ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2013-10-31(Thu)

f:id:crosstalk:20131031111613j:image:right 気分転換に、駅の北側の方を歩いてみた。飲屋街のある裏通りにはいったら、二匹のネコのすがたがみえた。首輪もみえないし、どちらも野良ネコみたいである。しやがんで、持っていたケータイで写メールしようとしたら、片方のネコはわたしの方に寄ってくるのだった。手を伸ばすと、顔を近づけてくる。きっとこのあたりは小料理屋や居酒屋も多いから、そういう店の人たちやお客さんたちにかわいがられているネコなんじゃないだろうか。

         f:id:crosstalk:20131031111811j:image



f:id:crosstalk:20131031111628j:image:left ちょっとわたしのことを警戒していた方のネコ、どうも、ミイの血縁じゃないかという気がした。黒白のぶちだし、ミイのように眼が黄色かった。この、駅の北側の方を歩くと、ときどき、ミイの血縁ではないかと思える野良ネコのすがたを見ることがある。

 ぐるりと歩いて線路を越え、また南のスーパーへ寄ってみた。このあいだパイナップルがおいしかったので、きょうは一個まるごと買ってみた。あと、賞味期限がせまって半額になったクロワッサンなど。
 帰宅して、買ったクロワッサンを食べていると、ニェネントがぐんと近よってきて、クロワッサンを持ったわたしの手先に鼻をよせてくる。「え? ニェネントくん、パンなんか食べるんですか?」と、ちょっとちぎってあげると、パクパクと食べちゃった。今までパンなんかあげたことなかったから、パンも食べることを知ってびっくりした。

 まだわたしの気分はすぐれないのだけれども、そこにはこのところのわたしの飲食物も、かんけいしているのではないかという気もする。
 まずは朝食のために大量に買ったオートミール。おいしくないというわけでもないのだけれども、続けると下痢っぽくなってしまうわけで、きっとミルクのせいかも知れないのだけれども、このところは以前のようにトーストに切り替えている。まだようやく、買った分の四分の一を食べたにすぎないのだけれども。
 そして、このあいだの「かつお」を入れたハヤシライス。これは、はんぶんぐらい食べたところで残りは捨ててしまった。食べ物を捨てるという行為がイヤだったし、なんか、つまらないものをつくってしまったという記憶が、いまでも残っている。
 そして、せんじつ百パックまとめて買ったアールグレイの紅茶。これがまた、おいしくない。というか、淹れると薬臭いような気がして、ほとんど飲めないでいる。まえに買った、同じ低価格のイングリッシュ・ブレックファーストはそれなりに飲めたのに、これまた「失敗したな」という感覚。スーパーに行くと「あたらしい、別の紅茶を買いなおそうか」と思うのだけれども、また「おいしくない」と感じるのもイヤだ。あまりたくさん買わなきゃいいだろうと思うのだけれども、そういう数量の少ないものは、やたら高いのである。単価にすると七、八倍という差になってしまうので、わたしにはそんなぜいたくをする余裕はないし、それで買ってみて「おいしくない」と感じたりしたら、もうどうしようもない。‥‥しかし、今あるアールグレイのティーバッグは、まだ九十袋ぐらい残っている。これを「おいしくない」から捨てるというのも、また気分が落ち込むではないか。


 

[]Alex Chilton - Girl From Ipanema Alex Chilton - Girl From Ipanemaを含むブックマーク

 久しぶりに、[今日のPlay List]というのを書いてみる。

f:id:crosstalk:20131101102957j:image:right ちょっと気を引き立てようと、このところあんまり閲覧していなかったYouTube で、好きな音楽でも検索してみることにした。「わたしのいちばん好きなアーティストって、いったい誰だろうなあ」などとかんがえると、Alex Chilton の名まえが浮かんだ。検索してみると、彼のニューディスク、「Electricity by Candlelight」からの曲がいっぱい、アップされたばかりのようだった。そうだ、あたらしいライヴアルバムがリリースされるのは、ちょっと前にチェックしてあったことだけれども、もうリリースされていたのだ。‥‥もちろん、Alex Chilton は三年半まえにお亡くなりになられているわけだから、古い録音であることはとうぜんのこと。この新譜のサブタイトルには、「NYC 2/13/97」とあるから、もう十六年いじょうまえの音源である。彼の来日よりもまえ。

 ‥‥その、YouTube 上のニューディスクの音を聴いてみると、なんか、変、だった。しょうじきいって、音の完成度が低い気がしたし、録音も良くない(おそらくは客席からの録音)。しかし、雰囲気はいいというか、まるでホームパーティーみたいな盛り上がり。「いったい、どういうこと?」と、ネットで検索すると、理由がわかった。
 まずはこの97年の2月13日、彼はニューヨークの「Knitting Factory」でのライヴが組まれていたのだけれども、まず、会場の電源がすべて落ちてしまったらしい(ライヴのどの段階で電気が落ちたのかわからないけれども、想像するに、始まってすぐとか、そういう感じだろう)。それで、誰かがアコースティック・ギターを持って来て、さらに、客席などにはキャンドルライトが並べられたらしい。これでAlex Chilton は、予定になかったアコースティック・ライヴを始めたんだろう。さらに、客のだれかが録音機材を持っていて、このライヴを録音しちゃったと。そういうことから、このアルバムになったということらしい。‥‥どの曲も楽しそう。まさにホームパーティー。

 いくつか聴いてみたけれども、この「Girl From Ipanema」が、めっちゃ楽しい。楽しすぎる。まずはイントロのギターで観客も「イパネマの娘」だとわかるわけで、そこで「Yeh!」って歓声が上がる。そして、歌のなかの「あぁ!」の部分での女性客のコーラス(?)と笑い声。そして終盤の、Alex Chilton らしいギター(これ、彼の何かの曲のリフじゃなかったかと思うんだけれども)への、男性客からの「Wow!」の声とか、「臨場感」というのか、観客のレスポンスが、ひたすらに楽しい。聴いているわたしも、すっごく楽しい気分になり、リピートして、何回も何回も聴いた。おそらく、二十回は聴いたと思う。
 ひょっとしたら、この曲のおかげで、わたしは「うつ」から脱却できるかも知れない。そんな気にさせられたし、じっさいにその通りになるかも知れない。ほんとうに、久しぶりに、楽しい夜になった。やっぱりわたしは、Alex Chilton がいちばん好きだ。

Alex Chilton - Girl From Ipanema


 

[]二〇一三年十月のおさらい 二〇一三年十月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
KUDAN Project「真夜中の弥次さん喜多さん」しりあがり寿:原作 天野天街:脚本・演出
●池田扶美代 x 山田うん「amness アムネス」@KAAT 神奈川芸術劇場

映画:
●「共喰い」田中慎弥:原作 青山真治:監督
●「ムード・インディゴ うたかたの日々」ボリス・ヴィアン:原作 ミシェル・ゴンドリー:監督
●「ビザンチウム」ニール・ジョーダン:監督

Live:
●ホンタテドリ(宇波拓・佳村萠・秋山徹次・庄司広光・菅沼雄太・ニコス・ヴェリオティス)@下北沢・富士見丘教会

読書:
●ふるさと文庫「伝聞ノート1 職人くさぐさ」佐賀純一:編
●ふるさと文庫「伝聞ノート2 商人と街ぐらし」佐賀純一:編
●ふるさと文庫「伝聞ノート3 町場のおんなたち」佐賀純一:編

DVD/ヴィデオ:
●「暗黒街の女」(1958) ニコラス・レイ:監督
●「The Innocents(回転)」(1961) ヘンリー・ジェームズ:原作 トルーマン・カポーティ:脚本 ジャック・クレイトン:監督
●「銀河」(1968) ジャン・クロード・カリエール:脚本 ルイス・ブニュエル:脚本・監督
●「スレッジ」(1971) ヴィック・モロー:監督
●「パリの灯は遠く」(1976) ジョセフ・ロージー:監督
●「遠すぎた橋」(1977) コーネリアス・ライアン:原作 リチャード・アッテンボロー:監督
●「アザーズ」(2001) アレハンドロ・アメナーバル:脚本・監督
●「レイズ・オブ・ヘブン 天のろくろ」(2002) アーシュラ・K・ル=グウィン:原作 フィリップ・ハース:監督
●「永遠のこどもたち」(2007) ファン・アントニオ・バヨナ:監督
●「ノン子36歳(家事手伝い)」(2008) 熊切和嘉:監督
●「劔岳 点の記」(2009) 新田次郎:原作 木村大作:脚本・撮影・監督
●「ヴァンパイア」(2012) 岩井俊二:製作・脚本・撮影・編集・音楽・監督

 

■ 2013-10-30(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 今日もダメ。こうやって「今日もダメ」などと書くと、中学生のころに聴いたMonkees のファースト・アルバムの、「This Just Doesn't Seem to Be My Day」のタイトルを思い出してしまったりするから、記憶というのはおもしろい。でも、この曲の邦題は「今日は不利」というもの、だったらしい。

 それでもこの日は、すこし努力してみた。ちょっとまえに書いたShelagh McDonald の四十年ぶりのカムバックに関してのことだけれども、彼女のファースト・アルバムで、わたしのフェイヴァリット・ソングであるところの「Waiting For The Wind To Rise」という曲が、YouTube で視聴できない。ちょっとばかり、この曲を人に聴いてもらいたいというのがあったので、「それならじぶんで、YouTube にこの曲をアップロードしてやろうじゃないの」などと、大胆不敵なことを思いついてしまったのである。
 ‥‥で、そのあたりのこと、やる前から、想像できることでもあるけれど、純粋に「動画ファイル」の方が、アップロードするのはかんたんだろうと。つまり、わたしがアップロードしたいのは「音楽」なわけで、これはそのままではYouTube にはアップロードできないから、写真とかをくっつけて、「スライドショー」形式にしなくっちゃいけない。

 口でいうのはやさしいけれども、じっさいにやりはじめると、とにかくわけわからない。音源と、使いたいフォトデータはそろえたのだけれども、まずは音源もアップロードできる形式に変換しなくてはならない。‥‥これで、試行錯誤して、いちじかんぐらいかかってしまった。かんたんなことなんだけれども、やるのは初めてのことだし。そして次に、この音に写真をくっつける。Mac に装備されているiMovie というやつでやるんだけれども、もう、ここの段階で、「やめちゃおうか」と、なんども思った。二じかんいじょうはかかった。「もういちどやってごらん」といわれてもできないけれども、とにかくは元のファイルが完成し、アップロードした。ここはいっぱつで成功した。

 まさか、じぶんがYouTube に投稿するような人間になってしまうとは、夢にも思っていなかった。いちおう、「やったね!」という充足感は得られただろうか。‥‥ま、ひとさまが著作権を持つはずの音源を無断でアップしているわけだし、いつ消去されてしまうかわからない。それでも、すぐにYouTube から「Congrats, your video's now on YouTube!」というメールがとどいた。「Way to go, Looks like you uploaded your first ever YouTube video.」という文面。まあね、「初体験」ですけども、「Way to go」などといわれても。

 その、記念すべき、わたしのYouTube へのアップロード第一弾(って、もうやらないと思うけど)ヴィデオは、以下の通り。スライドショーというものでもないけれど、少ない写真で、彼女とネコとのみじかいストーリーをやってみたつもり。ほんとうはラストの写真は違うものを使うつもりだったのが、間違えてしまった。‥‥よろしければ、観てやってくださいませ。

Shelagh McDonald - Waiting For The Wind To Rise

 そのほかのことは、このところのわたしの日常で「うつ」が継続しているけれど、そうやってYouTube へのアップロードを達成したので、多少は「いい気分」だろうか。また南のスーパーへ行って、きょうは「かつおのたたき」やピザを買った。夕食はピザにして、そのあとに「かつおのたたき」。へんな食べ合わせだけれども、どちらもおいしかった。なんとかはやく、今の精神状態からは脱却したい。


 

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■ 2013-10-29(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 この日もまた、まったくダメだった。しごとは非番で休みだからよかったけど、寝ているかパソコンのまえにすわっているかだけ、そういう日になってしまった。きょうも、十二時間は寝ていた。

 CDとかも整理して、いらないものは売りに出すほどのものでもないから捨てようとチェックしていたら、Lee Morgan の「The Sidewinder」が出てきたので、久々に聴いてみた。コレは元気になりそうだったので、近所から苦情が来てもおかしくないぐらいにヴォリュームをあげて、リピートしてなんども聴いた。ちょっと、元気になったけど、それで疲れたのか(まさか、という感じだが)、そのあとはまた昼寝モードになってしまう。

 夕方、暗くなってから起き出して、夕食にした。やはり、かつお入りのハヤシライスはおいしくない。もう、こういう安い魚類のブロックは買わないことにしよう。

 みんなが食事を終えただろうじかんになって、また南のスーパーに行ってみた。このじかんには値引きされるものが多い。ハヤシライスがまずかったので、やはり刺身を買うことにした。500円のパックが半額になっていて、250円。まぐろ、イカとサーモン、タコの盛り合わせ。あとはスーパーのベーカリー製のパンを買う。ここのパンはおいしい。

 帰宅して刺身を食べ、そのあと、パンもすこし食べた。パンを食べていると、ニェネントが寄ってきて、わたしの手のパンにぐいっと鼻先を近づけてくる。刺身のときは無視していたくせに、へんなネコ。

 本も読まずヴィデオも観ず、そのまま、またベッドに上がって寝た。‥‥いつまで、こんな調子がつづくんだろう。


 

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■ 2013-10-28(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 ダメな、いちにちだった。しごとなので早くにアラームで起こされたけれども、眠くてしかたがない。よほど、また寝てしまおうと思ったけれども、もういちど寝てしまうとしごとに間に合わないだろう。無理して起きていて、しごとにも出たけれども、ずっと眠かった。きょうのしごとのパートナーはFさんで、やりやすかった、もちろん、もうひとりのパートナーのGさんだって、やりやすいことにかわりはない。

 帰宅して、やはりあたまがぼんやりとしていて、しばらくはパソコンに向かったりしていたけれども、ベッドに移動して、寝た。それで目が覚めると、もうお昼だった。かんたんな昼食にして、また寝た。外はいちねんに何度もないような好天で、こうやって寝てしまうのはもったいないという気分もあるけれども、起きていても何もやることはない。

 次に目覚めたら、午後の四時ぐらいだった。「そろそろ動こう」と、部屋にころがっているいろんなものを、ゴミ袋につっこむようなことをやってみた。本だとか雑誌だとか、CDだとか、VHSのテープだとか、「もういらない」と判断して、みんなゴミ袋行き。まだまだ、本棚にはいっぱいゴミが並んでいる。そういうのはまた次回。

 夕食も、つくらなくっちゃいけない。「カレーにしようかな」という気分はあったのだけれども、食品棚をみると、十一月が賞味期限の、ハヤシライスのパッケージがあった。だからきょうはハヤシライス。ちょっと破格に、冷凍庫にあったかつおのブロックを使うことにしたし、トマトやじゃがいも、ニンジンもぶちこんだ。かつおを解凍してみると、なんだか、とても「食べられるもの」には見えないものが出てきた。ま、安かったしね。とりあえずぶちこんでみて、食べられなかったら分別して捨てようか、みたいな気分で調理する。その味が鍋じゅうに拡がっちゃうと、本体を捨てるだけではおさまらなくなるんだけれどもね。

 いちおう、「ハヤシライス」完成。ま、食べられないこともなかった(おいしくはない)。食後、また「おいしいもの」を食べたくなって、南のスーパーに足を運んでみた。暗くなるじかんなら、生鮮食料品は値引きされるわけだし。‥‥きょうは、刺身のパックとか、焼酎(ほんとは千五百円以上するのに、六百円ぐらいに値引きされているのだ!)とか買った。半額になっている。なんか、わたしはもう、世の中に「刺身」さえあればいい、かな。帰宅して、焼酎を飲みながら、刺身を食べた。気分はダウナーだけれども、おいしかった。

 まだ時計は九時まえだけれども、もうふとんにもぐり込んで寝ることにした。きょうは、十五時間とか、十六時間ぐらい寝る勘定になる。起きているよりも、寝ている方がいいときもある。


 

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■ 2013-10-27(Sun) このエントリーを含むブックマーク

f:id:crosstalk:20131026172831j:image:left きのうの、夕暮れどきの情景。美しかった。

 近所の古着屋で、半額セールが始まっている。まいあさ、しごと場である倉庫に向かうとき、レンタルヴィデオ店といっしょになっているこの店のまえを通るから、「半額セール」ののぼりが並んでいるのがチェックできる。ちょうど借りているDVDも返す期限だし、あたらしい服(古着だけれども)を買うことにした。これが、「うつ」には効く(女の人、みたいだ)。きょうは、だからいっぱい買った。ボトムス(ちゃんと試着して、サイズが合うのを確認。丈も、ほぼもんだいなし)、コットンシャツ、Tシャツの半袖のと七分袖のもの、それとコットンのマフラーを買った。コットンシャツは「Royal Harex」のタグがついていたので「ワオ!」って気分で買ったのだけど、家に帰ってから見たら、「XL」の表示だった。あ、失敗したかな?と着てみたら、着れないことはなかった。というか、特に大きいとは感じない。わたしは「XL」だったんだろうか。TシャツはMade in UKだし、色もデザインも好き。ボトムスもぴったしだし、はじめて買うコットンマフラーというものにも、なんかうれしくさせられる。ずいぶんとハイな気分になれた。やはり、「うつ」のときには服を買うにかぎる。‥‥ちなみに、この5点で1200円(すべてほとんど新品同様、といっていい)。いま、わたしが持っている服の、だいたい90パーセントは、この古着屋の半額セールで買ったもの(靴も二足、ここで買った)。

 帰り道に、「なにかおいしいものも買いたいな」と、改装された南のスーパーにも寄ってみた。ほんとうは、刺身とか寿司とか、そういうものを買いたいところはあるんだけれども、それは「食事」になってしまうので、もっとこう、軽いものがいいと思う。これが、みつからない。たいていのスナック類は塩分がつよすぎて「パス」するわけだし、甘いものにも食指は伸びて行かない。店のなかを、三周ぐらいしてしまった。けっきょく、パイナップルをカットしてパッキングされたものを買った。帰宅してコレを食べたら、予想以上においしくって、ちょっと泣けてしまった。おいしいものは、いい。その、自分に合った「おいしいもの」を探すのがたいへん。

 そういうことで、きょうはかなり、気分的にはよかった気がする。食事は、昼も夜も、きのうつくった「肉じゃが」。

 Aさんから夜にメールをもらい、映画「Wの悲劇」を観たけど、そこに蜷川幸雄が出ていて笑えたということだった。「それだったら、吉田喜重監督の<樹氷のよろめき>にも出てたよな」と思ってAさんにメールして、その、「樹氷のよろめき」というタイトルを、ふたりで楽しむ。

 服を買ったりしたおかげか、きょうは、体調も心的状態もわるくなかった気がする。ニェネントも元気そう。しかし、ニェネントのスケジュールだと、そろそろ発情期という時期になる。

 きのう、葛原妙子さんの歌集にまたきょうみを持ち、検索すると、彼女の「全歌集」というものが出版されているのがわかった。けっこう高価なものではあるけれども、こういうものは絶版になるともう、お目にかかる機会もなくなってしまうものだろう。わたしの残りの「生」がどのくらいあるのかわからないけれども、彼女の「全歌集」で、その残りの「生」を埋めるのがいい、と思ってしまう。


 

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■ 2013-10-26(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 グロテスクが、だめである。そして、その「グロテスク」の範疇が、わたしのなかで思いがけない拡がり方をしている。ふつうには「グロテスク」とは定義されないものをそう思ってしまうのは、それらに対したときに、その「グロテスク」ということばがあたまに浮かぶから、そう呼ぶのである。また、そういうものはきまって、わたしの不意をついて登場して来るので、ショックも大きなものになる。アート系のパフォーマンスの写真とかも、たいていは「グロテスク」と感じてしまう。
 TVのヴァラエティ番組が受け付けられないということは、しばらくまえに気づいていたけれども、このところはコメディアンらのポートレイトだけで、ダメである。それが、一般の人たちのポートレイトからもダメージを受けるようになっている。インターネットを閲覧していると、いくらでもこういうものに出くわしてしまう。ページをくくるとほんとうに不意にそういう画像が眼に飛び込んで来るので、ダメージも大きい。もう、ネットの閲覧はやめようかとも思っている。

 音楽もまた、「グロテスク」と感じるものがある。B-52's のベスト盤のことは書いた。むずかしいものだと思う。視覚的なもの、聴覚的なものは、こちらがこころの準備も出来ないのに、とつぜんにちん入して来るから、というのもあるだろう。映画などはちゃんと「展開」というものがあって(ないものもあるけれども)、観ている側も、その展開のなかに神経を没入させているから、たとえ「おどろかせる」ような演出があっても、わたしとしてはだいじょうぶである。健康だったときとおなじように観ることが出来ていると思う。おそらくは、写真ではダメであっても、アート系のパフォーマンスをじっさいに観ても、それはそれでだいじょうぶなのではないかと思ったりする。

 きょうは、またまた台風が接近して来ていて、あさから雨。けっこうはげしく降ったりもする。しごとを終えて帰宅してからも、気分もすぐれない。ニェネントはわたしのベッドの上でずっと寝ている。

 寝ているニェネントを見ていて、ふいに、葛原妙子も、ネコが好きだったんじゃないかと思ったりした。‥‥こういう暗い天候もあって、ふいに葛原妙子を思い出してしまったのだ。わたしのうろ憶えの彼女の短歌のなかには、ネコをうたったものは記憶にない。「どうだろう」と検索してみたら、予想以上にたくさんヒットして、ぎゃくにおどろいてしまった。

もの云はぬことのよきかも振り返る猫をりて何もみつめてをらず

 彼女の未刊歌集「をがたま」の、その補遺、らしい。読んでいないわけだ。

 ‥‥わたしが机のまえで音をたてると、ニェネントもこちらを振り返るけれども、ニェネントもやはり、「何もみつめていない」のだろうか。
 もういちど、部屋の「昭和詩歌」のアンソロジー本を開いて、「葛原妙子」のところをくくってみると、まだネコを主題としたものはあった。

猫とても合掌することあれば 寂しき雷鳴の夜にしあれば

 これは、彼女の「朱霊」のなかの歌。「朱霊」からはちょっとキリスト教への意識がうかがえてしまい、わたしの苦手にするようなところはある。

 きょうは、「葡萄木立」のところを読んでいて、つぎの歌にこころを持って行かれた。

そこにありつつ見えざりし人ふと在りて秋の日微かなるわらひをぞする

 この短歌も、葛原妙子さんの短歌らしくも、読んで「恐怖感」を呼び起こされてしまうけれども、いまのわたしには、こういうものがいい。


 

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■ 2013-10-25(Fri)

 なんだ、「うつ」、だったんじゃないか! と決めると、身体の方の不調は意識されなくなった。そういうことで思い起こしてみると、どうも、六月に「一過性脳虚血発作」と診断されたときから、この「うつ」は始まっていたのではないかと思う。あれこれと紆余曲折しながら、わたしはこの「うつ」を、四ヶ月育ててきたんだろう。けっこう、大きく育った。

 とくに「初めて」の体験ではないし、むかしから、「ネクラ」という評価のそのうらがわに、そういう「うつ」を隠しながらやってきているので、「そうか」という認識ぐらいのものだけれども、こんかいはちょっと大きいな、みたいな感慨はある。熟年性の「うつ」はめんどう、らしいからなあ。あんまり対処しきれないようだったら、心療内科に行った方がいいんだろうか。そもそも、「対処」しようとしてはいけないのだろうか。Self-Medication は危険、なのかも知れない。‥‥まあ、読む人をしんぱいさせても仕方がない。そんなにひどい状態ではない。

 そういうわけで、何をする気にもならず、午後からは長い昼寝をした。音楽はこわいので聴かない。部屋は異様に静か。

 目が覚めると外は薄暗くなっていて、「夕食をつくらなくっちゃ」と思う。そうだ、きょうは「肉じゃが」をつくろう。って、「元気」ではないか。

 すこし煮込みすぎて、じゃがいもが煮くずれてしまったところもあるけれど、けっこうおいしく出来た。食後は、借りている「ふるさと文庫」の、「伝聞ノート 職人くさぐさ」の巻を読み終えた。百ページもない、文庫体裁の本である。こんなのはいちにちで読めなくっちゃいけない。


 

[]ふるさと文庫「伝聞ノート1 職人くさぐさ」佐賀純一:編 ふるさと文庫「伝聞ノート1 職人くさぐさ」佐賀純一:編を含むブックマーク

 十四人の、土浦の職人たちからの聞き書きだけれども、はたしてこの「聞き書き」がいつごろ実施されたのか、わからない。この本の発行されたのは1982年1月とあるから、つまりは昭和五十七年のこと。この本で語っている職人たちは、明治の三十年代から、大正七、八年ぐらいのあいだに生まれた方々。つまり、基本は昭和初期とか戦前の、そのころの職人気質であるとか、世相などについて語る。
 さいしょの、「土蔵倉」について語っておられる方の職種がよくわからないけれども、おそらくは左官なのだろう。むかしの商人は、金がたまると土蔵倉を建てるのが夢だった、ということを語られる。もちろん土蔵倉は耐火建築だから有用性はあるのだけれども、商家としてのいきおいを、そういう「蔵」というかたちで世間に示したいというのがあったのである。そして、ちゃんとした「土蔵倉」というのは、ごまかさないで建てようとするとやはり金がかかるのだそうで。‥‥たしかに、このあたりにも残っている「蔵」というのは見た感じだけでもいかにも頑丈そうで、火事や地震でもびくともしないんじゃないかと思えるところがある。まあ、見た感じで判断出来ないところに「蔵」の本質はあるのだろうけれども。
 ほかに、建具職人の語る当時の風俗だとか、鰹節職人(というのか?)の語る鰹節のつくり方、などというところに、とっても興味を持って読んだ。


 

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■ 2013-10-24(Thu) このエントリーを含むブックマーク

f:id:crosstalk:20131024110816j:image:left しごとから部屋に戻ると、まだニェネントはわたしのベッドの上で寝ていた。こっちを向いたとき、「いいポーズだね」と思ったので、フォトをやってみた。じぶんでいうのもおかしいけれども、きれいに撮れたように思う。ニェネントも三歳と四ヶ月。お年ごろ、ということなんだろうか。

 こういう、ブログとかをやっていると、エゴチェックということはやっておかないといけないのだけれども、そこまであれこれとチェックしなくっても、このごろ、やたらと「マ ン デ ィ ア ル グ」というキーワードで、ここを訪れて来る方が多い。わたしはこのブログでマ ン デ ィ ア ル グのことなんかちっともほめて書いたりはしていないので、どこかで曝されている結果として人が来てるのではないかと恐れる。調べても、わからない。
 いちおうそのあたりのことを書いておけば、わたしは、ずいぶんとむかしには澁澤龍彦とかにハマったたぐいの人間で、そういうところからマ ン デ ィ ア ル グもけっこう読んではいる。しかしそれがあるとき、ふと気づいたのである。そこのところのことは、せんじつ読み終えたばかりの「スワンの恋」の、その末尾のスワンの独白に近いものがある。引用してしまおう。

「まったく俺ときては、大切な人生の数年を無駄にしちまった、死のうとさえ思い、あんな女を相手に一番大きな恋愛をしてしまった。俺の気に入らない女、俺の趣味(ジャンル)ではない女だというのに!」

 まさか「死のうと思った」などということはなかったけれども、いまになって思い返せば、この、スワンの独白がしっくりとくる。これは澁澤龍彦のことだけれども、マ ン デ ィ ア ル グについても大差ない。読み返してみたことはあるけれども、まるで楽しい読書体験ではなかった。
 ‥‥いま、こういうことを書いてしまうということで、別の「曝される」要因をつくっているような気にもなるけれども、いったいどういうところで、このブログに「マ ン デ ィ ア ル グ」というキーワードから訪ねて来る方がいらっしゃるのか、わたしにはわからないのである。マ ン デ ィ ア ル グのいいところなんか、まったく書いてもいないのに。わからない。わからないということは不安でもある。

 とりあえずそのことは置いておいて、きょうもニェネントを公園に連れて行ってみよう、などと思った。やはりおとなしく抱かれたままで、公園までしずかにしている。でも、きょうは地面におろしてあげると、「ほふく前身」モード、だった。「どうしたの」とニェネントの顔をのぞき込んでみたら、わたしを見て「にゃあにゃあ」となく。それは「わたしはイヤだ。帰りたい」といっているわけだった。そうか、やっぱり外はイヤなんだ。あんまり長居しないで、ニェネントを抱いて家に戻った。わるいことをしてしまった。ごめん。

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 さて、わたしの調子も、やはり良くはない。きのう「<うつ>なのかも知れない」と書いたのだけれども、どうもこれがいちばん当たっているように思えてきた。もちろん、身体的にもあまり好調ではないのだろうけれども、心的なぶぶんでの浮き沈みがおおきすぎる。しばらくまえから、ちょっとした視覚的なものに、すごく心的な影響を受けるようになっていることは気づいていた。たとえば、いわゆるグロ系が、ほんとうにダメであるし、ふつうに人の顔写真をみただけで、こころが動揺してしまうことがひんぱんに起きる。そのことが<うつ>ということと結びつけられるかどうなのか、わからないけれども、心的状態が健康ではないということはたしかなことで、たとえばこのところ書いている音楽への反応であるとか、やはり精神状態が正常ではないことの証ではないかと思える。どうしようか。そういう方面の医師に相談した方がいいのだろうか。
 きょうは、それじゃあ陽気な音楽でも聴いてみようか、なんて思って、手近にあったB-52's のベスト盤なんかを聴いてみた。そうすると、これがつまりは「グロ」と感じられてしまってダメ。むずかしいものである。でも、「Give Me Back My Man」は楽しんで聴けた。リピートして、ずっとこればっかし聴いた。
 昼からずっと、友だちとメールのやり取りもやっていたのだけれども、自分で書いていることがだんだんにおかしくなって行くのに気づいて、そこで<うつ>というのが適切だろうと思ったわけでもある。友だちには迷惑をかけてしまったようだ。

 夕方、改装のため休業していた南のスーパーが「きょうから新規開店」だったことを思い出して、行ってみた。このあたりのスーパーは、都心にあるようなスーパーとは敷地面積から違う。「広大」とまではいわないけれども、アメリカの郊外にあるようなスーパーを思わせられたりしていたのが、こうやって改装してぴっかぴかになったりすると、よけいに日本離れして感じられるというか、せんじつ観た「アンドレアス・グルスキー展」に並んでいた、スーパーマーケットを被写体にした作品を思い浮かべてしまったりした。うちに帰ればごはんは炊いて保温にしてあるのに、また「ちらし寿司」とか買ってしまった。帰宅してその「ちらし」を食べ、何もしないでさっさと寝ることにした。ニェネントがまた、ベッドにかけあがって来てくれる。ニェネントがわたしといっしょにいてくれて、ほんとうに幸せだと思った。


 

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■ 2013-10-23(Wed)

 きのうは、Bob Dylan の「Blonde On Blonde」を自己チェックのつもりでかけて聴いて、「なんともなかったじゃん!」というつもりだったんだけれども、これは、この長いアルバムのとちゅうまでのこと、だった。じつは、さいごの一曲、「Sad Eyed Lady Of The Lowlands」になったところで、また、心が乱れてしまった。そこまではまるで平気で聴けたのに、この曲に取り憑かれてしまった。それがなぜなのか、よくはわからないけれども、「生々しすぎる」という感覚はある。それは、Mazzy Star のHope Sandoval の声にもつながるもの、なのかも知れない。この、ただ、ある女性を外から見ているだけの、圧倒的な「片思い」の唄に、この日は、とても共感できると思った。「My warehouse eyes, My Arabian drums」のことも、わかる、と思えた。これらを「あなたの門のところに置いておこうか?」というのも、わかる。「それとも、待つべきだろうか?」 せいいっぱい、そこまでしか出来ないのだ。曲が長いので、さいごまでテンションを持続出来ていないところも、聴き取れる気がした。けっきょく、この曲だけをリピートして、なんどもなんども聴いてしまった。うす気味わるくなってしまった。やはりいまのわたしは、健康ではないのだろう。

 きょうのこと。やはり、あさ起きたとき、世界との違和感を感じた。なんて書くとカッコつけているみたいだけれども、ほかにことばをみつけるのがめんどう。医者に行っても、とてもうまく説明出来ないだろうと思った。それでも、きょうはしごとがあったので、気がまぎれるのだった。わからないけれども、いっしゅのうつ病なのかも知れないと思った。

 こういうとき、ニェネントがいてくれるのが、ほんとうにうれしい。このごろはいぜんよりもわたしにまとわりつくようでもあり、いとおしさが増す。きょうは、キッチンから和室に歩いて行って、和室に二、三歩踏み込んだところで、うしろからふいに、ニェネントに足首をつかまれてしまい、とってもおどろいた。ニェネントはそうやって、わたしと遊びたいんだろう。

 おととい、ニェネントがドアから外に飛び出そうとしたものだから、きょうは、ほんとうにひさしぶりに、ニェネントを近くの公園に連れてってみようと思った。ニェネントにネコ用のハーネスをつけてやり、抱き上げて外に出た。まえに外に出たときみたいな落ち着かない気分でもないようで、けっこうおとなしくしている。公園について、地面におろしてあげても、まえのように「ほふく前進」姿勢ではない。あたりに生えていた草をかじったりした。やっぱりネコって草を食べるのかと思って、「ネコ草を買ってあげようか」と思ったけれども、かじっただけで、食べるわけではないみたいだった。

f:id:crosstalk:20131023133813j:image:right やはり、「寄らば大樹の陰」というのはぜんかいどおりで、公園のまんなかの大きな木の、幹のところに足が向いてしまうニェネントだった。きょうはニェネントの大っきらいな「車」もあんまり通らなかったし、たまに車が通りすぎて行っても、ニェネントは気にしないようだった。ニェネントが「楽しい」とか思っているのかどうか、そういうのはまるでわからないけれども、またこうやって、ときどき公園に連れてきてあげようかと思うのだった。

 きょうはドラッグストアへ行って(ニェネントといっしょではない)、トマトを買ったりしたので、ちょっと遅い朝食は、いつものトーストにトマトもはさんだものにした。おいしかった。ただ、そのあとは食欲もあんまりなく、昼食はなんにも食べなかった。夕食も、トマトやレタスで野菜サラダを仕立てたものだけがおかず。でも、ドラッグストアで日本酒とおつまみを買っちゃったりしていて、そっちはけっこう飲んだり食べたりしたかな。

 YouTube で、きのう書いた「回転」の原版というか、「The Innocents」をみつけていたので、きょうはこれを観た。字幕はスペイン語、かな? 「アザーズ」のアメナーバル監督は、この字幕で観たんだろうかな? 英語はほとんど聴き取れないんだけれども、だからこそというか、セリフに夢中になってしまっていては見えないところが見えたりしたかも知れない。


 

[]「The Innocents(回転)」(1961) ヘンリー・ジェームズ:原作 トルーマン・カポーティ:脚本 ジャック・クレイトン:監督 「The Innocents(回転)」(1961)  ヘンリー・ジェームズ:原作 トルーマン・カポーティ:脚本 ジャック・クレイトン:監督を含むブックマーク

 いやあ、すっごいですよね! この映画! みんな、「シャイニング」のジャック・ニコルソンとかを「すごい!」っていうけれども、こっちの、デボラ・カーの、すさまじさといったら! いやあ、もう、あきれかえりました。眼を見開くとこの人、黒目のまわりが上下左右ぜんぶ、白目になるんですね。そういうこと誰でも出来るのかどうか、知らないけれども、もうこの映画でのその効果は抜群! このスクリーンのなかで、デボラ・カーが眼をむいただけで、観ているこちらは恐怖感に感染してしまう。

 ‥‥ナチュラル言語の英語があんまり聴き取れないなかでの感想だけど、この家庭教師のデボラ・カーって、ひょっとしたら「処女」なんだよね。少なくとも、充実した恋愛体験は持っていない。それで、この屋敷の「古譚」に惹き込まれてしまうし、少年の「おやすみのキッス」にも反応してしまう(もう、この場面の、デボラ・カーの演技の、その凄さといったら!)。

 いちおう、むかしにこのヘンリー・ジェームズの原作の「ねじの回転」は読んでるんだけれども、こういうヒロインの「屈折」というのは書かれていたかしらね? まあ、脚本がすべてトルーマン・カポーティだけでものしたわけでもないだろうけれども、トルーマン・カポーティも楽しんだだろうし、監督のジャック・クレイトンもまた、ここで入れ込んだわけだろう。「シャイニング」が「すごい!」なんていってるんだったら、「いやいや、もっとすごいものが!」と、このきょうれつな作品を観ていただきたいものである。大傑作。


 

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■ 2013-10-22(Tue)

 きょうはしごとは非番で休み。この四日間で三日が休みに当てられていたわけで、きょうがそのラスト。きのうから、ゆっくり休む日にしようと決めてあった。

 あさ、目が覚めると、なんだか夢をみていたような気分だったのだけれども、その「夢」が、思い出せそうでいて、しかと思い出せない。「ふっ」と、その夢のきっかけのような断片があたまに浮かぶようだけれども、それが拡がらない。夢だから「のどもとまで出かかっている」といういい方はおかしいのだけれども、まさにそういう感じ。しばらく、そのままベッドの中で、夢を思い出そうとした。そうすると、頭脳の記憶ではなく、別のところで、まだ自分がその夢のなかにいる気分なのがわかった。‥‥このいい方は、ちがうかも知れない。自分がどこか、きのうまでの自分ではないような気分である。じっさい、きのうのことを思い出してみても、それがいっしゅうかんぐらいはまえのことのように思い出される。なんだか、寝ているあいだに、ずいぶんと濃密な内的体験をしたようなふんいきである。感覚/意識からして、(説明がむずかしいけれども)なんだかいつもとちがっている。「夢」ではなく、じっさいにどこかほかのところで、げんじつのじかんをすごしていたと考えるのが、この状態を理解するにはいちばんすっきりする。「夢遊病」というのではなく、この「わたし」ではない、別の人格として、別のところで生活していたのではないのかという気分。思い出せそうで思い出せない「夢」は「夢」ではなく、「現実」だったのではないかと思う。

 なかなかベッドから起き出せなく、ようやく起き上がったら、やはり、外の世界にきょうれつな違和感があった。しばらくすると、(これも説明がむずかしいのだけれども)心的な空間に変化が起き、別世界に引き込まれそうになる。‥‥このことでひとつ考えられるのは、また何か「発作」が起きそうになっているのだろう、ということ。「このまま死ぬのかも知れないな」などと思ったけれど、たいていのことは普段どおり変わらないし、血圧も、正常範囲を逸脱しているわけでもない。それが、ふとしたきっかけで、引き込まれてしまうようなことが再発する。そのときの気分がまた妙なもので、やはり、「別世界から今戻ってきたところ」みたいな気分というのか、まったくさっきとれんぞくしていない。‥‥病院へ行ってみるべきだろうか。
 パソコンのまえにじっとすわっていると、ニェネントがそばに来て、すぐ右どなりでまるくなった。右手をニェネントの方に出すと、ニェネントがわたしの手のひらに、横から、やわらかくかみついてきた。痛くない。手をうらがえして、反対側をニェネントにさし出すと、そっちにもやわらかくかんできた。ちょっとだけ、痛い。この感覚は「リアル」だ。わたしは、いま、ここで生きている。ニェネントが、そのことをわたしに教えてくれている。ニェネントのあたまを、そっとなでてやった。

 朝食はトースト。きのうつくったパスタ用のトマトソースとレタスなんかをはさんだもの。昼食には食品ストックの棚から賞味期限に近いチーズフォンデュのパックをみつけ、これとトーストパン、かんたんな緑野菜のサラダですませた。

 外はとっても曇っている。別に買うものもないのだけれども、買い物袋を持って、外に出てみた。そう、買い物袋というのは「エコ」というか、このあたりのスーパーやドラッグストアでは、買い物袋を持参して、レジ袋を「いらない」というと、ポイントがつくのである。北の、線路の向こうのスーパーでは、このエコポイントが5ポイントにもなるから、けっこう大きい。
 外を歩くと、室内にいたよりもずっと、違和感がある。まるで「知らない町」を歩いているような気分になる。家並みの記憶が抜けてしまっているというのではなく、まったくまえとはちがったようにみえる。わたしのなかで、いったい何が起こっているのだろうか。ちょっと、幽霊になったような気分だというのは、おかしいだろうか。

 特に何も買わないであたりを一周して帰宅して、「そういえば」と思って、録画してあった「アザーズ」という映画を観る。公開当時に映画館で観た映画だけれども、そういう、霊の登場する映画だったはず。
 ‥‥なるほど、わたしは「アザーズ」になったのかも知れないな。CDでこのところ聴きつづけているMazzy Star の「Seasons Of Your Day」をかけてみた。これが、たいへんだった。なんというのか、聴いていて、ものすごく心が乱れてしまう。おそろしいほどに。きのう、「あんまり聴きつづけると精神がおかしくなりそう」というのは、けっこう真実だったのかも知れない。このCDこそが、元凶だったりして。ちょうどそばに転がっていたBob Dylan の「Blonde On Blonde」を代わりにかけてみたけれども、ホラ、どうってことなかったもの。

 夕食は、残りのトマトソースでスパゲッティにして、早めにベッドに入った。よなかに、ケータイのコールで目が覚めた。こんなこと書いちゃうのもアレだけれども、発信者の名をみると、いぜんつき合っていた女性からだった。いっしゅん、「出ようか」と思わなかったわけでもないけれども、「もうやめよう」と決めていたわけだし、「スワンの恋」をちょうど読み終わったばかりだったし、その「スワンの恋」の末尾で、わたしはじつはその電話の女性のことを思い出したりもしていたんだった。スワンはけっきょくはそんな女性といっしょになるんだけれども、わたしはどうかなあ。‥‥ごめんね(なにを色男ぶってるんだろうね、この男は!)。

 しかし、あしたもこんな調子だったら、やっぱり病院へ行った方がいいのかも知れない。


 

[]「アザーズ」(2001) アレハンドロ・アメナーバル:脚本・監督 「アザーズ」(2001)  アレハンドロ・アメナーバル:脚本・監督を含むブックマーク

 さいしょのシーンからして、ニコール・キッドマン、すっごい熱演だなあ、と思う。これ、ぜったいに「回転」のデボラ・カーの演技を研究してるよね、そういう感じ。演出のアレハンドロ・アメナーバルもまた、「回転」のジャック・クレイトンを研究してるに決まってる。きっと、子役のふたりも「回転」を観せられてるんじゃあないんかしらねえ。だってこれ、とっても良く出来た「続・回転」なんだから、って思う。いちおう検索してみたら、みんな「シックス・センス」だね、っていってるんだけれども、ちがいます。「回転」、です。

 ああ、また「回転」が観てみたくなった、などと思ってYouTube を検索してみたら、ちゃんとあるではありませんか!(日本語字幕とかついてないけれども) こんど、観てみよう!


 

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■ 2013-10-21(Mon)

 けさ、いつものようにしごとに出ようとしてドアを開けるとき、ニェネントもそばに寄って来ていた。「ドアに近いところにいるなあ」と思ったけれども、もうずっと、ながいこと、ニェネントはじぶんから外に出ようとしたことはないし、特にこっちのドアから出たことはなかったはずだから、かまわずにドアを開けた。すると、そのニェネントがわたしをすり抜けて、外に飛び出て行こうとしたではないか。「おっと」という感じで、間一髪、ニェネントの胴をつかまえてもどすことが出来たけれども、あと0.3秒でもわたしの反応が遅れていたら、きっとそのまま外に飛び出して行ってしまっただろう。びっくりした。「まさか、ニェネントが外に行こうとするなんて」と、おどろいてしまった。いったいどうしたことだろう。

 きのうはいちにち雨が降りつづいていたけれども、きょうはあさから晴天。しごとに出て、しごと場から空をみあげると、白い雲が風にたなびいて動いているのがみえた。雲はちょうど鳥の羽根のようなかたちをしていたのだけれども、その動くさまは、まるで天使が羽根を拡げているかのようにみえた。もっと高い空では、その鳥の羽根の雲とはちがう、うろこ状の雲が、逆の方向へゆっくりと流れて行くのもみえた。その背景は、青い透きとおった高い空。「美しい」、と思ったし、「秋の空」とも納得した。

 部屋に戻ってからはずっと、Mazzy Star の「Seasons Of Your Day」を聴く。ジャケットにはネコが描かれているけれど、このタイトル曲はなんだか、「外に行っちゃったネコ」のことを唄っているように聴き取れるわけで、けさのニェネントの行動を思い出したりもした。ただ、つづけて聴いていると、やはり「Through The Devil Softly」みたいに、ダウナーな気分になってしまう。精神衛生上、よろしくないのではないのか。

 朝食はまたオートミールで、昼食は冷蔵庫にあった冷やし中華にした。もうすっかり秋になったみたいだし、いまのうちに食べちゃわないと、もう冷やし中華なんて季節ではなくなってしまう。夕食にはまたトマト缶をあけてタマネギやひき肉と炒め、スパゲッティにした。

 せんじつ「ビザンチウム」という吸血鬼映画を観たので、きょうは録画してあった「ヴァンパイア」というのを観てみた。感想は下。

f:id:crosstalk:20131021190243j:image:left このところ、いっしょに寝てくれることもあって、ニェネントがかわいい。きょうはリヴィングからキッチン、和室へと駆け回ったりしていた。けさは外に飛び出そうとしたし、思いっきり運動がしたいんだろうか。外がいやではなければ、またハーネスをつけて、外にいっしょに出てみてもいい。


 

[]「ヴァンパイア」(2012) 岩井俊二:製作・脚本・撮影・編集・音楽・監督 「ヴァンパイア」(2012)  岩井俊二:製作・脚本・撮影・編集・音楽・監督を含むブックマーク

 主人公(男性)は血を吸う相手を襲うのではなく、「いっしょに死のう」と自殺志願者と行動を共にして、その相手から採血するわけで、ちょっと「ビザンチウム」のヒロインに近いところもあるか。

 たいていのことは岩井俊二がひとりでやってしまってる、まさに「個人映画」というおもむきなんだけれども、だったらもっと勝手やれよ、といいたいところはある。この作品の中途半端ぶりが、どこまでも「やれやれ」という空気になってしまう。そのふんいきだけが、「なんとなく商業映画から脱却してます」みたいなだけ、みたいな。
 とりあえず、妙にクラシックを意識したようなところでうろちょろしているところの、この音楽はよろしくなかったかな。「なんでも出来る」ということと、「アマチュア芸もみせちゃう」ということを、いっしょにしてはいけないと思う。


 

[]Mazzy Star「Seasons Of Your Day」 Mazzy Star「Seasons Of Your Day」を含むブックマーク

f:id:crosstalk:20131022162637j:image:right とにかく、「Through The Devil Softly」からこの作品と、ただ、Hope Sandoval のヴォーカルを堪能すればいい。わたしには、そういうアルバム。もうわたしのこれからの人生のBGMには、彼女のヴォーカルがあればいい。

 このアルバムでは、Bert Jansch のギターのフィーチャーされた「Spoon」も素晴らしいけれども、わたし的には、二曲目の「California」がヤバい。これって、つまりは三途の川を渡ることの歌、なのではないのか。

 あんまり聴き続けると、こっちの精神がおかしくなってしまいそう。そういう危険性も合わせ持った音かも知れない。気をつけよう。


 

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■ 2013-10-20(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 あさ起きたら、そとでは雨がいっぱい降っていた。きょうも、夢をみていた気配がどこかで残っている。ベッドのわたしの足の方では、ニェネントが横になっている。わたしがからだを起こしてニェネントをみつめると、ニェネントも目をあけてわたしを見返してくる。ニェネントの首のあたりの肉付きがよくなっているみたいにみえ、なんだか貫禄がついたような気がする。このごろよく食べるからなあ、などと思う。

 きょうもしごとは非番で休み。こんな天気だし、いちにち家でごろごろしていようかと思う。それでも、きょうは借りているDVDを返却しに行かなくっちゃならないし、近所のドラッグストアはきょうは二十日ということで、カードのポイントが1.5倍で使えたりする日。もうポイントが600いじょうたまっているし、つまりは900円ぐらいになる勘定。このあたりで使っておきたい。

 朝食はまたオートミールにして、ひるまえにドラッグストアに行って、そのポイントを使うつもりで買い物をした。キンミヤの焼酎とホッピーを買い、そのほかにタマネギ、ジャガイモ、バナナ、食パン、それにパスタなんかも買った。現金で払ったのは300円ぐらい。雨はけっこう本降り。

 帰宅して、きょうの昼食はトーストにした。レタスをいっぱいはさんで、チーズやハムといっしょにする。いぜんはトーストの味にあきあきしたところもあったんだけれども、このところは逆にオートミールにちょっと飽いてしまっていて、こういうトーストをおいしく感じたりする。むかしとおんなじやり方のトーストサンドなのに。

 食後にキンミヤをホッピーで割って飲んでいたら(きのうも横浜でおなじようなものを飲んでいたんだけれども)、やっぱりねむくなってしまって、ベッドで昼寝ということになった。こういうとき、ニェネントはベッドには来なかった。
 目が覚めて、「そろそろDVDを返しに行かなくっちゃな」などと思っていたところで、ちょっとした地震があった。わたしのそばにいたニェネントもびっくりして、首をもたげて上下させている。そんなニェネントと目を合わせて、「いやだねー」とか語りかけてみる。ニェネントの目が、「たいしたことなかったよ」みたいなことをいっている。

 借りていたDVD、じつは四本のうち二本しか観ていないんだけれども、このあいだ、DVDをそっくりパソコンに取り込むソフトをダウンロードしたもので、それを使ってコピーしてしまってある。再生してみたら、映像特典だとかもぜんぶ、DVDとまるでおなじに観ることが出来るんだね。感心してしまった。それじゃあ、いま観ている「ひかりTV」もパソコンにつなげないものだろうかと思ってしまって、あれこれと調べてみたんだけれども、こっちははっきりと「不可」、みたいだった。やっぱり、いずれDVDレコーダーを入手しないと、HDDがパンクしてしまう。

 雨の中、また外出する。せっかくだから、図書館にも寄ってみることにした。ちょっと、せんじつ散歩したりしたもので、いまごろになってまた、地元の過去の歴史とかに興味を持ってしまったので、そういう本を探してみたい。

 図書館へ行って書棚をみてまわり、茨城県だけを主題にした著作を集めた「ふるさと文庫」というもののなかから、「伝聞ノート」というシリーズ、「職人くさぐさ」、「商人と街ぐらし」、そして「町場のおんなたち」という三冊を借りた。いっしょに、最近刊行された金井美恵子のエッセイ・コレクションというもののなかから、「猫、そのほかの動物」の巻も借りた。
 レンタルDVDの店に着いて、まずは借りていたものを返却し、いまではDVDをパソコンに取り込むことも出来るわけだからと、まだ旧作が50円で貸し出しというのもつづいていたので、また四本借りてしまった。帰り道にそばのホームセンターに寄り、そろそろなくなってきたニェネントのネコごはんも買った。これとおなじものはこのホームセンターにしか置いてないし、どうもニェネントは、このネコごはんがいちばん好きなんじゃないかと思うわけである。

 帰宅して、夕食はまたトマト缶を使ってミートソースをつくり、スパゲッティにした。このミートソースはきっと、トーストにはさんでもおいしいと思う。あしたはそれでいこう。食後はベッドで、ちょっとばかし金井美恵子のエッセイを読む。彼女がネコに貝類を与えているらしいのを読み、「それはヤバいんじゃないのか」などと思ったりする。あと、どうやら武田百合子さんが、ネコに卵をあげていたらしいことがわかった。ヨード卵、だったらしい。金井さんも書いているが、「ネコにはぜいたくをさせてあげなくてはならない」ということ。金井さんのネコのトラーは、エビをいっぱい食べるらしい。それはうらやましい。ニェネント、そういうぜいたくをさせてあげられなくてごめん。それでもね、キミの食べているネコ缶は、いまではけっこう値の高いモノになってるんだよ、と。

 そうそう、Amazon に注文してあったMazzy Star の「Seasons Of Your Day」、とっくに届いているので、きょうはたっぷり聴いた。やっぱBert Jansch の参加した曲にはすごみがあるけれども、ぜんたいに、これはせんじつ買ってある「Through The Devil Softly」と合わせて、すっごい傑作だと思う。


 

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■ 2013-10-19(Sat)

 きょうとあしたはわたしの連休。めずらしく、一般の人とおなじサイクルだなあと思ったりする。気分としてはゆっくり休んで、ついでに部屋の掃除でもやろうかと思っていた。
 あさ目覚めると、やはりわたしの足もとでニェネントが寝ていた。わたしが起きるとニェネントも起きてくる。すばらしいパートナー。

 のんでいる薬もなくなったので、きょうは通院しなくっちゃならない。夏に勤め先でやった健康診断の、その結果もようやく受け取ったので、これも担当医師にみせておかなくてはいけない。ニェネントのごはんを出してあげ、わたしはオートミールの朝食をとり、パソコンを立ち上げてざっと閲覧する。Facebook をみると、知人が横浜のダンス公演を観に行ったことが載っていた。チラシでみて知っていたイヴェントだったけれど、そのFacebook でみて、急に自分も観に行きたくなってしまった。開演も四時だから、「帰れるか帰れないか」などと考えるひつようもないし、わたしはあしたもまた休みなわけだ。現地で誰か知り合いに会えたら、横浜で飲むというのもいいだろう。「よし、きょうはコレを観に行こう!」と、即座に決める。路線案内で調べると、十二時半の電車に乗れば余裕で間に合うこともわかった。

 まずは病院へ行き、薬をもらって帰る。医師に「このところ安定してますね」ともいわれるし、自分でも調子がいいのはわかっている。健康診断書から、「もうちょっと体重を落とせるといいですね」といわれる。‥‥わたしは、自分が太っているという自覚はあんまりないし、鏡をみてもそのようには見えないと思う。かえって人には「やせている」といわれることもあるのだけれども、なぜか体重はけっこうある。たしかに、おなかはちょおっとばっかり出ていないこともないのだけれども、そんな、服を着た状態で外から見てわかるような出っぱり方ではないと思う。きっと、重たいのは頭脳とか、そっちの方なのではないかと思ったりする(lol)。

 病院の帰りにスーパーに寄り、スーパーのそばのATMで現金を引き出す。帰宅して、かんたんな昼食をとって、お出かけの準備をする。ニェネントには卵黄を出してあげる。「またお留守番、お願いするからね!」といって、家を出る。
 きょうは、電車のなかでけっこう読書がはかどった。しかし、自宅から横浜まで、乗り換えが一回だけでいいというのも、なんだかすごい気もする。横浜駅でいちど降りて、関内の駅まで。‥‥このあたりに来るのも、すっごくひさしぶり。そもそも、神奈川芸術劇場というのが、もしかしたら初めて訪れるスポットかも知れない。その建物のまえを通ったことは幾度もあるんだけれども。

 外はなんとなく曇天で、いまにも雨が降り出しそう。じっさいに、こまかい雨がすこし落ちて来ている。「横浜も古い洋式の建物が残っているなあ」と思いながら横浜スタジアムの横を歩いて、劇場に到着。会場はその劇場ビルの三階だか四階だか。窓口で当日券を買う。整理番号は167番。おそらく定員二百人ぐらいなんだろうし、良席というのも無理だろう。とにかく、外で順番を待つ。あんまり知っている人のすがたもみえない。下をながめると、この劇場に入ってくる人たちのすがたも見える。そのうち、そのなかにIさんのすがたがみえた。ああ、ようやく知っている人に会えた。舞台のあとはIさんと飲めるといいな、などと考える。上がって来られたIさんと、すこし話をしたり。‥‥わたしも入場できる順番がまわってきて、会場に入ると、真ん中のブロックは人であふれていたけれども、両サイドの席はまだいっぱい空いていた。通路側の、前の席がなくって視界の広い席にすわる。もっと早く入場できても、やはりこのあたりの席を選んでいたかも知れない。「いい席にすわれた」と、ちょっといい気分になった。‥‥開演。感想は下に。

 終演後、出演のお二人にダンス批評の石井さんがあれこれと聴いて行くトーク・ショーがあった。けっこう楽しめる内容だった。トーク・ショーが終わって、外に出ようとしたら、もうIさんのすがたがみえなくなっていた。いそがしい方だから、つぎの用事がせまっているんだろうと想像した。ざんねん。ちょっとして、そのIさんからケータイにメールをいただいた。やはりそういうこと。

 じかんはまだ、六時半にもならないところ。どうしよう。やっぱりまっすぐ帰ろうか、それとも、渋谷か新宿で乗り換えて、やっぱり「G」に行ってみようか、などと考えるけれども、これから「G」に行くというのもやはりかったるい。それより、せっかくこうやって横浜に来てるんだから、この横浜でちょっと飲めばいいじゃないかという気分になり、そういうことに決めた。‥‥「横浜」といえば「中華」なんだけれども、じつはわたしはそこまでに中華料理への思い入れはない。やっぱり海鮮類、さかながいいな、というところで、関内の駅のところまで出て、ひとりで入りやすそうな、そして魚とかおいしそうな店を探した。

 ‥‥てきとうに、「ここだね!」という店を決め、入り口のドアを開けた。けっこうインテリアもわたし好みで、落ち着ける感じがした。メニューの品目が意外に少ない店だったけれど、そういう店の方がメニューに自信があったりするだろう。ホッピーのセットをたのみ、「これを飲んじゃったら帰ろう」ということで。あと、冷やしトマトと秋刀魚の塩焼きを注文。お通しの、魚のすり身がとっても美味で、「この店で正解だった」と思う。秋刀魚の塩焼きもすっごくおいしかった。ほぼ全身、ぜんぶ食べた。「あと一品」、という気分で、ほんとうは刺身をたのみたかったけど、セットしかないようで、それがちょっと高かったので、〆さばにした。これもちょっと(値段としては)高めだったけれども、おいしかった。このあたりで、ホッピーも空になったのでお開き。一時間ちょっとの滞在。お勘定は、三千と五円だった。ちょっと無駄遣いだったかな。カウンターで三千円をまず支払って、「あと五円ね」、と、財布をさぐると、ちょうど五円玉が一枚みつかった。「あった!」と支払おうとすると、カウンターの子が「よかった!ご縁がありますように!」と返してくれた。アクセントが日本の人ではないようだったけれども、そういうことも知ってるわけだ。いい「おつり」だと思った。ありがとう。横浜に来たら、またこの店に寄ってもいいだろう。

 いい気分で電車に乗り、まっすぐ帰路に。けっきょく横浜ではそんなに雨ではなかったのだけれども、地元ではちょっと雨模様だった。小雨で、歩いてびしょ濡れになるような雨ではない。帰宅したら十時半ぐらいだった。ニェネントが、にゃあにゃあとお出迎えしてくれた。「もう寝るよ」と、着替えをしてベッドに横になると、もちろんニェネントも、わたしのとなりにやって来るのだった。




 

[]池田扶美代 x 山田うん「amness アムネス」@KAAT 神奈川芸術劇場 池田扶美代 x 山田うん「amness アムネス」@KAAT 神奈川芸術劇場を含むブックマーク

 「そうだ! やはり、<ダンスの王道>を観なくっちゃ!」と思ったのが、けさのこと。

 しょうじき書いて、どうもこの数年、「ダンス」=「コンテンポラリー・ダンス」というものに失望しつづけている気分があるのだけれども、このところあたらしいパソコンを入手したりして、YouTube などをふんだんに閲覧するなかで、そういうダンスかんけいの映像もあれこれと覗いてみて、「やっぱり、Rosas とかはすっごいなあ! 王道だね!」などと思っていたのがつい先日のこと。それでも、そのRosas の中心メンバーの池田扶美代さんがこうやって横浜で公演をやられることは、すっかりあたまから抜け落ちていた。それが、けさFacebook を閲覧していたら、知人がこの公演をご覧になられたというのが出ていた。「あ、そうだった! あしたはしごともないし、これに行こう!」と決めたわけ。

 じつは、たいへんに失礼なことを書いてしまうと、わたしは共演の山田うんさんのことが、記憶からとんでしまっていた。なんか、山田せつ子さんと勘違いしていたところがある。じっさい、山田うんさんのステージをさいごに観たのは、もう五年とか六年とか前のことになると思う。いま、この日記で検索してみても、山田うんさんの公演を観たという記録が出て来ない。それでも、ほかの方の公演でもって、山田さんのスタジオに行ったことはあるようで、山田さんの飼っていらっしゃる「かゑでちゃん」にお会いした記録は残っていた。三年まえのこと。そういわれてみると、ぼんやりとした記憶は立ち上がってくる気配はある。どうやら、山田さんともお会いしたことはあるようなわたし。

 さて、開演。舞台は床も周囲もただひたすら黒く、何もない。さいしょに登場された山田さん、まるで印象が変わっていた。ちょっと長めの、赤いドレス姿。かつてはとってもショートだった髪も長くなられて、金色になられていた。舞台の前方に出て来られて、視線を観客席にめぐらせられる。まずは、その視線が、印象に残ることになった。「あれ? けっこう、感覚的なところで攻めて来られるようになったんだな?」みたいな印象。山田さん、むかし観た舞台ではもっともっとクールだった印象もあるのだけれども、まあ、きょうの舞台も「クール」ということはいえるのだけれども、ちょっと印象が違って感じられた。

 しばらくして、池田さんが登場する。青い短いドレス。その、登場の仕方で、まずはちょっとしびれさせられた。どうしてあの身体の角度で、あのあたまの向きで、そしてあの視線でやって来られられるのか(変な日本語だ)、と。うん、何の変哲もないような動きであっても、そこから、いかに「日常性」から離脱できているかというか、ここにこそ、「ダンス」というものの醍醐味があるように感じた。

 そういうふうに観ていくと、山田さんはどこか「感覚的」なところを示されているようであり、対する池田さんは、その「感覚的」ということの対義にあるようなことをやられているような印象になった。こういうことを書くと、ちょっとわたしが山田さんの表現を良くは思っていないようにとられてしまうかも知れないけれども、そういうことではなくって観ていた。ただね、そういう「感覚的」というものよりは、しょうじきに書くと、やはり池田さんの「動き」に圧倒されていたというのは、たしかなところ。じっさい、「感覚的」なところでの表現というものは、けっこうこういうダンスの表現では観慣れたところのものではあって、そういうのに比すると、やはり池田さんのダンス〜パフォーマンスというものが、わたしには圧倒的なものではあった。もういちど書いておくけれども、それが山田さんのダンスを否定するものではない。

 これが、即興というのではなく(もちろん、そういう要素もあったのだろうけれども)、あるところではたびたび、ちゃんとふたりの動きがユニゾンになる。すっごいつくりこまれている作品だったのだなあという印象もある。

 そういう「大黒」での舞台を活かした、スポットライトというのではない、たゆたう波のような照明もまたすばらしく効果的なものであって、ちょっと見ほれてしまった。管楽器でのバッハの楽曲の流れるときと、音の流れないとき、これもまた印象に残るものだった。すばらしいパフォーマンスだった。観に来て、よかったと思った。


 

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■ 2013-10-18(Fri)

 きのうベッドに入って寝ようとしていたら、ニェネントがベッドに飛びのってきた。わたしのからだの上をのりこえて、わたしの足もとのあたりで、ふとんのうえからわたしに寄りかかってまるくなっている気配。このあいだ、「いっしょに寝よう!」とベッドにあげてやったメッセージが伝わっていたわけだ。
 あさ、目覚めたら、やっぱり足もとにニェネントがまるくなって寝ていた。ちょっと、うれしくなった。

 きょうも快晴。あさは、ちょっと肌寒さも感じる。しごとを終えて帰宅して、ベランダのネコの皿をみると、きれいに空になっていた。やっぱりまた来てたんだと思い、またネコごはんを盛っておいた。

 あのネコだけれども、この日記でベンナのことを調べてみると、ベンナがこのベランダに来ていたのはきょねんの二月末のことで、そのときの写真もここにアップしてあった。それをみると、おとといのネコはやっぱり、ベンナでまちがいないと思う。もういちど、そのきょねんのベンナの写真を再掲しておく。

       f:id:crosstalk:20120226091123j:image

 ‥‥これ(下)が、おとといのネコ。ぜったい、同じネコ。

     f:id:crosstalk:20131016124322j:image

 ‥‥このあたりの野良ネコはほとんど壊滅してしまったようだけれども、そんななかで、ベンナは生き延びて来たわけだ。やっぱり愛着を感じてしまうけれども、きょねんのことを思い出すと、やっぱり部屋に招き入れるというのは難関だろうと思う。

 きょうは、渋谷に映画を観に行く。さいしょの一本は二時まえに上映がはじまってしまう回に行きたいので、しごとのあと、けっこうすぐに家を出るつもり。オートミールで朝食をとり、着替えたり準備をしたり。ニェネントのごはんも出してあげる。卵黄も。
 わたしの昼食にはコンビニでパンを買い、電車を待っているあいだに、乗り換え駅のベンチで食べてすませた。渋谷駅に一時すぎに到着し、映画館へ行ってチケットを買う。上映まですこしじかんがあったので、すぐそばの本屋へ寄ってみた。「読みたい本があれば地元の図書館にリクエストしよう」などと考えて、新刊書をチェックする。武田百合子のエッセイ集の文庫があったのを買ってしまった。

 まずは、ミシェル・ゴンドリーの「ムード・インディゴ」。感想は下に。

 映画が終わり、次の映画を観るために移動する。こんどは線路の反対側、宮下公園の近くの映画館。きっと、この映画館で映画を観るのははじめてのこと。チケット売り場で「シニアで」というと、めずらしく、「年齢を確認出来るモノをお持ちですか?」と聞かれた。いままでは窓口で「シニア」といえばそれだけでパス、だったのだけれども、はじめてそういうことをいわれた。いわれてみると、「それだけ若くみられたのかな?」などと思ってしまい、じつはちょっと気分がよかった。わたしはたんじゅんである。この映画館ではそれがルーチンになっているのかも知れないではないか。
 ‥‥ニール・ジョーダンの「ビザンチウム」を観る。やはり感想は下に。

 終映して、六時半をちょっとすぎたところ。これからまた「G」に足を向けて、また飲んでもいいんだけれども、先週も今週も「G」で飲んでいるわけで、けっこうじかんもびみょうなところなので(ふつうなら、飲みはじめるにはちょうどいいじかんなんだろうけれども)、きょうはこのまま帰宅することにした。
 駅への帰路は、宮下公園に入って、その下の駐輪場のようなスペースを歩いた。ちょうど公園の下になるところに、ずらりとブルーシートの四角いハコが並んでいた。あまりに整然と並んでいるので、公園の資材の物置か何かではないのかと思ってしまうほど。ずっと、駅の方まで、何十軒も並んでいる。歩いて行くと生活のにおいのぷんぷんするハコもあるし、なかから人が出て来たりするのにも出くわした。やはり、ホームレスの方々の住まいだった。ちょっと以前に、宮下公園が整備されるということがあり、そのときに、そこを根城にしているホームレスの方々をどうするのか、ということがもんだいになっていた記憶があるけれど、こうやって、住みつづけられているわけだ。そういうことを思ってはいけないのだろうけれども、ちょっと、「よかったなあ」という感慨もある。いつも思うことだけれども、わたしだって、いくらでも彼らのような生活に身を落としてしまう可能性はあったのだ。こうやって、家にはニェネントが待っていて、のんびりと映画を観たりしているいまのわたしは、ほんとうにほんとうに、ラッキーな存在だと思う。ここに住まわれている方々はきっとつまり、ちょっと運がなかっただけのことだろう。彼らとわたしとの差なんて、髪の毛一本ほどのものでしかないと、いつも思っている。‥‥しかし、これからオリンピックに向けて、こういうスポットもまたもんだいにされてしまうことになるんだろうなあ。

 電車はちょっと、勤め人の帰宅ラッシュ。こういう電車に乗るのもほんとうにひさしぶりだったけれども、大宮をすぎたあたりで、いつもわたしが乗る電車みたいに、楽にすわれるようになった。けっこう持って来た本も読みすすめられた。ただ、自宅へのローカル線に乗り換えたら、いつもよりもずいぶんと混み合っていた。帰宅してもまだ十時まえだったけど、いつもならもうとっくに寝ているじかん。保温してあったごはんでかんたんに食事をすませ、さっさと寝ることにした。‥‥ベッドに横になると、すぐにニェネントもあがってきた。わたしのおなかの上でしばらくじっとしているニェネントの、その四本の足から、ニェネントの重みが伝わってきた。わたしは、ニェネントのことを愛してる、と、思った。ニェネントもそうであってくれるといい、と、思った。




 

[]「ムード・インディゴ うたかたの日々」ボリス・ヴィアン:原作 ミシェル・ゴンドリー:監督 「ムード・インディゴ うたかたの日々」ボリス・ヴィアン:原作 ミシェル・ゴンドリー:監督を含むブックマーク

 ミシェル・ゴンドリー監督の、映画作品というのもあんまり記憶にはないのだけれども、そもそもはBjork とかのミュージック・クリップの印象は強い。いちおう「僕らのミライへ逆回転」や「TOKYO!」は観ているのだけれども、「僕らのミライへ逆回転」での映像的なお遊びだけが、ちょっと記憶に残っている程度。

 この「ムード・インディゴ」、前半は享楽的生活での「お遊び」満載で、後半はその享楽的生活にお別れして、つらい現実と向き合うことになる。そこに、ミシェル・ゴンドリー監督の独特のテイストが加えられる。なんていうんだろう、こことはちがう世界の住民の物語というのか、冒頭の、移動するたくさんのタイプライターのまえにすわる人々とか、何やってるんだろうと思ってしまったけど、つまりは「印刷」という概念のない世界で、大量にタイプしたものを綴じて書籍にするわけで、各タイピストは移動して来るタイプライターに自分の受け持ちのところを延々とタイプしつづけてるわけだ。‥‥どこまでもそういう感じで、この世界とはちょっとちがうモノにあふれた世界。わたしぐらいの年配の観客ならサルトルがモデルだとすぐにわかる、哲学者のパルトルなどという人物も登場してくるし、そのパルトルが、片眼が「眼」のモニターになっているメガネをかけていたりする。これが、ボリス・ヴィアンの原作にもちゃんと「パルトル」は登場して来るみたいで、主人公の家にいるネズミくんをふくめて、けっこう忠(チュウ!)実な、原作の映画化なのかも知れない。

 さてさて、わたしはどうも、この前半の、監督お得意の「映像的お遊び」というのが苦手というか、いってみればこれはCGを駆使して撮られたところの、シュヴァンクマイエル的な、またはブラザーズ・クエイ的な「コマ撮り」作品みたいな印象があるんだけれども、そこにみられるのがどうも、享楽的な気分だけで突っ走っている気分というか、シュヴァンクマイエルの批評的気分、ブラザーズ・クエイの頽廃的気分が好きなわたしとしては、いくらCGを使ってくれてもかまわないけれども、どうもわたしの好みではない。
 それに、わたしの感覚では「これはミスマッチなのでは」というところも、あれこれと出現する。映像的にもそういうことはあちこちで感じたけれども、それ以外でも、たとえばTVのモニターみたいなのにデューク・エリントンが登場したりするんだけれども、そのデューク・エリントンが、「それはちがうだろ」というキャラクターだったりする。あんまりに違和感があったので、ラストのクレジットでもって、そのデューク・エリントンを演じたのが誰だったか確かめてみたら、これが「August Darnell」という記載、だった。あれ??? オーガスト・ダーネルって、聞いたことのある名まえだなあと考えたら、つまり、あれじゃないですか。キッド・クレオール。って、なんで、キッド・クレオールがデューク・エリントンなわけよ??? と、わたしにはわけわからない。ミュージシャンでも、もっとデューク・エリントンに似合うような活動をして、もっと容姿もデューク・エリントンに近寄っている人物もいそうなものなのに。わたしにとっては、ここがこの映画の最高のミスマッチ。
 もうひとつのミスマッチは、ボズ・スキャッグスの「ロウダウン」の使い方、かな。ぜんぜん、絵にマッチしていないと思った。趣味のもんだいかも知れないけれども。

 そういうあたりで、前半の「享楽」空気にはわたしはまるでノレなかったのだけれども、後半の、どっちかというと悲劇的な展開のところはよかった。ここで登場する妙な銃だとか、前半にはなかった文明批評的なところも感じてしまうわけだし、思うがままに生きられなくなった男の悲しみ、みたいなものは共感も出来た。ラストのネズミくんのがんばりにも泣かされた。

 ただ、ヒロインのクロエの魅力というものを、演出の上でもう少し引き出す努力をしてもいいんじゃないのかとは思ったわけで、ここはむかし観た、同じ原作からの日本映画、利重剛監督の「クロエ」での、ともさかりえの方が、ずっと魅力的だった、などと思ってしまった。「クロエ」という映画のことを、そこまで記憶しているわけではないのだけれども。


 

[]「ビザンチウム」ニール・ジョーダン:監督 「ビザンチウム」ニール・ジョーダン:監督を含むブックマーク

 いい脚本だなあと思ったら、元は舞台劇だったらしい。映画化にはいろいろとあったみたいだけれども、こういうところでのニール・ジョーダンのアレンジ能力というのが、わたしは好きである。というか、わたしはもともと、ニール・ジョーダン監督のファンなのである。
 彼の前作はオンディーヌ伝説からの作品だったらしいけれども、わたしはその作品の存在すら知らなかった。しかし、かつては「狼の血族」で「赤ずきんちゃん」をやり、吸血鬼伝説というのも「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」でいちどやっているわけで、ここでまた再びダーク・ファンタジーというか、吸血鬼伝説をやるというのが、ニール・ジョーダンという人なんだろう。

 ここでのヴァンパイアは、血族ではなくて同盟。すでにヴァンパイアである存在が、「命を捨ててもいい」というような状態の人物に、ヴァンパイアへと変身できる秘密の島(アイルランドの沖にあるらしい)への地図を渡す。島へたどり着いた人物はそこで「秘蹟」を体験し、それからは老いからも死からも解放される。別に牙が生えてくるわけではなく、獲物を獲たときには親指の爪が牙状にするどくとがって、それで相手を傷つけるわけである。陽に当たっても焼け死んだりはしない。ただ、この同盟は男だけに受け継がれるはずのものであるところを、ヒロインの母がその島への地図を盗み、女性ながらもヴァンパイアになる。その娘もまた、十六歳のときに母によってヴァンパイアにされる。母は二十四歳。娘とは「姉妹」として世渡りしていく。母の前身は娼婦であり、ヴァンパイアになってからもそのような生き方を選んでいるようだ。この母娘を、「同盟」を守る存在のふたりのヴァンパイアが追っているわけである。

 基本は、ヒロインである娘の物語になるけれども、彼女は理不尽な孤独感にさいなまれている。生きるためには人の血を吸わなければならないということもあるし、人とこころを通わせることが出来ない。自分のストーリーを延々と書き連ね、それを外にばらまく。映画ではこれを余命いくばくもないだろう老人が拾って読み、ヒロインと知り合う。老人は「これが君のストーリーなのか?」と聞き、ヒロインはそこでつかの間、人に真実を語り、孤独をいやすことができる。しかし、老人は彼女の犠牲者になるしかないのである。そんなヒロインもようやく、白血病の若い男と知り合い、こころを通わせるようになる。同時に、彼女たちを追う「同盟」のヴァンパイアたちも、彼女たちにせまってくるわけである。

 いつものことだけれども、いかにも「イギリス/アイルランド」という、監督のかもし出す空気感を堪能する。けっこうわたしはそういうところだけでも満足なんだけれども、そういう空気感に支えられて、どこか耽美的なというか、神秘的というか、そういう物語がたちあがるところにこそ、ニール・ジョーダンのこの映画の魅力があるんだろう。どこか少女マンガ的な空気もある作品だけれども、わたしはこの作品が好きである。機会があったら、また観たい。


 

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■ 2013-10-17(Thu)

 目覚めたとき、みた夢をおぼえていた。いかにも夢らしい、時空間の歪んだ、不条理な夢だった。夢の記憶が残っているというのは、なんだかうれしい。ベッドのなかでからだを起こすと、足もとでニェネントがまるくなっていた。ずっと、一晩じゅう、わたしといっしょにベッドで寝ていたんだろうか。わたしが起き上がってキッチンへ行くと、ニェネントもベッドから飛びおりて、わたしについて来た。ニェネントの皿をみると空っぽ。ネコごはんを出してあげた。

 外界は台風が通りすぎ、さわやかな晴天。わたしが出勤するじかんはまだまっくらなのだけれども、けさは、わたしのあたまのうえにオリオン座のかたちがはっきりとみえた。日が昇ってからは、まぶしいぐらいの太陽。
 きのうの台風で、同僚のHさんの家では雨漏りでたいへんなことになったという。横から吹きなぐるような降り方だったから、妙なところから天井裏に雨が降りこみ、それが室内に漏ったんだろう。

 帰宅して、天気もいいので洗濯をしようと、洗濯物をまとめてベランダに出ると、洗濯機のかげからネコが飛び出して行った。あきらかに、きのうのキジネコだった。やはりこのベランダに来るというのは、あのネコはベンナだったのかなあと思ったりする。どうしようか。このベランダに居着かせてみようか。考えて、とりあえずはやってみることにして、ベランダにネコごはんを皿に盛って出しておいた。夕方に見てみたけれど、ネコごはんはなくなっていなかった。もう来ないだろうか。しばらくはネコごはんは出しっぱなしにしておくことにした。

 わたしの朝食はオートミール。なんか、おいしいオートミールの食べ方はないのかなあとネットで調べたりするけれども、けっきょくは和風だとか中華風のあじつけばかり。そういうのは、やってみようと思わない。いまわたしがやっている、バナナを入れてみたりとか、グラノーラといっしょにとかいうのは、やはり定番みたいである。

 昼食と夕食は、どっちもきのうの肉じゃがをおかずにしてすませた。同じだけの材料を使ってつくっても、カレーの方が分量がたくさんになる(四食から五食分にはなる)。使う水の量の差。

 夕方に、借りているDVDから「永遠のこどもたち」というのを観た。
 まるで意識していなかったのだけれども、あした出勤すると、あさってとしあさってはわたしの連休になっている。そのあといちにち出勤すると、またその翌日は休み。わたしの秋のゴールデンウイークだなあ、という感じで、あしたは映画を観に行くことにした。ニール・ジョーダン監督の新作の「ビザンチウム」を観逃していたのだけれども、まだ渋谷で、イヴニング・ショーというのか、夕方に一回だけ上映がある。これに行くことに決め、そのまえのじかんも空いているわけだから、同じ渋谷で、ミシェル・ゴンドリーの「ムード・インディゴ」をやっているのを観ようか、という計画。「ビザンチウム」が終わるのはまだ七時まえみたいだから、そのあとにちょっと飲んで来てもいいだろう。

 きょうも、あんまり本は読めなかった。


 

[]「永遠のこどもたち」(2007) ファン・アントニオ・バヨナ:監督 「永遠のこどもたち」(2007)  ファン・アントニオ・バヨナ:監督を含むブックマーク

 じつは、このDVDといっしょに、「仄暗い水の底から」のDVDも借りてあって、その「仄暗い水の底から」の方は、いちど映画館で観ているので、多少内容は憶えている。それでこの「永遠のこどもたち」はほとんど内容を知らないで借りたのだけれども、(まだ「仄暗い水の底から」は観なおしていないけれども)どうも似ているのではないかという気がする。というか、同じスペインのアレハンドロ・アメナーバル監督の「アザーズ」をも思い出させられる。つまり、「母性愛」を主題としたホラーという印象。いちおうドラマをこそ際立たせたいという狙いもあるようだし、それで、古い洋館とかそういう「場」が舞台になるということを思い合わせると、もっとさかのぼって、1961年のジャック・クレイトンによる「ねじの回転」の映画化、「回転」にまでいってしまう。ストーリー的にも「回転」に近似しているところもあると思うし、このあたりのことはまちがいなく、製作・演出サイドで意識していたことだろう。
 ただ、わたしの感想として、まずは映画のなかではストーリーの破綻はないようにみえたけれども、この映画で描かれなかったところに思いをめぐらせると、どうも納得のいかないことが多い。五人ものこどもが孤児院という場所から消えてしまっているのが「事件」になっていないとうのもわからないし、HIV感染のこどもがはたして養子に出されたりすることがあるのかもわからない。すべて映画のなかで描かれたことだけで完結している。
 そういう「完結」ということでいえば、この脚本での、しつっこいまでの伏線張りとその回収ぶりで、なにもそこまであれこれと伏線を張っておかなくってもいいんじゃないのか、とう気もちにはなってしまう。

 霊媒師のエピソードはわたしの考えではまったく不要で、ドラマとしてみせようとする映画だと思っていたのに、なんだか足もとをすくわれてしまった感覚になった。


 

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■ 2013-10-16(Wed)

 また台風が来た。関東地方には、あさはやくにいちばん接近するようで、ちょうどわたしがしごとに出ているじかんにかさなってしまう。TVの気象図では、九時ごろにこのあたりのほぼ真西を通過するようで、そのあたりでいちばん台風の中心に近づいてしまう気配。わたしはちょうどそんなじかんにしごとを終え、家にもどって来なくっちゃならない。たとえ歩いて二、三分の距離とはいえ、相手は台風なのだから傘など役に立たないだろう。そうするとびしょぬれになるだろう。あさ、しごとに出るとき、「きのう安い雨がっぱでも買っておけばよかった」などと考える。まだ出勤するときには風雨ともにそれほど強くはなく、ふつうに傘をさして歩くことができた。しかし、これからもっと台風が近づいて来て、わたしのしごとの終わる九時ごろになるとどんなことになっているんだろう。しんぱいである。

 とりあえずは支店内でしごとをはじめ、六時半ごろに倉庫に移動する。風雨ともに強し。しかし、風の向きが「こっちからは来てほしくない」というのとちょうど反対側からなもので、倉庫のシャッターを開けてもほとんど影響はない。風も雨も倉庫のなかには吹き込んで来ないから、普通どおりにしごともこなせた。外はものすごい風の音で、倉庫も反対側の壁の方からは風のあたる音がひびいてくる。外をみると、その風のせいで雨はほとんど真横に流されて降っているみたいな。これはとても傘をさして歩くのは不可能だろう。

 しかし、七時半をすぎたあたりから風は弱まってきて、八時にはほとんど雨もやんでしまった。予報ではこの時間帯からあとにこそ、台風がいちばん接近しているはずなんだけれども、もう通り過ぎてしまったんだろうか。台風というのは北上すると急にスピードをあげたりするわけだし。
 九時になってしごとを終え、帰宅するときにはもう雨はかんぜんにやんでいて、風もほとんどなかった。「なんだ」というところだけれども、まだまだ、家に帰ってみたらベランダがすごいことになっている、なんてこともありえるわけである。

 ‥‥家のベランダもなにごともなく、この台風の被害はゼロ。TVをみると台風の進路もスピードも予想がだいたいあたっていたのだけれども、どうやら風雨の強かったのは台風の北東側だったみたいで、台風がま東に来てしまうとと、そこにはほとんど雨雲もないのだった。

f:id:crosstalk:20131016124255j:image:left 朝食はきょうもオートミールにした。きのうネットでMazzy Star の新作を(ようやく)購入申し込みしたので、昼まえにその支払いをかねて買い物に出た。つい四、五時間まえにはこの空が荒れに荒れていたとは思えない。もう陽が射しはじめてもいる。外に出て、ベランダのまえの駐車場にさしかかると、そこにネコが一匹いた。この駐車場にネコが来るのもひさしぶりのこと。やはり野良ネコのようだけれども、むかし来ていたベンナに似ている。ベンナはもっと足が白かった記憶があるけれども、この子はそのベンナの血統なのかも知れない。きっと、そうだろう。写真を撮ってやろうと部屋に戻り、ケータイを持って出た。ネコはまだそこにいた。わたしが近づいても逃げようとしない。けっこう至近距離まで近づいて、ようやく車の下へ逃げて行った。あんまり人間への警戒心ははげしくはないみたい。やっぱりベンナなのかなあ、などと思ったりするけれど、ニェネントよりもひとまわりちいさい感じで、まだ子ネコなんだろうか。‥‥なんともなく、あの子もウチで飼って、ニェネントのお友だちになってくれるといい、などと思ったりした。

       f:id:crosstalk:20131016124322j:image

f:id:crosstalk:20131016124706j:image:left 踏み切りの近くで、また別のネコのすがたをみた。この子も野良だと思う。けっこうでかい。こういう赤毛系の野良は、いままでこのあたりでは見かけなかった系統。こっちは人が近づくとさっさと逃げて行った。‥‥きょうは台風だったから、ネコたちも安全なところを探して、別のところから避難移動して来たのかも知れない。

f:id:crosstalk:20131016132002j:image:right カメラのついたケータイを持って出たついでに図書館のところまで行って、川の増水の加減を撮ってみた。さきおとといに撮った写真よりも、あきらかに水量は増加している。この川はわたしがこの地に来るまえ、二十五、六年まえに集中豪雨で増水して堤防が決壊し、この写真のずっと奥のあたり(とくに左側)で、大きな洪水被害が出たらしい。その後はその災害の反省から徹底した治水工事が行われたようだから、まあふだんはしんぱいすることもないんだろうと思う。

 昼食はひさしぶりに「そば」なんてやってみた。そばは、おつゆがしょっぱい。いまのわたしにはあんまり向いていないと思った。昼はTVで台風の報道などをみて、伊豆大島の被害が大きいことを知った。町中に倒れた木や崩壊した建物のがれきがあふれている映像をみた。「大災害」という印象。
 あとは、きのう挫折してしまったDVDの「遠すぎた橋」を観た。三時間の長編。観終わるころにはもう、外はすっかり暗くなっていた。

 きょうの夕食は、「肉じゃが」に再トライする。せんじつのリヴェンジで、「ぜったいにおいしい肉じゃがをつくってやる」との意欲に燃えている。材料も分量も、せんじつと同じにする。ただ、こんかいは和風だしを使った。ちゃっちゃっ、と完成。‥‥やったね。自分でいうのも何だけれども、おいしい肉じゃがができた。リヴェンジなる、というところ。‥‥教訓。肉じゃがには和風だしを使うこと。そして、さいしょにじゃがいもとニンジンを炒めるのはいいけれども、このときタマネギはいっしょに炒めないで、さいごに鍋に入れて煮込むこと(ここでタマネギをいっしょに炒めると、何というのか、洋風になってしまう)。さいごにつや出しにというか、みりんをちょっとプラスしてやること。これで和風の肉じゃがになる。かんたんなことはぜんかいと変わらないのだけれども、おいしさにはそれなりに秘訣があるということ。しばらく肉じゃがなどつくってなかったけど、これで再マスターできたというか、またやってみよう。

 夜寝るとき、ニェネントを抱き上げてベッドの横に寝かしてやったら、いつもはすぐに飛び降りてしまって、自分の寝心地のいいところへ行ってしまっていたけれども、この夜はずっと、わたしの足もとで丸くなって寝ていたようである。読書はほとんどはかどらなかった。




 

[]「遠すぎた橋」(1977) コーネリアス・ライアン:原作 リチャード・アッテンボロー:監督 「遠すぎた橋」(1977)  コーネリアス・ライアン:原作 リチャード・アッテンボロー:監督を含むブックマーク

 原作のコーネリアス・ライアンという人は、あの「史上最大の作戦」の原作者でもある。「原作」というのもおかしないい方かもしれないけれども、第二次世界大戦でのヨーロッパ戦線の仔細なレポートを書かれた方である。‥‥しかし、「史上最大の作戦」で描かれたノルマンディー上陸作戦は「成功」したというところで、その映画もまた「我々はやったぜ!」というところだったと記憶しているのだけれども(あんまり確かな記憶ではないが)、こちらの「マーケット・ガーデン作戦」というのはヤバい。とても「やったぜ!」といえるものではないだろう。そういうところはこの映画にも反映され、「ヤバい作戦だった」という空気に満ちた作品だった。

 ここで興味深いのは、この作品の基本がイギリスとフランスの共同製作というあたり。映画のなかで登場するのはイギリス軍とアメリカ軍、それとポーランド軍(これはほとんどジーン・ハックマンただひとりで代表された描き方だったけれども)、それと戦場になったオランダ現地の市民ということになるのだけれども、そういうなかで、かなり自虐的に「悪かったのはイギリス軍よ」という展開になっているのが面白い。空気としてはアメリカ軍はそういうイギリス軍のお手伝いをしただけよ、みたいなところもあり、そんななかで登場するアメリカ軍兵士はこれがヒロイックにかっこいいわけである。おそらくこの作品でいちばん得をしたのはロバート・レッドフォードなんじゃないかと思うのだけれども、まさに「コンバット」のヴィック・モロー演じるサンダース軍曹みたいにかっこいい。それに、ジェームズ・カーンの存在もまた、この作品のポイントになるような行動をするわけだし、「うまい具合に作戦でこき使われる兵士たち」という視点を、シャキッと表現している。

 これに対してイギリス軍はほとんど「ダメじゃん」扱いというか、その筆頭にブラウニング司令官を演じたダーク・ボガードのお得意の演技でもって、これはなんというんだろう、「おとぼけ」みたいな空気をかもし出す。戦地で大隊長を演じているアンソニー・ホプキンスにしても、まるでかっこいいところなど見せられないで、ただいつも苦境に立たせられてばかりいるし、陸から援護にあたる大隊長のマイケル・ケインにしても、「活躍」とはいいがたいところがある。まあこの作品を観た感じでは、「イギリスもバカな作戦を立てたけれども、ドイツもまたバカで助かったよね」みたいな。その、ドイツの間抜けさを体現してたのが、マクシミリアン・シェルあたりだろうか。彼の配下のハーディ・クリューガーはしっかりしていたのにねえ。

 演出は、俳優としても知られるリチャード・アッテンボロー。わたしは彼が監督した映画を観るのはきっとこれが初めてだから、ほかの作品とあわせてどうのこうのといえないけれども、さすがに俳優さんというだけあって、役者さんの演技にこだわった演出、という印象は受けた。「史上最大の作戦」のように、キラ星のように有名スターがいっぱい登場してくるわけだけれども、そういう役者さんがだいたいにおいて、「いい演技だなあ」と思わせられるところを引っぱり出しておられると思った。ただ、トータルに全体として映画的な感動を引き出すというよりも、ディテールの積み重ねという映画になってしまったところはあると思った。

 しかし、せっかくこの時代のイギリス映画なんだから、たとえばデヴィッド・ヘミングスだとか、たとえばテレンス・スタンプのすがたも、この映画のなかで観たかったなあ、という気もちはある。ちょっと、製作年度が遅すぎたのかなあ(イギリス映画の最盛期をすぎていた?)。


 

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■ 2013-10-15(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 だいたい、東京とかに出かけることが前もってわかっているときの、その翌日は「休み」をやはり前もって申請してあるので、きょうは「休み」。ゆったりと過ごす。しかし、報道ではあしたあたり、関東を大きな台風がかすめて行くようで、ちょっとしんぱいにはなる。

 きょうはただゴロゴロと過ごした一日で、じつはこの日記に書くこともほとんどない。それで、ふだん書かないことをあらたまって書いてみようという気分にもなったのだけれども、じつはいつも考えているのは、この日記、つまり「ブログ」というヤツだけれども、ほんとうは一般公開なんかしなくって、プライヴェート・モードというヤツにして、わたしだけが読めるようなかたちにしてしまいたいという誘惑が、いつもいつもある。
 わたしは基本的には、「こんなブログを書いてるんだよ」という宣伝など、知人友人にはほとんどしていない。ときどき、「見つけたよ」みたいなことは言われたりするけれども、それはそれでいっこうにかまわない。ただ、わたしは「ブログの人気者」などにはなりたくないわけで、読んで下さっている方々への「呼びかけ」などぜったいにしないし、妙に注目されるのはぜったいにごめんだとも思っている。

 そういうところで、自分だけが読める日記にしてしまえば、もっと屈託なく書けることもあれこれとあるわけだし、そういうふうにしてしまいたいという誘惑はいつもある。

 しかし、こうやって文章を書いていて、「人の目にさらされている」という緊張感は、こんなブログでも、とにかくはわたしを律しているところがある。そういうところを抜かして自分のためだけに書けば、それはそれで自由に書けるところはいっぱいあるだろうけれども、そこでもってわたしは、「どうせわたしだけが読んでいるんだから」と、書かなくてもいいことを書いてしまったり、脊髄反応でつまらないことを書いたりしてしまうだろう。
 ‥‥ご承知のとおり、わたしはまるで「人格者」というものではないし、むしろ多くの欠点をあわせ持っている人間。そういう人間に制御なしに勝手なことを書かせたりすると、けっきょくはその欠陥を増大させることにしかならないと思う。ここで、ほかの人の存在、ほかの人の「眼」というものが、ひつようなのだと思う。

 べつに注目を集めているブログではないし、さきに書いたように「そうなりたくない」という意識もあるのだけれども、わたしの見知らぬ方々がこのブログを読んでいて下さっていることはたしかなことで、そういう方々の眼にさらされる文章を書くという「緊張感」は、やっぱりわたしには大事なものである。

 「毎日書く」ということ、このことも決めてある。これはニェネントのおかあさんネコのミイと出会った日、2009年の8月3日から続けている。もう1500日を越えてれんぞくして書いているみたいだけれども、ひとつにはミイの思い出を大切にしたいということでもあり、そしてもちろん、記憶のおとろえたわたしの備忘録としてもしっかりと機能してくれている。いつまでも可能なかぎり、れんぞくさせて行きたいとは思っている。きょうみたいに、ほとんど書くことがないときは困ってしまうんだけれども。
 ただ、わたしがフイに死んでしまったりしたとき、わたしはもうこの世にいないのに、このブログだけがいつまでも閲覧出来るままになるというのは、やっぱりイヤだなあ、とは思う。ときどき、「どうしたらいいのか」考えてもみるけれども、いい答えはみつからない。やっぱりどこかで、プライヴェートモードに変更してしまおうか。わからない。

 きょうは朝食はオートミール。昼食はインスタントの冷やし中華にした。午後から、きのう借りて来たDVDから「遠すぎた橋」というのを観はじめたのだけれども、すぐに眠くなってしまい、「まあいいや、お昼寝しよう」とベッドに移動して寝た。目覚めたら部屋のなかはすっかり暗くなっていた。時計をみたら七時になっている。夕食にしなくっちゃ、と、ごはんを炊いて、おかずは目玉焼きとキャベツのサラダにする。キャベツがまだ新鮮でおいしいうちに、いっぱい食べておきたい。食後はベッドに横になって、プルーストをそれなりに読み進んだ。スワンのオデットへの気もち、「わかるなあ」なんてところもある。


 

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■ 2013-10-14(Mon)

 きょうも晴天で、秋らしい気候。出かけるのにもってこいの日和なわけで、じっさいに午後からまた東京へ出る予定にしていたのでよろこぶ。きょうはほんとうにひさしぶりに、ライヴ・コンサート体験の予定。‥‥たいていのライヴというのははじまるのが遅くって、つまりは終わったときにはもう帰る電車がなかったりすることになる。それでついつい足が遠のいていたのだけれども、きょうのライヴは午後五時からなので、余裕で帰ってくることが出来るだろう。場所もいつも飲んでいる「G」の近くだから、ライヴが早く終わったら寄り道することも出来る。きょうのバンドの秋山さんや佳村さんとも、いぜんはよく「G」でお会いしたものだったけれども、このところしばらくお会いしていない。もちろん個々のライヴにもごぶさたしているわけだし、この「ホンタテドリ」というユニットの音も聴いたことがない。ちょうどいい「ごあいさつ」にもなるだろうと、このライヴを知ったときに「行ってみよう」と決めていた。

 朝食はトーストですませ、昼食はまだ残っていた明太子を使ってまたスパゲッティにからめる。昼をすぎてしばらくして出発。‥‥このあいだ帰りの電車のなかで眠ってしまって、えらいことになってしまった反省から「寝るのなら行きの電車のなかで」として、ひたすら眠ることにつとめた。けっこう熟睡していたんだろう。あっという間に池袋の駅をすぎていた。

 新宿で下車して、いくつか買い物をする。ひとつは紅茶のパックで、これは新宿にもあるチェーン店ならば、スリランカ製の紅茶パックが100パックで四百円ぐらいで売っている。いまわたしは毎日、紅茶2パックを2リットルの湯を沸かしたなかに放りこんで、大量の紅茶をつくって冷蔵庫で冷やし、この2リットルを毎日ぜんぶ飲んでいるわけで、つまりある意味で大の紅茶党。その紅茶パックのストックも残り少なくなったので、新宿駅で降りてぐるっと回って買って来ようという計画。
 新宿の駅を出て、ひとつ買い物(ないしょ)をすませ、地下街への階段を降りる。わたしのすぐうしろから、若い女性がふたり、会話しながら降りてくるのがわかっていたので、地下街への入り口が手動の開き戸だったのを、ちょっと大きめに開けていく。すると、うしろから、その女性のどちらかの、「ありがとうございます!」という声が聞こえた。要するにそれでちょっとうれしくなったわけだけれども、この話を、あとで「G」に行ったときにCさんにしたら、「オヤジだねー!」と、バカにされてしまった。ふん! あのときの若いコは、「ステキなおじさまがわたしの前を歩いてる」と意識してたに決まってるのに。

 ぐるっと新宿の西口の地上に出て、「このあたりもすっかり歩かなくなってしまったけれども、むかしはけっこう立ち寄っていたはずだなあ」などと考える。ロバート・インディアナの「LOVE」の立体とか、なつかしい思いがする。
 さらに歩いて目的の店に行き、無事に紅茶をゲット。このチェーン店のほかのところではみかけない、「アールグレイ」のパックが置いてあった。価格は同じだから、迷わずに「アールグレイ」を選んだ。

f:id:crosstalk:20131014163716j:image:right 新宿駅に引き返し、小田急線で下北沢に到着。まえにネットの地図で確認してあったライヴ会場の教会へ向かう。ちゃんと、いっぱつでその教会にたどり着くことが出来た。
 ‥‥なんか、きのうはブニュエルの「銀河」なんて映画を観ておいて、きょうはこうやって教会に足を向けたりするのだからおかしなものである。教会でのライヴというのもずいぶんとむかしに体験したような記憶もあるのだけれども、やはり独特の空間だと思う。ライヴの感想は下に。

 予想どおりにライヴは七時ぐらいに終わったので、やはり「G」に足を向ける。きょうはまた、ほんとうにひさしぶりにお会いするGさんが、カウンターで赤ワインを飲まれていた。Gさんの飼われているネコが、春に三歳になったという。わたしはGさんがネコを飼われるようになったこともすっかり忘れていた。うちのニェネントと、けっこう同い年なわけだ。
 ‥‥こんなことを書くとアレだけれども、Gさんはけっこう魅力的な、美しい女性である。そんなGさんとカウンターで並んで飲めるというのも、それはそれでしあわせなことではある(だからといって妙な気をおこしたりはしないのだが)。

 そのうちに、きょうのライヴの主役だった「ホンタテドリ」の皆さんが、店にやって来た。ちょうどわたしもそろそろ退散しなければならないじかんにもなったので、「ホンタテドリ」の皆さんにあいさつをして、音の感想などをちょっとおしゃべりをしてから店を出た。いい日だった。電車で乗り過ごすこともなく、無事に帰宅出来た。‥‥いい日だった。



 

[]ホンタテドリ(宇波拓・佳村萠・秋山徹次・庄司広光・菅沼雄太・ニコス・ヴェリオティス)@下北沢・富士見丘教会 ホンタテドリ(宇波拓・佳村萠・秋山徹次・庄司広光・菅沼雄太・ニコス・ヴェリオティス)@下北沢・富士見丘教会を含むブックマーク

 このユニット、「ホンタテドリ」の基本メンバーは、佳村萠さんのヴォーカルに宇波拓さんと秋山徹次さんのギターという編成。それにきょうは、菅沼雄太さんのドラムと庄司広光さんのシンセ、それとギリシアからのチェリストのニコス・ヴェリオティスさんという編成。わたしなどは秋山さんのトラッド好きとかも承知しているので、「これってPentangle?」みたいな先入観がある。じっさい、その一曲目の幕開きでは、秋山徹次さんがJohn Renbourn ですか、みたいな展開ではある。しかし、そのあとの展開でのその音の振幅はものすごく広い。もちろんアヴァンギャルドなテイストをただよわせながらも、「これってボサノヴァ、だっけ?」みたいな音から、Michael Jackson の絶妙なカヴァーなどが続く。教会の建物の天井の高さから響いてくる音はやわらかく、佳村萠さんのヴォーカルを最大限に引き立てることになる。

 途中休憩をはさんでの第二部の幕開きは、これはきっとニコス・ヴェリオティスさんの作品だろうと思ったのだけれども、あのBert Jansch の「Abocet」を思わせる、美しい楽曲を堪能させられた。そして、けっこうオリジナルに忠実なアレンジのBeatles の「Blackbird」には、泣かされた。わたしもやはりたんじゅんなものだなあとも思ったけれども、この「Blackbird」は、ほんとうに美しかった。すてきなライヴだった。感謝。


 

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■ 2013-10-13(Sun)

 しごとは非番でやすみ。わたしがあさ起きてキッチンに立つと、例によってニェネントもキッチンにやってきて、わたしの足もとに寄ってくる。きょうも、わたしの足をぺろりとなめてきた。「おやおや」と思ってニェネントをみると、ネコ皿のまえに移動して、わたしを振り向いて見上げてくる。ネコ皿をみると、またきれいに空っぽになっていた。「よく食べるねー!」と、ネコメシをいっぱい出してあげる。ネコ缶も。
 きょうのわたしの朝食は、ひさしぶりにオートミールにした。まだまだオートミールはほんとうに山のように残っている。胃の調子もよくなっているし、そろそろまた、本格的にオートミール生活にもどる頃合いなんだろうか。

 午前中にレンタルしてあるDVDの残り一本、ブニュエルの「銀河」を観て、午後から返却がてら、また散歩に出ようと考える。図書館から借りている本も、もうこれ以上読めないだろうから、いっしょに図書館にも行って返してしまおうと。
 昼食はなんと、カップ焼きそば(という呼び方でいいのだろうか?)などというものですませた。いまのわたしには塩分の強いものはインヒビッドなわけだけれども、このところ体調もいいし、血圧も安定している。買い置きのそういうカップ麺の賞味期限も近づいているから、どこかで片づけてしまわないといけないし、捨ててしまったりするより、こういう調子のいいときに食べてしまうのがいいだろう、と思ってのこと。‥‥けっこう、おいしかった(わたしはつまりは味覚音痴?)。

 食後にちょっと横になってしまうと、やはりそのまま昼寝してしまった。目覚めるともう三時。散歩に行かなくっちゃ。

f:id:crosstalk:20131013153111j:image:right たしかにきょうは、外もけっこう涼しくなっていた。快適な気分で歩く。きょうは町の北東の方角、蔵などがかなり残っていた地域を歩いてみようと思う。‥‥外に出て、北の踏切のところに来たら、ちょうど電車の通過するところだった。三十分に一回のこと。写真を撮ったけど、しゅんかんシャッターを押すのが遅かった。このJRのローカル線の車両、いまでは都心を走っている車両と外見は変わらないものになってしまったけれども、四、五年まえまでは座席がすべてボックス席の車両とか、床が板張りの車両なんかが走っていた。いまの車両にしても、座席の並び方でちょっとばかし特殊なところもある。書いて説明するのもややこしいので、これもそのうちに写真ででも紹介しましょうか。

f:id:crosstalk:20131013153738j:image:left 踏切を渡って、まずは東にある市立図書館へ。外観はなかなかのもので、内部で写真を撮っちゃいけないだろうからそういうものはないけれども、内部も開放的な空気で、けっこうなものである。調べると、ここの延べ床面積はこの茨城県の公立図書館のなかでもいちばん広いのだということ。わたしがこの地に来たときにはすでに開館していた。この図書館の存在も、「こんな図書館のある町なら住んでもいいな」という思いを呼び起こし、転居への後押しになったと思う。蔵書は(かなり前の資料でも)三十万冊を越えているそうで、これはたとえば東京なら新宿区立中央図書館の蔵書数をはるかに越えていたりする。
 ただこの図書館、西側にずらりと窓があるのだけれども、その窓にブラインドがなくって思いきり西陽がさしこむ。人間のことはいいのだけれども、書架にある本の背表紙がみんな陽光にさらされ、褪色してしまっている。これはあきらかに設計ミスだっただろう。そう、この写真正面に見える円形の建物は、児童書のスペース。

f:id:crosstalk:20131013154920j:image:right 上の図書館の写真の左側は川になっていて、そこにかかる橋の上からの写真がこれ。このあたりでわたしがいちばん見慣れた自然の風景。いつもこの橋を渡るときに、こうやって天気がよければ筑波山が見渡せて、川の両岸も、都会の川でのブロックの集積とはちがうし、とにかくはたんじゅんに「いいなあ」と思って、神経がやわらぐわけである。

f:id:crosstalk:20131013160204j:image:left この川にそって、上流の方というか、北の方へ行くと、蔵の並んだ区域に入って行くことになる。この写真の右側の蔵は、たしか製菓会社の事務所として現役で活躍中、というか、この通りの蔵はどこもみな、現役でしっかりと機能している。

f:id:crosstalk:20131013160522j:image:right ‥‥黒塗りの蔵が多い。そして、住居として活用されている「見世蔵」が多い。こんな、写真のような蔵がいくつも並んでいる。

f:id:crosstalk:20131013161121j:image:left この「蔵の町」を越えて、いままで歩いたことのない北の方に足を延ばしてみた。こんな町でも、このあたりに来ると、水路が「郊外」、といった感じになる。

f:id:crosstalk:20131013161745j:image:right ようやく、田んぼも見えるような地域になる。わたしの住まいのあるところから南に行けば、けっこうすぐにこういう田園風景になってしまうのだけれども、線路の北側でこんな風景に出会うには、けっこう歩かなければならない。
 で、こういうところに足を踏み入れたとき、気をつけなければならないのは、歩いているといつの間にか道がなくなってしまったりすること。‥‥たぶん、農家の方々のための道で、そこから先に行くひつようがなかったりするからなんだろうけれども、とつぜん行き止まりになるというか道が消えてしまい、「ありゃりゃりゃ」と、かなりの距離をあともどりしなければならなかったりする。ほかのところでだけど、何度かそういうことをやったものである。

f:id:crosstalk:20131013162656j:image:left おっと、ひまわりが咲いている。きのうまで、「夏」だったものなあ。このバックの建物もまた、「蔵造り」。

f:id:crosstalk:20131013164036j:image:right 陽もかたむいてきて、そろそろ帰路に着こうと歩いていた道の、片側が広い空き地になっていて、その向こうに筑波山がみえた。もう、この地から山のふもとまで、何の障害物もないという感じ。歩いてだって行けそうな気がしてしまう(やろうと思えば出来るのだけれども)。

f:id:crosstalk:20131013172051j:image:left レンタルDVDの店まで着き、借りていたのを返却して店内をみてまわり、また四本ほど借りて来てしまった。
 もう、あとは家に帰る。レンタルDVD店のそばにあるMister Donutの建物の明かり、その建物を取り囲む薄暮の明かるさとがきれいだった。

 帰宅してから、このあたりのことをまたネットで検索してみた。きのう、「このあたりに芸妓はいなかったのではないか」ということを書いたのだけれども、「全国花街の芸妓」というところでみてみると、昭和初期、まさにこの地の地名で、六十人の芸妓がいたとの記述があった。ちょっと、おどろいてしまった。
 たしかに、むかしはこの地にもあれこれの侠客という存在もあったようだし、当時の商業的な発展ぶりからすれば当然なことだったかも知れない。しかしもう、いまではそういう花街としての昭和初期のおもかげというものをこの町に探し求めるのも無理だろうし、想像することも出来ない思いがする。そういう資料がどこかに残っていないものだろうか。

 夕食はきのうの明太子の残りを使って、明太子スパゲッティにした。つけあわせに、やはりきのう買ったキャベツの千切りに、マヨネーズをあえてみる。新鮮なキャベツはやっぱりおいしいし、スパゲッティもよかった。めちゃかんたんな献立だし。
 昨夜は読書もおやすみしてしまったけれども、今夜は多少プルーストを読んで、そして寝た。


 

[]「銀河」(1968) ジャン・クロード・カリエール:脚本 ルイス・ブニュエル:脚本・監督 「銀河」(1968)  ジャン・クロード・カリエール:脚本 ルイス・ブニュエル:脚本・監督を含むブックマーク

 なぜ、こんな作品が地元のレンタルDVDの店に置いてあるのか。ブニュエルの作品はこれ一本っきり。この店は棚をみていると「こんな作品が」というものがさりげなく並んでいたりする(どこでもレンタルDVDの店というものはそういうものだろうけれども)。この店には、メルヴィルの「モラン神父」などというものも在庫している(もちろん、メルヴィル作品はこれだけ)。ひょっとしたらそういう、キリスト教に何らかのオブセッションをお持ちの方が、作品をセレクトしたのかも知れない。

 Wikipedia の「ルイス・ブニュエル」の項には、「キリスト教異端事典」なるものでこの「銀河」の脚本を書いたという記述がある。なるほど、という感想というか、コンポステーラ(この地名を聴くと、どうしても篠田昌巳さんのことを思い出してしまう。もう彼が亡くなられてから二十年いじょうの月日がすぎてしまった。いまさらながら、追悼。)への巡礼の旅に出たふたりの男が、さまざまな奇々怪々な人物や出来事に遭遇するわけ。けっこういろいろな俳優さんが「キラ星」のように登場され、「これが<銀河>ということか」などと、勘違いしてしまうわたくし。冒頭のテロップにデルフィーヌ・セイリグの名まえがあったので期待していたけれども、さいしょに巡礼のふたりがアラン・キュニーに「コンポステーラに着いたら娼婦と寝て子どもをつくれ」みたいなこといわれるとき、「その娼婦こそデルフィーヌ・セイリグにちがいない。そうでなければ聖母マリア役だろう」なんて予想してしまった。こういうことを書くと<ネタバレ>と呼ばれて嫌われるのだけれども、やはりラストに登場する<娼婦>役、だった。聖母で登場されたのはエディット・スコブ。この女優さんもとってもいい(いまげんざいも現役で活躍中で、「ホーリー・モーターズ」にも出ていらしたらしい)。

 なんというのか、けっこうタラタラと撮っているようにみえても、これがやはり押さえるところは押さえているというのか、恣意的なエピソードの羅列のようでも、ピシッと決まっているところがある。主人公ふたりの巡礼の旅、という設定が効いているんだろうか。わたし的には、少女たちの「呪われてあれ」コーラスが「ツボ」、だった。


 

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■ 2013-10-12(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 きょうはあさから空には雲ひとつ見えず、日射しがまぶしい。きっときょうも暑くなるのだろうと、トラックの運転手さんとはなしをすると、暑いのはきょうの昼まで、あと数時間のことと天気予報でいっていたと。

 しごとを終えて帰宅すると、またニェネントのごはんのお皿がきれいに空になっている。このごろよく食べる。食欲の秋というのはネコにもあるのだろうか。きょうは卵黄も出してあげた。わたしの朝食はまたまたトーストにトマトカレー。ずいぶんと続いたけれども、トマトカレーもきょうでなくなった。

 陽が高くなるにつれて、やっぱり暑くなって来た。昼食は冷やし中華なんていうものにした。いちど近くのドラッグストアへ買い物に出て、そのあと、日が傾いてからまた散歩に出た。

 きょうは、この町でかつては「色街」という感じだった区域を歩く。‥‥ここは商業的にめっちゃ繁栄していた町だったから、もちろんそういう地域はあったわけで、いまでもその名残りはかたちとしてのこっている。ちょっと一見では入れないふんいきの小料理屋、居酒屋などが、まだ営業をつづけている。パブなどの看板も残っているけれども、もう営業はしていない。

 むかし、わたしがこの町に来たとき、そのあたりのこともちょっと調べたこともあったけれども、そのときの調査の記憶では、この町には特に「遊女屋」のようなものはなく、どっちかというと「銘酒屋」みたいなものを中心にした色街だったのではないか、という感じだった。じっさい、図書館で読んだ資料などでも、となりの市(ここも織物などで有名)には芸妓もいたようで、そこの地名をかぶせた「◯◯芸者」などという存在があったようだけれども、この町にはそういう記載は発見出来なかった。こうやって歩いてみても、さびれてしまっていることを割り引いてみても、「やはりこういうのは、東京でいえば<玉の井>あたりの感じではないのか」などと、むかしの色街や銘酒屋のことなんかまるで知らないくせに思ってみたりするわけである。

f:id:crosstalk:20131012161634j:image:right

 まずは、駅の北口の駅前通りを、駅のちょっと先から駅の方を振り返ってみたところ。わたしがここへ転居したときには、まだこうはなっていなかった。道幅はもっと狭かったし、道路両側の建物はすべて改築されてしまい(左奥の高い建物はわたしが来たときからあったけど)、みてわかるように、電信柱のない道路になってしまった。むかしの記憶ももうあいまいになってしまったが、左側にはいかにも昭和っぽい大衆食堂が、二軒ほど並んで営業していた。
 ふだんは交通量も少ないこの駅前通り、これはほとんど、年にいちどの夏祭りのための道路である。駅から北に600メートルほどは、この調子の道路がまっすぐに延びているのだけれども、この道路が、夏祭りの週末にはほんっとうに人で埋まってしまう。そのときには、都会でもこれほどのものはあんまりないんじゃないかと思えるような、かなりの光景になる。そのときだけ、である。

f:id:crosstalk:20131012154239j:image:left その駅前通りを、さっきの写真でいえば右側に通りひとつ入ってみると、まさに別世界になる。うまい写真が撮れなかったけれども、この写真の奥のあたりはまさに「飲屋街」である。

f:id:crosstalk:20131012154118j:image:right たとえばこの写真の家、もう廃屋になっているけれども、はたしてこの家がふつうの民家だったのか、それとも居酒屋だったのか、ちょっとむずかしいけれども、その立地場所からしても、一般民家とは考えにくいところもある。

f:id:crosstalk:20131012154333j:image:left これはこの通りの西側の、高台への斜面にそって建てられた、ちょっと巨大な建築。いまは閉鎖されているけれども、むかしは割烹旅館だったらしい。というか、わたしはまるで知らなかったんだけれども、この建築こそ、かつてのこの区域の「夜」を象徴する建物だったような。ほんとうはこの右側に別館も建てられていたらしく、そうとうに規模の大きな旅館だったみたい。銘酒屋のおねえさんも、客のふところ具合がよければ店の二階とかでサーヴィスするんでなくって、こういう旅館に泊まることもあったんだろうし、こういう旅館があったということは(この通りの奥にも「ホテル」と書かれた建物があった)、娼婦たちもこのあたりにたむろして充分に商売になったわけだろう。建物はけっこう最近まで現役だったふんいきがあるけれども、ここが営業していたころのこのあたりの情景を見てみたかった。

f:id:crosstalk:20131012154951j:image:right ちょっと先には、こんな喫茶店が。ここももうやってないようだったけれども、なんとなくノスタルジックな空気を感じさせられる。

 あとで振り返ると、「探索」としてはなんとも不充分でなさけない思いがするけれども、きょうの色街探索はこんなもの。じつは店の名まえがはっきりわかるような写真は撮らないようにしよう、なんて考えてもいたわけで、そのあたりで遠慮したところが多い。さいごには名まえの読める喫茶店の写真を出しちゃってるし、こんどはもうちょっと、「こんな店が今も営業している」というのがわかるような写真を撮ってみたい。

f:id:crosstalk:20131012160755j:image:left このあたりで西側の高台に移動して、この地域の氏神さまの神社へ行ってみる。このあたり、きのう観た「ノン子36歳(家事手伝い)」の影響。ほら、けっこうデカいんだよ、と。

f:id:crosstalk:20131012160539j:image:right 神殿の前には、うさぎちゃんが左右に鎮座されている。狛犬はちゃんと別にあるので、いわゆる狛兎というものでもないだろう。いい造形だな、などと思ったりする。

f:id:crosstalk:20131012155515j:image:left 帰り道、ぐるりと東側にまわってみて、この地の有形文化財に指定されている建築物のところに寄ってみた。和洋折衷三階建て。右側は商店として営業しているけれど、この茶色の板の引き戸がいい。たしか左側にまわると丸窓があったはずだけれども、チェックし忘れた。丸窓というのは遊郭とかの象徴なんじゃないかと思っていたのだけれども。

f:id:crosstalk:20131012155630j:image:right この建物の、道路をはさんだ反対側に、まるで鏡写しみたいに(というほどでもないが)相似形の建物が建っている。左側の日本家屋はどうも、「蔵」という造りで、そこを住居にしたというのは「見世蔵」ということになる。いまはどこかの設計事務所だかのオフィスになっているみたい。この左の奥にはちょっとした料亭があって、ここで何年かまえに、Bill Evans Trio のドラマーだったMarty Morell がライヴをやったことがある。たしか彼の奥さんがこのあたりの出身ということだったと思う。

 けっこういっぱい歩いた。たしかに夕方にはずいぶんと涼しくなった気がする。健康にもいいだろうし、もうちょっと、こういう散歩を続けてみたいと思っている。きょうはここまで。

 帰り道にスーパーに寄り、めずらしくキャベツが百円以下で売っているのを買い、ほかに明太子の皮を取ってくれてあるパックが半額だったのを買った。夕食はまだ残っていた麦イカを使って、イカのホイル焼きにした。明太子もおかずにした。夜は本も読まずに寝てしまった。


 

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■ 2013-10-11(Fri)

 あさ、またしごとをやっているときに雨になった。また、しごとの終わるときにはやんでいた。これできょうはちょっとは気温も下がるかなあと思ったのだけれども、これがすっかり晴天になり、きのうよりも暑くなってしまった。もう十月も中旬だというのに、このあたりでも三十度ぐらいまで気温が上がったらしい。やはり、きのうぐらいのじかんになって、外を歩いてみようかとも考えたのだけれども、外の日射しもきょうれつそうで、家に閉じこもっていることにした。

 このごろ食事のことばかり書いているけれども、きょうもその路線で書くと、朝食はまたトーストに残り物のトマトカレーをはさんだもの。これはクセになる。もう一食分残っている。昼食はきのうの肉じゃがをおかずにしたけれど、この肉じゃがはどっちかというと「まずい」。ネットで読んだレシピのままにつくっているし、わたしの失敗ということはあまり考えられない。というか、そのシンプルな手順のなかには、「失敗」のまぎれ込むスペースはない。もともとが最悪のレシピだったわけだと思う。わたしだって、つくっていて「こんなシンプルさで、おいしく出来るのかいな」という疑問は持っていた。ネットにはそういうものもあるということだ。せっかく牛肉まで使ってつくったというのに。‥‥昼食を終えてもまだそうとうにその肉じゃがが残っているので、早くこの存在のことを忘れたくもあり、夕食でもこれをおかずにして、ムリしてぜんぶたいらげた。あと味の悪いクッキングだったので、近いうちにリヴェンジで、もういちど「肉じゃが」を、こんどは和風ですっごくおいしいヤツをつくってやりたい。

 昼間は借りたDVDから「ノン子36歳(家事手伝い)」というのを観た。なんというのか、このところ自分をとらえている「ラッセン&奈良美智問題」とからめて考えてしまうところもある、妙な映画だった。そういうことをふくめて、感想は下に。

 夜はまたプルースト。きょうは多少は読み進んだけれども、いったいいつまで、このヴェルデュラン家のサロンの、ばかげた連中の描写が続くのだろう。わたしだってこういう、ばかげた連中の集会というのか会食というのか飲み会というのに参加したこともあったけれども、ここまで派閥的にバカがもてはやされるような会合は知らない。こういうところで生きずにすんだ、自分の環境に感謝してしまうところもあるけれども、それなりに派閥というものもあるわけだったと、勝手なことも考える。ここでも「ラッセン&奈良美智問題」みたいなものが見え隠れする気もする。

 たとえば、このあいだ観た「CUT」という映画での、「映画は芸術である(べき)」という主張から導き出されるような、娯楽映画の蔑視みたいな視点の行きつく先は、かんたんに「ラッセン&奈良美智問題」と近接してしまうのではないのか。きのう書いたような、フィリップ・ハースみたいな面白そうな映像作家の作品が日本未公開になっているというようなことはあるけれども、まだ映画の世界とかはそういう、「ラッセンなんか、一ランクも二ランクも下のもの」という蔑視はないのかも知れない(もちろんそのことを逆に、「映画が芸術であることが認知されていない」ことの証ということになって、「困ったものだ」ということになるのか?)。せんじつ観た青山真治監督の「共喰い」にしても、「これは芸術映画を目指された作品なのだ」としての、どこか派閥的なもてはやされ方がされているのをネット上で読み、「そこまでのものだろうか」と、多少は鼻白む思いはしたものだった。
 きのう、うちの近くの鉄道がこの十一月で開業百周年になることを発見したのだけれども、このプルーストの「失われた時を求めて」の第一篇、「スワン家の方へ」が発刊されたのもまた、1913年の十一月のことだった。もうすぐ、百年なのだ。わたしがいま読んでいる「スワンの恋」ほどには、いまの世の中は「ばかげた(スノッブな)」社交界というものも存在しないようにも思うけれども、そういう「社交界」というものが、百年前みたいな「閉ざされた」ものではなく、じつはわたしなんかもそのなかに呑み込まれているところの、もっと大きな「ばかげた」社会になってしまっているのではないのかと思う。

 部屋の明かりを消して、ベッドでそんなプルーストを読んでいたら、とつぜんにニェネントが発狂したような叫び声をあげ、この部屋のなかをあっちからこっちへと走りまわり、飛びはねてまわりはじめたりした。いったいどうしたというんだろうか。「もっと、わたしのことをかまってよ」といってるんだろうか。


 

[]「ノン子36歳(家事手伝い)」(2008) 熊切和嘉:監督 「ノン子36歳(家事手伝い)」(2008)  熊切和嘉:監督を含むブックマーク

 主人公のノン子は、むかしはちょっとばかしアイドルとして売り出したのだけれども、マネージャーと結婚し、そうして離婚して引退、というか埼玉の辺境の実家(神社の宮司をしている)に戻って、まあ自堕落な生活を送っている。ノーリスク・ハイリターンな夢を描く青年が神社の縁日に出店を出したいとその町にやって来て、ノン子と知り合い、ノン子は実家への反抗気分もあってその青年を実家に宿泊させる。さらに別れた元夫もやって来て、ノン子にカムバックの夢をたきつける、とかなんとか。

 ‥‥なんだか、わたし自身が(アイドルだったわけないが)東京からこうやって茨城とかに来ているわけだけれども、この映画の埼玉の田舎がこのあたりに似ているな、などとも感じるし、映画の土地の方がやっぱり東京に近いだけにぎやかだな、などとも思う。このわたしの住んでいる町の祭りはデカいから、この映画のロケをそっくりこの町に持って来てつくることも可能だろうし、この町の方がこの映画には似合っているようにも思う。

 ノン子の自堕落な生活はヤンキーっぽいんだけれども、その服装とか、ヒヨコに惚れ込む(?)ところとか、どこかファンシーなところも同居しているみたい。ノン子の家の玄関には複数の絵が額に入れて飾られていて、風景画もあればかわいい犬の絵なんかがあったりする(このシーンの画像をここにアップしようとあとで見直したんだけど、なぜかみつからなかった)。そのシーンをみたとき、そこにラッセンの絵が飾ってあってもおかしくないし、さらに、いっしょに奈良美智の絵が並んでいる可能性もあるわけだ、などと思ってしまった。玄関の絵はノン子の父親かなんかの趣味みたいだけれども、この作品を観ると、主人公のノン子はまさに、ラッセンも奈良美智も両方好きになりそうな存在にみえた。なるほどなあ〜、などと思ってしまった次第である。

 映画のストーリーでいえば、いったいなんでノン子はいつも男にたよるような意思決定しかしないのか、というあたりがわからない。そうするとノン子という存在自体の存在根拠もあやふやになり、「やっぱり、ラッセンも奈良美智も好きな人物なんていないや」みたいに飛躍して考える。それで男というのが、まずはさっき書いたノーリスク・ハイリターンで世界を目指すという、メソッドなしの男で、一方はハイリスクすぎる元夫。この元夫も、なにも自分で「すまん、じつはオレ、借金まみれなんだ」なんてバラすひつようないわけで、東京に連れてって、やくざにでも売り飛ばしちゃえばいいんでないの、などとひどいことを考えるわたし。つまりはそういうことの出来ない男。どっちも選びがいがないというか、選ばないでしょう。つまり、「選ばない」という映画か。
 演出としては長回しとか多用して、そこらの娯楽映画とちがうよ、という演出ではあるのだけれども、そのあたりがつまりは「古くささ」みたいなものでもある、と思った。まえに観た「海炭市叙景」というのも同じ監督の作品だったけれども、基調となるものは通底していると思った。


 

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■ 2013-10-10(Thu)

 ものすごく久々に、夢をみた。もしくは、起きたときに、みた夢をはっきりと記憶していた。ストーリーのある、もの悲しい、長い夢だった。パーソナルなことなので夢の内容のことは書かないけれども、それで思ったのは、このところよくあたまをよぎる「わけのわからない情景」、あれはつまりはわたしがみて、それでも記憶から消えてしまっている夢のなかの情景だった、ということではなかったんだろうか。
 そういうこととは別に、みた夢を記憶しているということは精神が健康だということなんじゃないかと、自分につごうのいいことを考えたりする。じっさいに、このところは精神的にも身体的にも健康面は安定しているように思う。

 朝食はまたトーストにトマトカレーをはさんだものにして、あらためてこのやり方ならおいしく食べられると確認する。トーストのためだけにまたこういうクッキングをやってもいい。食事のあと、借りたDVDのル=グウィン原作の「天のろくろ」を観た。これがまた「夢」をめぐる話で、そういうのではグッドタイミングだった。昼食はきのうの残りの、まだ残っていたカレー。きのうよけいな手をくわえてしまって、ものすごく薄味になってしまったわけだけれども、まえに買ってあった「しょうゆ味のソース」というのをかけてみたら、けっこう食べられた。買ったままほとんど使っていなかった「しょうゆ味のソース」だけれども、いろいろと使えるのではないかと思ったりした。

 きょうもやはり、いまの季節ににあわずに暑かったのだけれども、三時ごろになると外の空が曇ってきていて、窓を開けてみるとけっこう涼しかった。「よし、それではきのう考えたように散歩に出てみようか!」と、ふっと外に出てみた。空は曇天だけれども、歩くのは快適。まずは、旧市街の方へ足をのばし、「看板建築」の家屋をチェックしてみた。

f:id:crosstalk:20131010153743j:image:right これ、こういう感じが「看板建築」。これはお菓子屋さんで、今でもちゃんと営業しているけれど、赤いシートと白い壁面との対比がうつくしく、「ここのお菓子はおいしいだろうな」などと思わされたりもする。‥‥このあたりには、あと一、二軒はこういう建物があったような記憶だったけれど、みあたらなかった。このあたりを歩かなくなっって七、八年にもなるので、そのあいだに解体されたりしたのかも知れない。

f:id:crosstalk:20131010154235j:image:left もうすこし先まで歩いたところにあったのが、この建物。時計屋さんだけれども、もう営業はしていない。しかし、この両サイドのツインタワー(?)、そのストライプ、中央の時計台とローマ字表記の店舗名と、やはりノスタルジックな思いにひたってしまう。このあたりはまさに「文化財」ではないだろうか(この街にはもうちょっと離れたところに別の「文化財」家屋が存在するんだけれども、そのうちにそっちへも行ってみよう)。
f:id:crosstalk:20131010154442j:image:right ここも、そういう旧店舗。看板の「店」という文字だけ残っていた。雨樋も妙な残り方をしているけれども、下部の青と白のタイル貼りがイイ感じ。
f:id:crosstalk:20131010155056j:image:left きょうはついつい、たくさん写真を撮ってしまった。ここは「看板建築」というのではないけれども、廃業した理容店。ここでも青と白のタイルが目についた。
f:id:crosstalk:20131010154949j:image:right これはかんけいないけれど、歩いていてみつけた「スズメバチ駆除」と書かれた塀にぶら下げられた、そのスズメバチの巣。こんなものがのさばっている地域だったのかと、あらためてこわくなった。散歩していても、めったなところには足を踏み入れないようにしよう。

f:id:crosstalk:20131010161545j:image:left 帰り道、鉄道を越える陸橋を渡ってみた。この陸橋を渡るのははじめてのこと。まずは、その陸橋の上から南東にみえる筑波山の勇姿(?)。いいぐあいに雲がかかっている。わたしがこの地への転居決意の後押しをしたのが、こうやってみられる筑波山のすがたであることはたしかなこと。じつはわたしの生まれ故郷の福岡県の町でも、東にこういう山が見えたわけで、そういう記憶がこの筑波山に重なってしまったわけ。

f:id:crosstalk:20131010161636j:image:right これは、陸橋の上から駅の方をのぞんだ光景。けっこう線路があるけれども、左右の二本は私鉄路線。まんなかの二本がJRで、いちおう複線にみえるけれども、じつは単線である。まあとにかくは二つの私鉄とからんだ駅なんて、東京でいえば池袋、新宿、渋谷に匹敵するものである。まあそれだけこのあたりもむかしは栄えていたということで、一方の私鉄(右側の線路)は調べてみたら1913年11月1日開業、って、あと三週間ほどで開業百周年ではないか。きっとセレモニーがあるんだろうな。もう一方(左側)は1912年開通で、もともとは旧国鉄の路線だった。まんなかの、わたしが東京へ行くときに使うJRのローカル線は、1889年に開通している。
f:id:crosstalk:20131010161652j:image:left ちょうど、右側の路線にディーゼル車が走って来たので、撮ってみた。この路線、「あまちゃん」に登場した北三陸鉄道を思わせるものがある。
 写真だらけの日記になってしまった。きょうはここまでで帰宅。なんか、ちゃんとしたカメラもほしくなってしまったね。

 夕食には、予定どおり「肉じゃが」をつくってみた。かんたんにやろうと思って、ネットで検索したレシピでやってみたんだけれども、これまた薄味すぎた感じ。やっぱり、和風だしを使っての和食な感じでないと、わたしの知っている「肉じゃが」ではない。


 

[]「レイズ・オブ・ヘブン 天のろくろ」(2002) アーシュラ・K・ル=グウィン:原作 フィリップ・ハース:監督 「レイズ・オブ・ヘブン 天のろくろ」(2002)  アーシュラ・K・ル=グウィン:原作 フィリップ・ハース:監督を含むブックマーク

 音楽がアンジェロ・バダラメンティだった、ということも後押しになって借りたDVD。「ゲド戦記」のル=グウィンが原作ということも、もちろんチェック項目のひとつだったけれども、わたしはSFファンではないので、こういうのを観て「なんだ、ふつうのSFではないか」などという感想を書くと、「まるでわかっていない!」などとのお叱りをこうむるのではないかと思う。
 どうも原作には宇宙人が登場したり、もっと(SFらしい?)エピソードも豊富らしいのだけれども、ぎゃくにわたしは、この映画のまとめ方は気に入っている。登場する医師の女性アシスタントの持つ、性的なオブセッションの取り入れ方がいいし、音楽にバダラメンティを招いているように、この監督さんはデヴィッド・リンチのことは意識していると思う。あれこれと出てくる室内のインテリアの感じこそが、いちばんリンチ的なところのようではある。

 監督さんの名がフィリップ・ハースで、主演がルーカス・ハースなわけだから、ふたりは親族関係なのかと思ったら、そういうわけではないみたい。「Philip Haas」で検索してみると、「意外にも」というのか「やはり」というのか、この人は立体作品(彫刻)の作家でもあるらしく、きょねんニューヨークのボタニカル・ガーデンで開催された「Four Seasons」という展覧会、かなり評判になったらしい。写真も動画も観ることが出来るけれども、これ、つまりはアルチンボルドの有名な「春」「夏」「秋」「冬」の作品をげんじつに立体化したもの。しかも、でかい。

 f:id:crosstalk:20131012103242j:image

 この作品だけではこのフィリップ・ハースのことはわかりきれないけれども、とにかくは「興味深い」人物であることはたしか。映画作品としては、日本ではほとんど劇場未公開らしいけれども、二十年ほどまえに、「マネー・マン」という、「お札の絵を描く男」を追ったドキュメンタリーは公開されているみたい。わたしもぼんやりと、この「マネー・マン」という作品のタイトルぐらいは記憶に残ってた。DVDとして、この「天のろくろ」をふくめて三作品が国内でもリリースされているみたいで、「エンジェル&インセクト」というのとか、ちょっと観てみたくなった。あと、ことしの五月に原宿のギャラリーで開催されていたらしい「Money after Money | 信用ゲーム 2013」というイヴェントにも、アンディ・ウォーホルやヨーゼフ・ボイスらの作品とともに、このフィリップ・ハースの作品も展示されていたらしい。
 さいごに、YouTube で観ることの出来る、その「Four Seasons」の映像をリンクさせておきましょう。

Four Seasons at The New York Botanical Garden


 

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■ 2013-10-09(Wed)

 あさから晴天。きょうもなんだか暑くなりそうだと思う。夕方にTVのニュースをみていると、新潟では三十五度にもなったということ。このあたりも暑かった。エアコンにがんばってもらった。
 朝食には、トーストにおとといのトマトカレーをレタスやハム、チーズといっしょにはさんでみた。これはけっこういい味だった。ごはんとは合わないけれど、こうやって食べればなかなかにいける。あしたもコレでいってみようと思う。

 Facebook をチェックすると、知人らの近況がわかる、ということがわかった。みんな充実した生活をしているなあ。わたしには書き込むような「近況」というものもないけれども(ここにダラダラと書いていることは別)、みなさんの近況を知るためにも、まいあさチェックしてみようと思った。
 きのう、散歩でもしてみようかと思ったもので、この近郊のことをネットで調べたりしてみた。けっこうわたしでも知っていること、知っている風景の記載が多かったけれども、わざわざこの地に複数回にわたって探索に来られていた方もいらっしゃって、その方のレポートや写真が興味深かった。その方によるとこの土地、看板建築があれこれと残されている地なのだということ。そもそもが「看板建築」ということばすら知らなかったのだけれども、関東大震災以降の商店に特徴的な建築様式、とのこと。なるほど、この駅から北西にのびる坂道をのぼると、古い商店があれこれと残っているわけで、わたしもそういう商店の店がまえというものを面白く感じていたものだったけれども、あれが「看板建築」というものなのか。だいたいこのあたり、明治の末期から戦前にかけてはおどろくほど商業などの栄えた地域で、ある種の織物の生産は全国市場をほぼ独占もしていたわけである。空襲の被害を受けなかったこの土地、そのころの名残りの建築物は、古い蔵などをふくめてあちこちに残っている。
 わたしも、この地に転居して来たころにはあちこち歩き回って、そういう建築物を自分なりに探してみたりしたものだったけれど、もう長いことそういうこともやっていない。もうちょっと涼しくなったら、またそういうことをやってみようと思った。

 昼食にはきのうと同じく、ひやむぎに「冷製かけつゆ」をかけてかんたんにすませ、午後からはきのうちょっと観た「劔岳」の残りを観た。DVDの冒頭に入っている、他の作品の紹介や予告などが三十分近くもあって、きのうはすなおに観ていてとちゅうでイヤになってしまったわけで、きょうはもちろん飛ばして観た。それでもかんたんにはトップメニューにたどり着けないわけで、やはりうんざりする。本編の感想は下に。

 夕食は、まだまだいっぱい残っているカレー。トーストにはさむ分は別に分けておいて、フライパンでひき肉を炒めたところに残ったカレーをぶちこみ、さらにちょっと牛乳を加えてみた。ただ薄味になっただけで、あんまりおいしいものではなかった。まだ一食分は残っている。夜はベッドでプルーストを読むけれども、なかなかペースがあがらない。読んでいて、その登場人物のふるまいに「うへっ! フランス人ってイヤだなあ」とか思ってしまい、そういうところに足を取られてしまうというか。また、プルーストがそういうことを微に入り細をうがって書くわけであるし、その文章力がまたただ者ではないわけだから、よけいに「うんざり」してしまう。読んでいてすぐに眠くなって、寝てしまう。


 

[]「劔岳 点の記」(2009) 新田次郎:原作 木村大作:脚本・撮影・監督 「劔岳 点の記」(2009)  新田次郎:原作 木村大作:脚本・撮影・監督を含むブックマーク

 映画におけるクリスチャン・ラッセンというか‥‥。監督が自分の好きなものをファンタジックに並べただけ、みたいな。「リアルさ」を追求した過酷な撮影だったというけれども、けっきょくはファンタジーではないかと思う。しかも、この脚本は「説明」に終始する。もちろんストーリーの説明なんだけれども、映像は映像でストーリーとは別のところにいることがほとんど。男たちが並んでいるシーンが多いんだけれども、アップになったとき、その並び方に作為を感じることが多かった。宮崎あおいがかなりクローズアップされるけれど、それに対応するだんなさんの浅野忠信の側の、宮崎あおいに向けての演出が薄くって、釣り合いが取れていない。
 じつは、おまけでついている特典映像の、浅野忠信と香川照之とのトークがいちばん面白かったのだけれども、せっかくふたりが同じ場に同席しているのに、カメラはひとりひとりのクローズアップしかとらえない。これは同じソースがYouTube にもアップされていたけれども、そっちはちゃんとふたりをいっしょの画面でとらえていた。


 

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■ 2013-10-08(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 台風が沖縄から九州の方に北上中とのこと。このあたりの高校が、ちょうど日曜日から沖縄へ修学旅行へ行っているはず。ほとんどの行程が台風接近と通過の時期とかさなったはずで、旅館から外へ出ることも出来なかったんじゃないだろうか。雨に降り込められて旅館から出られないというのは、このあいだ観た「真夜中の弥次さん喜多さん」の設定だったけれど、高校生が宿屋で幻覚に悩まされたりしたら、どんなだろう。
 このあたりも、午前中には空で黒い雲が風に流されていくのがみられたりしたけれども、午後からは晴れて、夏のような暑さになった。エアコンをつけたりした。おかげで、だるい気分も継続。昼食にきのうのトマトカレーを食べたら、ちょっと盛りすぎてしまっておなかが苦しくなった。

 しごとで支社から倉庫へ移動するとちゅう、みちぞいのレンタルヴィデオの店で、「旧作50円」という旗がいっぱいなびいているのがみえていた。腹ごなしの運動がてら、DVDを借りることにして、そのレンタルヴィデオ屋まで歩いてみた。腹ごなしといっても片道十分ぐらいの道のり。たいしたことないのだけれども、どうも、どこへ行くにもたいていは歩いて五分ですんでしまうという、かなりコンビニエンスな環境にいるもので、ほんとうに長い距離を歩いたりしなくなってしまった。きょうは外も暑いけれども、もうちょっと秋らしい気候なら、もっと散歩らしいことをやってみたくなった。

 ヴィデオ屋に到着して、店内をみてまわる。なんと、ブニュエルの「銀河」などというのが隅に置かれていたのを、ピックする。あとは、熊切和嘉監督の「ノン子36歳(家事手伝い)」を選び、「あと二本ぐらい借りてもいいか」という気分で、「劔岳 点の記」と、ル=グウィン原作の「天のろくろ」というのを選んだ。「劔岳 点の記」は図書館にも置かれているのだけれども、これがずっと長いこと、「貸し出し中」の札がついたままになっている。おそらくは借りたまま返さないでいる輩がいる。特に観たいという作品でもないのだけれども、撮影でいいところもあるかも知れないと、図書館で借りてみようと思っていたのだけれども、そういうわけでいつまでも借りられないので、レンタルすることにした。

 帰宅して、その「劔岳」のさいしょの三十分ぐらいだけ観る。「いいじゃないか」などとは思うけれども、おまけみたいにつけられた音楽(クラシックの名曲集?)はひどいと思った。

 きのうまで気にかかっていた、例の奈良美智&ラッセンもんだい、その端緒となったトーク(レクチャー)の全部が、USTREAM でアップされていたのを観た(といっても前半だけ)。つまり、この六月に刊行された「ラッセンとは何だったのか」という書籍を受けてのトークであり、つまりこの二十世紀後半からの資本主義社会のなかで、アートというものがどのように評価され、どのように売られて来たのかということを検証するものだと思った。
 わたしもそのむかし読んだことのあるトム・ウルフの「現代美術コテンパン!」の背景(当時のアメリカのアートはグリーンバーグやローゼンバーグの美術批評を受けての、そのイラスト化ではないのか?というこの本の要旨が語られる)あたりから、「ヒロ・ヤマガタ問題」(中ザワヒデキ氏による)を経て、こうして「ラッセンとは何だったのか」という流れになる。そのなかで(といっても、もんだいの発言はこれらのことが語られるずっとまえになされたものだけれども)、村上隆氏がアートの中枢に出て勝負をぶったという話から、「嫌われるアーティスト」としてその村上氏、草間彌生、会田誠らの名があげられるなか、奈良美智氏がそのリストに名が出て来ない、そこを受けての発言として、「奈良美智のファンとラッセンのファンは同じ」という発言になるわけだった。おそらくこれは、ハイ・アートの中枢からの距離のことをいってるんじゃないだろうか。とりあえずやはり、ネットでのあのニュース報道の姿勢はかんぜんにまちがっているとは思うけれど、奈良美智氏が怒るのもまた、当然だろうとは思う。少なくとも、このレクチャーの全体像をつかまなければ、表層的な事象だけでどうこうということなど出来ない。でも、怒る権利を持っているのはやはり、奈良美智氏のファンの方々だろうけれども(もしくはラッセンのファンの方々も、「奈良美智といっしょにしやがって」と怒ることもあるだろう)、そういう方々も、このレクチャー全体を把握しないと何も言えないのだろうか??? 「ラッセンとは何だったのか」という本、読んでみたくなった。あと、つい先日、「このお方はいったい誰だったっけ?」という方の姿をどこかでお見かけしたのだけれども、それが中ザワヒデキ氏だったことがわかった。

 昼食を食べすぎていつまでも胃が重いので、夕食はひやむぎにした。せんじつスーパーで、「にんじんの冷製かけつゆ」というのが半額で売っていたのを買ってあり、きょうはちょっと暑苦しくもあるし、これでいってみた。なかなかにおいしかった。まだ一食分残っている。


 

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■ 2013-10-07(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 きょうは、しごとは非番で休み。ちょっと朝寝をしたけれども、それでも五時半ごろには起きてしまう。窓の外は天気もいいみたいだけれども、わたしはなんだかどんよりとした気分で、ほとんど何をやる気もしない。血圧は安定しているというか、きのうから上で120から130のところで推移してる。まさに健康数値なのだろうけれども、わたしには、低すぎるのかも知れない(ふだんは130は越えている)。それにまた、あること、ある行為をきっかけにして、わけのわからない情景があたまに浮かんだりするようでもある。ぼんやりと、時のすぎて行くのに身をまかせるだけ。

 きのう、奈良美智とラッセンのことについての報道に反応してしまったけれども、どうも、そのもとの報道がおかしいんじゃないかと思うようになった。「奈良美智のファンとラッセンのファンは同じ」という発言には、その発言が出てくる「文脈」があるはずだと思う。そういう文脈を無視して、その局所にだけ反応してしまうのはよくない。じぶんのきのうの反応をまずは反省するし、ネットなどで流されている報道と称されるものには気をつけないといけないと、あらためて思う。YouTube などもそう。

 夕食には、きのうの計画どおりにツナカレーをつくる。冷蔵庫をのぞいてみると、ジャガイモがきのう買った四個を合わせて十個いじょうあった。ストックしすぎ。きのう買うひつようはなかったんだ。カレーにはせいぜい二個しか使わないし、カレーのあとは肉じゃがでもつくろうか。
 きのう買ったまぐろのブロックをパックから出してみると、そのうらがわがまっくろで、なんだかとても食べられそうなふんいきではなかった。きのう刺身にして食べたところは、例外的なところだったみたい。そのまっくろなところを包丁で切り落とし、これはゴミ袋に捨てた。そのうちがわの、もうちょっとマシなところも切り取って、これはニェネントのお皿にあげた。残ったところも、なんとなく食べたくなるようなものでもない。やはりこういう買い物はしない方がいいかな。

 カレー粉のストックも少なくなっていて、まだ箱に入ったままのストックもあるからそっちを開ければいんだけれども、このストックだけにして、使い切ってしまおうと考える。味がたりない分、このあいだ出てきたトマト缶を入れてみたらどうだろう。それで仕上げに市販のカレールーをふたかけほどぶち込めばいいんじゃないかという計画。
 みじん切りにしたタマネギを炒め、ブラックペッパーをふり、カレー粉を入れる。さらにトマト缶を投入して、ちょっと火にかけたままにする。それとは別に、ひとくち大にカットしたそのまぐろを炒め、もうちょっと大きめのカットのタマネギとニンジンもぶっ込んでいっしょに炒める。ちょっとあとで、小松菜も入れた。これをさっきのトマトプラスカレーといっしょにして煮込む。しばらくして市販のカレールーを投入し、またしばらくしてジャガイモも加える。‥‥完成。ごはんといっしょに盛って食卓へ。

f:id:crosstalk:20131007180426j:image:left けっこう、いい感じにとろみがついたというのか、見かけはおいしそうに見えないことはない。しかし、これはトマト味が強すぎた。というか、カレーが少なすぎたのか、ほとんどカレーの味ではない。トマトライスというのか。マグロの件だけれども、これも「おいしい」といえる味ではない。どっちかというと失敗だったか。まあ、まったく食べられないというものではないから、がまんして食べよう。しかし、四食分はあるよな。

 食後は、またパソコンに向かい、Facebook だとかTwitter などをながめたりする。どちらもむかし登録はしてあるから、なにか書こうと思えばいますぐ書けるわけだけれども、Facebook に書くようなことはつまりはこの日記で書いているわけだし、Twitter なんかやると、ついつい脊髄反応で書いてしまって、あとでものすごく反省するようなことばかりになってしまうだろう。やはり恥をかくのはこの日記だけでいい。


 

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■ 2013-10-06(Sun)

 きょうも、あさ、しごとに出ようとすると、雨の気配だった。このところこうやって、早いじかんに雨が降るケースが多い。雨はしごと中に少し降っていたようだったけれども、やはりしごとを終えて帰るときにはやんでしまっていて、そのあとは青空になった。

 部屋にもどると、いつものように靴下をぬいで、あとはずっと裸足ですごすのだけれども、そうやって裸足でキッチンに立ち、じぶんの朝食の準備をしていると、やはりニェネントがやって来て、わたしの足にすり寄ってくる。きょうは、わたしの裸足の甲をぺろぺろとなめてくれた。ニェネントに愛されているようで、うれしくなった。いつのも朝食に加えて、卵黄も割ってあげた。きょうのわたしの朝食はトーストにコーヒー。ニェネントはネコ缶とネコメシと卵黄。ニェネントはこのごろはまっ先にネコ缶に飛びつき、すぐにぜんぶ食べてしまう。値上げされた分だけおいしくなってるんだろうかしらん。

 昼食は残っていたごはんでかんたんにすませ、またパソコンにへばりついてあれこれと検索したりしてじかんがすぎてしまう。‥‥この日記には時事的なことは書かないのだけど、きょうはそうやってネット検索して、妙なニュースにたどりついたことを書いてしまう。
 アーティストの奈良美智のことなわけだけれども、あるギャラリーのスタッフが「奈良美智のファンとクリスチャン・ラッセンのファンとは同じ」と公開の場で発言したそうで、そのことで奈良美智が「ほんとうにそうなら作品の発表をやめる」と、怒っているというニュース。その発言をしたスタッフというのがまた、どうでもいいようなギャラリーのスタッフではないあたりで困ってしまうわけだけれども、彼女(女性らしい)はいったい、ラッセンの絵がどのようにして売られているのか、知っているのだろうか。そういう、(わたしの考えでは)アブノーマルな商法で成り立っているアーティストの存在の「ファン」というのがどのような存在なのか、ふつうに考えれば、奈良美智にかぎらず、たいていの「ただ絵が売れればいい」と考えているわけではない(ふつうの)アーティストなら誰でも、「あなたはラッセンと同じよ」といわれれば、怒り狂うのは当たりまえ、だと思う。で、そのスタッフ(ギャラリーのディレクター、らしい)がじっさいに、奈良美智をそのように評価してしまった上での発言だとしたら、ディレクターとしての能力、資質を問われることになるだろう。このニュースを読んだかぎりでは、そういう人物が現代美術を取り扱うギャラリーのディレクターをやっているということが信じられない。ほんとうに奈良美智のファン=クリスチャン・ラッセンのファンだというのなら、奈良美智を侮蔑するだけでなく、奈良美智のファンをも侮蔑するものになるだろう。彼女は、クリスチャン・ラッセンを取り扱っているあの画商に転職した方がいいようにも思う。あそこでなら、どんな勝手なことをほざいてもかまわない。‥‥こんなことを書いてしまっているわたしも、つまりは多少は怒っているわけである(この部分、あんまりこの日記の姿勢から外れてるので、ここのアクセス数が急に増加したりしたら削除するつもり)。

 夕方になって、そうだ、きょうは日曜日だったと思い出し、南のスーパーはたしか日曜日には野菜がけっこう安くなるはずと思って、出かけてみた。タマネギ一個28円。ジャガイモも一個28円。高いときには倍以上の値段がつく。四つずつ買った。鮮魚コーナーに行くと、マグロ赤身肉のブロックがパックされたものが150円ぐらいで置いてあった。おそらくは冷凍されていたものを解凍したんだろうけれども、みためはとってもきれいな肉の色で、このまま刺身でも食べられそうだった。そうだ、あしたはツナ・カレーにしようと、これも買った。

 帰宅して、そのまぐろのブロックをちょっと切り取って、ニェネントにあげてみた。ニェネント、すぐに飛びついて来て、すぐに食べてしまった。もうひと切れ、あげる。またすぐに食べる。ニェネントがおいしそうに食べるので、わたしも食べたくなってしまい、きれいな赤身のところを選んで、刺身として夕食のおかずにしてみた。‥‥けっこう、おいしかった。つまり、回転寿司の店なんかは、こういうのを使っているわけだろうと、勝手な想像をした。まだまだいっぱい残っているけれど、ぜんぶツナ・カレーに使ってしまうのはもったいない気もする。あしたまた、ニェネントにあげちゃおう。


 

[]Tom Waits - Invitation to the blues (with lyrics) Tom Waits - Invitation to the blues (with lyrics)を含むブックマーク

 久々に、「今日のPlay List」など。‥‥この曲には、むかし、ほんとうにハマってしまったものだった。この曲のおかげで、道を踏みはずしたところもあると思う。また、この曲のおかげで、まっとうな生き方では体験できない世界を体験出来ていたのかも知れない。
 この曲がリリースされたのは1976年のことらしいけれども、わたしは同時に聴いたわけではない。1981年にニコラス・ローグ監督の「ジェラシー」という映画が公開されたとき、そのオープニングに使われていたのがこの曲だった。美術館に展示されたクリムトやエゴン・シーレの作品のバックに、この曲が、つまりは映画の冒頭から流されたのだった。わたしには、かなり、ショックだった。映画を観終わってからこの曲の入ったアルバムをすぐに買い、しばらくはどっぷりとハマった。ターンテーブルにこのヴィニール盤をのせても、ほとんど、この曲しか聴かなかったと思う。‥‥こういうことを書くとヤバいけど、たしかに、わたしの離婚の後押しにはなったものである。もうすっかり忘れていた曲だったけど、きょう、ふとした拍子で思い出してしまった。歌詞がクセものなので、歌詞付きのモノを選んでみた。

 

Tom Waits - Invitation to the blues (with lyrics)


 

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■ 2013-10-05(Sat)

 きょうはしごと。あさ起きて外をみると、雨だった。傘がなくては出勤できないだろう。多少の雨だったらたいした距離でもないので傘なんかささないで行っちゃうのだけれども、きょうの雨は濡れる。ものすごく久しぶりに、傘をさしてしごとに出た。
 このところ、倉庫でのしごとはふたりでやるものと決められてしまっている空気なのだけれども(むかしは五人とか六人でやったのだけれども、それだけしごと量も減ったのだ)、きょうはFさんと組んでのしごと。かつてはこのFさんとは反目し合って、ぜったいに口もきかないぐらいにそのかんけいはこじれていたのだけれども、半年ぐらいまえに和解したというか、いまは良好なかんけい。わたしもむかしは冷たくあたったことをわびるつもりで、いまは出来るだけ手伝ってあげたりとか、気配りしている。きょうも、Fさんの担当のところに来ているなかに、30キロの米袋がかなりたくさん目についたので、「それはオレがやるから、残しといて」なんて親切をやる。‥‥しかし、このあたりはこのあたりで米の収穫はかなりある地域なのに、なんでよそからそんなに大量に米を買うかねえ。銘柄米でもなかったぞ。

f:id:crosstalk:20131005130323j:image:right 例によって、しごとを終えるころには雨はあがっていた。このところ、こんなのばっかり。帰宅すると、ニェネントのごはんのお皿がみんな空っぽになっていた。ニェネントの食欲旺盛。いっぱい食べて、巨大なネコになってほしい。わたしが朝食の準備をしていると、わたしの足もとにきてすり寄ってきて、「ごはんをちょうだいよ」とやる。かわいい。あらためて、「ああ、わたしがこの茨城に越して来たのは、ニェネントと出会うためだったのだなあ」と実感する。ニェネントのおかげで、わたしはこうやって生きているのだと思う。ニェネントのおかげで苦労していることも多いけれども。
 きょうの朝食は、久しぶりにオートミールにしてみた。牛乳はこわいので、ほとんど使わないようにした。それでもけっこうおいしかった。食パンをちょっと買い込んであるのでそっちも消費するけれど、朝食はぼちぼちオートミールにもどしてもいいだろう。

 昼食はまだ残っていたミートソースでスパゲッティにした。食べているとAさんからのメールがあり、またこれから演劇の舞台を観るのだということ。もらったチケットらしいけれども、このところすっごく人気のある俳優さんだとか、名の知られた俳優さんとかがいっぱい出てくる舞台みたい。Aさんがそういうの観るのって珍しいことだな、などと思った。どういう舞台なのか調べたら、わたしが映画で観て気に入っている女優さんなども出ているようだった。原作は日本人の書いた戦後の戯曲みたいだけれども、わたしはよくわからない。「渋い作品を観るんですね」みたいな返信をする。わたしは食事のあと、録画してあった映画などを観た。

 夕方になってAさんからメール。なんと、三時間を超える舞台だったらしい。つまらなかったらしい。「わたしは普通の演劇が観られなくなってしまったのか」と書かれていた。そう、演劇の世界って、「普通の演劇」といういい方が成り立ってしまう。たとえば美術の世界での、公募展なんかの世界と、その外のギャラリーを発表の場とした世界とがまるで違うのと、そういうのと相似形みたいなところがあるんじゃあないだろうか。Aさんが観たという舞台をネットで検索したけれど、微妙なスタンスにある舞台だなあ、みたいな印象は受けた。観客になられた方々の感想もあれこれとアップされていたけれども、そのほとんどすべてが出演している俳優さんらの熱烈なファンの方々による感想で、まるでどういう舞台だったのかはわからない。ひいきの俳優さんの一挙手一投足にこそ興味がおありのような文章のれんぞく。Aさんからそのあとにもらったメールでの批評が面白くって、読んでいて声をあげて笑ってしまった。Aさんはやっぱりタレンテッドだなあ、などと思い、そういう人と知己であることが、あらためてうれしくもなった。

 ネットのニュースを読んでいて、東京のどこかで女性を襲おうとした男性が、スキをつかれて脅しに使っていたナイフで刺されて死亡してしまったというのを読み、「それって、あのわたしの知人ではないのか」と、本気で思ってしまったりした。違っていたからよかったけれども。


 

[]「暗黒街の女」(1958) ニコラス・レイ:監督 「暗黒街の女」(1958)  ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 原題は、「Party Girl」というもの。マフィアのボスの顧問弁護士をつとめる男とキャバレーの踊り子との「純愛ドラマ」というふんいきだけれども、「金のために<自分>を捨てる」ということからの脱却、<自分>を取り戻す、ということがテーマになってもいる。そのために、そういうマフィア側からの、「この金でおまえを買おう」というような金額の提示がかなり何度もインサートされる。まずキャバレーの踊り子は楽屋口でマフィアの子分から100ドル提示され、「これで今夜のパーティーに来てくれ」といわれる、さらにパーティーの席で賭けに勝ったそのマフィアの子分に、400ドル渡される。弁護士はまずはその400ドルを返すようにアドヴァイスするわけだ。その弁護士にしても、終盤にマフィアのボスからということで、800ドルするというインゴットのようなものを渡されたりもする。いちいちその金額が示されるのもおもしろいけれども、つまり、そういうものをいかに振り切るか、というのが恋するふたりのテーマではある。

 弁護士はガキのころのケガで片足が不自由なのだけれど、そのことがどこか性的不能を思わせるようでもあり、その分、踊り子とのかんけいに純愛っぽさをかもし出させているようにも思う。

 脚本というか展開は雑というか、すっきりしないところがあれこれとあるのはたしかだけれども、わたしは冒頭の三十分とか、かなり見入ってしまったし、涙がこぼれたりもした。このあたりの、ドラマとしてのニコラス・レイの演出、やっぱりすばらしいものだと思う。

 って、あとであれこれ検索していたら、この映画、ことしの一月にいちど観ていたことがわかった。この時期のわたしの記憶というのは不安定なところがあり、この映画のこともまったく思い出せなかった。ただ、ヒロインのシド・チャリシーという女優さんの顔にはどこか見覚えがあったわけで、そこにだけわずかに、わたしの記憶力もはたらいていたようである。


 

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■ 2013-10-04(Fri)

 いちおう、安全策として、きのうときょうの二日間の連休を前もって申請していたのだけれども、それがみごとに功を奏したというのか、きのうはいちにち寝てばかりいたし、正常の生活習慣にもどるためには、やはりもういちにちの休養がひつようだったわけである。

 まずは服用している内服薬がなくなってしまったので、また内科医へ行くことからきょうははじまる。ぜんかいは胃腸の調子が悪くってそういう薬までもらってしまったけれども、その後そっちの方はとりあえず回復しているし、血圧の方も安全圏内でおさまっている。ただ、八月に「レントゲン検査とか、しておきましょうか」というのを、「いえ、ちょうど社内で健康診断でそのあたりのこともやりますので」ということでパスしてあったのが、「会社の健康診断の結果は出たんでしょうか」と聞かれ、「あれれ、まだ出てないや」と思って、そう答えたら、「ずいぶんとのんびりとした会社ですねえ」といわれた。ほんとうだ。たとえば診断時に癌の初期症状とかがあったとして、健康診断の検査で見つかりましたと。それを知らされるのがその検査からほぼ二ヶ月たってからだったりしたら、検査時には初期症状だったのが末期癌にまで進行していたりしてしまうんじゃないのか(ちょっと大げさには書いてるけれども)。そういうのって、健康診断の意味があるのか。まあわたしものんびりと忘れていたわけだけれども。

f:id:crosstalk:20131005130147j:image:left 病院から帰宅したら、ニェネントがわたしのベッドの上でまるくなって寝ていた。このあいだベッドの上にひっぱり上げて遊んだもんで、「ベッドの上は寝心地がいい」と、思い出したのだろう。いぜんにはよくベッドで寝ていたものだった。ネコとは「寝子」と書く。いっぱい、寝てちょうだい。

 昼食はまたスパゲッティにして、きょうは木曜日で、線路の向こうのスーパーで玉子が安い日なので、買いに行く。はたまた、南のスーパーの一割引の日でもあるので、そっちにもまわってみる。ついでに、あたらしいドラッグストアをのぞいてみて、「吉乃川」が置いてあるかどうかもチェックする。‥‥置いてあった。もちろん、買った。スーパーではマーガリンとかスライスチーズ、ケチャップなど買った。帰宅してむかし録画してあったよくわからない西部劇を観たら、死ぬほどつまらなかった。よっぽど途中で観るのをやめようかと思ったのに、さいごまで観てしまった。感想は下。あんまりがっくりきたので、録画してあったわけのわからない西部劇はぜんぶ消去してやった。

 そんな映画を観たあと、ベッドに寝ているニェネントを追い払ってわたしが寝て、本を読んでいたらやっぱり寝てしまった。夕食とか食べないまま。「あれ?」と目が覚めたら、真夜中だった。正常の生活習慣に戻れたのかどうか、あやしいところではある。


 

[]「スレッジ」(1971) ヴィック・モロー:監督 「スレッジ」(1971)  ヴィック・モロー:監督を含むブックマーク

 あの「コンバット」の、ヴィック・モローが監督した作品。しかも製作はディノ・デ・ラウレンティス。‥‥どこひとつとして、こころに残るものはないということで貴重な作品、というか。

 いちおう観たあとでディノ・デ・ラウレンティスのことを調べてみたけれども、彼の製作作品のリストにこの作品は載ってなかった。ヴィック・モローも、監督をやったのはこの一作だけみたいである。きっと、みんなが「なかったこと」にしたい映画なんだったろうと思う。わたしもすぐに、すべて忘れることにした。


 

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■ 2013-10-03(Thu)

 まだ10月2日のこと。午後七時半。場所は駒場の「こまばアゴラ劇場」で、これからKUDAN Project による「真夜中の弥次さん喜多さん」の舞台がはじまるところ。この舞台は2002年に初演されたものの再演で、この十年ちょっとのあいだに、「百人芝居」としても舞台に上げられているし、中国、そしてフィリピン公演も行われている。わたしはいちおう、2002年の初演の舞台は観ているし、演出の天野天街氏の演出メソッドが楽しめるというのではこのあたりがベストではないかという思いもあって、こんかいの再演にAさんもお誘いして、わたしもまた観に来たというわけ。
 いろんな演劇評でもほぼ絶賛された舞台でもあり、再演するんならもうちょっと大きな劇場でやるのかと思っていたのに、ぎゃくに初演のときよりも小さな劇場。これじゃあ超満員になるだろうなと思っていたけれども、あんのじょう、ぎっしりである。さあ、始まった。‥‥ということで、感想は下に。

 終演後は原作者のしりあがり寿氏、そして天野天街氏、出演の小熊ヒデジ氏と寺十吾氏の四人でのアフター・トーク。海外公演で使われたという、観客にみせるためのセリフを翻訳したカードの、その現物が紹介されたりした。現地の人たちは映画のように字幕テロップをバックに投影したかったらしいけれど、天野氏らは「それでは役者の演技に眼がいかなくなる」と、役者さん自身がそのカードを観客に見せるやり方をつらぬいたのだと。中国語のカードがほとんど日本語みたいだったけれども、向こうの人たちにはどう映ったんだろうか。
 あと、アチラには雨が降る音としての「ザーザー」とかいう表現はないとのこと。冒頭のだいじなポイントなのに、翻訳不能。どうやったんだろう。英語だとたしか、「Pitter Patter」という表現はあったと思う(Hollies の「Rain on the Window」という曲に出てくる)けど、これはザーザー降りではない。「しとしと」というヤツだろう。調べてみても、やっぱり英語でも「ザーザー」にあたることばはないみたい。虫の鳴き声を擬音語であらわすのも日本独自のことのはずだし、日本語は面白いと思う。

 そのトークで、天野氏が撮る予定だったつげ義春の「必殺するめ固め」の映画化、やっぱり、あんのじょう企画はポシャっちゃったとのことだったけれども(そう思ってた)、天野氏の描いた「絵コンテ」が本になり、この日も持って来ているので、受付で販売するとのこと。わたしはこの原作マンガも大好きだったし、「絵コンテ」というものにも興味があり、即、買うことに決めた。
 トークがおわり、受付に行ってその「絵コンテ」を買った。それで、せっかく天野氏もここにおられるわけだし、「買いましたよ」というあいさつも兼ねて、その本にサインをいただいた。こういうのは、単にわたしがミーハーだからではない。いっしゅの「儀礼」でもある。
 わたしが天野氏にサインをもらっているあいだに、Aさんは、この舞台の海外公演のときのスタッフが綴った「日録」なんだか「苦労話」のコピーを買われていた。そっちもとても面白そう。

 もうじかんは十時近い。これでわたしの日帰りの可能性は消えた。とりあえずわたしは下北沢に出て、まずはいつのも「G」へ行ってみようと考える。いちど明大前に出て新宿に戻られるというAさんとおなじ電車に乗り、先にわたしが下車してお別れした。きょうはAさんと「お茶」はしたけれども、けっきょくいっしょに居酒屋などで飲むことはなかったわけだ。会話というものは、アルコールを潤滑油として回転していくものだろう。ちょっと、ざんねんではあった。

 下北沢の「G」は、ほんらいは水曜は定休日だけれども、手間のかからないメニューだけの飲み屋として、オーナーのBさんがカウンターに立ってやっているということは知っていた。そういう水曜日の「G」に、はじめて行く。ほぼカウンター席は満席。ギャラリーの展示替えをやられていたCさんもいて、なんだ、いつもの「G」ではないか。ただ、メニューはいつもとちがう。「日本酒300円」というのを飲む。Bさんがわたしのとなりの先客に「この人(わたしのこと)も映画をいっぱい観ているよ」なんていうものだから、「そんなこといわなきゃいいのに」と恨む。ほら、映画の話になってしまった。

 けっこう、じかんも経過して、BさんやCさんをふくめて帰られる方もふえて、空席ができる。ここで、残られていたお客さんのことをほかの方が「◯◯さん」とか呼ばれているわけで、それはわたしがかつてよくライヴを聴いていたミュージシャンの方のお名まえなわけで、カウンターの中の方に、「あの方って、つまりは◯◯さんなんですか?」とたずねると、そうですよ、ということ。おどろいてしまった。というか、それだけではなく、そのカウンターの中の方がまた、ミュージシャンのDさんだったわけで、わたしもなんとなく「Dさんに似ている方」という気はしていたのだけれども、っつうわけで、わたしはライヴをいくども体験したDさんやEさんといっしょに飲んでいたわけである。そこからはもう、そういう話に移行していって楽しんだけれども、いかんせん、閉店のじかんもせまっていた。ざんねん。こんどまた、水曜日の「G」に来たくなったのはいうまでもない。きっと日本酒を五杯ぐらい飲んだ。千五百円ぐらいつかったんだと思う。安い。

 ‥‥店を出て、夜を明かす。めんどいからもう書かないけれども、また財布が軽くなった。このところ浪費癖がついたのだろうか。明るくなってから帰宅した。まったく寝不足だったけれども、寝込んでしまって降車駅を乗り過ごすことはなかった。そのかわり、帰宅してからはニェネントのごはんを出してあげたぐらいのもので、あとは爆睡した。夕方にいちど目が醒め、きのうの昼からまるで食べていないことに思いあたり、スパゲッティをゆで、冷蔵庫にとってあるミートソースをかけて食べた。そのあとちょっとパソコンをいじったりしたけれども、またベッドに戻って寝てしまった。


 

[]KUDAN Project「真夜中の弥次さん喜多さん」しりあがり寿:原作 天野天街:脚本・演出 KUDAN Project「真夜中の弥次さん喜多さん」しりあがり寿:原作 天野天街:脚本・演出を含むブックマーク

  天野天街氏がマンガの原作を舞台化したのは、じつはこの「真夜中の弥次さん喜多さん」がさいしょではなく、少なくとも1998年の少年王者舘による「マッチ一本の話」(鈴木翁二:作)という前例はあるし、もっとまえにもあったのかも知れない。ちょうどこの「マッチ一本の話」の舞台というのが、わたしが少年王者舘の舞台を観はじめたころ、だったわけだけれども、これこそがおそらく、わたしが天野天街氏や少年王者舘にハマってしまった、そのひとつのきっかけになったモノだったと思う。二次元と三次元を自在に行き来しながら、お得意の「繰り返しネタ」をふんだんに(シナリオには、「これを十万回繰り返す」とか書かれていたらしい)盛り込んだ舞台にはしてやられたし、そんななかにもノスタルジーとロマンがみごとに仕込まれた作劇に惚れ込んだものだった。おそらく天野天街氏、マンガ表現との相性、マンガ表現への干渉のなかにこそ、創作の秘密があるのではないのか。

 2002年初演のこの「真夜中の弥次さん喜多さん」、登場人物はふたりだけだし、舞台は宿屋の部屋の中だけである(ふすまの向こうは異次元に通じているようだけれども)。ここで喜多さんのヤク中ゆえの幻覚が部屋を満たし、弥次さんもまたその幻覚の世界に浸食されていく。いったい「リアルな世界」はどこにあるのか。
 ここでおなじみの「繰り返しネタ」がいっぱい出てくるのだけれども、この作品では(たいていは)まずは「幻覚のない世界」としてふたりで演じられ、そこでの喜多さんの幻覚症状に弥次さんは違和感をおぼえているわけでもあるけれども、このおなじ場面がリピートされるときには、「幻覚の世界」として描かれる。このリピートのバリエーションがすごい。圧倒的である。あきれてしまう。もともとの舞台空間の虚構性をめいっぱい利用し、さらに「リアルでない世界」というものが強調される。

 ある意味で、天野天街氏がその劇作でいつも追求されていることをこそ主題としてらっしゃるわけで、そういうところでは「わかりやすい」舞台、ということもできる。展開はかなり恣意的に感じられるところもあるけれども、「ん? けっきょくは一貫してつながっているわけか?」と思ってしまうのもたしか。しかし、あんまり効果的ではないネタがないわけでもない。「塩梅」=「照明」というのとか。でも逆に、「タビ」と書かれた紙を障子に貼ったとたん、観客の方では「ああ、これは<死>という文字になるな」と予測できる。そういう、観客に予測させるというのも楽しいものだと思った。

 ただ、二人芝居ということで、どうしてもふたりの役者さん(寺十吾氏と小熊ヒデジ氏)の役者としての力量が求められる作劇で、じっさいにふたりの役者さんはすごいのだけれども、とくに幕開きの早口の対話など、ある種の漫才だとかコントの名人芸のようなところもあり、ちょっとわたしのふだんからの舞台への興味とはちがうものではある。たとえば「少年王者舘」の舞台というのは、そういう役者の演技力にたよるようなものでもないわけで、ブレッソン映画のことを引き合いに出すのは場違いで怒られちゃうだろうけれども、わたしの場合、そういう役者の演技力からうまれる舞台の完成度とは別のところを求めているのだ、ということがあらためて自覚できた。


 

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■ 2013-10-02(Wed)

 月が替わったので、また友人知人のイニシャルはリセットする。きょうは午後からAさんと、まずは吉祥寺で映画を観て、夜は駒場で舞台を観る予定。舞台のはじまるのがおそいので、おそらく終電には間に合わないだろうと、あちらで外泊するつもりではいる。

 まだ台風は東の海を北にすすんでいて、関東地方もきょうの午前いっぱいは風雨がつよいだろうとのことだけれども、きっとAさんと会うころには、あめかぜもやんでいることだろうと予測する。それでも、あさのしごとのあいだは、けっこうな雨が降っていた。これがきのうとおなじように、帰宅するときには合わせたようにやんでしまった。きょうも傘はいらなかった。

 帰宅してトーストの朝食をとり、ニェネントに「おるすばんお手当」の卵黄つきのごはんを出してあげる。準備もととのって、さあ出かけようと玄関へ向かうと、気配を察知したニェネントが「にゃん!」とないて走って来て、玄関の三和土にわたしより先回りして降りて、ドアのまえで丸くなってわたしが出かけるのを阻止しようとする。横になったままわたしを見上げて、「にゃにゃん」と、ないている。きっと、「行かないでよ」といっている。かわいらしくもいじらしい。ニェネントを抱き上げて下駄箱の上にやり、ドアを開けて外に出る。ドアを閉めるとき、ニェネントを目が合ってしまう。ニェネントは首を上下させながら、じっとわたしをみている。ごめん。

 電車のなかで、「ひょっとしたら、帰りは新幹線を使えば、なんとか今日のうちに帰れるのではないか」と気づく。ケータイで調べてみたら、渋谷駅九時五十三分の電車ならば、とちゅう新幹線を使ってローカル線の最終に間に合うようではある。舞台がながびけば、かなりギリギリの線になるだろうし、先週の、乗り過ごしてしまったイヤな思いもあたまをかすめる。もう泊まることにして、舞台のあとはAさんと飲めたりすればいいけれども、きょうはどちらにせよAさんだって遅くまで飲んだりできないだろう。

 新宿から中央線に乗り換えて、ずいぶんと久しぶりの吉祥寺。わたしがさいごに吉祥寺に来たときには、まだ居酒屋「I」の公園口店が営業していたのだった。Aさんとはよく、その「I」のとなりにあった、ネコのいるカフェに行ったものだったけれども、その後のAさんのはなしでは、「I」の営業ストップと同時に、そのカフェもまた閉店してしまったということだった。
 きょうは、その公園口ではなく、北口をまっすぐ行ったところの映画館へ行く。青山真治監督の「共喰い」を観るのだけれども、もうたいていの映画館での上映は終わってしまっていて、まだひるまに上映しているのはここぐらいのもの。それで吉祥寺に来たわけである。

 駅でAさんと落ち合い、まずはいちおう映画館へ行ってみて、上映時間を確認する。調べておいた通りのじかんだったので、先にチケットを買っておいてから、遅い昼食にする。ちょっと歩いて、「K」でピラフを食べた。塩分控えめの味で、わたし好みの味だった。

 上映館のバウスシアターは知られた映画館だけれども、けっこう意外にわたしはひょっとしたら初めてなんじゃないかとも思ったけれど、おそらくはずいぶんむかしに来たことはあるはずだった。小さな映写室での上映だったけれども、さすがに音は良かった。感想は下に。

 映画が終わって、舞台の方は井の頭線でまっすぐの駒場東大前の「こまばアゴラ劇場」での上演。じかんはまだ二時間近く余裕もあるけれども、先に駒場まで行っておいて、あっちでお茶などしてじかんをつぶすことにした。井の頭線縦断というのも、やはりずいぶんとひさしぶりになる。
 まだ六時ぐらいなんだけれども、電車から外の風景はすっかり夜になる。もう十月なわけだ。

 駒場駅周辺はカフェとか居酒屋とかほとんどないのだけれども、劇場沿いの道筋にセルフサーヴィスのカフェのあるケーキ屋さんがあり、そこでじかんをつぶすことにした。

 映画を観た延長から、わたしの知人でもって、イイ歳をしてセックス狂いになっているオヤジの話をする。「こんなバカがいる」とあげつらうのではなく、わたしには古い友人だし、いまのままでは犯罪を起こしたり、犯罪に巻き込まれたりするのではないかと、まじめに心配している。
 彼が「異常」だと思いはじめてからずいぶんになるけれど、その端緒はつまり、当時の「出会い系サイト」に、まいつき十万円以上つぎ込んでいるという話をきいてから、だろうか。もうすでにそのころ、「出会い系サイト」の構造についてはニュースで報道されたりもしていて、「まともなものではない」という認識がたいていの人に浸透していた時期に、である。そのあとも、どうやらある女性につきまとい、それなりの交遊かんけいはつくっていたらしいけれども、彼女を追って転居し、あげくにその女性の娘から「もう母には会わないでほしい」とまでいわれたらしい。このあたりも、(たとえセックスがからんでも)ふつうに交際しているのだったら、その親族があれこれと口出ししてくるという状況が考えにくい。なにかがあったにちがいないと、わたしは思わざるを得ない。
 ‥‥ひとつヤバいのが、彼にとって、相手が「女性」でさえあれば、年齢容姿を問わないという姿勢にある。つまり、誰でもいい。いまでも相手を探し求めているようだし、心配ではある。‥‥また、彼がカプセルの「精力剤」なるものを所持していて、「どうしたの」と聞くと、「街角に立っていた男から五千円で買った」という。‥‥信じられない。おそらく彼はじぶんのやっていることを何もかも、わたしなどに話しているわけではなく、「このあたりの話まではしておいてもいいだろう」という判断があることは、充分に想像できる。おそらく、わたしなどには話していない、もっとディープなことに手を(ではなくってペニスを)染めているのではないだろうか。
 そんな人に、「そういうことはやめなさい」などという道理は、ぜったいに通らない。Aさんも、「もっと若い人だったら対処のしようもあるだろうけどね」といっていたけれど、その通りだと思う。じつはわたしは、もう彼とは絶交しようかと考えてもいる。

 はなしが、とんでもない方に行ってしまった。開演時間がせまり、会場へAさんと行く。なんだかすっごいゴタゴタした空気のなかで開演を待つ。早い時期にチケットを買ってあったので早くになかに入ることができ、退避しやすい良席がゲットできた。‥‥開演。

 じつはこの日記、もちろんその当日に書いているわけではなく、翌日とか翌々日になって書いているのだけれども、この10月2日の翌日、10月3日というのがほとんど寝てばかりのいちにちで、書くことがまるでないので、この日の「日記」はここまでにして、あとのことはあしたの日記、つまり10月3日のところに書くことにしたい。10月2日の午後七時三十分、わたしのなかでは「日付変更」がなされた、ということにして、あとはまたあした。


 

[]「共喰い」田中慎弥:原作 青山真治:監督 「共喰い」田中慎弥:原作 青山真治:監督を含むブックマーク

 原作はせんじつ読んだ。例によって、あんましよく憶えていない。青山真治監督が映画にして、「観に行きたいな」とは思っていたのがそのままになって、ほとんど忘れていたところ、Aさんからメールがあって、この「共喰い」の予告を観て、木下美咲という女優さんが印象に残ったし、観てみたいということだった。わたしもYouTube で予告を観て、まあちょっとセックス描写もあることだし、Aさんと観るのではなくってひとりで観てみようかな、などとは思っていたんだけれどもそのチャンスもなく、「Rー15指定」程度だということもわかったんで、Aさんと並んで観てもだいじょーぶかな、などとは思ったわけ。それできょう、観て来た。

 こまかいことは書かないけれども、この物語、ほんらいはもっと、どこにでもいるような人たち、もしくは、どっちかというと醜男だとかブスといってしまっていい人たち、そういう存在の物語なんだろうと思った。田中裕子があまりに品格があって美しく、「こんな魚屋はいない」と思ってしまったわけである。わたしは原作を読んだとき、この「父親」というのが、中上健次の「枯木灘」の父親のような、「蠅の王」ともいえる人非人として読んでいたのだけれども、この映画での父親、三石研は、どこか人の良さを感じさせるような存在に見えた。ここでも、違和感があった。琴子を演じる篠原友季子という女優さんもかわいらしかったし、木下美咲もまた美しかった。ゆいいつ、主人公の十七歳の少年を演じる菅田将暉という役者さんが、主人公のイメージに似合っていただろうか。上目遣いの目つきだとかがよかった。

 しかし、こうやって映画になってみると、この主人公って、ものっすごくめぐまれた環境にいるわけではないかと、あらためて思ってしまうのである。別居している産みの母にもふつうに会いに行けてあれこれ会話しているし、げんざい父と同居している女性ともちゃんと対話している。「出て行く」ということを告げられたりもする。そしてそういう父と交渉を持つ女たちはみな、主人公の「性癖」をしんぱいしてくれてもいるわけで、そのことについてフランクに話せたりもする。ある意味で「奇蹟的な状況」ではないのか。十七歳の男性が、セックスについてあれこれとしゃべってくれる年上の女性が複数いるなんて。

 だって、思春期の性の悩みというのは、人に話せないからこその「悩み」なんであって、まわりの皆が彼はもう童貞ではないことを知っていて、その上であれこれと言ってくれるなんて、理想的ではないのか。しかもその彼女がまた「理想的」というか、彼のその性癖を「コントロール」する才覚まで持っているわけである(ここんところは原作にはないけれども)。

 思春期でなくっても、性のことというのは他人が関与するのがむづかしい。そのことはきょうの日記のなかでわたしの知人の性癖について書いてもみたけれども、アドヴァイスできないところもある。むずかしいことだと思う。それが、この映画では、やすやすとそういう障害を乗り越えている。これはいっしゅのユートピアであろう。そんな映画が観たいのではなかったのに。

 演出面では、冒頭のやってくるバスを追うカメラが、そのままに移動してバスの昇降口までとらえ、そこに主人公の降りてくる足をとらえるあたりからも、監督のドヤ顔がみえるようだけれども、たとえば路地のネコのカップルだとか、たとえば川面を絶妙のタイミングではねる魚だとか、どうもデジタル合成っぽいし、あの蚊帳ごしのペニスだとか、あのウナギはなんなのよ、などとはいってみたくなる。原作でわたしがちゃんと記憶してるのは、仁子さんがその義手をうまく使って鰻をさばくところ、だったのだけれども、いくらデジタル処理でも、そのあたりのことはうまく出来んかったようである。Aさんは、仁子が父を殺すのにあの義手を使うだろうと思ったらしいけど、それはSF映画だとかホラー映画の観過ぎというものであろう。でも、やればよかったのにね。

 篠原友季子さんという女優さんがいいなあと、帰宅してから検索してみたら、なんと、2008年には鉄割アルバトロスケットの舞台に立っていたとのこと。うんうん、たしかにいつだったか、「なんでこんな人が<鉄割>に!」というような方が出演されていて、それでそのとき限りだった記憶はある。そのあとの彼女は、ポツドールの「おしまいのとき」で主演されてもいるらしい。たしかWOWOWでその「おしまいのとき」は放映されていたはずで、ひょっとしたら録画してあるかもしれない。観てみたい。


 

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■ 2013-10-01(Tue)

 また、台風が接近中。まえのときとおなじように、しごとに出るときにはまだ雨は降っていなかったけれども、しごとをちょうど始めるころに、はげしい雨が降り出した。さらにまえのときのように、しごとを終えて帰宅するときには雨はピタリとやんでしまった。でも、まだまだ不安定な天候はつづくようで、あしたは東京へ出かけるのだけれども、なんとかそのときには回復してほしい。

 食品を保存している棚の奥から、誰かにすっかり忘れられていたカットトマトの缶がふたつ発見された。賞味期限はことしの八月になっている。缶詰はダメになっていれば開けてみればすぐにわかるらしいし、だいたいこのたぐいのモノの賞味期限はかなり過剰な設定になっているから、だいじょうぶだろう。それでもやはり早めにかたづけてしまうことにして、きょうはスパゲッティで行くことにした。きのう<経済(貧乏)献立>みたいなことを書いたけれども、スパゲッティもまたひとつの極北の献立。パスタは安いものは500グラムで100円ぐらい。これでわたしの場合は四食分ぐらいになる。タマネギをきざんでひき肉と炒め、カットトマトの缶を一缶ぶちこむ。これだけだと味がうすいので、ケチャップも適量追加する。トマト缶は安売りのときに買えば70円、タマネギが一個使って30円、使う分のひき肉が50円として、この自家製ミートソースもこれだけの分量あれば四食分になる。パスタと合計で四食250円。つまり、一食60円ぐらいですんでしまう。まあ、ミートソースなどといっても、ゆでたパスタにかけてまぜてしまえば、なんとなく「ナポリタン」みたいになってしまうんだけれども、けっこうわたしはこの味が好き。まあ、安上がりな味覚なのだろう。

 録画してあった映画「パリの灯は遠く」を観たけれど、その原題が「Mr. Klein」というものだったので、ウィリアム・クラインのことを思い出し、「彼の映画作品もなにかYouTube にアップされているんじゃないだろうか」と検索してみたら、なんと、わたしのいちばん好きな「ポリー・マグー お前は誰だ?」が、まるごと全篇アップされていておどろいてしまった。もちろん日本語などの字幕はついていないけれども、だいたいの展開はあたまに残っているし、とにかく全篇通して観ることができるんだから、ぜいたくなどいってはいられない。十年いじょうまえにリリースされた国内版DVDは、いまはプレミアがついて三万円いじょうするようだし。‥‥即座に、ダウンロードさせていただきました。

 きょうも、「吉乃川」を、ちびちびと飲んだ。おいしい。プルーストの第二巻、「スワンの恋」を読みはじめた。


 

[]「パリの灯は遠く」(1976) ジョセフ・ロージー:監督 「パリの灯は遠く」(1976)  ジョセフ・ロージー:監督を含むブックマーク

 1942年、ドイツ占領下のパリを舞台にして、同姓同名のユダヤ人、もしくはレジスタンス闘士とまちがわれることになる男(アラン・ドロン)が、その同姓同名の男を追い求める。彼の周辺のあれこれの人物にはたどり着くのだけれども、彼のもとには永久にたどり着けないだろう‥‥。

 カフカの「審判」からインスパイアーされた部分が大きいとの情報をあとで読んだけれども、わたしはむしろ、「城」をこそ思い起こされてしまったし、この1942年のパリの町並みが、どうしてもカフカの時代のプラハを想起させられてしまう。主人公の名はロベール・クラインで、やはりイニシャルは「K」である。

 特に後半ではもう、その同姓同名の男というのは主人公の妄想の産物ではないのかというような感覚でもあるし、カフカを読みすぎてしまって自らをカフカにしてしまう男の話のような感覚もある。とにかく、わたしにはゾクゾクする面白さだったけれども、ラストの「謎解き」のような、背後のある人物のことは、いらなかった気がする。カフカに、「解答」などということはないのだ。

 そう、アラン・ドロンの愛人役で、ジュリエット・ベルトが出演していたのがうれしかったし、頽廃をきわめた怪しい舞台の情景にも見入ってしまった。


 

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