ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2014-07-31(Thu)

 腕の「あせも」は、急速に良くなった。きょうはもう、腕をむき出しにしていてもほとんど目立つこともない。

 このごろ、ニェネントがご飯をあんまり食べない。翌日になってもかなりの量を残していて、ニェネントもやはり夏バテなんだろうかと思ったりする。きょうからは(今ごろになって)エアコンを使うようにしたのだけれども、やはりエアコンの威力には絶大なものがあり、送風がダイレクトにからだにあたると、寒いぐらいに感じてしまう。ニェネントも涼しく感じてくれただろうか。

 このところニェネントと遊んであげていないこともあり、ニェネントを抱き上げて、しばらく胸の上にのせてかまってやった。ニェネントはうれしかったのかどうかわからないけれども、あとでわたしに近づいてきて、しきりにわたしにかまおうとしていた。ニェネントには珍しいことで、やっぱり遊んであげた効果だったのかと思う。

 きょうもDVDを観たのだけれども、おかげで読書のペースが落ちてしまい、夕方からはカフカをけっこう読んだ。「判決」や「変身」を読了。やはり、カフカにとって、「父親」というものは畏怖すべき存在だったのだろうか。


 

[]「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1974) テリー・ジョーンズ、テリー・ギリアム:監督 「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1974)  テリー・ジョーンズ、テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 ‥‥驚異の「バカバカしさ」。やはり、これだけのモノをつくってしまう人たちには尊敬の念をおぼえる。冒頭の「ツバメがココナツを運べるか」という議論から笑わせられてしまったし、わたし的には「殺人ウサギ」で爆笑してしまった。いちど観終えたあと、オーディオ・コメンタリーでもういちど、いや、もう二度も観てしまった。あしたは特典ディスクを観よう。


 

[]二〇一四年七月のおさらい 二〇一四年七月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」 ジョエル・コーエン イーサン・コーエン:脚本・監督
●「ホドロフスキーのDUNE」 フランク・パビッチ:監督
●「グランド・ブダペスト・ホテル」 ウェス・アンダーソン:脚本・監督
●「収容病棟」 ワン・ビン:監督
●「私の男」 熊切和嘉:監督
●「渇き。」 中島哲也:監督

読書:
●「フランケンシュタインの娘」 唐十郎:著
●「昭和末」 大岡昇平:著

DVD/ヴィデオ:
●「チャイナタウン」(1974) ロバート・タウン:脚本 ロマン・ポランスキー:監督
●「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1974) テリー・ジョーンズ、テリー・ギリアム:監督
●「アンソニーのハッピー・モーテル」(1996) ウェス・アンダーソン:監督
●「巴里の恋愛協奏曲」(2003) アラン・レネ:監督
●「プルートで朝食を」(2005) ニール・ジョーダン:監督

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140731

■ 2014-07-30(Wed)

 わたしは約二十年前に離婚して、さらに退職し、唐突にアート・イヴェントを企画して主宰することになった。自画自賛するようだが、質の高いイヴェントだった。この時の経験が今のわたしの原体験のようなものにはなっているはずだ。
 そして約十年前、またも唐突に、何の係累もないこの茨城県のとある町に転居して来た。この転居のことは「あさはか」だったかと思うこともあるけれども、前にも書いたように、この転居がなければネコのミイにも出会えなかったし、もちろんニェネントと暮らすようなことにはならなかった。

 そろそろ、この地に転居して来てから十年。これまでのわたしがこのように、十年ごとに大きな変化を経て来ているわけで、次の「変化」もそろそろのことだろうか、そういう変化を迎えるならいったいどんな変化がいいだろうか、などと考えたりもしたわけだけれども、何のことはない。こんかいの「側頭葉てんかん」の症状の露呈、発作による記憶の喪失こそ、これからの新しい「変化」の訪れ、なわけだろう。そう考えれば、いままでの「変化」だって、それまでの生活からの「リセット」として理解出来る。こんかいは外的なものではなく、もっとわたしの内面にかかわった「リセット」で、そういう意味では「リセット」と呼ぶにふさわしい変化だろうとは思う。‥‥そう理解すれば、この「リセット」も、いままでの流れの中で容易に受け入れることが出来る気がする。
 わたしは個人としては特出した存在などではないのだけれども、こうやって振り返ってみると、つまりはとても尋常ではない生き方を選んで来ていると思える。まあこんかいは自分で「選んだ」というよりは、何かに「選ばれてしまった」という「発病発作」がきっかけ、にはなるのだけれども。「十年」というのがひとつの区切りであるのなら、これからの十年はどんな十年になるんだろう? そして、そのあとの十年は?

 きょうもまた暑く、湿気もまた高くなってきたような。腕の「あせも」も良くならない。むしろ目立つようになったので、外出するときには長袖のシャツをはおって腕を隠すようにする。

 午後からまた、自宅にあるDVDを観る。


 

[]「プルートで朝食を」(2005) ニール・ジョーダン:監督 「プルートで朝食を」(2005)  ニール・ジョーダン:監督を含むブックマーク

 キリアン・マーフィーが女装癖のある人物を演じ、映画の冒頭には「Sugar Baby Love」をバックに小鳥が会話する、ということはなんとなく憶えてはいたけれども、それ以上のことは何も記憶にはなかった。

 そうか、この物語の背景には70年代のアイルランドの状況が大きな意味を持っているわけか。ある面では悲惨な現実ではあるけれども、主人公を捉える視点からは、そんな状況もまるでファンタジーである。まるで、つらい現実も視点をちょっと変えれば夢の世界になりうるのよ、とでもいっているみたいな。その「つらい現実」と「ファンタジー」、その狭間の描き方が素晴らしいというか、涙しながら観てしまったりした。このDVDを買うことにしたわたしという存在を、今のわたしも理解出来る。

 ちなみに、ニール・ジョーダンはわたしの好きな監督だけれども、彼の「モナリザ」や「クライング・ゲーム」、今のわたしに珍しく、そのストーリーも何となく記憶しているようだ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140730

■ 2014-07-29(Tue)

 きのう観た「私の男」のことを、あれこれと考える。男は早い段階で女に「俺はおまえのモノだ」といい、そののちもずっと、たしかにそのように生きている。そういう愛し方というのか、いや、愛され方ということを考える。こういう「愛」のあり方は、わたしには無縁だった。愛されるということに、異様に不器用だったと思う。自分ではそのことを、「愛するのが下手」と解釈していたようなところがある。

 また別の愛のあり方を試したいと思ったとしても、生きるということはそんなにあれやこれやをその都度選ぶようなものではないだろう。「俺はおまえのモノだ」という愛し方、愛され方を選べば、生きている限り、その愛し方、愛され方で生きつづけなければウソであろう。人は、いろいろな愛し方などその都度選択するような生き方など、出来ないのだと思う。そして、そう考えれば、いささかに自分勝手なやり方ではあるけれども、わたしはわたしでそのような、自分なりの人の愛し方を選んでいるわけだろう。「毀してはいけない」、そのことだけを優先し、およそ傍目には「愛」とはいえない道を選んだ。やはりこれは一方的なものだから、どうあっても「愛」とは呼べないものだろう。‥‥「チキン」な考え方だし、相手は喜ばないだろうな。

 あせもが、直らない。少し悪化しているかもしれない。

 きょうは買い物に行って、久しぶりのアルコール分、缶ビールを買ってみた。昼からぐいっと飲んだりしてみたけれども、おいしかった。それでも、「これから毎日酒を飲もう」とかは決して思ったりしないから、いい変化のあらわれだと思う。きのう寝不足だったりして、アルコールも入ったりしたものだから、昼寝などしてしまった。あんまり本は読めなかった。

 そう、きのうは電車の中で、かなりカフカを読み進んだ。カフカはやはり健康な精神などではないので、読んでいてつらくなるところもある。‥‥夜中に家を飛び出して、誰もいない街灯のたもとまで行き、そこで大声で叫ぶこと。そんなことを、カフカはやりたいんだろうか。

 きのう観たもう一本、「渇き。」のことを書いておく。


 

[]「渇き。」 中島哲也:監督 「渇き。」  中島哲也:監督を含むブックマーク

 中島哲也監督の作品は、あの「下妻物語」も、「嫌われ松子の一生」も、「告白」も観ているのだけれども、つまり基本は何も記憶に残っていない。それなりにおもしろい作品群ではあったと思うのだが。

 で、この「渇き。」は、わたしにはダメだった。まるで生ゴミを詰め込んだ巨大なゴミ箱の中を、深く深く潜って行くような感覚。‥‥心配していたような、「グロテスク/残酷」な映像への拒否反応というものはわたしの中にはほとんどなく、このあたりも薬のせいで「治癒」されて来ているのかも知れない。しかし、ただ粗野なだけのような、がなりたてる作劇には違和感があるばかり。

 たとえばコメディーとかだったら、「この映画には深い意味はありませんが、いっぱい笑って行って下さい」とかいえるだろうし、ホラーだったら「ただ、怖がって下さい」というのもアリだろうか。しかしこの作品、ただ「うぇ〜!!!」って感じて下さい、そういう作品ではないかと思った。ストーリーをつなぎ合わせて考えてみても、そこに何かメッセージがあるわけでもないし、ただ空疎な印象はある。わたしは「空疎」それ自体は欠陥ではないと思うのだけれども、この作品の「空疎さ」は持て余してしまった。

 ただ、エンディングのクレジットの部分で、わたしの好きな曲、ディーン・マーティンの「誰かが誰かを愛してる」が流されたことは、うれしかった。歌詞はぜんぶ記憶していたし、最後の方では、スクリーンのバックに流れる音に合わせて、声を出して唱和してしまった。

 たいていの記憶のとぎれてしまったわたしだけれども、どうやら音楽だけはけっこう記憶に残っていることがわかった。脳の中で記憶される場所、もしくは呼び戻される回路がその他のものと異なっているんだろうか。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140729

■ 2014-07-28(Mon)

 きょうはしごとは非番の休み。あさ起きて、窓を開けてベランダの洗濯機で洗濯をはじめる。きょうは湿気が高くはないのか、汗が吹き出るような気候ではないように思えた。それでも、わたしの腕の「あせも」はまだ直っていない。

 ニェネントは外出恐怖症だと思っているので、こうやって洗濯しているときに窓をある程度開けておいてもだいじょうぶだろうと思っていたのだけれども、きょう、窓の側に来ていたニェネントが、とつぜんにベランダに飛び出して来た。‥‥わたしの脇をすり抜けて、ベランダを走り抜けようとするいきおいだったのでわたしもびっくりし、「ここで外に出してしまうとどんなことになるかわからない」という思いから、必死でニェネントの進む先に追いすがった。あまりあせったのでわたしも転倒してしまったけれども、なんとかニェネントの胴をつかまえることが出来た。知らずに道路などに出てしまい、走って来る車とかにおどろいて動けなくなり、そのまま車に轢かれてしまう、などということが、ネコにはよくあることなのだ。とにかくはつかまえてよかった。部屋に戻し、もう出られないように窓を閉めてしまう。‥‥おどろかせないでよね。

 昼からは新宿の映画館で映画を二本、つづけて観るつもり。ひとつは熊切和嘉監督の「私の男」で、もうひとつは中島哲也監督の「渇き。」。「私の男」が二時からの上映で、「渇き。」はそれにつづいて四時五十分から。終映はおそらく七時ごろだろう。ちょうどいいスケジューリング。昼前に家を出て、一時十五分ごろに新宿に着く。ちょっと早い。まずはネットで調べてあったタバコ屋をさがし、また「キャメルブラック」を買う。あとは本屋に寄って時間をつぶすつもりが、そこで青木淳悟の新刊「男一代之改革」をみつけてしまい、ついつい買ってしまった。ほかに柄谷行人の新刊書も平積みされていた。

 わたしはもう基本、新刊書は買わないことにしているのだけれども、やはり青木淳悟は別格で、文庫版の「四十日と四十夜のメルヘン」や、「いい子は家で」なんかも新刊で買ってしまっている。もちろんこれらの本の記憶は消えてしまっているので、また読まなくてはならない。

 開映時間が近くなり、映画館へ行く。まずは「私の男」を観終えて、次の「渇き。」が始まるまで三十分弱。駅のそばの喫煙所までタバコを吸いに行き、一服してから映画館へ戻った。ニコチン中毒であろう。

 映画が終わって、帰宅への道につく。‥‥ところがここで、帰宅する電車が人身事故のために運転を見合わせているとの知らせが。ちょっとショックである。九時半ぐらいには帰宅出来ると思っていたのだけれども、これでは十時を過ぎてしまうことになるだろう。とにかくは別の線で動いている途中の駅まで、満員の電車にすべり込んで移動する。ここでちょうど、ストップしていた電車が動き始め、わたしが乗った電車はほぼ一時間の遅れということになるのだけれども、わたしにとっては、ほぼダイヤどおりに動いている電車、というかたちになり、乗り換えも予定どおりに行なえて、さいしょの予定どおりに九時半には帰宅することが出来た。よかった。

 きょうは、二本観た映画のうち、「私の男」のことを書いておく。


 

[]「私の男」 熊切和嘉:監督 「私の男」  熊切和嘉:監督を含むブックマーク

 熊切和嘉監督の作品は、かつて「海炭市叙景」というのを観て、「良かった」と思った記憶はあるのだが、例によって、どういう作品だったのかはまるで記憶にない。この「私の男」には直木賞を受賞した原作があるらしい。

 流氷の浮かぶ海の、その極寒を予測させられる流氷の間の海から、若い女性が流氷の上に這い上がって来る。画面の右に「私の男」とのタイトルが映されて、この映画は始まる。タイトルシーンからの連想のように、夜の海岸が映されるけれども、それは津波の去ったあとの奥尻島の惨状である。そのがれきの間を、ひとりの少女が歩いている。男が少女をみつけ、避難所へかくまう。少女のところへ親族らしい男がやって来て、彼女を引き取っていっしょに暮らすという。そして‥‥。

 北の地の風景が美しく、それにかぶさるアコースティックな音楽も美しい。知らなかったのだけれども、エンド・クレジットをみると、音楽はジム・オルークによるものだった。音楽だけでなく、たとえば人が雪の上を歩く音だとか、聴こえて来るひそやかな物音がとても印象に残る。

 常識的にみれば「背徳」であろうし、「倒錯」というのだろうか。それでも、女性の側にはうしろめたいという感覚はない。自分の気もちに正直であることがなぜいけないのか。‥‥男は、すでに自分のことは女性に預けているのだろうか。どこまでも彼女を守ろうとしているのだろうか。映画はそんなふたりを正面から、愛おしく感じるほどに描いている。いい作品だった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140728

■ 2014-07-27(Sun)

 きょうも暑い。家の中に居ても汗でぐだぐだになる。午後になって、両腕にあせもが出来ているのがわかった。右腕はそれほどでもないけれども、左腕のあせもがけっこう目立つ。

 ほんとうはきょうは東京に映画でも観に行こうと思っていたのだけれども、夕方には関東地方の天候は不安定になり、激しい雷雨になる可能性もあるというのでやめた。天候のせいで電車がストップすることもあるわけで、そういう事態に遭遇すると最悪である。予報ではあしたの天気は安定しているようなので、あしたは映画を観に行こうかと思う。

 予報の通り、というか予報よりも早く、午後二時ごろになって、外が暗くなりはじめ、木の枝のゆれ方で、風がはげしくなって来ているのがわかった。ニェネントも外の様子がおかしいのが気になるのか、机の上の古いパソコンの上にかけ上がり、しばらく外をながめていた。そんなニェネントの姿をうしろからみていると、ニェネントの腰がずいぶんとしっかりと大きいのがわかる。きっと安産型で、しかも多産系なんじゃないかと思う。

       f:id:crosstalk:20140727140255j:image:w240

 遠くの方から雷鳴もきこえて来たりもしたのだけれども、このあたりは雨が降り始めることもなく、風もいつしか凪いでしまった。きのう映画のDVDを観たので、きょうもそういうことをやってみようと、うちにあるDVDのなかから、アラン・レネの「巴里の恋愛協奏曲」を取り出して観た。やはり、極上に楽しい作品だった。


 

[]「巴里の恋愛協奏曲」(2003) アラン・レネ:監督 「巴里の恋愛協奏曲」(2003)  アラン・レネ:監督を含むブックマーク

 わたしにとって、「後期のアラン・レネもまた、すんばらしいモノではないか!」という認識を与えられるきっかけになった作品。記憶がないとはいっても、ちょん、ちょんと憶えているところはある。とにかくは楽しい作品だったはずで、アラン・レネはこの作品の前には「恋するシャンソン」、このあとには「六つの心」や「風にそよぐ草」という、どれも興味深くも楽しい作品を撮っている(それぞれの作品のディテールは記憶にないのだけれども、そうだったはず)。

 この作品、まずは1925年に書かれた(ということは舞台でじっさいに上演された)原作オペレッタが楽しい。楽曲に印象に残るものも多い。その古いオペレッタを、オペレッタのテイストを残しつつも「映画作品」として撮る、そのアラン・レネの演出を楽しむ作品。みごとな撮影はレナート・ベルタで、ゴージャスな「舞台の再現」というところと、「映画表現」というところの結合というのだろうか、そういうところをたっぷりと楽しめる。

 ストーリーは他愛のないもので、ちょっと下世話なところもあるんだけれども、元のフランス語原作には、翻訳も出来ない「ことば遊び」が盛り込まれてもいるんだろう。今回観て、「あれ、ちょっと<中だるみ>もあるのかな?」などと思って観ていたのだけれども、やはり、そのあとの、キャッチーなメロディの曲がたたみかけるように連続するシーン、そこでの演出、撮影など、あまりに楽しすぎる。このDVDを持っていてよかった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140727

■ 2014-07-26(Sat)

 きょうも暑い。ベッドに直接横になると暑くてたまらないので、ござを敷いてから寝る。これでずいぶんと感覚は変わって、ずっと涼しくなるような気がする。ベッドの上でナボコフの「青白い炎」を読み、ときどきはカフカも読む。「青白い炎」の注釈は、だんだんに脱線をはじめる。カフカは、「観察」などと題した小品でも、決して観察しているだけではない。書き手も何か行動している。

 午後からは久しぶりにDVDで映画を観た。ウェス・アンダーソン監督のデビュー作、「アンソニーのハッピー・モーテル」。おそらくさいしょに観てから二年も経っていないことと思うけれども、だいたいのところはもう思い出せない。ただ、さいしょに観たときに気に入ってしまい、Amazon を通じてDVDを買ってしまっているわけだ。DVDを買ってからもいちどは観ていると思うので、過去に複数回観ているんだろう。そのせいか、映画の雰囲気はなんとなくぼんやりと記憶にないわけでもない、そんな気がする。‥‥たとえば、おなじウェス・アンダーソン監督の作品でも、「天才マックスの世界」や「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」、「ダージリン急行」なんかは、ちゃんと観ているにもかかわらず、これっぽっちも記憶には残っていない。どうしようもない。


 

[]「アンソニーのハッピー・モーテル」(1996) ウェス・アンダーソン:監督 「アンソニーのハッピー・モーテル」(1996)  ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 これがデビュー作ということだから、映画技術的にいうと、このあいだ観た「グランド・ブダペスト・ホテル」みたいな洗練からは、ほど遠いところはある。それでもやはり、この作品には面白さ、楽しさ、いとおしさのようなものが充分にある。特に、この「いとおしさ」というものは、ウェス・アンダーソンの作品の中でもいちばんに印象に残るものではないだろうか、って、わたしの記憶の中には、この「アンソニーのハッピー・モーテル」と、「グランド・ブダペスト・ホテル」の二本のストックしかないわけだけれども。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140726

■ 2014-07-25(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 むしあつい。部屋にいても(部屋にいるからこそ)じとっと体から汗がしみ出して来て、おそろしく不快な感覚につつまれてしまう。きょうは、川を越えたところの内科医院へ行く。病院を三つも通いつづけるというのもしんどい。

 病院の帰りに道筋にある市立図書館に寄り、しばらくは涼みがてら棚を見て歩く。きのうからナボコフを読みはじめたところだけれども、やはり今読みたいのはカフカかな、というところもあり、カフカの全集の第一巻を借りて来た。

 帰宅して、さっそくカフカを読みはじめる。この巻は短編ばかりなのがいい。まずは冒頭の『ある戦いの手記』からの二つの対話を読み終える。面白い。圧倒的に面白い。つまりは作者は町でみかける奇妙な振舞いをする人物との対話をこころみるのだけれども、奇妙なのはその対話相手一方ではなく、対話をこころみている作者の方からしてが奇妙なのであって、その対話は「共犯関係」を築くこころみ、のようなものになってしまう。

 カフカを少し読んだあとはナボコフを読む。こちらも、やっぱり面白い。ここでも、書き手の「狂気」のようなものが、だんだんに読む側にあらわになってくるわけだ。

 このところ、「てんかん」の発作を抑える投薬の副作用のようなものをあれこれと感じていた。当初は「食べるものがおいしくない」とか、「昼間にねむくなる」とかあったのだけれども、今はそれらのことに悩まされることもなくなった。おいしいものはそれなりにおいしいし、昼寝をすることもあまりなくなった。‥‥そのかわり、これが薬の副作用なのかどうかはわからないけれども、妙に「元気」になってしまっているところがある。薬を飲みはじめる前とは明らかに違うし、そのことはこのところ持続している。うれしい変化ではあると思うけれども、今のところちょっと、その元気さを持て余しているところがあるような。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140725

■ 2014-07-24(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 きょうから日曜日まで、この町でも夏祭りがはじまる。「祇園祭」という。きょうから土曜日までは駅の北側の道をメインに渡御が行なわれ、日曜日は早朝に神輿が川に入る「川渡御」でおしまいになる。わたしはこの町に来て以来いちどもこの祭りは見ていないのだけれども、きょうは祭りのはじまる前の駅の北側に行ってみた。

 いつもは市の美術館のロビーに飾られている神輿が、きょうは外に出されている。聞くところによればこの神輿、日本でいちばん大きな神輿ということらしい。

       f:id:crosstalk:20140724151621j:image:w240

 祭りのメインになる神社にも行ってみたけれども、こちらには子供神輿が置かれていて、祭りらしい格好をした親子連れの姿がたくさん見られた。考えてみたら、わたしもこの神社まで足を運ぶのはずいぶんと久しぶりのことになる。だいたいが駅の北側というと、スーパーへの買い物ぐらいにしか行かなかったりする。ほんとうはこの町のメインは北側の方なわけで、別にそういう理由からではなくても、もうちょっとこのあたりを歩いてみてもいいと思った。

     f:id:crosstalk:20140724152559j:image:w300

 駅前通りには祭りらしくも屋台が軒を並べて準備をしているのだけれども、どうもどの屋台も同じように見えてしまうし、わたしの記憶の中にある(あまりに古い)祭りの記憶と結びつくようなものでもない。「金魚すくい」と書いてある屋台はあったけれども、まだそういう金魚とかをおもてに出しているわけでもなかった。

 しかし、梅雨もあけて、暑くなった。このお祭りでもって、この地も「夏本番」になるだろう、という感じ。

 帰宅して、安部公房を読むのはやめたので何かあたらしく本を読みたくなり、本棚をあれこれと眺めて、ナボコフの「青白い炎」を読むことにした。つまり今、うちにある本でいちばんに読みたい本がこれだったということ。ベッドに寝転がり、暑さにうだりながら少し読み進める。やはり、とてつもなく面白そうだ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140724

■ 2014-07-23(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 きょうはとなり駅の市民病院へ行く。もう基本はかんたんな検診だけなのだけれども、きょうは二、三聞いておきたいことがあった。ひとつは以前誤診された「一過性脳虚血発作」から、いまの状態で「脳梗塞」への危険性はもう考えなくていいのかということで、この心配はないということだった。もうひとつは、失せてしまった記憶が戻るような可能性はないのかということだったけれども、これは「もうダメですね」と、かんたんに否定されてしまった。

 このところ、安部公房の「砂漠の思想」という古いエッセイ集を読んでいたのだけれども、今日になって、「もうこれ以上この本を読んでもしょうがないだろう」と結論し、途中で投げ捨てることにした。安部公房は「壁」だとか「砂の女」、そして「他人の顔」など、もういちど読み返してもいいと思っている作品群の作者なだけに期待していたのだけれども、ちょっと失望した。たいていのエッセイは、その問題は医科学的な視点から考えればひらけてくるだろうという考え方のようだし、著者はたいていは自分以外の存在は「ばか」だと認識しているようだ。「ひどいな」と思ったのは、自分の劇作の舞台が失敗したと見なし、その「失敗」の原因が、演じた役者たちの無理解にあっただろうと断じてしまう文。彼は演出こそはしていないのだけれども、稽古にはずっと顔を出しているわけだ。もちろんそこで意見を言ったりもするだろうし、そうでなければ稽古に参加する意味もないだろう。そのあげくに、俳優が無能だったために舞台は失敗したなどという。「舞台を創る」ということをどう考えておられるのか。これは、作家当人が無能だったとしか思えない。せめて、表題になっている「砂漠の思想」というエッセイがどんなものか、ほかを飛ばして読んでみたのだけれども、これも単にアンドレ・カイアットの映画「目には目を」(あらすじも書いてくれてあったので、わたしはむかし観たこの映画のことを、かなり思い出すことが出来た)の「感想」にすぎず、とても「思想」などと大それたことを言っているようなエッセイではなかった。こまかくは書けないけれども、このエッセイだけ主語がそれまでの「私」から「私たち」になっているのもなんだか不快で、とにかく「イヤなエッセイを書く人だな」という印象しかない。わたしにはそんなに何もかも読んで過ごす時間もないのだから、「読んでもムダ」と判断したら、さっさと中断してしまわなくては。

 病院の診察のあと、また東京に出て映画を観ようかとも思っていたのだけれども、観たい映画の上映スケジュールがうまく合わないので、きょうはおとなしくすぐに帰宅した。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140723

■ 2014-07-22(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 昼のニュースで、ようやく今年の梅雨も明けたという報道があった。それでも外はどことなく湿っぽく、それだけ蒸し暑いような感覚になる。昼前にスーパーに買い物に行くと、「かつおのたたき」が安い価格で置かれていたので食べたくなるし、ニェネントにもわけてあげようと買って帰る。帰宅して、そのかつおのたたきをスライスして、ニェネントの皿に出してあげる。ニェネントはすぐに飛んで来て、がっつくようにあっという間に食べてしまう。わたしも昼食のおかずはかつおのたたきにした。ニェネントと同じ。

 きょうで「G」での展示もおしまいで、きょういっぱいは展示も続いているのだけれども、営業時間中はいつ搬出をしてもいいということ。遅くなってもいいようにあしたはしごとも休みにしてあるけれども(市民病院への通院もある)、やはり大きくはないといっても作品を持ち帰らなくてはならないから、できるだけ早い時間にすませてしまいたいところ。「G」は四時からの営業なので四時すぐに行って、一服するにしてもあまり遅くならないうちに帰路につきたいところ。

 「お留守番お願いね」と、またニェネントの皿にかつおのたたきを出してあげ、二時の電車で東京へ向かう。また渋谷で下車して、地下のタバコ屋で「キャメルブラック」を買う。なんだかこのところ、上京するとこのコースを取るのがおきまりになりつつある。

 井の頭線を利用して「G」に到着し、作品を壁からはずす。このところ好物になったアイスコーヒーを飲んでから帰ることにして、座席に座って一服する。‥‥久しぶりに美術作品をつくったり、それでもって展示をしておかげでいろいろな方にお会いすることも出来、楽しい時期だったし、おかげで元気にもなったと思う。ギャラリーには感謝したい。

 早めに「G」を出て小田急線で新宿へ向かい、五時ちょっとすぎに新宿を出る湘南新宿ラインの快速電車に乗る。もうこの時間はけっこう混み合いはじめてもいるけれども、まだそれほどでもない。大宮からは座ることも出来たし、ゆったりとした気分で帰宅した。

 さて、またこうやって作品をつくる機会とか、これからもあるだろうか? 同じような作品である必要はないけれども、何らかの創作活動ははじめてみようかなあ。ひとごとのようだけれども、いったいどうなるだろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140722

■ 2014-07-21(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 二週間つづいた「G」での展覧会も、あしたでおしまい。会期中は二回しか行けなかったけれども、それでもいろいろな方にお会いすることが出来、楽しい時をすごせたし、元気になれたように思う。

 あしたは搬出でまた出かけなければならないし、あさっては市民病院へ行く。またついでに映画でも観に行きたい気分なんだけれども、いま観たい映画というと「私の男」か「渇き。」のどちらか、だろうか。これが上映スケジュールを調べてみると、どちらもけっこう遅い時間からだけの(遅いといっても午後四時ぐらいのものなんだけれども)上映で、わたしにとっていちばん都合のいい午後いちぐらいの時間からの上映がない。これは今回はちょっとあきらめないといけないな、ということに落ち着いた。来週になるとハリウッド版の「ゴジラ」がはじまるので、これは是非観たいところ。

 持病のせいで記憶が失せたという話だけれども、映画についていえばこの十年とか二十年ぐらいに観た映画のことは、たいていが思い出せない。「そんな映画もあったなあ」とか、「たしかその映画は観に行ってるんじゃないか」ぐらいの記憶が残っていることもあるけれども、この日記であれこれとチェックしてみると、観た記憶はまるでないし、ましてやそんな映画が存在したなんていうことも記憶にないような作品がいっぱいある。

 いや、まだ映画などはいい方で、演劇の舞台についていえば、いままでに観た舞台の、ほぼすべての記憶が失せている。書物も同じようなもので、これまでに読んで来た本のほとんどすべての記憶は残っていない。ある意味で「記憶喪失」と五十歩百歩の状態で、ただ「ここはどこ? わたしは誰?」とまで行っていないだけ、みたいなものだろう。

 おそらくは自分の立場として受動的な気分で体験したことの記憶が消えているようだけれども、そういう受動的体験以外の日常のことでも、忘れてしまっていることは多いようだ。いちどこの日記をていねいに読み返し、どのくらいの記憶が失せてしまっているのか、チェックしてみる必要があるかも知れない。

 まあ、すべてはこれから、「またゼロから再出発だ!」ということでやるしかないのだけれども、そういう「リセット」をかけるには、わたしはあまりにも歳をとりすぎてしまっている気もする。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140721

■ 2014-07-20(Sun)

 きのう下北沢でみつけた飲み屋で、やはり近いうちにHさんと飲みたくなった。30日とかはどうだろうとHさんに連絡を取ると、水曜日だと都合が悪いとのこと。「また考え直して連絡を取ろう」ということにしたけれども、8月5日の火曜日とかならわたしには都合がいい。Hさんはどうだろう。近いうちに連絡しよう。

 きょうはしごとは非番で休み。午前中はずっとふとんの上でゴロゴロして、読んでいた大岡昇平の「昭和末」を読み終えた。家で映画は観なくなってしまったけれども、「本を読む」ということはまた習慣に出来そうで、これからはもう少し読書に熱を入れてみたい。とにかく過去の記憶があらかた飛んでしまっていて、読んだ本で記憶に残っているのなんてありゃあしない。むかし読んだ本を今になって新しい感覚で読んでみるのもいいんじゃないだろうか。カフカとか、読んでみたい気がする。きょうは次に安部公房の「砂漠の思想」をちょっと読んだ。

 午後からは買い物に出て、南のドラッグストアでネコ缶のまとめ買いとかをやった。帰り道、「空がどんよりしているなあ」とは思っていたのだけれども、やおら大きな雷鳴が響きはじめたりした。とちゅうで大粒の雨も落ちて来たけれども、ほとんど濡れないで部屋に戻ることが出来た。


 

[]「昭和末」 大岡昇平:著 「昭和末」  大岡昇平:著を含むブックマーク

 大岡昇平氏の、生前最後のエッセイ集。その各エッセイの主題とされた事象は、おどろくほどに幅が広い。文学では日本の古典から現代まで、スタンダールに代表されるフランス文学、そしてエンターテインメント小説にまで話題は拡がるし、文学以外でも戦中の話から時事問題、そして映画の話なども書かれている。あとはどうしても、大岡氏の晩年のことでもあるから、追悼文というものも多くなる。

 文章はとっても読みやすく、今でいえば人気のあるブログを閲覧しているような気分で読んでしまう。出版から二十五年経っても、教わることの多い本だということ。時事問題を論じたいくつかのエッセイで、「次の原発事故は、日本かフランスだろうといわれている」と何度か書かれていて、特に、遺稿の「ひとむかし集」のしめくくりは以下の通りになる。

 (‥‥)日本は電気も余っているが、銭も余っているので、世界で原発を増設しようとしている唯一の国だそうだ。出力調整なんて数やってれば、確率的にリスクは大きいはずである。七十九翁はふるえている。

 やはり、読み終えると、まだ読んでいない「成城だより」も読みたくなってしまった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140720

■ 2014-07-19(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 きょうはまた「G」へ行く。七時から、先日来られなかったCさんが来られるので、待ち合わせする。だから出かけるのはかなり遅くなってからでかまわない。ちょっと早くに出て何か映画とか観てからでもいいのだけれども、わけもなく、次の映画鑑賞は来週にしようかと思っているので、ゆっくり出かけることにする。それでもちょっと早めに「G」へ行き、スタッフの方々と会話を交わすのも楽しいだろう。一時間ぐらい早く、六時ごろには到着しておくのもいいだろう。

 三時の電車で出発するのだけれども、ターミナル駅でしばらくの待ち合わせ時間がある。本来なら二十分も待てば電車は来るのだけれども、その電車は上野行きなので、乗っても途中で乗り換えなくてはならない。けっきょく、四十分ぐらい時間をつぶして、そのあとに来る快速電車に乗るのがいいだろうということにして、そのあいだターミナル駅の駅ビルなどで時間をつぶすことにした。

 このターミナル駅には駅の改札から直行出来る駅ビルと、その駅ビルから外に出ないでも接続されている別の商業ビル(上階には映画館もあり、ときどき利用している)とが隣接している。映画館のビルの上にある書店はけっこうマイナーな文学書も置いてあるわけで、そこで立ち読みでもしてみようかと行ってみる。文学書のコーナーをみると、おどろいたことに金井美恵子のエッセイセレクション、全四巻が平積みされていた。別に「新刊書」というわけでもなく、書店のスタッフが注文したものということなんだろう。ちょっと応援して買ってあげたくもなるけれども、このエッセイ集は地元の図書館にもすべて蔵書されているので、「ごめんね」ということになる。というか、もう新刊書は基本買わないことにしているので。

 しかし、金井美恵子の初期エッセイのタイトルは「夜になっても遊びつづけろ」なわけだけれども、わたしどもは「さあ夜だ! 遊び始めよう!」ってな感覚なわけで、この感覚で行くならば「朝になっても遊びつづけろ」というタイトルにこそ共鳴する。「そうだなあ、金井美恵子はまだ少女のころに文壇デビューしているわけだから、この初期エッセイ集にはそういう高校生っぽいモラル感が反映されていたわけだろう」などと思ったりする。で、「あれ? 金井美恵子って高校生のころに文壇デビューしちゃったんだっけ?」などと思って、電車の中でケータイで検索して調べたりしてみる。そうすると金井美恵子のデビューは二十歳のとき、太宰治賞に応募した「愛の生活」が石川淳に評価されてのことだったわけだ。まあその頃は高崎のお嬢ちゃまだったわけだから、「夜になっても遊びつづけろ」というのは彼女としてはせいぜい背伸びしてみせた結果なんだろう。そんなことを考えたりした。

 きょうも渋谷駅まで行って下車することにして、きょうも地下の商店街に立ち寄って、また「キャメル」をひと箱買ったりした。そのあと下北沢へ行き、まだたっぷり時間もあるわけで、「来月にはまたBさんと下北沢で観劇するわけだし、その観劇のあとにまた飲むわけだ。どこかいい飲み屋はないだろうか」みたいな感じで、きょうはいつもとは反対の方角に歩いてみる。じつはきのうだったか、ネットで「S」という居酒屋のことをチェックしてあり、場所をチェックしておこうとしたものだけれども、その「S」の近くに、「T」という、落ち着いた雰囲気で料理もおいしそうな店をみつけてしまった。ちょっと劇場(スズナリ)からは距離があるけれども、外からのぞいてみた感じはそそられる。メニューもそんなには高くはなさそうだった。そう、近々、Hさんと「そのうちにふたりで飲もう」といっているわけで、そのHさんとの飲み会をこの「T」にしてもいい。どうだろう。

 ‥‥六時ちょっとすぎに「G」へたどり着き、まずはカウンター席でひとりでゆっくりとくつろぐ。また作品を見ておこうとギャラリーへ行くと、思いがけずにそこにいた女性にあいさつされてしまった。彼女は以前、わたしがこれから来られるCさんに案内されて拝見させていただいた展覧会の、その個展の主の方であられた。「Cさんもこれから来られるのですよ」というと、彼女もおどろかれていた。

 しばらくしてCさんも到着され、さきほどのIさんも交えてしばらく歓談する。なんだかCさんはわたしの作品が気に入って下さったようで、そういうお話をうかがっているとうれしくなってしまう。Cさんと会話を交わしているとわたしも元気になるようで、饒舌にもなってしまう。‥‥と話をしていると、「G」にはあたらしいお客さんがお見えになり、その方はわたしが古くから存じ上げているJさんだったりする。Cさんも、Jさんと会話はされたことはないけれども、その顔は知っているという。わたしがJさんにCさんを紹介し、今度は、Jさんを交えて三人で会話を楽しんだ。そんなことをやっているうちにわたしの終電の時間も近づき、なごり惜しい気分ではあるけれども、皆と別れて帰宅して来た。終電に乗って帰宅するというのもずいぶんと久しぶりのことだと思う。きょうはCさん、Iさん、そしてJさんなどとの会話を重ねて、気分のいい一日になった気がする。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140719

■ 2014-07-18(Fri)

 きょうは渋谷に、ワン・ビン監督のドキュメンタリー、「収容病棟」を観に行く。きのう乗り換え案内などで調べ、朝からの回を観に行くにはこちらを九時前に出なければならないことはわかっている。その九時前の電車に乗り、十時五十分ごろに渋谷駅に到着する。

 映画の上映は十一時半からなので、時間的にはたっぷりと余裕がある。そういうつもりだったのだけれども、いざ上映館のシアター・イメージフォーラムを探してみると、これがどうしても見つからない。かつては何度も通った映画館ではあるし、その近くに行けば多少は何か思い出すのではないかと思っていたのだけれども、記憶は何も残っていなくって、まるっきしダメである。ケータイの時計を見るともう十一時二十分を過ぎている。三十分以上もウロウロしてしまった。ケータイのネットで「シアター・イメージフォーラム」を検索し、その住所もチェックしていたつもりだけれども、一丁目と二丁目とをまちがえて探していたことがわかった。

 途中で、もうきょうはダメだから帰ってしまおうかという気分にもなるけれども、やはり映画の上映が少しぐらい始まってしまっていてもいいや、と思い直し、もういちど映画館を探し直し、ようやくみつけることが出来た。時刻は十一時三十五分。もう上映が始まっていると思われる時間だったけれども、窓口で「まだ入れるでしょうか?」と聞くと、受付の方は「あれ? まだ上映は始まっていないみたいですね」と、館内のモニターを見ながら答えて下さった。‥‥チケットを買い、館内にすべり込むと、ほとんどそれと同時に上映が始まった。ラッキーである。

 まず前編が二時前に上映が終わり、休憩をはさんで後編の上映。すべての上映が終わるのは四時ごろになった。映画の感想は下に書く。

 帰りは迷う心配もないわけだから、少しゆっくりと渋谷駅周辺を散策したりする。というか、帰りの電車で乗り継ぎのいい時間を検索すると、かなりの余裕があることもわかるのである。ローカル線は本数が少ないので、駅のホームで電車が来るのを待つよりは、こうやって電車に乗るまでの時間を有効に使った方がいい。‥‥じつは先日、下北沢のタバコ屋で、めずらしく「キャメル」などというタバコをみつけてしまっていて、「これからはキャメルにしようかな」などと思ったりもしたわけだけれども、この品種は<マイナー煙草>というのか、置いてある店が非常に少ない。ぜったいにコンビニのタバコ売り場などには置かれてはいない。‥‥このタバコを取り扱っている店についてはこのあいだ検索してあって、渋谷では駅の地下街の中の店で取り扱っている可能性が高いのがわかっている。その店を探し出すと、やはりちゃんと「キャメル」を取り扱っていた。2パッケージ買って、ハチ公のそばにある喫煙所で一服してから駅に向かい、ゆっくりと帰宅した。


 

[]「収容病棟」 ワン・ビン:監督 「収容病棟」  ワン・ビン:監督を含むブックマーク

 ここでの「病棟」とは、精神病棟のことであろう。中庭を囲んだ三階建ての建物の、その中庭の周囲に回廊があり、その外側に病室や各施設が並んでいる。回廊の中庭側には格子がはめられていて、二階への階段通路にも施錠された格子ドアがある。前編の撮影はそのほとんどが男性の収容されている三階だけでなされていて、ただ一度だけ、昼食の時間に皆が中庭に降りて、そこで食事をとるシーンだけは、カメラも三階から降りて来る。

 ここでの収容患者にはさまざまな症状の患者がいるらしく、中には単に政治的な陳情行為を行なったために収容されている者もいるという。つまりは、どんな理由であれ「精神異常」というレッテルを貼られた者らが収容されているらしい。‥‥しかし、最小限のスタッフで撮影しているらしいワン・ビンらに、危険はなかったのだろうか。というか、それ以前に収容された人たちは、撮影するカメラなどまるで存在しないようにふるまっている。これは、どのようにサジェストすればそのような行動をとってくれるようになるのか、ものすごく謎である。まるでスタッフもカメラも透明になってしまったかのような。しかも、彼らを撮るその距離感が、すばらしい。病棟内、特に回廊では、徘徊する収容者をそのうしろから追って行くことが多い。そして室内に入ると、彼らの表情を直近からも撮って行くし、その室内で撮り位置を変え、それを編集してまるで劇映画のような見せ方をしてくれる場面も多い。

 わたしはこのところ「グロテスク」な画像がダメなところがあり、この作品を観るにあたってもちょっと危惧していたのだけれども、基本は大丈夫だった(食事のシーンでちょっと引いたけど)。‥‥病院の「治療」としては基本は薬を与えることをメインにしているようで、この作品には患者らに医師が「問診」しているシーンは見られなかった。

 後半で、この収容所から退所する男を追って、カメラもはじめて病棟から外へ出る。妻らしい女性がつきそっているのだけれども、彼女は彼に「うるさいとまた戻ってもらうよ!」みたいなことを言うだけ。男は終始無言で、カメラはまた男の背後から、距離を保ちながらついていくだったりする。わたしはこのシーンが大好きだ。
 所内には彼と対照的に、妻の差し入れや語りかけをひたすらに拒み、ただ「ここから出してくれ」と訴えつづける男もいる。

 中には夫婦で入所している人もいるようで、彼らは二階と三階で会話する。女性が「手が痛む」といい、男が「なでてやろう」みたいに答える。彼らをわけ隔てる格子ドアのところに二人は行き、その格子ドア越しに抱き合うようなシルエットをみせてくれる。病棟内ではそれぞれに与えられたベッドに寝ている男のところに、「いっしょに寝よう」と別の男がもぐり込んで来る。ベッドの持ち主の男はそれを拒まず、侵入した男は笑顔をみせる。そこには性的なこともあるのかも知れないし、この環境ではそういうことがあってもおかしくはないようにも思えたりもする。この夫婦のショット、そしてベッドのふたりのショットとが、この長いドキュメンタリーの締めくくりになる。

 人の持つ、「慈愛」というものを強く感じた。それは先に書いたような入所者らの関係の中にも見られるし、スタッフと被写体である入所者との関係の中にも感じられると思う。その「慈愛」とは、おそらくはわたしの中にもあるものだと思いたい。そしてそのような慈愛を持つならば、このように、人として表出させることが出来れば、と感ぜられた。すばらしい作品だと思った。やっぱりワン・ビンはすごいというか、ここまでの作品をつくってくれるとは思っていなかった。すばらしい。もう一度観たい、という気にもなった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140718

■ 2014-07-17(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 国民健康保険の納付通知書が届いた。開封してみて、いまのわたしには相当に高額の納付なので、ちょっとおどろいてしまった。何かの計算違いではないのかと思った。わたしはこんな額を去年までは平気な顔をして納付しつづけていたんだろうか。そういうところの記憶が飛んでしまっているのでわからないのだが、いまみたいにおどろいていたのだったら、きっとこの日記にも書いているはずである。それでこの日記で「健康保険」で検索しても、そういうことはヒットして来ない。去年までは支払うのに苦労することもない低額だったのか、それともそれほどおどろかずに支払っていたのか。さいしょは市役所に行って間違えていないのか確かめてみようかとも思ったけれども、その前にネットで検索してみたりして、どうやら妥当な額らしいことがわかった。ちょっとショックである。やはり、酒とかタバコはやめなくてはならないか。

 きょうは木曜日であれこれとスーパーで買い物をする日なのだけれども、またフルーツジュースを買おうかと思ったのだけれども、このところ、外に出てもアイスコーヒーのことをおいしく感じたりしているわけだし、考えてアイスコーヒーにしてみた。帰宅して飲んで、やはり喫茶店とかのアイスコーヒーほどにはおいしくないのだけれども、ひとつ、アイスコーヒーを飲んでいると、まるで酒類を飲みたいとは思わなくなることがわかった。これはいい。ちょうど健康保険税を払うのにどう節約しようかと思っていたところだったし、これからはアイスコーヒーでもって、アルコールなしで乗り切ってみようか。

 いつもはあまり買い物をしない南のドラッグストアに寄ってみたのだけれども、この店、よく棚を見て行くと、ほかのスーパーのたぐいよりもぜんぜん安値のものがあれこれと置いてあるのがわかった。まずは缶詰類が安く、しかもあまりほかで置いてないものも多い。「鯨の大和煮」などという懐かしいものをみつけ、欲しくなってしまったりした(幼少期からの大好物だった)。砂糖や塩もだんぜん低価格だし、今はサラダ油が安く置かれている。これからはもうちょっとこの店で買い物してみようと思う。

 あしたは渋谷で映画を観る予定なので、あれこれと計画を練ったりする。朝は何時に家を出ればいいのか、帰りのスケジュールはどうしようか、などなど。映画の上映されるシアター・イメージフォーラムという映画館、かつてはよく行ったものだったのに、その記憶力の退化のせいで、いったいどのあたりにあって、どんな目印なのかとか、まるで思い出せない。地図で見て「ああ、こっちの方なのか」とは思っても、そのあたりの風景が思い出せない。

 ちょっと遅くまで起きていたら、外で雷鳴が響きはじめた。そのうちに稲妻が光るようにもなり、だんだんとこのあたりに近づいて来るようだった。稲光から雷鳴の間隔がだんだんに短くなり、光ってから一、二秒で大きな雷鳴が響くようになった。そのうちにまた窓の外が明るく光り、ほとんど同時にとっても大きな雷鳴が轟いた。わたしのそばで丸くなっていたニェネントもおどろいて、首をもたげてわたしの方を振り返る。わたしとしばらく見つめ合って、「大きなかみなりだったねえ!」と、語りかけてみる。停電があるかもしれないな、などと思ったりする。
 かみなりはその特大直近のモノを最後にして、そのあとはうそのように静かになった。しばらくしてから、さっきとは反対側の方で音が聞こえるようになったけれども、「きょうはもうおしまい」というのがわかった。ニェネントに「もうおしまいみたいだよ」といって、ふとんに入って眠りについた。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140717

■ 2014-07-16(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 先日体調を崩されて「G」に来られなかったCさんと連絡を取り、この土曜日に「G」でお会いすることにした。翌日の日曜日はしごとも非番なのでちょうどいい。

 あしたもしごとは非番で休みなのだけれども、ちょっと考えて、あさっての金曜日も休んでしまうことにした。金曜日の人員配置では、わたしがいないとちょっと大変なんじゃないかと思えるのだけれども、その「大変さ」を、ほかのメンバーに味わってほしいものである。正直、いまの体制ではわたしは割を喰っていると思わざるを得ないところがあるわけだし。こういうこともたまにはやってしまわないと、いろんなものを自分の中に貯め込んでしまう。そういうことは避けなくては。

 あさって休みにすると、早朝に出かけて映画を観に行けることもわかった。‥‥今観たい作品は、ワン・ビン監督のドキュメント、「収容病棟」。前篇後篇から成るちょっとした長編だけに、ふつうの映画のように「しごとが終わってからちょっと」というわけにはいかない。いいスケジューリングになったわけだ。

 あしたその「収容病棟」を観に行ってもいいのだけれども、あしたは木曜日で、北のスーパーでは玉子の特売日だし、南のスーパーでは10パーセントオフの日。いろいろと買っておきたいものがある。

 このところずっと、まとめてつくっておいたビーフシチューで夕食をすませているのだけれども、きょうはまずはバターライスをつくり、そこにつくり置きのシチューをからめ、その上に目玉焼きをトッピング、ケチャップをかけて食べた。かなりおいしかったので、これからそのビーフシチューがなくなるまで、このレシピでやって行こうかと思っている。

 きょうも大岡昇平のエッセイ集「昭和末」を読み、半分は読み終えた。面白い。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140716

■ 2014-07-15(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 しごと場に、ハグロトンボが飛んで来た。都会の人はこのトンボを見たことはないだろうと思うけれども、全身真っ黒で、トンボとしては体のわりに大きめの羽根を、蝶のようにひらひらとさせて飛ぶ。普通のトンボのようにはばたきが早くはない。飛んで来たハグロトンボはわたしのすぐそばにとまった。とまりかたも、蝶のように羽根を上にそろえてとまる。

 つかまえる気もなくそのそろえられた羽根に手をやると、いとも簡単につまめてしまった。警戒心が薄いのだろう。まさかつかまえられるとは思っていなかったので、わたしの方でもおどろいてしまった。それでハグロトンボの方も、別に抵抗したりもがいたりするわけでもない。わたしもつかまえたからといってどうするわけでもないのだから、ちょっと観察して、すぐに手を離して逃がしてやった。ハグロトンボはまるで何ごともなかったかのように、つかまえられる前と同じペースで飛んで行ってしまった。ハグロトンボの写真を載せておくけれども、この写真はもちろんわたしの撮った写真ではない。

   f:id:crosstalk:20140716160704j:image:w360

 きょうもやはりまた、ダウナーな気分。午後からまた昼寝をしてしまい、こうやって昼寝をしてしまうと、そこから目覚めたあとの気分が最悪になる。

 エアチェックしてあった「ウイークエンド・サンシャイン」を聴き、八月には「ケルト音楽」の特集をやるというので、うれしくはなってしまった。「それはぜひリクエストしなくては」と考えて、O'Carolan の曲が聴きたくなり、Planxty の「Sheebeg and Sheemore」がいいなと思う。YouTube で検索するとちゃんとアップされていて、何度か再生して聴き惚れた。かわいらしいメロディに、このところのイヤなことも忘れさせてもらいそうだった。O'Carolan つながりでHorslips の曲もいっしょにリクエストしてしまったけれども、この番組はひとりで二曲以上のリクエストが採用されることはないんだった。すっかり忘れていた。

 やはり元気になるためには外の世界と接触しないとだめだなあ、などと思った。きょうも大岡昇平の「昭和末」を読み、それなりに読み進んだ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140715

■ 2014-07-14(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 きょうも元気はない。おまけに、勤め先でイヤな出来事も起きてしまい、余計に気分は滅入るばかりである。「側頭葉てんかん」の症状として感情的になり、他人に怒りをぶつけることになると書かれていたのを読んだが、きょうのこともそのことに関係しているのだろう。そう考えると、余計にうんざりとしてしまう。

 八月には「少年王者舘」の公演を観に行くつもりでいて、予約もすませている。きょう、郵便局からチケット代を払い込んだのだけれども、郵便局を使っての振替のやり方がまるでわからず、担当の方の手をわずらわせてしまった。脳全体が「退化」して来てるんじゃないだろうか?

 きょうから、図書館からもらったリサイクル本で、大岡昇平の「昭和末」というエッセイ集を読み始めた。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140714

■ 2014-07-13(Sun)

 なんだかきのう、エネルギーを持って行かれてしまったようなところもあり、朝からぐったりとしていた。きのう「G」でかかっていた、ちあきなおみの「星影の小径」のメロディがあたまから離れず、つまりは魅了されたところがある。YouTube で検索し、何度も繰り返して聴いた。

 午後からはやはり眠くなり、しばらく昼寝をした。このところ昼寝もしないでちょっとハードな日がつづいていたので、このあたりで昼寝をしても悪いことはないだろう。一時ごろから四時ごろまで昼寝をして、けっきょくは八時ごろにはまた眠ってしまった。そのくらいの睡眠量はとってしかるべきだろうと、自分を納得させた。

 図書館からもらったリサイクル本、唐十郎の「フランケンシュタインの娘」を読み終わった。


 

[]「フランケンシュタインの娘」 唐十郎:著 「フランケンシュタインの娘」  唐十郎:著を含むブックマーク

 終盤に盛り下がり、これはやはり「失敗作」なんじゃないだろうかと思う。門外漢が勝手なことをいうようだけれども、登場人物はただ、作者のロジックのつじつま合わせのために脈絡もなく登場して来る感じで、一貫して訴えられるプロットというものに乏しい気がする。そもそもが、せっかく「フランケンシュタインの娘」と題された、そのあたりのメソッドの奥行きが浅いんじゃないだろうか。書き急いだという印象もあり、唐さんもいろいろと多忙な時期の作品だったということなんだろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140713

■ 2014-07-12(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 朝、しごとへ行くまえにテレビを見ていると、急に「地震警報」に切り替わった。その時点で特に揺れを感じたわけではなかったけれども、十秒か二十秒たってから、ふいに大きな揺れが来た。かなり大きな地震だった。そばにいたニェネントと、「大きいね〜」と顔を見合わせ合った。先日の台風の予想はまるではずれだったけれど、地震警報というのはあたるんだなあという感慨。

 きょうは、「G」にずっと詰めている予定にしてある日。一時から二時まではBさんと会うことに決まっているけれども、あとはいつだれが来るのかわからない(Cさんが来てくれるということだけれども、時間がいつになるのかはわからない)。それでも午後七時までは会場にいると、Facebook とかにも書いてしまっている。なんとかがんばろう。家を出ようとするときにCさんからメールが届き、からだの調子が良くないのできょうは来られないということだった。これで最悪、Bさんのあとはだれも来ないかもしれない。

 一時ちょっと前に「G」に到着。入ってアイスコーヒーを注文していたら、すぐにBさんが到着した。‥‥きょうはわたしも調子がいいようで、Bさんを相手に話がずいぶんと盛り上がった。先日観た「ホドロフスキーのDUNE」とか、実はBさんからのメールでその面白さを伝え聞いて観に行ったので、そんな話とか、わたしの疾病が「側頭葉てんかん」だったことなどなど。Bさんとの次回は八月末、やはり下北沢で、少年王者舘+tsumazuki no ishi の舞台公演を観る予定。舞台鑑賞がダメと書いたと思うけれども、少年王者舘の舞台はぜったい観たい。舞台鑑賞復帰の作品にして、それからは舞台をもっと観るようにして行きたい。

 二時になってBさんは帰り、「さあ、これからはひとりの時間だな」などと思って、持って来た本を読み始めたりしていると、「あれ、あの人はたしか‥‥」という人がカフェに入って来た。やはり、Dさんだった。Dさんはたしか体調が悪いと聞いていたので、まさか来ていただけるとは思っていなかった。杖をついていらっしゃる。肩から腕、手の甲など、タトゥーだらけなのである。そうだ、そうだったなあと、彼女のことをあれこれと思い出す。わたしは去年の冬に彼女の個展に行ったりもしていたし、そのときに彼女と交わした会話が彼女のお気に召しているらしい。ただ、わたしは病気のせいで、そのときのことをまるで記憶してはいない。

 来てくれたとはいってもやはり具合の悪いDさん、動くのも大変なようで、よく来て下さったなあと思う。けっこう長く滞在して下さり、あれこれといっぱい会話も出来た。‥‥時間もたち、いつか時計は五時も過ぎているのだけれども、そこでEさんとFさんのご夫妻がいらっして下さった。ワインの差し入れなんかいただいてしまい、感謝。EさんたちとDさんとは面識がないのではないかと思っていたのだけれども、Eさんはずいぶんと以前の渋谷でのGさんの公演のとき、そのロビーにDさんの作品が展示されていたことを憶えていらっしゃり、そのときの話などでつながることができた。

 EさんFさんのご夫妻は五時半までにはお帰りになり、Dさんも「(身体の調子が悪いので)これ以上いると帰れなくなる」とかいわれて、六時前には帰って行かれた。あとはもう、どなたも来ることもないだろうか。やっぱりちょっと、疲れてしまっただろうか。七時までいるつもりだったけれども、乗り換え案内を調べると、六時半ごろにここを出ると九時には自宅駅に到着出来ることがわかり、そんな時間までは会場にいたのだけれども、もうどなたも来ないことを確認し、六時半に帰路についた。

 きょう来られなかったCさんのこともあるし、会期中、もう一日ぐらいは「G」に行ってもいいな、などとは思っている。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140712

■ 2014-07-11(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 きのう、出かけるのに持って行った本を、どこかでなくしてしまった。どうも昼食をとった喫茶店のテーブルに置き忘れたのではないかと思う。忘れた本は「失われた時を求めて」。どうしようか、あの店に行ってみて、忘れていなかったかどうか問い合わせてもいいのだけれども、そもそも、わたしとしてはいいかげん、「失われた時を求めて」を読みつづけるのに飽いてしまっているところもある。特に今読んでいたところは「心情の間歇」という有名な章ではあったのだけれども、読んでいても、亡くなった祖母への思慕であるとか、ホテルの従業員のまちがった言葉遣いを面白がったりとか、正直、読んでいてあまり面白く感ぜられるわけでもなかったし、この巻にかぎらず、この書物のことはもう読みつづける意味もないのではないかと思いもしていたところ。まだ六巻残っているわけだけれども、こうやってきのう、本をどこかに忘れてきたということは、「もう読みたくない」という、わたしの無意識の心の声なのかも知れない。別に、世界文学史の巨峰だとかいったって、読んでいて面白くないんだから、制覇する意味もない。ただ時間のムダなのではないだろうか。これでもって、残っている文庫本を「もういいや」とゴミ袋につっこみ、ゴミの日に出してしまえるなら、痛快かもしれない。わたしはいろいろなことをリセットしなければならないときでもあるし。

 さて、昨夜の天気予報では、今朝はこのあたりも台風の進路の近くになっていて、さぞかし大変なことになっていることだろうと思っていたのだが、目覚めてみて、窓の外から風の音が聞こえてくるわけでもない。起きて外を見ても、雨が降っているわけでもなかった。テレビをつけてみると、どうやら台風は南の海の方に進路を取り、しかも急速に勢力もおとろえて来ているらしい。予報は大はずれだったわけだけれども、こういうはずれ方は歓迎。‥‥しかしながら、「台風一過」ということなのか、昼からの晴天はいいのだけれども、めっちゃ日ざしが強く、真夏の暑さである。ちょっとぐったりとした。

 きのうおとといと外出をつづけ、おそらくは疲労もたまっていることだろうし、あしたはまた出かけなくてはならないわけだから、きょうはゆっくりとすごし、眠くなったら昼寝でも何でもやってやろうという気分だったのだけれども、なんだかそんなに疲れは感じなかったし、眠くなるわけでもなかった。あしたになってガクッと疲労におそわれるといやだなあ、とか思ったりする。

 きょうは近くの内科医と心療内科に通院し、もういいかげん心療内科の方に通院するのはいいんじゃないかと思って、担当医にそのように告げたのだけれども、げんざい処方されている薬には「側頭葉てんかん」ゆえの感情のたかぶりを抑える効果もあるのだということ。どうもこちらも、いつまでも通院をつづけなければならないようではある。現在、服用している薬は七種類もある。多いなあ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140711

■ 2014-07-10(Thu)

 今朝はしごとなのだけれども、ケータイにセットしてあるアラームが鳴らなかった。フッと目が覚めて時計を見やると、もうしごとの始まる5分前の時間だった。あわてて飛び起きて、あわてて着替えをし、あわてて顔を洗って、それだけで出勤する。‥‥職場はウチから近いので、ちょっと遅れただけで済んだ。しかし、ケータイのアラームはなぜ鳴らなかったのか。しごとを終えて帰宅してからもあれこれといじってみるのだけれども、そのケータイのディスプレイの左下に「S」の文字が出ていて、これがどうもサイレントモードという表示らしいのだけれども、普段使っているサイレントモードの解除ではこれが解除出来ない。わからない。ちょうどきょうも東京へ出るつもりもあるので、このケータイ(正確にはPHS)のサーヴィスショップへ行ってみて、それで聴けばいいだろうということになる。

 大きな台風がこちらに向かって来ている。あしたの午前中とかは大変なことになりそうだ。今はまだ雨も降っていないけれども、もっと遅い時間になったら雨が降り始め、風も強くなることだろう。きょうはまた新宿で映画を観て、そのあとは下北沢に移動して、きょうが初日の「G」での展覧会会場へ行き、ひとつには作品がきちんとセットされているのか、そしてまわりの様子はどんなものなのか、そのあたりをチェックしに行くつもり。あんまり遅くまでいないで、早めに帰路についた方がいいだろう。

 きょう観る映画は「グランド・ブダペスト・ホテル」。新宿に出て、まずは指定席券をゲットしておく。まだ時間的に余裕もあるので、わたしが三番目の客だった。映画の席を確保したあと、もんだいのケータイのアラームのことを解決させなければならない。サーヴィスショップへ行き、店員の方に状況を説明する。店員の方もすぐには原因がわからず、電話で問い合わせをしたりして対応してくれる。‥‥原因がわかった。ケータイの右下の「♯」を長押ししてしまうと「安全運転モード」というのになってしまうそうで、つまりわたしのケータイがその状態。解除するにはもういちど「♯」を長押しすればいい、それだけのことだった。

 さて、じつは、映画の上映開始までまだ一時間ほどの時間がある。どこかで昼食をとって時間をつぶせばいいのだけれども、どこがいいだろう。何を食べても味覚がダメな状態だから、ほんとうに牛丼とかでいいんだけれども、時間をつぶすということでは牛丼屋はそういう機能は持ち合わせていない。なんか、喫茶店とかのランチサーヴィスがいいな、などと思ったりして探してみる。ピラフとかなら食べてみたい気がする。
 ‥‥ちょうどそれにぴったりの、喫茶店のランチでピラフを出す店を見つけ、そこに決める。落ち着いた雰囲気で、とってもいい。出て来たピラフはおいしくは感じられなかったけれども、そのあとのアイスコーヒーはとってもおいしかった。

 その喫茶店でゆっくりして、映画の始まる時間に映画館へ行く。意外と客の数は少なく、客席数の半分がようやく埋まっている程度だった。この映画が上映し始められた頃にわたしの知人たちがこの映画館を訪れ、「満員」のために観るのを断念したというのがウソみたいである。台風接近のせい、かも知れない。

 映画の上映開始。そして、終了。感想は下に。わたしはそのまま小田急線へ向かい、下北沢で下車して「G」へ行く。この日は展覧会の初日で、19時からのライヴがオープンになる予定とのこと。まだ時間は四時半ぐらいなのだけれど、店には迎え入れてもらえた。わたしの作品をチェックする。ちょっといい場所に展示してくれたみたい。作品の展示の具合も良かった。店の人に感謝の気持ちを伝え、帰路につく。外ではやはり風が強くなっている。

 七時半ごろに自宅駅に到着。やはり風は強いけれども、雨は降っていない。近くのスーパーに足をのばし、半額になっていた「かき揚げ天ぷら」とかを買ってから帰宅し、食事は「天ぷらそば」ということにした。意外と、おいしく感じられただろうか。‥‥あしたは、ゆっくりと休養したい。


 

[]「グランド・ブダペスト・ホテル」 ウェス・アンダーソン:脚本・監督 「グランド・ブダペスト・ホテル」  ウェス・アンダーソン:脚本・監督を含むブックマーク

 ‥‥「キメ」の色彩、「キメ」の演技、「キメ」の装置に「キメ」の撮影、そして「キメ」の演出。なんてゴージャスな作品だことだろう! こんな俳優さんがこんなところに!なんて驚いてしまう。だけどエンドロールを観ると、わたしでも知っている俳優さんが、あっちでもこっちでも出ていたことがわかり、もういっかい最初っから観たくなってしまうのである。

 ゴージャスというだけでなく、「血湧き肉踊る」というのか、観ていてもこの心のときめきをどうにかしてほしいと切に思ったりもする。わたしおそらく、ウェス・アンダーソン監督の作品の中ではトップクラスに好きな作品。特にこうやって彼も「大監督」になり、あれこれを自在に使えるようになってしまっての、その結果としての「楽しさ」にあふれている。しっかし、この「シンメトリー」への偏愛ぶり!

 いろいろと書きたいけれども、わたしがウェス・アンダーソン監督の作品でいっちばん好きなのは、「アンソニーのハッピー・モーテル」だった。もういちど観てみたいなあ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140710

■ 2014-07-09(Wed)

 きょうはとなり駅の市民病院へ行くので、計画を立てたようにそのまま東京に出て、映画を観るつもり。
 きのうのような晴天ではなく、どちらかというと雨が降り出しそうな天候。早くに病院へ行って予約券をゲットしたのだけれども、診察がなかなか始まらない。‥‥どうも、立てた計画のようには運びそうもなく、この地を走るローカル線の一時間に一本のダイヤの、一本あとの電車になってしまいそうである。そうすると計画どおりに映画を観ることもかなわないのだけれども、待ち時間に持っていたケータイで検索してみると、この日に「ホドロフスキーのDUNE」を観るのには間に合いそうで、そのあとに「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」を観ることも問題ないようだ。それならきょうはそういうことにして、「グランド・ブダペスト・ホテル」はあしたにすればいいことである。そういうことに決めた。

 ようやっと診察の番がまわってくるのだけれども、ちょっとした問診があるだけ。「このところ、昼間でも眠くなってしまうこと」、そして「食べるものがおいしく感ぜられない」ことが薬の副作用なのかと聴いてみると、まさにその通りだということ。服用している「テグレトール」という薬品には眠気を催させる副作用、味覚を変えてしまう副作用などがあるということ。‥‥やっぱりそうだったのかと、がっくりする。これからずっと、この「テグレトール」のお世話にはならなければならないだろうから、つまりはもうこれからはずっと、モノを食べて「おいしい」と感じることは出来ないのかもしれない。‥‥まさに「味気ない」ことで、哀しい。

 診察を終えて新宿へと向かい、まずは「ホドロフスキーのDUNE」のチケットをゲットする。全席指定席なので、早い者勝ちなわけである。もうすでに、半分近くの席は予約されていた。小さな映写室とはいえ、人気があるんだななどと思う。

 開演まで時間があるので、昼食をとる。どうせ味覚音痴なのだから安い牛丼とかで充分なんだけれども、むかしっからこの近くの寿司屋でやっている、安い海鮮丼のランチを食べることにした。店に入って注文し、出来た海鮮丼を食べる。‥‥やっぱり味気ないのだけれども、牛丼屋などよりも店の中がゆったりとして落ち着いているから、「雰囲気」のため、と思うことにする。

 食事を終えてちょうど上映時間に近いので、映画館へ行く。鑑賞。感想は下に書くけれども、勇気の湧いて来るすばらしいドキュメンタリー映画だった。この映画が面白いと教えてくれたBさんに感謝。

 さて、次は「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」。けっこう近くの上映映画館へ行き、こちらは入場整理券をゲットする。少し時間があるので、紀伊国屋書店へ行って時間をつぶした。外ではちょっと雨も降って来た。映画館へ行き、映画を観る。う〜ん、いい作品なんだけれども、こっちを先に観て、このあとに「ホドロフスキーのDUNE」を観た方が楽しかったかな。‥‥なんてことを思いながら、電車で帰路につく。さあ、あしたは「グランド・ブダペスト・ホテル」だ。


 

[]「ホドロフスキーのDUNE」 フランク・パビッチ:監督 「ホドロフスキーのDUNE」  フランク・パビッチ:監督を含むブックマーク

 映画というものに、エモーショナルなパワーを仮託出来ると考えるのが、このドキュメンタリーの主役のアレハンドロ・ホドロフスキーの立場だとすれば、このドキュメンタリーの監督のフランク・パビッチという人物もまた、まちがいなくそのような精神を体現しているのだと思う。

 冒頭から楽しくもガンガン動き回る絵コンテの魅力、次々に登場するアッと驚く登場人物とともに、尽きることのない製作逸話、いやいや、そういうことではなく、この作品の心髄はやはり終盤の十分間(ぐらいか?)の、ホドロフスキーが「デイヴィッド・リンチの『DUNE/砂の惑星』が失敗作なのでうれしくなった」とのたまって下さる以降の、熱をおびたホドロフスキー氏のトーク、そしてこれ以降のSF大作映画が皆、この「DUNE」の絵コンテからの影響を受けてるわけじゃないか、との語り口の中にこそ、その魅力が全開する。

 ポケットから取り出した紙幣を指さし、「こんなものには何の価値もない」と語りながら、「志(こころざし)」の大切さを語るホドロフスキー氏。すでにこのドキュメンタリー撮影時で80代なかばに達しておられるのだけれども、そんなことミジンも感じさせてくれない。というか、「ウソだろ〜!」という感じ。わたしなんか、まだまだ、まだまだガキである。とにかくは、この作品を観ることは勇気を得ること。そういうエッセンスのつまった、すばらしいドキュメンタリーだと思った。映画というものがエネルギーを持つことが出来ると信じるものには、これは必見の作品だと思う。とにかくはすばらしい!


 

[]「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」 ジョエル・コーエン イーサン・コーエン:脚本・監督 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」  ジョエル・コーエン イーサン・コーエン:脚本・監督を含むブックマーク

 ‥‥わたしの記憶力には障害が出ているので、このコーエン兄弟の作品である程度思い出せるのは、「ブラッド・シンプル」と「ミラーズ・クロッシング」ぐらいしかないのだけれども、それでも彼らの作品はだいたい全部観ているはず。そういう彼らのフィルモグラフィーの中でも、これだけシブい作品というのはなかったんじゃないだろうか。

 舞台は60年代初頭のニューヨークで、そこのライブハウスで活動するフォーク・シンガーが主人公。ほとんどホームレスで、友人知人宅を行き来してソファーに寝かしてもらう生活。やることなすことうまく行かず、まずはニューヨークを捨てようとするのだがそれもうまく行かず、かつて(親の代から)やっていた船乗りの生活に戻ろうともするのだけれども、そっちもうまく行かない。そういうどうどうめぐりの日常が、この「エンディングが導入部につながる」作品の中に示される。でも、こういうところから、ボブ・ディランも出て来たんだよね、というラスト。渋い。

 前半には二匹のネコ(一匹は、あとでオデッセイアという名まえなのだと明かされるが、この二匹を演じているのは同じ一匹のネコだろう)が大活躍する。よくネコを使ってこんなシーンを撮れたものだと感心してしまったりする。しかし、しかしだよ、わたしは、二匹目のネコをジョン・グッドマンとともに見捨てる展開が、どうしても許せない! ‥‥成り行きとして、もうあれ以上あのネコを連れて行けないことはわかるのだけれども、やはり「見捨てて」いる。そのあとの交通事故もいやだ。

 演出としては、コーエン兄弟もひとつ抜け出したかなというところもあり、次回作が楽しみにはなってしまった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140709

■ 2014-07-08(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 初夏らしい(というより、もう「夏」本番なんだろうか)青い空が拡がり、暑い一日になった。しかしわたしは、今でもしごとには長袖で行く。まだまだ、早朝の時間だとそれほどまでに暑いわけでもない。それでも帰宅して部屋にいるとだんだんに暑さが増して来て、ついに押し入れから扇風機を引っぱり出して来た。

 きのう不調だったから、そういうことでは一日おきのスケジュールから、きょうはけっこう元気。あしたは市民病院へ通院し、そのまま帰りには東京に出て、映画でも観ようと思っているので、あしたは「不調」にならないようにしなければ。さらに「G」での展覧会も始まるので、その初日のあさってには会場へ行って、作品の様子を確認しておかなくてはならない(さいごの仕上げはギャラリーのオーナーのAさんにお願いしてある)。だからあさっても好調でいなくては。さらに、12日には「G」にBさんが来てくれるので、わたしも「G」へ行くつもりにしてある。知人友人への告知でも、12日の明るいうちは会場にいるつもりだと知らせてあるので、長い時間「G」に居座らなくてはならないだろう。だから、12日も元気でいなくってはならない。その谷間の11日には特に予定もないから、また調子が悪くなるんなら、まとめて11日いちにちで治まってほしい。

 きょうは特にやることもないのだけれども、あした、あさっての計画を立ててすごす。考えて、あしたには二本の映画を観て、あさっても「G」のオープンが午後の四時になるわけだから、それまでに映画を観ることも出来るだろう。いま上映されている作品をチェックすると、観たい作品が四本ぐらいある。ちょうどそのうちの二本がこの金曜日までの上映、もう一本も来週で終わってしまうようなので、その三本をあしたとあさってで観てしまおうかと計画を立てる。

 観たい映画はウェス・アンダーソンの「グランド・ブダペスト・ホテル」、コーエン兄弟の「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」、それとドキュメンタリーの「ホドロフスキーのDUNE」。うまい具合に三本とも新宿の狭い範囲の中の映画館で上映されていて、特に、あした二本連続して観るには都合が良さそうだ。上映スケジュールをながめながら、まずあしたは「グランド・ブダペスト・ホテル」を観てから「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」を観、あさってに「ホドロフスキーのDUNE」を観ようかと計画を立てる。‥‥けっこう、こうやって計画を立てるというのは楽しいもので、いろいろなことを想像して、それだけでなんだか充実してしまう気がする。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140708

■ 2014-07-07(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 作品の搬入をすませてホッとしたのか、それともきのうあまり眠らなかったせいか、また気分がダウナーな方向に向かい、たくさん寝てしまった。このところそうであるように、昼食を終えたところでテレビを見ていると猛烈な眠気におそわれ、「これは眠る以外に何も出来ないだろう」と、ベッドに移動する。すぐに眠りにつき、次に目覚めるともう五時半になっていた。このところでいちばん長い午睡になってしまった。「もういいかげんに起きなくては」とベッドから出ると、こんどは猛烈に気分が悪い。食欲もないのだけれども無理にスパゲッティをつくって食べ、また呆然とした時をすごすことになる。ただぼんやりとしているだけ。

 こういうことすべては、先日から服用を始めた内服薬の副作用ではないのだろうか。質が悪いといえばいいのか、そのおかげで発作から免れていられるというのならば、どうしようもないが。

 やはりテレビを見ていると、突然に不快感に襲われてしまうことがある。考えてみて、<日常>からの乖離の大きな映像になったとき、見ているわたしの気分は悪くなるようだ。CMなども良くないし、スタジオ収録のバラエティー番組など、そのスタジオの光景が写されただけでダメだったりする。このあたりに、最近<演劇>などの舞台表現を忌諱する理由もあるみたいで、無意識のうちにそういう表現に親しめないという気もちが出て来るみたい。それが<映画>なんかだと、俳優の演技なども<日常>からそんなに離れたことは目指さないし、美術なども基本は「リアルさ」を目指しているわけだろう。そういうところならば気になることもなく楽しめるわけだ。
 八月の末には「少年王者舘」の公演があり、そのDMも送られて来ているのだけれども、これは観に行きたい。きっと、少年王者舘の舞台だったら、そういう不快感を感じることもないだろうし、このあたりの舞台を、わたしの「舞台鑑賞復帰」のスタートにしたい気もちである。

 ベッドに行くとそのままにずいぶん早くに眠ってしまい、きょうもトータルの睡眠時間はけっこうなものになってしまった。こんなことを一日おきに繰り返すようだとどうしようもない。どこかで安定した日常をつくりたい。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140707

■ 2014-07-06(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 今日は作品を搬入しておこうと決めた。昼まえに早い昼食を蕎麦で軽くすませ、作品をかかえて電車に乗る。何も考えないで着替えもせずに出て来たのだけれども、電車に乗って座席に座ってみると、黒いボトムスにニェネントの白い毛が異様なほどにいっぱいからみ付いていて、他人の目が気になってしまう。乗り換え駅で電車が来るまでにしばらく時間があったので改札を出て、百円ショップでガムテープを買った。これでネコの毛を取ってしまおうという魂胆だったのだけれども、外を歩いたりしているうちにだいたいの毛は取れてしまったようで、もうほとんど目立たなくなっていた。

 新宿への電車の車中ではまたほとんど眠ってしまい、持って来た本もほとんど読まなかった。新宿で下車してからは喫煙所に立ち寄って一服。そのあとは牛丼屋へ行って腹ごしらえをした。この日は日曜日で駅前の道路は歩行者天国。こうやって歩行者天国の街中を歩くなんて、いったいいつ以来になるんだろう。とにかく、ものすごく久しぶりのことだった。

 小田急線で「G」へ向かうのだけれども、今日はいつも利用する下北沢からではなく、東北沢で下車して行ってみた。以前、小田急線が地下にもぐる前には、東北沢から行こうとしてもそのたびに道に迷っていたものだったけれども、こうやって線路が地下に移され、出口が以前とは違うところに移動されていると「G」への道もわかりやすく、いっぱつでたどり着くことが出来た。

 ちょうど「G」の前にはオーナーのAさんがいらっしゃって、ほかの出品者の方の対応をされていた。まだ今日は搬入の二日目で、あした、あさってと搬入は続くわけだから、まだそれほどには搬入される方もいないようだった。Aさんに作品のタイトルなどを告げ、「こういう展示法」というのを見てもらう。作品を見たAさんは、「ずいぶんとなつかしいモノ(タイプの作品)だなあ」などという第一感想。う〜ん、やっぱりわたしの作品のようなのは古くさいかなあ。

 店内でアイスコーヒーなどを注文してしばらく休み、三時ごろに帰路についた。帰りは下北沢から帰ったのだけれども、この日は「下北沢音楽祭」か何かで、こちらも歩行者天国。仮設テントで演奏され、歌を唄われているミュージシャンの方の姿も見え、あたりはやはり人がごったがえしている。

 帰路の電車内では眠ることもなく、持って来た唐十郎の「フランケンシュタインの娘」という小説を、けっこう読み進めることが出来た。面白いのだけれども、今のわたしにはそれが活字であっても、グロテスクな描写には耐えられない思いがあることもわかった。かなり不快な思いをした。

 まだ明るいうちに帰宅し、かんたんな夕食をすませ、何人かの知人に今回の展覧会のDMを送ることにして、便箋それぞれに手書きでメッセージ(というか、つまりは「手紙」である)を書いた。近所のコンビニへ切手を買いに出るとそこのコンビニでは82円切手は売り切れで、線路を越えたところのコンビニへ移動した。ついでにそのコンビニの前のスーパーにも寄ってみて、時間が遅くなって値引きされた商品をいくつか買った。切手を買って帰宅し、封筒に切手を貼って、こんどは郵便局の前のポストに投函に行く。これもうちから歩いて二、三分の距離だから大したことはない。

 手紙を何通も書いてちょっと興奮したのか、それともきのう睡眠は取りすぎていたせいか、いつもなら眠る時間をとうにすぎてもなかなか眠れず、読んでいた「フランケンシュタインの娘」をまた読み進めたりもした。やはり、なかなかに眠れなかった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140706

■ 2014-07-05(Sat) このエントリーを含むブックマーク

10日からの展覧会の期日もせまり、きょうは出品する作品の最終仕上げに取りかかった。やはり仕上げてみると気に入らないところがあり、材料を買い直して手直ししたくなる。搬入は今日から火曜日までなのでその日にちがないわけではないけれども、出来れば今日とか明日に搬入をすませてしまいたい気もちがある。「このままでもいいか」という気分が七割。「手直しすべきだ」という気分が三割。

 いちおうは作品をあらかた仕上げると、そのせいかどうかはわからないけれども、どっと落ち込んだ気分になった。とても外に出る気分にもならず、昼食のあとはまた猛烈に眠くなる。気分も悪い。おそらくは、これもてんかんのための投薬の副作用なのではないかと思う。眠いときに無理して起きている理由もなく、ベッドに横になって目をつむる。じきに眠ってしまう。

 目覚めると時計は四時をまわったところ。ひと眠りして気分も良くなるかと思っていたのだけれども、やはり気分は最悪。まったく何をする気にもならず、ただばく然とパソコンに向かっているだけ。トランプゲームを延々とやる。夕食を終え、「もう寝てしまってもいい」という気分でベッドに横になり、漫然と本を開いてページをくくる。今読んでいるのは「失われた時を求めて」の七巻目で、もうこの本は足かけ三ヶ月か四ヶ月ぐらい読みさしのままになっているのではないかと思う。もちろんさいしょの方は漠然としか記憶していない、もしくは忘れてしまっている。
 この夜も十ページぐらい読んでまた眠くなってしまい、そのまま薬を飲んでから寝てしまった。就寝時間の長い一日になったと思う。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140705

■ 2014-07-04(Fri)

 朝、しごとに出るときにはかなりはげしい雨が降っていたのだけれども、しごとが終わるころにはやんでしまい、そのあとは、弱い雨が降ったりやんだりの一日だった。このあいだまでとっても忙しかったしごとの方も、きょうは小休止。

 きのう買ったオレンジジュースやアップルジュースを飲むのだけれども、やはりおいしいものではない。もっと値段の張るものを買えばよかったのだろうか。なにか、「おいしい」と思えるものを味わいたい。

 精神状態は少し良好になったようで、きょうは久しぶりに録画した映画を観通すこともできた。ただ、このところタバコの本数が増えたことは問題で、やはりもういちど禁煙すべきだろうかと本気で思ったりもするのだけれども、パッケージが空になると、ついついそばのコンビニへ買いに行ってしまう。とっても良くない。

 ニェネントの機嫌がいい。ちょっとばかり「発情期」的なところもあるようだけれども、わたしが抱き上げても、いやがったり逃げようとしたりしないでおとなしくしている。そんな、人に甘えるネコちゃんであってもよかったのにねえ。

     f:id:crosstalk:20140704165446j:image:w300


 

[]「チャイナタウン」(1974) ロバート・タウン:脚本 ロマン・ポランスキー:監督 「チャイナタウン」(1974)   ロバート・タウン:脚本 ロマン・ポランスキー:監督を含むブックマーク

 もちろん、ずいぶん以前にいちど観たことのある作品だけれども、例によってあらかたは忘れてしまっている。ただ、そのラストに、チャイナタウンではどうのこうの、という「決めゼリフ」のようなのが語られていたような気はする。

 先日観た「マルタの鷹」みたいに探偵事務所の室内からはじまり、その「マルタの鷹」の監督だったジョン・ヒューストンも役者として出演している。基調にどこか「マルタの鷹」のようなフィルム・ノワールのタッチはあるのだけれども、ほとんどが室内劇で終始した「マルタの鷹」とはちがって、主人公はあちらこちらと移動しまくる。

 観終わっての印象はやっぱり、この「脚本」のすばらしさに圧倒されるところがあるのだけれども、場面によっては、その脚本が絵をリードしすぎているように感じるケースもある。でもわたしはラストのシーンでの三人の男、警官のひとりが去って行くフェイ・ダナウェイの車に発砲しようとして、それを脇にいたジャック・ニコルソンがまずは止める。するとその脇の警官がニコルソンのとなりに出て来て、そこから車に発砲する、このシーンの演出が大好きである。どこか、「歌舞伎」の世界の所為を思わせられたりもする。‥‥そう思うと、このジョン・ヒューストンの強烈な存在というのがまた、まるで舞台空間のなかの世界を思わせてくれる気がした。みごとな映画である。

 フェイ・ダナウェイが保護していた女性が彼女の「娘」であり「妹」なのだという告白のあたりで涙がこぼれ(ここのニコルソンの反応がいいんだ〜ただひっぱたくだけだけれども〜)、その、例のラストのセリフ、「忘れろ、ここはチャイナタウンだ」でまた泣いてしまった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140704

■ 2014-07-03(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 前にも書いたことがあるのだけれども、グロテスクなものを受け付けられなくなった。おそらくは疾病との関係なんだろう。テレビのバラエティ番組などで、出演しているコメディアンが「寄り目」などの妙な表情をしてくれるだけでダメである。だからスタジオ収録のバラエティ番組は基本は見ないようにしている。写真などでも「グロテスク」と感じてしまうものは多く、これがFacebook を閲覧しているとけっこう出くわしてしまう。この「グロテスク」と感じるのはもちろんわたしの主観なのだけれども、掲載された当人の意図しないところで感じてしまうことが多いだろう。残念なケースでは、舞踏系の写真でそのようなことを感じてしまうことがよくある。目にするととたんに気分が悪くなり、長くは正視できない。残念なことである。

 今日はしごとは非番で休み。外の天気もあまりよくないけれど、わたしの気分もずっとよくない。食べるものはおいしくないし、何かをやろうという気分にもなれない。午後から「久しぶりに映画でも観よう」と、テレビをチューナー/HDDにつないで観はじめたのだけれども、ものの十分もしないうちに眠くなってしまい、ハッと気づいたら眠ってしまっていた。‥‥これでは観続けるのは困難だと思い、テレビを消してそのままベッドで昼寝になってしまった。観ようとした映画は「チャイナタウン」で、ものすごく観たい気分でいっぱいだったのに、残念なことである。

 そろそろ外も暗くなる時間に目覚めて、またカレーライスで夕食。おいしくない。食後になんだかフルーツジュースを飲みたくなってしまい、家のそばのコンビニへ行ってみるのだけれども、フルーツ系のジュースはぜんぶ売り切れてしまっていた。‥‥いちどは部屋に戻ったのだけれども、やはりジュースが飲みたくって、もういちど南のスーパーまで出直した。オレンジジュースとアップルジュースのパックを買い、帰宅してから飲む。おいしくない。オレンジジュースもアップルジュースも、こんな味ではなかったはずである。やはり投薬のせいで味覚が変わってしまっているのだろうか。がっかりしたし、やはり、残念なことである。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140703

■ 2014-07-02(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 しごとは今日も、あきれるほどに忙しかった。しごとの終わったあと、となり駅の市民病院へ行った。これからは「側頭葉てんかん」については、この市民病院に通院することになる。今日はしごとのあとに行ったので中途半端な時間になり、一時間以上待たされたのだけれども、診察自体は先週の脳波検査の伝達を受けて「そうですか」という感じで、一、二分で終了してしまった。また電車の時間との折り合いがつかず、四十分ほど駅の周囲でぶらぶらした。

 そろそろ、10日からの「G」での展覧会に出品する作品を、つくらなくてはならない。かんたんな昼食をすませたあと、先日買い集めてあった材料を拡げ、ぼちぼちとつくりはじめる。ニェネントが「ねえねえ、何やってるの???」という感じで、ちょっかいを出して来る。かわいいのだけれども、とってもじゃまくさい。

 「この素材の表面、あんまりスマートではないんだよね」とちょっと悩んでいた素材の、うまい具合の解決策を発見した。まだそういうカンが衰えているわけでもないな、などと思ったりもする。これでなんとかなりそうだ。基底にはウチにある<故>嶋本昭三氏の作品を使わせていただくことにして、去年亡くなられた嶋本氏へのオマージュ、みたいな性格も持たせた。わたしは美術に関しては「自己流」で、誰かに何かを教わったという意識はないのだけれども、二十年ほど前に知り合った嶋本昭三氏の<存在>には、とても大きな影響を受けたと思う。そういうことへの「お礼」を込めた作品にしたい。

 作品完成へのだいたいのメドもつき、90パーセントぐらいのところは仕上げた。あとは「おまけ」みたいなところだけ。展示してみてどのように見えるのかはまだわからないけれども、今の自分という存在からしたら80点ぐらいの出来、ではあるんじゃないのかな? 過大評価かな?

 夕食はまたつくり置きのカレーで、これから当分はこのカレーになるのだけれども、やっぱりあんまりおいしくはない。これは単に、「投薬」のせいとは言い切れないところもありそうだ。

 とにかくは、「つくらなければならない」作品のメドも立ち、今後の「側頭葉てんかん」の治療のメドも立った。この二つのことがらで抑圧されていたところもあったのが、きょうはこれで解放された気分でもあって、これからはもっと自由に動き回れるような気分になった。まだまだ、演劇などの舞台表現は忌避したい気もちがないわけでもないのだけれども、美術展とか映画、とりわけ映画などはいっぱい観てみたいという気もちが強い。今観たい映画も、三本ぐらいはあるだろうか。ハリウッドの「ゴジラ」も、観たいかな?


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140702

■ 2014-07-01(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今日から七月。きのうで一年の半分が終わってしまい、今日からは残りの半分。時期的なこともあって、今日のしごとは目のまわる忙しさだった。この忙しさは当面続くことになる。健康をこわさないようにしなければ。

 しかし今日もまた、部屋にいて意識障害を起こしそうな気分になった。病名もわかって処方された薬を飲み始めているとはいえ、その薬がちゃんと効きはじめるのはもうちょっと先だろう。今日はまた、ちゃんと東京での「集団的自衛権」成立に抗議するデモに行こうかとも思っていたのだけれども、考えてみたら、そういう大勢の人たちの中で発作を起こしてしまうなど、とんでもないことだと気づいた。今までは電車の中でとか駅のホームでとかの単独行動での発作だったし、そんなところで誰かがぼうっとしていても周囲の誰に迷惑をかけるわけでもないことだった。しかし、デモなどで集団で同じ方向に移動するなどしているとき、とつぜんに意識障害の発作を起こし、棒立ちになってぼうっとしてしまうなら、もちろん周りの人たちに迷惑はかけることになるだろうし、後ろから押されて転倒してしまうとかいうことも起こり得る。もうちょっと、「発作は起きない」という確証を得られるまで、そういった集団行動に参加するのは差し控えた方がいいんだろう。

 そういうわけで「てんかん」を抑えるための内服薬は服用しているのだけれども、その薬のせいなのかどうかはわからないのだけれども、食べるものがどれもこれも、まるでおいしくない。「粉っぽい」というのか、どんな食べものにも「こく」というものが感じられない。昼食のそばがやはりおいしく食べられなかったあと、「これはよくない」と南のスーパーに買い物に行き、「助六寿司」を買って来て食べてみたのだけれども、これもおいしくは感じられなかった。もうほとんどはわたしの味覚のせいであろう。夕食にはカレーをつくったのだけれども、やはりこれも同じ、だった。こういう感覚はいつまで続くのだろうか。おそらくは長い付き合いになる内服薬になることだろうから、いつも、いつまでも味覚がこうではうんざりしてしまう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20140701
   3234367