ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-06-04(Tue)

[]「赤ちゃん泥棒」(1987) ジョエル&イーサン・コーエン:監督 「赤ちゃん泥棒」(1987)  ジョエル&イーサン・コーエン:監督を含むブックマーク

 ずいぶんむかしにみた作品。ひさしぶりにみた。なんと、この作品が「ブラッド・シンプル」につづく第二作だったということで、もうちょっと、あいだにほかの作品を撮ったあとのものかとおもっていた。それで、このつぎが「ミラーズ・クロッシング」になるというのもちょっとおどろいたというか、わたしにとってのコーエン兄弟というのは、この三作が圧倒的。このあとに「ファーゴ」などという好きな作品もあるけれども、わたしの好きなコーエン兄弟とは、「ブラッド・シンプル」、この「赤ちゃん泥棒」、そして「ミラーズ・クロッシング」なのである。

 ‥‥登場人物はみんなすべて、どこか思考回路に欠落があるというか、みていてもあきれてしまうところがある。というか、そのおかしさこそが、この映画のたいていのおもしろさでもある。そこに一方にさらわれてくる赤ちゃんのネイサン・ジュニアという無垢の存在があって、もちろん赤ちゃんには思考回路の欠落はない(ようにみえる。成長したらどうなるかわからないけれども)。これがめっちゃかわいい。かわいすぎる。もう一方に、ヘルズ・エンジェルスみたいな、悪魔の化身のような男がいて、誘拐された赤ちゃんを追うことになる。彼も思考回路は一直線なので、欠落だとかそういうことはみうけられない。これがめっちゃこわいというか、ぜったいにじぶんの周囲50メートル以内にはちかづいてきてほしくはない存在である。それでそのふたりのあいだに主人公のニコラス・ケイジがいて、物語は彼の語りで進行する。この、彼の語りが絶妙で、そのことはプロローグとエピローグで最大限に活かされているだろう。

 じつはむかし、「体内の蛇」という、アメリカの都市伝説について書かれた本を読んだことがあり、そのなかで、有名な「チョーキング・ドーベルマン」といっしょに、この映画でもポイントになっているところの、「車のルーフに赤ちゃんを乗せ、そのことを忘れて車を発進させてしまう」ということがらが書かれていて、この「赤ちゃん泥棒」のこともその本のなかで書かれていた。つまり、ある意味で、アメリカ人の思考回路の欠落ということの象徴的な事象に、この「赤ちゃん置き忘れ」ということが認識されているようではある。ハイウエイを行き来する、車社会のアメリカならではというところもあり、この日本ではちょっと想像しにくいことかもしれないけれども、アメリカでは「そんなこともありえるかも」と、人の想像力を刺激してしまう、それがこの「赤ちゃん置き忘れ」ということなんかもしれない。アメリカの観客はここに奇怪なリアリティをかんじたりしているのかも。

 ‥‥ジョン・グッドマンとウィリアム・フォーサイス(あの振付家と同姓同名なのだ)とが脱獄して泥の穴から抜け出してくるシーンはまさに赤ちゃんの出産シーンで、このふたりのコンビはまたべつの選択肢の「赤ちゃん」として、ニコラス・ケイジの選択をせまってくる。ニコラス・ケイジがなにを選ばなくっちゃいけないかというと、つまりはじぶんの「過去」なのか、それとも「未来」なのか、ということ。もちろん妻のホリー・ハンターは未来を選ぶわけである。ニコラス・ケイジのまえにはもうひと組、彼がげんざいはたらいている工場の上司とその妻、その養子で得た子どもたち、というのがいて、これがまたみんなバカなのである。ニコラス・ケイジはその上司もぶんなぐって、「げんざい」からもおさらばする。のこるのは不確かな「未来」だけ。そこに賭けるということで、この映画はみているわたしなどを感動させるわけである。じっさいにきっかけを得て動きはじめ、ヘルズ・エンジェルスな男も倒してしまえば、まだそんなヘルズ・エンジェルスを呼びよせることになるかもしれない「赤ちゃん」も、じつは必要がなくなってしまう。いちどは別れようかということになったホリー・ハンターともまたいっしょに生きていく決意をして、まあ、なんてポジティヴなんでしょう。コーエン兄弟にはめずらしい、夢と希望、そして愛にみちた作品ではありませんか。

 ‥‥いつもポーランド人をバカにした、つまらないジョークばかりをいっていた上司、さいごに警官に相手にされないというみじかいショットがあるけれども、その警官の胸のネームカードには「コワルスキー」と書かれていた。それは、相手にされるわけがない。


 

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