ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-08-31(Sat)

f:id:crosstalk:20130831184403j:image:right あたらしいノートパソコンを買って、それでわたしは「健康」になれたのか、そこのところはどうもよくわからない。ただ、目のまえにいままでの日常を破ってくれるようなモノがあるのはたしかなので、そういうことで「日常」を忘れているだけなんだろうとも思うし、そんなことで忘れてしまうことのできる「日常」なんて、つまりはその程度のものだろう、ということもできる。わたしの日常なんて、たかが知れている。

 部屋のなかにある、いろいろなものを、捨てなくちゃあいけないなあと思う。‥‥生きていると、じぶんの身近にあるものはみんな、じぶんのものにしなくっちゃいけないと思ったりする。そのためにお金を払ってまで、まずはいろんなものをじぶんの身近に置くわけだけれども、身近に置いたからといって、それでじぶんのものにできるわけではない。ダメなものはダメ。もちろんそういうことはわたしのキャパシティのもんだいでもあるけれども、ダメだったものにいつまでも執着するのはよろしくない。

 きのう古着屋の半額セールに行ってシャツを買ったのだけれども、そのときに見たTシャツで気がかりなものがあったわけで、きょう、もういちどその古着屋へ行ってみた。もちろん、まだ売れ残っていた。ブルー地のTシャツで、スーパーマンのようなロゴが胸に描かれている。スーパーマンならば「S」なんだけれども、かわりに「G」という文字がロゴ化されている。背中を見ると日章旗デザインといっしょに「日本」などという文字も書かれているわけで、きのう見たときには「これは恥ずかしくって着れないな」とは思っていたわけ。どうもサッカーみたいな競技の、その日本チームを応援するサポーターの着るTシャツなんじゃないかと思ったのだけれども、「そういうわけでもないんじゃないか」と、どうせ半額セールで175円だというわけだし、買って来てしまった。‥‥そのTシャツに書かれている文字で調べてみると、いろいろといわくのありそうなTシャツで、とても市販されているたぐいのものではないことがわかった。もう半袖Tシャツの季節も終わるわけで、これからあんまり着ることもないと思うけれども、「話のタネ」としてはおもしろいモノだった、という印象。175円なんだから、いい。あれこれとこまかいことを書きたい気分はあるけれども、ちょっと閉鎖的な世界に足を踏み入れてしまうところもあるようなので、くわしくは書かない。‥‥ある意味、プレミアつきのTシャツではあった。

 古着屋から帰ったあとはヴィデオなど観て、そのあとはまたあたらしいノートパソコンをいじったりするのだけれども、それでほかのこともどうでもよくなってしまい、いつのまにか外は暗くなってきていた。これから夕食の準備をするというのもかったるくって、南のスーパーまで出かけて、じかん的に値引きされた寿司のパックと、焼き鳥のパックとを買って帰って、夕食(晩酌)にした。

 

[]「八月の濡れた砂」(1971) 藤田敏八:監督 「八月の濡れた砂」(1971) 藤田敏八:監督を含むブックマーク

 八月も、きょうでおしまい。ではこういう映画もきょうのうちに観ておこうということで観た作品。‥‥う〜ん、公開当時、映画館で観たんじゃないのかなあ、この映画。それなりに「いいよね」と思った記憶もあるし、そのあとも、「八月の濡れた砂」というキーワードだけで股間の濡れてしまうお方と、ちょっとだけおつきあいしたこともあったはず(下品なこと書いてすみません)。藤田敏八さんって、何よりもこの「八月の濡れた砂」の監督さんとして記憶していた。

 へたしたら、四十何年ぶりかの再見。‥‥うわぁ! へったくそだねえ! ビンパチさん。こんなにへたな演出家だったっけ? みんな、映画のなかでの「長回し」とかほめるけれども、そういうのが結果としてうまく演出されていない作品というのもたくさんあるわけで、そういうところでこの「八月の濡れた砂」なんかも、そういわれちゃっても仕方ないよね、という印象はある。藤田敏八監督には、もっといい作品はいっぱいある。

 ‥‥海に車が突っ込めば、なんとなく「気狂いピエロ」みたいな空気にはなるし、クルーザー内部での緊張関係というのも、「太陽がいっぱい」とか「水の中のナイフ」みたいなことになり、そういうことで「意識してるでしょ〜!」とはいぢめたくなったりもする。しかししかし、このラストで、主人公の広瀬昌助はまちがいなく、テレサ野田を相手にして童貞を捨てなくてはならないはずなのに、何がどうまちがってしまって、あんな筋張った、欲情のしようもない「お姉さん」と、やらなくっちゃならなくなったのだろうか。それが「これからの70年代の予見だったのだよ」といわれても、わたしは納得などしない。

 けっきょく、何がよかったのかというと、つまりは石川セリの主題歌でしかない、というのがこの映画だったんじゃないのか。‥‥あとでYouTube を検索して、石川セリがステージでこの曲を唄う映像をこそ、記録させていただいた。


 

[]二〇一三年八月のおさらい 二〇一三年八月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●ダンスがみたい! 15 「Wave」(初演1985)「距離」(「船を眺める」より 初演1987) 黒沢美香
●「吾妻橋ダンスクロッシングファイナル!! DISC1」桜井圭介:キュレーション @浅草 アサヒ・アート・スクエア
●少年王者舘第37回本公演「ハニカム狂」天久聖一:作 天野天街:構成・演出

読書:
●「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン:著
●「□(しかく)」阿部和重:著
●「共喰い」田中慎弥:著
●「夢遊の人々」ヘルマン・ブロッホ:著 菊盛英夫:訳

DVD/ヴィデオ:
●「男性・女性」(1966) ジャン=リュック・ゴダール:監督
●「中国は近い」(1967) マルコ・ベロッキオ:監督
●「真夜中のパーティー」(1970) ウィリアム・フリードキン:監督
●「M★A★S★H マッシュ」(1970) ロバート・アルトマン:監督
●「ガルシアの首」(1974) サム・ペキンパー:監督
●「さすらい」(1976) ヴィム・ヴェンダース:監督
●「アメリカの友人」(1977) パトリシア・ハイスミス:原作 ヴィム・ヴェンダース:監督
●「ブロンテ姉妹」(1979) アンドレ・テシネ:監督
●「ワーキング・ガール」(1988) マイク・ニコルズ:監督
●「ミラーズ・クロッシング」(1990) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督
●「パンチドランク・ラブ」(2002) ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督
●「ローズ・イン・タイドランド」(2005) テリー・ギリアム:監督
●「CHLOE/クロエ」(2009) アトム・エゴヤン:監督
●「テイク・シェルター」(2011) ジェフ・ニコルズ:監督
●「ミッドナイト・イン・パリ」(2011) ウディ・アレン:監督
●「果てなき路」(2011) モンテ・ヘルマン:監督
●「宇宙人王さんとの遭遇」(2011) アントニオ/マルコ・マネッティ:脚本・監督
●「007 スカイフォール」(2012) サム・メンデス:監督
●「風立ちぬ」(1954) 堀辰雄:原作 島耕二:監督
●「女死刑囚の脱獄」(1960) 中川信夫:監督
●「妻は告白する」(1961) 増村保造:監督
●「眠狂四郎 魔性剣」(1965) 安田公義:監督
●「眠狂四郎 多情剣」(1966) 井上昭:監督
●「八月の濡れた砂」(1971) 藤田敏八:監督
●「硫黄島」(1973) ???:監督
●「海ゆかば」(1974) ???:監督
●「櫻の園」(1990) 中原俊:監督
●「桐島、部活やめるってよ」(2012) 吉田大八:監督

 

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■ 2013-08-30(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 ニェネントが、「このところ、あたしのことかまってくれなくなったんじゃない?」という表情をしている。部屋のなかを猛スピードで駆け抜けたりして自己アピールもする。たいていのじかんはカーテンと窓のあいだの空間でふて寝している。きょうはニェネントを抱き上げて、「ごめんねごめんね、だってノートパソコンがおもしろいんだもん」と、詫びをいれておいた。
 しかしまあ、いままでの骨董品パソコンで「わたしもパソコンやってます」なんて顔をしていたことがいかに「虚偽」だったことか、そういうことで人にめいわくをかけてしまったこともあるし、いまさら「ごめんなさい」というのでもないだろうと思ったりもする。謝って済むことでもない。

 まだ、このあたらしいパソコンからこの日記に写真をアップしていないのだけれども、いままではクラシックなMac だったこともあり、PhotoShop を使って、ちょっとだけ画像処理をしてからアップしていたのだけれども、もうOS X なわけだから、旧タイプのPhotoShop は使えなくなった。あたらしいPhotoShop を買う金などあるわけもなく、「どうしようか」というところはあったのだけれども、調べてみたらPhotoShop に匹敵するような無料アプリがあることもわかり、ダウンロードした。まだ使っていないので、どういうふうに使えばいいのかわからない。

 きのう、気味のわるいアニメを観てしまったせいで、じつのところ、気分はあんまり良くはない。ときどき、ふいにあのイメージが脳裏をかすめて来て、そのたびに気分がわるくなる。どうにかしてあのイメージを消し去りたい。どうやればいいんだろう。

 川を越えたところにあるレンタルDVDショップの、そのなかにある古着ショップがまた半額セールをやっているので、午後から行ってみた。‥‥ひさしぶりに、外が暑い。このところは外に出ると室内よりも外の方が涼しく感じるようにもなっていたのだけれども、きょうは外に出ると「ムッ!」とした。歩いていてもクラクラする。
 店に着いて、古着をみてまわる。もう夏のTシャツというのでもないので、秋冬用に長袖シャツとかをチェックする。「あ、いい柄だなあ」と気に入ったシャツがあり、そのタグをみると、「Michel Klein homme」だった。ちょっと着てみたら、サイズもぴったりだった。値札は1200円とついているから、きょうはその半額で600円である。喜んで買った。「Michel Klein homme」なんて、新品だったら<いちまんえん>しますからね。わたしだって、これからはちょっと<いろけ>を出してみようかと。

 ‥‥こういうことで、きのうのアニメの恐ろしいイメージが消せるんだったらいいのだけれども、パソコンをあれこれと操作していても、ふいにそういうイメージがよみがえってくるしゅんかんがある。
 ちょっとまえにどこかの図書館でもって、広島の原爆被害をテーマにした有名なマンガが閉架に置かれて閲覧制限されていたとしてもんだいにされたけれども、でも、そういう、マンガでもってトラウマになるようなショックを受けてしまうというのも、これもまた事実だと思う。わたしも小さいころ、つい読んでしまったマンガのなかで人が死に、その死体が焼けて骨になってしまう描写(そんなにリアルなタッチで描かれた絵ではなかったのだけれども)がこわくってこわくって、夜に寝ようとするときにきまってそのマンガの絵を思い出してしまい、寝付きのわるい夜がつづいたことを記憶している。このことで「閲覧制限」を正当視するわけではないけれども、「おまえら、コレを見れ(読め)!」っつうのでもない、とは思う。子どもの想像力というのは、おとなのそれよりも繊細だったりもする。わたしはそのことがトラウマになるほどでもなかったのかも知れないけれども、いまでもまだそのマンガの、焼けた頭蓋骨の絵を記憶しているというのは、やっぱり軽いトラウマ体験なのだろう。そのことがわたしの人格の発育の障害になったのかどうか、わたしには、「そんなことはまるでなかったよ」とはいえないところはある。

 たのむから、なんにも考えないで、「平和のため」とかなんとかいって、こどもたちにそういう「残酷描写」(といってしまっていいと思う)のあるマンガだとかを、「読め読め」とか押しつけないでほしいと思う。ついでに、きのうわたしの観たアニメ映画も、無防備に観ちゃいけないたぐいのモノではないのか、とは思う。

 

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■ 2013-08-29(Thu)

 あさ出勤するとき、ずいぶんとうす暗くなった。もうちょっとしたら、まっ暗ななかを職場まで歩くことになるんだろう。いままで気づかなかったのだけれども、職場の建物のまえにある桜の木と、そのあたりの電線とに、びっしりとムクドリがとまっていて、いっせいにさえずっているのだった。さえずっているなどと書くとかわいらしいけれども、ジェージェーと集団でけたたましくなくその音は、近隣住宅の大めいわくになる種類の騒音。
 ‥‥どうやらいまは夜明けどきのみじかいじかんだけ、このあたりにたむろしている気配で、ひるまなどはムクドリのことを思い出したりもしない。四、五年まえにはもっと事態は深刻だったというか、ムクドリたちはほとんどいちにちじゅう、このあたりの桜並木やそのそばの電線のうえに居座りっぱなしでいて、そのなきごえの騒音だけでなく、歩道に落下させるフンもまたハンパなものでなく、その悪臭にも悩まされたものだった。
 その後しばらくはそんなムクドリの群れのすがたを見ることもなくなり、うまく撃退したんだなあとは思っていたのだけれども、これって、群れの「再来襲」のまえぶれ、なんだろうか。

 きょうも、湿度も低くてさわやかな晴天だった。帰宅してからはやはりパソコン。YouTube で好きなアーティストのライヴ映像などを観て、ネコの動画をあれこれと観てすごし、そのあとはiTunes に移動する。せんじつはうまいこと、ストリーム配信されている音源のURL をコピーして、iTunes のなかで貼りつけたら聴けるようになったのだけれども、また同じようなことをやろうとしたらうまく行かない。それでも、ネットのなかでIrish Music をストリーム配信しているサイトをみつけ、あれこれとさわっていたら、いつのまにかiTunes のなか、「インターネットの曲」というところに登録されていた。どうもこのあたり、よくわからない。
 そのiTunes のなかで、音楽を聴きながら「ビジュアライザ」をオンにしてみると、アッとびっくり、いままでのビジュアライザでの心電図の放射図形のようなものではなく、もっと有機的な、宇宙的というのか深海的というのか、生命体のようなビジュアルになっていた。より三次元的に奥深い映像になっていて美しい。サウンドとのシンクロもいい。‥‥ただ、あまりに「生命体イメージ」というか「宇宙イメージ」というか、そういうのが強すぎる気がしないでもない。

 きょうは木曜日で西や南のスーパーが一割引の日なので、「これからはバナナをいっぱい消費するから」と、西のスーパーに買い物に行った。ひとふさ五、六本で77円というバナナをふたつ買い、店内を見歩いていると「あきたこまち」が五キロ1270円で置いてあったので、これも買う。もうずいぶんとウチのそばの米屋さんで買ってないし、これでまたしばらくは行かないことになるけれども、安いのがいちばん。しかも銘柄米だし、しかたがない。あとはグラノーラも買っておいた。

 エアチェックしてあった今敏監督のアニメ作品「PERFECT BLUE」を観はじめたのだけれども、登場してくるキモ悪い男性の容貌が、そんな「キモ悪い」などという次元ではなく、リアルに恐怖を感じさせられるというか吐き気をともなうというか、観ていてほんとうに気もちわるくなってしまい、じっさいに嘔吐寸前のところまで行ってしまった。これはこれいじょうとても観つづけていられないと、とちゅうでストップした。考えてみれば、わたしはむかしっから、今敏監督との相性が最悪なのである。

[]「夢遊の人々」第三部 一九一八年 ユグノオまたは即物主義 (1931) ヘルマン・ブロッホ:著 菊盛英夫:訳 「夢遊の人々」第三部 一九一八年 ユグノオまたは即物主義 (1931) ヘルマン・ブロッホ:著 菊盛英夫:訳を含むブックマーク

 ちょっとまえに読み終わってはいたのだけれども、読むのにじかんをかけすぎたというのか、感想は?といわれても困ってしまうところがある(だれも「感想は?」なんて聞いてないんだけれども)。まだ、第一部も第二部も旧的な「小説」のイメージのなかで読むことができたけれども、この第三部になると、いくつかの論文めいたテクスト、そして同時進行するさまざまな展開とが交錯していく。

 この第三部のタイトルロールというか主人公のユグノオという男、脱走兵ではあるし、そのあとの展開のなかでも「卑劣さ」を発散している印象もあったし、さいご(1918年のドイツ革命の際)には第二部の主人公エッシェを殺し、第一部の主人公パーゼノウを見捨てるわけである。そのまま出世をつづけ、のちにはどこかの市長にまでなることを暗示されるユグノオだけれども、彼に感情移入することはむずかしい。
 まあそう考えれば第一部のパーゼノウにしても、第二部のエッシェにしても、「困ったなあ」というところの人物ではあったわけで、つまりは作者のブロッホは、この小説において、つねにアンチ・ヒーローをこそ創出しつづけていた、という感触にはなる。脇役たちにしてみても同じことで、女性たちもまた、「こういう女性は恋人にしたくないな」というようなのばかり登場してくる。そういうなかでいっちばん強烈だったのは、やはり第二部から登場したエッシェのおかみさん、だろうか。

 まあだらだらと読んだだけで、とてもこの本を「読破した」などとはいえないのだけれども、わたしにはジョイスの「ユリシーズ」よりはこの「夢遊の人々」の方がずっと、おもしろく感じられたところはある。‥‥どうか、「どういうところが?」などと、聞かないで下さい。次は、もうちょっと気楽に読める本にしよう。


 

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■ 2013-08-28(Wed)

 きょうはしごとも非番で休み。あさから、あたらしいノートパソコン「マキシミリアン五世」のセットアップにつとめる。‥‥ずっとまえから、この日記についてもディスプレイで変えてみたいところもあったのだけれども、ついにようやく、実行することができた。まずは背景に壁紙を貼り付けた。ほんとうはむかしはこうやっていたのだけれども、当時は無料サーヴィスだったウェブ・サイトにアップした画像(つまり、この「壁紙」)を貼り付けていたのが、知らないうちにそのサイトが無料サーヴィスをやめてしまって、そこにアップしてあった画像などがぜんぶ、消えてしまっていたのである。
 こんかいこのパソコンを買って、そのあたりの画像で別のところに保存していたおかげでまだ使えるものがあることがわかり、さっそく活用させていただいた。ついでに、ニェネントの生後二ヶ月のころの、まだ世界でいちばんかわいいネコだったころのフォトを、いちばんトップに配置してみた。これもちょっと、まえからやってみたかったことだった。

 まだこのノートパソコンの奥に置いたままの古いパソコン、もう使うこともないのでかたづけようとも思うのだけれども、いまはずっと、そのパソコンの上がニェネントが窓の外を見る見晴し台にもなっているので、サッサとかたづけてしまうとニェネントがかわいそう。そのうちにりっぱな見晴し台を見つくろってあげるとして、それまでしばらく旧パソコンはニェネントの見晴し台として、いまの場所で余生をすごしてもらうことにした。

 昼まえにきのうエアチェックしてあった映画を観て、昼食にはひさしぶりにインスタントラーメンなんかつくってすませた。‥‥玄関の方で「ガタリ」という音がして、「あれ? ひょっとしたら‥‥」と見に行ったら、これが予想どおりにきのう注文した「snow leopard」だった。すっごく、早い。まさに注文してジャストいちにちで到着。ちょっとうれしくなって包装を開け、さっそく「マキシミリアン五世」クンのヴァージョンアップ。まるで問題もなく、約一じかんでセットアップ完了。まずはiTunes を開けてみて、「ラジオ」をチェックしてみて、ストリーム配信局が表示されるかどうかみてみる。もちろん、きのうまではなにも表示されなかったのだけれども、ちゃんとリスト表示された。チェックすると、もちろん音も出た。‥‥まずは、第一関門突破である。

 さて、つぎはYouTube などの動画が観ることができるようになるか、というもんだい。YouTube に移動しても今のままではダメなんだけれども、指示にしたがってFlash Player をダウンロードする。それでふたたびYouTube に移動する。‥‥OK、である。まずしょっぱなは、わたしのいちばん好きなアーティストであるAlex Chilton を検索して、彼のライヴ映像を観る。なんだかうれしくって、ちょっと涙が出そうになった。これでもう、あとのことはどうでもいい。わたしがあたらしいパソコンに望んでいたことは達成された。

 ‥‥なんだか、あたらしいパソコンを立ち上げるのってもっともっと、いろんな障害だとか困難がつきまとうようなものだと思っていたのだけれども、ずいぶんとスムースにことが運んだ思いがする。それに、ほんらいだったらもっと経費がかかったかも知れないところも、けっこう経済的にすませられた気もする。ちょっと「やったね!」という気分にもなって、はたしてほんとうに安い買い物だったのかどうか、ちょっとネット上で検索したりして調べてみた。
 まずとにかくはパソコン本体は骨董品寸前のオールドモデルとはいえ、こうやってYouTube もiTunes も享受できるのだから文句はない。まあつぎにYouTube やiTunes がグレードアップされるときに、このパソコンあたりが犠牲にされそうな気配はあるけれども、それはそれでしかたがない。ネットで検索すると、別の中古パソコンショップでこの「マキシミリアン五世」と同じ時期にリリースされたらしいノートパソコンが、わたしが買ったのよりも三千円ぐらい安く売られているのも見つけたりはした。「あれ、そっちでもよかったかな?」などといっしゅん思ってしまったけれども、よく調べてみると元の価格がちがう。この「マキシミリアン五世」、当時ではほとんどハイエンドではないかと思えるような、けっこう高価なノートパソコンで、その三千円の差で安く出ていたノートパソコン、元の価格はほぼ半分ぐらいのものだった。それで中古になって三千円の差なんだったら、やっぱりこの「マキシミリアン五世」は、お買得だったといえると思った。そのあとに、プラス千八百円ぐらいの支出でもって、古いOSでは楽しめなかったYouTube やiTunes を視聴可能にしたんだから、きっとわたしはとってもエコノミカルな選択ができたんだろうと、自負することになった。

 いろいろと、「こんかいは上手な買い物だったね」というところで、このところの精神状態の不調ということもどこかへ吹き飛んで行ってしまった感覚、ではある。

[]「宇宙人王さんとの遭遇」(2011) アントニオ/マルコ・マネッティ:脚本・監督 「宇宙人王さんとの遭遇」(2011)  アントニオ/マルコ・マネッティ:脚本・監督を含むブックマーク

 やはり、ヨーロッパの人々にとって、げんざいの中国というのはこういう感覚なのか。先日観たマルコ・ベロッキオの「中国は近い」から四十四年の歳月、月日が経過して、いつのまにか中国は宇宙にまで遠ざかってしまった。ちっとも近くない。‥‥なんということ。中国が世界の「革命の星」だった時代はすぎさり、いまでは共産主義的に統制された資本主義国家として世界を席巻しつつある、いや、ぎゃくに資本主義的に統制された共産主義というのか。あなたと「友好的」に交際したいのです、などといわれても、「ほんとうは世界制覇したいんだろうに」と思わないわけでもない。はっきりいって今は誰も、げんざいの中国が世界の未来をリードするモデルだなどとは思わない、考えないだろう。そういうところからこういう映画作品も生まれてくるのだろう。エジプトの遺跡に落書きをする中国人観光客、その延長なのかなあ。

 けっこうチープな低予算映画なんだけれども、「ドラマ」としてはおもしろい作品。観客としては、ラストに「おまえもバカだなあ」といわれてしまう側、だったけれども、製作サイドも「ほら、あんたもそうだったでしょ?」といっている気配。ここで槍玉にあげられた、今は習近平という人物が率いている国家は、極東の島国と国境紛争なんかやっているよりも、こんな映画が西欧で評判になってしまったことをこそ、もんだいにした方がいいような気がする(わたしとしては、習近平という人物はこの国家の七十年の歴史で最悪の指導者になるのではないのかと、とても危惧している ‥‥あ、日本もだ)。


 

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■ 2013-08-27(Tue)

 ‥‥基本的に、あたらしいノートパソコンをフル稼働させられるようになった。もちろん、げんざいのもんだい点、YouTube やiTunes の享受というところではまったくダメなままだけれども、さまざまなサイトの閲覧ということでの障害もなくなった。とにかくこれまでは骨董品のMac から、やはり年代物のInternet Explorer もしくはNetscape というブラウザを介して閲覧していたわけで、ほとんどのサイトがきちんと表示されないのだった。‥‥まあ、テクストさえ読めればいいや、みたいな気分ではいたけれども、たとえばニュースなど読もうとして、「続きをみる」をクリックしてもその「続き」が表示されないのはあたりまえのことだったわけで、「ではInternet Explorer でみてみようか」とか、「これはNetscape ならみられるかな?」などと使い分けていたわけだけれども、サイトを開くとほぼ同時にフリーズしてしまうこともしばしば、だった。これでは「Internet Explorer」ではなくって「Internet Exploder」、「Netscape」ではなくて「Net escape」だろうが!(笑)などとは思っていたわけである。それがとうとう「Safari」を使えるようになって快適。とりあえずはうれしい。

 さて、きのうからの懸案の、「snow leopard」へのグレードアップの件だけれども、しごとを終えて帰宅したあと、すぐにアップルストアにアクセスしてみた。これがこのヴァージョンのSafari ではきちんと表示されないわけで、そういう人たちのための電話番号も表示されている。‥‥まずは、これはつまりは通販だろうから、なんともなくややっこしそうな予感がする。それに、わたしなどの場合、電話を通じて「コレがほしい」とか、「ココへ送付してくれ」とか伝えるのがめんどうくさそうだし、支払い方法の決定もまた、電話でのやり取りではややっこしくなりそうな気配もする。だったらいっそのこと、その「アップルストア」なるものにちょくせつ行っちゃえばいいだろうなどと思った。いちじはそういうことに決めようとも思ったのだけれども、もうちょっと調べてみたら、アップルとしてはほんとうは単体での「snow leopard」の販売はしたくないというか、ほかのアプリケーションのヴァージョンアップを合わせたボックスセットでないと売らない、みたいな姿勢もあるみたい。ただ、「snow leopard」もすでに骨董品に近くなってきていて、そのボックスセットも品切れになっているらしい。だったら単体でも買えるだろうか、などとも考えるけれども、店頭でそれを買おうとしたら「どういう用途でこの製品をお買い求めになられるのでしょうか?」なんて聞かれたとしたら、これもまためんどうくさい。どうにかならないものかと、ほかの通販サイトをチェックしていたら、この「snow leopard」を売っているのをみつけた。わざわざ渋谷のアップルストアに交通費をかけて買いに行くよりもずっと安いし、この通販サイトでなら買うのもかんたんなこと。即、申し込んでしまった。

 すぐに支払い番号もメールで届いたので近くのコンビニで支払いをすませたら、夕方には「発送した」というメールも届いた。‥‥めっちゃ早ければあした、おそくともあさってには到着するだろうから、そこからまた、このノートパソコンの改造/改革だなあ。そうそう、このノートパソコンは、おそらくはわたしが買ったMac のパソコンの5台目(すべて中古で買った)になるだろうと思うから、その名まえを「マキシミリアン五世」ということにする。すべてがわたしの脳内で思い描いているように順調にはこんだならば、かなり安い買い物でもって、イイところまで行けそうな気がする。どうなるだろうか。

 きょうはちょっと余裕をかませて、午後からはダビングしてあった映画を観たりした。夕食はまだ残っていたカレーですませ、ニェネントのことはほとんど放ったらかし、になってしまった。

[]「パンチドランク・ラブ」(2002) ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督 「パンチドランク・ラブ」(2002)  ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督を含むブックマーク

 うわ! もっとメチャクチャやってくれるとぜったいに素晴らしい作品なのになあ! と思ってしまう。惜しい。ほんとうに惜しい。

 ‥‥しかしこれ、撮影ってどうやってるんだろうか。ものすごい長距離の移動撮影の連続なわけで、「これだったら手持ちカメラだろうか」とも思うのだけれども、カメラの「ぶれ」というものがまったく、いっさいないようにみえたし、あるシーンのなかで、しゅんかんにレールが見えたような気もした。とにかくはこのドリー撮影へのこだわりがすごいなあとは思う。

 映画の展開はどこか、ちょっと前に観た「少年王者舘」の舞台の演出を思い出させられるところがある。まったく説明のない非日常空間のなかで非日常的出来事が勃発し、そのあおりで日常空間もみんな非日常に屈折してしまう。たいていの登場人物の行動は常識では説明ができず、奇妙な「こだわり」だけが前面に露出するような印象。

 映画のなかみも「パンチドランク」だろうし、観ている方でも「パンチドランク」をくらう。もっと、主役をあのハーモニウムにしたりとか、起承転結をはなれた展開になっていれば、わたし的には賛美の嵐、だったことだろう。

 そうそう、とちゅうで「He needs me」と唄う印象的な女性ヴォーカルが流れるのだけれども、コレがさいごのクレジットで、「ポパイ」でのシェリー・デュヴァルの唄だとわかる。こういう「映画」という世界のなかでの引用というのか、そのことも素晴らしいことだと思った。


 

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■ 2013-08-26(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 きょうはしごとのある日。あさ起きて窓から外をみると、まだうす暗いながらも晴天なのだろうと想像できる。外に出ると湿気もあまりなく、けっこうさわやかな気分で歩いた。しごとの方も「月曜日」ということで大した量があるわけでもなく、Aさんとふたりでの作業も楽勝であった。

 しごとを終えて帰宅して、さあ、買ってきたノートパソコンのセッティングである。そのまえにニェネントのごはんを出してあげ、自分の朝ごはんも食べてから。
 ‥‥大きな紙袋や箱がだいすきなニェネントは、玄関のところに置いてあるノートパソコンの箱にきょうみしんしんのごようすで、「ねえねえ、コレって、つまりはわたしの遊び道具なの?」と、まわりではしゃいでいる。ちがいます! あなたは、コレで遊んではいけません! 
 箱を開けるとさらにニェネントはおもしろがって、緩衝のための発泡スチロールにまえ足でちょっかいを出してくる。「なんか、とっても楽しそうなんだけど?」といっている。

 梱包からそのノートパソコンを取り出して、机の上に置いてみると、ディスプレイの大きさはいま使っている骨董品のiMac のディスプレイと、つまりはほとんど同じ大きさだった。ちょうどいい大きさ。やはり、デスクトップ型のものにしなくってよかったと思う。使っていないときにはディスプレイをたたんでおけば、ニェネントの抜け毛だとかそのほかモロモロのゴミの堆積をシャットアウトできるし、この大きさだったらじっさいに外出時に持って行けるわけでもある。

 電源ラインをつなぎ、電源を入れてみる。快調である。ウェブブラウザの「safari」を立ち上げてみると、まだ何にも設定していないのに、しぜんにインターネットに接続された。「どういうこと?」などと思ってしまうのだけれども、つまりはAirMac の効力、というところらしい。しかし、このままではメールの送受信などができない(だろう)わけで、ちゃんとEthernet 接続させておかなくてはならない。‥‥これが第一関門、だった。よくはわからないのだけれども、そのさいしょのAirMac の設定がどうしても優位に来てしまい、ようやくEthernet 接続の設定ができたと思ったら、こんどはネット接続できないのである。これは一回、いまの設定を全部消してしまって、白紙状態からやり直した方がいいだろうと思って、まずはシステムディスクでもってすべてをまっさらにしてやった。残しておいた方がいい設定もあったのかも知れないけれども、とにかく、「一」からぜんぶ、自分でやった方がいいだろうと判断した。‥‥ここでEthernet 接続の設定をやって、ちゃんと接続もできたし、メールの受信ももんだいなくできていることも確認できた。まずは第一関門の突破、だろうか。

 さて、わたしがあたらしいパソコンでやりたい(享受したい)と思っていたことは、とりあえずまずはふたつある。ひとつは「YouTube」などの動画サイトを閲覧すること、そしてもうひとつは、iTunes を使ってストリーム配信のラジオ放送を享受したいということ。で、まずは「YouTube」にアクセスしてみたのだけれども、なんだ、やっぱりダメじゃん。パソコンショップの店員にも、「YouTube とか見たいのよね」ということは伝えてあったのに、つまりはこのパソコンのOSのレベルでは、そういう欲求はアウトなことはわかっているわけだった。で、もうひとつのiTunes の方も、これがダメだった。ライブラリの「ラジオ」を選択しても、画面にはどんなリストも出現してこない。URL を貼りつけるとなんとかなりそうなふんいきもあったので、ネットで検索してみて、クラシックを配信しているところをみつけ、そのURL をコピペしてみた。‥‥聴けた。とりあえずは喜ぶ。今もずっと、このURL でのストリーム配信の音楽を、かけっぱなしにしている。

 ‥‥しかし、わたしがあたらしいパソコンでやりたいと思っていたことはこんなにまどろっこしいことではないし、そもそもがYouTube は観られないまんま。こういうことには解決法もあるはずと、あれこれと調べてみた。つまり、いま目のまえにあるこのノートパソコン、そのOSは10.4.11 なわけだけれども、こいつを少なくとも10.6(つまり、Snow Leopard というヤツ)にアップグレードしてやれば、そういうもんだいも解決してくれそうな気配がわかった。こんかいわたしの買ったノートパソコンというのはもう七、八年もまえにリリースされたもの(骨董品の一歩手前?)なのだけれども、OS でそのv10.6 まではもんだいなくアップグレードできることがわかった。調べてみると、「アップルストア」というところでもって、かなり安い価格でそのインストールDVDが購入できることもわかった。‥‥このノートパソコンを買った中古ショップでも、OS が10.6 クラスになると、それだけで価格が一万円いじょう高くなっていたことはわかっているので、「そうか、こういうやり方があったわけか」ということでは、わたしはかしこいショッピングをしたのではないのか? と、まだ最終結論はでていないけれども、なんとなくは思っている。きょうはそういう、パソコンのことでめいっぱいのいちにち、ではあった。あしたもまた、そういういちにちになるのかも知れない。


 

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■ 2013-08-25(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 ‥‥ちょっと、きのうの「少年王者舘」の舞台の感想は置いておいて、きょうは(というか、じっさいにはこの日記を書いている8月26日は)いろいろとたいへんなことになっているので、そっちの方をさきに落ち着かせておきたい。つまり、かんたんにいえば、ついにあたらしいパソコンを買ったのである。

 きのう新宿でパソコンショップをのぞいてみて、だいたいわたしの想定していた価格での中古パソコンが店頭に置いてあったこともあり、いつまでも「あたらしい(といっても買うのは中古品だけれども)パソコンがほしいなあ」と思いつづけているのも不健康だし、やはりきょうもしごとは休みなので、思い切ってパソコンを買いに行きたいと思ったわけである。

 しかし、さすがにきのうは外で飲んだりもしているし、あさ起きてからもずっと、とても東京へ出かける気力がわいてこない。いちおう昼すぎてから出かけて、帰りにまた下北沢に寄って、しばらく顔を出していない「G」にも寄ってみようか、などという計画はばくぜんと立ててみる。あたまはぼんやりしていて、からだもシャキッとしないのだけれども、こういうときはまたアルコール類を摂取すればシャンとするような気もする(そういうのを「アルコール依存症」というのかも知れない)。かんたんに昼食をすませ、そのあとに近くのドラッグストアへ行って、キンミヤ焼酎とホッピーを買ってきて飲むと、あんのじょう、元気になった。「さあ、行くぞ!」という感じである。

 電車に乗って新宿に出て、きのうも立ち寄ったパソコンショップに行く。‥‥いちおう、わたしの腹のなかでは、やっぱりあたらしいパソコンもMac にすること、そして、もうiMac はやめて、ノートパソコン型のモノにしようというのは決めてある。ほんとうはノートパソコンでも旧型の、ちょっとディスプレイのでかいヤツがいいかな、などとは思ってはいたのだけれども、そのあたりはあんまり気にしていない。ただ、中古コーナーに置いてあるのを以前からみているiMac はあまりに巨大すぎて、「そんなデカいのはウチの机からはみ出すね」とは思っている。デカくってもその上にニェネントが乗っかれるような「広場」があればいいかも知れないけれども、いまのiMac はそういうことにはなっていない。そういうのより、ふだんは畳んでおけるようなノートパソコン型の方がいい。そう思っていた。

 ‥‥店のなかに入ると、わたしのめざすようなノートパソコンはそれなりにいっぱい並んでいる。ディスプレイが17インチとかいうデカいものはひとつしかなくって、価格も高いのであきらめた。あとは、どれだけ安くってスペックの高いモノを選ぶかというだけ。‥‥OSの装備されていない中古品は安いのだけれども、やはりデンジャラスである。付属品で欠品のあるものもよろしくない。OS(10.4)がついていて、付属品もそろっているものでいちばん安いのが、まさにわたしの想定していた価格だったこともあり、店員さんとちょっとだけやりとりして即決。ノートパソコンがいいのは、その場から手軽に持ち帰れるところでもある。

 買ったパソコンをぶら下げて下北沢に行き、「G」のドアをくぐった。店のNさんやOさんと会話していて、Nさんに「あ、なんかでっかい買い物してるじゃない?」とかバレてしまって、Mac のノートパソコンの中古を買ったというと、考えてみるとこの「G」という店もむかしっからMac を使っているわけなんだけれども、オーナーのOさんに、ものすごっく旧型の、元祖ノートパソコンみたいな小型Mac をみせていただいた。「LCなんとか」という型番の時代のものだろう。ロゴマークのリンゴがレインボウカラーだった。わたしの持っていた初代パソコンも、こういうヤツだったなあと思い出す。

 客で来られていたPさんやQさんなどと、わたしとしてもちょっと脱線ぎみの会話などをやってしまい、あんまりおそくならないうちに店を出て帰路についた。‥‥電車のなかで眠くって眠くって、ちゃんと乗換駅で乗り換えることができて、ちゃんとウチのある駅で起きていて下車することができるのかどうか、ものすごっくしんぱいだったけれども、とにかくは無事に帰宅したようで、もうパソコンのセッティングも初期設定もどうでもいいですよ、という感じでベッドにとびのって、ニェネントの所在も確認しないままで爆睡した。あとのことはあした(つまり、きょうの日記は、じつはあたらしいパソコンで書いているのです)。


 

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■ 2013-08-24(Sat)

 きょうは東京。下北沢に出て、恒例の「少年王者舘」の新作舞台をKさんと観る。マチネの回の観賞だし、そのまえにこんかいはチケット代金の精算をして、若い整理番号をゲットもしておきたい。いつもなら先にチケット代金を振り込んで、それでもって整理番号つきのチケットが送付されてくるのだけれども、こんかいはどういうわけか当日精算になってしまっているんで、ちょっと早めに行かないといけないなあと考えている。それで、十一時半にKさんと待ち合わせ、早めに昼食をいっしょにとってから劇場へ行こう、ということにしてある。
 きょうはしごともまえもって休みの申請もしてあるわけで、ふだんだったらまだしごとをやっている九時まえには家を出る。土曜日ということでローカル線だって混んでいるし、ターミナル駅から乗り換えた東京への列車も、とちゅうからかなり混んできた。新宿駅で下車すると、入れ替わりに乗ってくる乗客の方々の数がまた多くって、この列車はこのあと逗子まで行くわけだから、「そうか、これから鎌倉とかへ行かれる方がいっぱいいるわけなんだ」と納得する。

 ちょっと待ち合わせ時間までじかんがあるので、駅の近くのパソコンの中古ショップへ行ってみる。「これ、ほしい!」という中古Mac のノートパソコンが置いてあった。価格もわたしの想定内というか、むしろ安い。「きょうのいま買うのはムリだけど、まだあしたもこういうのがあるといいなあ」と思うわけだし、たしかこのショップは毎月「5」のつく日は「中古デー」とかいって、中古パソコンを割引き販売しているんじゃないかという記憶がある。まさにあしたは25日で「5」のつく日だし、あしたも休みは申請してあることだし、またあしたパソコン買いに来ようかなあ、などと思った。

 小田急線に乗って、下北沢に向かう。車内は空いているけれど、わたしのすわっている席からドアをはさんでななめまえにすわっていらっしゃる女性が、なんだかKさんに似ているように思えてしまい、待ち合わせ時間もちょうどのじかんだし、やっぱりKさんかなあ? 帽子をかぶられているのでお顔がはっきり見えない。もうちょっと近づいてお顔をのぞきこんでみたりしてみようか、などと思ったりする。下北沢の駅に着いて下車し、改札に向かうところでKさんからメールをいただき、かくじつにいっぱつでKさんと遭遇することができた。‥‥ところがこれが、そのKさんのいでたちが、さっき車内でお見かけした女性とまるで同じだったように見え(同じような帽子もかぶっておられた)、「あれ? いっしょの電車だったんじゃない?」とKさんにいきなりお聞きしたら、彼女はもうちょっと早くに到着されていたとのこと。‥‥しかし、帽子といい、ロングのスカートといい、わたしの記憶ではまるで同一だったし、どちらも黒縁のメガネもかけていらっしゃるし、おそらくはブラウスだっておんなじだったようにわたしは思った。‥‥というか、電車のなかでわたしが見たつもりの女性は、じつはわたしの「幻覚」だったのかもしれない、などと思った。変な質問をしたわたしに対し、Kさんも「???」という感じ。

 とにかくは無事にKさんと遭遇し、このところいつも行くカフェで昼食をとりながら会話を楽しんだ。きょうのランチもおいしかった。劇場での精算開始のじかんになり、劇場へ行く。精算をして整理番号をもらう。10番と11番。若い番号である。いい。‥‥開場まであと三十分ほどじかんをつぶさなくてはならないので、近くのCDショップへでも行こうかというところだったけれども、劇場のすぐそばに動物フィギュアをいっぱい並べた店があり、そっちの店内に入ってみる。‥‥「いっぱい」どころではなく、洪水のような動物フィギュアの群れ。とうぜん、めっちゃかわいいものもあり、見ているとあっという間にじかんが経っていく。ざんねんながら、「ネコ」はあんまりかわいいフィギュアはないのである。Kさんも、「ネコというものはむずかしいのよ」という。

 ‥‥もうそろそろ開場じかんになるので、劇場に戻る。いつの間にか、たくさんの人が並んでいる。あれ? 前売りチケットを持っている人たちが、わたしたち当日精算とは別の列をつくっていて、そっちがやっぱり優先らしい。‥‥どうやら、ネットを介してチケットを買うときにわたしが勘違いしてしまって、当日精算の方を選んでしまった気配。なんかこんかいはシステムがおかしいと思ったわけだ。まあ、いつも取られるチケット郵送料はなくって、そういうところはケチくさくいえば「得をした」ということになるけれども、それでいい席が取れなければ「アウト」ではある。「どんな席が空いているだろう」と、順番としてはかなり遅くに入場したのだけれども、いつもわたしたちがキープしたいと思っているあたりの席はぜんぶ空いていた。よかった。‥‥最終的には、かなりの満席状態になった。そして開演、そして終演。感想はあとで書くけれど、基本的にはめっちゃ楽しい舞台だった。Kさんも、「いままでで三本の指に入るおもしろさ」だといっていた。‥‥そうだよなあ、Kさんとはもう、十回を超える回数で、この少年王者舘の舞台を観に来ているわけだと思う。

 ‥‥さて、きょうは舞台のあとにもうひとつのメインイヴェントがあるというか、あと十日もすると、わたしとKさん、そしてLさんとMさんのご夫妻との四人で一席囲むことに決めてあって、その場所をどこにしようかという課題があったのだけれども、わたし的にはいままで行きたくっても行く機会のなかった居酒屋の老舗、神田の「M」という店にこそ、こういうチャンスに行ってみたいという願望もあったわけである。それで、ちょっとまえから、この日のアフターステージはわざわざ神田に移動して、その「M」という店に行ってみようという目論みがあったのである。このことはまえにKさんにも知らせてあるわけで、彼女もその「M」には興味を持ってくれている。そういうわけで、終演後はすぐに神田小川町に移動する。

 わたしはこのところ、自分の「記憶力」というものにいささかの不安感もあったのだけれども、地図で学習してあったその「M」の場所、まったく迷わずにいっぱつでたどり着くことができた。なんだ、ちゃんとしてるじゃん、という気もちはあった。

 「どぜう」と書かれた赤ちょうちんと縄のれん、「創業明治三十八年」の文字のまぶしい店の前に到着する。「やはり、なんか違うなあ」という感じがする。すでに二人のお客さんが並ばれていて、時計をみると開店四分前、というところだったし、わたしたちの後ろからすぐに五、六人の団体客グループもやって来られた。‥‥町内放送みたいなスピーカーから「夕焼け小焼け」のメロディーが流されて来るのが聴こえて、五時である。縄のれんの奥の障子戸が開けられて、Kさんと店内に入る。外から店を見ていた感じよりもずっと奥行きがあり、けっこう広い。予約していないから椅子席に案内されたけれど、予約してあればきっと座敷席に行けるんだろう。

 どじょう料理の体験がないというKさんに「まずは柳川鍋がいいよ」と勧め、「こはだ酢」と「冷しトマト」を注文。わたしは日本酒で行く。‥‥出されてきた柳川鍋はとにかくマイルドな味わいで、「いままでわたしが食べたことのある柳川鍋は、いったいあれは何だったのか」というおいしさだったし、こはだ酢がまためっちゃおいしかった。このあと、「やっぱりここまでクリアしなくっちゃね」という「どじょう丸煮」も注文して食べた。‥‥すばらしい、と思う。仲居さんの対応もほぼベストだったと思うし、こういう古い居酒屋らしい独特のふんいきも堪能した。やっぱり、次回の四人での飲み会、会食はここで決まりだろう。‥‥ついつい、ふだんあんまりKさんにも話さないようなことまでしゃべったりしてしまった。

 ‥‥会計をすませ、その次回の会合を予約したら、その帳簿の該当日にはもうすでに三件ぐらいの予約が書き込まれていたのがみえた。店を出たあと、近くにあったカフェでKさんとお茶をして、またよけいなことをあれこれとおしゃべりしてしまった気がする。‥‥それでも、やっぱりすばらしく楽しいいちにち、ひとときではあったと思う。次回のLさんMさんをまじえた飲み会が、今から楽しみに思えてしょうがない。

 

 

[]少年王者舘第37回本公演「ハニカム狂」天久聖一:作 天野天街:構成・演出 少年王者舘第37回本公演「ハニカム狂」天久聖一:作 天野天街:構成・演出を含むブックマーク

 「作」としてクレジットされている天久聖一という人物はマンガ家のようなので、そのうちに再演される「真夜中の弥次さん喜多さん」のように、既存のマンガを原作として脚色した舞台なのかと思っていたけれども、どうもそうではないようで、この舞台のために書かれた原作を天野天街氏が舞台化したということらしい。

 幕が開いた舞台は、鍾乳石のようなつらら状の岩らしきものがぶら下がる岩盤のようなものに囲まれた背景で、別の空間へとつながる通路があちこちにあるみたい。どうもつまりはタイトルからいっても、これはハチの巣の内部ということみたいな。
 こんかいの出演者は男性七人に女性三人と、いままでの「少年王者舘」の舞台になく男性の比率が高い。

 いきなり、例によっての「王者舘」的なオープニング。男性だけ。さいしょっから、延々と反復される。この「反復」もおとくいの展開だけれども、こんかいの舞台はこれがなかなかに強烈。いつまでもいつまでもつづく反復のヴァリエーションのなかで、なにかがすこしずつ変化して行く。‥‥どうやら、ハチの巣のなかにまぎれこんでしまった一匹のハエをめぐる展開というか、彼は自分のことをハエとは思っていない、もしくは、彼を「ハエ」とみることこそが、幻覚なのかも知れない。カインとアベルの話も紛れこみ、舞台と効果音と映像とのみごとなシンクロを楽しむ。役者さんたちが舞台にずらりと並んで観客席を向き、それぞれが顔をあげてセリフを朗誦するという、ずいぶんと以前の「王者舘」の舞台でおなじみだったような光景が、(わたしの記憶では)ひさしぶりに展開されたのもうれしかった。

 ほとんどシチュエーションの説明のような演出もないままに舞台は進行していったのだけれども、終盤になぜか、「オレたちはハチなんだ」みたいな「物語」的な展開になってしまった。そういう物語は不要な舞台だと思って観ていたので、わたしとしてはこういうところはなくってもよかったのに、という感想。

 七人の男性陣のうち、四人は客演というかたちだったけれども、元「唐組」の丸山厚人氏のすがたをまた観ることができたのはうれしかったし、ほぼ舞台の中心になるようなフィーチャーのされ方だった。ギター弾き語りもウケていた。

 ことしはあれこれと少年王者舘いがいでも活躍されていた天野天街氏だけれども、十二月にはこの少年王者舘の「番外イベント」なるものもやられるらしい。チラシをよくみると「構成・チラシ」という担当。生演奏で坂本弘道氏や谷口正明氏も出演されるようなので、ライヴ感覚の舞台になるんだろう。中村榮美子さんも出られるので、やっぱり行きたいなあとは思う。


 

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■ 2013-08-23(Fri)

 きょうも、残暑(もう、そういういい方をしてもいいだろう)がねっとりと肌にまとわりついてくる感覚なんだけれども、空もようはすっきりとしない。しごとのあと通院したのだけれども、家を出たところでパラ、パラと雨が落ちてきたようで、「傘を持って出ればよかったかな」と思ったけれども、「そんなには降らないだろう」と勝手に決めこんで、そのまま病院へ行った。ちょっと来るのが遅すぎたのか、または早すぎたのか、病院の待合室はかなりの数の人であふれていた。図書館から借りている、例の「記憶力をのばしたい!」という本を持ってきていたので、待ちじかんのあいだ読む。冒頭から延々と、著者がどのような「もの忘れ」をしてしまっていたかということが、あれやこれやと列挙される。これは、「はたして、この本の著者はいったいどんな<もの忘れ>をしたでしょう?」と、あとになって記憶力のテストをするための記述なのではないか、などと思う。‥‥ようやっと著者の「もの忘れ」の例の列挙が終わったと思ったら、こんどは著者の知人、友人たちの「もの忘れ」症候群が列挙しはじめられた。待ちじかんがかなりあったので百ページぐらいまで読んだけれども、いっこうに具体的な「記憶力改善」のはなしははじまらない。タイトルは「記憶力をのばしたい!」なんだけれども、つまりはそういう願望を書いただけの本なのかと、納得した。借りる本の選択を失敗したなと思ったけれども、三分の一いじょうは読んでしまったし、残りはあした出かけるときに電車のなかででも読もうかと、けっきょくぜんぶ読んでしまおうなどと思っている。

 ようやっとわたしの順番がまわってきて、いつもの型通りの診察。血圧もずっと落ち着いているし、胸の聴診も異常ないと。これで決して、「もう通院しなくってだいじょうぶですよ」ということにはならないだろうことが悲しい。二週間分の薬をもらって帰宅する。外はしんぱいした雨も降っていなかった。

 きょうは朝食のまえに通院してしまったので、帰宅してからずいぶんとおそい朝食にした。いつものようにキッチンでオートミールをこさえていると、やはりいつものようにニェネントが足もとにやって来る。ニェネントのお皿をみると、どれもきれいに空になっていた。「ニェネントくん、よく食べたねー」とニェネントのあたまをなでて、ネコごはんを出してネコ缶も開け、きょうは卵黄もつけてあげた。ニェネントの食事を並べてあげて、わたしが自分のオートミールの方にかまけていると、またニェネントがわたしの足もとに寄ってきて、わたしのスネをぺろりとなめるのだった。‥‥なんだか、「ありがとうね!」っていっているみたいで、めっちゃかわいらしく感じた。

 午後にずいぶん昔に録画した映画を観て、また「Face to Face」を聴き、夕食はツナカレー。あしたはしごとは休みで東京に出かけることもあり、早めに寝ることにした。このところになく、けっこう熟睡できた気がする。

 

 

[]「眠狂四郎 多情剣」(1966) 井上昭:監督 「眠狂四郎 多情剣」(1966)  井上昭:監督を含むブックマーク

 この井上昭という監督さんの映像美、演出の妙など、けっこう相当なもので、「はたしてほかにどんな作品を撮っておられるのか?」と調べたら、わたしが観ているのでは「座頭市二段斬り」という1965年の作品があった。もう記憶に残ってもいないけれども、この日記を検索してみると、わたしはやはり絶賛している。‥‥この監督さんは大映専属で、そもそもは溝口健二監督の助監督などもやられていたらしい。映画監督としては六十年代の十年間だけのキャリア。二十一本の作品を撮られている。あとはテレビの世界に移られたらしい。どうもシリーズもの作品の、そのひとつとかを監督されているケースが多いようで、これからあんまりこの監督さんの当時の作品を観ることができるとも思えないところがざんねん(陸軍中野学校シリーズを二本撮られているのは、まだ観られる機会もあるかも知れない)。

 この作品では、とちゅうのイメージシーンの、バックを黒くつぶした人体アップ映像の切り貼り、そして霧のたちこめるなかでの市川雷蔵のアップなど印象に残るのだけれども、特に終盤の決闘のシーンでの、周囲の枯れた立木までみごとにセッティングされた映像がすばらしい。


 

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■ 2013-08-22(Thu)

 あさ、しごとに出るとき、外はうすぐらいままになってきた。だんだんに日がみじかくなり、そのうちにまっくらな道を職場へ歩いていくようになる。‥‥日はみじかくなってきたけれども、まだ暑さはつづいている。このところは湿度が高くなってきた印象で、つまり、むし暑い日がつづく。きょうも、それなりにしごとはいそがしかった。

 連続テレビ小説の「あまちゃん」、このところ田中要次や諏訪太郎という、わたしのひいきの俳優さんたちが(ちょっとだけ)出てきたりしているのだけれども、医師の役だった田中要次の出番は、もうきのうで終わったみたい。セリフは、ひとつだけだったと思う。諏訪太郎はオーディション審査するプロデューサーのひとりの役で、きょうも出演されていたけれども、いまだにセリフらしいものはない。きょうの展開も、なんだか爆笑モノだった。‥‥この「あまちゃん」も、あと一ヶ月ちょっと。

 きょうは木曜日で、西のスーパーなどは全品一割引きになるので行ってみたのだけれども、店をまわってみても買いたいものもなく帰ってきた。きのうもこんなことをやっているし、こういうときの自分のことが好きではない。なにか、欲しいもの、買いたいものを自分のなかでつくりだせないといけないと思う。無理して消費を望むとかいうのではなく、「なにも欲しいものがない」という状態はよくない(「パソコンが欲しい」などというのは別もんだい)。

 映画を一本観て、残りのじかんはきのう届いた「Face to Face」をいっぱい聴いてすごした。なぜかわからないけれども、受信メールをチェックすると、差出人名が「face to face」という、あきらかにスパムメールとわかるメールがかなりの数来ていた。この日記に、「Face to Face」などということばを書き込んだせいかも知れない。

 夕方からはカレーをつくった。冷凍してあったまぐろを使ったのだけれども、解凍したまぐろをそのまま炒めて使ったら、前回ほどおいしいものではなかった。前回はまぐろを水煮してから使ったわけで、その方がよけいな「あく」とか、つまりは「安物具材のおいしくないところ」が抜けてしまって、いい味になったのかも知れない。考えてみれば、まぐろを使ったカレーというのはつまりはツナ・カレーのことで、べつに特殊なものでもなく一般的なものだったわけである。そのあたりのレシピをチェックしてみてもよかったけれども、とにかくはもし次回おなじものをつくるなら、水煮してかららやってみようかと思う。

 ‥‥夜のニュースをみていたら、わたしなどとほぼ同世代の、あの有名演歌(?)歌手がビルから飛び降り自殺をされたという報道があり、ものっすごくおどろいてしまった。なんだか、「そうか、やっぱり、そういうことになるのか」という気がして、そばにいたニェネントを抱き上げて、「いっしょに死んで、彼女のあとを追おうか?」とか、聞いてしまった。‥‥いきさつもわからないし、そんなことはやらないけれども、とにかくはショックな報道、だった。‥‥つまらないことを、書いてしまった。

 

 

[]「ガルシアの首」(1974) サム・ペキンパー:監督 「ガルシアの首」(1974)  サム・ペキンパー:監督を含むブックマーク

 「Bring me the head of Alfredo Garcia!」という原題を、なぜか記憶している。ガルシアという男はメキシコの大地主の愛する娘を妊娠させた男で、そのことを知った大地主は「オレのところへアルフレド・ガルシアの首を持って来い!」というわけ。報酬は百万ドル。地主の部下たちはメキシコじゅうガルシアを捜しまわるわけだけれども、酒場のピアノ弾きのベニー(ウォーレン・オーツ)が漁夫の利をねらおうとする。彼の情婦のエリータがそのガルシアとついこないだまで浮気していたわけである。エリータに聞きただすと、ガルシアは交通事故で死んだという。‥‥では、その墓をあばいて首をいただこうと(報奨金は一万ドルと聞かされていて、まさか百万ドルの価値があるとは夢にも思っていない)、情婦と二人、ピクニック気分で墓地へと向かうのだけれども‥‥。荒野を彷徨するならず者たちはいるし(彼らのおかげでベニーは銃を手に入れたみたいだけれども)、本筋の地主の部下たちはやってくるし、バシバシと人が死んでいく。ベニーの情婦も地主の部下たちによって殺されてしまう。しかし、「ガルシアの首」はベニーの手元にある。ハエのたかるガルシアの首を助手席に乗せ、氷やドライアイスで冷やしたりしながら、ついには地主の邸宅に到着する‥‥。

 西部劇のひとつの定番、「賞金稼ぎ」という存在をななめから撮ったというか、いわゆる西部劇というものがいかに「残酷」な地平の上に成立しているか、ということこそを主題としているようにも思える。‥‥すでに死んでいたガルシアの、その首のために十六人もの(ラストにはこの人数はもっともっと増えることになる)人が殺されたではないかと、ベニーは地主に訴える。もうこの時点では目のまえの報奨金など目的ではない。こういうところにやはり、ペキンパーの抱くロマンがある。ではそのロマンを描くのにどうやるか。そのことこそが、ペキンパーが映画のうえで追求してきたことなのだろう。ここに、そのみごとな成果がある。‥‥ただし、やっぱり残虐ではあるが。

 さいしょの登場シーンでピアノを弾いているせいでか、そのぶっきらぼうな演技でか、ウォーレン・オーツがどこかトム・ウェイツに似ているような気がしてしまった。


 

[]「Face to Face :Deluxe Edition」(1966) The Kinks 「Face to Face :Deluxe Edition」(1966)  The Kinksを含むブックマーク

f:id:crosstalk:20130823184053j:image:left このアルバムは、国内盤が発売されたときにすぐに買っている。イギリスでリリースされたのが1966年の十月末ということらしいから、国内盤は1967年になっての発売かもしれない。もちろんこのアルバムはわたしの愛聴盤で、CDの時代になってもこのヴィニール盤はずっと手元から離さなかった。けっきょく90年代ぐらいになってから手放したのだと思うけれども、けっこうボロボロになっていたはずで、あまり高値では売れなかった記憶がある。それでCDでこのアルバムを買ったのかというとそれがそうではなく、おそらく、Kinks のアルバムでこの「Face to Face」いがいのものはすべて、いちどはCDで購入しているはずなのに、なぜかこの「Face to Face」だけはCDで買っていなかった。‥‥ほんとうに、いったい「なぜ」なのか、わからない。

 それがこんかい、ヴィム・ヴェンダースの映画なんか観てしまったせいで、この「Face to Face」を買ってしまった。そして、聴いた。そうして想像したのは、きっとわたしはじぶんの耳のなかに残っている「Face to Face」を、いいかげんなときにはCDなんかで聴き直したりしないと、無意識に決めていたんじゃないか、などと思ったりする。そしておそらく、何かが、今ならもう「Face to Face」をもういちど聴いてもいいよ、といったんじゃないだろうか。ヴィニール盤を持っていたとはいっても、そんなにしょっちゅう聴いていたわけもなく、こうやって聴くのは四十年とかのじかんを経て、という感じなんじゃないだろうか。‥‥それでそうやってこのCDを聴いていると、今のわたしのなかでちょっと妙なことになっている時間感覚をまた刺激してくるわけで、つまり、「今ならいいよ」というのは、そういうことだったのか、という気がしないでもない。このアルバムのラストの曲がちょうど今かかっているけれども、これがまた「I'll Remember」という曲だったりする。‥‥歌詞を聴いていると、困惑するところもあるし、もちろん感傷的な気分におちいってしまう。

 ‥‥そういう、パーソナルな感傷的な気分は排して聴こうとすれば、それなりに受けとめられるものはある。たとえば当時のポップ界をリードしていたのはもちろんBeatles だけれども、そのBeatles が「Rubber Soul」をリリースしたのが1965年十二月で、「Revolver」は66年の八月となり、「Sgt. Pepper's」は67年の六月ということ。一方、こちらKinks の方は、この「Face to Face」が先に書いたように66年の十月で、つぎの「Something Else by The Kinks」が67年の九月。それでもって、「The Kinks are The Village Green Preservation Society」は68年十一月。それぞれのKinks のアルバムがBeatles のものに対応しているというと語弊があるだろうけれども、なんか、わたしなんかからみると、トラックを周回遅れでトップランナーを追っているランナーをみているような感覚。このころはみんなBeatles のフォロワーだったようなところもあるわけで、まあわたしのこのような暴言も許されるかとは思うのだけれども、Kinks はこの「Face to Face」で(というか、この時期に)、Beatles とはまたちがう立脚点を、ちゃんとみつけているんだと思う。その立脚点から、おそらくは71年の「Muswell Hillbillies」まで、彼ら独自の世界、それは「音」の世界というよりも「詩」の世界といった方がいいような気がするけれども、そういう独自の世界を確立してやってのけるわけだったと思う。

 こういうことは「音」自体とはかけ離れたことばかり書いてしまうのでいやなのだけれども、乱暴ないい方をすれば、そうれまでのポップソングというものが「わたしとあなた」、「彼と彼女」のことを唄うのが主流だった時代に、Kinks は(というかRay Davies は)「この社会でわたしの好きなもの」とか「きらいなもの」のことを唄い、また、「この社会でこんな生き方をしている人」の歌を唄ったりもする。もちろんBeatles も、さきがけて「Nowhere Man」だとか「In My Life」のような曲はやっている。「Revolver」では「Taxman」があって、この「Face to Face」にも収録されているKinks の大ヒット曲「Sunny Afternoon」とかぶっているのだけれども、ここはシングルとして発売された「Sunny Afternoon」の方が、アルバム「Revolver」のリリースにちょっとばかし先行していたので、「Beatles と同じようなこと唄ってやがる」みたいなことはまるで言われないですんだ。‥‥あぶないところだった。

 なんかつまらないことばかり書いているけれども、この「Face to Face」でわたしが好きなのは、ヴィニール盤時代だったらB面のなかごろ、「Fancy」から「Little Miss Queen of Darkness」、そして「You're Looking Fine」あたりへの流れなんだけれども、たとえば「Fancy」では、それは「わたしとあなた」ソングの延長なのだけれども、その「わたし」と「あなた」との境界があいまいになり、「同一」になるみたいなこと、外からみてもそのことはわからないだろうというようなことが唄われていたと思う(歌詞カードがないからよくわからないけれど)。曲調も「Revolver」に先駆けてラーガ調のものであるだろう。‥‥つぎの「Little Miss Queen of Darkness」はわたしのフェイヴァレットなんだけれども、聴いていてもこれはRay Davies がじっさいに見聞きした世界のこと、そこで出会った女性のことを唄っているんじゃないかというような、生々しさというか、切なさがある。とにかく、すっごく、切ない。むかし(高校生の頃)この曲を聴いたとき、わたしもそういう「Little Miss Queen」に出会ってみたい、などと思ったものだけれども、それからずいぶんと長く生きてきて、<たしかにあの人は「Little Miss Queen of Darkness」だったかも>みたいな出合いもあった。のろけているわけではない。切ない。つぎの「You're Looking Fine」は、こんかいこのCDを買って聴いてあらためて惚れ込んだ曲。Nickey Hopkins のピアノがすっばらしいし、「あんた、イカしてるぜ」というたんじゅんなフレーズもまた最高。‥‥いまは、この三曲を連続してリピートして聴いている。ほかの曲もおもしろいのがいっぱいあるんだけれども、もうキリがないのでやめておく。これは、わたしの最愛のポップ・アルバムかもしれない。


 

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■ 2013-08-21(Wed)

 トマトがいっぱいあるので、朝食のオートミールのなかにも入れてみた。‥‥食べられなくはなかったけれども、決しておいしいものではなかった。やはり冒険はよして、バナナとグラノーラとだけで行ってみようと思った。そのかわり、昼食にはトマトをいっぱい使ってミートソースをつくり、ひさしぶりのスパゲッティにした。こちらは、わたしなりにおいしかった。ミートソースをつくりすぎたので、あしたもまたスパゲッティになるだろう。

 財布の中身がこころぼそくなったので、スーパーのとなりのATMに現金を引き出しに行った。ついでにスーパーをぐるっとまわってみたけれども、なにも買わないで帰宅した。‥‥帰宅したあと、ふっと、しゅんかん的な情景がこころに浮かんだりしてきた。その情景でわたしは誰かと対話しているようだったけれども、その対話の内容の糸口もつかめないうちに、そのイメージは手のとどかないところに消滅してしまう。奇妙なことに、その情景というのがどうしても、ついさっきじっさいに体験したことのように思えてしかたがない。その「ついさっき」というじかんは、つまりはATMに現金を引き出しに行っていたじかんと重なってしまう。イメージのなかの時間感覚がおかしい。その、さっき消えていったイメージにつづいているようなイメージが、それからも幾度か、やはりしゅんかん的にあたまのなかに渡来してきてはまたすぐに消えていく。これらのイメージもみんなどれも、「ついさっき」という感覚がつきまとう。‥‥なんだか、わたし自身はここにいるのだけれども、同時にもうひとりのわたしがどこか別のところに存在していて、その「もうひとりのわたし」の体験が、いまここにいるわたしに送られてきている感覚。‥‥どこか、異常があるのだろうか。なにか検査を受けた方がいいのだろうか。とにかく、せんじつの「一過性脳虚血発作」以降、脳の回路がいままでとは違うところに移行しているような気がすることはよくある。たとえばTVのヴァラエティ番組への違和感もそういうことのひとつ、といえるところもある。いろいろなことから引き起こされる「恐怖感」というものも、いぜんよりずっと強くなっているということもある。一過性脳虚血発作は脳硬塞の併発のおそれもあるというからおそろしいのだけれども、医師はわたしの症状ならそんな重大なことになる心配はしなくていいとおっしゃっていたし、一過性脳虚血発作の際のセルフ・テストをやってみても、異常はみられない。日常生活で「おかしい」というところは、そういう「ものの感じ方」という面での違和感だけ。とりあえず、次回の通院のときに相談してみようか。‥‥いやだなあ(でもじつは、わたしは今のこの「感覚異常(?)」というものを、面白がっているところもあるし、さいきんのそういう体験から得られているものもハンパじゃないと思ったりもしているのである。危険なのかな?)。

 映画を一本観て、「まだ注文したCDは届かないのかなあ」と郵便受けの奥に手を差し入れてみると、届いていた届いていた。Kinks の、「Face to Face」の二枚組デラックス・エディションというヤツ。たしか代金をコンビニで支払ったのは8月の9日とか10日ぐらいのことで、オートミールの支払いといっしょにやったはずだったから、オートミールがもう12日に届いていることを考えると、異様に遅いではないか、ということになる。‥‥いやいや、それはしかたがない。だって、イギリスからの送付だもの。この、同じCDの国内盤というのももちろんあるんだけれども、そっちは三千円以上するわけで、同内容のものがイギリス盤なら日本語解説や歌詞カードがないというだけで、送料を入れても千五百円でおつりが来る。つまりは半額以下(‥‥わたしが買っちゃったあと、もうちょっと価格は高くなったようだけれども)。ああ、ようやく「Face to Face」が聴けるんだと思って、CDプレーヤーにDisc1 をぶっこんで、聴きながら寝た。Sweet Dreams?

 

 

[]「真夜中のパーティー」(1970) ウィリアム・フリードキン:監督 「真夜中のパーティー」(1970)  ウィリアム・フリードキン:監督を含むブックマーク

 はじめて観る作品。ウィリアム・フリードキンの監督としての出世作なのかも知れない。ハリウッドがはじめて、ゲイの世界を真正面からとらえた作品としても有名らしい。‥‥観ていれば、「こりゃあ舞台作品から映画への移出だな」と気がつくし、じっさいにもとはオフ・ブロードウェイで評判を取った舞台劇だったようである。時代もまたそういう時代である。そうすると、こいつを映画化に踏み切った製作者ってえらいなあというたんじゅんな感想もあるのだけれども、どうやら、舞台版の原作者マート・クロウリー自身がこの映画化のプロデュースの役割を果たしているらしい。では、はたしてこのマート・クロウリーという人物とは?と調べてみるとこれが面白くって、彼はナタリー・ウッドが「草原の輝き」に出演していたときに彼女のアシスタントとしてやとわれたようで、その後、ナタリー・ウッドによって、この戯曲版「真夜中のパーティー」の執筆時間を保証されたらしい(このあたり、わたしの読み間違いの可能性もあり)。それがオフ・ブロードウェイで大ヒットして千回いじょうの公演を繰り返し、つまりは映画化されるわけだけれども、ここでもひょっとしたら、ナタリー・ウッドの口ききがあったのかも知れない。そこで誰かが、監督にはウィリアム・フリードキンという有能なヤツがいると、これまた口ききした輩がいたんだろうか。‥‥とにかく、脚本を書いたマート・クロウリーは、舞台でも演出は人にやらせていて、そういうことを自分でやってのける種類の人ではなかったようである。そこで、ウィリアム・フリードキンの出番になる。‥‥勝手な想像だけれども、おもっしろいねえ。

 ‥‥さて、肝心の作品の方だけれども、つまりこれって、「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」の変奏曲じゃないですか? それをそれまで表面に出てこなかったゲイの世界に置き換えてやったもんだから、インパクトもショックも大きかったんだろう。ここでその「狙い目」として「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」に目をつけた原作者はたしかに慧眼というか、賞賛されることに異議を唱えることはできないかな。

 観ていると、つまりはゲイの方々の世界というのはやはり独特のところがあって、ふだんは世間からじぶんの本性を隠しているだけに、そういうことを隠さずに語れる世界にはいってみると、ふつうの愛憎関係ではとても口に出さないことまで口にする。これがつまりは、「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」での、「あんたら、そこまで言うのか!?」といういっしゅトンデモ世界と自然にシンクロするわけだと思う。

 ‥‥まるっきし外に出ない、ある部屋のなかだけでの展開というのは苦労も多かっただろうけれども、外に通じているテラス(雨が降ってきたりする)をうまく活かして、こういっちゃなんだけれども、無難な出来だったと思う。‥‥面白いのは、この作品が日本で公開された1972年の「キネマ旬報」のベストテンの結果で、それがこの「真夜中のパーティー」が6位になっていて、同じウィリアム・フリードキン監督の「フレンチ・コネクション」が10位、ということになっている。‥‥「映画」として観たとき、わたしなんかだったらもんだいなく「フレンチ・コネクション」の方がずっと上になる。ちなみに、この年のキネマ旬報ベストテンの、洋画の第一位はピーター・ボグダノヴィッチの「ラスト・ショー」。‥‥まあ、いいけどね。いまのわたしだったら、ぜったいに「フレンチ・コネクション」の方がいいな。

 はたして、ウィリアム・フリードキン監督は、この「真夜中のパーティー」を演出して、何か悟るところがあったんでしょうかね?


 

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■ 2013-08-20(Tue)

 きょうは勤め先でしごとのあと、健康診断があった。胸部のX線撮影や血液検査、心電図検査など、かなり本格的なものだった。いま通院している内科医でもこのあいだ「X線撮影と心電図検査をやっておきましょうか」というはなしがあったのだけれども、勤め先の健康診断でそのあたりもやることを伝えると、「じゃあ、その結果を待つことにしましょう」ということになっている。
 きょうの検査で、即座に結果のわかるものもあるし、いますぐにはわからないものもある。もちろん視力や聴力などはその場でわかるものだかれども、聴力はもんだいない。視力は右が0.3、左が0.7だった。この検査結果はずっと大きな変化はないのだけれども、これにじゃっかんの乱視という症状もあるので、むかしは近視と乱視を矯正するメガネをやっていた。このメガネをながいうちになくしてしまったりこわしてしまったりして、いまでは色つきのサングラスひとつだけが矯正道具になっている。‥‥それが、いまでは老眼という現象も起きてきているわけで、いってみれば近・乱・老の三重苦なわけだけれども、さいわいなことに老眼はたいしたこともなく、裸眼で本を読めなかったりするようなこともなく、つまりは矯正不要である。そうすると、近視の方も乱視の方も、裸眼でめっちゃ不自由を感じるというものでもなく、つまりは映画の字幕はメガネがないとね、というぐらいのものだから、もうこのところはずっと、だいたいはメガネなしですごしている(って、ゆいいつの矯正メガネがレンズに色のついたサングラスなわけだから、いつでもどこでもかけていられるというようなものではない)。それが、このところなんだか、ふつうにメガネがほしいなあ、という気分にもなってきた。こんどパソコンを買い替えるとしても、まだメガネぐらいは買える余裕もあるんじゃないだろうか。メガネがあれば顔のしわを隠せるんじゃないかとか、そういうよけいな色気だって、まだ持っている。‥‥そういうのは「色気」とはいわなくって、つまりは「バカ」というのか。

 朝食はオートミールというのが、いまのわたしの定番になってしまったけれども、わたしのばあい、そのオートミールにはバナナの輪切りとグラノーラが不可欠である。グラノーラはまだたくさんあるけれども、バナナがなくなってしまったので、帰宅したあとに買いに出た。バナナがいちばん安いのはきっと、西のスーパーなんだけれども、火曜日は線路の向こうの北のスーパーでも「びっくり安値」みたいなことをやっているので、ひょっとしたらバナナが劇安だったりして、などと思っていちおう足を運んでみたけれど、バナナは安くなかった。やっぱり西のスーパーでなくっちゃあダメか、ということで西に歩く。
 ‥‥ひとふさ六本で97円。もっと安いときもあるんだけれども、ま、これでいいかと。店内をみてまわると、トマトが六、七個で百円という劇安のものも出ていたので買って帰った。このところスパゲッティをやっていないので、きょうかあしたにでもやってみたい。

 バナナについてだけれども、じつはちょうど一ヶ月ほどまえに、TVでバナナを長持ちさせる保存法というのをやっていたわけで、この番組をぐうぜんみたのがすっごく役に立っている。‥‥バナナというものは、冷蔵庫にぶちこんでいてもすぐに皮に黒い斑点が出てきて、それがあっという間にぜんたいに拡がり、中身もぐちゃぐちゃになってしまうものだったけれども、そのTVでみた保存法を実行すると、けっこういつまでも、冷蔵庫のなかでもまったく黄色いままでいてくれるわけで、「Peel slowly and see.」と、わたしに呼びかけてくれるのである。‥‥保存するまえに、ちょっとした処理がひつようなんだけれども、買って帰ってすぐにその処置を実行した。これで、十日ぐらいは冷蔵庫に放っておいてだいじょうぶ。きっと、もっとながい日にち持つんじゃないだろうか。

 午後から録画してあった映画でも観ようと思い、録画リストをみていたら、いつだったか、ウディ・アレンの作品の特集をまとめてやったときのものが何本も録画されている。ウディ・アレン、ほんとうはキライなんだけれどもなあ、などと思いながら、とりあえずは「マンハッタン」という作品を観はじめた。モノクロ映画で、さいしょのところは「いいじゃない」なんて思って観ていたのだけれども、ウディ・アレン当人が画面に登場して、例によってものっすごく自意識の強い、キザなセリフを語りはじめる。ああ、やっぱりわたしはウディ・アレンという人物、キャラクターがだいっきらいだと、あらためて思う。‥‥このところコントなぞをみて感じるところの嫌悪感とはまたちがう嫌悪感。とても、ぜったいにがまんできなくて、再生をストップして、録画リストのなかに散乱していたウディ・アレンの作品を、ことごとく消去した。‥‥ただ、もうウディ・アレンが出演しなくなった映画ならばがまんできるかも知れないと思って、最新作の「ミッドナイト・イン・パリ」は観てみることにした。‥‥やっぱりがまんできなくなるか、はたして、どうでしょうか。

 

 

[]「ミッドナイト・イン・パリ」(2011) ウディ・アレン:監督 「ミッドナイト・イン・パリ」(2011)  ウディ・アレン:監督を含むブックマーク

 冒頭のパリの風景の、赤と緑を強調したようなフィルター処理はきれいだと思った。

 ‥‥わたし自身、きのうの日記に一方向に進むだけではない「じかん」のことを書いたりはしているのだけれども、それはこの映画で描かれているような「タイムスリップ」のことではないことは、まずはちゃんと書いておかなくてはならない気がする。この映画はそういうことでいえば「SF」なわけで、「空想」の産物。ではそれがどういう「空想」なのか、というあたりがもんだいになるように思うけれども、つまりはいまげんざい、2011年の時点で、「あのころにはこんな有名人がいたよなあ」というところに飛んでいくわけで、そういうところでは「俗」というか「ミーハー」というか、そういうものだと思う。登場する過去の有名人たちというのがまた、大衆の知りえているあたりのことにこびている印象、でもある。気色悪い。ダリやマン・レイが登場するのならばもっと登場すべき、当時のパリを象徴する人たちもいたわけだと思うけれども、そういうことを言い出すのはヤボというものだろう。ただ、ブニュエルに「皆殺しの天使」のアイディアを語るというのは、ブニュエルへの侮蔑でしかないと思った。やっぱり、ウディ・アレンはわたしにはおぞましい。


 

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■ 2013-08-19(Mon)

 ‥‥ひるま、リヴィングに敷いてあるマットの上で横になって天井をみていたら、世界が沈んでいくような感覚になった。単に下の方に沈んでいくのではなく、時間的にも沈んでいく感覚。そういうことは恐ろしいことなどではなく、実に甘美な、やるせないようなひとときだった。時計がとまり、わたしのあたまのなかでは時計は逆回転をはじめる。世界はその相貌を移しかえて行き、いま窓の外から射している陽の光は、じつはずっとずっと過去の光なのだろうと理解する。この部屋の外で起こっているだろうことがらは、わたしがずいぶんとむかしに体験したことを反芻しているのにちがいない。いままで、じかんというものは直線的に一定の速度で前進するばかりのもので、行ったり来たりしてしまうものではないはずだと思って来たのだけれども、それは小学校の理科の時間などにむりやりに、「これが真実」と学ばされたことでしかない。‥‥もしも、「これが真実」といわれるようなことがらを、そのままに受け入れてしまうとしたら、じつはある種の「豊かさ」を、試(ため)してもみないで捨ててしまうことになるのではないのか。わたしも、いままでもったいないことをしてしまったか。っていうか、こういうところをもういちど考えなおしたり、実践しなおすところにこそ、老年というものの意味があるんじゃないだろうか。いやいや、わたしはまだ「老年」などというものではないけれども、その意味はわかった気がするぞ。そこにこそ、世間的な「真実」にしたがって生きていかなくっちゃいけない現役バリバリの人たちと、ふん、「真実」なんてクソくらえ、などと思っちゃっても平気でやっていける人たちとの「差異」があるんだな。きっと。

 朝食にオートミールを食べて、しばらくそのうつわをテーブルの上に置きっぱなしにしてあったら、ニェネントがやって来てテーブルの上にのっかり、ちょっと残っていたオートミールをなめなめしていた。‥‥そうか、ニェネントは牛乳がだいじょうぶなネコだったし、ずっとながいこと、牛乳をあげたりなんかしていなかったわけだ。これからはまた、ちょっと牛乳をあげてもいいだろうな、などと思ったりしたし、そもそも、ニェネントはひょっとしたらオートミールを食べられるのかいな、などとも思ったりした。‥‥きのうの夜はいっしょにまぐろを食べたりしたわけだし、今朝はまたこうやって、おなじオートミールを食べたりするんだったら、ほとんど、「わたしの食事」イコール「ニェネントの食事」みたいになってしまう。‥‥そうなったらうれしいんだけれども。ニェネントといっしょに、おなじものを食べて、いっしょに生きていきたい。

 暑さはいちだんらくしたような気配もあるけれども、湿気が上がってきた気がする。いつもなんだか汗っぽい。TVをみていたら、とつぜんにヴァラエティ番組のスポット映像が流され、おととい舞台で感じた「汚物のなかでウジムシが蠢いている」という感覚がよみがえった。やはり、根底にはおなじものがあったようである。この週末にはまた東京に出て舞台(多少はギャグっぽい)を観る予定はあるんだけれども、はたしてだいじょうぶだろうか。

 

 

[]「CHLOE/クロエ」(2009) アトム・エゴヤン:監督 「CHLOE/クロエ」(2009)  アトム・エゴヤン:監督を含むブックマーク

 きのう観た「テイク・シェルター」もくっきりとした美しいイメージ(映像)をみせてくれた映画だったけれども、この「CHLOE/クロエ」もまた、びしっとしたすばらしい絵をみせてくれたと思う。舞台となったトロントの街の、溶けかけて残った雪がすてきな効果を出していて、この物語の持つ「寒冷度」みたいなものにぴったりだったと思う。演出は、ずいぶんとひさしぶりに観る気のするアトム・エゴヤン。この作品自体は2004年のフランス映画のリメイクらしいのだけれども、やはり脚本がおもしろく、監督としてはその「おもしろさ」をどのように映像的に演出するかというポイントがあったのだろう。

 ‥‥ひとがひとに惹かれる、そこのところの秘密めいたところの、生理的なたんじゅんさと、心理的な複雑さとが、きれいに100分かそこらのなかにおさめられていると思った。タイトルになるクロエという娼婦を演じるのはアマンダ・セイフライドで、目線とかちょっとした表情とかで、相手役といっていいジュリアン・ムーアに果敢な挑戦をしているという印象。

 夫(リーアム・ニーソン)の浮気を疑った妻(ジュリアン・ムーア)は、娼婦であるクロエと契約して、夫を誘惑してもらい、その結果の報告を受けるわけ。しかしクロエはいろいろとひとすじなわではいかないところがあるわけで、そういう三人の(性的な)関係に、もう大学生になる夫婦の息子もまた、ターゲットにならざるをえないところがある。‥‥なんて書くと、ちょっとばかし内容がバレてしまうけれども。

 とにかくはとても美しいスローモーションのシーンがあり、きょう、わたし自身もそういう落下のイメージに囚われていたところもあるし、そのシーンでのアマンダ・セイフライドのすばらしい表情もあって、わたしはたっぷりと堪能した。ラストのジュリアン・ムーアの「髪どめ」のショットまで、映像的な起承転結としてみごとな作品で、もとのオリジナル作品は知らないけれども、ここまで映像的に昇華したんだったら、それがどんなストーリーであっても、もう文句なんかいうすじあいのモノではないだろうと思った。


 

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■ 2013-08-18(Sun)

 きのうの「事件」のこと。‥‥しごとを終えて帰宅して、パソコンの電源を入れてインターネットに接続しようとしたら、これがつながらなかった。おとといLANケーブルを買い替えたばかりだから、とうぜん原因はそのあたりにあるのだろうと推測する。とにかく中古品の店で買った中古のケーブルだから、じつはシールドの内部で断線しそうになっていたわけで、きのうまではなんとかなっていたのが、ケーブルの位置が変わったりしたひょうしに、きょうになってついに断線してしまったんじゃないかと。ケーブルはまた買い直すとして、とにかくはすぐにネットに接続させたかったので、「ひかりTV」接続に使っているLANケーブルをいったんはずして、パソコンの方につないでしまおうと考える。ひかりTVのためのケーブルはパソコンからそんなに離れていないところにあったし、外してみるとちょうどギリギリ、パソコンのジャックまで届く長さだった。‥‥これでネットに接続しようとすると、これがやはりダメだった。「え?そんなバカな」という感じで、ケーブルをひかりTVの方にもどしてTVをつけてみると、やはりひかりTVはみられなかった。この件はいちどケーブルを外してしまっているせいではないかと想像できたけれども、パソコンの方は困る。ケーブルのもんだいではなくって、パソコンの側の、たとえばジャック部分の接続が内部的に切れてしまったとかいうことも考えられる。パソコンを買い直そうとはしているわけだけれども、いますぐに買おうとは思っていなかったわけで、たとえ短い期間でも、パソコンが使えなくなるのは困るなあと思おう。

 じつはわが家にはもう一台、古いパソコンが放置されているわけで、そっちを引っぱり出してきて、ネットに接続してみようと考えた。‥‥ちょっとめんどうな作業を行なって、電源を入れてネットに接続しようとしたら、これもダメ。いったい、どういうことなんだろう。モデムが故障したということなのか。モデムのLED表示は正常で、エラー表示らしいものは出ていない。だから正常に動作しているとはいえないけれども、どうもわけがわからない。では原因は電話線かいな、などと思って、モデムの上に置いてある固定電話を取って耳にあててみると、これが「ツー」という発信音が聴こえてこない。おかしい。どうもこのあたりに原因があるみたい。ためしに持っているケータイに発信してみると、やはり通じていないことがわかった。

 ‥‥電話回線が死んでいるというのはどういうこと? 電話料金を滞納したことなどいちどもないし、わけがわからない。きのうの夜はパソコンでインターネットにも接続させていたし、ひかりTVのトップページも正常にみられたわけだから、わたしが寝ちゃったあとになって、何らかの原因で回線が切れてしまっているようである。これは電話局に連絡しなくてはいけないか、めんどうだなあなどと思い、いちおう、ケータイの側から固定電話に発信してみた。‥‥これが、ちゃんとコール音が鳴った。びっくりした。もういちど固定電話の受話器を耳にあてると、さっきはまるで聴こえなかった発信音がちゃんと聴こえてきた。あれ? 開通したわけか? などと思って、もういちどパソコンからインターネットに接続させると、通常につながった。わけがわからないまま、とにかくはなにもかも元通り。‥‥わからないけれども、昨夜はうっかりしてエアコンと電子レンジをいっしょに使ってしまい、ずいぶんとひさしぶりにブレーカーを落としてしまっていたので、そのことが何かかんけいしていたのかも知れない。とにかく、復旧した。

 ようやく、きょうのこと。さすがにきのう出かけて、ちょっと飲んだりもした翌日なだけに、早朝からのしごとはだるいことはだるかった。日曜なのでしごと量はぐんと少なくって助かったし、あしたはしごとも非番で休みになっているから、ちょっとがんばればいいや、と思って切り抜けた。

 しかし、帰宅したあともけっこうだるく、TVをみていてもまぶたが重くなるのだけれども、「じゃあちょっと寝ようか」とベッドに横になっても、なぜかぜんぜん眠れない。まいにち測っている血圧も、きょうはいままでにない低い値になっている。

 午前中は、図書館から借りている本で、読み続けようか、それともとちゅうでやめて返却してしまおうかと迷っている本、村田沙耶香の「しろいろの街の、その骨の体温の」というのを、またちょっとページをめくったりしたのだけれども、(読み終えもしないで勝手な感想を書くのはよくないのだけれども)文体をふくめてたいていのことがウソっぽく思えてしまうわけで、やっぱり読み続けることができないと判断した。‥‥ほんとうのところは、読んでいて腹が立つぐらいに不愉快だった。

 午後からはちょっと体調も回復し、録画してあった映画を一本観て、そのあとに図書館に本を返却に行った。入り口のところに、「館内のエアコンが故障してご迷惑をおかけしています」との掲示があった。館内に入ると、たしかに空気がじとりと肌にまとわりついてくる暑さがあった。この時期の図書館は夏休みちゅうの高校生の学習ルームになっているわけなのに、高校生かわいそう、と思ったら、さすがに高校生の数も少なかったみたいである。
 わたしはこのところ、じぶんの記憶力というものに大きな疑問を持たざるを得ない状態にあるわけで、そういうことから、こんかいは「記憶力をのばしたい!」という本を借りた(笑)。‥‥いちおうページはめくってみて、内容もちゃんとした書物であることはわたしなりに確認してあるんよ(日本人某有名脳科学者の本なんか読みたくないし)。あと、そういう記憶力テストというわけでもないけれども、チェーホフの作品集なんかも借りてみた。まだ自宅ではブロッホの「夢遊の人々」を読み終わっていないのに。

 帰宅してぼんやりして、きょうは夕食つくる気力はないなあと思って、またまた南のスーパーにお弁当を買いに出た。まぐろのちらし寿司弁当が安くなっていたのと、それとまぐろの刺身(ぶつ切り)のパックが半額になっていたのとを買った。まぐろばっかし。‥‥部屋に戻って、ちらし弁当を開けて食べようとしていると、ほらやっぱり、ニェネントが近寄ってきた。ふふふ、ニェネントくん、あなたにはまぐろの刺身という、ネコのごはんとしてはぜいたく極みないしろものがあるんですよと、刺身のパックを開けて、大きなかたまりをお皿にとってあげた。さいしょはまえ足でちょっかいを出して警戒していたけれども、そのうちに首を横にして、お皿に顔をなでつけるようにしてまぐろにかぶりついてきた。わたしがまぐろのちらし弁当を食べているそのすぐそばで、ニェネントもまぐろを食べている。なんだか、楽しい気分になることができた。‥‥ニェネントはけっこう早くにさいしょのまぐろをぜんぶ食べてしまったので、つぎのまぐろをまたあげる。すごいスピードで、あっというまに食べてしまった。‥‥それではもうひとつ。でも、あんまりぜいたくの味をおぼえてもいけませんから、きょうはここまでですよ、ということにして、残りのまぐろはわたしがいただいた。ちょっと満腹になってしまった。ニェネントだってあれだけ食べれば満腹だろう。

 

 

[]「テイク・シェルター」(2011) ジェフ・ニコルズ:監督 「テイク・シェルター」(2011)  ジェフ・ニコルズ:監督を含むブックマーク

 まったく予備知識なく、ただ番組表をみるとマイケル・シャノンが出演しているようなので、それだけで観た作品だったけれども、興味深い脚本と、それに合わせた演出の作品だった。

 またまたマイケル・シャノンは妄想をつのらせて行くファナティックな主人公をじっとりと演じていて、「まいったなあ」ということになる。こんかいもやはり終末幻想なんだけれども、エンジンオイルのような黄色い粘っこい雨を降らせる、とてつもない嵐が到来するだろうという妄想。いっしょに飼っている犬に襲われる悪夢をみて、室内で飼っていた犬を庭の柵のなかに移して、妻をおどろかせる。まだ六、七歳の娘もいるのだけれども、彼女は耳が不自由で、手話でもってコミュニケートしている。娘の耳の手術ということも家族にとっての課題なんだけれども、そのまえに主人公は、タイトルどおりにシェルターをつくりはじめる。しごとや、いろいろなものを犠牲にしてつくったシェルターだけれども、妻は夫には精神医学的な治療がひつようではないかと思うわけである。主人公の母は主人公が十歳のときに統合失調症で入院し、以降げんざいまで病院で治療生活をおくっているわけで、主人公にはそういうことが自分に遺伝しているとすることを拒否したいところがある。

 ‥‥ある夜、げんじつの嵐が彼らの住居のあたりを襲い、主人公のリードで家族はシェルターに避難する。‥‥一夜が明け、妻は外界はいつもの平穏さを取り戻していると確信し、夫にシェルターのドアを開けさせる。ここで妻が夫を押し切って、じぶんでドアを開けるのではなく、夫を説得して、「あなたが開けなければ意味がない」とするところは、ちょっとした感動モノ。なるほどなあ〜、などと思うわけである。この妻を演じている役者さんはジェシカ・チャスティンという女優さんで、わたしはまるで知らない女優さんだったけれども、この作品でのマイケル・シャノンとの相性はぴったりの熱演、という印象。

 (ここからはラストのおちまで書いちゃうけれども)平穏を取り戻したかにみえる家族は、例年のようにビーチへの旅行に出るわけで、ラストにはそんなビーチで家族三人が遊んでいる。ここで娘が水平線の方を指さして、「嵐」と手話で語る。水平線の彼方をみつめる妻の目線の先には、嵐を予感させる異様な雲がわきあがっている。娘を抱き上げてたたずむ夫に対して、日本語字幕では「分かったわ」と答える。そこで映画は終わる。

 ラストの嵐をはらんだ雲が、はたしてげんじつのものなのか、夫の主張に感染した(?)妻の妄想なのかはわからないし、それが妄想だとすると娘もまたその妄想に感染しているのかも知れない。おたがいに愛し合う家族というものはそういうものなのだろう。そのラストでは、いままでその嵐を恐れていたところの夫は、妻の認識した嵐を彼自身も認識したかどうかはわからないような描かれ方になっていた。そう、ラストの妻のことば、聞き取れるかぎりでは「OK.」といっていたようだったけれども、「分かったわ」とした日本語字幕はちょっと踏み込みすぎかなあ、とは思った。「OK.」ということばに含まれるところのものは、たしかに翻訳はしにくいものだろうけれども、あそこで妻は「OK.」といったのだと思うと、じぃんと来るところもあるわけである。

 ‥‥映画表現のなかの、主観/客観のしきいをあいまいにすることで、このラストがどうにでも取れるように演出されているのがいい。また、主人公の夫がつくるシェルターが、「そんなもんで、世界の終末というときにどれだけ耐えられると思ってるンよ」というような、なさけないシェルターだというのもいい。‥‥大震災以降、こういう作品の受けとめられ方も変わってしまっているかもしれないけれども、はたして、じぶんのまわりで「世界の終末の日が近い!」と叫ぶ人物がいたとしても、「ひょっとしたら」などとその人物の言うことにしたがったりはしないだろう。わたしはそれがヒューマニズムだと思っている。


 

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■ 2013-08-17(Sat)

 きょうはまた、東京へ行く。きょうは浅草のアサヒ・アート・スクエアでのイヴェントで、浅草へ行くのもずいぶんに久しぶりのことになる。この日記で検索してみると、さいごに浅草に行ったのは2010年の夏のこと。きょう行く「吾妻橋ダンスクロッシング」もむかしはずいぶんと通ったものだったけれども、これも検索するとさいごに行ったのは2009年の9月だったことがわかる。‥‥三年とか、四年ぶりのことになるわけだ。

 じつは、しごとを終えて出かけるまえに、ちょっとした騒動がもちあがっているのだけれども、そのことをちゃんと書いていると、きょうの日記は浅草詣でのこととあわせて大長編になってしまうので、その騒動についてはあしたになってからあらためてちゃんと書くことにした。まあわたしがひとりで大さわぎしていただけ(じっさいには声など出していない)のことだけれども、なかなかたいへんだったのである。

 とにかくはその(あした書く予定の)さわぎも一段落して、けっこうタイムリミットぎりぎりで家を出る。冷やした紅茶など持って出るのを忘れたので、ターミナル駅のKIOSKでペットボトルを買う。電車のなかは、ものすごく田舎くさい格好のおじさん(ほとんど下着姿のおじさんもいる)、おばさんたち、そしてこれから東京へでも行くらしい、東京のコなんかよりもおしゃれな感じの女のコ、などがいっしょの車両に同乗していて、いかにも茨城県だという感覚になる。わたしはといえば、青のサングラス(度付きのメガネはこれだけになってしまっているので、ダテでかけているだけのものではない)をかけて、この暑いのに黒のジャケットを着込んで、「東京のオヤジよりもおしゃれな、茨城のオヤジ」を目指したりしているみたいだけれども、ただ暑苦しいだけのことだろう。

 きょうは新宿方面まで乗らずに、赤羽駅から上野行きに乗りかえ、上野から地下鉄で浅草へ移動する。赤羽から上野までのあいだ、車窓からみえる沿線風景が、なんだか新鮮だった(古い街並ばかりなのだけれども)。浅草で降り、吾妻橋をわたろうとすると、そのアサヒ・アート・スクエアの建物のすぐ左にスカイツリーがでっかく建っていて、ちょっとびっくりした。こんな情景も知らないぐらいに、浅草からは足が遠のいていたわけだ。

 ちょうど、アサヒ・アート・スクエアの一階の外のところで、受付というのか、チケットを確認して入場順を決定するのがはじまっていたようで、手続きをすませると、こうやって会うのもものすごくひさしぶりになるGさんのお姿がすぐそばにあったので、あいさつをする。やはりおひさしぶりのHさんともお会いして、ちょっとだけ三人で会話する。「スカイツリーがあんなところに見えるなんて知らなかった」というと、Hさんに「そんなに浅草に来てないの?」とおどろかれる。‥‥開場まで三十分ちかくある。まだ昼食はすませていないのだけれども、ちゃんとした店で食事するにはじかんが足りないだろうし、牛丼チェーン店やハンバーガーショップで食べるよりはと思って、コンビニでおにぎり弁当を買い、隅田川沿いの遊歩道まで降りて行って、そこにすわって弁当をパクついた。隅田川には、クルーザー船みたいなのも上って来たりするのもみえた。なんか、「八月の濡れた砂」とか思い出してしまった。

 開場時間になってすぐそばの会場にもどると、やっぱりおひさしぶりのIさんとかのお姿もみえて、あいさつした。エレヴェーターで会場に入り、「こんなところかな」という場所を確保したら、Iさんがそばに来ていて、わたしの確保した席のうしろの席がいいから、ちょっとモノを置いといて、とおっしゃる。その席にIさんからあずかった荷物を置くと、そっちの席の方がいいように思えて、「あ、こっちの席、いいね」などというと、「じゃあとなりに来れば」とかいうことだったので、もうひとつ空いていたそのとなりの席に、わたしの荷物も移動させた。ふ、Iさんと並んで観るんだあ、と。

 開演まえの場内は蛍光ライトがぐるぐる回ったりしていて、「いやあ、さすがにトウキョウの夜!(まだ夜ではないが)」という感じ。開演まえに、Chim↑Pom のインスタレーションなどを観ていたら、Bさんがそばにいて(そうそう、Bさんには「来たよー、先日はありがとねー」と、あいさつはしてある)、「休憩のときには(このインスタレーション)、がらっと変わってるからネ」とおしえていただいた。‥‥そんなことしているうちに開演。感想は下に。

 ‥‥とりあえず、終演。GさんやIさんなど、たいていの方はこのあとの夜の部「DISC2」もご覧になるわけで、ここで帰っちゃうのはわたしぐらいのもの。それでも皆さん、その夜の部の受付開始までの一時間弱はそれぞれじかんをつぶさなくっちゃならないわけで、皆さんがそのあいだお茶するというので、そこだけでも皆さんとごいっしょさせていただくことにした。GさんとIさんと、まえに何度もお会いしたこともある批評家のJさん、そして初対面(やはりどこかでお目にかかったことがある印象も)のKさんとの五人で、しばしのティータイムとは相成りました。‥‥さっきの舞台の感想だとか、それからJさんへの質問タイムみたいな感覚での「現代日本演劇の裏面」のようなお話を聴く。ふふ、すっごく、おもしろいお話だった(だって、どんなメディアにも書けないようなお話ではあるし)。

 夜の部の受付時間も近づいて、一同は店を出る。アートスクエアのまえでのお別れのとき、Gさんがわたしに握手して下さった。「みんなで飲んで語ったむかしがなつかしいのよ」といわれていた。そう、ひょっとしたらきょうは、そんなことから四年ぶりぐらいになる日。わたしも、ちょっと胸が熱くなった。‥‥ちょっと書いておけば、コンテンポラリー・ダンスというものが、あんなにも失速するようなことがなければ、まだまだそういうむかしの顔ぶれで、飲んでしゃべってしていたことだろうにね。きょうのイヴェントを十年間続けられたBさんも、お疲れさまでした。まあ、感傷的な気分でいえば、そりゃあたしかに、またむかしの顔ぶれで飲んでしゃべってしたいですね。

 ‥‥わたしはひとり、帰路に。なんとなく飲み足りない気分(って、ぜんぜん飲んでない)なので、上野の駅で降りて、ちょっとひとりで飲んでみようということになる。ただ、あしたはしごともあるので、こないだみたいに朝まで飲んだりはできっこない。てきとうなところで引き上げなくっちゃならないから、きょうは上野で飲むのもいいだろうと。上野から御徒町方面へ歩き、「ああ、ここはまえに付き合っていたコと来た店だなあ」とか思い出したりして、「入ってみようか」みたいにも思ったけど、やっぱりやめた。けっきょく、いつも上野で飲む樽酒の店「T」のカウンター席で飲む。樽酒はやっぱりおいしいし、カツオの刺身も美味だった。‥‥しかし、わたしの並びにすわっているひとり客の人たちって、みんなケータイだとかiPhone だとかとつきっきりで飲んでるのね。そんなのって、まるで電車のなかみたいだし、そういう飲み方っておもしろいんかしらね、などとは思ったりする。

 てきとうなところで切り上げて、ちょっと歩けば上野駅だから、上野始発の電車に乗って帰宅する。自宅駅で下車すると、この夜は近所の花火大会の夜だった。家まで歩いているあいだに、低い空に花火がいっせいに花咲き、破裂音が轟いてきた。そしてどうやら、それがこの夜の花火大会のフィナーレだったようである。

 部屋に帰り、和室でごろりとしていたニェネントを抱き上げて「今、帰ったよー」ってやって、けっこう空っぽになっていたニェネントのお皿にネコメシを出してあげ、ついでに卵黄も割ってあげて、わたしはさっさと寝た。

 

 

[]「吾妻橋ダンスクロッシングファイナル!! DISC1」桜井圭介:キュレーション @浅草 アサヒ・アート・スクエア 「吾妻橋ダンスクロッシングファイナル!! DISC1」桜井圭介:キュレーション @浅草 アサヒ・アート・スクエアを含むブックマーク

 ひとつわかったこと。さいきん、TVをみていて気分悪くなるというか、違和感を感じてしまうことがよくあるわけで、そのことはこの日記にも書いているわけだけれども、そういうこと、じっさいの舞台を観ていても起きることがわかった。‥‥やはりコント系の舞台といってしまうとまだまだ短絡記述になりそうだけれども、とにかくはじぶんが興の乗らないモノを観ているとき、それがまるで汚物のなかでうごめくウジムシ(きたない描写で失礼!)のような感覚で網膜に映り、正視することが耐えられなくなる思いになるのである。どこの誰だったとかいうことは書かないけれども、複数回、「もう耐えられない」という思いで視線を舞台からそらせた。ほんとうは中座して、トイレででも休憩をとりたいところだったのだけれども、わたしのすわっていた席は、中座するのがむずかしい場所だった。

 しょっぱなは安野太郎という方の、「ゾンビ音楽」というもの。コンピューター制御による音楽なわけだけれども、四本の木管楽器にコンプレッサーで空気を送って音を出させ、その弁の部分をコンピューターで動かせて音を出す。そもそもの、コンプレッサーからの排気で出される音こそが、めちゃユニークというか、人力のブレスでは不可能な均一性がある。基本はこの音の魅力なんだろうなあと思った。ショップで彼のCDを売っているということで、「買おうかな」と思ったのだけれども、フルCDで高かったので買うのをやめた。シングルCDとかがあったら買っただろうに。

 前半で印象に残ったのは、「ダンシーズ」の舞台。「ダンシーズ」とは「大橋可也&ダンサーズ」の男性ダンサーによる三人組。わかんないけれども尾崎豊のライヴ音源みたいなのをバックに、バランスをつくりながらもそのバランスがくずれていく、そのくずれるのをくいとめる、というようなところをユニットでみせてくれた。それはどこかで、「男らしさ」もまたくずれていく世界なのか、みたいな印象にもなった。

 ひさしぶりに観たKATHYはふたりになっていたけれども、思いがけずも舞台的な展開をみせてくれた。捩子ぴじん氏は「稲川淳二」みたいなホラー体験談。いかにもこの「ダンスクロッシング」らしいやり方だったろう。わたしは霊感がないわけでもないので、さいごの写真の映写は「やめてくれ」と思ったけれど、わたしの目にはどうということのない写真だったのでほっとした。

 後半の、「快快」から「Abe"M"ARIA」への流れは強烈だった。これもひさしぶりに観ることになるAbe"M"ARIAさんが、まったくむかしと変わらない元気なステージを観せて下さったのには感服したし、多くのものを受け取らせていただいた。感謝。


 

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■ 2013-08-16(Fri)

 あさ起きて、いつものあさのようにキッチンへ立って、冷蔵庫から冷たい紅茶をカップに取る。冷蔵庫のそばに置いてあるニェネント用の皿をみると、きのうのせてあったまぐろの骨つき肉塊(って、ほとんどは骨だったけれども)が消えている。「どうしたんだろう」と思ったら、和室への入り口あたりの床にころがっていた。「ああ、ニェネントが動かしたわけか。ちょっとは食べたのかな?」と思って近寄ると、和室からニェネントが飛び出してきて、その骨をけっとばすようにして移動させた。「これはわたしのものだから取らないでよ」とでもいうつもりなんだろうか。そういう野性のところをみせてくれたのがうれしくなる。骨についていた肉はかじりとったのかなめとったのか、けっこうまっ白な骨になってしまっている。‥‥まだ冷凍庫にいっぱい凍らせてあるから、そのうちに解凍してまたあげましょうね。そのときは、わたしもいっしょにまぐろを食べましょう。

 ニェネントは和室にいることが多い。わたしもまた和室にいるときにはわたしの右どなりにすわっていたり、わたしのうしろでごろっと横になっていたりする。わたしのことをじゃまだと思うと、そういうときにはリヴィングの方に行ってしまうけれども、きょうもわたしのそばで丸くなっている。わたしが和室から移動しようとしてニェネントがわたしのうしろにいると、わたしはニェネントをまたいで行くことになるけれども、そのまたぐときに、ニェネントはわたしの足にまえ足をまわして抱きついてきたりもするし、腱のあたりにとつぜんかみついてきたりもする。かみついてくるのは攻撃心のあらわれではなく、抱きついてくるのとおなじに愛情表現みたいなものだとわたしは解釈しているけれども(あまがみでもあるし)、いくら「あまがみ」でも、腱のあたりというのはけっこう敏感なので、「いてえ!」ということになる。そういうことをやられるので、わたしもおかえしに、足をおろすのにわざとニェネントのしっぽを踏み付けるようにしてやったりする。ニェネントも、「いてえ!」と声を出す。ふん、愛情表現ですよ! ちゃんと手加減しているではないですか。

 まだ、TVをみていると、きゅうに画面が気もちわるく感じられるときがある。だいたいがヴァラエティ番組をみているときにおこるようで、まえにも書いた記憶があるけれども、スタジオ内の原色を配したセットの美術の非現実感と、そこに闖入してくるところの、たいていは醜い顔をした(失礼!)コメディアンとの対比のせいというか、そういうものが同一空間にあらわれてくるところにわたしの現実認識が追いつけないのではないかと思ったりする。しかし、はっきりとしたわけはわからない。

 きょうは、映画をふたつ観た。

 

 

[]「中国は近い」(1967) マルコ・ベロッキオ:監督 「中国は近い」(1967)  マルコ・ベロッキオ:監督を含むブックマーク

 マルコ・ベロッキオの、監督第二作ということ。原題は「La Cina e vicina」というもので、わたしはイタリア語などわかるはずもないけれど、「近い」を意味する「vicina」と、「中国」の「Cina」とが重なって、ちょっとしたジョークにもなっているような。

 ‥‥製作年度からいっても、そのタイトルからいっても、かなり政治的な内容が予測されるわけだけれども、観た感じはこの時代のイタリアの政治状況の戯画、というふんいき。主人公はカソリックの名門(?)貴族の家長なんだけれども、当選すれば教育委員になれるからとかなんとかいわれて、イタリア社会党から選挙に立候補する。え? カソリックで貴族なのに? という感じなんだけれども、気になって調べてみたら、この時代の前後、イタリアはキリスト教民主主義、民主社会党、共和党、そして社会党とでもって、中道左派連立政権を組んでいたことがわかる。‥‥終盤で、この主人公が選挙演説会でぶつ演説でもって、「わたしはたいていの政党の党員に籍を置いてきたわけで、まあ共産党に籍を置いたのはまちがえていただろうけれども、つまりはげんざいの中道左派政権の、ありとあらゆるところと通底するところを持っている」みたいなこというわけで、このあたりにまさに、この映画のなかの中道左派連立政権批判みたいなところも読み取れるんだろう。

 ‥‥さきに書いたように、その時代からもタイトルからも、まさにゴダールの「中国女」みたいに、映画として政治的というか、毛沢東主義へのあれこれの言及も期待されるわけだけれども、主人公の弟というのがまさにこの毛沢東主義者で、冒頭からそういった政治的言及の語り口で「正しいセックス」について同志に語ったりするシーンもあるわけで、やっぱり戯画化されているわけではある。かなり放埒でめちゃくちゃなその姉(けっこうイイ歳である)が未婚のまま妊娠してしまったとわかったとき、この弟は「姉は処女だと信じていた」とぬかすようなヤツだから、彼は童貞なのかも知れないな。‥‥とにかく、ゴダールとはスタンスはちがう(まあ「中国女」よりもあとの作品だし)。あくまでも戯画化するだけで、「じゃあ未来は?」と問うと、それは終盤の(その選挙演説会場での)イヌ・ネコを使ったテロリズムの先のことはわからない。

 冒頭のベッドのなかの男女からの展開とか、カメラ・アイとして見どころはあると思うけれども、ゴダールのような政治性を映画に持たせることは拒否しているわけだし、そういうことはつまりは、ネオレアリスモからも距離があるわけである。ここで観るかぎりのマルコ・ベロッキオは、たしかに政治を題材にしてしまってはいるけれども、けっきょくは批評意識旺盛な「娯楽作品」にとどまり、のちの「夜よ、こんにちは」のようなインパクトをその作品のなかに産み出すには、まだ30年以上の月日がひつようなわけだったんだろう。


 

[]「さすらい」(1976) ヴィム・ヴェンダース:監督 「さすらい」(1976)  ヴィム・ヴェンダース:監督を含むブックマーク

 はじめて観た。ただ移動していくだけのたいていの映像はすばらしいのだけれども(野グソとか立ちションとかは観たくもなかったが)、ごっちゃごちゃと出演者が語ったり繰り拡げてしまったりすることがらの、なんという青臭さ。‥‥いったいなぜ、登場人物のひとりロベルトは、アリバイ工作のごとくに幼児とかの言語を研究している学者だったりしてしまうのか。もうひとりのブルーノだって、なんでみょうな映画論をぶったりするのか(いいんだけれども、演出がナマすぎるだろう)。けっこうバカバカしくって、「こういうところにヴェンダースのイヤなところがあるわけだ」と納得した。

 ヴェンダースといえば、どんな音楽を使うか、だけれども、まず車内から聴こえてくるのはChris Montez の66年のヒット曲「The More I See You」。‥‥なんという、趣味の悪さ。この人、ほんとうはどんな音楽がいいと思ってるんだろう? まあこの時代のChris Montez ぐらい趣味の悪い音楽はほかにないと、わたしは思っている。このあとに、日本では「愛の聖書」という気色悪い曲がヒットしているアーティストだから、あるていど年輩の方ならこのアーティストのことをご存知だろう。何かの小説だったか映画だったかで、「地上から抹殺してしまいたい音」として紹介されていたのがこのChris Montez で、わたしも、その小説だか映画が何だったか記憶していないけれども、そこのところにはハゲしく同意したわけである。
 ラスト近く、別れたブルーノとロベルトが、ちょっとだけクロスするシーンのバックで流れていたのは、Roger Miller の「King Of The Road」。この曲はわたしがちょうど洋楽というものを聴きはじめたころにヒットしていた曲で、わたしのあたまにはこびりついていたわけで、その後かえりみられるような曲でもなかっただろうからほんとうにひさしぶりに耳にして、なつかしいといえばなつかしい。この曲のタイトルこそがこの映画のアメリカ公開時のアメリカでのタイトルになったそうだし、まあ内容にマッチしているとはいえるんかもしれない。‥‥いま調べたら、Joe Strummer がライヴでこの曲をやったりもしていたらしいけれども、ユルい曲だといえば、とてつもなくユルい。ヴェンダースって、ほんとうはどんな音楽がいいって思ってるんだろう?


 

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■ 2013-08-15(Thu)

 なんだかずいぶんとひさしぶりに、しごとに出た。いちおう、きのうの時点で「ご迷惑をおかけしました。あしたから出勤いたします」とは連絡を入れてある。しごと場のドアをあけると、「だいじょうぶですかあ?」と、声をかけられる。ありがたいことである。「いやあ、熱中症でしたよ」みたいな返答をする。まあ、ほんとうに熱中症、だったのかも知れない。
 移動した倉庫の作業場の入り口のそばに、白い百合の花が咲いていた。きょうも、きのうとおなじような夏らしい天候。思っていたよりもしごと量も多かったけれど、わたしが担当しているのはもっぱら冷蔵の品だとか冷凍のもの。涼しいといえば涼しいのである。

 しごとがいちだんらくして外をみていると、犬をつれて散歩している人のすがたがみえた。短パンに白いシャツすがたのおじさん。‥‥犬がとちゅうでマーキングしようと立ちどまり、先を歩いていた飼い主さんは、「おっとっとっとっと」と引き戻される。「しょうがないなあ」と、立ちどまって犬を見つめている。みていて、わたしもニェネントを連れて散歩とかしたくなった。そんなことできないことはもう証明済みだけれども。

 帰宅して朝食。きょうからは、あたらしいオートミールである。まえのオートミールの缶は保存に使えるので、まずはその空になった缶をあたらしいオートミールで満杯にして、残りは、このために買っておいた保存用のビニール袋に移す。袋はすぐにいっぱいになってしまい、けっきょくふた袋の保存分ができた。このほかに、まだ封を切っていない2.26kgの袋もまるごとひとつ残っている。
 あたらしいオートミールはまえのより平べったく粒も大きく、より茶色がかった色をしている。‥‥鍋にとって水を加え、しばらく火にかける。火をとめたあとミルクを加え、ふたをして五分ほど蒸らす。これに輪切りにしたバナナを足して、グラノーラをふりまいて食べる。‥‥おいしい。きのうまでのオートミールはもんだいにならない。さすがこの分野では有名なメーカーの品である。きのうまでのオートミールは、煮たあとにどろどろになってしまった印象もあったけれども、きょうのものは型くずれせずにサラッとしている。ミルクとの相性もいいし、おかげでグラノーラの分量もずっと少ないままに食べきってしまった。しょうじき、きのうまでのオートミールの味には飽いてしまっていたところもあったけれども、これはほんとうにおいしく感じる。たくさん買ってしまったあとだけに、ちょっと安心して、うれしくもなってしまった。これからは、まいあさオートミール(いままでもそうだったけれども)。

 それでちょっと調子に乗ってしまったのか、部屋を歩いていてLANケーブルに足をひっかけてしまい、接続が切れてしまった。いぜんから接続の様子のおかしいところはあったのだけれども、これでかんぜんに切れてしまったみたい。おそらくはコネクト部の付け根の内部で接続が切れたんだろう。修理不能だと思う。さっそく、西の方にある中古ハード製品をあつかっている店に買いに行くことにした。TVやDVDレコーダーを買った店である。きっと、安いケーブルがあるにちがいない。
 むかしはLANケーブルなんか使わないで、ぜいたくにも無線LANを使っていたわけだけれども、これは二年ほどまえにこわれてしまった。寿命はみじかかった。そのあとはLANケーブルを室内に引き回して接続しているわけである。いままで5メートルのものを使っていたけれども、5メートルではちょっとたりない。もうちょっと長いのがほしい。きっと新品で買うと千円いじょうするだろう。

 その店までは歩いて二十分ぐらいかかるので、この夏の季節にはちょっとつらい。でも、店に着いて探してみると、しっかりしたケーブルでおそらくは10メートルぐらいありそうなのが300円で売っていた。これで決まり。帰り道にスーパーに寄ったりして、またまぐろ肉のぶち込みパック200円というのとか、買って帰った。ニェネントもまぐろ肉はよろこぶだろう。わたしだって食べる。

 帰宅して、まずはLANケーブルを接続。無問題。いい買い物をした。つぎに、まぐろ肉をすこしパックから出して、解体してみる。‥‥すっごい、ぶあつい骨がはさまっている。けっこう骨から肉はこそげ取ったかれども、まだ骨には肉がくっついている。こういうの、ニェネントにあげてみたらどうするんだろう。骨にしゃぶりついて、肉をかじり取るんだろうか。そんな野性っぽいニェネントをみてみたいと思い、ニェネントを呼び寄せてみた。‥‥呼び寄せるといっても、ニェネント用のお皿を「チン、チン」と叩いたりしてやれば、寄ってくるのである。寄ってきたニェネントに、「どう? こういうの、食べる?」と、肉つきの骨を差し出してみる。‥‥近寄って来て、「クン、クン」とにおいを嗅いでいたニェネント、ちょっとばかしまえ足でちょっかい出してこようとはするけれども、それいじょう近寄ってこようとしない。警戒している感じ。しばらくそのまま皿に置いておいて、様子をみてみようと。

 わたしは昼食の焼きうどんに、そのまぐろ肉を入れていただいた。すっごく、おいしかった。カレーにしてもおいしいんだよね。こんどまた、やってみよう。

 午後からは、たいしたこともなし。平和ないちにちだったなあ、などと思ったら、きょうは68年まえの終戦の日、なのだった。


 

[]「硫黄島」(1973) ???:監督 「硫黄島」(1973)  ???:監督を含むブックマーク

 きのう観た「海ゆかば」のまえのとしに、同じように米軍海兵隊所蔵のフィルムを編集してつくられた作品。だから同じように監督名などの表記はない。

 もともとのフィルムが硫黄島上陸部隊の、その後衛部隊からの撮影なわけで、リアルな戦闘シーンなどというものはない。ただ、日本兵がひそんでいる可能性のある洞窟に火炎放射したり、爆破したりする映像ばかりがしばらくつづく。これがまず、日本軍に強制的に空港建設作業をやらされていた朝鮮人労働者たちが、さいしょに投降してくる。彼らの笑顔をみると、まずはホッとするところもある。‥‥米軍上陸から二十日いじょうがすぎ、ようやく、俘虜となった日本軍兵士らのすがたもとらえられるようになる。米軍兵士にたばこをもらい、そのときに卑屈にではなく頭を下げる日本の兵士のすがたをみて、ちょっと気もちが熱くなった。「鬼畜米英」などというスローガンに洗脳されているわけでもなく、ちゃんと、人としてのあたりまえの感情を持ってるじゃないかと想像した。

 ナレーションはときに感傷的で、音楽はもっとひどいという印象。全編に銃声などのうそっぽい効果音がつけられているけれども、つけないわけにいかなかっただろうか。


 

[]「男性・女性」(1966) ジャン=リュック・ゴダール:監督 「男性・女性」(1966)  ジャン=リュック・ゴダール:監督を含むブックマーク

 DVDにダビングするついでに、なんとなく眺めていた。‥‥ジャン・ピエール・レオは、カンガルーみたいな顔をしているなあと思った。シャンタル・ゴヤは、ウサギとかリスとか、あのあたりのげっ歯類な顔だった。観ていたらシャンタル・ゴヤを聴きたくなってしまい、CDを探したら意外とかんたんに見つかったので、あとはずっと、シャンタル・ゴヤの歌を聴きながら、暗くなるまでのじかんを過ごした。

 いちおう書いておくけれども、わたしはこの「男性・女性」のまえから、シャンタル・ゴヤのことは知っていた。この作品のなかで「わたし、日本で六位よ!」と彼女がいうのはちゃんと根拠があって(みんな、「ウソっぱち」だと思ってるだろうが)、当時のラジオのヒットパレード番組で、彼女の日本デビュー曲の「乙女の願い」は、たしかにそのあたりまでヒットしたのである。じっさいにわたしは彼女の名まえはしっかりと記憶していた。‥‥これはわたしの中学生時代のこと。それが、わたしも高校生になって色気づいたあと、この「男性・女性」が公開されたわけ。「あ、シャンタル・ゴヤだ!」という意識と、もう「気狂いピエロ」とかで知っていたゴダールの作品だという意識とで、「これはぜったいに観なくっちゃ」という思いで、当時の有楽町の地下の映画館へ通ったわけであります。高校三年生の、秋のことだったと記憶しているけれども、映画の内容もちょうどそのくらいの世代にひびきやすいものだったというのか、それでわたしはゴダールに夢中になってしまった。‥‥しかし、シャンタル・ゴヤのうわさは、それ以降聴くことはなかった。

 あんまりちゃんと観ていたわけではないけれども、映画として「おばかさん」あつかいされていた女の子がかわいそうだなあ、なんて思ってしまったりした。


 

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■ 2013-08-14(Wed)

 ちゃんとストーリーのある、映画のような夢をみた。わたしの知らない和服のすてきな女性も出てきた。こんな夢は近ごろみた記憶もない。わたしの夢ではなく、知らない他人の夢をみていたのかも知れない。夢の内容もしばらくはおぼえていたんだけれども、やはり、フッと思い出せなくなってしまった。それでも、女性の着ていた着物の、その柄と色はまだおぼえている。

 きょうはしごとはもともと非番で休み。それでもこれで三連休にしてしまった。ゆっくりと起きてから、朝食のオートミールを食べる。まえに買ってあった分のオートミールはきょうでおしまい。あしたからはあたらしいオートミールになる。いったいどんな味なんだろう。‥‥って、オートミールはオートミールの味なんだけれども。TVで「あまちゃん」をみて、九時をすぎたあたりでドラッグストアも開店するので買い物に出た。スカッと晴天で、セミが鳴いている。湿気が低いのだろう、空気がきもちよく、こういう夏だったら、「好きな季節」として「夏」を選んでもいい、と思った。ちょっと、小学生のころの、朝のラジオ体操の会場へ歩いたときの情景が思い出されたりしたけれども、これもまた、他人の記憶だったかも知れない。
 ドラッグストアでは「うどん玉」や「もやし」が賞味期限で半額で売っていたので、「よし、しばらくは焼きうどんにしよう」と決めて、買って帰った。‥‥塩分の取りすぎに注意するように医師にもいわれているし、自分でも塩気の強いものは受けつけなくなっているところもあって、むかしよくつくって食べていた「焼きそば」には、すっかりごぶさたしてしまっている。いまでは代わりに「焼きうどん」が好物。‥‥かつおぶしなんかふりかけて、そのかつおぶしがクルクル踊っているあいだに食べてやるのが最高。

 TVでは甲子園の高校野球をやっていた。しばらくみていたら、それまでヒットの出ていなかった四番打者がフェンスに届く快打をはなち、チームの追加点をあげた。きのう観た「桐島、部活やめるってよ」の野球部キャプテンのことを思い出し、あの四番打者は学校ではどんなにしてるんだろう、どんなこと考えて野球やってるんだろうなんて、想像しようとしてしまった。やっぱ、ドラフトまでは現役をつづけたりして。

f:id:crosstalk:20130815102556j:image:left だいぶ、考え方だとか、ものの見え方だとか、健全になってきたような気がする。そのぶん、ものごとにつまらない反応しかしなくなったような気もしてしまう。ひさびさにニェネントを組みしいていぢめたりして、「最近は日記にニェネントのフォトをアップしてもいないなあ」ということで、いぢめられているニェネントのフォトを撮ったりしてみた。録画してあった映画をまた二本観て、「共喰い」を読み終えた。


 

[]「海ゆかば」(1974) ???:監督 「海ゆかば」(1974)  ???:監督を含むブックマーク

 アメリカ軍海兵隊指令部が撮影した太平洋戦争の映像を、日本で処理編集して劇場公開映画にしたものらしい。データをみると、ジョン・フォードが撮影総指揮をとったみたいに書いてあるけれども、本編をみれば、それはミッドウェイ海戦の部分だけだったことは明白。検索するとこの作品の監督をジョン・フォードにしちゃってるところまであって、おどろかされてしまう。‥‥って、そもそもがこの作品、観たかぎりではいったい誰がこの作品の責任を請け負っているのか、まるでわからないところはある。冒頭のクレジットに「監督」の表記がないのは、撮影されたフィルム自体の責任は負いかねる、っつうことなんだろうと想像するけれども、じゃあどういうところを基準にして作品にしたのだろうか、ということは、誰かがこの作品の基準を請け負う役は担わなくっちゃいけないのではないのか、ということ。

 たとえば、サイパン島での戦闘の部分のナレーションで、「サイパン島は占領してみるとつまらない島だった」と語られるわけだけれども、え、それって、いったい誰が「つまらない」といっているのか?なんていう疑問も出てくる。スクリプトの人が勝手に書いたものを、そのまま取り入れたと? ‥‥そんなことありえないし、いったいどうなっているのか。いちおう、クレジットには「製作」として八人ほどの方々の名が書かれていたけれども、彼ら八人の合議でつくられたものなんだろうか。なんだか、こういうあたりに、なんというのか、日米関係のわけのわからないところが噴出しているような気もしてしまうのだけれども、考えすぎだろうか。

 ‥‥映像は、驚異です。ハリウッドの戦争映画とかの映像がいかにうそっぱちなことか、よくわかる。げんじつはランダムで、なんというのか、めちゃくちゃ、といういい方もできる。トータルにみれば、あらためて、いかにミッドウェイ海戦とサイパン島の戦いが重要であったのかということがわかる。もちろん、アメリカ側の映像なのだから、パール・ハーバーの衝撃ということも。


 

[]「妻は告白する」(1961) 増村保造:監督 「妻は告白する」(1961)  増村保造:監督を含むブックマーク

 どうもいつも、増村保造監督の作品というものがわからないところがあったのだけれども、きょうこの作品を観て思ったのは、この監督さんは、いわゆる「美しい」映像で作品を際立たせようとなさらないというか、いつもいつも、その絵を混とんのなかに投げ込まれたままにされているような。そういうことに気づいた。

 たとえば、おととい観た「女死刑囚の脱獄」での中川信夫監督など、スクリーンのなかでカメラをどこに置いた位置から観客に観せるか、どのように対象をきわだたせていくか、そしてどのように移動するか、カットアップしていくかということを、どれだけ意識していることかと思わされるのだけれども、どうもこの、増村保造監督というのは、そういうのとちょっとちがうようである。

 ‥‥もちろん、この作品のクライマックスの濡れそぼった若尾文子の登場のさせ方、そのとらえ方など、そういうことをいっぱい意識しているじゃないかということになるけれども、どうもなんかちがう、というか、たとえば同時代の吉田喜重監督の描く、どこかクールな映像美みたいなものはない。どこか、やはりごちゃごちゃしている。せんじつ観た「巨人と玩具」なんかまさにそういう世界で、まずはうったえたいものが先にある、という印象になる。

 べつに増村保造という監督さんをくさすわけではないけれども、そういう、ヴィジュアル的には、わたしの思う「映画の美しさ」というものとは合致しないところの作品を撮られていた監督さんだったかな、という印象はある(それでも、彼の遺作になった「この子の七つのお祝いに」は、わたしなりに強烈な「映像美」という記憶は残っているわけだった)。

 ‥‥そういうことは抜きにして、この作品はやっぱり、すっばらしい、と、思う(わたしのいってることはおかしいだろうか?)。


 

[]「共喰い」田中慎弥:著 「共喰い」田中慎弥:著を含むブックマーク

 ‥‥って、これって、「中上健次」、じゃないの。じぶんのなかに流れる「血」の話であって、それは「蝿の王」のような父の血。そこに「母」なる存在が主人公を支える。ここでは「路地」のかわりに「川辺」なる場所での物語になる。方言ばりばりの世界で、時代から超越した世界でもある。いいんですか。こんなの書いて。「剽窃」じゃないんですか。‥‥もちろん文体はちがうけれど、こういう、いかにも学校の「作文」で高い点数取れそうな文章なんか、価値があるんだろうか。

 いちおう、いまは2013年じゃなかったっけ?って記憶はあるんだけれども、まあこの作品が2011年に発表されたものだとしても、1970年代とか80年代に発表すればよかったんじゃないの、などとは思う。いったい、この30年とか40年とかの、ときの流れというのはどういうことになってしまっているんだろう。

 この作品を青山真治監督が映画化したっていうのもまた不愉快で、なんでまた、中上健次のドキュメントを撮った人が、ここで中上健次の亜流みたいな作品を映画にしようとするのか。青山真治監督の作品はけっこう好きだったけれども、これじゃあ観に行く気はしなくなる。ましてや、その脚本を書いたのが荒井晴彦氏だったりもすると‥‥。

 ‥‥ここまでは、この作品集に収められている「共喰い」という作品についての感想だけれども、もう一篇の、「第三紀層の魚」もおんなじ。こっちもやっぱり、1970年代とか80年代に発表すればよかったんじゃないのって思う。なんかもう、無理矢理ですよね。いまどき、山口から東京へ出るのに「飛行機」を使って行くのか、という発想の老人を引き出し、「いえいえ、新幹線というのがあるんですよ」なんて、そういう作品を2011年に書くというのが信じられない。タイムマシンの世界。

 ま、この作家の本はもう、二度と手にすることもないんじゃないかな。現代の「純文学」なんて、こんなもんかも知れないけれども(だったらパス!)。


 

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■ 2013-08-13(Tue)

 東京の方では昨夜ずいぶんと雨も降って、落雷で停電したところも多かったみたい。わたしがむかし住んでいたあたりに似た風景の住宅地が、ニュース映像に出てきたりした。あのときの住まいは川のすぐまえにあり、地下室というのがあったので、目のまえの川があふれたら、しぜんに地下室に流れ込むことが想像できた。ニュースをみた感じでは、こんかいはあの家もそういうことにはならなかったみたい。川の治水はしっかりしているんだろう。

 わたしはきのうの夜も、なにか恐いイメージに追いかけられていたような気がする。きょうはしごとは休むことにしてあって、連絡もしてあるのでゆっくりと寝た。起き出して、まえに買ってあってまだ少し残っているオートミールで朝食にした。もう一回分残っている。あさってからは、きのう届いた膨大な量のオートミールに手をつけることになるだろう。‥‥じつは、ちょっとオートミールの味にも飽いてきているところがある。どうしよう。山ほど買ってしまったのに。おいしい食べ方を工夫しよう。

 きょうの「あまちゃん」は、ホンモノの橋幸夫が登場してなんとも軽妙なところをみせてくれ、わたしはなんども声を出して笑った。いつだったか、カラオケで「いつでも夢を」を唄ったことなんか思い出したりもした。こないだの薬師丸ひろ子と小泉今日子との二人対決の回とならんでの傑作回だったというか、おかげであさから明るい気分になれた。

 いつものようにメールをチェックしていると、この週末のダンス・イヴェントの案内が来ていた。じつはこれはせんじついっしょに飲んだBさんの主宰するイヴェントで、ごいっしょしたCさんもまた、その出演者のひとりである。まあイヴェントの名称を出してもいいんだけれども、こんかいがながくつづいたこのイヴェントの最終回。総集編としていままでの出演者があれこれと、おおぜい出演される。わたしもちょっとまえまではまいかい通っていたイヴェントだったけれども、まあいろいろと考えるところもあって、このところは観に行っていなかった。こんかいはさいごだから行こうかなあとか思っているうちに日にちもたち、けっきょくチケットももう売り切れているだろうとあきらめていた。それがBさんに会ってそういう話をすると、「まだすこし残ってるよ」みたいなことだった。それがきっとつまりはこんかいの案内メールで、キャンセル分を若干枚、きょうの十時から売り出すということだった。‥‥せっかくあの日楽しく飲めたあとだから、というだけではないのはもちろんだけれども、つまりはそういうこともあって、チケット争奪戦(になるのか)に参加することにした。
 十時ちょっとまえにチケット購入サイトのあたりでうろうろしはじめ、けっきょく、すんなりと買うことができた。払い込み番号もすぐに届き、ひるすぎにはうちのそばのコンビニで支払いもすませた。このところ、このコンビニで「ネット・ショッピングの支払い」というのをやってばっかりである。せんじつ買ったKinks の「Face To Face」のCDは、まだ届かないけれども。

 きょうは、「学園モノ」映画、といっていいのか、そういうのを二本つづけて観たりした。夜は、図書館から借りている田中慎弥の「共喰い」を読みはじめた。この小説を青山真治が映画化したもの、もう上映しているのかと思っていたら、九月公開ということだった。読みはじめた感じは、‥‥微妙。映画の脚本を荒井晴彦がやっているというのもわかる。


 

[]「櫻の園」(1990) 中原俊:監督 「櫻の園」(1990)  中原俊:監督を含むブックマーク

 ずいぶんむかしに、いちど観ていると思う。冒頭からけっこうカメラの長回しとかやっているのだけれども、そういうのがあんまり効果的でもない作品ももちろんあるわけだよな、などという感想もうかぶ。‥‥そういう、長回しをやるという必然からか、室内の照明がなんというかいつもどこもフラットで、絵に奥行きがないんじゃないかという印象にもなる。

 ドラマとしては、もうそうなってしまっている世界が再確認されるだけ、というか、じつに静的な世界だと思った。そういう良さもある。

 たしかドラマは八時十分ぐらいまえのところからはじまり、ラストの舞台の開幕するのが十時だというわけだから、ぜんたいの構成をリアルタイム進行にして、もっと「はたして中止されるのか」みたいなところの緊迫感で引きずってもよかった気もする。いや、そういう演出もアリだったろうと。


 

[]「桐島、部活やめるってよ」(2012) 吉田大八:監督 「桐島、部活やめるってよ」(2012)  吉田大八:監督を含むブックマーク

 きょねんの秋に映画館で観てるんだけれども、けっこう忘れてしまっていた。‥‥「櫻の園」にくらべてしまうと、こちらは「桐島」の不在によってみんなが動き回るというか、まあ「桐島」がいてもいなくても変わらない世界もあって、そういうところは「櫻の園」を思い出させられるところもある。そんな「変わらない」というか、「変わりたくない」という世界と、「これでもう、変わってしまうんだよ」というところとの対比がすばらしい作品、ということがいえるんだろうか。まさに、それぞれが「進路希望」を提出する時期のこと、なんだろう。


 

[]「□(しかく)」阿部和重:著 「□(しかく)」阿部和重:著を含むブックマーク

 ‥‥なんというのか、奇想天外な近未来スプラッター・ホラーっつう感じ。まあそれこそ、「桐島」の映画部部長のジョージ・A・ロメロ賛辞を思い出してしまうというか。阿部和重はみょうに高尚な文学の枠をつくって、そのなかで「純文学」の牙城を守るみたいな存在ではない。とにかくは小説というものの振幅を拡げるというか、まいかい「なんぢゃ、これ」と思わされてしまうあたり、さすがというか(まえに読んだ「幼少の帝国」はちょっとがっかりもしたのだけれども)。


 

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■ 2013-08-12(Mon)

 暑さで寝ぐるしいせいか、やはりきのう昼寝をしたせいか、なかなかに寝つけない夜になってしまった。このごろは夜なかにベッドのなかで聞くものおとにも敏感になっているようで、きょうも暗闇のなか、キッチンの方から何かが動くような音がきこえたりした。ニェネントなのかと思って和室の方にからだを向けてみると、ニェネントはちゃんとパソコンのまえの座布団の上でまるくなっているのがみえた。そうするとさっきのものおとが無気味に思われたりもして、おかしなことだけれども、恐怖心もはげしくなる。いわゆる「ぞ〜っとする」という感覚にとらわれてしまい、よけいに眠れなくなってしまう。
 ‥‥ようやく眠りについたのかどうかというときに、とつぜんに、蛍光色に光る文字のイメージにあたまを満たされ、その文字のイメージがぐうんと大きくせまってきたとき、世界が反転してしまうようなショックを受けてしまった。なんだかルーン文字の碑文の一部のようなイメージだったけれども、ホラー映画の観すぎなんかしらん。とにかくやはり大きな恐怖心にとらわれてしまい、これはまた発作の前兆のような気もするし、「自分はまだ健康じゃあないな」と思った。胃の調子も万全に回復しているわけでもないし、しごとは休んだ方がいいんじゃないか、そう思った。

 そのあとはいつのまにか眠ってしまったようで、いつものアラーム音で目がさめた。やはりしごとは休んでしまうことにして、アラームを始業じかんのちょっとまえに合わせてから、また寝た。睡眠じかんは不足しているから、すぐにまた眠ってしまった。
 またアラームで目覚め、就業先に電話して欠勤することを伝え、もういちど寝た。

 七時半ごろにしぜんと目覚め、朝食をとってから映画を観たりした。午前中に二本も観てしまった。胃痛はもうほとんどないのだけれども、まだ下痢っぽいところはある。昼食は冷麦にした。胃によかったのかどうかはわからない。食後にちょっとアルコールをやってみたけれども、胃をこわしたあとでもあるから、ほんのちょっとでやめておいた。それでもやはり、少量だったつもりだけれども、酔いというものは感じた。あんまりいい気分ではない。‥‥そう思うと、先週の日暮里から新宿への飲み歩き、つまりはあのとき六時間いじょう飲んでいたわけだけれども、意識はさいごまではっきりしていて、まるで「酩酊」というのではなかったわけだ。それなりに強い酒を飲みつづけてもいたはずなのに、いったいどうしたことだったんだろう。「With God on my side」、だったとしか思えん。そこがまた、酒を飲むということのおもしろいところである。あのときはおそらく、この十年ぐらいのあいだで最高の飲み方ができたと思う。‥‥これを、またもういっかいやろう、なんてやっちゃうと、大きなあやまりなのであろう。でも、(わたし程度の財布の中身でもああいうふうにできるんだし)またやってみたい。

 昼をすぎてから、注文してあったオートミールの巨大なパッケージが届いた。まるでニェネントのごはんみたいなパッケージだなあと思う。配達の人から受け取って、居間に持ち運ぶとやっぱりニェネントが寄ってきて、「ねえねえ、それってやっぱり、わたしのごはんなの?」みたいにのぞきこんでくる。ふふふ、ニェネントもオートミールって食べるんかしらね。こんど、あげてみようかしらん。「そのうちにね」、って。

 映画をまたもう一本観て、TVをみていると、きょうも日本はすっごい暑さという報道。ついに四国では四十一度なんてことになってしまったらしい。TVでは、熱中症対策を怠らずに!などとしきりに呼びかけている。「あ、オレって、じつは熱中症だったりして」なんて思って、熱中症のことをしらべてみると、この暑い時期、水分の補給はもちろんだけれども、塩分も補給しなくっちゃあいけないよ、ということ。‥‥わたしは血圧のこともあるから、いまはほとんど塩分といえるようなものは取っていないわけで、そういうところでは熱中症患者の第一候補でもあるわけだなあ、などとは思ったりした。それでちょっと思いついて、きょうはしごとは欠勤してしまったけれども、いちおう病院に行ってみたことにして、それで「まだ熱中症なのかどうなのか不明なところもある」という診断を受けたことにして、あしたも休んじゃおう、という気分になった。っつうか、あさってはもともと非番の休日になっているということもあるし、じつはきょうあしたと出勤しない方が、いろいろな面でわたしにはやりやすいのである。政治的判断である。いや、かんたんにいえばズル休みである(どうか、ないしょにしといて下さいね)。また職場に電話して、「持病なのか熱中症なのかわからないところがあって、またあした通院しますので、申し訳ありませんがあしたも欠勤させていただきます」と伝えた。‥‥なんか、すっきりした。

 阿部和重の「□(しかく)」も読み終えたけれども、感想とかはあしたにしようか。


 

[]「風立ちぬ」(1954) 堀辰雄:原作 島耕二:監督 「風立ちぬ」(1954)  堀辰雄:原作 島耕二:監督を含むブックマーク

 「原作から任意に潤色したもの」という文字が冒頭に読めるけれども、これってもう、まったく原作とはべつものなんじゃないか。この映画ではほとんど、ヒロイン(久我美子)の父である絵描きの山村聡がむかしからの知り合い(ヒロインの恋人の叔母)の山根寿子との再婚を決めるおはなしがメインになっているというか、ほんらい主人公のはずの男女はこのふたりのかんけい(再婚)をみとめるのかどうか、ただそれだけみたいなことになってしまっている。

 しかも、ヒロインの恋人(石浜朗)ときたら、結核をわずらっていることがわかっているヒロインを連れてほとんど山登り同様のことをやり、しかもじぶんだけさっさと先に歩いて振り返りもしないのである。これでもってヒロインの結核は悪化するし、「持ち直した」となるとまたまた二人で高原を延々と歩きまわり、彼女を死なせてしまうのである。同情の余地もないし、そもそもが彼はどのように彼女を愛し、彼女はどのように彼のことを思っていたかなど、ぜっんぜん、描かれないのである。

 はっきりいって「くっだらない映画」なんだけれども、それでもこのころの映画製作陣の力量というものには目を見張るところもあるというか、特に日本家屋の部屋をその内から、また外からとらえる映像など、みごとに美しいわけではあった。


 

[]「女死刑囚の脱獄」(1960) 中川信夫:監督 「女死刑囚の脱獄」(1960)  中川信夫:監督を含むブックマーク

 むかし観て「傑作だ」と思った記憶から、また再放送されていたのを録画してあったのをダビングしながら、もういちど観た。‥‥やっぱり、すばらしかった。「絵コンテ」の勝利というのか、映画というのはこういうふうに組み立てていくものなのだというようなところを感じる。

 映画のデータがわからないのでネットで検索するといくつかの批評を読むこともできるのだけれども、基本的にはボロクソにけなしているものばかりである。シナリオにリアリティがないというのがいちばんに批判されているようだけれども、わたしにはさっき観た「風立ちぬ」なんかより、こっちの方がずっとずっとすばらしいと思ってしまうのである。文芸映画じゃなくてサスペンス映画だからと擁護するわけでもないけれども、すてきな位置に据えられたカメラからの、各場面から伝わる緊迫感のすばらしさなど、わたしにはそんじょそこらの映画で味わえるたぐいの興奮ではなかった。みじかい作品だし、また何度でも観返してみたい。そうそう、冒頭の、主要登場人物がからみながらそれぞれが紹介されていくシーンが、とにかくすばらしかった。


 

[]「ローズ・イン・タイドランド」(2005) テリー・ギリアム:監督 「ローズ・イン・タイドランド」(2005)  テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 むかし映画館で観た作品。ほとんど記憶から抜け落ちているけれども、「なかなかにおもしろい作品だった」という記憶だけは残っていた。

 観ながら、中盤でちょっと寝てしまったし、こういう、アタマのおかしなコとかが奇矯な動きをみせてくれるようなのって、それはそれでわたしには抵抗もある。とちゅうで「それほどでもなかったかな」などと思いかけたけれども、ヒロインのジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)が印象的なメイクをほどこして、世間のモラルなど吹き飛ばしてしまうような壮絶なラストへと突入するとき、「やっぱりコレは観る価値のあった作品だった」と、こころを熱くした。ラストの、ジェライザ=ローズの瞳の輝きは、もう忘れられないものになる。

 そうそう、この映画でも、きのう「スカイフォール」で聴かされた「Boom Boom」を、また聴かされてしまった! ‥‥こちらはAnimals ではなく、本家本元のJohn Lee Hooker のものだったよ。


 

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■ 2013-08-11(Sun)

 きのう、きんじょのコンビニへいったとき、その入り口のわきに一匹のチャトラのネコがごろごろしていた。「このネコ、まえにもこのあたりで見たことがあるなあ」と思いながら近よって、「おまえはどこのネコなんだい?」と、背なかとか首すじをなでてやった。ネコはおとなしくなされるがままで逃げようとしないので、「めずらしいネコだなあ」と思ったら、首輪をしていた。そうか、飼いネコだから人を恐れないのか、とか考えていたら、ふと、ミイもさいしょっからわたしに近づいてきたネコだったなあと思い出し、いままでそのことは考えていなかったのだけれども、ミイもまた、むかしは飼いネコだったことがあったんじゃないのか、なんて思ったりした。ミイのことを考える上では、とても大事なことだったかもしれない。
 きょうの飼いネコは、まえに近くのドラッグストアでみた、飼い主が店で買い物をするあいだ外で待っていた、あのネコだったかも知れない。

 きょうはまたしごとは非番の休みで、あさから録画した映画など観てすごしていたのだけれども、昼ごろになって腹痛がはじまり、それがだんだんに強くなるばかりだった。これはどうも食あたりではないかという感覚なんだけれども、つまりは朝食でたべたもののどれかが良くなかったということか。きょうの朝食はいつものオートミールだったけれども、オートミールがいたんでいるとは考えにくいところもあるので、あとで足した牛乳とかが犯人かも知れん。パッケージをみても、まだ賞味期限にはなっていなかったけれども。

 こういうときは、「正露丸」がいちばん。この日記で「正露丸」ということばを検索してみると、二年半まえにやはり腹痛で買っていることがわかった。どうも、そのときの正露丸がどこにしまってあるかもわからないし、二年半まえのものがまだ有効かどうかも疑問もあるし、ドラッグストアに行って買って来た。ついでに南のスーパーにも足をのばし、夕食用にまた寿司のパックを買った。‥‥こんな胃の状態で、自作料理など食べる気はしないから。
 帰宅するとすぐに、その二年半まえに買った正露丸が和室の机の上の棚に置いてあるのをみつけてしまった。その有効期限も、まだまだ先のことだった。あとちょっとだけ、部屋のなかを見まわしてから買いに出ればよかった。って、つぎに腹痛を起こしたときにも、わたしはまたこんなことをやってしまうんじゃないだろうか。正露丸をつくっている製薬メーカーにはありがたい存在だろう。

 せっかくきのうまで元気いっぱいだったのに、きょうはこんなことでダウンしてしまった。正露丸を三粒飲んで、腹の痛みはずいぶんと軽くはなったけれども、それでも万全というわけではない。この時期は食べるものにも気をつけなくっちゃいけないのだ。
 そういう状態で、ずっとリヴィングで寝ころがったまま、また録画した映画を観たりする。そのあとにTV放送にきりかえてみていると、なんだかまたTV画面の見え方がおかしなことになってきたりした。どうも、こういうのって自分の精神状態が反映されるものなのではないのかという気もしているわけで、つまりはまた、あまりよろしくない方向に精神が向いてしまったのではないかと思った。


 

[]「007 スカイフォール」(2012) サム・メンデス:監督 「007 スカイフォール」(2012)  サム・メンデス:監督を含むブックマーク

 この正月に映画館で観た映画。このころは記憶力もしゃんとしていたというか、細かいところまで記憶していたわけでもないけれども、観ていれば「ああ、このシーンはたしかに観た」と思い出すことができる。春ごろに観た作品は、いちど観ているにもかかわらずまるで記憶に残っていなかったんだから、やはりあのころはおかしかったわけだ。

 やっぱり、この作品で楽しいのは、終盤のスコットランドの荒地のなかの古屋敷「スカイフォール」での攻防戦というか、まあ戦いの本番はそれほどでもないのだけれども、来襲してくることがわかっている敵を迎え撃つために、アルバート・フィニーやジュディ・デンチというような、お年を召された方々があれこれと仕掛けをつくったりの準備をされたりするあたりで、これはその屋敷の荒れぐあいとかと合わせても、なんだかゾンビ映画のクライマックスへの流れ、みたいなふんいきを感じてしまったわけだし、すくなくとも「ボンド映画」という展開ではなかったあたりが予想外でもあるし、とにかくは「すばらしかった」といえると思う。

 このあとに悪役のハビエル・バルデムがなんとヘリコプターで登場し、そこで「地獄の黙示録」よろしくThe Animals の「Boom Boom」を大音量で響かせながら登場する。わたしは映画館で観たときに「ここでなんでBoom Boom なのよ?」などとは思ったのだけれども、きょう観てみると、この曲の歌詞のさいしょのところは<Boom Boom Boom Boom! /Gonna shoot you right down / Take you in my arms / I' m in love with you / Love that is true>ってなるわけ。‥‥これって、悪役であるハビエル・バルデムの、標的であるジュディ・デンチに対しての気もちなわけ、なんだろう。そう考えると、おもしろい。

 

 

[]「ミラーズ・クロッシング」(1990) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督 「ミラーズ・クロッシング」(1990)  イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督を含むブックマーク

 コーエン兄弟の作品ではもっとも好きな一本。ここにも、さっき観た「スカイフォール」に出ていたアルバート・フィニーが出ている。

 ‥‥とにかく、冒頭の、風もないのに飛んでいく帽子の映像、そして見上げられた木立のあいだを進んでいくカメラ、そして、カーター・バーウェルの美しい音楽。もうここだけで、「すばらしいものをありがとう」といいたくなってしまう。

 主人公トム(ゲイブリエル・バーン)の計算づくの行動と、計算しきれない結果。彼の思惑どおりに進むことがらと、彼を裏切る成り行き。それらの奔流に呑みこまれながらも、とにかくは失うものもなく対岸に泳ぎ着くというか。いや、彼は多くのものを失ったんだろうか。でも、そういうものは執着してもしょうがないものばかりだったんじゃないのか。やはり、そういうクールなトムの造形に魅力を感じてしまうし、そのゲイブリエル・バーンの腹の内をおもてに出さない演技と、さっき書いたアルバート・フィニーやジョン・ポリト、そしてジョン・タトゥーロらの「濃厚な」演技との対比もすばらしい。また、「そんな美人というわけでもないだろう」というマーシャ・ゲイ・ハーディンが、ここではまぶしいのである。

 ‥‥そのうちにまた観てみたい映画、何度でも観返してみたい映画のひとつ。


 

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■ 2013-08-10(Sat)

 あさ、目覚めたときからなんだか気分がよかった。暑くなりそうだけれども外は快晴でよけいに気もちもいい。「こわいものなし」というのはこういう感覚なんだろうかと思ったりする。
 きのうおとといはしごとは休みだったけれども、きょうは出勤。きょう出ればまたあしたは非番で休みと、いいペースである。‥‥ところが、出勤してみると、しごと量がそうとうなものだった。作業人員はきょうもわたしとAさんとのふたりきりだし、「どうなることか」と心配した。‥‥やはり、やってもやってもしごとはかたづかず、定時をオーヴァーしてしまった。かなりぐったりと疲れてもしまったけれども、またあしたは休みだし、気分が落ちこむようなことにはならなかった。

 しごとを終えて部屋に帰ってみると、このところの長い落ちこみ期間のあいだにすっかり部屋の中がとっちらかってしまっているのが気にかかる。いずれ片づけなくちゃいけないけれども、この暑さだし、しごとの疲れものこっているし、そのままに放置する。ベッドに寝ころがって、図書館にリクエストして借りた阿部和重の「□(しかく)」を読みはじめ、「なんじゃこりゃあ?」という印象。

 昼食はきのうつくったインスタントの豆腐料理の残りですませ、そのあとはTVで録画してあった映画を観る。またDVDレコーダーと連動させながらの観賞だったけど、観終わったあとは、ダビングするほどでもなかったか、という印象。夕食は残っていたごはんでお茶漬けにしてすませ、もう寝るつもりでベッドへ移動する。さすがに暑苦しくて「快適」とはいえない気分で、七月いらいの寝ゴザを敷いての就寝となった。

 ‥‥なんだか、精神的に落ちついてみると、こんどはものごとの影の部分がみえなくなっているような気分にもなってしまう。じぶんのなかで、外界を「明快なもの」と割り切りたがっているのではないのか、なんて思ったりもする。きょう観た映画がそれほどにおもしろく感じられなかったのも、そのあたりの結果なんじゃないかとも思ったりする。とにかくいまは世の中がたのしく感じられているわけだから、それでいいんだろう、か?


 

[]「果てなき路」(2011) モンテ・ヘルマン:監督 「果てなき路」(2011)  モンテ・ヘルマン:監督を含むブックマーク

 映画館で公開されたときに、観ている。そのときは重層的な構成とかをおもしろく感じて観ていたものだけれども、こんかいはいろいろと疑問を感じるところもあったし、あまり楽しめなかった。

 監督は、アラン・レネやアントニオーニのような「迷宮的な」作品をつくろうとしていたとのことなんだけれども、まずはその「迷宮」を説明するために登場する人物が、多すぎるだろう。そして、この展開では、「ファム・ファタール」にほんろうされるだけの男の物語としかみえないところがあり、映画の冒頭で「禁句」とされた「フィルム・ノワール」の類型を越えるものでもないのではないのか、という印象。‥‥レネやアントニオーニの(そういう迷宮的)作品の登場人物はいつも少なく、これを「ふたりの男女だけ」の映画、といってしまいたくなる印象もあるんだけれども、この「果てなき路」は、とにかく一所懸命に考え出した「なぞ」の説明、という印象になる。そもそもがヒロインに引き回されるところの映画監督が、ただその女性に夢中になってしまっただけの、つまりはバカ男にしかみえない(ここに仕掛けがあることはわかるのだけれども)。二重、三重の入れ子構造ということが、「ではそれでもって作品に魅力を与えているか」と考えると、そりゃあたんなるトリックの域を越えてないんじゃないのか、とも思ってしまう。

 監督がいうところの、アラン・レネの「迷宮的な」作品というのは「去年マリエンバートで」のことかしらんと思ったりするし、この「果てなき路」を観たあとは、アントニオーニならば「さすらいの二人」を思い出すけれども、「ぜんぜんちがうじゃないの」ということにはなる。

 いちおう書いておくけれども、冒頭の入れ子映画のタイトル部を読むと、もちろん監督はMitchell Haven となっているのだけれども、プロデューサーとしてNathalie Haven という名が読める。Nathalie という名の人物はこの映画のなかにひとりだけ登場しているが、監督の妻とは紹介されない。しかし、ラストの牢獄のなかの監督に、カメラを持って面会を行なっているのは、そのNathalie なのである。‥‥じつは、この二人が組んでつくっている(つくった)映画こそが「果てなき路」というわけで、作品のなかで描かれていない「事情」がある、ということなんだろう。まあ、そういう解釈をしてみても、わたしにはそんなにおもしろく思えるようにもならないわけだけれども。

 唄われる曲の歌詞翻訳で、「Road To Nowhere」を「行き止まりの道」としてしまうことに、いったい誰も疑問を持たなかったんだろうか??? ぜっんぜん、まるっきし、ちがうのではないだろうか。


 

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■ 2013-08-09(Fri)

 先月のすえ、二週間まえの土曜に、友人ふたりと新宿で飲み、それ以来ずっと精神の不調がつづいていたのだけれども、こうやっておとといからきのうにかけて外で飲みつづけ、そしてきのうはたっぷりと睡眠をとった結果、ものっすごく健康になった気がする。こういうふうにあたまのなかがスッキリとしているというのも、いったいいつごろ以来なのか思い出せもしないのだけれども、どこにも暗い影がない。「さわやか」というのはこういう感覚をいうわけかと、いまさらのようにしみじみと思ったりもする。

 べつにそういう、「精神の不調」を治癒しようとして飲んだりしたわけではないし、そういうつもりなんだったらあまりにも荒療治というか、しっぱいしていればもっとひどいことにもなっていたわけだろう。きっと、ただ「楽しみたい」という気もちで動いていたことがプラスにはたらいたというか、いまの気もちは「無敵」とまではいわないにしても、どこか自分でもたのもしいものがあるのを感じる。復活。おめでとう。やはり、アルコールはときとして健康に良い。

 そうやってわたしは調子よくなっているのだけれども、どうも本格的に始動させはじめたDVDレコーダーの方は不調というか、録画のさいごの方の段階で「録画に失敗しました」みたいなメッセージが出ることがよくある。高速録画とかできないので、ぜんぶリアルタイムかけて録画しているわけだから、おわりの方まできてから「出来んかった!」というのは、なかなかにショックである。もちろん中古のレコーダーなので、レコーダーの機構にもんだいがあるんだろう。まあ二回に一回は成功するようだからいいかと。

 きょうは「アメリカの友人」を録画しながら観ていて、やっぱりとちゅうで録画失敗したんだけれども、そのまま映画だけはぜんぶ観た。映画のなかでKinks の「There's Too Much On My Mind」を主人公のブルーノ・ガンツが唄うシーンがあり、またちゃんとKinks の原曲を聴きたくなってしまったんだけれども、この曲の収録されているアルバム「Face To Face」って、わたしはCDの時代になってから買ったことがないのね。「よし、このさい、買ってやろう!」と、ネットショッピングのサイトを検索すると、二枚組のデラックス・エディションのやつがかなり安く出ていたので、即クリックして購入手続きをした。Kinks ではいちばんの傑作、という考え方もできる一枚なのに、なんでいままで買ってなかったんだろうか。わたしが元気になったから、「買うぞ!」ということになったんだろうか。

 あと、ついにこのあいだ買ってあったオートミールもそろそろなくなりそうなので、こっちもネットショップで買うことにした。2.26kgの袋がふたつで千五百円ぐらい。どこで買うよりも圧倒的に安い、安すぎるのだけれども、2.26kg×2、というのはいくらなんでも多すぎはしないだろうか。だいたいわたしが一食で調理(というほどのものではないが)に使うオートミールはせいぜい30gぐらいのものだから、2.26kg×2÷30g=(だいたい)150、ということになる。‥‥五ヶ月分、ということか。なんか、さいしょの印象だと一年分とか二年分とかありそうな気がして「それはちょっと」と思ったんだけれども、ふた袋あって五ヶ月分ということだから、そんなに困ってしまうような分量でもないか。しかも、たんじゅん計算で一食分十円。経済的でもある。こちらもすぐに購入手続きをとり、夕方にCDの代金とあわせて、近くのコンビニで代金を払い込んだ。らいしゅうのあたまには到着するだろう。

 気になっている「記憶力」のもんだいもあるので、夜になってから、朝に観ていた「アメリカの友人」の内容を反すうしてみた。‥‥ちゃんと、おぼえているふうではある。ニェネントくん、よかったねえとニェネントを抱き上げて、ニェネントのはなのあたまをなめてやった。これからも、ずっといっしょに生きていこうよね!


 

[]「アメリカの友人」(1977) パトリシア・ハイスミス:原作 ヴィム・ヴェンダース:監督 「アメリカの友人」(1977)  パトリシア・ハイスミス:原作 ヴィム・ヴェンダース:監督を含むブックマーク

 わたしはパトリシア・ハイスミスの大ファンなので、この本(文庫本)もとうぜん持っているはず。ところが、この映画を観て探してみたら、どこにも見つからなかった。きっとどこかにはあるはずなんだけれども。

 ハイスミスの書いたところの原題は「Ripley's Game」とかいっていたはずで、日本での文庫本のタイトルが「アメリカの友人」になっていたのは、このヴェンダースの作品のおかげ。
 わたしの記憶ではたしか、ヴェンダースもまたハイスミスの作品のファンで、彼女の作品を映画化したくって交渉したんだけれども、そのときにはそれまでのハイスミスの作品はすべて映画化権が売られてしまっていて、そのときのヴェンダースの意思は実現しなかったわけ。ハイスミスの方ではそういう映画監督が彼女の作品を映画化したがっているということを聞き、そのあとに書いたのがこの「アメリカの友人」。ハイスミスはヴェンダースの映画など観たことなかったから、「こういう感じなら映画にふさわしいんじゃないか」と思って、彼女らしくもなくマフィアなんかも登場させるし、派手な銃撃戦みたいなことまで書いてしまったということらしい。まあ、ほとんど「あなたのために書いたのよ」みたいなこの小説を読んで、いったいヴェンダースはどんな感想を持ったんだろう。‥‥それでもそれでも、ヴェンダースはかなり律儀に、かなり原作に忠実に、このハイスミスらしくもない作品を映像化しているわけだし、そんななかでそれなりに、ハイスミスらしいテイストも描いているんじゃないだろうか。もちろん、その後のハイスミスのリプリーシリーズを読んでしまえば、ここでリプリーを演じる(カウボーイ・ハットまでかぶって登場する)デニス・ホッパーはぜっんぜんちがうのではないのかと思ってしまうのだけれども、そこはやはり、この物語での主人公のブルーノ・ガンツが助けてくれるし、やはりロビー・ミューラーのカメラにもすばらしいものがある。

 さて、この作品で興味深いのは、登場人物がやたらと鼻歌を唄っているあたり、なのかも知れないけれども、このことでひとつ、わたしには思い出されることがある。それはずいぶんむかし(いま調べると1998年)に井土紀州監督の「百年の絶唱」が小さなスペースで公開されたとき、終映後の監督を囲んでのトーク・タイムみたいなところで、わたしも質問をさせていただいたわけだけれども、その質問とはつまり、「百年の絶唱」では登場人物が古い昭和歌謡曲を唄ったり、そういう曲が流れながら映画がつながっていくわけで、そのあたりでの、監督の考えられる「昭和歌謡」とか、そういうものへのご意見をおうかがいしたい、などということをお聴きしたわけ。そのときに井土監督は「そういう質問はうれしいなあ」というまえ置きのあと(このまえ置きは、わたしにもうれしくって忘れられないところ)、「たとえば、ヴェンダース監督の作品で、登場人物が鼻歌を唄ったりするんだけれども、そういうヴェンダース作品に惹かれるところがあるというか、ヴェンダースもそうやって登場人物が唄ったりしていたころの作品が良かったわけで、そういうところは意識していた」みたいな回答をいただいたわけである。もうこのときはヴェンダースも「エンド・オブ・ヴァイオレンス」あたりまでは公開されていたときで、ここで井土監督がおっしゃっていたのはまさにこの「アメリカの友人」だとか、「都会のアリス」(カフェみたいなところのジュークボックスのまえで、男の子がCanned Heat の「On The Road Again」をくちずさんでいた!)だとか(わたしはまだ「さすらい」だとか「まわり道」を観ていないから、そのあたりで音楽がどのように使われていたのか知らないのだけれども)なんだろう。わたしはこのときはたしか、この「アメリカの友人」はどこかで観た記憶もあったので、ぎりぎり、井土監督のおっしゃっていたことも理解できていただろうか。‥‥おもしろいんだけれども、いま、その井土紀州監督のフィルモグラフィーをチェックしてみると、このちょっとあと(2000年)に彼はなんと、「ヴェンダースの友人」という作品をつくっていたことがわかった。ふふ、ここでわたしの質問がこの作品製作への引き金になってくれていたらおもしろいのに、などと思ってしまう(くっだらない)わたし。

 すっかり脱線してしまったけれども、だからこの作品は出演者の鼻歌。まずはKinks の曲が、日記の方に書いた「Too Much On My Mind」だけでなくて複数唄われていたと思うし、Bob Dylan の曲もやっていた。ラスト近くでまたブルーノ・ガンツが唄っちゃうBeatles の「Drive My Car」なんかは劇の流れのなかでかなりだいじなところだったとも思うけれども、きょうわたしが観た日本語字幕の、ここのところはちょっとよろしくなかった。「Baby you can drive my car?」って、しぜんに訳せばいいのに、妙に読み込みすぎた翻訳だった気がする。

 

 

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■ 2013-08-08(Thu)

 八月八日に日づけが変わったのは、山手線の電車のなかだったか、それとも上野の駅で下車して「もう一軒立ち寄って、ひとりででも飲みたいなあ」と思いながら歩いていたときだったか。
 ほんとうは、上野のカプセルホテルにでもさっさともぐりこもうと思って、上野に出てきたのだけれども、駅を降りたらまた飲みたくなったわけだ。それで御徒町駅近くまで歩いてみたけれども、わたしの知っている店はもう、ライトが落とされていた。上野というのは、わたしにはどこでもひとりで飲めるというような場所ではないので、「やっぱり新宿に乗り出そう」という気分になった。

 上野駅に引き返し、しばらく電車を待って新宿へ移動した。‥‥どこに行こうか。やっぱ、ゴールデン街とか三丁目とかそっちの方だろうと、歩いていく。三丁目を歩いていて、商売の女の人に声をかけられたりした。着ている服装もいなかっぽくってメイクも薄く、どこかシロウトっぽい人だった。わたしもシロウトっぽい(だろう)から、声をかけやすかったんだろうか。そういう夜にすることは考えていなかったので、かるく失敬した。

 ‥‥考えて、ちょっと二丁目に足を踏み入れて、もう閉まっていた「N」のドアを叩いた。「もう終わってるのかな」と思ったら、すぐにドアが開いて、入れて下さった。なんかさっき観た舞台の延長みたいな話(舞台の話ではないけれども)をしてしまい、店の方も「困ったなあ」と思われていたかもしれない。それでもいちおうは話題も拡がって、わたしも興味深いお話を聴くことができたし、店の方も興に乗って下さったんじゃないかと思う。まあ、飲んでいて店の人のごきげんをうかがうというのもおかしいけれどもね。

 この店も二時までだよね、と思い出し、「ではそろそろ」と会計をしたときが、二時をちょっとまわったころだった。ちょうどケータイの時計をみたわたしの記憶では、このとき二時七分、だった。まだまだ電車は動かないし、これからカプセルホテルなんかにしけ込むのもバカみたい。もう一軒は行けるよなあと、三丁目に足を向けた。まるで知らない店に行くという発想はなく、十年以上まえにこのあたりで飲み遊んだ店にまた行ってみようと。当時、Eさんという方がこのあたりであれこれと店をはじめられ、そのうちのどこかの店でわたしの知り合いが店をまかされていたこともあって、Eさんの店にはあちことと足を運んでいたことがある。あれからもう十年以上経つけれども、それらの店がみんなまだ営業しているというのにちょっとおどろく。そのうちのひとつ、地下にある「F・M」という店に行ってみようかという気分になり、ドアを開けて階段を降りた。

 ‥‥店内のインテリアは、十年まえからまるで変わっていなかった。BGMもやはり80年代のダサい洋楽。カウンターの中のコはもちろん知らないコだけれども、いかにもEさんの好みらしいというか、まるで水商売っぽいコではない。ほかにはもう眠ってしまっている客が隅にいるのと、そのカウンターのコと会話している男性がいるだけ。「いいだろう」なんて思って、カウンター席にすわり、ちょうど目のまえに「Havana Club」7年のボトルがみえたので、それをロックで頼んだ。‥‥ずっとだまって飲んでいて、そのまましゃべったりしないで電車が動き出すのを待とうかという気でもあったんだけれども、そのカウンターのコと客との会話を聴いていると、ちょっとおもしろい展開になってきたので、ついつい口をはさんでしまった。それでけっきょくは、この店にもむかし通ってたんだよなどとの履歴を語ったりしてしまう。「B」という店のマスターの、いまは亡くなられたFさんの話をしてしまうと、やはりFさんはこのあたりで知らない人はいなかったわけだけれども、その、もうひとりのお客さんという人物がじつは、むかしFさんがやっていた店のあとで店をやっているとのこと、ちょっとおどろいてしまった。Fさんの話とかで皆で盛り上がった。

 そろそろ電車も動き出したので、きょうはおしまい。ふふ、なんだか「イイ男」風の演技で、通してしまった。げんじつはちがうんだけれどもね。‥‥階段を上がってドアを開けると、もう陽の光があふれていてまぶしかった。むかしFさんの店で飲んで、「もう帰る」などというと、Fさんが「まあまあ、コレ聴いてから帰りなよ」と、ボブ・ディランだとかのLPのジャケットを振り回すのである。それでしばらく居残って「帰る」というと、またFさんがジャケットを振っている。そんなことをやってようやっと解放されて店を出ると、もうすっかりと明るくなっているのである。‥‥そんな、むかしの日のことを思い出してしまった。Fさん、ねえー。

 ‥‥新宿駅に向かい、もちろんうちに帰る電車に乗るのだけれども、やはり車内で爆睡してしまい、乗換駅を乗り越して寝てしまった。帰宅したのは八時すぎてから。

 ニェネントが「おそいじゃないのよ!」とばかりににゃあにゃあとないて、わたしを出迎えてくれる。「ごめんねごめんね」とごはんを出してあげ、ついでに卵黄も出してあげ、わたしはベッドにひっくり返ってそのまま寝た。‥‥とちゅうでちょっと目覚めた気もするけれども、ちゃんと起きたのは夕方の五時ぐらい。「またスーパーで寿司のパックでも買って来ますか」と、のろのろと起き出して出かけ、百円引きになっていた寿司パックを買って帰って夕食にした。食べたあとはまた、すぐに寝てしまった。いちおう本を一冊読んだことにしておくけれども、実質はきのう読んぢゃっていた本(こんな今日、本なんか読んでいるわけがない!)。


 

[]「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン:著 「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン:著を含むブックマーク

 ピーター・バラカン氏と、日本のラジオ、TV、インターネットなどメディアとのかかわりを綴った小ぢんまりした本だけれども、しぜんとピーター・バラカン氏の自伝的なおもむきにもなっているわけだし、彼がそんなメディアで紹介してきた音楽のことを書くことで、この四十年間のポピュラー音楽の裏面史という側面もある。

 わたしが氏のことを知ったのは、おそらくはTVでの「ポッパーズMTV」によってのことだと思う。当時ではめずらしく、オルタナティヴな音楽も紹介するTV番組ということでわたしも夢中になり、ピーター・バラカンという人物のこともこころに焼きつけられた。‥‥いまげんざいは、彼がDJをやっている、土曜日の朝のFMでの「ウイークエンド・サンシャイン」を、基本はまいしゅう聴きつづけている。
 わたしはけっきょく、「ワールド・ミュージック」というものにさしたる興味を抱かないままに来てしまったけれども、それでもバラカン氏の紹介するルーツ・ミュージックやイギリス系、ケルト系の音楽のなかに、こころうごかされるものがやはりたくさん存在する。‥‥そういうふうに、「この人の紹介する音楽なら」と思って聴いたりするのはいまでは、このピーター・バラカン氏という存在だけに対して感じることかもしれない。

 ‥‥この「ラジオのこちら側で」という本、番組製作のうらばなしという面で興味深いところもあるし、あらためて日本のメディア文化の特殊性が読み取れたりもする。‥‥たとえば、いまの日本では、ラジオ局というものが音楽を紹介する媒介としてもっているちからは、ほんとうに小さいものだけれども、これはかなり日本の特殊事情らしい。海外ではもっと、音楽のジャンルごとの放送局が豊富にあるようで、たとえばクラシックならクラシックで、いまのNHKFMなどよりももっと徹底してクラシックだけをかける局とかが存在するそうである。もちろんジャズだけの局というのもあるだろうし、まさかiTunes のような細分化された局も存在しないかも知れないけれども、とにかく日本はラジオ局が少なすぎると。‥‥このあたりのこと、きのう居酒屋でごいっしょしたイタリアからいらっしているDさんにお聞きしてもみたのだけれども、やっぱりあちらにはもっともっといっぱい、ラジオ局というものが存在するということ。わたしはなんだか、はやくあたらしいMac を入手して、iTunes をかけっぱなしとかにしてみたくもなってしまった。

 


 

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■ 2013-08-07(Wed)

 きょうは、「ダメ」じゃない日にしたい。

 しごとを終えていつもの内科医に通院し、また二週間分の薬をもらう。「春の頃の記憶で、トンでしまっているところがある」という話をしはじめたのだけれども、深刻な方へ行ってしまうとイヤなので、話しているとちゅうで、アバウトなところでとめておくことにした。‥‥深刻だと思っているのはわたしひとりでたくさんだと。

 きょうの夜は日暮里で黒沢美香さんのソロ・ダンス。しかも初演1985年のものの再演。おそらくは「失敗」などというものはない世界。失敗があるとすれば、それはわたしの側のもんだいであろう。それは、いまのわたしが「まちがいのない世界」を観たい、ということなのかもしれん。とにかくこんやひとばん、この茨城の地からはなれて、インチキやあいまいさのない世界を、観てみたい、そのなかに身を浸してみたいと期待している。‥‥こういう期待というものには、いっしょに裏切られることもまた見越しているところもあるだろう。「絶望」の底をみてみたい。こんなことを書くと青臭いけれど、そこに、「ダメ」じゃないものもまた、見えてくることがあればいい。これもまた「期待」でしかないのだけれども。

 ほんとうはちょっと早く出て、宮崎駿の「風立ちぬ」か、大友克洋の「SHORT PEACE」でも観てみたいと思ったりしたのだけれども、なかなかにちょうどいい時間帯に上映していないようだったのであきらめた。‥‥考えたら、青山真治の新作「共喰い」ももう公開がはじまってるんだっけ。そっちを観てもよかったのだ。けっきょく、ちょっと早くに新宿に出て中古のパソコンとかを店でチェックしてみることにして、三時半の電車に乗った。

 行程約二時間弱だから五時半ごろに新宿に着き、中古パソコン店に行ってみた。けっきょくまたMac にすることはおおすじ決めてあるのだけれども、iMac にしようかiBook にしようかというところではまだ迷っている。価格的には大差ないようだけれども、iMac ではちょっと大きすぎ、ぎゃくにiBook ではちょっと小さすぎる、という印象にはなった。結論は出ず。

 日暮里へ移動して、会場のd倉庫へ。‥‥おそらくはわたしの知っているああいう人、そしてこういう人などは来ることだろう。舞台がはねたあとはそういう人たちと飲んだりするんだろうか、などと想像している。そういうことも、いまのわたしには重苦しい気がしないでもない(それは勝手なわたしの変化なのだけれども)。あまり親しい人の顔も見えないので、きょうはまっすぐに帰宅してしまおうか、という気もちにもなる。ロビーでタバコとか喫っていたら、Bさんがひとりで来られたのが見えた。ちょっとロビーでBさんとお話をしていて、「じゃあ終わったあとで一杯とかどう?」とか誘われた。ほんっとうに、うれしかった。予想していなかった成り行きだし、予想してしまっていたことがらよりずっと楽しそう。

 ‥‥舞台、はじまる。‥‥わたしのつたない感想は、下に書く。

 けっきょく、Bさんの知り合いのダンサー(舞踏家)のCさんと、イタリアからいらっしゃっているDさんとの四人で飲みに行くことになる。Cさんもわたしのことは「まえにお会いしたことがある」とおっしゃっていたし、Dさんもまた、あちこちの会場でわたしの姿はみていたらしい。ノー・プロブレムである。来るときに、「Y」という居酒屋があったのが気になっていて、きっと神保町にある同じ名の居酒屋のチェーン店だろうと思い、「行くんならその店にしよう」と、皆を誘導した。二十人も入ればいっぱいになるぐらいの小さな店だったけれども、いい店だった。「〆さば」とかのメニューも美味だったし、電気ブランも置いてあった。興も乗ってからBさんがその電気ブランを注文して、店のママさんだかが語ってくれた注釈が、とってもよかった。下町らしい、すてきな飲み屋さんだったと思う。CさんともDさんともうちとけて会話することかできて、BさんはいつものBさんだし、わたしも身構えないで自然体で会話を楽しんだと思う。ある意味、理想的な「場」になっていた気がする。期待していたことが、実現した感覚。

 いいかげんなじかんになって店を出て、日暮里の駅に向かうところで、別のところで打ち上げをやられていた黒沢さんたちと合流した。わたしは上野へ移動してカプセルホテルででも夜を明かそうかと思っていて、皆さんとは逆方向の電車に乗った。まだ日づけは八月の七日。‥‥わたしのいちにちは、まだつづく。


 

[]ダンスがみたい! 15 「Wave」(初演1985)「距離」(「船を眺める」より 初演1987) 黒沢美香 ダンスがみたい! 15 「Wave」(初演1985)「距離」(「船を眺める」より 初演1987)  黒沢美香を含むブックマーク

 ダンサーが、「自身」を踊るのではなく、「ダンス」を踊るという、これは観る側からすれば「爽快」ということになるのか。あっというまのいちじかん、だった。

 しかしただ、わたしはチラシでの案内をみていただけだったので、この夜のステージではふたつの作品が踊られていたということ、まるで知らないで観ていた。‥‥差異と反復。フラットな照明のままで、このまま終わるんだろうな、などと勝手に思っていたら、さいしょのパートが一巡したあと(じつは、ここまでが「Wave」なのだった)、上手の照明が落とされて、黒沢さんもななめの動きへと移行していく。たしかにここからは作品の味わいがまるでちがう。思いがけずに(まあ黒沢さんのダンスは「思いがけずに」のれんぞく、なのだけれども)エレキ・サウンドもかすかに聴こえたりもした。‥‥Ventures のギター音とはちょっとちがうな。けっこうギターはいい味だしてるし、イギリスのShadows かなんかかしらん、なんて勝手なことを思ったりした。

 ‥‥そのラストに、舞台下手の奥に消えていこうとする黒沢さんが、もういちど客席に顔を向ける。わたしはこのところ、「恐怖」ということに敏感になっているところもあって、じつはこのラストはこわかった。もう終わりだとわかっていたから取り乱さなかったし、「こわい」と同時に、「美しい」とも感じ取っていたのはたしか。そうすると、わたしにとってのこのところの対立項を同時に体験しているわけで、またあれこれと考えなおさなければならない。

 ある面で、よけいな背後を読み取らなくっていいというところでだろうか、いまのわたしにフィットする、すばらしいステージだった。‥‥しかしそれでもわたし、ちゃんと記憶していられるのだろうか。


 

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■ 2013-08-06(Tue)

 ‥‥今日も、ダメ。「These Days Are Just Doesn't Seem To Be My Days」という感じ。でもあしたは東京へいって、「これはぜったいにすばらしい舞台になるだろう」と予測できるステージを観る予定を組んであるので、そういう「希望」はあしたに託そう。あさって、しあさってはしごとは休みにしてあるし。

 しごとのことなどでつまらないところに足をとらわれているところもあるし、そのことを「アホらしい」と考えていると同時に、自分のもんだいとして「ヤバいんじゃないのか」ということもあるわけである。まあ自分のもんだいの方は、「過去はともかくとしても、いまげんざいはだいじょうぶみたいではないか」と自分をなぐさめることはできるし、そういう思考路を選択しなければ、やっていけない。こうやってまいにち日記を書いているということが、自分を助けることがある。

 職場には、きのうのチェックシートをチェック欄は空欄のままに返した(突き返した)。いちおう、「わたしはこんなチェック事項にあることを重視して就労しているつもりはない」というようなことは書いた。昇給にかんけいする査定のようだから、つまりわたしの昇給の目はなくなっただろう。「要注意人物」ということにはされるだろうけれども、これで「かげで会社の悪口をぐちぐち語る」ようなところよりはランクアップしたというか。ふつうはしごとを辞めちゃえばいいんだけれども、そうするとほかに就労できるしごとがあるわけもなく、食べていけなくなる。

 DVDに「M★A★S★H マッシュ」をダビングしながら観て、そのあとは「さらば愛しき大地」をダビングした。こっちはほとんど観なかったけれども、それでも「さらば愛しき大地」の舞台がこの茨城であり、そのことがまさに「悪い場所」として描かれていることは、ちらちらと観ていて納得できたし、まさにそのとおり、ここは「悪い場所」ではないかと同意するのである。‥‥自分が、この「悪い場所」に取り込まれて腐敗していくのではなく、「オレはイヤだね」ということでやっていきますか。べつに、「アイツは東京から来てるからこのあたりをバカにしてるんだよ」と思われてもいいし、かんたんに書くのはむずかしいけれども、一面では「そのとおり」というところもあるのはたしか。「悪い場所」ということを考える、いい機会ということで。

 いまは(あと少しなんだけれども)「夢遊の人々」を読むのを中断して、図書館から三冊ほど借りている本にシフトしようと思ってる。まずはこないだの三島賞を受賞した村田沙耶香の「しろいろの街の、その骨の体温の」というのを読みはじめている。タイトルがちょっといいな、と思っていたのだけれども、(わたしの感覚では)これは文章がひどいなあというところで、読みあぐねている。小学四年生の女の子の視点で書きはじめられているのだけれども、小学四年の児童なら決してそういう言い回しはしないだろう、というのがあれこれと出てくる。作者がそのあたりを方法として意識しているのならばもちろんかまわないのだけれども、読んでいてどうもそういうことでは読めないのである。小説として、「作文」レベルにとどまってるではないかという気がする。がまんしてさいごまで読むべきなのかどうか、迷っている。


 

[]「M★A★S★H マッシュ」(1970) ロバート・アルトマン:監督 「M★A★S★H マッシュ」(1970)  ロバート・アルトマン:監督を含むブックマーク

 もちろんむかし観ている作品。ちょっと後半の「小倉」での展開が、「あれってどういうことなんだっけ」と、記憶にあいまいなところがあったのだけれども、しゃっかりと理解した。こんかいは、歯科医ペインレスの「最後の晩餐」のシークエンスがこころに残った。「死」ということをちゃかしてしまう作品というのも、ちょっとほかに記憶がない。このあたりの展開、そりゃあ観ていておかしいのだけれども、なんだかズシリと来るようなところもある。この作品が「傑作」とされることには、この「最後の晩餐」が重要なファクターになっているわけだと思った。


 

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■ 2013-08-05(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 きょう、勤め先から「スキルアップシート」というものを受け取ってきた。帰ってからみてみると、つまりは査定シートらしいのだけれども、まずさいしょに「自己評価」の欄があり、セルフチェックせよ、とのこと。用紙の上半分は「基礎評価給の評価」などと書かれていて、「身だしなみはきちんとしているか」とか「休憩時間を守っているか」とか、「職場内のルールを遵守しているか」みたいな項目が並んでいる。‥‥アホらしくなった。小学生じゃないんだから、という気分になる。下半分は「資格給の評価」ということになっているけれども、わたしなどがやっている業務とはかかわりのない職能ばかり並んでいる。そういうスキルを持っていないのだから、資格給には値(あたい)しないということになるんだろう。‥‥ばかばかしくなった。まじめに考えているとストレスがたまるだけ。全欄を空欄にして何も書き込まず、いちばん下に「わたしは会社の業務に貢献しているものと思っていますけれども、それらのことはこのシートに書かれている項目とはまったく別のところでやっているとしか思えないので、チェック不能です」と書き込んで、あした提出することにした。‥‥そのことが会社の狙いなのかもしれないけれども、辞めたくなってしまった。

 HDDに録画した映画タイトルをチェックしていて、「はたして、この作品はもう観たんだっただろうか?」とわからないような作品があったので、早送りしてチェックしてみた。いくつかのシーンがなんとはなしに観たこともあるような気もしたのだけれども、ストーリーの展開などまるで記憶にないし、先に進んでいくと「まったく観たことがない」という印象になった。はたしてどうなのか、この日記で検索してみると、なんと、この四月ぐらいにちゃんと観たことのある映画だった。けっこうこの日記には踏み込んだことも書いてあり、ただぼんやりと観ていたわけでもないような記述ではあった。‥‥ちょっとばかり、ショックだった。さらに、この前後に観た映画のタイトルをチェックしてみたのだけれども、その大半の作品の記憶がまるで残っていなかった。ショックをこえて、おそろしいことに思えた。

 たしかにわたしは六月に「一過性脳虚血発作」と診断されたわけだけれども、この日記を読むと、そのまえからおかしな状態がつづいていたことは読み取れる。‥‥どうも、そのあたりでこの部屋で観た、録画してあった映画作品の記憶が、ぼそっと抜けてしまっている気配がある。この日記に「観た」としるされていても、まるでその内容を思い出せない作品があまりにたくさんある。そのことをたんじゅんに、自分の疾病と結びつけてしまっていいんだろうか。いやいや、もっと根深い「なにか」があるのではないのかと、疑心暗鬼の気もちにもなる。いちおうこの日記をチェックして、六月以降に観た映画についてはその記憶もだいじょうぶみたいだけれども、やはり五月以前のものがダメ。一過性脳虚血発作の発症期ともかさなるので、やはりそれとの関連はあるのだろうか。つぎに通院したときに聞いてみようかと思う。

 ‥‥そういうあれこれで心(こころ)なやませ、しごとから帰宅したあとはほとんど何も手につかず、ぼぅっと過ごしてしまった。‥‥今日はダメ。

 ところがこれが、「今日はダメ」と書くと、それがわたしの中学生のときに人気のあった「ザ・モンキーズ(The Monkees)」のファーストアルバムのなかの曲、「This Just Doesn't Seem To Be My Day」という曲の邦題だったことを思い出してしまうのだから、記憶力というものはおかしなものだと思う。やはり、なんでもかんでも吸収してしまおうという時期はあるわけだし、その時期に吸収したものは、ちっとやそっとなことでは消え去らないものなのである。‥‥なぐさめにはならないけれども。


 

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■ 2013-08-04(Sun)

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 きのうで、わたしがミイのことを知ってから四年経ったことになる。あのときミイはうちのベランダの向かいの駐輪場の、そこにとめてある自転車の荷台にすわっていた。すぐそばでのスズメたちの挑発に見向きもせず、わたしは窓から「おもしろいネコがいるなあ」とみていたのだけれども、そのあとにうちのベランダにあがってきたのがミイだった。その日からわたしは、すっとれんぞくしてこの日記を書いている。この日記をこうやってまいにちまいにち更新しているのは、そのはじまりがミイとの出合いの日だったから、という意識でやっていることである。

 ‥‥この日記の管理ページに、きのうで1463日間継続中と出てくるので、ミイと出会ってからそれだけの日にちが経ったんだ、ということがわかる。しかし、じっさいにわたしがミイと仲良く親密に交流したのは、その出合いからわずか一年足らずのあいだにすぎない。それでも、なんて濃厚な一年だったことだろうと思わずにいられない。この日記を読み返してみると、いまではわたしの忘れてしまっていたようなことがらがあちこちに書かれていて、あらためてミイへの追憶で目頭が熱くなるのを感じてしまう。

 いまでは、わたしがこうやって、まるで係累のない土地へ転居してきたのは、まちがいなくミイと出会うためだったと確信しているし、その忘れがたみのニェネントを育て、共に暮らすことは、わたしの使命だとも思っている。‥‥ペットとしてネコを飼っておられる方はそれこそ何十万、何百万といらっしゃるだろうけれども、はたしてその飼いネコのお母さんのことやお父さんのことを知っていらっしゃる方など、どれだけの数になるだろうか。‥‥そのお母さんネコはじつは野良ネコで、にもかかわらず、その末期のときにわたしの部屋にさいごのちからをふりしぼってやって来て、その子であるニェネントとわたしとに看取られて亡くなったなんて、世界レベルでみても例がないんじゃないだろうか。

 わたしはもちろんずっと、ミイとの出合いに運命的なものを感じている。わたしにとってミイがとくべつの存在であったように、ミイにとってもわたしがとくべつな存在だったのだとすれば、そのことにうぬぼれるのではなく、ミイの遺児のニェネントとしっかりと生きて行かなければならない。そうしてこそはじめて、わたしからミイのことをほんとうに「運命のネコ」だといえるようになり、ミイにとってわたしが「とくべつな」存在だと思ってもらえたことの、その証明になるだろう。そんなミイの気もち(遺志)を裏切らないことこそ、わたしの使命なのである。

 カレンダーは八月になり、だんだんにまた暑さがぶり返してきた。このあいだ西のスーパーで買った巨大なかつおのパック、ニェネントにちょっとあげてみたけれども、やっぱり食べようとしなかった。また水煮してみようかとパックから出して包丁を入れてみると、これが全身骨だらけ、だった。まだまえに買ったまぐろの方がずっと骨も少なかったし、水煮したあとも「食べられそう」というふんいきがただよっていた。こんかいのかつお、水煮したあとはいっそう「これは食べられない」というふんいき。臭気が「食物」のものではなくて生ゴミっぽいし、口に運んでみようという気が起こらない。まえのまぐろはカレーのなかに入れたりしておいしかったけれども、このかつおはまさか、カレーのなかになど入れられない。もっちろんニェネントも「クン、クン」とにおいをかいでみただけで皿をまたいでいくし、そのまま捨てることにした(もともとゴミだったんじゃないのか)。まあ百円だったからねと思ってみても、食べ物を捨てるのはちょっと抵抗もあったのはたしか。

 

[]「ブロンテ姉妹」(1979) アンドレ・テシネ:監督 「ブロンテ姉妹」(1979)  アンドレ・テシネ:監督を含むブックマーク

 ‥‥「死にざま」の、見本をみせつけるだけのような作品。役者には、死に顔を演じさせる。‥‥そうか、そうなのか、ブロンテ三姉妹とその兄とは、その「死」こそがもんだいだというわけだろうか。わたしが知りたかったのは彼女らの創作の秘密みたいなところではあったのだけれども、そういうことは「知りまっせん」という作品だった。

 わたしは彼女たちはいっしゅのゲーム感覚で、三人顔を寄せあってわいわいがやがやとストーリーを練り上げていく体験があったんじゃないかと想像しているけれど、そういう「想像してみる」という映画、ではなかったわけだ。


 

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■ 2013-08-03(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 わたしが思っているのはつまり、なぜわたしのなかで、外界を「美しくヴィヴィッドな」と感じとる感覚と、外界から「恐怖感」のようなものを感じる感覚とが、そのほかの感覚をおしのけて圧倒的にわたしを支配するように思えるのか、ということ。いったいなぜ、このふたつの感覚が、対義項のようにいまのわたしを支配するんだろう。

 「美しい」の対義語を、きのうは「醜い」と書いたけれども、「醜い」ということばは、ふつう自然の風景などには使わない。たとえ「美しい自然」だとか「美しい風景」といういい方がふつうのものであっても、「みにくい自然」、「みにくい風景」とは、おそらくは決していわない。「醜い」というのは、人の容姿や人のつくったもの、そういうものだけを指していうのではないだろうか(または、美学的に定義され得るものだろうか)、ここで「美しい」ということばをそういう人的、美学的なことにかぎり、その対義語を「醜い」とするということは理解できる気はする。では、「美しい自然」だとか「美しい風景」の真逆(まぎゃく)には、どういう自然、どういう風景が考えられるだろう。わたしはそこに、たとえば台風に襲われている風景、津波の到来した風景、地くずれを起こしている風景などを思い浮かべる。‥‥それは、つまりは「恐怖」を呼び起こすものなのではないだろうか。

 ここでわたしは、いまのわたしの感覚器官を支配するふたつの感覚、「美しくヴィヴィッドに感じる」という感覚と、「恐怖」を呼び起こすような感覚とが、まさに対極に位置するものだと了解できる気がする。
 ここで自室にある広辞苑(古いもので、いまはある意味でめずらしい「第一版」である)で「うつくし」を引くと、<ある事物に愛情を感じるさま。または愛情・好感のもてる事物の状態をあらわす語>とある。「なあるほど」という気分。ついつい、「美しい」ということばを呼び起こす感覚を「きれいなもの、うるわしいもの」につなげて考えてしまうのだけれども、それでは考えが浅いというのか、その感覚を認識したことになっていなかったわけだろう。ここでわたしは、いまのわたしのなかで「美しい」と翻訳される感覚と、「恐怖」を呼び寄せる感覚とが、対立項のようにしてひんぱんにあらわれる理由がわかった気がする。‥‥もちろん、それでは「愛情」だとか「好感」の対極にあるのが「恐怖」ということになるのか、それもまたちがうだろう、ということにもなりそうで、そのあたりを書くとまた終わらなくなってしまうけれども、わたしのなかではこれで納得するものがある。そのことだけ書いておく。まだ、自分の「内界」についてはまるでわかっていないけれども。

 とりあえずわかったこと。‥‥わかっていたことではあるけれども、わたしの精神状態はよろしくない。きょうも、ある人に宛てて妙なメールを書き、そのまま発信してしまったりした。「おかしな人だ」と思われるだろう。

 午後になって、となりの市できょうの夕方からジャズの野外コンサートがあることを思い出した。せんしゅうポスターをみかけたときから「行ってみよう」と思っていたのに、きのうきょうとすっかり忘れてしまっていた。いまならちょうどいい気分転換にもなってくれるだろうし、なによりも無料コンサートなのがいい。コンサートは五時からなので、四時半にここの駅を出る電車に乗って行くつもりで準備をした。

f:id:crosstalk:20130804113428j:image:right 冷やした紅茶を保冷ケース(あんまり効き目はないけれども)に入れたペットボトルに移して、バッグに入れて電車に乗った。該当駅で降り、十分ほど歩くと会場に着いた。そんなに大きな公園ではないかもしれないけれども、中央のステージからゆるいすりばち状に周囲がせりあがっている。そこにパイプ椅子が設置され、公園の周囲にはテントが張られ、アルコールを含むいろんなドリンクや、いろんな軽食類が売られている。もう、けっこうな数の観客が集まってきている。わかんないけれども、千人ぐらいかなあ。演奏はもうはじまっているのだけれども、やっているさいしょのグループは県内のどこかのジャズ愛好会かなんかで構成されたビッグバンドという感じで、わるいけど、本番まえのBGMというところ。‥‥会場内で売られているドリンクや軽食はやっぱりすごく高いので、いちど会場を出て近くのコンビニに行き、缶ビールと軽食(おいなりさん)とを買ってからまた会場にもどった。

f:id:crosstalk:20130804113303j:image:left まだパイプ椅子でも空いている席はあちこちに残っていて、けっこう自由に移動もできる。ぎゃくに、パイプ椅子にすわっていらっしゃる方々よりも、そのうしろのテント売店周囲の方が、家族連れの方々も多くってにぎやか。‥‥まあ、演奏中に観客がにぎやかというのはアレなんだけれども、(演奏している人はどうかわからないけれども)わたしは気にならなかった。
 さいしょのビッグバンドがおわり、つぎはヴォイス・パーカッションの方プラス男女のヴォーカル、そしてピアノという四人編成のユニット。けっきょくピアノがリズムになっちゃってるところもあり、ヴォイス・パーカッションの効果はほとんど聴き取れなかったけれども、Stevie Wonder の曲や、Chick Corea の「Spain」とか、楽しめた。とちゅう、ちょっと雲行きがあやしくなり、ぱらぱらと雨が落ちてくることもあったけれども、すぐにやんでくれた。

f:id:crosstalk:20130804113627j:image:right つぎが、いちおうわたし的にはこれを目当てに来たところの、ドラムスにマーティー・モレル(Marty Morell)の入っているユニットの出番。ほかのメンバーはみな日本人で、ピアノ、ベース、フルートにプラスして、ヴォーカル/パーカッションの女性。どうもこの方はラテン・ミュージックの分野をフィールドにされているようだった。
 さて、わたしはほんとうのところ、Marty Morell 氏のドラムスというものがそんなにすごいのかどうかというと、ちょっとわかんないところもあるんだけれども、いちおうステージでは毎回、Bill Evans のレパートリーもやってくれるそうなので、とにかくはそれに期待。座席も移動して、ほとんどステージの直近の下手(しもて)側、バックステージに近い位置で聴いた。こういうことができるフェスティヴァル、すばらしい。
 ‥‥やっぱり、期待したとおり、「Waltz for Debby」のヴォーカル・ヴァージョン、そして「Love Theme from Spartacus」のヴォーカル・ヴァージョンと、二曲のBill Evans のレパートリーをやってくれた。ピアノもまた、Bill Evans のピアノをやってくれる場面もあり、とにかくは楽しめたし、やっぱりここで「Love Theme from Spartacus」を聴けたのが、ほんとうにうれしかった。

f:id:crosstalk:20130804113752j:image:left こうやって演奏するミュージシャンの姿をすぐにそのそでからながめ、その生(ナマ)の音をダイレクトに聴いていると、もうよけいなことなんか頭にうかんだりしない。特に自分のよく知っているメロディが流れたりしていれば、(こんなこといっちゃアレだけれども)その演奏の質なんかもんだいじゃあないところもある。場のふんいきにもしっかりと浸って、おおげさなことを書けば、ほんとうに命が救済された思いになった。きょう、ここに来て、ほんとうによかったと思えたひととき、だった。

 トリは、この地元出身という実力派ピアニストをフロント・アクトにしてのトリオ。ドラムスの人はリーダー名義でのアルバムもリリースしているらしく、一曲目とかちょっとすごかった。ベースの人もそのドラミングに対抗してか、ものすごくがんばられていた。そういう、ソロのパートで聴かせながらも、ユニットとしてのトータルなサウンドを感じさせるあたりが、やはり現在型のユニットなんだなあ、とは思った。このあたりでまた雨が降り出してきて、じかん的にも「わたしはもうそろそろ」というところではあったし、もうちょっとピアノの音を聴きたいところはあったけれども、帰っちゃうことにした。

 駅までの道でけっこう雨は降りつづいていたけれども、駅に着くころにはほとんどやんでいた。駅のホームで電車が来るのを待っていたら、ちょうどさっきの会場のあたりから、花火の炸裂音が響いてきた。たしかMCでもフェスティヴァルの締めには花火を打ち上げるといっていたので、それなんだろう。ホームの端まで歩いてみたら、その花火の閃光をみることもできた。‥‥ちょっと、しょぼい花火、だった。

 帰宅して、部屋の鍵をあけると、ニェネントがお出迎えしてくれた。「おるすばん、ありがとうね!」って、卵黄を割ってお皿に出してあげた。

 きょうは、夕方からは、理想的なとってもいいじかんをすごせたけれども、あしたからはどうなるんだろう、なんて考えたりして、なかなかに眠れなかった記憶がある。それでも、きょうの夜はステキだった。けっこうわたしもたんじゅんだなあ。


 

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■ 2013-08-02(Fri)

 きのうのあさの、職場へ向かうときにみた空の光、湿り気をおびた空気、そういうものにつつまれた建物の色彩とかが、きょうになっても鮮明に思い出された。そのことを、「外界は美しい」と、こころのなかでことばにしたとき、その外界というものの反対概念とは、つまりは「内界」と呼ばれるものだと気づいた。しかしわたしはここのところ、わたしの「内界」というものをまるで信頼していない。たとえ「外界は美しい」と感じたとしても、それがわたしの内面、内界の声だと思うと、そのことを信頼などできなくなってしまうではないか。そうなんだろうか。‥‥わたしの身体の、視覚器官や聴覚器官を通じて得られるものもつまりは、それがわたしの「器官」を経て得られるものだから信頼できないということになるのか。
 きっと、そうではなくて、その器官から得られたものを、こころのなかで「ことば」にするときに、どうじに信頼できないものに成り下がってしまうのではないのか。

 わたしはいま、ふたつの大きな感覚の状態に支配されることが多いのを認識している。これはおととい書いたことだけれども、ひとつは「美しくヴィヴィッドに感じる」というもの、もうひとつは、いいあらわしにくい「恐怖感」のようなもの。これらの感覚をわたしはむりにことばにして、一方を「美しくヴィヴィッド」、もう一方を「恐怖」などとしているけれども、これらのことばは、まったくその実質に対応していないと思う。
 たとえば、一方に「美しい」というものがあれば、その対義にはふつうは「醜い」というものが来るかも知れない。「ヴィヴィッド」の対義語は知らなかったけれども、さっき調べたら、「vivid」に対しては「dull」ということばになるような。‥‥でもいまのわたしには、その「美しくヴィヴィッドに感じる」ということの対極に「恐怖感」があるとしか思えない。
 ではぎゃくに、「恐怖、恐怖感」の対義語とは何なのか、などと考えようともするのだけれども、まずはわたしのいだくその感覚を「恐怖」と名づけていいのかどうか、わからないところがある。まあこのことは「美しくヴィヴィッド」と感じることにも正当性はないのだから、おなじようなことだろう。それで「恐怖」の対義語を考えるのだけれども、これがわからない。うちにある「広辞苑」はこういうことにはまるで役立たずだし(「恐怖」=「おそれること」ぐらいの記述でしかない)、ネットで検索してもわからない。「恐い」ならその対義語は「嬉しい」ということになるらしいけれども、「嬉しい」の対義語はもちろん、「悲しい」である。英語で「恐怖」を「fear」とすれば、その対義語は「fearless」になる、ということが書かれているところがあった。これはちょっとおもしろいけど、つまりは「恐いもの知らず」みたいなもの。これもやはり、ちがうだろう。わたしはただ、「美しくヴィヴィッドに感じる」ということに対義して「恐怖感」というものが出てくるとわたしが感じる、その根拠をさぐりたい。このふたつの感覚の正体を知りたいのである。

 ‥‥なんだか、めんどうなことを書きはじめてしまった。神経症なんだろう。このことはもうちょっと先まで考えてあるのだけれども、あんまりに長くなってしまうので、きょうはここまで(あしたになったら気がかわっていて、もうつづきなんか書かないかも知れない)。きょうはイヤな事件もあったのだけれども、そのことも書かない(そのうちに気がかわって、つらつらと書いてしまうかも)。

 昼すぎからひさびさに図書館に行って、三冊ほど借りてきた。まだ「夢遊の人々」もだいぶ残っているのに。帰宅してしばらくするとその図書館から電話があり、「なにごと?」と思ったら、まえにリクエストしてあった本(阿部和重の「□(しかく)」)が入荷したので、受け取りに来てほしいということだった。‥‥さっき、行ってたのに‥‥。

 「画像安定装置」の使い方もだいたいわかり、きょうはDVDへのダビングもうまく行った。よかった。こんどはわたしに効く「安定装置」がほしい。きのうの「ワーキング・ガール」をちゃんと見直したり、ひさびさに眠狂四郎のシリーズもみたりした。

 いま、わたしのけっこう近くでニェネントが丸くなって眠っている。みていると、寝息でおなかがふくらんだりへこんだりを繰り返していて、ときどき、頬やまえ足の先をピクッとけいれんさせたりしている。夢をみてるんだろうか。‥‥下半身に肉がついて、お母さんのミイの体形を思い出させられるようになった。わたしはミイのことをひそかに、「下半身ブス」と呼んでいた(ひそかにじゃなくて、声に出していてもミイにはわからなかっただろうけれども)。ニェネントも、そうなってしまうのか。

 

 

[]「ワーキング・ガール」(1988) マイク・ニコルズ:監督 「ワーキング・ガール」(1988)  マイク・ニコルズ:監督を含むブックマーク

 WTCのツインビルもみえるニューヨーク。当時の女性たちのヘアスタイル、メイクなんかにびっくりしてしまう。主演のメラニー・グリフィスもすごいけど、その友人役のジョーン・キューザックは強烈すぎる。‥‥ぜったいにこんな種類のしごとなんかこなせっこないようにみえるメラニー・グリフィスを使って、こんなサクセス・ストーリーにしちゃうんだからすごい。すごいというのはつまり、どこかでリアリティをふっとばしてしまい、どこかでファンタジーにしてしまっているということなんだろう。それで観ていても「ケッ!」とか思わせないで、メラニー・グリフィスに感情移入させてしまう。わたしがメラニー・グリフィスを天使とみまごうというのも無理はないのかもしれん。

 だいたい、何度も出てくるオフィスのなかの映像での女性たちのすがた、こいつがなかなかのパワー。男たちをしたがわせてしまうわけである(あとは、クズみたいな男たちもあれこれと出現)。


 

[]「眠狂四郎 魔性剣」(1965) 安田公義:監督 「眠狂四郎 魔性剣」(1965)  安田公義:監督を含むブックマーク

 「おじさーん!」と、こどもに慕われる狂四郎。殺陣、殺りくシーン満載の80分。ひょっとしたらこの作品で狂四郎は百人ぐらい斬り捨てているだろうか。サーヴィスの黒ミサ儀式、サーヴィスの毒蛇を使う女性の刺客など、ほんとうにサーヴィスでしかない。それでも、撮影だとか楽しめるところは多い。


 

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■ 2013-08-01(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 こないだから聴いているLaura Marling の「Once I Was An Eagle」の、CDについていた歌詞カード(ブックレット)が、どこに行ってしまったのかわからなくなってしまった。ベッドで聴きながら読んでみようと持ちこんだような記憶はあるのだけれども、どう探してもみつからない。ほとんど眺めもしないうちに失せてしまった感じで、ざんねんである。わたしという人間の、その一貫性、連続性もあやうくなっているわけだから、わたしがどういうことをやっていたのかもわからない。その結果としてブックレットも紛失しているんだろう。

 きょうはしごと。あさ、家を出て職場に歩くとき、むかし滞在したことのあるドイツの郊外の町のことを思い出したりした。きのうの夜に雨が降ったようで、空気が清澄に思えるし、その視覚深度が深い。こんなに深くまで視線が届いてしまうというのも、(調子いいことを考えれば)なんだかわたし自身が生まれ変わったような気分にもなる。
 きょうのしごとはAさんとふたりだったけれども、しごと量はふたりでこなすにはあまりに大量。七月のシーズンよりもいそがしく、定時もすこしオーヴァーしてしまったし、疲労度も、ことしいちばんだった。また調子がわるくなるのではないかとしんぱいもした。

 感覚器官的にはおちついてきているようで、もう脳内乱反射現象のようなことは起こらないけれども、やはりまだTVの映像はにがて。ただ、「あまちゃん」とかのように、観ているこちら側から内容にインヴォルヴしようとする意思がある場合には、違和感覚は起きないことはわかった。映画などでもだいじょうぶだろう。いけないのは、ただぼんやりとみているだけのとき。

 じつはせんじつ、「画像安定装置」というものの購入をネット通販に申し込んで、支払いもすませていたのだけれども、その現物がきょう届いた。‥‥つまりげんざいは、放映される映画作品などをHDDにどんどん録画しつづけているわけだけれども、そのHDDが満杯になってしまっているわけで、とにかくはその中身をDVDにダビングしてしまおうということ。いまのままではノイズが入って、せっかくDVDレコーダーを持っているというのにまるで役に立たなかったわけだけれども、あいだにこの画像安定装置をかませてやれば、HDDの中身がDVDにダビングできることになる。
 ‥‥いちおう接続してDVDをセットして、テスト的にHDDに入っていた「ワーキング・ガール」をダビングしてみる。これが、高速ダビングとかはやっぱりできないようで、リアルタイムかかってしまう。ちょっとモニターで観ていたら、出演しているメラニー・グリフィスがなんだか天使のようにみえてしまった。別にひいきにしていた女優さんというわけでもないんだけれども、なんか、ここでこうして、メラニー・グリフィスの笑顔に出会えたことで、ずいぶんと癒された気分になってしまった。
 別に作品をつきっきりで観ていたわけでもなく、とちゅうでお出かけしたりしてダビング終了。ところが、どうやらDVDの側の初期設定かなにかで不充分なところがあったようで、ファイナライズできんかった。しっぱい。

 きょうはひさしぶりに、西の方にあるスーパーに買い物に行ってみた。木曜日で、きほんは全品一割引き。部屋のバスルームのまえのライトが切れてしまっているので、電球型の蛍光灯を買う。あとは牛乳、バナナ、カットトマトの缶詰など。ホットドッグ用のロールパンが半額になっていたのも買い、このスーパーでも魚肉てんこ盛りのパックが百円で売っていたのを選んだ。こんどは「かつお」。1キロちかくあるんじゃないかと思える量。こんやはまた自家製カレーをつくることにしていて、そこに青菜を入れてみたいのでほうれん草も買った。会計は1001円だった。

 夕食は予定どおりカレーをつくる。きのう水煮したまぐろ肉をまぜてみた。けっこうおいしく出来たと思う。キッチンに寄ってきたニェネントに、買ってきたかつお肉をあげてみる。ちょっと食べたけれども、すぐに飽いてしまったみたい。やはりこれも水煮してみようか。ニェネントより先に、わたしが食べてみよう。

 

 

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