ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-06-30(Sun)

 きょうも、おおいそがし。というか、勝手にものごとを進められる役職の方々の、その調整みたいなことをやらざるを得なくなったところがある。それでも、ふだんこの倉庫でのしごとがどのようなものなのかまるで知らないでいる役職者が、ようやっと実態を知ってくれたようなところもある。とりあえず七月からは(つまり、あしたからは)しごとのやり方が変えらるようである。‥‥なにもこのいそがしいときにやり方を変えなくっても、という感想はあるけれども、とりあえずあしたのわたしはまた非番で休み。じつは、あしたがいっちばんしごと量が多いんだけれども。

 このあいだ、「いちにちの食費が千円になる」ということへの疑問を書いたりしたのだけれども、しごとがいそがしくって自炊などやっていられないということになると、そういう事態にもなってしまうのだろう。あんまり批判してもいけないな、などとは思った。しかしそれでも、米をといだり調理したりするせいぜい十分とか二十分のじかんと、米が炊けるのを待つ三十分ぐらいのじかん(このあいだに調理できるわけだけれども)さえ都合できれば、外食したり出来合いのものを買って食事にしたりする「ムダ」からはのがれることはできるのに、とは思ったりする。

 医師からいわれた「水分の補給」ということで、このところまいにち、やかんいっぱいの水に紅茶パックを二つ入れて沸かし、2リットルの紅茶をつくって飲んでいるわけだけれども、ちょうどいちにちにその2リットルを飲んでしまうという、とてもいいペースになっている。まいあさしごとに行くまえに紅茶をつくり、その分がよくあさにちょうどなくなっているわけ。まあ紅茶のいれ方としてはらんぼうなもので、そもそもの紅茶パック自体が百パックで三百円という超安物なんだから紅茶の味もへったくれもない。しかしやはりそれでも、こいつがただの水を飲むのよりは、わたしにはずっといい。これからはもっと暑くなってきて、いっそう水分の補給ということははたいせつになってくるだろう。夕方の報道で、ことしの夏は過去になかったくらいに暑くなる可能性があるといっていた。このニセ紅茶をいっぱい飲んで乗り切ろうか。

 きのうのよるから、図書館で借りた「グラン・ヴァカンス」を読みはじめた。まだどんなストーリーなのかの見当もつかないのだけれども、ちょっとばかし文章で読みあぐねてしまうところはある。まあこんな文章の日記を書いている人間として、そんなこといえないだろうというところもあるのだけれども、まえからこういう日本の現代のSF作家の文章に違和感を覚えてしまうことはよくあった。非日常空間を創出するために、日常に使われることばから離れたいという意思もあるのだろうけれども、ことばの選択がそぐわないんじゃないかと思える文が多い気がするし、いわゆる漢字の二字熟語というものを乱用しすぎているように思える。まあいまの段階でそういう内容ではないところで疑問を呈してもしょうがないだろうけれども。

 せんじつロジャー・コーマンの作品を観て、ほかにも彼の作品があれこれと録画してあったのを思い出し、きょうも一本観た。昼食は辛子明太子ですませ、夕食は残っていたごはんをチャーハンにした。ちょっとまえにスーパーで「チャーハンの素」みたいなものを買ってあるのだけれども、つまりこれは塩だとか砂糖だとか、そのほか調味料のかたまりみたいなもので、指定された量を使ってしまうとしょっぱくって味が濃すぎて、わたしにはとても食べられたものではない。きょうはほんのちょっとだけ、ふりかけ程度に使い、あとはちょっとしょう油をたらしただけで仕上げたのだけれども、だいたい満足のいく味になった。「チャーハンの素」なんて、いくら安くっても買うものじゃないな、と思った。


 

[]「ガス!」(1970) ロジャー・コーマン:監督 「ガス!」(1970)  ロジャー・コーマン:監督を含むブックマーク

 WOWOWでロジャー・コーマンの作品を一気に放映したときに録画してあったもので、本編のまえにロジャー・コーマン自身のみじかいコメントもある。この作品はそれまでの「ワイルド・エンジェル」や「白昼の幻想」とはちがって、当時のユース・カルチャーにたいしてシニカルな視点をとっているのだけれども、そのせいでヒットしなかったのかもしれない、などとおっしゃっていた。また、ラストには「神」の降臨するシーンもあったのだけれども、配給のMGMがそこんところをカットしてしまったと。それでコーマンはこりて、これ以降は配給も自分の手で行なうようにしたということ。

 ‥‥さてさて、わたしの観た感じでは、「ワイルド・エンジェル」や「白昼の幻想」のように知名度の高い、集客力もありそうな俳優も出演していないわけで、ヒットしなかったのもやむをえなかったのではないかと思えるし、しかもこの演出がまた、コーマンらしくも粗いわけで、「ワイルド・エンジェル」でのモンテ・ヘルマンの編集のような手助けもなく、わたしも観ていて「ちょっとキツいなあ」とは思っていたところもある。冒頭のアニメはよかったけど。

 しかししかし、このストーリー、けっこう面白いのである。なんかのガスが世界中に拡がって人間の細胞老化を促進し、25歳いじょうの人類は死に絶えてしまうわけなんだけれども、ストーリーの力点はそっちの方には行かず、残されて世界を支配する若者たちが何をやるのか、そういう方の描写に行く。同時に、とくに終盤には近代アメリカ史やアメリカ文化を展望するような視点もうかがえる。

 何人かのヒッピーたちが警官出身の若者が支配するようになったダラスから逃れ、ダラスの教科書倉庫(!)から出発して、住みやすい土地をめざす旅に出る。ロード・ムーヴィーである。立ち寄ったレコード店で革命家気取りの男や懐メロ大好き女に出会って仲間にしたり、アメフトのユニフォーム姿のファシストグループに追われたり、ゴルフ場をねじろにする保守的な連中に攻撃されたりしながら、「そこでなら答えがみつかる」という神殿への道をたどることになる。とつぜんにバイクに乗ったエドガー・ポーとエレオノーラが登場したりする。まるでロジャー・コーマン版の「ウイークエンド」である(じっさいに、コーマンは「ウイークエンド」を観てるんじゃないだろうか?)。

 けっこう風刺の効いた面白いセリフもいっぱいあるし、乱闘シーンというのはロジャー・コーマンのお得意なのか、けっこう迫力がある。それともうひとつ。Country Joe & Fish のライヴ映像があって、その音をバックにしたサイケデリックなラヴシーンもみどころのひとつ。

 ‥‥なんだ、けっこう面白いじゃないか、というところで「オレたちが夢見た世界」が実現して、ハッピー・エンド。しめくくりにはまたエドガー・ポーたちが登場し、エレオノーラが「彼らもけっきょくはレイプや不正や戦争や殺人をやるようになるのでは?」というと、ポーの肩にとまっていた大鴉が、「Nevermore!」と、のたまうのだね。


 

[]二○一三年六月のおさらい 二○一三年六月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「グランド・マスター」ウォン・カーウァイ:監督
●「リアル〜完全なる首長竜の日〜」黒沢清:監督
●「三姉妹〜雲南の子」王兵(ワン・ビン):監督
●「スプリング・ブレイカーズ」ハーモニー・コリン:監督

読書:
●「幼少の帝国 成熟を拒否する日本人」阿部和重:著
●「盗まれたフェルメール」朽木ゆり子:著
●「耽溺」岩野泡鳴:著
●「卍(まんじ)」谷崎潤一郎:著
●「蓼喰う虫」谷崎潤一郎:著
●「武州公秘話」谷崎潤一郎:著
●「瘋癲老人日記」谷崎潤一郎:著
●「ラスベガスをやっつけろ! アメリカン・ドリームを探すワイルドな旅の記録」ハンター・S・トンプソン:著 室矢憲治:訳
●平凡社 カラー新書 セレクション「ネコの探究」西沢美衛:写真 今泉吉春:著

DVD/ヴィデオ:

●「赤と黒」(1954) スタンダール:原作 クロード・オータン=ララ:監督
●「荒野のガンマン」(1961) サム・ペキンパー:監督
●「ワイルド・エンジェル」(1966) ロジャー・コーマン:監督
●「ガス!」(1970) ロジャー・コーマン:監督
●「地獄の逃避行」(1973) テレンス・マリック:監督
●「大統領の陰謀」(1976) アラン・J・パクラ:監督
●「天国の日々」(1978) テレンス・マリック:監督
●「赤ちゃん泥棒」(1987) ジョエル&イーサン・コーエン:監督
●「欲望の翼」(1990) ウォン・カーウァイ:監督
●「ピアノ・レッスン」(1993) ジェーン・カンピオン:監督
●「テイラー・オブ・パナマ」(2001) ジョン・ル・カレ:原作 ジョン・ブアマン:監督
●「ニュースの天才」(2003) ビリー・レイ:監督
●「ドリーマーズ」(2003) ベルナルド・ベルトルッチ:監督
●「恋するポルノ・グラフィティ」(2008) ケヴィン・スミス:監督
●「ピナ・バウシュ 夢の教室」(2010) アン・リンセル:監督
●「フェイシズ」(2011) ジュリアン・マニャ:監督
●「ラム・ダイアリー」(2011) ハンター・S・トンプソン:原作 ブルース・ロビンソン:監督
●「裏切りのサーカス」(2011) ジョン・ル・カレ:原作 トーマス・アルフレッドソン:監督
●「汚れた心」(2012) ヴィセンテ・アモリン:監督
●「空想部落」(1939) 千葉泰樹:監督
●「痴人の愛」(1949) 谷崎潤一郎:原作 木村恵吾:監督
●「惜春」(1952) 木村恵吾:脚本・監督
●「巨人と玩具」(1958) 増村保造:監督
●「或る剣豪の生涯」(1959) 稲垣浩:監督
●「新 忍びの者」(1963) 森一生:監督
●「いつか誰かが殺される」(1984) 崔洋一:監督
●「勝手にしやがれ!! 英雄計画」(1996) 黒沢清:監督

  

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■ 2013-06-29(Sat)

 きょうのしごとはやはり多忙だったけれども、社としてもこの時期は一大イヴェントなわけでもあるし、役職クラスの方々が四人ほど、ヘルプにかけつけてくださり、いつもの三倍の人数になった。いくらやり慣れてはいらっしゃらないだろうしごととはいえ、やはり四人もいればしごとははやくかたづく。ただし、彼ら独自のやり方で処理されるので、ぎゃくにわたしなどはお手伝いすることができない。役職の方々を遠巻きにして別のしごとをやるしかなかったので、ストレスがたまるようなこともなかったのが助かった。きょうみたいに勝手にやって来られて、勝手にしごとを終わらせてくれるのがいちばん助かる。

 きょうは地元の図書館で、古い雑誌のリサイクルということで、利用者にこれをあげてしまうというイヴェントの日。いちおう、まいとし雑誌をもらってきたりはするのだけれども、じっさいのところほとんど読むわけでもなく放置してしまう。ゴミをふやすだけだから、ことしはもうやめようかと思ったりもしたのだけれども、けっきょく行ってみることにした。開館する十時の五分まえぐらいに図書館についたのだけれども、もうすでに二十人以上はリサイクル雑誌を置いてある別室のまえに並んでいた。まあ例年わたしのように文芸誌をあさるような人はほとんどいないから、そのあたりはゆっくりと選べるだろうと、勝手に解釈している。
 わたしとしては、ほんとうは「美術手帖」とかリサイクルに出されればうれしいのだけれども、この図書館ではもうずいぶんとまえから美術手帖の購入はとりやめている。雑誌コーナーで、美術手帖の新しい号がいつまでも入って来なくなったときにはショックだった。公立図書館なのに美術手帖を置かないなんて信じられない、とも思ったものだった。でもたしかに、並べられた雑誌のなかで読者の少なさはきっとトップクラスではあっただろう。公立図書館なんだから、読む人の数で購入打ち切りを決めてしまってはいけないだろうとも考えるけれども、勝手に購入打ち切りの理由を推測してもしかたがない。さいきんでは、「ユリイカ」も置かなくなってしまった。だからさいきんは「群像」とか「文學界」、それに「現代思想」あたりのバックナンバーをちゅうしんにあさっている。まえにゲットした現代思想の増刊号、「戦後民衆精神史」などという本は、けっこういい本だった。群像や文學界などは、いちどペラッと読んだら、たいていはそれでおしまいになってしまう。

 十時になってオープンして、そういう文芸誌の置かれているあたりに行ってみると、わたしの目のまえでよその人が「現代思想」をがっぽりと持っていくところだった。ああ、そういう人もやはりいたわけかと、ちょっとざんねんな気もちになった。それでも残っていた現代思想の増刊号「ダーウィン」を手にしてあれこれとみてまわり、SFマガジンのウィリアム・ギブスン特集号、J・G・バラード追悼号、それからミステリ・マガジンのポー生誕200周年特集号などをもらうことにした。
 ことしはわたしが知るかぎりはじめてのことだけれども、書籍関係もかなりの量リサイクルに出されていた。こういうのをチェックしはじめるときりがなくなる。「文化財講座 日本の美術」というシリーズから、鎌倉〜室町の絵画の巻、南北朝から近代までの彫刻の巻の二冊が目にとまったので、もらってきた。‥‥また、ゴミをふやすだけになるんだろうか。
 あと、図書館の方へいって、らいしゅう舞台をみる予定の大橋可也&ダンサーズの「グラン・ヴァカンス」の、その原作であるところのSF小説を借りてきた。しばらくはこの本が優先。

 帰宅してからは、エアチェックした「ウィークエンドサンシャイン」などを聴いてすごす。きょうは「意外なカバー曲」の特集で、おもしろく聴いた。ひさしぶりに、Richard Thompson の唄う「ハイサイおじさん」なんかも聴いた。

 昼食はそうめん、夕食はまたジャーマン・オムレツ。もう「いくら原価がかかったか」なんて書かない。日本酒がようやくなくなったので、ドラッグストアで別の日本酒、TVでもコマーシャルをやっているような有名酒造メーカーのものを買ってみた。やはり味はがくんと落ちる。ずいぶんまえに録画してあった映画をひとつみて、読みさしの「夢遊の人々」の第一部は、とにかくも読了した。第二部を読むのは「グラン・ヴァカンス」を読んで、それから「痴人の愛」を読んだあとのことになるだろう。


 

[]「恋するポルノ・グラフィティ」(2008) ケヴィン・スミス:監督 「恋するポルノ・グラフィティ」(2008)  ケヴィン・スミス:監督を含むブックマーク

 監督のケヴィン・スミスが好きというよりは、彼の映画にむかしいつも出ていたジェイソン・ミューズという男性のことが気になるところがあった。彼はぜったいにいわゆる「演技をする」俳優などではなく、ただのグルーブ感というのか、そういうものだけで人の目を惹きつけるところがあった。そういう人物がとびこんで来てしまうケヴィン・スミスの映画に興味があったのだけれども、「ジェイ&サイレント・ボブ 帝国への逆襲」をさいごに、彼のすがたをみることもなくなってしまった。それがこの「恋するポルノ・グラフィティ」にはまたジェイソン・ミューズが出演しているというので、観てみたわけである。

 ‥‥ざんねんながら、この作品でのジェイソン・ミューズは、「俳優」になってしまっていた。むかしのあのムチャさかげんを、ここで楽しむこともできなかった。やはり彼は「ジェイ&サイレント・ボブ」のジェイとしてだけ記憶しておこう。

 作品としては、このケヴィン・スミス監督のむかしの作品をあれこれとコラージュしてリメイクしたようなところもあり、「あいかわらずの人だなあ」という印象にもなる。前半はふたりの人物の対話ばかりが、そのふたりの組み合わせが別の人物に入れ替わりながらも延々とつづくばかりで、退屈した。「スター・ウォーズ」のパロディのポルノをつくるぞという、いちばん面ッ白そうなところを割愛しちゃうあたりが彼らしいというか。‥‥そっちの世界では有名な、わたしも名まえだけは記憶していたトレイシー・ローズが出演していた。


 

[]「夢遊の人々」第一部 一八八八年 パーゼノウまたはロマン主義 (1931) ヘルマン・ブロッホ:著 菊盛英夫:訳 「夢遊の人々」第一部 一八八八年 パーゼノウまたはロマン主義 (1931) ヘルマン・ブロッホ:著 菊盛英夫:訳を含むブックマーク

 第一部を読んだだけで感想を書いてしまうのはやはり横暴で、通読し終えたあとにはじめて書くべきだろうとは思うけれども、ちょっとだけ、覚え書き程度に。

 主人公のヨアヒム・パーゼノウは地主の息子で軍人。ボヘミア出身のルツェーナとの情事におぼれていたけれども、貴族の娘エリーザベトとのたがいに愛のない結婚にふみきるわけ。小説のほとんどはヨアヒムの一人称独白で進行するけれども、「失われた時を求めて」の主人公の一人称独白とはちがって、読んでいても「なんとまあバカな男だろう」という感想が先に立ってしまう。そのヨアヒムにつよい影響を与えているのがベルトラントという事業家で、ヨアヒムは彼のことを嫌悪してもいるけれども、頼り切っているところもあるというアンビバレントなかんけい。この第一部では、そのベルトラントとエリーザベトとの一筋縄ではいかない長い対話と、ヨアヒムがルツェーナと結ばれるところの描写というのが読ませどころ、だろうか。‥‥ちょっと、この後者の描写はあんまりにも強烈で官能的で、ここに書き写しておきたいとも思ったのだけれども、書き写すにはあんまりにも長いので、まんなかあたりのほんの一部分だけ‥‥。ほんとは、この節のさいごのところもいいんだけれども。

(‥‥)おう、厚く骨を覆っている生きた肉塊から流れ出る生の不安、その上にひろがり、張りめぐらされている皮膚のしなやかさ、お前がかき抱くことができ、お前の心臓のそばで鼓動している心臓でもって、息づきながらお前に押し迫る、肋骨だらけの胸郭と骨骼の恐ろしい警告。おう、肌の甘やかな匂い、しめった気息、胸の下の柔らかい溝、腋窩の暗さ。(‥‥)


 

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■ 2013-06-28(Fri)

f:id:crosstalk:20130629123302j:image:left ニェネントのことをおもいながら、ネコの本を読んだ。ニェネントの育ち方、育て方で、うまくいっていたなあと思うところもあり、また、失敗したのかなあと思ってしまうこともある。でも、この部屋のなかにいるかぎり、だいたいはネコらしく成長してくれているんだと思えた。同じ本に掲載されているネコたちの写真をみていると、ニェネントはけっこう立派なしっぽを持っているなあと思う。これはお母さんではなくお父さんの方からの遺伝だろう。まあ毛色だとか柄とかはみんなお父さんからの遺伝だろうけれども、このごろは表情がお母さんのミイに似てきたように思えてしかたがない。そうするとなんだか、いままで以上にいとおしさを感じてしまったりする。

 きょうはしごとも休みだったので、のんびりと過ごした。踏み切りの向こうのスーパーがきのうおとといの改装の休みのあと開店したので、ちょっと行ってみた。とくに大幅な改装をしてたわけでもなく、商品の置き場がちょっとだけ変わった程度。割引販売していたものもほとんどなく、ただ砂糖だけが普段の半額ぐらいになっていた。砂糖だけでも買って帰ろうかと思ったけれども、まだ開けていないのがひとふくろあるし、さいきんは塩だとか砂糖だとかはほとんど使わなくなってしまっているので、「よけいな買い物」だと思い、何も買わないで帰った。
 月曜日に買った日本酒の一升瓶、きょうも二合ほどは飲んだのだけれども、まだ残っている。一升で月曜から土曜まで六日間もったわけで、すばらしいことだと自分をほめてやりたくなった。って、いままでは2リットルの紙パックの日本酒など二日で飲んでしまっていたわけで、これはいまの自分をほめるのではなく、ただ以前の自分がヤバかっただけ、だろう。これからは、このくらいのペースでの飲酒にしよう。

 朝食はロールパンにあらびきウィンナをはさんだもの二つ、昼食は魚肉ハムと玉子焼きですませ、夕食は買ってあった辛子明太子で。トータルで四百円でおつりがくるだろう。そう、先日の報道のことが気になって、「一日の食費千円」とかで検索とかかけてみると、ほんとうにじっさい、このあたりのラインがネックになっているらしいのがわかった。‥‥ほんとうだったのね、というおどろき(!)。日本って、まだまだ裕福な国なんだなあと、しばし感慨にふけってしまった。まあわたしなんかはその「裕福さ」から蹴り出されている存在、というわけだ。いまになって、「具がもやしだけの焼そば」などという「甘え」ぶりにも、腹が立ってきた。

 きのう中古ハードの店に行って、エレクトーンとか買ってみようかなあ、などと思ってしまったせいではないけれども、録画してあった「ピアノ・レッスン」という映画を観た。夜はまた「夢遊の人々」の続き。‥‥この小説、すっごく面白い。


 

[]「ピアノ・レッスン」(1993) ジェーン・カンピオン:監督 「ピアノ・レッスン」(1993)  ジェーン・カンピオン:監督を含むブックマーク

 屋外の撮影が、けっこう美しい。撮影監督はスチュアート・ドライバーグという人。‥‥しかしいったいなぜ、ニュージーランドのマオリ族などを持ち出してしまって、そこに西欧起源の楽器を持ち込むなどという、まさに侵略主義的な視点がしのびこんでしまうようなあぶない物語にしたんだろうと、ちょっと疑問に思ってしまう。どうもここは、一方がことばをしゃべれない、そしてもう一方は字を読めないというかんけいをつくりたかったのだろうというのと、やはりラストにピアノを海に沈めたかった、ということなんだろう。

 海に沈んだピアノはたしかに美しいファンタジーだし、物語ぜんたいもファンタジーとして読みとってほしいのかも知れないけれども、どうもやはり、生々しすぎるところが気にはなる。‥‥男として、この物語のふたりの男のことを考えると、たしかに正当な夫であるサム・ニールはピアノを海岸から動かそうとしなかったし、どうもどこかうわべだけの「いい人」でしかなかったようには受けとめられる。一方のマオリ族の男のハーヴェイ・カイテルは、とにかくはヒロインのホリー・ハンターにはピアノがひつようなのだ、ということは理解していたわけで、そのことを「駆け引き」の材料にするという気概はもっていた、というか。もしかしたら、ホリー・ハンターにしてみれば、「駆け引き」をもちかけられるということに、自分の存在を承認し、求めるという行為に惹かれたところもあるのかも知れない。ハーヴェイ・カイテルが彼女と関係を持ったあとに、「あなたを娼婦のように扱ってしまった」と、悔いるところがいい。

 きのう観た「ワイルド・エンジェル」のピーター・フォンダとは反対に、ここでのホリー・ハンターは、前半と後半でまるで顔がちがってみえる。前半からの筋張ったきつい表情はハーヴェイ・カイテルとの関係を持つことで和らぎ、ラストでは笑顔までみせるようになる。サム・ニールにはかわいそうな映画、だった。


 

[]平凡社 カラー新書 セレクション「ネコの探究」西沢美衛:写真 今泉吉春:著 平凡社 カラー新書 セレクション「ネコの探究」西沢美衛:写真 今泉吉春:著を含むブックマーク

 著者は、いぜん読んだ「ネコの行動学」という書物を翻訳されていた方。「ネコの探究」などといっても、いったいネコの何を探究するのか、ずいぶんとあいまいなタイトルだけれども、けっきょくこの本はネコの生態、社会性を分析しながら、ネコと人間とのかんけいを探究していくような本。ネコとおつきあいするということに含まれるもんだいを、いくつかの視点から究明されている、といえばいいのか。

 この本では、ネコを理解するのにいくつかのキーワードから説いていく。まず、野生状態での動物の補食行動を「専門家」と「何でも屋」とにわけて考え、ネコはネズミなどかぎられた動物のみを補食する「専門家」と分類される。イヌなどは「何でも屋」である。「専門家」であるということはつまり、自分の専門のものが目のまえにいるときだけ、がんばればいいのである。あとは「ウエイト」。ここに、ネコの余裕があるというか、ペットとして生きるようになるとその余裕がよけいにネコの特性になるだろうか。食物さえ確保できれば、あとはいくらでも怠惰でいられるのである。

 人間はふつうどのようにネコと接し、ネコは人間をどのようにみていると期待しているかというと、これは「擬人主義」と「擬猫主義」と分けられる。人はネコを人間にみたてて接し、ネコの方では人のことをネコのように思ってくれているのではないか、と思いながらつきあっているという。しかし、成熟したネコは「単独生活者」である。群れをつくらず、子ネコ時代、子育ての時期以外は基本は一匹で生きていく動物。おなじ場所に生活する同族はライヴァルとみなすことになるから、もしも人間のことを「同族」とみなしているとしたら、いまわたしたちの知っている飼い猫のような行動はとらないだろう。そこでどうやら、ネコたちは飼い主である人間と接するときには、子ネコ気分に復帰してしまうらしい。‥‥ここには、飼い主がネコのおとな気分を刺激してしまわない「非ネコ性」が求められる。まあこのあたりは流動的で、ネコからみた人間とは親ネコにみえたり子ネコにみえたり、ときには性的パートナーとみてしまうこともあると。

 ‥‥どうしてもこういう本はわたしとニェネントとのことに照らして読んでしまうけれども、読んだかぎりでのいちばんのもんだいは、やはりニェネントを外に出さずにわたしとだけ生活していることで、これは外出恐怖症になるだろうと書かれているけれども、まさにその通りになっていると思う。で、やはりこういう場合、動物病院への入院は不可能だろうと書かれていた。‥‥やっぱり、ね。もうこればかりは、いまからどうのこうのとできないことだろう。
 あとは、お母さんのミイから授乳していた期間もちょうどいいところだったようだし、そういう生育面でほかに障害になったような育ち方はしていないようではある。


 

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■ 2013-06-27(Thu)

f:id:crosstalk:20130628083951j:image:right このところ、いちにちのあいだに雨が降ったり晴天になったりと、コロコロと空もようが変化する不安定な天候がつづいている。きのうの天気予報でもけさは雨だろうということだったけれども、あさ目覚めて窓の外をみると、駐車場の地面はぬれていたけれども空は晴れていた。しごとへ行くのに家を出ると、空気もさわやかで涼しく感じられた。快適。ただ、しごとは忙しく、トラックの増便なんかがやって来たりした。わたしとCさんとだけでは終わりそうもなく、支店に電話してDさんにも来てもらった。大きくて重たいという荷物はないのだけれども、とにかく個数が多い。増便が来ることはわかっているはずだから、先にわたしたち現場の人間に知らせてくれていないのは不可解、不愉快ではあった。

 しごとを終えて帰宅して、わたしとニェネントのあさごはん。気づいたのだけれども、ニェネントはこのごろはいちどにあまり食べないでいて、わたしが台所に立つたびについてきて、その都度ネコ皿に首をつっこんで、またちょっとだけネコメシを食べる。この行為がきょくたんになってきているようにみえる。いぜんはもっとまとめて、集中して食事をしていた記憶があるのだけれども、だんだんにだらだらとしてきたようでもあり、食事の量もトータルでみて減ってきていると思う。まあいつも元気そうだからいいけれども。

f:id:crosstalk:20130628084035j:image:left きょうはまいにちのくすりもなくなったので通院するのだけれども、そのついでに線路の向こうのスーパーの並びのATMに立ち寄り、図書館に本を返しに行こうとももくろむ。
 まずはATMに行って現金を引き出すんだけれども、となりのスーパーはきょうまで改装工事で休業。それが順番を待って並んでいるあいだにもかなりの数のお客さんが休業を知らずにスーパーにやってきて、店のまえで掃除をやっている人に休業を知らされて帰っていった。なかには、掃除の人の気づかぬうちに店のなかにまで入っていってしまう方もいた。わたしなんかでも、スーパーが営業しているのか休業しているのか、行ってみないとわからないわけだと思う。だいたいお正月いがいは年中無休だと思っているし。

 図書館は帰りに寄ることにして、さきに病院へ行く。「脳硬塞といっても、長嶋監督がなったようなものではなく、もっと末端の方での発症ですから、過度にしんぱいなさらないように」といわれる。健康には留意するけれども、谷崎の「瘋癲老人日記」を読んでなっとくしたところもあるというか、倒れるときには倒れてしまうものなのだと理解してあんまり気に病むこともなくなっていたけれども、やはりそういわれると安心した。とくべつに服用薬が増えたり変わったりすることもない。「安定していますね」ということ。
 帰りに図書館に寄り、きのう観た「痴人の愛」を借りてしまった。もっとみじかい作品だったと思っていたんだけれども、いがいに長篇だった。ちょっと館内をみてまわり、いっしょにネコの本なんかも借りてきた。

f:id:crosstalk:20130628084125j:image:right 天気もいいので、散歩のつもりですこし遠回りして帰ることにした。歩いているとうしろからきた自転車に追い抜かれ、わたしはそのあとにタバコのにおいにつつまれていた。自転車の人はタバコをすっていた。外の空気もさわやかなせいか、タバコの香りもいいなあ、などと思ってしまった。空気が、動いていくという感覚も。
 ‥‥その先の道で、地面のアスファルトに、死んだトンボがぺちゃんこになっているのをみつけた。羽根が拡げられて日の光を反射していて、まるで木の枝をクロスさせたセロテープで地面に貼りつけてあるようにみえた。外を歩くのが楽しく感じられた。

f:id:crosstalk:20130628084215j:image:left いちど帰宅して、きょうは木曜日で西のスーパーとかが一割引きだし、もっと外を歩いてみたくもなり、買い物がてらまた歩いてみることにした。
 駅の西側の踏み切りをわたってしばらく歩いていると、道路ぞいの一軒家からちょっと大きな犬が吠えながら飛び出してきた。くさりでつながれているからわたしにはとどかない。ちょっとびっくりしたけれど、「なんだよお!」といいかえす。犬は鎖をひっぱって、その一軒家のまえで円をえがくようにずっと走り回っていた。スーパーに行くまえに、もっと西にある中古機材店まで行ってみることにして、中古のパソコンなどをみてみることにした。この店ではいまのTVもDVDレコーダーも買っていて、どちらもいい買い物だったと思ってる。店についてみてまわると、Windows のノートパソコンなどは思っていたよりもずっと安く売られていた。一台だけMac のノートパソコンがあり、これは四万円ぐらい。はたしてまたMac にするのか、もうこのあたりでWindows にのりかえるか、また考えてしまう。よく見比べてみると、そのMac についているHDDの容量は500Gなんだけれども、ほかの安いWindows は40Gとか書かれている。それはあんまりにも差がありすぎないか。Windows のものにはたいていシステムディスクもついていない。そういうパソコンはこわくって買えないと思った。しかし、もしもまたMac にするとしても、この価格ならば新宿あたりの中古店に行けばもっと多彩な機種が並べられている。やはり新宿あたりで買った方がいいだろう、という結論。そう、店のなかで、いぜんしごと場でよくお会いしていた配送の運転手の方とお会いした。けっこうひさしぶりだったので、あいさつされてすぐには思い出せなかった。「この店にはよく来るんだよ」とおっしゃっていた。
 ‥‥店を出て、スーパーに足を向ける。ホットドッグ用のロールパンが賞味期限まぢかで半額になっていたのを買う。このところ、手製のホットドッグにこっているのである。これできょうの昼もホットドッグにできる。あとはたいしたものも買わないで帰宅。もうお昼はとうにすぎていた。ホットドッグをつくって昼食にして、まだ外に出たくなって、こんどは南の衣料店まで靴下を買いに行くことにした。ついでにケータイを持って出て、外の風景を撮ってみたりもした。撮ったこのあたりの風景は、てきとうにきょうの日記のなかにばらまいておく。

 部屋にもどって、なんだか急に、このあいだ観た「スプリング・ブレイカーズ」って、ロジャー・コーマンっぽいところもあったな、などと思ったりして、そのロジャー・コーマンの作品を一本観たりした。

 夕食には、じつはきのうスーパーで生のイカが98円と安かったのを買ってあったので、それでホイル焼きをつくった。もう塩分をあまりとってはいけないので自家製のイカの塩辛をつくることもなくなったので、あんまりイカを買うこともなくなったけれども、それでもイカの料理は好きで、まだ冷凍庫のなかには凍りついたイカが二はいほど埋もれている。ひさしぶりにつくった「イカのホイル焼き」、けっこうおいしかったと自讃する。食費はせいぜい百五十円。きょういちにちトータルの食費は、三百円でおつりがくるだろう。晩酌でコップ二杯ぐらい飲んだので、こっちの方がきっとお金がかかっている。夜は借りてきたネコの本を読みながら寝た。きょうは、「夢遊の人々」はお休み。


 

[]「ワイルド・エンジェル」(1966) ロジャー・コーマン:監督 「ワイルド・エンジェル」(1966)  ロジャー・コーマン:監督を含むブックマーク

 このあいだ読んだハンター・S・トンプソンが、ヘルズ・エンジェルズを取材したコラムでデビューし、評判をとったのが1965年だから、ロジャー・コーマンもやはりハンター・S・トンプソンを読んで「こいつらを映画にしてみよう」と思ったのだろうか。1966年にアメリカで公開されたこの映画、ロジャー・コーマンのかかわった作品としてはそれまでで最大のヒットになったらしい。ピーター・フォンダやナンシー・シナトラ、そしてブルース・ダーンなどが出演しているのだけれども、そのナンシー・シナトラが「These Boots Are Made For Walkin' (にくい貴方)」の大ヒットでブレイクするのがこの1966年の初頭のことだから、客がいっぱい入ったというのはナンシー・シナトラ人気のおかげ、かもしれない。ほかに、翌1967年の「俺たちに明日はない」の印象的なわき役で人気の出るマイケル・J・ポラードの顔もみえたけれども、この作品ではその個性はまだ感じられないか(演出が演出だし)。

 要するにバイク集団ヘルズ・エンジェルズのメンバー(これがブルース・ダーン)が警察に銃で撃たれ逮捕されるのだけれども、ピーター・フォンダの指揮のもと、残ったメンバーらが病院からブルース・ダーンを奪還する。彼はひん死の重傷なんだから動かしちゃったりしちゃああぶないのにねえ、なんて観ていたらやっはし、ブルース・ダーンは死んでしまう。それでもって、ヘルズ・エンジェルズの連中が教会を占拠して彼の葬儀をやるというようなおはなし。

 ロジャー・コーマンの演出は役者に演技をつけるようなたぐいのものではなく、ただやらせて文句をいわず、それをただ撮影する、というようなところがある。これを撮影のリチャード・ムーアだとか編集のモンテ・ヘルマンだとかががんばって助けるという構図なんだろうか。とくにモンテ・ヘルマンの編集はハンパじゃないところがあって、ピーター・フォンダのビリヤードのシーンだとか、バイクをふかすシーンなんかで暴走する。

 いちおう、盟友ブルース・ダーンの死んだあとのピーター・フォンダは、まわりからみてそれまでとガラリと変わってしまうらしいんだけれども、観ている観客からはまったく同一のピーター・フォンダで、映画のなかでほかの連中が「あんたは変わってしまった」っていうのが、さっぱり伝わってこない。彼は教会で牧師に向かってひと演説ぶつわけで、この演説はただナマにことばを並べてるにすぎないんだけれども、「オレたちは自由になりたいんだ! 楽しみたいんだ!」っつうのは、このあいだ観た「スプリング・ブレイカーズ」の女の子たちの「春休みをめいっぱい楽しみたい!」というのにつながっていたりするんだろう。「オレはこれを撮りたかったんだ!」という気もちが伝わってくるだけの熱気にはあふれている、と思った。


 

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■ 2013-06-26(Wed)

 きょうのしごとは、それほどまでに多忙でもなかった。帰宅してTVをつけるとMLBの中継をやっていたのを、そのままさいごまでみてしまった。集中してみていたわけではなく、朝食をとったりニェネントをかまったり、この日記を書いたりしながらのことだけれども、ゲームはやたらとソロホームランの飛び出す展開で、イチローのサヨナラホームランをふくめて、たしか六本ぐらいのホームランが飛びかっていた。おもしろかったのはそのホームランの飛んでいった先で、なぜかたいていのホームランが、ライトのセンター寄りの席のかなり前の方の、ほぼ同じ場所に落下する。おそらくは直径2メートルぐらいの範囲内に、すくなくとも三本のホームランが吸いこまれていった。二本めのときに「あれ?さっきもおんなじ場所だったじゃないか」と思っていたんだけれども、ゲームを決めたさいごのホームランもまたおんなじ場所、だった。ちゃんとみなかったほかのホームランもやっぱり、そのあたりに飛んでいったのかも知れない。おそらくはそのあたりにきっと、ボールを吸いこんでしまう強力なブラックホールが存在していたのではないかと思う。

 きょうはそういう、みていたTVのことをちょっと書いてしまうけれども、夕方の報道番組で、らいねんの消費税率アップにからめて、つまりはギリギリの生活をされておられるような方々を取材した特集があった。そのなかで、年金生活をされているという男性が、「いちにちの食費は千円でおさめるように努力しています」とおっしゃられていた。‥‥それが、ギリギリの生活なのかと、ちょっとおどろいてしまった。
 わたしも数年前までは今よりもずっとひっ迫した生活をしていて、なんとかムダをなくそうと、しばらくはいわゆる家計簿をつけていたんだけれども、そのころかかっていた食費は、米から何からぜんぶ合計して一万円ぐらいでおさめていた。いちにち三百円ちょっと。それでもわたしは栄養失調などにはならなかった(べつの病気で入院はしたけれども)。まあ今のわたしはあのころより多少は生活も楽になってはいるけれども、それでもおそらくいちにちの食費は五百円を切っていることと思う。いちにちに千円つかえるなんて、いったいどんなごちそうができることだろうと、わたしには信じられない思いがする。‥‥ああ、きっと、自炊ということをやらない人だったのだろうか。昼も夜も外食とかお弁当になってしまえば、それだけで千円ぐらいにはなってしまうだろう。わるいけど、ばっかみたいだなあ、とは思うし、そういう人を生活苦みたいに紹介するTVっておかしいんじゃないかと思う。取材したTV局の人たちにとっては、きっとそれは充分におどろくべきことだったのだろう。それではわたしなんか、どうなるんだよ。生活が苦しいんなら自分で台所に立ちなさい、とはいってあげたい。もうひとり紹介されていた苦学生(死語?)の、仕送り六万円で生活しているという青年のつくる、もやしだけが具という焼そばあたりになると、そりゃあたいへんだねえ、とは思うかも知れない。でも、ちゃんとごはんさえ炊けば、同じ支出でももうちょっとましな、栄養価の高い食事ができるんだけれどもなあ。そうそう、稲垣足穂は短冊に切ったわら半紙をあぶって、しょう油をつけて、焼き海苔みたいにしてごはんのおかずにしていたという「伝説」がある。栄養価はないか。
 まあわたしも、純米吟醸酒で晩酌をやる、なんていうぜいたくをやるようになってしまったけれども。あ、足穂は酒だけは誰にも負けないだけ飲んでいたんだっけ。

 きのう「惜春」が楽しかった木村恵吾監督の作品、まだどこかに録画してあったんじゃないかと思ったら、谷崎の「痴人の愛」を映画化したものを撮っていて、この録画が残っていたので観た。夕食は傷みかけたトマトを使ってミートソースをつくり、スパゲッティを食べた。そうそう、いちばんお金のかからなくってボリュームのある献立とは、わたしの考えではペペロンチーノのスパゲッティではないかと思う。一食二十五円ぐらいで出来ると計算したことがある。パスタのほかは玉ねぎ四分の一くらい、それと輪切りの唐辛子をちょっと、しかつかわない。もちろん肉なんかつかわない。焼そばなんて、ぜいたくである(だいたい焼そばをつくるなんて、とても「クッキング」などといえるものではない)。


 

[]「痴人の愛」(1949) 谷崎潤一郎:原作 木村恵吾:監督 「痴人の愛」(1949)  谷崎潤一郎:原作 木村恵吾:監督を含むブックマーク

 主演は宇野重吉と京マチ子のふたり。わたしはきのう観たこの木村恵吾監督の「惜春」がすっかり気に入ってしまったのだけれども、その三年まえにつくられたこっちの作品には、ちょっとばかし疑問符もついてしまう。

 この脚本にはやはり木村恵吾監督もたずさわっておられるのだけれども、これ、かなり谷崎潤一郎の原作を改変されておられる。とにかく、ラストがこんなはずはないじゃないか、ということになる。わたしもずいぶんとむかしに読んだ原作だから記憶もあいまいなんだけれども、谷崎がこんなストレートなハッピーエンドにしたわけがない。この作品では、いちど男の家を追い出されたナオミが放浪のあげく行くところもなく男のところにもどってきて、なんと「わたしがあなたの馬になる」なんてことをのたまってしまったりする。‥‥どこまでも、男が女の「馬」になるというのが谷崎潤一郎の世界なのであって、こんな世俗的な、あったりまえの世界なんかぜんぜんちがう。これはいけない。

 それでも場面場面の演出では、きのうの「惜春」のように楽しめるところもあったわけだけれども、この冒頭の男の室内での、そのカメラ位置だとか光の取りいれ方が、「惜春」とまるでおんなじなのにちょっとびっくり。あと、なんと「惜春」でいちばん印象的だったあの「踏み切り」が、この「痴人の愛」でもなんどか出てきてしまったのもおどろいた。もちろん「惜春」のようなセンチメンタルな意味合いは与えられていたわけではないけれども、おわりの方での京マチ子のまえで降りてくる踏み切りは、けっこう「惜春」のような使い方、だった。
 海岸ではやしたてる男たちのなかで踊るバンプな京マチ子も強烈だったし、宇野重吉とけんかをして部屋を出ていく哀愁の京マチ子もすてき、だった。

 京マチ子をとりまく「学生あがりの坊ちゃん」な男たちとして、森雅之や三井弘次が出演しているのだけれども、これが「学生あがりの坊ちゃん」なんかにみえるわけもなく、どうみても夜の街のポン引き。そうするとこの映画、「痴人の愛」なんかからはみ出してしまって、いつでもまるで別の映画に化けてしまいそうにみえ、ラストにナオミが男の家にもどってくるのが「奇跡」のように思えた。しかしきっと谷崎潤一郎もこの映画を観ていることはまちがいないだろうけれども、どんな感想を持ったんだろう(なっとくしたわけがないだろう)。木村恵吾という監督さん、きっときのうの「惜春」の主人公の延長のように、つまりは「とってもイイ人」だったにちがいない。そういう人がなんでこんな小説を映画にしようとしたのか、わたしにはわからない。


 

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■ 2013-06-25(Tue)

f:id:crosstalk:20130626132625j:image:left ニェネントの抜け毛が、いっそうすごいことになってきた。気温があがってきているせいもあるんだろうけれども、わたしがニェネントをつかまえようとしてそのわたしの手をニェネントがすり抜けるとき、抜けた毛がそうとうに宙に舞うのがはっきりみえる。床はけっこうニェネントの毛だらけで、すぐにはいている靴下がニェネントの抜け毛にまみれてしまう。

 あいかわらず、わたしがキッチンに立つとニェネントもついてきて、ネコ皿に首をつっこんでネコメシを食べはじめるのだけれども、きょうはネコ皿がどれもからっぽになっていた。ニェネントは皿をみつめてからわたしの方を見上げ、わたしと目があうと、わたしの目をみつめたまま「にゃあお」となく。わたしが「うん、うん」と生返事をしたままじぶんのことをやっていると、わたしの足もとにやってきて、そのわたしの足をぺろっとなめてきて、おねだりをする。「おお、ずいぶんとかわいいネコに成長してくれたねえ」と、うれしくなるのである。じぶんのことは中断して、ニェネントの食事を先に出してあげる。

 きょうはけっこう、しごともいそがしかった。これからはこんな感じのまいにちになっていくんだろう。きょねんのおなじ時期よりはしごと量は減っている気もするけれども、とにかくは人員がたりない。

 ‥‥じつはきのう、ちょっと陽気な気分でもあったので、日本酒の一升瓶なんかを買ってしまったのである。これでまたあんまり飲みすぎたりすると危険なんだけれども、きのうはコップはんぶんぐらいしか飲まなかった。べつにまずい酒だったわけではなく、埼玉の地酒で純米吟醸ということ。とりあえず日本酒らしい美味な酒で、こういうのを飲むと紙パックの日本酒なんかぜったいに飲めませんね、という味ではあった。それでも、「たくさん飲んではいけません」と自制することはできた。きょうも、コップ一杯とちょっとぐらい飲んだだけ。これくらいならあぶないこともないだろう。多少のアルコールは健康にいいんだし。おつまみにイカののしたのを焼いたようなものを買ってあって、ちょっとずつ引っぱり出して食べていたのだけれども、机の上においてあったその中身がひとかけら、いつのまにか袋から引きずり出されて床の上にころがっていた。ひろいあげると、なんだかびちゃびちゃに湿っているというか、濡れている。もちろんこれはニェネントの犯行なんだけれども、ニェネントはどうやらじぶんはイカを食べちゃいけないんだと知っているらしい。腰が抜けちゃうもんね。それでもイカの香りというか匂いの誘惑に抗しきれず、ついつい引っぱり出してぺろぺろなめちゃったりするんだろうけれども、決して食べないで放置する。倫理のしっかりしているネコ、というのか。きっと、飼い主に似たのだろうね。

 線路の向こうのスーパーがきょうは冷凍食品が半額の日で、買いたいものがあったので行ってみたら、店頭に大きく「店舗改装のために26、27日は休業」と書き出してあった。二日間休むんなら、きっときょうの閉店じかんあたりには生鮮食品なんかは半額とかにして、できるだけ売り切っちゃうんじゃないかと想像がつくので、夜にまた出直してくることにした。‥‥夕食のあと、七時ちょっとまえに行ってみると、わたしが店にはいると同時に、店内に「蛍の光」が流れはじめた。きょうは七時で閉店だったのだ。いそいで店内をまわってみると、もうすでに肉のコーナーや魚のコーナーなどはからっぽになってしまっていた。なんだ、しっぱいしたなあ、などと思ったけれども、べつに生鮮食料品が賞味期限まぎわに半額になるのはきょうだけのことでもないわけで、こんなことでガツガツしてもしょーがないのである、という教訓。

 きょうは録画してあった映画は一本観て、あとはきのうから読みはじめたブロッホの「夢遊の人々」を読みついだ。まえの「ラスベガスをやっつけろ!」みたいにすいすいと読めるわけでもないけれども、なんか、「小説を読んでいるんだなあ」ということをひしひしと感じたりはする。やはりぜんぶ読み終わるには二週間ぐらいはかかるだろうか。きょう読んだところで刺激的なところもあって、ちょっとここに書き写しておきたい気分もあるんだけれども、第一部を読み終えたところで、いちどまとめてみようかと思う。


 

[]「惜春」(1952) 木村恵吾:脚本・監督 「惜春」(1952)  木村恵吾:脚本・監督を含むブックマーク

 監督は「狸御殿」映画で知られる木村恵吾で、これは新東宝映画。タイトルからして文芸ドラマっぽくって、新東宝としては意外な感もあるのだけれども、新東宝がああいう新東宝になってしまうのは1955年に大蔵貢が社長になってからのことで、それまでの新東宝映画はけっこう文芸作品などが多かったのである。ちなみに、溝口健二の「西鶴一代女」もまた新東宝での作品だったし、つくられたのもこの「惜春」と同じ1952年だったのである。

 さて、この「惜春」、いかにも文芸作品っぽいタイトルだけれども、原作があるわけではなく、この脚本もまた木村恵吾監督が書かれている。‥‥監督が、その演出をみこして脚本を書くという利点を活かした作品というか、わたしはそのあたりがすっかり気に入ってしまった。

 映画はめっちゃメロドラマなんだけれども、けっこう下世話な気配りもばっちりというか、高尚なところで居座ろうなんてやってないところが好き。主演のカップルは上原謙と山根寿子のふたり。山根寿子という女優さんのことはまるっきし知らなかったけれども、なんとも気品のあるすてきな女優さんだと思った。この映画の役どころにぴったりというか、これはきっとアテ書きなんじゃないだろうか。彼女の全盛期はちょうど戦争のまっただ中で、国策映画ばかりの時代だったというのは彼女には不運だった、といっていいだろう。彼女は「西鶴一代女」にも出演されていたそうだ。

 上原謙には奥さんがいるわけで、これが超売れっ子の「ブギの女王」という設定。もちろん笠置シズ子が演じていて、冒頭その家のなかでセッションやっているシーンもある。超売れっ子の奥さんがいれば働かなくってもいいじゃないかと思うんだけれども、奥さんの一日の収入が彼の一年の収入とおなじであっても、上原謙は銀座の楽器店でのしごとはやめない。かわいそうに、奥さんにはまるで下男のようにあつかわれている。それで奥さんは関西方面に一ヶ月ほどの長期ツアーに出ることになり、そのあいだ家事のお手伝いさんが通ってくることになる。それがさいしょは北林谷栄のはずなんだけれども、彼女のむすめが出産するとかで来られなくなり、かわりに山根寿子が来ることになる。山根寿子はDVからの離婚経験があるのだけれども、楽しいことがあるとすぐに笑いくずれてしまう、いい性格の女性。上原謙も彼女のおかげでだんだんに明るさをとりもどし、もちろんふたりは惹かれ合っていっちゃうわけである。これで上原謙のしごとが連休のときに、ふたりで熱海に日帰り旅行に行くのだけれども‥‥、というおはなし。

 まあ誰でも想像がついてしまうだろうけれども、日帰り旅行のつもりが東京への終電に乗り遅れ、ふたりは熱海の旅館に宿泊することになる。この熱海の旅館が「東京物語」と同じというか、この頃の熱海は映画ではとっても評判がわるいっすね。でも、ここのじとじとした空気、すばらしいです。

 とにかくわたしがこの映画でいちばん好きなのは、上原謙の家の近くの踏み切りのシーン。だんだんに上原謙は、夜に帰っていく山根寿子をおくっていくようになり、その踏み切りのところでいつもふたりは別れる。けっこうロケの多い作品だけれども、この踏み切り周辺はセット撮影。警報音とともにいつも遮断機が降りてきて、電車が近づいてくる音がする。セットだから電車は来ないまえに暗転するのだけれども、この電車の近づく音が、ふたりの乗った熱海へ向かう電車の音に引き継がれたりもする。そして、泣けてしまうラストでは、いままで見えなかったその踏み切りを通過する電車が、遮断機のまえでたたずんでいる上原謙のまえを通過していく。車窓からの明かりが、上原謙のすがたをストロボのように照らすラスト。すばらしい、と思った。

 別に巨匠と認識されているわけでもない監督の、もう忘れ去られようとしている作品だけれども、巨匠によるち密な演出の、なんとも重たい作品だけがすばらしいというわけではない。「傑作」というわけではないかもしれないけれども、わたしはこの「惜春」は大好きである(もともと、メロドラマは好きですから)。


 

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■ 2013-06-24(Mon)

 きのうは外に出て、アルコールなども摂取してしまったので、健康状態がしんぱいなことではあったのだけれども、あさ目覚めると、なんとも世界がどんよりと暗い。これはもちろん外が曇天というか、かなりの雨が降っているような天候だったせいもあるのだけれども、きのうのあさのことがずいぶんとむかしのことのように思えたりもして、気分もまるでさえない。まえの発作のときのみたいに変な夢をみたような記憶はないのだけれども、あのときも前日のことがずっとむかしのことに思えたりしたわけだから、あぶない。黄信号というところではないのか。‥‥しごとも非番で休みだし、きょうはおとなしく、静かにしていようかと。

 雨ははやいうちにやみ、すぐに晴天になってしまった。このところ不安定な天候がつづいて、まいにちのように、晴天〜曇天〜豪雨などという変化を、みじかいじかんのうちにみせてくれる。それで空が晴れてしまうとなんだかわたしも爽快な気分になり、「なんだ、そんなことに影響されるのか」などとは思ってしまう。そうすると「せっかくいい天気なんだから」と外を歩きたくなり、また川向こうのレンタルヴィデオ屋の古着コーナーで半額セールをやっているのを思い出し、行ってみることにした。
 ‥‥このごろは、「これは掘り出し物!」というものもあんまり出ないのだけれども、きょうは胸ポケットのついたグレーの(わたしの思う)いいデザインのTシャツと、またまた黒のボトムスを買ってしまった。ボトムスはもういくつもここで買ったものを持っているんだけれども、どうも「良さそうだ」と思って試着してみて、ウエストのサイズがぴったりだと、ついつい買ってしまう。だいたいウエストのサイズが合っていても、丈までぴたりということはあまりないわけで、たいていはわたしにはちょっと長め(つまり、わたしの足がちょっと短かめ)。そういうのをいつもそのままはいているんだけれども、けっきょくは裾をひきずって歩いているわけで、すぐに裾がぼろぼろになってしまう。いまはいているのも二着はそういう状態になってるから、そろそろ買い替えどきなのかと。きょうのボトムスはかなり裾は長めで、このままではとてもはけないけれども、ほかのところはピッタリだし、デザインというかつくりもわたし好みだった。Tシャツとボトムスで会計は七百円である。家計がたすかる。

 そういう買い物をするとよけいに元気が出るようで、若い女の子たちがそういうショッピングで元気になるというのが、よくわかる気がしたのである(わかられても迷惑だろうが)。部屋にもどっても、「なんか、きょうは健康だなあ」という感じで、けさのどんより感などすっかり忘れてしまっていた。それと、きょうはヴィデオなど観ないでずっと読書に集中してしまい、まあ読みやすかったこともあるけれども、ほとんどきょういちにちで一冊読みおえてしまった。そうすると「これからはこのペースで読書だなあ」という気分にもなり、じゃあ、もう死んじゃうかもしれないんだから、いまのうちに「失われた時を求めて」を読んでしまおうか、なんてことも考えてしまう。「失われた時を求めて」はずいぶんむかしに井上究一郎訳でぜんぶ読んだことはあるけれども、もちろんすっかり忘れてしまっているし、いまのわが家には、そのあとに出た鈴木道彦訳での文庫本が全巻そろっていて、「はやく読んでくれよ」とわたしを待っているのである。‥‥いちどはその第一巻をベッドに持ちこんで、読みはじめようとしたんだけれども、「いや、そのまえに」と考えなおし、これもずっと放置してある(わが家には放置された本などいくらでもあるのだけれども)ヘルマン・ブロッホの「夢遊の人々」という難物に、さきにトライしてみることにした。ちょっと、こちらも山になってわたしを待っている「昭和文学全集」には、休んでいていただこう。


 

[]「ラスベガスをやっつけろ! アメリカン・ドリームを探すワイルドな旅の記録」(1971) ハンター・S・トンプソン:著 室矢憲治:訳 「ラスベガスをやっつけろ! アメリカン・ドリームを探すワイルドな旅の記録」(1971)  ハンター・S・トンプソン:著 室矢憲治:訳を含むブックマーク

 ‥‥読みはじめたさいしょのうちは、こういう「イッちゃってる<オン・ザ・ロード>」みたいなのはイヤだなあ、などという気分でもあったんだけれども、読んでいるうちにこちらの気分もハイにさせられたのか、きょうのハイな気分がさきにあって、この本の気分にマッチしていたのか、一気に読んでしまった。‥‥いちおう、ハンター・トンプソン氏も、どこかの出版社とか雑誌社との契約でもってラスベガスに来てるんだろうけれども、どういう意識構造でこういうハチャメチャがやってのけられるのだろうか。ふつうに考えればこういう行動をとったジャーナリストは、二度と出版社のビルなんかには立ち入ることはできなくなるんじゃないかと思うのだけれども、彼は二十世紀後半のアメリカを代表するジャーナリスト、なんである。

 この本のラスベガス滞在記は、後半どんどんエスカレートしていくのだけれども、カセットテープからおこされたという設定の、ハンター・トンプソン氏の相棒の弁護士(テリー・ギリアムの映画ではベニチオ・デル・トロが演じていた)とスタンドのウェイトレスとの「アメリカン・ドリーム」をめぐるトンチンカンな対話で最高潮に達するというか、それまでなかなかみえてこなかった、この本のかげのテーマのようなものが、あらわになってくる。そして、そのあとにはめずらしくもハンター・トンプソン氏もマジになって、ティモシー・リアリー以降のアメリカのアシッド革命の誤謬を語るのである。長くなるけれども、ちょっと引用しておこう。

 リアリーの転落とともに、彼が情熱を傾けて唱えていた、全てを包括した全的(ホール)なライフスタイルの創造という主張は、幻想という一語とともに葬りさられ、後には燃えつきて街頭にたたずむ求道のルンペン、精神障害者、一時的なかたわになった連中‥‥帰り道を忘れたほぼ丸々一世代分の若者たちが残った。だが、そもそも彼らは“アシッド・カルチャー”のまぶしい光と音の洪水、その精神的な衣装にまどわされて、この文化がその根本でかかえていた本質的な誤謬に気づかなかったのだ。“トンネルの終りに見えてくる光‥‥あそこにはその光を自分たちに与えてくれる誰か、きっと大いなる光の人がいるはずだ”——なんとかうんざりするような自分の生活を変えようとアシッドをとった若者たちの胸の奥には、実はいつもそんな思いがひそんではいなかったか?‥‥
 甘く、絶望的なまでにひよわな思い。だが、皮肉なことにそれは何百年、何世紀にわたって教会を支え、軍隊を支えてきた意識となんら別のものではないのだ。新しい衣裳を着た古いたわごと‥‥より高く、より賢い権威への盲目的な信仰と追従、首相を信じ、将軍に従い、法王を讃え‥‥その位階は“神”へと至るのだ。アシッド文化の躓きをどうして笑うことができるだろう?

 ‥‥ハンター・トンプソンは、アシッド文化を笑っているのではない。もちろん肯定するわけもないが、ここに、彼の立つところの「場所」があったのだろう。彼は2005年に自殺されたらしいが、そのことが彼の敗北を意味するのか、そうではない一種の勝利の結果なのか、わたしにはわからないけれども、きのう観たハーモニー・コリンの「スプリング・ブレイカーズ」のどこかに、このハンター・S・トンプソン氏の影が、映りこんでしまっていたような気もしてしまう。


 

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■ 2013-06-23(Sun)

 あしたしごとが休みなので、またも東京に映画を観にいくことにした。きょうはハーモニー・コリンの新作、「スプリング・ブレイカーズ」を観るつもり。これで、一週間に四本のロードショー公開映画を観ることになる。かつて映画祭や特集上映など、上映が集中して行なわれるようなケースなら、このくらいのいきおいでスクリーンに向かったこともあるかも知れないけれども、ふつうにロードショー公開の作品をこれだけのペースで観るなんて、おそらくははじめてのことだろうと思う。

 しごとを終えて帰宅して、まだちょっとお誕生日のとくべつメニューの残っているニェネントのごはんを出してあげ、じぶんもロールパンで朝食をとる。このところロールパンがおいしくって、つい売っているとロールパンを買ってしまい、冷凍庫ストックの食パンがなかなか減っていかない。きのう収穫した枇杷の実をすこし食べ、日記を書いているともう昼がちかくなる。またレバニラ炒めをつくり、残っているごはんで昼食にしてから出かける。

 ローカル線のなかでもほとんどすぐに寝てしまい、乗り換え駅に着いてもまだ寝ていた。乗り換えたあともやはり、ほとんど眠っていた。池袋に近づいたあたりで目覚めるけれども、さすがに日曜日というか、いつのまにか電車のなかはけっこう混雑していた。

 渋谷駅で下車し、すぐに映画館へ向かう。つぎの上映の二十分ほどまえだったけれども、チケット売り場にはけっこうな数の若い女性たちが並んでいた。ちょっとおどろいた。チケットを買って館内にはいるとやはりけっこう混み合っていて、それもほとんどの客が若い女性。おそらくは90パーセント以上になるだろう。ときどき若いカップルだとか、わたしなんかと同世代ぐらいのおじさんの客がまじっている。若い男性だけというのはいなかったようにみえた。なんだか女性四人のグループだと割り引きになるようで、そういうグループが多いのかも知れない。‥‥映画がはじまった。感想は下に。

 映画が終わって、まだ場内が暗いうちにちょっと視線を客席に移すと、ちかくの席のショートパンツ姿の女性が、空いていたまえの席の背もたれに足をのせているのがみえた。うんうん、そういうことをやりたくなっちゃう映画だったよね。

 外に出るとまだまだ空はあかるい。きょうは下北沢まで行って、ひさびさに(でもないか)「G」に寄ってみようと思っている。京王線で下北沢に移動して、ここでむかしの小田急線との連絡の出口ではない側から降りてみた。ところがそこから先で道にまよってしまい、いくら歩いても、見知っている下北沢の商店街がみえてこない。‥‥そのうちに交通量のおおい大きな通りにぶちあたってしまい、「こりゃあ環七だな」ということになる。そばに、「新代田」の駅があった。まったく方向をまちがえて、ひと駅歩いてしまったわけである。ここで電車を使って下北沢にもどるのもしゃくなので、「方向かんけいもわかったので、こんどはだいじょうぶだろう」と、また歩くことにした。‥‥だいじょうぶだった。

 ところが、下北沢の商店街を歩いているあたりで、空からぽつり、ぽつり、と落ちてくるものがある。きのうもうちのあたりでこういう雨になったわけだったけれども、きょうは東京でこうなるわけなのか。だんだんに、雨足もつよくなってくる。ここでちょうど、わたしが以前はなんどか足を運んだことのある店(バー)のまえに通りかかり、そこのシャッターも開いていたわけだけれども、そのシャッターの内側に傘立てがあり、「ぜったいにこれは置き忘れだろう」というような傘がいくつも、その傘立てに残っていた。しらない店じゃあないし、ちょっと片づけてあげましょうということで、ビニール傘をひとつお借りすることにした。その傘をさして歩いていると、もっともっと雨がつよくなってきて、ほとんど豪雨といっていいような降り方になった。傘をさしていてもぬれてしまう。なんとか「G」へ到着。わたしのあとにすぐ、従業員のEさんが傘なしでびしょぬれになって到着してきた。カウンター席から外をみると、道路の表面二十センチぐらいがはね返る雨で白くなってみえる。わたしは傘をお借りすることができてよかった(どなたの許可も得てないが)。雨はそんなにしないうちに小やみになってしまい、いつしかすっかりやんでしまったようだった。

 店にはときどきこの店でもお会いしてしまうFさんとGさんのご夫婦のすがたがあった。むかしはダンスかんけいの舞台などでよくお会いしたのだけれども、なぜかこの店でもお会いする。というか、このごろはこの店でしかお会いすることもない。おたがいの近況など、ちょっとだけお話をする。
 きょうはBGMでアイリッシュの伝承歌っぽいものがかけられていたので、Hさんに「これはなに?」と聞くと、アイルランドの労働者っぽい人たちによって唄われた、労働歌集だった。Rebel Songs というやつだけれども、たしかChumbawamba もこういうアルバムを出していたんじゃなかったかしら。このアルバムもとってもいいんだけれども、きゅうにそっちも聴きたくなったりした。

 ‥‥せんじつの発作もあるので、あんまり飲んでしまうのもこわかったけれども、けっきょくはビールを半パイント、いつものラムのロックを二杯飲んでしまった。八時をすぎて店を出て、電車の乗りつぎがうまくいって、十時半ぐらいには家に帰ることができた。まだ残っていたごはんでかんたんに遅い食事にして、さっさと寝た。


 

[]「スプリング・ブレイカーズ」ハーモニー・コリン:監督 「スプリング・ブレイカーズ」ハーモニー・コリン:監督を含むブックマーク

 四人の女の子が出てくるんだよ、ということのほかはまったく内容を知らないまま、スクリーンに向かった。ハーモニー・コリンらしい、トンだ映像と編集がここちいい。どうやら「金がないけど春休みをフロリダとかで楽しみたい」女子大生四人組のおはなし、らしいのだけれども、これがけっこうムチャやらかす連中で、そういうムチャやってけっきょくはフロリダへ行き、フロリダでもムチャをやる。映像もムチャになってきて、いっしゅん、このままハードコア・ポルノになだれ込んでしまうのかと、ハラハラして期待した。‥‥そういうことには、ならなかった。ただ、これはハードコアヴァイオレンスというのか、後半の展開は北野武の作品を思い浮かべながら観ていてたりした。北野武の場合、その暴力は「死にたい」というロマンに裏づけられているのだろうけれども、このハーモニー・コリンの「スプリング・ブレイカーズ」では、「なにがなんでも生き残って楽しんでやる」というロマンなのだ、といっちゃっていいんだろうか。それともこれは「ゲーム」なんだろうか。リアリティなんかどうでもよくなってしまうあたり、タランティーノなんかよりも徹底している感じも受けた。
 女の子四人と、後半彼女らを牛耳るジェームズ・フランコとが、夜のプールのそばのピアノを弾きながらブリトニー・スピアーズの曲を唄っちゃうという、あまりにすばらしいシーンも用意されている。

 四人の女の子たちはさいしょっからさいごまで行動を共にするわけでもなく、終盤にはひとり、ふたりと抜けていったりもするけれど、そういうあたり、ひとりずつ仲間が増えていったりするむかしの西部劇なんかの、その逆をやってるんかな、などと思ったりした。女の子たちがそれぞれ、お母さんなどにあてて「わたしは元気で楽しんでるわ。心配しないで」などと手紙を書くあたりも、ドラマの流れのなかでとっても興味深いところだった。

 あとでこの撮影監督のブノワ・デビエという人物を調べたら、「ランナウェイズ」の撮影も担当している方だったけれど、英語版のWikipedia では、あのマリリン・マンソンの「Phantasmagoria: The Visions of Lewis Carroll」の撮影もこのブノワ・デビエという方が担当していたと出ていた。おかしいのは、その「Phantasmagoria: The Visions of Lewis Carroll」が2013年の作品と出ていたので、「ついに完成してしまって公開されるのか!?」なんて思ってしまったけれども、どうもそういうわけでもないようだった。やはりこれは「幻」の作品。


 

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■ 2013-06-22(Sat)

f:id:crosstalk:20130623111825j:image:right このところ、雨が降るんだか降らないんだか、ずっとはっきりしない空もようの日がつづいていたんだけれども、けさはひさびさにスカッと晴れた空。きょうとあしたは、とりあえずは晴天がつづくらしい。空気もさわやかで、こういう気もちのいい朝というのも、年になんかいもあるものではないと思う。

 しごと場の倉庫のそばに大きな枇杷の木が一本はえていて、いまはその枇杷の実がびっしりと実っている。「すずなり」というのは、まさにこういうことをいうんだろう。Cさんが実をつんで食べ、「おいしい」という。わたしもひとつ食べてみた。ぜんたいに小ぶりで、店で売っているものほど甘くはなく、ちょっとすっぱいのだけれども、わたしはこういう味がさっぱりと感じて好きである。
 しごとがいちだんらくしてから、Cさんが「うちに持って帰る」といって山ほどつんでいるので、わたしもつられてけっこうな量をつんで、持って帰った。ひとりでこんなには食べられないと思う。部屋においておくと、ニェネントが「これ、なあに?」みたいに枇杷にきょうみをしめすのだけれども、あなたには食べられないでしょう。

 ニェネントの誕生祝いのごちそう(というほどのものではないが)はまだまだのこっているので、きょうもニェネントにはうれしい日だったことだろう。出してあげたものを食べのこさず、きれいに食べてくれる。いっぱい食べてくれると、わたしもうれしい。

 しごとを終えて帰宅してからは、FMを聴いてすごした。ゴンチチの「世界の快適音楽セレクション」が終わったあとは、あさからエアチェックしてあった分を聴き返す。まいしゅう土曜日にしごとがあるときにはいつも、こうやってエアチェックしたものをあとで聴いているのだけれども、これがだいたい五時間分いちどにエアチェックしてあるので、聴き終わるのは夕方になってしまう。まあさいしょの一時間はどうでもいいんだけれども、きょうはそのあとの現代音楽の番組で、いまの日本の若い作曲家の作品をやっていたのがけっこう面白かった。また聴き返してみたい。そのあとのピーター・バラカンさんの「ウィークエンド・サンシャイン」のきょうの特集は「アトランティックR&B」。聴いたことのなかった曲がほとんどで、楽しいのだけれども、どうもこのごろ、要するにこの番組はわたしなどピーター・バラカンさんと同世代の人たちが、むかしの音楽を懐かしむ番組、というポイントをまえよりもつよく感じてしまってしかたがない。そういうところでは、このあとの「世界の快適音楽セレクション」の方が、ずっと楽しく感じてしまうことになる。‥‥古い音源をかけるということでは、「世界の快適音楽セレクション」がもっともっと古い曲をかけるわけだけれども、これはもう同時代的に聴いていた人が存在するわけでもないような、めっちゃ古い曲がかかる。それと、最新の音楽などがごっちゃに流されるわけで、「古いものもあたらしいものも、いっしょに聴いてみて、そこからあなたが何かをみつけてごらんなさい」といっているように思ってしまう。じっさい、聴いていて視野(聴野というべきなのか)が拡がる思いがしたり、あらたな発見をした思いになるのは、「世界の快適音楽セレクション」の方である。きょうの放送分では、アニタ・オディの歌声に聴きほれてしまったり(なんだ、やっぱりオヤジ趣味ではないのか)。

 ベッドに寝ころがってそのエアチェックを聴きながら読書して、そのあとは録画した映画を一本観た。なんだか窓の外が暗くなっているようなので外をみてみると、どしゃぶりの雨になっていた。あの晴天がこんな雨になるなんて、想像もできない。いったいどうしちゃったんだろうか。とにかくは雨の被害にあわなくてよかった。

 夕食はまたレバニラ炒めにしようか、なんてかんがえていたのだけれども、むかしよくつくった「ジャーマンオムレツ」というものを、ずいぶんとひさしぶりにつくってみた。これはかんたんなもので、オムレツのなかに賽の目にしてゆでたじゃがいもだとか、玉ねぎだとかを炒めて包みこんだもの。まあまあの味だった。


 

[]「瘋癲老人日記」(1961) 谷崎潤一郎:著 「瘋癲老人日記」(1961)  谷崎潤一郎:著を含むブックマーク

(‥‥)泣キナガラ予ハ「痛イ、痛イ」ト叫ビ、「痛イケレドモ楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ」ト叫ビ、「モット蹈ンデクレ、モット蹈ンデクレ」ト叫ブ。

 これはこの作品の終盤、主人公が自分の墓に恋いこがれるマドンナの颯子の足型を彫ることを夢想し、それでもって、死後の墓の下の自分を想像しているところ。‥‥読んでいて、思わず声をだして笑ってしまったではないですか。もう、「すっばらしい」のひとこと。人が自らの「死」を意識するとき、その「死」をどのように止揚するのか、たいていはある種の「達観」へといたろうとするのではないのかと思うんだけれども、‥‥コレだよ。「死ぬまで」というどころか、死んでもなおインモラルでありつづけようという強靱さ。いやあ、とてつもない勇気をいただきました(いや、あのね、わたしもインモラルに生きようというのではありませんので、誤解のありませんように!)。

 小説というものの「極北」(いや、「極南」なのだろうか)のひとつ、だとは思う。あんまり分析してもしょうがないではないか。


 

[]「ニュースの天才」(2003) ビリー・レイ:監督 「ニュースの天才」(2003)  ビリー・レイ:監督を含むブックマーク

 これまたジャーナリストを主人公とした作品。きっとこれを録画したころ、WOWOWでそういう作品をセレクトして連続して放映していたんだろう。「ラム・ダイアリー」から「大統領の陰謀」、そしてこの「ニュースの天才」と。いちおう、この作品のベースにも、じっさいの事件(というのか)があったらしい。

 きのう観た「いつか誰かが殺される」では、演出はいいのに脚本が‥‥、みたいな感想を持ったのだけれども、この作品はちょうどその正反対というか、映像、映画として、こんなにもそのあたりをなおざりにした作品というものも、ひさしぶりに観た思いがする。まあ、演出というものはその向いている方向はいろいろとあるだろうけれども、つまりわたしが観たいのは「映画」としての展開なのであって、それは「どういうふうに観せるか」ということ、だろうか。そういうことでは、なんにもかんがえていない作品ではないのか、そう思った。あとのところがどんなによく出来ていても、わたしにはどうでもいいのである。以上。


 

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■ 2013-06-21(Fri)

f:id:crosstalk:20130622120337j:image:left きょうは、ニェネントの三歳の誕生日。ふだんは食べないようなものを出してあげるぐらいしか祝ってあげられないけれども、三年間ずっと、いつもいっしょに生きてくれてありがとうね、という気もちでいっぱい。わかってくれなくってもいいけれども。ニェネントのおかげで部屋のなかがメチャメチャになったりもしているけれども、もうニェネントはわたしの一部。生まれたときの生まれた場所こそはこの部屋ではないけれども、生まれた翌日か翌々日にはおかあさんのミイにこの部屋に連れてこられ、それからはずっと、ほとんどこの部屋のなかだけで生きているニェネント。ニェネントの生きた年月は、そのままほとんど、ニェネントがわたしといっしょに過ごしたじかんと同じになる。この部屋はニェネントの全世界で、どのような意味でも、わたしがニェネントを支配している。もっともっとニェネントの思っていることを理解するようにつとめて、ニェネントが「楽」や「快」のなかで生きていけるようにしてあげたい。ニェネントとの生活の、四年目がはじまる。

     f:id:crosstalk:20130622120425j:image

 五月分の給与明細をもらった。予想よりもちょっと多かったこともあって、やはりこの際、新しいパソコンを買ってしまおうかと思う。いまのパソコンではどんどんと見られないサイトもふえてきているし、やりたくってもできないこともいっぱいある。置くスペースのこともかんがえて、やはりノートパソコンにしようか。もうひとつ、ニェネントの不妊手術ということも、いぜんはかんがえていたわけだけれども、ニェネントをひとりだけにしてこの部屋ではないところに宿泊させるなんて、わたしにはできないことがわかったわけである。もうニェネントをずっと部屋飼いにして外には出さないで、発情期はちょっとかわいそうなところもあるけれども、がまんしてもらって、わたしもがまんして、不妊手術はやらないということにだいたい決めてある。

 きのうロールパンを買ったので、朝食はロールパンにレタスとウィンナをはさんだもの。これがおいしい。ずいぶんまえに買ったトマトが冷蔵庫のなかで危険になりつつあるので、昼食にこれを玉ねぎやニンジン、そしてひき肉と炒めてケチャップで味つけし、スパゲッティをゆでてからめて食べた。これもおいしかった。夕食は何にしようかと、あてもなくひさしぶりに線路の向こうのスーパーに行ってみた。ニラが安かったので、こんやはレバニラ炒めということにして、もやしなんかと買って帰った。
 わたしは肉類と食パンとはぜんぶ冷凍庫に保存していて、ストックはいつもかなりの量がある。安いときに買っては冷凍庫にほうりこんでおくんだけれども、肉はときどき買いだめしすぎてしまうことがある。いまはレバー類が在庫過剰で、レバニラ炒めという献立は安上がりだし、いま望まれるところでもある。‥‥ちゃっちゃっとつくって、「いただきます」。なかなかの出来だった。まだニラももやしもけっこう残っているので、あしたもまたレバニラ炒めになるかもしれない。

 きょうは映画を二本観て、きのう借りた「ラスベガスをやっつけろ!」をすこし読みついだ。BGMに聴こうと、ずいぶんむかしに買ったCD、アメリカのビルボード誌のシングル盤チャートで1位になった曲を、年代順にすべて網羅したアルバムを引っぱり出してみた。むかしは著作権がゆるいところもあったから、わけのわからない会社がこんなCDをリリースしていたりもした。いまではかんがえられないことだろう。きょうは、1966年の5月から12月までのナンバー・ワン・ソングを聴く。Mamas and Papas の「Monday, Monday」から、New Vaudeville Band の「Winchester Cathedral」まで。ひさしぶりに聴いてみて、こころにひっかかったのは、Frank Sinatra の「Strangers in the Night」(じつは、わたしのカラオケのおハコ)だとか、Donovan の「Sunshine Superman」、Association の「Cherish」など。


 

[]「いつか誰かが殺される」(1984) 崔洋一:監督 「いつか誰かが殺される」(1984)  崔洋一:監督を含むブックマーク

 崔洋一監督の、映画第三作。絵コンテがしっかりしているというのか、映像としてはなっとくのいく作品。撮影もよかったけれども、撮影監督は浜田毅という人で、げんざいも活躍されている方のようだ。ただし、この脚本(もしくは原作)はあんまりにもひどいというか、このあたりの出来で「ゴー」がかかっちゃうというのが信じられない気がする。わたしは映画を観ていてもストーリーのことはどうでもよかったりするんだけれども(「どういう映画の見方?」と、自分でも思う)、この作品は「どうでもいい」ではすまされない気がした。監督も、そのあたりは投げてしまっている印象はあるけれども、どうだったんだろう。

 たとえば、ヒロインの祖父は中国で抗日戦線のリーダーだったらしいのだけれども、その子にあたるヒロインの父は、日本のためにつくそうとする国際スパイであるらしい(彼が蒐集したデータにはCIAのスパイの名もKGBのスパイの名もあげられているわけで、これが反日組織とはかんがえにくい)。そのあたり、作り手、書き手は矛盾を感じないのだろうかしらん。ちょっと(ほんとうにちょっとだけ)いじれば、祖父の遺志をついだ父という造形にかんたんに書き換えられるのに。そのほかにも、理解しがたい展開がいくつもある。


 

[]「大統領の陰謀」(1976) アラン・J・パクラ:監督 「大統領の陰謀」(1976)  アラン・J・パクラ:監督を含むブックマーク

 ウォーターゲート事件を追求したワシントン・ポスト誌のふたりの記者(ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマン)を主人公にした実録もの。このふたりをせんじつ観た「ラム・ダイアリー」のハンター・S・トンプソンと比較しちゃあいけないだろうけれども、「ラム・ダイアリー」でのトンプソンだって、この「大統領の陰謀」のふたりぐらいの気概はあったんかもしれない。「ラム・ダイアリー」では「もうあとの祭り」みたいになってしまっていたんだけれども、そのあとにアメリカにもどったハンター・S・トンプソンは、このふたりとはまたちがった、強烈なジャーナリストになるわけだ。そのことはとりあえずいまはかんけいないとして、この「大統領の陰謀」では、ポスト誌の主幹がこの若いふたりをサポートする。

 新聞記者を主人公とした映画というのはそれなりにあるけれども、この作品は「あの<ウォーターゲート事件>を追求した新聞記者たちは、いったいどのようにして<真実>にせまっていったのか?」という、いってみれば、ただこれだけを描いた作品。はたしてこの記者たちの私生活はどうだったのかとか、<ウォーターゲート事件>とはどのような意味があった事件だったのか、などということはまるで描かれない。ただひたすら一直線。説明があるわけでもないから、目のまえにある複数のとっかかりのなかから、その時点でどうしてそのとっかかりを究明しようとするのか、わからない部分もある。電話取材のシーンが多いのもこの作品の特徴というのか、そういうドラマにしにくいだろうシチュエーションを、けっこううまいこと料理している印象はある。けっこう多くのシーンが新聞社のなかで展開しているけれども、閉そく感はない。それはワシントン・ポスト誌の社内が広大だったから、ともいえるだろうけれども、やはり撮影のゴードン・ウィリスの功績というのはあると思う。うまい具合に駐車場の暗やみでの「ディープ・スロート」との密会があり、ドラマに幅や奥行きが出ていた。あと、ワン・ショット。主人公ふたりが車に乗るところを空からとらえ、そのままカメラが上昇して市街の全景まで見渡すショットがすばらしかった。俳優では、主幹を演じたジェイソン・ロバーズが、ふたりの上司として、きびしさとあたたかみとを同時に感じさせてくれるようで、印象にのこった。

 観終わったあとに、ちょっとこの「ウォーターゲート事件」のおさらいをしてみたのだけれども、この映画でも重要な役割であるところの内部告発者(?)「ディープ・スロート」なる存在、じつはいまから八年まえの2005年になって、その当人が正体を明かしたのだということ。びっくりした。さらにその人物はなんと、当時のFBI副長官だったマーク・フェルトという人物だったと。‥‥これはおどろきであると同時に、「やっぱりそうだったか」という印象にもなる。もちろんわたしはそこまで「ウォーターゲート事件」のあれこれにくわしいわけでもないけれども、せんじつ読んだエドガー・J・フーヴァーの伝記のなかで、ニクソンとフーヴァーが反目しあうようになった結果、ニクソンはフーヴァーつまりFBIにたよらずに情報蒐集(盗聴など)を行なうようになり、いずれはフーヴァーを退任させようとしていたことが書かれている。つまり、ニクソンはほんとうはFBIが得意にしていた情報蒐集をFBI抜きで行なおうとしたわけで、とうぜんフーヴァーがそのことを面白く思うはずもない。また、FBI副長官という肩書きの人物が、長官であるフーヴァーの意向を無視して独断でワシントン・ポスト誌などにヒントを与えるわけもないと思う。つまり、「ウォーターゲート事件」が露見してニクソンが辞任に追いやられるという筋書きは、おそらくはエドガー・J・フーヴァーが思い描いた筋書きだったわけだろう。きっとそうにちがいない。この「情報蒐集」というアメリカの悪癖は、げんざいもなおCIAによって継続されていることがこのあいだ暴露されたりもしたわけだけれども、たいした「民主国家」だと思う。

 そう思いながら、確認のためにそのフーヴァーの伝記「大統領たちが恐れた男」のなかの、「ウォーターゲート事件」の前後の書かれたあたりにざっと目をとおしてみると、この「大統領の陰謀」の黒幕として出てきた名まえが、ゾロゾロゾロゾロと、いっぱい出てくるのである。このあたりだけでも、もう一回読んでみようかしらん。


 

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■ 2013-06-20(Thu)

 そろそろ、しごとがいそがしくなる時期になってきた。年に二回、ちょうど世間でボーナスが出るころにあわせて、わたしたちのしごと量はふだんの何倍にもなってしまう。特にことしはわたしたちメンバーも減ってしまっているし、ほんとうにいそがしくなったらどうなるんだろうと、不安にもなる。きょうはその予告というのか、それなりのしごと量で、人員はふたりしかいないし、疲れてしまった。わたしの健康は万全ではないというのに。

 しごとを終えて帰宅して、まずはホームセンターに買い物に行く。あしたはニェネントの三歳の誕生日なので、そのお祝いの品を買うため。きょねんのニェネントの誕生日のときには、このホームセンターでネコちゃんのパーティー用グルメセットなるものを売っていたので、それでニェネントのお祝いをしたわけで、ことしもまたそれを買って来ようかと思ったのである。それがざんねんながら、きょうはそういうものは売っていなかった。かわりにネコ用のおやつとカニカマ、そしてまたたびを買って帰った。‥‥まえにもニェネントにまたたびをためしたことはあるのだけれど、そのときのニェネントはまったく無反応だった。子ネコには効かないということを読んでもいたので、やはりニェネントはまだ子どもだからなんだな、などと思ったのだった。ニェネントももう三歳。ニェネントにはんぶん流れているラグドールの血筋でいうと成長がほかのネコよりも遅いそうで、四歳ぐらいになってやっとおとな、などとも書かれているんだけれども、このところニェネントもすっかり落ち着いてきているし、ルックスもいっちょまえの成猫にもみえるようになった。もうおとなになって、またたびにも反応しちゃうんじゃないだろうか。そんな「実験」のつもりもあって、またたびも買ってしまった。

f:id:crosstalk:20130621174520j:image:left わたしはあしたがニェネントの誕生日ということにしているけれども、じっさいのところは二十日、つまりきょうという可能性もかなりあるわけで、きょうも買ってきたおみやげを開けて、誕生日の前夜祭をやる。さすがにおやつはおいしいのか、すぐにとびついてぜんぶ食べてしまった。ネコ用のカニカマも食べるけれども、むかしあげたことのある人間用のカニカマの方がよく食べていたというか、気に入っていたのではないかと感じる。人間用のカニカマは塩分が多いのでネコにはあんまりあげたくないし、わたしも塩分はできるだけ摂取しないようにしているので、もうカニカマなどまるで食べなくなってしまっている。‥‥どうやら、ネコ用のカニカマは乾燥させてあるので、ぱさぱさして食べにくいんじゃないのか、そんな感じがする。
f:id:crosstalk:20130621174616j:image:right さて、ネコちゃんドラッグのまたたびだけれども、これがやっぱり、ニェネントはまったく無反応だった。そういうどこか特殊なネコなのか、それともやっぱりまだまだ子どもということなのか、いちおうなめることはなめるのできらいではないようなんだけれども、まるでケロッとしていて、ずっとふだん通りのニェネントである。まあムリしておかしくなってくれなくってもいいけれども。

 夕方から、長期休館していた図書館がもう開いているはずなのを思い出して、ずっと借りていた本を返しにいった。‥‥返しにいくとついまた借りてしまうのがわるいクセで、きのう観た「ラム・ダイアリー」のハンター・S・トンプソンの本が読みたくなってしまい、館内の検索システムでさがしてみたら、「ラスベガスをやっつけろ!」が閉架におかれているのがわかり、出して来てもらって借りた。あと、からだの具合が良くなくなってから、カフカが読みたくなってしまっていて、全集の第一巻も借りた。ついでにCDのコーナーとかみてまわって、Art Tatum とBen Webster のクァルテット作品「The Tatum Group Masterpieces」なんていうのを借りてみた。雑誌コーナーでちょっと立ち読みして、「群像」に連載されている蓮實重彦氏の映画時評をざっと読んだ。こんかいはわたしもせんじつ観たばかりの黒沢清監督の「リアル」についてで、けっこうわたしが観たところとおなじような視点で書かれていて(もちろん、その深さは比較になどならないのだけれども)、ちょっとうれしかった。
 帰宅して、「The Tatum Group Masterpieces」を聴いてみたけれども、Art Tatum のピアノを弾く指は過剰にころころと鍵盤の上をころがるし、Ben Webster はサム・テイラーの一歩手前、みたいな感じで、とちゅうでとめてしまった。

 夕食はまだまだ残っていたカレー。カレーもきょうでやっとおしまいである。録画をひとつ観て、借りて来た「ラスベガスをやっつけろ!」をちょっと読み、また「瘋癲老人日記」を読んだりしているうちに寝てしまった。


 

[]「巨人と玩具」(1958) 増村保造:監督 「巨人と玩具」(1958)  増村保造:監督を含むブックマーク

 原作は開高健。菓子メーカーの宣伝部員らと、その宣伝に起用されるしろうと女性、彼ら彼女らの変化を戯画化して描いたもの。登場人物らの会話なども情動を抜きにして演出され、ただ観念をのべているだけみたいにみえる。いちど三年ほどまえに観た作品だけど、いまはまるで気に入らない作品。


 

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■ 2013-06-19(Wed)

 きょうは休日。いちにちのんびりとすごしたけれど、きのう観た「三姉妹」のことを思い出すたびに目から涙があふれてきて、こまった。買い物なんかで外に出るときには、映画のことは思い出さないようにがんばった(ちょっと失敗したりもしたけれども)。こんなことはミイの死以来のこと。じぶんでも意外なことだけれども、歳をとってそれだけ涙もろくなってしまっている、ということなんだろうか。しかしそれでも、いったいなんでこんなにまでこころを動かされてしまっているのか、気になってしまうところもある。いくらドキュメンタリーとはいっても(もちろん、ドキュメンタリーだったからこそ、というところはあるのだけれども)、それはわたしの実体験ではなくって、スクリーンの上のできごとにすぎないともいえるのに。そういう観賞体験をした方もいらっしゃるのではないかと、ネットでこの映画のことを検索してみたりしたけれども、そういう感想に出会うこともなかった。
 基本はやはりこの作品のテーマは「貧困」、ということで観られているようで、そのことに現代中国の政策への批判を読み取るような観方もあるようだった。もちろんわたしだって、この作品の根底には貧困問題があることはひゃくも承知している。でも、この作品の、映画としての、ドキュメンタリーとしてのすごさは、長女インインのかかえ持つ「孤独感」の描写ゆえ、なんじゃないかと、わたしは思っている。かんがえてみて、これはおそらくは監督のワン・ビンの勘の良さというのか、反射神経のすぐれたところでもあるんだろう。ずっと三姉妹に密着取材していて、インインの感情がおもてにあらわれたところで「ここぞ!」と、インインを追って行く。これは、単に「貧困」をテーマにしてやろうとして取材していたのでは取れない姿勢ではないのか。この部分の映像の力強さは、とにかくは何から何まで撮影しておいて、あとから編集でなんとかしよう、などという姿勢ではぜったいに撮れない映像である。テーマを決めてかかっているのではないニュートラルな姿勢こそがこういう映像を可能にするのではないだろうか。思い出してみれば、「鉄西区」の第一部にも、こういう姿勢で撮られた映像はかなりの尺があったように思える。
 買ってあったこの映画のパンフレットを読んで、ようやく瀬々敬久監督がこの場面に言及されているのをみつけた。「鳳鳴—中国の記憶」をも例に出されて、「確かに王兵映画の表面には中国社会の問題や歴史的な出来事が必ずある。だが実は、彼は出来事でなく情動を中心にして映画を作っている。僕はそこが彼の映画の最も魅力的なところだと思う。」と書かれていた。このエッセイのタイトルは「情動の映画」というものだったけど、まったくその通りだと、ようやくなっとくして、スッキリすることができた。さすが瀬々監督。さいきんわたしは彼の作品から足が遠のいてしまっているけれども(むかしは大好きな監督さんだった)、やっぱりまた観てみようかしら、などと思った。

 午前中は、きのうおとといと電車のなかで読んでいた岩野泡鳴の「耽溺」(本棚から、ほんとうにてきとうに選んでカバンに入れてしまった本だった)ののこりを読み終えて、昼食はそばにした。午後からは別に買うものも決めないで南のスーパーに買い物に出た。このところ南のスーパーにばかり行くようになってしまい、まえはいつも行っていた線路の向こうのスーパーには、まるっきし行かなくなってしまった。スーパーのなかでニェネントの誕生日も近いことを思い出し、ニェネントにちょっとおいしそうなおやつを買ってあげた。夕食はまだまだせんじつのカレーがのこっているので、きょうもカレーにした。まだもう一回分はのこっている。録画してあった映画は一本観た。夜は「瘋癲老人日記」のつづき。‥‥面白い!


 

[]「耽溺」(1909) 岩野泡鳴:著 「耽溺」(1909)  岩野泡鳴:著を含むブックマーク

 てきとうにカバンにつっこんで読みはじめた本だけれども、まえにいつか読んだことがあるはずと、この日記で検索すると、やはり四年ほどまえに読んでいることがわかった。でも読んだという記録しか書いてないので、そのときにどんな感想だったのかまるでわからない。もちろん、こんかい読んでも、まえに読んだときのことなど何ひとつ覚えてもいない。

 岩野泡鳴というと、わたしには彼の短歌の方で記憶に残っているものがある。ちゃんと暗記していたわけではないけれども、こういう歌である。

ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま

 ‥‥この歌は、ちょっとはずかしいけれども好きである。いいよねえ、わたしだって海岸でキスとかしたいよね。

 こんな歌だけにしておけばいいのに、岩野泡鳴さんは小説とか評論もあれこれと書かれている。この「耽溺」は彼の初期の作品ということだけれども、彼の実体験がもとになっているらしい。この時代は「自然主義文学」というのか、田山花袋の「蒲団」みたいなものがもてはやされ、その影響の下に作家自身の「ちょっと、そんなこと自分で暴露しなくっても‥‥」みたいなこと書いた小説がいっぱい書かれることになるんだろう。この「耽溺」も、そういう作品。

 基本は、「はい、わたしはバカです」みたいなことを延々と書いているわけで、これが自分ひとりのことならまだ「勝手にしな」というところだけれども、奥さんとかも巻き込んでいって、それでそんなことはあたりまえじゃないかみたいな態度。その上に「オレはこれからデカダンで行く!」みたいなことをいう。デカダンがきいてあきれるとはこのことで、これがデカダンならば、女性もんだいを起こすようなやからは、みいんなデカダンということになってしまうんじゃないのか。わたしだってデカダンになりかけてるよ。

 つまり、この作者のこの無反省ぶりにはあきれてものもいえないところもあるんだけれども、ただ、くだんの女性に惚れてしまうところの描写はいい。すっごく素直に、「キミにカクンとイカれた」ということを書く。このあたりが、先にあげた短歌につながっていったりもするんだろう。根は素直な人、なんだろう。


 

[]「ラム・ダイアリー」(2011) ハンター・S・トンプソン:原作 ブルース・ロビンソン:監督 「ラム・ダイアリー」(2011)  ハンター・S・トンプソン:原作 ブルース・ロビンソン:監督を含むブックマーク

 ある面で、この作者もまた岩野泡鳴みたいなというか、ジャーナリストなのに、なにもかも自分の目を通して一人称で書くわけ。それで、このハンター・S・トンプソンのはみ出し方はハンパじゃない。彼にくらべたら、岩野泡鳴が「オレはデカダン!」なんていうのは幼稚園のお遊戯である。まちがいない。

 ハンター・S・トンプソンの原作から映画化されたものには、過去に「ラスベガスをやっつけろ!」という、テリー・ギリアムが監督した作品があるけれども、そのときにもハンター・トンプソンの役はジョニー・デップがやっていた。それでこの「ラム・ダイアリー」は、そのジョニー・デップもプロデュースにかかわり、ふたたびハンター・トンプソンを演じている。こちらはハンター・トンプソンがジャーナリストとして生きて行く決意をかためる話だから、「ラスベガスをやっつけろ!」よりもずっとまえの時制。具体的にいうと1960年。ところはプエルトリコである。まあ「ラスベガスをやっつけろ!」の姉妹編ということはできるだろうか。ちなみに、ハンター・S・トンプソンは2005年に自殺されているようで、この作品はその追悼の意思もあるようだ。

 ‥‥キャスト、そしてスタッフらによる、ハンター・S・トンプソンへの愛情にあふれかえった作品だと思った。それ以外、あまりいうこともない。わたしはこういう映画は大好きである。ちょっと書けば、オープニングの、海原を飛ぶ赤いセスナ機(?)の映像がすばらしい。そのバックには、ディーン・マーティンの唄う「ヴォラーレ」が流れる。まるで「ブルー・ベルベット」の冒頭のボビー・ヴィントンの歌みたい、なんていうと「ぜんぜんちがう!」と怒られそうだけれども、わたしが映画を観る楽しみのひとつに、既製曲をどういうふうに使ってくれるのかということもある。これがマーティン・スコセッシなんかだと、そういうことをやりすぎちゃうからゲップが出ちゃうけれども、要所要所でうまくはめこんでくれると、こっちはそれだけでうれしくなってしまう。さいきん観た映画だと、ヴェンダース監督の「都会のアリス」での、Canned Heat の「On The Road Again」なんかで泣きそうになってしまうのである。ウェス・アンダーソン監督なんかも、そのあたりが好きである。この映画でそういうのをもう一ケ所あげておけば、マントヴァーニ楽団の「シャルメーヌ」かな。

 出てくるアンバー・ハードという女優さん、どこかほかの映画で観たことがあるなあと思ったら、こないだの(っていってももう二年ほど前のことだけれども)ジョン・カーペンターの「ザ・ウォード/監禁病棟」の主演女優さん、だった。


 

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■ 2013-06-18(Tue)

 決めたように、きょうは東京にワン・ビン監督の新作「三姉妹〜雲南の子」を観に行く。きょうはしごとがあるけれども、あしたは休み。まあゆっくりとしてこようか、などとはもくろんでいる。

 しごとを終えて帰宅して、のこっていたロールパンで朝食にし、ニェネントにはきょうは卵黄の日。十時半の電車に乗れば東京での一時からの上映回に間にあうので、また紅茶をペットボトルに移したり、のんびりとお出かけの準備をする。‥‥これが、のんびりとしすぎてしまって、かなりぎりぎりのじかんになってしまう。さらに、家を出てすぐにケータイを忘れていることに気づき、部屋に取りにもどる。これでもう、電車の出るじかんの三分まえになってしまっている。ダメかなあと思いながら駅前のロータリーまで着いてみると、もうわたしの乗りたい電車は駅のホームに到着していた。ドアも開いている。ここで多少は時間調整をしたりもするけれども、とうてい間にあわないだろう。あきらめて、家に帰った。やはり、わたしの家から駅のホームまでは、最悪でも五分のじかんがひつようである。

 この時間帯は、このローカル線にはめずらしく、三本の電車が三十分間隔で運行されているのだけれども、つぎの十一時の電車ではやはり一時には間にあわない。観に行くのやめようかな、などとちょっと思ったけれど、その一時の上映のつぎは四時半からで、七時ごろには終映になるから、その回を観に行けばいいじゃないかと。さいしょは一時の回が終わったあとでまたちょっと、なじみの店に顔を出してみようか、などともくろんでいたんだけれども、なにもムリして行かなくってもいいわけだし、どうしても行きたければ七時のあとにちょっと寄ってみることぐらいはできる。それなら昼食もうちですませて行けるし、かえってちょうどいいんじゃないかと、かんがえ直した。‥‥そういうわけで、こっちから一時半に出る電車で、出かけることにした。

 昼食はそうめんでかんたんにすませ、こんどは乗り遅れないように、ちょっと早めに家を出た。きょうも雨は降っていない。駅のホームでベンチにすわって電車を待っていたら、となりにすわってきた中年の男性が、「雨が降らないねえ」などと話しかけてこられた。「そうですねえ」などと生返事をしていたら、「地球はだんだんに異常気象になってきている」という話に発展される。「うん、うん」ときいていると、これが太陽系だか銀河系の<季節>の周期が二万六千年なのだという話になり、いまは太陽系の<春>が終わりつつある時期で、もうじきに二万六千年の<夏>になると。そうすると、すべての生物は死滅してしまうのである。もうじき、その<夏>が来る。と。「うん、うん」とうなずいているのも、だんだんに疲れてきてしまった。電車が来て、うまいぐあいにその方とははなれたところに、しぜんに移動してすわることができた。

 きのう来たターミナル駅で乗り換えて東京へ。電車のなかでちょっと読書をしたり、または寝てしまったりしながら、予定通りのじかんに渋谷に到着する。上映している映画館のシアター・イメージフォーラムへ行き、チケットを買って、ロビーにあれこれ積み上げられている映画のチラシなどをながめたり、手に取ってみたりする。‥‥あんまり観たい映画というような映画もなかったけれども、秋に公開されるらしいマルコ・ベロッキオの新作は、ちょっと観てみたいかも。

 ‥‥きょうの観客は二十人ぐらい、だったかな。いつもワン・ビンの作品は特集上映とかでばかり観ていて、それがいつも会場は満員だった記憶があるので、やはり映画館で常態で連日上映されると観客も分散されるわけだなあ、などとは思う。

 観終わって外に出て、どうしようか、これからちょっと寄り道してみようかとも思ったけれども、もうそんなにじかんもないし、いまの映画を思い出すとまた涙が出てきそうでもあるんで、きょうはやはりまっすぐ帰宅することにして電車に乗った。

 自宅駅に着いたのは九時半ぐらいになり、これからまた南のスーパーまで行ってみて、きっと安くなっているだろうお弁当とかを買って帰ろうともくろむ。ところがスーパーにいってみると、もうほぼすべてのお弁当は売り切れてしまっていて、のこっていたのはそんなに半額とかまで値引きはされていない助六寿司だとかだけだった。しょうがない。やはり半額までにはなっていないサラダのパックといっしょに買って帰り、おそい食事にしてから寝た。寝るまえに映画のことを思い出し、また涙が出た。


 

[]「三姉妹〜雲南の子」王兵(ワン・ビン):監督 「三姉妹〜雲南の子」王兵(ワン・ビン):監督を含むブックマーク

 ワン・ビン監督の作品は、だいたいすべて観ている。こんかい買ったパンフレットの、監督のフィルモグラフィーをみると、「原油」という840分の作品だけはわたしは観ていない。もちろん、この長さの作品をいちどに上映するわけもなく、あるていど分断して上映していた記憶はあるけれども、わたしはやはりそれだけのじかんをとることはできなかった。「鉄西区」はぜんぶ観ているけれども、これはたしかまだ東京に住んでいたころに観ているはずである。

 わたしはそんなにドキュメンタリー映画をみているわけでもなく、ほかのドキュメンタリー作品とくらべてどうこうのと語ることはできないけれども、彼の作品すべてにつよい感銘をうけ、「いったいどうやったらこんなすばらしい作品群をれんぞくして撮ることができるのか」と、不思議にも思ったりする。きっとそこにはカメラとカメラを向けられた対象の人物との絶妙な距離(近さ)があり、それがそのまま、観客としてのわたしとスクリーン上の被写体人物との距離(近さ)になるんだろう。決して被写体に感情移入してべったりの描写をするわけではなく、かといって、突き放して距離をおいた描写、というわけでもないだろう。
 ワン・ビン監督がいつも被写体にえらぶのは、近〜現代の中国において過酷な体験をした人、現にしている人たちであって、そのために彼の作品は中国で公開されることはないという。では観ていて、そういう情況としての苛酷さがつまりは悲惨さとして目に映るのかというと、そういうわけでもないというのが、彼の作品の特徴かもしれない。そう、そういう過酷さが悲惨さに転換してしまうとすれば、それは作者(紹介者というべきか)の感情移入ゆえ、なのではないだろうか。ワン・ビン監督の作品ではいつも、過酷さはそのままに過酷さとして伝わってくる。それを解釈するのは観客のやること、として提示されているような印象もある。たとえば「鉄西区」の第一部などでも、工場ではたらく労働者たちは映像として重労働の連続に従事しているわけでもなく、ぎゃくに映像は休憩室でくつろぐ彼らの姿がクローズアップされていたりもする。それはけっして「悲惨だ」とか思わされるわけではないけれども、「ひでえ情況だなあ」という感想は生まれる。その「ひどさ」、そういうものがスクリーンからわたしの目にとどくまでの距離で現前している、という感覚。

 この新作「三姉妹」は、標高三千メートルを越す雲南地方の村で生活する貧しい農家、その三人の姉妹に密着して撮影された作品。母は家を出て行方はわからず、父はその三姉妹を家にのこして出稼ぎに出ている。撮影されたのは2010年の10月と11月、翌2011年の2月の三度の取材により、期間としては合計二十日ほどということ。

 三姉妹の近所には親せきの家族も住んでいるけれども、基本は三人だけでの生活で、もっぱら長女の十歳になるインインがふたりの妹のめんどうをみている。作品は彼女たちの環境や生活の変化にあわせて、四つのパートにくくることができる。まずは三姉妹だけの生活のパートからはじまり、つぎには父親が出稼ぎからもどってくるパート。しかし生活はやはり苦しく、父はこんどは下のふたりの娘を連れてまた出稼ぎに出てしまい、インインだけがひとりのこされる。おじいさんがようすを見に来てはくれるけれども、インインひとりの生活がつづく。さいごに村の収穫祭があり、村の将来のもんだいが語られたりもする。そして、父がふたりの娘と、そしてお手伝いだという女性とその娘といっしょに帰ってくる。家族は六人になるけれども、はたしてこれからどうなるんだろう?

 親せきの家では食事にいろいろなおかずもつくようだけれども、三姉妹の生活ではじゃがいもしか食べていないように見受けられた。父が帰ってきたときに、下の子が「何年もからだを洗ったことはない」みたいなこともいう。みんなずっと「着たきりすずめ」で、インインもさいしょっからさいごまでずっと、「LOVELY DIARY」とプリントされている同じジャケット姿から変わらない。次女のはいている長靴には穴があいていて、かかとをけがしたりもする。インインにしても、靴を脱いでも足は泥ですっかり汚れている。お父さんが出稼ぎから帰ってきたときにみんなにあたらしい靴は買ってこられていたし、父の出稼ぎにいっしょに行く下の娘たちにはあたらしい服もあるんだけれども、インインだけはずっと同じジャケット。

 わたしはたしかに、この作品に登場する人たち、とりわけこの三姉妹の家は極貧といっていいとは思うけれども、この作品からわたしが受けとめた主題はそういうことではなかった。

 ‥‥そのことを書くまえに、この作品に登場するたくさんの種類の家畜たちのことを少し。まずはこの三姉妹の家では豚を三匹飼っているようだし、犬も一匹つながれている。家のまえにはいつもニワトリや家鴨がうろちょろしているし、親せきの家では山羊やひつじも飼っている。村ぜんたいでは馬もロバも飼われているし、画面には出てこないけれども、牛がいることも話のなかで出てきたりもする。とちゅうでちょっとネコのすがたもみえた気がしたのだったけれども、いちばんさいごになってはっきりとその姿をみせてくれた。豚はさいごの収穫祭で一匹(三姉妹の家の豚ではないだろうけれども)つぶされて、みんなのごちそうになったみたいだった。その収穫祭で村長が、医療保険の制度が変わるけれども、その保険料を村人はとても払えないだろう、わたしも払えとはいえない、などという話をする。ほとんどじゃがいもしか収穫されない高地のこと、自給自足がせいいっぱいで、現金収入などほとんどないのだろう。パンフレットによれば、この地域に電気が通じたのもようやく2007年になってのことらしい。

 わたしがこの作品から受けとめたのは、「孤独」というものの脅威、おそろしさ、だろうか。父とふたりの妹が出て行ったあと、インインはひとりでの生活をはじめるのだけれども、やはりこのパートが強烈、あまりにも強烈だった。まずは暗い部屋のなかでひとりで黙々と焼いたじゃがいもを食べるインインの姿がある。その部屋の暗さ、静けさ。カメラが屋内から外に移り、外から家のなかのインインを写す。入り口の外には犬がいて、その犬にインインがときどき食べているじゃがいもの皮を投げる。このあと、インインの学校でのシーンがあって、そのあとに家に帰ってもノートをひろげて勉強しているインインの姿がある。ここでおじいさんからの「羊を連れ戻せ! 勉強なんかして!」という声がひびく。それまでインインがすわって勉強をしていた場所に誰もいなくなったショットがあり、外で羊を追うインインの後ろ姿になる。インインは石を投げる。
 ‥‥ここで、それまでまるで感情をおもてに出して見えなかったインインが、その感情を爆発させたようにみえ、ショックを受けた。もう、ここからしばらくの、インインひとりをとらえた映像には圧倒された。いつものジャケットの上から防寒のシートのようなものをからだに巻き、荒れ地をひとり歩く姿がつづく。彼女を追うカメラにつけられたマイクはちゃんとした風防がついていないのだろう。マイクにあたる吹きすさぶ風の音もぜんぶ拾われているのだけれども、これがさらにこのシーンのリアリティを深めるというか、その荒野のありさまがダイレクトに伝わってくる思いがする。荒野のむこう、この高地の地形が遠くまで見わたせるのだけれども、どこまでもどこまでも、もちろん人の姿などみえない。家もみえない。見わたせるかぎりに拡がる「孤独」、だと思った。わたしはちょっとだけ、「嵐が丘」のキャサリンのことなども想像してしまったけれども、そんなものじゃない。ちょうどこのあいだ書いたe. e. cummings の詩に、「世界みたいにちいさくて、ひとりぼっちぐらいに大きい」石のことが書かれていたけれども、このインインの「ひとりぼっち」は、まさに「世界」と同じ大きさがあるにちがいない。そんな「孤独」のなかでも、少女は生きて行く。そのことに感動する。

 映画ではこのあとにとつぜん、インインの友だちという、ひとつ年上の男の子が登場してきて、とにかくは大いにホッとするけれども、もう、このパートのとちゅうからは、こぼれる涙をとめることができなかった。いま、こうやって書いていても、思い出して涙があふれてきてしまう。すばらしい作品だと思って、またもういちど観たいとも思うのだけれども、このシーンになるときっとぜったい、さいしょに観たときよりももっともっと、泣いてしまうに決まっているから、もう映画館で観ることはできないなあ、などとは思うのである。


 

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■ 2013-06-17(Mon)

 きょうは映画を観に出ようとかんがえている。しごとも非番で休み。しかしあしたはしごとがあるので、きのう書いたような理屈でいえば、きのう出かけた方がわたし的には楽なわけだけれども、きのうは日曜だったので人ごみをさけた、というところ。どうせあしたしごとに出てもあさってはまた休みだし。
 観ておきたい映画は二本あって、ひとつは黒沢清監督の「リアル」で、もうひとつはワン・ビン監督のドキュメンタリー「三姉妹」。きょう二本とも観るというのはきついので、きょうはどちらか一方にして、またあした、のこった一本を観に出ようか、などという気もちではある。「リアル」はわざわざ東京まで出なくっても、ターミナル駅のシネコンで上映している。「三姉妹」は東京のイメージフォーラムでしか上映していないから、ちょっとめんどうではある。帰宅が多少おそくなってもかまわないのはあしたの方だから、「三姉妹」はあしたにしようと決める。ではきょうは、シネコンに「リアル」を観に行こう。‥‥上映じかんを調べてみると、朝の十時からのあとは昼の三時半からの上映、あとは夜。十時の回はちょっと早い気もするので、三時半の回にしようと思う。そう決めてしまうと、昼ちょっとまえに家を出れば、「リアル」の上映のまえにちょうど、おなじシネコンで上映しているウォン・カーウァイの「グランド・マスター」を観ることができるのがわかった。こちらも観てみたい気もちがあったのでちょうどいい。両方観ることにした。

 朝食をとって、ちゃっちゃっと準備して、ローカル線に乗る。どうやらきょうは雨も降りそうもない。車窓からみえる水田の稲も、ずいぶんと成長したみたいにみえる。水田は水であふれているけれども、あんまり雨が降らないとこれからきびしくなるだろう。だんだんに水田もみえなくなり、住宅ばかりが目にはいるようになって、ターミナル駅に着く。

 きょう行くシネコンは駅のそばではなく、むかしはおおきな遊園地だったところが廃業してショッピングモールに変身したスポットのなかにある。駅のそばのビルにもおなじ系列のシネコンがあって、わたしはそっちへ行くことがおおい。駅のそばの方は、東京では単館ロードショー公開されたような作品が、ひとあし遅れて公開されるようなケースがおおい。作品の選択がしぶくって、知らないでいた地味な作品が東京でひっそりと公開されて、それが評判がよかったりして、「そんな作品があったんだ。観たかったなあ」などと思っていると、このシネコンで上映されたりすることがよくある。わたしにはちょっとした「名画座」的な存在だろうか。それで、きょう行くショッピングモールにあるシネコンで上映されるのは、つまりはメジャーな作品がメイン。ちょっとわたしには行くのがめんどうなので、あんまり利用することはない。つまり、基本はあたりの住民はみんな車でそのショッピングモールへ行くんだけれども、そうじゃない人は、ターミナル駅のそばから三十分に一本だけ出ている無料送迎のマイクロバスを利用する。いつも乗客は中学生だとか高校生のグループが多く、車内はけっこうそうぞうしい。‥‥そのことはいいとして、行きはそんなにもんだいはないのだけれども、帰るときに皆が帰るようなじかんにかさなってしまうと、バス乗り場にすごい行列ができていたりして、バスが来ても乗れなかったりする。まえにこのショッピングモールのシネコンに来たときはそういうことでバスに乗れず、「つぎのバスを待つよりは」と、駅まで歩いてみたのだけれども、これがけっこうなじかん(一時間弱)かかってうんざりしたことがある。だから、こっちのシネコンはほんとうはあんまり来たくない。きょうも帰りはしんぱいではある。

 マイクロバスがショッピングモールに着き、シネコンへ行く。まずは「グランド・マスター」を観る。観客はわたしをふくめて四、五人ぐらい。いくら平日の昼の上映とはいえ、いいんだろうか、とは思う。まえにも書いているけれども、駅のそばのシネコンはもっとすごくって、観客がわたしひとりだったということがいままでに二回ほどあるし、客が三、四人なんてことはいつものことである。まあ経常利益を出さなくってもやっていけるような、「ワケ」があるんだろう。それとも、わたしが行かない日曜だとか夜の回には客があふれるのだろうか。

 「グランド・マスター」がおわり、二十分ぐらいのあいだをおいて、つぎの「リアル」を観る。こっちは、観客は十人ちょっとはいただろうか。
 ‥‥さて、もんだいの帰りのバスだけれども、バス乗り場に行ってみると、ちょうどまえのバスが出て間もないじかんだったようで、わたしが先頭になってしまった。かなりホッとした。わたしのとなりに来た若い女性が、なんだかずっとひとりごとをいっていたのが無気味だったけれども、ほかの人が並ぶとひとりごとはやめてしまった。あのひとりごとはじつはわたしに聴かせていたのか、それともわたしの姿は透明人間のようになって見えていなかったのか、なんて思ってしまった。バスでターミナル駅にもどり、ローカル線に乗ってしばらくして、さっきの女性がまたわたしのすぐそばに立っていたのをみつけた。わたしの方があとから電車に乗っているから、彼女がわたしをつけてきたわけではないのはいうまでもないけれども、なんだか気になってしまった。これが別の駅から乗ってきた女性がその女性の知人だったらしく、ずっとふたりで会話していた。ひとりごとをぶつぶついうような女性には、とてもみえなかった。

 帰宅してニェネントにごはんをあげ、わたしは残っていたごはんときのうのカレーで夕食にした。夜はまた谷崎の、「瘋癲老人日記」を読みながら寝た。


 

[]「グランド・マスター」ウォン・カーウァイ:監督 「グランド・マスター」ウォン・カーウァイ:監督を含むブックマーク

 ひさしぶりのウォン・カーウァイ。じつは、この映画のせいではなくて冒頭でちょっと眠ってしまい、そのことでストーリーが読み取れなくなりはしないかと危惧したのだけれども、そういう古典的に物語を描く作品というのではなかったというか、とにかくは楽しめた。よかった。ちょっとだけ、深作欣二監督の演出スタイルを思い浮かべたりもしてしまったけれども。

 なんだか、ウォン・カーウァイのむかしの群像劇の方法をさらに突き進めたような演出というのか、それ自体としては連続していかないエピソードを積み重ねながら、それでもそこから、カンフーマスターらとの出合いのなかから浮かび上がってくるところの、女性武術家ゴン・ルオメイ(チャン・ツィイー)の哀しい生涯が、うつくしくも印象に残る。

 いわゆる既製のカンフー映画のように、あれこれの技をクローズアップしてみせるような演出ではなく、これはひとつの流れをこそ重視している演出で、まるでバレエだとかダンスを見せられているような。たとえば真上からの撮られた映像が何度も出てくるけれども、まさにカンフーの技よりもスピンするふたりの対戦者のコンビネーションこそを重視しているというあらわれ、なんだろう。まさにそのあたりで、たたかいながらもラヴ・シーンへと変貌していくトニー・レオンとチャン・ツィイーとの対決が、あまりにうつくしい。映画のオープニング、雨のなかトニー・レオンを囲んだ武術家らのかけ声からはじまるのも、とっても印象的だった。

 ただ、チャン・チェンの活躍も期待しながらの観賞だったけれども、そのあたりでのゾクゾクするようなその登場のしかたのあと、もうひとつ本編へのかかわりが薄かったようだったのはざんねん。

 さいごにトニー・レオンとチャン・ツィイーが対面するとき、チャン・ツィイーの片頬にひとすじの涙が流れる。それがあんまりにもうつくしくって、これはあとからCGで描き加えたんじゃないのかと思ってしまうほど。あと、タイトルデザインの、なんだかわからないけれども赤と黒との色彩がもぞもぞと動く感覚が、すごく印象にのこった。


 

[]「リアル〜完全なる首長竜の日〜」黒沢清:監督 「リアル〜完全なる首長竜の日〜」黒沢清:監督を含むブックマーク

 ‥‥しかしまあ、東宝の配給での大規模な全国ロードショー公開、評判になったらしい原作もあり、しかもラブストーリーっぽさもあるような、黒沢清監督作品としては、いままでいじょうにヒットすることを望まれるような背景をもった作品。いったいどんな映画になるんだろうと、興味しんしんではあった。

 冒頭の、室内の光が異様というか、黒沢清監督はこのまえの「トウキョウソナタ」でもこういう光の描き方をやっていたけれども、こんかいはもっともっとこのあたりを徹底させているというか。つまり、カメラはマンションらしい部屋のなかを俯瞰していて、奥にみえるベランダの外はもちろん外光にあふれて明るいのだけれども、室内はなんというのか、フラットなトーンにつつまれているというか、とっても不思議な明暗であって、不思議なトーンだと感じる。それから、車を運転する車中のシーンなども、車外の景色は別撮り映像になっている。ここも不思議な感覚になってしまう。なぜなのか。‥‥このあたりは、半分ぐらいまで観すすめていったあとでないと、わからない。撮影は、このところずっと黒沢清監督作品の撮影監督をやっている芦澤明子さん。

 観ているとどうも、「ニンゲン合格」のようなところもあり、ここでの「首長竜」というのは「アカルイミライ」でのクラゲみたいなものか、とか思っちゃったりもするし、ヴィジュアル的には「回路」や「LOFT」で使われた手法がまた使われていたりもする。「カリスマ」なんかだって思い出してしまう場面もあるし、いわゆるメジャーなところへ出るにあたって、こういうのは「名刺代わり」みたいなところもあるのかなあ、などと思ってしまう。
 出演者もまた、主演の二人以外で、これまでの黒沢清監督作品に出演した方々がかなり出ておられる。そんななかでは、中谷美紀の女医さんが、なんともなくあやしくって気になった。あとははじめてみる染谷将太という若い役者さんが気になったけれど、この人は「ヒミズ」で主演していた人だということ。

 ‥‥他者の夢のなかへ入って行くという、クリストファー・ノーランの「インセプション」を思わせるテーマの映画なんだけれども、わたしは「インセプション」みたいなのはちっとも気に入ってはいないので、黒沢清監督に「ふんっ! インセプションなんて!」みたいなところは、みせてもらいたかった。そういうところで、「夢」というものの映像化、ということでは、わたしはぜったいに黒沢清監督に軍配をあげる。だいたいが「インセプション」に出てくる夢なんて、それはただ現実ではないというだけのもので、ああいうものを「夢」としてしまうのはなんらかの欠如であって、そういうのがわたしにはゆるせないところがあったわけである。その点ではこの作品での「夢」、それも悪夢っぽい夢は、とりあえずは納得できるものだとは思う。
 それに、その「他者の夢」は、この作品の中盤ではぐるりとひっくり返ってしまうわけだ。「わたしの夢にはいってきたあなた」は、「あなたの夢に入っていくわたし」になってしまう(逆?)。まさにここにこの作品のポイントがあるというか、つまり、この映画の前半はこれすべて、じっさいにはこっちが昏睡しているところの佐藤健の「夢」なのである。そこで夢見られた綾瀬はるかが、じっさいの「リアル」な彼女自身として登場するのは、ずっとずっとあとのこと。このポイントを見逃してしまうと、それこそこの作品を見逃してしまうことになるだろう。そういう作品。‥‥わたしは、観終わったあと、またもういちどさいしょっから観なおしたくなってしまった。

 めずらしく上野の科学博物館でのロケ・シーンがあり、ここでその「首長竜」の化石標本へと近づいて行くカメラ、首長竜の頭部を見上げるカメラは、ほんとうにすばらしい。それに、黒沢清監督らしいみごとなロケハンの成果も、たっぷりと楽しめる作品である。



 

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■ 2013-06-16(Sun)

 きょうは日曜日だけれども、しごとがある。でもあしたは休みで、あさって出勤すればまたそのつぎの日も休み。わたしのしごとなんて、早朝の五時からはじまって九時にはおわってしまうわけだから、まいにち休みみたいなものだろうといわれても、あんまり反論できないところもある。それでも夜はとってもはやいじかんに床につくようにしていて、そうでないと朝にしごとに間にあうように起きるのがつらくなる。だからたとえば東京とかに遊びにいったり、人に会いにいったりすると、しぜんに帰りがおそくなるから(あんまりおそくなるとあっちに泊まって来たりもするし)、そのよくじつはしごとは休めるように先にリクエストを出してあるし、とつぜんにふらっとあそびに出るのも、よくじつが非番の休みかどうかということで決めている。それで、こうやって飛び石で休みがあったりすると、どうもどこかで出かけてしまいたくなる。
 いまは健康面で不安もないわけでもないけれども、そういう意識がふらついたりすることもないし、血圧もずっと正常値内で安定している。べつに居酒屋とかに寄って酒をたくさん飲んだりしなければだいじょうぶだろうし、わたしはあまり居酒屋にひとりで行ったりはしない。まあいつもひとりで行くなじみの店はあるけれども、そんなに飲み食いする店ではないし。‥‥いつまでもこうやって部屋でくすぶっていないで、けっこうまえから観たいと思っている映画もいくつか公開されてもいるし、映画でも観に行こうか、という気分ではある。ただきょうは日曜日なので映画館も混み合っているだろうし、きょうはやめておいて、あしたとかあさってに出かけようか、とかかんがえる。あさってはしごとだからあした出かけるのはちょっとアレ、とはいえるけれども、はやくに出発してはやくに戻ってくればまるでもんだいはない。

 いま観たいと思っている映画は、ワン・ビン監督の新作ドキュメンタリー「三姉妹〜雲南の子」だとか、黒沢清監督の「リアル〜完全なる首長竜の日〜」だとかだけれども、このあいだBさんが観たというウォン・カーウァイの「グランド・マスター」なんかも、ちょっと観てみたい。スケジュールとか調べていると、ハーモニー・コリンの新作「スプリング・ブレイカーズ」などというものも、きのうから上映がはじまっているのもわかった。これもぜひ観てみたい。八月になると、もう日本では公開されないかなと思っていたサリー・ポッター監督の「Ginger & Rosa」も、めでたく公開されるらしいし、これからは(このまま健康ならば)ちょっと映画三昧になってしまうかも。

 日曜日の朝はまいしゅう、十一時までは南のスーパーが一割引きのタイムセールをやっているので、ちょっと行ってみた。この日曜のタイムセールに寄ってみるのははじめてだけれども、お客さんの数の多さにおどろいてしまった。それで、たいていのお客さんはおかあさんとおとうさんとのカップルとか、子どもを連れていたりとかの家族連れ。よけいにお客さんがいっぱいにみえてしまう。たいていの人が、買い物かごにいっぱいの買い物をしている。レジのまえにはけっこうな行列。
 わたしの場合、ロールパンが安くなっていたので、これにいろんなものをはさんで朝食とかにしようかと買って来た。あとはおやつみたいなもの。もう酒を飲まないようにしているので、ちょっと口さびしいのである。

 午後から録画した映画を一本観て、夕食にはカレーをつくった。きょうはできあいのカレールーをつかってつくった。まだ自家製のカレー粉はかなりのこっているけれど、たまには市販のカレーの味もなつかしい。いちおう、自家製カレー粉もちょっと入れてあげた。きょうも、紅茶をいっぱい飲んだ。


 

[]「裏切りのサーカス」(2011) ジョン・ル・カレ:原作 トーマス・アルフレッドソン:監督 「裏切りのサーカス」(2011)  ジョン・ル・カレ:原作 トーマス・アルフレッドソン:監督を含むブックマーク

 本編がはじまるまえにちょっとトークがあって、「いちど観ただけではわからない」みたいなことをいっていた。すこし観たところで「わたしもやはり予習した方がいいかな」などと思い、再生をストップ。ネットで検索してあらすじや人物かんけいなどを先に読んでからまたつづきを観た。

 ほとんど情報もなく観はじめていたので、原作がジョン・ル・カレの「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」だということや、監督が「ぼくのエリ 200歳の少女」を撮った人だということなど、まるで知らなかった。「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」は読んだことはないけれども、このあたりのジョン・ル・カレの作品群に、ここでも出てくるジョージ・スマイリーを主人公にした連作があることは知っていた。このジョージ・スマイリー、もっと古いところでは「寒い国から帰ったスパイ」のなかにも登場してくるらしい。

 映画は「STUDIO CANAL」と「Working Title」のオープニングロゴがつづけて流されてはじまるわけで、このふたつの会社の共同製作なんだとわかる。どちらも独立系の映画製作会社として、なんとなく信頼している会社だったりするので、「これは楽しみだなあ」ということにはなる。冒頭すぐに舞台がブダペストに移ったとき、それがどこかの建物の屋上から市街を展望する映像なのだけれども、これがむかし「グッドフェローズ」でミヒャエル・バルハウスがやったみたいに、引きながらズームインしていく(もしくは寄りながらズームアウトしていく)映像になっていて、ちとばかりおどろいてしまったりする。このあともずっと、カメラがジリジリと移動するような、ズームするような、ネチネチとした動きをみせられてしまい、やはり作品の展開のジリジリするような感覚を助長する。このカメラを担当しているホイテ・ヴァン・ホイテマという人は、「ぼくのエリ 200歳の少女」でもトーマス・アルフレッドソン監督と組んでいた撮影監督だった。もう監督の演出と一体になった撮影というところで、とっても印象にのこった。

 脚本だとか編集もまたみごとなものなんだけれども、やはりこのダークな、ジリジリするような画面、細部にどこまでも執着するような演出を、好きな人もきらいな人もいるだろう。わたしはちょっとばかり、ミヒャエル・ハネケ監督の演出を思い浮かべたりもした。
 ‥‥って、さいごの怒濤の展開の、そのバックの音楽が「ラ・メール」。これはもうどうしたってせんじつ観たウォン・カーウァイの「欲望の翼」のラストを思い浮かべるしかないのだけれども(あれは「ラ・メール」じゃなかったんだっけ? でも、たしか「ラ・メール」も使われていた)。
 ここでこの曲を唄っているのがなんだかフリオ・イグレシアスっぽいというか、さいしょのキャスト/スタッフの「Music」のところで「なんとか・イグレシアス」と読んだ気がしていたのでそう思ったんだけれども、あとで確認してみたらこの映画の音楽担当はアルベルト・イグレシアスという人で、いつもペドロ・アルモドヴァル作品の音楽を担当している方。ラストの「ラ・メール」はたしかにフリオ・イグレシアスだったけれども、そのあたりの因果かんけいはわからない。

 そう、いま調べたら、「欲望の翼」のラストに流れるのは、アニタ・ムイ(梅艶芳)という歌手の唄う「是這様的」という曲だった。でもこの曲はどこか「ラ・メール」を思わせるところもあるし、ラストにこの曲が流れるちょっとまえに、たしかに「ラ・メール」のメロディがつかわれるシーンもあった。
 ‥‥なんか、映画のストーリー内容についてなんにも書いていない気がするけれども、まあこういう観方ばかりしているもので。



 

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■ 2013-06-15(Sat)

 ようやっと梅雨らしい、じめじめとした天候になった。でも、降ったりやんだりしているだけのかぼそい雨には、雨を祝うような気分にもならない。もちろん豪雨というのもこまるけれども、雨をよろこんでみたいという気もちはある。
 雨があんまり降らなくっても、わたしは水分補給につとめなければならない。医師はただ「水分補給」するようにしかいわないのだけれども、とくに夜に寝るまえ、そして朝起きたときの水分補給がたいせつなのだとわかった。‥‥おととしぐらいまでは、まいにち、やかんで紅茶を大量につくりおきして、サーバーにとっておいて飲んでいたものだったけれども、きょねんぐらいからその習慣がストップしてしまっていた。つまりは、それを復活させた。2リットルのやかんにいっぱいの紅茶をつくり、これをだいたいいちにちでぜんぶ飲んでしまう。このくらい水分をとっていればとりあえずはOK、なんじゃないだろうか。あしたからは紅茶をペットボトルにとって、しごと場にも持って行こう。

 きょうは久々にしごとがめっちゃいそがしく、倉庫の方にいくのがわたしとCさんだけでは定時までに終えられそうもなく、そのむねを上の方に話してDさんにも来てもらった。倉庫で三人でしごとをするのは、ずいぶんと久しぶりになる。もう六月も後半になるし、これからひと月ぐらいはしごと量がふえる。まいにち三人でやっても追いつかないことになってくるだろう。それでもきょう三人でやったのは「突発事態」あつかいで、基本はふたりでやってもらうという考えみたいだった。わたしには健康に不安もあるし、そもそもストレスをためてはいけないのだ。会社としてはどうするつもりなんだろう。何も考えていない、というところだろうか。それならばわたしが、わたしの健康を理由にして「できない」とうったえるべきだろうな。

f:id:crosstalk:20130617083210j:image:right しごとをおえて帰宅して、トーストで朝食をとる。朝のTV小説を総集編で一週間分まとめてみて、そのあとはここの日記を書くのにすごいじかんをかけてしまった。とちゅうで紅茶をとりにキッチンへ行くと、それまでわたしのそばで寝そべっていたニェネントも、わたしについてキッチンにやってくる。紅茶をカップにとっていると、わたしの顔をみてめずらしく「にゃ〜」と、ないたりする。わたしの足もとにすりよってきて、わたしの足をぺろっとなめたりもする。キッチンにあるネコ皿にはまだキャットフードとかネコ缶が残っているんだけれども、そっちには見向きもしない。ずっと出しっぱなしで、もう食べ物として鮮度が落ちちゃっているんだろう。これから気温があがるようになると、そういうことも気をつけなくっちゃあいけない。ネコ皿をきれいにして、あたらしい食事を出してあげた。ニェネント、がっつく。

 きょうは録画した映画もみないですごした。ほとんど日記を書いただけ。よるは「武州公秘話」を読みおえた。


 

[]「武州公秘話」谷崎潤一郎:著 「武州公秘話」谷崎潤一郎:著を含むブックマーク

 まえに読んだ「卍」とも、「蓼喰う虫」とも、またまた文体語り口がまるでちがう。
 この「武州公秘話」は、昭和六年から七年にかけて雑誌「新青年」に連載されたもので、当時も「新青年」に谷崎が執筆したということで話題になったらしい。もちろん、谷崎の方でも「新青年」を読むような読者を念頭においての執筆だろうから、そこでふだんよりも平易な文章をこころがけてもいたんだろう。

 冒頭の「武州公秘話序」が漢文で、つづく総目録(目次)もちょっと硬質な文で期待するのだけれども、本編になるとこれがどうも肩すかしをくってしまったような感覚をうける。あまりに大衆受けをねらいすぎているというのか、せっかく虚構の参考文献古書を二冊も三冊も設定していて。読む方はワクワクしてしまうのだけれども、このあたりも通俗平易にその内容が解説されてしまってるあたりが、ちょっと残念な気がする。

 ‥‥どうもこう、読者に行のあいだを読ませるのではなく、ぜんぶ説明されてしまうというガックリ感というのか。しかもその説明。谷崎潤一郎は武州公のことを「被虐性変態性欲者」としているのだけれども、わたしには武州公のいったいどこが「被虐性」なのか、さっぱりわからないのである。だって、「被虐性」って、マゾヒストとかってことではないのか。武州公に異常なところがあるとすれば、どこかそこにはネクロフィリアめいたところはあるだろうか。そして「鼻をそぐ」という行為へのオブセッション。「窃視」の興奮もくわわってはいるだろうけれども、そこまでに変態性欲者という受けとめ方は、わたしにはできなかった。むしろわたしにとってのこの物語の面白さは、武州公と桔梗の方との密通かんけいであるとか、正夫人である松雪院との不能なかんけい(ここに彼の変態性はあらわれているかもしれないけれども)などの方にこそ存する。


 

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■ 2013-06-14(Fri)

 発作のあと、みょうに感覚が鋭敏になったりしたわけだけれども、こういう感覚はやはりさいきん味わったことがあるなあと、ばくぜんと思っていたのだけれども、いまになって思いあたるところがあり、この日記を読みかえしてみた。‥‥やはりしばらくまえに、どうやらひとりでいるときに、おなじ一過性脳虚血の発作をおこしているようである。そうとしか、かんがえられない。そうすると先週の発作はそれで二回目、というわけになる。あんまり愉快なことではないので調べてみたけれども、「2週間以内に4回以上の発作」がある場合などに、早期入院がひつようと書いてあるのをみつけただけ。まさに「イエロー・フラッグ」としての位置づけ、なんだろう。わたしにできるのはとにかく薬をのみつづけ、水分をたくさん補給しておくこと、ストレスをためないこと(これが、けっこうむずかしいケースも出てくるかも)、それといまのところはアルコールをさけておくこと、ぐらいだろうか。まあアルコールがだめよ、と書いてあるそういうサイトがあるわけでもないけれども、発作をおこすまではちょっと飲みすぎていたのはたしか。

 なんだかニュースでやっていたのだけれども、かつて一世を風靡した日本のポップ・デュオの片割れが、その一過性脳虚血症のうたがいがあるとかいうことで、予定されていた復活コンサートが延期されたらしい。こういうことがあると、自分の症状をあるていど人に説明しやすくなるので、便利ではある。
 ‥‥それで、ちょっとばかし鋭敏になっていて、そのことを楽しんでいたところのわたしの感覚系統だけれども、もうきょうあたりは鋭敏さもなくなってしまったようで、むかしのわたしに戻ってしまったみたいな。こんなこと思っちゃいけないのだけれども、ちょっとつまらない。そうそう、けさはごくふつうの夢をみたりもした。そもそもの症状が異様な夢のようなものの記憶からはじまっているだけに、この「ふつうの夢」は、うれしかった。

 さて、きのう書いたe. e. cummings の詩、そしてその翻訳についてだけれども、あらためてじっくりときのうの詩と訳詩とを読んでみたんだけれども、きのう書いたこと以外に、これはあきらかに誤訳だろうというのが二ケ所ある、ということを確信した。きのうはばくぜんと「おかしな訳文だなあ」と思っていたのを、きょうはちゃんと辞書をひいて確認してみた。ここはそういうことを攻撃するための場じゃないからあんまし書かないけれども、この翻訳詩集を買ってこの詩を読む人は、ちょっとばかしかわいそうだなあと思う。‥‥たしかに、原文で詩を読んで、だいたいの感じは了解できるとしても、それを日本語の詩に移しかえるという作業はたいへんなことだとは思う。でも日本語にしたあとで、「これじゃあもとの英語の詩とはまるで感じがちがうなあ」などとは思わない人、だったのだろうか。というか、こういう翻訳で原稿料を受け取っていること、そしてこういう翻訳でe. e. cummings の詩を日本の読者に伝えているつもりなところが、どうもやっぱり許せない気にはなってしまう。論理的には彼の詩のことをよく理解していらっしゃる方なのかもしれないけれども、叙情的なところでは、これはもうどうしようもないといわざるをえない。そして、e. e. cummings の詩の魅力は、やっぱりその叙情性のなかにもあらわれていると思う。

 ‥‥やっぱり、書いておこう。まずはつぎの一節、

milly befriended a stranded star
whose rays five languid fingers were;

 っていうのが、つまりは<ヒトデ>のことをいっているんだと推測する人はいっぱいいると思うし、まちがっているはずもない。ここがそのもんだいの訳詩では、「ミリイは座礁している星を救ってやった/そこからの光線はものうい五本の指であった」ということになる。「座礁している星」というのもなんだか即物的ないい方だけれども、もんだいは「rays」という単語。わたしも「光線」のことかとは思ったけれども(まあ、「ヒトデ」を「星」にたとえてるわけだから、わからないでもない)、これは辞書で調べると「放射状の線を描いている」みたいな意味がちゃんとある。まさに「ヒトデ」の、その「ものうげな五本の指」の並び方をいっているのではないのか。これなら「ヒトデ」のことをいっているんだと、なっとくできるだろう。おそらく、「光線」はまったくの誤訳だろう(もちろん、そうやって「光」を想起させようとはしているのだろうけれども)。

 そしてつぎ。ここにもいくつかもんだいがある。

and molly was chased by a horrible thing
which raced sideways while blowing bubbles: and

 ‥‥なんだけれども、訳詩は「次にモリイはシャボン玉のようなものを吹きながら歩道を/疾走してくる何んだかいやな物に追いかけられていた」となる。さきに、いったいここでなぜ「のようなもの」みたいないい方を書き加えなければならないのか、まずは気になるところでもある。だって、「blowing bubbles」とは、まさに「しゃぼん玉を吹く」ことなのだから。「ようなもの」もへったくれもないのである。そして、ではその「しゃぼん玉を吹いている」のはいったい誰でしょう、ということ。訳詩ではその「何んだかいやな物」こそがそのしゃぼん玉を吹いているように読めるけれども、ここであいだにはさまっている「while」の意味をかんがえれば、しゃぼんを吹いてるのはモリイちゃんの方というのが正解なんじゃないだろうか。‥‥もうひとつ、ここにはちょっと辞書をひけば誰にでもわかる単語の誤訳があるわけで、この人は「sideways」を「sideway」とまちがえて、わざわざ「歩道」なんて訳してしまっているけれども、「sideways」は名詞ではなくて<副詞>。ここでは「raced sideways」ということで、「横にそって追ってくる」みたいなことである。‥‥このあたり、ひょっとしたら中学生レベルでの誤訳なんじゃないかと思ったりしている。

 ‥‥書くつもりもなかったけれども、ただ「誤訳がある」だけでは伝わらないところもあるので、書いちゃった。わたしの解釈がまちがっているかもしれないし、「じゃあ全体を詩としてあんたが翻訳してみせろ」といわれても、いまはそういう余裕はないんだけれども。‥‥やってみようか‥‥。

マギーちゃんとミリーちゃんとモリーちゃんとメイちゃんは 
海辺へと降りて行きました(それはつまりある日のことで、そりゃあ、あそびにね!) 

それでマギーちゃんは歌う貝殻を発見するわけ 
その愛らしい歌声でもって、彼女はイヤなこともすっかり忘れちゃうんだな、そんでもって、 

ミリーちゃんは岸辺に取り残されていたお星さまを助けてあげるのね 
お星さまの五本の指は、真ん中から外にむかってぐったりだらりと伸びてたんだってさ 

そいでモリーちゃんは、すっごくこわいものに追っかけられちゃうの 
シャボン玉吹いてたら、それはすぐわきをくっついて走ってくるんだって、‥‥そおして、

メイちゃんは、すべっこい丸い石といっしょにおうちへ帰ったんだってさ 
その石は一個の世界みたいにちいさくって、ひとりぼっちぐらいに大きかった。 

とにかくね、何であってもいつも、わたしたちがなくしてしまうもの(ひとつのあなただったり、ひとつのわたしだったり、みたいなもの)、
それはね、きっと、わたしたちが海でみつけてしまうものなんだわさ。それはマギーちゃんとミリーちゃんとモリーちゃんとメイちゃんと、あなたとかわたしとか。つまりそれはいっつも、<わたしたち>なんです。

     f:id:crosstalk:20130615164809j:image

 ‥‥ちょっと、わたしの勝手な解釈を入れちゃいました。原詩は、きのうの日記をみてください。「そりゃあおかしいだろう」というところがあれば、教えてくださいませ。英語が得意なわけではありません(あとでわかりましたけど、やはり過ちがありました。過ちは過ちで、いまはそのままにしておきます)。

 夕食のおかずは、きのう買ったコロッケとかひとくちカツにキャベツをそえたもの。キャベツがおいしかった。部屋で録画した映画とかをふたつみて、あとは本を読んですごした。いま読んでいるのはまだまだ谷崎潤一郎で、こんどは「武州公秘話」。むかしいちど読んだけれどもね。


 

[]「天国の日々」(1978) テレンス・マリック:監督 「天国の日々」(1978)  テレンス・マリック:監督を含むブックマーク

 この撮影はまずはネストール・アルメンドロスが担当したのだけれども、フランスに帰ってトリュフォーの「恋愛日記」の撮影に入らなくてはならなくなり、あとをハスケル・ウェクスラーに託したのだということ。もちろんこの作品でネストール・アルメンドロスはアカデミーの撮影賞を受賞しているけれど、この70年代後半のアカデミー賞撮影賞受賞者というのはとびっきりのメンツがならんでいて、ぐうぜんこのリストをみたときには、ほんとうにおどろいてしまった。まず75年が「バリー・リンドン」のジョン・オルコットで、76年は、さっきふれたようにこの作品でも撮影にたずさわっていたハスケル・ウェクスラー。77年は「道との遭遇」でのヴィルモス・スィグモンド。78年はこの「天国の日々」でネストール・アルメンドロスが受賞して、翌79年には「地獄の黙示録」を撮ったヴィットリオ・ストラーロが受賞している。
 ‥‥わたしはそんなには撮影監督らの名をそらんじているわけではないけれども、これらの受賞者たちが手がけた作品を、先に撮影監督のことをまるで知らないでみていても、「この撮影はちょっとちがう!」と、たいていは思ってしまうことになる。まあアカデミー賞なるものがどれだけ内実をともなったものなのか、ただアカデミー賞をとっているから「すごい!」などと思うわけもないけれども、このあたりのリストにはちょっとおどろかされてしまうのはたしか。‥‥映画とかんけいないことをつらつらと書いてしまったけれども、やはりこの作品はどうやって観ても、その映像がすばらしい。

 せんじつみたテレンス・マリック監督のデビュー作「Badlands」は当初日本では未公開で、主演のマーティン・シーンが「地獄の黙示録」で注目されたあとにTVで公開されたそうで、そのせいで「地獄の逃避行」という邦題になったらしい。で、この第二作は「Days of Heaven」で邦題も直訳なんだけれども、はからずして、「地獄」と「天国」みたいになってしまったようである。でも、そうやってこの(いいかげんな)邦題をきっかけにこの二作をくらべてみても、けっこうおもしろいところもある。

 この二つの作品、シチュエーションは似ている。「地獄の逃避行」では男が人(女の父親)を殺して女と逃げるわけだけれども、「天国の日々」だって、「あたらしいしごとを求めて」というより、シカゴの工場で上司をなぐったことで逃げているような展開である。どっちの男も直情型で思慮に欠けるようであり、どちらの映画も、男と同行する女性の独白で進行していく(「天国の日々」は妹といつわって連れそっている女性と、実の妹とのふたりの女性が登場するけれども、独白は実の妹によるもの)。「地獄の逃避行」の男はバンバン殺人をかさねていって、さいごには逮捕される。「天国の日々」の男もけっきょくは人を殺め、さいごには追われて命をおとすけど、外からみればまさに「天国」のような、満たされた日々もおくっている。まさに「飛ぶは天国もぐるが地獄」みたいなところなのか。

 広大な美しい自然のなかで、「がまんできない!」、「許せない!」という男たちのこころが、その限界をこえていく。世俗からはるか離れたところでひとり暮らしていた農場主の内面はわからないけれども、愛する人をみつけて、やはり世俗のひとりとして残された生を生きようとしたのだろう。そこに、悪魔のつけいる隙があったんだろうか。というか、彼の死は彼の望んだ死のかたち、だったんではないのかとも思える。雇われた男は、そこでもまた雇われたわけだろうか。すべてを見ていた妹は、また別の逃避行へと出発する。‥‥いったい、何から逃げるのだろうか。


 

[]「勝手にしやがれ!! 英雄計画」(1996) 黒沢清:監督 「勝手にしやがれ!! 英雄計画」(1996)  黒沢清:監督を含むブックマーク

 シリーズ最終作。奇妙なシリアスさが同居する奇妙なコメディーで、なるほど、「CURE」まではもうあと一歩、みたいなところだろうか。けっこう<マジ>なところがあって、そのことを、ちょっと観ていてじゃまに感じないわけでもない。とにかくは興味深く観た。


 

komasafarinakomasafarina 2013/06/16 03:58 モリーちゃんはまだ海が恐いのでしょうか、次々と飛沫を上げて打ち寄せて来る波から逃げるようにして表情硬く波打ち際を駆けています。というイメージ=映像になるでしょうか。blowing bubbles は自然に読めば白く崩れる波頭を想起させ、 while は(〜しながら=と同時に、で)で文法的にも詩の叙法としてもすべて a horrible thing こわーい波にかかっています。
しかし、不思議な、これぞまさしく詩の為すことと言いますか、わたしも言葉の海洋、ネットの海原のどこかからcrosstalk さんの仰言るように something clebrationの波を発することでこの詩にある "ourselves" に不断の生=成を生=起させることになるのだと今回、教えられたように思いました。うーん、さすがに crosstalk さん、E・E・カミングズをゲスト〜トポスに確実にひとつの出来事を起こされましたね。日頃からいろんな次元でさまざまなアーチストに触れ交わっていらっしゃるcrosstalkさんならではのことです。こうした営為はヲタクのヒトたちを含めてけっして分断され閉鎖したものでなく、いつしかどこかで人知れず途絶えるまで(それこそ)いつも波及しつづけていくものなのでしょう。
きのう、きょうと思わず△=参画してしまいました♪ 楽しかったです。また、感覚が凪いでこられたとのこと、お薬の効果ですね、きっと。

komasafarinakomasafarina 2013/06/16 04:13 あ、そうそう、ところでこのモリーちゃん、やがて大人になって、とある場末の歌い手さんとなってデズモンドという商人と結婚してたいそう幸せになりましたとレノン=マッカートニーは伝えています(笑)人生はつづきます♪

crosstalkcrosstalk 2013/06/16 11:32 komasafarinaさん、ふたたび、メッセージ有難う御座居ます。ちょっとばかり、勇気を得ることが出来ました。出かける時に、ふとカミングスの詩集を持って出たことにも、やはり意味があったんだろうと思いました。その意味をこうやって認識出来るようになるのも、komasafarinaさんのおかげです。わたしも楽しかったです。
誤りの御指摘、感謝いたします。「a horrible thing」が海なのだという読みがありませんでした。これは波打ち際なのでした。わたしはwhile のあとにshe とかが省略されているものと、勝手に思ってしまってましたけど、それだとblowingにつながらない。誤訳だけど、これはここではこのままにしておきます。
‥‥そうか、モリーちゃんは歌手になって幸せになるのだったのか。ではマギーちゃんは寝ているといきなり男に「起きろよ」と起こされて、「おまえの顔なんか見なきゃよかったよ」なあんていわれちゃうんですかね。あれ?これはメイちゃんのこと? ‥‥人生は続きますね。

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■ 2013-06-13(Thu)

 しごとのあと、かかりつけの病院へいく。月曜日に市民病院へいって診断を受けたとき、担当医がそのわたしのかかりつけの医師に手紙を書くといっていたので、その手紙がもう着いているころではないかと思い、それでたとえば追加の投薬があるとか、日常生活での注意点などを指示されたりとかあるかもしれないということでいってみたのだけれども、その手紙はまだ着いていなかった。たとえ月曜日に投函できなくても、火曜日ぐらいに投函されていればもう着いているだろうと思ったのだけれども、つまりはそこまで緊急の容態というわけではないのだろう。安心していいのかどうなのか。こういうときに医師の指示をあおぎたくなってしまうというのも、わたしの弱さ、ではあるのだろう。

 待合室で順を待つあいだに読む本を持っていこうと本棚をざっとながめて、e. e. cummings の英語版の詩集と、日本語翻訳版のものと二冊持っていって、待っていたあいだ、ぱらぱらと読んでいた。
 わたしは英語が得意なわけでもないし、ましてやe. e. cummings はイレギュラーな英語でその詩を書いているわけだから、とても理解しているなんていえないのだけれども、それでもずっと、彼の詩は好きだった。‥‥でも、きょうひさしぶりに読んでみると、なんだかgod だとかlove だとかの単語が頻出するのにもうんざりして、あんまり読みつづける気にもなれなくなった。ちょこちょことひろい読みしただけだから、これでもってe. e. cummings はもういいや、などと思うわけでもないけれども。

 わたしがe. e. cummings の作品にはじめてふれたのは、Derek Baily の主宰していたイギリスの前衛ジャズのレーベル「Incus」からリリースされていたどれかのLPのジャケットに載っていたものからだった。その詩は「maggie and milly and molly and may」ではじまる作品だった。この作品は、きょうのいま読んでも、やっぱり愛着を感じる。それで、翻訳版の方をみるとこの訳詩ももちろん掲載されていて、これもきょうはじめて目にするわけでもないのだけれども、なんだか高校生が訳したような直訳体という感じで、「こんなんでいいのかな」みたいに思ってしまった。詩人としても名を成した方(名まえをここに書いてもしょうがないと思う)による翻訳なんだけれども、原詩を読んで感じとれるものが、この翻訳では伝わってこない気がしたし、なによりも一ケ所、英語として解釈がちがうんじゃないだろうかと思ってしまうところがある。‥‥わたしは高校で英語を習っただけのものだから、わたしの英語の素養なんてもんだいになるものではないけれども、やっぱここを読んでくださっている方にもわかるように、その部分だけでも引いておこうか。原詩はこのようなもの。

and maggie discovered a shell that sang
so sweetly she couldn't remember her troubles, and

 これが、翻訳書の訳ではこうなっている。

さてマギイは全く愛嬌よく歌っている貝をみつけたが
自分の悩みを思い浮べることはできなかった

 ‥‥すべての単語にそれぞれ対応する日本語が使われていて、試験の模範回答みたいなんだけれども、原詩の「sweetly」(「愛嬌よく」という訳語は好きじゃないけれども)とそれ以降の「she couldn't remember her troubles」とのかんけいを、この翻訳は誤解しているんじゃないのか。翻訳者はここで「sweetly」と「she couldn't remember her troubles」とのあいだに、改行、もしくは「but」に相当するような断絶をみているのだろうけれども、ここでの「she couldn't remember her troubles」というのは、いかに「sweetly」なのかという説明、たとえば「that」が省略されている文、と読んだ方が、たんじゅんに「ステキ」じゃあないか。つまり、「マギーは愛らしく歌う貝をみつけた」と。それがどのように愛らしく歌うのかというと、「彼女の心配ごとをちっとも思い出せないほどに」、ということなんじゃないだろうか。それでこそ、この詩ぜんたいの意味がとおる気がする。詩ぜんたいをここに掲載するのはやめておこうと思ったけれども、やっぱり書き写しておこう。‥‥この詩はe. e. cummings の詩のなかでも(原詩でも)わかりやすくって、愛らしい、ステキな一篇なんじゃないかと思っている。

maggie and milly and molly and may
went down to the beach ( to play one day )

and maggie discovered a shell that sang
so sweetly she couldn't remember her troubles, and

milly befriended a stranded star
whose rays five languid fingers were;

and molly was chased by a horrible thing
which raced sideways while blowing bubbles: and

may came home with a smooth round stone
as small as a world and as large as alone.

For whatever we lose ( like a you or a me )
it's always ourselves we find in the sea

     f:id:crosstalk:20130615110952j:image

 ‥‥そんなにいまげんざい、日常生活において危機的状況でもないというか、水分をたくさんとってストレスをためない生活をこころがけ、いまの薬をそのまま忘れずにつづけていけばそれいじょう出来ることもないようなので、べつに安心するわけでもないけれども、そのようにやっていくだけである。ただ、さいきんはちょっと自宅でのアルコール摂取量がふえていたようにも思えるわけで、発症後はまるでアルコールは口にしていないけれども、これからもアルコールは遠ざける生活にしようと思う(お出かけしたときなどは、ちょっとは飲みたいな)。

 部屋で映画を一本みて、読んでいた谷崎の「蓼喰う虫」も読みおえた。きのう思っていたようにきょうはコロッケとかカツを食べたいなと、また南のスーパーへいってみた。きょうは木曜日なので、たいていのものは一割引き。惣菜売り場においてあるコロッケとカツをパックに取り、またついつい寿司のパックをおいてあるところをみてみると、きょうは鉄火ちらしのパックが半額でおいてあるのをみつけてしまった。コロッケなんかは買っておいてあしたのおかずにすることにして、両方とも買ってしまった。あと、キャベツの新鮮そうで大きいのが90円ぐらいだったのも買った。あしたのコロッケのつけあわせ。

 少年王者舘から、次回公演の案内ハガキが来ていた。こんどは天野天街さんオリジナル脚本ではなく、マンガの原作があるみたい。そういうときにはいままで見せてくれなかった王者舘の顔をみせてくれることもあるし、いぜん鈴木翁二のマンガを原作にやったときもとってもすばらしい舞台だったりしたし、楽しみである。Bさんにメールで連絡し、ついでに、かくしておいてもしょうがないので、一過性脳虚血発作というのをおこしてしまったことも告げておく。あんまり心配かけたのでなければいいけれども、発作のあとに感覚が鋭敏になっていることを書くと、「エスパーみたい」と、おもしろがってくれた。‥‥わたしは、ゾンビとエスパーとをそれぞれに、やったわけだろうか。


 

[]「荒野のガンマン」(1961) サム・ペキンパー:監督 「荒野のガンマン」(1961)  サム・ペキンパー:監督を含むブックマーク

 サム・ペキンパーの、劇場用映画演出のさいしょの作品。まったく爽快なウェスタンではなく、どこか陰うつで病的な空気があると思う。劇の中盤はずっと、死んだ子どもの遺体をとなり町の墓地に埋葬するために、ふたりの男女が棺桶を運びつづける。女性(モーリン・オハラ)は町の酒場の女で、死んだ子ども(十歳ぐらいの男の子)は彼女の子なんだけれども、町の連中はどうせその父親なんかどこのだれだかわからないんだろうとうわさしているわけで、女性は子どもはちゃんとしたじぶんの夫の子で、夫は子が生まれるまえにとなり町で死んでしまい、その墓がそこにあると主張する。だから、子どもの遺体は夫の墓のとなりに埋葬してやりたいのだ。もちろん、これもぜんぶつくりばなしだという町民らのかずもおおい。男性(ブライアン・キース)はむかしリンチで頭皮をはがされそうになったことがあり、その復讐を誓っている。頭のきずあとをみせないため、眠るときにも帽子を取らない。女性の子どもは町での銃撃戦で彼の撃った流れ弾があたって死んだわけで、そのことで責任を感じている。‥‥じつは彼は鎖骨にけがをした経緯から、うまく銃の照準を合わせられないようで、銃撃戦はほとんどない。この邦題はちょっといんちきである。原題は「The Deadly Companions」で、この映画の陰うつな空気をよく伝えている印象。

 モーリン・オハラはじっとりとネクラで暗いふんいきだし、ブライアン・キースも快活なヒーローからはほど遠い造形。このふたりが棺桶とともに荒地を旅していく。そこに先住民が襲ってきたりもするし、ガラガラヘビだって登場する。西部劇の爽快さなど、いったいどこに見出せるだろうか。もうぜったいに亡霊が出てきてもおかしくはないような映画。だいたい冒頭から、その死んだ少年が建物の上に直立してハーモニカをふいているショットがあって、この絵がちょっと構図も傾いでいるし、ものすごく無気味なのである。

 ラストは予定調和的になしくずしハッピーエンドになってしまうけれども、それまでの硬質な(まあ、ストーリー展開でなっとくのいかないところはあるにしても)いいかげんな妥協のない演出は、こりゃあさすがにサム・ペキンパーだわさ、などと感心してしまうのである。


 

[]「蓼喰う虫」谷崎潤一郎:著 「蓼喰う虫」谷崎潤一郎:著を含むブックマーク

 こないだ読みおえた「卍」と並行して書かれていた作品らしく、「卍」が昭和三年三月から雑誌<改造>に連載され、五年の四月に完結したのに対し、この「蓼喰う虫」はおなじ昭和三年の十二月から、いまの毎日新聞に連載され、翌四年の六月に完結したとのこと。‥‥新聞に連載された小説というものにはどこか独特のものがあるというか、ぜんたいを読まなくっても、その部分をひろい読みしても楽しめるように書かれたものなのか、いぜん読んだ田山花袋の新聞小説も、なんだかストーリーがあるようなないような、のらりくらりとしたわけのわからん作品だった記憶がある。この「蓼喰う虫」にしても、話がすぐに人形浄瑠璃(文楽)の方に脱線していくようなところもあるし、状況が変わらないということについての物語みたいでもあって、どうもこう、読みおえてすぐに「おもしろかった」とかいう感想も出てこないところがある。

 わたしをふくめて、いまの読者ならばぜったいに「卍」にはおどろきあきれるというか、ここにこそ谷崎の心髄もあるように読むのではないだろうか。そして、きっとこの「蓼喰う虫」よりは「卍」の方をこそ、谷崎の代表作のひとつと認識するんじゃないだろうか。しかし、これが作品の発表された当時は圧倒的に「蓼喰う虫」の方が評判がよかったらしい。「卍」では奇怪な同性愛などの世界に足を踏み入れてしまった谷崎が、この「蓼喰う虫」でようやく、ちゃんとした小説の世界を描いてくれていると。

 ‥‥どうも、この小説の書かれた時代の日本の小説というのは、いわゆる「私小説」の全盛期というのか、「私小説」でなかれば小説にあらず、というか、作家自身の分身のような存在が内的な独白をするもの、それこそが小説という読まれ方をしていたような。
 だからこの、エッセイなんだか小説なんだかよくわかんない作品を、読む人は主人公の要のことを谷崎潤一郎の分身のようにとらえて読んでいたんだろう。それでまた、じっさいにどこまで人々に知られていたことなのかどうか知らないけれども、この時期に谷崎はじっさいに自分の奥さんと別れようと(おまけに友人に譲渡しようと)していたわけだ。

 読みおえても、なんだか文楽人形に似ているというだけで、どういう人格なのかつかみどころもない女性にたいして、そのラストで親和感を示されてみても、なんともいいようがないところがある。人形浄瑠璃についての文章も、たとえば淡路の人形浄瑠璃についての現地レポートみたいなところがあって、これはこの<小説>とはどこかちがうところで成立してしまっている、ように思ってしまう。他人の離婚ざたなんて、おもしろいものでもないし(体験者としての意見、かな?)。



 

komasafarinakomasafarina 2013/06/15 11:52 でーえマギーがみみつけた貝殻ラララ〜と歌ってる とっても かーいーたらありゃしない、ヤなことなんか どっ かい っちゃう(笑)(映画化訳w)
ご無沙汰しております! お見舞いにやってまいりました。このところちょくちょく拝見しています。突然の不調でご心配のことと思います。どうぞ最先端のよいお薬!と、いまのお体に愛ある時間をお過ごしになることで、日々を明日へとお暮しくださるYOU!
それとわたくしからの僭越ながらの処方??を申し上げますと、何か独自のお考えがあるのかもしれませんが)漢字をもう少し多用なさると心身によい作用を及ぼすのではなかろうかと書く現場を思い愚考いたすのですが、いかがでしょうか? 以上、ご無礼ながら。

crosstalkcrosstalk 2013/06/15 13:34 あ! komasafarinaさんだ! コメント、そしてステキな訳文と、有難う御座居ます! 訳詞の専門の方に、正にこの詩の楽しさが伝わって来る楽しい訳詞を戴き、心から喜んで居ります。komasafarinaさんがまたSomethin' CelebrationなのをGoin' On して下されば、わたしもまたもっと元気になれるような気持ちも、ないこともありません。いろいろと御都合がおありのことでしょうけど。
アドバイス、有難う御座居ます。実は意識して漢字の使用量を減らしていますが、時に平仮名が連続し過ぎていて、「これでは読み難いかな」と思わないわけではありません。まだ自分の中での基準も曖昧で、そこに自分なりのリズムなどを見つけ出しているわけでもありません。あまり平仮名が連続しないようには心掛けたいと思います。それでは、読んでいただいて、どうも有難う御座居ます!

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■ 2013-06-12(Wed)

 きょうのしごとは非番で休みなんだけれども、みな(といってもふたりだけれども)がしごとをやっているころ、それもしごとのまっさいちゅうではなくっていちだんらくしたころ、しごと場へ陣中見舞いというか、このあいだ病院にいったときに買っておいた和菓子をもっていった。せんじつ迷惑をかけてしまったおわび、というつもりもある。きょうはけっこういそがしかったようで、ふだんならもうくつろいでいるんじゃないかというじかんをねらって行ったのだけれども、まだしごとはおわっていなかった。それで、ちょっと手伝ってきた。

 きょうはリハビリのつもりでのんびりすごそうと、てきとうにテレテレとやってみた。昼はざるラーメンにして、夕食はじぶんでつくるよりもなにかおいしいものを食べようと、また南のスーパーに出かけてみた。外食にしてもいいのだけれども、わたしには塩分のとりすぎはよろしくないし、そもそもそういう塩分のつよい食べ物というものをわたしは好まなくなっている。だからスーパーの惣菜なんかの方がいい。とんかつだとか、コロッケとかを食べたいかも。‥‥
 きょうは割り引きにたよらずに、けっこうはやいじかんに出かけてみたのだけれども、それでもにぎり寿司のパックで半額になっているのがひとつあったので、けっきょくまた、寿司にしてしまった。こんかいはちゃんと、わさびが入っていた。

 発作以降、外からの刺激がまえとちがって受けとめられることは書いたけれども、そういうのが楽しいこともあって、聴き親しんだCDなんかをもういちど聴き返したりしている。きょうはAlex Chilton の「Cliches」と、Wynton Kelly Trio の「Kelly Great」とかをリピートして聴いた。Alex Chilton もいいけれども、「Kelly Great」でのピアノの音とベースの音、それぞれの音はもちろんのこと、音のあいだにある距離のようなものが、そして隙間のようなものが、とても新鮮に耳に響いてくる。ときどき、信じられないような「跳躍」を聴かせてくれて、あらためてびっくりしたりする。なんども聴いた音源だけれども、やはりこんなふうに聴こえてくるのははじめてのこと。‥‥こうやってまいにち、在庫のCDをとっかえひっかえ聴いていたら、もうけっしていつまでも飽きることがないような気がする。

 ニェネントが、「あんた、元気になったみたいだね」みたいに、わたしのまわりにつきまとってくる。もうすぐ三歳。ラグドール種は成長がおそく、四歳ぐらいでようやく成猫というけれど、ニェネントははんぶんはほかの血なわけだし、もう成猫とかんがえていいんだろう(まだこどもっぽいところもあるけれども)。

 録画してあった映画も、ひとつみた。寝るまえには谷崎の「蓼喰う虫」を読んでいて、これはあしたには読みおえるだろう。

 

 

[]「テイラー・オブ・パナマ」(2001) ジョン・ル・カレ:原作 ジョン・ブアマン:監督 「テイラー・オブ・パナマ」(2001)  ジョン・ル・カレ:原作 ジョン・ブアマン:監督を含むブックマーク

 ストーリーテリングの妙でみせる作品というか、映像としてどうこういう作品ではないし、「叔父」(これをハロルド・ピンターが演じている)をゴーストのように登場させるという演出なんて、映画から何かを捨ててかからないとできないことだろう。で、ジョン・ブアマン監督がいったい何を捨てたのかわからないわけでもないけれども、そういうことでことさらにけなしてみてもしょうがない。

 この映画、そういうストーリー展開を受けとめながら、憶測してみたり、逆算してみたり反芻してみたりして楽しむ作品なんじゃないかと思う。まあこういう結末というか、終盤のおおごとまでの展開をさいしょっから予測することなんかだれもできないんだけれども、ただ冒頭に出てくる主役の(じつの主役は「パナマの仕立て屋」のジェフリー・ラッシュの方かもしれないけれども)MI6諜報部員のピアース・ブロスナンの顔が、じつにみにくくゆがんでみえ、こりゃあ悪役だろうがと思ってしまうわけだけれども、そういう憶測は、けっこう当たったりするものである。

 映画はだいたいがジェフリー・ラッシュの視点から、彼の内面にまでふみこんで描いてしまうわけだから、彼が何をかんがえているのかはわかる。しかし、ピアース・ブロスナンの方は、これがいったい何を思って行動しているのか、わからないことになっている。パナマくんだりまで左遷させられてやる気をなくしていて、まずは女性をゲットすることだけをかんがえ、それいがいは成り行きまかせのいいかげんな行動ばかりをとっているようにも見受けられもするのだけれども、ちゃんと計算しているようでもある。‥‥答えを書いてしまうと、さすがは名諜報部員というか、ちゃんと見越した上での選択や行動なわけだけれども、ここで冒頭の航空機内での独白、「情報源になる人物をさがす」ということばを、もういちど思いだすわけである。なあるほど。ここでもう、「あやつれる」人物をさがそうともくろんでいるわけである。まさに、ぴったりな人物をみつけるわけだ。‥‥ピアース・ブロスナンにしても、さいごにサッカーくじでもって全勝敗全得点数を的中させるみたいなはなれわざができるとは思っていなかっただろうけれども、イギリス本部上司たちの御し易さだとか、パナマの支局長の性格だとかはとうぜん、たいていのところまでは読んでいたわけだろう。しょうじき、みていて爽快になれるところはあるし、それは「カサブランカ」からの笑える引用でますます爽快になる思い。ピアース・ブロスナンも、器用なところがあるなあとも思った。


 

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■ 2013-06-11(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 脳虚血発作ということは、いちじてきなことにせよ、脳のはたらきが失われていたということなんだろう。たとえ倒れたりしなかったとはいえ、しばらくは意識が失われていたというのはたしかなことだと思う。ゾンビみたいなものなのか。とにかくいまはちゃんと意識もしっかりしていて、どこといっておかしな状態もないとは思うのだけれども、ただ、視覚や聴覚をつうじて得られる外の世界の情報の、その質がどこか変わってしまっているような気がしてならない。ひょっとしたら通常つかわれていた回路が「虚血」ということでしばらくシャットダウンされ、それがまた開通(というのか)したとき、その回路がリセットされたのか、それともこれまでまるでつかわれていなかったルートをとるようになってしまったのか。

f:id:crosstalk:20130612170558j:image:left そういうことのいちばん顕著な反応、TVの画面をみているときに起こるようだけれども、やはりほんらい三次元のものが二次元に閉じこめられていることが奇怪に感じられるというのか、ふとした人物のうごきに妙に気もちが反応してしまう。これは画像を加工してあったりめまぐるしい編集の加えられているCMなんかをみているときの方が、より反応してしまう。こういうことを発作でのこってしまった障害とかんがえるととってもイヤだけれども、内容を理解できないとかそういうこととはまるでちがう。もちろんまえとおなじように本も読めるし、読書にかんしては、ひょっとしたらまえより読むスピードあがった?なんて思ってしまうところもある。音楽がまた聴いていても微妙な音のからみとかに敏感になっているというのか、なんども聴き知っている曲を聴いていてもなんだか新鮮に聴くことができるような。‥‥こういうことが、つまりはまだ発作から回復していないということもいえるのかもしれないけれども、つまりつぎの発作の可能性を示しているようならばたいへんだけれども、そういうことでもないんだったら、一面で感覚がちょっと鋭敏になったようで、これはこれでいいよ、ってな感覚はある。

f:id:crosstalk:20130612170646j:image:right それで、ニェネントがまた、とってもかわいくみえる。忘れるところだったけれども、あと十日するとニェネントの三歳の誕生日になる。きょうあらためてニェネントの顔とかのぞきこんでみると、やっぱおかあさんのミイに似てきたと思う。ミイがもっていた和猫っぽい美しさみたいなものを、ちゃんとニェネントもひきついでいたんだなあと思う。わたしはそんなニェネントのためにも、自分勝手に倒れたりすることはぜったいにできない。医者のいうことをよくきいて守り、発作とか卒中などということをおこしてはならない。ぜったいに。そうできるだろうか。(きのうあたりは、ニェネントのほかの飼い主を探してあげなければいけないなあ、なんてことをかんがえていたけれども。)

       f:id:crosstalk:20130612170730j:image

 きょうはちょっと、ホームセンターまで買い物に行ったりしてひつようなものを買い、やらなくてはならないことをすこしだけはじめた。むずかしいけれども、まだ、どうなるかわからない。

       f:id:crosstalk:20130612170812j:image

 

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■ 2013-06-10(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 しごとをおえてから朝食もそこそこにして、かかっている内科医へ行き、おとといのことをはなしする。やはり総合病院でCTスキャンなどもやらなくてはならないだろうということで、電車でひと駅の市民病院を紹介され、いちど帰宅して昼食をとってから出かけた。この病院は、かつて十二指腸潰瘍で入院したことのあるところ。わたしが入院していたのは五階の病室だったけれど、この病院は二年まえの震災でけっこうな被害をうけ、上の方の階をとりこわして改築し、いまでは二階だか三階建てになっている。

 けっこうなじかん待たされて、ようやく番がまわってくる。心電図と頭部のCTスキャンとをとられた。‥‥診断。一過性脳虚血発作というものだった。これがなにかというと、つまりは脳硬塞の一歩手まえの状態だということ。ひじょうにあぶない。しょうじき、ほとんど絶望的な気分にもなった。げんざい血圧治療を継続中なこともあるのか、ただ水分の補給につとめること、そしてストレスをさけることぐらいの、「注意」しか与えられない。とにかくわたしはずっと、脳卒中みたいなことで倒れるのだけはごめんだと思っていたのが、いちどにその高い確率が目のまえにせまってきたわけである。まいった。

 ニェネントのこともあるし、これからどうやって日々をおくっていくべきか、いまやっておかなくてはならないこともあるのではないか、などといろいろとかんがえてしまう。いぜんから「やる」と決めていたことがらもあって、構想もなんとなくかんがえたりしてはいたけれども、これはやらなくちゃならない。そのためにはいちにちのじかんの配分もあるし、いちどは、こうやって日記を書くのはもうやめた方がいいだろうなどともかんがえた。まあこうやってまた書いているわけだから、そのかんがえはあらためた。

 

 

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■ 2013-06-09(Sun)

 ‥‥きのうの異様な事態から、一夜あけた。これでまた、めざめたときに夢をみたような記憶があったりしたらまたあぶないのだけれども、とりあえずはそういうこともなかった。きょうはしごとは非番で休み。日曜日だから病院も休み。いちおうきょういちにちようすをみて、あしたしごとに出ても異常のおきないことを祈り、しごとのあとに病院へ行くことにしよう。

 まずは食欲がないのをなんとかしなければいけないと思い、ゆで卵をつくってこれをこまかくしてマヨネーズとまぜ、トーストにレタスとハムとトマトといっしょにはさんで食べた。これがまずいと感じるようだとわたし的にはヤバいのだけれども、そこまでおいしいとは思わなかったとはいえ、無事にいつものように食べられた。

f:id:crosstalk:20130610130433j:image:right しかし、TVをみていると、登場する人物のちょっとした表情にひきこまれてしまうようなところがあり、これがきのうの事態とかんけいがあるのかどうかわからないんだけれども、とにかくはいつもにない反応で、なんだか、スッとじぶんが持っていかれてしまいそうになるのである。‥‥どうも感情的にもろくなってしまっているのか、ニェネントのすがたが異様にかわいらしくもみえ、ひざに抱き上げたりするとよけいにいとおしい存在に思え、涙がこぼれてしまったりする。やはりちょっとおかしい。

 ニェネントも、「この人、ちょっといつもとちがっておかしい」と感じるのか、わたしに逆らったりはしないのだけれども、いつもとちがう行動をとるような。いちどはTV台の下からジャンプして、TVの画面をけりつけたりした。TVがぐらぐらとゆれた。まえにそうやってTVをこわされているから、いまはTV台にワイヤーで倒れないようにくくりつけてあるのだけれども、こうやっていなかったなら、こんかいもまたTVはこわされてしまっていたことだろう。

 昼食はインスタントラーメンですませ、ひるからはずっとまえに録画してあった、「地獄の逃避行」なんてみてしまう。みていてやはり、シシー・スペイセクの表情とかに、持っていかれそうになってしまったりする。‥‥みおわったあと、図書館に借りている本を返しにいってみたら、四、五日まえから長期休館にはいったところだった。館があくまでにまだ十日ほどまたなければならない。閉館時の返却口につっこんできてもいいのだけれども、またもって帰ってきた。帰り道にアルコール量販店に寄ってみて店内を一周し、ざるラーメンというのが安かったのを買う。ついでにまたあたらしいドラッグストアものぞいてみたら、ニェネントの好物の(とわたしが思っている)ネコ缶が、きょうはいっぱいおいてあった。ここで買っておかなくてはと、いっぱい買い占めてしまった。消費者の行動としてどうなのか。

 夕食にはなにかおいしいものが食べたくなり、どこか近くの店にいって外食にしようかともおもったけれども、けっきょくまた南のスーパーが割り引きをはじめるようになるじかんまでまって出かけていって、すこし安くなっていた寿司のセットを買って帰った。パッケージには「父の日限定ごちそうにぎり」なんて書いてあるのに、なんと「わさびぬき」になっていた。父の日用だけれども、どうやらこれを食べるのはその「父」ではないようだ。かわいそうなお父さんではある。

 ‥‥いつもとおなじような日記を書いてみたけれども、じつはわたしはどこかで、おとといまでのじぶんとは連続していないと思っている。それが何かの病気だということになれば、つまりはいよいよ、これまでと連続した生活などはできなくなるわけである。とにかく、いまのものの感じ方には、どこか異常なところがあると思う。とりあえずは、あした病院へ行く。

 

 

[]「地獄の逃避行」(1973) テレンス・マリック:監督 「地獄の逃避行」(1973)  テレンス・マリック:監督を含むブックマーク

 テレンス・マリックの、監督デビュー作品。ずいぶんいぜんにいちどみている。1957年から58年にかけてじっさいに起きた連続殺人事件をモデルにしたらしい。その殺人犯を若き日のマーティン・シーンが演じ、彼とともに逃避行をつづける少女(設定では15歳)を、シシー・スペイセクが演じている。映画にはそのシシー・スペイセクからの、幼稚で世間知らずなナレーションがずっとかぶせられる。幼稚な世界観ということではマーティン・シーンにしてもおなじようなものだろう。
 こんかいみていると、このふたりの逃避行がどこかゴダールの「気狂いピエロ」を思いださせられるようなところがあり、それはもちろんこの主人公ふたりがフェルディナンとマリアンヌに似ているなどということではなく、そうではなく、映像として通底するものがあるはずだ、という思い。森のなかの生活や、車での逃走など、展開でも「気狂いピエロ」なところも感じる。テレンス・マリックはおそらく、意識しているわけだと思う。この作品の撮影にはタク・フジモトの名まえがみえる。


 

[]「卍(まんじ)」谷崎潤一郎:著 「卍(まんじ)」谷崎潤一郎:著を含むブックマーク

 これもむかしいちど読んでいる。なんというのか、生き残った園子夫人が「先生」に語る「ひとりがたり」として物語は進行していくんだけれども、なぜか、この「先生」はけっこうはやい段階で<註>のかたちで、園子のだんなさんがいまは故人になっていることをあかしている。だんなさんも園子の語りのなかで主要登場人物になっているから、だんなさんはこの「事件」のからみで亡くなられたことが想像できる。まあ、「これはエグい事件に発展するんだぞ」という、谷崎潤一郎から読者への「予告」なわけだろう。そして、いかにエグいところまでもっていくか、そのあたりにこそ心血をそそいでいるわけだろう。とにかくエグい、というのがわたしの印象。そのあたりで、この創作関西弁のあまりにねちっこい感覚にこちらは汗をかくというか、この園子夫人がいったいどんな服きてはるんか、そういうあたりやて想像できまっせ。

  もちろん、だれがただしくてだれがわるかった、などという善悪の話ではない。ひきょうなことは許せないというような登場人物たちのモラルはあるのかもしれないけれども、みながみな、ほかの人物をだましてばかりいる。やっぱりモラルもないのである。ひとりだけ、この人ってノーマルなんじゃないの、などと思っていた園子のだんなさんも、まるでアリがアリジゴクにとらえられるように、その罠(罠なのかどうかしらないけれども)に落ちこんでいってしまう。‥‥このあたりが、読んでいてもゾクゾクしてしまう。


 

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■ 2013-06-08(Sat)

 あさ、めざめたときに、夢をみていたという記憶があった。その夢というのが、視覚的な「情景」だとか人が登場してくる「ストーリー」とかいうものではなく、「状況」というのか、「状態」というのか、そういうアトモスフェアとしてだけ、こころのなかにのこっているような。しかもそのアトモスフェアがひととおりではなく、幾通りも重層的にかさなって、記憶のどこかに層になってのこっているような感覚。ぜんたいをイメージすることはまったくできないのだけれども、めざめたあとにそのきみょうな記憶が断片的にうかびあがってくる。こういう夢はいつだったか、先日もみたような気がするなあとおもいながら、しごとにでた。

 ‥‥しごとをやっていて、ふいにまたその夢の断片のようなものが、あたまだかこころによみがえってきた。同時に、ある種の匂いだか香りのようなものが、鼻からではなく、ダイレクトにあたまにつたわってくる感覚がおきる。そういう夢の断片やふしぎな香りが、あたまをみたしてしまう。そのときにはわたしはそれがどういうことなのか、まるでわからなかった(いまでもわかっていないが)。

 きょうはたいしたしごと量でもなく、倉庫へ移動するまえにじゅうぶんにすべておわらせられるぐらいのものだったはずなのに、いつのまにか移動するじかんがせまっていて、けっこうギリギリになってしまっていた。こういうことを、「どうしたことだろう」と感じるのがノーマルだろうとおもうけれども、わたしにはそういうことがなかった。つまりわたしはけさ、ずいぶんとながいあいだ、まるでノーマルではなかったのだ。

 倉庫へ移動して、おそらくはトラックから荷をおろすとき、また夢の断片がよみがえってきたのは記憶にある。それでまた、あの匂いだか香りだかがただようわけである。‥‥その先のことが、わからない。けっして気絶して倒れたとかいうのではないのだけれども、つまりは心神喪失というのか、立ったまま意識混濁状態におちいってしまっていたらしい。

 いっしょにしごとをやっていたCさんにあとからきいたのだけれども、トラックから荷をおろすときにわたしはまるで手伝おうともせずつっ立ったまま。Cさんがわたしに声をかけてもまるで反応がなかったので、「これはダメだ」と支店に電話して、ヘルプとしてDさんにきてもらったのだと。わたしは、なんとなくDさんが手伝いにきたことはわかったのだけれども、それまでの経緯やじぶんの行動のことはまるでわからないまま、それでも普段なら異常事態であるはずのとつぜんの手伝いの到来も、ほとんど思考しないままに了解しているのである。いったいどういうことになったのかわからないでいるまま、ただ状況を受け入れていただけのことで、このときにはもう意識などはもどっていたとはいっても、やはりまだおかしかったのだろう。しかし、周辺の人たちはおどろいたことだろう。しごとがおちついてからCさんと話をして、じぶんがきょうは出勤したときからおかしかったのだろうとわかった。とにかく、声をかけてもぼうっとしたままなのでおどろいたという。倉庫へくるまえにしごとが遅れていたのも、とちゅうでそういうぼう然自失状態をひきおこしていたということだろう。そして、そのぼう然自失におちいるまえに、夢の記憶のようなものが喚起され、同時にあの匂いだか香りだかが感じられるわけだ。

 支店に帰ったら、つまりCさんが電話で報告しているわけだからみんなわたしの状態を知っていて、心配してくれた。いちこうこの時点ではいつものじぶんにもどっているというか、不明瞭なところはどこにもないだろう。あしたは日曜日。しごとも非番で休みだから、きょうあしたとようすをみて、これはわたしのかかえている心臓のもんだいとは別だろうけれども、月曜日になったら通っている内科医へいって相談してみようとおもう。‥‥精神科、なのかなあ?

 しごとのじかんがおわって、帰宅する。じぶんではもうそういう奇妙な症状は出ていないとおもっている。もうそれからは夢の記憶が呼びもどされることもなかったけれども、はたしてあれが夢とかんけいするものだったのかどうか、いまではわからない。ただ、TVなどをみているとき、そこにうつった人の表情などで、フッとこころをもっていかれるような感覚は、なんどかあった。心臓がきゅっとなるような感覚もあったので、やはり心臓疾患の症状なのかもしれないともおもったりもした。しんぱいではある。

 そういうしんぱいのせいか、食欲はまるでない。朝食はなにも食べないでしまい、昼食にきのうのシチューをたべたけれども、これはわたしのつくったシチュー自体のせいもあるだろうけれども、まるでおいしくは感じられない。夕食もなにも食べる気がせず、まえに買った納豆があったのでこれでむりに夕食にした。

 ドキュメンタリーではあるけれども録画してあった映画をみて、寝るときには本も読んだけれども、そういう外からの刺激に妙な反応がでることもないようだ。とにかくはあしたいちにち、ようすをみてみよう。

 

 

[]「ピナ・バウシュ 夢の教室」(2010) アン・リンセル:監督 「ピナ・バウシュ 夢の教室」(2010)  アン・リンセル:監督を含むブックマーク

 このドキュメンタリーで上演されようとしている作品は「コンタクトホーフ」で、いろいろなピナとヴッパタール舞踊団を紹介する映像ではたいてい、この「コンタクトホーフ」の断片なりが紹介される。この「コンタクトホーフ」の日本公演は、ピナ初来日の1986年に行なわれているらしい。おなじ年に日本公演の行なわれた「春の祭典」と「カフェ・ミュラー」は2006年にもういちど日本でも再演されているのだけれども、「コンタクトホーフ」はそれっきりになってしまって、ちょっと遅れてピナをみはじめた観客だったわたしは、「春の祭典」と「カフェ・ミュラー」はその2006年にみることができたけれども、「コンタクトホーフ」はみていない。

 この「ピナ・バウシュ 夢の教室」の冒頭にも、おそらくはその「コンタクトホーフ」のカッコイイところがちょっとだけ映されたりするんだけれども、やはりこういうところをみると、そりゃあ「春の祭典」や「カフェ・ミュラー」もすっばらしいことこのうえないのだけれども、ピナのいう「タンツ・シアター」というものをもっとも体現しているのは、この「コンタクトホーフ」なんじゃないだろうかと、どうしてもおもってしまう。

 ‥‥わたしは、十数年まえにドイツにしばらく滞在していたとき、ちょうどピナ・バウシュの新作が上演されていることを知り、ヴッパタールまで行き、ピナが本拠地にしているヴッパタール歌劇場の窓口に「当日券はないか」とたずねたことがある。‥‥そりゃあ、ドイツの人だって、そうかんたんにピナ・バウシュのチケットは入手できないだろう。もちろん当日券などのこっているわけもなく、キャンセル待ちもみこみうすだろうといわれ、わずかなじかんのヴッパタール滞在で宿泊地に引き返したものだった。でも、このドキュメンタリーにでてくる有名なヴッパタールのモノレールはみてきたし、もちろんヴッパタール歌劇場のすがたも目に焼きつけてきた。このモノレール、せんじつみたヴェンダース監督の「都会のアリス」のなかにも登場していたものだった。そう、ピナ・バウシュといえばウィリアム・フォーサイス(せんじつみた「赤ちゃん泥棒」に出ていた俳優さんではありません)なのだけれども、そのドイツ滞在中、ベルリンでフォーサイスの作品は観た(フランクフルト・バレエ団がやったのではなかったけれども)。

 ‥‥それでこの作品。この作品が劇場で公開されたころ、おなじピナ・バウシュをさっきのヴェンダース監督が撮った「ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」(なんと3D映画、だった!)も劇場公開されていた。わたしはこちらは映画館にみにいっているけれども、この「ピナ・バウシュ 夢の教室」の方はきょうはじめてみる。もちろん、こうしてピナにかんするドキュメンタリーが二本もれんぞくして製作、公開されたというのは、2009年のピナ・バウシュのとつぜんの逝去ということがあるだろう。‥‥あのときにはもう、二度とヴッパタール舞踊団でピナの作品をみることはできなくなるんだろうとおもい、がっくりしたものだったけれども、ヴッパタール舞踊団はその後も、ピナの作品で活動をつづけられているらしい。ぜひまた、日本にもきてほしいものである!

 まえおきがながくなってしまったけれども、この「ピナ・バウシュ 夢の教室」は、2007年に上演された「コンタクトホーフ」の若者版舞台の練習風景をとらえたドキュメンタリー。おそらくはピナの舞台をみたこともなく、ダンスの経験もないような十代の男女が、この、たんじゅんにダンスとはよべないような作品にたちむかう。‥‥もちろん、この「コンタクトホーフ」という作品がそういう「タンツ・シアター」を代表するような作品だからこそ、こういうこころみに意味がでてくる。これに先立つ2000年には、65歳以上のダンサーたちによる「コンタクトホーフ」もまた上演されているわけでもある。

 もちろん、ダンサーの若者たちは稽古でもじぶんの感情や身体をさらすことに抵抗があり、そのようにも語っている。それはとうぜんの感情ではあるだろうけれども、もしかしたらそのような抵抗感をのこしたままでも、舞台はできていく。そしてそこにこそ、ティーンエージャーに演じさせるという意味もでてくる。「コンタクトホーフ」とは、そのようなことをも包括できるような作品なのだろうと、全体をみていないけれども、想像はつく。そこでいったい何が舞台にみえてくるのか、ざんねんながら本番の舞台はほとんどこのドキュメンタリーには写されないので、ほんとうのところはどうだったのか、わかりはしない。ただ、練習をつみかさねていきながら、ときにピナ自身がコメントを入れ、多くは二人の芸術監督と出演者たちとのやりとりで進行する。いろいろな視点から撮られて編集された映像は立体的で、本番の舞台ではこんな視点はとれないよね、という立ち位置もおおく、このあたりはカメラマンの意気込みなんだろう。

 みていると、出演者のなかでも圧倒的に反応がよく、そしてその動きもしなやかな女性が目についてしまい、この子がえらばれるだろうなあとおもっていたのだけれども、やっぱり破格の抜てきみたいなところに決定したみたい。‥‥やはりこの、本番舞台を通して観たいなあ。


 

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■ 2013-06-07(Fri)

 ことしは梅雨入り宣言が出されたのはずいぶんとはやかったのだけれども、その宣言の出たときもたいした雨量ではなかったし、そのあともまるで雨は降らない。きょうはようやく、しごとに出るころにちょっとだけパラパラと降っていたけれども、しごとをおえて帰るときにはもうすっかりやんでしまっていた。

 あたらしくできたドラッグストアでは、開店記念でもってまだらいしゅうまではいろんなものを特価で売っている。そのなかにネコ缶もあって、いつもニェネントに買ってあげているネコ缶が、ほかの店よりも三十円も安い。これは特価期間中にまとめ買いしておいた方がいいなとおもって、買いにいった。‥‥もう開店して一ヶ月いじょうたったわけだけれども、店に入るとお客さんのすがたはほとんどみられない。もちろんいちにちのうちにはもっと混み合っているじかんもあるのだろうけれども、いま、このじかんでも、そばのドラッグストアにはもっとお客さんの数はある。わたしもふだんはこのあたらしい店に足を向けることもないし、ヤバいんじゃないだろうか。

 ‥‥だいたいこの店、まえにずいぶんと安い酒のおつまみなどを買ってみたりしたのだけれども、これがすっごくまずくってがっかりもした。よくいわれることだけれども、むかし酒屋をやっていたところがスーパーなどに転身しても、むかしからの体験でおいしい酒のおつまみなどを知っているので、そういう店に置かれたおつまみ類はあまりはずれがないという。そういう意味で、味を知らずにただ安いというだけで仕入れている、つまり小売店の経験のない店は、もちろんはずれがおおいことになる。そうすると、ある種の客(つまり、お酒をたしなむような)ははなれていってしまうだろう。ちなみに、わたしがいつもいくもう一軒のドラッグストアは、かなり手づくりっぽいような、あまりほかの店ではみかけない地方のおつまみ類をあれこれとおいてあるし、あたらしいものもどんどんとあたらしくおかれていたりする。そしてもちろん、どれもとてもおいしいのである。高いんで買わないものもおおいけれども、ちょっとぐらい高くっても、けっきょく「まずいなあ」なんておもいながら安いものを食べるより、そういうのを買った方がいいんだろう。

 ‥‥ところでそのネコ缶だけれども、そのペットフードのコーナーへいってみると、買おうとおもっていたネコ缶の棚だけが、みごとにからっぽになっていた。みんな、かんがえることはいっしょなんだなあとおもった。まあまだこの店の特価期間はもうちょっとつづくので、また日をあらためてチェックしにこよう。けっきょく、やはり特価で安かった殺虫剤を買って帰った。もうあたたかくなってきて、いろいろと虫も出てくる時節である。

 きょうの夕食には、きのう買ったブロッコリーをつかったシチューをつくった。ぜんかいつくったときにはトロみが足りなかったというか、スープのようなさらさらなシチューになってしまったのだけれども、きょうはちゃんとシチューっぽくはなった。しかし、これはちょっとブロッコリーの量がおおすぎたというのか、味がうすすぎたというのか、あんまり「うまくできた」という味でもなかった。


 

[]「赤と黒」(1954) スタンダール:原作 クロード・オータン=ララ:監督 「赤と黒」(1954)  スタンダール:原作 クロード・オータン=ララ:監督を含むブックマーク

 原作を読んだことはない。どんな話だかもしらない。スタンダールのこともほとんどしらないけれども、きっと十九世紀のはじめごろの作家さんだったんだろう、ぐらいの知識はある。それが映画のなかにプロスペル・メリメの作品からの引用がでてきて、わたしのいいかげんな知識では、メリメっていうのはもっとあとの時代の作家だろうというのがあって、この映画がまさにスタンダールの原作本を絵にしたように、本のページをめくるシーンがふんだんに挿入されているわけだから、ここでスタンダールのあとの作家の文章を引用するのはインチキじゃないか、なんておもってしまった。‥‥映画をみおわったあとにこのあたりのことが気になって、ネットでしらべてみたら、たしかにメリメの方が二十歳ぐらいスタンダールよりも若いんだけれども、スタンダールと、デビューのはやかったメリメとの活躍した時代はちょっとかさなっているし、交友もあったらしい。

 そんなことはどうでもいいんだけれども、この映画。どうもこう、「絵」としてどうこうというよりも、まずは「物語」をわかりやすく説明するという演出というか、いってみれば紙芝居というところもあって、主人公のうごきにかぶせて、その主人公の内面の声(独白)をナレーションでかぶせたりする。とくに前半第一部は、状況の説明もあるから、なかなかに映画的に楽しめないところもある。これが第二部になってから、さいしょのしばらくの展開はこれは軽快でよかったけれども、やはりせっかくこれだけカメラを動かせるんだったら、もっと「絵」自体に映画をけん引させればいいのに、などとは、ヌーヴェルヴァーグ以降の時代に映画を

みはじめたものとしてはおもうのである。‥‥ストーリー、わたしにはどうでもいいものだった。原作を読むひつようなどまるでないとわかったということで、まあそういう映画だっただろうか。


 

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■ 2013-06-06(Thu)

 なんだかおとといは録画の映画を四本もみてしまっていたわけで、この日記にその感想をいちいち書いていたら、すっごいじかんがかかってしまった。

 きのうのゆうがた、Bさんからウォン・カーウァイの新作「グランド・マスター」をみてきたとのメールをもらって、しばらくはその新作のことやウォン・カーウァイのこと、そして中国映画のことなんかでメールのやりとりをした。そんなことをやってると、ウォン・カーウァイの作品でわたしがいちばんいい印象をもっている「欲望の翼」をみたくなってしまい、これはむかしレンタル落ちのVHSテープをもっているはずなのでさがしてみた。するといがいなことに、すっかり忘れていたんだけれども、わたしは「恋する惑星」も「天使の涙」も、そしてまだみたこともない「楽園の瑕」などというウォン・カーウァイの作品のVHS、どれもレンタル落ちのものをもっているのだった。そこまでにウォン・カーウァイのことが好きで好きで、などというつもりもないのだけれども、こんなに彼のヴィデオをもっているなんて、ちょっと異様なことである。これだとわたしは山のようにヴィデオを所有しているようにおもわれてしまうかもしれないけれども、じぶんで録画したものはともかくとして(すいません、これはけっこうなかずあります)、そういうレンタル落ちだとかのヴィデオなど、そんなにもっているわけではない。おなじ監督の作品を三本も四本ももっているなんて、ふしぎである。そんなこんなで、きょうは「欲望の翼」をみた。そのうちにその「グランド・マスター」を映画館にみにいこうか。こんげつは舞台とかみる予定もないので、まえにも書いたけれども、黒沢清やワン・ビンの新作を、映画館にみにいきたいとおもっている。

 午後から、ひさびさに西にあるスーパーに買い物にいってみた。きょうは木曜日で全品一割引きの日だし、ケチャップもなくなってきたのを買っておこうというのもある。それに、せんじつあたらしいドラッグストアで買ったマヨネーズが、知られたメーカーの製品なのにちっともおいしくないのも、いつも買っていたマヨネーズをはやく買って、まえのがなくなるまでまぜて使おうかというかんがえもある。店にいってみれば、ほかにも買っておきたいものもみつかるだろう。‥‥店内をみてまわると、肉なんかでもけっこう安くなったものが並んでいるのだけれども、肉類はまだ冷凍庫にストックがけっこうあるし、よっぽどに安くなければ買わないことにしている。それで野菜売り場にいくと、ブロッコリーがふた株も袋に入れられたのが50円とかで置かれていて、「これは買わなくっちゃ」みたいなかんじ。きょうはまだニラやもやしがのこっているので、きのうとおなじくレバニラ炒めにするつもりだけれども、あしたはブロッコリーをつかったシチューにしようかなあ、と。

 読んでいた「盗まれたフェルメール」も、ちゃっ、ちゃっ、と読みおえて、なかなかに楽しかったんだけれども、いいかげんたまっている自宅本も読みすすめないといけないので、まだ読みさしの「昭和文学全集」の谷崎潤一郎のところ、「卍(まんじ)」なんかのページをひらいて読みはじめる。むかしいちど読んでいる本なんだけれども、まあこういうのはなんど読んでも刺激的というか。しかし、これはどうしても、増村保造監督による映画作品のイメージがきょうれつにのこっているもんで、とくに光子という登場人物がどうしてもどうしても、あたまのなかで若尾文子のすがたになってしまうのである。‥‥こまったねえ。


 

[]「欲望の翼」(1990) ウォン・カーウァイ:監督 「欲望の翼」(1990)  ウォン・カーウァイ:監督を含むブックマーク

 ウォン・カーウァイ監督の作品はそれなりにけっこうみているけれども、そのなかでは「花様年華」とこの「欲望の翼」が好きだった。彼の「欲望の翼」のあとの作品は(「花様年華」いがいは)どちらかというと「とりとめもない」という印象を受けてしまうこともあるけれども、この「欲望の翼」は、ストレートに明解なところがある。もちろんこの作品でよく語られるラストのトニー・レオンの登場の「なぞ」というのはあるかもしれないけれども、このラストがあることによって、ユニークなふくらみ方をみせてくれているのでは、などともおもい、そこにまた、この作品のおもしろさを感じてもいる。

 やはり冒頭の、いきなりのジャングルに、こころうごかされもする。どこか「いったいあれはなんだったのだろう」ということでみつづけるところもあるし、ほかの映画作品などで、冒頭のシーンが終盤にくりかえされるような話法はわかりやすいというかありえるとおもうけれども、そのあたりを逆転させた話法はやはり魅力的で、このことがラストのトニー・レオンの登場シーンにもひっかかってくるところはあるだろう。

 あとはやはり音楽。そして、屋外シーンではたいてい雨が降っているのも、映像としても記憶にのこる。‥‥つぎは「恋する惑星」でも、ひさしぶりにみてみようか。


 

[]「盗まれたフェルメール」朽木ゆり子:著 「盗まれたフェルメール」朽木ゆり子:著を含むブックマーク

 絵画泥棒というものの変遷を主題にして、しかもそのあたりをフェルメールの作品の盗難歴とあわせて書かれたもの。まずは当時の現地の新聞までていねいに読み返しての、そのちみつな構成がいいとおもう。メインになっているのは、げんざいも解決していない「ガードナー美術館事件」。

 とにかく現金をあいてにした銀行強盗や強奪事件とはその性格がことなるというのか、まずは知的好奇心をそそるのが絵画泥棒。そのあたりの好奇心を、「フェルメール」をキーワードとして、けっこう満足させてくれる。まあ「強奪」というものもあるのだけれども、基本は鼠小僧のように「忍びこんで」盗みだすわけで、このあたり、たとえば映画でいえば「黄金の七人」シリーズだとか「トプカピ」なんかをおもいださないわけではないし、「義賊」的なふんいきをもっていた犯人もいるわけで、わたしもこのあたりで、なんねんかまえに聴講した「日本の御金蔵破り」についての講座のことをおもいだしたりもした。あれも楽しい講座だった。

 この本で紹介されているアイルランドの窃盗団のリーダー、マーティン・カーヒルのことは、あのジョン・ブアマンが「ザ・ジェネラル」という作品での主人公としてとりあげているらしいし、のちにケヴィン・スペイシーがこのマーティン・カーヒルをモデルにした人物を演じた映画もつくられているらしい。どちらもみてみたい。

 あと、フェルメールとはべつに、やはりしょっちゅうその作品が盗まれたりするレンブラントのことも気になる。とくに、彼の「ダナエ」は硫酸をひっかけられ、修復不可能なほどのダメージを受けている。もちろん修復作業もおこなわれたわけだけれども、このあたりのてん末はしりたい気がする。


 

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■ 2013-06-05(Wed)

 きょうからはちゃんとしごと。おとといも出勤していたけれど、なんとも非常事態というふんいきでもあったので、あんまりふつうに「しごとをした」という感覚がない。ひさしぶりにしごとをするような感覚。しごとのあと、ATMで預金を引き出そうとしたら、これができなくってカードがもどってきた。「このカードは使えません」みたいなメッセージで、それもむりもないというか、このカードはずいぶんいぜんに財布のなかでひびがはいってしまい、そのひびがだんだんにおおきくなって、このところは割れて二つになってしまわないように、セロテープで貼り合わせて使っていた。いままではなんとかそれでATMも「ま、いいか」みたいな判断でもんだいなく使用できたのだけれども、きょう、ついに使えなくなった。よくみると、カードのはじっこが欠けてしまってもいる。持ち主とおなじように、だんだんにボロになってきている。

 銀行の支店に行って、いまのカードを廃棄してあたらしいのをつくってもらうことにした。支店のばしょは駅の北の大通りを道なりに北にまっすぐいった、その大通りがおしまいになるあたり。となりにりっぱなこの市の美術館がある。地方の公立市営の美術館としてはそうとうにりっぱなイレモノで、いつも行く市立図書館の建築とともに、世界に誇れるものだとわたしはおもっている(ウソ)。ただ、その蔵書においてもなかなかにがんばっている図書館にくらべると、この美術館の方の企画力は、かなりなさけないところがある。地元出身の美術作家の展覧会などはもんだいないし、そういう企画で「こういう作家さんがおられたのか」と、ちょっと感銘をうけた展覧会もあったけれども、まあこの地の出身で美術館をうめるレベルでの個展を開催できる作家がそう何人もいるわけもなく、さいきんはずっとれんぞくして、俳優や歌手などの有名人で絵などを描いておられるような存在の、その展覧会ばかりをやっている印象がある。もちろん、見に行ったりはしない。ついでに書いておくと、この駅の北側の大通り、わたしがこの地に転居してきてから整備されて道幅も拡張されたのだけれども、この大通りの全長が東京のスカイツリーの高さとだいたいおんなじということらしく、スカイツリー開業のおりに、この大通りのはじからはじまで歩くという、わけのわからんイヴェントが催されたはずである。そんなイヴェントに参加する人がいたともあんまりおもえないので、中止になった可能性も高いけれども。

 とにかくは銀行であたらしくカードをつくりなおす申請をして、さすがに待っていればその場でつくってわたしてくれるのではなく、いっしゅうかんとか十日ぐらいのうちに郵送されてくるらしい。そのあいだに預金の引き出しをしたいときには、またこの支店までこなくっちゃいけない。しょうがない。
 帰り道にスーパーに寄って、ニラが安かったので「きょうはレバニラ炒めにしよう」と決め、もやしとかといっしょに買った。ついでに、おつまみになりそうな半なまのイカ天が賞味期限まぢかで半額で売っていたのを買う。そうすると酒もほしくなるので、これも買ってしまった。かんがえたらこのスーパーは酒類が近辺でいちばん割高な価格になっているわけで、しっぱいしてしまった。

 帰宅して、ひるごはんはかんたんにそばですませ、録画してあった映画などをみてすごした。映画をみおわって、和室のパソコンのまえにいってみると、そこに食べかけでおいてあった、さっき買った「イカ天」がケースから引っぱりだされ、机のうえにちらばっていた。もちろん、ニェネントのしわざである。かたづけようとそのちらばったイカ天をひろいあげると、これがみんな、ベチョベチョになってしまっていた。ニェネントが、なめたのである。
 ニェネントがおもしろいのは、こういう「おいた」をやらかしても、けっしてそのイカ天を食べてしまわないことで、ほかのものだったら出しっぱなしにしておいてみごとに食べられてしまうことはあるのだけれども、このイカ天は食べていない。‥‥もちろん、ネコにイカというのはよく「腰を抜かす」といわれて、消化もわるいので、与えてはいけない食べ物にかならずリストされているわけだけれども、ニェネントはひょっとしたら「これはわたしは食べちゃいけない」と認識しているのかも、などとおもってしまう。しかし、いったいなぜ、引っぱり出してぜんぶベチョベチョになるまでなめてしまうのか。きらいなんだったらこんなことやるわけないし、なめちゃうんだったら食べてしまわないですませるのもふしぎ。‥‥これでは、わたしはもう食べられないではないか。


 

[]「新 忍びの者」(1963) 森一生:監督 「新 忍びの者」(1963)  森一生:監督を含むブックマーク

 この第一作と第二作、山本薩夫が監督したものをいぜんみているけれども、それにつづいて石川五右衛門(市川雷蔵)を主人公とするドラマ。原作はまえにつづいて村山知義だけれども、監督は森一生になっている。‥‥わたしはやはり、森一生の演出が好きだなあ。かなりマンガっぽいところのあった第一作第二作にくらべて重厚というか、たんじゅんにリアルさを楽しめるアクション映画というところをこえて、政権転覆をもはかるスパイもの、政治的裏工作からクーデターへ、みたいなトーンをつよくかんじる。おそらくは前作まではしいたげられた下忍たちのうらみ、みたいなものがドラマの原動力だったのではないかと記憶しているのだけれども、こんかいは善悪とかいうことではなくても、とにかくは「打倒!豊臣秀吉」ということでの忍者らの暗躍がストレートだし、ドラマ構造がしっかりしている印象がある。

 出演している俳優陣もいい配役というか、市川雷蔵の石川五右衛門はもちろん、彼の背後で手助けする服部半蔵の伊達三郎、いい仇役豊臣秀吉を演じる東野英治郎、その秀吉に従順なそぶりをみせてはいるけれども、という徳川家康役の三島雅夫、秀吉の甥で秀吉に見捨てられる秀次が成田純一郎。そして淀君が若尾文子と、みんなすばらしい。堪能した。



 

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■ 2013-06-04(Tue)

 またきょうもしごとは非番で休み。ずっと休んでばっかりである。それでも、アラームをセットしていなくっても五時ごろには目がさめてしまう。またロールパンで朝食をすませ、録画してある映画でもみようかとあさはやくからみはじめたら、きょうは四本もみてしまった。午前中に二本みて、それから買い物に出てめずらしく南の衣料品店まで歩いて、靴下とパンツなんか買ったりした。けっこう値段の安い衣料品をならべた店なんだけれども、店内をみてまわると、とんでもない絵だとか日本語だとかが大きくプリントされたTシャツがいっぱいならべられている。「巨人の星」のキャラクターが大きくプリントされていたり、「道は開ける」(カーネギーかよ!)なんてデカデカと書いてあるものとか(ほかにもいろいろあったけれども、とにかくわたしの思考のはるかにらち外に存在するもので、とても記憶にのこってはいない)。こんなTシャツを着て渋谷なんかをかっぽしたら、あたらしい都市伝説も生まれそうである(むかしこんなのはあったかもしれないけれども)。さすがに茨城県だなあと、あらためて感心した。帰りの道すがらスーパーに寄って、ようやく値段のおちついてきたレタスなどを買う。

 帰宅して、昼食はきのうのごはんののこりと「サンマのみりん干し」ですませ、また映画を二本。そうするともう夕食のじかんもちかづいて、きょうは何にしようかとかんがえなければならない。まだまだ自家製(といってもセットになっている香辛料をまぜあわせただけだけれども)のカレー粉がいっぱいのこっているのをなんとかしなくっちゃ、とはおもっているので、カレーにしようかなあ、と。まえから玉ねぎとひき肉だけでかんたんなカレーはつくれるんじゃないだろうかとおもっていたところに、ちょうど二、三日まえにそういうカレーのつくり方がTVが紹介されていて、なんだ、つくり方もへったくれもないじゃないか、ということで、きょうはそのお手軽カレーにトライしてみた。いちおう、せんじつ買ったトマトものこっていたので、これもさいごにいれてあげた。‥‥まあこんなもんでしょ、という味で、とにかくはいつもカレーをつくるように何食分もいちどにできてしまうというのではなく、そのときの一食分だけがお手軽につくれるのがいい。これからこのつくり方、玉ねぎとひき肉とをベースにして、あれこれと工夫してみればいいわけだ。失敗してもいちどにたくさんつくるわけでもないから被害はちいさいだろう。それにこいつは市販のカレールーではつくれない味だし、工夫のしがいもある。レパートリーがふえそう。

 発情期のおわったニェネントは、こういうときはいつもそうなんだけれども、なんだかちょっとおとなっぽく成長したようにみえたりする。これがもうちょっとじかんがたつと、そんなことはおもいすごしだったとわかることになるのだけれども。

 よるはまた、「盗まれたフェルメール」を読みながら寝た。しかし、いちにちに四本の映画をみたというのは、新記録ではないだろうか。‥‥たくさんみればいいってもんじゃないけれども。


 

[]「ドリーマーズ」(2003) ベルナルド・ベルトルッチ:監督 「ドリーマーズ」(2003)  ベルナルド・ベルトルッチ:監督を含むブックマーク

 ‥‥ベルトルッチという監督さんも、こまってしまう。1968年のパリ、五月革命前夜というかその発端になったシネマテーク騒動を背景にして、映画というものへのオマージュをささげるというのはわかるんだけれども、登場人物らのあきれるほどの幼児性というか幼稚さとともに、はたしてこういう次元で映画表現というものを受け止めるということに意味があるのか、そしてこういう過去の映画作品の引用に意味があるのかと、疑問におもってしまう。

 日本でもどこかでやっている、映画の試験というかクイズみたいな検定こそが、映画のみかたとして有効なものなのか。チャップリンとキートンのどちらがいいか、みたいな設問、そしてこの映画でのその回答ぶりなど、わたしにはもうどーでもいいことばっかり。‥‥はたして、この劇中で「一卵性双生児」だとかたる男女のほんとうのかんけいはどうなのか、とても実の両親とはおもえない彼らのパトロンはなにものなのかとか、謎はあるのだけれども、そんな謎も、「だからどうなんだ」といえばどうでもいい。

 五月革命ということについての、げんざいからのユニークな視座があるわけでもなく、ぎゃくに三十五年という歳月を経たあとからの、きわめて常識的な(つまらない)視座がめだつだけである(たとえばジミ・ヘンドリックスとクラプトンとの比較など)。

 ‥‥出演した役者さんたちは脱ぎまくってたいへんだっただろうし、そのことが既製の「愛」の概念からの延長でないことはわかるのだけれども、じゃあなんなのかと問えば、それはたんなるゲームとしかいえない。そういう意味ではこの作品は全編が「ゲーム」。ラストの街頭での闘争もまた、参加するかやめておくかのゲームでしかない。まあ、こういう気もちで参加したやからが、三十五年も経ったあとになって、「オレはあのとき街頭で石を投げたんだぜ!」と、さも自慢げに語ったりするわけだろう。


 

[]「或る剣豪の生涯」(1959) 稲垣浩:監督 「或る剣豪の生涯」(1959)  稲垣浩:監督を含むブックマーク

 脚本も稲垣浩で、つまりはエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」の翻案。しかしこの翻案には先行する舞台劇があって、それが「白野弁十郎」というタイトルだったことを、なぜかわたしはしっていた。その「白野弁十郎」もいちど戦前に映画化されているみたいだけれども、稲垣浩がそのあたりからどれだけ影響をうけているのかはわからない。ただ、「白野弁十郎」の時代設定は幕末のころだったらしいけれども、この「或る剣豪の生涯」は、徳川家康による天下統一直後という設定。主人公を演じるのは三船敏郎、である。

 ‥‥わたしは、ガキのころに親に連れられてこの映画をみている。いままでその記憶にはあいまいなところがあったけれども、このラストシーンの展開、主人公が頭に瀕死の傷をおっていたこと、読んでいた手紙を取り落としてもその内容をそらんじていて読み上げることができたことなど、はっきりとおぼえていた。まだ小学校にあがってまもないころだとおもうけれども、こういうことがらの人の記憶というのはおもしろいものだなあとおもう。

 わたしは、三船敏郎という役者さんがはたして上手いんだかどうなんだか、しかとわからないところがあるのだけれども、この映画の前半でかなりながいじかん、三船敏郎のひとり芝居のような場面があり(とにかく、全編を通じてセリフがおおい!)、ここをみているとやはり独特の上手さをもった役者さんだったのだろうとおもうのである。三船敏郎が慕う姫を司葉子が演じているけれども、なんか役柄の設定の鈍感さばかりがめだつかんじで、間がぬけてみえてしまう。当時の東宝にはもっと、この役に適した女優さんがいたんではないかとおもったりもする。あとは平田昭彦が酒のために友人を裏切るなどという人物を演じていて、いつもとちがった顔をみせてくれた。平田昭彦といえば「ゴジラ」なんだけれども、この作品の音楽がどこか伊福部昭っぽいな、などとおもっていたら、やっぱりそうだった。稲垣浩という監督さんの作品はほとんどみた記憶もないけれども、「場」を活かした演出はじょうずな監督さんなのだろう。

 いちばんさいごに、臨終の三船敏郎が「オレは月世界へ行く!」と語るのは、きっとじっさいのシラノ・ド・ベルジュラックが「月世界旅行記」という作品を書いていることからきているのだろう。


 

[]「汚れた心」(2012) ヴィセンテ・アモリン:監督 「汚れた心」(2012)  ヴィセンテ・アモリン:監督を含むブックマーク

 終戦直後のブラジルで、情報のとだえた日系の移民たちが「日本は戦争に負けた」というグループと、「いや、負けたというのは連合国側の陰謀だ」ととなえるグループとにわかれて、じっさいに殺傷事件をおこしたらしい(おもに陰謀をとなえるグループが「負けた」と語るグループのメンバーを襲った)。その事実からの映画化。ほとんどの出演者は日本の俳優だけれども、合作ではないブラジル映画。映画末尾のテロップでは万単位の日系人がまきこまれ、何百人もの逮捕者を出したらしい。あとでネットでしらべると、なんと、このもんだいは1950年代になっても尾を引いていたらしい。

 映画は、旧日本軍陸軍少佐という人物(奥田瑛二)の命をうけ、日本の敗戦をとなえる日系人を「汚れた心」の持ち主として斬殺しつづけた男(伊原剛志)が、妻(常盤貴子)にも去られ、ようやく「汚れた心」というものがどこにあるのかをさとり、少佐を殺害して警察に自首するまで、さらにエピローグとしてそれから何年もたったあとのことが描かれる。

 この監督さんのことはまるでしらないけれども、各シークエンスのなかでの展開には適確ですばらしい技術をかんじたりする。しかし、全編がずっとおなじようなトーンというのか、キマジメすぎる映像、という気はしてしまう。


 

[]「赤ちゃん泥棒」(1987) ジョエル&イーサン・コーエン:監督 「赤ちゃん泥棒」(1987)  ジョエル&イーサン・コーエン:監督を含むブックマーク

 ずいぶんむかしにみた作品。ひさしぶりにみた。なんと、この作品が「ブラッド・シンプル」につづく第二作だったということで、もうちょっと、あいだにほかの作品を撮ったあとのものかとおもっていた。それで、このつぎが「ミラーズ・クロッシング」になるというのもちょっとおどろいたというか、わたしにとってのコーエン兄弟というのは、この三作が圧倒的。このあとに「ファーゴ」などという好きな作品もあるけれども、わたしの好きなコーエン兄弟とは、「ブラッド・シンプル」、この「赤ちゃん泥棒」、そして「ミラーズ・クロッシング」なのである。

 ‥‥登場人物はみんなすべて、どこか思考回路に欠落があるというか、みていてもあきれてしまうところがある。というか、そのおかしさこそが、この映画のたいていのおもしろさでもある。そこに一方にさらわれてくる赤ちゃんのネイサン・ジュニアという無垢の存在があって、もちろん赤ちゃんには思考回路の欠落はない(ようにみえる。成長したらどうなるかわからないけれども)。これがめっちゃかわいい。かわいすぎる。もう一方に、ヘルズ・エンジェルスみたいな、悪魔の化身のような男がいて、誘拐された赤ちゃんを追うことになる。彼も思考回路は一直線なので、欠落だとかそういうことはみうけられない。これがめっちゃこわいというか、ぜったいにじぶんの周囲50メートル以内にはちかづいてきてほしくはない存在である。それでそのふたりのあいだに主人公のニコラス・ケイジがいて、物語は彼の語りで進行する。この、彼の語りが絶妙で、そのことはプロローグとエピローグで最大限に活かされているだろう。

 じつはむかし、「体内の蛇」という、アメリカの都市伝説について書かれた本を読んだことがあり、そのなかで、有名な「チョーキング・ドーベルマン」といっしょに、この映画でもポイントになっているところの、「車のルーフに赤ちゃんを乗せ、そのことを忘れて車を発進させてしまう」ということがらが書かれていて、この「赤ちゃん泥棒」のこともその本のなかで書かれていた。つまり、ある意味で、アメリカ人の思考回路の欠落ということの象徴的な事象に、この「赤ちゃん置き忘れ」ということが認識されているようではある。ハイウエイを行き来する、車社会のアメリカならではというところもあり、この日本ではちょっと想像しにくいことかもしれないけれども、アメリカでは「そんなこともありえるかも」と、人の想像力を刺激してしまう、それがこの「赤ちゃん置き忘れ」ということなんかもしれない。アメリカの観客はここに奇怪なリアリティをかんじたりしているのかも。

 ‥‥ジョン・グッドマンとウィリアム・フォーサイス(あの振付家と同姓同名なのだ)とが脱獄して泥の穴から抜け出してくるシーンはまさに赤ちゃんの出産シーンで、このふたりのコンビはまたべつの選択肢の「赤ちゃん」として、ニコラス・ケイジの選択をせまってくる。ニコラス・ケイジがなにを選ばなくっちゃいけないかというと、つまりはじぶんの「過去」なのか、それとも「未来」なのか、ということ。もちろん妻のホリー・ハンターは未来を選ぶわけである。ニコラス・ケイジのまえにはもうひと組、彼がげんざいはたらいている工場の上司とその妻、その養子で得た子どもたち、というのがいて、これがまたみんなバカなのである。ニコラス・ケイジはその上司もぶんなぐって、「げんざい」からもおさらばする。のこるのは不確かな「未来」だけ。そこに賭けるということで、この映画はみているわたしなどを感動させるわけである。じっさいにきっかけを得て動きはじめ、ヘルズ・エンジェルスな男も倒してしまえば、まだそんなヘルズ・エンジェルスを呼びよせることになるかもしれない「赤ちゃん」も、じつは必要がなくなってしまう。いちどは別れようかということになったホリー・ハンターともまたいっしょに生きていく決意をして、まあ、なんてポジティヴなんでしょう。コーエン兄弟にはめずらしい、夢と希望、そして愛にみちた作品ではありませんか。

 ‥‥いつもポーランド人をバカにした、つまらないジョークばかりをいっていた上司、さいごに警官に相手にされないというみじかいショットがあるけれども、その警官の胸のネームカードには「コワルスキー」と書かれていた。それは、相手にされるわけがない。


 

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■ 2013-06-03(Mon)

 きょうはなんだかひさびさのしごと。出勤してみると、きょうもまた非常事態だった。どうやら、きのうもおとといもこの状態がつづいていたらしい。いつもの何倍ものしごと量。‥‥わたしらのしごとというのは、つまりは到着した荷についているバーコードをちいさな読み取り器で読み取る「到着入力」ということをやるのがおもなしごとなのだけれども、きょうは支店のサーバーがダウンしていて、その到着入力ができない。それはたいへんなことなんだけれども、けっきょく到着入力はやらないでただ荷を仕分けするということだけやることになり、じつはおかげでとっても楽なことになってしまった。しばらくじかんがたってからサーバーは復帰したけれども、それでもおおはばに労力はセーブできた。金曜日のようなトラブルというかもんだいもなく、わりとスムースにしごとをおえた。ラッキーだったというか。わたしはまたあしたは休みということになっているし、六月になってからはまだほとんど労働やっていない。

 きょうも晴天で気温もずんずんと上昇していく感じ。帰宅して暑いのでズボンをぬぐと、左ひざのあたりにちょっと大きなアザができて、赤黒くなっていた。おさえてみても痛みがあるわけでもないけれども、いったいいつこんなことになってしまったのか、よくわからない。

 ようやっと平常にもどったニェネント、わたしがパソコンにむかっていると、そのパソコンの上にあがって窓の外をながめるのである。旧式の、むかしのブラウン管TVのようなパソコンなので、ちょうどその上にニェネントがすわりこむことができるんだけれども、そのうちにパソコンを買い替えてしまったら、ニェネントのそういう「窓の外をみる」という楽しみをうばってしまう。パソコンを囲うように、ニェネントが乗ることのできるような台をつくってあげなくっちゃなあ、なんておもっている。
 ただ、ニェネントがパソコンの上にすわって窓の外をながめていると、そのしっぽがちょうどディスプレイのまえでぶらぶらしているわけで、それがとにかくじゃまになることはたしか。「しっぽをどけてくれよ」と、ディスプレイにかかっているしっぽをいじると、「なにするのよ」みたいににゃあとないて、わたしの方を「キッ」っと見返すのである。

 このごろ朝食にあんまりトーストを食べたいとおもわなくなり、きょうも買ってあったロールパンですませた。昼食は買い置きのレトルトパックのなんだかのどんぶりをごはんにかけ、夕食はマーボー豆腐をつくった。もちろんインスタントみたいなものである。

 おととい、帰宅の途中でターミナル駅で下車したとき、駅ビルの書店の古本コーナー(新刊書の書店なのに、その一角が古本コーナーになっている)で、「盗まれたフェルメール」という、美術品窃盗をテーマにした本が安かったので、またついつい買ってしまった。それをきょうはけっこう読みすすんだ。美術品窃盗というのは、時代の変遷とかにともなって、美術品収集のかげの歴史というか、いっしゅの文化論みたいなものにもなりえるわけだ。けっこう、おもしろい。


 

[]「空想部落」(1939) 千葉泰樹:監督 「空想部落」(1939)  千葉泰樹:監督を含むブックマーク

 原作は「人生劇場」の尾崎士郎。大正後期から昭和初期にかけて、作家や画家が「馬込文士村」と呼ばれるようになる地域に多く住んでいたらしく、尾崎士郎もまた宇野千代とともにその地に生活していたとのこと。その彼自身の体験から書かれた小説(フィクション)の映画化。

 田端文士村というのは有名で、わたしなんかでもしっていたけれども、馬込文士村というものがあったことはまるでしらなかった。尾崎士郎や宇野千代のほかに萩原朔太郎や北原白秋、川端康成、そして小林古径など、かなり豪華なメンツがそろっていたみたい。‥‥しかしこの映画で描かれる彼らはみんなまだ名が売れているわけでもなく、みんな貧乏である。そして、酒が飲めるとなるとみんなが集合するわけだ。

 映画は、千田是也の演じるところの、これはペテン師というのか常習的虚言癖のある男というのかの言動をメインに、彼にほんろうされてしまったり、彼のペテン師ぶりをおもしろがったりしている周辺の人物とともに描いていく。

 文士たちの生活ぶりなんて、いっぱんの観客がみてもおもしろくなんかなさそうなものだけれども、やはり千田是也のペテン師ぶりはみていておもしろいし、周辺の人物の夢想家ぶりというものもまた、浮世ばなれしていてたのしいものだろう。そういう「浮世ばなれ」をたのしむ映画なんだなあと。製作された年代をみてもこの国が戦争へと猪突猛進していくころであって、おそらくはこんな映画を映画館のスクリーンでながめていた観客たちはそれこそ「息ぬき」できて、つかのまでもホッとしていたんじゃないだろうか。演出がどうのこうのといえる作品でもないけれども、ラストの、夜空の満月がよかった。

 出演陣はとうじの舞台で活躍していた人がおおいらしいけれども、尾崎士郎を演じていたのがまだ若いころの殿山泰司。しらべてみたらこの作品が本格的な映画デビュー、とかいてあった。まだ二十代なかごろだろうとおもうけれども、もう頭髪はちょっとうすくなりかけているようにみえるのね。宇野千代の役は沢村貞子だった。


 

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■ 2013-06-02(Sun)

 きのうはまえもってしごとも休みをとってあったのだけれども、まえから外泊をする予定はあったので、きょうまでの連休で申請してあった。‥‥よかった。やはりくたびれたというか疲れたというか、きょうも休みにしてあったことにたすけられた気がする。結果として、とにかくはぐだぐだとしたいちにちになってしまったわけではあるけれども、この週は映画をみたり舞台をみたりしてハイテンションにはなったわけだし、しごともとつぜんの大容量作業にはなったし、キッチンの排水のこともあったし、魅力的な女性たちと飲んだりもしたわけで、そりゃあすこしはお休みさせてくださいよ、という感じなのであった。

 きょうはようやっと、ニェネントも平常にもどってくれたようである。わたしにまとわりついてくることもなく、じぶんで勝手にひなたぼっこをしてくれているので助かる。‥‥しかし、梅雨入りしたというわりには、そののちまるで雨も降らない。なんねんかまえにもこういうことがあった気がするけれど。

 そのせんじつみたレオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」のことや、水族館劇場の舞台のことなどを思いだしたりしながら、あれこれと映像としての映画作品とナマの舞台作品とのちがい、みたいなものを、いままでとはまたちがうところからかんがえてみたりした。ひとつには、「ホーリー・モーターズ」のあれだけのぶっ飛んだ演出、「これはコメディだろうが」という展開でも、観客がまるで反応しなかったこと。そのぎゃくに、水族館劇場の舞台では、たんじゅんなアクションでも観客には笑いがまきおこる。どうしてそういうことになってしまうんだろう。わたしはじぶんが「ホーリー・モーターズ」をみて笑ったりしたもんだから、じぶんの見方がただしい、などというつもりはないわけで、ただ、わからないのである。それがどういうことなのか、この週末はあらためて気になったりしたわけである。

 たとえばTV番組でかんがえてみて、わたしも「ことしはちゃんとみてみようかなあ」と思っていた日曜の大河ドラマとかは、あきらかに映画的なところをめざしているわけだろう。スキをみせてはいけないという演出と編集を経て、重厚なドラマをみせようとしている。役者さんたちももちろん、その自分にわりふられた役になりきろうとする。わたしにはそういうのがきゅうくつというか、疲れるというか、もうさっさとみるのをやめてしまった。‥‥これと対極なところに、いまあさにやっているテレビ小説の「あまちゃん」なんていうのがあるかな、と思う。もともと脚本が舞台の人である宮藤官九郎によるもの、というのもおおきいのだけれども、演出もそのあたりのことを了解しているというのか、ある意味でとっても舞台的なものになっていると思う。それはたとえば俳優陣の「抜き方」みたいなところにもあらわれていて、わたしはここでの吹越満さんだとか塩見三省さんだとかの演技がだいすきで、まいかいたのしみにしている。これを「スキ」といっては失礼になってしまうだろうけれども、おそらくはたいていの映画作品ではみられない演技だろうと思う。ぎゃくにそういうところから、「演じるということ」がみえてくるということもあるだろう。そういうことが、「ホーリー・モーターズ」での演出、そして、ドニ・ラヴァンの演技からも受けとめられる気がする。

 もちろん、ぎゃくに舞台だからこそ気張ってしまうということもある。そういうのでは、これは友だちにおしえてもらったのだけれども、ゴダールの「映画史」のなかで、サビーヌ・アゼマがヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」を朗読する場面がある。そこでサビーヌ・アゼマは(たしか)タバコをふかしながら、まるで日常会話のように「ウェルギリウスの死」をやるのでる。こういうことを「スキ」だとか「抜いている」だとかと同列にしていってしまうとまたおこられてしまうだろうけれども、いってみれば、重厚なドラマからの逃走というのだろうか。そういうところでは、映画であろうが舞台であろうが、演技というもんだいはおなじところに帰着するのかもしれない。

 舞台というものはそれでも、「同時性」、「共時性」だとか「同一空間」だとかいうこともでてくるだろう。ここから附随するもんだいは、まずは舞台を体験することからはじまる。わたしはしばらくまえに「映画ファン」という存在への違和感を書いてしまったこともあったけれども、つまらない結論だけれども、とにかくは映画ばかりではなくって演劇もみてみなさいよ、ということになる。まだかんがえていることもあるけれども、まとまりきらないのでこんな平凡な結論で。


 

[]「フェイシズ」(2011) ジュリアン・マニャ:監督 「フェイシズ」(2011)  ジュリアン・マニャ:監督を含むブックマーク

 カサヴェテスの作品ではないのね。‥‥このあいだTVをみていたら、ブラッド・ピットが、じつは自分は「相貌失認」だと告白したということが報道されていたけれども、この映画はその「相貌失認」になってしまった女性が、連続殺人犯の顔をみているにもかかわらずに認知できない、というサスペンス・ミステリー。つまり、自分の周辺にその殺人犯がいてもわからないのである。主演はミラ・ジョヴォヴィッチ。

 本筋のサスペンスとは別に、主人公の交友関係の女性たちの生態がちょっとおもしろかったんだけれども、なんかこういう、障害をもつ主人公をフィーチャーするような作劇というのはあんまし愉快ではないし、演出としてもきっとヒッチコックを意識したところもあるんだろうけれども、じつのところ、観客であるわたしも、そんなに登場してくる俳優の顔をみんな識別しているわけではないのである(わたしも「相貌失認」なのか!)。だから、ヒロインが「わからないわ!」ととまどっても、みているわたしも「わからないわ!」と、とまどっているのである。観客としても、「あんたのことはそのヒゲでもって識別してるんだから、わざわざ剃るんじゃねえよ!」ってことになる。


 

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■ 2013-06-01(Sat)

 ‥‥「G」で飲んでいるさいちゅうに、日付けがかわってしまった。日付けだけでなく、月もかわった。この日記では月ごとに出会った人のイニシャルをリセットして、またAからはじめることにしている。たんじゅんに、名まえのローマ字表記でのイニシャルだと、おんなじイニシャルの人ばかりになってしまうからとか、まああれこれとかんがえて、こういうことにしてしまっている。そういうわけで、ついさっきからわたしのとなりで飲んでいる人は、GさんからAさんにかわってしまった。ずっと店がしまるまで、なんだかあれこれとAさんとはなしていた。店が看板になってみなが帰るとき、Aさんはわたしと帰りたいという。もちろんそういう妙なことになるわけではなく、この夜もわたしはちかくのカプセルホテルにとまることはみんな承知している。そこまでの道をいっしょにいくというだけのこと。まあわたしのはなしがおもしろかったんだろう、ということで。

 ひとりで夜道を歩くより、それはふたりの方がたのしい。すぐに宿泊予定のホテルに着いてしまったのはざんねん、といってもいい。Aさんと別れてわたしはホテルにチェックインして、すぐにねむってしまった。

 ‥‥目がさめて時計をみると、もう八時になっていた。また朝風呂にはいり、ホテルの出してくれるかんたんな朝食を食べてからチェックアウト。電車に乗って帰路に着く。なんだか、ずっとハイテンションな二十四時間だったというか。電車のなかで本を読みおえ、ターミナル駅でいちど下車してちょっと買い物をしてからローカル線で帰宅した。

 しんぱいしていたキッチンの排水に異常はなかったのでホッとしたけれども、なんだかニェネントはまだ発情期がつづいている気配。とりあえずは「おるすばん、ありがとう」と食事をだしてあげ、きょうは卵黄もつけてあげた。

 きのうはAさんだったBさんとのきのうのはなしでの、らいげつのダンス公演の予約をしておこうとネットをひらいたら、もうわたしのコンピューターからは予約までいけなくなっているのだった。だんだんに、いまのパソコンは使えなくなっていく。まだこの劇場は電話での予約もできるというめずらしいところだったので、電話で予約をすませた。きっと劇場の方でも、「電話予約が来た!」と、びっくりしたんじゃないだろうか。

 Bさんとしばらくメールのやりとりをやったりして、やはり夕食の準備をするのもめんどうなので、またスーパーにできあいの惣菜を買いに出てしまった。夕食のまぐろ寿司と、あしたのあさのためのパンとを買った。やはり寿司はおいしかったけれども、こういうことがクセにならなければいいと思う。


 

[]「幼少の帝国 成熟を拒否する日本人」阿部和重:著 「幼少の帝国 成熟を拒否する日本人」阿部和重:著を含むブックマーク

 このタイトルはとうぜん、ロラン・バルトの「表徴の帝国」から来ているんだろう。著者はじめての非小説作品として期待して読んだのだけれども、ちょっとがっくりしてしまった。‥‥その内容が、タイトルにそくわないことはなはだしいというか、第一章を序章とみて、ここでいっていることはわかるのだけれども、それ以降の章はほとんど序章をひきついでいない。おまけに、取材中にとびこんできた東日本大震災でもって、さらによけいに、この本は脱線していくようである。どうせなら、海外で紹介された「クール・ジャパン」というものだけを、著者の視点から検証してくれればよほどおもしろかっただろうに、とも思ってしまう。

 わたしには、ほとんど意味のない読書、だった。阿部和重にはやはり、つぎの小説に期待する。


 

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