ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2014-02-28(Fri)

 きのう書いたことで訂正。上野桜木町の喫茶店について、わたしは「昭和三十年代のにおいがする」などと書いたのだけれども、この喫茶店、そのあとに調べてみると、なんと大正五年に建てられたものだという。まさに大正のノスタルジアだったわけだ。
 きのうその下に載せた店(愛玉子)も調べたけれども、そちらもやはり戦前のもので、昭和九年からの営業ということらしい。つまりこのあたりは大空襲の被害は受けなかったわけだった。
 どうもわたしには、ノスタルジーを感じさせるものはみんな「昭和三十年代」に押し込めてしまおうとする性向があるみたい。ちょっと反省したい。

 きのうはけっきょく終電で帰宅して、きょうはいつも通りにしごともあるわけで、つまりはほとんど寝ていない。どうせなら寝ないでそのまま夜明かししてしまおうかとも思ったけれども、けっきょく三時間ぐらいの睡眠はとっている。このところは九時間ぐらい寝てしまうことも多いから、これでバランスを取ったということもできるし、眠ければ昼寝すればいいわけである。

 きょうは、あたたかくなった。暖房もいらない。もうあしたから三月だし、「春」という空気を感じないでもない。そんな春のお祝いでもしようかと、ちょっとだけぜいたくをした。きっかけは、スーパーにまたかつおが安く置いてあったことだろうか。ニェネントに買ってあげようと思って、それなら自分用にもおいしいものを買ってやろうと思ったわけ。日本酒(吉乃川)を買い、鶏肉のカシューナッツ炒めやイカゲソの天ぷら(これは安いものだけれども)を選び、イチゴも一パック買った。‥‥たいしたぜいたくではないけれども、いつも「ムダなものは買わないで安いものを選ぼう」としていたところからはちょっとした飛躍。こういうことも時にはやらないと、こころも貧しくなる。
 あしたからは連休だし、そうやって二日休んだあとは一日出勤したら翌日はまた休みという飛び石連休がつづく。なんか、楽しいことをやってみたい気分はあるけれど、じゃあどうするかといっても思いつくこともない。映画を観に行くか展覧会を観に行くか、そんな程度ではある。いま東京でやっている展覧会にはいくつか面白そうなのもあるので、やはり展覧会に行こうか。

 ニェネントはかつおをいっぱい食べて、わたしはイカゲソの天ぷらを肴にして酒を飲み、鶏肉のカシューナッツ炒めもおいしくいただいた。食後のデザートはイチゴ。ささやかな、ほんとうにささやかなぜいたく、だった。きょうは少し、プルーストを読み進めた。

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (10)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (10)を含むブックマーク

 ずっとスワンの心理描写がつづき、ここにまたふたたび、社交界の描写もプラスされてきた。いまの状態は「かつて、オデットがもっと私を愛していた時があった」というのに尽きる感じ。まだまだ「スワンの恋」はつづく。


 

[]二〇一四年二月のおさらい 二〇一四年二月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●アリカ+金氏徹平「しあわせな日々」サミュエル・ベケット:原作 金氏徹平:美術 藤田康城:演出 @横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール
●nuiaq workshop project「strings - Woyzeckを編んで」入手杏奈・白井剛:Dance 岡本真理子:Direction @清澄白河 SNAC

映画:
●「かぐや姫の物語」高畑勲:監督

美術:
●「ダレン・アーモンド 追考 Darren Almond|Second Thoughts」@水戸芸術館 現代美術ギャラリー
●「再/生 映像が呼び覚ます第六感覚」@水戸芸術館 現代美術ギャラリー内ワークショップ室

読書:
●「日本人のための世界史入門」(新潮選書)小谷野敦:著
●健康ライブラリーイラスト版「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」柴山雅俊:著

DVD/ヴィデオ:
●「猿人ジョー・ヤング」(1949) アーネスト・B・シュードサック:監督
●「暗黒街の女」(1958) ニコラス・レイ:監督
●「100挺のライフル」(1968) トム・グライス:監督
●「トミー Tommy」(1975) ケン・ラッセル:監督
●「キャリー」(1976) スティーヴン・キング:原作 ブライアン・デ・パルマ:監督
●「ヴォイツェク」(1979) ゲオルク・ビューヒナー:原作 ヴェルナー・ヘルツォーク:監督
●「殺しのドレス」(1980) ブライアン・デ・パルマ:監督
●「盗馬賊」(1986) 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン):監督
●「天才マックスの世界」(1998) ウェス・アンダーソン:監督
●「Twentynine Palms(欲望の旅)」(2003) ブリュノ・デュモン:監督
●「プルートで朝食を」(2006) ニール・ジョーダン:監督
●「扉をたたく人」(2008) トム・マッカーシー:監督
●「ムーンライズ・キングダム」(2012) ウェス・アンダーソン:監督
●「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(2012) アン・リー:監督
●「父ありき」(1942) 小津安二郎:監督
●「雪夫人絵図」(1950) 溝口健二:監督
●「編笠権八」(1956) 三隅研次:監督
●「ガス人間第一号」(1960) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督
●「海底軍艦」(1963) 円谷英二:特撮 本多猪四郎:監督
●「黒蜥蜴」(1968) 江戸川乱歩:原作 三島由紀夫:戯曲脚色 深作欣二:脚本・監督
●「仁義なき戦い 代理戦争」(1973) 深作欣二:監督
●「CURE」(1997) 黒沢清:脚本・監督
●「あ、春」(1998) 相米慎二:監督

 

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■ 2014-02-27(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 上野へ出て、Nさんが参加して出品されている展覧会を見せていただき、そのあとは、そのNさんといっしょに飲みましょうかという、楽しい計画のいちにち。予報では、関東は午後から雨になるようなことを言っているあいにくな天候。もう、あさのしごとを終えて帰宅するときには、こまかい雨も降りはじめていたりした。

 展覧会は五時までで、展示された作品をゆっくり観るつもりでも、わたしの考えでは四時ごろに到着すればいいわけで、そうすると、昼食を終えてからゆっくりと出発すればいい、という勘定になるだろう。

 その昼食はきのうの残りのおでん。まだまだたくさん残っていたのを全部たいらげたので、かなりおなかが苦しくなってしまったりした。
 着替えをして出発。乗ったローカル線の車両は客の姿もあまりみえず、つまりガラガラだった。雨の予報でみな出びかえているのか、いつもこのじかんはこんなものなのか、よくわからない。

 じつは上野へ出るのはずいぶんと久しぶりのこと。わたしがローカル線から乗り換えるのはつまりはむかしで言えば「東北線」なわけだから(今は「宇都宮線」と呼ばれているみたい)、まっすぐそのまま乗って行けばつまりは終点は上野になる。でも、ふだん東京の方に出るときには「湘南新宿ライン」というのを選んで乗るわけで、そっちなら新宿や渋谷、横浜までも乗り換えなしで出ることが出来る。じっさい、わたしがこの茨城に転居して以来、こうやって上野の方へ出るのは意外にはじめてのことになるのかも知れない。

 その上野、わたしの知っていた上野公園から大きくその姿を変えていた。うっそうとしていた木立は整理され、そんな木立のあいだに遊歩道がつくられている。駅の公園口のすぐそばにある「公園案内所」という建物も、わたしの記憶にはないもの。さらに博物館の前にある噴水池もまた、大幅に埋め立てられてしまっていて、残っている池はわたしの知っていたそれの三分の一ぐらいのものでしかない。

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 そんな公園の一角で、妙なオブジェのようなものを見つけた。‥‥これは、アート作品か何かなんだろうか? そうだとして、この周りに施された柵はあんまりにも無粋ではないだろうか。やはりアートなどではないのだろうか。わからない。

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 Nさんがその展覧会の受付をやっている、都美術館の展示室へ到着。ちょっとNさんとお話しして、作品をみせていただく。‥‥Nさんの作品はどれも、彼女の人体解剖スケッチがその根底にあるわけだけれども、今回もまたそういう人体のフォルムを基礎にして、繊細で有機的な美しい作品として、わたしの眼のまえにたたずんでおられた。語りかけてくるところの多い作品だと思った。

 Nさんには展覧会のあとも用事があられる。六時半に湯島の駅で再度落ち合うことにして、いちどはお別れする。じかんは五時にちょっと間があるところで、まだ二時間ちかい「自由時間」がある。‥‥わたしは迷わずに上野公園から西の方へ向かう。わたしがいまの茨城に転居するまえは日暮里に住んでもいたわけだし、谷中、根津、千駄木、つまり谷根千という地域への思い入れもある。上野公園を歩いたのが久しぶりであれば、谷根千を歩くのも久しぶりということになる。その道をゆっくりと歩いていけば、根津の先は湯島になるわけだからちょうどいい。そう思って、ひとりでこのあたりを歩いてみることにした。

 まずは上野桜木町のあたりから谷中墓地への道を歩く。桜木町のところにむかしっから営業している古いたたずまいの喫茶店が、いまもまだ過去と同じように営業をつづけていてくれた。谷根千というと「江戸情緒」を思い浮かべる方もいらっしゃるだろうけれども、わたしにとっての谷根千というのは「昭和」だろうか。この喫茶店などは昭和三十年代のにおいがする。それがわたしの「ノスタルジア」というものだろうか。

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 この喫茶店のすぐそばの、やはり昭和のにおいのする店も、むかしとまるで変わらない姿で残っていた。

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 日暮里から足を南に向けて谷中銀座へ。このあたりも、わたしがいたころとほとんど変化はない。‥‥しかし、当時わたしの住んでいた借家(谷中銀座の入り口のすぐ脇にあった)は、もうあとかたもなく消えてしまっている(このことは知っていたわけだけれども)。
 谷中銀座もあんまり変わっていない。歩いていて、奥にある酒屋の屋根に白いネコがいるのを見つけた。‥‥これが、よくみると生きたネコではないオブジェ猫、だった。これはわたしがいた頃にはいなかったなあ。

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 ここまでまだ雨はほとんど降ってはいなかったのだけれど、このあたりで「傘をさした方がいいかな?」という降りにはなってきた。あとの行程は折り畳み傘を拡げて行く。ちょうどじかんも待ち合わせのじかんに近づいている。不忍通りを湯島の方に歩くけれども、いちばん変化の大きいのはこの不忍通りではないだろうか。むかしはなかった高層のマンションがあちこちにあたらしく建てられていて、その一階にはあたらしい店舗があれこれとつくられている。

 湯島の駅の改札で無事にNさんと再会。わたしの提案で御徒町の方にある居酒屋「T」へ行く。むかしからこのあたりでは好きだった店。ここもおつまみ類が美味だし、樽酒を飲ませてもくれるわけだ。そう、あの店です。‥‥Nさんとの会話もはずみ、あれこれといっぱい飲み食いして、まあいちにち早いけれど、これをわたしの誕生日パーティーということにしようという気分。Nさん、ありがとうございました。あしたはまたしごともあるので、終電になってしまうような飲み方はやめようとは思っていたのに、けっきょくは終電で帰宅することになってしまった。楽しいいちにち、だった。


 

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■ 2014-02-26(Wed)

 きょうはリクエストを出して年休を使っての休日にしてもらったわけだけれども、じつはだからといって用事があるわけでもなく、ただ年休の消化ぐらいの気もち。「なんだか休むには休んだけれども、特にやることもないんだけれどもなあ」などと思ってしまうと良くなくって、つまりはまたも、基本はダラダラとした日をおくってしまった。

 せっかくDVDのレコーダーを買ってあるんだから(もうずいぶんと前のこと)、すこしは保存しておきたい映画などをDVDに落としておこうと思い、午前中からこれにとりかかったのだけれども、これがどうもうまくいかない。二時間ほどの作品をリアルに二時間かけてDVDに落とし、そのDVDをチェックしてみるとなぜか冒頭の部分が吹っ飛んでしまっていて、かなり後半の方からダビングされていたりする。失敗だったと設定を見直し、もういちどさいしょっからやり直す。このあたり、メディアがDVDーRWだということが助けにはなる。この二回目をチェックしてみると、またもや失敗しているみたい。‥‥もう同じ作品を落とすのをやめて、別の作品をダビングしてみると、こっちはうまく完了出来た(って、ここまでで六時間ぐらいかかっている)。それではと、もういちどさいしょの作品でトライして、今度という今度はようやっとうまくダビング出来たようである。

 もうここでじかんはすっかり夕方。今夜は久しぶりで「おでん」にしようと、あれこれと材料は買ってある。あとはただ、じゃがいもなどをプラスしてちょっと煮込むだけ。けっこうかんたんに完成し、おいしく食べることが出来た。あしたの昼食も、おでんになるだろう。

[]「盗馬賊」(1986) 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン):監督 「盗馬賊」(1986)  田壮壮(ティエン・チュアンチュアン):監督を含むブックマーク

 このDVDは(おそらくは香港製の)輸入盤で所有している。TVの方はダビングで使っているので、パソコンの方で観た。字幕は英語を選択出来るけれども、セリフがあるのに字幕がつかないところがかなりある。

 この作品、かなり前に中国映画の特集かなにかでスクリーンで観た記憶はある。DVDを買ってからもいちどぐらいは観ているだろうけれども、久しぶりの再見。‥‥やはり、圧倒的な映像の力である。冒頭の、山の向こうでもくもくとうごいている雲。コンドルのような鳥の姿にもおどろかされるけれども、これはハゲワシという種類らしい。その広大なチベットの荒れ地のなかで、馬泥棒を行なう男の姿。
 タイトルの「盗馬賊」からそういう一団が存在するような印象を受けるけれども(「賊」であり「族」ではないのだが)、この作品ではただひとりだけ、三十代ぐらいの男がクローズアップされ、その妻と幼児という家族がフィーチャーされる。男は馬泥棒でありながらも信心深く、寺院への祈祷を熱心に行なう姿が何度も観られる。どうやらその馬泥棒によって得たものを寺院への寄進にするあたりがもんだいにされるようで、ラストでは家族は住み慣れた土地を離れ、男は妻と子どもたちとも別れてしまうようである。

 監督は文化大革命以降の中国への批判する作品をつくりつづけているわけだけれども(特に「青い凧」は有名で、また傑作ではあった)、この「盗馬賊」でも寺院と男とのかんけいのなかに、体制と個人との葛藤を読み取ることは出来るんだろう。ただ、この作品では冒頭で「1923年」と提示されるわけで、現在形の中国をダイレクトに批判しているわけではないが、現在に至ってなお、中国政府はこの映画の舞台であるチベットへの圧政を継続しているではないか。


 

[]「CURE」(1997) 黒沢清:脚本・監督 「CURE」(1997)  黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 この作品をダビングしようとしていて二回失敗した。三回目をダビングしながら、久しぶりに全篇観てしまった。

 ‥‥やっぱり圧倒的で、いままでのところで黒沢清監督の「最高傑作」と言うしかないだろうと思う。これだけ出来がいいと、すぐにアメリカあたりがリメイクしそうなものだけれども、今に至るまでそのような話は聞いていない。ってつまり、この作品の凄さというのはその演出手法と一体になっているところがあるわけで、リメイクするにしても猿真似みたいなことしないとこの「怖さ」は生まれないだろうし、別の演出をこころみてもぜったいに負けるだろう。そう、あと、この「犯人」の人物像がやはり、そのヤバさでもってリメイクの障害になってるんかも知れない。

 今回観て、でんでんの名優ぶり、そして洞口依子のクールさにしびれてしまった。ラストまで傑作。


 

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■ 2014-02-25(Tue)

 天気予報では、きょうは三月中旬から下旬の暖かさになるだろうといっていたけれども、しごとをしていてもこのところいつものように寒かったし、午後になってもそんなに暖かいとは感じなかった。でも午後からは一歩も外に出ないで部屋にこもっていただけだから、外は暖かかったのかも知れない。きょうも、つまりはダラダラとしたいちにちになってしまった。

 このところずっと、本を読んでいても活字が頭のなかに入ってこないような気分で、つまりは文章を追っていてもその内容を把握しないで読みすすめているのではないのかと思っている。
 わたしはもともと視力に左右でかなりの差があるわけで、右目はかなりの近視だけれども左目はそれほどではない。ふだんメガネは不要だけれども、映画の字幕を追ったりするにはやはりメガネがあった方がいいし、舞台などを観るときにもメガネ越しにはっきり観たいという気もちもあって、そういう時だけ近視用のメガネをかけている。この歳になると老眼にもなっているわけだけれども、これも左目の老眼はそれなりに進行していても、もともとが近眼の右目なら、近くのものはごくふつうに見える。それで老眼鏡などもまるでつけないでも読書に不便を感じることもなかった。それがつまりはこのところは不具合を感じるようになったということだろうか。ひょっとしたら左の老眼が進行して、右とのバランスを取りにくいところまできてしまったのかも知れない。片目ずつ活字など見てみても、そんな気がしないわけでもない。やはりこのあたりで、老眼矯正用のメガネを調達すべきなのかも知れない。

 朝食はいつも通りトースト、昼食はスパゲッティ、夕食はインスタントラーメンにしてしまい、いちにち白いご飯を食べることがなかった。抗うつ剤は服用つづけているけれども、いちじほどの躁状態ではないというか、どっちかというとダウナーな気分ではある。薬が効かなくなってきた?

[]「雪夫人絵図」(1950) 溝口健二:監督 「雪夫人絵図」(1950)  溝口健二:監督を含むブックマーク

 戦後の溝口監督の作品で、未見だった作品のひとつで、原作は舟橋聖一。脚本はいつもの依田義賢と、そこに舟橋聖一の弟の舟橋和郎の名まえもある。美術は水谷浩、音楽は早坂文雄と、溝口作品でおなじみの名まえが連なっている。ただ、撮影は小原譲治という人で、この人のことをわたしは知らない。まあ溝口映画なら監督が撮影にもこまかく口を出しているだろうから、大きなところでは撮影は誰でもいいところはあるかな? 主演は木暮実千代で、ここに上原謙や久我美子がからみ、木暮実千代の夫役の柳永二郎という役者さんが印象に残った。その友人に山村聡、などなど。そうそう、この家の書生の役で加藤春哉という人が出ているのもやはり記憶に残るものがあった(この人、のちに東宝の怪獣映画とかにいっぱい出演しているらしい)。

 ‥‥さすがに溝口監督の作品というか、堪能させていただいた。溝口監督のキャリアとしては、この前作が「わが恋は燃えぬ」というイマイチなところのあった作品、そしてこのあとが「武蔵野夫人」(わたしは未見)、そしてわたしには<大傑作>な「お遊さま」ときて、「西鶴一代女」「雨月物語」という傑作群になだれこむ。この「雪夫人絵図」、そういう飛躍の、ひとつのきっかけになっている作品ではないのだろうか。

 木暮実千代の演じる主人公の雪は没落した旧華族の出身で、この夫が妾はつくるわ散財はするわと、旧家の衰退に拍車をかけるわけ。主人公はさっさと別れちゃえばいいんだけれども、それが出来ない。その理由が世間体とかいうのではなく、「からだがあの人を求めてしまう」という「性」のもんだい。主人公の心の支えになる男が上原謙なんだけれども、これがどうもチキンというか計算でもあるのか、主人公を自分のものにしてしまおうという行動には出ないわけだ。‥‥もう、観ていてもこの夫のハレンチぶりは腹立たしいし、そこでなよなよと意思決定しない主人公にもイライラする。上原謙は主人公にアドバイスはするけれども、そこでの自分の役割からは逃げようとしているとしか思えない。いざ、というときには泥酔してしまう輩である。これらを見ているのが女中の久我美子で、彼女は主人公に貴婦人像をみているのか、崇拝に似た気持ちがあるようである。‥‥もう一人、この状況を「覗き見」しているのが書生で、彼が夜の暗闇のなか、忍び足で徘徊するシーンがすばらしい。

 ストーリー展開としては「そういうことですか」という感覚で、こころに残る感銘というものでもないところはあるけれども、やはり溝口作品のすばらしさはそのディテールにあるだろうか。また観てみたい。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (9)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (9)を含むブックマーク

 ようやっとこの巻の半分ぐらいまで来た。あまりにペースが遅い。今年中に「全巻制覇」というのもこれではむずかしいではないか。

 今はスワンの恋愛感情をくどくどと書き連ねられるところ。やはりあまりにくどくど書かれている印象で、「失われた時を求めて」の名声で、そのパートとして読まれる面はあるだろうけれども、これ単独の作品としてみたら、はたして今でも読まれつづけられるような作品だろうか? ちょっと疑問。


 

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■ 2014-02-24(Mon)

 朝、しごとを終えてウチへ帰ってくると、ウチのアパートのまえの道路に白い車が停まっていて、そのわきに色の浅黒い、がっしりした体格の中年の男が立っていた。あたりにほかに人家の入り口もないし、どうもウチのアパートを目当てに来ているんじゃないかと思うしかないところがある。部屋に戻ってみると、しごと場に忘れ物をして来たのに気づき、もういちど職場へ戻ることにした。まださっきの外人はいるようで、またその男とすれちがうわけだ。いつもはちょっとした外出に部屋の鍵をかけることなどないのだけれど、この日は「用心した方がいいかな」と考えて、ほんとうに二、三分の外出だけれども、鍵をかけて出ることにした。
 わたしは外国人に対して偏見は持たないようにしているし、じっさいに大きな偏見は持っていないつもりではいるけれど、やはりわたしら日本人と価値観はちがうだろうという意識はある。そのことがついつい、モラルのちがいとかまで想像してしまったりもする。いや、特にその男が外人でなくっても、わたしの住まいのまえで誰か知らない人がうろちょろ(という形容はまちがえていないと思う)していれば、用心するにこしたことはないと思うのは当然、だろうと思う。

 忘れ物をとって戻って来てもその男はまだ同じところにいるわけで、ひょっとしたらこのわたしの住む集合住宅の、そのあたらしい住民という可能性もなきにしもあらず、ではある。だったらやっぱりこれからは用心しなくっちゃなあ、などと考えてしまうのは、やはりわたしのなかに「偏見」が存在するということなのか。
 きょうは給料の振り込まれる日でもあったので、三十分ぐらいしてからまた、預金を引き出して買い物に行こうと外に出たのだけれども、そのときにもまだその男の車は同じ場所に停まっていて、男は車のなかに座っていた。やはり何となく、うす気味わるい思いをしたのは確かなことだった。

 このあいだはこのあたりの生鮮食料品が安いということをちょっと書いたけれども、やはり例年よりも高い価格になっていることはたしかで、レタスやキャベツなどはずっと二百円ぐらいの値がつづいているわけで、ここのところそういうサラダ菜的なものはずっと買わないでいたのだけれども、きょうは「キズもの」らしいレタスが半額で置かれていたのを買った。久しぶりのレタス。いっぱい食べよう。
 ほかにいくつかの買い物をして帰路につき、ウチのまえまで戻ると、さすがにもう、あの男の車の姿は見えなくなっていた。‥‥ちょっと、ホッとしたけれども、あの男、この住宅の住民になる可能性がないとも言えない。

 きのうは東京に出て帰宅もそれなりに遅く、それできょうは早朝からしごともあったわけで、どちらかといえば「ぐったり」モード。何をするわけでもなく、ダラダラとすごしてしまっただろうか。昼食は焼きそばで、夕食にはまた「鍋」。こんかいのニェネントの発情期もやっと終わったようで、部屋も静かになった。

[]「仁義なき戦い 代理戦争」(1973) 深作欣二:監督 「仁義なき戦い 代理戦争」(1973)  深作欣二:監督を含むブックマーク

 ナレーションだとか、白黒の写真の挿入だとかがいかにも「実録」っぽく、ややっこしい展開なのについつい惹き込まれてしまう。‥‥敗者、命まで失うものはいるけれども、いったい勝者は誰なのか。ただ皆が、そういう敗者にならないがために必死になっている。そのエネルギーが尋常のものではないだろう。面白かった。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (8)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (8)を含むブックマーク

 ついにようやく、ヴェルデュラン家中心の社交界の話はおしまい。こんどは、スワンのオデットへの疑念、疑惑がちゅうしんとなって、またくどくどとした説明がつづく。スワンもとうとう、ヴェルデュラン家のパーティーからはオミットされるようである。


 

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■ 2014-02-23(Sun)

 きょうはしごとは休みで、Lさんのお誘いで、東京に出てパフォーマンス(ダンス)の舞台を観る予定。ただし、あしたはしごともあるわけで、あまり遅くまであっちで居座ることは出来ないだろう。ただ、公演のはじまるのが午後三時と、はやいじかんなのがいい。

 昼食をまた「鍋」にして、十一時すぎには食事を終わらせて、十一時半の電車に乗る。電車のなかでは基本眠ってすごし、新宿で下車するときにあわててしまう。おかげで手に持っていたハンカチを落として、なくしてしまった。
 新宿から会場の清澄白河まではメトロの大江戸線を使うのだけれども、環状線のちょうど新宿から正反対のあたりが清澄白河で、北回りでも南回りでもどちらでも同じみたい。それならあまりよく知らない(行ったことのない)地名の多い北回りがいいかなと、そちらに乗ってみるのだけれども、車窓風景が見られるわけでもなく、つまりはほんとうに「どっちでも同じ」なわけだった。

 清澄白河で下車し、会場に行ってみると、会場のスペースのまえにLさんがいらっしゃって、開場の準備をされていた。まだ開場まで二十分近いじかんがあるので、あたりをぐるりと一周してみたりする。以前Aさんといっしょに入った喫茶店「H」が見つかったりした。「H」にはかわいいネコがいたのだけれども、しばらくまえにひとりで入ったというAさんの聞いたところでは、あのネコは死んでしまったらしい。それもお客さんが親切心でネコの爪を切ってあげたらしいけど、そこから化膿してしまい、足を使えなくなって死んでしまったということらしい。お客さんはネコにくわしくはなかったのか。悲しいことである。
 また会場にもどってみると、ちょうど開場。中に入って開演を待つ。

 パフォーマンスはじまる。感想は下に書くけれど、とってもステキな舞台だった。わたしは大好き。

 終演後、Lさんの紹介でMさんとの三人で、すぐ近くのいい居酒屋へ行く。近所に「もんじゃ」の店もあるよ、ということだったけれども、しっかりと「お断り」したりした。いや、この「D」という居酒屋、ほんとうにいい。いかにも居酒屋というたたずまい、おいしい肴、おいしい酒、これだけそろえばいうことはない。LさんとMさんともながい付き合いだし、話もはずんだ。二時間半ぐらい思いきり飲んで食べてして、三人で六千円にもならない。感動級である。また来たい。
 パフォーマンスのスタッフ、キャストの方々の打ち上げに誘われ、そっち(すぐ近く)へ移動する。わたしはどうも飲み過ぎているようで、かなりフラついている。ヤバい。それでも岡本さんや杏奈さんらにきょうの舞台をべた褒めして伝え、一観客としての役割を果たす。‥‥果たしたかな?

 さて、あしたは早朝からしごとだし、あまり遅くなってまた終電とかになるのもイヤだ。ニェネントのことを口実にして、八時ごろには先においとまさせていただいた。きょうはいい舞台をありがとう。誘ってくれたLさんも、いっしょに飲んだMさんも、ありがとう。‥‥電車のなかではまたまたひたすら寝て、また乗り換えの駅を乗り過ごすところだった。いつの終電よりもちょうど一時間はやいローカル線の電車に乗り、つまりは十時半ごろに部屋に戻った。ニェネントくんのお出迎えがうれしかった。彼女はまだ発情期、らしいけれども(忘れていたけれども、きのうは2・22。〜ニャン、ニャンニャンの「ネコの日」だったらしい)。

[]nuiaq workshop project「strings - Woyzeckを編んで」入手杏奈・白井剛:Dance 岡本真理子:Direction @清澄白河 SNAC nuiaq workshop project「strings - Woyzeckを編んで」入手杏奈・白井剛:Dance 岡本真理子:Direction @清澄白河 SNACを含むブックマーク

 先行して行われていたらしい「かたちをたどる 編む 織る縫う」というワークショップでの作品を取り入れたパフォーマンスで、そのワークショップ参加の方もちょっと出演されたりもしたし、パフォーマンスのなかにも、毛糸やその織物など、いろいろと使われていた。
 このパフォーマンスの骨子にはあのビューヒナーの「ヴォイツェク」があるわけで、実を申せば、それでもっておとといはヘルツォークの映画化した「ヴォイツェク」を観てもいたわけである。

 とても繊細で、美しい舞台だった。「ヴォイツェク」を読んでいなくても、この繊細さと美しさは了解出来るものだろう。わたしはもともと岡本真理子さんの作品の大ファンだったけれども、このカムバックを喜びたい。

 ‥‥三人の人物による、人物を編み棒に見立てたような「手編み」でのコミュニケーション、静かに響いて来る効果音、音楽などにこころときめく。やはりわたしは「ダンス」よりは「パフォーマンス」のファン、ということなのだろうか。またこういう密やかな舞台を目撃してみたいものである。


 

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■ 2014-02-22(Sat)

 おだやかないい天気だった。一週間まえにはあんな雪が降ったなんて、なんだかウソみたいな気もしてしまうけれども、それでも日陰にはまだ雪が残っている。
 メンタルクリニックへ行ったあと、体調は悪くない。それ以前のようにフラッシュバックは起きなくなったし、何よりもあの「持って行かれる」感覚が訪れなくなったのがうれしい。処方された薬が効いているんだろうか。
 せんじつ買ったほうれん草がたくさんあるので、昼食のスパゲッティにもけっこう入れた。おいしかった。スパゲッティとほうれん草は相性がいいと思う。白菜もあるから、夕食は鍋にしようかと思う。

 西の古着屋がまた特売をやっているので、午後から行ってみた。もう、しまいきれないほどの衣服がタンスの外にもあふれていて、これいじょう買うひつようもないのだけれども、安いのでついつい行ってしまう。こういうのを「貧乏性」というのだろう。‥‥サイズが合う靴があればいいんだけれども、靴というものはそんなに古着屋の店頭に並ぶことはない(それでも、ぴったりのサイズの靴はいままでに二足買っている)。
 きょうは、しっかりした厚手の生地のアーミージャケット(フランス製?)と、シャツを二着とを買ってしまった。帰宅してシャツを着てみると、一方はサイズがすこし小さく、一方はいかにも着古した感じではあった。買うときにもうちょっと気を配ればよかったけど、まあ部屋着とかにすればいい。アーミージャケットだって、ほんとうは似たモノをすでに持っているわけだ。まあ安いからいいんだけど、収納はどうするのか。

 帰り道にあるホームセンターに寄り、DVDーRWのディスクを買った。ホームセンターの店頭にはシャベルやスコップが置かれていて、「雪かき」と書かれた段ボール箱も置かれていた。プラスティック製のシャベル状のものだった。雪をすくう部分にスリットがあり、水気はそこから抜けて行くつくりになっている。店の外で、そういうのを買って運んでいる人もみかけた。近郊に、まだ雪がいっぱい残っているところもあるわけなんだろう。

 夕食を予定どおりかんたんにナベものですませ、パソコンに向かってみたらインターネット接続が出来なかった。あれ、おかしいなあと、LANケーブルをチェックしたりするけれども、やはりダメ。モデムの方でニェネントが妙なところをさわっておかしくなったのかと、そっちもチェックするけれどもつながらない。おかしいと思って電話の受話器を取ると、「ツー」という発信音が聴こえなかった。つまり、電話が通じていないということ。これはうちだけのことなのか、それともこの建物ぜんたい、もしくはこの辺り一帯での不具合なのか。ちょうどこのとき、部屋のまえの駐車場から人の声がして、「電話がつながらない」と言っているのがわかった。うちのことだけではないのである。
 ケータイからNTTに問い合わせてみるけれども、もう時間的にテープでの応対で、そこに事情を話して録音させることになる。あとから担当が連絡してくるらしい。‥‥事情を録音させ、電話を切る。もう電話回線が不通になってから一じかんぐらいはたっている。このまま、修理の工事がくるまで待たなければならないのだろうか。いつごろ復旧するんだろう。

 もう寝ることにして着替えして、もういちど電話のテストをしてみたら、こんどはちゃんと発信音が聴こえた。あ、開通しているではないかと、パソコンの電源を入れてみる。‥‥ちゃんと、インターネットにもつながった。ちょうどそのときにNTTの担当からケータイの方に連絡が入ったので、もういちど事情を話す。「もう復帰した」とも。担当は回線が切れるようなことはないはずだと言う。しかし、切れていたのは事実だ。原因がどこにあったのかはわからないが。

 しかし、あたりに親しい知人友人がいるわけでもないわたし、電話回線、そしてインターネットはまさにライフラインに等しいことがよくわかった。そういう生活サイクルになってしまっている。

[]「父ありき」(1942) 小津安二郎:監督 「父ありき」(1942)  小津安二郎:監督を含むブックマーク

 人物の映っていない風景の「空ショット」みたいなものがとっても効果的なのだけれども、時にその構図が「絵はがき」的になってしまっている。いちばんいいのは「編集」で、まさに絶妙の編集作業となっていると思った。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (7)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (7)を含むブックマーク

 まだまだ社交界の描写、ヴェルデュラン家での描写がつづき、いろんな人がプルーストの槍玉にあげられる。プルーストはやはりこういう社交界に出入りしていて、よほどに腹にすえかねる記憶が残っていたんだろう。しかしいつまでもつづくこのシチュエーション、いいかげんはやく終わってほしい。


 

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■ 2014-02-21(Fri)

 夜中に目覚めてしまい、そのまま明るくなるまで起きていてしまった。そのあとに少し眠ったけれども寝不足だろう。きょうはしごとは非番の休み。

 昨夜、二軒目の店のお勘定をするとき、Eさんが自分の分をごまかすのをみてしまった。その場でいいにくいところだったのでそのままにしたけれども、わたしだって財布に余裕があるわけでもなく、ちょっとがっくりしたわけだし、幻滅といっていい感情も抱いた。会話の方にしても、Dさんとの話は楽しかったんだけれども、わたしにはEさんとの会話はまるではずまなかった思いもある。いらだつことも何度もあった。ながいながいつきあいだけれども、そのつきあいのながさ以外、わたしとEさんとをつなぎとめる要素というものもほとんどなくなってしまっている気もする。これからの交流がむずかしいという思いがもちあがった夜だった。

 ニェネントはあいかわらず発情期がつづいている。家のなかでいつもわたしのあとをつきまとって行動し、「かまってよ」とアピールしつづける。わたしが買い物に外に出ようとすると、気配が察せられるんだろう、玄関口に先回りしてにゃあにゃあとなき、「行かないでよ」という意思表示をする。きょうは一度、ドアを開けたときに外に出ようとまでした。あぶないところでとどめたけれども、外へ出てしまったらニェネントだって途方に暮れてしまうだろうし、そういうときの行動は先が読めないからこわい。

 ノートパソコンのイヤフォンジャックがこわれていて、前からなんとか修理したいと思っていたのを、今日とりあえずパソコンを分解してみようと、本体を筐体に固定してあるネジをはずしてみた。しかしネジをはずしただけでは筐体を取ることができない。無理をするとこわしてしまうだろうから中断してもとに戻した。わからないけれども、イヤフォンジャックの修理はそんなに複雑なものではなく、わたしなどでも出来る気もするし、イヤフォンジャックがなおれば外付けのスピーカーとつないで、YouTube の音楽かんけいのモノなどを高音質で楽しめると思っていたのだけれども、どうもそうはいかないようである。修理をたのむといくらぐらいかかるんだろう。安ければ頼んでもいいのだけれども。

 けっきょく、この日はやはり一日ぼんやりとすごしてしまった。朝食はトースト、昼食は賞味期限の来てしまったインスタントの「冷やし中華」などという季節はずれな献立にして、夕食はせんじつのカレーの残りの最後。‥‥このカレーをつくったのは12日なわけだから、十日間保ったということになる。ちょっとたくさんつくりすぎてしまっただろうか。冬でなければ即刻アウトだっただろうに。


 

[]「ヴォイツェク」(1979) ゲオルク・ビューヒナー:原作 ヴェルナー・ヘルツォーク:監督 「ヴォイツェク」(1979)  ゲオルク・ビューヒナー:原作 ヴェルナー・ヘルツォーク:監督を含むブックマーク

  時にふしぎな(と言っていいと思う)採光でのショット。
 主にやはりクラウス・キンスキーの個性的な容貌をこそ前面に押し出したと思われる演出だし、全体の印象はヴィジュアル面の演出を堪能させられる。「見事な殺人」というテーマもまた興味深く、いったい「人を殺める」ということはどういうことで、どういう過程をたどるのか、ということが緻密にていねいに描かれていると思った。
 何度も映画化され、これにインスパイアされた多くの舞台をも産み出したその作品の、「原点」をかいま見た気分になった。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (6)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (6)を含むブックマーク

 スワンとオデットとの恋愛の進行にともない、当時の社交界、パーティーの様子が描写されて行く。


 

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■ 2014-02-20(Thu)

 朝のひとしごとを終えて朝食をとり、まずは内科医へ通院する。きょうは尿検査と血液検査。血液の方の結果はすぐにはわからないけれども、尿の方は「きれい」だったということ。もう循環器系の方はだいじょうぶなんじゃないのかとも思ってしまうのだけれども、油断をするとガンと来るわけだ。
 病院の帰りにスーパーに寄り、木曜日で安くなっている玉子、そして特売のほうれん草などを買う。ちなみに玉子は十個パックで87円、ほうれん草は一束97円だった。あとでの友人らとの話では、これは相当の激安価格らしい。

 きょうはその旧友のDさんとEさんと月島で合流し、Eさんの紹介で「もんじゃ焼」などを楽しむ予定になっているのだけれども、わたしは「もんじゃ」というものに偏見を持っているわけで、はたして楽しめるのだろうか?というところ。

 昼ごはんをまだまだ残っているカレーですませてから出発。有楽町まで出て、メトロで月島の駅へ行き、無事におふたりと合流。まだ四時まえで外は明るく、まずは下町らしい喫茶店でコーヒーを飲んでじかんをつぶす。ここでわたしは先日のことがあるので、いちおうは説明しておいた。「解離性障害」とはいわずに「二重人格」と説明したら、Dさんから「それは二重人格とは言わないんじゃないのか」などという意見も。単に記憶をなくしただけではないのかと。つまり、解離中のわたしの人格は、それまでの過去を忘れてしまっていたわけで、それが解離が終わったときに記憶がもどり、同時に解離中の人格も忘れ去られたと。‥‥それはそれで、たんじゅんなようなややっこしいような。ただ、わたしが「二重人格」という言い方をしたのがまちがっていただろうか。

 いつか五時を過ぎ、もんじゃの店へ行く。この界隈はどこもかしこも「もんじゃ」だらけである。‥‥じつはわたしは小学校の四年のときに、家庭の事情で北九州から東京の足立区に転居して来てるのだけれども、その当時、その足立区界隈のたいがいの駄菓子屋のなかには、子供用の「もんじゃ」の席が用意されていたのである。わたしもクラスメートに連れられて何度か行ったことはあるけれども、店のなかはうすよごれていて清潔とはいえないし、その「もんじゃ」自体がちっともおいしくはなかった記憶がある。それが、わたしの「もんじゃ」への偏見である。

 ‥‥やっぱり、ダメだった。そもそもが原価が百円にもならないような野菜くずや肉くずを差し出して、それで千円ぐらいもぶったくるというのが許せない気がする。焼くのを手伝うために店員がずいぶんとおおぜいいるわけだけれども、ゴミ処理場を見学させられる思いで、わたしはほとんど食べなかった(おいしいと思わなかったし)。酒類にしても、ただ「日本酒」とだけ書かれたのを注文してみると、おそらくは紙パックの安い酒だろうという味のものが出て来て、それでもけっこうな値段が付けられている。ちょっとあきれて、以降は銘柄のはっきりしている生ビールに切り替えた。

 七時ごろにその店を出て(いい会計になった)、「まだじかんがあるからもう一軒」ということになり、脇道にあった小さな居酒屋の戸をくぐった。‥‥ここが正解だった。すばらしい。まずはたのんでみた「はまぐりの酒蒸し」のはまぐりの大きさ! そしてそのおいしさ! その安さ! 堪能した。酒も旨かったし、会計も安かった。ここで飲むためにだけに、また月島に来てもいい。さいしょっからこの店にすればよかったのに。

 そろそろわたしの帰宅のじかんになり、皆と別れて帰路に。眠ってしまわないように気をつけて、本を読んだりしながら帰宅した。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (5)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (5)を含むブックマーク

 まだまだ、スワンとオデットとの物語、って、そんなのは当たり前。この巻はすべてスワンの恋物語なのだから。

 しかし、いちおう書き手の存在する客観描写になっていながらも、基本の視点はスワン氏からの視点であり、スワン氏の内面も多く語られているわけだが、一方のオデット嬢のことは、ほとんどがスワン氏の目を通してみられたオデット嬢の姿である。このあたりに、この巻がこの「失われた時を求めて」ぜんたいの構成の縮図とみなされる理由もあるんだろう。まだまだ、あんまり書くこともない(アルコールが入って、眠い目をこすりこすり読んでいたわけだから、もう記憶から抜け落ちているところが多い。もう一度読み直さなくっちゃならないかも)。


 

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■ 2014-02-19(Wed)

 きょうもあしたも、雪にはならないようである。だからあしたは東京で旧友との飲み会になるだろう。ここでやはり気になるのは先日の解離体験になるのは当然のことで、会合の途中で人格交代なんてことになったらたいへんである。下手すると救急車を呼ばれてなんてことになったりするから、先に「先日こういうことがあった」ということは説明しておかなければいけないだろう。そんなに長時間にわたって解離がつづくわけではないこと、「オレのこと誰だと思ってるのか」と聴いてくれれば、それがきっかけで復帰が早まるかも知れないことなど。

 けっきょくきょうも、そんなことをぼんやりと考えたりしてすごしてしまう。ただ、やはり抗うつ剤のせいか、気分はどこかハイテンションではあるだろう。

 しかし、年末からの「うつ」状態がどこかでリンクしていることはたしかだろうけれども、そうすると去年の六月の解離(?)はどういうことなのか、よくわからない。しかしそう問いかうとするならば、解離性障害には心理的な要因こそあれこれとありそうで、そもそもがそんなトラウマになるような抑圧がわたしにあっただろうか、ということになる。それはやはり先月の舞台鑑賞にともなうトラブル、というのはあるだろうか。先日の舞台にしても、ちゃんと観てたんだかぼけっとしてたんだかわからないありさまだったし、たしかに今は精神は健丈ではないだろう。‥‥なんて書いていたらこころが暗くなって来たので、やめる。

 

[]「あ、春」(1998) 相米慎二:監督 「あ、春」(1998)  相米慎二:監督を含むブックマーク

 恥ずかしながら初見。すっごく面白かった。何度も観ていて笑った。何よりも、出番は少ないけれども富司純子がすばらしいし(こんな役柄をやるのだ!)、斉藤由貴の変な体型もいい。いやいや、冒頭のネコちゃんこそがいちばんの演技賞モノでしょうか。相米監督の演出のキレも随所に感じさせていただいた。いままで観ていなかったのがくやしい。


 

[] 健康ライブラリーイラスト版「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」柴山雅俊:著  健康ライブラリーイラスト版「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」柴山雅俊:著を含むブックマーク

 イラストと短文(せいぜい100字)からなる構成で、ひとつの項目が見開き2ページで完結する。なんというのか、あまりにアバウトで読みあぐねた部分もある。

 ここに書かれた症例はたいていどれも、わたしの症状とはかなりの距離がある。わたしには幻聴も幻覚もないし、自分の姿を自分で見るようなこともない。自傷行為もない。
 さいごに、「患者さんの多くは比較的若い女性で、二十代半ばの人がピークです。三十代、四十代の患者さんもいますが、もっと上の年齢になると次第に数が減ってきます。」と書かれている。‥‥では、わたしはひょっとしたら「解離性障害」ではないのではないのか? しかし、多重人格の症状をあらわしたことはまちがいのない事実だろう。わたしが行った心療内科医は、わたしが「解離性障害」ではないかと自己診断したもので、疑ってかかったのではないかと思う。

 

 

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■ 2014-02-18(Tue)

 火曜日なので図書館も開いているので、昼まえに行って、「解離性障害」のキーワードで引っかかった本を三冊ほど借りて来た。帰宅してその一冊「解離性障害のことがよくわかる本」というのを読みはじめた。副題が「影の気配におびえる病」とあり、そういうことではわたしの症状と合致するとは思う。わたしの意識下にずっと別人格が潜んでいて、チャンスを狙ってわたしの意識を追いやり、自分が表層の意識に浮かび上がろうとしている、というような感覚はこのところずっとあったわけで、それが土曜日にはついに乗っ取られてしまったわけだ。
 ‥‥読みはじめてみると、「いやあ‥‥ そこまでのものでもないんですけど」という感想は浮かんで来る。だって、その本で紹介されている症状は幻聴や幻覚があり、はては幽体分離とでもいうのか、自分のうしろ姿を自分で見る、みたいな症状まで書かれている。わたしも放っておけばそういうことにもなりますよ、ということかも知れないけれども、そこまでの症状ではないのね。わたしはせいぜい「二重人格」ですね(それも大変だけれども)。

 しかし、きのう処方された内服薬のひとつが「抗うつ剤」というせいか、どうもなんだか陽気な気分ではある。FaceBook で知人の近況にふざけたようなお笑いコメントを書き込んだりしてるし、そんなことは普段ならぜったいやらないだろう。

 あさってはまた東京に出て、DさんとEさんとの飲み会があるのだけれども、またまた、あしたからあさってにかけて「雪」の予報が出ているわけで、それならまた電車が止まったり遅れたりすることになるのだろう。Dさんに電話して、別の日にしないかと提案したのだけれども、Dさんは「降らないかも知れないから、あしたまた連絡しよう」ということ。‥‥そうしたらその通り、夜の天気予報では、雪は降らないだろうというようなことになっていた。ということであさってはまた出かけるのだけれども、まあ薬も飲んでいるしだいじょうぶだろう。
 などと思っていると、FaceBook の方でLさんから案内のメッセージをいただき、この週末にわたしには興味深いイヴェントが東京で開かれることがわかり、日曜にもまたまた出かけることに決めてしまった。これも、「くすり」のせいかも知れない。

 午後から北のスーパーに買い物に出て、「夕食はレバニラ炒めにしようか」などと考え、ニラと白菜などを買った。レバー肉はずいぶんまえに買ってあるものがまだ冷凍庫にぶち込んであり、いいかげんに始末しなければならないと思っていたのである。けっこうおいしいレバニラ炒めが出来た。ニラはまだ残ってるし、あしたもこの献立、かなあ。

 

[]「編笠権八」(1956) 三隅研次:監督 「編笠権八」(1956)  三隅研次:監督を含むブックマーク

 原作は川口松太郎で、もとは長谷川一夫の主演する舞台劇だったらしい。ここでまだまだ新人だった三隅研次を監督に、主演を市川雷蔵に据えて、昭和三十二年のお正月映画として公開されたのがこの作品。けっこう短くって、65分ほど。

 とにかく尺が短いので、あんまり登場人物の背景だとか周囲の人物との関係とか説明不足のところも感じられるけれども、逆にそれだからこそ、すぐに主題に突入してただそこばかりを攻めまくる面白さはあったと思うし、「こいつは悪玉、こいつは善玉」という描き分けの明解さとかも楽しいものである。日本映画の黄金時代だなあ、などという感慨もあるし、三隅監督もシャープな切り口をみせてくれたと思う。

 しかしこの作品、女優陣よりも男優陣の方がこそ、眉のメイクや目ばりなど、メイクの濃さが目についてしまう。おもしろい時代だったなあ。


 

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■ 2014-02-17(Mon)

 しごとはきょうまで休み。月曜日なので病院などもやっているので、午後からうちのそばのメンタル・クリニックへ行くことにした。やはり気分的にあんまりいいわけでもなく、その上にどうやらまたニェネントの「発情期」がはじまってしまったようで、さらに気分は落ち込む。‥‥しかし、ニェネントの前回の発情期、たかだか二週間ぐらいまえのことだったというのに、いったいどうしたというんだろう。生理不順というのか、わたしの異常に反応してつられてしまったのか。

 先日注文してあったニール・ジョーダン監督の「プルートで朝食を」のDVDが到着していて、午前中はこれを観てすごした。それなりに愉快な気分にはなれただろうか?

 きょうの昼食はスパゲッティですませたけれども、最近の「焼きそば」メニューと、いったいどっちが安上がりだろうか? パスタは500グラムでだいたい百円で、これで四食分にはなる。ペペロンチーノにすればこれにタマネギと肉っぽいものをちょっと足せば完成。五十円以下で出来るメニューだろう。焼きそばは麺が18円ぐらいで、これにもやしとハム類をプラスする。ああ、30円ぐらいのものか。やはり今回は焼きそばの麺が激安だったわけだから、焼きそばの圧勝になるわけか。まだ麺は20個以上残っている。これから心療内科にも通うとなるとやはり倹約しなくっちゃいけないから、こういうことはよく考えなくっちゃ。

 その心療内科に午後から行く。‥‥もっと問診があるのかと思っていたけれども、ずいぶんとあっさりと内服薬を処方されて、かんたんにおしまい。「えええ、そんなんでいいんですか?」みたいな感想は抱いてしまった。また、その内服薬がかなり高価。やっぱりこれからは倹約。

 帰宅してちょっと本を読んだりTVをみたりしてすごし、夕食にはまだ残っているカレーライス。まだまだ二食分ぐらいのカレーはある。ずいぶんと倹約したものだ。


 

[]「プルートで朝食を」(2006) ニール・ジョーダン:監督 「プルートで朝食を」(2006)  ニール・ジョーダン:監督を含むブックマーク

 「天才マックスの世界」ではないけれども、つまりはいろいろな古いヒット曲が使用されていて、それだけで楽しくなってしまう作品(けっして楽しいだけの作品ではないのだけれども)。

 冒頭にまずはRubettes の「Sugar Baby Love」が流れ、かわいいコマドリの登場。ほんっとうにこのシーンは大好き。いつ観ても幸福感を得られるというのか。‥‥で、この曲、日本でもWink がカバーしたり、知名度は高い曲だと思うんだけれども、そんなに大ヒット曲というわけではなく、74年の8月にせいぜいBillboard の37位にまで昇った、という程度のもの。意外だなあと思ったら、実はこのRubettes というのはイギリスのグループで、その74年にはイギリスやドイツで1位になる大ヒットになっていたのであった。知らなかった。

      D

 あと、わたしがいっちばん気に入ってしまったのは、T.Rex の「Children Of The Revolution」だったりして、これは自分でも意外なこと。いいねえ、T.Rex(むかしはほとんど興味なかったのに)。

      D

 そしてこの作品のなかで重要なポイントになる曲が、Bobby Golsboro の68年の(向こうでの)大ヒット曲、「Honey」。この作品の時代が70年代のものだし、いったいどうしてこの60年代の曲がここで登場するのかと思ったらこの曲、イギリスでは75年に再発され、これがチャートの2位にまであがるヒットになっていたらしい。それでこの作品にも出て来るわけだ。芸が細かいというか。
 で、この曲にかんしては、その歌詞の内容がずいぶんとフィーチャーされているわけだけれども、ただ「この曲で唄われていることが最高だ」みたいに語られるだけで、それが具体的にどういう歌詞なのか、まるでこの映画ではわからない。日本ではまるっきしヒットなどしなかったこの曲、つまりはきっと歌詞がいいんだろうなあ。いまはそういう時間がないけれども、こんどこの曲の歌詞を訳してみたいものである。

      D

 ‥‥音楽のことばかり書いてしまったけれども、Rubettes やT.Rex だとかDusty Springfield、そしてこの時代のBobby Golsboro と、あくまでもじっさいに、この映画の時代にイギリスでヒットしていた曲をセレクトしてあるわけだった。渋いなあ(久々にYouTube をリンクさせてみた)。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (4)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (4)を含むブックマーク

 スワンとオデットの仲は、ある曲(ヴェルデュランの作曲したもの)を介して急速に深まって行くわけだ。「恋」のテーマ・ソング。うんうん、そういうの、若い頃にはあったなあと遠い目になってしまう。じっさいに二人の思い出の曲になるようなものもあったし、わたしだけが「この恋にはこの曲」とひとりで決めてしまう曲もあった。今そういう曲を聴くと、そういう付き合っていた女性のことも思い出したりしてしまうかなあ。‥‥書いちゃった。

 この巻はけっこうオーソドックスな小説で、こういう「きょうはここまで読んで、その感想は」という書き方はあんまり似つかわしくもないような気もする。というか、書きにくいのはたしか。まあ、やってみましょう。


 

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■ 2014-02-16(Sun)

 きょうとあしたはしごとも休み。ゆっくりと、きのうの「事件」のことを考えられる、と思っていたのだけれども、起き抜けから、またおかしくなってしまったようではある。というのは、しばらくのあいだ、いったいきのうどこで何をしていたのか、何が起きたからといってこのように胸騒ぎがしているのか、まるで思い出せない状態が続いていたのである。この状態はしばらくして回復し、すべてを明瞭に思い出すことが出来るようにはなったけれども、どうやらあさ早くにきのうと同じ発作を起こしていた可能性が強い。連日の発作となると、もう「赤信号」が点滅する。

 ただ、komasafarina さんからのコメントのおかげで、どうもわたしが陥っているのは「解離性障害」というものではないのかという疑いが強くなり、そういうことでは恐れていた認知症とかアルツハイマーとは別モノということになり、変な話だが、少しはなぐさめられる思いもしてしまった。また、FaceBook の方にも同様の書き込みをしたのだけれども、そっちにも知人のKさんからやはり、「解離性障害」ではないのかということを指摘していただいた。
 ここしばらく感じていた「別の人格の意識がわたしの背後にいる」という意識も、このことで「解離性同一性障害」として説明がつくところもあるし、「健忘症」っぽいところもまた、「解離性障害」のなかに「解離性健忘」というものがあることでやはり説明がつく。Kさんもまた同じ症状だそうで、「心療内科や精神科で治療すれば少しずつ治りますよ」ということだった。やはり、あした以降、また近所のメンタルクリニックへ行ってみようと思う。「解離性障害」ということであれば、その症状が出ることは「発作」ではなく、「解離」ということになる。

 しかし、きのうAさんに対して「あなたのことを知ってるよ」と言ったというわたし、そして「ここは前も来たことがあるような気がする。モンスターが出る」と言ったというわたしとは、いったいどのような「わたし」なのだろうか。「モンスターが出る」とはおもしろい表現だけれども、どのようなことを言っているのだろうかと、ひとごとのように考えてしまったりもする。Aさんは「こんどそういう状態に立ち会ったら、『いったいあなたは誰なの?』と聞いてみたい」と言っていたけれども、わたしもそれが誰なのか知りたい。

 歩道を渡ろうとしたときから「解離」がはじまったようだけれども、いまになるとそのときの状態が思い出せる。わたしは足元をみていて、そこの雪につけられた他人の足跡に目をうばわれ、そのときに「あ、ヤバいかも」と思っているのだ。「ヤバい」というのがつまり、解離がはじまるということであろう。わたしひとりで部屋に居るときにも、この一ヶ月ほどはこの「前兆」をよく感じていた(「匂い」のような独特の感覚を伴っていた)。いつも前兆は前兆でおわり、そのままその感覚は遠ざかって行ったわけだったけれども、15日は「ついにつかまってしまった」ということだろう。

 けっきょく、そんなことを考えてみたり、ぼうっとしていたり、ほとんど何もしないいちにちになってしまった。そう、午前中に南のドラッグストアに買い物に行ったのだけれども、店の入り口に立つとストア内の天井の蛍光灯のほとんどが消えているのがわかり、「何かの理由で営業していないのか」と思って帰ろうとしたら、その入り口の横に大きく「営業しています」と書いてあったので、「それなら」と、うすぐらい店内に入って買い物をした。レジの方に「どうしたんですか」と聞いてみると、きのうの雨が屋根裏に流れ込み、漏電の危険があるので電気が使えないということだった。「大雪」プラス「大雨」の被害、というところなんだろう。お気の毒に。
 午後には北のスーパーへ行き、じつはこのところお気に入りの「イカリ豆」と安い赤ワインとを買った。ワインはこれがかなりわたし好みの味で、赤ワインは健康にもいいわけだし、これからはこの銘柄を買い続けようかと思うのだった。

 あと、よくわからないけれども、ニェネントがやたらわたしにつきまとう。なんだか発情期のときみたいな行動も見せるけれども、まえの発情期はわずか十日ほどまえに終わったばかり。‥‥どうしたっていうんだろうか。わたしの不安定さが感染したのだろうか。

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[]「日本人のための世界史入門」(新潮選書)小谷野敦:著 「日本人のための世界史入門」(新潮選書)小谷野敦:著を含むブックマーク

 小谷野敦氏のブログはけっこう読んでいたけれども、彼の著作を読むのはこれが初めて。ときどき日本語が変じゃないのかと思うところはあったけれども、おもしろく読んだ(きっとすぐに全部忘れちゃうだろうなあ)。その歴史や人物の叙述に加えて、そのことを題材とした映画や書物の短い評を入れてるのがいい、かな。ジョイスの「フィネガンス・ウェイク」の日本語訳は出ていないみたいなことが書かれていたけれども(文章が変なので真意はよくわからないけれども)、たしか文庫にもなっているはずである。‥‥読もうとは思わないけれども。


 

jun-jun1965jun-jun1965 2014/02/18 19:58 そんなこと書いてません。「何でもかんでも翻訳する」というのが間違いだ、と書いたのです。

crosstalkcrosstalk 2014/02/19 04:12 失礼いたしました。申し訳ありませんでした。<「フィネガンス・ウェイク」の翻訳が出てるというのは間違い>というような文章だったと思いますが、読解力のなさで勘違いしてしまいました。ちょっとわかりにくかったです。ごめんなさい。

crosstalkcrosstalk 2014/02/19 04:16 読解力のなさを差し置いて書かせていただけば、「何でもかんでも翻訳すればいいというものではない」ということにはまったく同感であります。小谷野さんの今後のいっそうのご活躍を期待させていただきます。

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■ 2014-02-15(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 しごとのあと、横浜でAさんと待ち合わせて演劇の舞台を観に行く予定。‥‥目覚めて外をみると、あたり一面雪でまっ白になっている。きのうの夜はまるで雪など積もっていなかったのに、そんな短時間でこんなに積もったのかとおどろいた。しかも今はもう、雪ではなく雨になっている。出勤のため外に出ると、その積雪量が先週のそれよりも多いことがわかった。そこに雨が降りつけている。もうとても、雪だるまとかつくれる状態ではないだろう。
 しごと中に(ほんとはいけないんだけれども)ネットを閲覧し、いつも使っているJR線が運転を取りやめていることを知る。なんとか、この地を始発とする私鉄(運賃が高いし遠回りなのでほとんど使ったことはない)だけは、多少の遅延はあるけれども動いていることがわかった。これを使ってなんとか横浜まで行ってみようと考える。そうすると、しごとを終えて帰宅してすぐに出発する気でないとダメだろう。

    f:id:crosstalk:20140215094023j:image:w360

 帰宅するときはもう雪の下にいっぱい水たまりが出来はじめていて、靴がすっかり濡れてしまう。すべりどめの具合がいいので、きょうはこの作業靴を履いて行こうと思っていたけれども、これでは無理である。そう、駅前からの道を「除雪車」らしい車がゆっくりと走っているのを見た。除雪車を見るのは生まれて初めてのこと。たしかにすっごい雪だったわけだ。‥‥家に帰って急いでトーストの朝食を取り、急いで出かける。なんとか関内の駅での約束のじかんに間に合い、Aさんと合流する。

 ここから「事件」が起きる。わたしの意識の具合が、またおかしくなってしまったのだ。Aさんの前で、Aさんを相手にして。‥‥このあたりのことは、夜にわたしとAさんが別れたあと、すべてを目撃していたAさんから、「経過観察記録」としてメールをいただいた。
 考えがあって、固有名詞を伏せて、そのメールをここに採録させていただく。現象は去年の6月8日の「発作」に酷似しているけれども、ちがうところもある。状態としては「意識障害」、と言ってしまえるだろうか。‥‥それでつまりは、「それはこういうこと、こういう症状だ」とわかる人が読んでくれるかも知れないではないか(わたしがかかっている病院では明確な診断を得られていないわけだ)。

今日の◯◯さん(わたし)の経過観察記録です。
13:00関内駅待ち合わせ
××××を目指し15分ほど歩き、「朝、くるとき除雪車をみてさ」という話をしていて歩道を渡るところで話をやめ急に歩みが遅くなる。
歩道を渡って待っていた私の前を心ここにあらずといった風で通りすぎる
「大丈夫?」という声かけに対し「ああ、誰だっけ?
うん知ってるよ、えーと」と返答。
自分がいる場所、何をしにきたのか、今の時間、どうやってここにきたか、わからない様子
△△△やIさんJさん(今日の舞台の関係者で、知り合いである)のこともわからず、チラシをみても思いだせず。
めまいや頭痛、痺れなどはないと。歩行は安定しており、雪道でも慎重。
「ここは前も来たことがあるような気がする、モンスターがでる」などと言われる。
喫茶店に入り、階段昇る際もふらつきなどなし。注文はできておりわたしの促しにも素直に応じている。混乱はあるものの落ち着いている様子。
席について、一息ついてからわたしのことをたずねると「Kさんの彼女でしょ」
「ちがうよ、Aだよ、A」と教えると「ああ!Aちゃんだ!
Aちゃんじゃん、なんでわからなかったんだろう」と。ここから表情がいつもの様子に戻り、少しずつ自分の状況を認識され、発作が起きる直前に話していた除雪車の写真など見せてくれ、時間がつながった様子。
発作が起きている際の記憶はないとのこと。
それ以降は特異な状態みられず。
なにか知りたいことがあったらどうぞ。

 このメールを転載することで、Aさんにめいわくがかかることはないと思う。すばらしい記録だと思うし、とにかく自分では記憶が残っていないことが多いから、書きようもない。

 自分ではたしかに、除雪車の話をしてからあと、喫茶店に入ったことなどの記憶、今ではまるでない。喫茶店ではサンドイッチを食べてコーヒーを飲んだ気配は残っていた。ちゃんと自分で注文したらしい。Aさんに「(あなたは)Kさんの彼女でしょ」と答えた記憶はぼんやりと残っているけれど、なぜそう答えたのか、このあたりにはわたしの深層心理のもんだいもあるようで、ここでかんたんに説明するのはむずかしい。そのあとに彼女がAさんだと再認識出来たとき、よくいわれるようにまさに「霧が晴れていくように」ものごとは明解になって行く。その「霧が晴れていくように」というのは、視覚的にもそういう感覚があったことは記憶している。じっさい、それまで見えなかったものが徐々に見えはじめる、という感覚。

 そこからはきっと正常に戻ったんだろうけれども、肝心の舞台鑑賞について、どこか「心ここにあらず」みたいに観ていたようではある(いや、また「発作」が起きたというわけではないのだが)。どこか、「今日の舞台をちゃんと観たわけではないだろう」という感覚が残る。

 じつは終演後、その打ち上げにもAさんといっしょに参加させていただいたりはしたのだけれども、とてもここに感想を書けるようなものではないと思う。先月の舞台鑑賞についても詳細は書かなかったけれども、今回もまたそういうことを繰り返す。なんというか、情けない。今後の舞台鑑賞、だいじょうぶなんだろうか?

 早めにAさんとともに打ち上げの席から退出させていただき、帰路についた。電車の中でわたしの発作についてAさんの話を聞き、答えられるところは答えた。Aさんの意見としては、内科医だけではなく心療内科にも相談した方がいいのではないかということ、だった。‥‥それで、Aさんとお別れしたあとに、上記のメールをいただいたわけである。
 わたしは終電車にぎりぎり間に合い、なんとか帰宅することが出来た。ニェネントがお出迎えしてくれた。これがわたしの2月15日。

 こんなことはやったことはないのだけれども、もしも、読まれた方で、こういうわたしの症状について、何か解明のヒントでも書いていただける方がいらっしゃれば、どんなことでも書いていただきたいと思っています(先に書いたように、わたしのかかっている病院では「よくわからない」と言われています)。「死ぬしかない」みたいなネガティヴなものはお断りさせていただきますが。

 

 

komasafarinakomasafarina 2014/02/16 02:32 気がかりですね。素人の雑学にすぎませんが、こういうのがあります、近いものがあるのではと思われますが、いかがでしょうか、どうぞ、ご参考までに。
http://kairisei.blog.fc2.com/blog-date-201205.html

crosstalkcrosstalk 2014/02/16 06:28 komasafarina さん、ほんとうにありがとうございます。ここには書いていない「健忘」という症状もあるわけで、かなりの部分で合致していると思われます(ストレスはあまり自覚してないのですが、自覚のもんだいではないのでしょう)。心療内科に相談してみます。ほんとうにありがとうございます。

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■ 2014-02-14(Fri)

 きょうはまた雪になるという。出勤するときには雪はみられなかったが、倉庫に移動するときにはけっこうな雪になっていたし、しごとの終わる九時には、車の屋根などが積雪で白くなるまでになっていた。また先週のようなことになるのだろうか。あしたは電車で出かける予定だけに心配になるのだが、いくらか気温が高いのか、道路にまで雪が積もるようなことにはならないでいる。まだ降り続いているので、これからどうなるのかわからないが。

 このところまた、タバコの量も酒の量も増え気味になって来た。どちらもやめたい気持ちがあるのによくないことだ。帰宅してしばらくして、近くのドラッグストアに買いに出た。意外にも店内で同僚のBさんとばったり会ってしまい、ちょっとびっくりした。Bさんの家はけっこう離れたところにあるはずなのだから。

 昼食はまた焼きそばにして、午後からは録画してある映画を観る。そのあとはニェネントが一人遊び(小さなフェルト製のネコをくわえ、首を振って振り飛ばし、それを追いかけていってまた同じことを繰り返す。これをいつまでもやっている)の姿とかを「かわいいね」などといつまでも眺めていたら、外はもう暗くなってしまった。またカレーで夕食にして、そのあとはTVでカーリングの日本対イギリスのライヴ中継をみる。‥‥残念惨敗。やっぱりイギリスは強かった。

 きょうはまったく本を読まなかった。さあ、あしたは横浜で舞台を観る。先月はその舞台観劇で大きな痛手を負ったりしているので、そんなことにならなければいいと祈らんばかりである。よけいな意見、感想は言わないこと、かな? あとは雪の影響が心配。とにかく早く寝ることにする(カーリングをみていて遅くなってしまった)。

 

 

[]「黒蜥蜴」(1968) 江戸川乱歩:原作 三島由紀夫:戯曲脚色 深作欣二:脚本・監督 「黒蜥蜴」(1968)  江戸川乱歩:原作 三島由紀夫:戯曲脚色 深作欣二:脚本・監督を含むブックマーク

 丸山(美輪)明宏が女賊「黒蜥蜴」を演じ、明智小五郎役は木村功。丸山明宏に狙われる女性になつかしい松岡きっこが出演。元になった戯曲を書いた三島由紀夫もまた、すっごい役どころで<特別出演>している。この三島らしい<美辞麗句>を聴いていると、なんとはなしに読んでいるプルーストを思い出してしまったりする。

 1968年の製作ということで、これは当時の「サイケ」とか、そういう空気を狙ったのだろうか、ケバケバしい美術や照明が時代を感じさせるのだけれども、出て来る彫刻類がみいんな、画学生が石膏デッサンするところの石膏像を使っちゃってるあたり、かなりしらけてしまうのはたしか。

 ストーリー展開はどうってことないのだけれども、とにかくは濃厚というのか、わたしの肌には合わない。やはり三島はイヤだ。


 

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■ 2014-02-13(Thu)

 三連休も終わり、きょうからまたしごと。なんだか、朝(早朝)起きて出勤するという行為が、とてつもなく「非日常」と思えてしまうようになった。たった三日間でこんなになってしまうんだなあと、ちょっとばかりおどろく。順応性が高いのだろうか。

 そのしごとがけっこう忙しく、くたびれてしまって帰宅した。朝食をトーストですませ、北のスーパーで玉子が安い(87円)木曜日なので、買いに行く。‥‥職場で会う人らふたりにばったり会ってしまい、あいさつをして軽く雑談もする。だいたいわたしの職場が自宅のすぐそばだということもあり、外を歩くと職場の人に出会うことが多い。わたしは目が良くないので、それなりに気をつけていないとそういう人たち、特にそういう人たちの乗った車を見逃してしまい、失礼になってしまうことになる。だから外を歩くときには気配りは欠かせない。

 いちど帰宅して、こんどは木曜日が一割引になる南のスーパーへ行く。米(北海道産)とタマネギとを買う。米は以前はうちのすぐそばの米屋でいちばん安いブレンド米を買っていたのだけれども、原発事故以降の米が出回るようになってからは買うのをやめ、南東北や北関東産でないものを選ぶようにしている。
 ネットの記事で、世界180ヶ国のなかでの日本の<報道の自由度>が59位に落ちた、というのを読んだ。つい十何年まえには11位とかだったらしいのに、震災〜原発事故以降の凋落ぶりはすさまじい。わたしだって今の報道など信じてはいない。FaceBook での知人の記述で、ドイツでは今の日本をナチスと比較したりしているらしい、というのを読んだ。そういうところはあると思う。今の報道でいつも隣国を攻撃するようなものが多いことも、ナチスのユダヤ人排撃を思わせられるところはある。オリンピックの競技の中継はすべて日本人選手の出場するものばかりで、基本はメダルを期待するアナウンス。いやになる。どんどんと、どこまでも住みたくない土地(国)になって行く。まだネットの世界では報道されないことも知り得るチャンスはあるみたいだ。小さくって不安定でも、自分のためのアンテナを設置しなくっちゃならないと思う。

 昼食にはきのうのカレーを食べた。味が具にしみて、きのうとはまたちがう味わいになっているのだけれども、あれれ、これって、「ハヤシライス」の味ではないのか。‥‥そりゃあそうだろう。トマトを入れ、赤ワインもまぜたわけだ。それはハヤシライスのレシピだ。ずっとハヤシライスなど作ったりしてないので忘れていた。‥‥ちょっと、失敗だったかな。

 午後は映画を一本観て、そのあとは何をするでもなくじかんがすぎてしまった。本もあまり読めなかった。夕食はまたまたカレー・ハヤシライスにして、早めに寝てしまった。‥‥あしたあさってはまた雪だという。あさっては横浜まで遠出する予定だけに心配だ。

 

 

[]「扉をたたく人」(2008) トム・マッカーシー:監督 「扉をたたく人」(2008)  トム・マッカーシー:監督を含むブックマーク

 脇役としていろんな作品でその顔をみたことのあるリチャード・ジェンキンスの主演。味わいがあって良かった。相手役といっていいのか、シリアからアメリカへ渡って来ている女性を演じていたヒアム・アッバスという人も、どこかでみたことのあるお顔。撮影がけっこういい作品だったかな。邦題はいいんだけれども、原題の「The Visitor」にあったダブルミーニングが消えてしまったのは残念。

 いいところで、Fela Kuti の音楽がいい使われ方をしていた。懐かしくなってあとでYouTube で検索したら、動くFela Kuti の映像などを観ることが出来、ちょっとうれしくなったし、やはりFela の音楽は聴くものを力づけてくれる思いがする。主人公はそうやって西洋音楽(クラシック)を捨て、アフロビートに熱中することになる。いい。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (3)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (3)を含むブックマーク

 ‥‥プルーストがこの「失われた時を求めて」を書きはじめたのは1908年、彼が37歳前後のことだったようだけれども、この、まだまだ冒頭ともいえそうな「スワンの恋」とか書いたのは、やはりその頃のことだろうか。まあのちに加筆修整はされているようだけれども、どこかこのあたりの「美文」とでもいえるタッチは「若書き」かな?という印象は持ってしまうし、ずっとこの調子だと疲れるな、という気分ではある。きのう書いたことではあるけれども。

 いま読んでいるヴェルデュラン家での夜会のところでは、クタールという医師が徹底して戯画化されて描かれている。こういうタッチも、「プルースト」というイメージからすると、意外な感覚にもなる。クタール医師はこれからもずっと登場しつづけるようだけれども、こういうところは先ではどうなっていくんだろう?


 

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■ 2014-02-12(Wed)

 きょうで連休もおしまい。三日れんぞくして休むだけで、何とはなしに生活リズムがのんびりになってしまう気がする。連休のラストをかざるつもりで、夕食にはカレーをつくるつもりである。

 やはり朝はいつもとおなじ午前四時にしぜんに目覚めてしまい、この日記を書いたりしてからトーストで朝食にする。そのあとは録画してある古い映画を観てから北のスーパーへ買い物に行き、ほうれん草と赤ワインなどを買ってくる。昼食はまた焼きそばにして、買ったほうれん草を足してみたのだけれど、これがけっこう甘みが出ておいしくなった。午後からは、DVDを観たりTVをみたりした。

 ‥‥冬季オリンピックがはじまって、TVではそのかんけいの報道ばかりになっている。どうもこんかいはわけのわからない競技がふえたというか、そういう競技がまた審査員の評価で点数のつくようなものばかりで、じつのところ、みていてもよくわからない。
 わたしは冬のスポーツではカーリングの大ファンで、これは12年前のオリンピックのときからのファン。‥‥当時は「こんな退屈な競技の放映にじかんを取ってどうする!」みたいな批判もあったのだけれども、わたしは基本カーリングしか見ない。というか、カーリングの試合はぜんぶ見たい。きのうの日本チームの初戦はざんねんながら負けてしまったけれども、きょうは快勝した。思うのだが、日本チームのからんだ試合だけでなく、外国チーム同士の対戦も見てみたいのだけれども、そういうことはやってくれないようだ。

 夕方から、カレーづくりに取りかかる。こんかいは、「力作」をつくりたいとの意気込みがある。まず、カレールーだけれども、ここでトマトを足してみたい。カレー用の香辛料とタマネギだけだととろみがつかないので、そこんところをトマトにがんばってもらおうと。あとはいつもの野菜に加えてきょう買ったほうれん草も入れ、赤ワインもちょっと足してみる。力作というより、なんでもかんでも入れてみただけ、というところもある。
 ‥‥出来上がり。やっぱり雑多な味がするけれども、これはこれで食べられなくはないし、一日とか二日とか置いておけば味がまわってまろやかなものになるような気もする。どうだろう。

 そうそう、書くのを忘れていたけれども、このところ、ベランダに知らない野良ネコが来ている。おとといだったかベランダに出ようとして「ご対面」してしまったのだけれども、つまりはトラネコなんだけれども、いぜん来ていたベンナではない、また別のトラネコである。‥‥うちのベランダには、もう使わなくなったカーペットを畳んで置いてあるのだけれども、うちのベランダに来るネコはみんな、そのカーペットの上でくつろいでいる。こんかいもまた同じパターン、だった。ちょっとかわいいネコなので、いつも来てくれるといいと思い、ベランダに皿に盛ったキャットフードを出しておいた。ベンナとはちがうネコだから、名まえも別にして、ベンナはウォロフ語の「一」だから、こんどは「二」のニャールにしようかと思う。
 ニェネントはやはりウォロフ語の「四」の意味なんだけれども、かつてニェネントの五匹のきょうだいがうちに居たとき、このウォロフ語の「一」から「五」までの呼称を、それぞれの名まえにしたわけだ。ニェネント以外はいなくなっちゃったから、もういちど「生きている」ネコの名まえに使ってあげてもいいだろう。このあたりのことはずいぶん前に書いたことだけれども、もういちど書いておくと、「三」はニェッタ、「五」はジュロームである。けっこう、ネコの名まえにぴったりの呼称だと思う。またニャールが来てくれるといい。

 

 

[]「暗黒街の女」(1958) ニコラス・レイ:監督 「暗黒街の女」(1958)  ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 この一年ちょっとの間で、この作品を観るのはなんと三回目になる。さいしょに去年の一月に観て、そのことを忘れたまま、また十月に観ているわけだけれども、先日、あることで、わたしはこの映画の内容をまるで記憶していないことがわかった。このところの「健忘症」ぶりのあらわれだけれども、「はたして、もういちど観たらどうだろう」というつもりで、まだHDDに残っていたこの作品を観てみた次第。

 とにかくは再見してみても、「ああ、これは以前観たことがある」などと思い出すわけでもなく、まるではじめて観るような感覚。ちなみに、ここの日記には、あらすじを含めてけっこう細かく記録してある。そうしてみると、この日記に詳しく書いたからといって記憶から抜けてしまわないということでもないようである。どうも、そのあたりがおそろしい。二、三日まえに、映画を観てもいちどにここに感想を書かないで、分割して何度かに分けて書いた方がいいんじゃないかと書いたのだけれども、そういうものでもないんじゃないかな。とにかくはそういう計画は放棄する。

 さて、再々見の感想だけれども、やっぱり、ニコラス・レイの演出にはすばらしいところがあるということ。鏡の使い方などうまいなあと思ってしまう。


 

[]「Twentynine Palms(欲望の旅)」(2003) ブリュノ・デュモン:監督 「Twentynine Palms(欲望の旅)」(2003)  ブリュノ・デュモン:監督を含むブックマーク

 ブリュノ・デュモン監督が好きでいて、この彼の第三作は日本で公開されなかったので、このDVDはどうにかやって輸入盤で買ったものだった。その後、この日本でも去年だかに「欲望の旅」のタイトルでDVDにはなっているみたいである。出演はデヴィッド・ウィザックとカテリーナ・ベルゴワの、ほぼふたりだけ。カテリーナ・ベルゴワは「ポーラX」にも出演されていて、つまりレオス・カラックス夫人であられた存在なのだけれども、なんだか、二、三年前に亡くなられてしまわれたらしい。‥‥おどろいた。もうひとりのデヴィッド・ウィザックという人のことは、まるでわからない。

 映画のこと。もう、すべていってること、やってることというのはこの<おそろしい>ラストに収束されるわけで、いったいなぜ、こういうラストになってしまうのか、これは人が人に向き合うときに起こり得る事態として肝に命じておけばいいのか、いややっぱり、ひとに起こり得る<ホラー>として記憶しておくしかない。黒沢清にも、こういう演出はあったっけ。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵺 (2)  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (2)を含むブックマーク

 オデットに誘われ、ヴェルデュラン家の夜会に参加するスワン。ここで彼はある気がかりだった音楽と再会し、その音楽の作者がヴァントゥイユであったことを知る。周囲の人物の俗物ぶりには笑えるが(わたしの知人にこういうのがいたなあ)。

 プルーストはここで「音楽を聴く歓び」とはどのようなものであるのか、ちょっとした美文調で長々と解説する。‥‥わかるんだけれども、こういう文章はこれからもいっぱい具現するわけだろうか。わかるんだけれども、ちょっとツラいかな。その<音楽>について、「目に見えない現実(レアリテ)」ということばも出てくる。


 

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■ 2014-02-11(Tue)

 三連休の中日。せっかくの三連休だし、しばらく遠出していないし、降雪による混乱も道路の不良も落ちついてきただろうし、東京へ出て映画を観ることにした。
 インターネットで映画の上映時間をたしかめ、ニェネントに「お留守番、お願いね!」とやって、地元十時半の電車で出発する。

    f:id:crosstalk:20140211075553j:image

 車窓からの風景で、この地元を走るローカル線の沿線では、まだ畑などに残った積雪が白くまぶしいけれども、東京への電車に乗り換えるともう、住宅地のなかを走ることが多くなり、ほとんど雪というのも見られなくなる。
 昼食どきに現地に到着したけれども、適当な店も見つからずコンビニでサンドイッチなどを買い、映画館へ行ってそのロビーで昼食とした。‥‥この映画館にはいまどき珍しく喫煙室があり、ちょっとそこで一服していると(まだ禁煙していない)上映時間になる。けっこういい席にすわれたので、リラックスして観ることは出来た。感想とかは下に。

 終映後は池ノ上に移動し、久々に「G」のドアを押す。カウンターにはFさんの姿があり、そのとなりにすわると、なんと、Fさんは自分の愛猫をバッグに入れて連れて来ているのだった。ふふ、洗濯ネットに胴を包まれておとなしくしている。聞くと、「ブリティッシュ・ショートヘア」なのだと。まんまるい顔でまだ幼い感じ、まだまだ体も大きくないし、生後六ヶ月ぐらいかなと思い、そう聞くと、八ヶ月近くになるということだった。「人見知りしないし、いっぱい人がいるのが好きなので連れて来ている」とFさんはいうけれど、要するに「見せびらかし」の気もちがないことはないだろう。でも、たしかにかわいいネコ。
 あとから常連のGさんや店のHさんもやって来て、基本は皆ネコ好きなので盛り上がる。わたしもFさんにニェネントのことなどの話をしたり、楽しいひとときだった。

 きょうはちょっと早めに帰ろうと、七時ごろには「G」を出て、帰路につく。車中では読書したり居眠りしたりだったけれども、乗り換えも無事にすませ、九時半ごろに自宅駅に戻って来た。北のスーパーに立ち寄り、半額に値引きされていた弁当などを買ってから帰宅した。ドアをガチャガチャやって開けると、すぐそこでニェネントがお出迎えをしてくれていた。‥‥買ったお弁当を食べ、ニェネントとちょっと遊んでから寝た。

 

 

[]「かぐや姫の物語」高畑勲:監督 「かぐや姫の物語」高畑勲:監督を含むブックマーク

 しばらく前の「美術手帖」での特集で取り上げられていたこともあり、「そんなにすごいんだろうか」という気持ちもあって、今ごろになって観に来たもの。

 ‥‥高畑勲監督の作品というのは、「火垂るの墓」と「平成狸合戦ぽんぽこ」は観ているけれど、それよりもやはり、TVで放映された「赤毛のアン」がよかった。そういうところで、この「かぐや姫の物語」でのかぐや姫と翁、媼とのかんけいというものから、まさに「赤毛のアン」のアン、そしてマリラとマシューとのかんけいの再現、ヴァリエーションのようなものがみられるかという期待はあった。その他の高畑監督作品のかんたんな印象を書くと、「火垂るの墓」はアニメのファンタジー抜きのリアリズム(実写では苛酷すぎる)、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、そういうファンタジー全開になり得るはずの展開を、つまらないリアリズムでころしてしまっただろうという印象はある。

 って、「リアリズム」〜「ファンタジー」ということではやはり同じで、この監督さん、ファンタジーというものにはまるで興味はないのであろうけれど、こんかいもまた、やはり、そういう「ファンタジーを裏切る」ような演出を見せてもらった気がする。それはまさにラストのことで、いったいなんでまた、日本最古のSF作品を持って来て、矮小な仏教説話みたいにしてしまうのか、わけがわからないし、はっきりいって不快になってしまう。これは「月からの迎えの人」の中心に、まさに仏陀のような存在があったことをいうのだけれども、帰宅してそのあたりを検索しても、この物語に仏教はかんけいないはず、なのである。‥‥この映像が、今後この物語を思い出す若年層にどんな影響をおよぼすことか。よりによって「仏教」とは、なんと想像力の欠如していることか。その「罪」は重いと思う。

 「絵」としても、わたしには疑問がある。あまりにパステルカラーに固執してしまっていると思うし、着物の柄や色彩に疑問はあるし、人物の描写も好きではない。ただ、その背景画は美しいと思うところはあるし、かぐや姫が室内を駆け出して行くところのワイルドなタッチの場面はきらいではない。ドラマの面でも「どうだろう」というところはあるし、「赤毛のアン」を期待した気持ちは裏切られた思いはある。


 

[]  第一篇 スワン家の方へ 鵺 (1)   第一篇 スワン家の方へ 鵺 (1)を含むブックマーク

 「スワンの恋」のはじまり。まずはヴェルデュラン家での夜会というものがどういうものか、どのように屈折しているか、という説明があり、オデットがそこの(女性では数少ない)常連であることが紹介される。それで、オデットは別のところでスワンと知り合うわけだ。脚注でみると、このとき(いちおうの目安として)スワンは三十二歳、オデットはそれより六歳年下くらいなんではないか、という研究があるらしい。そういうところで、「熟年(というほどではないか)の恋愛意識」というものが、とうとうと説かれたりするあたりがおもしろい。まだオデットの方からスワンへのアプローチ、アタックの段階なのだけれども、さあ、これから、スワンの方がオデットに夢中になってしまうわけだ。


 

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■ 2014-02-10(Mon)

 きょうからしごとは三連休。いちにち四時間だけのしごとだから、しごとがあってもまいにち休みのようなところはあるけれども、やはり三連休はうれしい。

 外はもちろんまだ雪が残っていて、それが凍結している気配はあるのだけれども、わたしはきょうはまるで外には出なかったので、ほんとうの様子はわからない。きょうはいちにち、ゆっくりとものごとを考えるじかんを持てただろうか。
 いつも通りにまだまっ暗な四時に目覚めて起き出し、まずはこの日記を書く。そのあとに七時にトーストの朝食。しばらくTVをみて、そのあとに録画してある映画をみるとだいたい昼。きょうの昼食はスパゲッティにした。午後は本を読んだり、ちょっとだけ部屋を片づけたり、ぼんやりとしたりして過ごす。夕食は残っていたごはんでオムライスにして、これは前回よりもずっとおいしく出来たと思う。

 きょねんの一月の、成人式の日にやはり降雪があったようで、そのことはニュースでもいっていたし、この日記にも書いてあった。ところが、わたしにはその記憶がすっかり抜け落ちている。その前後の記憶にもあやしいところがあるし、先月DさんとEさんと飲んだときにも、「そのはなしは前回した」とか、「こういうはなしがあったのを憶えていないの?」などと指摘を受けている。こまかくこの日記をみていけば、どのくらい、いつごろの記憶があやういのか、もっとはっきりしてくるだろうけれども、この一、二年の記憶というものにはずいぶんとあやしいところがある。やはり健忘症なのかも知れない。ヤバいことである。そのことを意識するようになったきょねんの年末からは、まだそんなに日にちが経っていないこともあるけれども、正常に記憶していると思う、といいたいところだけれども、日常のことはともかくとして、観た映画のことはもう忘れてしまっているところが多い。読書もまたヤバいというか、きょねんまでのほとんどの読んだ本の内容を思い出せない。やはり病院で診てもらった方がいいのだろう。
 ただ、「過去」のことをすべて思い出せないという重症ではなく、あくまでも近年のことに限って記憶があやういわけで、もうちょっと前の体験だとかはふつうに記憶を呼び寄せることができる(そうじゃなきゃあ生きていけない)。まえにかかっている内科医で認知症のテストをやったことは以前書いたけれども、そういう心配はないわけだ。こうやって文章も(多分)ふつうに書けていると思うし、いったい何がわるいんだろうと考えてしまう。

 ただそんななかで、ことしに入ってから、プルーストを読む体験をまいにちここに書いているわけだけれども、これはいいみたい。まあまだ読んでいるさいちゅうでもあるから、まだ忘れていないのも当然なのかもしれないが、同じ本をきょねんの九月にも読んでいることを考えると、こんかいの方がずっと深く読み込んでいると思えるし、記憶もしっかり残っている。これがもうしばらく時をおくとどうなるかわからない、また全部忘れちゃうのかも知れないけれども、とりあえずは有効だろうと思う。‥‥そういうことだったら、すべての読むもの観るものについて、この日記でおなじようにやっていったらいいのではないかと考える。映画なんかでも、いちにちに二十分とか三十分とかしか観ないで中断して、そこまでの感想をここに書いていくとか。映画館で観たものはそういうわけにいかないけれども、ここに書くときには分断して書いてみるとか。

 ちょっと、試みとして、やってみようと思っている。プライヴェートモードにして、自分だけこの日記を読めればいいか、とも考えたけれども、「他者」の「目線」というか、そういうものがないと、ずるずると悪い方向にいってしまいそう。

 また、ちょっとネガティヴなことを書いてしまったかな?

 

 

[]「天才マックスの世界」(1998) ウェス・アンダーソン:監督 「天才マックスの世界」(1998)  ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 ちょっとまだ前のモードで。

 かなり微妙な作品というか、演出としてはすばらしいところのある作品だと思うけれども、わたしはどーしても、この主人公にガマンが出来ないのである。‥‥虚栄を張ってウソをつきまくり、人への迷惑を顧みない。いったいなぜ、主人公の周囲の人たちはそこまで主人公にやさしいのか、わたしには理解出来ない。そして、あのような「演劇作品」を上演しようとすればほんとうに膨大な費用がかかるわけだが、主人公はどこでその費用を調達しているのか。あそこまで舞台で「火」や「火薬」を使用することが許されるのか、そんなことばっかり思いながら、いっしゅの「嫌悪感」、それもかなり深い嫌悪感にとらわれながら観るしかなかった。

 それでも、絶妙なタイミングで入るスローモーションだとか、グッドチョイスなBGMだとかの要素は好きなんだけれども(BGMではちょうどこのあいだ聴いていたUnit4+2 だとかChad & Jeremy なんか、グッドタイミングの再聴、だった)。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (14)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (14)を含むブックマーク

 「スワンの恋」は少し読みはじめているけれども、きょうはきのうまで読んでいた一冊目、「第一部 コンブレー」のまとめを。

 ‥‥やはりここまででは、まずはプルーストという作者と、この作品では「書き手」であるところの、時系列でいうと物語られている時期よりもずっっとあとからの視点で書いている存在、そして書かれているところの、おそらくは十歳をちょっと越えたぐらいの年齢の「主人公」、この三者について考えてしまう。
 もしも、プルーストという作家がこの作品をみずからの少年期を振り返る「回想記」として書いているならば、この三者、プルースト=書き手=主人公というものはイコールで結ばれることになるだろう。少なくとも、プルーストと「書き手」とは同一の存在になる。しかし、この「失われた時を求めて」では、この<協調関係>(?)はない。そこのところの<差異>というものこそ、この「第一部 コンブレー」を読み終えて、気にかかるところではある。

 この作品、もちろんプルーストの実体験をもとに書かれた作品ではあるだろうけれども、その「実体験」をまさに小説的に<フィクション>として昇華させたのが、この「失われた時を求めて」という作品だろう。そして、その<昇華>のさせ方のユニークさもあって、たんじゅんなフィクションまじりの回想記を大きく越えた魅力を得ているわけだろう。その魅力の多くは、わたしの思いでは「いったい、この書き手とはどういう存在なのか」ということになるだろうか。つまり、あるところではプルースト本人のようでもあり、あるところではフィクショナルな存在としてあらわれているのではないのか。‥‥そういうところを意識しながら、以降の(まだまだ膨大な)つづきを読んで行きたいと思っている。

 そう、きのうも書いたことだけれども、「現実は記憶の中でしか形成されない」ということばにこそ、この「失われた時を求めて」を解くカギが秘められているような気がしてならない。とにかくは、つづきを読もう。


 

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■ 2014-02-09(Sun)

 何十年に一度、という大雪になったわけだけれども、今朝わたしが出勤するときにはもうやんでいた。ただし、わたしたちへの影響というものは、降っている雪ではなく積もっている雪から来るわけで、たいへんなのはこれからでしょう。‥‥たしかにかなりの積雪量だけれども、出勤のときに歩いた感覚では十センチぐらい。
 職場に到着してみると、来られなくて欠勤した人がかなりいる。わたしの受け持ち分野のパートナーのCさんも出勤して来ない。しかし、しごと量は異様に少なく、わたしひとりで余裕でこなせる分量。あと二時間を残す段階ですべて完了し、あとは雑務などやって、一時間早く帰って来た。

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 空は快晴で気温も上がっているようで、うちのベランダの手すりに積もっていた雪など、どんどんと溶けていっているのがわかる。せっかくの雪の中を歩いてみたくもあり、近所のドラッグストアへ買い物に行ってみた。‥‥あちこちで雪かきをしている人の姿が見られ、公園には大きな雪だるまもつくられていた。もうけっこう人の歩いた足跡もついているところが多いけれども、まだ誰も足を踏み入れていない「処女地」というのもある。そういうところを歩いていくのはやはり気持ちがいい。出勤のときは十センチぐらいの積雪かと思ったのだけれども、こっちの方に出て来ると、十五センチぐらいは積もっている感覚。吹きだまりのようなところにはまってしまうと、そこは軽く三十センチぐらいの深さはあって、ちょっとおどろく。

 帰宅して、まだ「せっかくの雪」という気もちがあり、雪だるまではないけれど、雪を部屋のなかに持ち込んで、何かつくってみようという気になった。‥‥玄関の前の雪を、掃除をかねてすくい取り、アルミのボウルとかに入れて部屋に戻る。
 さいしょは「彫塑」的に、つまり粘土を扱うように外から芯に「肉づけ」していく感覚でやったのだけれども、これだとあとから肉づけした部分がはがれやすいし、形状もでこぼこしてしまうことがわかった。それで、「やり直し」。こんどはまずはある程度の強度を持った「雪のかたまり」をつくり、そこから削り出していく、つまりは「彫刻」の方法でつくることにした。まずは保存用のパックに雪を詰めて固め、それをいくつか重ねて、大きめの雪の固まりをつくり、そこから包丁やナイフで削り取って行って「かたち」をつくる。つくったのはニェネントの雪像、つまり「雪ニェネント」のつもり。この方法はうまくいったし、造形もなんだかいい感じになった。ヒゲをつけてあげて完成。製作時間は三十分ぐらいのもの。

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 昼食(まだ焼きそば)をすませ、録画した映画を観ていたら、うしろで「バタッ」と音がして、振り向いてみると、さっきつくった「雪ニェネント」が倒れて壊れていた。ことしの冬も、これでおしまいかな。

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 映画を観終えて、午前中の買い物で買った肉まんを温めてニェネントに少しわけてあげたのだけれども、ニェネントくん、今回は見向きもしないで、まったく食べようとしなかった。メーカーというか、品を選ぶわけだ。わたしにはきょうの肉まんの方がおいしかったんだけれども。

 夕食は買って来た絹豆腐を冷や奴にして、かんたんにすませる。そのあとは「失われた時を求めて」を読み継ぎ、ようやく第一巻は読了した。

 

 

[]「100挺のライフル」(1968) トム・グライス:監督 「100挺のライフル」(1968)  トム・グライス:監督を含むブックマーク

 アメリカ映画だけれどもメキシコが舞台で、マカロニ・ウェスタンからの影響を感じさせるような、派手なアクション・シーンの散見される演出。主演はフットボールのスーパースターだったジム・ブラウンで、これにラクエル・ウェルチとバート・レイノルズがからむ。どうもジム・ブラウンが主役を演じるのはこの作品がはじめてのようで、バート・レイノルズがどこまでも彼の引き立て役としてサポートしているけど、わたしはラクエル・ウェルチがかなりフィーチャーされているのがうれしかったし、けっこう演技派なところをみせてくれた。

 急な傾斜の山道を行く人馬だとか、暴走する機関車など、きばった場面は楽しめるし、悪役メキシコ軍将軍の暴虐非道ぶりもすごい。まあジム・ブラウンを主役に持ち上げようとする演出はちょっと‥‥、とは思うけれども、けっこう好きな作品。ジェリー・ゴールドスミスの音楽もよかった。そうそう、この放映の日本語字幕、「意訳」というよりもはるかに、じっさいにいわれているセリフから乖離があったと思う。「誤訳」ではないし、ストーリー展開のなかで意味も通じるのだけれども、こういうの、どうなんだろう?


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (13)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (13)を含むブックマーク

 きょうもゲルマントの方への散歩。ゲルマント公爵夫人のことを夢想し、夫人の「お気に入り」作家になることを夢想する主人公だけれども、そこから自分には才能がないんじゃないのかという悩みも生まれてくる。散歩の帰りに乗せてもらった馬車からのながめ、見え隠れする三つの鐘塔のすがたに深い感銘を受けた主人公は、そのことを散文として記録するわけだ。わたしはずいぶんむかしにいちど、この「失われた時を求めて」は通読しているのだけれども、読み終わったあとになっても記憶に残っていたわずかな部分のなかに、この三つの鐘塔の部分が入っていた。

 しかし、この主人公、じっさいにいくつぐらいの年齢なのか。この「三つの鐘塔」体験のあと帰宅して、またまた「ママンのおやすみのキッス」を待ち受けるのだから、わからない。早熟なのか、それともいつまでも乳ばなれが出来ないでいるのか。なんかバランスがとれてないガキという印象はある。

 そう、きょう読んだところでは、「現実は記憶の中でしか形成されない」と言いきっているところに興味を持った。ここにまさに「失われた時を求め」るということがあるわけだろうし、このことばはプルーストのものだろう。「現実」というものは「そこにある」ものではなく、「形成される」ものなのだ。なるほど。

 ‥‥ようやく、第一巻は読み終えた。正直言って、わたしには読みづらい部分はあった。それがわたしの読書力の衰えかも知れないあたりが「こわい」のだけれども、ストーリーを展開させていくのではない、まさに「散歩」のような散文というのは、読みにくいものだと思った。そういうこと。巻末に松浦寿輝氏のエッセイが掲載されているけれども、これはぜ〜んぶ読み終えてから読もう。さあ、あしたからは「スワンの恋」である。楽しみ楽しみ。


 

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■ 2014-02-08(Sat)

 目覚めて窓の外をみると、うっすらと雪が積もっているのがみえた。TVをつけると、首都圏の雪のニュースばかり。このあたりでも、これからどんどん降り積もっていくらしい。
 出勤のため外に出ると、雪はそれなりに降っていた。職場は近いので傘をささないでそのまま歩いたけれども、職場に到着したときにはそれなりに雪まみれになっていた。

 まだ雪はしごとに影響を与えるようなものではないけれども、きょうのしごと量はとても多かった。お歳暮のときのように、役職の方々が手伝いに来られたりもしたけれど、どうやら無事に時間内に終了した。
 同僚のBさんが、この雪だとあしたは休みにしたいものだという。車での通勤だから雪が多ければそう思うだろう。あしたが休みになっているわたしは「じゃあ、オレが代わりに出勤するから休みなよ」と提案し、Bさんは年休をつかって休むことにした。あとでこのことを上司に報告すると、わたしがあした出ることの代休は、あさっての月曜でかまわないとのこと。わたしのスケジュールは火曜日、水曜日と連休になっていたわけで、これで三連休になる。なんかうれしくなる。Bさんにとってもわたしにとってもいい結果になったわけだ。

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 しごとを終えて帰宅するころ、いちどはほとんど雪はやんでいた。朝食はヴォリュームたっぷりのトースト。午前中は日記を書いたりTVの雪の報道をみたりして過ごす。来週の土曜日はAさんと横浜に出かける予定もあるので、そのあたりの確認のメールを送ったり。

 昼食はまた焼きそば。東宝の特撮映画を観ていたら、Aさんからメールが来て、しばらくメールのやりとりをした。そのあいだにちょっと外に出て、近くの公園で写メールしたりもした。このときは雪はほとんどやんでいたけれど、すぐあとからまた降りはじめた。

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 報道ではこれからも雪が降りつづけ、20センチを超える積雪になるようなことをいっている。そこで思ったのだけれども、みんな車での外出はひかえるだろうから、スーパーマーケットなどの客はずいぶんと減るだろう。そうすると、お弁当や惣菜などの値引きは早いじかんにはじまるのではないかと。‥‥六時半ぐらいになったら南のスーパーに行ってみようということにした。外をみると、たしかにまた雪が降りはじめていた。風もあるみたい。

 六時半になり、傘をさしてスーパーへと向かう。だれもまだその上を歩いていない新雪の上を歩く。いい感じである。ときどき強い風に吹かれる。足元の積雪の表面の雪が、風に吹かれて流される。じっさいにはあんまり目にしたことのない光景。
 スーパーに到着すると、やはり客の数は少ないように感じられる。もくろみどおり、すでに半額に値引きされている惣菜、弁当類が多い。ちらし寿司をふたつ、そしてあしたの昼食にでもと普通の弁当を一つとを選ぶ。また加熱用と書かれたかつおのパックが激安で置かれていたので、ニェネントくんのために買ってあげる。‥‥そうそう、雪なんだから「雪見酒」とでもしゃれこみますかと、日本酒(吉乃川)の300ml瓶も、かごに入れた。これで、千円札でおつりが来た。まあもくろみは成功でしょうか。

 帰宅して、ニェネントにかつおを出してあげようとパックを開けると、気配(匂い?)を察したニェネントがとんで来て、わたしの足もとでにゃんにゃんとなく。かわいい。かつおをニェネントの皿に出してあげるとすぐにとびついて来て、あっという間に食べてしまった。やっぱりニェネントくん、かつおが好きだねえ。
 わたしはわたしで、酒をかたむけながらちらし寿司をふたつ平らげる。‥‥いい雪の夜ではあった。本はあんまり読めなかった。

 

 

[]「海底軍艦」(1963) 円谷英二:特撮 本多猪四郎:監督 「海底軍艦」(1963)  円谷英二:特撮 本多猪四郎:監督を含むブックマーク

 小学生のとき、リアルタイムに映画館で観ているはずだけれども、その記憶はあまり残っていない。龍のような怪獣がかなりチンケだったことくらい。

 つうことで五十年ぶりの再見。かなり豪華な役者陣におどろくところはある。‥‥ドラマとしてみると、その脚本だとか演出とかに疑問がないわけではない。なんかお手軽だなあという印象かな。特撮では、終盤に東京の市街が崩壊するシーンがかなりの迫力。やっぱり、龍の怪獣マンダの造形、動きはおそまつだった、としかいえない。

 この映画でのいちばんの見どころ、それは、ムウ帝国皇帝を演じた小林哲子という女優さんの魅力を堪能出来ること。すばらしい。いってみればのちの藤圭子を思わせるクールビューティーなわけだけれども、その最期をふくめて、こころに焼き付く役柄だった。この方のことはちっとも知らなかったけれども、Wikipedia をみるとやはりこの「海底軍艦」こそが代表作のように書かれている。惜しいことに肺ガンで53歳という若さでお亡くなりになられたらしい。残念。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (12)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (12)を含むブックマーク

 きょうは数ページしか読めなかったけれども、ついにその道筋を「ゲルマントの方」へ向けることになった。きょう読んだ範囲で興味深かったのは、その主人公の少年が歩んだ道筋の光景は、「今はもう見られない」というふうに書かれているところで、書き手の存在がはっきりと表(おもて)に出て来たわけだ。それで、そもそもがこのコンブレー周辺というのが創作された架空の土地なわけだから、そこで過去と現在に変化があるという設定を持ち込む、ということも面白いと思う。書き手とプルースト当人とはイコールではなく、プルーストが書き手を操作しているというか、プルースト当人ではないところの「書き手」なのだ、ということが明確になるのではないだろうか。


 

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■ 2014-02-07(Fri)

 きょうも寒い。そして快晴。しかし天気予報では今夜からあしたにかけては大雪になるといっている。けさのしごとはしごと量も少なく、とっても楽だった。

 朝食は、きのう買った肉まんとかですませる。賞味期限がきょうまでになっているので、きょうはおやつとかでいっぱい肉まんを食べようということで、昼まえにも肉まんを食べる。するとニェネントが寄って来て、肉まんを持っているわたしの手のそばで肉まんを食べたそうなそぶりをみせる。「えぇぇ! 肉まんを食べたいのかな!」って思ったけれども、考えてみれば肉まんの具って、ネコ缶とちょっと似ているわけだ。「こりゃあ食べるかもわからないな」と、一口分をちぎってニェネントの前に置いてやる。‥‥ニェネント、あっという間に食べてしまう。その食べるスピードは好物のかつおを食べるよりも早い。ずっと早い。‥‥ニェネントは肉まんがいちばんの好物だったりして。それではと、もう少しちぎって分けてあげる。ニェネント、食べる。もちろんわたしも食べているわけで、こうやってニェネントといっしょに、同じものを食べるのってうれしい。ちょっとした幸福感である。

 昼食はまた焼きそば。きのうに続いてデ・パルマの映画を観たりして、おやつの時間にまた肉まんをニェネントといっしょに食べた。電子レンジで温めて、ちょっと熱すぎたかなというところだったけれども、ニェネントはやはりさっさと食べてしまう。ネコが<猫舌>だというのは、まちがった概念じゃないかと思う。
 夕食はビーフシチューの残りのラスト。‥‥さあ、あしたの夕飯は何にしようかなあ。

 さて、わたしのことだが、このところタバコを吸う本数が減った。もともと禁煙すべきところをかくれて吸っているわけだから、早くやめてしまわないといけないのだけれども、以前はいちにちにちょうど一箱(20本)という喫煙量だったのが、いまは一箱で二日半持つ。半分以下になっているわけだ。ニコチンへの中毒で吸い続けているだけなんだろうな。早く禁煙ということにしなくっては。
 あと、アルコールもそうかな。こっちはいくらでも飲めるのだけれども、飲んだとき、全身にアルコールがまわっていく感覚がない。顔がぽっぽと赤らんでいくような、あの感覚がない。酒の味も、だからどこかちがう。こういうのはこの三、四日のことなのだけれども、やはりわたしのなかでどこか、体調がおかしくなっているんだろうか。

 

 

[]「キャリー」(1976) スティーヴン・キング:原作 ブライアン・デ・パルマ:監督 「キャリー」(1976)  スティーヴン・キング:原作 ブライアン・デ・パルマ:監督を含むブックマーク

 この作品でもって、わたしなんかはデ・パルマという名まえを憶えることになったのだったかな。ひょっとしたら、スティーヴン・キングという名まえも、この映画から知ったのかも知れない。

 ものすごっく久々に観た印象としては、「薄っぺらいなあ」という印象と、シシー・スペイセクがほとんど「崇高」なまでに光り輝く後半のすばらしさ。いやあもう、血で赤く染まったドレスでもって、プロムナイトの会場の外を歩く姿、これはもう死ぬまで忘れない。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (11)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (11)を含むブックマーク

 「メゼグリーズの方」に付随して、ヴァントゥイユ氏とその娘の話に移行していく。作曲家ヴァントゥイユ氏の娘には親密に付き合う女友だちがあるのだけれども、このふたりの仲はちょっとしたスキャンダル的にまわりに知られているわけである。さて、このふたりはどのような会話をかわしているだろうか、つまり、どんな付き合い方をしているのだろうか、というところで、主人公の少年は、そのふたりの滞在する建物の窓の外で、ふたりの会話を盗み聞きするわけである。このあたり、視点をそこまで限定していなければ、「こんな会話を交わしていたわけである」みたいに、いわば「神の眼」的視点から書いてしまってかまわないわけだけれども、とにかくはこの「失われた時を求めて」、書き手〜主人公の少年という関係ははっきりしているわけで、その主人公の知り得ないことは書き得ないわけである。そこでこういう、「盗み聞き」という、こそくな手段を使わなければならなかったりする。プルーストも苦しかったことだろう。

 しかし、ここでほのめかされる「同性愛」というテーマ、皆が知っているように、この「失われた時を求めて」の大きなテーマのひとつではあるわけで、いわばこの第一巻のそれは「予告篇」といえばいいのか。

 そう、おとなが子どもに本などを与えるということで、その「与える」精神を批判する面白い文章が出て来たので、ここに写しておきましょう。

彼女たちは、大人になったときに本当に関心できるような作品をこそ子供の前に置くべきであり、子供はまずそういう作品が好きになってこそ趣味のよさが立証される、と考えていた。それはたぶん彼女らが、美的価値を物質的な対象のように見なし、それと等価値のものをゆっくり自分自身の心のうちに成熟させる必要もなく、ただ目さえ開けばこれをとらえられると考えていたためだろう。


 

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■ 2014-02-06(Thu)

 わたしのそばにいるニェネントに、「どう? もう(発情期は)終わったの?」と聴いてみたら、「にゃああん!」とないて答えてくれた。その返事を人間の発音体系で書き写すと、「まだまだよ!」といってるみたいだけれども、どうやら終わった、終わってくれたみたい。ホッとした。 

 きょうはしごとのあとに内科医へ行く。いつも二週間分もらっている(って、買っているわけだが)内服薬(四種類服用している)がなくなったからではあるけれども、いっしょに二週間分毎日記録していた血圧値を提出する。こんかいは寒くなって来たせいかもしれないけれども、ちょっと血圧の高い日がつづいたりもしている。薬をひとつチェンジしてみることになった。

 ほんとうはあしたはメンタルクリニックの予約が入っているけど、もう、まったく行くひつようを感じることはない。そのまますっぽかしてもいいのだけれども、いちおう電話した。電話口に出た受付の方にわけを話すと了解していただいた。しかし、あしたは主治医と会われてちょくせつそのことを言ってほしいという。「それで、治療費を取られるわけでしょう?」と聴くと、そうだということなので、そういうことはやりたくない旨を伝え、了解いただいて電話を切った。

 きのうと同じように寒い。それでもやはり快晴で日射しは強い。おとといの雪はいくらか日陰に残っているだけになった。きょうは木曜日で西と南のスーパーは一割引。内科医に行ったあと、西のスーパーに行ってみて、野菜とお菓子、インスタントラーメン、肉まんなどを買った。帰宅して昼食。きょうはまた焼きそば。ニェネントのネコ缶なども買っておきたくなって、食後に東のホームセンターへ行ってみる。ここがネコ缶が安かったと思ったのだけれども、ちっとも安くなかった。むしろ、いちばん高い価格で売っていた。
 前にもちょっと書いたのだけれども、わたしがニェネントに買っているネコ缶、当初(つまり三年半まえ)にはかなり安いもののひとつだったのだけれども、半年ぐらい前から値上げされ、けっこうネコ缶のなかでもハイクラスのものになってしまった。しかも、二ヶ月おきぐらいにまた値上げされている感覚で、きょうホームセンターでみた値段はまた、いままでの値段から上がっている。
 そこでもう一軒、きょねん近所に開店したドラッグストアに足を向けてみる(って、単に「帰り道」ではあるけれども)。‥‥店内に入ってみると、これがちょうど大幅なディスカウントセールのまっさいちゅう。マヨネーズや砂糖がすっごく安かったので買う。で、ネコ缶もこの店がいちばん安かった。このドラッグストアも、ときどきは覗いてみた方がいいなあ。

 きょうはあちこちへ買い物に歩いた。ついでにもう一軒と、北のスーパーのとなりの百円ショップにまで行ってしまった。食器とか、バケツとか、欲しいものはそれなりにあったわけだし、ちょっとあちこち歩いてはずみがついてしまったところがある。これで、我が家を中心として、その「東西南北」にある店四ヶ所をぜんぶ廻ることになる。‥‥店のなかをみてまわり、PC用のマウスパッドだとか、金銭出納帳、それに箸なども買ってしまった。今月はしっかり支出をチェックしよう。

 帰宅後は、ちょっと片付けてから「殺しのドレス」なんてえのを観たりする。夕食はまだまだシチュー。まだ、もう一食分は残ってる。

 

 

[]「殺しのドレス」(1980) ブライアン・デ・パルマ:監督 「殺しのドレス」(1980)  ブライアン・デ・パルマ:監督を含むブックマーク

 やはりわたしには、デ・パルマではこの作品が「いちばん」だろうか。デティールを含めてストーリー展開も記憶していたわけでもあるし、こうやってほんとうに久しぶりに再見しても、やはり充分に楽しめる作品だった。

 もちろん元ネタの「サイコ」との比較でどうのこうの、ということはあるのかも知れないけれども、展開が同じだとしても、ここまで設定を変えて持って来て、そのなかでのリアリティ、オリジナリティはちゃんと確立されていると思う。そしてやはり、冒頭の美術館のなかでの夢遊病者のようなカメラはあまりにすばらしいし、中盤のサブウェイ内でのサスペンスたっぷりのカメラワークもいい。‥‥しかし、よく美術館の内部での撮影許可がおりたものだと、ちょっとした感慨はある(サブウェイにしてもそうか)。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (10)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (10)を含むブックマーク

 ついにようやく、コンブレーの叔母の家からの散歩の方角、「メゼグリーズ(スワン家)の方」、そして「ゲルマントの方」という二つの道筋が明示され、まずは主人公は「スワン家の方」へと進んで行き、そこで母親オデットといっしょにいたジルベルトの姿を認めたりするわけである。ついにようやく、「失われた時を求めて」の「ロマン」が始まろうとしているのだろう。


 

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■ 2014-02-05(Wed)

 寒い。部屋のなかにいても寒い。きょうはしごとは非番で休みだけれども、あんがいとこういう日は仕事に出ていた方が寒さを感じなかったりするだろう。それでも空は抜けるような晴天で、日射しにもそれなりのものがあり、きのうの雪はどんどん溶けていくみたい。九時ごろになって、洗濯をしようかと、ベランダの洗濯機に洗濯物を突っ込んでみたけれども、水道が凍っていて動作しなかった。十一時ごろになって、やっと洗濯は出来た。
 ドラッグストアに買い物に出てみると、うちのそばの公園のなかに、誰かがつくった雪だるまの姿があった。‥‥もう日射しのせいでけっこう溶けはじめているみたいだけれども、「雪だるま」というものを眼にするのが、もうなんだか十年とか二十年ぶりになるような気がしてしまう。

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 一時期はとても不安定だったわたしの精神状態も、ここのところグンと落ちついてきた感じで、自分では「あぶない」という感覚もまるでない。プルーストを読み、その読書感想をここに書いていることが、まちがいなく一つの理由としてプラスにはたらいている。このことはまちがいない。きょうはAさんともメールのやりとりをしたし、ニェネントの発情期もようやく、どうやら終わりそうだ(今回はキツかった)。

 きょうは昼食も夕食もきのうのシチューですませ、録画した映画は二本も観てしまった。ニェネントにぶん取られてしまいそうな座椅子は、別にニェネントが座れそうなクッションを座椅子のそばに置いたりとか、あれこれ工夫して「おたがいに気持ちよくシェアしましょうね」というところ。

 

 

[]「ガス人間第一号」(1960) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督 「ガス人間第一号」(1960)  円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督を含むブックマーク

 これ、面白い。ぜんぜん子ども向けじゃないというか、子どもにはわからないだろう。‥‥あるマッド・サイエンティストにだまされるかたちで「ガス人間」にされた男(土屋嘉男)、彼はそれ以降自分の意志で自分のからだを気体化させ、また個体に戻すことが出来るようになる。それで銀行強盗師をやるんだが、面白いのは、その盗んだ金を自分がファンであるところの日本舞踊の家元の匠に貢ぐわけ。その日本舞踊の師匠藤千代を八千草薫が演じている。ものっすごくきれいである。その藤千代、現在は零落したところもあって、伴奏の方など、その他あらゆる人脈が絶えかけていたところで、その貢がれた金で発表会をやるわけ。しかしもうそのときには世間は「ガス人間」の存在、彼のやったことをわかっているわけ。司法側はその発表会を利用してガス人間を抹殺しようとするけれども‥‥。

 Wikipedia でこの作品のことをみると、この作品、アメリカでは「大ヒット」したらしい。まあ「大ヒット」というのがどのくらいのことかわからないけれども、やはりひとつにはこの「日本舞踊」のエキゾティシズム、それを支えた八千草薫の美しさというのはあったんじゃないかな。そうそう、その八千草薫を支える鼓師の「じい」の役で、左卜全がいい味を出しておられる。

 ラストはつまりはガス人間と藤千代との心中みたいな幕切れになるのだけれども、なんていうんだろう、没落していく旧家のあわれを感じさせられもする。‥‥こういう作品、もうちょっとつくってみても面白かっただろうにね。


 

[]「ムーンライズ・キングダム」(2012) ウェス・アンダーソン:監督 「ムーンライズ・キングダム」(2012)  ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 映画館で観た作品だけれども、これっぽっちも記憶に残っていなかった(いや、エドワード・ノートンがよかったねえ、みたいなことはちょっとだけ憶えていたけれども)。

 ‥‥これ、ロマン・コッポラとウェス・アンダーソンの共同脚本ですね。‥‥どうもわたしはこのロマン・コッポラとそりが合わないというか、同じウェス・アンダーソン監督の「ダージリン急行」もまた、観たことは観てるけれども、やっぱり記憶に残っていない。どうしてなんでしょうねえ。

 この作品も、子どもを主役にした大人のためのマンガみたいなところがあって、「ガロ」とか、あのあたり? 近藤よう子とか? みたいな。でもわたしは(ぜんぜんちがうといわれるだろうけれども)近藤よう子の方が好きかな。これ、かなりわざとらしい。

 女の子を演じているカーラ・ヘイワードという子、将来が楽しみ。男の子はどうかなあ。わかんないな。


 

[] 第一篇 スワン家の方へI (9)  第一篇 スワン家の方へI (9)を含むブックマーク

 ここでようやく叔母やメイドの話からはなれ、ルグランタン氏の「スノビズム」の話になる。たしかこの「スノビズム」というのは、「失われた時を求めて」のなかで、あれこれと言及されることになる、ひとつのサブテーマのようなものではなかったかと思う。それがまず、このルグランタンという男性によってもたらされるというか。‥‥いやあ、この人物のキザったらしいしゃべりかた、イヤですねえ! さぶいぼがたちそう! ‥‥ちょっとだけ、書き写してみます。

 何か美しい静けさじゃありませんか

 いずれあなたもお読みになるだろうけれど、ある小説家がいましてね。その言うところによると、私みたいに傷ついた心にふさわしいのはただ闇と静けさだけだそうですよ。それから、まだあなたにはおよそ遠い話だけれども、人生のある時期が来ますとね、疲れた目に耐えられる光といえば、今夜のような美しい夜の準備する光、闇を通して蒸留された光だけになってしまう。それから耳が聴くことのできる音楽といえば、もう月の光が沈黙のフルートにのせて奏でる音楽しかなくなってしまうのですよ。

 ‥‥でも実際に、こういうしゃべり方をする人間というのはほんとうにいるわけだ。‥‥鈴木道彦氏の訳注によると、このルグランタン氏のしゃべり方には、アナトール・フランスの文体の模倣があると、向こうでは指摘されているらしい。でもプルーストはアナトール・フランスを崇拝するようなところもあったはずで、それをそのようにパロディ化することが出来るというあたりに、彼の成長をうかがうべきなんだろうなあ。


 

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■ 2014-02-04(Tue)

 しごとに出る前の早朝の天気予報では、きょうは午後から雪になるといっている。きのうは四月上旬の暖かさだったのに、あんまりにきょくたんであろう。
 わたしが出勤する五時前というじかんはもちろんまだまっ暗だけれども、倉庫に移動する六時半になるともう明るくなりはじめている。今朝の空は分厚い灰色の雲におおわれているのがわかるようになる。しごと中にはまだ雪などは降り出さないけれども、この雲だといずれ雪だか雨だかが降り始めるだろう。

 しごとを終えて帰宅して、トーストで朝食をすませる。‥‥すこし前には、これからの朝食はトースト一枚ですませようかと思い、ちょっとだけそうやってみたのだけれども、やはりそれでは足りない。空腹になり、それがずっとあとに夕食を終えたあとになってそういう空腹感が出て来るように思えて、やはり朝食をトーストでやるときには二枚ということにした。ハムやゆで卵、トマトやチーズをはさんで、ヴォリュームたっぷり。わたしもきょくたんだ。

 きのう買った座椅子は快適なのだけれども、わたしがちょっとトイレなどに行って戻って来ると、その座椅子の上にニェネントが上がり込み、そこで丸くなっている。ニェネントもやはり、この座椅子が気に入ってしまったようである。でもごめんね、それはわたしのモノだからね、ということで「ちょっとごめんね〜」とニェネントを抱き上げようとすると、その座椅子に爪を引っかけて「にゃあん!」と啼いて抵抗する。「イヤよ! コレはあたしのモノなんだからネ!」といっている。‥‥まいったなあ。‥‥ニェネントはきょうも「サカリノさん」で、部屋のなかを啼きながら徘徊しつづける。わたしにはニェネントの腰を叩いてあげたり、もんであげたりしか出来ない。今回はいつまで、続くのかなあ。

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 昼食はまた焼きそばですませ、窓の外をみてみると、よわい雨が降っている。きょうは火曜日だから南のスーパーでは特価品をいろいろと並べる日。いまのうちに買い物に行ってみようと、出かける。まだ傘もひつようのない雨量。
 スーパーに着き、店内をみてまわる。なんだかやけに肉類が値引きされて売っていて、元値の三分の一の値札が貼られているものがある。もちろん買った。シチュー用の牛肉も百円だった。きょうはシチューにしよう。あと、かつおのカット肉というヤツ、これは刺身用の肉などを削ぎ取ったあとの、骨付きの肉なんだけれども、けっこうな量があって百円。これも、ニェネントちゃん用に買った。あとはバナナとか野菜類とか買って帰宅。

 いつものパターンで、午後からは録画してある映画を観てすごす。きょうは「ライフ・オブ・パイ」を観る。‥‥こういう作品だとは知らなかった。感想は下に。
 映画を観終わって外をみると、いつのまにかはげしい雪になっていた。向かいの家の屋根だとか、土のある地面の上など、すでに雪で白くなっている。これだけの雪もめったにないので、ちょっと外に出て、近くの公園を写メールして来た。

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 帰宅してからは夕食の準備。きょうは、肉も買ったので、ビーフシチューにする。ホワイトシチューのときは市販のルーなどいっさい使わないでつくるのだけれども、ビーフシチューとなるといまのところは市販のルーを使っての調理。これもそのうちに、全部自分でやってみたいと思っている。そういう時間もあるし。ただ、ルーを使っても、トマトを一個いっしょに炒めるとか、独自の味にはしたいとがんばってみる。ルーのパッケージには野菜類も肉もいっしょに炒めるように書いてあるけれども、別々の方がいいのは当然のことだし。
 ‥‥完成。じっくり煮込んだし、トマトの味も利いて、なかなかおいしいシチューになったと思う。これで当分はシチューばかりになるだろう。

 

 

[]「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(2012) アン・リー:監督 「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(2012)  アン・リー:監督を含むブックマーク

 映画館で予告編は観たことがあって、とにかくはひとつのボートでトラといっしょに漂流してしまう青年の話だということで、「そりゃあトラは死んじゃうにちがいない、そんなかわいそうな映画は観たくないな」みたいな認識でいた。

 映画の冒頭からいっぱい動物たちが登場して来て、わたしが思っていたような「サヴァイヴァル映画」というタッチとはちょっとちがう。色彩を含めて絵がとってもきれいだし、演出も「スパッ」って切れ味が明解で、そうか、監督はアン・リーだものな、などと思ったりする。

 いよいよの海難事故から、SFXの大活躍にもなるわけだけれども、観ていて、「そんなファンタジックなものなのかなあ」という思いはずっとつきまとって来た(わたしも鈍感だから)。ラストのラストになって、つまりこれは過酷な現実をファンタジーに置き換えて描いた(語られた)モノだとわかる。‥‥OK。すばらしい。好きな映画だ。ちょっと消さないで取って置こう。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (8)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (8)を含むブックマーク

 きょう読んだのは、レオニ叔母がメイドのフランソワーズとかに抱く「悪意の妄想」とでもいうのか、書き手が「叔母はこんなことを思っていたにちがいない」ということを書きつらねて行くところ。しかし、読んでいて、「そんな勝手な想像を」と思わないわけではない。それがその先で、レオニ叔母がひとりごとでフランソワーズと二役を演じているのを主人公が聞いてしまう、という場面が出て来るから、その書き手の<想像>も、その一部には正当性があるのかも知れないとは思える。

 このあたりの書き手の<想像>というのがまた、先日の「小説とは」みたいな問いかけにつづいているように思えるところもあり、ここで書き手は「想像」から「小説」へ、ということを実践している気配もある。まあとにかくはさいごのレオニ叔母の「ひとり芝居」もまた、プルーストの創作ではあるわけだし。「主人公の少年」、「書き手」、「プルースト」。このかんけいが興味ぶかい。

 きょうはちょっと前のページにもどって、「いい文章だな」と思ったところを書き写してみる。222ページから。

 何かが当たったように、窓ガラスに小さな音が一つした。それにつづいて上の階の窓から砂粒をまいたように、たっぷりと軽やかに落ちてきたものがある。ついでそれが広がり、規則正しく一つのリズムを帯び、水になり、響きを発し、音楽を奏で、無数の粒となって、あたり一帯を覆った。雨だ。


 

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■ 2014-02-03(Mon)

 深夜に目が覚めてしまい、寝付けなくなってしまった。「深夜」というのは「午前二時」ぐらいのことだけれども、どうせわたしは午前四時には起きて、五時からはしごとなわけである。どうせ二時間ぐらいのことだからと、ベッドから出て、本を読んだり、この日記を書いたりして過ごした。ところが日記を書いていてちょっと入れ込んでしまい、出勤じかんを過ぎているのに気づかなかった。テレビが5時のニュースのじかんになり、そこでようやく「5時? あ! いけない! しごとに行かなくっちゃ!」と気づき、あわてて出社した。何やってるんだろう。‥‥職場はいまどきタイムカードを導入していない、前々世紀のようなところなので、五分ぐらいは遅刻しているんだけれども、さいわいにも遅刻あつかいにはならないのだった。

 しごとを終えて帰宅してからも日記を書き、ドラッグストアへ買い物に行ってから、また昼食は「焼きそば」。

 どうもこのところ、和室で座布団に座っていても、落ち着かないというか座りごこちがわるいというか、背もたれがあるといいように思いはじめているわけで、食事のあとにホームセンターへ行って、そういう背もたれのついた座椅子を買って来た。‥‥ちょっとは楽になったかな。

 このところ、午前中はこの日記を書いて、午後になって録画してある映画を観、夕食のあとは本を読むという「規則正しい」生活が定着しつつあり、きょうも典型的なそういういちにちになったと思う(深夜〜早朝はイリーガルだったけれども)。


 

[]「猿人ジョー・ヤング」(1949) アーネスト・B・シュードサック:監督 「猿人ジョー・ヤング」(1949)  アーネスト・B・シュードサック:監督を含むブックマーク

 プロデューサーはふたり記されていて、そのひとりはなんとあのジョン・フォードで、もうひとりは「キングコング(1933)」のプロデューサーでもあったメリアン・C・クーパー。特殊効果のスーパーバイザーに、やはり「キングコング」のウィリス・オブライエンの名まえも見られるわけで、16年の時を経て「キングコング」のコンセプトをもういちど、みたいな空気はビンビン感じ取れる。

 ただし今回の主役の「ジョー・ヤング」は、アフリカで生まれてすぐに女性に育てられたゴリラということで、大きさもキングコングみたいな「怪獣」というわけではない。これがラスヴェガスに(飼い主の女性の合意の上)連れて来られて、まあ「見せ物」にされるわけで、そこでちょっとばかし反乱を起こし暴れてみました、というあたりは、やはり見せ物にされたキングコングを思い出させられる。‥‥ただ、このジョー・ヤングちゃん、気性はとってもやさしいゴリラちゃんで、いけないのはまわりの人間たち。だから終盤の逃亡劇は「なんとか逃げて、アフリカに帰ってちょうだい!」なんて思いながら観てしまう。ここで唐突に孤児院の火事とかがはさみこまれたりするんだけど、あの炎とジョー・ヤングの特殊撮影と、よくひとつの画面にしたなあと、感心した。そうそう、この作品、特殊効果のウィリス・オブライエンの指導の下、あのレイ・ハリーハウゼンのデヴュー作でもあるらしい。

 ラストのセリフは「They are happily ever after.」だった。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯(7)  第一篇 スワン家の方へ 鵯(7)を含むブックマーク

 どうも、「マドレーヌ」事件以降のこの作品、しばらくはただ「ほら、これだけ思い出しちゃいましたよ」みたいな描写がつづく印象があり、ストーリー展開として牽引するような、あとにつながるものがあるという感覚でもなく、あくまで「こんなことまで思い出しちゃいましたよ」みたいな、エピソード集みたいなところがあり、じつのところ、読みつづけるのがキツいという感覚になってしまうときが多い。

 ただ、そもそもがここで描かれる「コンブレー」という土地は架空の土地で、登場する人物にせよ建築物にせよモデルがあるとはいえ、作者の創作物ではある。そうするとつまり、いいがかりつけるわけではないけれども、プチット・マドレーヌのおかげでこれだけ思い出しちゃいましたよといわれても、それは「思い出されたもの」ではなく、「創り出されたもの」ではないですか、という気もちがないわけではない。で、そこにもまた、この「失われた時を求めて」という小説と、作者のプルーストとのかんけいというのか、「小説とかなにか」という、きのうまさにこの「失われた時を求めて」から引用したようなことを、考えさせられてしまうのである。


 

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■ 2014-02-02(Sun)

 きょうはまたしごとは休みだけれども、五時ごろには目が覚めてしまう。やはり夢をみていたようだけれども、きのうの夢のようにはそのデティールをまるで思い出せない。ただ、「夢をみていたようだ」というだけのことで、やはりそういう夢があとになって、フラッシュバックのように意識下に侵入して来る感覚になるようだ。
 昨夜スーパーで値引きされていた調理パンで早めに朝食をとり、この日記を書く。‥‥このところ、プルーストの読書日記も始めてしまったし、分量も増えて、書くのにじかんがかかる。こんなにじかんをかけていいんだろうかと、ちょっと疑問に思ったりもするけれども、やはり読書日記のところでわたしなりに(これでも)あたまを使ってるので、いまのわたしにはプラスになっていることと思う。しかし、全十三巻、この調子でやっていって、やはり一年はかかりそうだな。まあやり遂げたらそれなりのものを得ることにもなるだろうし、そのあとにやりたいこともちゃんと決まっている。そこまでは生きてなくっちゃ。ニェネントもいることだし。

 そのニェネントだけれども、やはり「発情期」になってしまった。前回がきょねんの年末だったから、まだ五週間ぐらいしか経っていないというのに、買ってあげた「かつおのたたき」が引き金になって、生理に訴えてしまっただろうか。「発情期」のせいで、部屋のなかを啼き声をあげながら彷徨する。‥‥かなり大きな声で啼き続けるので、近隣の住まいから苦情が来るのではないかとヒヤヒヤしている。しっぽの付け根をぺん、ぺんと叩いてやったり、しっぽをぐぅんと反らせてやったりすると、うなるような声を出して、おそらくは快感に身をゆだねている。それで満足してくれればいいんだけれども、これが「きりがない」わけである。しばらくすると、また啼きながらの彷徨がはじまる。

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 わたしの昼食はまた例の「焼きそば」で、まだ三十食以上残っているわけで、「これだけあると今月の食費は抑えられるだろうなあ」なんて考えて、今月は家計簿をつけてみることにした。食後はなつかしいケン・ラッセルの映画を観たりして、そのあとはちょっとばかり台所の掃除をやった。夕食はわたしもニェネントのかつおをわけてもらって、ニェネントといっしょに同じものを食べた。ニェネントはわたしの皿の上に自分の好物がのっているのはわかって、なんとかゲットしたいわけなんだけれども、そういうときに「これはダンナさまの分だから」みたいに、なんだか遠慮しているようにこっそりと、それでも図々しく前足を伸ばして来る。‥‥みていて、ものすごくかわいくって、それでおかしかった。変なクセをつけてはいけないから、ニェネントの分はニェネントの皿に分けてあげた。


 

[]「トミー Tommy」(1975) ケン・ラッセル:監督 「トミー Tommy」(1975)  ケン・ラッセル:監督を含むブックマーク

 ザ・フーの、いわゆる「ロック・オペラ」の名作の映画化。Woodstock の映像で、このラストの曲「We're Not Gonna Take It」は知ってたけれども、わたしはこのアルバム、一度だって聴いたことがないのね。そもそも、ザ・フーってあんまり興味なかったし。

 で、この監督はケン・ラッセル。いやあ、ほんとうに久々に、ケン・ラッセル節というのか、奇怪な演出を楽しませていただきましたね。脚本はピート・タウンゼントとケン・ラッセルで、これはもう、ピートの原作をケン・ラッセルが自分の好きな方に強引に引きずり込んで行ったところもあるだろう。‥‥出演はアン=マーグレットとオリヴァー・リード、そしてザ・フーからのロジャー・ダルトリーが主演格で、ザ・フーの残り三人、そしてティナ・ターナー、エルトン・ジョン、ジャック・ニコルソンらも出演している。って、何といってもすっごいのはアン=マーグレットの熱演で、泡まみれ、納豆まみれ(うそ)、チョコレートまみれのシーンとか、もうこの映画で記憶に残るといえば、彼女こそ、という感じ。

 この映画がつくられたのが1975年だから、もう「ロックの幻想」なんて消えてしまって、パンクはまだ登場しない、つまりはロックなんてショービジネスにどっぷりの商業主義ではないかと批判されていた時期でしょう。それがけっこううまくこの作品とはまっていて、ある種の批判意識は読み取れるのかなあ。しっかし、めちゃくちゃな演出だなあ。堪能したといっていいのかなあ。


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (6)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (6)を含むブックマーク

 きのう読んだ「小説とはどういうものか」みたいな独白(?)につづいて、きょう読んだところでは、書き手の主人公がいかにベルゴットという作家に心髄しているかという話、かな。主人公にベルゴットという作家のことを教えたブロックという友人が主人公の家に出入り禁止になる話だとか、スワン氏がそのベルゴットと親しいと知っておどろく。

 そう、きのう読んだ部分での、「小説」に関することを、ちょっと書き写しておく。

最初に小説を書いた人の巧妙なところは、人間の情動の装置においてイメージが唯一の本質的な要素である以上、本物の人物をきれいさっぱり消し去ってしまうという単純化こそが決定的な完成となることを理解していた点にある。一人の現実の人間は、どんなに私たちがその人と共感しようとも、その多くの部分は感覚で知覚したものであり、つまりこちらには不透明なままで、私たちの感受性には持ち上げることのできないようなお荷物になっている。不幸がこの人を襲ったとしても、そのことで私たちが心を動かし得るのは、彼について持っている全体的な概念のほんの小部分においてにすぎない。そればかりか、彼自身も自分の不幸を悲しみ得るのは、自分にかんする全体的な概念のほんの小さな部分においてにすぎないだろう。小説家の発見は、魂のはいりこみ得ないこのような部分を、同じくらいの量の非物質的部分、つまり私たちの魂が同化し得るものに置きかえてしまおうと考えついたことだった。こうなれば、この新たな種類の架空の人間たちによる行動や心の動きが真実のように思われようと、なんらかまうことはない。

 ‥‥ほんとうはもっともっと書き写さなければ、ここでこの書き手のいわんとすることはわからないのだけれども、もう疲れちゃった。でも、ここにプルーストという小説家が「失われた時を求めて」に仕込もうとした仕掛けのことが書かれていると読むのは、まちがいだろうか。‥‥この一文、「サント=ブーヴに反論する」など、批評家としての一面も持っていたプルーストの、そういう側面をみせてくれているだろうし、「失われた時を求めて」の主人公の(この時点では)少年と、語り手とのかんけい、また、その語り手とプルーストとのかんけいについてなど、小説からはなれて考えたくなってしまうところではある。こういうところにもこの「失われた時を求めて」のデカさ、というのがあらわれているようにも思う。あしたにつづく。


 

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■ 2014-02-01(Sat)

 目覚めてすぐに、夢をみていたことに思いあたった。みた夢を記憶しているということはほんとうにしばらくぶりのことで、こうやって、目覚めて夢を思い出すということから、最近意識の上にとつぜん浮上して来る感覚とはやはり「夢」から、記憶に残されなかった「夢」から来ているのではないのか、そういう思いは強くなった。また、そう思うことで、「この意識は何なのか」と悩んでしまうことからは救われる。

 きょうはしごとだけれども、あしたはまた休みになる。わたしの場合、しごとが早朝なので、どこかへ出かけるとか知人友人と会うとかいうことは、休みの日ではなくって、そういう休みの日の前日にした方が楽である。きょうもそういう、「遊ぶなら今日よ」という日。東京できょうまで開催中の知人の個展を観に行くか、それとも水戸の芸術館の展覧会を観に行くか、どちらかはやってみたいと思っている。
 きょうはけっこうしごとも忙しかった。きのうまでのようにフラフラしてるかというと、やはりそういうところはあるけれども、それで不自由なところがあるわけでもない。あまりつづくようならばやはり病院だろうけれども、今は歯医者にも行くべきだろうし、やはりメガネをつくろうかとも思っている。どれも全部出来ればいいんだけれども。

 しごとを終えて帰宅して、やはり今はまだ知人とかに会って会話する精神状態でもない気になり、水戸の展覧会の方にすることにした。人と話ししなければいいのか、ということはあるけれども、ダメだったら退避すればいい。人がいれば失礼になること。
 でもじつは、昼前にいちど水戸へ行く電車には乗ったのだけれども、何か忘れ物をした気になって、次の駅で下車して引き返して来てしまった。たしかに「忘れ物」はしていたけれども、そのまま行っちゃってもそんなに不都合でもないようなもの。午後から再度トライすることにした‥‥まだまだ、「不調」はつづいている。外の景色を車窓から見ていて、ああ、冬だなあ、などと思い、あたまのなかではなぜかSimon & Garfunkel の「A Hazy Shade of Winter」が流れていた。‥‥この曲の歌詞はいつものPaul Simon らしくも説教臭くって、ぜんぜん好きじゃないんだけれども。

 またまたゴム製の焼きそばで昼食をすませたけれども、きょうは麺をゆでないで、たいていのインスタント焼きそばのように、フライパン上でちょくせつ多めの水で調理した。結果として、きのうまでほどにビンビン伸びちゃう麺にはならなかったかな。これからはコレで行こう。

 食後に忘れ物のないようにチェックして、水戸へ出発。午後二時ちょうどぬ水戸駅に到着し、黄門さまの銅像に迎えられる。‥‥じつはわたしはきょねんの九月に水戸に来てるのだけれども、そのときに観た映画の内容を含め、なにひとつ記憶していない。情けないし、あきれてしまう。

 とにかくは、水戸芸術館に到着。目的の「ダレン・アーモンド 追考」のチケットを買う。買うときに、「映像作品が多いので、<うすぐらい>部屋での展示がありますけれども、かまわないでしょうか?」との問いかけをいただいた。まさかココまで来て「じゃあ、やめます」とは行かないので、「仕方がないですね」とチケットを買う。それでその<うすぐらい>展示室に入るのだけれども、これがとても<うすぐらい>どころではなく、<暗黒>とか<漆黒>とかいいたくなるような「まっくらやみ」、だった。ちょっと今の体調、精神状態ではヤバいかな? というおそれはなくはなかったのだけれども、作家の根本にあるのが「再生への希望」のようなものだとわたしなりに受け取れたので、「観に来て良かった」という感想にはなった。感想はあらためて下に。

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 もうひとつ、同時に開催されていた国内作家の映像作品の上映は、まさに「再/生」というタイトルだったけれど、こちらも感想は下に。
 この「再/生」の上映スペースから退出しようとしたとき、出口近くの方がずっとわたしのことを注視されているのに気づいた。「どういうことだろう」と、その方のお顔をみると、なんと、わたしの地元で時々お見かけする方だった。しかも、きょうも午前中に出かけようとしたときに、この方のお姿は拝見していた。‥‥いちおう、ふかくあたまを下げて、「わたしもあなたのことは存じ上げております」という意思表示はしたつもり。可能ならもうちょっとお近づきになりたいところだけれども、この日はここまで。またお会い出来るといい。

 時間はもう五時。暗くなりはじめた街並みを抜けて駅へ行き、自宅駅へ戻った。このじかんならもうスーパーの値引きもはじまっているはずなので、夕食はそういうのですませよう、おるすばんしてくれたニェネントにも何か買ってあげようと、駅に着いたあとは南のスーパーに直行した。わたしにはちらし寿司と明朝用の調理パン、ニェネントにはまた「かつおのたたき」を買う。
 帰宅して、ニェネントくんに「かつお」を切ってあげると、あっという間に食べてしまった。やっぱ、「かつお」は好きだよね。‥‥しかし、ニェネントの様子がおかしい。ひょっとしたら、「発情期」なのかも知れない。


 

[]「ダレン・アーモンド 追考 Darren Almond|Second Thoughts」@水戸芸術館 現代美術ギャラリー 「ダレン・アーモンド 追考 Darren Almond|Second Thoughts」@水戸芸術館 現代美術ギャラリーを含むブックマーク

 やはり印象に残ったのはいくつかの映像作品で、特に「Sometimes Still」と題された、六面のスクリーンからなる、比叡山の荒行「千日回峰行」の映像の迫力には圧倒された。中心のいちばん奥にはカラーの篝火の映像があり、その周りの五面の映像のシンクロニシティーが、観る側にそれがまるで3D映像であるかのような、いや、その現場に入り込んでしまったような錯覚をおぼえさせられる。その宗教的儀式へ、観客もアプローチさせる感覚。

 福島原発事故以降では「Less Than Zero」という映像のインパクトの強さもあるし、さいごのコーナーの「All Things Pass」での、スクリーンの配置の妙、古代の井戸が史蹟ではなく再生している様子などで、わたしも感銘を受け、無理してでも観に来て良かったと思えた。

 そう、文字プレートによる作品「The Last Line」は、あのティモシー・リアリーによる「詩」で、じつはわたしは、午前中に思い出した「A Hazy Shade of Winter」の詩を、これでもって中和することが出来た。少し長くなるけれど、ココに写しておく。(まちがえた。ティモシー・リアリーの「詩」ではなく、老子をティモシーが翻訳したものらしい。)

 All Things Pass
 A sunrise does not last all morning
 All Things Pass
 A cloudburst does not last all day
 All Things Pass
 Not a sunset all night
 All Things Pass
 What always changes
 Earth… Sky… Thunder…
 Mountain… Water…
 Wind… Fire… Lake…
 These change
 And if those do not last
 Do Man's visions last
 Do Man's illusions
 Take things as they come
 All Things Pass

 ‥‥会場でいただいた作品解説に、この和訳が掲載されていた(ちょっと「直訳」で、情緒はないけれども)。

 すべては過ぎ行く
 朝焼けが朝ずっと続くことがないように
 すべては過ぎ行く
 土砂降りが一日中続くことがないように
 すべては過ぎ行く
 夕焼けも夜じゅう続くわけではない
 すべては過ぎ行く
 いつも変化しているものは
 大地…空…雷…
 山…水…
 風…火…そして湖…
 これらは皆変化してゆく
 これらが永続しないのであれば
 人の夢は残るのだろうか?
 そして人の幻想は?
 あるがままを受け入れよう
 すべては過ぎ行くのだから


 

[]「再/生 映像が呼び覚ます第六感覚」@水戸芸術館 現代美術ギャラリー内ワークショップ室 「再/生 映像が呼び覚ます第六感覚」@水戸芸術館 現代美術ギャラリー内ワークショップ室を含むブックマーク

 以下の五つの映像作品の上映。さいごの2作品はちゃんと観てないので、感想は書きません。

●石田尚志「Reflection」(2009)

 彼の作品は1990年代から注目していて、「闇の絵巻」や「フーガの技法」といった作品タイトルも記憶していた。コマ撮りでどんどんと増殖していく緻密な抽象アニメーションの魅力は圧倒的なものがあった。今回上映された「Reflection」は2009年の、かなり新しい作品。部屋の壁をキャンバスに、窓からの光の軌跡をたくみにアニメーション化して行く。‥‥やはり圧倒されるのだけれども、その、アニメーションそのもののなかで、かつて観た「闇の絵巻」などのような密度がちょっと希薄に感じたのは事実。「平板」ということばを思い出した。批判ではありません。またほかの作品も観てみたい。

●小瀬村真美「Frozen」(2011)

 この作家の作品を観るのははじめて。おそらく、このひとコマひとコマが、デジタルカメラ上のデータに手を加えてれんぞくさせ、一篇のアニメーションにしているわけだろう。やはり圧倒させられてしまったし、抽象的なイメージから風景が浮かび上がって来たときには感嘆した。しかもその風景があらわになって終わるのではなく、さらにその先があった。すばらしいと思い、彼女の作品をもっと観たくなった。小瀬村真美さん、名まえを忘れないようにしよう。

●志賀理江子「canary」(2007)

 志賀さんの「Lily」という作品にはほんとうに感銘を受け、彼女の名まえも記憶していた。彼女は基本は写真作家がと思うけれども、こうやってその写真作品を編集して映像作品として発表するというのも、彼女のやり方なのだろう。あたらしいかたちの「写真集」のあり方、といえるのだろうか、特に「あたらしい」というものでもないのだろうか。「音」のついたスライドショー。‥‥今回の「canary」は2007年の作品。ルシアン・フロイドの作ではないかと思える裸婦画、印象としては「グロテスク」なポートレイト、そして皮を剥がれた熊の頭部、食卓テーブルの上のヘビだとか、観ていると恐怖に近い感情が沸き上がるのだけれども、そこで拒否反応が起きるのではなく、とにかく惹き付けられてしまう。‥‥この「canary」の写真集をAmazon 検索したら、なんと45000円などというプレミア価格がついていた。買えません。

●南隆雄「delta story」(2007)

●宮永亮「arc」(2011)


 

[] 第一篇 スワン家の方へ 鵯 (5)  第一篇 スワン家の方へ 鵯 (5)を含むブックマーク

 きょうは大した量読めなかったのだけれども、それなりに読みとばすわけにいかないポイントも書かれている。

 まずは(マドレーヌによって)「コンブレー」の全体像を思い出すことの出来た書き手によって、かつてのコンブレーの下働きの女中と、どこそこの礼拝堂にあるジョットの壁画との対比が書かれたりして、そのあとに主人公少年の読書の楽しみの話になる。ここで、書き手の考える「小説とは」ということが書かれるわけである。この部分をもうちょっとここで掘り下げて書いてみたい気はするけれど、なんだかきょうは朝からずっと日記を書いてだけ、みたいなところもあるし、いいかげんに切り上げます。

 ただ、この小説、主人公の少年と書き手というのは同一人物にまちがいないのだけれども、つまりは書き手は二十年ぐらいあとになってからの「かつての主人公少年」というわけで、このことで、書き手イコール主人公の少年とは、いつもいつもはいえないところもあると思う。そのあたりが、この本のひとつの特徴でもあるような。‥‥ただ、書かれている主人公が成長するにつれ、書き手との距離はどんどんと縮まって来ることにはなるだろう。


 

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