえるような、決定的な出会い、というものがない。登場人物たちはさいごまでみながバラバラなまま、いつのまにかおわってしまう。「いったいあの翁面はなんだったのか」とか、「あの姉妹は出会えないままだったのか」とか、「あのシスターはなんだったのか」とか、たいていのことは解決もつかないままにおわってしまったようにおもう。

 ‥‥複数の、時空列のことなるものがたりをリンクさせる、というのはわかるのだけれども、これではリンクしているとはいいがたいところがあるのではないのか。

 おわったあとでAさんと飲みながらあれこれと話したのだけれども、そんなにどこまでも思念にとらわれないで、「あららら、やっちゃったねえ」という飛ばし方をやってしまえばいいのだとおもう。設定がせっかくおもしろいんだけれども、そこから先は「整合性」なんか気にしないで、どうせ「え? どういうこと?」となるんだったら、異次元に飛べばいいんだとおもう。わたしなんかは、おとといみた「ホーリー・モーターズ」とかのこともあるし、そういうところでは整合性を大事にする「映画」という世界でレオス・カラックスがあんな「ホーリー・モーターズ」みたいな作品をつくっちゃってるのに、もっとそういう整合性からは自由であるはずの演劇で、こういうふうにしばられてしまった作劇をみるというのは、ちょっとざんねんな気がする。せっかく、あれだけ壮大なスペクタクルを現出させるちからをもっているのに。


 

[]二○一三年五月のおさらい 二○一三年五月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●水族館劇場「NOSTROMO あらかじめ喪われた世界へ」桃山巴:作・演出 @三軒茶屋 鎮守の杜 太子堂八幡神社境内 特設蜃気楼劇場「夜の泡(うたかた)」

映画:
●「ホーリー・モーターズ」レオス・カラックス:監督

読書:
●Century Books 人と思想「スピノザ」工藤喜作:著
●「コモンウェルス <帝国>を超える革命論」(下)アントニオ・ネグリ/マイケル・ハ-ト:著 水嶋一憲:監訳 幾島幸子・古賀祥子:訳
●「大統領たちが恐れた男 FBI長官 フーヴァーの秘密の生涯」アンソニー・サマーズ:著 水上峰雄:訳

DVD/ヴィデオ:
●「オーケストラの少女」(1937) ヘンリー・コスター:監督
●「サンタフェ」(1951) アーヴィング・ピシェル:監督
●「砂漠の鬼将軍」(1951) ヘンリー・ハサウェイ:監督
●「砂漠の鼠」(1953) ロバート・ワイズ:監督
●「野いちご」(1957) イングマール・ベルイマン:監督
●「ロベレ将軍」(1959) ロベルト・ロッセリーニ:監督
●「獲物の分け前」(1966) ロジェ・ヴァディム:監督
●「豚小屋」(1969) ピエロ・パオロ・パゾリーニ:監督
●「コニャックの男」(1970) ジャン=ポール・ラプノー:監督
●「都会のアリス」(1973) ヴィム・ヴェンダース:監督
●「さすらいの航海」(1976) スチュワート・ローゼンバーグ:監督
●「鱒」(1982) ジョセフ・ロージー:監督
●「カラーパープル」(1985) スティーヴン・スピルバーグ:監督
●「カイロの紫のバラ」(1985) ウディ・アレン:監督
●「ダリル/秘められた巨大な謎を追って」(1985) サイモン・ウィンサー:監督
●「クーリンチェ少年殺人事件」(1991) エドワード・ヤン:監督
●「Dr.Tと女たち」(2000) ロバート・アルトマン:監督
●「グッドナイト&グッドラック」(2005) ジョージ・クルーニー:監督
●「唇を閉ざせ」(2006) ギヨーム・カネ:監督
●「エレクション 死の報復」(2006) ジョニー・トー:監督
●「赤ずきん」(2011) キャサリン・ハードウィック:監督
●「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」(2011) ルパート・ワイアット:監督
●「スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜」(2011) ジョージ・クルーニー:製作・脚本・監督・出演
●「J・エドガー」(2011) クリント・イーストウッド:監督
●「嫉妬」(2012) ヴィルジニー・デパント:監督
●「マダムと女房」(1931) 五所平之助:監督
●「昨日消えた男」(1941) マキノ正博:監督
●「悪太郎」(1963) 鈴木清順:監督
●「眠狂四郎 炎情剣」(1965) 三隅研次:監督
●「春婦傳」(1965) 鈴木清順:監督
●「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」(1970) 藤田敏八:監督
●「暗室」(1983) 吉行淳之介:原作 浦山桐郎:監督
●「女優霊」(1996) 高橋洋:脚本 中田秀夫:監督
●「勝手にしやがれ!! 逆転計画」(1996) 黒沢清:監督
●「勝手にしやがれ!! 成金計画」(1996) 黒沢清:監督
●NODA・MAP第六回公演「半神」(1999) 野田秀樹:演出

 

 

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■ 2013-05-30(Thu)

 あしたはまた、こんどはAさんと水族館劇場をもういちどみにいくので、きょうはおとなしくしておく。ニェネントはきょうもまだ「サカリノさん」というか発情期がつづいていて、これでもう一週間にもなる。ながいなあ。わたしのそばに寄ってくるニェネントに、「つらいよねえ、なにもしてあげられなくってごめんね」とあたまをなでてあげると、そのわたしの手をぺろっとなめてくれたりする。なんかうれしくてせつなくてニェネントを抱きあげて、ニェネントの鼻にわたしの鼻をクンクンとくっつけて「愛してるよ!」とかいったりして、ニェネントの鼻をなめちゃったりする。ニェネントは目を細めて、その目が逆八の字になって、ネコという存在の、いちばんかわいい顔をみせてくれる。‥‥いやがってるのかもしれないけれども。

 このごろはとくに、犬というものもわたしにはとってもかわいくって、飼い主といっしょにおさんぽをしている犬をみても「かわいいなあ」と思ったりするし、うちのすぐそばの自動車修理の店で飼われている柴犬がまたかわいらしいなあと、その修理店のところをとおるたびに、その犬小屋をのぞきこんでしまう。ちょっとまえにTVでみた、漁船に乗って漁につきそうというジョンという犬と飼い主のおじさんとのドキュメンタリーもわすれられない。でも、犬というのは、飼い主さんだとか、人間とのからみ方でもってかわいいわけだけれども、ネコという存在は、「ただそこにいる」というだけでかわいいのである。ニェネントは、ただこの部屋にいてくれればいい。この部屋がニェネントに住みやすいところになるように、わたしがニェネントに奉仕するのである。‥‥ニェネントはいまはリヴィングのざぶとんのうえでまるくなって寝ているけれども、その寝すがたをみていると、「天使というものがこの世にいるのなら、その姿はきっとこういう姿なんだろう」などと思ってしまう。ふ、そうか、わたしはこうやって、<天使>にめぐりあった、ということなのだろうか。
 人は、神や天上の存在を人の似すがたとして想像するわけだけれども、そんなことの合理的な理由はどこにもない。神のことは知らないけれども、天使というのはほんとうは犬だったりネコだったりするんじゃないだろうか。‥‥だって、<人>のすがたをしていないからこそ、いとおしいのである。まあそういうかんがえになれば、ミミズだって<天使>なのかもしれないんだけれども(けっこう、ほんとうにそうなのかも)。

 ‥‥こういうことを書いていると、無神論の人たちにまたきらわれてしまうのだけれども。

 きょうは朝食はトースト。昼は残っていた納豆。夕食はおとといのソーセージみたいなバーガーとスクランブル・エッグとですませた。粗食だなあ、と。


 

[]「ダリル/秘められた巨大な謎を追って」(1985) サイモン・ウィンサー:監督 「ダリル/秘められた巨大な謎を追って」(1985)  サイモン・ウィンサー:監督を含むブックマーク

 ひるま、TVをつけてみたら、なんかよくわからないけれども、この映画を録画しようとしているところだった。どんな映画だかまるで知らないけれども、このままみてしまえば録画したものをそのまま消去してしまえるからと、ずっとみてしまった。

 ‥‥「秘められた巨大な謎」という副題にだまされてしまったところはあるんだけれども、予想していたよりもずっとおもしろい映画だった。

 基本はファミリー・ドラマみたいなところがあるんだけれども、冒頭のそういうアメリカの片田舎という地理的な描写がちゃんとしていて、あれれ、これって「ツイン・ピークス」の影響を受けてるのかな、なんて思ってしまったりしたんだけれども、じつは「ツイン・ピークス」なんかよりもずっとまえにつくられた映画だった。それともうひとつ、これはつまりはスピルバーグの「A.I.」から派生した便乗型の傍流映画なのかとも想ったのだけれども、これもまた、「A.I.」よりも十六年もまえにつくられた作品なのだった。たしかに映画に出てくるコンピュータのモニターがグリーンのテキスト表示だけだったり、ひとつポイントになるコンピュータ・ゲームがものっすごく古くさいわけだった。

 これはちょっとした佳作だね、というか、わたしはじつは「A.I.」なんかよりも、こっちの方がいいんじゃないか、という感想にもなる。まあ、ちょっとばかし早すぎた作品ではあったのだろうか。好きである。そうそう、主人公の少年がTVで「禁断の惑星」をみているシーンがあった。


 

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■ 2013-05-29(Wed)

 きょうはついに、東京に出て映画をみることにした。なんどもなんども、「映画をみにいきたいなあ」とおもっては「いや、やっぱりやめた」というのをくりかえしてきた。ニェネントはまだ平常をとりもどしてはいないけれども、きょうはできるだけはやくかえってこようとおもっているからがまんしてほしい。映画の上映じかんをしらべたら、午後の二時からだいたい四時ぐらいまでの上映回がちょうどいい。ひるまえに家をでて、はやければ七時ぐらいには帰ってこられるだろう。あしたもしごとはあるし、キッチンの排水のことも気にかかるし、ニェネントもあれだし、あまりおそくならないうちに帰ってきたい。

 しごとをおえて帰宅して、ニェネントのごはんをセットして、きょうは卵黄もだしてあげ、じぶんの朝食をロールパンでかんたんにすませ、ちゃっちゃっとおでかけのじゅんびをする。‥‥空はうすぐもりだけれども、晴れ間もみえている。雨が降るかもしれないけれども、そんなにあるきまわったりはしないのだから、傘はなくってもだいじょうぶだろう。

 十一時半に出る電車に乗り、十二時ごろに、ターミナル駅で東京へいく電車に乗りかえる。昼食は、そのターミナル駅のキオスクで買ったおにぎりですませた。渋谷には一時二十分に到着。ちょっと映画館へのとちゅうで買い物をして、映画館には一時四十分ぐらいについた。ちょうどいいじかん。平日の午後というせいか、お客さんはずいぶんと少なかった。これが美術展なんかだと会期終了まぎわになると混雑するものだけれども、映画というのは終了まぎわに混雑するというはなしはきかない。

 ‥‥館内がくらくなり、まずは予告編があれこれと流される。まったくみたいとはおもわない(おもえない)作品の予告がずっとつづいて、ちょっとうんざりもする。ようやく「ホーリー・モーターズ」本編がはじまる。‥‥おどろくほどにおもしろかった。「おもしろかった」では、ことばがたりない。感想は下に。

 あまりに楽しくも刺激的な映画だったので、帰りにめずらしくパンフレットなんか買ってしまった。映画館を出て、ちょっと駅のそばの酒屋に寄って、安い酒を買ってから駅へいく。うちの方へいく電車がくるまで二十分ぐらいまたされるので、山手線でとなりの恵比寿駅まで逆行してから電車に乗る。動いていればてもちぶさたなまちじかんをつぶせるし、その電車で渋谷駅で下車する人がいれば、あいた座席にすわりやすくもなる。わたしのばあい、かなり長距離その電車に乗ることになるので、べつに歳のせいではないつもりだけれども、できるだけながくすわっていたい。‥‥まあじっさいに座席にすわれたのは新宿駅についてからだったけれども、とにかくはながい道中、ゆったりとすごすことができた。

 自宅駅についたのはちょうど七時ぐらいのじかんで、これで帰ってから食事をつくるのもかったるいので、駅からの道をそのまま南にすすんで、スーパーでできあいのものを買って帰ることにした。このじかんならばもう値引きもされているはずだし。
 おもったとおりに、お弁当などには値引きシールが貼られはじめていた。「うどんとそばとちらし寿司」とのセットになっているのがおいしそうで、半額にもなっていたので買う。ついでにやはり半額になっていた「かつおのたたき」、それと「さんまのみりん漬け」とを買う。「さんまのみりん漬け」は冷凍保存しておけばいい。

 帰宅して、渋谷で買った酒でちょっと一献かたむけながら、いま買ってきたかつおのたたきやちらし寿司をたべた。やはり、あのスーパーの食材はおいしい。まずはそばやうどんのたれがいい味だし、かつおのたたきもちらし寿司も、けっこう満足のいくものである。これで三百五十円だとかんがえると、なんだかうそみたいなというか。どこかの店でこれだけ食べたなら、十倍のねだんをとられることもかんがえられるのではないか。味はそういう店にくらべても、そんなにひけをとらないとおもう(まあ、そばやうどんはじかんがたっているのでぱさぱさになってしまってはいたけれども、味はわるくない)。

 ニェネントに、「おるすばんごくろうさん」と食事をだしてあげるけれども、みてみるときょうは卵黄がそのままのこっていた。ありゃりゃ、めずらしいことがあるものだ、もう玉子にも飽いたのかいなとおもって、「おいおい、ニェネントちゃんよ、玉子はいらないのかよ?」と、ニェネントの目のまえに卵黄をさしだしてみると、「なんだ、あったのか。しらなかったわよ」みたいに、あっという間にその卵黄を食べてしまった。やはりニェネントは卵黄がだいすき、ということが確認できてよかった。

 きょうは、映画をみてものっすごい元気ももらったし、またあしたからの活力もばんばんに補充できた気がする。ふつう東京とかにお出かけするとエネルギーを消耗してしまう結果におわることもおおいのだけれども、きょうはまさに「充電」できた気がする。やはり、映画をみるとか、そういうことも、生きていくうえですばらしい効力のあるものである。ムリしてでもみにいってよかった。そういう、すてきないちにち、だった。きょう得たこの活力を、あしたからおもいっきり活かしていきたい。レオス・カラックスと、ドニ・ラヴァンとに感謝。


 

[]「ホーリー・モーターズ」レオス・カラックス:監督 「ホーリー・モーターズ」レオス・カラックス:監督を含むブックマーク

 レオス・カラックスの作品だし、なんだかこむずかしいことになってるとめんどうだなあという思いもあって、まるで予備知識を得ないで、みにでかけた。ポスターもチラシもみていないけれども、ただ、またドニ・ラヴァンが主演していること、そしてカイリー・ミノーグが出演していることだけは知っていた。

 いきなりスクリーンに古い連続写真、はだかの人物の動作をとらえたものが上映される。わたしはこういうのはマイブリッジによるものしか知らずにいて、これもマイブリッジのものかと思っていたのだけれども、これはマイブリッジとおなじ時期に、フランスでおなじように連続写真を開発していたエティエンヌ=ジュール・マレーという人のによる作品、ということだった。映画というものの原点としてはよくリミュエール兄弟がひきあいに出されるけれども、さらに歴史をさかのぼって連続写真という表現にいく、というあたりがカラックスらしいというか。
 このスクリーンの連続写真はまさに映画館で上映されているようで、カメラはその映画館の観客席を俯瞰する。館内の通路を犬がゆっくりと歩いていったりする。その、観客席からスクリーンをみる観客たちをスクリーンの側からとらえたショットになり、そこに「HOLY MOTORS」とのタイトルが大写しになる。‥‥なんか、メタ映画みたいなことになりそうな予感。

 次にうすぐらいホテルの一室のような部屋で眠っている男が写されて、彼は起き上がって部屋の壁をまさぐっていくようにみえる。すぐにその男はレオス・カラックス本人だとわかる。たくさんの樹木のデザインされた壁のところで男はその壁に鍵穴をみつけるのだけれども、男の手の指はその鍵穴に合う鍵になっている。男が壁をあけると、その向こうはさきほどの映画館の二階席、もしくは映写室にあたるようなところで、観客席をみおろすのである。‥‥そうやって、本編がはじまる。

 もう、ここから先の展開は書かないけれども、とにかくは理屈抜きに楽しめる作品でもあるし、まさに予測したとおり、「メタ映画」としてもすばらしい演出になっていると思う。わたしはみていてもなんども笑ってしまった。前作のオムニバズ作品「TOKYO!」で登場したメルドの怪人がまた登場して、また「ゴジラ」のテーマ曲がながされたりもする。ここでこの挿話への導入へのセリフの字幕がちゃんと「メルド!」と出たのが、うれしかった。やはり伊福部昭氏のこの「ゴジラ」のテーマ曲はこうやって聴いても映画音楽の傑作で、この「ゴジラ」と、ニーノ・ロータの「ゴッドファーザー」あたりが映画音楽というものの双へきではないのかなどと、勝手なことをかんがえたりする。音楽の中盤のブレイクのところというか、主旋律がお休みしてリズムだけになるところがまた高揚させられるし、レオス・カラックスもそのあたりをうまく映像と組み合わせておられたと思う。‥‥そして、カイリー・ミノーグが登場。あれれ、いがいとまじめに演じてるけれども、どうせそのうちに唄い出しちゃうんでしょ、なんて気もちでみていたら、これがまさに絶妙のタイミングで唄い出したりするもんだから、爆笑しそうになってしまった。

 ‥‥しかし、こんなにあれこれと笑っちゃう映画だというのに、わたしのまわりのお客さんたちからはクスリともそういう声がきこえてこない。やっぱ、アート映画で笑っちゃいけないんだろうか。そんなにかまえてみないといけないのかなあと、気苦しくもなってしまいそう。これがラストの場面でまたカラックスにはめられたというか、「そうか、そうきたか!」ということで、また笑かせていただいた。それでこのタイトルか。

 みたあとに、みていた自分の視点とかいうことも合わせて「映画とは」みたいなことを思ったりかんがえたるすることもできるし、いやとにかくはハイテンションになって、元気になれたのである。ひょっとしたら、今世紀になってからのいちばんの映画作品かもしれない。DVDになったら買いたい。

 

 

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■ 2013-05-28(Tue)

 さてさて、キッチンの排水のもんだいは解決したのだろうか。‥‥あさ起きてキッチンにいってみると、また排水があふれた形跡がのこっていた。さいわいにも床にまで流れだしてはいなかったけれども、流しのなかにそれなりに汚水が逆流してきた痕跡がのこっている。‥‥あかん。やっぱり専門業者に依頼しなくてはいけないのかと、がく然としてしまう。しかし、もうワントライ、もうワントライやっておきたい。こうやってずるずるといつまでもいってしまうのもよくないけれども、もういちど、いちばん強力な洗浄剤をぶちこんでみて、その結果をみなくては気がすまないところがある。

 きょうはしごともあるので出勤してしごとをこなすのだけれども、なんとなく、「うわのそら」というヤツである。ずっと、「どうしようか」とかんがえてばかり。しごとがおわって帰宅して、ドラッグストアが営業をはじめるじかんをまちかねるように店にとんでいく。掃除用品の棚に目をこらし、「これがいちばん強力だね」という洗浄剤を買って帰り、キッチンの排水口にぶちまける。ここはあわてずさわがずに放置じかんを守り、一時間ぐらいたってから水を流す。がんがんと。‥‥はたして、これで開通したのだろうか。こういう作業をやっても、いったいぜんたいちゃんとつまっていたものが流されて開通したのかどうか、まるでわからないというのがこまる。開通したのなら、たとえば排水口の奥から「ポッコーン!」とか陽気な音がひびいてきてもいいのじゃないのか。あとはただ、しばらく(これが二、三日になるわけだ)ようすをみて、「ああ、どうやら開通したようだ」と勝手な判断をするしかない。まあそれでも、業者にたとえばいちまんえんとかにもなるような金額を支払って、それでなお「これはタチがわるいですから追加料金ですねえ」なんていわれるおぞましさをかんがえれば、まだ(いまのところは)がまんした方が得策だとおもえるところはある。はたして、どうなるのだろうか。

 しあさってはまたAさんと水族館劇場をみにいく予定なのだけれども、やはりレオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」はみておきたくって、きょういちにちは排水のようすをみて、それでなにもなければあしたみにいこうか、という計画にした。ニェネントはきょうも発情期がつづいているのだけれども、うまくいけばあしたあたりにはもう発情期もおわっているかもしれない。もしもまだあしたも発情期がつづいていたとしても、おいてっちゃうかもね(ごめん、ニェネント!)。

 きょうの朝食はひさびさのトースト。チーズとハムとレタスをはさんで、むかしいつもやっていたように目玉焼きもはさんでみたけれども、どうもあんまりおいしくは感じられなかった。昼食はきのう炊いてあったごはんに、さっきドラッグストアで買った納豆ですませた。納豆なんてひさしぶり。夕食も、まだのこっていたごはんに、どっちかというとソーセージみたいな「Newバーガー」とかいうものをフライパンで過熱しておかずにした。またもや「粗食」のいちにち、だった。これも、排水口の不具合のせいであろう。


 

[]「さすらいの航海」(1976) スチュワート・ローゼンバーグ:監督 「さすらいの航海」(1976)  スチュワート・ローゼンバーグ:監督を含むブックマーク

 う〜ん、まだこの年代だと、こういうオールスター・キャストの映画でも、娯楽ということにひきずられてしまいっぱなし、ということもないんだなあ、というさいしょの感想。そのせいか、一般の評価はあんましよろしくないみたいだけれども、わたしはあれこれと泣かされたし、好きな作品。あとでしらべてみたら「ポセイドン・アドベンチャー」なんかよりあとの作品だということがわかったけれども、そりゃあこの「さすらいの航海」の方が、風格のようなものがある。まあ、その「風格」がヤバいんだよ、というのがこれ以降のハリウッドの流れ、なのかもしれない。

 ‥‥事実をもとにした作品。ナチス台頭後の1939年、ナチスが排除しようとするユダヤ人937人が客船「セント・ルイス号」に乗船し、ハンブルグ港からキューバのハバナ港へ向かう。しかしハバナ港に入港できないことは出港直後からわかっていて、けっきょくはハバナ港になんにちか係留されたまま、またハンブルグへの航路をとるわけである。

 「グランドホテル形式」というか、大スターがあれこれと出演されていて、それで描写があっちへいったりこっちへいったりということはあるし、描写がたりないようなところも感じることもあるけれども、そんなに混乱している演出とはおもわないし、「ヒューマニズムとは?」ということをさぐるような演出の原点はつよく焼きつく。船長のマックス・フォン・シドーの人道家ぶりがドラマを牽引し、そこにオスカー・ヴェルナーだとか、マルコム・マクダウェルなんかのドラマがからんでくる。船の外でも、オーソン・ウェルズだとかジェームズ・メイソン、フェルナンド・レイなんかも出てくるし、なんとこの作品が映画デビューというジョナサン・プライスと、そしてキャサリン・ロスとの展開なんか、ほとんど号泣しそうになった。どっちの役者も、どれだけすばらしかったことか!(まあこのふたりの邂逅のまえにはオーソン・ウェルズの漂とした存在がおおきいのだけれども) いまこうやって書いていても、おもいだして涙がこぼれてしまいそう。

 そしてなによりも、マルコム・マクダウェル(めずらしく純真な青年を演じている)の相手役の、リン・フレデリックという女優さんの存在に、目がくぎづけになってしまった。なんといううつくしい瞳の女優さんであることか。‥‥こんな女優さんがいたなんて、まるっきし知らなかった。しらべてみたらこの女優さん、この作品に出演したあとあのピーター・セラーズと結婚し、すったもんだのあげくに離婚。映画女優としてのキャリアは、そのピーター・セラーズの主演した「ゼンダ城の虜」がさいごになってしまったらしい。かなしいことに1994年に、なんと39歳の若さで、ほとんどアル中患者として亡くなられたそうな。この「さすらいの航海」以外にも、なんだかよくわからない映画にあれこれと出演されているようだけれども、おそらくはきっと、この「さすらいの航海」こそは、リン・フレデリックという女優さんの、その希有な美しさをスクリーンに記録した最上の作品、といえるのではないかとおもう。

 ‥‥じつはこの作品をみたあとに、ちょっとネットでこの作品のことを検索してみて、とんでもないことを書いてあるサイトというのかブログというのか、そういうのを読んでしまって、とにかくはあきれはててしまって、ここで攻撃してやろうかなともおもったのだけれども、そのむかしにわたしがここで「モンテ・ヘルマンの新作映画(「果てなき路」のこと)を映画館でみたい」と書いたとき、わたしのまるでみしらぬ方が、その人のブログでわたしのことを「ロートルなおやじがどうでもいいことを書いている」みたいにいわれていたことをおもいだし、ネット上でつまらないことは書いてはいけないとおもって、書かないことにした(って、ほとんど書いているけれども)。

 ‥‥ちょっとだけ書いておけば、わたしはネットの上でわかったようなことを書きまくっている「映画ファン」さんたちのことが、たいていはあんまり好きではない(ごめんなさい)。わたしはぜったいに「映画のことがよくわかっている、いい観客」ではない。そして、映画の「外」の世界のことを、「映画の外のことは知らない」とすまそうとおもうような、「映画だけの世界」ですませるような世界で生活しようとおもってもいない。映画というのは、ひとつの「社会現象」が如実にあらわれてしまうところというのか、そういう視点をわすれたくはない、とおもっている。わたしは映画評論家になれるわけもないけれども、そういう「評論」みたいな文章は書かないように気をくばっているところはある。だから、いつも「感想」だといっている。そういうことが「ロートルなおやじ」といわれるのだったら、それは反論のしようもないのです。‥‥いってください。

 

 

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■ 2013-05-27(Mon)

 初夏らしい陽気になってきて、部屋でじっとしているとじとっとしてくる。ニェネントがきょうもあつくるしいし、キッチンの排水の件もまだ解決したとはいえない。うっとうしいことばかりである。梅雨入りもちかい。あまり外へでかける気もしない。クローネンバーグ監督の新作を映画館でみたいとおもっていたのも、もう上映は終了してしまった。クローネンバーグの作品は、このまえのもみたいとおもっていてみられなかった。いまはずっと、レオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」をみなくっちゃ、とおもっているんだけれども、これも今週いっぱいで上映は終了する。はたしてそれまでにいけるだろうか。らいげつになると黒沢清のひさびさの新作も公開されるし、なによりもワン・ビン監督のドキュメンタリーも上映される。ワン・ビン監督の作品はいままでほとんどすべてみてきているし、いつもすばらしい作品。こんかいもぜったいにみにいく。

 月末になったので、「ひかりTV」と「WOWOW」のらいげつの番組表も送られてきた。「ひかりTV」では川島雄三監督の作品や増村安造監督のものなどが楽しみで、ベルイマンの古い作品もまた二本ほど放映される。あとは「ベニスに死す」の放映がうれしい。「WOWOW」は初旬に黒沢清監督の作品をちょっとやるのがうれしいけれど、なんといっても、中旬にジャック・ロジエ監督の作品がまとめて放映されるというのにおどろいてしまった。どうやら、まえに映画館でジャック・ロジエ監督の特集で公開された作品がぜんぶ放映されるみたい。わたしは「アデュー・フィリピーヌ」と「オルエットの方へ」の二本しかみていないこともあり、ちょっと狂喜する。ほんとうにすばらしかった「アデュー・フィリピーヌ」や「オルエットの方へ」をまたみることができるのもすばらしいし、ロジエ監督のほかの作品も、ぜったいにみのがすわけにはいかない。

 六月はこれといって観劇の予定もない(七月もない)。美術展というのもしばらくみていないので、まだみていないフランシス・ベーコン展とかはみておきたいな、などとおもってしらべてみたら、なんと先週で東京展は終了してしまっていた。わたしは勝手に六月中旬まではやっているとおもいこんでいた。ここのところ、開催されている美術展のチェックもやっていないし、ほかにもみのがしているものがあるんじゃないかとおもってチェックしてみると、ソフィ・カルの展覧会というのもやっている。現代美術館でやっているフランシス・アリスという作家のことは知らないけれども、なんだか興味ぶかそうでもある(とにかく、「アリス」という名まえは、捨てておけない。「都会のアリス」だとか、アリス・クーパー、だとか‥‥)。森美術館の「LOVE」展というのも、多彩な作家群にやはり惹かれてしまう。六月・七月はすこし美術展をみてまわって、そして映画館で映画をみたりしたい。

 そしてちゃんと、じぶんがじぶんであるところのものをみきわめることをやる。これは「やりたい」ではなく、「やる」。

 きょうもあさはスナックパン。ひるはそばにして、夕食には収納にあったすこし賞味期限をすぎている食材、キャベツを乱切りにしてレトルトパックのなかみをぶっかけて、それをレンジでチンすればできあがり、というお手軽なものをつくってみた。‥‥けっこう、おいしかった。


 

[]「J・エドガー」(2011) クリント・イーストウッド:監督 「J・エドガー」(2011)  クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 なんか録画に失敗していたというか、さいごの十分間ぐらいが録画できていなくて、とちゅうでスパッととぎれてしまった。録画するのは画面にでてくる番組表でもって予約しているので、じかんをまちがえて入力してしまったということもありえない気がするのだけど、どうしたことだろう。まあだいたいのところはわかったし、ラストで「がひょ〜ん」となるような映画でもないだろう。また六月に放映されるらしいので、いちおうまた録画しておいてみよう。

 きのう、主人公エドガー・フーヴァーについての辛らつな伝記を読みおえたばかりでこの作品をみたわけだけれども、読んだ伝記ほどの辛らつさはない。まずは監督のイーストウッド自身がかつてエドガー・フーヴァーの君臨したアメリカの政治の世界にどっぷりだったわけでもあるし、「ダーティハリー」シリーズでは、(じぶんの信念にしたがってけっこう強引に)犯罪を捜査するキャラハン刑事という当たり役を演じてもいるわけで、彼のなかに、この元FBI長官への「思い」というものはけっこうなものがあるだろうと想像する。そうやって、「ひいき目」でもないけれども、そのあたりを理解してみたいという気もちはあってみていたのだけれども‥‥。

 まあ、たしかなことは、「オリヴァー・ストーンみたいな映画にはしない」と決めていたんだろうなあ、ということ。しかし、エドガー・フーヴァーのほぼ半世紀にわたるFBI在籍期間を、こうやって流して撮ってしまうということで、そこからみえてくるものは、じつはよくわからない。

 この映画でひとつメインでえがかれるのが、フーヴァーのキャリアの初期での「リンドバーグ子息誘拐事件」のてん末なのだけれども、しょうじき、「え〜っ! そっちへいっちゃたのかあ!」ってな感覚にはなる。わたしはまえからこの事件の「なぞ」ということにも興味をもっていたものだから、ここでのそういう「なぞ」をとばしてしまっての「一件落着」みたいなえがき方は、「ありゃりゃ、イーストウッドらしくもない」とおもわざるをえない。って、まさにこういうところにこそ、イーストウッドという人は存在しているのかもしれないんだけれども、これじゃあオリヴァー・ストーンとおんなじというか、その立場が「あの結末でいいのだ」というあたりで保守というのか、保守の側からのオリヴァー・ストーンのうらがえし、みたいな印象は受けてしまう。ヤバいなあ、という感じ。

 どうも監督(もしくは脚本家)はここで、エドガー・フーヴァーが実施した科学的捜査というものの効果、とでもいうものに注目したいようなところがある。図書館での図書検索システムの開発から発展して指紋検索システムの開発をしたのはたしかにエドガー・フーヴァーのおおきな功績だろうし、その科学的捜査ということは「リンドバーグ子息誘拐事件」でも活かされる。この映画でそういうことをいいたいというのはわからないでもないけれども、ではいま二十一世紀になって、そういう旧的な「科学」というのに、疑問もでてきているのではないのだろうか。さいきんの、ネットを通じた脅迫事件などの経緯をみても、げんざいの犯罪は、そういう「科学捜査」の裏をかこうとしているところもある。もしかしたらそういうことのはじまりは、すでにその「リンドバーグ子息誘拐事件」からはじまっているのではないのか、という気がしないでもない。

 脚本を書いたのはダスティン・ランス・ブラックという人物で、ハーヴェイ・ミルクをえがいた映画、わたしはみていない「ミルク」という作品の脚本が絶賛されたらしい。‥‥偏見をいだくつもりはないけれども、この作品の場合、主人公のホモセクシャルな性癖に対して、ちょっと同情的すぎるのではないのだろうか。伝記を読んだあとにも書いたけれども、エドガー・フーヴァーはまちがいなくホモセクシャルな性癖をもっていたわけだけれども、彼は権力を得たあとにそのみずからの性癖を否定するように、ホモセクシャルな人々を弾圧するわけである。彼に同情するのなら、彼に「生きる権利」を抑圧されたホモセクシャルな人々はどうなるのか。この作品にはそのあたりがまるでみえてこない。いったい、わたしが読んだ伝記に書いてあったことはウソだったのか。なっとくがいかない。

 ‥‥イーストウッド監督の演出にもあれこれと疑問はあって、これはそのまま脚本への疑問になるのかもしれないけれども、どうもみていても、エドガー・フーヴァーがさいしょにプロポーズして拒絶され、そのあとはじぶんの秘書として生涯つきそわせるヘレン・ギャンディ(ナオミ・ワッツが演じている)という存在のことが、なんというのか、「わけがわからない」ということになる。

 

 

[]「エレクション 死の報復」(2006) ジョニー・トー:監督 「エレクション 死の報復」(2006)  ジョニー・トー:監督を含むブックマーク

 久々に、ジョニー・トーの演出をみた。そして、堪能した。もう、ワクワクさせられる。そして、「えっ! そうきたか!」という、演出の飛びぐあいを楽しませていただく。

 わたしはそんなにジョニー・トー監督の作品をみていない。この「エレクション 死の報復」も、2005年の「エレクション」という作品(カンヌで大評判になったらしいけれども)の続編らしいけれども、そっちの「エレクション」はまだみる機会にめぐまれていない。

 スコセッシ監督の「グッドフェローズ」の、めっちゃ要領のいいリメイク、という雰囲気もありながら、その「グッドフェローズ」なんかよりもよっぽどおもしろくってたのしいところがいっぱいある。もっともっと、ジョニー・トー監督の作品をいっぱいみてみたい。


 

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■ 2013-05-26(Sun)

 あさ、しごとをしていると、八時ごろになってしごと場のまえの家などから人々がそとにあつまりだしたのがみえた。なにがはじまるんだろうとおもっていたら、みながゴミ袋をぶらさげてばらばらになって、あたりを散策しはじめ、道ばたに落ちているゴミをひろいはじめたのだった。‥‥そうか、きょうはこの市の「クリーン作戦」とかいう日で、市内でいっせいに、それぞれの町内会がちゅうしんになって市民がかりだされる日なのである。わたしもずいぶんまえに、まえの住居にいたときにこういうのにかりだされたことがある。欠席すると、理由の如何にかかわらず罰金をとられる。わたしのときは罰金は千円だったという記憶があるけれども、きょういっしょにしごとをやっていたEさんのはなしでは、いまの罰金は二千円になっているらしい。ちなみにEさんはこの市内にお住まいではないからかんけいはない。ではわたしはどうかというと、いまの住居にうつってからはそういう町内会というものからの連絡はいっさいない。わたしの住む区域に町内会がないというわけはないのだけれども、つまりはアパートやマンションには町内会も「アンタッチャブル」、ということなんだろう。ちょうどこのあいだBさんとCさんとあったとき、Cさんが地元町内会の会長になられたというはなしからそういうはなしもしていた。アパートには町内会費の徴収にもまわらないし、回覧板もまわさないと。

 つまりそういうわけで、わたしにはその「クリーン作戦」へのよびかけもきていないし、そもそもが町内会というものに、はいっていないのである。こんなことをいうと不謹慎というか、市民のひとりとしてうしろゆびをさされてしまうかもしれないけれども、そういう町内会にはいっていないということで(もちろん)不便にかんじたことはないし、町内会費を払わなくてすんでいたり、そういうゴミあつめのおよびだしがなかったりすることは、ありがたいことだとおもっている。

 「クリーン作戦」欠席の罰金もなかなかの金額だけれども、この町内会費というものもばかにならない金額である。たしか一ヶ月八百円で、半年ごとにに徴収されるから、いちどに五千円ちかくもっていかれてしまう。これがふいに徴収にくるから、そんな現金のもちあわせもなかったりする。それでもって、いったいその町内会費がどのようにつかわれているのか、こちらにはまるでわからなかったりするあたりももんだい。まえの住まいにいたときにそういう町内会費の徴収がまわってきて、「いったいどういうふうに会費がつかわれているのか、収支の明細を知りたい」というと、「そういうものはつくっていない」という返答で、ちょっとあきれてしまったこともある。Eさんのはなしでは公民館の維持運営費用がほとんどだろうというはなしだった。ひょっとしたら夏祭りの地域ごとの催しにもけっこうつかっているんだろうけれども。とにかくは町内会にはいっていてなにかがあるといえば、回覧板がまわってくるだけのことではないのか、という気がする。町内会で配水管のつまりなどを修理してくれたりするのならすばらしいけれども。

 東京などではもう、とうのむかしに町内会などという制度はすたれてしまっているだろうけれども、地方にはまだまだ厳としてのこっている。しかし、アパートやマンションは町内会とは別あつかいというのは、東京で町内会がすたれていったのとおなじ過程を、何十年もおくれて踏襲しているのではないのかとおもう。

 あしたはしごともやすみなのでまた東京に映画でもみにいこうかとおもったのだけれども、キッチンの配水管のつまりがちゃんと解消されたのかどうか不安もあるし、ニェネントは発情期だったりするので、やっぱりでかけるのはやめにした。このところいつも、「でかけようか」とかんがえては、けっきょくやめてしまうというくりかえし。

 けさはトーストではなくて買ってあったスナックパンですませ、昼食はそうめん。夕食はのこっていたごはんでお茶漬けですませた。すっごい粗食。読んでいた本をようやく読了した。


 

[]「豚小屋」(1969) ピエロ・パオロ・パゾリーニ:監督 「豚小屋」(1969)  ピエロ・パオロ・パゾリーニ:監督を含むブックマーク

 パゾリーニ監督の映画で、みたことがあるのは、「奇跡の丘」「アポロンの地獄」「テオレマ」、そして「王女メディア」だけ。すべて公開当時に映画館でみたっきりで、そのあとはまるでみていない。それでも「アポロンの地獄」や「テオレマ」は「すっごいなあ」とおもってみていたし、「テオレマ」なんかはわたしにはめずらしく、あれこれといまでも鮮明に記憶ののこっている作品でもある。「豚小屋」は映画館で予告編をみた記憶はあるし、こんかいこうやって本編をみると、「ああ、ここのところは予告編でつかわれていた」とかおもいあたる。みたいとおもっていた映画のはずだったけれども、なぜかみずじまいだった。そののちにレンタルヴィデオをいうものが普及しても、レンタルヴィデオの店にはパゾリーニの作品などおいていないのだった。そういう「豚小屋」を、ようやっとみた。

 ピエール・クレマンティ演じる荒野をさまよう男のカニバリズムの話と、ジャン=ピエール・レオが獣姦にふけるブルジョワの息子を演じる話とが交互にえがかれる。ピエール・クレマンティのパートではずっと(さいごのさいごまでは)いっさいのセリフはなく、ぎゃくにジャン=ピエール・レオのパートは、基本はダイアローグのかたちをとる観念的なセリフの洪水。ピエール・クレマンティのパートは手持ちカメラが活躍するけれども、ジャン=ピエール・レオのパートは、つねにシンメトリックな構図をみせる固定カメラの切り返しで展開していく。

 ‥‥どうもこう、ものごとを表面的にみてしまうたんじゅんなわたしは、つまりはパゾリーニの作品というのは「エディプス・コンプレックス」だとか「カタレプシー」、「メディア・コンプレックス」などの精神医学的症候をその背景とともに象徴的にえがくものなのだよ、みたいな意識があって、だからこの「豚小屋」もまた、「カニバリズム」と「ズーフィリア」ということをえがくことで、社会に挑戦しているような気配をかんじるわけである。

 ピエール・クレマンティの話は「奇跡の丘」をうらがえしたもの、屈折させた「アポロンの地獄」というようなところもあるし、「テオレマ」のラストで荒地にさまよいいく男のことをもおもいだしてしまう。いってみればキリスト以来の西欧文化にきょうれつな「ノン!」をつきつけるようでもあり、映像もちからづよくて印象にのこるものだった。

 ジャン=ピエール・レオの方はといえば、「テオレマ」でのキャンバスに放尿するブルジョワ一家の息子の話のヴァリエーション、みたいな感覚になるのだけれども、その情念をてっていして排した、システィマティックともいえる演出姿勢が実験的というか。

 ‥‥さいごに、観客にむけて口に指をあて、「しー!(だまっているように!)」っていういっしゅんは、やはり(映画として)きょうれつだとおもうのだが。だって、だまってられないだろうし、だったら、しゃべってしまう覚悟が、あなたがた観客にはあるんですか? と。ここのところ、わたしは、この映画をみて、ここでいわれたとおりにだまっていることにだって「覚悟」はいるんだとおもう。みちゃったんだからしょうがない。おもしろかったとか、おもしろくなかったとか、そういうものではない。ただ、覚悟しなくては。そういう映画だとおもう。

 

 

[]「大統領たちが恐れた男 FBI長官 フーヴァーの秘密の生涯」アンソニー・サマーズ:著 水上峰雄:訳 「大統領たちが恐れた男 FBI長官 フーヴァーの秘密の生涯」アンソニー・サマーズ:著 水上峰雄:訳を含むブックマーク

 アメリカという国が政治的にクソみたいな国であることはたいていの人は承知していることだろうとおもうけれども、たとえばニクソンというのがいて、それからあのレーガンがいて、そしてブッシュなどといういきものが国を統治する。いったい、そういう「愚」というものがどこからきているか、ということでかんがえて、この本を読むと、そのひとつの元凶がこのJ・エドガー・フーヴァーという人物の存在からきているんじゃないだろうかと、おもうところもある。この本を読みすすめるのは、あるときは苦痛でもあった。このフーヴァーという人物が、あまりにも醜悪だからである。たとえばこの本の第十八章のエピグラフには、フーヴァーの死後、さいしょに彼の秘密ファイルを精読したそのときの司法長官代理、ローレンス・シルヴァーマンという人物のことばが引用されている。以下のようなものである。

「J・エドガー・フーヴァーは、汚物を集める下水道に似ている。私はいまや、J・エドガー・フーヴァーはアメリカ史上で最悪の公務員だった、と確信している」

 ‥‥そのとおり、だとおもう。しかしこの書物の終盤で、たとえばJ・F・ケネディが登場してきたり、たとえばリチャード・ニクソン(ちゃんと、その名まえのなかに「クソ」がはいっていることに、いま気がついた)が登場してきたりすると、これはほとんどマフィアの抗争劇みたいなおもしろさがある。読書のペースもはかどった。まあニクソンといえば「ウォーターゲート事件」ということになるけれども、この「ウォーターゲート事件」、まさにニクソンがエドガー・フーヴァーを抜きにしてエドガー・フーヴァーのやっていたことをやろうとしただけ(「だけ」というのはおかしいけれども)のことでもある。「ウォーターゲート事件」発覚のちょっとまえに、エドガー・フーヴァーはおっちんでしまっているわけだけれども、彼が「ウォーターゲート事件」を知ったとしたら。「ほらみろ、オレにやらせておけばよかったのに」とおもったであろうことはまちがいない。

 そのエピローグで著者のアンソニー・サマーズは、彼の名まえは精神病理学の典型的な症例名としてつかわれるべきだという精神医学教授のことばを紹介している。エゴをどこまでも押しとおし、その権力を濫用したまま、失脚もせずにある面で天命をまっとうしてしまったフーヴァーだけれども、そのしんちゅうではあれこれのコンプレックスがうずまいて彼を苦しめていたのかもしれない。

 彼はアフリカ系の人々を嫌い、ホモセクシャルを嫌悪し、女性の社会進出に反対した。しかしまずは、じつは彼のなかにはアフリカ系の血が流れていた可能性もあるという。なるほど、彼の写真(とくに若いころのもの)をみると、そういう混血の容貌だといわれればそうではないかとおもうところが、たしかにある。そして彼は、まぎれもなくホモセクシャルだった。そのことをマフィアに証拠写真といっしょにつかまれていて、マフィアのいいなりになっていたところもあるようだ。彼が女性を愛しなかったのは、若いころにそういう女性への愛情告白がみごとに失敗しているから、らしい。

 ‥‥そういうふうにみると、いくらひとつの国をじぶんの権力の下におさえてしまっても、その精神のありかたとしては、まるで幸福な人ではなかったのではないだろうか。彼がじっさいには幸福ではなかったとして、そのことは「アイム・ソーリー」とご同情たてまつることにやぶさかではないけれども、そういう彼の強迫観念というのかコンプレックスのおかげで、(おもに彼の反共産主義=このことも彼の強迫観念とかんけいしているだろう=という信念ゆえだけれども)ほんとうにおおくの人たちのささやかな幸福がうばわれているし、その命までもうばわれているというケースもおおい。こういうことはひとつの病例としてかたづけられるような性質のものではなく、そのような人物がなぜ、そういう自分の強迫観念がらみで行動できるような職場で地位を得て、その権力を増大させてしまったのか、そういうことをきちんと検証しなければいけないだろう。エドガー・フーヴァーはゲッペルスと相似形、というかんがえもある。しかしそんなフーヴァーという人物は、その地位をうしなうこともなくその生涯をまっとうしている。彼が死んだのは、いまから四十年まえのことにすぎない。いまでもまたアメリカにはそういうフーヴァー的な「異者排除意識」はあるし、この日本にもいつも、権力をもつ人物でこういうフーヴァー的なことをいいだすものは連続している。

 ‥‥もしも、このフーヴァーのような精神構造が精神病理学的にひとつの「典型」とみなされるとしたら、それは「権力の獲得、保持」ということと密接にかんけいしているんじゃないだろうかとおもったりする。まあいまはこういうことにはわたしなどは「Watch Out!」というしかない、だろうけれども。


 

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■ 2013-05-25(Sat)

 きょうも、ニェネントがうるさい。おまけに、またもキッチンの排水が不調である。配水管からの水もれはすっかりふさぐことに成功しているようだけれども、そうすると逆流して行き場のなくなった排水は流しにあふれ、外にこぼれてしまうのである。‥‥最悪。バケツで流しにあふれた水をくみとり、トイレに運んですてる。これをなんんどもくりかえした。またキッチンの床が水びたしになってしまった。やはりこれは専門の業者になんとかしてもらうしかないのだろうかと電話帳などをくくってみるけれども、そのページの広告に書かれている価格をみるとなんだかそういう金を払うのがばかばかしくおもえて、もうちょっとじぶんでなんとかがんばってみて、それでだめだったら業者にたのもうということにした。それにはまずはもっと強力な洗浄剤を買ってくること。とにかくはそのまえにまだのこっている洗浄剤をぜんぶつかってみようということにした。さあ、どうなるだろうか。‥‥そんなしんぱいごとであたまがいっぱいになってしまったので、ニェネントへのケアもおろそかになってしまった。ニェネント、ごめん。

 とりあえず午後からは気ぶんもおちついて、あさしごとにいっていたあいだにエアチェックしたFM放送をききながら、本を読んだりしてすごした。ニェネントもおひるねをしてくれている。
 きょうのピーター・バラカン氏の「ウィークエンド・サンシャイン」は、プロテスト・ソングの特集だった。読んでいる本のエドガー・フーヴァーがこれらの曲をきいたら怒り心頭して、唄っているアーティストをみんなFBI職員に調査、盗聴させ、ほんとうだったら国外追放にしたがったことだろう。って、いくつかの曲はフーヴァーもじっさいに耳にしているんじゃないだろうか。
 この番組で「そのうちにプロテスト・ソングの特集をやる」と告知されたのはけっこういぜんのことで、そのときに、リクエストというわけではないけれども、「わたしは歌詞の内容に無頓着に音楽をきいているので、<こういうのもプロテスト・ソングだ>というような選曲をやっていただきたい」みたいなことをメールにして番組に出していたのだけれども、おもいがけずもそういうわたしのメールが紹介された。「え? 紹介してもらおうとおもって書いたメールではないのに」とちょっとおどろいたけれども、まあそういうことでもうれしがってしまうわけである。じつはこの番組ではそれなりにわたしのリクエストも紹介されたことがある。バラカン氏とわたしは生まれ年はひとつちがうけれども、日本の学年でいえば同期生というか、わたしが半年おそい生まれ。そういうわけで、どうやらローティーンのころとかにきいていた音楽があれこれと共通しているようでもある。さいきんもJim Kweskin Jug Band の「My Gal」という曲が流されたとき、バラカン氏はさいしょはLovin' Spoonful のヴァージョンできいた曲だといっていたけれども、それはわたしもまるでおなじなので、うれしくなってしまったこともあった。

 しかしまあ、こういうことで「バラカンさんはわたしのことをわかってくれる」とか勝手におもいこんで、せっせとリクエストなんか出すようになると、精神的にあぶない。ちょっとそういう気分になりそうになったわたしがいて、「ヤバいなあ」と自省した。でも、やっぱりときどきはリクエストしてみようか。紹介されることなんか期待はしないで。

 あさはいつものようにトースト、ひるはそばにして、夕食は冷奴といっしょに、ずうっと冷凍してあったさんまのみりん漬けを焼いておかずにした。さかな、というのもいいものである(刺身をまいにち食べられたらまいにちまいにち刺身ばかりを食べているのだけれども)。


 

[]「春婦傳」(1965) 鈴木清順:監督 「春婦傳」(1965)  鈴木清順:監督を含むブックマーク

 原作は「肉体の門」の田村泰次郎で、主演もまた野川由美子だし、松尾嘉代も出演している。美術もまた木村威夫。なんだかみおわったあとであれこれかんがえると、池部良と山口淑子のでていた「暁の脱走」みたいだなあとおもったんだけど、なんだ、原作はおんなじらしい。

 鈴木清順監督と野川由美子というコンビは、「肉体の門」、そして「河内カルメン」という、どちらもすっごい傑作があるけれども、しょうじきいってこの「春婦傳」、もちろん清順監督らしいおもしろさもあれこれとあるのだけれども、いまひとつものたりない。もともとの本がガチガチの反戦ストーリーとしてかたまっているものだから、これは正攻法の「暁の脱走」みたいな演出の方がインパクトがあるんじゃないだろうか。まあ池部良と川地民夫との差異ということもあるだろうし、ここで木村威夫氏がどれだけがんばっても(おもっしろいこともやっておられるけれども)、なんというのか、映画の歴史にものこりそうな「暁の脱走」のすっばらしいセット(この作品の美術は松山崇という人)、そして撮影(三村明)にはかなわないだろうという感想になる。なんだか、野川由美子の熱演だけが上滑りしているようなところもあって、かのじょのことがかわいそうになったりもする映画、だった。

 

 

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■ 2013-05-24(Fri)

f:id:crosstalk:20130525172706j:image:left ニェネントは、やはり発情期のはじまりだったようである。まえの発情期のはじまりが四月三日だったことがこの日記でわかるから、七週間とちょっとの間隔。だいたい六週間から七週間の周期でニェネントの発情期はやってくる(これいじょうに間隔があいたこともあったけれども)。発情期になるといつもにましてわたしのそばをはなれないようになり、わたしの手をぺろぺろなめたりしてくる。無視していると、がぶりとかんできたりもする。かなりいたい。たんじゅんに「愛らしい」などとはいっていられない。

 いま東京の名画座でフリッツ・ラングの作品の二本立てが組まれていて、きょうがその最終日なのをきのう知った。みにいきたいなあという気もちはあったし、はやく家をでてはやく帰ってくればあしたしごとだといってもさほど影響はないとおもったのだけれども、けっきょく出かけないですごしてしまった。ことしになってからずっと、月にいっかいぐらい舞台をみて、二、三回映画をみにいくだけというペースになっている。展覧会も一月いらいなにもみていないし、でかけなくってもできるはずの読書が、またはずまないでいる。「やりたいことがある」なんてかんがえていながらも、いまだにやりはじめようとしていない。きのう古いフォトデータをみつけて十年ほどまえのことをおもいだしたりして、かんがえてみたらこんなにながいことなんにもやっていないというのもかつてないことというか、いかん、いかんとはおもったりするのである。
 ‥‥まったく知りもしないこの土地にやってきて、さいしょの数年が「The Worst Years of My Life」だったとして、この何年かはメンテナンスの月日だったともいえる。いくらメンテナンスしても本体の耐久年数がそろそろ限界にきているにしても、このままおわりまでメンテナンスだけをつづけるというのはばかげている。メンテナンスというのは再稼動させるためにおこなうこと。そういうことをもっと自覚しなくてはいけない。

 きょうはあさもひるもきのうつくったシチューですませ、夕食だけはのこっていたごはんでオムライスをつくった。ひるから映画を一本みて、そのあとはエドガー・フーヴァーの伝記のつづきを読んですごした。ようやくケネディ兄弟との対決みたいなところにきて、がぜんおもしろくなったのでページもすすんだ。「スカートをはいているものならなんでもベッドに引きずりこんだ」といわれるJ・F・ケネディのスケベぶりにもあきれるし、これじゃあ暗殺されていなくってもおそかれはやかれスキャンダルで失脚していた可能性もたかいし、彼の存在をこころよくおもっていなかった連中があっちにもこっちにも群れをなしていたこともわかる。しかし、弟のロバート・ケネディがマリリン・モンローの死の第一発見者であるばかりか、いちどモンローの死体(もしかしたら虫の息だったかも)をモンローの自宅から運び出し、死んでいるとわかってまた彼女の部屋にその死体をもどしたという説にはぎょうてんした。このあたりのいきさつはぜんぶエドガー・フーヴァーは把握していただろうし、J・F・ケネディ暗殺の真相もまちがいなく知っていたわけだ。
 まだ、クリント・イーストウッドがメガホンをとった「J・エドガー」はみていないけれども(録画はしてあって、この本を読了したらすぐにみるつもりではいる)、このあたり、どのように描かれているんだろうか。


 

[]「Dr.Tと女たち」(2000) ロバート・アルトマン:監督 「Dr.Tと女たち」(2000)  ロバート・アルトマン:監督を含むブックマーク

 アルトマン監督は好きだけれども、ぜんぶの作品をみているわけではない。この「Dr.Tと女たち」という作品のことも、じつはぜんぜん知らなかった。このつぎの年に撮った「ゴスフォード・パーク」などにくらべても、あんまり評判になっていた記憶もないし、まあアルトマン監督にありがちな「失敗作」なのかなあ、などとおもいながらみはじめた。

 って、めっちゃおもしろいではないですか。‥‥アメリカにも「女難」ということばがあるのかどうか知らないけれども、これって、まさに「女難」映画でしょう。それでもって、舞台になるのがテキサス州ダラス。ちょうどJ・F・ケネディのことの書かれた本を読んでいるせいでもないけれども、そういう「おんな狂い」のケネディの裏返しのようなストーリー、というか。

 ダラスで評判の産婦人科医をやっているドクター・T(リチャード・ギア)の医院の待合室にはいつも、ただドクター・Tに会いたいだけみたいな(自称)患者さん、というような女性であふれているし、彼の家には離婚訴訟中の義理の妹(ローラ・ダーン)が、三人のガキンチョな娘を連れておしかけてきている。ドクター・Tの妻(ファラ・フォーセット!)は精神を病んで入院し、あげくは離婚したいといいだす。彼のふたりの娘の長女は結婚をひかえているのだけれども、次女は父に「おねえさんは<レズ>よ」と忠告し、しかも「わたしは<ノーマル>よと、ひつよういじょうに強調する。長女はたしかに同性愛者で、結婚式のクライマックスで付き添い役の<愛人>と、イってしまうわけだ。ドクター・Tはそんなしっちゃかめっちゃかななかで「こりゃあイイおんなだ!」と確信する女性(ヘレン・ハント)とイイおもいをするわけだけれども、「将来はこの女性と!」と告白すると、つまりはすてられてしまうのだ。

 ‥‥なんだか「女性蔑視(ミソジニー)映画」かいな、みたいなところもあるのだけれども(ひょっとしたら、わたしはそういうところでこの映画をたのしんでいたのかもしれない)、そういうところとはぜつみょうに距離をおいているあたりが、いかにもアルトマン監督らしい。映画をみていると、ドクター・Tには三人の男性の狩り仲間というのか、友人がいるわけだけれども、これがじつにもってたよりないというか、そのまえにドクター・Tが彼らをたよりにしようとはしていない。この映画のひとつおもしろいところは、そういう女性たちがガンガンとドクター・Tに対して「どうするのよ」と決定をせまっているのに、ドクター・Tをふくめた男性たちは、まさに「どうしようともしていない」のである。(とくに前半での)このカット・アップというのか、映画のうえでの「切り返し」に、まずは笑ってしまう。主人公のドクター・Tは、そういう女性たちになにかを求めていたり、あるいはまるで求めていなかったりするのだけれども、げんじつにはそういうことがすべて裏目になって彼のまえにやってくる。「こうあってほしい」ということはそうならないし、そんなことかんがえてもいないのに、「こうなってほしいのよ」という女性たちのリクエストが津波のようにおしよせてくる。‥‥笑うしかない。いったいなにがいけないのか。わたしのかんがえでは、主人公はあまりに女性たちの世界のなかだけにどっぷり、なのだからいけない。まあこういうことを社会的にとか政治的にとかかんがえてしまうとこんがらがってしまうけれども、とにかくはこの映画のラストでは主人公は「アメリカ」から吹き飛ばされて外の世界へいってしまい、そこで「男の子」の誕生に立ち会うわけである。主人公の歓喜。わかるねえ。それが「ずぶぬれの女性」というところからここまでくるか、というたのしさ。

 アルトマンらしいというか、小技としてちょっと楽しませてくれるところもあれこれとある作品で、登場人物らの乗っている車のナンバーだとかもいちいち楽しいし、たとえばファラ・フォーセットがショッピング・モールでおかしな行動をとりはじめるところで、そのショッピング・モールの店名の一部「GUESS」というのが大写しになるし、彼女が服を脱ぎ捨てて噴水に入ってしまうところでは、バックの店の「GODIVA」という文字がおおきく写されたりする。

 まあ、「やっちゃったなあ」ということでいまいち評判のあがらない作品なのかもしれないけれども、たとえば「ゴスフォード・パーク」などとはまったくちがった、ある意味で「いやらしい(というか、ひねくれた)」アルトマンの顔がみえるような感じがして、わたしは大好きである。

 

 

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■ 2013-05-23(Thu)

 ほとんどやらないことだけれども、パソコンのディスクの整理などということをやっていたら、むかしもっていたデジカメからコピーしてあったふるいフォトデータが、かなりの数みつかった。そのデジカメはずいぶんむかしにこわれてしまって、たいていのフォトデータも内蔵されたままもうとりだせなくなってしまったので、もうとっくにすっかりあきらめていた。デジカメが元気だったころにはひんぱんにデータをパソコンにコピーしていたのはおぼえているけれども、そのパソコン内のデータも、パソコンがクラッシュしたときに消滅してしまったとおもっていた。きょうみつけたのは当時のパソコンのディスクとはべつに、外付けのハードディスクのなかに保存されていたもので、なぜそういうふうに分別して保存したものか、おぼえてもいない。

 みつけたフォトデータをいちまいいちまい開いてみたけれども、そのほとんどがこの土地にはじめてやってきたときにみた風景を撮ったものだった。とうじは「こんな風景がある」とあれこれとカメラをむけたわけだけれども、いまみてみるとどうってこともない写真ばかりだし、ちょうごこの地へきたころはわたしにとっての「ハードタイムズ」でもあったわけで、そんなフォトを撮ったころのことばかりをおもいだしてしまい、ゆかいな気分でもなくなってしまうのである。

 ただ、「こんなものが残っていた」とうれしくなったフォトもあった。まずはわたしが日暮里の寺をつかって開催したイヴェントのスナップが、かなりの量残っていた。あのときはわたしもスタッフをかねていたから自由に撮りまくれたわけでもなかったし、たしかそのデジカメを買ったばかりで操作にも不案内だったから、うまく撮れているわけでもない。それでもみているとあれこれとおもいだされることもある。あのイヴェントが、いまのところわたしのやったさいごのイヴェントになるわけだし、まあ「ハードタイムズ」のはじまり、みたいなところもあるわけだけれども、「よくもまあこんなところでイヴェントをやったものだなあ」とわれながら感心するところもあるし、「これじゃあお寺の方は怒るだろう」ともおもったりする。終演時のスナップをいちまい、ここにのせておこう。
 あとは、Dさんの結婚式で撮ったスナップが数枚あったのもうれしかったけれども、どれもピンぼけ。

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 きょうのニェネントはわたしにつきまとってばかりで、なんだかおかしい。ひょっとしたらまた発情期がやってきたのかもしれない。

 夕食にまたホワイトシチューをつくったけれども、ちょっとうすあじになってしまった。ぜんかいつくったときは手順をまちがえたのに、きょうのよりはずっとおいしくできた。あの手順はまちがいではなく、ただしかったのだろうか。


 

[]「暗室」(1983) 吉行淳之介:原作 浦山桐郎:監督 「暗室」(1983)  吉行淳之介:原作 浦山桐郎:監督を含むブックマーク

 わたしは吉行淳之介なんかちっとも好きでないし、浦山桐郎という監督さんも、「私が棄てた女」をみたとき、なんだかあきれてしまった記憶がある。そういう吉行淳之介と浦山桐郎とのとりあわせ、なんとなくわかるような気がしないでもないし、それでもちろん期待するわけではない。

 この作品は「にっかつ」の創立七十周年記念作品として製作されたらしいけれども、この時期のにっかつはロマンポルノ路線まっしぐら。そういうわけで、「ロマンポルノ文芸大作」っつうわけである。脚本は石堂淑朗、撮影は安藤庄平。主演は清水紘治で、女優さんはいっぱいでてきて、これがロマンポルノなわけだから、たいていみんな清水紘治とのベッドシーンがある。つまりベッドシーンがいっぱいの映画。

 どうもみていると石堂淑朗氏の脚本は主人公の小説家(吉行淳之介の分身)をかなり戯画化していて、その性生活をわらいとばそうとしているようにもおもえるのだけれども、それを演出の浦山桐郎氏の方では「いやいや、こういう主人公わかるねえ」というのか、あるしゅのシンパシーをもって描いているようにみえる。そういう気がする。だからなんというのか、そもそもの映画が、スクリーンに映るまえから分裂しちゃっているような。つまり、みていてなんともおちつかない。主人公の女性にたいするあれこれの心情だとかはほとんどあほらしいかぎりだし、あれこれの言動もスノビズムまるだしというか、時代背景もあるのだろうけれども、みえすいているかんじがする。それなのに演出は主人公をまるで求道家かなにかのようにあつかっているようで、つまりはあたたかくみまもっているのかいな、なんてかんじである。

 ラストに主人公はある男にボコボコにされたあと、気を失っているあいだに、かつてかんけいをもっていた女性の故郷へつれていかれている。女性はその地にもどって発達障害のおとうとといっしょに生きていくつもりだと主人公にかたり、「このわたしの故郷をあなたにみせたかった」といい、主人公をおくりだす。‥‥なんだか、よくわからない。その女性にとって性的放埒は人生のほんの一時的な通過点でしかないのに、主人公が生涯そのことにとらわれて生きていることへの批判なのか。主人公はただバスに乗って帰っていくだけなので、外の風景をみる視線だけしかわからない。
 だいたいわたしは<生きること>イコール<セックスすること>とかんがえるひとのことなどまるでわからないし、そこにサドやマゾッホみたいに目標というか指針があるのなら興味ももつけれども、この主人公のようにただ「妊娠されるとこまる」というのでは、そこにどんな理由があったとしても、わたしにはまさにどうでもいいことでしかない。

 ‥‥つまりはわたしにはほとんどどうでもいい映画なんだけれども、ただ、そのラストの女性の故郷のシーンがなぜかこころにのこってしまう。カメラの美しさということもあるけれども、なんだか、このラストだけがとつぜん別の映画になってしまっているような気もちでみていた。

 

 

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■ 2013-05-22(Wed)

 きょうも快晴で気温もたかい。もう部屋では半そでですごすようになった。きのうとおなじくニェネントにブラッシングしてあげたら、やはりきのうとおなじぐらいの量の毛玉ができた。つまりは、まいにちこのくらいの量の抜け毛を部屋じゅうにばらまいてかっぽしているということなのだろう。

 昼食に、このあいだ買ってみたインスタントの焼きチャンポンというのをつくってみた。わたしは北九州の生まれなのだけれども、ちいさいころに親に連れられて食堂でたべたチャンポンには、ほとんどおつゆなどなかったという記憶がある。なんか、じぶんがそういうたべ方をしたのかどうかさだかではないけれども、ソースをかけてたべるという習慣もあったような。いちおうラーメンのような深いどんぶりに盛られていたはずで、焼そばのように皿に盛られてはいなかったとおもう。東京にきてからいろんなチャンポンをたべて、それはそれでおいしかったりもしたけれども、わたしのなかでは「ちいさいころにたべたあのチャンポンはなんだったんだろう」というおもいもあった。‥‥それがつまりは、この「焼きチャンポン」だったのではないのか。
 とりあえず、冷凍してあったイカだとかきゃべつだとかもやしだとか、いろんな具材をいれてつくってみた。‥‥さすがにもう、ちいさかったときにたべたチャンポンの味まではおぼえていないけれども、感覚としてはこういうものだったんではないかな、とはおもう。けっこうおいしかったけれども、具をいろいろといれすぎて満腹になってしまった。

 食後はベッドで本を読む。図書館で借りた本はなんだかすぐに読みおえそうな気もして、ずっと読んでいてなかなかはかどらないエドガー・フーヴァーの伝記の方を集中して読んだ。とにかくフーヴァーという人物は信じられないぐらいイヤなヤツで、読んでいても先へ進むのがイヤになってしまう。そのせいで読書ペースがはかどらないのである。あんのじょう、ちょっとばかし昼寝してしまった。

 めざめてから録画した映画をひとつみて、夕食のじゅんびのじかんにもなるのだけれども、ひるまにたべすぎたのであまり食欲もなく、なにをつくろうという気にもならない。せんしゅうスーパーで寿司を買ったのがけっこうおいしかったので、きょうもスーパーでできあいのお弁当でも買ってこようと、暗くなってからでかけてみる。豚角煮丼というのが量もてごろで安くなっていたので買う。あと、このスーパーの自家製のパンが三、四個ずつ袋詰めにされて半額ぐらいになっていたので、これも買った。

 豚角煮丼というのは、それほどおいしいわけでもなかった。ついでにパンもたべて、ちょっときょうはあれこれとたべすぎになったいちにち、だった。


 

[]「オーケストラの少女」(1937) ヘンリー・コスター:監督 「オーケストラの少女」(1937)  ヘンリー・コスター:監督を含むブックマーク

 ‥‥なんか、ものすごくイヤな映画だった。いくらなんでもこんなめちゃくちゃな脚本もないだろうというか、現実世界へのなんの支えにもなりえない。ただ、人の「善意」というものだけを過大にえがく。そもそもわたしはストコフスキーって好きじゃないし、じぶんをかっこよくえがいてくれそうだから出演したんだろうけれども、みていても「うへぇ!」っておもってしまう。そしてまた、わたしはこのディアナ・ダービンという女優さんが生理的にダメ。表情をみるだけできもちわるくなってさぶいぼができそうになるし、だいたいあのへなちょこな帽子はなんなんだよ、と。

 

 

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■ 2013-05-21(Tue)

 しごとも休みなので、あさからのんびりする。それでも七時まえには起きてベッドから抜け出て、トーストの朝食をとる。ついでにニェネントのあさごはんをだしてあげる。きょうは卵黄の日である。朝食のあとは医者からもらっているクスリをのんで、それから血圧をはかって記録する。このごろはずっと安定している。

f:id:crosstalk:20130522180306j:image:right リヴィングでねっころがってTVをみているとニェネントがよってくるので、このところあたたかくなってきてニェネントの抜け毛もすごいもんだから、このあたりでブラッシングでもしてやるかと、ちょうど手もとにヘアブラシもあったりしたものだから、ニェネントをひきよせてからだをブラッシングしてあげる。ニェネント、「ひゃ〜!」とかいってるんだけれども、そんなにいやがっているふうでもない。‥‥しっかし、これはすっごい抜け毛である。もうブラシがまっしろになってしまい、いちどニェネントを解放してやってからブラシの毛をとりのぞく。かんたんに直径三センチぐらいの毛玉がつくれてしまう。‥‥ブラシの掃除をしているあいだも、ニェネントはいやがって逃げたりせずにわたしのそばで丸くなっている。もういちど抱きあげてブラッシングする。またニェネントは「ひゃ〜!」ってわめいている。‥‥やっぱ、さっきとおなじぐらいの毛玉がとれた。この毛玉、なんか有効なつかいみちはないものだろうかとおもってしまうぐらいたくさんとれる。ニェネントはそういうあいだもそばでうずくまっているので、じつはこうやってブラッシングしてもらうのが気もちいいんじゃないだろうか。「ひゃ〜!」ってなくのは、ほんとうは「気っもちいいわあん!」っていうことなんじゃないかしらん。「そういうことならば」と、もういっかいブラッシングしてやった。それでもまだまだ、いくらでも毛が抜けてくる。こんなふうにつづけていると「スフィンクス」みたいな無毛ネコになってしまうんじゃないだろうかとおもうぐらい。‥‥まあそんなこともないだろうけれども、きりがないみたいなのできょうはここまで。またあしたにでもね。

 図書館から借りていた本もようやく読了したので、午後から返却にいった。きょうは快晴でほとんど初夏の陽気。ことしはじめて半そででそとに出た。ちょうど高校とかの授業がおわるじかんだったのか、図書館のそとにもなかにもちかくの高校生らしい連中がいっぱい、だった。
 どうもこう、いつも図書館からなにかしら借りていないとおちつかないというのか、きょうも書架をみてまわって、阿部和重のエッセイなどを借りてきてしまった。かるく読めそうなので、このところあやうくなってきている読書ペースをつかむのにちょうどいいかな、などとはおもっている。

 きょうの昼食はそば、夕食はきのうとおなじくレバ野菜炒めにした。録画してあった映画とかもふたつみた。


 

[]「砂漠の鼠」(1953) ロバート・ワイズ:監督 「砂漠の鼠」(1953)  ロバート・ワイズ:監督を含むブックマーク

 きのうみた「砂漠の鬼将軍」とおなじく20世紀フォックスの作品で、またロンメル元帥も登場して、「砂漠の鬼将軍」とおなじにジェームズ・メイソンが演じている。

 冒頭のタイトルバックに勇壮な編曲の「Waltzing Matilda」が流されて、わたしなどは「え? どういうこと?」とおもうのだけれども、つまりこの「Waltzing Matilda」という曲、オーストラリアという国を象徴するような曲。‥‥映画がはじまるとわかるのだけれども、この作品、北アフリカ戦線でロンメル元帥の率いるドイツ軍に対抗して奮闘したオーストラリア軍にこそスポットをあてた作品、なのだった。タイトルの「砂漠の鼠(The Desert Rats)」という文句も、当時のドイツ軍将校が、いくら攻撃されても撤退しないオーストラリア軍を蔑視して呼称したものらしいけれども、そのオーストラリア軍らがその蔑称をみずから名乗るようになったもの、らしい。
 ‥‥ただ、この作品での主人公はあくまでも、そのオーストラリア軍を統率するイギリス軍大尉(だったか?)のリチャード・バートンではある。彼はさいしょはオーストラリアの兵士らに対して「こまったものだ」という視線もあるわけだし、その反動というか、あれこれとあってオーストラリアの兵士らはリチャード・バートンをいまいち信頼していない。しかしリチャード・バートンもだんだんに、彼らのヒューマニティーというようなものを理解するようになるし、つまりさいごにはオーストラリアの兵士らもリチャード・バートンをバックアップする。ラストには救援部隊がやってくるのだけれども、そのイギリスの戦車部隊の登場にバグパイプの音がかぶさる(この曲、なんだっけ?)。そのバグパイプにまた、「Waltzing Matilda」のメロディーがかぶってくるところにこそ、この映画の感動のひとつがある。オーストラリア人だったら泣くんじゃないだろうか。この映画はオーストラリアではヒットしたのだろうか。

 監督はロバート・ワイズ。まだこの作品のちょっとまえには「地球の静止する日」なんていう、どっちかっていうとB級な映画ばかり撮っていたわけだけれども、これはある意味で大抜てきだっただろうし、それに答えるみごとな演出をみせているとおもう。きのうみたヘンリー・ハサウェイなんか、まるでもんだいにはならない。まさに「格」がちがう、というのはこのことだろう。とにかくは構成が立体的だし、戦闘シーンの緊迫感、その逆にちょっとしたショットでの兵士らのいだく絶望感の描写、全体の構成をこわさない範囲でのシリアスなドラマ構成など、ほんとうにみごたえがある。まさに「佳作」だとおもう。

 

 

[]「勝手にしやがれ!! 成金計画」(1996) 黒沢清:監督 「勝手にしやがれ!! 成金計画」(1996)  黒沢清:監督を含むブックマーク

 あれ、このコって、Wink のコだよね? ちょっと、相棒の相田翔子の方があれこれと印象に残っているところもあるけれども、この鈴木早智子もいいですね。あと、流山児☆事務所の塩野谷正幸さんも出演。

 どこまでもどこまでも、おバカな展開がリピートしていくというのでは、いままでのこのシリーズでもさいこうで、データをみると、脚本が黒沢清氏といっしょに、じんのひろあき氏の名まえがみえる。ちょうどこのころ、じんの氏はあの「櫻の園」の脚本も書かれているわけ。「バリ島に劇場をつくって、<世界演劇祭>を開催する」っつうのは、じんの氏の夢想ではあったのだろう。

 あいかわらずの横移動カメラのたのしさを満喫できる作品だけれども、冒頭でそういう「横移動」がふいに「縦」に変換されるあたりもツボ。あいかわらず、いろいろと映像的なフェイク、というのか、技法というのか、そういうものがいっぱいたのしめる作品。


 

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■ 2013-05-20(Mon)

 きょうはしごと。きょうしごとに出ればまたあしたはやすみ。しごとのあとに映画でもみにいこうかという気もちもあったのだけれども、給料日まえということもあって、やっぱりやめてしまった。べつに給料をもらってしまえばそれなりに浪費をしてしまうわけだし、いちにちあそぶぐらいのすこしばかりのたくわえがないわけでもないし、出かけたければ出かければいいんだけれどもね。ただ、きょうは雨もぼちぼち降っているし、やはりきのう外泊してしまってすぐにまたお出かけ、というのもどうかとおもったりもしたわけである。

 いちじきは急増してしまったしごと量もまた減ってしまって、担当ふたりでも楽勝である。きょうの相棒はかつて不仲だった方だったわけだけれども、なんだかんだと雑談もして、和気あいあいという空気になった。それはギスギスしているようりもなにかとやりやすいし、精神の健康にもよろしい。このことでは相手に感謝するところがおおきい。

 なぜかこのごろ、しごとをしているときなどに、あるメロディーがひんぱんにあたまのなかをかけめぐっている。「あんなざあ ぷれざんと ばれえ さんでええ ええええ」なんて歌詞もおもいうかんで、「いったいこりゃあなんの曲なんだろう」としばしかんがえると、これはMonkees の1967年のヒット曲、「Pleasant Valley Sunday」だったのである。しかし、この曲のCDをもっているわけでもなく、さいきんFMとかででも聴いた記憶はまるでない。いったいぜんたいどういうあんばいで、この曲がひゃっぺんがえしでわが脳内にリピートされるのか。わけがわからない。ひょっとしたらなにかのTV番組のBGMでこの曲がつかわれていたのかもしれない。で、わたしはそれを無意識に聴いていて、脳内ジュークボックス(リプレイ機能つき)のスイッチがはいってしまったんだろうか。べつに好きな曲でもなんでもないんだけれども。
 そういうので、たしか「運命を分けたザイル」という映画だったか、主人公が死に直面するような絶望的な状況に追いこまれたとき、ぜんぜん好きな曲じゃないのに、ABBA の曲があたまのなかでリピートされっぱなしになったというはなしをおもいだす。‥‥わたしも、ヤバいのだろうか?

 きょうは近所のドラッグストアで、たまったポイントが1.5倍でつかえる日だったので、酒だとかおつまみだとか買ってしまった。ほとんど現金は支払わなかった。昼食はそうめんにして、夕食には冷凍してあったレバー肉ともやしやキャベツなどを炒めてのお手軽お惣菜。ひとり暮しでも家庭の味というのか、おいしかった。ニェネントはこういうのは好きじゃないみたいだった。


 

[]「砂漠の鬼将軍」(1951) ヘンリー・ハサウェイ:監督 「砂漠の鬼将軍」(1951)  ヘンリー・ハサウェイ:監督を含むブックマーク

 タイトルからも想像がつくけれども、ロンメル元帥を主人公としたドラマ。ただしこの邦題はインチキっぽいというか、北アフリカ戦線でのロンメルの活躍を描くものではなく(ハリウッド映画なんだからそういうのはやらないだろう)、おもにその後の「ヒトラー暗殺計画」とロンメルとのかんけいをとらえたヒューマン・ドラマ。けっこう入念に調査されたデータをもとに映画化されたものか、ヒトラー暗殺の企てとその失敗あたりの描写は、簡潔ながらも近年の作品「ワルキューレ」とおんなじ、という印象。ヒトラー当人も登場するけれども、まるでマンガチックなメイクで登場するのに笑えた。

 冒頭に、そのロンメル抹殺に照準をあわせたイギリス軍斥候部隊の攻撃シーンがあるのだけれども、この演出がテレテレしてめっちゃへたっくそなかんじで、監督がヘンリー・ハサウェイということなので、そりゃあムリもないとおもうわけである。後半のドラマはそれなりにみせてくれるのに、いったいなぜこの監督さんはへたくそな活劇ばかりを撮るようになるんだろう。まあ後半のドラマをみてもそれほどに演出がうまうまというわけでもないから、ハリウッドのその後の空気のなかでアクション系を撮らざるをえなかったのだろうか。

 これは監督のせいでもないかもしれないけれども、あれこれの大戦中の報道フィルムだとか、ほかの映画フィルムからの流用もへたくそ、だとおもう。

 

 

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■ 2013-05-19(Sun)

 カプセルホテルのまゆのなかのような空間でめざめ、朝風呂にはいる。就寝空間はめっちゃせまいけれども、風呂はめっちゃひろい。サウナもある(はいらないけれども)。いまのじかんわたしひとりだけだし、ゆったりと湯につかって、なんとなく気もちもゆったりとする。着替えをして一階フロントのとなりの食堂で朝食をとり、チェックアウトする。時計は八時にちかくなっている。空はまた晴天。あさのひざしがまぶしい。電車に乗って帰路につく。

 新宿駅で乗りかえた下り列車はけっこう混んでいたけれども、だいたい埼玉県をこえるあたりまでで、ほとんどの客はおりてしまう。車中で、ずっと読んでいる「コモンウェルス」もようやく、あとほんのすこし、というところまできた。

 十時半に自宅駅につき、部屋にもどる。ニェネントのお出迎え。「おるすばん、おつかれさまでした」となでてあげ、ネコごはんをだしてあげる。準備しているあいだ、ニェネントはおいてある段ボールで爪をボリボリとやっている。なんとなく、うれしがっているように感じられる。きのうのあさに卵黄もだしてあげてたんだけれども、「おるすばんありがとうね」という気もちで、きょうも卵黄をだしてあげた。

 さらいしゅうに水族館劇場にいっしょにいく予定のAさんにメールして、あたらしいテント小屋のこととか、座席のすわりごこちが楽なこととか、ネタバレにならないていどの感想とかをしらせる。午前中はそんなメールのやりとりですぎていった。書かなかったけれども、きのういっしょにみたBさんの感想は「いやー、水がすっごいねー」というものだった。Cさんの感想はきけなかったけど、まあ飲み会ということで、あれこれとほかの話題でもりあがったわけである。

 ひるはのこっていたごはんでお茶漬けにして、きょうはいちにちまったくアルコールは口にせず、いわゆる「休肝日」ということになった。午後からはベッドで「コモンウェルス」ののこりをついに読みおわり、あとは読みさしのエドガー・フーヴァーの伝記を読みついだ。この本もなかなかはかどらない。

 夕食にはまだごはんがのこっていたのをつかって、これもまだまだいっぱいあるカレーパウダーと炒めてみた。‥‥かくべつおいしいものができたわけでもないけれども、「まずい」というものでもなかった。かんがえてみたら塩をまるでつかっていなかったわけだから、こんなものだろう。もうこのところずっと、パスタ類をゆでるときいがい、まるで塩というものをつかわなくなっているので、ときにそのことで失敗もしてしまう。

 

[]「コモンウェルス <帝国>を超える革命論」(下)アントニオ・ネグリ/マイケル・ハ-ト:著 水嶋一憲:監訳 幾島幸子・古賀祥子:訳 「コモンウェルス <帝国>を超える革命論」(下)アントニオ・ネグリ/マイケル・ハ-ト:著 水嶋一憲:監訳 幾島幸子・古賀祥子:訳を含むブックマーク

 ネグリ/ハートの著作では、やはり「<帝国>」が、わたしなんかの価値観を書きかえるという意味ではいちばんに衝撃的だった。「<帝国>」から、つまりはあたらしい世界認識にみちびかれたものだったけれども、「ではそういう<世界>をどう変革するのか」というような、そのあとの「マルチチュード」もこの「コモンウェルス」も、どこかしっくりとこないまま、だった。まずは、<マルチチュード>という概念はわからなくはないのだけれども、その概念がどう変革運動にむすびつくのか、「マルチチュード」という著作ではしょうじき、よくわからなかったところがある。それで、この「コモンウェルス」では、「いかにマルチチュードが変革運動のキーになるか、これからの変革運動はどうあるべきか」というあたりが説かれているわけだろうけれども、最終章の第六部のタイトルは「革命」。なんとなく時代錯誤な香りがにおいたつおもいだけれども、ぜんたいにこの「コモンウェルス」、「愛」だの「共産主義」だの「革命」だの、もうほとんどわたしなどのなかでは廃棄処分になっているような概念がまたもちあげられているという印象。

 もちろん、この書物でいちばんにもちあげられているのは<共>(コモン)という概念なわけで、上巻で「所有」ということが徹底して否定されるあたりは痛快なおもいで読んでいたものだけれども、「腐敗した愛」ということで否定されるものへの、その否定の記述がちょっと弱いのではないかとおもう。帝国主義が国家という境界をこえたネットワークとしての<帝国>になったのであれば、とうぜん、そこに対抗するべきマルチチュードというものも、脱境界のネットワークとして運動するべきだろう。そのときの足かせになるものが、そういう「腐敗した愛」としての「家族」であったり、「企業」であったり、「ネーション(国民・民族)」であったりするわけだろうけれども、ではどのようにこれらのものから脱出(エクソダス)するのか。ネグリ/ハートは、ひとつにはアイデンティティの廃棄だという。いままでたいていの論議で「アイデンティティ」というものは大切なものだとされてきた記憶があるわけで、それはおもしろいとおもったりするのだけれども、けっきょく、これってかつての「自己否定」の論理とむすびつくんじゃないかしらん。そうすると、「愛」だとか「革命」だとかといっしょに「自己否定」がはいってきて、それで「<共>」よ、というわけだ。だからそれって、六十年代後期の世界的な社会運動で定義されたこととどうちがうのか、ってなかんじはする。しかしながら、ネグリ/ハートは「共産主義」という。わたしは勝手に、その六十年代の運動の契機のひとつに反・共産主義というものもあったのではないかというおもいもある。もちろんそのことはあの時点での既製の共産主義路線への「ノン!」ということだっただろうし、「あるべき共産主義」をもとめての運動だったこともたしかだろう(だからこそ、中国の文化大革命が評価されたりもしたわけだ)。それでつまりは、この2010年代以降の世界に、たとえ「ことば」としてでも「共産主義」でいいのか、というおもいがある。

 わたしはいまでもなお、世界変革とはアナーキズム的な視点と方法とによってのみ、なされなければならないだろうとはおもっている。この「コモンウェルス」、そういうアナーキズム的な視点も読みとれることはたしかなのだけれども(そういう視点はあらためていわれなくってももってます、というところがある)、けっきょくは共産主義的な制度というものによりかかるようにおもえる。このあたり、「世界変革」の路線を提示しなければならないという強迫観念というか使命感というか、そういうものが彼らにこの本を書かせたわけだろうけれども、どうもこの書物の前提にはやはり「自己変革」というものがついてまわる。そのあたりをおのおのが究明していけば、この書物でいわれていることには承諾できないことがあれこれと出てきそうな気がしてしまう。わたしはとりあえずはもうちょっと、柄谷行人を読みたくなった。

 ‥‥なんか、いいかげんな感想だけれども‥‥。


 

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■ 2013-05-18(Sat)

 きょうは東京に出て、BさんとCさんといっしょに、ひさびさの水族館劇場の東京公演を観劇する予定。舞台は夜間なので、しごとのあと、はやめに東京に出て映画でもみようかとおもっていたけれども、やはりめんどうになってしまった。みたい映画もあるけれどもまたの機会にしよう。

 空は快晴で気もちがいい。ローカル線あたりの田園はもうとうに田植えもおえているけれども、田植えのあとに電車に乗るのもこれがはじめてになるのだなあとおもう。この季節にはまいとし電車に乗るたびに、田植えした田んぼの風景を美しく感じる。
 のりかえた湘南新宿ラインは土曜日のせいか混んでいて、わたしにはめずらしく四人がけのボックス席であいていたところにすわった。こういう、急行でもない普通電車のボックス席というのはけっこうせまくにできていて、ゆったりとすわるとまえの席の方のひざにじぶんのひざがぶつかってしまう。きゅうくつなのである。それでも、本を読んでいたらねむくなってしまい、いつのまにかうたた寝してしまっていた。このところ睡眠じかんはたっぷりすぎるぐらいにとっているはずなのに、なんだかいくらでも寝られるという体質になってしまったんだろうか。

 渋谷駅で下車して、ちょっとだけ本屋さんなどにたちよってみたりする。いちおう待ち合わせじかんによゆうをもって家を出たというところだけれども、たんにローカル線(一時間に一本!)のそのつぎの電車ではちょっとおくれてしまう可能性があるせいにすぎない。ちょっとはやめに三軒茶屋に出て、三軒茶屋もひさしぶりなのであたりを一周してみたりする。‥‥じつはわたし、九十年代のはじめごろにはこの三軒茶屋につとめていたころがある。二十年以上まえのことになるけれども、あのころからすっかり変わってしまったところもあるし、まるで変わっていないところもある。そういう「変わっていない」ところは、二十年とかそういうレベルではなく、終戦直後からまるで変わっていないのではないかとおもえる区域もある。いまではほんとうに貴重な「路地」。水族館劇場の舞台にもつながる、ということにもなるだろう。

 待ち合わせのじかんもちかくなったので、三軒茶屋駅の改札口へいく。すでにBさんはきていて、Cさんもすぐにやってきた。まずは公演現地へ向かい、五時から配付される整理券をゲットする。ここでゲットした整理番号の順に入場できることになるからけっこう重要なポイントであるし、水族館劇場としてはまったくはじめての場所をどういうふうに使っているのか、あたらしいテント小屋(というには規模が大きいけれども)がどんな感じなのか、あかるいうちにみておきたいというのもある。

 三人で茶沢通りを下北沢方面へおりてゆき、ビルの壁面に巨大なゴリラが腕をおろしているビル(このビルも二十年以上まえからある)のところで左折して、しばらくあるくと右手にその八幡神社がみえ、「水族館劇場」の幟(のぼり)が鳥居のそばにかけられていた。
 むかし水族館劇場がやっていた駒込大観音ほどに境内は広くないし、テント小屋もひとまわりちいさくなったような気配もある。それでも、おおきく「水族館劇場」とかかれた幟を目にすると、なんとなくこころがたかぶるおもいがする。わたしたちの整理番号は八・九・十番。まあよゆうで好みの席をえらべるだろう。

 さて、これから六時半の開演までのじかんをつぶさなければならない。三軒茶屋の方にひきかえし、ドトールだかクリエだかでお茶をする。Cさんは会場の席が椅子ではなくて床にじかにすわるようではきついかな、などという。そのあたりはたしかにあやういので、トイレのこともあるし、できるだけ通路にちかい席をとろうと。Bさんは空腹になるのでサンドウィッチなどをとちゅうで買っていきたいというのだけれど、わたしは彼のいう「サンドウィッチ」が「乾電池」ときこえてしまい、「なんで乾電池がいるのか」とききかえす。‥‥老人たちの会話、である。

 開演時間がちかづいたので、ふたたび会場へ。あつまった観客をみわたすと、圧倒的に若い人がおおい。けっこう意外だった。ちょっといぜんにみた「月蝕歌劇団」の公演が、その内容は若い人むきだとおもったのに、観客はひょっとしたらわたしより年輩?みたいな方ばかりだったのと対照的というか。

 劇場への客入れのまえに恒例のイントロの野外劇があり、それから整理番号順に入場する。座席は腰かけられる段差のあるつくりで、けっこう楽にみられるようだったのでほっとした。帰るときのこともあるので、出入り口にちかいところの席を確保した。‥‥開演、そして終演。とりあえずの感想は下に。

 どっちにせよきょうは帰宅できる電車には乗れないとおもっていたので、BさんCさんと三軒茶屋にもどって飲むことにする。やはり「I」がいいかな、と入り口をのぞくと、店員の方がいたので「三人」、とつげる。ちょっと待てば、いまちょうどテーブル席が空くところだといわれる。ラッキーだった。テーブルにすわってメニューをみていたら、ポイントカードがあるよ、などと書いてあった。それをみて、まてよ、ちょうどいま、この「I」のポイントカードをもっているんじゃないかな? とおもってさぐってみると、まさにちゃんともっていた。ふつうわたしはこういうポイントカードなんかとっておくことなんてあんまりないので、「こりゃあもうここでポイントをためなくちゃあいけないな」なんて、店の思惑にはまってしまうわけである。しかし、いったいいつこのポイントカードをもらったんだろうとかんがえると、きょねんの夏ぐらいに、Aさんといっしょに大駱駝艦の公演をみにきたときじゃなかったかな。さらいしゅうはそのAさんと、またもや水族館劇場をみにくる予定になっている。それではまたこの「I」にきてみようか、などとおもうのであった。

 十時半になって解散し、わたしは下北沢まで歩いて、まずはまた「G」に寄り道して、そのあとにカプセルホテルとかにしけこもうかなどとかんがえている。‥‥「G」によると、なんだかギャラリーの方のイヴェントかなにかで、女性歌手の演歌かなにかを連続して大音量でかけているところだった。水族館劇場なんかはへいきでみているくせに、このときの状態では演歌などというのは騒音というものではなく、もっと精神をむしばむような音として、暴力的にせまってくる。とてもたえられるものではなく、五分ほどで店を出て、そのままカプセルホテルへいって寝てしまった。


 

[]水族館劇場「あらかじめ喪われた世界へ」桃山巴:作・演出 @三軒茶屋 鎮守の杜 太子堂八幡神社境内 特設蜃気楼劇場「夜の泡(うたかた)」 水族館劇場「あらかじめ喪われた世界へ」桃山巴:作・演出 @三軒茶屋 鎮守の杜 太子堂八幡神社境内 特設蜃気楼劇場「夜の泡(うたかた)」を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20130520122613j:image:left きのう17日が初日ということで、きょうは幕開き二日目。‥‥かってな憶測だけれども、まだホンができてないんじゃないだろうか。終演予定時刻よりも三十分以上もはやくにおわってしまったし、なによりも、舞台転換後の後半が劇になっていない、という印象。ただ単独の役者がじゅんぐりに、ひとり芝居というのか、延々とながいセリフをかたるだけではないか。前半の主要登場人物がその後どうなったのかよくわからないまま消えてしまい、後半では四、五人しか出番がない。ラストの奥行きのある借景も、いきさつがわかればもっと感銘もしただろうけれども、「は? どういうこと?」という気分のままおわってしまった。

 おそらくはこれからもあれこれといじられていかれることだろうとはおもうし、わたしもあと二週間後にはもういちどみにくる予定もたてている。とにかくはそこで、彼らなりに仕上げられた舞台をみさせていただいきたいとおもうのである。

 ‥‥あくまでも、きょうの舞台での印象。まずは(とくに女性の)若い役者さんがふえて、活気のある舞台にはなっていたところもある。まずはまえから注目していた鏡野有楢さんが、出番は少ないながらも魅力全開だったかな?と。前半のラストでの「水」の場面は、水族館劇場のなかでも記憶に残るような印象的な場面でもあったとおもう。音楽でからまれて役者としても出演されていた山本紗由さんのことも、印象にのこった。
 それともうひとつ、「演劇的な修練」をしないというのが、わたしにとっての水族館劇場の舞台のひとつの魅力なわけだけれども、そういうあたりを堪能させてもらった場面もあれこれとあったのもたしか。増田千珠さん、バットさんなど、たのしかったです。
 あたらしい場所でのあたらしい舞台、ということでも、その舞台装置、とくに舞台転換後の「うつくしい」舞台は、想像する以上に、あまりにすばらしいものだった。ここに劇団の全精力をそそぎこんで、ホンだとか演出だとかがあとまわしになってしまったのだろうか。まあここをみることができただけでもよかった、かな。

 ちょっとだけ、疑問を呈させてもらえれば、これは今回の舞台にかぎったことではないのだけれども、「演劇的な修練」をしないということでやるときに、そのことが「疑似」演劇的なことにむかってしまうということを、どのように整理されるのか。このことこそが水族館劇場の課題なのではないかとわたしなどはおもっているのだけれども、ちょっと具体的に書けば、まさに眼をむいてがなりたてるような、一見「熱演」とうつるようなことがらこそが、疑似演劇として、興をそがれるようなおもいをするわけである。「にせ(偽・贋)」ならいいのだけれども、「疑似」というのは最悪、なのではないだろうか。そういうことが回避できたときはじめて、水族館劇場が想起しているパワーが外の世界を侵食することもできるのではないだろうか。そこにこそ、わたしが水族館劇場にこうやって期待しているところもあるわけなのである。

 ‥‥また、二週間したらみにきますので、きっともういちど書きますのでよろしく。


 

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■ 2013-05-17(Fri)

 せんじつキッチンの流し、排水パイプに穴があいてあふれだしてたいへんなことになったので、パイプの穴をふさぐのはもちろんのこと、排水の奥深くでパイプがつまっている可能性もあるので、きのうになって洗浄材を買ってきてパイプの洗浄もした。‥‥これがよくなかったというか、きょうのひるになってキッチンの流しから「ぼこぼこ」という音がきこえてくるのである。「あれ?」とおもって流しをみると、排水口から茶色くにごった汚水が逆流して、あがってくるのである。「やばい」とおもって、あのゴム製のボコボコやるやつ(なんという名称なのか、しらない)をもってきて、排水口をぼこぼことやってみた。これがさらに逆効果だったというか、もっともっと黒っぽい汚水までが流しに逆流してきて、どんどんとたまっていく。これがけっこうくさい。ほとんど流し台からあふれて外にこぼれそうないきおいになる。「たいへんだ」とおもって、さらにぼこぼことやりつづけると、ここでつまりは圧力がかかりすぎたのだろうけれども、せんじつ修繕した排水パイプからまた水もれがはじまったようで、足もとの床に水が拡がりはじめた。たいへんである。ニェネントもキッチンにやってきて様子をみて、「ひゃー! たいへんだねえ!」といっている。とりあえず床にバスタオルを敷き、バケツをもってきて、流しにたまっている汚水をくみとってトイレに捨てる作業をくりかえす。なんとか流しの汚水はみえなくなったけれども、えらいことになってしまった。補修したパイプはまた水もれするようになったからもういちど補修しなければならない。とりあえず流しの下の排水パイプのまわりにバスタオルを防護壁のようにしておいて、ホームセンターへまた補修材を買いにいく。

 ‥‥しかし、いったいなぜ、このようなことになったのか。わたしはまるでキッチンをつかっていないのに水が勝手にあふれてきたわけだから、ほかのウチから排水されたものが、どこかわが家からの排水と合流しているところから逆流してきたんだろうか。しかしそれにしてもあまりににごったきったない水だったし、ぼこぼこやっているうちにもっと黒っぽい汚水まで逆流してきた。あれって、つまりは、ずっと排水パイプにつまっていたところの汚物が、きのうの洗浄材で溶解してぐちゃぐちゃになり、それがきょうになってなんかの拍子に逆流してきたんじゃないだろうかと、勝手にかんがえる。つまり、きょうの洪水でもって、いままでたまっていたどろどろの部分が流れちゃった、ということなんじゃないだろうか。洗浄効果がじかんを経て、おもわぬかたちであらわれたと。とにかくこれはわたしの勝手な憶測だから、こんごしばらくはようすをみなければならないだろうし、まずはまた破損した排水パイプを修繕することがだいいち。

 補修材を買って帰宅して、またパイプの補修をやる。ニェネントがよってきて、「おたくもたいへんよねえ。まあしっかり修繕することよね!」と、わたしのまわりをうろうろしながらわたしのやることを観察している。ちょっと、ムカッとする。
 パイプの修繕をおえて、流しの水道の蛇口をおもいっきりひねってみる。‥‥スムースに排水されていくようだし、さきに洪水になったときの悪臭もしなくなった。わたしが予想したように、これでみごとすっきりと開通したのだったらいいのだけれども。

 なんだか疲れてしまったけれども、きょうはつくりおきのカレーがまだ二食分はのこっていたし、ごはんもきのう炊いたのこりがやはり二食分ぐらいはあった。昼食も夕食もカレーですませた。キッチン騒動のあとは録画してあった映画も一本みた。きょうは、「春の椿事」ということかなあ、などとおもった。


 

[]「サンタフェ」(1951) アーヴィング・ピシェル:監督 「サンタフェ」(1951)  アーヴィング・ピシェル:監督を含むブックマーク

 主演はランドルフ・スコット。なんだかみょうちきりんな映画で、つまりはアメリカという国の「フロンティア・スピリット」をいうものを鉄道路線の拡張ということでとらえたというか、南北戦争以降の、一体化されたアメリカ、イコール鉄道会社みたいなもので、そこでしごとに燃えちゃってる南部出身の主人公が、鉄道の発展のために、「これがアメリカよ!」みたいな行動をとるという映画。気色わるい。

 主人公には兄弟がいて、彼らはまだ南北戦争の記憶がふっきれないというか、どうしてもアウトローな生き方をえらんでしまう。それをいちいち矯正しようとするのが主人公なんだけれども、それが矯正というのではなく(まあ「矯正」ということでもけたくそわるいのだけれども)、どっちかというと「こりゃダメだ」と、見捨ててるようなところもある。そういうので強烈なのは、つまりは主人公が鉄道工事に従事しているとき、その工事現場のあとにいつも、兄弟たちもスタッフであるところの遊興施設が、ワゴンかなんかでつきまとってくる。つまりは鉄道布設にたずさわる労働者たちに酒を飲ませたり賭博をやらせたりする移動スポット。描かれてはいないけれども当節話題の「従軍慰安婦」みたいな女性もいたんだろう。それを主人公が「労働意欲が落ちる」とかなんとかいって、なんと焼き払っちゃうわけだ。‥‥そういうとんでもない行為を、この映画では正当化している。
 これとおなじようなことで、競争相手の鉄道会社を出し抜くために、まずは金にモノをいわせて買収もやるし、なんと、銃撃戦(いちおうだれも傷つけないという条件でやっている)もやらかしてしまう。なるほど、これがいまげんざいも脈々といきている「アメリカン・スピリッツ」というヤツかと、納得するのである。アメリカ先住民もちょっとだけ出てくるけれども、ここも「あいつらはあいつら」という無責任な投げ捨て方。さいごには主人公の兄弟らは鉄道会社の職員の給料を奪おうとしてけっきょくみんな死んでしまうわけだけれども、主人公は「しかたがないさ」というのか、だからどうこうというわけでもない。またつぎの鉄道設置におもむくだけである。「アメリカン・スピリッツ」である。

 演出もどこかピンぼけというか、どこまでもすっきりとしない。アクションの演出はにがてな監督さんなのかなとおもったけれども、終盤の列車の上での一対一での乱闘だけが、「北国の帝王」みたいでよかったかもしれない。

 ‥‥それで、このアーヴィング・ピシェルという監督さんのことをしらべてみたのだけれども、おもいがけない検索結果に、ちょっとおどろいてしまった。日本語のサイトにはただ「こういう作品を監督している」という情報いじょうのものはない。これがIrving Pichel での検索では、この人物が1930年代のはじめから、役者としても監督としても活躍していたことがわかるし、なによりもおどろいてしまったのが、この人物、マッカーシズムの時代にブラックリストにのせられていたのであった。わたしなどはいわゆる「ハリウッド・テン」といわれる、槍玉にあげられた映画関係者のことは知っていたけれども、それだけではなく、Wikipedia の彼の記述をみると「Hollywood Nineteen」というものも存在したようで、このアーヴィング・ピシェルは、まさにそのひとりなのであった。

 それではそうすると、この「サンタフェ」という作品、彼が「非米活動委員会」から告発されていた時期に製作されたのだろうか。‥‥先にアーヴィング・ピシェルの経歴を書いておくと、彼はけっきょくアメリカから逃れ、その逃れた先のドイツで、1953年になって、なんとマルティン・ルターの映画を撮っている。そのあとにどうやらアメリカに帰国することはできたようで、1954年にキリスト(!)を主人公にした「Day of Triumph」という作品を撮ったらしいけれど、そのポストプロダクション終了前にその作品をみないまま、63歳で死亡されたらしい。そのフィルモグラフィーをざっとみると、もちろんわたしなど知らない作品ばかりなのだけれども、とくに西部劇というものをあれこれと撮っておられたようでもなく、やはりこの「サンタフェ」という作品、この監督にとってもちょっと異色の作品ではあったらしい、ということになる。それでもって、わたしがみたように、なんだか異様なまでに「アメリカン・スピリッツ」というものを(ほとんどグロテスクなまでに)描いた作品、ということであれば、どうもそういうマッカーシズムへの弁明、としてつくられているのではないのか、とは邪推してしまうのである。もちろん、じっさいのところはどうなんだかわからないけれども、ただ「ひどい作品」だとかいうことで片づけられない、というところはあるのかもしれない。‥‥なんというのか、「しらべてみたらびっくり!」というような作品、ではあった。


 

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■ 2013-05-16(Thu)

f:id:crosstalk:20130517121748j:image:right きょうはニェネントの卵黄の日。いちおうまいにち卵黄をあげるのではなく、いちにちおきにあげているというだけのことだけれども、いつもだったらまっさきに食べてしまう卵黄を、きょうはぜんぜん食べようとしない。こんなことはいままでになかったことなので、なんだかしんぱいになってしまった。ほかのキャットフードにもほとんど手をつけず、あさから窓ぎわで寝ころがってじっとしている。ひるになっても食べないので、からだのぐあいがわるいんじゃないかと抱きあげて「ニェネントちゃん、だいじょーぶですか?」と、鼻の色をみたり、ニェネントの反応をみたりするけれども、とくにぐあいがわるいようすでもなかった。まあわたしはネコのお医者さんではないので、どういうところがどうだったらしんぱいしなくっちゃいけないのかなんて、ちゃんとわかっているわけでもないのだけれども。

 じぶんの昼食(スパゲッティ・ペペロンチーノ)をおえ、北のスーパーが玉子の特売日なので買いにいって帰ってきたら、ネコ皿の卵黄はきれいに食べられていた。ちょっと、ほっとした。

 きょうは天気予報で、このあたりは三時ごろからとつぜんの雷雨などになる可能性が高いといっていた。南のスーパーはきょうがたいていの品が一割引きになる木曜日なので、かつおぶしとかを買っておこうとおもっていたのをおもいだし、まさに三時にちかくなるじかんに買い物にでた。外にでるとちょうどぽつぽつと雨粒がおちてきて、「あ、まにあわなかったか」と、家にもどって傘をさしてでなおした。
 こっちのスーパーはちょっと割高、というイメージがあったのだけれども、きょうは春キャベツがひと玉九十円で売っていた。ここから一割引きになるからつまりは八十円ぐらい。ひるに玉子を買いにいった北のスーパーでは春キャベツは百円ぐらいだったから、こっちのスーパーの方が安い。まあいつもいつもこういうことでもないだろうけれども、いちがいにこの南のスーパーが高いと決めてかかることもないだろう。うちから近いということではこっちのスーパーの方がちょっとだけ近かったりもするわけだし、もうちょっとチェックだけでもしておいた方がいいだろう(スナック類も、ここのスーパーにはほかにないおいしそうなものがおいてあるのにも気がついた)。そうそう、「わけありコーナー」でまた、カレーパウダーのセットが二百円で売っていた。まえにここで百円で買ったものとおなじもの。いったい元値はいくらなんだろうとカレールーの売り場にみにいってみると、なんと七百円近いねだんがついていた。そうか、それをわたしは百円で買っていたわけか、と、かなり得をした気分になった。二百円なんだったらまた買っておいてもいいな、などとおもったけれども、まえのパウダーがまだ三回分ぐらいはのこっているので、やめておいた。

 買い物をおえて出口へいくと、外はどしゃぶりの雨になっていた。ちょっとじかんがずれていたら傘をもたないで来ていて、帰れなくなってしまったところだった。そういう人が、スーパーの出口で空をみあげていた。‥‥けっこうな雨で、部屋にもどるとズボンの裾がかなりぬれてしまっていた。

 よし、きょうの夕食はまたカレーにしようと、また、ちゃっちゃっちゃっと、あんまりかんがえないでつくった。‥‥まずくはないけれども、きわだっておいしいわけでもない。ま、いいか、というところだけれども、食べていたら、これってつまりはドライカレーの味ではないのかと気がついた。そうか、こういう感覚の調理法で、こんどはドライカレーをつくってみればいいのではないのか。次回はそういうことにトライしてみようとおもった。


 

[]「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」(1970) 藤田敏八:監督 「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」(1970)  藤田敏八:監督を含むブックマーク

 いちおう藤田敏八監督作品ということで、原田芳雄や梶芽衣子の出演。しかしながら主演はこのころ日活で売り出そうとしていた渡哲也ということで、そこはかとなく違和感。ところがここに経営破たんしかけた大映から成田三樹夫がキャスティングされていて、そりゃあおもしろそうだ、ということである。そう、この作品はその大映が日活と共同で設立した「ダイニチ映配」による配給。どうもこのタイトルから予測するに、「新宿アウトロー」と銘打ってシリーズ化しようとしてたんじゃないのかとおもうのだけれども、これ一作でおわってしまったみたい。

 やはり、おもっていたとおり、原田芳雄と渡哲也とでは水と油というか、とうぜん原田芳雄というキャラクターに親和性をもっていたであろう藤田敏八監督も、これはこまっちゃったんじゃないだろうか。いちおうそれなりに洒脱なところは打ち出そうとしているようだけれども、ここはぎゃくに、ギンギンのヤクザ渡世なキャラにしてしまった方がおもしろかったような気もする。そうかんがえると、演出が鈴木清順だったりしたらどんな作品になっただろうか、などと空想してみたくもなる。そういうところに飛んでいけるような設定にはなっている気はするのだけれども。

 藤田敏八監督は、梶芽衣子とはこれがはじめてではないようだけれども、その「野良猫ロック」シリーズとはちがって、ちゃんとのちの「修羅雪姫」に飛んでいけるような造形になっているあたりがうれしい。ほんとうはもうちょっと成田三樹夫の見せ場をみたかったけれども、しょうがないか。‥‥ラストの、ヘリコプターの迷走は、好き。


 

[]「嫉妬」(2012) ヴィルジニー・デパント:監督 「嫉妬」(2012)  ヴィルジニー・デパント:監督を含むブックマーク

 エマニュエル・べアールと、ベアトリス・ダルとの共演ということでみてみたのだけれども、この監督のヴィルジニー・デパントという人、「ベーゼ・モア」を監督されていた方でもって、この「嫉妬」は、彼女の十何年ぶりの監督第二作、なのだった。

 「ベーゼ・モア」、もうほとんど記憶にのこってないけれども、かなり強烈な作品だったという記憶ぐらいはのこっている。女の子ふたりがめっちゃくちゃやってのける映画だったはず。その「ベーゼ・モア」でも明確に打ち出されていたはずの、アンチ・ヘテロという視点を、やはりパンキッシュに、しかもエマニュエル・べアールやベアトリス・ダルなどという大物女優をつかってやってしまった、というあたりがすばらしいねえ、と感じさせられるのが、この「嫉妬」という作品。日本では劇場公開はされていないらしい。

 しかし、この「嫉妬」という邦題はわけがわからないというか、原題は「Bye Bye Blondie」なんだから、日本でも「バイ・バイ・ブロンディー」でやっちゃえばよかったじゃん、とおもうのである。

 ‥‥パンク映画である。爽快。おそらくは監督はここではベアトリス・ダルというキャラクターに自己をかさねているというか、彼女の造形、そしてまわりのコンサバな人物たちの彼女への反撥を描くことを楽しんでいるのだろう。ここでそういうベアトリス・ダルとエマニュエル・べアール、というカップルと並行して、彼女たちと相似形のような若いカップルの成り行きも描いていく。‥‥このふたりが、「ベーゼ・モア」でのカップルになっていったわけなのか、というところもある。

 やはり、メインのベアトリス・ダルとエマニュエル・べアールのカップルの描写がおもっしろいのだけれども、TV界でとりあえずは成功しているという設定のエマニュエル・べアールは、家政婦として「とても家政婦とはおもえない」格好をしたアフリカ系の女性をやとっていいるし、フィットネスかなんかのインストラクターとして彼女の部屋にやってくる女性も、腕とかにタトゥーとかしている。で、このわき役のふたりも、ラストの方ではベアトリス・ダルと仲良くなっているわけである。たのしい。

 なんといっても痛快なのは、ラスト近くに、エマニュエル・べアールを(彼女がアンチ・ヘテロだということで)うらぎって解雇するプロデューサーと、彼女の後任の女性とを、TV局の廊下でエマニュエル・べアールがぶんなぐってやるシーンで、まずはこのシーンで拍手してしまったし、みおわったあとで、このシーンだけ二回リプレイしてみてしまった。

 さてさて、わたし自身はアンチ・ヘテロではないわけだけれども、そういうアンチ・ヘテロな人々をそれゆえに忌み嫌ったりはしないつもりではいる。しかし、そういう人にいいよられたときにどう対処すればいいのか、これはけっこうむずかしいことである。異性にいいよられたときに、自分にその気がないときにそれを回避するのはわりとかんたんなことではあった。しかし、同性のばあい、これがけっこうとしつこかったりするのである。異性から逃げるよりもたいへんで、へたをすると相手の感情を傷つけてしまうようなことにもなる。そういうのがむっつかしいんだよねー、とはおもったものである。そういうことでもって、あいつはアンチ・ヘテロに対して敵対的だとおもわれるのも、つまりはこまってしまうのであった(しかしつまりは、わたしがアンチ・ヘテロだろうとおもわれていたのだろうか?)。おかげさまで、いまではそういう同性から、なおかつ異性からもいいよられることはなくなってしまった。‥‥これを、よろこぶべきかかなしむべきか。


 

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■ 2013-05-15(Wed)

 きょねん、狭心症でもって入院してから、先週で一年がすぎた。それからずっと通院してくすりをもらい、ずっとまいにち、いちにちに三回血圧をはかって記録している。きょうは二週間にいちどの通院日。もうこのところは血圧もずっと安定しているというか、「なんかおかしい」という自覚症状もないし、だいたい「正常血圧」を維持している。ここで定義されている「正常血圧」とは、130/85より下で、「至適血圧」という120/80以下まではいかない状態のこと。いぜんは上が130をこえることもおおかったけれども、このところ五月にはいってからは、上でも100をちょっとこえるだけ、下も60台という日もなんども出てくる。きょうは、「では血圧降下のくすりをひとつ減らしましょう」ということになった。これで、まいにち服用するくすりは四種類になった。まあいつまでも通院がおわることもなく、いつまでもくすりは飲みつづけなくてはならないのだろうけれども、ちょっとは気分が楽になったりはする。

 きょうは心電図もとって、それで異常もなかったのだけれども、心電図をとるときに看護の方に「ネコを飼ってらっしゃるんですね」といわれた。ズボンや靴下(とくに靴下)に、いっぱいニェネントの毛がついていたからだ。看護の方はまえからそういう毛に気づいていたそうだけれども、わたしだって多少は気にしていたし、病院に行くまえには着替えしたりもしていたんだけれども、そうなんだよね、靴下というのがネック。看護の方は犬を飼っていらっしゃるとのことで、やっぱりペットの毛はたいへんなんだと。とくにニェネントは、このところあたたかくなってきたもので、抜け毛がすごいことになってきた。抱き上げるとべっしょりと抜け毛が服につく。わたしの腕から飛び出るときには、抜けた毛が宙に舞うのがみえるのである。

 きょうの昼食はきのう買ったキムチ、夕食はのこっていたごはんでオムライスをつくった。昼寝をちょっとして、また十じかんぐらい寝てしまった。


 

[]「カイロの紫のバラ」(1985) ウディ・アレン:監督 「カイロの紫のバラ」(1985)  ウディ・アレン:監督を含むブックマーク

 公開されてすぐにヴィデオかなにかでみた記憶のある作品。‥‥わたしはウディ・アレンという人がにがてで、ごちゃごちゃしたドラマなどは「なんのひつようがあって、こんなどうでもいいような、登場人物の自意識をもんだいにするのか」という気もちをいつももっていたし、そういうところではベルイマンがにがてというのとちかいところもあった。それで登場人物はたいていがいやったらしい知識人で、これがまたそういうどうでもいい知識をひけらかす。さらにやはりウディ・アレンの奇怪な女性(女優)への意識というものも作品をみるじゃまになったおもいもあるし。とにかく、たいていの彼の映画はたのしめなかった記憶がある。しかしそれでも、この「カイロの紫のバラ」は、よかった。

 暴力的で甲斐性のない亭主との夢のない日常をおくる、ただ映画をみるだけがなぐさみのようなヒロインを、ミア・ファーローが演じている。冒頭にフレッド・アステアの「Cheek To Cheek」が流れ、ラストにはその映画「トップ・ハット」が最新作として映画館で上演される。つまり1935年ぐらいの時代設定なのだろう。ヒロインはいろいろとあって、映画館に新作「カイロの紫のバラ」を五回れんぞくしてみにいくわけだけれども、スクリーンのなかの人物が「きみはきのうもみにきていたね?」と彼女にはなしかけてくるわけで、意気投合したスクリーンのなかの人物(けっして主役ではなくって「端役」)はスクリーンからでてきて、ミア・ファーローとデートするわけだ。それで、スクリーン内の虚構の世界と、映画館のあるニュージャージーでのげんじつの世界とがごっちゃになるけれど、基本にはヒロインがスクリーンにもとめていたロマンティックなロマンスを体験する。スクリーンから映画をほうりだして外にいっちゃったヤツが出たおかげで、映画のストーリーはそこでストップしてしまい、スクリーンのなかでは出演者たちが「どうすんのよ」となっている。知らせはハリウッドにもとどき、その役を演じていた役者もニュージャージーに飛ぶことになる。

 ウディ・アレンは、こういうアメリカの過去の一時代を、ノスタルジーをこめて描くような作品はいい。あんましおぼえていないけれども、「ラジオ・デイズ」という作品もとてもよかった記憶がある。しかし、だれでもがおもい描くだろう、スクリーンのなかの人物とじぶん自身とが出会う「空想」ということを、あくまでもリアルな視点もわすれずにこうやって描いたというのは、やはり才覚なんだろう。


 

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■ 2013-05-14(Tue)

 しごとをおえて帰宅して、TVをつけると国会中継をやっていた。いまの政権党は憲法を変えたいらしいのだけれども、その「草案」というのをちらっと読んでみた。「ちらっ」としか読んでいないから誤解があるかもしれないけれども、読んだかんじでは、日本という国は民主主義路線をまい進しているのだから、国民はまずは国家に仕えることで民主主義を守るように、と書いてあるように読めた。あたりまえのことだけれども、そういうことを「民主主義」とはいわない。この日本という国は「民主主義」ということをちゃんと教育などで教えないことで、その概念を勝手にわい曲して「これがだいじなことなのだ」といいつづけている。まずは国家ありきということですすんでいけば、いくらでもとんでもないところに連れていかれようとすることだろう。民主主義ということにについて、ずっとちゃんと教育しないというわけがある。社会教育ということを道徳教育ということでごまかす。この国は民意の低い国でなければならないのだろう。

 朝の連続TV小説が、がぜんおもしろくなってきた。かつてのアイドルに、アイドルについて語らせるというのがまずはおもしろいし、いっしゅ演劇的な設定、演出がたのしい。もともとが演劇の世界からの大半のキャストがそういうことをたのしんで演じている。これから先もたのしみ。

 ドラッグストアに買い物に行き、きょうは賞味期限になって半額になったキムチを買った。鶏のささみ肉と玉ねぎをくわえておかずにして、安上がりな夕食にした。あしたもこれでいこう。


 

[]「鱒」(1982) ジョセフ・ロージー:監督 「鱒」(1982)  ジョセフ・ロージー:監督を含むブックマーク

 ずいぶんいぜんにWOWOWがジョセフ・ロージーの特集をやったときのを録画してあったものを、いまになってようやくみた。まったく予備知識もなくみたのだけれども、「え? なに? これ?」というかんじ。そりゃあ「唇からナイフ」なんていう作品を撮られる監督さんだから、こーゆーのもやっちゃうんだろうけれども、いちおうげんじつばなれした設定だった「ひょっとしたらコメディ?」みたいな作品だった「唇からナイフ」にくらべたら、やはりこの「鱒」はしたたかにシリアスだなあ、という感覚もある。しかししかし、「これはこれでしたたかにコメディなんじゃないだろうか?」という感想にもなる。しかも舞台のはんぶんぐらいは日本になっていて、ここで描かれた「日本」がまた、なんだかこっけいでもある。

 ヒロインの女性の人生哲学は、「(男たちに)なにも与えずにできるだけのものをいただく」という。つまりは「やらずぶんだくり」の精神なわけだけれども、片田舎で鱒の養殖にたずさわる父の手伝いからはじまって、どこがどう「やらずぶんだくり」なのかよくわからないなりに成り上がり、さいごは日本企業の鱒養殖の要職(「養殖の要職」と、ちょっと遊んでみたつもり)にのしあがる。べつに鱒のスペシャリストというわけでもなく、父のパートナーというか友人をからかって誘惑して、彼のつくっていた鱒のはく製を川にみんな捨てちゃったりもする。べつに「この世界で女はしいたげられている」などという主張がありそうなわけでもなく、どっちかというと「バカな男たち」のあいだを遊泳していくみたいな。

 この作品を撮ったときにジョセフ・ロージー監督は73歳ぐらいか。なんというのか、ちょっとばかし近年のアラン・レネ監督のぶっとんだ作品をおもいだしてしまうところがある。映画的な話法だけでどんどんと進んでいき、つまりは「説明」ということにまるで頓着していないというか。‥‥すっごく、おもしろかった。

 この撮影監督はアンリ・アルカンという方で、古くは「ローマの休日」の撮影、そしてこのあとは「ベルリン・天使の詩」の撮影を担当されていた方。まずは冒頭のボウリング場でのちょっとした長回しに圧倒されてしまう。とにかく、このボウリング場のシーンでの撮影、そして編集はとってもみごとなもので、そんじょそこらのぽっと出の演出家、カメラマンに撮れるものでもないだろう。堪能した。

 ヒロインの女性がなんだかジェニファー・ジェイソン・リーみたいにみえて、「いったいこれはだれなんだろう?」とおもっていたら、なんとイザベル・ユペールなのだった。こういう奇怪なやくどころをこなせるのは、たしかに彼女ならではというところがあるだろうか。それで、ほかにも、「このひとジャンヌ・モローみたいだな」とおもってみていた女優さん、まさにジャンヌ・モローそのひとだった。日本では「あれ? このひと、山村聡だっけ?」とかんちがいしたのは、「ちがうよ、これは山形勲だよ」ということで、しらべてみたら、おそらくはこの作品が、彼のさいごの映画出演作だったみたい。わけのわからない、いい役でした。

 ここでは映画のなかでの「奇怪な日本」というのもひとつの楽しみどころというか、「座頭市」と「大相撲」、そして「神輿」と「大屋政子」。イザベル・ユペールは居酒屋の板前を逆ナンパしてクラブ(ナイトクラブ)へいっしょにいくけれど、あの板前さんのラフな服装では服装チェックでぜったいに入店できない。


 

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■ 2013-05-13(Mon)

 ゆうがた、ニェネントは和室のパソコンの上にのり、うすぐらくなってきた窓のそとのけしきをじっとながめていることがおおい。「なにがみえるというわけでもないだろうに」とおもっていたのだけれども、きょうのゆうがた、ふと窓のそとに目をやると、部屋のまえの駐車場の空間で、数しれぬコウモリたちがめいっぱい飛びまわっているのだった。そうだった。このあたりはコウモリたちのなわばりだった。‥‥わからないけれどもたぶん、このわたしが住んでいる集合住宅の屋根裏とかが、コウモリの巣窟になっているのにちがいない。ここからすこしはなれているアパートで、その屋根裏からコウモリが出入りしているところをみたこともある。ニェネントはそんな、なにもないはずの窓のそとの光景をみて、いったいなにがおもしろいんだろうとおもっていたけれども、これだったらたしかに、ニェネントの目をたのしませてくれているのかもしれない。

 野良ネコでこのあたりがなわばりだったニェネントのおかあさんのミイは、飛んでいるコウモリをとらえる名手だった。とらえるしゅんかんをみたことはないけれども、なんどもミイがコウモリをくわえているすがたをみたことがあるし、わたしの部屋で子ネコたちをそだてていたときにも、そとからコウモリをとってくわえてきたこともあった。まあ数撃てば当たる、というやり方だったんだろうけれども、それでも空中飛行しているコウモリをつかまえるなんて、すごいテクニックだとおもったものだった。

 ちかくのドラッグストア(さいきん開店した方ではなく、むかしからあった方)へ買い物にいき、店から出たところで、やはりこのドラッグストアに買い物にこられたご年配のご婦人の方が目にはいった。そのご婦人のあしもとにネコがついてきているのだけれども、赤い首輪がみえたので、そのご婦人の飼っていらっしゃるネコなんだろうとおもった。しかし、ネコというものが、手綱もつけないで、屋外で飼い主についてくるなんて、すごいなあとおもった。ちょっとたちどまって、そのようすをながめていると、ドラッグストアのまえの道のかどで、そのご婦人がネコに「ここでまっててね」とことばをかけられて、ドラッグストアの方にはいっていかれた。ネコは、ご婦人にいわれたとおりに、そのかどでじっとしている。びっくりしてしまった。そんなネコ、いるわけがないとおもった。‥‥ちかくにいた小学生高学年ぐらいの女の子がネコにきょうみをもってしまって、そのネコにちかづいていったもので、ネコはそばに駐車してあった車の下に逃げてしまったけれども、なあんてかしこいネコだろうと、感心してしまった。うちのニェネントがあんなネコに成長してくれたらどんなにうれしいだろうとおもったけれども、いったいぜんたい、どうやって訓練したら、手綱もなしに買い物につきそってくれて、しかも飼い主が店で買い物をしているあいだ店のそとでおとなしくまっている、などという芸当を身につけてくれるんだろうか。そのご婦人にそういう「訓練のしかた」をおききしたくなってしまった。しかしそもそも、ニェネントはそんな「おりこうさんネコ」ではないか。かわいいけどね。

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 きょうはしごとは非番で休みだった。いちにちTVをみるだけでなにもしないですごしてしまった。あさはロールパン、昼はおそば、夕食にはのこっていたごはんでチャーハンをつくった。


 

[]「野いちご」(1957) イングマール・ベルイマン:監督 「野いちご」(1957)  イングマール・ベルイマン:監督を含むブックマーク

 冒頭の「夢」のシークエンスは、まさにドイツ表現主義映画そのまんま、みたいなかんじでちょっとひきこまれたけれども、そのあとはなんだかわざとらしい気がして、あんまりのめりこめなかった。まあ、「わざとらしい」ということではその冒頭の「夢」こそ「わざとらしい」ともいえるのだけれども、ここは「映画ゆえのわざとらしさ」、としぜんになっとくできるのだけれども、それ以降の、いっしゅリアリズム演出での展開に、どうもはいりこめない。そもそもわたしはどうもベルイマン監督のドラマというのが苦手で、なんというのか、そこまでおおげさにかんがえることでもないじゃないか、という感覚。

 むかしむかし、まだまだわたしがおさなかったころ、年上のおねえさんといっしょに、ベルイマンの映画を映画館でみた。わたしのとなりにすわったおねえさんは、映画のなかで女性たちが苦悶の叫びをあげるたびにけらけら笑っておられたものだった。おさなくってバカだったわたしはそんな年上のおねえさんの態度がゆるせなくって、映画がおわったあとでお茶とかしていたとき、「笑うところじゃなかったでしょ」なんてナマイイキなことをいってしまったりしたものである。‥‥にがい思い出なんだけれども、いまならば、あそこでけらけら笑っていたその年上のおねえさんと、いいおともだち、もしくはそれいじょうのかんけいにもなれただろうにな、などとおもうのである。きっと、むこうから「おことわり」されるだろうけれども。


 

[]「獲物の分け前」(1966) ロジェ・ヴァディム:監督 「獲物の分け前」(1966)  ロジェ・ヴァディム:監督を含むブックマーク

 原作はエミール・ゾラで、撮影はクロード・ルノワール。主演はこのときのロジェ・ヴァディムのパートナーだったジェーン・フォンダ。脚本にロジェ・ヴァディムとともにジャン・コーという名まえが読めたのだけれども、えっ、ジャン・コーって、あのサルトルのアシスタントをやっていた、「神のあわれみ」だとか「ぼくの村」などの作品の邦訳もあった、あのジャン・コーかいな?と、おもうわけである。

 ‥‥しらべてみたのだけれども、すくなくとも日本語のサイトでは、この「獲物の分け前」の脚本をものしたジャン・コーと、サルトルのアシスタントとしてのジャン・コーとをむすびつける記述はみつけられなかった。それでも海外のサイトなどをみるかぎりでは、やっぱりこのジャン・コーは、実存主義のジャン・コー、なのだろう、という判断になる。しかし、そうすると、いったいなぜ、そしてどういうふうにジャン・コーはロジェ・ヴァディムに協力したのか、というあたりのことをしりたくなってしまわないわけでもない(ほんとうはどうでもいいのだけれども)。‥‥エミール・ゾラの原作はというと、わたしは読んでないからわからないんだけれども、それこそ自然主義というか、不動産投機のあれやこれやということが主題になっているらしく、それこそわたしなどもよく記憶に残るところの日本での「バブル景気」での不動産ブーム、それとほぼ相似形の状況が描かれていたらしい。ところがこの映画、そういう経済的というのか社会的な側面はことごとく削除されているというか、まあようするにジェーン・フォンダがいかに脱ぐか、ということが作品のテーマになっているわけで、そうか、そういうところにこそ「実存主義」の極意が存在したわけか、などとなっとくしてしまうのであった。ハハハハ。

 まえになんかの映画でみたように、クロード・ルノワールの撮影というのは、まさにこれ、というゆるぎないところをみせてくれるのだけれども、こんかいわかったのは、「こんなもの画面に映りこませたくはない」みたいな主張はしない人、だったんだろうという印象。


 

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■ 2013-05-12(Sun)

 きのうは、午後から雨になっていた。ゆうがた窓から外をみたときには、目のまえの駐車場にも左手の道路にもけっこうおおきな水たまりができていた。けさ、しごとに出るときには雨はもうあがっていて、もう日の昇ってあかるくなってきた空にかかっている雲もうっすらと、すぐにも消えていきそうだった。

 きょうは日曜だから、ふだんの日曜だったらしごと量はほんとうにわずかしかなかったものだけれども、やはりこのところのいきおいでそれなりのしごと量はあった。きょうも人員はふたりで、ふたりフル稼動。きょういっしょにしごとをした人はちょっとまえまでは最悪のパートナーだったというか、おたがいひとことも口をきかないでやっていたものだったけれど、とにかくは和解したわけで、いろいろと雑談などもできるようになった。ピリピリしていなくっていいのはすばらしい。わたしはまえから「いいかげん衝突するのはやめようぜ」とやっていたのだけれども、わたしはそういうメッセージを発するのがとっても下手なわけだし、わたしがなにかいうたびに拒絶の姿勢をしめされていた気がする。まああっちも「このままじゃいかん」という気もちのあっただろうし、そういうことで先方から旅行のおみやげをいただいて、そこでようやくかるい雑談ができたことで、とにかくはなにもかも改善された。もうわたしには衝突する気もちはないけれども。

 Bさんから電話があって、こんしゅう土曜日にせまった水族館劇場観劇の、こまかい打ち合わせをした。水族館劇場の、あたらしい場所でのひさしぶりの東京公演、たのしみ。こんかいはげつまつにもAさんと水族館劇場にいく予定もたてているのだけれども、なんだか七年ほどまえにはじめて、そのAさんを水族館劇場の公演にさそったときのことを思いだしたりした。あのときはラストの壮絶な屋台崩しをみたあと帰り道を歩きながら、Aさんはわたしに「この公演はきょうだけだったの?」ときいたものだった。あれだけ舞台をぶっこわしてしまったからには、もう再建など不可能だろうとおもわれたのだろう。ちがうよ、あれはまたあしたも公演があって、これから劇団員たちはあれだけこわしちゃった舞台をこれからまたつくりなおすんだよ、と話すと、Aさんはほんとうにおったまげたふうだった。‥‥こんかいはBさんも、いっしょにいくCさんも、水族館劇場はもちろん初体験。こんかいも、おわったあとに「あの舞台はきょうだけだったのかいな?」などときかれたりすると、またたのしいだろう。

 朝食はきょうもロールパン。昼まえにニェネントのネコ缶を買いにいき、ついでにバナナを買ったりした。昼食も夕食ものこりのホワイトシチューですませ、ようやくシチューがなくなった。こんどはカレーにしようか。ひるまは録画の映画を二本みて、よるはTVをみたりしてから寝た。なんだか精神的には健康な、感じ。


 

[]「悪太郎」(1963) 鈴木清順:監督 「悪太郎」(1963)  鈴木清順:監督を含むブックマーク

 「けんかえれじい」の原型というか、痛快なところもあるんだけれども、原作が今東光だということで、これは「こまったおやじのかたる、若いころの(こまった)自慢話」を、延々ときかされているかんじになる。主人公を演じているのは山内賢でマドンナ役が和泉雅子と、「二人の銀座」コンビ、である。山内賢という人はそれなりに人気もあったわりにそのあとの印象もうすいのだけれども、二、三年まえにお亡くなりになられたらしい。

 舞台になった豊岡の景色もいいのだけれども、ラストにちょっとだけでてくる、ほとんど虚構のような東京市街のセットがよくって、そういうあたりに、鈴木清順監督や美術の木村威夫さんらの美意識を感じとってしまう。東恵美子という女優さんのタンカをきるシーンがとってもインパクトがあって、この東恵美子さんという女優さんのことはおぼえておこう、とおもった。「陽炎座」にも出ていらっしゃった、らしい。


 

[]「都会のアリス」(1973) ヴィム・ヴェンダース:監督 「都会のアリス」(1973)  ヴィム・ヴェンダース:監督を含むブックマーク

 いままでにみたヴェンダースの作品では、ダントツにいちばん。すっばらしい。撮影はロビー・ミューラーだった。

 主人公の男(ドイツ人)はアメリカ旅行記のようなものを執筆しなくっちゃならないんだけれども、ポラロイドカメラに風景をおさめるばかりで執筆はいっこうにはかどらない。いちどドイツに帰ってから書こうとおもうのだけれども、空港従業員のストライキでドイツの空港は閉鎖され、すぐには帰国できない。そこでやはりドイツに帰国したいという母子のふたりづれに出会うわけだけれども、まあこの母はどうみてもいいかげんというかおかしいわけで、そのままいなくなってしまい、主人公はその女の子といっしょにとりあえずはアムステルダムへ行くと。

 おもいっきり、いわゆる「ロードムーヴィー」なわけだけれども、まさに主人公が「書けない」ように、ダイアローグなどの「ことば」にはたよらずに、どこまでも映像でひっぱっていくところがすばらしい。ヴェンダースらしくも、やはり音楽の使い方もたのしい。冒頭のアメリカの映像で、車窓からみえるタンクに「SURF CITY」の文字がある。これはもちろんJan & Dean のヒット曲のタイトルを連想させられる。そのあとのカフェでCount Five の「Psychotic Reaction」が流れ、つぎの風景では標識に「DEAD END STREET」という、Kinks のヒット曲のタイトルもよみとれる。わたしがいちばんしびれたのは、ドイツのヴッパタールのカフェのジュークボックスからCanned Heat の最大のヒット曲、「On The Road Again」が流れ、これにそのジュークボックスのそばにいる子どもがハミングとかでからんでくる音。さすがこのあたりはロック好きのヴェンダースらしい、快心の選曲、快心の演出だとおもった。

 ‥‥しかし、ここでヴッパタールが登場してくるとはおもわなかった。ヴッパタールはかつてのピナ・バウシュの本拠地で、わたしもドイツにいったときにちょっとだけ、そのピナの舞台をみたくってヴッパタールにいったことがある(当日券ねらいだったけれども、もちろんそんなものがのこっているわけもなかった)。この映画に出てくるモノレールも、乗ることはなかったけれども、みてしっている。いま調べたらなんと、そのピナ.バウシュがヴッパタール舞踊団の芸術監督に就任したのは、まさにこの映画の撮られた1973年のことだった、らしい。ヴェンダースはピナの死後に彼女のドキュメンタリーも撮っていることもあり、むかしっからピナ・バウシュのファンだったらしいけれども、それはこんなに過去までさかのぼることだったのだろうか。

 映像的には、アムスで観光フェリーからふたりがひょいととび降りて、そのままスタスタ歩いていくシーンだとか、ラストの、「夜の大捜査線」のファーストシーンをここにもってきたみたいな列車を追う(というか列車からはなれていく)鳥瞰撮影だとか、印象にのこるシーンもいっぱいあるし、まずは作品のテーマとしてどこかからきこえてくる「孤独」という通奏低音の響きがすばらしい。そのなかでの、このふたりの交流。いろいろと書きつぎたいことはあるけれども‥‥。


 

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■ 2013-05-11(Sat)

 きのうの夜ふかし、夜あかしはうまいぐあいに生活リズムをリセットしてくれたというか、いつものペースにもどれたような感覚。精神的にも、おかげでちょっとばかし異次元へ旅をしてきました、というようなかんじもしていて、世界がどこか新鮮にかんじられる。いつものようにめざめて、いつものようにしごとに出る。‥‥きょうもまた、いそがしかった。もうこのままお中元の時期にむけてしごと量もあまりへらないだろうし、げんざい常態になってしまっているふたりだけでの対処は不可能。上司にもそのむねうったえておいた。

f:id:crosstalk:20130512115116j:image:left 帰宅して朝食。まだ風邪がぬけきれておらず、いつもの朝食の食パンのトーストを食べる気にならず、きょうもロールパンですませる。食事のあとパソコンに向かってすわっていたら、ニェネントがわたしのそばによってきて、わたしが右手をおろしたときに、その右手をぺろりとなめてくれた。あれえ、ニェネント、めっずらしいことをやるねえ、などとおもったわけだけれども、このところニェネントとあんまり遊んであげてもいないので、「ねえ、遊んでよお!」というニェネントの意思表示なんだろうとおもった。「かわいいなあ」とおもってニェネントを抱き上げてひざにのせ、鼻のあたまをなめてやったり、あごの下をなでてやったりした。ニェネントは「ひやあー!」って、いやがっているみたい。もともと抱かれるのがきらいなニェネントだし、手をゆるめるとさっさとひざの上からにげていった。それではと、しばらくは追いかけっこをやった。
 ‥‥わたしがニェネントにちかづくと、ニェネントは「いやあん」とにげていくわけだ。それでリヴィングからキッチン、そして和室へとぬけて、また逆方向からリヴィングにちかづいてくる。わたしが向きをかえてリヴィングから和室の方へ足をむけると、ニェネントはそんなわたしをみてまた方向をかえ、和室からキッチンへ走っていく。わたしもまた向きをかえて、リヴィングからキッチンの方へいく。そうするとまたこちらへやってくるニェネントとはちあわせして、ニェネントはまた方向をかえてにげていく。‥‥以下、このくりかえしがいつまでもつづく‥‥(たいていはわたしがとちゅうでキッチンの引き戸を閉めてからニェネントを追跡し、袋小路においつめられたニェネントをわたしがみごとにつかまえて、このゲームはおわりになる)。

 昼食は保温してあったごはんでまたつくりおきのシチューにして、録画してあった映画をふたつみる。そのあと、WOWOWでSade (シャーデー)のライヴをやっていたので、同時に録画はしているのだけれども、ちらちらとみてしまった。

 ‥‥シャーデーのアルバムは、けっこうもっていた。その、わたしのばあいはシャーデーの音楽がある種の行為のBGMに最適だった(あくまでもわたしのばあい、である)こともあって、ずいぶんと(というほどでもないけれども)役に立っていただいたものである。まあこのところはそういうパートナーがひつようなある種の行為というのも縁遠くなっているので、シャーデーのアルバムも処分してしまって、もう手元にはのこっていない。でもやはり彼女たちの音楽は好きなところもあるし、彼女のエキゾチックな美貌というものにも魅せられてしまうところはある。そういう彼女たちのライヴというのをはじめてみる。
 ‥‥演奏や唄はやはり、わたしは好き。インプロヴィゼーションや技巧に走らないソリッドなバンドの演奏もいいし、ヴォーカルも「巧さ」をきわだたせるような歌唱にはいかない。しかししかし、この舞台演出をなんといったらいいのか。ステージの背後、巨大なスクリーンをフルに活かしたイメージ映像が延々と流れるわけだけれども、このイメージ映像をなんといったらいいのか。やっぱ、これって笑ってしまうのではないのか。‥‥こまった。つまり、かりに人の閨房をのぞき見してしまったりしたら、それはきっと笑ってしまうことだろうと、わたしはつねづねおもっていたのだけれども、このバンドのステージはそういうのをのぞき見してしまった感覚にやはりちかしい気がする。やっぱ、そういうことのBGMなのだ。「人のセックスを笑うな」という作品があったけれども、やはり人のセックスを笑わないですませるのはむずかしい。まさに、そういうライヴだったとおもう。ステージさいごのメンバー紹介だとかあいさつだとかも、じつに気恥ずかしかった。‥‥そうか、シャーデーとはやはり、そういう存在だったのかと、あらためて認識するのであった。

 ‥‥夕食はまたホワイトシチューですませ(こんかいは手順をまちがえてつくったのに、とってもおいしくできた)、八時すぎには床について寝た。ニェネントをつかまえて「いっしょに寝ようよ」とベッドにつれこんだけれども(べつにシャーデーのライヴをみてしまった影響ではないのだが)、ニェネントはすぐにベッドからにげていってしまった。


 

[]「グッドナイト&グッドラック」(2005) ジョージ・クルーニー:監督 「グッドナイト&グッドラック」(2005)  ジョージ・クルーニー:監督を含むブックマーク

 四、五年まえにいちどみている作品。ジョージ・クルーニー監督作品はこのあいだ「スーパー・チューズデー」をみたばかりだけれども、こちらの方がはるかにいい。というか、「スーパー・チューズデー」はヤバすぎるというか。

 これは史実というか、あの反共クレイジー男、ジョセフ・マッカーシーにメディア(TV)を通じて正面からたたかいをいどんだ男、エドワード・R・マローを主人公としたドラマ。ジョセフ・マッカーシーの失墜は、この作品で描かれているように、このエドワード・R・マローがキャスターをつとめたTV番組によるものだといってもいいと。そういう、彼の番組「See it Now」を製作するスタッフら、そのTV局のオーナーらとの硬質なドラマ。映画はほぼすべてがTV局内のスタジオだけで進行し、当時のジョセフ・マッカーシーらをとらえた実写フィルムをとってもうまくとりいれてすすんでいく。「スーパー・チューズデー」はこの作品の成功の余韻でつくられたものだろうけれども(けっこう似たような演出効果をねらったところがあれこれとある)、まさに「月とスッポン」だろうとおもう。ひとつには、ここでそのエドワード・R・マローを演じたデヴィッド・ストラザーンの、抑えた演技によるところもあるだろうし、ちょくせつにはストーリー展開にかんけいはしないロバート・ダウニー・Jrやパトリシア・クラークソンらの配置がいい。ダイナミックに「やったぜ!」という描写でもないのが、みるものの感覚にはたらきかけるところがあっていい。わたしはこのラストで、デヴィッド・ストラザーンが製作者役で出演しているジョージ・クルーニーに、「飲みにいこうか?」といって、ジョージ・クルーニーが「いいね(Sounds good!)」とこたえるところで、ちょっと泣いてしまった。

 ‥‥しっかし、ジョセフ・マッカーシーという男はやはりきもちわるい容貌をしているし、これはいま読んでいるエドガー・フーヴァーとも共通するものである。って、いまのこのにっぽんも、こういうきもちわるい容貌をしたやからが跳躍していて、ジョセフ・マッカーシーやエドガー・フーヴァーなんかとあんましかわらないことをいっているんじゃないだろうか。そういうのに「ノン!」といえるようなニュースキャスターとか、いないねえ。でも、あなたとか、わたしとかは、「ノン!」といえるんじゃないだろうか。そういうことがだいじなんだと、おもったりする。やるときはやりましょうね。


 

[]「女優霊」(1996) 高橋洋:脚本 中田秀夫:監督 「女優霊」(1996)  高橋洋:脚本 中田秀夫:監督を含むブックマーク

 知らなかったけれど、これが中田秀夫の監督第一作だったらしい。おもしろい。

 映画製作現場が舞台になって、その「撮られている映画の映像」と、「この映画での映像」というのが相克かんけいになる。さらに、ここにホラーとして、「過去の映像」というものがリンクしてくる。この構成はものすごくうまいとおもうんだけれども、ラストが既製のホラー洋画の「屋根裏部屋」になってしまったのがとってもざんねん。「過去の映像」ということは、中田秀夫監督はつぎに「リング」でもっと現実とのリンクのしかたを工夫してくるし、黒沢清監督の傑作「CURE」だって、ここからの影響がなかったなんてけっしていえないだろう。‥‥そういうふうに、ジャパニーズ・ホラー(というくくり方はしたくないけれども)というのはおたがいにリンクしあっていったんだとおもう。


 

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■ 2013-05-10(Fri)

 眠らないまま本を読みながら、日付けがかわった。こんな深夜に起きているなんて、たえてなかったこと。一時ちかくになって、いいかげん本にも飽いてラジオをつけた。FM放送で、オールディーズのプログラムのじかんなのか、このよるはNeil Sedaka の特集をやっていた。Neil Sedaka のさいしょの活躍期は、日本でもPaul Anka とならんでかなり人気もあったわけで、日本語の歌詞をつけられて日本人歌手の唄うヴァージョンがいっぱい、TVなどでもオンエアされていた。そのころはわたしはまだ十歳にもなっていなかったわけだけれども、そういう曲の記憶はかなり鮮明にのこっている。ベッドのなかでそういうじぶんの記憶をゆりうごかされるような曲を聴いていると、つまりはきのうからの延長なのだけれども、やはりほんとうに奇妙な感覚のとりこになってしまうのだった。曲のイントロがながれはじめると、わたしが寝ているベッドがバタンとうらがえる。そこでまっているのはおさないころの記憶とかいうものではない。ただ、そのおさないころの心的状態にとらえられてしまうのである。なにかをおもいだすとかいうのではなく、からだごとずぼっと、べつの世界へ連れさられてしまう。そういう状態が音楽のイントロの聴こえる何秒間かつづき、ようやくその奇妙なじぶんの心的状態を「あれれれ?」と意識する。そういう意識は、げんざいの醒めたわたしが取りもどすようなところもあるのだけれども、どこかでその奇妙な感覚はなおのこっていて、「これってなんだろう?」とかんがえるのである。‥‥そのうちにすっかり醒めてしまって、「へんな気もちだったなあ」などとおもっているのだけれども、そうしているとさっきの曲はもうおわってしまい、またつぎのあたらしい曲のイントロが、ラジオから聴こえてくる。そうすると、またはじまるのである。さっきとまったくおなじような、いや、びみょうにちがうような。‥‥こういうことを、ラジオからの音楽にあわせてなんどかくりかえした。曲によってはこういう反応がまるでおきない、ということもあった。これはプルーストのマドレーヌかいな、などというところだけれども、ああいったかたちでむかしの情景がよみがえるわけではない。ただ、わたしのこころの状態だけがよみがえる感覚、なわけである。こういうことはフロイト先生がなにかいっているのだろうか。やっぱビョーキかな、などとはあんまりおもわない。ぎゃくに、こういう心的状態のわたしは健全なのだ、という確信のようなものも得た。身体が疲労していても精神の方は健康だからこういうことがおきるのか、などと都合のいいことをかんがえたりする。

 Neil Sedaka の特集もおわり、ちょっとばかし読書に精神を集中する。「コモンウェルス」をけっこう読みすすんだ(といってもわたしのペースだからたかがしれているけれども)。「社会主義の幻想」というのはよくわかるんだけれども、やはりここでネグリ/ハートは共産主義の再構築にむかうわけか。もうちょっと、アナーキズムへむけての振幅もあるのではないかとおもっていただけに、ちょっとがっくり。いまのところ、まだ「緑の党」なんかの方がいいんでないの、というかんじ。

 けっきょく、ねむらないままあさの出勤のじかんになり、職場へでかけた。きょうもまた、めっちゃいそがしかった。ついこのあいだまでは「ふたりいてもじかんがあまるね」みたいなところもあったけれど、もうけっしてふたりでは処理できない。「体調がわるい」とか、「疲れている」なんて気分もふっとんでしまった。‥‥これはこれで、いいアクセントにはなったような気はする。

 しごとをおえて帰宅して、ロールパンでかんたんな朝食をすませ、洗濯などをする。パソコンをいじったり、いろいろとぼんやりとかんがえたりしているうちに昼になり、賞味期限のすぎてしまっているインスタントラーメンで昼食にする。録画してあった映画をみて、夕食にはシチューでもつくろうかとがんばってみる。‥‥きょうはちょっと手順をまちがえてつくってしまったけれども、出来上がりはちゃんとおいしいホワイトシチューになった。もう、ホワイトシチューならまかせておいてくださいよ、という気分になる。こういうかんじでカレーもつくれるようになればいい。

 けっきょく昼寝もしないで、二十四時間ぐらいは起きつづけていたわけになる。これでいい感じに生活がリセットされるようだといいな、などとかんがえている。


 

[]「カラーパープル」(1985) スティーヴン・スピルバーグ:監督 「カラーパープル」(1985)  スティーヴン・スピルバーグ:監督を含むブックマーク

 娯楽映画の王様みたいになっていたスピルバーグが、ついに文芸映画に取り組んだという一作。しかもめったにあることではない、非アフリカン系の監督によるアフリカ系アメリカ人の世界を描いた作品(その後もげんざいにいたるまで、こういうケースで撮られた作品はほぼ皆無であるだろう)。このあたりの背景には、製作にたずさわっているクィンシー・ジョーンズの意向、というのもあるらしいけれども。そう、ウーピー・ゴールドバーグの、スクリーンデビュー作でもある。

 ‥‥まあまあ、ことごとくポイントをはずした、デティールだけのもったいぶった演出の連続で、それでただヒロインの半生記をそれなりに映像化すればいいのかよ、という感想にはなる。スピルバーグはこれでこりずにこのつぎにはあの「太陽の帝国」なんていうのを撮ってしまい、またまた「それなりに映像化すればいいのかよ?」という疑問を、ふたたびみるものに抱かせることになるわけだ。

 クィンシー・ジョーンズがやりたかったポイントというのもわかるけれども、だって、スピルバーグはそういうことのわかる人、できる人ではないじゃん。


 

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■ 2013-05-09(Thu)

 きょうはしごとは非番のやすみ。体調はやはりよろしくない。朝食のあとからずっと、DVDで「クーリンチェ少年殺人事件」をみる。四時間。圧倒された。みおわって昼食でスパゲッティをつくる。TVではきょうは初夏のような陽気だといっているけれども、わたしはちっともあたたかくはかんじない。ずっとセーターを着てすごしたけれども、それでもときどき悪寒をかんじる。まだ風邪がよくなっていないというか、ちっとも回復していないのかもしれない。

 昼食をおえてちょっとTVをみて、きょうは北のスーパーで玉子の特売日なので買いに行ったりした。部屋にもどってもあまり気分もすぐれないので、ベッドに入って本をよむ。やはり、あんのじょう寝てしまったけれども、目がさめたら外はもうすっかりくらくなっていて、時計をみたらもう九時にちかくなっていた。ベッドから出る。‥‥気分がおかしい。寝ているあいだに夢をみていたようだけれども、その夢がさめないまま夢遊状態で起き出したような。寝ているときにみた夢だけでなく、寝るまえにみていた「クーリンチェ少年殺人事件」の空気をひきずってしまっているのではないかともおもう。じぶんの外の世界になにか色のついたヴェールがかぶさっているような、そしてふとしたきっかけで、そのヴェールが色を変える。‥‥せいかくにいえば、世界にヴェールがかぶさっているのではなく、わたしのまわりにヴェールがある。つまりはわたしにヴェールがかぶさっていて、そのヴェールごしに外の世界をみているんだろうけれども、感覚としてはわたしが世界をつつみこんでいるかんじがする。そのきみょうな感覚はどこかでわたしの幼少期の感覚にむすびついているようなところがあるけれども、それがまるで具体的なものではなく、ただばくぜんと「ずいぶんとむかしにこういう感覚をあじわったことがある」とおもうだけ、なのである。「死」ということは、こういう感覚に近いんじゃないだろうかと、ばくぜんとおもっていた。

 ニェネントはどこにいるんだろうとさがしてみると、リヴィングのマットの上で眠っていた。そんなニェネントのすがたをみると、なんだか生気がもどってくるような気になった。‥‥おそくなったけれども、ばんごはんを食べておかなくては。もうごはんを炊いたりする気分でもなく、きょうは南の方のスーパーはたいていのものが一割引きになる木曜日だから、できあいのお弁当でも買ってこようかとおもう。じかんもおそくなっているから、いま売れのこっている弁当類は半額に値引きされているものもあるだろう。そこからまた一割引きになるわけだ。いってみることにした。
 南にあるスーパーも、わが家から歩いて三分ぐらいしかかからない。ただこのスーパーはちょっと高級品志向というか、店内もあたりのスーパーのなかではいちばんきれいなんだけれども、たいていの生鮮食料品類(そして酒類)はほかのスーパーよりも割高なので、それほどに利用しているわけではない。‥‥もう九時をすぎた店内にはほとんどお客さんもいないけれど、このあたりのスーパーやドラッグストアはどこも、よなかの十一時とか十二時まで営業している。予想していたとおりにまだ売れのこっていた唐揚げ弁当は半額になっていたけれども、弁当など惣菜類はここから一割引きはやらないと書かれていたし、どうも塩味がつよそうで敬遠したくなる。このスーパーは海産物売り場に寿司類をおいてあるので、そちらにいってみるとにぎり寿司のつめあわせパックが半額でいくつか売れのこっていた。もとは八百八十円なのが四百四十円。おまけにこちらは惣菜類とちがってここからさらに一割引いてくれる。唐揚げ弁当よりはちょっと高いけれど、やはりここは寿司がたべたくなって、これを買った。四百円でおつりがくる。

 夜道を歩いて帰宅して、買った寿司を食べた。けっこうおいしかった。いつも買い物をする線路のむこうの北のスーパーにも寿司類は売っていて、買ったこともあるけれども、これはきょうの南のスーパーの寿司の方がはるかにおいしい。だいたい北のスーパーのお惣菜かんけいはどれもおいしくない。けっこうなヴォリュームもあって、食べおえるとおなかがくるしくなった。このまま寝ちゃうと牛になっちゃうんだろうなあなどとつまらないことをかんがえるけれども、もうたっぷり寝てしまっているので、まったく眠いという気分ではない。あしたのあさまで寝ないでいてもいいや、という気分で、ベッドで本を読んだ。


 

[]「クーリンチェ少年殺人事件」(1991) エドワード・ヤン:監督 「クーリンチェ少年殺人事件」(1991)  エドワード・ヤン:監督を含むブックマーク

 よくぞまあ録画してあったものと、うれしくなった一作。ネットで読んだかぎりでは日本でこの作品の版権をもっていた会社が倒産し、DVD化はもちろん、作品をみる機会もほぼうしなわれているらしい。‥‥この作品、まさにきょうれつな傑作。もちろん世の中には傑作映画作品があふれているから、そういう傑作のなかの傑作はなにかとか、映画史上ベストテンとかえらんだりするわけだけれども、この「クーリンチェ少年殺人事件」は唯一無比というか、どこかもう、ほかの映画作品とくらべようもないところがある。そういうことを、ひっさしぶりにみながらかんがえていた。

 とにかくはもう、ち密。つまりは中華民国の実質的な建国の1949年から12年たった1961年、台北で十四歳の少年が同い年の少女を刺殺する。この映画はじっさいにあったそういう事件がもとになっているらしいのだけれども、その事件にいたる背景を、てっていてきに描写するわけである。しかしこの演出はけっして「事件の謎解き」などというものではなく、あれこれのこの世代の若者特有の普遍的事項と、1961年げんざいの中華民国のかかえる特殊事項などなど、並列して描かれる。勝手な解釈をほどこさない客観的な演出、そしておどろくべき脚本とによって、なぜこのような悲劇がおきてしまったのか、こんな事件はおきるべきではなかったはずではないかというような主張が、画面からにじみでてくる。そこには日本の中国侵略の影もまた重要な要素になっている。そして、この「絵」がまたすばらしい。おそらくは小津作品からの影響も感じられる、屋内での正面からフィックスされた映像、そしてほとんどの重要場面をしめる夜の映像の美しさというものがまた印象的である。

 そういう映像もまた忘れられないのだけれども、やはりこの作品ではその脚本のち密さがすばらしい。みおえたときに、かなり衝撃的な文学作品を読了したような感慨にふけってしまったわたしだけれども、このような感覚はあまり映画作品をみてうけとめる感覚ではない。クライマックスで少年が少女を刺してしまうとき、「ああ、あのときのあのことが‥‥」とか、「ああいうことさえなければ‥‥」とか思ってしまうわけで、そういうことではちょくせつにはこのクライマックスにかんけいしてこないようなデティールであっても、やはり「あのことが影をおとしているのか」みたいにおもわずにはいられないところもあるわけで、そういうときに、そのそれぞれの場面がひとつの文体のようにおもいだされるところがある。‥‥ひとつだけ書いておけば、少年に刺されるまえにさいごに少女は「世界が変わっていっても、わたしは変わらない」というようなことをいう。しかし、そのちょっとまえに少年がビリヤード場にいる別の女性に会って会話するとき、その女性もまた「わたしは変わらないわ」と、おなじようなことをいっている。そうするとここで逆算して、ビリヤード場にいた女性はなんだったのか、少年は彼女のことをどう思っていて、「わたしは変わらない」という彼女にたいして少年はなにを感じたのかということをおしはからなければならない。‥‥こういう感覚は、わたしにはあるしゅの小説を読んだときの感覚に似かよっている気がする。
 みおわったあとでじつは、もういちどさいしょからこの映画をみかえして、ノートをとってこのシナリオを再構成してみたくなってしまった。なんだか、そういうことをやるだけの価値のある作品だとおもった。‥‥ほんとうに、やるかもしれない。

 しかし、この主人公の少年がチャン・チェンだったということは、きょうのきょうまで知らなかった。


 

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■ 2013-05-08(Wed)

 きょうは、ひさしぶりのしごと量だった。世間のみんなもたっぷりの連休もおわって、気分もやることもまえにも増したしごとモードとしごと量に切り替えた、ということなんだろうか。
 トラックの運転手の方がけさはとても寒かったといっていたけれども、わたしはあさ起きたとき、そんなに寒かったおぼえはない。きょうもまだ体調がよくなくて、寒いとか暑いとかいう感覚がちょっと狂っている気もする。しごとをおえて帰宅したあと、昼からはあたたかくなったらしいけれども、ぎゃくにわたしはすこし肌寒くかんじてしまう。ずっとセーターですごした。

 このあいだ、ものかげから、処分してしまったとおもっていたCDが出てきたりしたのだけれども、きょうはその存在をほとんどわすれていたDVDが多数出てきた。ここへ転居してくるまえに買ってしばらくは機能していたDVDレコーダーをつかって、むかしもっていたVHSからDVDに録画したもの。そのDVDレコーダーはすぐにこわれて録画できなくなってしまったので、そんなになにもかもDVDにしたわけでもなかったけれど、そのときのVHSは捨ててしまったわけで、いつのまにかDVDに録ってあることもわすれてしまっていた(記憶していないこともなかったけれども、たいしたものもDVDにはしていないはず、というおもいはあった)。ただ、「たしかあの作品はヴィデオに録画してあったはずだし、捨てるはずもないんだけれども」というばくぜんとした記憶があったもので、きょうになってそういうヴィデオをさがしていて、VHSテープのかげにあったDVDをみつけた。そのなかにNODA・MAPの「半神」や、エドワード・ヤンの「クーリンチェ少年殺人事件」などのDVDがあった。
 せんじつAさんにあったとき、野田秀樹の「半神」はいいよ、という話をきいていたもので、「たしかTVから録画してあったはず」とはおもっていたのだけれども、DVDにしてあったのか。‥‥それできょうは、その「半神」をみた。あしたは「クーリンチェ少年殺人事件」をみようか。

 よるはきのうののこりのレバニラ炒めですませたけれど、ねるまえになってむしょうにおなかがすいて、のこっていたごはんをてきとうなおがずでぜんぶ食べてしまった。そうするとこんどは食べすぎで、くるしくなってしまった。‥‥ベッドでくるしいおもいをしながら本を読む。「コモンウェルス」はおやすみで、きょうはエドガー・フーヴァーの伝記の方ばかり読んだ。二段組五百ページとちょっとしたヴォリュームなので、ちょっとじかんがかかりそう。「コモンウェルス」もちゃんと読まないと図書館に返すのがおくれてしまうし。しかしこのエドガー・フーヴァーというのはその容貌も志向性もさいこうにイヤなやつ。アメリカの反共国家としての道を、まよわず先導した男なわけだろう。読んでいると、こっちのぐあいがなおさらおかしくなってしまうではないか。


 

[]NODA・MAP第六回公演「半神」(1999) 野田秀樹:演出 NODA・MAP第六回公演「半神」(1999)  野田秀樹:演出を含むブックマーク

 NODA・MAPによる再演がTV放映されたときに録画してあったもので、「夢の遊眠社」時代の舞台とはかなりことなっているらしい。

 ‥‥たんじゅんなはなし、わたしはこの種の演出・演技というものにどうしてもなじめない。なんでこんなにおおさわぎして、とびまわらなくっちゃあいけないのかわからない。いっしゅの「そう状態」がわたしのいまの精神状態とまるでマッチしないこともあるのだろうけれども、ときどきみるNODA・MAPの舞台をみるたびに、だいたいおなじような感想はもつ。この「半神」はなおいっそう、そういう「そう状態」がはげしいという気がする。

 わたしもずいぶんとむかしには唐十郎の紅テントをみたり、寺山修司の舞台もみたことはあるのだけれども、そのあとの八十年代の小劇場ブームにはまるで関心がなかった。みにいく余裕がなかったこともたしかだけれども、そのころ「夢の遊眠社」や「第三舞台」とかみていても、やはりなじめなかったんじゃないだろうか。というか、そういう時代にそういうブームの演劇をスルーしたおかげで、九十年代からの「静かな演劇」以降の舞台に興味をもてたのかもしれない。こういう舞台に熱中するようなことがなくてよかったと思うところもあり、あらためてきょう、そういうことを確認したということだろうか。


 

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■ 2013-05-07(Tue)

 きょうからまたしごと。休日のよくじつにはいつもしごと量はすくないのだけれども、世間的にも連休明けということできょうはきょくたんにしごとがすくなかった。あまりひまというのもじかんをもてあましてしまい、つらいものである。

 風邪の後遺症というのか、まだのどや鼻のぐあいがわるく、咳や鼻水がとまらない。からだもだるいという感覚で、ものごとをやる気がおきない。しごとから帰宅してからはかんたんな朝食のあとに録画した映画を一本みて、昼食はラーメン。せんげつ大量に買ったラーメンが、これでようやくなくなった。たいしておいしいものでもなかったけれどもとにかく安かった。午後からはベッドで本を読み、また昼寝になってしまう。

 二じかんほど眠ってまた本を読んだりして、夕食にはこれもまたきのうおとといとおなじくレバニラ炒めをつくる。きょうはつくりすぎたのではんぶんは冷蔵庫にとっておき、つまりはあしたもまたレバニラ炒めになることだろう。


 

[]「昨日消えた男」(1941) マキノ正博:監督 「昨日消えた男」(1941)  マキノ正博:監督を含むブックマーク

 長谷川一夫主演の時代劇だけれども、いわゆる剣劇などではなく、殺人事件の真相をさぐる推理もの。舞台は嫌われものの大家のしきる長家とその周辺で、江戸時代の市井のくらし、町人生活がおもてにだされているあたりがおもしろい。

 ほんとうは当初のこの作品製作のときはべつの企画だったらしいんだけれども、主演俳優が病気でダウンしたかなにかで急きょこの脚本が書かれ、十日間ぐらいで撮影されたらしい。みていてなんだか、被害者はみなにうらまれていたわけだし、ラストには長家の住民らみながあつめられて犯人がわかるという展開からも、なんだか「オリエント急行殺人事件」みたいだなあ、などとはおもっていたのだけれども、やはり海外の推理小説を翻案したものらしい。しらべたらこの原作はダシール・ハメットのものらしい。脚本は小国英雄という人。

 わたしはこの時代に撮られた娯楽映画というのもほとんどみていないので、出てくる俳優さんたちがみんな若いんでびっくりするというか、若いころにはこういう容貌をされていたのかと。長谷川一夫や山田五十鈴はともかくとしても、徳川夢声だとか江川宇礼雄などという方など、わたしはその御老体しか記憶にはない。すっごい若い高峰秀子のすがたもみられるけれども、進藤英太郎や清川虹子などという方々は、このころからわたしの記憶のイメージとそう変わるものでもなかった。

 同じ位置からのショットが前後で出てくるから、これはまとめて一気に撮影したわけだろうと想像はつく。それでもクレーンを使った上下移動するカメラとかいいし、とにかくはスピーディーなテンポが軽快。「え、そんな犯人かよ、というのはずるい気もするけれども、長谷川一夫にも「え、そんな人物だったのかよ」とおどろかされるわけ。


 

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■ 2013-05-06(Mon)

 わたしの連休最終日。東京に出て映画でもみようとおもっていたのだけれども、あさおきてからずっと、かなり咳が連発する。ときどき悪寒もする。風邪をこじらせてしまっただろうか。‥‥映画館へいって咳を連発するというのもひんしゅくものだろうし、ここで外出して、さらに風邪をこじらせてしまったりするとヤバい。もちろん経済的なもんだいもあるのだけれども、やはり出かけないで、きょうも家でおとなしくしていようということにした。

f:id:crosstalk:20130507182406j:image:right 窓のそとは春らしい晴天で、あたたかそう。いちにち家ですごすのはちょっともったいないなあという気はしたけれども、なんとか家で有効なじかんの使い方をしてみたいと。‥‥それで、探しものがてら本棚の整理などしはじめてみたら、もう処分してしまったとおもっていたCDが何枚か、ものかげから出てきた。そのなかにBjork の「Post」なんていうものもあったので、ものすごくひさしぶりに聴いてみたりした。元気いっぱいのBjork の聴ける一枚だ。聴いていて、ちょっとうれしくなった。
 ニェネントはあいかわらずパソコンの上にすわって窓のそとばかりみている。天気もいいし、「そんなにそとのことが気になるんだったらいっしょにそとへいってみようか?」なんて気分になるけれども、ニェネントにはそとの世界はただながめるだけの世界。入っていく世界ではないのである。そういう存在もいいなあとおもったりする。

 午後からは録画してあった映画を二本みて、夕食にはまたレバニラ炒めをつくった。材料(ニラ)がまだのこっているので、きっと、あしたもまたレバニラ炒めになるだろう。食事のあとTVでニュースをみていたら、ニュースなのにわたしの大きらいな小説家の講演会のことなんかやりはじめた。じょうだんじゃないとチャンネルをかえてみたら、プロ野球の中継をやっていた。阪神巨人戦。で、これもものすごっくひさしぶりに野球なんかみてしまった。おそらくきょねんはいちども野球中継などみてはいない。みんなが知っているようにわたしはいちおうは阪神ファンなのだけれども、もうげんざいのレギュラー選手で知っている顔も少ない。鳥谷や新井はもちろん記憶にあるけれども、新井が兄弟で出ていることは知らんかった。いまの助っ人のマートンのことはおぼえていて、むかしのラインバックとかをおもいおこさせるいい選手だなあとおもっていたのである。きょねんいろいろともんだいをおこしたらしいので、再契約はないのかなとおもっていたら、ことしもちゃんと契約して、けっこう活躍しているらしい。きょうのピッチャーは能見。この人も好きである。もうわたしの記憶にあるむかしのピッチャー陣もみんないなくなってしまったようだけれども、能見だとか安藤だとかは好きだった。
 ‥‥それで、きょうのゲームはさいこう、だった。ほとんど能見のワンマンショーというか、その投球だけでなく、相手のバントを二塁封殺するフィールディングはあったし、なんとすばらしいホームランまでかっとばしてくれた。やはり、阪神が勝てば野球というものもおもしろいものだとおもった。地上派での放送が試合終了まえにおわってしまったので、ひかりTVの番組表をみて中継をやっているチャンネルをみつけ、さいごまでみてしまった。

 さあもう寝ましょうかとベッドに入り、「あれ、ニェネントはどこ?」とおもったら、さっきまでわたしがリヴィングでTVをみて寝ころがっていたマットの上でまるくなっていた。「ニェネントちゃん、いっしょに寝ましょうよ」と抱き上げ、ベッドにつれていってわたしの脇にねかせた。抵抗するでもなく、そのままわたしのそばで寝てしまったようである。きょうは読んでいる「コモンウェルス」に並行して、いぜんとちゅうまで読んで放置してあったエドガー・フーヴァーの伝記本をまた読みはじめたりした。このところ睡眠のとりすぎぎみだった反動か、けっこうおそくまでベッドで本を読んでいた。


 

[]「ロベレ将軍」(1959) ロベルト・ロッセリーニ:監督 「ロベレ将軍」(1959)  ロベルト・ロッセリーニ:監督を含むブックマーク

 この、ニセものとして仕立て上げられた人物が感化されて、ホンもののような行動をとってしまうというお話はなにか別のもので知っているようにおもうのだけれども、いまはおもいだせない。けっこう史実をもとにしているらしい。時代的にはアンツィオの話も出てくるので1944年あたりのことだろうか。

 主役の、ニセのロベレ将軍を演じるしょうもない賭博師というかイカサマ師をヴィットリオ・デ・シーカが演じているのだけれども、彼のポーカーフェイスというのか、なにを考えているのか観客に伝えないタイプの演技がいい。はたしてメモをわたしそこなうのが故意なのか、ほんとうに失敗しちゃったのかもよくわからない。このドラマで、わたしが好きなところである。これが一徹なタイプのナチス将校の演技とのいい対比になっているし、そのほかの登場人物の「熱情」とのなかでドラマが生成される。ロッセリーニのそれまでの「無防備都市」だとか「ドイツ零年」とかの廃墟生々しい現地での撮影のちからづよさというのとはちがう、これは演劇的なちからづよさだとおもった。


 

[]「スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜」(2011) ジョージ・クルーニー:製作・脚本・監督・出演 「スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜」(2011)  ジョージ・クルーニー:製作・脚本・監督・出演を含むブックマーク

 ライアン・ゴズリングだとかフィリップ・シーモア・ホフマン、それにマリサ・トメイなんかが出演しているもんで、ついついみてしまったけれども、あらららら、とちゅうでなんどもみるのをやめようかとおもってしまった。みはじめたときには監督がジョージ・クルーニーだなんて知らないでみていたけれど、とちゅうから「こりゃあジョージ・クルーニーだな」とおもうしかなくなった。フィクションっぽい設定にしていながらも、これはどうみたってブッシュ政権後の民主党大統領予備選を題材にしているわけで、「どいつもこいつも腐ってるぜ(ここはフィクション)」といいながらも、「でも、民主党の主張は正当だろうが(ここは演出としては観客にそううけとめてほしがっている)」という歪んだプロパガンダ映画、だろうとおもう。

 わたしはアメリカで生活しているわけではないから、「どうよ?」と問われてもこまるけれども、もちろん共和党はイヤだとおもうところはある。じゃあ「民主党かよ?」といわれてもなあ、というところで、これはまさに日本でいえばあのJ党とM党の「どっちを選ぶ?」みたいなこまった選択肢だろう。日本もつまりはこういうアメリカみたいな「政権交代可能な二大政党制」ということをめざして選挙区制だとかあれこれいじってきて、こうなっているわけだろう。もしもこの映画でなんかしら読みとれといわれたなら、そりゃあ政党の選択肢がふたつっきりないなかでどうにかせいといわれたら、こういうことにもなるわさ、ということだろうか。でも、映画としてはそういう二大政党制に疑問を呈しているわけでもない。そういうところで読みとれるのは、とにかくは共和党はクズだ、そういうクズ精神が民主党をも毒そうとしているのだ、みたいなことだろうか。そういうところではつまり、「アメリカはクズだ」ということをいいたいのだろうか。この演出ではそうはおもえない。

 あと、マリサ・トメイなんかに、メガネさえかけさせればインテリっぽくみえるだろう、なんていう演出もクズだとおもう。


 

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■ 2013-05-05(Sun)

 わたしの三連休のふつかめ。あした出かけるつもりにしてあるので、きょうもいちにち部屋ですごす。せんじつひいた風邪はもう末期症状なんだけれどものどと鼻にきていて、咳がつづくし鼻水がとまらない。これがすっきるするまでがうっとうしいし、けっこう、ときがかかったりもする。

 しごとはやすみといっても、はやくにめざめてしまうのがもう老人というか、このところ昼寝もたっぷりとっているのでしょうがないともいえるのだけれども、きょうも五時まえにはめざめてしまう。いつもならしごとをおえて帰宅してから朝食にするのだけれども、しょうがないからはやくに朝食にして、録画してあった映画などをみて午前中をすごす。きょうははじめて、このあいだ買ったDVDレコーダーのHDDに録画してあったものをみた。画質的にちょっとは落ちる気はしたけれども、VHSなどはもんだいにならない。洋画ならラストのクレジットの文字が読めるかどうかというのが、わたしなりのひとつの画質の基準になるわけだけれども、これもだいたいのところは読み取れた。録画予約はふたつの機器でやっておかなくてはいけないからめんどうだけれども、やり方になれればなんとかなる。まだあまりためすチャンスもないけれどもDVDへの録画ももんだいないようで、つまりは安い買い物だったとおもう。活用しなくては。

 まだのこっていた自家製カレーで昼食をすませ、午後はずっとベッドで本を読んですごす。‥‥あんのじょう、二じかんほどはまた昼寝になってしまった。もうすっかり昼寝が習慣化してしまったというか、その寝てしまったじかんをどこでどう再活用させるかというか、すいみんじかんをいちにち八じかんでいいものとかんがえれば、いままで寝てしまっていたじかんを起きてすごして、有効利用すべきだろう。

 カレーもなくなったので夕食をどうしようかと冷蔵庫や冷凍庫のなかをチェックし、レバー肉がけっこういっぱいストックされていたので、しばらくはレバニラ炒めでもやりましょうかというかんじ。スーパーにニラなどの食材を買いに出かけた。‥‥ニラともやしとニンジンとチーズを買うことにして、これで四百円ぐらい。このスーパーでは、買い物袋持参で五百二十五円いじょう買うとポイントカードに五ポイント(つまり五円分)付加されるので、できるだけ、いちどの買い物は五百二十五円をちょっとこえるぐらいでおさめたい。もちろん買い物に出るときには買い物袋はもって出る。千円をこえる買い物なんかほとんどしないけれど、そういうときには二回とかに分けて、一回五百二十五円を二回、などとやったりもする。ケチくさい。ここで四百円で買い物をおわらせておけばいいものを、あと百五十円ぐらい買えば五ポイントおまけがつく、などとつまらないことをかんがえてしまう。すっかりのせられてしまっているわけだけれども、きょうはあれこれと店内をみてまわって、ほうれん草百五十円というのをいっしょに買ってしまった。
 まあほうれん草は栄養価も高いし、ニラと半々につかえば、レバニラ炒めも三、四食れんぞくしてつくることもできる。もともともやしの量はたっぷりあるし、ほうれん草はほかの料理にもつかえる。それでいいではないかと。

 帰宅して、買ってきたニラ、ほうれん草、ニンジン、もやし、そしてストックのある春キャベツなどをつかってレバニラ炒めをつくった。おいしかった。‥‥ニェネントはレバニラ炒めはお好きではないようで、けっしてちょっかいを出してこようとはしない。


 

[]「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」(2011) ルパート・ワイアット:監督 「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」(2011)  ルパート・ワイアット:監督を含むブックマーク

 だれでも知ってるポピュラーなSFの、再・再映画化、というか、その発端を描くということでは二本めになるのか。つまり画像のコンピュータ処理能力が発達したもんだから、そういうのをいっぱい活かしてまたやってみようということもあるんだろうけれど、ストーリーもあれこれと現代風に書きあらためたのだろう。これはあくまで発端だから、もとのピエール・ブールの原作はまるで無関係。じつはわたしはむかしの「猿の惑星」シリーズ、「続」以降はみていないので比較できないんだけれども、むかしのシリーズはタイムワープだとかとりいれていたらしい。

 さすが技術の発達というのか、序盤に部屋のなかをカメラがかけめぐり、屋根裏部屋まで飛翔して主人公のチンパンジーをおいかけるカットなしのショットとかみせられて、ちょっとおどろいてしまう。ひょっとしたらこのショットぜんたいがすべてCGなんじゃないのなんて感じだったけれども、そんなわけないだろう。とにかくは飛翔する猿たちを描いた映像、「すごいなあ」という印象を受けないでもない。しかしドラマ展開としてはあんまりにもそういう猿たちのうごきばっかりおいかけちゃったせいか、とくに人間たちのドラマがうすい気がするし、そこまで倫理を無視する人間ばかりを登場させるか、という思いもある。

 どうもこの作品で登場する製薬会社と動物保護センターとは癒着しているらしいけれども、いくらなんでもいっかしょにこんなにおおくの霊長類が保護幽閉されているというのはかんがえにくい。製薬会社が動物実験のために密猟してアメリカへはこび飼育している、ということなんだったらわかるけれども、民間にもひらかれているというあたりが不可解というのかよくわからない。

 猿たちが「ここがホーム」とする金門橋をわたったところにあるセコイアの森は、ヒッチコックの「めまい」のも出てきた場所なのかもしれないけれども、食べるものなどなんにもなさそうなところで、いったい猿たちはどうやって生きていこうとおもっていたんだろう(運よくも人類が××しちゃうからよかったけれども)。しかしなんというか、商業映画の世界ではグローバルな製薬会社はよく悪役にされてしまうなあ。もっとひどいグローバル企業はあれこれありそうにおもうけれども、映画のスポンサーにもなっちゃうから映画のうえで攻撃されることもないんだろうか。

 登場する猿の名まえなどに、過去のシリーズへのパスティーシュを感じることもできる。たとえばオランウータンが「モーリス」という名まえなのは、第一作でオランウータンを演じた役者がモーリス・エヴァンスだったあたりから来ているのだろう。このことはなぜかわたしの記憶に残っていた(あと、キム・ハンター、とかね)。コーネリアスというチンパンジーの名まえもきかれる。
 もうすっかりわたしの記憶から打ち消されてしまったような、ティム・バートン版の「猿の惑星」へとリンクするようなものもないだろうとおもっていたんだけれども、この主人公のシーザーというチンパンジー、そのお顔をどこかでみたことがあるなあとおもって気になっていたんだけれども、彼、ぜったいにマーク・ウォールバーグの顔をしているんじゃないだろうか?


 

[]「マダムと女房」(1931) 五所平之助:監督 「マダムと女房」(1931)  五所平之助:監督を含むブックマーク

 日本最初のトーキー映画として有名な作品。前半はほとんど効果音としての音声主体だけれども、後半は主人公(劇作家)の隣家でのジャズ・セッションの音楽をたっぷりときかせる。感覚としては「音」をテーマにした短編作品、という感じ。

 しかし、この日本ではこの作品から十年ほどあとになると、この映画できかれたような音楽は「敵性音楽」として聴けなくなってしまうわけだから、奇妙なものだなあとおもってしまう。

 わたしもここまで古い日本映画というのはいままでみた記憶がないけれども、冒頭タイトル・クレジットでの「シネマ書体」というのか、あの独特のフォントがいままでにみたこともないほどに美しくあらわされていて、じつはこの「文字」に、いちばんの感銘をうけた。このころの日本映画では、みんなこういう字体がつかわれていたんだろうか(むかしの映画ポスターなどではよく目にするけれども)。


 

[]Century Books 人と思想「スピノザ」工藤喜作:著 Century Books 人と思想「スピノザ」工藤喜作:著を含むブックマーク

 解説本だから感想の書きようもないけれど、せんじつ日記に書いたような「想像知」ではない、理性による知ということは興味深い。まあじっさいにスピノザの著作を読まないことにはなんにもならない。


 

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■ 2013-05-04(Sat)

 きょうからわたしなりのゴールデンウィーク、怒濤の三連休に突入。まあ三日もつづいて休めるのだから、きょうはなんにもしないでのんびりしましょう、などとかんがえたわけでもないけれども、夕方からはまた天候も乱れるようなことをいっているし、けっきょくはゴロゴロとすごしてしまった。昼からは恒例の昼寝モードにもはいってしまったし、このところ、まいにちの睡眠じかんはすごいことになっているとおもう。

f:id:crosstalk:20130505101952j:image:left ニェネントも、そこはネコだからやはり寝てばかりいることはわたしいじょうなのだけれども、起きているときにはたいてい和室のパソコンの上にあがって、窓の外をじっとみている。うちの窓からみえるのは駐車場と向かいの家だけ。駐車場もほとんど車の出入りはないから、ながめていてもなんの変化もないだろうとおもうけれど、ニェネントはじっと外をみている。これが人間がじっと窓の外ばかりみているようだとちょっとヤバい。「あそんでくれないからつまんないの」という気もちもあるんだろうけれども、憂愁のニェネント。

 日がくれて暗くなってから、予報どおりに雷がやってきて、窓の外がひかったり、雷鳴がひびいたりするようになった。またニェネントはパソコンの上にのり、いっしんに外をながめている。いったい、空がひかったりするのを、ネコたちはどういうふうに感じているんだろう。ふだんからTVの画面とかみていて、いきなりに景色がかわってしまったりすることにはなれっこになっているだろうけれども(むかし、ニェネントのおかあさんのミイがTVにうつった鳥に興味をもってみていて、その画面がぐぅんとズーム移動するのにびっくりして、それこそたじろいでしまったのをおもいだしたりする)。

 そういえばきのうのニェネントは、TVにうつった子ネコのすがたにとっても興味をしめしていた。このごろは天気予報にも興味をうしなったのか、あんまりTV画面をみたりしなくなっていたので、「めずらしいなあ」などとおもった。

 きょうはヴィデオを一本みて、「コモンウェルス」とスピノザの本とを読みついで、それだけでだいたいおわってしまった。

 「コモンウェルス」の下巻は、また視点をうつして、げんざいの世界情勢の分析になる。わたしはこういう社会学者による情勢分析というのをほとんど読まないので、「なるほどねえ」と興味深く読むことになる。まあ「帝国」や「マルチチュード」からの論点の継続ではあるのだけれども、この下巻冒頭の、アメリカの「単独行動主義」の決定的な失敗、というのは、やはりそのとおりなのだろうとおもう。<帝国>というのがイコール国家ではないということがあらわになる世界。ここでネグリ/ハートが引用している文献、たとえばジョヴァンニ・アリギの「北京のアダム・スミス」や、サスキア・サッセンの著作なども読みたくなった。

 スピノザについての解説書も、これで刺激になる。まずはスピノザの生きた時代のオランダの状況が興味深いし、そういう環境のなかから生まれたスピノザの著作の独創性というのもわかる気がする。‥‥たとえば、ウィトゲンシュタインなどという人はおそらくはわたしなどとは思考経路がまるでちがうというか、いきなり彼の著作にぶちあたっても「なにがなんだかさっぱり」みたいなことになる。で、そういう思考経路のちがいということをちゃんと説明してくれるのがスピノザの著作なのだろうかと、勝手な想像をした。

 たとえばわたしなどは、「イマジネーションを最大限に活かそう」などということをそれ自体として肯定してしまい、そういう想像力というものに信頼をよせてしまうのだけれども、そうじゃない、想像力のおよばないところにあるものこそが重要なのだ、そういうことをスピノザはいっているのじゃないのか。そこに「およばない想像力」をはばたさせることから、過誤がうまれるわけだ。いちど、そういう想像力をうちけしたうえで思考することを学ぶこと、そういうことが重要なのだと。‥‥これは、わたしがそういうスピノザの本を読んで勝手におもったこと。


 

[]「勝手にしやがれ!! 逆転計画」(1996) 黒沢清:監督 「勝手にしやがれ!! 逆転計画」(1996)  黒沢清:監督を含むブックマーク

 シリーズ第四作。こんかいは「ギャンブル」ということで展開していく。しかしこの分野というのはせんじつみた「勝負師」にかぎらず、メルヴィルなんかもやっているし、あまりに多くの先例があるような。どうもぜんかいの「都会での宝探し」というのがあまりにおもしろかっただけに、こんかいは「通例」という感じはうけてしまう。っていうか、「ここではギャンブルに走り、ここではそういうふうには進行しない」というのが不明。ラストのクレジットをみると、こんかいの脚本は黒沢清氏と塩田明彦氏との共同、とのことのようだった。

 もうこのシリーズは横移動撮影(ふつうにドリー撮影といえばいいのか)のおもしろさをどこまで突っ込めるか、みたいなところもあって、こんかいもたのしませてもらった。こんかいのヒロインは仁藤優子だけど、わたしはこの人のことあんまり知らない。‥‥それより、「いったいこの人って‥‥」という、優しいヤクザの下元史朗の存在がすばらしかった。この俳優さん、好きだったなあ(って、いまでも活躍されつづけているようだけれども)。


 

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■ 2013-05-03(Fri)

 このごろはしごともいい感じでできるようになった。ストレス無縁。わたしは歩みよるのがへたなので、向こうから歩みよってくれてきたことに感謝しなければならない。しごとは連休ということもあってたいした量もないのだけれども、きのうからよけいなしごと、ほんらいにないしごとがまぎれこんできた。まあ遊んでいるよりはいいと、はたらいている方のにんげんが思ってしまっている。思うツボというのか。
 あしたとあさってはほんらいのシフトでわたしは連休になっているのだけれども、しあさっての6日も有休をとってやすむことにした。出勤しても過剰人員というか、だれかやるしごとがないひとが出現しそうな日ではあった。あさから東京にでて、イメージフォーラム・フェスティヴァルでもいってみようかという考えもあるし。

 きょうはしごとをおえて帰宅しても、リヴィングの水害は起きていなかった。これで万事OKと結論づけることもできないけれども、とりあえずはひとあんしんではある。部屋の賃貸契約更新もぶじにおえ、経済的にもなんとかのりきれそう。六月も下旬になればどのくらいの余裕がのこっているのかわかるけれども、あたらしいパソコンも買えそうな空気は感じる。‥‥あともうひとつ、とりあえずほしいものもあるんだけれども、ひょっとしたらそっちもゲットできるかもしれない。

 午前中にヴィデオを一本みて、昼食はラーメン。午後からは図書館にいき、ながいこと借りていた本を返してあたらしくまた借りてきた。「コモンウェルス」の下巻と、さいきん「このひとどーよ」と思っている、スピノザについての解説書と。あと、せんじつみた「吉原炎上」の原作者である斎藤真一の蔵書をしらべたら、この図書館の閉架に一冊所蔵しているようなので、リクエストしてみた。担当の方が閉架にさがしにいってくれたけれども、そのままいつまでももどってこない。みつからないんだなあとは想像がつく。いったい閉架というところがどういうふうになっているのかわからないけれども、不明になってしまっている本もいっぱいあることだろう。閲覧できる開架の方だって、棚をみていると「こんな本がこんなところにおいてある」みたいなものもあって、いざじっさいにその本をさがしだそうとしたら、それこそ「宝探し」状態にはなってしまうだろう。‥‥ほんとうにしばらくしてようやく担当の方がもどってこられて、やはり手ぶら。「すみません、あるはずの場所になかったもので」ということで、そういうことだろうとは想像してました。みつかったら連絡くれるらしい。図書館の人たちにもゴールデンウィークちゅうのいいしごとを提供してあげられたようである。わたしもそのしごと、やってみたい。

 図書館からかえってまた昼寝をして、夕食にはつくりおきのカレー。さすがにこればかりはニェネントもちょっかいをだしてこようとはしない。夕食のあとは読みさしの「生きがいについて」と、きょう借りてきたスピノザと、「コモンウェルス」とをとっかえひっかえ読んだ。


 

[]「唇を閉ざせ」(2006) ギヨーム・カネ:監督 「唇を閉ざせ」(2006)  ギヨーム・カネ:監督を含むブックマーク

 なんかこのタイトルはきいたことあるし、なぜか同時にギヨーム・カネという監督の名まえもどこか記憶にのこっていた。そんな話題になった作品だったのだろうか。なんか、みはじめると顔におぼえのある役者さんたちがずらずらと登場してきた。アンドレ・デュソリエが出演されていたのがうれしく、「きっと重要な役だぜ」なんて予測する。あたった。

 とにかくは先の読めないサスペンス・ミステリーという展開で、いろいろとあたまをつかいながらみていくんだけれども、めまぐるしい展開の、その後追いしかできないわけである。ひとつは犯人として追い詰められていく主人公がいかに窮地を脱するかということがあるけれども、これはいままでにみたことのない、あっとおどろく展開。いかに相手も悪人(ポニーテールの女性がインパクトあった)とはいえ、いいのか、この展開。

 ラストに真相が明かされるわけだけれども、そのときにその真相を明かす人物が盗聴されてることをわかっていて、ノイズをかぶせながら「ほんとうのほんとうのこと」を主人公にだけ聴こえるように語る。しかし、この「ほんとうのほんとうのこと」は、ふつういわないだろうとわたしは思った。映画化のために原作をいじってるのかもしれない。

 こういうの、ハリウッドでリメイクしそうだなあとおもっていたら、そもそもの原作がアメリカ人の手になるものだし、ちゃんとそういう企画はうごいているらしい。しかし、「え、フランスなのにこんなかよ」というヴァイオレンスは、アメリカ映画になると「あったりまえじゃん」みたいになりそうでもある。ただこのフランス版ではあれこれとつめこみすぎみたいなところもあるので、もうちょっとこざっぱり整理してくれた方がいいようにはおもう。そういうアメリカ版がいいとおもうけれども、だからといってとくにみたいともおもわない。


 

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■ 2013-05-02(Thu)

 きょうはしごと。あさおきて出勤まえにTVのニュースをみていたら、あさってが寺山修司の没後三十年の命日にあたるとして、いろいろな舞台やイヴェントが計画されているというニュースが流れた。その舞台のひとつとして、もうはじまっているパルコ劇場での松本雄吉氏演出の「レミング」、その舞台の一場面が放映された。床の穴から男が顔を出している場面で「少年王者舘」をおもいうかべたりした。この上演台本は少年王者舘の天野天街氏と松本雄吉氏との共作なわけだし。しかしパルコ劇場はゴージャスというか、やはりスズナリなどはもんだいにならない。観にいきたいな、という気分になってしまった。

 しごとに出て、さっさとおわって帰宅してみると、なんと、リヴィングの床いちめんに水があふれていた。げんいんはキッチンの流しの排水管にちがいなく、いぜんにもいちどこうなったことがあったけれども、こんかいはその規模がまるでちがう。水害である。うちのキッチンの水道は蛇口もしっかり閉めてあるからこれはうちから出た排水ではなく、おそらくは上の階などから流れてきた排水がスムーズに流れずに逆流してきたんだろう。いったいなぜ排水管のぐあいがわるくなったか。これはまちがいなくニェネントのせいである。おそらくは爪をたてたりして、ぜんかい修繕したときにあててあったパテをはがしてしまったか、穴をあけてしまったんだろう。そもそもが流し台の下の板をずいぶんといぜんにニェネントがはがしてしまい、その排水管のところまでニェネントがはいりこめてしまう。ずっと障害物をそこにおいてニェネントがはいれないようにしてあったのだけれども、このあいだついつい片づけてしまっていた。やっぱ、片づけてはいけなかったのだ。

 ‥‥まずは、この床いちめんの水をなんとかしなければならない。マットやざぶとん、そしていくつか床においてあったものなどが水びたしになってしまっている。足をぬらしてリヴィングにはいり、マットやざぶとんをもちあげると、信じられないぐらいに水がしたたり落ちてくる。そういうびしょぬれのものをベランダに出し、窓をあけてほうきで水を外に掃き出した。水が波打つように外に流れていく。大雨で床上浸水の被害にあったかんじ。ニェネントが和室の方からこっちをみているけれども、ニェネントも足をぬらすのがきらいなんだろう。けっしてリヴィングのぬれたところには足をふみいれようとしない。

 あるていど水をはきだし、床にタオルケットをおおきくひろげてのこった水分をふきとろうとしたけれど、タオルケットもすぐにびっしょりぬれてしまう。バスタオルだとかなんでも水分をふきとれそうなものを総動員させた。とりあえず、リヴィングにすわれるぐらいまでには水をふきとったけれども、まだすみの方には水がのこっているところもあるみたい。そういうことよりもさきに、排水管をなおさなくっちゃいけない。まえに修繕したときに買ったパテがまだのこっていたので、もういちど排水管のまわりにぐるりとまきつけ、すきまのないようにおさえつけた。とにかく目でみることができないところなので、触覚だけがたより。うまくふさぐことができていればいいのだけれども、この日はこのあと水があふれてくるような事態にはならなかった。いちおう気分的にとりあえずはおちついて、午後からは録画してあった映画をみたりもした。

 夕食には、カレーパウダーからの本格カレーに再トライしてみた。まだまだカレーパウダーはいっぱいのこっている。こんかいはまずはパウダーをフライパンでローストし、小麦粉はまったくつかわないようにした。玉ねぎをこまかくきざんだのをマーガリンでじっくり炒め、きつね色になったらカレーパウダーをくわえる。やはりこまかくしたニンジンを入れ、さらに肉(こんかいはポーク)をいれてさらに炒める。コンソメスープをいれて煮込み、じゃがいもとブロッコリーをくわえてまた煮込む。‥‥完成。だいたい、おもっていたような味のカレーに仕上がった。じゃっかんパウダーをローストしすぎたかもしれないけれども、とろみのすくないさらっとした、わたしののぞんだカレーになった。これならば合格だろう。まあ食べるのはわたしだけなのだから、わたしさえ満足できればいい。ついに、インスタントではないカレーをじぶんの手で完成させた。これからはこんかいのつくり方にアレンジをくわえていけばいいのである。こんかいのカレーパウダーの原価は二十円にもならないだろうから、市販のカレールーをつかうよりもずっとずっと安上がりである。


 

[]「コニャックの男」(1970) ジャン=ポール・ラプノー:監督 「コニャックの男」(1970)  ジャン=ポール・ラプノー:監督を含むブックマーク

 主演はジャン=ポール・ベルモンド。この奇怪な邦題は「リオの男」だとか「カトマンズの男」とかの流れできているんだろうけれども、そのふたつの監督はフィリップ・デ・ブロカだし、べつにそれほどかんけいもないみたい。ただ、「リオの男」ではこの「コニャックの男」の監督のジャン=ポール・ラプノーが脚本でかかわっているらしいけど。‥‥調べたら、この「○○の男」という邦題のベルモンド主演の作品には、ほかに「タヒチの男」とか、「黄金の男」とかいうのもあるらしい。しかし、「コニャックの男」というのはわけがわからない。映画のなかでワインはでてくるけれども、コニャックなんてこれっぽっちもでてこないし。

 このジャン=ポール・ラプノーという監督さんは、寡作だけれどもけっこういい作品もつくってらっしゃるそうな。ざんねんながらわたしはひとっつもみたことがない。この「コニャックの男」は彼の監督第二作。脚本に監督自身のほかにクロード・ソーテなんて名まえもみえてちょっとびっくり。音楽はミシェル・ルグランで、撮影がクロード・ルノワール。共演にマルレーヌ・ジョベールだとかラウラ・アントネッリ、そしてサミー・フレイなんかの名まえも。

 映画の時代は18世紀末、フランス革命の時代で、密航者としてアメリカに上陸したベルモンドはそういう浮浪者からすぐに成り上がって、資本家の娘との結婚をも望まれるような男になっちゃうんだけれども、彼にはフランスに妻がいる。革命後のフランスは離婚が認められるようになったので、じゃあフランスにもどって離婚手つづきしてこいや、てな感じでフランスにまいもどる。ここに共和派と旧王党派との抗争がつづいていて、ベルモンドはそのなかにまきこまれちゃう。妻とも再会するんだけれども、ってなおはなし。

 シークエンスがかわるたびに展開はほぼ百八十度急変化して、そこで主人公もそんな窮地を切り抜けてまたもや物語を急展開させながら、すべてがコロコロ変化していく。

 わたしはいままで、クロード・ルノワールという人の撮影についてよくわからないところがあったのだけれども、この作品をみていると、「もう、こういうショットしかありえないじゃないか」というような適確なショットの連続。いわゆる「美しい映像」というのとはちがうかもしれないけれども、「こうくるのだったら、ここにカメラをかまえてこう撮る」というたしかな技術を感じる。

 あとはやはり、マルレーヌ・ジョベールのコケティッシュな魅力で、この人は旬はみじかかったかもしれないけれども、あのゴダールの「男性・女性」でのブスっぽい女の子が、どうやったらこんなにかわいい人に変身できるんだろうとおもったものであって、この作品でも彼女の魅力を楽しんだ。いま調べたら、このマルレーヌ・ジョベール、「ダーク・シャドウ」にも出ていたエヴァ・グリーンのお母さんなのだということ。さらにさらに、おどろいてしまった。


 

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■ 2013-05-01(Wed)

 きょうはしごとは非番でやすみ。それでも五時ごろには目がさめてしまい、午前中に録画してあった映画を二本みた。外はきょうもすかっと晴れているわけでもなく、そんなにあたたかくもないかんじ。じつはきょうは、まだ風邪から回復していないこともあって、部屋から一歩も外へ出なかった。まだまだときどき悪寒がして、くしゃみがなんかいもつづくことがある。

 昼食はまだのこっているラーメンですませ、食後はベッドで横になって読書して、「このまま昼寝してもいいや」とぼんやりとおもい、そのとおりに昼寝に突入。このところの昼寝はほとんど日課になってしまっているし、いちにちの平均睡眠じかんも十じかんをこえてるんじゃないかとおもう。

 夕方になってめざめ、冷凍庫にあった冷凍野菜をあたため、ウィンナといっしょにしておてがるな夕食のおかずにする。TVをみていたら、老漁師がその漁にまいかい飼い犬をつれていくドキュメンタリーをやっていた。七十三歳の漁師は、まよなかにその七歳のジョンという犬だけをつれて漁船に乗り込み、沖へと向かう。日が昇って漁がはじまる。これはいっしゅのはえ縄漁なんだろう。漁師がねらうのはキンメダイなのだけれども、不漁の日がつづく。意図しない「バラムツ」などという大きな魚がとれる。ジョンがわんわんほえるのがたのしい。バラムツは人が食べると消化しきれずに下痢をおこすらしい(おいしいらしいんだけれども)。あとはサバがかかることはかかるけれども、サバは一匹何十円でしか売れない。良質のキンメダイなら一匹二千円にもなるらしい。ジョンはおそらくは秋田犬のはいっている茶色の雑種で、とにかくかわいいし、野性味ももちあわせている。ふつう犬は船酔いするので船に乗せられないらしいけれど、ジョンは生まれてすぐから船にのっているせいか、船酔いをしない貴重な犬である。老人はひざの半月板が損傷していて、ひざを九十度いじょう曲げられないけれど、まだ漁には不自由はしないみたい。若いころはいい男だったみたい。いいコンビである。ドキュメントのさいごの漁で、まるで仕組まれたような大漁。どんどんと船の上にキンメダイがひきあげられ、おもわず拍手してしまう。なんか、泣いてしまった。犬もほんとうにかわいい動物だ。船のへりに前足をかけ、海原をながめるジョンのすがたは勇壮だった。
 ラストにながれるクレジットをみると、取材/撮影のスタッフの名まえが、一人しか出ていなかった。船に老人と犬といっしょにひとり乗り込み、ひとりでぜんぶやったわけだろう。わずか三十分の番組だったけれど、ここまでつくりあげるのにどれだけ漁に同行したのだろう。いがいとはやくにまとめられることになったのかもしれないけれども、充実したしごとだったのではなかっただろうかと、勝手な想像をする。それもこれも視聴者たちから受信料をぶんどったりしているからできることなのか。

 ‥‥わが家のニェネントも、とてもかわいい。


 

[]「赤ずきん」(2011) キャサリン・ハードウィック:監督 「赤ずきん」(2011)  キャサリン・ハードウィック:監督を含むブックマーク

 風邪の療養ということもあって、このところ「眠れる森の美女」、「スノーホワイト」とおとぎ話路線できているのでもう一本、こんどは「赤ずきんちゃん」の映画化。‥‥って、どうやるんだよ、と思っていたら、これってつまりはニール・ジョーダンの「狼の血族」のリメイクでないの? じつはその「狼の血族」のことをほとんど記憶してはいないのだけれども、赤ずきんを人狼族伝説につなげたのは、あきらかに「狼の血族」ではないのか。そして、「狼の血族」の方がはるかに出来がよかったはずである(たとえば変身シーンの衝撃とか)。なんか、なさけない気分になってしまった。オオカミ自体の造形からして、かなり出来が悪い。ハリウッドのくせして。まあ、「はたしていったい誰がオオカミなの?」というサスペンスはある、ということもできるけれども、正体がわかってみれば、じゃあなぜこんなめんどくさい手順をふんでヒロインを人狼族に引き寄せようとするんか、まるでわからなくなる。

 カメラさえ移動させ、鳥瞰撮影とかいれればそれでダイナミックな映像になるだろうというような演出もなんかガックリで、このあいだみた「スノーホワイト」との格差はおおきい気がする。色彩設計にかんしても疑問がある。だいたいこの作品は室内も野外もみんな暖色系をメインにして撮っているようなんだけれども、それでめりはりが消えてしまっているようでもあるし、とにかくはこの「赤ずきん」の赤色が「朱」系だということが、主観のもんだいかもしれないけれども、なんかわたしにはフィットしない。月までがまた朱色ということでリンクさせたかったのかもしれないけれども、ここはわたし的には「紅」系でやってほしかった気がする。


 

[]「眠狂四郎 炎情剣」(1965) 三隅研次:監督 「眠狂四郎 炎情剣」(1965)  三隅研次:監督を含むブックマーク

 シリーズ第五作。こんかいは円月殺法の大サーヴィスで、いったいなんかいみせてくれたことか。そのかわり、ストロボ描写はなし。クライマックスの、清水寺みたいな舞台のある場所での殺陣がみどころだった、だろうか。


 

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